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(増補版)603E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)

題:(増補版)603E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1894年7月17日、御前会議で慎重な審議を重ねられ、開戦が
 確認された・・そして、最後通牒が送られた。
  回答期限は、朝鮮に対しては7月22日、中国・清国に対
 しては7月24日とした。
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1894年7月17日、海軍軍令部長が中牟田倉之助から樺山資紀
 に交代した。
  海軍軍令部は、1893年5月20日の「海軍軍令部条例」に
 より設置された。
  この頃の海軍の建設にあたって、初めは、軍令の専掌
 機関はなく、海軍省が軍令と軍政を一元的に管掌してい
 た。
  1884年、海軍省内に外局として軍事部が設置されて、
 初めて軍令をつかさどった。
  1886年、軍事部は参謀本部の海軍部となり、
  1888年、参軍のもとの海軍参謀本部となり、
  1889年、海軍大臣のもとに戻って海軍参謀部となった。
  1893年、海軍省から独立して天皇陛下に直隷する海軍
 軍令部となった。
  作戦、編制、情報、通信、戦史などをつかさどった。
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1894年7月18日、総武鉄道の佐倉駅~銚子駅間の建設仮免許
 状が下付された。
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1894年7月19日、イギリスの第二次調停案への回答期限を、
 7月24日と清に通告した。
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1894年7月19日、朝鮮の望む自主独立と・・宋主権を行使し
 主張する清国・・、
  「断固なる処置を施すの必要あり」の訓令を受けた大
 鳥公使は、朝鮮が清国と結んでいる諸条約の廃棄を提案
 した。
  つまり宗属関係の撤廃、清国軍の撤兵、ソウル~釜山
 間の軍用電信の架設、日本の兵営建設などを示し、朝鮮
 政府に手交した(7月20日)
.
1894年7月19日、海軍連合艦隊を編成し、伊東祐亨が初代司
 令官に就任した。
  日本海軍初の聯合艦隊を編成した。
  司令長官は伊東祐亨中将だった。
  日清戦争開戦が現実のものになってくるにつれて「警
 備艦隊」というのはふさわしくないという意見が出た。
  一時は、警備艦隊を常備艦隊に統合する案が出たが、
 当時の軍令部官房主事である山本権兵衛大佐が警備艦隊
 を「西海艦隊」と改名し、常備艦隊と西海艦隊をもって
 「連合艦隊」を組織するという案を出した。
  これが連合艦隊編成のきっかけとなった。
  以降、日露戦争など戦時や演習時のみ臨時に編成され
 た。
  1923年(大正12年)以降、常設となった。
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1894年7月19日、別子銅山新居浜精煉所の煙害をめぐり農民
 が精煉所を襲撃した。
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1894年7月20日、日本汽船の長崎~上海航路が運航停止と
 なった。
  日本郵船の庸船「アンゼルス丸」だけが、イギリス国
 旗を掲げて週1回就航した。
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1894年、この頃から1902年頃にかけて、外務省の「霞倶楽
 部」、農商務省の「采所クラブ」、陸軍省の「北斗会」、
 政友会の「十日会」と次々に記者クラブが生まれ・・、
  さらに、1905年には、司法省の「司法記者倶楽部」、
 1907年には、内務省の「大手倶楽部」、1910年には「兜
 会」が組織された・・が・・、
  まだまだ新聞のイメ−ジは悪く、政府も省庁も、記者た
 ちを車夫、馬丁と同様に思われ、扱われていた。
  記者室も玄関先の控え所にちっぽけな場所を与えられ
 ただけだった。
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  (今日の言葉)
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  題:これから先の風景は・・、人口の急増と都市化、
   エネルギー消費の爆発的増大、CO2排出量の急増・・
   これ等のすべての先には地球温暖化と異常気象がある。
   海水温が2度上昇すると、台風の強度は2倍になるという。
   この様な中、世界の趨勢(すうせい)は静かに着実に
  原子力発電へと行かざるを得ない。
   人類が、生活に必須のその電力を得るためには・・、
   その投資の主要部分が、原子力発電が占めることが明白と
  予測されている。
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紀元前5600万年、日本列島:始新世(5600万年前~3400万
 年前)頃からその原型が形成された。
  中新世(2,300万年前~530万年前)に、日本海が形成
 されてユーラシア大陸と分離した。
  中新世になると・・今度は、日本列島が大陸から引き
 裂かれる地殻変動が発生し、大陸に低地が出来始めた。
  2100万年前~1100万年前には、さらに断裂は大きくな
 り、
  西南日本は、長崎県対馬南西部付近を中心に時計回り
 に40度~50度回転し・・、
  同時に、東北日本は、北海道知床半島沖付近を中心に、
 こちらは反時計回りに40度~50度回転したとされる。
  これにより今の日本列島の関東以北は南北に、中部以
 西は東西に延びる形になった。
  いわゆる「観音開きモデル説」である。
  そして、およそ1500万年前には、日本海となる大きな
 窪みが形成され、海が侵入してきて、現在の日本海の大
 きさまで拡大した。
  1600万年前~1100万年前までは、西南日本(今の中部
 地方以西)のかなり広い範囲は陸地であった。
  東北日本(今の東北地方)は、広く海に覆われ、多島
 海の状況であった。
  その後、東北日本は、太平洋プレートなどによる東西
 からの圧縮により隆起して陸地となり、現在の奥羽山脈・
 出羽丘陵が形成されるにいたった。
     ・
     ・
紀元前1500万年、日本列島が今の位置に来た。
  日本列島が今の位置にやって来たのは1500万年前。
  その形は現在と同様ではなかった。
  気温や海面の変化、氷河の拡大・縮小などに起因する
 ダイナミックな変動を繰り返しながら、現在の日本列島
 の姿へとなった。
     ・
     ・
紀元前500万年、日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来
 上がりつつあったのは、今からおよそ500万年前。
  その頃は、まだユーラシア大陸と陸続きであった。
  その後、火山の噴火による地殻変動があり、氷期と間
 氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こっ
 た。
    ・
    ・
紀元前100万年、デニソワ人
  2010年3月25日付のイギリスの科学雑誌『ネイチャー』
 に、マックス・プランク進化人類学研究所の研究チーム
 は、発見された骨のミトコンドリアDNAの解析結果か
 ら、「デニソワ人」は、100万年ほど前に現生人類から分
 岐した未知の新系統の人類と発表した。
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紀元前80万4000年、「ネアンデルタール人」と「デニソワ
 人」の祖先が分岐した。
  2008年、ロシア西シベリア・アルタイ山脈のデニソワ
 洞窟で子どもの骨の断片が発見された。
  2010年12月23日、マックス・プランク進化人類学研究
 所などの国際研究チームは、『ネイチャー』に論文を掲
 載した・・その内容は・・、
  見つかった骨の一部は、5歳~7歳の少女の小指の骨で
 あり、細胞核DNAの解析の結果、デニソワ人はネアン
 デルタール人と近縁なグループで・・、
  80万4000年前に、現生人類であるホモ・サピエンスと
 の共通祖先からネアンデルタール人・デニソワ人の祖先
 が分岐し、
  64万年前にネアンデルタール人から分岐した人類であ
 ることが推定された。
  デニソワ洞窟は、ネアンデルタール人化石発見地のう
 ち最も近いイラク北部シャニダール遺跡から、約4000km
 の距離を隔てている。
  メラネシア人のゲノムの4%~6%がデニソワ人固有の
 ものと一致することから、現在のメラネシア人にデニソ
 ワ人の遺伝情報の一部が伝えられている可能性が高いこ
 とが判明した。
  また、中国南部の住人の遺伝子構造の約1%が、デニソ
 ワ人由来という研究発表も、スウェーデンのウプサラ大
 学の研究チームより出されている。
  ネアンデルタール人と分岐した年数も、35万年ほど前
 との説もある。
  ジョージ・ワシントン大学の古人類学者のブライアン・
 リッチモンドは、デニソワ洞窟で見つかった巨大臼歯か
 らデニソワ人は体格はネアンデルタール人と同じか、そ
 れよりも大きいとみている。
  概略のところは、40万年前~30万年前にアフリカを出
 て、中東を経て、ヨーロッパに拡がった集団がネアンデ
 ルタール人に・・、
  中東を経て、アジア内陸部に移動した集団がデニソワ
 人になった。
  それに遅れて、6万年前~5万年前に、アフリカを出た
 我々現生人類(ホモ・サピエンス)の祖先は、まず、中
 東でネアンデルタール人と交わり、さらに、アジア内陸
 部でも先住者のデニソワ人と交雑し、世界中に拡がって
 現在に至ったという推定もある。
  ネアンデルタール人やデニソワ人は、その後、絶滅し
 てしまったが、アフリカ土着のネグロイドを除く現在の
 現生人類遺伝子のうち数%は、ネアンデルタール人由来
 である。
  中東での現生人類祖先とネアンデルタール人との交雑
 を示す研究成果は、2010年5月に発表されているが、
  2010年12月に、アジア内陸部におけるデニソワ人とも
 現生人類祖先は交雑したとする研究結果が出たことから、
 この結果が正しければ、過去には異種の人類祖先同士の
 交雑・共存は「通常のことだった可能性が出てきた」。
  (この例の様に、我々の祖先は、広い交雑域の中に、
 長い長い年月に居た・・アイヌと琉球は別民族というキ
 リスト教系大学の独断は、まったくの科学性のない主観
 的見解である)
  なお、アジア内陸部で、デニソワ人と交雑した現生人
 類祖先は、その後、長い期間をかけてメラネシアなどに
 南下していったと考えられている。
  また、中国方面に移住したグループは漢民族となり、
 高地に移住したグループはチベット人の「別民族となっ
 た」。
     ・
     ・
紀元前40万年、ネアンデルタール人がアフリカを出た。
  40万年前~30万年前に、アフリカを出て、中東を経て、
 ヨーロッパに拡がった集団・ネアンデルタール人に・・、
  中東を経てアジア内陸部に移動した集団がデニソワ人
 になった。
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紀元前35万年、日本列島にナウマン象が現れる(~1万7000
 年前に絶滅)
  ナウマン象は、約35万年前に日本列島に現れ、約1万
 7000年前に絶滅した。
  日本列島には、幾度となく北、西、南の陸峡(間宮・
 宗谷・津軽・対馬海峡)を通って、色々な動物が渡って
 来たと考えられている。
  さらに、それらの動物群を追って旧石器人が渡って来
 た。
  最終氷期に大陸と繋がった北海道だけは、マンモス動
 物群が宗谷陸橋を渡ってくることが出来たので、それら
 の混合相となった。
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紀元前20万年、人類の起源のホモ・サピエンスが、アフリ
 カに登場した。
  人類はアフリカに誕生したあと、数回にわたってアフ
 リカからユーラシア大陸へと移動した。
  しかし、現在のように地球の広い範囲に拡散移動した
 のはホモ・サピエンスの登場以降のことである。
  現代に生きる人類の起源を遺伝学的に研究すると、20
 万年前ごろにアフリカにいた人類集団の一つにその起源
 をたどれる
  ホモ・サピエンスが全地球的な拡散をはじめたのは、今
 から5万年前頃であった。
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紀元前12万年、島根県出雲市の砂原遺跡(約12万年前)の
 前期旧石器などの遺物が発見されている。
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紀元前12万年、デニソワ人の旧人が日本列島に居た。
  現生人類(ホモ・サピエンス)は7〜6万年前にアフ
 リカを出発し、それ以前にはアフリカ外には分布してい
 なかった。
  従って、日本列島最古の石器(砂原遺跡の12万年前)
 を遺したのはデニソワ人などの旧人である。
  日本列島に現生人類(ホモ・サピエンス)が現れるの
 は4〜3.5万年前と考えられており、これは日本固有のハ
 プログループD1b (Y染色体)の起源年代とおおむね一致す
 る。
  (参考)デニソワ人:ロシア・アルタイ地方のデニソ
     ワ洞窟(ロシア、中国、モンゴルの国境に近い
     地域)に約4万1千年前に住んでいたとされるヒ
     ト属の個体および同種のヒト属の人類である。
      デニソワ洞窟は、アルタイ地方の中心都市バ
     ルナウルから約150km南方に位置する。
      Homo sapiensの亜種とされることが多い。
      ネアンデルタール人と並んで、我々現生人類
     であるホモ・サピエンス・サピエンスに最も近
     い化石人類である。
      また、現生人類の一部(メラネシア人など)
     と遺伝子情報を部分的に共有する可能性が高い
     としている。
      マックス・プランク進化人類学研究所の研究
     チームは、発見された骨のミトコンドリアDN
     Aの解析結果から、デニソワ人は100万年ほど前
     に現生人類から分岐した未知の新系統の人類と
     発表した。
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紀元前11万年、気候が冷涼になった。
  約11万年前には気候が涼しくなり始めた。
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紀元前9万年~紀元前8万年、日本列島での人類の足跡は、
 9〜8万年前(岩手県遠野市金取遺跡・中期旧石器)に遡
 (さかのぼ)る。
  この時代に属する遺跡は、日本列島全体で数千ヵ所と
 推定されている。
  地質学的には氷河時代と言われる第四紀の更新世の終
 末から完新世初頭までである。
  (参考)更新世:こうしんせい、地質時代の区分の一
     つで、約258万年前から約1万年前までの期間。
      大陸の形は現在とほとんど変わらないが、氷
     期・間氷期の氷床の拡大・縮小による海水準変
     動に伴って、海岸線の位置が移動した。
      更新世の後期では海水準にして百数十メート
     ルの変動があった。
      海水準が低下した時期は、現在浅い海である
     海域の多くが陸地となっている。
  また、日本列島は、氷床によって大陸と陸続きだった。
  完全に渤海は氷床に埋まり、また、黄海も完全に氷床
 に埋まり、東シナ海も北半分は氷床に埋まっていた。
  また、対馬海峡も氷床で埋まり、台湾も大陸と氷床で
 埋まり地続きだった。
  人類は容易にこの氷床上を歩いて日本に渡って来れた。
  また、樺太と大陸は地続きで、樺太から北海道、本州、
 四国、九州は、氷床があり歩いて渡れる状態にあった。
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紀元前6万年、現生人類(ホモ・サピエンス)が東アジアに
 到達した。
  アフリカを出た私たちホモ・サピエンスの祖先は、5
 万年前〜6万年前頃には、東アジアにまで到達していた
 と考えられている。
  研究者の多くは、4万年前頃に、旧石器時代の遺跡が急
 激に増えることから、現代人につながる人々が少なくと
 もその頃に日本で暮らしていたと考えている。
  ところが、実際は、さらに古い遺跡も見つかっている。
  岩手県遠野市では、8万5000年前~5万年前と推定され
 る遺跡が見つかり、石器も出土している。
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紀元前6万年、板状の木製品が出土した。
  板状の木製品は、明石市西八木遺跡で、約6〜5万年前
 の砂礫層の中からハリグワという広葉樹を用いた板状の
 木製品(加工痕のある木片)が出土した。
  この木片は、長さ23.4センチ、最大幅4.8センチ、厚さ
 4ミリで、少なくとも2種類の石器で加工されている。
  用途はまだ分かっていない。
  この砂礫層の年代の板だとすると、中期旧石器時代の
 板ということになり、旧人が工作した板ということにな
 る。
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紀元前5万年、日本の遺跡・竹佐中原遺跡
  長野県飯田市で、竹佐中原遺跡が発掘調査された。
  この遺跡の4カ所の石器集中地点から800余点の遺物が
 出土した。
  石器包含層の堆積年代を自然科学分析(火山灰分析、
 植物珪酸体分析、炭素14年代測定法、光ルミネッセンス
 年代測定など)した結果、3万年より古く、5万年より新
 しいことが分かった。
  4か所から出土した石器は、2グループに分けることが
 でき、一つは3万年〜3万数千年前(後期旧石器時代の初
 め頃)、
  もう一つは、3万数千年前〜5万年前のものであること
 推測された。
  つまり、中期旧石器時代から後期旧石器時代へ移り変
 わる時期の遺跡とされた。
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紀元前4万年~紀元前3万年、日本列島で世界最古の磨製石
 器が作られていた。
  氷河期に日本列島は大陸と陸続きになり日本人の祖先
 は獲物を追って日本列島にやって来たとされてきたが、
 近年の研究では、氷河期の最寒期でも津軽海峡、対馬海
 峡には海が残り陸続きにならなかったことが分かってき
 た。
  また、舟を使わないと往来できない伊豆諸島・神津島
 産の黒曜石が関東地方の後期旧石器時代の遺跡で発見さ
 れていることなどから、「日本人の祖先は舟に乗って日
 本列島にやってきた」という研究者の発言も新聞で報道
 されている・・しかし、この時期には、船の遺物は発見
 されていないため少数の意見である。
  一方、約4万年前の後期旧石器時代早期より黒曜石の採
 掘が続けられた栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群では、
 知的で効率的な作業の痕跡も確認されている。
  また、4万年〜3万年前には、世界最古の磨製石器が製
 作されており、すでに日本では独自の文化が形成されて
 いたことが分かった。
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紀元前4万年、ナウマン象の骨製品
  長野県の野尻湖遺跡で、約4万年前の地層(日本考古学
 用語では「土層」とも言う)からナウマン象の骨製品が
 まとまって発見された。
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紀元前3万8000年、野尻湖湖底遺跡
  約4万年前の旧石器時代の人々が狩猟した動物を解体す
 る場所であったと推定されている。
  長野県上水内(かみみのち)郡信濃町野尻にある遺跡。
  野尻湖は、斑尾(まだらお)山と黒姫山に挟まれた標高
 約650mの高原に位置し、遺跡は湖西岸の立ケ鼻という岬
 付近の湖底に所在する。
  1948年、地元住民が偶然ナウマンゾウの臼歯を発見し、
  1962年から湖底や湖畔の発掘調査が始まり、以後、継
 続的な調査が行われている。
  ナウマンゾウやオオツノジカなど大型哺乳類の化石、
 ニホンジカ・イノシシなど中・小型哺乳動物の化石とと
 もに、剝片によるナイフ形石器、象牙を加工した骨角器
 などが出土し、約4万年前の旧石器時代の人々が狩猟した
 動物を解体する場所であったと推定されている。
  最終氷期以前に渡来したと見られる哺乳動物の化石は
 野尻湖湖底遺跡はじめ各地から報告されており、そうし
 た動物を追って大陸の旧石器人が日本列島へ移動してき
 た可能性は考えられる。
  つまり、原人段階の人類が残した旧石器文化の存在さ
 えも想像される。
  この期の遺跡の調査例は少ない。
  石器や生活道具類が発見される程度である
  野尻湖で狩りが行われた決定的な証拠はまた発見され
 ていないが、骨製品がその可能性を示唆している。
  ちなみに、ゾウ1頭の肉で50人の集団が45日分のカロリ
 ーを確保できたと推定されている。
  縄文時代の人々にとっては、植物採取が食料獲得の中
 で大きな比重を占めていたが・・、
  旧石器時代の人々にとってはどちらかというと狩猟が
 主体であったようだ。
  旧石器時代人は、主として狩猟によって食糧を得てい
 たと言える。
  当時の遺跡からは、野牛・原牛・ナウマンゾウなどの
 大型哺乳類の骨、ニホンシカ、イノシシ、ノウサギなど
 の中・小哺乳動物の骨が発見されている。
  そして、大型哺乳動物を解体する作業場となるキル・
 サイトも発見されている。
  このように、旧石器時代人は、大型哺乳動物を追う狩
 人たちであったと思われる。
  竪穴住居跡を伴う遺跡がほとんど発見されていないの
 は、旧石器時代人がキャンプ生活をしながら移動を繰り
 返していたからだとも推定されている。
  当時は数百kmにも及ぶ距離を移動していたという。
  この様な大きな移動量は、日本人の形成に於いて、北
 海道から沖縄まで、長い歴史の中で、その血の混合が均
 一になされていた。
  日本の旧石器文化が、シベリアとの強い関連性がある
 ことが分かっており、そのシベリアで固定式のヤスや離
 頭式の銛頭(もりがしら)が見つかっている。
  その移動の広さは想像以上である。
  日本は、酸性土壌のため人骨や獣骨が残りにくいが、
 日本でも同様の道具を用いて刺突漁を行なっていた可能
 性がある。
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紀元前3万3000年、日本列島の後期旧石器時代は、約3万5000
 年前に始まり、縄文時代へと移行する約1万5000年前まで
 の約2万年間続いた。
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紀元前3万年、沖縄の洞穴で発見された子供の骨は初期現代
 型新人の特徴に一致する。
  沖縄県那覇市山下町第一洞穴遺跡で、1968年に発見さ
 れ・・、
  約3万2000年前とされる6〜7歳の子供の大腿骨と脛骨で、
 国内では最古級の人骨である。
  最近の検討によると、初期現代型新人の特徴に一致す
 るという。
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紀元前2万8000年~紀元前1万1000年、後期旧石器時代
  後期旧石器時代は、コナラ、クリ、クヌギを主体とし
 た落葉広葉樹林が西日本から東日本を覆うようになった。
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紀元前2万8000年~紀元前1万年、日本の後期旧石器遺跡が
 4000ヶ所を超える。
  1949年(昭和24年)に、相沢忠洋が、岩宿(現・群馬
 県みどり市)で関東ローム層中から旧石器を発見した。
  日本の旧石器時代の調査・研究は、ここから始まった。
  現在までに、日本列島全域で4000カ所を超える遺跡が
 確認されている。
  これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1万2000年前
 の後期旧石器時代に残されたもの。
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紀元前2万7000年、地球の寒冷化が進行する。
  2万9000年前を過ぎる頃から、地球規模で急激に寒冷化
 が進行し、約2万5000年前を前後する頃には最終氷期最寒
 冷期を迎えた。
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紀元前2万年、この頃、海面が最も下がった、現在より120
 メートルも低下していた。
  本州と四国、九州、それから屋久島、種子島も陸続き
 で、また、ロシアと北海道も陸続きで・・、
  縄文人の祖先たちやマンモスは、ユーラシア大陸から
 歩いて日本にやって来た。
  この頃は、黄河の河口が、現在の韓国の済州島の南あ
 たりにあり、黄河の水が、狭くなった対馬海峡から日本
 海に流入したことによって、日本海が淡水化していたこ
 とが分かっている。
  その為、新潟は、今、おいしい海産物があるが、2万年
 前は、日本海がほぼ淡水だったため、魚はほとんど採れ
 なかった。
  また、関東平野は、海面が下がったことで、深い谷が
 たくさん出来ていて・・、
  関東平野にできたその大きな谷に、7000年前の海面上
 昇で海水が流れ込んで来た。
  その7000年前の海面上昇は、関東の内陸部、例えば、
 川越あたりから貝塚が発見されていることからも明らか。
 (明星大学教育学部・長谷川裕彦准教授)
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紀元前2万年、最終氷期の寒冷期で、海面が120メートル以
 上も低下していた。
  現在から、約2万年前の最終氷期の最寒期には、海面は
 全世界で120m以上も低下しており・・、
  日本列島も、津軽海峡の一部、宗谷海峡、瀬戸内海の
 大部分などが陸続きで、アジア大陸ともつながり、現在
 の日本海は、ほとんど塩湖だったと推定されています。
  このとき、多くの動物が渡来し、日本の生物相に大き
 な影響をあたえました。
  最終氷期の最盛期である約2万年前の植生は、北海道南
 部から中央高地にかけては亜寒帯性針葉樹林で・・、
  それより西側は温帯性針葉・広葉の混交林が広範囲に
 拡がっていった。
  暖温帯広葉樹林である照葉樹林は、西南日本の太平洋
 側沿岸の一部と南西諸島に後退していた。
  約1万年前からの完新世になって、平均気温が高くなり、
 海面が上昇し、現在の海陸分布ができあがった。
.
紀元前2万年、日本最古の後期旧石器時代の住居跡。
  日本の住居跡遺跡が整った形で発見された。
  大阪府藤井寺市の「はさみ山遺跡」で、約2万2000年前
 の極めて形の整った径6メートル、深さ20センチメートル
 の円形竪穴住居が発見された。
  外周に柱穴を持つもので、径10センチぐらいの材を20
 本近く斜めに立て並べ、中央で簡単な組み木を施し、そ
 の上を草や皮で覆った構造が考えられる。
  この住居跡は、構造がよく分かった上にサヌカイト製
 のナイフ形石器や翼状剥片が、約200点も一緒に出土した。
  (参考)サヌカイト:讃岐岩(さぬきがん、サヌカイ
     ト)は、名称のもとである香川県坂出市国分台
     周辺や、大阪府と奈良県の境にある二上山周辺
     で採取される非常に緻密な古銅輝石安山岩。
  調理・暖房・採光のための石囲炉、地床炉、土坑炉な
 どがあり、熱のために赤色化していたことで、火が使わ
 れていたことが分かる。
  土坑の形態は多様で、貯蔵穴かどうか分かっていない。
  礫群は、こぶし大前後の川原石が径12メートルの範囲
 に数十個以上密集したもので、火熱を受け赤色化してい
 て、調理施設に関連したものと考えられている。
  一個から数個散らばっている配石は、幼児頭大の礫で、
 火熱を受けた後がなく、厨房や作業台に使ったものと考
 えられている。
  そのほか、死者を埋葬する土坑墓が見つかっている。
  死者の生前の装身具や石器・玉などが副えられ、そこ
 にベンガラ(赤色顔料、べにがら)が残っているものが
 ある。
  シベリアやカムチャツカ半島、東アジアでの死者を埋
 葬する習俗が遅くとも2万年前には出来ていたらしい。
  旧石器時代の遺跡は、石器や剥片などの遺物が集中し
 ている箇所が複数、複数の礫群、配石と炉址、住居跡、
 土坑、墓坑などで構成されている場合が多い。
  集落の規模と構成はまだ分かっていない。
  竪穴住居といえば、縄文時代や弥生時代の住居形態を
 想起するが、竪穴住居が旧石器時代に遡っただけでなく
 旧石器時代人が石器だけでなく木を使っていたことが分
 かった。
  木に石器を取り付ければ、鍬・斧・槍・矢・スコップ
 などの生産用具を作り、生産効率を上げることが出来る。
  径10センチくらいなら、今の建築材料の柱の太さとそ
 う変わらない。
  それを20本も、木の柄の付いた斧で木を倒したとされ
 ている。
.
紀元前1万8000年、沖縄県出土の人骨が判定された。
  2010年(平成22年)2月4日、沖縄県教育委員会は、沖
 縄県石垣市白保(石垣島)の新石垣空港建設敷地内にあ
 る白保竿根田原洞穴(しらほさおねたばるどうけつ)か
 ら発見された人骨について、琉球大学や東京大学などと
 研究を進めた結果、そのうち1点(約8cm×約11cmの20代
 から30代前半の男性の頭頂骨)が放射性炭素年代測定で
 約2万年前のものと分かったと発表した。
  また「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変
 遷に関する総合的研究」の分析では、発見された人骨片
 のうちの右頭頂骨片に対して、20416±113年前(BP)とい
 う推定年代値を得た。
  これは放射性炭素によって直接ヒト化石の年代を推定
 した値としては国内最古のものであった。
.
紀元前1万6000年、浜北人の年代測定の結果
  浜北人は、静岡県浜北市(現・浜松市浜北区)根堅(
 ねがた)の石灰石採石場で、1960年から1962年に発見さ
 れた頭骨片と四肢骨片(鎖骨・上腕骨・寬骨・脛骨)の
 人骨化石である。
  上・下2つの地層から出土した。
  それぞれの層から出た獣骨の年代を加速器質量分析(A
 MS)法による炭素年代測定での結果は、上層が約1万4000
 年前、下層出土の脛骨が約1万8000年前を示した。
.
紀元前1万4500年、世界最古級の土器が日本から出土した。
  世界でも最古級(約1万6500年前)の土器が青森県の
 大平山元遺跡から出土した。
  旧石器時代の終末に、九州では、豆粒文土器(長崎県・
 泉福寺洞窟)、本州では無文土器が出現した。
  一般に土器は、運搬・貯蔵・煮炊きに使われるが、出
 現期のこの頃の土器の役割はまだ十分解明されていない。
  この青森県外ヶ浜町大平山元遺跡出土の土器に付着し
 た炭化物のAMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代法
 で1万6500年前と出た。
.
紀元前1万4000年、日本列島の旧石器時代は、人類が日本列
 島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6000年前と考
 えられている。
  無土器時代、先土器時代ともいう。
.
紀元前1万年、上部港川人が発見された。
  1967年〜1969年に、1万2000年前のものと考えられる人
 骨(上腕骨・尺骨・寬骨・大腿骨2点・脛骨2点・距骨・
 第1中足骨)の断片が発見された。
  これは、日本本土で多く発見されている縄文人の骨格
 的特徴によく似ており、上部港川人と呼ばれている。
  港川人は、沖縄県八重瀬町(旧具志頭村)港川の海岸
 近い砕石場で発見された。
  港川人は、1万8000年前(旧石器時代)に生きた人骨化
 石に対して発見場所にちなんで付けられた名称で、
  1967年に発見された港川人の人骨は、約1万7000年~
 8000年前頃のものと推定された。
  国内で発見されている更新世化石人骨の中で体全体の
 形が分かるほど残っているのは港川人だけであることも
 あり、日本人のルーツを研究する上で重要な資料とされ
 ている。
  頭蓋骨は現代人よりも少し大きく、堀が深い顔立ちで
 頬骨がはり、鼻筋が高い。
  縄文人と似ている特徴をもつこの港川人は、人類の謎
 を解き明かす上で、非常に重要な存在と考えられており、
 今後、更なる調査が行なわれている。
.
紀元前5000年、気温上昇により海面が上昇した。
  縄文時代前期の7000年前、今より気温は2度、海面は2
 メートル高かった。
     ・
     ・
     ・
2018年、日本の主食の米が、いざという時に、日本人の食
 を助けてくれる米が、今、そのシステムが働かないよう
 になろうとしている。
  2018年から、その様な自体になるだろうと予測されて
 いた。
  日本は、食糧における安全・安保のために、政府は、
 米という穀物は、日本人の命の糧とした政策をとって来
 た。
  しかし、圧力を受けて、その政策を放棄した。
  米への圧力と言えばTPPでも攻められていた。
  「日本の生命線だから・・」という説明に耳を貸さな
 い態度を見て来た。
  近い将来、人口と、その人口のための食糧のバランス
 が不安定となる事が確実視されている。
  現在、日本は、長い間、国民の食の安定・安全・安保
 を担ってきたシステムを、制度を止める。
  2018年をもって終了としている。
  どこのファミリー・レストランでも、家族連れの方々
 が、楽しそうに食事をされているが、その食のシステム
 が変わる。
.
2020年代、アメリカを越える中国・・
  CIA(中央情報局:アメリカ合衆国の大統領直属の
 情報機関)と、
  ペンタゴン(アメリカ国防総省)と、
  アメリカ国務省は・・予測する・・、
  「今後、20年間の『中国』の経済成長率と軍事予算成
 長率は・・、
  アメリカの経済成長率と軍事予算成長率を、はるかに
 越えるだろう」・・と。
  そして、2020年代になると・・、
  東アジア地域における、米中の経済力と軍事力バラン
 スは逆転し、
  「アメリカは、いずれ、東アジアからの撤退を余儀な
 くされる」・・と・・、
  この予測通りだと、日本の「アメリカ追従政策の破綻
 (はたん)」が起きる事態となる。
  伊藤貫氏と日下公人氏の対談の本を参考にして記すと
 ・・、
  ニクソン大統領とフォード大統領の両政権で国務長官
 を務めたキッシンジャーは言う・・、
  「戦争に敗けて・・敵に占領された国には、二つの対
 応策しかない」・・と、
  その一つは、「占領軍に対して、長期間の徹底的な『
 ゲリラ戦』を実行する」、
  そして、その二つ目は・・、
  「眼先の利益と、安全を確保するため、占領軍に協力
 し、服従するコラボレーショニストになる」・・と・・
  「日本は、二つ目だ」とは明言していないが、そのニ
 ュアンスを込めた発言となっている。
  せっせと服従し、恭順の意を示していれば、そのうち、
 占領政策を緩めてくれるかもしれない。
  一つは、国家の「ディ・レジティマタイゼーション」
 で、国家がレジティマシー(正統性)を失うという意味。
  かつて戦争相手であった・・戦勝した敵の押し付けて
 来た憲法や法律、行政制度、教育制度、歴史解釈など、
  敗北した国は・・「道徳的に劣悪な国」であり、
  戦勝国は・・「道徳的に優越した正義の国」であると
 いう歴史解釈を押し付けられて・・使う。
  敗戦国家の国民は、「なんだ、自分の国は、占領軍の
 言いなりになっているだけの追従の似非(えせ:似て非
 なる・・正しいものに為り得ぬ)国家か・・?」・・と
 思うようになる。
  外見は「立派な独立国」で、「経済大国」のように見
 えたが・・???
  本音は、まったく違って、ただ・・ただ・・この国は、
 戦勝国に服従している・・「属国にすぎない」・・と。
  周りの国まで、口には出さないけれど・・その国を蔑
 (さげす)む。
  国家のクレディビリティ(信憑性、信頼性、確実性)
 や、正統性を・・半端にしか見ない。
  その点での尊敬など受けない。
  国家の「ディ・モラライゼーション、de-moralization、
 士気喪失」の弊害が起きる。
  国民が士気を失う。
  「モラール(士気、気概、競争心)」を失う。
  (参考)士気:しき、戦いに対する軍隊の意気込み。
     転じて、一般に、人が団結して物事を行う時の
     意気込み。
  「戦勝国の顔ばかりうかがう国」と、劣等意識を植え
 付けられる。
  国への忠誠心も阻害される。
  国のためより、自分のための・・国民になる。
.
2020年代、アメリカが、経済的に、また、予算的に、その
 緊迫する状況から・・、
  アメリカの軍事費は・・明らかに・・現在の状況を維
 持できなくなる。
  「アメリカに頼っていれば大丈夫」・・は、崩れる。
  「日本の安全は大丈夫」に、危険のランプが灯(とも)
 る。
.
2020年代、この年代に、アメリカの青少年の『過半数』は、
 有色人種(非白人〉に・・なる。
  2042年頃、アメリカの有色人種が、アメリカ人口全体
 の『過半数になる』。
  今、アメリカ白人の平均年齢は42歳、ヒスパニックの
 平均年齢は26歳。
  アメリカの白人女性は、1人当たり1.7人の子供を生む
 のに対し・・
  (因みに、2.1人以下の場合は人口減少が起きる)、
  アメリカのヒスパニックの女性は3.0人を生む。
  WASP〈白人・アングロサクソン・プロテスタント)
 の支配層は・・少数派になって行く・・
  すべての考え方の前提が崩れ去って行く・・消え去っ
 て行く・・
.
21世紀のこれからの政治は、その国際政治の主舞台は、か
 つての欧州・大西洋から、アジア・太平洋へとシフトす
 る。
.
21世紀のこれから先の風景は・・、
  人口の急増と都市化、
  エネルギー消費の爆発的増大、
  CO2排出量の急増・・これ等のすべての先には地球温暖
 化と異常気象がある。
  海水温が2度上昇すると、台風の強度は2倍になるとい
 う。
  この様な中、世界の趨勢(すうせい)は静かに着実に
 原子力発電へと行かざるを得ない。
  2014年には、160兆円が世界で電力投資されているが、
  2035年には、それが200兆円に達すると試算されている。
  その投資の主要部分が、原子力発電が占めることが明
 白と予測されている。
.
2027年、JR東海のリニア中央新幹線が開業する予定。
.
2034年、日本の人口が1400万人減少すると言われている。
.
2040年、日本の896市区町村が消滅する可能性があると予測
 されている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2018-07-18 03:36 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)602E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)

