(増補版)608E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年8月~1894年8月)

題:(増補版)608E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年8月~1894年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1894年8月26日、日朝盟約
  大日本大朝鮮兩國盟約(だいにほんだいちょうせんり
 ょうごくめいやく)
  日本政府と朝鮮政府が両国同盟(攻守同盟)に調印し
 た。
  内容:
  第1条:この盟約は清兵を朝鮮国より撤退させ、朝鮮
     国の独立自主を強固にして、日朝両国の利益を
     増進することを目的とする。
  第2条:日本国は清国に対し攻守の戦争を遂行する、
     朝鮮国は日本軍の進退及びその食糧準備に、出
     来得る限りの便宜を提供すること。
  第3条:この盟約は清国との平和条約が締結されるま
     で続くものとする。
  史料:
  大日本大朝鮮兩國政府ハ日本曆明治二十七年七月二十
 五日
  朝鮮曆開國五百三年六月二十三日ニ於テ朝鮮國政府ヨ
 リ清兵撤退一節ヲ以テ朝鮮國京城駐在日本特命全權公使
 ニ委託シテ代辦セシメタル以來兩國政府ハ清國ニ對シ既
 ニ攻守相助クルノ位置ニ立テリ就テハ其事實ヲ明著ニシ
 倂ニ兩國事ヲ共ニスルノ目的ヲ達センガ爲メ下ニ記名セ
 ル兩國大臣ハ各々全權委任ヲ奉シ訂約シタル條款左ニ開
 列ス
  第一條 此盟約ハ清兵ヲ朝鮮國ノ境外ニ撤退セシメ朝鮮
     國ノ獨立自主ヲ鞏固ニシ日朝兩國ノ利益ヲ增進
     スルヲ以テ目的トス
  第二條 日本國ハ清國ニ對シ攻守ノ戰爭ニ任シ朝鮮國ハ
     日兵ノ進退及ヒ其糧食準備ノ爲メ及ブ丈ケ便宜
     ヲ與フヘシ
  第三條 此盟約ハ清國ニ對シ平和條約ノ成ルヲ待テ廢罷
     ス可シ
  此レカ爲メ兩國全權大臣記名調印シ以テ憑信ヲ昭ニス
  大日本國明治二十七年八月二十六日
          特命全權公使 大鳥圭介(印)
  大朝鮮國開國五百三年七月二十六日
          外務大臣 金允植(印)
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1894年8月29日、芳川顕正(よしかわあきまさ)が、文相
 を第2次伊藤内閣で兼任した。
  因みに、芳川顕正は、1893年に、第2次伊藤内閣で司法
 大臣に就任し、続く第2次松方内閣でも留任した。
  また、この間の1894年に、文部大臣を臨時兼任したの
 だった。
  そして、1896年には、内務大臣も兼任した。
  そして、芳川顕正は・・、
  1885年6月9日に、ハワイ王国:王冠勲章ナイトグラン
 ドオフィシルを授賞し・・また・・
  1885年9月29日に、デンマーク王国:ダコブログ勲章コ
 マンドール・プルミエールクラスを、すでに、受賞して
 いる。
  芳川顕正は・・1842年1月21日~1920年1月10日、80歳、
  明治・大正時代の官僚、政治家、伯爵、徳島生まれ。
  浅野玄碩より医学を学び、高橋文昨の養嗣子となる
  1862年(20歳)、長崎で医学修業の傍ら、何礼之、瓜
 生寅 に英学をまなび、伊藤博文と知り合う。
  1867年(25歳)、鹿児島に赴き、海軍所の賓客として
 航海、数学、兵学書の翻訳に当たる。
  1868年(26歳)、芳川と改姓。徳島の洋学教授となる。
  1870年(28歳)、伊藤の推薦で大蔵省にはいる。
  1871年(29歳)、伊藤博文と渡米し、貨幣・金融制度
 調査に従事。
  帰国後・・紙幣頭、工部大丞、工部大書記官、電信局
 長などを歴任した。
  1879年(37歳)から翌年にかけてイギリス出張で万国
 電信会議に出席。外務少輔、工部少輔を経て、
  1882年(40歳)から3年間、東京府知事を務め、地区改
 正や築港に尽力した。
  その後・・内務大輔、内務次官として山県有朋内務卿・
 内相を補佐。
  1890年(48歳)、第1次山県内閣の文部大臣となり、教
 育勅語の制定に関与した。
  以後・・司法、内務、逓信の各大臣を歴任した。
  この間、宮中顧問官兼内蔵頭、兼帝室会計審査局長、
 中央衛生会長などとなる。
  1900年(58歳)~1904年(62歳)、貴族院伯爵議員。
  1910年(68歳)以降、一時の中断を除いて枢密顧問官。
  1911年(69歳)、この年まで、国学院大学学長、皇典
 講究所総裁を務める。
  1912年(70歳)~1917年(75歳)、枢密院副議長。
 長崎時代、英国帰りで会話はできても読み書きが不自由
 な伊藤博文に英文法を教えたのが、官途(かんと、官吏
 になること)に就くきっかけとなった。
  著作:『越山遺稿』
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1894年8月29日、文部省が、体育の奨励に関して訓令を発し
 た。
  「体育及び学校衛生に関する訓令」で、身体の発育期
 にある児童に活発な運動を推奨し、国民の健康な身体の
 育成を図った。
  小学校の運動会などが盛んになった。
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1894年8月31日、川上音二郎一座が浅草座で「壮絶快絶日清
 戦争」の上演を開始した。
  戦争劇ブームが起きる。
  1894年8月初め、30歳であった川上音二郎は、芝居の脚
 本を書き、認可を警視庁に申請した。
  この申請の認可は、1894年08月21日に下りた。
  戦争の実態を見ていない音二郎、実際の戦況とはかけ
 はなれた内容であったが、若い演者たちが体当たりで演
 じる活劇は評判となった。
  1894年10月7日まで芝居を打った音二郎は、1894年10月
 22日から戦地視察に出発した。
  朝鮮の仁川や平壤、そして、鴨緑川を渡って清国の九
 連城まで訪れた。
  そして、約一ヵ月後に帰国した。
  音二郎は、この時の見聞をとり込んで仕上げたのが「
 川上音二郎戦地見聞日記(川上音二郎従軍日記)」で・・、
  1894年12月3日~12月23日まで、市村座で上演された。
  また、翌年・1895年1月、横浜の港座でも公演した。
  描いた場面は、戦地視察をした俳優の本人が演じると
 いう事で、観客に、そのリアルさを予感させた。、
  九連城で、直接、傷を負った小島中尉から聞き、また、
 託された手紙を内地の家族に届ける場面(五幕目)であっ
 た。
  そして、実際は、この小島中尉は、手紙を音二郎に渡
 した数時間後に亡くなっている。
  音二郎は、小島中尉夫人に戦死をも告げなくてはなら
 なかった。
  この芝居は、川上一座の呼び物であった体を張った戦
 闘(乱闘)シーンとは対照的に、実際の愁嘆場(しゅうた
 んば、泣き悲しむ悲劇的な場面)を盛り込んだ・・その
 様な「川上音二郎戦地見聞日記」となった。
  戦場の実地を見とどけて来て、それをすぐに舞台にの
 せるという状況・・その迅速さに、実際が知りたいとい
 う観客は期待し、そして、喝采した。
  劇界には、歌舞伎と新派劇の二つのジャンルが成立し
 た。
  戦争劇ブームが起きた。
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  今日の言葉
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  題:アメリカの対中政策が「本気になって来た」。
    欧州は、中国で儲けたいと、中国寄りであったが、
    アメリカ政権の狙いが分かって来た・・
    同時に、中国の軍拡主義・覇権主義の危険性が分
   かって来た。
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紀元前260万年~紀元前250万年、世界最古の石器
  ヒト属(ホモ属)によるものは、エチオピアはアファ
 ール盆地のゴナ (Gona) にある化石人類遺跡で発見され
 た『オルドワン型礫石器群』(新生代新第三紀鮮新世後
 期)
  ホモ・ハビリスによるものと推定される。
  『磨製石器の最古のものは日本の岩宿遺跡』・・
  日本の群馬県みどり市笠懸町にある岩宿遺跡(いわじ
 ゅくいせき)で出土したもの、人の手によって磨きがか
 けられた石器としては、これが「世界最古」の石器であ
 る。
     ・
     ・
紀元前7万5000年頃、世界最古の装身具の貝殻ビーズ
  南アフリカ共和国の都市ケープタウンの300km東に所在
 する『ブロンボス洞窟遺跡』にある約7万5000年前の地層
 から、大きさが完璧に揃っている上に、例外なく開口部
 の反対側の同一箇所に孔が開いている巻貝の貝殻が60個
 あまり発見された。
  孔は、ビーズ飾りを作るための、紐の通し孔であった
 と考えられている。
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紀元前3万5000年頃、世界最古の楽器
  マンモスの牙や鳥の骨で作られた横笛
  ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州はシュ
 ヴェービッシェ・アルプにある『ホーレ・フェルス洞窟』
 の後期旧石器時代オーリニャック文化遺跡で発見された。
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紀元前3万5000年頃、世界最古の絵画
  『ホーレ・フェルスの洞窟壁画』
  洞窟は、南ドイツのシュヴェービッシェ・アルプにあ
 り、壁画は、オーリニャック文化によるもの。
  後期旧石器時代に当たる約3万5000年前に描かれたと推
 定される。
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紀元前3万2000年頃、世界最古の動物形象による像
  ライオンマン(ライオンレディー)
  ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州はシュ
 ヴァーベン・アルプのローネタール(はぐれ谷)にある
 ホーレンシュタイン・シュターデルの洞窟(ホーレンシ
 ュタイン山の『シュターデル洞窟』)から出土した、後
 期旧石器時代のオーリニャック文化に属すると考えられ
 る象牙製の彫像(女神像)で、世界最古の動物形象によ
 る像とされる。
  発見当初は、ホラアナライオンの雄をモデルとした男
 神像と見なされて「ライオンマン」と呼ばれたが、雌を
 モデルとした女神像説も論じられるようになったため、
 「ライオンレディー」とも呼ばれる。
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紀元前2万3000年頃、世界最古の釣針
  日本の『沖縄県』で発見された貝殻製の釣針。
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紀元前1万8000年頃、世界最古の土器
  中国『湖南省』で発掘された約1万8000年前の土器
  また、日本の『大平山元I遺跡』の縄文土器(約1万6500
 年前)や・・
  『シベリア』で発掘された土器(約1万4000年前)も世
 界最古と言われている。
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紀元前1万2000年頃、世界最古の陶器
  日本の長崎県にある福井洞窟で発見された約1万2000年
 前のもの。
  2009年には、中国で湖南省で1万4000年前~2万1000年
 前の陶器が発見された。
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紀元前1万2000年頃、世界最古の縄・紐
  フランスにある『ラスコー洞窟』の最奥部で発見され
 た約1万2000年前以前のもの・・現存する最古の縄。
  後期旧石器時代マドレーヌ期(約1万8000年~約1万2000
 年前)に属する遺物。
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紀元前9000年頃、漆器
  日本の北海道函館市南茅部地区にある『垣ノ島遺跡』
 から出土した漆塗り装飾品。
  約9000年前~約6500年前(縄文時代早期前半)に属す
 る土坑墓から、2000年8月11日に発掘された推定年代約
 9000年前の副葬品。
  本体は朽ち果て、漆塗りを施された表面部だけが残っ
 た。
  ただし、2002年12月28日に発生した火事でほとんどを
 焼失した。
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紀元前8800年頃、銅器
  銅製の小玉:『イラク』で発見された。
  なお、世界最古の銅製食器や銅製調理用具としては、
 紀元前4000年頃のパレスチナの『Nahal Mishmar遺跡』
 で発見されている。
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紀元前3700年頃、青銅鈴
  中国の夏の時代、二里頭文化で作られた。
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紀元前3500年頃、青銅器
  メソポタミアで銅に錫を混ぜて青銅を加工した。
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紀元前3300年頃、世界最古の粘土板文書
  シュメールの都市『ウルク』の遺跡第4層から出土した。
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紀元前3000年頃、貨幣
  宝貝:タカラガイの貝殻に貨幣価値を与えた物。
  殷代後期の中国。
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紀元前2570年、世界最古の港湾施設:エジプトクフ王の港
  クフ王時代に使われた世界最古の港。
  スエズの南方約180キロにあり、現在は、船を係留する
 ためのロープを固定する石のみが現存している。
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紀元前2100年頃~紀元前1950年頃、鉄器
  トルコの『カマン・カレホユック遺跡』から出土した
 小刀のような鉄器。
  紀元前2100年頃から紀元前1950年頃に属する遺構から
 発見され、これによってヒッタイト起源説が更新された。
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紀元前14世紀、世界最古の墨文書
  文字が刻み込まれた卜占用亀甲獣骨に残る墨の跡:紀
 元前14世紀の殷代中国。
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紀元前13世紀頃、現存する最古の橋:アルカディコ橋
  ティリンスとエピダウロスを結ぶべくミケーネ人が建
 造した石橋であり、持送りアーチ橋。
  地元住民によって現在も使用されている。
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紀元前670年頃、鋳造貨幣
  エレクトロン貨:リディア王国第2代国王アリュアッテ
 スが、治世初期に当たる紀元前670年頃に造らせた。
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紀元前1世紀以上、最も古い時代の種子から発芽・成長した
 顕花植物 大賀ハス
  1952年7月18日に開花した。
  日本の千葉市。
  種子は弥生時代の遺跡(泥炭層)から出土したもので、
 間接的年代測定がなされた。
  1952年の時点で2000年以上前(紀元前1世紀末以前。弥
 生後期V期前半以前に由来と推定された。
  その開花は「世界最古の花 生命の復活」」として雑誌
 『ライフ』にも取り上げられた。
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578年、世界最古の企業:金剛組
  古代日本の摂津国難波で敏達天皇7年(578年)に創業。
  以来、長らく宮大工組織として活動を続け、近代以降
 は主に寺社を手がける総合建設会社となっている。
  2005年に、事業譲渡するまでは「創業者一族が経営を
 続ける現存企業」として世界最古でもあった。
  事業譲渡後も企業として「世界最古」には変わりない。
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601年、世界最古の木造建築物:法隆寺金堂および五重塔
  日本の斑鳩宮近郊(現・奈良県斑鳩町域)に、推古天
 皇9年(601年)、聖徳太子によって建立された。
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1232年、日本最古の港湾施設:和賀江島
  日本の最古の港湾設備であり、現存する世界最古の人
 工の港である。
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1600年頃、財閥:住友財閥
  その歴史は400年以上前にさかのぼる。
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19世紀半ば、イギリスのこの時代ほど不平等な時代は無か
 った。
  「女王は、二つの国民の上に君臨する」と言われるほ
 ど、イギリスのその不平等さは際立っていた。
  また、「(イギリスでは)上層民と下層民の分断は酷
 (ひど)い。
  (このイギリスの)二つの階層では、教育も、食べ物
 も、法律も異なる」と言われるほど最悪の低劣さだった。
  そして、イギリスは、この遅れた差別状態から長らく
 脱却できなかった。
  脱却できたのが、なんと、最近で、サッチャー氏がこ
 の悪習を変えた。
  この分断された状態を変えることをしたのはサッチャ
 ーだった・・20世紀に至ってやっと、この固執した意識
 の変革に手が付けられた。
  だから、サッチャーは、20世紀最長の政権を持った。
  「二つの階層を越える一つの国民」という意識が掲げ
 られ、悪弊にあった頑固な信条が変える社会的努力がな
 れて行った。
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1904年2月8日、日露戦争がこの日に起きた・・が、中国も、
 この戦争に加わっていた。
  『日露中戦争』だった。
  共産圏の国家が、いかに完璧に「秘密を保つことが出
 来る」かには驚くばかりだった・・、
  この事からも分かる通り、共産圏外交が、特務工作に
 よって、民主主義国における世論操作を、いかに巧みに
 展開できるかである・・感嘆すべき凄さである・・、
  中国の政治と外交は、帰結する所は、宣伝謀略工作に
 ある・・と言える。
  2016年においても、盛んに、アメリカのシカゴの新聞
 社の権利を手に入れたりして活動している。
  分析を精細に行なえば、共産主義諸国が行なう、表(
 おもて)の発言や「報道」と、裏の真意・実態が大きく
 かけ離れているという事が判明するのは日常茶飯事であ
 る・・、
  場合によっては、180度違う事がよくある・・、
  昨日は土砂降りでも、臆面もなく、次の日は「カラッ
 と晴れる」という具合である・・、
  また、当然、その逆もある(韓国もこれ)
  一喜一憂したり、振り回されたりしないのが肝心・・、
  中国は、特に、古来から「政治とは謀略の営み」と見
 てきた面がある・・、
  「それに長けている」のが『優れているという見方』
 の国である。
  中国の歴史の大きな転換点に、この特務工作、情報活
 動、謀略が、常に、決定的役割を果たして来ていた。
  日本は、ある意味、誠実であった、あり過ぎた・・、
  これが、日本の特質であり、国際的に信頼を得る所で
 もあるが、しかし、見方を変えれば未熟だった。
  情報収拾や諜報と言われる領域まで、そして、工作と
 言われるところまで・・習熟して行くべき。
  (日本はスパイ天国とも言われている。スパイが、う
 ようよ、あちこちに居る)
  憲法も誠実に守り過ぎた、関係するところは変えて行
 くべきである・・、
  「平和は本当に、いいなあ」と、戦争を体験なされた
 方々が、嘆息なされておられるが・・、
  北朝鮮も、生き延びるため、また、生き残るため、「
 核とミサイル」を持った・・
  日本も、のほほんとしていては滅亡があるだけ・・生
 き延びる方策を真剣に問う必要がある今である・・
  日露戦争に参戦していた中国だった。
  ロシアと中国の秘密条約によって、中国は参戦してい
 た。
  教科書に書かれていない史実である・・
  しかし、この様な歴史の事実を条件に入れて、現実を
 処さなければならない・・
  (参考)日露戦争:この戦争は、1904年2月8日~1905
     年9月5日、日本とロシア帝国(秘密裏に中国も
     参戦)との間で、朝鮮半島とロシア主権下の満
     洲南部と、日本海を主戦場として戦った戦争・・
      南下するロシアに対峙するために、日本の陸
     軍部隊は韓国領内を北上し、5月に、鴨緑江を渡
     った。
      最初の戦闘で、ロシア軍を敗退させた・・
      また、南山の戦でも激戦の末に優位を占めた・・
      6月、満州軍総司令部が編成され、総司令官に
     大山巌、総参謀長に児玉源太郎を任命され、そ
     の下に、第1軍から第4軍が統轄されることにな
     った。
      8月末~9月初め、遼陽の戦は、日露両軍が、
     総力を結集した戦闘となった。
      双方ともに、2万名以上の損害を出すという激
     戦となり、ここでも、ロシア軍は後退した。
      しかし、日本軍の被った打撃も深刻なものが
     あった。
      両国は、アメリカ合衆国の仲介の下で終戦交
     渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマ
     ス条約により講和した。
  ロシアの南下政策の下で、日本の安全保障が脅かされ、
 日露の戦端が開かれたのだったが・・、
  ロシアの狙いは、満州の租借権と、関東州の租借権が
 欲しかった。
  また、鉄道施設権などの利権も欲しかった。
  そして、満州にロシア軍を常駐させ、利権を完全に掌
  握する占領状態にしたかった。
  そしてまた、その利権を朝鮮半島まで拡大したかった。
  強圧的な勢いで、まだ弱小とみられていた日本へ圧力
 をかけていた。
  アジア各国は、また、世界も、日本が勝つとは思って
 いなかった。
  アメリカは日本寄りにいた。
  この時、この戦いの観戦武官が世界から来ていた。
  その国々・・アメリカ、イギリス、ドイツ、オースト
 リア、イタリア、スペイン、スイス、スエーデン、ノル
 ウェー、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン帝国
 などの13カ国、70人以上の武官だった・・
  この後、アメリカの日本を見る目が変わった・・
.
1905年10月12日、アメリカは、日露戦争で得た日本の満州
 の権益が欲しかった・・日露戦争後に・・
  そのアメリカ政府の意向を受けたハリマンが、日本に
 やって来た・・
  そして、日本の桂太郎首相と会談した。
  日露の講和条約締結は、この1ヶ月半前の8月29日であ
 り・・調印は、1ヶ月前の9月5日である。
  アメリカは、満州の権益が欲しくて日露の調印が済む
 と、すぐにすっ飛んで来た。
  日露戦争では、日本の肩を持つ(かたをもつ、一方の
 味方をする)アメリカだったが・・この会談後、アメリ
 カの態度は一変する。
  この会談で、日本は、アメリカの満州鉄道の共同経営
 の要求を断わった。
  セオドア・ルーズベルト大統領も言っている・・、
  「私は、従来、日本びいきであったが、ポーツマス会
 議開催以来、日本びいきでなくなった・・」・・、
  ハリマンも・・
  「日本は十年後に後悔することになるだろう!」と激
 怒した。
  アメリカ国内では反日機運が高まって行った。
  アメリカに、戦いで得た権益を渡していれば・・
  日本は、アメリカとの「共同経営の満州」という形に
 していれば・・歴史は変わっただろう。
  ヨーロッパ諸国は、すでに、中国の権益を得ていると
 いうこの時・・中国へ出遅れたアメリカ・・他の欧州列
 強諸国が美味しい中国の汁を吸っている後から行くアメ
 リカの焦りがあった。
  岡崎久彦氏・渡部昇一氏は言う・・、
  「満州の経営を日米共同で進めていけば、日米の会戦
 はなかったのかもしれません・・が・・
  それでは、欧米のアジア植民地化に、日本が、加担す
 ることになるではありませんか」・・、
  アメリカは、日本を障害物として、また、脅威として
 扱う様になって行く。
.
1906年、「世界には三つの嘘がある。嘘と、大嘘と、統計
 である」
  この言葉を、この年に、アメリカのマーク・トーエン
 が「ノース・アメリカン・レビュー」で発表した・
  そして、世界に広まった。
  トーエンは、この語句を、19世紀のイギリス首相のベ
 ンジャミン・ディズレーリ(1804年~1881年)のものと
 紹介した。
  There are three kinds of lies: lies, damned lies,
 and statistics.
  しかし、この言葉は、ディズレーリの著作には見られ
 ない。
  日本にも、「統計で嘘を言う方法」という本があるが、
 さも本当の様に統計の数字を見せられて、嘘のことを信
 じさせられるという話が展開されている。
  (参考):本「データはウソをつく、科学的な社会調
     査の方法」(ちくまプリマー新書) 谷岡 一郎
.
2018年、題:アメリカの対中政策が「本気になって来た」。
    欧州は、中国で儲けたいと、中国寄りであったが、
    アメリカ政権の狙いが分かって来た・・
    同時に、中国の軍拡主義・覇権主義の危険性が分
   かって来た。
 ・今、アメリカでは、ニューヨークタイムスやCNNの、
  「嘘つきニュース」や「間違いニュース」が暴(あば)
  かれて来ている。
   また、日本でも、マスコミなどの論理的正統性の薄
  い「気取った論理の破綻(はたん)」が起き始めてい
  る。
 ・イランの核凍結期間が非常に短いにもかかわらず、目
  的を果たしていないのに、欧州は妥協して「イランを
  許してしまった」・・
   しかし、トランプ大統領は、たずなを緩(ゆる)め
  ず「けしからん、これではだめだ」と言って、正しい
  論理を展開している。
 ・イランは、中東のテロリストたちに「武器を送り、資
  金を送り、内戦を支持し」、欧米とまったく違う事を
  している。
   しかし、欧州は、「その様な不正を黙認」しようと
  している。
 ・トランプ大統領は、サウジアラビアを重視している。
  サウジアラビアは女性の免許を取らせた。
   そして、皇太子が石油だけでは食べていけないと次々
  に改革をしている。
   しかし、カナダは間違いを犯している。
   国家を強く統一しようと、ほかの部族に厳しい事を
  している・・この様な他部族へのサウジアラビアの行
  為を取り上げて、この理屈だけで、カナダは制裁処置
  をしようとしている・・
   この様なカナダの行為は間違いだ・・カナダのやる
  ことはきれいごとだ。
 ・北朝鮮とイランは、核で共同研究している。
   この様な台頭を許すのか?
 ・ロシアのパイプラインは、今までウクライナを通って
  いた。
   そのロシアが、ウクライナと違法な戦争を行ない、
  占領した・・だから、ウクライナはそのパイプライン
  を止めた。
   ロシアとドイツは仲が良いので、ロシアは、ドイツ
  にパイプラインを引いた・・そして、石油を得たドイ
  ツがEUの各国へ石油を配るという役をし始めた。
   ドイツが、石油の蛇口の役をしている(恩を売る行
  為をしている)・・結局、ロシアの言う事を聞く奴を
  探すという役をドイツはしている。
   トランプ大統領はそれを指摘する、ドイツに、「い
  つからロシアの捕虜になったのだ」と・・、
   これは、ドイツは言われて当然である。
   ロシアに利することばかりを、石油が欲しくてヨー
  ロッパはしている・・という「異常事態となっている」。
   シリアの件でも、イランの件でも・・そうである。
   アメリカの大統領選での「ロシア疑惑がある」が、
  トランプ大統領は、ロシアに対して公平である。
   ドイツのメルケルへ「捕虜だ」と言った・・これは、
  非常に正しい指摘だ。
 ・ドイツは、中国との関係でもおかしい。
 ・アメリカ副大統領のフェンス氏が、ついに、中国とさ
  れるウイグルの人権問題を取り上げた・・
   中国の政治制度を、ついに取り上げる様になった。
   今までは、中国とアメリカは、経済戦争と言われて
  来た、お金の問題と言われて来たが・・、
   アメリカは、中国の政治問題についても言及するよ
  うになって来た。
   トランプ政権の対中政策が「本気になって来た」。
   この様な事を考えると、ドイツの在り方が大変おか
  しく・・問題がある。
 ・アメリカの対中国赤字は、「30兆円以上ある」が・・
  しかし・・
   トランプ大統領が、本当に狙っているのは・・中国
  の覇権主義を止めようとしていることにあって・・経
  済問題の先にあることを狙っている・・
   世界の経済に激震が走ってでも、経済を干上がらせ
  てでも、今までのような展開を変えようとしている・・
   中国は、えげつなく得た金でもって、覇権を得よう
  とする・・その様な中国の行為・・、
   例えば、発展途上国に対して、インフラ開発をして、
  それを借金漬けにして、結局、その国を、中国の言い
  なりにするようにするやり方。
   あるいは、ハードやソフト的に武器を、どんどん買
  い占めて、4倍ゲームで兵力を高め、軍拡している中
  国・・、
   中国の覇権主義、軍拡主義・・これを支える中国の
  経済・・、
   だから、そこを叩いて、ストップさせようとしてい
  る。
   それの真意が分からず、そのトランプ政権のやり方
  を批判していた欧州諸国は・・そのやり方に、「よう
  やく気付き始めた」・・(まだ、半分しか理解できて
  いない欧州諸国)・・
   中国の毒、中国の弊害に、ようやく気付き始めた欧
  州諸国・・、
   中国の邪悪なやり方にようやく気付いて来た。
   日本のマスコミも、トランプ大統領のやり方に気付
  かず、今まで、「単なる不動産屋」だとかと蔑(さげ
  す)んでいた。
   トランプ大統領は、今までのアメリカ政権がやって
  来なかった様な「経済と安全保障を関連した政策を遂
  行している」。
 ・2018年8月、ライフェルト・メタル・スピニングという
  ドイツの会社が中国に買収されそうになった。
   これに対し、ストップ命令が出されるはずだった・・
   この会社は、宇宙船や原子力発電所・核兵器、そし
  て、戦闘機など、非常に先端の高い技術・ノウハウを
  持っている会社で・・、
   ドイツ政府は、安全保障面や、公的秩序を不安定に
  する恐れがあると、中国へ渡ってしまうとリスクが増
  し、危険度が高まる恐れがあると、ストップをかけよ
  うとした・・、
   買収しようとした中国(企業)は、この動きを察知
  して、ドイツメディアが報道したから、中国は買収を
  撤回した。
   また、送電大手のゴジュッツヘルツという会社につ
  いても、ドイツ政府は、この会社の株の20%を取得す
  ると言い出した。
   この会社の株は、ベルギーの会社が80%を取得して
  いて、後の20%は、豪州の会社が取得するはずだった。
   2016年のクウカ事件・・産業用ロボット大手のクウ
  カが、中国の家電大手に買収された。
   この様な状況が続けば、技術がすべて中国に流出し
  てしまう・・まずいのではないかと・・
   クウカは、軍事用ロボットもやっているし・・、
   このクウカのロボット技術は、アメリカの最新鋭ス
  テルス戦闘機のF35の製造にも使われている様な「高
  度な技術が詰まったロボット技術」、
   NATO(北大西洋条約機構)は、アメリカから国
  防費を上げろと言われて来た。
   そのことに対して、欧州は、「アメリカの横暴だ」
  と言って来た・・が・・、
   欧州は、言われて当然なのである・・
   NATOは、アメリカに「おんぶに、だっこ」だっ
  た。
   それに、この様にクウカの買収を許して、アメリカ
  軍の軍体制を危険に陥(おとしい)れている。
   これを契機に(遅きに失しているが)、これから、
  対中国に関し、規制対象を、「国防だけ」から「IT、
  通信、電力、水道など戦略的重要分野」に広げた。
 ・ドイツの筆頭銀行のドイツ銀行の筆頭株主は、中国企
  業である・・ドイツの金融分野もこの様な状況・・、
   これから重要な電気自動車の「肝心かなめのバッテ
  リー」の工場を、中国は、ドイツに進出させて、すで
  に、広大なドイツの土地を買い占めた。
   そこで、独占的に、電気自動車のこのバッテリーを
  使うように仕向けて行こうという戦略・・、
   産業および生活必需品の自動車分野で牛耳ろうとい
  う中国の作戦・・
   ドイツにない技術でドイツを制する方針・・、
   あらゆる手を講じてドイツを飲み込もうとする中国・・
   EUの盟主であるドイツを牛耳ろうとする方針・・、
   獅子身中の虫ではないが、肝心かなめの重要部分、
  中心に入り込んで、すべてを制覇しようとする中国の
  戦略・・、
   オープンな西側の市場で、中国は、どんどん技術を
  盗んでいる・・そして、重要技術を奪って行く、自由
  主義経済システムの制度を利用しているので合法的だ
  が(悪用と言える)・・それを利用して奪い取り、そ
  れを中国に持ち帰って、中国の閉鎖された市場の中で
  培養して行く・・、
   そして、その奪い取ったものをどんどん大きくさせ
  る・・
   大きくなると・・
   発展途上国にも売りつけて、西側から奪ったもので
  商売をし、利益を得て、また大きくなって行く、その
  様なやり方で閉鎖市場で大きくなった巨大中国国有企
  業が・・、
   ここまで大きくなって来ると、逆流が始まる・・開
  かれた欧米市場に出させて行く・・出て行く・・
   そして、欧米の開かれた自由市場で、巨大な中国の
  官製企業が、同業他社を食いつぶして行く・・、
   元々は西側の技術であったものを使って・・この様
  な展開をさせている・・展開が起きている・・中国に
  牛耳られて行く結果が起きている。
   共産主義の地の東ドイツ出身のメルケルの感覚は、
  西側で育まれた感覚とは違う・・西側の感覚は持ち合
  わせていない・・だから、中国の話に乗りやすいとい
  う傾向がある。
 ・一帯一路で・・中国は発展途上国へ行き、政府高官に
  賄賂を贈って・・
   マレーシアの前首相(ナジム)などの例であるが・・
  桁外れの何十億という賄賂を贈った。
   そして、国内インフラを勝ち取った・・(メキシコ
  の新幹線もそうだった)、
   しかし、その後の中国のやり方は、まったく、マレ
  ーシアの経済発展に寄与していない・・、
   中国から労働者を連れて行って、マレーシアの人々
  の雇用にもならない・・
   また、高利で金を貸し付けて、返済ができないと見
  るとスリランカの港の様に「99年の租借をする」とい
  う手を使う。
   香港と同じ・・英国は香港を返したが、99年後、中
  国は返すか?
   一帯一路の実態は・・「覇権戦略」なのだ。
   2008年1月、中国の物資を積んだ試験運行の貨物列車
  が、北京からベルリンへ運行された。
   これが、一帯一路のやり始めであった。
   習近平は、2013年から言い出したが、その兆候はす
  でにあった。
   中国・共産主義国家のやり方に鈍感なメルケル。
   中国国民党の時代もドイツは中国と蜜月だった。
   ナチス・ドイツでさえ軍事援助や金の援助をしてい
  る。
   中国とドイツ=中独は・・中毒症状だ。
   チンタオ(青島)の恨み・・
   1750年頃から、ドイツは中国に手を付け始めた・・
  この頃からすでにやっていた・・、
   ドイツは、イギリスに対抗して、中国への直行汽船
  を走らせた。
   また、巨大戦艦の定遠・鎮遠はドイツが作って、日
  本を脅威に慄(おのの)かせた・・
   日本を圧迫した戦艦を造って中国へ与えたドイツ・・
   203高地で、日本陸軍は多くの兵を亡くしたが・・
  この時の要塞もドイツが造っている。
   1897年、ドイツは、ドイツ人宣教師を殺害されて、
  これを口実にして、ドイツは、中国へ出兵した・・中
  国侵略行為を始めた。
   山東省に出兵したドイツ兵・・その中心都市の青島
  は、ドイツに占領され、ドイツの拠点となった。
   さらに、ドイツは、有無を言わさず兵を常駐させた。
   ドイツは、勝手し放題で、山や港に砲台を築いた。
   海には、ドイツ東洋艦隊を常に置いた。
   また、この拠点から、ドイツは、南太平洋の諸島を、
  軍事的に管轄し、掌握した。
   ドイツは鉱山が欲しかった・・そして、銀行、鉄道、
  会社、教会、食肉処理工場などを造った。
   チンタオビールはドイツのビール・・、
   当時、東洋の真珠とか小ベルリンと呼ばせた。
   第一次大戦でドイツは敗け、これらが、戦勝国の日
  本の管轄に移る・・、
   ドイツは一切の権益を失った・・ドイツはこれを恨
  んだ・・「チンタオの恨み」という・・、
   しかし、このドイツ怨みは第二次世界大戦の当時ま
  で続いた・・怨みがましいドイツの恨みは、陰湿にも
  長く続いた・・、
   満州事変の後、日本の足を引っ張ろうと、中国国民
  党軍の近代化をドイツは行なう・・、
   ドイツは、さらに、中国へ、重要で有能な軍人を送
  り込む・・、
   「ドイツの電撃戦」を考え出したような大物人材ま
  で送り込む・・、
   そして、また、ドイツは、あらゆる兵器を輸出した。
   中国人技術者までドイツ呼んで教育した。
   この人材に、中国に帰って、あらゆる重要兵器の国
  産工場を作らせた。
   毒ガス製造工場まで作ろうとした。
   生物兵器などの科学研究所などは作っている。
   この様な中国が、第二次上海事件を中国国民党は日
  本に戦いを仕掛けて行く・・
   日本はやむなく応戦した・・、
   ファルンケンハウゼンというドイツの将軍は、蒋介
  石に「消耗のゲリラ戦に持ち込め」と言った・・
   日本軍を疲弊させよと言った・・
   ドイツは、見返りに鉱山資源を求めた。
   鉄道も作って軍の移動をしやすくした。
   日本の軍の消耗はこれらによって大きくなった。
   これ等の資金は、「アメリカが支援した」。
   JPモルガン、スタンダード石油(ロックフェラー
  財団)などのアメリカ資金が膨大に入った・・
   また、それと共に、ドイツが財政出動した・・
   この様に、膨大な資金が中国へ提供された。
   ドイツもこれで潤い、より大きな軍事大国へとなっ
  て行く、
   ナンバーワン軍事大国へとドイツがなって行った。
   そして、ナチス・ドイツが台頭して行った。
   巨大化させる栄養が、大きくする栄養である巨大な
  資金が・・世界を回って・・この様な状況が作らせた。
   ドイツは、卑劣なことに・・日独防共協定を結びな
  がら(三国同盟の前に結ぶ)中国へ、武器を密輸の形
  で与え続けた。
   中ソ不可侵条約を締結したことで、ナチス・ドイツ
  のヒトラーは態度を硬化させた・・
   ヒトラーは、「中国への密輸を止めよ」と言った」
  が、しかし、契約済みの兵器などは輸出しなけらばな
  らないという屁理屈で、ヒトラーの命令・指示を聞か
  ずに、ドイツは、兵器を中国へ与え続けた。
   ドイツは潤った。
   この潤った金で、強くなった軍事力が、イギリス・
  フランスに対して向かった。
   1938年になって、やっと、ドイツは、中国から手を
  引いた。
   この時まで、なんだかんだと続ける卑劣なドイツだ
  った。
   三国同盟の時もまだ、中国と関係を続ける裏切りド
  イツだった。
   そして、1年を経て、やっと手を切った。
   しかし、最近、新事実が分かったが、スエーデンの
  第三国を通じて、ドイツは、まだまだ、中国と関係を
  続けているという卑劣なドイツだった。
   陰湿でしたたかなドイツだった。
   最近でも、大切で重要なロボット技術を「中国へ売
  り渡したドイツ」だった。
   重機大手クラウスマッハイも、中国に買収された。
   磁気浮上の技術を持っている非常に高度な重要な会
  社(リニアモーターカー技術)
   この技術が軍事転用できるから恐ろしい。
   というより、重要な軍事技術となる技術なのだ。
   空母のカタパルトは、電磁式だが、これに使える。
   中国もロシアも持っていない技術である。
   中国・ロシアは、ジャンプ式の遅れた方式となって
  いる。
   ドイツは、中国が一番欲しい技術を持った会社を売
  り渡した。
 ・中国の一帯一路を、ドイツも一体となってやって行き、
  中国と共にドイツはユーラシア大陸を手のうちに入れ
  たいとしている。
   トランプ政権はそれを止めようとしている。
   あの冷戦時代も、ドイツは中国へ武器を渡し、売っ
  ていた裏切り国である。
   儲かればよいという獅子身中の虫の国・ドイツ・・、
   中国は、ドイツをあてにしている、頼りにしている・・
 ・トランプ大統領は、心配する東欧諸国に、「アメリカ
  が安い石油やその他のエネルギーを売ってやるから安
  心しなさい」と言っている。
   ドイツを通っているパイプライン、ドイツが配る形
  になっているこの形の骨抜きをしている。
   ドイツの大きな顔は、「架空の顔だ」と言っている。
   アメリカのエネルギー供給の話は、ロシアの横暴も
  控えさせている。
   シリアがあのような戦乱の地でなければ、中東の石
  油のパイプラインがこの地を通り、ヨーロッパへ中東
  の石油が流れる、そして、ロシアが潰される・・
   ロシアにとって、シリアが戦乱の地となっているこ
  とがロシアの石油が売れることに通じている。
 ・イランを締め付けないと北朝鮮が安心する。
   イランと北朝鮮がくっつく。
   ヨーロッパ諸国はここが甘い・・イランに甘い。
   イランを締め付ければ、北朝鮮も干上がる。
   イランをやるときは、主力はイスラエル軍になる。
   サイバー攻撃を含めてやる・・
   それを見て・・「北朝鮮よ! 約束通りしなければ、
  次になるのはお前だ」というプレッシャーになる・・
 ・参考に以下のユーチューブを御覧ください。
  https://www.youtube.com/watch?v=jNjFIc0l3Fk
  【Front Japan 桜】知事死去と沖縄左翼のシナリオ/
   中国の正体に気付いたドイツ~野口裕之/ 金正恩か
  ら視える米世界戦略/ 山根辞任にみる戦後日本/ 廃祀
  を叫ぶ古賀誠[桜H30/8/9]
   野口裕之(産経新聞政治部専門委員)
   昭和33年生まれ。昭和59年、産経新聞社入社。防衛
  庁、外務省、官邸記者クラブキャップなどを歴任。平
  成11年には北朝鮮の弾道ミサイル・テポドン1号の発
  射準備をスクープし、新聞協会賞を授賞する。著書に
  「ヤバすぎて笑うしかない狂人理論が世界を終わらせ
  る」(共著)、「野口裕之の『安全保障読本』」など。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2018-08-20 04:59 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)607E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年8月~1894年8月)

題:(増補版)607E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年8月~1894年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年8月24日、鉄道会議規則が改正された。
  鉄道会議(てつどうかいぎ)は、日本において1892年
 6月21日から1949年6月1日まで、鉄道敷設法16条に定めら
 れた「鉄道会議規則」(明治25年勅令第51号)に基づい
 て鉄道担当官庁(内務省→逓信省→鉄道省→運輸通信省
 →運輸省)に設置された諮問会議で・・、
  鉄道敷設法で定められた鉄道建設の順序や鉄道公債の
 発行などについて主管大臣に諮問した。
  ただし、実際には、鉄道政策全体について諮問してい
 る。
  定数は議長1名・議員20名(ただし、臨時議員として複
 数名の追加が認められた)・幹事1名で構成されていた。
.
1894年8月25日、『日清戦争実記』が創刊された。
  博文館が写真を多用して収録した「日清戦争実記」を
 出版した。
  大評判になった。
  陸軍測量部員の小倉倹司らの従軍撮影によった。
.
1894年8月25日、北里柴三郎が、ペスト菌を発見した。
  北里柴三郎が、破傷風菌を純粋培養して病原菌のペス
 ト菌を発見する(6月14日説あり)
  北里柴三郎は、日本政府よりペストの蔓延していた香
 港に調査派遣されていた。
  ヨーロッパで黒死病と呼ばれて恐れられ、人類を脅(
 おびや)かし続けてきたペストの病原菌が、1894年6月14
 日、流行下の香港で、北里柴三郎が発見し、滞在中にま
 とめた論文が英国の著名な医学誌ランセットに掲載され
 た。
  そして、翌週、同じく香港でフランスのアレクサンド
 ル・エルサンも見つけ、彼の論文は、フランスのパスツ
 ール研究所年報に掲載された。
  北里は、もう一つの分株菌をドイツのコッホ研究所に
 送っていた。
  それを検証するとまぎれもなくエルサンと同一の菌だ
 った。
  しかし、北里柴三郎は最初の発見者とされず、1897年、
 ベニスで開催された万国衛生会議で、その結果が報告さ
 れ、二人が共に発見者とされた。
  1967年、ペスト菌が属する細菌群が再分類されること
 になった。
  その機に、おかしなことに、新しい学名が「エルシニ
 ア・ペスティス」とされ、エルサンの名前だけが付けら
 れてしまった。
  この経緯を知ったアメリカ合衆国のカリフォルニアの
 二人の研究者が、北里柴三郎の発見の真実は明らかにさ
 れるべきだと考え、関係する膨大な論文や記録、当時の
 研究環境なども含め精査し、徹底的に分析を行った。
  発見の真偽に焦点を当てた調査のその結論は、「北里
 柴三郎は、確実に、確かに、香港でペスト菌を研究して、
 論文の大部分は的確に特徴を記載していて、彼にもその
 発見の栄誉を与えるに十分である」という結論に達した。
  この総括的論文は、1976年、アメリカ微生物学会の機
 関誌に発表され、北里柴三郎の発見の事実をめぐる論争
 に終止符が打たれた。
  香港の発見から82年後のことであった。
  ペストは、中世ヨーロッパの経済や文化にまで大きな
 影響を及ぼし、世界で一億人をはるかに超える死者を出
 した、人類史上最大の脅威だった。
  二人の挑戦者が成し遂げたその病原菌の発見は、世界
 の医学史に残る偉業で、不正義な事に、学名にこそ名を
 残してはいないが、その最初の発見者が、日本人の北里
 柴三郎だったことは、疑う余地もない真実だった。
  1894年6月14日、北里柴三郎は香港でペスト菌を発見し
 て、イギリスの著名な医学誌「The Lancet」は8月11日号
 にその速報を、さらに、同月の8月25日号には、北里自身
 の論文を、すでに、掲載していた。
  北里よりやや遅れて、6月20日または23日に、やはり、
 香港でペスト菌を見つけたフランス国籍を持つスイス人
 のアレクサンドル・エルサンという発見の順序だった。
  彼は、古巣であるフランスのパスツール研究所に論文
 を送ったが、そして、その論文は、9月に、同研究所の年
 報に掲載されたが、発見と発表の共に、北里柴三郎より
 後だった。
  ペストは、過去に二度のパンデミック(世界的大流行)
 を起こし、1億人を優に超える犠牲者を出した恐るべき伝
 染病・・この伝染病は、三度目の大流行地の香港で、つ
 いに北里柴三郎・・次いで、エルさんの二人の研究者に
 より正体が暴かれた。
  これによって、ペスト菌は「キタサト・エルサン菌」
 とも呼ばれるが、その発見者名には不正義な残照が残っ
 た。
  光学顕微鏡で細菌を見るとき、多くの細菌は透明に近
 いこともあり観察は容易ではない。
  そのため、あらかじめ細菌標本を染色して見やすくす
 ることが行われる。
  その染色法の代表格として、デンマークのハンス・グ
 ラムが考案した『グラム染色』がある。
  グラム染色で紫色に染まる菌は「グラム陽性」、染ま
 らない菌は「グラム陰性」と分類される。
  そして、世界の微生物学界を巻きこんだこの混乱は、
 ペスト菌がグラム陽性か陰性かをめぐる北里とエルサン
 の意見の違いから始まった。
  エルサンは、1894年のペスト菌発見を報告した論文中
 で「ペスト菌はグラム法によって染色しない」と述べて
 いる。
  これに対し、北里は、ペスト菌発見時の論文では「グ
 ラム染色に関して今は言及できないが、その点について
 は後日報告したい」とした。
  その理由は明確ではないが、北里はグラム染色液を香
 港に携行しなかったのではないかと言われている。
  そうだとすると、もし北里が染色液を持って行ってい
 たら、その後の混乱は回避できたのかもしれない。
  ペスト菌を発見してから2年後の1896年、北里はついに
 グラム染色について結論を出す。
  1896年12月に行われた東京医学会において「ペスト菌
 はグラム陽性である。
  エルサン菌はグラム陰性であるので、自分のペスト菌
 とは異なる。
  どちらが真性ペスト菌であるか、第三者の公平な決定
 を待ちたい」と報告した。
  しかし、まさにその1896年12月、台湾でペストが発生
 した。
  届けられた台湾のペスト菌をただちに調べると、それ
 はエルサン菌と同じグラム陰性であり、北里が主張する
 グラム陽性ではなかった。
  やがて「北里菌は本当にペストの病原菌なのだろうか」
 という疑いが、ささやかれるようになった。
  やがて、1899年になると、神戸にもペストが上陸。
  北里は自分の目でペスト菌がエルサンの主張どおりグ
 ラム陰性であることを確認し、その年のうちに、グラム
 陽性の「北里菌」説を取り下げた。
  しかし・・『その2年前』の1897年に、エルサンと北里
 の菌は、全く同じペスト菌であることが、すでに証明さ
 れていた。
  ドイツの細菌学者ウィルヘルム・コッレは、北里とエ
 ルサンが香港でペスト菌として採取した標本、そして、
 その後、世界各地で集められたペスト菌を細かく分析し
 た。
  その結果、北里菌もエルサン菌も同じグラム陰性のペ
 スト菌であり、また、世界中のペスト流行地で集められ
 た菌とも同一のものであることを証明した。
  北里の「ペスト菌はグラム陽性」という主張は退けら
 れたが、北里がペスト菌の発見者だということは証明さ
 れた。
  この結果は、その年に開催された万国衛生会議でも報
 告され、北里とエルサンは共に発見者であることが認め
 られた。
  また後に、コッレ以外にも2人の研究者が同様の確認を
 行ったが、結果は同じであった。
  万国衛生会議の記録により、北里への疑いは晴れたと
 思われた。
  事実、その後に発行され、多くの文献でも引用されて
 いるレーマンとノイマンの細菌学マニュアルにも、「ペ
 スト菌」の項には発見者として北里とエルサンが併記さ
 れている。
  1976年、北里のペスト菌発見をめぐる不明瞭な状態は、
 意外な形で決着する。
  いままで活発な論議を繰り広げていたヨーロッパでも、
 日本でもない「アメリカの研究者」が詳細な論文を発表
 した。
  サンフランシスコ陸軍研究所のビベルと、カリフォル
 ニア大学のチェンは、19ページを費やし、この問題に第
 三者的な立場から分析を加えた。
  香港での活動内容、ペスト菌発見時の状況、発見時の
 論文の対比、意見の対立、矛盾点の確認と問題点、細菌
 学上の分析、検体汚染の可能性、北里の再評価、臨床的
 応用など、多項目にわたり客観的な検証と評価がなされ
 た。
  その結果、エルサンと同様、北里も香港でペスト菌を
 発見したことは間違いないと結論づけた。
  この論文は、この問題に関する報告の事実上の決定版
 とされており、北里はペスト菌の発見者として確定され
 た。
  エルサンが、「ペスト菌はグラム陰性」という結論を
 出したのが分かっているのに、なぜ北里は2年も後になっ
 て「グラム陽性」を主張したのだろうか?
  日本へ戻った北里は、香港から持ち帰った多くのペス
 ト患者の血液標本をグラム染色した。
  するとグラム陰性の「エルサン菌」以外に、「グラム
 陽性の菌もあることがわかった」。
  香港調査団に参加し、現地でペストにかかって敗血症
 を起こした2人の日本人の血液からも、グラム陽性の菌が
 検出された。
  「グラム陽性のペスト菌もある」と、そのときは言葉
 で・・北里は「これもペストの病原菌とすべきではない
 か」と考えた。
  ペストに罹患すると、まず脾臓やリンパ節などの腺が
 腫れ・・その腺を切開して組織を顕微鏡で見ると、「エ
 ルサン菌」が見られる。
  さらに、ペストが重症化し、敗血症に進んでくると、
 血液中にも菌が出てくる。
  その血液を顕微鏡で見ると、エルサン菌と似てはいる
 が「グラム陽性を示す菌が現れる」。
  これはおそらく、ペストが重症化し、抵抗力が衰えた
 患者に二次感染をした、
  たとえばレンサ球菌などではなかろうか。
  ペストの本質を敗血症にあると考えていた北里は、自
 分が香港で発見したペスト菌を打ち捨てても、こちらの
 「北里菌」が重要だと考えた。
  以上が、檀原氏の見解。
  実際の診療を考えれば、ペストを診断するとき、いち
 いちリンパ節を切開するわけにはいかない。
  したがって患者の血液中の菌で診断しようというのは、
 より現実的な手法。
  また、ペストが進行すると、結局は、敗血症で死亡す
 ることが多いのだから、治療のことを考えれば、敗血症
 を起こすとき増えてくる菌に注目するのも医学的。
  学問的な結果としては報われなかったが、北里は、常
 に、実際の診療や予防の役に立つ研究を心がけていた。
  その「実学」を重んじる北里の考え方が、1897年の「
 伝染病予防法」、1899年の「開港検疫法」など、伝染病
 を予防するための法律の整備、さらには、ネズミ駆除な
 どによる感染経路の分断対策として生かされ、日本は「
 ペストのない国」となった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:それも、そのことを政府に認めさせたというが、筋の通らない無理を
   強いたのだろう・・歴史的、科学的智識の裏付けのない馬鹿々々しい話だ。
.
紀元前46億年以前、太陽系の形成・・地球が誕生する直前
  太陽は、過去の超新星爆発で散らばった星間物質がふ
 たたび集まって形成された『種族Ⅰ』の星と考えられて
 いる。
  また、太陽系には、鉄や、金や、ウランといった重元
 素が多く存在している。
  これらの重元素の成因は、質量の大きな高温の星の内
 部での元素合成と・・、
  その後に発生する超新星爆発によって作られ・・宇宙
 空間にまき散らされた・・という過程が、最も可能性が
 高いシナリオとされている・・、
  太陽系は・・46億年前に形成され始めた。
.
紀元前45億4000万年、地球が誕生した。
  太陽系の隕石や、月の岩石の生成年代から、この頃、
 原始地球が形成された。
.
紀元前44億年、最古の岩石鉱物
  現在、知られている最古の岩石鉱物が現れた。
.
紀元前40億年、原始海洋ができた、そして、プレートがで
 き・・そして、プレートが移動し始める。
  この頃、花崗岩(カナダ北部のアカスタ片麻岩)がで
 き、プレートができ・・
  古い変成岩に含まれる堆積岩の痕跡などから、43億年
 前~40億年前頃に、海洋が誕生したとみられ・・
  この海洋は、原始大気に含まれていた水蒸気が、火山
 からの過剰な噴出と温度低下によって凝結して、雨とし
 て降り注いで形成された。
  また、この頃、原始生命が誕生したと考えられている
 (生命の起源)
  マントル対流の作用で、プレートの移動が始まる。
  物理的・化学的に安定した物質として知られるダイヤ
 モンドに着目した学者が・・、
  ダイヤモンドは、安定して存在するため、地中で起き
 た出来事を記録していると考えた・・
  いわば「タイムカプセル」として機能することが知ら
 れているが・・この事から、ダイヤモンドを使って過去
 の地中の様子を推察する研究を行なった。
  研究グループは、南アフリカのカープバールクラトン
 から採掘された、世界でも最も古いとされるダイヤモン
 ドの標本3つを、ヨハネスブルクのアフリカ博物館から借
 り、放射性年代測定することで、ダイヤモンドを含む岩
 石(母岩)が、35億年前~31億年前に誕生したことを突き
 止めた。
  また、この後の研究で、ダイヤモンド内部の成分のう
 ち、窒素15/窒素14、炭素13/炭素12の同位体構成比を調
 べることで、ダイヤモンドが結晶化したマントル内部で
 はなく、地表付近の地殻で窒素15同位体がドープ(添加)
 された事を突き止めた。
  これは、ダイヤモンドが、プレートテクトニクス(大
 陸移動)の動きによって地中に引きずり込まれたことを
 意味していた・・
  「早ければ35億年前にはプレートテクトニクスが始ま
 っていた」と、プレートテクトニクスの起源について結
 論づけた。
.
紀元前35億年、大陸移動(プレートテクトニクス)の始ま
 り・・
  この地球の「大陸の形成」と「大陸の移動(プレート
 テクトニクス)」の発見は・・
  1910年、ドイツのアルフレッド・ベゲナーは、大西洋
 をはさむ南アメリカとアフリカの海岸線の形が、その凹
 凸が、偶然とは思えないほど一致している・似ていると
 気付いた(1912年説あり)
  そして、この両大陸は、元は一つの大陸と考えれば、
 古い地層の連続や、氷河の痕跡や、2億年前の生物の分布
 (古生物のグロソプてリスやメソサウルス)などが無理
 なく説明でき・・
  大陸は、無理なく分裂し、移動し、今の姿になったに
 違いないと考えた・・が・・この当時、この説は、世に
 認められなかった。
  ベゲナーの死後、20年の後、大陸移動説は見直された。
  その切っ掛けは、海底の大山脈(海嶺)の発見だった。
  海嶺は、地上では見られないほど長い海底火山の連な
 りだった。
  その総延長は、6万キロメートルにも及んでいた。
  溢れるマグマは、海水で冷やされ厚さ数10キロメート
 ルの枕状溶岩の岩盤が形成され・・これがプレートで・・
  地球の表面は、10数枚のプレートから成っていた。
  ユーラシアプレート、フィリピン海プレート、太平洋
 プレート、北アメリカプレート、南アメリカプレートな
 どで・・このプレートは、様々な方向へ移動していた・・
  また、海底だけでなく、大陸も移動していた。
  マグマは、鉄を含有していて、冷える時に地球の磁気
 に影響され、磁気を帯びる。
  この磁気は、その後、消えることなく、この岩盤が生
 まれた時の方向を保ち続ける。
  1500万年前、地球の磁場は、度々、南北が逆転して来
 たことも分かった。
  そこで、岩石の方向が分かれば生まれた年代が分かっ
 た。
  例えば、東太平洋海嶺の岩石の地磁気の方向を調べる
 と・・、
  海嶺の軸に対象に分布した岩石の地磁気の逆転が記録
 されていた。
  また、その生まれた岩石の年代の分布からプレートの
 移動速度が分かった。
  東太平洋海嶺の場合、1億6000万年前に生まれてから、
 日本付近に移動し、到達していた。
  そのプレートは、日本列島の手前の日本海溝で沈み込
 み・・海溝がその為に出来ていた。
  日本列島の太平洋岸には、縞模様の岩石が良く見られ
 る。
  砂岩と泥岩の積み重なった地層が、時には褶曲もして
 いる。
  沖縄から関東まで1600キロに及ぶ地層は「四万十帯(
 しまんとたい)」と呼ばれ・・
  この四万十帯が、日本列島の誕生する姿を教えた。
  この地層は、砂層と泥層の互いに分布する砂泥互層で・・、
  この砂層を顕微鏡で観察すると、すべて陸地を作る花
 崗岩の破片だった。
  風化が少ない事から、一気に堆積した事が分かった。
  また、泥層を顕微鏡観察すると、断面は細かい砂と泥
 が縞模様を作り、静かにゆっくり堆積したことが分かっ
 た。
  これ等の堆積が、周期的に変化する場所で、1982年、
 国際研究として、四国沖が掘削された、そして、この南
 海トラフの浅い構造を調べた。
  その掘削された試料の上層の550メートルは、30センチ
 ほどの砂の層と、5センチの泥の層が交互に重なっていた。
  この砂の層を顕微鏡で見ると、火山を起源とする砂粒
 がたくさん含まれていた。
  この四国沖には、170万年間、火山は無い・・ならば、
 この火山性の砂はどこから来たのか?
  その試料と比較するため、沖縄から関東に至る川の砂
 のすべてが調べられた。
  すると、この南海トラフの砂は、富士川の砂によく似
 ていた。
  化学組成を分析すると伊豆・箱根火山の砂に似た特徴
 が含まれていた。
  掘削地から約600キロも離れた所の砂が、何故、南海ト
 ラフに堆積したのか?
  その富士川の源流は、激しく隆起をし続ける南アルプ
 スである。
  この山の岩石が、急流の富士川を下り、細かくなり、
 そして、駿河湾に堆積する。
  この堆積物が、巨大地震を引き金として、影響され、
 海底をなだれの様に移動する・・乱泥流と言われる・・
 移動速度は30キロ/時間・・
  駿河湾付近では、周期的に繰り返される地震で、大量
 の堆積物が、乱泥流となって600キロ離れた南海トラフに
 達し、30センチの砂の層を形成した・・
  そして、500年ごとに乱泥流が繰り返され・・その後は、
 ゆっくりと泥の層が降り積もって形成された。
  こうして55万年かかって、南海トラフの堆積層が作ら
 れて来た。
  1970年代、堆積岩に含まれる微小な化石が取り出せる
 方法が開発された。
  採集されたサンプルに、3%のフッ化水素を加えて、岩
 石の表面を溶かす・・そして、プランクトンの化石を残
 す。
  これを顕微鏡下で拾い上げて、これに金を蒸着させて、
 電子顕微鏡で観察する。
  膨大なサンプルを研究した結果、放散虫というプラン
 クトンの年代的な変化が明らかになった。
  (参考)放散虫:ほうさんちゅう、(「放射状の棒」
     の意味)は、原生生物の一群で、主として海の
     プランクトンとして出現する単細胞生物。
      珪酸質などからなる骨格を持ち、そのため微
     化石として発見される。
  こうして放散虫の種類によって地層の年代が特定でき
 る様になった。
  この方法で、四万十帯を調べてみると、普通とは逆に、
 上層が古く、下が新しかった。
  フィリピン海プレートは、3~4センチ/年の速さで南海
 トラフに沈み込んでいる。
  1980年、反射式人工地震波によって南海トラフの地下
 構造が調べられた。
  その結果、モデル実験の実験室実験と同様に、褶曲し
 ていた。
  玄武岩層のプレートの沈み込みで、上層に堆積した層
 は次々に圧縮され、褶曲した付加体となった。
  やがて、次々に付加された付加体は、隆起して陸地と
 なって行った。
  この褶曲が、四万十帯の下の層が新しい層という理由
 となった。
  岩石の磁気の方向の伏角で、岩石の誕生した緯度が調
 べられた。
  すると、四万十帯の岩石は、様々な年代の岩石が入り
 混じっている事が分かった。
  特殊な地層も発見された・・7000万年前の泥岩、その
 隣に1億3000万年前の枕状溶岩があるという状態だった。
  また、1億年前の放散虫化石が含まれる岩石と・・、
  陸地の堆積物を含まない遠い海洋の遠洋性堆積物によ
 る岩石だった。
  赤や緑の頁岩(けつがん)は、9000万年前に・・陸地
 に近い所は、粘土や放散虫が堆積したもの・・赤い石灰
 岩は、1億3000万年前のプランクトンの化石で出来ていた・・
 堆積した場所は、赤道付近である・・
  7000万年前の乱泥流堆積物・・乱泥流堆積層・火出灰
 層と泥岩の互層・チャート・枕状溶岩・・これらの様々
 な岩石が混在する900メートルの層(メランジュ)・・
  メランジュは、「かき混ぜる」という意味。
  1億3000万年前、赤道付近の海嶺で、枕状溶岩が生まれ、
 その上にナンノプランクトンが堆積するナンノ石灰岩が
 堆積する。
  1億年前頃に、中緯度までプレート移動して来て・・
 この上に、放散虫が堆積したチャートを作り・・風で運
 ばれた赤い粘土が、頁岩となってその上に堆積する・・
 陸地に近い南海トラフで、7000年前頃、泥や火山灰が積
 もり・・また、乱泥流堆積物も乗り、沈み込むプレート
 から剥ぎ取られ付加体となり・・隆起して、やがて、地
 上に現れる。
  1億3000万年の時間と、3000キロの移動距離で出来上が
 って来た岩石が、プレートの運動で混ぜ合わされて形成
 された。
  こうして四万十帯が出来上がった。
  こうした付加体が、日本列島を形成するという考え方
 ができた。
  四万十帯と中央構造線に挟まれた「秩父帯」にもメラ
 ンジュがある。
  つまり、プレートの沈み込みによって作られた付加体
 である。
  そして、ここのチャートは、四万十帯より古い3億5000
 万年前~1億8000万年前にかけて、赤道付近で降り積もっ
 た放散虫の化石からできている。
  四万十帯より古い乱泥流堆積物もある。
  秩父には、四万十帯にない武甲山のような石灰岩の大
 きなブロックがある。
  塩酸で石灰岩の表面を溶かすと、3億年前のウミユリや
 フズリナやクサリサンゴなどが現れる。
  赤道地域の珊瑚で形成された石灰岩は、鹿島沖の日本
 海溝に、1億年前に出来た海山(第一鹿島海山)が沈み込
 もうとしている。
  人工地震波で見ると、プレートに曲げの力が働いて、
 石灰岩は分断され、半分は海溝に崩れ落ちている。
  こうして剥ぎ取られた海底の海山は、付加体の一部と
 なって取り込まれ、やがて地上に現れる。
  1億5000万年に、これが起きたのが武甲山の石灰岩の山
 の頂(いただき)。
  日本列島に、4億年以上前の岩石を含む黒瀬川構造体が
 ある。
  高知県横倉山・・ここには、4億年前に堆積した地層の
 凝灰岩がある。
  ここの三葉虫の化石は、4億年前のオーストラリアの三
 葉虫の化石によく似ている。
  また、鱗木(りんぼく)の化石は、この四国とオース
 トラリアと中国だけに見られるタイプである。
  陸の植物である鱗木の化石が、破壊されないで見つか
 るのは、分析学の発達によって分かったことは、4億2000
 万年前、アジアの大部分が赤道付近にあったということ
 だった。
  シベリア・北アメリカ・中部アジア・東アジア・北ヨ
 ーロッパ・南アメリカ・アフリカなど・・、
  その後、プレートの運動によって、2億6000万年前、ア
 ジアを造る大陸が北上して行った。
  北上・阿武隈・黒瀬川地塊、秋吉海山列、チーヌス海
 海嶺・・、
  2億年前、北半球では、チベットプレート、イザナギプ
 レート、ファロランプレートの上にある大陸が衝突して
 アジア大陸が作られた。
  その大陸の縁(へり)に、プレートの堆積物が付加し
 て黒瀬川帯などが作られ、
  海溝では、秩父帯などの付加体が形成された。
  1億3000万年前、プレート(イザナギプレート)の北上
 によって、ユーラシアプレートの大陸の縁に横ずれ断層
 が起き・・、
  長さ1000キロにわたる付加体が、断層帯に沿って移動
 し、中央構造線が出来上がった。
  7000万年前、プレート(イザナギプレート)の沈み込
 みによって四万十帯の付加が始まった。
  こうして赤道付近に生まれたアジアプレートが、アジ
 ア付近に様々な地層を運び、海溝(古日本海溝)で混ぜ
 合わされて、日本列島の土台が作られていった。
  1900万年前、大陸(ユーラシアプレート)の縁の地溝
 帯に海が侵入して、海底の拡大が始まり、200万年~300
 万年の間に、日本海が出来上がった(1450万年前)。
  800万年前、水没し、沈み込んでいた東北日本が、太平
 洋プレートによる沈み込みで隆起が始まった。
  その後、500万年前、伊豆・小笠原孤の高まり隆起が付
 加して丹沢山塊などを作った。
  50万年前、伊豆半島の衝突が始まった。
  その力で、本州に褶曲山脈が作られた。
  伊豆半島は、巨大な海底台地で・・、
  伊豆・小笠原弧の高まりは、次々に本州に衝突して来
 ている。
  海洋プレートの水分の作用で温められマントルが熔け、
 火山の列を作る。
  それ故、火山の列は、海溝に並行して作られることに
 なる。
  地震の震源が、海溝に並行して分布するのも、プレー
 トの沈み込みによって歪が溜まるためである。
  昭和61年12月、伊豆大島噴火、この様な太平洋岸での
 火山の噴火や地震が多く発生する。
  昭和49年5月、伊豆半島沖地震、
  太平洋岸の海辺に貝殻を含む岩石が良く見られるが、
 これは地震によって隆起した岩石で・・、
  太平洋岸にある段丘も、プレートによる隆起が作り出
 したもの。
  今も日本列島の沖、百数拾キロの沖にある海溝には、
 海洋プレートが沈み込み、付加体を造り続けている。
.
紀元前7億年~紀元前6億年、ゴンドワナ超大陸の存在
  大陸の移動は、大陸の集合と分裂の繰り返し・・
  6億年前、ゴンドワナ超大陸が南半球から赤道にかけて
 あった。
  ゴンドワナ超大陸の真ん中に太平洋スーパープルーム
 が上昇してきたことによって、ゴンドワナ超大陸は分裂
 しはじめた。
.
紀元前4億2000万年、この頃、アジアの大部分は赤道付近に
 あった。
  鱗木(りんぼく)の化石は、日本の四国と、オースト
 ラリアと、中国だけに見られ・・、
  陸の植物である鱗木の化石が破壊されないで見つかる
 のは、分析学の発達によってわかったのだが、この頃、
 アジアの大部分は赤道付近にあったことだった。
.
紀元前4億年、日本列島にある黒瀬川構造体には、この年代
 にできた岩石を含んでいる。
  また、高知県横倉山には、この頃に堆積した地層の凝
 灰岩がある。
  ここの三葉虫の化石は、4億年前のオーストラリアの三
 葉虫の化石によく似ている。
.
紀元前3億5000万年~紀元前1億8000万年、日本列島を形づ
 くる四万十帯より古い「秩父帯」ができた。
  この秩父帯は、この頃、赤道付近で降り積もった放散
 虫の化石からできた。
  また、この頃のウミユリや、フズリナや、クサリサン
 ゴなどから造られた石灰岩が秩父帯にはあり、その有名
 な山が武甲山で、セメントが作られている。
.
紀元前2億6000万年、プレート運動によって、アジアを造る
 大陸が北上して行った。
.
紀元前2億年、ゴンドワナ超大陸が分裂(ぶんれつ)した後、
 大陸がふたたび集合してパンゲア超大陸が生まれた。
  アフリカと南アメリカ大陸の間、ヨーロッパと北アメ
 リカ大陸の間、今の大西洋(たいせいよう)にそって、
 大西洋スーパープルームが上昇して来た。
  そして、ふたたびパンゲア超大陸が分裂しはじめた。
  また、この頃、北半球では、チベットプレート、イザ
 ナギプレート、ファロランプレートの上にある大陸が衝
 突してアジア大陸が作られた。
  その大陸の縁(へり)に、プレートの堆積物が付加し
 て黒瀬川帯などが作られ、海溝では秩父帯などの付加体
 が形成された。
.
紀元前1億6000万年、日本に到達するマントルが出来た。
  日本に到達するマントルができた東太平洋海嶺・・こ
 こから1億6000万年かかって、日本付近に移動して来た。
.
紀元前1億5000万年、武甲山が地上に隆起した。
.
紀元前1億3000万年、日本列島を形成する一要素の「枕状溶
 岩」が造られた。
  また、日本列島を形成する一要素の「赤い石灰岩」は、
 この頃のプランクトンの化石から出来た。
  この岩石の堆積した場所は赤道付近の海嶺。
  そして、その上にナンノプランクトンが堆積するナン
 ノ石灰岩が堆積されてできた。
  また、この頃、プレート(イザナギプレート)の北上
 によって、ユーラシアプレートの大陸の縁に横ずれ断層
 が起き、長さ1000キロにわたる付加体が断層帯に沿って
 移動し、日本列島の中央構造線が出来上がった。
.
紀元前1億年、日本列島を形成する一要素の1億年前の放散
 虫化石が含まれる岩石が形成された。
  (参考)放散虫:ほうさんちゅう、「放射状の棒」を
     意味する・・原生生物の一群。
      主に、海のプランクトンとして出現する単細
     胞生物で、珪酸質などからなる骨格を持ち、そ
     のため微化石として発見される。
  この放散虫の岩石の上に、風で運ばれた赤い粘土が、
 頁岩となってその上に堆積した。
  また、この頃にできたのが鹿島沖の日本海溝にある海
 山(第一鹿島海山)で、今、日本海溝に沈み込もうとし
 ている。
.
紀元前9000万年、日本列島を形成する一要素である「赤や
 緑の頁岩(けつがん)」が、この頃に作られた。
.
紀元前8300万年、パンゲア超大陸は分裂を続け、太平洋と
 大西洋(たいせいよう)のスーパープルームが断続(だ
 んぞく)的に活動した時期・・
  このスーパープルームの活動で、海洋底(かいようて
 い)に火山活動によるいくつもの巨大(きょだい)な火
 山の台地(だいち)である海台(かいだい)ができた。
.
紀元前7000万年、日本列島を形成する一要素の「乱泥流堆
 積物」がこの頃に出来た。
  この乱泥流堆積物は、この後、火山灰層と泥岩の互層
 や、チャートや、枕状溶岩などとかき混ぜられメランジ
 ュと呼ばれる層となる。
  メランジュはかき混ぜるという意味。
  そして、この頃、プレート(イザナギプレート)の沈
 み込みによって四万十帯の付加が始まった。
  こうして赤道付近に生まれたアジアプレートが、アジ
 ア付近に様々な地層を運び、海溝(古日本海溝)で混ぜ
 合わされて、日本列島の土台が作られていった。
.
紀元前1900万年、大陸(ユーラシアプレート)の縁(へり)
 の地溝帯に、海が侵入して、海底の拡大が始まり、200万
 年~300万年の間に日本海が出来上がった(1450万年前)
.
紀元前1500万年、地球の磁場は、度々、南北が逆転して来
 た。
.
紀元前800万年、水没し、沈み込んでいた東北日本が、太平
 洋プレートによる沈み込みで隆起が始まった。
.
紀元前700万年、初期猿人がアフリカに出現した。
  二足歩行をした・・
  そして、猿人へと進化して行く。
.
紀元前500万年、伊豆・小笠原孤の高まり隆起が付加して丹
 沢山塊などを作った。
.
紀元前200万年、猿人(能容積500㏄、ゴリラもこの程度、
 木製の道具を使ったか?)から原人(能容積500㏄から
 1200㏄、石器を使うようになる)へ移り変わって行く・・
  そして、この原人がアフリカから出ていく(180万年
 前)・・
  ジャワへ180万年前から160万年前に至る・・
  ジョージアへ170万年前に至る・・
  アジアへ160万年前から120万年前に至る・・
  ヨーロッパへ100万年前に至る・・
  そして、各地で人種が形成されていく・・
.
紀元前55万年、日本列島を形成する要素の一つの堆積が始
 まる。
  日本列島形成の一例・・55万年前から、55万年かかっ
 て南海トラフの堆積層が作られて来た。
  この堆積層が、プレートテクトニクスによって列島を
 作っていく。
.
紀元前50万年、伊豆半島の衝突が始まる。
  その力で、本州に褶曲山脈が作られた。
  伊豆半島は、巨大な海底台地となる。
  伊豆・小笠原弧の高まりは、次々に本州に衝突して来
 た。
  海洋プレートの水分の作用で温められマントルが熔け、
 火山の列を作った。
  火山の列は、海溝に並行して作られた。
  また、地震の震源が、海溝に並行して分布し、プレー
 トの沈み込みによって歪が溜まる。
.
紀元前40万年、ネアンデルタール人は、約40万年前に出現
 し、2万数千年前に絶滅したとみられるヒト属の一種・・
  ただし、新しい学説では、以前の学説よりも約1万年早
 く4万年前に絶滅していたと新しい化石年代は示している
 とする。
  そのネアンデルタール人は、花を敷いて葬送したとい
 う。
  また、身体的に欠陥のある人(手の悪い人)を丁重に
 葬ったという遺跡があるという。
.
紀元前20万年、旧人(能容積1500㏄、現代人とほぼ同じ容
 積)から新人(ホモ・サピエンス)へ・・
  この新人(ホモ・サピエンス)がアフリカから出てい
 く・・
  ホモ・サピエンスの化石はアフリカか中東からしか出
 土しない。
  その他の地域から、ホモ・サピエンスの化石が出て来
 るのは紀元前5万年前くらいの年代からとなる。
  ヨーロッパからの化石の出土も紀元前4万年くらい前か
 らとなる。
  南アジア・東アジア・オーストラリアも、どんなに古
 くても紀元前4万年くらい前からの化石の出土となる。
.
紀元前6万年~紀元前4万年、大陸に地続きだった日本列島
 に、あらゆる方向から人類がやって来た・・
     ・
     ・
     ・
1982年、日本列島の成り立ちを調べるために、国際研究で、
 四国沖が掘削された・・
  そして、その南海トラフの浅い構造が調べられた。
.
2018年、アイヌの方々が、「日本列島の先住民だ」と、今・
 現代の2018年に主張する・・その様な会に出た。
  しかし、これは、大間違い。
  日本列島が、まだ、大陸と地続きだった頃、今から6万
 年前から4万年前に、アイヌの方々が日本列島に来て、そ
 して、交雑もしないで日本列島に居たのであるならば、
  また、それ以後も、アイヌの方々が交雑もしないで今・
 現代に至って居るというのであるのであるならば、日本
 列島の先住民と言えるが、その様な状態であったとは、
 まったく言えない・・その様な状態ではなかったので、
 アイヌの方々が、先住民であると、到底、言えない。
  6万年前から4万年前から、地続きの日本には、あらゆ
 る方向から人々が日本列島にやって来た・・アイヌでは
 ない。
  また、人間の交雑は、最近、ネアンデルタール人の血
 が交雑されて、我々の血に混ざっていると科学が証明さ
 れたが、人間の交雑は、この様に広い範囲で交雑されて
 いて・・アイヌだけが交雑されないで来たとは、到底、
 言えない。
  大陸と地続きの頃から、あらゆる方向から人間が日本
 列島にやって来た・・それらの人々・・
  また、それ以降も、引き続き、日本列島にやって来た
 人々・・
  それらの方々が、広い交雑の中から「日本列島の先住
 民の人々」を形成し、出来上がった。
  その人々が、本州の人々や、津軽の人々や、九州の人々
 や、北海道の人々や、会津の人々や、四国の人々や、無
 土器の人々や、縄文の人々などなどとなった・・そして、
 本州人やアイヌの人や琉球の人や熊襲(くまそ)などな
 どとなった。
  6万年前や4万年前から日本にやってきた人々から見れ
 ば、そんなことは、最近の事なのだ。
  アイヌの方々だけが先住民だなんて、到底、言えない。
  それも、そのことを政府に認めさせたというが、筋の
 通らない無理を強いたのだろう・・歴史的、科学的智識
 の裏付けのない馬鹿々々しい話だ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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# by suba28 | 2018-08-13 04:51 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)606E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年8月)

