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(増補版)645E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年4月~1896年4月)

題:(増補版)645E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年4月~1896年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年4月28日、名古屋鉄道局出張所・八王子鉄道局出張所・
 篠ノ井鉄道局出張所を設置した。
  中央線の名古屋駅~八王子駅間の建設を担当する逓信
 省鉄道局出張所を名古屋と八王子に設置した。
  そして、篠ノ井線(しののいせん)は・・、
  長野県長野市の篠ノ井駅から長野県塩尻市の塩尻駅ま
 でを結んでいるが・・急峻な山間部を走るため、姨捨駅
 や2か所ある信号場のうち1か所がスイッチバックとなっ
 ている。
  歴史を振り返ると・・
  関東と近畿を連絡する鉄道としては、当初、平時には
 海路の便があり、戦時に敵の攻撃を受けやすい海岸を走
 る東海道本線ではなく、中山道を経由する路線が検討さ
 れていた。
  実際に、この路線は着工されたが、建設費が嵩むこと
 や開通後の輸送力が制約されることなどから、工事がほ
 とんど進まないうちに中止となった。
  この路線のための資材輸送線として建設が始まった直
 江津から長野を経由し上田へ至る路線はそのまま建設が
 続行され、さらに延長されて碓氷峠を越えて、高崎まで
 1893年4月に完成した。
  一方、1892年6月には、鉄道敷設法が制定され、後の中
 央本線にあたる路線の建設が決定した。
  これを受けて、長野県会では同年・1892年12月に中央
 本線と信越本線を連絡する「長野若シクハ篠ノ井ヨリ松
 本ヲ經テ塩尻又ハ洗馬ニ至ル線路」を第一期線に追加す
 るように帝国議会へ要請する決議を採択した。
  これを中央連絡線と称した。
  1893年3月から鉄道庁の技師が派遣されて路線の調査を
 行った。
  この結果6つの路線が候補として上がった。
  東側から現在の国道254号に沿って松本と上田を結ぶ三
 才山線、長野県道181号下奈良本豊科線に沿って松本と上
 田を結ぶ保福寺線、国道143号に沿って松本と上田を結ぶ
 二線路線、国道19号・国道403号に沿って松本と篠ノ井を
 結ぶ篠ノ井線、国道19号や犀川に沿って松本と長野を結
 ぶ犀川線、国道147号・長野県道31号長野大町線・国道19
 号に沿って大町経由で松本と長野を結ぶ大町線である。
  どのルートを選んでも険しい峠を長大トンネルで克服
 したり、地質の悪い区間を通過したりしなければならな
 かったが、距離が最も短い篠ノ井線が建設費や開業後の
 運営の点で有利と判断された。
  この報告を受けて1894年6月23日に、帝国議会で「長野
 県下長野若ハ篠ノ井ヨリ松本ヲ経テ前項ノ線路ニ接続ス
 ル鉄道」が第一期線に格上げされ、また同時に提出され
 た法案により起点は篠ノ井と確定された。
  1896年、予算で建設費は3,597,470円とされ、明治28年
 度から31年度までの予定で施工されることになった。
  しかし、その後、工期の変更と予算の増額があり、明
 治35年度まで掛かって予算7,677,751円で施工された。
  全線を11の工区に分けて、1896年10月に着工され、1900
 年から篠ノ井方より順次延伸され、1902年に塩尻まで全
 通した。
.
1896年4月28日、新橋駅構内に新永間建築事務所を設置し、
 『東京市街線の建設』を管掌(かんしょう、自分の管轄
 の職務として責任をもって取り扱うこと)した。
  (1897年12月、市街線の設計決定)
  日本の鉄道の8割は明治時代に完成した。
  日本初の鉄道である新橋駅~横浜駅間の工事は、1870
 年3月の東京・汐留方向からの測量と、4月の横浜・野毛
 浦付近からの測量に始まった。
  北ボルネオで鉄道建設に従事していたイギリス人のお
 雇い外国人のエドモンド・モレルが鉄道兼電信建築師長
 として日本に呼び寄せられた。
  そして、彼の指導の下、イギリス人技師たちの主導で
 測量が行われた。
  その指導を受ける鉄道掛の役人たちの服装は陣笠、羽
 織袴に大小の刀を差し、足元は雪駄や草鞋だった。
  この日本初の鉄道工事は、旧幕時代の作事方の方法に
 倣い、工事の材料はすべて官給、工事は職種別に切り投
 げ方式で発注された。
  鹿島は鹿島岩吉名義で線路に撒布する砂利を1,000立坪
 (1,800㎥)納入している。
  距離にして数百m程度の撒布量でしかない。
  当時、鹿島は「洋館の鹿島」と言われており、横浜に
 本店を置いて、外国商館などの建築を請け負っていた。
  1872年9月(旧暦。新暦では10月)、新橋駅~横浜駅間
 の鉄道開通後、1874年5月に、大阪・神戸間、1877年2月
 に京都・大阪間、1880年7月に京都・大津間と線路は敷か
 れていく。
  1880年に着工した日本で5番目の営業路線である長浜駅
 ~敦賀駅間(1884年4月開通)の工事では、鹿島組が初め
 て鉄道請負として参画した。
  その後、鉄道の路線は日本各地に伸びていく、そして、
 都心にできた鉄道空白地帯・・
  東京中心部は、江戸年間に都市として発達し、それな
 りの交通手段・運搬手段が網羅されており、鉄道の発達
 とは無縁だった。
  そのため、銀座、京橋、日本橋といった東京の中心地
 には1882年に開通した馬車鉄道程度の簡易な路線しかな
 かった。
  新橋・上野間わずか6kmに、乗合馬車で45分、徒歩で1
 時間以上かかっていた。
  この馬車鉄道は、軌道上を走る乗合馬車で、最盛期に
 は2,000頭以上の馬が300台以上の馬車をひいていた。
  基本3路線があり始発終点以外は合図して自由に乗り降
 りできた・・そして、明治末年には路面電車に移行して
 行った。
  1884年11月、東京府市区改正意見書が発表された。
  初の都市計画である。
  これを発議した東京府知事芳川顕正は、1870年に、伊
 藤博文に同行してアメリカのナショナルバンクについて
 学び、帰国後は、大蔵省紙幣頭などを務めたのち、東京
 府知事に就任した。
  彼は、東京をロンドンやパリのような近代国家の首都
 にふさわしい都市に改造しようとした。
  意見書には、東京に経済と人口が集中したことによっ
 て起きるさまざまな問題と、それらを整備していくため
 の事業計画、近代国家の首都として必要な設備が盛り込
 また。
  その中に、鉄道の敷設や道路の整備があった。
  鉄道については、「新橋・上野両停車場間を線路で結
 び、鍛冶橋内および万世橋の北に停車場を設置すべきも
 のとする」と書かれていた。
  その理由として、「昔から東京市区内の貿易商業が一
 番盛んなのは日本橋とその近辺である。
  日本橋近辺から現在のように上野や新橋まで運搬する
 労力は相当なものである。
  また、品海築港(東京港計画)が実現すればなおさら
 陸揚げ貨物の輸送に、今までのように車馬を使っていて
 は足りるものではない。
  新橋・上野間に線路を通し、最低2か所の停車場を新設
 し、交通及び貨物運輸の便利を増進させるべきである」
 と述べられていた。
  当時の物流において、新たな輸送手段である鉄道の期
 待は絶大だった。
  政府は、翌1885年、内務省内に東京市区改正審議会を
 設置し、この意見書の審議した。
  各省の代表者と渋沢栄一、益田孝が委員となった。
  1888年3月、最終案が決議され、1888年5月に公布され
 た。
  これを細かく詰めていく改正審査会中、一人の委員か
 ら意見が出た。
  「巨額の費用をかけて道路の幅員を広げ、路線を改正
 しても、その端から鉄道線を敷設して、改正した道路を
 横断して汽車の運転を始めれば、人馬の通行を途絶する
 ことになる」と・・
  そこで、1888円11月21日の会議で「鉄道は新橋、上野
 両停車場の線路を接続して、鍛冶橋および万世橋の北に
 停車場を設置すべきものとする・・ただし、線路は高架
 線とする」と条件づけられた。
  同時に「市街鉄道線路線調査委員」が設けられた。
  1890年9月17日、内務大臣から鉄道庁長官に東京市の中
 央に一大停車場を設置し、その南側から新橋までを鉄道
 庁に、その北側から上野までを日本鉄道会社に託すこと
 が告げられた。
  新橋から中央停車場(現・東京駅)までは東海道線の
 延伸であるから官営、上野駅までは日本鉄道会社が資金
 調達して鉄道庁に工事を委託するか、自社で建設すると
 いう暗黙の了解ができた。
  鉄道庁では帝大出で欧米視察から帰国したばかりの技
 師・仙石貢が、日本鉄道会社では九州鉄道で顧問を務め
 ていたドイツ人のお雇い外国人ルムシュッテルがそれぞ
 れ調査を行った。ルムシュッテルは、複線一組を長距離
 用、もう一組を市街線用とした4本の線路を、ベルリンの
 高架鉄道をモデルとした煉瓦造のアーチ式高架橋に走ら
 せることを提案する。
  街路と外濠に鉄橋を架すほかはすべて径間8~10mの煉
 瓦造連続拱橋(きょうきょう。アーチ橋のこと)であっ
 た。
  鉄道庁側もこれを参考に煉瓦造拱橋の設計を行った。
  1893年8月、すべての敷設免許が出願される。
  しかし、1894年7月、日清戦争がはじまったことにより
 諸事業は中止され、高架線の計画は棚上げされてしまっ
 た。
  その上、原案を作ったルムシュッテルは、王室プロシ
 ア建築技師に任ぜられたこともあり、ドイツへ帰国して
 しまう。
  明治中期を過ぎると旅客も貨物もどんどん増えていっ
 た。
  貨物の輸送は品川線を作ることで回避できたが、もと
 もと新橋駅も上野駅もそれほど規模が大きいものではな
 く、飽和状態になることは目に見えていた。
  幹線のターミナル駅を結ぶことは急務であった。
  しかし、東京市内の土地・建物の価格は年々値上がり
 していた。
  最初の計画から既に10年が経過している。
  鉄道建設のための土地買収はますます難しくなってき
 ていた。
  そこで政府は戦勝気分で沸き立つ1895年に、当初計画
 の新橋・上野間の連絡線のうち、新銭座(現・港区浜松
 町2丁目)から永楽町(現千代田区丸の内2丁目)までの
 区間と、中央停車場(東京駅)の建設を政府主導で進め
 る計画を立てる。
  12月5日の第7回鉄道会議で「官制規制鐡道改良の件」
 は信越線、東海道線などの改良工事と共に明治29年度か
 ら35年度までの7か年継続事業として可決された。
  鉄道局では、1896年4月、この計画を再開するため新永
 間建築事務所を新橋駅構内に開設した・・そして、いよ
 いよ着手することとなった。
  工事は線路の実測から始まった。
.
1896年4月29日、筑豊鉄道の若松駅~折尾駅間が複線で開通
 した。
  北九州地区で、九州鉄道に次いで二番目に敷設された私
 設の筑豊興業鉄道は、1889年に、筑豊炭田の石炭を若松港
 に陸送するために設立された。
  これによって筑豊の石炭の輸送力は大幅に強化され、そ
 の後の豊州鉄道の創立と共に、筑豊の石炭は、全圏出炭量
 の半数を占めるに至った。
  また、交通の要衝となった若松港とともに、門司港の発
 展が促進され、1897年、官営八幡製鉄所が誘致されて、工
 業都市としての北九州市の骨格が作られて行った。
  筑豊興業鉄道は、北九州市や日本の近代化に果たした役
 割はこの様に極めて大きなものだった。
  筑豊鉄道の建設の機運は、1887年以降、大手資本の参入
 によって筑豊の石炭生産量が増大し・・それと共に、従来
 から行なわれていた遠賀川の小舟による水運輸送では対応
 出来ず、そのため、地元有志により鉄道建設が計画された。
  そして、翌年の1888年6月、若松・直方・飯塚・赤池間
 を結ぶ筑豊興業鉄道の設立趣意書が、県知事の副申を添え
 政府に提出された。
  そして、早くも同年翌月の1888年7月に、仮免許状が下
 附された。
  そして、筑豊興業鉄道会社が設立され、直ちに、路線の
 建設が着手された。
  悪疫が流行したり、工事が難工事であったり、資金難で
 もあったりと悪戦苦闘したが・・1891年8月、若松駅~直
 方駅間の24.8キロメートルの開業に至った。
  以後、増大する石炭の生産量に対応するために、逐次、
 路線の延長を図った。
  路線も延長され目的を果たす中、1893年4月、本社を石
 炭集散地の若松町へ移転した。
  そして、路線延長も続けて伸ばし、また、資本金も増額
 して行った。
  石炭輸送が充実し拡大するにつれて、九州鉄道と競合す
 る形にもなって、両社の株保有株主からの強い要望で・・
  1897年10月、合併に至り、今、九州を支え、日本を支え
 る路線となっている。
.
1896年4月、民法が公布された。
  民法は、1896年の明治29年法律第89号により定められ公
 布された民法第一編・第二編・第三編(総則、物権、債権)、
  及び、1898年6月21日の明治31年法律第9号により定めら
 れた民法第四編・第五編(親族、相続)で構成されていて・・
  また、附属法令として1898年6月15日、明治31年法律第
 11号民法施行法が公布され・・、
  全体が、1898年7月16日から施行された。
  民法は、すんなりと日本の法律として育ち、根付いたも
 のではなかった。
  明治政府の委嘱によって、お抱え外国人のG・ボアソナ
 ードが中心となって、フランス民法を基礎に起草した旧民
 法は、1890年に一度公布をされ、1893年に施行されながら・・
  「民法出デテ忠孝亡ブ」と穂積八束が言うような攻撃を
 受け、激しい民法典論争が展開し、行なわれた・・
  そのため、施行が、1892年の帝国議会で法典実施の無期
 延期が議決された。
  そして、別の新たな民法(ドイツ民法第一草案を基本と
 して編纂したもの)が起草され、つくられた・・そして、
 1898年から施行された。 
  因みに、1896年と1898年の民法は、現行民法と区別する
 意味で「明治民法」と俗称されている。
.
  (今日の歴史)
.
  題:紀元前1800年の北海道の縄文遺跡から、現代日本人が受け継ぐゲノム(全遺伝情報)
   を持つ縄文人女性が居たということが科学的なゲノム分析で確認され立証された。
    現代日本人の祖先と言える縄文人女性の存在の確認である。
    太古の歴史から日本人の祖先が北海道で生活して居た。
.
紀元前1800年頃、北海道の礼文島の縄文時代の遺跡で見つ
 かった女性の人骨から、ゲノム(全遺伝情報)を高精度
 に解析することに成功した(~紀元前1500年頃)
  また、その解析から、この縄文時代の女性は、現代日
 本人へと続く祖先だと確認された。
  読売新聞(2019年5月14日)が報道するその内容は・・
  国立科学博物館などの研究チームが発表した概要は・・、
  女性は、茶色の瞳を持ち、肌の色は濃い目で、酒に強
 かったとみられている。
  この解析標本は、約3800年前~3500年前(縄文時代後
 期)の北海道の船泊(ふなどまり)遺跡から出土した女
 性の人骨。
  奥歯の中に、保存状態のいいDNAが残されていて、
 現代人のDNAと同程度に解析が成功した。
  遺伝子の特徴から、女性の肌はシミができやすく、耳
 あかに湿り気があり、髪の毛は細く縮れていたとみられ
 ている。
  船泊の縄文人は、脂肪の多いアシカなどを食べていた
 とみられ、高脂肪食に適応した遺伝子変異も見つかった。
  現代日本人が、縄文人のゲノムの約10%を受け継いで
 いることも判明した。
  東アジアでは、大陸にいる漢民族より、韓国、台湾、
 フィリピンにいる人に近いという。
     ・
     ・
紀元前400年頃、北海道の続縄文時代の初め頃の日本人の祖
 先の方々は、大麦を食糧として生活に利用していたこと
 が確認された(~紀元前200年頃)
  読売新聞(2019年5月19日)によると・・
  北海道で大麦の利用が始まったのは、従来の説より約
 1000年も遡(さかのぼ)る紀元前400年~紀元前200年頃
 (続縄文時代初め)だったことが判明した。
  北海道・礼文島の浜中2遺跡で出土した種子の年代測
 定で分かった。
  大麦の形態が東北アジアのものと類似していて、専門
 家は大陸から北回りでもたらされたと推定している。
  本州以南が弥生時代に入った頃、北海道の人たちが本
 州よりも北方との交流を深めていたとして注目されてい
 る。
  同遺跡の調査は2011年から、北海道大学と海外の大学
 の共同研究として行われていた。
  ベルリン自由大学のクリスティアン・ライペ特別研究
 員が、最新の放射性炭素年代測定法による測定を行った。
  その結果、2014年に出土した大麦1点の年代が紀元前
 375年~紀元前203年と判明した。
  これまでは、北海道での大麦の利用は、大量に出土す
 る様になる紀元後7世紀~紀元後8世紀頃が始まりと考え
 られていた。
  高瀬克範・北海道大学准教授の話・・
  「続縄文時代になると、北海道はサハリン(樺太)な
 ど北方との交流が盛んになる。
  その頃に大陸から北回りで大麦が入って来た可能性は
 十分ありえる」。
  (参考)続縄文時代:ぞくじょうもんじだい、北海道
     を中心に、紀元前3世紀頃~紀元後7世紀(弥生
     時代から古墳時代)にかけて、擦文文化が現れ
     るまで続いた時代で、気候的条件からか水田を
     造らず縄文時代の生活様式を継承していた。
      この続縄文時代前は、本州と北海道の住民は
     同じ縄文文化であった。
      続縄文文化の人たちは竪穴式住居に住み、狩
     猟と漁労を中心に、採集と原始的栽培も行なっ
     ていた。
      遺物には、道具としての石斧、石ナイフなど
     多様な石器がある。
      他に、本州で製作された鉄製品が入り込んで
     いる。
      骨角器も多く出土している。
      遺物として残りにくい木器と繊維製品は出土
     数は少ないが、かなり多く用いられていたと考
     えられている。
      北方に算出される琥珀製品の玉類が北海道か
     ら東北地方北部にまで分布している。
      また逆に、佐渡島に産するとみられる碧玉製
     品の管玉(くだたま)が石狩川河口付近にまで
     みられる。
      この時代の人的交流の広さが分かる。
      この時代の広がりは、東北地方の北部から、
     樺太の南部や千島列島まで広がっていた。
      この人的交流の中で、交雑も長い時代の中で
     進んでいたと考えられる。
      アフリカからの人類の移動のうねりは、沖縄
     から北海道まで、長年月、日本列島においても
     南から北まで行われ、交雑が繰り返されていた。
  (参考)管玉:くだたま、管状になっている宝飾装身
     具の部品、ビーズの一形態で、管に糸を通して
     腕飾り(ブレスレット)や首飾り(ネックレス)
     などとして用いられる。
      古代においてはガラスも含む希少な宝石(宝
     玉)から作られたので、漢字文化圏では別の形
     状である曲玉・とんぼ玉とともに「ビーズ」に
     代えて「玉」(ぎょく)名で分類する。
      日本では、縄文時代からみられ、今日と同じ
     ように腕飾りや首飾りなどとして用いられてい
     たものとみられる。
  (参考)擦文文化:さつもんじだい、北海道の歴史の
     うち、7世紀頃~13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代
     後半)にかけて、擦文文化が栄えた時期を範囲
     とする時代。
      本州の土師器(はじき)からの強い影響を受
     けた擦文式土器を特徴とする。
      6世紀~7世紀の飛鳥時代の頃は前の時代の続
     縄文土器の影響が残っているが・・
      7世紀後半~8世紀の奈良時代の頃になると、
     擦文文化独特の土器になった。
  (参考)土師器:弥生土器の流れを汲み、古墳時代~
     奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のか
     わらけ(土器)・焙烙(ほうろく)に取って代
     わられるまで生産された素焼きの土器。
      多く生産されたのは甕(かめ)等の貯蔵用具。
  尚、北海道の道議員は、「縄文時代人は、北海道には
 居ない」など科学的根拠のない、また、科学的知見を無
 視する議論をしているが・・この様な数々の史実からも、
 まったく根拠のない無智な空論の議論をしていることが
 分かる。
  また、アイヌの人々を、「日本の先住民だとした国会
 議員」も「この道議員と同じレベル」だ。
     ・
     ・
3世紀~13世紀、オホーツク文化
  アイヌ文化と違い、3世紀から13世紀までオホーツク海
 沿岸を中心とする、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代
 文化。
  この文化の遺跡が主としてオホーツク海の沿岸に分布
 していることから名付けられた。
  北海道の分布に関しては推定域となっている。
  海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送っていた。
  オホーツク人は『日本書紀』に現れる粛慎と考える見
 方が有力で、近年行われた人骨の遺伝子調査から、ニヴ
 フ人やコリヤーク人との近似性が示されている。
  (参考)粛慎:しゅくしん、みしはせ、あしはせ、日
     本の正史である『日本書紀』や『続日本紀』な
     どの中に記述が見られる民族。
      また、古代中国の東北方面に居住した民族の
     見方もある。
      粛慎の呼称はすでに『国語』『史記』その他
     の古典にみえ、特に『国語』の粛慎貢矢の伝説
     が有名で、聖天子の出現と彼らの入朝貢献を結
     びつけて説明されている。
  (参考)粛慎貢矢の伝説:中国歴代王朝は、自らの正
     統化を図ってさまざまな瑞祥を演出した。
      3〜6世紀における粛慎(しゅくしん)の朝貢は
     そうした瑞祥の一つである。
      戦国時代の文献には、周王朝開国の際に、粛
     慎が「コ(木+苦)矢石ド(奴+石)(しせきど)」(ハ
     ナズオウの矢柄(やがら)と石の鏃(やじり))を貢
     納したという伝説が見える。
  (参考)ニヴフ人:樺太北部、及び、対岸のアムール
     川下流域(現:ロシア領)に住む少数民族で、
     古くはギリヤークと呼ばれた。
      アイヌやウィルタと隣り合って居住していた。
  (参考)コリヤーク人:ロシアのカムチャツカ地方の
     先住民族で、ベーリング海沿岸地帯からアナデ
     ィリ川流域南部、および、チギリ村を南限とす
     るカムチャツカ半島極北部にかけて居住してい
     る。
.
