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(増補版)600E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)

題:(増補版)600E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1894年6月20日、明治東京地震が起きた。
  午後14時4分、東京湾北部を震源とする地震が起きた。
  南関東直下型地震。
  1892年に設立された震災予防調査会により詳細な被害
 調査が行なわれた。
  これは、詳細調査がされた初の地震だった。
  震源の深さ約40~60キロメートル、地震の規模はマグ
 ニチュード7.0
  東京・横浜・川崎で被害が多く、死者は計31人。
  内訳:東京市24人、横浜市4人、橘樹郡3人、
  (たちばなぐん、神奈川県・武蔵国にあった郡)、
  建物の全半壊130棟
  内訳:東京府90棟、神奈川県40棟、
  負傷者157人。
  煉瓦(れんが)造りの建物が被害を受けたほか、煙突の
 倒壊が多く、「煙突地震」ともよばれた。
  首都直下型地震と同種のものと考えられている。
  浅草の凌雲閣(12階建て)が一部損壊・・また・・
  東京麹町山下町の宮内庁の建物(鹿鳴館)も被災し、
  後に、鹿鳴館は修復後、土地・建物が華族会館に払い
 下げられ・・、
  1927年に、徴兵生命保険(のちの大和生命保険)に売
 却された。
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1894年6月21日、日本政府が清国に対して行った、朝鮮の共
 同改革案の申し入れを、中国・清国が拒否した。
  清から依頼された「南下政策のあるロシア」は、日清
 両国が朝鮮から撤退する事が都合よく・・その為・・
  1894年6月25日、ロシアのギルス外相は、ロシア駐日公
 使を通じて陸奥外相へ、同時撤退について、清国と共に
 合意するようにと伝えた。
  これに対し、陸奥外相は、朝鮮内政改革の必要性を力
 説した・・
  無条件での撤兵は出来ないと回答した。
  ロシアは、日清両国の主張の食い違いを知り、清の李
 鴻章の依頼の調停を打ち切った。
  この頃、ロシアが気になっていたのは朝鮮に強い宋主
 権を行使する中国・清国だった・・、
  ロシアは、「清国が、いずれ朝鮮を清国の一省に変え
 てしまうとの企(たくら)みが北京に存在するかもしれ
 ない」という懸念も感じていた・・、
  さらに、「朝鮮の国内問題に対する清国の断固たる干
 渉」が気になっていた・・、
  この様な状況から、朝鮮国王が、ソウル駐在のロシア
 の代表に対して、朝鮮をロシアの保護下に置いてほしい
 との要請ともなった・・大国ロシアにすがりたい朝鮮・・
 強引な清から離脱したいという朝鮮だった・・、
  ロンドンタイムスが、朝鮮・ロシア間に、朝鮮の保護
 に関する「密約」があると報じた・・が・・この件は「
 誤報」とされたが・・実際は、二度にわたる「朝露密約」
 の試みがなされた・・、
  そして、親日的な甲午改革政権を倒したのが、ロシア
 とつながっていた朝鮮の親露勢力だった。
  また、ロシアには、この強い姿勢の清国とロシアとの
 公然たる衝突に至るかもしれないという懸念が生まれて
 いた・・また、反面・・、
  清国が朝鮮を隷属化を控えているのは、「この露清間
 の緊張感」が存在する故だと・・ロシアは感じていた。
  清と露間にも紛争の可能性が存在した・・
  また、朝鮮国王の側近に、外交顧問という資格でデニ
 ーというアメリカ人が居て、朝鮮の利益を清国に対して
 有利に差配(さはい、指図してとりさばくこと)してい
 た。
  また、朝鮮は、アメリカと、弱小の朝鮮軍に対し、朝
 鮮軍編成のためのアメリカ人教官の派遣について交渉な
 どの要請を行なっていた・・、
  このアメリカと、中国・清国などの存在が複雑さを増
 す要因だった・・
  例えば、朝鮮が困難な状況に陥った場合、アメリカが
 政府として、国として動くのか?という懸念があった。
  これ等の問題の根本に、朝鮮の貧困があった。
  まず、問題の発生があれば、清国の出費で、清が動き
 大勢は維持されるだろう・・清国軍の前衛(ぜんえい、
 警戒・護衛・攻撃のために前方に置く人員)が構成され
 るだろうとロシアは見ていた。
  そして、これに、西欧列強も朝鮮に関わっていて、朝
 鮮は縮小された国際秩序の場だった。
  そして、ロシアの南下を恐れたイギリスに支持されて、
 中国・清国軍の居る朝鮮に派遣された日本軍・・、
  そして、この朝鮮共同改革案の日本の提案に対して、
 清国の拒否が一因となって、日清間の緊張が高まり、日
 本政府は、対清国との初めの対決表明である第一次絶交
 書を送ることとした。
  日本は、朝鮮政府に対し清国と朝鮮との関係、つまり、
 「属国(朝鮮):宗主国(清国)」という宗属関係につ
 いて問いていて、それに対して朝鮮側から日本に、「自
 らの国は自主国である」との回答を得ていた。
  (清国の強引なる清国軍の駐留状態で、朝鮮を属国と
 して扱おうとする不当な行動をとる清だった)
.
1894年6月21日、鉄道局臨時軍用貨物鉄道輸送手続を制定し、
 施行した。
.
1894年6月22日、清国の日本の朝鮮共同改革案の拒否に対し
 て、 御前会議で、朝鮮内政の単独改革が決議された。
  日清戦争の原因について開戦をやむなしとした外務大
 臣陸奥宗光は・・、
  「元来日本国の宣言するところにては、今回の戦争は
 その意全く朝鮮をして独立国たらしめんにあり」と回想
 している(『蹇蹇録』岩波文庫)
  また、三谷博・並木頼寿・月脚達彦編集の「大人のた
 めの近現代史」(東京大学出版会、2009年)では・・、
  「朝鮮は、それ以前の近世における国際秩序において、
 中国の属国として存在していた。
  それに対して近代的な国際関係に入った日本国は、朝
 鮮を中国から切り離そう、独立させようといたします。
  いわば朝鮮という国の国際的な地位をめぐる争いであ
 ったということ」と説明している。
.
1894年6月22日、陸奥外相が、清国公使に対し第一次絶交書
 を提出した。
  宗主国然としている清国・・体よく侵略行為をしてい
 る強国・清国の冊封体制の摩擦から発していた・・ロシ
 アやアメリカ・ヨーロッパも絡(から)んでいるアジア
 の大勢の変化・改革の序章・始まりだった。
.
1894年6月22日、陸軍省が、戦時死体認識票を制定した。
  軍隊において、兵士の個人識別用に使用されるもので・・、
  第二次世界大戦中のイギリス軍では、切れ目のついた
 円形の金属板を手首にチェーンで巻きつけ・・、
  アメリカ軍は、長円形の金属板に穴を空けチェーンな
 どに通して首から提げて使用した。
  日本の陸軍では、小判型の真鍮板を上下の穴に紐を通
 して胴体にたすき掛けにして装着した。
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1894年6月23日、国際オリンピック委員会が設立さらた。
  この年に、ピエール・ド・クーベルタン男爵が、近代
 オリンピックの設立を提唱し、フランスのパリ・ソルボ
 ンヌにヨーロッパなど各国のスポーツ関係者が集まり、
 オリンピック競技会の復興が決められ、委員会が結成さ
 れた。
  初代会長は、ギリシアの D.ビケラス。
  オリンピック競技大会を4年ごとに開催すること、その
 開催都市を選定することを主要活動とした。
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1894年6月24日、フランスのカルノー大統領が暗殺された。
  リヨンで演説後・・イタリア人のアナーキスト、サン
 テ=ジェロニモ・カゼリオに刺された。
  翌日の6月25日に死亡(サディ・カルノー暗殺事件)
  パリのパンテオンに埋葬された。
  この様なテロに国際社会全体が脅威する状況の時代だ
 った。
  1890年代は、最新の発明であるダイナマイトが、国王
 や大統領、閣僚を次々と襲う状況だった。
  また、政府の建物も標的となった。
  上層階級は下層階級の反乱に対する懸念を強めて行っ
 た。
  労働者はみな潜在的犯罪者、アナーキストはみなとに
 かく叩きのめすべき「狂犬」として語られれた。
  1894年のこのカルノー大統領暗殺を受けて、諸国の政
 府と警察部門は、何らかの手を打つ必要に迫られた。
  最初に、国際協力を提案したのはイタリアだった。
  国際テロの温床と見なされていたイタリアは、これを
 汚名挽回の機会にしようとした。
  「人類に対する犯罪」、マッキンリーの後継者セオド
 ア・ルーズヴェルト(任期:1901年~1909年)はテロリ
 ズムをそう呼んだ。
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  (今日の言葉)
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  題:グローバリズムの名の下に・・自国に有利なことを企(たくら)む
.
紀元前4万年、日本人が日本列島に来た時、日本列島もまだ
 しっかり形成されていない頃で、その地と大陸は、地続
 きだった。
  それは、アフリカからスタートした人類の地球上での
 拡散の一コマだった。
  このような時、やはり、4万年前~1.5万年前には、こ
 の日本人の形成と同じ様に、モンゴロイドの人々が、地
 続きのベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へ渡って
 行った・・アメリカに達していた。
  日本人の形成は、この「ウルム氷期の狩猟民」と、そ
 の後の、「弥生時代の農耕民」とが渡来した「遠い遠い
 昔のこと」だった。
  何度かの渡来の中で、長い長い長い年月を経て、日本
 国土全体における混血が繰り返されて・・日本国土全体
 で繰り返されて・・日本人が形成されて行った。
  それと比較して・・、
  現代と言っていいほどの最近の・・その最近の1614年
 のアメリカのピルグリム・ファザースのアメリカ・イン
 ディアンの方々の地での殺戮と侵略とはまったく違う。
  また、6万1000年前から・・5万2000年前とも、また、
 12万5000年前とも言われているオーストラリアの地に来
 たアボリジニの方々も同様だった・・
  このオーストラリアの地へ、最近とも言いたいくらい
 の1788年に来て、アボリジニの方々を法律まで作って殺
 戮し(アボリジニの方々を殺しても良いという卑劣な法
 律)、侵略し、植民地としたイギリス・・、
  また同様に、最近と言いたいくらいの16世紀の時に、
 ラテン・アメリカの各地に来て、侵略し、全滅と言いたい
 くらいに蛮行を繰り返したスペイン・ポルトガル(この
 時、ローマのバチカンは、先住民の方々を「人間ではな
 い」と言い、つまり、人間ではないから殺してよいと言
 い)・・長い年月、殺しに殺す行為をしたスペインとポ
 ルトガル・・
  このインディオの方々の殺戮を繰り返したスペインと
 ポルトガルとも、まったく違うのだ。
  しかし、今・現在、日本人のこの遠い昔の成り立ちを、
 この最近の蛮行と同じように語って、誤魔化そうとする
 行為がなされている。
  日本の場合は、完全なる混血であった・・その日本の
 数々の遺跡を分析すると、だんだん文化が混在化して行
 くのが分かる・・これは、混血での一体化を証明してい
 る・・
  アメリカ・インディアンの方々や、また、インディオ
 の方々や、そしてまた、アボリジニの方々と同じような
 状況とされる卑劣な言行・・日本人となった経緯が、ヨ
 ーロッパ人の蛮行と同じとされる卑劣な言行がなされて
 いる。
  まったく歴史的、科学的根拠を無視した論理が展開さ
 れている。
  この様な事が、盛んに、今・現在、工作員によってな
 されている。
  また、今・現在、チベットの方々の地が、そして、ウ
 ィグルの方々の地が、そしてまた、内モンゴルの方々の
 地が、最初は自治区だなんて言っ誤魔化していたが、
  この完全なる別民族の地が・・今・現在、漢民族を、
 政策として流入させて、漢民族の地と化する行為が「盛
 んになされている」。
  これと似たような流入が、今・現在、日本においても
 なされている・・特に、沖縄県や北海道、帝国主義的な
 侵略流入が、今・現在、日本に於いて「盛んになされて
 いる」。
     ・
     ・
19世紀以来、学術的なキリスト教神学研究者達は・・、
  『キリスト教の聖書の福音書は、現実世界の歴史で起
 こった事についての信頼できる記述ではない』という決
 定的な論証を、常に行って来ている。
  科学者たちは・・研究者たちは・・誠実である・・
  聖職者たちとは違う・・
  バートランド・ラッセルの言葉 : 
  知的な意味で 著名な人々の 圧倒的多数は・・
  キリスト教を信じてないが・・、
  大衆に対してそのことを隠している。
  なぜなら・・、
  彼らは自らの収入が減ることを恐れているからだ。
 (キリスト教の聖書の記述の1例)
  ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、ま
 ず、降伏を勧告しなさい。
  もし、その町がそれを受託し城門を開くならば、その
 全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばなら
 ない。
  しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲
 しなさい。
  あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、
 あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。
  ただし、女、子供、家畜、および町にあるものすべて
 あなたのぶんどり品として奪い取ることができる。
  あなたは、あなたの神、主が与えられた敵のぶんどり
 品を自由に用いることができる。
  このようになしうるのは、遠くはなれた町々に対して
 であって、
  次に挙げる国々に属する町々に対してではない。
  あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国民の民に
 属する町々の息のある者は、一人も生かしておいてはな
 らない。
  ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エ
 ブス人は、
 あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさね
 ばならない。
  (この申命書の様な記述が、キリスト教聖書には満ち
 満ちている・・この様な文を読まされて・・洗脳される
 子供たちのことを思いなさい・・こんな時間が週に2回も
 あると泣いて訴えた生徒も居た)
.
1882年、アメリカで、『中国人排斥法』が制定された。
  強制収容や国外追放の処罰を課すことで、中国人労働
 者の移民を一時的に停止させた。
  この後、日本人がターゲットにされた。
.
1884年7月7日、ソウル条約が調印された。
  朝鮮が、中国の圧力に屈し、中国・清国との間で結ん
 だこの条約は、藩属関係をも表明する内容となっている。
.
1886年初頭、苦し紛れに朝鮮は、ロシアに援助を求めた。
  中国・清の朝鮮に対する宋主権の行使は酷(ひど)か
 った。
  朝鮮は、その重圧から逃れようと、ロシアを大国と見
 て、「ロシアに庇護を求めた」。
  この1886年初頭に、朝鮮は、ロシアに援助を求めた。
  朝鮮は、「自主独立の国家でありたい」と強調した。
  そのロシアは、1860年代に、すでに、沿海州を侵略し、
 その領土を取り、自分の領土とし・・そして・・、
  1872年には、ウラジオストックを軍港にするというロ
 シアで・・、
  南下政策のロシア、領土欲満々のロシアだった。
  そのロシアの侵略性を警戒したイギリスは、清の権力
 にひれ伏すその朝鮮にも、ロシアの手が及ぶと見ていた。
  朝鮮のロシアを頼りとする行動からも、その成り行き
 は容易に想像された・・そして・・、
  そのロシアの南下政策を警戒したイギリスは、清国の
 居る朝鮮へ日本のかかわりを支持した。
  1894年6月16日、この様な状況の中で、既に清国軍が居
 る朝鮮へ、日本は、仁川に軍を派遣した。
  この後、朝鮮に圧力をかける清と、日本はぶつかり合
 う。
  因みに、日清間には、先に条約で(1884年12月、天津
 条約)、朝鮮に、日清のどちらかの国が軍を派遣したら、
 他の国に照会することが義務付けられていた。
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1929年、この年から始まった世界大恐慌には、アメリカが
 自国産業保護のため関税を引き上げると、各国が報復関
 税を化した。
  (今・2018年と同じような状況・・)
  第二次世界大戦の原因の一つの始まりだった。
  経済においても、戦争の原因作りのアメリカだった。
  そして、各国で、外国製品を締め出す「ブロック経済」
 化が進み・・、
  輸出を増やすために通貨の切り下げ競争も起こった。
  世界の貿易量は、約4年で「3分の1に縮小した」。
  世界経済が・・深刻な不況に陥(おちい)り、第二次
 世界大戦の一因となって行った。
.
1931年9月18日、満州事変が起きた。
  NHKはじめ日本のマスコミは、満州事変の後、戦争
 を煽(あお)った。
  新聞は部数の伸長を目論んだ行為だった。
.
1937年8月13日、第二次上海事変
  中国の蒋介石軍(中華民国軍)は、アメリカに武器・
 弾薬を援助されて、大部隊で上海の日本租界を包囲し、
 この日、大攻撃をかけて来た。
  この戦いから、日本軍の南京への進軍が開始され、い
 わゆるデッチアゲラレタ「南京事件」が起きたとされる
 のだが・・
  そして、この戦いから、日中戦争が始まり・・第二次
 世界大戦へとつながっていくのだが・・、
  この頃、父を朝日新聞の記者として持つ人が白状する・・
  言うことは、当時、やはり朝日新聞の中にも、「南京
 へ追撃するべきと主張する派」と、「南京への追撃は控
 えるべきだとの主張する派」の二つの派があった・・が、
 しかし、
  社内が南京へ追撃すべきとする派が強くなり、歯止め
 も効かなくなり、「行け行けどんどん」となったという
 ことを白状し・・証言している。
  この様に、NHKをはじめ「日本のマスコミ」は追撃
 することを煽った・・
  アメリカに支援された中国軍の先制攻撃に対する追撃
 の論調となった・・ここが分岐点であったが・・その方
 向を決めた。
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1990年、イラクが、クウェート侵攻をするとアメリカは、
 反フセインとなった。
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2003年、アメリカは、スンニー派のフセイン政権を倒して、
 イラクで比較的多数のシーア派の政権を誕生させた。
  何で自分勝手に他の国に介入するのだ・・??
.
2016年1月、アメリカと、他の5カ国の6カ国が、イランの経
 済制裁を解くと発表した。
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2016年11月17日、大統領になる予定のトランプ氏が、台湾
 総統との異例の電話会談をした・・その意味・・、
  2016年11月17日に、安倍首相とトランプ次期アメリカ
 大統領がニューヨークのトランプタワーで初会談を行っ
 た。
  トランプ氏は、他国の首脳から早期の会談要請が殺到
 するなか、安倍首相との会談を最優先させた。
  しかも、自宅に招くという厚遇ぶりで、日本を重視し
 ている姿勢を見せた。
  会談後に、安倍首相が「信頼できる指導者だと確信し
 た」と述べた。
  トランプ氏は、「素晴らしい友好関係を始めることが
 できてうれしい」と述べるなど、会談が有意義であった
 ことを強調した。
  安倍首相の素早い動きには、中国も驚いた。
  安倍首相は、トランプ氏の当選が確定した日の翌朝す
 ぐに電話で祝意を伝えた。
  中国はそれに焦り、11月9日、CCTV(中国中央電視
 台)は習近平主席がトランプと電話会談したというニュ
 ースを流した。
  ところが、トランプ氏側から「していない」と否定さ
 れた。
  安倍首相が電話会談した以上、習近平も会談したこと
 にしないと、大国の指導者としてのメンツが潰れると思
 ったらしい。
  14日になって実際に電話会談をしたようで、いずれに
 しても、恥をかかされたかたちとなった。
  さらに、12月2日(アメリカ時間)には、トランプ氏は
 台湾の蔡英文総統と電話会談をした。
  これは、1979年のアメリカと台湾の断交以来初めての
 ことだった。
  しかも、自身のツイッターで、「台湾総統が今日、私
 に、大統領選勝利に祝意を表したいと電話をくれた。あ
 りがとう!」と書き込んだ。
  「ThePresident of Taiwan」と、あたかも独立国家の
 元首のように扱っていた。
  当然、台湾では大きく報じらた。
  トランプ氏への期待が非常に大きくなっている。
  安倍・トランプ会談について、中国共産党の機関紙で
 ある「人民日報」の国際版「環球時報」は「朝貢だ」と
 書いた。
  ・・が、蔡英文との電話会談については王毅外相が「
 台湾側のくだらない小細工だ」と嫌味を言った。
  これは、中国のパニック状態を象徴していた。
  中国は、かなり衝撃を受けた。
  なにしろ、トランプ氏は、数十年来の絶対的タブーを
 破ったのだった。
  即座に不快感を表明し、アメリカにも抗議したという。
  王毅外相は台湾を批判しているが、トランプ氏のこと
 は批判していない。
  トランプ氏と衝突するのを避けたかったのだろう。
  あくまで、台湾が仕掛けたというスタンス。
  しかし、トランプ氏は、かなり中国を意識した行動を
 している。
  「自由時報」(2016年12月3日付)によれば、当日は
 シンガポールのリー・シェンロン首相、フィリピンのド
 ゥテルテ大統領、アフガニスタンのガーニ大統領とも会
 談しているが、ツイッターには蔡英文氏のことしか掲載
 していない。
  これは意図的にやっていること。
  中国の反応を見るためだという・・、
.
2018年、EUから、当初の美しい理念は消えた・・
  そして、ある意味「全体主義理念のEU」が、ここに
 現れた。
  世界世論は、「EU各国の個別の事情に配慮せず、財
 政規律を過度に重視するEUの政策が、反発を招く一因
 になっている」・・と、指摘しているが・・、
  そしてまた、経済格差の是正が、「EUの課題だ」と
 しているが・・、
  援助ばかり受ける国や、限りなく援助ばかりをする国
 (援助ばかりをさせられる国)など・・、
  その格差の方こそ、最初に、解決すべき問題なのでは
 ないのか?・・と・・、
  そもそも、EUとして、まとまる必要性があったのか?
  原点からかい離した存在になっている・・と・・、
  その様な現状が、求めるものだったのか?・・と・・、
  ぶら下がり国家の救済の結合なのか?・・
  それで良いのか?・・と・・、
  努力するものが正当に評価されて報われ・・努力もし
 ないものが、その行動の厳しい評価を甘受(かんじゅ、
 甘んじて受けること)する社会でなければならないので
 はないか?・・と・・、
  努力もしない国家を助けて「善人顔をするな!」の声
 も・・、
  当然、必要なのは信賞必罰社会。
  (参考)全体主義:ぜんたいしゅぎ、全体の利益を第
     一とし、個人の価値は全体に奉仕する点でだけ
     認める(政治上の)主義。
  (参考)信賞必罰:しんしょうひつばつ、功績ある者
     は必ず賞し、罪過ある者は必ず罰すること。賞
     罰を厳格にすること。
.
2018年2月2日、中国、欧州で影響力拡大
  ドイツと言えば、今や、その経済力で強力な立場にあ
 る。
  今、ドイツは、EUが形成されて、そのリーダー的地
 位にある。
  また、「ドイツ圏」と称せられる「ドイツへニコニコ
 顔を向ける国々」に、「ベネルクス」「オーストリア」
 「チェコ」「スロベニア」「クロアチア」などがある。
  また、そのドイツ圏へ近づきたいという「ロシア嫌い
 な国々」がある・・、
  それが、「ポーランド」「スウェーデン」「フィンラ
 ンド」「バルト三国」・・など、
  この様に・・「ドイツ帝国圏」と称すべき大きな領域
 が存在する。
  そのドイツに付いて行くのか?