題:(増補版)606E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年7月16日、日英通商航海条約が締結された。
  この条約によって、領事裁判権が撤廃された。
  安政五ヶ国条約の一つとして結んだ日英修好通商条約
 にかわって、この日、駐英公使・青木周蔵(しゅうぞう)
 が、イギリス外相のキンバリーと調印した。
  この条約は、1899年7月17日に発効し、最初の対等条約
 となった(陸奥(むつ)条約とも呼ばれる)
  日本は、この条約に準じて、他の欧米諸国とも法権の
 回復の新条約を締結した。
  これ等の不平等条約を発効させて、明治初年以来の懸
 案の条約改正交渉に成功した。
  日本も、やっと、欧米列強と対等の国際的地位に立つ
 ことが出来た。
  キンバリー英国外相は、この条約の成功は清国の大兵
 を敗走させるよりも日本の地位を高めたと祝辞を述べ、
 日本の立場に理解を示した。
  また、陸奥宗光外相も、日清戦争にイギリスの理解と
 援助を期待できるとした。
  この条約で、領事裁判権は取り返すことが出来たが、
 まだ、関税自主権の回復はできなかった。
  この関税自主権の回復は、1911年4月3日の新条約(小
 村条約)の調印による税権回収を待たねばならなかった。
.
1894年7月29日、東京府庁舎が落成した。
  設計は、妻木頼黄
  建設場所は、麹町区有楽町(現在の有楽町駅前)
  当初、東京府庁舎は、東京市幸橋門内(現在の内幸町
 一丁目)の旧大和郡山藩邸に開設されていた。
  そして、1898年に、東京市庁舎も完成した。
  1943年の第二次世界大戦中に、東京市 と東京府 が廃
 止され、東京都が設置された。
  建物は戦災で焼失した。
  1955年3月、敷地一帯が、旧跡として東京教育委員会に
 よって文化財指定された。
.
1894年7月、日清戦争により、長崎の清国人に引揚命令が下
 された。
  しかし、長崎県知事の以下の諭告(ゆこく、さとし言
 い聞かせること。また、その言葉)によって、、、267人
 の中国人が残った。
  「仮令(たとえ)日清両国間に如何なる関係あるも、
 在留人民に対し充分の保護を与ふるは、当然の儀に付、
 反目敵視粗暴の挙動無之様相心得べし」と。
.
1894年7月、北海道庁が、帝国大学工科大学教授・田辺朔郎
 に鉄道・港湾・疏水・運河などについての調査を依頼す
 る。
  1894年8月から、田辺は、北海道鉄道ルートを調査開始
 した。
  また、北海道庁内に鉄道調査会が設置された(技師の
 委員は田辺、廣井、佐藤だった)
  (参考)田辺朔郎:たなべさくろう、1861年12月2日~
     1944年9月5日、土木技術者、工学者。
      琵琶湖疏水や日本初の水力発電所の建設、関
     門海底トンネルの提言を行なうなど、日本の近
     代土木工学の礎を築いた。
      北海道官設鉄道敷設部長として北海道の幹線
     鉄道開発に着手し、狩勝峠の名付け親。
      1896年、北海道庁長官を務めていた岳父(が
     くふ、妻の父)北垣国道に請われ、東京帝国大
     学を退任し、北海道庁鉄道部長として北海道官
     設鉄道の計画・建設にあたる。
      アメリカの科学誌『サイエンティフィック・
     アメリカン』に論文掲載される。
.
1894年7月、陸軍省の依頼によって、日本鉄道が目黒駅~
 品川駅間にある大崎駅から分岐して、東海道線の品川駅
 ~大森駅間にある大井に接続する軍事専用線(品川西南線)
 の起工を行なった(8月下旬竣工)
  これは、連絡駅の役目にあった品川駅における貨車の
 滞貨があったため、日清戦争の関係もあって円滑輸送を
 図るべく、陸軍省が逓信省鉄道作業局に路線建設工事を
 委託させて、1894年8月、大崎駅~大森駅間に陸軍省直通
 短路線を開通させた。
  因みに、日本の最初の鉄道の開業と言われる新橋~横
 浜間の全線開業より先に・・、
  1872年6月12日には、品川駅~横浜駅間が先行して仮開
 業していた。
.
1894年7月、甲武鉄道会社が、陸軍省の委嘱を受けて、青山
 練兵場への軍用線、および、青山軍用停車場の建設に着
 手した。
  これは、現在の千駄ヶ谷駅と信濃町駅の間の神宮外苑
 あたりに突貫工事で、1894年9月17日に、青山軍用停車場
 を開業させ、1894年9月23日から軍用輸送を開始した。
.
1894年7月、阪鶴鉄道会社に、神崎から三日町、および、
 篠山町近傍を経て、福知山(京都鉄道)に至る鉄道の敷設・
 運輸営業の仮免状が下付された。
  1929年4月30日、免許状下付。
  (参考)阪鶴鉄道:はんかくてつどう、大阪から福知
     山を経て舞鶴を結んでいた鉄道路線、および、
     その路線を運行していた鉄道会社。
.
1894年8月1日、日本と清国は、互いに宣戦布告をした。
  天津条約によって小康状態はあったが、日清戦争が
 公式に始まった(~1895年)
  まず出兵し、朝鮮を力で抑え、属国だとして扱って来
 た大国・清への挑戦が始められた。
 ・清国と和破れる(氷川清話)
  中国・清国の宣戦布告書には、『朝鮮は、我が大清の
 直轄の属領』と書かれ・・
  また、『200年余も修めて来た』と言っている。
  清国の宣戦の詔勅(部分):「朝鮮ハ我大清ノ藩屏(
 ハンペイ:直轄の属領)タルコト200年余、歳ニ職貢ヲ修
 メルハ中外共ニ知ル所タリ…」
  (参考)職貢:しょくこう、中国王朝皇帝に対する周
     辺国や少数民族の進貢(しんこう、みつぎ物を
     差し上げること)
  清は、この様な意識と態度だった。
  ただのあいさつ代わりの御中元だったかもしれない?
 また、みかじめ料的なところもあった・・
  それに対し・・
  日本は、『朝鮮は自主独立の国』とし、そして、清国
 は、日本の行為に妨害ばかりして来ていた・・、
  また、朝鮮も、『自主独立の国』との回答を日本に寄
 せ、助けを求めて来ていた。
  この時点で、外国は清国が勝つとみており、また、清
 国も勝つと考えていた。
  そして、1888年には、すでに、山縣は、内閣総理大臣・
 伊藤博文に、「軍事意見書」で以下のことを述べていた・・
  「我国の政略は朝鮮を、自主独立の一邦国となし、欧
 州の一強国、事に乗じて之〔朝鮮〕を略有(りゃくゆう、
 奪い取って自分のものとすること)するの憂いなからし
 むに在り」
.
1894年8月1日、新聞報道に対する政府方針
  1891年の大津事件に於いて、自由な新聞報道が外交に
 係るこの事件の性質上、大いに問題となった。
  その様な新聞報道の自由性に関し、この日清戦争の開
 戦時も、重大な政府の関心事となった。
  しかし、政府は、この開戦時に、新聞報道に神経を尖
 らせはしたが、政府は新聞検閲は実施しなかった。
  そして、1894年8月1日に・・、
  「外交又ハ軍事ニ関スル事件ヲ新聞紙雑誌及ヒ其ノ他
 ノ出版物ニ掲載セントスルトキハ行政庁ニ其ノ草稿ヲ差
 出シテ許可ヲ受クヘシ」という緊急勅令第134号を公布し
 た。
  しかし、効果的な対策とはならなかった。
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1894年8月11日、九州鉄道の熊本駅~川尻駅間が開通した。
  九州鉄道は、1894年8月1日に、九州各地の軍隊が門司・
 小倉に集結したが、特に、熊本第6師団の兵員輸送に大き
 な役割を果たしていた。
  また、この日、1891年8月の鳥栖~佐賀間開通以来の新
 線として熊本駅~川尻駅間が開通した。
  熊本駅~宇土駅間は、橋梁工事が多く、経済不況と相
 まって工事が遅延していた・・九州鉄道は工事期限を延
 長した。
  (参考)九州鉄道:きゅうしゅうてつどう、明治時代
     に存在した九州の私設鉄道会社。
      北九州市門司区に旧本社の建物が残存し、2003
     年から九州鉄道記念館として利用されている。
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1894年8月20日、広島駅~宇品駅間の仮設軍用鉄道が開通し
 た。
  山陽鉄道の広島駅~宇品駅間の5.8キロが竣工した。
  陸軍省から委託された軍用鉄道仮設工事だった。
  1896年10月、陸軍省から借り受け
  1896年12月、改築工事に着手
  1897年4月、竣工し
  1897年5月1日、開業した。
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1894年8月20日、暫定合同条款(ざんていごうどうじょうか
 ん)
  日本は、朝鮮と暫定合同条約を調印した。
  「大日本・大朝鮮、兩國政府ハ、日本暦明治二十七年
 七月二十三日、朝鮮暦開國五百三年六月二十一日、漢城
 ニ於テ兩國兵ノ偶爾衝突ヲ興シタル事件ヲ治メ竝將來朝
 鮮國ノ自由獨立ヲ鞏固ニシ且彼此ノ貿易ヲ奬勵シ以テ益
 兩國ノ親密ヲ圖ラムカ爲メ茲ニ合同條款ヲ暫定スルコト
 如左
  一 此度日本國政府ハ朝鮮國政府ニ於テ内政ヲ改革セ
   ムコトヲ希望シ朝鮮政府モ亦其ノ急務タルヲ知覺シ
   其ノ勸告ニ從ヒ勵行スヘキ各節ハ順序ヲ追テ施行ス
   ヘキコトヲ保證ス・・」
  内容・・
  大日本・大朝鮮両国政府は、日本暦明治27年7月23日・
 朝鮮暦開国503年6月21日、漢城に於て両国兵の偶爾衝突
 を興したる事件を治め、竝に将来朝鮮国の自由独立を鞏
 固にし、且彼此の貿易を奨励し、以て益両国の親密を図
 らむが為め、茲に合同條款を暫定すること如左
  一.此度日本国政府は、朝鮮国政府に於て内政を改革
   せむことを希望し、朝鮮政府も亦其の急務たるを知
   覚し、其の勧告に従ひ励行すべき各節は、順序を追
   て施行すべきことを保証す。
  一.内政改革の節目中、京釜両地及京仁両地間に建設
   すべき鉄道一事は、朝鮮政府に於て其の財政未だ裕
   ならざるを慮り、日本政府若は日本の或会社に訂約
   し、時機を見計ひ起工せむことを願ふと雖も、目下
   委曲情節ありて其の運に及び難し。
    依て良法を案出し、可成丈速に訂約起工の運に至
   るを要す。
  一.京釜両地及京仁両地間に於て日本政府より既に架
   設したる軍用電信は、時宜を酌量して條款を訂立し、
   以て其の存留を図るべし。
  一.将来両国の交際を親密にし、且貿易を奨励せむが
   為め、朝鮮政府は全羅道の沿岸に於て一通商港を開
   くべし。
  一.本年7月23日王宮近傍に於て起りたる両国兵員偶爾
   衝突事件は、彼此共に之を追究せざるべし。
  一.日本政府は、素と朝鮮を助て其の独立自主の業を
   成就せしめむことを希望するに因り、将来朝鮮国の
   独立自主を鞏固にする事宜に関しては、両国政府よ
   り委員を派し会同議定すべし。
  一.以上開く所の暫定條款は、畫押盖印を経たる後、
   時宜を酌量し大闕護衛の日本兵員を以て一律撤退せ
   しむべし。
  右暫定合同條款内永遠に循守す可き者は、後日更に條
 約として遵行すべし。
  此が為め、両国大臣記名盖印以て憑信を昭にす。
             大日本国明治27年8月20日
             特命全権公使 大鳥 圭介
             大朝鮮国開国503年7月20日
             外務大臣 金 允植
  (参考)京仁鉄道:けいじんてつどう、朝鮮の京城 (
     現:ソウル) ~仁川間に日本の資本によって敷
     設された朝鮮最初の鉄道。
      1896年、アメリカ人 J.モールスが、朝鮮政府
     からソウル~仁川間の鉄道敷設権を得た。
      しかし、資金調達ができなかったため、翌年
     の1897年から日本が資金を出して権利を受け、
     敷設への準備を開始した。
      1897年、京仁鉄道引受組合を設立、工事開始。
      1899年、合資会社に改組。
      1900年7月8日、開通した、全線約 38.9km。多
     額の日本の資金が投入された。
  (参考)京釜鉄道:けいふてつどう。日本政府と財界
     の援助のもとに、朝鮮の京城 (現ソウル) ~釜
     山間に敷設された鉄道。
      1898年9月、資本金2500万円、取締役会長・渋
     沢栄一で京釜鉄道会社が設立され、
      1902年同8月、着工、多くの紛糾を経て
      1904年、完成。
      中国の鉄道との連結のため広軌軌道の1435mm
     とした。
      ソウル~釜山間 450km。 多額な日本の資金が
     投入された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国の疑惑の「財政負担ゼロ」という誘惑に騙されてしまった。
    そして、EUがギリシャを突き放した・・支援は失敗だった・・
    ギリシャの実態は悪化している
    EUの美しい理念なんて「絵に描いた餅」なのだ・・
.
1295年11月3日、モンゴルのイルハン朝の第7代君主ガザン・
 ハンが、1295年10月4日にバイドゥを討ち破り、この日に
 君主の座に就いた。
  即位初年の勅令(ヤルリグ)で、イスラーム以外の主
 要建造物の破壊命令を発した。
  すなわち、仏教寺院(ブトハーネ、マウブード)、ゾ
 ロアスター教寺院(アーテシュキャデ)の破壊命令が発
 せられ、キリスト教会堂(キャリーサー)、ユダヤ教会
 堂(キャニーセ)もまたそれに続いて破壊を蒙った。
  既に、テグデル・ハン時代に、テグデル自身も含め、
 モンゴル軍民のイスラーム化の徴候が出始めていたが、
 このガザンの治世になって、イルハン朝は、既存のモン
 ゴル国家体制や慣習などを維持しながらも、国家規模の
 イスラーム化を推進して行った。
  中国のモンゴル時代のペルシャ史料「集史」に、オゴ
 タイ・ハーンの言葉で・・、
  「チンギス・ハーンの法令:一人回教徒を殺したら、
 罰金は40バリシ。
  一人漢人を殺したら、賞金は一匹のロバと同じ」。
  モンゴルのハーンたちは、文化水準が高く、財務が得
 意な回教徒を重要視した。
  モンゴルの各地の役所に、モンゴル人と一緒に回教徒
 が並んで居た。
  また、役所の制度にも、役職にも、回教徒が上層部に
 居て優遇されていた。
  その様な規則もある、科挙、近衛部隊、官職の相続、
 兵器の装備など。
  これは、漢人上層の時、金と権力の集中現象が起き、
 それが看過できない程度になったこともあったからだっ
 た。
  因みに、「集史」(しゅうし)は、イルハン朝の第7代
 君主ガザン・ハンの勅命(ヤルリグ)によってその宰相
 であったラシードゥッディーンを中心に編纂された歴史
 書で・・、
  イラン・イスラム世界、さらに言えば、モンゴル君主
 ガザン自身の視点が反映されたモンゴル帝国の発祥と発
 展を記した記録として極めて重要な文献。
  モンゴル史の部分の編纂には、ガザン自身も多くの情
 報を口述し、これがモンゴル史の根本となったことはラ
 シードゥッディーンも序文で述べているが・・、
  これらのことからも「集史」は、ガザン自身の見解が
 色濃く反映された歴史書。
  その性格のため「集史」は、ペルシア語で編纂された
 歴史書であるが、13、14世紀のモンゴル語やテュルク語
 やその他の多言語の語彙・用語を多く含み、そのペルシ
 ア語の用語も多く含まれている。
  このため「集史」は、モンゴル帝国が持つユーラシア
 規模の世界性をまさに体現した希有の資料とされている。
  (参考)ガザン・ハン:1271年~1304年、イル・ハン
     国第7代の君主。
      在位:1295年11月3日~1304年5月17日
      中央集権的諸改革を断行し、イスラム教に改
     宗してイラン人との融和を図った。
      学問・芸術を奨励した博学・多才の帝王。
.
1862年9月14日、生麦事件が起きる。
  武蔵国橘樹郡生麦村(現:神奈川県横浜市鶴見区生麦)
 付近において、薩摩藩主・島津茂久(忠義)の父・島津
 久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを、供回り
 の藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した。
  イギリスは、日本にこの賠償を要求した。
  そして、江戸幕府に圧力をかけるため、軍艦を横浜沖
 に集結させた。
  日本の法では、また、やり方では、この様な場合、馬
 を下り、そして、殿さまに敬意を払わなければならない
 のであり・・
  この場合の様に、馬から降りもしないで、乗ったまま
 で・・しかも、殿様の行列の進行を止め、そして、途切
 れさせ、さらに、その前を素通りするという行為は、も
 っての外の最低の不敬行為であって、この様な不敬が生
 じた場合、切り捨て御免をしても良いというのが、この
 時の日本の法であった。
  何処から見ても、薩摩藩の行為は正しかった。
  しかし、イギリスは、優位な立場を主張した。
  武力などの優位な立場を主張した。
  また、イギリスには「有色人種蔑視観」があった。
  見下す感情を持っていた有色人種の日本に於いて、白
 人のイギリス人が切り捨てられたことを怒った。
  幕府は、この事態に開戦もあり得ると、その危機を触
 書で庶民へ知らせた。
  また、将軍家の菩提寺であった増上寺の寺領だった現・
 横浜の石川村は、増上寺の荷物の避難先となった。
  そして、有事の際には、増上寺に駆け付け事にもなっ
 ていて・・増上寺の寺領の村々の人足たちは、中目黒村
 (増上寺領、目黒区)に交代で詰めた。
  また、戦いを想定した準備をした・・厚木街道などの
 付け替え工事が行われ、その人足などに、連日の負担も
 あった。
  幕府だけでなく、その周辺地域も、色々とその対応が
 なされた。
  結局、薩摩は、イギリスと戦争をすることになり、そ
 の結果、莫大な金をイギリスに盗られた・・
  そして、幕府までもが、イギリスに莫大な金を取られた・・
  国防力のない日本は、強国・イギリスに好き勝手に大
 金を取られた・・
  そして、この他にも色々と金を取られる日本という時
 代だった。
.
1940年、マンシュタイン計画
  日本と違って、ドイツの卑劣なところは、第二次世界
 大戦を事前に、計画的に、侵略する事を計画したことだ
 った。
  ドイツは、日本と違って、完全に侵略の意思があって、
 そして、戦争を始めた。
  その内の一つの「マンシュタイン計画」は、第二次世
 界大戦中の1940年に行われた「ナチス・ドイツのフラン
 ス侵攻」の主要計画だった。
  これは、1939年にフランツ・ハルダーが考案した計画
 を修正したものだった。
  故に、ドイツの第二次世界大戦は、弁解の余地が無く、
 事前の計画に基づいた侵略戦争だった。
  何年も、計画を前もって準備して、そして、意図的に、
 機械化部隊によって、電撃的に侵略を行なって行った。
  しかし、この様な大きな犯罪を、この様な行為を・・、
 戦後、ドイツは、まったく謝罪をしていない。
  日本とは「まったく違う」この様な極悪行為を、ドイ
 ツは、謝罪なしで戦後を過ごして来た。
  そして、さらに、ドイツは、この大犯罪の「戦争犯罪
 の賠償も一切していない」。
  ユダヤの方々への虐殺については、ニュルンベルク軍
 事裁判の「人道への罪」のホロコーストという大犯罪に
 対する賠償だけしかしていない。
.
1940年7月、フランス中部の都市ビシーに、ビシー政権が
 成立した。
  ペタン元帥が、上下両院の合同会議の統治権を持つ「
 正式な、そして、合法性のある政権」だった。
  ペタンは国家主席となった。
  そのため、アメリカやソ連なども正統政府の扱いをし
 た。
  しかし、フランスの国土の約5分の3を占める領土は、
 ドイツ軍が占領していたため統治は及ばなかった。
  ヨーロッパでのユダヤ人への迫害は、偏(ひとえ)に、
 他の事はさておき、ドイツだけのものではない。
  フランスもユダヤ人迫害の責任は逃れ得ない・・逃れ
 ることが出来ない。
  ドイツに占領された頃のフランスには、対ドイツ協力
 の政権であるこの「ビシー政権」ができた。
  強制収容所へ送られるユダヤの方々が、殺されるとい
 うことを知っていながら、このビシー政権は、ユダヤの
 方々を強制収容所送りを行なった。
  この様な政権が、連合軍に打倒されたのだから「フラ
 ンスは敗戦国」というのが常識である。
  しかし、連合国は、その判断を甘くして、フランスを
 連合国側へ入れてしまった。
  イギリスに亡命していたドゴールが、巧く立ち回って
 戦勝国側らしくなった。
  しかし、こんな行為は・・まゆつばである。
  また、「スイス」も、「バチカン教皇庁」も、「東ヨ
 ーロッパ諸国」も、「ソ連」も同罪である。
.
2014年4月30日、安倍首相が、ドイツを表敬訪問しても、一
 切、ドイツの報道のすべてで無視された・・一切、報道
 される事は無かった。
  ナチス・ドイツの計画表では、ユダヤ人とジプシー(
 ロマ)を絶滅させたら、次は、ポーランド人、ウクライ
 ナ人・・という順序で、次々に、民族を消し去ることに
 なっていた。
  そして、この当時、ドイツの成年男子の二人に一人は、
 ナチスの協力者だった。
  そして、ドイツの卑劣で卑怯なのは、この様な真実を
 消したいため、日本を悪く言い続けた。
  その為、中国や韓国の言い分だけは報道するが、日本
 の主張は「まったく無視した状況」となっている。
  南京問題も、慰安婦問題も、尖閣諸島の問題も、10年
 も前から、ドイツは、中国と韓国の言い分だけを報道し
 て来た。
  日本を貶(おとし)めるNHKは、馬鹿なNHKは、
 この事を知っていて、「日本を貶める番組を作ってドイ
 ツに提供した」・・よくこんなことが出来るのかと憤り
 が湧く・・
  マスコミに繰られたドイツは、日本を肯定している人
 は、わずか28%で・・日本を否定する人々が46%と、日
 本を良くないと見ている人が18%も多い。
  この原因は、ドイツの新聞が、マスコミが、すべて日
 本を悪く報道する結果から、この様な状況になっている。
  因みに、中国は、肯定5%、否定90%、否定が85%も多
 くて最悪。
  次が、韓国で、肯定15%、否定79%で、否定が64%も
 多い。
  ドイツは、この次の第3位に、日本を否定する国になっ
 ている。
  安倍首相も、徹底的に悪く書かれている。
  経済が日本に抜かれ、ベンツなどの工業部門も、日本
 に抜かれ・・この日本が、ドイツを追い抜いたところが
 心地よくないと思っている。
  日本政府の「日本の主張」も・・ドイツの報道はとり
 あげない。
  2014年4月30日、安倍首相が、ドイツを表敬訪問しても、
 一切、ドイツ報道のすべてで報道される事は無かった。
  朝日新聞の嘘報道も、事実を否定したいために利用し
 ている・・、
  だから、日本の閣僚が、例えば、一つの嘘と判明した
 証言を使って全否定するのは、ドイツのホロコーストが、
 まったく無かったと否定する様なものだという言い方で
 ドイツのマスコミは報道したりする・・、
  朝日新聞の吉田清治の嘘行為をあばいても、全否定は
 出来ないと言っている・・
  こんな欺(あざむ)く報道の仕方で、ドイツの国民の
 方々を繰っている。
  書く必要もない韓国の嘘を付け加えて、日本の拉致し
 た女性たちには「15歳から6歳の少女たちが、多数、含ま
 れていた」と、まったく存在しない嘘まで書くという報
 道ぶりとなっている。
  日本の外務省が抗議すると、尾ひれはひれを書いて、
 さらに、外務省から攻撃にさらされたと書く始末となっ
 ている。
  そして、日本外務省は、「間違いだと言った報道」の
 証拠も示さなかったとも書く始末となっている。
.
2014年11月6日、メキシコが、中国の高速鉄道の導入の契約
 を破棄した(総距離210キロ、5000億円規模)
  この契約破棄の背景には、中国によるペニャ・二エト
 政権への贈賄疑惑が一大スキャンダルに発展したことも
 あった・・、
  結局のところは、技術の劣る中国製造の高速鉄道は危
 ないという判断があった。
  (資料)
  メキシコ、中国勢受注の高速鉄道契約を破棄
     (2014年11月7日 / 17:07)
  [メキシコ市 7日 ロイター] メキシコ政府は6日
 遅く、ペニャニエト大統領が、中国国有企業を中心とす
 る企業連合が受注していた高速鉄道建設をめぐる契約を
 破棄したと発表した。
  同企業連合だけが応札していたことに批判が高まって
 いた。
  メキシコ政府は新たな入札を行う方針。
  高速鉄道は、首都メキシコ市と中部の都市ケレタロを
 結ぶ計画。
  議員らは、中国国有の中国鉄建を中心とする企業連合
 を政府が特別扱いしたと非難していた。
  (資料)
  中南米で、中国の高速鉄道の建設計画が次々と失敗に
 終わっている。
  2009年の夏に発表されたベネズエラでの450キロの高速
 鉄道計画は、現在ではほとんどが放棄状態となっている。
  中国の建設スタッフは、すでに現地を去り、関連工場
 は廃墟となり、金目のものはすべて持ち去られた状況と
 なっている。
  中国メディアの言い分は・・、
  ベネズエラは原油輸出国だが、原油価格の暴落で経済
 危機に陥った・・だった、
  また、高速鉄道が完成しても電力不足の深刻なべネズ
 エラでは車両を走らせられないし、ベネズエラ政府もこ
 れを維持できないと報道した。
  ブラジルの場合、中国は鉄道事故を起こしているため、
 入札自体が出来ないとした。
  (資料)
  2015年12月26日、産経・・(抜粋)
  メキシコの高速鉄道計画が迷走の末に事実上頓挫し、
 波紋を広げている。
  中国企業がいったん落札したが、撤回されたあげく、
 メキシコのペニャニエト政権に対する贈賄疑惑など大ス
 キャンダルに発展し、世界中から批判が殺到。
  追い込まれたメキシコ政府は原油安と財政難を理由に
 計画そのものを棚上げした。
  しかし、高速鉄道の本格的な海外進出プロジェクトの
 モデルにと期待していた中国側は激怒し、補償を求める
 騒ぎに拡大している。
  メキシコ政府は1月30日、2015年予算からの歳出の2.6
 %削減などを柱とする財政緊縮策を発表した。
  緊縮策に同国が鳴り物入りで導入しようとしていた高
 速鉄道計画の棚上げが含まれていた。
  ペニャニエト政権は、原油安による財政悪化を受けた
 措置だとしているが、額面通りに受け取る関係者は多く
 はない。
  メキシコの高速鉄道計画は、メキシコ市と中部の都市
 ケレタロを最高時速300キロで結ぶもので、経済成長を牽
 引する柱として、ペニャニエト政権が各国から参画する
 業者を募った。
  三菱重工や川崎重工、ドイツのシーメンス、米国のゼ
 ネラル・エレクトリック(GE)など世界の名だたる企
 業が動いたが・・、
  昨年11月の入札には、中国鉄道建設総公司が率い、中
 国の車両メーカーの中国南車が中心となるコンソーシア
 ム(企業連合)のみが単独応札し、落札した。
  (資料)
  2018年7月16日、インドネシアは「中国に騙された」と
 後悔している。
  この様な状況になっているのは、高速鉄道計画(ジャカ
 ルタ~バンドン間・約140Km、2019年開業予定)。
  ほぼ、日本の新幹線方式での導入が確実視されていた
 が、中国の「財政負担ゼロ」という誘惑に騙されてしま
 った。
  ジョコ大統領は、円借款を利用する日本の新幹線方式
 の導入のオファーを蹴った。
  2016年1月に、盛大な起工式を行ったが、なかなか本格
 的な工事は進まなかった。
  中国側は「土地収用が終わらなければ出資しない」と
 一転して態度が変わった。
  今月(2018年7月)、工事全面スタートと発表したが、
 来年4月の大統領選挙には、絶対に間に合わない。
  再選を目指すジョコ大統領の実績として、選挙対策の
 PRにしようとの目論見は崩れ去った。
  過去に、インドネシアは、素晴らしい仕様書に騙され、
 粗悪航空機を導入してしまったことがあった。
  それは、中国製プロペラ旅客機MA60(中国名は新舟60)。
  墜落事故や、多くのトラブルを起こす欠陥機だった。
  この教訓が、高速鉄道の決定に生かされてなかった。
  (資料)
  じゃかるた新聞、2015年9月5日、日中案とも不採用 
 高速鉄道計画見直し 大統領 「両国に外交的配慮」 
 「中速鉄道」に変更
  ダルミン・ナスチオン経済調整相は4日、高速鉄道計
 画を見直す方針を明らかにした。
  ジョコ・ウィドド(通称ジョコウィ)大統領の意向と
 して、ナスチオン経済調整相が谷崎泰明駐インドネシア
 大使に伝えた。
  インドネシア政府は、日本と中国が受注を目指してき
 た高速鉄道事業のどちらも採用せず、替わりに同区間で
 時速200~250キロの「中速鉄道」の導入を目指すことで、
 再度検討する方針。
  ナスチオン経済調整相は4日、経済調整省で谷崎大使
 と会談し、高速鉄道の計画案を採用しないことを伝えた。
  谷崎大使によると、インドネシア政府はジャカルタ~
 バンドン間(150キロ)が高速鉄道を採用するほどの長距
 離区間ではないことと、同事業には政府予算を投入しな
 い政権の意向に沿わなかったことが最終的な見直しの理
 由と説明した。
  日本と中国いずれの提案もインドネシア政府が事業の
 一部を負担する内容だった。
  谷崎大使は「(高速鉄道計画は)前政権からの要望だ
 ったため非常に残念だが、大統領が決めたことなので結
 果を受け止める」と述べた。
  政府当局者によると、ジョコウィ大統領は側近に「い
 ずれかを採用すると、負けた国に恥をかかせる。
  日中のメンツを守りたかった」と述べ、日中への外交
 的配慮も見直しの背景にあったことをにじませた。
  ナスチオン経済調整相は、高速鉄道に代わり、同区間
 で「中速鉄道」導入を検討すると表明。
  同相は高速鉄道よりも10分ほど到着が遅れるが、30~
 40%ほど支出を抑えられると述べた。
  「中速鉄道であれば、日中両国以外にも投資を希望す
 る国が複数ある」とさらなる競争を示唆した。
  日本の提案してきた高速鉄道事業は、ユドヨノ前政権
 時の2013年に、首都圏投資促進特別地域(MPA)構想
 で合意された事業。
  ジャワ・スマトラ経済回廊の発展の中心に位置付けた
 同構想のもと、日本側は官民一体で提案を続けてきた。
  ユドヨノ政権から昨年引き継いだジョコウィ政権は、
 ジャワ島以外へ投資を誘致する方針を示し、均一な経済
 発展政策を掲げる。
  ジョコウィ政権は、高速鉄道事業に政府予算を投入し
 ないと明言していた。
  日本政府は、2013年3月、鉄道などのインフラ輸出拡大
 策を検討する「経協インフラ戦略会議」を設置した。
  インフラ関係受注額を2020年に約30兆円にするとの目
 標を掲げ、新幹線輸出はその柱の一つだ。
  日本勢はインドネシアのほか、シンガポールとマレー
 シア、タイ、インド、米国のテキサス州やカリフォルニ
 ア州などの高速鉄道計画で新幹線システムの輸出に向け
 て活動を続けている。
  今回の中国との受注合戦では、日本案は建設実績や安
 全面をアピールした一方で、中国案に比べ初期投資の負
 担の大きさが指摘された。
  これまでに日本の新幹線の導入が実現したのは台湾の
 み。
.
2015年、この年のシリア難民危機が起き、深刻化したが、
 ドイツやスエーデンの移民の割合は、人口の20%を上回
 っており、国の形が大きく変貌して来ている。
  特に、ドイツ・・その国家は壊れて来ている。
  「かつて」という修飾語を付けてしか語れなくなって
 来たドイツとなっている。
  「かつてのドイツ文化」「かつてのドイツ哲学」「か
 つてのドイツ音楽」などとしか語れなくなっている・・、
  それを語ると「カタルシスに堕ちた」と言われるとい
 う状態となっている。
  (参考)カタルシス:解釈に2説あり、感情を純化する
     とするルネサンスからレッシング(ドイツ啓蒙
     思想の代表者)にいたる倫理的解釈と、感情の
     うっせきを瀉泄 (しゃせつ) するとする解釈が
     ある。
      舞台の上の出来事(特に悲劇)を見ることに
     よってひきおこされる情緒の経験が、日ごろ心
     の中に鬱積(うっせき)している同種の情緒を解
     放し、それにより快感を得ること。
  ヨーロッパの文化も、この様に共に壊れて来ている。
  バッハとかベートーベンとか、この様なクラシックを
 聞く人が居なくなっている。
  特に、若い人の間では、激減現象が起きている。
  日本人がイメージするドイツの姿は、過去のかつての
 時間の中に過ぎ去ってしまっている。
  ドイツのクラシック音楽会に来るドイツ人は、ほとん
 どがお年寄りの人たちだけ・・バッハやベートーベンも
 予想しなかっただろうという状態・・、
  日本は、クラシック音楽を聞きに行く若い人たちが多
 いが・・、
  また、日本の医師は、「カルテをドイツ語」で書くが、
 当のドイツは、「カルテを英語で書いている」という状
 態・・ドイツ文化は壊れて来ている。
  そして、ドイツを美しく語ったその一つだった「マイ
 スター制度」も・・これも化石の状態となっている。
  親がマイスターであっても、子供を昔どおりのやり方
 で跡継ぎにしようとは考えないドイツとなっている。
  マイスターは過去のものとなっている・・
  ドイツは、大量の移民の流入と共に、文化や国家が壊
 れて来ている。
.
2018年6月24日、オーストラリアのシンクタンクが、日本の
 安倍首相を2位に信頼できる指導者とした。
  オーストラリアのシンクタンク、ローウィー研究所が
 調査レポート「2018 LOWY INSTITUTE POLL」を公開した。
  ☆リーダーの信頼度ランキング
  1位、イギリス、メイ首相、信頼できる68%、
  2位、日本、安倍首相、信頼できる66%
  3位、オーストラリア、マルコム・ターンブル首相
     信頼できる63%
  4位、フランス、エマニュエル・マクロン大統領
     信頼できる61%
  5位、中国、習近平国家主席、信頼できる43%
  6位、インド、ラーム・ナート・コーヴィンド大統領
     信頼できる37%
  7位、アメリカ、ドナルド・トランプ大統領
     信頼できる30%
  8位、ロシア、ウアジーミル・プーチン大統領
     信頼できる19%
  9位、北朝鮮、金正恩朝鮮労働党委員長
     信頼できる5%
.
  ☆国別のグローバル信頼度ランキング
  1位、イギリス・・90%が信頼できる
  2位、日本・・87%が信頼できる
  3位、フランス・・84%が信頼できる
  4位、インド・・59%が信頼できる、40%が信頼できない。
  5位、アメリカ・・55%が信頼でき、44%が信頼できない。
  6位、中国・・52%が信頼でき、48%が信頼できない。
  7位、ロシア・・71%が信頼できない、28%の信頼できる。
  8位、北朝鮮・・90%が信頼できない、8%が信頼できる。
.
2018年7月30日、EUが、ギリシャを突き放した。
  この日の読売新聞に・・、
  欧州連合(EU)が、ギリシャを突き放して、もう支
 援はしないとした・・と書いた。
  新聞の表題は・・、
  「ユーロ圏の支援、来月終了」「ギリシャ、遠い自立」
 「職安に長い列・高い税率に悲鳴」・・とある。
  そして、写真は・・、
  「アテネ市内の職業安定所が、詰めかけた人であふれ、
 入り口の外に座り込む人たち」・・を写している。
  また、表示しているデーターは・・、
  ギリシャ経済が、支援を始める前よりも悪化している
 ことを示している・・(何のための支援だったのか?)
 まったく改善がなされていない。
  失業率:2010年、12.7%→2017年、21.5%
  貧困率:    27.7%→    35.6%
  GDP成長率: -5.5%→     1.4%
  債務残高のGDPに対する割合:146.2%→178.6%
  そして、今まで嘘をつき、騙して来たギリシャの経歴
  2009年10月、政権交代を機に、ギリシャの財政赤字の
   過少申告の嘘が発覚する→財政危機へ落ち込む
  2010年5月、第一次支援、ユーロ圏と国際通貨基金(
   IMF)が1100億ユーロ(約14兆2000億円)の支援
   を決定
  2011年11月、ギリシャ政権が交代、欧州中央銀行出身
   のパパデモス政権の誕生
  2012年3月、第二次支援、ユーロ圏が1300億(約16兆
   8000億円)ユーロの支援を決定。IMFも支援決定。
  2015年1月、ギリシャ政権がチプラス政権に交替、EU
   などが言う緊縮政策に反対する政権が誕生。
  2015年7月、ギリシャとEUのつばぜり合いで、ギリシ
   ャ支援が失効し、事実上の債務不履行状態に、ギリ
   シャは陥(おちい)った。
  2015年8月、第三次支援:ユーロ圏が860億ユーロ(約
   11兆1000億円)をすることに決定・・EUが折れた。
  2017年7月、ギリシャが、一部の国債発行の再開を決定
   した・・誰が国債を買うか?
  2018年6月、ユーロ圏が支援終了を決定した、見放され
   た。
  2018年8月、第三次支援が終了する。
  庶民は高い税率に悲鳴を上げている・・例えば、アテ
 ネで果物店を営む50代の男性経営者は、「税金が高すぎ
 て利益はほとんど出ない」と悲鳴を上げる。
  IMFは、この様な高率の税収入などで2016年に黒字
 に転換したとした。
  しかし、ギリシャは、成長を先導する産業が乏しく、
 緊縮財政は企業の撤退や消費低迷を招き、失業率は高止
 まりした。
  ギリシャは、黒字が出せる普通の国になれるのか?
  国民の考えは、ユーロ圏の支援がなければ駄目だ、支
 援終了に反対が47%居る。
  また、今後、黒字転換したまま、景気も回復するとい
 う見方は出来ないとするギリシャ国民の方々が43%と、
 否定的見方の人々が多数を占めた。
  また、ギリシャ経済産業研究所は、ギリシャの経済再
 建に向けて、産業創出による歳入増加と雇用拡大が不可
 欠で、法人税などの引き下げで海外投資を呼び込む必要
 があるとしている。
  しかし、ギリシャの選挙が、来秋までに総選挙が予定
 されている・・そして、その選挙に立候補予定の「EU
 の緊縮財政政策に反旗を翻した」チプラス氏が、早くも
 緊縮財政を緩和する考えを示している。
  ギリシャは、「緊縮政策は放棄」し、「放漫財政」に
 逆戻りをする懸念が出ている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2018-08-06 16:33 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)605E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)

題:(増補版)605E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年7月25日、高陞号(こうしょうごう)事件が起こった。
  日本への返事を無視して、朝鮮への兵員増強をしよう
 としている中国の清国・・、
  その様な行動を控えさせたいという日本・・、
  陸奥宗光外相は、「回答期限の25日以降は、清国の軍
 艦ないし兵員輸送船を攻撃しても外交上問題ない」とい
 う旨を海軍側に伝えた。
  最後通牒の回答期限を過ぎれば、清国の回答無視の決
 定により、清国軍の兵員増強・増派を確認した時点で、
 その行動阻止の行動がとれるという意味だった。
  7月24日、第一遊撃隊は、牙山湾内にて清国軍艦「済遠」
 「広乙」が護送する陸兵1000名を乗せた輸送船「飛鯨号」
 の船団と出会ったが、回答期日前であったため、そのま
 ま素通りさせた。
  そして、回答無視が確定した7月25日が来る。
  7月25日午前10時8分、清国陸兵1100名(乃至1500名)
 が乗船するイギリス船籍商船「高陞号」は、日本艦艇の
 指示を受けて豊島沖に停船した。
  7月19日の日本が清国へ出した最後通牒で、日本艦隊に
 よる朝鮮西岸の海上封鎖を予期した清国直隷総督兼北洋
 大臣の李鴻章は、イギリス商船をチャーターして陸軍兵
 を搬送させる策を取っていた。
  第一遊撃隊司令官・坪井航三少将は、指示を無視した
 「済遠」の追撃に向かった為、「浪速」艦長・東郷平八
 郎大佐が、このイギリスを敵に回しかねない難局に当た
 る事になった。
  東郷大佐は、浪速を高陞号から900メートル離れた位置
 に停留させると人見善五郎大尉に高陞号の臨検に向かう
 よう指示した。
  人見大尉は、カッター船に乗って高陞号に赴き、武器
 を手に殺気立つ清国兵達に囲まれた中で、高陞号船長ガ
 ルス・ウォルズウェーと面談した。
  浪速も警戒態勢をとって、砲門の狙いを定めていた。
  清国兵も迂闊には手を出せなかった。
  人見大尉は、高陞号の船籍と目的を尋ねて「英国ロン
 ドンのインドシナ汽船会社代理店ジャーディン・マセソ
 ン社所有のイギリス船籍商船である事」と、
  「清国政府にチャーターされ陸軍兵1100名と大砲14門
 その他を朝鮮・牙山港へ搬送する途中である事」を確認
 した。
  続けて、高陞号を浪速に随行させるよう求めるとウォ
 ルズウェー船長は承諾した。
  人見大尉は、浪速に帰還し、その旨を東郷大佐に報告
 した。
  東郷大佐が、自艦浪速に続くよう英文の手旗信号を送
 ると高陞号から「重大事態発生」の信号が返って来た。
  清国兵の反抗が起きていた。
  その反抗を読み取った東郷大佐は、再び、人見大尉を
 高陞号に向かわせた。
  そして、可能ならウォルズウェー船長を浪速に移乗さ
 せるよう指示した。
  しかし、清国兵は、イギリス人が船を降りるならば殺
 害すると脅迫した。
  ウォルズウェー船長は、高陞号を天津・大沽港に引き
 返させるという妥協案を提案した。
  それを受けた東郷大佐は、まず、船長に高陞号から離
 れるようにとの英文信号を送った。
  返信は、「こちらからは離れられない状態だ、そちら
 から船を送ってもらいたい」だった。
  東郷大佐は、「それは出来ない」と信号して、再び、
 「船を離れるように」と送信した。
  この交信は、高陞号が清国兵に乗っ取られていて、叛
 乱状態にあって、その非戦闘員の資格を喪失した確証を
 得る為だった。
  高陞号の船上の清国兵は騒ぎ出していて、すでに、停
 船してから4時間ほどの時間が経過していた。
  東郷大佐は、攻撃の警告を発した。
  7月25日13時45分、東郷大佐は、浪速のマストに攻撃警
 告の赤旗を掲げた。
  だが、高陞号船上はざわつくばかりで、反乱状態にあ
 り、返信も無い状態だった。
  混乱などが起き、状況の改善は無く、進展無しと判断
 した東郷大佐は魚雷発射を命じた。
  魚雷接近で、清国兵が動揺し、その隙を突いてイギリ
 ス人船員達が海に飛び込んだ。
  その状況を見て、東郷大佐は、すぐさまカッター船を
 出して救助に向かわせた。
  魚雷は不発に終わった・・
  清国兵たちは、海を泳ぐ船員達に銃撃し始めた・・そ
 のため、複数名が殺害された。
  この様な中、日本水兵は、ウォルズウェー船長を含む
 イギリス人船員3名の救出に成功した。
  その後、東郷大佐は、やむなく右舷砲2門の砲撃で高陞
 号を撃沈した。
  この高陞号事件は、この後、日英間の問題となった・・
  しかし、結論的には・・東郷平八郎大佐を評価する声
 が上がった。
  8月4日、イギリス政府は、長崎に英国海事裁判所を開
 き、8月7日に結審したが・・、
  この裁判は、ウォルズウェー高陞号船長に過失が無い
 事を証明するものだった。
  続いて、上海において開廷された英国海事裁判では、
 8月17日の結審宣告で、日本軍艦の行為は正当であるとの
 判決が下った。
  日本政府に対する賠償請求を放棄する勧告がイギリス
 本国政府に伝えられた。
  イギリス政府が、この勧告を受け入れた事で高陞号事
 件は決着した。
  その後、国際法を熟知し、厳格な判断を下した浪速艦
 長・東郷平八郎大佐を評価する声が上がった。
.
1894年7月25日、豊島沖(ほうとうおき)の海戦
  豊島沖は、朝鮮の泰安半島(たいあんはんとう、黄海
 に突き出た半島)の西方にあるが・・
  一方、この日、第一遊撃隊司令官・坪井航三少将が、
 指示を無視した清国艦の「済遠」の追撃に向かったが、
 清国艦と交戦状態となった。
  日本艦隊は巡洋艦3隻、清国側は巡洋艦2隻、砲艦1隻。
  日本側はほとんど損害はなく、清国艦隊は巡洋艦1隻が
 陸岸に乗上げて爆発し、砲艦は降伏し、巡洋艦1隻だけが
 かろうじて脱出した。
  この日、7月25日午前7時、この第一遊撃隊は、牙山湾
 の出口付近にある豊島沖にてスループ艦「武蔵」と通報
 艦「八重山」と合流する予定だった・・この時、牙山港
 から航進して来た清国艦「済遠」「広乙」と遭遇した。
  この清国艦2隻は、前日の清国兵員輸送船を牙山港に届
 けた後、続けて天津・大沽港から到着する輸送船「高陞
 号」を出迎えに行く所だった。
  同日7時52分、南西方向に進み黄海に出ようとする「済
 遠」「広乙」と、北上する第一遊撃隊の両艦隊が、距離
 3000メートルまで近づいた時、突然、攻撃が加えられた。
  豊島沖に轟音が響いたが・・どちらかの砲弾が発射さ
 れた。
  清国側は、日本艦艇が先に砲撃したとした。
  日本側の報告には、「吉野」が国際海洋法に則って「
 礼砲」を放つも「済遠」は返礼せず戦闘準備をし、やが
 て実弾を発射をして来た・・と、
  因みに、
  日清戦争の時、日本は、徹底的に、『兵士に国際法を
 教えた』。
  日本本土から、わざわざ教える係の者を派遣をしても
 教えた。
  アメリカやヨーロッパでもやらないことをした。
  逆に、アメリカは、卑劣な事をした。
  敵から情報を得るために、「罪を問わないから白状せ
 よ」と、白状を誘惑した。
  この様な事から、戦場では、国際法を遵守する精神が
 無くなっていた。
  国際法違反をしても許されるという心が働いた・・そ
 の様なことをアメリカは行なっていた。
  兵の国際法違反を、厳然と罰しないアメリカ。
  兵士が、まず、「第一に守らなければならない国際法」
 を、ないがしろにする様なアメリカだった。
  この様な事から、国際法で守られるはずの戦場の日本
 の病院が襲撃される事例も発生した。
  この様な風潮を、アメリカは生まれさせた。
  この様な事例をNHKは放送しない・・日本を貶める
 事例ばかりをNHKは放送している。
  日本の貶める番組ばかりを製作して放送するNHKと
 なっている。
  また、日本が、この様な海戦で、「何故、強かったか?」
 と言うと・・、
  中国・清が、イギリスにあれほどアヘン戦争で、嫌と
 いうほど痛めつけられ、辛酸な目に遭わせられたと言う
 のか・・殺され、国が亡びるほどアヘンを売り込まれ、
 廃人だらけにされ殺されているのに、その喉(のど)元
 が過ぎれば「朝鮮や日本を居丈高に脅し」、虐(いじ)
 めにかかっている。
  その様な行為で・・散々辛酸な目をなめて来て、分か
 っている中国・清のはずだが・・、
  「何故、同じ様なことをするのだ」と、日本は、その
 不正義を見かねていた、そして、立ち上がった。
  日本の艦隊には、「その正義観があった」、だから強
 かった・・兵の士気も上がったのだった。
  日本は、明治の開国以来、富国強兵策でやって来て、
 この様な状況を生むまでに精進して来た・・
  欧米列強は、中国・清が勝つだろうと予測していた・・
  その様な予測の差を、日本は、逆転させていたのだっ
 た。
  今まで、欧米列強が、力を誇示し、中国や朝鮮・アジ
 ア諸国、そして、インドなど、好き勝手に力を誇示して、
 うまい汁を吸っていた・・日本は、その様な姿に憤(い
 きどお)りを抑(おさ)えながら、日本は国を富ませて、
 兵を強くする努力をして来ていた・・
.
1894年7月25日、政府派遣の伝染病研究所長・北里柴三郎が
 香港でのペスト流行実地調査の帰途、長崎に立ち寄った。
.
1894年7月25日、下総鉄道の佐倉駅~佐原駅間の建設仮免許
 状が下付された。
  成田山新勝寺は、江戸時代も江戸っ子に親しまれ、明
 治の鉄道の時代になっても、鉄道で結ぼうという構想は
 早くからあった。
  1887年(明治20年)に、本所駅~市川駅~ 佐倉駅~佐
 原駅間を結ぶ構想の武総鉄道が設立され・・さらに・・、
  1889年(明治22年)に、佐倉駅~成田駅~佐原駅間を
 結ぶ構想の北総鉄道が設立された。
  しかし、当初、千葉県は、東京への交通手段で鉄道と
 利根川水運の両方があると、競合し、共倒れするのでは
 ないかと恐れた。
  そして、利根運河ができている以上、同地域には鉄道
 は不要だとの見解になった。
  この様な経緯で、この路線の建設は大分遅れた。
  やっと、この年・1894年(明治27年)になって、本所
 駅~市川駅~佐倉駅間に総武鉄道(後の総武本線)が開
 通した。
  そして、成田までの開通はまだまだ先だった。
.
1894年7月26日、播但(ばんたん)鉄道の姫路駅~寺前駅間
 が開通した。
  播但線は、兵庫県姫路市の姫路駅から兵庫県朝来市の
 和田山駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線
 (地方交通線)で・・播但鉄道は、この姫路駅~寺前駅
 間が開業すると同時に設置された。
  この路線は、山陽本線と山陰本線を結ぶ陰陽連絡路線
 で・・阪神大震災によって、神戸周辺の鉄道が不通にな
 った時は、バイパス路線として活躍した路線だった。
  関西の代表的な非電化路線であった。
  そのため、1972年(昭和47年)に、蒸気機関車の廃止
 時は・・、
  また、1992年(平成4年)3月14日の客車列車全廃時に
 は、それぞれ多くの鉄道ファンが沿線に詰めかけた。
.
1894年7月27日、甲午改革(こうごかいかく)が開始された。
  1894年(甲午の年)から1896年にかけて、朝鮮にて内
 政改革が行なわれた(第一次甲午改革)
  日本のアドバイスによって、金弘集政権の下で、官制
 の改革による国政事務と宮中事務が分離され、また、銀
 本位制が採用され(通貨改革)、身分差別の撤廃、拷問
 の廃止など、広範囲な改革が行われた。
  金弘集(きんこうしゅう⇒キム-ホンジプ )政権は開
 化派の政権で、近代化のための改革法令を発令した。
  清国の外交官・黄遵憲の著書『朝鮮策略』を持ち帰っ
 て国王・高宗に上呈し、開化政策推進の契機とした。
  常に、外交の前面に立ち、欧米各国との修好通商条約
 の締結、日本との交渉などに携わった。
.
1894年7月28日、日清戦争: 成歓(せいかん)の戦い
  1894年6月8日、中国・清国の葉志超(ようしちょう)
 総督、聶士成(じょうしせい、軍人)山西太原(山西省
 の省都の太原)鎮総兵に率いられた清国軍(北洋陸軍、
 歩兵約2,500名、山砲8門)が牙山に上陸した。
  1894年7月24日、3880名に達した。
  1894年7月23日午前2時、日本軍の混成第九旅団(歩兵
 四箇大隊など)が郊外の駐屯地龍山から漢城に向かった。
  1894年7月25日、朝鮮が、清国の宗主権破棄を宣言した。
  大鳥圭介公使に対して牙山の清国軍撃退を要請する。
  1894年7月26日、混成第9旅団(旅団長大島義昌少将)
 にその旨が伝達された。
  1894年7月28日、日本軍が、牙城に篭る清国兵を攻撃す
 るため出発した。
  1894年7月29日午前3時20分、佳龍里おいて清国兵の攻
 撃によって、歩兵第21連隊第12中隊長・松崎直臣歩兵大
 尉が戦死する(日本側初の戦死者)
  他数名が死傷(安城の渡しの戦い)
  1894年7月29日午前8時30分、日本混成第9旅団が、成歓
 の中国・清陣地を制圧した。
  大島旅団長は、清国軍の主力が牙山にあるとして、7月
 29日午前、全旅団に牙山へ向け出発を命じる。
  1894年7月29日午後3時頃、牙山に到達する、すでに、
 清国軍は敗走。
  この作戦での日本兵の死傷者は88名・・清国兵は500名
 以上の死傷者。
  清国兵は、武器等を放棄し、平壌まで逃亡。
  この安城の渡しの戦いで、歩兵第21連隊の木口小平二
 等卒は死んでもラッパを離さずに吹き続けたという逸話
 がある。
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  今日の言葉
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  題:対中・・経済戦争・・
    人民元「国際通貨化の脅威」に立ち向かえ・・
    共和党のトランプ氏は「大統領になれば、中国を為替操作国として
   罰する」と息巻いている。
    消費税増税をIMFに対日勧告させて安倍晋三政権を予定通りの増税に
   追い込む根回しだ。
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1905年8月、日露戦争の講和会議が開かれた。
  そして、1905年9月5日(日本時間)に調印された。
  アメリカ東部の港湾都市ポーツマス近郊のポーツマス
 海軍造船所において、大日本帝国全権・小村寿太郎(外
 務大臣)とロシア帝国全権セルゲイ・Y・ウィッテの間で
 会議がなされた(~1905年9月4日)
  当初、ロシアは、強硬姿勢を貫き・・、
  「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロ
 シアは負けてはいない」。
  「まだまだ継戦も辞さない」・・と主張していたため、
 交渉は暗礁に乗り上げていた・・が、
  日本としてはこれ以上の戦争の継続は不可能であると
 判断しており・・
  また、この調停を成功させたいアメリカは、ロシアに
 働きかけることで事態の収拾をはかった。
  結局、ロシアは、満州、および、朝鮮からは撤兵し、
  日本に樺太の南部を割譲するものの・・、
  戦争賠償金には一切応じない・・というロシア側の最
 低条件で交渉は締結した。
  この条約によって、日本は、満州南部の鉄道、及び、
 領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲
 得した。
  しかし、軍事費として投じてきた国家予算4年分にあた
 る20億円を埋め合わせるための戦争賠償金を獲得するこ
 とはできなかった。
  そのため、条約締結直後、戦時中の増税による耐乏生
 活を強いられてきた国民によって「日比谷焼打事件」な
 どの暴動が起きた。
  そして、日露戦争に日本は勝利をしたが、その後のこ
 の交渉の時点で、日本は、情報戦で、狡賢いロシアにし
 てやられている。
  それは、日本が「正直で律義な国民性」から約束を守
 ったためだった・・、
  逆に、ロシアは、約束を守る様な事はまったく無かっ
 た。
  日本は、日露双方が合意に達するまでは、交渉の中味
 は、記者・ジャーナリストには漏らさない・・という約
 束を最後まで律儀に守り続けた。
  それ故、日本からは、何の情報も発信しなかった。
  それに対し、ロシアは、情報を漏らす行為を行なって
 いた・・約束破りの行為をしていた。
  それも、ロシア側に都合が良い色付けをし、脚色した
 情報を、アメリカやヨーロッパの記者たちに与えた。
  さらに、ロシアが不誠実で汚いのは、キャビアや高級
 料理や酒でもてなし、接待漬けにして、懐柔して情報操
 作をしていたことだった。
  律儀で正直な日本との差は歴然で、それまで、日本を
 応援してくれていたアメリカ世論もロシア贔屓(ひいき)
 となって行った。
  ロシア全権代表のウィッテは老獪(ろうかい)で汚か
 った。
  また、「日本は賠償金を欲しがる強欲国家だ」とか、
 ロシアの嘘情報やリークで情報が漏らされ、世界は情報
 操作され、日本の国家イメージは悪くされていた。
  日本の全権代表・小村寿太郎は、忠実に約束を守った。
  戦争に勝利した日本は、その後の情報戦で、汚いロシ
 アに、結果的にこの様にしてやられた。
  第二次世界大戦後に、アメリカにデッチ上げられた東
 京裁判だって、「裁く法律が無いのに裁判をする」とい
 う嘘裁判のアメリカだった。
  後から事後法を作って裁くという「虚偽の演技をする
 嘘つきアメリカ」だった。
  再審すれば「全員無罪」のインチキ裁判だった。
  (参考)事後法の禁止:事後法 ex post facto lawに
     よってさかのぼって処罰することはできないと
     いう原則。
      行為後に施行された刑罰法規に遡及効を認め
     て施行前の行為を処罰することは許されない、
     という遡及処罰禁止の原則。
      罪刑法定主義の重要な内容をなすもので、ア
     メリカは、こんな基本的な事を侵してまでして
     東京裁判を行なって、日本を罪に落とした。
  東京裁判のこの時に出された検事側の資料だって、根
 拠のない、信憑性(しんぴょうせい)のない、信頼が出
 来ない資料が提出されたり、誤訳されたり、改竄(かい
 ざん)されたりした資料が多かった。
  東京裁判は、再審して、全員無罪にするべきなのだ。
  こんな、嘘の話を根拠にして、戦後の機構が成立して
 いる・・馬鹿々々しい事がらを根拠にして機構を作って
 いる。
  もう、そろそろ、その国連などの嘘付システムを、世
 界の機構を・・見直すべきだ。
  中国が、「実事求是」(事実に基づいて真理を検証す
 る)というなら、南京事件の嘘を白状せよ、デッチ上げ
 を白状せよ。
  南京攻略戦は、そもそも、上海で、アメリカと共に、
 戦争を仕掛けた中国に「事の発端がある」のだ・・
  また、日本は南京入城後に、自治委員会を作って、占
 領を止め、食糧の配給を始めたりして、努力しているの
 を感謝せよ。
  自分たちだけが、中国の人々を見捨てて、重慶へサッ
 サとアメリカに助けてもらって逃げ出したのに、自分た
 ちだけ助かればいいと「逃げるという卑劣さ」なのに・・、
  日本は、住民登録まで行ってしっかり管理したりして
 いるのだ。
  秩序回復にも努めたりしているのだ、虐殺などをする
 訳がない。
  東京裁判では、この様な時に虐殺をしたという。
  また、その根拠にし、証拠にした「陥都血涙録」とい
 う中国国民党の士官の郭岐の書いた回想録がインチキな
 のだ。
  これに書かれたことを「日本がした」とされた・・何
 の裏付けも取らず。
  宦官(かんがん)の伝統がある中国人がやる様な事を
 日本兵がしたという・・デッチ上げなのだ。
  また、流暢な中国語で会話をしながら、悪いことをし
 ている日本兵など・・作り話の記述が多い・・これらは、
 まったく嘘話なのだ。
  南京の外港の下関(しあこわん)の放火が日本軍によ
 るものとされているが、これは、中国軍が、南京から逃
 げ出す時に放火したものと、はっきりしているのだ・・、
  こんな嘘の話ばかりなのだ。
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1931年3月1日、満州国が建国された。
  元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には、満州人で
 ある清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いた。
  この地の土着民族としては、濊貊・粛慎・東胡・挹婁・
 夫余・勿吉・靺鞨・女真などが生活していた。
  (参考)濊貊:わいはく、紀元前2世紀の中国東北部に
     いた「濊」「貊」は、濊貊・沃沮・高句麗・夫
     余の四種族の前身であり、現在の韓国江原道に
     いた「東濊(濊貊)」は前漢代の中国東北部にい
     た濊の後裔とされる。
  (参考)粛慎:しゅくしん、満州(中国東北地方及び
     外満州)に住んでいたとされるツングース系狩
     猟民族。
  (参考)東胡:とうこ、春秋戦国時代から秦代にかけ
     て内モンゴル東部から満州西部に住んでいた遊
     牧民族。
  (参考)挹婁:ゆうろう、後漢から五胡十六国時代(
     1世紀から4世紀)にかけて、外満州付近に存在
     したとされる民族・・消えた民族・・日本民族
     もこの様にならねば良いが・・国のことを疎(
     おろそ)かにして居たら・・この様になる・・
  (参考)夫余:ふよ、中国東北部(満州)にかつて存
     在した民族およびその国家。
  (参考)勿吉:南北朝時代に、高句麗の北から満州地
     域に住んでいた狩猟民族で、現在の松花江から
     長白山一帯に居住していたと思われる。
      粛慎、挹婁の末裔で、唐代における靺鞨の前
     身。
  (参考)靺鞨:まつかつ、隋唐時代に中国東北部、沿
     海州に存在した農耕漁労民族。
      南北朝時代における「勿吉(もつきつ)」の
     表記が変化したものであり、粛慎、挹婁の末裔。
  (参考)女真:じょしん、満洲の松花江一帯から外興
     安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけ
     て居住していたツングース系民族。
      民族の聖地を長白山とする。
  以上からも分かる通り・・漢民族の「かの字」も出て
 来ない・・この地は漢民族の地ではないのである・・女
 真族(満州族)の五族協和は正解なのである。
  朝鮮半島の西北の地域で、中国の東北部(中国のたん
 こぶの様に突き出た地域)は、今・現代は、中国の領土
 となっているが・・、
  中国は、ここは「化外の地」としていた。
  中国は、「この地は化外の地で、中国とは関係が無い」
 としていた。
  万里の長城の外の地域で、それも、万里の長城から「
 はるか北方の遠隔の地」で、
  中国が領土だと主張するような地ではなかった。
  韓国は、この地に朝鮮族が居るので、今・現代、「こ
 の地は朝鮮の地だった」と、小学校で教えている。
  かつて、日本は、この地に多く住む満州族(女真族)
 の方々に「建国を手助けして、満州国が建国された」。
  そして、この地は、満州族以外の人々もいる状況から
 「五族協和」を理念とした。
  (参考)五族協和の理念:満州族を主体とするが、朝
     鮮族、蒙古族、朝鮮族、漢族、日本族、白系ロ
     シア人など協和して住む地とした・・後に、逃
     れて来たユダヤの方々も受け入れた。
  しかし、今・現在、領土欲の強い中国が、化外の地だ
 と言っていた中国が、自分の領土だとしている。
  そして、また、チベットや、ウイグルや、内モンゴル
 の地も、漢民族の中国は、自分の領土にする行為を行な
 っている。
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1985年、ローマ条約が発効した。
  EUの母体である欧州経済共同体(EEC)の設立条
 約(ローマ条約、1958年発効)において・・、
  加盟国間で人、物、サービス、資本が自由に移動でき
 る共同市場を創ることが目指された・・が・・
  その後、1985年に、西ドイツ、フランス、ベルギー、
 オランダ、ルクセンブルクの5カ国が「人の移動の自由」
 の実現に向けて、域内国境を段階的に撤廃することに合
 意した(シェンゲン協定)
  国境を無くしたEU・・人の往来が自由・・これは美
 しく見える・・
  「ヒトの自由化」・・しかし、その後、そうは問屋が
 卸していない・・、
  ギリシャ・ポルトガル・スペイン・イタリアなどに、
 金になる仕事が無い。
  そこで、これ等の国々の特に優秀な若い人たちが、ド
 イツへ、そして、北欧へと向かう・・人の往来の自由だ
 から・・当然、稼げる国へと向かう。
  高学歴の優秀な青年たちが・・高学歴で優秀なコンピ
 ューター技師、弁護士、会計士、音楽家やアーティスト
 など、才能ある者たちがが自由に移動する・・流出する。
  優秀な頭脳労働者たち・・高い収入を出先で得て・・
 もう故国へは帰りませんと・・帰るつもりは「まったく
 ない」という状態・・
  優秀な人材が生み出す富は、彼ら・彼女らの故国では
 なく・・ドイツや北欧諸国へ行ってしまう・・、
  ヨーロッパの南の諸国は、高齢者や失業者ばかりの国
 となる・・、
  故国を去った優秀な人材たちは、ヨーロッパの北の国々
 の富の蓄積に貢献する・・、
  EUの目指す理想づくりは・・絵に描いた餅・・実態
 は、ヨーロッパの格差づくりをしている事になる・・「
 皮肉な結果となっている」・・、
  だからと言って、その様な優秀な人々を追い返す事は
 出来ない。
  今・現在、これと同じ事が、日本で起きている。
  中国が、優秀な日本の「超エリート狩り」をしている。
  1割、2割なんて話ではない。
  また、2倍、3倍なんていう半端な給料ではない。
  中国は、経済システムで動かす国ではない。
  中国は、「国策で動く国」・・、
  日本の超優秀なエリートを桁違いの超高級な給料で引
 き抜いて行く・・という国策。
  ノーベル賞をどんどん取る遺伝子を持つ日本の超エリ
 ートを引き抜き続ける国策だ。
  中国という国は、自分の国に利益があるとすれば、札
 束で叩く様なことを、臆面もなくやる国・・、
  今、ドイツも、EU諸国も、「中国の金にものを言わ
 すやり方」に、節操も無く「なびき」、そして、牛耳ら
 れている。
  中国は、腹の中で笑っているだろう、
  「この欲深な、強欲な者どもよ」と・・、
  金さえ見せれば何でもできる・・と・・
  金で、中国に魂(たましい)を抜かれた者どもとなっ
 ている。
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2015年11月、中国・人民元が国際通貨に・・その問題点
  人民元「国際通貨化」の脅威に立ち向かえ・・
  中国の根底の国家戦略の一つに、「人民元」の「国際
 基軸通貨化」がある。
  その為にも、その世界に通用する基軸通貨の裏付けの
 為にも、中国は、軍事力の増強を、せっせとやって行く。
  そして、その行き着く先には「米ドルを超える人民元」
 の基軸通貨化がある。
  アメリカに「とって替わる中国」が最終目標・・、
  その為には、荒っぽい事も、やるだろう、今までやっ
 て来た様に・・、
  中国は、自国民さえ、1000万単位で殺してきた。
  そんな世界が現出して行く可能性もある。
  こんな予想が杞憂に終わることを祈るのみである。
  (資料)
  田村秀男(産経新聞特別記者)の記事を以下に記す・・
  人民元「国際通貨化」の脅威に立ち向かえ・・
  異形の党支配経済、延命は決定的!?
  国際通貨基金(IMF)は2015年11月末の理事会で、
 中国の人民元を来年秋から特別引き出し権(SDR)の
 構成通貨(現在はドル、ユーロ、円、ポンド)への追加
 を決める。
  元は国際通貨としてのお墨付きを得ることになるが、
 単なる経済事案ではない。
  通貨とは基軸通貨ドルが示すように、国家そのもので
 あり、経済のみならず政治・外交・軍事すべてを根底か
 ら支え、運営を誤れば揺るがす。
  中国の場合、元は共産党通貨であり、それを世界で通
 用させることは、破綻しかけた共産党指令経済を延命さ
 せることはもとより、対外的な膨張を助長させる。
  日本にとっては脅威の増大を意味する。
  共産党中央が指令する中国経済は、事実上マイナス成
 長に落ち込んでいる。
  習近平党総書記・国家主席の中国は手負いの巨大怪物
 も同然だが、愚かではない。
  習氏は、米英が仕切る国際金融市場の総元締め、国際
 通貨基金(IMF、本部ワシントン)に元を国際準備通
 貨として認定させる道を付けた。
  現在の代表的な国際通貨はドル、ユーロ、円、ポンド
 であり、IMFの国際準備通貨単位である特別引き出し
 権(SDR)を構成している。
  SDRは帳簿上で記載されるだけで、流通するわけで
 はないが、各国中央銀行は通常、SDR構成通貨建ての
 金融資産を準備通貨として保有するので、民間はSDR
 を構成する通貨での支払いや決済に安心して応じる。
  これまでの人民元は、韓国のウォンや東南アジア各国
 の通貨同様、ローカル通貨であり、これらの各国は外貨
 準備を積み上げながら、外貨の流出を防ぐと同時に、外
 資が流入するように金融、財政政策を調整しなければな
 らない。
  元の国際通貨化が、党支配経済存続の鍵になるという
 切実な事情は2つある。
  現在の中国は、外貨の流入が細り、資本の流出に加速
 がかかり、外貨準備が急速に減少している。
  もう一つ、元資金を使った対外融資や投資を増やす対
 外戦略上の必要性である。
  中国は、固定資産投資主導による高成長路線が限界に
 来ており、このままでは経済崩壊してしまいかねない。
  それを打開するためには、国有企業の再編成など合理
 化・競争力強化策が必要だが、党幹部の既得権益調整に
 手間取るので短期間では実現不可能だ。
  手っ取り早いのは、対外投資を増やして、輸出を増強
 することで成長率を引き上げる方法だ。
  その決め手とするのが、中国とユーラシア大陸及び東
 南アジア、インド、中近東・アフリカを結ぶ陸と海の「
 一帯一路」のインフラ・ネットワーク整備構想である。
  習近平政権は、その投融資を行うための基金や国際開
 発金融機関を相次いで発足させようとしている。
  代表例が、年内設立をめざす多国間のアジアインフラ
 投資銀行(AIIB、本部北京)である。
  AIIBは、国際金融市場でドルなど外貨を調達して
 インフラ資金とする計画で、英独仏など欧州や韓国、東
 南アジア、ロシアなどが参加したが、世界最大の債権国・
 日本と国際金融シェアが最大の米国が参加しないことも
 あって、AIIBの信用力は弱い。
  このために、国際金融市場での長期で低利が必要とな
 るインフラ資金の調達は困難だ。
  それを打開するためには、中国が元資金を提供するし
 かない。
  しかし、元がローカル通貨である以上、元による決済
 は限られる。
  翻って、元が国際通貨になれば、その障害は少なくな
 る。
  元が国際通貨になるためには、ドル、ユーロ、円、ポ
 ンドと同様、SDR構成通貨への組み込みをIMF理事
 会が認定することが前提となる。
  IMF理事会審議の鍵を握るのは英国など欧州と、I
 MFの唯一の拒否権保有国・米国である。
  厳密に言うと、SDR認定事項は最重要案件とはみな
 されず、議決権シェアで7割以上の賛成があれば、米国
 の拒否権を無効にできるが、SDRの新規発行は米国の
 賛同が必要だ。
  したがって米国の同意がないと、元が加わった後のS
 DRの追加配分に支障が出る。
  習氏は、米欧各国に対し、実利を提示することで、抱
 き込みを図ってきた。
  日本は対米追随なので、対日工作の必要はなかった。
  足元をみられた欧州 詭弁にやられる米国の甘さ
  2015年10月下旬の習氏の訪英は大成功だった。
  キャメロン首相の発表によると、習主席訪英中に決ま
 った中国の対英投資案件の総額は約400億ポンド(約
 7兆4000億円)。
  さらに、習氏は、ロンドンに人民元建ての国際決済セ
 ンターの特権を提供し、元建て国債の発行を表明した。
  これに応えて、キャメロン政権は「国際通貨元」支持
 を表明した。
  ドイツ、フランスなど残る欧州主要国も自国市場に元
 の国際決済業務の拡大を期待して、なだれを打つように
 元のSDR組み込みへの支持を表明した。
  米国はどうか。
  ルー米財務長官は3月時点では元のSDR認可には反
 対表明したが、習氏の訪米後の10月6日には、「IMF
 の条件が満たされれば、支持する」と表明した。
  6月の上海株暴落後の中国当局による市場統制や8月
 の元切り下げは金融市場自由化原則に逆行する。
  ところが、オバマ政権は態度を軟化させた。
  上海株式市場の統制は緊急措置であり、元切り下げに
 ついて「元の市場実勢に沿う改革の一環」とする北京の
 説明を大筋で受け入れたのだ。
  習政権は6月の上海株暴落以降、党・政府指令による
 経済支配を強化している。
  これだと、だれが見ても国際的に自由利用可能である
 というSDR通貨認定条件に反するはずだが、IMFは
 そう見ない。
  フランス出身のラガルド専務理事は3月下旬の訪中時
 に、「元のSDR通貨承認は時間の問題だ」と習氏に約
 束している。
  IMFは8月、上海市場の統制を当面は容認すると同
 時に、元をより大きく市場実勢を反映させる改革案を示
 せば、元を来年9月からSDR通貨に認定してもよい、
 というシグナルを送った。
  市場原理とはおよそ無縁な小出しの自由化でよしとす
 る、対中国だけのワシントンの二重基準である。
  習氏は9月訪米時、ワシントンの甘さにつけ入った。
  「中国は輸出刺激のための切り下げはしない。元を市
 場原理により大きく委ねていく改革の方向性は変わらな
 い」
  「中国政府は市場安定策を講じて市場のパニックを抑
 制した。今や中国の株式市場は自律回復と自律調整の段
 階に達した」
  「外貨準備は潤沢であり、国際的な基準では依然とし
 て高水準にある」
  「人民元国際化に伴って、外貨準備が増減することは
 極めて正常であり、これに過剰反応する必要はない」
  中国伝統の白を黒と言いくるめてみせるレトリックで
 ある。
  8月11日の元切り下げは過剰設備の重圧にあえぐ国有
 企業が背後にあるが、4%台半ばの元安にとどめざるを
 えなかったのは、資本逃避が加速したためだ。
  元相場を市場実勢に反映させると言うなら、外国為替
 市場への介入を抑制すべきなのだが、実際には元買い介
 入によって元の暴落を食い止めるのに躍起となっている。
  株式市場は自律的に回復しているというが、当局が市
 場取引を制限しているために、上海株の売買代金は6月
 のピーク時の4分の1まで雌伏したままだ。
  外準減少が正常、というのも詭弁である。
  資金流出は加速し、元買い介入のために外準を大幅に
 取り崩す。
  国内の資金不足を背景に対外債務は膨張を続け、「高
 水準の外準」を大きく上回る。
  外準を支える対中投資の大半は香港経由であり、その
 うちかなりは外資を装った中国の投資家で、ほとんどが
 党幹部に直結している。
  建前上は厳しい資本流出入規制を実施している中国で、
 特権を駆使する党幹部だけがその網の目をくぐれる。
  言い換えると、中国は党支配体制だからこそ資本逃避
 が慢性化する構造になっている。
  習氏が党総書記就任前の12年前半にわずかずつ人民元
 を低めに誘導すると、資本逃避が起きた。
  あわてて元を高目誘導したらデフレ圧力が高くなった
 ので、14年前半には再び元安方向に修正したら、やはり
 資本逃避が再発する。
  景気の方は14年初めから停滞感が強くなる一方である。
  中国当局発表では14年は7%台半ば、15年も7%弱の
 実質成長を続けているが、モノの動きを忠実に反映する
 鉄道貨物輸送量は前年同期を下回り、以来マイナス幅は
 拡大するばかりである。
  その場合、金利を下げ、元安にするのが景気対策とい
 うものだが、すると資本逃避で国内資金が不足する。
  元のSDR通貨認定は、北京にとってまさに焦眉の急
 である。
  人民元帝国誕生で軍拡も加速
  米英の国際金融資本にとって中国はグローバル金融市
 場の中の巨大なフロンティアである。
  小出しでも中国の金融市場の対外開放や自由化は、米
 金融界にとって中国市場でのシェア拡大を有利に進めら
 れる。
  北京は特定の米金融大手を一本釣りにして特権を与え
 るからだ。
  ゴールドマン・サックス、シティグループなどは江沢
 民政権時代以来、とっくに党中央と気脈が通じあってい
 る。
  ニューヨーク・ウォール街代表者が政権中枢を担うオ
 バマ政権では、グローバル金融市場に中国の元金融を取
 り込むことが国益とみなされるだろうし、元そのものが
 脅威となる日本と利害が微妙に異なる。
  中国の対外貿易規模は日本のそれの3倍以上であり、
 すでにアジアでの元建て貿易は円建てを超えている。
  中国は「国際通貨」元を振りかざしながら、アジア全
 域を元経済圏に塗り替えるだろう。
  日本の銀行や企業は元金融や元建て決済を認可しても
 らうために、北京の顔色をうかがうしかない。
  それは、日本外交の手足を縛る。
  すでに金融界は浮き足立ち、「中国嫌い」で評判の麻
 生太郎財務相ですら、中国側に東京に元決済センター設
 置を要望する始末だ。
  中国との通貨スワップに頼る韓国はますます北京に頭
 が上がらなくなる。
  国際通貨ともなれば、中国は刷った元で戦略物資やハ
 イテク兵器を入手できるようになり、軍拡は一層進む。
  これでは日本は立ち上がれぬ・・危機意識なき財務官
 僚たち
  日本としての今後とるべき策は、何が何でも元の完全
 自由変動相場制移行と資本市場の全面自由化を早期に実
 行させることだ。
  国境を越える資本移動の自由化は、外国資本や金融機
 関による対中証券投資や融資の制限の撤廃、さらに中国
 市場からの引き上げを自由にすることを意味する。
  元の自由変動相場制は、元の対ドルや対円相場の変動
 を自由にし、中国当局による市場介入や管理を取り払う。
  中国が元を乱発すれば、元相場は暴落不安が起き、中
 国からの資本逃避が起きる恐れがある。
  SDR通貨として認定されても、通貨の国際的な信認
 は国内の政策次第で失われる。
  そんな懸念から、北京は金融や財政政策で自制せざる
 をえなくなる。
  つまり、市場のチェック機能を持たせることで、元の
 暴走にブレーキをかけられる。
  党による市場統制力は次第に弱まるだろう。
  考えてみれば、これまでの中国の人民元管理変動相場
 制は中国のとめどない膨張を支えてきた。
  管理変動相場制のもとでは、自由変動相場制とは全く
 異なって、対ドル相場は人為的に安定させられる。
  元の安定を背景に、中国にはこれまで順調に外資が流
 入し、その外資の量に応じて中国人民銀行は元を刷り増
 しし、国有商業銀行、国有企業、地方政府に資金を流し
 込んで、不動産開発を進めて、投資主導による高度成長
 を達成した。
  国有企業は増産しては輸出を増やしてきた。
  ところが、不動産投資も国有企業の増産投資も過剰と
 なり、景気は急降下し、地方政府や国有企業の債務は膨
 張を続けている。
  鉄鋼などの過剰生産は、安値での輸出攻勢を引き起こ
 す。
  半面で、鉄鉱石など一次産品の国際商品市況は急落し、
 産出国経済を直撃している。
  市場需給を無視した党主導による金融は世界経済不安
 の元凶になっているのだ。
  来年は米大統領選挙だ。
  日本としては米国のまともな勢力と組み、元の変動相
 場制移行と金融自由化の早期実行を北京に迫るしかない。
  仮に北京が為替や金融の自由化を約束したところで、
 実行するはずはない。
  何しろ中国の国際ルール無視ぶりは目に余る。
  中国は2001年末、難交渉のうえに世界貿易機関(
 WTO)に加盟したが、ダンピング輸出、知的財産権無
 視などが横行している。
  国内総生産(GDP)統計は偽装の産物だというのが
 国際常識だ。
  外交・軍事では南シナ海の砂地埋め立てと軍事拠点化、
 絶え間のない外国に対するサイバー攻撃と、あげればき
 りがない。
  人権の尊重、言論・表現の自由は、自由で公正な金融
 市場ルールの下地のはずだが、党中央にはその意識のか
 けらもない。
  米国とはそれでも、日本の危機意識を共有できる余地
 はある。
  正式候補に決まるとは限らないが、民主党のヒラリー
 氏はウォール街に批判的で対中警戒派だし、共和党のト
 ランプ氏は「大統領になれば、中国を為替操作国として
 罰する」と息巻いている。
  日本として、元のSDR化で習近平政権は軍事を含む
 対外膨張路線をひた走るだろう、と伝えるべきだ。
  問題は通貨・金融を自省の専管事項とする財務官僚だ。
  IMFにおいて中国のSDR通貨工作のなすがままに
 した。
  そればかりか、IMFで精を出しているのは、消費税
 増税をIMFに対日勧告させて安倍晋三政権を予定通り
 の増税に追い込む根回しだ。
  語るに落ちる裏切りぶりである。
  たむら・ひでお 昭和21(1946)年生まれ。
  早稲田大学政経学部卒。
  日本経済新聞社に入社し、ワシントン特派員、米アジ
 ア財団上級フェロー、香港支局長などを歴任。
  平成18年に産経新聞社に移籍し、編集委員、論説委員
 を兼務する。
  著書に『アベノミクスを殺す消費増税』(飛鳥新社)、
 『人民元の正体』(マガジンランド)など多数。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2018-07-30 04:12 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)604E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)