720年、北海道の松前地方の名が歴史上最初に現れるのは、
 『続日本紀』の養老四年(720年)の記事に「渡島津軽津
 (わたりしまつがるつ)」の記述がある。
  渡島は蝦夷地を指し、津軽津は津軽地方への渡し口で
 ある松前付近の地のこと。
  (津軽津は、津軽地方であるという説と松前地方とす
 る説とがあって、現在では松前地方であるとする説が有
 力)
.
1000年頃、この頃のオホーツク文化の復元家屋が北海道の
 標津町(しべつちょう)のポー川史跡自然公園にある。
  このオホーツク文化は、オホーツク沿岸の沿海州・樺
 太・北海道東北部・千島列島に広がっていた文化で、ア
 イヌ文化ではない。
.
1233年、異端審問や魔女裁判が行われたキリスト教裁判所
 の宗教裁判所が恒常的な機関となった。
  記録によれば、中世異端審問が最も活発に行われた1233
 年に、南フランスの異端審問官に任命されたロベール・
 ル・プティは数百人に火刑を宣告した。
  中世、キリスト教会は、金と権威を得ることに躍起と
 なった。
  そして、権威を得たキリスト教会は、知識と情報を独
 占した。
  そして、その知識や情報が拡大することをしばりつけ
 た。
  また、ヨーロッパの貴族と言っても大部分の者は、字
 を読むことが出来ず、一般人も言うに及ばずの状態であ
 った。
  その様な状況もあって、字による知識や情報の伝播が
 行われることは乏しかった。
  ヨーロッパ中世はその様な暗黒の時代で、知識の衰退
 もあった。
  時代が進めば知識が進歩するという見方は誤りである・・
 また、「時の経緯と共に、歴史の進歩がある」という見
 方も成立しない。
  中世のキリスト教は、権威が欲しいと、当時、権威の
 あった薬草学の知識のある女性の方々を排除した。
  その女性の方々は、病気を治し、また、赤ん坊の誕生
 を助ける助産婦として活躍する女医の方々であって、そ
 の行為から、民の尊敬を集め、権威も備(そな)わる女
 性の方々だった。
  この方々を、魔女として殺した。
  キリスト教会の儀式の中で、キリスト教裁判所の中で、
 キリスト教聖職者が裁判官となって、その中で死刑宣告
 をして排除した。
  これによって、西洋の薬草学は滅んだ、消滅した。
  この事例の様に、知識の後退は存在し、起きた。
  今あれば、東洋の薬草学と同様に、人類の多くの方々
 を救い、また、助ける学問となっている。
.
13世紀半ば、モンゴルの樺太侵攻(~14世紀初頭)
  モンゴル帝国(元朝)による樺太(サハリン)アイヌ
 (骨嵬)への攻撃をいう。
  日本への元寇に対し、「北からの蒙古襲来」「もうひ
 とつの蒙古襲来」「北の元寇」という。
.
1264年、アイヌが北海道に来る。
  この年に、アムール川下流域から樺太にかけて、この
 地域に住んでいた「吉里迷(ぎれみ)族」が、フビライ
 に「アイヌが攻めて来る」と報告した。
  因みに、この前年の1263年に、この集団は、モンゴル
 に遠征されていて、服従していた。
  そして、この服従しているこの集団が、1264年、「骨
 㟴(くい)」や「亦里于(いりう)」が、「毎年の様に
 侵入して来る」という訴えをフビライへ報告した。
  ここで言う骨㟴は、アイヌを指している。
  フビライは、この事によって元寇より早い時期に、こ
 の地域へ襲来した(北からの蒙古襲来)
  この元寇に追われて、アイヌが北海道へ移住したと考
 えられている。
  樺太侵攻(1264年~1286年)
  この様に、日本での短い歴史から、北海道へ来たアイ
 ヌの人々は、同化の少ない移動前の独特の文化を、保持
 して来ていた。
  今では、同化が進み、まったく日本人と同じで、見分
 けも出来ない、差異の無い同じ状態となっている。
  民族の主張をするときに民族衣装を着るから、その衣
 装によって分かるようなものとなっている。
  着なかったら、まったく日本人と同じ。
.
15世紀~17世紀、二風谷遺跡(にぶたにいせき)は、北海
 道沙流郡平取町二風谷にある15世紀から17世紀にかけて
 のアイヌ文化の遺跡で、沙流川(さるがわ)河口より20
 kmぐらいのところにある。
  北側にポロモイチャシ跡があり、南側にユオイチャシ
 跡がある。
  建物跡が11軒みつかり、その中で炉が確認されたのが
 6軒ある。
  道跡や送り場跡(クマなどの動物を送る場)もある。
  建物が20軒以上あったとみられるとする文献もある。
  樽前山火山灰b層の分析より、1667年以前のアイヌの生
 活跡と推定される。
  アイヌ文化はこの頃に形成されていた。
.
15世紀後半、史跡上之国館跡 勝山館跡(国指定史跡)
  勝山館は、後の松前氏の祖である武田信廣が15世紀後
 半に築いた山城で、16世紀末頃まで武田・蠣崎氏の日本
 海側での政治・軍事・交易の一大拠点であった。
  20年以上の発掘調査で、中国産青磁・白磁・染付、国
 産の美濃焼、越前焼など約5万点の陶磁器や、金属製品、
 木製品など10万点余りの出土品や建物・井戸・空壕・橋
 などの跡が多数見つかった。
  そして、注目されるのは、この当時、アイヌの人々が
 使っていた500点余りの骨角器が出土した。
  研究者は、「この館にアイヌと本州人が混住していた
 ことはほぼ明らかといってよいのではないだろうか」と
 言う。
.
1753年、この年に、フランス人医師が、キリスト教の聖書
 の命運が尽きる事柄を指摘した。
  世は大騒動となった。
  これまでのキリスト教聖書は、「神の言葉をそのまま
 書き記した書物」と受け取られていた。
  中に、頭の良い人が居て、その様なことはある訳はな
 いと思っていても、口には出せなかった・・しかし、こ
 の年になって、「決定的論証(ろんしょう)」が行われ
 た。
  (参考)論証:思考を働かせ、判断とその論拠を結ぶ
     推理の過程を命題の連鎖によって示したものを
     いう。
      普通、論拠を前提、判断を帰結という。
      妥当な推理の連鎖が前提と帰結を結ぶとき、
     その判断は可証であるといい、さらに前提が真
     であるとき、真であるという。
      このため、恒真なる命題と妥当な推理の形式
     が究極的に必要とされるが、現在、恒真なる命
     題群は唯一でないこと、また、推理の形式も唯
     一ではないことが明らかになっており、普遍的
     で唯一な論証形式の存在は否定されている(キ
     リスト教の聖書の様な唯一真は存在しない)。
      このため、ある公理系と恒真なる命題を出発
     して、どのくらい論証が簡潔かつ有効に行いう
     るかという論証力の評価が問題とされる。
      なお、論証は、証明、立証、定立ともいい、
     厳密には複雑な構成の有無、命題の連鎖を律す
     る規則の有無によって、推理一般とは区別され
     る。
  そして、この人は、フランス人の医師ジャン・アスト
 リュックで・・、
  彼が、指摘した事は、「創世記の7日間での天地創造が
 語られている」のに、また、再び、「アダムの創造」が
 語られることの「不思議」だった。
  何故?、『同一の人類創造部分』が、『同一の内容』
 が、『繰り返し語られるのか?』。
  また、7日間の創造の部分の「神」は「エローヒーム」
 で、アダムの創造部分の神は「ヤハーウェ」と違う呼ば
 れ方をしている。
  アストリュックは気付いた・・「神をそれぞれの名で
 呼ぶ別の人間集団が書き記した『別々の文書だ』」と。
  そして、彼は、創世記でヤハーウェを使用している部
 分、エローヒームを使用している部分をそれぞれ別個に
 つなぎ合わせると、同じ内容の二編の文書が出来る事を
 発見した。
  『創世記は、複数の人間集団が残した文書を編集した
 ものだ』・・ということがはっきりした。
  これは、『ダブレットの問題』として、ある知的階層
 の人たちには、常識的に知られている事項となってしま
 った。
  この年は、「『モーゼ五書』の中心が崩れ去った年」
 となってしまった。
  モーゼが神の言葉を書き記したものではなく、はるか
 後の時代の「複数の人間集団が書いた『ただの歴史的文
 書』」となった。
  キリスト教聖書の記述に忠実に従ってきた「普遍史の
 根本的前提」を「破壊してしまった」。
  創世記第五章のアダムの系図にある父祖たちの年齢な
 どの記述についても、神をエローヒームと呼ぶ人間たち
 が書いた歴史的文書に過ぎないということになった。
  聖書のこの部分を頼りに年数計算をしてきた「聖書年
 代学」も『絶対的根拠を失った』。
  「ノアの大洪水」などの記述も、ある時代の人間集団
 の信じた「神話に過ぎない」ということになってしまっ
 た。
  この様な事から、18世紀は、「年代学論争をする意味
 自体が無くなって、論争の終焉を迎えた」。
  キリスト教普遍史は「その土台も崩壊」し、また、「
 その支える支柱も失って」・・崩壊を遂げてしまった。
  キリスト教は、この年、今まで広げて来た大風呂敷を、
 たたんで行く時代に入っていくこととなった。
.
19世紀、この世紀に、歴史を科学的に考察する歴史学が・・
  近代的な科学的歴史学が始まって、キリスト教の「神
 の創造の奇蹟」や「終末」が・・完全に、歴史学から無
 視されるようになった。
.
1860年、この年の前年に、横浜港は開港しているが・・
  この年・1860年に、江戸幕府は、早速、外国船を監視
 し、また、外国船の攻撃から守る防御ための海岸砲台を
 作った。
  作られた砲台は「神奈川台場」と言われた。
  日本各地には、この様な海岸砲台が築かれたが、その
 数は約1000ヶ所となっている。
  この時代、しっかり国を守るという意識が日本にはあ
 った・・今の日本は「のほほん」としていて、国をしっ
 かり守ろうという意識はない。
  「原爆を落とされてから反撃する」などというノホホ
 ンさである。
  原爆を落とされて、空気の様になって蒸発してしまっ
 てから、国を守ろうなんて・・それで、愛する人々を守
 れるはずはない・・責任放棄である。
  隣の中国は、20%になろうという国防費の伸びを、毎
 年、続ける国防に熱心に取り組んでいる。
  また、その隣国の日本に、「工作員を送り込む」こと
 までして、国の安全に努めているということまでしてい
 る・・
  何もしないで・・戦争したくないと言っているだけで
 済むのならば・・誰でもそうするだろう・・
.
1941年3月、アメリカのルーズベルト大統領が、「武器貸与
 法」を成立させ・・そして、この後、公約破りをし続け
 た。
  アメリカのルーズベルト大統領は、中立を装いながら
 アメリカ国民の方々を、完全に裏切って行った。
  はっきりと「戦争には参加しません」と公約して、ア
 メリカ国民の方々へ約束して、大統領選挙を行っていた
 が・・大統領選挙に勝って、大統領になったら、この公
 約を破った。
  特に、イギリスを支援して、そして、後に、戦争に参
 加した。
  1941年3月に、「武器貸与法」を成立させ・・、
  そして、1941年7月には、対米軍事品を買い付けて、
 支払いを容易にするため、イギリス政府に対して、アメ
 リカの復興金融会社から4億2500万ドルの大金の借款を
 共有するとした。
  また、続けて、1941年9月には、武器貸与法の追加予算
 案の59億8900万ドルの超大金を提出させた。
  そして、これは、増額されて61億6100万ドルとなって
 成立された。
  ふんだんにアメリカはイギリスへ資金援助し、その大
 金でアメリカの武器を買わせ、与え、関与した。
  しかし、世界には、ドイツの潜水艦が出没していて、
 輸送中のアメリカから渡される武器などの援助物資の4割
 が海中へ沈められた。
  イギリスの周辺海域は、ドイツによって完全に抑え込
 まれていた。
.
2008年6月6日、「アイヌ民族を先住民族とすることを求め
 る決議」が、衆参両院で全会一致で採択され・・このこ
 とを受けて、同日、菅義偉(すがよしひで)内閣官房長
 官は、次の談話を発表した。
  「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」に
 関する内閣官房長官談話
 1.本日、国会において「アイヌ民族を先住民族とするこ
  とを求める決議」が全会一致で決定されました。
 2.アイヌの人々に関しては、これまでも平成8年の「ウ
  タリ対策のあり方に関する有識者懇談会」報告書等を
  踏まえ文化振興等に関する施策を推進してきたところ
  ですが、本日の国会決議でも述べられているように、
  我が国が近代化する過程において、法的には等しく国
  民でありながらも差別され、貧窮を余儀なくされたア
  イヌの人々が多数に上ったという歴史的事実について、
  政府として改めて、これを厳粛に受け止めたいと思い
  ます。
 3.また政府としても、アイヌの人々が日本列島北部周辺、
  とりわけ北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の
  独自性を有する先住民族であるとの認識の下に、「先
  住民族の権利に関する国際連合宣言」における関連条
  項を参照しつつ、これまでのアイヌ政策をさらに推進
  し、総合的な施策の確立に取り組む所存であります。
 4.このため、官邸に、有識者の意見を伺う「有識者懇談
  会」を設置することを検討いたします。
  その中で、アイヌの人々のお話を具体的に伺いつつ、
  我が国の実情を踏まえながら、検討を進めて参りたい
  と思います。
 5.アイヌの人々が民族としての名誉と尊厳を保持し、こ
  れを次世代へ継承していくことは、多様な価値観が共
  生し、活力ある社会を形成する「共生社会」を実現す
  ることに資するとの確信のもと、これからもアイヌ政
  策の推進に取り組む所存であります。
  (考察)日本政府は、アイヌの人々が、北海道を居住
     圏とする先住民の人々だという認識であり、こ
     の認識は科学的に間違っている。
      アイヌの人々の居住圏を、この様に狭い領域
     のみの人々と考えるのも科学的に立証できない。
      アイヌの人々は、文字を持たない狩猟採集民
     族で・・アムール川下流域や沿海州、カムチャ
     ツカ半島南部、樺太(サハリン)、千島列島の
     オホーツク海地域一帯地域に居住する民族で・・
      1855年2月7日、アイヌの人々は、この年の日
     露和親条約での国境線決定によって、ロシア国
     民となった・・そして・・
      2018年12月、ロシアのプーチン大統領は、日
     本の領土を不法占拠している北方四島を含む千
     島列島(クリル諸島)など(樺太など)に住ん
     でいるアイヌ民族を、ロシアの先住民族に認定
     する考えを示した。
      また、ロシアは、戦後(1945年の敗戦後)、
     千島列島や樺太などのアイヌの人々を、日本へ
     移送し、移住させ、移動するという非人道的な
     行為をしている。
      歴史的には、以下の様な史実が示す様に、ア
     イヌの人々は、13世紀に、日本への元寇がある
     前、モンゴルの襲来で、日本の北海道へ来た。
      歴史を振り返ると・・
       『続日本紀』にも記載がある様に北海道は
      古くから日本と関係ある地であった・・
      1205年にも、北海道の知内川(しりうちがわ)
       で砂金が採れ、この日(元久2年7月23日)
       に金山祭を行ったという日本人の記録があ
       る。
      1206年、蒙古で、ジンギス・カンが即位した。
      1220年、日本の京都の強盗や海賊を北海道へ
       島流ししていた。
      1220年代はじめ、モンゴル軍がキエフ大公国
       を攻めはじめる。
      1223年、モンゴルのカルカ河畔の戦い(ルー
       シ侵略)
      1227年、西夏が、チンギス・カンに滅ぼされ
       た。
      1237年、モンゴル軍の大軍がモスクワを陥落
       させた。
      1240年、キエフの戦い(この頃、盛んにモン
       ゴル軍がーロッパを攻略している)
      1247年、モンゴルが朝鮮の高麗へ4度目の侵攻。
      1258年、高麗がモンゴルに征服された。
      1259年、モンゴルが南宋に侵入する。
      1260年3月、フビライが、内モンゴルで最高意
       思決定機関のクリルタイを開いて皇帝位に
       就いた。
      1264年、アムール川下流域から樺太にかけて
       この地域に住んでいた「吉里迷(ぎれみ)
       族」が、フビライに「アイヌが攻めて来る」
       と報告した。
        因みに、この前年の1263年に、この集団
       は、モンゴルに遠征されて服従していた。
        そして、この服従しているこの集団が、
       1264年、「骨㟴(くい)」や「亦里于(い
       りう)」が、「毎年の様に侵入して来る」
       という訴えをフビライへ報告した。
        ここで言う骨㟴は、アイヌを指している。
        フビライは、この事によって元寇より早
       い時期に、この地域へ襲来した(北からの
       蒙古襲来)
        この元寇に追われて、アイヌが北海道へ
       移住したと考えられている。
        樺太侵攻(1264年~1286年)
      1274年、日本の元寇(文永の役)
      1276年、南宋が臨安を占領されてモンゴルに、
       事実上、滅ぼされた。
      1281年、日本の元寇(弘安の役)
      1320年、津軽の安東氏がアイヌの人々と交易
       をしている。
.