  成り行き上、付いて行かざるを得ない・・とする国々
 があるが・・この様に、ドイツのパワーは大きくなって
 いる。
  EU圏内では、ドイツの一人勝ち状態にある。
  そして、このドイツが、非常に強く中国と関わってい
 る・・
  このことが、現時点(2018年)で、世界の大きな関心
 事となっている。
  世界のバランスが、ここから崩れて来る。
  ヨーロッパの国々は、中国に違和感を持っていない。
  中国は、アジアでは、帝国主義的な国で・・領土欲で
 もって振る舞い(例、南シナ海など・・)、アジア諸国
 では、その様な中国に対しての警戒感が強いが・・
  ヨーロッパ諸国は、こぞって中国が主導するAIIB
 (アジアインフラ投資銀行)に参加した。
  そして、最近(2018年2月2日)の読売新聞によれば・・
  「中国、欧州で影響力拡大」の表題の記事がある。
  そして、副標題に・・「英首相訪中、EU離脱、混乱
 に乗じる」とある・・
  その内容は・・、
  英国のメイ首相は、訪問先の中国・北京で、中英関係
 について「『黄金時代』を引き続き前進させる」・・と
 述べ・・、
  経済を中心とした関係強化を進める姿勢を鮮明にした。
  英国の欧州連合(EU)離脱の混乱に乗じて、欧州で
 の影響力拡大を図る中国のもくろみは、今年に入ってマ
 クロン仏大統領、メイ氏と続く主要国首脳の「中国詣で」
 で着々と進んでいる・・中略・・
  中国側も、(英国が)EUの単一市場からの脱退を控
 え、中国との間で自国に有利な内容の自由貿易協定(F
 TA)を結びたいメイ氏にとっての「焦点」が経済協力
 にあることを見透かしている。
  李氏(李克強・りこっきょう首相)は、「両国関係は
 英EU関係が変化しても変わらない」と述べ・・、
  金融や貿易などでの協力推進を強調した。
  中国商務省によると、今回の訪中で、両国は、総額約
 90億ポンド(1.4兆円)に上る商談に合意するという。
  英国が離脱した後のEUを支える仏など主要国も、英
 国のEU離脱を支持するとともに、「米国第一」に突き
 進むトランプ米政権への警戒感もあり、中国との関係強
 化に拍車をかけている。
  中国としては、北朝鮮や貿易問題で、米側からの圧力
 を受ける中、EU内の「反トランプ」の雰囲気をうまく
 すくい取り、欧米諸国の結束を崩す思惑がある。
.
2018年6月18日、日本の航空会社のJALとANAが、卑劣
 な事に、台湾の事を「中国台湾」と表記する事にすると
 したと発表した。
  毎日新聞2018年6月18日 17時34分
  航空会社 JALとANA、台湾を「中国台湾」表記
 【台北・福岡静哉】中国政府が、外国の航空会社に対し
 ホームページ(HP)などで台湾を「中国台湾」などと
 表記するよう要求している問題で、日本航空(JAL)
 と全日本空輸(ANA)は18日までに、中国人客向け
 のHP上で台湾の表記を「中国台湾」とした。
  ただ、台湾人客向けのHPでは、両社ともこれまで通
 り台湾を他の国・地域と同列に表記している。
  中国の要求を受け入れる一方、台湾にも配慮した形だ。
.
  中国は、台湾を「中国の領土」とするが・・、
  台湾は、「中国の一部ではない」との立場。
  中国は、各国の航空会社に明確な表記を要求し、応じ
 なければ行政処分を科すとした。
  JAL、ANAの広報部は、「各HPを利用するお客
 様にとって分かりやすく受け入れられる表記にした」と
 説明した。
  だが、台湾外交部(外務省)は18日、両社に抗議す
 るコメントを出した。
  中国政府は5月25日、要求を通知した44社のうち
 18社が表記を変更し、残り26社も7月25日までの
 変更を承諾したと発表した。
  英メディアによると、米政府は米大手航空3社に対し、
 要求を無視するよう求めたという。
.
 【台北時事】日本航空と全日本空輸が、中国向けの公式
 ホームページなどで、「台湾」を「中国台湾」と表記の
 変更をしていたことが分かり、台湾外交部(外務省)は
 18日、対日窓口機関の台北駐日経済文化代表処(大使館
 に相当)を通じて厳重に抗議するとともに、表記を元に
 戻すよう求めると発表した。
.
  産経新聞、6月6日、アメリカでは、政権が「中国台湾」
 などの表記をしない様にと要請。
  「中国要求に従うな」米政権、台湾表記問題で米航空
 会社に要請 英紙報道
  【ワシントン=塩原永久】中国政府が外国航空会社に
 対し、ウェブサイトなどで台湾を中国の一部として表記
 するよう求めている問題で・・、
  英紙フィナンシャル・タイムズ(電子版)は6日まで
 に、トランプ米政権が米国の航空大手に中国の要求を飲
 まないよう要請したと報じた。
  米政府当局者がユナイテッド航空など大手3社に伝え
 たという。
  同紙によると、米政権はユナイテッドやアメリカン航
 空、デルタ航空に対し、自社のウェブや地図上で中国当
 局の基準に沿った「中国台湾」などの表記をしないよう
 要請した。
  中国民用航空局が4月、36社に対し、台湾や香港、
 マカオが中国の一部であることを明確に表記するよう改
 善を求める書簡を送付したとして、米ホワイトハウスは
 先月上旬、抗議する声明を出していた。
  ただ、米航空大手は「米政府と緊密に協議しながら対
 応を検討している」(デルタ)などと対応に苦慮。
  中国路線は成長市場で、中国国内の空港への着陸を不
 許可とする中国側の制裁措置が大きな懸念となるためだ。
  欧米メディアによるとオーストラリアのカンタス航空
 などが中国の要求を受け入れる方針を示した。
.
  (関連)2018年3月2日、米国で「台湾旅行法」成立す
     れば、戦争に発展も=中国英字紙
     [北京 2日 ロイター}中国国営英字紙チャイ
     ナ・デイリーは2日、米国で台湾との関係強化
     を目指す「台湾旅行法」が成立した場合・・、
      台湾を巡る戦争に発展する可能性があると警
     告した。
      同法の内容は、全レベルの米政府職員に台湾
     への渡航と当局者との面会を許可し、同時に台
     湾当局者に対し「敬意のこもった条件で」訪米
     し米政府当局者と会うことを許可するもの。
      トランプ米大統領の署名を待つばかりとなっ
     ている。
      チャイナ・デイリーは論説記事で、法案が成
     立すれば台湾の蔡英文総統は台湾の主権をいっ
     そう強く主張することになるだけだ、と強いト
     ーンで主張。
      「蔡総統が主権を主張すれば、中国では台湾
     の離脱を阻止するための『反国家分裂法』発動
     が避けられなくなるだろう」と述べた。
      さらに「その場合、米国は国内法に基いて台
     湾のために行動を起こさざるを得ず、地獄に転
     落するのは簡単だという見解に実態を与えるだ
     けだ」と警告した。
      中国は蔡総統が正式な独立を志向していると
     みているが、総統自身は現状を維持したいとし
     ている。
      一方、台湾側は「台湾旅行法」を歓迎した。
.
2018年6月19日、中国の手先と化しているNHK
  NHKワールドで、NHKが、中国の工作通りのアイ
 ヌ民族についての放送をしていた(pm13:40)
  NHKワールドという番組で、世界に向かって、中国
 の工作の宣伝の「ごますり番組」の様だった。
  中国に媚(こび)、日本を貶(おとし)める事をして
 来たNHKが、また、その様な番組を、また、放送して
 いた。
  中国が、ことさら言う、アイヌは、日本人とは違うと
 いうその片棒担ぎを世界に宣伝していた。
  NHKが、「そうではない」というのなら、この様な
 作り方で、「青森県」や「山形県」や「秋田県」や「岩
 手県」や「宮城県」や「福島県」や「栃木県」などなど・・
 日本のすべての県を、この様な作り方で番組を作って世
 界に向けて放送せよ!
  日本の各県は、バラエティーに富んだ、それぞれ特徴
 のある県なのだ『という事を説明せよ』・・アイヌだけ
 では誤解を与える。
  何故? NHKは、アイヌだけを番組を作って放送す
 るのだ?
  アイヌの方々は、遺伝子情報的にも「まったくの日本
 人と同様なのだ」・・この様な事は番組内でまったく言
 ってない・・説明していない・・、
  琉球と言われる沖縄県の方々も同様に、遺伝子情報的
 にはまったく同一の縄文人を祖先としている。
  何万年もの・・長い長い間(西暦2000年の何十倍もの
 長い長い間)・・日本列島を移動して来て、混血を重ね
 て来た同一民族なのだ。
  何を血迷ってNHKは、中国の言う「アイヌ独立論」
 の片棒を担ぐ番組を放送するのか?・・
  それも、世界へ向かって放送するNHKワールドで・・?
  何万年もの遠い昔から、日本列島には日本人を形成す
 る人々が数度にわたってやって来た。
  その人々が混血し・・混血を繰り返し・・日本人を形
 成して行くのだが・・
  その数度に渡る混血の仕方に差があるから・・地方の
 差ができたのであって・・総べて、中国の言うアイヌ独
 立論は、陰謀の結果の論理であって、NHKが賛同して
 わざわざその番組を作って放送するに及ばぬのだ!
.
2018年、中国(現在の中華人民共和国、漢民族政権)は、
 グローバリズムの名の下に漢民族の工作員を近隣諸国へ
 潜り込ませている。
  この国の前のこの地・中国は、満州族(女真族)が、
 清国という国を形成し・・、
  中国の政治を行なう『満州族の地だった』。
  そして、その満州族政権は、漢民族に変わられた。
  (参考)満州民族:まんしゅうみんぞく、(満洲族、
     まんしゅうぞく)は・・、満洲(中国東北部、
     沿海州など)に発祥したツングース系民族。
      古くは女真族といった。
      17世紀に、現在の中国、および、モンゴル国
     の全土を支配する清を興した。
  その満州族は、大東亜戦争の終戦まで、「満州」とい
 う国を建国していた。
  その地域は、中国の政権が、「化外の地」だとした。
  その地は、「我々・中国とは関係のない地だ」とした。
  「異民族の地だ」とした「万里の長城の北方」の「万
 里の長城の外の地域」であるとした。
  しかし、中国の現政権・中華人民共和国になって、こ
 の地を我がものだと考えを変えた・・そして、領土とし
 た。
  その満州国を無くした。
  そして、今・現在(2018年)、そこに居た満州族の方々
 は、まったくと言って良いほど、かつては、一杯居た満
 州族のその方々は、居なくなってしまっているという。
  殺されたのか? 
  何処かに追いやられたのか?
  満州族の方々の痕跡は、まったく無いという。
  国とは、「ある地域」に「ある民族」が居て・・そし
 て、成り立つが・・、
  中国の現政権は、満州族を消して、かつての満州国の
 痕跡を消した。
  国とは、この様にして奪われるもの・・、
  今、日本人は、「のほほん」と幸せに暮らしている・・
 この国・日本も、この様に簡単に奪われてしまう。
  盤石な日本にするためには、しっかりした日本という
 国への意識を持たなければならない・・そうでなければ、
 満州国の様に、日本も消え去ることとなる。
  今、チベットが、盛んにこの行為をされている。
  また、ウィグルの方々の地が・・、
  そして、内モンゴルの方々の地が、盛んに国や民族の
 痕跡が消されている・・漢民族の地と化している・・
  これを、漢民族の中共は、「グローバリズム」と美し
 く誤魔化す。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2018-06-28 04:31 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)599E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)

題:(増補版)599E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年6月12日、鉄道敷設法の一部改正を決定した。
  中央線や、その他5線の篠ノ井線・鹿児島線などを第1
 期線に追加し、篠ノ井線の起点を篠ノ井と決定した。
  鉄道敷設法(てつどうふせつほう)は、国が建設すべ
 き鉄道路線を定めた日本の法律で・・、
  1892年6月21日に制定された旧法と、同法を廃止し新た
 に1922年4月11日に制定された改正法がある。
.
1894年6月12日、実業教育費国庫補助法が公布された。
  井上毅文相の実業教育振興政策に基づいて制定され、
 実業学校に国庫補助金を交付することを定めた。
  裁可:1894年6月11日、公布:1894年6月12日、施行:
 1894年9月1日
  朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル実業教育費国庫補助法ヲ裁
 可シ茲ニ之ヲ公布セシム
  御名御璽
  明治二十七年六月十一日
            内閣総理大臣 伯爵伊藤博文
            大蔵大臣   渡辺国武
            文部大臣   井上 毅
  法律第二十一号
  実業教育費国庫補助法
  第一条:実業教育ヲ奨励スル為ニ国庫ハ毎年度金十五
      万円ヲ支出シテ其ノ費用ヲ補助スヘシ
  第二条:公立ノ工業農業商業学校、徒弟学校及実業補
      習学校ニシテ実業ノ教育ニ効益アリト認ムル
      トキハ文部大臣ハ其ノ学校ニ補助金ヲ交付ス
      ヘシ
  地方官庁ノ認可ヲ経タル農工商組合ニ於テ設立シタル
 実業学校ハ文部大臣ノ特別ノ認定ニ依リ前項ニ準スルコ
 トヲ得
.
1894年6月14日、北里柴三郎が、ペスト菌を発見した。
  1894年6月18日、北里柴三郎が、ペスト菌発見を公表
 した。
  この報告は、翌日の1894年6月19日の午前に内務大臣に
 伝えられた。
  そして、1894年6月21日に、新聞は報道した。
  北里は、さらに、コッホ研究所や、香港政庁を通じて
 イギリス植民地大臣に伝え、そして、このニュースは、
 世界へも伝えられた。
  北里は、研究成果を発表しようと、1894年7月7日に、
 論文を一気に書いた。
  これが、「ペスト病の原因調査第一報」だった。
  これは、ペスト菌に対する単なる報告書ではなかった。
  まず、異例ともいえる「ペスト病」検証報告書だった。
  そして、これには、続けて、ペスト菌発見に至る過程
 が記述されている。
  この記述は、ペスト菌に対する観察が精緻を極め、か
 なり長文に渡って説明されていた。
  そして、その中で問題となった部分・・専門的にもな
 る「グラム染色」に関わる件があった。
  北里は、この「グラム染色」の結論を書かなかった。
  「かのグラム氏複染色法を用い得るや否やは、後日を
 もってこれを報道すべし」として、結論を先送りしてい
 た。
  ここが問題とされた。
  北里が、もし、「ペスト菌はグラム陰性である」と記
 述していれば、その様な問題は発生しなかった。
  このグラム染色法は、デンマークの医師・グラムが開
 発したもので、菌の分類法である。
  菌が、「陽性」か、「陰性」を問う。
  北里柴三郎の論文は、後日、日本の官報に1894年7月31
 日と1894年8月1日の2回に分けて掲載された。
  緻密な調査報告書だった。
  また、北里には、この報告書の主要部分をまとめたド
 イツ語の論文もあった。
  このドイツ語論文を、イギリス人医師のラウソン国家
 医院副院長が読んだ。
  そして、このラウソンが、この論文を、イギリスの伝
 統と権威を持つ医学雑誌「ランセット」に掲載しません
 かと北里に薦めた。
  世界的権威のある雑誌であった。
  北里は、名誉ある事ですからとお願いした。
  そして、ラウソンが、自ら、英訳を買って出た。
  北里は、その好意に感謝し依頼し、即座に英訳され、
 北里の同意のもとに送付された。
  この論文は評価され、直ちに、掲載となり、8月1日号
 と8月25日号に掲載された。
  内容は、ペスト菌の発見を伝え、その論文と共に、標
 本の図解やイラストも掲載されていた。
  そして、そのイラストには、正しくペスト菌の形態も
 捉えていた。
  北里柴三郎が、明らかに、顕微鏡下にペスト菌を捉え、
 観察していることを示している証拠だった。
  さらに、北里は、コッホ研究所にドイツ語論文と共に、
 塗抹標本と培養菌を送っていた。
  コッホ研究所では、この菌で、追認試験が行われ、「
 北里柴三郎のペスト菌」は明らかにペスト菌で、「グラ
 ム陰性」であると確認された。
  今日のペスト菌についての常識である「グラム陰性・
 卵円形・短小棹菌」がここでも立証された。
  確かに、北里柴三郎は、1894年6月に、香港でペスト菌
 を発見したのだった。
  北里柴三郎が、流行の早期に、ペスト罹患の危険の中
 を香港へ積極的に行ったのが、ペスト菌発見に功を奏し
 た。
  ペスト患者が多くなると、種々の型のペスト菌も発生
 して、真のペスト原因菌の発見を複雑にする。
  (患者数が多いと発見はできないとも言われている)
  ただ、染色される菌についても北里は触れてもいた。
.
1894年6月16日、日本政府が、清国に朝鮮の内政改革を共同
 で行う提案をした。
  陸奥外相が、清国に朝鮮内政の共同改革を提起した。
  清国が、共同での改革に合意しなければ日本は単独で
 でもこれを行いますと提案した。
.
1894年6月20日、清の李鴻章が、ロシアに日清間の調停を依
 頼した。
  ロシアには南下して行きたいという「南下政策」があ
 り、この調停依頼自体が問題だった。
  問題を複雑にするだけの「干渉行為」ともなった。
  ロシアは、自国の南下政策上、日清両国の朝鮮撤兵を
 表明した。
  しかし、このロシアの南下政策を警戒していたイギリ
 スは反対し、日本を支持した。
  ロシアは、1860年代に、沿海州にどんどん侵略し始め
 ていた・・そして・・、
  1872年(この時から20年も前)から、すでに、ウラジ
 オストックを海軍基地を軍事基地にして、建設を完了し
 ていた。
  (今・現在の南シナ海・・中国の屁理屈で領土だとさ
 れ、基地化しないと初めは言っていたが・・今はミサイ
 ルやレーダーも配備している)
  この頃、朝鮮と関係していた国は、日本だけでなく、
 ロシア・清国・・そして、アメリカ・イギリス・ドイツ
 が朝鮮と関係していた。
  1884年、ロシアは、朝鮮と条約を結んだ(露朝修好通
 商条約)
  この時までは、ロシアは、アメリカやヨーロッパが、
 朝鮮の鎖国状態を開こうとしていたことに反対していた。
  そして、抵抗をしていた。
  (朝鮮の鎖国状態を維持させようとしていた)
  これは、ロシアが朝鮮に進出したいという下心(した
 ごころ、表に現わさず、ひそかに心の中で考えているこ
 と)があったためだった。
  また、ロシアは、朝鮮に進出するアメリカやヨーロッ
 パ諸国が、積極的に進出する事に対して、さらなる軍事
 的脅威が増すと考えていた。
  ロシアは、沿海州などの侵略において、ロシア人の入
 植を進める上で、朝鮮から食糧など、特に、家畜を得た
 いとしていた。
  故に、この露朝間の交易は拡大していた。
  この様な状況の中で、フランスが、朝鮮の開国を目的
 として、1866年に、フランス艦隊を朝鮮に出撃させた・・、
 また、1871年には、アメリカ艦隊が来た・・そして、開
 国を迫った。
  この時、アメリカは、ロシアから共同歩調をとる様に
 求められた・・が、しかし、拒否した。
  ロシアは、朝鮮から利益を得ることはなく、「形勢を
 観望的にする」としていた。
  この様な荒れる朝鮮情勢の中で、1876年2月、日朝修好
 条規が締結された。
  この時、日本は、ロシアも、朝鮮と同様な条約を結ば
 ざるを得なくなるだろうと見ていた・・ロシアが進出し
 て来るだろうと見ていた。
  そして、朝鮮は、宗主国・清国の主導で欧米への開国
 が実現された。
  今・現在、日本は、軍事的に弱い状況にあるが・・こ
 の様に、軍事的に弱い朝鮮は、この時も、主導権を持ち
 得ず、清国が宋主権を行使するという様な状況だった。
  清国の思惑は、日露の朝鮮に対する関係を牽制するも
 のでもあった。
  (結局、自国の宗主国的な立場を維持したいのだった)
  1882年5月、清国の仲立ちで、米朝修好通商条約が締結
 され・・、
  1882年6月には、同様に、清国の仲立ちで英朝間の、そ
 して、独朝間の同内容の条約が調印された(イギリスと
 ドイツとの条約)
  この様な状況を見て、ロシアは焦った・・色々画策す
 るが失敗に終わる・・この様に各国が渦巻く展開が続く・・
  この様な時、朝鮮は清国の属邦ではあるが、内治外交
 とも自主である趣旨の朝鮮国王のロシア皇帝あての照会
 が手渡された。
  日本は、米英独と共同歩調的な中にいた・・
  そして、朝鮮は、この様な中で、壬午軍乱後(1882年
 10月)の清国の重圧から脱するために、隣接国たるロシ
 アとの間で清国の仲介を得ずに条約を締結したい旨を申
 し入れていた・・特に、朴泳孝・金玉均は朝鮮が自主独
 立の国家であることを強調した。
  朝鮮は、大国たるロシアへの期待があった。
  日本も、この朝鮮の清国からの独立を確認をしたいと
 した。
  露朝条約が締結されると、1885年10月、ロシア大使が
 ソウルに着任した。
  大使館も開設され、朝鮮国王周辺の対露働きかけなど
 で朝鮮の政局に影響が及ぼされた。
  1888年、ロンドンの「タイムズ」が、朝鮮保護を約す
 る露朝間の『密約』が結ばれたと報じた・・これは誤報
 だった・・
  この様に、各国が策謀する朝鮮周辺だった。
  また、ロシア太平洋艦隊に対して、朝鮮沿岸を監視せ
 よとの命令が、ロシア政府から発せられたりした。
  また、朝鮮保護、朝鮮領土保全の多国間条約締結、ロ
 シア人軍事教官派遣などの命令が、ロシア政府から出さ
 れ、1885年6月、ロシア外交官がソウルへ派遣された。
  1885年4月、イギリスが巨文島を占領した。
  1886年、ロシア海軍省で、新浦(馬糞島)の獲得が検
 討された(不凍港獲得関係)
  しかし、ロシアが見たものは、大院君(全渓大院君、
 李氏朝鮮の第25代国王・哲宗の父)の釈放帰国に伴う清
 国勢力の優勢さと、朝鮮国王の不満の充満状態だった。
  1886年初頭、ロシア政府は、朝鮮国王からの援助要請
 があったが、清国の対朝武力干渉さらに朝鮮併合は、隣
 接する地の沿海州の安全を脅かすと危惧した・・そして、
 朝鮮の清国からの自立を慎重に検討した。
  ロシア政府は、清国によって朝鮮併合がなされるかも
 しれないと危惧していた。
  1886年秋、露清間で、朝鮮の安全保障に関する交渉の
 合意がなされた。
  この間、朝鮮国王廃位が取りざたされた。
  朝鮮は、可哀想だが各国からいい様に扱われていた・・
  だから、1910年に、日本に併合されて、安定した国の
 状態となり、衛生的な国にもなり、人口が3倍にもなり、
 国が栄えた時のことを、それを体験された朝鮮の御老人
 方は、「良かったよ」と言ったのだった。
  それまでの朝鮮は、各国列強にいい様に扱われていた。
  1888年5月、極東問題特別会議が開かれた。
  この会議は、極東のロシア領の現地のロシア当局と、
 極東諸国に駐在するロシア外交官の会議であったが、
 決議された事の1つに・・、
  「ロシアによる朝鮮獲得については、朝鮮は経済的に
 貧しく、軍事的には長い海岸線の故に防衛困難であり、
 外交的には朝鮮侵略は英清(イギリスと中国・清)との
 決裂をもたらすとして、この様な事をしない」・・とな
 った(領土欲の満々のロシアだった)
  そして、朝鮮が弱小である故、中国・清か日本の支配
 下に入るだろうが・・いずれの場合も、ロシアに対する
 脅威になる・・とした。
  そして、仮に清国が、朝鮮を恒久的に制圧するような
 ことになれば、中国海域での海軍の示威(じい、威力を
 示すこと)あるいはロシア国境近くの朝鮮海岸地方の一
 次的占領といった措置をとることとした。
  ロシアは、日本は行動を起こさないと無視した判断を
 している。
  この結果、1888年8月、ロシア・清国が朝鮮領土保全に
 関する条約を結んでいる・・また・・、
  1894年6月の清国の朝鮮出兵に対し、ロシアは、日本の
 出兵より危惧していた。
  1894年6月8日に、天津でロシア公使は清の李鴻章に、
 「清国は情報を故意に誇張し、朝鮮への対処をしている」
 とくぎを刺し・・「反乱が鎮圧され次第、直ちに撤兵を」
 と言っている。
  逆に、ロシアのカッシニ駐清公使は、日本の駐清臨時
 代理公使の小村寿太郎に対し、「日本の派兵の必要を認
 めていた」。
  清国の李鴻章は、「清は宗主国による属邦保護の旧例
 に従い朝鮮の要請により行ったものだ」と言い、
 「ロシアとは無関係」と言った。
  日本は、この様な推移の中、6月16日、仁川に上陸する。
  この後、日本と清国の角がぶつかり合って行く・・、
.