題:(増補版)602E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年7月9日、別子銅山新居浜精錬所の煙害に抗議して、
 農民の850人が、精錬所に対し実力で抗議行動をした。
  その被害農民の方々は、操業停止を求めていた・・
  そして、その要求を実現すべく新居浜分店への襲撃状
 の過激な行動となった。
  会社側は、その被害農地を買い上げることで解決しよ
 うとした・・
  1895年、農民代表は、住友大阪本店と補償交渉をする
   ことになった。
   そこで時の鉱業所支配人・伊庭貞剛は・・、
   「住友家の家名を汚すようなことがあってはならな
   い」と、足尾の二の舞を避けるべく、瀬戸内海の無
   人島への精錬所移転を計画した。
  1895年、四阪島を買収、
  1896年、着工、
   総費用は、当時、銅山年収の1.5倍以上に相当する170
   余万円を要した・・しかし・・
  1899年、別子で大洪水が発生、設備半壊、500名が死亡
   する大被害があり・・四阪島への移転は2年遅れて・・
  1904年、操業開始となった。
   移転してみると・・期待に反して被害は減らず、む
   しろ汚染地域が拡大した・・、
  1908年には、米麦とも収穫量が激減した。
   愛媛県会は、県知事と農商務相への陳情決議と被害
   救済建議案を全会一致で可決した・・、
    愛媛県選出代議士も連署して除害命令と被害救済
   建議案を衆議院に提出した・・、
    被害郡の町村長も、連署して上申書を農商務相へ
   提出した・・、、
    自治体関係者は、こぞって農民側に立ち大会社・
   住友を追求した。
    しかし、被害の補償額を巡って折り合いは付かな
   かった・・、
  1910年、農商務相の調停で、煙害賠償金の支払いと、
   農作物の生育に重要な期間に、10日間の操業停止が
   決着した。
    政府は、日立、小坂銅山など全国的に激しくなっ
   てきた鉱毒問題に対処するため鉱毒予防委員会を設
   置した・・、
    その専門家の政府指導で・・
  1915年に、建設費35万円で、低い煙突6本を四阪島に
   設置した・・しかし・・これも効果無く失敗・・、
    その後、高い煙突を建てたり、電気集塵機を導入
   して排ガス浄化に努めた・・が・・効果は薄く・・、
  1939年、やっと解決策が出て来た・・
   SO2(亜硫酸ガス)中和工場(脱硫)完成により、
   ようやく賠償金を大幅に減らすことができた。
  住友鉱業の煙害では、足尾鉱毒とはまったく異なり、
 被害農民は県、国、会社に強く訴え、会社側の対応を引
 き出し・・、
  会社側は、被害防止に前向きな対応を図っていた。
  支配人・伊庭貞剛は、煙害を受けた銅山周辺に植林を
 積極的に進め・・今では緑が回復している。
  (この植林事業が、今日の住友林業の元になる)
  田中正造は、足尾に比べて前向きな住友の対応を評価
 した。
  しかし、技術的な知識不足から多額の費用をかけた移
 転、低煙突建設ともに効果がなく、
  1939年までに、被害農民に支払った賠償金等は総額730
   万円に上った。
  (参考:西田進氏HP、http://www.nishida-s.com/index.html
.
1894年7月12日、イギリスの調停案も拒否し・・金玉均も
 暗殺するという清・・その清との日清の会談も決裂し、
 小村公使が、清国政府に第二次絶交書を手交した。
  清の軍人・袁世凱は、朝鮮で画策して、朝鮮国王の名
 で清国の出兵を要請させ・・
 (まったく、朝鮮は、自主独立しているという状態では
 ない状態)、
  清は、表面は美しくして出兵しているが、実態は、朝
 鮮を操作するという状況だった
  清の出兵は、1894年6月8日に清は軍を出兵させ、牙山
 に上陸させた・・
  (日本に通知してから行動する・・という条約は、無
 視され・・事後報告の状態だった)
  この様に中国・清の工作員の軍人が横行する朝鮮の状
 態で、清のやりたい放題だった。
  日清間では、撤兵問題も話し合われたが、宋主権を持
 つという意識の清は強く、話し合いは紛糾した。
  開戦せざるを得ない状況が出て来て、日本は、開戦に
 当たって、イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・ロ
 シアなどの関係各国に対し、清国に対する開戦を通告し
 ている。
  現在の中共(中華人民共和国)も、ある意味、この時
 の様な冊封体制下の様な振る舞いをしている・・(北朝
 鮮は、完全に冊封体制下に置かれて、朝貢しているがご
 とくとなっている)・・そして、覇権を誇示している・・
 完全に、現在の北朝鮮は中国への朝貢状態で・・韓国も
 飲み込まれている。
  この時も、この様な状況下にあり、日本は第二次の絶
 交書を手渡した。
  過去には、1886年には、中国・清の誇る北洋艦隊が、
 最新鋭艦の「定遠」や「鎮遠」(当時の日本海軍にとっ
 て化け物のような巨大戦艦だった・・当時の世界最大級
 の大砲を備え、また、装甲も厚く、東洋一の戦艦だった)
 などを連ねて、長崎に示威している中国だった・・
  中国水兵は、完全な優越的態度で、長崎で事件を起こ
 したり・・日本を馬鹿にして暴れ回った。
  そして、そこには、大国・清に侵攻されると恐れてい
 た日本があった。
  日本は艦隊をそろえようにも景気が悪く、予算が不十
 分だった・・長い間、希望がかなえられなかった・・
  しかし、景気が良くなると日本は艦を作って行った・・
 また、イギリスの指導も受けた。
  日本は海軍国と言われるが、当時の日本は、海軍力に
 自信が無かった・・
  山形有朋陸軍大将が、元勲の井上馨へ・・
  「(黄海)海戦に大勝したのは予想外」という意味の
 ことを書き送ったくらいだった。
  その様な実情を知ってか知らぬか、野党は対外硬だっ
 た。
  また、マスコミもこの対外硬の論を張った。
  1894年6月28日、日英間で条約改正交渉中のイギリス外
 相が調停に乗り出す動きを見せた・・更に・・
  1894年6月30日、ロシア公使ヒトロウォは陸奥と会談、
 「ロシア政府は、日本が朝鮮政府の日清両国の撤兵とい
 う希望をうけいれるよう勧告し、かつ日本が清国と同時
 撤兵をうけいれないならば、日本政府は重大な責めを負
 うことになる旨忠告する」と申し入れた。
  これで日本側の開戦気運には一気にブレーキがかかっ
 た。
  1894年7月2日、陸奥はヒトロウォにつぎのように回答
 した・・、
  「日本政府は、東学反乱の原因はのぞかれていないし、
 反乱そのものもなおまったく跡を絶つにいたっていない
 のではないかと考える。
  日本政府は、反乱再発のおそれがなくなれば撤兵する」
 と・・、
  1894年7月9日、清の総理衙門総領大臣(外務大臣に相
 当)慶親王が、「日本の撤兵が先だ」としてイギリスの
 調停案を拒絶した。
  1894年7月10日、ドイツとの対立を重要視していたロシ
 ア本国政府は、これ以上朝鮮問題に深入りすることを禁
 じていた・・さらに・・、
  1894年7月10日の同日、駐露公使・西徳二郎より、これ
 以上ロシアは干渉しない、との情報が外務省にとどいて
 いた。
  1894年7月11日、伊藤内閣は、清の調停拒絶を非難する
 とともに、強引なる主張ばかりをする清・・、
  その清との国交断絶を表明する「第二次絶交書」を閣
 議で決定した。
  1894年7月12日、そして、この第二次絶交書を手交した。
.
1894年7月16日、ロンドンで、日英通商航海条約の締結が
 なされた・・
  外務大臣の陸奥宗光が調印した。
  この条約によって・・領事裁判権が廃止され・・、
  関税率が引き上げられ、関税自主権の一部を回復した・・
  安政五カ国条約以来の不平等が、やっと修正されて・・
 日本の法権が回復したのだった。
  そして、この日英通商航海条約の調印は、日本の朝鮮
 での行動を、また、行為を、「イギリスが認めた」とい
 うことを示していた。
  イギリスには、過激な侵略的な動きをするロシアに対
 する恐れがあった・・
  この面での日本の行動に期待していた・・
  ロシアに対する防壁としての日本の役割に期待してい
 た。
  朝鮮では・・朝鮮の東学党の乱を契機として、日清間
 に緊張が発生していた。
  この日英通商航海条約の締結の後、他の欧米諸国とも
 同様の条約を調印し、日本の国際的地位は飛躍的に向上
 した。
  日清戦争の始まる直前の、この日英通商航海条約が調
 印されたことは・・江戸期からの悲願の差別の条約が、
 やっと、改正されたのだった。
  日本の内地を開放する代わりに、治外法権が撤廃され
 た。
  その後、日清戦争に日本が勝利すると、アメリカをは
 じめ各国も治外法権の撤廃に応じた。
  やはり、国力が付かないと、日本の弱みに付け込んで、
 日本を認めないという状況のアメリカなどだった。
  関税自主権の回復は、日本が、日露戦争に勝利した後、
 5年を経た、1911年に、アメリカは、やっと認め、日本の
 悲願は達成した。
  岩倉使節団の交渉から「40年の月日」が経っていた。
  陸奥宗光は、不平等条約「治外法権の撤廃」に粘り強
 く交渉を重ねた。
  日本は、この不平等条約に苦しんでいた。
  その事例一つが、和歌山県沖のノルマントン号事件だ
 った。
  イギリスの罪を問うことが出来なかった。
  まず、この治外法権のため、事件の裁判を担当したの
 がイギリス人判事だった・・
  そして、イギリス人乗組員のほとんどが「無罪」とな
 ってしまった。
  この様な不平等条約の改正を、この年、1894年、つい
 に、イギリスとの間で、治外法権の撤廃に成功した。
  そして、陸奥の目論見どおり、大国のイギリスが改正
 に応じたため、他の国々もあとに続き・・、
  15か国から治外法権の撤廃を勝ち取った。
  そして、この調印直後、日清戦争が始まった。
  1894年8月1日、この日に、日清両国は宣戦布告した。
  欧米列強の奪い取りの世界が演じられてきたアジアの
 世界の中で・・、
  ただただ、その無節操な奪い取りの世界の中で・・、
  日本の周囲の国々・島々、また、東シナ海沿岸の大部
 分など・・、
  また、日本の北や南に広がる主要な島々が、ことごと
 く列強の手に落ちるのを日本は見て、鳥肌の立つほどの
 恐怖感を感じないではいられなかった。
  そして、日本も、列強諸国による不平等条約があって、
 それに縛られるという「半植民地の様な国家の状態」だ
 った。
  その様な領土をあさる列強に取り巻かれている日本の
 姿・・、
  列強各国は、日清戦争で、日本が敗北するだろうと予
 測していた・・
  それだけ、清の力は強く、日本は弱小とされていた(
 長崎での事件などで清に馬鹿にされている日本だった)
  列強諸国は、「アジアの中心は中国だ」と見ていた。
  結果は、日本の勝利だった。
  列強諸国は喝采した。
  そして、日本に対する彼ら列強は、日本での特権を相
 次いで放棄した。
  これを逆から見れば、この列強諸国は、日本が負けれ
 ば、日本を蔑(さげす)み、また、不平等条約は、その
 ままにして、日本からうまい汁を吸い続けただろう。
  この様な状況の日本の解放と共に、朝鮮も中国から初
 めて解放された。
  独立国となれた。
  そして、中国文明より低い国と侮(あなど)られた列
 強諸国の蔑視の視点も変える事が出来た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:自分だけが・・良い子にならないように・・
.
約4万年前頃~約4400年前、アフリカから始まった人類の拡
 散~偉大なる人類のうねりが世界へ・・そして・・
  日本人は、遠い遠い昔のこの頃、旧石器時代から縄文
 時代の中期と言われるこの頃・・日本人の大陸からの移
 動がなされていた。
  この頃、大陸と日本列島は地続きだった・・そんなそ
 んな遠い昔、大陸から移動して来た日本人が形成がなさ
 れて行った。
  その長い間の長い長い期間、日本列島に於いて、血は
 混ざり合い、そしてまた、混ざり合い、その混血によっ
 て日本人の形成はなされて行った。
  アイヌの方々の祖先も、琉球の方々の祖先も、その仲
 立ちの本州などの島々の祖先も、その混血によって形作
 られて行った。
  そんじょそこらの数百年の歴史しかない国々とは訳が
 違っている。
  数百年の歴史しかない者たちが、数万年の歴史を持つ
 先住民の方々を殺戮して出来たような国とは訳が違う。
  オーストラリア・ラテンアメリカ・カナダ・アメリカ
 合衆国などとは訳が違う。
  日本列島の遺跡を分析してみても、その文化が混ざり
 合っていく経緯が分かる・・
  日本列島への渡来のルートは、ユーラシアの各地から
 さまざまなルートで日本に流入した。
  特に、1万2000年前までは、日本は、大陸と陸続きであ
 ったため、流入は容易であった。
  この時の日本人の集団は、狩猟採集を主としていた。
  DNA(デオキシリボ核酸、遺伝子の本体)的には、
 現在の大半の東アジア人とは大きくDNAの異なる集団
 だった。
  この旧石器時代の日本人が、そのまま混血がなされな
 がら、結婚がなされながら縄文人へと発展した。
  (参考)デオキシリボ核酸:DNAと略記され、遺伝
     子の本体であり、真核細胞では核膜に包まれ、
     核の中に塩基性蛋白質であるヒストンと会合し
     た状態で存在している。
  今、分子人類学が進展している・・そのDNAから見
 ると・・母系が辿れるミトコンドリアDNAハプログル
 ープと、父系が辿れるY染色体グループがある。
  ミトコンドリアDNAハプログループの研究によって
 アフリカを人類の起源とする説が証明された。
  そして、その民族集団の移動のルートも辿れるように
 なった。
  日本人のミトコンドリアDNAハプログループで特徴
 的なのはハプログループM7aがある。
  琉球諸島とアイヌに比率が高く本州が少ない分布とな
 っている・・しかし、その一体的な形質が証明された。
  この発生は、台湾付近で日本を最大の集積地(最も頻
 度の高い地域)とし、台湾・日本から朝鮮半島、中国東
 北部へ北上し、北上の上限がシベリアとなっている。
  また、人間の祖先がアフリカを出た後、イランからア
 ルタイ山脈を経由し、「北ルート」で到達したとする説
 と・・、
  インドから東南アジアを経由したルートで到達したこ
 とが分かるという。
  父系が分かるY染色体グループから見ると、最初に日
 本列島に到達し、後期旧石器時代を担ったのは、4万年前
 ~3万年前にやってきたD1b系統である。
  D1bは、日本に多く見られる系統であり、アイヌ88
 %、沖縄県約50%(4%~56%)、本州約36% (31%~39%)で、
 東アジアではほとんど存在しない。
  日本人を特徴づけるD1bである。
  D1系統は、4万年程前に、二つのグループに分岐し、
 日本列島に至り誕生した(それがD1b)
  ミトコンドリアDNAによる人類集団を類似性を系統
 樹様にして見てみると・・他集団との類似性がみられる
 が・・日本人集団に近いのは中国人集団であり、その次
 にカンボジア人集団であるという結果となる。
  また、日本人集団は、中国人集団、マレーシア人集団、
 ポリネシア人集団などと近縁で、「アジア・モンゴロイ
 ド」としてまとめられる。
  「アジアのモンゴロイド」と近縁なのが「アメリンド」、
 次いで、「オーストラロイド」、「コーカソイド」の順
 で、「ネグロイド」とは最も離れている。
  斎藤成也氏ら総合研究大学院大学により、ヒトゲノム
 中のSNP(単一塩基多型)を示す100万塩基サイトを
 一挙に調べることができるシステムを用いて、アイヌ人
 と琉球人を含む日本列島人の大規模なDNA分析が行わ
 れた。
  その結果、アイヌ人からみると琉球人が遺伝的にもっ
 とも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、沖縄
 にすむ日本人に次いでアイヌ人に近いことが示された。
  一体とした民族を裏付ける結果となった。
  今、キリスト教系大学で語られる、アイヌ・琉球人は
 別民族という論は、まったく主観的に主張されているだ
 けで、まったく科学的裏付けのない根拠のない論理であ
 って、結果を見間違っている・・、
  その論理性は、まったく浅い主観的分析で、ある意味、
 感情論的主張となっている・・、
  (何故か?中国が言う「アイヌ独立論」とつながる主
 張の様に感じられる)・・
  (今、キリスト教系大学では、孔子学院など中国との
 つながりが強い行為が行われている)
  (参考)アメリンド:ヨーロッパからの移住民による
     虐殺が始まる以前より、アメリカ大陸に住んで
     いた諸民族の総称。
      狭義では、北米大陸に居住するイヌイットと
     アレウト、さらには、エスキモーを除いている。
      カナダとアメリカ合衆国の先住民(カナダ・
     インディアンとアメリカ・インディアン)をさ
     すこともあるが・・、
      中南米に住むインディアンも含む・・、
      そして、スペイン語でインディオと呼ばれ 、
     その言語は、約160の語群に分けられる 。
      キリスト教系大学で語られる「言語が違えば
     別民族」という論理で行けば、このインディオ
     も160の別民族となってしまう。
  (参考)オーストラロイド:オーストラリア先住民
      (オーストラリア・アボリジニー)とその類
      縁の人種をいう。
       やはり、この人種もヨーロッパからの移住
      人(イギリス)による虐殺に会った。
  (参考)コーカソイド:白色人種、ヨーロッパ人種と
     もいう。
  (参考)ネグロイド:類黒色人種。アフリカ‐ニグロ
     イド・エチオピア人種・コイサン・ピグミー・
     メラネシア人など。
  以上の様な、科学的知識を根拠に持たない者たちが、
 日本国内で、中国の働きかけで、アイヌ独立論を振りま
 いたり・・、
  北海道は無土の地で、人が居なかったと言ったり・・、
  白老町に、100億円もの国民の税金で、アイヌ民族の為
 の箱物を建てるとか・・
  馬鹿馬鹿しい話があちこちで展開している。
  この他にも、いっぱいこの類の無智の話が展開してい
 る日本となっている。
  それよりも、遺伝子的にもまったく別の民族であるチ
 ベット・ウィグル・内モンゴルの民族の方々の地が、漢
 民族というまたく違う民族によって・・まったく関係が
 無い民族によって、奪われようとしている。
     ・
     ・
34年、実質的に「キリスト教を作ったパウロ」は・・、
  この年に、テント職人のパウロは回心する(60年説も
 あり)
  サウロという名前でも呼ばれたこの男が・・本業のテ
 ント作りのかたわら、信仰するユダヤ教の業務もしてい
 た。
  その業というのは、ユダヤ教に敵対する宗派の人たち
 を、上部の組織の許可を得て、捕まえ、そして、突き出
 すという役目だった。
  下っ端役人という所だった。
  捕まえられた者の中には、死刑になるものも、当然、
 多く居た。
  長い間、この役目にあって、当然、多くの人たちが、
 このパウロによって捕まって、命を落とした・・
  その人の数も、決して少ない数ではなかった・・
  多くの人々を死へ追いやったパウロだった。
  パウロも、つくづくこの行為の罪作りな所に嫌気がさ
 した・・
  いつまでこんな罪作りな事をやっているんだろうと、
  ある日、自分を顧(かえり)みる事もあった・・、
  「人の命をとりあげて、自分が生きる」という姿を顧
 (かえり)みる事もあった・・、
  パウロは、ある日、突然、けじめをつける時が来る・・
  この役目の罪作りなところに嫌気がはっきりとさした。
  ここを、当然、キリスト教は美しく書く・・
  「天が一転かき曇り」・・「天からイエスの声が聞こ
 えた」・・、
  『サウロよ、何故、我々を痛めつけるのだ』・・と、
  そして、パウロは、この後、キリスト教を作って行く・・
  宗教を作ることを思い立つ・・、
  この後、まだ、キリスト教ができるまで何十年と、ま
 だまだ、かかったが・・、
  その間、パウロは、ユダヤ教を良く知っていたので、
 そのユダヤ教の正典に書いてある通りのことをやる。
  違う所は、イエスを利用するところだった。
  もしかすると・・何十年か前に、パウロが上部の許可
 を得て捕まえたイエスを思い出したのかもしれない。
  イエス逮捕のきっかけは、パウロがからんでいたのか
 もしれない・・
  パウロが役所に突き出したかどうかは不明だが、パウ
 ロは、何十年も以前のイエスを思い出した。
  パウロは、何十年も経て、作ろうとしたキリスト教に
 イエスを利用しようと思った。
  しかし、パウロは、イエスの生い立ちなどはすべて捨
 てた・・
  ただ、イエスの刑死を利用しただけだった・・
     ・
     ・
1453年、キリスト教の東方正教会の本山のあったビザンツ
 帝国は・・、
  この年に、オスマントルコ帝国に滅ぼされた。
  全盛期のオスマントルコ帝国の領地は、ローマ帝国領
 とほぼ同じという・・広大なものだった。
     ・
     ・
1859年7月1日、横浜港が開港した。
  横浜港は、1858年7月29日に締結された日米修好通商条
 約に基づいて、この日に、武蔵国久良岐郡横浜村に開港
 した。
  いわゆる「安政の開国」による開港五港での開港だっ
 た。
  横浜港が開港すると、欧米の商人は、日本人と筆談の
 できる中国人を、仲介役(買弁:ばいべん、中国で、外
 国の貿易業者との仲立ちをした業者)に伴って横浜に来
 た。
  また、中国人の中には、活版印刷などの新しい技術を
 持つ者も居た。
  そして、明治の初めには、横浜の華僑は、約1000人を
 数えた。
  人々は、居留地の一角、旧横浜新田を造成した地に集
 まって住み、中華街を形成して行った。
.
1894年3月28日、朝鮮の指導者・金玉均が、中国・清によっ
 て暗殺された・・中国・清の横暴な行為だった。
  この朝鮮の指導者・金玉均は、日本の福沢諭吉と師弟
 関係にあった。
  福沢諭吉は、この金玉均に、何かと心配りをしていた。
  金玉均は、福沢諭吉に指導を仰いだ・・、
  金玉均は、遅れている朝鮮の近代化について、福沢諭
 吉に相談した。
  その一つが・・諭吉は、朝鮮に於いて新聞を出す事を
 勧めた。
  そして、朝鮮で使われなくなっていたハングル文字の
 良さを見抜いていた諭吉は、そのハングル文字を使って
 新聞を出す事を勧めた。
  そのハングル文字は、今では、朝鮮では、なくてはな
 らない文字となっている。
  (朝鮮・韓国は、この福沢諭吉に感謝しなければなら
 ない)
  そして、資金のなかった金玉均に、福沢諭吉は、新聞
 用の活字を日本で身銭を切って、自分の金で作らせた。
  そして、それを持たせて、朝鮮へ帰らせた。
  そこまでして、福沢諭吉は、一生懸命に朝鮮の事を思
 っていた。
  この福沢諭吉の一例の様に、日本は、本当に誠実に、
 親切に、朝鮮の事を思って、色々と行動を起こしていた。
  しかし、この金玉均は、朝鮮で横暴な行動をする中国・
 清国に暗殺されてしまう。
  また、ここまでしている日本に、まったく理解を示さ
 ない今・現在の朝鮮・韓国・・、
  今・現在も、朝鮮・韓国は、「なんだかんだ」と色々
 と、日本を貶(おとし)め続けている。
.
1924年、未来の宗教は・・・
  ジョーゼフ・キャンベルの言葉 : 
 「未来の宗教はどうしても仏教に近づいていくだろう」
  (参考)ジョーゼフ・キャンベル(Joseph Campbell)、
     1904年3月3日~1987年10月30日
     アメリカの神話学者、文学者、講師
     比較神話学や比較宗教学で有名。
  彼の作品は広大で、人間の経験に基づく多面的なもの・・、
  彼の人生観は、しばしば「至上の幸福に従え」という
 文に要約される・・
  1924年、キャンベルは家族とヨーロッパを訪れた。
  船に戻った時、彼は、ジッドゥ・クリシュナムルティ
 と遭遇した。
  彼らは、アジアの哲学について議論した。
  そのことが、キャンベルの長い人生の中でヒンドゥー
 教とインドの思想について興味を持たせるきっかけとな
 った。
  この旅行の直後、彼は、キリスト教カトリックの宗教
 を棄て、キリスト教の活動を止めた。
  すでにラテン語を流暢に話せた彼は、彼の言語の幅を
 広げるため、日本語を身につけようとした。
  (参考)ジッドゥ・クリシュナムルティ:1895年5月12
     日~1986年2月17日、インド生まれの国際的宗教
     哲学者、思想家、教育者
      人は組織、信条、教義、聖職者、儀式によっ
     て真理に到達することはできず、ただ、自己認
     識によってのみ真理を見出すことができると説
     いた。
      「真理は道なき大地にあり、そこに到達でき
     るのはいかなる宗教や教派でもない」
      「物事をあるがままに直視し、自覚により自
     らの置かれた状況を凝視すること」
      すべての物事が、時間的にも空間的にも互い
     の条件付けによって成り立つという彼の考えは、
     仏教の縁起説と同様で、我執を問題とし、ある
     がままの観察による我執からの解放を目指すと
     いう点でも、仏教と基本的なスタンスは同じ。
      インドだけでなく、欧米でも幅広い支持を得
     る・・首座 (仏陀の化身) に任命された。
.
1939年8月31日、朝鮮の新聞である「東亜日報」が・・、
  朝鮮人の業者・女衒(ぜげん、뚜장이)が・・朝鮮の女
 性を、本人の意思に反して、強制的に慰安婦にした罪で
 処罰されたと報じた。
  朝鮮語による・・朝鮮人の記者によって書かれた記事
 で・・朝鮮人の警察官が捕まえて、処罰したという事で
 ある。
  日韓併合中のことで、日本政府が、人道的にも劣ると
 罪を厳しく処罰していたことを明らかに示している。
  今、韓国が、日本を貶(おとし)めようして言ってい
 ることは、完全な嘘でデッチアゲである。
  今、韓国が、日本政府や日本の軍が、慰安婦に強制的
 関与をしていたと言っていることは、まったくのデッチ
 アゲで嘘である・・真実は、その逆で、「取り締まって
 いた側である」・・
  やっていたのは朝鮮人の業者・女衒(ぜげん、뚜장이)
 である。
  韓国よ、嘘を言うのはいい加減に止めなさい!
.
1948年春、表意・表音文字・・
  聞きなれないこの言葉・・この表意表音文字を持つ日
 本民族は素晴らしいのである。
  この文字によって、日本の文化や科学が、輝かしい飛
 躍をして来た・・素晴らしい結果を歴史に残している。
  ただの「表音文字だけで暮らすアメリカ」が、その対
 極にある。
  事例を言えば・・『東』。
  これは、朝、木の向こうに、日が昇って来たところを
 表わしている。
  そして、「ひがし」とか、「とう」とかと読む。
  「ひがし」という音は、日が昇る方向を表わす・・東
 の意味である。
  陽が沈む西は、横に引かれた1本の線が、海の水平線
 で、口の陽が、その水平線から沈んだ状態、縦の2本の
 線が水平線から日が沈んだという意味を表わしている。
  これが「にし」とか、「せい」とかと読み、陽が沈む
 方向の意味の「西」を表わしている。
  「東」も「西」も表意であり、「ひがし」「にし」と
 表音ともなって、その意味を伝え、目的を果たしている。
  だた、その1字だけで、この様な機能を持っている優
 れた文字を持つ日本民族なのである。
  ただ、だらだらと長い英語とは違うのである。
  この様な事を知らずに、GHQのマッカーサーは、日
 本を英語化しようとした。
  英語化されたら、愚民化政策だ。
  日本の学者が、必死に止めたから良かったものを・・
  愚かなアメリカ主体のGHQであった。
  また、こんなに多くの文字を知る訳はないと、日本人
 を馬鹿にしたマッカーサーのGHQは・・テストをした。
  そうしたら・・テストをしたら・・その結果の素晴ら
 しいこと・・日本人の優秀さにびっくりしたGHQ・マ
 ッカーサーだった・・、
  漢字テストの識字率が97.9%というほぼ100%の出来栄
 えの凄さだった。
  世界で最初に書かれた長編小説の作家、それも女性の
 紫式部の「源氏物語」・・
  この深い・・味わい深い意味も、日本語でなければ読
 み取れなくなる。
  因みに、英語に、31文字の単語を発見した時はびっ
 くりした・・
  これでは、日本語だったら俳句ではなく、短歌まで出
 来てしまうと思った・・
  表音文字だけの英語・・順列組み合わせだけの英語・・
 馬鹿みたいに超長い単語が生まれてしまう・・
  また、因みに、1948年の春、馬鹿なGHQが、日本の
 教育状況と日本語に対する無知と偏見から、「日本語は
 漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりに
 くいために民主化を遅らせている」とした。
  日本を、英語化するべきだとした。
  自分に都合の良い言葉に変えてしまおうということだ
 った。
.
1960年代半ば以降、電卓市場には、新規参入が相次いだ。
  大手電機メーカーから事務機器メーカー、計測器メー
 カーまで、最大で40社ほどを数えた。
  電卓競争が勃発した。
  切っ掛けは、アメリカ半導体メーカーのテキサス・イ
 ンスツルメンツの8桁の電卓用のLSI(大規模集積回路)
 を標準化し、各社に売り込んだ。
  1971年に、5万円を切る電卓が世に出回ると、カシオは、
 すぐさま、3万8700円の『ASー8』という機種を売り出
 した。
.
1972年、国内ボウリング場がピークだった。
  2016年の4倍の約3700店があった。
  1970年には、ボウリングの女子プロボウラーの中山律
 子さんが、初のパーフェクトと達成した。
  1970年代前半は、日本は、空前のボウリングブームに
 湧いた。
.
2014年7月30日、ウイグル人虐殺、ヤルカンド県大規模虐殺。
  国が奪われつつあるウイグル・・漢民族による虐殺が
 起きている、続いている・・
 ヤルカンド民衆蜂起その1:7月28日早朝、ヤルカンド県
  イシュクル郷警察署と政府が幾つかの集団の襲撃を受
  けた。
   その後、漢民族・中国の治安当局は襲撃集団を武力
  で弾圧した。
   その後、当郷に属する14、15、24村の村民が蜂起を
  起こし、手に棍棒、斧などの物を持ち村役所、中国人
  移民の商店などを襲撃した。
 ヤルカンド民衆蜂起その2:7月30日、漢民族・中国の当
  局は、イシュクル郷周辺を包囲し、蜂起に参加した民
  衆を徹底弾圧した。
   RFAウイグル語放送は現地情報として、すくなく
  てもおよそ120人が死亡と伝えた。
   死者の詳細が不明なのである。
   今、ヤルカンド県全域に非常事態令が敷かれた。
   外部との通信は全て遮断された。
 ヤルカンド民衆蜂起その3:7月30日、ウイグル農民が、
  大規模蜂起を起こすのは1990年4月のアクトゥ県バレー
  ン郷農民蜂起が起きて以来24年振りだった。
   当時のバレーン郷蜂起も、結局、漢民族・中国の当
  局に残虐に弾圧された。
   現代のウイグル抵抗運動におけるシンボル的抵抗事
  件として歴史に刻まれた。
 ヤルカンド民衆蜂起その4:7月30日、今回のヤルカンド
  民衆蜂起も、近年における中国政府のウイグル人に対
  する激しい弾圧に対するウイグル農民の大規模抵抗と
  して、24年前のバレーン郷蜂起と同じ歴史的意義があ
  る・・、
   漢民族の中国政府の弾圧に対し、ウイグル人は不屈
  であると、はっきり宣言したと表明した。
 ヤルカンド民衆蜂起その5:7月30日、ウイグル民族運動
  指導者ラビヤ・カディール女史が昨日声明を発表し、
  中国政府に過剰な武力を使わないよう呼びかけ、ウイ
  グル人に対する弾圧政策を直ちに中止することを要求
  した。
   外国メディアによれば、民衆の襲撃は5箇所で同時に
  起き、6時間継続した、という。
   (参考:ニュースソース:毎日新聞)
  2014年8月1日、緊急拡散・・ヤルカンド県で31日約800
 人の蜂起民衆が警察署二箇所を襲い、そこにいる特殊警
 察、武装警察と衝突し、多数の死傷者が出た模様。
  漢民族・中国の中共軍は、カシュガル駐屯の第六機械
 化師団を緊急出動させ、全面虐殺を行ったという。
  また・・下記の連絡がある・・、
  2014年7月28日から、ヤルカンド県及びその周辺地域で
 中国・中共軍、武装・特殊警察部隊による大規模な虐殺
 が行われています。
  真相がよくわからない。
  緊急事態です。
  多くのウイグル人が、老弱男女問わず、殺されていま
 す。
  最新ウイグル語情報によれば、ヤルカンド県の民衆蜂
 起地域(イリシュク)郷などでは中共軍、警察部隊の大
 規模虐殺でウイグル人老弱男女問わず3000人以上が殺害
 された模様。
  このような大規模虐殺が起きたのは、2009年7月5日夜
 起きたウルムチ大虐殺以来です。
.
2017年6月、欧州連合(EU)は、昨年(2017年6月)の国
 連人権理事会で、中国の人権状況を批判する声明を準備
 したが、ギリシャの反対で挫折した。
  ギリシャは、2010年の経済危機でEU内で「お荷物」
 扱いされた時、中国に支えられた恩義があった。
  今、EU内の「中国の代弁者」となっている。
  EU内で、中国に代わって主張する者となっている。
  結局、中国の金の勢いで、中国の不正についての正し
 い意見が抑えられるという事態が、EU内で起きている。
  この様な事が、世界中で起きている。
.
2018年2月23日、アメリカのFBIが、中国の孔子学院をス
 パイ容疑などで捜査対象とした。
  アメリカ社会の脅威だとした。
  アメリカ連邦議会上院の情報委員会の公聴会で、クリ
 ストファー・ライFBI長官は、アメリカにある中国政
 府対外機関「孔子学院」について、スパイ活動などの違
 法行為に関わる疑いで、捜査の対象にしていると公言し
 た。
  英メディア・ビジネスインサイダーによると、ライ長
 官は公聴会で、複数の孔子学院に対して、中国共産党思
 想のプロパガンダ拡大だけでなく、アメリカ政府関連の
 情報までも違法に入手するスパイ活動にかかわっている
 容疑があり、捜査していると述べた。
  ライ長官は、アメリカ政府機関「中国問題に関する連
 邦議会・行政府委員会(CECC)」の委員長を務める
 マルコ・ルビオ下院議員の質問に応える形で、次のよう
 に述べた。
  「世界におけるアメリカの軍事、経済、文化、諜報力
 を引き下げる目的で、中国は、『国家主導』で動いてい
 る」
 「これを国家の脅威のみならず社会の脅威ととらえ、ア
 メリカは全面的な対応を取る必要がある」・・と。
  因みに、日本にも、何故か?キリスト教系大学の桜美
 林大学に孔子学院がある。
  キリスト教組織と中国のつながりは強い・・、
  この公聴会に出席した国家情報局(DNI)局長のダ
 ン・コート氏も、FBI長官の会頭に合わせて、中国へ
 の危機感を露わにした。
  また、中国による世界的な浸透工作を調べるため、す
 でに複数の機関が調査を行っていると明かした。
  中国は、大量の資金を使って世界のあらゆる面に情報
 工作をしている。
  この様な事は、中国は、昔からやって来た。
  南京事件も、「起きてない南京事件を有るものとして」、
 中国は、大金を使って、世界に喧伝(けんでん、世界や
 世間に言い、はやし立てること)している。
  中国は、初め、起きても無い南京事件を「ある」と言
 い、その人数は2万人と言った。
  その人数は、今、中国は膨らませ、今では、中国は30
 万人が殺されたと言っている。
  しかし、この南京事件は、1938年当時、国際連盟に、
 中国は「2万人」と申し立てた。
  しかし、起きてもいない南京事件に対して、国際連盟
 は、「当然、その中国の申し立てを拒否した」。
  当然、起きても居ない南京事件であるが故に、その中
 国の申し立ては受け入れられなかった。
  しかし、中国は、大量の金を使って宣伝映画を作って、
 欧米諸国へ向けて嘘を発信続けていた。
  結局、欧米社会だけでなく、日本人でさえその中国の
 工作の嘘に巻き込まれてしまう。
  実際は、挹江門事件(ゆうこうもんじけん)の一例が
 ある様に、中国の督戦隊(とくせんたい、中国の自軍の
 後ろで監視し、戦うように仕向ける部隊、だから、逃げ
 る自軍の兵士・中国軍に対してでも撃つ)が逃げるな、
 日本と戦えと、逃げる自国兵を撃ったり(この事件の場
 合、中国・国府軍第36師212団)、乱れに乱れた中国兵や
 一般市民は、揚子江の唯一の南京出口で、我先に逃げ惑
 う市民を数少ない船の取り合いで銃に撃たれるという状
 態・同士討ち状態だった。
  何しろ、肝心な司令部を、アメリカが秘かに参戦して、
 中国軍の味方して、蒋介石や中国司令部を連れ去ってし
 まっていた。
  救出の名の下に、司令部を無くなしていた・・統制の
 効かなくなった中国軍の乱れによって殺された人々があ
 また居た。
  中国は、卑劣にも、嘘の宣伝を欧米諸国にして、ゆが
 められ、捏造された情報が、中国政府の悪意ある工作で、
 さらに深く浸透している。
  それに紛動(ふんどう)された欧米諸国は、故無き間
 違った非難を、日本にするという状況になっている。
  中国政府は、「日本は、卑劣な国家だというイメージ
 宣伝」をしつこくして、世界は「それが真実だ」と思い
 込まされるという状況となっている。
.
2018年7月6日、中国の領土拡大工作
  今、中国が、ウイグルやチベット、そして、内モンゴ
 ルを必死になって自分の領土にしようとしている・・、
  その動きの一端が分かる数日前の記事が、この日の読
 売新聞に載っていた。
  その表題、および、内容は・・、
  「ウイグル族を顔認証・・当局、街中に監視カメラ」
  中国でイスラム教を信仰する少数民族・ウイグル族が
 多く暮らす新疆ウイグル自治区で、監視カメラと最新の
 顔認証技術を使った住民監視が強化されている。
  2009年7月に、区都ウルムチで起きたウイグル族による
 大規模暴動(抵抗)の再来は許さないとの習近平政権の
 断固とした意思を反映した施策だが、変わらぬ強権統治
 にウイグル族の不満はくすぶり続けている。
  (参考)ウイグル族による大規模抵抗:2009年6月、中
     国広東省の玩具工場でウイグル族と漢民族の労
     働者が衝突した事件を発端に、新疆ウイグル自
     治区ウルムチで7月5日、ウイグル族の学生らが
     抗議デモを行った。
      一部が過激化して漢民族・中国の治安当局と
     衝突する大規模な活動に発展し、当局発表で197
     人が死亡、1600人以上が負傷した。
  ・・漢民族主体の当局とウイグル族の衝突は、過去、
 何度もあった。
  中国政府は、「イスラム過激派によるテロ警戒」名目
 でウイグル族への監視を強めている。
  ウイグル族が集まる所、モスクなどの周辺は特に厳し
 い。
  カシュガル中心部の「エイティガール寺院」では、一
 帯に多数の監視カメラと複数の検問が設置されている。
  武装警官が3人1組で頻繁(ひんぱん)に巡回し、緊張
 感でいっぱい。
  マスクをしている記者に、強い口調で、「顔が隠れて、
 いけない」と。
  ウルムチには16万台の監視のカメラが設置されている。
  最新の顔認証技術を使った監視体制となっている。
  事前登録した要警戒人物の顔が認識されると、公安当
 局に情報が瞬時に伝わる仕組みになっている。
  最近、40倍の費用を投入した。
  また、最新技術の導入を急ピッチで進めている。
  街中では、スマートフォンの抜き打ち検査が行われて
 いる。
  保存データーに反政府活動的なものがあれば、即、拘
 束・逮捕される。
  1930年代~1940年代に、ウイグル族を中心にした「東
 トルキスタン共和国」が生まれたが、1949年に、中華人
 民共和国が建国された後、漢民族・中共軍が侵略・進駐
 し、分離・独立の行動が抑えられた。
  1955年に、ウイグル自治区が設置されると漢民族がト
 ップに就いた。
  共産党書記がトップになる制度にされた。
  分離・独立の動きを抑える管理が強められた。
  学校でも中国の標準語が教えられ、独自の言語が無く
 なる方向性にある・・
  また、宗教文化も失われる方向性がとられた。
  漢民族とウイグル族との貧富の差も酷く、深刻な状況。
  天然資源は豊富だが、漢民族の主動で開発がなされて
 いる。
  その恩恵にウイグル族は浴していない。
  街中で、物乞いするウイグル人も多い。
  ウイグル人は収入が少なく、結婚できない状況だとい
 う(ウイグル人が増えては困るため・・)
.
2018年、日本と北朝鮮との関係だって、日本がしっかり対
 応して来なかったからと言うが・・??
  日本にしっかりした国防力の裏付けがあれば、「拉致
 された方々を取り返しに行った」。
  その様な国防力を持たせなかったのが「アメリカ」。
  安全保障条約があるからと、日本を守ってやるからと・・
  そう言ったって、その裏付けで取り返し行動を起こし
 て、その時、アメリカがその安全保障上の支えになるか
 は、不明・・、
  だから、故に、実施に踏み切れなかった。
  こんなことは、今・現代でも同じ・・、
  他国に頼っていては・・らち(埒)があかない・・
  北朝鮮から核ミサイルが、日本にぶち込まれたら・・、
 二発目の核ミサイルを防ぐために、アメリカは、核ミサ
 イルを北朝鮮にぶち込むか?・・否である。
  アメリカは、北朝鮮の核ミサイルが、アメリカの都市
 にぶち込まれることを思ったら、日本のための核ミサイ
 ル使用を躊躇(ちゅうちょ、決心が決まらず、手が縮こ
 まる)する。
  国は、自(みずか)らが守らねばならない。
  これは・・歴史が教えること。
  『国は自らが守れ!』
  直ぐに「非核三原則」を撤廃せよ!
  アメリカから、即、一隻、アメリカ兵付き、核ミサイ
 ル付きで、原子力潜水艦を購入せよ!
  日本に向けての核ミサイルが発射されたら、即、この
 核爆弾が日本に着弾する前に、この原子力潜水艦の核爆
 弾ミサイルが発射されますと宣言せよ!
  その様な・・しっかりした裏付けを持って拉致された
 方々を返せと言い、返す様子が無いならば、即、奪還作
 戦を実施すべき・・、
  日本の将兵の指揮下にある、日本兵とアメリカ兵によ
 る核ミサイルを持つ原子力潜水艦の存在をしっかり相手
 に意識させる・・、
  日本は、もう、通常兵器は不要・・、
  核武装に向かうべきなのだ・・、
  今、世界は、『一方的に消滅する世界』ではないのだ。
  『共に消滅する世界』となっている。
  「瀬戸際防衛」の時代なのだ。
  タイトロープの上を行く世界・・、
  核ミサイルが、1発も落ちて来ないからと安心はするな。
  結局、一旦、ことが起きたら、放射能で、地球上の全
 生物は死滅する状況・・、
  天に唾を吐いた者も・・結局は死がある時代なのだ・・
  営々と何百万年も・・人類が築いてきた長い長い歴史
 が・・終わる時なのだ。
  キリスト教の「シャローム」の教義は、間違いなのだ。
  「シャローム::キリスト教徒以外の誰も居なくなっ
 た後の平和」という状況を求めるキリスト教の教義は間
 違い・・、
  キリスト教は、その様な平和を望む・・、
  キリスト教徒も、共々(ともども)、皆、完全にすべ
 てが居なくなってしまう・・その様な時代なのだ・・、
  キリスト教徒だけが生き残るは・・間違い・・そうは、
 ならない・・、
  キリスト教徒だけが行けるという「キリスト教の天国」
 だって、キリスト教徒に殺された人々が、満ち満ちてい
 て・・、
  キリスト教徒のあなたが行ったって、恨み怨みつらみ
 を言われるだけ・・、
  自分だけが・・良い子にならないこと・・
  キリスト教は、「自分だけ、いい子になる宗教」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2018-07-12 15:54 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)600E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)

題:(増補版)600E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年6月20日、明治東京地震が起きた。
  午後14時4分、東京湾北部を震源とする地震が起きた。
  南関東直下型地震。
  1892年に設立された震災予防調査会により詳細な被害
 調査が行なわれた。
  これは、詳細調査がされた初の地震だった。
  震源の深さ約40~60キロメートル、地震の規模はマグ
 ニチュード7.0
  東京・横浜・川崎で被害が多く、死者は計31人。
  内訳:東京市24人、横浜市4人、橘樹郡3人、
  (たちばなぐん、神奈川県・武蔵国にあった郡)、
  建物の全半壊130棟
  内訳:東京府90棟、神奈川県40棟、
  負傷者157人。
  煉瓦(れんが)造りの建物が被害を受けたほか、煙突の
 倒壊が多く、「煙突地震」ともよばれた。
  首都直下型地震と同種のものと考えられている。
  浅草の凌雲閣(12階建て)が一部損壊・・また・・
  東京麹町山下町の宮内庁の建物(鹿鳴館)も被災し、
  後に、鹿鳴館は修復後、土地・建物が華族会館に払い
 下げられ・・、
  1927年に、徴兵生命保険(のちの大和生命保険)に売
 却された。
.
1894年6月21日、日本政府が清国に対して行った、朝鮮の共
 同改革案の申し入れを、中国・清国が拒否した。
  清から依頼された「南下政策のあるロシア」は、日清
 両国が朝鮮から撤退する事が都合よく・・その為・・
  1894年6月25日、ロシアのギルス外相は、ロシア駐日公
 使を通じて陸奥外相へ、同時撤退について、清国と共に
 合意するようにと伝えた。
  これに対し、陸奥外相は、朝鮮内政改革の必要性を力
 説した・・
  無条件での撤兵は出来ないと回答した。
  ロシアは、日清両国の主張の食い違いを知り、清の李
 鴻章の依頼の調停を打ち切った。
  この頃、ロシアが気になっていたのは朝鮮に強い宋主
 権を行使する中国・清国だった・・、
  ロシアは、「清国が、いずれ朝鮮を清国の一省に変え
 てしまうとの企(たくら)みが北京に存在するかもしれ
 ない」という懸念も感じていた・・、
  さらに、「朝鮮の国内問題に対する清国の断固たる干
 渉」が気になっていた・・、
  この様な状況から、朝鮮国王が、ソウル駐在のロシア
 の代表に対して、朝鮮をロシアの保護下に置いてほしい
 との要請ともなった・・大国ロシアにすがりたい朝鮮・・
 強引な清から離脱したいという朝鮮だった・・、
  ロンドンタイムスが、朝鮮・ロシア間に、朝鮮の保護
 に関する「密約」があると報じた・・が・・この件は「
 誤報」とされたが・・実際は、二度にわたる「朝露密約」
 の試みがなされた・・、
  そして、親日的な甲午改革政権を倒したのが、ロシア
 とつながっていた朝鮮の親露勢力だった。
  また、ロシアには、この強い姿勢の清国とロシアとの
 公然たる衝突に至るかもしれないという懸念が生まれて
 いた・・また、反面・・、
  清国が朝鮮を隷属化を控えているのは、「この露清間
 の緊張感」が存在する故だと・・ロシアは感じていた。
  清と露間にも紛争の可能性が存在した・・
  また、朝鮮国王の側近に、外交顧問という資格でデニ
 ーというアメリカ人が居て、朝鮮の利益を清国に対して
 有利に差配(さはい、指図してとりさばくこと)してい
 た。
  また、朝鮮は、アメリカと、弱小の朝鮮軍に対し、朝
 鮮軍編成のためのアメリカ人教官の派遣について交渉な
 どの要請を行なっていた・・、
  このアメリカと、中国・清国などの存在が複雑さを増
 す要因だった・・
  例えば、朝鮮が困難な状況に陥った場合、アメリカが
 政府として、国として動くのか?という懸念があった。
  これ等の問題の根本に、朝鮮の貧困があった。
  まず、問題の発生があれば、清国の出費で、清が動き
 大勢は維持されるだろう・・清国軍の前衛(ぜんえい、
 警戒・護衛・攻撃のために前方に置く人員)が構成され
 るだろうとロシアは見ていた。
  そして、これに、西欧列強も朝鮮に関わっていて、朝
 鮮は縮小された国際秩序の場だった。
  そして、ロシアの南下を恐れたイギリスに支持されて、
 中国・清国軍の居る朝鮮に派遣された日本軍・・、
  そして、この朝鮮共同改革案の日本の提案に対して、
 清国の拒否が一因となって、日清間の緊張が高まり、日
 本政府は、対清国との初めの対決表明である第一次絶交
 書を送ることとした。
  日本は、朝鮮政府に対し清国と朝鮮との関係、つまり、
 「属国(朝鮮):宗主国(清国)」という宗属関係につ
 いて問いていて、それに対して朝鮮側から日本に、「自
 らの国は自主国である」との回答を得ていた。
  (清国の強引なる清国軍の駐留状態で、朝鮮を属国と
 して扱おうとする不当な行動をとる清だった)
.
1894年6月21日、鉄道局臨時軍用貨物鉄道輸送手続を制定し、
 施行した。
.
1894年6月22日、清国の日本の朝鮮共同改革案の拒否に対し
 て、 御前会議で、朝鮮内政の単独改革が決議された。
  日清戦争の原因について開戦をやむなしとした外務大
 臣陸奥宗光は・・、
  「元来日本国の宣言するところにては、今回の戦争は
 その意全く朝鮮をして独立国たらしめんにあり」と回想
 している(『蹇蹇録』岩波文庫)
  また、三谷博・並木頼寿・月脚達彦編集の「大人のた
 めの近現代史」(東京大学出版会、2009年)では・・、
  「朝鮮は、それ以前の近世における国際秩序において、
 中国の属国として存在していた。
  それに対して近代的な国際関係に入った日本国は、朝
 鮮を中国から切り離そう、独立させようといたします。
  いわば朝鮮という国の国際的な地位をめぐる争いであ
 ったということ」と説明している。
.
1894年6月22日、陸奥外相が、清国公使に対し第一次絶交書
 を提出した。
  宗主国然としている清国・・体よく侵略行為をしてい
 る強国・清国の冊封体制の摩擦から発していた・・ロシ
 アやアメリカ・ヨーロッパも絡(から)んでいるアジア
 の大勢の変化・改革の序章・始まりだった。
.
1894年6月22日、陸軍省が、戦時死体認識票を制定した。
  軍隊において、兵士の個人識別用に使用されるもので・・、
  第二次世界大戦中のイギリス軍では、切れ目のついた
 円形の金属板を手首にチェーンで巻きつけ・・、
  アメリカ軍は、長円形の金属板に穴を空けチェーンな
 どに通して首から提げて使用した。
  日本の陸軍では、小判型の真鍮板を上下の穴に紐を通
 して胴体にたすき掛けにして装着した。
.
1894年6月23日、国際オリンピック委員会が設立さらた。
  この年に、ピエール・ド・クーベルタン男爵が、近代
 オリンピックの設立を提唱し、フランスのパリ・ソルボ
 ンヌにヨーロッパなど各国のスポーツ関係者が集まり、
 オリンピック競技会の復興が決められ、委員会が結成さ
 れた。
  初代会長は、ギリシアの D.ビケラス。
  オリンピック競技大会を4年ごとに開催すること、その
 開催都市を選定することを主要活動とした。
.
1894年6月24日、フランスのカルノー大統領が暗殺された。
  リヨンで演説後・・イタリア人のアナーキスト、サン
 テ=ジェロニモ・カゼリオに刺された。
  翌日の6月25日に死亡(サディ・カルノー暗殺事件)
  パリのパンテオンに埋葬された。
  この様なテロに国際社会全体が脅威する状況の時代だ
 った。
  1890年代は、最新の発明であるダイナマイトが、国王
 や大統領、閣僚を次々と襲う状況だった。
  また、政府の建物も標的となった。
  上層階級は下層階級の反乱に対する懸念を強めて行っ
 た。
  労働者はみな潜在的犯罪者、アナーキストはみなとに
 かく叩きのめすべき「狂犬」として語られれた。
  1894年のこのカルノー大統領暗殺を受けて、諸国の政
 府と警察部門は、何らかの手を打つ必要に迫られた。
  最初に、国際協力を提案したのはイタリアだった。
  国際テロの温床と見なされていたイタリアは、これを
 汚名挽回の機会にしようとした。
  「人類に対する犯罪」、マッキンリーの後継者セオド
 ア・ルーズヴェルト(任期:1901年~1909年)はテロリ
 ズムをそう呼んだ。
.
  (今日の言葉)
.
  題:グローバリズムの名の下に・・自国に有利なことを企(たくら)む
.
紀元前4万年、日本人が日本列島に来た時、日本列島もまだ
 しっかり形成されていない頃で、その地と大陸は、地続
 きだった。
  それは、アフリカからスタートした人類の地球上での
 拡散の一コマだった。
  このような時、やはり、4万年前~1.5万年前には、こ
 の日本人の形成と同じ様に、モンゴロイドの人々が、地
 続きのベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へ渡って
 行った・・アメリカに達していた。
  日本人の形成は、この「ウルム氷期の狩猟民」と、そ
 の後の、「弥生時代の農耕民」とが渡来した「遠い遠い
 昔のこと」だった。
  何度かの渡来の中で、長い長い長い年月を経て、日本
 国土全体における混血が繰り返されて・・日本国土全体
 で繰り返されて・・日本人が形成されて行った。
  それと比較して・・、
  現代と言っていいほどの最近の・・その最近の1614年
 のアメリカのピルグリム・ファザースのアメリカ・イン
 ディアンの方々の地での殺戮と侵略とはまったく違う。
  また、6万1000年前から・・5万2000年前とも、また、
 12万5000年前とも言われているオーストラリアの地に来
 たアボリジニの方々も同様だった・・
  このオーストラリアの地へ、最近とも言いたいくらい
 の1788年に来て、アボリジニの方々を法律まで作って殺
 戮し(アボリジニの方々を殺しても良いという卑劣な法
 律)、侵略し、植民地としたイギリス・・、
  また同様に、最近と言いたいくらいの16世紀の時に、
 ラテン・アメリカの各地に来て、侵略し、全滅と言いたい
 くらいに蛮行を繰り返したスペイン・ポルトガル(この
 時、ローマのバチカンは、先住民の方々を「人間ではな
 い」と言い、つまり、人間ではないから殺してよいと言
 い)・・長い年月、殺しに殺す行為をしたスペインとポ
 ルトガル・・
  このインディオの方々の殺戮を繰り返したスペインと
 ポルトガルとも、まったく違うのだ。
  しかし、今・現在、日本人のこの遠い昔の成り立ちを、
 この最近の蛮行と同じように語って、誤魔化そうとする
 行為がなされている。
  日本の場合は、完全なる混血であった・・その日本の
 数々の遺跡を分析すると、だんだん文化が混在化して行
 くのが分かる・・これは、混血での一体化を証明してい
 る・・
  アメリカ・インディアンの方々や、また、インディオ
 の方々や、そしてまた、アボリジニの方々と同じような
 状況とされる卑劣な言行・・日本人となった経緯が、ヨ
 ーロッパ人の蛮行と同じとされる卑劣な言行がなされて
 いる。
  まったく歴史的、科学的根拠を無視した論理が展開さ
 れている。
  この様な事が、盛んに、今・現在、工作員によってな
 されている。
  また、今・現在、チベットの方々の地が、そして、ウ
 ィグルの方々の地が、そしてまた、内モンゴルの方々の
 地が、最初は自治区だなんて言っ誤魔化していたが、
  この完全なる別民族の地が・・今・現在、漢民族を、
 政策として流入させて、漢民族の地と化する行為が「盛
 んになされている」。
  これと似たような流入が、今・現在、日本においても
 なされている・・特に、沖縄県や北海道、帝国主義的な
 侵略流入が、今・現在、日本に於いて「盛んになされて
 いる」。
     ・
     ・
19世紀以来、学術的なキリスト教神学研究者達は・・、
  『キリスト教の聖書の福音書は、現実世界の歴史で起
 こった事についての信頼できる記述ではない』という決
 定的な論証を、常に行って来ている。
  科学者たちは・・研究者たちは・・誠実である・・
  聖職者たちとは違う・・
  バートランド・ラッセルの言葉 : 
  知的な意味で 著名な人々の 圧倒的多数は・・
  キリスト教を信じてないが・・、
  大衆に対してそのことを隠している。
  なぜなら・・、
  彼らは自らの収入が減ることを恐れているからだ。
 (キリスト教の聖書の記述の1例)
  ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、ま
 ず、降伏を勧告しなさい。
  もし、その町がそれを受託し城門を開くならば、その
 全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばなら
 ない。
  しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲
 しなさい。
  あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、
 あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。
  ただし、女、子供、家畜、および町にあるものすべて
 あなたのぶんどり品として奪い取ることができる。
  あなたは、あなたの神、主が与えられた敵のぶんどり
 品を自由に用いることができる。
  このようになしうるのは、遠くはなれた町々に対して
 であって、
  次に挙げる国々に属する町々に対してではない。
  あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国民の民に
 属する町々の息のある者は、一人も生かしておいてはな
 らない。
  ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エ
 ブス人は、
 あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさね
 ばならない。
  (この申命書の様な記述が、キリスト教聖書には満ち
 満ちている・・この様な文を読まされて・・洗脳される
 子供たちのことを思いなさい・・こんな時間が週に2回も
 あると泣いて訴えた生徒も居た)
.
1882年、アメリカで、『中国人排斥法』が制定された。
  強制収容や国外追放の処罰を課すことで、中国人労働
 者の移民を一時的に停止させた。
  この後、日本人がターゲットにされた。
.
1884年7月7日、ソウル条約が調印された。
  朝鮮が、中国の圧力に屈し、中国・清国との間で結ん
 だこの条約は、藩属関係をも表明する内容となっている。
.
1886年初頭、苦し紛れに朝鮮は、ロシアに援助を求めた。
  中国・清の朝鮮に対する宋主権の行使は酷(ひど)か
 った。
  朝鮮は、その重圧から逃れようと、ロシアを大国と見
 て、「ロシアに庇護を求めた」。
  この1886年初頭に、朝鮮は、ロシアに援助を求めた。
  朝鮮は、「自主独立の国家でありたい」と強調した。
  そのロシアは、1860年代に、すでに、沿海州を侵略し、
 その領土を取り、自分の領土とし・・そして・・、
  1872年には、ウラジオストックを軍港にするというロ
 シアで・・、
  南下政策のロシア、領土欲満々のロシアだった。
  そのロシアの侵略性を警戒したイギリスは、清の権力
 にひれ伏すその朝鮮にも、ロシアの手が及ぶと見ていた。
  朝鮮のロシアを頼りとする行動からも、その成り行き
 は容易に想像された・・そして・・、
  そのロシアの南下政策を警戒したイギリスは、清国の
 居る朝鮮へ日本のかかわりを支持した。
  1894年6月16日、この様な状況の中で、既に清国軍が居
 る朝鮮へ、日本は、仁川に軍を派遣した。
  この後、朝鮮に圧力をかける清と、日本はぶつかり合
 う。
  因みに、日清間には、先に条約で(1884年12月、天津
 条約)、朝鮮に、日清のどちらかの国が軍を派遣したら、
 他の国に照会することが義務付けられていた。
.
1929年、この年から始まった世界大恐慌には、アメリカが
 自国産業保護のため関税を引き上げると、各国が報復関
 税を化した。
  (今・2018年と同じような状況・・)
  第二次世界大戦の原因の一つの始まりだった。
  経済においても、戦争の原因作りのアメリカだった。
  そして、各国で、外国製品を締め出す「ブロック経済」
 化が進み・・、
  輸出を増やすために通貨の切り下げ競争も起こった。
  世界の貿易量は、約4年で「3分の1に縮小した」。
  世界経済が・・深刻な不況に陥(おちい)り、第二次
 世界大戦の一因となって行った。
.
1931年9月18日、満州事変が起きた。
  NHKはじめ日本のマスコミは、満州事変の後、戦争
 を煽(あお)った。
  新聞は部数の伸長を目論んだ行為だった。
.
1937年8月13日、第二次上海事変
  中国の蒋介石軍(中華民国軍)は、アメリカに武器・
 弾薬を援助されて、大部隊で上海の日本租界を包囲し、
 この日、大攻撃をかけて来た。
  この戦いから、日本軍の南京への進軍が開始され、い
 わゆるデッチアゲラレタ「南京事件」が起きたとされる
 のだが・・
  そして、この戦いから、日中戦争が始まり・・第二次
 世界大戦へとつながっていくのだが・・、
  この頃、父を朝日新聞の記者として持つ人が白状する・・
  言うことは、当時、やはり朝日新聞の中にも、「南京
 へ追撃するべきと主張する派」と、「南京への追撃は控
 えるべきだとの主張する派」の二つの派があった・・が、
 しかし、
  社内が南京へ追撃すべきとする派が強くなり、歯止め
 も効かなくなり、「行け行けどんどん」となったという
 ことを白状し・・証言している。
  この様に、NHKをはじめ「日本のマスコミ」は追撃
 することを煽った・・
  アメリカに支援された中国軍の先制攻撃に対する追撃
 の論調となった・・ここが分岐点であったが・・その方
 向を決めた。
.
1990年、イラクが、クウェート侵攻をするとアメリカは、
 反フセインとなった。
.
2003年、アメリカは、スンニー派のフセイン政権を倒して、
 イラクで比較的多数のシーア派の政権を誕生させた。
  何で自分勝手に他の国に介入するのだ・・??
.
2016年1月、アメリカと、他の5カ国の6カ国が、イランの経
 済制裁を解くと発表した。
.
2016年11月17日、大統領になる予定のトランプ氏が、台湾
 総統との異例の電話会談をした・・その意味・・、
  2016年11月17日に、安倍首相とトランプ次期アメリカ
 大統領がニューヨークのトランプタワーで初会談を行っ
 た。
  トランプ氏は、他国の首脳から早期の会談要請が殺到
 するなか、安倍首相との会談を最優先させた。
  しかも、自宅に招くという厚遇ぶりで、日本を重視し
 ている姿勢を見せた。
  会談後に、安倍首相が「信頼できる指導者だと確信し
 た」と述べた。
  トランプ氏は、「素晴らしい友好関係を始めることが
 できてうれしい」と述べるなど、会談が有意義であった
 ことを強調した。
  安倍首相の素早い動きには、中国も驚いた。
  安倍首相は、トランプ氏の当選が確定した日の翌朝す
 ぐに電話で祝意を伝えた。
  中国はそれに焦り、11月9日、CCTV(中国中央電視
 台)は習近平主席がトランプと電話会談したというニュ
 ースを流した。
  ところが、トランプ氏側から「していない」と否定さ
 れた。
  安倍首相が電話会談した以上、習近平も会談したこと
 にしないと、大国の指導者としてのメンツが潰れると思
 ったらしい。
  14日になって実際に電話会談をしたようで、いずれに
 しても、恥をかかされたかたちとなった。
  さらに、12月2日(アメリカ時間)には、トランプ氏は
 台湾の蔡英文総統と電話会談をした。
  これは、1979年のアメリカと台湾の断交以来初めての
 ことだった。
  しかも、自身のツイッターで、「台湾総統が今日、私
 に、大統領選勝利に祝意を表したいと電話をくれた。あ
 りがとう!」と書き込んだ。
  「ThePresident of Taiwan」と、あたかも独立国家の
 元首のように扱っていた。
  当然、台湾では大きく報じらた。
  トランプ氏への期待が非常に大きくなっている。
  安倍・トランプ会談について、中国共産党の機関紙で
 ある「人民日報」の国際版「環球時報」は「朝貢だ」と
 書いた。
  ・・が、蔡英文との電話会談については王毅外相が「
 台湾側のくだらない小細工だ」と嫌味を言った。
  これは、中国のパニック状態を象徴していた。
  中国は、かなり衝撃を受けた。
  なにしろ、トランプ氏は、数十年来の絶対的タブーを
 破ったのだった。
  即座に不快感を表明し、アメリカにも抗議したという。
  王毅外相は台湾を批判しているが、トランプ氏のこと
 は批判していない。
  トランプ氏と衝突するのを避けたかったのだろう。
  あくまで、台湾が仕掛けたというスタンス。
  しかし、トランプ氏は、かなり中国を意識した行動を
 している。
  「自由時報」(2016年12月3日付)によれば、当日は
 シンガポールのリー・シェンロン首相、フィリピンのド
 ゥテルテ大統領、アフガニスタンのガーニ大統領とも会
 談しているが、ツイッターには蔡英文氏のことしか掲載
 していない。
  これは意図的にやっていること。
  中国の反応を見るためだという・・、
.
2018年、EUから、当初の美しい理念は消えた・・
  そして、ある意味「全体主義理念のEU」が、ここに
 現れた。
  世界世論は、「EU各国の個別の事情に配慮せず、財
 政規律を過度に重視するEUの政策が、反発を招く一因
 になっている」・・と、指摘しているが・・、
  そしてまた、経済格差の是正が、「EUの課題だ」と
 しているが・・、
  援助ばかり受ける国や、限りなく援助ばかりをする国
 (援助ばかりをさせられる国)など・・、
  その格差の方こそ、最初に、解決すべき問題なのでは
 ないのか?・・と・・、
  そもそも、EUとして、まとまる必要性があったのか?
  原点からかい離した存在になっている・・と・・、
  その様な現状が、求めるものだったのか?・・と・・、
  ぶら下がり国家の救済の結合なのか?・・
  それで良いのか?・・と・・、
  努力するものが正当に評価されて報われ・・努力もし
 ないものが、その行動の厳しい評価を甘受(かんじゅ、
 甘んじて受けること)する社会でなければならないので
 はないか?・・と・・、
  努力もしない国家を助けて「善人顔をするな!」の声
 も・・、
  当然、必要なのは信賞必罰社会。
  (参考)全体主義:ぜんたいしゅぎ、全体の利益を第
     一とし、個人の価値は全体に奉仕する点でだけ
     認める(政治上の)主義。
  (参考)信賞必罰:しんしょうひつばつ、功績ある者
     は必ず賞し、罪過ある者は必ず罰すること。賞
     罰を厳格にすること。
.
2018年2月2日、中国、欧州で影響力拡大
  ドイツと言えば、今や、その経済力で強力な立場にあ
 る。
  今、ドイツは、EUが形成されて、そのリーダー的地
 位にある。
  また、「ドイツ圏」と称せられる「ドイツへニコニコ
 顔を向ける国々」に、「ベネルクス」「オーストリア」
 「チェコ」「スロベニア」「クロアチア」などがある。
  また、そのドイツ圏へ近づきたいという「ロシア嫌い
 な国々」がある・・、
  それが、「ポーランド」「スウェーデン」「フィンラ
 ンド」「バルト三国」・・など、
  この様に・・「ドイツ帝国圏」と称すべき大きな領域
 が存在する。
  そのドイツに付いて行くのか?
  成り行き上、付いて行かざるを得ない・・とする国々
 があるが・・この様に、ドイツのパワーは大きくなって
 いる。
  EU圏内では、ドイツの一人勝ち状態にある。
  そして、このドイツが、非常に強く中国と関わってい
 る・・
  このことが、現時点(2018年)で、世界の大きな関心
 事となっている。
  世界のバランスが、ここから崩れて来る。
  ヨーロッパの国々は、中国に違和感を持っていない。
  中国は、アジアでは、帝国主義的な国で・・領土欲で
 もって振る舞い(例、南シナ海など・・)、アジア諸国
 では、その様な中国に対しての警戒感が強いが・・
  ヨーロッパ諸国は、こぞって中国が主導するAIIB
 (アジアインフラ投資銀行)に参加した。
  そして、最近(2018年2月2日)の読売新聞によれば・・
  「中国、欧州で影響力拡大」の表題の記事がある。
  そして、副標題に・・「英首相訪中、EU離脱、混乱
 に乗じる」とある・・
  その内容は・・、
  英国のメイ首相は、訪問先の中国・北京で、中英関係
 について「『黄金時代』を引き続き前進させる」・・と
 述べ・・、
  経済を中心とした関係強化を進める姿勢を鮮明にした。
  英国の欧州連合(EU)離脱の混乱に乗じて、欧州で
 の影響力拡大を図る中国のもくろみは、今年に入ってマ
 クロン仏大統領、メイ氏と続く主要国首脳の「中国詣で」
 で着々と進んでいる・・中略・・
  中国側も、(英国が)EUの単一市場からの脱退を控
 え、中国との間で自国に有利な内容の自由貿易協定(F
 TA)を結びたいメイ氏にとっての「焦点」が経済協力
 にあることを見透かしている。
  李氏(李克強・りこっきょう首相)は、「両国関係は
 英EU関係が変化しても変わらない」と述べ・・、
  金融や貿易などでの協力推進を強調した。
  中国商務省によると、今回の訪中で、両国は、総額約
 90億ポンド(1.4兆円)に上る商談に合意するという。
  英国が離脱した後のEUを支える仏など主要国も、英
 国のEU離脱を支持するとともに、「米国第一」に突き
 進むトランプ米政権への警戒感もあり、中国との関係強
 化に拍車をかけている。
  中国としては、北朝鮮や貿易問題で、米側からの圧力
 を受ける中、EU内の「反トランプ」の雰囲気をうまく
 すくい取り、欧米諸国の結束を崩す思惑がある。
.
2018年6月18日、日本の航空会社のJALとANAが、卑劣
 な事に、台湾の事を「中国台湾」と表記する事にすると
 したと発表した。
  毎日新聞2018年6月18日 17時34分
  航空会社 JALとANA、台湾を「中国台湾」表記
 【台北・福岡静哉】中国政府が、外国の航空会社に対し
 ホームページ(HP)などで台湾を「中国台湾」などと
 表記するよう要求している問題で、日本航空(JAL)
 と全日本空輸(ANA)は18日までに、中国人客向け
 のHP上で台湾の表記を「中国台湾」とした。
  ただ、台湾人客向けのHPでは、両社ともこれまで通
 り台湾を他の国・地域と同列に表記している。
  中国の要求を受け入れる一方、台湾にも配慮した形だ。
.
  中国は、台湾を「中国の領土」とするが・・、
  台湾は、「中国の一部ではない」との立場。
  中国は、各国の航空会社に明確な表記を要求し、応じ
 なければ行政処分を科すとした。
  JAL、ANAの広報部は、「各HPを利用するお客
 様にとって分かりやすく受け入れられる表記にした」と
 説明した。
  だが、台湾外交部(外務省)は18日、両社に抗議す
 るコメントを出した。
  中国政府は5月25日、要求を通知した44社のうち
 18社が表記を変更し、残り26社も7月25日までの
 変更を承諾したと発表した。
  英メディアによると、米政府は米大手航空3社に対し、
 要求を無視するよう求めたという。
.
 【台北時事】日本航空と全日本空輸が、中国向けの公式
 ホームページなどで、「台湾」を「中国台湾」と表記の
 変更をしていたことが分かり、台湾外交部(外務省)は
 18日、対日窓口機関の台北駐日経済文化代表処(大使館
 に相当)を通じて厳重に抗議するとともに、表記を元に
 戻すよう求めると発表した。
.
  産経新聞、6月6日、アメリカでは、政権が「中国台湾」
 などの表記をしない様にと要請。
  「中国要求に従うな」米政権、台湾表記問題で米航空
 会社に要請 英紙報道
  【ワシントン=塩原永久】中国政府が外国航空会社に
 対し、ウェブサイトなどで台湾を中国の一部として表記
 するよう求めている問題で・・、
  英紙フィナンシャル・タイムズ(電子版)は6日まで
 に、トランプ米政権が米国の航空大手に中国の要求を飲
 まないよう要請したと報じた。
  米政府当局者がユナイテッド航空など大手3社に伝え
 たという。
  同紙によると、米政権はユナイテッドやアメリカン航
 空、デルタ航空に対し、自社のウェブや地図上で中国当
 局の基準に沿った「中国台湾」などの表記をしないよう
 要請した。
  中国民用航空局が4月、36社に対し、台湾や香港、
 マカオが中国の一部であることを明確に表記するよう改
 善を求める書簡を送付したとして、米ホワイトハウスは
 先月上旬、抗議する声明を出していた。
  ただ、米航空大手は「米政府と緊密に協議しながら対
 応を検討している」(デルタ)などと対応に苦慮。
  中国路線は成長市場で、中国国内の空港への着陸を不
 許可とする中国側の制裁措置が大きな懸念となるためだ。
  欧米メディアによるとオーストラリアのカンタス航空
 などが中国の要求を受け入れる方針を示した。
.
  (関連)2018年3月2日、米国で「台湾旅行法」成立す
     れば、戦争に発展も=中国英字紙
     [北京 2日 ロイター}中国国営英字紙チャイ
     ナ・デイリーは2日、米国で台湾との関係強化
     を目指す「台湾旅行法」が成立した場合・・、
      台湾を巡る戦争に発展する可能性があると警
     告した。
      同法の内容は、全レベルの米政府職員に台湾
     への渡航と当局者との面会を許可し、同時に台
     湾当局者に対し「敬意のこもった条件で」訪米
     し米政府当局者と会うことを許可するもの。
      トランプ米大統領の署名を待つばかりとなっ
     ている。
      チャイナ・デイリーは論説記事で、法案が成
     立すれば台湾の蔡英文総統は台湾の主権をいっ
     そう強く主張することになるだけだ、と強いト
     ーンで主張。
      「蔡総統が主権を主張すれば、中国では台湾
     の離脱を阻止するための『反国家分裂法』発動
     が避けられなくなるだろう」と述べた。
      さらに「その場合、米国は国内法に基いて台
     湾のために行動を起こさざるを得ず、地獄に転
     落するのは簡単だという見解に実態を与えるだ
     けだ」と警告した。
      中国は蔡総統が正式な独立を志向していると
     みているが、総統自身は現状を維持したいとし
     ている。
      一方、台湾側は「台湾旅行法」を歓迎した。
.
2018年6月19日、中国の手先と化しているNHK
  NHKワールドで、NHKが、中国の工作通りのアイ
 ヌ民族についての放送をしていた(pm13:40)
  NHKワールドという番組で、世界に向かって、中国
 の工作の宣伝の「ごますり番組」の様だった。
  中国に媚(こび)、日本を貶(おとし)める事をして
 来たNHKが、また、その様な番組を、また、放送して
 いた。
  中国が、ことさら言う、アイヌは、日本人とは違うと
 いうその片棒担ぎを世界に宣伝していた。
  NHKが、「そうではない」というのなら、この様な
 作り方で、「青森県」や「山形県」や「秋田県」や「岩
 手県」や「宮城県」や「福島県」や「栃木県」などなど・・
 日本のすべての県を、この様な作り方で番組を作って世
 界に向けて放送せよ!
  日本の各県は、バラエティーに富んだ、それぞれ特徴
 のある県なのだ『という事を説明せよ』・・アイヌだけ
 では誤解を与える。
  何故? NHKは、アイヌだけを番組を作って放送す
 るのだ?
  アイヌの方々は、遺伝子情報的にも「まったくの日本
 人と同様なのだ」・・この様な事は番組内でまったく言
 ってない・・説明していない・・、
  琉球と言われる沖縄県の方々も同様に、遺伝子情報的
 にはまったく同一の縄文人を祖先としている。
  何万年もの・・長い長い間(西暦2000年の何十倍もの
 長い長い間)・・日本列島を移動して来て、混血を重ね
 て来た同一民族なのだ。
  何を血迷ってNHKは、中国の言う「アイヌ独立論」
 の片棒を担ぐ番組を放送するのか?・・
  それも、世界へ向かって放送するNHKワールドで・・?
  何万年もの遠い昔から、日本列島には日本人を形成す
 る人々が数度にわたってやって来た。
  その人々が混血し・・混血を繰り返し・・日本人を形
 成して行くのだが・・
  その数度に渡る混血の仕方に差があるから・・地方の
 差ができたのであって・・総べて、中国の言うアイヌ独
 立論は、陰謀の結果の論理であって、NHKが賛同して
 わざわざその番組を作って放送するに及ばぬのだ!
.
2018年、中国(現在の中華人民共和国、漢民族政権)は、
 グローバリズムの名の下に漢民族の工作員を近隣諸国へ
 潜り込ませている。
  この国の前のこの地・中国は、満州族(女真族)が、
 清国という国を形成し・・、
  中国の政治を行なう『満州族の地だった』。
  そして、その満州族政権は、漢民族に変わられた。
  (参考)満州民族:まんしゅうみんぞく、(満洲族、
     まんしゅうぞく)は・・、満洲(中国東北部、
     沿海州など)に発祥したツングース系民族。
      古くは女真族といった。
      17世紀に、現在の中国、および、モンゴル国
     の全土を支配する清を興した。
  その満州族は、大東亜戦争の終戦まで、「満州」とい
 う国を建国していた。
  その地域は、中国の政権が、「化外の地」だとした。
  その地は、「我々・中国とは関係のない地だ」とした。
  「異民族の地だ」とした「万里の長城の北方」の「万
 里の長城の外の地域」であるとした。
  しかし、中国の現政権・中華人民共和国になって、こ
 の地を我がものだと考えを変えた・・そして、領土とし
 た。
  その満州国を無くした。
  そして、今・現在(2018年)、そこに居た満州族の方々
 は、まったくと言って良いほど、かつては、一杯居た満
 州族のその方々は、居なくなってしまっているという。
  殺されたのか? 
  何処かに追いやられたのか?
  満州族の方々の痕跡は、まったく無いという。
  国とは、「ある地域」に「ある民族」が居て・・そし
 て、成り立つが・・、
  中国の現政権は、満州族を消して、かつての満州国の
 痕跡を消した。
  国とは、この様にして奪われるもの・・、
  今、日本人は、「のほほん」と幸せに暮らしている・・
 この国・日本も、この様に簡単に奪われてしまう。
  盤石な日本にするためには、しっかりした日本という
 国への意識を持たなければならない・・そうでなければ、
 満州国の様に、日本も消え去ることとなる。
  今、チベットが、盛んにこの行為をされている。
  また、ウィグルの方々の地が・・、
  そして、内モンゴルの方々の地が、盛んに国や民族の
 痕跡が消されている・・漢民族の地と化している・・
  これを、漢民族の中共は、「グローバリズム」と美し
 く誤魔化す。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2018-06-28 04:31 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)599E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)