2018年10月31日、中国が、南沙諸島の運用を開始する。
  この時から遡ること3年2ヶ月前の2015年8月20日、アメ
 リカ国防総省は、「アジア太平洋での海洋安全保障戦略」
 と題した報告書を公表した・・
  中国が、2013年12月に、南沙諸島での埋め立てを開始
 し・・
  2015年6月までに、2,900エーカー(約12km2)を埋め立
 て、その面積が、周辺諸国による埋め立てを含めた全体
 の『約95パーセント』に当たることを明らかにした。
  また、埋め立てから滑走路や港湾施設の建設によるイ
 ンフラ整備に重点が移行しているとも指摘した。
  中国が、この様にして実効支配し、軍事拠点化してい
 るこの場所を、地球上でやり取りされている原油や液化
 天然ガス(LNG)の『約半分』が通過している。
  そして、2016年1月、アメリカのCSIS(戦略国際問
 題研究所)は、報告書において、中国の空母打撃群保有
 の可能性と併せて・・、
  「2030年までに、南シナ海が事実上中国の海となる」
 と警鐘を鳴らした。
  2016年7月12日、オランダ・ハーグの常設仲裁裁判所は、
 中国が、南シナ海のほぼ全域で領有権を主張する「独自
 に設定した境界線『九段線』」には、国際法上「歴史的
 権利を主張する法的根拠はない」と認定する裁定を下し
 た。
  また、中国が、南沙諸島などで人工島の造成などをし
 ている岩礁は、すべて「島」ではなく、「岩」または高
 潮時に水没する「低潮高地」であると認定する裁定も下
 した。
  2018年10月31日、ファイアリー・クロス礁、ミスチー
 フ礁、スビ礁を運用開始したと、中国が公表した。
.
2019年2月15日、アイヌ支援法案を閣議決定 
  「先住民族」と明記→2019年4月19日、参議院本会議で
 可決し成立した。
  (1)産経新聞(2019.2.15)が以下のように報じた・・
  政府は15日、アイヌ民族を支援する新法案を閣議決
 定した。
  アイヌ民族の地位向上などを目指して「先住民族」と
 初めて明記し、アイヌ文化の維持・振興のための交付金
 制度創設を盛り込んだ。
  来年の東京五輪・パラリンピックに向けて民族の共生
 を世界にアピールする狙いもあり、今国会に提出し、会
 期中の成立を目指す。
  法案は、アイヌの人々が誇りを持って生活する環境の
 整備が目的。
  菅義偉官房長官は15日午前の記者会見で「アイヌの
 方々が民族としての名誉と尊厳を保持し次世代に継承し
 ていくことは、多様な価値観を共生し活力ある共生社会
 を実現するために必要だ」と意義を強調した。
  法案では条文に「先住民族であるアイヌの人々」と明
 記した。
  差別や権利の侵害を禁止し、民族としての誇りが尊重
 される社会の実現を目指す考えだ。
  アイヌ民族に関しては平成9年施行のアイヌ文化振興
 法があるが、先住民族との記載は見送られていた。
  交付金は、アイヌ文化の継承や振興を目的として市町
 村が実施する事業に政府が支給する。
  菅氏は「新たな交付金制度を創設し、旧来の福祉政策
 や文化振興に加え、地域振興や産業、観光の振興を含む
 多岐にわたる施策を進める」と説明した。
  アイヌ民族をめぐっては20年、衆参両院が先住民族
 認定を政府に求める国会決議を採択。
  政府は来年4月、北海道白老(しらおい)町にアイヌ
 文化を体感できる「民族共生象徴空間」を開設する予定
 で、アイヌ文化の振興を進めるが、先住民族への配慮を
 求める声は国際的にも高まっており、新たな支援措置が
 必要と判断した。
  (2)また、朝日新聞(2019.4.19)は以下の様に報じ
 た・・
  「先住民族であるアイヌの人々…」新法に明記、万感
 の声
  アイヌ民族を法律上初めて「先住民族」と位置づけた
 アイヌ新法が19日、参議院本会議で可決され、成立し
 た。
  アイヌ文化を守り育てる施策を国の責務と定めたこと
 に「一歩前進」という評価がある一方、土地や資源など
 先住民族としての権利に触れていないなど課題も残す。
  「先住民族であるアイヌの人々」。
  新法の第1条はこうした表現で始まる。
  アイヌ民族にかかわる従来の法律と大きく異なる点だ。
  差別禁止を明記し、アイヌ施策を国や自治体の責務と
 した。
  民族の儀式や文化伝承を目的にした国有林の利用、サ
 ケの採捕などに特例措置を設けた。
  政府が公式に「先住民族」と法律で認めたことは評価
 する声も多い。
  参議院の傍聴席では、北海道アイヌ協会の加藤忠理事
 長(80)が何度もうなずきながら笑顔を見せた。
  一緒に成立を見守った協会の人たちと握手を交わしな
 がら、喜びを分かち合った。
  加藤理事長は「泣いています。うれしくて。北海道旧
 土人保護法からアイヌ文化振興法、そして今の新法へと、
 抱えきれないような苦しみと悲しみの歴史があり、長い
 時間がかかった。
  いま先住民族と認めていただき、今日から出発できる
 ということは、歴史の大きな一ページ。感謝しています」
 と話した。
  だが新法の目的はあくまで文化や経済、観光の振興。
  国連の「先住民族の権利に関する宣言」に盛り込まれ、
  アイヌの人々が長年求めてきた「先住権」は明記され
 ず、生活や教育の支援も含まれなかった。
  (以下、有料頁のため略)
  (3)この日、内閣官房アイヌ総合政策室は以下を発
 表した・・
  「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するた
 めの施策の推進に関する法律案」を閣議決定
  先住民族への配慮を求める国内外の要請等に鑑み、従
 来の福祉政策や文化振興に加え、地域振興、産業振興等
 を含めた様々な課題を早急に解決することを目的とした
 「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するため
 の施策の推進に関する法律案」が閣議決定されました。
  1 背景
  平成20年、衆参両院の本会議において「アイヌ民族を
 先住民族とすることを求める決議」が行われ、その前年
 には、国際連合において「先住民族の権利に関する国際
 連合宣言」が採択されるなど、国内外において、先住民
 族への配慮を求める要請が高まっています。
  また、アイヌの人々からは、従来の福祉政策や文化振
 興に加え、地域振興、産業振興、観光振興を含めた様々
 な課題を早急に解決することが求められており、アイヌ
 の人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策を
 総合的に推進していく必要があります。
  さらに、政府においては、北海道白老郡白老町に、ア
 イヌ文化の復興等に関するナショナルセンターとして、
 アイヌ語で「おおぜいで歌うこと」を意味する「ウポポ
 イ」を愛称とする「民族共生象徴空間」を整備している
 ところであり、2020年4月の開業に向けて、今後とも必
 要な準備を円滑に進めていく必要があります。
  2 概要
  (1) 目的規定、基本理念、国の責務等
  目的規定においてアイヌの人々が日本列島北部周辺、
 とりわけ北海道の先住民族であるとの認識を示すととも
 に、アイヌ施策の推進に関し、基本理念、国の責務等を
 定める
  (2) アイヌ政策を総合的かつ継続的に実施するための
 支援措置
   ① 政府によるアイヌ施策の総合的かつ効果的な推進
    を図るための基本方針の策定
   ② 市町村による基本方針に基づくアイヌ施策推進地
    域計画の作成、同計画の内閣総理大臣による認定
    の申請
   ③ 認定を受けたアイヌ施策推進地域計画に基づく事
    業に関し、交付金の交付等の特別の措置
  (3) 民族共生象徴空間の管理に関する措置
    国土交通大臣及び文部科学大臣が指定する法人に
   対し、民族共生象徴空間を構成する施設の管理を委
   託
  (4) アイヌ政策推進本部
    アイヌ施策を総合的かつ効果的に推進するため、
   内閣に、アイヌ政策推進本部を設置
  (考察)アイヌの人々を尊重し、共生することは大切
     である・・しかし・・
      何故? 科学的に正しくない「先住民だとい
     う認定をするのか?」。
      科学的に正しくないことは、何年たっても「
     正しくない」。
      また、何故、アイヌの人々だけをこの様な最
     恵国待遇的な扱い方をするのか?
      また、この行為は「逆の差別を生んでいる」。
      そして、また、今後、歴史を捻じ曲げて、こ
     の様な行動をする人々が現れることを恐れる。
.
2019年4月26日、「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を
 実現するための施策の推進に関する法律」が公布された。
  「先住民族であるアイヌの人々」と言っている。
 第一章 総則
  (目的)
 第一条 この法律は、日本列島北部周辺、とりわけ北海道
   の先住民族であるアイヌの人々の誇りの源泉である
   アイヌの伝統及びアイヌ文化(以下「アイヌの伝統
   等」という。)が置かれている状況並びに近年にお
   ける先住民族をめぐる国際情勢に鑑み、アイヌ施策
   の推進に関し、基本理念、国等の責務、政府による
   基本方針の策定、民族共生象徴空間構成施設の管理
   に関する措置、市町村(特別区を含む。以下同じ。)
   によるアイヌ施策推進地域計画の作成及びその内閣
   総理大臣による認定、当該認定を受けたアイヌ施策
   推進地域計画に基づく事業に対する特別の措置、ア
   イヌ政策推進本部の設置等について定めることによ
   り、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活
   することができ、及びその誇りが尊重される社会の
   実現を図り、もって全ての国民が相互に人格と個性
   を尊重し合いながら共生する社会の実現に資するこ
   とを目的とする。
  以下の条文は、(定義)(基本理念)(国及び地方公
 共団体の責務)(国民の努力)がきされている。
  (国民の努力)
 第六条 国民は、アイヌの人々が民族としての誇りを持っ
   て生活することができ、及びその誇りが尊重される
   社会の実現に寄与するよう努めるものとする。
  そして、第二章、基本方針等(基本方針)(都道府県
 方針)第三章 民族共生象徴空間構成施設の管理に関する
 措置、第四章 アイヌ施策推進地域計画の認定等(アイヌ
 施策推進地域計画の認定)(認定を受けたアイヌ施策推
 進地域計画の変更)(報告の徴収)(措置の要求)(認
 定の取消し)(交付金の交付等)(国有林野における共
 用林野の設定)(漁業法及び水産資源保護法による許可
 についての配慮)(商標法の特例)(地方債についての
 配慮)第六章 指定法人(指定等)(業務)(民族共生象
 徴空間構成施設管理業務規程)(事業計画等)(区分経
 理)(国派遣職員に係る特例)(職員の派遣等について
 の配慮)(役員の選任及び解任)(報告の徴収及び立入
 検査)(監督命令)(指定の取消し等)(指定を取り消
 した場合における経過措置)第七章 アイヌ政策推進本部
 (設置)(所掌事務)(組織)(アイヌ政策推進本部長)
 (アイヌ政策推進副本部長)(アイヌ政策推進本部員)
 (資料の提出その他の協力)(事務)(主任の大臣)(
 政令への委任)第八章 雑則(権限の委任)(命令への委
 任)(罰則)附 則(施行期日)(アイヌ文化の振興並び
 にアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する
 法律の廃止)(アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等
 に関する知識の普及及び啓発に関する法律の廃止に伴う
 経過措置)(準備行為)(漁業法等の一部を改正する等
 の法律の一部改正)(アイヌの人々の誇りが尊重される
 社会を実現するための施策の推進に関する法律の一部改
 正)(内閣府設置法の一部改正)(国土交通省設置法の
 一部改正)(政令への委任)(検討)(内閣総理大臣臨
 時代理・総務・法務・外務・文部科学・厚生労働・農林
 水産・経済産業・国土交通・環境大臣署名)
 http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/gian/198/pdf/s0801980241980.pdf
.
2019年5月、「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現
 するための法律の施行期日を定める政令」
  「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するた
 めの法律施行令」
.
2019年、今・現代は紀元2019年であるが、今から3800年も
 遡(さかのぼ)った頃・・故に、紀元前1800年頃になる
 が、
  紀元0年から紀元2019年までの期間とほぼ同じぐらいの
 長い歴史を遡ると・・この古い時代の北海道に日本人の
 祖先たちが住んでいた・・
  このことが科学的に立証された・・
  日本人の血を持っている人たちが、北海道で生活して
 居たことが科学的に立証された。
  アイヌの人々が先住民族ではありません。
  この事は、2019年5月14日の読売新聞で報じられた。
  そして、時代が進めば「クオーター」となり「ハーフ」
 と交雑の濃さは濃くなる関係にある・・
  また、より血の濃い人々も居ると考えられる・・
  紀元前の1800年の遥か昔に、交雑した日本人が北海道
 に住んでいたことが立証された。
  そしてまた、2019年5月19日の読売新聞は、日本人の祖
 先の縄文人が、北海道で大麦を栽培して立派に生活して
 居ることも報じられている。
  この様に、日本人の祖先が紀元前から北海道に居て、
 立派に生活し、存在していたというのに・・、
  礼文島という北海道の北端まで行って生活していたと
 いう事例が発見され・・存在しているというのに・・、
  日本の国会は、日本に、その後の3000年以上もの後に
 日本に来たアイヌの人々を「日本の先住民だとした」。
  紀元13世紀頃に、日本に来たアイヌの人々を「日本の
 先住民だ」とした。
  また、北海道の道議会は、「北海道に日本人は居なか
 った」などという無智な議論が行われている。
  こんな知識レベルで、こんな無知なレベルで、政治的
 決定が行なわれている。
  そしてまた、最近と言っても良い200年くらい前に、ア
 ジア地域に来て侵略行為をした「ロシア白人たち」にと
 って、「そこに居たアイヌの人々が、ロシアの先住民と
 なるであろう」が、そのロシア白人が「アイヌの人々を
 ロシアの先住民とした」からと、日本の国会議員たちは、
 日本人もその様なロシア白人と同じようなのだとの思考
 で考えて、「アイヌの人々を日本の先住民だ」としてし
 まった。
  「紀元前の何万年も前から日本の地に居た日本人にと
 って、そのアイヌの人たちは、後から来た人たちとなる」。
  わずか600年前~700年前の紀元13世紀~14世紀に、日本
 に来たというアイヌの人たちなのだ。
  日本人の「先住民となる訳はない」。
  それを、最近になってアジアに来たロシア白人と同じ
 思考をする日本の政治家となっている・・歴史的な認識
 を、「まったく持ち合わせていない」と言える。
  この間違った法律「アイヌの人々の誇りが尊重される
 社会を実現するための施策の推進に関する法律」は、改
 正し、修正しなくてはならない
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

by suba28 | 2019-05-27 03:09 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)644E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年4月~1896年4月)

題:(増補版)644E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年4月~1896年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年4月9日、横川駅~直江津駅間が営業開始された。
  また、日本・両毛・甲武・川越の各鉄道、および、貨
 物連絡運輸が開始された。
  碓氷峠を挟む横川駅~ 軽井沢駅間は、難所のため工事
 が遅れた。
  1888年から1893年にかけて、碓氷馬車鉄道という馬車
 鉄道が国道18号上に敷設されていた。
  しかし、輸送可能な量が少ない上に峠越えに2時間半も
 かかっていた。
  延長11.2 kmの間に、18の橋梁と26のトンネルが建設さ
 れ、着工から1年9か月後の1892年12月22日に、工事が完
 了した。
  翌年の1893年4月1日に、官営鉄道中山道線(後の信越
 本線)として横川駅~軽井沢駅間が開通した。
  そして、1997年10月1日に、横川駅~軽井沢駅は廃止と
 なった。
  これは、北陸新幹線の高崎駅~長野駅間の先行開業に
 伴う廃止だった。
  ヨーロッパの技術を取り入れ、お抱え外国人の技術提
 案なども取り入れ、アプト式で有名なこの路線、苦労し
 て開業したが、現代になって、新幹線がスマートに走り
 抜けて行く区間となった・・その様な世界に誇る鉄道技
 術を持つ日本となった。
.
1896年4月14日、板垣退助が、第2次伊藤内閣の内務大臣に
 就任した。
  自由党と政府の提携がなり、板垣退助が内相に就任し
 た。
  第9議会を前に政府との提携を模索していた自由党は、
 1895年11月22日、立憲政体と責任内閣の方針を同じくす
 るものと、相共に連携するとの「宣言」を発表した。
  この宣言は、藩閥、とりわけ伊藤博文との提携があり
 うることを示していた。
  伊藤首相は、これを受けた・・閣僚を集め演説を行っ
 た。
  自由党の方針は、内閣と同じく立憲政体の完成にあっ
 た。
  「譲るべきは譲り」「相共に謀(たばか)るべき」で
 あると主張した。
  そして、両者の提携の必要を訴えた。
  (参考)謀る:(1)計画・方法などを思いめぐらす。
     工夫する。(2)相談する。(3)計略をめぐら
     してだます。
  自由党は、第9議会に与党として臨んで・・
  1896年4月には、板垣退助が離党の上、内相として入閣
 した。
.