題:(増補版)604E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年7月19日、日本が、中国・清へ、日本の手交(しゅこ
 う、手渡すこと)した最後通牒の回答期限である7月24日
 を過ぎても、中国・清が、日本へその返事もしないで、
 中国軍の朝鮮への増派をするならば(それは、朝鮮に対
 する宗主国ぜんとした威嚇行為であるとともに、同時に)
 日本に対する威嚇行為(敵対)と見なす・・との内容の
 最後通牒を中国・清へ送りつけた。
  そしてまた、この様な無視の行為をする中国・清の態
 度であるならば、陸奥宗光外相は、回答期限の7月25日以
 降は、清国の軍艦などへ日本が攻撃をしても、「外交上
 の問題はない」の旨を日本海軍へ伝えた。
  日本は、今まで自重し、清の強引な行動を静観して来
 たが、また、影で工作する清の態度を静観して来たが、
 この時点では、はっきりした毅然たる態度を示すという
 方針に替わっている。
.
1894年7月20日、この日の午後、大島公使は、この様な状況
 になっては、毅然たる態度を示すべきとの方針において、
 自主独立の国としてありたいと日本へ伝えている朝鮮に
 対し、清国の宗主権を認めさせられている『中朝商民水
 陸貿易章程』を、廃棄をしなさいと伝えた。
  また、中国・清が「朝鮮は属邦である」とし、その属
 邦保護を名目として、朝鮮の「自主独立を侵害」する清
 軍の撤退について、朝鮮の考え方を7月22日までに伝えて
 もらいたいと伝えた。
  これは、1636年~1637年の丙子の役(へいしのえき、
 清の朝鮮への一方的侵略行為)の一例の如く、過去から
 何度も、中国・清から度々の武力行使を受け苦渋してい
 る朝鮮が、また、日本も清から脅され、威圧行為も受け
 ているという、その様な状況に於いて、その様な清軍を
 退けられないのであれば日本が代わって駆逐するとの含
 意があった。
.
1894年7月20日、総武鉄道の市川駅~佐倉駅間が開通した。
  開業120周年となる2014年に、記念行事が行なわれた・・
 以下は、そのことを伝える記述・・
  ~おかげさまで120周年! 120年間の感謝を込めて~
  総武本線市川~佐倉間は開業120 周年を迎えます!
  1894 年(明治27年7月20日に総武鉄道(市川~佐倉間)
 が開通し、市川駅・船橋駅・千葉駅・佐倉駅が2014年に
 120 年目を迎えます。
  JR東日本千葉支社では、お客さまに感謝の気持ちを
 込めて「総武本線開業120周年記念イベント」を開催しま
 す。
  7月20日には、市川駅・船橋駅・千葉駅・佐倉駅で120
 周年記念入場券発売やスタンプラリー、写真展やコンサ
 ートなど楽しいイベントを開催します。
  また、120 周年記念号として寝台特急「あけぼの」号
 で運行されていた寝台車両24系を使用した「市川~佐倉
 120周年号」で行く日帰りの旅コースと「120周年千葉青
 森号」で行く夜行列車の旅コースの旅行商品をインター
 ネットで限定発売します。
  ぜひ、120 周年で盛り上がる市川駅・船橋駅・千葉駅・
 佐倉駅へ遊びに来て下さい。
.
1894年7月23日、連合艦隊が佐世保港を出港した。
  この日の午前11時、強硬に陸兵増派をしようとしてい
 る清国の行動を止めさせようと、海上封鎖の任務を帯び
 た伊東祐亨中将が率いる連合艦隊が、佐世保港から朝鮮
 半島の京畿湾へ向けて出港した。
.
1894年7月23日、日本は、清軍撃退依頼を出すようにと大院
 君へ伝えた。
  朝鮮政府内にある過去からの清国の武力行使と圧力に
 屈し、清国の属邦体制を止むなく認めて受け入れている
 派(親清派)と・・、
  この強圧的な清に対して、日本に助けを求める親日派
 が朝鮮政府内にあって・・、
  親日派であった金玉均が、清国によって暗殺される如
 く、陰に陽に中国は強引な行動をしていた。
  その様な清の属邦体制を止むを得ず受け入れている現
 政権の王政派(閔妃)に対する親日政権の大院君に清軍
 撃退依頼を出すようにと伝えた。
  日清戦争の原因となった甲午農民戦争の清軍の鎮圧出
 兵も、清の工作員が暗躍して出兵要請を朝鮮に出させて
 いる。
.
1894年7月23日、この日の日本の「国民新聞」には、「今や
 我国は清国と開戦するの最高潮に達す」と記されている・・
 また・・
  この翌日の7月24日の「時事新報」には、「一刻も猶予
 せず、断然支那を敵として我より戦を開くにしかざるな
 り」とあり・・この時点に至っては「戦わざるを得ない」
 という新聞論調で、完全に開戦の方向で一致していた。
.
1894年7月23日、日本が、朝鮮王宮へ軍を派遣し、強硬策を
 行なった。
  そして、午後5時、大島旅団長が朝鮮国王に面会する。
  一人も死者は出ていない、そして、この日の内に幕営
 地に引き上げている(中国・清はまったく関係ない)
  襲撃ではない・・また、日清間の交戦も無い・・
  この日の午前零時30分、公使より電報、「作戦通り実
 行せよ」と・・
  行動部隊の第六中隊が、迎秋門が破れなかったので、
 囲壁を越え、内部より鋸と斧で門扉を開く(午前5時頃)
  第七・第五中隊が王宮に入る、そして、光化門・建春
 門も内部より開門した。
  この間、守備の朝鮮兵は抵抗する者もなく、また、皆、
 北方へ逃走。
  午前4時20分~午前7時半、双方から銃撃が起きる。
  抵抗した一部の朝鮮兵は、北方の王宮囲壁を出て、白
 岳の方向に逃走する。
  国王は雍和門内に居て、山口大隊長が、日本軍兵を門
 内に入れない代わりに韓兵の武器交付を要求した・・承
 諾された。
  また、大隊長は国王に拝謁した、「我が兵士は玉体を
 保護するために居て、決して危害の及ばざるを期すべし。
 殿下幸いにこれを諒せよ」と・・
  (参考)諒:りょう、おもいやる。明らかにする。ま
     こと。
  午後5時、大島旅団長が王宮に入り国王に面会した。
  夕方、日本軍は歩兵第二十一連隊第二大隊」に「王宮
 の守備」を命じたほか若干の部隊を王宮周辺要地に留め、
 午後5時から午後6時の間に幕営地にひきあげた。
  これは、公使館と旅団が協議して計画していたことだ
 った。
  この行為に対し、列強諸国からの批判は無く、誰かが
 殺害されたという事でもなかった。
  しかし、日本政府からはこの様なことをするなとの指
 令が出ていた。
  しかし、この行為は、朝鮮の人々の反日意識を高めた・・
  この点からも、すべき行為ではなかった。
  この様な行為は中国・清もしていて、朝鮮の人々は清
 に対しても反感を持っていた。
  しかし、この後、この行為で王宮内の財貨宝物が略奪
 されたと、「してもいない行為を、した」とプロパガン
 ダ(嘘宣伝)に使われた。
  清国の宋主権行使に苦渋していた朝鮮を救うとしても
 やり方が良くなかった。
  天皇陛下も、この事件に対し、また、武力行使に対し
 疑問を御明示されている。
  また、上記の午前4時頃撃ち合ったと言ったって、日本
 のこの行動の目的が・・、
  清に宋主権を主張されて、不満の中で属邦状態に身を
 置いている朝鮮が・・、
  陰に陽に日本に助けを求めている現状の朝鮮が・・
  日本が替わって「やらねばならないのだろう」と方針
 を決め、清軍撃退依頼を出しなさいと言っても、親清派
 と親日派とが押し合っている朝鮮・・
  そして、この度のこの行動・・態度を決めなさいとの
 この王宮へ押し寄せた行動であって、朝鮮兵と撃ち合い
 になったって、朝鮮兵と戦うことが目的ではないので、
 朝鮮兵を撃ち殺すこともない。
  この撃ち合いで戦死者の一人も出てない。
  助けようとしている日本なのだ・・朝鮮兵を撃ち殺す
 訳がない。
  今、中国が、ウイグルや、チベットや、内モンゴルで、
 取締りの名目で、ばちばち、ウイグルやチベットや内モ
 ンゴルの方々を殺しているが、それとは訳が違う。
.
  (今日の言葉)
.
  題:今、ヨーロッパの終焉が言われている・・というより、
   ドイツの差配するヨーロッパとなっている・・
   ドイツの経済に頼らざるを得ないEUなのだ・・
   そして、そのドイツが、中国に経済的救済を求めている形で
  中国に近づき、中国は、どんどんドイツに大量発注している・・
   そんな関係のドイツと中国・・そのドイツの軍事技術が、
  どんどん中国に入ることが懸念されている・・
   中国はそれを望んでいる・・
.
紀元前5万年~紀元前4万年、この頃、ユーラシア大陸から
 人類が、寒い極北の地を通って、そして、地続きだった
 凍てつくベーリング海峡を渡り、アメリカ大陸へと行っ
 た。
  この時、この極低温の地を、人類が行けたのは、体温
 の低下を防ぐための衣類・着物があったからだった。
  その様な防寒性能の良い着物が作れたのは、『縫い針』
 の発明があったからだった。
  この当時の縫い針が、シベリアから出土している。
  人類のこの発明の智慧が、その活動範囲を拡大してい
 たのだった。
  この様な歴史的な知識や、科学的知識のない北海道の
 政治家が、議会の討論の中で、「北海道は無土の地だっ
 た」と、人の居ないと地だったと言った。
  「人類が広い広範囲な活動をしていた」などという状
 況の知識の「まったく無い理解状況」の中で、政治的議
 論と判断と決定がなされている。
  人類の広い活動範囲とともに、広い人類の結婚・交雑
 が行われていて、日本列島は5万年前から、また、4万年
 前という遠い遠い昔から、広い活動とともに結婚・交雑
 の歴史の中にあった。
  アイヌも琉球も、また、本州も、その人類の交雑の歴
 史が続いて来ていて、その遺伝子的にも、そのことが証
 明されている。
  アイヌだけが特別ではない。
  中国の仕掛ける「アイヌ独立論」は、自国の抱える別
 民族である「チベット民族の方々の独立活動」「ウイグ
 ル民族の方々の独立活動」「内モンゴル民族の方々の独
 立活動」などの独立運動を相対化したいための仕掛けな
 のである。
     ・
     ・
1193年、北方十字軍
  ローマ法王(教皇)のクレメンス3世の、1193年の呼び
 かけが発端だった。
  いつも、戦争を呼びかけるキリスト教ローマ法王(教
 皇)だった。
  この時のキリスト教の「北方十字軍」は残虐だった。
  この東方遠征時には、そこの住民は「ほとんどが皆殺
 し」にあった。
  卑劣な被害を受けた地域は、現在のポーランドからバ
 ルト三国におよぶ一帯で、多くのスラブ人の方々が住ん
 でいた。
  キリスト教が、討伐の対象とする『正当な理由は無か
 った』。
  せいぜい、キリスト教にとっての異端の宗教を信じて
 いる「異端の民だ」という程度だった・・何も悪いこと
 はしていない。
  プロセインという国を作ったが、ドイツ騎士団(ドイ
 ツ騎士修道会)が多く、悪行為の実行団だった。
  現時点においてキリスト教が卑劣な事は、この一事例
 の様な「過去の暗黒の歴史」を示しても、「私たちは、
 そんな悪いことしていない」と嘘を言っている事である。
  また、キリスト教は、卑劣なキリスト教の教義も必死
 に言い換えをしている。
  まったく反省のそぶりも見せないキリスト教であり・・
 ここに問題の根源がある。
  (参考)北方十字軍:ほっぽうじゅうじぐん、バルト
     十字軍とも言われる。
      キリスト教カトリックの王であるデンマーク、
     スウェーデン、ポーランド、そして、リヴォニ
     ア帯剣騎士団、ドイツ騎士団によって開始され
     た十字軍のことで、北ヨーロッパ、および、バ
     ルト海沿岸南東の異教徒に対して蛮行が行われ
     たカトリック教会諸国の同盟によって行われた。
.
1636年~1637年、丙子の役(へいしのえき)
  韓国の南漢山城(ナムハンサンソン)が関係し・・、
  南漢山城は韓国の世界遺産であるが、標記の丙子の役
 の時、中国・清が、朝鮮(李氏朝鮮)を侵略した。
  この丙子の役の最も熾烈な47日間の戦いを描いた映画
 「南漢山城」が、今、韓国で評判になっているという。
  中国・清が、朝鮮を侵略すると、君主と家臣らは敵を
 避けて南漢山城に隠れた。
  寒さと飢えが襲う・・絶対的な軍事的劣勢の状況・・
 清国軍に完全に包囲された絶体絶命のその時・・
  国家と国民を守らなければならないという吏曹判書チ
 ェ・ミョンギル(イ・ビョンホン)と・・
  (参考)吏曹:いじょ、李氏朝鮮に置かれた行政機関
      判書:ばんそ、官職
  清国軍の攻撃に最後まで相対して戦って大義を守らな
 ければという礼曹判書キム・サンホン(キム・ユンソク)、
  (参考)礼曹:いぇーじょ、李氏朝鮮の行政機関
  そして、その間に立った仁祖(パク・ヘイル)の煩悶・・
  その攻勢はより深くなって、中国・清国の無理な要求
 と圧迫はより一層強まるっていく・・この様に映画は描
 かれるが、
  この丙子の役となるとき・・清国との戦いが決定的と
 なった時、李氏朝鮮は、日本に援軍を乞う事も検討した・・
  今の韓国もそうであるが、陸続きの中国は、容易に朝
 鮮に侵略できるため・・朝鮮半島は中国の冊封体制下に
 置かれる状況に常にあった・・
.
1904年~1907年、ドイツは、ナミビアを侵略した。
  土地を奪われたナミビアの人々(ヘレロ民族の方々)
 は、当然、反抗を開始した。
  しかし、武器や装備に各段に勝るドイツが勝つのは当
 たり前だった。
  (槍と銃の戦い・・この様な卑劣な戦いをドイツは行
 った)
  ドイツは、ナミビアのヘレロ民族の人々を大殺戮し、
 殺して、そして、強制収容所へ入れた。
  そして、強制収容所に入れた人々に強制労働をさせた。
  しかし、結局、最後には、ドイツは、この方々も皆殺
 しにした・・血も涙もない卑劣なドイツだった。
  ヘレロ民族の人々は全人口の8割の人々が、ドイツに殺
 されてしまった・・言葉に尽くせぬ卑劣さだった。
  「20世紀最初のジェノサイド」と言われている。
  (参考)ジェノサイド:その共同社会や民族を滅ぼす
     ほどの大量殺害。集団殺戮(さつりく)。 
  この蛮行は「ヘレロ・ナマクア虐殺」と言われている。
  これは、上記の様に、ドイツ領南西アフリカ(現・ナ
 ミビア)において、ドイツが先住民族(ヘレロ民族の方
 々)に対して行った虐殺で、アフリカ分割の動きの中で
 行われた。
  ドイツのこのヘレロ民族への攻撃は、1904年8月、ドイ
 ツのロタール・フォン・トロータ将軍によって行われた。
  三方から包囲して、カラハリ砂漠に追い込み、殺戮し
 た。
  また、1904年10月には、ナマクア族も蜂起したが、同
 様に、武器を持たないのも同然の人々を、ヘレロ民族同
 様に、「赤ん坊の手をひねるがごとくに虐殺した」。
  この様な民族虐殺を容易に行うドイツは、この後、ユ
 ダヤの方々への民族虐殺の行為へとつながって行く。
.
1933年3月23日、ドイツ国会が、ヒトラーの全権委任法を可
 決した。
  これによってドイツは、国家社会主義ドイツ労働者党
 (ナチ党)の権力掌握がなされた・・
  そして、これ以降、反ユダヤ主義が国是となったドイ
 ツにおいて・・様々なユダヤ人の方々に対する迫害が行
 われた。
  ドイツでは、第二次世界大戦の勃発の後、ナチス内部
 では、「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決」
 を行おうとする動きが強まり、ドイツ国内や占領地のユ
 ダヤ人を拘束し、強制収容所送りを始めた。
  ドイツは、この「600万人のユダヤの人々の殺害」以外
 にも数々の卑劣な行為がある。
  「ロマ(ジプシー)・シンティ」「何千人もの精神障
 害者」「多くの同性愛者の殺害」「占領地のSS」「ド
 イツ国軍による戦争犯罪」「60万人から80万人と言われ
 る犠牲者が出たレニングラード包囲」「ワルシャワのゲ
 ットー破壊」など。
  ドイツは、これらの過去を正しく清算しなければなら
 ない。 
  今までの清算の仕方には欺瞞に満ちたところがある。 
  その様な過去への態度なら・・また認識の仕方なら、
 また、同じ様な蛮行を繰り返す事になるだろう・・、
  そして、今、利益優先で中国と悪だくみをしている。
  (参考)受権法・・ドイツのヒトラーが率いるナチス
     政権下のこの年・1933年に制定された「全権委
     任法」が代表例。
      議会の承認なしに、政府による立法権行使を
     認める法律の総称。
      ナチスは、委任法で、政府が定めた法律に矛
     盾する憲法規定の効力を失わせた。
      憲法自体を空文化させることで、独裁体制を
     固めて行った。
.
1937年11月、アメリカは、この月、中国国民党の蒋介石や
 重い責任を持つ軍人を南京から連れ去り、これから南京
 城での戦いが始まるという事態に、中国司令部を無くし
 て、南京の戦いはシッチャカメッチャカにした・・
  (この翌月の1937年12月に、日本軍の南京入城という
 時だった)
  そして、南京事件が「でっち上げられた」のである。
  何しろ・・秘かに中国側に味方して、戦いに参戦した
 アメリカは卑劣で・・南京戦が乱戦となった主犯は、ア
 メリカだった・・
  このアメリカによって重慶に連れ去られた中国の中枢・
 司令部の国民党・・
  この中国国民党の国際宣伝処に所属していたアメリカ
 人のセオドア・ホワイト(ジャーナリスト)・・
  この男は、自叙伝で回想し、くだらないことを書いて
 いる・・
  重慶に逃れた国民党政府は、自国に有利な事なら何で
 もした・・そして、どんな嘘でもついた・・。
  南京事件のデッチアゲも朝飯前だった・・
  嘘をつくこと、騙すこと、中国とアメリカは、共に、
 日本に対抗して行くのだとアメリカに納得させるためな
 ら、どんなことをしても良いと・・それは必要な事だと・・
  その様に考えていた・・と書く。
  そして、宣伝目的で作られた嘘の数々・・
  そして、その嘘写真・・誤記を装って書かれた嘘の数
 字・・それらが宣伝されて行った・・
  そして、それらが、一人歩きをし出し・・「真実」と
 して定着して行った・・と。
  その様な中で、嘘八百の中の馬鹿馬鹿しい話の一つが・・
 以下である・・
  蔡黄華というデッチ上げられた中国女性が、日本の兵
 士を数人殺したという・・
  そして、逃走して、反日ゲリラの首領になったという
 「真っ赤な嘘話し」を作り上げて記事にした。
  これに、多くのアメリカ人記者が飛び付き、この女性
 の写真を要求して来た。
  中国国民党の宣伝部は、腰に二丁拳銃を下げた中国人
 女性の写真を作った。
  この中国人女性は、アメリカで、国民党の蒋介石総統
 夫人の宋美齢に次ぐヒロインになった。
  世界のどこにもいないという「架空の人物」がもては
 やされるというアメリカだった。
.
1942年、ドイツは、国で慰安婦施設を経営していた。
  レッキトシタ証拠が、いくつもある、卑劣な行為をし
 ていたドイツ。
  ドイツには、慰安婦について後ろめたい過去がある。
  ドイツは、1942年の時点で、約500のドイツ軍が運営す
 る慰安婦施設があった。
  その運営される慰安婦施設が、ドイツ軍当局へ報告し
 ている書類など、多数の証拠が存在し、その内容は明ら
 かとなっている。
  その書類の一つが、調査報告書の形で・・、
  ドイツ国防軍の専属か、否か? 
  民間人の利用もできるのか?とか・・
  娼妓の人数や年齢は?とか・・、
  性病の予防処置をしているか?とか・・、
  一人の娼妓の客の最高数は?とか・・、
  コンドームの使用状況は?・・など、微に入り細に入
 り報告させている。
  ドイツ軍が完全管理している実態があった。
  そして、この事が、1977年に、本として克明に実態が
 書かれ、出版され、公知の事実となった。
  本は、フランツ・ザイトラーにより書かれ、本の表題
 は、「買春・同性愛・自己毀損、ドイツ衛生指導の諸問
 題、1939年~1945年」。
  ドイツには、国軍によって、組織的で、規模の大きい
 慰安婦制度がれっきとしてあった。
  ドイツは、この事を後ろめたく思っていた。
  その事もあって・・ドイツは、日本の「韓国がでっち
 上げる慰安婦問題」を、自分たちの汚点を消したいとし
 て、「日本の真実の説明」に一切耳を貸さずに、ドイツ
 の新聞などマスコミは、韓国の嘘のプロパガンダの言い
 分だけを公表した。
  また、ドイツ国会も、決議案を採決しようなどという
 破廉恥で卑劣な行為に及ぶほどだった・・結局、採決に
 は至らなかったが、ドイツの卑劣さが国会レベルにまで
 至っていた。
  まったく韓国の卑劣な嘘宣伝に踊らされているドイツ
 となっていた。
.
1945年5月2日、ドイルのベルリン陥落
  ドイツ国防軍のベルリン防衛軍司令官のヘルムート・
 ヴァイトリングが降伏して・・ベルリンは陥落した。
  ヒトラーは、すでに、1945年4月30日に自殺している。
  そして、ドイツの戦後が始まるが、ドイツには1200万
 人のナチスに加担した人々・ナチ党員が居た。
  このナチ党員らは、何ら罪を問われること無く、戦後
 の時間を過ごして行った・・そして、そのままとなった
 ドイツが、今、存在している。
  アメリカも、このナチス加担者のナチ党員の罪は問わ
 なかった。
  ドイツの一般国民と同じように戦後を過ごさせて来た。
  何ら責任を取らないナチ党などの人々が、ドイツの中
 で一般のドイツ人たちと同じように過ごしてきた。
  謝罪も何もしない人々が、一般の人々と同じように過
 ごしてきた。
  ドイツという戦後のドイツ政府は、このことに目をつ
 むり、一緒になって謝罪も何もしないで戦後を過ごして
 きた。
  そして、ドイツのやることと言ったら・・「ナチスは
 悪いことをした」「ナチスは、600万人のユダヤ人の殺害
 をした」というけれど・・、
  「ナチスは、悪いことをしたけれど・・」とまでは何
 度も何度も言うが、肝心の謝罪の言葉なしに戦後を過ご
 して来た。
  世界に対するドイツの欺瞞の態度が今・現在もある。
.
1945年、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線における、ドイ
 ツが戦争に敗れる前後において・・ソ連兵による婦女暴
 行が50万件もあった・・
  また、アメリカ兵による婦女暴行も19万件もあった。
  1945年4月16日、ソ連は、ベルリンの攻囲作戦を開始し
 た。
  昼も夜も、ベルリンを砲撃した。
  昼も夜も、その砲撃音は、常にベルリンに鳴り響いた。
  電気もガスも水も・・ストップした。
  ベルリンから脱出できなかった、ベルリンから逃げそ
 びれた市民の200万人の人々は・・防空壕内に逃げ、生き
 延びていた。
  そのほとんどが、その圧倒的多数が「女性と子供たち」
 だった。
  そして、12万人の乳幼児がいた。
  1945年4月26日、ベルリンは完全に包囲された。
  そして、1945年5月2日、ベルリンは陥落した。
  この攻防の最中から、この後の時の中で、ソ連兵やア
 メリカ兵による婦女暴行などの蛮行は行われた。
  婦女暴行の他にも、家宅侵入や略奪など、その阿鼻叫
 喚(あびきょうかん、人々が苦しみ泣き叫ぶような、非
 常にむごたらしい状態)、その中でレイプが行なわれた。
  この時だけのベルリン市の女性の犠牲者だけでも9万500
 人から13万人だという。
  二つの主要病院の報告だけであるから、そのデーター
 は少な目であっても、しっかりした信頼できるものと言
 える。
  この様な悲劇は、1944年の末から始まっていた。
  ドイツの敗退が始まると、東方のドイツ領土から兵士
 だけでなく、ドイツの一般市民も脱出し、ドイツやベル
 リンを目指した。
  また、追放されるドイツ人たちも居た。
  その逃避行をする人々は1200万人から1400万人いた。
  着の身着のまま・・ドイツを目ざし、飢えと寒さ、そ
 の様な中、多くのドイツ人が虐殺にあった。
  死者と行方不明を合わせ300万人だという。
  日本を貶(おとし)めてばかりいるNHKは、この様
 な事は一切放送しない。
.
1945年、第二次世界大戦の戦後、ドイツはパニックとなっ
 た。
  流言飛語が飛び交った。
  「1910年から1925年までに生まれたドイツ人の青年は、
 不妊手術をされる」
  「ドイツの市町村長は、全員がクビになり、強制収容
 所から解放されたユダヤ人が取って代わる」
  「ドイツの各都市は、計画的に略奪される手はずにな
 っている」。
.
1988年、この年に、日本に帰化した蔡善花氏が大切なこと
 を教えてくれた・・話された・・
  韓国が漢字を捨てたが・・??
  日本でも、アメリカの戦後のGHQが、日本に日本語
 を捨てさせようとした・・英語化しようとした・・
  日本に、漢字を捨てさせようとした・・
  無知からGHQは、「日本は、漢字があるから文盲率
 が高く・・民主化が遅れているのだ」とした。
  この時、日本は、知識人が反対し、GHQを説得し、
 疑(うたぐ)るGHQを納得させるために、「日本人に
 テストを実施した」・・
  そうしたら、ほぼ100%の日本人の出来の凄い良さの結
 果で、「日本人の知性・知識の高いことが立証された」。
  馬鹿なGHQも「びっくり」という過去の史実がある
 が・・
  韓国は・・漢字を捨ててしまって、廃止し、ハングル
 文字だけにした。
  今、韓国の若い人たちは、漢字が読めない状態になっ
 ている。
  当然、漢字で書かれた過去の史料や文献・資料が読め
 ない。
  それで何が起きたか?というと、『知性の劣化』。
  (参考)知性:ちせい、物事を知り、考えたり判断し
     たりする能力。
  この様な恐るべきことが韓国で起きていると・・日本
 に帰化したエッセイストの呉善花さんがそのことを何度
 も書いたりして、発表されている。
  韓国は、同時に自分たちの歴史も失っている。
  (参考)呉 善花(オ・ソンファ、1956年~)は、韓国
     生まれの評論家、日本研究者。済州島出身。
      大東文化大学(英語学専攻)卒業後、東京外
     国語大学地域研究研究科修士課程(北米地域研
     究)修了。
      拓殖大学国際学部教授。元韓国籍で日本に帰
     化。
      子供時代を済州島で過ごす。
      1980年に、韓国軍に入隊しながら大邱保健専
     門大学を卒業。
      1983年に訪日、日本で働く韓国人を題材とし
     た『スカートの風』を出版。
      戦前に日本在住経験のあった母親からの影響
     もあったが・・そして・・
      学校教育によって一時は反日主義に傾倒して
     いたが、訪日後にさまざまな葛藤を経て知日派
     になった。
      韓国併合を全否定しない・・日本の自虐史観
     の改善を求めている・・
      韓国では・・親日派、「韓国を卑下する書籍
     を出版してきた」という否定的評価を受けてい
     る。
      また、韓国における漢字復活論支持者であり、
     自著でもたびたびハングル専用教育の弊害につ
     いて言及している。
      1988年に、日本へ帰化。
      韓国による入国拒否という行為に遭っている。
      2007年10月1日、済州島在住の母の葬儀で韓国
     へ入国しようとしたところ、日本での「反韓的
     な活動」が理由で、韓国当局から入国禁止措置
     が取られていたため、済州国際空港で一時入国
     を拒否された。
      これに対し、呉の要請により、在済州日本国
     総領事館は、日本人への人権侵害との申し出を
     し、韓国入管は呉の入国を認めた。
      2013年7月27日には、親戚の結婚式への出席の
     ために韓国へ入国しようとしたが、仁川国際空
     港で完全入国拒否(本国送還命令、韓国入国法
     76条)となった。
      ルーツを朝鮮半島に持ちながら、韓国に対し
     て批判的な評論活動を引き続き行なっているこ
     とが影響したとされている。
      卑劣にも、大韓民国当局は、拒否の理由を明
     らかにしていない。
.
2013年5月、今、韓国は、「なんだかんだ」と言っているが、
 何と言おうと、実際は「日本の統治は良かった」と思う
 韓国の人々が、大勢、生きている。
  その方々が、口を開かなくても、事実は、実際は、良
 いのだから・・だから、心では「(韓国)政府は何を言
 ってんの? 日本に感謝しなければならないのに、貶(
 おとし)めてばかりで・・」となっている。
  しかし、これからは、その方々が亡くなって行かれ、
 居なくなる。
  その時、(韓国)政府にプロパガンダ(嘘宣伝)され
 た韓国の人々は、本当にそう思って、始末が悪くなるだ
 ろう・・、
  「日本の統治は良かった」と実感した人たちが、大勢、
 生きている時は良かったが・・結局は、プロパガンダさ
 れた人々だらけになるだろう。
  半分、中国に冊封されて日本の貶め行為の政治行動を
 し続けるだろう。
  そのような事件が、2013年5月に起きている。
  「日本の統治は良い事だったと、私は思っているよ」
 と言った韓国の95歳のお年寄りが、若い男に殴り殺され
 ている。
  実際の日本の素晴らしい統治に感激した韓国のお年寄
 りが、「日本の統治は良かったよ」と口にしたら・・、
  韓国の嘘の反日教育を受け、洗脳された若者が、「そ
 んなわけはない」と韓国のお年寄りを殺すという事件だ
 った。
.
2017年、ドイツに入って来た移民は、結局、社会の下層に
 しか居られないのが実情で・・、
  経済的にも、社会的にも不満を持っている人間と化し
 た集団となっている。
  そこで、「iS(イスラム国)」に流れ込んでいる。
  ドイツ国籍は取れても、社会の最底辺に据え置かれて・・
 そして、ドイツに反感を抱く。
  今、ドイツには、「サラフィスト」と呼ばれるイスラ
 ムのウルトラ過激派・超過激派が、どんどん増えている。
  日本も、「労働移民」という都合のよい考え方で判断
 しているが、そんな様に都合よく行く訳はない。
  移民は、人間という複雑な行動や考えをする対象であ
 るという認識を・・自分に都合よく、夢のような解決・・
 そんな夢想しての政策を決める様な事はない様に・・、
  (参考)サラフィストを恐れるフランス・・
     2016年4月4日、ヴァルス首相は、「フランスの
     サラフィストはイスラム教徒の1%にすぎないが、
     イデオロギー、文化的闘いに成果を上げつつあ
     る」と表明し、警告した。
      サラフィズム(サラフィー主義)・・イスラ
     ム過激派と一口に言っても、国の歴史・宗教・
     政治的背景によってさまざまなグループがあり・・
     サラフィズムは、イスラム原理主義を守り、キ
     リスト教徒や他宗教徒を敵とみなし、真正イス
     ラム国カリファ再建の「聖戦(ジハード)」を
     掲げている。
      サラフィズムがフランスに入ったのは、特に、
     1991年、アルジェリアのイスラム救国戦線が選
     挙で圧勝したのに、与党が無効としたため武装
     イスラム集団(GIA)との内戦が10年続いた
     頃・・
      ムスリム人口の西洋での増加とともに、イス
     ラム過激派や原理主義サラフィズムもフランス
     に入って来て・・サラフィズムの影響下、ニカ
     ーブを着た女性イスラム教徒も増加した・・郊
     外への移民家族の集中化のなかで、ムスリムの
     コミュニティ化が進んで行った・・
      サラフィズムには3系統あり・・
      武装・過激化を提唱する 「革命的サラフィズ
     ム」・・、合法・政治的にイスラム主義国家を
     目指す、エジプトのムスリム同胞団に通じる「
     政治的サラフィズム」・・そして、「サラフィ
     ズム・キエティスト」は、政治に関係なく伝統
     的布教に努め、テロリズムでヨーロッパを恐怖
     に陥れる「イスラム国」を強く批判している。
      シリアに向かうフランス青少年(現在600人、
     女性200人、160人戦死)は、アッラーのための
     ジハードにまい進している・・
      パリやブリュッセルのテロ犯の大半は、元犯
     罪者か麻薬ディーラーで・・自国には懲役か失
     業しかないと絶望するニヒリスト青少年らは「
     イスラム国」、アッラーのために自爆テロを続
     けている・・
      聖戦に憧れる多くの青少年が、家族と断絶し
     てイスラム教に改宗する・・
      ヨーロッパ社会での差別、屈辱を、神やムハ
     ンマドのための 「聖戦」によってヨーロッパに
     復讐し反抗しようとする・・
.
2018年、今、ヨーロッパの終焉(しゅうえん、終わり)が
 言われている・・というより、ドイツの差配するヨーロ
 ッパとなっている。
  (参考)差配:さはい、指図してとりさばくこと。
  ドイツの経済力に頼らざるを得ないヨーロッパとなっ
 ているから・・経済力の強いドイツが牛耳る・・「ドイ
 ツ帝国」の再来と言われている。
  しかし、そのドイツ・・、中国の購買力で息を吹き返
 した自動車のベンツの如(ごと)く、このベンツ以外は
 影が薄くなって来ているドイツの状態・・、
  ヨーロッパは、その様なドイツに頼らざるを得ず・・
 「ドイツの力と意思に決定づけられている状況」となっ
 ている。
  EUは、「EUの衣装を身にまとったドイツ帝国」の
 状況が強くなっていると言われているが、そのドイツ・・
 各部の地盤沈下が酷(ひど)く・・中国に救いを求めて
 いる。
  ベンツだけの救済だけでなく・・その為、中国が主導
 するAIIB(アジアインフラ投資銀行)へ、このドイ
 ツだけでなくEU諸国が、こぞって参加している・・
  腐肉に群がるハイエナのような状況になっている。
  今、ドイツは、移民が酷く・・ドイツでは、どこの幼
 稚園や小学校でも、外国系の子供たちの方が多いという
 ケースがたくさんある。
  今、ヨーロッパの終焉が近づきつつあると言え・・そ
 のヨーロッパの文化も消えていく状況・・町並みも消え
 て行く状況。
  中国に近づいて、中国の軍事力の増強にテコ入れする
 ことが恐れられている・・
  ドイツの技術が、中国に注入されることが恐れられて
 いる。
  ドイツの軍事技術が、どんどん中国に入ることが懸念
 されている・・中国はそれを望んでいる・・、
 (追伸)先日、テレビで放送されたが・・、
     オーストリアの世界遺産の美しい街並みの満々中に
     超近代的は高層ホテルが建つ話がある・・景観ぶち壊しホテル
      もう世界遺産より食う方が先・・背に腹は代えられぬという
     ヨーロッパとなっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2018-07-23 17:05 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)603E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)

題:(増補版)603E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年7月17日、御前会議で慎重な審議を重ねられ、開戦が
 確認された・・そして、最後通牒が送られた。
  回答期限は、朝鮮に対しては7月22日、中国・清国に対
 しては7月24日とした。
.
1894年7月17日、海軍軍令部長が中牟田倉之助から樺山資紀
 に交代した。
  海軍軍令部は、1893年5月20日の「海軍軍令部条例」に
 より設置された。
  この頃の海軍の建設にあたって、初めは、軍令の専掌
 機関はなく、海軍省が軍令と軍政を一元的に管掌してい
 た。
  1884年、海軍省内に外局として軍事部が設置されて、
 初めて軍令をつかさどった。
  1886年、軍事部は参謀本部の海軍部となり、
  1888年、参軍のもとの海軍参謀本部となり、
  1889年、海軍大臣のもとに戻って海軍参謀部となった。
  1893年、海軍省から独立して天皇陛下に直隷する海軍
 軍令部となった。
  作戦、編制、情報、通信、戦史などをつかさどった。
.
1894年7月18日、総武鉄道の佐倉駅~銚子駅間の建設仮免許
 状が下付された。
.
1894年7月19日、イギリスの第二次調停案への回答期限を、
 7月24日と清に通告した。
.
1894年7月19日、朝鮮の望む自主独立と・・宋主権を行使し
 主張する清国・・、
  「断固なる処置を施すの必要あり」の訓令を受けた大
 鳥公使は、朝鮮が清国と結んでいる諸条約の廃棄を提案
 した。
  つまり宗属関係の撤廃、清国軍の撤兵、ソウル~釜山
 間の軍用電信の架設、日本の兵営建設などを示し、朝鮮
 政府に手交した(7月20日)
.
1894年7月19日、海軍連合艦隊を編成し、伊東祐亨が初代司
 令官に就任した。
  日本海軍初の聯合艦隊を編成した。
  司令長官は伊東祐亨中将だった。
  日清戦争開戦が現実のものになってくるにつれて「警
 備艦隊」というのはふさわしくないという意見が出た。
  一時は、警備艦隊を常備艦隊に統合する案が出たが、
 当時の軍令部官房主事である山本権兵衛大佐が警備艦隊
 を「西海艦隊」と改名し、常備艦隊と西海艦隊をもって
 「連合艦隊」を組織するという案を出した。
  これが連合艦隊編成のきっかけとなった。
  以降、日露戦争など戦時や演習時のみ臨時に編成され
 た。
  1923年(大正12年)以降、常設となった。
.
1894年7月19日、別子銅山新居浜精煉所の煙害をめぐり農民
 が精煉所を襲撃した。
.
1894年7月20日、日本汽船の長崎~上海航路が運航停止と
 なった。
  日本郵船の庸船「アンゼルス丸」だけが、イギリス国
 旗を掲げて週1回就航した。
.
1894年、この頃から1902年頃にかけて、外務省の「霞倶楽
 部」、農商務省の「采所クラブ」、陸軍省の「北斗会」、
 政友会の「十日会」と次々に記者クラブが生まれ・・、
  さらに、1905年には、司法省の「司法記者倶楽部」、
 1907年には、内務省の「大手倶楽部」、1910年には「兜
 会」が組織された・・が・・、
  まだまだ新聞のイメ−ジは悪く、政府も省庁も、記者た
 ちを車夫、馬丁と同様に思われ、扱われていた。
  記者室も玄関先の控え所にちっぽけな場所を与えられ
 ただけだった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:これから先の風景は・・、人口の急増と都市化、
   エネルギー消費の爆発的増大、CO2排出量の急増・・
   これ等のすべての先には地球温暖化と異常気象がある。
   海水温が2度上昇すると、台風の強度は2倍になるという。
   この様な中、世界の趨勢(すうせい)は静かに着実に
  原子力発電へと行かざるを得ない。
   人類が、生活に必須のその電力を得るためには・・、
   その投資の主要部分が、原子力発電が占めることが明白と
  予測されている。
.
紀元前5600万年、日本列島:始新世(5600万年前~3400万
 年前)頃からその原型が形成された。
  中新世(2,300万年前~530万年前)に、日本海が形成
 されてユーラシア大陸と分離した。
  中新世になると・・今度は、日本列島が大陸から引き
 裂かれる地殻変動が発生し、大陸に低地が出来始めた。
  2100万年前~1100万年前には、さらに断裂は大きくな
 り、
  西南日本は、長崎県対馬南西部付近を中心に時計回り
 に40度~50度回転し・・、
  同時に、東北日本は、北海道知床半島沖付近を中心に、
 こちらは反時計回りに40度~50度回転したとされる。
  これにより今の日本列島の関東以北は南北に、中部以
 西は東西に延びる形になった。
  いわゆる「観音開きモデル説」である。
  そして、およそ1500万年前には、日本海となる大きな
 窪みが形成され、海が侵入してきて、現在の日本海の大
 きさまで拡大した。
  1600万年前~1100万年前までは、西南日本(今の中部
 地方以西)のかなり広い範囲は陸地であった。
  東北日本(今の東北地方)は、広く海に覆われ、多島
 海の状況であった。
  その後、東北日本は、太平洋プレートなどによる東西
 からの圧縮により隆起して陸地となり、現在の奥羽山脈・
 出羽丘陵が形成されるにいたった。
     ・
     ・
紀元前1500万年、日本列島が今の位置に来た。
  日本列島が今の位置にやって来たのは1500万年前。
  その形は現在と同様ではなかった。
  気温や海面の変化、氷河の拡大・縮小などに起因する
 ダイナミックな変動を繰り返しながら、現在の日本列島
 の姿へとなった。
     ・
     ・
紀元前500万年、日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来
 上がりつつあったのは、今からおよそ500万年前。
  その頃は、まだユーラシア大陸と陸続きであった。
  その後、火山の噴火による地殻変動があり、氷期と間
 氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こっ
 た。
    ・
    ・
紀元前100万年、デニソワ人
  2010年3月25日付のイギリスの科学雑誌『ネイチャー』
 に、マックス・プランク進化人類学研究所の研究チーム
 は、発見された骨のミトコンドリアDNAの解析結果か
 ら、「デニソワ人」は、100万年ほど前に現生人類から分
 岐した未知の新系統の人類と発表した。
.
紀元前80万4000年、「ネアンデルタール人」と「デニソワ
 人」の祖先が分岐した。
  2008年、ロシア西シベリア・アルタイ山脈のデニソワ
 洞窟で子どもの骨の断片が発見された。
  2010年12月23日、マックス・プランク進化人類学研究
 所などの国際研究チームは、『ネイチャー』に論文を掲
 載した・・その内容は・・、
  見つかった骨の一部は、5歳~7歳の少女の小指の骨で
 あり、細胞核DNAの解析の結果、デニソワ人はネアン
 デルタール人と近縁なグループで・・、
  80万4000年前に、現生人類であるホモ・サピエンスと
 の共通祖先からネアンデルタール人・デニソワ人の祖先
 が分岐し、
  64万年前にネアンデルタール人から分岐した人類であ
 ることが推定された。
  デニソワ洞窟は、ネアンデルタール人化石発見地のう
 ち最も近いイラク北部シャニダール遺跡から、約4000km
 の距離を隔てている。
  メラネシア人のゲノムの4%~6%がデニソワ人固有の
 ものと一致することから、現在のメラネシア人にデニソ
 ワ人の遺伝情報の一部が伝えられている可能性が高いこ
 とが判明した。
  また、中国南部の住人の遺伝子構造の約1%が、デニソ
 ワ人由来という研究発表も、スウェーデンのウプサラ大
 学の研究チームより出されている。
  ネアンデルタール人と分岐した年数も、35万年ほど前
 との説もある。
  ジョージ・ワシントン大学の古人類学者のブライアン・
 リッチモンドは、デニソワ洞窟で見つかった巨大臼歯か
 らデニソワ人は体格はネアンデルタール人と同じか、そ
 れよりも大きいとみている。
  概略のところは、40万年前~30万年前にアフリカを出
 て、中東を経て、ヨーロッパに拡がった集団がネアンデ
 ルタール人に・・、
  中東を経て、アジア内陸部に移動した集団がデニソワ
 人になった。
  それに遅れて、6万年前~5万年前に、アフリカを出た
 我々現生人類(ホモ・サピエンス)の祖先は、まず、中
 東でネアンデルタール人と交わり、さらに、アジア内陸
 部でも先住者のデニソワ人と交雑し、世界中に拡がって
 現在に至ったという推定もある。
  ネアンデルタール人やデニソワ人は、その後、絶滅し
 てしまったが、アフリカ土着のネグロイドを除く現在の
 現生人類遺伝子のうち数%は、ネアンデルタール人由来
 である。
  中東での現生人類祖先とネアンデルタール人との交雑
 を示す研究成果は、2010年5月に発表されているが、
  2010年12月に、アジア内陸部におけるデニソワ人とも
 現生人類祖先は交雑したとする研究結果が出たことから、
 この結果が正しければ、過去には異種の人類祖先同士の
 交雑・共存は「通常のことだった可能性が出てきた」。
  (この例の様に、我々の祖先は、広い交雑域の中に、
 長い長い年月に居た・・アイヌと琉球は別民族というキ
 リスト教系大学の独断は、まったくの科学性のない主観
 的見解である)
  なお、アジア内陸部で、デニソワ人と交雑した現生人
 類祖先は、その後、長い期間をかけてメラネシアなどに
 南下していったと考えられている。
  また、中国方面に移住したグループは漢民族となり、
 高地に移住したグループはチベット人の「別民族となっ
 た」。
     ・
     ・
紀元前40万年、ネアンデルタール人がアフリカを出た。
  40万年前~30万年前に、アフリカを出て、中東を経て、
 ヨーロッパに拡がった集団・ネアンデルタール人に・・、
  中東を経てアジア内陸部に移動した集団がデニソワ人
 になった。
.
紀元前35万年、日本列島にナウマン象が現れる(~1万7000
 年前に絶滅)
  ナウマン象は、約35万年前に日本列島に現れ、約1万
 7000年前に絶滅した。
  日本列島には、幾度となく北、西、南の陸峡(間宮・
 宗谷・津軽・対馬海峡)を通って、色々な動物が渡って
 来たと考えられている。
  さらに、それらの動物群を追って旧石器人が渡って来
 た。
  最終氷期に大陸と繋がった北海道だけは、マンモス動
 物群が宗谷陸橋を渡ってくることが出来たので、それら
 の混合相となった。
.
紀元前20万年、人類の起源のホモ・サピエンスが、アフリ
 カに登場した。
  人類はアフリカに誕生したあと、数回にわたってアフ
 リカからユーラシア大陸へと移動した。
  しかし、現在のように地球の広い範囲に拡散移動した
 のはホモ・サピエンスの登場以降のことである。
  現代に生きる人類の起源を遺伝学的に研究すると、20
 万年前ごろにアフリカにいた人類集団の一つにその起源
 をたどれる
  ホモ・サピエンスが全地球的な拡散をはじめたのは、今
 から5万年前頃であった。
.
紀元前12万年、島根県出雲市の砂原遺跡(約12万年前)の
 前期旧石器などの遺物が発見されている。
.
紀元前12万年、デニソワ人の旧人が日本列島に居た。
  現生人類(ホモ・サピエンス)は7〜6万年前にアフ
 リカを出発し、それ以前にはアフリカ外には分布してい
 なかった。
  従って、日本列島最古の石器(砂原遺跡の12万年前)
 を遺したのはデニソワ人などの旧人である。
  日本列島に現生人類(ホモ・サピエンス)が現れるの
 は4〜3.5万年前と考えられており、これは日本固有のハ
 プログループD1b (Y染色体)の起源年代とおおむね一致す
 る。
  (参考)デニソワ人:ロシア・アルタイ地方のデニソ
     ワ洞窟(ロシア、中国、モンゴルの国境に近い
     地域)に約4万1千年前に住んでいたとされるヒ
     ト属の個体および同種のヒト属の人類である。
      デニソワ洞窟は、アルタイ地方の中心都市バ
     ルナウルから約150km南方に位置する。
      Homo sapiensの亜種とされることが多い。
      ネアンデルタール人と並んで、我々現生人類
     であるホモ・サピエンス・サピエンスに最も近
     い化石人類である。
      また、現生人類の一部(メラネシア人など)
     と遺伝子情報を部分的に共有する可能性が高い
     としている。
      マックス・プランク進化人類学研究所の研究
     チームは、発見された骨のミトコンドリアDN
     Aの解析結果から、デニソワ人は100万年ほど前
     に現生人類から分岐した未知の新系統の人類と
     発表した。
.
紀元前11万年、気候が冷涼になった。
  約11万年前には気候が涼しくなり始めた。
.
紀元前9万年~紀元前8万年、日本列島での人類の足跡は、
 9〜8万年前(岩手県遠野市金取遺跡・中期旧石器)に遡
 (さかのぼ)る。
  この時代に属する遺跡は、日本列島全体で数千ヵ所と
 推定されている。
  地質学的には氷河時代と言われる第四紀の更新世の終
 末から完新世初頭までである。
  (参考)更新世:こうしんせい、地質時代の区分の一
     つで、約258万年前から約1万年前までの期間。
      大陸の形は現在とほとんど変わらないが、氷
     期・間氷期の氷床の拡大・縮小による海水準変
     動に伴って、海岸線の位置が移動した。
      更新世の後期では海水準にして百数十メート
     ルの変動があった。
      海水準が低下した時期は、現在浅い海である
     海域の多くが陸地となっている。
  また、日本列島は、氷床によって大陸と陸続きだった。
  完全に渤海は氷床に埋まり、また、黄海も完全に氷床
 に埋まり、東シナ海も北半分は氷床に埋まっていた。
  また、対馬海峡も氷床で埋まり、台湾も大陸と氷床で
 埋まり地続きだった。
  人類は容易にこの氷床上を歩いて日本に渡って来れた。
  また、樺太と大陸は地続きで、樺太から北海道、本州、
 四国、九州は、氷床があり歩いて渡れる状態にあった。
.
紀元前6万年、現生人類(ホモ・サピエンス)が東アジアに
 到達した。
  アフリカを出た私たちホモ・サピエンスの祖先は、5
 万年前〜6万年前頃には、東アジアにまで到達していた
 と考えられている。
  研究者の多くは、4万年前頃に、旧石器時代の遺跡が急
 激に増えることから、現代人につながる人々が少なくと
 もその頃に日本で暮らしていたと考えている。
  ところが、実際は、さらに古い遺跡も見つかっている。
  岩手県遠野市では、8万5000年前~5万年前と推定され
 る遺跡が見つかり、石器も出土している。
.
紀元前6万年、板状の木製品が出土した。
  板状の木製品は、明石市西八木遺跡で、約6〜5万年前
 の砂礫層の中からハリグワという広葉樹を用いた板状の
 木製品(加工痕のある木片)が出土した。
  この木片は、長さ23.4センチ、最大幅4.8センチ、厚さ
 4ミリで、少なくとも2種類の石器で加工されている。
  用途はまだ分かっていない。
  この砂礫層の年代の板だとすると、中期旧石器時代の
 板ということになり、旧人が工作した板ということにな
 る。
.
紀元前5万年、日本の遺跡・竹佐中原遺跡
  長野県飯田市で、竹佐中原遺跡が発掘調査された。
  この遺跡の4カ所の石器集中地点から800余点の遺物が
 出土した。
  石器包含層の堆積年代を自然科学分析(火山灰分析、
 植物珪酸体分析、炭素14年代測定法、光ルミネッセンス
 年代測定など)した結果、3万年より古く、5万年より新
 しいことが分かった。
  4か所から出土した石器は、2グループに分けることが
 でき、一つは3万年〜3万数千年前(後期旧石器時代の初
 め頃)、
  もう一つは、3万数千年前〜5万年前のものであること
 推測された。
  つまり、中期旧石器時代から後期旧石器時代へ移り変
 わる時期の遺跡とされた。
.
紀元前4万年~紀元前3万年、日本列島で世界最古の磨製石
 器が作られていた。
  氷河期に日本列島は大陸と陸続きになり日本人の祖先
 は獲物を追って日本列島にやって来たとされてきたが、
 近年の研究では、氷河期の最寒期でも津軽海峡、対馬海
 峡には海が残り陸続きにならなかったことが分かってき
 た。
  また、舟を使わないと往来できない伊豆諸島・神津島
 産の黒曜石が関東地方の後期旧石器時代の遺跡で発見さ
 れていることなどから、「日本人の祖先は舟に乗って日
 本列島にやってきた」という研究者の発言も新聞で報道
 されている・・しかし、この時期には、船の遺物は発見
 されていないため少数の意見である。
  一方、約4万年前の後期旧石器時代早期より黒曜石の採
 掘が続けられた栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群では、
 知的で効率的な作業の痕跡も確認されている。
  また、4万年〜3万年前には、世界最古の磨製石器が製
 作されており、すでに日本では独自の文化が形成されて
 いたことが分かった。
.
紀元前4万年、ナウマン象の骨製品
  長野県の野尻湖遺跡で、約4万年前の地層(日本考古学
 用語では「土層」とも言う)からナウマン象の骨製品が
 まとまって発見された。
.
紀元前3万8000年、野尻湖湖底遺跡
  約4万年前の旧石器時代の人々が狩猟した動物を解体す
 る場所であったと推定されている。
  長野県上水内(かみみのち)郡信濃町野尻にある遺跡。
  野尻湖は、斑尾(まだらお)山と黒姫山に挟まれた標高
 約650mの高原に位置し、遺跡は湖西岸の立ケ鼻という岬
 付近の湖底に所在する。
  1948年、地元住民が偶然ナウマンゾウの臼歯を発見し、
  1962年から湖底や湖畔の発掘調査が始まり、以後、継
 続的な調査が行われている。
  ナウマンゾウやオオツノジカなど大型哺乳類の化石、
 ニホンジカ・イノシシなど中・小型哺乳動物の化石とと
 もに、剝片によるナイフ形石器、象牙を加工した骨角器
 などが出土し、約4万年前の旧石器時代の人々が狩猟した
 動物を解体する場所であったと推定されている。
  最終氷期以前に渡来したと見られる哺乳動物の化石は
 野尻湖湖底遺跡はじめ各地から報告されており、そうし
 た動物を追って大陸の旧石器人が日本列島へ移動してき
 た可能性は考えられる。
  つまり、原人段階の人類が残した旧石器文化の存在さ
 えも想像される。
  この期の遺跡の調査例は少ない。
  石器や生活道具類が発見される程度である
  野尻湖で狩りが行われた決定的な証拠はまた発見され
 ていないが、骨製品がその可能性を示唆している。
  ちなみに、ゾウ1頭の肉で50人の集団が45日分のカロリ
 ーを確保できたと推定されている。
  縄文時代の人々にとっては、植物採取が食料獲得の中
 で大きな比重を占めていたが・・、
  旧石器時代の人々にとってはどちらかというと狩猟が
 主体であったようだ。
  旧石器時代人は、主として狩猟によって食糧を得てい
 たと言える。
  当時の遺跡からは、野牛・原牛・ナウマンゾウなどの
 大型哺乳類の骨、ニホンシカ、イノシシ、ノウサギなど
 の中・小哺乳動物の骨が発見されている。
  そして、大型哺乳動物を解体する作業場となるキル・
 サイトも発見されている。
  このように、旧石器時代人は、大型哺乳動物を追う狩
 人たちであったと思われる。
  竪穴住居跡を伴う遺跡がほとんど発見されていないの
 は、旧石器時代人がキャンプ生活をしながら移動を繰り
 返していたからだとも推定されている。
  当時は数百kmにも及ぶ距離を移動していたという。
  この様な大きな移動量は、日本人の形成に於いて、北
 海道から沖縄まで、長い歴史の中で、その血の混合が均
 一になされていた。
  日本の旧石器文化が、シベリアとの強い関連性がある
 ことが分かっており、そのシベリアで固定式のヤスや離
 頭式の銛頭(もりがしら)が見つかっている。
  その移動の広さは想像以上である。
  日本は、酸性土壌のため人骨や獣骨が残りにくいが、
 日本でも同様の道具を用いて刺突漁を行なっていた可能
 性がある。
.
紀元前3万3000年、日本列島の後期旧石器時代は、約3万5000
 年前に始まり、縄文時代へと移行する約1万5000年前まで
 の約2万年間続いた。
.
紀元前3万年、沖縄の洞穴で発見された子供の骨は初期現代
 型新人の特徴に一致する。
  沖縄県那覇市山下町第一洞穴遺跡で、1968年に発見さ
 れ・・、
  約3万2000年前とされる6〜7歳の子供の大腿骨と脛骨で、
 国内では最古級の人骨である。
  最近の検討によると、初期現代型新人の特徴に一致す
 るという。
.
紀元前2万8000年~紀元前1万1000年、後期旧石器時代
  後期旧石器時代は、コナラ、クリ、クヌギを主体とし
 た落葉広葉樹林が西日本から東日本を覆うようになった。
.
紀元前2万8000年~紀元前1万年、日本の後期旧石器遺跡が
 4000ヶ所を超える。
  1949年(昭和24年)に、相沢忠洋が、岩宿(現・群馬
 県みどり市)で関東ローム層中から旧石器を発見した。
  日本の旧石器時代の調査・研究は、ここから始まった。
  現在までに、日本列島全域で4000カ所を超える遺跡が
 確認されている。
  これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1万2000年前
 の後期旧石器時代に残されたもの。
.
紀元前2万7000年、地球の寒冷化が進行する。
  2万9000年前を過ぎる頃から、地球規模で急激に寒冷化
 が進行し、約2万5000年前を前後する頃には最終氷期最寒
 冷期を迎えた。
.
紀元前2万年、この頃、海面が最も下がった、現在より120
 メートルも低下していた。
  本州と四国、九州、それから屋久島、種子島も陸続き
 で、また、ロシアと北海道も陸続きで・・、
  縄文人の祖先たちやマンモスは、ユーラシア大陸から
 歩いて日本にやって来た。
  この頃は、黄河の河口が、現在の韓国の済州島の南あ
 たりにあり、黄河の水が、狭くなった対馬海峡から日本
 海に流入したことによって、日本海が淡水化していたこ
 とが分かっている。
  その為、新潟は、今、おいしい海産物があるが、2万年
 前は、日本海がほぼ淡水だったため、魚はほとんど採れ
 なかった。
  また、関東平野は、海面が下がったことで、深い谷が
 たくさん出来ていて・・、
  関東平野にできたその大きな谷に、7000年前の海面上
 昇で海水が流れ込んで来た。
  その7000年前の海面上昇は、関東の内陸部、例えば、
 川越あたりから貝塚が発見されていることからも明らか。
 (明星大学教育学部・長谷川裕彦准教授)
.
紀元前2万年、最終氷期の寒冷期で、海面が120メートル以
 上も低下していた。
  現在から、約2万年前の最終氷期の最寒期には、海面は
 全世界で120m以上も低下しており・・、
  日本列島も、津軽海峡の一部、宗谷海峡、瀬戸内海の
 大部分などが陸続きで、アジア大陸ともつながり、現在
 の日本海は、ほとんど塩湖だったと推定されています。
  このとき、多くの動物が渡来し、日本の生物相に大き
 な影響をあたえました。
  最終氷期の最盛期である約2万年前の植生は、北海道南
 部から中央高地にかけては亜寒帯性針葉樹林で・・、
  それより西側は温帯性針葉・広葉の混交林が広範囲に
 拡がっていった。
  暖温帯広葉樹林である照葉樹林は、西南日本の太平洋
 側沿岸の一部と南西諸島に後退していた。
  約1万年前からの完新世になって、平均気温が高くなり、
 海面が上昇し、現在の海陸分布ができあがった。
.
紀元前2万年、日本最古の後期旧石器時代の住居跡。
  日本の住居跡遺跡が整った形で発見された。
  大阪府藤井寺市の「はさみ山遺跡」で、約2万2000年前
 の極めて形の整った径6メートル、深さ20センチメートル
 の円形竪穴住居が発見された。
  外周に柱穴を持つもので、径10センチぐらいの材を20
 本近く斜めに立て並べ、中央で簡単な組み木を施し、そ
 の上を草や皮で覆った構造が考えられる。
  この住居跡は、構造がよく分かった上にサヌカイト製
 のナイフ形石器や翼状剥片が、約200点も一緒に出土した。
  (参考)サヌカイト:讃岐岩(さぬきがん、サヌカイ
     ト)は、名称のもとである香川県坂出市国分台
     周辺や、大阪府と奈良県の境にある二上山周辺
     で採取される非常に緻密な古銅輝石安山岩。
  調理・暖房・採光のための石囲炉、地床炉、土坑炉な
 どがあり、熱のために赤色化していたことで、火が使わ
 れていたことが分かる。
  土坑の形態は多様で、貯蔵穴かどうか分かっていない。
  礫群は、こぶし大前後の川原石が径12メートルの範囲
 に数十個以上密集したもので、火熱を受け赤色化してい
 て、調理施設に関連したものと考えられている。
  一個から数個散らばっている配石は、幼児頭大の礫で、
 火熱を受けた後がなく、厨房や作業台に使ったものと考
 えられている。
  そのほか、死者を埋葬する土坑墓が見つかっている。
  死者の生前の装身具や石器・玉などが副えられ、そこ
 にベンガラ(赤色顔料、べにがら)が残っているものが
 ある。
  シベリアやカムチャツカ半島、東アジアでの死者を埋
 葬する習俗が遅くとも2万年前には出来ていたらしい。
  旧石器時代の遺跡は、石器や剥片などの遺物が集中し
 ている箇所が複数、複数の礫群、配石と炉址、住居跡、
 土坑、墓坑などで構成されている場合が多い。
  集落の規模と構成はまだ分かっていない。
  竪穴住居といえば、縄文時代や弥生時代の住居形態を
 想起するが、竪穴住居が旧石器時代に遡っただけでなく
 旧石器時代人が石器だけでなく木を使っていたことが分
 かった。
  木に石器を取り付ければ、鍬・斧・槍・矢・スコップ
 などの生産用具を作り、生産効率を上げることが出来る。
  径10センチくらいなら、今の建築材料の柱の太さとそ
 う変わらない。
  それを20本も、木の柄の付いた斧で木を倒したとされ
 ている。
.
紀元前1万8000年、沖縄県出土の人骨が判定された。
  2010年(平成22年)2月4日、沖縄県教育委員会は、沖
 縄県石垣市白保(石垣島)の新石垣空港建設敷地内にあ
 る白保竿根田原洞穴(しらほさおねたばるどうけつ)か
 ら発見された人骨について、琉球大学や東京大学などと
 研究を進めた結果、そのうち1点(約8cm×約11cmの20代
 から30代前半の男性の頭頂骨)が放射性炭素年代測定で
 約2万年前のものと分かったと発表した。
  また「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変
 遷に関する総合的研究」の分析では、発見された人骨片
 のうちの右頭頂骨片に対して、20416±113年前(BP)とい
 う推定年代値を得た。
  これは放射性炭素によって直接ヒト化石の年代を推定
 した値としては国内最古のものであった。
.
紀元前1万6000年、浜北人の年代測定の結果
  浜北人は、静岡県浜北市(現・浜松市浜北区)根堅(
 ねがた)の石灰石採石場で、1960年から1962年に発見さ
 れた頭骨片と四肢骨片(鎖骨・上腕骨・寬骨・脛骨)の
 人骨化石である。
  上・下2つの地層から出土した。
  それぞれの層から出た獣骨の年代を加速器質量分析(A
 MS)法による炭素年代測定での結果は、上層が約1万4000
 年前、下層出土の脛骨が約1万8000年前を示した。
.
紀元前1万4500年、世界最古級の土器が日本から出土した。
  世界でも最古級(約1万6500年前)の土器が青森県の
 大平山元遺跡から出土した。
  旧石器時代の終末に、九州では、豆粒文土器(長崎県・
 泉福寺洞窟)、本州では無文土器が出現した。
  一般に土器は、運搬・貯蔵・煮炊きに使われるが、出
 現期のこの頃の土器の役割はまだ十分解明されていない。
  この青森県外ヶ浜町大平山元遺跡出土の土器に付着し
 た炭化物のAMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代法
 で1万6500年前と出た。
.
紀元前1万4000年、日本列島の旧石器時代は、人類が日本列
 島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6000年前と考
 えられている。
  無土器時代、先土器時代ともいう。
.
紀元前1万年、上部港川人が発見された。
  1967年〜1969年に、1万2000年前のものと考えられる人
 骨(上腕骨・尺骨・寬骨・大腿骨2点・脛骨2点・距骨・
 第1中足骨)の断片が発見された。
  これは、日本本土で多く発見されている縄文人の骨格
 的特徴によく似ており、上部港川人と呼ばれている。
  港川人は、沖縄県八重瀬町(旧具志頭村)港川の海岸
 近い砕石場で発見された。
  港川人は、1万8000年前(旧石器時代)に生きた人骨化
 石に対して発見場所にちなんで付けられた名称で、
  1967年に発見された港川人の人骨は、約1万7000年~
 8000年前頃のものと推定された。
  国内で発見されている更新世化石人骨の中で体全体の
 形が分かるほど残っているのは港川人だけであることも
 あり、日本人のルーツを研究する上で重要な資料とされ
 ている。
  頭蓋骨は現代人よりも少し大きく、堀が深い顔立ちで
 頬骨がはり、鼻筋が高い。
  縄文人と似ている特徴をもつこの港川人は、人類の謎
 を解き明かす上で、非常に重要な存在と考えられており、
 今後、更なる調査が行なわれている。
.
紀元前5000年、気温上昇により海面が上昇した。
  縄文時代前期の7000年前、今より気温は2度、海面は2
 メートル高かった。
     ・
     ・
     ・
2018年、日本の主食の米が、いざという時に、日本人の食
 を助けてくれる米が、今、そのシステムが働かないよう
 になろうとしている。
  2018年から、その様な自体になるだろうと予測されて
 いた。
  日本は、食糧における安全・安保のために、政府は、
 米という穀物は、日本人の命の糧とした政策をとって来
 た。
  しかし、圧力を受けて、その政策を放棄した。
  米への圧力と言えばTPPでも攻められていた。
  「日本の生命線だから・・」という説明に耳を貸さな
 い態度を見て来た。
  近い将来、人口と、その人口のための食糧のバランス
 が不安定となる事が確実視されている。
  現在、日本は、長い間、国民の食の安定・安全・安保
 を担ってきたシステムを、制度を止める。
  2018年をもって終了としている。
  どこのファミリー・レストランでも、家族連れの方々
 が、楽しそうに食事をされているが、その食のシステム
 が変わる。
.
2020年代、アメリカを越える中国・・
  CIA(中央情報局:アメリカ合衆国の大統領直属の
 情報機関)と、
  ペンタゴン(アメリカ国防総省)と、
  アメリカ国務省は・・予測する・・、
  「今後、20年間の『中国』の経済成長率と軍事予算成
 長率は・・、
  アメリカの経済成長率と軍事予算成長率を、はるかに
 越えるだろう」・・と。
  そして、2020年代になると・・、
  東アジア地域における、米中の経済力と軍事力バラン
 スは逆転し、
  「アメリカは、いずれ、東アジアからの撤退を余儀な
 くされる」・・と・・、
  この予測通りだと、日本の「アメリカ追従政策の破綻
 (はたん)」が起きる事態となる。
  伊藤貫氏と日下公人氏の対談の本を参考にして記すと
 ・・、
  ニクソン大統領とフォード大統領の両政権で国務長官
 を務めたキッシンジャーは言う・・、
  「戦争に敗けて・・敵に占領された国には、二つの対
 応策しかない」・・と、
  その一つは、「占領軍に対して、長期間の徹底的な『
 ゲリラ戦』を実行する」、
  そして、その二つ目は・・、
  「眼先の利益と、安全を確保するため、占領軍に協力
 し、服従するコラボレーショニストになる」・・と・・
  「日本は、二つ目だ」とは明言していないが、そのニ
 ュアンスを込めた発言となっている。
  せっせと服従し、恭順の意を示していれば、そのうち、
 占領政策を緩めてくれるかもしれない。
  一つは、国家の「ディ・レジティマタイゼーション」
 で、国家がレジティマシー(正統性)を失うという意味。
  かつて戦争相手であった・・戦勝した敵の押し付けて
 来た憲法や法律、行政制度、教育制度、歴史解釈など、
  敗北した国は・・「道徳的に劣悪な国」であり、
  戦勝国は・・「道徳的に優越した正義の国」であると
 いう歴史解釈を押し付けられて・・使う。
  敗戦国家の国民は、「なんだ、自分の国は、占領軍の
 言いなりになっているだけの追従の似非(えせ:似て非
 なる・・正しいものに為り得ぬ)国家か・・?」・・と
 思うようになる。
  外見は「立派な独立国」で、「経済大国」のように見
 えたが・・???
  本音は、まったく違って、ただ・・ただ・・この国は、
 戦勝国に服従している・・「属国にすぎない」・・と。
  周りの国まで、口には出さないけれど・・その国を蔑
 (さげす)む。
  国家のクレディビリティ(信憑性、信頼性、確実性)
 や、正統性を・・半端にしか見ない。
  その点での尊敬など受けない。
  国家の「ディ・モラライゼーション、de-moralization、
 士気喪失」の弊害が起きる。
  国民が士気を失う。
  「モラール(士気、気概、競争心)」を失う。
  (参考)士気:しき、戦いに対する軍隊の意気込み。
     転じて、一般に、人が団結して物事を行う時の
     意気込み。
  「戦勝国の顔ばかりうかがう国」と、劣等意識を植え
 付けられる。
  国への忠誠心も阻害される。
  国のためより、自分のための・・国民になる。
.
2020年代、アメリカが、経済的に、また、予算的に、その
 緊迫する状況から・・、
  アメリカの軍事費は・・明らかに・・現在の状況を維
 持できなくなる。
  「アメリカに頼っていれば大丈夫」・・は、崩れる。
  「日本の安全は大丈夫」に、危険のランプが灯(とも)
 る。
.
2020年代、この年代に、アメリカの青少年の『過半数』は、
 有色人種(非白人〉に・・なる。
  2042年頃、アメリカの有色人種が、アメリカ人口全体
 の『過半数になる』。
  今、アメリカ白人の平均年齢は42歳、ヒスパニックの
 平均年齢は26歳。
  アメリカの白人女性は、1人当たり1.7人の子供を生む
 のに対し・・
  (因みに、2.1人以下の場合は人口減少が起きる)、
  アメリカのヒスパニックの女性は3.0人を生む。
  WASP〈白人・アングロサクソン・プロテスタント)
 の支配層は・・少数派になって行く・・
  すべての考え方の前提が崩れ去って行く・・消え去っ
 て行く・・
.
21世紀のこれからの政治は、その国際政治の主舞台は、か
 つての欧州・大西洋から、アジア・太平洋へとシフトす
 る。
.
21世紀のこれから先の風景は・・、
  人口の急増と都市化、
  エネルギー消費の爆発的増大、
  CO2排出量の急増・・これ等のすべての先には地球温暖
 化と異常気象がある。
  海水温が2度上昇すると、台風の強度は2倍になるとい
 う。
  この様な中、世界の趨勢(すうせい)は静かに着実に
 原子力発電へと行かざるを得ない。
  2014年には、160兆円が世界で電力投資されているが、
  2035年には、それが200兆円に達すると試算されている。
  その投資の主要部分が、原子力発電が占めることが明
 白と予測されている。
.
2027年、JR東海のリニア中央新幹線が開業する予定。
.
2034年、日本の人口が1400万人減少すると言われている。
.
2040年、日本の896市区町村が消滅する可能性があると予測
 されている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2018-07-18 03:36 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)602E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)

