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(増補版)655E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年8月)

題:(増補版)655E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
.
1896年8月26日、関西鉄道会社が、城河鉄道の免許路線(四
 条畷駅~木津駅間、および、大住駅~八幡駅間)を、自社
 の延長線として建設を申請した。
  1897年1月20日、免許状下付、
  1897年2月26日、城河鉄道会社が解散した。
  発起人の異なる城河鉄道の免許が下り、それを、関西
 鉄道が自社の鉄道として建設した。
  関西鉄道は、設立当初から大阪進出を目指していた。
  そして、城河鉄道を買収し、四条畷駅~木津駅間の建
 設と合わせて名阪を結ぶ路線を手に入れた。
.
1896年8月26日、関西鉄道会社が、浪速鉄道全線を自社の延
 長線とすることを申請した。
  1897年1月20日、認可、
  1897年2月9日、引渡しが完了して、浪速鉄道会社が解
 散した。
.
1896年8月27日、イギリス・ザンジバル戦争
  イギリスの国益獲得の目的の戦争。
  ザンジバル島は、アフリカ東部のインド洋上の島。
  タンザニア沖にある・・マダガスカル島の北方である。
  この島は、1890年からイギリスの保護領であったが、
 1963年にやっと独立できた。
  1896年8月27日、イギリスとザンジバル保護国の間で、
 軍事衝突が発生した。
  この衝突は38分から45分で終了し、史上最短の戦争と
 言われている。
  衝突の原因は、この2日前に亡くなったスルタンの跡継
 ぎ問題だった・・
  ハリド・ビン・バルガシュが後を継いだが、イギリス
 が、別の、イギリスに都合の良い、イギリスの国益が得
 られる者をスルタンにしたいとしたことから衝突が起き
 た。
  イギリスが武力行使を始めた。
  被害数:
  イギリス・・負傷1名
  ザンジバル保護国・・戦死・負傷者500名、グラスゴー
   沈没、ランチ2隻沈没、沿岸砲1門破壊
  ザンジバルの略歴は・・
  10世紀頃から、アフリカ大陸の内陸との交易の基地と
   して繁栄した・・特に、白人が行なう卑劣な奴隷貿
   易の奴隷の積出港であった。
   今でも奴隷市場の跡がある。
   ザンジバルは、ペルシア語で「黒人の海岸」を意味
   する。
  16世紀に、ポルトガル人が侵略しようとしたが、島民
   とペルシャ湾沿岸地域から移住して来たアラブ人に
   よって撃退された。
   その後、アラブ人の影響が強まって・・
  1840年、オマーンのスルタン(君主)であったセイド・
   サイードが、ザンジバルに都を移し、東アフリカ地
   域の貿易を支配した。
  1858年に、ザンジバルのブーサイード朝からの独立を
   宣言・・イギリスが承認していた・・フランスも触
   手を伸ばすという複雑の状況にあった。
  『イギリス・ザンジバル戦争』は、武力差の大きい状
 態の弱小相手を牛耳るという卑劣さで「世界記憶遺産に
 するべきである」。
.
1896年8月30日、北海道鉄道敷設部技術長・田辺朔郎が道内
 鉄道敷設部長に復命した。
  北海道庁長官・原保太郎が、この復命書に基づき、北
 海道における鉄道の第1期・第2期線の区分・工費等を作
 成し、拓殖務大臣に上申し、政府が一部を訂正ののち、
 第10回帝国議会に提出し、協賛を得た。
  田辺朔郎(たなべさくろう)は、土木技術者、琵琶湖
 疎水や日本初の水力発電の建設、関門海底トンネルの提
 言などを行なった日本の近代土木工学の礎を築いた人。
  北海道官設鉄道敷設部長として北海道の幹線鉄道開発
 に着手した。
  狩勝峠の名付け親。
  1861年12月2日、幕臣の田辺孫次郎(忠篤)の長男とし
   て東京市の根津愛染町に生まれた。
   生後、9ヶ月の時、父が病死・・家督を継ぐ。
  1873(12歳)岩倉遣欧使節団の一等書記官として洋行
   していた伯父が帰国し、横浜港へ迎えに行った際に
   外国汽船ゴールデンエイジ号の機関室で蒸気エンジ
   ンを見たことで工学に興味をもち、科学者を志した。
  1875年(14歳)工学寮付属小学校へ転校。
  1877年(16歳)工部大学校(工学寮より改称)に進み
   土木工学を専攻した。
  1883年(22歳)卒業と同時に、京都府の御用掛に採用
   され、弱冠22歳で大工事である琵琶湖疎水の担当と
   なった。
  1890年(29歳)第一疎水完成後、帝国大学工科大学(
   工部大学校より改称)の教授に任命されて帰京。
   同年、榎本武揚の媒酌で北垣の長女静子と結婚。
   北海道庁長官に就任した北垣の要請で、北海道全道
   に1000マイル(約1600km)の幹線鉄道敷設計画の調
   査に着手し、計画・建設に携わる。
.
1896年8月31日、第2次伊藤内閣が総辞職した。
  第5代第2次伊藤博文内閣(~1896年8月31日)
  伊藤博文の単独辞任により黒田清隆が臨時兼任となる
 (1896年8月31日~1896年9月18日)
  この第二次伊藤内閣は波乱含みで、予算と不平等条約
 改正を論題として政争が繰り広げられた。
  冊封体制で朝鮮半島を自由にしていた中国・清に代わ
 りロシアが進出し、ロシアの属国の様な状況となった。
  (1896年2月11日の露館播遷は、ロシアの朝鮮王の軟禁
 行為・・ここでロシアは利権を色々と収奪した)
  朝鮮半島のこの様な状況で、1896年3月28日まで開かれ
 た第9議会では、陸海軍の更なる拡張や増税など大幅に拡
 充した予算案が、少ない削減だけで済んで通過した。
  また、造船奨励法、航海奨励法、民法など重要法案も
 次々と成立した・・が・・
  しかし、1895年8月には、前首相で大蔵大臣の松方正義
 と伊藤が対立し、松方が辞任していた。
  また、1896年5月には、陸奥も外相を辞任していた。
  また、1896年8月には、松方の後を引き受けた渡辺も、
 財政問題の行き詰まりから辞表を提出した。
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1896年8月31日、陸羽地震が発生した。
  209名の死者出る
  秋田県と岩手県の県境山間部での大地震。
  揺れは広範囲で観測されるが、強い揺れは山間部の極
 狭い範囲に集中した。
  死者209人、負傷者779人、全壊5792軒、半壊3045軒、
 山崩れ9899ヶ所。
  梅ノ湯温泉などで温泉の量と温度に変化が出る。
 (日本被害地震総覧)
.
1896年8月31日、郡司成忠(ぐんじしげただ)らが、再び、
 千島列島の最北の占守島(しゅむしゅとう)に上陸した。
 (1896年9月説あり)
  (参考)郡司成忠:日本海軍軍人、探検家、開拓者。
     1860年12月28日~1924年8月15日、
      開拓事業団「報效義会」を結成し、北千島の
     探検・開発に尽力した。
      小説家の幸田露伴は弟。
  1892年、郡司の千島への夢は堅かった。
  郡司は、海軍大尉を退いて予備役となり、民間人とし
 て千島を目指すことにした。
  横須賀鎮守府で不要になった短艇を払い下げてもらい、
 これで千島へ向かうことにした。
  1893年2月22日、後に「千島拓殖演説」と呼ばれる講演
 を行なった。
  この翌々日には、土方久元宮内大臣から拓殖隊に「報
 效義会」という名が与えられた。
  これらが、新聞などのメディアで報じられると、その
 反響は大きく、1892年、シベリア横断を実行した福島安
 正とともに国民の人気を集めるようになった。
  これらの世論の高まりによって、岩崎弥太郎や黒田清
 隆、谷干城といった面々を始めとして、寄付金は当初の
 予定額を超えるほどに集まり、また、入会希望者も続々
 と増えた。
  そして、東京朝日新聞社の横川勇次(後の横川省三)
 が特派記者として同行することも決まった。
  日本中、注目は郡司に集まりすぎるほど集まっていた。
  そして、1893年3月20日、郡司以下、約80人の報效義会
 員は5隻のボートで千島へ向かった。
  当初、郡司は、航海日数33日、気象などのために航行
 不能の日が33日、それに余裕の10日を加えた計76日もあ
 れば目的地へ到達できると想定していた。
  しかし、実際には、この予定通りにはまったく行かな
 かった。
  1893年5月10日、一行は、全行程の約1/6の地点である
 釜石港付近にいた・・
  ・・が、当初の予定であればこの日には、全行程の約
 2/3の地点に当たる択捉島に着いているはずだった。
  当初の予定から、これほどの遅れを出していた。
  理由は、例年以上の荒天続きで、しかも向かい風であ
 る北風の吹く日が多く・・小さなボートのため接岸航海
 が必至だった。
  また、国民的な人気となっていたため、寄港した各地
 で歓迎会なども開かれた・・これが、時間を浪費した。
  しかし、悪影響のみではなく、気仙沼では、地元の篤
 志家から帆船「鼎浦丸」の寄贈を受けた。
  このような中、1893年5月22日、郡司一行にとって大き
 な事件が起きた。
  この日、八戸の鮫港を出航した郡司たちは、下北郡東
 通村白糠の沖で暴風雨に会ってしまった。
  ボートのうち1隻が遭難し、乗組員の10人が全員死亡し
 てしまった。
  さらに、1893年5月27日、別行程で千島へ向かっていた
 鼎浦丸が暴風雨により、鮫村(現:八戸市)大久喜沖で
 遭難した・・これでも、乗組員9人が全員死亡した。
  その上、1893年5月28日には、郡司が負傷し、八戸病院
 に入院することとなった。
  郡司の自殺未遂説もあるが、詳細は不明・・暴風雨で
 の隊員の死亡が原因か?
  この一連の事件のため、それまでの計画の完全見直し
 が行われた。
  軍艦・磐城に曳航され、当初の予定では占守島に着い
 ているはずの1893年6月5日に、函館へ入港した。
  ここで、白瀬矗らの陸行組と合流する・・、
  地元の富豪・平出喜三郎の好意で、その持船に便乗さ
 せてもらい、1893年6月17日、択捉島の紗那に到着した。
  郡司は、一旦、ここに報效義会の本部を設立すること
 にした。
  1893年7月3日、郡司の実父である幸田成延をはじめと
 した会員の家族も到着した。
  1893年7月20日、硫黄採掘のため捨子古丹島(しゃすこ
 たんとう)に向かうという泰洋丸という帆船が紗那に入
 港した。
  郡司が、便乗を依頼したところ、泰洋丸船主・馬場禎
 四郎の返事は、「捨子古丹島には、硫黄採掘のため20日
 ほど滞在するから、その間に、占守島まで送っても良い、
 ただし、全員は乗せられないので15人程度にしてほしい」
 というものだった。
  こうして、郡司は、自分や白瀬、横川勇次、高橋伝五
 郎など18人の先遣隊を選抜して、泰洋丸に乗り込んだ。
  1893年7月31日、泰洋丸は、捨子古丹島に到着した。
  しかし、ここで、馬場は、占守島への回航を拒否した。
  帰還途中に新知島(しんしるとう)に寄るのはどうか
 という代案を出してきた。
  馬場の推測される理由は・・、
  採掘に手一杯で、泰洋丸を占守島へ回航させる人員が
 確保できないこと・・千島が荒天気に入る時期であるこ
 と・・占守島へ回航させる間に不慮の事故が起きる心配・・
 硫黄を持ち帰れなくなる可能性・・など
  便乗者である郡司は、これに抗議することもできなか
 った。
  新知島のブロウトン湾の岩礁を爆破し、同湾を天然の
 良港に改造しようという計画を建て、その提案を了解し
 た。
  泰洋丸のメンバーが硫黄採掘をしている時に、郡司は、
 白瀬と共に島内一周の探検を実行した。
  郡司は、捨子古丹島での越年は可能と判断した。
  そして、先遣隊18人のうち高橋伝五郎など9人を残留さ
 せることにした。
  しかし、郡司は、占守島を全力で開拓することを目的
 としていた。
  (郡司は、その著書『千島国占守島探険誌』の中でこ
 の選択について「実ニ忍ビザル所アリ」と記している)
  捨子古丹島残留メンバーと別れた後、泰洋丸で新知島
 へ向かっていたが、その途中で、偶然、八戸から函館ま
 で郡司らを運んだ軍艦・磐城と再会した。
  軍艦・磐城は、測量のため、占守島へ向かうところで
 あり、郡司は、便乗させてもらうことを請願したところ、
 これが許可された。
  ただし、捨子古丹島に残留した9人については、任務の
 関係上、捨子古丹島への寄港が無理であり、回収はでき
 なかった。
  そして、1893年8月31日、郡司は、紆余曲折の末に占守
 島へ到着した。
  占守島における郡司らの越冬は、特に問題もなく過ぎ
 た。
  心配されていた脚気に罹る者もおらず、また、サケや
 マスが無尽蔵に獲れたことなどもあって食料にも困らな
 かった。
  春が訪れて島の雪が溶けだした頃には、島を精力的に
 探険する余裕さえあった。
  しかし、他の島における越冬は、郡司らのように順調
 には行っていなかった。
  1894年5月10日、島の周囲の流氷が流れ去ったため、郡
 司たちは、和田の安否を確認しようと艀(はしけ)で幌
 筵島(ほろむしろとう)へと渡った。
  しかし、和田は、小屋の中で死体となっていた。
  残された日記から、和田は、脚気に罹って、4月上旬ご
 ろに衰弱死したことが判明した。
  (参考)脚気:かっけ、ビタミンB1が不足することで
     発症する。
      初期には疲れやすい、食欲不振、倦怠感など
     の症状から始まり、次に、主に神経や心臓に関
     連した症状が現れる可能性がある。
      心拍数が増加することから、動悸や下肢のむ
     くみが生じることがあり、病状が進行すると、
     心不全を発症する。
  そして、1894年6月28日、再び、磐城が占守島に現れた。
  ここで、郡司は、衝撃的な事実を知らされた。
  捨子古丹島で越冬していた9人が、全員死亡・行方不明
 となっているというのだった。
  まず、9人のうち、高橋ら4人は、小屋の中で全員死体
 になっていたという。
  磐城の軍医によれば、死因は明らかに窒息死であり、
 寒気を防ごうと密閉した小屋の中で焚火をしたための一
 酸化炭素中毒であろうとのことだった。
  小屋に残されていた日記には、彼らが脚気に罹って衰
 弱していたことが記されていた。
  また、高橋の死体が、戸口の方に這っていった痕跡が
 あったことから、体の自由がきかず逃げ出すことができ
 なかったと推測された。
  そして、この日記から、残る5人が10月に食料補充のた
 め越渇磨島(えかるまとう)に出漁し、そのまま帰還し
 なかったということも判明した。
  (参考)越渇磨島(えかるまとう)は、1700年(元禄
     13年)、元禄国絵図のため、松前藩が幕府に呈
     上した松前島郷帳に、「ゑかるまし」の名が記
     載されている。
  白瀬は、後に、艀が流されて越渇磨島から帰還できな
 くなり餓死したか、帰航の途中で船が沈んだのだろうと
 推測している。
  磐城が告げたもう一つの衝撃的な事は・・、
  日清間に緊張が走っており、戦争になるかもしれない
 ということだった・・占守島にいた7人は、全員が予備役
 とはいえ軍人であり、戦争となれば召集される可能性が
 あった。
  郡司は、軍人としての使命と、千島の拓殖(たくしょ
 く、未開の地を切り開いて、そこに住みつくこと)とい
 う使命があった。
  磐城艦長の柏原長繁の強い説得もあって、占守島を引
 き揚げることを決意した。
  この時、郡司は、当初、全員を引き揚げさせる予定で
 あった。
  それに対して、択捉島から報效義会員5人を引き連れて
 磐城に便乗していた郡司の実父・幸田成延が・・、
  占守島の拓殖を完全に途切れさせるべきではないとし
 て、連れてきた会員5人と自分が、島に残留すると主張し
 た。
  郡司は、若者であっても生きていくのが厳しい極寒の
 地に老父(この時、60歳前後であったと推測されている)
 を残留させることは到底できなかった。
  また、新たにやってきた5人の会員は、越冬の経験も浅
 く、もし彼らを残留させるのであれば、経験の豊かな人
 間による統率がなければ捨子古丹島の二の舞になるのは
 目に見えていた。
  しかし、成延の「占守島の拓殖維持」という意志は固
 く、最終的に郡司は、白瀬に5人を率いての残留を頼みこ
 むことになる。
  最終的に、白瀬も、郡司の頼みを受け入れた。
  島に残った白瀬らであったが、彼らの越冬は凄惨なも
 のとなった。
  6人中3人は脚気のため死亡し、白瀬を含む生き残った
 3人も愛犬を射殺してその肉を食べ、かろうじて命をつな
 いだ。
  この様な危機に追い込まれた。
  白瀬らは、1895年8月になって、北海道庁長官の命令で
 差し向けられたラッコ猟漁船に救助された。
  この千島から帰還で、報效義会の第一次千島拓殖は終
 わった・・
  そして、第二次千島拓殖へと続く・・
  千島から帰還した郡司は、召集された。
  水雷敷設隊の分隊長などとして、日清戦争に参加した。
  防材破壊に使用する爆薬の不足に悩んでいた鈴木貫太
 郎に爆薬を提供したのが郡司だった。
  (参考)防材:ぼうざい、船舶の運航を遮断するため、
     鉄鎖などでつないで水路に敷設する大きな材木。
      敵の艦船の侵入を防ぐため、河口や港湾の入
     口などに敷設する木材類。
  戦争終結後、郡司は、報效義会の再生を図って来た千
 島の重要性を説く演説などを続けた。
  こうして、1896年の初夏ごろ、会員数57人の第二次報
 效義会を結成した。
  この第二次報效義会は、参加者の中に郡司の妻など女
 性も14人含まれていた。
  探険的要素が強かった前回とは違って、拓殖のみがそ
 の目的だった。
  また、谷干城らの尽力によって、「報效義会保護案」
 が議会で成立した。
  3年間、補助金が政府から出ることも決定した。
  1896年9月、占守島に、再び、渡った第二次報效義会
 は、前準備がしっかりしていたこともあり、今度は着実
 に成果を上げて行った。
  開拓本部に、魚肉の缶詰工場や、鍛(たん、金属をた
 たいて上質なものにする)工場が建設され、幌延島には
 分村が作られた。
  会員も増加して行き、1903年には、占守島の定住者は
 170人(男100人、女70人)にまで膨らんだ。
  この日本の領土の占守島が、ロシア(旧ソ連)に奪われ
 ている・・
  第二次世界大戦が終わっているのに、武力をもって不
 法占拠された・・
  しかも、日本の守備隊が戦いに勝っているにもかかわ
 らず・・
.