1896年4月15日、逓信省大臣官房及各局分課規程を改正し、
 施行した。
  鉄道局に、新たに汽車課・建設部が設置された。

1896年4月16日、音楽家の幸田延(こうだのぶ)が、帰朝し、
 披露演奏会を行った・・ピアニスト、ヴァイオリニスト、
 音楽教育家、作曲家。
  東京音楽学校の教授として滝廉太郎、山田耕作らを育
 てた。
  1895年に作曲したヴァイオリンソナタ変ホ長調(3楽章、
 未完)と・・
  1897年のヴァイオリンソナタニ短調(1楽章のみ)は、
 日本人による初のクラシック音楽作品であり、素晴らし
 い作品である。
  兄に、小説家の幸田露伴と、海軍軍人であり探検家の
 郡司成忠が居る。
  妹もヴァイオリニストの安藤幸。
.
1896年4月18日、奈良鉄道の木津駅~奈良駅間が開通し、京
 都駅~奈良駅間が全通した。
  日本の二大古都が鉄道で結ばれた。
  しかし、京都駅~奈良駅間でほぼ並行する近畿日本鉄
 道京都線が、スピード、列車本数とも圧倒的優位に立っ
 ていて・・
  長らく非電化であった奈良線は、輸送力の小さな脇役
 的な鉄道の地位にとどまっていた。
  1984年に、電化された後も、その地位は本質的には変
 わっていない。
  1987年、日本国有鉄道の分割民営化で、西日本旅客鉄
 道に所属した。
  列車はすべて木津より関西本線に乗り入れて京都~奈
 良間に直通運転される。
.
1896年4月20日、森正道が、小児病のひとつ脾疳(ひかん)
 の治療法を発表した。
  (参考)脾疳: 身体が痩せ、腹がふくれてくる小児病。
     小児の慢性胃腸病。
  (参考)森正道:もりまさみち、1860年~1932年、医
     師。東京大学卒。
      ドイツに留学して外科学をおさめ、1905年、
     帰国。三重県羽津病院長をつとめる。
  1904年、三重県の小児科医の森正道は、農山村の貧困
 な家庭の小児が、過食と下痢で腹が大きく膨れ、頭髪が
 薄くなり、夜盲症や眼の結膜炎を起こして化膿、失明す
 る病気があり、脾疳(ひかん)と呼ばれた。
  森は、この病気が脂肪の不足によって起こるとして、
 肝油を与えて治療を行った。
  この様な病気が、その後、ドイツやデンマークでも報
 告された・・世界各地で見られる病気であることが分か
 った。
  肝油からビタミンAを単離して結晶化する研究は、日
 本の理化学研究所が成功した。
  ビタミンAの化学構造は、1931年に、スイスのカラー
 が、オヒョウ肝油からの研究で決定した。
.
1896年4月20日、日本勧業銀行法・農工銀行法のそれぞれを
 公布した。
  農工銀行は、各府県に設立された特殊銀行で、農工業
 の改良発達のため、長期で低利な貸付を目的とした(土
 地を持たない小作人への融資の道も開いていた)が・・
  1921年に、勧農合併法が制定され、漸次、日本勧業銀
 行に合併された。
  1898年~1900年に、全国46府県に各1行を設立した。
  北海道は北海道拓殖銀行。
  府県が半額出資し、その中央機関として日本勧業銀行
 (現:第一勧業銀行)を設立した。
  資金源の債券発行が伸びず、勧銀の代理貸付けを行っ
 て、1921年~1944年に、すべてが勧銀に合併された。
.
1896年4月22日、ロシアが、朝鮮の利権を獲得した。
  朝鮮の慶源・鍾城の鉱山採掘権を取得した。
  ロシアは、実質的な権力のない高宗におもねり鍾城・
 慶源の鉱山採掘権を取得した。
  また、朝鮮北部の森林伐採権も取得した。
  また、関税権などの国家基盤をも取得して朝鮮半島で
 の影響力を増して行った。
  この様な事から、この後に起きる日露戦争は、朝鮮半
 島でロシアが侵略した朝鮮西北部のロシア軍と戦うこと
 となる。
  例えば、朝鮮の咸鏡道は、戦争初期において、ロシア
 軍の占領下に置かれていたが、1904年8月以降は、日本軍
 が徐々に北上して解放して行った。
  ロシア軍は、ウスリー川地域に軍隊を置き、圧迫をし
 ていた。
  この様な時、韓国政府はロシア側に付くでもなく、日
 本側でもなく、中立の宣言をしていた。
.
1896年4月26日、桑田熊蔵、山崎覚次郎、高野岩三郎ら、社
 会政策研究団体を設立した。
  翌年・1897年4月24日、社会政策学会と命名した。
  毎月1回の例会で社会問題を討議した。
  経済学者を中心としたが理論研究にとどまらず、足尾
 鉱毒事件調査など実際問題や、政策の提言にも熱意を示
 した総合的な学会だった。
  1907年12月、工場法を論題としたことを皮切りに公開
 の活動を開始し、記録を『社会政策学会論叢(ろんそう)』
 として刊行するなど啓蒙(けいもう)的役割も担った。
  労働問題の解決に力を注ぎ・・
  1922年、282名の会員を数えた。
  ドイツの同学会に範をとり社会主義と一線を画し、社
 会改良主義の立場を貫いた・・が・・
  1924年12月、第18回大会を最後に休眠状態に入った。
  設立当初、この研究会は、ドイツ留学で当時最先端の
 経済学とされていた社会政策学派の講壇社会主義(当時
 は「講壇社会党」と呼ばれた)を学んだ桑田・山崎が、
 社会問題の激化予防と解決のため、ドイツ社会政策学会
 をモデルに設立した。
  会は、さらに、金井延・田島錦治・高野房太郎・佐久
 間貞一らを会員に加え、月例会も開催した。
  1898年7月、桑田・金井・戸水寛人の執筆による「社会
 政策学会趣意書」を発表した。
  「趣意書」は、自由放任主義、および、社会主義への
 反対を表明し、
  また、「現在の私有的経済組織を維持し、其範囲内に
 於て箇人の活動と国家の権力に由つて階級の軋轢を防ぎ
 社会の調和を期す」とある。
  これは、明確に、資本主義の枠内での社会改良主義の
 立場を標榜し・・
  と同時に、この趣意書には、会員の片山潜らが結成(
 1898年)した社会主義研究会との違いを明確にするとい
 う意図も込められた。
.
1896年4月27日、民法(明治29年法律第89号)が公布された。
  民法第一編・第二編・第三編(総則、物権、債権)が
 定められ、公布された。
  これによって、日清戦争後の経済発展の基礎固めが行
 なわれた。
  続いて、1898年6月21日の明治31年法律第9号により定
 められた民法第四編・第五編(親族、相続)・・
  附属法令として、1898年6月15日、明治31年法律第11号
 民法施行法が公布され・・
  全体が1898年7月16日から施行された。
  原案起草者は、穂積陳重・富井政章・梅謙次郎の三名。
.
  (今日の言葉)
.
  題:200年前にアジアに来たロシア白人が、アイヌを先住民だとした・・
    それを見て・・日本の政治家たちが・・
    紀元前の何万年も前から日本に住んでいる日本人の先住民は、アイヌだと決めた・・
    先住民の日本人の後から来たアイヌの人たちが先住民だとした・・
    アイヌの人たちは、13世紀~14世紀に、北方からやって来たのに・・
.
紀元前12万年、ナウマンゾウが本州から津軽海峡を渡って
 北海道へ行った。
  紀元前1万3000年になると、最後の氷期は終了した。
  この氷期には、海水面が80~140mも下がっていて、津
 軽海峡や宗谷海峡がなくなっていて大陸と地続きとなっ
 ていた。
  幕別町忠類村(ちゅうるいむら)で見つかったナウマ
 ンゾウの全身化石は、12万年前のものだった。
  このゾウは、本州から津軽海峡を渡って北海道へ行っ
 た・・
  また、その様なゾウを食糧としようと本州から人々が
 渡って行った。。
  4万5千年前から2万年前頃になると、サハリンを通って
 大陸から渡ってきたマンモスゾウがいた。
  マンモスゾウを追って、北海道に北方の人々が渡って
 来た。
  また、渡ることが出来る津軽海峡で、北海道と本州の
 人の行き来がなされていた。
  日本人の先住民である縄文文化の人びとの暮らしが、
 北海道各地に残された遺跡から知ることができる。
  北海道では、旧石器文化、縄文文化など約1万2,000ヶ
 所の遺跡が確認されている。
  そのうちの約7,000ヶ所という多くの遺跡が、縄文時代
 の遺跡となっている。
  日本の各地を、沖縄から北海道まで、アフリカからの
 人類のうねりの様に、日本の先住民たちは移動し、そし
 て、交雑した。
  縄文文化の遺跡から、住居や「ムラ」の跡、土器や石
 器などの道具がたくさん見つかっている。
  墓地や水場、狩りの跡なども見つかる。
  また、北海道では、多くの「貝塚」も見つかっている。
  伊達市北黄金貝塚からは、ハマグリ、カキ、ホタテな
 どの貝がらだけでなく、マグロやヒラメの骨、オットセ
 イやクジラなど海獣の骨、さらに、縄文文化の人びとの
 お墓やシカの頭の骨をならべた儀式の跡なども見つかっ
 ている・・この人たちはアイヌの人々とは違う。
  釧路市にある東釧路貝塚からも、貝類や魚の骨のほか、
 イルカの頭骨を放射状に並べたものが出土している。
  縄文文化の人びとは、すべてのものや事象に魂がある
 と考えていた。
  「貝塚」は、人びとが使い終わったものを、恵みをも
 たらしてくれる世界へ送る場だったと想像もできる。
  函館市大船遺跡や垣ノ島遺跡で見つかった「盛土(も
 りど)」遺構も、同じような祭祀や儀礼の場であったと
 想像され推定されている。
  このような「送り場」は、縄文文化の人びとの精神文
 化を伝えてくれていると推定されている。
  北海道北東部には、約7,000年前に「石刃鏃(せきじん
 ぞく)」という独特な鏃(やじり)が伝わった。
  これはシベリアなど大陸の影響を受けたものと想像さ
 れている。
  また、北海道の西南部と津軽海峡を挟んだ北東北は、
 縄文時代前・中期に同じ特徴の円筒状の土器を使うなど、
 共通の文化圏を持ち、つながりがあった。
  このことからも津軽海峡を挟む18ヶ所の縄文遺跡群は、
 現在、世界遺産登録を目指している。
  北海道からは、北黄金貝塚、入江・高砂貝塚、鷲ノ木
 遺跡、大船遺跡、キウス周堤墓群、垣ノ島遺跡の6ヶ所が
 入っている。
  (北海道博物館 赤れんがサテライトを参考にした)
     ・
     ・
8世紀頃、擦文文化(さつもんぶんか)
  擦文土器を持つ文化で、北海道、東北地方北部に分布
 している。
  これは、東北地方の古墳文化の影響を受け、そして、
 成立した。
  8世紀頃より、鎌倉時代および室町時代に及んだとされ
 る。
  北海道の続縄文文化に本州から北上した土師器 (はじ
 き) を伴う文化が接触したと考えられる。
  そして、これは、アイヌとも違い、アイヌ文化に先行
 する文化とされる。
  この遺構は、江別市や恵庭市などの道央部に発見され
 る。
  奈良時代の律令政府とかかわりのあった人が被葬者だ
 と考えられている東北地方の末期古墳と同形で、出土遺
 物も、土師器(はじき)、直刀、蕨手(わらびで)刀、
 鉄斧、鉄鎌、銙帯(かたい)金具、勾玉や和銅開珎など
 似たものが多い・・
  おもな、生業は漁労であり、方形の竪穴住居には「か
 まど」があり、粟、ひえ、そばなどが出土することによ
 って、小規模な栽培も行われていた。
  そして、この擦文文化の時代には、北海道には縄文人
 の子孫は居たが、アイヌは居なかった。
  この後、13世紀頃、樺太に居たアイヌが、モンゴルの
 攻撃などの歴史的事変で、それまでの居住区を追われ、
 北海道に移動して来たと考えられている。
  それは・・アムール川下流域から樺太にかけての地域
 に「吉里迷(ぎれみ)族」が住んでいた。
  この集団は、モンゴルに遠征されて、1263年、モンゴ
 ルに服従した。
  その翌年・1264年、この族は、「骨㟴(くい)」や「
 亦里于(いりう)」が、「毎年の様に侵入して来る」と
 いう訴えをフビライへ報告した。
  ここで言う骨㟴は、アイヌを指している。
  (参考)「北からの蒙古襲来の真相」中村和之(法政
     大学国際日本学研究所所属)、
      クイ(骨㟴、蝦夷)は、二ヴフ語でアイヌを
     意味するkuyiを音訳したものと思われる。
  この訴えを受け、元朝はアイヌを攻撃した。
  (参考)『元史』「世祖本紀」至元元年十一月丙子(
     1264年11月25日)条に記されている。
  これが「北からの蒙古襲来」で、鎌倉幕府への侵攻の
 「元寇」よりも10年早い時に起きた。
  この元寇に追われて、アイヌが北海道へ南下したと考
 えられている・・アイヌの人々の北海道居住の初め・・
.
802年5月22日、(延暦21年4月14日)阿弖流為(あてるい)
 と母禮(もれ)は、兵5百余人を率いて胆沢城(いさわ
 じょう)の坂上田村麻呂将軍に投降したと日本紀略に記
 されている。
  (参考)阿弖流為:あてるい、平安初期の蝦夷の族長。
     北上川流域一帯を支配し、延暦8年(789年)、
     征東将軍紀古佐美(きのこさみ)軍を破る。
      延暦21年(802)、征夷大将軍の坂上田村麻呂
     が胆沢城を造営し始めると、これと戦うことな
     く、盤具母礼と共に一族五百余人を率いて投降
     し、河内国杜山で処刑された。
      田村麻呂は助命懇願した。
  (参考)蝦夷:えぞ、えみし。古代、日本の北辺、実
     際には中部以東、北陸、関東、奥羽地方に住む
     人々は、大和朝廷より、蝦夷という名で異民族
     扱いされていた。
      蝦夷はまたエミシとも読む。
      彼らがいかなる人種、民族であったかは、江
     戸時代以後、多くの史学者によって論じられて
     きたが、決め手がなく、一方、人類学者もこの
     解明を手がけたが、人骨などの実証拠が乏しか
     った。
      新井白石や本居宣長は蝦夷すなわちアイヌ説
     をとった。
      長谷部言人ら人類学者は、石器時代人骨の研
     究から、非アイヌ説をとり、日本人でも東国、
     北辺に住む化外 (けがい) の民を蝦夷と称した
     としている。
      金田一京助は奥羽地方に残る地名をアイヌ語
     で解釈できるものとして、奥羽地方にいた蝦夷
     はアイヌであると考えるが、考古学的資料から
     はにわかに説明しがたい。
      東北地方出土人骨のうち、アイヌであると思
     われるものはごく少い。
  (参考)蝦夷:最初は〈えみし〉といい、〈夷〉〈毛
     人〉の字をあてた。
      大化改新後はおもに北越・奥羽地方および北
     海道に住む人びとをいい、〈蝦夷〉と書くこと
     が多くなったが、9世紀~15世紀には〈夷〉が
     一般的で〈蝦夷〉という表記は少ない。
      訓も〈えみし〉のほか〈えびす〉〈えぞ〉が
     混用された。
      中世での〈蝦夷〉の表記は安東(安藤)氏を
     指すことが多いとされ、奥羽・北海道に住む人々
     一般をいったかどうかは個々のケースにより異
     なる。
      こうしたことばとアイヌとの関係については、
     まだ明確でない。
      中世期の〈蝦夷〉を明確に定義するのは困難
     である。
      またこうしたことばとアイヌとの関係につい
     てもまだ明確でない。
.
1060年、北海道は遠い昔から和人が渡っていた。
  律令時代にも北海道への人的な行き来は確認されてい
 るが・・意冨比(おおひ、おおい)神社という道南の北
 斗市にある神社には、平安時代の康平三歳(1060年)の
 銘が入る鰐口がある。
.
1135年、船魂神社
  船魂神社は、函館の港を見下ろす函館山の麓、函館観
 光の中心地に鎮座する、北海道最古の神社で・・
  古来、船の守護神、海上安全、大漁祈願、交通安全、
 開運導きの神様として崇敬されて来ている。
  また、源義経を津軽海峡の海難から助け、この地へ導
 いたという伝説も残る神社・・
  起源は、保延元年(西暦1135年)崇徳天皇の御代に、
 融通念仏宗開祖の良忍上人がこの地に着いて、ここは神
 霊の宿る処だと里人に伝え、海上安全を祈念して奉られ
 た。
  これ等の神社の多くは道南の漁業拠点に集中し、道南
 には古社は多い。
  平安時代の奥州藤原氏の残党が渡島で神社を建立した
 という説もある。
  一例として、意冨比(おおひ、おおい)神社、旧大日
 堂という道南の北斗市にある神社には、平安時代の康平
 三歳(1060年)の銘が入る鰐口を有する。
.
1205年8月16日、北海道の知内川(しりうちがわ)で砂金が
 採れ、この日(元久2年7月23日)に金山祭を行ったとい
 う記録がある。
.
1220年頃、この頃からの鎌倉時代には、京都などの強盗・
 海賊は、いったん関東へ連行し、津軽の大名・安藤氏が、
 北海道へ島流しにしていた。
  この者たちの多くは、道南に住んだ。
.
1264年、アムール川下流域から樺太にかけての地域に住ん
 でいた「吉里迷(ぎれみ)族」が、元朝のフビライに、
 「アイヌが攻めて来る」と報告した。
  フビライは、この事によって日本への元寇より早い時期に、こ
 の地域へ襲来した(北からの蒙古襲来)
  この元寇に追われて、アイヌが北海道へ移住したと考
 えられている。
.
13世紀、この時期のアイヌの北海道の居住地域は、オホー
 ツク沿岸や道東に限られていた・・
  この後、北海道全域へ広がって行く。
  そして、1220年頃からの鎌倉時代には、京都などの強
 盗・海賊は、いったん関東へ連行し、津軽の大名・安藤
 氏が、北海道へ島流しにしていた。
  13世紀の北海道のアイヌは、オホーツク海岸や道東に
 多く住んでいて、流刑者は道南地方に追放されたので、
 この後に、道南は、アイヌと和人の雑居地状態なったと
 考えられる。
  1320年頃から、この安藤氏は、アイヌの人たちとの交
 易を行なっている。
.