題:(増補版)599E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年6月12日、鉄道敷設法の一部改正を決定した。
  中央線や、その他5線の篠ノ井線・鹿児島線などを第1
 期線に追加し、篠ノ井線の起点を篠ノ井と決定した。
  鉄道敷設法(てつどうふせつほう)は、国が建設すべ
 き鉄道路線を定めた日本の法律で・・、
  1892年6月21日に制定された旧法と、同法を廃止し新た
 に1922年4月11日に制定された改正法がある。
.
1894年6月12日、実業教育費国庫補助法が公布された。
  井上毅文相の実業教育振興政策に基づいて制定され、
 実業学校に国庫補助金を交付することを定めた。
  裁可:1894年6月11日、公布:1894年6月12日、施行:
 1894年9月1日
  朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル実業教育費国庫補助法ヲ裁
 可シ茲ニ之ヲ公布セシム
  御名御璽
  明治二十七年六月十一日
            内閣総理大臣 伯爵伊藤博文
            大蔵大臣   渡辺国武
            文部大臣   井上 毅
  法律第二十一号
  実業教育費国庫補助法
  第一条:実業教育ヲ奨励スル為ニ国庫ハ毎年度金十五
      万円ヲ支出シテ其ノ費用ヲ補助スヘシ
  第二条:公立ノ工業農業商業学校、徒弟学校及実業補
      習学校ニシテ実業ノ教育ニ効益アリト認ムル
      トキハ文部大臣ハ其ノ学校ニ補助金ヲ交付ス
      ヘシ
  地方官庁ノ認可ヲ経タル農工商組合ニ於テ設立シタル
 実業学校ハ文部大臣ノ特別ノ認定ニ依リ前項ニ準スルコ
 トヲ得
.
1894年6月14日、北里柴三郎が、ペスト菌を発見した。
  1894年6月18日、北里柴三郎が、ペスト菌発見を公表
 した。
  この報告は、翌日の1894年6月19日の午前に内務大臣に
 伝えられた。
  そして、1894年6月21日に、新聞は報道した。
  北里は、さらに、コッホ研究所や、香港政庁を通じて
 イギリス植民地大臣に伝え、そして、このニュースは、
 世界へも伝えられた。
  北里は、研究成果を発表しようと、1894年7月7日に、
 論文を一気に書いた。
  これが、「ペスト病の原因調査第一報」だった。
  これは、ペスト菌に対する単なる報告書ではなかった。
  まず、異例ともいえる「ペスト病」検証報告書だった。
  そして、これには、続けて、ペスト菌発見に至る過程
 が記述されている。
  この記述は、ペスト菌に対する観察が精緻を極め、か
 なり長文に渡って説明されていた。
  そして、その中で問題となった部分・・専門的にもな
 る「グラム染色」に関わる件があった。
  北里は、この「グラム染色」の結論を書かなかった。
  「かのグラム氏複染色法を用い得るや否やは、後日を
 もってこれを報道すべし」として、結論を先送りしてい
 た。
  ここが問題とされた。
  北里が、もし、「ペスト菌はグラム陰性である」と記
 述していれば、その様な問題は発生しなかった。
  このグラム染色法は、デンマークの医師・グラムが開
 発したもので、菌の分類法である。
  菌が、「陽性」か、「陰性」を問う。
  北里柴三郎の論文は、後日、日本の官報に1894年7月31
 日と1894年8月1日の2回に分けて掲載された。
  緻密な調査報告書だった。
  また、北里には、この報告書の主要部分をまとめたド
 イツ語の論文もあった。
  このドイツ語論文を、イギリス人医師のラウソン国家
 医院副院長が読んだ。
  そして、このラウソンが、この論文を、イギリスの伝
 統と権威を持つ医学雑誌「ランセット」に掲載しません
 かと北里に薦めた。
  世界的権威のある雑誌であった。
  北里は、名誉ある事ですからとお願いした。
  そして、ラウソンが、自ら、英訳を買って出た。
  北里は、その好意に感謝し依頼し、即座に英訳され、
 北里の同意のもとに送付された。
  この論文は評価され、直ちに、掲載となり、8月1日号
 と8月25日号に掲載された。
  内容は、ペスト菌の発見を伝え、その論文と共に、標
 本の図解やイラストも掲載されていた。
  そして、そのイラストには、正しくペスト菌の形態も
 捉えていた。
  北里柴三郎が、明らかに、顕微鏡下にペスト菌を捉え、
 観察していることを示している証拠だった。
  さらに、北里は、コッホ研究所にドイツ語論文と共に、
 塗抹標本と培養菌を送っていた。
  コッホ研究所では、この菌で、追認試験が行われ、「
 北里柴三郎のペスト菌」は明らかにペスト菌で、「グラ
 ム陰性」であると確認された。
  今日のペスト菌についての常識である「グラム陰性・
 卵円形・短小棹菌」がここでも立証された。
  確かに、北里柴三郎は、1894年6月に、香港でペスト菌
 を発見したのだった。
  北里柴三郎が、流行の早期に、ペスト罹患の危険の中
 を香港へ積極的に行ったのが、ペスト菌発見に功を奏し
 た。
  ペスト患者が多くなると、種々の型のペスト菌も発生
 して、真のペスト原因菌の発見を複雑にする。
  (患者数が多いと発見はできないとも言われている)
  ただ、染色される菌についても北里は触れてもいた。
.
1894年6月16日、日本政府が、清国に朝鮮の内政改革を共同
 で行う提案をした。
  陸奥外相が、清国に朝鮮内政の共同改革を提起した。
  清国が、共同での改革に合意しなければ日本は単独で
 でもこれを行いますと提案した。
.
1894年6月20日、清の李鴻章が、ロシアに日清間の調停を依
 頼した。
  ロシアには南下して行きたいという「南下政策」があ
 り、この調停依頼自体が問題だった。
  問題を複雑にするだけの「干渉行為」ともなった。
  ロシアは、自国の南下政策上、日清両国の朝鮮撤兵を
 表明した。
  しかし、このロシアの南下政策を警戒していたイギリ
 スは反対し、日本を支持した。
  ロシアは、1860年代に、沿海州にどんどん侵略し始め
 ていた・・そして・・、
  1872年(この時から20年も前)から、すでに、ウラジ
 オストックを海軍基地を軍事基地にして、建設を完了し
 ていた。
  (今・現在の南シナ海・・中国の屁理屈で領土だとさ
 れ、基地化しないと初めは言っていたが・・今はミサイ
 ルやレーダーも配備している)
  この頃、朝鮮と関係していた国は、日本だけでなく、
 ロシア・清国・・そして、アメリカ・イギリス・ドイツ
 が朝鮮と関係していた。
  1884年、ロシアは、朝鮮と条約を結んだ(露朝修好通
 商条約)
  この時までは、ロシアは、アメリカやヨーロッパが、
 朝鮮の鎖国状態を開こうとしていたことに反対していた。
  そして、抵抗をしていた。
  (朝鮮の鎖国状態を維持させようとしていた)
  これは、ロシアが朝鮮に進出したいという下心(した
 ごころ、表に現わさず、ひそかに心の中で考えているこ
 と)があったためだった。
  また、ロシアは、朝鮮に進出するアメリカやヨーロッ
 パ諸国が、積極的に進出する事に対して、さらなる軍事
 的脅威が増すと考えていた。
  ロシアは、沿海州などの侵略において、ロシア人の入
 植を進める上で、朝鮮から食糧など、特に、家畜を得た
 いとしていた。
  故に、この露朝間の交易は拡大していた。
  この様な状況の中で、フランスが、朝鮮の開国を目的
 として、1866年に、フランス艦隊を朝鮮に出撃させた・・、
 また、1871年には、アメリカ艦隊が来た・・そして、開
 国を迫った。
  この時、アメリカは、ロシアから共同歩調をとる様に
 求められた・・が、しかし、拒否した。
  ロシアは、朝鮮から利益を得ることはなく、「形勢を
 観望的にする」としていた。
  この様な荒れる朝鮮情勢の中で、1876年2月、日朝修好
 条規が締結された。
  この時、日本は、ロシアも、朝鮮と同様な条約を結ば
 ざるを得なくなるだろうと見ていた・・ロシアが進出し
 て来るだろうと見ていた。
  そして、朝鮮は、宗主国・清国の主導で欧米への開国
 が実現された。
  今・現在、日本は、軍事的に弱い状況にあるが・・こ
 の様に、軍事的に弱い朝鮮は、この時も、主導権を持ち
 得ず、清国が宋主権を行使するという様な状況だった。
  清国の思惑は、日露の朝鮮に対する関係を牽制するも
 のでもあった。
  (結局、自国の宗主国的な立場を維持したいのだった)
  1882年5月、清国の仲立ちで、米朝修好通商条約が締結
 され・・、
  1882年6月には、同様に、清国の仲立ちで英朝間の、そ
 して、独朝間の同内容の条約が調印された(イギリスと
 ドイツとの条約)
  この様な状況を見て、ロシアは焦った・・色々画策す
 るが失敗に終わる・・この様に各国が渦巻く展開が続く・・
  この様な時、朝鮮は清国の属邦ではあるが、内治外交
 とも自主である趣旨の朝鮮国王のロシア皇帝あての照会
 が手渡された。
  日本は、米英独と共同歩調的な中にいた・・
  そして、朝鮮は、この様な中で、壬午軍乱後(1882年
 10月)の清国の重圧から脱するために、隣接国たるロシ
 アとの間で清国の仲介を得ずに条約を締結したい旨を申
 し入れていた・・特に、朴泳孝・金玉均は朝鮮が自主独
 立の国家であることを強調した。
  朝鮮は、大国たるロシアへの期待があった。
  日本も、この朝鮮の清国からの独立を確認をしたいと
 した。
  露朝条約が締結されると、1885年10月、ロシア大使が
 ソウルに着任した。
  大使館も開設され、朝鮮国王周辺の対露働きかけなど
 で朝鮮の政局に影響が及ぼされた。
  1888年、ロンドンの「タイムズ」が、朝鮮保護を約す
 る露朝間の『密約』が結ばれたと報じた・・これは誤報
 だった・・
  この様に、各国が策謀する朝鮮周辺だった。
  また、ロシア太平洋艦隊に対して、朝鮮沿岸を監視せ
 よとの命令が、ロシア政府から発せられたりした。
  また、朝鮮保護、朝鮮領土保全の多国間条約締結、ロ
 シア人軍事教官派遣などの命令が、ロシア政府から出さ
 れ、1885年6月、ロシア外交官がソウルへ派遣された。
  1885年4月、イギリスが巨文島を占領した。
  1886年、ロシア海軍省で、新浦(馬糞島)の獲得が検
 討された(不凍港獲得関係)
  しかし、ロシアが見たものは、大院君(全渓大院君、
 李氏朝鮮の第25代国王・哲宗の父)の釈放帰国に伴う清
 国勢力の優勢さと、朝鮮国王の不満の充満状態だった。
  1886年初頭、ロシア政府は、朝鮮国王からの援助要請
 があったが、清国の対朝武力干渉さらに朝鮮併合は、隣
 接する地の沿海州の安全を脅かすと危惧した・・そして、
 朝鮮の清国からの自立を慎重に検討した。
  ロシア政府は、清国によって朝鮮併合がなされるかも
 しれないと危惧していた。
  1886年秋、露清間で、朝鮮の安全保障に関する交渉の
 合意がなされた。
  この間、朝鮮国王廃位が取りざたされた。
  朝鮮は、可哀想だが各国からいい様に扱われていた・・
  だから、1910年に、日本に併合されて、安定した国の
 状態となり、衛生的な国にもなり、人口が3倍にもなり、
 国が栄えた時のことを、それを体験された朝鮮の御老人
 方は、「良かったよ」と言ったのだった。
  それまでの朝鮮は、各国列強にいい様に扱われていた。
  1888年5月、極東問題特別会議が開かれた。
  この会議は、極東のロシア領の現地のロシア当局と、
 極東諸国に駐在するロシア外交官の会議であったが、
 決議された事の1つに・・、
  「ロシアによる朝鮮獲得については、朝鮮は経済的に
 貧しく、軍事的には長い海岸線の故に防衛困難であり、
 外交的には朝鮮侵略は英清(イギリスと中国・清)との
 決裂をもたらすとして、この様な事をしない」・・とな
 った(領土欲の満々のロシアだった)
  そして、朝鮮が弱小である故、中国・清か日本の支配
 下に入るだろうが・・いずれの場合も、ロシアに対する
 脅威になる・・とした。
  そして、仮に清国が、朝鮮を恒久的に制圧するような
 ことになれば、中国海域での海軍の示威(じい、威力を
 示すこと)あるいはロシア国境近くの朝鮮海岸地方の一
 次的占領といった措置をとることとした。
  ロシアは、日本は行動を起こさないと無視した判断を
 している。
  この結果、1888年8月、ロシア・清国が朝鮮領土保全に
 関する条約を結んでいる・・また・・、
  1894年6月の清国の朝鮮出兵に対し、ロシアは、日本の
 出兵より危惧していた。
  1894年6月8日に、天津でロシア公使は清の李鴻章に、
 「清国は情報を故意に誇張し、朝鮮への対処をしている」
 とくぎを刺し・・「反乱が鎮圧され次第、直ちに撤兵を」
 と言っている。
  逆に、ロシアのカッシニ駐清公使は、日本の駐清臨時
 代理公使の小村寿太郎に対し、「日本の派兵の必要を認
 めていた」。
  清国の李鴻章は、「清は宗主国による属邦保護の旧例
 に従い朝鮮の要請により行ったものだ」と言い、
 「ロシアとは無関係」と言った。
  日本は、この様な推移の中、6月16日、仁川に上陸する。
  この後、日本と清国の角がぶつかり合って行く・・、
.
  (今日の言葉)
.
  題:工作員が一杯・・スパイ天国となっている日本・・あちこちで暗躍している・・
.
紀元前1万3000年以前、日本の縄文時代は、紀元前13,000年
 頃から約1万年以上もの長い間続いた。
  その間に作られた土器の形や色など、また、住み方・
 家などが、だんだん変わって行った。
  また、その縄文(じょうもん)時代より以前・・、
  縄文時代より前の旧石器時代の人々は、マンモスなど
 の大きなえものを追いかけて、日本列島の中を移動しな
 がら生活をしていた・・
  その様な遠い昔からの歴史が、日本列島全体にある。
  そのため、住んでいたのは、すぐに移動ができるテン
 トのような家だったと考えられている。
  縄文時代になると、人々は、長い間、同じところで生
 活できる家を作った。
  みんなで集まって生活するようになった。
  これが、「村(ムラ)」の始まりだった。
  縄文時代の代表的な家を『竪穴住居』と言った。
  この住居は、地面を掘って何本か柱を立て、上に屋根
 を設けた。
  半地下式の家だった。
  ムラのなかには、竪穴住居だけでなく、太い柱を使っ
 た大きな建物や、みんなが集まる広場、死んだ人を埋葬
 する墓、貝がらや食料の食べかすを捨てる貝塚・・など
 が作られていた。
  また、ストーンサークルとも呼ばれる、いくつもの石
 を直径30~50メートルの大きな円形にならべた環状列石
 も見つかっている。
  ムラの周り広がる「クリやクルミなどの森」は手入れ
 がなされた。
  ここから、生活に必要な食料や木材を手に入れること
 ができる「縄文里山」として大切にされていた。
  縄文時代の人々は、丸木舟に乗って海をわたり、遠く
 はなれた場所の特産品を手に入れていた・・交流・交易
 をしていた。
  縄文時代の遺跡には、本州でしかとれないヒスイとい
 う美しい石が北海道で見つかったり・・、
  また、逆に、北海道の黒曜石が、本州で見つかったり
 している。
  また、暖かい南の海でしかとれない数種類の貝が、北
 海道で見つかっている。
  縄文人は、日本列島の広い領域を行き来していた。
  縄文の人々は、これらのヒスイや貝などを使って、首
 かざりや、腕輪などのアクセサリーを作っていた。
  また、とても硬い黒曜石は、先を鋭くとがらせて、狩
 (か)りに使う石ぞくや石やり、ナイフなどにしていた。
  縄文時代にも、日本列島での全国規模の交流が行われ
 ていて、人々やモノや情報の活発な動きや交換があった。
  そして、この縄文時代の住居である竪穴住居が、従来、
 考えられて来た茅(かや)が葺(ふ)かれた形ではない
 ことが分かって来た。
  茅が葺かれていたという痕跡がまったくないからで、
 逆に、「土(つち)の屋根」という痕跡が発見されてい
 る。
  例えば、岩手県一戸町の御所野遺跡に、火事にあって
 燃えてしまった縄文時代の住居があった。
  火事で、柱などの木部が炭化したため、腐敗菌に木質
 部が腐敗されずに残った。
  その様な腐らなかった竪穴住居の柱の部材の脇に焼け
 た土が、また、部材の間に堆積していた。
  それが、屋根部分の土だと推測された。
  また、茅には「ガラス質」が含まれているが、この住
 居跡からは、屋根に使われていただろう茅のガラス質が
 あまり検出されず、「屋根が茅だ」という痕跡が否定さ
 れ、「土葺きの竪穴住居の屋根」と推測された。
  また、土葺きの竪穴住居の焼却実験もなされ、この遺
 構の通りの様になることも実証された。
  この様な遺跡が、日本各地で発見され、北海道でも発
 見された。
  北海道の入江・高砂貝塚遺跡や、東北地方、関東地方
 などで発見された。
  縄文人は、日本全土で「土葺きの竪穴住居」に住んで
 いた。
  また、ガラス質を含む硬い茅を刈り取る道具の存在の
 可能性も無い事が、その裏付けにもなっている。
  今、北海道庁の会議で、北海道には、この様な縄文人
 は居ないという答弁がなされている。
  まったく、歴史的事実を無視した非科学的な議論がな
 されている。
  北海道庁の会議では、「無土の地」という間違った答
 弁がなされている。
  誰も居なかったという意味で、この様な間違った認識
 の議論がなされ、この様な間違った認識の議員が、北海
 道政を動かし、行なっている。
  そして、また、北海道の白老町では、北海道は「アイ
 ヌ民族の地だ」ということで、白老町の中のある地域を
 アイヌ民族に返還するという間違った話が進んでいると
 いう。
  しかも、国の金が、我々の税金の金が、100億円もの金
 が投資され、この記念館の箱物が建てられるという。
  また、この様な北海道に、中国が暗躍して、「アイヌ
 民族の独立の話」が画策されているという。
  まったく馬鹿げた話が北海道には一杯ある。
  日本民族の祖先の縄文人の歴史が、そして、その縄文
 人以前の旧石器人の存在が、まったく無視された企て(
 くわだて)が進んでいる。
.
17世紀、キリスト教化したいと、暗黒のヨーロッパ中世に
 キリスト教は暗躍した。
  ヨーロッパのキリスト教司教領で、キリスト教の教義
 などの洗脳が影響し、子供だけでなく、地域全体が憑依
 (ひょうい、霊が乗り移り、異常状態で踊りまくる)す
 るという事件が起きた。
  感受性の強い子供の心を、結果的に、弄(もてあそ)
 ぶ事が起きている。
  キリスト教のお祭り「ハロウィン」が、日本で、無邪
 気に行われているが・・、
  そして、この魔女などが関連するこのお祭りに、小さ
 い子供が参加しているが・・、
 また、小学校では「国際感覚を身につけよう」という美
 名のもとに、公的小学校も含めて「ハロウィン」が行な
 われ、
 キリスト教系学校の学生が、喜々として駆けつけ、一緒
 になってやっているが、これは美名の下に行われるキリ
 スト教の「巧妙なる伝道行為」です。
 アメリカでも問題となり、裁判事例が多い「巧妙なる伝
 道行為」です。
 そして、この魔女が関連しているこの事例で、子供たち
 に何が起き?、影響したか?・・という事例・・、
 キリスト教には、「神を恐れよ」という教義がある。
 魔女事件の場合、キリスト教は、この教義によって権威
 を得ようとした。
 また、教勢を拡大したいとした。
 その為、「魔女は生かしておいてはならない」の教義が
 あるキリスト教は「死も辞さない」という姿勢だった。
 「死も辞さない」と言っても自分ではなく、相手を死に
 至らしめる行為でもって権威を得ようという目的だった。
 この例の様に、キリスト教の歴史は、周りに死の影や戦
 争が満ちる歴史となった。
  魔女事件の場合、年端(としは)の行かない3歳・5歳・
 7歳・12歳の子供達が憑依(ひょうい)した。
  これは、広がりやすい性質を持っていた。
  17世紀、キリスト教司教領で、子供だけでなく、地域
 全体が憑依するという事件となって起きた。
  魔女だと言われた女性が、自(みずか)らキリスト教
 聖職者の居る魔女委員会に申し出て、「多くの人々の体
 内に悪霊を祈り込んだ」と言った。
 すると、この町に憑依した、憑(つ)かれた主婦や子供
 達、大勢の群れが、この司祭領や隣接する地域にさ迷い
 出て来た。
 憑依した人たちは、未成年者が多い状況だった。
 町は混乱した。
 飛び火しやすいこの現象は、飛び火して行った。
 スウェーデンの場合は、プロテスタントの村だった。
 憑依した子供たちが現われ・・、
 子供達は意外と大人が何をやっているかを知っていて・・、
 大人たちの言動から、魔女とはどういうものかを見聞き
 し、よく知っていた。
 日頃から、キリスト教聖職者は、魔女の定型を話をして
 いた。
 怖い事に・・感受性の強い子供達は、特に、憑依しやす
 い状況で、親たちは、自分たちで救う事を断念するくら
 いだった。
 親たちは、当局へ原因の魔女の撲滅をする様にと押しか
 けるという騒ぎとなった・・、
 国王の調査委員会が取り調べるという事になり、騒ぎは
 ますます拡大して行った・・
 また、多くの他の村々へ伝染して行った・・、
 憑依した魔児たちは、無数の大人たちを告発した。
 「魔女の踊りをしていた」「悪魔のシナゴーグへ行った
 りしている」、それを見たと・・、
 ある村は、70人の女性と15人の子供が火炙りとなりまし
 た。
 これは、国境も越えて広がって行きました。
 ドイツで起きた事例では、ほとんどが10歳以下の子供
 でした。
 子供達は、キリスト教の教義と魔女を自己流に織りなし
 て語りました。
 想像力の強い子供達は、「魔女のサバト」「天国の幻視」
 「最後の審判と地獄の使者」を語り、告げるという状態
 でした。
  驚くことに「デーモン(悪魔)との性交渉」の詳細な
 証言に、裁判官(キリスト教裁判所の聖職者の裁判官)
 もびっくりしている状況でした。
 (参考)とし‐は【年端/年歯】 年齢のほど。年齢。
    としのは。「―のいかない子」
 (参考)ひょう‐い【憑依】 [名](スル) 霊などがの
    りうつること。「悪霊が―する」 」
.
1804年12月2日、ナポレオンの戴冠式
  ナポレオンは、自(みずか)ら戴冠した。
  ローマ法王(教皇)のピウス7世は、ナポレオンの後ろ
 で、何もしないで静かに座したままだった。
  キリスト教が、何の役にも立たないことを知っていた
 のである。
  逆に、キリスト教の仮の権威がある如くの戴冠がなさ
 れ、その後、各地の王や諸侯が、キリスト教に教会を建
 ててあげたりする「おかしさ」を知っていた。
  ナポレオンは、俊英の皇帝だった。
  キリスト教の」虎の威を借りる狐」状態を知っていた。
  何ら、キリスト教に権威も何にもないのに、王位の冠
 (かんむり)をキリスト教が授けるようにする振る舞い
 の害を知っていた。
  このキリスト教は、自分の宗教の伝道より・・「金を
 得ること」と「権力を得ること」を、一生懸命にやって
 来ていた。
  それに気付いたナポレオンは、自分だけではなく・・
 自分の妃(きさき)の戴冠式も、ナポレオンが自ら、妃
 に戴冠した。
  キリスト教聖職者による戴冠を排除した。
  今までは、種々の王や諸侯の戴冠式の戴冠は、キリス
 ト教の聖職者が行なって、ある意味「キリスト教聖職者
 が、あたかも、冠(かんむり)を授けているように見え
 ていた」。
  ナポレオンに、その馬鹿げた虚構が見えた。
  今、キリスト教国・アメリカでは、大統領の就任式に、
 キリスト教の聖書に手を置いて宣誓する儀式が行われて
 いるが・・、
  あれほど、アメリカの初代大統領のワシントンが、キ
 リスト教色の排除と、キリスト教の影響力を排除しよう
 とした心が、「理解されていない状況」へと、今、アメ
 リカはあり、後退している。
  この初代大統領ワシントンは、アメリカ合衆国憲法を
 作る時にも、キリスト教の影響力を排除することに非常
 に心を砕いた。
.
1937年12月8日、日本軍は12月8日には南京を包囲した。
  そして、1937年12月9日、日本軍は中国軍に対して無血
 開城を勧告した。
  中国軍は、開城勧告を拒否し、応じなかった。
  やむなく、日本軍は、勧告に応じない南京城を1937年
 12月10日、攻撃を開始した。
  1937年12月12日、南京防衛司令官の唐生智が逃げた・・
 一般兵たちを置き去りにして・・逃亡した。
  また、蒋介石を連れ去って、司令部を崩壊させたアメ
 リカ・・それで、司令部が崩壊し、混乱している中国軍
 が、なおさらに、南京防衛司令官の逃避で、まったく統
 制のされてない状態となった。
  そしてまた、統制の効いてない南京の中国軍の大半が
 組織的撤退を知らされていない状態で・・、
  また、日本軍の迫る頃から混乱が続いていた南京城は、
 逃げる人々にあふれ、中国軍が撤退することを知ってい
 ても安全に逃げられない状況であった。
  中国軍は、自軍の中国兵を、塹壕に足を縛って置き去
 りにしたりした・・塹壕に置き去りにして、防戦させる
 という卑劣なこともした。
  唯一の逃避路である北部の長江へつながる挹江門では、
 中国軍の仲間を撃つことを躊躇しないという中国軍は『
 督戦隊を置いた』。
  中国軍の撤退する側と同士撃ちとなった (挹江門事件)
  (参考)督戦隊:とくせんたい、軍隊において、自軍
     部隊を後方より監視し、自軍兵士が命令無しに
     勝手に戦闘から退却(敵前逃亡)或いは、降伏
     する様な行動を採れば、攻撃を加え、強制的に
     戦闘を続行させる任務を持った部隊のこと。
      この場合、中国軍が、自軍の中国軍を撃ち、
     中国兵を戦う事を仕向けた。
.
1937年12月12日、挹江門事件(ゆうこうもんじけん)
  アメリカが介入して、中国軍の最高司令官である蒋介
 石が連れ去られ、中国軍の司令部は崩壊し、中国軍は乱
 れに乱れていた。
  督戦隊が置かれることまでされて、中国兵は戦わせら
 れた。
  あちこちで中国兵同士が撃ち合った・・その一つが挹
 江門事件だった。
  1937年12月12日の夜、挹江門事件が起きた。
  南京城へ進撃する日本軍の攻撃によって、中国軍は敗
 走に敗走を重ねた。
  その中国軍の一部隊が敗走して、挹江門を通り抜けよ
 うとした。
  その部隊は、中国国民政府軍87師と第88師、そして、
 教導総隊の潰走兵だった。
  その潰走(かいそう、戦いに敗けた兵士や隊が、四分
 五裂になって逃げること)する兵士たちと、それらを武
 力阻止する中国軍の督戦隊である国府軍第36師212団とが
 衝突した。
  中国軍同士の激しい撃ち合いとなった・・その双方の
 発砲で、瞬く間に約1000名の中国軍兵士が死亡した。
.
1937年12月13日、この日、混乱に次ぐ混乱の中で、中国軍
 は総崩れとなり南京城は陥落した。
  陥落時にも、南京城の北側から長江の対岸へと逃げよ
 うとした非常に多くの兵隊や一般人が、舟もない中で渡
 河しようとして、混乱の中で撃たれたり、途中で溺れ死
 んだりした。
.
1937年12月13日、中国の南京を日本軍が攻略した。
  この時、いわゆる南京事件が起きたとされているが・・
 まったくの嘘。
  戦勝国のアメリカは、裁く事が出来る法律が無い事か
 ら・・、
  「その裁くための法律を、わざわざ後から作ってまで
 して、東京裁判を裁くという・・卑劣な、戦勝国のアメ
 リカのやりたい放題のやり方で、東京裁判を裁いた」。
  この不当な、また、不法な、戦勝国のやりたい放題の
 東京裁判でさえ、この南京事件はあったとした。
  南京事件をデッチアゲタ。
  そのデッチアゲの南京事件の中国の犠牲者は「2万人」
 と言った。
  それを、中国の現在の政権・中華人民共和国(中共)
 は、だんだんその犠牲者数を増やして行った。
  「無いもの」を「ある」と言い・・そして、その数を
 だんだん増やすという行為を行なった・・よくあるパタ
 ーンを行なった。
  そして、今・現在に至った時点で、その犠牲者数を「
 30万人」と言っている。
  中共の好きに膨らませたこの30万人も、この後には、
 さらに、大きく風船のように膨らんでいくだろう・・
  だが・・この嘘つきの中国の中共の味方をする書物で
 さえ、この数を10万人としている。
  まったく言いたい放題の・・信用の出来ない中共など
 となっている。
  しかし、お粗末な事に、この中共に、ゴマすりをよく
 する「村上春樹は、本で40万人と書いた」・・
  村上春樹よ! 証拠を示せ! この嘘つきめ!
  この一件は、アメリカが、中国軍の最高指揮官の蒋介
 石(現政権の共産党軍ではない)を・・、
  そして、その司令部の最高将校の重要要員を、「救出」
 の名の下に、戦い真っ最中の南京から連れ去った・・
  このために起きた「中国軍の大混乱が原因」で、この
 大混乱・大混戦の原因は、アメリカが作った。
  また、この様に卑劣な参戦をしていたアメリカ軍こそ
 が、「東京裁判で裁かれるべき」だった。
  司令部の居なくなった中国軍は哀れな惨状を示した。
  当然の結果として・・乱れに乱れて、中国軍兵士は逃
 げ惑った。
  惑い、そして、逃げる自国の兵士を「逃げるな」と、
 置き去りにされた中国軍の下級将校たちは、自国軍の兵
 士へ向かって狙い撃ちをした。
  この様な卑劣な事態が起きた。
  東京裁判では隠された・・
  卑劣な裁判だった・・
  この様な南京攻略戦は、様々な事態の中で戦われた。
  また、卑劣にも、中国兵は、逃げられないと悟ると、
 軍服を脱いで、民間人の中に隠れた。
  これでは、民間人に被害が及んでしまう・・民間人が
 戦闘員と見間違われてしまう・・しかし、助かりたい中
 国兵は、この様な卑劣な事までした。
  そして、そこから日本兵を狙撃するという戦い方もし
  その民間人の中にある銃の探索が行われた・・当然・・
  民間人へ被害が及ぶことが分かっていても、中国兵は、
 民間人の中に卑劣に隠れた。
  当然、その民間人に隠れている中国兵と戦わざるを得
 ないという日本軍の事態だった。
  この様な様々な中の南京攻略戦だった。
  「修羅の状況」である。
  アメリカに援助された中国・蒋介石・国民政府軍は、
 「重慶」という中国の奥地へ拠点を移した。
  新しい都とした。
  これは、日本を叩きたいアメリカが、「日本の消耗」
 を狙っていたのだった。
  そして、アメリカは、延々と「援蒋ルート(蒋介石の
 中国軍を援助するルート)」を使って、厖大(ぼうだい、
 非常に大きく、多量なこと)な武器や弾薬を中国軍へ援
 助する。
  「日本との戦争ありきのアメリカ」
  そして、この先の第二次世界大戦ありきを決めてかか
 っているアメリカだった。
  この事の初め・・元々、アメリカは、厖大な武器・弾
 薬を支援して、中国・蒋介石軍に、上海を大軍で包囲さ
 せていた。
  その様な形で、中国・蒋介石軍は日本に迫って来た。
  上海の国際租界の中の日本租界へ向けて攻撃を開始し
 て来た(1937年8月13日、第二次上海事変)
  この時から、そもそもの戦いは始まった。
  アメリカの支援の下で、中国・蒋介石軍が、先に戦争
 を開始した。
  この武器・弾薬を与えて「アメリカが、焚き付けて始
 まった」・・その様な戦いだった。
  ルーズベルトが、第二次世界大戦がはじまったとき、
 「戦争を作った」と言ったが・・まさしくこの時以来の
 ことだった。
  キリスト教に偏して、日本を貶めてばかりいるNHK
 は、この事を隠し、まったく、この様な事を放送しない。
  この時、NHKはじめ日本のマスコミは、「戦争を煽
 った」。
  この時、上海事変で、蒋介石軍の攻撃を受けて、日本
 は戦い・・、
  そして、この戦いを・・日本が収めたとき・・、
  日本は、この時点で終わらせようとした。
  世論には、戦争を仕掛けた中国の蒋介石への思いに、
 「撤退し、逃げる蒋介石軍を追討するか?否か?」の判
 断において、国内には賛否の両論があった。
  この様に揺れている時に、NHKはじめマスコミは「
 囃(はや)し立てた」。
  このため、南京への追討否定派の意見はなくなった。
  NHKはじめ日本のマスコミは、常に、日本の戦いを
 煽り立てた。
  そして、進軍が決定すればすれで・・その進軍の様子
 を、「微に入り、細に入り報道」して「煽った」。
  そして、戦後の1948年11月13日・・、
  東京裁判の南京事件の責任者とされた日本の将軍に・・
 死刑判決がなされると・・、
  朝日新聞は、自らが勝ち誇ったように、「この一訴因
 で絞首刑」と記して報じた。
  NHKとこの朝日新聞は、今・現在、自社の一室を中
 国へ与えるという特別な事をしている。
  嘘の慰安婦問題をデッチ上げた朝日新聞と、そのNH
 Kは悪である。
.
1937年12月16日、中国の南京において、中国軍は、一般人
 民の中に隠れて、一般人民を卑劣にも盾にして、日本軍
 を狙い撃ちした。
  その掃討が、この日まで続いた。
  盾にされた中国の一般人民は、たまったものではなか
 った。
  南京での中国兵は、卑劣な行為である「軍服を脱いで
 戦う事をした」。
  軍服を着ていない一般人が戦うということではなく、
 今まで軍服を着ていた中国軍人が、その軍服を脱いで、
 一般人のふりをして戦った。
  軍服を着ていた中国兵が、着ている軍服を脱いで、人
 民の中に隠れて、日本軍と戦った。
  人民を盾とする卑劣な戦い方をする中国兵だった。
  日本軍は、その掃討(そうとう、残っている敵兵を撃
 ち払うこと)を行なったが、掃討戦は、1937年12月16日
 まで続いた。
  人民の中に隠れた卑劣で卑怯な中国兵、盾にされた中
 国人民・・この一般の中国人に犠牲者が出ない訳は無か
 った。
  上海戦から南京戦までの日本の戦死者の総数は24,000
 名に達した(戦病死者を含む)。
  この数は、日本軍の最高司令官である松井大将の日記
 にある数字で、ほとんどの戦死者が上海戦によるもの。
  一方、中国側のデーターについては、国民党軍軍政部
 長の何応欽上将の軍務報告に33,000名とある。
  何しろ、中国軍は、一般人民を盾にして、その人民の
 盾の陰から日本軍を狙撃するという卑劣な戦い方をした。
.
1943年、ソ連のスパイ機関が、アメリカ国内からソ連のモ
 スクワへ、スパイした内容を報告するのを、アメリカは
 知った・・そして、その傍受をする。
  この様な事があったと、1995年になって「VENON
 A(ベノナ)文書」が公表された。
  この文書が公開され始めて、戦中から戦後にかけて、
 この様なコミンテルンが、アメリカ国内で盛んに活動し
 ていたことが分かって来た。
  (参考)コミンテルン:共産主義インターナショナル
      Communist Internationalの略称。
      第3インターナショナル、第3インターとも呼
     ばれる。
      1919年3月にモスクワに創設され 1943年5月ま
     で存続した各国共産主義政党の国際統一組織。
      第1インターナショナル (1864年~1876年) 、
     第2インターナショナル (→社会主義インターナ
     ショナル、1889~1914) の崩壊後、V. I.レーニ
     ンらは、第1次世界大戦中から、新しい第3イン
     ターナショナルの創設を目指して活動を続け、
     30ヵ国の共産主義諸政党あるいは革命的組織の
     代表50余名をモスクワに集めて、1919年3月2日
     ~1919年3月6日、コミンテルン第1回大会を開い
     た。
      コミンテルンは、第2インターナショナルに比
     べ、はるかに強固な国際的団結と規律をもち、
     ソ連という社会主義国家を支柱とするに至った。
      また、民主的中央集権の組織原則をとり、コ
     ミンテルン執行委員会の指導のもとに活動する
     ことが定められた。
  そして、アメリカでのその実態が明らかになった。
  これは、カーター・クラークというアメリカの将軍が、
 ルーズベルト大統領にも秘密にして始めたプロジェクト
 だった。
  アメリカ陸軍の超秘密の暗号解読機関が、ソ連情報部(
 KGB、GRU)が、アメリカ国内からモスクワの本部
 に、報告する電報を傍受し、解読していた。
  解読作業は、1943年から始まり、1945年位から進捗す
 る。
  すると、ソ連のスパイが、ぞろぞろと判明した。
  国務省や財務省の官僚をはじめ、官庁のスタッフ、そ
 して、知識人、映画関係者、作家など広範囲な人のソ連
 スパイの存在が明らかになった。
  今・現在も、日本に盛んに中国の工作員が、日本に潜
 り込んでいるが、このアメリカの様な事になっていると
 言える。
  今・現在、沖縄県や北海道の中国化が急速に進んでい
 る。
  このベノナ文書で、ルーズベルト政権(ワシントンの
 連邦政府)に、常勤スタッフだけで200人以上、正規職員
 以外には300人くらいのソ連工作員(スパイやエージェン
 ト)が居た・・この事が確定的に判明した。
  (参考)エージェント:(1)代理人や代理店。また、
     仲介業者。(2)国家の秘密業務で働くもの。
  この影響が、1933年から1952年の約20年間、ルーズベ
 ルト大統領政権から、次のトルーマン大統領政権にまで、
 ソ連に繰られていた。
  今の日本も、非常に注意しなければならない時にある。
.
1979年1月、日米・コンピューター開発競争・・日本潰しの
 IBMスパイ事件へ
  1979年1月、IBMは、従来の中・小型コンピューター
 の5倍から6倍という抜群のコストパフォーマンスのI
 BM4330を発表した。
  これは、プラグコンパチブル機に対抗してそれらに致
 命症を与えるに充分な価格設定とおもわれた。
  事実、このために有力なコンパチブルメーカーであっ
 たアイテル社は痛手を負い、関連部門をナショナルセミ
 コンダクタへ売却した。
  そればかりか、IBMとコンパチブルでないイギリス
 のICL(International Computers Ltd.)も、主力工場
 であったウインズフォールド工場を閉鎖する事態におい
 こまれた。
  ところが、日本のメーカーは、わずか1ヶ月遅れで対
 抗機種FACOM130Fを出荷した富士通をはじめと
 して、各社ともIBMに追随してきたのである。
  しかも、1980年11月、IBMの特に強い超大型コンピ
 ュータの分野でも、IBM3081D(9.5MIPS)を発表
 した時すでに、日立は10.2MIPSのM200Hを、
  そして、IBMのコンパチブルではないが、日本電気
 のACOS1000は15MIPSという当時の最速の機種を
 発表しており、IBMは、日本のコンピュータに先を越
 されていた。
  この様に、日本のメーカーは、すくなくともハードウ
 ェアについては、IBMの技術に追い着き・・、
  半導体チップでは、日本の方が信頼性などの点で優れ
 いるとも言われるにまでに至っていた。
  そこで、IBMは、日本のコンパチブル機を振り切る
 決め手として、基本ソフトウェアであるOS(オペレー
 ティング・システム)を解析しにくくすることにした。
  それまで、磁気テープで供給してきたOSの機能を一
 部ファームウェア化してしまった。
  こうすれば、コンパチブルメーカーはOSを解析する
 までに相当時間を必要とする。
  1981年12月、こうして、この8000語ほどファームウェ
 ア化されたOSをもつIBM3081Kを発表すると共に、
 3081が、31ビットアドレッシングを採用している新しい
 アーキテクチャであること明らかにした。
  そして、IBMは、アーキテクチャが変わっても360シ
 リーズ以来のアプリケションソフトを実行できる新しい
 OS、MVS/SPを提供した。
  この31ビットアドレッシングと、新OSの高度なファ
 ームウェア化は、コンパチブルメーカー対策としては強
 力で・・、
  富士通、日立が、このファームウェアを解明するには
 2年はかかるとみられた。
  そのため、あせった日立が、新OSのソースリストを
 中心としたIBMの技術情報を入手しようとしたのを、
 FBIのおとり捜査にひっかかり摘発されたのが、1982
 年6月23日だった(IBMスパイ事件)
  この結果、IBMは、日立に多大な賠償金とIBMの
 技術情報が使用されているかどうかの製品検査権を認め
 させた。
  これにより、IBMは、日立の動向を掌握することが
 でき・・、
  いざとなれば、日立にコンパチブル機を作らせないこ
 ともできることになった。
  また、IBMは、この事件に直接関係なかった富士通
 に対してもOSの酷似をもって、富士通を訴え、実質的
 に著作権を認めさせた。
  日立や富士通は、IBMコンパチブルの路線をとる事
 になって行く。
.
1982年6月22日、IBM産業スパイ事件(アイ・ビー・エム
 さんぎょうスパイじけん)は、1982年6月22日、日立製作
 所(以下、日立)や三菱電機(以下、三菱)の社員など
 計6人が、米IBMの機密情報に対する産業スパイ行為を
 行ったとして逮捕された事件である。
  この事件は、各日本メーカーとIBM米本社との間の
 事件で、同日本法人である日本アイ・ビー・エム株式会
 社は無関係であり、同社関係者にも寝耳に水の事件であ
 った。
  IBMと日立は、翌年・1983年に和解した。
  また、1984年より、当初は当事者外であった富士通と
 IBMの交渉も進められ、1988年に和解した。
  1981年、IBMは、アドレスを31ビットに拡張し
 (System/370-XA)、オペレーティングシステム (OS) の
 一部をファームウェア化して互換機を作りにくくしたメ
 インフレームコンピュータの3081K を発表した。
  互換機メーカーであった日立は、 3081K に関する技術
 文書をNAS(ナショナル セミコンダクターの汎用コンピ
 ュータ部門で、日立からOEM供給を受けていた)から入手
 した。
  一方、かねてからコンサルティングで日立との取引が
 あったペイリン・アソシエーツ社から 3081K に関する報
 告書の売り込みがあった。
  日立はその目次を見て、NASから入手済みの資料に酷似
 しており、両方の文書が何らかの共通の資料に基づくも
 のと判断。
  ペイリン社に対して、「その資料は既に持っている。
 しかし、それは一部と思われるので、他にもあるなら購
 入したい」と伝えた。
  ペイリン社の社長ペイリーは、元IBM従業員であり、
 日立がIBM3081Kの資料を入手済みであることをIBMの
 ボブ・エバンズ(当時、副社長)に通報。
  結果として、FBIによるおとり捜査が行われ、日立
 と三菱の社員が逮捕されることになった。
  刑事事件自体は、1983年2月、司法取引により決着した。
  しかし、IBMは、日立に対して民事損害賠償訴訟を
 起こした。
  ・・IBM産業スパイ事件は・・、
  日立と三菱がスパイをやった、という程度の、企業が
 行き過ぎただけの話だと思われている・・が・・、
  1959年、日本のコンピューター開発、この年には、東
 京大学が中心となって、東芝・日立が協力し、TACが
 完成した。
  (参考)TAC:Tokyo Automatic Computerは、東京
     大学が開発したコンピュータで、一般に東大と
     東芝が共同開発したとされていて、大変な難産
     の結果、うまれた。
      東芝が協力していない部分や日立製作所が協
     力した部分があり、1959年に、最終バージョン
     が完成した。
  (参考)FUJIC:富士写真フイルムにおいて開発
     された我が国初の電子計算機で、真空管式電子
     計算機だった。
      レンズ設計に使用することを目的として岡崎
     文次により開発された。
      1949年より、岡崎は研究を開始した。
      1952年3月から、メモリ関係の研究と並行して
     全体の組立てが行われた。
      1955年11月に、電子通信学会電子計算機研究
     専門委員会の見学会で、動作のデモンストレー
     ションが行われた。
      1956年3月初めに完成し、栄誉ある我が国最初
     の電子計算機となった。
      真空管を約1,700本使用した2進法3アドレス方
     式の電子計算機で、記憶装置には超音波水銀遅
     延線(255語)が採用された。
      論理回路のクロック周波数は約30KHzであった
     が並列演算回路を採用し、加減算0.1ms,掛算1.6
     msと、当時としては比較的高速であった。
      目標はレンズ設計において人手計算の1,000倍
     であったが、約2,000倍の性能を実現した。
      2年半の間小田原工場で社内外の計算に使用さ
     れ、その後、早稲田大学に寄贈され、現在は国
     立科学博物館に保存されている。
  上記の様に、日本は、コンピューター開発の先端を歩
 んでいた。
  国の予算をつぎ込んだ国家プロジェクトとしても進め
 られ、目標は大きく野心的でさえあった。
  研究課程は難航し、何度も設計変更を繰り返した。
  1964年には、通産省の予算で富士通・沖電気・日本電
 気が共同でFONTACを作成した。
  (参考)FONTAC:年々輸入が増大していた大型
     コンピュータ分野に、通産省は補助金を交付し
     て大型コンピュータの国産化を狙った。
      1962年7月、そのために、富士通信機製造(現:
     富士通)、日本電気、沖電気の3社により日本電
     子計算機技術研究組合が設立された。
      FONTAC(Fujitsu-Oki-Nippondenki-
     Triple-Allied Computer)は、この3社の3年に
     わたる共同研究によって完成された大型コンピ
     ュータだった。
      1964年11月に完成し、日本電子工業振興会に
     納入された。
      FONTACシステムは、主コンピュータと
     して高速大容量の記憶装置と多数の入出力チャ
     ネルを持つ大型2進計算機を、衛星コンピュータ
     に可変語長のFONTAC Sub Iと固定語長のFONTAC
     Sub IIを使用し、主コンピュータと衛星コンピ
     ュータは密接に結合された。
      FONTAC Centralは、1語42ビットからなる2進
     法のコンピュータで、固定小数点の数値は、デ
     ータ36ビット、フラグ4ビット、パリティ2ビッ
     ト、浮動小数点の数値は指数部9ビット、仮数部
     27ビット、フラグ4ビット、パリティ2ビットよ
     り構成された。
      記憶装置として30mil/サイクルタイム2.2μs
     の磁心記憶を使用し、最大65,536語の容量を実
     現し、演算速度として固定小数点加減算/乗算
      4.4μs /25.2μs,秒浮動小数点加減算/乗算
      15.4μs /30.8μsの性能を有した。
  1962年7月、この共同研究で開発された技術を基に、
 CPU(中央処理演算装置)を担当した富士通信機製造
 (現:富士通)は、FONTAC Centralを一部改良し、FACOM
 230-50として商用化した。
  1964年11月、FONTACは、この3社の3年にわたる共同研
 究によって完成された大型コンピュータで、1964年11月
 に完成し、日本電子工業振興会に納入された。
  この頃から、各社が「コンピューターの作り方」を理
 解し、独自開発を開始した。
  日立のHITAC、富士通のFACOM、日本電気のNEAC、東芝
 のTOSBAC 、三菱のMELCOM、沖電気のOKIMINTAC・・
  コンピューターは、これから確実に産業の中心となる
 というのは明らかだった。
  1970年代初頭、IBMは、巨大メーカーに成長しつつ
 あった。
  日本国内だけで、6社も、互換性のないコンピュータ
 ーが乱立していて、これでは、日本のコンピューターは、
 大企業に潰されてしまうリスクが存在した。
  通産省は、「国内で、IBMに対抗できるコンピュー
 ターを育てる」ための方策を取った・・それは・・
  1) IBMと技術提携を行わない、IBM互換機路線
  2) IBMに対抗できる大企業の互換機路線
  3) 日本独自路線
  2 の大企業は、ハネウェル社。
  1960年代、アメリカには、8つのコンピューターメー
 カーがあった(「IBM と7人の小人」と呼ばれた)
  ハネウェルはその一つでありながら、1970年に MULTICS
 の技術を持つGE社と合併し、力を伸ばしていた。
  通産省は、国内の各社は上のいずれかの道を選び、提
 携することが求められた。
  富士通と日立はすでにIBM互換機を作成していたた
 め、互換路線を選んだ。
  日本電気はすでにハネウェルと提携していた。
  東芝も、すでにGEと提携していましたが、GEがハ
 ネウェルに吸収合併された。
  そこで、日本電気と東芝も提携し、ハネウェル互換路
 線を選んだ。
  三菱・沖電気は「取り残された」形で提携し、独自路
 線を歩むことになった。
  富士通と日立は提携し、技術的な交流は図りつつもお
 互い独自に、IBM System/370 の互換機を作成していた。
  (IBM との技術提携はない)
  ただし、IBM で System/360 (370の旧世代機)を設計
 した技術者で、後に独立したジーン・アムダールの会社
 と富士通は提携し、技術的ノウハウを得ていた。
  1981年、IBM はこうした「互換機」が世界中で増えて
 いたため、設計を一部変更して、性能を上げるとともに
 互換機を作りにくくした、System/370-XA を発表した。
  日立は、この「設計変更」の詳細を入手しようとして、
 IBM のおとり捜査に引っかかった。
  1982年、社員5名が逮捕され、この時、三菱社員1名
 も逮捕された。
  三菱は、当初、「独自路線」グループでしたが、この
 頃には余りに強くなった IBM の互換機を作ろうとしていた。
  この刑事事件は、司法取引により決着した。
  しかし、IBM から、民事損害賠償訴訟を起こされた。
  System/370-XA は、各種回路が特許で守られていたう
 え、それまでは後から読み込まれるソフトウェアであっ
 た「OS」の一部を、ハードウェア内に持つようになって
 いた。
  System/360 や 370 の頃は、同等の機能の回路で置き
 換えも可能でしたが、370-XA の特許は強力で、簡単には
 回避できなかった。
  また、BIOS に関しては単純な回路ではなく、プログラ
 ム…著作物です。
  著作権の場合「類似したもの」を作ったとしても、盗
 作としてアウト。
  少なくとも、この時点では IBM はそのような認識で動
 いていた。
  ずっと後に、IBM・コンパックが BIOS の著作権を争い、
 現在は違う認識となっている。
  結局、日立は IBM の許可を得ずに機械を販売しないこ
 と、訴訟費用は全部日立が負担すること、ソフトウェア
 やインターフェイスなどに関して、使用する対価を払う
 こと…などを条件に和解した。
  日立からすれば、IBM 互換路線に「お墨付き」を貰っ
 た格好で、この後も互換路線を進んだ。
  富士通も日立の訴訟に危機感を持ち、同様の取引を結
 びますが、徐々に IBM 互換路線から非互換路線にシフト。
  いずれにしても、通産省の狙った「独自技術による互
 換」という路線は無くなってしまった。
  この頃は、IBM が強くなりすぎてハネウェル社もコン
 ピューターから事実上の撤退。
  特に、吸収合併したGEの互換機は消滅し、GE互換
 だった東芝も撤退、同じグループだった日本電気にコン
 ピューター部門を売却した。
  独自路線だった三菱・沖も、先に書いたように三菱が
 IBM互換路線に進もうとして、スパイ事件に発展した。
  沖電気は、コンピューター本体は断念して、周辺機器
 製造に特化した。
  国策だった3グループ化は大失敗となった。
  日本のコンピューター産業は死んでしまう…。
  「IBM産業スパイ事件」とは、そうした危機的な状
 況を意味した。
  翌1983年、日本電気がスーパーコンピューターの新シ
 リーズ、SX-2 を発表します。
  この SX-2 は、世界で初めて GFLOPS を超えたコンピ
 ューターで、同時に初めてアメリカ以外のコンピュータ
 ーが速度で世界一になった機械だった。
  日本のコンピューター産業復活を狙った。
  この後、急に力を付ける日本のコンピューター業界に
 アメリカが危機感を感じ、1980年代後半から1990年代前
 半の貿易摩擦につなげて問題化する。
.
2012年3月、日本企業の大切な機密技術が、海外企業に盗ま
 れるという、流出した事例は多々ある。
  2012年3月には、工作機械大手のヤマザキマザックから
 設計図などの情報を不正取得したとして、愛知県警が中
 国籍の元社員を逮捕した。
  2012年4月には、新日本製鉄(現・新日鉄住金)が、高
 機能鋼板の製造技術を流出させたとして、元社員と韓国
 鉄鋼大手ポスコを相手取り、1000億円の損害賠償訴訟を
 起こしたりした。
.
2014年3月14日、この日の新聞やテレビなどの大手報道機関
 は、東芝のNANDフラッシュメモリに関する研究データ(機
 密情報)を韓国の大手メモリメーカーであるSK Hynixに
 提供した不正競争防止法違反(営業秘密開示)の容疑で、
 元技術者を警視庁が13日に逮捕したと報じた。
  元技術者(S容疑者)は、東芝とNANDフラッシュメモリの
 共同開発で提携してきたアメリカSanDiskの日本法人に勤
 務していた。
  この事件について、3月14日付けの読売新聞オンライン
 版では、S容疑者は、2007年4月から2008年5月にかけて、
 東芝四日市工場の管理サーバーに保存されていたNANDフ
 ラッシュメモリの研究データをUSBメモリに無断でコピー
 して持ち出し・・、
  2008年7月に、転職したSK Hynix(当時はHynix Semicon
 dcutor)に、持ち出した研究データを提供した。
.
2014年3月、技術流出・・日本政府の対応
  技術の流出防止と保護が極めて大切=東芝技術の流出
 問題で官房長官
  [13日 ロイター]菅義偉官房長官は、13日午前の会
 見で、東芝(6502.T)の技術が海外に流出したとの一部報
 道に関連し、技術の流出防止と保護が極めて大切との見
 解を示した。
  この問題について見解を求められた長官は、報道内容
 については承知しているが、個別事案についての言及は
 控えたいとした。
  その上で一般論と断りながら、「技術立国であるわが
 国にとって、守るべき技術の流出防止と適切な保護にし
 っかり取り組んでいくことが極めて大事だ」と強調した。
  政府として、知的財産戦略本部(本部長:安倍晋三首
 相)が、2013年6月に策定した「知的財産政策ビジョン」
 において技術・営業秘密の保護や強化の取り組みを打ち
 出していると語った。
  共同通信などによると、東芝のフラッシュメモリーの
 研究データを韓国の企業に不正に流出させた疑いが強ま
 ったとして、警視庁は13日までに、不正競争防止法違反
 容疑で、東芝と提携していた半導体メーカーの元技術者
 の逮捕状を取った。
.
2016年11月24日、アメリカは、中国を市場経済国と認めず 
 貿易摩擦激化へ
  アメリカ政府は23日、中国を世界貿易機関(WTO)
 協定上の「市場経済国」(自由な市場で経済運営が行わ
 れている国)とは認めない方針を明らかにした。
  日本も追随する方針。
  中国政府の優遇措置に支えられた中国鉄鋼メーカーな
 どのダンピング(不当廉売)を問題視。
  反ダンピング税を課しにくくなる「市場経済国」とは
 認定できないと判断した。
  中国は、WTO加入から15年を迎える来月の市場経済
 国移行を主張してきたが、米国の反対で事実上、不可能
 となった。・・以上・・(参考:毎日新聞)
  2017年12月12日、中国は「市場経済国」か? アメリ
 カ、認定に反対表明 WTOを試す「リトマス試験紙」
  世界貿易機関(WTO)の制度上の「市場経済国」認
 定を中国政府が求めていることについて、米国が正式に
 反対する通知をWTOに送付した。
  通商上の不利な扱いを受け続けることになる中国は反
 発しており、米中間の摩擦が再燃している。
  トランプ米政権がWTOを「機能していない」と批判
 する中、中国の認定問題は、米国のWTO脱退の引き金
 となりかねない火種となる可能性がある。
  米欧が共同戦線
  米政府がWTOに通知を送ったのは11月中旬。
  欧州連合(EU)も中国の市場経済国認定に反対して
 おり、米国は通知を通じてEUへの賛同を表明した。
  通商分野で米国とEUは対立するケースも多く、米欧
 が「異例の共同戦線」(米メディア)を張った。
  ・・以上・・(参考:産経新聞)
  アメリカは、中国を市場経済に組み入れ、そして、豊
 かになり、社会も開かれ来れば、政治システムも変化し、
 欧米的なシステムを受け入れて来ると見て、その様な意
 味からも、中国に対し甘やかす政策を取って来た。
  しかし、事は、その様な思惑の様には進展して来なか
 った。
  この問題は、今、気が付いたことではなかった・・が・・
  中国が、これまで経済を拡大できたのは、この恩恵だ
 った・・
  しかし、中国は、ありがたいという態度は表わさない・・
 心の底ではその様に思っているのかもしれない・・が・・
  そして、アメリカは、中国にはそのような態度をとっ
 ても・・日本に対しては厳しい態度を取り続けた。
  例えば、最新鋭の技術を取り上げる事をすることはし
 ても、日本へ提供をすることはしなかった。
  また、日本の企業が、最先端の技術を開発する事を妨
 害さえした。
  NECが、独自のコンピューターを開発するのを妨害
 した。
  三菱などが新しい技術を開発しようとすると、「研究
 員が犯罪を犯した」などと言いがかりをつけて阻止した。
  別の観点から見ると、アメリカは、中国を簡単に抑え
 られると見ていたと考えられる。
  中国は石油が不足している。
  代替エネルギーの開発も遅れている。
  この事例の様に、中国の技術は、アメリカからの提供
 が無ければ高度な製品が作れないなど、中国を抑え、コ
 ントロールできるとみていた。
  しかし、アメリカと中国は、これから貿易や通貨を巡
 って緊張度はさらに上がって行くと指摘されている。
.
2017年3月、日本学術会議が、大学などの軍事的研究を否定
 する声明を出した。
  軍事的研究と言ったって、この日本学術会議の人たち
 も含めて、日本人・国民を守る自衛隊などの研究をする
 ことまで否定した。
  日本国民を守る研究をしてはいけないと言い出した。
  まったく卑劣な声明である。
  「日本を攻めてくる勢力に利する行為」を行なってい
 る。
  どんな理屈があって、こんな事を言っているのだろう
 か?
  どんな論理があって、こんな声明を出しているのか?
  日本国民の命を守るという大切なことを放棄している。
  その様な研究をしてはいけないとした。
  日本国民の税金を使って日本学術会議の大学などは研
 究をしている。
  ならば、すべての研究費を辞退せよ!
  また、守るべき日本国民の税金で建てられた大学など
 の施設で研究ができるという恩恵に答えていない。
  また、日本国民から給料をもらい、自分や家族を養う
 金を貰っていながら・・この様な声明を出したという事
 になっている。
  ならば、自分の立場や給料も辞退せよ!
  まったく矛盾している、反逆している、日本学術会議
 や大学だと言える。
  そして、2018年6月9日の読売新聞によると、あろうこ
 とか?? 北海道大学という国立大学が、この日本学術
 会議の声明を受けて、防衛省の研究をしないと決めたと
 いう。
  中国や北朝鮮に、日本の存在が危うくなっているこの
 今・現在、この様な行為をしている
  (この様な事をするのは、この大学だけ)
  今まで、北海道大学は、研究をして来たけれど、これ
 からはしないとしたという。
  防衛省は、船体の摩擦抵抗を軽減する研究を、2016年
 度から委託していた。
  防衛省は、北海道大学の意向を尊重せざるを得ないと
 している。
  日本の国立大学の北海道大学・・何もかもが国民の御
 世話になっているこの大学が、この様な行為をする・・
 国民の為になる研究をしないと・・している。
  まったく理屈の立たない行為をした。
  北海度と言えば、沖縄県とともに、中国が暗躍してい
 るところ・・色々と工作をするところ。
  中国の国家的重要人物・要人が来て、中国の息のかか
 った農場を視察したりするところ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2018-06-15 04:30 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)599E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)