題:(増補版)602E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年7月9日、別子銅山新居浜精錬所の煙害に抗議して、
 農民の850人が、精錬所に対し実力で抗議行動をした。
  その被害農民の方々は、操業停止を求めていた・・
  そして、その要求を実現すべく新居浜分店への襲撃状
 の過激な行動となった。
  会社側は、その被害農地を買い上げることで解決しよ
 うとした・・
  1895年、農民代表は、住友大阪本店と補償交渉をする
   ことになった。
   そこで時の鉱業所支配人・伊庭貞剛は・・、
   「住友家の家名を汚すようなことがあってはならな
   い」と、足尾の二の舞を避けるべく、瀬戸内海の無
   人島への精錬所移転を計画した。
  1895年、四阪島を買収、
  1896年、着工、
   総費用は、当時、銅山年収の1.5倍以上に相当する170
   余万円を要した・・しかし・・
  1899年、別子で大洪水が発生、設備半壊、500名が死亡
   する大被害があり・・四阪島への移転は2年遅れて・・
  1904年、操業開始となった。
   移転してみると・・期待に反して被害は減らず、む
   しろ汚染地域が拡大した・・、
  1908年には、米麦とも収穫量が激減した。
   愛媛県会は、県知事と農商務相への陳情決議と被害
   救済建議案を全会一致で可決した・・、
    愛媛県選出代議士も連署して除害命令と被害救済
   建議案を衆議院に提出した・・、
    被害郡の町村長も、連署して上申書を農商務相へ
   提出した・・、、
    自治体関係者は、こぞって農民側に立ち大会社・
   住友を追求した。
    しかし、被害の補償額を巡って折り合いは付かな
   かった・・、
  1910年、農商務相の調停で、煙害賠償金の支払いと、
   農作物の生育に重要な期間に、10日間の操業停止が
   決着した。
    政府は、日立、小坂銅山など全国的に激しくなっ
   てきた鉱毒問題に対処するため鉱毒予防委員会を設
   置した・・、
    その専門家の政府指導で・・
  1915年に、建設費35万円で、低い煙突6本を四阪島に
   設置した・・しかし・・これも効果無く失敗・・、
    その後、高い煙突を建てたり、電気集塵機を導入
   して排ガス浄化に努めた・・が・・効果は薄く・・、
  1939年、やっと解決策が出て来た・・
   SO2(亜硫酸ガス)中和工場(脱硫)完成により、
   ようやく賠償金を大幅に減らすことができた。
  住友鉱業の煙害では、足尾鉱毒とはまったく異なり、
 被害農民は県、国、会社に強く訴え、会社側の対応を引
 き出し・・、
  会社側は、被害防止に前向きな対応を図っていた。
  支配人・伊庭貞剛は、煙害を受けた銅山周辺に植林を
 積極的に進め・・今では緑が回復している。
  (この植林事業が、今日の住友林業の元になる)
  田中正造は、足尾に比べて前向きな住友の対応を評価
 した。
  しかし、技術的な知識不足から多額の費用をかけた移
 転、低煙突建設ともに効果がなく、
  1939年までに、被害農民に支払った賠償金等は総額730
   万円に上った。
  (参考:西田進氏HP、http://www.nishida-s.com/index.html
.
1894年7月12日、イギリスの調停案も拒否し・・金玉均も
 暗殺するという清・・その清との日清の会談も決裂し、
 小村公使が、清国政府に第二次絶交書を手交した。
  清の軍人・袁世凱は、朝鮮で画策して、朝鮮国王の名
 で清国の出兵を要請させ・・
 (まったく、朝鮮は、自主独立しているという状態では
 ない状態)、
  清は、表面は美しくして出兵しているが、実態は、朝
 鮮を操作するという状況だった
  清の出兵は、1894年6月8日に清は軍を出兵させ、牙山
 に上陸させた・・
  (日本に通知してから行動する・・という条約は、無
 視され・・事後報告の状態だった)
  この様に中国・清の工作員の軍人が横行する朝鮮の状
 態で、清のやりたい放題だった。
  日清間では、撤兵問題も話し合われたが、宋主権を持
 つという意識の清は強く、話し合いは紛糾した。
  開戦せざるを得ない状況が出て来て、日本は、開戦に
 当たって、イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・ロ
 シアなどの関係各国に対し、清国に対する開戦を通告し
 ている。
  現在の中共(中華人民共和国)も、ある意味、この時
 の様な冊封体制下の様な振る舞いをしている・・(北朝
 鮮は、完全に冊封体制下に置かれて、朝貢しているがご
 とくとなっている)・・そして、覇権を誇示している・・
 完全に、現在の北朝鮮は中国への朝貢状態で・・韓国も
 飲み込まれている。
  この時も、この様な状況下にあり、日本は第二次の絶
 交書を手渡した。
  過去には、1886年には、中国・清の誇る北洋艦隊が、
 最新鋭艦の「定遠」や「鎮遠」(当時の日本海軍にとっ
 て化け物のような巨大戦艦だった・・当時の世界最大級
 の大砲を備え、また、装甲も厚く、東洋一の戦艦だった)
 などを連ねて、長崎に示威している中国だった・・
  中国水兵は、完全な優越的態度で、長崎で事件を起こ
 したり・・日本を馬鹿にして暴れ回った。
  そして、そこには、大国・清に侵攻されると恐れてい
 た日本があった。
  日本は艦隊をそろえようにも景気が悪く、予算が不十
 分だった・・長い間、希望がかなえられなかった・・
  しかし、景気が良くなると日本は艦を作って行った・・
 また、イギリスの指導も受けた。
  日本は海軍国と言われるが、当時の日本は、海軍力に
 自信が無かった・・
  山形有朋陸軍大将が、元勲の井上馨へ・・
  「(黄海)海戦に大勝したのは予想外」という意味の
 ことを書き送ったくらいだった。
  その様な実情を知ってか知らぬか、野党は対外硬だっ
 た。
  また、マスコミもこの対外硬の論を張った。
  1894年6月28日、日英間で条約改正交渉中のイギリス外
 相が調停に乗り出す動きを見せた・・更に・・
  1894年6月30日、ロシア公使ヒトロウォは陸奥と会談、
 「ロシア政府は、日本が朝鮮政府の日清両国の撤兵とい
 う希望をうけいれるよう勧告し、かつ日本が清国と同時
 撤兵をうけいれないならば、日本政府は重大な責めを負
 うことになる旨忠告する」と申し入れた。
  これで日本側の開戦気運には一気にブレーキがかかっ
 た。
  1894年7月2日、陸奥はヒトロウォにつぎのように回答
 した・・、
  「日本政府は、東学反乱の原因はのぞかれていないし、
 反乱そのものもなおまったく跡を絶つにいたっていない
 のではないかと考える。
  日本政府は、反乱再発のおそれがなくなれば撤兵する」
 と・・、
  1894年7月9日、清の総理衙門総領大臣(外務大臣に相
 当)慶親王が、「日本の撤兵が先だ」としてイギリスの
 調停案を拒絶した。
  1894年7月10日、ドイツとの対立を重要視していたロシ
 ア本国政府は、これ以上朝鮮問題に深入りすることを禁
 じていた・・さらに・・、
  1894年7月10日の同日、駐露公使・西徳二郎より、これ
 以上ロシアは干渉しない、との情報が外務省にとどいて
 いた。
  1894年7月11日、伊藤内閣は、清の調停拒絶を非難する
 とともに、強引なる主張ばかりをする清・・、
  その清との国交断絶を表明する「第二次絶交書」を閣
 議で決定した。
  1894年7月12日、そして、この第二次絶交書を手交した。
.
1894年7月16日、ロンドンで、日英通商航海条約の締結が
 なされた・・
  外務大臣の陸奥宗光が調印した。
  この条約によって・・領事裁判権が廃止され・・、
  関税率が引き上げられ、関税自主権の一部を回復した・・
  安政五カ国条約以来の不平等が、やっと修正されて・・
 日本の法権が回復したのだった。
  そして、この日英通商航海条約の調印は、日本の朝鮮
 での行動を、また、行為を、「イギリスが認めた」とい
 うことを示していた。
  イギリスには、過激な侵略的な動きをするロシアに対
 する恐れがあった・・
  この面での日本の行動に期待していた・・
  ロシアに対する防壁としての日本の役割に期待してい
 た。
  朝鮮では・・朝鮮の東学党の乱を契機として、日清間
 に緊張が発生していた。
  この日英通商航海条約の締結の後、他の欧米諸国とも
 同様の条約を調印し、日本の国際的地位は飛躍的に向上
 した。
  日清戦争の始まる直前の、この日英通商航海条約が調
 印されたことは・・江戸期からの悲願の差別の条約が、
 やっと、改正されたのだった。
  日本の内地を開放する代わりに、治外法権が撤廃され
 た。
  その後、日清戦争に日本が勝利すると、アメリカをは
 じめ各国も治外法権の撤廃に応じた。
  やはり、国力が付かないと、日本の弱みに付け込んで、
 日本を認めないという状況のアメリカなどだった。
  関税自主権の回復は、日本が、日露戦争に勝利した後、
 5年を経た、1911年に、アメリカは、やっと認め、日本の
 悲願は達成した。
  岩倉使節団の交渉から「40年の月日」が経っていた。
  陸奥宗光は、不平等条約「治外法権の撤廃」に粘り強
 く交渉を重ねた。
  日本は、この不平等条約に苦しんでいた。
  その事例一つが、和歌山県沖のノルマントン号事件だ
 った。
  イギリスの罪を問うことが出来なかった。
  まず、この治外法権のため、事件の裁判を担当したの
 がイギリス人判事だった・・
  そして、イギリス人乗組員のほとんどが「無罪」とな
 ってしまった。
  この様な不平等条約の改正を、この年、1894年、つい
 に、イギリスとの間で、治外法権の撤廃に成功した。
  そして、陸奥の目論見どおり、大国のイギリスが改正
 に応じたため、他の国々もあとに続き・・、
  15か国から治外法権の撤廃を勝ち取った。
  そして、この調印直後、日清戦争が始まった。
  1894年8月1日、この日に、日清両国は宣戦布告した。
  欧米列強の奪い取りの世界が演じられてきたアジアの
 世界の中で・・、
  ただただ、その無節操な奪い取りの世界の中で・・、
  日本の周囲の国々・島々、また、東シナ海沿岸の大部
 分など・・、
  また、日本の北や南に広がる主要な島々が、ことごと
 く列強の手に落ちるのを日本は見て、鳥肌の立つほどの
 恐怖感を感じないではいられなかった。
  そして、日本も、列強諸国による不平等条約があって、
 それに縛られるという「半植民地の様な国家の状態」だ
 った。
  その様な領土をあさる列強に取り巻かれている日本の
 姿・・、
  列強各国は、日清戦争で、日本が敗北するだろうと予
 測していた・・
  それだけ、清の力は強く、日本は弱小とされていた(
 長崎での事件などで清に馬鹿にされている日本だった)
  列強諸国は、「アジアの中心は中国だ」と見ていた。
  結果は、日本の勝利だった。
  列強諸国は喝采した。
  そして、日本に対する彼ら列強は、日本での特権を相
 次いで放棄した。
  これを逆から見れば、この列強諸国は、日本が負けれ
 ば、日本を蔑(さげす)み、また、不平等条約は、その
 ままにして、日本からうまい汁を吸い続けただろう。
  この様な状況の日本の解放と共に、朝鮮も中国から初
 めて解放された。
  独立国となれた。
  そして、中国文明より低い国と侮(あなど)られた列
 強諸国の蔑視の視点も変える事が出来た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:自分だけが・・良い子にならないように・・
.
約4万年前頃~約4400年前、アフリカから始まった人類の拡
 散~偉大なる人類のうねりが世界へ・・そして・・
  日本人は、遠い遠い昔のこの頃、旧石器時代から縄文
 時代の中期と言われるこの頃・・日本人の大陸からの移
 動がなされていた。
  この頃、大陸と日本列島は地続きだった・・そんなそ
 んな遠い昔、大陸から移動して来た日本人が形成がなさ
 れて行った。
  その長い間の長い長い期間、日本列島に於いて、血は
 混ざり合い、そしてまた、混ざり合い、その混血によっ
 て日本人の形成はなされて行った。
  アイヌの方々の祖先も、琉球の方々の祖先も、その仲
 立ちの本州などの島々の祖先も、その混血によって形作
 られて行った。
  そんじょそこらの数百年の歴史しかない国々とは訳が
 違っている。
  数百年の歴史しかない者たちが、数万年の歴史を持つ
 先住民の方々を殺戮して出来たような国とは訳が違う。
  オーストラリア・ラテンアメリカ・カナダ・アメリカ
 合衆国などとは訳が違う。
  日本列島の遺跡を分析してみても、その文化が混ざり
 合っていく経緯が分かる・・
  日本列島への渡来のルートは、ユーラシアの各地から
 さまざまなルートで日本に流入した。
  特に、1万2000年前までは、日本は、大陸と陸続きであ
 ったため、流入は容易であった。
  この時の日本人の集団は、狩猟採集を主としていた。
  DNA(デオキシリボ核酸、遺伝子の本体)的には、
 現在の大半の東アジア人とは大きくDNAの異なる集団
 だった。
  この旧石器時代の日本人が、そのまま混血がなされな
 がら、結婚がなされながら縄文人へと発展した。
  (参考)デオキシリボ核酸:DNAと略記され、遺伝
     子の本体であり、真核細胞では核膜に包まれ、
     核の中に塩基性蛋白質であるヒストンと会合し
     た状態で存在している。
  今、分子人類学が進展している・・そのDNAから見
 ると・・母系が辿れるミトコンドリアDNAハプログル
 ープと、父系が辿れるY染色体グループがある。
  ミトコンドリアDNAハプログループの研究によって
 アフリカを人類の起源とする説が証明された。
  そして、その民族集団の移動のルートも辿れるように
 なった。
  日本人のミトコンドリアDNAハプログループで特徴
 的なのはハプログループM7aがある。
  琉球諸島とアイヌに比率が高く本州が少ない分布とな
 っている・・しかし、その一体的な形質が証明された。
  この発生は、台湾付近で日本を最大の集積地(最も頻
 度の高い地域)とし、台湾・日本から朝鮮半島、中国東
 北部へ北上し、北上の上限がシベリアとなっている。
  また、人間の祖先がアフリカを出た後、イランからア
 ルタイ山脈を経由し、「北ルート」で到達したとする説
 と・・、
  インドから東南アジアを経由したルートで到達したこ
 とが分かるという。
  父系が分かるY染色体グループから見ると、最初に日
 本列島に到達し、後期旧石器時代を担ったのは、4万年前
 ~3万年前にやってきたD1b系統である。
  D1bは、日本に多く見られる系統であり、アイヌ88
 %、沖縄県約50%(4%~56%)、本州約36% (31%~39%)で、
 東アジアではほとんど存在しない。
  日本人を特徴づけるD1bである。
  D1系統は、4万年程前に、二つのグループに分岐し、
 日本列島に至り誕生した(それがD1b)
  ミトコンドリアDNAによる人類集団を類似性を系統
 樹様にして見てみると・・他集団との類似性がみられる
 が・・日本人集団に近いのは中国人集団であり、その次
 にカンボジア人集団であるという結果となる。
  また、日本人集団は、中国人集団、マレーシア人集団、
 ポリネシア人集団などと近縁で、「アジア・モンゴロイ
 ド」としてまとめられる。
  「アジアのモンゴロイド」と近縁なのが「アメリンド」、
 次いで、「オーストラロイド」、「コーカソイド」の順
 で、「ネグロイド」とは最も離れている。
  斎藤成也氏ら総合研究大学院大学により、ヒトゲノム
 中のSNP(単一塩基多型)を示す100万塩基サイトを
 一挙に調べることができるシステムを用いて、アイヌ人
 と琉球人を含む日本列島人の大規模なDNA分析が行わ
 れた。
  その結果、アイヌ人からみると琉球人が遺伝的にもっ
 とも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、沖縄
 にすむ日本人に次いでアイヌ人に近いことが示された。
  一体とした民族を裏付ける結果となった。
  今、キリスト教系大学で語られる、アイヌ・琉球人は
 別民族という論は、まったく主観的に主張されているだ
 けで、まったく科学的裏付けのない根拠のない論理であ
 って、結果を見間違っている・・、
  その論理性は、まったく浅い主観的分析で、ある意味、
 感情論的主張となっている・・、
  (何故か?中国が言う「アイヌ独立論」とつながる主
 張の様に感じられる)・・
  (今、キリスト教系大学では、孔子学院など中国との
 つながりが強い行為が行われている)
  (参考)アメリンド:ヨーロッパからの移住民による
     虐殺が始まる以前より、アメリカ大陸に住んで
     いた諸民族の総称。
      狭義では、北米大陸に居住するイヌイットと
     アレウト、さらには、エスキモーを除いている。
      カナダとアメリカ合衆国の先住民(カナダ・
     インディアンとアメリカ・インディアン)をさ
     すこともあるが・・、
      中南米に住むインディアンも含む・・、
      そして、スペイン語でインディオと呼ばれ 、
     その言語は、約160の語群に分けられる 。
      キリスト教系大学で語られる「言語が違えば
     別民族」という論理で行けば、このインディオ
     も160の別民族となってしまう。
  (参考)オーストラロイド:オーストラリア先住民
      (オーストラリア・アボリジニー)とその類
      縁の人種をいう。
       やはり、この人種もヨーロッパからの移住
      人(イギリス)による虐殺に会った。
  (参考)コーカソイド:白色人種、ヨーロッパ人種と
     もいう。
  (参考)ネグロイド:類黒色人種。アフリカ‐ニグロ
     イド・エチオピア人種・コイサン・ピグミー・
     メラネシア人など。
  以上の様な、科学的知識を根拠に持たない者たちが、
 日本国内で、中国の働きかけで、アイヌ独立論を振りま
 いたり・・、
  北海道は無土の地で、人が居なかったと言ったり・・、
  白老町に、100億円もの国民の税金で、アイヌ民族の為
 の箱物を建てるとか・・
  馬鹿馬鹿しい話があちこちで展開している。
  この他にも、いっぱいこの類の無智の話が展開してい
 る日本となっている。
  それよりも、遺伝子的にもまったく別の民族であるチ
 ベット・ウィグル・内モンゴルの民族の方々の地が、漢
 民族というまたく違う民族によって・・まったく関係が
 無い民族によって、奪われようとしている。
     ・
     ・
34年、実質的に「キリスト教を作ったパウロ」は・・、
  この年に、テント職人のパウロは回心する(60年説も
 あり)
  サウロという名前でも呼ばれたこの男が・・本業のテ
 ント作りのかたわら、信仰するユダヤ教の業務もしてい
 た。
  その業というのは、ユダヤ教に敵対する宗派の人たち
 を、上部の組織の許可を得て、捕まえ、そして、突き出
 すという役目だった。
  下っ端役人という所だった。
  捕まえられた者の中には、死刑になるものも、当然、
 多く居た。
  長い間、この役目にあって、当然、多くの人たちが、
 このパウロによって捕まって、命を落とした・・
  その人の数も、決して少ない数ではなかった・・
  多くの人々を死へ追いやったパウロだった。
  パウロも、つくづくこの行為の罪作りな所に嫌気がさ
 した・・
  いつまでこんな罪作りな事をやっているんだろうと、
  ある日、自分を顧(かえり)みる事もあった・・、
  「人の命をとりあげて、自分が生きる」という姿を顧
 (かえり)みる事もあった・・、
  パウロは、ある日、突然、けじめをつける時が来る・・
  この役目の罪作りなところに嫌気がはっきりとさした。
  ここを、当然、キリスト教は美しく書く・・
  「天が一転かき曇り」・・「天からイエスの声が聞こ
 えた」・・、
  『サウロよ、何故、我々を痛めつけるのだ』・・と、
  そして、パウロは、この後、キリスト教を作って行く・・
  宗教を作ることを思い立つ・・、
  この後、まだ、キリスト教ができるまで何十年と、ま
 だまだ、かかったが・・、
  その間、パウロは、ユダヤ教を良く知っていたので、
 そのユダヤ教の正典に書いてある通りのことをやる。
  違う所は、イエスを利用するところだった。
  もしかすると・・何十年か前に、パウロが上部の許可
 を得て捕まえたイエスを思い出したのかもしれない。
  イエス逮捕のきっかけは、パウロがからんでいたのか
 もしれない・・
  パウロが役所に突き出したかどうかは不明だが、パウ
 ロは、何十年も以前のイエスを思い出した。
  パウロは、何十年も経て、作ろうとしたキリスト教に
 イエスを利用しようと思った。
  しかし、パウロは、イエスの生い立ちなどはすべて捨
 てた・・
  ただ、イエスの刑死を利用しただけだった・・
     ・
     ・
1453年、キリスト教の東方正教会の本山のあったビザンツ
 帝国は・・、
  この年に、オスマントルコ帝国に滅ぼされた。
  全盛期のオスマントルコ帝国の領地は、ローマ帝国領
 とほぼ同じという・・広大なものだった。
     ・
     ・
1859年7月1日、横浜港が開港した。
  横浜港は、1858年7月29日に締結された日米修好通商条
 約に基づいて、この日に、武蔵国久良岐郡横浜村に開港
 した。
  いわゆる「安政の開国」による開港五港での開港だっ
 た。
  横浜港が開港すると、欧米の商人は、日本人と筆談の
 できる中国人を、仲介役(買弁:ばいべん、中国で、外
 国の貿易業者との仲立ちをした業者)に伴って横浜に来
 た。
  また、中国人の中には、活版印刷などの新しい技術を
 持つ者も居た。
  そして、明治の初めには、横浜の華僑は、約1000人を
 数えた。
  人々は、居留地の一角、旧横浜新田を造成した地に集
 まって住み、中華街を形成して行った。
.
1894年3月28日、朝鮮の指導者・金玉均が、中国・清によっ
 て暗殺された・・中国・清の横暴な行為だった。
  この朝鮮の指導者・金玉均は、日本の福沢諭吉と師弟
 関係にあった。
  福沢諭吉は、この金玉均に、何かと心配りをしていた。
  金玉均は、福沢諭吉に指導を仰いだ・・、
  金玉均は、遅れている朝鮮の近代化について、福沢諭
 吉に相談した。
  その一つが・・諭吉は、朝鮮に於いて新聞を出す事を
 勧めた。
  そして、朝鮮で使われなくなっていたハングル文字の
 良さを見抜いていた諭吉は、そのハングル文字を使って
 新聞を出す事を勧めた。
  そのハングル文字は、今では、朝鮮では、なくてはな
 らない文字となっている。
  (朝鮮・韓国は、この福沢諭吉に感謝しなければなら
 ない)
  そして、資金のなかった金玉均に、福沢諭吉は、新聞
 用の活字を日本で身銭を切って、自分の金で作らせた。
  そして、それを持たせて、朝鮮へ帰らせた。
  そこまでして、福沢諭吉は、一生懸命に朝鮮の事を思
 っていた。
  この福沢諭吉の一例の様に、日本は、本当に誠実に、
 親切に、朝鮮の事を思って、色々と行動を起こしていた。
  しかし、この金玉均は、朝鮮で横暴な行動をする中国・
 清国に暗殺されてしまう。
  また、ここまでしている日本に、まったく理解を示さ
 ない今・現在の朝鮮・韓国・・、
  今・現在も、朝鮮・韓国は、「なんだかんだ」と色々
 と、日本を貶(おとし)め続けている。
.
1924年、未来の宗教は・・・
  ジョーゼフ・キャンベルの言葉 : 
 「未来の宗教はどうしても仏教に近づいていくだろう」
  (参考)ジョーゼフ・キャンベル(Joseph Campbell)、
     1904年3月3日~1987年10月30日
     アメリカの神話学者、文学者、講師
     比較神話学や比較宗教学で有名。
  彼の作品は広大で、人間の経験に基づく多面的なもの・・、
  彼の人生観は、しばしば「至上の幸福に従え」という
 文に要約される・・
  1924年、キャンベルは家族とヨーロッパを訪れた。
  船に戻った時、彼は、ジッドゥ・クリシュナムルティ
 と遭遇した。
  彼らは、アジアの哲学について議論した。
  そのことが、キャンベルの長い人生の中でヒンドゥー
 教とインドの思想について興味を持たせるきっかけとな
 った。
  この旅行の直後、彼は、キリスト教カトリックの宗教
 を棄て、キリスト教の活動を止めた。
  すでにラテン語を流暢に話せた彼は、彼の言語の幅を
 広げるため、日本語を身につけようとした。
  (参考)ジッドゥ・クリシュナムルティ:1895年5月12
     日~1986年2月17日、インド生まれの国際的宗教
     哲学者、思想家、教育者
      人は組織、信条、教義、聖職者、儀式によっ
     て真理に到達することはできず、ただ、自己認
     識によってのみ真理を見出すことができると説
     いた。
      「真理は道なき大地にあり、そこに到達でき
     るのはいかなる宗教や教派でもない」
      「物事をあるがままに直視し、自覚により自
     らの置かれた状況を凝視すること」
      すべての物事が、時間的にも空間的にも互い
     の条件付けによって成り立つという彼の考えは、
     仏教の縁起説と同様で、我執を問題とし、ある
     がままの観察による我執からの解放を目指すと
     いう点でも、仏教と基本的なスタンスは同じ。
      インドだけでなく、欧米でも幅広い支持を得
     る・・首座 (仏陀の化身) に任命された。
.
1939年8月31日、朝鮮の新聞である「東亜日報」が・・、
  朝鮮人の業者・女衒(ぜげん、뚜장이)が・・朝鮮の女
 性を、本人の意思に反して、強制的に慰安婦にした罪で
 処罰されたと報じた。
  朝鮮語による・・朝鮮人の記者によって書かれた記事
 で・・朝鮮人の警察官が捕まえて、処罰したという事で
 ある。
  日韓併合中のことで、日本政府が、人道的にも劣ると
 罪を厳しく処罰していたことを明らかに示している。
  今、韓国が、日本を貶(おとし)めようして言ってい
 ることは、完全な嘘でデッチアゲである。
  今、韓国が、日本政府や日本の軍が、慰安婦に強制的
 関与をしていたと言っていることは、まったくのデッチ
 アゲで嘘である・・真実は、その逆で、「取り締まって
 いた側である」・・
  やっていたのは朝鮮人の業者・女衒(ぜげん、뚜장이)
 である。
  韓国よ、嘘を言うのはいい加減に止めなさい!
.
1948年春、表意・表音文字・・
  聞きなれないこの言葉・・この表意表音文字を持つ日
 本民族は素晴らしいのである。
  この文字によって、日本の文化や科学が、輝かしい飛
 躍をして来た・・素晴らしい結果を歴史に残している。
  ただの「表音文字だけで暮らすアメリカ」が、その対
 極にある。
  事例を言えば・・『東』。
  これは、朝、木の向こうに、日が昇って来たところを
 表わしている。
  そして、「ひがし」とか、「とう」とかと読む。
  「ひがし」という音は、日が昇る方向を表わす・・東
 の意味である。
  陽が沈む西は、横に引かれた1本の線が、海の水平線
 で、口の陽が、その水平線から沈んだ状態、縦の2本の
 線が水平線から日が沈んだという意味を表わしている。
  これが「にし」とか、「せい」とかと読み、陽が沈む
 方向の意味の「西」を表わしている。
  「東」も「西」も表意であり、「ひがし」「にし」と
 表音ともなって、その意味を伝え、目的を果たしている。
  だた、その1字だけで、この様な機能を持っている優
 れた文字を持つ日本民族なのである。
  ただ、だらだらと長い英語とは違うのである。
  この様な事を知らずに、GHQのマッカーサーは、日
 本を英語化しようとした。
  英語化されたら、愚民化政策だ。
  日本の学者が、必死に止めたから良かったものを・・
  愚かなアメリカ主体のGHQであった。
  また、こんなに多くの文字を知る訳はないと、日本人
 を馬鹿にしたマッカーサーのGHQは・・テストをした。
  そうしたら・・テストをしたら・・その結果の素晴ら
 しいこと・・日本人の優秀さにびっくりしたGHQ・マ
 ッカーサーだった・・、
  漢字テストの識字率が97.9%というほぼ100%の出来栄
 えの凄さだった。
  世界で最初に書かれた長編小説の作家、それも女性の
 紫式部の「源氏物語」・・
  この深い・・味わい深い意味も、日本語でなければ読
 み取れなくなる。
  因みに、英語に、31文字の単語を発見した時はびっ
 くりした・・
  これでは、日本語だったら俳句ではなく、短歌まで出
 来てしまうと思った・・
  表音文字だけの英語・・順列組み合わせだけの英語・・
 馬鹿みたいに超長い単語が生まれてしまう・・
  また、因みに、1948年の春、馬鹿なGHQが、日本の
 教育状況と日本語に対する無知と偏見から、「日本語は
 漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりに
 くいために民主化を遅らせている」とした。
  日本を、英語化するべきだとした。
  自分に都合の良い言葉に変えてしまおうということだ
 った。
.
1960年代半ば以降、電卓市場には、新規参入が相次いだ。
  大手電機メーカーから事務機器メーカー、計測器メー
 カーまで、最大で40社ほどを数えた。
  電卓競争が勃発した。
  切っ掛けは、アメリカ半導体メーカーのテキサス・イ
 ンスツルメンツの8桁の電卓用のLSI(大規模集積回路)
 を標準化し、各社に売り込んだ。
  1971年に、5万円を切る電卓が世に出回ると、カシオは、
 すぐさま、3万8700円の『ASー8』という機種を売り出
 した。
.
1972年、国内ボウリング場がピークだった。
  2016年の4倍の約3700店があった。
  1970年には、ボウリングの女子プロボウラーの中山律
 子さんが、初のパーフェクトと達成した。
  1970年代前半は、日本は、空前のボウリングブームに
 湧いた。
.
2014年7月30日、ウイグル人虐殺、ヤルカンド県大規模虐殺。
  国が奪われつつあるウイグル・・漢民族による虐殺が
 起きている、続いている・・
 ヤルカンド民衆蜂起その1:7月28日早朝、ヤルカンド県
  イシュクル郷警察署と政府が幾つかの集団の襲撃を受
  けた。
   その後、漢民族・中国の治安当局は襲撃集団を武力
  で弾圧した。
   その後、当郷に属する14、15、24村の村民が蜂起を
  起こし、手に棍棒、斧などの物を持ち村役所、中国人
  移民の商店などを襲撃した。
 ヤルカンド民衆蜂起その2:7月30日、漢民族・中国の当
  局は、イシュクル郷周辺を包囲し、蜂起に参加した民
  衆を徹底弾圧した。
   RFAウイグル語放送は現地情報として、すくなく
  てもおよそ120人が死亡と伝えた。
   死者の詳細が不明なのである。
   今、ヤルカンド県全域に非常事態令が敷かれた。
   外部との通信は全て遮断された。
 ヤルカンド民衆蜂起その3:7月30日、ウイグル農民が、
  大規模蜂起を起こすのは1990年4月のアクトゥ県バレー
  ン郷農民蜂起が起きて以来24年振りだった。
   当時のバレーン郷蜂起も、結局、漢民族・中国の当
  局に残虐に弾圧された。
   現代のウイグル抵抗運動におけるシンボル的抵抗事
  件として歴史に刻まれた。
 ヤルカンド民衆蜂起その4:7月30日、今回のヤルカンド
  民衆蜂起も、近年における中国政府のウイグル人に対
  する激しい弾圧に対するウイグル農民の大規模抵抗と
  して、24年前のバレーン郷蜂起と同じ歴史的意義があ
  る・・、
   漢民族の中国政府の弾圧に対し、ウイグル人は不屈
  であると、はっきり宣言したと表明した。
 ヤルカンド民衆蜂起その5:7月30日、ウイグル民族運動
  指導者ラビヤ・カディール女史が昨日声明を発表し、
  中国政府に過剰な武力を使わないよう呼びかけ、ウイ
  グル人に対する弾圧政策を直ちに中止することを要求
  した。
   外国メディアによれば、民衆の襲撃は5箇所で同時に
  起き、6時間継続した、という。
   (参考:ニュースソース:毎日新聞)
  2014年8月1日、緊急拡散・・ヤルカンド県で31日約800
 人の蜂起民衆が警察署二箇所を襲い、そこにいる特殊警
 察、武装警察と衝突し、多数の死傷者が出た模様。
  漢民族・中国の中共軍は、カシュガル駐屯の第六機械
 化師団を緊急出動させ、全面虐殺を行ったという。
  また・・下記の連絡がある・・、
  2014年7月28日から、ヤルカンド県及びその周辺地域で
 中国・中共軍、武装・特殊警察部隊による大規模な虐殺
 が行われています。
  真相がよくわからない。
  緊急事態です。
  多くのウイグル人が、老弱男女問わず、殺されていま
 す。
  最新ウイグル語情報によれば、ヤルカンド県の民衆蜂
 起地域(イリシュク)郷などでは中共軍、警察部隊の大
 規模虐殺でウイグル人老弱男女問わず3000人以上が殺害
 された模様。
  このような大規模虐殺が起きたのは、2009年7月5日夜
 起きたウルムチ大虐殺以来です。
.
2017年6月、欧州連合(EU)は、昨年(2017年6月)の国
 連人権理事会で、中国の人権状況を批判する声明を準備
 したが、ギリシャの反対で挫折した。
  ギリシャは、2010年の経済危機でEU内で「お荷物」
 扱いされた時、中国に支えられた恩義があった。
  今、EU内の「中国の代弁者」となっている。
  EU内で、中国に代わって主張する者となっている。
  結局、中国の金の勢いで、中国の不正についての正し
 い意見が抑えられるという事態が、EU内で起きている。
  この様な事が、世界中で起きている。
.
2018年2月23日、アメリカのFBIが、中国の孔子学院をス
 パイ容疑などで捜査対象とした。
  アメリカ社会の脅威だとした。
  アメリカ連邦議会上院の情報委員会の公聴会で、クリ
 ストファー・ライFBI長官は、アメリカにある中国政
 府対外機関「孔子学院」について、スパイ活動などの違
 法行為に関わる疑いで、捜査の対象にしていると公言し
 た。
  英メディア・ビジネスインサイダーによると、ライ長
 官は公聴会で、複数の孔子学院に対して、中国共産党思
 想のプロパガンダ拡大だけでなく、アメリカ政府関連の
 情報までも違法に入手するスパイ活動にかかわっている
 容疑があり、捜査していると述べた。
  ライ長官は、アメリカ政府機関「中国問題に関する連
 邦議会・行政府委員会(CECC)」の委員長を務める
 マルコ・ルビオ下院議員の質問に応える形で、次のよう
 に述べた。
  「世界におけるアメリカの軍事、経済、文化、諜報力
 を引き下げる目的で、中国は、『国家主導』で動いてい
 る」
 「これを国家の脅威のみならず社会の脅威ととらえ、ア
 メリカは全面的な対応を取る必要がある」・・と。
  因みに、日本にも、何故か?キリスト教系大学の桜美
 林大学に孔子学院がある。
  キリスト教組織と中国のつながりは強い・・、
  この公聴会に出席した国家情報局(DNI)局長のダ
 ン・コート氏も、FBI長官の会頭に合わせて、中国へ
 の危機感を露わにした。
  また、中国による世界的な浸透工作を調べるため、す
 でに複数の機関が調査を行っていると明かした。
  中国は、大量の資金を使って世界のあらゆる面に情報
 工作をしている。
  この様な事は、中国は、昔からやって来た。
  南京事件も、「起きてない南京事件を有るものとして」、
 中国は、大金を使って、世界に喧伝(けんでん、世界や
 世間に言い、はやし立てること)している。
  中国は、初め、起きても無い南京事件を「ある」と言
 い、その人数は2万人と言った。
  その人数は、今、中国は膨らませ、今では、中国は30
 万人が殺されたと言っている。
  しかし、この南京事件は、1938年当時、国際連盟に、
 中国は「2万人」と申し立てた。
  しかし、起きてもいない南京事件に対して、国際連盟
 は、「当然、その中国の申し立てを拒否した」。
  当然、起きても居ない南京事件であるが故に、その中
 国の申し立ては受け入れられなかった。
  しかし、中国は、大量の金を使って宣伝映画を作って、
 欧米諸国へ向けて嘘を発信続けていた。
  結局、欧米社会だけでなく、日本人でさえその中国の
 工作の嘘に巻き込まれてしまう。
  実際は、挹江門事件(ゆうこうもんじけん)の一例が
 ある様に、中国の督戦隊(とくせんたい、中国の自軍の
 後ろで監視し、戦うように仕向ける部隊、だから、逃げ
 る自軍の兵士・中国軍に対してでも撃つ)が逃げるな、
 日本と戦えと、逃げる自国兵を撃ったり(この事件の場
 合、中国・国府軍第36師212団)、乱れに乱れた中国兵や
 一般市民は、揚子江の唯一の南京出口で、我先に逃げ惑
 う市民を数少ない船の取り合いで銃に撃たれるという状
 態・同士討ち状態だった。
  何しろ、肝心な司令部を、アメリカが秘かに参戦して、
 中国軍の味方して、蒋介石や中国司令部を連れ去ってし
 まっていた。
  救出の名の下に、司令部を無くなしていた・・統制の
 効かなくなった中国軍の乱れによって殺された人々があ
 また居た。
  中国は、卑劣にも、嘘の宣伝を欧米諸国にして、ゆが
 められ、捏造された情報が、中国政府の悪意ある工作で、
 さらに深く浸透している。
  それに紛動(ふんどう)された欧米諸国は、故無き間
 違った非難を、日本にするという状況になっている。
  中国政府は、「日本は、卑劣な国家だというイメージ
 宣伝」をしつこくして、世界は「それが真実だ」と思い
 込まされるという状況となっている。
.
2018年7月6日、中国の領土拡大工作
  今、中国が、ウイグルやチベット、そして、内モンゴ
 ルを必死になって自分の領土にしようとしている・・、
  その動きの一端が分かる数日前の記事が、この日の読
 売新聞に載っていた。
  その表題、および、内容は・・、
  「ウイグル族を顔認証・・当局、街中に監視カメラ」
  中国でイスラム教を信仰する少数民族・ウイグル族が
 多く暮らす新疆ウイグル自治区で、監視カメラと最新の
 顔認証技術を使った住民監視が強化されている。
  2009年7月に、区都ウルムチで起きたウイグル族による
 大規模暴動(抵抗)の再来は許さないとの習近平政権の
 断固とした意思を反映した施策だが、変わらぬ強権統治
 にウイグル族の不満はくすぶり続けている。
  (参考)ウイグル族による大規模抵抗:2009年6月、中
     国広東省の玩具工場でウイグル族と漢民族の労
     働者が衝突した事件を発端に、新疆ウイグル自
     治区ウルムチで7月5日、ウイグル族の学生らが
     抗議デモを行った。
      一部が過激化して漢民族・中国の治安当局と
     衝突する大規模な活動に発展し、当局発表で197
     人が死亡、1600人以上が負傷した。
  ・・漢民族主体の当局とウイグル族の衝突は、過去、
 何度もあった。
  中国政府は、「イスラム過激派によるテロ警戒」名目
 でウイグル族への監視を強めている。
  ウイグル族が集まる所、モスクなどの周辺は特に厳し
 い。
  カシュガル中心部の「エイティガール寺院」では、一
 帯に多数の監視カメラと複数の検問が設置されている。
  武装警官が3人1組で頻繁(ひんぱん)に巡回し、緊張
 感でいっぱい。
  マスクをしている記者に、強い口調で、「顔が隠れて、
 いけない」と。
  ウルムチには16万台の監視のカメラが設置されている。
  最新の顔認証技術を使った監視体制となっている。
  事前登録した要警戒人物の顔が認識されると、公安当
 局に情報が瞬時に伝わる仕組みになっている。
  最近、40倍の費用を投入した。
  また、最新技術の導入を急ピッチで進めている。
  街中では、スマートフォンの抜き打ち検査が行われて
 いる。
  保存データーに反政府活動的なものがあれば、即、拘
 束・逮捕される。
  1930年代~1940年代に、ウイグル族を中心にした「東
 トルキスタン共和国」が生まれたが、1949年に、中華人
 民共和国が建国された後、漢民族・中共軍が侵略・進駐
 し、分離・独立の行動が抑えられた。
  1955年に、ウイグル自治区が設置されると漢民族がト
 ップに就いた。
  共産党書記がトップになる制度にされた。
  分離・独立の動きを抑える管理が強められた。
  学校でも中国の標準語が教えられ、独自の言語が無く
 なる方向性にある・・
  また、宗教文化も失われる方向性がとられた。
  漢民族とウイグル族との貧富の差も酷く、深刻な状況。
  天然資源は豊富だが、漢民族の主動で開発がなされて
 いる。
  その恩恵にウイグル族は浴していない。
  街中で、物乞いするウイグル人も多い。
  ウイグル人は収入が少なく、結婚できない状況だとい
 う(ウイグル人が増えては困るため・・)
.
2018年、日本と北朝鮮との関係だって、日本がしっかり対
 応して来なかったからと言うが・・??
  日本にしっかりした国防力の裏付けがあれば、「拉致
 された方々を取り返しに行った」。
  その様な国防力を持たせなかったのが「アメリカ」。
  安全保障条約があるからと、日本を守ってやるからと・・
  そう言ったって、その裏付けで取り返し行動を起こし
 て、その時、アメリカがその安全保障上の支えになるか
 は、不明・・、
  だから、故に、実施に踏み切れなかった。
  こんなことは、今・現代でも同じ・・、
  他国に頼っていては・・らち(埒)があかない・・
  北朝鮮から核ミサイルが、日本にぶち込まれたら・・、
 二発目の核ミサイルを防ぐために、アメリカは、核ミサ
 イルを北朝鮮にぶち込むか?・・否である。
  アメリカは、北朝鮮の核ミサイルが、アメリカの都市
 にぶち込まれることを思ったら、日本のための核ミサイ
 ル使用を躊躇(ちゅうちょ、決心が決まらず、手が縮こ
 まる)する。
  国は、自(みずか)らが守らねばならない。
  これは・・歴史が教えること。
  『国は自らが守れ!』
  直ぐに「非核三原則」を撤廃せよ!
  アメリカから、即、一隻、アメリカ兵付き、核ミサイ
 ル付きで、原子力潜水艦を購入せよ!
  日本に向けての核ミサイルが発射されたら、即、この
 核爆弾が日本に着弾する前に、この原子力潜水艦の核爆
 弾ミサイルが発射されますと宣言せよ!
  その様な・・しっかりした裏付けを持って拉致された
 方々を返せと言い、返す様子が無いならば、即、奪還作
 戦を実施すべき・・、
  日本の将兵の指揮下にある、日本兵とアメリカ兵によ
 る核ミサイルを持つ原子力潜水艦の存在をしっかり相手
 に意識させる・・、
  日本は、もう、通常兵器は不要・・、
  核武装に向かうべきなのだ・・、
  今、世界は、『一方的に消滅する世界』ではないのだ。
  『共に消滅する世界』となっている。
  「瀬戸際防衛」の時代なのだ。
  タイトロープの上を行く世界・・、
  核ミサイルが、1発も落ちて来ないからと安心はするな。
  結局、一旦、ことが起きたら、放射能で、地球上の全
 生物は死滅する状況・・、
  天に唾を吐いた者も・・結局は死がある時代なのだ・・
  営々と何百万年も・・人類が築いてきた長い長い歴史
 が・・終わる時なのだ。
  キリスト教の「シャローム」の教義は、間違いなのだ。
  「シャローム::キリスト教徒以外の誰も居なくなっ
 た後の平和」という状況を求めるキリスト教の教義は間
 違い・・、
  キリスト教は、その様な平和を望む・・、
  キリスト教徒も、共々(ともども)、皆、完全にすべ
 てが居なくなってしまう・・その様な時代なのだ・・、
  キリスト教徒だけが生き残るは・・間違い・・そうは、
 ならない・・、
  キリスト教徒だけが行けるという「キリスト教の天国」
 だって、キリスト教徒に殺された人々が、満ち満ちてい
 て・・、
  キリスト教徒のあなたが行ったって、恨み怨みつらみ
 を言われるだけ・・、
  自分だけが・・良い子にならないこと・・
  キリスト教は、「自分だけ、いい子になる宗教」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2018-07-12 15:54 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)601E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年7月)