1320年頃、この頃から、津軽の大名・安藤氏は、アイヌの
 人たちとの交易を行なった。
.
1456年、コシャマインの戦い(~1458年)
  蝦夷地のアイヌが起こした大規模な安東氏らに対する
 蜂起。
  津軽半島の十三湊(とさみなと)を本拠としていた安東
 (安藤)氏の蝦夷地への逃亡(1443年)の後、深まった
 対立が原因で起こった。
  蝦夷地南西部(現在の道南地方)の安東氏ら根拠地の
 支苔(志濃里)(しのり)館など(道南十二館)のうち10
 館が一度はアイヌの手におちた。
  若狭(わかさ)出身だと伝えられる武田信広(松前氏の
 祖)が、蝦夷地東部の首長コシャマイン父子を討って、
 戦は終わった・・
  この後、武田信広は、「上ノ国守護」の蠣崎(かきざき)
 季繁の女婿となって蠣崎家を継いだ。
  そして、武田信広の子孫は、支配地の「三守護職」の
 権能を掌握して、松前藩を成立させた。
.
1648年、アイヌの人々同士の争い
  アイヌのメナシクルは、現在の新冠町から白老町方面
 にかけての集団であるシュムクルと・・
  シベチャリ川(静内川)流域の領分をめぐって遅くと
 も1648年から対立をしていた。
  (参考)メナシクル:静内以東の太平洋沿岸地域など
     に居住するアイヌ集団の名称。
.
1669年6月21日、シャクシャインの戦い
  シブチャリのアイヌの首長シャクシャインを中心とし
 て起きた、松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起。
  アイヌ惣大将のメナシクルとシュムクルは、シブチャ
 リ地方の漁猟権をめぐって、争いを、1648年から続けて
 いた。
  シャクシャインは、メナシクルの副首長であったが、
 カモクタインが、1653年に、シュムクルによって殺害さ
 れたために首長となっていた。
  抗争を危惧した松前藩は、仲裁に乗り出した。
  1655年には、両集団は一旦講和をした。
  この時、シュムクルは松前藩に接近した。
  シュムクルは、松前藩に親善的な友好な立場となった。
  1665年頃から、アイヌ同士の対立が再燃した。
  1668年5月31日には、メナシクルによってオニビシが
 殺害された。
  (参考)オニビシ:北海道に存在したアイヌ集団のひ
     とつハエクル(シュムクル)の首長・惣乙名。
  松前藩は、アイヌとの交易の特権を豊臣秀吉から得て
 いたが・・
  また、江戸時代になっても、この特権は、徳川家康か
 らも与えられていた。
  この様な交易の特権を得ていた松前藩とアイヌとの交
 易は、松前藩が財政的な困窮度が増して行った事もあっ
 て、厳しい対応となって行った。
  米と干鮭の交換レートなどに厳しさが増した。
  この頃、全国的な飢饉が発生していて、やむを得ない
 面もあった。
  松前藩は、米が無くなって3000俵を幕府から借りる事
 もあったくらいだった。
  また、この様な状況の中、アイヌが、交易を一方的に
 「押買されたりする行為」もあった。
  また、和人の山師が、砂金堀のため、内陸部を切り開
 く行為もアイヌにとって生活を脅かす行為となった。
  また、大名の鷹狩り用の鷹を勝手に捕獲することもア
 イヌの人々の生活を脅かした。
  また、シャクシャインにオニビシを殺されたハエのア
 イヌは、松前藩庁に武器の提供を希望した・・
  しかし、松前藩は、これを拒否した。
  サル(現:日高地方)の首長ウタフは疱瘡で死んだが、
 これが、「松前藩によって毒殺された」と思われること
 なども影響した。
  これらが発端となって、シャクシャインは各地のアイ
 ヌの方々たちへ蜂起を呼びかけた。
  アイヌの方々はこれに呼応した。
  和人の製品がアイヌの方々の生活に根付いていて、こ
 れを得るのに交換レートが厳しくなっていることも蜂起
 の心情を作った。
  また、アイヌの惣大将同士の争いも多くなっていた時
 期で、アイヌの方々の不満の心情も鬱積し高まっていて、
 対松前藩蜂起へと移行し爆発した。
  1669年6月21日(寛文9年6月4日) 、シャクシャインら
 の呼びかけによりイシカリ(石狩地方)を除く、東は釧
 路のシラヌカ(現:白糠町)から西は天塩のマシケ(現:
 増毛町)周辺において一斉蜂起が行われた。
  決起した2,000の軍勢は、鷹待や砂金掘り、交易商船を
 襲撃した。
  突然の蜂起に、和人は対応できず、東蝦夷地では213人、
 西蝦夷地では143人の和人が殺された。
  松前藩はこれに対応し、また、幕府へ蜂起を急報し、
 援軍を求めた。
  幕府は、松前藩の要請に応じて、弘前津軽氏・盛岡南
 部氏・秋田佐竹氏へ出兵を命じた。
  シャクシャイン軍は松前を目指した。
  1669年7月末、援軍の兵が松前藩と合流し、戦闘は8月
 上旬まで続いた。
  兵器の差や、内浦湾一帯のアイヌが分断されて力を発
 揮できず、シャクシャイン軍は不利な状況となって行く。
  シャクシャインは長期戦に備えた。
  松前藩は戦いの長期化を恐れた・・
  それは、戦いの長期化による交易の途絶や、幕府によ
 る改易を恐れたのだった・・
  松前藩は和睦を提案した。
  シャクシャインは和睦に応じて、1669年11月16日、松
 前藩陣営に出向いた・・
  その和睦の酒宴で、松前藩は、シャクシャインを殺す
 という卑怯な行為をしてしまった。
  指導者を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰えて行った。
  その後、松前藩は、交換レートを緩めた。
.
1859年、江戸幕府が、開港場居留地における外国人の信仰
 の自由を認めた・・キリスト教信仰の容認・・
  また、キリスト教宣教師の来日を許可した。
  キリスト教カトリック教会は、パリ外国宣教会を通し
 て宣教師を派遣して来た。
  フランス横浜領事館付通訳兼司祭として来日したS・
 B・ジラールは江戸入りした。
  また、彼は、1862年1月、横浜天主堂も建立した。
  ベルナール・プティジャンは、1862年に来日し・・、
 1864年に大浦天主堂を建立した。
  アメリカ、イギリス、カナダ、オランダからはキリス
 ト教プロテスタントの宣教師が来日した。
  キリスト教正教会は、1861年、ニコライ・カサートキ
 ンが来日し、函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭となった。
  そして、後に、キリスト教日本ハリストス正教会を設
 立した。
  キリスト教が、明治時代になって高札の撤去まで弾圧
 があったと過大な嘘を言うが・・、日本は早くからキリ
 スト教に対して見過ごして来て、また、無視して来た・・
 弾圧などはまったく早い時期からやっていない。
  そして、明治時代の維新となって、日本が近代国家へ
 の歩みを始めた頃、逆に、キリスト教を含めて、日本に
 は『西欧礼賛』があった。
  何でもかんでも西欧が良いと、「真の姿を見ず」に西
 欧を美化し礼賛し取り入れた。
  この頃、キリスト教関係書が盛んに翻訳された・・し
 かし・・今・現代、キリスト教関係者は、この頃の翻訳
 は駄目だと言っている・・翻訳のレベルがまったく低い
 と言う・・この様なレベルでキリスト教徒になった人も
 多く居た・・
  翻訳について、内容の正確さの問題もあったが、翻訳
 文の日本語として成立しないようなレベルの物もあった
 と・・
  この様な知識レベルで、キリスト教にのめり込んだ人
 たちは多かった・・
.
1937年、杉原千畝が、ソ連への入国の拒否通告を受ける。
  杉原千畝は外交官ではない・・日本のスパイとして働
 いていた。
  その様な職員の身分なのだ。
  ソ連人女性と結婚してまでして、ソ連の情報を得よう
 とした。
  ここまでして、日本軍に有利となる情報を探った。
  ソ連から入国を拒否されるくらいの情報を探ったスパ
 イだった。
  しかし、杉原千畝のソ連人の妻から「逆スパイをされ
 ていた」という話もある。
   ・
   ・
2018年10月31日、中国が、南沙諸島の運用を強行に開始し
 た。
  この時から遡ること3年2ヶ月前の2015年8月20日、アメ
 リカ国防総省は、「アジア太平洋での海洋安全保障戦略」
 と題した報告書を公表した・・
  中国が、2013年12月に、南沙諸島での埋め立てを開始
 して・・、
  2015年6月までに、2,900エーカー(約12km2)を埋め立
 て、その面積が、周辺諸国による埋め立てを含めた全体
 の『約95パーセント』に当たることを明らかにした。
  また、埋め立てから滑走路や港湾施設の建設によるイ
 ンフラ整備に重点が移行していることも指摘した。
  中国が、この様にして実効支配をして、軍事拠点化し
 ているこの場所を、地球上で取引されている原油や液化
 天然ガス(LNG)の約半分が通過している。
  そして、2016年1月、アメリカのCSIS(戦略国際問
 題研究所)は、報告書において・・、
  中国の空母打撃群保有の可能性と併せて、「2030年ま
 でに、南シナ海が事実上中国の海となる」と警鐘を鳴ら
 した。
  2016年7月12日、オランダ・ハーグの常設仲裁裁判所は、
 中国が、南シナ海のほぼ全域で領有権を主張する「独自
 に設定した境界線『九段線』」には、国際法上「歴史的
 権利を主張する法的根拠はない」と認定する裁定を下し
 た。
  また、中国が、南沙諸島などで人工島の造成などをし
 ている岩礁はすべて「島ではなく」、「岩」または高潮
 時に水没する「低潮高地」であると認定する裁定も下し
 た。
  しかし、2018年10月31日、ファイアリー・クロス礁、ミスチー
 フ礁、スビ礁を運用開始したと、中国が公表した。
.
2019年、今、ロシアが困っている・・中国の浸透が続いて
 いるのが・・その理由・・
  中国が、シベリアへの浸透を謀(はか)っている。
  中国とロシアの長い国境線では・・ロシアは、その為
 の国境の壁を、そのすべてに設けられない・・、
  また、長い国境線の厳重な管理も難しいという状態・・
 その様な中を・・中国は浸透を謀(はか)っている。
  アメリカも、国境に壁と作ろうとしているが、その為
 の金がないという、予算措置が出来ないという。
  必死に国づくりをして、良い国となり、その国づくり
 の努力の結果、幸せな生活ができるようになる・・
  そうすると、国境を『違法に越えて』、自分も幸せに
 なりたいと、違法に国境を越える者たちが増える。
  中国は・・日本が満州族の方々が多かった地に、その
 満州族の方々の国の建国の手助けをして、満州国を建国
 して差し上げたが・・、
  しかし、その地は、日本が戦争に負けると、中国の地
 だと「知らぬ間になってしまった」。
  今、その地には、満州族の方々は居ないという。
  殺されたのか・・他に移住させられたのか・・不明の
 状態となっている。
  そして、「中国東北部」と称されて、「中国のもの」
 とされている。
  中国の漢民族が少数だったこの地は、明らかにこの様
 になってはいけない地であって・・、
  本当は、この地は、「中国東北侵略部」と称するのが
 正しい。
  そして、この地の北のロシアのシベリア部分に、中国
 が浸透している今・現在なのである。
  そして、その地も、そのうち、「中国東北侵略部・北
 地区」とでも名付けられるだろう。
  中国の歴史は、昔からこの様な周辺国・周辺部への侵
 略・浸透が行われて来た・・
  そして、「洗国」という事が行われた・・
  洗国とは・・国を洗うと書くが、その国のその地の男
 だけを他の場所に移して、その地へ「中国の漢民族の男
 だけ」を移り住まわせて、強制的に漢民族を増やさせて
 「漢民族化を行なって」・・「国を奪う」という事を、
 昔からやってきた国だった。
  キリスト教聖書にも、この事が記述されている・・
  キリスト教の神は叫ぶ、「△△人は、男だけを殺せ」
 と・・そして、場合によっては、このキリスト教聖書に
 書かれたキリスト教の神は、「生娘は生かして置け」と
 も叫んだ。
  そしてまた、キリスト教の聖書の神は、「○○人は、
 皆殺しにせよ!」とも叫んだ。
  この様な事を、中国は、昔からやってきた。
  チベットやウイグル、そして、内モンゴルや中国南方
 の諸国・諸地域が、今・現在、「半・中国化されてしま
 っている」。
  中国は、長期にわたる侵略国なのである。
  日本の沖縄や北海道も狙われている。
  そのうち、洗国という手が使われる可能性があるとも
 言える・・それは、中国が昔からやって来た事である。
.
2019年4月8日、韓国の子供たちは、「酷いことをした日本」
 というイメージで教え込まれている。
  それも、「嘘の話をでっち上げられて」教えられてい
 る。
  例えば、韓国の小学校6年生の社会の教科書に裸の酷い
 状態の男の人たちが写っている写真が掲載されている。
  産経新聞社の加藤達也氏によると・・、
  この写真の元は北海道の旭川新聞がかつて掲載した写
 真であって、これらの人達は日本人を撮影した写真であ
 って「朝鮮人徴用工とは縁もゆかりもない人たち」であ
 る。
  それを、韓国の小学生の社会科の教科書には「強制労
 役に動員された我が民族」と書かれている。
  この写真は、1926年に、旭川新聞が掲載した写真で、
 道路建設現場の写真で、写っている人たちは日本人。
  韓国が日本の貶めのために作っている徴用工の銅像の
 モデルとなっている写真とも言われている。
  産経新聞は、この事を韓国に指摘した・・その指摘を
 受けた韓国教育省は、「韓国教科書の誤りを認めた」。
 「訂正することも約束した」。
  しかし、間違い教科書を回収するという事ではなく「
 シールを貼って隠す」というものだった。
  韓国は、この1例の様に、雑な荒っぽい認識で事を処し
 ・・この様なレベルで韓国の子供たちの洗脳・刷り込み
 をしている。
  韓国の少年少女たちを反日へと導く教育がなされてい
 る・・この様な洗脳教育の怖ろしさを、韓国政府は認識
 していない。
  韓国は、この1例だけではなく、次々と根拠のないこと
 で「歴史を改ざん」し、日本を貶め、反日教育をしてい
 る。
  竹島は、韓国の領土だと刷り込んでいる。
  また、まったく無かった従軍慰安婦も「あった様に」、
 事実であった様に、子供たちへ刷り込んでいる(反日教
 育の刷り込みばかりに重点を置いている)。
  そして、日本の教科書を批判している。
  日本の一部のグループが、日本の歴史の多数を歪曲し
 て教科書を作り、2011年に、日本政府の検定審査を通過
 しているとしている・・
  そして、これは、韓国・中国をはじめとする政治的紛
 争を起こしていると教えている・・自分たちの行為を希
 薄化するために、この様なことを言っている。
  日本が、故意にトラブルを作っているという洗脳をし
 て・・「日本だけが悪い」というイメージを作り上げて
 いる。
  日本は、周辺国と友好的に行きたいと、今まで「何も
 言わずに来た」が、やはり、正しい事実を、認識を主張
 しなければならない状況にある。
  反日観を刷り込まれた韓国の青年が、スポーツの国際
 大会で政治的な行動をするなどの問題が発生している。
  そして、韓国の間違った認識を世界に流布している。
  間違った反日教育で歪められた歴史観を、世界に流布
 している。
  日本の青少年自体も間違った認識を持つように教えら
 れている。
  それは、近隣の周辺国への配慮から、真実を正確に教
 えて来なかった日本がある。
  真実を教えられない日本の青少年は、韓国だけが発信
 する事柄を、その間違った認識をなんとなく持ってしま
 っている。
  朝鮮・韓国の元徴用工は、日本で働いで良い生活をし
 たいということで、志願したことを教えた・・
  また、慰安婦にも「志願者が数多く存在した」ことも
 教えてみたら・・その様な意見聴取をしてみると・・「
 びっくりです」という言葉が返って来る・・
  また、「それでは、話が変わって来ますね」という返
 事にもなる。
  そして、日本で、真実を、何故、教えないのか、教え
 てほしかった・・という言葉にもなる。
  その様なことはわからなかった・・その様な解らない
 状態では誤解を生むので、その様な所まで教えた方がい
 い・・という言葉にもなる。
  近隣への配慮から、日本は、近現代史はプリントを配
 るぐらいで「教えない」という状態になっている。
  「日本軍が無理やり連れ去った」という様なまったく
 嘘の「事実ではないイメージまで生まれてしまっている」。
  日本には、「近隣諸国条項」という、「近現代の歴史
 的事象の扱いに、国際理解と国際協調の見地から必要な
 配慮がされていること」と書かれた条項あり・・、
  必要以上に、中国・北朝鮮・韓国に配慮した教科書の
 検定基準がある。
  中国や韓国は、「事実よりも」、政治的にうまく行く
 ようにという観点から歴史を教える形になっている・・
 だから、「事実は二の次」という形から間違った記述が
 なされる教科書が生まれている。
  日本政府も、それに異議を言う訳でもなく、逆に、す
 り合わせる様な状態も生まれている。
  韓国は、「国」が教科書を作っている。
  日本を貶める別の写真には「戦争に動員された幼い学
 生たち」と書いている・・動員という言葉を使って悪い
 イメージ作りをしている。
  韓国の戦争記念館では、朝鮮戦争で活躍した韓国兵士
 の経歴が掲示されて、大々的に説明されているが・・、
  この韓国の軍人たちは、日本と一緒になって、第二次
 世界大戦でアメリカなどと戦った軍人であるが、この経
 歴は、まったく記されず、隠されていて書かれていない。
  日本の軍事教育を受けて、朝鮮戦争でも活躍するよう
 な軍人になったことなど、「まったく説明されていない」。
  韓国は、この様な改竄(かいざん)までして、刷り込
 みのイメージ作りをしている。
  日本を貶めるという一貫した行為が、韓国でなされて
 いる。
  この様な韓国の嘘を、外国メディアが「真実だと思っ
 て」世界へ配信してしまっているという取り返しがつか
 ないことまで起きている。
  日本が、変な配慮から指摘をしないので、この様な事
 まで起きている。
  ロイターという大メディアが世界に配信して・・「間
 違いだった」という「訂正」は、なされていない・・日
 本は、間違いを「されっぱなしになっている」。
  朴槿恵時代の韓国の教科書と、文在寅(むん・じぇい
 ん)時代の教科書はまったく違う・・
  朝鮮戦争の場合、今・現代の文在寅時代は・・、国連
 軍が韓国国民を「虐殺している」から北朝鮮軍が、韓国
 へ入って来た・・という記述になってしまっている・・
  事実は、突如、北朝鮮軍が38度線を越えて攻めて来た
 のに・・国連軍の虐殺も何もないのに・・文在寅は、こ
 の様な内容でありたいという思いで、朴槿恵時代の教科
 書を書き換えた。
  韓国の事を「南韓」と書いている・・北朝鮮の意向に
 沿った書き方となって来ている韓国の教科書の状態。
  小学校の内から、日本帝国主義ということを植え付け
 て、「日帝」という言葉を使って学ぶ。
  日本は、周辺国から孤立していると思い込ませている。
  高校になると、教科書の111頁(全424頁)が日帝の事
 を貶めるというボリューム比率となっている。
  日本の貢献によって、経済的発展をした韓国の姿など、
 少しも記述していない。
  韓国にある「全国教職員労働組合」は、教職員の組合
 だが、北朝鮮の思想であるチュチェ思想など「親北な教
 育を行なう職員」も在籍していて、この様な行為が過去
 に韓国のメディアから批判を受けている。
  この組織が「7割」くらいへ影響を与えている。
  文在寅を支える組合の中核的な組合となっている。
  活動目標は「日韓の分断」と「親北朝鮮」。
  日本が間違いを指摘して、証拠を提示しても無視する
 現状となっている。
  しかし、日本にも、河野洋平官房長官(当時)が謝罪
 するという「韓国に迎合した行為」がある。
  そして、この「間違いの迎合した談話」を取り下げる
 事もしない日本がある。
  結局、日本の態度から認めているという姿もある。
  お互いを理解しようという目的で始まった「日韓談話」
 をしても、韓国は史実はどうでもよいとなって、「韓国
 を悪く言ってそれで良いのか」の感情論となる。
  事実認定から始めて、事実の認識を積み重ねようとい
 う目的が果たせない。
  まず、日本は、韓国がそうであっても・・、
  世界中で、事実ではない悪宣伝をしている韓国の行為・・
 この様な行為を止める様にしなければならない。
  河野談話の当時は、その様な事も言って、その様な歴
 史認識だったが、間違いだったと、世界や第三国に分か
 ってもらうように・・日本はすべきだ。
  また、日本の青少年にもしっかり事実を教える・・近
 現代史を教えなかったことも反省すべきだ。
  また、歴史問題を利用する「反日的日本人が存在する」
 ことも問題だ・・日本を貶める行為をしている人間が居
 る。
  その様なことをしているのがNHKやNHK職員・・
  そして、朝日新聞や東京大学の教授・・京大・一橋大
 の教授たちの行動・・
  大学入試問題の答えに「日本が侵略した」と書かない
 と正解にならないという問題がある・・
  予備校も、この様に教えざるを得ない状態にある。
  https://www.youtube.com/watch?v=MAdfFKqVp_I&list=PLwHocn02O9IZAcGWND9SjCqwmuk5tLBnV
  「反日教育の実態」出演者・・
  司会:上念司(経済評論家)
  西川史子(医師・タレント)
  武田邦彦(中部大学教授)
  藤井厳喜(国際問題アナリスト・評論家)
  須田慎一郎(経済ジャーナリスト)
  井上和彦(軍事ジャーナリスト)
  加藤達也(産経新聞社会部編集委員 元ソウル支局長)
  村上政俊(元衆議院議員・元外交官)
  吉木りさ(タレント)
  鈴原ゆりあ(タレント)
  大高未貴(ジャーナリスト)
  眞鍋由佳(主婦)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

by suba28 | 2019-05-19 02:47 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)643E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年4月)

題:(増補版)643E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年3月、山川健次郎、水野敏之丞らが、X線によるレン
 トゲン撮影に成功した。
  X線発見の第一報が日本に到達したのは、1896年2月20
 日前後、長岡半太郎博士(1865年~1950年)であろうと
 いう。
  X線の利用が行われたのは、「物理学界では、ドイツ
 に留学中の長岡半太郎博士からの報を受けて・・
  一方では、東京大学理科の山川健次郎教授、鶴田賢次
 助教授、水木友次郎助手(技師)が・・
  他方では、第一高等学校・水野敏之丞教授、山口鋭之
 助教授がおのおの個々に実験にとりかかり、共に成功し、
 少し遅れて京都でも第三高等学校・村岡範為馳教授、及
 び、島津源蔵が島津源吉、島津常三郎、粕谷宗資と共に
 実験に成功している。
  「医学界では、済生学舎の外科・丸茂文良学士は、東
 京大学スクリーバ教授の勧めにより鹿島清兵衛の援助を
 得て、医学者として初めてレントゲン線発生実験に成功
 し、細菌に対する影響についても研究している。
  これについて、5月31日、済生学舎校友会行った講演と
 実験供覧の記事「レントゲン氏の所謂X光線のデモンス
 トラチオン」が済生学舎医事新報42号508頁、6月15日に
 載っている。
  翌年の1897年になると、4月には、東京帝国大学医学部
 解剖学教室にX線装置が設置され、
  9月には、島津製作所が教育用X線装置を製作して、巡
 回展示し、
  10月には、小西六社がX線発生装置を輸入して、実験
 を開始し、この装置は、翌年、兵庫県立病院に貸し出さ
 れて診療に利用されている。
  1898年になると、X線の医学利用も次第に本格化し、
 東京帝国大学医学部外科学教室に設置されたX線装置で
 スクリーバが、3月17日の東京医学会例会において人体透
 視を供覧した。
  12月には、芳賀栄次郎が、自分の留学費用でドイツで
 購入したシーメンス社製X線装置を東京軍医学校に設置し
 ている。  
  特筆すべきは、日露戦争が始まった1904年6月には、芳
 賀栄次郎が、陸軍にX線装置を携行させて、第四野戦病
 院に設置し、戦傷治療に使用した。
.