題:(増補版)599E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年6月12日、鉄道敷設法の一部改正を決定した。
  中央線や、その他5線の篠ノ井線・鹿児島線などを第1
 期線に追加し、篠ノ井線の起点を篠ノ井と決定した。
  鉄道敷設法(てつどうふせつほう)は、国が建設すべ
 き鉄道路線を定めた日本の法律で・・、
  1892年6月21日に制定された旧法と、同法を廃止し新た
 に1922年4月11日に制定された改正法がある。
.
1894年6月12日、実業教育費国庫補助法が公布された。
  井上毅文相の実業教育振興政策に基づいて制定され、
 実業学校に国庫補助金を交付することを定めた。
  裁可:1894年6月11日、公布:1894年6月12日、施行:
 1894年9月1日
  朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル実業教育費国庫補助法ヲ裁
 可シ茲ニ之ヲ公布セシム
  御名御璽
  明治二十七年六月十一日
            内閣総理大臣 伯爵伊藤博文
            大蔵大臣   渡辺国武
            文部大臣   井上 毅
  法律第二十一号
  実業教育費国庫補助法
  第一条:実業教育ヲ奨励スル為ニ国庫ハ毎年度金十五
      万円ヲ支出シテ其ノ費用ヲ補助スヘシ
  第二条:公立ノ工業農業商業学校、徒弟学校及実業補
      習学校ニシテ実業ノ教育ニ効益アリト認ムル
      トキハ文部大臣ハ其ノ学校ニ補助金ヲ交付ス
      ヘシ
  地方官庁ノ認可ヲ経タル農工商組合ニ於テ設立シタル
 実業学校ハ文部大臣ノ特別ノ認定ニ依リ前項ニ準スルコ
 トヲ得
.
1894年6月14日、北里柴三郎が、ペスト菌を発見した。
  1894年6月18日、北里柴三郎が、ペスト菌発見を公表
 した。
  この報告は、翌日の1894年6月19日の午前に内務大臣に
 伝えられた。
  そして、1894年6月21日に、新聞は報道した。
  北里は、さらに、コッホ研究所や、香港政庁を通じて
 イギリス植民地大臣に伝え、そして、このニュースは、
 世界へも伝えられた。
  北里は、研究成果を発表しようと、1894年7月7日に、
 論文を一気に書いた。
  これが、「ペスト病の原因調査第一報」だった。
  これは、ペスト菌に対する単なる報告書ではなかった。
  まず、異例ともいえる「ペスト病」検証報告書だった。
  そして、これには、続けて、ペスト菌発見に至る過程
 が記述されている。
  この記述は、ペスト菌に対する観察が精緻を極め、か
 なり長文に渡って説明されていた。
  そして、その中で問題となった部分・・専門的にもな
 る「グラム染色」に関わる件があった。
  北里は、この「グラム染色」の結論を書かなかった。
  「かのグラム氏複染色法を用い得るや否やは、後日を
 もってこれを報道すべし」として、結論を先送りしてい
 た。
  ここが問題とされた。
  北里が、もし、「ペスト菌はグラム陰性である」と記
 述していれば、その様な問題は発生しなかった。
  このグラム染色法は、デンマークの医師・グラムが開
 発したもので、菌の分類法である。
  菌が、「陽性」か、「陰性」を問う。
  北里柴三郎の論文は、後日、日本の官報に1894年7月31
 日と1894年8月1日の2回に分けて掲載された。
  緻密な調査報告書だった。
  また、北里には、この報告書の主要部分をまとめたド
 イツ語の論文もあった。
  このドイツ語論文を、イギリス人医師のラウソン国家
 医院副院長が読んだ。
  そして、このラウソンが、この論文を、イギリスの伝
 統と権威を持つ医学雑誌「ランセット」に掲載しません
 かと北里に薦めた。
  世界的権威のある雑誌であった。
  北里は、名誉ある事ですからとお願いした。
  そして、ラウソンが、自ら、英訳を買って出た。
  北里は、その好意に感謝し依頼し、即座に英訳され、
 北里の同意のもとに送付された。
  この論文は評価され、直ちに、掲載となり、8月1日号
 と8月25日号に掲載された。
  内容は、ペスト菌の発見を伝え、その論文と共に、標
 本の図解やイラストも掲載されていた。
  そして、そのイラストには、正しくペスト菌の形態も
 捉えていた。
  北里柴三郎が、明らかに、顕微鏡下にペスト菌を捉え、
 観察していることを示している証拠だった。
  さらに、北里は、コッホ研究所にドイツ語論文と共に、
 塗抹標本と培養菌を送っていた。
  コッホ研究所では、この菌で、追認試験が行われ、「
 北里柴三郎のペスト菌」は明らかにペスト菌で、「グラ
 ム陰性」であると確認された。
  今日のペスト菌についての常識である「グラム陰性・
 卵円形・短小棹菌」がここでも立証された。
  確かに、北里柴三郎は、1894年6月に、香港でペスト菌
 を発見したのだった。
  北里柴三郎が、流行の早期に、ペスト罹患の危険の中
 を香港へ積極的に行ったのが、ペスト菌発見に功を奏し
 た。
  ペスト患者が多くなると、種々の型のペスト菌も発生
 して、真のペスト原因菌の発見を複雑にする。
  (患者数が多いと発見はできないとも言われている)
  ただ、染色される菌についても北里は触れてもいた。
.
1894年6月16日、日本政府が、清国に朝鮮の内政改革を共同
 で行う提案をした。
  陸奥外相が、清国に朝鮮内政の共同改革を提起した。
  清国が、共同での改革に合意しなければ日本は単独で
 でもこれを行いますと提案した。
.
1894年6月20日、清の李鴻章が、ロシアに日清間の調停を依
 頼した。
  ロシアには南下して行きたいという「南下政策」があ
 り、この調停依頼自体が問題だった。
  問題を複雑にするだけの「干渉行為」ともなった。
  ロシアは、自国の南下政策上、日清両国の朝鮮撤兵を
 表明した。
  しかし、このロシアの南下政策を警戒していたイギリ
 スは反対し、日本を支持した。
  ロシアは、1860年代に、沿海州にどんどん侵略し始め
 ていた・・そして・・、
  1872年(この時から20年も前)から、すでに、ウラジ
 オストックを海軍基地を軍事基地にして、建設を完了し
 ていた。
  (今・現在の南シナ海・・中国の屁理屈で領土だとさ
 れ、基地化しないと初めは言っていたが・・今はミサイ
 ルやレーダーも配備している)
  この頃、朝鮮と関係していた国は、日本だけでなく、
 ロシア・清国・・そして、アメリカ・イギリス・ドイツ
 が朝鮮と関係していた。
  1884年、ロシアは、朝鮮と条約を結んだ(露朝修好通
 商条約)
  この時までは、ロシアは、アメリカやヨーロッパが、
 朝鮮の鎖国状態を開こうとしていたことに反対していた。
  そして、抵抗をしていた。
  (朝鮮の鎖国状態を維持させようとしていた)
  これは、ロシアが朝鮮に進出したいという下心(した
 ごころ、表に現わさず、ひそかに心の中で考えているこ
 と)があったためだった。
  また、ロシアは、朝鮮に進出するアメリカやヨーロッ
 パ諸国が、積極的に進出する事に対して、さらなる軍事
 的脅威が増すと考えていた。
  ロシアは、沿海州などの侵略において、ロシア人の入
 植を進める上で、朝鮮から食糧など、特に、家畜を得た
 いとしていた。
  故に、この露朝間の交易は拡大していた。
  この様な状況の中で、フランスが、朝鮮の開国を目的
 として、1866年に、フランス艦隊を朝鮮に出撃させた・・、
 また、1871年には、アメリカ艦隊が来た・・そして、開
 国を迫った。
  この時、アメリカは、ロシアから共同歩調をとる様に
 求められた・・が、しかし、拒否した。
  ロシアは、朝鮮から利益を得ることはなく、「形勢を
 観望的にする」としていた。
  この様な荒れる朝鮮情勢の中で、1876年2月、日朝修好
 条規が締結された。
  この時、日本は、ロシアも、朝鮮と同様な条約を結ば
 ざるを得なくなるだろうと見ていた・・ロシアが進出し
 て来るだろうと見ていた。
  そして、朝鮮は、宗主国・清国の主導で欧米への開国
 が実現された。
  今・現在、日本は、軍事的に弱い状況にあるが・・こ
 の様に、軍事的に弱い朝鮮は、この時も、主導権を持ち
 得ず、清国が宋主権を行使するという様な状況だった。
  清国の思惑は、日露の朝鮮に対する関係を牽制するも
 のでもあった。
  (結局、自国の宗主国的な立場を維持したいのだった)
  1882年5月、清国の仲立ちで、米朝修好通商条約が締結
 され・・、
  1882年6月には、同様に、清国の仲立ちで英朝間の、そ
 して、独朝間の同内容の条約が調印された(イギリスと
 ドイツとの条約)
  この様な状況を見て、ロシアは焦った・・色々画策す
 るが失敗に終わる・・この様に各国が渦巻く展開が続く・・
  この様な時、朝鮮は清国の属邦ではあるが、内治外交
 とも自主である趣旨の朝鮮国王のロシア皇帝あての照会
 が手渡された。
  日本は、米英独と共同歩調的な中にいた・・
  そして、朝鮮は、この様な中で、壬午軍乱後(1882年
 10月)の清国の重圧から脱するために、隣接国たるロシ
 アとの間で清国の仲介を得ずに条約を締結したい旨を申
 し入れていた・・特に、朴泳孝・金玉均は朝鮮が自主独
 立の国家であることを強調した。
  朝鮮は、大国たるロシアへの期待があった。
  日本も、この朝鮮の清国からの独立を確認をしたいと
 した。
  露朝条約が締結されると、1885年10月、ロシア大使が
 ソウルに着任した。
  大使館も開設され、朝鮮国王周辺の対露働きかけなど
 で朝鮮の政局に影響が及ぼされた。
  1888年、ロンドンの「タイムズ」が、朝鮮保護を約す
 る露朝間の『密約』が結ばれたと報じた・・これは誤報
 だった・・
  この様に、各国が策謀する朝鮮周辺だった。
  また、ロシア太平洋艦隊に対して、朝鮮沿岸を監視せ
 よとの命令が、ロシア政府から発せられたりした。
  また、朝鮮保護、朝鮮領土保全の多国間条約締結、ロ
 シア人軍事教官派遣などの命令が、ロシア政府から出さ
 れ、1885年6月、ロシア外交官がソウルへ派遣された。
  1885年4月、イギリスが巨文島を占領した。
  1886年、ロシア海軍省で、新浦(馬糞島)の獲得が検
 討された(不凍港獲得関係)
  しかし、ロシアが見たものは、大院君(全渓大院君、
 李氏朝鮮の第25代国王・哲宗の父)の釈放帰国に伴う清
 国勢力の優勢さと、朝鮮国王の不満の充満状態だった。
  1886年初頭、ロシア政府は、朝鮮国王からの援助要請
 があったが、清国の対朝武力干渉さらに朝鮮併合は、隣
 接する地の沿海州の安全を脅かすと危惧した・・そして、
 朝鮮の清国からの自立を慎重に検討した。
  ロシア政府は、清国によって朝鮮併合がなされるかも
 しれないと危惧していた。
  1886年秋、露清間で、朝鮮の安全保障に関する交渉の
 合意がなされた。
  この間、朝鮮国王廃位が取りざたされた。
  朝鮮は、可哀想だが各国からいい様に扱われていた・・
  だから、1910年に、日本に併合されて、安定した国の
 状態となり、衛生的な国にもなり、人口が3倍にもなり、
 国が栄えた時のことを、それを体験された朝鮮の御老人
 方は、「良かったよ」と言ったのだった。
  それまでの朝鮮は、各国列強にいい様に扱われていた。
  1888年5月、極東問題特別会議が開かれた。
  この会議は、極東のロシア領の現地のロシア当局と、
 極東諸国に駐在するロシア外交官の会議であったが、
 決議された事の1つに・・、
  「ロシアによる朝鮮獲得については、朝鮮は経済的に
 貧しく、軍事的には長い海岸線の故に防衛困難であり、
 外交的には朝鮮侵略は英清(イギリスと中国・清)との
 決裂をもたらすとして、この様な事をしない」・・とな
 った(領土欲の満々のロシアだった)
  そして、朝鮮が弱小である故、中国・清か日本の支配
 下に入るだろうが・・いずれの場合も、ロシアに対する
 脅威になる・・とした。
  そして、仮に清国が、朝鮮を恒久的に制圧するような
 ことになれば、中国海域での海軍の示威(じい、威力を
 示すこと)あるいはロシア国境近くの朝鮮海岸地方の一
 次的占領といった措置をとることとした。
  ロシアは、日本は行動を起こさないと無視した判断を
 している。
  この結果、1888年8月、ロシア・清国が朝鮮領土保全に
 関する条約を結んでいる・・また・・、
  1894年6月の清国の朝鮮出兵に対し、ロシアは、日本の
 出兵より危惧していた。
  1894年6月8日に、天津でロシア公使は清の李鴻章に、
 「清国は情報を故意に誇張し、朝鮮への対処をしている」
 とくぎを刺し・・「反乱が鎮圧され次第、直ちに撤兵を」
 と言っている。
  逆に、ロシアのカッシニ駐清公使は、日本の駐清臨時
 代理公使の小村寿太郎に対し、「日本の派兵の必要を認
 めていた」。
  清国の李鴻章は、「清は宗主国による属邦保護の旧例
 に従い朝鮮の要請により行ったものだ」と言い、
 「ロシアとは無関係」と言った。
  すでに中国の清国軍が居る朝鮮に、日本は、この様な推移
 の中、6月16日、仁川に上陸する。
  この後、日本と清国の角がぶつかり合って行く・・、
.
  (今日の言葉)
.
  題:工作員が一杯・・スパイ天国となっている日本・・あちこちで暗躍している・・
.
紀元前1万3000年以前、日本の縄文時代は、紀元前13,000年
 頃から約1万年以上もの長い間続いた。
  その間に作られた土器の形や色など、また、住み方・
 家などが、だんだん変わって行った。
  また、その縄文(じょうもん)時代より以前・・、
  縄文時代より前の旧石器時代の人々は、マンモスなど
 の大きなえものを追いかけて、日本列島の中を移動しな
 がら生活をしていた・・
  その様な遠い昔からの歴史が、日本列島全体にある。
  そのため、住んでいたのは、すぐに移動ができるテン
 トのような家だったと考えられている。
  縄文時代になると、人々は、長い間、同じところで生
 活できる家を作った。
  みんなで集まって生活するようになった。
  これが、「村(ムラ)」の始まりだった。
  縄文時代の代表的な家を『竪穴住居』と言った。
  この住居は、地面を掘って何本か柱を立て、上に屋根
 を設けた。
  半地下式の家だった。
  ムラのなかには、竪穴住居だけでなく、太い柱を使っ
 た大きな建物や、みんなが集まる広場、死んだ人を埋葬
 する墓、貝がらや食料の食べかすを捨てる貝塚・・など
 が作られていた。
  また、ストーンサークルとも呼ばれる、いくつもの石
 を直径30~50メートルの大きな円形にならべた環状列石
 も見つかっている。
  ムラの周り広がる「クリやクルミなどの森」は手入れ
 がなされた。
  ここから、生活に必要な食料や木材を手に入れること
 ができる「縄文里山」として大切にされていた。
  縄文時代の人々は、丸木舟に乗って海をわたり、遠く
 はなれた場所の特産品を手に入れていた・・交流・交易
 をしていた。
  縄文時代の遺跡には、本州でしかとれないヒスイとい
 う美しい石が北海道で見つかったり・・、
  また、逆に、北海道の黒曜石が、本州で見つかったり
 している。
  また、暖かい南の海でしかとれない数種類の貝が、北
 海道で見つかっている。
  縄文人は、日本列島の広い領域を行き来していた。
  縄文の人々は、これらのヒスイや貝などを使って、首
 かざりや、腕輪などのアクセサリーを作っていた。
  また、とても硬い黒曜石は、先を鋭くとがらせて、狩
 (か)りに使う石ぞくや石やり、ナイフなどにしていた。
  縄文時代にも、日本列島での全国規模の交流が行われ
 ていて、人々やモノや情報の活発な動きや交換があった。
  そして、この縄文時代の住居である竪穴住居が、従来、
 考えられて来た茅(かや)が葺(ふ)かれた形ではない
 ことが分かって来た。
  茅が葺かれていたという痕跡がまったくないからで、
 逆に、「土(つち)の屋根」という痕跡が発見されてい
 る。
  例えば、岩手県一戸町の御所野遺跡に、火事にあって
 燃えてしまった縄文時代の住居があった。
  火事で、柱などの木部が炭化したため、腐敗菌に木質
 部が腐敗されずに残った。
  その様な腐らなかった竪穴住居の柱の部材の脇に焼け
 た土が、また、部材の間に堆積していた。
  それが、屋根部分の土だと推測された。
  また、茅には「ガラス質」が含まれているが、この住
 居跡からは、屋根に使われていただろう茅のガラス質が
 あまり検出されず、「屋根が茅だ」という痕跡が否定さ
 れ、「土葺きの竪穴住居の屋根」と推測された。
  また、土葺きの竪穴住居の焼却実験もなされ、この遺
 構の通りの様になることも実証された。
  この様な遺跡が、日本各地で発見され、北海道でも発
 見された。
  北海道の入江・高砂貝塚遺跡や、東北地方、関東地方
 などで発見された。
  縄文人は、日本全土で「土葺きの竪穴住居」に住んで
 いた。
  また、ガラス質を含む硬い茅を刈り取る道具の存在の
 可能性も無い事が、その裏付けにもなっている。
  今、北海道庁の会議で、北海道には、この様な縄文人
 は居ないという答弁がなされている。
  まったく、歴史的事実を無視した非科学的な議論がな
 されている。
  北海道庁の会議では、「無土の地」という間違った答
 弁がなされている。
  誰も居なかったという意味で、この様な間違った認識
 の議論がなされ、この様な間違った認識の議員が、北海
 道政を動かし、行なっている。
  そして、また、北海道の白老町では、北海道は「アイ
 ヌ民族の地だ」ということで、白老町の中のある地域を
 アイヌ民族に返還するという間違った話が進んでいると
 いう。
  しかも、国の金が、我々の税金の金が、100億円もの金
 が投資され、この記念館の箱物が建てられるという。
  また、この様な北海道に、中国が暗躍して、「アイヌ
 民族の独立の話」が画策されているという。
  まったく馬鹿げた話が北海道には一杯ある。
  日本民族の祖先の縄文人の歴史が、そして、その縄文
 人以前の旧石器人の存在が、まったく無視された企て(
 くわだて)が進んでいる。
.
17世紀、キリスト教化したいと、暗黒のヨーロッパ中世に
 キリスト教は暗躍した。
  ヨーロッパのキリスト教司教領で、キリスト教の教義
 などの洗脳が影響し、子供だけでなく、地域全体が憑依
 (ひょうい、霊が乗り移り、異常状態で踊りまくる)す
 るという事件が起きた。
  感受性の強い子供の心を、結果的に、弄(もてあそ)
 ぶ事が起きている。
  キリスト教のお祭り「ハロウィン」が、日本で、無邪
 気に行われているが・・、
  そして、この魔女などが関連するこのお祭りに、小さ
 い子供が参加しているが・・、
 また、小学校では「国際感覚を身につけよう」という美
 名のもとに、公的小学校も含めて「ハロウィン」が行な
 われ、
 キリスト教系学校の学生が、喜々として駆けつけ、一緒
 になってやっているが、これは美名の下に行われるキリ
 スト教の「巧妙なる伝道行為」です。
 アメリカでも問題となり、裁判事例が多い「巧妙なる伝
 道行為」です。
 そして、この魔女が関連しているこの事例で、子供たち
 に何が起き?、影響したか?・・という事例・・、
 キリスト教には、「神を恐れよ」という教義がある。
 魔女事件の場合、キリスト教は、この教義によって権威
 を得ようとした。
 また、教勢を拡大したいとした。
 その為、「魔女は生かしておいてはならない」の教義が
 あるキリスト教は「死も辞さない」という姿勢だった。
 「死も辞さない」と言っても自分ではなく、相手を死に
 至らしめる行為でもって権威を得ようという目的だった。
 この例の様に、キリスト教の歴史は、周りに死の影や戦
 争が満ちる歴史となった。
  魔女事件の場合、年端(としは)の行かない3歳・5歳・
 7歳・12歳の子供達が憑依(ひょうい)した。
  これは、広がりやすい性質を持っていた。
  17世紀、キリスト教司教領で、子供だけでなく、地域
 全体が憑依するという事件となって起きた。
  魔女だと言われた女性が、自(みずか)らキリスト教
 聖職者の居る魔女委員会に申し出て、「多くの人々の体
 内に悪霊を祈り込んだ」と言った。
 すると、この町に憑依した、憑(つ)かれた主婦や子供
 達、大勢の群れが、この司祭領や隣接する地域にさ迷い
 出て来た。
 憑依した人たちは、未成年者が多い状況だった。
 町は混乱した。
 飛び火しやすいこの現象は、飛び火して行った。
 スウェーデンの場合は、プロテスタントの村だった。
 憑依した子供たちが現われ・・、
 子供達は意外と大人が何をやっているかを知っていて・・、
 大人たちの言動から、魔女とはどういうものかを見聞き
 し、よく知っていた。
 日頃から、キリスト教聖職者は、魔女の定型を話をして
 いた。
 怖い事に・・感受性の強い子供達は、特に、憑依しやす
 い状況で、親たちは、自分たちで救う事を断念するくら
 いだった。
 親たちは、当局へ原因の魔女の撲滅をする様にと押しか
 けるという騒ぎとなった・・、
 国王の調査委員会が取り調べるという事になり、騒ぎは
 ますます拡大して行った・・
 また、多くの他の村々へ伝染して行った・・、
 憑依した魔児たちは、無数の大人たちを告発した。
 「魔女の踊りをしていた」「悪魔のシナゴーグへ行った
 りしている」、それを見たと・・、
 ある村は、70人の女性と15人の子供が火炙りとなりまし
 た。
 これは、国境も越えて広がって行きました。
 ドイツで起きた事例では、ほとんどが10歳以下の子供
 でした。
 子供達は、キリスト教の教義と魔女を自己流に織りなし
 て語りました。
 想像力の強い子供達は、「魔女のサバト」「天国の幻視」
 「最後の審判と地獄の使者」を語り、告げるという状態
 でした。
  驚くことに「デーモン(悪魔)との性交渉」の詳細な
 証言に、裁判官(キリスト教裁判所の聖職者の裁判官)
 もびっくりしている状況でした。
 (参考)とし‐は【年端/年歯】 年齢のほど。年齢。
    としのは。「―のいかない子」
 (参考)ひょう‐い【憑依】 [名](スル) 霊などがの
    りうつること。「悪霊が―する」 」
.
1804年12月2日、ナポレオンの戴冠式
  ナポレオンは、自(みずか)ら戴冠した。
  ローマ法王(教皇)のピウス7世は、ナポレオンの後ろ
 で、何もしないで静かに座したままだった。
  キリスト教が、何の役にも立たないことを知っていた
 のである。
  逆に、キリスト教の仮の権威がある如くの戴冠がなさ
 れ、その後、各地の王や諸侯が、キリスト教に教会を建
 ててあげたりする「おかしさ」を知っていた。
  ナポレオンは、俊英の皇帝だった。
  キリスト教の」虎の威を借りる狐」状態を知っていた。
  何ら、キリスト教に権威も何にもないのに、王位の冠
 (かんむり)をキリスト教が授けるようにする振る舞い
 の害を知っていた。
  このキリスト教は、自分の宗教の伝道より・・「金を
 得ること」と「権力を得ること」を、一生懸命にやって
 来ていた。
  それに気付いたナポレオンは、自分だけではなく・・
 自分の妃(きさき)の戴冠式も、ナポレオンが自ら、妃
 に戴冠した。
  キリスト教聖職者による戴冠を排除した。
  今までは、種々の王や諸侯の戴冠式の戴冠は、キリス
 ト教の聖職者が行なって、ある意味「キリスト教聖職者
 が、あたかも、冠(かんむり)を授けているように見え
 ていた」。
  ナポレオンに、その馬鹿げた虚構が見えた。
  今、キリスト教国・アメリカでは、大統領の就任式に、
 キリスト教の聖書に手を置いて宣誓する儀式が行われて
 いるが・・、
  あれほど、アメリカの初代大統領のワシントンが、キ
 リスト教色の排除と、キリスト教の影響力を排除しよう
 とした心が、「理解されていない状況」へと、今、アメ
 リカはあり、後退している。
  この初代大統領ワシントンは、アメリカ合衆国憲法を
 作る時にも、キリスト教の影響力を排除することに非常
 に心を砕いた。
.
1937年12月8日、日本軍は12月8日には南京を包囲した。
  そして、1937年12月9日、日本軍は中国軍に対して無血
 開城を勧告した。
  中国軍は、開城勧告を拒否し、応じなかった。
  やむなく、日本軍は、勧告に応じない南京城を1937年
 12月10日、攻撃を開始した。
  1937年12月12日、南京防衛司令官の唐生智が逃げた・・
 一般兵たちを置き去りにして・・逃亡した。
  また、蒋介石を連れ去って、司令部を崩壊させたアメ
 リカ・・それで、司令部が崩壊し、混乱している中国軍
 が、なおさらに、南京防衛司令官の逃避で、まったく統
 制のされてない状態となった。
  そしてまた、統制の効いてない南京の中国軍の大半が
 組織的撤退を知らされていない状態で・・、
  また、日本軍の迫る頃から混乱が続いていた南京城は、
 逃げる人々にあふれ、中国軍が撤退することを知ってい
 ても安全に逃げられない状況であった。
  中国軍は、自軍の中国兵を、塹壕に足を縛って置き去
 りにしたりした・・塹壕に置き去りにして、防戦させる
 という卑劣なこともした。
  唯一の逃避路である北部の長江へつながる挹江門では、
 中国軍の仲間を撃つことを躊躇しないという中国軍は『
 督戦隊を置いた』。
  中国軍の撤退する側と同士撃ちとなった (挹江門事件)
  (参考)督戦隊:とくせんたい、軍隊において、自軍
     部隊を後方より監視し、自軍兵士が命令無しに
     勝手に戦闘から退却(敵前逃亡)或いは、降伏
     する様な行動を採れば、攻撃を加え、強制的に
     戦闘を続行させる任務を持った部隊のこと。
      この場合、中国軍が、自軍の中国軍を撃ち、
     中国兵を戦う事を仕向けた。
.
1937年12月12日、挹江門事件(ゆうこうもんじけん)
  アメリカが介入して、中国軍の最高司令官である蒋介
 石が連れ去られ、中国軍の司令部は崩壊し、中国軍は乱
 れに乱れていた。
  督戦隊が置かれることまでされて、中国兵は戦わせら
 れた。
  あちこちで中国兵同士が撃ち合った・・その一つが挹
 江門事件だった。
  1937年12月12日の夜、挹江門事件が起きた。
  南京城へ進撃する日本軍の攻撃によって、中国軍は敗
 走に敗走を重ねた。
  その中国軍の一部隊が敗走して、挹江門を通り抜けよ
 うとした。
  その部隊は、中国国民政府軍87師と第88師、そして、
 教導総隊の潰走兵だった。
  その潰走(かいそう、戦いに敗けた兵士や隊が、四分
 五裂になって逃げること)する兵士たちと、それらを武
 力阻止する中国軍の督戦隊である国府軍第36師212団とが
 衝突した。
  中国軍同士の激しい撃ち合いとなった・・その双方の
 発砲で、瞬く間に約1000名の中国軍兵士が死亡した。
.
1937年12月13日、この日、混乱に次ぐ混乱の中で、中国軍
 は総崩れとなり南京城は陥落した。
  陥落時にも、南京城の北側から長江の対岸へと逃げよ
 うとした非常に多くの兵隊や一般人が、舟もない中で渡
 河しようとして、混乱の中で撃たれたり、途中で溺れ死
 んだりした。
.
1937年12月13日、中国の南京を日本軍が攻略した。
  この時、いわゆる南京事件が起きたとされているが・・
 まったくの嘘。
  戦勝国のアメリカは、裁く事が出来る法律が無い事か
 ら・・、
  「その裁くための法律を、わざわざ後から作ってまで
 して、東京裁判を裁くという・・卑劣な、戦勝国のアメ
 リカのやりたい放題のやり方で、東京裁判を裁いた」。
  この不当な、また、不法な、戦勝国のやりたい放題の
 東京裁判でさえ、この南京事件はあったとした。
  南京事件をデッチアゲタ。
  そのデッチアゲの南京事件の中国の犠牲者は「2万人」
 と言った。
  それを、中国の現在の政権・中華人民共和国(中共)
 は、だんだんその犠牲者数を増やして行った。
  「無いもの」を「ある」と言い・・そして、その数を
 だんだん増やすという行為を行なった・・よくあるパタ
 ーンを行なった。
  そして、今・現在に至った時点で、その犠牲者数を「
 30万人」と言っている。
  中共の好きに膨らませたこの30万人も、この後には、
 さらに、大きく風船のように膨らんでいくだろう・・
  だが・・この嘘つきの中国の中共の味方をする書物で
 さえ、この数を10万人としている。
  まったく言いたい放題の・・信用の出来ない中共など
 となっている。
  しかし、お粗末な事に、この中共に、ゴマすりをよく
 する「村上春樹は、本で40万人と書いた」・・
  村上春樹よ! 証拠を示せ! この嘘つきめ!
  この一件は、アメリカが、中国軍の最高指揮官の蒋介
 石(現政権の共産党軍ではない)を・・、
  そして、その司令部の最高将校の重要要員を、「救出」
 の名の下に、戦い真っ最中の南京から連れ去った・・
  このために起きた「中国軍の大混乱が原因」で、この
 大混乱・大混戦の原因は、アメリカが作った。
  また、この様に卑劣な参戦をしていたアメリカ軍こそ
 が、「東京裁判で裁かれるべき」だった。
  司令部の居なくなった中国軍は哀れな惨状を示した。
  当然の結果として・・乱れに乱れて、中国軍兵士は逃
 げ惑った。
  惑い、そして、逃げる自国の兵士を「逃げるな」と、
 置き去りにされた中国軍の下級将校たちは、自国軍の兵
 士へ向かって狙い撃ちをした。
  この様な卑劣な事態が起きた。
  東京裁判では隠された・・
  卑劣な裁判だった・・
  この様な南京攻略戦は、様々な事態の中で戦われた。
  また、卑劣にも、中国兵は、逃げられないと悟ると、
 軍服を脱いで、民間人の中に隠れた。
  これでは、民間人に被害が及んでしまう・・民間人が
 戦闘員と見間違われてしまう・・しかし、助かりたい中
 国兵は、この様な卑劣な事までした。
  そして、そこから日本兵を狙撃するという戦い方もし
  その民間人の中にある銃の探索が行われた・・当然・・
  民間人へ被害が及ぶことが分かっていても、中国兵は、
 民間人の中に卑劣に隠れた。
  当然、その民間人に隠れている中国兵と戦わざるを得
 ないという日本軍の事態だった。
  この様な様々な中の南京攻略戦だった。
  「修羅の状況」である。
  アメリカに援助された中国・蒋介石・国民政府軍は、
 「重慶」という中国の奥地へ拠点を移した。
  新しい都とした。
  これは、日本を叩きたいアメリカが、「日本の消耗」
 を狙っていたのだった。
  そして、アメリカは、延々と「援蒋ルート(蒋介石の
 中国軍を援助するルート)」を使って、厖大(ぼうだい、
 非常に大きく、多量なこと)な武器や弾薬を中国軍へ援
 助する。
  「日本との戦争ありきのアメリカ」
  そして、この先の第二次世界大戦ありきを決めてかか
 っているアメリカだった。
  この事の初め・・元々、アメリカは、厖大な武器・弾
 薬を支援して、中国・蒋介石軍に、上海を大軍で包囲さ
 せていた。
  その様な形で、中国・蒋介石軍は日本に迫って来た。
  上海の国際租界の中の日本租界へ向けて攻撃を開始し
 て来た(1937年8月13日、第二次上海事変)
  この時から、そもそもの戦いは始まった。
  アメリカの支援の下で、中国・蒋介石軍が、先に戦争
 を開始した。
  この武器・弾薬を与えて「アメリカが、焚き付けて始
 まった」・・その様な戦いだった。
  ルーズベルトが、第二次世界大戦がはじまったとき、
 「戦争を作った」と言ったが・・まさしくこの時以来の
 ことだった。
  キリスト教に偏して、日本を貶めてばかりいるNHK
 は、この事を隠し、まったく、この様な事を放送しない。
  この時、NHKはじめ日本のマスコミは、「戦争を煽
 った」。
  この時、上海事変で、蒋介石軍の攻撃を受けて、日本
 は戦い・・、
  そして、この戦いを・・日本が収めたとき・・、
  日本は、この時点で終わらせようとした。
  世論には、戦争を仕掛けた中国の蒋介石への思いに、
 「撤退し、逃げる蒋介石軍を追討するか?否か?」の判
 断において、国内には賛否の両論があった。
  この様に揺れている時に、NHKはじめマスコミは「
 囃(はや)し立てた」。
  このため、南京への追討否定派の意見はなくなった。
  NHKはじめ日本のマスコミは、常に、日本の戦いを
 煽り立てた。
  そして、進軍が決定すればすれで・・その進軍の様子
 を、「微に入り、細に入り報道」して「煽った」。
  そして、戦後の1948年11月13日・・、
  東京裁判の南京事件の責任者とされた日本の将軍に・・
 死刑判決がなされると・・、
  朝日新聞は、自らが勝ち誇ったように、「この一訴因
 で絞首刑」と記して報じた。
  NHKとこの朝日新聞は、今・現在、自社の一室を中
 国へ与えるという特別な事をしている。
  嘘の慰安婦問題をデッチ上げた朝日新聞と、そのNH
 Kは悪である。
.
1937年12月16日、中国の南京において、中国軍は、一般人
 民の中に隠れて、一般人民を卑劣にも盾にして、日本軍
 を狙い撃ちした。
  その掃討が、この日まで続いた。
  盾にされた中国の一般人民は、たまったものではなか
 った。
  南京での中国兵は、卑劣な行為である「軍服を脱いで
 戦う事をした」。
  軍服を着ていない一般人が戦うということではなく、
 今まで軍服を着ていた中国軍人が、その軍服を脱いで、
 一般人のふりをして戦った。
  軍服を着ていた中国兵が、着ている軍服を脱いで、人
 民の中に隠れて、日本軍と戦った。
  人民を盾とする卑劣な戦い方をする中国兵だった。
  日本軍は、その掃討(そうとう、残っている敵兵を撃
 ち払うこと)を行なったが、掃討戦は、1937年12月16日
 まで続いた。
  人民の中に隠れた卑劣で卑怯な中国兵、盾にされた中
 国人民・・この一般の中国人に犠牲者が出ない訳は無か
 った。
  上海戦から南京戦までの日本の戦死者の総数は24,000
 名に達した(戦病死者を含む)。
  この数は、日本軍の最高司令官である松井大将の日記
 にある数字で、ほとんどの戦死者が上海戦によるもの。
  一方、中国側のデーターについては、国民党軍軍政部
 長の何応欽上将の軍務報告に33,000名とある。
  何しろ、中国軍は、一般人民を盾にして、その人民の
 盾の陰から日本軍を狙撃するという卑劣な戦い方をした。
.
1943年、ソ連のスパイ機関が、アメリカ国内からソ連のモ
 スクワへ、スパイした内容を報告するのを、アメリカは
 知った・・そして、その傍受をする。
  この様な事があったと、1995年になって「VENON
 A(ベノナ)文書」が公表された。
  この文書が公開され始めて、戦中から戦後にかけて、
 この様なコミンテルンが、アメリカ国内で盛んに活動し
 ていたことが分かって来た。
  (参考)コミンテルン:共産主義インターナショナル
      Communist Internationalの略称。
      第3インターナショナル、第3インターとも呼
     ばれる。
      1919年3月にモスクワに創設され 1943年5月ま
     で存続した各国共産主義政党の国際統一組織。
      第1インターナショナル (1864年~1876年) 、
     第2インターナショナル (→社会主義インターナ
     ショナル、1889~1914) の崩壊後、V. I.レーニ
     ンらは、第1次世界大戦中から、新しい第3イン
     ターナショナルの創設を目指して活動を続け、
     30ヵ国の共産主義諸政党あるいは革命的組織の
     代表50余名をモスクワに集めて、1919年3月2日
     ~1919年3月6日、コミンテルン第1回大会を開い
     た。
      コミンテルンは、第2インターナショナルに比
     べ、はるかに強固な国際的団結と規律をもち、
     ソ連という社会主義国家を支柱とするに至った。
      また、民主的中央集権の組織原則をとり、コ
     ミンテルン執行委員会の指導のもとに活動する
     ことが定められた。
  そして、アメリカでのその実態が明らかになった。
  これは、カーター・クラークというアメリカの将軍が、
 ルーズベルト大統領にも秘密にして始めたプロジェクト
 だった。
  アメリカ陸軍の超秘密の暗号解読機関が、ソ連情報部(
 KGB、GRU)が、アメリカ国内からモスクワの本部
 に、報告する電報を傍受し、解読していた。
  解読作業は、1943年から始まり、1945年位から進捗す
 る。
  すると、ソ連のスパイが、ぞろぞろと判明した。
  国務省や財務省の官僚をはじめ、官庁のスタッフ、そ
 して、知識人、映画関係者、作家など広範囲な人のソ連
 スパイの存在が明らかになった。
  今・現在も、日本に盛んに中国の工作員が、日本に潜
 り込んでいるが、このアメリカの様な事になっていると
 言える。
  今・現在、沖縄県や北海道の中国化が急速に進んでい
 る。
  このベノナ文書で、ルーズベルト政権(ワシントンの
 連邦政府)に、常勤スタッフだけで200人以上、正規職員
 以外には300人くらいのソ連工作員(スパイやエージェン
 ト)が居た・・この事が確定的に判明した。
  (参考)エージェント:(1)代理人や代理店。また、
     仲介業者。(2)国家の秘密業務で働くもの。
  この影響が、1933年から1952年の約20年間、ルーズベ
 ルト大統領政権から、次のトルーマン大統領政権にまで、
 ソ連に繰られていた。
  今の日本も、非常に注意しなければならない時にある。
.
1979年1月、日米・コンピューター開発競争・・日本潰しの
 IBMスパイ事件へ
  1979年1月、IBMは、従来の中・小型コンピューター
 の5倍から6倍という抜群のコストパフォーマンスのI
 BM4330を発表した。
  これは、プラグコンパチブル機に対抗してそれらに致
 命症を与えるに充分な価格設定とおもわれた。
  事実、このために有力なコンパチブルメーカーであっ
 たアイテル社は痛手を負い、関連部門をナショナルセミ
 コンダクタへ売却した。
  そればかりか、IBMとコンパチブルでないイギリス
 のICL(International Computers Ltd.)も、主力工場
 であったウインズフォールド工場を閉鎖する事態におい
 こまれた。
  ところが、日本のメーカーは、わずか1ヶ月遅れで対
 抗機種FACOM130Fを出荷した富士通をはじめと
 して、各社ともIBMに追随してきたのである。
  しかも、1980年11月、IBMの特に強い超大型コンピ
 ュータの分野でも、IBM3081D(9.5MIPS)を発表
 した時すでに、日立は10.2MIPSのM200Hを、
  そして、IBMのコンパチブルではないが、日本電気
 のACOS1000は15MIPSという当時の最速の機種を
 発表しており、IBMは、日本のコンピュータに先を越
 されていた。
  この様に、日本のメーカーは、すくなくともハードウ
 ェアについては、IBMの技術に追い着き・・、
  半導体チップでは、日本の方が信頼性などの点で優れ
 いるとも言われるにまでに至っていた。
  そこで、IBMは、日本のコンパチブル機を振り切る
 決め手として、基本ソフトウェアであるOS(オペレー
 ティング・システム)を解析しにくくすることにした。
  それまで、磁気テープで供給してきたOSの機能を一
 部ファームウェア化してしまった。
  こうすれば、コンパチブルメーカーはOSを解析する
 までに相当時間を必要とする。
  1981年12月、こうして、この8000語ほどファームウェ
 ア化されたOSをもつIBM3081Kを発表すると共に、
 3081が、31ビットアドレッシングを採用している新しい
 アーキテクチャであること明らかにした。
  そして、IBMは、アーキテクチャが変わっても360シ
 リーズ以来のアプリケションソフトを実行できる新しい
 OS、MVS/SPを提供した。
  この31ビットアドレッシングと、新OSの高度なファ
 ームウェア化は、コンパチブルメーカー対策としては強
 力で・・、
  富士通、日立が、このファームウェアを解明するには
 2年はかかるとみられた。
  そのため、あせった日立が、新OSのソースリストを
 中心としたIBMの技術情報を入手しようとしたのを、
 FBIのおとり捜査にひっかかり摘発されたのが、1982
 年6月23日だった(IBMスパイ事件)
  この結果、IBMは、日立に多大な賠償金とIBMの
 技術情報が使用されているかどうかの製品検査権を認め
 させた。
  これにより、IBMは、日立の動向を掌握することが
 でき・・、
  いざとなれば、日立にコンパチブル機を作らせないこ
 ともできることになった。
  また、IBMは、この事件に直接関係なかった富士通
 に対してもOSの酷似をもって、富士通を訴え、実質的
 に著作権を認めさせた。
  日立や富士通は、IBMコンパチブルの路線をとる事
 になって行く。
.
1982年6月22日、IBM産業スパイ事件(アイ・ビー・エム
 さんぎょうスパイじけん)は、1982年6月22日、日立製作
 所(以下、日立)や三菱電機(以下、三菱)の社員など
 計6人が、米IBMの機密情報に対する産業スパイ行為を
 行ったとして逮捕された事件である。
  この事件は、各日本メーカーとIBM米本社との間の
 事件で、同日本法人である日本アイ・ビー・エム株式会
 社は無関係であり、同社関係者にも寝耳に水の事件であ
 った。
  IBMと日立は、翌年・1983年に和解した。
  また、1984年より、当初は当事者外であった富士通と
 IBMの交渉も進められ、1988年に和解した。
  1981年、IBMは、アドレスを31ビットに拡張し
 (System/370-XA)、オペレーティングシステム (OS) の
 一部をファームウェア化して互換機を作りにくくしたメ
 インフレームコンピュータの3081K を発表した。
  互換機メーカーであった日立は、 3081K に関する技術
 文書をNAS(ナショナル セミコンダクターの汎用コンピ
 ュータ部門で、日立からOEM供給を受けていた)から入手
 した。
  一方、かねてからコンサルティングで日立との取引が
 あったペイリン・アソシエーツ社から 3081K に関する報
 告書の売り込みがあった。
  日立はその目次を見て、NASから入手済みの資料に酷似
 しており、両方の文書が何らかの共通の資料に基づくも
 のと判断。
  ペイリン社に対して、「その資料は既に持っている。
 しかし、それは一部と思われるので、他にもあるなら購
 入したい」と伝えた。
  ペイリン社の社長ペイリーは、元IBM従業員であり、
 日立がIBM3081Kの資料を入手済みであることをIBMの
 ボブ・エバンズ(当時、副社長)に通報。
  結果として、FBIによるおとり捜査が行われ、日立
 と三菱の社員が逮捕されることになった。
  刑事事件自体は、1983年2月、司法取引により決着した。
  しかし、IBMは、日立に対して民事損害賠償訴訟を
 起こした。
  ・・IBM産業スパイ事件は・・、
  日立と三菱がスパイをやった、という程度の、企業が
 行き過ぎただけの話だと思われている・・が・・、
  1959年、日本のコンピューター開発、この年には、東
 京大学が中心となって、東芝・日立が協力し、TACが
 完成した。
  (参考)TAC:Tokyo Automatic Computerは、東京
     大学が開発したコンピュータで、一般に東大と
     東芝が共同開発したとされていて、大変な難産
     の結果、うまれた。
      東芝が協力していない部分や日立製作所が協
     力した部分があり、1959年に、最終バージョン
     が完成した。
  (参考)FUJIC:富士写真フイルムにおいて開発
     された我が国初の電子計算機で、真空管式電子
     計算機だった。
      レンズ設計に使用することを目的として岡崎
     文次により開発された。
      1949年より、岡崎は研究を開始した。
      1952年3月から、メモリ関係の研究と並行して
     全体の組立てが行われた。
      1955年11月に、電子通信学会電子計算機研究
     専門委員会の見学会で、動作のデモンストレー
     ションが行われた。
      1956年3月初めに完成し、栄誉ある我が国最初
     の電子計算機となった。
      真空管を約1,700本使用した2進法3アドレス方
     式の電子計算機で、記憶装置には超音波水銀遅
     延線(255語)が採用された。
      論理回路のクロック周波数は約30KHzであった
     が並列演算回路を採用し、加減算0.1ms,掛算1.6
     msと、当時としては比較的高速であった。
      目標はレンズ設計において人手計算の1,000倍
     であったが、約2,000倍の性能を実現した。
      2年半の間小田原工場で社内外の計算に使用さ
     れ、その後、早稲田大学に寄贈され、現在は国
     立科学博物館に保存されている。
  上記の様に、日本は、コンピューター開発の先端を歩
 んでいた。
  国の予算をつぎ込んだ国家プロジェクトとしても進め
 られ、目標は大きく野心的でさえあった。
  研究課程は難航し、何度も設計変更を繰り返した。
  1964年には、通産省の予算で富士通・沖電気・日本電
 気が共同でFONTACを作成した。
  (参考)FONTAC:年々輸入が増大していた大型
     コンピュータ分野に、通産省は補助金を交付し
     て大型コンピュータの国産化を狙った。
      1962年7月、そのために、富士通信機製造(現:
     富士通)、日本電気、沖電気の3社により日本電
     子計算機技術研究組合が設立された。
      FONTAC(Fujitsu-Oki-Nippondenki-
     Triple-Allied Computer)は、この3社の3年に
     わたる共同研究によって完成された大型コンピ
     ュータだった。
      1964年11月に完成し、日本電子工業振興会に
     納入された。
      FONTACシステムは、主コンピュータと
     して高速大容量の記憶装置と多数の入出力チャ
     ネルを持つ大型2進計算機を、衛星コンピュータ
     に可変語長のFONTAC Sub Iと固定語長のFONTAC
     Sub IIを使用し、主コンピュータと衛星コンピ
     ュータは密接に結合された。
      FONTAC Centralは、1語42ビットからなる2進
     法のコンピュータで、固定小数点の数値は、デ
     ータ36ビット、フラグ4ビット、パリティ2ビッ
     ト、浮動小数点の数値は指数部9ビット、仮数部
     27ビット、フラグ4ビット、パリティ2ビットよ
     り構成された。
      記憶装置として30mil/サイクルタイム2.2μs
     の磁心記憶を使用し、最大65,536語の容量を実
     現し、演算速度として固定小数点加減算/乗算
      4.4μs /25.2μs,秒浮動小数点加減算/乗算
      15.4μs /30.8μsの性能を有した。
  1962年7月、この共同研究で開発された技術を基に、
 CPU(中央処理演算装置)を担当した富士通信機製造
 (現:富士通)は、FONTAC Centralを一部改良し、FACOM
 230-50として商用化した。
  1964年11月、FONTACは、この3社の3年にわたる共同研
 究によって完成された大型コンピュータで、1964年11月
 に完成し、日本電子工業振興会に納入された。
  この頃から、各社が「コンピューターの作り方」を理
 解し、独自開発を開始した。
  日立のHITAC、富士通のFACOM、日本電気のNEAC、東芝
 のTOSBAC 、三菱のMELCOM、沖電気のOKIMINTAC・・
  コンピューターは、これから確実に産業の中心となる
 というのは明らかだった。
  1970年代初頭、IBMは、巨大メーカーに成長しつつ
 あった。
  日本国内だけで、6社も、互換性のないコンピュータ
 ーが乱立していて、これでは、日本のコンピューターは、
 大企業に潰されてしまうリスクが存在した。
  通産省は、「国内で、IBMに対抗できるコンピュー
 ターを育てる」ための方策を取った・・それは・・
  1) IBMと技術提携を行わない、IBM互換機路線
  2) IBMに対抗できる大企業の互換機路線
  3) 日本独自路線
  2 の大企業は、ハネウェル社。
  1960年代、アメリカには、8つのコンピューターメー
 カーがあった(「IBM と7人の小人」と呼ばれた)
  ハネウェルはその一つでありながら、1970年に MULTICS
 の技術を持つGE社と合併し、力を伸ばしていた。
  通産省は、国内の各社は上のいずれかの道を選び、提
 携することが求められた。
  富士通と日立はすでにIBM互換機を作成していたた
 め、互換路線を選んだ。
  日本電気はすでにハネウェルと提携していた。
  東芝も、すでにGEと提携していましたが、GEがハ
 ネウェルに吸収合併された。
  そこで、日本電気と東芝も提携し、ハネウェル互換路
 線を選んだ。
  三菱・沖電気は「取り残された」形で提携し、独自路
 線を歩むことになった。
  富士通と日立は提携し、技術的な交流は図りつつもお
 互い独自に、IBM System/370 の互換機を作成していた。
  (IBM との技術提携はない)
  ただし、IBM で System/360 (370の旧世代機)を設計
 した技術者で、後に独立したジーン・アムダールの会社
 と富士通は提携し、技術的ノウハウを得ていた。
  1981年、IBM はこうした「互換機」が世界中で増えて
 いたため、設計を一部変更して、性能を上げるとともに
 互換機を作りにくくした、System/370-XA を発表した。
  日立は、この「設計変更」の詳細を入手しようとして、
 IBM のおとり捜査に引っかかった。
  1982年、社員5名が逮捕され、この時、三菱社員1名
 も逮捕された。
  三菱は、当初、「独自路線」グループでしたが、この
 頃には余りに強くなった IBM の互換機を作ろうとしていた。
  この刑事事件は、司法取引により決着した。
  しかし、IBM から、民事損害賠償訴訟を起こされた。
  System/370-XA は、各種回路が特許で守られていたう
 え、それまでは後から読み込まれるソフトウェアであっ
 た「OS」の一部を、ハードウェア内に持つようになって
 いた。
  System/360 や 370 の頃は、同等の機能の回路で置き
 換えも可能でしたが、370-XA の特許は強力で、簡単には
 回避できなかった。
  また、BIOS に関しては単純な回路ではなく、プログラ
 ム…著作物です。
  著作権の場合「類似したもの」を作ったとしても、盗
 作としてアウト。
  少なくとも、この時点では IBM はそのような認識で動
 いていた。
  ずっと後に、IBM・コンパックが BIOS の著作権を争い、
 現在は違う認識となっている。
  結局、日立は IBM の許可を得ずに機械を販売しないこ
 と、訴訟費用は全部日立が負担すること、ソフトウェア
 やインターフェイスなどに関して、使用する対価を払う
 こと…などを条件に和解した。
  日立からすれば、IBM 互換路線に「お墨付き」を貰っ
 た格好で、この後も互換路線を進んだ。
  富士通も日立の訴訟に危機感を持ち、同様の取引を結
 びますが、徐々に IBM 互換路線から非互換路線にシフト。
  いずれにしても、通産省の狙った「独自技術による互
 換」という路線は無くなってしまった。
  この頃は、IBM が強くなりすぎてハネウェル社もコン
 ピューターから事実上の撤退。
  特に、吸収合併したGEの互換機は消滅し、GE互換
 だった東芝も撤退、同じグループだった日本電気にコン
 ピューター部門を売却した。
  独自路線だった三菱・沖も、先に書いたように三菱が
 IBM互換路線に進もうとして、スパイ事件に発展した。
  沖電気は、コンピューター本体は断念して、周辺機器
 製造に特化した。
  国策だった3グループ化は大失敗となった。
  日本のコンピューター産業は死んでしまう…。
  「IBM産業スパイ事件」とは、そうした危機的な状
 況を意味した。
  翌1983年、日本電気がスーパーコンピューターの新シ
 リーズ、SX-2 を発表します。
  この SX-2 は、世界で初めて GFLOPS を超えたコンピ
 ューターで、同時に初めてアメリカ以外のコンピュータ
 ーが速度で世界一になった機械だった。
  日本のコンピューター産業復活を狙った。
  この後、急に力を付ける日本のコンピューター業界に
 アメリカが危機感を感じ、1980年代後半から1990年代前
 半の貿易摩擦につなげて問題化する。
.
2012年3月、日本企業の大切な機密技術が、海外企業に盗ま
 れるという、流出した事例は多々ある。
  2012年3月には、工作機械大手のヤマザキマザックから
 設計図などの情報を不正取得したとして、愛知県警が中
 国籍の元社員を逮捕した。
  2012年4月には、新日本製鉄(現・新日鉄住金)が、高
 機能鋼板の製造技術を流出させたとして、元社員と韓国
 鉄鋼大手ポスコを相手取り、1000億円の損害賠償訴訟を
 起こしたりした。
.
2014年3月14日、この日の新聞やテレビなどの大手報道機関
 は、東芝のNANDフラッシュメモリに関する研究データ(機
 密情報)を韓国の大手メモリメーカーであるSK Hynixに
 提供した不正競争防止法違反(営業秘密開示)の容疑で、
 元技術者を警視庁が13日に逮捕したと報じた。
  元技術者(S容疑者)は、東芝とNANDフラッシュメモリの
 共同開発で提携してきたアメリカSanDiskの日本法人に勤
 務していた。
  この事件について、3月14日付けの読売新聞オンライン
 版では、S容疑者は、2007年4月から2008年5月にかけて、
 東芝四日市工場の管理サーバーに保存されていたNANDフ
 ラッシュメモリの研究データをUSBメモリに無断でコピー
 して持ち出し・・、
  2008年7月に、転職したSK Hynix(当時はHynix Semicon
 dcutor)に、持ち出した研究データを提供した。
.
2014年3月、技術流出・・日本政府の対応
  技術の流出防止と保護が極めて大切=東芝技術の流出
 問題で官房長官
  [13日 ロイター]菅義偉官房長官は、13日午前の会
 見で、東芝(6502.T)の技術が海外に流出したとの一部報
 道に関連し、技術の流出防止と保護が極めて大切との見
 解を示した。
  この問題について見解を求められた長官は、報道内容
 については承知しているが、個別事案についての言及は
 控えたいとした。
  その上で一般論と断りながら、「技術立国であるわが
 国にとって、守るべき技術の流出防止と適切な保護にし
 っかり取り組んでいくことが極めて大事だ」と強調した。
  政府として、知的財産戦略本部(本部長:安倍晋三首
 相)が、2013年6月に策定した「知的財産政策ビジョン」
 において技術・営業秘密の保護や強化の取り組みを打ち
 出していると語った。
  共同通信などによると、東芝のフラッシュメモリーの
 研究データを韓国の企業に不正に流出させた疑いが強ま
 ったとして、警視庁は13日までに、不正競争防止法違反
 容疑で、東芝と提携していた半導体メーカーの元技術者
 の逮捕状を取った。
.
2016年11月24日、アメリカは、中国を市場経済国と認めず 
 貿易摩擦激化へ
  アメリカ政府は23日、中国を世界貿易機関(WTO)
 協定上の「市場経済国」(自由な市場で経済運営が行わ
 れている国)とは認めない方針を明らかにした。
  日本も追随する方針。
  中国政府の優遇措置に支えられた中国鉄鋼メーカーな
 どのダンピング(不当廉売)を問題視。
  反ダンピング税を課しにくくなる「市場経済国」とは
 認定できないと判断した。
  中国は、WTO加入から15年を迎える来月の市場経済
 国移行を主張してきたが、米国の反対で事実上、不可能
 となった。・・以上・・(参考:毎日新聞)
  2017年12月12日、中国は「市場経済国」か? アメリ
 カ、認定に反対表明 WTOを試す「リトマス試験紙」
  世界貿易機関(WTO)の制度上の「市場経済国」認
 定を中国政府が求めていることについて、米国が正式に
 反対する通知をWTOに送付した。
  通商上の不利な扱いを受け続けることになる中国は反
 発しており、米中間の摩擦が再燃している。
  トランプ米政権がWTOを「機能していない」と批判
 する中、中国の認定問題は、米国のWTO脱退の引き金
 となりかねない火種となる可能性がある。
  米欧が共同戦線
  米政府がWTOに通知を送ったのは11月中旬。
  欧州連合(EU)も中国の市場経済国認定に反対して
 おり、米国は通知を通じてEUへの賛同を表明した。
  通商分野で米国とEUは対立するケースも多く、米欧
 が「異例の共同戦線」(米メディア)を張った。
  ・・以上・・(参考:産経新聞)
  アメリカは、中国を市場経済に組み入れ、そして、豊
 かになり、社会も開かれ来れば、政治システムも変化し、
 欧米的なシステムを受け入れて来ると見て、その様な意
 味からも、中国に対し甘やかす政策を取って来た。
  しかし、事は、その様な思惑の様には進展して来なか
 った。
  この問題は、今、気が付いたことではなかった・・が・・
  中国が、これまで経済を拡大できたのは、この恩恵だ
 った・・
  しかし、中国は、ありがたいという態度は表わさない・・
 心の底ではその様に思っているのかもしれない・・が・・
  そして、アメリカは、中国にはそのような態度をとっ
 ても・・日本に対しては厳しい態度を取り続けた。
  例えば、最新鋭の技術を取り上げる事をすることはし
 ても、日本へ提供をすることはしなかった。
  また、日本の企業が、最先端の技術を開発する事を妨
 害さえした。
  NECが、独自のコンピューターを開発するのを妨害
 した。
  三菱などが新しい技術を開発しようとすると、「研究
 員が犯罪を犯した」などと言いがかりをつけて阻止した。
  別の観点から見ると、アメリカは、中国を簡単に抑え
 られると見ていたと考えられる。
  中国は石油が不足している。
  代替エネルギーの開発も遅れている。
  この事例の様に、中国の技術は、アメリカからの提供
 が無ければ高度な製品が作れないなど、中国を抑え、コ
 ントロールできるとみていた。
  しかし、アメリカと中国は、これから貿易や通貨を巡
 って緊張度はさらに上がって行くと指摘されている。
.
2017年3月、日本学術会議が、大学などの軍事的研究を否定
 する声明を出した。
  軍事的研究と言ったって、この日本学術会議の人たち
 も含めて、日本人・国民を守る自衛隊などの研究をする
 ことまで否定した。
  日本国民を守る研究をしてはいけないと言い出した。
  まったく卑劣な声明である。
  「日本を攻めてくる勢力に利する行為」を行なってい
 る。
  どんな理屈があって、こんな事を言っているのだろう
 か?
  どんな論理があって、こんな声明を出しているのか?
  日本国民の命を守るという大切なことを放棄している。
  その様な研究をしてはいけないとした。
  日本国民の税金を使って日本学術会議の大学などは研
 究をしている。
  ならば、すべての研究費を辞退せよ!
  また、守るべき日本国民の税金で建てられた大学など
 の施設で研究ができるという恩恵に答えていない。
  また、日本国民から給料をもらい、自分や家族を養う
 金を貰っていながら・・この様な声明を出したという事
 になっている。
  ならば、自分の立場や給料も辞退せよ!
  まったく矛盾している、反逆している、日本学術会議
 や大学だと言える。
  そして、2018年6月9日の読売新聞によると、あろうこ
 とか?? 北海道大学という国立大学が、この日本学術
 会議の声明を受けて、防衛省の研究をしないと決めたと
 いう。
  中国や北朝鮮に、日本の存在が危うくなっているこの
 今・現在、この様な行為をしている
  (この様な事をするのは、この大学だけ)
  今まで、北海道大学は、研究をして来たけれど、これ
 からはしないとしたという。
  防衛省は、船体の摩擦抵抗を軽減する研究を、2016年
 度から委託していた。
  防衛省は、北海道大学の意向を尊重せざるを得ないと
 している。
  日本の国立大学の北海道大学・・何もかもが国民の御
 世話になっているこの大学が、この様な行為をする・・
 国民の為になる研究をしないと・・している。
  まったく理屈の立たない行為をした。
  北海度と言えば、沖縄県とともに、中国が暗躍してい
 るところ・・色々と工作をするところ。
  中国の国家的重要人物・要人が来て、中国の息のかか
 った農場を視察したりするところ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2018-06-15 04:30 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)598E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)