題:(増補版)601E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年6月25日、高等学校令が公布された。
  この法律によって、高等中学校を高等学校と改称した。
  これは、旧学制の高等学校で・・、
  帝国大学、および、官立大学に、ほとんど独占的に進
 学できる学校だった。
  選ばれた少数エリートの特権的な学校だった。
  ドイツのギムナジウムや、フランスのリセなどヨーロ
 ッパの伝統的な中等学校に似ていて・・、
  第一 (東京) 、第二 (仙台) 、第三 (京都) 、第四 (
 金沢) 、第五 (熊本) の5校があった。
  その後に、第六 (岡山) 、第七 (鹿児島) 、第八 (名
 古屋) 高等学校が設置された。
  1918年の学制改革によって、公立、私立の七年制高等
 学校 (尋常科4年、高等科3年) が設けられ、国立も増設
 された。
  以後に増設された学校は、新潟高等学校、松本高等学
 校など・・所在地の地名を冠した名称とした。
  1940年現在32校あり・・国立 25校、公立3校、私立4校
 で、その後の変化は、あまりしていない。
  第2次世界大戦後、学制改革によって多くが新制大学の
 一部となった。
  単独で新制大学となったものもあり・・、
.
1894年6月30日、イギリス・ロンドンのタワー・ブリッジが
 完成し、開通式が行われた。
  1886年に着工していた・・
  民謡の「ロンドン橋落ちた」のロンドン橋とは違う・・
 このロンドン橋は、この橋のすぐ上流にある。
  テムズ川に架かる橋で、二つのゴシック風の尖塔があ
 る。
  上下2層の鉄橋で、下橋ははね橋で、船舶の通行時には
 現在でもハの字型に上方に開く。
  可動方法は、初期は蒸気機関で水をパイプに通し跳開
 部の端に水圧を掛け、シーソーの原理を利用して開閉し
 た・・現在は、電力を利用している。
  上方の橋は尖塔をつなぐ高さ40メートルのガラス張り
 の歩道(有料)で、この歩道から金融街のシティーのオ
 フィス街やシティーホールが見渡せる。
  第二次世界大戦時は、ドイツの爆撃目標となり、また、
 V2ロケットの目標となり、1944年8月2日に、V1ロケ
 ットの1発が命中し、車道部分が被災した。
  因みに、ロンドン橋は、西暦46年に、ローマ人によっ
 て架けられた木製であった。
  1013年、スヴェン1世が率いるデーン人が侵攻して来て、
 エゼルレッド2世によって焼き落された。
  (参考)スヴェン1世:960年~1014年、デンマーク王(
     在位985年~1014年、ノルウェー王(在位985年
     ~995年、1000年~1014年)、イングランド王(
     イギリス王、1013年~1014年)を兼ねた。
  (参考)エゼルレッド2世:968年~1016年、イングラ
     ンド王(イギリス王、在位978年~1013年、1014
     年~1016年)
      デーン人に侵略されるごとにイングランド(
     イギリス)は「デーンゲルド」という退去料を
     支払った。
      度重なる支払いでイングランド(イギリス)
     財政は大きな負担となった。
      デーン人のイングランド(イギリス)攻撃を
     恐れ、国内のデーン人を虐殺したり(デーン人
     を怒らせ逆効果)・・また・・
      ノルマンディー公国と友好関係を結んだり、
     その公国のリシャール1世の娘エマと結婚したり
     した。
      1013年のデーン人の侵攻時には、その攻撃に
     屈し、ノルマンディー公国に逃れた。
.
1894年6月30日、勝海舟が従二位に叙せられた。
.
1894年6月2日、伊藤首相が第六議会を解散した。
  世界の列強は帝国主義の真っただ中、欧米列強による
 植民地化が進行中であった。
  国の守りをやっと固めて来た日本・・、欧米の植民地
 化の手から逃れて来ていたが・・、
  アジアの最強国は、急速に軍備を増強して来ていた中
 国・清であった。
  その清に追い付こうと軍備を固めたい日本だったが、
 厳しい財政状況に置かれていた。
  1890年~1891年は、不況下の第一議会だった。
  農作物は凶作で各地に米騒動が起きていた。
  産業界も恐慌で綿紡績も操業を短縮するという状況だ
 った・・生糸輸出も減退した。
  第二議会では軍艦製造費など減額決議した。
  第三議会でも、政府提出の軍艦建造費や鉄道関係法案
 などが否決される状況。
  第四議会の頃、やっと経済も好転の兆しが見え・・し
 かし、海軍省の軍艦製造費は減額される状況だった。
  1893年の第五議会になって、やっと、企業にも新たな
 勃興の機運が見えて来た。
  対外的には、ロシアの極東進出が強く浮き出て来てい
 た・・1892年のウラジオストック軍港の建設と、1892年
 11月のロシア東洋艦隊の日本に来航して日本脅しの示威
 行動があったりした・・
  そして、甲申事変などの朝鮮状況の不安定・・
  その中にあって、中国・清の地位強化の強硬策があっ
 た。
  その様な状況の中で、事態を解決のために切り開いて
 行きたい日本があった・・関税自主権回復の問題もあっ
 た・・欧米列強の圧力の回避に苦心する・・
  そして、イギリスとやっと条約改正交渉が進む・・
  そして、第六議会・・対外硬論のある厳しく、そして、
 激しく対立した議会だった。
  メディアは反政府側の論を張っていた・・対外硬の論
 調だった・・軟弱外交だと批判し、世論を操作した。
  1894年5月31日、対外硬六派連合が、政府弾劾上奏案を
 大差で可決させた・・対外硬の内容で、政府は惨敗
 し、絶体絶命の窮地に陥(おちい)った。
  1894年6月1日、不安定な朝鮮の甲午農民戦争で、朝鮮
 政府軍が大敗した・・そして、清国が朝鮮へ出兵する動
 きとなる。
  1894年6月2日、衆議院は上奏却下で解散された。
  1894年7月6日、イギリスとの条約改正の最終案で合意
 の方針となる。
  1894年7月16日、日英は新条約に調印する。
  イギリスは、日本支持を示した。
.
1894年6月、勝海舟が、初めて日光廟に詣でる(氷川清話)
.
1894年6月、勝海舟、「幕府始末」を著わす。翌年、出版。
(氷川清話)
.
1894年6月、山陽鉄道の広島工場が開設された。
.
1894年6月、浪速鉄道が、軌間を2フィート6インチ(76.2c
 m)から3フィート6インチ(106.7cm)に変更した(
 40%広くなった)。
  軌間は、鉄道の線路における2本のレールの内側と内側
 の間の幅のことであるが・・、
  JRの在来線は106.7cmで、新幹線は143.5cmであ
 る。
  因みに、新幹線の軌間の143.5cmは世界的に「標準軌」
 であるが、日本では間違って「広軌」と呼ばれた。
  日本は狭軌の不都合さから、何度も標準軌への改軌論
 への提案があったが、やっと新幹線で実現した。
  また、因みに、琵琶湖疎水のインクラインは220.0cm
 である。
  そして、秋田新幹線や箱根登山鉄道の一部区間では、
 1本の線路に2つの軌間のレールを置いて(三線軌条にし
 て)異なる軌間の線路をそのまま直通運転することがな
 されている。
  また、奥羽本線および田沢湖線は、線路を敷きなおす
 改軌をして、ミニ新幹線の山形新幹線と秋田新幹線を開
 業している。
.
1894年7月4日、ハワイ共和国が独立を宣言した。
  大統領のサンフォード・ドールが独立を宣言した。
  ドールの一家は、ハワイ王国において、政治的支配力
 を強めつつあった裕福なアメリカ人移民によるエリート
 社会の一員であった。
  ドールは法律家となって、ハワイ王カラカウアやその
 妹リリウオカラニの弁護士として、また友人として仕え
 た(裏切りのアメリカ人)
  1887年、ドールは、この年に起きたアメリカ系の経済
 人・政治家・サトウキビ農場主らが結成した政治組織=
 ハワイ連盟の武装蜂起に参加している。
  ハワイ連盟は、白人市民たちからなる民兵部隊ホノル
 ル・ライフル連隊の後ろ盾を得てカラカウア退位を迫っ
 た・・そして・・
  ハワイ連盟は、カラカウア王に退位の代わりに、アメ
 リカ人の内務大臣ロリン・A・サーストンが起草した新憲
 法を受け入れさせた・・
  この強引で、強制した憲法を、「銃剣憲法」と蔑(さ
 げす)んで言われる・・卑劣な行為だった・・
  この憲法は、日本からの移民を含む、すべてのアジア
 系移民の投票権・・一切の投票権を奪った(有色人種蔑
 視行為)
  また、資産額や収入額が低い人々を締め出したため、
 先住民のハワイ人の方々も選挙権を剥奪された。
  結局、白人アメリカ人の国になってしまった。
  ハワイ国王の権利も極端に無くなされた。
  ハワイ王室や大多数のハワイ人の方々の政治力は無く
 なり、完全な武力によるハワイ国の強奪状態だった。
  そして、この後、ハワイ王室も無くなされる。
  これ等の事は、国連の世界記憶遺産に登録せよ!
.
1894年7月5日、関西鉄道の四日市駅~桑名駅間が延伸開通
 した。
  関西鉄道は、現在のJR東海とJR西日本が保有する関西
 本線・草津線・片町線・紀勢本線・桜井線・和歌山線・
 奈良線・大阪環状線という広い範囲に展開した鉄道会社
 だった。
  名古屋~大阪間の独自の直通ルートを開設したりして
 官営鉄道(官鉄)と壮絶な旅客獲得競争を繰り広げたこ
 とは有名。
  また、旅客サービスや車両技術において先進的な試み
 を行ったことでも知られるが、この背景として、日本の
 鉄道技術の先駆者と言われる島安次郎が初期に技師とし
 てこの会社に在職していた。
.
1894年7月6日、アメリカの24代大統領のグロバー・クリー
 ブランド大統領(民主党)がストライキ(Pullman Strike、
 プルマン・ストライキ)の鎮圧のために軍隊を派遣した。
  1年前の1893年には、世界恐慌が、最悪状態で発生し
 ている。
  ストライキは、1894年5月から、シカゴから始まってい
 た・・そして、全国規模に発展・拡大して行った。
  そして、ストライキ発生にプルマン豪華車輌会社が関
 係していた。
  この会社に働くには会社の社宅に入らねばならず、ま
 た、商店を所有し、町の図書館や教会や水道やガスを所
 有していた。
  会社は、4セントで買った水を10セントで売った、また、
 33セントで勝ったガスを約7倍の2ドル25セントで売った。
  物も会社の店で買わねばならす、社宅に住まねばなら
 ず、会社が決めた料金はどんな料金でも会社に支払わね
 ばならなかった。
  そして、会社は絶えず金を取り立てた。
  二週間目の週末ごとに、会社は給料から差し引いた。
  家賃などが差し引かれれると、わずかな金しか残らな
 かった。
  1893年に、不況から大幅な賃金の値下げが行なわれた。
  それにもかかわらず、株の配当は高く維持し、不況に
 も関わらず特別配当まで行った。
  従業員の委員会が、賃下げ撤回を要求したが拒否され
 た・・そして、委員会のメンバーの3名が解雇された。
  粘り強い交渉だったがことごとく拒否された。
  ストライキ宣言が発せられた。
  アメリカ鉄道労働組合が動き出したが、ことごとく拒
 絶された。
  抗議の行動を起こした人たちまで解雇された。
  この行き場のなくなった事態に、全国規模のストライ
 キが宣言された。
  経営者サイドの対処の仕方は、連邦政府を巻き込む戦
 法だった。
  24の鉄道会社によってつくられた経営者協会は、スト
 ライキ破りを導入した。
  そして、その上、軍隊の出動を要求した。
  そして、何ら深い考えをしないクリーブランド大統領
 は、シカゴ市町やイリノイ州知事に何ら相談なしに、頭
 越しに、シカゴへ連邦軍を投入した・・出動させた。
  正確な情報も知らないで、官吏で済むところをと批判
 された。
  軍隊を動かす権利を持つ者の「安易な行動」が起こさ
 れたのだった。
  大統領の返事は、「正確な郵便物の配送は、行わなけ
 ればならない」・・だった。
  平和裏に行われているストライキに対しての大統領の
 異常反応だった・・核のボタンではなかったから良かっ
 たが・・??
  逆に、鉄道会社の雇っていた治安官代理が、連邦軍の
 到着で興奮し、火事を起こしたり、銃を発射して市街戦
 を起こしたりした。
  軍隊も群衆めがけて発砲し、市民に死者が出た(20人
 ~30人)
  この様な事態に出て来たのが司法だった・・
  司法が、「差し止め命令」というストライキ破りの「
 新たな手段」を提供した。
  この後、経営者サイドは、この手をよく使った。
  プルマンのストライキ労働者たちは、差し止め命令を
 「紙のガトリング機関銃」と呼んだ。
  差し止め命令に従わないと、法廷侮辱罪で捕まり、投
 獄された。
  今や、経営者は、労働者の武器を奪い取ったのだった。
  経営者は、裁判所へ出かけてストライキの活動禁止の
 命令を出してくれと要求すれば済むようになった。
  99%、裁判所はその要求に応じた。
  ストライキ指導者には、法廷侮辱罪が適用されるのが
 常だった。
  裁判所は、経営者の行なっている事業の期待は「無形
 の財産」で、ストライキは、この財産を脅(おびや)か
 すという論理だった。
  裁判所は、この事業への期待の無形の財産こそ守らね
 ばならないこと、保護しなければならないこととした。
  労働者は、自らの経済状態を改善する権利を奪われて
 しまった。
  アメリカの最高裁判所が、「シャーマン反トラスト法」
 でもって、この差し止め命令に合憲性を付与した。
  この後、約40年間、この理屈に合わない不正義な状態
 がアメリカで続くことになる・・
  アメリカという国は、「屁理屈が通る国なのである」。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカという国は、「屁理屈が通る国なのである」。
.
紀元前4万年、こんなに遠い昔に・・日本人は日本列島に
 やって来た・・
  ウルム氷期と言われる約7万年前~1万年前のこの氷期
 の紀元前4万年に、日本人は日本列島に来た。
  このウルム氷期に、アジア大陸から日本列島に移った
 後期旧石器時代人が、縄文人の根幹をなした。
  大陸と日本列島は、まだ、地続きだった。
  遠い遠い昔から、日本人は民族として成り立って来た・・
 その様な、長い長い長い歴史を持っている。
  先住民の方々が居る事にお構いなく・・武力によって
 先住民の方々を殺戮し・・最近と言いたいほどの近年に、
 国を作ったアメリカ、カナダ、そして、ラテンアメリカ、
 そして、オーストラリアなどとは・・訳が違う。
  この様な一連の事は、ユネスコの世界記憶遺産に登録
 すべきである!
  ウルム氷期直後の厳しい自然環境が改善されて、生活
 も安定化していくと、日本列島全域の縄文人の骨格は頑
 丈となって行った。
  独自の身体形質を得て行った。
  長く続いたその縄文人の時代・・その縄文時代の終末
 期から弥生時代にかけて、再び、アジア大陸から新石器
 時代人が、西日本の一角に渡来した。
  その地域では、急激に、新石器時代的身体形質が生じ
 た。
  混血が急激に進んだ・・が、和して進んだその身体的
 形質の変化は・・直接及ばなかった地域もあり、その地
 は、縄文人的形質をとどめた・・そして・・、
  その後「徐々に均一化」がされて行った。
  地理的に隔離された北海道や南西諸島の人びとは、文
 化の変革による身体形質の変化はあっても、現在、なお
 縄文人的な形態を持っている。
  歴史的資料としては、種子島の横峯遺跡から約3万年以
 上前の土層(地層)から、日本国内最古の調理場跡が発
 見されている。
  また、南九州の地層は、火山灰による時代の確認が容
 易である・・、
  そして、愛媛県の太平洋側である上黒岩岩陰遺跡では、
 放射性炭素年代測定により14,500年前と測定された人骨
 が発掘された。
  せいぜい数百年のアメリカ合衆国・オーストラリア・
 カナダ・ラテンアメリカなどの、先住民の方々の殺戮に
 より成り立った国々とは「まったく違う」のである。
      ・
      ・
紀元前6年、キリスト教のイエスが生誕したと言われている。
  しかし、イエスという人間は、作られた可能性の高い
 「想像上の人物」である。
  でっち上げられてできたという可能性が高い人。
  「ある狭い地域のみ」の噂話的存在であった。
  それ故に・・周辺地域にはまったくその痕跡は無い。
  証拠が無い・・ましてや・・外国に、その存在の証明
 できるものは「まったく無い」・・「皆無状態」なので
 ある。
  また、キリスト教の重要人物である「モーゼ」も、は
 っきりと「歴史学者から存在否定される」・・存在証拠
 が無い人間なのである。
  キリスト教を作ったヘブライ人は、チグリス・ユーフ
 ラテス川の下流域の・・メソポタミア文明の領域の「ウ
 ル」に居て・・、
  キリスト教聖書は、このウルの人々が旅立つところか
 ら始まる。
  聖書に書かれる地・カナン(パレスチナ)「乳と蜜の
 流れる地」へ向けて旅立つ話から始まる。
  彼らは、牧畜をしながら北へ向けて、チグリス・ユー
 フラテスの上流へ向けて旅立った・・川の流域が、メソ
 ボタミア文明の栄えた地でもあったからだった・・
  チグリス・ユーフラテス川を遡(さかのぼ)り、川の
 上流域に来て・・それから・・カナン(パレスチナ)へ
 向かって行った。
  しかし、これでは・・「モーゼのエジプト脱出」の話
 が浮き上がってしまう・・モーゼは何時?活躍したの?
 という事になってしまう・・その様な話になり、浮いて
 しまう。
  キリスト教は・・ここで・・史実を捻じ曲げようとし
 た。
  つまり、ウルからエジプトへ向かったとした。
  しかし、これは、キリスト教聖書を「無謬だ」として、
 「間違いはないのだ」とする人たちの作り話なのだ・・
 デッチアゲ話なのだ・・、
  この当時、メソポタミア文明の地とエジプトとは、ま
 ったくと言うほど・・その交流は無かった。
  メソポタミアは、イラン高原の文明の地との交易が多
 く、その地へ「インドの木材」などが、メソポタミアの
 地を経由して・・交易が頻繁になされていた。
  その結びつきは「強く」、「長く続いた」。
  インダス文明とメソポタミア文明は、お互いに影響し
 合い、また、このメソポタミアを経由してイラン高原の
 地の文明とも結びついていた。
  (エジプトとは関係は無かった)。
  (参考)紀元前1500年、古代ユダヤ:ヘブライ人(セ
    ム系ユダヤ人)は、チグリス・ユーフラテス川の
    北方域のシリアの近くで遊牧生活を送っていたが、
     この頃以後、ユダヤ人の一部分が、カナン(カ
    ナーン、パレスチナ、イスラエル)へ移住した。
  この史実による正しい話で困っているのが、キリスト
 教聖書の「モーゼのエジプト脱出」の話。
  しかし、実際は、そのモーゼの実在性も否定され、史
 実における実証性も無いという状況・・となっている、
  後になって・・ヘブライ人は、カナンの地に着いてか
 ら後は、エジプトと関係を持った・・が・・(その前は
 まったく無かった)
  カナンの地に来て・・飢えると、ナイル川の恵みを求
 めてエジプトへ流入した(エジプト脱出の逆)
  エジプトの地も寛大で、その民を受け入れた。
  流入したカナンの民は「下働き」をした。
  エジプトとカナン(パレスチナ)の地との出入りは年
 がら中行われていて・・出入りは自由だった。
  この様な事は、キリスト教聖書にも書かれていて、カ
 ナンからエジプトへ行った人が、エジプトで出世して、
 カナン(パレスチナ)の地の家族をエジプトへ呼び寄せ
 ている・・
  この様な事が、キリスト教聖書に書かれている。
  キリスト教聖書は、必死の生き残りの「民族のマニュ
 アル」で・・家族が、民族が、厳しい環境下で如何に生
 き延びるか?・・の伝承である。
  そして、後に・・書となったものである。
  民族が生き残るのが最大の目的であるため、その教え
 る所は・・自民族のみに有利に書かれ・・現代に「そぐ
 わないものとなっている」。
  「他民族の生娘(きむすめ)は、生かしておけ」(隣
 国へ富を奪いに行った時、生娘は殺さないで生かしてお
 け)」とキリスト教は教える・・
  自民族の繁栄の為に、他民族の女性を、自民族の子供
 を産ませるために殺すなという教え・・
  (他民族の男性などは・・「殺せ・殺せ」とキリスト
 教の神は叫んでいる)・・キリスト教はこの様な教えな
 のである。
  故に、だから、逆に、「自民族の娘は、他民族へ嫁に
 出すな」となる・・そう教えている。
  民族の生き延びることのみ教えるキリスト教聖書で、
 当然、今・現代では、他民族との軋轢(あつれき)ばか
 りが生じる・・戦争の生まれる教えで・・まったく過去
 の過ぎ去った『無用の教え』となっている。
  今・現在では、『害悪を与える教えとなっていて』、
 『存在してはいけない教え』となっているのである。
  キリスト教の周囲に戦争が多く起きるのも、その教え
 が原因している。
  現代社会に「まったくそぐわない教え」である。
  キリスト教は、「無くなさなければならない宗教」で
 ある。
  キリスト教のイエスは、紀元0年に生まれたとされて、
 西暦が制定された・・が・・
  そもそも、そのイエスの実在性はないという存在。
  また、その誕生年は、紀元前4年と訂正された。
  そして、さらに、お粗末な事に、また訂正がなされ、
 今現在は、紀元前4年、若しくは、紀元前6年だとされて
 いる。
  架空の話なので・・この話は、そのどちらでもよいが・・
 問題なのは・・架空の話のキリスト教が原因で戦争が多
 発していることである・・
  この戦争を無くす意味でも・・「キリスト教は無くさ
 ねばならない宗教」となっている。
  そのイエスの復活の話も、「弟子だけが見ている」と
 いう状況・・この様なことごとによって構成されている
 キリスト教・・一部の限られた人によって書かれ作られ
 構成され・・間違い・矛盾・害悪は多い・・
  キリスト教は、『弱者を殺す宗教』となっている・・
      ・
      ・
1938年3月4日、韓国(当時は朝鮮)には、「女衒(ぜげん、
 뚜장이)」という女性を食い物とする「卑劣な商売の者」
 たちが居た。
  この者たちは、国(韓国・朝鮮)に帰って、若い女性
 方を買い、性風俗関係の仕事をするところへ売った。
  若い女性方は、体を売るという状況に置かれた。
  当時、韓国(当時は朝鮮)は貧しかったため、その女
 性方の両親も、やむなく自分の娘がその様な状況になる
 ことを受け入れた。
  また、朝鮮・韓国のその若い女性も、貧しい親を助け
 ようと、納得して、その「女衒(ぜげん、뚜장이)」を
 やることに従った。
  この「女衒(ぜげん、뚜장이)」は、中国国内の街中や
 韓国朝鮮の街中で、商売を行なった。
  そして、その一部、この様な「女衒(ぜげん、뚜장이)」
 たちの中に、日本の軍隊と共に行動する者たちが居た。
  この事が捻じ曲げられて、日本が貶(おとし)められ
 ている。
  この様な事を日本が行なったとされている・・まった
 くひどい嘘である・・
  標記の日にちの日本軍の書類がある。
  それは、「女衒(ぜげん、뚜장이)」たちが、朝鮮・韓
 国で、女性方を集める時、「誘拐行為などをするな」と
 いう「注意を与える書類」である・・、
  また、「それに類するような行為」も絶対してはなら
 ないという「注意を与える書類」だった。
  そして、また、「軍の名前を不正に利用したりしない
 様に」と言っている。
  この様な不正をしたら厳しく罰すると言っている。
  「女衒(ぜげん、뚜장이)」の不正を厳しく戒(いまし)
 めている。
  この様な史実が、色々とはっきりとあるが、韓国は、
 日本を貶めようと、「無いことを有る様に嘘を言う」。
  韓国・朝鮮は、江戸時代の昔から、この様な事を日本
 に対してやって来た国だった。
  また、別の史料には、日本の警保局(けいほきょく、
 1947年まで存在した内務省の内部部局)が、「国際法を
 遵守しなさい」と募集行為に対して指導している・・
  また、「婦女売買や誘拐などを禁じている」ことを言
 って知らしめている。
  韓国の言う事は、まったく根拠のないデッチアゲのこ
 となのである。
.
1992年~1993年、日本政府と韓国政府は、協同して慰安婦
 問題の調査を行った・・
  結果、韓国政府の言う事は、「根も葉もないデッチア
 ゲ」という結果となった。
  この様な調査結果や、事実に反して、日本を貶め続け
 る卑劣な韓国となっている。
  1992年から1993年、日本政府と韓国政府は、慰安婦問
 題の調査を合同で行った。
  この日韓両政府の調査ですら、韓国の言うような「日
 本政府、あるいは、日本軍による強制連行の根拠となる
 証拠は無かった」。
  まったく韓国の言い分が否定された。
  まったくというほど見つからなかった。
  しかし、韓国政府は、この様なはっきりした経過、事
 実があるのに、史実があるのに、日本を貶め続けている。
.
2011年、「ドイツと中国」の「2国間政府サミット」が、
 定期的に開催されることになった。
  今、ヨーロッパ世界が、中国の「金に繰られている」
 状況となっている。
  イギリスのメイ首相は、中国へ行って中国を賛美する
 発言をしている・・讃美して「ゴマすり発言」をしてい
 る。
  その見返りに、中国は、1兆4000億円規模の商談を手
 土産に与えた。
  こんな形でヨーロッパ中の国々が、「中国の金に目が
 くらんでいる」。
  2011年からは、ドイツと中国は、「2国間政府サミッ
 ト」を定期的に開催して、ドイツは、どっぷりと中国に
 飲み込まれている。
  ギリシャは、中国に港を渡している(借金返済ができ
 なかったため・・結局、中国の金で牛耳られている)
  かつて、アメリカのルーズベルト政権の周りに、秘密
 裏に、「共産スパイ(工作員)」が満ちていて・・こん
 な状況が後になって分かったが・・ルーズベルト政権の
 政治が繰られていた・・こんな事もあって、日本とアメ
 リカの戦争にも至った・・、
  今、ヨーロッパ中の国々が・・中国の金に繰られてい
 る。
.
2018年、今・現在も、キリスト教は、節操なくその教義を
 変え続けている。
  キリスト教は、ヨーロッパに入る時、ヨーロッパの宗
 教を取り入れた。
  そのことによって、ヨーロッパの人々に受け入れても
 らおうとした。
  キリスト教の歴史は、この例の様に、節操なく、臆面
 もなく教義を変えた。
  他宗教との習合の歴史だった。
  キリスト教は、恥ずかしげもなく、節操なく他宗教と
 習合した。
  キリスト教の教義なんて「あってないがごとし」だっ
 た。
  キリスト教の天使だって、まったく影も形も無く・・
 そのようなものだった。
  今では、限りなくキリスト教の神に近いという「大天
 使が存在している」が・・居るが??
  馬鹿々々しくなるくらい「キリスト教は変容」してい
 る。
  天使の居なかったキリスト教は、他宗教から天使を拝
 借した・・取り入れた。
  今やキリスト教の天使は、昔から、最初から、居た様
 な顔をしている。
  キリスト教の教義の重要な部分を占めている。
  「イエス・キリストも知らない天使」を取り入れて、
 平然としているキリスト教・・、
  キリスト教とは、この様な宗教・・
  信じるに値しない・・
  イエスの誕生日だって、最初は無かった。
  キリスト教は、当時、他の宗教で盛んに盛大に催して
 いる「冬至の祭り」を取り入れた。
  イエスの誕生日とした。
  クリスマスの始まりだった。
  馬小屋で生まれた話や、博士を追って星が動く話も、
 当時、あちこちにあった話。
  キリスト教は、節操なくこんな事ばかりして来て、結
 局、自分の宗教理念に誠実ではなく、ふらふらと宗教理
 念を変えに変えて来た。
  故に、齟齬(そご、事柄が、食い違って、合わないこ
 と)が、あちこちに生じた。
  その都度、キリスト教は、その辻褄(つじつま)合わ
 せに狂奔(きょうほん、狂ったように、辻褄を合わせを
 する)した。
  「キリスト教神学の発生」は、悲しいかな、このため
 に発生した。
  キリスト教は、今・現在でも、その辻褄合わせに狂奔
 し続けている。
  結局、嘘をつく行為となっている。
  キリスト教は、その様にしなければ時代に取り残され
 る宗教であるからだ。
  今・現代では・・キリスト教は、「魔女は生かしてお
 いてはならない」などとは言わない。
  中世の頃のヨーロッパでは、盛んに、キリスト教は、
 この事を言った。
  そして、資産家の女性を魔女に仕立てて、キリスト教
 裁判所で、キリスト教聖職者の裁判官が「火あぶりの刑
 の判決を下し」、多くの女性の方々が、可哀想に、火あ
 ぶりにされた。
  そして、その女性の資産を我が物に、キリスト教のも
 のとした。
  しかし、今・現代では、キリスト教は、そのキリスト
 教の教義「魔女は、生かしておいてはならない」を、お
 くびにも言わない。
  キリスト教は、何時(いつ)の時代も、その教義をコ
 ロコロ変え、結果、嘘をつき続けている。
  信じるに足る宗教ではない・・害あって益なし。
  今、キリスト教は、「シャローム」の教義を変えてい
 る・・まったく恥ずかしいこの教義を変えている。
.
2050年、未来の話だが・・、
  この頃になると、地球上のほぼすべての水域で漁獲量
 が減少し、ほとんどが小型種になる。
  マグロが食べられるのは・・我々が最初で最後か・・
  世界は、地球環境の保全を前提にした新しい経済へと
 歩みを進めている・・
  漁獲量について、「2050年までに、地球上のほぼすべ
 ての水域で漁獲量が減少し、ほとんどが小型種になる」。
  これは、国連環境計画(UNEP)が会議中に発表した
 予測である。
  原因は乱獲や水質汚染。
  回転すし店で、大型種のマグロを楽しめるのは、私た
 ちの世代が最初で最後かもしれない。
  魚だけでなく自然資源が喪失する。
  だから会議の本質は経済活動のあり様を問うものだっ
 た。
  日本は、木材や食料など自然資源の多くを輸入に頼る
 が、輸入元の国々が、「『緑の』国民経済計算」構想に
 参加し、そうした価値を価格に上乗せする事も考えられ
 る。
  (参考)『緑の』国民経済計算」構想:世界銀行のロ
     バート・ゼーリック総裁が発表した、森や海な
     ど生態系の経済価値を評価して、政策に反映さ
     せる構想)。
  乱獲や乱開発をしないといった原則を守る原材料の生
 産や調達にお墨付きを与える認証制度も討議された。
  パーム油では、「RSPO(持続可能なパーム油のため
 の円卓会議)」が「持続可能な原料」との認証を与える。
  イギリス・オランダの巨大企業のユニリーバは、「我々
 のパーム油は2015年までにすべて持続可能な供給源から
 にする」と宣言した。
  日本の企業は、多様性保全に取り組む企業ネットワー
 クの発足にかかわったが、行動指針には「配慮する」「
 努める」など心掛けの言葉が並んだ。
  日本の企業に危機感が足りない。
  世界は、地球環境の保全を前提にした新しい経済へと
 歩みを進めている。
  編集委員:小森敦司氏(朝日新聞、2010・11・9)
  (追伸)因みに、キリスト教は、「地を従えよ」とい
     う教義・考え方がある。
      我々人類のために、地は従えるものだの思い
     込ませである。
      結局、この洗脳によって、自然破壊となる。
      深い森林に覆われていたヨーロッパ大陸に、
     森林が無くなってしまったのはこの思い込ませ
     による。
      豊かな、微生物も含めて、自然の恵みはまっ
     たく無くなってしまった。
      今・現在、森や海など生態系の経済価値を評
     価する時代に入っているが、やっと、キリスト
     教の思い込ませの否定の感覚が認識されて来た。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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# by suba28 | 2018-07-06 03:23 | 悲惨な戦争を無くせないので

(増補版)600E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)

題:(増補版)600E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年6月20日、明治東京地震が起きた。
  午後14時4分、東京湾北部を震源とする地震が起きた。
  南関東直下型地震。
  1892年に設立された震災予防調査会により詳細な被害
 調査が行なわれた。
  これは、詳細調査がされた初の地震だった。
  震源の深さ約40~60キロメートル、地震の規模はマグ
 ニチュード7.0
  東京・横浜・川崎で被害が多く、死者は計31人。
  内訳:東京市24人、横浜市4人、橘樹郡3人、
  (たちばなぐん、神奈川県・武蔵国にあった郡)、
  建物の全半壊130棟
  内訳:東京府90棟、神奈川県40棟、
  負傷者157人。
  煉瓦(れんが)造りの建物が被害を受けたほか、煙突の
 倒壊が多く、「煙突地震」ともよばれた。
  首都直下型地震と同種のものと考えられている。
  浅草の凌雲閣(12階建て)が一部損壊・・また・・
  東京麹町山下町の宮内庁の建物(鹿鳴館)も被災し、
  後に、鹿鳴館は修復後、土地・建物が華族会館に払い
 下げられ・・、
  1927年に、徴兵生命保険(のちの大和生命保険)に売
 却された。
.
1894年6月21日、日本政府が清国に対して行った、朝鮮の共
 同改革案の申し入れを、中国・清国が拒否した。
  清から依頼された「南下政策のあるロシア」は、日清
 両国が朝鮮から撤退する事が都合よく・・その為・・
  1894年6月25日、ロシアのギルス外相は、ロシア駐日公
 使を通じて陸奥外相へ、同時撤退について、清国と共に
 合意するようにと伝えた。
  これに対し、陸奥外相は、朝鮮内政改革の必要性を力
 説した・・
  無条件での撤兵は出来ないと回答した。
  ロシアは、日清両国の主張の食い違いを知り、清の李
 鴻章の依頼の調停を打ち切った。
  この頃、ロシアが気になっていたのは朝鮮に強い宋主
 権を行使する中国・清国だった・・、
  ロシアは、「清国が、いずれ朝鮮を清国の一省に変え
 てしまうとの企(たくら)みが北京に存在するかもしれ
 ない」という懸念も感じていた・・、
  さらに、「朝鮮の国内問題に対する清国の断固たる干
 渉」が気になっていた・・、
  この様な状況から、朝鮮国王が、ソウル駐在のロシア
 の代表に対して、朝鮮をロシアの保護下に置いてほしい
 との要請ともなった・・大国ロシアにすがりたい朝鮮・・
 強引な清から離脱したいという朝鮮だった・・、
  ロンドンタイムスが、朝鮮・ロシア間に、朝鮮の保護
 に関する「密約」があると報じた・・が・・この件は「
 誤報」とされたが・・実際は、二度にわたる「朝露密約」
 の試みがなされた・・、
  そして、親日的な甲午改革政権を倒したのが、ロシア
 とつながっていた朝鮮の親露勢力だった。
  また、ロシアには、この強い姿勢の清国とロシアとの
 公然たる衝突に至るかもしれないという懸念が生まれて
 いた・・また、反面・・、
  清国が朝鮮を隷属化を控えているのは、「この露清間
 の緊張感」が存在する故だと・・ロシアは感じていた。
  清と露間にも紛争の可能性が存在した・・
  また、朝鮮国王の側近に、外交顧問という資格でデニ
 ーというアメリカ人が居て、朝鮮の利益を清国に対して
 有利に差配(さはい、指図してとりさばくこと)してい
 た。
  また、朝鮮は、アメリカと、弱小の朝鮮軍に対し、朝
 鮮軍編成のためのアメリカ人教官の派遣について交渉な
 どの要請を行なっていた・・、
  このアメリカと、中国・清国などの存在が複雑さを増
 す要因だった・・
  例えば、朝鮮が困難な状況に陥った場合、アメリカが
 政府として、国として動くのか?という懸念があった。
  これ等の問題の根本に、朝鮮の貧困があった。
  まず、問題の発生があれば、清国の出費で、清が動き
 大勢は維持されるだろう・・清国軍の前衛(ぜんえい、
 警戒・護衛・攻撃のために前方に置く人員)が構成され
 るだろうとロシアは見ていた。
  そして、これに、西欧列強も朝鮮に関わっていて、朝
 鮮は縮小された国際秩序の場だった。
  そして、ロシアの南下を恐れたイギリスに支持されて、
 中国・清国軍の居る朝鮮に派遣された日本軍・・、
  そして、この朝鮮共同改革案の日本の提案に対して、
 清国の拒否が一因となって、日清間の緊張が高まり、日
 本政府は、対清国との初めの対決表明である第一次絶交
 書を送ることとした。
  日本は、朝鮮政府に対し清国と朝鮮との関係、つまり、
 「属国(朝鮮):宗主国(清国)」という宗属関係につ
 いて問いていて、それに対して朝鮮側から日本に、「自
 らの国は自主国である」との回答を得ていた。
  (清国の強引なる清国軍の駐留状態で、朝鮮を属国と
 して扱おうとする不当な行動をとる清だった)
.
1894年6月21日、鉄道局臨時軍用貨物鉄道輸送手続を制定し、
 施行した。
.
1894年6月22日、清国の日本の朝鮮共同改革案の拒否に対し
 て、 御前会議で、朝鮮内政の単独改革が決議された。
  日清戦争の原因について開戦をやむなしとした外務大
 臣陸奥宗光は・・、
  「元来日本国の宣言するところにては、今回の戦争は
 その意全く朝鮮をして独立国たらしめんにあり」と回想
 している(『蹇蹇録』岩波文庫)
  また、三谷博・並木頼寿・月脚達彦編集の「大人のた
 めの近現代史」(東京大学出版会、2009年)では・・、
  「朝鮮は、それ以前の近世における国際秩序において、
 中国の属国として存在していた。
  それに対して近代的な国際関係に入った日本国は、朝
 鮮を中国から切り離そう、独立させようといたします。
  いわば朝鮮という国の国際的な地位をめぐる争いであ
 ったということ」と説明している。
.
1894年6月22日、陸奥外相が、清国公使に対し第一次絶交書
 を提出した。
  宗主国然としている清国・・体よく侵略行為をしてい
 る強国・清国の冊封体制の摩擦から発していた・・ロシ
 アやアメリカ・ヨーロッパも絡(から)んでいるアジア
 の大勢の変化・改革の序章・始まりだった。
.
1894年6月22日、陸軍省が、戦時死体認識票を制定した。
  軍隊において、兵士の個人識別用に使用されるもので・・、
  第二次世界大戦中のイギリス軍では、切れ目のついた
 円形の金属板を手首にチェーンで巻きつけ・・、
  アメリカ軍は、長円形の金属板に穴を空けチェーンな
 どに通して首から提げて使用した。
  日本の陸軍では、小判型の真鍮板を上下の穴に紐を通
 して胴体にたすき掛けにして装着した。
.
1894年6月23日、国際オリンピック委員会が設立さらた。
  この年に、ピエール・ド・クーベルタン男爵が、近代
 オリンピックの設立を提唱し、フランスのパリ・ソルボ
 ンヌにヨーロッパなど各国のスポーツ関係者が集まり、
 オリンピック競技会の復興が決められ、委員会が結成さ
 れた。
  初代会長は、ギリシアの D.ビケラス。
  オリンピック競技大会を4年ごとに開催すること、その
 開催都市を選定することを主要活動とした。
.
1894年6月24日、フランスのカルノー大統領が暗殺された。
  リヨンで演説後・・イタリア人のアナーキスト、サン
 テ=ジェロニモ・カゼリオに刺された。
  翌日の6月25日に死亡(サディ・カルノー暗殺事件)
  パリのパンテオンに埋葬された。
  この様なテロに国際社会全体が脅威する状況の時代だ
 った。
  1890年代は、最新の発明であるダイナマイトが、国王
 や大統領、閣僚を次々と襲う状況だった。
  また、政府の建物も標的となった。
  上層階級は下層階級の反乱に対する懸念を強めて行っ
 た。
  労働者はみな潜在的犯罪者、アナーキストはみなとに
 かく叩きのめすべき「狂犬」として語られれた。
  1894年のこのカルノー大統領暗殺を受けて、諸国の政
 府と警察部門は、何らかの手を打つ必要に迫られた。
  最初に、国際協力を提案したのはイタリアだった。
  国際テロの温床と見なされていたイタリアは、これを
 汚名挽回の機会にしようとした。
  「人類に対する犯罪」、マッキンリーの後継者セオド
 ア・ルーズヴェルト(任期:1901年~1909年)はテロリ
 ズムをそう呼んだ。
.
  (今日の言葉)
.
  題:グローバリズムの名の下に・・自国に有利なことを企(たくら)む
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紀元前4万年、日本人が日本列島に来た時、日本列島もまだ
 しっかり形成されていない頃で、その地と大陸は、地続
 きだった。
  それは、アフリカからスタートした人類の地球上での
 拡散の一コマだった。
  このような時、やはり、4万年前~1.5万年前には、こ
 の日本人の形成と同じ様に、モンゴロイドの人々が、地
 続きのベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へ渡って
 行った・・アメリカに達していた。
  日本人の形成は、この「ウルム氷期の狩猟民」と、そ
 の後の、「弥生時代の農耕民」とが渡来した「遠い遠い
 昔のこと」だった。
  何度かの渡来の中で、長い長い長い年月を経て、日本
 国土全体における混血が繰り返されて・・日本国土全体
 で繰り返されて・・日本人が形成されて行った。
  それと比較して・・、
  現代と言っていいほどの最近の・・その最近の1614年
 のアメリカのピルグリム・ファザースのアメリカ・イン
 ディアンの方々の地での殺戮と侵略とはまったく違う。
  また、6万1000年前から・・5万2000年前とも、また、
 12万5000年前とも言われているオーストラリアの地に来
 たアボリジニの方々も同様だった・・
  このオーストラリアの地へ、最近とも言いたいくらい
 の1788年に来て、アボリジニの方々を法律まで作って殺
 戮し(アボリジニの方々を殺しても良いという卑劣な法
 律)、侵略し、植民地としたイギリス・・、
  また同様に、最近と言いたいくらいの16世紀の時に、
 ラテン・アメリカの各地に来て、侵略し、全滅と言いたい
 くらいに蛮行を繰り返したスペイン・ポルトガル(この
 時、ローマのバチカンは、先住民の方々を「人間ではな
 い」と言い、つまり、人間ではないから殺してよいと言
 い)・・長い年月、殺しに殺す行為をしたスペインとポ
 ルトガル・・
  このインディオの方々の殺戮を繰り返したスペインと
 ポルトガルとも、まったく違うのだ。
  しかし、今・現在、日本人のこの遠い昔の成り立ちを、
 この最近の蛮行と同じように語って、誤魔化そうとする
 行為がなされている。
  日本の場合は、完全なる混血であった・・その日本の
 数々の遺跡を分析すると、だんだん文化が混在化して行
 くのが分かる・・これは、混血での一体化を証明してい
 る・・
  アメリカ・インディアンの方々や、また、インディオ
 の方々や、そしてまた、アボリジニの方々と同じような
 状況とされる卑劣な言行・・日本人となった経緯が、ヨ
 ーロッパ人の蛮行と同じとされる卑劣な言行がなされて
 いる。
  まったく歴史的、科学的根拠を無視した論理が展開さ
 れている。
  この様な事が、盛んに、今・現在、工作員によってな
 されている。
  また、今・現在、チベットの方々の地が、そして、ウ
 ィグルの方々の地が、そしてまた、内モンゴルの方々の
 地が、最初は自治区だなんて言っ誤魔化していたが、
  この完全なる別民族の地が・・今・現在、漢民族を、
 政策として流入させて、漢民族の地と化する行為が「盛
 んになされている」。
  これと似たような流入が、今・現在、日本においても
 なされている・・特に、沖縄県や北海道、帝国主義的な
 侵略流入が、今・現在、日本に於いて「盛んになされて
 いる」。
     ・
     ・
19世紀以来、学術的なキリスト教神学研究者達は・・、
  『キリスト教の聖書の福音書は、現実世界の歴史で起
 こった事についての信頼できる記述ではない』という決
 定的な論証を、常に行って来ている。
  科学者たちは・・研究者たちは・・誠実である・・
  聖職者たちとは違う・・
  バートランド・ラッセルの言葉 : 
  知的な意味で 著名な人々の 圧倒的多数は・・
  キリスト教を信じてないが・・、
  大衆に対してそのことを隠している。
  なぜなら・・、
  彼らは自らの収入が減ることを恐れているからだ。
 (キリスト教の聖書の記述の1例)
  ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、ま
 ず、降伏を勧告しなさい。
  もし、その町がそれを受託し城門を開くならば、その
 全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばなら
 ない。
  しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲
 しなさい。
  あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、
 あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。
  ただし、女、子供、家畜、および町にあるものすべて
 あなたのぶんどり品として奪い取ることができる。
  あなたは、あなたの神、主が与えられた敵のぶんどり
 品を自由に用いることができる。
  このようになしうるのは、遠くはなれた町々に対して
 であって、
  次に挙げる国々に属する町々に対してではない。
  あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国民の民に
 属する町々の息のある者は、一人も生かしておいてはな
 らない。
  ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エ
 ブス人は、
 あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさね
 ばならない。
  (この申命書の様な記述が、キリスト教聖書には満ち
 満ちている・・この様な文を読まされて・・洗脳される
 子供たちのことを思いなさい・・こんな時間が週に2回も
 あると泣いて訴えた生徒も居た)
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1882年、アメリカで、『中国人排斥法』が制定された。
  強制収容や国外追放の処罰を課すことで、中国人労働
 者の移民を一時的に停止させた。
  この後、日本人がターゲットにされた。
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1884年7月7日、ソウル条約が調印された。
  朝鮮が、中国の圧力に屈し、中国・清国との間で結ん
 だこの条約は、藩属関係をも表明する内容となっている。
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1886年初頭、苦し紛れに朝鮮は、ロシアに援助を求めた。
  中国・清の朝鮮に対する宋主権の行使は酷(ひど)か
 った。
  朝鮮は、その重圧から逃れようと、ロシアを大国と見
 て、「ロシアに庇護を求めた」。
  この1886年初頭に、朝鮮は、ロシアに援助を求めた。
  朝鮮は、「自主独立の国家でありたい」と強調した。
  そのロシアは、1860年代に、すでに、沿海州を侵略し、
 その領土を取り、自分の領土とし・・そして・・、
  1872年には、ウラジオストックを軍港にするというロ
 シアで・・、
  南下政策のロシア、領土欲満々のロシアだった。
  そのロシアの侵略性を警戒したイギリスは、清の権力
 にひれ伏すその朝鮮にも、ロシアの手が及ぶと見ていた。
  朝鮮のロシアを頼りとする行動からも、その成り行き
 は容易に想像された・・そして・・、
  そのロシアの南下政策を警戒したイギリスは、清国の
 居る朝鮮へ日本のかかわりを支持した。
  1894年6月16日、この様な状況の中で、既に清国軍が居
 る朝鮮へ、日本は、仁川に軍を派遣した。
  この後、朝鮮に圧力をかける清と、日本はぶつかり合
 う。
  因みに、日清間には、先に条約で(1884年12月、天津
 条約)、朝鮮に、日清のどちらかの国が軍を派遣したら、
 他の国に照会することが義務付けられていた。
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1929年、この年から始まった世界大恐慌には、アメリカが
 自国産業保護のため関税を引き上げると、各国が報復関
 税を化した。
  (今・2018年と同じような状況・・)
  第二次世界大戦の原因の一つの始まりだった。
  経済においても、戦争の原因作りのアメリカだった。
  そして、各国で、外国製品を締め出す「ブロック経済」
 化が進み・・、
  輸出を増やすために通貨の切り下げ競争も起こった。
  世界の貿易量は、約4年で「3分の1に縮小した」。
  世界経済が・・深刻な不況に陥(おちい)り、第二次
 世界大戦の一因となって行った。
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1931年9月18日、満州事変が起きた。
  NHKはじめ日本のマスコミは、満州事変の後、戦争
 を煽(あお)った。
  新聞は部数の伸長を目論んだ行為だった。
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1937年8月13日、第二次上海事変
  中国の蒋介石軍(中華民国軍)は、アメリカに武器・
 弾薬を援助されて、大部隊で上海の日本租界を包囲し、
 この日、大攻撃をかけて来た。
  この戦いから、日本軍の南京への進軍が開始され、い
 わゆるデッチアゲラレタ「南京事件」が起きたとされる
 のだが・・
  そして、この戦いから、日中戦争が始まり・・第二次
 世界大戦へとつながっていくのだが・・、
  この頃、父を朝日新聞の記者として持つ人が白状する・・
  言うことは、当時、やはり朝日新聞の中にも、「南京
 へ追撃するべきと主張する派」と、「南京への追撃は控
 えるべきだとの主張する派」の二つの派があった・・が、
 しかし、
  社内が南京へ追撃すべきとする派が強くなり、歯止め
 も効かなくなり、「行け行けどんどん」となったという
 ことを白状し・・証言している。
  この様に、NHKをはじめ「日本のマスコミ」は追撃
 することを煽った・・
  アメリカに支援された中国軍の先制攻撃に対する追撃
 の論調となった・・ここが分岐点であったが・・その方
 向を決めた。
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1990年、イラクが、クウェート侵攻をするとアメリカは、
 反フセインとなった。
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2003年、アメリカは、スンニー派のフセイン政権を倒して、
 イラクで比較的多数のシーア派の政権を誕生させた。
  何で自分勝手に他の国に介入するのだ・・??
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2016年1月、アメリカと、他の5カ国の6カ国が、イランの経
 済制裁を解くと発表した。
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2016年11月17日、大統領になる予定のトランプ氏が、台湾
 総統との異例の電話会談をした・・その意味・・、
  2016年11月17日に、安倍首相とトランプ次期アメリカ
 大統領がニューヨークのトランプタワーで初会談を行っ
 た。
  トランプ氏は、他国の首脳から早期の会談要請が殺到
 するなか、安倍首相との会談を最優先させた。
  しかも、自宅に招くという厚遇ぶりで、日本を重視し
 ている姿勢を見せた。
  会談後に、安倍首相が「信頼できる指導者だと確信し
 た」と述べた。
  トランプ氏は、「素晴らしい友好関係を始めることが
 できてうれしい」と述べるなど、会談が有意義であった
 ことを強調した。
  安倍首相の素早い動きには、中国も驚いた。
  安倍首相は、トランプ氏の当選が確定した日の翌朝す
 ぐに電話で祝意を伝えた。
  中国はそれに焦り、11月9日、CCTV(中国中央電視
 台)は習近平主席がトランプと電話会談したというニュ
 ースを流した。
  ところが、トランプ氏側から「していない」と否定さ
 れた。
  安倍首相が電話会談した以上、習近平も会談したこと
 にしないと、大国の指導者としてのメンツが潰れると思
 ったらしい。
  14日になって実際に電話会談をしたようで、いずれに
 しても、恥をかかされたかたちとなった。
  さらに、12月2日(アメリカ時間)には、トランプ氏は
 台湾の蔡英文総統と電話会談をした。
  これは、1979年のアメリカと台湾の断交以来初めての
 ことだった。
  しかも、自身のツイッターで、「台湾総統が今日、私
 に、大統領選勝利に祝意を表したいと電話をくれた。あ
 りがとう!」と書き込んだ。
  「ThePresident of Taiwan」と、あたかも独立国家の
 元首のように扱っていた。
  当然、台湾では大きく報じらた。
  トランプ氏への期待が非常に大きくなっている。
  安倍・トランプ会談について、中国共産党の機関紙で
 ある「人民日報」の国際版「環球時報」は「朝貢だ」と
 書いた。
  ・・が、蔡英文との電話会談については王毅外相が「
 台湾側のくだらない小細工だ」と嫌味を言った。
  これは、中国のパニック状態を象徴していた。
  中国は、かなり衝撃を受けた。
  なにしろ、トランプ氏は、数十年来の絶対的タブーを
 破ったのだった。
  即座に不快感を表明し、アメリカにも抗議したという。
  王毅外相は台湾を批判しているが、トランプ氏のこと
 は批判していない。
  トランプ氏と衝突するのを避けたかったのだろう。
  あくまで、台湾が仕掛けたというスタンス。
  しかし、トランプ氏は、かなり中国を意識した行動を
 している。
  「自由時報」(2016年12月3日付)によれば、当日は
 シンガポールのリー・シェンロン首相、フィリピンのド
 ゥテルテ大統領、アフガニスタンのガーニ大統領とも会
 談しているが、ツイッターには蔡英文氏のことしか掲載
 していない。
  これは意図的にやっていること。
  中国の反応を見るためだという・・、
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2018年、EUから、当初の美しい理念は消えた・・
  そして、ある意味「全体主義理念のEU」が、ここに
 現れた。
  世界世論は、「EU各国の個別の事情に配慮せず、財
 政規律を過度に重視するEUの政策が、反発を招く一因
 になっている」・・と、指摘しているが・・、
  そしてまた、経済格差の是正が、「EUの課題だ」と
 しているが・・、
  援助ばかり受ける国や、限りなく援助ばかりをする国
 (援助ばかりをさせられる国)など・・、
  その格差の方こそ、最初に、解決すべき問題なのでは
 ないのか?・・と・・、
  そもそも、EUとして、まとまる必要性があったのか?
  原点からかい離した存在になっている・・と・・、
  その様な現状が、求めるものだったのか?・・と・・、
  ぶら下がり国家の救済の結合なのか?・・
  それで良いのか?・・と・・、
  努力するものが正当に評価されて報われ・・努力もし
 ないものが、その行動の厳しい評価を甘受(かんじゅ、
 甘んじて受けること)する社会でなければならないので
 はないか?・・と・・、
  努力もしない国家を助けて「善人顔をするな!」の声
 も・・、
  当然、必要なのは信賞必罰社会。
  (参考)全体主義:ぜんたいしゅぎ、全体の利益を第
     一とし、個人の価値は全体に奉仕する点でだけ
     認める(政治上の)主義。
  (参考)信賞必罰:しんしょうひつばつ、功績ある者
     は必ず賞し、罪過ある者は必ず罰すること。賞
     罰を厳格にすること。
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2018年2月2日、中国、欧州で影響力拡大
  ドイツと言えば、今や、その経済力で強力な立場にあ
 る。
  今、ドイツは、EUが形成されて、そのリーダー的地
 位にある。
  また、「ドイツ圏」と称せられる「ドイツへニコニコ
 顔を向ける国々」に、「ベネルクス」「オーストリア」
 「チェコ」「スロベニア」「クロアチア」などがある。
  また、そのドイツ圏へ近づきたいという「ロシア嫌い
 な国々」がある・・、
  それが、「ポーランド」「スウェーデン」「フィンラ
 ンド」「バルト三国」・・など、
  この様に・・「ドイツ帝国圏」と称すべき大きな領域
 が存在する。
  そのドイツに付いて行くのか?
  成り行き上、付いて行かざるを得ない・・とする国々
 があるが・・この様に、ドイツのパワーは大きくなって
 いる。
  EU圏内では、ドイツの一人勝ち状態にある。
  そして、このドイツが、非常に強く中国と関わってい
 る・・
  このことが、現時点(2018年)で、世界の大きな関心
 事となっている。
  世界のバランスが、ここから崩れて来る。
  ヨーロッパの国々は、中国に違和感を持っていない。
  中国は、アジアでは、帝国主義的な国で・・領土欲で
 もって振る舞い(例、南シナ海など・・)、アジア諸国
 では、その様な中国に対しての警戒感が強いが・・
  ヨーロッパ諸国は、こぞって中国が主導するAIIB
 (アジアインフラ投資銀行)に参加した。
  そして、最近(2018年2月2日)の読売新聞によれば・・
  「中国、欧州で影響力拡大」の表題の記事がある。
  そして、副標題に・・「英首相訪中、EU離脱、混乱
 に乗じる」とある・・
  その内容は・・、
  英国のメイ首相は、訪問先の中国・北京で、中英関係
 について「『黄金時代』を引き続き前進させる」・・と
 述べ・・、
  経済を中心とした関係強化を進める姿勢を鮮明にした。
  英国の欧州連合(EU)離脱の混乱に乗じて、欧州で
 の影響力拡大を図る中国のもくろみは、今年に入ってマ
 クロン仏大統領、メイ氏と続く主要国首脳の「中国詣で」
 で着々と進んでいる・・中略・・
  中国側も、(英国が)EUの単一市場からの脱退を控
 え、中国との間で自国に有利な内容の自由貿易協定(F
 TA)を結びたいメイ氏にとっての「焦点」が経済協力
 にあることを見透かしている。
  李氏(李克強・りこっきょう首相)は、「両国関係は
 英EU関係が変化しても変わらない」と述べ・・、
  金融や貿易などでの協力推進を強調した。
  中国商務省によると、今回の訪中で、両国は、総額約
 90億ポンド(1.4兆円)に上る商談に合意するという。
  英国が離脱した後のEUを支える仏など主要国も、英
 国のEU離脱を支持するとともに、「米国第一」に突き
 進むトランプ米政権への警戒感もあり、中国との関係強
 化に拍車をかけている。
  中国としては、北朝鮮や貿易問題で、米側からの圧力
 を受ける中、EU内の「反トランプ」の雰囲気をうまく
 すくい取り、欧米諸国の結束を崩す思惑がある。
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2018年6月18日、日本の航空会社のJALとANAが、卑劣
 な事に、台湾の事を「中国台湾」と表記する事にすると
 したと発表した。
  毎日新聞2018年6月18日 17時34分
  航空会社 JALとANA、台湾を「中国台湾」表記
 【台北・福岡静哉】中国政府が、外国の航空会社に対し
 ホームページ(HP)などで台湾を「中国台湾」などと
 表記するよう要求している問題で、日本航空(JAL)
 と全日本空輸(ANA)は18日までに、中国人客向け
 のHP上で台湾の表記を「中国台湾」とした。
  ただ、台湾人客向けのHPでは、両社ともこれまで通
 り台湾を他の国・地域と同列に表記している。
  中国の要求を受け入れる一方、台湾にも配慮した形だ。
.
  中国は、台湾を「中国の領土」とするが・・、
  台湾は、「中国の一部ではない」との立場。
  中国は、各国の航空会社に明確な表記を要求し、応じ
 なければ行政処分を科すとした。
  JAL、ANAの広報部は、「各HPを利用するお客
 様にとって分かりやすく受け入れられる表記にした」と
 説明した。
  だが、台湾外交部(外務省)は18日、両社に抗議す
 るコメントを出した。
  中国政府は5月25日、要求を通知した44社のうち
 18社が表記を変更し、残り26社も7月25日までの
 変更を承諾したと発表した。
  英メディアによると、米政府は米大手航空3社に対し、
 要求を無視するよう求めたという。
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 【台北時事】日本航空と全日本空輸が、中国向けの公式
 ホームページなどで、「台湾」を「中国台湾」と表記の
 変更をしていたことが分かり、台湾外交部(外務省)は
 18日、対日窓口機関の台北駐日経済文化代表処(大使館
 に相当)を通じて厳重に抗議するとともに、表記を元に
 戻すよう求めると発表した。
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  産経新聞、6月6日、アメリカでは、政権が「中国台湾」
 などの表記をしない様にと要請。
  「中国要求に従うな」米政権、台湾表記問題で米航空
 会社に要請 英紙報道
  【ワシントン=塩原永久】中国政府が外国航空会社に
 対し、ウェブサイトなどで台湾を中国の一部として表記
 するよう求めている問題で・・、
  英紙フィナンシャル・タイムズ(電子版)は6日まで
 に、トランプ米政権が米国の航空大手に中国の要求を飲
 まないよう要請したと報じた。
  米政府当局者がユナイテッド航空など大手3社に伝え
 たという。
  同紙によると、米政権はユナイテッドやアメリカン航
 空、デルタ航空に対し、自社のウェブや地図上で中国当
 局の基準に沿った「中国台湾」などの表記をしないよう
 要請した。
  中国民用航空局が4月、36社に対し、台湾や香港、
 マカオが中国の一部であることを明確に表記するよう改
 善を求める書簡を送付したとして、米ホワイトハウスは
 先月上旬、抗議する声明を出していた。
  ただ、米航空大手は「米政府と緊密に協議しながら対
 応を検討している」(デルタ)などと対応に苦慮。
  中国路線は成長市場で、中国国内の空港への着陸を不
 許可とする中国側の制裁措置が大きな懸念となるためだ。
  欧米メディアによるとオーストラリアのカンタス航空
 などが中国の要求を受け入れる方針を示した。
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  (関連)2018年3月2日、米国で「台湾旅行法」成立す
     れば、戦争に発展も=中国英字紙
     [北京 2日 ロイター}中国国営英字紙チャイ
     ナ・デイリーは2日、米国で台湾との関係強化
     を目指す「台湾旅行法」が成立した場合・・、
      台湾を巡る戦争に発展する可能性があると警
     告した。
      同法の内容は、全レベルの米政府職員に台湾
     への渡航と当局者との面会を許可し、同時に台
     湾当局者に対し「敬意のこもった条件で」訪米
     し米政府当局者と会うことを許可するもの。
      トランプ米大統領の署名を待つばかりとなっ
     ている。
      チャイナ・デイリーは論説記事で、法案が成
     立すれば台湾の蔡英文総統は台湾の主権をいっ
     そう強く主張することになるだけだ、と強いト
     ーンで主張。
      「蔡総統が主権を主張すれば、中国では台湾
     の離脱を阻止するための『反国家分裂法』発動
     が避けられなくなるだろう」と述べた。
      さらに「その場合、米国は国内法に基いて台
     湾のために行動を起こさざるを得ず、地獄に転
     落するのは簡単だという見解に実態を与えるだ
     けだ」と警告した。
      中国は蔡総統が正式な独立を志向していると
     みているが、総統自身は現状を維持したいとし
     ている。
      一方、台湾側は「台湾旅行法」を歓迎した。
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2018年6月19日、中国の手先と化しているNHK
  NHKワールドで、NHKが、中国の工作通りのアイ
 ヌ民族についての放送をしていた(pm13:40)
  NHKワールドという番組で、世界に向かって、中国
 の工作の宣伝の「ごますり番組」の様だった。
  中国に媚(こび)、日本を貶(おとし)める事をして
 来たNHKが、また、その様な番組を、また、放送して
 いた。
  中国が、ことさら言う、アイヌは、日本人とは違うと
 いうその片棒担ぎを世界に宣伝していた。
  NHKが、「そうではない」というのなら、この様な
 作り方で、「青森県」や「山形県」や「秋田県」や「岩
 手県」や「宮城県」や「福島県」や「栃木県」などなど・・
 日本のすべての県を、この様な作り方で番組を作って世
 界に向けて放送せよ!
  日本の各県は、バラエティーに富んだ、それぞれ特徴
 のある県なのだ『という事を説明せよ』・・アイヌだけ
 では誤解を与える。
  何故? NHKは、アイヌだけを番組を作って放送す
 るのだ?
  アイヌの方々は、遺伝子情報的にも「まったくの日本
 人と同様なのだ」・・この様な事は番組内でまったく言
 ってない・・説明していない・・、
  琉球と言われる沖縄県の方々も同様に、遺伝子情報的
 にはまったく同一の縄文人を祖先としている。
  何万年もの・・長い長い間(西暦2000年の何十倍もの
 長い長い間)・・日本列島を移動して来て、混血を重ね
 て来た同一民族なのだ。
  何を血迷ってNHKは、中国の言う「アイヌ独立論」
 の片棒を担ぐ番組を放送するのか?・・
  それも、世界へ向かって放送するNHKワールドで・・?
  何万年もの遠い昔から、日本列島には日本人を形成す
 る人々が数度にわたってやって来た。
  その人々が混血し・・混血を繰り返し・・日本人を形
 成して行くのだが・・
  その数度に渡る混血の仕方に差があるから・・地方の
 差ができたのであって・・総べて、中国の言うアイヌ独
 立論は、陰謀の結果の論理であって、NHKが賛同して
 わざわざその番組を作って放送するに及ばぬのだ!
.
2018年、中国(現在の中華人民共和国、漢民族政権)は、
 グローバリズムの名の下に漢民族の工作員を近隣諸国へ
 潜り込ませている。
  この国の前のこの地・中国は、満州族(女真族)が、
 清国という国を形成し・・、
  中国の政治を行なう『満州族の地だった』。
  そして、その満州族政権は、漢民族に変わられた。
  (参考)満州民族:まんしゅうみんぞく、(満洲族、
     まんしゅうぞく)は・・、満洲(中国東北部、
     沿海州など)に発祥したツングース系民族。
      古くは女真族といった。
      17世紀に、現在の中国、および、モンゴル国
     の全土を支配する清を興した。
  その満州族は、大東亜戦争の終戦まで、「満州」とい
 う国を建国していた。
  その地域は、中国の政権が、「化外の地」だとした。
  その地は、「我々・中国とは関係のない地だ」とした。
  「異民族の地だ」とした「万里の長城の北方」の「万
 里の長城の外の地域」であるとした。
  しかし、中国の現政権・中華人民共和国になって、こ
 の地を我がものだと考えを変えた・・そして、領土とし
 た。
  その満州国を無くした。
  そして、今・現在(2018年)、そこに居た満州族の方々
 は、まったくと言って良いほど、かつては、一杯居た満
 州族のその方々は、居なくなってしまっているという。
  殺されたのか? 
  何処かに追いやられたのか?
  満州族の方々の痕跡は、まったく無いという。
  国とは、「ある地域」に「ある民族」が居て・・そし
 て、成り立つが・・、
  中国の現政権は、満州族を消して、かつての満州国の
 痕跡を消した。
  国とは、この様にして奪われるもの・・、
  今、日本人は、「のほほん」と幸せに暮らしている・・
 この国・日本も、この様に簡単に奪われてしまう。
  盤石な日本にするためには、しっかりした日本という
 国への意識を持たなければならない・・そうでなければ、
 満州国の様に、日本も消え去ることとなる。
  今、チベットが、盛んにこの行為をされている。
  また、ウィグルの方々の地が・・、
  そして、内モンゴルの方々の地が、盛んに国や民族の
 痕跡が消されている・・漢民族の地と化している・・
  これを、漢民族の中共は、「グローバリズム」と美し
 く誤魔化す。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2018-06-28 04:31 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)599E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)

