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(増補版)618E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月)

題:(増補版)618E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
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1895年1月14日、日本領の尖閣諸島を編入した。
  尖閣諸島は、閣議決定で沖縄県に編入された日本固有
 の領土で、周辺海域に石油資源などが埋蔵されている可
 能性が指摘された1970年代になって、急に、中国が領有
 権を主張するようになった・・主張すればいいというな
 ら誰でも何でも言える・・この逆のことだって言える。
  古来から日本領だった尖閣諸島は、現在、日本が有効
 に支配しており、領土問題は存在していない。
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1895年1月15日、有栖川宮熾仁親王が薨去、61才。
  有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんの
 う、1835年2月19日~1895年1月15日)有栖川宮9代親王。
  有栖川宮幟仁(たかひと)親王の第一王子。
  1851年(嘉永4年)(16歳)仁孝天皇皇女・和宮親子内
   親王と婚約したが、和宮内親王が将軍・徳川家茂に
   降嫁のため沙汰止みとなった。
  1858年(23歳)日米修好通商条約の調印に反対して尊
   王攘夷(そんのうじょうい)運動を支持し主張した・・
  1864年(29歳)国事御用掛に任ぜられたが・・攘夷(じ
   ょうい)論を主張・・以来国事に奔走。
  1864年8月26日(29歳)禁門の変で長州藩士に荷担した
   ゆえをもって謹慎を命ぜられた。
   この後、国事御用掛を罷免され謹慎の身となる朝譴
    (ちょうけん、おとがめ) を受けた・・が・・、
  1867年12月(32歳)王政復古とともに新政府の総裁職
   に就任した。
  1868年1月27日(33歳)鳥羽・伏見の戦い(~1868年1
   月30日)・・
  1868年2月(33歳)戊辰戦争では、征東大総督として官
   軍を率いて東下、江戸に入り・・鎮定に功を立てた。
   のち兵部卿、福岡藩知事、元老院議長・参謀総長等
   を歴任した。
  1877年(42歳)西南戦争では征討総督となり、
   戦後、陸軍大将となる。
  1889年(54歳)参謀総長に進み、
  1894年7月25日(59歳)日清戦争(1895年4月17日)に
   は広島大本営に軍務をとったが・・、
  1895年(61歳)病を得て没した。
   陵墓は東京都文京区大塚5丁目豊島岡墓地。
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1895年1月15日、播但鉄道(ばんたんてつどう)の寺前駅~
 長谷駅間が開通した。
  播但鉄道は、現在の西日本旅客鉄道(JR西日本)
  播但線の大部分が私設鉄道だった。
  兵庫県の播磨地方と但馬地方を結ぶ鉄道として建設さ
 れた。
  山陽鉄道の国有化と同時に官設鉄道の一部となった。
  1876年、現在の姫路市飾磨と生野銀山の間には生野鉱
   山寮馬車道が整備された。
  1887年、内藤利八、浅田貞次郎ら地元の数名が馬車鉄
   道で結ぶ計画を兵庫県知事に提出、「生野ヨリ(中略)
   飾磨港ニ達スル」経路で鉱山と港を連絡する意図で
   将来は蒸気鉄道にする計画だった。
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1895年1月16日、ハワイ人王政派が武装蜂起した
  アメリカの工作によって危うくなったハワイ・・先住
 し、ハワイの領有権のあるハワイ人の王政派が武装蜂起
 した。
  しかし、アメリカ軍によって短期間で鎮圧され、虐殺
 行為が行われた。
  この武装蜂起を支援したとしてリリウオカラニ女王が
 逮捕され・・幽閉された。
  原住民の大虐殺の後、ハワイを完全に乗っ取った。
  1865年5月9日、アメリカで南北戦争が終わる布告が出
 された。
  この南北戦争が終わった頃から、アメリカ本土では肉
 や砂糖価格が急騰した。
  このためサトウキビの栽培に適したアメリカ周辺の島
 がアメリカの餌食となる。
  アメリカの砂糖商人たちは、襲いかかるようにその島々
 の土地を買った。
  そして、すさまじい勢いで開発されていった。
  1860年代で、アメリカの白人たちは、すでにハワイ全
 土の4分の3の土地を取得した。
  そして、その土地をサトウキビのプランテーションに
 して行った。
  南のキューバ島と、西のハワイ島が欲しいアメリカ。
  その島々が餌食となり、砂糖商人たちの儲けの金庫と
 なった。
  今(2018年)、日本の北海道が同様に中国に買われて
 いる。
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1895年1月20日、日本軍が、山東半島に上陸した。
  清国艦隊の北洋艦隊の拠点である威海衛の攻撃を行う
 ために海から山東半島へ進み、栄城湾からの上陸を行っ
 た。
  軍艦からボートに乗り換えて上陸を行った。
  この作戦が行われる2日前の1月18日に、連合艦隊司令
 長官の伊東祐亨海軍中将が本国の大本営に送った電文で
 は・・
  「翌日(1895年1月19日))の午後1時に、陸軍の運送
 船を護送して栄城湾に向かって出発する」ことが伝えら
 れている。
  また、作戦が行われた4日後の1895年1月24日の大本営
 が陸軍次官の児玉源太郎陸軍少将へ送った電文では・・、
  栄城湾からの山東半島上陸作戦に参加した薩摩丸から
 の報告内容として・・この作戦において、陸軍部隊の揚
 陸に先行して、海軍の陸戦隊が上陸したことや・・、
  この時に清国軍からの攻撃があったこと、戦闘の後に、
 順次運送船が到着し、陸軍部隊の揚陸が進められたこと
 が伝えられている。
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1895年1月22日、ハワイ王国が滅亡した。
  リリウオカラニ女王が廃位させられて、ハワイ王国が
 滅亡した。
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1895年1月28日、九州鉄道の川尻駅~松橋駅間が開通した。
  その後、熊本方面と天草・島原との連絡のために、1899
 年12月25日に、宇土駅から三角駅までが開通して、宇土
 駅が分岐駅となった。
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1895年1月28日、関西鉄道の柘植駅~奈良駅間の建設免許状
 が下付された。
  奈良鉄道によって京都駅~木津駅~奈良駅間が開通し
 た。
  関西鉄道奈良線と名付けられているが全区間が京都府
 内にある。
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1895年1月29日、高等女学校規程が公布された。
  文部省令第一号 (明治28年文部省令第1号)
  高等女学校規程ヲ定ムルコト左ノ如シ
  明治二十八年一月二十九日文部大臣 侯爵西園寺公望
  高等女学校規程
  第一条 高等女学校ノ学科目ハ修身、国語、外国語、
      歴史、地理、数学、理科、家事、裁縫、習字、
      図画、音楽、体操トス又随意科目トシテ教育、
      漢文、手芸ノ一科目若クハ数科目ヲ加フルコ
      トヲ得
      外国語、図画、音楽ハ府県立学校ニ就キテハ
      文部大臣ノ許可ヲ受ケ其ノ他ノ学校ニ就キテ
      ハ地方長官ノ許可ヲ受ケテ之ヲ欠クコトヲ得
      又生徒ノ志望ニ依リ之ヲ課セサルコトヲ得
  第二条 高等女学校ノ修業年限ハ六箇年トス但土地ノ
      情況ニ依リ一箇年ヲ伸縮スルコトヲ得
  第三条 高等女学校ノ第一年級ニ入ルヘキ者ハ修業年
      限四箇年ノ尋常小学校ノ卒業生若クハ之ト同
      等ノ学力ヲ有スル者トス (以下略)
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1895年1月31日、京都で、わが国最初の路面電車が開業した
 (電気鉄道のはじめ)(2月1日説あり)
  京都電気鉄道が東洞院塩小路下ル(京都駅近く)~伏
 見下油掛(京橋)間を開業した。
  当初は、停留場の概念がなく、電車は任意の場所で乗
 降扱いを行なった。
  この市街路面電車の歴史は、1978年9月30日(昭和53年)
 までの83年間だった。
  民営の京都電気鉄道会社(京電・きょうでん)が、東洞
 院(ひがしのとういん)塩小路(しおこうじ)下るの七条停
 車場(しちじょうていしゃじょう、京都駅)と伏見町(ふし
 みちょう)下油掛(しもあぶらかけ)間の営業を開始し、当
 時、先走りの少年が居た。
  開業の6か月後の1895年8月、雑踏や街角、そして、橋
 上では、電車の先五間(約9メートル)以内を先行して、昼
 は旗、夜は提灯をもち、「電車がきまっせえ。あぶのお
 っせえ」と叫びながら、線路を走る告知人がいた。
  告知人は、12歳から15歳の少年で、先走りと呼ばれた。
  この告知人制度は、府令第六十七号電気鉄道取締規制
 によるもので・・
  仕事は、危険な上に、汗とほこりにまみれての重労働
 で、少年が電車にひかれる事故が相次いだ。
  そのため、告知人制度は廃止に至った。
  また、動力の電気は、琵琶湖疏水(びわこそすい)の水
 力発電によって電力が供給されていた。
  そのため、疏水の流れが止まると、京電も休業となっ
 た・・疏水止まれば電車も止まる・・
  この京都の路面電車(京電)は、1912年6月、京都市営
 電車の営業が開始され、激しい客取り合戦が繰り広げら
 れる様になった。
  1918年7月(大正7年)京都市が京電を買収し、競合区
 間の路線が統一された。
  そして、大正中期から昭和初期まで、市電の黄金時代
 が続いた。
  そして、また、1959年~1964年から、市電と競合する
 市バスや会社バスが増加した。
  更に、自動車も多くなりはじめ、路線の自由がきかな
 い市電の経営は行き詰まりを見せた。
  1970年3月31日、日本最古の路面電車路線だった伏見線
 (塩小路高倉・しおこうじたかくら)と中書島・ちゅうし
 ょじま)間と、稲荷線(勧進橋・かんじんばし)と稲荷間
 が廃止されたのを皮切りに・・路線が次々と廃止され・・
  1978)年9月30日、残る外郭線(北大路・西大路・九条・
 東山・七条・河原町の各線)すべてが廃止された。
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1895年1月、博文館が「太陽」「少年世界」「文芸倶楽部」
 を創刊。
  太陽は月刊の総合雑誌で、定価15銭だった。
  内容は、論説、史伝、地理、小説、雑録のほか、政治、
 法律、文学、科学、商業、農業、社会など・・
  執筆陣は各分野の知名人を網羅した。
  「日本は世界の大国になったのだから、欧米諸国に負
 けない総合雑誌を」という趣旨の「太陽発刊の主意」を
 発表し、その翌月「太陽」を創刊した。
  太陽の名が示す様に「国運隆昌(りゅうしょう)」を表
 わし、「公平不偏を以(もっ)て立つ」とした。
  しかし、大正デモクラシーの世相に乗り遅れ、対応し
 きれず、「中央公論」などにその地位を奪われて、廃刊
 に追い込まれた。
  文学作品は・・、
  斎藤緑雨:『雨蛙』(1895.5)樋口一葉:『ゆく雲』
 (1897.5)泉鏡花:『海城発電』(1896.1)斎藤緑雨:
 『おぼえ帳』(1897.4 - 12)二葉亭四迷訳:ツルゲネフ
 の『うき草』(1897.5)広津柳浪:『畜生腹』(1897.10)
 国木田独歩:『郊外』(1900.10)泉鏡花:『鷺の灯』
 (1903.9)正宗白鳥訳:チェーホフの『不運くらべ』
 (1904.6)永井荷風:『酔美人』(1905.6)、『夜半の
 酒場』(1906.12)、『旧恨』(1907.1)、『春と秋』
 (1907.10)、田山花袋:『少女病』(1907.5)永井荷風:
 『カルチェー、ラタンの一夜』(1909.1)(『おもかげ』
 と改題し『ふらんす物語』に収録)正宗白鳥:玉突屋
 (1908.4)森鴎外訳:リルケの『家常茶飯』(1909.10)
 久保田万太郎:『雪』(1912.5)・・など
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  (今日の言葉)
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  題:北海道には大変多くの縄文遺跡がある(紀元前3200年)
    それから4400年の後に、アイヌ文化は作られた(1200年頃)
    当然、アイヌは先住民族ではない。
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紀元前3200年、北海道には大変多くの縄文遺跡がある。
  その一つ・・大船遺跡(函館市)
  太平洋に面した海岸段丘上に立地し、縄文時代前期後
 半から中期後半(紀元前3,200年~紀元前2,000年頃)の大
 規模な集落遺跡で・・、
  100棟を超える竪穴建物跡からなる住居域と大規模な盛
 土遺構があり・・、
  その南西には、墓や貯蔵穴を含む100基以上の土坑墓群
 が確認されている。
  北海道や北東北の縄文遺跡群は、津軽海峡を挟んだ日
 本列島の北海道および北東北に位置し、縄文時代の各時
 期(草創期、早期、前期、中期、後期、晩期)における、
 人々の生活跡の実態を示す遺跡(集落跡、貝塚、低湿地遺
 跡)や、祭祀や精神的活動の実態を示す記念物(環状列石、
 周堤墓)で構成された17遺跡からなる考古学的遺跡群であ
 る。
  縄文時代を彷彿とさせる植生や地形など、豊かな自然
 環境が保全されている遺跡が数多くあり・・、
  縄文人の傑作とも言える土器や土偶などの遺物が数多
 く発掘されている。
  それらは、長く北海道で生きて来た縄文人の生活を彷
 彿(ほうふつ)とさせる。
  1、大船遺跡(函館市):大型の竪穴住居が特徴的な
    大規模集落遺跡
  2、垣ノ島遺跡(函館市):国内最大級の盛土遺構を
    持ち、異形土器などが出土した集落遺跡
  3、キウス周堤墓群(千歳市):掘り下げた土を周囲
    に環状に盛った大規模な周堤墓
  4、北黄金貝塚(伊達市):保存状態の良好な埋葬人
    骨や動物遺体が各種出土している貝塚
  5、入江・高砂貝塚(洞爺湖町):周辺の自然環境、
    生活や生業(なりわい)、人類学的形質や葬法を
    あらわす貝塚
  6、鷲ノ木遺跡(北海道森町):北海道内最大規模の
    環状列石
  7、三内丸山遺跡(青森市):人々の縄文時代観にも
    大きな影響を与えた我が国を代表する集落遺跡
  8、小牧野遺跡(青森市):大規模な土地造成と特異
    な配石によって構築された環状列石
   9、大森勝山遺跡(弘前市):全国でも数少ない縄文
    時代晩期の環状列石
  10、是川石器時代遺跡(八戸市):漆・木製品の優品
    が数多く出土した集落遺跡
  11、田小屋野貝塚(つるが市):日本海側における数
    少ない貝塚
  12、亀ヶ岡石器時代遺跡(つるが市):亀ヶ岡文化の
    名称の由来となった代表的な集落遺跡
  13、太平山元遺跡(外ヶ浜町):日本最古とされる約
    16500年前の土器が出土した集落遺跡
  14、二ツ森貝塚(七戸町):東北地方有数の大規模な
    貝塚
  15、御所野遺跡(一戸町):焼失した土屋根住居が確
    認されている大規模集落遺跡
  16、大湯環状列石(鹿角市):万座・野中堂の2つの
    大規模環状列石を主体とする我が国を代表する遺
    跡。特別史跡になっている。
  17、伊勢堂岱遺跡(北秋田市):4つの環状列石を主
    体とする大規模な祭祀遺跡
  18、長七谷地貝塚(青森県八戸市):東北地方に数少
    ない縄文時代早期の貝塚
      ・
      ・
      ・
      ・
1200年頃、アイヌ文化が作られた。
  アイヌ文化が、今から800年ほど前(1200年頃、本州は
 鎌倉時代)に成立した。
  この文化は、擦文文化の伝統的な暮らしを受け継ぎ、
 さらに、本州やサハリン以北の地域の人々との交流で形
 作られた。
  (参考)擦文文化:北海道、東北地方北部に分布し、
     北海道の続縄文文化に本州から北上した土師器
     (はじき)を伴う文化が接触してできた。
      アイヌ文化に先行する文化。
      おもな生業(なりわい)は漁労で、方形の竪
     穴住居にはかまどがあり、粟、ひえ、そばなど
     が出土する。
  (参考)続縄文文化:北海道、東北地方北部の弥生・
     古墳文化に並行する時代の文化。  
      寒冷の為、稲作は行わなかった。
      石器、骨角器を利用する縄文土器の影響を強
     く残す狩猟、漁労の文化。
  中世(本州の鎌倉時代から安土桃山時代:約800年から
 450年前)のアイヌ文化の遺跡は、上ノ国町や松前町など
 の道南地域や、平取町などの日高地方で多く発見されて
 いる。
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1599年、北海道の松前藩は、豊臣秀吉に直接臣従していた。
  しかし、1599年のこの年、徳川家康に服して蝦夷地の
 支配権を認められた。
  始祖は室町時代の武田信広(甲斐源氏、若狭武田氏の
 子孫)で、上国守護に任ぜられ、北海道の渡島半島に地
 位を築く。
  (参考)渡島半島:おしまはんとう、北海道南西部に
     ある半島。
  アイヌの首長のチコモタインやハシタインとも和睦し、
 豊臣秀吉に直接臣従した。
  1599年には、徳川家康に服して蝦夷地の支配権を認め
 られ・・、
  また、徳川家康は、蝦夷地の交易独占権を認めた。
  アイヌの人々も、この松前藩だけとの交易だけではな
 く、本州に出かけて交易を普通に行っていた。
  5代将軍・徳川綱吉(在任、1860年~1709年)の時、旗
 本待遇となる。
  1719年、1万石格の大名に列席する。
  江戸時代の1833年までには、松前は、人口が1万人を超
 える都市となっていて、繁栄した。
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1673年、北海道の江差に檜山奉行を置いた。
  檜山は、厚澤部川流域から上國天の川流域の森林地帯
 であり、ヒバをヒノキと称した地域の俗称そのままに檜
 山とされた。
  檜山奉行所は、この森林地帯を7箇所に区分し・・、
  1673年2月に、樹皮剥ぎや稚木伐採を禁止し、また、野
 火を放つことを禁じる等の天然林の保護策を定めた。
  また、アスナロ等の材木を造船や他藩との交易物とし
 て活用する一方で、伐採を出願制としたことから他藩か
 らも山師が訪れるようになった。
  こうした山師による伐採の運上金は、松前藩の財政の
 一端を担った。
  しかし、1695年4月、檜山で山火事が発生し、過半数の
 樹木が消失したことから、かねてから他の地域で伐採を
 請願していた山師の飛騨屋久兵衛からの訴えが認められ、
 池尻別・沙流久寿里(釧路)厚岸・夕張・石狩等におけ
 るエゾマツの伐採が許可された。
  山師により伐採されたエゾマツは、石狩川等の川を下
 って石狩川口から本島へ船で運ばれ、江戸や大阪でその
 材質の高さから障子や曲物へと加工され流通した。
.
1756年、弘前藩勘定奉行であった乳井貢が、津軽半島で漁
 業に従事していたアイヌに対し、同化政策を実施した。
  以後、本州からアイヌ文化が急速に失われた。
  (参考)乳井貢:にゅういみつぎ、1712年~1792年。
      陸奥(むつ)弘前(ひろさき)藩(青森県)藩士。
      1753年、勘定奉行となり、貸借証文の破棄、
     貯米の実行など藩の財政再建につとめる。
      宝暦5年の大飢饉の際は、果敢に対応して領内
     から餓死者を出さなかった。
      和算、儒学、農学など諸学に通じた。
      著作に「志学幼弁」「初学算法」など。
.
18世紀後半、マレーシアが、イギリスの侵略に屈服し、直
 接統治される。
  さかのぼること15世紀、マレーシアのマラッカ王国が、
 ポルトガルに屈服して支配されていた。
  17世紀には、今度は、オランダの支配を受けた。
  18世紀後半に入るとイギリスが侵略し・・、
  イギリスは、ペナン・シンガポール・マラッカを海峡
 植民地として一帯を直接統治した・・、
  さらに、北ボルネオ・マライ半島へも侵略して支配し、
 イギリス植民地は強化された・・
  1895年、マライ連邦となる。
.
19世紀、タイが、イギリスに侵略され、また、フランスに
 も侵略される。
  13世紀のタイは、最初、スコータイ王朝が、民族統一
 国家をつくった。
  14世紀からは、アユタヤ王朝となり400年間続いた。
  1782年、今日のバンコク王朝が創設された。
  19世紀~20世紀、イギリスとフランスからの侵略を受
 けた。
  そして、ラオス・カンボジア・マレーにある領土を取
 られた。
  しかし、インドシナ半島のイギリス・フランス両国の
 緩衝国家として独立は保った。
.
1868年~1869年、亘理伊達氏(わたりだてし)が北海道へ
 移住した。
  陸奥国伊達郡(宮城県亘理郡亘理町)が出身地・・、
  1603年2月、亘理郡亘理城主になったのが始まり・・、  
  江戸時代には、2万4000石以上を領した。
  しかし、第14代当主の時、戊辰戦争に敗れ(1868年~
 1869年)所領を100分の1に減封された。
  数百名の家臣と共に北海道伊達市に移住し・・、
  家臣と共に伊達市を開拓した。
  1892年、その功が認められ、男爵位を授けられた。
  亘理伊達家の北海道への開拓移住に際して、アイヌの
 人々の手助けがあった・・あい和した開拓だった。
  当主であった伊達邦成は、家臣たちに対して、「アイ
 ヌの人々を尊重すべき」の内容の規則を作ったりて、尊
 重し、良好な関係を築いていた。
.
1875年5月7日、樺太・千島交換条約の後、物資の補給と防
 衛上の理由から、千島のアイヌの方々は、そのほとんど
 が当地を領有して領土だった日本政府によって、日本領・
 色丹島(しゃこたんとう、今・現在、ロシアが不法占拠
 している、また、日本領・千島も不法占拠している)へ
 移住して、安全に守られた。
.
1899年、清水港が開港した。
  「お茶場唄」あるいは「お茶場節」と呼ばれる古謡が
 ある。
  これは、横浜から盛んに日本茶が輸出されていた19世
 紀後半に誕生した。
  しかし、1899年に、全国最大の茶の産地の静岡県の清
 水港が開港して、横浜の製茶貿易が衰微した。
  しかし、歌は、その後も、長く歌い継がれた。
.
1937年12月、この時、南京事件が起きたとされている。
  中国は、南京事件の主張において殺された人数をだん
 だん増やしてきた。
  世界へ、日本を貶(おとし)めるために言う人数は、
 より多い方が都合が良いとして増やし、とうとう30万人
 だと言い出した。
  南京に居る人数より多い人数を言い出したので、中国
 は、「当時、南京には50万人が居た」と言い出した。
  そして、「30万人が殺されたので20万人になってしま
 った」と言った。
  まったく馬鹿々々しい言い方をする中国で、この様な
 言い方で思い出すのが「小学校の算数の問題」。
  これは、半分、笑い話なのだが・・、
  「木に鳥が10匹、とまっていました。狩人が1匹、撃ち
 落としました。残りは何匹ですか?」という問題で・・、
  算数の問題として答えるならば、10-1=9で9匹と答え
 るところを、ある子供が0と答えた。
  残りの鳥は、銃声で「すべて逃げた」と答えた・・と
 いう話である。
  つまり、中国の作り話も、これで・・、
  南京に50万人の人が居ました・・この人たちよりはる
 かに少人数の日本兵に・・木の鳥のように逃げもしない
 で、30万人が殺された・・だから、南京の人たちが20万
 人になってしまいました・・と、中国は馬鹿々々しいプ
 ロパガンダ(嘘宣伝)をした。
  まったく馬鹿々々しい中国のプロパガンダ(嘘宣伝)
 である。
  そして、中国のおかしな所は、当時の南京の自治委員
 会の記録を秘密にしている。
  この資料や記録を見れば、当時の南京に居た人数が分
 かるが、中国は公開しない。
  中国という国は、今まで公開していた資料でも、都合
 の悪い所が出て来ると非公開にしてしまう。
  そのような卑怯な卑劣な国である。
  まったく信用の出来ないアン・フェア(不公正)な国
 である。
  そして、最近は、私的な会話や、インターネット上で、
 中国の研究者の中に「南京の大虐殺は事実でない」とい
 う人が出て来ている。
  「南京事件は事実ではないので、その様なことを言い
 つのるのは日中友好にマイナスになる」と言う人が出て
 来ている。
  しかし、世界は、中国が必死にプロパガンダすること
 が事実だと思っている。
  英語版で出版された「ザ・レイプ・オブ・ナンキン(
 アイリス・チャン著)」などを事実と思われされている。
  特に、アメリカでは、このプロパガンダ本が真実と思
 い込まされている。
  この本の嘘が日本の研究者によって「嘘であると立証
 されている」。
  日本の研究者によって真実が示されている。
  日本の研究者は、一つ一つその真実を発掘して行った。
  今、世界は、中国が、この様な嘘行為をする、「嘘の
 プロパガンダばかりする国だ」と知り始めている。
.
1941年12月8日、大東亜戦争(第二次世界大戦)が始まり、
 東亜(とうあ)永遠の平和を確立を期す(きす、心に誓
 う)
  太平洋戦争開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)
.
  天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇
 ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
  朕茲ニ米國及英國ニ対シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全
 力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ
  勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆
 一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ
  達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ抑々東亞ノ安定
 ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顕ナル
  皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措
 カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ
  樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナ
 リ今ヤ不幸ニシテ米英両國ト釁端ヲ開クニ至ル
  洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國
 政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ
  東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラ
 シメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ
  帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶
 ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ
  相鬩クヲ悛メス米英両國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ
 禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ
  逞ウセムトス剰ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ
 增強シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル
  妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナ
 ル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復
  セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ
 精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ
  益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ增大シ以テ我ヲ屈從セシメ
 ムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル
  帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝國ノ存立亦正ニ危
 殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲
  蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ皇祖皇
 宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ
  遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確
 立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
  御 名 御 璽
   平成十六年十二月八日
 ・・現代語、読み下し文・・
  天佑(てんゆう)を保有(ほゆう)し、万世一系(ば
 んせいいっけい)の皇祚(こうそ)を践(ふ)める大日
 本帝国天皇は、昭(あきらか)に 忠誠(ちゅうせい)勇
 武(ぶゆう)なる汝(なんじ)、有衆(ゆうしゅう)に
 示(しめ)す。
  朕(ちん)、茲(ここ)に米国及(およ)び英国に対
 して戦(たたかい)を宣(せん)す。朕(ちん)が陸海
 将兵(りくかいしょうへい)は、全力を奮(ふる)って
 交戦に従事し、朕(ちん)が百僚有司(ひゃくりょうゆ
 うし)は、励精(れいせい)職務を奉行(ほうこう)し、
 朕(ちん)が衆庶(しゅうしょ)は、各々(おのおの)
 其(そ)の本分を尽(つく)し、億兆(おくちょう)一
 心(いっしん)にして国家の総力を挙げて、征戦(せい
 せん)の目的を達成するに遺算(いさん)なからんこと
 を期(き)せよ。
  抑々(そもそも)、東亜(とうあ)の安定を確保(か
 くほ)し、以って世界の平和に寄与(きよ)するは、丕
 顕(ひけん、大いに明らかなこと)なる皇祖考(こうそ
 こう)、丕承(ひしょう)なる皇考(こうこう)の作述
 (さくじゅつ)せる遠猷(えんゆう、遠い将来まで考え
 たこと)にして、朕(ちん)が拳々(きょきょ)措(お)
 かざる所(ところ)。
  而(しか)して列国との交誼(こうぎ、心が通い合っ
 た交際)を篤(あつ)くし、万邦共栄(ばんぽうきょう
 えい)の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは、之亦(
 これまた)、帝国が、常に国交の要義(ようぎ、重要な
 意義)と為(な)す所(ところ)なり。
  今や、不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開く
 に至(いた)る。洵(まこと)に已(や)むを得(え)
 ざるものあり。豈(あに)、朕(ちん)が志(こころざ
 し)ならんや。
  中華民国政府、曩(さき)に帝国の真意を解(かい)
 せず、濫(みだり)に事を構えて東亜(とうあ)の平和
 を攪乱(こうらん)し、遂(つい)に帝国をして干戈(
 かんか、武器一般)を執(と)るに至(いた)らしめ、
 茲(ここ)に四年有余を経たり。幸(さいわい)に、国
 民政府、更新するあり。帝国は之(これ)と善隣(ぜん
 りん)の誼(よしみ)を結び、相(あい)提携(ていけ
 い)するに至(いた)れるも、重慶(じゅうけい)に残
 存(ざんぞん)する政権は、米英の庇蔭(ひいん、援助)
 を恃(たの)みて、兄弟(けいてい)尚(なお)未(い
 ま)だ牆(かき)に相鬩(あいせめ)ぐを悛(あらた)
 めず。
  米英両国は、残存政権を支援して、東亜(とうあ)の
 禍乱(からん)を助長(じょちょう)し、平和の美名(
 びめい)に匿(かく)れて、東洋制覇(とうようせいは)
 の非望(ひぼう)を逞(たくまし)うせんとす。剰(あ
 まつさ)え与国(よこく)を誘(さそ)い、帝国の周辺
 に於(おい)て、武備(ぶび)を増強して我に挑戦し、
 更に帝国の平和的通商に有(あ)らゆる妨害(ぼうがい)
 を与へ、遂に経済断交を敢(あえ)てし、帝国の生存(
 せいぞん)に重大なる脅威(きょうい)を加う。
  朕(ちん)は、政府をして事態(じたい)を平和の裡
 (うち)に回復せしめんとし、隠忍(いんにん)久しき
 に弥(わた)りたるも、彼は毫(ごう、きわめてわずか)
 も交譲(こうじょう、譲り合う)の精神なく、徒(いた
 づら)に時局の解決を遷延(せんえん、はかどらぜず伸
 ばす)せしめて、此(こ)の間、却(かえ)って益々(
 ますます)経済上、軍事上の脅威(きょうい)を増大し、
 以って我を屈従(くつじゅう)せしめんとす。
  斯(かく)の如くにして、推移(すいい)せんか。東
 亜安定(とうああんてい)に関する帝国積年(せきねん)
 の努力は、悉(ことごと)く水泡(すいほう)に帰し、
 帝国の存立(そんりつ)、亦(またこ)正に危殆(きた
 い)に瀕(ひん)せり。事既(ことすで)に此(ここ)
 に至る帝国は、今や自存自衛(じそんぼうえい)の為、
 蹶然(けつぜん)起(た)って、一切の障礙(しょうが
 い)を破砕(はさい)するの外(ほか)なきなり。
  皇祖皇宗(こうそそうそう)の神霊(しんれい)、上
 (かみ)に在(あ)り、朕(ちん)は、汝(なんじ)、
 有衆(ゆうしゅう)の忠誠勇武(ちゅうせいぶゆう)に
 信倚(しんい)し、祖宗(そそう)の遺業を恢弘(かい
 こう)し、速(すみやか)に禍根(かこん)を芟除(せ
 んじょ)して、東亜(とうあ)永遠の平和を確立し、以
 って帝国の光栄を保全(ほぜん)せんことを期(き)す。
  天皇の署名と印
   昭和十六年十二月八日
.
1945年7月12日、日本の交信を完全に傍受していたアメリカ、
 また、暗号を完全に解読していたアメリカ。
  その様な中で、1945年7月12日午後8時50分、日本の外
 相は、モスクワの駐ソ大使あてへ至急電報を打った。
  「ソ連へ依頼している『停戦への仲介』に対して何の
 反応も無いこと、天皇陛下が犠牲者の増加について御心
 配をなされ、早急な停戦を望まれて居られること」、
  そして・・、
 「大東亜戦争(第二次世界大戦)で、米英があくまで無
 条件降伏を主張する限り、我が国の名誉と生残(せいざ
 ん、生き残り)をかけて最後まで戦うしかない。
  だが、天皇陛下は、人類の幸福を思う気持ちを伝える
 ために近衛文麿公を特使としてソ連に派遣する事をお決
 めになった」。
  この時、アメリカのルーズベルト大統領が行なったソ
 連への対日本参戦をそそのかす行動、また、煽る行動・・
  『日本の領土(南樺太、千島列島、満州、北方4島)を
 盗ってしまえば・・」と、
  そして、「旅順や大連をソ連の不凍港にしたら・・」
 という誘い・・アメリカのルーズベルトのそそのかしに
 完全に乗っかっているソ連だった。
  その様なソ連には・・、「日本とアメリカの間で仲介
 をしようという気持ちは、まったく無かった」。
  日本の領土を手に入れたいというソ連が、そこに居た。
  「私は、戦争を作った」と言ったアメリカのルーズベ
 ルト大統領の、更なる罪だった。
  この後の日本の外相と、ソ連大使(佐藤大使〉との交
 信は、さすがに佐藤大使の「ソ連の見方は、正しく」て、
 その後の長い交信(2時間30分におよぶ駐モスクワ日本大
 使館と日本本国との交信)において、ソ連の対日本への
 参戦の可能性が高いことを指摘していた。
  ソ連の仲介は不可解とまで言っていた。
  ルーズベルトの不埒な言葉が完全に効(き)いていた。
  今だに、戦後70年以上経過した2018年でも、この問題
 が解決できなくて、もめている。
  卑劣な米ソだった。
  日本の「なりふり構わない仲介の要請」を体よくあし
 らい、また、無視し続けたソ連と、頭を地に付けんばか
 りの日本の仲介要請が良い展開へ動かず、膠着状況にあ
 った・・それが作戦で、引っ掛けであった。
  戦場は、戦争の終末期であり、毎日、多くの人々が亡
 くなる状況であった
  そして、日本の必死の米英との和平停戦仲介の外交努
 力・・そして、その結果において、最後に、ソ連から言
 われた事は・・、
  「ソ連政府は、明日、8月9日、日本に対し戦争状態に
 入る」。
  「ご了承ください」・・だった。
  日本の佐藤大使は、ソ連外相のモロトフから、無表情
 に・・そのことを言われた。
.
2009年12月、「アイヌの方々は先住民族ではない」が、キ
 リスト教の支援を受けて、アイヌ民族を先住民とする運
 動が行われている。
  2009年12月、「先住民族アイヌの権利回復を求める団
 体・個人署名の要請」が行われた。
  また、中国は、自国の民族弾圧問題(チベット民族問
 題、ウイグル民族問題、内モンゴル民族問題など)もあ
 って、「日本にも民族問題があるとしたい」として、こ
 のアイヌの方々の先住民とする運動の陰で暗躍している。
  日本には、4万年以上の5万年前から、アフリカの地を
 発したホモ・サピエンスの先住民が、日本の地へ、あち
 こちから移住して来ていた。
  北方から・・南方から・・海からと、あらゆる方向か
 ら移住して来ていた。
  今、紀元2018年であるが、その20倍から25倍の長い長
 い遠い昔からの期間、アフリカの地から日本へ来たホモ・
 サピエンスが移動して来たが・・その様に、日本に来た
 先住民たちは、日本中を歩き回っていた・・そして、通
 婚し、交雑し、その長い長い期間の間、日本人が形成さ
 れて来た・・それは、アイヌではないのは明白・・アフ
 リカからのその到達した人種がアイヌであるはずがない。
  今まで・・、
  2007年9月13日に国連総会で採択された先住民族の権利
 に関する国際連合宣言を踏まえて・・、
  2008年6月6日、アイヌを先住民族として認めることを
 政府に求める国会決議が衆参両院とも全会一致で可決さ
 れたが・・
  (あくまで「求める決議」で、「認めた」ということ
 ではない・・当然)
  しかし、北海道アイヌ協会が、北海道の区域外に居住
 するアイヌ認定事業をアイヌ政策関係省庁連絡会議申合
 せに基づき活動している。
  その際、家系図や戸籍謄本、除籍謄本等を判断資料と
 している・・また・・
  2008年5月12日に、鈴木宗男が国会に提出した「先住民
 族の定義、及び、アイヌ民族の先住民族としての権利確
 立に向けた政府の取り組みに関する第3回質問主意書」に
 対し、
  2008年5月20日の政府答弁書で「アイヌの人々は、いわ
 ゆる和人との関係において、日本列島北部周辺、取り分
 け北海道に先住していたことは歴史的事実であり、また、
 独自の言語及び宗教を有し、文化の独自性を保持してい
 ること等から、少数民族であると認識している」と答弁
 している。
  (ただし「先住民族」との認識ではない)
  2008年6月6日には、衆参両院の全会一致で「アイヌ民
 族を先住民族とすることを求める決議」がなされた。
  (ただし、「求める決議」で「認める決議」ではない)
  また、法的にも・・
  1997年、アイヌ文化振興法施行によって、北海道旧土
 人保護法は廃止された。
  しかし、このアイヌ文化振興法では、アイヌを先住民
 族と認定されなかった。
  また、アイヌ文化振興法によるアイヌ民族共有財産の
 返還手続きに対してアイヌ民族共有財産裁判が行われた
 が、2006年に最高裁で原告敗訴が確定した。
.
2018年10月28日、世界は、だんだん中国化するのか?
  この日の日付けの読売新聞に・・表題:「終わり見え
 ぬ『忍耐宣言』」として・・現在の台湾の苦悩がしめさ
 れていた・・以下、抜書き・・
  台湾の蔡英文総統が、10日の「双十節」(建国記念日
 に相当)に行った演説は、過去2回とはやや趣が違ってい
 た。
  中国の圧力による危機感をあらわにしていた。
  台湾は、今後も対立をエスカレートさせないし、圧力
 にも屈しないという決意だった。
  蔡英文総統は、2016年の総統選で「現状維持」を掲げ
 て、中国に急接近した国民党に圧勝した。
  この2年余り、中国は対話に応じず、統一への動きを強
 めた。
  台湾を5か国との断交に追い込んだ・・そして、台湾周
 辺で軍事訓練を繰り返し、中国に住む台湾人を社会保障
 などで中国人と同等に扱う政策も発表した。
  台湾では、「現状」が次々崩されても有効な手だてが
 打てない蔡政権への不満が広がっている。
  特に、民進党の支持基盤である独立派の失望は深く、
 抗議集会が開かれた。
  トランプ米政権は、台湾との関係強化に積極的だが、
 米国の基本政策は変わっていない。
  台湾が独立に向かい、中国との間で緊張が高まること
 は望んでいない。
  過去、2000年の台湾政権は独立に傾斜し、米国に失望
 され、国際的な孤立に陥った。
  問題は、台湾がいつまで耐えられるか、ということ。
  蔡政権の求心力が回復する兆しは見えない。
  2020年の総統選では、中台関係が最大の争点になる。
  中国は、今後も圧力をかけ、揺さぶり続けるだろう。
  残された時間は、決して長くはない。
.
2018年、ドイツは、第二次大戦の時、国民の半分がナチス
 党員だった。
  このナチス党員たちが、組織的にユダヤ人の方々を強
 制収容叙へ送った。
  ユダヤ人の方々のホロコースト(大虐殺)は、この様
 にして行われた。
  しかし、戦争が集結し、戦争の幕が下ろされても、こ
 のナチス党員たちの犯罪は問われることが無く、目がつ
 むられた。
  巨大な犯罪行為が厳然と存在しているが、罪を問う行
 為は行なわれること無く今日まで来ている。
  そして、ドイツでは、「ナチスが悪かったからだ」の
 大合唱をしている。
  「あなたたちが、ナチス党員だったのですよ」と、世
 界は言うだろう。
  本当に、この罪を逃れたナチス党員たちは、反省をし
 ているのだろうか?
  「あくまでもナチスの罪を問う」としたドイツは、都
 合のよいナチス党員たちだけの罪を追求する行為だけで
 済ませて来ている。
.
2018年、世界の脅威となっている中国
  戦後、中国で偶像的に崇拝され、今は廃(すた)れて
 いる毛沢東・・
  その毛沢東が、「日本資本の中国進出」に感謝した。
  その様な言葉を、訪中した日本の議員団に言った。
  また、毛沢東は、「日本の軍が中国へ行ったことさえ
 感謝した」。
  その様な日本の行動の結果で、今の中国があり、毛沢
 東の地位があるということを感じ、感謝した意思表示だ
 った。
  しかし、ソビエトのコミンテルンが、アメリカなどで
 暗躍し、様々なスパイ活動や謀略工作が功を奏し、美し
 く手を握った米ソの「ヤルタ・ポツダム体制」。
  (参考)ヤルタ・ポツダム体制:戦後(第二次世界大
     戦後)の世界秩序(戦後レジーム)を言い、Y
     P体制とも言う。
      戦後の世界秩序は、いわゆる「ヤルタ会談」
     によって決定づけられ、東西冷戦の対立構造で、
     米ソ二大国による覇権体制ができた。
      これによって、各民族が当然に持つべき権利
     である民族自決の権利が侵害される。
  しかし、その「米ソ同盟」が形成されるかに見えたの
 も『一瞬のあだ花だった』。
  戦争も終わらないうちに、アメリカの次なる敵として
 のソビエト連邦が見えて来た。
  そのソ連を威嚇するために、日本は、アメリカによっ
 て、二発の原爆を投下された。
  また、標記の毛沢東の日本への感謝の言葉の如く、中
 国共産党の対日工作も、功を奏し、毛沢東の感謝の言葉
 となった。
  そして、ソ連は、1970年代には「軍拡に邁進した」。
  そして、近年、そのソ連の軍拡と同じ行動をする中国
 の姿となった。
  中国の膨大な軍事費は、年々増加し、台湾や東シナ海
 への領土拡大に邁進している。
  新たな脅威が形成されている・・「アメリカ、日本、
 オーストラリア、アジア各国などを含めた世界の脅威」
 となっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2018-11-15 04:13 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)617E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月)

題:(増補版)617E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年、出来事:
・第2次伊藤内閣(1892年8月8日~1896年9月18日)
・第9議会召集(1895年12月25日)
・日清休戦条約が調印された(1895年3月30日)
・第4回内国勧業博覧会が開催された(1895年4月1日)
・尖閣諸島を日本領土に編入した(1895年1月14日)
・アメリカの工作によって危うくなったハワイ・・先住し、
 ハワイの領有権のあるハワイ人の王政派が武装蜂起した。
  しかし、アメリカ軍によって短期間で鎮圧され、虐殺
 行為が行われた(1895年1月16日)
  そして、ハワイ王国は滅亡した(1895年1月22日)、
 リリウオカラニ女王は廃位させられた。
.
1895年、世界情勢
  1895年のこの頃、日本が、清国と戦争をする頃、ドイ
 ツやロシアも、中国の利権あさりを必死に行っていた。
  すでに、美味しい汁を吸っているイギリスをはじめヨ
 ーロッパ列強諸国・・、
  そして、アジア各地で利権を得ている列強の版図は、
 塗り替えられる可能性が出てきた。
  その一つが、フィリピンを得ようとしているアメリカ
 だった・・アメリカには、アジアの利権も美味しく見え
 て来ていた。
.
1895年、世界情勢
  この1895年から約20年前の1875年頃、ヨーロッパのキ
 リスト教諸国が収奪し、所有したアフリカの土地は、ア
 フリカ全土の十分の一(10%)に過ぎなかった。
  (10%でも酷い行為だが・・)
  しかし、それが、20年経た「この1895年頃」になると、
 実に、アフリカ全土の十分の九(90%)にまで、ヨーロ
 ッパのキリスト教諸国は、我が物顔にアフリカを自分の
 ものとしていた。
  この時期に、独立を認められていた国は、わずかに「
 エチオピア」と「リベリア」の少数の国だった。
  このリベリアにしても、アメリカの黒人の方々を、体
 よく放逐した形の棄民政策を、アメリカのリンカーン大
 統領が推し進め、リベリアを建国するという経緯(いき
 さつ)があって独立した国だった。
  力による争奪戦が、ヨーロッパのキリスト教諸国によ
 って非人道的に繰り広げられていた。
  「槍(やり)」でしか戦うすべを知らないアフリカの
 方々を、卑劣にも殺戮し、そのすべてを手に入れて行っ
 た。
  まったく赤子の手をひねるがごとき非人道的やり方を、
 好き勝手にしていた。
  この戦争を、『スポーツのような戦争だ』と言ったヨ
 ーロッパの指導者が居た。
  対等な国同士の間のヨーロッパの地の戦争とは「ほど
 遠い」、あたかも盗むがごとき卑劣な略奪と殺戮だった。
  そして、それから、そこに住むアフリカの方々を家畜
 同然に使って、アフリカの方々の生活のための作物栽培
 を止めさせ、自分たちに利を生む作物だけを作らせる行
 為などの蹂躙を行なった。
  自分たちだけに利があればよいのだというキリスト教
 の教義そのもの・・キリスト教が教えるやり方で、利益
 の収奪が行われた。
.
1895年、世界情勢
  アメリカの軍隊(海軍・海兵隊)がパナマ(コロンビ
 ア州)に上陸した。
  そして、サンティアゴ陥落の知らせに、アメリカのボ
 ストンからサンフランシスコまで、アメリカ内各地で、
 人々は警笛を鳴らし、旗を振って祝うというアメリカだ
 ったが・・、
  そして、ハワイは、宣教という名目で宣教師を派遣し、
 また、貿易商を派遣し、これを手始めに、結局は、この
 様な移民が続々とハワイ王国へ入国し、最終的にハワイ
 を乗っ取って行き、アメリカ領土としてしまった。
  そして、パナマ・・運河の構想がこの地を得たいとい
 う切っ掛けとなった。
  運河は、海洋貿易面で大きな利益をもたらす・・また、
 軍事的にも大きな戦略性を与えるということが明らかだ
 った。
  そして、この地域に勢力圏を得て行ったアメリカは、
 この運河に好適なコロンビア国の北部のこの地が、国家
 に反抗していることを利用した。
  1880年、この地のラファエル・ヌニェスが大統領に就
   任した。
  1890年、アメリカの海軍大学教官マハンが、「海上覇
   権論」でカリブ海の運河を着目させた。
  1894年、ラファエル・ヌニェスが死去する。
  1895年、アメリカ軍のコロンビア州への上陸・・
  1903年、コロンビア議会は、屈辱的なアメリカの高圧
   的態度に、アメリカの運河へ携わることを拒否する。
   これに怒ったアメリカは、パナマ地方の住民を扇動
   して、この地方を独立させようとする。
  アメリカは、軍艦を出動させ、コロンビア西部に圧力
 を掛け、この独立運動が成功する様に支援した。
  そして、パナマの独立を認めさせた。
  アメリカは、独立したパナマ政府から、運河建設のた
 めの租借権・工業権を得て・・、
  1904年に着工し、  
  1914年に開通させた。
  アメリカは、運河の完成後もパナマ内政へ介入した。
  海兵隊の上陸などの軍事介入も度々行った。
.
1895年、世界情勢
  1895年4月17日、日清戦争での日本勝利を受け、下関条
 約が締結された。
  しかし、この下関条約が結ばれて後、日本は、アジア
 に出てきた黄色人種として「出る杭は打たれる」となっ
 て行く・・
  日本は、日清戦争に勝ったからと言って、アメリカや
 ヨーロッパの様な「自分の国が利益が得られれば良い」
 という利己的な条約を結んだのではなかった。
  日本は、朝鮮の事を思い、「中国・清は、朝鮮の独立
 を認める」という条項を約束させた。
  中国・清の「冊封体制を止めさせる」という事を約束
 させた。
  また、これまで・・問題となっていた台湾や、遼東半
 島を、日本が金を出して譲られるという決着をした。
  アメリカが『アラスカを、金出して領有した」様に・・、
  奪ったのではない・・
  日本は、当時の3年間分の財政収入に相当するという
 『大金を、中国・清へ支払った』・・
  これまでのアメリカやヨーロッパ諸国は、敗戦国から
 奪い取ったが、日本は、3億円(2億両)を支払った。
  当時、清は、「眠れる獅子」と言われ、その底力は恐
 れられていた。
  海軍力においても、清国の方が大きな軍艦を持ち、ま
 た、隻数も、日本を上回る艦数を持っていた。
  世界の予想は、完全に「日本が敗けるだろう」だった。
  しかし、新興の日本は、清に勝利した・・
  清が日本に敗けると、列強諸国のアメリカやヨーロッ
 パ諸国は、さらに清を侵食し始めた・・清を餌食とした。
  清は、分割の対象となった。
  日清戦争の後でも・・日本の立場は・・まだ、アメリ
 カやヨーロッパ列強の諸国から軽んじられていた。
  幕末以降から続く「弱小国・日本の状態だった」
  そして、戦勝国・日本に、遼東半島返還の圧力がかか
 って来る・・三国干渉が起きた。
  ロシアが、ドイツとフランスを誘って、日本へ圧力を
 かけて来た・・三国の強烈な軍事力をちらつかせた。
  『町のあんちゃん』の様なやり方だった。
  日本は、清と一対一で対決した「武士の世界」だった。
  いつもやる欧米列強の様な、卑怯なグル(悪事を企て
 る仲間)に「つるむ」ようなことは、「日本はしない」。
  しかし、東アジアの欲しいロシアは、ドイツ・フラン
 スとグルになって三国干渉の圧力を日本に加えた。
  日本は、遼東半島を清へ渡した・・清は、金を日本へ
 返還した(当然)。
  そして、列強諸国は、清を蝕(むしば)んで行く。
  ロシアの領土欲は強烈だった・・朝鮮へも手を伸ばし
 て行く・・
  ロシアは、強力な軍事力を、この地域に展開し、拡大
 して行く。
.
1895年、世界情勢
  1895年、日本は、下関条約で清国から台湾の領有権を
 得たが、その後、烏山頭ダムを建設し、水政策の展開を
 行ったり、各種の社会資本投資をした。
  その効もあり、数年で日本の投資分も回収する事が出
 き、台湾にも良いし、日本にも良いという結果となった。
  インフラを投資してその資金を回収し、なお親日国と
 なっている台湾、
  一方、同様に、資金を投下したものの、その回収は出
 来ず、むしろ反日国として日本を貶(おとし)めようと
 する韓国。
.
1895年、世界情勢
  1895年、日清戦争によって、日本が、中国・清に勝っ
 た・・という事は、朝鮮にとって天地がひっくり返るよ
 うな出来事だった。
  中華思想に「冊封体制」という思想があり、中華が周
 囲を冊封して行く、つまり、属領として支配して行くと
 いう思想で、「貢(みつぎ)を持って従属すれば良し」
 の思想で・・朝鮮はこの思想の体制に蹂躙されていた。
  中国は、その民族は色々と変わったが、この体制は、
 常に変わらず、同じ冊封体制がとり続けられて来た。
  朝鮮の歴史も、この中国の体制下に隷従させられ、従
 属させられて来ていた歴史だった・・朝鮮の2000年の歴
 史は、この思想の元での歴史とも言える。
  朝鮮は、古代から、中華の属領としての月日を過ごし、
 この属領である事をアイデンティティ(清への帰属意識)
 として来た。
  中華を主とする主従関係下に密接な関係を作り上げて
 来た。
  日本が、この朝鮮の主(あるじ)である中華・清を敗
 北させ、負かした事は、朝鮮にとって驚天動地のことだ
 った。
  そして、朝鮮は、中華・清から解放された。
  冊封体制のない状況の中に置かれた朝鮮は、その驚き
 の中で「独立した」。
  日本の中国へ出した書・・「日出ずる処の天子、書を
 日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)しや」の遠
 い昔からの「日本の毅然とした対等の独立した立場」を
 とった日本だった。
  この時、冊封体制下の体制に入ると思っていた中華の
 煬帝は、怒りに怒ったという。
  日本の態度は、朝鮮とは、まったく違っていた。
.
1895年、世界情勢
  1895年、孫文が日本へ亡命し、逃れて来た。
  清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き・・、
  1894年1月、孫文が、ハワイで興中会を組織した。
  1895年の翌年、日清戦争の終結後に、広州での武装蜂
   起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡
   命した。
  1897年、宮崎滔天の紹介によって政治団体・玄洋社の
   頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京
   での活動費と生活費の援助を受けた。
    また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートル
   の屋敷は犬養毅が斡旋した。
    長い間、清朝の満州民族の植民地にされていた漢
   民族。
    その漢民族の孫文は、「独立したい」「辮髪もや
   めたい(満州族の風習)」と言ってきた。
  1897年、宮崎滔天らの援助で東京府池袋にて興中会、
   光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成した。
    ここで、東京に留学中の蒋介石と出会った。
    清朝没落の前後、中国各地は、革命軍が蜂起して
   大動乱の兆しが満ちる中国だった。
  1911年10月10日、共進会と同学会の指導のもと、武昌
   蜂起(ぶしょうほうき)が中国で起きた・・各省が、
   これに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。
    当時、孫文はアメリカにいた。
    独立した各省は、武昌派と上海派に分かれ、革命
   政府をどこに置くか、また、革命政府のリーダーを
   誰にするかで争った・・、
  1911年12月25日、孫文が、上海に帰着すると、革命派
   はそろって孫文の到着に熱狂し・・、
  1912年1月1日、翌年になって・・孫文を臨時大総統と
   する中華民国が南京に成立した。
    孫文を大総統に推戴(すいたい、おしいただくこ
   と)する臨時政府が、南京に樹立されて、国号を中
   華民国と改め、黄竜旗を廃して五色旗を掲げた。
    しかし、間もなく、旧軍閥を背景とする袁世凱(
   えんせいがい)が、共和政体を宣言するに至ったの
   で、孫文は、事態を円滑に収拾するため、彼に地位
   を譲った。
    だが、政党の乱立と軍閥の割拠が前途多難を思わ
   せる時代だった。
  この様な中国に、各国が政治的介入をした。
  この様な中、袁世凱は、軍備と財政の強化を図りたい
 と、この各国から借款を仰いだ。
  これに、イギリスが大きくかかわった。
  中国には、大国の各国が、複雑に関わっていた。
  この様な形で強くなった袁世凱政権は、孫文の民主革
 命派に弾圧を加えた。
  敗れた孫文は日本に、再度、逃れ、中華革命党を組織
 した。
  1914年(大正3年)7月のことだった。
  この月に世界大戦が起こった、8月に、日本が参戦した。
  日本は、イギリス軍とともに協力して、青島(チンタ
 オ)のドイツ要塞を包囲し・・、海軍は、南下してドイ
 ツ領南洋諸島を攻撃し上陸した。
  1897年~1898年にかけて、列強各国は、中国に独占的
 な特殊権益を獲得して来ていた。
  例えば、
  イギリスは、長江流域に、
  ロシアは、東三省(とうさんしょう、中国東北部)、
  フランスは、広東、広西(こうせい、広西チワン族自
 治区)、雲南など・・
  日本は、この時、初めて、これ等の列強各国の様な山
 東省を得た。
  これまでのヨーロッパ諸国やアメリカによる中国大陸
 植民地化の歴史に、この時、日本も入った。
  また、満蒙に大きな脅威を築いてきたロシアに対して
 の、防衛地帯を築けた。
  日本産業の原料市場と消費市場が出来た。
.
1895年、世界情勢
・キューバの対スペイン反乱・・アメリカは、強力なアメ
 リカ軍を利用して、巨大な植民地帝国となって行く・・
 力による収奪。
.
1895年、産業:
・自動車の大量生産が始まった。
 ガソリンの需要が増加へ
・日本初の1千トン級貨客船「須磨丸」が竣工した(1895
 年4月5日)
・東京の大丸呉服店で、大売出しが行われた(1895年10月
 15日)
・東京電灯・浅草発電所の操業が開始された。
 このとき使用したドイツAEG製の発電機が50ヘルツで
 あったので、東日本が50ヘルツとなった。
・八王子電灯が設立された。
・ハーストが、各地の新聞を買収した。
・コダック社が、小型カメラを発売した。
・ケロッグが、コーンフレークを製造した。
・アメリカのニューヨークに、ピザの店が出現した。
・ジレットが、かみそりの薄刃を製造した。
.
1895年、交通:
・京都で、わが国最初の市電・路面電車(京都電気鉄道)
 が開業した(1895年1月31日)
・政府が、官設鉄道における輸送力増加に対処するため、
 新たに既成各線の改良と、車両の整備を骨子とする改良
 計画を立て・・、
  また、同時に、東京市区改正事業に伴う市街高架線(新
 銭座・永楽町間)、および、中央停車場の建設を改良計画
 の中に入れ政府の事業として行なうことに決定した。
・鉄道技師・古川晴一が、「輾圧工形桁」の設計を完了し
 た。
・北海道炭砿鉄道が、自社の手宮工場で1C形テンダ機関車
 (大勝号、のちの7150形)を製作した。
・富山商業会議所が、官設鉄道信越線の運賃引下げを要求
 した。
.
1895年、論・文学・本:
・樋口一葉の「たけくらべ」ができた。
・小栗風葉『寝白粉』(博文館「文芸倶楽部」)、兄妹の
 近親相姦、部落問題に立ち入ったため発禁となった。
.
1895年、歌・流行・世相:
・男のイガグリ頭が流行し、バリカンが売れた。
・玩具:空気ラッパの製作
・鉄砲玩具の連発銃が発明された。
・屈辱外交を批判の演説会が開かれ、どの弁士の発言も中
 止を命じられた。
 詔勅を読みはじめても中止となった。
・かつては、岩倉様など敬称をつけたが、この頃は、首相
 を呼び捨てにする(経済雑誌)
.
1895年、発明:
・リュミエール兄弟が、シネマトグラフという動画撮影・
 再生装置を公開し、映画の歴史が始まった。
・ドイツ人物理学者のレントゲンが、エックス線を発見し
 た(1895年11月8日)
.
1895年、科学・建築:
・野中至・千代子夫妻が、気象予報の研究のため、富士山
 頂で観測を開始した(1895年10月1日)
・帝国京都博物館が完成した(1895年10月31日)
.
1895年、スポーツ・科学・文化・物価・流行・世相:
・第1高等学校のベースボール選手だった中馬庚が、ベー
 スボールを「野球」と翻訳した(1895年2月22日)
・神田小川町にローラースケート場(車滑り場)が現れる
 (1895年8月)
.
1895年、その他:
・西洋音楽家で幸田露伴の妹・幸田延が留学から帰国した
 (1895年11月5日)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2018-11-05 04:18 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)616E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年12月~1894年12月)