題:(増補版)598E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年6月10日、東学党軍と李氏朝鮮政府が、和睦
  朝鮮内で、圧政を行ない人々を虐(しいた)げていた
 政府に対して反乱を起こした東学党軍と、李氏朝鮮政府
 が、全州和約を結び、和睦した。

1894年6月10日、大鳥圭介在朝鮮公使が、陸戦隊を率い漢城
 府(かんじょうふ、ソウルの旧名)に帰任した。

1894年6月10日、山陽鉄道が糸崎駅~広島駅間が開通し、山
 陽鉄道の路線が、広島まで延長された。
  神戸駅~広島駅間の直通列車を、1日3往復の運転を開
 始した。
  2014年7月18日~8月10日に、三原駅(現:糸崎駅)~
 広島駅間開通120周年記念特別企画展が三原リージョン
 プラザで開かれた。

1894年6月11日、全州和約され、農民軍が全州を撤退した。

1894年6月12日、共同撤兵、袁世凱・大鳥間でほぼ妥結。
  日本を圧迫していた清国。
  日本には、潜在的対清恐怖感があった。
  そして、朝鮮に対して、清国は、宗主権的なものを持
 っていた。
  そして、華夷(かい=中国とえびす)秩序なるものが
 あった。
  この先、日清は、戦端を開くが、明治天皇陛下は、開
 戦には非常に消極的であられた。
  (参考)華夷秩序:かいちつじょ、中国の皇帝を頂点
     とする階層的な国際関係を指す。
      古来中国にある自分たちは優れた文明を持つ
     世界の中心(中華)で、周囲は未開の野蛮人(夷)
     であるとの考え方に根ざす。
      具体的には、中国皇帝の恩恵を受けるために
     朝鮮など周辺の国々は貢ぎ物をし(朝貢、ちょう
     こう)、代わりに皇帝が王と認める(冊封、さく
     ほう)という形をとった。
      アヘン戦争時は、朝鮮、ベトナムなどが中国
     と「朝貢・冊封関係」を結び、中国を「宗主国
     (そうしゅこく)」と位置づけていた。
      日本は離脱している。
  (参考)清国の意識:清国の戦線詔勅(部分)には、
     下記の様に、朝鮮を属国と完全に意識していて、
     西欧列強がアジアを植民地化して行く中で、力
     を付けつつある日本を完全に排除したかった。
      そして、朝鮮の従属化を強めて自勢力下に留
     めたかった。
      「朝鮮ハ我大清ノ藩屏〔ハンペイ:直轄の属
     領〕タルコト200年余、歳ニ職貢ヲ修メルハ中外
     共ニ知ル所タリ…」
      今(2018年)の中国も、この様な意識でいる
     のだろう。

1894年6月12日、日本の朝鮮派兵先遣隊が、仁川(じんせん、
 ソウルから40キロメートル)に到着した。
  1885年の天津条約に基づく行動。

1894年6月12日、山陽鉄道が、兵庫駅~広島駅間を開業した。
  2軸横扉の客車と荷物車の混成7両列車が、1日15本、
 昼間だけの単線運行を行った。
  岡山県内ルートでは、西大寺、玉島の港町などで、鉄
 道通過反対運動があり、やむなく、これらの市街地をは
 ずした北よりのルートに鉄道を敷設した。
  結果的に、西大寺や玉島は時代の波から取り残されて
 いった。
  この広島までの開通の後、日清戦争が起こり、山陽鉄
 道はその運搬に於いて重要な役割を果たした。
.
  (今日の言葉)
.
  題:真実は、解き明かされねばならない・・
    この行為は、これからの人類の行く末にも貢献すると確信する。
    そして、今、北朝鮮の技術で確実に届く範囲で、「攻撃しない方が良いと
    考えられる理由のない国」は・・日本だけだ。
.
1818年、アメリカの『本当の奴隷解放者』のフレデリック・
 ダグラスが生まれた。
  アメリカ合衆国は、多くの黒人の方々を奴隷にした卑
 劣な歴史を持っている。
  それも、長い期間に渡って、黒人の方々を虐(しいた)
 げた。
  それも、さらに、卑劣なのは、その黒人の方々を奴隷
 という身分から解放したのは、黒人の方々の自由獲得へ
 の努力と叫びにあったのを・・、
  そしてまた、黒人の偉大な奴隷解放運動家フレデリッ
 ク・ダグラスという活動の結果、奴隷解放がやっとなさ
 れたのに・・、
  この真実の歴史をアメリカ合衆国は隠し、白人のリン
 カーンが解放したのだと虚偽の、そして、真っ赤な嘘の
 プロパガンダ(嘘宣伝)をした。
  この真の奴隷解放者フレデリック・ダグラスは、奴隷
 出身であったため、生誕日の詳細は不明で・・、
  ただ、アメリカのメリーランド州タルボット郡に奴隷
 の子として生まれた・・としか分かっていない。
  人権無視の白人アメリカは、黒人の方々をこの事でさ
 えこのように処理した。
  教育も受けさせないという法律を作った社会だった。
  当然、選挙権は夢の権利だった。
  まったく、人権無視のアメリカ合衆国である。
  また、アメリカ合衆国の最大の卑劣な所は、今・現政
 権の美化を行なっているところだ・・
  現政権の起源が『南北戦争での北軍』にあるとしてい
 る・・そして、その勝利にあるゆえに、この北軍を美化
 し、南部軍を蔑(さげす)んでいる・・そして・・、
  この時の北軍の最高指揮官のリンカーンの記念堂まで
 作って美化し、讃えている。
  南部軍の最高指揮官のリー将軍を悪漢の如くに扱って
 いて・・先ごろも、このリー将軍の銅像を壊すのだとい
 う騒ぎがあった。
  (アメリカ南部の方々にとっては「尊敬するリー将軍」
 である)
  また、当然、アメリカの初代大統領ワシントンを・・、
  アメリカ憲法などをととのえてアメリカ政治をスター
 トさせた功労者を讃えるべきであるのに・・、
  16代大統領のリンカーンが、何の理由か? 記念堂を
 作ってまでして讃えているのである。
  そして、リンカーンが「奴隷解放をした」と嘘の宣伝
 をして美化している・・
  これは嘘なのである・・アメリカは「北部も南部も」
 白人サイドから奴隷解放がなされたのではない。
  北部だって、資本家は、工業資本家は、黒人の方々を
 搾取し、奴隷身分に置いて、その労働を搾取していたの
 である。
  故に、結局、黒人の方々が、血を吐くような努力をし
 ての結果の黒人奴隷解放だったのである。
  最後まで、白人サイドは、黒人の方々を搾取し、虐(
 しいた)げる側に居た。
  キリスト教の有色人種蔑視観に洗脳された白人の人々
 からは「積極的な黒人解放エネルギー・奴隷解放エネル
 ギーは出て来なかった」。
  この黒人のフレデリック・ダグラス氏が、奴隷解放の
 エネルギーの求心力となった方々の一人であった
  彼の数々の苦労・努力を、これから明らかにして行き
 たいが・・白人社会は黒人の方々の歴史を抹殺した。
  しかし、近年、少しづつ黒人の方々の歴史が掘り起こ
 されて来ている。
  このフレデリック・ダグラス・・彼の母は、彼が7歳の
 時に亡くなった。
  彼は、色々な白人奴隷所有者へ次々と売られて行くと
 いう経験をさせられた。
  人種差別のアメリカには、種々の卑劣な法律があった・・
 その一つが、「奴隷の方々へは、教育を与えてはならな
 い」というものだった。
  しかし、このフレデリック・ダグラスは、、12歳の時、
 この法を冒(おか)してまでして、この時の女主人は、
 彼に文字を教えてくれた・・
  だが、この後、彼女の夫がこの事を禁じたため、この
 様な事は行われなくなった。
  しかし、優秀な彼は、この後、街灯の下などで、また、
 使い古した教科書などを使って勉強をし続けた。
  成長するとともに、彼は、あちこちに売り回された。
  農場で働いたり、造船所で働いたり、北部の都市奴隷
 とされたり、売り渡され、苦労を重ねた。
  1838年(20歳)奴隷の境遇から脱出を図る・・逃亡で
 ある・・そして・・
  23歳の時、『反奴隷制協会』で初の演説をした。
  また、反奴隷を訴える新聞も発行する。
  1845年(27歳)本を発行した・・
  アメリカでは、「奴隷に教養がある訳がない」とされ、
 本の発行の機会も与えられていなかった。
  たが、この本は、ベスト・セラーとなった。
  フランス語・オランダ語に翻訳もされた。
  そして、フレデリック・ダグラスは、アイルランド、
 イギリスへもわたり反奴隷運動の活動した。
  1863年(45歳)リンカーン大統領、アンドリュー・ジ
 ョンソン大統領などと奴隷解放や黒人参政権について協
 議をし、黒人の方々の当然の人権を訴えた。
  そして、黒人の方々をまとめて黒人解放の活動をさら
 に実践して行った。
  駐アメリカ占領下ハイチ国合衆国領事をも務めた。
  1872年(54歳)大統領選で、副大統領候補に指名され、
 た。
  奴隷解放者と讃えられている「子供たちの偉人伝『リ
 ンカーンの伝記』は間違っています」・・、
  リンカーンは、「黒人奴隷を解放した」と言われてい
 ますが・・「間違いです」。
  彼には、「黒人奴隷を解放したい」という「希望や意
 志」は、「まったく有りませんでした」・・、
  リンカーンの黒人奴隷解放の意思は、「事の成り行き
 からその様な状況へ至った」「その様な状況を持った」
 という状況でした。
  その様に仕向けたのが、黒人の黒人奴隷解放戦士『フ
 レデリック・ダグラス』でした。
  また、その組織の働きかけがあったから、その方向に
 流れただけです・・これが真実なのです・・
  子供たちの伝記には間違いが書かれて居ります。
  嘘でプロパガンダ(嘘宣伝)された白人権力者たちの
 歴史・認識は代えられなければなりません・・正しい内
 容に書き換えられなければならないのです。
  キリスト教には、「有色人種は、黒人は、人ではない」
 とみる歴史が流れて来ております」。
  この様な見方に影響された人々がしたことは、黒人の
 方々の奴隷解放の努力で、黒人の奴隷解放に一旦ちょっ
 ぴり至っても、直ぐに自分たちの利にとらわれ、元に戻
 ってしまうという事も起きたりした。
  悲しいかな、黒人の方たちは、「人間ではない、奴隷
 という原罪がある」と理由づけられた考え方をされてい
 ました。
  キリスト教聖書にも書かれている奴隷制は、疑問なく
 容認するという考え方にありました。
  キリスト教聖書に説かれている奴隷制、当然のごとく、
 奴隷制を容認し、黒人の方達を奴隷として虐げました。
 この奴隷制寡頭勢力(かとうせい【寡頭制】 少数者が
 権力を握って行う独裁的な形態)は・・、
 自分たちの利が脅(おびや)かされ、自分の意に合わな
 い相手を殺す教義「異教徒は殺せ」の教義のままに行動
 した。
  その様なアメリカの中でも、共和党は、アメリカ全土
 の奴隷制反対勢力が応援し、育て、強固にした党だった。
  民主党は、奴隷制を容認する党だった。
  この様な中、1861年、南北戦争が起き、リンカーンは、
 この年に大統領に就任した。
  しかし、後代の歴史家が、「南北戦争は奴隷解放戦争」
 と位置付けしているが・・どうしてどうして・・
  この大切な時、このリンカーン大統領の大統領就任演
 説は、『奴隷財産を擁護する論理展開をするという卑劣
 な演説』だった。
  奴隷財産容認論のリンカーン大統領・・だった。
  アメリカ北部の政権は、プロパガンダをしてこの事を
 隠しました。
  リンカーンは、この様な大統領だった・・『何と愚か
 な演説なのだ』と彼に突き付けたい・・
  また、リンカーン記念堂の前に、この事実をはっきり
 説明書きした看板を立てたい。
  リンカーンの擁護派は(ようご、かばい守ること)、
 「奴隷制について、反対するか? 賛成するか? わか
 らない州が存在したから」と、筋の通らない言い訳した。
  それは嘘だ・・奴隷解放が大切な政治信条なら、この
 最大のチャンスに大きな声で、この時こそ訴えねばなら
 ない・・これが常識だ・・、
  その後の行動を見ても分かる・・
  リンカーンのその後の行動からみても、「奴隷解放の
 大統領」とは言えない。
  南北戦争の戦況は、リンカーンの奴隷解放への意思も
 なく、
  また、黒人の方々への人権無視や・・
  リンカーンの政治的意思の不決断もあって・・、
  また、北部軍首脳部の腐敗もあって・・北部軍は敗北
 が続いた。
  北部のシンボルである首都=ワシントンが、陥落する
 危険にさえさらされる緊急事態にもなった・・、
  この状況を救ったのが、黒人の黒人奴隷解放戦士『フ
 レデリック・ダグラス』だった。
  奴隷解放に不決断だったリンカーンは、黒人の軍への
 参加をも『容認しなかった』。
  フレデリックは、「黒人奴隷も、自由黒人も、黒人を
 軍務につかせよ」・・人権を認めよと訴えた。
  さらに、フレデリックは、「奴隷に対する自由が、今
 こそ、国会議事堂から全戦場の砲焔の空高く宣言されな
 ければならない」と、その行動を起こさないリンカーン
 に代わって叫んだ。
  黒人の人権を認めて・・「黒人を軍務につかせよ、そ
 して、黒人解放軍を組織せよ」・・と・・
  そして、さらに、「我等は、北部軍の兵士となって、
 南部に進軍し、奴隷たちの間に解放の旗を揚げるであろ
 う」と、世論に向かって叫んだ。
  しかし、愚かにも、リンカーンは、首都ワシントンが
 陥落の事態になっても・・、
  リンカーンは、黒人解放の明言を避け・・「黒人奴隷
 は漸進的に解放したい、一気に解放という事はしたくな
 い」などと黒人奴隷解放への意思表示を避けた。
  この時、卑劣にもリンカーンは、「解放された黒人は、
 アフリカかどこかに植民させたい」と考えていた。
  黒人の方たちを捨てるということ、「棄民」の考えだ
 った。
  当然、黒人の方たちから、強い反対の声が沸き起こっ
 た。
  今のアメリカの原点は、独立戦争で勝ち得た国の形に
 当然、あるが・・、
  南北戦争の北部軍に原点を持つ現政権は、リンカーン
 記念堂を建てた如く・・
  「現在のアメリカ政府をたどって行くと、『南北戦争
 時の北軍政府』へとたどり着く、行き着く」。
  それ故に、アメリカは、当時の北軍の最高位置にいた
 『リンカーン大統領』を誇りとし、「美しくしていたい」
 という気持ちが強くはたらいている・・、
  それ故に、このリンカーンに関して、プロパガンダす
 るアメリカ(北部)が見られ、存在する。
  そして、そのプロパガンダのために見えない「隠され
 た真実」がある・・
  世界の善良な方達のために、この悪影響を与えている
 部分は明らかにされねばならない。
  また、この悪行為は、回り回ってアメリカ合衆国のた
 めにも成り得ない。
  真実は解き明かされねばならない・・これからの人類
 の行く末にも貢献すると確信する。
.
1882年7月23日、壬午事変(じんごじへん)
  朝鮮の首都・漢城(現:ソウル)で、この日に起きた
 事変で、親日的な閔妃(びんひ、李氏朝鮮の第26代王・
 高宗の妃)政権の軍制改革に反対して、大院君(たいい
 んくん、興宣大院君、高宗の実父)が軍隊を動かした。
  日本人軍事教官が殺害され、また、日本公使館が焼き
 打ちされたりしたが失敗した。
  この結果、済物浦(さいもつぽ)条約が結ばれた。
  しかし、この後、清国が、「朝鮮支配を強化した」。
  そして、この事変の後、清と日本の軍隊が朝鮮の首都
 である漢城に駐留することになった。
  日本の朝鮮駐留軍より、清の駐留軍の方が勢力が多く
 て強く、それを背景に、守旧派が勢力を拡大していった。
  挽回しようとした開化派は、1884年、クーデターを起
 こし、一時政権を掌握した。
  しかし、清の駐留軍が、実力行使に乗り出したため、
 日本軍は退却して、クーデターは失敗した。
  1885年、日本と清は、天津条約を締結し、両国は軍を
 撤退させ、今後、朝鮮に出兵する際にはお互いに事前通
 告をすることとした。
.
1930年代、中国の国民党軍の蒋介石は、アメリカやドイツ
 から新型兵器を購入した。
  アメリカは、軍事顧問台を派遣した。
  アメリカの介入が始まる。
  また、これとは別に・・、
  1937年5月1日、アメリカ陸軍航空隊大尉のクレア・L・
 シェンノートは、国民党航空委員会の要請で、中華民国
 空軍の訓練教官・顧問となった。
  蒋介石は、空戦経験の豊富な彼を航空参謀長として遇
 する。
  対日戦について、大戦隊を持つことを蒋介石へ進言し、
 アメリカ政府もこの計画を承認した。
  第二次世界大戦が始まる以前から、戦闘機、武器、パ
 イロットを含むアメリカ正規軍の派遣が始まった。
  ルーズベルトが承認しているれっきとしたアメリカの
 対日宣戦布告であった・・アメリカは秘密にした。
  この事が「ばれて来る」と、初め、ルーズベルトは、
 「ボランティアだ」と嘘を言ったが・・、
  れっきとしたルーズベルトのサインした命令書が、そ
 の後、発見された。
  アメリカは、日本の奇襲によって第二次世界大戦は始
 まったと「嘘を言い続けて来ている」が・・
  真珠湾攻撃前に、「日本が攻めてくる」と書いた新聞
 が、ハワイで発刊されている様に・・
  また、ルーズベルトは、家族や親類に、「明日、日本
 が攻めて来る」と言っていたことも明らかになっている
 様に・・すべては、ルーズベルトの策謀の中に、第二次
 世界大戦は始まった。
.
1931年9月18日、柳条湖事件が起きた→満州事変
  満州事変の発端となった柳条湖の満鉄戦爆破事件が起
 きた。
  アメリカにも支援され、さらに、国共合作が成った中
 国・国民政府は強気(つよき)だった。
  「日本を全面排除する」の方針で強気で過激になった
 国民政府は、強気の対応を繰り返した。
  この事変の2ヶ月~3ヶ月前の1931年7月に、「中村震
 太郎大尉事件」が起きた。
  日本の陸軍軍人の中村大尉は、中国の南興安嶺を旅行
 していた、正式なビザも所持しており、まったく合法的
 であったが、中国軍に捕まった。
  (参考)1930年6月27日、陸軍参謀本部員・中村震太郎
     大尉と井杉延太郎曹長が、この日に、洮索(と
     うさく)地方、蘚鄲公爺(そかくこうや)廟近
     くの村落で、奉天軍所属の中国屯墾軍第3団(関
     玉衡指揮)中国兵に捕えられスパイ容疑で、6月
     27日、同大尉と同行の井杉延太郎予備騎兵曹長
     ら4人が射殺された。
      事件は、8月17日、日本側によって公表され、
     前後して起こった万宝山事件とともに、国内世
     論が湧きたった。
      日本は、南京政府に抗議し、陸相・南次郎は
     この機をとらえて満蒙問題を解決するため、武
     力発動を辞さないと声明した。
      また、陸軍は、中国の排日的姿勢の現れとし
     て態度を硬化させ、1931年9月18日の柳条湖事件
     を発端に満州事変に突入した。
      前後して起こった万宝山事件とともに満州事
     変勃発(ぼっぱつ)の一因となった。
.
1937年12月7日、蒋介石は、首都とした中国の南京の陥落が
 迫る時、アメリカ軍の手によって、この日、南京を脱出
 した。
  この様にすんなり書けば「そうか!」で終わるが・・?
  南京へ迫る大激戦が行なわれている最悪事態のところ
 で、アメリカが中国の最高指揮官を連れ去るという介入
 行為は・・、
  『中国の司令部の崩壊』を意味した。
  ただでさえうろたえていた中国兵は、司令部が、突然、
 無くなって・・「指揮系統の無い『無秩序の軍』と化し
 た」。
  そして、残された中国下士官が、その自分の命令を聞
 かそうと、自軍の兵を撃つという事態さえも起きる。
  逃げ惑い、逃げ帰る中国の自軍兵へ、「逃げるな!」
 と銃で撃つことさえ起きる。
  アメリカがやったことは、救助の名目で、戦いの中国
 中枢を崩壊させ、壊滅させるという最悪な卑劣行為だっ
 た。
  混乱状態が・・さらなる混乱となった。
  悲劇的事態が、このアメリカがやった「中国司令部崩
 壊行為」で起きた。
  また、アメリカ軍の中国への支援は、スムースに行か
 ない面もあった。
  1942年、アメリカのスティウェル将軍は、この年、軍
 事顧問団長としてジョージ・マーシャル陸軍参謀総長に
 よって蒋介石の参謀長に任命され、中国に派遣された。
  しかし、その後、共産軍を賞賛し、共産軍を支援する
 姿勢を貫いたため、
  1944年、彼は解任され、彼に代わって、中国戦区の総
 司令官としてウェディマイヤー将軍が派遣された。
  この様に、アメリカは、ベトナム戦争の時も、どっぷ
 りとベトナム戦争に浸かって・・アメリカ正規軍やアメ
 リカの武器・弾薬を使って戦争をしたように、第二次世
 界大戦がはじまる前から、アメリカは、中国で日本と戦
 争をしていた。
  中国よ! 南京で中国司令部と最高指揮官たちを、ア
 メリカが連れ去って、日本の攻撃から救ったと美しく言
 うのは嘘だ。
  中国の一般兵だけが残され、それでなくても戸惑う中
 国兵が、日本兵に追われ、逃げて来る中国の一般兵を、
 中国下士官が「逃げるな!」と統制が効かなくなった自
 軍兵を銃で撃つ・・その様な行為を展示せよ・・
  『 南京事件記念館に展示せよ! 』
  アメリカが、日中戦争に秘密裏に参戦し、卑劣な介入
 をしていたことも展示し・・糾弾せよ!
  また、アメリカは、イギリスなどを巻き込んで、中国
 の蒋介石を援助する「援蒋ルート」で、中国へ武器や弾
 薬を渡し、アメリカ正規軍までが介入し、ベトナム戦争
 と同じように、アメリカ自身が、第二次世界大戦前に、
 日本へ「秘密の宣戦布告をしていたこと」も展示せよ!
.