題:(増補版)599E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年6月12日、鉄道敷設法の一部改正を決定した。
  中央線や、その他5線の篠ノ井線・鹿児島線などを第1
 期線に追加し、篠ノ井線の起点を篠ノ井と決定した。
  鉄道敷設法(てつどうふせつほう)は、国が建設すべ
 き鉄道路線を定めた日本の法律で・・、
  1892年6月21日に制定された旧法と、同法を廃止し新た
 に1922年4月11日に制定された改正法がある。
.
1894年6月12日、実業教育費国庫補助法が公布された。
  井上毅文相の実業教育振興政策に基づいて制定され、
 実業学校に国庫補助金を交付することを定めた。
  裁可:1894年6月11日、公布:1894年6月12日、施行:
 1894年9月1日
  朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル実業教育費国庫補助法ヲ裁
 可シ茲ニ之ヲ公布セシム
  御名御璽
  明治二十七年六月十一日
            内閣総理大臣 伯爵伊藤博文
            大蔵大臣   渡辺国武
            文部大臣   井上 毅
  法律第二十一号
  実業教育費国庫補助法
  第一条:実業教育ヲ奨励スル為ニ国庫ハ毎年度金十五
      万円ヲ支出シテ其ノ費用ヲ補助スヘシ
  第二条:公立ノ工業農業商業学校、徒弟学校及実業補
      習学校ニシテ実業ノ教育ニ効益アリト認ムル
      トキハ文部大臣ハ其ノ学校ニ補助金ヲ交付ス
      ヘシ
  地方官庁ノ認可ヲ経タル農工商組合ニ於テ設立シタル
 実業学校ハ文部大臣ノ特別ノ認定ニ依リ前項ニ準スルコ
 トヲ得
.
1894年6月14日、北里柴三郎が、ペスト菌を発見した。
  1894年6月18日、北里柴三郎が、ペスト菌発見を公表
 した。
  この報告は、翌日の1894年6月19日の午前に内務大臣に
 伝えられた。
  そして、1894年6月21日に、新聞は報道した。
  北里は、さらに、コッホ研究所や、香港政庁を通じて
 イギリス植民地大臣に伝え、そして、このニュースは、
 世界へも伝えられた。
  北里は、研究成果を発表しようと、1894年7月7日に、
 論文を一気に書いた。
  これが、「ペスト病の原因調査第一報」だった。
  これは、ペスト菌に対する単なる報告書ではなかった。
  まず、異例ともいえる「ペスト病」検証報告書だった。
  そして、これには、続けて、ペスト菌発見に至る過程
 が記述されている。
  この記述は、ペスト菌に対する観察が精緻を極め、か
 なり長文に渡って説明されていた。
  そして、その中で問題となった部分・・専門的にもな
 る「グラム染色」に関わる件があった。
  北里は、この「グラム染色」の結論を書かなかった。
  「かのグラム氏複染色法を用い得るや否やは、後日を
 もってこれを報道すべし」として、結論を先送りしてい
 た。
  ここが問題とされた。
  北里が、もし、「ペスト菌はグラム陰性である」と記
 述していれば、その様な問題は発生しなかった。
  このグラム染色法は、デンマークの医師・グラムが開
 発したもので、菌の分類法である。
  菌が、「陽性」か、「陰性」を問う。
  北里柴三郎の論文は、後日、日本の官報に1894年7月31
 日と1894年8月1日の2回に分けて掲載された。
  緻密な調査報告書だった。
  また、北里には、この報告書の主要部分をまとめたド
 イツ語の論文もあった。
  このドイツ語論文を、イギリス人医師のラウソン国家
 医院副院長が読んだ。
  そして、このラウソンが、この論文を、イギリスの伝
 統と権威を持つ医学雑誌「ランセット」に掲載しません
 かと北里に薦めた。
  世界的権威のある雑誌であった。
  北里は、名誉ある事ですからとお願いした。
  そして、ラウソンが、自ら、英訳を買って出た。
  北里は、その好意に感謝し依頼し、即座に英訳され、
 北里の同意のもとに送付された。
  この論文は評価され、直ちに、掲載となり、8月1日号
 と8月25日号に掲載された。
  内容は、ペスト菌の発見を伝え、その論文と共に、標
 本の図解やイラストも掲載されていた。
  そして、そのイラストには、正しくペスト菌の形態も
 捉えていた。
  北里柴三郎が、明らかに、顕微鏡下にペスト菌を捉え、
 観察していることを示している証拠だった。
  さらに、北里は、コッホ研究所にドイツ語論文と共に、
 塗抹標本と培養菌を送っていた。
  コッホ研究所では、この菌で、追認試験が行われ、「
 北里柴三郎のペスト菌」は明らかにペスト菌で、「グラ
 ム陰性」であると確認された。
  今日のペスト菌についての常識である「グラム陰性・
 卵円形・短小棹菌」がここでも立証された。
  確かに、北里柴三郎は、1894年6月に、香港でペスト菌
 を発見したのだった。
  北里柴三郎が、流行の早期に、ペスト罹患の危険の中
 を香港へ積極的に行ったのが、ペスト菌発見に功を奏し
 た。
  ペスト患者が多くなると、種々の型のペスト菌も発生
 して、真のペスト原因菌の発見を複雑にする。
  (患者数が多いと発見はできないとも言われている)
  ただ、染色される菌についても北里は触れてもいた。
.
1894年6月16日、日本政府が、清国に朝鮮の内政改革を共同
 で行う提案をした。
  陸奥外相が、清国に朝鮮内政の共同改革を提起した。
  清国が、共同での改革に合意しなければ日本は単独で
 でもこれを行いますと提案した。
.
1894年6月20日、清の李鴻章が、ロシアに日清間の調停を依
 頼した。
  ロシアには南下して行きたいという「南下政策」があ
 り、この調停依頼自体が問題だった。
  問題を複雑にするだけの「干渉行為」ともなった。
  ロシアは、自国の南下政策上、日清両国の朝鮮撤兵を
 表明した。
  しかし、このロシアの南下政策を警戒していたイギリ
 スは反対し、日本を支持した。
  ロシアは、1860年代に、沿海州にどんどん侵略し始め
 ていた・・そして・・、
  1872年(この時から20年も前)から、すでに、ウラジ
 オストックを海軍基地を軍事基地にして、建設を完了し
 ていた。
  (今・現在の南シナ海・・中国の屁理屈で領土だとさ
 れ、基地化しないと初めは言っていたが・・今はミサイ
 ルやレーダーも配備している)
  この頃、朝鮮と関係していた国は、日本だけでなく、
 ロシア・清国・・そして、アメリカ・イギリス・ドイツ
 が朝鮮と関係していた。
  1884年、ロシアは、朝鮮と条約を結んだ(露朝修好通
 商条約)
  この時までは、ロシアは、アメリカやヨーロッパが、
 朝鮮の鎖国状態を開こうとしていたことに反対していた。
  そして、抵抗をしていた。
  (朝鮮の鎖国状態を維持させようとしていた)
  これは、ロシアが朝鮮に進出したいという下心(した
 ごころ、表に現わさず、ひそかに心の中で考えているこ
 と)があったためだった。
  また、ロシアは、朝鮮に進出するアメリカやヨーロッ
 パ諸国が、積極的に進出する事に対して、さらなる軍事
 的脅威が増すと考えていた。
  ロシアは、沿海州などの侵略において、ロシア人の入
 植を進める上で、朝鮮から食糧など、特に、家畜を得た
 いとしていた。
  故に、この露朝間の交易は拡大していた。
  この様な状況の中で、フランスが、朝鮮の開国を目的
 として、1866年に、フランス艦隊を朝鮮に出撃させた・・、
 また、1871年には、アメリカ艦隊が来た・・そして、開
 国を迫った。
  この時、アメリカは、ロシアから共同歩調をとる様に
 求められた・・が、しかし、拒否した。
  ロシアは、朝鮮から利益を得ることはなく、「形勢を
 観望的にする」としていた。
  この様な荒れる朝鮮情勢の中で、1876年2月、日朝修好
 条規が締結された。
  この時、日本は、ロシアも、朝鮮と同様な条約を結ば
 ざるを得なくなるだろうと見ていた・・ロシアが進出し
 て来るだろうと見ていた。
  そして、朝鮮は、宗主国・清国の主導で欧米への開国
 が実現された。
  今・現在、日本は、軍事的に弱い状況にあるが・・こ
 の様に、軍事的に弱い朝鮮は、この時も、主導権を持ち
 得ず、清国が宋主権を行使するという様な状況だった。
  清国の思惑は、日露の朝鮮に対する関係を牽制するも
 のでもあった。
  (結局、自国の宗主国的な立場を維持したいのだった)
  1882年5月、清国の仲立ちで、米朝修好通商条約が締結
 され・・、
  1882年6月には、同様に、清国の仲立ちで英朝間の、そ
 して、独朝間の同内容の条約が調印された(イギリスと
 ドイツとの条約)
  この様な状況を見て、ロシアは焦った・・色々画策す
 るが失敗に終わる・・この様に各国が渦巻く展開が続く・・
  この様な時、朝鮮は清国の属邦ではあるが、内治外交
 とも自主である趣旨の朝鮮国王のロシア皇帝あての照会
 が手渡された。
  日本は、米英独と共同歩調的な中にいた・・
  そして、朝鮮は、この様な中で、壬午軍乱後(1882年
 10月)の清国の重圧から脱するために、隣接国たるロシ
 アとの間で清国の仲介を得ずに条約を締結したい旨を申
 し入れていた・・特に、朴泳孝・金玉均は朝鮮が自主独
 立の国家であることを強調した。
  朝鮮は、大国たるロシアへの期待があった。
  日本も、この朝鮮の清国からの独立を確認をしたいと
 した。
  露朝条約が締結されると、1885年10月、ロシア大使が
 ソウルに着任した。
  大使館も開設され、朝鮮国王周辺の対露働きかけなど
 で朝鮮の政局に影響が及ぼされた。
  1888年、ロンドンの「タイムズ」が、朝鮮保護を約す
 る露朝間の『密約』が結ばれたと報じた・・これは誤報
 だった・・
  この様に、各国が策謀する朝鮮周辺だった。
  また、ロシア太平洋艦隊に対して、朝鮮沿岸を監視せ
 よとの命令が、ロシア政府から発せられたりした。
  また、朝鮮保護、朝鮮領土保全の多国間条約締結、ロ
 シア人軍事教官派遣などの命令が、ロシア政府から出さ
 れ、1885年6月、ロシア外交官がソウルへ派遣された。
  1885年4月、イギリスが巨文島を占領した。
  1886年、ロシア海軍省で、新浦(馬糞島)の獲得が検
 討された(不凍港獲得関係)
  しかし、ロシアが見たものは、大院君(全渓大院君、
 李氏朝鮮の第25代国王・哲宗の父)の釈放帰国に伴う清
 国勢力の優勢さと、朝鮮国王の不満の充満状態だった。
  1886年初頭、ロシア政府は、朝鮮国王からの援助要請
 があったが、清国の対朝武力干渉さらに朝鮮併合は、隣
 接する地の沿海州の安全を脅かすと危惧した・・そして、
 朝鮮の清国からの自立を慎重に検討した。
  ロシア政府は、清国によって朝鮮併合がなされるかも
 しれないと危惧していた。
  1886年秋、露清間で、朝鮮の安全保障に関する交渉の
 合意がなされた。
  この間、朝鮮国王廃位が取りざたされた。
  朝鮮は、可哀想だが各国からいい様に扱われていた・・
  だから、1910年に、日本に併合されて、安定した国の
 状態となり、衛生的な国にもなり、人口が3倍にもなり、
 国が栄えた時のことを、それを体験された朝鮮の御老人
 方は、「良かったよ」と言ったのだった。
  それまでの朝鮮は、各国列強にいい様に扱われていた。
  1888年5月、極東問題特別会議が開かれた。
  この会議は、極東のロシア領の現地のロシア当局と、
 極東諸国に駐在するロシア外交官の会議であったが、
 決議された事の1つに・・、
  「ロシアによる朝鮮獲得については、朝鮮は経済的に
 貧しく、軍事的には長い海岸線の故に防衛困難であり、
 外交的には朝鮮侵略は英清(イギリスと中国・清)との
 決裂をもたらすとして、この様な事をしない」・・とな
 った(領土欲の満々のロシアだった)
  そして、朝鮮が弱小である故、中国・清か日本の支配
 下に入るだろうが・・いずれの場合も、ロシアに対する
 脅威になる・・とした。
  そして、仮に清国が、朝鮮を恒久的に制圧するような
 ことになれば、中国海域での海軍の示威(じい、威力を
 示すこと)あるいはロシア国境近くの朝鮮海岸地方の一
 次的占領といった措置をとることとした。
  ロシアは、日本は行動を起こさないと無視した判断を
 している。
  この結果、1888年8月、ロシア・清国が朝鮮領土保全に
 関する条約を結んでいる・・また・・、
  1894年6月の清国の朝鮮出兵に対し、ロシアは、日本の
 出兵より危惧していた。
  1894年6月8日に、天津でロシア公使は清の李鴻章に、
 「清国は情報を故意に誇張し、朝鮮への対処をしている」
 とくぎを刺し・・「反乱が鎮圧され次第、直ちに撤兵を」
 と言っている。
  逆に、ロシアのカッシニ駐清公使は、日本の駐清臨時
 代理公使の小村寿太郎に対し、「日本の派兵の必要を認
 めていた」。
  清国の李鴻章は、「清は宗主国による属邦保護の旧例
 に従い朝鮮の要請により行ったものだ」と言い、
 「ロシアとは無関係」と言った。
  日本は、この様な推移の中、6月16日、仁川に上陸する。
  この後、日本と清国の角がぶつかり合って行く・・、
.
  (今日の言葉)
.
  題:工作員が一杯・・スパイ天国となっている日本・・あちこちで暗躍している・・
.
紀元前1万3000年以前、日本の縄文時代は、紀元前13,000年
 頃から約1万年以上もの長い間続いた。
  その間に作られた土器の形や色など、また、住み方・
 家などが、だんだん変わって行った。
  また、その縄文(じょうもん)時代より以前・・、
  縄文時代より前の旧石器時代の人々は、マンモスなど
 の大きなえものを追いかけて、日本列島の中を移動しな
 がら生活をしていた・・
  その様な遠い昔からの歴史が、日本列島全体にある。
  そのため、住んでいたのは、すぐに移動ができるテン
 トのような家だったと考えられている。
  縄文時代になると、人々は、長い間、同じところで生
 活できる家を作った。
  みんなで集まって生活するようになった。
  これが、「村(ムラ)」の始まりだった。
  縄文時代の代表的な家を『竪穴住居』と言った。
  この住居は、地面を掘って何本か柱を立て、上に屋根
 を設けた。
  半地下式の家だった。
  ムラのなかには、竪穴住居だけでなく、太い柱を使っ
 た大きな建物や、みんなが集まる広場、死んだ人を埋葬
 する墓、貝がらや食料の食べかすを捨てる貝塚・・など
 が作られていた。
  また、ストーンサークルとも呼ばれる、いくつもの石
 を直径30~50メートルの大きな円形にならべた環状列石
 も見つかっている。
  ムラの周り広がる「クリやクルミなどの森」は手入れ
 がなされた。
  ここから、生活に必要な食料や木材を手に入れること
 ができる「縄文里山」として大切にされていた。
  縄文時代の人々は、丸木舟に乗って海をわたり、遠く
 はなれた場所の特産品を手に入れていた・・交流・交易
 をしていた。
  縄文時代の遺跡には、本州でしかとれないヒスイとい
 う美しい石が北海道で見つかったり・・、
  また、逆に、北海道の黒曜石が、本州で見つかったり
 している。
  また、暖かい南の海でしかとれない数種類の貝が、北
 海道で見つかっている。
  縄文人は、日本列島の広い領域を行き来していた。
  縄文の人々は、これらのヒスイや貝などを使って、首
 かざりや、腕輪などのアクセサリーを作っていた。
  また、とても硬い黒曜石は、先を鋭くとがらせて、狩
 (か)りに使う石ぞくや石やり、ナイフなどにしていた。
  縄文時代にも、日本列島での全国規模の交流が行われ
 ていて、人々やモノや情報の活発な動きや交換があった。
  そして、この縄文時代の住居である竪穴住居が、従来、
 考えられて来た茅(かや)が葺(ふ)かれた形ではない
 ことが分かって来た。
  茅が葺かれていたという痕跡がまったくないからで、
 逆に、「土(つち)の屋根」という痕跡が発見されてい
 る。
  例えば、岩手県一戸町の御所野遺跡に、火事にあって
 燃えてしまった縄文時代の住居があった。
  火事で、柱などの木部が炭化したため、腐敗菌に木質
 部が腐敗されずに残った。
  その様な腐らなかった竪穴住居の柱の部材の脇に焼け
 た土が、また、部材の間に堆積していた。
  それが、屋根部分の土だと推測された。
  また、茅には「ガラス質」が含まれているが、この住
 居跡からは、屋根に使われていただろう茅のガラス質が
 あまり検出されず、「屋根が茅だ」という痕跡が否定さ
 れ、「土葺きの竪穴住居の屋根」と推測された。
  また、土葺きの竪穴住居の焼却実験もなされ、この遺
 構の通りの様になることも実証された。
  この様な遺跡が、日本各地で発見され、北海道でも発
 見された。
  北海道の入江・高砂貝塚遺跡や、東北地方、関東地方
 などで発見された。
  縄文人は、日本全土で「土葺きの竪穴住居」に住んで
 いた。
  また、ガラス質を含む硬い茅を刈り取る道具の存在の
 可能性も無い事が、その裏付けにもなっている。
  今、北海道庁の会議で、北海道には、この様な縄文人
 は居ないという答弁がなされている。
  まったく、歴史的事実を無視した非科学的な議論がな
 されている。
  北海道庁の会議では、「無土の地」という間違った答
 弁がなされている。
  誰も居なかったという意味で、この様な間違った認識
 の議論がなされ、この様な間違った認識の議員が、北海
 道政を動かし、行なっている。
  そして、また、北海道の白老町では、北海道は「アイ
 ヌ民族の地だ」ということで、白老町の中のある地域を
 アイヌ民族に返還するという間違った話が進んでいると
 いう。
  しかも、国の金が、我々の税金の金が、100億円もの金
 が投資され、この記念館の箱物が建てられるという。
  また、この様な北海道に、中国が暗躍して、「アイヌ
 民族の独立の話」が画策されているという。
  まったく馬鹿げた話が北海道には一杯ある。
  日本民族の祖先の縄文人の歴史が、そして、その縄文
 人以前の旧石器人の存在が、まったく無視された企て(
 くわだて)が進んでいる。
.
17世紀、キリスト教化したいと、暗黒のヨーロッパ中世に
 キリスト教は暗躍した。
  ヨーロッパのキリスト教司教領で、キリスト教の教義
 などの洗脳が影響し、子供だけでなく、地域全体が憑依
 (ひょうい、霊が乗り移り、異常状態で踊りまくる)す
 るという事件が起きた。
  感受性の強い子供の心を、結果的に、弄(もてあそ)
 ぶ事が起きている。
  キリスト教のお祭り「ハロウィン」が、日本で、無邪
 気に行われているが・・、
  そして、この魔女などが関連するこのお祭りに、小さ
 い子供が参加しているが・・、
 また、小学校では「国際感覚を身につけよう」という美
 名のもとに、公的小学校も含めて「ハロウィン」が行な
 われ、
 キリスト教系学校の学生が、喜々として駆けつけ、一緒
 になってやっているが、これは美名の下に行われるキリ
 スト教の「巧妙なる伝道行為」です。
 アメリカでも問題となり、裁判事例が多い「巧妙なる伝
 道行為」です。
 そして、この魔女が関連しているこの事例で、子供たち
 に何が起き?、影響したか?・・という事例・・、
 キリスト教には、「神を恐れよ」という教義がある。
 魔女事件の場合、キリスト教は、この教義によって権威
 を得ようとした。
 また、教勢を拡大したいとした。
 その為、「魔女は生かしておいてはならない」の教義が
 あるキリスト教は「死も辞さない」という姿勢だった。
 「死も辞さない」と言っても自分ではなく、相手を死に
 至らしめる行為でもって権威を得ようという目的だった。
 この例の様に、キリスト教の歴史は、周りに死の影や戦
 争が満ちる歴史となった。
  魔女事件の場合、年端(としは)の行かない3歳・5歳・
 7歳・12歳の子供達が憑依(ひょうい)した。
  これは、広がりやすい性質を持っていた。
  17世紀、キリスト教司教領で、子供だけでなく、地域
 全体が憑依するという事件となって起きた。
  魔女だと言われた女性が、自(みずか)らキリスト教
 聖職者の居る魔女委員会に申し出て、「多くの人々の体
 内に悪霊を祈り込んだ」と言った。
 すると、この町に憑依した、憑(つ)かれた主婦や子供
 達、大勢の群れが、この司祭領や隣接する地域にさ迷い
 出て来た。
 憑依した人たちは、未成年者が多い状況だった。
 町は混乱した。
 飛び火しやすいこの現象は、飛び火して行った。
 スウェーデンの場合は、プロテスタントの村だった。
 憑依した子供たちが現われ・・、
 子供達は意外と大人が何をやっているかを知っていて・・、
 大人たちの言動から、魔女とはどういうものかを見聞き
 し、よく知っていた。
 日頃から、キリスト教聖職者は、魔女の定型を話をして
 いた。
 怖い事に・・感受性の強い子供達は、特に、憑依しやす
 い状況で、親たちは、自分たちで救う事を断念するくら
 いだった。
 親たちは、当局へ原因の魔女の撲滅をする様にと押しか
 けるという騒ぎとなった・・、
 国王の調査委員会が取り調べるという事になり、騒ぎは
 ますます拡大して行った・・
 また、多くの他の村々へ伝染して行った・・、
 憑依した魔児たちは、無数の大人たちを告発した。
 「魔女の踊りをしていた」「悪魔のシナゴーグへ行った
 りしている」、それを見たと・・、
 ある村は、70人の女性と15人の子供が火炙りとなりまし
 た。
 これは、国境も越えて広がって行きました。
 ドイツで起きた事例では、ほとんどが10歳以下の子供
 でした。
 子供達は、キリスト教の教義と魔女を自己流に織りなし
 て語りました。
 想像力の強い子供達は、「魔女のサバト」「天国の幻視」
 「最後の審判と地獄の使者」を語り、告げるという状態
 でした。
  驚くことに「デーモン(悪魔)との性交渉」の詳細な
 証言に、裁判官(キリスト教裁判所の聖職者の裁判官)
 もびっくりしている状況でした。
 (参考)とし‐は【年端/年歯】 年齢のほど。年齢。
    としのは。「―のいかない子」
 (参考)ひょう‐い【憑依】 [名](スル) 霊などがの
    りうつること。「悪霊が―する」 」
.
1804年12月2日、ナポレオンの戴冠式
  ナポレオンは、自(みずか)ら戴冠した。
  ローマ法王(教皇)のピウス7世は、ナポレオンの後ろ
 で、何もしないで静かに座したままだった。
  キリスト教が、何の役にも立たないことを知っていた
 のである。
  逆に、キリスト教の仮の権威がある如くの戴冠がなさ
 れ、その後、各地の王や諸侯が、キリスト教に教会を建
 ててあげたりする「おかしさ」を知っていた。
  ナポレオンは、俊英の皇帝だった。
  キリスト教の」虎の威を借りる狐」状態を知っていた。
  何ら、キリスト教に権威も何にもないのに、王位の冠
 (かんむり)をキリスト教が授けるようにする振る舞い
 の害を知っていた。
  このキリスト教は、自分の宗教の伝道より・・「金を
 得ること」と「権力を得ること」を、一生懸命にやって
 来ていた。
  それに気付いたナポレオンは、自分だけではなく・・
 自分の妃(きさき)の戴冠式も、ナポレオンが自ら、妃
 に戴冠した。
  キリスト教聖職者による戴冠を排除した。
  今までは、種々の王や諸侯の戴冠式の戴冠は、キリス
 ト教の聖職者が行なって、ある意味「キリスト教聖職者
 が、あたかも、冠(かんむり)を授けているように見え
 ていた」。
  ナポレオンに、その馬鹿げた虚構が見えた。
  今、キリスト教国・アメリカでは、大統領の就任式に、
 キリスト教の聖書に手を置いて宣誓する儀式が行われて
 いるが・・、
  あれほど、アメリカの初代大統領のワシントンが、キ
 リスト教色の排除と、キリスト教の影響力を排除しよう
 とした心が、「理解されていない状況」へと、今、アメ
 リカはあり、後退している。
  この初代大統領ワシントンは、アメリカ合衆国憲法を
 作る時にも、キリスト教の影響力を排除することに非常
 に心を砕いた。
.
1937年12月8日、日本軍は12月8日には南京を包囲した。
  そして、1937年12月9日、日本軍は中国軍に対して無血
 開城を勧告した。
  中国軍は、開城勧告を拒否し、応じなかった。
  やむなく、日本軍は、勧告に応じない南京城を1937年
 12月10日、攻撃を開始した。
  1937年12月12日、南京防衛司令官の唐生智が逃げた・・
 一般兵たちを置き去りにして・・逃亡した。
  また、蒋介石を連れ去って、司令部を崩壊させたアメ
 リカ・・それで、司令部が崩壊し、混乱している中国軍
 が、なおさらに、南京防衛司令官の逃避で、まったく統
 制のされてない状態となった。
  そしてまた、統制の効いてない南京の中国軍の大半が
 組織的撤退を知らされていない状態で・・、
  また、日本軍の迫る頃から混乱が続いていた南京城は、
 逃げる人々にあふれ、中国軍が撤退することを知ってい
 ても安全に逃げられない状況であった。
  中国軍は、自軍の中国兵を、塹壕に足を縛って置き去
 りにしたりした・・塹壕に置き去りにして、防戦させる
 という卑劣なこともした。
  唯一の逃避路である北部の長江へつながる挹江門では、
 中国軍の仲間を撃つことを躊躇しないという中国軍は『
 督戦隊を置いた』。
  中国軍の撤退する側と同士撃ちとなった (挹江門事件)
  (参考)督戦隊:とくせんたい、軍隊において、自軍
     部隊を後方より監視し、自軍兵士が命令無しに
     勝手に戦闘から退却(敵前逃亡)或いは、降伏
     する様な行動を採れば、攻撃を加え、強制的に
     戦闘を続行させる任務を持った部隊のこと。
      この場合、中国軍が、自軍の中国軍を撃ち、
     中国兵を戦う事を仕向けた。
.
1937年12月12日、挹江門事件(ゆうこうもんじけん)
  アメリカが介入して、中国軍の最高司令官である蒋介
 石が連れ去られ、中国軍の司令部は崩壊し、中国軍は乱
 れに乱れていた。
  督戦隊が置かれることまでされて、中国兵は戦わせら
 れた。
  あちこちで中国兵同士が撃ち合った・・その一つが挹
 江門事件だった。
  1937年12月12日の夜、挹江門事件が起きた。
  南京城へ進撃する日本軍の攻撃によって、中国軍は敗
 走に敗走を重ねた。
  その中国軍の一部隊が敗走して、挹江門を通り抜けよ
 うとした。
  その部隊は、中国国民政府軍87師と第88師、そして、
 教導総隊の潰走兵だった。
  その潰走(かいそう、戦いに敗けた兵士や隊が、四分
 五裂になって逃げること)する兵士たちと、それらを武
 力阻止する中国軍の督戦隊である国府軍第36師212団とが
 衝突した。
  中国軍同士の激しい撃ち合いとなった・・その双方の
 発砲で、瞬く間に約1000名の中国軍兵士が死亡した。
.
1937年12月13日、この日、混乱に次ぐ混乱の中で、中国軍
 は総崩れとなり南京城は陥落した。
  陥落時にも、南京城の北側から長江の対岸へと逃げよ
 うとした非常に多くの兵隊や一般人が、舟もない中で渡
 河しようとして、混乱の中で撃たれたり、途中で溺れ死
 んだりした。
.
1937年12月13日、中国の南京を日本軍が攻略した。
  この時、いわゆる南京事件が起きたとされているが・・
 まったくの嘘。
  戦勝国のアメリカは、裁く事が出来る法律が無い事か
 ら・・、
  「その裁くための法律を、わざわざ後から作ってまで
 して、東京裁判を裁くという・・卑劣な、戦勝国のアメ
 リカのやりたい放題のやり方で、東京裁判を裁いた」。
  この不当な、また、不法な、戦勝国のやりたい放題の
 東京裁判でさえ、この南京事件はあったとした。
  南京事件をデッチアゲタ。
  そのデッチアゲの南京事件の中国の犠牲者は「2万人」
 と言った。
  それを、中国の現在の政権・中華人民共和国(中共)
 は、だんだんその犠牲者数を増やして行った。
  「無いもの」を「ある」と言い・・そして、その数を
 だんだん増やすという行為を行なった・・よくあるパタ
 ーンを行なった。
  そして、今・現在に至った時点で、その犠牲者数を「
 30万人」と言っている。
  中共の好きに膨らませたこの30万人も、この後には、
 さらに、大きく風船のように膨らんでいくだろう・・
  だが・・この嘘つきの中国の中共の味方をする書物で
 さえ、この数を10万人としている。
  まったく言いたい放題の・・信用の出来ない中共など
 となっている。
  しかし、お粗末な事に、この中共に、ゴマすりをよく
 する「村上春樹は、本で40万人と書いた」・・
  村上春樹よ! 証拠を示せ! この嘘つきめ!
  この一件は、アメリカが、中国軍の最高指揮官の蒋介
 石(現政権の共産党軍ではない)を・・、
  そして、その司令部の最高将校の重要要員を、「救出」
 の名の下に、戦い真っ最中の南京から連れ去った・・
  このために起きた「中国軍の大混乱が原因」で、この
 大混乱・大混戦の原因は、アメリカが作った。
  また、この様に卑劣な参戦をしていたアメリカ軍こそ
 が、「東京裁判で裁かれるべき」だった。
  司令部の居なくなった中国軍は哀れな惨状を示した。
  当然の結果として・・乱れに乱れて、中国軍兵士は逃
 げ惑った。
  惑い、そして、逃げる自国の兵士を「逃げるな」と、
 置き去りにされた中国軍の下級将校たちは、自国軍の兵
 士へ向かって狙い撃ちをした。
  この様な卑劣な事態が起きた。
  東京裁判では隠された・・
  卑劣な裁判だった・・
  この様な南京攻略戦は、様々な事態の中で戦われた。
  また、卑劣にも、中国兵は、逃げられないと悟ると、
 軍服を脱いで、民間人の中に隠れた。
  これでは、民間人に被害が及んでしまう・・民間人が
 戦闘員と見間違われてしまう・・しかし、助かりたい中
 国兵は、この様な卑劣な事までした。
  そして、そこから日本兵を狙撃するという戦い方もし
  その民間人の中にある銃の探索が行われた・・当然・・
  民間人へ被害が及ぶことが分かっていても、中国兵は、
 民間人の中に卑劣に隠れた。
  当然、その民間人に隠れている中国兵と戦わざるを得
 ないという日本軍の事態だった。
  この様な様々な中の南京攻略戦だった。
  「修羅の状況」である。
  アメリカに援助された中国・蒋介石・国民政府軍は、
 「重慶」という中国の奥地へ拠点を移した。
  新しい都とした。
  これは、日本を叩きたいアメリカが、「日本の消耗」
 を狙っていたのだった。
  そして、アメリカは、延々と「援蒋ルート(蒋介石の
 中国軍を援助するルート)」を使って、厖大(ぼうだい、
 非常に大きく、多量なこと)な武器や弾薬を中国軍へ援
 助する。
  「日本との戦争ありきのアメリカ」
  そして、この先の第二次世界大戦ありきを決めてかか
 っているアメリカだった。
  この事の初め・・元々、アメリカは、厖大な武器・弾
 薬を支援して、中国・蒋介石軍に、上海を大軍で包囲さ
 せていた。
  その様な形で、中国・蒋介石軍は日本に迫って来た。
  上海の国際租界の中の日本租界へ向けて攻撃を開始し
 て来た(1937年8月13日、第二次上海事変)
  この時から、そもそもの戦いは始まった。
  アメリカの支援の下で、中国・蒋介石軍が、先に戦争
 を開始した。
  この武器・弾薬を与えて「アメリカが、焚き付けて始
 まった」・・その様な戦いだった。
  ルーズベルトが、第二次世界大戦がはじまったとき、
 「戦争を作った」と言ったが・・まさしくこの時以来の
 ことだった。
  キリスト教に偏して、日本を貶めてばかりいるNHK
 は、この事を隠し、まったく、この様な事を放送しない。
  この時、NHKはじめ日本のマスコミは、「戦争を煽
 った」。
  この時、上海事変で、蒋介石軍の攻撃を受けて、日本
 は戦い・・、
  そして、この戦いを・・日本が収めたとき・・、
  日本は、この時点で終わらせようとした。
  世論には、戦争を仕掛けた中国の蒋介石への思いに、
 「撤退し、逃げる蒋介石軍を追討するか?否か?」の判
 断において、国内には賛否の両論があった。
  この様に揺れている時に、NHKはじめマスコミは「
 囃(はや)し立てた」。
  このため、南京への追討否定派の意見はなくなった。
  NHKはじめ日本のマスコミは、常に、日本の戦いを
 煽り立てた。
  そして、進軍が決定すればすれで・・その進軍の様子
 を、「微に入り、細に入り報道」して「煽った」。
  そして、戦後の1948年11月13日・・、
  東京裁判の南京事件の責任者とされた日本の将軍に・・
 死刑判決がなされると・・、
  朝日新聞は、自らが勝ち誇ったように、「この一訴因
 で絞首刑」と記して報じた。
  NHKとこの朝日新聞は、今・現在、自社の一室を中
 国へ与えるという特別な事をしている。
  嘘の慰安婦問題をデッチ上げた朝日新聞と、そのNH
 Kは悪である。
.
1937年12月16日、中国の南京において、中国軍は、一般人
 民の中に隠れて、一般人民を卑劣にも盾にして、日本軍
 を狙い撃ちした。
  その掃討が、この日まで続いた。
  盾にされた中国の一般人民は、たまったものではなか
 った。
  南京での中国兵は、卑劣な行為である「軍服を脱いで
 戦う事をした」。
  軍服を着ていない一般人が戦うということではなく、
 今まで軍服を着ていた中国軍人が、その軍服を脱いで、
 一般人のふりをして戦った。
  軍服を着ていた中国兵が、着ている軍服を脱いで、人
 民の中に隠れて、日本軍と戦った。
  人民を盾とする卑劣な戦い方をする中国兵だった。
  日本軍は、その掃討(そうとう、残っている敵兵を撃
 ち払うこと)を行なったが、掃討戦は、1937年12月16日
 まで続いた。
  人民の中に隠れた卑劣で卑怯な中国兵、盾にされた中
 国人民・・この一般の中国人に犠牲者が出ない訳は無か
 った。
  上海戦から南京戦までの日本の戦死者の総数は24,000
 名に達した(戦病死者を含む)。
  この数は、日本軍の最高司令官である松井大将の日記
 にある数字で、ほとんどの戦死者が上海戦によるもの。
  一方、中国側のデーターについては、国民党軍軍政部
 長の何応欽上将の軍務報告に33,000名とある。
  何しろ、中国軍は、一般人民を盾にして、その人民の
 盾の陰から日本軍を狙撃するという卑劣な戦い方をした。
.
1943年、ソ連のスパイ機関が、アメリカ国内からソ連のモ
 スクワへ、スパイした内容を報告するのを、アメリカは
 知った・・そして、その傍受をする。
  この様な事があったと、1995年になって「VENON
 A(ベノナ)文書」が公表された。
  この文書が公開され始めて、戦中から戦後にかけて、
 この様なコミンテルンが、アメリカ国内で盛んに活動し
 ていたことが分かって来た。
  (参考)コミンテルン:共産主義インターナショナル
      Communist Internationalの略称。
      第3インターナショナル、第3インターとも呼
     ばれる。
      1919年3月にモスクワに創設され 1943年5月ま
     で存続した各国共産主義政党の国際統一組織。
      第1インターナショナル (1864年~1876年) 、
     第2インターナショナル (→社会主義インターナ
     ショナル、1889~1914) の崩壊後、V. I.レーニ
     ンらは、第1次世界大戦中から、新しい第3イン
     ターナショナルの創設を目指して活動を続け、
     30ヵ国の共産主義諸政党あるいは革命的組織の
     代表50余名をモスクワに集めて、1919年3月2日
     ~1919年3月6日、コミンテルン第1回大会を開い
     た。
      コミンテルンは、第2インターナショナルに比
     べ、はるかに強固な国際的団結と規律をもち、
     ソ連という社会主義国家を支柱とするに至った。
      また、民主的中央集権の組織原則をとり、コ
     ミンテルン執行委員会の指導のもとに活動する
     ことが定められた。
  そして、アメリカでのその実態が明らかになった。
  これは、カーター・クラークというアメリカの将軍が、
 ルーズベルト大統領にも秘密にして始めたプロジェクト
 だった。
  アメリカ陸軍の超秘密の暗号解読機関が、ソ連情報部(
 KGB、GRU)が、アメリカ国内からモスクワの本部
 に、報告する電報を傍受し、解読していた。
  解読作業は、1943年から始まり、1945年位から進捗す
 る。
  すると、ソ連のスパイが、ぞろぞろと判明した。
  国務省や財務省の官僚をはじめ、官庁のスタッフ、そ
 して、知識人、映画関係者、作家など広範囲な人のソ連
 スパイの存在が明らかになった。
  今・現在も、日本に盛んに中国の工作員が、日本に潜
 り込んでいるが、このアメリカの様な事になっていると
 言える。
  今・現在、沖縄県や北海道の中国化が急速に進んでい
 る。
  このベノナ文書で、ルーズベルト政権(ワシントンの
 連邦政府)に、常勤スタッフだけで200人以上、正規職員
 以外には300人くらいのソ連工作員(スパイやエージェン
 ト)が居た・・この事が確定的に判明した。
  (参考)エージェント:(1)代理人や代理店。また、
     仲介業者。(2)国家の秘密業務で働くもの。
  この影響が、1933年から1952年の約20年間、ルーズベ
 ルト大統領政権から、次のトルーマン大統領政権にまで、
 ソ連に繰られていた。
  今の日本も、非常に注意しなければならない時にある。
.
1979年1月、日米・コンピューター開発競争・・日本潰しの
 IBMスパイ事件へ
  1979年1月、IBMは、従来の中・小型コンピューター
 の5倍から6倍という抜群のコストパフォーマンスのI
 BM4330を発表した。
  これは、プラグコンパチブル機に対抗してそれらに致
 命症を与えるに充分な価格設定とおもわれた。
  事実、このために有力なコンパチブルメーカーであっ
 たアイテル社は痛手を負い、関連部門をナショナルセミ
 コンダクタへ売却した。
  そればかりか、IBMとコンパチブルでないイギリス
 のICL(International Computers Ltd.)も、主力工場
 であったウインズフォールド工場を閉鎖する事態におい
 こまれた。
  ところが、日本のメーカーは、わずか1ヶ月遅れで対
 抗機種FACOM130Fを出荷した富士通をはじめと
 して、各社ともIBMに追随してきたのである。
  しかも、1980年11月、IBMの特に強い超大型コンピ
 ュータの分野でも、IBM3081D(9.5MIPS)を発表
 した時すでに、日立は10.2MIPSのM200Hを、
  そして、IBMのコンパチブルではないが、日本電気
 のACOS1000は15MIPSという当時の最速の機種を
 発表しており、IBMは、日本のコンピュータに先を越
 されていた。
  この様に、日本のメーカーは、すくなくともハードウ
 ェアについては、IBMの技術に追い着き・・、
  半導体チップでは、日本の方が信頼性などの点で優れ
 いるとも言われるにまでに至っていた。
  そこで、IBMは、日本のコンパチブル機を振り切る
 決め手として、基本ソフトウェアであるOS(オペレー
 ティング・システム)を解析しにくくすることにした。
  それまで、磁気テープで供給してきたOSの機能を一
 部ファームウェア化してしまった。
  こうすれば、コンパチブルメーカーはOSを解析する
 までに相当時間を必要とする。
  1981年12月、こうして、この8000語ほどファームウェ
 ア化されたOSをもつIBM3081Kを発表すると共に、
 3081が、31ビットアドレッシングを採用している新しい
 アーキテクチャであること明らかにした。
  そして、IBMは、アーキテクチャが変わっても360シ
 リーズ以来のアプリケションソフトを実行できる新しい
 OS、MVS/SPを提供した。
  この31ビットアドレッシングと、新OSの高度なファ
 ームウェア化は、コンパチブルメーカー対策としては強
 力で・・、
  富士通、日立が、このファームウェアを解明するには
 2年はかかるとみられた。
  そのため、あせった日立が、新OSのソースリストを
 中心としたIBMの技術情報を入手しようとしたのを、
 FBIのおとり捜査にひっかかり摘発されたのが、1982
 年6月23日だった(IBMスパイ事件)
  この結果、IBMは、日立に多大な賠償金とIBMの
 技術情報が使用されているかどうかの製品検査権を認め
 させた。
  これにより、IBMは、日立の動向を掌握することが
 でき・・、
  いざとなれば、日立にコンパチブル機を作らせないこ
 ともできることになった。
  また、IBMは、この事件に直接関係なかった富士通
 に対してもOSの酷似をもって、富士通を訴え、実質的
 に著作権を認めさせた。
  日立や富士通は、IBMコンパチブルの路線をとる事
 になって行く。
.
1982年6月22日、IBM産業スパイ事件(アイ・ビー・エム
 さんぎょうスパイじけん)は、1982年6月22日、日立製作
 所(以下、日立)や三菱電機(以下、三菱)の社員など
 計6人が、米IBMの機密情報に対する産業スパイ行為を
 行ったとして逮捕された事件である。
  この事件は、各日本メーカーとIBM米本社との間の
 事件で、同日本法人である日本アイ・ビー・エム株式会
 社は無関係であり、同社関係者にも寝耳に水の事件であ
 った。
  IBMと日立は、翌年・1983年に和解した。
  また、1984年より、当初は当事者外であった富士通と
 IBMの交渉も進められ、1988年に和解した。
  1981年、IBMは、アドレスを31ビットに拡張し
 (System/370-XA)、オペレーティングシステム (OS) の
 一部をファームウェア化して互換機を作りにくくしたメ
 インフレームコンピュータの3081K を発表した。
  互換機メーカーであった日立は、 3081K に関する技術
 文書をNAS(ナショナル セミコンダクターの汎用コンピ
 ュータ部門で、日立からOEM供給を受けていた)から入手
 した。
  一方、かねてからコンサルティングで日立との取引が
 あったペイリン・アソシエーツ社から 3081K に関する報
 告書の売り込みがあった。
  日立はその目次を見て、NASから入手済みの資料に酷似
 しており、両方の文書が何らかの共通の資料に基づくも
 のと判断。
  ペイリン社に対して、「その資料は既に持っている。
 しかし、それは一部と思われるので、他にもあるなら購
 入したい」と伝えた。
  ペイリン社の社長ペイリーは、元IBM従業員であり、
 日立がIBM3081Kの資料を入手済みであることをIBMの
 ボブ・エバンズ(当時、副社長)に通報。
  結果として、FBIによるおとり捜査が行われ、日立
 と三菱の社員が逮捕されることになった。
  刑事事件自体は、1983年2月、司法取引により決着した。
  しかし、IBMは、日立に対して民事損害賠償訴訟を
 起こした。
  ・・IBM産業スパイ事件は・・、
  日立と三菱がスパイをやった、という程度の、企業が
 行き過ぎただけの話だと思われている・・が・・、
  1959年、日本のコンピューター開発、この年には、東
 京大学が中心となって、東芝・日立が協力し、TACが
 完成した。
  (参考)TAC:Tokyo Automatic Computerは、東京
     大学が開発したコンピュータで、一般に東大と
     東芝が共同開発したとされていて、大変な難産
     の結果、うまれた。
      東芝が協力していない部分や日立製作所が協
     力した部分があり、1959年に、最終バージョン
     が完成した。
  (参考)FUJIC:富士写真フイルムにおいて開発
     された我が国初の電子計算機で、真空管式電子
     計算機だった。
      レンズ設計に使用することを目的として岡崎
     文次により開発された。
      1949年より、岡崎は研究を開始した。
      1952年3月から、メモリ関係の研究と並行して
     全体の組立てが行われた。
      1955年11月に、電子通信学会電子計算機研究
     専門委員会の見学会で、動作のデモンストレー
     ションが行われた。
      1956年3月初めに完成し、栄誉ある我が国最初
     の電子計算機となった。
      真空管を約1,700本使用した2進法3アドレス方
     式の電子計算機で、記憶装置には超音波水銀遅
     延線(255語)が採用された。
      論理回路のクロック周波数は約30KHzであった
     が並列演算回路を採用し、加減算0.1ms,掛算1.6
     msと、当時としては比較的高速であった。
      目標はレンズ設計において人手計算の1,000倍
     であったが、約2,000倍の性能を実現した。
      2年半の間小田原工場で社内外の計算に使用さ
     れ、その後、早稲田大学に寄贈され、現在は国
     立科学博物館に保存されている。
  上記の様に、日本は、コンピューター開発の先端を歩
 んでいた。
  国の予算をつぎ込んだ国家プロジェクトとしても進め
 られ、目標は大きく野心的でさえあった。
  研究課程は難航し、何度も設計変更を繰り返した。
  1964年には、通産省の予算で富士通・沖電気・日本電
 気が共同でFONTACを作成した。
  (参考)FONTAC:年々輸入が増大していた大型
     コンピュータ分野に、通産省は補助金を交付し
     て大型コンピュータの国産化を狙った。
      1962年7月、そのために、富士通信機製造(現:
     富士通)、日本電気、沖電気の3社により日本電
     子計算機技術研究組合が設立された。
      FONTAC(Fujitsu-Oki-Nippondenki-
     Triple-Allied Computer)は、この3社の3年に
     わたる共同研究によって完成された大型コンピ
     ュータだった。
      1964年11月に完成し、日本電子工業振興会に
     納入された。
      FONTACシステムは、主コンピュータと
     して高速大容量の記憶装置と多数の入出力チャ
     ネルを持つ大型2進計算機を、衛星コンピュータ
     に可変語長のFONTAC Sub Iと固定語長のFONTAC
     Sub IIを使用し、主コンピュータと衛星コンピ
     ュータは密接に結合された。
      FONTAC Centralは、1語42ビットからなる2進
     法のコンピュータで、固定小数点の数値は、デ
     ータ36ビット、フラグ4ビット、パリティ2ビッ
     ト、浮動小数点の数値は指数部9ビット、仮数部
     27ビット、フラグ4ビット、パリティ2ビットよ
     り構成された。
      記憶装置として30mil/サイクルタイム2.2μs
     の磁心記憶を使用し、最大65,536語の容量を実
     現し、演算速度として固定小数点加減算/乗算
      4.4μs /25.2μs,秒浮動小数点加減算/乗算
      15.4μs /30.8μsの性能を有した。
  1962年7月、この共同研究で開発された技術を基に、
 CPU(中央処理演算装置)を担当した富士通信機製造
 (現:富士通)は、FONTAC Centralを一部改良し、FACOM
 230-50として商用化した。
  1964年11月、FONTACは、この3社の3年にわたる共同研
 究によって完成された大型コンピュータで、1964年11月
 に完成し、日本電子工業振興会に納入された。
  この頃から、各社が「コンピューターの作り方」を理
 解し、独自開発を開始した。
  日立のHITAC、富士通のFACOM、日本電気のNEAC、東芝
 のTOSBAC 、三菱のMELCOM、沖電気のOKIMINTAC・・
  コンピューターは、これから確実に産業の中心となる
 というのは明らかだった。
  1970年代初頭、IBMは、巨大メーカーに成長しつつ
 あった。
  日本国内だけで、6社も、互換性のないコンピュータ
 ーが乱立していて、これでは、日本のコンピューターは、
 大企業に潰されてしまうリスクが存在した。
  通産省は、「国内で、IBMに対抗できるコンピュー
 ターを育てる」ための方策を取った・・それは・・
  1) IBMと技術提携を行わない、IBM互換機路線
  2) IBMに対抗できる大企業の互換機路線
  3) 日本独自路線
  2 の大企業は、ハネウェル社。
  1960年代、アメリカには、8つのコンピューターメー
 カーがあった(「IBM と7人の小人」と呼ばれた)
  ハネウェルはその一つでありながら、1970年に MULTICS
 の技術を持つGE社と合併し、力を伸ばしていた。
  通産省は、国内の各社は上のいずれかの道を選び、提
 携することが求められた。
  富士通と日立はすでにIBM互換機を作成していたた
 め、互換路線を選んだ。
  日本電気はすでにハネウェルと提携していた。
  東芝も、すでにGEと提携していましたが、GEがハ
 ネウェルに吸収合併された。
  そこで、日本電気と東芝も提携し、ハネウェル互換路
 線を選んだ。
  三菱・沖電気は「取り残された」形で提携し、独自路
 線を歩むことになった。
  富士通と日立は提携し、技術的な交流は図りつつもお
 互い独自に、IBM System/370 の互換機を作成していた。
  (IBM との技術提携はない)
  ただし、IBM で System/360 (370の旧世代機)を設計
 した技術者で、後に独立したジーン・アムダールの会社
 と富士通は提携し、技術的ノウハウを得ていた。
  1981年、IBM はこうした「互換機」が世界中で増えて
 いたため、設計を一部変更して、性能を上げるとともに
 互換機を作りにくくした、System/370-XA を発表した。
  日立は、この「設計変更」の詳細を入手しようとして、
 IBM のおとり捜査に引っかかった。
  1982年、社員5名が逮捕され、この時、三菱社員1名
 も逮捕された。
  三菱は、当初、「独自路線」グループでしたが、この
 頃には余りに強くなった IBM の互換機を作ろうとしていた。
  この刑事事件は、司法取引により決着した。
  しかし、IBM から、民事損害賠償訴訟を起こされた。
  System/370-XA は、各種回路が特許で守られていたう
 え、それまでは後から読み込まれるソフトウェアであっ
 た「OS」の一部を、ハードウェア内に持つようになって
 いた。
  System/360 や 370 の頃は、同等の機能の回路で置き
 換えも可能でしたが、370-XA の特許は強力で、簡単には
 回避できなかった。
  また、BIOS に関しては単純な回路ではなく、プログラ
 ム…著作物です。
  著作権の場合「類似したもの」を作ったとしても、盗
 作としてアウト。
  少なくとも、この時点では IBM はそのような認識で動
 いていた。
  ずっと後に、IBM・コンパックが BIOS の著作権を争い、
 現在は違う認識となっている。
  結局、日立は IBM の許可を得ずに機械を販売しないこ
 と、訴訟費用は全部日立が負担すること、ソフトウェア
 やインターフェイスなどに関して、使用する対価を払う
 こと…などを条件に和解した。
  日立からすれば、IBM 互換路線に「お墨付き」を貰っ
 た格好で、この後も互換路線を進んだ。
  富士通も日立の訴訟に危機感を持ち、同様の取引を結
 びますが、徐々に IBM 互換路線から非互換路線にシフト。
  いずれにしても、通産省の狙った「独自技術による互
 換」という路線は無くなってしまった。
  この頃は、IBM が強くなりすぎてハネウェル社もコン
 ピューターから事実上の撤退。
  特に、吸収合併したGEの互換機は消滅し、GE互換
 だった東芝も撤退、同じグループだった日本電気にコン
 ピューター部門を売却した。
  独自路線だった三菱・沖も、先に書いたように三菱が
 IBM互換路線に進もうとして、スパイ事件に発展した。
  沖電気は、コンピューター本体は断念して、周辺機器
 製造に特化した。
  国策だった3グループ化は大失敗となった。
  日本のコンピューター産業は死んでしまう…。
  「IBM産業スパイ事件」とは、そうした危機的な状
 況を意味した。
  翌1983年、日本電気がスーパーコンピューターの新シ
 リーズ、SX-2 を発表します。
  この SX-2 は、世界で初めて GFLOPS を超えたコンピ
 ューターで、同時に初めてアメリカ以外のコンピュータ
 ーが速度で世界一になった機械だった。
  日本のコンピューター産業復活を狙った。
  この後、急に力を付ける日本のコンピューター業界に
 アメリカが危機感を感じ、1980年代後半から1990年代前
 半の貿易摩擦につなげて問題化する。
.
2012年3月、日本企業の大切な機密技術が、海外企業に盗ま
 れるという、流出した事例は多々ある。
  2012年3月には、工作機械大手のヤマザキマザックから
 設計図などの情報を不正取得したとして、愛知県警が中
 国籍の元社員を逮捕した。
  2012年4月には、新日本製鉄(現・新日鉄住金)が、高
 機能鋼板の製造技術を流出させたとして、元社員と韓国
 鉄鋼大手ポスコを相手取り、1000億円の損害賠償訴訟を
 起こしたりした。
.
2014年3月14日、この日の新聞やテレビなどの大手報道機関
 は、東芝のNANDフラッシュメモリに関する研究データ(機
 密情報)を韓国の大手メモリメーカーであるSK Hynixに
 提供した不正競争防止法違反(営業秘密開示)の容疑で、
 元技術者を警視庁が13日に逮捕したと報じた。
  元技術者(S容疑者)は、東芝とNANDフラッシュメモリの
 共同開発で提携してきたアメリカSanDiskの日本法人に勤
 務していた。
  この事件について、3月14日付けの読売新聞オンライン
 版では、S容疑者は、2007年4月から2008年5月にかけて、
 東芝四日市工場の管理サーバーに保存されていたNANDフ
 ラッシュメモリの研究データをUSBメモリに無断でコピー
 して持ち出し・・、
  2008年7月に、転職したSK Hynix(当時はHynix Semicon
 dcutor)に、持ち出した研究データを提供した。
.
2014年3月、技術流出・・日本政府の対応
  技術の流出防止と保護が極めて大切=東芝技術の流出
 問題で官房長官
  [13日 ロイター]菅義偉官房長官は、13日午前の会
 見で、東芝(6502.T)の技術が海外に流出したとの一部報
 道に関連し、技術の流出防止と保護が極めて大切との見
 解を示した。
  この問題について見解を求められた長官は、報道内容
 については承知しているが、個別事案についての言及は
 控えたいとした。
  その上で一般論と断りながら、「技術立国であるわが
 国にとって、守るべき技術の流出防止と適切な保護にし
 っかり取り組んでいくことが極めて大事だ」と強調した。
  政府として、知的財産戦略本部(本部長:安倍晋三首
 相)が、2013年6月に策定した「知的財産政策ビジョン」
 において技術・営業秘密の保護や強化の取り組みを打ち
 出していると語った。
  共同通信などによると、東芝のフラッシュメモリーの
 研究データを韓国の企業に不正に流出させた疑いが強ま
 ったとして、警視庁は13日までに、不正競争防止法違反
 容疑で、東芝と提携していた半導体メーカーの元技術者
 の逮捕状を取った。
.
2016年11月24日、アメリカは、中国を市場経済国と認めず 
 貿易摩擦激化へ
  アメリカ政府は23日、中国を世界貿易機関(WTO)
 協定上の「市場経済国」(自由な市場で経済運営が行わ
 れている国)とは認めない方針を明らかにした。
  日本も追随する方針。
  中国政府の優遇措置に支えられた中国鉄鋼メーカーな
 どのダンピング(不当廉売)を問題視。
  反ダンピング税を課しにくくなる「市場経済国」とは
 認定できないと判断した。
  中国は、WTO加入から15年を迎える来月の市場経済
 国移行を主張してきたが、米国の反対で事実上、不可能
 となった。・・以上・・(参考:毎日新聞)
  2017年12月12日、中国は「市場経済国」か? アメリ
 カ、認定に反対表明 WTOを試す「リトマス試験紙」
  世界貿易機関(WTO)の制度上の「市場経済国」認
 定を中国政府が求めていることについて、米国が正式に
 反対する通知をWTOに送付した。
  通商上の不利な扱いを受け続けることになる中国は反
 発しており、米中間の摩擦が再燃している。
  トランプ米政権がWTOを「機能していない」と批判
 する中、中国の認定問題は、米国のWTO脱退の引き金
 となりかねない火種となる可能性がある。
  米欧が共同戦線
  米政府がWTOに通知を送ったのは11月中旬。
  欧州連合(EU)も中国の市場経済国認定に反対して
 おり、米国は通知を通じてEUへの賛同を表明した。
  通商分野で米国とEUは対立するケースも多く、米欧
 が「異例の共同戦線」(米メディア)を張った。
  ・・以上・・(参考:産経新聞)
  アメリカは、中国を市場経済に組み入れ、そして、豊
 かになり、社会も開かれ来れば、政治システムも変化し、
 欧米的なシステムを受け入れて来ると見て、その様な意
 味からも、中国に対し甘やかす政策を取って来た。
  しかし、事は、その様な思惑の様には進展して来なか
 った。
  この問題は、今、気が付いたことではなかった・・が・・
  中国が、これまで経済を拡大できたのは、この恩恵だ
 った・・
  しかし、中国は、ありがたいという態度は表わさない・・
 心の底ではその様に思っているのかもしれない・・が・・
  そして、アメリカは、中国にはそのような態度をとっ
 ても・・日本に対しては厳しい態度を取り続けた。
  例えば、最新鋭の技術を取り上げる事をすることはし
 ても、日本へ提供をすることはしなかった。
  また、日本の企業が、最先端の技術を開発する事を妨
 害さえした。
  NECが、独自のコンピューターを開発するのを妨害
 した。
  三菱などが新しい技術を開発しようとすると、「研究
 員が犯罪を犯した」などと言いがかりをつけて阻止した。
  別の観点から見ると、アメリカは、中国を簡単に抑え
 られると見ていたと考えられる。
  中国は石油が不足している。
  代替エネルギーの開発も遅れている。
  この事例の様に、中国の技術は、アメリカからの提供
 が無ければ高度な製品が作れないなど、中国を抑え、コ
 ントロールできるとみていた。
  しかし、アメリカと中国は、これから貿易や通貨を巡
 って緊張度はさらに上がって行くと指摘されている。
.
2017年3月、日本学術会議が、大学などの軍事的研究を否定
 する声明を出した。
  軍事的研究と言ったって、この日本学術会議の人たち
 も含めて、日本人・国民を守る自衛隊などの研究をする
 ことまで否定した。
  日本国民を守る研究をしてはいけないと言い出した。
  まったく卑劣な声明である。
  「日本を攻めてくる勢力に利する行為」を行なってい
 る。
  どんな理屈があって、こんな事を言っているのだろう
 か?
  どんな論理があって、こんな声明を出しているのか?
  日本国民の命を守るという大切なことを放棄している。
  その様な研究をしてはいけないとした。
  日本国民の税金を使って日本学術会議の大学などは研
 究をしている。
  ならば、すべての研究費を辞退せよ!
  また、守るべき日本国民の税金で建てられた大学など
 の施設で研究ができるという恩恵に答えていない。
  また、日本国民から給料をもらい、自分や家族を養う
 金を貰っていながら・・この様な声明を出したという事
 になっている。
  ならば、自分の立場や給料も辞退せよ!
  まったく矛盾している、反逆している、日本学術会議
 や大学だと言える。
  そして、2018年6月9日の読売新聞によると、あろうこ
 とか?? 北海道大学という国立大学が、この日本学術
 会議の声明を受けて、防衛省の研究をしないと決めたと
 いう。
  中国や北朝鮮に、日本の存在が危うくなっているこの
 今・現在、この様な行為をしている
  (この様な事をするのは、この大学だけ)
  今まで、北海道大学は、研究をして来たけれど、これ
 からはしないとしたという。
  防衛省は、船体の摩擦抵抗を軽減する研究を、2016年
 度から委託していた。
  防衛省は、北海道大学の意向を尊重せざるを得ないと
 している。
  日本の国立大学の北海道大学・・何もかもが国民の御
 世話になっているこの大学が、この様な行為をする・・
 国民の為になる研究をしないと・・している。
  まったく理屈の立たない行為をした。
  北海度と言えば、沖縄県とともに、中国が暗躍してい
 るところ・・色々と工作をするところ。
  中国の国家的重要人物・要人が来て、中国の息のかか
 った農場を視察したりするところ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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# by suba28 | 2018-06-15 04:30 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)599E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)