題:(増補版)616E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年12月~1894年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1894年12月9日、総武鉄道の本所駅(錦糸町駅)~市川駅間
 が開通することにより、本所駅~佐倉駅間が全通した。
  総武鉄道(総武線)は、1894年7月に、市川駅~佐倉駅
 間が開通していた。
  駅は、本所、亀戸、市川、船橋、幕張、千葉、四街道、
 佐倉の8駅だった。
  江戸川区域には駅が無く、1899年4月に、平井駅ができ
 た。
  蒸気機関車が黒い煙を吐いて運行されていたが・・、
  電化は、1932年6月、両国駅~お茶の水駅間が電化され
 た。
  そして、1933年3月、両国駅~市川駅間が電化し・・、
  1933年9月、市川駅~船橋駅間の電化・・
  1935年7月、千葉駅までの電化が完了した。
.
1894年12月17日、朝鮮で、第二次金弘集(きんこうしゅう)
 政権が成立した。
  朴泳孝と連立した。
  金弘集は、朝鮮王朝(李朝)末期の政治家で、1880年
 に、来日(訪問)している。
  明治維新後の日本の発展の様子を視察して、朝鮮を開
 化するのだの思い・意欲を深めた。
  この時、持ち帰った清国の外交官の著書「朝鮮策略」。
  持ち帰って国王・高宗に上呈し、開化政策推進の契機
 とした。
  穏健的開化派としての彼は、常に、外交の前面に立ち、
 欧米諸国などとの修好通商条約の改正を目指した。
  1882年、壬午の軍乱の後、全権副官として、日本との
 済物浦(さいもっぽ)条約の交渉にあたった。
  また、甲午農民戦争以後、1884年、領議政 (初代総理
 大臣) となり親日的であった。
  そして、急進的な改革を行なった。
  しかし、最後は親露派に殺された。
  生涯に渡って終始、国家の非常の難局に当たった悲劇
 の政治家だった。
  (参考)朝鮮策略:ちょうせんさくりゃく、
      東京の中国公使館にいた黄遵憲が書いたもの
     で・・、
      朝鮮は、自強のため中国との関係を深め、日
     本と提携し、さらに、アメリカと国交を開くよ
     うに主張した。
      金弘集で知った朝鮮国王は、これを採用した。
      そして、2年後にアメリカと条約を結び、国内
     改革を始めた。
.
1894年12月20日、中国の清国が、張蔭桓(ちょういんかん)
 らを、日清戦争の終結のための本格的講和全権使節に任
 命し、その事を、日本に通告して来た。
  日本も、直ちに伊藤首相、陸奥外相を全権に任命して
 講和交渉を開くことを承認した。
.
1894年12月21日、筑豊鉄道の折尾駅~中間駅間が複線化さ
 れ、また、、筑前植木駅~直方駅間も複線して開通した。
.
1894年12月22日、第8回帝国議会が召集された。
  1894年12月24日~1895年3月23日、通常会が開催された。
.
1894年12月22日、クロード・ドビュッシーの「牧神の午後
 への前奏曲」がパリの国民音楽協会に於いて初演された。
  指揮はギュスターブ・ドレ。
  初演から好評で、二度のアンコールがあった。
  https://www.youtube.com/watch?v=Zw1OYRjpvFY
.
1894年12月28日、筑豊鉄道の小竹駅~幸袋(こうぶくろ)
 駅間が開通した。
  石炭輸送全盛時代にあった。
  多数の側線が作られた。
  日本の鉄道は、1890年代から1900年代にかけて、めざ
 ましい発展をとげた。
  この約15年間に、営業キロは約2.5倍となる。
  特に、貨物輸送力は9.5倍に増加した。
  この頃は、紡績部門を中心として、日本の産業革命が
 進行した。
  そして、さらに、製鉄、製鋼部門を基軸とする重工業
 へと転換して行った。
  日本社会に資本主義経済体制が根付き、さらに、急速
 な発展をし、それが、鉄道の発達をうながした。
  また、その鉄道の発達が、さらなる資本主義の発展を
 促進するという展開となった。
  経済体制の発展と、鉄道の発展とが相互に相関的な発
 達となっていた。
  鉄道が、日本の輸送には欠くことのできない主座を占
 めて行った。
  1906年には、「鉄道国有法」が公布された。
  そして、幹線を構成していた私設鉄道17社が、1907年
 までに、すべてが国有化され、「国有鉄道」が成立した。
  そして、その鉄道の技術も「自立」して行った。
  日本の経済のさらなる発展には、日本の「技術の自立」
 が必要不可欠だった。
  そして、その為の法制化、規格化が進んだ。
  日本の重工業の発展とともに、その車輌、機械類の自
 給体制も確立さ、完成させて行く。
  1894年、「鉄道局隧道定規」、および、「橋梁、鋼鈑
 桁ノ定規」を制定する。
  また、神戸商業会議所は、官設鉄道運賃低減を提案す
 る。
.
1894年12月31日、三菱第1号館の完成
  イギリス・ロンドン出身の建築家ジョサイア・コンド
 ル(お雇い外国人)によって・・
  イギリス・クイーンアン様式の外観を持つ煉瓦造の建
 築物として設計され・・、
  また、建設工事は、曽禰達蔵現場主任があたり、直営
 工事による施工で完成した。
  丸の内ビル街の先駆で・・、
  その後、次々とオフィスビルが完成し、「一丁倫敦(
 いっちょうろんどん)」と呼ばれるオフィスビル街とな
 って行った。
.
1894年12月、フランスでドレフュス事件が発生した。
  フランス第三共和政を揺がした政治危機で、1894年~
 1906年、フランス社会の根底に横たわる社会的・政治的
 緊張を露呈した。
  共和国の存続そのものを危険にさらした。
  1894年、ユダヤ系の陸軍大尉 A.ドレフュスが、ドイツ
 に情報を売っていた。
  そして、終身流刑に処せられた。
  ユダヤ系のドレフュス大尉への「差別がある」として
 再審を求める派と、判決を支持する派でフランス国論が
 二分された。
  フランス軍部内では、別に真犯人のいることが分かっ
 たが、軍の威信と反ユダヤ感情などのため事件を糊塗し
 ようとした。
  最初は、家族と知人を中心とした再審要求運動であっ
 たが、上院副議長 A.シューレル・ケストネル、後の首相
  G.クレマンソーらの支持を得て再審要求運動は拡大した。
  1898年、文人 É.ゾラが『オーロール』紙上で「私は弾
 劾する」で始る大統領あての公開質問書を発表するなど、
 世論は高まり、単に、個人の有罪、無罪の論議をこえて、
  左翼には、国権に対する個人の自由を守り、軍を議会
 の統制下におこうとした反教権的な「ドレフュス派」、
  右翼には、軍の威信や伝統的価値を擁護し、対ドイツ
 愛国心を強調する国家主義者、頑固なキリスト教カトリ
 ック、反ユダヤ人主義者、保守主義者などを中心とする
 「反ドレフュス派」が形成され、国論を2分して抗争した。
  1898年、H.アンリ大佐が、文書の一部偽造を告白して
 自殺したため、再審は確実となり・・、
  1899年、レンヌの軍法会議の再審で減刑されたが依然
 有罪で、大統領特赦で刑が免じられた。
  1903年、新たに有利な証拠が提出され・・、
  1906年7月、民事の破毀院は、レンヌの判決を全面的に
 破棄、議会も復権法案を可決した。
  1906年7月22日、ドレフュスも正式に復権した。
      (出典 ブリタニカ国際大百科事典)
.
1894年12月、夏目漱石が、漱石ゆかりの地・鎌倉・円覚寺
 で参禅する・・、
  29歳の漱石は、同寺塔頭の帰源院で坐禅を組んだ。
  優秀な成績で、帝国大学文科大学(後の東京帝国大学、
 現・東京大学)を卒業していた漱石・・、
  そして、英語教師として東京高等師範学校の教壇にも
 立っていた漱石・・、
  しかし、自分の中にどうしてもしっくり来ないものが
 あった(漱石の記述)
  「卒業したときには、是でも学士かと思ふ様な馬鹿が
 出来上つた。
  それでも点数がよかつたので、人は存外信用してくれ
 た。
  自分も世間へ対しては多少得意であつた。
  たゞ、自分が自分に対すると甚だ気の毒であつた」
             (処女作追懐談)
.
1894年、中国の軍閥
  1912年1月1日の中華民国成立の前後、私設の軍隊を背
 景に中国各地に並び立った勢力があった。
  特に、日清戦争後、北洋陸軍を私兵化した袁世凱の北
 洋軍閥が最大のもので、辛亥革命後、北京に軍閥政権を
 樹立した。
  死後、安微派、直隷派に分裂し、さらに、奉天派など
 も交えて抗争を続けていた。
.

1894年、日本は、朝鮮・韓国の鉄道建設などの社会資本の
 充実に、本当に誠意をもって尽くした。
  韓国の加耶大学の崔基鎬(チェ・キホ)教授の自著の
 「日本人の税金で賄(まかな)われた朝鮮の鉄道建設」
 の項には、以下の様な記述がある。
  「鉄道は、未開国を近代国家に育成する機能を発揮す
 るための必要不可欠の動脈であり・・、
  市場経済の血管である・・、
  鉄道に代表される「大衆交通手段」の発達は、人類の
 生活向上と幸福の増進にも欠かせない・・、
  道なき山野に・・鉄道が敷設された事が・・、
  日本政府の目的がどこにあろうと、朝鮮民族にとって、
 長い間の地獄のような世から脱する事につながったこと
 は論をまたない。
  1894年、日清戦争勃発を契機として・・、
  朝鮮に鉄道敷設の機運は熟していたが、当時の李朝は、
 財政・経済に対する基礎的知識もなく、交通・鉄道に関
 する認識もなかった。
  1896年「京仁線(ソウル~仁川間)」38.9キロの鉄道
 敷設権を、日本企業「京仁鉄道合資会社」が、アメリカ
 人のモールスから買収して、1900年7月8日に、全線を開
 通させた。
  これが、朝鮮で最初の鉄道だった。
  ちなみに、日本で新橋~横浜間が開通したのは1872年
 で、その28年後のことであった。
  従来、今までソウル~仁川間の往復は、5日から6日も
 かかっていた。
  ソウルの両班老人たちは、初めて見る汽車を「鉄馬」
 と呼び、その「鉄馬」に乗って一日中、往復を繰り返し
 て楽しんだと伝えている。
  (両班・りゃんばんは、特権階級で朝鮮庶民から収奪
 する階層だった)
  往復で5日~6日の所要時間は、2時間~3時間に短縮さ
 れた。
  何とありがたい事であろう・・、
  元来、両班とは、働かずに、農工民が生産したものを
 優先的に処分する権利を保有していたから、「鉄馬」に
 乗って一日を消費して、それを最高の享楽と感じたのだ
 ろうことは容易に想像できる。
  「京釜線(ソウル~釜山間)」450.6キロは、「京釜鉄
 道〉株)」が、1905年1月1日に、全線を開通させた。
  京仁・京釜線鉄道の買収額(建設費)は、3500万円だ
 った。
  それに対して同年の大韓帝国の収入額(税・印紙税総
 額)は、784万円だったから、自力での鉄道敷設は夢でし
 かなかった。
  それまでフランスやロシアも競って鉄道敷設権を獲得
 したが、その資金の裏付けもなく、工事の着工もできな
 かった。
  アメリカのモールス(京仁川敷設権取得者)も事情は
 まったく同じで・・、
  彼らが頼りにしたのは李朝であったが、以上のような
 財政事情で、まったく実現の可能性が無かった。
  その様な事情から、日本企業が、この難局を切り抜け、
 京仁・京釜線が敷設された事は、天佑神助(てんゆうし
 んじょ、天や神の助け)というべきであった。
  京義線(ソウル~新義州間)は、フランスのグリール
 が敷設権を取得したが、これも日本が買収して、建設を
 受け継ぎ、1906年4月に、全線を開通した。
  京義線と馬山浦線の建設費、は3138万円で、したがっ
 て、京仁・京釜・京義・馬山浦線建設費を合わせると、
 6638万円になる。
  この6638万円は、日本人の血税で賄われた。
  ・・が、その活用は、日本人・朝鮮人共用であり、朝
 鮮側の享受した利益は「莫大なものであった」。
  もしも、1896年~1906年の1円が、今の10万円に相当す
 るとすれば、6.6兆円であり・・、
  それを、2003年11月25日の為替レートで韓国ウォンに
 換算すれば、79兆6560万ウォンに相当する(2003年11月
 現在、物価指数による換算)。
  こうして、1910年の日韓併合時には、既に全国1039.7
 キロの路線が完成した。
  これに続き、日韓併合後は、寺内・長谷川の両総督時
 代に、湖南線・京元線(ソウル~元山間)・平南線が、
 1917年には、会寧~清津間が開通した。
  併合後に、朝鮮総督府が、鉄道敷設に投資した費用は、
 次ページの一覧の通りである。
  日本の斎藤実総督は、1921年9月に開催した「産業調査
 委員会」の提議によって、吉林~会寧間の敷設計画と、
 それ以降の12ヵ年計画を立ち上げたが、その概要は、以
 下の通りであった。
  鉄道建設12ヵ年計画、
  期間:1927年~1939年、
  総経費:3億円、
  路線:図們線(雄基~潼闕鎮)156キロ、
  恵山線(恵山鎮~吉州)142キロ、
  満浦線(順天~満浦)286キロ、
  東海線(安辺~浦項・釜山~浦項)549キロ、
  慶全線(晋州~全州・院村~漂陽)251キロ、
  計1384キロ
  また、朝鮮総督府が建設する鉄道で、1930年末までに
 完工した路線は、次の通りである。
  鉄道建設状況(1930年末)
  京釜線 450.6キロ、
  京仁線 38.9キロ、
  馬山浦線 40.1キロ、
  鎮海線 20.6キロ、
  京義線 499.3キロ、
  兼二浦線 13.1キロ(黄州~兼二浦)、
  平壌炭鉱線 23.3キロ(大同江~勝湖里)
  平南線 55.3キロ(平壌~鎮南浦)
  博川線 9.3キロ(孟中里~博川)、
  竜山線 6.7キロ(竜山~唐人里)、
  新義州貨物取扱所線 1.8キロ、
  湖南線 260.7キロ、
  群山線 23.0キロ(裡里~群山)
  慶全線・慶全北部線 25.3キロ(裡里~全州)、
  光州線 36.4キロ(松汀里~漂陽)
  京元線 223.7キロ、
  威鏡線 617.6キロ(元山~会寧)
  川内里線 4.4キロ(竜漂~川内里)、
  清津線 9.0キロ(輪城~清津)
  会寧炭鉱線 10.6キロ(会寧~鶏林)
  北青線 9.4キロ(北青~新北青)、
  遮湖線 4.9キロ(会山~遮湖)
  鉄山線 3.0キロ(羅興~鉄山)、
  平元西部線 67.0キロ(西浦~新倉)、
  東海線・東海中部線 148.8キロ(大邸~慶州)、
  東海北部線 31.4キロ、
  図們線・図們西部線 59.6キロ(会寧~潼闕鎮)
  図們東部線 31.4キロ(雄基~訓戒狭)
  その後、新倉~高腹間の平元線146.8キロ、吉州~恵山
 鎮間の恵山線141.6キロ、順天~満浦間の満浦線286.6キ
 ロ、釜山鎮~蔚山線70.8キロなどが、開通した。
  その他にも、総督府は、私設鉄道に対する補助を行な
 ったが、1915年~1930年までに、その総額は4000万円を
 超えた。
  1910年の日韓併合以来、旅客運賃収入と貨物収入は、
 67ページ下段の表の様に飛躍的に発展しており、物流の
 活発化を裏付けている。
  こうして、1945年の終戦の日まで、鉄道網の拡張は続
 けられた。
  その総延長は、6632キロ、駅の数は762、従業員数は
 10万527名に達した。
  それまでの姿・・「人間の背中に頼っていた李朝時代
 の物流」・・、
  それ以前の李朝時代の物品の交流は、褓負商ボブサン
 (行商人〉に頼っていた。
  たとえば、全州チョンジュの行商人(褓負商ボブサン)
 は妻子とともに、全州名産の生姜(しょうが)と櫛(く
 し)を背負って、平壌ピョンヤンまで3週間余りかけて歩
 き、そこで販売する。
  次に、人力車も通れない道を、再び、歩いて、元山ウ
 オンサンに行き、昆布と干魚を売りさばくという具合だ
 った。
  時間が予定以上にかかったり、滞在が伸びたりしたら、
 利益は見込めない。
  その様を想像しただけでも、道路やインフラ整備を怠
 った李朝が、百姓にとって、いかに苛酷な統治者であっ
 たかが分かる。
  この場合でも、馬を使うのが普通だが、馬には人間以
 上の経費がかかる。
  結局、運搬道具として、牛馬ならぬ人間の背中が最も
 利用されることとなった。
  朝鮮には、遠い昔から運搬具として「チゲ」というも
 のがあって、今も農村では欠かせない道具だが、肩に掛
 ければ荷重が背中全体に、公平に分配されるから肩が痛
 くないという特徴がある。
  嶺東には、蜂蜜の生産は多いが、塩が無く、平安道ピ
 ョンアンドでは、鉄の生産が多いが蜜柑・レモンは無く、
 ハムギョンドでは、朝鮮人参の生産は多いが、綿布は生
 産されない。
  この様な地方特産品を、鉄道の敷設によって流通させ
 ることが出来れば、住民の生活向上につながることは言
 を俟(ま)たない。
  暗黒の国土に、鉄道が開通し、日本の先導で、ようや
 く近代化のきざしが、朝鮮にも見られるようになった史
 実は、否定できない。(以上)
  今・現在、中国及びその手先は、『日本は、軍隊を運
 ぶために朝鮮・韓国の鉄道を作ったのだ」と日本の努力
 を無にすることを言うが・・
  その為だけならば、この様に朝鮮の国土を縦横無尽に
 張り巡らす様に鉄道を造る必要はない。
  日本は、心から朝鮮の日本並みの発展を願っていたの
 だ。
  朝鮮・韓国は、その日本の恩を感じなければならない。
  その日本の恩を無にする言動をする韓国となっている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:朝鮮・韓国は、その日本の恩を感じなければならない。
.
683年(天武12年)鏡王女(かがみのおうきみ)が、この日、
 薨去(こうきょ)したが・・、
  その前日、天武天皇は親しく病床を見舞われた。
  万葉集に・・
  玉櫛笥(たまくしげ)覆(おお)ふを易(やす)み
  明(あ)けて去(い)なば 君が名はあれど
  我が名し惜(お)しも
              鏡王女
  訳:箱に蓋をすると中のものが見えなくなるように、
    私たちのことを覆い隠すのは簡単だとお思いに
    なって、夜が明けてからお帰りになれば、
    あなたの名はともかく、わたくしの名が惜しうご
   ざいます。
  藤原鎌足が鏡王女と婚をなすために訪れた夜の明け方、
 なかなか帰ろうとしない鎌足に王女が贈った歌です。
  歌の背景には妻問い婚(つまどいこん)が普通であっ
 た当時、男性が夜明けまで女性の家に居て帰ろうとしな
 いと、ご近所の噂がひどかった、という事情がありまし
 た。
  鏡王女は天智天皇の異母妹で、若き日の天智天皇の妃
 (きさき)となり、その後、鎌足の正室となった女性で
 す。
  古代国家の基礎を築きつつある天智天皇にとって、鎌
 足は無くてなならぬ人物でした。
  加えて鎌足は、とかくギクシャクしがちな天智天皇の
 実弟・大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)
 と天智天皇との関係を、取り持つことができる唯一の人
 物でもあったのです。
  天智天皇の妃であった鏡王女がなぜ鎌足と結婚したか、
 その詳細は不明ですが、王女は愛する夫にして異母兄・
 天智天皇と鎌足の絆を不動のものにするために、天智天
 皇の願いを受けて再婚したのだと思います。
  天智天皇の愛が薄れて再婚したのではなく、わたくし
 はそこに、天智天皇の王女への深い信頼と愛を読み取る
 のです。
  藤原鎌足、天智天皇に先立たれ、壬申の乱(じんしん
 のらん)にも遭遇するという激動の古代を生きた王女は、
 晩年、懐古(かいこ)の鳥とされている呼子鳥(よぶこ
 どり)の声に、そんなに鳴かないでおくれ、昔を恋い慕
 う心を募るばかりだから、と深く嘆じました。
  神奈備(かむなび)の 磐瀬の杜(いわせのもり)の
  呼子鳥 いたくな鳴きそ 我(あ)が恋(こい)増(
  ま)さる
  683年(天武12年)王女薨去(こうきょ)。
  その前日、天武天皇は親しく病床を見舞われた。
         (国文学者・石丸昌子氏の名文です)
.
1147年、第二回十字軍(~1148年)・・北方十字軍
  この12世紀の西欧諸国におけるカトリック教会の権威
 確立を目的とした第二回十字軍の壊滅的な敗退は、返っ
 てカトリック教会の権威を失墜させる危機に陥れた。
  クレルヴォー修道院長ベルナールは、これを打開する
 ため新たな十字軍を提唱した。
  西欧諸国からはドラクリア(竜の地)、東欧諸国では
 ディアボロシア(悪魔の地)と呼ばれ、現地の人々から
 はウェリ・クン・ナーラ(天神に祝されし国々)と総称
 される、カグレア、シルリア、ペグゼリア、タンムリア、
 カラキアにおける異教異民族への十字軍だった。
  この十字軍は、「最も成果の無かった十字軍」と呼ば
 れ、実態は敗北だった。
  ただただ、スラブ人を殺す十字軍という状況だった。
  後に、これは北方十字軍と呼ばれる。
  北方十字軍は、受け継ぐ封土を持たぬ封建諸侯の子弟
 達(この憤懣のガス抜きの十字軍)、そして、相次ぐ戦
 乱と飢饉で家屋や土地を失った貧民達から構成されてい
 た。
  そして、「フロンティアが獲得できる」という夢を吹
 き込み、それを目的としたので大いに受け入れられた。
  厳しく戦った事例としては、北方十字軍の攻撃を受け
 たカグレア人・・この民族は、かねてから国境付近でザ
 クセン公国と対立を深めていた。
  (参考)気高きグレアを意味するカグレア・・しかし、
     その地は過酷な地であった。
      凍てつく北方に位置するこの大地は、地味が
     乏しく、作物も実らず、狩るべく鳥獣や漁る魚
     貝も少なく・・その上、海の彼方からは、絶え
     ずユグラドラシスの異民族の襲撃を受け、その
     王国・バレア王国との紛争に明け暮れた。
      僅かな食糧と、その食糧を得る為の領土を奪
     い合う、殺し合う・・生き延びる事の困難なこ
     の地の人々は、戦いが多く、そのため強かった。
  ウェリ・クン・ナーラでも、勇猛な戦闘部族で知られ
 ていたカグレア人は、 スペル・ユニオル族族長レーベル
 クを中心に、前九年・後三年と、合わせて十二年に渡り
 激しく抵抗した。
  一時は、カグレアの地よりドイツ諸勢力を一掃し、逆
 に、ザクセンに侵入し、ヴァグリアを征服するにまで至
 った。
  しかし、カグレア諸部族に服属していたシルリア人が、
 突如、自らキリスト教を受け入れ、北方十字軍と手を結
 んでカグレアの背後をつくと、一気に形成は逆転した。
  カグレア諸部族は総崩れとなり、北方十字軍に征服さ
 れた。
.
13世紀、北方十字軍
  「異民族のキリスト教化」という名目上の目標を掲げ
 て、バルト海沿岸地域へ進出した「北方十字軍」は・・、
 遠征の当初から本来の宗教的な目的を失っていた。
  その実際の実態は、「北方諸国の植民地化」だった。
  ローマ教皇からお墨付きをもらって・・、
  世俗の最高権力者である神聖ローマ皇帝の思惑とも重
 なって、キリスト教による征服事業の拡大を続けた。
  その先鋭に立ったのが「ドイツ騎士団」だった。
  13世紀、ハンガリー王国から追放されたドイツ騎士団
 だった。
  その武力集団は、異教徒征伐の命を受けてプロイセン
 の地(現在のカリーニングラード〜ポーランド北部)に
 活動拠点を移した。
  そして、その武力の威力によって、先住民であるプロ
 イセン人の殺戮を尽くして制圧した・・そして、その地
 のすべてを掠奪・収奪した。
  その後も・・略奪と搾取を重ねながら、莫大な富を築
 き、「ドイツ騎士団領」という軍事国家まで作った。
  しかし、乱逆なこのキリスト教集団は、周辺諸国の貴
 族を集めて「人間狩りツアーを開催する」など、その残
 虐きわまりない性質と傍若無人ぶりだった。
  ドイツ騎士団は、リヴォニア(現在のラトヴィア西部
 からエストニア南部)を征服していたリヴォニア帯剣騎
 士団を吸収した。
  そして、さらに、現在のリトアニアの地へと侵攻した。
  それに対して、ミンダウカス王の元に諸部族が結集し
 てリトアニア大公国が誕生する。
  そして、強大な戦力を形成し、ドイツ騎士団を押し返
 した。
  その後、お互いが侵略行為を重ねる。
  拮抗した戦争状態が続く・・
  同じ様にドイツ騎士団と領土問題で対立を深めるポー
 ランドとの同盟関係を成立させる。
  1385年、ついにリトアニアはキリスト教を受け入れ(
 当初は形式的なものだった)、両国は連合国となってド
 イツ騎士団と対立する。
  キリスト教の教義でもある「異教徒は殺せ」の異教徒
 との戦いという大義名分を失ったドイツ騎士団は激高し
 て、互いの存亡をかけた激烈な総力戦へなる。
  そして、ポーランド・リトアニア連合は、1410年の「
 グルンヴァルト(タンネンベルク)の戦い」で勝利し、
 ドイツ騎士団に壊滅的な打撃を与える。
  ドイツ騎士団は、徐々に衰退し、やがて消滅した。
  ポーランド・リトアニア連合国は、ヨーロッパ最大領
 土の国へと発展する。
  そして、その後、200年に渡る黄金時代を築く。
.
16世紀半ば~17世紀初頭、南蛮貿易が行われた。
  1543年に、種子島にポルトガル船が漂着したが・・、
  南蛮貿易は、ポルトガル及びスペインとの間で貿易が
 行われた。
  中国・明のマカオが拠点で、特に、ポルトガル人が中
 心に営まれ、日本の銀が流出した。
  中国とは生糸が取引された。
  16世紀の前半から灰吹法によって銀の産出量が増えて
 いた。
  (参考)灰吹法:はいふきほう、鉱石からいったん鉛
     に溶け出させて産出する方法。
  キリスト教イエズス会は、プログラドールという貿易
 や財務を担当する役職を作って貿易を指揮し、担当し、
 交易し、利益を得た。
  長崎のこのキリスト教のプロクラドールは、岬に建設
 されたキリスト教会内のカーザ(建物・倉)に貿易品を
 貯蔵し、取り引きを行ったので、キリスト教会が商館の
 ように機能した。
  このプラグドールは、キリスト教宣教師のザビエルの
 提案したことから実現した。
  せっせと南蛮貿易に精を出すキリスト教だった。
  そして創設されたパウロ学院には金庫が置かれていて、
 貿易の利益のほか、貿易に税を掛けて金を取り、この教
 会内の金庫に金がうなる様にあった。
  このキリスト教会の主動する南蛮貿易の卑劣なところ
 は、日本の若い女性を売るという人身売買をしていた所
 だった。
  「70万人の日本女性を売った」という記載が、ポルト
 ガルの文書にある。
     ・
     ・
1910年8月26日、キリスト教徒のマザー・テレサが生まれた。
  マザー・テレサは、キリスト教の神は死んだと言った。
  マザーテレサさんは・・インドで・・ヒンズー教徒の
 方々が行っている・・『弱者救済の運動とその行動』の
 中に入って行って・・、
  ヒンズー教徒の方々と共に・・弱者救済活動を行なっ
 た。
  その行為が、そのことが・・素晴らしい業績となって
 いますが・・、
  (注):
  世間には、キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)だけ
 が・・あまりにも声高に叫ばれているため・・真実が、
 隠されています。
  初めて、上記の文を読まれた方は・・驚かれたと思い
 ますが・・「真実は、上記なのです」。
  キリスト教は・・、
  マザーテレサさんが、アメリカの映画に取り上げられ・・
 脚光を浴びた事を知り・・マザーテレサさんに着目し・・、
 キリスト教の「広告塔」にしました。
  そして、ヒンズー教の方たちを隠しました。
  ヒンズー教徒の方々は・・まったくと言ってよいほど、
 陰に隠れた状態に、なってしまいました。
  それでも、インド政府は、マザーテレサさんを国葬に
 して・・マザーテレサさんを讃えました。
  そして・・、
  マザーテレサさんには、「別の業績」がありました・・、
  それは・・、
  「キリスト教の神は居ない」と、表明されたことでし
 た。
  マザーテレサさんは、キリスト教の神の存在に悩んで
 いました。
  キリスト教の神は居ない・・と・・、
  本国の色々な司祭などに、長い期間、悩みを打ち明け
 続け・・そして、相談をし続けていました。
  その事実は、隠されていました・・が・・、
  また、彼女のこの悩みである「キリスト教の神の不存
 在」は、「彼女の死に至るまで」続きました。
  彼女は、死ぬまで、キリスト教の神は居ないと悩んで
 いました。
  このキリスト教の神が居ないという事実を、公表する
 事が・・彼女の希望であったのでしょう、このキリスト
 教に『不利な事実』『真実』が公表されました・・キリ
 スト教の神は居ない・・と・・、
  このキリスト教の神は居ない・・神の死は・・今、ア
 メリカに、「神の死の神学」という人々が居ます。
  この方たちは、キリスト教の『神の不存在を主張」し・・
 成熟した現代社会・世界の人々は・・、それで十分やっ
 て行けるのだと言っています。
  『古代に発生したキリスト教』・・、
  その様な時代の、古代人とは・・現代人は違うと主張
 する方たちです。
  そして、マザーテレサさんは思っていたと思います・・、
  「神が居ない」と言い続けて、公表に至ったことは・・、
 その行為が・・「人類に貢献しうること」・・と、そう
 考えられて居られたから・・公表がなされました。
  また、『キリスト教の神の実在性を主張するそのもの
 が、人類にとってよくないこと・・よくないもの』と・・、
  マザーテレサさんが、そう考えられているから・・こ
 の様な、行動が取られたのだと言えます。
  (参考)神の死の神学:ニーチェの言葉である「神は死
 んだ」は・・、
  1960年代になり、公民権運動が盛んな時代のアメリカ
 の神学者たちも使うようになった。
  アメリカの神学者たちは・・現代社会において神は・・、
 人間に・・『リアルな存在ではない』という意味で・・、
 「神は死んでしまった」という意味で用いる。
  1957年に、アメリカの神学者ゲイブリル・ヴァハニア
 ンは・・『神は死んだ』と題した著書を著した。
  ヴァニハンは、その中で・・無神論を、『アメリカの
 大衆の生き方である』と、述べている。
  アメリカ人の神学者・トマス・アルタイザーは・・、
 エモリー大学で教えている間に、『神は死んだか?』を
 出版する。
  また、アメリカの神学者のウィリアム・ハミルトンが、
 異なった立場から・・、
  1961年に、著書『キリスト教の新しい本質』で・・異
 なった視点の・・『神の死の神学』を展開した。
  そして、神が居ないと自覚する事で、人間の主体性が、
 そして、自律性が・・とりもどされ・・、
  前の時代の・・神に拘束された非人間性から・・脱却
 でき・・そして、人間らしさが取り戻せる・・と・・
          (参考:wikipedia)
.
1920年、南洋諸島のパラオは、日本の統治となった(~1945
 年)
  この頃の首都はコロール。
  パラオには、スペイン南洋庁が置かれていた。
  日本からの移住者も多かった。
  パラオは、スペイン→ドイツと統治がされて来た。
  しかし、パラオの方たちは、日本の統治時代を非常に
 懐かしみ、「日本の統治は良かった」と言う。
  パラオ共和国の国旗も、日本の国旗に似せている。
.
1932年2月、リットン報告書が出された。
  満州が、リットン報告書などでアメリカからの策動(
 さくどう、秘かに計略を巡らして行動すること)を受け
 ていた頃・・、
  この当時、日本国内には、ソ連から指令を受けた、コ
 ミンテルンの命令下にある共産主義者が大勢いた。
  いつでも日本国内で、国家転覆をしようという者たち
 だった。
  そして、その様な手が打たれている日本でもあった。
  いつ、その者たちの活動が活発化するかの可能性も高
 かった。
  実際、その様なソ連の指令を受けた日本人も加わって
 いた。
  尾崎秀美(ほつみ)がその一人で、ゾルゲと連絡を取
 り暗躍していた。
  (参考)尾崎秀美:日本の評論家、ジャーナリスト(
     朝日新聞記者)、共産主義者。
      近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論
     界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を
     持ち、日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(
     大東亜戦争)開戦直前まで、政治の最上層部・
     中枢と接触し、策動し、国政に影響を与えた。
  (参考)リヒャルト・ゾルゲ:ソビエト連邦のスパイ、
     1933年~1941年にかけてゾルゲ諜報団を組織し、
     日本で諜報活動を行ない、ソルゲ事件の首謀者
     だった。
      ゾルゲは、コミンテルン本部の指令で1933年
     9月に来日し、上海で旧知の尾崎らと接すること
     で軍、政府上層部から得た日独両国の機密情報
     をソ連に流したり、二・二六事件、三国同盟、
     関東軍特別大演習など日本の対ソ情報を入手し
     通諜していた。
      ドイツの新聞社特派員として駐日ドイツ大使
     の信任を得ていたゾルゲ(ソ連共産党第4本部
     所属)は、コミンテルンの命令を受けていた。
  (参考)日中戦争:実際は、アメリカが極秘に参戦し
     ていて、アメリカ大統領は「ボランティアだ」
     と言い逃れしたが、大統領署名の命令書が存在
     し、また、アメリカという国が膨大な米機を中
     国へ与え、パイロットも派遣していた・・日米
     中の戦争状態だった。
  その活動の一つが「日中戦争(実際は、日中米戦争)
 へ日本を導く」という活動だった。
  結局、実際に、日本は、日中米戦争へはまっていく。
  今・現在も、共産・中国(中共)の活動家が、日本で
 活動している。
  この当時の状況の様に・・、
  または、それ以上の人数の居る日本の状況となってい
 る。
  今、日本は、簡単に移民ができる様になっている。
  アメリカの圧力でなったのだが、日本は、今、「移民
 天国」の状態で、スパイ天国の様相となった。
  長野の冬季オリンピックの時、指令によって、長野に
 集まった共産圏・中国の活動家が、謀議し、手に手に種々
 な武器を持って暴れた。
  長野県のこの中国工作員の暴動行動は、怒号と騒乱状
 態に陥(おちい)った。
  これは国際問題の騒乱(共産中国とチベット国)であ
 ったため、日本の警察は、周りを取り囲み、手を出さな
 かった。
  この様にして、日本の国内においても、共産圏・中国
 の国家指令の活動が行なわれている。
  チベット国が、共産中国に蹂躙されていることを、日
 本国内で訴えようとした行動を・・中国の工作員・活動
 家が、武力行使して、そのチベット国の方々の行動を封
 じ込めようとした。
  共産圏・中国の本国から指令を受けた大勢の活動家に
 よる暴挙だった・・今、日本には、この様な輩が、うよ
 うよといる。
  普段は、普通に日本で生活している。
  あなたは、その中国活動家の普段の生活は、何ら違和
 感は持たないだろうが、いざとなるとこの長野の様な事
 を起こすのだ。
  普段は、「いい人だ」くらいに思っているがである。
  帰化して、それも本当に簡略化された手続きで(アメ
 リカの内政干渉でこうなった)簡単に日本人に帰化した
 元・共産圏・中国のこの様な活動家が・・、
  「普段の、いい人だ」の印象だけから、「この人たち
 は日本人になってくれたのに選挙権が無いのは、おかし
 い」となる・・外国人の選挙権問題が起きる。
  この行き過ぎた事例がドイツにある。
  ある自治体の地方自治権が奪われた。
  れっきとして「ドイツ人の票決の結果」と公表されて
 いるが、移民の自治体と化している。
  また、オーストラリアのタスマニア島(日本の佐渡島
 くらいの大きな島)が、正統な経済活動だと言われてい
 るが、共産圏・中国の手中に入った。
  (参考)2016年4月、オーストラリアのタスマニア州の
     村落・タラリアが中国に売却への動き
      2016年4月、ギリシャ最大の港を中国企業が爆
     買い、総支出額は約1850億円
      2015年10月、オーストラリアで、韓国1つ分に
     相当する面積を中国企業が爆買い
  今、日本は、盛んに北海道が中国に買われている。
  北海道経済が、潤っている(息が付ける)というが?・・
  こんな「たわごと」で済むのか??
.
1937年12月、この時、「南京事件が起きたという嘘」がデ
 ッチ上げられている。
  今、種々の新史料が公開され、この南京事件が、さら
 によく見えて来た。
  南京事件の実態は、当時の中国の様々な情報工作によ
 って作られていて、「真実」は隠蔽されている・・
  不当で不条理な罪が、日本に押し付けられている・・
  その様な『事実』も判明して来た。
  今・現代、中国が南京事件をとやかく言うのは「もは
 や陳腐化している」。
.
2005年、全世界の金融資産が、2005年には140兆ドル(約
 1万7200兆円=1京7200兆円)で世界GDPの316%とな
 った。
  これは、1980年の109%、1995年の218%から飛躍して
 増大した。
  アメリカは、1995年303%から2005年405%と急増した。
  資本市場の機能は、金融システム間のM&A金融など
 仲介業務に比重を置くようになった。
  そして、規制がさらに撤廃され(自由が良いのだの大
 合唱)、リスクを伴う冒険的な大規模投資も合法的に可
 能となった。
  国際証券資本市場における支配力も強大となった。
  アメリカ産業史上初の業界の枠を越え、且つ、国境を
 越える超大型合併の波は、ユーロ圏を巻き込み、さらに、
 第三世界ロシア、中国、ブラジルのBRICs諸国の巨
 大資本をも引き込み・・
  世界は、国境を越え、M&Aの壮大な展開という新し
 い経験の試みの場と化した。
  故に、ネオリベラル・グローバリゼーションのダイナ
 ミックな主役は、巨大M&Aを業界の垣根と国境を越え
 て、グローバル企業帝国を築くビックビジネスの様相。
  (参考)ネオリベラル・グローバリゼーションにおけ
     るアメリカ「帝国」の覇権(上)、奥村皓一 著
      抄録:21世紀に入り・・、
     「冷戦」が終わって・・10年以上過ぎたという
     のに・・「帝国」「帝国主義」が、世界人類の
     当面、最大課題となり始めた。
      ソ連邦が崩壊し・・、
      旧社会主義陣営の国々が、資本主義市場経済
     を受け入れ始める一方で、資本主義大国間のグ
     ローバル競争が激化し始めた。
      加えて中国、ロシア、ブラジル、インドとい
     った新興の市場経済大国は、興隆をはたすなか
     で経済超大国をも目指し始めた。
      唯一、超大国のアメリカは、経済力の相対的
     な地盤沈下のなか、圧倒的な軍事力を活用して、
     全世界を制覇し・・、
      米国のビッグビジネス(メジャーズ)を、スー
     パーメジャーズに編成して、先進国世界のみな
     らず、GAPと呼ばれる第三世界、開発途上諸
     国、旧社会主義国のすべてをその勢力下に組み
     込もうとするようになった。
      米国国際石油資本をはじめとする米国の多国
     籍企業は・・、
      グローバルに展開できるスーパー・メジャー
     として、全地球的に展開し始めた。
      国際競争力が相対低下して・・アメリカのビ
     ッグビジネスは、アメリカの軍事力を活用した
     セオドア・ルーズベルト型の「軍事帝国主義」
     を背景に「自由とデモクラシー」の旗を掲げた
     ウィルソン型の「理想主義的帝国主義」を前面
     に全地球的展開を開始した。
      その典型は、ネオコンサーバティブの主導す
     るイラク単独進攻と占領である。
      世界で、石油埋蔵量第2位の、イラクの石油開
     発、生産を独り占めにし・・、
      イラクの「民主化」による親米政権の樹立と
     イラクの軍事基地化によって、中東と北アフリ
     カ、中央アジア(中東)の油田地帯に、アメリカ
     の石油秩序を確立しようとしている。
      さらに、アメリカは、南西アフリカ、南アジ
     ア、ラテンアメリカへと、「帝国」を広げよう
     としており、米国の軍事関与は、百数カ国に及
     び、冷戦下では実現できなかった戦線の拡張に
     ある。
      だが、資本展開の膨張に、米軍事力は無限に
     応ずることはできず、米国の単独主義の行きつ
     くところは自己破産・・軌道修正を迫られる。
.
2011年7月28日、高倉蒼甫(たかおかそうすけ)というタレ
 ントが、フジテレビで、「フジテレビは韓国のテレビ局
 か?」と発言したら、事務所(スターダストプロモーシ
 ョン)が解雇した。
  (cf)高岡奏輔(たかおかそうすけ)ウィキペディ
      ア
  (cf)2011年のフジテレビ騒動、高岡蒼甫のツイー
      ト:ウィキペディア
.
2018年、現在、世界全体で・・2800万人を数える華僑。
  その90%が、アジアに居る。
  インドネシア650万人(23%)
  タイ・・・・610万人(22%)
  マレーシア・520万人(19%)
  シンガポール209万人( 7%)
  フィリピン・120万人( 4%)
  ベトナム・・100万人( 4%)
  他・・・・・591万人(21%)
  輩出するところは・・
  広東省・・ 1500万人(54%)
  福建省・・・700万人(25%)
  海南省・・・170万人( 6%)
  他・・・・・430万人(15%)
  福建省は、僑郷(華僑のふるさと)として、広東省に
 次いで多くの華僑を送り出している。
  強力な経済力とネットワークで知られる華僑。
  アヘン戦争から逃れ最高潮となる・・100万人に達した。
  海外に中華街ができると、そこが足場にできるので、
 急増した。
  中国政府の圧政に農民が反乱(太平天国の乱など)を
 起こすとともに海外へ、その様な中国から逃れ出ようと
 農民も増加した。
  太平天国の乱に敗れた人々も・・海外へ逃れた。
  1933年には、800万人となった・・この内訳に於いて、
 福建省出身はその40%(320万人)となった。
  帰国して中国ナショナリズムを高揚させたりした。
  華僑の模範、そして、民族の輝きだとして毛沢東は、
 陳嘉庚を賞賛した・・
  彼は、シンガポール(マレーシア)でゴム大王として成
 功した。
  華僑は、常に、新天地の政府に対して用心深かった。
  そして、沖縄県は、2016年(平成28年)、沖縄県と福
 建省の友好親善に貢献するためだとして、奨学金を支給
 する奨学生を福建省へ送ることにした・・
  学費や宿泊費、そして、食費は・・中国側が負担する・・
 国際交流・協力の推進だとする美しい名目がある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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by suba28 | 2018-10-30 04:41 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)615E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年11月~1894年12月)