1945年8月6日、広島に原爆が投下された。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、『敗戦が決定的』
 な日本に、次に来る世界を試したいという気持ちが働い
 た。
  アメリカだけが手に入れた新兵器・核兵器・原爆の、
 この巨大な破壊力を世界に見せつけたかった。
  熱心にキリスト教を信仰するルーズベルトには、ため
 されるその有色人種への蔑視観のキリスト教教義に洗脳
 されて、広島への原爆投下に対する躊躇感は、まったく
 無かった。
  そのような経緯の中で、モルモットとなった日本の広
 島に原爆は投下された。
  その真っ赤な灼熱の「巨大な火の玉」の下に居た、日
 常を暮らしていた広島の方々は、原爆雲となって蒸発し、
 巻き昇って行った。
  その巨大な原子雲は、昇天して行った。
  悶(もだ)え苦しみを内へ秘め、天へ昇って行った。
  また、その下にもまだ、一瞬にして変わり果てた人々
 が、もだえ苦しむ数多(あまた)の人々が居た。
  それらの情景の中の一つが・・下記だ・・、
  若い、その女性は、木の根方(ねかた、木の根もと)
 へ来たら、その木を背中にして座り、抱いていた乳飲み
 子(ちのみご)へ乳をあげた・・
  自分に、その先が無いと悟っていた・・間近な死を悟
 (さと)っていた。
  その状況を見た方が、その直前までそうだったのだろ
 うと涙した姿だった。
  木の根方で、一生懸命、乳を飲む子の・・その母親は、
 こと切れていた。
  (事切れる:息が途絶える。生命が終わる)
  広島に原爆が落ちた直後の・・この様な光景が話され
 た。
  あまりにも・・悲惨な・・情景だった。
  乳飲み子に気付いた・・自身も大きな傷を負い・・気
 づき発見したその方は、その若い母親がこと切れている
 事に気付いた・・
  自分自身の命は、長くないと悟った女性は、自身の子
 の命は永遠に続きますようにと祈って、我が子に乳を与
 えたのだろう・・我が子へすべてを与えたいと祈ったの
 だろう・・。
  我が乳を、最後の我が乳を、一生懸命に、飲む我が子
 に、せめてもの安心を得て、その安心を頼りとして、こ
 の母は、命を閉じたのだろう・・絶命したのだろう・・、
  悲惨な事に、母の死を知らぬこの子は、一生懸命、乳
 を飲み、そして、発見された・・発見したその方も被爆
 し、地獄図となった広島の中でさ迷い、必死だったでし
 ょう・・この証言は複数あります。
.
1945年9月、結局、日本人の優しさが、戦後復興をさせた。
  誰もが、確かに、生きるのに必死だった。
  明日(あした)食べるものがない、米が無い・・との
 日本だった・・
  米が無い、なんて、よく言うが、もともと、米なんて
 いう上等なものはない。
  麦だった・・銀シャリが食べたいが庶民の夢だった。
  寿司米(すしまい)だ、こしひかりだは、想像外の世
 界だった・・
  その麦だって・・あったら良い方だ。
  粟(あわ)や稗(ひえ)だ。
  「粟や稗だって言っても」、今の人は分からないだろ
 う。
  鳥や家畜が食べるもの・・、
  当時は、食べるものが無いので、鳥や家畜が食べるも
 のを人間が食べていた。
  また、何でも食べられるものを食べていた。 
  芋の蔓(いものつる)だ・・野の草だ・・
  贅沢なんて言ってられない・・ぎりぎりの生活だった。
  隣近所で・・「栄養失調で死ぬ方まで出た」。
  美食なんて言う世界は、「夢のまた夢」だった。
  それでも・・
  それでも・・日本人の方々の心のどこかに「優しさが
 あった」。
  巷の傷痍軍人の方々へ・・財布の小銭だが渡した人々
 が居た・・
  助け合う・・人々が居た・・
  社会はしっかり形成されていた・・
  戦争の大破壊にも・・壊されてはいなかった・・
  そのような状態の中で、皆は、助け合っていた。
  これが・・日本の戦後復興を支えた・・
  キリスト教の様に、困った時に、「(キリスト教の)
 神の義があるから」という免罪符を与えられて、「隣国
 の富を奪いに行く」という、その様な考え方ではなかっ
 た・・その様な発想は微塵も無かった。
  助け合った・・そこから・・生存を・・切り開いた。
  その優しい心で、戦後復興を成し遂げた・・日本だっ
 た。
.
1979年2月1日、ホメイニー氏が、15年ぶりに、イランに帰
 国した。
  イランは、ホメイニ氏を指導者とする1979年のホメイ
 ニ革命以後、イスラム法学者の指導の下にシーア派イス
 ラム教の厳しい戒律が守られて来た。
  それまでのパーレビ2世国王(モハンマド・レザー・
 シャー・パフラヴィー)は、自由主義的な立場を取り、
 アメリカと親密な関係を築いて来ていた。
  しかし、冷戦下において、欧米や日本などの先進国と
 の石油外交を基礎にした深い経済関係を元に進めてきた
 近代化政策は、1970年代中盤に起きたオイルショック後
 の急速な原油価格の安定化もあり、1970年代後半に入る
 と破綻した。
  それに伴い国民の間での経済格差が急速に拡大し、政
 治への不満も高まりを見せ、皇帝の求心力も急激に低下
 した。
  モハンマドは、テヘラン市内に戒厳令を敷き、夜間外
 出禁止令を発令するなどしてこれに対応したものの事態
 は収拾がつかず・・、
  1979年1月16日に、休暇のためにイランを一時的に去る
 と称して皇帝専用機のボーイング727を自ら操縦し、皇后
 や側近とともにエジプトに亡命した後、モロッコ、バハ
 マ、メキシコを転々とした。
  ホメイニーは、1979年2月1日に、15年ぶりの帰国を果
 たすと、直ちにイスラム革命評議会を組織し、メフディ
 ー・バーザルガーンを首相に任命した。
  その後、モハンマドが任命したシャープール・バフテ
 ィヤール首相の指揮下で皇帝への忠誠を誓っていた帝室
 親衛隊、および、イラン陸軍の空挺部隊と内務省の治安
 部隊が、ホメイニーへの支持を表明したイラン陸軍内部
 の不満分子と戦闘状態になるものの、2月11日に制圧され
 た。
  バフティヤール首相や帝室親衛隊隊長らは逮捕され、
 バフティヤール首相は、2月13日に、正式に辞任した。
  その後、イスラム革命評議会が、イスラム主義を基礎
 に置いたイスラム共和制をしいた
  その為、アメリカは、ホメイニ革命以来、反イランの
 方向を取った。
.
2018年2月20日、「中国製スマホ使うな」米情報機関、衝撃
 勧告のウラ 日本でも販売
  CIA(中央情報局)やFBI(連邦捜査局)など、
 アメリカの情報機関が、アメリカ国民に対し、中国製ス
 マートフォンを使うべきではないと勧告したと、アメリ
 カCNNが報じた。
  情報を不正に改竄(かいざん)したりする機能などが
 あるためというが、問題視された中国企業のスマホは、
 日本でも販売されている。
  大丈夫なのか・・?
  CNN(15日、日本語版)の記事によると、アメリ
 カ上院情報委員会で13日、CIAやFBI、NSA(
 国家安全保障局)、DIA(国防情報局)の高官が証言
 に立ち、
  中国のスマホメーカーが、アメリカ人ユーザーの安全
 を脅かすという見方を示したという。
  FBIのクリストファー・レイ長官は、同委員会での
 証言で、企業や自治体などで、中国の「ファーウェイ」
 や「ZTE」の製品を使うことを問題視する理由につい
 て説明。
  製品の「情報を不正に改竄したり盗んだりする機能」
 や「密かにスパイ活動を実施する機能」を指摘したとさ
 れる。
  CNNは、「(米政府は)中国政府による情報収集活
 動に利用されることを懸念」とも報じた。
  衝撃的な内容だった。
  (参考)CNN:シーエヌエヌ、Cable News Network。
      タイム・ワーナーの一部門であるターナー・
     ブロードキャスティング・システムが所有する
     アメリカのケーブルテレビ、および、衛星テレ
     ビ向けのニュースチャンネル。
      1980年に、テッド・ターナーによって、世界
     初の24時間放送するニュース専門のチャンネル
     として設立された。
      ジョージア州アトランタに本社を置いている。
.
2018年4月19日、YAHOO!JAPANニュースに記載れていた「危
 ない中国食品 2018[第2弾] 最新回収事件」(文春オンラ
 イン)
  チキンナゲット販売中止以来、中国食品に事件がない
 と思ったら大間違い。
  回収事件は、昨年も、今年も、起きている。
  なぜ中国食品の品質は向上しないのか?
  回収事件の当事者や検疫に引っかかった業者の「告白」
 から浮かび上がるのは、相も変らぬ悲惨な現場の実態。
  まず、次のリストを・・
  日本マクドナルドの中国産チキンマックナゲット販売
 中止事件(期限切れ鶏肉の使用)が起きた、2014年7月以降
 の中国食品「回収事件」をまとめたもの。
  回収された商品名と当該企業の実名を可能なかぎり記
 載している。
  日本中の関心を集めた事件の後も、中国食品が問題を
 起こし続けていることがわかる。
  先週号で紹介した食品衛生法の違反は、港の検疫所で
 基準を超える細菌数や農薬が見つかったもので、いわば
 水際で上陸を食い止められた事例。
  幸いなことにいずれも日本の消費者の口に入ることは
 なかった。
  それに対し、今週取り上げる「回収事件」は、検疫所
 の目を逃れ、いったん日本の市場に出回った食品にあと
 から違反が見つかり、市や保健所などが回収を命じたり、
 自主回収したりしたもの。
.
2018年6月4日、天安門事件きょう29年、中国で強まる人権
 弾圧(産経新聞)
  中国で民主化を求める学生や労働者が武力弾圧された
 1989年の天安門事件から、4日で29年となる。
  中国共産党は、現在も学生らの民主化運動を「政治風
 波(騒ぎ)」と位置づけ、事件に関する情報発信を厳重
 に規制している。
  人権派弁護士の相次ぐ拘束や海外亡命者の監視など、
 中国の人権状況は「深刻さを増す一方」だ。
  北京出身の芸術家、楊偉東さん(52歳)は1989年6月3
 日の夜から翌未明にかけて北京の天安門広場にいた。
  当時、大学2年生。
  戒厳部隊の銃声が鳴りやまないなか、労働者とみられ
 る男性が三輪自転車で搬送されていた。
  負傷したふくらはぎからは骨がのぞき、男性は「共産
 党にやられた」とうめいた。
  楊さんは、未明に、知人の宿舎に逃れ無事だったが、
 同年9月に大学で始まった、人民日報の感想文提出などの
 「再教育」を拒否し、退学処分になった。
  その後、表現の自由を求める芸術家として活動してい
 たが、昨年・2017年6月に、家族とドイツへ亡命した。
  しかし、国外でありながら、今年・2018年5月末から、
 中国人による尾行が目立ち始めたという。
  「中国の領事館前で行われる追悼行事に私が参加する
 ことを警戒しているのだろう」と楊さんはいう。
  習近平指導部の下で、弾圧は強まっている。
  昨年・2017年7月に、事実上、獄死したノーベル平和賞
 受賞者で民主活動家の故劉暁波氏の妻、劉霞さんは、法
 的根拠がないまま当局の軟禁が続く。
  今年・2018年1月、憲法改正に関する書簡を公表した人
 権派弁護士の余文生氏は、2018年4月に、国家政権転覆扇
 動容疑などで逮捕された。
  妻の許艶さんによると、これまで弁護士が留置場を約
 20回訪れたが、接見は一度も認められていない。
  事件で子供を亡くした親の会「天安門の母」は、2018
 年6月1日付で、習国家主席に宛てた声明を発表し、「悲
 惨な事件は歴史になったが、災難は終わらず傷口は癒え
 ていない」と強調。
  「真相と賠償、責任追及」を求め続けると訴えた。
.
2018年、日本は、恐ろしいことだが、「北朝鮮の核の最前
 線に居る」・・と、認識しなければならない。
  北朝鮮は、韓国が国境を越えない限り核攻撃はしない。
  朝鮮民族の「同胞意識」である。
  北朝鮮にとっても「朝鮮統一が夢なのだ」。
  その話し合いもなされている。
  北朝鮮は、秘密裏に技術を教えてくれる中国へ「核攻
 撃する理由はない」。
  ロシアも同じだ。
  今、北朝鮮の技術で確実に届く範囲で、「攻撃しない
 方が良いと考えられる理由のない国」は、日本だけだ。
  北朝鮮の核技術とロケット技術の開発は、日本に対す
 るものだ。
  そして、北朝鮮の欲しい生存保証は、「アメリカに求
 めている」。
  だから、北朝鮮は、アメリカに対する抑止力(アメリ
 カからの核攻撃抑止)を持ちたいと考えている。
  そして、北朝鮮の核攻撃が、日本にあった場合、日本
 は、「その第一撃で潰れる」・・だろう。
  (日本は、憲法上、第一波の攻撃の後でなければ反撃
 は出来ない・・となっている・・)
  (まったく、日本人の生存を危ういものにしている憲
 法なのである・・
  「日本人の積極的生存」をないがしろにしている憲法
 なのである・・
  他国が一生懸命生存を、生き残りを考えているのに・・
 である)
  また、その第一波攻撃に対する防衛に成功する、成功
 しないにかかわらず、第二派の核攻撃が、日本に向けて
 行なわれないように、「アメリカの核の傘」が有効に働
 くか?・・である。
  アメリカの「日本への核の傘の実施」は、アメリカ自
 身への核攻撃を呼び込むことになり、実施が何ら抵抗な
 く行われる事は無い。
  そこに、実施の抵抗がある。
  「アメリカの核の傘の実施は、一旦、始まったら、機
 能しない」。
  始まるまでの脅し・・これを大いに行わなければ、な
 らない。
  しかし、日本は、これを、していない。
  日本は、自前の核を持つ以外、子供などの「後の世代」
 に対して「責任は持てないのである」。
  その様な状況下に置かれているのである。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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by suba28 | 2018-06-07 05:56 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)597E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月~1894年6月)

題:(増補版)597E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年5月、片倉兼太郎が、諏訪に三全社を設立した。
  片倉兼太郎(かたくらかねたろう、1850年1月12日~
 1917年2月13日、67歳)実業家、製糸資本家。
  現在の片倉財閥の基礎を築く。
  1850年、片倉兼太郎は、信濃国諏訪郡三沢村(長野県岡
   谷市)の豪農の家に生まれる。
  1873年(23歳)実弟・光治と共に10人取りの座繰製糸
   を始め・・さらに・・
  1878年(28歳)32釜の器械製糸場を自村の天竜川河畔
   に設置した。
   後に、光治のほかの弟や従弟らも経営に参加し、得
   られた利益を共有資産として、一族一致団結して器
   械製糸経営を拡大させていった。
  1894年(44歳)10月6日、長野県諏訪郡川岸村に川岸製
   糸所(三百六十釜)を新設し、三全社と称した。
  1895年(45歳)片倉組を結成し、片倉組本部を三全社
   に置き、ここに松本製糸場及び三全社は片倉組所属
   として垣外製糸場(百六十釜)のみを開明社に属せし
   めた。
   兼太郎自らは、組長となり、一族の経営を統率した。
   明治後期以降、県外にも多くの製糸工場を設置して
   行き、
  1903年(53歳)以降、一族は北海道、朝鮮などで農場・
   山林経営に乗り出すとともに、両大戦間期には保険
   業、化繊工業などへの経営多角化を進めて地方財閥
   のひとつに数えられるに至った。
  1910年(60歳)60歳を超えても、「まだ尋常小学校を
   卒えたくらいにしか思っていない」と語ったという
   ほど、常に若々しく精力的な活動を続けた。
  1920年、没後のこの年に、片倉組の製糸経営を継承し
   て設立された片倉製糸紡績株式会社は、世界最大の
   製糸会社といわれた。
   末弟・佐一が養嗣子となり、初代没後、襲名して2代
   兼太郎となる。
  1934年、2代兼太郎没により、嗣子脩一が襲名し3代兼
   太郎となる。
   いかにも豪農の家と思わせる茅葺屋根の生家は現存
   している。
  ・・そして、片倉財閥は・・、
  1873年(23歳)片倉市助が、長野県諏訪郡川岸村(現
   在の岡谷市)で座繰り(ざぐり)製糸を開始したの
   を嚆矢(こうし、物事のはじめ)とする。
   「シルクエンペラー」と呼ばれた二代目片倉兼太郎
   (片倉佐一)の手により、製糸業から発展する。
  1895年(45歳)片倉組を設立し、東京京橋に進出する。
   以降、業容を拡大し、一財閥を形成した。
  戦後の財閥解体で解散となる。
  創立50年を記念して、諏訪市に温泉施設片倉館を建設。
  2017年、施設は現在も現役。
   一部は国の重要文化財に指定されている。
  <参考文献>足立栗園『初代片倉兼太郎君事歴』、『片
 倉製糸紡績株式会社20年誌』

1894年5月、『西鶴全集』(博文館刊)など発禁となる。
  博文館は、東京の出版社で、明治時代、国粋主義的な
 雑誌を創刊した。
  そして、取次会社・印刷所・広告会社・洋紙会社など
 関連企業も次々と創業し、日本最大の出版社となった。
  帝国文庫、軍書、稗史(はいし、世間のうわさなどを歴
 史風に書いたもの)、人情本、黄表紙、洒落(しゃれ)本な
 どを網羅(もうら)していた。
  《真書太閤記》は、よく売れた。
  この帝国文庫が発禁処分を受けた。
  1893年3月から刊行を始めた『帝国文庫』は、江戸時代
 の歴史、小説、歌舞伎、浄瑠璃、随筆、紀行文などを収
 録した全50巻で、後に続編50巻が出版され、計100巻とな
 った。
  この当時、類例のない大規模な出版だった。
  大量廉価販売の先駆けとなった。
  本文総ルビ、各冊約1000ページ、一冊50銭・・画期的
 だった。
  好評で、多くの人たちに歓迎され、刊行を重ねた。
  出版開始の翌年・1894年5月、及び、6月に刊行した『
 西鶴全集』上下巻が、風俗紊乱を理由に発禁処分、発売、
 頒布が禁止された。
 この『西鶴全集』は、尾崎紅葉、大橋乙羽による校訂で
「好色一代男」、「好色一代女」、「日本永代蔵」などの
 西鶴の主要な作品がほとんど網羅されていた。
  あらかじめ風紀上問題になりそうな部分は○○という
 伏字とした。
  しかし、発禁処分を受けた。
  新聞に取り上げられ、『読売新聞』は、翌日に、「西
 鶴死す」という見出しで報じた。
  さらに、その後、政府の処分を批判する「西鶴全集の
 発売禁止」を掲載した。
  博文館は、ただちに「発売禁止に着き謹告す」という
 いう新聞広告を掲載し、その中において、同書の発行は
 好評を博し、初版を売り尽くして、再版に移ろうとした
 矢先だったと記し・・、
  「然れども西鶴の遺著尽く風俗を害するものにあらず、
 あに一部の貯めに其の全部を埋没するに忍びんや、故に
 他日其・・」と、将来の再出版を約束した。
  そして、1903年8月、『校訂西鶴全集』の上巻刊行で実
 現した。
  しかし、これが、また、発禁処分を受けた。
  平田禿木から西鶴全集二巻を借用して熱心に読みふけ
 った樋口一葉は、「之があると本当に心強い」と述べた。
  『西鶴の書誌学的研究』の滝田貞治は、この『西鶴全
 集』を、「小説のほとんど大部分を結集したのは、まさ
 に、西鶴復刻史上の画期的事業であった。
  それが、発禁の災厄にあったので、ますます紙価を高
 からしめた」と書いた。

1894年6月2日、閣議が、清国が朝鮮へ派兵したことを受け
 て、朝鮮へ混成一個旅団の派遣することを決定した。
   朝鮮国内乱ニ関シ兵員派遣ニ関スル方針ノ件
  朝鮮国内乱ニ関シ兵員派遣ニ関スル方針 右御覧ニ供ス
  明治二十七年六月六日 内閣総理大臣伯爵伊藤博文 明治
 二十七年六月二日 朝鮮国乱民内ニ起リ京城駐在公使官ヨ
 リノ来電ニ拠ルニ官兵頻ニ敗レ乱民益々猖厥ヲ窮ムルノ
 勢アリト云将来乱民京城又ハ其他ノ日本人居留地ニ侵入
 スルコト無キヲ保チ難ク従テ公使館及国民ヲ保護スル為
 ニ兵員ヲ派遣スルノ必要アリ 天津条約第三款ニ依ルニ朝
 鮮国変乱又ハ重大事件アルニ当リ日支両国又ハ一国兵ヲ
 派スルトキハ行文知照スヘシトノ明文アリ故ニ出兵ニ当
 リ将来或ハ清国ト往復関係スヘキノ時機ヲ生スルモ料ル
 ヘカラズト雖、今度ノ事ハ急速ノ事変ニ係リ我カ兵ヲ以
 テ我カ国民ヲ保護スルヲ怠ルヘカラザルカ為ニ清国ト連
 合

1894年6月2日、閣議、朝鮮派兵決議して、衆議院解散。
  この時、西欧列強は植民地争奪合戦の真っ最中で、そ
 の様な世界情勢の中で、日清戦争へ至って行く・・特に、
 アフリカとアジアは、『ヨーロッパ列強(イギリス、フ
 ランス、ドイツ、ベルギー、ロシア)』のアフリカ、ア
 ジア分捕り合戦が同時進行していた。
  特に、地理的に近いアフリカは、弱肉強食の様相で、
 ヨーロッパ列強の最大の餌食となり、領土と資源・利益
 が収奪の的(まと)となっていた。

1894年6月4日、李鴻章が、朝鮮に援兵派遣指令。
  1894年の春、朝鮮の地方の小さな反乱からはじまった
 甲午農民戦争(東学党の乱)。
  この農民軍は、全羅道内全域を解放して、朝鮮政府の
 派遣した中央直轄軍をも撃退し、さらに北上する気配を
 示した。
  李氏朝鮮政府は、袁世凱(えんせいがい、中国・清の
 軍人)の示唆により清国へ援軍を求めた。
  清国の北洋大臣・李鴻章(りこうしょう)は、これに
 応じた。
  そして、1894年6月4日、清国の陸海軍を派遣した。
  そして、1885年4月の朝鮮の甲申政変の際に、日清間
 で結んだ天津条約に基づき、清国は日本へ通告した。
  日本は、早い時期から甲午農民戦争のゆくえを注視し
 ていたが、情報は、6月2日に、朝鮮政府が、清国に出兵
 を要請するとの情報を得た。
  日本の対応も速やかだった。
  閣議を開き6000人の派兵を閣議決定し、6月5日、大本
 営を設置、6月12日、派遣軍が漢城(現在のソウル)近郊
 に、既に来ていた清国軍と朝鮮の布陣となった。
 こうした状況の中、朝鮮政府は、6月10日、農民軍と和
 約を結んで事態を収拾した。

1894年6月5日、大本営を参謀本部内に設置した。
  1893年5月19日、大本営が、勅令第52号戦時大本営条例
   によって法制化された。
   そして、日清戦争において初めて設置された。
  1894年6月5日、この大本営が、東京の参謀本部内に設
   置され、
  1894年8月1日、皇居内に移った。
   その後、当時、東京を起点とする鉄道網の西端であ
   ったこと(広島駅)、また、大型船が運用出来る港
   (宇品港、現・広島港)が有ったことで、前線に向
   かう兵站基地となった広島市に移ることとなった・・
   そして・・
  1894年9月13日、大本営が宮中からこの地に移転した。

1894年6月5日、政府が、ペスト流行の調査のため、北里柴
 三郎らを香港に派遣した。
  この後、ペスト菌を発見する。

1894年6月7日、政府が、清国に朝鮮への派兵を通告し、こ
 の日、日清両国が、相互に出兵を通告した。
  1894年5月、朝鮮で甲午農民戦争が起ると・・、
  1894年6月、李朝朝鮮政府は、鎮圧のために清国に援兵
   を依頼し、そして、次いで日本に援兵を依頼した。

1894年6月7日、長崎港にペスト患者の発生したアメリカ船
 ペリュー号が入港した。
  長崎の人々の不安を呼んだ。
  ペストが怖い病気であるという事は知られていた。
  1899年、神戸で、ペストの疑似症状で13歳の少年が病
   死した時は、新聞は、「ペスト、神戸に侵入」の見
   出しでこれを報じた(「国民新聞」1899年11月11日
   付)
   周辺諸国からの、日本へのペスト来襲を懸念した政
   府は・・、
 1899年11月18日、官報号外で勅令第434号を公布、内務大
  臣は、伝染病予防のために必要と認めるときは物件の
  種類を限りその輸入を禁止できることとした。
  そして、同日、これを施行した。
  勅令公布と同時に、内務省は省令第54号を発令、ペス
  ト予防のため、インド・清国諸港・香港・台湾からの
  襤褸(ぼろ、使い古しの布)・古綿・古着・古紙・古
  皮革・古羽毛類の輸入を禁じた(「国民新聞」1899年
  11月19日付)
  そして、この年・1899年、大阪株式市場で株価が下落
 したが、その原因は、ペストの流行とその検疫励行によ
 って物流や人の移動が阻害されたためと噂された。
  事実、ペストの侵入地と目された神戸付近と、その以
 西の鉄株は、特に売り方が多かった(「国民新聞」1899
 年11月19日付)
  1899年のペスト患者は、「時事新報」(1900年1月1日
 付)によると、総計49名(内・死亡40名)で、内訳は、
 神戸市22名(内・死亡18名)、大阪市21名(内・死亡17
 名)、姫路で1名、そのほか広島・福岡・和歌山・長崎・
 静岡で死亡者各1名ずつと発表された。 
  このままでは、ペストが、神戸・大阪・岐阜を経てや
 がて沼津に至り、鉄路を伝わって東京へ侵入するやも知
 れない・・、
  そう危惧した松田東京市長は、一つの奇策を1900年12
 月27日の東京参事会に提案した。
  それが、鼠20万匹の買い上げ作戦であった(「報知新
 聞」1900年12月30日付)

1894年6月9日、清国軍が、朝鮮の牙山(あさん)に上陸し
 た(日本は6月12日) (6月8日説あり)
  牙山は、ソウルより南に85km・大田広域市より北北西
 65kmに位置している。
  1894年6月8日、葉志超(ようしちょう)総督と、聶士
 成山西太原鎮総兵に率いられた清国軍(北洋陸軍、歩兵
 約2,500名、山砲8門)が牙山に上陸した。
  1894年7月24日時点で3880名に達した。
  (参考)聶士成(じょうしせい):清の軍人。
      日清戦争の際には、提督:葉志超に従って朝
     鮮に赴き、牙山に駐屯した。
      遼東では、大高嶺一帯で日本軍の旅団長・富
     岡三造を戦死させるなど勇戦し、直隷提督に任
     命された。
      下関条約後、清朝は、陸軍の軍制改革を行い、
     北洋陸軍を武衛軍と改め、聶士成率いる30営を
     天津近郊の蘆台に駐屯させ、ドイツ式の軍事教
     練を行った。
      1900年、義和団の乱が発生すると聶士成は、
     鎮圧に努め、京津鉄道を保護した。
      八か国連合軍が侵攻すると、6月13日より天
     津の守備に就いたが、7月9日に戦死した。
      後に、忠節の諡号を贈られた。
  (参考)山西太原:たいげん、中国の山西省の省都。
      黄河の支流、汾河(ふんが)の東岸にあり、製
     鉄・機械工業が盛ん。
      明代に建造された正方形の城壁が残る。
      人口、行政区256万(2000年)
.
  (今日の言葉)
.
  題:規制の効く日本と、ホッタラカシにして来た北朝鮮の
    アメリカの姿勢が・・この、今の状況となっている。
    アメリカは韓国から撤退し、38度線は対馬海峡となり・・
.
1866年8月16日、ジェネラル・シャーマン号事件
  1866年7月、アメリカ合衆国の帆船であるジェネラル・
 シャーマン号(武装商船)が、李氏朝鮮の羊角島に来航
 し、事件を起こした。
  目的は、通商を求めたとされる・・が・・、
  朝鮮住民の方々が殺戮され、略奪を受けた。
  これに対し、朝鮮側は焼き討ちをし、撃退した。
  当初、朝鮮側の平壌の地方官は、難破船として処理し、
 食糧や薪・水を支給し、退去を命じる方針だった。
  しかし、朝鮮側の使者の舟が、シャーマン号側によっ
 て転覆させられ、使者は捕らえられた。
  そして、さらに、沿岸の朝鮮住民が砲撃を加えられ、
 川を遡行しはじめられた。
  この異常行動に、朝鮮側も攻撃を開始し、数日間の交
 戦状態となった。
  しかし、シャーマン号は座礁し、動けなくなったとこ
 ろを・・、
  1899年9月20日、焼き討ちした。
  そして、乗組員全員を殺害した(焼死や溺死との説も
 ある)。
  1867年1月、アメリカは、アジア艦隊を向かわせ、交渉
 させた・・この交渉は、数度におよんだが黙殺された。
  1871年、アメリカは、この事件の謝罪を求め、再度、
 アジア艦隊の軍艦3隻を向かわせた・・そして、朝鮮半島
 中西部の江華島で交戦した。
  しかし、アメリカは撃退され、開港交渉は失敗した。
  この結果、李朝朝鮮王朝は、一層、鎖国政策を強化し
 た。
  このアメリカのシャーマン号は、ヨーロッパの雑貨を
 積んで、通商を求める目的だったという話もあるが・・、
 平壌に散在する墳墓から宝貨を盗掘する目的もあった。
  朝鮮側は退去を求めたが、強引に開港を迫って来て、
 朝鮮の軍使や積荷を拉致(らち)された。
.
1910年8月29日、日韓併合
  日本と大韓帝国は、1905年、大韓帝国を「保護国」と
 する日韓保護条約を締結した。
  そして、この年・1910年に、「韓国併合に関する条約」
 を結び、この条約に基づいて日韓が併合された。
  1910年8月22日、韓国併合条約が、漢城(現在のソウル
 特別市)で、寺内正毅統監と李完用首相により調印され、
 1910年8月29日、裁可公布により発効した。
  しかし、今・現在における韓国の言い方は・・
  日韓併合をしてからの状況について、韓国の子供たち
 の歴史教科書にも書いているが・・、
  韓国は、「日本に虐(しいた)げられた」と、当然の
 ごとくに書いている。
  これ等の事は、後から立場が変わってから言い出した
 ことで、条約締結時の言い方とまったく逆の言い方とな
 っている・・、
  後からでは、何とでも言えるのであるが、あまりにも
 節操のない言い方である・・
  韓国は、この様な態度は、歴史上、何度もやっている
 事であるが・・恩を仇で返すやり方となっている。
  日韓併合されて、韓国が見違えるように良くなったこ
 とは、種々のデーターや記録が示している。
  だから、日韓併合時には、その様な日韓併合状態であ
 ることが、韓国にとって都合が良かったのだ・・だから、
 条約も結んだのだ。。
  韓国は、後になって、事実をまったくひん曲げている。
  朝鮮・韓国は、江戸時代も、その様な態度を、日本に
 対してとって来た。
  そこに、中国に冊封される韓国があった。
  また、日本に虐げられたと、韓国はデーターを使って
 説明しているが、そのデーターは不確かなデーターであ
 って・・間違いデーターであることが証明されている。
  最近でも、青山学院大学の木村光彦教授の説明でも、
 その韓国の主張は否定されている。
  その1例が、日韓併合によって、韓国・朝鮮人の「米の
 消費量が減った」という韓国の主張があるが・・、
  日韓併合によって、日本が、韓国の米を持ち去った如
 くに言いたいのだろうが?・・これは違う・・間違いだ
 と木村教授は言う。
  これは、このデーターを調査した調査官自身が、デー
 ターを修正しているごとく、間違いデーターである。
  そして、減っているのでは無くて、大した変わりはな
 く・・変化はしてないのである。
  今まで、日本を貶(おとし)めたいという気持ちの韓
 国が、今まで、この間違いデーターで、プロパガンダ(
 嘘宣伝)して来た。
  日本によって、「韓国・朝鮮社会は、激しく窮乏化を
 した」と・・韓国は、自国民にだけでなく、世界へと言
 っているが、間違いデーターに基づく発言となっている。
  人口が3倍に増え、環境改善も著しく、鉄道を張り巡ら
 せ、日本国内より立派なぐらいの学校を建て、ダムを造
 り・・経済発展して、豊かになっているのに、何を言う
 かである。
  まったくひどい韓国の言い方である。
  韓国の子供たちの歴史教科書も、謝罪記事を含めて書
 き直しをしなければならない。
  逆に、日韓併合に刺激された韓国農民の方々が、主体
 性を持って努力し、米の収穫量は拡大しているのである。
  この農業の他にも・・韓国は、会社設立も認められな
 かったと言っているが、これも嘘である。
  実際、朝鮮人による企業設立も多く見られ、朝鮮社会
 の工業化が、急速に進んでいる。
  経済も順調に成長して行った。
  青山学院大学・木村光彦教授は、この様な実際の現実
 を明らかにされている。
  そして、日本は、今・現在につながる、先を見た将来
 展望に基づく開発も朝鮮・韓国にしている。
  朝鮮半島北部のウラン採掘まで・・この当時に、すで
 に、しているのである。
.
1945年5月2日、ベルリン陥落。
  ソ連軍が、ドイツ国会議事堂に赤旗を掲げた(ライヒ
 スタークの赤旗)
  このドイツ国会議事堂(ライヒスターク)は、1933年
 の放火事件以来、ナチス体制下では、公式の目的では使
 用されておらず、完全な修復も成されていなかった。
  この建物内での猛烈な戦闘の末に、1945年5月2日、ソ
 ビエト赤軍は議事堂を制圧した。
  このような時、日本の敗戦も決定的になっていた。
  第二次世界大戦に勝つ見込みは、日本には「まったく
 無かった」。
  この頃、日本は、一生懸命、和平をアメリカやソ連、
 そして、スイスなど連合国側へ働き掛けていた。
  しかし、国民へは、可哀想だが、「あくまで戦うのだ」
 の意思表示をしていた。
  和平を一生懸命に投げかけている日本へは、言を左右
 にして応じる様子を見せなかった「アメリカ・ルーズベ
 ルトと、ロシアのスターリン」だった。
  スターリンは、日本からの和平の働きかけの内容をル
 ーズベルトに話し、その状況、及び、内容は、アメリカ
 に筒抜けだった。
  その様な状況の中で、ルーズベルトとスターリンとの
 間で話がなされたことが、「日ソ中立条約を破棄して日
 本領土を奪え」というアメリカ・ルーズベルト大統領の
 ソ連・スターリンへの『そそのかし』だった・・卑劣な
 事である。
  その為の戦いの準備のためのソ連の時間稼ぎと、アメ
 リカのソ連への武器援助・・ソ連へその為の武器弾薬を
 運ぶ時間が欲しいアメリカが、そこに居た・・(実際、
 アメリカは、船で、日本攻撃のための武器弾薬を、ソ連
 へ運んでいる)・・
  そして、それと、アメリカには、これからの重要な新
 兵器となる原爆の威力を試したいという欲望があった。
  そして、世界へ、その原爆の威力を示す・・その為の
 時間が欲しいアメリカが居た。
  それ故に、和平を進めて、終りにしたくないという事
 情があった。
  だから、この時、日吉に移った日本の地下司令部は、
 苦悩の時間だけが過ぎる場となっていた。
  その日吉の地下司令部を、最初に見た時、この様な事
 情を知らなかった・・その感想・・
  題:終戦間近の最末期・・はっきり見えた・・
    そして、戦争は、そこまで破壊していたのか?
  悲しいことだが、終戦間近の最末期の姿が、はっきり
 見えた気になりました。
  第二次世界大戦の戦争末期、旗艦まで軍艦として戦う
 ため、旗艦に乗っていた海軍司令部は陸(おか)にあが
 った。
  それが、日吉の慶応義塾大学の敷地内の地下に、陸に
 上がった海軍司令部がある。
  ここを見て、ここまでして戦う意味があったのかと、
 まず、思った。
  毎日、何万という膨大な大切な命を失って、日本の方々
 が各地で亡くなっていく・・死んでいる時に、決断でき
 ない最高のトップが居た・・慶応に行って思った、見え
 た。
  当時の、この戦争の責任者、指揮官方の・・トップの
 最上位の人たちは、ただ流されるように、右往左往して
 いた姿が見て取れた。
  勝つ見込みは無いことを、遠の昔に十分わかっている
 のに、そして、いま、その手が打てない状況の中で、こ
 の穴倉の中で、何をしていたのか?
  自分に死がおよぶことを恐れていたのか・・?
  その感がする。
  自分の死に、恐れをなしていた姿が、見れたような気
 がした。
  悲しい、本当に悲しいことだが・・・。
  停戦のボタンが押せないでいたトップたちが、ここへ
 行って、はっきり見えた。
 (参考)き‐かん【旗艦】艦隊の司令長官・司令官が乗
    って指揮をとる軍艦。マストにその司令官の階級
    に応じた旗を掲げる。
  終戦の詔を聞いて、最高戦争責任者の中に、腹に銃を
 発射し、自殺を図った人がいた。
  腹であったため死ねなかった。
  A級戦犯となり「死刑」となった。
  腹に撃っては死ねない。
  知っているはずなのに。
  この地下司令部の壕は、慶応大学の隣の民間人の地へ
 も伸びていた。
  緊急極秘につくられたが、この壕は、アメリカ軍に攻
 撃され、不幸なことに、この隣の民間人の方が亡くなら
 れている。
  送受信アンテナも、離れて設けたりしていたが、アメ
 リカ軍には、はっきり分かっていたようだ。
  誰が戦争を止める「 断 」をするかが、まったくう
 やむやだったとの事・・
  その様な状況の中に「ふわふわ」とあったような・・
  意志を出せない中で、時間だけが過ぎる組織だったよ
 うだ・・
  戦争は、「 そこまで破壊して居た 」のか・・
  ・・と、上記の様に、見学直後に感じたが・・
  実際は、日本は、和平を、一生懸命にしていたが・・
 それに応じない連合国側が居たことが・・その後になっ
 て分かった。
  ルーズベルトは、「アメリカの若者が死なないためと
 称して、原爆を落としたのは・・完全な嘘。
  戦後を見据えて・・日本をモルモットにしたのだった。
.
1945年5月頃、木銃で下から敵を撃滅せよ・・
  弾もでない木の銃で、子供に何をさせようとしたのだ
 ろうか・・
  私の履歴書:商船三井最高顧問・生田正治氏(抜き書き)
  1944年7月には、サイパン島守備隊が玉砕し、本土への
 空襲激化は時間の問題となったため、主要13都市で学童
 疎開が開始された。
  毎朝10時以降に警戒・空襲警報が出れば、昼の給食用
 の芋や代用食のドングリでこしらえたコッペパンなどを
 受け取り、地域ごとに走って帰宅することになった。
  10時以前だともらえないので、毎日10時になってすぐ
 に警報が鳴らないかと、不届きなことを願う日々だった。
  家に帰っても遊び道具はボール一つなく、もっぱら道
 路で仲間と軍艦ゴッコなどの戦争遊びや、高射砲弾の破
 片集めに興じた。
  父に2度目の召集令状が来たのは1944年の夏頃だった
 ろう。
  近くの東横線都立高校駅まで見送り、せみ時雨(しぐ
 れ)の中で敬礼をして乗車していく父の後ろ姿に手を振
 ったのが別れになった。
  1945年2月になると、縁故疎開先もなく、まだ、東京に
 いる全学童に強制集団疎開命令が出た。
  5年生以上約100人は、数人の先生に引率されて4月早々、
 山梨県・小渕沢に向かった。
  当時の小渕沢は文字通りの寒村だった。
  私たち男子約50人は駅前の「寿旅館」に、女子は近く
 のお寺にお世話になることになった。
  朝早く起きて近くのお宮の庭掃除と、荒削りの木銃で
 の厳しい軍事教練。
  何でも米軍は、九十九里浜上陸に合わせて甲府盆地に
 落下傘部隊を降下させるので、その時は、この木銃で下
 から敵を撃滅せよとの命令だった。
  弾も出ない木の銃で、子供に何をさせようとしたのだ
 ろうか。
  毎日午前中は自習だった。
  本を読んだり手紙を書いたりしてなんとなく過ごし、
 午後は勤労奉仕で山に枝払いや薪取りに行かされた。
  いつも腹をすかせていた。
  主食は大豆が8割で、残りの2割が米、麦と雑穀。
  炊くと大豆は膨らむので、見た目には大豆だけのよう
 だった。
  下痢をする者が多かったが、申告しても薬はない。
  決まって絶食療法を言い渡されるのがわかっているか
 ら、食べ盛りの私たちは、誰もがギリギリまで我慢した。
        (参考:日本経済新聞、2011年1月4日)
.
1945年8月6日、アメリカの卑劣な広島への原爆投下
  日本政府の 原爆投下に対する抗議
  カッセーゼ教授は、
  日本政府が、広島に原爆投下に対して、
  「それは、不必要な苦痛を与える非人道的兵器の使用
 を禁ずる国際法原則に違反する」との理由で、
  スイス大使館を通じてアメリカ政府に抗議を行った事
 実に触れ、
  短文の通諜ではあったが、
  立派な主張を提示したと述べている。
        (本:世界が裁く東京裁判、41頁)
  (参考)つう‐ちょう【通牒】 [名](スル)
    1 書面で通知すること。また、その書面。
    2 「通達1」の旧称。
    3 国際法上、国家の一方的意思表示を内容とする
     文書。「最後―をつきつける」
       ・
       ・
2010年12月2日、アメリカが、「世界の警察」を任じられな
 くなった時、日本は?
  景気低迷で疲弊するアメリカ・・、
  横浜で、オバマ大統領と会談した日本の菅首相は、思
 いやり予算の削減が頭にあったが、逆に、オバマ大統領
 から「増額」を求められた。
  厳しい見方の米国議員・・、
  その1:中国の軍事的脅威が増すのに、日本はアメリ
 カ軍のありがたみが分かっていない。 
  その2:沖縄の1万5000人の海兵隊員が中国に上陸して、
 何百万もの人民解放軍と戦うなんて誰も思っていない・・
  在日米軍の大規模な撤収を提唱。
  米国の2010会計年度の赤字、約135兆円・・、
  アフガニスタン戦費が重荷。 
  アメリカ議会の本音:地球の裏側まで面倒を見切れな
 い。
  オバマ大統領は、今のところ、アジアへの軍事的方向
 性は、強める方向。
  しかし、厳しい財政から続けられるかに大きな疑問符
 が周囲に・・。 
  北朝鮮とは事を荒立てたくないという心持ちか?
  アメリカ国防総省のラパン副報道官の言葉:在韓米軍
 を増強する予定はない。
  アメリカ軍のある幹部の言葉:北朝鮮の軍事施設を空
 爆するのは簡単だが、中国がどう反応するかが分からな
 い。
  軍事行動はあり得ない。
  危機管理が専門のユーラシア・グループのイアン・ブ
 レマー社長の言葉:北朝鮮は、ソウル攻撃以外の挑発な
 らば反抗はないと算段しているとみえる。 
  長引くアフガン戦争、長引く景気低迷で、疲弊するア
 メリカ・・、
        (参考:日経新聞、2010年12月2日)
.
2018年3月、中国の全国人民代表大会で・・、
  習近平国家主席は、21世紀半ばまでに、世界一流の軍
 事力を備えた「社会主義現代化強国」と、
  「一帯一路」の推進による中国主導の「人類運命共同
 体」を建設すると宣言した。
.
2018年4月17日、中国依存のドイツが味わう「ゆでガエル」
 の恐怖・・という記事が掲載された。
  ドイツの怖(こわ)いところ・・、
  ドイツは、ここ10年間、中国に非常に接近している。
  長いことドイツは、中国の政治体制に目をつぶり、中
 国と一体となって『儲けの話に加わってている』。
  ドイツの頭にあることは、『儲かれば良いのだ』にな
 っている。
  中国主導で進められているAIIB(アジアインフラ
 投資銀行、2016年1月16日に開業式典を行った)にどっぷ
 り浸(つ)かっている。
  アジアでインフラが進み、投資家は儲かる。
  アジアは、徐々に近代化されて行く。
  良さそうに見える。
  ここが落とし穴。
  ここで豊かになるのが、一部の投資家だけ。
  中国と強く結びついた一部の投資家だけ。
  「今までの植民地体制」も、宗主国と一部の民が搾取
 した。
  その宗主国にドイツが加わっている形。
  問題なのがAIIBに「貧困対策が無いこと」。
  民主主義ではない政治体制の国・中国、
  独裁体制の国・中国が、この金のかかわりで影響力を
 強めて行く。
  ドイツは、中国が民主主義国家ではないという大切な
 ポイントに目をつぶっている・・見落としている。
  将来、この様な経緯で、「世界中に、民主主義ではな
 い国々が増えても良い」くらいに考えている。
  政治体制が独裁的で、中国を頂点とする植民体制が広
 がって行く。
  中国の「一帯一路」にはそのような形がある。
  中国の「大きな問題である人権問題」に目をつぶり、
 中国の「勝手な軍事的行動」にも目をつぶっている危険
 がある。
  基本的人権などもない国家・中国と共同歩調をとって
 いる。
  ドイツは、必死で守らなくてはいけないものまで「捨
 て去っている」。
  人民抑圧している国家を許し過ぎていることを、ここ
 で、見直さねばならない。
  中国は、この論に反対したいのなら、「一回でも、自
 由選挙を行なえ」。
  (最新情報資料):中国依存のドイツが味わう「ゆで
       ガエル」の恐怖(2018・4・17)・・
       [15日 ロイター]
        独建設器械大手のバウアーBSAG.DEは、こ
 の数十年間、中国に積極投資を行った多くのドイツ企業
 に比べて、優位な立場にある。
  ドイツ南部バイエルン州を拠点とする、1790年創業の
 バウワーは、中国合弁パートナーの顔色をうかがう必要
 がない。
  上海と天津にある2つの工場は、100%自社で所有して
 いるからだ。
  また、同社が製造する特殊建設機械は、アジア全体で
 販売されており、不安定な中国建設市場における景気の
 波に左右されずにすむ。
  しかし、それでも一族経営の7代目にあたるトーマス・
 バウアー最高経営責任者(CEO)は、中国における自
 社事業の状況や、これまでドイツ企業と政治家が「確実
 に儲かる賭け」とみなしてきた中国との経済関係全般に
 ついて、危惧していると語る。
  「ドイツは、1つのバスケットに卵をたくさん入れす
 ぎた。
  そのバスケットとは中国のことだ」と話す62歳のバウ
 アー氏。
  バイエルンのアクセントが強く、陽気なバウアー氏は、
 ミュンヘンから車で約1時間の距離にあるシュロベンハ
 ウゼンの本社でロイターの取材に応じた。
  同社の懸念は、ドイツで広まりつつある恐れを示して
 いる。
  ここ10年以上、ドイツ経済は、世界金融危機やユーロ
 圏債務問題、大量の難民流入などにも耐え、欧州成長を
 けん引してきた。
  その強さの裏側には、2つのエンジンがあった。
  ドイツの革新的企業が、成長経済が必要とするハイエ
 ンド(高性能、あるいは最高級であるさま)な製品を数
 多く生産してきた。
  また、ドイツは、オープンでルールに沿った世界貿易
 システムから利益を上げることに長けており、そこから
 競争力を得ていた。
  中国は、この両面で重要だった。
  この10年、外国企業に対して徐々に門戸を開く中で、
 中国は、ドイツ製の自動車や機械を驚くべきペースで買
 い上げている。
  ドイツの自動車メーカーは、昨年だけで、米国販売の
 3倍以上に相当する500万台近くを中国で売り上げた。
  しかし、依然として好況が続いているものの、「ドイ
 ツ株式会社」の中国市場に対する見方には、劇的な変化
 が生じつつある。
  習近平政権の下で、中国の開放政策が逆回転を始めて
 いるだけでなく、中国企業も、ドイツ側の予想を大きく
 上回るスピードでバリューチェーン(価値連鎖)の上流
 へ移動してしまったのだ。
  ドイツが抱える中国のコナンドラム(謎)は、欧州が
 直面する、より広範な試練の一角だ。
  ここ数年、内向きな危機対応に追われていた欧州は、
 今後待ち受ける地政学的、経済的リスクに対応するには、
 政治的に分断されており、まだ準備不足の状態だ。
  欧州大陸はいまや、自己主張を強める中国と「アメリ
 カ・ファースト」を掲げるトランプ米大統領の間で、板
 挟みになるリスクに直面している。
  中国におけるドイツ企業の窮状を、密かに「ゆでガエ
 ル」に例える企業幹部もいる。
  常温の水にカエルを入れ、徐々に過熱すると、熱湯に
 なった時には跳んで逃げることもできず、ゆで上がって
 死んでしまうのだ。
  ドイツのクラウス駐中国大使は、ベルリンで先月開か
 れた企業経営者との会合で、ドイツと中国の関係に「地
 殻変動的な変化」が起きると警鐘を鳴らした。
  同会合の出席者が明らかにした。
  「中国とのパートナーシップの新時代について、われ
 われは心構えを呼びかける必要がある」と、ドイツ最大
 の産業グループであるドイツ産業連盟(BDI)の幹部
 は話す。
  「まだ今は黄金時代だが、今後何が起きるかについて
 は重大な懸念を持っている」
  <国家の役割>
  ドイツ企業は、先頭を切って中国進出を果たし、中国
 経済の発展に伴ってドイツに有利な状況をもたらした。
  2国間貿易は昨年、過去最高の1870億ユーロ(約24.7
 兆円)に達し、中国との貿易高がそれぞれ700億ユーロ程
 度だった英国やフランスを大きく凌駕している。
  2017年のドイツの対中貿易赤字は140億ユーロだったが、
 米国が抱える対中貿易赤字3750億ドル(約40兆円)に比
 べればわずかだ。
  世界70カ国で1万1000人を雇用するバウアーは、1990
 年代半ばに同社にとって初の中国生産施設を建設した。
  その当時は、高層ビルや発電所、空港などの基礎工事
 に必要な、同社が誇る黄色の巨大で複雑な掘削機を生産
 可能な中国企業は1社も存在しなかった。
  だが、2013年までに、そうした掘削機を生産できる中
 国の競合企業が36社に増加。
  バウアーCEOは、欧州サプライヤーが共同開発した
 部品を中国に売却したことで、シフトが加速されたと指
 摘する。
  10年前、バウアーの中国工場には1億ユーロ超の売上
 げがあった。
  続く9年のうち5年の年間売上げは、その半分に達しな
 かった。
  現在では、バウアーを含めたドイツ企業は、中国政府
 が自国経済に及ぼす役割を、何よりも懸念しているとい
 う。
  中国は、昨年、サイバーセキュリティ法を制定し、外
 国企業が本社との機密連絡に使う仮想プライベートネッ
 トワーク(VPN)を含めたインターネットに対する国
 家統制を強化した。
  最近では、複数のドイツ企業が、中国合弁パートナー
 の取締役に共産党役員を受け入れるよう圧力を受けてい
 ると苦情を申し立てている。
  バウアーCEOは、習近平国家主席が唱える「中国製
 造2025(メイド・イン・チャイナ2015)」戦略が、ドイ
 ツ製造業の優位を直接脅かすのではないかと懸念する。
  同戦略では、ロボティクスや航空産業、クリーン動力
 で動く自動車など10分野を重点分野に指定している。
  バウアーCEOは、自社の強みを維持するため、デジ
 タル化を急がせている。
  「これは模倣者との競争ではない。
  これは、われわれに取って代わろうとする革新的エン
 ジニアとの戦いだ」と、バウアーCEOは言う。
  「早期に答えを見つけ出さなければ、非常に悪い結果
 を招くだろう」
  <トランプ関税>
  ドイツが抱える不安は、中国に対して数百億ドル規模
 の追加関税を突き付けたトランプ米大統領の懸念に似て
 いる。
  しかし、ドイツ主要企業があまりにも中国市場への依
 存を深めていたため、独政府は中国との衝突を避けてき
 た。
  独自動車大手ダイムラー(DAIGn.DE)は2月、いかに一
 部企業が中国政府を怒らせないよう臆病になっているか
 を自ら体現している。
  チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世の言葉
 を引用した、高級車ブランドのメルセデス・ベンツのイ
 ンスタグラム広告が、中国で大きな反発を呼んだことを
 受け、同社はこの広告を削除した。
  その上で、同社のツェッチェCEOは声明を出し、「
 不注意で無神経な過ち」により、中国人に「痛みと悲し
 み」を与えたとして、深い遺憾の意を表したのだ。
  「ドイツの人々が、中国について話すことと、彼らが
 実際に考えていることの間には大きな違いがある」と、
 ベルテルスマン財団のベルンハルト・バーチ氏は言う。
  同財団は、「10年後には、中国が欧州の政治・経済シ
 ステムを大きく損なっている」と題する討論会を、ベル
 リンに本拠を置くメルカトル中国研究所(MERICS)
 と合同で今月行う予定だ。
  中国で活動するドイツ企業のムードも冷めつつある。
  中国のドイツ商工会議所が、昨年後半に行った調査に
 よると、中国内の新たな場所に投資を計画している企業
 数が、久しぶりに会員企業の半数を割り込んだ。
  また、中国に進出したドイツ企業の13%近くが、今後
 2年以内に撤退する可能性があると回答した。
  過去数十年間、中国に対するドイツのアプローチは「
 通商を通じた変化」という言葉で説明することができた。
  だが今や、この戦略は崩壊した。
  政府関係者からは、「ウィン・ウィンの新しい意味は、
 中国が2度勝つということだ」といったブラックジョー
 クも聞こえてくる。
  「緊密な経済関係が、開放を促進することを期待して
 いた。
  だが、明らかにそれは誤った期待だった」と、ある政
 府関係者は語る。
  「彼らは、口ではわれわれが聞きたがっていることを
 言うが、その正反対の行動を取る」
  ドイツ政府も、方針転換を始めている。
  昨年、中国家電大手の美的集団(000333.SZ)による独ロ
 ボット大手クーカ(KU2G.DE)の買収が批判を浴びたことで、
 ドイツ政府は外国企業の投資に対する規制を強化し、欧
 州における買収審査に関する新ルール策定に向けて動き
 始めた。
  昨年12月には、中国当局がソーシャルメディア上の偽
 アカウントを通じてドイツの政治家情報を集めていると
 独情報当局が指摘し、中国側を激怒させた。
  このように公然と非難することはまれで、中国にメッ
 セージを送る意図があったとドイツ政府は述べている。
  今年、予定されているドイツと中国の首脳会談におい
 て、独側はより強硬な姿勢を取る方向だと、政府高官は
 語る。
  しかし、その一方で、欧州連合(EU)の内部分裂や、
 単独歩調を崩さないトランプ米政権と欧州との距離が広
 がっていることから、中国政府に方針転換を強いるのは
 困難だと認識している。
  「中国が、本当に心配しているのは、欧州と米国が、
 中国に対して共同歩調を取ることだ」と、ドイツ政府関
 係者は語る。
  「その意味で、トランプ大統領はまさに中国にとって
 天の恵みだ」
.
2018年5月20日、この日の読売新聞に・・、
  「『日米欧』対『中国』の競争の時代」として、『世
 界秩序』はどの方向へ進んで行くのか・・についての意
 見が記載されていた。
  論者は、JR東海名誉会長の葛西敬之(かさいよしゆ
 き)氏である・・
  それを参考に、その抜粋を以下に記す・・
  「世界秩序は今、第二次世界大戦後、最大の転換期に
 入って来ている。
  それは、中国が世界秩序に対してとって来た曖昧な態
 度を改め、独自の価値観に基づいた新しい秩序作りに着
 手する姿勢を鮮明に打ち出したことで顕在化した。
  米国や欧州は、これまで、中国を国際市場に受け入れ
 て、経済的発展を支援すれば、やがて、中国の民主化が
 進み、自由と民主主義を基盤とする世界秩序に同化する
 と考えて来た。
  だが、中国政府は、自国の市場を閉ざしたまま、自国
 企業の海外市場への進出を強力に支援して、経済成長を
 遂げる一方、国内では、民主的な動きを警戒して、市民
 に対する言論統制を強め、軍備の近代化と増強を急速に
 進めている。
  3月の全国人民代表大会で、習近平国家主席は、21世紀
 半ばまでに、世界一流の軍事力を備えた「社会主義現代
 化強国」と、「一帯一路」の推進による中国主導の「人
 類運命共同体」を建設すると宣言した。
  これを見て、米欧は、中国が権威主義的な価値観に基
 づく独自のシステムを構築し、既存の世界秩序に挑戦す
 る意思表示と受け止め、対応を転換しつつある。
  世界は、異なる価値観に基づく二つのシステム、すな
 わち「自由・民主主義システム」と「新・中華システム」
 の間での競争時代に突入した。
  日本は、「自由・民主主義システム」の最前列に立つ
 ことになった。
  日本にとって喫緊(きっきん)の問題は、勿論、北朝
 鮮の核武装であり、その速やかな非核化である。
  但し、それは、北朝鮮の主体的な動きとして捉えるの
 ではなく、中国の前衛として、さらには、米中関係の一
 端として見るべきである。
  加えて、北朝鮮と国境を接する韓国の北朝鮮への傾斜
 が事態をより複雑にしている。
  韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員
 長による南北首脳会談が4月27日に行われ、「板門店宣言」
 が発表された。
  宣言には、抽象的な言葉が羅列されているが、その含
 意は明らかだ。
  「核のない朝鮮半島」という表現には、北朝鮮の核だ
 けでなく、米国の核をも争点にする底意が感じられる。
  また、「南北終戦宣言と平和協定締結」は、国連軍司
 令部を解散し、在韓米軍を形骸化する狙いをにおわせる。
  しかも、速やかに北朝鮮を非核化する意思は感じられ
 ない。
  総じて板門店宣言は、中国にとっても好ましい内容と
 なっている。
  こうした中で、日本にとって寛容なのは、日米同盟に
 依拠して揺るがない基盤を築くことである。
  力強く自信にあふれて日本と共に行動する米国と、そ
 れを同盟国として支える日本の覚悟が問われている。
  板門店宣言を一読して、「米国は、早晩、在韓米軍の
 撤退を提起するだろう」と感じた。
  韓国の強い要請と積極的な協力が無ければ、在韓米軍
 は機能しない。
  いずれ、撤退を決断せざるを得ないのであれば、「早
 く提起する方が賢明」という判断には理があると思う。
  北朝鮮の核に対する米国歴代政権の曖昧な姿勢が韓国
 民の不安を招き、今日の朝鮮半島情勢の流動化につなが
 ったとも考えられる。
  故に、米国が、新たな決意のもとに、韓国民の真意を
 問い直すことは意味がある。
  その場合、日本の立場は難しい。
  在日米軍に反対する勢力は勢いづくだろう。
  しかし、現実を直視すれば、日本の安全と独立が、今
 日ほど危機に瀕し、日米同盟による抑止力が死活的に重
 要だったことはない。
  「逆もまた真なり」で、米国にとって、日本の防衛と
 その為の米軍の存在は、ますます死活的になる。
  こうした中で、大切なのは強固な日米同盟を堅持する
 事であり、社会・産業分野においても、日米の連係を強
 める必要がある。・・以下略・・
  以下は、TPPへのアメリカの復帰を促す・・と、日
 米の「5G]技術の構築・・「第4次産業革命」の競争
 優位を持つ(中国も、戦略として5G分野を握り、中国
 企業の技術的優位性を保持させ(デジタルシルクロード
 の展開)・・情報戦略・・アメリカは、その中国戦略に
 対抗し、中国企業のアメリカの通信インフラでの使用リ
 スクを回避しようとしている・・この面での競争激化・・
 国家統治の安全保障・・
.
2018年、アメリカは、コントロールが効く日本に、「核を
 持たせたくない」と、「核は持たせない」と、やって来
 た。
  そして、アメリカは、日本の世論操作までした。
  アメリカは、韓国には『論外の国だ』という厳しさで
 やって来た。
  やはり、韓国も核は持ちたいと意識していたが、この
 様なアメリカに不満を持ち、秘めていた。
  ここで、今(2017年)、北朝鮮が核保有国になった。
  そして、この北朝鮮と韓国は、中国の冊封国、もしく
 は、冊封国への道を進んでいる。
  韓国は、「北朝鮮と一体となった国」になりたいと思
 うのと共に、この北朝鮮の「核の傘の下に入りたい」と
 も思っている。
  この意味で、今・現在(2018年)、韓国のアメリカ離
 れが進んでいる。
  あるのは、核保有国となる韓国である。
  北朝鮮の金日成の時からの方針である「核保有」は、
 今・現在、北朝鮮は達成し、韓国と共に核保有の軍事態
 勢に成功したとされる直前となっている。
  規制の効く日本と、ホッタラカシにして来た北朝鮮の
 アメリカの姿勢が・・この、今の状況となっている。
  アメリカは韓国から撤退し、38度線は対馬海峡となり、
 その先には核保有した朝鮮が居るという状況となる。
  その日本では、相変わらず国家の防衛論よりモリカケ
 論に終始する状況が続いている・・
  このまま、なし崩し的に・・隣の家までが核を持つ、
 それに怯(おび)え続ける日本となって行くのか??
  中国に脅されて重要技術を取られるという様な事が、
 隣国へもするような日本となるのか・・??
  そして、新聞に以下のことが記されていた・・
  「中国は、巧(たく)みに日本の親中派を厚遇し、批
 判的な人を冷遇して来た。
  しかし、そうすればするぼど、戦略思考を持つ政治家
 とのあいだの対話が成り立たず、利害調整がしにくくな
 って来た」・・と・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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by suba28 | 2018-05-30 04:52 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)596E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月~1894年5月)