題:(増補版)599E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年6月12日、鉄道敷設法の一部改正を決定した。
  中央線や、その他5線の篠ノ井線・鹿児島線などを第1
 期線に追加し、篠ノ井線の起点を篠ノ井と決定した。
  鉄道敷設法(てつどうふせつほう)は、国が建設すべ
 き鉄道路線を定めた日本の法律で・・、
  1892年6月21日に制定された旧法と、同法を廃止し新た
 に1922年4月11日に制定された改正法がある。
.
1894年6月12日、実業教育費国庫補助法が公布された。
  井上毅文相の実業教育振興政策に基づいて制定され、
 実業学校に国庫補助金を交付することを定めた。
  裁可:1894年6月11日、公布:1894年6月12日、施行:
 1894年9月1日
  朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル実業教育費国庫補助法ヲ裁
 可シ茲ニ之ヲ公布セシム
  御名御璽
  明治二十七年六月十一日
            内閣総理大臣 伯爵伊藤博文
            大蔵大臣   渡辺国武
            文部大臣   井上 毅
  法律第二十一号
  実業教育費国庫補助法
  第一条:実業教育ヲ奨励スル為ニ国庫ハ毎年度金十五
      万円ヲ支出シテ其ノ費用ヲ補助スヘシ
  第二条:公立ノ工業農業商業学校、徒弟学校及実業補
      習学校ニシテ実業ノ教育ニ効益アリト認ムル
      トキハ文部大臣ハ其ノ学校ニ補助金ヲ交付ス
      ヘシ
  地方官庁ノ認可ヲ経タル農工商組合ニ於テ設立シタル
 実業学校ハ文部大臣ノ特別ノ認定ニ依リ前項ニ準スルコ
 トヲ得
.
1894年6月14日、北里柴三郎が、ペスト菌を発見した。
  1894年6月18日、北里柴三郎が、ペスト菌発見を公表
 した。
  この報告は、翌日の1894年6月19日の午前に内務大臣に
 伝えられた。
  そして、1894年6月21日に、新聞は報道した。
  北里は、さらに、コッホ研究所や、香港政庁を通じて
 イギリス植民地大臣に伝え、そして、このニュースは、
 世界へも伝えられた。
  北里は、研究成果を発表しようと、1894年7月7日に、
 論文を一気に書いた。
  これが、「ペスト病の原因調査第一報」だった。
  これは、ペスト菌に対する単なる報告書ではなかった。
  まず、異例ともいえる「ペスト病」検証報告書だった。
  そして、これには、続けて、ペスト菌発見に至る過程
 が記述されている。
  この記述は、ペスト菌に対する観察が精緻を極め、か
 なり長文に渡って説明されていた。
  そして、その中で問題となった部分・・専門的にもな
 る「グラム染色」に関わる件があった。
  北里は、この「グラム染色」の結論を書かなかった。
  「かのグラム氏複染色法を用い得るや否やは、後日を
 もってこれを報道すべし」として、結論を先送りしてい
 た。
  ここが問題とされた。
  北里が、もし、「ペスト菌はグラム陰性である」と記
 述していれば、その様な問題は発生しなかった。
  このグラム染色法は、デンマークの医師・グラムが開
 発したもので、菌の分類法である。
  菌が、「陽性」か、「陰性」を問う。
  北里柴三郎の論文は、後日、日本の官報に1894年7月31
 日と1894年8月1日の2回に分けて掲載された。
  緻密な調査報告書だった。
  また、北里には、この報告書の主要部分をまとめたド
 イツ語の論文もあった。
  このドイツ語論文を、イギリス人医師のラウソン国家
 医院副院長が読んだ。
  そして、このラウソンが、この論文を、イギリスの伝
 統と権威を持つ医学雑誌「ランセット」に掲載しません
 かと北里に薦めた。
  世界的権威のある雑誌であった。
  北里は、名誉ある事ですからとお願いした。
  そして、ラウソンが、自ら、英訳を買って出た。
  北里は、その好意に感謝し依頼し、即座に英訳され、
 北里の同意のもとに送付された。
  この論文は評価され、直ちに、掲載となり、8月1日号
 と8月25日号に掲載された。
  内容は、ペスト菌の発見を伝え、その論文と共に、標
 本の図解やイラストも掲載されていた。
  そして、そのイラストには、正しくペスト菌の形態も
 捉えていた。
  北里柴三郎が、明らかに、顕微鏡下にペスト菌を捉え、
 観察していることを示している証拠だった。
  さらに、北里は、コッホ研究所にドイツ語論文と共に、
 塗抹標本と培養菌を送っていた。
  コッホ研究所では、この菌で、追認試験が行われ、「
 北里柴三郎のペスト菌」は明らかにペスト菌で、「グラ
 ム陰性」であると確認された。
  今日のペスト菌についての常識である「グラム陰性・
 卵円形・短小棹菌」がここでも立証された。
  確かに、北里柴三郎は、1894年6月に、香港でペスト菌
 を発見したのだった。
  北里柴三郎が、流行の早期に、ペスト罹患の危険の中
 を香港へ積極的に行ったのが、ペスト菌発見に功を奏し
 た。
  ペスト患者が多くなると、種々の型のペスト菌も発生
 して、真のペスト原因菌の発見を複雑にする。
  (患者数が多いと発見はできないとも言われている)
  ただ、染色される菌についても北里は触れてもいた。
.
1894年6月16日、日本政府が、清国に朝鮮の内政改革を共同
 で行う提案をした。
  陸奥外相が、清国に朝鮮内政の共同改革を提起した。
  清国が、共同での改革に合意しなければ日本は単独で
 でもこれを行いますと提案した。
.
1894年6月20日、清の李鴻章が、ロシアに日清間の調停を依
 頼した。
  ロシアには南下して行きたいという「南下政策」があ
 り、この調停依頼自体が問題だった。
  問題を複雑にするだけの「干渉行為」ともなった。
  ロシアは、自国の南下政策上、日清両国の朝鮮撤兵を
 表明した。
  しかし、このロシアの南下政策を警戒していたイギリ
 スは反対し、日本を支持した。
  ロシアは、1860年代に、沿海州にどんどん侵略し始め
 ていた・・そして・・、
  1872年(この時から20年も前)から、すでに、ウラジ
 オストックを海軍基地を軍事基地にして、建設を完了し
 ていた。
  (今・現在の南シナ海・・中国の屁理屈で領土だとさ
 れ、基地化しないと初めは言っていたが・・今はミサイ
 ルやレーダーも配備している)
  この頃、朝鮮と関係していた国は、日本だけでなく、
 ロシア・清国・・そして、アメリカ・イギリス・ドイツ
 が朝鮮と関係していた。
  1884年、ロシアは、朝鮮と条約を結んだ(露朝修好通
 商条約)
  この時までは、ロシアは、アメリカやヨーロッパが、
 朝鮮の鎖国状態を開こうとしていたことに反対していた。
  そして、抵抗をしていた。
  (朝鮮の鎖国状態を維持させようとしていた)
  これは、ロシアが朝鮮に進出したいという下心(した
 ごころ、表に現わさず、ひそかに心の中で考えているこ
 と)があったためだった。
  また、ロシアは、朝鮮に進出するアメリカやヨーロッ
 パ諸国が、積極的に進出する事に対して、さらなる軍事
 的脅威が増すと考えていた。
  ロシアは、沿海州などの侵略において、ロシア人の入
 植を進める上で、朝鮮から食糧など、特に、家畜を得た
 いとしていた。
  故に、この露朝間の交易は拡大していた。
  この様な状況の中で、フランスが、朝鮮の開国を目的
 として、1866年に、フランス艦隊を朝鮮に出撃させた・・、
 また、1871年には、アメリカ艦隊が来た・・そして、開
 国を迫った。
  この時、アメリカは、ロシアから共同歩調をとる様に
 求められた・・が、しかし、拒否した。
  ロシアは、朝鮮から利益を得ることはなく、「形勢を
 観望的にする」としていた。
  この様な荒れる朝鮮情勢の中で、1876年2月、日朝修好
 条規が締結された。
  この時、日本は、ロシアも、朝鮮と同様な条約を結ば
 ざるを得なくなるだろうと見ていた・・ロシアが進出し
 て来るだろうと見ていた。
  そして、朝鮮は、宗主国・清国の主導で欧米への開国
 が実現された。
  今・現在、日本は、軍事的に弱い状況にあるが・・こ
 の様に、軍事的に弱い朝鮮は、この時も、主導権を持ち
 得ず、清国が宋主権を行使するという様な状況だった。
  清国の思惑は、日露の朝鮮に対する関係を牽制するも
 のでもあった。
  (結局、自国の宗主国的な立場を維持したいのだった)
  1882年5月、清国の仲立ちで、米朝修好通商条約が締結
 され・・、
  1882年6月には、同様に、清国の仲立ちで英朝間の、そ
 して、独朝間の同内容の条約が調印された(イギリスと
 ドイツとの条約)
  この様な状況を見て、ロシアは焦った・・色々画策す
 るが失敗に終わる・・この様に各国が渦巻く展開が続く・・
  この様な時、朝鮮は清国の属邦ではあるが、内治外交
 とも自主である趣旨の朝鮮国王のロシア皇帝あての照会
 が手渡された。
  日本は、米英独と共同歩調的な中にいた・・
  そして、朝鮮は、この様な中で、壬午軍乱後(1882年
 10月)の清国の重圧から脱するために、隣接国たるロシ
 アとの間で清国の仲介を得ずに条約を締結したい旨を申
 し入れていた・・特に、朴泳孝・金玉均は朝鮮が自主独
 立の国家であることを強調した。
  朝鮮は、大国たるロシアへの期待があった。
  日本も、この朝鮮の清国からの独立を確認をしたいと
 した。
  露朝条約が締結されると、1885年10月、ロシア大使が
 ソウルに着任した。
  大使館も開設され、朝鮮国王周辺の対露働きかけなど
 で朝鮮の政局に影響が及ぼされた。
  1888年、ロンドンの「タイムズ」が、朝鮮保護を約す
 る露朝間の『密約』が結ばれたと報じた・・これは誤報
 だった・・
  この様に、各国が策謀する朝鮮周辺だった。
  また、ロシア太平洋艦隊に対して、朝鮮沿岸を監視せ
 よとの命令が、ロシア政府から発せられたりした。
  また、朝鮮保護、朝鮮領土保全の多国間条約締結、ロ
 シア人軍事教官派遣などの命令が、ロシア政府から出さ
 れ、1885年6月、ロシア外交官がソウルへ派遣された。
  1885年4月、イギリスが巨文島を占領した。
  1886年、ロシア海軍省で、新浦(馬糞島)の獲得が検
 討された(不凍港獲得関係)
  しかし、ロシアが見たものは、大院君(全渓大院君、
 李氏朝鮮の第25代国王・哲宗の父)の釈放帰国に伴う清
 国勢力の優勢さと、朝鮮国王の不満の充満状態だった。
  1886年初頭、ロシア政府は、朝鮮国王からの援助要請
 があったが、清国の対朝武力干渉さらに朝鮮併合は、隣
 接する地の沿海州の安全を脅かすと危惧した・・そして、
 朝鮮の清国からの自立を慎重に検討した。
  ロシア政府は、清国によって朝鮮併合がなされるかも
 しれないと危惧していた。
  1886年秋、露清間で、朝鮮の安全保障に関する交渉の
 合意がなされた。
  この間、朝鮮国王廃位が取りざたされた。
  朝鮮は、可哀想だが各国からいい様に扱われていた・・
  だから、1910年に、日本に併合されて、安定した国の
 状態となり、衛生的な国にもなり、人口が3倍にもなり、
 国が栄えた時のことを、それを体験された朝鮮の御老人
 方は、「良かったよ」と言ったのだった。
  それまでの朝鮮は、各国列強にいい様に扱われていた。
  1888年5月、極東問題特別会議が開かれた。
  この会議は、極東のロシア領の現地のロシア当局と、
 極東諸国に駐在するロシア外交官の会議であったが、
 決議された事の1つに・・、
  「ロシアによる朝鮮獲得については、朝鮮は経済的に
 貧しく、軍事的には長い海岸線の故に防衛困難であり、
 外交的には朝鮮侵略は英清(イギリスと中国・清)との
 決裂をもたらすとして、この様な事をしない」・・とな
 った(領土欲の満々のロシアだった)
  そして、朝鮮が弱小である故、中国・清か日本の支配
 下に入るだろうが・・いずれの場合も、ロシアに対する
 脅威になる・・とした。
  そして、仮に清国が、朝鮮を恒久的に制圧するような
 ことになれば、中国海域での海軍の示威(じい、威力を
 示すこと)あるいはロシア国境近くの朝鮮海岸地方の一
 次的占領といった措置をとることとした。
  ロシアは、日本は行動を起こさないと無視した判断を
 している。
  この結果、1888年8月、ロシア・清国が朝鮮領土保全に
 関する条約を結んでいる・・また・・、
  1894年6月の清国の朝鮮出兵に対し、ロシアは、日本の
 出兵より危惧していた。
  1894年6月8日に、天津でロシア公使は清の李鴻章に、
 「清国は情報を故意に誇張し、朝鮮への対処をしている」
 とくぎを刺し・・「反乱が鎮圧され次第、直ちに撤兵を」
 と言っている。
  逆に、ロシアのカッシニ駐清公使は、日本の駐清臨時
 代理公使の小村寿太郎に対し、「日本の派兵の必要を認
 めていた」。
  清国の李鴻章は、「清は宗主国による属邦保護の旧例
 に従い朝鮮の要請により行ったものだ」と言い、
 「ロシアとは無関係」と言った。
  すでに中国の清国軍が居る朝鮮に、日本は、この様な推移
 の中、6月16日、仁川に上陸する。
  この後、日本と清国の角がぶつかり合って行く・・、
.
  (今日の言葉)
.
  題:工作員が一杯・・スパイ天国となっている日本・・あちこちで暗躍している・・
.
紀元前1万3000年以前、日本の縄文時代は、紀元前13,000年
 頃から約1万年以上もの長い間続いた。
  その間に作られた土器の形や色など、また、住み方・
 家などが、だんだん変わって行った。
  また、その縄文(じょうもん)時代より以前・・、
  縄文時代より前の旧石器時代の人々は、マンモスなど
 の大きなえものを追いかけて、日本列島の中を移動しな
 がら生活をしていた・・
  その様な遠い昔からの歴史が、日本列島全体にある。
  そのため、住んでいたのは、すぐに移動ができるテン
 トのような家だったと考えられている。
  縄文時代になると、人々は、長い間、同じところで生
 活できる家を作った。
  みんなで集まって生活するようになった。
  これが、「村(ムラ)」の始まりだった。
  縄文時代の代表的な家を『竪穴住居』と言った。
  この住居は、地面を掘って何本か柱を立て、上に屋根
 を設けた。
  半地下式の家だった。
  ムラのなかには、竪穴住居だけでなく、太い柱を使っ
 た大きな建物や、みんなが集まる広場、死んだ人を埋葬
 する墓、貝がらや食料の食べかすを捨てる貝塚・・など
 が作られていた。
  また、ストーンサークルとも呼ばれる、いくつもの石
 を直径30~50メートルの大きな円形にならべた環状列石
 も見つかっている。
  ムラの周り広がる「クリやクルミなどの森」は手入れ
 がなされた。
  ここから、生活に必要な食料や木材を手に入れること
 ができる「縄文里山」として大切にされていた。
  縄文時代の人々は、丸木舟に乗って海をわたり、遠く
 はなれた場所の特産品を手に入れていた・・交流・交易
 をしていた。
  縄文時代の遺跡には、本州でしかとれないヒスイとい
 う美しい石が北海道で見つかったり・・、
  また、逆に、北海道の黒曜石が、本州で見つかったり
 している。
  また、暖かい南の海でしかとれない数種類の貝が、北
 海道で見つかっている。
  縄文人は、日本列島の広い領域を行き来していた。
  縄文の人々は、これらのヒスイや貝などを使って、首
 かざりや、腕輪などのアクセサリーを作っていた。
  また、とても硬い黒曜石は、先を鋭くとがらせて、狩
 (か)りに使う石ぞくや石やり、ナイフなどにしていた。
  縄文時代にも、日本列島での全国規模の交流が行われ
 ていて、人々やモノや情報の活発な動きや交換があった。
  そして、この縄文時代の住居である竪穴住居が、従来、
 考えられて来た茅(かや)が葺(ふ)かれた形ではない
 ことが分かって来た。
  茅が葺かれていたという痕跡がまったくないからで、
 逆に、「土(つち)の屋根」という痕跡が発見されてい
 る。
  例えば、岩手県一戸町の御所野遺跡に、火事にあって
 燃えてしまった縄文時代の住居があった。
  火事で、柱などの木部が炭化したため、腐敗菌に木質
 部が腐敗されずに残った。
  その様な腐らなかった竪穴住居の柱の部材の脇に焼け
 た土が、また、部材の間に堆積していた。
  それが、屋根部分の土だと推測された。
  また、茅には「ガラス質」が含まれているが、この住
 居跡からは、屋根に使われていただろう茅のガラス質が
 あまり検出されず、「屋根が茅だ」という痕跡が否定さ
 れ、「土葺きの竪穴住居の屋根」と推測された。
  また、土葺きの竪穴住居の焼却実験もなされ、この遺
 構の通りの様になることも実証された。
  この様な遺跡が、日本各地で発見され、北海道でも発
 見された。
  北海道の入江・高砂貝塚遺跡や、東北地方、関東地方
 などで発見された。
  縄文人は、日本全土で「土葺きの竪穴住居」に住んで
 いた。
  また、ガラス質を含む硬い茅を刈り取る道具の存在の
 可能性も無い事が、その裏付けにもなっている。
  今、北海道庁の会議で、北海道には、この様な縄文人
 は居ないという答弁がなされている。
  まったく、歴史的事実を無視した非科学的な議論がな
 されている。
  北海道庁の会議では、「無土の地」という間違った答
 弁がなされている。
  誰も居なかったという意味で、この様な間違った認識
 の議論がなされ、この様な間違った認識の議員が、北海
 道政を動かし、行なっている。
  そして、また、北海道の白老町では、北海道は「アイ
 ヌ民族の地だ」ということで、白老町の中のある地域を
 アイヌ民族に返還するという間違った話が進んでいると
 いう。
  しかも、国の金が、我々の税金の金が、100億円もの金
 が投資され、この記念館の箱物が建てられるという。
  また、この様な北海道に、中国が暗躍して、「アイヌ
 民族の独立の話」が画策されているという。
  まったく馬鹿げた話が北海道には一杯ある。
  日本民族の祖先の縄文人の歴史が、そして、その縄文
 人以前の旧石器人の存在が、まったく無視された企て(
 くわだて)が進んでいる。
.
17世紀、キリスト教化したいと、暗黒のヨーロッパ中世に
 キリスト教は暗躍した。
  ヨーロッパのキリスト教司教領で、キリスト教の教義
 などの洗脳が影響し、子供だけでなく、地域全体が憑依
 (ひょうい、霊が乗り移り、異常状態で踊りまくる)す
 るという事件が起きた。
  感受性の強い子供の心を、結果的に、弄(もてあそ)
 ぶ事が起きている。
  キリスト教のお祭り「ハロウィン」が、日本で、無邪
 気に行われているが・・、
  そして、この魔女などが関連するこのお祭りに、小さ
 い子供が参加しているが・・、
 また、小学校では「国際感覚を身につけよう」という美
 名のもとに、公的小学校も含めて「ハロウィン」が行な
 われ、
 キリスト教系学校の学生が、喜々として駆けつけ、一緒
 になってやっているが、これは美名の下に行われるキリ
 スト教の「巧妙なる伝道行為」です。
 アメリカでも問題となり、裁判事例が多い「巧妙なる伝
 道行為」です。
 そして、この魔女が関連しているこの事例で、子供たち
 に何が起き?、影響したか?・・という事例・・、
 キリスト教には、「神を恐れよ」という教義がある。
 魔女事件の場合、キリスト教は、この教義によって権威
 を得ようとした。
 また、教勢を拡大したいとした。
 その為、「魔女は生かしておいてはならない」の教義が
 あるキリスト教は「死も辞さない」という姿勢だった。
 「死も辞さない」と言っても自分ではなく、相手を死に
 至らしめる行為でもって権威を得ようという目的だった。
 この例の様に、キリスト教の歴史は、周りに死の影や戦
 争が満ちる歴史となった。
  魔女事件の場合、年端(としは)の行かない3歳・5歳・
 7歳・12歳の子供達が憑依(ひょうい)した。
  これは、広がりやすい性質を持っていた。
  17世紀、キリスト教司教領で、子供だけでなく、地域
 全体が憑依するという事件となって起きた。
  魔女だと言われた女性が、自(みずか)らキリスト教
 聖職者の居る魔女委員会に申し出て、「多くの人々の体
 内に悪霊を祈り込んだ」と言った。
 すると、この町に憑依した、憑(つ)かれた主婦や子供
 達、大勢の群れが、この司祭領や隣接する地域にさ迷い
 出て来た。
 憑依した人たちは、未成年者が多い状況だった。
 町は混乱した。
 飛び火しやすいこの現象は、飛び火して行った。
 スウェーデンの場合は、プロテスタントの村だった。
 憑依した子供たちが現われ・・、
 子供達は意外と大人が何をやっているかを知っていて・・、
 大人たちの言動から、魔女とはどういうものかを見聞き
 し、よく知っていた。
 日頃から、キリスト教聖職者は、魔女の定型を話をして
 いた。
 怖い事に・・感受性の強い子供達は、特に、憑依しやす
 い状況で、親たちは、自分たちで救う事を断念するくら
 いだった。
 親たちは、当局へ原因の魔女の撲滅をする様にと押しか
 けるという騒ぎとなった・・、
 国王の調査委員会が取り調べるという事になり、騒ぎは
 ますます拡大して行った・・
 また、多くの他の村々へ伝染して行った・・、
 憑依した魔児たちは、無数の大人たちを告発した。
 「魔女の踊りをしていた」「悪魔のシナゴーグへ行った
 りしている」、それを見たと・・、
 ある村は、70人の女性と15人の子供が火炙りとなりまし
 た。
 これは、国境も越えて広がって行きました。
 ドイツで起きた事例では、ほとんどが10歳以下の子供
 でした。
 子供達は、キリスト教の教義と魔女を自己流に織りなし
 て語りました。
 想像力の強い子供達は、「魔女のサバト」「天国の幻視」
 「最後の審判と地獄の使者」を語り、告げるという状態
 でした。
  驚くことに「デーモン(悪魔)との性交渉」の詳細な
 証言に、裁判官(キリスト教裁判所の聖職者の裁判官)
 もびっくりしている状況でした。
 (参考)とし‐は【年端/年歯】 年齢のほど。年齢。
    としのは。「―のいかない子」
 (参考)ひょう‐い【憑依】 [名](スル) 霊などがの
    りうつること。「悪霊が―する」 」
.
1804年12月2日、ナポレオンの戴冠式
  ナポレオンは、自(みずか)ら戴冠した。
  ローマ法王(教皇)のピウス7世は、ナポレオンの後ろ
 で、何もしないで静かに座したままだった。
  キリスト教が、何の役にも立たないことを知っていた
 のである。
  逆に、キリスト教の仮の権威がある如くの戴冠がなさ
 れ、その後、各地の王や諸侯が、キリスト教に教会を建
 ててあげたりする「おかしさ」を知っていた。
  ナポレオンは、俊英の皇帝だった。
  キリスト教の」虎の威を借りる狐」状態を知っていた。
  何ら、キリスト教に権威も何にもないのに、王位の冠
 (かんむり)をキリスト教が授けるようにする振る舞い
 の害を知っていた。
  このキリスト教は、自分の宗教の伝道より・・「金を
 得ること」と「権力を得ること」を、一生懸命にやって
 来ていた。
  それに気付いたナポレオンは、自分だけではなく・・
 自分の妃(きさき)の戴冠式も、ナポレオンが自ら、妃
 に戴冠した。
  キリスト教聖職者による戴冠を排除した。
  今までは、種々の王や諸侯の戴冠式の戴冠は、キリス
 ト教の聖職者が行なって、ある意味「キリスト教聖職者
 が、あたかも、冠(かんむり)を授けているように見え
 ていた」。
  ナポレオンに、その馬鹿げた虚構が見えた。
  今、キリスト教国・アメリカでは、大統領の就任式に、
 キリスト教の聖書に手を置いて宣誓する儀式が行われて
 いるが・・、
  あれほど、アメリカの初代大統領のワシントンが、キ
 リスト教色の排除と、キリスト教の影響力を排除しよう
 とした心が、「理解されていない状況」へと、今、アメ
 リカはあり、後退している。
  この初代大統領ワシントンは、アメリカ合衆国憲法を
 作る時にも、キリスト教の影響力を排除することに非常
 に心を砕いた。
.
1937年12月8日、日本軍は12月8日には南京を包囲した。
  そして、1937年12月9日、日本軍は中国軍に対して無血
 開城を勧告した。
  中国軍は、開城勧告を拒否し、応じなかった。
  やむなく、日本軍は、勧告に応じない南京城を1937年
 12月10日、攻撃を開始した。
  1937年12月12日、南京防衛司令官の唐生智が逃げた・・
 一般兵たちを置き去りにして・・逃亡した。
  また、蒋介石を連れ去って、司令部を崩壊させたアメ
 リカ・・それで、司令部が崩壊し、混乱している中国軍
 が、なおさらに、南京防衛司令官の逃避で、まったく統
 制のされてない状態となった。
  そしてまた、統制の効いてない南京の中国軍の大半が
 組織的撤退を知らされていない状態で・・、
  また、日本軍の迫る頃から混乱が続いていた南京城は、
 逃げる人々にあふれ、中国軍が撤退することを知ってい
 ても安全に逃げられない状況であった。
  中国軍は、自軍の中国兵を、塹壕に足を縛って置き去
 りにしたりした・・塹壕に置き去りにして、防戦させる
 という卑劣なこともした。
  唯一の逃避路である北部の長江へつながる挹江門では、
 中国軍の仲間を撃つことを躊躇しないという中国軍は『
 督戦隊を置いた』。
  中国軍の撤退する側と同士撃ちとなった (挹江門事件)
  (参考)督戦隊:とくせんたい、軍隊において、自軍
     部隊を後方より監視し、自軍兵士が命令無しに
     勝手に戦闘から退却(敵前逃亡)或いは、降伏
     する様な行動を採れば、攻撃を加え、強制的に
     戦闘を続行させる任務を持った部隊のこと。
      この場合、中国軍が、自軍の中国軍を撃ち、
     中国兵を戦う事を仕向けた。
.
1937年12月12日、挹江門事件(ゆうこうもんじけん)
  アメリカが介入して、中国軍の最高司令官である蒋介
 石が連れ去られ、中国軍の司令部は崩壊し、中国軍は乱
 れに乱れていた。
  督戦隊が置かれることまでされて、中国兵は戦わせら
 れた。
  あちこちで中国兵同士が撃ち合った・・その一つが挹
 江門事件だった。
  1937年12月12日の夜、挹江門事件が起きた。
  南京城へ進撃する日本軍の攻撃によって、中国軍は敗
 走に敗走を重ねた。
  その中国軍の一部隊が敗走して、挹江門を通り抜けよ
 うとした。
  その部隊は、中国国民政府軍87師と第88師、そして、
 教導総隊の潰走兵だった。
  その潰走(かいそう、戦いに敗けた兵士や隊が、四分
 五裂になって逃げること)する兵士たちと、それらを武
 力阻止する中国軍の督戦隊である国府軍第36師212団とが
 衝突した。
  中国軍同士の激しい撃ち合いとなった・・その双方の
 発砲で、瞬く間に約1000名の中国軍兵士が死亡した。
.
1937年12月13日、この日、混乱に次ぐ混乱の中で、中国軍
 は総崩れとなり南京城は陥落した。
  陥落時にも、南京城の北側から長江の対岸へと逃げよ
 うとした非常に多くの兵隊や一般人が、舟もない中で渡
 河しようとして、混乱の中で撃たれたり、途中で溺れ死
 んだりした。
.
1937年12月13日、中国の南京を日本軍が攻略した。
  この時、いわゆる南京事件が起きたとされているが・・
 まったくの嘘。
  戦勝国のアメリカは、裁く事が出来る法律が無い事か
 ら・・、
  「その裁くための法律を、わざわざ後から作ってまで
 して、東京裁判を裁くという・・卑劣な、戦勝国のアメ
 リカのやりたい放題のやり方で、東京裁判を裁いた」。
  この不当な、また、不法な、戦勝国のやりたい放題の
 東京裁判でさえ、この南京事件はあったとした。
  南京事件をデッチアゲタ。
  そのデッチアゲの南京事件の中国の犠牲者は「2万人」
 と言った。
  それを、中国の現在の政権・中華人民共和国(中共)
 は、だんだんその犠牲者数を増やして行った。
  「無いもの」を「ある」と言い・・そして、その数を
 だんだん増やすという行為を行なった・・よくあるパタ
 ーンを行なった。
  そして、今・現在に至った時点で、その犠牲者数を「
 30万人」と言っている。
  中共の好きに膨らませたこの30万人も、この後には、
 さらに、大きく風船のように膨らんでいくだろう・・
  だが・・この嘘つきの中国の中共の味方をする書物で
 さえ、この数を10万人としている。
  まったく言いたい放題の・・信用の出来ない中共など
 となっている。
  しかし、お粗末な事に、この中共に、ゴマすりをよく
 する「村上春樹は、本で40万人と書いた」・・
  村上春樹よ! 証拠を示せ! この嘘つきめ!
  この一件は、アメリカが、中国軍の最高指揮官の蒋介
 石(現政権の共産党軍ではない)を・・、
  そして、その司令部の最高将校の重要要員を、「救出」
 の名の下に、戦い真っ最中の南京から連れ去った・・
  このために起きた「中国軍の大混乱が原因」で、この
 大混乱・大混戦の原因は、アメリカが作った。
  また、この様に卑劣な参戦をしていたアメリカ軍こそ
 が、「東京裁判で裁かれるべき」だった。
  司令部の居なくなった中国軍は哀れな惨状を示した。
  当然の結果として・・乱れに乱れて、中国軍兵士は逃
 げ惑った。
  惑い、そして、逃げる自国の兵士を「逃げるな」と、
 置き去りにされた中国軍の下級将校たちは、自国軍の兵
 士へ向かって狙い撃ちをした。
  この様な卑劣な事態が起きた。
  東京裁判では隠された・・
  卑劣な裁判だった・・
  この様な南京攻略戦は、様々な事態の中で戦われた。
  また、卑劣にも、中国兵は、逃げられないと悟ると、
 軍服を脱いで、民間人の中に隠れた。
  これでは、民間人に被害が及んでしまう・・民間人が
 戦闘員と見間違われてしまう・・しかし、助かりたい中
 国兵は、この様な卑劣な事までした。
  そして、そこから日本兵を狙撃するという戦い方もし
  その民間人の中にある銃の探索が行われた・・当然・・
  民間人へ被害が及ぶことが分かっていても、中国兵は、
 民間人の中に卑劣に隠れた。
  当然、その民間人に隠れている中国兵と戦わざるを得
 ないという日本軍の事態だった。
  この様な様々な中の南京攻略戦だった。
  「修羅の状況」である。
  アメリカに援助された中国・蒋介石・国民政府軍は、
 「重慶」という中国の奥地へ拠点を移した。
  新しい都とした。
  これは、日本を叩きたいアメリカが、「日本の消耗」
 を狙っていたのだった。
  そして、アメリカは、延々と「援蒋ルート(蒋介石の
 中国軍を援助するルート)」を使って、厖大(ぼうだい、
 非常に大きく、多量なこと)な武器や弾薬を中国軍へ援
 助する。
  「日本との戦争ありきのアメリカ」
  そして、この先の第二次世界大戦ありきを決めてかか
 っているアメリカだった。
  この事の初め・・元々、アメリカは、厖大な武器・弾
 薬を支援して、中国・蒋介石軍に、上海を大軍で包囲さ
 せていた。
  その様な形で、中国・蒋介石軍は日本に迫って来た。
  上海の国際租界の中の日本租界へ向けて攻撃を開始し
 て来た(1937年8月13日、第二次上海事変)
  この時から、そもそもの戦いは始まった。
  アメリカの支援の下で、中国・蒋介石軍が、先に戦争
 を開始した。
  この武器・弾薬を与えて「アメリカが、焚き付けて始
 まった」・・その様な戦いだった。
  ルーズベルトが、第二次世界大戦がはじまったとき、
 「戦争を作った」と言ったが・・まさしくこの時以来の
 ことだった。
  キリスト教に偏して、日本を貶めてばかりいるNHK
 は、この事を隠し、まったく、この様な事を放送しない。
  この時、NHKはじめ日本のマスコミは、「戦争を煽
 った」。
  この時、上海事変で、蒋介石軍の攻撃を受けて、日本
 は戦い・・、
  そして、この戦いを・・日本が収めたとき・・、
  日本は、この時点で終わらせようとした。
  世論には、戦争を仕掛けた中国の蒋介石への思いに、
 「撤退し、逃げる蒋介石軍を追討するか?否か?」の判
 断において、国内には賛否の両論があった。
  この様に揺れている時に、NHKはじめマスコミは「
 囃(はや)し立てた」。
  このため、南京への追討否定派の意見はなくなった。
  NHKはじめ日本のマスコミは、常に、日本の戦いを
 煽り立てた。
  そして、進軍が決定すればすれで・・その進軍の様子
 を、「微に入り、細に入り報道」して「煽った」。
  そして、戦後の1948年11月13日・・、
  東京裁判の南京事件の責任者とされた日本の将軍に・・
 死刑判決がなされると・・、
  朝日新聞は、自らが勝ち誇ったように、「この一訴因
 で絞首刑」と記して報じた。
  NHKとこの朝日新聞は、今・現在、自社の一室を中
 国へ与えるという特別な事をしている。
  嘘の慰安婦問題をデッチ上げた朝日新聞と、そのNH
 Kは悪である。
.
1937年12月16日、中国の南京において、中国軍は、一般人
 民の中に隠れて、一般人民を卑劣にも盾にして、日本軍
 を狙い撃ちした。
  その掃討が、この日まで続いた。
  盾にされた中国の一般人民は、たまったものではなか
 った。
  南京での中国兵は、卑劣な行為である「軍服を脱いで
 戦う事をした」。
  軍服を着ていない一般人が戦うということではなく、
 今まで軍服を着ていた中国軍人が、その軍服を脱いで、
 一般人のふりをして戦った。
  軍服を着ていた中国兵が、着ている軍服を脱いで、人
 民の中に隠れて、日本軍と戦った。
  人民を盾とする卑劣な戦い方をする中国兵だった。
  日本軍は、その掃討(そうとう、残っている敵兵を撃
 ち払うこと)を行なったが、掃討戦は、1937年12月16日
 まで続いた。
  人民の中に隠れた卑劣で卑怯な中国兵、盾にされた中
 国人民・・この一般の中国人に犠牲者が出ない訳は無か
 った。
  上海戦から南京戦までの日本の戦死者の総数は24,000
 名に達した(戦病死者を含む)。
  この数は、日本軍の最高司令官である松井大将の日記
 にある数字で、ほとんどの戦死者が上海戦によるもの。
  一方、中国側のデーターについては、国民党軍軍政部
 長の何応欽上将の軍務報告に33,000名とある。
  何しろ、中国軍は、一般人民を盾にして、その人民の
 盾の陰から日本軍を狙撃するという卑劣な戦い方をした。
.
1943年、ソ連のスパイ機関が、アメリカ国内からソ連のモ
 スクワへ、スパイした内容を報告するのを、アメリカは
 知った・・そして、その傍受をする。
  この様な事があったと、1995年になって「VENON
 A(ベノナ)文書」が公表された。
  この文書が公開され始めて、戦中から戦後にかけて、
 この様なコミンテルンが、アメリカ国内で盛んに活動し
 ていたことが分かって来た。
  (参考)コミンテルン:共産主義インターナショナル
      Communist Internationalの略称。
      第3インターナショナル、第3インターとも呼
     ばれる。
      1919年3月にモスクワに創設され 1943年5月ま
     で存続した各国共産主義政党の国際統一組織。
      第1インターナショナル (1864年~1876年) 、
     第2インターナショナル (→社会主義インターナ
     ショナル、1889~1914) の崩壊後、V. I.レーニ
     ンらは、第1次世界大戦中から、新しい第3イン
     ターナショナルの創設を目指して活動を続け、
     30ヵ国の共産主義諸政党あるいは革命的組織の
     代表50余名をモスクワに集めて、1919年3月2日
     ~1919年3月6日、コミンテルン第1回大会を開い
     た。
      コミンテルンは、第2インターナショナルに比
     べ、はるかに強固な国際的団結と規律をもち、
     ソ連という社会主義国家を支柱とするに至った。
      また、民主的中央集権の組織原則をとり、コ
     ミンテルン執行委員会の指導のもとに活動する
     ことが定められた。
  そして、アメリカでのその実態が明らかになった。
  これは、カーター・クラークというアメリカの将軍が、
 ルーズベルト大統領にも秘密にして始めたプロジェクト
 だった。
  アメリカ陸軍の超秘密の暗号解読機関が、ソ連情報部(
 KGB、GRU)が、アメリカ国内からモスクワの本部
 に、報告する電報を傍受し、解読していた。
  解読作業は、1943年から始まり、1945年位から進捗す
 る。
  すると、ソ連のスパイが、ぞろぞろと判明した。
  国務省や財務省の官僚をはじめ、官庁のスタッフ、そ
 して、知識人、映画関係者、作家など広範囲な人のソ連
 スパイの存在が明らかになった。
  今・現在も、日本に盛んに中国の工作員が、日本に潜
 り込んでいるが、このアメリカの様な事になっていると
 言える。
  今・現在、沖縄県や北海道の中国化が急速に進んでい
 る。
  このベノナ文書で、ルーズベルト政権(ワシントンの
 連邦政府)に、常勤スタッフだけで200人以上、正規職員
 以外には300人くらいのソ連工作員(スパイやエージェン
 ト)が居た・・この事が確定的に判明した。
  (参考)エージェント:(1)代理人や代理店。また、
     仲介業者。(2)国家の秘密業務で働くもの。
  この影響が、1933年から1952年の約20年間、ルーズベ
 ルト大統領政権から、次のトルーマン大統領政権にまで、
 ソ連に繰られていた。
  今の日本も、非常に注意しなければならない時にある。
.
1979年1月、日米・コンピューター開発競争・・日本潰しの
 IBMスパイ事件へ
  1979年1月、IBMは、従来の中・小型コンピューター
 の5倍から6倍という抜群のコストパフォーマンスのI
 BM4330を発表した。
  これは、プラグコンパチブル機に対抗してそれらに致
 命症を与えるに充分な価格設定とおもわれた。
  事実、このために有力なコンパチブルメーカーであっ
 たアイテル社は痛手を負い、関連部門をナショナルセミ
 コンダクタへ売却した。
  そればかりか、IBMとコンパチブルでないイギリス
 のICL(International Computers Ltd.)も、主力工場
 であったウインズフォールド工場を閉鎖する事態におい
 こまれた。
  ところが、日本のメーカーは、わずか1ヶ月遅れで対
 抗機種FACOM130Fを出荷した富士通をはじめと
 して、各社ともIBMに追随してきたのである。
  しかも、1980年11月、IBMの特に強い超大型コンピ
 ュータの分野でも、IBM3081D(9.5MIPS)を発表
 した時すでに、日立は10.2MIPSのM200Hを、
  そして、IBMのコンパチブルではないが、日本電気
 のACOS1000は15MIPSという当時の最速の機種を
 発表しており、IBMは、日本のコンピュータに先を越
 されていた。
  この様に、日本のメーカーは、すくなくともハードウ
 ェアについては、IBMの技術に追い着き・・、
  半導体チップでは、日本の方が信頼性などの点で優れ
 いるとも言われるにまでに至っていた。
  そこで、IBMは、日本のコンパチブル機を振り切る
 決め手として、基本ソフトウェアであるOS(オペレー
 ティング・システム)を解析しにくくすることにした。
  それまで、磁気テープで供給してきたOSの機能を一
 部ファームウェア化してしまった。
  こうすれば、コンパチブルメーカーはOSを解析する
 までに相当時間を必要とする。
  1981年12月、こうして、この8000語ほどファームウェ
 ア化されたOSをもつIBM3081Kを発表すると共に、
 3081が、31ビットアドレッシングを採用している新しい
 アーキテクチャであること明らかにした。
  そして、IBMは、アーキテクチャが変わっても360シ
 リーズ以来のアプリケションソフトを実行できる新しい
 OS、MVS/SPを提供した。
  この31ビットアドレッシングと、新OSの高度なファ
 ームウェア化は、コンパチブルメーカー対策としては強
 力で・・、
  富士通、日立が、このファームウェアを解明するには
 2年はかかるとみられた。
  そのため、あせった日立が、新OSのソースリストを
 中心としたIBMの技術情報を入手しようとしたのを、
 FBIのおとり捜査にひっかかり摘発されたのが、1982
 年6月23日だった(IBMスパイ事件)
  この結果、IBMは、日立に多大な賠償金とIBMの
 技術情報が使用されているかどうかの製品検査権を認め
 させた。
  これにより、IBMは、日立の動向を掌握することが
 でき・・、
  いざとなれば、日立にコンパチブル機を作らせないこ
 ともできることになった。
  また、IBMは、この事件に直接関係なかった富士通
 に対してもOSの酷似をもって、富士通を訴え、実質的
 に著作権を認めさせた。
  日立や富士通は、IBMコンパチブルの路線をとる事
 になって行く。
.
1982年6月22日、IBM産業スパイ事件(アイ・ビー・エム
 さんぎょうスパイじけん)は、1982年6月22日、日立製作
 所(以下、日立)や三菱電機(以下、三菱)の社員など
 計6人が、米IBMの機密情報に対する産業スパイ行為を
 行ったとして逮捕された事件である。
  この事件は、各日本メーカーとIBM米本社との間の
 事件で、同日本法人である日本アイ・ビー・エム株式会
 社は無関係であり、同社関係者にも寝耳に水の事件であ
 った。
  IBMと日立は、翌年・1983年に和解した。
  また、1984年より、当初は当事者外であった富士通と
 IBMの交渉も進められ、1988年に和解した。
  1981年、IBMは、アドレスを31ビットに拡張し
 (System/370-XA)、オペレーティングシステム (OS) の
 一部をファームウェア化して互換機を作りにくくしたメ
 インフレームコンピュータの3081K を発表した。
  互換機メーカーであった日立は、 3081K に関する技術
 文書をNAS(ナショナル セミコンダクターの汎用コンピ
 ュータ部門で、日立からOEM供給を受けていた)から入手
 した。
  一方、かねてからコンサルティングで日立との取引が
 あったペイリン・アソシエーツ社から 3081K に関する報
 告書の売り込みがあった。
  日立はその目次を見て、NASから入手済みの資料に酷似
 しており、両方の文書が何らかの共通の資料に基づくも
 のと判断。
  ペイリン社に対して、「その資料は既に持っている。
 しかし、それは一部と思われるので、他にもあるなら購
 入したい」と伝えた。
  ペイリン社の社長ペイリーは、元IBM従業員であり、
 日立がIBM3081Kの資料を入手済みであることをIBMの
 ボブ・エバンズ(当時、副社長)に通報。
  結果として、FBIによるおとり捜査が行われ、日立
 と三菱の社員が逮捕されることになった。
  刑事事件自体は、1983年2月、司法取引により決着した。
  しかし、IBMは、日立に対して民事損害賠償訴訟を
 起こした。
  ・・IBM産業スパイ事件は・・、
  日立と三菱がスパイをやった、という程度の、企業が
 行き過ぎただけの話だと思われている・・が・・、
  1959年、日本のコンピューター開発、この年には、東
 京大学が中心となって、東芝・日立が協力し、TACが
 完成した。
  (参考)TAC:Tokyo Automatic Computerは、東京
     大学が開発したコンピュータで、一般に東大と
     東芝が共同開発したとされていて、大変な難産
     の結果、うまれた。
      東芝が協力していない部分や日立製作所が協
     力した部分があり、1959年に、最終バージョン
     が完成した。
  (参考)FUJIC:富士写真フイルムにおいて開発
     された我が国初の電子計算機で、真空管式電子
     計算機だった。
      レンズ設計に使用することを目的として岡崎
     文次により開発された。
      1949年より、岡崎は研究を開始した。
      1952年3月から、メモリ関係の研究と並行して
     全体の組立てが行われた。
      1955年11月に、電子通信学会電子計算機研究
     専門委員会の見学会で、動作のデモンストレー
     ションが行われた。
      1956年3月初めに完成し、栄誉ある我が国最初
     の電子計算機となった。
      真空管を約1,700本使用した2進法3アドレス方
     式の電子計算機で、記憶装置には超音波水銀遅
     延線(255語)が採用された。
      論理回路のクロック周波数は約30KHzであった
     が並列演算回路を採用し、加減算0.1ms,掛算1.6
     msと、当時としては比較的高速であった。
      目標はレンズ設計において人手計算の1,000倍
     であったが、約2,000倍の性能を実現した。
      2年半の間小田原工場で社内外の計算に使用さ
     れ、その後、早稲田大学に寄贈され、現在は国
     立科学博物館に保存されている。
  上記の様に、日本は、コンピューター開発の先端を歩
 んでいた。
  国の予算をつぎ込んだ国家プロジェクトとしても進め
 られ、目標は大きく野心的でさえあった。
  研究課程は難航し、何度も設計変更を繰り返した。
  1964年には、通産省の予算で富士通・沖電気・日本電
 気が共同でFONTACを作成した。
  (参考)FONTAC:年々輸入が増大していた大型
     コンピュータ分野に、通産省は補助金を交付し
     て大型コンピュータの国産化を狙った。
      1962年7月、そのために、富士通信機製造(現:
     富士通)、日本電気、沖電気の3社により日本電
     子計算機技術研究組合が設立された。
      FONTAC(Fujitsu-Oki-Nippondenki-
     Triple-Allied Computer)は、この3社の3年に
     わたる共同研究によって完成された大型コンピ
     ュータだった。
      1964年11月に完成し、日本電子工業振興会に
     納入された。
      FONTACシステムは、主コンピュータと
     して高速大容量の記憶装置と多数の入出力チャ
     ネルを持つ大型2進計算機を、衛星コンピュータ
     に可変語長のFONTAC Sub Iと固定語長のFONTAC
     Sub IIを使用し、主コンピュータと衛星コンピ
     ュータは密接に結合された。
      FONTAC Centralは、1語42ビットからなる2進
     法のコンピュータで、固定小数点の数値は、デ
     ータ36ビット、フラグ4ビット、パリティ2ビッ
     ト、浮動小数点の数値は指数部9ビット、仮数部
     27ビット、フラグ4ビット、パリティ2ビットよ
     り構成された。
      記憶装置として30mil/サイクルタイム2.2μs
     の磁心記憶を使用し、最大65,536語の容量を実
     現し、演算速度として固定小数点加減算/乗算
      4.4μs /25.2μs,秒浮動小数点加減算/乗算
      15.4μs /30.8μsの性能を有した。
  1962年7月、この共同研究で開発された技術を基に、
 CPU(中央処理演算装置)を担当した富士通信機製造
 (現:富士通)は、FONTAC Centralを一部改良し、FACOM
 230-50として商用化した。
  1964年11月、FONTACは、この3社の3年にわたる共同研
 究によって完成された大型コンピュータで、1964年11月
 に完成し、日本電子工業振興会に納入された。
  この頃から、各社が「コンピューターの作り方」を理
 解し、独自開発を開始した。
  日立のHITAC、富士通のFACOM、日本電気のNEAC、東芝
 のTOSBAC 、三菱のMELCOM、沖電気のOKIMINTAC・・
  コンピューターは、これから確実に産業の中心となる
 というのは明らかだった。
  1970年代初頭、IBMは、巨大メーカーに成長しつつ
 あった。
  日本国内だけで、6社も、互換性のないコンピュータ
 ーが乱立していて、これでは、日本のコンピューターは、
 大企業に潰されてしまうリスクが存在した。
  通産省は、「国内で、IBMに対抗できるコンピュー
 ターを育てる」ための方策を取った・・それは・・
  1) IBMと技術提携を行わない、IBM互換機路線
  2) IBMに対抗できる大企業の互換機路線
  3) 日本独自路線
  2 の大企業は、ハネウェル社。
  1960年代、アメリカには、8つのコンピューターメー
 カーがあった(「IBM と7人の小人」と呼ばれた)
  ハネウェルはその一つでありながら、1970年に MULTICS
 の技術を持つGE社と合併し、力を伸ばしていた。
  通産省は、国内の各社は上のいずれかの道を選び、提
 携することが求められた。
  富士通と日立はすでにIBM互換機を作成していたた
 め、互換路線を選んだ。
  日本電気はすでにハネウェルと提携していた。
  東芝も、すでにGEと提携していましたが、GEがハ
 ネウェルに吸収合併された。
  そこで、日本電気と東芝も提携し、ハネウェル互換路
 線を選んだ。
  三菱・沖電気は「取り残された」形で提携し、独自路
 線を歩むことになった。
  富士通と日立は提携し、技術的な交流は図りつつもお
 互い独自に、IBM System/370 の互換機を作成していた。
  (IBM との技術提携はない)
  ただし、IBM で System/360 (370の旧世代機)を設計
 した技術者で、後に独立したジーン・アムダールの会社
 と富士通は提携し、技術的ノウハウを得ていた。
  1981年、IBM はこうした「互換機」が世界中で増えて
 いたため、設計を一部変更して、性能を上げるとともに
 互換機を作りにくくした、System/370-XA を発表した。
  日立は、この「設計変更」の詳細を入手しようとして、
 IBM のおとり捜査に引っかかった。
  1982年、社員5名が逮捕され、この時、三菱社員1名
 も逮捕された。
  三菱は、当初、「独自路線」グループでしたが、この
 頃には余りに強くなった IBM の互換機を作ろうとしていた。
  この刑事事件は、司法取引により決着した。
  しかし、IBM から、民事損害賠償訴訟を起こされた。
  System/370-XA は、各種回路が特許で守られていたう
 え、それまでは後から読み込まれるソフトウェアであっ
 た「OS」の一部を、ハードウェア内に持つようになって
 いた。
  System/360 や 370 の頃は、同等の機能の回路で置き
 換えも可能でしたが、370-XA の特許は強力で、簡単には
 回避できなかった。
  また、BIOS に関しては単純な回路ではなく、プログラ
 ム…著作物です。
  著作権の場合「類似したもの」を作ったとしても、盗
 作としてアウト。
  少なくとも、この時点では IBM はそのような認識で動
 いていた。
  ずっと後に、IBM・コンパックが BIOS の著作権を争い、
 現在は違う認識となっている。
  結局、日立は IBM の許可を得ずに機械を販売しないこ
 と、訴訟費用は全部日立が負担すること、ソフトウェア
 やインターフェイスなどに関して、使用する対価を払う
 こと…などを条件に和解した。
  日立からすれば、IBM 互換路線に「お墨付き」を貰っ
 た格好で、この後も互換路線を進んだ。
  富士通も日立の訴訟に危機感を持ち、同様の取引を結
 びますが、徐々に IBM 互換路線から非互換路線にシフト。
  いずれにしても、通産省の狙った「独自技術による互
 換」という路線は無くなってしまった。
  この頃は、IBM が強くなりすぎてハネウェル社もコン
 ピューターから事実上の撤退。
  特に、吸収合併したGEの互換機は消滅し、GE互換
 だった東芝も撤退、同じグループだった日本電気にコン
 ピューター部門を売却した。
  独自路線だった三菱・沖も、先に書いたように三菱が
 IBM互換路線に進もうとして、スパイ事件に発展した。
  沖電気は、コンピューター本体は断念して、周辺機器
 製造に特化した。
  国策だった3グループ化は大失敗となった。
  日本のコンピューター産業は死んでしまう…。
  「IBM産業スパイ事件」とは、そうした危機的な状
 況を意味した。
  翌1983年、日本電気がスーパーコンピューターの新シ
 リーズ、SX-2 を発表します。
  この SX-2 は、世界で初めて GFLOPS を超えたコンピ
 ューターで、同時に初めてアメリカ以外のコンピュータ
 ーが速度で世界一になった機械だった。
  日本のコンピューター産業復活を狙った。
  この後、急に力を付ける日本のコンピューター業界に
 アメリカが危機感を感じ、1980年代後半から1990年代前
 半の貿易摩擦につなげて問題化する。
.
2012年3月、日本企業の大切な機密技術が、海外企業に盗ま
 れるという、流出した事例は多々ある。
  2012年3月には、工作機械大手のヤマザキマザックから
 設計図などの情報を不正取得したとして、愛知県警が中
 国籍の元社員を逮捕した。
  2012年4月には、新日本製鉄(現・新日鉄住金)が、高
 機能鋼板の製造技術を流出させたとして、元社員と韓国
 鉄鋼大手ポスコを相手取り、1000億円の損害賠償訴訟を
 起こしたりした。
.
2014年3月14日、この日の新聞やテレビなどの大手報道機関
 は、東芝のNANDフラッシュメモリに関する研究データ(機
 密情報)を韓国の大手メモリメーカーであるSK Hynixに
 提供した不正競争防止法違反(営業秘密開示)の容疑で、
 元技術者を警視庁が13日に逮捕したと報じた。
  元技術者(S容疑者)は、東芝とNANDフラッシュメモリの
 共同開発で提携してきたアメリカSanDiskの日本法人に勤
 務していた。
  この事件について、3月14日付けの読売新聞オンライン
 版では、S容疑者は、2007年4月から2008年5月にかけて、
 東芝四日市工場の管理サーバーに保存されていたNANDフ
 ラッシュメモリの研究データをUSBメモリに無断でコピー
 して持ち出し・・、
  2008年7月に、転職したSK Hynix(当時はHynix Semicon
 dcutor)に、持ち出した研究データを提供した。
.
2014年3月、技術流出・・日本政府の対応
  技術の流出防止と保護が極めて大切=東芝技術の流出
 問題で官房長官
  [13日 ロイター]菅義偉官房長官は、13日午前の会
 見で、東芝(6502.T)の技術が海外に流出したとの一部報
 道に関連し、技術の流出防止と保護が極めて大切との見
 解を示した。
  この問題について見解を求められた長官は、報道内容
 については承知しているが、個別事案についての言及は
 控えたいとした。
  その上で一般論と断りながら、「技術立国であるわが
 国にとって、守るべき技術の流出防止と適切な保護にし
 っかり取り組んでいくことが極めて大事だ」と強調した。
  政府として、知的財産戦略本部(本部長:安倍晋三首
 相)が、2013年6月に策定した「知的財産政策ビジョン」
 において技術・営業秘密の保護や強化の取り組みを打ち
 出していると語った。
  共同通信などによると、東芝のフラッシュメモリーの
 研究データを韓国の企業に不正に流出させた疑いが強ま
 ったとして、警視庁は13日までに、不正競争防止法違反
 容疑で、東芝と提携していた半導体メーカーの元技術者
 の逮捕状を取った。
.
2016年11月24日、アメリカは、中国を市場経済国と認めず 
 貿易摩擦激化へ
  アメリカ政府は23日、中国を世界貿易機関(WTO)
 協定上の「市場経済国」(自由な市場で経済運営が行わ
 れている国)とは認めない方針を明らかにした。
  日本も追随する方針。
  中国政府の優遇措置に支えられた中国鉄鋼メーカーな
 どのダンピング(不当廉売)を問題視。
  反ダンピング税を課しにくくなる「市場経済国」とは
 認定できないと判断した。
  中国は、WTO加入から15年を迎える来月の市場経済
 国移行を主張してきたが、米国の反対で事実上、不可能
 となった。・・以上・・(参考:毎日新聞)
  2017年12月12日、中国は「市場経済国」か? アメリ
 カ、認定に反対表明 WTOを試す「リトマス試験紙」
  世界貿易機関(WTO)の制度上の「市場経済国」認
 定を中国政府が求めていることについて、米国が正式に
 反対する通知をWTOに送付した。
  通商上の不利な扱いを受け続けることになる中国は反
 発しており、米中間の摩擦が再燃している。
  トランプ米政権がWTOを「機能していない」と批判
 する中、中国の認定問題は、米国のWTO脱退の引き金
 となりかねない火種となる可能性がある。
  米欧が共同戦線
  米政府がWTOに通知を送ったのは11月中旬。
  欧州連合(EU)も中国の市場経済国認定に反対して
 おり、米国は通知を通じてEUへの賛同を表明した。
  通商分野で米国とEUは対立するケースも多く、米欧
 が「異例の共同戦線」(米メディア)を張った。
  ・・以上・・(参考:産経新聞)
  アメリカは、中国を市場経済に組み入れ、そして、豊
 かになり、社会も開かれ来れば、政治システムも変化し、
 欧米的なシステムを受け入れて来ると見て、その様な意
 味からも、中国に対し甘やかす政策を取って来た。
  しかし、事は、その様な思惑の様には進展して来なか
 った。
  この問題は、今、気が付いたことではなかった・・が・・
  中国が、これまで経済を拡大できたのは、この恩恵だ
 った・・
  しかし、中国は、ありがたいという態度は表わさない・・
 心の底ではその様に思っているのかもしれない・・が・・
  そして、アメリカは、中国にはそのような態度をとっ
 ても・・日本に対しては厳しい態度を取り続けた。
  例えば、最新鋭の技術を取り上げる事をすることはし
 ても、日本へ提供をすることはしなかった。
  また、日本の企業が、最先端の技術を開発する事を妨
 害さえした。
  NECが、独自のコンピューターを開発するのを妨害
 した。
  三菱などが新しい技術を開発しようとすると、「研究
 員が犯罪を犯した」などと言いがかりをつけて阻止した。
  別の観点から見ると、アメリカは、中国を簡単に抑え
 られると見ていたと考えられる。
  中国は石油が不足している。
  代替エネルギーの開発も遅れている。
  この事例の様に、中国の技術は、アメリカからの提供
 が無ければ高度な製品が作れないなど、中国を抑え、コ
 ントロールできるとみていた。
  しかし、アメリカと中国は、これから貿易や通貨を巡
 って緊張度はさらに上がって行くと指摘されている。
.
2017年3月、日本学術会議が、大学などの軍事的研究を否定
 する声明を出した。
  軍事的研究と言ったって、この日本学術会議の人たち
 も含めて、日本人・国民を守る自衛隊などの研究をする
 ことまで否定した。
  日本国民を守る研究をしてはいけないと言い出した。
  まったく卑劣な声明である。
  「日本を攻めてくる勢力に利する行為」を行なってい
 る。
  どんな理屈があって、こんな事を言っているのだろう
 か?
  どんな論理があって、こんな声明を出しているのか?
  日本国民の命を守るという大切なことを放棄している。
  その様な研究をしてはいけないとした。
  日本国民の税金を使って日本学術会議の大学などは研
 究をしている。
  ならば、すべての研究費を辞退せよ!
  また、守るべき日本国民の税金で建てられた大学など
 の施設で研究ができるという恩恵に答えていない。
  また、日本国民から給料をもらい、自分や家族を養う
 金を貰っていながら・・この様な声明を出したという事
 になっている。
  ならば、自分の立場や給料も辞退せよ!
  まったく矛盾している、反逆している、日本学術会議
 や大学だと言える。
  そして、2018年6月9日の読売新聞によると、あろうこ
 とか?? 北海道大学という国立大学が、この日本学術
 会議の声明を受けて、防衛省の研究をしないと決めたと
 いう。
  中国や北朝鮮に、日本の存在が危うくなっているこの
 今・現在、この様な行為をしている
  (この様な事をするのは、この大学だけ)
  今まで、北海道大学は、研究をして来たけれど、これ
 からはしないとしたという。
  防衛省は、船体の摩擦抵抗を軽減する研究を、2016年
 度から委託していた。
  防衛省は、北海道大学の意向を尊重せざるを得ないと
 している。
  日本の国立大学の北海道大学・・何もかもが国民の御
 世話になっているこの大学が、この様な行為をする・・
 国民の為になる研究をしないと・・している。
  まったく理屈の立たない行為をした。
  北海度と言えば、沖縄県とともに、中国が暗躍してい
 るところ・・色々と工作をするところ。
  中国の国家的重要人物・要人が来て、中国の息のかか
 った農場を視察したりするところ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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# by suba28 | 2018-06-15 04:30 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)598E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)

題:(増補版)598E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年6月10日、東学党軍と李氏朝鮮政府が、和睦
  朝鮮内で、圧政を行ない人々を虐(しいた)げていた
 政府に対して反乱を起こした東学党軍と、李氏朝鮮政府
 が、全州和約を結び、和睦した。

1894年6月10日、大鳥圭介在朝鮮公使が、陸戦隊を率い漢城
 府(かんじょうふ、ソウルの旧名)に帰任した。

1894年6月10日、山陽鉄道が糸崎駅~広島駅間が開通し、山
 陽鉄道の路線が、広島まで延長された。
  神戸駅~広島駅間の直通列車を、1日3往復の運転を開
 始した。
  2014年7月18日~8月10日に、三原駅(現:糸崎駅)~
 広島駅間開通120周年記念特別企画展が三原リージョン
 プラザで開かれた。

1894年6月11日、全州和約され、農民軍が全州を撤退した。

1894年6月12日、共同撤兵、袁世凱・大鳥間でほぼ妥結。
  日本を圧迫していた清国。
  日本には、潜在的対清恐怖感があった。
  そして、朝鮮に対して、清国は、宗主権的なものを持
 っていた。
  そして、華夷(かい=中国とえびす)秩序なるものが
 あった。
  この先、日清は、戦端を開くが、明治天皇陛下は、開
 戦には非常に消極的であられた。
  (参考)華夷秩序:かいちつじょ、中国の皇帝を頂点
     とする階層的な国際関係を指す。
      古来中国にある自分たちは優れた文明を持つ
     世界の中心(中華)で、周囲は未開の野蛮人(夷)
     であるとの考え方に根ざす。
      具体的には、中国皇帝の恩恵を受けるために
     朝鮮など周辺の国々は貢ぎ物をし(朝貢、ちょう
     こう)、代わりに皇帝が王と認める(冊封、さく
     ほう)という形をとった。
      アヘン戦争時は、朝鮮、ベトナムなどが中国
     と「朝貢・冊封関係」を結び、中国を「宗主国
     (そうしゅこく)」と位置づけていた。
      日本は離脱している。
  (参考)清国の意識:清国の戦線詔勅(部分)には、
     下記の様に、朝鮮を属国と完全に意識していて、
     西欧列強がアジアを植民地化して行く中で、力
     を付けつつある日本を完全に排除したかった。
      そして、朝鮮の従属化を強めて自勢力下に留
     めたかった。
      「朝鮮ハ我大清ノ藩屏〔ハンペイ:直轄の属
     領〕タルコト200年余、歳ニ職貢ヲ修メルハ中外
     共ニ知ル所タリ…」
      今(2018年)の中国も、この様な意識でいる
     のだろう。

1894年6月12日、日本の朝鮮派兵先遣隊が、仁川(じんせん、
 ソウルから40キロメートル)に到着した。
  1885年の天津条約に基づく行動。

1894年6月12日、山陽鉄道が、兵庫駅~広島駅間を開業した。
  2軸横扉の客車と荷物車の混成7両列車が、1日15本、
 昼間だけの単線運行を行った。
  岡山県内ルートでは、西大寺、玉島の港町などで、鉄
 道通過反対運動があり、やむなく、これらの市街地をは
 ずした北よりのルートに鉄道を敷設した。
  結果的に、西大寺や玉島は時代の波から取り残されて
 いった。
  この広島までの開通の後、日清戦争が起こり、山陽鉄
 道はその運搬に於いて重要な役割を果たした。
.
  (今日の言葉)
.
  題:真実は、解き明かされねばならない・・
    この行為は、これからの人類の行く末にも貢献すると確信する。
    そして、今、北朝鮮の技術で確実に届く範囲で、「攻撃しない方が良いと
    考えられる理由のない国」は・・日本だけだ。
.
1818年、アメリカの『本当の奴隷解放者』のフレデリック・
 ダグラスが生まれた。
  アメリカ合衆国は、多くの黒人の方々を奴隷にした卑
 劣な歴史を持っている。
  それも、長い期間に渡って、黒人の方々を虐(しいた)
 げた。
  それも、さらに、卑劣なのは、その黒人の方々を奴隷
 という身分から解放したのは、黒人の方々の自由獲得へ
 の努力と叫びにあったのを・・、
  そしてまた、黒人の偉大な奴隷解放運動家フレデリッ
 ク・ダグラスという活動の結果、奴隷解放がやっとなさ
 れたのに・・、
  この真実の歴史をアメリカ合衆国は隠し、白人のリン
 カーンが解放したのだと虚偽の、そして、真っ赤な嘘の
 プロパガンダ(嘘宣伝)をした。
  この真の奴隷解放者フレデリック・ダグラスは、奴隷
 出身であったため、生誕日の詳細は不明で・・、
  ただ、アメリカのメリーランド州タルボット郡に奴隷
 の子として生まれた・・としか分かっていない。
  人権無視の白人アメリカは、黒人の方々をこの事でさ
 えこのように処理した。
  教育も受けさせないという法律を作った社会だった。
  当然、選挙権は夢の権利だった。
  まったく、人権無視のアメリカ合衆国である。
  また、アメリカ合衆国の最大の卑劣な所は、今・現政
 権の美化を行なっているところだ・・
  現政権の起源が『南北戦争での北軍』にあるとしてい
 る・・そして、その勝利にあるゆえに、この北軍を美化
 し、南部軍を蔑(さげす)んでいる・・そして・・、
  この時の北軍の最高指揮官のリンカーンの記念堂まで
 作って美化し、讃えている。
  南部軍の最高指揮官のリー将軍を悪漢の如くに扱って
 いて・・先ごろも、このリー将軍の銅像を壊すのだとい
 う騒ぎがあった。
  (アメリカ南部の方々にとっては「尊敬するリー将軍」
 である)
  また、当然、アメリカの初代大統領ワシントンを・・、
  アメリカ憲法などをととのえてアメリカ政治をスター
 トさせた功労者を讃えるべきであるのに・・、
  16代大統領のリンカーンが、何の理由か? 記念堂を
 作ってまでして讃えているのである。
  そして、リンカーンが「奴隷解放をした」と嘘の宣伝
 をして美化している・・
  これは嘘なのである・・アメリカは「北部も南部も」
 白人サイドから奴隷解放がなされたのではない。
  北部だって、資本家は、工業資本家は、黒人の方々を
 搾取し、奴隷身分に置いて、その労働を搾取していたの
 である。
  故に、結局、黒人の方々が、血を吐くような努力をし
 ての結果の黒人奴隷解放だったのである。
  最後まで、白人サイドは、黒人の方々を搾取し、虐(
 しいた)げる側に居た。
  キリスト教の有色人種蔑視観に洗脳された白人の人々
 からは「積極的な黒人解放エネルギー・奴隷解放エネル
 ギーは出て来なかった」。
  この黒人のフレデリック・ダグラス氏が、奴隷解放の
 エネルギーの求心力となった方々の一人であった
  彼の数々の苦労・努力を、これから明らかにして行き
 たいが・・白人社会は黒人の方々の歴史を抹殺した。
  しかし、近年、少しづつ黒人の方々の歴史が掘り起こ
 されて来ている。
  このフレデリック・ダグラス・・彼の母は、彼が7歳の
 時に亡くなった。
  彼は、色々な白人奴隷所有者へ次々と売られて行くと
 いう経験をさせられた。
  人種差別のアメリカには、種々の卑劣な法律があった・・
 その一つが、「奴隷の方々へは、教育を与えてはならな
 い」というものだった。
  しかし、このフレデリック・ダグラスは、、12歳の時、
 この法を冒(おか)してまでして、この時の女主人は、
 彼に文字を教えてくれた・・
  だが、この後、彼女の夫がこの事を禁じたため、この
 様な事は行われなくなった。
  しかし、優秀な彼は、この後、街灯の下などで、また、
 使い古した教科書などを使って勉強をし続けた。
  成長するとともに、彼は、あちこちに売り回された。
  農場で働いたり、造船所で働いたり、北部の都市奴隷
 とされたり、売り渡され、苦労を重ねた。
  1838年(20歳)奴隷の境遇から脱出を図る・・逃亡で
 ある・・そして・・
  23歳の時、『反奴隷制協会』で初の演説をした。
  また、反奴隷を訴える新聞も発行する。
  1845年(27歳)本を発行した・・
  アメリカでは、「奴隷に教養がある訳がない」とされ、
 本の発行の機会も与えられていなかった。
  たが、この本は、ベスト・セラーとなった。
  フランス語・オランダ語に翻訳もされた。
  そして、フレデリック・ダグラスは、アイルランド、
 イギリスへもわたり反奴隷運動の活動した。
  1863年(45歳)リンカーン大統領、アンドリュー・ジ
 ョンソン大統領などと奴隷解放や黒人参政権について協
 議をし、黒人の方々の当然の人権を訴えた。
  そして、黒人の方々をまとめて黒人解放の活動をさら
 に実践して行った。
  駐アメリカ占領下ハイチ国合衆国領事をも務めた。
  1872年(54歳)大統領選で、副大統領候補に指名され、
 た。
  奴隷解放者と讃えられている「子供たちの偉人伝『リ
 ンカーンの伝記』は間違っています」・・、
  リンカーンは、「黒人奴隷を解放した」と言われてい
 ますが・・「間違いです」。
  彼には、「黒人奴隷を解放したい」という「希望や意
 志」は、「まったく有りませんでした」・・、
  リンカーンの黒人奴隷解放の意思は、「事の成り行き
 からその様な状況へ至った」「その様な状況を持った」
 という状況でした。
  その様に仕向けたのが、黒人の黒人奴隷解放戦士『フ
 レデリック・ダグラス』でした。
  また、その組織の働きかけがあったから、その方向に
 流れただけです・・これが真実なのです・・
  子供たちの伝記には間違いが書かれて居ります。
  嘘でプロパガンダ(嘘宣伝)された白人権力者たちの
 歴史・認識は代えられなければなりません・・正しい内
 容に書き換えられなければならないのです。
  キリスト教には、「有色人種は、黒人は、人ではない」
 とみる歴史が流れて来ております」。
  この様な見方に影響された人々がしたことは、黒人の
 方々の奴隷解放の努力で、黒人の奴隷解放に一旦ちょっ
 ぴり至っても、直ぐに自分たちの利にとらわれ、元に戻
 ってしまうという事も起きたりした。
  悲しいかな、黒人の方たちは、「人間ではない、奴隷
 という原罪がある」と理由づけられた考え方をされてい
 ました。
  キリスト教聖書にも書かれている奴隷制は、疑問なく
 容認するという考え方にありました。
  キリスト教聖書に説かれている奴隷制、当然のごとく、
 奴隷制を容認し、黒人の方達を奴隷として虐げました。
 この奴隷制寡頭勢力(かとうせい【寡頭制】 少数者が
 権力を握って行う独裁的な形態)は・・、
 自分たちの利が脅(おびや)かされ、自分の意に合わな
 い相手を殺す教義「異教徒は殺せ」の教義のままに行動
 した。
  その様なアメリカの中でも、共和党は、アメリカ全土
 の奴隷制反対勢力が応援し、育て、強固にした党だった。
  民主党は、奴隷制を容認する党だった。
  この様な中、1861年、南北戦争が起き、リンカーンは、
 この年に大統領に就任した。
  しかし、後代の歴史家が、「南北戦争は奴隷解放戦争」
 と位置付けしているが・・どうしてどうして・・
  この大切な時、このリンカーン大統領の大統領就任演
 説は、『奴隷財産を擁護する論理展開をするという卑劣
 な演説』だった。
  奴隷財産容認論のリンカーン大統領・・だった。
  アメリカ北部の政権は、プロパガンダをしてこの事を
 隠しました。
  リンカーンは、この様な大統領だった・・『何と愚か
 な演説なのだ』と彼に突き付けたい・・
  また、リンカーン記念堂の前に、この事実をはっきり
 説明書きした看板を立てたい。
  リンカーンの擁護派は(ようご、かばい守ること)、
 「奴隷制について、反対するか? 賛成するか? わか
 らない州が存在したから」と、筋の通らない言い訳した。
  それは嘘だ・・奴隷解放が大切な政治信条なら、この
 最大のチャンスに大きな声で、この時こそ訴えねばなら
 ない・・これが常識だ・・、
  その後の行動を見ても分かる・・
  リンカーンのその後の行動からみても、「奴隷解放の
 大統領」とは言えない。
  南北戦争の戦況は、リンカーンの奴隷解放への意思も
 なく、
  また、黒人の方々への人権無視や・・
  リンカーンの政治的意思の不決断もあって・・、
  また、北部軍首脳部の腐敗もあって・・北部軍は敗北
 が続いた。
  北部のシンボルである首都=ワシントンが、陥落する
 危険にさえさらされる緊急事態にもなった・・、
  この状況を救ったのが、黒人の黒人奴隷解放戦士『フ
 レデリック・ダグラス』だった。
  奴隷解放に不決断だったリンカーンは、黒人の軍への
 参加をも『容認しなかった』。
  フレデリックは、「黒人奴隷も、自由黒人も、黒人を
 軍務につかせよ」・・人権を認めよと訴えた。
  さらに、フレデリックは、「奴隷に対する自由が、今
 こそ、国会議事堂から全戦場の砲焔の空高く宣言されな
 ければならない」と、その行動を起こさないリンカーン
 に代わって叫んだ。
  黒人の人権を認めて・・「黒人を軍務につかせよ、そ
 して、黒人解放軍を組織せよ」・・と・・
  そして、さらに、「我等は、北部軍の兵士となって、
 南部に進軍し、奴隷たちの間に解放の旗を揚げるであろ
 う」と、世論に向かって叫んだ。
  しかし、愚かにも、リンカーンは、首都ワシントンが
 陥落の事態になっても・・、
  リンカーンは、黒人解放の明言を避け・・「黒人奴隷
 は漸進的に解放したい、一気に解放という事はしたくな
 い」などと黒人奴隷解放への意思表示を避けた。
  この時、卑劣にもリンカーンは、「解放された黒人は、
 アフリカかどこかに植民させたい」と考えていた。
  黒人の方たちを捨てるということ、「棄民」の考えだ
 った。
  当然、黒人の方たちから、強い反対の声が沸き起こっ
 た。
  今のアメリカの原点は、独立戦争で勝ち得た国の形に
 当然、あるが・・、
  南北戦争の北部軍に原点を持つ現政権は、リンカーン
 記念堂を建てた如く・・
  「現在のアメリカ政府をたどって行くと、『南北戦争
 時の北軍政府』へとたどり着く、行き着く」。
  それ故に、アメリカは、当時の北軍の最高位置にいた
 『リンカーン大統領』を誇りとし、「美しくしていたい」
 という気持ちが強くはたらいている・・、
  それ故に、このリンカーンに関して、プロパガンダす
 るアメリカ(北部)が見られ、存在する。
  そして、そのプロパガンダのために見えない「隠され
 た真実」がある・・
  世界の善良な方達のために、この悪影響を与えている
 部分は明らかにされねばならない。
  また、この悪行為は、回り回ってアメリカ合衆国のた
 めにも成り得ない。
  真実は解き明かされねばならない・・これからの人類
 の行く末にも貢献すると確信する。
.
1882年7月23日、壬午事変(じんごじへん)
  朝鮮の首都・漢城(現:ソウル)で、この日に起きた
 事変で、親日的な閔妃(びんひ、李氏朝鮮の第26代王・
 高宗の妃)政権の軍制改革に反対して、大院君(たいい
 んくん、興宣大院君、高宗の実父)が軍隊を動かした。
  日本人軍事教官が殺害され、また、日本公使館が焼き
 打ちされたりしたが失敗した。
  この結果、済物浦(さいもつぽ)条約が結ばれた。
  しかし、この後、清国が、「朝鮮支配を強化した」。
  そして、この事変の後、清と日本の軍隊が朝鮮の首都
 である漢城に駐留することになった。
  日本の朝鮮駐留軍より、清の駐留軍の方が勢力が多く
 て強く、それを背景に、守旧派が勢力を拡大していった。
  挽回しようとした開化派は、1884年、クーデターを起
 こし、一時政権を掌握した。
  しかし、清の駐留軍が、実力行使に乗り出したため、
 日本軍は退却して、クーデターは失敗した。
  1885年、日本と清は、天津条約を締結し、両国は軍を
 撤退させ、今後、朝鮮に出兵する際にはお互いに事前通
 告をすることとした。
.
1930年代、中国の国民党軍の蒋介石は、アメリカやドイツ
 から新型兵器を購入した。
  アメリカは、軍事顧問台を派遣した。
  アメリカの介入が始まる。
  また、これとは別に・・、
  1937年5月1日、アメリカ陸軍航空隊大尉のクレア・L・
 シェンノートは、国民党航空委員会の要請で、中華民国
 空軍の訓練教官・顧問となった。
  蒋介石は、空戦経験の豊富な彼を航空参謀長として遇
 する。
  対日戦について、大戦隊を持つことを蒋介石へ進言し、
 アメリカ政府もこの計画を承認した。
  第二次世界大戦が始まる以前から、戦闘機、武器、パ
 イロットを含むアメリカ正規軍の派遣が始まった。
  ルーズベルトが承認しているれっきとしたアメリカの
 対日宣戦布告であった・・アメリカは秘密にした。
  この事が「ばれて来る」と、初め、ルーズベルトは、
 「ボランティアだ」と嘘を言ったが・・、
  れっきとしたルーズベルトのサインした命令書が、そ
 の後、発見された。
  アメリカは、日本の奇襲によって第二次世界大戦は始
 まったと「嘘を言い続けて来ている」が・・
  真珠湾攻撃前に、「日本が攻めてくる」と書いた新聞
 が、ハワイで発刊されている様に・・
  また、ルーズベルトは、家族や親類に、「明日、日本
 が攻めて来る」と言っていたことも明らかになっている
 様に・・すべては、ルーズベルトの策謀の中に、第二次
 世界大戦は始まった。
.
1931年9月18日、柳条湖事件が起きた→満州事変
  満州事変の発端となった柳条湖の満鉄戦爆破事件が起
 きた。
  アメリカにも支援され、さらに、国共合作が成った中
 国・国民政府は強気(つよき)だった。
  「日本を全面排除する」の方針で強気で過激になった
 国民政府は、強気の対応を繰り返した。
  この事変の2ヶ月~3ヶ月前の1931年7月に、「中村震
 太郎大尉事件」が起きた。
  日本の陸軍軍人の中村大尉は、中国の南興安嶺を旅行
 していた、正式なビザも所持しており、まったく合法的
 であったが、中国軍に捕まった。
  (参考)1930年6月27日、陸軍参謀本部員・中村震太郎
     大尉と井杉延太郎曹長が、この日に、洮索(と
     うさく)地方、蘚鄲公爺(そかくこうや)廟近
     くの村落で、奉天軍所属の中国屯墾軍第3団(関
     玉衡指揮)中国兵に捕えられスパイ容疑で、6月
     27日、同大尉と同行の井杉延太郎予備騎兵曹長
     ら4人が射殺された。
      事件は、8月17日、日本側によって公表され、
     前後して起こった万宝山事件とともに、国内世
     論が湧きたった。
      日本は、南京政府に抗議し、陸相・南次郎は
     この機をとらえて満蒙問題を解決するため、武
     力発動を辞さないと声明した。
      また、陸軍は、中国の排日的姿勢の現れとし
     て態度を硬化させ、1931年9月18日の柳条湖事件
     を発端に満州事変に突入した。
      前後して起こった万宝山事件とともに満州事
     変勃発(ぼっぱつ)の一因となった。
.
1937年12月7日、蒋介石は、首都とした中国の南京の陥落が
 迫る時、アメリカ軍の手によって、この日、南京を脱出
 した。
  この様にすんなり書けば「そうか!」で終わるが・・?
  南京へ迫る大激戦が行なわれている最悪事態のところ
 で、アメリカが中国の最高指揮官を連れ去るという介入
 行為は・・、
  『中国の司令部の崩壊』を意味した。
  ただでさえうろたえていた中国兵は、司令部が、突然、
 無くなって・・「指揮系統の無い『無秩序の軍』と化し
 た」。
  そして、残された中国下士官が、その自分の命令を聞
 かそうと、自軍の兵を撃つという事態さえも起きる。
  逃げ惑い、逃げ帰る中国の自軍兵へ、「逃げるな!」
 と銃で撃つことさえ起きる。
  アメリカがやったことは、救助の名目で、戦いの中国
 中枢を崩壊させ、壊滅させるという最悪な卑劣行為だっ
 た。
  混乱状態が・・さらなる混乱となった。
  悲劇的事態が、このアメリカがやった「中国司令部崩
 壊行為」で起きた。
  また、アメリカ軍の中国への支援は、スムースに行か
 ない面もあった。
  1942年、アメリカのスティウェル将軍は、この年、軍
 事顧問団長としてジョージ・マーシャル陸軍参謀総長に
 よって蒋介石の参謀長に任命され、中国に派遣された。
  しかし、その後、共産軍を賞賛し、共産軍を支援する
 姿勢を貫いたため、
  1944年、彼は解任され、彼に代わって、中国戦区の総
 司令官としてウェディマイヤー将軍が派遣された。
  この様に、アメリカは、ベトナム戦争の時も、どっぷ
 りとベトナム戦争に浸かって・・アメリカ正規軍やアメ
 リカの武器・弾薬を使って戦争をしたように、第二次世
 界大戦がはじまる前から、アメリカは、中国で日本と戦
 争をしていた。
  中国よ! 南京で中国司令部と最高指揮官たちを、ア
 メリカが連れ去って、日本の攻撃から救ったと美しく言
 うのは嘘だ。
  中国の一般兵だけが残され、それでなくても戸惑う中
 国兵が、日本兵に追われ、逃げて来る中国の一般兵を、
 中国下士官が「逃げるな!」と統制が効かなくなった自
 軍兵を銃で撃つ・・その様な行為を展示せよ・・
  『 南京事件記念館に展示せよ! 』
  アメリカが、日中戦争に秘密裏に参戦し、卑劣な介入
 をしていたことも展示し・・糾弾せよ!
  また、アメリカは、イギリスなどを巻き込んで、中国
 の蒋介石を援助する「援蒋ルート」で、中国へ武器や弾
 薬を渡し、アメリカ正規軍までが介入し、ベトナム戦争
 と同じように、アメリカ自身が、第二次世界大戦前に、
 日本へ「秘密の宣戦布告をしていたこと」も展示せよ!
.

1945年8月6日、広島に原爆が投下された。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、『敗戦が決定的』
 な日本に、次に来る世界を試したいという気持ちが働い
 た。
  アメリカだけが手に入れた新兵器・核兵器・原爆の、
 この巨大な破壊力を世界に見せつけたかった。
  熱心にキリスト教を信仰するルーズベルトには、ため
 されるその有色人種への蔑視観のキリスト教教義に洗脳
 されて、広島への原爆投下に対する躊躇感は、まったく
 無かった。
  そのような経緯の中で、モルモットとなった日本の広
 島に原爆は投下された。
  その真っ赤な灼熱の「巨大な火の玉」の下に居た、日
 常を暮らしていた広島の方々は、原爆雲となって蒸発し、
 巻き昇って行った。
  その巨大な原子雲は、昇天して行った。
  悶(もだ)え苦しみを内へ秘め、天へ昇って行った。
  また、その下にもまだ、一瞬にして変わり果てた人々
 が、もだえ苦しむ数多(あまた)の人々が居た。
  それらの情景の中の一つが・・下記だ・・、
  若い、その女性は、木の根方(ねかた、木の根もと)
 へ来たら、その木を背中にして座り、抱いていた乳飲み
 子(ちのみご)へ乳をあげた・・
  自分に、その先が無いと悟っていた・・間近な死を悟
 (さと)っていた。
  その状況を見た方が、その直前までそうだったのだろ
 うと涙した姿だった。
  木の根方で、一生懸命、乳を飲む子の・・その母親は、
 こと切れていた。
  (事切れる:息が途絶える。生命が終わる)
  広島に原爆が落ちた直後の・・この様な光景が話され
 た。
  あまりにも・・悲惨な・・情景だった。
  乳飲み子に気付いた・・自身も大きな傷を負い・・気
 づき発見したその方は、その若い母親がこと切れている
 事に気付いた・・
  自分自身の命は、長くないと悟った女性は、自身の子
 の命は永遠に続きますようにと祈って、我が子に乳を与
 えたのだろう・・我が子へすべてを与えたいと祈ったの
 だろう・・。
  我が乳を、最後の我が乳を、一生懸命に、飲む我が子
 に、せめてもの安心を得て、その安心を頼りとして、こ
 の母は、命を閉じたのだろう・・絶命したのだろう・・、
  悲惨な事に、母の死を知らぬこの子は、一生懸命、乳
 を飲み、そして、発見された・・発見したその方も被爆
 し、地獄図となった広島の中でさ迷い、必死だったでし
 ょう・・この証言は複数あります。
.
1945年9月、結局、日本人の優しさが、戦後復興をさせた。
  誰もが、確かに、生きるのに必死だった。
  明日(あした)食べるものがない、米が無い・・との
 日本だった・・
  米が無い、なんて、よく言うが、もともと、米なんて
 いう上等なものはない。
  麦だった・・銀シャリが食べたいが庶民の夢だった。
  寿司米(すしまい)だ、こしひかりだは、想像外の世
 界だった・・
  その麦だって・・あったら良い方だ。
  粟(あわ)や稗(ひえ)だ。
  「粟や稗だって言っても」、今の人は分からないだろ
 う。
  鳥や家畜が食べるもの・・、
  当時は、食べるものが無いので、鳥や家畜が食べるも
 のを人間が食べていた。
  また、何でも食べられるものを食べていた。 
  芋の蔓(いものつる)だ・・野の草だ・・
  贅沢なんて言ってられない・・ぎりぎりの生活だった。
  隣近所で・・「栄養失調で死ぬ方まで出た」。
  美食なんて言う世界は、「夢のまた夢」だった。
  それでも・・
  それでも・・日本人の方々の心のどこかに「優しさが
 あった」。
  巷の傷痍軍人の方々へ・・財布の小銭だが渡した人々
 が居た・・
  助け合う・・人々が居た・・
  社会はしっかり形成されていた・・
  戦争の大破壊にも・・壊されてはいなかった・・
  そのような状態の中で、皆は、助け合っていた。
  これが・・日本の戦後復興を支えた・・
  キリスト教の様に、困った時に、「(キリスト教の)
 神の義があるから」という免罪符を与えられて、「隣国
 の富を奪いに行く」という、その様な考え方ではなかっ
 た・・その様な発想は微塵も無かった。
  助け合った・・そこから・・生存を・・切り開いた。
  その優しい心で、戦後復興を成し遂げた・・日本だっ
 た。
.
1979年2月1日、ホメイニー氏が、15年ぶりに、イランに帰
 国した。
  イランは、ホメイニ氏を指導者とする1979年のホメイ
 ニ革命以後、イスラム法学者の指導の下にシーア派イス
 ラム教の厳しい戒律が守られて来た。
  それまでのパーレビ2世国王(モハンマド・レザー・
 シャー・パフラヴィー)は、自由主義的な立場を取り、
 アメリカと親密な関係を築いて来ていた。
  しかし、冷戦下において、欧米や日本などの先進国と
 の石油外交を基礎にした深い経済関係を元に進めてきた
 近代化政策は、1970年代中盤に起きたオイルショック後
 の急速な原油価格の安定化もあり、1970年代後半に入る
 と破綻した。
  それに伴い国民の間での経済格差が急速に拡大し、政
 治への不満も高まりを見せ、皇帝の求心力も急激に低下
 した。
  モハンマドは、テヘラン市内に戒厳令を敷き、夜間外
 出禁止令を発令するなどしてこれに対応したものの事態
 は収拾がつかず・・、
  1979年1月16日に、休暇のためにイランを一時的に去る
 と称して皇帝専用機のボーイング727を自ら操縦し、皇后
 や側近とともにエジプトに亡命した後、モロッコ、バハ
 マ、メキシコを転々とした。
  ホメイニーは、1979年2月1日に、15年ぶりの帰国を果
 たすと、直ちにイスラム革命評議会を組織し、メフディ
 ー・バーザルガーンを首相に任命した。
  その後、モハンマドが任命したシャープール・バフテ
 ィヤール首相の指揮下で皇帝への忠誠を誓っていた帝室
 親衛隊、および、イラン陸軍の空挺部隊と内務省の治安
 部隊が、ホメイニーへの支持を表明したイラン陸軍内部
 の不満分子と戦闘状態になるものの、2月11日に制圧され
 た。
  バフティヤール首相や帝室親衛隊隊長らは逮捕され、
 バフティヤール首相は、2月13日に、正式に辞任した。
  その後、イスラム革命評議会が、イスラム主義を基礎
 に置いたイスラム共和制をしいた
  その為、アメリカは、ホメイニ革命以来、反イランの
 方向を取った。
.
2018年2月20日、「中国製スマホ使うな」米情報機関、衝撃
 勧告のウラ 日本でも販売
  CIA(中央情報局)やFBI(連邦捜査局)など、
 アメリカの情報機関が、アメリカ国民に対し、中国製ス
 マートフォンを使うべきではないと勧告したと、アメリ
 カCNNが報じた。
  情報を不正に改竄(かいざん)したりする機能などが
 あるためというが、問題視された中国企業のスマホは、
 日本でも販売されている。
  大丈夫なのか・・?
  CNN(15日、日本語版)の記事によると、アメリ
 カ上院情報委員会で13日、CIAやFBI、NSA(
 国家安全保障局)、DIA(国防情報局)の高官が証言
 に立ち、
  中国のスマホメーカーが、アメリカ人ユーザーの安全
 を脅かすという見方を示したという。
  FBIのクリストファー・レイ長官は、同委員会での
 証言で、企業や自治体などで、中国の「ファーウェイ」
 や「ZTE」の製品を使うことを問題視する理由につい
 て説明。
  製品の「情報を不正に改竄したり盗んだりする機能」
 や「密かにスパイ活動を実施する機能」を指摘したとさ
 れる。
  CNNは、「(米政府は)中国政府による情報収集活
 動に利用されることを懸念」とも報じた。
  衝撃的な内容だった。
  (参考)CNN:シーエヌエヌ、Cable News Network。
      タイム・ワーナーの一部門であるターナー・
     ブロードキャスティング・システムが所有する
     アメリカのケーブルテレビ、および、衛星テレ
     ビ向けのニュースチャンネル。
      1980年に、テッド・ターナーによって、世界
     初の24時間放送するニュース専門のチャンネル
     として設立された。
      ジョージア州アトランタに本社を置いている。
.
2018年4月19日、YAHOO!JAPANニュースに記載れていた「危
 ない中国食品 2018[第2弾] 最新回収事件」(文春オンラ
 イン)
  チキンナゲット販売中止以来、中国食品に事件がない
 と思ったら大間違い。
  回収事件は、昨年も、今年も、起きている。
  なぜ中国食品の品質は向上しないのか?
  回収事件の当事者や検疫に引っかかった業者の「告白」
 から浮かび上がるのは、相も変らぬ悲惨な現場の実態。
  まず、次のリストを・・
  日本マクドナルドの中国産チキンマックナゲット販売
 中止事件(期限切れ鶏肉の使用)が起きた、2014年7月以降
 の中国食品「回収事件」をまとめたもの。
  回収された商品名と当該企業の実名を可能なかぎり記
 載している。
  日本中の関心を集めた事件の後も、中国食品が問題を
 起こし続けていることがわかる。
  先週号で紹介した食品衛生法の違反は、港の検疫所で
 基準を超える細菌数や農薬が見つかったもので、いわば
 水際で上陸を食い止められた事例。
  幸いなことにいずれも日本の消費者の口に入ることは
 なかった。
  それに対し、今週取り上げる「回収事件」は、検疫所
 の目を逃れ、いったん日本の市場に出回った食品にあと
 から違反が見つかり、市や保健所などが回収を命じたり、
 自主回収したりしたもの。
.
2018年6月4日、天安門事件きょう29年、中国で強まる人権
 弾圧(産経新聞)
  中国で民主化を求める学生や労働者が武力弾圧された
 1989年の天安門事件から、4日で29年となる。
  中国共産党は、現在も学生らの民主化運動を「政治風
 波(騒ぎ)」と位置づけ、事件に関する情報発信を厳重
 に規制している。
  人権派弁護士の相次ぐ拘束や海外亡命者の監視など、
 中国の人権状況は「深刻さを増す一方」だ。
  北京出身の芸術家、楊偉東さん(52歳)は1989年6月3
 日の夜から翌未明にかけて北京の天安門広場にいた。
  当時、大学2年生。
  戒厳部隊の銃声が鳴りやまないなか、労働者とみられ
 る男性が三輪自転車で搬送されていた。
  負傷したふくらはぎからは骨がのぞき、男性は「共産
 党にやられた」とうめいた。
  楊さんは、未明に、知人の宿舎に逃れ無事だったが、
 同年9月に大学で始まった、人民日報の感想文提出などの
 「再教育」を拒否し、退学処分になった。
  その後、表現の自由を求める芸術家として活動してい
 たが、昨年・2017年6月に、家族とドイツへ亡命した。
  しかし、国外でありながら、今年・2018年5月末から、
 中国人による尾行が目立ち始めたという。
  「中国の領事館前で行われる追悼行事に私が参加する
 ことを警戒しているのだろう」と楊さんはいう。
  習近平指導部の下で、弾圧は強まっている。
  昨年・2017年7月に、事実上、獄死したノーベル平和賞
 受賞者で民主活動家の故劉暁波氏の妻、劉霞さんは、法
 的根拠がないまま当局の軟禁が続く。
  今年・2018年1月、憲法改正に関する書簡を公表した人
 権派弁護士の余文生氏は、2018年4月に、国家政権転覆扇
 動容疑などで逮捕された。
  妻の許艶さんによると、これまで弁護士が留置場を約
 20回訪れたが、接見は一度も認められていない。
  事件で子供を亡くした親の会「天安門の母」は、2018
 年6月1日付で、習国家主席に宛てた声明を発表し、「悲
 惨な事件は歴史になったが、災難は終わらず傷口は癒え
 ていない」と強調。
  「真相と賠償、責任追及」を求め続けると訴えた。
.
2018年、日本は、恐ろしいことだが、「北朝鮮の核の最前
 線に居る」・・と、認識しなければならない。
  北朝鮮は、韓国が国境を越えない限り核攻撃はしない。
  朝鮮民族の「同胞意識」である。
  北朝鮮にとっても「朝鮮統一が夢なのだ」。
  その話し合いもなされている。
  北朝鮮は、秘密裏に技術を教えてくれる中国へ「核攻
 撃する理由はない」。
  ロシアも同じだ。
  今、北朝鮮の技術で確実に届く範囲で、「攻撃しない
 方が良いと考えられる理由のない国」は、日本だけだ。
  北朝鮮の核技術とロケット技術の開発は、日本に対す
 るものだ。
  そして、北朝鮮の欲しい生存保証は、「アメリカに求
 めている」。
  だから、北朝鮮は、アメリカに対する抑止力(アメリ
 カからの核攻撃抑止)を持ちたいと考えている。
  そして、北朝鮮の核攻撃が、日本にあった場合、日本
 は、「その第一撃で潰れる」・・だろう。
  (日本は、憲法上、第一波の攻撃の後でなければ反撃
 は出来ない・・となっている・・)
  (まったく、日本人の生存を危ういものにしている憲
 法なのである・・
  「日本人の積極的生存」をないがしろにしている憲法
 なのである・・
  他国が一生懸命生存を、生き残りを考えているのに・・
 である)
  また、その第一波攻撃に対する防衛に成功する、成功
 しないにかかわらず、第二派の核攻撃が、日本に向けて
 行なわれないように、「アメリカの核の傘」が有効に働
 くか?・・である。
  アメリカの「日本への核の傘の実施」は、アメリカ自
 身への核攻撃を呼び込むことになり、実施が何ら抵抗な
 く行われる事は無い。
  そこに、実施の抵抗がある。
  「アメリカの核の傘の実施は、一旦、始まったら、機
 能しない」。
  始まるまでの脅し・・これを大いに行わなければ、な
 らない。
  しかし、日本は、これを、していない。
  日本は、自前の核を持つ以外、子供などの「後の世代」
 に対して「責任は持てないのである」。
  その様な状況下に置かれているのである。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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# by suba28 | 2018-06-07 05:56 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)597E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月~1894年6月)