  (今日の言葉)
.
  題:工作員が一杯・・スパイ天国となっている日本・・あちこちで暗躍している・・
.
紀元前1万3000年以前、日本の縄文時代は、紀元前13,000年
 頃から約1万年以上もの長い間続いた。
  その間に作られた土器の形や色など、また、住み方・
 家などが、だんだん変わって行った。
  また、その縄文(じょうもん)時代より以前・・、
  縄文時代より前の旧石器時代の人々は、マンモスなど
 の大きなえものを追いかけて、日本列島の中を移動しな
 がら生活をしていた・・
  その様な遠い昔からの歴史が、日本列島全体にある。
  そのため、住んでいたのは、すぐに移動ができるテン
 トのような家だったと考えられている。
  縄文時代になると、人々は、長い間、同じところで生
 活できる家を作った。
  みんなで集まって生活するようになった。
  これが、「村(ムラ)」の始まりだった。
  縄文時代の代表的な家を『竪穴住居』と言った。
  この住居は、地面を掘って何本か柱を立て、上に屋根
 を設けた。
  半地下式の家だった。
  ムラのなかには、竪穴住居だけでなく、太い柱を使っ
 た大きな建物や、みんなが集まる広場、死んだ人を埋葬
 する墓、貝がらや食料の食べかすを捨てる貝塚・・など
 が作られていた。
  また、ストーンサークルとも呼ばれる、いくつもの石
 を直径30~50メートルの大きな円形にならべた環状列石
 も見つかっている。
  ムラの周り広がる「クリやクルミなどの森」は手入れ
 がなされた。
  ここから、生活に必要な食料や木材を手に入れること
 ができる「縄文里山」として大切にされていた。
  縄文時代の人々は、丸木舟に乗って海をわたり、遠く
 はなれた場所の特産品を手に入れていた・・交流・交易
 をしていた。
  縄文時代の遺跡には、本州でしかとれないヒスイとい
 う美しい石が北海道で見つかったり・・、
  また、逆に、北海道の黒曜石が、本州で見つかったり
 している。
  また、暖かい南の海でしかとれない数種類の貝が、北
 海道で見つかっている。
  縄文人は、日本列島の広い領域を行き来していた。
  縄文の人々は、これらのヒスイや貝などを使って、首
 かざりや、腕輪などのアクセサリーを作っていた。
  また、とても硬い黒曜石は、先を鋭くとがらせて、狩
 (か)りに使う石ぞくや石やり、ナイフなどにしていた。
  縄文時代にも、日本列島での全国規模の交流が行われ
 ていて、人々やモノや情報の活発な動きや交換があった。
  そして、この縄文時代の住居である竪穴住居が、従来、
 考えられて来た茅(かや)が葺(ふ)かれた形ではない
 ことが分かって来た。
  茅が葺かれていたという痕跡がまったくないからで、
 逆に、「土(つち)の屋根」という痕跡が発見されてい
 る。
  例えば、岩手県一戸町の御所野遺跡に、火事にあって
 燃えてしまった縄文時代の住居があった。
  火事で、柱などの木部が炭化したため、腐敗菌に木質
 部が腐敗されずに残った。
  その様な腐らなかった竪穴住居の柱の部材の脇に焼け
 た土が、また、部材の間に堆積していた。
  それが、屋根部分の土だと推測された。
  また、茅には「ガラス質」が含まれているが、この住
 居跡からは、屋根に使われていただろう茅のガラス質が
 あまり検出されず、「屋根が茅だ」という痕跡が否定さ
 れ、「土葺きの竪穴住居の屋根」と推測された。
  また、土葺きの竪穴住居の焼却実験もなされ、この遺
 構の通りの様になることも実証された。
  この様な遺跡が、日本各地で発見され、北海道でも発
 見された。
  北海道の入江・高砂貝塚遺跡や、東北地方、関東地方
 などで発見された。
  縄文人は、日本全土で「土葺きの竪穴住居」に住んで
 いた。
  また、ガラス質を含む硬い茅を刈り取る道具の存在の
 可能性も無い事が、その裏付けにもなっている。
  今、北海道庁の会議で、北海道には、この様な縄文人
 は居ないという答弁がなされている。
  まったく、歴史的事実を無視した非科学的な議論がな
 されている。
  北海道庁の会議では、「無土の地」という間違った答
 弁がなされている。
  誰も居なかったという意味で、この様な間違った認識
 の議論がなされ、この様な間違った認識の議員が、北海
 道政を動かし、行なっている。
  そして、また、北海道の白老町では、北海道は「アイ
 ヌ民族の地だ」ということで、白老町の中のある地域を
 アイヌ民族に返還するという間違った話が進んでいると
 いう。
  しかも、国の金が、我々の税金の金が、100億円もの金
 が投資され、この記念館の箱物が建てられるという。
  また、この様な北海道に、中国が暗躍して、「アイヌ
 民族の独立の話」が画策されているという。
  まったく馬鹿げた話が北海道には一杯ある。
  日本民族の祖先の縄文人の歴史が、そして、その縄文
 人以前の旧石器人の存在が、まったく無視された企て(
 くわだて)が進んでいる。
.
17世紀、キリスト教化したいと、暗黒のヨーロッパ中世に
 キリスト教は暗躍した。
  ヨーロッパのキリスト教司教領で、キリスト教の教義
 などの洗脳が影響し、子供だけでなく、地域全体が憑依
 (ひょうい、霊が乗り移り、異常状態で踊りまくる)す
 るという事件が起きた。
  感受性の強い子供の心を、結果的に、弄(もてあそ)
 ぶ事が起きている。
  キリスト教のお祭り「ハロウィン」が、日本で、無邪
 気に行われているが・・、
  そして、この魔女などが関連するこのお祭りに、小さ
 い子供が参加しているが・・、
 また、小学校では「国際感覚を身につけよう」という美
 名のもとに、公的小学校も含めて「ハロウィン」が行な
 われ、
 キリスト教系学校の学生が、喜々として駆けつけ、一緒
 になってやっているが、これは美名の下に行われるキリ
 スト教の「巧妙なる伝道行為」です。
 アメリカでも問題となり、裁判事例が多い「巧妙なる伝
 道行為」です。
 そして、この魔女が関連しているこの事例で、子供たち
 に何が起き?、影響したか?・・という事例・・、
 キリスト教には、「神を恐れよ」という教義がある。
 魔女事件の場合、キリスト教は、この教義によって権威
 を得ようとした。
 また、教勢を拡大したいとした。
 その為、「魔女は生かしておいてはならない」の教義が
 あるキリスト教は「死も辞さない」という姿勢だった。
 「死も辞さない」と言っても自分ではなく、相手を死に
 至らしめる行為でもって権威を得ようという目的だった。
 この例の様に、キリスト教の歴史は、周りに死の影や戦
 争が満ちる歴史となった。
  魔女事件の場合、年端(としは)の行かない3歳・5歳・
 7歳・12歳の子供達が憑依(ひょうい)した。
  これは、広がりやすい性質を持っていた。
  17世紀、キリスト教司教領で、子供だけでなく、地域
 全体が憑依するという事件となって起きた。
  魔女だと言われた女性が、自(みずか)らキリスト教
 聖職者の居る魔女委員会に申し出て、「多くの人々の体
 内に悪霊を祈り込んだ」と言った。
 すると、この町に憑依した、憑(つ)かれた主婦や子供
 達、大勢の群れが、この司祭領や隣接する地域にさ迷い
 出て来た。
 憑依した人たちは、未成年者が多い状況だった。
 町は混乱した。
 飛び火しやすいこの現象は、飛び火して行った。
 スウェーデンの場合は、プロテスタントの村だった。
 憑依した子供たちが現われ・・、
 子供達は意外と大人が何をやっているかを知っていて・・、
 大人たちの言動から、魔女とはどういうものかを見聞き
 し、よく知っていた。
 日頃から、キリスト教聖職者は、魔女の定型を話をして
 いた。
 怖い事に・・感受性の強い子供達は、特に、憑依しやす
 い状況で、親たちは、自分たちで救う事を断念するくら
 いだった。
 親たちは、当局へ原因の魔女の撲滅をする様にと押しか
 けるという騒ぎとなった・・、
 国王の調査委員会が取り調べるという事になり、騒ぎは
 ますます拡大して行った・・
 また、多くの他の村々へ伝染して行った・・、
 憑依した魔児たちは、無数の大人たちを告発した。
 「魔女の踊りをしていた」「悪魔のシナゴーグへ行った
 りしている」、それを見たと・・、
 ある村は、70人の女性と15人の子供が火炙りとなりまし
 た。
 これは、国境も越えて広がって行きました。
 ドイツで起きた事例では、ほとんどが10歳以下の子供
 でした。
 子供達は、キリスト教の教義と魔女を自己流に織りなし
 て語りました。
 想像力の強い子供達は、「魔女のサバト」「天国の幻視」
 「最後の審判と地獄の使者」を語り、告げるという状態
 でした。
  驚くことに「デーモン(悪魔)との性交渉」の詳細な
 証言に、裁判官(キリスト教裁判所の聖職者の裁判官)
 もびっくりしている状況でした。
 (参考)とし‐は【年端/年歯】 年齢のほど。年齢。
    としのは。「―のいかない子」
 (参考)ひょう‐い【憑依】 [名](スル) 霊などがの
    りうつること。「悪霊が―する」 」
.
1804年12月2日、ナポレオンの戴冠式
  ナポレオンは、自(みずか)ら戴冠した。
  ローマ法王(教皇)のピウス7世は、ナポレオンの後ろ
 で、何もしないで静かに座したままだった。
  キリスト教が、何の役にも立たないことを知っていた
 のである。
  逆に、キリスト教の仮の権威がある如くの戴冠がなさ
 れ、その後、各地の王や諸侯が、キリスト教に教会を建
 ててあげたりする「おかしさ」を知っていた。
  ナポレオンは、俊英の皇帝だった。
  キリスト教の」虎の威を借りる狐」状態を知っていた。
  何ら、キリスト教に権威も何にもないのに、王位の冠
 (かんむり)をキリスト教が授けるようにする振る舞い
 の害を知っていた。
  このキリスト教は、自分の宗教の伝道より・・「金を
 得ること」と「権力を得ること」を、一生懸命にやって
 来ていた。
  それに気付いたナポレオンは、自分だけではなく・・
 自分の妃(きさき)の戴冠式も、ナポレオンが自ら、妃
 に戴冠した。
  キリスト教聖職者による戴冠を排除した。
  今までは、種々の王や諸侯の戴冠式の戴冠は、キリス
 ト教の聖職者が行なって、ある意味「キリスト教聖職者
 が、あたかも、冠(かんむり)を授けているように見え
 ていた」。
  ナポレオンに、その馬鹿げた虚構が見えた。
  今、キリスト教国・アメリカでは、大統領の就任式に、
 キリスト教の聖書に手を置いて宣誓する儀式が行われて
 いるが・・、
  あれほど、アメリカの初代大統領のワシントンが、キ
 リスト教色の排除と、キリスト教の影響力を排除しよう
 とした心が、「理解されていない状況」へと、今、アメ
 リカはあり、後退している。
  この初代大統領ワシントンは、アメリカ合衆国憲法を
 作る時にも、キリスト教の影響力を排除することに非常
 に心を砕いた。
.
1937年12月8日、日本軍は12月8日には南京を包囲した。
  そして、1937年12月9日、日本軍は中国軍に対して無血
 開城を勧告した。
  中国軍は、開城勧告を拒否し、応じなかった。
  やむなく、日本軍は、勧告に応じない南京城を1937年
 12月10日、攻撃を開始した。
  1937年12月12日、南京防衛司令官の唐生智が逃げた・・
 一般兵たちを置き去りにして・・逃亡した。
  また、蒋介石を連れ去って、司令部を崩壊させたアメ
 リカ・・それで、司令部が崩壊し、混乱している中国軍
 が、なおさらに、南京防衛司令官の逃避で、まったく統
 制のされてない状態となった。
  そしてまた、統制の効いてない南京の中国軍の大半が
 組織的撤退を知らされていない状態で・・、
  また、日本軍の迫る頃から混乱が続いていた南京城は、
 逃げる人々にあふれ、中国軍が撤退することを知ってい
 ても安全に逃げられない状況であった。
  中国軍は、自軍の中国兵を、塹壕に足を縛って置き去
 りにしたりした・・塹壕に置き去りにして、防戦させる
 という卑劣なこともした。
  唯一の逃避路である北部の長江へつながる挹江門では、
 中国軍の仲間を撃つことを躊躇しないという中国軍は『
 督戦隊を置いた』。
  中国軍の撤退する側と同士撃ちとなった (挹江門事件)
  (参考)督戦隊:とくせんたい、軍隊において、自軍
     部隊を後方より監視し、自軍兵士が命令無しに
     勝手に戦闘から退却(敵前逃亡)或いは、降伏
     する様な行動を採れば、攻撃を加え、強制的に
     戦闘を続行させる任務を持った部隊のこと。
      この場合、中国軍が、自軍の中国軍を撃ち、
     中国兵を戦う事を仕向けた。
.
1937年12月12日、挹江門事件(ゆうこうもんじけん)
  アメリカが介入して、中国軍の最高司令官である蒋介
 石が連れ去られ、中国軍の司令部は崩壊し、中国軍は乱
 れに乱れていた。
  督戦隊が置かれることまでされて、中国兵は戦わせら
 れた。
  あちこちで中国兵同士が撃ち合った・・その一つが挹
 江門事件だった。
  1937年12月12日の夜、挹江門事件が起きた。
  南京城へ進撃する日本軍の攻撃によって、中国軍は敗
 走に敗走を重ねた。
  その中国軍の一部隊が敗走して、挹江門を通り抜けよ
 うとした。
  その部隊は、中国国民政府軍87師と第88師、そして、
 教導総隊の潰走兵だった。
  その潰走(かいそう、戦いに敗けた兵士や隊が、四分
 五裂になって逃げること)する兵士たちと、それらを武
 力阻止する中国軍の督戦隊である国府軍第36師212団とが
 衝突した。
  中国軍同士の激しい撃ち合いとなった・・その双方の
 発砲で、瞬く間に約1000名の中国軍兵士が死亡した。
.
1937年12月13日、この日、混乱に次ぐ混乱の中で、中国軍
 は総崩れとなり南京城は陥落した。
  陥落時にも、南京城の北側から長江の対岸へと逃げよ
 うとした非常に多くの兵隊や一般人が、舟もない中で渡
 河しようとして、混乱の中で撃たれたり、途中で溺れ死
 んだりした。
.
1937年12月13日、中国の南京を日本軍が攻略した。
  この時、いわゆる南京事件が起きたとされているが・・
 まったくの嘘。
  戦勝国のアメリカは、裁く事が出来る法律が無い事か
 ら・・、
  「その裁くための法律を、わざわざ後から作ってまで
 して、東京裁判を裁くという・・卑劣な、戦勝国のアメ
 リカのやりたい放題のやり方で、東京裁判を裁いた」。
  この不当な、また、不法な、戦勝国のやりたい放題の
 東京裁判でさえ、この南京事件はあったとした。
  南京事件をデッチアゲタ。
  そのデッチアゲの南京事件の中国の犠牲者は「2万人」
 と言った。
  それを、中国の現在の政権・中華人民共和国(中共)
 は、だんだんその犠牲者数を増やして行った。
  「無いもの」を「ある」と言い・・そして、その数を
 だんだん増やすという行為を行なった・・よくあるパタ
 ーンを行なった。
  そして、今・現在に至った時点で、その犠牲者数を「
 30万人」と言っている。
  中共の好きに膨らませたこの30万人も、この後には、
 さらに、大きく風船のように膨らんでいくだろう・・
  だが・・この嘘つきの中国の中共の味方をする書物で
 さえ、この数を10万人としている。
  まったく言いたい放題の・・信用の出来ない中共など
 となっている。
  しかし、お粗末な事に、この中共に、ゴマすりをよく
 する「村上春樹は、本で40万人と書いた」・・
  村上春樹よ! 証拠を示せ! この嘘つきめ!
  この一件は、アメリカが、中国軍の最高指揮官の蒋介
 石(現政権の共産党軍ではない)を・・、
  そして、その司令部の最高将校の重要要員を、「救出」
 の名の下に、戦い真っ最中の南京から連れ去った・・
  このために起きた「中国軍の大混乱が原因」で、この
 大混乱・大混戦の原因は、アメリカが作った。
  また、この様に卑劣な参戦をしていたアメリカ軍こそ
 が、「東京裁判で裁かれるべき」だった。
  司令部の居なくなった中国軍は哀れな惨状を示した。
  当然の結果として・・乱れに乱れて、中国軍兵士は逃
 げ惑った。
  惑い、そして、逃げる自国の兵士を「逃げるな」と、
 置き去りにされた中国軍の下級将校たちは、自国軍の兵
 士へ向かって狙い撃ちをした。
  この様な卑劣な事態が起きた。
  東京裁判では隠された・・
  卑劣な裁判だった・・
  この様な南京攻略戦は、様々な事態の中で戦われた。
  また、卑劣にも、中国兵は、逃げられないと悟ると、
 軍服を脱いで、民間人の中に隠れた。
  これでは、民間人に被害が及んでしまう・・民間人が
 戦闘員と見間違われてしまう・・しかし、助かりたい中
 国兵は、この様な卑劣な事までした。
  そして、そこから日本兵を狙撃するという戦い方もし
  その民間人の中にある銃の探索が行われた・・当然・・
  民間人へ被害が及ぶことが分かっていても、中国兵は、
 民間人の中に卑劣に隠れた。
  当然、その民間人に隠れている中国兵と戦わざるを得
 ないという日本軍の事態だった。
  この様な様々な中の南京攻略戦だった。
  「修羅の状況」である。
  アメリカに援助された中国・蒋介石・国民政府軍は、
 「重慶」という中国の奥地へ拠点を移した。
  新しい都とした。
  これは、日本を叩きたいアメリカが、「日本の消耗」
 を狙っていたのだった。
  そして、アメリカは、延々と「援蒋ルート(蒋介石の
 中国軍を援助するルート)」を使って、厖大(ぼうだい、
 非常に大きく、多量なこと)な武器や弾薬を中国軍へ援
 助する。
  「日本との戦争ありきのアメリカ」
  そして、この先の第二次世界大戦ありきを決めてかか
 っているアメリカだった。
  この事の初め・・元々、アメリカは、厖大な武器・弾
 薬を支援して、中国・蒋介石軍に、上海を大軍で包囲さ
 せていた。
  その様な形で、中国・蒋介石軍は日本に迫って来た。
  上海の国際租界の中の日本租界へ向けて攻撃を開始し
 て来た(1937年8月13日、第二次上海事変)
  この時から、そもそもの戦いは始まった。
  アメリカの支援の下で、中国・蒋介石軍が、先に戦争
 を開始した。
  この武器・弾薬を与えて「アメリカが、焚き付けて始
 まった」・・その様な戦いだった。
  ルーズベルトが、第二次世界大戦がはじまったとき、
 「戦争を作った」と言ったが・・まさしくこの時以来の
 ことだった。
  キリスト教に偏して、日本を貶めてばかりいるNHK
 は、この事を隠し、まったく、この様な事を放送しない。
  この時、NHKはじめ日本のマスコミは、「戦争を煽
 った」。
  この時、上海事変で、蒋介石軍の攻撃を受けて、日本
 は戦い・・、
  そして、この戦いを・・日本が収めたとき・・、
  日本は、この時点で終わらせようとした。
  世論には、戦争を仕掛けた中国の蒋介石への思いに、
 「撤退し、逃げる蒋介石軍を追討するか?否か?」の判
 断において、国内には賛否の両論があった。
  この様に揺れている時に、NHKはじめマスコミは「
 囃(はや)し立てた」。
  このため、南京への追討否定派の意見はなくなった。
  NHKはじめ日本のマスコミは、常に、日本の戦いを
 煽り立てた。
  そして、進軍が決定すればすれで・・その進軍の様子
 を、「微に入り、細に入り報道」して「煽った」。
  そして、戦後の1948年11月13日・・、
  東京裁判の南京事件の責任者とされた日本の将軍に・・
 死刑判決がなされると・・、
  朝日新聞は、自らが勝ち誇ったように、「この一訴因
 で絞首刑」と記して報じた。
  NHKとこの朝日新聞は、今・現在、自社の一室を中
 国へ与えるという特別な事をしている。
  嘘の慰安婦問題をデッチ上げた朝日新聞と、そのNH
 Kは悪である。
.
1937年12月16日、中国の南京において、中国軍は、一般人
 民の中に隠れて、一般人民を卑劣にも盾にして、日本軍
 を狙い撃ちした。
  その掃討が、この日まで続いた。
  盾にされた中国の一般人民は、たまったものではなか
 った。
  南京での中国兵は、卑劣な行為である「軍服を脱いで
 戦う事をした」。
  軍服を着ていない一般人が戦うということではなく、
 今まで軍服を着ていた中国軍人が、その軍服を脱いで、
 一般人のふりをして戦った。
  軍服を着ていた中国兵が、着ている軍服を脱いで、人
 民の中に隠れて、日本軍と戦った。
  人民を盾とする卑劣な戦い方をする中国兵だった。
  日本軍は、その掃討(そうとう、残っている敵兵を撃
 ち払うこと)を行なったが、掃討戦は、1937年12月16日
 まで続いた。
  人民の中に隠れた卑劣で卑怯な中国兵、盾にされた中
 国人民・・この一般の中国人に犠牲者が出ない訳は無か
 った。
  上海戦から南京戦までの日本の戦死者の総数は24,000
 名に達した(戦病死者を含む)。
  この数は、日本軍の最高司令官である松井大将の日記
 にある数字で、ほとんどの戦死者が上海戦によるもの。
  一方、中国側のデーターについては、国民党軍軍政部
 長の何応欽上将の軍務報告に33,000名とある。
  何しろ、中国軍は、一般人民を盾にして、その人民の
 盾の陰から日本軍を狙撃するという卑劣な戦い方をした。
.
1943年、ソ連のスパイ機関が、アメリカ国内からソ連のモ
 スクワへ、スパイした内容を報告するのを、アメリカは
 知った・・そして、その傍受をする。
  この様な事があったと、1995年になって「VENON
 A(ベノナ)文書」が公表された。
  この文書が公開され始めて、戦中から戦後にかけて、
 この様なコミンテルンが、アメリカ国内で盛んに活動し
 ていたことが分かって来た。
  (参考)コミンテルン:共産主義インターナショナル
      Communist Internationalの略称。
      第3インターナショナル、第3インターとも呼
     ばれる。
      1919年3月にモスクワに創設され 1943年5月ま
     で存続した各国共産主義政党の国際統一組織。
      第1インターナショナル (1864年~1876年) 、
     第2インターナショナル (→社会主義インターナ
     ショナル、1889~1914) の崩壊後、V. I.レーニ
     ンらは、第1次世界大戦中から、新しい第3イン
     ターナショナルの創設を目指して活動を続け、
     30ヵ国の共産主義諸政党あるいは革命的組織の
     代表50余名をモスクワに集めて、1919年3月2日
     ~1919年3月6日、コミンテルン第1回大会を開い
     た。
      コミンテルンは、第2インターナショナルに比
     べ、はるかに強固な国際的団結と規律をもち、
     ソ連という社会主義国家を支柱とするに至った。
      また、民主的中央集権の組織原則をとり、コ
     ミンテルン執行委員会の指導のもとに活動する
     ことが定められた。
  そして、アメリカでのその実態が明らかになった。
  これは、カーター・クラークというアメリカの将軍が、
 ルーズベルト大統領にも秘密にして始めたプロジェクト
 だった。
  アメリカ陸軍の超秘密の暗号解読機関が、ソ連情報部(
 KGB、GRU)が、アメリカ国内からモスクワの本部
 に、報告する電報を傍受し、解読していた。
  解読作業は、1943年から始まり、1945年位から進捗す
 る。
  すると、ソ連のスパイが、ぞろぞろと判明した。
  国務省や財務省の官僚をはじめ、官庁のスタッフ、そ
 して、知識人、映画関係者、作家など広範囲な人のソ連
 スパイの存在が明らかになった。
  今・現在も、日本に盛んに中国の工作員が、日本に潜
 り込んでいるが、このアメリカの様な事になっていると
 言える。
  今・現在、沖縄県や北海道の中国化が急速に進んでい
 る。
  このベノナ文書で、ルーズベルト政権(ワシントンの
 連邦政府)に、常勤スタッフだけで200人以上、正規職員
 以外には300人くらいのソ連工作員(スパイやエージェン
 ト)が居た・・この事が確定的に判明した。
  (参考)エージェント:(1)代理人や代理店。また、
     仲介業者。(2)国家の秘密業務で働くもの。
  この影響が、1933年から1952年の約20年間、ルーズベ
 ルト大統領政権から、次のトルーマン大統領政権にまで、
 ソ連に繰られていた。
  今の日本も、非常に注意しなければならない時にある。
.