題:(増補版)596E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月~1894年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年5月16日、北村透谷が自殺(縊死)
  北村透谷(きたむらとうこく、1868年~1894年)評論
 家、詩人。)
  1868年12月29日、相模国足柄下郡小田原で没落士族の
   家に生まれる。
  1881年(13歳)一家で上京し、東京の数寄屋橋近くの
   泰明小学校に通う、翌年、卒業。
  1883年(15歳)横浜のグランド・ホテルのボーイとな
   り、この年、東京専門学校(現:早稲田大学)政治
   科に入学。
  1886年(18歳)この頃まで、東京専門学校に籍を置く
   が、左翼と知り合い、自由民権運動に参加する。
   学校は卒業はしていない。
    自由民権運動は閉塞してゆく・・、
    大阪事件の際、同志から活動資金を得るため強盗
   をするという計画を打ち明けられ、その行動を勧誘
   された・・苦悩のうちに参加を拒絶し、絶望してそ
   の運動を離れる。
  1888年(20歳)数寄屋橋教会で洗礼を受ける。
  1888年(20歳)石坂ミナと結婚、キリスト教への入信
   を支えにする。
    通訳として麻布教会へ通う。
  1889年(21歳)『楚囚の詩』を自費出版したが、出版
   直後に、その出版を後悔し、自ら回収し、みずから
   廃棄した。
   第一::曽《か》つて誤つて法を破り
   政治の罪人《つみびと》として捕はれたり、
   余と生死を誓ひし壮士等の
   数多《あまた》あるうちに余は其首領なり、
   中《なか》に、余が最愛の
   まだ蕾《つぼみ》の花なる少女も、
   国の為とて諸共《もろとも》に
   この花婿も花嫁も。
   第二::余が髪は何時《いつ》の間《ま》にか伸び
  ていと長し、
   前額《ひたい》を盖《おお》ひ眼を遮《さえぎ》り
  ていと重し、
   肉は落ち骨出で胸は常に枯れ、
   沈み、萎《しお》れ、縮み、あゝ物憂《ものう》し、
   歳月《さいげつ》を重ねし故にあらず、
   又た疾病《しつぺい》に苦《くるし》む為ならず、
   浦島が帰郷の其れにも
   はて似付《につ》かふもあらず、
   余が口は涸《か》れたり、余が眼は凹《くぼ》し、
   曽《か》つて世を動かす弁論をなせし此口も、
   曽つて万古を通貫したるこの活眼《かつがん》も、
   はや今は口は腐《くさ》れたる空気を呼吸し
   眼は限られたる暗き壁を睥睨《へいげい》し
   且つ我腕は曲り、足は撓《た》ゆめり、
   嗚呼《ああ》楚囚! 世の太陽はいと遠し!
   噫《ああ》此《こ》は何の科《とが》ぞや?
   たゞ国の前途を計《はか》りてなり!
   噫此は何の結果ぞや?
   此世の民に尽したればなり!
   去《さ》れど独り余ならず、
   吾が祖父は骨を戦野に暴《さら》せり、
   吾が父も国の為めに生命《いのち》を捨《すて》たり、
   余が代《よ》には楚囚となりて
   とこしなへに母に離るなり。
  1889年(21歳)日本平和会の結成に参画、機関誌『平
   和』に寄稿。
  1891年(23歳)5月、『蓬莱曲』を自費で出版する。
    劇詩で、キリスト教的世界観からインド仏教的世
   界観への屈折がみられる。
    養真堂刊という形で自費出版した。
    蓬莱山つまり富士山の麓(ふもと)・中腹・絶頂を
   舞台に設定、現世を捨ててここにきた気性鋭い内攻
   的な青年に、大魔王が自分こそこの世の物質的な繁
   栄を支配していると同時にその破滅をも支配してい
   る、と告げ、自分に服従せよというが、青年はそれ
   を拒み富士山頂で死ぬ。
    青年は、作者透谷のおもかげを宿す。
    未完の『蓬莱曲別篇(べつへん)』が付載されてい
   て、そこでは青年の恋人の愛が彼の霊を彼岸(ひがん)
   での救いに導く。
  1892年(24歳)評論「厭世(えんせい、この世・人生
   をはかなむ)詩家と女性」を『女学雑誌』に発表。
   「恋愛は人世の秘鑰(ひやく、秘密のかぎ)なり」
  1893年(25歳)島崎藤村らと創刊した『文学界』誌上
   に「人生に相渉るとは何の謂ぞ」、「内部生命論」
   など多くの文芸評論を執筆する・・しかし、ロマン
   チシズムの文学論は透谷自体を追い詰め、病気、貧
   困なども加わる。
  1894年(26歳)次第に精神に変調をきたし、評論『エ
   マーソン』を最後に、芝公園で首吊り自殺をした。
    原罪を意識させ、自分は悪いのだを洗脳させるキ
   リスト教・・この様な希望のない性悪説ではなく、
    一切衆生悉有仏性・・皆が持つ希望の仏性・・の
   未来の希望はあるの考え方を持つように・・
  (参考)大般(だいはつ)涅槃経に、「仏身常住(ぶ
     つしんじようじゆう)」:悟りを開いた仏の身
     体は法として永遠に存在する・・
      「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうし
     つうぶつしよう)」:すべての方々、また、生
     きとし生けるもの、すべてが、生まれながらに
     して、仏となりうる可能性(仏性)を有し、す
     べてを悟り得る存在です・・、

1894年5月26日、山形市大火。
  この大火は、山形市南大火と呼ばれ、蝋燭町(ろうそ
 くまち、現:十日町の嘯月あたり)を火元とし、強風に
 よって火の手は四方に広がり、約10時間燃え続け、十日
 町・八日町・三日町・小姓町など、市外南部を中心に、
 17ヶ所に及んだ。
  焼失したのは本家数だけで1,608軒。
  因みに、 ろうそくの製造を家業とする職人が住んでい
 たことから名付けられ・・、
  当時の絵図には「アカシマチ」となっている。
  この町の最上ろうそくは明るく長持ちすると大変好評
 で、徳川家康が夜宴を開いた際、暗いので最上ろうそく
 に取り換えさせたというエピソードがある。
  領主の最上家の将軍家への土産品にも蝋燭は欠かせな
 いもので、慶長10年(1605年)に、家康を訪問した際に
 は千挺(ちょう、1000本)も献上した。

1894年5月26日、綿糸輸出を促進するために、綿糸輸出関税
 を撤廃した。
  この頃、綿花輸入税・綿糸輸出税の廃止運動が行なわ
 れていた・・これは・・、
  1890年に、日本の綿糸生産量は、原料綿花の輸入量を
 上回るようになったからだった。  
  国内の綿花栽培農家を保護するための綿花輸入税や、
 綿織物生産業者を保護するための綿糸輸出税の存在は、
 力がついて来た日本の紡績業の国際競争における足かせ
 となって来ていた。
  そのため、大日本綿糸紡績同業連合会は、1888年以後、
 両税の廃止を働きかけた・・また・・、
  1891年以後に、商業会議所などを巻き込んで本格的な
 運動を開始した。
  これに対して、大日本農会は、国内農家保護の観点か
 ら反対運動を起こし、帝国議会でも議論が行われた。
  だが、郵便報知新聞・日本・東京経済雑誌などの主要
 なマスコミが両税廃止運動を支持した。
  因みに、綿花輸入関税の撤廃は、1896年。
  開国後の近代化で、日本には、綿糸製造産業が、欧米
 の技術を導入して各地に設立されていた。
  そして、その産業を保護するために、産業が確立され
 るまで、その製品の綿糸が外国に流れて、日本の産業が
 育たないことにならない様に、綿糸輸出関税をかけてい
 た。
  しかし、日本の綿糸生産が、外国からの原料(綿花)
 の輸入量を超えるくらいに育ったため、そして、その育
 った日本の綿糸が輸出しやすくするために、綿糸輸出関
 税を撤廃した。
  また、綿花を国内で生産をしていたとしても、日本の
 経済成長、工業発展もあって、綿花を輸入せざるを得な
 い状況になっており・・、
  また、綿花栽培農家は、他の生産物への転換が容易だ
 ったことによって、綿花栽培農家のための保護関税を撤
 廃し、原料綿花のコスト低減のための綿花輸入関税の撤
 廃を行なった。

1894年5月30日、甲午農民戦争で、東学党軍が、ほぼ朝鮮全
 羅道を制圧した。
  李朝朝鮮政府は、清国に援助を要請した。

1894年5月31日、朝鮮農民軍が、全州占領。朝鮮内乱重大化。
  甲午農民戦争(東学党の乱): 乱徒が朝鮮全州を占領。

1894年5月31日、衆議院が、内閣弾劾上奏案を可決した。
  この年の3月1日の第三回総選挙は、自由党は30近く議
 席を回復し、硬六派は180から40議席も減少していた。
  そして、景気は良く、経済情勢には対立激化の要因は
 なかった。
  しかし、対外硬の面で、激しい対立が続いた。
  野党はなお130の議席を確保した。
  そして、さらに、無所属切り崩し、衆議院を制圧でき
 る可能性出て来た。
  また、マスコミも、国粋派の新聞「日本」や、民友社
 の「国民新聞」にまで反政府側だった。
  そして、また、枢密院や貴族院の一角までが、条約励
 行案支持となっていた。
  対外硬派の狙いは、藩閥政府の打倒にあった。
  しかし、この狙いを越えた行動・・対外硬の行動とし
 て現れて行った。
  また、中国・清側も、日本を弱小国としてみて、強硬
 な態度に相変わらずいた。
  ここに、朝鮮世情の不安定さが加わった。
  始まりは・・6月1日の李朝朝鮮政府が、東学党の農民
 軍に大敗したことにあった・・
  李朝朝鮮政府は、清国に出兵を要請した。
  日本も、清国との申し合わせによって出兵した。
  1885年に、日本と清国は、朝鮮に出兵する時には、事
 前にお互いに、相手側へ通知し合うという条約を結んで
 いた。
  この事態になるまでに、日本国内にも、マスコミが騒
 ぐ状況が起きた・・
  清の中国軍の朝鮮出兵に対し新聞論調は一夜にして急
 変した。
  国民新聞を先頭に朝鮮出兵を叫び始めた。
  対外硬もたちまち対清硬に変じた。
  1894年6月2日、衆議院の上奏が却下され、解散した。
  そして、1894年6月4日、出兵が開始された。
  そして、1894年6月5日、大本営が設置された。
  そして、この当時の国際的重要国であるイギリスと、
  1894年7月16日、日英日英通商航海条約の新条約が調印
 された。
  これは、イギリスの日本への支持を示すものでもあっ
 た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国は色々な民族の地・・
    中国は、種々の民族が入れ代わり立ち代わり領有(りょうゆう、
   領地として持つこと)した・・
    例えば・・唐が「漢民族を名乗った」のは、「中原の支配権を正当化するため」に
   自身が漢民族の末裔であることを主張したかった。
.
紀元前1万4000年、今から16,000年前の縄文時代の人骨から
 分かること・・、
  《古人骨と食べ物》 
  米田 穣氏(東京大学大学院新領域創成学研究科准教
 授):
  縄文や弥生の時代の人骨を分析して、当時の日本人が
 何を食べていたかを探る研究が進んでいる・・、
  同位体生態学・・、
  骨を分析すれば、そこから食べていたものを突き止め
 られる・・、
  古人骨に含まれる元素の重い同位体や、軽い同位体の
 比率を調べる・・
  およそ1万6000年前に始まる縄文時代の人骨・・
  亜寒帯の北海道、温帯の本州、亜熱帯の沖縄・・
  北海道では、オットセイの様な海生哺乳類、鮭などの
 魚を主なタンパク源とエネルギー源にしていた。
  本州は、氷河期が終わって森で覆われていて、クリな
 どの木の実を主食にしエネルギー源とし、魚をタンパク
 源としていた。
  これに対し、沖縄では、サンゴ礁で採れる小魚や貝類
 が主体で、これをタンパク源としていた。
  紀元前800年頃に始まる弥生時代は、稲作が伝わる。
  「縄文時代の後期に、本州の人口が減少する・・、
  森で何かが起きて、木の実が採りにくくなったのが原
 因と思われている・・、
  そこで、弥生時代には、稲を積極的に導入し、タンパ
 ク源は、従来同様、魚に求めていた・・、
  米と魚に象徴されるスシ文化は・・弥生時代に確立さ
 れたともいえる。
  でも・・、植物のデンプンをエネルギー源に、魚をタ
 ンパク源にする伝統的な日本食文化の起源は・・縄文時
 代に確立していた・・
  私たちの祖先が、アフリカのジャングルで暮らしてい
 た頃は、果実など植物質の食べ物で胃袋を満たしていて、
  サバンナに出てくると、肉食に転換した。
  初めは、猛獣が食べ残した動物の骨を石器で砕き、骨
 髄などを食べていたと考えられる。
  アフリカを出て・・欧州で進化したネアンデルタール
 人の骨を分析した結果、大型の哺乳類を主に食べていた
 事が分かっている。
  これに対し、人類学の分類上、人と直接つながるクロ
 マニヨン人が、魚や小型の動物を食べていたようで、最
 終氷期(8万~2万年前)の終わり頃、温暖化に向かう
 中で、植物を食事に取り込むようになった。
  火で加熱して糖分に替えたりして、植物のデンプンを
 食べるようになった。
       (参考、日本経済新聞、2010年9月18日)
       ・
       ・
907年、中国の唐が崩壊した。
  これは中国の統一王朝だった。
  これ以来、中国は群雄割拠の分割政権が続く。
  この唐以来の中国統一政権を樹立したのが元(げん)
 だった。
  唐の滅亡後、五代十国となる。
  そして、宋となるが、西夏や遼があり、中国統一王朝
 ではなかった。
  唐は、李淵(りえん)が、隋を滅ぼして建国した。
  李淵は、唐の初代皇帝となり、漢民族だと言われるが、
 漢民族ではない・・、
  学説での実際は・・「鮮卑系の出自であり、本来の姓
 も大野氏である」とある・・、
  鮮卑(せんぴ)は、紀元前3世紀~6世紀にかけて、中
 国北部に存在した遊牧騎馬民族であり、漢民族ではない。
  プロパガンダが働いている・・
  五胡十六国時代、南北朝時代に南下して中国に北魏な
 どの王朝を建てているが・・、
  この唐が「漢民族を名乗った」のは、「中原の支配権
 を正当化するため」に自身が漢民族の末裔であることを
 主張したかった。
  そして、この唐が滅ぶと・・中国は五代十国時代とな
 る・・これは・・
  黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)
 と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十
 国)とが、興亡する漢民族を含む『色々な民族』の時代
 だった。
  そして、宋の時代になるが、この王朝は、中国全土を
 配下に収めることが出来ず、遼や西夏が存在した。
  そして、宋は、趙匡胤(ちょうきょういん)が五代最
 後の後周から禅譲を受けて建てた国だった。
  趙匡胤は、河北省古安県の人で、父は後唐の禁軍将校
 だったから「漢民族と名のるだけの人」だった(実際は、
 鮮卑系の人・・遊牧騎馬民族)。
  そして、元(げん)が中国統一王朝を造るが・・、
 モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した王朝であ
 った。
  この様に、漢民族が『中国の地の民族などとはまった
 く言えない』・・その様な歴史が存在しているのである。
  この漢民族の現政権の中華人民共和国が、「漢民族が、
 中国古来からの民族だ」の様に言うのは、完全なプロパ
 ガンダ(嘘宣伝)で、この論理でチベット、ウィグル、
 内モンゴルの諸民族の地を、漢民族の領土にしようと暗
 躍しているのは、まったくの侵略行為となっている。
  そして、元(げん)民族に中国が駆逐され、制覇され
 た時、その国の広大さは、中国全土を飲み込むどころか、
 西は、ヨーロッパの地にまで達した。
  「漢民族の中国」などというイメージは、何処を見て
 も完全に影も形もなく、消え去っていた。
  だから、元(げん)民族が、中国の土地は我が民族の
 土地だと、現政権の中共の如くに言っても同じ理屈で言
 ってもよい・・だから、内モンゴルを漢民族の国土だと
 画策するのは侵略であり、間違い。
  その他の地も、漢民族の屁理屈で奪うのは侵略行為。
  この元(げん)は、東は、朝鮮を、いとも簡単に飲み
 込んだ・・そして・・、
  さらに、その東の日本を駆逐し、太平洋へ出たいと、
 突然の如くに、日本にやって来た。
  13世紀末の事であった。
  しかし、日本を駆逐する事は・・できなかった。
  大軍でもって、二度、日本に襲来を試みたが、目的は
 達せられなかった。
  その二度の日本襲来の軍船を造るために、朝鮮の山の
 木は伐られ、朝鮮の山は、どこも禿山(はげやま)とな
 った。
  三度目の日本襲来を計画したが、朝鮮には、その軍船
 を造るための木は乏しかった。
  そして、時代を経て・・その朝鮮の禿山に緑林したの
 が、日韓併合時の日本だった・・献身的な日本だった。
  この事例もそうだが・・日韓併合時は、日本は、一生
 懸命に朝鮮の国づくりを行なった。
  朝鮮戦争の時、その日本が植林した山に、この様な山
 に復活させた事情をよく知るアメリカ兵が、朝鮮戦争の
 戦いの為、この朝鮮の山へ砲弾を撃ち込むのが忍びなか
 ったと言っている。
  日本が、この様に、美しく復活させた植林した山だと
 思っていたと・・、
       ・
       ・
1941年半ば、徹底的に分析された幻の報告書
  第二次世界大戦の戦争の開戦の前に、日米比較が徹底
 的になされ、現状分析がなされた・・幻の報告書
  戦争開戦前に、現状を詳細に分析した報告書が存在し
 た・・
  しかし、現状認識を封印し、戦争は始められた・・
  その結果は悲惨そのものだった・・報告書の通りだっ
 た・・、・
  70年前の日米開戦前に、日本の国力を正確に予測しな
 がら、葬り去られた幻の報告書が存在した。
  戦争が始められる2年3ヶ月も前・・1939年9月、関東軍
 参謀部で満州国の建設主任から急きょ帰国した陸軍中佐
 の秋丸次朗は、「戦争経済研究班」を取り仕切って、そ
 の報告書を作成した。
  同班は「秋丸機関」と通称され、知られた。
  秋丸は、米英との戦争に耐えられるかどうかの分析を
 命じられ、東大教授の有沢広巳、後に、一橋大学学長に
 なる中山伊知郎らの学者を集め、徹底的に調べた。
  20~30人の研究チームだった。
  調査対象は人口、資源、海運、産業など広い分野に及
 んだ。
  資料収集に苦労を重ねた。
  経済封鎖をさせられている日本。
  軍需産業育成にどれだけ力を注げるのか。
  米英との力の差は。
  分析が進んで行った。
  調査開始から1年半後の1941年半ば・・、
  1941年12月8日の日米開戦まであと数カ月の時期に、陸
 軍首脳らに対する報告会が催された。
  秋丸は意を決して言った。
  「日本の経済力を1とすると、英米は合わせて20。
  日本は2年間は蓄えを取り崩して戦えるが、それ以降は
 経済力は下降線をたどり、逆に、米英は上昇し始める。
  彼らとの戦力格差は大きく、持久戦には耐えがたい」。
  これが秋丸機関の結論だった。
  列席したのは杉山元参謀総長ら陸軍の首脳約30人。
  じっと耳を傾けていた杉山がようやく口を開いた。
  「報告書はほぼ完壁で、非難すべき点はない」と報告
 書の分析に敬意を示し、そして続けた、「その結論は国
 策に反する。
  報告書の謄写本はすべて燃やせ」。
  会議から帰って秋丸は報告書を焼却した。
  有沢は、直ちに活動から手を引くように命じられた。
  秋丸機関はほどなく解散し、現状認識を封印した戦争
 が始まった。
  結果は悲惨そのものであった。
  報告書の一部が、秋丸の死後、遺品の中から発見され
 た。
  詳細を極めた報告書であった。
         (参考:日経新聞2011年1月3日)
.
1954年、中国は、ソ連からの原爆技術供与の交渉に成功し
 た。
  毛沢東は、アメリカによる、日本への原子爆弾投下以
 来、原子爆弾を持ちたいと強く願い続けた。
  原爆を使ったアメリカに恐怖した・・
  そして、朝鮮戦争中に、そのアメリカから、核攻撃を
 暗示された。
  その際に、毛沢東は、スターリンに原爆製造技術供与
 を要請した。
  この時、ソ連側は、技術供与に消極的だった。
  しかし、その後の1954年、台湾海峡危機や、ハンガリ
 ー動乱を巡るソ連内部の政治混乱が起き・・これを機会
 に、中国はソ連からの技術供与交渉に成功した。
  そして、中国は、1960年代初頭に設立した第9学会(
 北西核兵器研究設計学会)により、核兵器の開発が進め
 た。
  そして、1964年10月16日、新疆ウイグル自治区のロプ
 ノール湖にて初の核実験が行なわれた。
  また、1967年6月17日、初の水爆実験が行われた。
  中国は、アジア初の核保有国となった
.
1964年10月16日、中国が、新疆ウイグル自治区のロプノー
 ル湖にて初の核実験を行なった(コードネーム596)
  中国は、1964 年から1996 年まで、東トルキスタンの
 ロプノールの核実験場において、延べ46回、総爆発出力
 22メガトン(広島原爆の約1370発分)の核爆発実験を行
 った。
  1964年10月16日の第1回には、20キロトンの地表爆発型
 の実験を始めて行った・・空中爆発である・・
  そして、最大の核爆発は、1976 年11月17日の4メガト
 ンの地表核爆発だった・・これも空中爆発だった・・
  中国の核実験の実態は、長い間、秘密にされ、不明だ
 った。
  日本放射線防護センター代表の高田純氏は、新疆ウイ
 グル自治区で行われた核実験について・・、
  1964年~1996年に行なわれた中国の核実験によって、
 ここの住民、計19万人の命が奪われたと推定した・・
  また、劣悪な医療環境などの影響もあって・・影響は
 広がり・・約75万人の死者が出たという。
  そして、日本のNHKは、西遊記の製作のために、こ
 のウイグル地域に入った。
  1978年と1979年と、2度も続けて・・、
  このために、女優の夏目雅子さんが、この地へ行った。
  その後、夏目雅子さんに癌ができる。
  1981年の2年後に、甲状腺が腫れ(バセドー病)、この
 手術をした・・、その後に、また、瞼が腫れた・・
  1892年には、腎盂炎になり、そして、子宮内膜症にな
 る・・
  そして、夏目雅子さんは、1985年2月に白血病となる。
  そして、1985年9月に亡くなられた。
  そして、このNHKの番組「シルクロード」を見た日
 本人・27万人がシルクロードへ旅行した。
  その様な時のある日本人青年の体験は・・、
  ローカルバスで南新疆に向けて走っていると、突然、
 「ピカッ」っと光るものを見た。
  その後、バスの中を見渡すと同乗者の皆が「鼻血」を
 流していた・・その光景は、その青年には滑稽にさえ思
 えたという・・しかし、その青年も、自分の鼻に手を当
 てると自分も同じように血を流していたという。
  バスの中は騒然となったという・・
  その後、あの時、被爆したのだと思っているという・・、
  札幌医科大学教授・高田純氏は、中国西域の観光から
 帰国した後に「白血病」「肺がん」「悪性リンパ腫」を
 発症したという方や、その家族から情報が寄せられてい 
 るという・・
.
1964年10月27日、中国が、核弾頭を装備した東風2号Aミサ
 イルが酒泉衛星発射センターより発射され、20キロトン
 の核弾頭が、ロプノールの標的上空569mで空中爆発させ
 た。
.
1967年6月17日、中国が、初の水爆実験を行なった。
  威力2メガトンの熱核爆発で、爆発高度地表130メート
 ルの空中爆発の核実験が行われた。
.
1970年、中国は、この年初頭から1971年にかけて、核兵器
 をチベット高原に輸送し、青海省アムドの北西部先端に
 あるツァイダム盆地に、DF-4ミサイル発射用地を完成さ
 せ、核ミサイルを配備した。
  現在もチベット四川省のツァイダム(二カ所)、テルリ
 ンカ、青海省と四川省の境界の四カ所にミサイル発射用
 地が整備されている。
.
1973年6月27日、中国が、航空機からの原爆投下をした。
  航空機からの投下、威力2.5メガトンの熱核爆発の核実
 験を行なった。
  カザフスタンの報告では、爆発高度は1000メートル。
.
1992年、大量の死者が出された中国の原爆
  この年に、ウイグル人のアザト・アキムベク、ユシュ
 ムべク・ムフリーシ氏は、世界核被害者大会で被曝の状
 況を訴えた。
  そして、1998年に、イギリスのチャンネル4で「Death
  on the Silk road(死のシルクロード)」というドキュ
 メンタリーが放送された。
  日本では、あまり東トルキスタンの被曝の状況が知ら
 されることはなかった・・報道が隠されていた・・
.
2002年8月、中国の核による被害調査を、日本人の大学教授
 が行ない・・、
  核防護学者・高田純札幌医科大学教授による2002年8月
 以降の調査では・・、
  中国が、ウイグル地区で実施した核実験によって、同
 自治区のウイグル人を中心に19万人が急死した・・
  そして、急性放射線障害など健康被害者は129万人に
 のぼり・・、
  そのうち、死産や奇形などの胎児への影響が3万5000人
 以上、白血病が3700人以上、甲状腺がんは1万3000人以上
 に達すると発表した。
  また、被害は、シルクロード周辺を訪れた日本人観光
 客27万人にも及んでいる恐れがあり、影響調査が必要で
 あると同教授は指摘した。
  高田教授による調査は、1996年までの中国の46回の同
 地区における核実験の爆発威力や放射線量、気象データ
 や人口密度などを基礎データとした。
  楼蘭遺跡の近くで実施されたメガトン級の核爆発では
 高エネルギーのガンマ線やベータ線、アルファ線などを
 放射する「核の砂」が大量に発生し、東京都の136倍に相
 当する広範囲に及んだ。
  同教授によれば、中国の核実験は、核防護策がずさん
 で、被災したウイグル人への医療ケアも施されずに、広
 島原爆被害の4倍を超える被害者を出した。
  高田教授は「人道的にもこれほどひどい例はない。中
 国政府の情報の隠蔽も加え、国家犯罪にほかならない」
 と批判した。
  このような状況の中で「(中国政府に)実験のモルモ
 ットにされた」と訴えるウイグル人も現れた。
  ウイグル人医師のアニワル氏は、「中国では、被曝者
 が団体を作ることも、抗議デモをすることも許されない。
  また、国家から治療費も出ない。
  中国政府は、『核汚染はない』と公言し、被害状況を
 隠蔽している。
  そのため、海外の援助支援団体も入れない状況となっ
 ている。
  原爆症患者が、30年以上も放置されたまま」・・
  ・・などとして、中国政府の対応を激しく批判した。
  また、核実験場は、最も近い居住エリアから10キロし
 か離れていなかった。
  そのため、ウイグル人の悪性腫瘍の発生率が、中国の
 他の地域の漢人と比べて、35%も高くなっている。
  そして、漢人であっても、ウイグル自治区に30年以上
 滞在しているものは、ウイグル人と同じ発生率となって
 いる。
  また、先天性異常のために歩くことも話すこともでき
 ない「障害児ばかりが生まれる地域」もある。
  中国による同地区核実験については、イギリスBBCが、
 1998年8月に、隠し撮りによるドキュメンタリー「死の
 シルクロード」(27分)を報道し、
  この作品は、ローリー・ペック賞を受賞した。
  アニワル医師も、同作品に同行した。
  この様な事は、中国に利する事ばかりしている日本の
 NHKは行わないだろう。
.
2010年、西側諸国が民主化を煽った。
  「アラブの春」と・・美しい世の中が来ると煽った。
  そして、今、「難民受け入れ」を人道的な問題に絡め
 てとやかく言っているが・・それは、「事後処理をして
 いるごとく」で問題だ。
  これを、とやかく言う前に、この様な難民を発生させ
 ている原点・発生点の問題を追求しなければならない。
  難民を発生させているシリア内戦は、大国によってつ
 くられた紛争である。
  2010年より西側は、民主化を煽った。
  「アラブの春」と美しい世の中が来ると煽った。
  既存の政権が、「遅れた態勢で悪い」ように見せた。
  既存の政権を、次々と壊して行った。
  西側は、「民主主義を根付かせるのだ」が最終目標だ
 った・・が、民主主義が根付いた国は無かった。
  エジプトは、結局、軍制になってしまった。
  リビアは、国の体制がシッチャカ、メッチャカのまま
 で混沌の中にある。
  西側諸国が、かえって悪いことをした結果となった。
  西側諸国は、シリアも、アサド政権の独裁体制を倒し
 たかったのだろうが、難民を生む結果となって、泥沼が
 続いている。
  最初、西側は、アサド政権を倒したいとイスラム国と
 称したISを応援し・・武器を渡した。
  次に、クルド族を応援した。
  アメリカとEUは、このクルド族へ武器を渡してIS
 と交戦させた。
  アサド大統領は、最初から、「我々の敵は、テロリス
 トだ」と言っていたが、アメリカやEUは、聞く耳を持
 っていなかった。
  そして、結局、今・現在(2018年)の泥沼の悲惨な結
 果となっている。
  ロシアは、アサド政権を応援し、大国の代理戦争の様
 相になった。
  ロシアは、IS及びアサド反対派への空爆をしている。
  この難民もEUへ行く。
  アメリカは、何千機ものミサイルをアサド反対派の応
 援のために渡した。
  このミサイルによる難民もEUへ行く。
  EUのドイツは、第二次世界大戦の罪滅ぼしだと、難
 民を受け入れている。
  「非生産的なサイクルだけ」が回っている。
  「みんなが不幸になるサイクルだけ」が回っている。
  アメリカ・ロシアの代理戦争で難民にされた人々が、
 EUに流れ込む。
  そのどばっちりをトルコやEU周辺国などが受けてい
 る。
  トルコの難民は、何と、200万人を越えている。
  かつて、ユダヤの方々が世界中をさ迷ったが、このト
 ルコの難民の方々が世界へさ迷わないで済むようにしな
 ければならない。
  そして、元の国へ帰れるようにしなければならない。
  トルコは、トルコのお金でこの難民を救済している。
  アメリカやロシアは、このトルコを支援していない。
  また、トルコは、EUに支援を要請したが、EUは知
 らん顔をしている。
  何度も無視されている。
  難民の方々は、アメリカ・ロシアを目指せ、問題を作
 った国を目ざせ。
  トルコを反民主主義だと批判するのは間違いだ。
.
2015年9月10日、「ディー・ツァイト」紙に、スラヴォイ・
 ジジェクという哲学者の論文が掲載された。
  (参考)「ディー・ツァイト」紙:ドイツ・ハンブル
     クに本拠を置く、週刊発行される全国新聞。
      質の高い新聞としての評価されている。
      発行部数:488,036、推定読者数:200万人以
     上。
      最も広く読まれるドイツの新聞の一つ。
  (参考)スラヴォイ・ジジェク:スロベニアの哲学者。
      難解で知られるラカン派精神分析学を映画や
     オペラや社会問題に適用してみせ、一躍、現代
     思想界の寵児となった。
  スラヴォイ・ジジェク氏は、この論文の中で・・
  「現在、EUを危機に陥(おとしい)れている難民問
 題は、グローバリズムが原因で、それは新たな奴隷制度
 を形成して行くだろう」と結論付けた。
  そして、そのEUの理念は、「美しく『統合』という
 所に立っている」が・・、
  しかし、それは、美しくEU内だけが統合されている
 だけであって・・
  その美しいEUの統合の外側には、「EUが、自由に
 搾取できる広大な地域・世界が広がっている」という状
 況の中に「美しく統合を目指すEU」がある。
  EUの外側世界が搾取される1例を示せば・・
  2001年、国連が、中部アフリカのコンゴにおける資源
 の不法な搾取について調査した。
  コンゴには、豊かな地下資源がある・・
  それは、ダイヤモンド、金、コバルト、コルタンだっ
 た。
  この豊かな資源を巡って、奪い合いの戦争が起きた。
  コンゴ内戦などである。
  (参考)コンゴ内戦には、コンゴ動乱(1960年~1965
     年)、第一次コンゴ戦争(1996年~1997年)、
     第二次コンゴ戦争(1998年~2003年)がある。
      結局、1960年~2003年、戦争状態が続いた。
      この地には、この他にも、コンゴ共和国内戦
     として(1993年~1994年)(1997年~1999年)
     がある。
  その奪い合いの戦争に・・欲深いグローバル資本があ
 った。
  コンゴは、壊されていた。
  もはや、国家と言えるものは無かった。
  資源を搾取する側のEU諸国をはじめとする外国資本
 が、うごめいていた。
  その外国資本が、コンゴの各部族と結び付いて、利権
 を奪いあい・・追い求めていた。 
  EU諸国をはじめ、その外国資本は、コンゴという国
 家を無視し、コンゴの各部族の首領と結び付いて利得を
 追求していた。
  軍隊を作らせ、麻薬中毒にした少年兵にまで戦わせて
 いた。
  巨額の利益が、EU諸国をはじめとする外国資本へ入
 った。
  その利益が、コンゴの人々へ入ることは無かった。
  コンゴの人々は、鉱山で奴隷のごとくの労働をさせら
 れた。
  または、コンゴの人々は、住民の方々は、「難民とな
 って逃げた」・・逃げ惑った。
  西側が奪った、西側に入った資源は、パソコンやスマ
 ホなどのハイテク機器に使われた。
  1514年から1566年の長きにわたって、EUのスペイン
 のキリスト教徒とキリスト教聖職者たちは、南米・中米・
 北米メキシコ、および、その離島で、インディアスの方々
 の1000万人以上を殺しに殺したが・・このEU諸国など
 の1960年代の蛮行は、そのかつての16世紀の極悪蛮行を、
 再び、現代に行ったごとくだった。
.
2015年10月10日、ドイツのベルリンで、TTIP反対デモ
 が行われた。
  代々のアメリカの政権は、その政治は、一握りの者た
 ちに握られ、繰られている。
  本来ならば、大衆の意思が反映されるべき政治の権利
 が、その大衆が持つべきものが・・奪われている。
  大きな資金を寄せた者・・その寄付した者の力が牛耳
 っている。
  金によって有利に・・金を寄せた力が利する政治へと
 繰られている。
  政治を行なうものは、当然、金を必要としているため、
 金を持つ力に繰られてしまうという状態になっている。
  「その意に沿うという政治」が行われる。
  そこにはアメリカの人々・民衆は登場していない。
  これが、ここアメリカだけの問題に終わらない所に大
 きな問題がある・・世界に波及して行くのである。
  民主主義のアメリカ・・アメリカは戦争をしてまで・・
  「民主主義を根付かせるのだ」という大義を立てて戦
 争までするアメリカが・・その民主主義をないがしろに
 しているという状況になっている。
  この様に、民主主義を売り込むアメリカで、民主主義
 が崩壊している。
  この金を持つ力は、世界で莫大に稼いでいる。
  その稼ぐ力の「稼ぐ行為」に抵抗し、逆らう状況を生
 むのが、世界の各国の法律である。
  その1例を言うならば・・農業・・
  農業の遺伝子組み換え作物の数々の事例がその1例・・、
  例えば、EUでは、ほとんどと言ってよいほど「遺伝
 子組み換え作物は禁止」されている。
  しかし、EUの基準は、アメリカ基準より厳しいので、
 アメリカの輸出サイドは困るのである。
  アメリカは、トウモロコシ、大豆、サトウキビなど、
 そのほとんどが、90%が、遺伝子組み換え作物である。
  だから、ここで、アメリカは、このEUの基準を変え
 させようとする。
  色々と・・言いがかりをつけて・・
  EUで遺伝子組み換え作物で儲けたいからである。
  その他、アメリカは、ホルモン剤で成長を速めた牛を
 売りたがっている。
  また、塩素消毒した鶏肉なども、アメリカは、甘い基
 準でOKとなっている。
  このアメリカの甘い規準に、他国に合わさせようとし
 ている。
  今、EUで問題となっているのが、TTIP(環大西
 洋貿易投資パートナーシップ協定)である。
  アメリカの基準の押し付けで、「どこが、パートナー
 だ」と叫びたい状況にある。
  ここで、アメリカ規準が押し付けられている。
  こんなメカニズムで、アメリカの政治を牛耳った「金
 を持った力」が、他国の基準を変えてまでして、輸出し
 て、儲けようとしている。
  民主主義の欠片(かけら)もない。
  一部の特権セクションの言う事を聞くアメリカ政治で、
 圧力を行使するという一部の君主制の如くの政治的圧力
 行動がなされている。
  2015年10月10日に、ベルリンでTTIPの反対デモが
 行われた。
  このデモは空前の規模となった。
  主催者は、25万人と発表した。
  EUの人々の96%が、このTTIPに反対していた。
  人々は、『消費者の安全がないがしろにされている』
 と主張した。
  このアメリカの甘さが、EUの甘さとなり、「消費者
 の安全基準」の劣化・低下が恐れられている。
  そして、この様なアメリカのやり方を、「民主主義の
 崩壊のシステムだ」と糾弾し、主張している。
  民主主義の本家のアメリカが、自分が、「民主主義を
 壊す最右翼に居ること」に気づいていない。
  お粗末の限りである。
  そして、このTTIPにある『ISD条項(投資家対
 国家間の紛争解決条項)』が曲者(くせもの)である。
  つまり、ある企業が、外国で、現地の企業に比べて不
 当に扱われたと感じたとき、その国の政府を、訴える権
 利があるとしている。
  「感じる」という主観的な、曖昧な、怖さもある。
  その様な曖昧な感じから、「調停裁判所」に訴えられ
 たら、そこでの審議は秘密の非公開で行われ・・
  (直接、利害関係のある人々・大衆が知らない所で審
 議される)。
  そして、その決定が最終決定で、上告もできない。
  そして、この決定(判決)には拘束力があり、従わさ
 れるという状況となる。
  その国にある、各国の法律は無視され、その「各国の
 法律よりも強い決定だ」とされている。
  アメリカという「裁判マニア」の国の御都合に沿って
 いるようになっている。
  『暗黒の決定に従う』、それも、何やら分からぬ仲裁
 裁判所という私的な組織の決定に従わされるという・・
 民主主義のひとかけらもない。
  アメリカ政権に、大金を献金するだろう「ある民間営
 利企業の利益」のために、締結国の法律が無効にされる
 という落とし穴を持っている。
  各国には、今まで、修正したり、改正したりして来た
 洗練された法律がある・・その様な法律を、種々、持っ
 ている。
  その総ての法律が「ないがしろにされ」、その法律よ
 り強い決定だというやり方に、何ら民主主義のやり方で
 ないものが、大手を振って歩き出そうとしている。
  人々の税金などの資金が、その様なやり方で奪われ、
 吸い取られ、吸収されそうになっている。
.
2015年11月12日、難民を受け入れていたスウェーデンが、
 入国検査をするという決定をした。
  これは、事実上の『難民の受け入れ拒否』を意味した。
  これをさかのぼること5年の2010年、「アラブの春」と
 呼ばれる民主化運動が、アメリカやヨーロッパ諸国の西
 側諸国に煽(あお)られて、2010年より始まっていて、
 そして、既存の政権が次々と倒された。
  その結果、よりよい政権が生まれたかと言えば、まっ
 たく違っていた。
  庶民の方々は、その混乱の中に投げ出された。
  西側諸国の横暴で「不幸の中に落とされた」という結
 果となった。
  西側諸国は、民主主義を根付かせるのだとした。
  その結果は、成功したかと言えば、成功した例は「ま
 ったく、無かった」。
  ただ、荒れすさぶ国々ができただけだった。
  そして、その荒れすさぶアフリカ諸国から、地中海を
 渡って、難民の方々が、ヨーロッパへ渡るという事態が
 起きた。
  2015年11月11日、EUとアフリカ諸国の首脳が、総勢
 60人が、マルタ島に集まって、サミットが開かれた。
  議題は、アフリカ情勢を安定させて、難民発生を抑え
 る事だった。
  しかし、EUがすることが出来たことは、アフリカ諸
 国への経済援助しかなかった。
  EUの難民を救済するという理念は悲鳴を上げていた。
  そして、この翌日・2015年11月12日、難民を受け入れ
 ていたスウェーデンが、難民の入国検査をするという決
 定をした。
  これは、事実上、難民の受け入れ停止を意味した・・
 難民受け入れ拒否を意味した。
  スウェーデンは、方向転換した。
.
2015年11月、EU・・「難民問題でゆれて」見えたもの・・
  EU・・「統合だ」「グローバリズムだ」・・と美し
 い理念で始まったEU・・、
  そのEUに、「難民」の話が起きて、ある意味EUの
 実態が見えた、
  難民問題は、ある意味、「リトマス試験紙」だった。
  EUの中から「キリスト教徒なら受け入れる」という
 声が出た・・
  「家族を呼び寄せるのは駄目だ」の声・・
  「EU国境線でしっかり入国審査をする」・・
  「地方自治体の首長の難民拒否の意思表示・・我が町
 で増えてもらいたくない」
  「EU議会内でのドイツ批判・・ドイツの行為はスタ
 ンドプレーだ」
  「ドイツに付き合っていられない」
  「ドイツが難民を呼び込んでいる・・迷惑だ」
  「ドイツが、今さら、連帯なんて言わないでくれ」
  「ドイツは、二つの顔を使い分けている」
  「喜んで難民を受け入れるEU内の国は皆無だ・・難
 民の押し付け合いの戦いの状態」
  「EU国境の防衛だ」との政治家や民の声がする。
  ドイツ国民も、二つに分かれて、シッチャカ、メッチ
 ャカになった。
  難民の受け入れに積極的なメルケル首相の支持率も急
 落した。
  ここまでで・・見えて来た事は・・
  「難民は迷惑」
  「難民はEUに入れない」
  「EU国境で審査する仕組みを作る」
  「世界を感動させた『ワンダフルEU』は、急速に過
 去の話になった」
  「美しい理想で始まったEUは、難民処理で可視化さ
 れ、当初の目標であった統合は、そっちのけで各国が、
 それぞれ自国の利益を死守しようとする姿が・・はっき
 り見えた」
  「人道主義や善意は、背に腹は代えられないになった」。
  難民の方々が、逆に、可哀想な状態に置かされるとい
 うEUの形となった。
  EUなんて営利団体・・結局、自分たちがその特典を
 維持し、あるいは強化する目的の団体と化した・・
.
2015年11月21日、ベルギーは、最大のテロ警戒態勢を引い
 た。
  民主主義。
  アメリカやヨーロッパが、民主主義の教えを垂れよう
 と、その国に関わる(余計なおせっかいを始める)。
  民主主義は良い主義なのだから、我々の行動は正しい
 のだの論理でやる。
  この関わりから事が広がって、その国の利益を収奪す
 る様になる。
  特に、アフリカ・・、
  様々な西側資本が、最後には、アフリカの搾取に余念
 がなくなる。
  巧妙なる収奪行為を行う。
  結局、やっていることは、最後に悪となる。
  草刈り場は、アラブからアフリカへ移った。
  新しい草を刈り取りたいと、年がら年中、こんなこと
 をしている。
  アメリカ・ヨーロッパの街がきれいなのも、この様な
 収奪の結果なのだ。
  そして、難民が生まれる。
  哲学者のスラボイ・ジジェク氏は言う・・、
  「難民が出ないようにしたいのならば、やるべきこと
 は簡単だ。
  それは、それらの国々で儲けている西側資本が手を引
 けばよい」・・と・・、
  そして、さらに、「資源の利益が(西側諸国が収奪し
 ないで)現地に還元される様になればさらに良い」と。
  アラブやアフリカの国家の崩壊は、その諸国が悪いの
 ではなく、欲の深い西側諸国が利益を収奪している結果、
 起きていることなのだ。
  この様な国ばかりになっている。
  強国が、弱い者いじめをしているのだ。
  この荒れた国々からテロリストも発生し、悲惨な事件
 も起きるのだ。
  その様な一つが、2015年11月21日、ベルギー政府は、
 ブリュッセル首都圏に、深刻なテロが発生する可能性が
 あるとして、警戒を最高レベルに引き上げた。
  地下鉄は止まり、店は閉まり、町はシーンと静まり返
 った。
  その街を重装備をした警察官と兵士がパトロールする。
  ベルギーは、コンゴからうまい汁を吸った。
  かつての宗主国だった。
  その様に好きにして来た国々から難民が生まれている。
  難民が出ないようにしたいなら、今までやってきた欲
 深い行為を止め、それらの国々で儲けている西側資本(
 グローバリズムを良い事に儲けまくっているグローバル
 企業)が手を引けばよいだけの話。
  そして、資源の利益は、横取りしないで、現地へ還元
 されるようにしなければならない。
  アラブの国家は、そして、アフリカの国家の崩壊は、
 現地だけの問題ではない。
  西側資本が、利益を収奪することが問題なのだ。
  西側強国が、経済的植民地にしている結果なのだ。
  ヨーロッパ列強が、利益を得つづけたアラブ諸国から、
 また、西側資本が、様々な収奪・搾取を余念なくやって
 きたアフリカから、今、難民がなだれ込んでいる。
  この様な状況となった責任は、なだれ込まれているヨ
 ーロッパ列強諸国にある。
.
2016年2月15日、「アラブの春(2011年)」から5年が経ち、
 アラブ世界の状況はかつてないほど悪いが・・と、一方
 の陰の仕掛人のイギリスのエコノミスト誌が、この日に
 言った・・
  「アラブの春」は、ほとんどの当事国にハッピーエン
 ドをもたらさず、リビアとイエメンは内部崩壊、エジプ
 トとバーレーンは以前より強硬な独裁制となり、シリア
 は奈落の底に・・、
  また、他のアラブ諸国も状況は悪く・・イラクは事実
 上、クルド、シーア派、IS支配地域に分裂した。
  アルジェリアとスーダンは、略奪的な軍事政権に支配
 され、パレスチナは孤立と弱体化を深めている。
  富裕な湾岸諸国でさえ、石油価格の急落や増える若年
 層の高い失業率等、体制が揺さぶられるような深刻な事
 態に直面している・・と・・報じた・・
  「民主主義は良い制度だ」と西側諸国が仕掛けた・・
 だからと言って「よくない方法で根付かせよう」とした・・
 ここが悪かった・・ここから難民が発生した。
  ドイツは、第二次世界大戦で卑劣な事をした、だから
 と、罪滅ぼし的に難民受け入れの基本法を持った。
  しかし、その法は、何ら、「悲惨な難民発生を未然に
 防ぐこと」に寄与していない。
  この点に関して、「無力な対応なのだ」。
  例えば、シリアの内戦は、イラクやリビアと同じく、
 「作られた戦争」で、これに対し、まったく関係ない、
 無力の存在。
  西側諸国は、「民主主義を根付かせるのだ」と、2010
 年から、「アラブの春だ」と煽った。
  そして、次々と既存の政権を壊した。
  しかし、前記した様に、不安定な争いの社会ができた
 だけだった。
  この2015年から2017年と、世界を心配させている難民
 問題も、「シリアのアサド政権を倒すのだ」と西側諸国
 が煽った。
  そして、ISへ武器援助をして戦争を作った。
  そして、卑劣な事に、クルド族へ武器を渡して、IS
 に対峙させた。
  アメリカやEUは、戦争づくりをしている。
  そして、収拾の付かない事態となっている。
  ただ、戦争とまったく関係ない人々が殺され、亡くな
 っている・・そして、難民の方々ができた。
  ロシアの大国も参戦して来て、アメリカとロシアの代
 理戦争の状況となった。
  この逆をされたらどう思うのか?
  この主義が良いのだと、勝手な主義の政権を良いと押
 し付けられたら、アメリカやEUはどう思うのか?
  トルコには、200万人の難民の方々が居る。
  こんなにまで大勢の難民数にならなければならないく
 らい問題はこじれている。
  そして、このトルコの難民は、EUには来てもらいた
 くない。
  EUに行きたい難民の方々が、トルコに留まっている。
  トルコは、その難民にかかる費用を援助してくれ、増
 額してくれと、何度もEUに言っているが、EUは、ま
 ったくの知らん顔となっている。
  逆に、苦しんでいるこのトルコを、ドイツは、「反民
 主主義だ」などと非難した。
  ドイツも厳しい状況に置かれているんだろうが・・
  2019年のドイツの生活保護を受ける人の数は、100万人
 増えると推計されている。
  難民の方の一人当たりかかる費用は、医療費を含めて、
 1ヶ月およそ1000ユーロ。
  1ユーロが約130円だから、130円×1000×12ヶ月×1000
 万円は、1.7兆円が・・今までとは別に増える。
  お荷物のギリシャも面倒を見なければならないし・・?
  結局、ドイツの方々に、先々のドイツの崩壊が見えて
 来た・・、その心配が浮上して来た・・、
  ドイツ国内の難民の方々の宿舎に火がつけられる事件
 が起きるようになった。
  こんな事件が、相次ぐようになった。
  難民を受け入れる態度を表明する自治体の町長に、脅
 迫状が送られて来ることなども起きた。
  キリスト教に偏するNHKは、日本を貶(おとし)め
 る放送はするが、この様な放送はまったくしない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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by suba28 | 2018-05-26 03:53 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)595E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年5月)