題:(増補版)615E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年11月~1894年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年11月22日、日米通商航海条約に調印した。
  江戸時代に結ばれた日米修好通商条約の不平等条項を
 改正したのだが、まだ、関税自主権は完全には回復でき
 なかった。
  (当然の権利である治外法権は回復した)
  しかし、自国益をしつこく握るアメリカに、まだ牛耳
 られる日本だった。
  関税自主権の回復は、1911年を待たねばならない。
  しかし、この時の改正でも、まだまだ日本は、色々な
 譲歩を要求された。
.
1894年11月24日、宮内省式部職付属音楽学校、奏音堂(上
 野奏楽堂)で、歌劇「ファウスト」が上演された。
  これは、日本における初めてのオペラ上演だった。
  宮内省式部職付属音楽学校・奏音堂(上野奏楽堂)は、
 東京音楽学校(現:東京藝術大学)の奏楽堂のこと。
  この演奏会は、日清戦争の義捐(きえん、慈善や公益
 のための寄付)のための音楽会で、演目はグノー作曲の
 「ファウスト」第1幕だけの部分上演だった。
  指揮は、音楽学校教授のフランツ・エッケルト、
  オーケストラ伴奏は、宮内省楽部、
  合唱は、音楽学校の生徒
  ファウストは、ブラッチャリーニ、メフィスト
  フェレスは、クーデンホーフ伯爵、
  マルグリートはヴァルナムが務めた。
  ゲーテの原作はドイツ語だが、オペラはフランス語。
.
1894年11月26日、慶応義塾大学の学生が、旅順口の陥落を
 祝って初めてカンテラ(油用灯火具)行列を行なった。
  このカンテラ行列は、慶應義塾大学の独特の祝賀行進
 だったが、この時以来、国家的な祝祭の時にも挙行され
 るようになった。
.
1984年11月28日、アメリカ紙が、デッチ上げニュースであ
 る旅順虐殺を報道した(まったくのプロパガンダ嘘報道)
  「ニューヨーク・ワールド」に、「日本は文明の皮膚
 を被り、野蛮の筋骨を有する怪獣なり」とする記事が掲
 載された・・
  これは、新聞の部数販売を拡張しようとした、この頃、
 流行っていた煽情主義報道(イエロー・ジャーナリズム)
 だった。
  特に、この記事を書いたクリールマンは、この時の日
 本以外にも嘘で煽る記事を書いていて、その嘘が世界か
 ら指摘されている。
  1888年の米西戦争の時も、クリールマンは、この様な
 報道をして、世界を惑わせ、世論を誘導する前科のある
 悪名高き記者だった。
  この米西戦争の時も、クールマンの「虐殺報道は嘘だ」
 と疑義が出された。
  そしてまた、この旅順口の嘘記事である・・「虐殺は
 ない」の訂正を要求する証言も多く・・このクリールマ
 ンの報道を耳にしたベルギー公使が、現地にいたフラン
 スの武官に尋ねたところ・・、
  「女子供の死傷者はいない」。
  「住民はほとんど避難しており、軍服を脱いだ兵士ら
 がいただけ」と否定した。
  また、旅順陥落を目撃したニューヨークヘラルド紙の
 特派員であるアメデ・バイロ・ド・ゲルヴィルは・・、
  1895年1月3日のレズリーウィークリーで、クリールマ
 ンが報道するような虐殺は発生していないと証言してい
 る。
  さらにまた、ゲルヴィルは、1904年の著書『Au Japon』
 でも「虐殺は捏造されたものであった」と論じている。
  そして、欧米でのジャーナリズム史の研究でも、旅順
 の「虐殺」を報道したクリールマンや、掲載した新聞・
 ニューヨークワールド紙が、ライバル紙と競い合って扇
 情主義報道を行っていたことは常識で定説となっている。
.
1894年11月29日、天皇陛下が、第1軍司令官・山縣有朋の召
 還を御命令。
  1894年7月から始まった日清戦争で、56歳にもかかわら
 ず第一軍司令官として自ら戦地に赴き、作戦の指揮をと
 った山縣有朋。
  「敵国は極めて残忍の性(さが、自分ではどうしよう
 もない生まれつき。性質)を有す。
  生擒(せいきん、生きたまま捕らえること)となるよ
 りむしろ潔く(いさぎよく)一死を遂(と)ぐべし」と
 訓示している。
  配下の野津道貫が率いる第5師団が、9月の平壌の戦い
 で平壌を陥落させるなど戦果はあげていたものの山縣自
 身は体調を崩した・・
  この事をお気遣いされた天皇陛下は、この月の11月に、
 「病気療養をするように」という勅命を出されて、戦線
 から呼び返された。
  そして、山縣は、12月に、帰国した。
  無念の帰国を余儀なくされた山縣であったが、伊藤・
 井上らが、山縣の今後について打合わせ、天皇陛下も体
 面をお気遣いされ、山県に第一軍司令官と枢密院議長を
 免じる代わりに監軍に据え、2回目の元勲優遇の詔勅を
 下すなど、山縣を少しでも慰めようと御配慮された。
  その甲斐あってか、帰国後、山縣は体調を回復し、戦
 後の1895年8月5日に、第二軍司令官だった大山、西郷従
 道海軍大臣と共に、日清戦争の恩賞として旭日桐花大綬
 章、功二級金鵄勲章を授与され、伯爵から侯爵に昇叙さ
 れた。
.
1894年11月、伊藤内閣、自由党との提携趣意書を発表した。
.
1894年12月1日 奥羽北線(おううほくせん)青森~弘前間
 が開通した。
  官設鉄道の青森~弘前間と、日本鉄道会社線との連絡
 運輸が開始された。
.
1894年12月9日、上野の不忍池畔で、戦勝祝賀会が東京市民
 有志の手によって開かれた。
  第2回も開く予定であった。
  市民も「公明正大なる戦争」とし、その戦争の連戦連
 勝を喜んでいた。
  参加は満15歳以上で、50銭の会費を払って会員となり
 会券、会章、昼餐券を受け取った。
  朝の7時半に日比谷練兵場に集合し、桜田門から宮城前
 広場で万歳三唱し、丸の内から日本橋、そして、上野公
 園へ歩いた。
  旗や幟(のぼり、細長いきれの一端を竿の先に付けて
 立てるもの)を立て、山車を曳いた。
  9時頃、上野公園に到着した。
  10時から儀式を行なう。
  東京市長の祝文朗読や、東京市会議員らの挨拶、靖国
 神社の宮司の戦捷(せんしょう、戦勝)祝祭の執行、万
 歳三唱で終わった。
  その後、種々の余興見物となる。
  「川上音二郎戦地見聞日記」の野外劇が上演され、野
 戦病院の体験、陸海軍の手踊りなどが行なわれた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:ルーズベルトは、当時のアメリカ政界で、対日戦争の
   計画の中心に居た。
    それだけではなく、戦争のすべてに、ルーズベルトは
   関わっていた・・戦争政治家そのものだった。
.
1521年、アステカ王国が滅亡した。
  そして、1533年には、インカ帝国が滅亡した。
  その他の地域においても、ひどい殺戮行為が続けられ
 各地で全滅が相次いだ。
  メキシコ以南の北米・中米・南米、そして、その離島
 のインディオの方々は、スペイン・キリスト教徒とキリ
 スト教聖職者たちに虐殺され、全滅していた。
  未曾有の人類史上最悪の極悪行為だった。
  この行為が行われる最初、現地に着いた殺戮者たちは、
 現地の人たちの取り扱いについて「どうするか?」と、
 バチカンのローマ法王(教皇)へ質問した・・
  回答は・・「人ではない」だった・・
  ここから大虐殺が50年に渡って行われた。
  この事について、あまりにも卑劣な行為をして来たキ
 リスト教聖職者のラス・カサスが、このままでは天国へ
 召されないと、行かれないと、本国のスペイン王へ報告
 した。
  50年もの殺戮の歳月が流れた後だった。
  その報告を聞いていたスペイン王とその側近の面々は、
 そのすべてを聞くことに耐えられず、「本に記せ」と言
 った。
  その本が、「インディアスの破壊についての簡潔な報
 告」である。
  当然、この本には、キリスト教徒とキリスト教聖職者
 たちが行なった史上最悪の蛮行(南北アメリカ大陸など
 の卑劣な殺戮)が記されている。
  その記述の1例・・49頁~・・
  キリスト教徒等に、300人のインディオが分配され渡さ
 れて、3ヶ月のうちに、そのうちの270人が鉱山労働で死
 んでしまい、
  生き残ったのは30人に過ぎなかった。
  3ヶ月か、4ヶ月の間に、約7000人以上の子供が餓死し
 た。 
  両親が鉱山へ連れ去られてしまったからである。
  また、
  私(キリスト教聖職者)は、このほかにも数々の身の
 毛がよだつような出来事を目撃した。
  (この聖職者らは、何ら、インディオの方々を助けよ
 うとはしなかった・・その様な悪漢である)
  その後、また、インディオ達を狩り出しに行くことに
 なった。
  結局、キューバ島を荒廃させ、全滅させてしまった。
  総督は、無慈悲で無分別で、
  (今さら、インディオたちが死んでしまった後、こん
 なことを言ったって、この聖職者たちは殺すがままにさ
 せていた悪漢)
  彼らの行った忌まわしい行為は、それまでのものをこ
 とごとく凌(しの)いでいた
 (他人に悪さを転嫁するな、誰も居なくなった荒れ地に
 キリスト教会を建てただろう)。
  金(きん)も非常に豊かであった。
  それまでは、地上にそんなにも多くの金があろうとは
 思いつかなかった。
  金の在所(ありか)を白状させ、
  数々の新しい虐待や拷問の方法を考え出した。
  (止めろとも言わなかったキリスト教聖職者たち、今
 頃、弁解したって死んでしまったではないか)
  その聖なる使命をいつもないがしろにしていた。
 (君たち、キリスト教聖職者たちが聖ではないのだ)
  全世界に行ってすべての人々に福音を述べ伝えよ。
 (福音ではないよ、殺しに行っただけではないか、総
 べて殺して)
  さもなくば、妻子ともども生命をも失なうことになる
 であろう。
  盗賊と変わらない行為をする部下たちを先に派遣し、
 われらは神とローマ教皇、それに、この地の君主である
 カスティーリャノ国王についてお前たちに知らせにやっ
 てきた・・云々。
  さもなければ、われらが即刻、戦さを仕掛け、お前た
 ちを殺したり捕えたりすることになると心得よ。
  夜の明けそめる頃、大半が藁造りのインディオ達の家
 に火を放った。
  (キリスト教聖職者たちは止めもしない)、
  殺戮をほしいままにし、彼らに奴隷の焼印を押した。
  火勢が弱まるか、火が消えると、彼らは焼け落ちた家
 の中にある金を探しに出かけた。
  官吏たちとて例外ではなかった。
  キリスト教の司教も、その御利益にあずかろうと側近
 の者たちを派遣した。
  (ほら見ろ、キリスト教聖職者たちも欲にまみれた悪
 漢だったのだ)
  数人の無法者の総督が引き続きその地へ赴いた。
  生きのびたインディオ達を暴虐的な奴隷状態へ陥れ、
 挙句の果てに殺害した。
  また、彼らは部下たちが同じように振る舞うのを認め
 ていた。 
  (キリスト教聖職者も同罪・・キリスト教は、世界の
 あちこちでこんな事ばかりしている)
.
1581年、ポルトガルのアビス王朝が倒され、1581年以来、
 スペイン国王へりーぺ2世の支配を受ける屈辱のポルトガ
 ルの歴史が始まる、時代に入る。
  スペインは統一を完成し、まっとうして、中南米へと
 進出して行く・・そして、ここで悪名高い卑劣な虐殺を
 行なう・・1000万人以上というインディオの方々の殺戮
 の限りを行なう・・
  そのキリスト教徒とキリスト教聖職者たちは、先住民
 のインディオの方々の殺戮の限りをし尽くし、50年とい
 う長年に渡る卑劣な行為を行なう・・そして、その悪に
 染まった殺戮者たちは太平洋へ出て来る・・
  ルソンへ進出する・・そして、ここを本拠とし・・
  日本と接触を始める。
  日本は信長・秀吉の時代だった。
  そして、日本を中米・南米などのアメリカ大陸と同様
 な植民地にしようという魂胆でやって来る・・その任務
 を秘めたキリスト教宣教師たち・・
  しかし、その魂胆が見破られ・・また、許可を得て始
 めた南蛮貿易での悪行・・若い日本の女性を海外へ連れ
 去る人身売買の悪行が見破られ・・陰で悪行の限りをす
 るキリスト教宣教師たちは「国外対処処分にされる」。
  おとなしく言われるように日本を去ったものは何事も
 無かったが・・命令に反して潜伏したキリスト教宣教師
 たちが悪の根源だった・・
  今・現在、キリスト教は、「禁教だ」「禁教だ」と叫
 ぶが、キリスト教側が命令に従わない事から、何事も話
 が始まるのだ・・身から出た錆、キリスト教の悪行から
 発しているのだ。
  「長崎の26聖人」なんて言っているが、命令違反の潜
 伏キリスト教宣教師たちにたぶらかされた犠牲者たちだ。
  そして、豊臣秀吉は、1598年に没する。
  時代は徳川家康の手に移って行く・・そして・・
  1600年を参照・・
.
1600年、オランダ船のリーフデ号が豊後(大分県)に来た。
  それに先立つ12年前の1588年、スペインは、世界に君
 臨していた無敵艦隊を壊滅させられた。
  極悪のスペインの命運はここまでだった。
  海上権を失ったスペインの悪行もここまでだった。
  スペインからの独立戦争を戦っていたオランダと、そ
 のオランダを支援していたイギリスに、その主導権は移
 る・・、
  スペインは政治的にも、また、経済的にも後退して行
 った。
  オランダ・イギリスは、1595年以来、国を挙げて東洋
 航路を開拓していた。
  オランダは、1598年、5隻の艦隊をマゼラン海峡を回る
 航路で東洋へ向かわせた。
  そして、その1隻が、僚船を失いながらも、1600年に、
 日本の豊後に至ったのだった・・その船がリーフデ号。
  徳川家康は、その船の航海長のイギリス人ウィリアム・
 アダムスを大阪に呼びつけ、オランダとイギリスとの貿
 易を許した。
  オランダは、すぐに応じて、ジャワを根拠地とした。
  そして、1609年、平戸に商館を建てた。
  イギリスも、1613年に、平戸に商館を建てた。
  そして、徳川家康から自由貿易の朱印状を得て、盛ん
 に貿易を始めた・・日本は開かれていた。
  ポルトガルは、独占的な対日貿易権を失った。
  それと同時に、ポルトガル系の日本イエズス会にも大
 きな打撃が与えられた。
  はじめポルトガルが、日本のキリスト教の布教を始め
 ていた。
  1585年1月には、ローマ法王(教皇)の「日本布教は、
 ポルトガル(イエズス会)がせよ」という命令も出てい
 た。
  しかし、その様な命令も無視され、スペイン系フラン
 シスコ会が日本に来て布教を始めた。
  この様な事で、キリスト教の会派同士の確執と争いが
 生まれた。
  この様な事からローマ法王(教皇)は、1600年12月、
 前言を取り消して、再度、命令を出した・・
  「諸会派が日本で布教しても良い」・・と。
  ここに「ポルトガルイエズス会」の日本布教の独占権
 は破棄された。
  そこで、1602年、スペイン系の諸会派が、日本布教を
 始めた(ドミニコ会、アウグスティノ隠修士会)
  そして、1608年6月、また再び、ローマ法王(教皇)は
 命令を出し・・
  「日本の布教は、完全に自由だ・・みんな勝手にやり
 なさい」・・と。
  誰がやっても良いぞーという中で、ポルトガルのキリ
 スト教会派とスペイン系の会派は、日本で陰湿な争いを
 始めた。
  この両国は、国民感情も対立していて、キリスト教会
 派も対立が激しかった。
  いがみあいは、特に、イエズス会は、各会派から集中
 的に激しい論難が加えられていた。
  この対立は根深く、陰湿で、対立解消には至らなかっ
 た。
  家康は、キリスト教が素晴らしい宗教だから布教を許
 したなどという事では、当然、無く・・
  家康の目的は、貿易を独占的に行うことと、新しい西
 洋の技術を得ることにあった。
  1599年には、早くも家康は、江戸における布教を許し
 ていた。
  そして、浦賀を開港していた。
  そして、鉱山採掘技師を連れて来させたりしていた。
  1602年には、江戸及びその周辺の布教に拡大した。
  キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)で、日本の状況
 が陰湿な状況へ捻じ曲げられているが・・キリスト教が
 悪いことをしなければ、日本は、大変、開明的だったの
 です。
  (参考)開明的:かいめいてき、優れた洞察に基づい
     て、新たな分野に積極的に取り組むさま。
     ・
     ・
1941年、アメリカは、日本を煽(あお)るため、アメリカ
 軍艦に日本領海侵犯航行をさせた(今の中国みたいなも
 のだ)
  策士・ルーズベルトは、何としても最初の一発を日本
 に撃たせたかった。
  また、日本が、先に、撃った事にしたかった。
  アメリカの国民の方々は、8割以上が戦争反対だった。
  ルーズベルトは、その世論を無視して、日本を煽(あ
 お)るために、1941年に、アメリカ巡洋艦を日本領海内
 に侵入させた。
  そして、日本と「衝突事件を引き起こそう」と不埒(
 ふらち)な事をさせていた。
  また、日本への石油の輸出を止めた。
  今・現代でもそうだが「石油が止まったら、国の息の
 根は止まる」・・ルーズベルトは、この様な戦争が起き
 かねない重大な事をした。
  そして、ルーズベルトがした事は、「ハル・ノート」
 だった。
.
1941年4月、本当の日米開戦
  日本へ隠密に奇襲攻撃をするアメリカだった。
  アメリカ軍が、中国軍の振りをして日本軍を奇襲攻撃
 していた。
  これが、日本とアメリカの戦端が開かれた史実・事実・
 真実となっている。
  アメリカに擦(なす)り付けられた日本の奇襲の悪名
 は、この史実から・・『ない』と言える。
  既に、アメリカの奇襲による先制攻撃で、日本とアメ
 リカは交戦状態にあった。
  アメリカ軍は、卑怯にも中国軍を装って、実際はアメ
 リカ軍の航空師団フライング・タイガーで奇襲した・・
  軍籍を外したりして偽装した。
  このアメリカ軍が、中国戦線に投入され、日本軍と交
 戦していた。
  れっきとした日米の戦争状態で、アメリカは言い逃れ
 できない。
  アメリカは、卑怯にも、正式の宣戦布告などしていな
 い。
  卑怯で卑劣な事をするアメリカであるが・・、
  フライング・タイガーを、アメリカは、民間ボランテ
 ィアだと言い訳をした・・、
  そして、真珠湾では・・
  日本が真珠湾の攻撃をする前に、アメリカ軍が、航行
 速度が遅い日本の潜水艦は、先行して真珠湾に達してい
 て、この先行していた日本の潜水艦を攻撃した。
  日本の真珠湾攻撃の前に、アメリカが日本の軍艦を攻
 撃して、戦端を開いていたのだった。
  この時、アメリカは『あれはクジラだった』と、また
 また、アメリカは苦しい言い訳をした・・が・・、
  5隻の日本の潜水艦が未帰還になった。
  この5隻のすべてを、アメリカは「クジラだと言いたい
 のか?」。
  また、1隻に2人の搭乗員が居て、9名は戦死したが、1
 名の日本の搭乗員をアメリカは救助した。
  クジラから出て来た日本の潜水艦の搭乗員である。
  アメリカは、言い訳ができないのである。
  そして、また、この中国でのアメリカの日本への先制
 攻撃を、最近、アメリカ大統領が、直接、『許可を与え
 る』という命令をしている事が判明した。
  この様な、明確な行為を、アメリカ大統領がしていた
 事が判明した。
  攻撃許可は、開戦である・・交戦である・・戦争状態
 に入る事である。
  れっきとしたアメリカの宣戦布告なしの開戦である。
  アメリカの奇襲状態の開戦である。
  米国立公文書館に、この動かぬ証拠がある。
  逆に、アメリカは、日本に奇襲攻撃を既にしていたと
 いう事実をアメリカは国民に公表せよ・・、
.
1941年11月27日、戦争へ向けて暗躍するルーズベルト大統領
  第二次世界大戦の重要史料である「モンゴメリー・ハ
 イド文書」などが、100年後の2041年まで秘密にされた。
  都合が悪いから、秘密にする期間を延ばした。
  都合がよければ、逆に、どんどん公開するわけだ。
  本・『操られたルーズベルト』より
  ・・・
  ルーズベルト大統領が真珠湾攻撃の舞台回しをして、
 (日本軍の)来襲があることを知っていたことの最も反
 論できない証拠は、H・モンゴメリー・ハイド『3603号室、
 イギリス諜報機関の話』に出ている。
  この本は、ロックフェラーセンターの36階3603号室で
 執務していた、イギリス秘密機関長ウィリアム・ステフ
 ェンソンが、日本をアメリカとの戦争に引き込み、従っ
 て枢軸国との戦争へアメリカを引き込むことを、ルーズ
 ベルト大統領や他のアメリカ高官と謀議したその詳細を
 記述している。
  モンゴメリー・ハイドは、さらに詳細に述べている(
 以下、同書より引用)
  「ステフェンソンはイギリス籍で、日本で50年過ごし
 たエージェント(工作員)を、栗栖使節団に潜入させる
 ことにある程度成功した。
  このエージェントは、栗栖使節団のユキという人物に
 接触し、あらかじめ会話を盗聴する仕掛の設備をしたワ
 シントンのアパートで幾回か会った。
  この記録から得られた情報は、文書化され、そのコピ
 ーはステフェンソンによって、毎日、ルーズベルト大統
 領に届けられた。
  これは、当時、暫く前から傍受解読されていた東京と
 ワシントン間の外交電報を補強するものであった。
  1941年11月27日、ルーズベルト大統領は、彼の息子ジ
 ェームズ・ルーズベルトに、特別のメッセージを持たせ
 てステフェンソンのところへ送ったが、その意図は、イ
 ギリス外務省もワシントンのイギリス大使館もまだ分か
 っていなかった。
  その同じ日に、ステフェンソンは、それをロンドンに
 送った。
  彼の電報は、次のようなものだった。
  『日本トノ交渉ハ打チ切ラレタ』。
  『軍ハ2週間以内ノ戦闘ヲ予期ス』
  私は繰り返します。
  電報は、『日本トノ交渉ハ打チ切ラレタ』。
  『軍ハ2週間以内ノ戦闘ヲ予期ス』
  想像されるように、この電報は、ロンドンに巨大な激
 動を与えた。
  そこで、ワシントンにいたハリファックス卿(訳注・
 駐米イギリス大使)に、直ちに、電報してその確認を求
 めた。
  他の至急報がロンドンから、今度は、ステフェンソン
 宛てに出されたが、それは、首相と閣僚が彼の情報源を
 知りたいというものであった。
  ステフェンソンは簡単に返電した。
  『(情報源は)アメリカ大統領(ルーズベルト)』
  2日後の11月29日に、コーデル・ハルは、ハリファッ
 クス大使に会い、そのニュースを公式に伝えた。
  その際、コーデル・ハルはこう言った。
  『日本との外交関係は事実上終わった。
  仕事は、既に、陸海軍の手に渡った。
  日本は、今や突然に動き、それも完全な奇襲の要素を
 持つであろう』」
  ヒルダーとルーズベルトの娘婿のドール大佐とのやり
 取り
  ◆ヒルダー:私は、丁度、1971年3月26日付ロサンゼル
 ス・ヘラルド・エキザミナーの「秘密報告」と題する記
 事を見ました。
  ジョン・チェンバレンは、そのコラムで、他の一人の
 CFRのメンバー、故トム・デューイ元ニューヨーク州
 知事、共和党から大統領候補として出たデューイはパー
 ルハーバーの真相を知っていた、と書いています。
  この記事でチェンバレンはデューイ知事に個人的にイ
 ンタビューしたと述べています。
  「1944年になってデューイは、『パールハーバーのし
 ばらく前、最高機密の日本の暗号が破られ、次の日に、
 太平洋の何処かで攻撃が始まることを、ホワイトハウス
 は15時間以上前に知っていたことが分かった』と言って
 いた。
  正確な位置は指摘できなかったにしろ、太平洋のあら
 ゆる我々の基地は警報されるべきであったのです」
  ◆ドール:12月7日のその日曜日の朝9時、奇襲攻撃の
 約4時間前に、スターク提督は、彼の部屋で14項目の日本
 の返事を受け取り、一緒にいたマーシャル将軍に向かっ
 て叫んだ。
  「大変だ!これは戦争だ」。
  「直ぐキンメルに知らせなくちゃ」
  ヒルダー:もし彼が電話でキンメル将軍に通報してい
 たとすれば、奇襲は避けられたでしょうか。
  ドール:はい、私はそう思います。
  ロバート・A・セオボールド提督は、『真珠湾最後の秘
 密』の中に、電話連絡はされなかったという事実を書い
 ています。
  今でも、アメリカの大衆に「完全には明かされていな
 い」、
  何らかの強い力、あるいは圧力が、キンメル提督に適
 切、迅速に警報することを止めたのです。
  キンメル自身が私にこう語りました。
  「スタークは、『我々はキンメルに無電を打って、警
 戒させなければならん』とマーシャルに言いましたが、
 彼はそれを止め『それはやめよう、そうすると日本人に
 気付かれ、事態を複雑にする。
  私は後から彼に電報しよう』。
  彼は、確かに、商業通信線を使う普通電報で私に知ら
 せたのです。
  至急便ではなく、普通便扱いで。(その結果)すべて
 の爆弾が落ちてしまって約2時間後、確かに、私は、マー
 シャルの電報を受け取ったよ」
  ヒルダー:マーシャルもCFRのメンバーですか。
  ドール:確かにそうでしょう。
  ヒルダー:マーシャルの行動はとても理屈に合いませ
 んね。
  日本人に探知されると事態を複雑にするから、キンメ
 ルへの通報を止めさせるというのは、大変不思議ではあ
 りませんか。
  ドール:もちろん非常に不思議です。
  (参考)
  12月8日を記憶せよ!
  「私は決して宣戦はしない。私は戦争を造るのだ。」
  カーチス・B・ドール著『操られたルーズベルト』
.
1953年6月19日、この日の夜、ローゼンバーグ夫妻の死刑
 執行がアメリカ合衆国でなされた。
  ソ連のスパイとして、核機密を、ソ連へ漏洩したロー
 ゼンバーグ夫妻だった。
  日本で、この夫妻の無実を訴えて、救済運動に関わっ
 た共産主義者が多かった。
  そして、近年、夫妻が、本当に有罪だったことが確認
 された。
  それでも、「しらばくれる日本の共産・左翼の知識人
 たち」だった。
  反論すると墓穴を掘ると思うから、議論をしないとい
 う卑劣な態度をとった。
  この様な事は、キリスト教の神学者や聖職者たちにも
 言える。
  最近、「ヴェノナ文書」が公開されて、ローゼンバー
 グ夫妻が、実際に、スパイ活動を行なっていたことが明
 らかになった。
  刑の執行は、ニューヨーク州シンシン刑務所で、同じ
 電気椅子で、最初に、夫ジュリアスが午後7時6分に執行
 され、次に、妻エセルが午後7時16分に執行されるという
 やり方で、それぞれ処刑された。
.
1960年代の半ば、エドガー・スノーは、中国のプロパガン
 ダに心酔し、中国共産党にべったりという状態になる。
  1960年代の半ば頃、そのあまりにもおかしいスノーに、
 ジャーナリストとして客観性を欠いていると批判が出る。
  そして、スノーもさすが自分が毛沢東に騙(だま)さ
 れていると、中国に対して懐疑的になった。
  「今日の赤い中国」で有名になるが、大躍進による大
 飢饉(中国国民の4000万人が死んだと言われている)を
 否定する。
  (そんなことは起きていない・・と)など、
  しかし、毛沢東の言うがままを書いたに過ぎないと批
 判され、スノー自身も、「後に自らの無知を認めている」。
  1970年~1971年、エドガー・スノーは、妻を伴った最
 後の中国大陸への旅では、リチャード・ニクソン大統領
 は公私どちらの訪問であっても歓迎されるだろう、と述
 べている。
  ホワイトハウスは、このスノーの訪問に興味を示した
 が、スノーを信頼していなかった。
  しかし、この時、毛沢東の個人崇拝の強制(毛沢東は、
 スノーに「個人崇拝は政治的に必要であり、中国には皇
 帝崇拝の伝統がある」と言った)や・・、
  革命に参加した友人の息子が中華人民共和国で逮捕・
 拷問された(周恩来の介入で、スノーは生還できた)こ
 となどにより・・、
  中国共産党率いる中華人民共和国に対して、幻滅の感
 を持つに至った。
  そして、中国へのゴマすり小説の『中国の赤い星』を
 書いたことを後悔していると妻へ語った。
  ユン・チアンとジョン・ハリディは、「マオ(誰も知
 らなかった毛沢東)」で、スノーを、毛沢東のスポーク
 スマンで、毛沢東の神話化に加担した、そして、共産党
 をロマンチックに描写していると批判した。
  また、ジョナサン・ミルスキーも、スノーは、周恩来
 や毛沢東からの信頼を得ていることに満足していたため、
 大躍進の(巨大な中国国民の死)の被害を見ることもで
 きなかったと述べている。
  しかし、それでも中国は、「スメドレー・ストロング・
 スノー協会」を組織し、プロパガンダ(嘘宣伝)映画も
 作り、せっせと世界を誤魔化している。
  2006年、ロイス・ホイラー・スノー夫人は、インタビ
 ューで、「彼は、今日の中国の姿を、決して是認しなか
 ったでしょう」と語り、中国の何事に対して、不誠実な
 姿を批判している。
.
1972年、中国の「第二期対日解放工作要領」
  中国は、情報工作を必死にやって来た。
  「32年テーゼ」がある。
  (参考)32年テーゼ:1932年5月に、コミンテルンで決
     定された『日本における情勢と日本共産党の任
     務に関するテーゼ』のこと。
      日本から片山潜、野坂参三、山本懸蔵らが参
     加し、討議している。
  また、強く日本へ影響を与えた1972年に出された「第
 二期対日解放工作要領」がある。
  この中には『日本をまるまる中国共産党の為に利用す
 るには、日本国民を心理的に取り込む必要がある」と書
 かれている。
  そして、1998年の「21世紀の中日関係の展望」でも「
 日本は、もはや政治大国になれないのだから、中国の為
 に日本の力、特に、その経済力や技術力を活用しなけれ
 ばならない。
  日本人をコントロールするため、日本人に歴史問題を
 突き付けて、日本人を後退させる」と書かれている。
  そして、日本国内の大学のあちこちに孔子学院を作っ
 ている。
  ドイツのメルケル首相が「儒教でも教えるのかと思っ
 たら、中国のプロパガンダ(中国思想の洗脳機関)だっ
 た」と嘆いたごとくだった。
  今、世界が、中国の嘘宣伝工作に気付いて来た。
  アメリカは、「孔子学院の閉鎖の大統領令が出された。
 アメリカでは、孔子学院が次々と閉鎖されている。
  しかし、中国の陰湿なしつこさは、「各大学に中国研
 究センターの類いを作らせてところだ」。
  非常に重層的に、中国は、世界の工作網を作っている。
  中国のプロパガンダの歴史は、非常に長い歴史がある。
  中国にとってこのようなレベルは、お手のものなのだ。
  日本では、「日本学術会議が取り込まれている」。
  日本学術会議は、「戦争反対を美しい名目にして、日
 本の防衛に必要不可欠な研究成果を使わせない」として
 いる。
  中国が喜ぶだけだ。
  日本学術会議が、中国に取り込まれる歴史は、非常に
 古い。
  その1例、1955年6月、日本学術会議は、多くの面々が
 顔を連ねて、東大総長を団長として、中国へご機嫌うか
 がいの北京訪問をする。
  そして、工作員上がりの郭沫若と会う。
  そして、挨拶で、「中国のお役に立てる研究者たちを
 連れて来ました。
  それが、何よりも一番の中国のお役に立つお土産にな
 ると思いまして」と挨拶する。
  日本の技術を欲しがっている中国の要望に応じるとい
 う日本学術会議となっている。
  公然たる「日本裏切り団」となっている。
  「産業スパイ団」となっている。
  また、これは、「チンコム(対中輸出統制〉違反」と
 なっている(1957年まで実施)。
  そして、この時、郭沫若は、繰り返し繰り返し強烈な
 毛沢東讃美演説をしている。
  日本学術会議の面々は、この様な中国共産主義思想の
 洗脳を受け、そして、タイコモチ化した日本学術会議の
 面々が日本に帰って来た。
  この様な、中国のしつこい行為の繰り返しがなされて
 いた。
  1940年代の延安に逃げて、隠れていた中共は、ここで、
 中共が何をやっていたかを知っているはずの日本学術会
 議団なのに、洗脳されて、有り難がって日本に帰って来
 た。
  延安の中共が、中国国民の方々を、大勢、殺すという
 大粛清をしていることも知っていて・・、
  そして、目の前に居る人たちが、その様な虐殺行為を
 していることも知っているのに、まったく思い出せない
 という洗脳の輩状態となっている。
  そして、その後に、日本への裏切り行為をする。
  折角の研究成果を、日本に使わせないという、中国が
 喜ぶ行為をする。
.
1979年、古田博司氏(筑波大学教授)は、若い時、共産主
 義にかぶれ、共産主義の本質がまだ見れていなかった。
  26歳の時、憧(あこが)れ続けていたソ連へついに旅
 立った。
  社会主義国の素晴らしさが見たかった。
  ソ連では監視員が付き、自由に見ることを拘束された。
  古田氏は、監視員をまいて、自由の身になって、裏町
 を見るのが好きだったので、勝手に歩き回った。
  すると、ソ連の街中では、失業者の群れに出くわした。
  社会主義国には、失業者は居ないと教えられていたの
 にと・・言われている事と実際がまったく違うという現
 実を見た。
  町の建物の壁には、「旋盤工を求む」とか、「ミシン
 工を求」とか、求人の貼り紙が張ってあるし、平等に皆
 に仕事があると聞いている話とまったく違った。
  食糧は、集団農場で、毎年、増産されているという話
 もデッチアゲで、野菜売り場には巨大な瓜があるだけと
 いう貧弱さ。
  色々と見て、今まで話に聞いていたことは、まったく
 のプロパガンダ(嘘宣伝)であるという事がすぐに分か
 った。
  共産主義国は、この様な話が満ちていた。
  ソ連は、その後、破綻するが・・、
  共産・中国は、今なお、中国共産主義独裁政権が政治
 を牛耳っている。
  ・・が、このソ連の例が、この国にも当てはまる様相
 になりそうだ。
  虚偽によって「世界をだぶらかせている」。
.
1991年1月、橋本龍太郎蔵相が訪中した。
  この行動が罪作りで最低だったのは、中国が天安門事
 件で、中国の自国民を戦車で轢(ひ)き殺し、また、中
 国人民解放軍が(解放軍なんて呼べないような行為をし
 た軍)、自国民へ向かって銃を乱射した。
  大勢の中国の方々が亡くなった。
  100万人の規模で集まった中国の現政権への不満を持っ
 た人々・・この様な天安門前の中国の民を卑劣なやり方
 で殺し、抑え込んだ。
  当然、全世界から非難の嵐となった。
  この様な残忍で凶暴な「人権弾圧への非難の嵐」の中
 国へ、国際社会が強く抗議し、制裁している中国へ、こ
 の馬鹿な日本の蔵相の橋本龍太郎は、最低にも、ゴマす
 り訪中をした。
  最初の先進諸国のトップ級の恥ずかしい訪問劇となっ
 た。
.
2005年、中国の毛沢東の伝記「マオ(誰も知らなかった毛
 沢東)」(講談社)が出版された(著者:ユン・チアン
 氏)。
  この中で、毛沢東が、大躍進政策で約4000万人もの中
 国国民を死に追いやったと記されている。
  中国は、きちんとした説明はしていない。
.
2006年10月、チベットの仏教僧侶が亡命しようとしたとこ
 ろ、中国の人民解放軍が銃撃して殺した。
  この映像が珍しくネットに流れた。
  しかし、この事件に対して、日本のNHKはじめメデ
 ィアは、まったく「ホッカムリ」して報道しなかった。
  報道したのは、僅(わず)かに「産経新聞」と「週刊
 新潮」だけだった。
  NHKはじめ日本のメディアは、中国を怖(こわ)が
 って報道しなかった。
  アメリカのオバマ大統領も北朝鮮の核が怖くて、しっ
 かりした対応ができなかった・・その結果、とうとう北
 朝鮮は、核を持ってしまった。
  だから今、トランプ大統領が大変な苦労をしている。
  正義をかざして闘う姿勢を示さない「NHKはじめ日
 本のメディア」の腰抜け状態。
  日本国民の方々は、まったく気づかずに置かれる状態
 になっている。
  NHKという放送局は、日本国内の殺人事件ばかり報
 道して、海外を報道しない傾向にある。
  「殺人事件好き(すき)」のNHKとなっている。
.
2007年6月27日、アメリカ下院で、「慰安婦問題に関する
 対日謝罪要求決議」がなされた。
  日本は、アメリカのこの「2007年6月27日の『対日非難
 決議(アメリカ下院外交委員会)』を可決」は問題だっ
 たと「取り消し決議を要求するべきだ」。
  この決議案には間違いがあまりにも多い。
  多くの史実において間違いが存在する。
  また、卑劣な多くの史実の歪曲がある、そして、悪意
 ある捏造に満ちている。
  日米首脳会談の折の話し合いの議題の一つとすべきで
 ある。
  この様な決議が、アメリカ下院の外交委員会で可決さ
 れてしまう根本には「長年にわたる中国のプロパガンダ
 がある」。
  今・現代も続く、この様な中国の卑劣なプロパガンダ
 の存在を「アメリカに認識させる意味」でも、この様な
 「間違った決議を訂正させる行為は、重要なのだ」。
  「ただ単に、過ぎ去った過去の間違い決議の名誉回復
 のために『訂正を要求するという話』とは違うのである」。
  中国が捏造して、長年、行って来た中国の嘘の歴史の
 植え付けの洗脳行為を気付かせる行為は、『重要な外交
 会談の議題』なのだ。
  この重要性を、また、必要性を、御感じ戴きたい。
  アメリカの議会には、何度も事実に基づかない話が上
 程(じょうてい、議案を会議に欠けること)されている。
  日本を貶(おとし)める「中国のアメリカへの働きか
 け」は、しつこいのだ。
  この様な捏造の作り話に、日本は丁寧に、その総べて
 に反駁する必要がある。
  この様な日本を失墜させる行為には、必ず、事実を説
 明する必要が当然ある。
  馬鹿々々しい話が、黙っていることによって「本当な
 のだ」の話に代わって行くのである。
  例えば1例・・、
  「慰安婦の中には13歳という若さの少女や、自分の子
 供から引き離された女性も含まれ、彼女らは、自宅から
 拉致されたりした。
  さらには、多くの慰安婦は最終的に殺害されたり、交
 戦状態が終了した際には自殺に追い込まれた。
  その結果、歴史家は、20万人もの女性が奴隷化され、
 その内わずかしか今日まで生存していないと結論付けて
 いるという」と記されている。
  これは、まったくあり得ない・・完全な作り話である。
  この様な事を見過ごす日本外交は、あり得ない。
  これらの一つ一つに丁寧に反駁していくことが、『日
 本外交の最重要課題である』。
  他に最重要課題があるからと、この様な日本の一番大
 切な「日本の立ち位置を覆(くつがえ)されている状態
 を放置する事が無いようにせよ」。
  その一つ・・、20万人なんてまったくあり得ない嘘で
 ある。
  20万人と言えば、1945年3月10日、アメリカが、大規模
 で東京を大空襲した。
  この時、大勢の方々が焼き殺されたが、その犠牲者の
 倍である。
  広島の原爆の犠牲者よりさらに多い。
  その様な大虐殺を日本軍が、終戦時に行ったというの
 ならば、その史実的根拠を示せ!
  その責任は、『アメリカにはある』。
  ただ、中国から言われたから、プロパガンダされたか
 らでは済まない。
  アメリカは、その総べてについて根拠を示せ!
  そのことが出来ないなら、『アメリカは、訂正決議を
 せよ!』。
  過去の決議を破棄し、日本へ謝罪せよ!
  事実・史実・真実を先に言うのならば「事実無根であ
 る」。
  中国のプロパガンダの『そのままである』。
  また、日本の議会は、このアメリカの決議の『非難決
 議をせよ!』。
  国際司法裁判所へ「アメリカの名誉棄損を訴えよ!」。
.
2016年、日本企業の海外進出ランキング
 1.中国--------- 32,313(55.1%)▲1,077(▲3.2%)
  2.アメリカ----- 8,422(14.4%) 573( 7.3%)
 3.インド------- 4.590( 7.8%) 275( 6.4%)
 4.ドイツ------- 1,811( 3.1%) 34( 1.9%)
 5.インドネシア-- 1,810( 3.1%) 113( 6.7%)
 6.タイ---------- 1.783( 3.0%) 58( 3.4%)
  7.ベトナム------ 1,687( 2.9%) 109( 6.9%)
  8.フィリピン---- 1,440( 2.5%)▲ 8(▲0.6%)
  9.マレーシア---- 1,362( 2.3%)▲ 21(▲1.5%)
 10.台湾---------- 1,152( 2.0%) 27( 2.4%)
 11.シンガポール-- 1,141( 1.9%) 25( 2.2%)
  12.メキシコ------ 1.111( 1.9%) 154( 16.1%)
  計 58,622(100 %)
  2016年の進出企業数、その%、前年比増減、伸び率
  中国への進出企業数が55%と圧倒的の多が、3%の減と
 撤退傾向にある。
  次に撤退傾向にあるのはマレーシア、フィリピンと続
 く。
  進出企業数の伸び率が高いのはメキシコで16%増。
  次がアメリカで7%増、
  その次が、ベトナム、インドネシア、インドの6%台。
  そして、日本のNHKはじめマス・メディアなど一般
 紙も、中国に進出した日本企業が、どんなに悲惨な目に
 遭(あ)っているか、まったく報道しない。
  中国に進出した日本の銀行が、中国企業に貸した金が、
 次々に不良債権となり、金が回収できない。
  そこで、それを取り戻そうと裁判を起こそうとするが、
 卑劣な事に、「その裁判を起こそうとする事が禁止され
 る」。
  中国では、法も正義もあったものではないことが起き
 ている。
  中国の有利なように、何でもくるくる変えられてしま
 う。
  WTOに加盟した中国は、そのWTOの規約も何もあ
 ったものではない国と化している。
  しかし、日本のNHKや新聞は、これを報道しない。
  この様な事に限らず、中国共産党の熾烈(しれつ)な
 権力闘争も、まったく報道しないし、中国の本当の経済
 状態も報道しない。
  日本国民をまったくつんぼ桟敷に置いている。
.
2018年、アメリカでは、ルーズベルトの評価が割れている。
  アメリカ経済をニューディール政策で復活させた聡明
 な大統領だと評価するグループ。
  しかし、その見方は浅い。
  ルーズベルトを評価しないグループの方々は、もっと
 深い見方をする。
  道路やダムなどの公共土木事業だけで経済を復活させ、
 人々の賃金を上げ、生活苦の人々を援助できる復活は無
 理だったと指摘する。
  しかも、その時は、史上まれに見る大不況・恐慌に見
 舞われていたのである。
  聡明なルーズベルト派もそのことを知っていて、且つ、
 ルーズベルトは、それまでの職歴から、戦争による経済
 回復の実例を良く知っていた。
  ルーズベルトは、確信的に戦争を起こしたいと思って
 いた。
  本格的にアメリカ経済を回復させるには、戦争による
 浪費と、それに伴う大がかりな生産能力の拡大と、経済
 の拡大しかないと・・。
  ルーズベルトは、ニューヨーク州の知事を勤めたが、
 それ以前は、海軍次官としてアメリカ海軍の増強に全力
 を挙げた。
  その時に、日本との戦争計画に密接に関わった。
  ルーズベルトは、当時のアメリカ政界で、対日戦争の
 計画(こんな計画がアメリカにあった)の中心に居た。
  それだけではなく、ヨーロッパへの参戦を含めて、戦
 争のすべてに、ルーズベルトは関われていた。
  戦争政治家そのものだった。
  そして、戦争によって、歴史が示しているように、景
 気の拡大は明らかにもたらされた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2018-10-22 02:15 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)614E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年11月~1894年11月)