1979年1月、日米・コンピューター開発競争・・日本潰しの
 IBMスパイ事件へ
  1979年1月、IBMは、従来の中・小型コンピューター
 の5倍から6倍という抜群のコストパフォーマンスのI
 BM4330を発表した。
  これは、プラグコンパチブル機に対抗してそれらに致
 命症を与えるに充分な価格設定とおもわれた。
  事実、このために有力なコンパチブルメーカーであっ
 たアイテル社は痛手を負い、関連部門をナショナルセミ
 コンダクタへ売却した。
  そればかりか、IBMとコンパチブルでないイギリス
 のICL(International Computers Ltd.)も、主力工場
 であったウインズフォールド工場を閉鎖する事態におい
 こまれた。
  ところが、日本のメーカーは、わずか1ヶ月遅れで対
 抗機種FACOM130Fを出荷した富士通をはじめと
 して、各社ともIBMに追随してきたのである。
  しかも、1980年11月、IBMの特に強い超大型コンピ
 ュータの分野でも、IBM3081D(9.5MIPS)を発表
 した時すでに、日立は10.2MIPSのM200Hを、
  そして、IBMのコンパチブルではないが、日本電気
 のACOS1000は15MIPSという当時の最速の機種を
 発表しており、IBMは、日本のコンピュータに先を越
 されていた。
  この様に、日本のメーカーは、すくなくともハードウ
 ェアについては、IBMの技術に追い着き・・、
  半導体チップでは、日本の方が信頼性などの点で優れ
 いるとも言われるにまでに至っていた。
  そこで、IBMは、日本のコンパチブル機を振り切る
 決め手として、基本ソフトウェアであるOS(オペレー
 ティング・システム)を解析しにくくすることにした。
  それまで、磁気テープで供給してきたOSの機能を一
 部ファームウェア化してしまった。
  こうすれば、コンパチブルメーカーはOSを解析する
 までに相当時間を必要とする。
  1981年12月、こうして、この8000語ほどファームウェ
 ア化されたOSをもつIBM3081Kを発表すると共に、
 3081が、31ビットアドレッシングを採用している新しい
 アーキテクチャであること明らかにした。
  そして、IBMは、アーキテクチャが変わっても360シ
 リーズ以来のアプリケションソフトを実行できる新しい
 OS、MVS/SPを提供した。
  この31ビットアドレッシングと、新OSの高度なファ
 ームウェア化は、コンパチブルメーカー対策としては強
 力で・・、
  富士通、日立が、このファームウェアを解明するには
 2年はかかるとみられた。
  そのため、あせった日立が、新OSのソースリストを
 中心としたIBMの技術情報を入手しようとしたのを、
 FBIのおとり捜査にひっかかり摘発されたのが、1982
 年6月23日だった(IBMスパイ事件)
  この結果、IBMは、日立に多大な賠償金とIBMの
 技術情報が使用されているかどうかの製品検査権を認め
 させた。
  これにより、IBMは、日立の動向を掌握することが
 でき・・、
  いざとなれば、日立にコンパチブル機を作らせないこ
 ともできることになった。
  また、IBMは、この事件に直接関係なかった富士通
 に対してもOSの酷似をもって、富士通を訴え、実質的
 に著作権を認めさせた。
  日立や富士通は、IBMコンパチブルの路線をとる事
 になって行く。
.
1982年6月22日、IBM産業スパイ事件(アイ・ビー・エム
 さんぎょうスパイじけん)は、1982年6月22日、日立製作
 所(以下、日立)や三菱電機(以下、三菱)の社員など
 計6人が、米IBMの機密情報に対する産業スパイ行為を
 行ったとして逮捕された事件である。
  この事件は、各日本メーカーとIBM米本社との間の
 事件で、同日本法人である日本アイ・ビー・エム株式会
 社は無関係であり、同社関係者にも寝耳に水の事件であ
 った。
  IBMと日立は、翌年・1983年に和解した。
  また、1984年より、当初は当事者外であった富士通と
 IBMの交渉も進められ、1988年に和解した。
  1981年、IBMは、アドレスを31ビットに拡張し
 (System/370-XA)、オペレーティングシステム (OS) の
 一部をファームウェア化して互換機を作りにくくしたメ
 インフレームコンピュータの3081K を発表した。
  互換機メーカーであった日立は、 3081K に関する技術
 文書をNAS(ナショナル セミコンダクターの汎用コンピ
 ュータ部門で、日立からOEM供給を受けていた)から入手
 した。
  一方、かねてからコンサルティングで日立との取引が
 あったペイリン・アソシエーツ社から 3081K に関する報
 告書の売り込みがあった。
  日立はその目次を見て、NASから入手済みの資料に酷似
 しており、両方の文書が何らかの共通の資料に基づくも
 のと判断。
  ペイリン社に対して、「その資料は既に持っている。
 しかし、それは一部と思われるので、他にもあるなら購
 入したい」と伝えた。
  ペイリン社の社長ペイリーは、元IBM従業員であり、
 日立がIBM3081Kの資料を入手済みであることをIBMの
 ボブ・エバンズ(当時、副社長)に通報。
  結果として、FBIによるおとり捜査が行われ、日立
 と三菱の社員が逮捕されることになった。
  刑事事件自体は、1983年2月、司法取引により決着した。
  しかし、IBMは、日立に対して民事損害賠償訴訟を
 起こした。
  ・・IBM産業スパイ事件は・・、
  日立と三菱がスパイをやった、という程度の、企業が
 行き過ぎただけの話だと思われている・・が・・、
  1959年、日本のコンピューター開発、この年には、東
 京大学が中心となって、東芝・日立が協力し、TACが
 完成した。
  (参考)TAC:Tokyo Automatic Computerは、東京
     大学が開発したコンピュータで、一般に東大と
     東芝が共同開発したとされていて、大変な難産
     の結果、うまれた。
      東芝が協力していない部分や日立製作所が協
     力した部分があり、1959年に、最終バージョン
     が完成した。
  (参考)FUJIC:富士写真フイルムにおいて開発
     された我が国初の電子計算機で、真空管式電子
     計算機だった。
      レンズ設計に使用することを目的として岡崎
     文次により開発された。
      1949年より、岡崎は研究を開始した。
      1952年3月から、メモリ関係の研究と並行して
     全体の組立てが行われた。
      1955年11月に、電子通信学会電子計算機研究
     専門委員会の見学会で、動作のデモンストレー
     ションが行われた。
      1956年3月初めに完成し、栄誉ある我が国最初
     の電子計算機となった。
      真空管を約1,700本使用した2進法3アドレス方
     式の電子計算機で、記憶装置には超音波水銀遅
     延線(255語)が採用された。
      論理回路のクロック周波数は約30KHzであった
     が並列演算回路を採用し、加減算0.1ms,掛算1.6
     msと、当時としては比較的高速であった。
      目標はレンズ設計において人手計算の1,000倍
     であったが、約2,000倍の性能を実現した。
      2年半の間小田原工場で社内外の計算に使用さ
     れ、その後、早稲田大学に寄贈され、現在は国
     立科学博物館に保存されている。
  上記の様に、日本は、コンピューター開発の先端を歩
 んでいた。
  国の予算をつぎ込んだ国家プロジェクトとしても進め
 られ、目標は大きく野心的でさえあった。
  研究課程は難航し、何度も設計変更を繰り返した。
  1964年には、通産省の予算で富士通・沖電気・日本電
 気が共同でFONTACを作成した。
  (参考)FONTAC:年々輸入が増大していた大型
     コンピュータ分野に、通産省は補助金を交付し
     て大型コンピュータの国産化を狙った。
      1962年7月、そのために、富士通信機製造(現:
     富士通)、日本電気、沖電気の3社により日本電
     子計算機技術研究組合が設立された。
      FONTAC(Fujitsu-Oki-Nippondenki-
     Triple-Allied Computer)は、この3社の3年に
     わたる共同研究によって完成された大型コンピ
     ュータだった。
      1964年11月に完成し、日本電子工業振興会に
     納入された。
      FONTACシステムは、主コンピュータと
     して高速大容量の記憶装置と多数の入出力チャ
     ネルを持つ大型2進計算機を、衛星コンピュータ
     に可変語長のFONTAC Sub Iと固定語長のFONTAC
     Sub IIを使用し、主コンピュータと衛星コンピ
     ュータは密接に結合された。
      FONTAC Centralは、1語42ビットからなる2進
     法のコンピュータで、固定小数点の数値は、デ
     ータ36ビット、フラグ4ビット、パリティ2ビッ
     ト、浮動小数点の数値は指数部9ビット、仮数部
     27ビット、フラグ4ビット、パリティ2ビットよ
     り構成された。
      記憶装置として30mil/サイクルタイム2.2μs
     の磁心記憶を使用し、最大65,536語の容量を実
     現し、演算速度として固定小数点加減算/乗算
      4.4μs /25.2μs,秒浮動小数点加減算/乗算
      15.4μs /30.8μsの性能を有した。
  1962年7月、この共同研究で開発された技術を基に、
 CPU(中央処理演算装置)を担当した富士通信機製造
 (現:富士通)は、FONTAC Centralを一部改良し、FACOM
 230-50として商用化した。
  1964年11月、FONTACは、この3社の3年にわたる共同研
 究によって完成された大型コンピュータで、1964年11月
 に完成し、日本電子工業振興会に納入された。
  この頃から、各社が「コンピューターの作り方」を理
 解し、独自開発を開始した。
  日立のHITAC、富士通のFACOM、日本電気のNEAC、東芝
 のTOSBAC 、三菱のMELCOM、沖電気のOKIMINTAC・・
  コンピューターは、これから確実に産業の中心となる
 というのは明らかだった。
  1970年代初頭、IBMは、巨大メーカーに成長しつつ
 あった。
  日本国内だけで、6社も、互換性のないコンピュータ
 ーが乱立していて、これでは、日本のコンピューターは、
 大企業に潰されてしまうリスクが存在した。
  通産省は、「国内で、IBMに対抗できるコンピュー
 ターを育てる」ための方策を取った・・それは・・
  1) IBMと技術提携を行わない、IBM互換機路線
  2) IBMに対抗できる大企業の互換機路線
  3) 日本独自路線
  2 の大企業は、ハネウェル社。
  1960年代、アメリカには、8つのコンピューターメー
 カーがあった(「IBM と7人の小人」と呼ばれた)
  ハネウェルはその一つでありながら、1970年に MULTICS
 の技術を持つGE社と合併し、力を伸ばしていた。
  通産省は、国内の各社は上のいずれかの道を選び、提
 携することが求められた。
  富士通と日立はすでにIBM互換機を作成していたた
 め、互換路線を選んだ。
  日本電気はすでにハネウェルと提携していた。
  東芝も、すでにGEと提携していましたが、GEがハ
 ネウェルに吸収合併された。
  そこで、日本電気と東芝も提携し、ハネウェル互換路
 線を選んだ。
  三菱・沖電気は「取り残された」形で提携し、独自路
 線を歩むことになった。
  富士通と日立は提携し、技術的な交流は図りつつもお
 互い独自に、IBM System/370 の互換機を作成していた。
  (IBM との技術提携はない)
  ただし、IBM で System/360 (370の旧世代機)を設計
 した技術者で、後に独立したジーン・アムダールの会社
 と富士通は提携し、技術的ノウハウを得ていた。
  1981年、IBM はこうした「互換機」が世界中で増えて
 いたため、設計を一部変更して、性能を上げるとともに
 互換機を作りにくくした、System/370-XA を発表した。
  日立は、この「設計変更」の詳細を入手しようとして、
 IBM のおとり捜査に引っかかった。
  1982年、社員5名が逮捕され、この時、三菱社員1名
 も逮捕された。
  三菱は、当初、「独自路線」グループでしたが、この
 頃には余りに強くなった IBM の互換機を作ろうとしていた。
  この刑事事件は、司法取引により決着した。
  しかし、IBM から、民事損害賠償訴訟を起こされた。
  System/370-XA は、各種回路が特許で守られていたう
 え、それまでは後から読み込まれるソフトウェアであっ
 た「OS」の一部を、ハードウェア内に持つようになって
 いた。
  System/360 や 370 の頃は、同等の機能の回路で置き
 換えも可能でしたが、370-XA の特許は強力で、簡単には
 回避できなかった。
  また、BIOS に関しては単純な回路ではなく、プログラ
 ム…著作物です。
  著作権の場合「類似したもの」を作ったとしても、盗
 作としてアウト。
  少なくとも、この時点では IBM はそのような認識で動
 いていた。
  ずっと後に、IBM・コンパックが BIOS の著作権を争い、
 現在は違う認識となっている。
  結局、日立は IBM の許可を得ずに機械を販売しないこ
 と、訴訟費用は全部日立が負担すること、ソフトウェア
 やインターフェイスなどに関して、使用する対価を払う
 こと…などを条件に和解した。
  日立からすれば、IBM 互換路線に「お墨付き」を貰っ
 た格好で、この後も互換路線を進んだ。
  富士通も日立の訴訟に危機感を持ち、同様の取引を結
 びますが、徐々に IBM 互換路線から非互換路線にシフト。
  いずれにしても、通産省の狙った「独自技術による互
 換」という路線は無くなってしまった。
  この頃は、IBM が強くなりすぎてハネウェル社もコン
 ピューターから事実上の撤退。
  特に、吸収合併したGEの互換機は消滅し、GE互換
 だった東芝も撤退、同じグループだった日本電気にコン
 ピューター部門を売却した。
  独自路線だった三菱・沖も、先に書いたように三菱が
 IBM互換路線に進もうとして、スパイ事件に発展した。
  沖電気は、コンピューター本体は断念して、周辺機器
 製造に特化した。
  国策だった3グループ化は大失敗となった。
  日本のコンピューター産業は死んでしまう…。
  「IBM産業スパイ事件」とは、そうした危機的な状
 況を意味した。
  翌1983年、日本電気がスーパーコンピューターの新シ
 リーズ、SX-2 を発表します。
  この SX-2 は、世界で初めて GFLOPS を超えたコンピ
 ューターで、同時に初めてアメリカ以外のコンピュータ
 ーが速度で世界一になった機械だった。
  日本のコンピューター産業復活を狙った。
  この後、急に力を付ける日本のコンピューター業界に
 アメリカが危機感を感じ、1980年代後半から1990年代前
 半の貿易摩擦につなげて問題化する。
.
2012年3月、日本企業の大切な機密技術が、海外企業に盗ま
 れるという、流出した事例は多々ある。
  2012年3月には、工作機械大手のヤマザキマザックから
 設計図などの情報を不正取得したとして、愛知県警が中
 国籍の元社員を逮捕した。
  2012年4月には、新日本製鉄(現・新日鉄住金)が、高
 機能鋼板の製造技術を流出させたとして、元社員と韓国
 鉄鋼大手ポスコを相手取り、1000億円の損害賠償訴訟を
 起こしたりした。
.
2014年3月14日、この日の新聞やテレビなどの大手報道機関
 は、東芝のNANDフラッシュメモリに関する研究データ(機
 密情報)を韓国の大手メモリメーカーであるSK Hynixに
 提供した不正競争防止法違反(営業秘密開示)の容疑で、
 元技術者を警視庁が13日に逮捕したと報じた。
  元技術者(S容疑者)は、東芝とNANDフラッシュメモリの
 共同開発で提携してきたアメリカSanDiskの日本法人に勤
 務していた。
  この事件について、3月14日付けの読売新聞オンライン
 版では、S容疑者は、2007年4月から2008年5月にかけて、
 東芝四日市工場の管理サーバーに保存されていたNANDフ
 ラッシュメモリの研究データをUSBメモリに無断でコピー
 して持ち出し・・、
  2008年7月に、転職したSK Hynix(当時はHynix Semicon
 dcutor)に、持ち出した研究データを提供した。
.
2014年3月、技術流出・・日本政府の対応
  技術の流出防止と保護が極めて大切=東芝技術の流出
 問題で官房長官
  [13日 ロイター]菅義偉官房長官は、13日午前の会
 見で、東芝(6502.T)の技術が海外に流出したとの一部報
 道に関連し、技術の流出防止と保護が極めて大切との見
 解を示した。
  この問題について見解を求められた長官は、報道内容
 については承知しているが、個別事案についての言及は
 控えたいとした。
  その上で一般論と断りながら、「技術立国であるわが
 国にとって、守るべき技術の流出防止と適切な保護にし
 っかり取り組んでいくことが極めて大事だ」と強調した。
  政府として、知的財産戦略本部(本部長:安倍晋三首
 相)が、2013年6月に策定した「知的財産政策ビジョン」
 において技術・営業秘密の保護や強化の取り組みを打ち
 出していると語った。
  共同通信などによると、東芝のフラッシュメモリーの
 研究データを韓国の企業に不正に流出させた疑いが強ま
 ったとして、警視庁は13日までに、不正競争防止法違反
 容疑で、東芝と提携していた半導体メーカーの元技術者
 の逮捕状を取った。
.
2016年11月24日、アメリカは、中国を市場経済国と認めず 
 貿易摩擦激化へ
  アメリカ政府は23日、中国を世界貿易機関(WTO)
 協定上の「市場経済国」(自由な市場で経済運営が行わ
 れている国)とは認めない方針を明らかにした。
  日本も追随する方針。
  中国政府の優遇措置に支えられた中国鉄鋼メーカーな
 どのダンピング(不当廉売)を問題視。
  反ダンピング税を課しにくくなる「市場経済国」とは
 認定できないと判断した。
  中国は、WTO加入から15年を迎える来月の市場経済
 国移行を主張してきたが、米国の反対で事実上、不可能
 となった。・・以上・・(参考:毎日新聞)
  2017年12月12日、中国は「市場経済国」か? アメリ
 カ、認定に反対表明 WTOを試す「リトマス試験紙」
  世界貿易機関(WTO)の制度上の「市場経済国」認
 定を中国政府が求めていることについて、米国が正式に
 反対する通知をWTOに送付した。
  通商上の不利な扱いを受け続けることになる中国は反
 発しており、米中間の摩擦が再燃している。
  トランプ米政権がWTOを「機能していない」と批判
 する中、中国の認定問題は、米国のWTO脱退の引き金
 となりかねない火種となる可能性がある。
  米欧が共同戦線
  米政府がWTOに通知を送ったのは11月中旬。
  欧州連合(EU)も中国の市場経済国認定に反対して
 おり、米国は通知を通じてEUへの賛同を表明した。
  通商分野で米国とEUは対立するケースも多く、米欧
 が「異例の共同戦線」(米メディア)を張った。
  ・・以上・・(参考:産経新聞)
  アメリカは、中国を市場経済に組み入れ、そして、豊
 かになり、社会も開かれ来れば、政治システムも変化し、
 欧米的なシステムを受け入れて来ると見て、その様な意
 味からも、中国に対し甘やかす政策を取って来た。
  しかし、事は、その様な思惑の様には進展して来なか
 った。
  この問題は、今、気が付いたことではなかった・・が・・
  中国が、これまで経済を拡大できたのは、この恩恵だ
 った・・
  しかし、中国は、ありがたいという態度は表わさない・・
 心の底ではその様に思っているのかもしれない・・が・・
  そして、アメリカは、中国にはそのような態度をとっ
 ても・・日本に対しては厳しい態度を取り続けた。
  例えば、最新鋭の技術を取り上げる事をすることはし
 ても、日本へ提供をすることはしなかった。
  また、日本の企業が、最先端の技術を開発する事を妨
 害さえした。
  NECが、独自のコンピューターを開発するのを妨害
 した。
  三菱などが新しい技術を開発しようとすると、「研究
 員が犯罪を犯した」などと言いがかりをつけて阻止した。
  別の観点から見ると、アメリカは、中国を簡単に抑え
 られると見ていたと考えられる。
  中国は石油が不足している。
  代替エネルギーの開発も遅れている。
  この事例の様に、中国の技術は、アメリカからの提供
 が無ければ高度な製品が作れないなど、中国を抑え、コ
 ントロールできるとみていた。
  しかし、アメリカと中国は、これから貿易や通貨を巡
 って緊張度はさらに上がって行くと指摘されている。
.
2017年3月、日本学術会議が、大学などの軍事的研究を否定
 する声明を出した。
  軍事的研究と言ったって、この日本学術会議の人たち
 も含めて、日本人・国民を守る自衛隊などの研究をする
 ことまで否定した。
  日本国民を守る研究をしてはいけないと言い出した。
  まったく卑劣な声明である。
  「日本を攻めてくる勢力に利する行為」を行なってい
 る。
  どんな理屈があって、こんな事を言っているのだろう
 か?
  どんな論理があって、こんな声明を出しているのか?
  日本国民の命を守るという大切なことを放棄している。
  その様な研究をしてはいけないとした。
  日本国民の税金を使って日本学術会議の大学などは研
 究をしている。
  ならば、すべての研究費を辞退せよ!
  また、守るべき日本国民の税金で建てられた大学など
 の施設で研究ができるという恩恵に答えていない。
  また、日本国民から給料をもらい、自分や家族を養う
 金を貰っていながら・・この様な声明を出したという事
 になっている。
  ならば、自分の立場や給料も辞退せよ!
  まったく矛盾している、反逆している、日本学術会議
 や大学だと言える。
  そして、2018年6月9日の読売新聞によると、あろうこ
 とか?? 北海道大学という国立大学が、この日本学術
 会議の声明を受けて、防衛省の研究をしないと決めたと
 いう。
  中国や北朝鮮に、日本の存在が危うくなっているこの
 今・現在、この様な行為をしている
  (この様な事をするのは、この大学だけ)
  今まで、北海道大学は、研究をして来たけれど、これ
 からはしないとしたという。
  防衛省は、船体の摩擦抵抗を軽減する研究を、2016年
 度から委託していた。
  防衛省は、北海道大学の意向を尊重せざるを得ないと
 している。
  日本の国立大学の北海道大学・・何もかもが国民の御
 世話になっているこの大学が、この様な行為をする・・
 国民の為になる研究をしないと・・している。
  まったく理屈の立たない行為をした。
  北海度と言えば、沖縄県とともに、中国が暗躍してい
 るところ・・色々と工作をするところ。
  中国の国家的重要人物・要人が来て、中国の息のかか
 った農場を視察したりするところ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2018-06-15 04:30 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)599E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)

題:(増補版)599E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年6月12日、鉄道敷設法の一部改正を決定した。
  中央線や、その他5線の篠ノ井線・鹿児島線などを第1
 期線に追加し、篠ノ井線の起点を篠ノ井と決定した。
  鉄道敷設法(てつどうふせつほう)は、国が建設すべ
 き鉄道路線を定めた日本の法律で・・、
  1892年6月21日に制定された旧法と、同法を廃止し新た
 に1922年4月11日に制定された改正法がある。
.