  (今日の言葉)
.
  題:それまで、韓国・朝鮮には、小学校は5校しかなかった・・
   ・・が、日本は、一生懸命、小学校を建てて、その数は、4271校にもなった。
.
紀元前2世紀、「スイス」のラテン語表記の源となったヘル
 ウェティイ族はケルト人の部族だった・・この頃の最初
 の記録が残されている。
  (参考)ヘルウェティイ族:現在のスイスから南ドイ
     ツにかけて居住していたガリア人の部族。
      スイスの古名であるヘルヴェティアは、この
     部族に由来する。
  (参考)ケルト人:中央アジアの草原から馬と車輪付
     きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパ
     に渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派
     の言語を用いていた民族。
      古代ローマ人からは、ガリア人とも呼ばれて
     いた。
  (参考)ガリア人:ケルト語派を話すいわゆるケルト
     人のうち、ガリア地域に居住してガリア語ある
     いはゴール語を話した諸部族の人々を指す。
      古代ローマ人は、ローマ側による呼称「ガリ
     ア人」と「ケルト人」をおおむね同義として扱
     った。
      しかし、いわゆるケルト人の中でも、小アジ
     アに移住したケルト人(ガラティア人)やブリ
     テン島の諸部族に対するガリア人は明らかに区
     別される。
  ヘルウェティイ族に関する最初の記録は、紀元前2世紀
 に遡(さかのぼ)る。
  紀元前1世紀に、現在のスイス中部平原とドイツ南西部
 に移り住んだ。
  現在のスイス東部には、ラエティア人が住んでいた。
  ラエティア人は、紀元前8世紀からイタリア半島で都市
 国家を築いたエトルリア人が起源になっていると考える
 学説もある。
  (参考)ラエティア:ローマ帝国の属州・・その領域
     は、現在のスイス東部および中央部(ライン川
     上流やボーデン湖を含む)、ドイツのバイエル
     ン州南部やドナウ川上流部、オーストリアのフ
     ォアアールベルク州、オーストリアとイタリア
     にまたがるチロル地方の大部分、および、イタ
     リアのロンバルディア州の一部からなる。
      ローマ帝国時代のラエティアは、西はヘルウ
     ェティイ族の国に接し、東はノリクム、北はウ
     ィンデリキア、南はガリア・キサルピナに接し
     た。
      北側の国境線は、リーメス(ドイツから続く
     長城)の一部によってドナウ川沿いに166kmにわ
     たって守られていた。
      ラエティアとイタリアとの間は、アルプス山
     脈をレッチェン峠(レージア峠)で越えるクラ
     ウディア・アウグスタ街道によって結ばれた。
     ・
     ・
     ・
13世紀半ば~14世紀初頭、アイヌは、ユーラシア大陸のア
 ムール川流域に居たが・・中国の『元』に追われて北方
 から、13世紀半ばから14世紀初頭に、日本に来た。
  これを、「北の元寇」と言い・・また、「北からの蒙
 古襲来」「モンゴルの樺太侵攻」「もうひとつの蒙古襲
 来」とも呼ばれている。
  この様に、アイヌは、北方(アムール川流域、そして、
 樺太)に住んでいた。
  日本へは、紀元前に既に、南方から日本に来たり、朝
 鮮半島から来たり、太平洋を渡って来たり、紀元前とい
 う遠い昔に、あらゆる方向から日本に来て、アフリカか
 らの人類移動の大きなうねりの様に北海道も含めて日本
 中を歩きまわり移動し、日本人が形成された・・この人
 たちが日本人の先住民であって・・アイヌは先住民では
 ない。
  人類の起源のホモ・サピエンス(新人)が、アフリカ
 に登場したのが紀元前20万年。
  ホモ・サピエンスが、全地球的な拡散を始めたのが紀
 元前5万年前(紀元前5~6万年説や紀元前6~7万年説や
 紀元前10万年説もある)
  そして、岩手県遠野市の金取遺跡の人類の足跡は、紀
 元前8~9万年・・この頃の人類の足跡は日本の各所で数
 千ヶ所ある。
  そして、ホモ・サピエンスが東アジアにまで到着した
 のが紀元前5~6万年。
  そして、紀元前4万年に、日本に、旧石器時代の遺跡が
 急に増えることから、研究者の多くが、現代の日本人に
 つながる人々が、少なくともこの頃に日本で暮らしてい
 たとしている(この頃には、アイヌは居ない)
  日本列島には、あらゆる方向から日本人の祖先となる
 人々が来たのが紀元前6万~紀元前4万年で・・アイヌは
 13世紀~14世紀。
  因みに、ホモ・サピエンスの前にアフリカを出たデニ
 ソワ人が、紀元前12万年に、日本には居た(島根県の砂
 原遺跡)
     ・
     ・
1492年10月12日、コロンブスが、アメリカ大陸の島を発見
 して、上陸した。
  大航海時代・・
  この時代に、ヨーロッパ人が持っていた世界観は・・
  「三つの大陸からなる平版状の世界で・・世界の果て
 は、奈落になっていて・・南方では、海が沸騰していて、
 その先には進むことが出来ない」
  大航海時代に、この世界観が崩れた。
  コロンブスが、1492年10月12日、アメリカの島を発見
 し、上陸し、そこが、インドの東端であると思った。
  また、出会った先住民をインディオと名付けて、呼ん
 だ。
  このコロンブスは、「大陸は三つだ」という世界の世
 界観の中で航海した。
  続いて、1503年、アメリゴ・ベスプッチが、アメリカ
 に到達し、この大陸を「新大陸」と呼んだ。
  (インドではなく、新大陸だと認識した)
  1519年~1522年、マゼランが、世界一周の航海をした。
  1569年、オランダの地図学者であるゲラルドゥス・メ
 ルカトルが、南北のアメリカ大陸の入った(アジアとは
 別だと認識して)世界地図を描いた。
  この頃(16世紀)は、まだ、太平洋が不明で、ベーリ
 ング海峡の存在も不明であった。
  このベーリング海峡は、1728年に、発見される。
  この様にして、ヨーロッパ人は、「球体の大地」と「
 四つの大陸」の世界の概念を構築して行った。
  この様な経過の中で、「キリスト教普遍史の世界観は
 否定され・・崩れ去った」。
  ヨーロッパ人が、「空論の想像で出来たキリスト教概
 念」から解放されて行った・・
.
15世紀半ば~17世紀半ば
  大航海時代の罪作りなところは・・
  (参考)大航海時代(だいこうかいじだい)とは、ヨ
     ーロッパ人が、アフリカ・アジア・アメリカ大
     陸への大規模な航海を行い、発見した土地で略
     奪や搾取の限りを尽くした時代。
      15世紀半ばから17世紀半ばまで続き、主にポ
     ルトガルとスペインにより行われた(wikipedia
     より)
  大航海が行なわれたこの時代にあった「罪作りな所」・・
  それを形成したのが、キリスト教概念・・
  そのキリスト教概念は・・
  「世界には、アダムの子孫の怪物がいる(アウグステ
 ィヌス)」とされ、洗脳されていた・・
  ヨーロッパ人たちは、航海技術を得て、世界へ出て行
 くと、出会ったのは「怪物では無くて、人間だった」。
  その人間が、キリスト教で「蔑視観を植え付けられた
 有色人種たちだった」。
  キリスト教徒のスペイン人とキリスト教聖職者たちは、
 長い年月に渡って「この人たちに対し、殺戮のし放題を
 した」。
  この行為が始まる最初に関わったのが、キリスト教の
 バチカンのローマ法王(教皇)だった。
  スペイン人とキリスト教聖職者たちは、このバチカン
 のローマ法王に、この現地人について問うと「人間では
 ない」という返事があった。
  キリスト教徒のスペイン人やポルトガル人たちは、こ
 れを契機に、先住民の「インディオの方々への殺戮」を
 開始した。
  「インドやアジアには怪物が居る」と説かれ、洗脳さ
 れて(この頃には、まだ、アメリカは発見されていなか
 った)・・この様なキリスト教概念を持って航海に出て・・
  アメリカへ行ったコロンブスは、第一回の航海の帰り・・
  その航海で記した・・
  「私は、多くの皆さんが考えているような怪物には出
 会っておりません」・・と・・
.
1697年4月24日(元禄10年3月4日)、賀茂真淵が生まれた
 (~1769年)
  (参考)賀茂真淵:江戸中期の国学者・歌人。
      遠江(とおとうみ)浜松の禰宜(ねぎ)の子・・
      浜松の脇本陣梅谷家に入婿後、上洛し、荷田
     春満(かだのあずままろ)門下となり学び・・春
     満没後、江戸へ出る・・村田春海,加藤千蔭ら
     を門下とする。
      1746年(49歳)田安宗武に仕ええたが、辞し、
      1760年(63歳)隠居。
      1763年(66歳)松阪で本居宣長が入門。
      浜町県居に住して、幾多の著述を完成する(
     広く古典を研究し、復古主義を唱える)
      近世国学(国学の基礎を築く)、及び、和歌
     史上大きな足跡を残し、国学の四大人の一人と
     される。
      著「万葉考」「にひまなび」「祝詞考」「冠
     辞考」「歌意考」「国意考」「賀茂翁家集」な
     ど・・
  日本には数多(アマタ)の識者がいる。
  賀茂真淵も、その日本の識者の一人。
  賀茂真淵は、国学者で万葉集を研究した。
  賀茂真淵は、静岡県浜松市に生まれた。
  賀茂真淵は、41歳の時に江戸に出た。
  弟子に優秀な学者の本居信長など多くの門人が居る。
  平賀源内も、賀茂真淵の弟子である。
  賀茂真淵が、名を成し、故郷・浜松の生家に帰った時、
 その長歌が残されている。
  それを、口語訳で記すと・・
  「江戸に暮らしていて、毎年、毎年、お慕い申してい
 るので、父と母は、故郷で健在でいらっしゃるかのよう
 に、いつもは、その様に思っていたのだけれども(中略)
  この度、唐突に帰って来て、出会った故郷の人々に尋
 ねてみると、父はもうこの世にはおられず、また、母も、
 この世にはいらっしゃらないけれども、私の妹が、白髪
 の目立つ頭で、家の門から出て来るのを見ると、ああ、
 母上は健在でいらっしゃたと見誤ってしまい(中略)
  妹の方は、父上が来られたと不思議そうに思っている
 のであった。
  しばらくは、互いに問いかける事もなく、玉のような
 涙をこぼして向かい合い、昔をしのぶ数々の言葉を交わ
 したことである」。
.
1830年代以降、アメリカのバッファローの大量殺戮
  アメリカの先住民であるアメリカ・インディアンの方々
 は、バッファローを食用とし、
  また、バッファローの毛皮は、服・靴・テントなど、
 骨は矢じりに利用し、バッファローは、生活に無くては
 ならないものだった。
  1830年代以降、アメリカは、そのバッファローを大量
 殺戮する様になる。
  また、大陸横断鉄道が敷設された1860年代以降は、ま
 たそれ以上、より多くの殺戮が行われた。
  1870年代の写真には、バッファロー(アメリカ・バイ
 ソン)を肥料にするために乱獲したとするそのバッファ
 ローの頭骨の山の頂(いただき)に立つ白人の写真があ
 る。
  アメリカは、バッファローを1400万頭も殺戮した。
  あきらかに、その目的は、アメリカ・インディアンの
 方々の食糧が、バッファローだったから、アメリカ・イ
 ンディアンの方々を絶滅させる目的で、アメリカは、バ
 ッファローを絶滅させた・・アメリカ政府の飢餓作戦だ
 った・・多くのバッファローが、利用もされずに放置さ
 れていた(肥料にするのだとされた)
  アメリカ・インディアンの方々は、食糧だけでなく、
 生活の手段もすべて失って、絶滅寸前になってしまった。
  カナダも、同様な事をした。
  カナダのインディアンの方々は、絶滅してしまった。
  この様な民族の排除行為は、ドイツのナチスと変わら
 ない卑劣な行為となって歴史に残った・・
.
1939年10月21日、アメリカで、原子爆弾の開発に関する最
 初の会合が行われた。
  ナチス・ドイツが、先に、核兵器を保有することを恐
 れた亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらは・・
  1939年、同じ亡命ユダヤ人のアインシュタインの署名
 を借りてルーズベルト大統領に信書を送った。
  アメリカ政府は、核開発への動きを始めた。
  すでに、1939年6月には、原子爆弾に関する画期的な研
 究が行われていた。
  イギリスのバーミンガム大学のユダヤ系物理学学者オ
 ットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスが、ウラン
 235の臨界質量に関して画期的な発見をしていた。
  計算によると、ウラン235を爆発させるには数kgから10
 kgで十分だと見積もられていた。
  また、オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルス
 は、「ガンバレル方式」と呼ばれる単純な兵器の機構と、
 ドイツが核兵器を開発しつつあることに対する警告のレ
 ポートを書いて、バーミンガム大学物理学科主任のマー
 ク・オリファントを通じて、イギリス防空科学調査委員
 会議長、オクスフォード大学のヘンリー・トマス・ティ
 ザードへ送っていた。
  学術的に、すでに、原子爆弾は出来上がっていた。
  (参考)ガンバレル方式:核兵器の構造の種類の一つ
     で、ヒロシマ型とも呼ばれる。
      核分裂反応の連鎖反応を引き起こす臨界状態
     を達成するために、砲身状の構造を用いる。
      臨界量に達する核物質を分割したうえで砲身
     状の構造の両端に置き、火薬により一方の物質
     をもう片方へと衝突させ、臨界を達成、核爆発
     を発生させる。
  ルーズベルトは、国立標準局長官のリーマン・ブリッ
 グズに命じて「S-1ウラン委員会」を設け、シラードから
 提案された問題を検討した。
  1939年10月21日に、ブリッグズは、シラード、ユージ
 ン・ウィグナーとエドワード・テラーと、初めての会合
 を開いた。
  1939年11月1日、諮問委員会は、大統領宛の報告書を作
 成し、潜水艦の動力源として核分裂反応の調査を開始す
 ることを報告した。
  しかし、「もしその(ウランの)反応が爆発性のもの
 ならば、既知のどんなものと比べてもはるかに大きな破
 壊力をもった爆弾になる」とも書いた。
  原子爆弾を投下される日本は・・
  1945年、日本は、原爆を落とされる前から、戦争を終
 結させようと活動していた。
  しかし、アメリカは、日本を降伏させなかった。
  その間、アメリカは、何をしていたのか?というと「
 原子爆弾が出来上がるのを待っていた」。
  アメリカは原爆を落としたかった・・その原爆威力を
 ソ連という次なる対決相手になる状況にあったソ連に見
 せ付けたかった・・
  そして、その原爆投下の行為によって・・
  鉄やガラスも蒸発するほどの高熱に晒された。
  その強烈な熱線によって、屋外にいた広島・長崎の人々
 は、全身の皮膚が炭化した・・
  そして、内臓組織に至るまで高熱で水分が蒸発して行
 った。
  その経過において、苦悶の姿態の形状を示す「水気の
 無い黒焦げの遺骸」が道路などに大量に残された。
  アメリカは、原爆の投下の前から、反撃力が皆無とな
 った日本に・・「まったく反撃のできない日本」に対し
 て、アメリカの勝ちが確定していたこの時に、アメリカ
 は、この様な非人道的な人非人行為を行った。
  アメリカは、また、戦争の終わった後のことを考えて
 都市爆撃をしていた。
  日本が居なくなった後に、すでに、ソ連が、新たな敵
 となることが見えていたので「世界で、唯一、アメリカ
 が原子爆弾を持った。その威力は絶大・・広島・長崎に
 原爆を投下して、その絶大な威力、悲惨な状況を見せつ
 け、その上、都市爆撃のじゅうたん爆撃さえした」・・
  また、アメリカは、戦争終結後、進駐する用地の確保
 のための卑劣な爆撃さえした。
  戦後、アメリカは、最初の大部隊を横浜に進駐したが、
 その兵舎を立てる広大な用地の確保がしたいため・・
  アメリカは、横浜の南区を爆撃し、まったくの住宅地
 で、戦争の「セ」の字もない「まったく関係のない住宅
 地」を、広く爆撃してさえしていた。
  無益な殺生、卑劣、この上ない行為をしていた。
.
1945年8月6日、広島に原爆が投下される。
  原爆に遭(あ)った女性が、「言い残したい」と語る
 話・・
  「忘れられない話の一つです」と語る・・
  広島で、原爆に遭ったその方が、その原爆投下された
 広島の道を歩いていると、小さな子供の手を引いて、向
 こうから歩いてくる若い女性に出会った。
  原爆投下後に、小さな子の手を引いた女性・・
  その女性は、背中にも赤ちゃんを背負っていた。
  そして、その女性に尋ねられた。
  「背中に背負っている子供は大丈夫でしょうか?」と。
  その女性は、背中をのぞくと、その赤ちゃんは、こと
 切れて、亡くなっていた。
  しかし、その女性は、そのことが告げられなくて、「
 大丈夫ですよ」と言った。
  それから・・そのまま、その若い女性は小さな子供の
 手を引いて歩いて行ったが・・
  この子供の手を引いて、背中にもう一人の子供を背負
 って、どこに行こうとしていたのだろうか?