題:(増補版)614E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年11月~1894年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年11月2日、日本鉄道会社に対し、土浦・隅田川・磐城
 の3線の免許状を下付する。
  日本鉄道は日本初の私鉄。
  現在の東北本線や高崎線、常磐線など、東日本の東日
 本旅客鉄道(JR東日本)の路線の多くを建設・運営して
 いた会社だった。
  1881年8月1日、岩倉具視をはじめとする華族などが参
 加して私立鉄道会社「日本鉄道」の創立が決定した。
  西南戦争などの出費で、国の財政が困窮していたこと
 もあり、鉄道建設は国が行なうべきという意見も強かっ
 たが、民間資本を取り入れて、早急に鉄道敷設をして行
 こうとの方針となった。
  1882年、川口~熊谷間から建設を開始、当初は貿易港
 がある品川、横浜と直結する計画であったが、山手の起
 伏が大きく建設費はより高額となることが見込まれたた
 め、まずは東京下町の山下町(現:台東区上野)を起点
 として建設が進んだ。
  1883年7月28日、第一区線の上野~熊谷間を開業、その
 後、第一区線の高崎、下前橋(内藤分停車場)への延伸
 (利根川手前)、赤羽~品川間の品川線(現在の赤羽線
 赤羽~池袋間と山手線池袋~品川間、1885年3月1日開業)、
 第二区線(大宮~白河間)、第三区線(白河~仙台間)、
 第四区線(仙台~盛岡間)、第五区線(盛岡~青森間)
 と順次建設して行った。
  1889年12月、第一区線を両毛鉄道(現:両毛線)の前
 橋まで延伸、
  1890年8月1日、日光線(宇都宮~日光)を全通。
  1891年9月1日、現在の東北本線全線(上野~青森間)
 が開業。
  この1891年には、水戸鉄道(現:水戸線小山~水戸間)
 を買収、途中駅である友部を分岐点として1895年11月4日
 に友部~土浦間の土浦線(現:常磐線)北部区間を開業。
  1896年12月25日、土浦~田端間の同南部区間を開業。
  1897年、両毛鉄道を買収し、
  1898年8月23日、水戸~岩沼間の磐城線(常磐線、日本
 鉄道での路線名は海岸線)を全通させた。
.
1894年11月5日、京都鉄道に対し、京都~宮津間、綾部~和
 田山間、舞鶴~余部間の建設免許状を下付した。
  京都鉄道は、1893年に設立された民営鉄道。
  舞鶴市までの鉄王敷設が課題となっていた。
  断崖絶壁に線路を通し、トンネル8箇所、橋梁は50箇所
 を越える保津峡の難工事があった。
  1900年に、京都~園部間が開業するが、園部以北へは
 資金難のため工事が遅々として進まなかった。
  政府は、舞鶴鎮守府開庁に続き、京都から舞鶴へ通じ
 る鉄道の建設は国策遂行上必須として・・、
  1902年4月、政府自らの手で、京都から舞鶴へ通じる鉄
 道の建設を開始した。
.
1894年11月6日、金州城を攻略した。
  遼東半島に上陸し、清国軍の重要拠点であった金州城
 を攻略した(詳細は前記を参照)
.
1894年11月8日、仮名垣魯文が死去した。
  (1829年2月9日~1894年11月8日、享年65歳)草双紙、
 滑稽本作者、戯作者(ゲサクシャ)、新聞記者。
  (参考)草双紙:くさぞうし、江戸時代、大衆を対象
     に書かれた絵入りの小説本。文章は平仮名が多
     く、赤本や青本、黒本、黄表紙、合巻物などが
     あった。
  江戸京橋の魚屋というまったくの庶民の生まれで・・
  幼少から奉公に出て、その先の大通人である細木(津
 国屋)香以の愛顧を受けて戯作好きとなって行った。
  そこで花笠文京の門に弟子入りし、戯作者の道に入っ
 た。
  ヒット作は、1860年の「滑稽富士詣」で、十辺舎一九
 の「東海道中膝栗毛」に倣って書く・・
  そして、瓦版や流行歌などを書いた。
  滑稽本『滑稽富士詣』 (1860年~1861年) で戯作者と
 して認められ・・明治に入って『西洋道中膝栗毛』 (1870
 年~1876年) 、『安愚楽鍋 (あぐらなべ) 』などの開化
 風俗を描く滑稽本があたり、流行作家の代表作家となっ
 た。
  1874年から、「横浜毎日新聞」の雑報記者となる。
   1875年『仮名読新聞』 (『かなよみ』) を自ら編集者
 として創刊し・・「鳥追阿松海上新話」(久保田彦作著)
 などの新聞連載小説を始め、やがて明治式合巻として刊
 行し、「仮名垣派」の明治戯作全盛時代を迎える。
 「いろは新聞」「魯文珍報」などで、雑報記事、続き物、
 劇評などに筆をふるった。
  また、合巻「高橋阿伝夜叉譚(たかはしおでんやしゃ
 ものがたり)の当たり作を刊行し評判となった。
  教科書などにも活躍し、常に時流を見極め、多くの新
 聞に関係し、新聞小説の土台を築いた。
.
1894年11月19日、青梅電気鉄道の立川~青梅間が開通して
 営業開始された。
  中央本線の立川駅を起点にして、多摩川に沿って北上、
 奥多摩駅に至る37.2kmのJR東日本の営業線。
  1920年~1929年、日向和田―御嶽(みたけ)間を延長し
   て開業され、
  1923年電化して、
  1929年社名を青梅電気鉄道と改める。
  1944年、御嶽~氷川(ひかわ)(現:奥多摩)間は、奥
   多摩電気鉄道として全通し・・
  同年・1944年、国有化された。
  当初は、石灰石の積出し線であった。
.
1894年11月20日~21日、井上馨公使が、朝鮮内政の改革要
 領20ヶ条を朝鮮国王に上奏し、提出した。
  清国が、朝鮮は「独立の一国」であるのに、「朝鮮を
 もって属邦と称し陰に陽にその内政に干渉」していた。
  日本は、ただ言うだけではなく、朝鮮の改革が成功す
 るように導く努力する義務をも負う覚悟であった。
  (この後の、日本の鉄道敷設や、大学など小中学校な
 ども建設に励んだ、また、病院や街道などの社会資本充
 実に貢献した・・などなど・・この事などが、この日本
 の本物の誠意を示している)
.
1894年11月21日、日清戦争: 旅順口(りょじゅんこう)の
 戦い
  旅順要塞が陥落した。
  中国・清国の遼東半島の先端に位置する旅順は・・、
  対岸の威海衛(いかいえい)とならんで清国・北洋海
 軍(李鴻章が率いる)の重要な拠点・基地となっていた。
  日本をさんざん威圧し、脅(おど)して来た巨艦を持
 つ清国・北洋艦隊の基地だった。
  また、中国・清国の海上輸送の要(かなめ)の地だっ
 た。
  この為、日本は、この重要拠点の地を攻めた。
  この旅順の攻略にあたったのが、大山巌(おおやまい
 わお、西郷隆盛のいとこ)が率いる第二軍だった。
  1894年11月18日、土城子という旅順近郊での戦闘では、
 秋山好古(あきやまよしふる)少佐の騎兵第一大隊が清
 軍と遭遇し、死者11名・負傷者37名を出すなど苦戦を強
 いられた。
  しかし、3日後の1894年11月21日の攻撃では、旅順の大
 部分を占拠し、旅順要塞は陥落した。
  日本は、明治維新から富国強兵で国力の強化に努めて
 来たが、欧米諸国は、まだまだ、日本がアジア第一の強
 国・清国にこの様な目ざましい戦いをするとは思っても
 いなかった。
  どの国も日本が敗北するだろうと見ていた。
  欧米列強諸国は、清国の最強の「東洋のジブラルタル」
 といわれた旅順を見事な迅速さで攻略した日本に目を見
 張った。
  特に、攻略戦の迅速さは見事だった。
  この第二軍には、教科書にもよく出る著名人が参加し
 ていた・・軍医として派遣された森鴎外(作家)、記者
 として国木田独歩(作家)、西洋画家の浅井忠など・・、
  日本の勝因は、動員・兵站・指揮のシステムなどが近
 代軍として清軍に対して優れていて・・
  近代化された日本軍は、基本的に、終始、優勢に戦局
 を進めた・・そして、遼東半島を制覇した。
  この戦いを振り返ると・・、
  1894年10月24日、大山巌大将が率いる第二軍が金州に
   上陸。
  1894年11月6日、金州城を制覇。
  1894年11月21日、日本軍1万5千は、清国軍1万3千に対
   して攻勢をかける。
    清国軍の士気は極めて低い状況・・堅固な旅順要
   塞が僅か1日で陥落する。
    日本側損害:戦死40名、戦傷241名、行方不明7名、
    清国損害:戦死4500名、捕虜600名・・で敗退・・
    旅順の攻略戦は、大変な困難を極めるだろうとい
   う欧米諸国の予想を裏切る迅速さだった。
    また、日本は、非常に厳しい軍律でこの戦いに臨
   んだ・・
    大山巌は、「我軍は仁義を以て動き、文明に由(
   よ)って戦ふものなり」という訓令を発している。
  この戦いの後、いつもの様に中国の清国軍は卑劣な行
 動をとった・・中国はいつもこの卑劣な行為をする・・
  軍服を脱いで中国市民の中に隠れた・・
  これでは一般の中国市民に災禍が及んでしまう。
  この隠れた卑劣な中国兵の掃討を日本軍は行った。
  そして、南京事件と同じ様な嘘宣伝を始める・・
  中国に居る日本軍が行なっていない行為を、「した」
 とプロパガンダ(嘘宣伝)を始めた・・
  日本軍が一般市民を虐殺したという嘘を言いふらした・・
  この結論を先に言うと・・世界各国は、『これは中国
 のデッチアゲの嘘発言』と了解し、解った。
  日本軍は、市街の掃討をするときには・・、
  市民の中から日本軍を狙う清国兵、「市民の中に隠れ
 た清国兵」「軍服を脱ぎ捨てた中国兵」を掃討する時に
 は・・、
  例えば、日本の第二軍司令部は・・各人・各家の安全
 を保証する措置を講じ、安心するようにと言った・・
  紙あるいは布に、「此者殺すべからず、何々隊」とか、
 「此家男子六人あるも殺すべからず」といった文を中国
 の人たちに渡した。
  そして、人々に、民衆に、落ち着きを取り戻せるよう
 に配慮した。
  ほとんどの中国兵はすでに逃げていた・・
  1894年11月26日早朝に、九連城に入ると、すでに清国
 軍は逃げて、居ない状態となっていた・・無血入城とな
 った。
  嘘をでっち上げて日本を貶(おとし)める中国は・・、
  旅順陥落後の民間人や、戦闘を放棄した者の死傷者数
 について「18000名」と言っている(この後、2万名弱と
 言う)
  戦争は、巻き添えになる一般市民の方々も居るものだ
 が・・市街戦が行われば・・その様な方々の数について、
 外国などの報道機関は以下の数を公表している・・
  『タイムズ』(1894.11.28):200名
  『ニューヨーク・ワールド』(1894.12.20):2000名
  フランス人サブアージュ大尉『日清戦史』(1901年):
 1500名
  日本占領後の清国人の旅順行政長官から大山巌第二軍
 司令官への報告:1600名
  しかし、中国と裏でつながっているのか・・1894年12
 月12日になって・・『ニューヨーク・ワールド』の新聞
 (クリールマン記者の記事)は、旅順虐殺の嘘の捏造(
 ねつぞう)記事を、センセーショナルな書き方で報じた。
  初めは、きょとんとしていた他の新聞各社だったが、
 その後、各社はこれに追随した。
  この頃の新聞各社は、「販売部数を拡大しよう」とセ
 ンセーショナル記事を書いて競い合う状況にあった。
  その嘘つきの口火をきった『タイムズ』の報道に対し
 て、正直な『セントラル・ニュース』は、12月29日付け
 の新聞で、『正当な戦闘以外での殺傷はなかった』と報
 道した。
  また、ゲルヴィルによる証言:旅順陥落を目撃したニ
 ューヨークヘラルド特派員のアメデ・バイロ・ド・ゲル
 ヴィルは・・、
  1895年1月3日のレズリーウィークリーで、クリールマ
 ンの報道するような虐殺は発生していないと証言した。
  また、さらに、ゲルヴィルは、1904年の著書『Au Japon』
 で「虐殺は捏造されたものであった」と論じた。
  そして、また、ダネタン報告:ベルギー公使のアルベ
 ール・ダネタンの本国への報告調査では・・、
  事件は「ニューヨーク・ワールド紙の記者によって多
 分(たぶん、量や程度が過大なこと)に誇張されたもの」
 と報告した。
  また、フランス武官ラブリ子爵は、「殺された者は軍
 服を脱いだ中国兵(便衣兵)であり、婦女子は殺されて
 いないし、旅順港占領の数日前にほとんどの住民は避難
 しており、町には兵士と工廠の職工たちだけであった」
 と述べた。
  日本政府は、世界への説明書を書いて、はっきり反駁
 した。
  伊藤博文は、政府として正式な説明をした・・
  議会は、以下の通りと決定した。
  1.清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡。
  2.旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を
   脱いだ兵士であった。
  3.住民は交戦前に逃亡していた。
  4.逃亡しなかった者は、清国から交戦するよう命令さ
   れていた。
  5.日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、
   それを見知った者が激高した。
  6.日本側は軍紀を守っていた。
  7.クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容
   に驚いている。
  8.旅順が陥落した際、捕らえた清兵の捕虜355名は丁重
   に扱われ、二・三日のうちに東京へ連れてこられる
   ことになっている。
  この伊藤らが作成した説明書は、第七項を省いたもの
 が12月17日と、12月18日の両日に、アメリカの各新聞に
 掲載された。
  また、陸奥が、直接、アメリカの新聞社に説明すると
 いうやり方が、アメリカ側から好感された。
  そして、欧米諸国で、「虐殺は無い」として認められ
 た。
  欧米でのジャーナリズム史研究では、旅順の「虐殺」
 を報道したクリールマンや、掲載された新聞ニューヨー
 クワールド紙が・・ライバル紙と競い合って・・、
  イエロー・ジャーナリズムと呼ばれた扇情主義報道を
 行っていたことが常識であり、定説となっている。
  ニューヨークワールド紙は、ニューヨーク・ジャーナ
 ル(ニューヨーク・モーニング・ジャーナル)紙との扇
 情主義報道で競争し・・、
  この他、世界でも、病的な好奇心だけを沸かす扇情的
 な記事で競い合っていた。
  虐殺は無いの証言も多く・・クリールマンの報道を耳
 にしたベルギー公使が現地にいたフランスの武官に尋ね
 たところ、「女子供の死傷者はいない」。
  「住民はほとんど避難しており、軍服を脱いだ兵士ら
 がいた」と否定した。
  ベルギー公使のその後の「虐殺」の否定で、日本への
 誹謗に反論していることから、扇動報道だったと結論付
 けられた。
  中国は、南京事件もそうだが、よく嘘をつく国だ・・
  この様な事をして『相手を惑わせる者が、能力のある
 者」と評価される中国の状況で、また、判断基準で・・、
  中国社会では、この様な事が「日常茶飯」として、歴
 史上で行われて来た。
  今・現代も、中国は世界中で、「多くの工作員」と「
 多額な資金」を使って盛んにこの類の工作を行っている。
  扇情主義報道(イエロー・ジャーナリズム)の災禍を受
 けた日本だった。
  この火付け役のクールマンは、この時だけでなく、1888
 年の米西戦争の時も、この様な報道をして、世界を惑わ
 せ、世論を誘導している。
  この時も、クールマンの「虐殺報道は嘘だ」と疑義が
 出されている・・美味しい書き方は止められないという
 ところだった・・
  それにしても、中国は、韓国と一緒になって、「南京
 事件だ」「慰安婦問題だ」と、今だに世界を惑わせ、ま
 た、自国民を惑わせている。
  中国、及び、その手先が言う下記の言葉はまったくの
 嘘のプロパガンダと世界は決定している・・
  「虐殺事件をおこし婦女子・幼児を含む非戦闘員6万人
 を虐殺」・・この数字も嘘つく中国は増やして行くだろ
 う・・こんな事ばかりしている国・中国なのだ。
  この様に平気で嘘を言ってばかりいる国・中国は、世
 界から制裁を加えられるべきだ。
.
  (今日の言葉)
.
  題:昔からプロパガンダばかりする中国・・平気で嘘
   を言ってばかりいる国・中国は、世界から制裁を加
   えられるべきだ。
.
紀元前1万6500年、日本で世界最古級の縄文土器が作られた。
  日本の古代史も世界に誇る状況にある。
  中国湖南省で発掘された約1万8000年前の土器がある。
  日本では・・大平山元(おおだいやまもと)I遺跡の縄
 文土器(約1万6500年前)・・放射性炭素年代測定から推
 定された。
  これらのことから、多くの研究者は、遅くとも1万5千
 年前には、日本列島で土器が使われていたとしている。
  他地域の最古の土器をみると、南アジア、西アジア、
 アフリカが約9000年前・・、
  ヨーロッパは、アジアより約1万年も遅い約8500年前・・、
  学校で教えられた「四大文明」の地と比較しても、日
 本は飛び抜けて古い・・、
  (参考)メソポタミア文明:紀元前3500年頃~
      エジプト文明:紀元前3000年頃~
      インダス文明:紀元前2600年~
      黄河文明:紀元前7000年?~
  ロシアのグロマトゥーハ遺跡などでは、約1万5000年前
 と考えられる土器が発見されている・・、
  日本だけが古いと言うより、東アジア全体で古い時期
 に土器が生まれたと言える。
  ロシアでは、防寒や調理に使う「魚油」をとるために、
 魚を土器で煮ていた可能性が指摘された。
  この様に、土器使用の始まりには、漁撈(ぎょろう)
 も大きくかかわっていると推定されている・・古代オリ
 エント博物館研究部長の石田恵子氏(西アジア考古学)
  生まれた理由も様々・・
  中央大准教授の小林謙一氏(日本考古学)は・・、
  「土器の誕生は、当時の環境の変化と深いかかわりが
 あると考えられる」と説明・・、
  日本では・・氷河期が終わりに近づいた約1万6000年前
 ~1万5000年前、気温上昇にともない、亜寒帯的な森林か
 ら落葉樹も交じる森林へと変化した。
  その結果、ドングリなどの植物質の食料が入手しやす
 くなり、それらを食べるためのアク抜きに必要な容器と
 して、土器が生まれたのではないかと推定されている。
  国内最古と考えられている土器は、模様のない「無文
 土器」で、主に、東日本で出土している。
  しかし、約1万4500年前頃、粘土ひもをはり付けた「隆
 線文土器」と呼ばれる土器が生まれ、日本全国へと広が
 った。
  「堅果類であるコナラ、カシ、シイなどの分布が広が
 ったことで、土器も普及した」と推定されている(小林
 氏)
  日本列島では「最古級の土器は東日本に多いが、遅く
 とも約1万3000年前頃には、鹿児島でも無文土器が使われ
 ていた。
  北と南で、別個に土器が生まれ、それらが広がったと
 考えた方が良い」(南九州縄文研究会代表:新東晃一氏)
  また、シベリアで発掘された土器(約1万4000年前)も
 世界最古クラス・・
  縄・紐は、フランスにあるラスコー洞窟の最奥部で発
 見された約1万2000年前以前のものが現存する最古の縄。
    ・
    ・
    ・
1955年、新疆ウイグル自治区が設立された。
  中華民国時代には、1912年から新疆省という行政区分
 が置かれていた。
  国防力の弱さから蹂躙され続けた国だった・・そして・・
  新疆ウイグル自治区(国)という形をとって安定する
 のかと思えば、これが「すごろくの上り」ではなく・・
  結局は、この地域は、共産・中国の漢族の国家となっ
 て「上がりとする」という道を進まされている。
  国盗り状態である。
  かつて、満州族(女真族)の国家の建国を、日本が助
 けたが・・
  満州族(女真族)の方々が多く居たのでその建国を助
 けたのだが・・
  まだ、その時から1世紀も経ってない今(2018年)、そ
 の満州族の方々は、この満州の地には、跡形もなく居な
 くなってしまった。
  殺されたのか?・・追放されたのか?
  国家が消え去るという事は、この例の様に、あっけな
 いのである。
  日本の沖縄も、中国には「中国の領土だ」という声が
 ある。
  このスケジュールに入っているという・・。
  そして、すでに、それへの活動がなされている。
  金と人によってである
  この様に、日本人は、よほどしっかりしないといけな
 い「今・現在なのである」。
  ユダヤの方々が経験されたディアスポラが、日本人に
 も・・日本の地から追い出されるという事も起き得る・・
  意識をしっかりしないとその様なことが起きてしまう。
  (参考)ディアスポラ:(植物の種などの)「撒き散
     らされたもの」という意味のギリシャ語に由来
     する言葉。
      パレスチナ以外の地に移り住まされたユダヤ
     人、及び、そのコミュニティ(追放され、追い
     出された)
  長い歴史を刻んできた日本だが・・だから安心なんて
 言う論理は成立しない・・
  「今世紀中で、日本はなくなる」と言った共産・中国
 の指導者が居る。
  オーストラリアへ訪問したこの指導者は、オーストラ
 リアの首脳へそのことを言った。
  その時は、今世紀よりもっと早い時期をはっきり明示
 して、「日本は無くなる」と発言している。
  はっきり言える事は、共産・中国には、「日本という
 国家の存在が無くなる時がある」という「認識がある」
 という事である。
  時は進んでいるが、日本消滅への道を、共産・中国の
 指導者は、同時に進めているという認識の中にいる。
  かつてのアメリカが持った認識(アメリカインディア
 ンの消滅)の下で、悲惨な殺戮がなされたが、その様な
 状況にある・・
  日本人が認識してなくても、それは、かつてのアメリ
 カの例が示している。
  日本に無いから安心何て言う論理は、成立しない。
  また、共産・中国の様に独裁の政治形態は、常識以上
 の異常な事をするのは、歴史上、あまたある。
  何事も狭い面々・領域で決定され、チェックする機構
 が無く、その様な働きが無いからだ。
  システム的に政治機構として劣っているからだ。
  (参考)1988年、中国の李鵬首相が、オーストラリア
     訪問をした際、オーストラリアのキーティング
     首相へ「日本という国は20年も経てば地球上か
     ら消えて無くなる」と言った。
      中国に日本自治区構想があるのか・・
  (参考)第二列島線:中国の第二列島線の中に入って
     飲み込まれる日本となっている。
      中国の海域における軍事的防衛ラインの一つ。
      伊豆・小笠原諸島からグアム・サイパンを含
     むマリアナ諸島群などを結ぶ線。
      中国海軍は、1980年代半ばに提唱された「近
     海積極防衛戦略」などに基づいて軍事力を増強
     し、それまでの沿岸防衛から近海・外洋へと展
     開している。
      この軍事戦略において外洋の範囲を示す目標
     ラインとされる。
      中国は、2020年の運用を目標に通常型空母建
     設に着手しているほか、原子力空母建設構想な
     ど海軍力の整備・増強を表明しており、同国の
     軍拡に飲み込まれる日本となっている。
.
1999年4月、世界最古級の土器が、日本で発見された。
  世界最先端の技術を持っていた縄文人の人たち・・
  日本の古代は、非常に文明が進んでいたという事が分
 かって来た。
  稲作も・・朝鮮半島から伝わったのではなく、日本か
 ら朝鮮半島に伝わったらしいという事が次第に分かって
 来た。
  韓国では、激しく反発しているが・・、
.
  https://www.youtube.com/watch?v=9zMJN3YNUY8
  世界最古級の土器が日本で出土した。
  1万6500年前のもの・・、
  1999年4月、青森県蟹田町で出土した土器の炭素14分析
 を行なった・・その結果で報告された。
  土器は、2万年前~1万8000年前の最終氷期最盛期後半
 に中国南部に於いて出現したとされている。
  1万年を遡る土器や、遺跡が、日本にはいくつかある。
  その一方、かつては、農業の起源地とされていた中近
 東や北アフリカを含めヨーロッパにおいても・・
  1万年前をしめす遺跡は無く・・、
  縄文人は、土器製作について、世界最先端の技術を持
 っていたことが分かる。
  稲作は、日本から朝鮮半島へ伝播したことが判明。
  稲作文化は、弥生時代に大陸から朝鮮半島を経由して
 日本にもたらされたとの説が覆された。
  炭素14年代測定法で、かなり古いことが分かって来た。
  日本の稲作開始は縄文時代で、従来の弥生時代という
 学説がひるがえされた・・。
  陸稲栽培で・・6700年程度前まで・・、
  水稲栽培で・・3200年程度前まで・・遡ることが判明
 している。
  これに対して、朝鮮半島では、水稲栽培は無去洞玉峴
 (ムアラファト)遺跡の2500年前~2800年程度前までし
 か遡れない・・、
  そして、九州北部と栽培法が酷似していることから・・
  また、遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米
 の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、
  水稲は、日本から朝鮮半島へ・・、
  陸稲は、満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明し
 た。
  中国政府の研究機関でも調査が進み、間違いないとい
 う結論が出ている。
  この点で、日本に対して優越意識を持っている韓国・・
 その韓国の学会は、激しく反発している。
  また、韓国では日本式の前方後円墳が大量に発見され
 ている事実もある。
.
2006年12月、NHKオンライン内に解説委員室の公式サイ
 トが解説された・・が・・、
  無資格のNHK職員が、NHKという影響力が極大な
 放送媒体で、解説と称した「NHKの言いたい放題を放
 送している」・・
  この公式サイトに、この様な投書・クレームを含め、
 無差別に公表せよ・・そして、NHK解説委員室の公式
 回答を公開する様にせよ!
  本当は、NHKには解説者は必要ない・・無資格者が
 放送媒体を使って政治を繰っている・・
  NHKは、解説者を無くして「経費を節減せよ!」、
 そして、NHK受信料を値下げせよ!
  また、問題なのが、このNHKの解説者なる者の中に、
 「片寄った政治解説をする者がいる」・・中国寄りの者
 もウヨウヨ居る・・
  しかし、この者たちは、「国民の選挙の洗礼を受けて
 いない『ただの者だ』」。
  放送媒体のNHKに、ただ採用されただけの者だ・・、
  だが、影響力が抜群に強大なNHKの放送機能を使っ
 て、日本全国、ましてや世界へ、自分の勝手な意見を、
 自分だけの意見を・・発信している。
  世界へ日本を貶める番組まで送っている輩たちだ・・
  こんな強大な権利は「君にはない訳だ」・・、
  こんな権利を君たちには与えたくないのだ・・
  こんな、「民主主義のルールを踏みにじったやり方」
 で・・横暴な行為で・・NHKは放送行為をし続けてい
 る。
  広い、公正な意見を国民へ提供すべき立場のNHKが、
 こんな専制君主的な・・特定の一個人に、輩に・・この
 NHKだけの意見を作って・・放送媒体を使用させてい
 る。
  大学教授や、評論家の方々にも、また、日本国民の方々
 へ・・広く意見を求めて行くべきなのが君のやるべきこ
 とだ・・
  これが、NHKの役目なのだ・・ただそれだけなのだ。
  NHKの、君の意見なんて・・公正な民の選択・選挙
 も受けてない・・君だけの、NHKだけの意見なんて、
 勝手に放送をするな!
  NHKは、「なんだ、かんだ」と組織を大きくしてい
 る・・こんな「無用な解説室」も設けている。
  NHKには縮小すべきものが多い・・無くすべきもの
 が多い・・NHKは、無駄を縮小せよ!・・
  そして、受信料を値下げせよ!
  結託している電通を批判せよ・・
.
2018年、巨悪の根源・・電通
  電通が韓国を潤す・・
  日本から巨額な金が韓国へどんどん流れる。
  韓国では、日本の映像は放送できない様にされている・・
 が、しかし・・逆に、韓国の映像は放送するばかりだら
 けの日本のテレビとなっている・・NHKも必死に放送
 している・・何故なんだ・・?
  この様な問題の中心に黒幕の電通が居る・・そして・・
  NHKが、何故、反日なのか?
  NHKは、電通に牛耳られている・・
  だから、反日となっている。
  そして、NHKは、受信料でかき集めた日本国民の「
 巨額な金を電通へ渡す」・・そして、電通から・・
  (参考)電通:投資家が見る会社四季報によると・・
      広告代理店国内首位。世界大手。
      連結事業:国内41%、海外59%。
      費用増で、国内は人件費やシステム費増やし
     業務改革優先。土地売却益ない。
      海外は、米州が前期獲得案件軸に牽引だが業
     務豹有価コスト重く伸び鈍い。営業減益。
      カカクコム株売却益、買収関連評価損。
      従業員:連結63143名、単独6937名。
      平均年齢:40.1歳。
      平均年収:1272万円。
      外国人株主:20.8%。
      株式時価総額:1兆4997億円。
      総資産:3兆3250億円。
      自己資本比率:31.9%。
      分析評価:企業規模100点、成長性10点、割安
     性20点、財務健全性20点、市場トレンド10点。
.
  日本を動かしてきた「電通」の正体:「過労死問題」
 は落日の始まりなのか・・
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50138?page=3
  当事者たちが明かす生々しい「実像」
  8億円の「ロビー活動費」
  「原発広告」といえば、電力各社や電気事業連合会な
 どの業界団体が「原発は安全」「原発はクリーン」と謳
 う広告に巨額を投じ、国民に「原発神話」を信じ込ませ
 てきた。
  原発推進広告には、タレントから文化人までが笑顔で
 登場し、原発の安全性を語ってきた(本間氏談)
  「電力9社がこうした広告に1970年代から3・11までの
 約40年間に費やした広告費は、約2兆4000億円に及ぶ(
 この金が電通に入っている)
  特に、バブル崩壊後に、大手企業の広告出稿が激減す
 る中、電力会社は安定出稿したためにメディアはこれに
 飛びついた。
  一度、この広告費を受ければ『麻薬』のように次から
 は断れなくなり、おのずと反原発報道で電力会社の機嫌
 を損ねることを(各メディアに)自粛する空気が生まれ
 て、日本全体に『安全神話』が刷り込まれ続けた。
  そうしたメディアの特性をよく理解したうえで、電力
 会社とメディアの間に入って動いていたのが『電通や博
 報堂』を頂点とする広告会社だった。
  中でも『電通』は、原子力推進の立場にある社団法人
 『日本原子力産業協会』の会員に以前から名前を連ね、
 東京電力についてはメイン担当として仕切っていた。
  メディア、原発……電通が仕切ってきたものをあげれ
 ばきりがないが、大きなところでいえばオリンピックも
 その一つである。
  国際的プロモーターとして知られる康芳夫氏は、オリ
 ンピックの権利獲得をめぐって電通と闘った「内幕」を
 明かす。
  「初の民間運営方式で開催されたロス五輪で、私はテ
 レビ朝日と組んで独占的放映権を取ろうと動いていまし
 た。
  私はオリンピック組織委員長だったピーター・ユベロ
 ス氏に接触して色よい返事までもらっていたのですが、
 ここで対抗馬としてNHK・民放連合が出てきて、そこ
 に「電通がついた」のです。
  電通もまた独自にユベロス氏と接触し、攪乱工作を仕
 掛けてきた。
  ユベロス氏は最終的に電通と喧嘩をするのはまずいと
 判断したようで、私たちに『君たちとは契約できない』
 と言ってきた」。
  このロスオリンピックで大儲けしたあたりから、スポ
 ーツイベントにおける「仕切り役」としての「電通は一
 挙に花開いていく」。
  『電通とFIFA』などの著書があるノンフィクショ
 ン作家の田崎健太氏が言う。
  「電通のスポーツビジネスを切り開いてきたのは元専
 務の高橋治之氏で、本物のネゴシエイターといえるでし
 ょう。
  高橋氏はFIFA(国際サッカー連盟)がスポンサーを
 集めて商業化を進める過程において、当時のジョアン・
 アベランジェ会長らに大きく力を貸しました。
  そして、電通は、世界のサッカービジネスに深く関与
 していったのです。
  2002年のサッカーワールドカップ招致の際には、電通
 はスイスのマーケティング会社ISLに対して、同社の
 株式売却益の一部である約8億円を『ロビー活動費』とし
 て渡しています。
  国際的ロビー活動に弱い日本にあっては珍しく、高橋
 氏はこうした交渉を得意としていた。
  彼が電通に、スポーツビジネスという広告以外の収益
 の柱を作り上げたと言える」
  どんなところにも食い込んでいき、気付いた時には「
 仕切り屋」として舞台を裏で回している――『電通』は
 そうして「日本を動かす中心」として君臨するようにな
 っていったのである。
  「1990年代に、NHKが電通から米大リーグの放映権
 を買う際、ひと悶着があって、NHKは安値で電通から
 買えたことがありました。
  この時、赤字になりかねなかった電通は、NHKが中
 継するMLBの映像に実際にはない日本企業の広告を合
 成して入れ込むことの了解を取り付けてきた。
  すぐにスポンサーも集めてきて、その手腕には脱帽し
 ました」(元NHK職員の立花孝志氏)
  電通の手にかかれば「こうした差配もお手の物なわけ
 だ」が、実はここ数年はそんな電通の権勢にも陰りが出
 てきたと関係者たちは口を揃える。
.
 (参照)NHKが反日放送している理由は『電通』に
     乗っ取られているから
    https://www.youtube.com/watch?v=Y6Hu4mx0Zl0
 (参照)ワールドカップサッカーとNHKと電通の黒い
     関係
    https://www.youtube.com/watch?v=Etv1Om8nsMg
.
2018年、そして、電通は・・うまい汁を吸いたいと・・今、
 地方自治体の横浜市に食いついている。
  既に、電通は、今まで・・この様な事をして「味をし
 めて来ている」・・
  そして、今度も、横浜市をうまい汁を吸う対象にして
 いる・・食い物にしている。
  横浜市は、本来、横浜市がやらなければならないこと
 に電通を加えて・・特権を与えて、電通と事業をしてい
 る形にして、電通に旨味を与えている。
  そして、今度も、横浜市民の財産である横浜市庁舎の
 建つ土地と建物について、市庁舎が古くなったという名
 目で、どこかへ移転させて、電通を儲けさせる事業をや
 ろうとしている。
  完全に横浜市民の財産を利用した一私企業の事業だ。
  この様な筋書きの既成事実づくりに「公開のシンポジ
 ウム」を開くという演技をした・・
  しかし、電通という素人の悲しさ、まったく中味の無
 い「作った話だけ」の時間の無駄話だった。
  「市庁舎を移転させて、その跡地で儲けよう」という
 「見え見えのお話だけが決まっている」という代物だっ
 た。
  そして、その儲け話に加わるのが「電通」と、既に、
 決まっているがごとくに、「電通がメイン・主役の状態」
 で出ている・・その様なシンポジウムで、何を話すかと
 言えば、漫画の絵を見せて、「これだ」と言うだけ・・
  まったく馬鹿にした話だ。
  説明も何もない。
  下手なことは言えないとして、黙っていたのか?・・
  まったく馬鹿にした話だった。
  「感じろ」と言ったって、漫画の題は「愛と誠」だ。
  こんな話なら、誰もが何を示してでもやれる話だ。
  そして、何も説明せずに黙っていればいいのだから・・
  市庁舎の跡地利用が「愛と誠なのかよ」・・という感
 じの子供だましの話しかできない電通・・
  そして、これ以前に横浜市とやった事業に「電通は、
 100億円を出した」と言い出した。
  言わなくてもいい様なことを言い出して、「世間には
 言わないでくれ」と言う。
  言っていけない事なら「言うな」と言いたい。
  口の軽いこの電通氏は、さらに、この金を電通が出し
 たということを「言い続けて」、シンポジウム出席者に
 「50億円ぐらいに言ってくれ」と言う。
  もう、まったく「市庁舎の跡地利用」の「都市計画の
 話なんかではない」・・素人話の連続。
  まったくの素人が、壇上に上がって、関係ない話に口
 を開いている。
  貴重な時間の空費が続くシンポジウム。
  本来、加わってはいけない電通の素人が、前の横浜市
 との仕事で関係した「舞台と客席の話をした」。
  まったく、この話も跡地利用と関係ないが、「こんな
 話も持ち出す」。
  しかし、初歩の初歩の話で、「舞台を真ん中に持って
 きたのは、素晴らしい独自の事なのだ」と誇った。
  こんなことなら、遠い昔から「大相撲だってやってい
 ること」。
  まったく馬鹿々々しい話が続く・・。
  こんな電通が、メイン・スピーカー(主役)となって
 いる都市計画のシンポジウム。
  一民間企業の電通を儲けさせる仕掛けが動き出したと
 いう感じだった。
  そして、おかしいのが・・この電通と「まったく同じ
 ように」、この儲け話に加わっている「キリスト教系の
 大学」・・
  このキリスト教大学は、前から電通と一緒に利益の転
 がり込む話に加わっている。
  二匹目か三匹目か、何匹目かのドジョウを狙っている。
  この組み合わせのコンビがやはりまた動いている。
  何度も、同じ面々が、横浜市民の財産をいじくり回し
 て、利益が転がり込む話をまた始めている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2018-10-17 03:36 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)613E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年10月~1894年11月)

題:(増補版)613E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年10月~1894年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年10月29日、ハワイ共和国で第1回選挙(差別選挙だっ
 た)
  ハワイ王国は、立派に存在したハワイの先住民の政府
 だったが、1893年に、サンフォード・ドールなどのアメ
 リカ移民による革命で、アメリカ合衆国の傀儡国家とし
 て名目上共和制のハワイ共和国となった。
  これは、最初からアメリカの侵略の意思の下に行われ
 たストーリーの中でのことだった。
  日本は、ハワイ王の日本の皇室との姻戚関係を結びた
 いなどの希望などを聞いていた。
  この様なハワイ王の行動は、アメリカの無謀な乗っ取
 りからの救済を求めている意思からの行動であった。
  日本は、正義の観点から、ハワイへ日本軍艦などを派
 遣し、抗議の行動をしている。
  この時から遡ること7年前の1887年、武力でもってハワ
 イは乗っ取られ銃剣憲法を押し付けられていた。
  選挙権の行使による決定が正義だという民主的行為を
 表面上は見せるハワイの乗っ取り行動がなされた。
  当時、多くいた移民の日本人などのアジア系の人々に
 は、一切、選挙権は与えられず・・また、肝心のハワイ
 の事実上の持ち主である先住ハワイ人の方々にも、収入
 や資産などで制限がなされて選挙権は与えられていなか
 った・・こんな事で「どこが民主的なのだ」というイン
 チキだった。
  この様な押し付け憲法で、ハワイの王室と大多数のハ
 ワイ人の方々は政治力を失って、アメリカ系の乗っ取り
 移民の事実上のハワイとなった。
  結局、これを真似をして、今・現代、中国がチベット
 やウイグルや内モンゴルへ、漢民族を流入させて、この
 3国の乗っ取りを謀っている。
.
1894年10月、東学党が、再度、蜂起した。
  朝鮮政府の厳しい政治に不満を持った全羅北道の全琫
 準の指導する農民と東学の信者の蜂起が、1894年1月に起
 きた・・
  朝鮮政府の重税政策、朝鮮支配勢力の両班たちの賄賂
 と不正収奪の横行で民衆は苦しんでいた。
  (参考)両班:やんばん、朝鮮、高麗の特権支配階級、
     朝鮮王朝 (李朝) 時代の上位身分。
      高麗の官僚組織は 10世紀末にほぼ成立した東
     班 (文班) と西班 (武班) の両班体制をとって
     いた。
      主要な官職を独占し兵役が免除され、また、
     諸税は免除されるなど諸般の特権を持った。
      両班は世襲化し、地方の中小地主まで拡大し
     て行った。
      朝鮮王朝になると、両班の数が激増した。
  この時の朝鮮政府の暴政に対する朝鮮国内に広く伝え
 られた朝鮮民衆の言葉・・
  金樽美酒千人血:金の樽に入った美酒は、千人の血か
          らできており
  玉椀佳魚萬姓膏:玉椀にある美味い魚は、人民の油で
          できている
  燭涙落時民涙落:ろうそくから蝋が滴るとき、人々の
          涙も滴り
  歌舞高處怨聲高:歌舞の音楽が高く鳴り響くとき、人々
          の怨嗟の声も高くとどろく
  この時の蜂起には、朝鮮政府軍は、農民軍を抑えるこ
 とが出来た。
  しかし、朝鮮政府の改革は全くなされなかった。
  民衆の不満は継続し、高まった・・
  朝鮮には、すでに宗主国としての清国が存在し、そし
 てこの頃、1860年代から、ヨーロッパ諸国の列強やアメ
 リカが朝鮮に存在し、そして、後から加わった日本・・
 朝鮮は次の時代への模索の中に不安定な状態にあった。
  そして、1894年4月、また、全琫準が中心となって、朝
 鮮政府の政治に対する不満の反封建に対して蜂起し、ま
 た、朝鮮を抑える外国勢力に不満を持って蜂起した・・
 そして、全州城の占拠を目指した。
  この時は、二度に渡って農民軍は朝鮮政府軍に勝利し
 た。
  1894年5月、農民軍は、目的の全州城を占領した。
  驚いた朝鮮は、清国に軍の派遣を要請した・・日本も、
 条約上、朝鮮へ軍を派遣した。
  そして、和解が成立した(全州和解)・・
  朝鮮政府は政治の改革を行ない、農民軍は、全州城か
 ら退去し、解散する。
  そして、朝鮮の地において、この東学党の乱(甲午農
 民戦争)の処理を巡って、日本と清国の対立が激化した。
  また、日本の提案(日本と清国は一緒になって朝鮮の
 改革を手助けして行こう)にも清国は反発した・・そし
 て、1894年8月1日、日清両国が宣戦を布告し、日清戦争
 となった・・
  この様な状況から、1894年10月に至り、朝鮮に居る外
 国人の排斥と、朝鮮政府の打倒を目指して東学党が、再
 度、蜂起した。
  全琫準は、1894年7月頃より、蜂起の準備をしていた。
  東学党は蜂起に反対で、平和的解決を望んでいた。
  この全琫準の蜂起は失敗し、1895年に捕らえられる。
  井上馨日本公使は、全琫準の人格に共感し、朝鮮政府
 に処刑しないように要請していた・・
  しかし、朝鮮政府は、井上が日本に帰国している間に、
 全琫準を処刑してしまった。
  そして、新たに発見された史料から、この1894年10月
 と1894年11月の蜂起は、日本に助けを求めていた大院君
 が、日本放逐の蜂起の呼び掛けを秘かにして、また、忠
 清道に居る名士豪族に密使を送って東学の扇動を命じた
 ものから起きたと判明した。
  そして、この事を知った日本へ、大院君はこれを認め
 謝罪している。
  中国は、そして、この手先は、この第二次蜂起を日本
 を貶める材料としているが、真実は以上である・・この
 時、日本は農民を虐殺したと南京事件の様な嘘を言い出
 している。
.
1894年10月、秀英舎の印刷工場(鉄骨造)が完成する。
  日本で初めての鉄骨造の建物。
  フランスのリヨンは、石炭の採掘によって地盤が沈下
 する「不等沈下が起きる地域」となってしまっていた。
  この為、鉄骨造の建物となって行った。
  1890年に、フランスを旅した細谷安太郎はこの状況を
 見た。
  秀英舎と関係のあった細谷は、フランスの経験を話し
 鉄骨構造の工場増築が決まる・・鋼材はフランスから購
 入した。
  建築地:東京府京橋区西紺屋町(東京銀座の数寄屋橋
     近く)
  設計:若山鉉吉(横須賀造船所構内学舎で造船学を学
     び、後にフランスに留学した海軍の造船技師
  建築規模:地上3階、地下1階、
  基準階:52.5坪(170.1㎡)
  建物高さ:36尺(10.9m)
  屋根:スレート葺き
  1階:印刷機械8台、2階:植字場、3階:文選場
  中央に螺旋階段があり、屋上に登れる。
  この年に竣工した建物:東京府庁舎、三菱煉瓦街1号
    館、横浜大桟橋、奈良帝室博物館
  秀英舎は、先進国である英国より秀でる会社になると
 いう願いで勝海舟によって名付けられ、今の大日本印刷。
.
1894年10月、京城~釜山間、および、京城~仁川間の鉄道
 建設が決定した。
  甲午改革において、日本は、李氏朝鮮に対して京城か
 ら開港場までの鉄道敷設を提案した。
  1894年8月20日、日本と朝鮮は、「日韓暫定合同条款」
 を締結した。
  そして、その条款に基いて、日本は、鷺梁津(漢江西
 岸)~済物浦間の鉄道を、1899年に開通させた。
  日本の朝鮮改革の鉄道敷設は、これに始まった。
  これは、後に、京仁線となった。
  1905年、京釜線が全通し、
  1906年、京義線が全通した。
  朝鮮は、軍隊の輸送のために勝手に作った様に言って、
 まったくありたがっていない(中国とその手先の工作も
 あって)
  しかし、それまでは、あぜ道のような道であった朝鮮
 の道を行く人々は、すべての荷運びは人の背の人力だっ
 た。
  何日もかかった移動で、少量だったが、この鉄道の開
 通は、そのすべてを大変化させた・・すべて朝鮮の人た
 ちを格段に潤わせた。
  これを契機に、朝鮮の経済は大きく発展して行く。
  国造りには、何よりも街道と鉄道の整備が大切なのだ。
  これを、日本が朝鮮にした。
  何しろ日本の基本姿勢は、他の欧米列強諸国と違って、
 この鉄道にしろ、学校にしろ、病院にしろ、日本の内地
 と格差なく、逆に、朝鮮の大学の方が立派なくらいの大
 学を造る様に・・日本は朝鮮の国造りをした・・改革を
 した。
.
1894年10月、日本初の長距離急行列車の運転開始
  山陽鉄道の神戸駅~広島駅間の直通列車1本を、途中、
 主要駅にだけしか停車しない急行列車に格上げした。
  日本で初めての急行列車となった。  
  日本の人の移動の改善がなされていく。
.
1894年10月、「金鵄勲章受合い」「日本兵」など流行語に
 なる。
  金鵄勲章(きんしくんしょう)は、武功抜群の陸海軍
 の軍人・軍属に与えられた勲章で、功一級から功七級ま
 であった。
  1890年に制定された。
.
1894年11月1日、ニコライ2世がロシア皇帝となる。
  ロシア皇帝アレクサンドル3世逝去し、ニコライ2世が
 即位した。
  ニコライ2世は、1868年~1918年、享年50歳、
  帝政ロシア最後の皇帝(在位:1894年〜1917年)で・・、
  1891年、皇太子として日本を訪れ、大津事件にあった。
  父・アレクサンドル3世の専制護持の教育を受けて、外
 交政策を継承し、フランスとの同盟を強化する。
  極東への進出を図って、日露戦争を起こし敗北した。
  1905年、革命で「十月宣言」を発布するが、革命が終
 息するとストルイピンを用いて革命運動を弾圧した。
  第一次大戦中に退位を余儀なくされ、ボリシェビキが
 政権を掌握すると、1918年、シベリアに幽閉され、後に
 射殺された。