1894年6月12日、実業教育費国庫補助法が公布された。
  井上毅文相の実業教育振興政策に基づいて制定され、
 実業学校に国庫補助金を交付することを定めた。
  裁可:1894年6月11日、公布:1894年6月12日、施行:
 1894年9月1日
  朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル実業教育費国庫補助法ヲ裁
 可シ茲ニ之ヲ公布セシム
  御名御璽
  明治二十七年六月十一日
            内閣総理大臣 伯爵伊藤博文
            大蔵大臣   渡辺国武
            文部大臣   井上 毅
  法律第二十一号
  実業教育費国庫補助法
  第一条:実業教育ヲ奨励スル為ニ国庫ハ毎年度金十五
      万円ヲ支出シテ其ノ費用ヲ補助スヘシ
  第二条:公立ノ工業農業商業学校、徒弟学校及実業補
      習学校ニシテ実業ノ教育ニ効益アリト認ムル
      トキハ文部大臣ハ其ノ学校ニ補助金ヲ交付ス
      ヘシ
  地方官庁ノ認可ヲ経タル農工商組合ニ於テ設立シタル
 実業学校ハ文部大臣ノ特別ノ認定ニ依リ前項ニ準スルコ
 トヲ得
.
1894年6月14日、北里柴三郎が、ペスト菌を発見した。
  1894年6月18日、北里柴三郎が、ペスト菌発見を公表
 した。
  この報告は、翌日の1894年6月19日の午前に内務大臣に
 伝えられた。
  そして、1894年6月21日に、新聞は報道した。
  北里は、さらに、コッホ研究所や、香港政庁を通じて
 イギリス植民地大臣に伝え、そして、このニュースは、
 世界へも伝えられた。
  北里は、研究成果を発表しようと、1894年7月7日に、
 論文を一気に書いた。
  これが、「ペスト病の原因調査第一報」だった。
  これは、ペスト菌に対する単なる報告書ではなかった。
  まず、異例ともいえる「ペスト病」検証報告書だった。
  そして、これには、続けて、ペスト菌発見に至る過程
 が記述されている。
  この記述は、ペスト菌に対する観察が精緻を極め、か
 なり長文に渡って説明されていた。
  そして、その中で問題となった部分・・専門的にもな
 る「グラム染色」に関わる件があった。
  北里は、この「グラム染色」の結論を書かなかった。
  「かのグラム氏複染色法を用い得るや否やは、後日を
 もってこれを報道すべし」として、結論を先送りしてい
 た。
  ここが問題とされた。
  北里が、もし、「ペスト菌はグラム陰性である」と記
 述していれば、その様な問題は発生しなかった。
  このグラム染色法は、デンマークの医師・グラムが開
 発したもので、菌の分類法である。
  菌が、「陽性」か、「陰性」を問う。
  北里柴三郎の論文は、後日、日本の官報に1894年7月31
 日と1894年8月1日の2回に分けて掲載された。
  緻密な調査報告書だった。
  また、北里には、この報告書の主要部分をまとめたド
 イツ語の論文もあった。
  このドイツ語論文を、イギリス人医師のラウソン国家
 医院副院長が読んだ。
  そして、このラウソンが、この論文を、イギリスの伝
 統と権威を持つ医学雑誌「ランセット」に掲載しません
 かと北里に薦めた。
  世界的権威のある雑誌であった。
  北里は、名誉ある事ですからとお願いした。
  そして、ラウソンが、自ら、英訳を買って出た。
  北里は、その好意に感謝し依頼し、即座に英訳され、
 北里の同意のもとに送付された。
  この論文は評価され、直ちに、掲載となり、8月1日号
 と8月25日号に掲載された。
  内容は、ペスト菌の発見を伝え、その論文と共に、標
 本の図解やイラストも掲載されていた。
  そして、そのイラストには、正しくペスト菌の形態も
 捉えていた。
  北里柴三郎が、明らかに、顕微鏡下にペスト菌を捉え、
 観察していることを示している証拠だった。
  さらに、北里は、コッホ研究所にドイツ語論文と共に、
 塗抹標本と培養菌を送っていた。
  コッホ研究所では、この菌で、追認試験が行われ、「
 北里柴三郎のペスト菌」は明らかにペスト菌で、「グラ
 ム陰性」であると確認された。
  今日のペスト菌についての常識である「グラム陰性・
 卵円形・短小棹菌」がここでも立証された。
  確かに、北里柴三郎は、1894年6月に、香港でペスト菌
 を発見したのだった。
  北里柴三郎が、流行の早期に、ペスト罹患の危険の中
 を香港へ積極的に行ったのが、ペスト菌発見に功を奏し
 た。
  ペスト患者が多くなると、種々の型のペスト菌も発生
 して、真のペスト原因菌の発見を複雑にする。
  (患者数が多いと発見はできないとも言われている)
  ただ、染色される菌についても北里は触れてもいた。
.
1894年6月16日、日本政府が、清国に朝鮮の内政改革を共同
 で行う提案をした。
  陸奥外相が、清国に朝鮮内政の共同改革を提起した。
  清国が、共同での改革に合意しなければ日本は単独で
 でもこれを行いますと提案した。
.
1894年6月20日、清の李鴻章が、ロシアに日清間の調停を依
 頼した。
  ロシアには南下して行きたいという「南下政策」があ
 り、この調停依頼自体が問題だった。
  問題を複雑にするだけの「干渉行為」ともなった。
  ロシアは、自国の南下政策上、日清両国の朝鮮撤兵を
 表明した。
  しかし、このロシアの南下政策を警戒していたイギリ
 スは反対し、日本を支持した。
  ロシアは、1860年代に、沿海州にどんどん侵略し始め
 ていた・・そして・・、
  1872年(この時から20年も前)から、すでに、ウラジ
 オストックを海軍基地を軍事基地にして、建設を完了し
 ていた。
  (今・現在の南シナ海・・中国の屁理屈で領土だとさ
 れ、基地化しないと初めは言っていたが・・今はミサイ
 ルやレーダーも配備している)
  この頃、朝鮮と関係していた国は、日本だけでなく、
 ロシア・清国・・そして、アメリカ・イギリス・ドイツ
 が朝鮮と関係していた。
  1884年、ロシアは、朝鮮と条約を結んだ(露朝修好通
 商条約)
  この時までは、ロシアは、アメリカやヨーロッパが、
 朝鮮の鎖国状態を開こうとしていたことに反対していた。
  そして、抵抗をしていた。
  (朝鮮の鎖国状態を維持させようとしていた)
  これは、ロシアが朝鮮に進出したいという下心(した
 ごころ、表に現わさず、ひそかに心の中で考えているこ
 と)があったためだった。
  また、ロシアは、朝鮮に進出するアメリカやヨーロッ
 パ諸国が、積極的に進出する事に対して、さらなる軍事
 的脅威が増すと考えていた。
  ロシアは、沿海州などの侵略において、ロシア人の入
 植を進める上で、朝鮮から食糧など、特に、家畜を得た
 いとしていた。
  故に、この露朝間の交易は拡大していた。
  この様な状況の中で、フランスが、朝鮮の開国を目的
 として、1866年に、フランス艦隊を朝鮮に出撃させた・・、
 また、1871年には、アメリカ艦隊が来た・・そして、開
 国を迫った。
  この時、アメリカは、ロシアから共同歩調をとる様に
 求められた・・が、しかし、拒否した。
  ロシアは、朝鮮から利益を得ることはなく、「形勢を
 観望的にする」としていた。
  この様な荒れる朝鮮情勢の中で、1876年2月、日朝修好
 条規が締結された。
  この時、日本は、ロシアも、朝鮮と同様な条約を結ば
 ざるを得なくなるだろうと見ていた・・ロシアが進出し
 て来るだろうと見ていた。
  そして、朝鮮は、宗主国・清国の主導で欧米への開国
 が実現された。
  今・現在、日本は、軍事的に弱い状況にあるが・・こ
 の様に、軍事的に弱い朝鮮は、この時も、主導権を持ち
 得ず、清国が宋主権を行使するという様な状況だった。
  清国の思惑は、日露の朝鮮に対する関係を牽制するも
 のでもあった。
  (結局、自国の宗主国的な立場を維持したいのだった)
  1882年5月、清国の仲立ちで、米朝修好通商条約が締結
 され・・、
  1882年6月には、同様に、清国の仲立ちで英朝間の、そ
 して、独朝間の同内容の条約が調印された(イギリスと
 ドイツとの条約)
  この様な状況を見て、ロシアは焦った・・色々画策す
 るが失敗に終わる・・この様に各国が渦巻く展開が続く・・
  この様な時、朝鮮は清国の属邦ではあるが、内治外交
 とも自主である趣旨の朝鮮国王のロシア皇帝あての照会
 が手渡された。
  日本は、米英独と共同歩調的な中にいた・・
  そして、朝鮮は、この様な中で、壬午軍乱後(1882年
 10月)の清国の重圧から脱するために、隣接国たるロシ
 アとの間で清国の仲介を得ずに条約を締結したい旨を申
 し入れていた・・特に、朴泳孝・金玉均は朝鮮が自主独
 立の国家であることを強調した。
  朝鮮は、大国たるロシアへの期待があった。
  日本も、この朝鮮の清国からの独立を確認をしたいと
 した。
  露朝条約が締結されると、1885年10月、ロシア大使が
 ソウルに着任した。
  大使館も開設され、朝鮮国王周辺の対露働きかけなど
 で朝鮮の政局に影響が及ぼされた。
  1888年、ロンドンの「タイムズ」が、朝鮮保護を約す
 る露朝間の『密約』が結ばれたと報じた・・これは誤報
 だった・・
  この様に、各国が策謀する朝鮮周辺だった。
  また、ロシア太平洋艦隊に対して、朝鮮沿岸を監視せ
 よとの命令が、ロシア政府から発せられたりした。
  また、朝鮮保護、朝鮮領土保全の多国間条約締結、ロ
 シア人軍事教官派遣などの命令が、ロシア政府から出さ
 れ、1885年6月、ロシア外交官がソウルへ派遣された。
  1885年4月、イギリスが巨文島を占領した。
  1886年、ロシア海軍省で、新浦(馬糞島)の獲得が検
 討された(不凍港獲得関係)
  しかし、ロシアが見たものは、大院君(全渓大院君、
 李氏朝鮮の第25代国王・哲宗の父)の釈放帰国に伴う清
 国勢力の優勢さと、朝鮮国王の不満の充満状態だった。
  1886年初頭、ロシア政府は、朝鮮国王からの援助要請
 があったが、清国の対朝武力干渉さらに朝鮮併合は、隣
 接する地の沿海州の安全を脅かすと危惧した・・そして、
 朝鮮の清国からの自立を慎重に検討した。
  ロシア政府は、清国によって朝鮮併合がなされるかも
 しれないと危惧していた。
  1886年秋、露清間で、朝鮮の安全保障に関する交渉の
 合意がなされた。
  この間、朝鮮国王廃位が取りざたされた。
  朝鮮は、可哀想だが各国からいい様に扱われていた・・
  だから、1910年に、日本に併合されて、安定した国の
 状態となり、衛生的な国にもなり、人口が3倍にもなり、
 国が栄えた時のことを、それを体験された朝鮮の御老人
 方は、「良かったよ」と言ったのだった。
  それまでの朝鮮は、各国列強にいい様に扱われていた。
  1888年5月、極東問題特別会議が開かれた。
  この会議は、極東のロシア領の現地のロシア当局と、
 極東諸国に駐在するロシア外交官の会議であったが、
 決議された事の1つに・・、
  「ロシアによる朝鮮獲得については、朝鮮は経済的に
 貧しく、軍事的には長い海岸線の故に防衛困難であり、
 外交的には朝鮮侵略は英清(イギリスと中国・清)との
 決裂をもたらすとして、この様な事をしない」・・とな
 った(領土欲の満々のロシアだった)
  そして、朝鮮が弱小である故、中国・清か日本の支配
 下に入るだろうが・・いずれの場合も、ロシアに対する
 脅威になる・・とした。
  そして、仮に清国が、朝鮮を恒久的に制圧するような
 ことになれば、中国海域での海軍の示威(じい、威力を
 示すこと)あるいはロシア国境近くの朝鮮海岸地方の一
 次的占領といった措置をとることとした。
  ロシアは、日本は行動を起こさないと無視した判断を
 している。
  この結果、1888年8月、ロシア・清国が朝鮮領土保全に
 関する条約を結んでいる・・また・・、
  1894年6月の清国の朝鮮出兵に対し、ロシアは、日本の
 出兵より危惧していた。
  1894年6月8日に、天津でロシア公使は清の李鴻章に、
 「清国は情報を故意に誇張し、朝鮮への対処をしている」
 とくぎを刺し・・「反乱が鎮圧され次第、直ちに撤兵を」
 と言っている。
  逆に、ロシアのカッシニ駐清公使は、日本の駐清臨時
 代理公使の小村寿太郎に対し、「日本の派兵の必要を認
 めていた」。
  清国の李鴻章は、「清は宗主国による属邦保護の旧例
 に従い朝鮮の要請により行ったものだ」と言い、
 「ロシアとは無関係」と言った。
  すでに中国の清国軍が居る朝鮮に、日本は、この様な推移
 の中、6月16日、仁川に上陸する。
  この後、日本と清国の角がぶつかり合って行く・・、
.
  (今日の言葉)
.
  題:工作員が一杯・・スパイ天国となっている日本・・あちこちで暗躍している・・
.
紀元前1万3000年以前、日本の縄文時代は、紀元前13,000年
 頃から約1万年以上もの長い間続いた。
  その間に作られた土器の形や色など、また、住み方・
 家などが、だんだん変わって行った。
  また、その縄文(じょうもん)時代より以前・・、
  縄文時代より前の旧石器時代の人々は、マンモスなど
 の大きなえものを追いかけて、日本列島の中を移動しな
 がら生活をしていた・・
  その様な遠い昔からの歴史が、日本列島全体にある。
  そのため、住んでいたのは、すぐに移動ができるテン
 トのような家だったと考えられている。
  縄文時代になると、人々は、長い間、同じところで生
 活できる家を作った。
  みんなで集まって生活するようになった。
  これが、「村(ムラ)」の始まりだった。
  縄文時代の代表的な家を『竪穴住居』と言った。
  この住居は、地面を掘って何本か柱を立て、上に屋根
 を設けた。
  半地下式の家だった。
  ムラのなかには、竪穴住居だけでなく、太い柱を使っ
 た大きな建物や、みんなが集まる広場、死んだ人を埋葬
 する墓、貝がらや食料の食べかすを捨てる貝塚・・など
 が作られていた。
  また、ストーンサークルとも呼ばれる、いくつもの石
 を直径30~50メートルの大きな円形にならべた環状列石
 も見つかっている。
  ムラの周り広がる「クリやクルミなどの森」は手入れ
 がなされた。
  ここから、生活に必要な食料や木材を手に入れること
 ができる「縄文里山」として大切にされていた。
  縄文時代の人々は、丸木舟に乗って海をわたり、遠く
 はなれた場所の特産品を手に入れていた・・交流・交易
 をしていた。
  縄文時代の遺跡には、本州でしかとれないヒスイとい
 う美しい石が北海道で見つかったり・・、
  また、逆に、北海道の黒曜石が、本州で見つかったり
 している。
  また、暖かい南の海でしかとれない数種類の貝が、北
 海道で見つかっている。
  縄文人は、日本列島の広い領域を行き来していた。
  縄文の人々は、これらのヒスイや貝などを使って、首
 かざりや、腕輪などのアクセサリーを作っていた。
  また、とても硬い黒曜石は、先を鋭くとがらせて、狩
 (か)りに使う石ぞくや石やり、ナイフなどにしていた。
  縄文時代にも、日本列島での全国規模の交流が行われ
 ていて、人々やモノや情報の活発な動きや交換があった。
  そして、この縄文時代の住居である竪穴住居が、従来、
 考えられて来た茅(かや)が葺(ふ)かれた形ではない
 ことが分かって来た。
  茅が葺かれていたという痕跡がまったくないからで、
 逆に、「土(つち)の屋根」という痕跡が発見されてい
 る。
  例えば、岩手県一戸町の御所野遺跡に、火事にあって
 燃えてしまった縄文時代の住居があった。
  火事で、柱などの木部が炭化したため、腐敗菌に木質
 部が腐敗されずに残った。
  その様な腐らなかった竪穴住居の柱の部材の脇に焼け
 た土が、また、部材の間に堆積していた。
  それが、屋根部分の土だと推測された。
  また、茅には「ガラス質」が含まれているが、この住
 居跡からは、屋根に使われていただろう茅のガラス質が
 あまり検出されず、「屋根が茅だ」という痕跡が否定さ
 れ、「土葺きの竪穴住居の屋根」と推測された。
  また、土葺きの竪穴住居の焼却実験もなされ、この遺
 構の通りの様になることも実証された。
  この様な遺跡が、日本各地で発見され、北海道でも発
 見された。
  北海道の入江・高砂貝塚遺跡や、東北地方、関東地方
 などで発見された。
  縄文人は、日本全土で「土葺きの竪穴住居」に住んで
 いた。
  また、ガラス質を含む硬い茅を刈り取る道具の存在の
 可能性も無い事が、その裏付けにもなっている。
  今、北海道庁の会議で、北海道には、この様な縄文人
 は居ないという答弁がなされている。
  まったく、歴史的事実を無視した非科学的な議論がな
 されている。
  北海道庁の会議では、「無土の地」という間違った答
 弁がなされている。
  誰も居なかったという意味で、この様な間違った認識
 の議論がなされ、この様な間違った認識の議員が、北海
 道政を動かし、行なっている。
  そして、また、北海道の白老町では、北海道は「アイ
 ヌ民族の地だ」ということで、白老町の中のある地域を
 アイヌ民族に返還するという間違った話が進んでいると
 いう。
  しかも、国の金が、我々の税金の金が、100億円もの金
 が投資され、この記念館の箱物が建てられるという。
  また、この様な北海道に、中国が暗躍して、「アイヌ
 民族の独立の話」が画策されているという。
  まったく馬鹿げた話が北海道には一杯ある。
  日本民族の祖先の縄文人の歴史が、そして、その縄文
 人以前の旧石器人の存在が、まったく無視された企て(
 くわだて)が進んでいる。
.
17世紀、キリスト教化したいと、暗黒のヨーロッパ中世に
 キリスト教は暗躍した。
  ヨーロッパのキリスト教司教領で、キリスト教の教義
 などの洗脳が影響し、子供だけでなく、地域全体が憑依
 (ひょうい、霊が乗り移り、異常状態で踊りまくる)す
 るという事件が起きた。
  感受性の強い子供の心を、結果的に、弄(もてあそ)
 ぶ事が起きている。
  キリスト教のお祭り「ハロウィン」が、日本で、無邪
 気に行われているが・・、
  そして、この魔女などが関連するこのお祭りに、小さ
 い子供が参加しているが・・、
 また、小学校では「国際感覚を身につけよう」という美
 名のもとに、公的小学校も含めて「ハロウィン」が行な
 われ、
 キリスト教系学校の学生が、喜々として駆けつけ、一緒
 になってやっているが、これは美名の下に行われるキリ
 スト教の「巧妙なる伝道行為」です。
 アメリカでも問題となり、裁判事例が多い「巧妙なる伝
 道行為」です。
 そして、この魔女が関連しているこの事例で、子供たち
 に何が起き?、影響したか?・・という事例・・、
 キリスト教には、「神を恐れよ」という教義がある。
 魔女事件の場合、キリスト教は、この教義によって権威
 を得ようとした。
 また、教勢を拡大したいとした。
 その為、「魔女は生かしておいてはならない」の教義が
 あるキリスト教は「死も辞さない」という姿勢だった。
 「死も辞さない」と言っても自分ではなく、相手を死に
 至らしめる行為でもって権威を得ようという目的だった。
 この例の様に、キリスト教の歴史は、周りに死の影や戦
 争が満ちる歴史となった。
  魔女事件の場合、年端(としは)の行かない3歳・5歳・
 7歳・12歳の子供達が憑依(ひょうい)した。
  これは、広がりやすい性質を持っていた。
  17世紀、キリスト教司教領で、子供だけでなく、地域
 全体が憑依するという事件となって起きた。
  魔女だと言われた女性が、自(みずか)らキリスト教
 聖職者の居る魔女委員会に申し出て、「多くの人々の体
 内に悪霊を祈り込んだ」と言った。
 すると、この町に憑依した、憑(つ)かれた主婦や子供
 達、大勢の群れが、この司祭領や隣接する地域にさ迷い
 出て来た。
 憑依した人たちは、未成年者が多い状況だった。
 町は混乱した。
 飛び火しやすいこの現象は、飛び火して行った。
 スウェーデンの場合は、プロテスタントの村だった。
 憑依した子供たちが現われ・・、
 子供達は意外と大人が何をやっているかを知っていて・・、
 大人たちの言動から、魔女とはどういうものかを見聞き
 し、よく知っていた。
 日頃から、キリスト教聖職者は、魔女の定型を話をして
 いた。
 怖い事に・・感受性の強い子供達は、特に、憑依しやす
 い状況で、親たちは、自分たちで救う事を断念するくら
 いだった。
 親たちは、当局へ原因の魔女の撲滅をする様にと押しか
 けるという騒ぎとなった・・、
 国王の調査委員会が取り調べるという事になり、騒ぎは
 ますます拡大して行った・・
 また、多くの他の村々へ伝染して行った・・、
 憑依した魔児たちは、無数の大人たちを告発した。
 「魔女の踊りをしていた」「悪魔のシナゴーグへ行った
 りしている」、それを見たと・・、
 ある村は、70人の女性と15人の子供が火炙りとなりまし
 た。
 これは、国境も越えて広がって行きました。
 ドイツで起きた事例では、ほとんどが10歳以下の子供
 でした。
 子供達は、キリスト教の教義と魔女を自己流に織りなし
 て語りました。
 想像力の強い子供達は、「魔女のサバト」「天国の幻視」
 「最後の審判と地獄の使者」を語り、告げるという状態
 でした。
  驚くことに「デーモン(悪魔)との性交渉」の詳細な
 証言に、裁判官(キリスト教裁判所の聖職者の裁判官)
 もびっくりしている状況でした。
 (参考)とし‐は【年端/年歯】 年齢のほど。年齢。
    としのは。「―のいかない子」
 (参考)ひょう‐い【憑依】 [名](スル) 霊などがの
    りうつること。「悪霊が―する」 」
.
1804年12月2日、ナポレオンの戴冠式
  ナポレオンは、自(みずか)ら戴冠した。
  ローマ法王(教皇)のピウス7世は、ナポレオンの後ろ
 で、何もしないで静かに座したままだった。
  キリスト教が、何の役にも立たないことを知っていた
 のである。
  逆に、キリスト教の仮の権威がある如くの戴冠がなさ
 れ、その後、各地の王や諸侯が、キリスト教に教会を建
 ててあげたりする「おかしさ」を知っていた。
  ナポレオンは、俊英の皇帝だった。
  キリスト教の」虎の威を借りる狐」状態を知っていた。
  何ら、キリスト教に権威も何にもないのに、王位の冠
 (かんむり)をキリスト教が授けるようにする振る舞い
 の害を知っていた。
  このキリスト教は、自分の宗教の伝道より・・「金を
 得ること」と「権力を得ること」を、一生懸命にやって
 来ていた。
  それに気付いたナポレオンは、自分だけではなく・・
 自分の妃(きさき)の戴冠式も、ナポレオンが自ら、妃
 に戴冠した。
  キリスト教聖職者による戴冠を排除した。
  今までは、種々の王や諸侯の戴冠式の戴冠は、キリス
 ト教の聖職者が行なって、ある意味「キリスト教聖職者
 が、あたかも、冠(かんむり)を授けているように見え
 ていた」。
  ナポレオンに、その馬鹿げた虚構が見えた。
  今、キリスト教国・アメリカでは、大統領の就任式に、
 キリスト教の聖書に手を置いて宣誓する儀式が行われて
 いるが・・、
  あれほど、アメリカの初代大統領のワシントンが、キ
 リスト教色の排除と、キリスト教の影響力を排除しよう
 とした心が、「理解されていない状況」へと、今、アメ
 リカはあり、後退している。
  この初代大統領ワシントンは、アメリカ合衆国憲法を
 作る時にも、キリスト教の影響力を排除することに非常
 に心を砕いた。
.