  そして、この後、この3人は、どうなったのだろうか?
  もしかすると、さっきまで、原爆の落ちる前までは、
 手を引いた小さな子と、両親との所へ楽しい話をしなが
 ら行くところだったのかもしれない・・
  子供たちを(孫を)親に見せに行く、そして、「楽し
 い話をしていた」のかもしれない。
  「おじいちゃんとおばあちゃんに会えるんだ」と話し
 ていたのかもしれない。
.
1945年8月6日、広島に原爆が投下された後の情景・・
  こと切れた母の乳を吸う子は、今も無事(ぶじ)で、
 育っていたのだろうか?
  広島で原爆に遭(あ)い、倒れた母は、1本の木にもた
 れかかり、子供へ乳を与えた。
  この情景を証言する方は、この若い母は、この方が見
 た時には、亡くなられていたと・・
  だが、この抱かれた子は、懸命に、母の乳を吸ってい
 た・・と言う。
  母は、「最期の乳」を、我が子へ、必死になってあげ
 たのだろう・・
  我が子の「生」を祈って・・
  乳をあげながら、生を祈って、こと切れたのだろう・・
  シャローム・・キリスト教の教義。
  シャローム・・それは、キリスト教の教える平和の教
 義。
  キリスト教は、すべてを破壊しつくしての後に、平和
 が来ると教える。
  アメリカのキリスト教を強く信仰しているルーズベル
 ト大統領は、これを、広島・長崎に実行した。
  すべてを破壊しようと、広島・長崎に原爆を落とさせ
 た。
  それが、愚かな行為だと、まったく気づいていなかっ
 た。
.
1945年8月6日、広島に原爆が投下された後の情景・・
  そう・・そうなんだよ・・と、その方は言った。
  知人のその方は、原爆の投下時は、少し離れた所(学
 校)へ行っていたので、原爆の直撃は免れた・・
  しかし、自宅は、直撃を受けているのではないか?・・
 と・・その少年は、母が心配になる・・投下直後の自宅
 へ戻った・・まったく、灰だけになった町・・自宅を探
 すのも大変となってしまった生まれ育った見慣れた町の
 変貌ぶりだった・・その様相は、まったく違っていた・・
 やっと、自分の家を探し当て・・母の存在の痕跡はまっ
 たく感じさせなかった・・が・・家のコンクリートの基
 礎の形で、ここが台所だったなと思えるところに、母の
 「指輪だけ」が落ちていた・・と・・その方は言った。
  私が、本当にすべてが蒸発してしまうのですねと言っ
 たら・・冒頭の言葉・・「そう、そうなんです」と、上
 記の話をしてくれた・・この方が、原爆を受けている方
 とは知らずに言った言葉だった・・
  そして、どうも、その時、お客様が来ていたようだっ
 た・・応接間に、お役様用の茶碗と母の茶碗があったか
 らとも・・言った・・
  そのお客様も、その方のお母さんも、まったく蒸発し
 て・・痕跡も残していなかった・・と・・骨さえも残っ
 ていなかった・・と・・
  その方は・・友達仲間の中で・・一番早く亡くなられ
 てしまった・・原爆が影響していたのか・・?
.
2019年8月12日、中国に媚(こび)を売る事ばかりをするNHK、
  中国への媚(こび)売り番組の放送局のNHK、
  また、中国に利することばかりをするNHK、
  このNHK出身者の池上彰が、まったくNHKがやる
 ことと同じことをやっている。
  何もしないで平和なら、誰もがこれが一番なのは、当
 たり前。
  その様にあってもらいたいと思う・・が・・
  しかし、世の中、その様に行かない。
  日本の都市のすべてに、核爆弾を積んだミサイルの照
 準を合わせている中国。
  いざとなったら日本の都市のすべてを広島や長崎の様
 にしてしまうと言う中国。
  日本は、この様な中国に屈してしまう状況に今ある。
  このような時、池上彰は、この様な中国を支援するよ
 うな事をテレビでやっている。
  中国のやっていることを隠している・・
  そして、中国隠しで、放送の媒体を自由に使っている。
  日本国民を脅(おど)してばかりいる。
  中国に利する様な論理を展開する。
  日本が、中国の脅威から「自分を守ろうとすることは
 駄目だ」という偏った放送をする。
  元NHKの局員だという面目が躍如の放送をする池上彰。
  一生懸命に国を守る国防をすると悲劇が起きると洗脳
 的に言う池上彰の偏した論理が放送されている。
  2019年8月12日、テレビ東京、20:00~21:54、「池上
 彰の戦争を考える」
.
2019年、NHKは、不公正な放送局である。
  NHKは、日本を貶(おとし)めてばかりいる。
  NHKのその様な一つが以下である・・
  NHKは、日本の側ばかりを見せて、日本が好んで戦
 争を選択して行った様に「編集して作った番組」で、視
 聴者を錯覚させ、日本を貶めて放送した。
  NHKは、この様な番組の作り方を良くしていて・・
 そして、日本を貶めている。
  第二次世界大戦の場合も、日本側のみを編集して、番
 組を作るというマインド・コントロール番組を放送した。
  例えば、お化け屋敷において・・脅している方を映さ
 ないで、脅されている方ばかりを映して放送した場合、
 視聴者は全体像を把握できないで、その脅されている人
 を異常な状態と見えてしまう。
  お化け屋敷に入った人の状況のみの映像を放送したな
 らば、異常に怖がってばかりしているその人の印象しか
 残らない。
  その異常さが印象づけされ、印象操作されてしまう。
  この様な場合は、当然、脅している方も映し、また、
 それに反応している脅される方を映すのが当たり前であ
 るが、NHKはこの様なやり方をしない・・
  まったく異常状態の番組の作り方をして放送し、視聴
 者を繰っている。
  視聴者が、正しい状況把握が出来ない状態にして、印
 象操作している。
  このNHKが放送した第二次世界大戦の放送の場合も、
 日本側のみを放送して、日本が、だんだん、一方的に強
 硬な策を採用して、日本の悪い状況が作り出されてしま
 うという結果をNHKは作っている。
  お化け屋敷の脅す方が見えない状況と同じで、印象が
 日本が悪いという状況が作り出されてしまう。
  アメリカが、日本を戦争に追い込んでいく状況は、ま
 ったく見えない状況となっている。
  まったくNHKは、卑劣なやり方で、日本を貶めてば
 かりいる。
  「NHKスペシャル」「歴史秘話ヒストリア」などが、
 よくこの手を使う。
.
2019年、NHKやヤ池上彰は、朝鮮・韓国を日本が植民地
 にしたと貶(おとし)めるが、これは間違い、「併合し
 たのである」。
  植民地という用語は、元々は「開拓地」や「入植地」
 などと同様に、正否の価値判断を含まない一般術語であ
 り、近代植民地法制学においても、社会科学の講学上の
 概念にすぎない。
  ただし、外地を「植民地」「殖民地」と呼ぶことへの
 感情的な反発は、明治期からすでに存在していた。
  忌避語・侮蔑語のようなニュアンスがあり・・
  外地を植民地と呼称することは回避され・・
  「我国にては斯(植民)の如き公の呼称を法律上一切
 加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ」ことが事実上の
 慣例となった。
  この様な歴史を知っているのか?いないのか?NHK
 や池上彰は「日本は朝鮮を植民地にした」と放送し続け
 た。
  日本は、「朝鮮」と言い、また、「外地」と言ってい
 た。
  法的に「外地」と言っていた。
  多様な議員の中には、日本を貶めるため、「植民地支
 配」と表現する日本の議員も存在する。
  韓国は、反日教育の為、この併合が韓国・朝鮮の近代
 化に寄与している面をまったく隠している。
  そして、韓国は、韓国の方が、日本のおかげで近代化
 したと事実を言うと徹底的に弾圧されるという社会とな
 っている。
  逮捕され投獄される例さえある(言論弾圧)
  日本は、朝鮮・韓国を、日本と併合した同等の国とし
 て考え、自分の国の様に思って韓国・朝鮮の国づくりを
 した。
  日露戦争の兵隊を運ぶために鉄道を敷いたのだと韓国
 は言うが、それなら北へ行く1本の鉄道だけで済む。
  しかし、日本は、その様な目的ではないから、遅れて
 いる韓国・朝鮮に鉄道を敷いてあげようと、韓国・朝鮮
 の国のあらゆる所、韓国・朝鮮の国じゅうに鉄道を敷い
 た。
  また、教育が重要で大切だから、韓国・朝鮮の国じゅ
 うに小学校や中学校、大学まで国じゅうに造ってあげた。
  日本の大学以上に立派な大学さえある。
  それまで、韓国・朝鮮には、小学校は5校しかなかった
 が、日本は、一生懸命、小学校を建てて、その数は、4271
 校にもなった。
  無いに等しかった韓国・朝鮮の初等教育を作ったのは
 日本だった。
  勿論、中学校や大学までも作ってあげて、日本は、韓
 国・朝鮮の教育を作り上げた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  アイヌの人々は、日本の先住民ではありません。
  日本の先住民は、アフリカ由来の日本人です。
  アメリカの先住民が、アフリカ由来のアメリカ・イン
 ディアンの方々であるのと同じです。
  アイヌの人々は、13世紀に、蒙古に追われて日本に来
 ました(モンゴルの樺太侵攻、1264年の樺太アイヌへの攻
 撃など)
  2019年4月16日に、衆議院と参議院で成立した(菅官房
 長官の主導でなされたという)「アイヌの人々の誇りが
 尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法
 律(俗称:アイヌ新法)」は、科学的にも、また、歴史
 的にもまったく正しくありません・・間違った記述があ
 ります・・また、日本人がアイヌの人々を虐げてもいな
 いのに、さも、虐げ行為をしている様な法案名となって
 いる・・日本人が虐げられている法案名となっている。
  この法律の間違った記述を「正しく改正する」声を上
 げましょう。
  また、日本人の遺伝子・DNAを持った何千年も前の
 紀元前の縄文人が、北海道の縄文遺跡から出た縄文人の
 歯の遺伝子分析から科学的に立証されています。
  日本人が先住民族なのです・・そのような痕跡もない
 アイヌの人々を先住民だとしてしまいました。

by suba28 | 2019-09-18 03:56 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)654E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年8月)

題:(増補版)654E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
.
1896年8月7日、日本における初めての私鉄である日本鉄道
 が、株主総会で、田端駅から目白駅間の鉄道建設(複線予
 定)を決定した。
  そして、この日、仮免許を出願した。
  1897年5月19日、仮免許状を受けた。
  1899年5月9日に、免許状が下付された。
  因みに、これまでの経緯を記せば・・
  1872年5月、高島嘉右衛門が、東京から青森に至る鉄道
 を建設して・・北海道の開拓を支える鉄道建設を政府に
 建言したことから、日本鉄道の歴史は始まる。
  さらに、高島は、政府の要人である岩倉具視を説いて、
 鍋島直大らをして、明治天皇陛下および政府へ、「華族
 と士族が家財を以って会社を建て、東京と青森、あるい
 は、東京と越後新潟に鉄路を敷いて、蒸気機関車を走ら
 せることを補す」ことを建言させた。
  1881年8月、会社の創立が決定した。
  1881年11月、設立特許条約書が下付され、会社が設立
 された。
  政府の財政難から民間資金の導入の動きが出た・・
  1882年、川口駅~熊谷駅間から建設が開始された・・
  1883年7月、上野駅~熊谷駅が開業し・・そして、延伸
 されて行った。
  1891年9月には、上野駅~青森駅(東北本線)の全線が
 開業するに至る。
.
1896年8月17日、文部省が、満6歳未満の就学を禁止した。
  この就学について、国内で激論が交わされた・・
  1872年に、日本に学制が布(し)かれたが・・
  1890年代末には、就学年齢について、満6歳と満7歳の
 いずれが妥当かという議論が激しく展開され・・
  この様な経緯の中で、日本の義務教育制度は確立して
 行った・・
  そして、6歳就学に決着して行った。
  この決定において、大きく影響を与えたのが三島道良
 (みしまみちよし、小児科医)の「6歳修学論」だった。
  氏は、「学校衛生学の父」と言われ、活躍していた。
  そして、氏は、小児科学を専門とする医学者の立場か
 ら、小学校・幼稚園の身体発育調査を実施し、ドイツ医
 学者らの知見と比較検討を行った。
  そして、それを根拠に、6歳就学を擁護する議論を展開
 した。
  氏は、満6歳という年齢の是非のみを問題とするのでは
 なく、
  家庭から学校への段差に、十分配慮すべきだという学
 術上の知見(身体発育論など)から、適切か否か判断の
 有意義な視点を提起した。
  学校教育や家庭の現実を見ながら、就学年齢・就学課
 題を考察し、論じている重要性があった。
  また、就学年齢を検討するには、身体発育、教育上の
 成績、財政状況など、多方面の要素を加えるべきだとい
 う議論も登場していた。
  「教科目を減らす必要がある」など、幅広い議論が行
 われていた。
.
1896年8月17日、クロンダイク・ゴールドラッシュの幕開け
  カナダ・ユーコン準州クロンダイク地方で金脈が発見
 された。
  このゴールドラッシュは1899年まで続いた。
  このニュースが、アメリカのサンフランシスコやシア
 トルに伝わると、一獲千金を狙う者どもが、大挙して殺
 到した。
  ゴールドラッシュで出来たドーソン・シティーは、一
 時、人口が3万人以上となった。
  クロンダイクを目指したのは10万人以上いたが、厳し
 い寒さや地形の険しさから、到達できたのは3万~4万人
 で・・実際に、金を採掘できた者は4000人程度だった。
  アラスカ州のノームで、1899年に、金鉱が発見される
 と、クロンダイクの騒ぎも終焉した。
.
1896年8月20日、李氏朝鮮の高宗が軟禁されたロシア公使館
 の機械厰で雇われたロシア技士の雇傭契約で、高額の金
 が支払われていた。
  身分:機械士官
  名前と俸給:Remnev(ベルト)に每年銀貨200元
.
1896年8月23日、独立を目指すフィリピン革命
  この年・1896年から始まるフィリピンの独立と、社会
 改革を求める革命運動。
  この運動に対して、1902年まで、弾圧のアメリカ統治
 が行なわれた。
  初め、フィリピンは、スペインに植民されていて卑劣
 な状況にあった。
  1896年、その様なスペインから独立したいと「独立戦
 争が開始された」。
  しかし、いったん、鎮圧されてしまったが・・
  米西戦争が始まると、この戦争に乗じて、共和国独立
 の宣言をした。
  しかし、米西戦争に勝利したアメリカは、その独立を
 認めず・・再度、また、フィリピンのアメリカからの独
 立戦争が始まったのだった・・当然、強いアメリカが勝
 った・・その結果・・
  1902年、フィリピンは敗れ、アメリカの統治を受けた。
  アメリカの植民地となってしまった。
  以上が経緯であるが・・
  19世紀の後半に、スペインからの独立運動が活発とな
 った時、この最初のフィリピン独立運動に、その組織者
 であるホセ=リサールがあらわれた。
  彼は、1892年、逮捕されてしまった・・
  しかし、同士のアンドレアス=ボニファシオが革命を
 組織した。
  その組織「カティプーナン(人民の子らの最も尊敬す
 べき至高の協会)」が、1896年8月、決起した。
  フィリピン革命が始まった。
  しかし、銃と山刀(ボロ)で武装しただけの革命軍は、
 内部連絡に原因もあって、スペイン軍に押されどおしだ
 った。
  そして、残念なことに、ホセ=リサールも1896年12月
 30日、銃殺されてしまった。
  カティプーナンは革命政府をつくり、アギナルドを臨
 時大統領とした。
  しかし、彼は、穏健路線をとって、対立するボニファ
 シオらを処刑し、内部分裂が発生した。
  アギナルドは、その後、山中でのゲリラ戦を続けた。
  そして、スペイン総督と取引をし、1897年、降服し、
 香港へ向かった。
  その翌年・1898年、米西戦争が勃発する。
  この機会をとらえて、アギナルドは、戦争後の独立の
 約束を得て、アメリカに協力することにした。
  (しかし、アメリカに裏切られる結果になる・・)
  アギナルドは、約束通り、フィリピン軍を率いてスペ
 イン軍と戦った・・そして・・
  1898年6月12日、アギナルドは、フィリピン共和国の独
 立を宣言した、
  マロロスで議会を開催し、初代大統領に就任した。
  (第1次フィリピン共和国=マロロス共和国)
  しかし、アメリカの裏切りが発生する・・
  1898年8月、米西戦争後のパリ講和会議で、フィリピン
 が、2000万ドルでスペインからアメリカへ売り渡される
 ことになった・・この様な茶番劇が行なわれた。
  この茶番劇の結果をたてにして、アメリカは、フィリ
 ピンの独立を認めないという行為を始めた。
  そして、フィリピンを、強引にアメリカの軍政下に置
 いた。
  しかし、フィリピンには、「フィリピンとアメリカの
 間で交わした約束があった」・・その正義があった。
  その様なフィリピンは、1899年2月、正義の戦争(フィ
 リピン=アメリカ戦争)に立ち上がった。
  アギナルドらのフィリピン革命軍は、アメリカのアー
 サー・マッカーサー将軍(日本の厚木に降り立ったダグ
 ラス・マッカーザーの父)らの指揮するアメリカ軍と戦
 った・・
  しかし、フィリピン独立革命軍は、アメリカに敗北す
 る・・
  フィリピン大統領は、アメリカに抑えつけられてしま
 った・・事実上のアメリカの植民地となった・・
  そして、アメリカの好き勝手を行なわれた・・フィリ
 ピン言語も英語化されるなどの「卑劣な占領下統治」が
 行われた。
  この様な結果になってしまったフィリピンの独立行動
 の最初には・・
  1896年のフィリピン革命に、ミンダナオのムスリムに
 対して、民族的な情熱を沸き立たせる契機があった。
  スペイン支配下には、どうしても拭う事の出来なかっ
 た「キリスト教徒対ムスリム」の対立があった・・、
  この革命行動によって、一時的であったが解消もした。
  キリスト教徒とムスリムの混成部隊が、スペインと戦
 うこともあった。
  スペイン支配のシンボルであったフォート・ピラーが、
 これによって陥落した。
  (参考)フォート・ピラー:フォートは城塞の意味、
     ピラール砦は、 フィリピンの サンボアンガ市
     にあるスペイン植民地政府によって建設された
     17世紀の軍事要塞。
      現在は、フィリピン国立博物館となっている。
  アルバレス将軍は、革命政府のサンボアンガ知事に任
 命された。
  しかし、1899年に、アメリカ軍が、フィリピンにやっ
 て来ると、キリスト教徒とムスリムは、再び、対立に変
 えられた。
  アメリカ軍は、ジョン・べーツ将軍をホロ島のスルタ
 ン・キムラ2世と会談させ、
  1899年8月、アメリカの主権を認めるべーツ協定が成立
 したが、ムスリムは、これを拒否した。
  ムスリムの民族独立戦争は、今度は、アメリカに対し
 て続いた。
  アメリカは、無慈悲に強力な武器で弾圧した。
  特に、初めの10年間は、特に卑劣だった。
  アメリカは、殺傷力の強いダムダム弾や、強力な最新
 兵器を使って殺戮した。
  また、ムスリムの反抗に、神経質に、即時、徹底的に
 武力で弾圧し、鎮圧した。
  また、最悪な事に、1906年には、徴税に反対したブド・
 ダホの女性の方々や、子供たちの600人を、アメリカ軍は
 虐殺した。
  この行為は、アメリカ軍は800人で行った。
  しかし、情報管制がなされているため、詳細が不明で、
 闇の中に、葬り去られようとしている。
.