1896年4月1日、青梅鉄道、甲武鉄道会社に営業を委託(建設
 は当初から委託した)
.
1896年4月1日、広島大本営が解散した。
  日清戦争の大本営が戦後処理を終えて、詔勅によって
 解散した。
  1894年8月8日、広島城内にあった第五師団司令部の建
 物が、明治天皇陛下の広島の御滞在所とされていた。
  陛下は、1894年9月15日から1895年4月27日までの7か月
 間、この地に御滞在された。
.
1896年4月3日、イタリアのスポーツ新聞「ガゼッタ・デロ・
 スポルト」が創刊された。
  スポーツ報道以外にも、1909年から開催されている自
 転車ロードレース、ジロ・デ・イタリアを主催している。
.
1896年4月6日、第1回夏季オリンピックがアテネで開催され
 た(~1986年4月15日)
  第1回国際オリンピック大会
  近代オリンピック競技大会の第1回大会が、フランス
 のピエール・ド・クーベルタン男爵の提唱によって、ギ
 リシャのアテネで開催された。
  開会式は、アテネのパンアテナイ競技場に5万人の観
 衆を集めて行なわれ・・参加国は欧米先進国の14か国だ
 った。
  選手は、男子のみで280人で、古代オリンピックと同じ
 ように女子禁制の大会だった(参加人数241人説あり)
  実施競技は、陸上、水泳、体操、レスリング、フェン
 シング、射撃、自転車、テニスの8競技43種。
  ヨットも予定されたが悪天候のため中止になった。
  ウエイトリフティングは、体操の一種目として実施さ
 れた。
  観衆に人気の陸上競技は、アメリカが圧倒的な強さを
 発揮し、全11種目のうち9種目において優勝した。
  ギリシャの財政事情によって金メダルは無く、優勝者
 には銀メダルが、第2位には銅メダルが、第3位には賞状
 が授与された。
  記録は、100メートル陸上競技男子は12秒0で、アメリ
 カのトーマス・バークが優勝した。
  金メダル獲得数、アメリカ(11)、ギリシャ(10)、
 ドイツ(6)、フランス(5)、イギリス(2)、ハンガリ
 ー(2)、オーストリア(2)、オーストラリア(2)、デ
 ンマーク(1)、スイス(1)、混合チーム(1)
  オリンピック賛歌は、この第一回アテネオリンピック
 で演奏されたもの・・スピロ・サマラス作曲、コスティ
 ス・パラマス作詞
.
1896年4月8日、河川法が公布された(底水工事より高水工
 事への転換した)
  日本で最初の河川法である。
  この法律は、河川管理者を原則として都道府県として
 いて、必要に応じて国が工事を実施する体勢を定めた。
  当時、相次いで起こっていた水害の防止に重点をおい
 たもので、以後日本の大河川の改修は、この河川法の下
 で実施された。
  当時、森林法・砂防法と合わせ『治水三法』と呼ばれ
 た。
  この旧河川法における河川管理の特色は、河川を「河
 川法適用区間」と「河川法準用区間」に分け・・
  適用区間については、内務省(戦後は建設省)によっ
 て直轄管理を行い、
  準用区間については、各都道府県知事が管理を行うと
 いうものであった。
  制定当時は、治水にのみ重点をおいた法整備であった
 ため、利水に関する想定はされていなかった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:米中の対立が始まったが、これは、「中国の態勢が
    崩れる」まで、アメリカは行なう・・
    そして、ドイツ国民の半数以上が、難民に対して
   「否定的な感情を持っている」と、アンケートの調査結果で
    明確となった。
.
紀元前5世紀、「古代ギリシャ人が到達した世界観」を書き
 残したのが「歴史の祖」と言われるヘロドトスだった。
  ヘロドトス(紀元前484年~紀元前425年)は、彼の著
 「歴史」の第4巻に書いた・・
  世界は、「オーケアノス」によって取り囲まれ、「ア
 シエー(アジア)」「エウローペ―(ヨーロッパ)」「
 リビュエー(リビア)」の三大陸からなっている・・と
 書いた。
  この三大陸を分かつのは、「タナイス(どん)川」「
 ネイロス(ナイル)側」「地中海」だと言い・・、
  ナイル川右岸にある「エジプト」はアジアだ・・と・・
  また、アジアの東の果てにあるのは「インド」で、そ
 のインドから東の地は、すでに「無人の境」で、その状
 況を語り得る者は一人も居ない・・と・・
.
紀元前202年、中国の楚(そ)の項羽(こうう)は、劉邦
 (りゅうほう)の率いる漢軍に囲まれ、四面から流れる
 楚の歌を聞いた。
  もはや、楚軍は降伏してしまったものと勘違いをし、
 絶望した。
  名高い「四面楚歌」の故事にまつわる紀元前202年の出
 来事だった。
     ・
     ・
5世紀、イギリスの初め・・
  この頃、ゲルマン部族の一系統のアングロサクソン族
 がブリテン島に移住した。
  そのゲルマン系諸部族は、「七王国」と言われる様に、
 7つに分かれて・・数百年間にも渡って戦ってばかりい
 た。
  しかし、不思議にも、この七王国は「言語ではまとま
 っていた」。
  ここから、後に、英語となる祖型が生まれて行った。
  後の時代、統合された国が形づくられる前、英語とい
 う統合言語が生まれていた。  
  9世紀になる頃、海から、バイキングにブリテン島は
 攻撃された。
  バイキングは、北欧を拠点とした海賊で、「ノルマン
 人」あるいは「デーン人」と呼ばれる、ヨーロッパ各地
 を荒らしまわる者たちだった。
  871年、イングランドの南西部のウェセックス国で、ア
 ルフレッドという名の者が王位に就いた。
  即位の当初、この王国は、このバイキングに追い詰め
 られていた。
  アルフレッドは、その気性の様に「野生の猪」と言わ
 れ猛進し逆襲した。
  バイキング達も侵攻を再開するという状態で、アルフ
 レッドを窮地に陥れた。
  アルフレッドは、追い詰められ、忠実な家臣団だけと
 共に小島に逃れ、潜(ひそ)んだ。
  深い森で、敵も近づき難かったが、味方も動きにくか
 った。
  アルフレッドは、農家に匿(かくま)われた。
  アルフレッドの素性を知らない農婦に、アルフレッド
 は、番をする様に命じられた「ケーキを焦がし」、彼女
 にこっぴどく叱られた。
  そのうち、アルフレッドの支持者が、だんだん数を増
 し、数年後、デーン人に対して決定的勝利をおさめた。
  もはや、デーン人は、イングランドの北東部の一地方
 に留まるしかなく、アルフレッドの勢力は、ロンドンを
 含む南部を手中に収(おさ)めた。
  北方からの渡来者のノルマン人は、対岸のフランス北
 岸に行かざるを得なくなり、今日、この地をノルマンデ
 ィーと呼ぶ。
  アルフレッドは、「大王」を付けて「アルフレッド大
 王」と呼ばれる。
  アルフレッドは、法典や年代記の編纂(へんさん)に
 努力した。
  1066年、「ノルマン人の征服」はイギリス史の大事件
 となっている。
  849年に、アルフレッドは生まれ・・、
  853年の4歳の時、教皇のレオ4世に謁見。
  855年の6歳の時、父とローマを再訪し、帰途、西フラ
 ンク王国の王女ユーディスと再婚した。
  871年(22歳)兄たちが次々に死に、兄の後を継いで即
 位した。
  875年(26歳)ウェセックス勢が初めて海戦で勝利を収
 めた。
  878年(29歳)伝説的に語られる天然の要害で助けられ
 た・・この時は、デーン人に急襲されていた。
  886年(37歳)ロンドンを奪回した。
  899年10月26日、死去・・死ぬまでデーン人の侵攻に苦
 しめられた。
  デーン人は、イングランド東部に定着していて、常に
 攻撃を仕掛けていた。
  兄の死も、871年のアッシュダウンの戦いというデーン
 人との戦いのときの傷が悪化して死んでいる。
  イギリス人の「史上初の王」。
  (参考)デーン人:北ゲルマン人の一支族。
      初め、スウェーデン南西部スコーネに居住し
     ていたが・・、
      今日のデンマークの諸地方に進出 (デンマー
     クの語は「デーン人の国」の意)
      ゲルマンの民族移動後も故郷にとどまり、ス
     コーネのスキョル朝は、古英語詩『ベーオウル
     フ』にもスキョルディンガスとして知られてい
     る。
      フランク王国のカルル1世 (大帝) がザクセン
     を征服して、デーン人と直接接触し、ユトラン
     ト(ユラン) のデーン王ゴッドフレッドは積極的
     にこれに対応、シュレースウィヒ南方に長大な
     土塁を築く一方、艦隊を率いてフリースランド
     海岸を襲撃した (810年)
      830年代からは、東西フランク王国およびイン
     グランドに侵入・・、
      ハンブルク、パリ、ロンドンなどの重要都市
     を攻撃し、占領した。
      彼らは、ノルウェー系バイキングに比し組織
     的で、全ヨーロッパを恐怖に陥れた。
      イングランド全島を征服する試みは、ウェセ
     ックスのアルフレッド大王にはばまれたが・・、
      9世紀後半、中部イングランドには、デーン人
     の自治のもとに彼らの法が行われるデーンロー
     地域が形成された。
      北フランスにおいても、彼らの首領ロロは、
     西フランク国王から彼らの実力で支配した土地
     を正式に封土として受け、これがノルマンディ
     ーとなった (911年) 。
      10世紀末より、再び、デーン人は、イングラ
     ンドに繰返し侵入して、略奪し、貢納 (デーン
     ゲルト) を要求した。
      1013年、イングランド王となったデーン人の
     スウェイン1世は、翌年没したが、その子カヌー
     ト(大王) とその子孫は、イングランドにデーン
     朝を開いた (1018年~1042年)
.
1016年、デンマーク王子クヌットは、ついにイングランド
 を征服して王となり、デーン朝を開いた。
  彼はまもなくデンマーク王となり、ノルウェー王をも
 兼ね、スウェーデンの一部をも支配する北海帝国を建設
 した。
  この頃が、デーン人の活動の最盛期。
.
1658年、マルティノ・マルティニが「中国古代史」を出版
 した・・すると、ヨーロッパのキリスト教社会に大きな
 論争が巻き起こった。
  この本は、「ヨーロッパで初めて出版された、最も信
 頼に足る中国史」と評された。
  今・現代は、キリスト教の聖書に記述される「アダム
 とイブの創造」や、「ノアの大洪水」など・・キリスト
 教徒でさえ、それは作りあげられた仮想の歴史だと知っ
 ているが・・
  17世紀の頃、キリスト教のイエズス会キリスト教宣教
 師たちが、東洋にやって来て・・、
  中国に入り、中国の歴史の事実を知ると・・大問題が
 持ち上がった。
  ヨーロッパへ・・中国に関する様々な情報をヨーロッ
 パへもたらすと・・その歴史に、驚異的事実が書かれて
 いる事にキリスト教徒たちは驚いた。
  ヨーロッパでは・・矛盾の多いキリスト教の出来事に
 種々の歴史的主張が行われ、歴史が経過して来ていたが・・、
  それでも、なんだかんだと辻褄(つじつま)を合わせ
 ようとする年月が過ぎていたが・・
  17世紀に至って・・中国の歴史を知ると、キリスト教
 の歴史や、年代史との矛盾が生じた。
  それも、中国の歴史を知れば知るほど、中国の歴史の
 方が正しいと分かって来た。
  今まで、キリスト教の歴史研究者たちには、まともな
 中国史は登場していなかった。
  メランヒトンの普遍史(キリスト教の聖書が叙述する
 内容に基づくキリスト教的史観から構成された世界史)
 にも、中国史は登場していなかった。
  (参考)メランヒトン:ドイツの神学者、宗教改革者、
     大学のギリシア語教授、ルターに次ぐ指導者、
     1497年~1560年、
  マルティノ・マルティ二(1614年~1661年)の「中国
 古代史」が、問題発生のきっかけだった。
  マルティ二も、自(みずか)らも、中国で宣教活動を
 しながら、中国の史書などを読み、本書を記した。
  彼は、三皇五帝から夏・殷、そして、周、さらに、彼
 のいる清朝の今まで続く諸王朝は、疑いの無い事実とし
 て分かって来ていて・・「事実だ」と認めるに至った。
  となると、キリスト教の話の歴史の根拠が崩れること
 になる。
  (参考)夏:殷(いん)以前にあった中国最古の王朝。
      始祖は禹(う)。
      紀元前15世紀ごろの桀(けつ)王が暴政を行っ
     たため、殷の湯(とう)王に滅ぼされた。
  (参考)殷:いん、中国史上、実在の明らかな最古の
     王朝。
      紀元前17世紀末、もしくは、紀元前16世紀初
     め~紀元前11世紀、今の河南省を中心に黄河下
     流域に威を振るった。
      開祖は湯王。
      自らは首都の名である〈商〉を国号として用
     い、しばしば都を移した。
      最後の都(王朝の後半期)が殷墟である。
      紀元前1050年ごろ、紂(ちゅう)王の時、周の
     武王に滅ぼされた。
  中国の三皇五帝の最初の帝王の伏羲(ふくぎ)は、イ
 エスよりはるか以前の年代に統治を始めたことになる。
  また、ヘブライ語聖書の「ノアの大洪水」より600年以
 上も古くなる。
  ノアの大洪水で人類は絶滅して、ノア等の人類が再出
 発したという話もおかしくなる。
  ヨーロッパは、「矛盾という話」どころか、中国の歴
 史書類が「間違っていると論証できない」なら・・、
  「キリスト教聖書の記述や年代の方が、間違っている
 ことになる」と気付いた。
  当然、マルティにも気付いていた。
  しかし、マルティニは、中国の歴史書の記述を否定す
 ることが出来なくなっていた。
  また、マルティニだけではなく、ヨーロッパの歴史学
 者たちも、「アダムとイブの創造」や「ノアの大洪水」
 などのキリスト教聖書の記述を歴史的事実として信じて
 いたが・・高度な水準を有している中国の歴史書を、そ
 の記述を・・否定することが「出来なかった」。
  否定的根拠を提示することが・・出来なかった。
  中国の文明は、それなりに重大な事実の歴史の積み重
 ねの「事実の上」にあった。
  これは、キリスト教の「根も葉もない話」を、明確に
 指摘する数多くのエピソードの一つである。
  キリスト教カトリックも、また、キリスト教プロテス
 タントも、このキリスト教の根拠を崩される大問題に、
 対立しあいながらも、キリスト教の根拠を守ろうとして
 努力をした・・が・・
  その両派の一致した見解をまとめる事もできず、また、
 その根拠も見い出す事も出来なかった。
  世は大航海時代。
  18世紀にかけて、色々な研究が行なわれるが、次々と
 新しい説が唱えられるが、相互の批判や論争が叫ばれる
 だけで、さらに混乱は増した。
  「キリスト教の存立の根拠の危機」が深まるばかりだ
 った。
  それに、大航海時代・・新たな諸民族の歴史などの新
 事実は、キリスト教の考える枠内に入れられるものでは
 なかった。
  悲しいかな科学的根拠を欠いたキリスト教が、「その
 根拠を崩される時代」だった。
  思えばキリスト教の天動説を崩されたガリレオの地動
 説の科学の進歩から、このキリスト教の悲劇は始まって
 いた。
  所詮(しょせん)、最初からその様な宗教だった。
  キリスト教の学者たちが、どのように論争を重ねたか
 の歴史を書いてみたって時間の無駄になるだけなので省
 く。
  人間観も、「神の似姿観」におさまることへの不合理
 さを「つくづく感じる時代」となって行く・・
  この転換を理解が出来ずに、取り残される人は居るが・・
  天地創造第六日に神の姿をかたどって創造され、支配
 者として「特別な地位を与えられた」・・その様な傲慢
 な考え方から、色々な問題発生の根源ともなって来た・・
  森林伐採などに始まる地球の環境破壊の「やり放題の
 人間さま」が生まれた・・など・・
  「地を従えよ」のキリスト教教義は、温暖化で悩む今・
 現代の「自然破壊の原因の考え方」のキリスト教教義だ・・
  謙虚に自然を見る目も育たない。
  人間のバランスある理性も損なわれる・・
  自然の中の一員、小さな分かち合いしかない人間を気
 付かせない・・
  傲慢にふるまう権利など、人間は、誰からももらって
 いない・・
.