.
  (今日の言葉)
.
  題:日本が素晴らしかったのは・・この会議で、世界
   で初めて「人種差別撤廃」を国際会議で訴えた。
.
4世紀、キリスト教聖職者が女性蔑視から殺害行為をする。
  キリスト教修道士が、女性蔑視のキリスト教教義に洗
 脳されて、その蔑視観から女性を殺害した。
  酷(ひど)い殺し方だった。
  キリスト教の聖書に記述される「テモテへの第一の手
 紙(2・11・13)」には・・、
  「婦人が教えたり(してはいけい)、男の上に立った
 りするのを私(キリスト教の神)は許さない」・・と記
 されているが・・、
  この1例の様に、キリスト教の聖書には、女性を蔑(さ
 げす)む記述に満ちている・・、
  4世紀のこの時、このキリスト教修道士は、牡蠣(かき)
 の貝殻で、男に教える行為をした、教えを授けたという
 女性を・・「キリスト教の神の命令に背いた邪悪の女だ」
 として、この女性をめった切りにした。
     ・
     ・
1684年2月21日、この日から貞享(じょうきょう)年間とな
 るが(~1688年9月30日)・・
  この貞享年間以降は、完全にキリスト教に入信する者
 はほとんど居なかった・・だから、衰退するだけのキリ
 スト教という状態だった・・
  キリスト教は、日本が弾圧したとか、だから、「隠れ
 キリシタンだ」なんて言うが、これは、まったくのオー
 バーな言い方・・自分たちを有利に言いたい嘘話・・
  日本は、まったく温厚で、まったく取締りもしていな
 い・・
  また、キリシタンと言っても、仏教や神社の信徒や氏
 子となってしまって「隠れキリシタンだ」なんて言える
 様な代物(しろもの)ではない・・
  たとえ居たとしても、各地の大名など、見て見ぬふり
 をするという状況・・気にする状況ではなかった・・
  日本は、まったくの温厚な優しい民族で、ヨーロッパ
 の様に「あちこちで焼かれる焚刑の魔女で、曇り空の様
 だった」などと言われていることとほど遠い状況だった。
  ヨーロッパの様に「全滅した村がある」などとの状況
 とはまったく違う・・
  その様な日本の状況を、キリスト教は、ヨーロッパと
 同様な状況の様にオーバーに言って日本を貶(おとし)
 める・・今回、世界遺産となったが・・まったくの作り
 話しとなっている・・
  キリスト教の言う「何番崩れ」などというたまにある
 話でも、せいぜい十手(じって)を持った岡っ引き(目
 明かし)が捕まえる5・6人程度・・ヨーロッパの村の全
 滅と同列なように印象付ける言い方は間違い・・
  キリスト教は、この点で、必死に耐え抜いたとオーバ
 ーな言い方をしている・・
  そもそもキリスト教が禁教にされたのも、キリスト教
 が悪いことをするからだった・・
  「日本を植民地化する」という「陰の役目」を持った
 キリスト教宣教師たち・・
  そのことを知った豊臣秀吉が、部下に確認させ、それ
 を確認したから禁教にしたのであって・・
  また、キリスト教は、日本の若い女性を海外へ売って
 いた・・この様な事も、秀吉は知ったのだった・・
  (何も知らない信長は宣教を許していたが・・)
  江戸時代が厳しいというが・・幕府は「大体、目的を
 達した」とみていて、厳しい事はしていない。
  歴史の教科書で、宗門改帳(しゅうもんあらためちょ
 う)があったと勉強するが、熱心に行われてはいない。
  「潜伏キリシタンだ」とキリスト教が言ったって、キ
 リスト教が作った勝手なイメージ・・実態からかけ離れ
 ている・・仏教・神道と習合して、それなりに信仰生活
 をしていた・・潜伏などというイメージはまったく無い。
  天草四郎も、かつて、天草に居たキリスト教宣教師が
 話した架空の少年の話で・・実際は存在していない。
  また、この島原の乱でキリシタンが抵抗したという話
 もデッチアゲ・・宗教的な戦いとはまったく違う・・
  これは百姓一揆である・・
  少数のキリスト教徒は居たとしても、宗教の抵抗とは
 まったく違う・・
  キリスト教宣教師は、国外追放にされて、ほとんどの
 宣教師は日本国外へ出たが、一部が、不法に日本に潜伏
 した。
  しかし、潜伏したと言ったって、日本の風土の良さか
 ら「その宣教師のすべてが棄教している」。
  遠藤周作が「沈黙」でそれを書いた。
  しかし、それでは、あまりにも惨(みじ)めなので、
 映画の「沈黙」では、史実とまったく違う・・また、原
 作の遠藤周作とはまったく違う映画にしている・・作り
 話にしている。
  「沈黙」と名付けられない・・「沈黙」ではない・・
  日本の穏(おだ)やかな優(やさ)しさが「すべてを
 飲み込んで行った」のだ・・
  今・現代でもキリスト教は1%・・
  この様な嘘をつく宗教で、また、人を殺してばかりい
 た宗教で、一旦は信じたとしても、魅力を感じる点はま
 ったく無い・・
.
1867年、赤松小三郎が暗殺された。
  「建白七策」を建言した人(1831年5月15日~1867年9
 月30日、37歳)
  幕末の信州上田藩士で、洋学者、兵法家。
  信州上田藩士・芦田勘兵衛の次男として生まれる。
  藩校の明倫堂に学ぶ。
  1848年(17歳)江戸に出て、幕臣の数学者・内田弥太
   郎に学ぶ。
  1852年(21歳)西洋兵学者・下曽根金三郎に師事する。
   江戸で、数学、天文、測量、暦学、蘭学、砲術を学
   ぶ。
  1855年(24歳)再び江戸に遊学し、勝海舟の塾で兵学
   を修得する。
    次いで、勝海舟の従者として長崎へ赴き、海軍伝
   習所で、航海術などを学ぶ・・オランダ人より語学、
   航海、測量、騎兵学などを学ぶ・・この頃、英国兵
   書の翻訳を志す。
  1858年(27歳)オランダの兵書「矢ごろのかね 小銃
   彀率(こくりつ)」を翻訳して出版した。
  1859年(28歳)4月、長崎海軍伝習所の閉鎖によって江
   戸にもどる。
    咸臨丸への乗船を希望したが選ばれなかった。
  1862年(31歳)上田で調練調方御用掛となる。
  1863年(32歳)上田で砲術道具製作御掛となる。
  1864年(33歳)9月、第一次長州征伐で、公務として江
   戸に出る。
  1864年(33歳)11月、横浜に駐屯するイギリス騎兵士
   官・アプリン大尉から英語や騎兵術の英国兵法など
   を習う。
  1865年(34歳)4月、第二次長州征伐で大阪に布陣する。
   陣中で英国陸軍の兵書の翻訳を進める。
  1866年(35歳)3月、翻訳した「英国歩兵練法」を出版
   する・・広く洋式兵法家としてその名が知られる様
   になる。
  1866年(35歳)8月、「方今世上形勢の儀に付乍恐奉申
   上候口上書」を幕府に提出する。
  1866年(35歳)9月、藩主の松平忠礼に、藩内の身分制
   度撤廃と言論活動の自由を求める建白書を提出する。
  1866(35歳)10月、薩摩藩から英国兵学の教官として
   スカウトされる。
    その後、京都へ出て私塾を開く。
    薩摩藩邸・会津藩邸で、英国式歩兵術など洋式兵
   学を教えた。
    諸藩より学ぶ門下生の数、800余名。
    その中には、東郷平八郎元帥、上村彦之丞大将な
   ど日清、日露戦争で活躍した諸将が含まれている。
  1867年(36歳)薩摩藩・島津久光侯の委嘱により、「
   英国歩兵練法」を改訂し、新しい翻訳で出版する。
  1867年(36歳)5月、前政事総裁職(前福井藩主)松平
   春嶽に対して「御改正之一二端奉申上候口上書」を
   提出する。
    島津久光と幕府にも、春嶽宛のものと同様の建白
   書(建白七策)を建言した。
  この「建白七策」は、我が国の近代化に向けての国家
 のグランドデザインを描いたもので、政治史の中で燦然
 (さんぜん)と輝いている。
  公武合体論を主張し、天幕一和(天皇家と幕府の合体)、
 諸藩一和のもと、上局と下局の二局の議政局により、内
 憂外患のこの時期を、平和的に乗り切る方策を模索した。
  そして、西郷隆盛や徳川慶喜への働きかけるなどした。
  最後まで東奔西走していたが・・
  明治維新直前の1867年9月30日、藩命に接し、上田への
 帰藩途上の京都において、桐野利秋などの薩摩藩士によ
 り暗殺された。享年37歳。
  薩摩藩は、才能のある赤松小三郎が、幕府側に利用さ
 れるのを惜しんだためと言われている。
  上田市(上田城跡公園内)に赤松小三郎記念館がある。
  訳書に「英国歩兵練法」「新銃射放論」。
.
1931年11月7日、この日の朝日新聞の戦争を煽る記事
  「砲火の下に嫩江激戦を観る。新聞記者の一番乗り。
 決死・前線へ進む。不意打ちに我軍の苦戦。
  忽(たちま)ち鮮血の河!」。
  (参考)嫩江:のんこう、黒竜江省黒河市に位置する。
  朝日新聞は、特派員などの記事で勇ましく報道し、戦
 争を煽り立て続けた。
  「暴戻なる支那兵。日本の権益侵害」と書き・・
  「敢然として自衛のために起ち上がった」と煽った。
  (参考)暴戻:ぼうれい、荒々しく、道理に反する行
     ないをすること。
  朝日新聞の記者・荒垣秀雄が有名になった。
  そして、朝日新聞は、非常に多くの号外を出し、煽り
 立てた。
  1931年9月から1932年1月まで、131回もの号外を出した。
  満州事変も煽った、朝日新聞の販売部数は飛躍的に増
 大した。
  販売成績も同時に飛躍的に増大する中に、戦争を煽る
 朝日新聞があった。
.
1945年9月11日、東条英機が拳銃自殺を図った。
  銃声が聞こえた直後、救急車などと共に、世田谷区用
 賀にある東條の私邸を取り囲んでいたアメリカ軍を中心
 とした連合国軍のMP(軍警察)たちが一斉に踏み込み
 救急処置を行った。
  銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが、急所は外れて
 いて、アメリカ人軍医のジョンソン大尉によって応急処
 置が施され・・、
  マッカーサーの指示の下、横浜市本牧に設置された野
 戦病院において、アメリカ軍による最善を尽くした手術
 と看護を施され、奇跡的に九死に一生を得た。
  新聞では、「東條大将順調な経過」「米司令官に陣太
 刀(じんたち、太刀の拵)送る」などの病状が報道され
 た。
  また、入院中、ロバート・アイケルバーガー中将はじ
 め多くのアメリカ軍高官が丁重な見舞いに訪れた。
  その様なアメリカ側と対照的に日本人は、家族以外、
 訪問者は少なく、その様な状況に東條英機は大きく落胆
 したという。
.
1948年11月12日、東京裁判が、25人に有罪の判決を下した。
  そのうち板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東條
 英機、広田弘毅、武藤章、松井石根の各氏が死刑となっ
 た。
  ポツダム会談で、既に、誰を死刑にするかは話し合わ
 れていた・・東京裁判はその茶番劇だった・・
.
1948年12月23日、東条英機らの7人に死刑が執行された。
  無実の罪だった。
  この判決を下した東京裁判自体が「卑劣な行為」だっ
 た。
  「アメリカなどの連合国が卑劣だ」という理由は、そ
 もそも、この裁判が成立しない状態にある・・それ故、
 アメリカは、「日本を裁く罪状が無い」ため、日本の罪
 状づくりという卑劣な行為をした。
  裁くための新しい法律を事後法で作った・・卑怯な行
 為である。
  そして、ドイツのヒトラーが行なったユダヤ人の方々
 を虐殺したと同じ様な南京虐殺があったとデッチ上げた。
  ある訳がない南京事件をデッチアゲテ・・2万人を虐殺
 したとした(今では、中国が30万人だと言う始末になっ
 ている)
  まったくの濡れ衣(ぬれぎぬ、無実の罪。根も葉もな
 い嘘)である。
  日本は、ドイツのユダヤ人虐殺の様なジェノサイドは
 絶対に行っていない。
  東京裁判のすべてが、アメリカなどの連合国の作り上
 げた筋書きで進められた。
  ドイツは、開戦の何年も前から、ヒトラーなどのナチ
 ス幹部たちが、「共同謀議をして」、悪計を謀(はか)
 って、そして、戦争を始めたのであって、それが裁かれ
 るのは当然なのだが・・日本はその様な行為は一切して
 いない・・
  逆に、アメリカによる引っ掛け行為によって戦争が開
 始されている・・このアメリカの行為こそ裁かれるべき
 なのだ・・。
  これ等の理由の様に、東京裁判の日本への起訴状は空
 理空論なのである・・成立しないのである・・
  「勝てば官軍」で、アメリカは何でも言いつのった。
  また、卑劣な事後法を作って、日本を罪に落とした。
  それが、真実の実態なのである・・
  A級戦犯などの多くの人々を、あたかも裁いた様にし
 て殺したが、罪は成立してないのである。
  唯一の東京裁判の国際法の専門家だったパール判事が
 「全員無罪とした」のが正しいのである。
  死刑にすることが出来ない人たちを、死刑にしたのが
 東京裁判だったのである。
  日本という国に、および、その国の通常の公務に従事
 していただけに過ぎない人たちを、この様な通常の無実
 の人たちを裁き得ないことが明白なのに・・被告とした
 のである。
  東京裁判は茶番と言われる所以(ゆえん)である。
  また、この様な論理を通したいのならば・・ベトナム
 戦争の戦勝国・ベトナム国の国の裁きを、敗戦国のアメ
 リカは受けなければならない。
  アメリカのあらゆる新しい兵器を、日本の原爆の様に
 テスト使用して、ベトナムの方々を、大勢、虐殺した。
  この卑劣な行為は、「人道に対する罪」である。
  または、東京裁判の再審請求を成立させて、公正な裁
 判を、再度、行ない、「全員無罪としなさい」・・
  そして、国連憲章の敵国条項を削除しなさい。
  もう、陳腐な戦後体制の論理は終わっている時代なの
 である。
.
1965年6月22日、日韓基本条約が締結された。
  この条約の正式名称は、「日本国と大韓民国との間の
 基本関係に関する条約」という。
  日韓国交樹立、日本の韓国に対する約11億ドルの経済
 協力、両国間の請求権の完全かつ最終的な解決、それら
 に基づく関係正常化などが取り決められた。
  これで、両国間のすべての懸案が解決した。
  しかし、この隣国の韓国・朝鮮は、江戸時代も、そう
 であった様に、遠い昔から「国際的な考え方も無視する
 様な国だった」。
  国際法では、いったん合意されたものは、蒸し返して
 問題にできないとされているが・・韓国政府は、この様
 な合意はおかしいと、後になって、繰り返し繰り返し蒸
 し返して、すでに合意していることをしつこく言った。
  約束という行為が、まったく無視される状態だった。
  この国とは何の約束もできる様な状態ではないと言え
 る。
  例えば一例を言えば、「個人への補償が終わってない」
 と韓国は言い出した。
  この件は、日韓間の交渉段階で、「日本が、個別に個
 人と話し合って補償します」と言った。
  すると、韓国政府は、「韓国政府へ一括して支払って
 もらいたい」と要望した。
  そして、日本は、韓国政府の要望を入れて、大変大き
 なお金を韓国政府へ支払った。
  しかし、前記したように、後になって、韓国政府は、
 個人への支払いが終わってないと蒸し返し発言を始めた。
  この国は、この様な事ばかりしている・・ところが・・
  2005年1月17日、韓国において、韓国側の議事録が公開
 されると・・、日本と韓国間の個人賠償請求について当
 該諸条約の本文に・・
  「完全かつ最終的に解決した」と、「1945年8月15日以
 前に生じたいかなる請求権も主張もすることができない
 ものとする。」の文言が明記されている事が韓国国内に
 広く知られるようになった。
  韓国内では大騒ぎになった・・
  日本の言う通りだった・・
.
2018年、孔子学院と言って中国の工作員が入っているとい
 う事で有名な組織がある大学
  中国共産党のプロパガンダ組織だという・・
  その為、アメリカの孔子学院の閉鎖が相次いでいると
 いう・・
  大統領令も出て中止という事になった・・
  中国語を無料で教えるという名目・・
  ヨーロッパもこの事に気付いた・・
  ドイツのメルケル首相が、「中国の儒教でも教えると
 思ったら、まったく違って、中国共産党の宣伝機関だっ
 た」と言ったという・・
  以下は、今、日本の孔子学院を開いている大学・・
  ・桜美林大学孔子学院(神奈川県)、、
  ・北陸大学孔子学院(石川県)、
  ・札幌大学孔子学院(北海道)、
  ・立命館アジア太平洋大学孔子学院(大分県)、
  ・関西外国語大学孔子学院(大阪府)
  ・大阪産業大学孔子学院(大阪府)
  ・立命館孔子学院(京都府)、
  ・兵庫医科大学中医薬孔子学院(兵庫県)
  ・岡山商科大学孔子学院(岡山県)、
  ・福山大学孔子学院(広島県)、
  ・愛知大学孔子学院(愛知県)、
  ・武蔵野大学孔子学院(東京都)
  ・早稲田大学孔子学院(東京都)
  ・工学院大学孔子学院(東京都)
.
2018年9月11日、『ニュース女子』 #174(大東亜会議・文
 部科学省・温暖化)
  https://www.youtube.com/watch?v=jdxKF6EJSZ4
  以下は、放送された内容・・
・1943年11月5日、大東亜会議(~1943年11月6日)
  アジア初の国際会議が開かれた。
  会議の目的:植民地支配からアジアを解放する。
  参加国:日本、タイ、フィリピン、インド(自由イン
 ド仮政府)、中華民国(南京国民政府)、ビルマ、満州
 国
  大東亜共同宣言が採択された・・アジアの欧米諸国に
 よる植民地支配からの解放を目指す。
  大東亜を建設して世界平和の確立に寄与する。
  1、共存共栄
  2、自主独立と互助敦睦(友好の推進)
  3、伝統の尊重
  4、経済発展
  5、人種差別撤廃と資源解放
・しかし、東京裁判で、この大東亜共栄圏の考え方が否定
 された。
  連合国基準・・連合国の戦勝国の定義に反するとして
 否定された。
  この東京裁判で、その様な戦勝国の定義から敗戦国側
 の28人がA級戦犯とされてしまった。
  罪名:平和に対する罪、
  東条英機らの7人が死刑(絞首刑)とされた。
  国際法にも存在しない基準によって殺すと判断された。
  日本を裁くためだけに作られた基準だった。
  この様なやり方なら、誰でもが、後から罪に落されて
 しまうというやり方だった。
・日本の今の女子の考え方
  1、戦没者は日本の英雄です・・核兵器のない世の中
    にします!・・戦没者の方々、どうぞ安らかに(
    靖国に眠る英霊の皆様への一言)・・
  2、日本のため、家族のために、ありがとう・・戦争、
    紛争が無くなっていなくて、ごめんなさい・・
    皆様は平和を目指していた・・
  3、本当に、お疲れさまでした・・あの時の戦いの存
    在があってこそ、今のアメリカとの友好関係があ
    る・・
  4、あなた方が戦って下さったことは、決して無駄で
    はありませんでした・・アジアに旅行した時に、
    そのアジアの方々から聞く声で、「あの時、日本
    が来てくれて有り難かった」という声だった・・
    日本のすべてが悪いと否定することではない・・
    日本の戦いは決して無駄ではなかった・・
・欧米列強諸国に支配されていた地域を、大東亜共栄圏で
 皆が豊かに栄える状態に変える構想・・
  その領域:アメリカ領フィリピン、イギリス領ビルマ、
 イギリス領マレー、インド、オランダ領東インド、イギ
 リス領ボルネオ、アメリカ領フィリピン、フランス領イ
 ンドシナ、中華民国、満州国、オーストラリア、ニュー
 ジーランド
・1886年(明治19年)、帝国大学令に基づいて「帝国大学」
 と改称され、帝国大学が整備された・・
  この時、大鳥圭介が言った・・
  「アジアに6億人が居て、ヨーロッパには3億人、この
 様に人口の多いアジアが、何故、ヨーロッパの植民地に
 ならなければならないのか?
  その為に、智慧の不足をアジア人は補って持とう」・・
 基本的な、底流にある考え方「アジア人は知恵と共に強
 くなろう」・・(その考えのもとで、日本は、日本の資
 金を投入して、朝鮮や台湾で大学など学校を作った)
  この様な考えもあって、大東亜会議は開催された・・
・1919年1月18日、パリ講和会議が開かれた。
  第一次世界大戦後の世界秩序を決める会議だった。
  日本は、主要五大国として参加した・・
  そして、日本が素晴らしかったのは・・この会議で、
 世界で初めて「人種差別撤廃」を国際会議で訴えた。
  会議の現場では多くの賛同を集めた・・決議される勢
 いだった・・
  しかし、この流れを恐れた国があった・・賛成国が多
 く、決議される流れの中にあったが・・アメリカとイギ
 リスが反対した・・
  この反対で、特に、アメリカの議長決裁という少数者
 側に居たアメリカの議長権限で否決された。
  「民族が平等なのは当たり前なのだ」という民族の平
 等という人道的な当然の日本の訴えを退けてしまったア
 メリカだった・・
  そして、この考え方の流れは、大東亜会議へとつなが
 って行く・・強い国が弱い国を攻めて蹂躙してはいけな
 いという、これも、当然の訴えだった・・
  「力による支配を否定する」は当たり前の訴えだった・・
  この当たり前を・・採択されるような包容力のある列
 強ではなかった・・
  採択するような国であれば、当然、核を持つような行
 動も無かったのだが・・
  ヨーロッパに存在する「人種差別観」と「強いものが
 弱いものを蹂躙してよいという差別観」から発していた・・
 この二つが根源的な問題だった・・
・1929年、世界恐慌となった・・この経済が行き詰ったこ
 の時・・ブロック経済圏を作った・・
  ドル経済圏・・
  アメリカなどのドル経済圏が、他の経済社会に需要が
 流れて行かない様な行動をとった・・
  自分たちだけの社会の中で、経済が回る様な行動をし
 た・・(自分たちさえよければ良い・・だった)・・)
  その経済圏の外にいた日本は、自主独立の道を進む道
 を止む無くとった・・そして、日本だけではなく、アジ
 アの共栄圏の道を作ろうという行動をとった・・そして、
 共に経済成長して行こうとした(大東亜共栄圏)・・
・この当時、日本とタイという二国のみが独立の状態だっ
 た・・この二国の例外を除けば、すべてのアジアの国々
 は、「植民地という自由を束縛された経済社会」の中に
 あえいでいた・・
  蹂躙されていた国は以下・・1979年頃のアジア諸国・・
  フィリピン(アメリカ領)、
  ビルマ(ミャンマー、英国領)、インド(英国領)、
  シンガポール(英国領)、バングラデシュ(英国領)
  スリランカ(英国領)、マレーシア(英国領)、
  パキスタン(英国領)、
  ラオス(フランス領)、ベトナム(フランス領)、
  カンボジア(フランス領)、
  インドネシア(オランダ領)、
・戦後のアメリカの介入した教育などで、日本は侵略国だ
 というイメージが押し付けられ、洗脳され、作られて行
 った・・
 (戦後、アメリカの占領政策下で、NHKは盛んに洗脳
 放送をした)
・苛烈(かれつ、むごいほど厳しく激しいさま)を極めた
 欧米列強の植民地支配は、隠されがちだった・・
  生活穀物で・・植民地の人々は、自分たちの生活に必
 要な穀物さえ栽培できないように強制された・・
  そして、欧米列強が儲かる都合のよい商品作物の栽培
 に変えさせられた・・そして、利益の収奪がされた・・
  オーストラリアはイギリスから囚人を入れたが、
 アボリジニのアジア人を30万人殺した・・この様な話ば
 かり
  マレーシアもこれで、ほとんどの国がこの様に列強諸
 国に収奪された・・
  中国も、イギリスにアヘンの麻薬を強引に流入された
 (麻薬貿易)・・強引に麻薬が売付けられ・・中国の富
 が召し上げられた・・
  インドネシアも、オランダに酷いことをされている・・
・この様な虐(しいた)げられていたアジアの国々を回っ
 た時、それらの国々の国民感情は、日本に対する恨みは
 まったく無い状態だった・・
  日本軍が行った時、「解放軍だ」と思った・・と・・
 喜んで日本軍を迎えた・・特に、インドネシアは、350年
 間、オランダの植民地下で虐げ続けられて来ていた・・
  生活習慣まで変えさせられた(足をすって、にじり寄
 る様なしぐさを押し付けられたりした)・・
  御主人様には、その様にするのだとされた・・オラン
 ダは文明を教えてやったという視点だった・・
  この底流には、「白人以外は人間ではない」という人
 間観があった・・
  日本人は、日露戦争後は名誉白人とされた(日本が要
 求した訳ではない)・・
  アメリカの黒人差別は目を覆うばかりだった・・ホテ
 ル・レストランなど、黒人が入れない所があちこちに作
 られていた・・白人はそれが当たり前だとした・・
  大東亜会議は、その様な虐げられていた有色人種だけ
 で開催された・・白人には、差別のキリスト教中心の価
 値観があった・・が、しかし・・大東亜会議は平等な宗
 教観の中で開催された・・
・戦後、アメリカの占領政策の中では、これ等の『大東亜
 構想』をNGワードとされた・・No Good Word・使って
 はいけない言葉とされた・・
  大東亜共同宣言のすべては、国連憲章と同じで当たり
 前の事なのに・・この時、白人は、今現在、植民地とし
 て支配下に置いているのに・・「自主独立とは何だ」と
 白人国は反発した・・
・日本が、ずーっと持っていたこの考え方の会議を、アジ
 アの虐げられた人々を集めて戦争前にしていればという
 事があり、残念だった・・もう少し早く、白人たちへ行
 動していたかった・・
  戦勝国は、この点をずけずけと言った・・しかし、大
 東亜構想の理念では当たり前な事なので、その点では言
 う事は出来なかった・・
・日本が、明治維新を行なった原点には、「日本が欧米列
 強の植民地にされないように・・」という事でった・・
  だから、朝鮮へも、開国して近代化するようにと言っ
 た・・西郷隆盛の主張にも、その理念があった・・
  アジアの国々と結束したいという理念はズーットあっ
 た日本だった・・
  大東亜会議は、すべての虐げられたアジアの国々を呼
 ぼうとしたが、イギリスの蹂躙下にあったインドや、ア
 メリカの蹂躙下にあったフィリピンも呼べない状況にあ
 るように、呼べない国々があった・・
・日露戦争までのアジアの国々の人々は、「白人に勝てな
 い」というそれまでの独立戦争のことごとくで、痛い目
 に会っていて、反抗心が抑え付けられていた・・
  日本の日露戦争の勝利で、アジアの方々へ希望を与え
 た・・
  今・現在、日本の女子が、アジアに旅行した時、同世
 代のアジアの青年たちも、上の世代の方たちから、「日
 本によって解放されたのだ」と聞かされたという話をな
 された・・
  今の若い世代でも、その様な会話がなされている・・
 病院や学校や道路などを作ってくれたとも言い・・「日
 本人に感謝してます」との言葉も出る・・と・・
・白人の欧米列強の植民地政策は、滅茶苦茶に収奪だけの
 行為だったが、日本は違った・・日本は教育をしたり、
 道路を造ったり、鉄道を引いたり、ダムを造ったり・・
 と・・
・ガタルカナル島やソロモン諸島の国で、パプアニューギ
 ニアのラバウルで聞くと、日本が、あの時、もし勝って
 いたらもっと私たちは違う良い国になっているという話
 も出ている・・
・アメリカは、原爆を落とし、最大の虐殺をしたという負
 い目があった・・それを消すのに必死だった・・
  日本を悪くする象徴として、東京裁判の7人のA級戦犯、
 16人の終身禁錮刑、2人の禁錮刑などを作った・・
・東京裁判の最大の愚かさは、国際法の専門家が一人しか
 いなかった・・その人が、インドのパール判事だった・・
  このパール判事が「全員無罪とした」・・
・この戦争を煽ったのは朝日新聞・・朝日新聞は戦争を煽
 りまくった・・
・戦争を止めるには軍人でなければだめだとして登場した
 のが東条英機首相だった・・戦争にならざるを得なくな
 った時に東条英機首相は官邸で泣いていたという・・
・2013年、「大東亜会議70周年の会」が開かれた・・600人
 くらいの人たちが集まった・・
・インドネシアで、戦後、日本に帰還しないで、日本の2000
 人の将兵が残り、インドネシアの独立戦争に加わって熾
 烈(しれつ、燃え上がる様な盛んで激しい様子)な独立
 戦争を行なった・・1000人の日本将兵が戦死した。
  インドネシアの国立名誉墓地に、一杯、この日本将兵
 が葬られている・・この様なことは、ベトナムでもなさ
 れ、約750人の日本将兵が戦死している(フランスが、再
 度、植民地にしようと、ベトナムを取りに来たとき、日
 本の将兵が共に戦った)・・
  ウイグルのリーダーのラビア・カーデル氏は、他の国
 で、日本の将兵が戦ってくれた様に、ウイグルにも来て
 もらいたかったと言った・・と・・
  この地は、中国の領土ではないと言った・・日本の将
 兵が戦った地は皆独立していることを見ても残念だと、
 何回も言った・・
.
2018年9月27日、中国に敗けたキリスト教のバチカン
  「中国様」と言わんばかりのバチカンのローマ法王(
 教皇)の状態。
  過去の暗黒のキリスト教の歴史にも、「叙任権」の争
 いで多くの血が陰湿にも流されたが・・その様なことが
 現在も起きている。
  中国がキリスト教の司教を独自に決めた・・すると、
 その司教をバチカンは破門にした。
  こんな「おしくらまんじゅう」をしていた。
  この日の読売新聞によると、バチカンは中国に敗けて、
 司教任命権を渡すような状態になった・・しかし、この
 様な法王の言動に批判があいついだため、ローマ法王の
 発言が微妙になった。
  ローマ法王フランシスコは、ローマ法王庁(バチカン)
 が中国との間で暫定合意した中国カトリック教会の司教
 任命について、「最終的に任命を行なうのは法王だ」と
 述べた。
  法王が22日、中国が独自に選びバチカンが破門にして
 いた司教7人の妥当性を認めたことに批判が出ていること
 を踏まえ、中国側には妥協はしていないと強調する狙い
 があるとみられる。・・(中略)・・
  今後は、中国側が選んだ司教候補を、法王が実際に任
 命するかどうかが焦点となっている。
  中国側が司教候補を提示することは、法王が絶対的な
 権限を持つ司教任命権を実質的に中国側に渡すことにな
 り、中国政府の圧力にキリスト教カトリック教会が屈し
 たとの見方もある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive



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by suba28 | 2018-10-05 03:05 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)612E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年10月~1894年10月)

題:(増補版)612E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年10月~1894年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年10月10日、東学参礼集会、再蜂起を論争。
  全琫準(ぜんほうじゅん)は、第一次の蜂起の時、全
 州和約を結んで政府と和したが・・、
  (参考)全州和約:1894年6月10日、朝鮮政府と甲午農
     民戦争の指導者・全琫準の間で結んだ和約(わ
     やく、平和条約)
  全琫準は、参禮集会を主導して全羅道農民軍を集め、
 つづいて忠清道と慶尚道地域に基盤を置いた教団指導部
 と連合した。
  1894年11月17日、南接・北接連合軍が、論山(のんさ
 ん、大韓民国忠清南道の都市)に集結した・・約20000人、
 そして、全国に蜂起が拡大した。
  1894年11月19日~1894年11月22日、公州攻防戦(第1次)
  1894年12月4日~1894年12月11日、公州攻防戦(第2次)
   最大の激戦が牛金峙の戦闘だった。
   全琫準は、多数の犠牲者を出し、論山に後退した。
   朝鮮政府軍に日本軍が支援し追撃した。
    全琫準は、本拠地・院坪、泰仁で最後の抵抗をし、
   決定的な敗北をし、軍は解体された。
  1894年12月28日、全琫準が逮捕された。
  1895年1月、この時まで、全羅道掃討作戦が行われ、そ
   の他の地域も順次鎮圧された。
  1895年4月23日、全琫準が死刑となった。
.
1894年10月15日、内相・井上馨が、朝鮮駐在公使に任命さ
 れた。
  日本と比べ、朝鮮は、はるかに自給自足的で、商品経
 済の発達もまだ未発達の遅れた状況だった。
  この様な朝鮮へ、経済のよく分かる井上が任命された。
  日本の朝鮮経済発展への助力の姿勢だった。
  経歴豊富な井上は、大蔵・外務・農商務・内務の各大
 臣を歴任して来ていて・・特に、大蔵・外務の両分野に
 は精通し、豊富な知識を持っていた・・
  この井上が、朝鮮の内政改革を助成し、朝鮮官僚へ働
 きかけた。
  井上馨は、朝鮮国王に上奏した種々の提案のうち、借
 款供与によって海関、国内税、地方事務を掌握する方策
 は、イギリスがエジプトでおこなった例にならったもの
 と、井上自身が説明している。
  財政破たんの状況にあった朝鮮は、その様なことから
 国内の政情も不安定だった。
  朝鮮は、この時、国内からの税収は落ち込んでいて、
 商品生産がまったくの未発達状態で経済力は小さかった。
  内政改革と財政再建は喫緊(きっきん、さしせまって
 大切なこと)の課題だった。
  (参考)海関:かいかん、中国の清朝が海港に設けた
     税関・・関税を徴収した。
.
1894年10月15日、ドレフュス事件
  アルフレド・ドレフュス仏陸軍大尉が反逆罪で逮捕さ
 れた(冤罪)
  フランスで起きた事件で、フランス陸軍参謀本部勤務
 の大尉であったユダヤ人のアルフレド・ドレフュスがス
 パイ容疑で逮捕された事件。
  フランスは、普仏戦争に敗れた結果、鉄鉱石と石炭の
 豊富なアルザス=ロレーヌを奪われ、失った。
  (参考)普仏戦争:1870年7月19日~1871年5月10日、
      ドイツ統一をめざすプロイセンと、これを阻
     もうとするフランスとの間で行われた戦争。
      スペイン王位継承問題をきっかけに、プロイ
     センの挑発に乗ったフランス側から開戦したが、
     プロイセンが圧勝、統一を完成してドイツ帝国
     の成立が宣言された。
      敗れたフランスは、アルザス‐ロレーヌを割
     譲し、第二帝政が崩壊して第三共和制が成立し
     た。
  そして、莫大な賠償金をフランスは課せられた。
  その為、フランス経済は大きな困難に直面した。
  フランス国内経済の不振で資金は有利な海外投資に向
 けられた。
  ロスチャイルドなどのユダヤ系の金融資本が国民の零
 細な貯蓄を投資に引き入れ、東ヨーロッパなどへの投資
 をおこなって行った。
  1882年に、金融恐慌が発生した。
  多くの投資銀行が破産に追いやられた。
  その結果、貯蓄をなくした人々は、金融界を牛耳るユ
 ダヤ人への憎悪を昂(たかぶ)らせ、反ユダヤ主義が高
 まった。
  一方、フランスの保守派と軍部は、ドイツに対する報
 復と、熱狂的な愛国主義を煽(あお)り・・、
  1880年代後半には、ドイツへの復讐を叫ぶブーランジ
 ェ将軍が右翼・軍部の支持の下に独裁政権の樹立を図る
 事件を起こし・・失敗していた(ブーランジェ事件)
  ドレフュス事件は、このような第三共和政の不安定な
 状況の中で起きた。
   1894年、ユダヤ系の陸軍大尉 A.ドレフュスが、ドイ
 ツに情報を売ったとして終身流刑に処せられた。
  軍部内では、別に真犯人がいることをわかっていたが、
 軍の威信と反ユダヤ感情などのために、事件を糊塗(こ
 と、あいまいに取り繕っておく)しようとした。
  最初、家族や知人を中心とした再審要求運動であった
 が・・上院副議長 A.シューレル・ケストネルや、後の首
 相のG.クレマンソーらの支持を得て、再審要求運動は拡
 大した。
  1898年、文人 É.ゾラが、『オーロール』紙上で「私は
 弾劾する」で始る大統領あての公開質問書を発表するな
 ど、世論は高まり、単に個人の有罪、無罪の論議をこえ
 て・・、
  左翼には、国権に対する個人の自由を守り、軍を議会
 の統制下におこうとした反教権的な「ドレフュス派」・・、
  右翼には、軍の威信や伝統的価値を擁護し、対ドイツ
 愛国心を強調する国家主義者、頑固なカトリック、反ユ
 ダヤ人主義者、保守主義者などを中心とする「反ドレフ
 ュス派」が形成され、国論を2分して抗争した。
  (参考)反教権主義:はんきょうけんしゅぎ、宗教上
     の権威、特に、キリスト教のローマ・カトリッ
     ク教会、または、ローマ法王・教皇の権威・権
     力(=教権)を否定する考えを意味する。
      広い意味では、聖職者、あるいは宗教自体が、
     政治や市民の日常生活など、精神世界以外の世
     俗分野に介入することなど・・全般に反対する
     立場を意味する。
  1898年、H.アンリ大佐が文書の一部偽造を告白して自
 殺したため、再審が確実となり・・
  1899年、レンヌの軍法会議の再審で減刑されたが依然
 有罪で、大統領特赦で刑が免じられた。
  1903年、新たに有利な証拠が提出され・・
  1906年7月、民事の破毀院(上級裁判所が原判決を取り
 消す)は、レンヌの判決を全面的に破棄し、議会でも復
 権法案が可決した。
  1906年7月22日、ドレフュスは正式に復権した。
.
1894年10月15日、第7回臨時帝国議会が召集された。
  大本営のある広島で、第7臨時議会が、広島臨時仮議事
 堂で開催された。
  当時の日本の兵站拠点の一つが宇品港(現・広島港)
 だった。
  この議会で、日清戦争に関連する1億5000万円余の軍事
 予算案、および、戦争関連法案が審議され、全会一致で
 可決された。
  これまで対立が激しかった政局は、日清戦争を転機に
 一転して挙国一致体制となった。
.
1894年10月17日、東海道線の時刻改正がなされた。
  新橋駅~大阪駅間の発着列車を神戸まで延長した。
  そして、山陽鉄道会社線の神戸駅~広島駅間列車に接
 続した。
  この年は、4月16日・5月5日・5月7日・6月10日・10月
 17日と、段階的に東海道線の時刻が改正され・・、
  東京駅~神戸駅直通の列車は3往復へ増発された。
  所要時間も約30分~1時間短縮された。
  これ以外にも、多くの長距離列車が設定されるように
 なった。
.
1894年10月18日、大日本帝国議会の臨時会で、第七回帝国
 議会が開会された。
  1億5千万円の臨時軍事予算と、軍事公債案を全会一致
 で可決された。
  この議会は、日本の憲政史上で唯一の東京以外の場所
 で開かれた国会。
  1894年9月15日に、大元帥である明治天皇陛下がこの地
 に行幸され、滞在された。
  第4回総選挙結果をうけた帝国議会だった。
 ・広島において第七議会(氷川清話)
.
1894年10月22日、庄内地震
  山形県庄内地方(庄内平野)での大地震だった。
  マグニチュード:7.3、死者:739人、家屋倒壊:4488
 戸。
  土地の隆起沈下、山崩れなど多数。
  別データ:死者726人、全壊3858戸、半壊2397戸、全焼
 2148戸。
.
1894年10月24日、臨時軍事費予算1億5000万円が公布される。
.
1894年10月24日、日清戦争: 鴨緑江作戦(~1894年10月25日)
  朝鮮と中国の教会を流れる鴨緑江(おうりょくこう)・・
  1894年10月25日午前6時10分ころ、山縣有朋率いる第1
 軍主力が、渡河作戦を開始した。
  左岸の砲兵隊が援護射撃する・・その中を清国軍の各
 堡塁や砲台への攻撃を行なった。
  清国軍は部隊を虎山方面へ進軍させ、一進一退の攻防
 戦となった。
  日本軍は前進を阻まれるが・・架橋で渡河した増援部
 隊が野砲の援護を受けて攻勢に転じた。
  清国軍は九連城へと退却を始めると、日本は一斉に攻
 勢に出た・・
  清国軍はその波状攻撃を受け、軍勢は崩れ、日本軍の
 勢いに恐れをなした状況で逃走した。
  虎山に着いた山形有朋大将は、翌日の九連城への総攻
 撃を命じる・・しかし、清国軍は、その夜のうちに退却
 し・・10月26日、九連城は無血で制圧し・・入城した。
  日本の工兵の練達した技術による架橋により、砲兵隊
 や軍馬が短期間で送り込めた所にあった・・
  清国軍は、外国人将校の軍事指導を受けていたが、日
 本軍はそれを上回った。
  日本の国産の小銃(ライフル)の村田銃が功を奏した。
  世界は、この時、日本軍は近代的な装備を持った軍隊
 だと意識させ、印象付けた。
  その差は、下記の損害の差に表れている・・
  指揮官:日本・山形有朋、清国・宋慶
  戦力:日本・約10,000、清国・約15,000
  損害:日本・死者4、清国・死者約2,000
.
1894年10月27日、志賀重昂(しげたか)『日本風景論』が
 刊行・・ロングセラーとなった。
  志賀重昂は、東南アジア諸国を見て歩き、そのつぶさ
 に見た「西欧の列強のアジア諸国の植民地収奪に怒りが
 湧き、その非人道的行為を、激しく批判した」・・
  増訂が重ねられ、ロングセラーとなり、1903年には、
 第15版が出版された・・
  日本人は、この本を愛読した。
  また、この本は、日本の自然と民族の特性を結びつけ
 た近代的風景論の先駆けとなった名著だった。
  従来の殻を破って、理知的な科学的な観察と、文学的・
 絵画的叙述とを、みごとに融合させた風景論が書かれた・・、
  日本の山水美は、世界的にみても優れている・・その
 理由を・・、
  その気候、海流の多変多様なこと、水蒸気の多量なこ
 と、火山の多いこと、流水の浸食が激烈な急流状態など
 と・・多様な基本的要因をあげ・・、
  さらに、著者自身の内外における実地の観察に基づい
 て比較考察し・・
  古今東西にわたる叙景詩文なども適切な引用し・・、
 魅力的な筆致とし・・多数の挿絵も使い・・、
  科学的スケッチや図表(例えば、日本同温線、風向、天
 気図、日本の花の分類)などによって多面的・立体的に説
 明などを加えた・・
  志賀重昂は、地理学者で評論家・・
   1884年、札幌農学校を卒業、
  地理学の実地研究を志し、南洋各地を旅行し、『南洋
 事情』を執筆・・
  その南進論と国家主義的立場から西欧帝国主義による
 植民地収奪を激しく論難した。
  後に、三宅雪嶺らと雑誌『日本人』を刊行し、指導的
 役割を果して行った。
  また、農商務省、外務省などの要職に就き・・
  晩年は衆議院議員ともなった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:今、中国に、ハゲタカ・ファンドが入っている・・
    これが最後の段階・・
   だから、これらが引き始めたら「中国不都合の露呈の始まり」・・
    中国は・・時限爆弾状態・・
.
1642年、イギリスの清教徒革命
  清教徒革命(または、ピューリタン革命)は・・、
  1642年から1649年にかけて、イングランド・スコット
 ランド・アイルランドで起きた内戦・革命であって・・、
  1638年の主教戦争から・・1660年の王政復古までを含
 む・・、
  イギリス王国は、国教会による王の絶対主義によって
 維持されていた・・が・・
  しかし、富を獲得して羽振りが良くなる者と、その反
 対に没落する者とが・・錯綜していた。
  王室と議会の対立の源となった社会矛盾・・この確執
 の多い不安定な社会だった。
  イギリスは、キリスト教のカトリックとプロテスタン
 トが、果てしなく飽くなき状態で戦った三十年戦争で有
 利になろうと・・、
  1624年に、フランスの呼びかけに応じて、デンマーク・=
 ノルウェーを、「対ハプスブルク同盟」へ引き込む為、
 資金を提供した。
  この結果、イギリス王室は財政難に苦しむこととなっ
 た。
  しかし、1625年に王位を継承したチャールズ1世は、こ
 の様な変化に対応できなかった。
  キリスト教の教義による王権神授説にもとづいて、議
 会と対立した。
  その結果、大陸の戦火がイギリスにも及ぶ様にになっ
 た。
  1641年のイングランド内戦で、アイルランドのキリス
 ト教カトリックが蜂起した。
  アイルランド・カトリック同盟政権を樹立し・・アイ
 ルランド革命が始まった。
  1642年には、イギリスでも、王と議会の対立から第一
 次イングランド内戦が始まった(1642年~1646年)
  スコットランドでも、二次にわたる主教戦争を経て・・
  1644年、盟約派と国王派の間でスコットランド内戦が
 始まった。
  (参考)主教戦争:しゅきょうせんそう、イングラン
     ド・スコットランドにおいて、キリスト教問題
     が原因で起こった戦争。
      チャールズ1世が、イングランド国教会の形式
     にもとづく祈祷書をスコットランドに強制した。
     1639年と1640年の二度起きる。
  イングランドは、ピューリタニズムの影響を受けて民
 衆運動にもなった・・
  次第に過激化し、また、大規模化して行った。
  (参考)ピューリタニズム:16世紀の後半から始まり・・
      イギリス国教会内部から生じたキリスト教プ
     ロテスタントの一派のピューリタン(清教徒)
     の思想で・・
      宗教改革を徹底することによって、国教会の
     浄化ができるとした・・
.
1649年1月30日、イギリス王室のチャールズ1世が処刑され
 る。
  この時から、イギリスは、王政が途絶え・・共和制が
 布かれた・・、
  「イングランド共和国」となった。
  イギリス王統は、この様にして途絶えた。
  このイギリスの王室の上に君臨するデンマーク王室が
 存在した。
  この二つの王室が、ヨーロッパでは、王室と言える様
 な存在なのだが・・男子を優先としている。
  イングランド共和国は、以上の様に、清教徒革命(イ
 ングランド内戦)の1649年~1660年の間、イングランド
 王国と、後に、アイルランド王国・スコットランド王国
 を支配した共和制の政治体制・・
  1649年1月30日、チャールズ1世が処刑されて・・
  1649年3月19日、ランプ議会によって、はじめてその樹
 立が宣言された。
  1653年~1658年の間、オリバー・クロムウェル、そし
 て、その死後、息子のリチャード・クロムウェルによる
 2代にわたっての護国卿による独裁制も敷かれた・・
  護国卿時代(プロテクトレート)と呼ばれる。
  イングランド共和国は、1649年~1660年までの間の政
 治体制だった。
  ランプ議会は、ニューモデル軍と独立派が結託した1648
 年12月6日のクーデターによって、長期議会の中の長老派
 を閉め出して作られた・・
  1649年1月30日、チャールズ1世処刑の前後、ランプ議
 会は、共和制の法的基盤を固める数条の法律を可決させ・・
  それには、王政を廃止し、また、枢密院・上院も廃止
 となっていた・・
  枢密院の代替として作られたのが国務会議で・・王の
 行政権のほとんどを引き継いだ。
.
1649年8月、イギリスのクロムウェルが、アイルランドを侵
 略(~1653年4月)
  1641年のアイルランド革命以来、アイルランドは、キ
 リスト教アイルランド・カトリック同盟の統治下にあっ
 た。
  このアイルランド・カトリック同盟は、イングランド
 内戦において敗北した王党派(国王派)と、1649年に、
 同盟を結んでいた・・
  クロムウェルはこれを攻めた・・
  そして、アイルランドを占領した。
  アイルランドの人々の大多数が、キリスト教ローマ・
 カトリックだった・・
  クロムウェルは、刑罰法を可決させて、この人たちか
 ら大量の土地を奪った。
  クロムウェル占領軍は、残忍を極めた・・
  その為、現在でも、クロムウェルは、アイルランドで
 嫌われている。
  戦いは、クロムウェルの軍の30,000と・・、
  このクロムウェルに加担したアイルランド・キリスト
 教プロテスタント・・
  この連合軍に対して、20,000人のゲリラを含む60,000
 のアイルランド軍・・
  この戦いによる戦死者:クロムウェル軍の8,000と加担
した現地軍の7,000・・
  アイルランド軍の15,000~20,000、
  そして、アイルランド市民の200,000以上(戦争とその
 関連の飢餓の死者)・・
  12,000以上が、奴隷とされて連行され、国外へ連れ出
 された。
  キリスト教聖書で教える奴隷思想による行為・・
     ・
     ・
     ・
1940年10月、日本を戦争に「はめ込んで行くアメリカ」
  第二次世界大戦の始まる14か月前・・、
  アメリカは、日本を戦争にはめ込む「対日開戦促進計
 画(マッカラム覚書)」を策定した。
  日本を戦争へ「はめ込みたいとする計画書」である・・
  完全に日本を戦争にはめ込もうとしている「アメリカ
 の陰謀の計画書」だった。
  そして、また、アメリカは、その13か月後の開戦1ヶ月
 前の開戦直前には・・また、策謀の「真空の海(バキュ
 ーム・シー)」命令を発令した。
  これは、日本を誘い込んで、「日本に攻撃させる海域
 (真空の海)」を作るという命令だった。
  日本の連合艦隊の大部隊が、アメリカに見つからずに
 スムースにハワイの真珠湾に行けたことを不思議に思わ
 なければならない。
  アメリカのルーズベルト大統領は、「真空の様な海域」
 を作れと・・命令した。
  何事も起きずに、日本の連合艦隊がハワイの目的地へ
 と行ったのは・・おとぎ話だった・・
  日本の暗号を完全に解読していたアメリカは、アメリ
 カの日本大使館と、日本本国とのやり取りの暗号文のす
 べてを理解していた・・すべての事の成り行きを知って
 いた・・。
  そして、また、千島列島の単冠湾(ひとかっぷわん)
 に集結した日本の連合艦隊は、その逐一を、アメリカに
 探知されながら・・ハワイへと向かって行った。
  ルーズベルトが命令した真空の海域を行ったのだった・・
  アメリカは、この様に日本を戦争へ誘い込んだ策を取
 り続け、戦争に誘い込んで行った。
  このすべてを指揮していたのが、アメリカのルーズベ
 ルト大統領・・
  陰湿な引っ掛けに「はめられた日本」は、戦争に引き
 づり込まれ・・そして、日本は戦争に敗けた・・
  そして・・日本を占領したそのアメリカの戦勝国は、
 日本に憲法案を作成し、押し付けた。
  その条文には・・
  「諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存
 を保持しようと決意し」と・・案に書いた・・
  まったく白々しい条文を書いて・・与えた・・
  そのアメリカ自体こそ、「公正でもなく」「信義に信
 頼する相手でもない」という状況の中で・・
  そして、そんな状況の中で・・「我らの安全と生存を
 保持できる」・・と・・日本はその憲法を保持した・・
  その様な状況では『まったくない』という実際の事態
 だった。
  (参考)マッカラムの戦争挑発行動八項目覚書:
      ロバート・B・スティネット『真珠湾の真実』
     所収 。
      1940年10月7日付アーサー・マッカラム少佐の
     覚書(ダドリー・ノックス大佐の承認を含む)
      著者は、1995年1月24日、アメリカの第二公文
     書館の軍事関係部門の記録グループ38(RG38)
     の特別米軍収納箱6号で、アーサー・マッカラ
     ム少佐作成の、日本を挑発して米国に対し明白
     な戦争行為に至らさせるための、八項目の行動
     提案書を発見した。
      記述のすべてが、まったく、アメリカに都合
 よく書かれている書である・・
  海軍情報部長あて覚書
  海軍情報部極東課長
  一九四〇年十月七日
  標題:太平洋地域の情勢見積及び米国の取るべき行動
  1、アメリカ合衆国は今日、欧州では敵対的なドイツ
 及びイタリアと対決しており、また東洋では敵対的な日
 本とも同様な状態にある。
  これら二つの敵対的グループの間に介在する大陸国家
 ロシアは現時点では中立だが、あらゆる可能性から考え
 て枢軸国に味方するだろう。
  これら枢軸国に対するロシアの好意的な態度が、欧州
 戦争での枢軸国の勝利の見込みを直接高めることとなる
 と期待されるかもしれない。
  独伊は欧州大陸で勝利を収めていると見られており、
 そして欧州全域が枢軸国の軍事的統制下におかれるか、
 またはその隷属を強制されていると見られている。
  唯一、英帝国が独伊及びその衛星諸国による世界支配
 の増大を阻止するための戦いを、積極的に戦っているに
 すぎない。(P451-P452)
  2、アメリカ合衆国は最初、欧州戦争には干渉しない
 態度をとっており、また独伊は力の及ぶ範囲内で、欧州
 戦争の結果に米国が無関心な態度をとり続けるよう、あ
 らゆる手段を尽くしてきたとの見方を支持する相当な証
 拠がある。
  逆説的ではあるが独伊軍が勝利を収めるたびに、米国
 内の英国政府に対する同情と物的援助は増大して、戦争
 以外の、あらゆる援助の手を差しのべる政策を、英国政
 府に約束する立場に立っている。
  情勢が急激に変化しているので、米国政府はきわめて
 近い将来、英帝国の全面的な同盟国となるだろう。
  アメリカ合衆国を無関心な傍観者の立場に維持せんと
 する独伊の外交政策が遂に失敗に帰した結果、独伊は(
 欧州以外の)他の地域で米国の安全保障に脅威を与える
 政策を採用せざるを得なくなった。
  それは、特に中南米地域における枢軸国に支配された
 グループによる革命の脅威や、極東での日本による侵略
 と脅威を増大させるための激励である。
  それは、独伊がこうした手段により、米国の考え方や
 米国自体の身近の安全保障に大混乱を生じさせ、純然た
 る防御準備にきわめて神経質にさせ、米国のいかなる形
 式の対英援助をも事実上、禁止させようと希望している
 からである。
  この政策が採用された結果、独伊は米国を対象とした、
 日本との軍事同盟を締結した。
  この条約について報道された条件及び日独伊指導者た
 ちの、とげとげしい言葉が信ずるに足り、かつ、それら
 を疑う理由もないように思えるので、米国が対英援助に
 踏み切ったり、または米国が東洋における日本の目標遂
 行に力ずくで介入する場合には、 これら全体主義三カ国
 は米国との戦争に同意している。
  そのうえ、独伊は戦争に至らない、米国の対英援助が
 開戦の理由となりうるか否かを決定する権利、または彼
 らが英国を破った後ではそれが対米戦の理由とはならな
 いと決定する権利を、はっきり留保している。
  換言すれば、英国が敵国により処分された後で、直ち
 に対米戦争に進むか否かを決定するだろうと言うのであ
 る。
  地理的条件からドイツもイタリアも日本には、いかな
 る物的援助をも提供できる位置にはない。
  反対に日本は、英国の自治領及びオーストラリア、イ
 ンド、蘭領東インドからの物資補給ルートに脅威を与え、
 恐らく補給ルートを攻撃することにより、 独伊両国に対
 して、大きな援助を提供することができる。
  かくして、欧州において枢軸国に反対する英国の立場
 を実質的に弱体化させることになる。
  この援助と交換に日本は、米国が日本に対し積極的な
 行動に出るのを阻止するため、米国の注意を引きつける
 べく、独伊は全力を尽くすだろうとの追加約束を得て、
 日本は奪取可能と考えるアジアのすべてを占領するため
 のフリーハンドを獲得している。(P452-P454)
  われわれはここで再び枢軸国と日本との-米国の力を
 発揮不能とし、かつ、脅迫と警告とにより、米国民の考
 え方を混乱させて、行動するか、しないか、いずれの分
 野でも米国の迅速な決定的行動を阻止せんとする-外交
 的駆け引きの実例を見た。
  欧州の枢軸国または極東の日本が、最も望んでいない
 ことは、いずれの戦域においても米国による挑戦的な行
 動であるということは、いかに強く強調しても、強調し
 すぎることはない。
  3、欧州の現状を検討すると、英国を援助するため、
 われわれがまだ実施していなくて、現在直ちに実施可能
 なものはほとんどないとの結論に到達する。
  われわれは英国を援助するために派遣すべき訓練され
 た軍隊を保有していない-少なくともあと一年間は保有
 しないだろう。
  われわれは現在、対英援助物資の流れを増大して、あ
 らゆる実施可能な方法で英国の防衛を支持するよう努力
 している。
  そして、この援助が増加されることは疑いない。
  一方、英国が戦争を継続し、英海軍が大西洋の制海権
 を維持しているかぎり、ドイツまたはイタリアが米国に
 対抗できる可能性はほとんどない。
  われわれの立場にとっての一つの危険は、英帝国が早
 期に降伏し、英国艦隊が手つかずのまま枢軸国の手に入
 ることである。
  このような事態が生起する可能性は、われわれが実際
 に英国と同盟しているなら、実質的には少なくなってい
 るか、もしくは英国にかかっている圧力を、行動の別の
 分野で軽減するため積極的手段をとるならば、最小限に
 抑えることができる。
  要約すると、英国海軍が大西洋の制海権を保持し、米
 国と友好関係にあるかぎり、大西洋における、米国の安
 全保障に対する脅威は小さい。
  4、太平洋では、日本は独伊との同盟のおかげで、英
 帝国の安全保障にとって決定的な脅威であり、いったん
 英帝国が消滅すると、日本-独伊の戦力は米国と対抗す
 ることになる。
  シンガポールに対する日本の脅威または攻撃を伴った、
 また、バルカン半島及び北アフリカ経由のスエズ運河に
 対する独伊軍による強力な陸上攻撃は、英帝国にとって
 きわめて深刻な結果をもたらすことだろう。
  日本を牽制もしくは中立化させることが出来たなら、
 枢軸国がたとえスエズ運河攻撃に成功したとしても、イ
 ンド洋から英国の海軍力を排除することによってもたら
 されるのと同じ位の利益―つまり、日本にとって欧州補
 給ルートを開き、 東洋の原料補給海上ルートを独伊まで
 伸ばす―を日本にもたらすことにはならないだろう。
 (P454-P455)
  従って、英米が欧州を海上封鎖し、かつ多分日本が部
 分的にせよ(東アジアで)活動している場合には、日本
 は牽制されなければならない。
  5、第3項で指摘したように、米国が欧州の情勢を救
 うため直ちに実施可能なことはほとんどない一方、米国
 は日本の侵略的行動を効果的に取り止めさせることが可
 能で、しかも米国の対英物的援助を減ずることなく実施
 できる。
  6、米国と対立している日本の現状を分析すると、次
 のことが言える。
  有利な点
  (1)日本列島は地理的に強力な優位性を持っている。
  (2)きわめて中央集権化された強力な政府である。
  (3)厳格に管理された戦時経済体制をとっている。
  (4)国民は苦労と戦争に慣れている。
  (5)強力な陸軍を有する。
  (6)米海軍の約三分の二の兵力からなる熟練した海
    軍を有する。
  (7)ある程度の天然資源の備蓄がある。
  (8)四月までは天候により、日本近海での作戦行動
    が困難である。
  不利な点
  (1)アジア大陸での消耗戦に百五十万人が役人され
    ている。
  (2)国内経済と食糧配給が厳しく制限されている。
  (3)戦争に必要な天然資源が大幅に不足している。
    特に石油、鉄及び棉花が不足している。
  (4)欧州から資源を人手することが不可能になって
    いる。
  (5)必需物資を遠い海上交通路に依存している。
  (6)合衆国と欧州の市場に頼ることなく、軍事機材
    の生産と補給を増加させることができない。
  (7)主要都市と工業地域は空襲を受けやすい立地条
    件にある。
  7、太平洋において、アメリカ合衆国は防衛上きわめ
 て有利な立場にあり、海軍及び海軍航空隊は現在、この
 地域で長距離進攻作戦を実施する能力がある。
  われわれは、次の点でもきわめて有利である。
  すなわち、
  (A)フィリピン諸島は今もなおアメリカ合衆国が領
    有している。
  (B)友好的で多分連合側に加わる国家の政府が、蘭
    領東インドを支配している。
  (C)われわれと友好関係にある英帝国が、香港とシ
    ンガポールを領有している。
  (D)中国の主力軍隊が今なお日本と戦い続けている。
  (E)日本の南方補給ルートに対し、重大な脅威を与
    えることのできる、米海軍の部隊がすでにその
    作戦海域にいる。(P455-P456)
  (F)米国と同盟を結んだら貴重となる、オランダ海
    軍の相当規模の兵力が東洋に駐在している。
  8、前述したところから、次の結論を引き出すことが
   できる。
  米海軍が日本に対して速かに進攻作戦を実施すれば、
 日本は独伊のイギリス攻撃を支援できなくなるだろうし、
 日本は最も不利な情況で戦わざる得なくなるか、もしく
 は海上封鎖部隊により、 かなり早い時期に国家が崩壊す
 る状態に直面することになるだろう。
  英国及び和蘭と適切な協定を結んだ後で、機敏かつ早
 期に対日宣戦を布告すれば、独伊が米国を効果的に攻撃
 する前に日本を早期に崩壊させ、太平洋から敵を排除で
 きるだろう。
  さらに、日本を排除することは、独伊と対決している
 英国の立場を確かに強化するに違いない。
  さらに、そのような行動はわれわれと友好的関係を望
 んでいる、すべての国家の信頼と支援を増大させること
 だろう。
  9、現在の世論の情況からは、さらにより多くの騒動
 が発生しないかぎり、米国政府が対日宣戦布告を出来る
 とは思えない。
  われわれの積極的な動きにより、日本が態度を変更す
 ることはほとんどない。
  従って、次の施策八項目を提案する。
  (A)太平洋の英軍基地、特にシンガポールの使用に
    ついて英国との協定締結。
  (B)蘭領東インド(現在のインドネシア)内の基地
    施設の使用及び補給物資の取得に関するオランダ
    との協定締結。
  (C)蒋介石政権への、可能なあらゆる援助の提供。
  (D)遠距離航行能力を有する重巡洋艦一個戦隊を東
    洋、フィリピンまたはシンガポールヘ派遣するこ
    と。
  (E)潜水戦隊二隊の東洋派遣。
  (F)現在、ハワイ諸島にいる米艦隊主力を維持する
    こと。
  (G)日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要
    求をオランダが拒否するよう主張すること。
  (H)英帝国が押しつける同様な通商禁止と協力して
    行われる、日本との全面的な通商禁止。
  10、これらの手段により、日本に明白な戦争行為に訴
 えさせることが出来るだろう。
  そうなれば、益々結構なことだ。
  いずれにしても、戦争の脅威に対応するため、われわ
 れは十分に準備を整えておかなければならない。
                A・H・マッカラム
  CC-Op-16 Op-16-F ファイル
  一九四〇年十月七日 Op16-F-2 0NI(P456)
.
1941年4月14日、日米交渉(~1941年11月)
  第二次世界大戦(大東亜戦争)の開戦直前、戦争の回
 避のための交渉が行われた・・
  日本側から働きかける必死の戦争回避のための会談だ
 った。
  第1回の野村・ハル会談は・・1941年4月14日に行われ・・
 会談は、何度も何度も重ねられて来ていた・・が・・
 しかし・・アメリカは「戦争ありき」のかたくなさの中
 にあった・・そして、8月に至った・・
  1941年8月7日、豊田外相が、野村吉三郎駐米大使に「
   近衛・ルーズベルト会談」の開催の要請を訓令した。
    野村大使は、「交渉打ち切りのほか無し」とする
   アメリカ側の態度を報告した・・しかし・・日本は、
   粘り強い戦争回避会談を要望した・・
  1941年8月9日、野村・ハル会談が行われた。
    アメリカのハル国務長官は、「日米交渉の打ち切
   り」を示唆した・・しかし・・
  1941年8月14日、野村・ハル会談。
  1941年8月16日、野村・ハル会談。
  1941年8月17日、野村・ルーズベルト会談。
    ルーズベルトは、日米首脳の会談の前提には日本
   の譲歩が必要だと要求した。
  1941年8月24日、野村・ハル会談。
  1941年8月26日、ルーズベルト大統領への近衛首相のメ
   ッセージが作成された。
  1941年8月28日、野村・ハル会談。
    近衛首相のメッセージを手交し、手渡した。
  1941年8月29日、第5回野村・ルーズベルト会談。
  1941年8月30日、ドイツ大使が、日米交渉の打ち切りを
   日本に勧告した・・ドイツ大使は知っていた・・見
   通していた・・
  1941年9月2日、野村・ハル会談。
  1941年9月3日、豊田外相が、野村大使へ日米首脳会談
   の9月中の開催を要請するようにと訓令した。
  1941年9月4日、豊田外相が、日本側の提案を訓令し、
   野村・ハル会談が開催された。
  1941年9月6日、野村・ハル会談・・日本側提案を手交
   した・・この様に粘り強く戦争回避会談を要求する
   日本から、日本は戦争を望んでいないという事は明
   らかだった・・
  1941年9月8日、野村大使が日本へ調査結果を報告する。
    アメリカの軍需生産が、昨年の4倍から5倍になっ
   ている・・すでに戦いありきのアメリカだった・・
    また、アメリカの世論の70%が、「日本の発展を
   阻止するためには・・戦争をしても良い」となって
   来ている・・と・・世論誘導もなされていた・・
  1941年9月17日、日本側の提案だけでは合意は不可能
   (さらなる譲歩を)と野村大使が日本本国へ伝える。
  1941年9月20日、野村・ハル会談。
  1941年9月23日、野村・ハル会談、日米首脳会談を督促
   した。
  1941年9月28日、日本の了解案(譲歩案)をアメリカ側
   へ手交する。
  1941年9月29日、野村・ハル会談。
  1941年10月2日、野村・ハル会談、アメリカから日米首
   脳会談の開催を拒否される・・戦争回避の首脳会談
   をやる必要なしとするアメリカ・・
  1941年10月4日、野村・ハル会談。
  1941年10月6日、豊田外相が、野村大使にアメリカの案
   に基本的に同意すると(日本の譲歩を)伝える。
  1941年10月9日、野村・ハル会談。
  1941年10月10日、野村大使が、日本のさらなる譲歩が
   ない限り日米首脳会談はないと日本本国へ伝える・・
   いくら譲歩をしても無駄という状況にある・・その
   様なアメリカ・・
  1941年10月16日、戦争回避に努力していた近衛内閣が
   総辞職した。
  1941年10月18日、東条英機首相が就任する。
  1941年10月21日、新しい内閣の外相が、再度、アメリ
   カ側への粘り強い交渉を始める・・が・・
  アメリカのルーズベルト大統領は、蒋介石を中国の代
 表として確立し、東アジアのアメリカの利益代表にした
 いと思っていた。
  そして、アメリカは、「勝つ戦いだ」と思っていた・・
  当然、日本には、「戦争維持もできない」という報告
 が、すでに、ある様に、しっかりした現状分析は日本も
 できていた・・
  そして、ついに戦争は始まるのだが・・
  ルーズベルトが恐れていたのは・・、
  日本が敗北した後に、支援している蒋介石ではなく、
 毛沢東の共産党勢力が、「中国を支配できる」からと、
 また、「中国の自国を支配下に置ける」からと、蒋介石
 との戦いに必ず勝てるからと、蒋介石の国民党との戦い
 に踏み切る事だった・・事実、その様になってしまった・・
  そして、ルーズベルトは、終戦の前の年の1944年5月、
 ジョセフ・グルーを国務省極東問題局長に起用して政策
 転換した。
  ジョセフ・グルーは、それまで長らく駐日大使を務め
 ていた。
  ジョセフ・グルーは、1932年6月から1942年6月までの
 10年間、東京に居て、駐日大使を務めていた。
  グルーは、日本に対する「経済封鎖策に反対だった」。
  また、戦争の開戦を回避するための「近衛・ルーズベ
 ルト会談の実現」を強く望んでいた・・、
  戦争が始まってからも、日本の天皇制度こそが戦後の
 日本を安定させると説いて回っていた。
  それは、それまでの前任者のスタンレー・ホーンベッ
 クとはまったく違っていた。
  ホーンベックは、日本嫌いで、日本を戦争に追い込む
 「絶対的な手である=日本を経済封鎖する」を強く主張
 していた。
  また、戦争回避のための会談である「近衛・ルーズベ
 ルトの日米首脳会談」に強く反対した。
  グルーは、ルーズベルトとは古くからの友人だった。
  ボストンの私立寄宿舎学校の校友で、また、ハーバー
 ド大学の同窓でもあった。
  ホーンベックは、中国国民政府を依怙贔屓(えこひい
 き)していた。
.
1941年4月、悪化した日米関係を打開するため、日米交渉
 が、ワシントンで始まったが・・、
  交渉はまとまらなかった。
  それも、そのはずだった・・
  アジアで台頭する有色人種国家・日本の「出る杭」は
 打つだった。
  アメリカは、アジアにおいて、そのアジア人の、アジ
 アに属する日本が台頭して、アジアのイニシアティブを
 とられることを、抑えたかった。
  そのために「日本をたたくチャンス」を作って来てい
 た。
  日本は、必死に会談を重ねたり動いたが・・戦争回避
 への方向へ、しかし、最初から動く訳はなかった。
.
1941年11月23日、アメリカは、アメリカの日本大使館と日
 本本国との通信を傍受し、その暗号を解読し、第二次世
 界大戦の大戦前の状況の一部始終を知り、把握していた。
  1941年11月23日、日本の機動部隊が日本領の択捉島の
 単冠湾(ひとかっぷわん)に集結し、1941年11月26日に
 出撃したのも、当然と言いたいくらいに、アメリカは、
 その動きを、逐一、把握していた。
  嘘をつくアメリカは、それを・・「まったく知らなか
 った」と言った。
  敵の最大の攻撃破壊力を持つ部隊の行動を・・まった
 く知らなかったなどと言えるはずは無く・・日本も、ア
 メリカの機動部隊が、ハワイの真珠湾に集結しているこ
 とを知っていた如(ごと)く、アメリカも、日本の機動
 部隊の、集結、出撃など、逐一、知っていた。
  「アメリカは、まったく知らなかった・・日本の奇襲
 だ」と言うのは、まったくおかしい大嘘のアメリカとな
 っている。
.
  そして・・現在・・
2018年、それにしても、アメリカは、怖(こわ)い国だ。
  アメリカの子供たちに、広島・長崎の原爆投下を「正
 義だったのだ」と教えている。
  その様に思わせ、信じ込ませるために、「20万人~30
 万人のアメリカ人の兵士が死にそうだった」から、「先
 に、20万人~30万人の日本人の一般市民を殺したのだ」
 と教えている。
  その様にマインド・コントロールしている。
  「それは、正義だったのだ」と教え、洗脳している、
  マインド・コントロールされたこの子たちは、大きく
 なって、大人になって、同じ様な状況になった時・・、
 『原爆を投下するような、アメリカ人の大人に育ってい
 るだろう』・・
  正義なら非人道的兵器あろうと使って良いのだ・・と・・。
  同じ過ちを繰り返す「愚かなアメリカ人」に育ってい
 るだろう・・
  そして、同じ過ち(あやまち)を繰り返す・・反省し
 ない国・アメリカになっているだろう・・
  同じ過ちを繰り返す愚かさ・・
  「原爆を投下するアメリカの姿が続く」という繰り返
 す愚かな国となっているだろう・・
  だから、我々は、広島の石碑に・・
  「過ちは繰り返しませぬから」と悲惨な状況の中に死
 んだ方々への「鎮魂のために刻(きざ)んだ」・・
  我々は、全人類の為にも、「アメリカのこの様な過ち」
 は「絶対、繰り返すような愚かな行為は致しませんから・・」
 ・・と祈って、石碑に刻んだ・・、
  しかし、最近、アメリカは、子供たちに100万人が死ぬ
 ところだったと、死ぬ人数をより大きく過大にして、子
 供たちを洗脳し、教えている。
  まったく、あり得ない数字をあげて、批判もできない
 年齢の子供たちを洗脳している。
  アメリカよ、同じ過ちは繰り返すな!
.
2018年、アメリカは、銃に関しても屁理屈をこねている・・
 原爆と同じな屁理屈をこねている。
  屁理屈をこねる国・アメリカとなっている。
  20人もの小学生の子供たちが、撃ち殺された事件が起
 きた。
  そして、アメリカは言う・・「銃で撃つ犯罪行為が悪
 いので、銃が自由に手に入れることが出来る事は悪くな
 い」と・・屁理屈をこねている。
  「小学校に、防弾の盾が無いのが悪いのだ」と批判の
 行先を変えさせている。
  「ホワイト・ボードに防弾性能が無かったから悪いの
 だ」と批判の方向を変えさせている。
  子供の誕生日のお祝いに銃を親が送ることは正義なの
 だ・・と・・、
  銃の無くならないアメリカは・・何ら反省することを
 しない国となっている・・
  悲惨な銃の乱射事件が繰り返されるアメリカとなって
 いる・・
  オバマ大統領が「銃を無くそう」と言ったことは化石
 の如くとなっている。
.
2018年、グローバリゼーションの時代こそ、「国単位で考
 え、よりよい社会を構築する大切さを認識する」ことが、
 より差し迫って求められる。
  地球温暖化防止会議・・
  この問題が、解決する枠組みが、グローバルにできる
 訳はなく、「国単位」でしかやりようがない。
  だからその様に決められた・・
  しかし、それが不満なアメリカは・・何と!アメリカ
 は、京都議定書から、「国益」にあわないと下りてしま
 った・・脱退してしまった。
  アメリカは、もう二度とグローバリゼーションを口に
 しないこと・・
  また、アメリカは、情報を盗み取り、自国企業の競争
 力を支えるというハレンチ行為をした。
  自国の利益追求の利己的行為をした。
  「エシュロン」など卑劣極まりない事をしている。
  アメリカの自国企業は、この甘い汁を吸った。
  アメリカという国から離れられない人々だった。
  どこがグローバリゼーションなのだ。
  都合のよいつまみ食い論理だ。
  この様な状況で、グローバルになれる訳はない。
  グローバリゼーションのマインド・コントロールは、
 もはや終焉した。
.
2018年、木造が劣化するという議論は嘘
  木質は、年数と共に強度が増すという事を知らない。
  NHKは、いつも、「年と共に劣化する」・・だから
 弱くなると放送する・・それは間違い。
  軽率な論議となっている。
  木質を、「乾湿繰り返し」の環境に置けば、木材腐朽
 菌(ふきゅうきん)によって腐ることは、誰でも知って
 いる。
  しかし、出雲大社が、遠い昔、天にも届く高い高い神
 殿だったという話は、半分、伝説の様に伝わっていた。
  その話に決着がつくことがあった。
  出雲大社を発掘すると、その高い大神殿を支えた木の
 杭が出土した。
  実際、我々・日本人の祖先は、この様な木造の大建築
 を、遠い昔、すでに作っていた。
  その杭は、この様に劣化せずに出土した。
  腐朽菌が無い状態ならば、木質はこの様な長い年月を
 存在している。
  NHKの放送は間違いで嘘となった。
  キリスト教に偏するNHKは、仏教を蔑視するが・・、
  以前、仏教寺院の世界遺産の法隆寺の保存が話題にな
 った時・・、
  「法隆寺は木造だが、木造だと、(腐って)何時、壊
 れるかわからないから、いっそコンクリートで建て替え
 るべきだ」の暴論を言うNHKという始末だった。
  今、法隆寺は、世界遺産となって、日本のみならず、
 世界の遺産となって人類の資産となっているが・・、
  NHKは、この様な貴重な資産を、不勉強極まりない
 暴論で抹殺しようとした。
  調査や研究もせず、安易な素人の思い込み放送で、影
 響力の超巨大な放送媒体で、間違い放送する罪がNHK
 にある。
  また、意図的に仏教蔑視を繰るNHKとなっている。
  NHKは、一時、「コンクリートは、40年でダメにな
 る」という放送を意図的に何度も放送した。
  こんなことなら・・上野の世界遺産になった美術館が、
 コンクリートであるが、世界遺産になるわけはない。
  乾燥して行く木材は、強度が上昇するとさえ言われて
 いる・・
.
2018年8月25日、現在の中国の実態と危険・・(その4)
・日本は危機管理力が鈍感だ・・
・アメリカは、アメリカ高官が台湾へ行けなかったが、今、
 高い階級の高官が行くようになっている・・
・中国は、軍事拠点にしないと言っていた南シナ海を「完
 全に軍事拠点化」し、それも3ヶ所も、そして、「中国版
 の海兵隊(侵略部隊)を3倍に2020年までにしようとして
 いる」・・
  この様に、中国は「この地域で動くぞ」と明確に表明
 している・・
  これは、先手を取って、中国に動かれる前に抑えるべ
 きだ・・
・太平島(たいへいとう、現在、中華民国が実効支配して
 いる南沙諸島の島)を中国は盗ろうとしている・・ここ
 が狙われている・・(この次が台湾)・・
・今、すでに、中国は、海賊対処という名目で、軍艦に海
 兵隊を乗務させている・・
・台湾の軍は国民党軍であるから、台湾住民を弾圧する恐
 れも考えられる・・
  また、台湾の国民党は、偽の事件を台湾内で起こして、
 中国に援助を求める偽装工作をする恐れがある・・
  中国軍の台湾へ入る口実作りをする恐れがある・・
・尖閣諸島周辺の台湾の漁民は、ほとんどがこの国民党系
 の漁船・・
・中国は、危なくなると戦争を起こす恐れが大きい・・
・台湾には、半導体の高い技術力がある・・軍事転用でき
 るものばっかり・・
  また、台湾は、アメリカに留学した技術者の技術が
 たくさん持っている・・これが中国に渡る心配がある。
  アメリカは台湾を手放したくない・・
・習近平と台湾国民党は、非常に近い親密な関係にある・・
・中国の国内問題が危ない・・
  反習近平派が黙認した習近平政治・・
  これはいざという時に習近平に総て責任と取らせる心・・
  南シナ海の軍事基地化もすべて習近平の仕業(しわざ)
 だと出来る・・
・アメリカが本気を出した・・
  (この様なアメリカをキリスト教大学の教授が必死に
 批判していた・・青山学院大学の教授がトランプ大統領
 の批判を猛烈にする・・)
.
2018年8月25日、現在の中国の実態と危険・・(その5)
・今、中国の国内には反習近平勢力がいっぱい居る・・
  習近平を、今のような状況の地位に就かせようとしな
 かった抵抗した人たちが大勢いる・・
  そして、その様な人たちが、世界中に広がっている・・
  その様な中国系の人たちは、江沢民派などの反習近平
 派で・・
  この人たちは、いざという時になったら親中というよ
 り西欧社会と連携するようになる・・
  中国国内で冷や飯を食って来ている「世界へ出た中国
 系の人たち」は、今まで自分たちが築いて来た今の現状・
 状況・状態を大事にして優先する・・
・4年前に、習近平が政権に就いた最初の時は、国民はみん
 な習近平が好きだった・・しかし、だんだん嫌いになっ
 て来た・・
  ワクチン問題が起きている・・
  (参考)不正混合ワクチン大量流通、子供が数十万人
     が接種(SankeiBiz)2018.7.25
      中国で国の販売基準に適合しない予防効果不
     明の混合ワクチンが大量に流通、数十万人の子
     供らが接種していたことが発覚し、衝撃が広が
     っている。
      中国では、違法薬品が市場に出回る事案が後
     を絶たない。
      今回は、子供の命に関わりかねないため、親
     らの怒りが爆発。
      国の管理責任も取り沙汰され、指導部は世論
     の沈静化に躍起になっている。
      事態を深刻視した習近平国家主席は23日、
     外遊先のアフリカから「徹底調査せよ」と指示。
      李克強首相も22日「道徳的に許せる最低ラ
     インを越えた」と関係者を批判した。
      しかし、李氏は、2016年に、ワクチンの違法
     販売事件が判明した際も「レッドライン(許容
     できない一線)だ」として再発防止を指示して
     いただけに、国民の怒りの火に油を注いでいる。
      中国メディアによると、問題視されているの
     は、吉林省長春市と湖北省武漢市の製造会社が
     販売した百日ぜき、ジフテリア、破傷風の混合
     ワクチン。
      山東省、河北省、重慶市を中心に65万本余
     りが流通し、判明しているだけで36万人近く
     の子供らが接種した。
      内部告発により問題が発覚。
      当局が長春市の会社への処分を公表したこと
     から注目が集まった。
      健康への影響は不明だが、北京大の専門家は
     中国メディアに「殺人行為だ」と指摘した。
      中国では、2013年に、B型肝炎ワクチンを接
     種した多数の乳幼児が死亡するなど、ワクチン
     をめぐる問題が頻発。
      中国紙記者は、「指導者は毎回、地方や企業
     の幹部を拘束して幕引きを図り、有効な管理シ
     ステムを構築してこなかった」と指摘した。
  この問題を起こした犯人を逮捕するかは不明・・報道
 もなされない・・
  中国で豚インフルエンザも出て来た・・
  (参考)豚は、鳥・ヒトインフルエンザウイルスの両
     方に感染するため、豚が交雑宿主となって遺伝
     子再集合により新たなウイルスを排出する可能
     性がある。
      現在、世界的には、豚の間で様々な遺伝的背
     景を持つA(H1N1)、A(H1N2)、A(H3N2)ウイ
     ルスが循環しており、これまでにも散発的に豚
     からヒトへの感染例が確認されて来た。
      鳥インフルエンザの場合・・NAがN1以外のA/H5
     亜型の高病原性鳥インフルエンザウイルスのう
     ち、ヒトへの感染事例が確認されているのはA(H5N6)
     ウイルスのみで,、2014年以降は14例のヒト感染
     例が確認されており,、そのうち10例が死亡例
     で,、全例が中国からの報告。
  中国には、今、2億匹の豚が居るが、その飼料の大豆が
 米中貿易戦争で中国へ入りずらい状態になっている・・
  中国の豚飼育では、抗菌剤が、一杯、飼料の中に入れ
 られている・・中国の子供たちへの影響が心配されてい
 る・・
  また、中国は、豚の飼育期間を短くして早く売ろうと
 する傾向になっていて・・、
  豚を売る時に、売りやすくするために、豚の肌が白く
 なって、つやつやとするからと、売る3か月前に、ヒ素を
 飼料に混ぜる事がなされている・・
  その禁止令が出て、豚が売れなくなった・・豚飼育者
 は、その豚を河へ投棄した・・それが、上海まで流れて
 行き、問題となった・・
  また、中国はクローン豚が多い・・
・今、66ヶ国が中国の一帯一路に関係しているが、信用が
 がた減りの状況となっている・・
  また、毛沢東崇拝も完全に消えた・・
  元軍人の不満も大きく、デモも起きている・・10数人
 の死者(殺された者)が出る騒ぎとなった・・
  元軍人がどの様に連絡を取り合ったのか? 一晩で2万
 人が集まった・・電話・メールを使った形跡はない・・
  当局がまったく把握できない連絡で、大規模な行動が
 起こされるかも・・という恐怖が生まれている・・
  顔認識データーも元軍人は漏れていた・・
  今、元軍人が、中国に8500万人居る・・
・例え、習近平の後の政権になっても、今の中国のやり方
 は変わらないだろう・・
  そして、今、習近平が、日本に来る予定になっている・・
  中国の権益となったスリランカの港は、軍事転用させ
 ない様にしなければならない・・シーレーン、エネルギ
 ーの大切な道である・・
・今、中国には、長老という修正・調整集団が居なくなっ
 ている・・
  最初の頃は、米中貿易戦争に至らならない様にと導く
 人も居たが・・今は、習近平に責任を取ってもらおうと
 いう状況になっている・・
・インドは、今、ロシア製の兵器と、西側の兵器の混在と
 なっている・・
  ロシア製兵器が中心の潜水艦は、完全にロシアのコン
 トロール下にある・・
  経済的に、中国に頼っている面がある・・
  「インド・太平洋構想で対抗しよう」という構想の大
 きな壁になっている・・
・中国の目的が「世界制覇」にあるところが問題だ・・
  日本外務省は、(中国を気にして)チベットのダライ・
 ラマ法王にも会おうとしない・・
  日本は、ウイグル問題にも、あまり関わろうとしてい
 ない・・知ろうともしていない・・
・新興諸国の財務状況が、今、深刻極まりない状況となっ
 ている・・
  対外債務が・・
  1、モンゴル・・対GDP比・215%
  2、キルギス・・・111%
  3、ラオス・・・・ 84%
  4、タジキスタン・ 67%
  5、マレーシア・・ 63%
  6、トルコ・・・・ 55%
  7、南アフリカ・・ 53%
  8、アルゼンチン・ 40%
  9、メキシコ・・・ 40%
  10、ロシア・・・・ 34%
  11、タイ・・・・・ 34%
  12、ブラジル・・・ 33%
  13、パキスタン・・ 24%
  14、フィリピン・・ 23%
  15、インド・・・・ 20%
  このほとんどが、中国が貸している金・・
  9位のメキシコ、10位のロシア、15位のインドは別・・
  そして、この債務のほとんどが、不良債権化している・・
  中国国内にも、今、人の住まない超高層住宅が林立す
 るゴーストタウンがあるが・・今、中国は、世界中にも
 この様な「焦げ付き不良債権の山」を築いている・・
  この金額が・・2兆米ドル(225兆円)規模・・
  今、中国が持っている総債務は・・3700兆円・・中国
 のGDPの370%・・
  対米の貿易黒字で、中国の資金サイクルは回って来た
 が・・これからは、このサイクルが回らなくなる・・
  不動産暴落から始まる・・中国の不都合の露呈・・
  リーマン・ショックも世界経済に大打撃を与えたが・・
 この中国経済の不都合は・・この10倍規模になる・・
  このショックは・・計り知れないことを起こす・・
  日本は・・果たして・・その備えをしているのか???
  今まで、さんざん中国で儲けて来たアメリカの金融機
 関は・・今、中国から手を引いている・・
  今、ハゲタカ・ファンドが入っている・・これが最後・・
 だから、これらが引き始めたら「中国不都合露呈の始ま
 り」・・時限爆弾状態・・
・中国のほほえみ外交に変わった時は、特に、注意を要す
 る・・大丈夫だではなく、日本は、しっかり島嶼(とう
 しょ、島々)防衛をすべき・・シーレーンの確保・・国
 土を蹂躙されないための土地の売買制度などの再考・・
・今、中国は、カナダで反日宣伝博物館を作ろうとしてい
 る・・慰安婦、南京、真珠湾などなど・・中国政府の施
 策としてやっている・・
・声紋のデジタル統制・・人権無視、顔認証・・ウイグル
 民族浄化・・ムスリム弾圧強化・・AI全体主義の弱点
 は国際非難・・