1896年、日清戦争が、1894年に起きたが、この当時、日本
 の馬は、体形や体力ともに貧弱なうえ、調教も不十分で、
 砲の移動や補給業務も人力に頼らざるを得なかった。
  陸軍は、1896年に、軍馬補充部を設置し、支部を全国
 に展開した。
  特に、過酷な大陸の自然環境を馬に体感させられると
 して、北海道には4支部が置かれた。
  標津町には、1908年に、川上支部が設置されて、町の
 繁栄につながった。
  ここの支部では、馬を2歳から5歳まで育成し、戦地に
 送ったのは1945年までの37年間で約4万頭だった。
  冬も放牧していた。
  雪原で夜を過ごし、雪の下のササを探してはむような
 生存能力を鍛えるためだった。
  「日本釧路種」が開発された。
  これは、「日本唯一の馬の公認品種」・・しかし、既
 に、絶滅している
  この種は、日本馬の性格の良さを持ち、また、粘り強
 さも持っていた・・小型であったが力があった。
.
1896年、ロシアと清の秘密同盟
  日清戦争が、日本の勝利で終わった翌年・1896年に、
 清国(中国)は、秘密裏にロシアと同盟条約を結んだ。
  清国は、日本への日清戦争の「復讐戦争」を企画して
 いた。
  この秘密条約は、「李鴻章・ロバノフ条約」と言い、
 ロシアか、または、清国のいずれかが、日本と戦争にな
 った場合、他方が軍事援助をするという「日本敵視の秘
 密攻守同盟」だった。
  これは、日露戦争の伏線となった。
  つまり、日露戦争は、ロシアだけと戦争をしたと思わ
 れているが、そうではなく、この秘密条約で、清国とも
 日本は戦っていた。
  日本は、日露戦争で、満州でロシアと戦ったが、その
 時、この秘密条約の清国の中国とも、満州で戦っていた。
  日本は、その様な「ロシア・清国の同盟軍」と戦い、
 満州へ進軍した。
  第二次世界大戦で、アメリカが戦勝して沖縄へ軍事進
 出したのと同じで、日本の満州での戦いも、同様な状況
 で、当然、侵略とは程遠く、侵略ではない。
  「中露同盟軍」と戦い、戦勝しての満州地域の戦いと
 なった訳で、日本が侵略などと言われるいわれはない。
  これが侵略なら、アメリカも日本への侵略となる。
  国際法に則(のっと)った行為を日本はした。
  1896年、教科書にも載ってない、ロシアと中国(清国)
 の同盟条約・・「露清秘密同盟(李鴻章ロバノフ条約)」。
.
  (今日の言葉)
.
  題:2016年2月17日、慰安婦問題で、韓国が主張していたことは虚偽であるということがはっきりした。
    この日付での産経ニュースがある。
    また、国というものは簡単に消えるのだ・・北海道がその端緒でなければよいが・・
    また、一党独裁で、民の権利を認めない「非民主国家」を自由諸国圏に入れたのが「間違いだった」。
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紀元前2000年頃、インド・ヨーロッパ語族のラテン人が、
 イタリア半島に南下した。
  ここから、イタリア半島の歴史は始まる。
  因みに、紀元前771年、ロムルスが、ローマを建設した
 とされている・・
  ロムルスは、「伝説上」の王政ローマの初代王。
  レムスと共に双子の兄弟だったという。
  ラテン人の貴族の子で、紀元前717年7月5日に死去した
 という(ローマ神話)(紀元前753年説がある)
   ・
   ・
紀元前814年、「カルタゴが建国された」と言われている。
  紀元前820年説などもある。
  カルタゴは、現在のチュニジアにあった古代都市国家
 で、地中海貿易を広大に行なって、栄えていた。
  初め、農耕を営む者と、海で生活する者との長い闘争
 の歴史にあったが、海運の有力者たちが、都市の統治権
 を握って行った。
  船隊を組んで、北アフリカや南部スペインの銀のほか、
 果物、家具、象牙などの貿易を行なった。
  この貿易で勢力を蓄えた。
  紀元前720年頃、地中海に進出したフェニキア人が、貿
 易都市を建設したのが始まりという説もある。
  カルタゴは「新しい都市」を意味するが、ギリシャ人
 はカルケドンと呼び・・また、ローマ人は、フェニキア
 人を「ポエニ人の町」と呼んだ。
  そして、紀元前6世紀頃、カルタゴは、地中海西部の覇
 者となって行く・・
  そして、シチリアの領有をめぐって、ギリシャの諸都
 市との争いが生じた・・(紀元前4世紀頃に至るまで、こ
 のシチリア戦争は続いた)
  また、カルタゴは、マルカスという指導者のもと、ア
 フリカ内陸と沿岸一帯を領土として・・拡大した。
  紀元前540年、ギリシャとの海戦を勝利する。
  紀元前480年、カルタゴの大規模な軍事行動が開始され
 る。
  この始まりは、ギリシャに支援されたシラクサのゲロ
 ンが島を統一しようとしたことから始まった・・本格的
 なギリシャとの戦争の始まりだった。
  紀元前5世紀、カルタゴは、この地域の商業の中心地と
 なる。
  カルタゴは、強力な海軍力を有し・・ギリシャとの対
 立が増大する。
  紀元前3世紀頃より、シチリアにおける領土と、チレニ
 ア海の制海権をめぐって3回に渡ってポエニ戦争をローマ
 と戦う。
  カルタゴのハミルカル・バルカスは、30万の大軍を集
 めたと言われている。
  軍略を駆使して、ハンニバルらの将軍は、ローマと果
 敢に戦った。
  カルタゴの戦いの歴史が展開される。
  カルタゴは、ローマの名将軍スキピオ・アフリカヌス
 に敗れ(第2次ポエニ戦争)、カルタゴは凋落して行く。
  紀元前146年、カルタゴの復興を恐れたローマは、この
 年、徹底的な打撃を与え、全滅させた、
  略奪に放火・・町は廃墟となった(第3次ポエニ戦争)
  畑には塩が撒かれ、二度と作物が作れない様にもされ
 たという。
.
紀元前753年、ローマが、王政時代に入る(〜紀元前509)、
  そして、紀元前509年から共和政時代に入る。
.
紀元前700年頃、ギリシャノ詩人ヘシオドスは、歴史の見方
 を・・黄金の時代から銀の時代、銅の時代、英雄の時代
 を経て、今は鉄の時代だと述べた。
  この様な没落史観を持っていた。
.
紀元前509年、ローマが共和政時代に入るが、貴族の政権
 独占で出発したローマだった。
  貴族と農民は、激しい闘争を行ない、共和政治の組織
 が完成し、ローマは、イタリア半島の統一を完了した。
  そして、紀元前287年に至る。
.
紀元前384年、アリストテレスが生まれた(~紀元前322年
 3月7日)
  古代ギリシャの哲学者のアリストテレスの言葉・・
  「人間は、自然に(本性上)国的動物であり、また、
 偶然によってではなく、自然によって、国を為(な)さ
 ぬものは劣悪な人間であるか、あるいは人間より優れた
 ものであるのかのいずれかである」。
  アリストテレスが言っているこの「人間より優れたも
 の」は、「神々を指している」。
  故に、アリストテレスが言いたかったことは・・
  人間は、自然に(本性上)国的動物なのだ・・そうで
 なければ劣悪な人間だ・・
.
紀元前287年、イタリア半島が統一され、共和政治体制の時
 代は次の段階に入る。
  この紀元前146年までの時代、ローマは、カルダゴとの
 間で三度のポエニ戦争をする。
  その戦争のすべてに勝利する。
  また、ローマは、東方へも進出する。
  そして、ローマは、紀元前146年に、「地中海世界の覇
 者となった」。
.
紀元前146年、ローマが、地中海世界を制覇した。
  ポエニ戦争で、カルタゴを壊滅させ、滅亡させた。
  この年、地中海世界の覇者になった「ローマ」は、こ
 の覇権確立の反動でローマ社会は乱れて行く・・
  ローマ社会の伝統は崩れ、秩序も崩れ、次第に、強大
 な軍隊をに握った個人へ権力が集中し、権力を持って行
 く。
  カエサルが勝ち残った第一回三頭政治を経て、オクタ
 ビアヌスが第二回三頭政治を勝ち残り、帝政を開いて行
 く(〜紀元前27年)
.
紀元前27年、オクタビアヌスによる帝政と「5賢帝」に依る
 帝政の時代(〜紀元後180年)
.
70年、ローマ帝国が、エルサレムを完全に破壊した。
.
144年~166年頃、カニシカ王の統治。
.
180年〜284年、ローマ社会の秩序が、この頃、大きく崩れ
 た。
.
284年〜476年、ローマ社会の崩壊を、ディオクレティアヌ
 ス帝の専制君主制の樹立で食い止めた。
  しかし、ゲルマン民族の大移動でローマは分裂し、西
 ローマ帝国の滅亡に至る時代。
   ・
   ・
11世紀〜13世紀、中世と言われる中世中期の最盛期。
  社会を支えていたのは、農民の農奴の立場の人々だっ
 た。
  その農民を支配した者は、荘園を所有していた領主た
 ちで、主従の関係で結ばれていた。
  そして、騎士・・、
  そして、頂点のローマに居るローマ皇帝まで・・ピラ
 ミッド型の封建制度で築き上げられていた。
  それと、キリスト教の教皇(ローマ法王)を頂点とし
 た、キリスト教イデオロギーで、世俗社会に根を張った
 キリスト教カトリック組織が存在した。
  この頃、発生した都市には、ゴチック様式のキリスト
 教会が建ち・・
  また、この頃出来た大学・・キリスト教は、権威を得
 たいと、また、組織を大きくしたいと「この大学とくっ
 ついた」。
  そして、キリスト教は、組織の強大化のための金と、
 権威を得ることに執着し、世俗の権力を凌駕して行った。
  そして、その権力を得たキリスト教の圧迫から解放さ
 れたいと「12世紀ルネッサンス」と呼ばれる「人間性の
 復活を主張する運動」が花開いて行った。
  最終的に、キリスト教権力は、皇帝を凌駕し、アジア
 へ無謀なキリスト教十字軍を何度も派遣した。
     ・
     ・
1909年12月4日、朝鮮・韓国の最大の政党が「日韓合邦を要
 求する声明書」を提出した。
  朝鮮・韓国内は、日本と併合したいという意見に満ち
 ていた。
  その声明書の中には・・
  「我が国の皇帝陛下と大日本帝国天皇陛下に懇願し、
 朝鮮人も、日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政
 府と社会を発展させようではないか」と書かれていた。
.
1910年8月29日、日韓併合がなされた。
  そして、第二次大戦後は、アメリカ(アメリカ軍政庁)
 が、朝鮮半島南部(現:韓国の地域)の統治を開始した。
  そして、1948年8月15日に至り、アメリカ(アメリカ
 軍政庁)からの独立を宣言し、韓国(大韓民国第一共和
 国)の建国に至った。
  日韓併合がなされる前の李氏朝鮮という時代・・日本
 との日韓併合がなされる前の時代は、清朝・中国の冊封
 下の従属国、属国状態にあった。
  清朝・中国へ、日本は「朝鮮は独立の国だ」と主張し
 た・・その如くの状態だった・・この問題で、日本と中
 国に対立関係が生まれた。
  日本は説明した・・「朝鮮国は、自主の邦にして日本
 国と平等の権を保有せり」と・・
  中国は、朝鮮を属邦と考えていたため対立関係が生じ・・
  李氏朝鮮の王の高宗も「朝鮮は中国の属邦である」と
 言うくらいの、国の元首が言うくらいの「属邦根性の異
 常状況」だった。
  日本の国内には、「朝鮮に国力がつくまで保護国とす
 るべきだ」との意見もあった(伊藤博文)
  朝鮮・韓国というお荷物状態の国を背負わないで、状
 況の経過を見るという「この考え方が良かったのではな
 いか」と言える。
  桂太郎首相や小村寿太郎外相は、政府内で、「韓国の
 現状に照らして将来を考量(こうりょう、物事をいろい
 ろ考え合わせて考え判断する)するに、韓国を併合する
 より外に他策なかるべき」と演説した。
  伊藤博文も、「協同的に進み、進んで一家たらんをせ
 ん」と言った。
  韓国内も「日韓併合大歓迎」で、韓国の最大の政党の
 「一進会」は「日韓併合をして戴きたい」と「併合の推
 進運動」をした・・そして・・
  1909年12月4日、「日韓合邦を要求する声明書」を提出
 するという状況だった。
  その声明書の中には・・
  「我が国の皇帝陛下と大日本帝国天皇陛下に懇願し、
 朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受したい」と
 書かれていた。
  しかし、2019年の今、この様な歴史の事実をまったく
 (知ってか知らずか)非礼で、無視する韓国となってい
 る・・
  この様な状況であるので、可哀想ではあるが、本当の
 ことを言わなければならないので、以下の様な事を記す。
  韓国・朝鮮は貧しい国だった・・本当に貧しい国だっ
 た・・。
  李氏朝鮮は、悪い政権だった、良くない政権だった。
  それも長く続いた政権だった。
  「何の国づくりもしない」最悪の政権だった。
  道路は、畑のあぜ道のような状態のままだし・・
  学校も、5校という程度で、「ほとんどない」という
 状態で、「教育がなされていない」という国の状態だっ
 た。
  また、鉄道も、1本もないという状況だった。
  朝鮮・韓国社会には、リャンバン(両班)という特権
 階級が存在していて、一般庶民の方々を虐(しいた)げ
 ていた。
  農民や一般庶民の方々は、金銭を取り上げられ、また、
 労働も取り上げられ・・貧困に喘(あえ)いでいた。
  農民の方々は、生活に困って娘を売ったりした。
  韓国・朝鮮にはゼゲン(女衒、뚜 장이)というその様
 な娘を買う商売人たちが居た。
  (語彙)女衒(뚜 장이):女衒は、主に若い女性を買
     い付け、遊廓などで性風俗関係の仕事を強制的
     にさせる人身売買の仲介業であり、人買の一種。
  町に、この様な女性が居る韓国・朝鮮を、日本は救っ
 た。
  最悪状態だった朝鮮・韓国を救った。
  1910年に、日韓併合がなされ、韓国・朝鮮の方々は、
 皆、大喜びだった。
  日本のこの時のことを「良かったよ」と言う韓国の老
 人の方々が、大勢、居た。
  しかし、時が過ぎ、その様な老人の方々も亡くなって
 居なくなった。
  そして、韓国は、昔のことを忘れたのか?
  反日教育がなされ・・その様な教育で「反日を刷り込
 まれた若者が、まだ、日韓併合時の事を知っている老人
 の方々が居る頃は、反日教育を刷り込まれた若者が、日
 韓併合時の事を聞くと、「良かったよ」という返事を聞
 き、予想に反した返事に・・学校の反日教育との違いに、
 その返事にびっくりすることも起きていた・・
  しかし・・その様な老人の方々も少なくなって、居な
 くなると・・真実を教えてくれる人々も居なくなると・・
  現政権は、反日に、韓国の方々を煽っている。
  嘘の慰安婦像を建てることまでして、洗脳している。
  それも、世界中に立てるという行為を辱(はずかし)
 くもなく行っている。
  世界の方々が、この後、だんだん本当のことを知る様
 になって来たら・・その像が、逆に、韓国が軽蔑される
 像になることを、韓国は知らない。
  この様な嘘の低次元の事ばかりしている「現在の韓国
 政権」の状況となっている・・
  地続きの中国に虐げられ、冊封されて来て、韓国は、
 この様な態度を取る「ひねくれた性癖の国」になってし
 まった。
  この問題の根底には、長い中国の冊封支配がある。
  韓国・朝鮮は、この植民地支配下に、長い期間あった。
  海を隔てた日本は、この逆で、海の隔たりも幸いし、
 独立が守られ、豊かな文化の中で育(はぐく)まれた。
  日清戦争で、強烈にぶつかり合う時もあったが・・日
 本文化は豊かに育まれた。
  中国という国自体も、色々な民族が奪い合う「戦いの
 歴史の中にあった」。
.