1872年6月12日、日本で、「初めての鉄道」が創業した。
  新橋~横浜の鉄道開始と言われる、品川駅~横浜駅(
 現:桜木町駅)間で仮開業がなされ、1日2往復の列車運
 行が行われた。
  翌日の1872年6月13日には、6往復となった。
  経営は国営で、路線は旧東海道に沿って敷かれ、単線
 だった。
  途中に、品川、川崎、鶴見、神奈川の4つの駅(停車場・
 ていしゃば)が置かれた。
  鶴見以外は江戸時代の宿場で・・、
  鶴見は、武蔵国橘樹(たちばな)郡の東海道沿いにあ
 った村落で、宿場ではなかった。
  ただ、付近を流れる鶴見川は水運に利用されていた。
  線路は、1881年の9年後に複線となった。
  そして、やがて、終点の横浜から関西の神戸まで延伸
 され、東海道本線となり、日本を支える大動脈となった。
.
1873年1月10日、徴兵令が布告された。
  明治維新・・新政府は、この様な布告が出来る所まで
 力を付けた。
  明治維新の1867年、新政府が出来て・・新政府は、当
 然、中央の政府が統治する形の確実な確立を、当然なが
 ら目指した。
  しかし、各地に独自の軍事力を有する諸藩(旧大名)
 が存在した。
  新政府は、独自の直轄の軍事力を整備すると共に、反
 体制を解体したいとした。
  しかし、諸藩の抵抗と財政難によって簡単には実現し
 そうになかった。
  1871年2月、新政府は、西郷隆盛の協力を得て、薩摩藩・
 長州藩・土佐藩の兵力から政府直轄の軍隊である御親兵
 (後の近衛兵)を編成した。
  そして、その力を背景に、1871年7月、廃藩置県を断行
 した。
  さらに、地方の秩序を維持するため、全国の要所に鎮
 台・分営を配置した。
  そして、ここに、旧藩の兵力を集めて行った。
  そして、1873年1月10日、徴兵令が布告されるに至った。
.
1913年12月23日、アメリカで、民間の中央銀行が出来ると
 いうハレンチな重大法案の「連邦準備法」が成立した。
  クリスマス休暇で、議員が選挙区に帰り、不在中、ほ
 とんど審議されないという状態で可決した。
  「世界を手玉にとる」。
  その為に、際限なく人を大量に殺す力を得ようとする。
  一方、金融で、世界を牛耳ろうとする者たちも居る。
  自分だけに都合よく世界が回るようにと、その様なこ
 とをする。
  中国が、何年間も10%台の伸びの軍拡を続けて、その
 伸び率は20%にも届こうかという異常さもある。
  そして、軍事力でアメリカを抜こうという状況である。
  この国の怖さは、「一握りの者たちによる独裁」とい
 う政治体制である。
  会議と言ったって、『ナチスのハイルヒトラー』を彷
 彿とさせる「反対の出来ない・・全員が賛成を唱和する
 議決をする状況」。
  厳しい討論の場面などない。
  一党独裁で、野党が居ない状態。
  また、民の選挙による「民の選択」も排除されている。
  また、金融でも、世界を牛耳ろうとする者たちが、世
 界中の金持ちが、『ある国の金融状況を操作する』。
  目的は、「座して、金が自然に転がり込んで来る」で
 ある。
  リンカーンの暗殺による死後、法定通貨を駆逐し、そ
 して、二度におよぶ恐慌を起こさせて、世界的な金融資
 本家たちは支配力を強めて行った。
  その目的は、金が儲かるアメリカの「通貨発行権」を
 握る事だった。
  この試みは3回目だった。
  その為の秘密会議が、アメリカのジョージア州の小島・
 ジキル島で開かれた。
  詳しくは、ユースタス・マリンズ著「民間が所有する
 中央銀行」にあるが・・
  アメリカは、この主権を失った。
  この会議のメンバーは・・、
  ①ネルソン・オルドリッチ、上院議員(娘婿はジョン・
   D・ロックフェラー・ジュニア)
  ②フランク・バンダーリップ、銀行頭取(ロックフェ
   ラーの銀行)
  ③ヘンリー・ダビットソン(モルガン商会経営者)
  ④チャールズ・ノートン、銀行頭取(モルガンの管理
   下)
  ⑤ベンジャミン・ストロング、副頭取(モルガンの管
   理下)
  ⑥ポール・ウォーターバーグ、商会の経営者(ドイツ
   系ユダヤ人)
  ⑦ピアット・アンドリュー、財務省次官補・・
  以上の様にアメリカの二大財閥(J・P・モルガンと
 ロックフェッラー)関係ばかり。
  そして、その影の背後に居て影響力を行使したのが・・
 イギリスのロスチャイルド家・・
  ロスチャイルド、モルガン、ロックフェラーによって
 アメリカの中央銀行の民間銀行の形による設立が画策さ
 れた。
  そして、出来たのがフェデラル・リザーブ・システム
 (FRS=連邦準備制度)
  これは、真の目的が見えにくくしたためだった。
  参加者は、中央銀行を想像させる名前を回避すること
 で一致した。
  目的は、アメリカ議会から通貨の米ドルの発行権限を
 奪う事だった。
  この法案は、1913年12月23日、クリスマス休暇で議員
 が選挙区に帰り、不在中、ほとんど審議がなされない中
 で可決した。
  連邦準備法は、その様な状況で成立した。
  この様な「どさくさ」で民間の中央銀行が出来る事と
 なった。
  日本でも、最近(2019年)、この様な似た状態で、ほ
 とんど審議もしないで『移民法』が可決した。
.
1936年12月12日、西安(せいあん)事件が起きる。
  西安は古都の長安である。
  蒋介石が変身した。
  この変身から日中戦争、そして、第二次世界大戦に至
 る経緯が始まった。
  アメリカが、この蒋介石に陰で関わっているが、戦後
 になって、新事実が公開されて、コミンテルンの謀略も
 あったことが明らかになった。
  1936年に起きた「西安事件」は、怪しげな動きを始め
 た中国が原因で起きた事件だった。
  蒋介石が騙(だま)され、誘拐され、そして、監禁さ
 れてしまった。
  やったのは張学良だった。
  (参考)張学良:ちょうがくりょう、中国、東北の軍
     閥。
      1928年、中国町北部の実権を掌握し、蒋介石
     の国民政府と提携した。
      1928年12月29日、中国東北全土で青天白日旗
     (中華民国国民党の党旗)を掲揚した。
      1931年の満州事変以後、国府の対日方針に従
     って無抵抗主義を取り、東北を日本軍にゆだね
     た。
      共産党軍の長征に際して西北剿匪副司令に任
     命されたが、秘かに共産党軍と停戦を結び・・
      (剿匪(ぴんいん)の意味は、匪賊を討伐す
     る、共産党を討伐する)
      1936年12月、共産党軍の討伐を督励するため
     に西安に到着した蒋介石を捕らえるという西安
     事件を起こした。
  そして、蒋介石は、共産党勢力と共闘するように求め
 られた。
  共産党を倒したいと戦っていた蒋介石だが・・しかし、
 ここで、蒋介石は、共産党勢力と共闘するという180度の
 転換をした。
  ソ連との密約があったという。
  共産党を取り締まる役(剿匪)に付いた張学良が、蒋
 介石を捕らえるのも怪しかった・・
  そして、盧溝橋事件が起きる。
  1937年7月7日夜、盧溝橋で、突然、日本の駐屯軍へ中
 国軍が発砲した。
  この日本の駐屯は、中国政府と北京議定書の協定で駐
 屯を行なっている事で、他の国も同様に駐屯していた。
  しかし、この様な状況の中で、中国は、日本に発砲し
 た。
  戦後、情報が公開されて、中国兵の発砲で、蒋介石の
 国民党軍と日本が戦うように仕組んだコミンテルンの策
 謀だとはっきりした・・
  コミンテルンは罠に嵌(は)めようとしていた。
  この翌日の1937年7月8日には、事態を重視した日本は
 森田中佐を派遣し、宛平県長・王冷斉、及び、冀察外交
 委員会専員・林耕雨等も中佐に同行した。
  そして、これに先立って豊台部隊長が、直ちに蘆溝橋
 の中国兵に対しその不法を難詰した。
  また、同所の中国兵の撤退を要求した。
  しかし、それらの交渉中の8日午前4時過ぎ、龍王廟付
 近、及び、永定河西側の長辛店付近の高地から日本軍に
 対して、迫撃砲、及び、小銃射撃によって攻撃がなされ
 た。
  日本軍も止むを得ず自衛の応戦をし、龍王廟を占拠し、
 蘆溝橋の中国軍に対して武装解除を要求した。
  午前9時半、中国側の停戦要求によって両軍は停戦状態
 に入った。
  日本側は中国の行動を監視した。
  この後、戒厳令が施行され、比較的平穏に経過した。
  中国側は、1937年7月9日の午前5時を期して部隊を撤退
 することを約束した・・
  しかし、午前6時になっても盧溝橋付近の中国軍は、撤
 退しないばかりか、逆に、兵力は増加して行った。
  そして、日本軍に対して度々銃撃を行なった・・
  日本軍は止むを得ずこれに応戦し、中国軍の銃撃を止
 めさせた。
  日本軍は中国軍に協定不履行に対して厳重抗議を行な
 った。
  中国側は、9日午前7時、旅長及び参謀を盧溝橋に派遣
 して、中国軍の撤退を督促させた・・
  中国軍は、午後0時10分、ほぼ撤退を完了した・・
  しかし、一方で、川の西岸に兵力を増加し、弾薬など
 の軍備品を補充するなど、戦備を整える状況であった。
  この様な中国側のはっきりしない状況が続き、10日も
 日本軍監視部隊に射撃を加えるなどをした。
  そして、ついに、中国軍が協定を無視した。
  中国軍は龍王廟を占拠した・・
  そして、引き続き盧溝橋の日本軍を攻撃した。
  ここで戦闘が開始された・・日本軍は午後9時頃、龍王
 廟をとり返した・・
  11日早朝、龍王廟を日本軍は退去した。
  しかし、中国軍は、兵力を増加させて行った。
  この様な状況の中、日本軍駐屯軍参謀長は、北平に於
 いて、中国側首脳部と折衝に努めた。
  中国側の態度は強硬であった・・
  打開の道が無く、交渉も決裂するのもやむを得ない状
 況に陥った。
  しかし、日本側の強固な決意を見て、中国側は急遽、
 態度を変えて、午後8時、松井特務機関長に対し、日本側
 の提案を受け入れた。
  そして、二十九軍代表・張自忠、張允栄の名を以って
 署名の上、日本側と手交した。
  1937年7月11日、停戦は成立した。
  協定内容は、中国側は、協定違反などの責任者を処分
 する・・
  また、将来、再び、この様な事件の惹起をすることが
 無きよう防止につとめること・・
  また、蘆溝橋、及び、龍王廟から兵力を撤去し、保安
 隊を以って治安維持に充てること・・
  及び、抗日の各種団体の取締を行う・・など
  しかし・・この後、この年の1937年12月になって・・、
 上海の日本人の生活している居留民地区(他の国々の人
 たちも居る地区)の日本人地区に、大部隊の中国の国民
 党軍が攻めて来る。
  日本兵は3000人くらいであったが、アメリカなどが支
 援するその数が10倍以上の大部隊で攻撃して来た。
  日本は、戦わざるを得ない状況に置かれて行った。
  この時、日本の兵力はわずかだった・・日本からの支
 援部隊を送らざるを得なくなった。
  支那事変(日中戦争)が起こされて行った。
.
2019年4月1日、アメリカは、中国の態勢が崩れるところま
 でやる!・・今・現在のトランプ政権の姿勢・・
  『ニュース女子』 #207(平成を振り返る~経済・社会・
 政治・国際情勢~) ・・以下は、その聞き取り記述・・
  https://www.youtube.com/watch?v=_YA9HIqvWCo
・平成元年(1989年)12月、日経平均株価、最高値3万8,957
 円を記録した。
  第26代、日銀総裁の三重野康氏が、バブル経済の抑制
 を目的とした「金融引き締め策」を実施した。
  これはかえって景気が悪くした。
  平成2年(1990年)バブルは崩壊した。
  その結果、「失われた20年」がやって来る・・不況が
 続く時代へと突入した。
  平成9年(1997年)四大証券の一角の山一證券が経営破
 綻し、つぶれた。
  「山一證券」の最後の社長の野澤正平氏が、「私ら(
 経営陣)が悪いのであって、社員は悪くありませんから!」
 と、涙で記者会見をした。
  号泣状態の会見がメディアで大々的に報じられた。
  平成9年(1997年)タイのバーツが暴落し、アジアが通
 貨危機に陥(おちい)った。
  日本の金融業界はいずれも業績が悪化し、銀行は生き
 残りをかけて合併に次ぐ合併の再編が行われた。
  平成13年、さくら銀行+住友銀行=三井住友銀行
  平成14年、第一勧業銀行+富士銀行+日本興業銀行=
 みずほ銀行
  平成18年、東京三菱銀行+UFJ銀行=三菱東京UF
 J銀行
  急速に拡大したのがITベンチャー企業・・ライブド
 ア、楽天、ヤフー、サイバーエージェント
  六本木ヒルズに拠点を持った。
  セレブな生活を送る・・「ヒルズ族」と言われた・・
  ライブドア元社長の堀江貴文氏は・・
  平成16年(2004年)プロ野球球団買収、平成17年(2005
 年)ニッポン放送買収を仕掛けて世間を騒がせたが、ど
 れもうまく行かなかった。
  平成18年(2006年)堀江社長は逮捕された・・証券取
 引法違反容疑だった・・ライブドアの株価は暴落(ライ
 ブドア・ショック)ITバブルの陰り・・ライブドア株
 価がたったの94円となる。
  平成20年(2008年)平成最大の金融危機・・リーマン・
 ショック・・アメリカの罪・・アメリカのサブプラムロ
 ーン問題が発端・・国際的な金融危機・・世界中、また、
 日本にも大打撃を与え、株価が大暴落した・・
  そして、歴史的な円高となる・・企業業績はみるみる
 悪化し・・その後遺症は残ったままとなる・・何時、良
 くなるのかの見通しが立たない状態・・
・平成は災害の時代・・未曾有の大災害が日本に襲来した・・
  平成7年(1995年)1月7日、阪神・淡路大震災(マグニ
 チュード7.3)兵庫県南部・・国内観測史上初の最大震度
 7を記録した・・商業ビルや高速道路が倒壊した・・死者
 6,434人(関連死を含む)、住宅被害は約64万棟(消防庁
 確定)・・
  平成23年(2011年)3月11日、東日本大震災(マグニチ
 ュード9.0)東北地方・・マグニチュード9.0は国内観測
 史上最大・・死者1万5,897人(警察庁発表、2019年3月1
 日時点)、行方不明者2,533人・・福島第一原発、水素爆
 発・メルトダウンなど重大事故が発生した・・
  平成7年(1995年)地下鉄サリン事件・・オウム真理教
 が起こす・・世界で初めて化学兵器が一般人に使用され
 た無差別テロだった・・死者13人、負傷者6,300人以上・・
 平成30年(2018年)死刑囚13人の死刑が執行された(オ
 ウム真理教元代表・松本智津夫元死刑囚ら)・・
・事故・・
  平成17年(2005年)JR福知山線脱線事故・・JR福
 知山線の塚口駅~尼崎駅間で発生・・死者107人(運転士
 1人含む)、負傷者562人・・史上最悪事故・・
・凶悪事件・・
  平成9年、神戸連続児童殺傷事件、さかきばらせいとと
 名のった。
  平成10年、和歌山毒物カレー事件
  平成12年、世田谷一家殺害事件
  平成13年、附属池田小事件
  平成20年、秋葉原無差別殺傷事件
  平成28年、相模原障碍者施設殺傷事件・・最大の殺傷
 事件
・雲仙普賢岳(長崎県)の噴火・・平成2年(1990年)11月、
 198年ぶりに噴火。
  翌年、再噴火後、最大の火砕流が発生し、43人の使者・
 行方不明者を出した。被害者の多くが報道陣や消防団関
 係者だった。
・平成の経済史・・
  リーマン・ショック、
  ライブドア事件、
  銀行破綻、
  消費税導入、
  バブル崩壊・・日銀と大蔵省が導いた。
  1991年1月、皆がこのバブルは終わらないと考えていた
 が、不動産価格が下落し、株価が下落し、生活も一変し
 た。
  これが、今だに尾を引いている。
  失われた20年、30年と言われる・・
  今に残るこの出来事の要因は2つ・・日銀の金融引き
 締め(利上げ)と、大蔵省の総量規制、産業規制(不動
 産、建設、ノンバンクへ融資をするなとした)・・ピー
 クを過ぎた頃にやって、かつ、やり過ぎた・・大崩壊へ・・
  株価は違法な取引で高くなっていたのは事実、土地も
 そう・・それで、税法が修正された。
  また、インフレになってないのに、やってはいけない
 この様な時に、引き締めを日本銀行がやってしまった・・
 不動産規制はやっても良いが、金融引き締めは、日銀の
 大間違い。
  この大間違いを国内で言わないのが不思議・・
  世界では、国際社会では、皆が言っているのに??・・
  逆に、日本国内では、三重野日銀総裁はバブル退治に
 邁進して「平成の鬼平」とマスコミは「称賛するという
 始末」・・ていたらく・・
  平成元年から金融引き締め政策を実施した犯人・張本
 人は日銀・・日銀は馬鹿なことをしたのだった。
  物価が上がってない時にやったら駄目なのだ、絶対に
 駄目なのだ・・
  それでも、日銀は、「正しい正しい」と言っている・・
  この引き締めをズーット続けた日銀の罪も重い・・
  失われた30年は日銀が作った・・そして、大手銀行も
 破綻して潰れる状況・・日本長期信用銀行も潰れた(1952
 年、設備資金等長期資金の安定供給を目的として設立さ
 れた銀行)・・
  皆が、都市銀行が潰れるなどと想定してないことが起
 きてしまった・・
  預金を集めるのが業務だったのが、借り手を探す世の
 中になった・・バブルで企業に金が余っているので借り
 手が居ない・・だから、無理に金を貸してビルを建て替
 えさせた。
  「税金対策に良いですよ」と言って無理に借金を作ら
 せた・・しかし、バブルが崩壊して、不動産価格が暴落
 して、その借りた方たちは借金だけが残り、借金の山を
 築いた・・
  破綻した個人が多く出るという悲劇が生まれた・・千
 代田区、港区に、特に、多く出た・・銀行の口車に乗っ
 た人たちの悲劇が起きた・・
  北海道拓殖銀行も潰れた。
  官僚に「潰しに行け」という指示が出る時代だった・・
  平成9年、北海道拓殖銀行が経営破綻。
  平成10年、日本長期信用銀行が経営破綻。
  バブルの時は、大蔵省担当の者が居て、大っぴらに接
 待攻勢をかけていた・・ノーパンしゃぶしゃぶが大流行
 した。
  この様な大問題を生じさせた日本銀行は、その責任を
 とったのか??