【討論】どこへ行く中国習近平政権[桜H30/8/25]
https://www.youtube.com/watch?v=yIeIlTY1t9E
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2018-09-26 05:46 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)611E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年10月~1894年10月)

題:(増補版)611E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年10月~1894年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年10月5日、広島市と港のある宇品(うじな、広島市南
 区)を「臨戦地境」に指定し、戒厳令を宣告した。
  (参考)戒厳(かいげん):戦時や自然災害、暴動等
     の緊急事態において、兵力をもって国内外の一
     地域、あるいは、全国を警備する場合に、国民
     の権利を保障した憲法・法律の一部の効力を停
     止し、行政権・司法権の一部ないし全部を、軍
     部の指揮下に移行することをいう。
      軍事法規のひとつであり、戒厳について規定
     した法令を戒厳令という。
      戒厳は、臨戦地境と合囲地境にと二種に分け
     られ、「合囲地境は敵の合囲若しくは攻撃其の
     他の事変に差し警戒すべき地方を区画して合囲
     の地域と為す者なり」つまり敵の囲い込み若し
     くは戒厳地域の囲い込みを意味する。
.
1894年10月5日、初の定期時刻表である「汽車汽船旅行案内」
 が発売された。
  月刊の時刻表定期刊行の始まり(第1号)
  庚寅新誌社(こういんしんししゃ)が、各駅最寄りの
 名所旧跡案内や、紀行文も掲載して発売した。
.
1894年10月6日、イギリスが、共同干渉を提議した。
  イギリスとロシアの協調は、不安定ながらも日清戦争
 中は継続していた。
  日本の戦いにおける優勢が決定的となったこの1894年
 10月、イギリスが、対日和平勧告を行う事を、ロシア・
 ドイツ・フランス・アメリカに提議すると・・ロシアは、
 列国中、最も好意的な対応を示した。
  また、この翌年の1895年1月に、ロシアが、英仏に対し、
 日本に講和を勧告し、かつ、その条件を開示すべく申し
 入れることを提議した。
  イギリスは、直ちにこれに応じ、露仏と共に対日申し
 入れを行った。
  結局、イギリスとロシアの協調の崩壊は、1895年4月初
 め、下関講和会議において、日本が提示した講和条約案
 (遼東半島割譲を含む)に反対しないという決定をイギ
 リス政府が下したことによって崩壊した。
  ロシア政府は、日清の開戦に至るまでは、極東問題と
 は何よりも朝鮮問題であって、ロシアは、清国の朝鮮に
 おける優勢さに対抗しなければならないと考えていた。
.
1894年10月9日、甲武鉄道市街線が開業した・・後の中央線。
  (新宿駅~牛込駅間が開通)
  線は、新宿駅から信濃町駅、四ツ谷駅を経て、牛込駅
 (市ヶ谷と飯田橋駅の中間地点)までだった。
  経緯・・
  1870年に開業したものの、2年後に廃止された玉川上水
   の船運の代わりに、その堤防沿いに新宿~羽村間に
   馬車鉄道(甲武馬車鉄道)の敷設を企画したことに
   はじまる。
    発起人は服部九一、岩田作兵衛、井関盛艮(元神
   奈川県知事)で、堤防沿いは認可を得られず経路を
   変更・・
  1886年11月、新宿駅~八王子駅間の敷設免許を得る。
    しかし、岩谷松平らによる蒸気鉄道、さらに川崎
   駅~八王子駅間の武蔵鉄道の出願があったため、直
   ちに動力を蒸気に変更して出願し、競願者を退けた。
    そして、資本金を30万円から60万円に増資する必
   要から大隈重信へ協力を求めた・・そして、平沼専
   蔵らから出資を得ることができ・・、
  1888年3月、免許状が下付された。
    しかし、その後、井関らと大隈派で対立を生じ、
   大隈派は株を売却、甲信鉄道へ投資してしまった。
    この時、登場した雨宮敬次郎は、安田善次郎らか
   ら資金提供を受け、暴落した甲武鉄道株を買いあさ
   り、資本金60万円のうち38万円相当の株を獲得し、
   経営の実権を握った。
  1888年5月2日、株主総会において役員を選出・・
  (社長)奈良原繁、(常議員)雨宮敬次郎、(常議員)
   井関盛艮、(常議員)指田茂十郎、(監査役)安田
   善次郎、(監査役)岩田作兵衛・・そして・・
  1888年6月9日、副社長となった大久保利和が10月31日
   の株主総会において社長に就任し、奈良原は常議員。
  1889年4月、内藤新宿駅~立川駅間が開業(27.2キロ)・・
    これは、内藤新宿から中野駅、境駅(武蔵境)、
   国分寺駅の3駅を経て、立川駅まで運行され・・
    新宿を午前7時14分に出発した列車は、1時間かか
   って立川駅に予定時間の8時14分に到着した。
    各駅の停車は1分間、列車スピードは、平均時速30
   キロだった。
    客車をけん引した蒸気機関車は、イギリスから直
   輸入したナスミス・ウィルソン社製の軸配置1B1型
   (先輪1軸、動輪2軸、従輪1軸)、タンク蒸気機関車
   (国鉄400形蒸気機関車)・・通称:「マッチ箱」が
   箱型客車を引っ張った。
    午前と午後2本づつの1日4往復した・・
    内藤新宿駅発:7時9分、10時0分、14時30分、17時
   30分・・運賃は、もり・かけそば1銭の時、1マイ
   ル(1.6キロ)1銭だった。
  1889年7月、多摩川本橋(約418m)、浅川橋(139.5m)
   が完成した・・難工事で、開業を4ヶ月遅れさせた。
  1889年8月11日、立川駅~八王子駅間が開業(9.7キロ)・・
    新宿から東京市内への路線延長は、当初は、甲州
   街道沿いが計画されたが、青山練兵場や三崎町の工
   廠の後押しもあって・・
  1889年5月、申請、
  1889年7月、仮免状が下付された・・
    この頃の甲武鉄道沿線の名所旧跡を紹介している
   錦絵には、小金井桜、玉川、高山が描かれ、説明文
   もあり・・そして、真ん中に新宿停車場が描かれ、
   立川停車場に向かって行く蒸気機関車が描かれてい
   る。 
    左上に富士山、高尾山、御嶽山の遠景があり・・
    そして、御嶽山から流れ出る玉川(多摩川)と
    左に、羽村から玉川上水が東京市街地に向かって
   流れ・・その玉川に、立川と日野との間の甲州街道
   の橋が架けられている。
  1894年10月9日、新宿駅~牛込駅間が開業・・
  1895年4月3日、牛込駅~飯田町駅(飯田橋駅と水道橋
   駅の中間地点)間が開業(0.8キロ)・・これで、営
   業区間が八王子駅~飯田町駅間(41キロ)となる。
    そして、更なる延長が計画され・・1890年、飯田
   町駅~万世橋駅間を出願・・
  189612月、八王子から西の山梨方面への鉄道敷設を国
   が工事に着手。
  1903年6月11日、新宿駅~甲府駅間が完成・・そして、
   中央線と命名した・・
  1904年12月、御茶ノ水までの延長が完成・・と続く・・
    しかし、この甲武鉄道の敷設に際し、様々な反対
   運動があった。
    街道筋が栄えているこの時代・・甲州街道で栄え
   ていた府中や調布の商人、宿屋、人力車夫などが、
   客がとられると反対した・・また・・
    農家も汽車のばい煙が桑の葉や野菜を害し、火の
   粉がわら葺き屋根にかかって火事になると・・
    家畜に悪影響が生じると・・
    いろいろな方面から色々な理由で反対された・・
    中野方面でも、青梅街道と宮園通りの中間を東西
   に貫く計画に、地主・村民等が反対した・・
   「鉄道は村を衰微せしむ」・・と・・
    頑強な反対運動に、甲武鉄道は、計画を大きく変
   更・・
    抵抗の少ない武蔵野原野を、現在の東中野あたり
   から立川まで一直線に計画した・・日本第二の直線
   区間となって敷設した。
  1906年、公布された鉄道国有法により、1906年10月1日、
   国有化され、中央本線の一部となった。
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  (今日の言葉)
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  題:トランプ大統領は、キッシンジャーと会って、
    『一つの中国の原則にこだわらない』と明言した・・
    韓国の在韓米軍が台湾へ移ると良い・・
.
紀元前4世紀~紀元前3世紀、法句経(ほっくきょう)が編
 纂される。
  一人静かな心を味わい・・
  安らぎの味を知ったら・・
  恐れもなく、過ちもなくなる。
        (法句経205)
  法句経は、パーリ語経典『ダンマパダ』 Dhammapada
 の訳名。
  仏陀の言葉をなまの形で伝える文献の一つ。
  古来広く愛読され、仏教徒の思想と実践の指針となっ
 てきた。
  全編 26章、423の詩句集で・・、
  パーリ上座部系統に属するもののほかに、
  大衆部が伝えたガンダーラ語のもの、
  説一切有部系統の『ウダーナバルガ』の題名で伝えら
 れたもの、
  その系統のチベット訳や
  漢訳の『法句経』 (2巻) 、『法句譬喩経』 (4巻) 、
 『出曜経』 (30巻) 、『法集要頌経』 (4巻) などもある。
  パーリ語原典は、南伝上座部の(小部経典)の一つで
 あるが・・、
  他に、ガンダーラ語、サンスクリット《ウダーナ品》、
  漢訳(《法句経》《出曜経》など)、
  チベット語訳、および、中央アジア諸語による断片も
 あり、きわめて広く普及していたことが知られる。
  本経は、短い詩句の集成で、初期仏教教団で伝持され
 ていたものが、後に、編集されたと考えられ(紀元前4世
 紀~紀元前3世紀)、初期仏典中でも最も古いものの一つ。
     ・
     ・
1220年代のはじめ、ルーシ(キエフ大公国)の公たちは、
 まず、キプチャク草原の遊牧民族クマン人の戦士たちか
 ら、モンゴルの到来を知らされた・・ここからモンゴル
 の征服が始まった。
.
1223年、モンゴルのルーシ侵略(カルカ河畔の戦い)
  モンゴルのロシア侵略は、カルカ河畔の戦いで始まり、
  この年のこの戦いは、ジェベ、スブタイ両将軍率いる
 モンゴル軍と、ポロヴェツ・ルーシ連合軍との間で行わ
 れた。
  連合軍は、数で上回っていたにもかかわらずモンゴル
 軍に惨敗した。
  モンゴルのロシア征服は、1236年~1242年のバトゥの
 西征で本格化した。
  (ルーシ諸国に対するモンゴル帝国の征服戦争)
  (参考)ルーシ:中世時代におけるキエフ大公国の正
     式な国号で、キエフ・ルーシとも言われ・・
      キエフ大公国のもとで誕生したキエフ大公国・
     チェルニーヒウ公国・ペレヤースラウ公国を中
     心とするリューリク朝の三国。
      広義では・・ハールィチ・ヴォルィーニ大公
     国、ヴラジーミル大公国、ノヴゴロド共和国な
     どの東欧の諸国を含む場合がある。
      ルーシ・カガン国は、8世紀後半から9世紀の
     半ばにかけて、現在のロシア北西部にあったと
     される国家、または、都市国家群(仮説)。
      また、ロシア帝国・ロシア連邦の通称。
.
1237年になって、モンゴル軍は、15万の大軍を編成し、ロ
 シア中心部に侵入し、リャザン、モスクワ、ウラジーミ
 ルを次々と陥落させた。
  13世紀前半、タタールのくびき
  (参考)くびき:車を引く牛馬の頸(くび)の後ろに
     かける横木のことであるが・・自由を束縛する
     もの・・の意味がある。
  13世紀前半に始まったモンゴルのルーシ侵攻と、それ
 につづくモンゴル人(モンゴル=タタール)によるルー
 シ(現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシ)支配を言
 い・・、
  現在のロシア人などの祖先であるルーシ人のモンゴル
 =タタールへの臣従(しんじゅう、臣下として従うこと)
 をいう。
.
1240年、キエフの戦い
  ルーシの首都キエフの支配をめぐって、ルーシとモン
 ゴル帝国の間に行われた戦い。
  1240年9月5日、バトゥが率いるモンゴル軍は、キエフ
 を包囲し、キエフの明け渡しを求めた。
  キエフ軍を引率するドミトロー大将とキエフの市民が
 降伏を却下して防衛に備えた。
  モンゴル軍のバトゥは、32の投石機を集めて、キエフ
 の防衛線で弱点だったポーランド門を攻撃し、市内へ乱
 入した。
  キエフの市民は攻撃を防いだが、多勢に敵わずして石
 造りの什一聖堂へ撤退し、教会を最後の砦とした。
  1240年12月6日、モンゴル軍は、投石機を取り寄せて聖
 堂を破壊させ、キエフを制覇した。
  ドミトロー大将は捕虜となったが、勇敢に戦ったため、
 バトゥによって解放された。
  モンゴル軍は、聖ソフィア聖堂をはじめキエフの教会
 と貴族の屋敷を略奪し・・、
  合戦後、5万人だったキエフの人口は2千人まで減少し
 た。
  キエフの陥落によりルーシは滅(ほろ)んだ。
  これ以降に存続したキエフ公国は、14世紀半ばにかけ
 てモンゴル帝国の属国であった。
  一方、キエフは大きく衰退し、山の手だった古キエフ
 は荒地となり、都市の中心地は下町のポジールへ移った。
.
1453年、モスクワ大公が、皇帝を意味するツアーリの称号
 を用いた。
  イヴァン3世は、東ローマ帝国最後の皇帝の姪と結婚、
  モスクワ大公が、1453年、オスマン帝国によって滅ぼ
 された東ローマ皇帝にかわる正教会の保護者としての地
 位を自認する端緒をつくった。
  ロシア語で皇帝を意味するツアーリの称号もイヴァン
 3世のとき初めて使われた。
.
1547年、イヴァン3世の孫、イヴァン4世(イヴァン雷帝)
 は、この年に、ツアーリの称号を正式に用いた。
  ロシアの正教会の間では、モスクワは、ローマ、コン
 スタンティノポリスに続く第三のローマであり、ツアー
 リは、ローマ皇帝の後継者であるとする考えが生まれた。
  モスクワ大公国の支配領域が、「ルーシの国」を意味
 する「ロシア」との名称で呼ばれるようになり始めたの
 も、イヴァン4世の頃の16世紀だった。
  また、1552年にカザン・ハン国、1556年にアストラハ
 ン・ハン国を滅ぼし、初めてキプチャク・ハン国の一部
 を併合し、シベリアに向かって東方への拡大を開始した。
.
1780年、光格天皇が天皇になった(在位1780年~1817年)
  光格天皇は、たいへん衰弱していた皇室の祭祀(さい
 し)の復活に努められた(1771年~1840年)
  そういう皇室の動きが淵源(えんげん、物事の起こり
 基づくところ、根源)となり、尊皇思想というものが茫
 洋(ぼうよう、広々として限りないさま)として沸き上
 がり、武士階級を中心に庶民の一部にまで浸透して行く。
  この過程で、皇室をめぐる文明的エネルギーは見事に
 立ち直った。
  光格天皇、仁孝天皇、孝明天皇の三代が、皇室伝統の
 衰微と危機に立ち向かわれた。
.
2005年11月17日、耐震偽装事件、そして、NHKの罪
  国土交通省が、この日、千葉県の構造計算事務所の耐
 震偽装を公表した。
  しかし、日本の公共放送・NHKも似た様なことをし
 ている・・放送している。
  NHKは、「がさネタ放送局」だ。
  建物の耐力は鉄筋量で決まる。
  (1)建物の耐力は鉄筋量で決まる。
  姉歯事件は、この鉄筋量を誤魔化したから問題となっ
 た。
  建物耐力は、鉄筋量の計算をして決めている。
  鉄筋の引張力は十分に耐えるのか?否か?の問題なの
 である。
  コンクリートの劣化は中性化で起きる。
  鉄筋コンクリート構造物の耐力減退は、何で起きるか?
 と言えば、
  1、コンクリートの中性化、
  2、コンクリートの中性化による鉄筋の錆びによる断面
   欠損、
  3、コンクリートのひび割れによる耐力低下(今、巷の
   公共構造物でこれを無視しているのか?ほとんど補
   修をするべきを補修をしていない)、
  4、コンクリートが、ひび割れて、中の鉄筋が錆びて、
   そして、その鉄筋の錆びの膨張で、コンクリートが
   押し出されて、コンクリートが剥落する。
   (たまに見られるのだが、世間では構造体が、ここ
   まで来ても何ら補修をしてない)。
  この様な劣化因子があるのだが、鉄筋コンクリート構
 造物が、耐力を低下することを問題にするのなら、コン
 クリートの中性化が進んで行って、肝心の鉄筋が錆び始
 めて、鉄筋の断面欠損が生じ始めて、そして、鉄筋コン
 クリート構造物の耐力の低下が始まるところを問題とす
 べきだ。
  (だから、鉄筋コンクリート構造物の中性化を補修し
 ていれば、鉄筋の劣化は起きるはずが無く、だから、超・
 長期的にその構造体は使用可能なのだ)。
  (メンテナンス・補修如何にかかっていることを知る
 べきだ・・ただただ、何年、経ったから駄目になったと
 考える事は「勿体ない行動につながる」)。
  NHKは、世間にある様な素人的な想像で予想し、そ
 れがあたかも正しい事の様に放送した・・いいふらした。
  だから、まだ耐力が低下していない鉄筋コンクリート
 構造物が、ただただ時が経たから耐力がなくなったと、
 単純な、間違った放送をし続けた。
  大きな間違い情報を言い続けた。
  その間違い情報に洗脳された人々は、まったく無駄な、
 勿体ないことを始めた。
  まだまだ使える建物を壊し始めた。
  『NHKのこの罪は・・非常に大きい』。
  貴重な公共構造物を、この様なセンスで壊していたら・・
 税金がいくらあっても足りなくなる。
  また、NHKは、渋谷の放送センターを建て替えたい
 ため、これを理由にした・・
  そして、お手前の放送媒体を使って、盛んに全国放送
 をした。
  『NHKの渋谷の放送センターは、年月が経ったので
 劣化したので建て替えます』と・・
  嘘で間違った放送を盛んにした。
  そしてまた、渋谷の「子供の城」も年月が経ったので
 壊して建て替えますと、ニュースにもならないニュース
 を自分の建て替えを行ないたいため・・放送した。
  NHKの目の前の渋谷公会堂も、年月が経ったので壊
 して建て替えますと、またまた、ニュースにならないニ
 ュースを、自分のために放送した。
  こんな放送ばかりを繰り返し繰り返し放送していた・・
 その建て替えのお金は視聴者へ返還すべき金だった・・
 だから、NHK予算委員会でその様に決定している金を、
 NHKはまだ視聴者に返還していない。
.
2018年8月25日、現在の中国の実態と危険・・(その2)
・中国はあらゆる層の人間を使って、「政治を盗むグルー
 プ」や「科学技術を盗むグループ」・・などを作ってい
 る・・
  これを束ねているのが、中国共産党中央の統一戦線・・
 世界に散らばした工作員のネットワークを束ねている・・
  アメリカのFBI(連邦捜査局)や、CIA(中央情
 報局)は、すでに、そのやり方・組織を把握している・・
  今、それをストップし、潰す方向へ動き始めた段階と
 なった・・それによって中国の状況がここで変わった・・
 ピンチに陥っている・・
・アメリカのFBIは、アメリカの55州のすべてに中国の
 スパイが入っていると発表した・・取締りを厳しくして
 いる。
  アメリカに帰化した中国人は、総てが工作員(日本も
 そうだろう)・・
  カナダでも、それと同様な中国の動きが発覚し、860人
 の学生などの工作員が捕まって強制送還された(数が半
 端ではない)・・
  留学生・華僑・華人がこれを構成している・・
  孔子学院もこの状態(日本の桜美林大学にもある)・・
 親中反日にして行く行動をしている・・
  この孔子学院をコントロールしているのがやはり中国
 の政権内にある王滬寧(おうこねい)・・
  アメリカは、この王滬寧をターゲットにしている(情
 報戦)・・
  この王滬寧が、失脚の可能性高い・・アメリカへの亡
 命か?・・という状況になっている・・
・クーデターを心配している習近平・・
  習近平が、アフリカに行った時にもその心配が出てい
 た・・心配で、娘をアフリカへ連れて行った・・
・AFP通信の記者が書く、習近平はおかしいと・・
  習近平は、眠れない状態が続いて睡眠不足で、国連や
 国際的な大物に会っている時も、うとうとと居眠りをし
 ている・・
  また、習近平は肩書も間違えた・・
  また、9回、毒殺を仕掛けられたとの報道がある・・
  6月、人民大会堂で、習近平を迎えに来た車が、習近平
 が出て来た時に爆発したことがあった・・
  人民大会堂は、一般人が入れないエリアで、この様な
 事が起きた・・
  その爆弾を分析したら人民解放軍の使っている爆弾だ
 と判明した・・
  内部に習近平を爆殺しようとしたものが居ることは明
 らか・・
  これが起きた後、習近平は人民解放軍病院に入院した・・
 そこでも危うく毒の注射を打たれそうになった・・
  中国の政権の行方が不透明になって来ている・・
・北朝鮮も、中国の人民解放軍が、自国領に入って来るこ
 とを恐れている・・
  中国の北京や上海を狙うミサイルも保持しているとい
 う見方もでている・・
  この点からも、核やミサイルは、簡単に手放せない状
 況があると考えられている・・
・イランに、北朝鮮から核が渡されたら世界は大変なこと
 になる。
  イスラエルは黙っていない。
・アメリカ政権内にも、中国共産党と強くつながっている
 者が居る事も忘れてはならない・・
  中国の外貨準備は3兆2千億ドル・・米国債は1兆2千億
 ドル・・
  故に2兆ドルが自由になる・・これがアメリカ内の工作
 や投資などに使われている・・また、金融機関のモルガ
 ンなどへ・・
  あまり追い詰めるなというアメリカ内の勢力もある・・
  しかし、これは皆、中国内にないお金・・アメリカに
 あるお金・・アメリカは、いざとなったら、トランプ大
 統領が、決断一つでこの中国の在米資産を抑えることが
 できる・・凍結する・・
  ウイグルを弾圧し、虐殺した中国高官(陳全国・ちん
 ぜんこく)も資産凍結された・・
・中国は強い時は危険だが・・中国は弱い時も危険・・
  日本は、過去にも、中国が弱い時に、中国を助けて痛
 い目にあった・・この時、天皇陛下が訪中をせざるを得
 ない状況に置された・・
・日本でも、日本の議員で中国のインターシップを持って
 いる者が居る・・
  (オーストラリアは、中国関連のスパイ活動を防ぐ一
 環から議員インターンシッププログラムを除外するとし
 た)
・アメリカの女性上院議員が、秘書を首にした・・その理
 由が「事務所の情報のすべてを中国へ渡していた」・・
  この女性議員は、外交の委員長をしていたから狙われ
 た・・
  この秘書が、アメリカに立てられる慰安婦像のすべて
 を指導していた・・韓国が表向き慰安婦像を立てるよう
 に見せかけられていて、本当は中国がやっていると判明
 した・・
  台湾に慰安婦像を建てたのも中国と国民党・・
  台湾のマスコミは、中国共産党と中国系の台湾の国民
 党がすべてを抑えている・・
  中国の金が動いてカナダで慰安婦記念館が建てられる
 ことになっている・・
  慰安婦像設置や博物館建設も裏で中国政府が金を出し
 ている。
・台湾の国民党と中国共産党の関係は双子状態・・裏では
 まったく一緒。
  中国に利用されている台湾国民党・・
  中国政権の統一戦線が、アメリカの工作員を動かして
 いる・・
・中国は、欧米企業をどんどん買収し、中国は、その情報
 を盗んでいる。
・中国が、日本を何とかしよう、てなづけようという動き
 が、また、始まっている・・
  スパイとスパイ協力者がいる・・
  民間の学者などが利用されている・・
・中国の木材輸入量の70%は日本から出ている・・
  この様な儲け話のやり方から言いなりになる人間を、
 中国は、作ろうとしている・・
  李克強が日本に来て、北海道のバイオチップの話を付
 けた・・この様な中国の動きもある・・
  また、北海道・苫小牧の広大な土地を中国は購入(中
 国向け野菜)、表向きは日本法人だが、苫小牧の農地を
 買い占めて、中国への野菜輸出をしている・・
  しかし、北海道にはまったく金が落ちない・・
  地方経済活性化に、少しも役に立っていない・・
  北海道の政治家よ!目覚めよ!
  中国寄りの政治家の多い北海道となっているが・・ま
 ったく、中国に裏をかかれている・・
  この様な中国経営の法人に・・日本政府から補助金な
 どの金が出ている・・我々はその税金を支払されている・・
・日本の政治家の秘書にも中国の工作員が、相当、入って
 いる・・
  農業特区制度が悪用されている・・
  中国から金を貰っている日本の政治家も多い・・
  革新系だけでなく、保守系と言えども金を貰う議員が
 居るという状況になっている・・
  政治家の秘書にも、相当、入っている・・
・今、中国は、先端技術を盗むためのスパイを送り込む事
 より、企業の最先端の技術者を抱き込むことをしている。
  中国の工作員を入れるより、日本人を抱き込むことに
 力を注いでいる。
  情報が盗まれる「見落としがちな穴」は通訳・・
  通訳を抱き込んで、情報を得ることもしている・・
  技術だけでなく政治の分野でも・・
・優秀な技術者を夏休みに中国に招待することもしている。
  この時に、「退職後も、引き受けますよ」と、高額な
 給料の誘いと共に退職後の話もつける・・
・日本の大学で、中国の国費留学生の居ない所は無い・・
  また、パソコンの入力の手伝いと称して、めぼしい技
 術を開発している大学教授の助手になる・・
  そして、研究所の大切な情報が抜かれる。
  国益を軽く考える者も多い・・
  パソコンデーターは、簡単に持ち出せる機器も発達し
 ている・・
  技術者に国益を守るという意識を付ける事も大切。
.
2018年8月25日、現在の中国の実態と危険・・(その3)
・中国が、スリランカの港を、99年間の租借(そしゃく、
 外国の領土の中のある地域を借りて、一定の期間、統治
 すること)とした・・
  スリランカが、中国から借りた金を返済できないから
 取り上げるのだ・・というのが中国の理屈・・
・中国が、すでに、ジプチ(中東の紅海の入口の国)に拠
 点を作ってしまっている。
  もう中国の軍艦が存在している。
  中国軍艦が、すでに、スエズ運河あたりまで哨戒(し
 ょうかい、敵襲に対して見張りをして警戒すること)行
 動をしている・・
  中東の要(かなめ)、中東の門番のように抑えている。
・イランの石油を、アメリカとイランの関係が、どの様な
 状況になっても、中国は買う、金を支払うという事に、
 中国はしている。
  故に、今、潤沢な金がイランに入っていて、イランの
 軍拡が行われ、戦費調達がなされている・・中国の金が、
 この様な動きをしている・・
  故に、イエメンの反政府組織に、武器を与えているイ
 ランの行動も支援していることになっている・・
  中国が、この様に中東への橋頭保を築いて、中東情勢
 に、中国が、深くからんで行くという世界情勢となって
 来ている・・
  これは、アメリカの軍事力をアジアから中東へ向けよ
 うとする中国の策略である・・
  (中国寄りのNHKは、こんなことは、まったく放送
 しない)
・これに、トルコ問題も絡んで来ている。
  今、トルコが、急足に中国べったりになって来ている。
  「敵の敵は味方」の考え方になっている。
・イランと日本は関係が良い。
  イランと関係が良い西側国は日本だけ。
・イスラエルが核を持っている状況で、中東に、新たに核
 を持つ国ができると大変・・
・また、ロシアと中国がくっつくと大変。
・中国は、習近平になって初めて韓国へ行った・・「南か
 ら盗るぞ」の意思表示となっている・・
・北朝鮮をめぐる対立が本格的に成りつつある・・
  ロシアは、北朝鮮の金正恩を呼ぼうとした・・中国は、
 行かせまいと阻止した・・
・今、日本海に1000隻を超える中国漁船が居る・・この後
 に中国の艦艇が入って来る・・もう日本の海上保安庁で
 は対応できない状況となる・・
・日中両国が、通貨スワップの再開の検討に入るのはおか
 しい・・
  3兆円規模で始める・・
  (参考)スワップ取引:金融において、あらかじめ決
     められた条件に基づいて、将来の一定期間にわ
     たり、キャッシュフローを交換する取引。
  今、価値のない人民元の状況・・中国が刷れば使える
 というだけの通貨・・
  それを、万一の時には、日本が、世界に対して保証す
 る形になるのは「おかしい」・・
  日本の同盟国のアメリカの米ドルの足を引っ張る形に
 もなる・・
  中国の知的財産権の侵害もアメリカは何とかしようと
 している。
  そして、新たにアメリカは、人権問題(チベットやウ
 イグルや内モンゴル)も何とかしようとしている・・そ
 の足を引っ張る形になっている日本・・
  中国のこれらの根本的問題を何とかしようとしている
 アメリカの足を引っ張る日本となっている・・
  外貨準備などで、中国が打撃を受けているところを、
 日本が助けるという形になっている・・中国の日本への
 工作の影響・・日本の省庁への働きかけ・工作が功を奏
 している・・
・トヨタと日産が、中国の工場規模を30%を増やす事にし
 ている・・
  資金持ち出しを禁止している中国・・儲けた金を持ち
 出すことが出来ないことにしている中国もおかしいが・・
  その様な資金を、日本に持って来れないので、仕方な
 く中国にその資金を投下する事にしている。
  トヨタの大もとが増やせば、その系列・すそ野の広い
 系列の会社などの会社も増やさざるを得ないことになっ
 ている・・
  日本の経団連の親中国の動きも問題・・習近平系列の
 会社べったりになったりしている・・
  日本の優秀な軍事転用可能技術の流出が心配・・これ
 らが盗られる様になったら終りだ・・
・軍事転用できる技術が取られるようなリスクが高まって
 いる・・
  「メイド・イン・チャイナ2025」を実現しようとして
 いる中国・・
  (参考)メイド・イン・チャイナ2025:「製造強国」
     を目指すべく、中国政府(国務院)は、2015年
     5月19日に、今後10年における製造業の発展のロ
     ードマップを示した「メイド・イン・チャイナ
     2025」(中国語は「中国製造2025」)計画を発
     表した。
      その中には、製造業のイノベーション能力の
     向上や情報化と工業化の高度な融合の推進をは
     じめとする九つの戦略任務と、次世代情報技術、
     高度なデジタル制御の工作機械とロボット、航
     空・宇宙設備などからなる十の重点分野が盛り
     込まれている。
  (参考)西側諸国の懸念:メイド・イン・チャイナ2025
     などの中国の動きへの懸念・・
      米紙・ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)
     6日付によると、米通商代表部などの政府高官は、
     中国当局主導の振興策は公正な競争を損なうと
     批判。
      米政府関係者は、中国当局は国内企業に補助
     金を給付するほか、外国企業に対して技術移転
     を強いる可能性が高いとの認識を示した。
      トランプ政権は、2017年から、中国による知
     的財産侵害の疑いで調査を行っている。
      調査結果によっては、米政府が今後、関税引
     き上げや輸入制限を含む対中制裁を強化すると
     みられる。
      米シンクタンク、戦略国際問題研究所のスコ
     ット・ケネディ副所長はWSJに対して、「ハイテ
     ク強国との目標を達するために、中国当局は歳
     入拡大や市場アクセス制限、技術を移転するよ
     う企業に圧力をかけている」と指摘し、「米は
     中国の行動に注視している」と述べた。
      在中国の欧州連合(EU)商工会議所が2017
     年、「中国製造2025」について、「極めて問題」
     があり、海外企業の差別につながりかねないと
     の報告書をまとめた。
      「海外企業の間では、中国市場に参入する条
     件として、技術の譲渡を迫られるのではないか
     との懸念が浮上している」と指摘した。
・この様な西側諸国の動きであるのに、日本だけが、中国
 トラップ・工作に「はまっている」・・
・近々の情報でも・・日本の優秀な技術である「急速充電
 技術」を、中国は盗もうとしている。
  日本と中国は、提携することを決めた。
  日本は、中国のシェアが90%だという所に目がくらん
 でいる。
  中国のパイの大きさに目がくらんでいる。
  レーザー兵器にも転用できるこの技術を盗もうとして
 いる。
  アメリカも、真から、喉から手が出るほど、この日本
 の技術を欲しがっている。
  日中の話の節電は名目で、節電ではなく、本当は、レ
 ーザー兵器・レールガン兵器の技術開発に持って行かれ
 る。
・中国は、海外企業に対して、役員に中国人民(共産党員)
 を入れなければならないとしている・・
  この様な話は、中国寄りのNHKは、ニュースにもし
 ない・・
  NHKは、「NHKは、中国に信頼されている」と変
 な自画自賛まで放送している・・
・韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領も軍事技術を共
 に持とうなどととんでもない話を中国にしている・・
  「非核化のためだ」と、脈絡の付かないことを理由に
 している・・
・アメリカは、中国企業のファーウェイを追い出すことに
 している。
  「中国のファーウェイは使わない」という通達が出た・・
  (参考)ファーウェイ:華為技術有限公司、中華人民
     共和国の通信機器メーカー、
      現在ファーウェイは、300近い通信事業者に製
     品・ソリューションを提供しており、世界トッ
     プ50事業者のうち45社がファーウェイの製品・
     ソリューションを使用している。
      2008年に国際特許出願件数世界1位になる。
      戦略的にあえて非上場を貫いている。
      超巨額な利益を上げており、また、超巨額な
     研究開発投資をしていて、研究者も厖大。
 (参考)ファーウェイへの疑念:CNBC(アメリカの
    ニュース専門放送局)の報道によると・・、
     FBI長官が、「ファーウェイが、アメリカの
    情報通信ネットワークの中で力を得ていることに
    懸念」「ファーウェイの端末は、情報を盗む機能
    を持っている」と述べた。
     以前、ファーウェイの端末に、「ユーザーの
    個人情報を勝手に収集し、許可なく中国のサーバ
    に送信する機能」が搭載されていたことが明らか
    になっている。
     アメリカ政府は現在、政府職員がファーウェイ
    /ZTE製スマホの使用を禁ずる法案も検討してい
    る。
     ZTE(中興通訊、中国メーカー)も同じよう
    な事をしていると指摘されている。
  (参考)2018年2月16日、ハフポスト(HuffPost、アメ
    リカのオンラインメディア)
     中国企業のファーウェイとZTEのスマートフ
    ォンを使わないように、アメリカの情報機関の高
    官が国民に呼びかけた。
     CNBCによると2月13日の上院情報委員会で、
    中央情報局(CIA)や、連邦捜査局(FBI)、
    国家安全保障局(NSA)などの高官6人が出席。
     アメリカの消費者は、この2社の製品を使うべき
    でないという考えを示した。
     ZDnet(法人向けのITニュースを配信するサイ
    ト、CBSインタラクティブ社が運営するニュース・
    サイト)によると、この席でFBIのクリストファ
    ー・レイ長官は以下のように話したという。
     「価値観の違う外国政府に借りがある企業・組
    織が、国内の通信ネットワークで影響力を持つリ
    スクを深く懸念している」
     「私たちの通信インフラに、プレッシャーをか
    けたり、影響を及ぼす能力を与えてしまう」
     「悪意を持って、情報を改ざんしたり、盗んだ
    りできる。スパイ行為だってできるだろう」
     ロイターによると、共和党のトム・コットン上
    院議員とマルコ・ルビオ上院議員は7日に、ファー
    ウェイとZTEの通信機器について、アメリカ政
    府の購入やリースを禁じる法案を提出した。
     アメリカ当局者へのスパイ行為に対する懸念を
    理由としている。
・この様な動きの中で、日本は、中国に甘い。
  技術や情報を盗むシステムがはめ込まれているという
  見方となっている・・
・ホイールにエンジンを組み込む「ホイールエンジン」の
 技術が・・盗まれるリスクがある。
  軍事技術に非常に大切な技術。
  熱感知しにくいシステム・・見つかりにくいシステム・・
 この技術を持っている日本が、世に役立つならと甘い考
 えに居る・・自分が開発したから、「どうするのも自分
 の自由」なんて、お人好しに考えている日本の技術者。
  空気清浄化システムが、「潜水艦に転用できる」なん
 て考えてもいない・・
  戦闘機のエンジンを冷やすシステムに転用できる冷却
 設備の技術も・・こんな事を考えていない日本・・
  この点、日産が偉かったのは、ミサイル技術を持った
 ところは分離して、他企業に売却してから、ルノーと提
 携した・・
  日本の経済界は、この様な危機管理意識が欠如してい
 る・・
・日本の一番進んでいる技術・・電気自動車の次に来る水
 素エンジン技術も、中国が盗もうとしている。
  石油メカニズムのシステム系から脱却できる大切な将
 来技術・・
  トヨタが、その工場を見せたりしている。
  新幹線技術が盗まれたことを忘れている。
・水素を簡単に作れる日本の技術を持った会社がすぐに中
 国に買収された。
  経済的問題でつまづいているだけの企業が盗まれる・・
 技術は優秀で、その技術の行き詰まりではなく、会社経
 営問題だけで中国に盗まれた・・優秀な技術者が盗まれ
 る・・
・この様な政府の指導が甘い。
・ドイツが中国とべったりをして来た・・一帯一路の東の
 要衝(ようしょう、交通・軍事・通商の上で、大切な地
 点)にはドイツがあるという考えにあった・・このドイ
 ツが、少しづつ変わって来ている。
  中国べったりのフォルクスワーゲンも叩かれている。
  世界から圧力を受けたドイツも・・中国の本質が分か
 って来ている・・一帯一路のおかしさが分かって来てい
 る・・
・「モンテネグロの大借金もおかしい」とEUは分かって
 来ている・・小さな国のモンテネグロが、中国の大借金
 を返済できるのか??・・と・・(ギリシャの二の舞?)
  同じような話があちこちに・・ブルガリア、ルーマニ
 ア、ハンガリーなど・・中国は手広くやっているが・・
  アフリカでも中国はやっている・・
・メルケルは、東ドイツ出身なので、共産圏諸国に甘い・・
 その様な考え方が、体に染み込んでいる人・・
  警戒心が無いから、ドイツは、1週間で何十社もどん
 どん中国に買収されたという調子・・
  やっとストップがかかる様にはなって来た・・
  イギリスは、その様にはならないという法律を作った・・
  アメリカも法関係を整備し始めた・・
・中国が狙っている一つが「ロボット兵士」・・
  殺人兵器が量産される中国・・国連はそれを止めよう
 としているが・・その様な中で・・ロボット戦争に邁進
 している・・日本には、それにつながるロボット技術を
 持っていないと世界は知った。
・中国のロボット兵士に入力される行動システムは、「怪
 しければすべて撃て」と教える・・怪しいという判断だ
 けで行動を起こす・・怪しいのはすべて撃ち殺せになる・・
  西側諸国のシステム入力は、その様には出来ない・・
  ロボット兵士が前に出て、人間の兵士はバックに下が
 る形の戦いになる・・その時、中国のワンサイドの戦い
 になる・・
  鳥に似せたドローンのロボット兵士が、実際に、実験
 飛行している・・
  (自衛隊は、そんなことはできないことになっている・・)
  (自衛隊は、先に撃ち殺されてしまう・・)
・ロボットの市街戦・・一般住民が殺される・・
・中国の論文には・・中国は人口が多いので2億人~3億人
 が死んでも大丈夫なんて平気で書かれている。
・中国は、人口を半分減らそうとしている・・老人を減ら
 し、精神病患者を減らし・・しかし、来年、3人の子供を
 産んでもよいとしている・・中国は病院が少ない・・汚
 染も酷い・・河川汚染、土壌汚染、空気の汚染、海の汚
 染・・など
  16年経つと、この人たちが、中国軍の兵士となる・・
 中国は、兵士となって戦って死んでも、遺族は金を貰え
 ない・・
・台湾に対して中国がやっている恐喝に日本は敏感になる
 べき・・
・アメリカと日本は、これ以上、中国軍が強くなる前に台
 湾を国として承認すべき・・世界は、ドミノ現象的にこ
 れにならう・・
  台湾の蔡英文(さいえいぶん)総統が、アメリカに立
 ち寄った・・中国は「出来ない」としていた・・蔡英文
 氏は、「台湾は、中国に屈しません」と明言している・・
・トランプ大統領は、キッシンジャーと会って、『一つの
 中国の原則にこだわらない』と明言した・・
  韓国の在韓米軍が台湾へ移ると良い・・
.
【討論】どこへ行く中国習近平政権[桜H30/8/25]
https://www.youtube.com/watch?v=yIeIlTY1t9E
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2018-09-15 03:29 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)610E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年9月~1894年10月)