1910年、日韓併合によってできた官庁の朝鮮統監府は(設
 置は1909年)、新たに、戸籍制度を朝鮮に導入した。
  そして、李氏朝鮮時代には、「人間とは見なされず」、
 姓を持つことも許されていなかった朝鮮・韓国の奴婢や
 白丁などの人々(賤民)へも、姓を名乗って良いとした。
  そして、その戸籍には、身分を記載する必要などない
 として、皆を平等に登録するようにした。
  それまでの朝鮮・韓国の非人道的な行為を廃して、人
 道的な行動を行なった。
  また、当然、その身分が開放された方々(賤民とされ
 た人々)の子弟も、日本が作った学校へ通えるようにし
 た。
  この様な状況に、身分解放に、反発する旧来の朝鮮・
 韓国の「特権階級に居た朝鮮の両班(リャンバン)」は、
 激しい抗議デモを繰り広げた。
  身分にかかわらず、機会均等に、教育機会を与えるべ
 きと考える日本政府によって、その反対行動は治められ
 退けられた。
  因みに、日本は、1918年のパリ講和会議においても、
 盛んに、「人種的差別の撤廃」を世界最初に訴(うった)
 え、主張した。
  (1918年11月13日、外交調査会において、「人種的偏
 見の除去」を主張している)
  1919年1月14日、パリに到着した日本全権団は、人種差
 別撤廃提案のため、各国との交渉を開始した。
  各国の賛同を得られたが・・結局、アメリカの策動の
 ため、この条項は採択されず、削除された。
  アメリカは、「内政干渉だ」と強い批判をした。
  アメリカは、「人種差別国だった」ので後ろめたかっ
 た。
  イギリスやカナダも、このアメリカに引きずられた。
.
1910年、困窮している朝鮮の方々を救うため、日韓併合で
 出来た朝鮮総督府は、土地調査事業を行ない、土地の所
 有権をはっきりさせて・・
  その所有者不明の土地を、朝鮮の農民の方たちへ安い
 価格で払い下げた。
  しかし、韓国は、この土地調査事業を土地の収奪の為
 だったと、ひねくれた言い方をしている・・韓国は、こ
 の様な言い方ばかりしている。
  日本は、李氏朝鮮時代の農地は荒廃していて、また、
 高い小作料から離村する人が多かった・・この改善のた
 め、この様な施策を行なったのだった。
  それでなくても、朝鮮民衆は、官吏や両班や高利貸し
 から苦しい圧迫を受け、収奪されていた。
  日本が指導した朝鮮総督府は、しっかりした農業経営
 が出来る様に、さらに、この朝鮮の農地の水防工事を行
 い、また、水利工事を行い、朝鮮の農業を育てようとし
 た。
  また、農業を伸ばそうと、水利組合を結成させたり、
 金融組合を結成させ、安い金利で融資を受けて、農業を
 大きく伸ばそうとした。
  日本を貶(おとし)める事ばかりをしているNHKや
 元NHK職員の池上彰は、「日本は朝鮮を植民地にした」
 と、日本を貶める印象操作の放送ばかりしている。
.
1940年10月、アメリカで、「マッカラム覚書」が作成され
 た。
  その中に、「日本を追い詰めて行く行動を行う計画が
 書かれていた」。
  そして、追い詰めて、日本を窮地に陥(おちい)らせ
 て、どうしようもない状態にすることが書かれていた。
  これは、はっきりとした「日本を暴発させようという
 策略の覚書だった」。
  全面的に禁輸にするのだと・・
  アメリカにある日本の資産を、資産としての活用をさ
 せないで、凍結して、経済的に締め上げるのだと・・
  生産活動や生活する上で重要な、そして、必ず必要な
 石油を、一切渡さないで・・禁輸にするのだと・・など
 などが書かれていた・・
  貴方の食事が、あなたの前に、一切、出て来なかった
 ら・・貴方はどうしますか?・・
  ご飯を食べないで、我慢が出来ますか?
  電車や車や、船も動かず・・
  「取り上げられたままの様な状態」になったら・・貴
 方はどうしますか?
  「大切な電気も来ない」という状況・・その様な生活
 となったら・・貴方は、どうしますか?
  この時、アメリカは、『まったく非常識な』、この様
 な事を、日本に対してやり始めた・・
  この様な計画を立てた。
  このアメリカの行為は、日本に対して戦いを始めたの
 と同じ行為だった・・
  『事実上の宣戦布告』だった。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、日本に対して「宣
 戦布告と同様なこと」を始めた。
  この覚書を作成したアメリカ海軍情報将校のアーサー・
 マッカラム少佐は、日本が暴発せざるを得ない状態にす
 る行動を書いた。
  ルーズベルトは、これを、着々と実施し、行なった。
  日本を追い込んで行った。
  戦争が起きる原因を、「完全にアメリカが」作ってい
 た。
  日本が、アメリカの最大の攻撃戦力の艦隊が、ハワイ
 の真珠湾に居る事を知っているのと同じように・・
  アメリカも、日本の艦隊の動きのすべてを知っていた。
  日本の艦隊の無線電信も「完全に把握していた」。
  アメリカは、日本を戦争に誘い込む道を「真空の海」
 と呼んでいた。
  だから、ハワイへ進む日本艦隊のすべてを知りながら、
 手出しをしないで、誘い込みをしていた。
  だから、総べてを知るルーズベルトは、つい、「明日、
 日本が攻めて来る」と、親しい人へ、事前に、言ってし
 まっていた。
  そして、真珠湾攻撃が起きると、「戦争を作った」と
 言って喜んだ。
  また、イギリスのチャーチルへ電話をかけ、戦争(第
 二次世界大戦)が始まったことを喜び合った。
  (すでに始まっていたイギリスのドイツとの戦いに、
 アメリカが参戦して、イギリスを助けに来てくれると・・)
  日本の無線電信で、アメリカは、日本の攻撃目標が、
 ハワイの真珠湾だと知っていたが、ハワイのアメリカ海
 軍司令部へ、そのことを連絡をせず、「日本の奇襲とい
 う形をでっち上げる行為をしていた」。
.
1941年1月20日、フランクリン・ルーズベルトが第39代アメ
 リカ大統領に就任した(~1945年1月20日)
  ルーズベルトの言葉・・
  (大統領に就任する直前・2ヶ月前の言葉)
  「私の先祖は、中国貿易に従事した事がある。
  だから、いつも中国人には親しみがある。
  そんな私が、『日本をやっつけよう』と言うスティム
 ソンに、同意しないわけがないではないか」。
  ルーズベルトは、中国を支援して、隠密に、秘密裏に、
 命令書を書き、アメリカ軍の正規兵や武器や資金を中国
 へ投入した。
  真珠湾攻撃以前から、秘密裏に、中国で、アメリカは
 参戦していた・・そして、日本を攻撃していた。
  卑怯な事に、ルーズベルトは、真珠湾攻撃を「日本の
 奇襲攻撃だと仕立てた」。
  そして、また、このフランクり・ルーズベルトの祖先
 の中国貿易と言ったって「麻薬貿易」だった。
  ルーズベルトの母方の家系であるデラノ家の祖父や伯
 父が、香港を根城・中心地にして、アヘン貿易で大儲け
 していた。
  その人非人の稼業で、巨万の富を築いた。
  大統領選挙の時に、この金が動いたのだろう。
.
1941年12月8日、真珠湾攻撃
  アメリカのルーズベルト大統領は、アメリカ議会で、
 「日本にだまし討ちにあった」と嘘の演説をした。
  ルーズベルトは、アメリカの議員の方々を騙した。
  ルーズベルト大統領に騙されたアメリカ議員の方々は、
 日本を「討ち負かせ」と、「日本に対して宣戦布告の戦
 争開始の議決をした」。
  ルーズベルト大統領の嘘の演説に、「完全に騙されて
 いた」。
  まったく、ルーズベルト大統領の策謀に嵌(はま)っ
 てしまったアメリカ議会だった。
  そして、事もあろうに、総べては、ルーズベルトが仕
 組んでいるのに、ルーズベルトは、策謀で、「ハワイの
 キンメル太平洋艦隊司令長官に、情報を伝えなかった・・
 にもかかわらず・・キンメル司令長官を悪者に仕立てて・・
  「キンメルが、真珠湾の対策を怠ったから悪いのだ」
 として、キンメルに罪を着せて、キンメルに責任をとら
 せた・・解任してしまった。
  戦後になって、これ等の「ルーズベルトの策謀が明ら
 かになる」と・・キンメルの親族や友人や支持者たちが、
 「キンメルの名誉回復のために起ちあがった」。
  アメリカ国民の方々は、ルーズベルトに騙されていた
 と真実を知るようになった。
  「日本の奇襲だ」なんて言う話は、完全に、ルーズベ
 ルトのデッチ上ゲだと分かったアメリカ国民の方々だっ
 た。
  「日本の暗号を、アメリカは、完全に解読していて、
 日本の行動の一部始終を、アメリカは完全に知っていて・・
 『日本の奇襲』なんて完全に嘘のデッチ上ゲであって、
 そんな事は言えないと・・「本当のことを知ることとな
 った」。
  また、アメリカは、卑劣にも、日本の攻撃によってア
 メリカの一般市民の方が亡くなったと嘘を言った・・
  しかし、日本の機動部隊は、ハワイの「軍事施設のみ」
 を攻撃目標にしており、日本は、一人のアメリカ市民の
 方々を標的にしていない。
  逆に、アメリカは、広島・長崎の原爆や、東京・大阪
 などの日本のあらゆる都市の一般市民を標的にして、「
 無差別爆撃のじゅうたん爆撃」をしており、国際法違反
 の行為をしている。
  この点においても、日本は非人道的な行為を、アメリ
 カの様にしていない。
  日本は、この点でも、アメリカを上回った行動にいる。
  日本の潜水艦に搭載した飛行機で、アメリカ本土爆撃
 をした時でさえ、日本の爆撃は、アメリカ市民を攻撃目
 標にしていない・・
  アメリカ市民の方々の命を狙うような爆撃を避けてい
 て、戦後、この飛行士が、アメリカの方々から表彰され
 ているくらいだった。
  この様な点でも、「日本は、完全にアメリカを上回っ
 ている」。
  アメリカは、戦争に勝ったとはいえ、愚かな卑劣な歴
 史を残している。
  今後、永久に、「このアメリカの汚点は歴史に刻み続
 けられる」。
  不名誉な事をしてでも勝ちたいという「アメリカの卑
 怯な愚かさが・・歴史に永久に残された」。
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1941年12月8日、第二次世界大戦を、日本には、まったく
 アメリカと戦う必要性など完全になかった。
  日本には、アメリカと戦争をするつもりもなかった。
  しかし、アメリカの挑発によって、戦争に引きずり込
 まれて行った。
.
1950年代、中国には、400以上の民族が居ると言われている。
  実態は、よく分からない状態。
  中国は、色々な民族が、中央政府を取り合ってきた歴
 史の中にある。
  この多民族国家の中国、1950年代から、中国政府は、
 言語学者や民族学者に調査をさせ、民族認定をさせた。
  1979年に、順々に民族認定をして来て、この年、ジノ
 ー族が56番目の民族として確認された。
  しかし、これが最後となり、調査が終わってしまった。
  貴州省黄平県のグォージアレン《革(人偏)家人》民
 族は、民族とされなかった。
  今、57番目の民族として認めてもらいたいと「活動を
 している」。
  一時は、別の民族と一緒にされそうになった。
  その様な動きを拒絶し、押し返すことが出来た。
  今、中国には、未識別者が居る。
  その数は64万人と言われているが、不確(ふたし)か
 である。
  因みに、中国の総人口でさえ、はっきりした数が分か
 っていない状態。
  日本の様に、しっかり把握されていると思ったら大間
 違いである。
  中国のデーターで、確かなものは、「まったくない」
 と言ってもよい状態。
  中国は、今、漢民族の言葉に統一しようとしている。
  オロチョン族の人は、「自分たちの言語や伝統や文化
 が、無くなるとは思っても居なかった」と言う。
  習近平は、2020年までに「全国に標準語(漢民族語)
 を普及させる」としている。
  それを、「漢民族とその他の民族(55民族と言ってい
 る)を包括する『中華民族』にとって、共同体意識を強
 固にする」と、自分たちの漢民族に都合の良い理屈を言
 っている。
  そして、標準語(漢民族語)を修得すれば、仕事が得
 られるということを言ったりもしている。
  「漢民族化への圧力」が増している。
  中国は、超長期にわたって領土を拡大して来ている。
  中国は、57番目の民族として日本民族を狙っている。
  チベット、ウイグル、内モンゴルは、すでに、その被
 害を受けている。
  「満州族の地は、すでに無くなってしまった」。
  満州族の方々も居なくなった。
  どこへ行ったのか? 今は、まったく不明状態。
  地名は「中国東北部」となった。
  その実態は、「中国東北侵略部」。
  そして、今、中国は、その先のシベリヤのロシア領へ
 浸透を続けている。
  「太平洋を半分くれ」という事も「表明している」。
  南シナ海は、「すでに、占領を完了した」。
  今、太平洋の南の島々へ工作の手を広げている。
  一党独裁で、民の権利を認めない「非民主国家」を自
 由諸国圏に入れたのが「間違いだった」。
.
1965年、日韓基本条約が締結された。
  この条約によって「過去のわだかまりの一切が解決し
 た」と合意した。
  日本の首相は佐藤栄作首相、韓国は朴正罷(パクチョ
 ンヒ)大統領だった。
  日本は、この時、最大限の誠意を示した。
  この頃、日本は、まだ、裕福ではなく、外貨準備高も
 わずかで18億ドルしか無かった。
  しかし、日本は、その中から5億ドルも韓国に支払い、
 そして、与えた。
  外貨準備高の3割近い28%も、身を切って与え、支払っ
 た(無償3億ドル、有償2億ドルの賠償金とした)。
  日本は、大きな負担を背負ったのだった。
  精いっぱいの誠意を見せたのだった。
  これによって韓国経済は飛躍的に伸びた。
  「漢江の奇跡(はんがんのきせき)」と呼ばれるほど
 の発展をした。
  韓国は、この時、「個人補償は、国がやるから、総べ
 てを国家に支払ってもらいたい」と言い、「国家賠償に
 してくれ」と言った。
  これは、韓国政府の決定事項だった。
  しかし、後になって、今頃になって、個人補償が終わ
 ってないと言い出した。
  約束では国に払ってくれ、韓国の国に払ってくれれば、
 韓国の国から韓国の個人に支払うからと言われ、そして、
 約束し、だから、日本は韓国の国へ支払ったのに、終わ
 っていないと言い出した。
  いつもの韓国のやり方で、「約束を放り出して、ごね
 だした」。
  そして、要求をどんどん「せり上げて行った」。
.
1976年2月24日、ユバル・ノア・ハラリ(ヘブライ大学歴史
 学部教授)の言葉:・・
  「人間は、長い時間の中で、目の前にあるものが現実
 なのか、それとも誰かが創ったストーリーなのか、区別
 する能力を失った。
  結果、多くの人が、神や国家や会社という想像上のも
 のに自分を捧(ささ)げて戦争に行き、何百万人という
 人を殺戮した」。
  だから、「目の前にあるものが、現実か虚構なのかを
 区別し、その上で利用する方法を考えよ」。
  そして、「虚構の奴隷になるな、虚構を利用せよ」。
  (参考)1976年2月24日、生まれ。イスラエル人。
      著書「サピエンス全史、文明の構造と人類の
     幸福」「ホモ・デウステクノロジーとサピエン
     スの未来」
      2000年、オックスフォード在住中にヴィパッ
     サナー瞑想を開始し、それが「人生を変えた」
     と語っている。
  (参考)ビパッサナー瞑想:ナーマ(こころのはたら
     き、名〔みょう〕)とルーパ(物質、色〔しき〕)
     を観察することによって、仏教において真理と
     される無常・苦・無我を洞察する瞑想。
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2016年2月17日、慰安婦問題で、韓国が主張していたことは
 虚偽であると言うことがはっきりした。
  この日付での産経ニュースがある・・以下その抜粋・・
  杉山外務審議官の発言要旨:慰安婦強制連行に関する
 国連女子差別撤廃委員会
  日本政府は、日韓間で慰安婦問題が政治外交問題化し
 た1990年代初頭以降、慰安婦問題に関する本格的な事実
 関係調査を行った。
  日本政府が発見した資料には、軍や官憲によるいわゆ
 る強制連行を確認できるものはなかった。
  慰安婦が強制連行されたという見方が広く流布された
 原因は、昭和58年(1983年)、吉田清治氏(故人)が「
 私の戦争犯罪」という刊行物の中で、自らが日本軍の命
 令で、韓国の済州島で大勢の女性狩りをしたという事実
 を捏造(ねつぞう)して発表したためだった。
  この内容は、朝日新聞社により、事実であるかのよう
 に大きく報道され、日本と韓国の世論のみならず国際社
 会にも大きな影響を与えた。
  しかし、この書物の内容は、複数の研究者により完全
 に想像の産物だったことが、すでに証明されている。
  朝日新聞も平成26年8月5、6日を含め累次にわた
 り記事を掲載し、事実関係の誤りを認め、正式に読者に
 謝罪した。
  20万人という数字も具体的な裏付けがない。
  朝日新聞は26年8月5日付の記事で、通常の戦時労
 働に動員された女子挺身(ていしん)隊と慰安婦を誤っ
 て混同したと自ら認めている。
  なお、「性奴隷」といった表現は事実に反する。
  日韓両政府は、昨年12月28日、ソウルで日韓外相
 会談を行い、慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決さ
 れることを確認した。
  両首脳も同日、電話会談を行い、合意を確認し、評価
 した。
  今後、韓国政府が元慰安婦の支援を目的とした財団を
 設立し、日本政府は10億円程度の資金を一括で拠出す
 る。
  現在、両政府はそれぞれ合意内容を誠実に実行に移す
 べく取り組んでいる。
  国際社会は日韓両国の合意を歓迎している。
  先の大戦にかかわる賠償や請求権の問題は、サンフラ
 ンシスコ平和条約、日韓請求権経済協力協定や日中の処
 理の仕方も含むその他の2国間の条約などによって誠実
 に対応してきている。
  条約の当事者間では、個人の請求権の問題を含めて法
 的に解決済みというのは、日本政府の一貫した立場。
.