1937年12月8日、日本軍は12月8日には南京を包囲した。
  そして、1937年12月9日、日本軍は中国軍に対して無血
 開城を勧告した。
  中国軍は、開城勧告を拒否し、応じなかった。
  やむなく、日本軍は、勧告に応じない南京城を1937年
 12月10日、攻撃を開始した。
  1937年12月12日、南京防衛司令官の唐生智が逃げた・・
 一般兵たちを置き去りにして・・逃亡した。
  また、蒋介石を連れ去って、司令部を崩壊させたアメ
 リカ・・それで、司令部が崩壊し、混乱している中国軍
 が、なおさらに、南京防衛司令官の逃避で、まったく統
 制のされてない状態となった。
  そしてまた、統制の効いてない南京の中国軍の大半が
 組織的撤退を知らされていない状態で・・、
  また、日本軍の迫る頃から混乱が続いていた南京城は、
 逃げる人々にあふれ、中国軍が撤退することを知ってい
 ても安全に逃げられない状況であった。
  中国軍は、自軍の中国兵を、塹壕に足を縛って置き去
 りにしたりした・・塹壕に置き去りにして、防戦させる
 という卑劣なこともした。
  唯一の逃避路である北部の長江へつながる挹江門では、
 中国軍の仲間を撃つことを躊躇しないという中国軍は『
 督戦隊を置いた』。
  中国軍の撤退する側と同士撃ちとなった (挹江門事件)
  (参考)督戦隊:とくせんたい、軍隊において、自軍
     部隊を後方より監視し、自軍兵士が命令無しに
     勝手に戦闘から退却(敵前逃亡)或いは、降伏
     する様な行動を採れば、攻撃を加え、強制的に
     戦闘を続行させる任務を持った部隊のこと。
      この場合、中国軍が、自軍の中国軍を撃ち、
     中国兵を戦う事を仕向けた。
.
1937年12月12日、挹江門事件(ゆうこうもんじけん)
  アメリカが介入して、中国軍の最高司令官である蒋介
 石が連れ去られ、中国軍の司令部は崩壊し、中国軍は乱
 れに乱れていた。
  督戦隊が置かれることまでされて、中国兵は戦わせら
 れた。
  あちこちで中国兵同士が撃ち合った・・その一つが挹
 江門事件だった。
  1937年12月12日の夜、挹江門事件が起きた。
  南京城へ進撃する日本軍の攻撃によって、中国軍は敗
 走に敗走を重ねた。
  その中国軍の一部隊が敗走して、挹江門を通り抜けよ
 うとした。
  その部隊は、中国国民政府軍87師と第88師、そして、
 教導総隊の潰走兵だった。
  その潰走(かいそう、戦いに敗けた兵士や隊が、四分
 五裂になって逃げること)する兵士たちと、それらを武
 力阻止する中国軍の督戦隊である国府軍第36師212団とが
 衝突した。
  中国軍同士の激しい撃ち合いとなった・・その双方の
 発砲で、瞬く間に約1000名の中国軍兵士が死亡した。
.
1937年12月13日、この日、混乱に次ぐ混乱の中で、中国軍
 は総崩れとなり南京城は陥落した。
  陥落時にも、南京城の北側から長江の対岸へと逃げよ
 うとした非常に多くの兵隊や一般人が、舟もない中で渡
 河しようとして、混乱の中で撃たれたり、途中で溺れ死
 んだりした。
.
1937年12月13日、中国の南京を日本軍が攻略した。
  この時、いわゆる南京事件が起きたとされているが・・
 まったくの嘘。
  戦勝国のアメリカは、裁く事が出来る法律が無い事か
 ら・・、
  「その裁くための法律を、わざわざ後から作ってまで
 して、東京裁判を裁くという・・卑劣な、戦勝国のアメ
 リカのやりたい放題のやり方で、東京裁判を裁いた」。
  この不当な、また、不法な、戦勝国のやりたい放題の
 東京裁判でさえ、この南京事件はあったとした。
  南京事件をデッチアゲタ。
  そのデッチアゲの南京事件の中国の犠牲者は「2万人」
 と言った。
  それを、中国の現在の政権・中華人民共和国(中共)
 は、だんだんその犠牲者数を増やして行った。
  「無いもの」を「ある」と言い・・そして、その数を
 だんだん増やすという行為を行なった・・よくあるパタ
 ーンを行なった。
  そして、今・現在に至った時点で、その犠牲者数を「
 30万人」と言っている。
  中共の好きに膨らませたこの30万人も、この後には、
 さらに、大きく風船のように膨らんでいくだろう・・
  だが・・この嘘つきの中国の中共の味方をする書物で
 さえ、この数を10万人としている。
  まったく言いたい放題の・・信用の出来ない中共など
 となっている。
  しかし、お粗末な事に、この中共に、ゴマすりをよく
 する「村上春樹は、本で40万人と書いた」・・
  村上春樹よ! 証拠を示せ! この嘘つきめ!
  この一件は、アメリカが、中国軍の最高指揮官の蒋介
 石(現政権の共産党軍ではない)を・・、
  そして、その司令部の最高将校の重要要員を、「救出」
 の名の下に、戦い真っ最中の南京から連れ去った・・
  このために起きた「中国軍の大混乱が原因」で、この
 大混乱・大混戦の原因は、アメリカが作った。
  また、この様に卑劣な参戦をしていたアメリカ軍こそ
 が、「東京裁判で裁かれるべき」だった。
  司令部の居なくなった中国軍は哀れな惨状を示した。
  当然の結果として・・乱れに乱れて、中国軍兵士は逃
 げ惑った。
  惑い、そして、逃げる自国の兵士を「逃げるな」と、
 置き去りにされた中国軍の下級将校たちは、自国軍の兵
 士へ向かって狙い撃ちをした。
  この様な卑劣な事態が起きた。
  東京裁判では隠された・・
  卑劣な裁判だった・・
  この様な南京攻略戦は、様々な事態の中で戦われた。
  また、卑劣にも、中国兵は、逃げられないと悟ると、
 軍服を脱いで、民間人の中に隠れた。
  これでは、民間人に被害が及んでしまう・・民間人が
 戦闘員と見間違われてしまう・・しかし、助かりたい中
 国兵は、この様な卑劣な事までした。
  そして、そこから日本兵を狙撃するという戦い方もし
  その民間人の中にある銃の探索が行われた・・当然・・
  民間人へ被害が及ぶことが分かっていても、中国兵は、
 民間人の中に卑劣に隠れた。
  当然、その民間人に隠れている中国兵と戦わざるを得
 ないという日本軍の事態だった。
  この様な様々な中の南京攻略戦だった。
  「修羅の状況」である。
  アメリカに援助された中国・蒋介石・国民政府軍は、
 「重慶」という中国の奥地へ拠点を移した。
  新しい都とした。
  これは、日本を叩きたいアメリカが、「日本の消耗」
 を狙っていたのだった。
  そして、アメリカは、延々と「援蒋ルート(蒋介石の
 中国軍を援助するルート)」を使って、厖大(ぼうだい、
 非常に大きく、多量なこと)な武器や弾薬を中国軍へ援
 助する。
  「日本との戦争ありきのアメリカ」
  そして、この先の第二次世界大戦ありきを決めてかか
 っているアメリカだった。
  この事の初め・・元々、アメリカは、厖大な武器・弾
 薬を支援して、中国・蒋介石軍に、上海を大軍で包囲さ
 せていた。
  その様な形で、中国・蒋介石軍は日本に迫って来た。
  上海の国際租界の中の日本租界へ向けて攻撃を開始し
 て来た(1937年8月13日、第二次上海事変)
  この時から、そもそもの戦いは始まった。
  アメリカの支援の下で、中国・蒋介石軍が、先に戦争
 を開始した。
  この武器・弾薬を与えて「アメリカが、焚き付けて始
 まった」・・その様な戦いだった。
  ルーズベルトが、第二次世界大戦がはじまったとき、
 「戦争を作った」と言ったが・・まさしくこの時以来の
 ことだった。
  キリスト教に偏して、日本を貶めてばかりいるNHK
 は、この事を隠し、まったく、この様な事を放送しない。
  この時、NHKはじめ日本のマスコミは、「戦争を煽
 った」。
  この時、上海事変で、蒋介石軍の攻撃を受けて、日本
 は戦い・・、
  そして、この戦いを・・日本が収めたとき・・、
  日本は、この時点で終わらせようとした。
  世論には、戦争を仕掛けた中国の蒋介石への思いに、
 「撤退し、逃げる蒋介石軍を追討するか?否か?」の判
 断において、国内には賛否の両論があった。
  この様に揺れている時に、NHKはじめマスコミは「
 囃(はや)し立てた」。
  このため、南京への追討否定派の意見はなくなった。
  NHKはじめ日本のマスコミは、常に、日本の戦いを
 煽り立てた。
  そして、進軍が決定すればすれで・・その進軍の様子
 を、「微に入り、細に入り報道」して「煽った」。
  そして、戦後の1948年11月13日・・、
  東京裁判の南京事件の責任者とされた日本の将軍に・・
 死刑判決がなされると・・、
  朝日新聞は、自らが勝ち誇ったように、「この一訴因
 で絞首刑」と記して報じた。
  NHKとこの朝日新聞は、今・現在、自社の一室を中
 国へ与えるという特別な事をしている。
  嘘の慰安婦問題をデッチ上げた朝日新聞と、そのNH
 Kは悪である。
.
1937年12月16日、中国の南京において、中国軍は、一般人
 民の中に隠れて、一般人民を卑劣にも盾にして、日本軍
 を狙い撃ちした。
  その掃討が、この日まで続いた。
  盾にされた中国の一般人民は、たまったものではなか
 った。
  南京での中国兵は、卑劣な行為である「軍服を脱いで
 戦う事をした」。
  軍服を着ていない一般人が戦うということではなく、
 今まで軍服を着ていた中国軍人が、その軍服を脱いで、
 一般人のふりをして戦った。
  軍服を着ていた中国兵が、着ている軍服を脱いで、人
 民の中に隠れて、日本軍と戦った。
  人民を盾とする卑劣な戦い方をする中国兵だった。
  日本軍は、その掃討(そうとう、残っている敵兵を撃
 ち払うこと)を行なったが、掃討戦は、1937年12月16日
 まで続いた。
  人民の中に隠れた卑劣で卑怯な中国兵、盾にされた中
 国人民・・この一般の中国人に犠牲者が出ない訳は無か
 った。
  上海戦から南京戦までの日本の戦死者の総数は24,000
 名に達した(戦病死者を含む)。
  この数は、日本軍の最高司令官である松井大将の日記
 にある数字で、ほとんどの戦死者が上海戦によるもの。
  一方、中国側のデーターについては、国民党軍軍政部
 長の何応欽上将の軍務報告に33,000名とある。
  何しろ、中国軍は、一般人民を盾にして、その人民の
 盾の陰から日本軍を狙撃するという卑劣な戦い方をした。
.
1943年、ソ連のスパイ機関が、アメリカ国内からソ連のモ
 スクワへ、スパイした内容を報告するのを、アメリカは
 知った・・そして、その傍受をする。
  この様な事があったと、1995年になって「VENON
 A(ベノナ)文書」が公表された。
  この文書が公開され始めて、戦中から戦後にかけて、
 この様なコミンテルンが、アメリカ国内で盛んに活動し
 ていたことが分かって来た。
  (参考)コミンテルン:共産主義インターナショナル
      Communist Internationalの略称。
      第3インターナショナル、第3インターとも呼
     ばれる。
      1919年3月にモスクワに創設され 1943年5月ま
     で存続した各国共産主義政党の国際統一組織。
      第1インターナショナル (1864年~1876年) 、
     第2インターナショナル (→社会主義インターナ
     ショナル、1889~1914) の崩壊後、V. I.レーニ
     ンらは、第1次世界大戦中から、新しい第3イン
     ターナショナルの創設を目指して活動を続け、
     30ヵ国の共産主義諸政党あるいは革命的組織の
     代表50余名をモスクワに集めて、1919年3月2日
     ~1919年3月6日、コミンテルン第1回大会を開い
     た。
      コミンテルンは、第2インターナショナルに比
     べ、はるかに強固な国際的団結と規律をもち、
     ソ連という社会主義国家を支柱とするに至った。
      また、民主的中央集権の組織原則をとり、コ
     ミンテルン執行委員会の指導のもとに活動する
     ことが定められた。
  そして、アメリカでのその実態が明らかになった。
  これは、カーター・クラークというアメリカの将軍が、
 ルーズベルト大統領にも秘密にして始めたプロジェクト
 だった。
  アメリカ陸軍の超秘密の暗号解読機関が、ソ連情報部(
 KGB、GRU)が、アメリカ国内からモスクワの本部
 に、報告する電報を傍受し、解読していた。
  解読作業は、1943年から始まり、1945年位から進捗す
 る。
  すると、ソ連のスパイが、ぞろぞろと判明した。
  国務省や財務省の官僚をはじめ、官庁のスタッフ、そ
 して、知識人、映画関係者、作家など広範囲な人のソ連
 スパイの存在が明らかになった。
  今・現在も、日本に盛んに中国の工作員が、日本に潜
 り込んでいるが、このアメリカの様な事になっていると
 言える。
  今・現在、沖縄県や北海道の中国化が急速に進んでい
 る。
  このベノナ文書で、ルーズベルト政権(ワシントンの
 連邦政府)に、常勤スタッフだけで200人以上、正規職員
 以外には300人くらいのソ連工作員(スパイやエージェン
 ト)が居た・・この事が確定的に判明した。
  (参考)エージェント:(1)代理人や代理店。また、
     仲介業者。(2)国家の秘密業務で働くもの。
  この影響が、1933年から1952年の約20年間、ルーズベ
 ルト大統領政権から、次のトルーマン大統領政権にまで、
 ソ連に繰られていた。
  今の日本も、非常に注意しなければならない時にある。
.
1979年1月、日米・コンピューター開発競争・・日本潰しの
 IBMスパイ事件へ
  1979年1月、IBMは、従来の中・小型コンピューター
 の5倍から6倍という抜群のコストパフォーマンスのI
 BM4330を発表した。
  これは、プラグコンパチブル機に対抗してそれらに致
 命症を与えるに充分な価格設定とおもわれた。
  事実、このために有力なコンパチブルメーカーであっ
 たアイテル社は痛手を負い、関連部門をナショナルセミ
 コンダクタへ売却した。
  そればかりか、IBMとコンパチブルでないイギリス
 のICL(International Computers Ltd.)も、主力工場
 であったウインズフォールド工場を閉鎖する事態におい
 こまれた。
  ところが、日本のメーカーは、わずか1ヶ月遅れで対
 抗機種FACOM130Fを出荷した富士通をはじめと
 して、各社ともIBMに追随してきたのである。
  しかも、1980年11月、IBMの特に強い超大型コンピ
 ュータの分野でも、IBM3081D(9.5MIPS)を発表
 した時すでに、日立は10.2MIPSのM200Hを、
  そして、IBMのコンパチブルではないが、日本電気
 のACOS1000は15MIPSという当時の最速の機種を
 発表しており、IBMは、日本のコンピュータに先を越
 されていた。
  この様に、日本のメーカーは、すくなくともハードウ
 ェアについては、IBMの技術に追い着き・・、
  半導体チップでは、日本の方が信頼性などの点で優れ
 いるとも言われるにまでに至っていた。
  そこで、IBMは、日本のコンパチブル機を振り切る
 決め手として、基本ソフトウェアであるOS(オペレー
 ティング・システム)を解析しにくくすることにした。
  それまで、磁気テープで供給してきたOSの機能を一
 部ファームウェア化してしまった。
  こうすれば、コンパチブルメーカーはOSを解析する
 までに相当時間を必要とする。
  1981年12月、こうして、この8000語ほどファームウェ
 ア化されたOSをもつIBM3081Kを発表すると共に、
 3081が、31ビットアドレッシングを採用している新しい
 アーキテクチャであること明らかにした。
  そして、IBMは、アーキテクチャが変わっても360シ
 リーズ以来のアプリケションソフトを実行できる新しい
 OS、MVS/SPを提供した。
  この31ビットアドレッシングと、新OSの高度なファ
 ームウェア化は、コンパチブルメーカー対策としては強
 力で・・、
  富士通、日立が、このファームウェアを解明するには
 2年はかかるとみられた。
  そのため、あせった日立が、新OSのソースリストを
 中心としたIBMの技術情報を入手しようとしたのを、
 FBIのおとり捜査にひっかかり摘発されたのが、1982
 年6月23日だった(IBMスパイ事件)
  この結果、IBMは、日立に多大な賠償金とIBMの
 技術情報が使用されているかどうかの製品検査権を認め
 させた。
  これにより、IBMは、日立の動向を掌握することが
 でき・・、
  いざとなれば、日立にコンパチブル機を作らせないこ
 ともできることになった。
  また、IBMは、この事件に直接関係なかった富士通
 に対してもOSの酷似をもって、富士通を訴え、実質的
 に著作権を認めさせた。
  日立や富士通は、IBMコンパチブルの路線をとる事
 になって行く。
.
1982年6月22日、IBM産業スパイ事件(アイ・ビー・エム
 さんぎょうスパイじけん)は、1982年6月22日、日立製作
 所(以下、日立)や三菱電機(以下、三菱)の社員など
 計6人が、米IBMの機密情報に対する産業スパイ行為を
 行ったとして逮捕された事件である。
  この事件は、各日本メーカーとIBM米本社との間の
 事件で、同日本法人である日本アイ・ビー・エム株式会
 社は無関係であり、同社関係者にも寝耳に水の事件であ
 った。
  IBMと日立は、翌年・1983年に和解した。
  また、1984年より、当初は当事者外であった富士通と
 IBMの交渉も進められ、1988年に和解した。
  1981年、IBMは、アドレスを31ビットに拡張し
 (System/370-XA)、オペレーティングシステム (OS) の
 一部をファームウェア化して互換機を作りにくくしたメ
 インフレームコンピュータの3081K を発表した。
  互換機メーカーであった日立は、 3081K に関する技術
 文書をNAS(ナショナル セミコンダクターの汎用コンピ
 ュータ部門で、日立からOEM供給を受けていた)から入手
 した。
  一方、かねてからコンサルティングで日立との取引が
 あったペイリン・アソシエーツ社から 3081K に関する報
 告書の売り込みがあった。
  日立はその目次を見て、NASから入手済みの資料に酷似
 しており、両方の文書が何らかの共通の資料に基づくも
 のと判断。
  ペイリン社に対して、「その資料は既に持っている。
 しかし、それは一部と思われるので、他にもあるなら購
 入したい」と伝えた。
  ペイリン社の社長ペイリーは、元IBM従業員であり、
 日立がIBM3081Kの資料を入手済みであることをIBMの
 ボブ・エバンズ(当時、副社長)に通報。
  結果として、FBIによるおとり捜査が行われ、日立
 と三菱の社員が逮捕されることになった。
  刑事事件自体は、1983年2月、司法取引により決着した。
  しかし、IBMは、日立に対して民事損害賠償訴訟を
 起こした。
  ・・IBM産業スパイ事件は・・、
  日立と三菱がスパイをやった、という程度の、企業が
 行き過ぎただけの話だと思われている・・が・・、
  1959年、日本のコンピューター開発、この年には、東
 京大学が中心となって、東芝・日立が協力し、TACが
 完成した。
  (参考)TAC:Tokyo Automatic Computerは、東京
     大学が開発したコンピュータで、一般に東大と
     東芝が共同開発したとされていて、大変な難産
     の結果、うまれた。
      東芝が協力していない部分や日立製作所が協
     力した部分があり、1959年に、最終バージョン
     が完成した。
  (参考)FUJIC:富士写真フイルムにおいて開発
     された我が国初の電子計算機で、真空管式電子
     計算機だった。
      レンズ設計に使用することを目的として岡崎
     文次により開発された。
      1949年より、岡崎は研究を開始した。
      1952年3月から、メモリ関係の研究と並行して
     全体の組立てが行われた。
      1955年11月に、電子通信学会電子計算機研究
     専門委員会の見学会で、動作のデモンストレー
     ションが行われた。
      1956年3月初めに完成し、栄誉ある我が国最初
     の電子計算機となった。
      真空管を約1,700本使用した2進法3アドレス方
     式の電子計算機で、記憶装置には超音波水銀遅
     延線(255語)が採用された。
      論理回路のクロック周波数は約30KHzであった
     が並列演算回路を採用し、加減算0.1ms,掛算1.6
     msと、当時としては比較的高速であった。
      目標はレンズ設計において人手計算の1,000倍
     であったが、約2,000倍の性能を実現した。
      2年半の間小田原工場で社内外の計算に使用さ
     れ、その後、早稲田大学に寄贈され、現在は国
     立科学博物館に保存されている。
  上記の様に、日本は、コンピューター開発の先端を歩
 んでいた。
  国の予算をつぎ込んだ国家プロジェクトとしても進め
 られ、目標は大きく野心的でさえあった。
  研究課程は難航し、何度も設計変更を繰り返した。
  1964年には、通産省の予算で富士通・沖電気・日本電
 気が共同でFONTACを作成した。
  (参考)FONTAC:年々輸入が増大していた大型
     コンピュータ分野に、通産省は補助金を交付し
     て大型コンピュータの国産化を狙った。
      1962年7月、そのために、富士通信機製造(現:
     富士通)、日本電気、沖電気の3社により日本電
     子計算機技術研究組合が設立された。
      FONTAC(Fujitsu-Oki-Nippondenki-
     Triple-Allied Computer)は、この3社の3年に
     わたる共同研究によって完成された大型コンピ
     ュータだった。
      1964年11月に完成し、日本電子工業振興会に
     納入された。
      FONTACシステムは、主コンピュータと
     して高速大容量の記憶装置と多数の入出力チャ
     ネルを持つ大型2進計算機を、衛星コンピュータ
     に可変語長のFONTAC Sub Iと固定語長のFONTAC
     Sub IIを使用し、主コンピュータと衛星コンピ
     ュータは密接に結合された。
      FONTAC Centralは、1語42ビットからなる2進
     法のコンピュータで、固定小数点の数値は、デ
     ータ36ビット、フラグ4ビット、パリティ2ビッ
     ト、浮動小数点の数値は指数部9ビット、仮数部
     27ビット、フラグ4ビット、パリティ2ビットよ
     り構成された。
      記憶装置として30mil/サイクルタイム2.2μs
     の磁心記憶を使用し、最大65,536語の容量を実
     現し、演算速度として固定小数点加減算/乗算
      4.4μs /25.2μs,秒浮動小数点加減算/乗算
      15.4μs /30.8μsの性能を有した。
  1962年7月、この共同研究で開発された技術を基に、
 CPU(中央処理演算装置)を担当した富士通信機製造
 (現:富士通)は、FONTAC Centralを一部改良し、FACOM
 230-50として商用化した。
  1964年11月、FONTACは、この3社の3年にわたる共同研
 究によって完成された大型コンピュータで、1964年11月
 に完成し、日本電子工業振興会に納入された。
  この頃から、各社が「コンピューターの作り方」を理
 解し、独自開発を開始した。
  日立のHITAC、富士通のFACOM、日本電気のNEAC、東芝
 のTOSBAC 、三菱のMELCOM、沖電気のOKIMINTAC・・
  コンピューターは、これから確実に産業の中心となる
 というのは明らかだった。
  1970年代初頭、IBMは、巨大メーカーに成長しつつ
 あった。
  日本国内だけで、6社も、互換性のないコンピュータ
 ーが乱立していて、これでは、日本のコンピューターは、
 大企業に潰されてしまうリスクが存在した。
  通産省は、「国内で、IBMに対抗できるコンピュー
 ターを育てる」ための方策を取った・・それは・・
  1) IBMと技術提携を行わない、IBM互換機路線
  2) IBMに対抗できる大企業の互換機路線
  3) 日本独自路線
  2 の大企業は、ハネウェル社。
  1960年代、アメリカには、8つのコンピューターメー
 カーがあった(「IBM と7人の小人」と呼ばれた)
  ハネウェルはその一つでありながら、1970年に MULTICS
 の技術を持つGE社と合併し、力を伸ばしていた。
  通産省は、国内の各社は上のいずれかの道を選び、提
 携することが求められた。
  富士通と日立はすでにIBM互換機を作成していたた
 め、互換路線を選んだ。
  日本電気はすでにハネウェルと提携していた。
  東芝も、すでにGEと提携していましたが、GEがハ
 ネウェルに吸収合併された。
  そこで、日本電気と東芝も提携し、ハネウェル互換路
 線を選んだ。
  三菱・沖電気は「取り残された」形で提携し、独自路
 線を歩むことになった。
  富士通と日立は提携し、技術的な交流は図りつつもお
 互い独自に、IBM System/370 の互換機を作成していた。
  (IBM との技術提携はない)
  ただし、IBM で System/360 (370の旧世代機)を設計
 した技術者で、後に独立したジーン・アムダールの会社
 と富士通は提携し、技術的ノウハウを得ていた。
  1981年、IBM はこうした「互換機」が世界中で増えて
 いたため、設計を一部変更して、性能を上げるとともに
 互換機を作りにくくした、System/370-XA を発表した。
  日立は、この「設計変更」の詳細を入手しようとして、
 IBM のおとり捜査に引っかかった。
  1982年、社員5名が逮捕され、この時、三菱社員1名
 も逮捕された。
  三菱は、当初、「独自路線」グループでしたが、この
 頃には余りに強くなった IBM の互換機を作ろうとしていた。
  この刑事事件は、司法取引により決着した。
  しかし、IBM から、民事損害賠償訴訟を起こされた。
  System/370-XA は、各種回路が特許で守られていたう
 え、それまでは後から読み込まれるソフトウェアであっ
 た「OS」の一部を、ハードウェア内に持つようになって
 いた。
  System/360 や 370 の頃は、同等の機能の回路で置き
 換えも可能でしたが、370-XA の特許は強力で、簡単には
 回避できなかった。
  また、BIOS に関しては単純な回路ではなく、プログラ
 ム…著作物です。
  著作権の場合「類似したもの」を作ったとしても、盗
 作としてアウト。
  少なくとも、この時点では IBM はそのような認識で動
 いていた。
  ずっと後に、IBM・コンパックが BIOS の著作権を争い、
 現在は違う認識となっている。
  結局、日立は IBM の許可を得ずに機械を販売しないこ
 と、訴訟費用は全部日立が負担すること、ソフトウェア
 やインターフェイスなどに関して、使用する対価を払う
 こと…などを条件に和解した。
  日立からすれば、IBM 互換路線に「お墨付き」を貰っ
 た格好で、この後も互換路線を進んだ。
  富士通も日立の訴訟に危機感を持ち、同様の取引を結
 びますが、徐々に IBM 互換路線から非互換路線にシフト。
  いずれにしても、通産省の狙った「独自技術による互
 換」という路線は無くなってしまった。
  この頃は、IBM が強くなりすぎてハネウェル社もコン
 ピューターから事実上の撤退。
  特に、吸収合併したGEの互換機は消滅し、GE互換
 だった東芝も撤退、同じグループだった日本電気にコン
 ピューター部門を売却した。
  独自路線だった三菱・沖も、先に書いたように三菱が
 IBM互換路線に進もうとして、スパイ事件に発展した。
  沖電気は、コンピューター本体は断念して、周辺機器
 製造に特化した。
  国策だった3グループ化は大失敗となった。
  日本のコンピューター産業は死んでしまう…。
  「IBM産業スパイ事件」とは、そうした危機的な状
 況を意味した。
  翌1983年、日本電気がスーパーコンピューターの新シ
 リーズ、SX-2 を発表します。
  この SX-2 は、世界で初めて GFLOPS を超えたコンピ
 ューターで、同時に初めてアメリカ以外のコンピュータ
 ーが速度で世界一になった機械だった。
  日本のコンピューター産業復活を狙った。
  この後、急に力を付ける日本のコンピューター業界に
 アメリカが危機感を感じ、1980年代後半から1990年代前
 半の貿易摩擦につなげて問題化する。
.