題:(増補版)610E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年9月~1894年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年9月16日、平壌の戦い
  日清戦争における最初の本格的な陸戦(9月15日説あり)
  混成第9旅団長・大島義昌少将は、入韓直後から清国の
 大軍が平壌に集中するとの情報を得ていた。
  騎兵斥候を平壌に派遣し、駐留させていた。
  7月下旬になって、清国軍が、義州を経由し平壌に進軍
 して来た。
  1894年8月10日、黄州から中和に偵察に出た時、強力
 な清国軍と遭遇した・・指揮官の町口中尉・竹内少尉な
 どの幹部が戦死する。
  1894年8月19日、第5師団の長野津道貫は、ソウルに到
 着した。
  この頃、韓廷の首班の大院君は、清国兵が次々と南下
 して来る報に接して怯え、動揺していた。
  清国の李鴻章は、7月上旬から順次、軍事力を動員し、
 諸部隊の体制完成を目ざし、その諸部隊には平壌に集結
 することを命令していた。
  1894年9月13日、李鴻章から指揮を任された葉志超は、
 諸処から来る日本軍をみて、その包囲を避けるため撤退
 を決断した・・それを各将にはかった・・しかし、奉天
 軍総兵の左宝貴は、それを聞いて憤然とした・・そして、
 自己の親兵をもって葉志超を監禁してしまった。
  清国軍に司令官が存在しない状態となった・・、
  清国軍の各将は、指揮命令が無く、自分の判断で戦う
 ことになった。
  第5師団の長野津道貫は、軍の包囲の完成をみて、9月
 15日に総攻撃と決定した。
  1894年9月15日、午前6時ごろ、攻撃は激烈となった。
  6時20分頃、歩兵第21連隊の突撃が行われた・・
  この攻撃は失敗する・・しかし、7時までに、敵を牡丹
 台方面へ敗走させた。
  この様な状況で始められた戦いだが・・14時半、朔寧
 支隊に、現在地に止まって夜営準備が命令された。
  16時半ごろ、前面城壁と乙密台の清国軍は射撃を停止
 し、白旗を翻した。
  17時頃、軍使をおくる準備をしていた頃、突然雷雨と
 なった。
  清国軍は、雷雨を口実として、開門は翌朝と要望した。
  しかし、 21時、雨がようやく収ったころ、多数の清国
 兵は甑山の方向へと逃走し始めた。
  1894年9月16日の翌日、1時10分、歩兵第12連隊は、暗
 門から城内に突入した・・
  場内は、道に迷うわずかな清国兵のみで、もぬけの殻
 だった・・平壌の陥落。
  日本軍の戦死者は180人、負傷者は506人・・
  清国軍の戦死者は2000人以上といわれる。
  清国軍の指揮官は、戦死した左宝貴以外はいずれも脱
 出に成功した。
  指揮官:日本:野津道貫、桂太郎・・
      清国:葉志超、左宝貴
  戦力:日本:約10000人
     清国:約13000~15000人
  損害:日本:死者180人、負傷者506人
     清国:死者2000人、負傷者約4000人
.
1894年9月17日、黄海海戦
  この日、日本海軍が、黄海大孤山港沖で清国艦隊と遭
 遇し交戦となる・・
  日本は勝利し、黄海の制海権を握った。
  日本の連合艦隊と清国の北洋艦隊主力との交戦だった。
  これまで、清国は、海軍力を日本に見せつけ、日本を
 威圧して来た・・
  その威圧行動で長崎港に来た北洋艦隊の清国兵士が、
 日本を馬鹿にして暴れる事件を起こしたりなどもしてい
 た。
  日本は、凶作などもあり予算措置ができず、これまで
 海軍増強もままならなかった・・が、経済回復とともに、
 目ざましく軍備を増強して行った。
  例えば、海軍力は、1881年(この海戦の13年前)は、
 清国と日本の所有する軍艦は共に3隻であったが・・、
  清国は大型艦を持ち、日本の艦艇は貧弱そのものだっ
 た。
  そしてまた、清国は、その後も大型艦をどんどん作り・・、
  1887年には、清国10隻、日本は4隻と、圧倒的な清国の
 海軍力優位となった。
  (2018年現在の中国と日本との軍事力の差の様に・・)
  日本も、中国の脅威に、1888年(この海戦の6年前)か
 ら、艦船数を増やす努力をして行った。
  また、大型艦を増やして行ったが、中国・清の増強の
 方が目覚ましく、清国に追い着くことは、しばらく出来
 なかった。
  しかし、1892年(海戦の2年前)には、ほぼ対等の状態
 にたどり着くことができた。
  この様な・・まだ劣勢の日本の状況の中で・・、
  1894年9月17日に、黄海海戦を、日清両国は戦った。
  日清戦争は、中国で戦われたと思われ勝だが、朝鮮半
 島でその多くが戦われた。
  清国軍が威海衛から渡海し、朝鮮のソウル(当時の漢
 城)近くに上陸し、日本と交戦した。
  また、平城近くでも戦った。
  日本は、九州や沖縄から出撃した。
  この黄海海戦は、『近代的な鉄甲蒸気船同士で行われ
 た世界史上初の大規模な海戦』だった。
  日本は勝利をおさめ・・清国海軍は、大幅に戦力を低
 下させ、黄海と渤海の制海権を失った。
  日本の連合艦隊司令長官は、伊東祐亨(いとうすけゆ
 き)海軍中将だった。
  清国の損害5隻喪失、大中破で、日本の喪失は無し、
 大破4隻だった。
  海戦の場所:黄海、鴨緑江沖。
  1894年午前10時過ぎ、両艦隊がお互いの煙を確認。
  連合艦隊は、直ちに、戦闘態勢を取り急接近する。
  北洋艦隊も、日本艦隊を迎え撃つ体制にした。
  連合艦隊は12隻・・第一遊撃隊4隻、そして、司令長
 官の率いる本隊6隻、そして、本隊後方に2隻だった。
  北洋艦隊は14隻で、連合艦隊より2隻多く、本隊10隻、
 そして、4隻が続いた。
  12時18分、連合艦隊司令長官は、攻撃開始の国際信号
 旗・旗旒信号(きりゅうしんごう)を発した。
  北洋艦隊は、楔形の横列陣で、連合艦隊に直進して来
 た。
  12時52分、本隊の旗艦「松島」が距離3500mで砲撃を
 開始した。
  12時55分、第一遊撃隊も、北洋艦隊右翼に回り込み距
 離3000mに近づき砲撃を開始した・・
  速射砲で猛烈な砲火だった。
  北洋艦隊は、連合艦隊に突進して、衝角戦(しょうか
 くせん、体当たり攻撃で、船復を破り大浸水を起こす)
 にしようとした・・そして、双方、砲火を交わし被弾。
  13時5分、北洋艦隊の艦が火を噴く・・、
  30分後に沈没。
  そして、北洋艦隊のもう1隻も多数被弾し、火を噴き
 戦闘不能となる。
  日本側も第一遊撃隊「吉野」が被弾し、弾薬が誘爆し
 て火災を発生。
  この様な戦いが延々と続く・・、
  日本側に、幸運な命中弾などもあり「赤城」は危機を
 脱したりした。
  また、連合艦隊の「西京丸」が、魚雷3本を発射された
 が喫水が浅いのが幸いして、その1本が船底の下を通過し、
 命中を免れ、九死に一生を得た。
  15時10分、連合艦隊第一遊撃隊、距離3700mで、本隊
 と共に北洋艦隊へ十字砲火を発射。
  15時15分、北洋艦隊は大打撃を受け、3隻で火災が発生。
  北洋艦隊に戦線離脱する艦も現れる(敵前逃亡で、海
 戦後に斬首の刑に処された)
  つられて、逃亡を途中まで試みる北洋艦隊の2艦があり。
  北洋艦隊は集中砲火を浴び・・1隻沈没。
  15時30分、北洋艦隊の30.5㎝砲弾が、連合艦隊「松島」
 に命中、大破し炎上する。
  16時7分、「松島」、鎮火するも被害甚大、舵が不調。
  北洋艦隊も味方の火災、逃亡、沈没が続いて、四分五
 裂となる・・
  2隻を残して、4隻が戦線離脱体制となる・・
  他の2隻も退却を始める・・連合艦隊の第一遊撃隊が追
 撃態勢に移る。
  16時45分、司令長官が、交戦する本隊の各艦に進撃を
 中止し、旗艦「松島」に集結する信号を出す。
  16時48分、第一遊撃隊が逃走する北洋艦隊の1隻に追い
 付き、攻撃開始・・、
  命中度が高く、艦首から沈没。
  17時40分、再集結した連合艦隊本隊は、順次、南方へ
 後退。
  それを見た、残った北洋艦隊2隻も退却を始める。
  17時45分、第一遊撃隊が敵艦を追おうとしたが、司令
 長官からの「合流せよ」の信号が発せられ引き返す。
  20時、伊東司令長官は、旗艦を「橋立」に変更して移
 乗・・、
  大破した「松島」は呉軍港へ帰還させる。
  翌日・18日1時15分、「西京丸」、朝鮮半島の日本海軍
 根拠地に帰還。
  3時30分、北洋艦隊の1隻が帰還中に被弾による舵の不
 調から座礁・・放棄された。
  5時50分、連合艦隊の1隻が根拠地に帰投。
  18日12時から連合艦隊司令部は、帰投した北洋艦隊を
 再補足の目的で発進させたが・・発見できず。
  その後、日本海軍の水雷部隊が、帰投した北洋艦隊を
 発見し、『威海衛の戦い』をする。
  2隻撃沈、1隻大破・座礁、その後自沈・・、
  4隻は鹵獲(ろかく、戦いで得る・ぶんどる)し、日本
 海軍に編入。
  これによって北洋艦隊は消滅。
.
1894年9月、絵草紙屋の店先に戦争の画が並ぶ。
  玩具屋には、サーベル・兵隊帽・ラッパなどが並べられ
 た。
.
1894年9月、絵草紙も、新聞紙や書籍同様に検閲を受けるこ
 とになった。
  8月17日付けの都新聞に、絵双紙に夢中になってる人が
 多く、スリが横行していると記している。
  歌人の斎藤茂吉も、日清戦争の錦絵を見たと書いてい
 るが、庶民がそれだけ熱中するほど、戦争報道は盛り上
 がっていた。
  因みに、10年後の日露戦争は写真報道に沸く。
.
1894年10月1日、東京商品取引所が開業。
  蛎殻町で誕生したが、営業不振に陥り、1908年に、東
 京米穀取引所に吸収合併される。
  砂糖・塩・綿糸・綿花・木綿・油・肥料・金属・雑穀
 の9品を取り扱った。
  そして、第2次東京商品取引所が、1951年2月に設立さ
 れた(旧・東京繊維取引所の設立日、東京工業品取引所
 としての設立は1984年11月1日)
  この時、東京ゴム取引所、東京金取引所が統合された。
.
1894年10月1日、日本鉄道の八戸線八戸駅~湊駅間の開通に
 より尻内駅~湊駅間が全通した。
  日本鉄道によって、1891年に開業した本線(後の東北
 本線)は、駅が海沿いの八戸市街から離れた尻内に設置
 された。
  このことから、1894年に、尻内駅(現・八戸駅)から
 分岐して八ノ戸(現・本八戸駅)を結ぶ支線を敷設した
 のが始まりで・・、
  1894年の同年中に、八ノ戸から湊へ延伸された。
  この状態で、日本鉄道は、1906年に公布された鉄道国
 有法により1907年11月1日に買収されて官設鉄道に編入さ
 れた。
  この後、1909年に八ノ戸線と命名され、1924年に八戸
 線と改称された。
.
1894年10月3日、西園寺公望が、第2次伊藤内閣の文部大臣
 となる・・これが初入閣で、外務大臣を兼任した。
  病気で辞任した井上毅の後任の文部大臣だった。
  西園寺公望は、行き過ぎた日本中心主義を否定し、女
 子教育発展をもとめるなど、日本を西洋諸国のように開
 明進歩させる教育を唱えた。
  また、翌年の1895年には、親友の陸奥宗光外相が病気
 のため、外務大臣臨時代理をつとめた。
  1896年5月に、陸奥が外相を辞任すると、西園寺は正式
 な外相となり、文部大臣と兼任したが・・
  1896年8月に、伊藤内閣が倒れ、第2次松方内閣で数日
 間大臣を務めた後、両大臣を辞任した
  1896年11月には、法典調査会副総裁も辞任し、フラン
 スへと旅立った。
  西園寺は、フランスで教育制度や軍の内閣による統制
 などを研究するつもりだった
  西園寺公望は日本の公家、政治家、教育者。
  位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。
.
1894年10月3日、大本営が、第2軍を編成した(9月25日説
 あり)
  司令官は大山巌大将。
  参謀長:井上光大佐
  砲兵部長:黒瀬義門砲兵大佐
  工兵部長:勝田四方蔵工兵大佐
.
  (今日の言葉)
.
  題:まず、「賄賂トラップ」と「ハニートラップ」にかけ・・
   その後、「債務トラップ」にかけて、
   国を借金まみれに陥(おとしい)れ、政治をコントロールし、
   港湾など戦略的軍事拠点を奪取する・・
.
905年、古今和歌集が完成し、天皇陛下に奏上された。
  古今和歌集は、平安時代前期の最初の勅撰和歌集(天
 皇陛下や上皇の勅宣によって編纂された公的な歌集)で、
 後醍醐天皇の命により、紀友則 (きのとものり) 、紀貫
 之 (つらゆき) 、凡河内躬恒 (おおしこうちのみつね) 、
 壬生忠岑 (みぶのただみね) が撰集にあたった。
  大和歌は、人の心を種として、萬(よろず)の言の葉
 とぞなれりける。
  世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思
 うことを、見るもの、聞くものにつけて、言い出せるな
 り。
  花に鳴く鶯(うぐいす)、水に住む蛙(かわず)の声
 を聞けば、生きとし生けるもの、いずれか歌を詠(よ)
 まざりける。
  力をも入れずして、雨土(あめつち)を動かし、目に
 見えぬ鬼神をも、哀(あわ)れと思わせ、男(おとこ)
 女の中をも和(やわ)らげ、猛(たけ)き武士(ものの
 ふ)の心をも、慰(なぐさ)むるは歌なり。
             (「古今和歌集」仮名序)
  「古事記」「日本書紀」は漢字(真仮名)で書かれて
 いた。
  「土佐日記」「古今和歌集」から仮名文学が始まった。
  因みに、古今和歌集は、905年に勅命を受けて、913年
 ~914年頃に完成したという説。
.
1870年(明治3年)、兵部大輔の前原一誠は、太政官への建
 白で、阿片戦争におけるイギリスやアロー号事件におけ
 る英仏連合軍による北京占領を指摘して、その危険性を
 警告した。
  1887年、また、井上馨は、条約改正問題の意見書で、
 欧州各国は、「其力を殖民拓地の政略に専ら」用い・・、
 アジアやアフリカは「逐鹿(ちくろく、利権を得る競争)
 の場」になると見た。
  以上のように、世界の弱小国を好きに従属させている
 欧米列強の行動は、さながら、日本もその脅威の中で生
 きているという日本の指導者層の脅威・恐怖の認識で、
 その中で、最も恐るべき脅威と考えられたのは北方のロ
 シアだった。
  1887年のこの年、外務権大丞・柳原前光は、ロシアは
 「満州東北を蚕食し、其勢往々朝鮮を呑」む勢いであり、
 元来「虎狼の国柄」、ヨーロッパの動乱の隙を窺(うか
 が)い、いずれ矛先をアジアに向けると認識していた。
  1873年、大久保利通は、この年の「征韓論に関する意
 見書」で、日本にとって最も恐るべき国はイギリスとロ
 シアであるとした。
  大久保がイギリスを恐れたのは、日本が外債をイギリ
 スに大きく頼っていたことにもあった。
.
1934年、中国の共産党軍が、中国奥地に隠れる。
  この年から1936年まで、毛沢東の率いる共産党の中国
 軍は、1万2000キロメートルも中国の奥地・延安へと逃げ、
 そして、隠れた。
  共産党中国軍は激減し、消滅の憂き目にあった。
  そしてまた、中国・国民党軍と日本とを戦わせて消耗
 することを中国奥地で願っていた・・、
  それを・・美しく「長征」と言っている。
  この様な共産主義国の中国が、国民党軍と日本との戦
 いで『南京事件が起きた』とした・・起きてもいない南
 京事件を、「起きた」とデッチ上げた・・そして、世界
 にプロパガンダ(嘘宣伝)して日本を貶(おとし)めた。
  また、同様に、起きてもいない慰安婦問題を起きた様
 に仕組んで、韓国を陰で操(あやつ)り、さも韓国が行
 動している様に見せかけ、慰安婦像を立てさせたりして、
 世界へ嘘のプロパガンダをしている。
  その様な陰湿な共産中国のプロパガンダ(嘘宣伝)行
 動が判明して来ている・・共産中国の工作員が世界中で
 うごめいている。
  こんなことを、共産党中国は、昔からやって来た。
  世界は、昔から騙されて来ていた。
  延安に隠れた毛沢東が、そして、この地での事が美し
 く語られた・・が・・これが、まったくの嘘。
  「八路軍は、糸一本、針一本、住民から略奪しない」
 とか、
  「共産中国には、ハエが一匹も居ない」とか・・
  清潔の極みなのだとか、まったくあり得ない嘘八百を、
 世界に発信し続けた。
  「住民は、皆、民主主義を信じている」とか、
  「共産党は独裁を避けている」とか・・「多党化しよ
 うと議席の3分の1しか取らない」とかと・・
  今の共産党の中国政権だって嘘八百だ・・「集団指導
 体制だ」と言っているが? 『一握りの者たちの独裁』
 ではないか・・、
  延安の毛沢東のやることは「素晴らしいモラルの世界
 だ」とか・・と・・、
  フリーダ・アトリーという女性のイギリス人ジャーナ
 リストは、ロシア人の共産党員と結婚した。
  そのこともあって、共産党に染まり、コミンテルンの
 メンバーになった。
  そして、スターリンの大粛清を見る、また、体感する。
  夫が捕まり、強制収容所へ送られてしまう。
  止む無くイギリスへ帰る。
  そして、アメリカのコミンテルン工作員のラティモア
 やスメドレーと知り合う。
  そして、新聞記者として中国へ渡る。
  彼女は、この様な経緯をとって共産党の内部の細かい
 ところを知る・・、
  ロシアと中国の実態を、自ら内部に存在する者として
 体感する。
  そして、彼女は、ここに至って破綻する。
  ソ連の共産主義に「完全に幻滅した」ことを表明する。
  「共産主義は本質的に偽善である」と言う。
  「ナチズムは悪であるが、悪い事をして、それを善に
 見せかける共産主義の方が、ナチズムよりも救い難い悪
 である」と言う。
  そして、中国の共産主義から、最初、美しい中国共産
 党の国を見せられ・・「ソ連よりましだ」と思わせられ
 る・・が、結局、長期に見ていて・・その実態を、その
 実際を知って行くと・・
  「ロシアよりも、中国共産党の方が、はるかに恐ろし
 い」と書く・・、
  そして、「我々は、認識を惑わされている、中国共産
 党は魔物だ」・・と批判する。
  ソ連とともに、中国共産党国家の大規模な偽装工作の
 徹底ぶりは凄(すさ)まじかった。
  中国共産党は、延安で麻薬栽培までしていた。
  (中国寄りのNHKは、こんなことは放送しない・・
 中国の讃美放送しか放送しない・・)
  アメリカの外交官やジャーナリストが、延安に訪れ、
 視察をすると・・ケシ畑は絶対に見せないようにした。
  農民たちにも、「毛沢東様を支持します」と言わせ、
 「八路軍によって、お陰さまで地主から解放されました、
 幸せです」・・と言わせた。
  その視察団が通るコースに沿って、徹底的に工作した。
  その工作範囲が、何と! 「幅3キロ、長さ150キロ」
 と言うから、その凄まじさは想像を絶した。
  「共産党に対する自然な支持が広がっていると確信し
 た」とさえ、外交官やジャーナリストたちは思わせられ・・
 そして、その事が、間違った認識が・・世界に発信され
 た。
  こんなことは、ロシアもやっている・・
  例えば、強制収容された日本人施設の例・・
  海外からの視察が来るとなると、病人はすべて収容所
 の外に運び出し、他の場所に移され、そして、元気な人
 間だけが集められ、並ばされた。
  近所の村から果物や野菜やらをかき集めて山盛りに積
 み・・机を全部シーツで包み、清潔に見せかけた・・
  こんな例は、書けばきりがない。
.
1945年8月23日、シベリア抑留(唾棄すべき拉致行為))
  ソ連による国際法違反のシベリア抑留が始まる。
  シベリア抑留は、ソビエト連邦(ソ連)によって、第
 二次世界大戦の終戦の後に、すでに、武装解除されてい
 る日本軍兵士や、無実の開拓民などの日本人の一般人ら
 を、主に、シベリアなどへ労働力として拉致して、移送
 し、そして、隔離し、長期にわたって抑留生活を強いて、
 奴隷的強制労働により多数の死者や人的被害が生じた。
  ソ連のこの行為は、武装解除した日本兵や、何ら罪の
 ない一般の日本人らの家庭への復帰を保証したポツダム
 宣言に反する国際法違反の行為であった。
  日本は、すでに、1945年8月14日に、中立国を通して降
 伏を声明している。
  1993年10月、ロシアのエリツィン大統領は訪日した際、
 「この行為は非人間的な行為だ」として謝罪の意を表し
 た・・(補償の話は未解決)
  しかし、まだ、ロシア側には、依然、日本軍将兵は戦
 闘継続中に合法的に拘束した「捕虜だ」と、まったくあ
 り得ない話を主張し・・また、日本人の一般人に対して
 の不法行為に対しては、まったく反論できない状況とな
 っている。
  ロシアは、戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者と
 は違う」と筋の通らない、そして、成立しない話を主張
 している。
  また、シベリアに連行された日本人は200万人以上で、
 死者は40万人以上であるが・・
  抑留された日本人を57万5000人とし、厳寒の環境下で
 満足な食事も与えず、休養も与えず、苛烈な労働を強要
 されて死んだ人の数を5万5000人としている。
  最近の研究成果がロシア側から明らかにされた。
  ロシア人のアルハンゲリスキーの著作にその数が記さ
 れているが・・抑留者200万人以上、死者数40万人以上と。
  KGB(ソ連国家保安委員会)は、60万人の抑留で、
 約6万人の死者数としている。
  このソ連の不法行為は、連合国のポツダム会談に於い
 て、アメリカのルーズベルト大統領にそそのかされたス
 ターリンが、「日本領土への侵攻・侵略を実施した」こ
 とによって発生した。
  ソ連は、シベリア開拓の労働力を「喉から手が出るほ
 ど欲しかった」。
  1945年8月16日、スターリンは、日本人を捕虜として用
 いないという命令を内務人民委員のラヴレンチー・ベリ
 ヤに下していたが・・、
  1945年8月23日、これを翻した。
  「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づいて、日本軍
 をソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命
 令を下した・・しかし、一般の日本人までをもシベリア
 へ拉致した。
  ソ連は、 満州国境にも174万人ものソ連極東軍を終結
 させ、不法な侵略を開始した。
  この一帯で地獄図が描き出された・・日本の満蒙開拓
 団の人々は、ソ連軍戦車の機関銃にに銃撃され、また、
 戦車に轢(ひ)き殺された・・
  この様な混乱状態の中で、中国も、日本人に対して卑
 劣な行為を行なった・・
  中国国内や満州国内で、終戦の後なのに殺したり、捕
 まえて収容所に入れ、飢餓状態にして命を奪った。
  また、病気になっても放置され、命を失った。
  この様な日本人は、日本兵の軍人に限らず、民間人も
 被害を受けた。
  中国は、この事について口をつぐんで謝罪の意思さえ
 見せない。
  特に、満蒙開拓団の状況が酷く、このことが明らかに
 されない事情の中に、中国側だけの問題だけではなく、
 日本側の官僚が、「外交をうまくやるためには、この様
 な事は言わない方が良い」という表現のしようのない怒
 りしか湧かない「売国奴的態度を取っている」ところに
 ある。
  中国の息のかかった工作員としか思えない輩である。
.
1950年代、マッカーシズム
  1950年代に、アメリカ合衆国で発生した反共産主義に
 基づく社会運動、政治的運動。
  アメリカ合衆国上院(共和党)議員のジョセフ・マッ
 カーシーによる告発をきっかけとして「共産主義者であ
 る」との批判を受けたアメリカ合衆国連邦政府職員、マ
 スメディアやアメリカ映画の関係者などが攻撃された。
  アメリカの第32代大統領のフランクリン・ルーズベル
 トの側近から官僚、そして、その他の広い範囲に共産圏
 の工作員がうようよといた・・工作員だらけだった。
 その為、日本との戦争にまで至ってしまった。
  その様な反動もあって、1950年代に、アメリカはマッ
 カーシズムが起きた。
  今・現在の日本も、中国の工作員がうようよと居て、
 スパイ天国となっている。
  このアメリカのマッカーシー旋風は、アメリカの情報
 機関が、ソ連の暗号を解読していることを惑(まど)わ
 し、隠すためにも行った。
  ソ連のスパイの情報をリークして議会で追及している
 という形にした。
  ホワイトや、カリーや、アルジャー・ヒスは、アメリ
 カでの最も高位についたソ連のスパイだった。
  これは、「ヴェノナ文書」にも記されている。
.
2017年12月6日、ウイグルを弾圧し続ける中国
  この日のウイグル放送の記事によれば・・、
  新疆ウイグル地区の中国公安当局は、微信(WeChat)
 などのソーシャルメディアで、国外留学中のウイグル人
 学生に連絡を取り、「帰国しなければ母親を強制収容所
 に送る」などと脅迫している。
  以下は、トルコ在住のウイグル人留学生に対する、公
 安当局の脅しの一部・・、
  「私は収容所の者だ。母親が大切ならこのアカウント
 を追加せよ」
  「トルコで暮らし、留学しているウイグル人の家族や
 親戚を収容所に収監し、強制的に『再教育』するように
 との上層機関からの命令がある」
  「おまえがトルコ留学中だから、母親がおまえの代わ
 りに『再教育』をされる」
  「トルコ国内にいる全てのウイグル人家族が、代償を
 支払うことになる」
  これだけのウイグル人の人々が拘束されていたら、当
 然ながら産業や経済は崩壊して行く。
  2017年10月18日の放送の記事では、南新疆ホタン市で
 大勢の商人が収容所送りとなったため、市内最大のバザ
 ールで店の3割が閉鎖され、顧客も半分程度に落ち込んで
 いる。
  同じく南新疆カシュガルのベシケリム村では、2000万
 平方メートルのブドウ畑のブドウが腐り始め、村民の暮
 らしを直撃している。
  取引をするウイグル人商人のほとんどが収容所送りと
 なり、買い手がなくて市場に出回らなくなった。
  一方、「商売敵(しょうばいがたき)がいなくなって、
 取引がうまくいっている」と喜ぶ漢人商人のインタビュ
 ーも紹介されている。
.
2018年7月12日、インターシップ制度を利用してスパイ活動
 をする中国
  オーストラリア上院は、2018年7月12日、議員インター
 ンシッププログラムが、今後、外国人留学生を募集対象
 から外すと発表した。
  この決定は、豪政府が中国のスパイ活動を防ぐ一環だ
 とみられる。
  同国議会では、これまで、議員は外国人留学生をイン
 ターン生として採用することができた。
  インターンシップ期間は3カ月と定められていた。
  期間中、留学生らは議会の「機密文書の閲覧も可能」。
  議会は、機密情報漏えいの対策として、インターン生
 に機密文書についてメモを取らないよう要求することに
 とどまっていた。
  上院のスコット・ライアン報道官は12日、「今後議会
 がインターン生を募集する際、豪国籍の国民のみに限定
 する」と述べた。
  昨年・2017年12月、ターンブル豪首相は、中国共産党
 政権に近い中国人富豪らが政治献金を通じて、同国の政
 策策定に強い影響力を行使したと批判した。
  また、中国の影響力の排除に向けて、「オーストラリ
 ア人民は立ち上がった」と中国語で発言した。
  英紙フィナンシャルタイムズは、昨年・2017年9月、ニ
 ュージーランド国籍中国系議員の楊健氏が、1994年、オ
 ーストラリア留学中に、同国上院の外務委員会でインタ
 ーンシップを経験した、と報道した。
  楊氏は、留学の前、中国軍のスパイ養成学校で英語教
 師として勤めていた。
  オーストラリアでは、昨年・2017年以降、中国当局の
 内政干渉やスパイ活動に対する警戒が強まった。
  豪連邦議会は、2018年6月末、外国政府からの内政干渉
 やスパイ活動を阻止するための法案を可決した。
  法案では、外国政府や企業の代理人が議会でロビー活
 動を行う際、事前登録を義務付けた。
  また、代理人らが活動内容を隠ぺいし、秘密工作やス
 パイ行為の事実があった場合、10年以上の懲役刑を下す
 とした。
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2018年、諜報の国・ロシア
  ロシアには、以下のようなモンゴルとの関わりがある。
  ロシアには、モンゴルに約200年間にわたり占領され、
 支配された経緯がある。
  そして、そのモンゴルは、世界の諜報・謀略機関の元
 祖と言われるほど凄(すさ)まじかった。
  ロシアは、このモンゴルに占領を受けている間、現在
 の諜報大国の素地を受け継いだ。
  そして、拷問や粛正のモンゴル帝国当時の手法にまで
 染まってしまった。
  中国も朝鮮も、100年間、このロシアと同様に、このモ
 ンゴルの元に支配された。
  日本は、この元を撃退した。
  また、中国は、ユーラシア大陸での地続きという状況
 から、種々の民族が侵入し帝国を築いた。
  その中国の歴史の2000年間は、その種々の民族の錯綜
 する時代だったと言える・・それは、諜報と謀略の世だ
 った。
  その様なことは、「孫子」にも明らかで、裏をかき、
 また、その裏をかくという騙しの世界だった。
  (参考)裏をかく:相手が予想したのとは反対のこと
     をして相手を出し抜く。
  今・現在、中国が、金と人を膨大につぎ込み、プロパ
 ガンダ(嘘宣伝)に精を出し、世界を惑わしているのは、
 今・現在、始まった事ではない。
  情報をきちんと評価して、政策に反映させるシステム
 を構築することは重要な事であるが・・、
  中国の様に、それを悪用し、他を惑わし、それに長(
 た)けているのが優秀だと、他国を節操なく貶(おとし)
 めていることが・・、
  今・2018年、中国に逆風となって、中国批判の世界の
 状況となっていて、中国へ吹き付ける批判の嵐となって
 いる。
  (参考)モンゴルとロシアの関係・・
  1223年、モンゴルのルーシ侵略(カルカ河畔の戦い)
  モンゴルのロシア侵略は、カルカ河畔の戦いで始まり、
 この年のこの戦いは、ジェベ、スブタイ両将軍率いるモ
 ンゴル軍と、ポロヴェツ・ルーシ連合軍との間で行われ
 た戦い。
  連合軍は、数で上回っていたにもかかわらずモンゴル
 軍に惨敗した。
  モンゴルのロシア征服は、1236年~1242年のバトゥの
 西征で本格化した。
  (ルーシ諸国に対するモンゴル帝国の征服戦争)
  (参考)ルーシ:中世時代におけるキエフ大公国の正
     式な国号で、キエフ・ルーシとも言われ・・
      キエフ大公国のもとで誕生したキエフ大公国・
     チェルニーヒウ公国・ペレヤースラウ公国を中
     心とするリューリク朝の三国。
      広義では・・ハールィチ・ヴォルィーニ大公
     国、ヴラジーミル大公国、ノヴゴロド共和国な
     どの東欧の諸国を含む場合がある。
      ルーシ・カガン国は、8世紀後半から9世紀の
     半ばにかけて、現在のロシア北西部にあったと
     される国家、または、都市国家群(仮説)。
      また、ロシア帝国・ロシア連邦の通称。
  1220年代のはじめに、ルーシの公たちは、まず、キプ
 チャク草原の遊牧民族クマン人の戦士たちから、モンゴ
 ルの到来を知らされた・・ここからモンゴルの征服が始
 まる。
  1237年になって、モンゴル軍は、15万の大軍を編成し、
 ロシア中心部に侵入し、リャザン、モスクワ、ウラジー
 ミルを次々と陥落させた。
.
  13世紀前半、タタールのくびき
  (参考)くびき:車を引く牛馬の頸(くび)の後ろに
     かける横木のことであるが・・自由を束縛する
     もの・・の意味がある。
  13世紀前半に始まったモンゴルのルーシ侵攻と、それ
 につづくモンゴル人(モンゴル=タタール)によるルー
 シ(現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシ)支配を言
 い・・、
  現在のロシア人などの祖先であるルーシ人のモンゴル
 =タタールへの臣従(しんじゅう、臣下として従うこと)
 をいう。
.
  1240年、キエフの戦い
  ルーシの首都キエフの支配をめぐって、ルーシとモン
 ゴル帝国の間に行われた戦い。
  1240年9月5日、バトゥが率いるモンゴル軍は、キエフ
 を包囲し、キエフの明け渡しを求めた。
  キエフ軍を引率するドミトロー大将とキエフの市民が
 降伏を却下して防衛に備えた。
  モンゴル軍のバトゥは、32の投石機を集めて、キエフ
 の防衛線で弱点だったポーランド門を攻撃し、市内へ乱
 入した。
  キエフの市民は攻撃を防いだが、多勢に敵わずして石
 造りの什一聖堂へ撤退し、教会を最後の砦とした。
  1240年12月6日、モンゴル軍は、投石機を取り寄せて聖
 堂を破壊させ、キエフを制覇した。
  ドミトロー大将は捕虜となったが、勇敢に戦ったため、
 バトゥによって解放された。
  モンゴル軍は、聖ソフィア聖堂をはじめキエフの教会
 と貴族の屋敷を略奪し・・、
  合戦後、5万人だったキエフの人口は2千人まで減少し
 た。
  キエフの陥落によりルーシは滅(ほろ)んだ。
  これ以降に存続したキエフ公国は、14世紀半ばにかけ
 てモンゴル帝国の属国であった。
  一方、キエフは大きく衰退し、山の手だった古キエフ
 は荒地となり、都市の中心地は下町のポジールへ移った。
,
  1453年、モスクワ大公が皇帝を意味するツアーリの称
 号を用いた。
  イヴァン3世は、東ローマ帝国最後の皇帝の姪と結婚、
  モスクワ大公が、1453年、オスマン帝国によって滅ぼ
 された東ローマ皇帝にかわる正教会の保護者としての地
 位を自認する端緒をつくった。
  ロシア語で皇帝を意味するツアーリの称号もイヴァン
 3世のとき初めて使われた。
.
  1547年、イヴァン3世の孫、イヴァン4世(イヴァン雷
 帝)は、この年に、ツアーリの称号を正式に用い、ロシ
 アの正教会の間では、モスクワは、ローマ、コンスタン
 ティノポリスに続く第三のローマであり、ツアーリは、
 ローマ皇帝の後継者であるとする考えが生まれた。
  モスクワ大公国の支配領域が、「ルーシの国」を意味
 する「ロシア」との名称で呼ばれるようになり始めたの
 も、イヴァン4世の頃の16世紀だった。
  また、1552年にカザン・ハン国、1556年にアストラハ
 ン・ハン国を滅ぼし、初めてキプチャク・ハン国の一部
 を併合し、シベリアに向かって東方への拡大を開始した。
.
2018年8月25日、現在の中国の実態と危険・・(その1)
・アメリカのトランプ大統領の対中政策が回転し始めた。
  トランプの対中政策によって・・世界に孤立する中国
 となっている・・習近平は四面楚歌になっている・・
  トランプ大統領の「貿易戦争」は序の口で、その次の「
 金融戦争」となって行く・・、
  アメリカの議会も、メディアも、「反中」となってい
 る・・
  アメリカの狙いは「パックスアメリカーナ」か?
  (参考)パックスアメリカーナ:超大国である米国の
     存在により世界平和が維持されていること・・
・いま、中国の社会的な難題が深化している・・
  富と貧困の格差が拡大し・・社会には怨念が鬱積(う
 っせき、不平や不満が張らされずに、次々と、心に一杯
 たまる)している・・
  困窮化する「低端階級」の悲哀は凄まじい・・、
  海外に不正資産を蓄財する幹部が「愛国者」なのか?
・「革命、革革命、革革革命、革革・・」(魯迅の言葉)
  「革命、反革命、不革命」。
  革命者は反革命者に殺される・・反革命者は革命者に
 殺される・・不革命は革命者とされて反革命者に殺され
 るか、反革命者とされて革命者に殺されるか、あるいは
 また何でもないものとされて革命者か反革命者に殺され
 る・・
・いま、中国には外交的難題が山積みしている・・
  強引すぎた中華圏拡大に軋(きし)みが出ている・・
  BRI(一帯一路)、各地での蹉跌(さてつ、事が見
 込みと食い違って、うまく進まない失敗の状態になるこ
 と)・・
  西側諸国が、インド太平洋戦略へ舵取りを始めた・・
  「一帯一路」は、末路へ?
・中国の内政問題の矛盾が・・??
  習近平の全体主義の弱点は国際非難・・
  ウイグルの民族浄化の弾圧を強化している・・
  ムスリムへの弾圧を強化している・・
  人権を無視する政策を進めている・・、
  顔認識、声紋のデジタル統制を強化している・・
  香港に独立の動き・・そして、台湾、チベット、内モ
 ンゴルの連帯の動き・・
・無理をして来た中国の経済・・その爆発が近い・・
  中国の持つ債務は3800兆円・・これは時限爆弾だ・・
  金融難民(P2P)は抑えたが??
  (参考)P2P:Peer to Peer、ピア・ツー・ピアの
     こと・・複数の端末間で通信を行う際のアーキ
     テクチャのひとつ・・対等の者同士が通信をす
     ることを特徴とする通信方式、通信モデル、あ
     るいは通信技術。
  軍、警察OBの抗議行動が燃えている・・
  不動産暴落で・・反乱がおきる・・
・習近平王朝は黄昏(たそがれ、薄暗くなった夕方。夕ぐ
 れ。比喩的に、盛りを過ぎ、勢いが衰えるころの意にも
 使う)
  知識人、学生の不気味な沈黙・・
  宣伝部の静かな抵抗・・
  スケープゴート(集団内の不平や憎悪を他にそらすた
 め、罪や責任をかぶせられ迫害される人)を捜すという
 中国社会になって来ている・・
  その日は突然やって来るのだ・・
・中国は、今はドラゴンだが・・そこから猫に陥落・・
  IMF(国際通貨基金)のSDR(特別引き出し権)
 となった・・米中の確執・・アメリカは、中国へ為替政
 策の自由化を推し進めよと厳しい姿勢で言っている・・
 中国は、これに対抗してAIIB(アジアインフラ投資
 銀行)を作った・・アメリカと日本は参加していないが、
 ヨーロッパ諸国はこぞって参加した・・しかし、その「
 高利貸し的なあくどさ」がある所が問題となっていて、
 その実態が明らかになって来ている・・
  人民元の信用度・・SDRを得て中国の通貨が「国際
 通貨」となったかというと、「そうは問屋が卸さない」・・
  結論を先に言うと「人民元は形だけの国際通貨」・・
 それは、AIIBの活動をするときに「中国の信用度が
 低い」から・・それは、中国が一党独裁の政治体制が信
 用されてないという根を持っている・・
  AIIBや、BRICSは何処に行くのか?
  国連でも孤立し始めた中国・・、
  独英仏でも、中国批判が出始めた・・
  軍事力は張子の虎ではないのか・・と言われている・・
・しかし、中国の「サイバー・奇襲」に警戒している・・
  ダン・コーツNSA(国家安全情報局)長官は、「赤
 信号の危険信号が灯った」と発言した・・
  デジタルの一撃で世界が麻痺し・・米軍の初動が致命
 的に遅れると?・・??・・
  隙に乗じて台湾や、尖閣が攻撃されるという危惧(き
 ぐ、悪い結果になりはしないかと心配し恐れること)
・マレーシアのマハティール氏が、中国へ行って「今まで
 のことはない事にしてくれ」と言った。
・パキスタンが、IMFに救済を申し入れようとしたら、
 中国が「待て」と言った。
  IMFに言われたら、中国はまずい事ばかりだから・・
 急に20億ドルをパキスタンに融資した。
  この様な・・おかしい事が起きている・・
・オバマ大統領の失敗は、「ここまで中国と北朝鮮を増長
 させたこと」・・オバマ氏に大きな責任がある。
  その是正をしているのがトランプ大統領・・
  国防権限法・・80兆円・・国防費を大幅に増強した・・
  台湾旅行法を成立させた・・これに反対がなく、全米
 の超党派で成立した・・
  アメリカと台湾の閣僚などが・・重要な政治レベルで
 の交流ができる様にした・・
  アメリカ議会も、「中国に反対し、親台湾」で一致し
 ている・・
  しかし、この逆の日米のメディアは、NHKは、この
 様な重要な動きを「完全に伝えない態度」を取っている・・
  アメリカは、ロシアと中国を仮想敵としてはっきりと
 明文化している・・
  アメリカは、中国のIT分野を潰しにかかっている・・
 既に大きなダメージを中国に与えている・・
・米中の貿易摩擦は・・結果的に、中国に、アメリカの食
 糧が入らなくなる・・
  そしてまた、結果的に、中国の国内騒動は食糧不足か
 ら起きて来るが・・中国はこのリスクが増す道を歩いて
 いる・・
  一帯一路は、やってみたがうまく行かないという状況・・
  マハティール氏のマレーシアが、下りたことは、かな
 りの中国のダメージとなっている・・
  マハティール氏の世界に公言した言い方は、マレーシ
 アの進み方を「はっきりと明示した」・・マレーシアは
 ASEAN第二の経済大国である・・
  今、台湾はかなり緊迫した状況にある・・軍事的に、
 中国に締め付けられて来ている・・
  台湾は、南シナ海について、かなりしっかりしたデー
 ターを元に行動しようとしている(アメリカの支援)・・
  ただ、中国の台湾へのかかわり方は、かなり緊迫性の
 ある行動となっている・・
  中国の台湾への軍事的圧力が極まっている・・
  国民党の動き方も、中国の指示か?大変いやらしくな
 っている・・
  擬制(ぎせい、実質は違うのに、そうみせかける)の
 国民党の中国本土への救済要請が出されるかもしれない
 という恐れの存在・・?
  イランと中国の利害関係が一致してしまう状況と危機・・
  中国は、イランの石油を一番買っている・・
  潤沢な資金を得たイランは、軍備増強をしている?・・
  イエメンでは、イランとサウジアラビアの代理戦争が
 行われている・・
  中国が、イラン側に入って油を注ぐ状況となっている・・
  中東が本格的な戦乱になる恐れが生じている・・
  これを中国は経済復興のきっかけにしようとしている
 のではないか?・・
  中国を経済的に封鎖している効果も無くなる・・
  インド洋の真珠の首飾りと言われる中国の戦争拠点も
 強化される可能性がある・・
  (NHKは、こんなことを報道しない、国民をつんぼ
 桟敷に置いている)・・
  マレーシアの行動も無になる恐れ・・マラッカ海峡は
 しっかりしているが・・日本の自衛隊も貢献している・・
  シーレーン確保は大切・・日本が生きる大切なルート・・
 ここをしっかりして行くべき・・世界の安全を守る事に
 もなる・・しっかりと日本のアイデンティティを世界に
 示すべき・・
  (参考)アイデンティティ:identity、主体性、同一
     性、らしさ、独自性、自己認識・・など・・
      英語は、「雑な言語」なので色々な意味を持
     っている・・その一例の単語・・繊細な日本語
     の素晴らしいしさを感じさせる事例・・安易に
     日本語英語を使う御仁の程度の低さを示す事例・・
・マハティール氏は、当選するとすぐ日本に行くと発言し
 た・・
  マレーシア内に現存する中国人脈の善処(ぜんしょ、
 適切に処置すること)に取り掛かる動きも・・金脈と人
 脈の洗い直し・・
  6月10日、氏が来日した・・早い時期の打ち合わせを
 マレーシア側が望んだ・・TPPを「日本と東南アジア」
 でイニシアチブをとる形にしたいマハティール氏・・
・中国で、習近平の写真に墨をかける行動があった・・
  そして、人民日報から習近平の文字が消えた・・一行
 も習近平と書かれていない・・
  次々に、トランプ大統領は、中国輸入品に関税をかけ
 ると表明をしている・・
  中央電視台(国営放送)で、習近平が映されているい
 るのに、その習近平の映像に怪しい影が出るという事が
 起きた・・中国の視聴者も、この様な異常状態に不安に
 なるという状況・・
  (NHKは、これと同じことを安倍総理大臣に行った・・
 その様な放送局・・2014年のロシアのソチオリンピック
 に出席した安倍総理大臣の映像に、このことをやった・・
 中国讃美のNHKは、逆に、習近平ばかりを放送してい
 た・・どこの国の放送局なのだ・・??)
・習近平の『後釜の話』がネットでささやかれる・・
  習近平が、国家主席の無期限を決めたが、その決定が
 「有期限に代わることになる」と、これをメディアが強
 いて取り上げている・・
  神格化したはずの国家主席のスローガンが撤去された・・
  ナチスマークを書かれたりしている・・
  墨をかけた女性は精神病院へ入れられた・・その女性
 の父親は捕まった・・そして、行方不明となっている・・
・胡錦濤の倍の数がある報道数の習近平は、国民が嫌って
 いる・・
  チベット独立の次はウイグル独立・・そして、上海独
 立だの話が出ている・・アメリカに上海独立の活動拠点
 が作られた・・
  「大きな船のチャイナの船がもうすぐ沈む」という話
 が出ている・・そして、上海の旗を掲げた小さな船は、
 沈まずに行くという話も話題に・・「上海共和国の応援
 を乞う」という話になっている・・
・世界の「中国への見方」が変わっている・・
  世界へ拡大したいの中国の目論見は、「もうその様に
 はさせません」「中国を醜(みにく)く拡大させません」
 という認識の世界に、今は、なっている・・
・WTO(世界貿易機関)を舞台とする戦争が・・
  デュアルユース(軍民両用)につながる知的財産(ハ
 イスペックな技術等)が中国に盗まれて・・それを勝手
 に軍事用に使用される・・その様な中国の行動を、是が
 非でも阻止する!・・
  3月、米通商代表部(USTR)は、中国が米国の知的
 財産権を侵害しているのは明らかだとしてWTOに提訴
 した・・
  6月には、欧州連合(EU)が、中国の法制(技術輸出
 入管理条例(TIER)・中外合資経営企業法実施条例)
 などが、欧州企業の知的財産権を害しているとしてWT
 Oの紛争解決手続きを開始した・・
  「科学技術イノベーション・ノウハウは、知識基盤経
 済の根幹である。
  これにより、欧州企業がグローバル市場において競争
 力を維持すると共に、欧州における数十万もの雇用を支
 えている。
  いかなる国も、欧州企業が苦労して得たこの知識を、
 国境で強制的に引き渡させてはならない。
  これは、WTOに於いて、皆が合意した国際ルールで
 ある。
  主要国(中国)がルールを守らないと、国際システム
 全体が崩壊するかもしれない」と発言したマルムストロ
 ーム欧州委員(貿易担当)・・
  WTOを舞台に、もう戦争は始まっている・・
  中国が、「自壊して行く可能性」が高まっている・・
・一帯一路の実態・・
  Bribe-trap,Honey-trap,Debt-trap・・中国共産党の
 工作を・・欧州が警告した・・それは、政治家や軍人、
 大物経済人を、まず、「賄賂トラップ」と「ハニートラ
 ップ」にかけ・・その後、「債務トラップ」にかけて、
 国を借金まみれに陥(おとしい)れ、政治をコントロー
 ルし、港湾など戦略的軍事拠点を奪取する・・
  マハティール氏は、これをすんでの所でストップをか
 けた・・
  これで、中国とずぶずぶになってしまっているのがス
 リランカ・・そして、東南アジア・中南米・アフリカが
 狙われている・・
  オーストラリアは、ジュリア・ギラード首相(在任期
 間:2010年6月24日~2013年6月27日)の時は、ホワイト・
 チャイナの感がした・・それが、2016年5月から大きく変
 わった(マルコム・ターンブル首相)・・
  豪州の静かなる侵略:オーストラリアへの中国の影響
 (チャールズ・スタート大学のクライブ・ハミルトン教
 授著)が話題になる・・「中国は、民主主義を利用して
 民主主義を破壊する」と指摘した・・
  その1事例・・
  豪州に移住して来た中国系の富豪が、与野党の政治家
 や大学に多額の資金を提供している実態を紹介・・
  こうした政治家の発言や大学の研究が、南シナ海関連
 や自由貿易協定(FTA)などで、中国に望ましい方向
 に政策を誘導しようとした・・この様な実態を明らかに
 した。
  中国系企業家は、自ら進んで、または、中国に残した
 親族が「報復に逢う事を恐れ(人質)」、「共産党の代
 表として行動する」と指摘する。
  中国の国有企業やその関連企業が、豪州の電力や港湾
 などインフラ企業を買収する・・その中国の行動は、「
 最大の豪州の安全保障上の脅威だ」と危機感を明示する。
  中国の豪州政治への干渉策は・・「(既存の)法律に
 違反しない点が新しい」とする・・しかし、その行為は、
 明らかに「政府の経営や民主主義の価値を損ねており、
 違法化すべきだ」・・と主張している(2018年2月に出版)・・
.
  【討論】どこへ行く中国習近平政権[桜H30/8/25]
  https://www.youtube.com/watch?v=yIeIlTY1t9E