2019年4月19日、アイヌ新法と言われる「アイヌの人々の誇
 りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関す
 る法律案」が成立した。
  そして、この法律の第一条に・・
  「日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族であ
 るアイヌの人々の・・」・・と、北海道の先住民族とし
 ている。
  これは、科学的に間違っている。
  北海道には、すでに、日本人の祖先である縄文人が住
 んでいた・・アイヌの人々が北海道に来る以前からであ
 る・・
  アイヌの人々は、13世紀に北海道に渡って来た。
  この歴史的史実は、立証されている。
  そして、日本人の祖先である縄文人は、そのアイヌの
 人々が北海道に来た時よりズーッと以前の「紀元前」か
 ら北海道に住んでいた。
  何故、科学的に間違った法律を成立させたのか?
  大いに疑問が残る・・
  この行動について・・
  「チェチェ思想(主体思想)を信奉している人たちが
 行なっていて、この後、自分たちの国を北海道に作る」
 と説明する人たちが居る・・
  その根拠は・・その事が明確にチェチェ思想の本に、
 そのことが、その様に書いてあるという。
  (参考)チェチェ思想:朝鮮労働党および北朝鮮の指
     導指針とされる思想。
  現在、「中国東北部」と呼ばれる地は、中国の漢民族
 とはまったく関係が無かった。
  この地には、満州人の方々が多く居て、日本は、「満
 州国の建国を助けた」・・しかし、戦後、この地は「中
 国東北部」という名で呼ばされ、中国の地とされてしま
 った。
  そして、気になるのは、今、満州人の方々が、まった
 く居なくなっていて・・(追い払われたのか?殺された
 のか?)・・満州人の方々の影も形も無くなっていると
 いう。
  今、中国の地だとされている「ウイグルの方々の地」
 でも、300万人ものウイグル民族の方々が、強制収容所へ
 入れられている」・・
  中国は、テロ対策だと言っているが・・この様な人権
 無視の行為がなされている。
  国が簡単に消えるのだ・・北海道がその端緒でなけれ
 ばよいが・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
by suba28 | 2019-09-12 04:57 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)653E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年7月~1896年8月)

題:(増補版)653E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年7月~1896年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
 される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆J・ロックの言葉:議論こそは真理を広める唯一の正
  しい方法だ。
 ☆歴史を知って、アイデンティティが形成される。
.
1896年7月24日、名古屋に株式会社鉄道車両製造所(現:日
 本車両製造株式会社)が創業した。
  1896年9月に鉄道車両の製造販売を目的として設立との
 説明もある。
  別説:1896年7月26日、日本車輌製造株式会社設立。
  企業家・奥田正香ら中京財界人により創立。
  鉄道庁・鉄道関係者以外の民間人による車両会社設立
 は前例がなかった。
  この頃、車両だけでなく大八車も製作した。
  笹島仮工場にて操業開始。
  1896年8月18日、農商務省指令、第10399号
  「明治29年7月30日付申請、日本車輌製造株式会社設立
 の件、免許す」 農商務省大臣、子爵、榎本武揚
         申請者:奥田正香、他拾名
  1897年、熱田工場が稼働した。
.
1896年7月、上川線の空知太駅~旭川駅間の建設工事が着工
 された。
.
1896年7月、加能鉄道会社が、社名を七尾鉄道株式会社と改
 称した。
 沿革・・
  1894年5月、第4回鉄道会議の中で加能鉄道認可に関す
   る審議がなされた。
   鉄道会議とは、「鉄道会議規則」に基づき鉄道担当
   官庁が1892年に設置した諮問会議で、渋沢栄一は第1
   回より臨時議員として出席していた。
   加賀の津幡町から能登半島の七尾町に至る加能鉄道
   について「半島の突先に鉄道を架ける必要はない」
   などの意見があり、それに対して渋沢栄一は、突先
   であっても七尾港は良港であり、津幡から七尾への
   連絡線は地域のためにおおいに利益ある路線と反論
   した。
    また、地域の繁盛になることだから許可を希望す
   ると意見を述べた。
    審議の結果、過半数の賛成を得て加能鉄道への仮
   免状下付は可決された。
    この決定を受けて、加能鉄道会社には同年9月に仮
   免許が、1896年4月に本免許が下付された。
    同社は、七尾鉄道と社名を変更して工事に着手、
   七尾・津幡間の工事は1898年4月に竣工した。
.
1896年7月、関西鉄道会社と浪速鉄道(大阪片町・四条畷間
 営業)が譲受の契約を締結した。
  関西鉄道は、官設鉄道の経路から外れた東海道沿いの
 滋賀、三重県下の都市を東海道線に結ぶ目的で設立され
 た。
  しかし、大阪進出の意図はあった。
  そして、また、名古屋と大阪の間に出願した大阪鉄道
  (初代)との間で調整も行なわれていた。
  その後、路線を奈良へ向けて西へ延長し、片町~四条
 畷を開業していた浪速鉄道、および、四条畷から木津方
 面の路線免許を持つ(未開業の)城河鉄道を合併して現
 在の片町線経由で名古屋・大阪間を開通した。
  そして、1898年に大阪片町にターミナルを入手した。
  しかし、敷地の拡張が困難なため網島に起点を移設し、
 さらに湊町から奈良に路線網を持つ大阪鉄道 (初代)を合
 併し現在の関西本線を全通させ、湊町にターミナルを、
 再度、移転させた。
.
1896年7月、フランスが、朝鮮半島の鉄道敷設権を取得した。
  この年、ソウルと現在北朝鮮の新義を結ぶ京義線(き
 ょんうぃせん)の敷設権を取得した。
  結局、この後、この路線も日本が建設を行なう・・そ
 して、朝鮮半島・韓国の社会資本の充実の貢献を行なう。
  日本は、朝鮮半島のあらゆる地方の鉄道敷設を行ない
 朝鮮半島の物流の改善に貢献しており、朝鮮・韓国経済
 などの発展の元を築いた。
  韓国は、この様な日本の行為を、まったくと言って良
 いほど感謝の意を示していない。
  それまでは、畑のあぜ道の様な状況の道路に物流を頼
 っていた朝鮮・韓国・・この改善が第一に必要とした日
 本は、朝鮮・韓国の鉄道敷設に多くの日本の資本を提供
 し、実施した。
  また、これ等に従事した日本の技術者の汗の結晶に、
 韓国は感謝の意を示していない。
  また、これ等の多くの工事に従事し、亡くなった工事
 関係者の多くの方々への慰霊の意も示していない。
  韓国は、これは、日露戦争の兵士を送るために作った
 のだと、感謝どころか批判をしている。
  多くの朝鮮・韓国の人々が、汽車や列車に乗って生活
 を享受している姿を、その様に表現している。
  その便利さに笑顔でいる朝鮮の方々の顔を見ていない
 で、その様な言い方をしている。
  何をしてあげても、この国は感謝をしない国・・逆に、
 恩を仇で返す国。
  誠実に対処して来た日本の「ことごとくの好意」に、
 韓国は、意地の悪い言い方を続けている。
.
1896年7月、朝鮮で改革派が、独立協会を組織した。
  軍事、財政、人事権にまで干渉するロシアを排除する
 ため、市民を動員して万民共同会が開催された。
  多くの成果が上げられた。
  李商在、徐載弼、尹致昊、李完用らを中心に結成され
 た組織だった。
  これらの人々は、日本の好意を理解している人々だっ
 た。
  協会は、機関誌「独立協会報」を発行、また、ハング
 ル専用の「独立新聞」の発行した。
  因みに、このハングル文字も、それまで使われていな
 かったこの朝鮮文字の良さを発見し、使用する様に提案
 したのは、慶應義塾大学を創立した日本の福沢諭吉氏だ
 った。
  独立建設活動などにより一般大衆の支持を受け、わず
 か3ヵ月で会員約1万名に達した。
  この様にして、この協会は、民衆への啓蒙団体から、
 政治団体へ変化して行った。
  1898年10月に至り、協会は、官民合同によって官民共
 同会議を開催した。
  そして、国政を改善するための6ヵ条を決議した。
  しかし、政府は、決議案を空文化させ・・反対行動を
 とる様になる・・
  協会の幹部に対して懐柔行為がなされたり、果ては、
 強硬手段の逮捕など・・あらゆる手段を用いて弾圧する
 様になった。
  1899年、政府が、皇国協会を示唆し扇動して流血事件
 を引き起させた・・
  独立協会は、やむなく解散した。
  朝鮮の改革派の有志が、軍事、財政、人事権にまで干
 渉し、朝鮮の独立を崩壊させるロシアに対して立ち上が
 ったが、そして、市民も参加して大きな行動となったが、
 結局、弾圧を受けて崩壊して行く・・
  この様な所にも、日本が、ロシアに対して立ち上がっ
 た遠因があった・・
.
1896年8月1日、釧路鉄道の標茶駅~跡佐登駅間の営業が休
 止された。
  釧路鉄道(くしろてつどう)は、北海道東部の硫黄山
 で産出される硫黄の輸送を目的として建設された。
  硫黄輸送の専用鉄道で、鉄道事業者は安田財閥。
  安田財閥は、この事業で基盤が築かれたと言われてい
 る。
  しかし、鉱山保有する山田銀行への貸し付け分の回収
 が関係し、硫黄の採掘が中止され、開通から10年足らず
 で廃止となった。
  しかし、この鉄道によって釧路地域の開発が進展した。
  安田善次郎氏は、1921年に、釧路の発展の功績によっ
 て釧路区(現:釧路市)から表彰された。
  因みに、1872年、佐野孫右衛門が硫黄山の採掘を始め
 た・・
  1886年、北海道開拓使の方針に基づいて、採掘が開始
 された。
  佐野孫右衛門は、凾館の山田銀行に譲渡していた。
  1887年、山田銀行へ融資していた安田善次郎へ譲渡さ
 れた。
  この鉄道によって、当時、馬によって運び、標茶から
 船で運ぶという大変な運送が改善され改革された。

1896年8月6日、フランスが、マダガスカルを「植民地だ」
 と宣言した。
  フランスは、その強大な武力を背景に、アフリカ大陸
 の西側、インド洋上にある島々を侵略し・・また、イン
 ド、および、東南アジアを侵略して領有した。
  フランスは、広大な地を植民地とした。
  ヨーロッパ列強の一つのメンバーであるフランスの行
 為だけでも、この様な横暴を世界にしていた。
  マダガスカルは、4世紀から5世紀の頃、東南アジアか
 らオーストロネシア語系の人びとや、マライ系の人びと
 が、インド洋を渡ってやって来ていた。
  そして、アフリカ東岸に住みついて、社会が形成され
 た・・
  10世紀頃には、マダガスカル島に移住して来た人々が
 いるとされている。
  現在でも、マダガスカル島は、インドネシアや、マレ
 ーシアの人々との近親性があり、稲作農耕も行われてい
 る。
  15世紀以降、イスラーム化した・・アラブ系住民も増
 加した。
  イスラーム国家も存在した・・、
  19世紀後半、ヨーロッパ諸国の帝国主義の列強諸国に
 よるアフリカ分割の悪夢の時代に、フランスが侵入して
 来た。
  1880年代~1890年代、フランスは、優れた自分たちの
 武器による武力をもって、抵抗を排除して、領有権を奪
 った。
  マダガスカルの方々は抵抗した・・たびたびの反フラ
 ンスの抵抗運動は起きた・・しかし、その度に、武力で
 押さえつけられた。
  独立は、20世紀に至るまで果たせなかった・・
  1960年に至って、やっと独立が果たせた。
  マダガスカルの19世紀初めは、アンドゥリアナムプイ
 ニメリナ王の息子であるラダマ1世がメリナ王国を引き継
 いでいた。
  彼は、先進的な考え方の持ち主で、国民の教育レベル
 を引き上げようとした。
  ヨーロッパの知識を取り入れなければ、ヨーロッパに
 植民地にされたままになってしまうという危機感を持っ
 た。
  それに対し、今・現代の日本は、中国が、沖縄や北海
 道などを狙っている中にあるが、まったくその様な状況
 についての危機感は無いという状況になっている。
  植民地化の危惧を抱いていたラダマ1世は、モーリシャ
 スの『イギリス総督』であったファーカーの援助を受け、
 軍隊をイギリス流に訓練した。
  さらに、奴隷貿易の廃止運動を行ない・・また、学校
 の設立、アルファベットによるマダガスカル語表記の導
 入など、近代化=西欧化政策を進めた。
  日本が、学校を一生懸命に建設して、朝鮮・韓国の教
 育を一生懸命にしたのと同じ・・
  しかし、1828年、志なかばでラダマ1世は死去した。
  ラダマ1世の第一夫人が、ラナヴァルナ1世として即位
 した。
  彼女は、植民地行為がありありのヨーロッパ諸国に対
 し、敵視政策に切り替えた。
  まず、植民地行為の尖兵であったキリスト教を、1835
 年に、布教の禁止を行なった・・しかし・・
  1861年、ラナヴァルナI世は死去する。
  その息子が、ラダマ2世として即位した。
  ラダマ2世は、再び、ヨーロッパ化を推し進める苦悩の
 政策へと変更した。
  しかし、その政策が急であったため、欧化反対派によ
 って、1863年に、暗殺された。
  ラダマ2世の後継は、その妃であったラスヘリナが即位
 した。
  1868年、このラスヘリナも没する・・暗殺か?
  やむなく、従妹がラナヴァルナ2世として即位した。
  彼女は、行政改革に努めるが、メリナ王国は衰退して
 行く。
  メリナ王国が衰退を続けると、ハイエナの様なイギリ
 スは、王国の衰退を察して、植民地化の野心を向け始め
 た。
  これを察したフランスは、それに先んじるため、1883
 年に、タマタブ(マダガスカル東部の都市トゥアマシナ
 の旧称)を占領した。
  1883年、ラナヴァルナ2世が没する。
  その従妹が、ラナヴァルナ3世として即位した。
  1890年、メリナ王国の保護権をフランスに認めざるを
 得なかった。
  一方、イギリスに接近し、軍隊の再整備を進めた。
  1894年、フランスは最後通牒を突きつけた。
  1895年、メリナの王宮の置かれていたアンタナナリヴ
 (マダガスカルの首都)を占領する。
  1897年、フランスは、ラナヴァルナ3世を拘束し、レユ
 ニオン島に流した。
  そして、メリナ王国を滅ぼした。
  1896年8月6日、フランス政府は、マダガスカルを植民
 地としたことを宣言した・・フランスは、この宣言を正
 式だと称した。
  この様な歴史は、日本を貶める事ばかりを放送するN
 HKは、まったく放送しない。
  フランスがマダガスカルを植民地化した(1896年8月6
 日)・・
  この解放は、第二次世界大戦後の日本の戦いの後とな
 る。
.
  (今日の言葉)
.
  題:彦星(ひこぼし)と、織姫(たなばたつめ)と、今夜(こよい)逢(あ)ふ、
   天(あま)の川門(かわと)に、波(なみ)立(た)つなこめ
.