2012年3月、日本企業の大切な機密技術が、海外企業に盗ま
 れるという、流出した事例は多々ある。
  2012年3月には、工作機械大手のヤマザキマザックから
 設計図などの情報を不正取得したとして、愛知県警が中
 国籍の元社員を逮捕した。
  2012年4月には、新日本製鉄(現・新日鉄住金)が、高
 機能鋼板の製造技術を流出させたとして、元社員と韓国
 鉄鋼大手ポスコを相手取り、1000億円の損害賠償訴訟を
 起こしたりした。
.
2014年3月14日、この日の新聞やテレビなどの大手報道機関
 は、東芝のNANDフラッシュメモリに関する研究データ(機
 密情報)を韓国の大手メモリメーカーであるSK Hynixに
 提供した不正競争防止法違反(営業秘密開示)の容疑で、
 元技術者を警視庁が13日に逮捕したと報じた。
  元技術者(S容疑者)は、東芝とNANDフラッシュメモリの
 共同開発で提携してきたアメリカSanDiskの日本法人に勤
 務していた。
  この事件について、3月14日付けの読売新聞オンライン
 版では、S容疑者は、2007年4月から2008年5月にかけて、
 東芝四日市工場の管理サーバーに保存されていたNANDフ
 ラッシュメモリの研究データをUSBメモリに無断でコピー
 して持ち出し・・、
  2008年7月に、転職したSK Hynix(当時はHynix Semicon
 dcutor)に、持ち出した研究データを提供した。
.
2014年3月、技術流出・・日本政府の対応
  技術の流出防止と保護が極めて大切=東芝技術の流出
 問題で官房長官
  [13日 ロイター]菅義偉官房長官は、13日午前の会
 見で、東芝(6502.T)の技術が海外に流出したとの一部報
 道に関連し、技術の流出防止と保護が極めて大切との見
 解を示した。
  この問題について見解を求められた長官は、報道内容
 については承知しているが、個別事案についての言及は
 控えたいとした。
  その上で一般論と断りながら、「技術立国であるわが
 国にとって、守るべき技術の流出防止と適切な保護にし
 っかり取り組んでいくことが極めて大事だ」と強調した。
  政府として、知的財産戦略本部(本部長:安倍晋三首
 相)が、2013年6月に策定した「知的財産政策ビジョン」
 において技術・営業秘密の保護や強化の取り組みを打ち
 出していると語った。
  共同通信などによると、東芝のフラッシュメモリーの
 研究データを韓国の企業に不正に流出させた疑いが強ま
 ったとして、警視庁は13日までに、不正競争防止法違反
 容疑で、東芝と提携していた半導体メーカーの元技術者
 の逮捕状を取った。
.
2016年11月24日、アメリカは、中国を市場経済国と認めず 
 貿易摩擦激化へ
  アメリカ政府は23日、中国を世界貿易機関(WTO)
 協定上の「市場経済国」(自由な市場で経済運営が行わ
 れている国)とは認めない方針を明らかにした。
  日本も追随する方針。
  中国政府の優遇措置に支えられた中国鉄鋼メーカーな
 どのダンピング(不当廉売)を問題視。
  反ダンピング税を課しにくくなる「市場経済国」とは
 認定できないと判断した。
  中国は、WTO加入から15年を迎える来月の市場経済
 国移行を主張してきたが、米国の反対で事実上、不可能
 となった。・・以上・・(参考:毎日新聞)
  2017年12月12日、中国は「市場経済国」か? アメリ
 カ、認定に反対表明 WTOを試す「リトマス試験紙」
  世界貿易機関(WTO)の制度上の「市場経済国」認
 定を中国政府が求めていることについて、米国が正式に
 反対する通知をWTOに送付した。
  通商上の不利な扱いを受け続けることになる中国は反
 発しており、米中間の摩擦が再燃している。
  トランプ米政権がWTOを「機能していない」と批判
 する中、中国の認定問題は、米国のWTO脱退の引き金
 となりかねない火種となる可能性がある。
  米欧が共同戦線
  米政府がWTOに通知を送ったのは11月中旬。
  欧州連合(EU)も中国の市場経済国認定に反対して
 おり、米国は通知を通じてEUへの賛同を表明した。
  通商分野で米国とEUは対立するケースも多く、米欧
 が「異例の共同戦線」(米メディア)を張った。
  ・・以上・・(参考:産経新聞)
  アメリカは、中国を市場経済に組み入れ、そして、豊
 かになり、社会も開かれ来れば、政治システムも変化し、
 欧米的なシステムを受け入れて来ると見て、その様な意
 味からも、中国に対し甘やかす政策を取って来た。
  しかし、事は、その様な思惑の様には進展して来なか
 った。
  この問題は、今、気が付いたことではなかった・・が・・
  中国が、これまで経済を拡大できたのは、この恩恵だ
 った・・
  しかし、中国は、ありがたいという態度は表わさない・・
 心の底ではその様に思っているのかもしれない・・が・・
  そして、アメリカは、中国にはそのような態度をとっ
 ても・・日本に対しては厳しい態度を取り続けた。
  例えば、最新鋭の技術を取り上げる事をすることはし
 ても、日本へ提供をすることはしなかった。
  また、日本の企業が、最先端の技術を開発する事を妨
 害さえした。
  NECが、独自のコンピューターを開発するのを妨害
 した。
  三菱などが新しい技術を開発しようとすると、「研究
 員が犯罪を犯した」などと言いがかりをつけて阻止した。
  別の観点から見ると、アメリカは、中国を簡単に抑え
 られると見ていたと考えられる。
  中国は石油が不足している。
  代替エネルギーの開発も遅れている。
  この事例の様に、中国の技術は、アメリカからの提供
 が無ければ高度な製品が作れないなど、中国を抑え、コ
 ントロールできるとみていた。
  しかし、アメリカと中国は、これから貿易や通貨を巡
 って緊張度はさらに上がって行くと指摘されている。
.
2017年3月、日本学術会議が、大学などの軍事的研究を否定
 する声明を出した。
  軍事的研究と言ったって、この日本学術会議の人たち
 も含めて、日本人・国民を守る自衛隊などの研究をする
 ことまで否定した。
  日本国民を守る研究をしてはいけないと言い出した。
  まったく卑劣な声明である。
  「日本を攻めてくる勢力に利する行為」を行なってい
 る。
  どんな理屈があって、こんな事を言っているのだろう
 か?
  どんな論理があって、こんな声明を出しているのか?
  日本国民の命を守るという大切なことを放棄している。
  その様な研究をしてはいけないとした。
  日本国民の税金を使って日本学術会議の大学などは研
 究をしている。
  ならば、すべての研究費を辞退せよ!
  また、守るべき日本国民の税金で建てられた大学など
 の施設で研究ができるという恩恵に答えていない。
  また、日本国民から給料をもらい、自分や家族を養う
 金を貰っていながら・・この様な声明を出したという事
 になっている。
  ならば、自分の立場や給料も辞退せよ!
  まったく矛盾している、反逆している、日本学術会議
 や大学だと言える。
  そして、2018年6月9日の読売新聞によると、あろうこ
 とか?? 北海道大学という国立大学が、この日本学術
 会議の声明を受けて、防衛省の研究をしないと決めたと
 いう。
  中国や北朝鮮に、日本の存在が危うくなっているこの
 今・現在、この様な行為をしている
  (この様な事をするのは、この大学だけ)
  今まで、北海道大学は、研究をして来たけれど、これ
 からはしないとしたという。
  防衛省は、船体の摩擦抵抗を軽減する研究を、2016年
 度から委託していた。
  防衛省は、北海道大学の意向を尊重せざるを得ないと
 している。
  日本の国立大学の北海道大学・・何もかもが国民の御
 世話になっているこの大学が、この様な行為をする・・
 国民の為になる研究をしないと・・している。
  まったく理屈の立たない行為をした。
  北海度と言えば、沖縄県とともに、中国が暗躍してい
 るところ・・色々と工作をするところ。
  中国の国家的重要人物・要人が来て、中国の息のかか
 った農場を視察したりするところ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2018-06-15 04:30 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)598E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)

題:(増補版)598E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年6月10日、東学党軍と李氏朝鮮政府が、和睦
  朝鮮内で、圧政を行ない人々を虐(しいた)げていた
 政府に対して反乱を起こした東学党軍と、李氏朝鮮政府
 が、全州和約を結び、和睦した。

1894年6月10日、大鳥圭介在朝鮮公使が、陸戦隊を率い漢城
 府(かんじょうふ、ソウルの旧名)に帰任した。

1894年6月10日、山陽鉄道が糸崎駅~広島駅間が開通し、山
 陽鉄道の路線が、広島まで延長された。
  神戸駅~広島駅間の直通列車を、1日3往復の運転を開
 始した。
  2014年7月18日~8月10日に、三原駅(現:糸崎駅)~
 広島駅間開通120周年記念特別企画展が三原リージョン
 プラザで開かれた。

1894年6月11日、全州和約され、農民軍が全州を撤退した。

1894年6月12日、共同撤兵、袁世凱・大鳥間でほぼ妥結。
  日本を圧迫していた清国。
  日本には、潜在的対清恐怖感があった。
  そして、朝鮮に対して、清国は、宗主権的なものを持
 っていた。
  そして、華夷(かい=中国とえびす)秩序なるものが
 あった。
  この先、日清は、戦端を開くが、明治天皇陛下は、開
 戦には非常に消極的であられた。
  (参考)華夷秩序:かいちつじょ、中国の皇帝を頂点
     とする階層的な国際関係を指す。
      古来中国にある自分たちは優れた文明を持つ
     世界の中心(中華)で、周囲は未開の野蛮人(夷)
     であるとの考え方に根ざす。
      具体的には、中国皇帝の恩恵を受けるために
     朝鮮など周辺の国々は貢ぎ物をし(朝貢、ちょう
     こう)、代わりに皇帝が王と認める(冊封、さく
     ほう)という形をとった。
      アヘン戦争時は、朝鮮、ベトナムなどが中国
     と「朝貢・冊封関係」を結び、中国を「宗主国
     (そうしゅこく)」と位置づけていた。
      日本は離脱している。
  (参考)清国の意識:清国の戦線詔勅(部分)には、
     下記の様に、朝鮮を属国と完全に意識していて、
     西欧列強がアジアを植民地化して行く中で、力
     を付けつつある日本を完全に排除したかった。
      そして、朝鮮の従属化を強めて自勢力下に留
     めたかった。
      「朝鮮ハ我大清ノ藩屏〔ハンペイ:直轄の属
     領〕タルコト200年余、歳ニ職貢ヲ修メルハ中外
     共ニ知ル所タリ…」
      今(2018年)の中国も、この様な意識でいる
     のだろう。

1894年6月12日、日本の朝鮮派兵先遣隊が、仁川(じんせん、
 ソウルから40キロメートル)に到着した。
  1885年の天津条約に基づく行動。

1894年6月12日、山陽鉄道が、兵庫駅~広島駅間を開業した。
  2軸横扉の客車と荷物車の混成7両列車が、1日15本、
 昼間だけの単線運行を行った。
  岡山県内ルートでは、西大寺、玉島の港町などで、鉄
 道通過反対運動があり、やむなく、これらの市街地をは
 ずした北よりのルートに鉄道を敷設した。
  結果的に、西大寺や玉島は時代の波から取り残されて
 いった。
  この広島までの開通の後、日清戦争が起こり、山陽鉄
 道はその運搬に於いて重要な役割を果たした。
.
  (今日の言葉)
.
  題:真実は、解き明かされねばならない・・
    この行為は、これからの人類の行く末にも貢献すると確信する。
    そして、今、北朝鮮の技術で確実に届く範囲で、「攻撃しない方が良いと
    考えられる理由のない国」は・・日本だけだ。
.
1818年、アメリカの『本当の奴隷解放者』のフレデリック・
 ダグラスが生まれた。
  アメリカ合衆国は、多くの黒人の方々を奴隷にした卑
 劣な歴史を持っている。
  それも、長い期間に渡って、黒人の方々を虐(しいた)
 げた。
  それも、さらに、卑劣なのは、その黒人の方々を奴隷
 という身分から解放したのは、黒人の方々の自由獲得へ
 の努力と叫びにあったのを・・、
  そしてまた、黒人の偉大な奴隷解放運動家フレデリッ
 ク・ダグラスという活動の結果、奴隷解放がやっとなさ
 れたのに・・、
  この真実の歴史をアメリカ合衆国は隠し、白人のリン
 カーンが解放したのだと虚偽の、そして、真っ赤な嘘の
 プロパガンダ(嘘宣伝)をした。
  この真の奴隷解放者フレデリック・ダグラスは、奴隷
 出身であったため、生誕日の詳細は不明で・・、
  ただ、アメリカのメリーランド州タルボット郡に奴隷
 の子として生まれた・・としか分かっていない。
  人権無視の白人アメリカは、黒人の方々をこの事でさ
 えこのように処理した。
  教育も受けさせないという法律を作った社会だった。
  当然、選挙権は夢の権利だった。
  まったく、人権無視のアメリカ合衆国である。
  また、アメリカ合衆国の最大の卑劣な所は、今・現政
 権の美化を行なっているところだ・・
  現政権の起源が『南北戦争での北軍』にあるとしてい
 る・・そして、その勝利にあるゆえに、この北軍を美化
 し、南部軍を蔑(さげす)んでいる・・そして・・、
  この時の北軍の最高指揮官のリンカーンの記念堂まで
 作って美化し、讃えている。
  南部軍の最高指揮官のリー将軍を悪漢の如くに扱って
 いて・・先ごろも、このリー将軍の銅像を壊すのだとい
 う騒ぎがあった。
  (アメリカ南部の方々にとっては「尊敬するリー将軍」
 である)
  また、当然、アメリカの初代大統領ワシントンを・・、
  アメリカ憲法などをととのえてアメリカ政治をスター
 トさせた功労者を讃えるべきであるのに・・、
  16代大統領のリンカーンが、何の理由か? 記念堂を
 作ってまでして讃えているのである。
  そして、リンカーンが「奴隷解放をした」と嘘の宣伝
 をして美化している・・
  これは嘘なのである・・アメリカは「北部も南部も」
 白人サイドから奴隷解放がなされたのではない。
  北部だって、資本家は、工業資本家は、黒人の方々を
 搾取し、奴隷身分に置いて、その労働を搾取していたの
 である。
  故に、結局、黒人の方々が、血を吐くような努力をし
 ての結果の黒人奴隷解放だったのである。
  最後まで、白人サイドは、黒人の方々を搾取し、虐(
 しいた)げる側に居た。
  キリスト教の有色人種蔑視観に洗脳された白人の人々
 からは「積極的な黒人解放エネルギー・奴隷解放エネル
 ギーは出て来なかった」。
  この黒人のフレデリック・ダグラス氏が、奴隷解放の
 エネルギーの求心力となった方々の一人であった
  彼の数々の苦労・努力を、これから明らかにして行き
 たいが・・白人社会は黒人の方々の歴史を抹殺した。
  しかし、近年、少しづつ黒人の方々の歴史が掘り起こ
 されて来ている。
  このフレデリック・ダグラス・・彼の母は、彼が7歳の
 時に亡くなった。
  彼は、色々な白人奴隷所有者へ次々と売られて行くと
 いう経験をさせられた。
  人種差別のアメリカには、種々の卑劣な法律があった・・
 その一つが、「奴隷の方々へは、教育を与えてはならな
 い」というものだった。
  しかし、このフレデリック・ダグラスは、、12歳の時、
 この法を冒(おか)してまでして、この時の女主人は、
 彼に文字を教えてくれた・・
  だが、この後、彼女の夫がこの事を禁じたため、この
 様な事は行われなくなった。
  しかし、優秀な彼は、この後、街灯の下などで、また、
 使い古した教科書などを使って勉強をし続けた。
  成長するとともに、彼は、あちこちに売り回された。
  農場で働いたり、造船所で働いたり、北部の都市奴隷
 とされたり、売り渡され、苦労を重ねた。
  1838年(20歳)奴隷の境遇から脱出を図る・・逃亡で
 ある・・そして・・
  23歳の時、『反奴隷制協会』で初の演説をした。
  また、反奴隷を訴える新聞も発行する。
  1845年(27歳)本を発行した・・
  アメリカでは、「奴隷に教養がある訳がない」とされ、
 本の発行の機会も与えられていなかった。
  たが、この本は、ベスト・セラーとなった。
  フランス語・オランダ語に翻訳もされた。
  そして、フレデリック・ダグラスは、アイルランド、
 イギリスへもわたり反奴隷運動の活動した。
  1863年(45歳)リンカーン大統領、アンドリュー・ジ
 ョンソン大統領などと奴隷解放や黒人参政権について協
 議をし、黒人の方々の当然の人権を訴えた。
  そして、黒人の方々をまとめて黒人解放の活動をさら
 に実践して行った。
  駐アメリカ占領下ハイチ国合衆国領事をも務めた。
  1872年(54歳)大統領選で、副大統領候補に指名され、
 た。
  奴隷解放者と讃えられている「子供たちの偉人伝『リ
 ンカーンの伝記』は間違っています」・・、
  リンカーンは、「黒人奴隷を解放した」と言われてい
 ますが・・「間違いです」。
  彼には、「黒人奴隷を解放したい」という「希望や意
 志」は、「まったく有りませんでした」・・、
  リンカーンの黒人奴隷解放の意思は、「事の成り行き
 からその様な状況へ至った」「その様な状況を持った」
 という状況でした。
  その様に仕向けたのが、黒人の黒人奴隷解放戦士『フ
 レデリック・ダグラス』でした。
  また、その組織の働きかけがあったから、その方向に
 流れただけです・・これが真実なのです・・
  子供たちの伝記には間違いが書かれて居ります。
  嘘でプロパガンダ(嘘宣伝)された白人権力者たちの
 歴史・認識は代えられなければなりません・・正しい内
 容に書き換えられなければならないのです。
  キリスト教には、「有色人種は、黒人は、人ではない」
 とみる歴史が流れて来ております」。
  この様な見方に影響された人々がしたことは、黒人の
 方々の奴隷解放の努力で、黒人の奴隷解放に一旦ちょっ
 ぴり至っても、直ぐに自分たちの利にとらわれ、元に戻
 ってしまうという事も起きたりした。
  悲しいかな、黒人の方たちは、「人間ではない、奴隷
 という原罪がある」と理由づけられた考え方をされてい
 ました。
  キリスト教聖書にも書かれている奴隷制は、疑問なく
 容認するという考え方にありました。
  キリスト教聖書に説かれている奴隷制、当然のごとく、
 奴隷制を容認し、黒人の方達を奴隷として虐げました。
 この奴隷制寡頭勢力(かとうせい【寡頭制】 少数者が
 権力を握って行う独裁的な形態)は・・、
 自分たちの利が脅(おびや)かされ、自分の意に合わな
 い相手を殺す教義「異教徒は殺せ」の教義のままに行動
 した。
  その様なアメリカの中でも、共和党は、アメリカ全土
 の奴隷制反対勢力が応援し、育て、強固にした党だった。
  民主党は、奴隷制を容認する党だった。
  この様な中、1861年、南北戦争が起き、リンカーンは、
 この年に大統領に就任した。
  しかし、後代の歴史家が、「南北戦争は奴隷解放戦争」
 と位置付けしているが・・どうしてどうして・・
  この大切な時、このリンカーン大統領の大統領就任演
 説は、『奴隷財産を擁護する論理展開をするという卑劣
 な演説』だった。
  奴隷財産容認論のリンカーン大統領・・だった。
  アメリカ北部の政権は、プロパガンダをしてこの事を
 隠しました。
  リンカーンは、この様な大統領だった・・『何と愚か
 な演説なのだ』と彼に突き付けたい・・
  また、リンカーン記念堂の前に、この事実をはっきり
 説明書きした看板を立てたい。
  リンカーンの擁護派は(ようご、かばい守ること)、
 「奴隷制について、反対するか? 賛成するか? わか
 らない州が存在したから」と、筋の通らない言い訳した。
  それは嘘だ・・奴隷解放が大切な政治信条なら、この
 最大のチャンスに大きな声で、この時こそ訴えねばなら
 ない・・これが常識だ・・、
  その後の行動を見ても分かる・・
  リンカーンのその後の行動からみても、「奴隷解放の
 大統領」とは言えない。
  南北戦争の戦況は、リンカーンの奴隷解放への意思も
 なく、
  また、黒人の方々への人権無視や・・
  リンカーンの政治的意思の不決断もあって・・、
  また、北部軍首脳部の腐敗もあって・・北部軍は敗北
 が続いた。
  北部のシンボルである首都=ワシントンが、陥落する
 危険にさえさらされる緊急事態にもなった・・、
  この状況を救ったのが、黒人の黒人奴隷解放戦士『フ
 レデリック・ダグラス』だった。
  奴隷解放に不決断だったリンカーンは、黒人の軍への
 参加をも『容認しなかった』。
  フレデリックは、「黒人奴隷も、自由黒人も、黒人を
 軍務につかせよ」・・人権を認めよと訴えた。
  さらに、フレデリックは、「奴隷に対する自由が、今
 こそ、国会議事堂から全戦場の砲焔の空高く宣言されな
 ければならない」と、その行動を起こさないリンカーン
 に代わって叫んだ。
  黒人の人権を認めて・・「黒人を軍務につかせよ、そ
 して、黒人解放軍を組織せよ」・・と・・
  そして、さらに、「我等は、北部軍の兵士となって、
 南部に進軍し、奴隷たちの間に解放の旗を揚げるであろ
 う」と、世論に向かって叫んだ。
  しかし、愚かにも、リンカーンは、首都ワシントンが
 陥落の事態になっても・・、
  リンカーンは、黒人解放の明言を避け・・「黒人奴隷
 は漸進的に解放したい、一気に解放という事はしたくな
 い」などと黒人奴隷解放への意思表示を避けた。
  この時、卑劣にもリンカーンは、「解放された黒人は、
 アフリカかどこかに植民させたい」と考えていた。
  黒人の方たちを捨てるということ、「棄民」の考えだ
 った。
  当然、黒人の方たちから、強い反対の声が沸き起こっ
 た。
  今のアメリカの原点は、独立戦争で勝ち得た国の形に
 当然、あるが・・、
  南北戦争の北部軍に原点を持つ現政権は、リンカーン
 記念堂を建てた如く・・
  「現在のアメリカ政府をたどって行くと、『南北戦争
 時の北軍政府』へとたどり着く、行き着く」。
  それ故に、アメリカは、当時の北軍の最高位置にいた
 『リンカーン大統領』を誇りとし、「美しくしていたい」
 という気持ちが強くはたらいている・・、
  それ故に、このリンカーンに関して、プロパガンダす
 るアメリカ(北部)が見られ、存在する。
  そして、そのプロパガンダのために見えない「隠され
 た真実」がある・・
  世界の善良な方達のために、この悪影響を与えている
 部分は明らかにされねばならない。
  また、この悪行為は、回り回ってアメリカ合衆国のた
 めにも成り得ない。
  真実は解き明かされねばならない・・これからの人類
 の行く末にも貢献すると確信する。
.