  今だに、全然、その責任をとっていない。
  政策をミスするのは人間だからあるのだろうが、その
 責任をとらない日銀は大問題だ。
  1989年(平成元年)国際経済や政治ががらっと変わっ
 た年だった。
  冷戦も終わり、日本の戦後の居心地の良い温室が壊れ
 た。
  安全保障はアメリカ任せだったし・・軽武装で、経済
 成長と、経済だけを謳歌しているだけで良いとしていた。
  その甘い時代は終わった。
  大衆文化の代表の美空ひばりも死んだ。
  戦後の終わりを感じさせた。
  そして、日本に大変な時代がやって来た。
・平成の社会史・・東日本大震災や原発事故から思うこと
 は・・
  「大きな技術は、皆、嘘だった」ということが露見し
 た・・「地震の予知がまったくできない」ということが
 分かっているのに、東海地震に金をかけてやった。
  東海は山ほどやったのに・・阪神・淡路の大震災が起
 き、東北大震災が起きた。
  完全な技術のミスだ。
  津波の予知のブイは、ほとんど東海地方にしか置いて
 なかった。
  東北地方も予知されていたがブイは置かなかった。
  そのブイで、津波の大きさが分かっていれば、消防団
 の方々が海岸で退避勧告をする危険性も予知できたし、
 その他の方々へその大きな津波の規模の危険性を伝える
 ことが出来た・・のに・・
  その犠牲者は15,000人の方々だ。
  予知ができないのに、今でも発生確率を発表している。
  『科学で地震の予知はできない』。
  「無いよりまし」な程度と思うか? まったく無駄と
 思うか?・・の話。
  この30年に起きた地震は、発生確率が5万分の1などと
 非常に小さく低い地域に発生している。
  予知を出すから問題が起きるのだ。
  下手に予知をするから、「見落とされたところの被害
 が大きくなる」のだ。
  しかし、その場所で、どのくらいの大きさの地震が起
 きるのか?は分かる。
  エネルギーの蓄積度が分かっているからだ・・
  だから、自治体から出ているハザードマップは非常に
 正確だ。
  それを見て、家の対策をすれば安全が確保できる。
  この様な事の周知徹底がなされていないという現状が
 ある・・それで知って、対策を事前に立てよ!・・
・原発事故について・・
  二つの大きな嘘がつかれた・・
  チェルノブイリは爆発するけど、軽水炉の原発は爆発
 しない・・
  それは、事故制御性と多重防御の二つの柱で事故が発
 生しないようにしている・・しかし、これは嘘だった・・
  専門家会議でも嘘が通っていた・・これは、今でも嘘
 をついた状態となっている・・
  この様な専門家の嘘が存在することが問題・・
  嘘をつかない専門家となることが大切なことで基本だ・・
  間違ったなら正直に言うのが大切・・次のステップア
 ップに役に立つ展開に持って行くのが大切・・これがな
 されていない・・
  この点、東北新幹線は、東日本大震災の時に、28両が
 走っていたが事故を起こさなかった・・
  これは、それ以前の新潟の教訓が生きていて、耐震策
 を行なったからだった・・
  300キロ/時で走っていたのが27両も居たが、事故にな
 らずに対策が生きた・・技術は正直に積み重ねるのが大
 切な基本・・(面子で嘘をついて糊塗するな!)・・
  今、運転している原発の安全性は大丈夫か?・・
  (技術上の)本当のことを言ったら、総ての原発関係
 の仕事から外された・・
  「官僚に周りを固められて動きが取れない」という答
 えが返って来た・・
  その様に言う本人にも覚悟がない・・責任者が国民の
 命よりも自己保身に走った・・勲章が貰いたいという意
 識が垣間見られる・・だから、真実を絶対に言わない・・
 (「それでも地球は回っている」とキリスト教裁判所で
 言ったガリレオの如く・・技術は、誠実に実施し、行動
 してこそ生きるのだ)・・
・オウム真理教の事件について・・
  日本の憲法の現状から、「日本は無防備状態」で来て
 いる・・
  オウムの事件は、テロ事件であるが、本当は、国防事
 件である・・
  本当は、軍隊レベルで対処しなければならない・・
  長野県のサリンの事件も、地方の警察が対処するには
 荷が重すぎる・・
  日本で使われた初めてのサリン事件で、警察で対処で
 きるものではない・・
  日本の軍がしっかりしていれば、軍が出て行ってしっ
 かり調べ、対処しなければいけなかった問題だった・・
  しかし、曖昧にしてしまった・・
  日本はこの様な体制が出来ていないという『大問題』
 がある・・
  国軍の必要性はこの様な点からもある(必要な憲法の
 改正)・・
  これから、「国民の生命と財産」の安全のために、逃
 げて通れるものではない・・
  オウムは、ロシアともやろうとしていた・・ロシアか
 らヘリコプターを買い、オーストラリアのウランを手に
 入れようとし、核爆弾の開発もしようとしていた・・
  日本の公安調査庁も不十分だ・・機能不全に陥ってい
 る・・
  破壊活動防止法:暴力主義的破壊活動を行う団体に対
 する規制措置を定めるなど、公共の安全を確保する事を
 目的とする法律・・
  この法律がありながら、必要な行動ができなかった公
 安調査庁だった・・
  国際的な感覚から「ずれている日本」・・世界はこの
 問題が最大の問題と捉えているのに、のほほんとしてい
 る日本の当事者や日本の公的担当機関・・
  また、国会でこの法律の議論が『タブー』とされてい
 る・・
  前向きな改善に進まない「最大の病根」となっている・・
  議論もできなければ、『言ってはいけないのだ』と言
 われる日本の国会となっている・・
  まともな行動がとれない元凶が「ここにある」・・
  諜報機関も日本にはない・・
  ちゃんとした情報を持ち得ない現況の日本は、「お手
 上げ状況にある」・・
  逆に、国会議員たちは束(たば)になって「発言者の
 口を封じをしようとする」という「異常さ」・・
  これから移民が日本に押し寄せて来るが、そして、色々
 な人が入って来るという日本であるが・・「その対応が、
 まったくできてない」という状況を「さらけ出している」・・
  相手に「好き勝手が出来ますよ」と言っているような
 もの・・
  スパイ防止法や特定秘密保護法を作ったが、この法律
 もまったく「骨抜きになっている」・・
  諜報活動がやり放題の日本・・国家としての日本が、
 その国家としての対応が出来ないという状態にある・・
  オウムの事例が生きていない・・反省をしているのか?・・
・政治・国際情勢編・・
 日本国内・・
  平成5年(1993年)自民党、55年体制に終止符・・細川
 連立内閣が誕生した・・細川護煕総理大臣が誕生・・
  平成13年(2001年)小泉純一郎総理大臣、小泉内閣発
 足・・郵政民営化、聖域なき構造改革、
  平成14年(2002年)拉致問題解決のため、北朝鮮へ電
 撃訪問・・
  平成17年(2005年)社会保険庁、年金記録問題、ミス
 ター年金の活躍、悪夢の序章、
  平成21年(2009年)民主党が政権奪取、鳩山由紀夫総
 理大臣、鳩山内閣が誕生、円高に誘導して企業の競争力
 がなくなり経済は大混乱に陥った、次の菅政権も酷かっ
 た、
  平成23年(2011年)3月11日、東日本大震災、菅政権の
 福島原発事故での酷い対応、菅内閣が大失態をする、失
 態続きだった、
  平成24年(2012年)第2次安倍内閣が誕生、アベノミク
 ス政策で経済が安定、
・国際情勢・・
  平成元年(1989年)ベルリンの壁が崩壊した、
  平成3年(1991年)ソビエト連邦が崩壊した、米ソ「冷
 戦」が終結した、
  平成5年(1993年)EU(欧州連合)が発足、通貨の統
 合、
  平成13年(2001年)9月11日、米国同時多発テロ事件、
  平成15年(2003年)イラク戦争の勃発、同時多発テロ
 事件の報復としてやった・・その後、国際テロ組織が乱
 立する、
  平成22年(2010年)尖閣諸島で中国漁船衝突事件
  平成24年(2012年)李明博韓国大統領が竹島へ上陸
・民主党政権は円高を放置して酷かった、企業の業績悪化
 で就職難になった、公約は何一つ守らなかった、消費税
 を上げた、政権交代で出来た民主党によって国民は悪夢
 を見た、
・郵政民営化・・平成17年成立、平成19年実施、
  小泉総理による行政改革の本丸で、郵政選挙に勝利し
 法案を成立させた。
  郵政三事業(郵便、簡易保険、郵便貯金)などを国か
 ら民間会社に移行した、
  民営化の1000頁の法案ができた・・「郵政民営化」以
 外は民営化ではない、水道の民営化も民営化ではない、
 地下鉄の民営化も民営化ではない、道路の民営化も民営
 化ではない、これ等のすべては「会社化」というもの・・
  株式も民間で、働く人も民間なら民営化で、これは郵
 政以外は無い・・
  株式は、国が持つものがほとんど、だから、民営化で
 はない・・東京の地下鉄も株式は国が持っている・・外
 資に郵政が盗られると言われたので、法律で盗られない
 様にした・・
  世襲制の郵便局員が「郵政民営化」に反対した・・郵
 便制度ができる時に協力し、資産を貸し、また、郵便業
 務に協力した人たちが世襲制となっている・・
  郵便事業は採算が合わない事業、だから、民営化は無
 理・・田舎の「人がほとんど居ない方たちへまで」郵便
 を届けなければならないという責任がある事業・・3割の
 年賀状で儲かるだけ、あとわずかなビジネス便だけ・・
 「郵政民営化」への執念が強かった小泉総理・・
・選挙制度・・実現しない二大政党制・・
  「選挙制度改革」は大失敗・・
  中選挙区制度から小選挙区制へ変わったのは改悪だっ
 た・・小選挙区比例代表並立制は駄目だ・・
  選挙制度改革:平成6年に公職選挙法が改正されて、衆
 議院の選挙制度が、中選挙区制から小選挙区比例代表並
 立制に変更された・・
  小選挙区制は、「執行部が絶対的な権力を持つ」制度・・
 公認の権利を持つ執行部・・
  小選挙区比例代表並立制は、有権者が1人2票を持ち、
 小選挙区と比例代表の2つの選挙を並行して行う。
  定数が465人で、小選挙区289人・比例代表176人・・
  1選挙区で1人が選ばれる一騎打ち方式なので、公認を
 受けないと絶対勝てないという選挙の状態になる・・そ
 のため、選挙に勝つには公認を貰うのが必須となる・・
  「その公認権を持つ執行部」に権力が生まれた・・
  執行部の言う事を聞かざるを得なくなる候補者となる・・
 議論などできない、自分の意見なんて言えなくなる・・
  自民党に派閥があるが、派閥のトップの力が落ちた・・
  派閥のトップで、総裁になろうとする人さえいない状
 態・・
  「議論が基本の政治」を駄目にした「選挙制度改革」・・
 自民党の活力も無くなった・・定数3の中選挙区制へ戻す
 べきだ・・
  二大政党制で、政権交代が出来る様にとして小選挙区
 制にしたが、その思惑は空振りだ・・
  国民の選択次第で代わるだけ・・
  金権腐敗政治の根絶を掲げた「選挙制度改革」でもあ
 った・・政党助成金を税金から出す様にした・・
  だからと言って、政党への企業献金を禁止してないと
 いうのが現状・・
・国際情勢について・・
  「1991年のソ連の崩壊」と「中国の興隆」・・
  1989年11月、ベルリンの壁崩壊だが・・、
  緊密な関係がある「ソ連の崩壊」と「中国の興隆」・・
  平成元年12月、マルタ会談:地中海のマルタで行われ
 た米国とソ連の両国の首脳会談。
  この会談をもって、44年間続いた東西冷戦は終結した・・
 ブッシュ大統領(父)とゴルバチョフが船上で会談した・・
  1990年8月、イラクのクエート侵攻・・
  1991年1月、湾岸戦争、中東への介入が泥沼化して行く・・
 この様な事が、30年間続いて・・
  2018年に、トランプ政権が、シリアからも、そして、
 アフガニスタンからも引くとした・・アメリカの30年の
 武器介入は終わった・・
  この30年間で、「漁夫の利で一番力を付けたのが中国」・・
 米中の対決時代となってしまった・・
  日本は、その中国の脅威にさらされるという状態とな
 った・・
  日本の経済力も、その30年間に下る一方で、中国に凌
 駕された・・
  ベルリンの壁崩壊が、世界に与えた影響は、良かった・・
  ソ連よりも全体主義の強い東ドイツが、平和裏に崩れ
 たのが良い・・史上まれに見る平和的な解決だった・・
  これは、世界の考え方も変えた・・
  資本主義と社会主義の対立軸の見方が崩れて変わった・・
  社会主義は明確に敗北した・・そして、ソ連の抑えが
 無くなった中東で暴れる者が出て来た・・
  ソ連崩壊で社会主義が駄目となり、市場主義万能とな
 った・・
  そして、ボーダーレス化し、自由化し、何でもよいと
 なった・・
  「ソ連崩壊」で急速に進んだボーダーレス化だった・・
  ボーダーレス・エコノミーで、貧しい人も豊かな人も、
 もっと豊かになれると思った・・しかし、違った・・
  グローバル化の大競争の時代に入った・・市場の取り
 合いもあって、一面、資本主義が元気な状況になった・・
  だが、ボーダレス化は良い面ばかりではない・・総て
 が「市場化すれば良い」というものでもない。
  体制の出来てない所に、その様な国を、無理に市場化
 したら弊害が起きる・・国境があるという状態で、経済
 をしっかりさせないと、「基本を作らないと駄目だ」と
 分かった・・
  それが分かった今・現代だった・・
  そして、米中の対立が始まったが、これは、「中国の
 態勢が崩れる」まで、アメリカは行なう・・
・出演者・・
  司会:上念司(経済評論家)
  西川史子(医師・タレント)
  武田邦彦(中部大学教授)
  筆坂秀世(元参議院議員・政治評論家)
  藤井厳喜(国際問題アナリスト・評論家)
  髙橋洋一(元財務省官僚・嘉悦大学教授)
  須田慎一郎(経済ジャーナリスト)
  杉原杏璃(タレント)
  脊山麻理子(フリーアナウンサー)
  大田明奈(タレント・舞踊家)
  眞鍋由佳(主婦)
.
2019年4月30日、ドイツ国民の半数以上が、難民に対して
 「否定的な感情を持っている」と、アンケートの調査結
 果で明確となった。
  この日の読売新聞によると・・ドイツの政治財団「フ
 リードリヒ・エーベルト財団」が25日に公表した難民に
 関するアンケート調査の結果・・
  54.1%が、難民申請者に対して否定的な感情を持って
 いると答えた。
  調査は、昨年・2018年9月~今年・2019年2月に、ドイ
 ツ国内の1890人を対象に実施された。
  ドイツでは、難民申請者が2015年に急増して約90万人
 に達した。
  2017年は(難民申請者が)約19万人に減ってはいるが、
 難民による暴行事件なども起こっていて、反難民感情が
 高まっている・・これがアンケート結果に浮き彫りとな
 った。
  旧東独地域では63.1%が否定的となっている。
  経済発展の遅れから、難民対応の予算を投入すること
 への不満も背景にある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
by suba28 | 2019-05-05 02:56 | 皆様とともに 幸せになりたい


はじめまして、ブログを始めさせていただきました


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