698年、遠い昔からジェンダー平等(男女平等)だった日本・・
  また、身分の上下ない社会だった。
  今(2019年)、盛んに国連はSDGsをして「ジェン
 ダー平等を啓蒙している」が・・
  世界は、日本をお手本とするべきである・・
  万葉集に・・
  「彦星(ひこぼし)と、織姫(たなばたつめ)と、今
 夜(こよい)逢(あ)ふ、天(あま)の川門(かわと)
 に、波(なみ)立(た)つなこめ」(詠み人知らず)・・
 がある・・
  (訳)彦星と織姫が逢う今夜なのです・・
  天の川の渡し場に、波よ、決して荒く立ってくれない
 でください・・
  今から1300年以上も前の日本人の優しい心が伝わって
 来る。
  彦星(牽牛星)と織女(織女星)の逢瀬が、年に一度
 だけ許されるという七夕(たなばた)の和歌です・・
  この伝説は、持統天皇が在位していた698年代頃、中国
 から日本に伝来したと言われているが・・
  この話は、それまで、それ以前から日本各地にあった
 「棚機津女(たなばたつめ)伝説」と融合した。
  それは、年に一度、7月に訪れる神への捧げものとして
 処女が水辺の棚で神衣(しんい)を織ったという話・・
  これと融合して庶民の間にも広まり、人々の想像力を
 掻き立てたのだった・・
  万葉集には、130余首も七夕歌が収録されている。
  その多くが庶民の歌で「詠み人知らず」となっている。
  身分の上下、貴賤もない社会の日本だった・・
  日本は、遠い昔から庶民の一般市民と隔たりない処遇
 をしていた優しい平等な国だった。
  遠いこの昔から、女性方々も尊重されていた。
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9世紀~10世紀、神聖ローマ帝国が出来た(~1806年)
  神聖ローマ帝国は、代々のドイツ王が、ローマ教皇か
 ら冠を授けられて、皇帝となった。
  神聖ローマ帝国は、実質的にはドイツ帝国・・
  神聖ローマ帝国は、巨大な領域を持つ。
  最盛期の版図は、現在のドイツ、オーストリア、イタ
 リア、フランス、チェコ、スイス、オランダ、ベルギー、
 ポーランド、リヒテンシュタイン、ルクセンブルク、モ
 ナコ、クロアチア、サンマリノ、スロバキアなど現在の
 EUの領土とほぼ同じ・・
  巨大だが、国家とか連邦という性格は・・ほとんど無
 い。
  帝国全体を総括する行政機関も無かった。
  多くの領域の緩い集合体の様なものだった。
  軍も借りものが集まったもので、帝国全域を包括する
 ナショナリズム持った。
  この様なこの領域は、独立を保つ実力も無かったが、
 権威を犯すなと存続した。
  しかし、1806年、ナポレオンの台頭で幕を閉じた。
  しかし、ドイツ人の武力によるリベンジは素早かった。
  1870年、普仏戦争でフランスを負かし、
  翌年の1871年には、鉄の宰相ビスマルクが活躍して、
 ドイツ帝国が起こった。
  そして、第一次世界大戦の敗北で、そのドイツ帝国が
 消滅すると、今度は、ヒトラーが台頭した・・そして、
 再再度、ヨーロッパ制覇を目論んだ。
  ヒトラー政権は、神聖ローマ帝国、後のビスマルクの
 ドイツ帝国に続く第三帝国と呼ばれた。
  そして、その第三帝国は、無残に滅び、消滅した。
  そして、二度と立ち直れないと思われたが、西ドイツ
 は、1990年、東ドイツを飲み込み、一体となりヨーロッ
 パで第一の大きな国となった。
  そして、今(2017年)、EUに君臨した。
  一番の影響力のある国となっている。
  そして、その軍事力でも強大になって行くと予測され
 ている。
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1158年、キリスト教聖職者のオットーが死んだ。
  キリスト教の「教父」と言われたアウグスティヌス(
 354年~430年)は、その生存した古代の時代なりの考え
 方をしていた。
  その様な古代の遅れた認識で、その存在が古代ゆえに
 やむを得ない面があるが・・問題は、その彼の遅れた論
 理が、今・現在もなお、現在に至るまで、多大にキリス
 ト教へ影響を与え、延々とキリスト教に引き継がれ、キ
 リスト教の遅れた状況を作り出す原因となっている
  その様なことの一つが、「キリスト教普遍史」である。
  彼=アウグスティヌスは、「ローマ帝国が終われば、
 人類が終わる」と考えた。
  そして、キリスト教の教義である「人類の終末に訪れ
 る最後の審判」となり、その審判を恐れた。
  悲しいかな、まったく無用な恐怖なのであるが、キリ
 スト教は、この恐怖を抱えていた・・今・現在も・・
  しかし、そのローマ帝国が滅び、年月を経ても、「何
 も起こらなかった」。
  びくびくして・・年月だけが過ぎた。
  当然の事だった。
  しかし、年を経て、その整合性を問う話が沸き出て来
 た・・そのことを考えた者が現れた。
  ドイツのキリスト教聖職者のオットーだった。
  彼は、中世的普遍史の完成者と言われている・・そし
 て、彼は「年代記」を書いてアウグスティヌスを訂正し
 た・・。
  彼は、ローマ帝国まではアウグスティヌスを踏襲した。
  問題はその後にあった。
  キリスト教が色々な面で、辻褄(つじつま)合わせを
 色々、苦労してやっているが、オットーもこの辻褄合わ
 せに苦渋した。
  そして、考え出したのが「帝権移動」の屁理屈論理だ
 った。
  何を意味するのか?・・まったくのこじつけ論理なの
 だが・・「ローマの帝権は移動し、そして、続いている」
 とこじつけた。
  だから、キリスト教が説く「終末は来なかったのだ」、
 また、「最後の審判」も無かったのだとした。
  彼の帝権移動論を細かく書くのも馬鹿々々しいが、そ
 の抜粋・概要を以下に書くと・・
  ローマ帝国は、ラテン人のローマ帝国だった。
  しかし、ローマ帝国の滅亡後、数世紀を経過しても、
 なお、世界は終末を迎えることなく存続していた。
  カール大帝が皇帝に即位した。
  ローマ建設から1552年、カールは、ローマ教皇によっ
 てパトロキウスの称号を与えられ、アウグストゥス以後
 第69代の皇帝かつアウグストゥスと呼ばれた。(中略)
  コンスタンティヌス帝から以後この時まで、首都にコ
 ンスタンティノーブルに中心が置かれていたローマ人の
 統治権は、こうしてフランク人に移された・・
  ・・意味不明な事を延々と書き・・
  はっきりしているのは、「ローマ帝国は滅亡してない、
 引き継がれた」・・だった。
  まだまだこの他にも「おひれはひれ」が付いているが
 割愛(かつあい、はぶく)する。
  何しろ、現在も、コンスタンティノーブルが存在して
 いるが、ならば、「現在も、ローマ帝国は存在している
 のか?」と、キリスト教に言いたいところだ。
  キリスト教は終末が来ること、その時に演じられる「
 最後の審判」におびえている・・
  この様に、遠い昔の古代から「いつ来るか?」「いつ
 来るか?」と怯えている。
  このキリスト教の終末論理には「色々な怪物も登場し
 たり、色々な華やかな話も展開する」。
  教父のアウグスティヌスは、「怪物たちもアダムの子
 孫だ」と言う様な人だった。
  そして、また、アウグスティヌスは、「この怪物と胎
 児」について「理性的で死すべき生き物」として、自分
 勝手な論理展開をした。
  そして、この定義に当てはまるので「すべて起き上が
 り、生きるか死ぬかを求められるべきだ」と言った。
  これらは、「インドは世界の果てだ」という言葉と共
 に語られる・・
  キリスト教において、「意味が分からなくても、心配
 してはならない世界の話」。
  ちなみに、オットーの生涯は1111年?~1158年。
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17世紀~18世紀、ヨーロッパの啓蒙時代
  「啓蒙時代」とは、17世紀~18世紀に、ヨーロッパで
 広まった、キリスト教神学に代表される旧来の伝統や権
 威を『理性のもとに批判』し、民衆を啓蒙し、目覚めさ
 せようとした時代だった。
  中世のヨーロッパは、キリスト教の考え方によって日
 常が歪(ゆが)められていた。
  しかし、科学知識が、革命的に得られて来た事によっ
 て、その知識を得た啓蒙主義者たちは、その歪んだキリ
 スト教の観念に立ち向かって行った。
  その一つが、「キリスト教普遍史」に立ち向かった知
 識人たちであった。
  彼らは、厳しく「キリスト教普遍史」を批判し、キリ
 スト教の「時間観念」に立ち向かった。
  そして、彼らは、キリスト教普遍史とまったく異なっ
 た「時間観念の下で過去を見直した」。
  キリスト教から見れば「異端的考え方をする者たち」
 だった。
  それまでの常識とされて来た「キリスト教から洗脳さ
 れた歴史の時間」からは「かけ離れた長大な時間だった」。
  「地球が巨大な火の玉だった」という事は、キリスト
 教観念からは・・まったく考えられなかった。
  その様な科学知識などを知った知識人たちには、キリ
 スト教観念に沿って説明することは「苦痛だった」。
  それでも、地球の誕生は7万5000年前と、また、人類の
 誕生は6000年~8000年前と、キリスト教の時間観念に妥
 協をした。
  でも、キリスト教普遍史の時間スケールからは「大き
 くはみ出していた」。
  すべてがはみ出していた。
  太陽系の他の惑星が同時に誕生したこと、地球の誕生
 前の「物質の創造」「光と闇の分離」など、どうしても
 キリスト教聖書に沿って説明が出来ない面が「多々あっ
 た」。
  キリスト教は、彼らを脅(おど)した。
  しかし、彼らは、そのキリスト教の脅しには屈しなか
 った。
  彼らは、また、一般人に配慮した。
  キリスト教に洗脳されていた一般人、この一般人から
 理解が得られる説明に心がけた。
  人類の誕生は、キリスト教聖書の記述に合わせたりし
 た。
  日常生活が、キリスト教観念によって影響されている
 一般人、その人々に配慮した。
  間違った観念の下で生きている問題に対し、正しい観
 念を「必ずしも与え得なかった」。
  間違った観念の下で暮らす怖さを取り除いてあげられ
 なかった・・そのもどかしさの中に科学者たち・知識人
 たちは居た。。
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1883年、アメリカで、黒人の方々に対し、大変卑劣な差別
 判決が出た。
  合衆国最高裁判所が、「アメリカ国民に与えられた色々
 な特権(公民権)は、そもそも州の市民にそなわるもの
 であるから、これ等は黒人の市民権付与を規定した憲法
 修正第十四条の適用は受けない」として、「1875年の公
 民権法を否定した」。
  この判決によって、アメリカでは、堂々と黒人の方々
 への「差別」が、一層さらに、行われる事態となった。
  交通機関、学校、レストラン、教会、映画館などなど
 において人種差別行為が行なわれ、また、隔離も行なわ
 れた。
  また、州法や市条例やその他によって、法制化して確
 実化した・・そして、縛(しば)った。
  1896年5月18日には、さらに、最高裁判所が、「列車で
 黒人隔離をしても、平等だ」という、「隔離しても平等
 という屁理屈判決」を出した。
  これが、また、差別行為を正当化して、アメリカ差別
 社会は、一層その卑劣さを増した。
  軽蔑を通り越すアメリカの黒人の方々に対する差別に
 憤りが湧く。
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19世紀末、スペインのバルセロナ地方に独立したいという
 動きがある・・差別が原因・・
  これは、19世紀の末頃から、常にあった。
  スペイン中央政府のカタルーニャ民族を軽視する行動
 が原因だった。
  また、カタルーニャは裕福な州で、中央政府のカタル
 ーニャへの支出金があまりに少なく・・
  カタルーニャ州が税金として支出する金額と隔たりが
 大きい・・還元される金額が少ないという状況もあり、
 独立運動と結び付いて行った。
  2010年代、特に、盛んになった。
  また、イギリスのグリーンランド地方でも独立したい
 という動きがある。
  理解できる活動である。
  今、帰属しているスペインやイギリスは、他国民の多
 くを殺戮して来た、本当に多くの人々を殺戮して来た。
  これを思うと、帰属している国と、我々は違う民族な
 のだと、それを主張したいとなるのだった。
  アメリカも、本当に、多くの他民族をキリスト教観で
 乱暴な対処をして来た。
  バルセロナ・・スペイン北東部のカタルニャ自治州で、
 バルセロナ県の県都である。
  伝承であるが、フェニキア人によって建てられた。
  バルセロナの名は、カルタゴの名家のバルカスによる
 とされている。
  ローマ人、そして、西ゴート人の支配を受け、そして、
  717年頃、イスラムの統治下に置かれた・・しかし・・
  801年、カロリング朝フランク王国のルイ1世によって
 征服された。
  9世紀末に、バルセロナ伯領の首都となった。
  中世を通じて、ゼノアやベネチアと並ぶ地中海岸の商
 業の中心地として発展した。
  カタルニャ王国の首都として、アラゴン王権に対抗し、
 商人層を中心とする民主的な自治を行なった。
  独立の気運は「常に高くあった」。
  内乱時には、人民戦線政府の最後の拠点となった。
  このカタルニャには「自治運動があった」。
  この地方は、スペイン中央部とは経済的にも文化的に
 も異なっていて・・
  19世紀末頃から自治運動が絶えなかった。
  1923年、再び自治運動が高まり・・
  1931年4月、地方選挙後、カタルニャ自治政府の樹立を
   宣言をした。
   この時、スペイン全土でも共和派が大勝し、国王は
   亡命した。
  1931年、共和憲法によって地方自治が承認された。
  1932年9月、カタルニャ自治法によって自治州と認めら
   れた・・しかし・・
  1934年10月、耕作法をめぐって中央政府と対立し、カ
   タルニャは独立を宣言したが、すぐに軍隊によって
   武力で鎮圧された・・そして、自治法は停止された。
   スペイン内乱中もカタルニャと中央政府との対立が
   続き「内戦中の内戦」が展開された。
  1939年、 F.フランコの勝利で自治運動も不可能となる。
   しかし・・
  1975年、フランコ総統が死に・・その後・・
  1977年、中央政府の了解のもとに臨時自治政府が成立
   した。
  1978年、新憲法によって正式に自治が認められた。
   中心都市はバルセロナ。
  1980年、第1回自治州議会選挙以来、穏健派連合が過半
   数を制してきた。
  1992年3月、自治州議会選挙では独立を標榜するカタル
   ニャ共和左翼党が野党第2党に進出した・・しかし、
   穏健派連合優位の構図に大きな変化はない。
  日本でも、中国が陰で働きかけるアイヌや沖縄を独立
 させようという工作や運動が水面下でなされている・・
.
1933年1月30日、ヒトラーが、ドイツ首相に就任した。
  ナチス(単数形のナチ)は・・
  1919年、K.ハラーによってミュンヘンで結成された「
   ドイツ労働党」を、ヒトラーが民族主義と社会主義
   を巧みに接合させた・・
  1920年、「国家社会主義ドイツ労働者党」と改名した。
  1921年、ヒトラーが党首となったが・・
  1923年、ヒトラーは、ミュンヘン一揆を企てて投獄さ
   れた。
   党は解散したが、ヒトラーの出獄とともに大衆政党
   として再出発した。
  1925年、党員数はわずか2万7000人にすぎなかった・・
   しかし、その後、群小右翼団体を吸収して膨張した。
  1929年、党員数17万6000人・・
  1930年9月、総選挙で 18.3%を獲得して第2党となり・・
  1931年、党員数80万6000人・・
  1932年7月、総選挙で37.4%を得て第1党に躍進した。
  1933年1月、軍部や財界と取引を行なって、この時、政
   権を獲得した・・
   党員数は390万人とふくれあがった。
  そして、破滅的な第2次世界大戦への道をとった。
  このヒトラー時代のドイツは、自国に有利になる様に
 「女性を道具として卑劣に使った」。
  まことに卑劣な話であるが、この時のドイツは、外国
 から来た者へ、自国女性に性的な対応をする様にさせた
(ハニートラップ)
  朝鮮・韓国が、中国に冊封されている時、国の施設を
 持って、この様な事を行なっていたが(これは、史実と
 して明確に確定している)・・ドイツも、この様な状況
 であった。
  また、ドイツは、「現地妻」を制度的に用いていた。
  外国からの者へ「現地妻」を提供していた。
  また、冷戦中には、ソ連のKGBも、この様な事を行
 なった。
.
1937年8月13日、第二次上海事変:アメリカに支援された中
 国軍が攻めて来た。
  上海事件・・この戦いが、本格的な中国との戦いにな
 ったきっかけだった・・
  この戦いは、陰で、アメリカが、中国を支援をしてい
 た。
  これが、最大の悲惨な状況を作り出す不幸だった。
  ベトナムとアメリカの戦争と同じだった。
  アメリカが、陰だとはいえ、間接的に参戦することに
 よって、中国での戦いは「悲惨な戦争となった」。
  大量の武器などの物量を中国へ与え、戦いを大きくし、
 また、戦いへ仕向けていっていたアメリカだった。
  歴史教科書にはこのような事は書かれていないが・・
  ただ日中の戦いだったら・・早期に「決着はついてい
 て、終わっていた」。
  戦う当事国同士なら、早期に戦いは決着し、悲惨な結
 果にもならずに済んだ戦いだった。
  アメリカという第三国による一方の中国への支援が、
 この様な形での「間接的な、アメリカの戦争への参戦」
 が、戦いを長引かせ、また、より悲惨な状況とした。
  ベトナムでの戦いも、ベトナムとフランスとの戦いで、
 すでに、決着し、終わっていた。
  しかし、アメリカが乗り出した・・より強力な武器を
 使って・・また、非人道的な武器や行為を行なって・・
  そして、結局、最後は、陰に隠れてい居られなくなっ
 たアメリカは表に出て来た。
  アメリカ軍それ自体が表で参戦するという、卑劣で破
 廉恥な戦争行為となった。
  そして、表面立ってのベトナムとアメリカの戦いが新
 たに生まれた。
  ベトナム・アメリカ戦に変わった。
  戦いは、また続いた・・戦いは長いものとなり、また、
 筆舌に尽くせぬ卑劣な手を使ってでもアメリカは勝とう
 とし(枯葉作戦など)、しかし、アメリカは勝つことが
 出来なかった。
  ただ、戦争と何ら関係ないベトナムの一般の方々が、
 女性の方々が・・そして、小さな子供たちが・・大勢、
 死んだだけだった・・多くの奇形児も生まれた・・
  日中の戦争も・・泥沼となった・・
.
1945年9月10日、GHQが「新聞報道取締方針」(SCAPIN-16)
 を発令し、検閲を開始した。
  アメリカは、あらゆる面で、日本をコントロールし始
 めた・・卑劣だった・・(戦争に勝ったら、そんなこと
 が出来るのか?)