題:(増補版)595E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1894年3月29日、日本鉄道本社汽車課直轄の工場を大宮に
  設け、12月10日、操業開始した。
  (1896年9月1日、汽車課から分離し、大宮工場となる)

1894年3月、村井兄弟商会が、両切り紙巻煙草「ヒーロー」
 を発売した。
  紙巻きたばこの起源は、1853年~1856年のクリミア戦
 争の戦地で、パイプを失った兵士が、火薬を包むための
 紙で、刻みタバコ葉を巻いて吸ったのが始まりと言われ
 ている。
  しかし、コロンブス以前に、アメリカ・インディアン
 は、乾燥させたタバコの葉を刻んで植物などで巻いて吸
 うことを行っていた。
  1700年には、ラテンアメリカからスペインに向けて紙
 巻たばこ用の紙が輸出されている。
  クリミア戦争以前にも、特に、スペインでは紙巻たば
 こが吸われていた。
  紙巻たばこが、主流となったのは、ヨーロッパや日本・
 中国では第一次大戦後で、アメリカでは第二次大戦後。
  また、一般大衆を欺いている行為が・・ライトたばこ
 など、低タールをうたう製品は「ごまかし」がある・・
 大衆を欺いている。
  欧州では、「ライト」「低タール」といった用語の使
 用を禁止しているくらいである・・
  これは、実際には、減少したニコチン摂取量を補うた
 めに喫煙するたばこの本数が増えたり、より深く吸い込
 むことに、はっきりつながっていて、肺腺がんリスクを
 増大させている。
  マイルドやライトでも、吸い方によって吸い込むニコ
 チン量が急増している。
  2009年、アメリカに、タバコに起因する死亡は、44万
 3,000人であり、アルコールは9万8,334人というデーター
 がある。
  また、たばこを吸う人のうち、約半数は、たばこに関
 連した病気で死亡しているとする調査報告があり、
  たばこを吸う人は、そうでない人に比べて寿命が約14
 年短くなるという指摘もある。

1894年3月、朝鮮国内で東学党の乱。

1894年4月2日、日英通商航海条約交渉が開始された。
  この日、ロンドンで、第1回、日英条約改正委員会が
 開かれた。
  調印は、1894年7月16日・・、
  治外法権が撤廃された。
  これは、イギリスが、ロシア帝国の南下に対して、力
 の増した日本に期待した結果だった。
  内容は、内地開放を代償として、領事裁判権を撤廃さ
 せ、関税自主権も部分的に回復させた。
  また、片務的であった最恵国待遇を相互的だとした。
  この条約の調印の時、イギリス外相のキンバーリー伯
 は、日本の青木駐英公使に対して・・、
  「日英間に対等条約が成立したことは、日本の国際的
 地位を向上させるうえで清国の何万の軍を撃破したこと
 よりも重大なことだろう」・・と、日清戦争が起きると
 いう状況を掴(つか)んだ上で語っている。
  また、独り立ちした日本を承認したという形となり・・
  以降、この年の1894年から翌年の1895年にかけて、同
 内容の条約を、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシア、
 オランダ、イタリアなど14カ国に調印させた。
  これによって、日本は、法権のうえで、欧米列国と対
 等の関係に入った。

1894年4月8日、ブルックナーの交響曲第5番が初演された。
  グラーツオペラ座(Grazer Oper)

1894年4月10日、愛媛の道後温泉に、道後温泉本館が完成
 した。  
  道後温泉本館は、愛媛県松山市の道後温泉の中心にあ
 る温泉共同浴場で・・別名:愛称が「坊っちゃん湯」。
  1890年、道後湯之町の初代町長として伊佐庭如矢(い
   さにわゆきや)が就任し・・、
    この頃、町の最大の懸案は、老朽化していた道後
   温泉の改築であった。
    伊佐庭は、町長就任に際して、自らは無給とし、
   その給料分を温泉の改築費用に充てることとした。
    総工費は13万5千円。
    当時の小学校教員の初任給が8円といわれた時代で、
   あまりに膨大な予算に町民は驚き、町の財政が傾き
   かねない無謀な投資だと非難が渦巻いた。
    反対運動は激しさを増し、伊佐庭が命の危険を感
   じるほどだったが、伊佐庭は決定を貫き通した。
    棟梁は、城大工の坂本又八郎を起用し、姿を現し
   た木造三層楼は、当時でも大変珍しがられた。
    伊佐庭は、さらに道後への鉄道の引き込みも企図
   し、道後鉄道株式会社を設立した。
    一番町~道後、道後~三津口間に軽便鉄道を走ら
   せ、客を温泉へ運んだ。
    関西からの航路が開かれるなど、道後温泉が発展
   して行った。
  1895年、本館完成の翌年のこの年、文豪・夏目漱石が、
   松山中学の英語教師として赴任した。
    漱石は、その建築に感嘆し、手紙や、後の小説『
   坊つちやん』の中で「温泉だけは立派なものだ」と
   絶賛し、実際に、頻繁に通った。
    手紙では、8銭の入浴料で、「湯に入れば頭まで石
   鹸で洗って」もらえ、3階に上れば「茶を飲み、菓子
   を食う」ことができた・・と・・
    小説では「住田」の温泉として登場する。
    これにあやかって、「坊っちゃん湯」という。
  1994年、国の重要文化財(文化施設)に指定された。
  2009年3月、ミシュランガイド(観光地)日本編におい
   て2つ星に選定された。
  2007年3月、美しい日本の歴史的風土100選に、松山城
   と共に選定された。
  2009年、経済産業省「近代化産業遺産」に認定された。

1894年4月13日、移民保護規則が公布された。
  日本人の海外渡航は、明治維新(1868年)とともに始
 まった。
  今までにない変わりゆく改革の中で、急速な近代化と
 社会変化が起きた。
  農業形態も、経済構造が変わっていくなかの改革で、
 農村部に余剰労働力が生まれた。
  国内や海外へ移動する出稼ぎ労働者が現われた。
  1868年、横浜在住のアメリカ商人ユージン・バンリー
 ドは、150人の日本人労働者をハワイの砂糖プランテーシ
 ョンへ送った。
  また、40人をグアムへ送った。
  この労働者は、「元年者」として知られている。
  日本政府の許可や旅券を受けることなく日本を出国し
 た。
  近代日本の最初の海外移民だった。
  しかし、この「元年者」は、渡航地で奴隷にも等しい
 酷(ひど)い取扱を受けた。
  明治政府が、救出に乗り出さなければならないほどだ
 った。
  国民を大切にする日本政府は、この「元年者」の失敗
 で、この後、20年間近く、日本人の海外移住を許さなか
 った。
  かわりに、北海道開拓を推進した。
  そして、17年後の1885年、ハワイ「官約移民」で再開
 された。
  これは、ハワイ王国の依頼でもあった。
  アメリカによるハワイ乗っ取りへの対応・・アメリカ
 の行動を抑えたいというハワイ王国の日本に頼った面も
 あった。
  日本人の本格的な海外移住が始まった。
  「官約移民」制度は、日本と独立国であるハワイ王国
 の条約に則った正式な正規な行動であった。
  日本人労働者を3年契約で砂糖プランテーションへ送
 るというものだった。
  1894年までの9年間に、総計2万9千人ほどの日本人が、
 この制度によってハワイへ渡航した。
  また、この時、数千人の日本人が、太平洋上の木曜島
 (イギリス領)、ニューカレドニア、オーストラリア、
 フィージーなどへ渡った。
  この頃の渡航者のほとんどが、海外への永住をめざし
 た移民ではなく、数年間の契約労働を目的にしていた出
 稼ぎだった。
  そして、1893年、外務省関係者、知識人、ジャーナリ
 ストなどが集まり「殖民協会」を設立された。
  これは、日本も、西洋諸国の様に、国外市場を拡大し、
 海外へ向けて発展しなければならないとしていた。
  この殖民計画事業は、イギリスのオーストラリア移住
 (侵略)などのようには行かず・・失敗した。
  1899年、南アメリカのペルーへ、最初の契約労働者の
 渡航が始まった。
  そして、ラテンアメリカへの日本人渡航は盛んになっ
 て行った。

1894年4月14日、アメリカのニューヨークで、キネトスコー
 プが公開された。  
  キネトスコープは、1891年、トーマス・エジソンによ
 って発明された(1888年説あり)
  撮影機の方は、キネトグラフといい、キネトスコープ
 より先に、エジソンが発明した。
  1893年、シカゴ万国博覧会に出展された。
  1894年4月14日に、ニューヨークのブロードウェイ1155
   番地に、世界初の映画館(キネトスコープ・パーラ
   ー)が設置された。
    キネトスコープは世界的に大ヒットし、その後、
   2年でアメリカのほとんどの街にキネトスコープ・パ
   ーラーが設置された。
    これは、スクリーンに映写されるのではなく、箱
   の中をのぞき込む形だった。
    当時、「ピープショー」とも呼ばれ、ピープ(peep)
   とは、のぞくという意味。
  1895年、一度に多くの人が鑑賞できるスクリーンに投
   影される形の映画(シネマ)が、リュミエール兄弟
   によって発明された(シネマトグラフ)
  1896年11月25日~1896年12月1日、日本で、エジソンが
   発明したキネトスコープが、神戸の神港倶楽部で初
   上映された。
  1897年、リュミエールが発明したスクリーン式の「シ
   ネマトグラフ」が、大阪の南地演舞場や京都で披露
   された。

1894年4月16日、東海道線が、西ノ宮駅~三ノ宮駅間で複線
 開通した。

1894年4月、甲午(こうご)農民戦争
  朝鮮の全羅道(チュルラド)一帯の農民が、東学教徒
 とともに蜂起した。
  これをきっかけに、各地で農民蜂起があいつぎ、東学・
 農民軍は、随所で政府軍を撃破した。
  全羅道と、その周辺の官庁をつぎつぎと占領し、5月末
 には、全洲(チョンジュ)を制圧した。
  朝鮮李朝政府は、清に軍の派遣を要請する一方で、東
 学農民軍の指導者である全琫準(ジョン・ボンジュン)
 と交渉し、両者は和解した・・が・・

1894年4月、北越鉄道株式会社創立願を逓信大臣に提出した。
  (7月26日仮免状下付)

1894年5月1日、中国鉄道発起人が、岡山駅から津山駅・勝
 山駅・米子駅を経て、境駅に達する鉄道建設を出願した。
  (1894年7月14日、線路を岡山駅~米子駅間に改める)
  (1896年4月30日、免許状下付、のち免許線路の短縮を
  申請し、津山駅以北取消した)

1894年5月4日、朝鮮で、農民軍が白山に集結して、甲午農
 民戦争が再び開始された。

1894年5月7日、文官高等試験細則を制定した(閣令第2号)

1894年5月12日、第6特別議会が召集された(開会、15日)

1894年5月14日、イギリスでブラックプールタワーが公開さ
 れた。
  ブラックプールタワーは、ブラックプールにある塔で、
 エッフェル塔に触発されて建設され、この日に開業した。
  高さ:158メートル
  エッフェル塔:324メートル
  東京タワー:332.6メートル

1894年5月15日、第六特別議会が開会された。
  第六特別議会は、1894年5月15日開会~1894年6月2日解
 散で短い議会だった。
  景気は良くなったが、対外硬で激しく対立した。
・伊藤内閣第六議会解散(氷川清話)
  (参考)対外硬:たいがいこう、
      日清戦争直前、反政府派が、国際協調政策を
     とる政府の外交を攻撃するために唱えた標語。
      ロシアの東アジア進出により緊迫した国際情
     勢であった。
      これに対し、新聞「日本」をはじめとする民
     友社の「国民新聞」に至るまで反政府側の日本
     主義派・・、
      そして、自由党、改進党などの民党連合は、
     政府外交を批判し、また、政費節減・民力休養
     路線と批判した。
      それは不平等条約によって侵されている国家
     主権の回復と、積極的な対外進出を主張してい
     た。
      また、それは、対等条約を実現するためには
     現行条約を励行して、条約の規定のない所で外
     国人を厳しく取り締まり、彼らに不利益を与え、
      対等条約の交渉に列強が応じない場合は、条
     約破棄もせよというものだった。
  この第六回帝国議会で、貴族院議員の近衛篤麿・小沢
 武雄は、議員の二条基弘ほか50人の賛成を得て、「北海
 道ニ鉄道ヲ敷設シ及港湾ヲ修築スルノ建議案」を提出し
 た(建設線路は、函館・小樽間、空知太、網走間、旭川・
 宗谷間)
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  (今日の言葉)
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  題:イタリアは敗戦国だ・・しかし、アメリカ・イギリスは戦勝国側にした。
    日本やドイツは、今だに、国連憲章の敵国条項に落としめられている。
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紀元前160万年、人類の先祖が、この頃、草原の生活で洗練
 された歩き方を始めた。
 160万年前のホモエレクトスだった・・、
 画期的な進化が現れたのだった・・、
 垂直に立つことによって脳は進化し、重く、大きく・・
 言葉の話せる脳への進化だった・・情報伝達力の向上で
 あった。
 アファール猿人の場合は、喉の奥が広くなく、まだ、
 音の種類は狭かった・・が・・、
 まっすぐ立つことによって、喉の奥に空間が出来て・・、
 複雑な音が出せるようになった。
 この脳は、足や手が発達した後に与えられたものだっ
 た・・
 木から降りて、猿と違って、二本の足で立って歩く生
 活になって・・貴方の祖先も・・ここから・・アダムと
 イブもここから・・
  キリスト教のアダムとイブの話の前に、これが無いと
 始まりません・・そうでなければいけません・・その様
 な進化があったのでした・・『進化する力を持つ人間』
 が存在していた・・
  思考を固定化しては、発展はありません・・
  キリスト教は、この最初から間違っていました・・
       ・
       ・
紀元前2万年、フランスの遺跡で、人間が集団で、馬を崖下
 に落とし、狩りをしていた状況が発見された。
 集団で複雑な役割分担をし、言葉で情報をやり取りし
 ・・人間は、さらに、あらゆる面で進化して行きました。
  脳が大きくなった人間・・さらに、この様な複雑な方
 法も手に入れた・・そして、コンピューターにたどり着
 く・・
       ・
       ・
紀元前206年、中国の漢の王朝に、前漢と後漢がある。
  この年、秦が討たれ・・前漢への時代が始まる。
  やっと、漢民族が、歴史に登場・・現れました・・
  中国初の統一王朝だった秦王朝の華夏族・・この秦王
 朝が、この年・紀元前206年、滅亡した。
  (参考)華夏族:かかぞく、漢の時代以前に、中原の
     黄河流域に暮らしていた部族。
  この後、中国は、この秦朝・華夏族を討った漢民族の
 各軍の将帥による群雄割拠の時代となる・・
  漢中、及び、巴蜀(はしょく、現在の四川省)に封じ
 られていた劉邦(りゅうほう、前漢を興した人)が・・、
  紀元前202年に、垓下の戦いで、項羽を討って、中国を
 再統一した。
  (参考)垓下の戦い:がいかのたたかい、中国、漢の
     劉邦が、その勝利を確定的にした戦いで・・
      垓下(現在の安徽省宿州市など)を中心に行
     われた。
      しかし、この戦いが、実際あったのかどうか
     に対して、歴史家から疑問が出されている。
  この劉邦が開いた前漢と、いったん滅亡したのち劉秀
 によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年と
 なる。
  今・現在、この漢民族が、チベット・ウィグル・内モ
 ンゴルを完全に漢民族国家にしようと暗躍している。
  また、南シナ海や尖閣諸島、および、沖縄などのその
 他の諸地域をも欲しいと狙っている。
  そして、この中国が使う手が冊封体制(さくほうたい
 せい)・・
  現在、この冊封体制下の国に北朝鮮・韓国が入ってい
 る。
  (参考)冊封体制:さくほうたいせい、中国の皇帝が、
     朝貢をして来た周辺諸国の君主へ、官号・爵位
     などを与えて、君臣関係を結んで、彼らにその
     統治を認める(冊封)・・、
      豊臣秀吉が、必死に、徳川家康を大阪城に来
     させようとしたことと同じ・・
      そして、この冊封は、宗主国対藩属国という
     従属的関係におくことをさす。
      朝貢とは、藩属国の使節が、漢皇帝に朝見し
     て土産の産物を献上することをいう。
      これに対し、皇帝は、回賜として、貢物以上
     の返礼物を与えて皇帝の威徳を示した。
      その状況から、朝貢は、君臣関係を表す政治
     的儀礼であった。
      歴史的に、この漢代における外臣の制度がそ
     の始まりと言われている。
      例えば、朝鮮半島北方に成立した渤海(ぼっか
     い)などは、中国・唐と冊封関係を結んだので、
     東アジアの国際情勢は、唐を中心とした冊封体
     制のなかに組み込まれた状態だったが・・、
      日本は、この時、この体制の外にあって・・
     中国とは対等の隣国関係を保持したなどの経緯
     が歴史上にある。
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2世紀頃、日本で、一番古い『漢字』の記載事例・・
  日本で、これまで知られている漢字で、最も古いもの
 は、2世紀ごろの土器に書かれたもの・・、
  そして、中国の歴史書に、3世紀のころ、日本と中国
 との間で、手紙のやり取りがあったとする記述がある。
  優秀な日本人は、これを発展させて・・、平安時代に、
 中国にない表音文字の平仮名(ひらがな)や片仮名を発
 明した。
  9世紀前半に入ると、漢字と片仮名が混じった文章例が
 みられ・・さらに発展させた表記法を行なった・・
  表意文字と表音文字の混合させた・・世界にはこの様
 な事例なく、日本唯一の優秀な表記法。
  また、10世紀から、平仮名は、漢字と並ぶ文字として
 認められ、ひらがなで書かれた豊かな文学が花開いた・・
  豊かな芸術が花開き・・世界に誇る最初の長編小説や
 日記文学が書かれ、他国の追随を許さない『孤高の光』
 の輝きがあった・・それを、優秀な日本の女性方が成し
 遂げた・・
  この様な素晴らしさを理解の出来ない、戦後の進駐軍
 のアメリカ司令部のマッカーサーは、日本人を馬鹿にし
 て、こんなに多くの漢字を覚えている訳はないと、日本
 人の識字率テストをしたりした、そして、日本を英語化
 しようとした・・
  日本は、中国から漢字を伝えられたが、日本は、更な
 る、豊かな表現手段として平仮名・片仮名を発明し、表
 音文字・表意文字を駆使して美しく豊かな日本文化を発
 展をさせて行った・・
  今・現在でも、ノーベル文学賞を貰うべき方々は、数
 え切れないほど居られるが・・キリスト教に偏するノー
 ベル委員会が授与しないだけ(キリスト教国に偏る)・・
       ・
       ・
980年、キエフ公国は、黒海の北方のウクライナ、ベラルー
 シ、ロシアの西部を領する地であるが・・、
  この国のウラジミール1世(在位980年~1015年)の意
 向によって、キリスト教東方正教会が広まった。
  ウラジミール1世は、ユダヤ教、イスラム教、キリスト
 教を見比べた上で、キリスト教東方正教会を選んだ。
  それは、まったく個人的な好みの「卑劣な選択」だっ
 た。
  彼は、4人までの妻が持てるイスラム教に惹(ひ)か
 れた。
  しかし、禁酒の戒律が嫌だった・・それが、イスラム
 教にあったため、東方正教会のキリスト教を選んだ・・
 酒が飲みたかった・・
  これによって、東方正教会がスラブ人の間に広まった。
  キエフ公国は、バザール・ハン国を滅ぼした後、モス
 クワ近くまで支配した。
  しかし、13世紀半ばに、この国は、モンゴル人によっ
 て滅ぼされた。
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1008年、日本の才女・紫式部が、源氏物語の執筆を始めた。
  古い時代から女性に優しかった日本・・男女平等をは
 じめ、平等の国・日本の才女・紫式部・・、
  この日本の女性が、世界で最初の長編文学を著わした。
  紫式部は、幼いころから聡明な女性だった。
  彼女の父も、式部省に勤める学者として名高かった。
  この父親が、彼女の弟に漢文を教えていると、そばで
 聞いていた紫式部の方が先に覚えてしまったという話が
 伝わっている。
  20歳代の頃・・紫式部は、国司として赴任する父親に
 従って越前(福井県)に赴(おもむ)いた。
  彼女は、藤原宣孝(のぶたか)から求婚されていた。
  しかし、この宣孝は遊び者であった。
  それで、紫式部は、返事を先延ばしにしていた。
  その様なところだったので、この事もあって、紫式部
 は、京を離れたのだった。
  越前では、父の秘書として、才能を発揮し、その役割
 を果たした・・そして、広い知識も収めた。
  結局、紫式部は、藤原宣孝と京で結ばれたが、夫に先
 立たれた。
  その後、一条天皇の后(きさき)の彰子(しょうし、
 藤原道長の娘)に仕えた。
  才女の集まる宮廷は、優雅で、知的な社交の場だった。
  優秀な才媛らと、その才能を競った。
  そのような環境から、世界に誇る優れた文学が生み出
 された。
  紫式部日記もこの環境を伝える文学となっている。
  宮仕えを終えた紫式部は、1008年頃から、不朽の名作
 「源氏物語」の執筆にとりかかった。
  全54巻にもおよぶ長編小説だった。
  現代に至っても、なお燦然と輝き続ける人類の宝とな
 っている。
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1297年、ベネチア共和国の第49代元首のピエトロ・グラデ
 ニーゴは、政治改革案を提案した。
  ベネチアの政治は、非常に民主的な政治を目指してい
 た。
  ベネチアの考え方は・・「この世の仕組みは、あくま
 でこの世の民が決める・・(キリスト教の神ではない・・
 また、その代理人であるキリスト教聖職者でもない)」・・
 とした。
  故に、ベネチアは、力を誇示するローマ法王の「支配
 を及ぼそうとする権力」と対峙した。
  ローマ法王(教皇)が嘆いたほどだった・・「教皇で
 ある自分は、ベネチアだけは違う(支配は出来ない)」・・
 と・・、
  べネツアは、キリスト教司祭でさえベネチアの民・住
 民が選び、ローマ法王の権力を排除した。
  ベネチアの政治体制は、ローマ帝国の長さと同じ500年
 間も続いた。
  ベネチアの為政者の選出も神経を使っていた。
  まず、複雑な手順で、その「選出のための有権者」が
 決められた。
  それから、その有権者らの投票で、元首(ドージェ)
 が選出された。
  そして、さらに、専制的にならないように、元首が、
 補佐官の数名と相談して事を為すというシステムになっ
 ていた。
  それでも・・同じ家から二代目、三代目と続かないよ
 うに・・、
  そして、いつの間にか「君主制に転じていた」なんて
 ならないように注意していた。
  今、世の中が進んでいる21世紀だというのに、独裁的
 な国家・・タミの声を聞かない「中国」や「北朝鮮」が
 存在し、その独裁者が、大量殺戮兵器の核ミサイルを世
 界へ向けている。
  このベネチアの元首・グラデニーゴが、1297年に、政
 治改革案を提案したのも、民主政が形骸化して、ダンド
 ロ家やティエポロ家、モロシーニ家といった名門から元
 首が選ばれることが多くなり、金銭が絡む不正や衆愚政
 治的な動きによって政治が左右されることが多くなった
 からだった。
  しかし、この時、グラデニーゴの提案が受け入れられ
 て、改革が行われたと思ったが・・しかし・・、
  中産階級が大幅な増員という形となって、発言力が増
 していた。
  確かに、上流階層の発言力は抑えられたが、また、以
 前から発言力のない下層民衆と共に、この発言を抑えら
 れた・・
  そのため、上流階層と下層民衆の双方から、グラデニ
 ーゴは攻められた。
  また、ローマ法王もベネチアの台頭を快(こころよ)
 く思っていなかったため・・奸計(かんけい、悪意ある
 はかりごと)を巡らせた・・
  ローマ法王は、反対派と共に、グラデニーゴの失脚を
 画策した・・
  よく歴史上で、政治に首を出すキリスト教法王だった。
  1310年6月15日に、クーデターが勃発した。
  だが、グラデニーゴの対応によって、このクーデター
 は失敗に終わった。
  そして、政治改革を行なうのであるが、グラデニーゴ
 は、何故か?、この翌年、急死する・・毒殺?・・
  反対派の毒殺説が存在する。
  ピエトロ・グラデニーゴ:1252年生まれで、1311年に
 59歳で没した・・、
  元首としての在任は、1289年(37歳)から1311年(59
 歳)の22年間だった。
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15世紀、この頃になると、スラブ人のモスクワ大公国の勢
 力が拡大し目立った。
  キリスト教東方正教会は、キリスト教の三大分流の一
 つだが・・、
  1054年、東ローマ帝国圏のコンスタンティノポリスと
 ローマの総主教座が、東西に分裂し・・、
  以後、西方のローマ‐カトリック教会に対して、正(
 オーソドックス、正統だの意味)教会として発展した。
  15世紀頃になると、ギリシャ正教会が、オスマン帝国
 の支配を受けるようになり・・主流が、ロシア正教会
 (ハリストス正教会)に移った。
  モスクワ大公国のイヴァン3世(在位1462年~1505年)
 は、ロシアをほぼ統一させ、ビザンツ帝国の最後の皇帝
 の姪を妻に迎えた・・、
  この後、ロシア人が、スラブ系の諸勢力の中心となっ
 て、キリスト教の東方正教会の主導権を握った。
  そして、20世紀になって、その多くが・・共産圏へ入
 った。
.
1637年、哲学者・デカルトの最初の著書「方法序説」が書
 かれた。
  この中で、デカルトは、キリスト教のイエズス会のラ・
 フレーシュ学院で学んでいたが・・キリスト教の数々の
 論理矛盾に対し・・そして、これを、伝統的に受け入れ
 ているだけの学問に対し・・批判した。
  当然、その結論は・・そこには、確実なものは「ほと
 んど見当たらない」と・・、
  最新の科学にも通じていて・・「このデカルトやパス
 カル」は、その合理主義を取った。
  そして、科学的思考も重んじた・・非科学的な論理矛
 盾だらけのキリスト教を嫌悪した。
  デカルト等は、「人間の理性は、非合理なものを断ち
 切る知恵を持つ」・・と説いた。
  そして、絶対王政の下で、「キリスト教会が定めた戒
 律」より・・「個々人の理性による判断」の方が確かだ
 ・・と・・
  そして、その思考法を重んじる近代哲学が広まって行
 った。
  近代哲学は、科学的根拠のないキリスト教の宗教行事
 も・・、
  イエスやマリヤの像を拝(おが)むなどの現世利益を
 求めるキリスト教の非合理なすべての事々を、当然、指
 摘した。
  「誰が救われ、誰が救われないかなど、あらかじめキ
 リスト教の神(主)によって決められている」という陳
 腐さなどを指摘した。
  同時に、キリスト教によって権威づけられた国王の統
 治に対する疑問へも気付かされる。
  また、権威づけられた国王・諸侯側も、キリスト教側
 へ種々の利便を与えた。
  デカルト派の近代哲学者は、「人間が理性を持って判
 断したことに『誤りはない』」と断言した。
  ここから、「より多くの人々が理性的判断を下す」と
 いう『民主主義の望ましさが認識されて行った』。
  民主主義の目覚め・・
  そして、「国王は、キリスト教の神(主)から授けら
 れたものであるから、国王は思いのままの政治を行なう
 ことが出来る」という『王権神授説』は、『否定されて
 行った』・・キリスト教の虚構は崩れて行った・・
.
1918年11月11日、第一次世界大戦が終結した。
  ヨーロッパ諸国やアメリカは、あれほど強烈に「植民
 地の収奪をしておきながら、その植民地諸国に対して、
 謝罪など一度もしていない」・・、
  朝鮮は、中国に冊封されていて、なんだかんだと中国・
 清朝の翼下に入りたがっていた。
  強いものに付くという状況だった。
  1894年3月29日に起きた甲午農民戦争の朝鮮国内の反乱
 が抑えきれないと見ると、「中国・清の出兵を要請し、
 助けを求める」というような李氏朝鮮の状況だった。
  日本が、力を付けて、中国・清と対等に行動できるよ
 うになると、朝鮮の態度も変わった。
  そして、日清戦争に日本が勝利すると、朝鮮は清から
 独立することが出来た。
  それとともに、日本の翼下に入って来た。
  日本と朝鮮・・日朝はこの様な関係にあった。
  誠実な日本は、朝鮮の国づくりを一生懸命に行なった。
  他国がしない様な投資を、日本は、一生懸命、朝鮮に
 した。
  しかし、時を経て、時代が変わると、朝鮮は、日本が
 『植民地支配をした』と言い出した。
  日本へ、その謝罪の要求さえもした。
  「もう二度と、この様な謝罪要求などしないから」と
 いう言葉に引っ掛かって、ならば・・と、友好のためと、
 日本が謝罪をすると・・、
  その後に、その様な経緯は捨て去って、その後、「日
 本が謝罪した」と世界に喧伝した。
  ヨーロッパ諸国やアメリカなどより、日本は、朝鮮の
 国造りに貢献しているという日本に対して・・、
  二度と謝罪要求しないという前言はどこ吹く風と、何
 度も謝罪を要求するという態度をとった。
  ヨーロッパ諸国やアメリカは、植民地に強引に自国の
 法律や習俗までも押し付け、植民地収奪をするという事
 までしていた。
  キリスト教の自国の宗教でさえ押し付けた。
  ヨーロッパ諸国やアメリカの強国の植民地へのあくな
 き要求・欲望は極まっていた。
  世界大戦まで引き起こした。
  (第一次世界大戦では、オスマントルコの領有した中
 近東の広大な地域を、イギリスやフランスの勢力下に入
 れた)
  日本の対応は、善意に満ちていた。
  その何よりものその証拠が、朝鮮の人口が3倍にもな
 った。
  衛生状態も、見違えるほど向上した。
  日本と同等、または、それ以上の教育の充実にも、日
 本は努力した。
  産業も起こし、鉄道も朝鮮じゅうにくまなく敷設した。
  ・・など、その例は、枚挙にいとまがない。
  朝鮮からの感謝の言葉もない。
  この貢献の事実は、朝鮮は、認識し、認めよ。
  日本の国民の資金・税金が投入されて、なされたこと
 なのだ。
  また、因みに、第一次世界大戦の勝利側は、イギリス
 帝国、フランス共和国などの連合国側で・・
  一方、敗戦国側の中央同盟国側には、ドイツ帝国、オ
 ーストリア=ハンガリー帝国のほか、オスマン帝国が居
 た。
  このオスマン帝国の中近東の広大な領土が、イギリス・
 フランスの勢力下に入り、この後、色々な問題を引き起
 こす。
.
1944年8月、国際連合憲章が、アメリカ合衆国、イギリス、
 ソビエト連邦、中華民国の代表がワシントンD.C.郊外の
 ダンバートン・オークスで会議を開き(ダンバートン・
 オークス会議)、憲章の原案となる「一般的国際機構設
 立に関する提案」を作成した(~1944年10月)
  そして、1945年6月26日、サンフランシスコ会議におい
 て、51ヶ国により署名された。
  そして、この国際連合憲章の第53条第1項後段(安保理
 の許可の例外規定)は、「第二次世界大戦中に連合国の
 敵国だった国」が、戦争により確定した事項を無効に、
 または排除した場合、国際連合加盟国や地域安全保障機
 構は安保理の許可がなくとも、当該国に対して『軍事的
 制裁を課すことが容認』され、この行為は『制止できな
 い』としている。
  また、敵国の侵略政策の再現に備える地域的取極がな
 されている場合も、安保理の許可がなくとも『敵国に対
 して軍事的制裁を課すことができる』としている・・
  そして、馬鹿らしくも、戦後、70年以上も経た今でも、
 『有効だ』とされている・・「時代遅れの国連憲章」と
 なっている。
.
1945年10月24日、国際連合が活動を開始した。
  国際連合憲章の発効に伴って、国際連合が発足した。
  本部は、アメリカのニューヨーク市のマンハッタンに
 ある。
  韓国は、日韓併合で、第二次世界大戦を、「れっきと
 日本と共に戦った」のに、中国の上海か?どこか?に居
 た日本と対決していた小さいわずかなグループを引き合
 いに出して、都合よく・・「そのグループの後を引き継
 いだ」という言い方を言い出した。
  『だから、韓国は戦勝国だ』という卑劣な言い方を言
 い出した。
  日本にも、日本の敗戦を最初から予測し、確信してい
 た人は多くいた。
  つまり、日本国政府の意思と一致しない人々は多く居
 た。
  日本には、だから・・「その人々の意思を引き継いだ」
 なんて言い出す事はしない・・
  『卑劣な節操のない屁理屈は言わない』が・・
  韓国のその言い方は、『馬鹿者』と言いたいくらいの
 その様な恥ずかしいもの・・。
  韓国兵士・・当時は、日韓併合の兵士(東京裁判で、
 有罪となった兵士の方も居るという状況)も、勇敢に、
 アメリカやイギリスの連合国軍と戦い、日本の将校とな
 って、東京裁判でその軍事行為が裁かれた。
  韓国は、日本と同じ枢軸国として裁かれている。
  また、汚いのは「イタリアだ」。
  ドイツと一緒になって、あれほど戦い、その枢軸国に
 後から日本も加わって、戦って・・、形成が悪くなると、
 イタリアは、クルッと向きを変え、勝っている方へ加担
 して、最高位の人間・ムッソリーニを捕らえて、殺して
 (私刑・リンチ)、戦勝国に化けてしまった。
  そして、アメリカも、イギリスも、その様に遇してい
 るから・・おかしい???
  ドイツの裁判や、日本の裁判の様な事はしていない。
  すべてを不問としている。
  おかしいではないか・・おかしい事が起きているでは
 ないか・・
  誤魔化しが起きている。
  例えば、何人も殺してきた犯人が、ある時、クルッと
 態度を変えて、行動が変わったら、「犯人ではなくなっ
 てしまった」・・という様なもの・・
  こんな話は通らない・・こんな理屈は通らない・・イ
 タリアだって同じ様に裁判を受けるべき敗戦国だ。
  例えば、信長が本能寺で、明智光秀に討ち取られ「明
 智光秀の三日天下」となった。
  その後の豊臣秀吉との戦いに敗れた。
  しかし、秀吉は、光秀の首を取り損なっている。
  光秀の天下は、実態としては、秀吉に、その体制は崩
 されたが・・、
  もしかしたら、光秀は、どこかで態勢を取り直すとい
 う過程にもあった。
  つまり、光秀が敗れて、逃避行の身にはなったが・・
 戦に敗れた時点で終わったとしてはいけない。
  一分の可能性を持って信長を破って手に入れた、光秀
 の天下は続いている。
  実態は、天下は、秀吉に流れて行くのだろうが?・・
 しかし、100パーセントでは無い。
  そして、可能性を求めて逃げ延びた光秀は、逃避行途
 中の山の中で、落人狩りの百姓に討ち取られてはいるが、
 一分の可能性があった光秀の可能性が・・ここで無くな
 ったのである。
  その残っていた僅(わず)かな光秀の可能性を「その
 百姓たち」が奪ったわけである。
  光秀は、可能性はほとんどない状態に居たが、その僅
 かな可能性を、百姓たちが奪い取ったのである。
  つまり、可能性のほとんどない、その可能性は、その
 落人狩りの百姓グループに移った、99.99999・・パーセ
 ントの可能性は秀吉だろうが。
  しかし、秀吉は、この百姓から当然、その残りの
 0.000・・1%を取り返さなかった。
  秀吉は、「100%の天下人では無い」と言えるか??
  これは、屁理屈である。
  こじつけ論理である。
  くだらない論理である。
  しかし、「この様なこじつけ論理」が、イタリアの場
 合にも言われているのである。
  くだらない事に・・アメリカ・イギリスが、このくだ
 らない論理を振り回して、「正義だ」「正しいのだ」と
 言っている。
  アメリカ・イギリスは、この様に・・勝手に自分だけ
 の論理を振り回してやって来た。
  問われるべき罪もないのに・・罪があるのだとして殺
 して来た。
  また、罪を問うべきを問わないで・・公正・公平に行
 なわないで来た。
  お好みで、すべてを処して来た。
  イタリアは、連合国状態になってしまった。
  そして、日本やドイツに対して・・国連の敵国条項が、
 今だに、現在もまだ、存在しているという・・
  これが、アメリカに都合が良いと、いまだに、その状
 態を取って、世界中に、そして、日本・ドイツに押し付
 けている。
.
2014年、ロシアは、クリミアを強引にロシアへ併合させてし
 まった。
  クリミア半島は、地理的にヨーロッパの南端と言えた。
  これは、キリスト教圏とイスラム圏との境界でもあっ
 た。
  この様な位置関係から、古い時代から様々な多様な信
 仰を持った民族が、クリミアに侵入してきた。
  東ローマ帝国の系統の東方正教会のキリスト教徒が、
 ロシアやウクライナへ侵入し、また、クリミア半島へも
 入ってきた。
  また、オスマントルコが、クリミア半島に、イスラム
 教を入れた。
  この様な両宗教の地となって来た。
  また、モンゴル系のクリミアタタールの人々もいる。
  クリミアには、ロシア正教、ウクライナ正教、イスラ
 ム教スンニー派の3者の方々の複雑な宗教的関係がある
 状態となっている。
  大国や強国が、武力で解決する問題ではない。
.
2015年9月、EUへ向かう難民の方々・・それも豊かなド
 イツへ
  幼い3歳の難民の子供が波に漂(ただよ)う悲惨な姿
 はEU諸国へショックを与えた。
  豊かなドイツへ向かう難民の方々・・、
  そのドイツ・・なんとも歯切れが悪く・・その悲惨な
 幼児の姿を見て、難民の受け入れを決めた・・が・・
  元々は、ドイツには、難民を救済するとする基本法が
 あった・・第二次世界大戦時の卑劣な行為の罪滅ぼしで
 あったが・・、
  この頃になると、ニコニコ顔で受け入れるという当初
 のドイツではいられない・・当初とはだいぶ違っていた。
  この3歳児の悲惨な姿の報道後、一時は、態度を変えた
 が・・しかし、ドイツは、『入国審査を再開する』と言
 い出した。
  即刻、ドイツは、アウトバーンで「検問を復活させた」。
  このアウトバーンの検問は、30年ぶりだった。
  この様な事までやり出すドイツだった。
  アウトバーンは大渋滞となった。
  ドイツへ来る列車も運休にされた。
  押し寄せる難民の方々に対し、ドイツは、この様な事
 をした。
  列車で到着した難民の方々は、最初の3日間で3万1000
 人に達した。
  だから、他のEU諸国も、同様な態度を取り出した。
  オーストリアは、すぐさまハンガリー国境に軍隊を派
 遣した。
  チェコも、国境監視を始めた。
  EUの「自由往来」のシェンゲン圏内の取り決めは、
 まったく『無視』の「あるが無きのごとく」だった。
  EUの美しく飾り立てた理念「人、モノ、金、サービ
 スの自由な移動」は、どこかへ行ってしまっていた。
  「シェンゲン協定」も、「ダブリン協定」も、まった
 く捨て去ったEUだった。
  2015年9月だけで、難民の方々は、16万4000人が入国
 した。
.
2015年9月、EUへの、多くの難民の流入が続く・・
  ドイツの豊かさが私たちも欲しいと・・、
  それが得たいと・・難民となってドイツへ流入する、
 押し寄せる・・その難民を受け入れるドイツ・・そうし
 なければならないと・・、
  難民が押し寄せるような良い国に、ドイツの今のお年
 寄り方がしたのだが・・子供たちの為にと一生懸命に働
 いて・・国づくりに励んだ・・今のドイツはその努力
 の結果で・・
  2015年、ドイツの難民の入国数は「80万人と予想され
 た」。
  しかし、その流入は激しく、この数が、100万人に修正
 された。
  人口8000万人の国に、この年だけで100万人を受け入れ
 る。
  この難民の受け入れに「○○万人だ」と上限を決める
 事はおかしいと発言する声・・その様な論理があった・・
  しかし、無制限に難民が入ってくれば・・社会も、労
 働市場も、学校も、混乱してしまう。
  メルケル首相は、自身が、東ドイツ出身で、悲惨な東
 ドイツから豊かな西ドイツへ来たという体験をした人で
 あるため、難民の方々へ理解を示し、難民の方々の身に
 なった発言をしていた。
  そして、「できる」と発言した。
  ドイツ中が、この「できる」で高揚した。
  かつて、第二次世界大戦に至った、あの高揚の様な、
 似た状況にドイツはあった。
  少しでも異議を唱える人間には「非人道的」というレ
 ッテルが張られた。
  下手な発言は、極右だとされた。
  この様な中で、ドイツ社会の中に難民が入って来て、
 定着して行った。
  そして、ドイツが変わり始めた。
  ドイツ社会がきしみだした。
  問題の原点には・・難民を発生させる、そもそもの原
 因があるが、その解決が見えない中に、ドイツへたどり
 着いた難民の方々、そのたどり着いたその場の崩壊が、
 現実となって行った。
  警察沙汰が増加した。
  収容施設は、ぎゅうぎゅう詰めとなった。
  そこで、暴力沙汰が増えた。
  難民の民族と民族の、「民族の違いの闘争」が起きた。
  2015年9月27日、ヘッセン州の収容所で、コソボのアル
 バニア人とパキスタン人の大規模な闘争が起き、400人も
 の難民が暴れた。
  警察官も負傷し、難民の方々も負傷し、その他の多く
 の難民施設でも、一触即発の事態が続いているという状
 態になった。
  言葉も宗教も違い・・昨日までまったく知らない者同
 士が、狭い中に、ぎゅうぎゅうと押し込まれて居るとい
 う欲求不満の塊の社会ができていた。
  警察も限界に来ていた。
  民間の警備会社が投入されたが、警備員には移民系が
 多いので・・火に油を注ぐという結果になった。
  2015年9月28日、警察が、宗教別に収容すると発表した。
  この様な人々が、これからドイツ文化を受け入れて、
 静かに生活して行けるのかという事が「危ぶまれた」。
  この様な時に、ハンガリーは、国境を封鎖した。
  クロアチアも、続いて、国境封鎖した。
  EUの国境が・・閉じられて行った。
  それでも、難民の流れは止まらなかった。
  民族移動が、一旦、始まると止められないのごとくだ
 った。
  難民は、悪路でも、何でも、迂回したりして入って来
 た。
  ユーゴ内乱の時の地雷が残る「地雷地帯」にまで入っ
 てきた。
  10月になって、気温が下がっても、冷たい雨が降って
 も、道がぬかるんでも、難民の行軍はあった。
  スロベニアは、難民の数があまりにも多いので、その
 数に驚いて、軍隊を出し、流入を防ごうとした。
  しかし、その隣のクロアチアは、スロベニアにどんど
 ん難民を送り出していた。
  2015年10月17日、この難民問題が、からんでケルン市
 長の有力候補がナイフ刺された。
  犯人は、『難民政策が気に食わない』のでやったと言
 った。
  10月末の冷たい川に、首まで浸かってでも渡河してい
 る人々の様子が報道された。
  水温は8度だった。
  赤ん坊、お年寄り、子供が、どうなっているのかが心
 配された。
  この様な原因を作っている「元が悪いのだ」が・・?
.
2016年3月13日、テレビ報道は、年がら年中、日本国民の世
 論操作をしている。
  例えば・・
  ☆2016年3月13日、日本テレビ:
  自民党大会での安倍総理の「選挙の為だったら何でも
 する、こんな無責任な勢力に敗ける訳にはいかない」と
 の発言を、悪意ある編集をして内容をまったく変えた・・
  「安倍首相『選挙が為だったら何でもする』」と表示
 をして、「安倍首相の悪印象」を印象付けた。
  またこれは、総理という立場での指導的発言を、首相
 という国の代表に立場を変えるという悪意もある。
  国の責任者にある状況にして、異常発言の状態に編集
 し、放送し、悪印象へと操作をしている・・まったく許
 せぬ日本テレビの放送のやり方。
  日本テレビは、仏教蔑視の放送も年がら年中している。
  悪い場面で、お寺の鐘をゴーンとならしたり、仏壇の
 リンをチーンと鳴らしたりと、年がら年中している世論
 操作・印象操作ばかりする放送局となっている・・テレ
 ビコマーシャルを依頼している企業へも悪印象を与えて
 いる。
  ☆2014年9月10日、テレビ朝日:
  川内原発に関する報道で、原子力規制委員会の田中俊
 一前委員長がいくつかの記者の質問に対して回答を拒否
 した部分のみを放送して偏向した編集をして世論に偏っ
 た印象を与えた。
  ☆2015年6月5日、フジテレビ:
  VTR内で日本についてインタビューに答えている韓
 国人2人について、翻訳の字幕や日本語吹き替えの内容
 と異なる映像を使用し、韓国人が日本を嫌っているかの
 ように放送した。
  ☆2017年7月3日、TBS、
  小池百合子東京都知事が就任あいさつをした際に、握
 手をした映像をカットして「自民党の川井重勇都議会議
 長(当時)が握手を拒否」と放送して、全く事実と違う
 放送をした。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        この