1882年7月23日、壬午事変(じんごじへん)
  朝鮮の首都・漢城(現:ソウル)で、この日に起きた
 事変で、親日的な閔妃(びんひ、李氏朝鮮の第26代王・
 高宗の妃)政権の軍制改革に反対して、大院君(たいい
 んくん、興宣大院君、高宗の実父)が軍隊を動かした。
  日本人軍事教官が殺害され、また、日本公使館が焼き
 打ちされたりしたが失敗した。
  この結果、済物浦(さいもつぽ)条約が結ばれた。
  しかし、この後、清国が、「朝鮮支配を強化した」。
  そして、この事変の後、清と日本の軍隊が朝鮮の首都
 である漢城に駐留することになった。
  日本の朝鮮駐留軍より、清の駐留軍の方が勢力が多く
 て強く、それを背景に、守旧派が勢力を拡大していった。
  挽回しようとした開化派は、1884年、クーデターを起
 こし、一時政権を掌握した。
  しかし、清の駐留軍が、実力行使に乗り出したため、
 日本軍は退却して、クーデターは失敗した。
  1885年、日本と清は、天津条約を締結し、両国は軍を
 撤退させ、今後、朝鮮に出兵する際にはお互いに事前通
 告をすることとした。
.
1930年代、中国の国民党軍の蒋介石は、アメリカやドイツ
 から新型兵器を購入した。
  アメリカは、軍事顧問台を派遣した。
  アメリカの介入が始まる。
  また、これとは別に・・、
  1937年5月1日、アメリカ陸軍航空隊大尉のクレア・L・
 シェンノートは、国民党航空委員会の要請で、中華民国
 空軍の訓練教官・顧問となった。
  蒋介石は、空戦経験の豊富な彼を航空参謀長として遇
 する。
  対日戦について、大戦隊を持つことを蒋介石へ進言し、
 アメリカ政府もこの計画を承認した。
  第二次世界大戦が始まる以前から、戦闘機、武器、パ
 イロットを含むアメリカ正規軍の派遣が始まった。
  ルーズベルトが承認しているれっきとしたアメリカの
 対日宣戦布告であった・・アメリカは秘密にした。
  この事が「ばれて来る」と、初め、ルーズベルトは、
 「ボランティアだ」と嘘を言ったが・・、
  れっきとしたルーズベルトのサインした命令書が、そ
 の後、発見された。
  アメリカは、日本の奇襲によって第二次世界大戦は始
 まったと「嘘を言い続けて来ている」が・・
  真珠湾攻撃前に、「日本が攻めてくる」と書いた新聞
 が、ハワイで発刊されている様に・・
  また、ルーズベルトは、家族や親類に、「明日、日本
 が攻めて来る」と言っていたことも明らかになっている
 様に・・すべては、ルーズベルトの策謀の中に、第二次
 世界大戦は始まった。
.
1931年9月18日、柳条湖事件が起きた→満州事変
  満州事変の発端となった柳条湖の満鉄戦爆破事件が起
 きた。
  アメリカにも支援され、さらに、国共合作が成った中
 国・国民政府は強気(つよき)だった。
  「日本を全面排除する」の方針で強気で過激になった
 国民政府は、強気の対応を繰り返した。
  この事変の2ヶ月~3ヶ月前の1931年7月に、「中村震
 太郎大尉事件」が起きた。
  日本の陸軍軍人の中村大尉は、中国の南興安嶺を旅行
 していた、正式なビザも所持しており、まったく合法的
 であったが、中国軍に捕まった。
  (参考)1930年6月27日、陸軍参謀本部員・中村震太郎
     大尉と井杉延太郎曹長が、この日に、洮索(と
     うさく)地方、蘚鄲公爺(そかくこうや)廟近
     くの村落で、奉天軍所属の中国屯墾軍第3団(関
     玉衡指揮)中国兵に捕えられスパイ容疑で、6月
     27日、同大尉と同行の井杉延太郎予備騎兵曹長
     ら4人が射殺された。
      事件は、8月17日、日本側によって公表され、
     前後して起こった万宝山事件とともに、国内世
     論が湧きたった。
      日本は、南京政府に抗議し、陸相・南次郎は
     この機をとらえて満蒙問題を解決するため、武
     力発動を辞さないと声明した。
      また、陸軍は、中国の排日的姿勢の現れとし
     て態度を硬化させ、1931年9月18日の柳条湖事件
     を発端に満州事変に突入した。
      前後して起こった万宝山事件とともに満州事
     変勃発(ぼっぱつ)の一因となった。
.
1937年12月7日、蒋介石は、首都とした中国の南京の陥落が
 迫る時、アメリカ軍の手によって、この日、南京を脱出
 した。
  この様にすんなり書けば「そうか!」で終わるが・・?
  南京へ迫る大激戦が行なわれている最悪事態のところ
 で、アメリカが中国の最高指揮官を連れ去るという介入
 行為は・・、
  『中国の司令部の崩壊』を意味した。
  ただでさえうろたえていた中国兵は、司令部が、突然、
 無くなって・・「指揮系統の無い『無秩序の軍』と化し
 た」。
  そして、残された中国下士官が、その自分の命令を聞
 かそうと、自軍の兵を撃つという事態さえも起きる。
  逃げ惑い、逃げ帰る中国の自軍兵へ、「逃げるな!」
 と銃で撃つことさえ起きる。
  アメリカがやったことは、救助の名目で、戦いの中国
 中枢を崩壊させ、壊滅させるという最悪な卑劣行為だっ
 た。
  混乱状態が・・さらなる混乱となった。
  悲劇的事態が、このアメリカがやった「中国司令部崩
 壊行為」で起きた。
  また、アメリカ軍の中国への支援は、スムースに行か
 ない面もあった。
  1942年、アメリカのスティウェル将軍は、この年、軍
 事顧問団長としてジョージ・マーシャル陸軍参謀総長に
 よって蒋介石の参謀長に任命され、中国に派遣された。
  しかし、その後、共産軍を賞賛し、共産軍を支援する
 姿勢を貫いたため、
  1944年、彼は解任され、彼に代わって、中国戦区の総
 司令官としてウェディマイヤー将軍が派遣された。
  この様に、アメリカは、ベトナム戦争の時も、どっぷ
 りとベトナム戦争に浸かって・・アメリカ正規軍やアメ
 リカの武器・弾薬を使って戦争をしたように、第二次世
 界大戦がはじまる前から、アメリカは、中国で日本と戦
 争をしていた。
  中国よ! 南京で中国司令部と最高指揮官たちを、ア
 メリカが連れ去って、日本の攻撃から救ったと美しく言
 うのは嘘だ。
  中国の一般兵だけが残され、それでなくても戸惑う中
 国兵が、日本兵に追われ、逃げて来る中国の一般兵を、
 中国下士官が「逃げるな!」と統制が効かなくなった自
 軍兵を銃で撃つ・・その様な行為を展示せよ・・
  『 南京事件記念館に展示せよ! 』
  アメリカが、日中戦争に秘密裏に参戦し、卑劣な介入
 をしていたことも展示し・・糾弾せよ!
  また、アメリカは、イギリスなどを巻き込んで、中国
 の蒋介石を援助する「援蒋ルート」で、中国へ武器や弾
 薬を渡し、アメリカ正規軍までが介入し、ベトナム戦争
 と同じように、アメリカ自身が、第二次世界大戦前に、
 日本へ「秘密の宣戦布告をしていたこと」も展示せよ!
.

1945年8月6日、広島に原爆が投下された。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、『敗戦が決定的』
 な日本に、次に来る世界を試したいという気持ちが働い
 た。
  アメリカだけが手に入れた新兵器・核兵器・原爆の、
 この巨大な破壊力を世界に見せつけたかった。
  熱心にキリスト教を信仰するルーズベルトには、ため
 されるその有色人種への蔑視観のキリスト教教義に洗脳
 されて、広島への原爆投下に対する躊躇感は、まったく
 無かった。
  そのような経緯の中で、モルモットとなった日本の広
 島に原爆は投下された。
  その真っ赤な灼熱の「巨大な火の玉」の下に居た、日
 常を暮らしていた広島の方々は、原爆雲となって蒸発し、
 巻き昇って行った。
  その巨大な原子雲は、昇天して行った。
  悶(もだ)え苦しみを内へ秘め、天へ昇って行った。
  また、その下にもまだ、一瞬にして変わり果てた人々
 が、もだえ苦しむ数多(あまた)の人々が居た。
  それらの情景の中の一つが・・下記だ・・、
  若い、その女性は、木の根方(ねかた、木の根もと)
 へ来たら、その木を背中にして座り、抱いていた乳飲み
 子(ちのみご)へ乳をあげた・・
  自分に、その先が無いと悟っていた・・間近な死を悟
 (さと)っていた。
  その状況を見た方が、その直前までそうだったのだろ
 うと涙した姿だった。
  木の根方で、一生懸命、乳を飲む子の・・その母親は、
 こと切れていた。
  (事切れる:息が途絶える。生命が終わる)
  広島に原爆が落ちた直後の・・この様な光景が話され
 た。
  あまりにも・・悲惨な・・情景だった。
  乳飲み子に気付いた・・自身も大きな傷を負い・・気
 づき発見したその方は、その若い母親がこと切れている
 事に気付いた・・
  自分自身の命は、長くないと悟った女性は、自身の子
 の命は永遠に続きますようにと祈って、我が子に乳を与
 えたのだろう・・我が子へすべてを与えたいと祈ったの
 だろう・・。
  我が乳を、最後の我が乳を、一生懸命に、飲む我が子
 に、せめてもの安心を得て、その安心を頼りとして、こ
 の母は、命を閉じたのだろう・・絶命したのだろう・・、
  悲惨な事に、母の死を知らぬこの子は、一生懸命、乳
 を飲み、そして、発見された・・発見したその方も被爆
 し、地獄図となった広島の中でさ迷い、必死だったでし
 ょう・・この証言は複数あります。
.
1945年9月、結局、日本人の優しさが、戦後復興をさせた。
  誰もが、確かに、生きるのに必死だった。
  明日(あした)食べるものがない、米が無い・・との
 日本だった・・
  米が無い、なんて、よく言うが、もともと、米なんて
 いう上等なものはない。
  麦だった・・銀シャリが食べたいが庶民の夢だった。
  寿司米(すしまい)だ、こしひかりだは、想像外の世
 界だった・・
  その麦だって・・あったら良い方だ。
  粟(あわ)や稗(ひえ)だ。
  「粟や稗だって言っても」、今の人は分からないだろ
 う。
  鳥や家畜が食べるもの・・、
  当時は、食べるものが無いので、鳥や家畜が食べるも
 のを人間が食べていた。
  また、何でも食べられるものを食べていた。 
  芋の蔓(いものつる)だ・・野の草だ・・
  贅沢なんて言ってられない・・ぎりぎりの生活だった。
  隣近所で・・「栄養失調で死ぬ方まで出た」。
  美食なんて言う世界は、「夢のまた夢」だった。
  それでも・・
  それでも・・日本人の方々の心のどこかに「優しさが
 あった」。
  巷の傷痍軍人の方々へ・・財布の小銭だが渡した人々
 が居た・・
  助け合う・・人々が居た・・
  社会はしっかり形成されていた・・
  戦争の大破壊にも・・壊されてはいなかった・・
  そのような状態の中で、皆は、助け合っていた。
  これが・・日本の戦後復興を支えた・・
  キリスト教の様に、困った時に、「(キリスト教の)
 神の義があるから」という免罪符を与えられて、「隣国
 の富を奪いに行く」という、その様な考え方ではなかっ
 た・・その様な発想は微塵も無かった。
  助け合った・・そこから・・生存を・・切り開いた。
  その優しい心で、戦後復興を成し遂げた・・日本だっ
 た。
.
1979年2月1日、ホメイニー氏が、15年ぶりに、イランに帰
 国した。
  イランは、ホメイニ氏を指導者とする1979年のホメイ
 ニ革命以後、イスラム法学者の指導の下にシーア派イス
 ラム教の厳しい戒律が守られて来た。
  それまでのパーレビ2世国王(モハンマド・レザー・
 シャー・パフラヴィー)は、自由主義的な立場を取り、
 アメリカと親密な関係を築いて来ていた。
  しかし、冷戦下において、欧米や日本などの先進国と
 の石油外交を基礎にした深い経済関係を元に進めてきた
 近代化政策は、1970年代中盤に起きたオイルショック後
 の急速な原油価格の安定化もあり、1970年代後半に入る
 と破綻した。
  それに伴い国民の間での経済格差が急速に拡大し、政
 治への不満も高まりを見せ、皇帝の求心力も急激に低下
 した。
  モハンマドは、テヘラン市内に戒厳令を敷き、夜間外
 出禁止令を発令するなどしてこれに対応したものの事態
 は収拾がつかず・・、
  1979年1月16日に、休暇のためにイランを一時的に去る
 と称して皇帝専用機のボーイング727を自ら操縦し、皇后
 や側近とともにエジプトに亡命した後、モロッコ、バハ
 マ、メキシコを転々とした。
  ホメイニーは、1979年2月1日に、15年ぶりの帰国を果
 たすと、直ちにイスラム革命評議会を組織し、メフディ
 ー・バーザルガーンを首相に任命した。
  その後、モハンマドが任命したシャープール・バフテ
 ィヤール首相の指揮下で皇帝への忠誠を誓っていた帝室
 親衛隊、および、イラン陸軍の空挺部隊と内務省の治安
 部隊が、ホメイニーへの支持を表明したイラン陸軍内部
 の不満分子と戦闘状態になるものの、2月11日に制圧され
 た。
  バフティヤール首相や帝室親衛隊隊長らは逮捕され、
 バフティヤール首相は、2月13日に、正式に辞任した。
  その後、イスラム革命評議会が、イスラム主義を基礎
 に置いたイスラム共和制をしいた
  その為、アメリカは、ホメイニ革命以来、反イランの
 方向を取った。
.
2018年2月20日、「中国製スマホ使うな」米情報機関、衝撃
 勧告のウラ 日本でも販売
  CIA(中央情報局)やFBI(連邦捜査局)など、
 アメリカの情報機関が、アメリカ国民に対し、中国製ス
 マートフォンを使うべきではないと勧告したと、アメリ
 カCNNが報じた。
  情報を不正に改竄(かいざん)したりする機能などが
 あるためというが、問題視された中国企業のスマホは、
 日本でも販売されている。
  大丈夫なのか・・?
  CNN(15日、日本語版)の記事によると、アメリ
 カ上院情報委員会で13日、CIAやFBI、NSA(
 国家安全保障局)、DIA(国防情報局)の高官が証言
 に立ち、
  中国のスマホメーカーが、アメリカ人ユーザーの安全
 を脅かすという見方を示したという。
  FBIのクリストファー・レイ長官は、同委員会での
 証言で、企業や自治体などで、中国の「ファーウェイ」
 や「ZTE」の製品を使うことを問題視する理由につい
 て説明。
  製品の「情報を不正に改竄したり盗んだりする機能」
 や「密かにスパイ活動を実施する機能」を指摘したとさ
 れる。
  CNNは、「(米政府は)中国政府による情報収集活
 動に利用されることを懸念」とも報じた。
  衝撃的な内容だった。
  (参考)CNN:シーエヌエヌ、Cable News Network。
      タイム・ワーナーの一部門であるターナー・
     ブロードキャスティング・システムが所有する
     アメリカのケーブルテレビ、および、衛星テレ
     ビ向けのニュースチャンネル。
      1980年に、テッド・ターナーによって、世界
     初の24時間放送するニュース専門のチャンネル
     として設立された。
      ジョージア州アトランタに本社を置いている。
.
2018年4月19日、YAHOO!JAPANニュースに記載れていた「危
 ない中国食品 2018[第2弾] 最新回収事件」(文春オンラ
 イン)
  チキンナゲット販売中止以来、中国食品に事件がない
 と思ったら大間違い。
  回収事件は、昨年も、今年も、起きている。
  なぜ中国食品の品質は向上しないのか?
  回収事件の当事者や検疫に引っかかった業者の「告白」
 から浮かび上がるのは、相も変らぬ悲惨な現場の実態。
  まず、次のリストを・・
  日本マクドナルドの中国産チキンマックナゲット販売
 中止事件(期限切れ鶏肉の使用)が起きた、2014年7月以降
 の中国食品「回収事件」をまとめたもの。
  回収された商品名と当該企業の実名を可能なかぎり記
 載している。
  日本中の関心を集めた事件の後も、中国食品が問題を
 起こし続けていることがわかる。
  先週号で紹介した食品衛生法の違反は、港の検疫所で
 基準を超える細菌数や農薬が見つかったもので、いわば
 水際で上陸を食い止められた事例。
  幸いなことにいずれも日本の消費者の口に入ることは
 なかった。
  それに対し、今週取り上げる「回収事件」は、検疫所
 の目を逃れ、いったん日本の市場に出回った食品にあと
 から違反が見つかり、市や保健所などが回収を命じたり、
 自主回収したりしたもの。
.
2018年6月4日、天安門事件きょう29年、中国で強まる人権
 弾圧(産経新聞)
  中国で民主化を求める学生や労働者が武力弾圧された
 1989年の天安門事件から、4日で29年となる。
  中国共産党は、現在も学生らの民主化運動を「政治風
 波(騒ぎ)」と位置づけ、事件に関する情報発信を厳重
 に規制している。
  人権派弁護士の相次ぐ拘束や海外亡命者の監視など、
 中国の人権状況は「深刻さを増す一方」だ。
  北京出身の芸術家、楊偉東さん(52歳)は1989年6月3
 日の夜から翌未明にかけて北京の天安門広場にいた。
  当時、大学2年生。
  戒厳部隊の銃声が鳴りやまないなか、労働者とみられ
 る男性が三輪自転車で搬送されていた。
  負傷したふくらはぎからは骨がのぞき、男性は「共産
 党にやられた」とうめいた。
  楊さんは、未明に、知人の宿舎に逃れ無事だったが、
 同年9月に大学で始まった、人民日報の感想文提出などの
 「再教育」を拒否し、退学処分になった。
  その後、表現の自由を求める芸術家として活動してい
 たが、昨年・2017年6月に、家族とドイツへ亡命した。
  しかし、国外でありながら、今年・2018年5月末から、
 中国人による尾行が目立ち始めたという。
  「中国の領事館前で行われる追悼行事に私が参加する
 ことを警戒しているのだろう」と楊さんはいう。
  習近平指導部の下で、弾圧は強まっている。
  昨年・2017年7月に、事実上、獄死したノーベル平和賞
 受賞者で民主活動家の故劉暁波氏の妻、劉霞さんは、法
 的根拠がないまま当局の軟禁が続く。
  今年・2018年1月、憲法改正に関する書簡を公表した人
 権派弁護士の余文生氏は、2018年4月に、国家政権転覆扇
 動容疑などで逮捕された。
  妻の許艶さんによると、これまで弁護士が留置場を約
 20回訪れたが、接見は一度も認められていない。
  事件で子供を亡くした親の会「天安門の母」は、2018
 年6月1日付で、習国家主席に宛てた声明を発表し、「悲
 惨な事件は歴史になったが、災難は終わらず傷口は癒え
 ていない」と強調。
  「真相と賠償、責任追及」を求め続けると訴えた。
.
2018年、日本は、恐ろしいことだが、「北朝鮮の核の最前
 線に居る」・・と、認識しなければならない。
  北朝鮮は、韓国が国境を越えない限り核攻撃はしない。
  朝鮮民族の「同胞意識」である。
  北朝鮮にとっても「朝鮮統一が夢なのだ」。
  その話し合いもなされている。
  北朝鮮は、秘密裏に技術を教えてくれる中国へ「核攻
 撃する理由はない」。
  ロシアも同じだ。
  今、北朝鮮の技術で確実に届く範囲で、「攻撃しない
 方が良いと考えられる理由のない国」は、日本だけだ。
  北朝鮮の核技術とロケット技術の開発は、日本に対す
 るものだ。
  そして、北朝鮮の欲しい生存保証は、「アメリカに求
 めている」。
  だから、北朝鮮は、アメリカに対する抑止力(アメリ
 カからの核攻撃抑止)を持ちたいと考えている。
  そして、北朝鮮の核攻撃が、日本にあった場合、日本
 は、「その第一撃で潰れる」・・だろう。
  (日本は、憲法上、第一波の攻撃の後でなければ反撃
 は出来ない・・となっている・・)
  (まったく、日本人の生存を危ういものにしている憲
 法なのである・・
  「日本人の積極的生存」をないがしろにしている憲法
 なのである・・
  他国が一生懸命生存を、生き残りを考えているのに・・
 である)
  また、その第一波攻撃に対する防衛に成功する、成功
 しないにかかわらず、第二派の核攻撃が、日本に向けて
 行なわれないように、「アメリカの核の傘」が有効に働
 くか?・・である。
  アメリカの「日本への核の傘の実施」は、アメリカ自
 身への核攻撃を呼び込むことになり、実施が何ら抵抗な
 く行われる事は無い。
  そこに、実施の抵抗がある。
  「アメリカの核の傘の実施は、一旦、始まったら、機
 能しない」。
  始まるまでの脅し・・これを大いに行わなければ、な
 らない。
  しかし、日本は、これを、していない。
  日本は、自前の核を持つ以外、子供などの「後の世代」
 に対して「責任は持てないのである」。
  その様な状況下に置かれているのである。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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by suba28 | 2018-06-07 05:56 | 皆様とともに 幸せになりたい


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