  日本には誇るべき平安京の時代がある・・女性は尊重
 されていた。
  当然、その様な社会環境から・・女性も高い教養を身
 に付けていた。
  その様な社会環境から、「人類最初の長編小説」が、
 日本のこの時代に書かれた。
  アメリカは影も形もないこの時代・・1200年以上も前
 に書かれていて、そして、生まれていた・・
  日本の女性の手によって書かれていた。
  こんな遠い昔でも、日本は、アメリカの様な奴隷制度
 の欠片(かけら)もない平等な社会だった・・そして、
 女性の人格も尊重される社会だった。
  まったく卑劣極まるレベルのアメリカの奴隷社会とは、
 まったく隔絶されて違う・・品位ある社会だった。
  日本は遠い昔から、奴隷社会などという遅れた社会か
 ら隔絶していて・・戦争もなく、兵役もなく、宗教の自
 由があり、言論の自由もあった。
  アメリカが、第二次世界大戦後、その様なことを「日
 本に教えるのだ」と言ったのは間違いだった・・逆に、
 日本から学ぶべきだった。
  アメリカの自国の歴史をもって、「日本もそうなのだ
 ろう」と思うことは、「おこがましい(出過ぎている。
 さしでがましい)」・・反省してもらいたい。
  日本人のプライドを奪うことを、この後、戦後に、ア
 メリカは、まだまだ行った・・まったく卑劣である。
  そんなことは、どこの国もやらなかった。
  だから、その点について、イギリスのチャーチルは、
 さすがに言った。
  そんなことをしたら、「タルタル人の様だと」と・・
  タルタル人と同じではないかと・・
  「タルタル人の時代に戻ってしまうではないか」と・・
  アメリカは、戦争に勝ったかもしれないが、それでは、
 タルタル人と同等ではないか・・と・・
  チャーチルは、数日間、抵抗した。
  しかし、アメリカに押し切られた。
  歴史に裏打ちされた品格を持つ日本は、この点で勝利
 していた・・人間として大事なこの点で、日本はアメリ
 カに勝ち、アメリカは敗けていた。
  (参考)タルタル人:タタール(Tatar)は、北アジア
     のモンゴル高原とシベリアとカザフステップか
     ら東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い
     地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、
     ツングース系およびサモエード系とフィン=ウ
     ゴル系の一部など様々な民族を指す語として様々
     な人々によって用いられてきた民族総称。
      日本では、韃靼(だったん)という表記も用
     いた。
.
1994年、今(2019年)から25年前、アメリカと北朝鮮は、
 かなり危機的な状態となった。
  クリントン大統領の時である。
  アメリカに「やる」という話が出た。
  アメリカ海軍は、「トマホーク」を使えば、北朝鮮の
 原子燃料施設を破壊できるという考えだった。
  アメリカ兵の犠牲も出ない。
  金もかからない・・と・・
  「やる寸前」まで行った。
  しかし、北朝鮮がアメリカを脅した・・
  「もし、アメリカ軍がトマホーク攻撃を仕掛けてきた
 ら、地上戦でソウルを火の海にしてやる」と言った。
  また、作戦の実行に、アメリカ陸軍が反対した。
  韓国に、アメリカ軍3万人に加えて、その家族が3万5000
 人が居た。
  将兵家族の引き上げの問題である。
  そして、クリントン政権のペリー国防長官が、クリン
 トン大統領へ「全面戦争になったら、100万人の死者が出
 る」と・・言った。
  また、「アメリカ人も、8万人~10万人死亡する。
  そして、我が国が負担する軍事費用は、1000億ドル(
 11兆円)に上る」と報告した。
  クリントン大統領は・・屈した。
  この時が、北朝鮮の核施設を無くすチャンスだったと
 言われている。
  この時、日本は何をするべきだったのか?
  その考え方が、「まとまっていなかった」。
  この時、日米で共同作戦を取っていれば、「日米安保
 体制も、ゆるぎないものになっていた」という・・
  日本には、「自国の安全保障に対して何をなすべきか?」
 の「一本、筋の通った論理」が無かった。
  「何も考えないで、アメリカに、頼り切っている状態
 の日本があった」。
  日本の安全保障であるのに、それを真剣に突き詰めて
 いたのか・・?・・これは、今でも続いている・・
  ただただ、戦争は嫌だと言っているだけで良いのか?
  それで済むなら誰だってそれでよいとする・・
  NHKや池上彰は、「徴兵制は怖い」などと脅す事だ
 けをしている・・本質の解説は「逃げている」・・
  北朝鮮は、必死に生き残りをかけてやっていて・・北
 朝鮮は、核とミサイルで自国民を守った。
  アメリカは、最後まで責任をとってくれるのか・・?
  今日の香港・・明日の東京・・そして、ニューヨーク・・
  周りに核に囲まれた日本・・銃を持った者たちによっ
 て、あなたの愛する妻や子が囲まれた時、あなたは何を
 するのですか?・・
  今日も銃の乱射で多くの人が亡くなったアメリカの報
 道が新聞にあるが・・

.
1995年、クリントン政権のジョセフ・ナイ国防次官補が「
 アメリカのアジアに対する『深い関与』戦略」という論
 文を発表した。
  それは、「アメリカは、ヨーロッパから軍隊を引き揚
 げても、東アジアからは撤退しない、『深い関与』を続
 ける」というものだった。
  アメリカ軍が、駐留を続けることによって「東アジア
 地域での軍備競争を抑える」だった。
  また、ペリー国防長官も、似たような主張をした。
  アメリカは、「日本を抑え付けておきたい」と言えな
 いから、この様な言い方をした。
  また、「瓶のふた論」も展開できないから、こんな言
 い方をした。
  「瓶のふた論」は・・もう古い・・
  ペリー国防長官の言い方は、「東アジアを安定させた
 い。軍備競争が起きないようにしたい。それ故に、我々
 は、冷戦が終わっても日本に5万人のアメリカ軍を駐留さ
 せる」と。
  どの様な言い方になっても、結局、「瓶のふた論」の
 思想の行動をアメリカは続けている。
  そして、その「瓶のふた論」をするアメリカへ、「思
 いやり予算」と称して日本国民の血税が支払われている。
  ところが、このペリーという男が、曲者(くせもの)
 で、「中国が、大好きな親中派」・・
  それも、自分さえよければ良いの男だった。
  クリントン政権の前に居たカーター政権で何をやった
 かと言うと、「アメリカの軍事技術を、せっせと中国に
 渡していた」。
  国防次官という身分で、「軍事技術供与」と称して、
 アメリカのノウハウを渡していた。
  そして、この行為は、この後も続いた。
  カーター政権を辞め、スタンフォード大学に戻ってか
 ら、「武器・軍事技術輸出に関するコンサルティング会
 社」を作った。
  目当ては、政権にいた時に作った中国。
  中国を最大の客として、重要な軍事技術を中国へ渡し
 た。
  それも、20年以上の期間に渡って。
  中国は、国防予算をうなぎ上りに増やした。
  前代未聞の4年から5年ごとに、倍増・倍増・倍増の超
 軍拡。
  「東アジアに軍拡競争をさせない」というアメリカの
 公言(人前で隠しだてすることなく堂々と言うこと)は、
 「絵に書いた餅」となった。
  アメリカなんて、こんな事が展開する国だった。
  アメリカ企業は、中国をお得意様として、中国に対す
 る軍事技術の輸出をどんどん増やした。
  「自分の懐に、金が転がり込めば、何でもいいのさ」
 の状態だった。
  アメリカ政府は、黙認した。
  北朝鮮も、この時期、せっせと核弾頭の材料である核
 燃料を増産した。
  1994年、アメリカは、北朝鮮と「これ以上プルトニウ
 ムを作らない」合意をした。
  しかし、1996年、北朝鮮は、このアメリカとの合意・
 約束を破って、パキスタンから「ウラニウム濃縮技術」
 を導入した。
  アメリカは、この重大な情報を日本に秘密にした。
  日米同盟なんてチャンチャラおかしいという状態。
  同盟関係なんてありもしないという日米同盟だった。
  裏切り者の卑怯なアメリカだった。
  さらに、アメリカが、卑怯で卑劣なのは、この状態を
 黙認したこと、核弾頭の開発を続ける北朝鮮を野放しに
 したこと・・この様な事を、アメリカはした。
  何の対抗策も取らなかった。
  日本だけには、ガチガチと枠をはめるアメリカだった。
  日本の自主防衛能力の構築だけが、ガチガチに抑え付
 けられていた。
  そして、2017年、北朝鮮は、立派な核保有国となり、
  ICBM(大陸間弾道弾)も保有する国となった。
.
2002年2月18日、アメリカのブッシュ大統領が来日した。
  この時、「小泉首相と靖国神社に共同参拝したい」と
 申し入れられていたという。
  日本は、中国を刺戟したくないと、この申し入れを断
 った・・(何を怖がっているのか?)
  その結果、ブッシュ大統領の単独による明治神宮の参
 拝になったという。
  日本は、中国に気を使い過ぎている。
  ウイグルの方々を300万人も拘束している中国、ウイグ
 ルの方々へ「洗脳とか、思想教育とか」をしている・・
  この抗議に対して、中国は「テロ対策だ」という「説
 明にならない説明」をしている中国となっている。
  さらなる抗議に対しては、「内政干渉だ」と突っぱね
 る中国となっている。
  その様な状況に対して、その正反対に、気を使い過ぎ
 る日本となっている。
  明治神宮の共同参拝までしなかった日本・・
  「政教分離にならない」というのも理由だったという。
  アメリカは、大統領の就任式にキリスト教の聖書に手
 を置いて祈り、誓うが、一定の範囲に宗教が関わること
 は正しい、「正義だ」、「許されるのだ」。
  宗教を否定する共産主義の中国とは違うのだ。
  馬鹿々々しいほど律義に行なう日本の方が「おかしい」。
  民の選挙も行なわない・・そして、宗教を否定する中
 国の方が・・「おかしいのだ」。
  日本は、中国の内政干渉には、きっぱり撥ね付ける必
 要がある。
  アメリカは日本に対して言っている、「マッカーサー
 の神道指令」を卒業して、「独自の日本の正義の態度を
 示せ」と・・
  その背景に、「中国に毅然と日本の主張をせよ」との
 思いがある。
  最近のアメリカは、日本に対し、「もっと自分の国に
 誇りを持った歴史観を持つべきだ」というメッセージを
 盛んに発している。
  靖国神社の参拝についても、反対の意見は無い。
  逆に、この類の話の中で、「中国への警戒感や脅威論
 が出る」という状況となっている。
.
2011年、ドイツと中国の間で「二国間政府サミット」が定
 期的に開催されるようになった。
  これは、やはり、狙いは商談・・金儲け・・
  首脳同士、閣僚同士の会談の影で、盛んに産業界の大
 物たちが、政府のサポートを受けながら大型契約の交渉
 に熱中していた。
.
2018年1月14日、スエーデンで、「ジャングルで一番格好の
 良い猿」と言って、黒人の子供の写真を載せる宣伝広告
 がなされた。
  考えられないほどの、「最低の人種差別の宣伝」で、
 世界で、この会社の商品の不買運動を始めよう。
  最悪な卑劣さで、怒りが心頭に達する。
  産経ニュース、2018年1月14日、「ジャングルで最もか
 っこいいサル」…黒人差別の広告に抗議、南アでH&M
 店が襲撃される
  スウェーデンの衣料品大手H&Mが、黒人への差別的
 な広告を使用した問題で、南アフリカ国内にある同社の
 複数の店舗が13日に襲撃され、商品が盗まれるなどの
 被害が出た。
  黒人の権利擁護を訴える野党が、支持者に呼び掛けて
 いた抗議行動が過激化した。
  南アのメディアが報じた。
  地元警察によると、最大都市ヨハネスブルクの店舗で
 は、商品が略奪され警官隊がゴム弾で制圧。
  商品が床にまき散らされた店もあった。
  H&Mによると、客や店員にけがはなかった。
  「ジャングルで最もかっこいいサル」と記したパーカ
 を黒人少年のモデルに着せた写真を、H&Mが広告に使
 っていたことが今月に判明。
  「人種差別だ」と批判が相次いでいた。
  支持者に抗議行動を呼び掛けた野党、経済的解放の闘
 士(EFF)のマレマ党首は「黒人への侮辱は許さない。
  (H&Mは)教訓を学んだだろう」と述べ、襲撃の謝
 罪を拒否した。
.
2019年、存立危機事態(産経新聞の解説文)・・
  自衛隊による集団的自衛権の行使が可能だと日本政府
 が判断する事態の称呼。
  安全保障関連法は、「密接な関係にある他国への武力
 攻撃が発生し、日本の存立が脅かされ、国民の生命、自
 由、幸福追求の権利が根底から覆(くつがえ)される明
 白な危険がある事態」と定義している。
  「国民を守るため、他に適当な手段がない」「必要最
 小限度の実力行使にとどまる」と合わせて「武力行使の
 新3要件」を満たす場合に、集団的自衛権の行使が認めら
 れる。
  この条文を読んでいるうちに、中国や北朝鮮からの核
 ミサイルは・・着弾するだろう。
.
2019年8月2日、日本は、韓国への「ホワイト国の指定」を
 取り外した。
  これは、韓国が、「軍事上の重大違反」を繰り返すと
 いう重大ミスがあったからだった・・当然の処置だった。
  この韓国へ与えてあげていた「貿易上の優遇処置」の
 取り外しは、特に、「軍事関係の重要品」を不適切国へ
 輸出するという「重大違反を重ねていた」からだった。
  この様な事は、重要な事として韓国も十分知っている
 事だったが、現実に起きることは、韓国の『重大なミス
 が重なる』という状況だった。
  この様な事に対して、韓国は謝罪も説明も一切ない。
  韓国へ与えてあげていた『ホワイト国の優遇処置』を、
 『普通のポジションへ戻した』。
  韓国の輸出不正の多い状態は、「二段階降下が適正で
 あった」が、「普通レベルに留めて」あげた。
  軍事的に重要な戦略物資の不適切な輸出は、非常に神
 経を尖(とが)らせなければならない重要な面であるが、
 故意ではないかと疑われるほど、韓国は「重大ミスが重
 なるという韓国の状況であった」。
  そこで、日本政府になり代わって、韓国政府へ、以下
 の文を書く・・
  日本政府が、韓国のホワイト国(輸出手続き上の最遇
 国)から排除する決定を下した。
  これは、韓国政府が、問題を解決するための外交的努
 力を拒否し、事態を一層悪化させる極めて無謀な行為を
 繰り返していたことに依ることであって、深い遺憾を表
 明する。
  問題を解決するために、膝を突き合せようという日本
 政府の熱意と提案を、韓国政府は、ついに、頑なに自説
 を曲げないで受け入れなかった。
  一定の期限を定め、現状をこれ以上悪化させないよう
 にしながら交渉の時間を持つように促す米国の提案にも、
 韓国政府は応ぜず、解決案にほど遠い自説を曲げなかっ
 た。
  韓国政府は、日本政府と国際社会の外交的解決の努力
 を無視し、状況を悪化させて来た責任を、韓国政府は重
 く反省しなければならない。
  この様な責任が、韓国政府にあるという事が明らかに
 なった以上、これから起きる事態の責任も、全面的に韓
 国政府にあるという点を、はっきりと警告する。
  どの様な理由で言い訳をしようとも、韓国政府の今回
 の行動は、まったく国際社会のルールを踏み外している。
  決着している過去の問題を何度も蒸し返したり、持ち
 出したりして、建設的な前向きな解決をしようとしない
 韓国政府に問題が存在する。
  最も近い隣人であり、友好国であるべき韓国が、この
 様な行為をとって来た事は、実に失望すべき事であり、
 残念なことである。
  この様な不正を押し付ける韓国の姿勢は、国際社会の
 これからの為にも、はっきりと指摘して行かなくてはな
 らない。
  国際社会はお互いが助け合うことが基本であり、ルー
 ルに反することを、自国に有利だからと行なう韓国政府
 の行為は、断固指摘せねばならない立場に日本政府には
 ある。
  日本政府は、韓国のこの様は不当な行動に対し、断固
 として正しい事実に則った態度を取って行く。
  韓国政府が行なう盗人たけだけしく騒ぐ状況を決して
 日本政府は座視しない。
  日本政府は、韓国政府の行なう措置に応じて、対応措
 置を強化して行く。
  そして、今までの、韓国政府の甘えの体質も反省すべ
 きである。
  不正な行動をする韓国政府は、大きな代償があるとい
 うことを認識しなければならない。
  日本政府は、対抗の悪循環を望んではいない。
  止められる方法はただ一つ、韓国政府が、偽りの行動
 を反省し、誠実にそして真実の行動をとることにある。
  日韓両国には、日本が韓国の国づくり、また、社会資
 本づくりなどに貢献して来た歴史があるが、この事につ
 いても一切の感謝の気持ちを韓国は表明していない。
  韓国政府は、この様な事に対する誠実な感謝の気持ち
 を表明すべきである。
  遠い昔から、江戸時代から、韓国政府は、この様な蒸
 し返しの行為を、日本政府に対して繰り返し行なって来
 た歴史がある。
  しかし、日韓政府の正常化に挑戦して行くことに対し、
 日本政府は努力するが、肝心な韓国政府が昔から日本に
 して来たような態度を繰り返すならば、歴史は繰り返さ
 れることとなる。
  共に、日本と延びたいのならば、国際ルールに則り、
 正しい行動の出来る国に韓国政府はならなければならな
 い。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  ロシア(旧ソ連)よ!
  千島列島と北方四島を日本に返還しなさい。
  終戦後の1945年8月18日に、占守島に奇襲攻撃して来た
 行為を反省しなさい。
  占守島の戦いで日本は戦いに勝っていたのに、終戦後
 であったので、ソ連(現ロシア)と合意の上で日本は武
 器を置いた・・日露間の戦争はここに終わった。
  しかし、日露の合意の終戦の後、日本兵の居ない日本
 領の千島列島と北方四島をソ連(現ロシア)は不法に占
 拠し始めた。
  千島列島の最北端の占守島の戦いで、日本が武器を置
 く式を日露合意で行ったことを遵守せよ!
  だから、君たちには、日本の領土を勝手に盗る行為を
 行なう正義の論理は無い。


by suba28 | 2019-09-05 03:34 | 皆様とともに 幸せになりたい


はじめまして、ブログを始めさせていただきました


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