・パネリスト:
  河添恵子(ノンフクション作家)
  野口裕之(産経新聞政治部専門委員)
  坂東忠信(元警視庁通訳捜査官・外国人犯罪防犯講師)
  ペマ・ギャルポ(拓殖大学国際日本文化研究所教授・
   チベット文化研究所名誉所長)
  宮崎正弘(作家・評論家)
  鳴霞(月刊『中国』編集長)
  山田吉彦(東海大学教授)
・司会:水島総
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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by suba28 | 2018-09-09 02:34 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)609E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年8月~1894年9月)

題:(増補版)609E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年8月~1894年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年8月、従軍看護婦の派遣。
  日本では、すでに、1877年の西南戦争の時、日本赤十
 字社の前身である博愛社が、看護人(男性)を熊本や長崎
 に送っているが・・
  日清戦争が起きると、日本赤十字社は、自社で養成し
 た看護婦を臨戦地の宇品、広島へ派遣した。
  戦争に女性も参加するということで世人の注目を引い
 た。
  因みに、日露戦争の時の活動領域は、朝鮮や満州にま
 で広がり、死亡者も出た。
  そして、日清戦争時には108名、日露戦争時4417名、
 第二次世界大戦時3万1450名の日赤看護婦が戦地に赴い
 て傷病兵の看護にあたった。
  1979年から日赤従軍看護婦に、また、1981年から旧陸
 海軍看護婦に、慰労金が給付されることになった。
.
1894年8月、陸軍省の依頼によって、神奈川・程ヶ谷(現:
 保土ヶ谷)直通線(神奈川から分岐し程ヶ谷に連接)を起工
 した。
  1894年12月下旬に竣工した・・延長3.5km。
  1896年度に、陸軍省から譲り受け、1898年度から一般
 運輸として営業した。
.
1894年8月、筑豊興業鉄道が、筑豊鉄道と改称された。
  筑豊で産出される石炭の輸送を目的に、1891年に、筑
 豊興業鉄道として設立された。
  1888年7月30日、筑豊興業鉄道に対し鉄道線路測量仮免
   状下付
   (穂波郡飯塚村~遠賀郡若松港間、鞍手郡直方町~
    田川郡赤池村間)
  1889年7月12日、鉄道布設免許状下付
   (遠賀郡若松港~鞍手郡直方町~穂波郡飯塚町、直
    方町~神田村間)
  1889年8月21日、鉄道線路測量仮免状下付
   (田川郡神田村~添田村間)
  1890年11月19日、鉄道布設免許状下付
   (田川郡神田村から同郡伊田村)
  1891年8月30日、若松から直方間開業
.
1894年9月1日、第4回臨時衆議院議員選挙が行なわれた。
  投票率:84.84% (前回比-3.92%)
  党派別獲得議席
  自由党:107
  硬六派:立憲改進党:49
      立憲革新党:39
      国民協会:32
      帝国財政革新会:5
      中国進歩党:4
  無所属:64
.
1894年9月1日、大本営が、第1軍を編成した。
  司令官:山県有朋大将
  参謀長:小川又次少将
  砲兵部長:黒田久孝少将
  工兵部長:矢吹秀一工兵大佐
  監督部長:吉沢直行一等監督
  軍医部長:石阪惟寛軍医総監
  参謀副長:田村怡与造歩兵少佐
  参謀:福島安正歩兵中佐、上原勇作工兵少佐、青木宣
     純砲兵大尉、蠣崎富三郎歩兵大尉、立花小一郎
     歩兵大尉
  高級副官:渡辺章歩兵少佐
  明治維新後は、各藩の軍隊ではなく、国家の軍隊に再
 編された。
  1873年から徴兵制が施行され、士族の軍隊ではなく近
 代的な国民の軍隊に切り替わった。
  西南戦争もこの徴兵軍で戦って勝利を収めた。
  日清戦争開戦時、徴兵制度が始まって20年が経過して
 いた。
  武器の整備や兵の訓練、将校や下士官の養成などにつ
 いても、それなりの経験を積んで来ていた。
  この1年半前の1893年4月9日、川上次長は、東京を発
 って、朝鮮~天津・北京地区~上海・長江流域地区を回
 り、1894年7月7日に帰京し、地形視察と中国軍事状況を
 偵察していた。
  この旅行で、川上は、中国の「畏るるに足らざること
 を確信」としている。
  また、ドイツへの留学など、日本は自らを磨いて来て
 いた。
.
1894年9月8日、大本営が宮中を出て広島へ「大纛(たいと
 う)進展」することになる。
  大纛:1、軍中で用いる大きな旗。また、天子の乗り
      物の左に立てる旗。
     2、天皇陛下のいる陣営。大本営。
  日清戦争の最高統帥機関である大本営が、広島県広島
 市の広島城(現中区基町)内に設置された。
  広島城の大本営が、第5師団司令部へ進出。
  大本営は、1893年5月19日、勅令第52号戦時大本営条例
 によって法制化され、制度となった。
  日清戦争において初めて設置された。
  この時、大本営は、1894年6月5日、東京の参謀本部内
 に設置されたが・・、
  1894同年8月1日、皇居内に移っていた。
.
1894年9月12日、御木本幸吉が、半円真珠養殖法の特許を申
 請した。
  御木本幸吉は、1893年、5個の半円真珠養殖に成功して
 いる。
.
1894年9月15日、広島に移された大本営に、明治天皇陛下が
 入られた。
  ・大本営を広島に移さる(氷川清話)
  ・天皇行幸(氷川清話)
  1894年9月15日、明治天皇陛下が、呉行幸のため広島の
 宇品港へ御出発された。
  「広島御発輦呉港幸行之図」小国政・画がある。
  (参考)御発輦:ごはつれん、天皇陛下の御車が出発
     すること。
.
1894年9月15日、平壌の戦い
  日本軍が、平壌総攻撃をし、清国の拠点である平壌が
 陥落した。
  日清戦争における最初の本格的な陸戦。
  混成第9旅団長の大島義昌少将は、朝鮮到着直後から、
 清国の大軍が平壌に集中しているとの情報を受けていた。
  騎兵斥候を平壌に出し、駐留させていた。
  7月下旬になって、清国軍は、義州を経由し、平壌に迫
 って来た。
  斥候隊は、中和さらに黄州に退く。
  1894年8月10日、黄州から中和に偵察に出た時、強力な
 敵と遭遇し、指揮官の町口中尉、竹内少尉などの幹部が
 戦死する。
  第9旅団は、成歓の戦いでの清国軍の敗兵が春川周辺に
 いるとつかむ。
  日本からの第5師団残部が元山と釜山に上陸、そして、
 ソウルに向かう。
  このため、その警戒を兼ね、朔寧方面に朔寧分遣支隊
 を派遣する。
  大本営は、清軍を朝鮮半島外に撤退させる目的で、8月
 14日、第3師団の派遣を決定。
  さらに、9月1日、両師団で第1軍を編成し、陸軍大将・
 山縣有朋が軍司令官に任命された。
  第5師団長・野津道貫は、すでに8月19日、ソウルに到
 着していた。
  韓廷首班の大院君は、清国兵が次々と南下の報を聞く
 と動揺した。
  第5師団長・野津は、情勢判断の結果、朝鮮政府を動揺
 させないため、早期の平壌攻略が必要と判断する。
  そして、第5師団の北進を開始する。
  また、混成第9旅団にも、義州街道の前進を命じた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アイヌの方々を応援する者たちが、「アイヌの人たちは
   日本の先住民だ」と、力で政府に認めさせたが、「上記に
   記載した日本に渡来した「日本人の先住民」は、アイヌで
   はない。
    そして・・中国は、「超インフレ操作」をする・・
    そして・・為替操作もする・・
.
紀元前1000年~紀元300年、日本人を作った人々
  日本人:農耕民:約3000年前~1700年前
  朝鮮半島を通じて稲作を主とする渡来民が流入した。
  そして、水田稲作が導入された。
  この集団は、主に、北九州、畿内、関東を結ぶ日本の
 中心軸に広がり、その他の場所では比較的影響がを及ぼ
 さなかった。
  特に、北海道や南西諸島、東北への影響は引き続きほ
 とんどなかった。
  アイヌの方々を応援する者たちが、「アイヌの人たち
 は日本の先住民だ」と、力で政府に認めさせたが、「上
 記に記載した日本に渡来した「日本人の先住民」は、ア
 イヌではない。
.
300年、日本人を作った人々
  日本人:約1700年前~現在
  政治の中心が畿内に移って、朝鮮半島に加え、現在の
 上海周辺からも若干の渡来民が流入するようになった。
  古墳時代に入ると、東北地方に居住していた第一段階
 (旧石器・縄文人)の子孫の大半が、北海道へ移り・・、
  替わって、第二段階(漁労民もしくは園耕民)の子孫
 を中心とする人々が住み着いた。
  南西諸島では、グスク時代に南九州から第二段階の子
 孫を中心する集団が移住・混血した。
  江戸時代には、第三段階の集団との混血も進んだ。
  北海道では、古墳時代から平安時代にかけてオホーツ
 ク文化人と縄文人の子孫との交流があり・・、
  江戸時代以降は、本土日本人との混血も進んだ。
  アイヌの方々を応援する者たちが、「アイヌの人たち
 は日本の先住民だ」と、力で政府に認めさせたが、「上
 記に記載した様に、アイヌの人々は「日本人の先住民」
 ではない・・
  数次にわたる日本人の先住民の渡来の中から交雑して
 アイヌの人々となった・・熊襲(くまそ)もそれ、津軽人
 もそれ、琉球人もそれ、本州人もそれ、会津人もそれ・・
 などなど・・
  この様な歴史的真実、科学的真実の中で、アイヌの人々
 だけを特別扱いにすることは間違っている・・
  白老町で100億円の税金を使ってアイヌ記念館を造るこ
 とを中止せよ!
.
1866年11月12日、孫文が生まれた(~1925年3月12日)
  初代中華民国臨時大総統、中国国民党総理・・
  中国では、1935年から1948年まで発行されていた法幣
 (不換紙幣)で肖像に採用されていた。
  現在は、100新台湾ドル紙幣に描かれている。
  中国国民党では、現在も、孫文は「党総理」であると
 党則第15章で定めている。
  1895年、日清戦争の終結後に、広州での武装蜂起(広州
   蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した。
  1897年、宮崎滔天の紹介によって政治団体玄洋社の頭
   山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京で
   の活動費と生活費の援助を受けた。
    また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートル
   の屋敷は犬養毅が斡旋した。
  1899年、義和団の乱が発生し、翌年・1900年、孫文は
   恵州で、再度、挙兵するが失敗に終わった。
  1902年、中国に妻がいたにもかかわらず、日本人の大
   月薫と駆け落ちに近い形で結婚した。
    また、浅田春という女性を愛人にし、つねに同伴
   させていた。
    長い間、満州民族・清国の植民地にされていた漢
   民族の孫文は、「独立したい」「辮髪もやめたい」
   と言ってきた。
  1911年12月25日、この年、辛亥革命が起き、この日に
   孫文が、アメリカから上海に帰着すると、革命派は
   そろって孫文の帰着を熱狂した。
  1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南
   京に成立した。
  1913年7月、袁世凱打倒の第二革命がはじまった。
  1915年、袁世凱は共和制を廃止し、帝政を復活させ、
   自らが中華帝国大皇帝に即位する。
    直ちに反袁・反帝政の第三革命が展開される。
  1917年、孫文は、広州で広東軍政府を樹立する・・
     しかし、その後、広州を追われる・・日本へ再
    び亡命した・・この頃、宋美齢と結婚(日本人の
    梅屋庄吉が資金面で援助していた)
  1923年1月26日、孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨ
   ッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」
   が上海で発表された。
    中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約
   し、ソ連との連帯を鮮明にした。
    この宣言は、ソ連コミンテルンと中国・国民党の
   連携の宣言であった。
  1923年2月21日、孫文は、広東で大元帥に就任(第三次
   広東政府)した。
  1924年11月28日、孫文が、日本の神戸で「大アジア主
   義」の講演を行う。
  日本の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外相は、
 「孫文の言う事が、コロコロ変わるから相手にはできな
 い」と言明している。
  この頃から、中国は、ソ連の強力な支援を受けている。
  孫文は、隙あらばどの国からも支援を引き出そうとし
 た。
  そして、中国は、引き続きソ連から支援を受けた。
  ソ連コミンテルンから国民党も軍事援助を受けた。
  これが、蒋介石の国民党の主要な財源となった。
  ソ連コミンテルンは、大量の共産スパイを国民党の中
 へ送り込んだ。
  ガチガチに中国・国民党とソ連コミンテルンの関係は
 一体となって行った。
  国民党が、台湾へ逃れた後も、この関係は続いた。
  ソ連は、対日工作も、盛んに色々行なっており、工作
 員も潜り込ませていた。
  その様な工作員の報告の中に、「東京の軍学校の教員
 を一人リクルートした」との報告もある。
  これは、「軍の内部に、共産主義シンパをつくり出す
 工作に成功した」という意味。
  GRUの対日諜報史にも、「GRUの工作員を神戸か
 ら忍び込ませた」の記述がある。
  (参考)GRU:ロシア連邦軍における情報機関の「
     ロシア連邦軍参謀本部情報総局」のこと。
      参謀本部の一部署であるが、参謀系統を通し
     た情報の収集のほか、スパイ活動、SIGINT、
     偵察衛星や特殊部隊スペツナズの運用も管轄し
     ており、ソ連KGB(現在のSVRなど)と並
     ぶ強力な情報機関。
      第二次世界大戦中のスパイ、リヒャルト・ゾ
     ルゲはGRUの管理下にあった。
  (参考)SIGINT:通信、電磁波、信号等の、主
     として傍受を利用した諜報活動のこと。
  (参考)特殊部隊スペツナズ:ソ連軍、現ロシア連邦
     軍参謀本部情報総局(ГРУ、GRU)に所属
     する特殊部隊。
      戦時の敵後方での偵察、破壊工作や要人の暗
     殺を任務としているが、平時にも私服で破壊対
     象の偵察活動(スパイ活動)を展開している。
.
1894年11月21日、旅順要塞の陥落
  旅順口の戦い(りょじゅんこう、日清戦争)
  中国・清国の遼東半島の先端に位置する旅順は、対岸
 の威海衛(いかいえい)とならんで清国・北洋海軍(李
 鴻章が率いる)の基地となっていた。
  日本をさんざん威圧し、脅(おど)して来た巨艦を持
 つ清国・北洋艦隊の基地だった。
  また、中国・清国の海上輸送の要(かなめ)の地だっ
 た。
  この為、日本はこの重要拠点の地を攻めた。
  この旅順の攻略にあたったのが、大山巌(おおやまい
 わお、西郷隆盛のいとこ)が率いる第二軍だった。
  1894年11月18日、土城子という旅順近郊での戦闘では、
 秋山好古(あきやまよしふる)少佐の騎兵第一大隊が清
 軍と遭遇し、死者11名・負傷者37名を出すなど苦戦を強
 いられた。
  しかし、3日後の1894年11月21日の攻撃では、旅順の大
 部分を占拠し、旅順要塞は陥落した。
  日本は、明治維新から富国強兵で国力の強化に努めて
 来たが、欧米諸国は、まだまだ、日本がアジア第一の強
 国・清国にこの様な目ざましい戦いをするとは思っても
 いなかった。
  どの国も日本が敗北するだろうと見ていた。
  欧米列強諸国は、清国の最強の「東洋のジブラルタル」
 といわれた旅順を見事な迅速さで攻略した日本に目を見
 張った。
  特に、攻略戦の迅速さは見事だった。
  第二軍には、教科書にもよく出る著名人が参加してい
 た・・軍医として派遣された森鴎外(作家)、記者とし
 て国木田独歩(作家)、西洋画家の浅井忠など・・、
  日本の勝因は、動員・兵站・指揮のシステムなどが近
 代軍として清軍に対して優れていて・・
  近代化された日本軍は、基本的に、終始、優勢に戦局
 を進めた・・そして、遼東半島を制覇した。
  この戦いを振り返ると・・、
  1894年10月24日、大山巌大将が率いる第二軍が金州に
   上陸。
  1894年11月6日、金州城を制覇。
  1894年11月21日、日本軍1万5千は、清国軍1万3千に対
   して攻勢をかけた。
    清国軍の士気は極めて低い状況・・堅固な旅順要
   塞が僅か1日で陥落する。
    日本側損害:戦死40名、戦傷241名、行方不明7名、
    清国損害:戦死4500名、捕虜600名・・で敗退・・
    旅順の攻略戦は、大変な困難を極めるだろうとい
   う欧米諸国の予想を裏切る迅速さだった。
    また、日本は、非常に厳しい軍律でこの戦いに臨
   んだ・・
    大山巌は、「我軍は仁義を以て動き、文明に由(
   よ)って戦ふものなり」という訓令を発している。
  この戦いの後、いつもの様に中国の清国軍は卑劣な行
 動をとった・・中国はいつもこの卑劣な行為をする・・
  軍服を脱いで中国市民の中に隠れた・・
  これでは一般の中国市民に災禍が及んでしまう。
  この隠れた卑劣な中国兵の掃討を日本軍は行った。
  そして、南京事件と同じ様な嘘宣伝を始める・・
  中国に居る日本軍が行なっていない行為を、「した」
 とプロパガンダ(嘘宣伝)を始めた・・
  日本軍が一般市民を虐殺したという嘘を言いふらした・・
  この結論を先に言うと・・世界各国は、『これは中国
 のデッチアゲの嘘発言』と了解し、解った。
  日本軍は、市街の掃討をするときには・・、
  市民の中から日本軍を狙う清国兵、「市民の中に隠れ
 た清国兵」「軍服を脱ぎ捨てた中国兵」を掃討する時に
 は・・、
  例えば、日本の第二軍司令部は・・各人・各家の安全
 を保証する措置を講じ、安心するようにと言った・・
  紙あるいは布に、「此者殺すべからず、何々隊」とか、
 「此家男子六人あるも殺すべからず」といった文を中国
 の人たちに渡した。
  そして、人々に、民衆に、落ち着きを取り戻せるよう
 に配慮した。
  ほとんどの中国兵はすでに逃げていた・・
  1894年11月26日早朝に、九連城に入ると、すでに清国
 軍は逃げて、居ない状態となっていた・・無血入城とな
 った。
  嘘をでっち上げて日本を貶(おとし)める中国は・・、
  旅順陥落後の民間人や、戦闘を放棄した者の死傷者数
 について「18000名」と言っている(この後、2万名弱と
 言う)
  戦争は、巻き添えになる一般市民の方々も居るものだ
 が・・
  市街戦が行われば・・その様な方々の数について、外
 国などの報道機関は以下の数を公表している・・
  『タイムズ』(1894.11.28):200名
  『ニューヨーク・ワールド』(1894.12.20):2000名
  フランス人サブアージュ大尉『日清戦史』(1901年):
 1500名
  日本占領後の清国人の旅順行政長官から大山巌第二軍
 司令官への報告:1600名
  しかし、中国と裏でつながっているのか? 1894年12
 月12日になって・・『ニューヨーク・ワールド』の新聞
 (クリールマン記者の記事)は、旅順虐殺の捏造(ねつ
 ぞう)記事を、センセーショナルな書き方で報じた。
  初めは、きょとんとしていた他の新聞各社だったが、
 その後、各社はこれに追随した。
  この頃の新聞各社は、「販売部数を拡大しよう」とセ
 ンセーショナル記事を書いて競い合う状況にあった。
  その嘘つきの口火をきった『タイムズ』の報道に対し
 て、正直な『セントラル・ニュース』は、12月29日付け
 の新聞で、『正当な戦闘以外での殺傷はなかった』と報
 道した。
  また、ゲルヴィルによる証言:旅順陥落を目撃したニ
 ューヨークヘラルド特派員のアメデ・バイロ・ド・ゲル
 ヴィルは・・、
  1895年1月3日のレズリーウィークリーで、クリールマ
 ンの報道するような虐殺は発生していないと証言した。
  また、さらに、ゲルヴィルは、1904年の著書『Au Japon』
 で「虐殺は捏造されたものであった」と論じた。
  そして、また、ダネタン報告:ベルギー公使のアルベ
 ール・ダネタンの本国への報告調査では・・、
  事件は「ニューヨーク・ワールド紙の記者によって多
 分(たぶん、量や程度が過大なこと)に誇張されたもの」
 と報告した。
  また、フランス武官ラブリ子爵は、「殺された者は軍
 服を脱いだ中国兵(便衣兵)であり、婦女子は殺されて
 いないし、旅順港占領の数日前にほとんどの住民は避難
 しており、町には兵士と工廠の職工たちだけであった」
 と述べた。
  日本政府は、世界へ説明書を書いてきっちり反駁した。
  伊藤博文は、政府として正式な説明をした・・
  議会は、以下の通りと決定した。
  1.清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡。
  2.旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を
   脱いだ兵士であった。
  3.住民は交戦前に逃亡していた。
  4.逃亡しなかった者は、清から交戦するよう命令され
   ていた。
  5.日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、
   それを見知った者が激高した。
  6.日本側は軍紀を守っていた。
  7.クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容
   に驚いている。
  8.旅順が陥落した際、捕らえた清兵の捕虜355名は丁重
   に扱われ、二三日のうちに東京へ連れてこられるこ
   とになっている。
  この伊藤らが作成した説明書は、第七項を省いたもの
 が12月17日と、12月18日の両日に、アメリカの各新聞に
 掲載された。
  また、陸奥が、直接、アメリカの新聞社に説明すると
 いうやり方が、アメリカ側から好感された。
  そして、欧米諸国で、「虐殺は無い」として認められ
 た。
  欧米でのジャーナリズム史研究では、旅順の「虐殺」
 を報道したクリールマンや、掲載された新聞ニューヨー
 クワールド紙が・・
  ライバル紙と競い合って・・、
  イエロー・ジャーナリズムと呼ばれた扇情主義報道を
 行っていたことが常識であり、定説となっている。
  ニューヨークワールド紙は、ニューヨーク・ジャーナ
 ル(ニューヨーク・モーニング・ジャーナル)紙との扇
 情主義報道で競争し・・、
  この他、世界でも、病的な好奇心だけを沸かす扇情的
 な記事で競い合っていた。
  虐殺は無いの証言も多く・・クリールマンの報道を耳
 にしたベルギー公使が現地にいたフランスの武官に尋ね
 たところ、「女子供の死傷者はいない」。
  「住民はほとんど避難しており、軍服を脱いだ兵士ら
 がいた」と否定した。
  ベルギー公使のその後の「虐殺」の否定で、日本への
 誹謗に反論していることから、扇動報道だったと結論付
 けられた。
  中国は、南京事件もそうだが、よく嘘をつく国・・
  この様な事をして『相手を惑わせる者が、能力のある
 者」と評価される中国の状況で、また、判断基準で・・、
  中国社会では、この様な事が「日常茶飯」として、歴
 史上で行われて来た。
  今・現代も、中国は世界中で、「多くの工作員」と「
 多額な資金」を使って盛んにこの類の工作を行っている。
  扇情主義報道(イエロー・ジャーナリズム)の災禍を受
 けた日本だった。
  この火付け役のクールマンは、この時だけでなく、1888
 年の米西戦争の時も、この様な報道をして、世界を惑わ
 せ、世論を誘導している。
  この時も、クールマンの「虐殺報道は嘘だ」と疑義が
 出されている・・美味しい書き方は止められないという
 ところ・・
  それにしても、中国は、韓国と一緒になって、「南京
 事件だ」「慰安婦問題だ」と、今だに世界を惑わせ、ま
 た、自国民を惑わせている。
.
1898年、日英同盟へつながる具申
  駐英公使の加藤高明は、イギリス国内に「東洋におけ
 る英国勢力の消長(しょうちょう、物事が衰えて消える
 か伸びて盛んになるか、というなりゆき)は、日本の向
 背(こうはい、従うこととそむくこと)によりて決する」
 といった議論があると報告した。
  また、「日英両国の共同利益を保護する為め和協(わ
 きょう、一同が仲良くまたは相談して、力を合わせるこ
 と)を遂ぐ(とぐ、とげる、目的を達する)べしとは殆
 ど当国一般の希望」である」と報告した 。
  2ヶ月後、また、加藤は、「英露両国とも、日本との提
 携を希望しているが、ロシアの目的は日本の利益と反す
 る・・が・・
  イギリスの政策は、日本の目的と合致しており・・
  また、今、イギリス人は、東洋でのロシアの「跋扈(
 ばっこ、思うままにのさばること)に対して激昂(げっ
 こう、激しく怒って興奮すること)しているので・・
  仮に、日本が、ロシアの南下を同国の利益を害すると
 考えるのであれば、イギリスと進んで提携すべきである
 との意見書を外相の西徳二郎に送った 。
.
1900年6月、欧州の列強諸国が盛んに中国の清国を食い物に
 していた。
  さすがに、清国もそれに対して反発した。
  この年、中国山東省で起きた排外運動「義和団の乱」
 が勃発した。
  欧州列強が、中国の利権を奪う行為に中国全土がうん
 ざりしていたので、この義和団の乱の排外運動は、また
 たく間に北京へと拡大して行った。
  このため、日本へも要請され、日本も参加して、8ヶ国
 の軍が編成され、その対処に当った。
  自国民の保護という名目を掲げていた。
  実際、自国民の保護の必要もあったが、欧州列強諸国
 の利権の保護に日本が利用されたという所であった。
  日本はめざましい働きをして、欧州列強諸国から感謝
 をされるぐらいだった。
  また、日本の規律正しい行動に感激したイギリス高官
 が、そのことを本国に伝え、後の日英同盟の切っ掛けと
 なったくらいだった。
  乱を鎮め、各国は兵を引き上げさせた・・
  しかし、ロシアは、これとは逆に、兵を満州に送り込
 んで来た・・領土欲と利権あさりのロシアだった・・
  この様なロシアに強い危機感を持ったのが日本とアメ
 リカだった。
  アメリカは、欧州列強諸国のやることと同じことをし
 て、ハワイなどの太平洋諸島、フィリピンと奪っていた、
  そして、そのフィリピンを拠点として中国を狙った・・
 満州の利権も欲しかった。
  何といっても北にあるロシアには、「南下政策」が付
 き物だった。
  ロシアは、アジアだけでなく、オスマン帝国の興亡と
 「ロシアの南下政策」は一対の行動として中近東でも火
 を噴いていた。
  極東の南下政策もロシアの狙い目で、近隣諸国を仕切
 りに脅(おびや)かした。
  ことが起こる出発点には、いつも、この南下するロシ
 アのエネルギーがあった・・その行動があった。
  そして、その様なロシアに、中国は敗けて、満州の租
 借権を与えてしまった。
  満州での鉄道を含む各種の権益も、ロシアは、中国か
 ら与えられた。
  1904年に起きた日露戦争・・アメリカは、日本に資金
 援助をした。
  また、終結の講和締結にもアメリカは仲介し、介入し
 た・・アメリカは中国の利権が欲しかった。
  日露戦争で負けたロシアは、賠償金を払いたくなかっ
 た。
  その代わりとして、中国から与えられた満州の権益を
 日本へ手渡した。
  日本は、満州を得たいという訳ではなかった。
  この様な経緯(いきさつ)から日本は、満州と関わり
 始めた。
  勿論、国際法上、日本に十分な正当性はあった。
  日本の気がかり事項は、朝鮮が、ロシアの勢力下に入
 ると、日本の脅威が増すため(ロシア勢力下の朝鮮と接
 するというリスク)ので、この状態になることは避けた
 いとしていた。
  また、日本・ロシア・清国で条約も交(か)わし、こ
 の状態での承認は国際社会も認めていた。
  日露の講和の締結後、アメリカは、この日本がロシア
 から得た満州の権益を欲しがった。
  このアメリカの日本へのアプローチを「日本は断った」
  このことから・・日本とアメリカは背中を向け合う関
 係となった・・そして、日米戦争へとつながる一つの要
 因となった。
.
1900年8月、義和団事件が鎮圧された。
  ロシアは、北清事変(義和団事件のこと)に乗じて満
 州の牛荘(にゅーちゃん、遼寧省の重要な開港)を占領
 した・・そして、最終的に約20万の兵力を侵入させ、侵
 略行為を行なった。
  清国の暴動は、1900年8月、国際的な話し合いの下に結
 成された8ヶ国の連合軍によって鎮圧された・・日本は、
 各国に請われて参加し、中心的に活躍した。
  ロシアは、暴動鎮圧後も占領を続けた。
  ロシアの脅威は、この様な状況だった。
  満州や朝鮮などのロシアの軍事占領という増大するロ
 シアの脅威への対応策として・・、
  「同じ様にロシアを脅威と感じているイギリスと同盟
 し、ロシアの強硬行為を止めさせる」か、
  「ロシアとの協定を求める」か・・との・・「日英同
 盟」と「日露協和(協商)」の2つの選択肢の検討がなさ
 れた。
  元老の伊藤博文と井上馨は、「日露協商に積極的でだ
 った」。
  駐露公使を務めた栗野慎一郎によると・・、
  伊藤は、ロシアは強国で、万一、戦いとなった場合、
 当時の日本の軍備では、到底、ロシアに勝つという勝算
 はない・・、
  ロシアの極東における利益や希望を、ある程度までや
 りたいようにやらせ、容認し、その代わり日本の朝鮮に
 おける行動を認めさせようと考えていた。
  伊藤は思った・・イギリスという国は、自分勝手な都
 合ばかりを行なっている国だと・・謀る(たばかる、計
 略を巡らして、だます)ようなことばかりをする国だと・・、
  その様なイギリスとの連合は「効果が薄弱である」と、
  イギリスは、ロシアやフランスから敵視されているし、
  満州地方を豊かな有望な農業や商工業の栄える地にし
 て行くにはロシアと協調する・・
  また、目前の問題を解決するためにも、日露協商を結
 ぶのが先務である・・と・・
  日英同盟では頼りない・・実現の可能性はない・・と
 考えていた。
  一方、井上は、1901年11月、日英同盟交渉の進捗を見
 ながら、ロシアに滞在する伊藤へ・・
  「英国は、慣習にあらざる攻守同盟を急速に断行せん
 とする、真意解きがたし、我を利用して英国の難を避け
 んとする策にあらざるや」、
  イギリスは、焦(あせ)っている様だった・・井上に
 は、日本が利用されるように見えた。
  さらには、「若し日英同盟成立せば、露独仏対清攻守
 同盟を決行する必然ならむ」との電報を送った。
  2人の元老は、イギリスに対する不信感が強かった。
  同盟の実現性とその効果に対する疑念も強かった。
  伊藤には、三国干渉当時のイギリスのやり方が強く印
 象付けられていて・・イギリスに対する失望感が深く記
 憶されていた。
.
1901年12月、日英同盟に決した元老会議
  日露協商派と日英同盟派の対立は、1901年12月の葉山
 での秘密の元老会議(桂首相、小村外相、山本海相も参
 加)で、「日英同盟の締結が参加者全員の賛成を得た」
 ことにより決着した。
  小村外相は、この会議で提示した「日英同盟に関する
 意見書」の中で、日露協約と日英同盟を対比して示し、
 説明した。
  小村外相は、日露協約は「ロシアの侵略主義」から長
 い和局の維持の保証とはならない・・と・・
  (第二次世界大戦でも中立条約を破って日本を侵略し、
 日本の領土を奪った国・・ロシアとはこの様な国)、
  一方、日英同盟は、ロシアの野心を制し、比較的長期
 間にわたって平和を維持できる・・と分析した。
  また、イギリスは、東洋での領土は(十分持っている
 ので・・管理を越えている状況)増えることを好まず、
 現状を維持しつつ、通商上の利益を図ることを求めてい
 ると・・分析した。
  ロシアの侵略性が、南下政策が、東アジアの最大の火
 種であると分析した。
  この様なロシアが、朝鮮まで駆逐し、日本と、直接、
 接する様な状況になることが、日本の安全保障上の最大
 の脅威と捉えていた・・そして・・
  1902年1月30日、日英同盟がロンドンで調印された。
.
1924年11月28日、孫文は、この年に、北京で発生した政変
 (馮玉祥・ふうぎょくしょうクーデター)に応じて、広
 東から北京に赴く途中で神戸に立ち寄り、「大アジア主
 義」演説を行った・・
  「日本人よ! 西洋覇道の鷹犬となるか、あるいは東
 洋王道の干城となるか」。
  (参考)鷹犬:たかいぬ、鷹狩りに用いる犬。
  (参考)干城:かんじょう、国を守る武士・軍人。
  孫文は、神戸で頭山満(とうやまみつる)と会談した
 翌日に行った講演。
  神戸商業会議所など5団体を対象として、現在兵庫県庁
 となっている場所にあった旧制神戸高等女学校講堂にお
 いて行われた。
  (参考)頭山満:玄洋社の代表の立場で、玄洋社は、
     自由民権運動の結社であった向陽社を改名して
     結成された。
      中江兆民や吉野作造などの民権運動家や、遠
     縁のアナキストの伊藤野枝や大杉栄とも交流が
     あった。
      また、鳥尾小弥太・犬養毅・広田弘毅など政
     界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)
     や篤志家としての側面も持つ。
      早い時期から日本の海外進出を訴え、同時に、
     朝鮮の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドの
     ラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボ
     イ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の
     民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行
     った。
.
1933年11月17日、アメリカ、ソ連を承認。
  アメリカが、この年、ソ連を承認した・・が・・この
 頃のソ連は、「革命と内乱と策謀を輸出する」と公言ま
 でするような国だった。
  そして、昔から今も、中国の『お家芸』は、「政治工
 作」と「宣伝工作」であるが・・共産国家の策謀は、い
 つの時代も行われている。
  そして、「ニューヨーク・タイムズ」というアメリカ
 の新聞も、嘘記事で世界を惑(まど)わせた。
  日本の朝日新聞も、嘘記事をよく書いているが・・、
  朝日新聞は、慰安婦問題をデッチ上げて、すっかり、
 日本は、その間違った記事の様な国と思われて、日本は
 すっかり貶(おとし)められているが・・、
  因みに、また、この様な嘘記事ばかりを書く朝日新聞
 が、中国の文化大革命時代にも、中国讃美の嘘記事を書
 いている。
  文化大革命で、1000万人以上もの中国の方々が殺され
 ているにもかかわらず・・朝日新聞は、中国の文化大革
 命を「バラ色に書き」・・成功していると嘘記事を書き
 続けた。
  標記のアメリカのニューヨーク・タイムズも、1920年
 代終わりから1930年代に、特に、嘘記事を書いてばかり
 いた。
  この頃のアメリカの政界も、共産圏の「政治工作」に
 翻弄(ほんろう)されていた。
  1933年に、アメリカ大統領となったフランクリン・ル
 ーズベルトの周りには、側近から官僚など、大量に工作
 員に溢(あふ)れていた。
  1933年には、アメリカは、ソ連を承認した。
  ソ連は、この頃、コミンテルンを擁し、世界中に「革
 命と内乱と策謀を輸出する」と公言までする様な国だっ
 た。
  アメリカや世界が、はまっていくその一つの要因が、
 前記したニューヨーク・タイムズで・・、
  特に、この新聞社の記者(ウォルター・デュランティ)
 が曲者(くせもの)だった。
  この記者は、ソ連へ、1920年代終わりから1930年代、
 特派員として派遣された。
  1932年に、ピューリッアー賞を受賞するが、この記者
 は「眉唾(まゆつば)記事」ばかり書いた。
  記者デュランティは、「ハニー・トラップ」に引っ掛
 かっていた。
  その為、デュランティは、まったく「ソ連の対外スポ
 ークスマン」のような記事を書いた。
  これに、世界が踊らされた。
  ウクライナの人々が、ソ連の仕組んだ行為で、何百万
 人もの餓死者を出ているというのに・・それをまったく
 報じず・・
  逆に、「ウクライナ農民は、豊かな穀物収穫を享受し
 ている」と報じた。
  そしてまた、デュランティは、「ウクライナを飢餓だ」
 と報道しているのは「デマ報道だ」と嘘を報じた。
.
1941年11月20日、この日から11月25日にかけて、日本とア
 メリカは、開戦になるかもしれないという切羽詰まった
 状況で、最後の交渉が重ねられた・・
  この様な時・・、
  交渉は、色々な案の中からB案で、両国の合意が成っ
 て、交渉がまとまりそうになった・・
  この時・・ここで、工作員が暗躍する・・
  アメリカ大統領であるルーズベルト政権の中枢には、
 コミンテルンのエージェントが要所要所に入り込み、「
 日米開戦をうながす謀略」を行なっていた。
  日米交渉がまとまろうとしていたが、この工作員によ
 ってぶち壊され、破たんさせられ、戦争に突入した。
  また、最後通牒となったハル・ノートが出され、日本
 は、戦争の道へ追い込まれて行ったが、ここにも、工作
 員の影が満ちていた。
  この様な工作員の裏世界で暗躍した一人が、中国のコ
 ミンテルン情報員の陳翰笙(ちんかんしょう)だった。
  陳は、回想録「四つの時代と私」で言っているが・・
  アメリカの共産党シンパ(共鳴者)や、アメリカ政権
 内部に潜(もぐ)り込んで工作し、また、ハル・ノート
 の裏で潜り込んだコミンテルン工作員たちを繰る要(か
 なめ)にいる中心人物だった。
  この中国の工作員の陳は、これ以外でも、色々な所で
 日本を貶(おとし)め、そして、策にはめていた。
  そしてまた、アメリカ東海岸で反日を煽(あお)る活
 動もし、日本を吊るし上げる集会を、数々、開いたりし
 た。
  アメリカ世論へ、大きな影響を与えた。
  中国は、今・現代も、多くの人間を使って、また、超
 多額の資金を使って、日本やアメリカや、世界のあちこ
 ちで工作活動を行なっている。
  因みに、陳は、1897年に生まれ、1928年にシカゴ大学
 を卒業し、1924年にベルリン大学で博士号を取り、26歳
 で北京大学の教授になった。
  この時、コミンテルンに入る。
  中国の別派に弾圧され、1928年にモスクワに逃げる。
  ここで、ゾルゲに会う。
  1929年、ゾルゲを助けて、一緒に上海に来る。
  さらに、陳は、東京でもコミンテルンのつながりを作
 り、また、中国共産党のコネクションも作る。
  そして、モスクワの指令を受け、アメリカへ行き、情
 報誌でのプロパガンダ活動をし、日本をはめて行く。
  功が奏し、アメリカ世論は繰られる。
  そして、クライマックスは、日本の努力によって日米
 交渉での「開戦に至らない道」が見えた時・・
  工作員からの情報を得て、その裏で、それをぶち壊す
 事に暗躍する。
  それは、1941年11月20日から11月25日にかけて、日本
 とアメリカの開戦になるかもしれないという切羽詰まっ
 た最後の交渉を重ねている時、色々な案の中でB案でま
 とまりそうになった。
  その時、ルーズベルトの一番の側近、工作員だったラ
 フリン・カリーは、ホワイトハウスから電報を打った。
  重慶で蒋介石の顧問をしていたラティモアへ電報を打
 った・・
  その内容は・・
  「もうB案で日米交渉はまとまってしまうかもしれな
 い」。
  「これを阻止するために、蒋介石から『日米妥協に断
 固反対する』という電報を打つべきだ」・・と指示した。
  そして、蒋介石は、アメリカを脅した。
  「日米が妥協すれば、もう米中関係はおしまいだ」。
  「中国国民は、アメリカから離れる」。
  「そうなれば、日本との戦いは総崩れになる」。
  「逆に、アメリカが、日本との戦争に踏み