題:(増補版)597E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年5月、片倉兼太郎が、諏訪に三全社を設立した。
  片倉兼太郎(かたくらかねたろう、1850年1月12日~
 1917年2月13日、67歳)実業家、製糸資本家。
  現在の片倉財閥の基礎を築く。
  1850年、片倉兼太郎は、信濃国諏訪郡三沢村(長野県岡
   谷市)の豪農の家に生まれる。
  1873年(23歳)実弟・光治と共に10人取りの座繰製糸
   を始め・・さらに・・
  1878年(28歳)32釜の器械製糸場を自村の天竜川河畔
   に設置した。
   後に、光治のほかの弟や従弟らも経営に参加し、得
   られた利益を共有資産として、一族一致団結して器
   械製糸経営を拡大させていった。
  1894年(44歳)10月6日、長野県諏訪郡川岸村に川岸製
   糸所(三百六十釜)を新設し、三全社と称した。
  1895年(45歳)片倉組を結成し、片倉組本部を三全社
   に置き、ここに松本製糸場及び三全社は片倉組所属
   として垣外製糸場(百六十釜)のみを開明社に属せし
   めた。
   兼太郎自らは、組長となり、一族の経営を統率した。
   明治後期以降、県外にも多くの製糸工場を設置して
   行き、
  1903年(53歳)以降、一族は北海道、朝鮮などで農場・
   山林経営に乗り出すとともに、両大戦間期には保険
   業、化繊工業などへの経営多角化を進めて地方財閥
   のひとつに数えられるに至った。
  1910年(60歳)60歳を超えても、「まだ尋常小学校を
   卒えたくらいにしか思っていない」と語ったという
   ほど、常に若々しく精力的な活動を続けた。
  1920年、没後のこの年に、片倉組の製糸経営を継承し
   て設立された片倉製糸紡績株式会社は、世界最大の
   製糸会社といわれた。
   末弟・佐一が養嗣子となり、初代没後、襲名して2代
   兼太郎となる。
  1934年、2代兼太郎没により、嗣子脩一が襲名し3代兼
   太郎となる。
   いかにも豪農の家と思わせる茅葺屋根の生家は現存
   している。
  ・・そして、片倉財閥は・・、
  1873年(23歳)片倉市助が、長野県諏訪郡川岸村(現
   在の岡谷市)で座繰り(ざぐり)製糸を開始したの
   を嚆矢(こうし、物事のはじめ)とする。
   「シルクエンペラー」と呼ばれた二代目片倉兼太郎
   (片倉佐一)の手により、製糸業から発展する。
  1895年(45歳)片倉組を設立し、東京京橋に進出する。
   以降、業容を拡大し、一財閥を形成した。
  戦後の財閥解体で解散となる。
  創立50年を記念して、諏訪市に温泉施設片倉館を建設。
  2017年、施設は現在も現役。
   一部は国の重要文化財に指定されている。
  <参考文献>足立栗園『初代片倉兼太郎君事歴』、『片
 倉製糸紡績株式会社20年誌』

1894年5月、『西鶴全集』(博文館刊)など発禁となる。
  博文館は、東京の出版社で、明治時代、国粋主義的な
 雑誌を創刊した。
  そして、取次会社・印刷所・広告会社・洋紙会社など
 関連企業も次々と創業し、日本最大の出版社となった。
  帝国文庫、軍書、稗史(はいし、世間のうわさなどを歴
 史風に書いたもの)、人情本、黄表紙、洒落(しゃれ)本な
 どを網羅(もうら)していた。
  《真書太閤記》は、よく売れた。
  この帝国文庫が発禁処分を受けた。
  1893年3月から刊行を始めた『帝国文庫』は、江戸時代
 の歴史、小説、歌舞伎、浄瑠璃、随筆、紀行文などを収
 録した全50巻で、後に続編50巻が出版され、計100巻とな
 った。
  この当時、類例のない大規模な出版だった。
  大量廉価販売の先駆けとなった。
  本文総ルビ、各冊約1000ページ、一冊50銭・・画期的
 だった。
  好評で、多くの人たちに歓迎され、刊行を重ねた。
  出版開始の翌年・1894年5月、及び、6月に刊行した『
 西鶴全集』上下巻が、風俗紊乱を理由に発禁処分、発売、
 頒布が禁止された。
 この『西鶴全集』は、尾崎紅葉、大橋乙羽による校訂で
「好色一代男」、「好色一代女」、「日本永代蔵」などの
 西鶴の主要な作品がほとんど網羅されていた。
  あらかじめ風紀上問題になりそうな部分は○○という
 伏字とした。
  しかし、発禁処分を受けた。
  新聞に取り上げられ、『読売新聞』は、翌日に、「西
 鶴死す」という見出しで報じた。
  さらに、その後、政府の処分を批判する「西鶴全集の
 発売禁止」を掲載した。
  博文館は、ただちに「発売禁止に着き謹告す」という
 いう新聞広告を掲載し、その中において、同書の発行は
 好評を博し、初版を売り尽くして、再版に移ろうとした
 矢先だったと記し・・、
  「然れども西鶴の遺著尽く風俗を害するものにあらず、
 あに一部の貯めに其の全部を埋没するに忍びんや、故に
 他日其・・」と、将来の再出版を約束した。
  そして、1903年8月、『校訂西鶴全集』の上巻刊行で実
 現した。
  しかし、これが、また、発禁処分を受けた。
  平田禿木から西鶴全集二巻を借用して熱心に読みふけ
 った樋口一葉は、「之があると本当に心強い」と述べた。
  『西鶴の書誌学的研究』の滝田貞治は、この『西鶴全
 集』を、「小説のほとんど大部分を結集したのは、まさ
 に、西鶴復刻史上の画期的事業であった。
  それが、発禁の災厄にあったので、ますます紙価を高
 からしめた」と書いた。

1894年6月2日、閣議が、清国が朝鮮へ派兵したことを受け
 て、朝鮮へ混成一個旅団の派遣することを決定した。
   朝鮮国内乱ニ関シ兵員派遣ニ関スル方針ノ件
  朝鮮国内乱ニ関シ兵員派遣ニ関スル方針 右御覧ニ供ス
  明治二十七年六月六日 内閣総理大臣伯爵伊藤博文 明治
 二十七年六月二日 朝鮮国乱民内ニ起リ京城駐在公使官ヨ
 リノ来電ニ拠ルニ官兵頻ニ敗レ乱民益々猖厥ヲ窮ムルノ
 勢アリト云将来乱民京城又ハ其他ノ日本人居留地ニ侵入
 スルコト無キヲ保チ難ク従テ公使館及国民ヲ保護スル為
 ニ兵員ヲ派遣スルノ必要アリ 天津条約第三款ニ依ルニ朝
 鮮国変乱又ハ重大事件アルニ当リ日支両国又ハ一国兵ヲ
 派スルトキハ行文知照スヘシトノ明文アリ故ニ出兵ニ当
 リ将来或ハ清国ト往復関係スヘキノ時機ヲ生スルモ料ル
 ヘカラズト雖、今度ノ事ハ急速ノ事変ニ係リ我カ兵ヲ以
 テ我カ国民ヲ保護スルヲ怠ルヘカラザルカ為ニ清国ト連
 合

1894年6月2日、閣議、朝鮮派兵決議して、衆議院解散。
  この時、西欧列強は植民地争奪合戦の真っ最中で、そ
 の様な世界情勢の中で、日清戦争へ至って行く・・特に、
 アフリカとアジアは、『ヨーロッパ列強(イギリス、フ
 ランス、ドイツ、ベルギー、ロシア)』のアフリカ、ア
 ジア分捕り合戦が同時進行していた。
  特に、地理的に近いアフリカは、弱肉強食の様相で、
 ヨーロッパ列強の最大の餌食となり、領土と資源・利益
 が収奪の的(まと)となっていた。

1894年6月4日、李鴻章が、朝鮮に援兵派遣指令。
  1894年の春、朝鮮の地方の小さな反乱からはじまった
 甲午農民戦争(東学党の乱)。
  この農民軍は、全羅道内全域を解放して、朝鮮政府の
 派遣した中央直轄軍をも撃退し、さらに北上する気配を
 示した。
  李氏朝鮮政府は、袁世凱(えんせいがい、中国・清の
 軍人)の示唆により清国へ援軍を求めた。
  清国の北洋大臣・李鴻章(りこうしょう)は、これに
 応じた。
  そして、1894年6月4日、清国の陸海軍を派遣した。
  そして、1885年4月の朝鮮の甲申政変の際に、日清間
 で結んだ天津条約に基づき、清国は日本へ通告した。
  日本は、早い時期から甲午農民戦争のゆくえを注視し
 ていたが、情報は、6月2日に、朝鮮政府が、清国に出兵
 を要請するとの情報を得た。
  日本の対応も速やかだった。
  閣議を開き6000人の派兵を閣議決定し、6月5日、大本
 営を設置、6月12日、派遣軍が漢城(現在のソウル)近郊
 に、既に来ていた清国軍と朝鮮の布陣となった。
 こうした状況の中、朝鮮政府は、6月10日、農民軍と和
 約を結んで事態を収拾した。

1894年6月5日、大本営を参謀本部内に設置した。
  1893年5月19日、大本営が、勅令第52号戦時大本営条例
   によって法制化された。
   そして、日清戦争において初めて設置された。
  1894年6月5日、この大本営が、東京の参謀本部内に設
   置され、
  1894年8月1日、皇居内に移った。
   その後、当時、東京を起点とする鉄道網の西端であ
   ったこと(広島駅)、また、大型船が運用出来る港
   (宇品港、現・広島港)が有ったことで、前線に向
   かう兵站基地となった広島市に移ることとなった・・
   そして・・
  1894年9月13日、大本営が宮中からこの地に移転した。

1894年6月5日、政府が、ペスト流行の調査のため、北里柴
 三郎らを香港に派遣した。
  この後、ペスト菌を発見する。

1894年6月7日、政府が、清国に朝鮮への派兵を通告し、こ
 の日、日清両国が、相互に出兵を通告した。
  1894年5月、朝鮮で甲午農民戦争が起ると・・、
  1894年6月、李朝朝鮮政府は、鎮圧のために清国に援兵
   を依頼し、そして、次いで日本に援兵を依頼した。

1894年6月7日、長崎港にペスト患者の発生したアメリカ船
 ペリュー号が入港した。
  長崎の人々の不安を呼んだ。
  ペストが怖い病気であるという事は知られていた。
  1899年、神戸で、ペストの疑似症状で13歳の少年が病
   死した時は、新聞は、「ペスト、神戸に侵入」の見
   出しでこれを報じた(「国民新聞」1899年11月11日
   付)
   周辺諸国からの、日本へのペスト来襲を懸念した政
   府は・・、
 1899年11月18日、官報号外で勅令第434号を公布、内務大
  臣は、伝染病予防のために必要と認めるときは物件の
  種類を限りその輸入を禁止できることとした。
  そして、同日、これを施行した。
  勅令公布と同時に、内務省は省令第54号を発令、ペス
  ト予防のため、インド・清国諸港・香港・台湾からの
  襤褸(ぼろ、使い古しの布)・古綿・古着・古紙・古
  皮革・古羽毛類の輸入を禁じた(「国民新聞」1899年
  11月19日付)
  そして、この年・1899年、大阪株式市場で株価が下落
 したが、その原因は、ペストの流行とその検疫励行によ
 って物流や人の移動が阻害されたためと噂された。
  事実、ペストの侵入地と目された神戸付近と、その以
 西の鉄株は、特に売り方が多かった(「国民新聞」1899
 年11月19日付)
  1899年のペスト患者は、「時事新報」(1900年1月1日
 付)によると、総計49名(内・死亡40名)で、内訳は、
 神戸市22名(内・死亡18名)、大阪市21名(内・死亡17
 名)、姫路で1名、そのほか広島・福岡・和歌山・長崎・
 静岡で死亡者各1名ずつと発表された。 
  このままでは、ペストが、神戸・大阪・岐阜を経てや
 がて沼津に至り、鉄路を伝わって東京へ侵入するやも知
 れない・・、
  そう危惧した松田東京市長は、一つの奇策を1900年12
 月27日の東京参事会に提案した。
  それが、鼠20万匹の買い上げ作戦であった(「報知新
 聞」1900年12月30日付)

1894年6月9日、清国軍が、朝鮮の牙山(あさん)に上陸し
 た(日本は6月12日) (6月8日説あり)
  牙山は、ソウルより南に85km・大田広域市より北北西
 65kmに位置している。
  1894年6月8日、葉志超(ようしちょう)総督と、聶士
 成山西太原鎮総兵に率いられた清国軍(北洋陸軍、歩兵
 約2,500名、山砲8門)が牙山に上陸した。
  1894年7月24日時点で3880名に達した。
  (参考)聶士成(じょうしせい):清の軍人。
      日清戦争の際には、提督:葉志超に従って朝
     鮮に赴き、牙山に駐屯した。
      遼東では、大高嶺一帯で日本軍の旅団長・富
     岡三造を戦死させるなど勇戦し、直隷提督に任
     命された。
      下関条約後、清朝は、陸軍の軍制改革を行い、
     北洋陸軍を武衛軍と改め、聶士成率いる30営を
     天津近郊の蘆台に駐屯させ、ドイツ式の軍事教
     練を行った。
      1900年、義和団の乱が発生すると聶士成は、
     鎮圧に努め、京津鉄道を保護した。
      八か国連合軍が侵攻すると、6月13日より天
     津の守備に就いたが、7月9日に戦死した。
      後に、忠節の諡号を贈られた。
  (参考)山西太原:たいげん、中国の山西省の省都。
      黄河の支流、汾河(ふんが)の東岸にあり、製
     鉄・機械工業が盛ん。
      明代に建造された正方形の城壁が残る。
      人口、行政区256万(2000年)
.
  (今日の言葉)
.
  題:規制の効く日本と、ホッタラカシにして来た北朝鮮の
    アメリカの姿勢が・・この、今の状況となっている。
    アメリカは韓国から撤退し、38度線は対馬海峡となり・・
.
1866年8月16日、ジェネラル・シャーマン号事件
  1866年7月、アメリカ合衆国の帆船であるジェネラル・
 シャーマン号(武装商船)が、李氏朝鮮の羊角島に来航
 し、事件を起こした。
  目的は、通商を求めたとされる・・が・・、
  朝鮮住民の方々が殺戮され、略奪を受けた。
  これに対し、朝鮮側は焼き討ちをし、撃退した。
  当初、朝鮮側の平壌の地方官は、難破船として処理し、
 食糧や薪・水を支給し、退去を命じる方針だった。
  しかし、朝鮮側の使者の舟が、シャーマン号側によっ
 て転覆させられ、使者は捕らえられた。
  そして、さらに、沿岸の朝鮮住民が砲撃を加えられ、
 川を遡行しはじめられた。
  この異常行動に、朝鮮側も攻撃を開始し、数日間の交
 戦状態となった。
  しかし、シャーマン号は座礁し、動けなくなったとこ
 ろを・・、
  1899年9月20日、焼き討ちした。
  そして、乗組員全員を殺害した(焼死や溺死との説も
 ある)。
  1867年1月、アメリカは、アジア艦隊を向かわせ、交渉
 させた・・この交渉は、数度におよんだが黙殺された。
  1871年、アメリカは、この事件の謝罪を求め、再度、
 アジア艦隊の軍艦3隻を向かわせた・・そして、朝鮮半島
 中西部の江華島で交戦した。
  しかし、アメリカは撃退され、開港交渉は失敗した。
  この結果、李朝朝鮮王朝は、一層、鎖国政策を強化し
 た。
  このアメリカのシャーマン号は、ヨーロッパの雑貨を
 積んで、通商を求める目的だったという話もあるが・・、
 平壌に散在する墳墓から宝貨を盗掘する目的もあった。
  朝鮮側は退去を求めたが、強引に開港を迫って来て、
 朝鮮の軍使や積荷を拉致(らち)された。
.
1910年8月29日、日韓併合
  日本と大韓帝国は、1905年、大韓帝国を「保護国」と
 する日韓保護条約を締結した。
  そして、この年・1910年に、「韓国併合に関する条約」
 を結び、この条約に基づいて日韓が併合された。
  1910年8月22日、韓国併合条約が、漢城(現在のソウル
 特別市)で、寺内正毅統監と李完用首相により調印され、
 1910年8月29日、裁可公布により発効した。
  しかし、今・現在における韓国の言い方は・・
  日韓併合をしてからの状況について、韓国の子供たち
 の歴史教科書にも書いているが・・、
  韓国は、「日本に虐(しいた)げられた」と、当然の
 ごとくに書いている。
  これ等の事は、後から立場が変わってから言い出した
 ことで、条約締結時の言い方とまったく逆の言い方とな
 っている・・、
  後からでは、何とでも言えるのであるが、あまりにも
 節操のない言い方である・・
  韓国は、この様な態度は、歴史上、何度もやっている
 事であるが・・恩を仇で返すやり方となっている。
  日韓併合されて、韓国が見違えるように良くなったこ
 とは、種々のデーターや記録が示している。
  だから、日韓併合時には、その様な日韓併合状態であ
 ることが、韓国にとって都合が良かったのだ・・だから、
 条約も結んだのだ。。
  韓国は、後になって、事実をまったくひん曲げている。
  朝鮮・韓国は、江戸時代も、その様な態度を、日本に
 対してとって来た。
  そこに、中国に冊封される韓国があった。
  また、日本に虐げられたと、韓国はデーターを使って
 説明しているが、そのデーターは不確かなデーターであ
 って・・間違いデーターであることが証明されている。
  最近でも、青山学院大学の木村光彦教授の説明でも、
 その韓国の主張は否定されている。
  その1例が、日韓併合によって、韓国・朝鮮人の「米の
 消費量が減った」という韓国の主張があるが・・、
  日韓併合によって、日本が、韓国の米を持ち去った如
 くに言いたいのだろうが?・・これは違う・・間違いだ
 と木村教授は言う。
  これは、このデーターを調査した調査官自身が、デー
 ターを修正しているごとく、間違いデーターである。
  そして、減っているのでは無くて、大した変わりはな
 く・・変化はしてないのである。
  今まで、日本を貶(おとし)めたいという気持ちの韓
 国が、今まで、この間違いデーターで、プロパガンダ(
 嘘宣伝)して来た。
  日本によって、「韓国・朝鮮社会は、激しく窮乏化を
 した」と・・韓国は、自国民にだけでなく、世界へと言
 っているが、間違いデーターに基づく発言となっている。
  人口が3倍に増え、環境改善も著しく、鉄道を張り巡ら
 せ、日本国内より立派なぐらいの学校を建て、ダムを造
 り・・経済発展して、豊かになっているのに、何を言う
 かである。
  まったくひどい韓国の言い方である。
  韓国の子供たちの歴史教科書も、謝罪記事を含めて書
 き直しをしなければならない。
  逆に、日韓併合に刺激された韓国農民の方々が、主体
 性を持って努力し、米の収穫量は拡大しているのである。
  この農業の他にも・・韓国は、会社設立も認められな
 かったと言っているが、これも嘘である。
  実際、朝鮮人による企業設立も多く見られ、朝鮮社会
 の工業化が、急速に進んでいる。
  経済も順調に成長して行った。
  青山学院大学・木村光彦教授は、この様な実際の現実
 を明らかにされている。
  そして、日本は、今・現在につながる、先を見た将来
 展望に基づく開発も朝鮮・韓国にしている。
  朝鮮半島北部のウラン採掘まで・・この当時に、すで
 に、しているのである。
.
1945年5月2日、ベルリン陥落。
  ソ連軍が、ドイツ国会議事堂に赤旗を掲げた(ライヒ
 スタークの赤旗)
  このドイツ国会議事堂(ライヒスターク)は、1933年
 の放火事件以来、ナチス体制下では、公式の目的では使
 用されておらず、完全な修復も成されていなかった。
  この建物内での猛烈な戦闘の末に、1945年5月2日、ソ
 ビエト赤軍は議事堂を制圧した。
  このような時、日本の敗戦も決定的になっていた。
  第二次世界大戦に勝つ見込みは、日本には「まったく
 無かった」。
  この頃、日本は、一生懸命、和平をアメリカやソ連、
 そして、スイスなど連合国側へ働き掛けていた。
  しかし、国民へは、可哀想だが、「あくまで戦うのだ」
 の意思表示をしていた。
  和平を一生懸命に投げかけている日本へは、言を左右
 にして応じる様子を見せなかった「アメリカ・ルーズベ
 ルトと、ロシアのスターリン」だった。
  スターリンは、日本からの和平の働きかけの内容をル
 ーズベルトに話し、その状況、及び、内容は、アメリカ
 に筒抜けだった。
  その様な状況の中で、ルーズベルトとスターリンとの
 間で話がなされたことが、「日ソ中立条約を破棄して日
 本領土を奪え」というアメリカ・ルーズベルト大統領の
 ソ連・スターリンへの『そそのかし』だった・・卑劣な
 事である。
  その為の戦いの準備のためのソ連の時間稼ぎと、アメ
 リカのソ連への武器援助・・ソ連へその為の武器弾薬を
 運ぶ時間が欲しいアメリカが、そこに居た・・(実際、
 アメリカは、船で、日本攻撃のための武器弾薬を、ソ連
 へ運んでいる)・・
  そして、それと、アメリカには、これからの重要な新
 兵器となる原爆の威力を試したいという欲望があった。
  そして、世界へ、その原爆の威力を示す・・その為の
 時間が欲しいアメリカが居た。
  それ故に、和平を進めて、終りにしたくないという事
 情があった。
  だから、この時、日吉に移った日本の地下司令部は、
 苦悩の時間だけが過ぎる場となっていた。
  その日吉の地下司令部を、最初に見た時、この様な事
 情を知らなかった・・その感想・・
  題:終戦間近の最末期・・はっきり見えた・・
    そして、戦争は、そこまで破壊していたのか?
  悲しいことだが、終戦間近の最末期の姿が、はっきり
 見えた気になりました。
  第二次世界大戦の戦争末期、旗艦まで軍艦として戦う
 ため、旗艦に乗っていた海軍司令部は陸(おか)にあが
 った。
  それが、日吉の慶応義塾大学の敷地内の地下に、陸に
 上がった海軍司令部がある。
  ここを見て、ここまでして戦う意味があったのかと、
 まず、思った。
  毎日、何万という膨大な大切な命を失って、日本の方々
 が各地で亡くなっていく・・死んでいる時に、決断でき
 ない最高のトップが居た・・慶応に行って思った、見え
 た。
  当時の、この戦争の責任者、指揮官方の・・トップの
 最上位の人たちは、ただ流されるように、右往左往して
 いた姿が見て取れた。
  勝つ見込みは無いことを、遠の昔に十分わかっている
 のに、そして、いま、その手が打てない状況の中で、こ
 の穴倉の中で、何をしていたのか?
  自分に死がおよぶことを恐れていたのか・・?
  その感がする。
  自分の死に、恐れをなしていた姿が、見れたような気
 がした。
  悲しい、本当に悲しいことだが・・・。
  停戦のボタンが押せないでいたトップたちが、ここへ
 行って、はっきり見えた。
 (参考)き‐かん【旗艦】艦隊の司令長官・司令官が乗
    って指揮をとる軍艦。マストにその司令官の階級
    に応じた旗を掲げる。
  終戦の詔を聞いて、最高戦争責任者の中に、腹に銃を
 発射し、自殺を図った人がいた。
  腹であったため死ねなかった。
  A級戦犯となり「死刑」となった。
  腹に撃っては死ねない。
  知っているはずなのに。
  この地下司令部の壕は、慶応大学の隣の民間人の地へ
 も伸びていた。
  緊急極秘につくられたが、この壕は、アメリカ軍に攻
 撃され、不幸なことに、この隣の民間人の方が亡くなら
 れている。
  送受信アンテナも、離れて設けたりしていたが、アメ
 リカ軍には、はっきり分かっていたようだ。
  誰が戦争を止める「 断 」をするかが、まったくう
 やむやだったとの事・・
  その様な状況の中に「ふわふわ」とあったような・・
  意志を出せない中で、時間だけが過ぎる組織だったよ
 うだ・・
  戦争は、「 そこまで破壊して居た 」のか・・
  ・・と、上記の様に、見学直後に感じたが・・
  実際は、日本は、和平を、一生懸命にしていたが・・
 それに応じない連合国側が居たことが・・その後になっ
 て分かった。
  ルーズベルトは、「アメリカの若者が死なないためと
 称して、原爆を落としたのは・・完全な嘘。
  戦後を見据えて・・日本をモルモットにしたのだった。
.
1945年5月頃、木銃で下から敵を撃滅せよ・・
  弾もでない木の銃で、子供に何をさせようとしたのだ
 ろうか・・
  私の履歴書:商船三井最高顧問・生田正治氏(抜き書き)
  1944年7月には、サイパン島守備隊が玉砕し、本土への
 空襲激化は時間の問題となったため、主要13都市で学童
 疎開が開始された。
  毎朝10時以降に警戒・空襲警報が出れば、昼の給食用
 の芋や代用食のドングリでこしらえたコッペパンなどを
 受け取り、地域ごとに走って帰宅することになった。
  10時以前だともらえないので、毎日10時になってすぐ
 に警報が鳴らないかと、不届きなことを願う日々だった。
  家に帰っても遊び道具はボール一つなく、もっぱら道
 路で仲間と軍艦ゴッコなどの戦争遊びや、高射砲弾の破
 片集めに興じた。
  父に2度目の召集令状が来たのは1944年の夏頃だった
 ろう。
  近くの東横線都立高校駅まで見送り、せみ時雨(しぐ
 れ)の中で敬礼をして乗車していく父の後ろ姿に手を振
 ったのが別れになった。
  1945年2月になると、縁故疎開先もなく、まだ、東京に
 いる全学童に強制集団疎開命令が出た。
  5年生以上約100人は、数人の先生に引率されて4月早々、
 山梨県・小渕沢に向かった。
  当時の小渕沢は文字通りの寒村だった。
  私たち男子約50人は駅前の「寿旅館」に、女子は近く
 のお寺にお世話になることになった。
  朝早く起きて近くのお宮の庭掃除と、荒削りの木銃で
 の厳しい軍事教練。
  何でも米軍は、九十九里浜上陸に合わせて甲府盆地に
 落下傘部隊を降下させるので、その時は、この木銃で下
 から敵を撃滅せよとの命令だった。
  弾も出ない木の銃で、子供に何をさせようとしたのだ
 ろうか。
  毎日午前中は自習だった。
  本を読んだり手紙を書いたりしてなんとなく過ごし、
 午後は勤労奉仕で山に枝払いや薪取りに行かされた。
  いつも腹をすかせていた。
  主食は大豆が8割で、残りの2割が米、麦と雑穀。
  炊くと大豆は膨らむので、見た目には大豆だけのよう
 だった。
  下痢をする者が多かったが、申告しても薬はない。
  決まって絶食療法を言い渡されるのがわかっているか
 ら、食べ盛りの私たちは、誰もがギリギリまで我慢した。
        (参考:日本経済新聞、2011年1月4日)
.
1945年8月6日、アメリカの卑劣な広島への原爆投下
  日本政府の 原爆投下に対する抗議
  カッセーゼ教授は、
  日本政府が、広島に原爆投下に対して、
  「それは、不必要な苦痛を与える非人道的兵器の使用
 を禁ずる国際法原則に違反する」との理由で、
  スイス大使館を通じてアメリカ政府に抗議を行った事
 実に触れ、
  短文の通諜ではあったが、
  立派な主張を提示したと述べている。
        (本:世界が裁く東京裁判、41頁)
  (参考)つう‐ちょう【通牒】 [名](スル)
    1 書面で通知すること。また、その書面。
    2 「通達1」の旧称。
    3 国際法上、国家の一方的意思表示を内容とする
     文書。「最後―をつきつける」
       ・
       ・
2010年12月2日、アメリカが、「世界の警察」を任じられな
 くなった時、日本は?
  景気低迷で疲弊するアメリカ・・、
  横浜で、オバマ大統領と会談した日本の菅首相は、思
 いやり予算の削減が頭にあったが、逆に、オバマ大統領
 から「増額」を求められた。
  厳しい見方の米国議員・・、
  その1:中国の軍事的脅威が増すのに、日本はアメリ
 カ軍のありがたみが分かっていない。 
  その2:沖縄の1万5000人の海兵隊員が中国に上陸して、
 何百万もの人民解放軍と戦うなんて誰も思っていない・・
  在日米軍の大規模な撤収を提唱。
  米国の2010会計年度の赤字、約135兆円・・、
  アフガニスタン戦費が重荷。 
  アメリカ議会の本音:地球の裏側まで面倒を見切れな
 い。
  オバマ大統領は、今のところ、アジアへの軍事的方向
 性は、強める方向。
  しかし、厳しい財政から続けられるかに大きな疑問符
 が周囲に・・。 
  北朝鮮とは事を荒立てたくないという心持ちか?
  アメリカ国防総省のラパン副報道官の言葉:在韓米軍
 を増強する予定はない。
  アメリカ軍のある幹部の言葉:北朝鮮の軍事施設を空
 爆するのは簡単だが、中国がどう反応するかが分からな
 い。
  軍事行動はあり得ない。
  危機管理が専門のユーラシア・グループのイアン・ブ
 レマー社長の言葉:北朝鮮は、ソウル攻撃以外の挑発な
 らば反抗はないと算段しているとみえる。 
  長引くアフガン戦争、長引く景気低迷で、疲弊するア
 メリカ・・、
        (参考:日経新聞、2010年12月2日)
.
2018年3月、中国の全国人民代表大会で・・、
  習近平国家主席は、21世紀半ばまでに、世界一流の軍
 事力を備えた「社会主義現代化強国」と、
  「一帯一路」の推進による中国主導の「人類運命共同
 体」を建設すると宣言した。
.
2018年4月17日、中国依存のドイツが味わう「ゆでガエル」
 の恐怖・・という記事が掲載された。
  ドイツの怖(こわ)いところ・・、
  ドイツは、ここ10年間、中国に非常に接近している。
  長いことドイツは、中国の政治体制に目をつぶり、中
 国と一体となって『儲けの話に加わってている』。
  ドイツの頭にあることは、『儲かれば良いのだ』にな
 っている。
  中国主導で進められているAIIB(アジアインフラ
 投資銀行、2016年1月16日に開業式典を行った)にどっぷ
 り浸(つ)かっている。
  アジアでインフラが進み、投資家は儲かる。
  アジアは、徐々に近代化されて行く。
  良さそうに見える。
  ここが落とし穴。
  ここで豊かになるのが、一部の投資家だけ。
  中国と強く結びついた一部の投資家だけ。
  「今までの植民地体制」も、宗主国と一部の民が搾取
 した。
  その宗主国にドイツが加わっている形。
  問題なのがAIIBに「貧困対策が無いこと」。
  民主主義ではない政治体制の国・中国、
  独裁体制の国・中国が、この金のかかわりで影響力を
 強めて行く。
  ドイツは、中国が民主主義国家ではないという大切な
 ポイントに目をつぶっている・・見落としている。
  将来、この様な経緯で、「世界中に、民主主義ではな
 い国々が増えても良い」くらいに考えている。
  政治体制が独裁的で、中国を頂点とする植民体制が広
 がって行く。
  中国の「一帯一路」にはそのような形がある。
  中国の「大きな問題である人権問題」に目をつぶり、
 中国の「勝手な軍事的行動」にも目をつぶっている危険
 がある。
  基本的人権などもない国家・中国と共同歩調をとって
 いる。
  ドイツは、必死で守らなくてはいけないものまで「捨
 て去っている」。
  人民抑圧している国家を許し過ぎていることを、ここ
 で、見直さねばならない。
  中国は、この論に反対したいのなら、「一回でも、自
 由選挙を行なえ」。
  (最新情報資料):中国依存のドイツが味わう「ゆで
       ガエル」の恐怖(2018・4・17)・・
       [15日 ロイター]
        独建設器械大手のバウアーBSAG.DEは、こ
 の数十年間、中国に積極投資を行った多くのドイツ企業
 に比べて、優位な立場にある。
  ドイツ南部バイエルン州を拠点とする、1790年創業の
 バウワーは、中国合弁パートナーの顔色をうかがう必要
 がない。
  上海と天津にある2つの工場は、100%自社で所有して
 いるからだ。
  また、同社が製造する特殊建設機械は、アジア全体で
 販売されており、不安定な中国建設市場における景気の
 波に左右されずにすむ。
  しかし、それでも一族経営の7代目にあたるトーマス・
 バウアー最高経営責任者(CEO)は、中国における自
 社事業の状況や、これまでドイツ企業と政治家が「確実
 に儲かる賭け」とみなしてきた中国との経済関係全般に
 ついて、危惧していると語る。
  「ドイツは、1つのバスケットに卵をたくさん入れす
 ぎた。
  そのバスケットとは中国のことだ」と話す62歳のバウ
 アー氏。
  バイエルンのアクセントが強く、陽気なバウアー氏は、
 ミュンヘンから車で約1時間の距離にあるシュロベンハ
 ウゼンの本社でロイターの取材に応じた。
  同社の懸念は、ドイツで広まりつつある恐れを示して
 いる。
  ここ10年以上、ドイツ経済は、世界金融危機やユーロ
 圏債務問題、大量の難民流入などにも耐え、欧州成長を
 けん引してきた。
  その強さの裏側には、2つのエンジンがあった。
  ドイツの革新的企業が、成長経済が必要とするハイエ
 ンド(高性能、あるいは最高級であるさま)な製品を数
 多く生産してきた。
  また、ドイツは、オープンでルールに沿った世界貿易
 システムから利益を上げることに長けており、そこから
 競争力を得ていた。
  中国は、この両面で重要だった。
  この10年、外国企業に対して徐々に門戸を開く中で、
 中国は、ドイツ製の自動車や機械を驚くべきペースで買
 い上げている。
  ドイツの自動車メーカーは、昨年だけで、米国販売の
 3倍以上に相当する500万台近くを中国で売り上げた。
  しかし、依然として好況が続いているものの、「ドイ
 ツ株式会社」の中国市場に対する見方には、劇的な変化
 が生じつつある。
  習近平政権の下で、中国の開放政策が逆回転を始めて
 いるだけでなく、中国企業も、ドイツ側の予想を大きく
 上回るスピードでバリューチェーン(価値連鎖)の上流
 へ移動してしまったのだ。
  ドイツが抱える中国のコナンドラム(謎)は、欧州が
 直面する、より広範な試練の一角だ。
  ここ数年、内向きな危機対応に追われていた欧州は、
 今後待ち受ける地政学的、経済的リスクに対応するには、
 政治的に分断されており、まだ準備不足の状態だ。
  欧州大陸はいまや、自己主張を強める中国と「アメリ
 カ・ファースト」を掲げるトランプ米大統領の間で、板
 挟みになるリスクに直面している。
  中国におけるドイツ企業の窮状を、密かに「ゆでガエ
 ル」に例える企業幹部もいる。
  常温の水にカエルを入れ、徐々に過熱すると、熱湯に
 なった時には跳んで逃げることもできず、ゆで上がって
 死んでしまうのだ。
  ドイツのクラウス駐中国大使は、ベルリンで先月開か
 れた企業経営者との会合で、ドイツと中国の関係に「地
 殻変動的な変化」が起きると警鐘を鳴らした。
  同会合の出席者が明らかにした。
  「中国とのパートナーシップの新時代について、われ
 われは心構えを呼びかける必要がある」と、ドイツ最大
 の産業グループであるドイツ産業連盟(BDI)の幹部
 は話す。
  「まだ今は黄金時代だが、今後何が起きるかについて
 は重大な懸念を持っている」
  <国家の役割>
  ドイツ企業は、先頭を切って中国進出を果たし、中国
 経済の発展に伴ってドイツに有利な状況をもたらした。
  2国間貿易は昨年、過去最高の1870億ユーロ(約24.7
 兆円)に達し、中国との貿易高がそれぞれ700億ユーロ程
 度だった英国やフランスを大きく凌駕している。
  2017年のドイツの対中貿易赤字は140億ユーロだったが、
 米国が抱える対中貿易赤字3750億ドル(約40兆円)に比
 べればわずかだ。
  世界70カ国で1万1000人を雇用するバウアーは、1990
 年代半ばに同社にとって初の中国生産施設を建設した。
  その当時は、高層ビルや発電所、空港などの基礎工事
 に必要な、同社が誇る黄色の巨大で複雑な掘削機を生産
 可能な中国企業は1社も存在しなかった。
  だが、2013年までに、そうした掘削機を生産できる中
 国の競合企業が36社に増加。
  バウアーCEOは、欧州サプライヤーが共同開発した
 部品を中国に売却したことで、シフトが加速されたと指
 摘する。
  10年前、バウアーの中国工場には1億ユーロ超の売上
 げがあった。
  続く9年のうち5年の年間売上げは、その半分に達しな
 かった。
  現在では、バウアーを含めたドイツ企業は、中国政府
 が自国経済に及ぼす役割を、何よりも懸念しているとい
 う。
  中国は、昨年、サイバーセキュリティ法を制定し、外
 国企業が本社との機密連絡に使う仮想プライベートネッ
 トワーク(VPN)を含めたインターネットに対する国
 家統制を強化した。
  最近では、複数のドイツ企業が、中国合弁パートナー
 の取締役に共産党役員を受け入れるよう圧力を受けてい
 ると苦情を申し立てている。
  バウアーCEOは、習近平国家主席が唱える「中国製
 造2025(メイド・イン・チャイナ2015)」戦略が、ドイ
 ツ製造業の優位を直接脅かすのではないかと懸念する。
  同戦略では、ロボティクスや航空産業、クリーン動力
 で動く自動車など10分野を重点分野に指定している。
  バウアーCEOは、自社の強みを維持するため、デジ
 タル化を急がせている。
  「これは模倣者との競争ではない。
  これは、われわれに取って代わろうとする革新的エン
 ジニアとの戦いだ」と、バウアーCEOは言う。
  「早期に答えを見つけ出さなければ、非常に悪い結果
 を招くだろう」
  <トランプ関税>
  ドイツが抱える不安は、中国に対して数百億ドル規模
 の追加関税を突き付けたトランプ米大統領の懸念に似て
 いる。
  しかし、ドイツ主要企業があまりにも中国市場への依
 存を深めていたため、独政府は中国との衝突を避けてき
 た。
  独自動車大手ダイムラー(DAIGn.DE)は2月、いかに一
 部企業が中国政府を怒らせないよう臆病になっているか
 を自ら体現している。
  チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世の言葉
 を引用した、高級車ブランドのメルセデス・ベンツのイ
 ンスタグラム広告が、中国で大きな反発を呼んだことを
 受け、同社はこの広告を削除した。
  その上で、同社のツェッチェCEOは声明を出し、「
 不注意で無神経な過ち」により、中国人に「痛みと悲し
 み」を与えたとして、深い遺憾の意を表したのだ。
  「ドイツの人々が、中国について話すことと、彼らが
 実際に考えていることの間には大きな違いがある」と、
 ベルテルスマン財団のベルンハルト・バーチ氏は言う。
  同財団は、「10年後には、中国が欧州の政治・経済シ
 ステムを大きく損なっている」と題する討論会を、ベル
 リンに本拠を置くメルカトル中国研究所(MERICS)
 と合同で今月行う予定だ。
  中国で活動するドイツ企業のムードも冷めつつある。
  中国のドイツ商工会議所が、昨年後半に行った調査に
 よると、中国内の新たな場所に投資を計画している企業
 数が、久しぶりに会員企業の半数を割り込んだ。
  また、中国に進出したドイツ企業の13%近くが、今後
 2年以内に撤退する可能性があると回答した。
  過去数十年間、中国に対するドイツのアプローチは「
 通商を通じた変化」という言葉で説明することができた。
  だが今や、この戦略は崩壊した。
  政府関係者からは、「ウィン・ウィンの新しい意味は、
 中国が2度勝つということだ」といったブラックジョー
 クも聞こえてくる。
  「緊密な経済関係が、開放を促進することを期待して
 いた。
  だが、明らかにそれは誤った期待だった」と、ある政
 府関係者は語る。
  「彼らは、口ではわれわれが聞きたがっていることを
 言うが、その正反対の行動を取る」
  ドイツ政府も、方針転換を始めている。
  昨年、中国家電大手の美的集団(000333.SZ)による独ロ
 ボット大手クーカ(KU2G.DE)の買収が批判を浴びたことで、
 ドイツ政府は外国企業の投資に対する規制を強化し、欧
 州における買収審査に関する新ルール策定に向けて動き
 始めた。
  昨年12月には、中国当局がソーシャルメディア上の偽
 アカウントを通じてドイツの政治家情報を集めていると
 独情報当局が指摘し、中国側を激怒させた。
  このように公然と非難することはまれで、中国にメッ
 セージを送る意図があったとドイツ政府は述べている。
  今年、予定されているドイツと中国の首脳会談におい
 て、独側はより強硬な姿勢を取る方向だと、政府高官は
 語る。
  しかし、その一方で、欧州連合(EU)の内部分裂や、
 単独歩調を崩さないトランプ米政権と欧州との距離が広
 がっていることから、中国政府に方針転換を強いるのは
 困難だと認識している。
  「中国が、本当に心配しているのは、欧州と米国が、
 中国に対して共同歩調を取ることだ」と、ドイツ政府関
 係者は語る。
  「その意味で、トランプ大統領はまさに中国にとって
 天の恵みだ」
.
2018年5月20日、この日の読売新聞に・・、
  「『日米欧』対『中国』の競争の時代」として、『世
 界秩序』はどの方向へ進んで行くのか・・についての意
 見が記載されていた。
  論者は、JR東海名誉会長の葛西敬之(かさいよしゆ
 き)氏である・・
  それを参考に、その抜粋を以下に記す・・
  「世界秩序は今、第二次世界大戦後、最大の転換期に
 入って来ている。
  それは、中国が世界秩序に対してとって来た曖昧な態
 度を改め、独自の価値観に基づいた新しい秩序作りに着
 手する姿勢を鮮明に打ち出したことで顕在化した。
  米国や欧州は、これまで、中国を国際市場に受け入れ
 て、経済的発展を支援すれば、やがて、中国の民主化が
 進み、自由と民主主義を基盤とする世界秩序に同化する
 と考えて来た。
  だが、中国政府は、自国の市場を閉ざしたまま、自国
 企業の海外市場への進出を強力に支援して、経済成長を
 遂げる一方、国内では、民主的な動きを警戒して、市民
 に対する言論統制を強め、軍備の近代化と増強を急速に
 進めている。
  3月の全国人民代表大会で、習近平国家主席は、21世紀
 半ばまでに、世界一流の軍事力を備えた「社会主義現代
 化強国」と、「一帯一路」の推進による中国主導の「人
 類運命共同体」を建設すると宣言した。
  これを見て、米欧は、中国が権威主義的な価値観に基
 づく独自のシステムを構築し、既存の世界秩序に挑戦す
 る意思表示と受け止め、対応を転換しつつある。
  世界は、異なる価値観に基づく二つのシステム、すな
 わち「自由・民主主義システム」と「新・中華システム」
 の間での競争時代に突入した。
  日本は、「自由・民主主義システム」の最前列に立つ
 ことになった。
  日本にとって喫緊(きっきん)の問題は、勿論、北朝
 鮮の核武装であり、その速やかな非核化である。
  但し、それは、北朝鮮の主体的な動きとして捉えるの
 ではなく、中国の前衛として、さらには、米中関係の一
 端として見るべきである。
  加えて、北朝鮮と国境を接する韓国の北朝鮮への傾斜
 が事態をより複雑にしている。
  韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員
 長による南北首脳会談が4月27日に行われ、「板門店宣言」
 が発表された。
  宣言には、抽象的な言葉が羅列されているが、その含
 意は明らかだ。
  「核のない朝鮮半島」という表現には、北朝鮮の核だ
 けでなく、米国の核をも争点にする底意が感じられる。
  また、「南北終戦宣言と平和協定締結」は、国連軍司
 令部を解散し、在韓米軍を形骸化する狙いをにおわせる。
  しかも、速やかに北朝鮮を非核化する意思は感じられ
 ない。
  総じて板門店宣言は、中国にとっても好ましい内容と
 なっている。
  こうした中で、日本にとって寛容なのは、日米同盟に
 依拠して揺るがない基盤を築くことである。
  力強く自信にあふれて日本と共に行動する米国と、そ
 れを同盟国として支える日本の覚悟が問われている。
  板門店宣言を一読して、「米国は、早晩、在韓米軍の
 撤退を提起するだろう」と感じた。
  韓国の強い要請と積極的な協力が無ければ、在韓米軍
 は機能しない。
  いずれ、撤退を決断せざるを得ないのであれば、「早
 く提起する方が賢明」という判断には理があると思う。
  北朝鮮の核に対する米国歴代政権の曖昧な姿勢が韓国
 民の不安を招き、今日の朝鮮半島情勢の流動化につなが
 ったとも考えられる。
  故に、米国が、新たな決意のもとに、韓国民の真意を
 問い直すことは意味がある。
  その場合、日本の立場は難しい。
  在日米軍に反対する勢力は勢いづくだろう。
  しかし、現実を直視すれば、日本の安全と独立が、今
 日ほど危機に瀕し、日米同盟による抑止力が死活的に重
 要だったことはない。
  「逆もまた真なり」で、米国にとって、日本の防衛と
 その為の米軍の存在は、ますます死活的になる。
  こうした中で、大切なのは強固な日米同盟を堅持する
 事であり、社会・産業分野においても、日米の連係を強
 める必要がある。・・以下略・・
  以下は、TPPへのアメリカの復帰を促す・・と、日
 米の「5G]技術の構築・・「第4次産業革命」の競争
 優位を持つ(中国も、戦略として5G分野を握り、中国
 企業の技術的優位性を保持させ(デジタルシルクロード
 の展開)・・情報戦略・・アメリカは、その中国戦略に
 対抗し、中国企業のアメリカの通信インフラでの使用リ
 スクを回避しようとしている・・この面での競争激化・・
 国家統治の安全保障・・
.
2018年、アメリカは、コントロールが効く日本に、「核を
 持たせたくない」と、「核は持たせない」と、やって来
 た。
  そして、アメリカは、日本の世論操作までした。
  アメリカは、韓国には『論外の国だ』という厳しさで
 やって来た。
  やはり、韓国も核は持ちたいと意識していたが、この
 様なアメリカに不満を持ち、秘めていた。
  ここで、今(2017年)、北朝鮮が核保有国になった。
  そして、この北朝鮮と韓国は、中国の冊封国、もしく
 は、冊封国への道を進んでいる。
  韓国は、「北朝鮮と一体となった国」になりたいと思
 うのと共に、この北朝鮮の「核の傘の下に入りたい」と
 も思っている。
  この意味で、今・現在(2018年)、韓国のアメリカ離
 れが進んでいる。
  あるのは、核保有国となる韓国である。
  北朝鮮の金日成の時からの方針である「核保有」は、
 今・現在、北朝鮮は達成し、韓国と共に核保有の軍事態
 勢に成功したとされる直前となっている。
  規制の効く日本と、ホッタラカシにして来た北朝鮮の
 アメリカの姿勢が・・この、今の状況となっている。
  アメリカは韓国から撤退し、38度線は対馬海峡となり、
 その先には核保有した朝鮮が居るという状況となる。
  その日本では、相変わらず国家の防衛論よりモリカケ
 論に終始する状況が続いている・・
  このまま、なし崩し的に・・隣の家までが核を持つ、
 それに怯(おび)え続ける日本となって行くのか??
  中国に脅されて重要技術を取られるという様な事が、
 隣国へもするような日本となるのか・・??
  そして、新聞に以下のことが記されていた・・
  「中国は、巧(たく)みに日本の親中派を厚遇し、批
 判的な人を冷遇して来た。
  しかし、そうすればするぼど、戦略思考を持つ政治家
 とのあいだの対話が成り立たず、利害調整がしにくくな
 って来た」・・と・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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# by suba28 | 2018-05-30 04:52 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)596E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月~1894年5月)

題:(増補版)596E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月~1894年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年5月16日、北村透谷が自殺(縊死)
  北村透谷(きたむらとうこく、1868年~1894年)評論
 家、詩人。)
  1868年12月29日、相模国足柄下郡小田原で没落士族の
   家に生まれる。
  1881年(13歳)一家で上京し、東京の数寄屋橋近くの
   泰明小学校に通う、翌年、卒業。
  1883年(15歳)横浜のグランド・ホテルのボーイとな
   り、この年、東京専門学校(現:早稲田大学)政治
   科に入学。
  1886年(18歳)この頃まで、東京専門学校に籍を置く
   が、左翼と知り合い、自由民権運動に参加する。
   学校は卒業はしていない。
    自由民権運動は閉塞してゆく・・、
    大阪事件の際、同志から活動資金を得るため強盗
   をするという計画を打ち明けられ、その行動を勧誘
   された・・苦悩のうちに参加を拒絶し、絶望してそ
   の運動を離れる。
  1888年(20歳)数寄屋橋教会で洗礼を受ける。
  1888年(20歳)石坂ミナと結婚、キリスト教への入信
   を支えにする。
    通訳として麻布教会へ通う。
  1889年(21歳)『楚囚の詩』を自費出版したが、出版
   直後に、その出版を後悔し、自ら回収し、みずから
   廃棄した。
   第一::曽《か》つて誤つて法を破り
   政治の罪人《つみびと》として捕はれたり、
   余と生死を誓ひし壮士等の
   数多《あまた》あるうちに余は其首領なり、
   中《なか》に、余が最愛の
   まだ蕾《つぼみ》の花なる少女も、
   国の為とて諸共《もろとも》に
   この花婿も花嫁も。
   第二::余が髪は何時《いつ》の間《ま》にか伸び
  ていと長し、
   前額《ひたい》を盖《おお》ひ眼を遮《さえぎ》り
  ていと重し、
   肉は落ち骨出で胸は常に枯れ、
   沈み、萎《しお》れ、縮み、あゝ物憂《ものう》し、
   歳月《さいげつ》を重ねし故にあらず、
   又た疾病《しつぺい》に苦《くるし》む為ならず、
   浦島が帰郷の其れにも
   はて似付《につ》かふもあらず、
   余が口は涸《か》れたり、余が眼は凹《くぼ》し、
   曽《か》つて世を動かす弁論をなせし此口も、
   曽つて万古を通貫したるこの活眼《かつがん》も、
   はや今は口は腐《くさ》れたる空気を呼吸し
   眼は限られたる暗き壁を睥睨《へいげい》し
   且つ我腕は曲り、足は撓《た》ゆめり、
   嗚呼《ああ》楚囚! 世の太陽はいと遠し!
   噫《ああ》此《こ》は何の科《とが》ぞや?
   たゞ国の前途を計《はか》りてなり!
   噫此は何の結果ぞや?
   此世の民に尽したればなり!
   去《さ》れど独り余ならず、
   吾が祖父は骨を戦野に暴《さら》せり、
   吾が父も国の為めに生命《いのち》を捨《すて》たり、
   余が代《よ》には楚囚となりて
   とこしなへに母に離るなり。
  1889年(21歳)日本平和会の結成に参画、機関誌『平
   和』に寄稿。
  1891年(23歳)5月、『蓬莱曲』を自費で出版する。
    劇詩で、キリスト教的世界観からインド仏教的世
   界観への屈折がみられる。
    養真堂刊という形で自費出版した。
    蓬莱山つまり富士山の麓(ふもと)・中腹・絶頂を
   舞台に設定、現世を捨ててここにきた気性鋭い内攻
   的な青年に、大魔王が自分こそこの世の物質的な繁
   栄を支配していると同時にその破滅をも支配してい
   る、と告げ、自分に服従せよというが、青年はそれ
   を拒み富士山頂で死ぬ。
    青年は、作者透谷のおもかげを宿す。
    未完の『蓬莱曲別篇(べつへん)』が付載されてい
   て、そこでは青年の恋人の愛が彼の霊を彼岸(ひがん)
   での救いに導く。
  1892年(24歳)評論「厭世(えんせい、この世・人生
   をはかなむ)詩家と女性」を『女学雑誌』に発表。
   「恋愛は人世の秘鑰(ひやく、秘密のかぎ)なり」
  1893年(25歳)島崎藤村らと創刊した『文学界』誌上
   に「人生に相渉るとは何の謂ぞ」、「内部生命論」
   など多くの文芸評論を執筆する・・しかし、ロマン
   チシズムの文学論は透谷自体を追い詰め、病気、貧
   困なども加わる。
  1894年(26歳)次第に精神に変調をきたし、評論『エ
   マーソン』を最後に、芝公園で首吊り自殺をした。
    原罪を意識させ、自分は悪いのだを洗脳させるキ
   リスト教・・この様な希望のない性悪説ではなく、
    一切衆生悉有仏性・・皆が持つ希望の仏性・・の
   未来の希望はあるの考え方を持つように・・
  (参考)大般(だいはつ)涅槃経に、「仏身常住(ぶ
     つしんじようじゆう)」:悟りを開いた仏の身
     体は法として永遠に存在する・・
      「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうし
     つうぶつしよう)」:すべての方々、また、生
     きとし生けるもの、すべてが、生まれながらに
     して、仏となりうる可能性(仏性)を有し、す
     べてを悟り得る存在です・・、

1894年5月26日、山形市大火。
  この大火は、山形市南大火と呼ばれ、蝋燭町(ろうそ
 くまち、現:十日町の嘯月あたり)を火元とし、強風に
 よって火の手は四方に広がり、約10時間燃え続け、十日
 町・八日町・三日町・小姓町など、市外南部を中心に、
 17ヶ所に及んだ。
  焼失したのは本家数だけで1,608軒。
  因みに、 ろうそくの製造を家業とする職人が住んでい
 たことから名付けられ・・、
  当時の絵図には「アカシマチ」となっている。
  この町の最上ろうそくは明るく長持ちすると大変好評
 で、徳川家康が夜宴を開いた際、暗いので最上ろうそく
 に取り換えさせたというエピソードがある。
  領主の最上家の将軍家への土産品にも蝋燭は欠かせな
 いもので、慶長10年(1605年)に、家康を訪問した際に
 は千挺(ちょう、1000本)も献上した。

1894年5月26日、綿糸輸出を促進するために、綿糸輸出関税
 を撤廃した。
  この頃、綿花輸入税・綿糸輸出税の廃止運動が行なわ
 れていた・・これは・・、
  1890年に、日本の綿糸生産量は、原料綿花の輸入量を
 上回るようになったからだった。  
  国内の綿花栽培農家を保護するための綿花輸入税や、
 綿織物生産業者を保護するための綿糸輸出税の存在は、
 力がついて来た日本の紡績業の国際競争における足かせ
 となって来ていた。
  そのため、大日本綿糸紡績同業連合会は、1888年以後、
 両税の廃止を働きかけた・・また・・、
  1891年以後に、商業会議所などを巻き込んで本格的な
 運動を開始した。
  これに対して、大日本農会は、国内農家保護の観点か
 ら反対運動を起こし、帝国議会でも議論が行われた。
  だが、郵便報知新聞・日本・東京経済雑誌などの主要
 なマスコミが両税廃止運動を支持した。
  因みに、綿花輸入関税の撤廃は、1896年。
  開国後の近代化で、日本には、綿糸製造産業が、欧米
 の技術を導入して各地に設立されていた。
  そして、その産業を保護するために、産業が確立され
 るまで、その製品の綿糸が外国に流れて、日本の産業が
 育たないことにならない様に、綿糸輸出関税をかけてい
 た。
  しかし、日本の綿糸生産が、外国からの原料(綿花)
 の輸入量を超えるくらいに育ったため、そして、その育
 った日本の綿糸が輸出しやすくするために、綿糸輸出関
 税を撤廃した。
  また、綿花を国内で生産をしていたとしても、日本の
 経済成長、工業発展もあって、綿花を輸入せざるを得な
 い状況になっており・・、
  また、綿花栽培農家は、他の生産物への転換が容易だ
 ったことによって、綿花栽培農家のための保護関税を撤
 廃し、原料綿花のコスト低減のための綿花輸入関税の撤
 廃を行なった。

1894年5月30日、甲午農民戦争で、東学党軍が、ほぼ朝鮮全
 羅道を制圧した。
  李朝朝鮮政府は、清国に援助を要請した。

1894年5月31日、朝鮮農民軍が、全州占領。朝鮮内乱重大化。
  甲午農民戦争(東学党の乱): 乱徒が朝鮮全州を占領。

1894年5月31日、衆議院が、内閣弾劾上奏案を可決した。
  この年の3月1日の第三回総選挙は、自由党は30近く議
 席を回復し、硬六派は180から40議席も減少していた。
  そして、景気は良く、経済情勢には対立激化の要因は
 なかった。
  しかし、対外硬の面で、激しい対立が続いた。
  野党はなお130の議席を確保した。
  そして、さらに、無所属切り崩し、衆議院を制圧でき
 る可能性出て来た。
  また、マスコミも、国粋派の新聞「日本」や、民友社
 の「国民新聞」にまで反政府側だった。
  そして、また、枢密院や貴族院の一角までが、条約励
 行案支持となっていた。
  対外硬派の狙いは、藩閥政府の打倒にあった。
  しかし、この狙いを越えた行動・・対外硬の行動とし
 て現れて行った。
  また、中国・清側も、日本を弱小国としてみて、強硬
 な態度に相変わらずいた。
  ここに、朝鮮世情の不安定さが加わった。
  始まりは・・6月1日の李朝朝鮮政府が、東学党の農民
 軍に大敗したことにあった・・
  李朝朝鮮政府は、清国に出兵を要請した。
  日本も、清国との申し合わせによって出兵した。
  1885年に、日本と清国は、朝鮮に出兵する時には、事
 前にお互いに、相手側へ通知し合うという条約を結んで
 いた。
  この事態になるまでに、日本国内にも、マスコミが騒
 ぐ状況が起きた・・
  清の中国軍の朝鮮出兵に対し新聞論調は一夜にして急
 変した。
  国民新聞を先頭に朝鮮出兵を叫び始めた。
  対外硬もたちまち対清硬に変じた。
  1894年6月2日、衆議院の上奏が却下され、解散した。
  そして、1894年6月4日、出兵が開始された。
  そして、1894年6月5日、大本営が設置された。
  そして、この当時の国際的重要国であるイギリスと、
  1894年7月16日、日英日英通商航海条約の新条約が調印
 された。
  これは、イギリスの日本への支持を示すものでもあっ
 た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国は色々な民族の地・・
    中国は、種々の民族が入れ代わり立ち代わり領有(りょうゆう、
   領地として持つこと)した・・
    例えば・・唐が「漢民族を名乗った」のは、「中原の支配権を正当化するため」に
   自身が漢民族の末裔であることを主張したかった。
.
紀元前1万4000年、今から16,000年前の縄文時代の人骨から
 分かること・・、
  《古人骨と食べ物》 
  米田 穣氏(東京大学大学院新領域創成学研究科准教
 授):
  縄文や弥生の時代の人骨を分析して、当時の日本人が
 何を食べていたかを探る研究が進んでいる・・、
  同位体生態学・・、
  骨を分析すれば、そこから食べていたものを突き止め
 られる・・、
  古人骨に含まれる元素の重い同位体や、軽い同位体の
 比率を調べる・・
  およそ1万6000年前に始まる縄文時代の人骨・・
  亜寒帯の北海道、温帯の本州、亜熱帯の沖縄・・
  北海道では、オットセイの様な海生哺乳類、鮭などの
 魚を主なタンパク源とエネルギー源にしていた。
  本州は、氷河期が終わって森で覆われていて、クリな
 どの木の実を主食にしエネルギー源とし、魚をタンパク
 源としていた。
  これに対し、沖縄では、サンゴ礁で採れる小魚や貝類
 が主体で、これをタンパク源としていた。
  紀元前800年頃に始まる弥生時代は、稲作が伝わる。
  「縄文時代の後期に、本州の人口が減少する・・、
  森で何かが起きて、木の実が採りにくくなったのが原
 因と思われている・・、
  そこで、弥生時代には、稲を積極的に導入し、タンパ
 ク源は、従来同様、魚に求めていた・・、
  米と魚に象徴されるスシ文化は・・弥生時代に確立さ
 れたともいえる。
  でも・・、植物のデンプンをエネルギー源に、魚をタ
 ンパク源にする伝統的な日本食文化の起源は・・縄文時
 代に確立していた・・
  私たちの祖先が、アフリカのジャングルで暮らしてい
 た頃は、果実など植物質の食べ物で胃袋を満たしていて、
  サバンナに出てくると、肉食に転換した。
  初めは、猛獣が食べ残した動物の骨を石器で砕き、骨
 髄などを食べていたと考えられる。
  アフリカを出て・・欧州で進化したネアンデルタール
 人の骨を分析した結果、大型の哺乳類を主に食べていた
 事が分かっている。
  これに対し、人類学の分類上、人と直接つながるクロ
 マニヨン人が、魚や小型の動物を食べていたようで、最
 終氷期(8万~2万年前)の終わり頃、温暖化に向かう
 中で、植物を食事に取り込むようになった。
  火で加熱して糖分に替えたりして、植物のデンプンを
 食べるようになった。
       (参考、日本経済新聞、2010年9月18日)
       ・
       ・
907年、中国の唐が崩壊した。
  これは中国の統一王朝だった。
  これ以来、中国は群雄割拠の分割政権が続く。
  この唐以来の中国統一政権を樹立したのが元(げん)
 だった。
  唐の滅亡後、五代十国となる。
  そして、宋となるが、西夏や遼があり、中国統一王朝
 ではなかった。
  唐は、李淵(りえん)が、隋を滅ぼして建国した。
  李淵は、唐の初代皇帝となり、漢民族だと言われるが、
 漢民族ではない・・、
  学説での実際は・・「鮮卑系の出自であり、本来の姓
 も大野氏である」とある・・、
  鮮卑(せんぴ)は、紀元前3世紀~6世紀にかけて、中
 国北部に存在した遊牧騎馬民族であり、漢民族ではない。
  プロパガンダが働いている・・
  五胡十六国時代、南北朝時代に南下して中国に北魏な
 どの王朝を建てているが・・、
  この唐が「漢民族を名乗った」のは、「中原の支配権
 を正当化するため」に自身が漢民族の末裔であることを
 主張したかった。
  そして、この唐が滅ぶと・・中国は五代十国時代とな
 る・・これは・・
  黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)
 と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十
 国)とが、興亡する漢民族を含む『色々な民族』の時代
 だった。
  そして、宋の時代になるが、この王朝は、中国全土を
 配下に収めることが出来ず、遼や西夏が存在した。
  そして、宋は、趙匡胤(ちょうきょういん)が五代最
 後の後周から禅譲を受けて建てた国だった。
  趙匡胤は、河北省古安県の人で、父は後唐の禁軍将校
 だったから「漢民族と名のるだけの人」だった(実際は、
 鮮卑系の人・・遊牧騎馬民族)。
  そして、元(げん)が中国統一王朝を造るが・・、
 モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した王朝であ
 った。
  この様に、漢民族が『中国の地の民族などとはまった
 く言えない』・・その様な歴史が存在しているのである。
  この漢民族の現政権の中華人民共和国が、「漢民族が、
 中国古来からの民族だ」の様に言うのは、完全なプロパ
 ガンダ(嘘宣伝)で、この論理でチベット、ウィグル、
 内モンゴルの諸民族の地を、漢民族の領土にしようと暗
 躍しているのは、まったくの侵略行為となっている。
  そして、元(げん)民族に中国が駆逐され、制覇され
 た時、その国の広大さは、中国全土を飲み込むどころか、
 西は、ヨーロッパの地にまで達した。
  「漢民族の中国」などというイメージは、何処を見て
 も完全に影も形もなく、消え去っていた。
  だから、元(げん)民族が、中国の土地は我が民族の
 土地だと、現政権の中共の如くに言っても同じ理屈で言
 ってもよい・・だから、内モンゴルを漢民族の国土だと
 画策するのは侵略であり、間違い。
  その他の地も、漢民族の屁理屈で奪うのは侵略行為。
  この元(げん)は、東は、朝鮮を、いとも簡単に飲み
 込んだ・・そして・・、
  さらに、その東の日本を駆逐し、太平洋へ出たいと、
 突然の如くに、日本にやって来た。
  13世紀末の事であった。
  しかし、日本を駆逐する事は・・できなかった。
  大軍でもって、二度、日本に襲来を試みたが、目的は
 達せられなかった。
  その二度の日本襲来の軍船を造るために、朝鮮の山の
 木は伐られ、朝鮮の山は、どこも禿山(はげやま)とな
 った。
  三度目の日本襲来を計画したが、朝鮮には、その軍船
 を造るための木は乏しかった。
  そして、時代を経て・・その朝鮮の禿山に緑林したの
 が、日韓併合時の日本だった・・献身的な日本だった。
  この事例もそうだが・・日韓併合時は、日本は、一生
 懸命に朝鮮の国づくりを行なった。
  朝鮮戦争の時、その日本が植林した山に、この様な山
 に復活させた事情をよく知るアメリカ兵が、朝鮮戦争の
 戦いの為、この朝鮮の山へ砲弾を撃ち込むのが忍びなか
 ったと言っている。
  日本が、この様に、美しく復活させた植林した山だと
 思っていたと・・、
       ・
       ・
1941年半ば、徹底的に分析された幻の報告書
  第二次世界大戦の戦争の開戦の前に、日米比較が徹底
 的になされ、現状分析がなされた・・幻の報告書
  戦争開戦前に、現状を詳細に分析した報告書が存在し
 た・・
  しかし、現状認識を封印し、戦争は始められた・・
  その結果は悲惨そのものだった・・報告書の通りだっ
 た・・、・
  70年前の日米開戦前に、日本の国力を正確に予測しな
 がら、葬り去られた幻の報告書が存在した。
  戦争が始められる2年3ヶ月も前・・1939年9月、関東軍
 参謀部で満州国の建設主任から急きょ帰国した陸軍中佐
 の秋丸次朗は、「戦争経済研究班」を取り仕切って、そ
 の報告書を作成した。
  同班は「秋丸機関」と通称され、知られた。
  秋丸は、米英との戦争に耐えられるかどうかの分析を
 命じられ、東大教授の有沢広巳、後に、一橋大学学長に
 なる中山伊知郎らの学者を集め、徹底的に調べた。
  20~30人の研究チームだった。
  調査対象は人口、資源、海運、産業など広い分野に及
 んだ。
  資料収集に苦労を重ねた。
  経済封鎖をさせられている日本。
  軍需産業育成にどれだけ力を注げるのか。
  米英との力の差は。
  分析が進んで行った。
  調査開始から1年半後の1941年半ば・・、
  1941年12月8日の日米開戦まであと数カ月の時期に、陸
 軍首脳らに対する報告会が催された。
  秋丸は意を決して言った。
  「日本の経済力を1とすると、英米は合わせて20。
  日本は2年間は蓄えを取り崩して戦えるが、それ以降は
 経済力は下降線をたどり、逆に、米英は上昇し始める。
  彼らとの戦力格差は大きく、持久戦には耐えがたい」。
  これが秋丸機関の結論だった。
  列席したのは杉山元参謀総長ら陸軍の首脳約30人。
  じっと耳を傾けていた杉山がようやく口を開いた。
  「報告書はほぼ完壁で、非難すべき点はない」と報告
 書の分析に敬意を示し、そして続けた、「その結論は国
 策に反する。
  報告書の謄写本はすべて燃やせ」。
  会議から帰って秋丸は報告書を焼却した。
  有沢は、直ちに活動から手を引くように命じられた。
  秋丸機関はほどなく解散し、現状認識を封印した戦争
 が始まった。
  結果は悲惨そのものであった。
  報告書の一部が、秋丸の死後、遺品の中から発見され
 た。
  詳細を極めた報告書であった。
         (参考:日経新聞2011年1月3日)
.
1954年、中国は、ソ連からの原爆技術供与の交渉に成功し
 た。
  毛沢東は、アメリカによる、日本への原子爆弾投下以
 来、原子爆弾を持ちたいと強く願い続けた。
  原爆を使ったアメリカに恐怖した・・
  そして、朝鮮戦争中に、そのアメリカから、核攻撃を
 暗示された。
  その際に、毛沢東は、スターリンに原爆製造技術供与
 を要請した。
  この時、ソ連側は、技術供与に消極的だった。
  しかし、その後の1954年、台湾海峡危機や、ハンガリ
 ー動乱を巡るソ連内部の政治混乱が起き・・これを機会
 に、中国はソ連からの技術供与交渉に成功した。
  そして、中国は、1960年代初頭に設立した第9学会(
 北西核兵器研究設計学会)により、核兵器の開発が進め
 た。
  そして、1964年10月16日、新疆ウイグル自治区のロプ
 ノール湖にて初の核実験が行なわれた。
  また、1967年6月17日、初の水爆実験が行われた。
  中国は、アジア初の核保有国となった
.
1964年10月16日、中国が、新疆ウイグル自治区のロプノー
 ル湖にて初の核実験を行なった(コードネーム596)
  中国は、1964 年から1996 年まで、東トルキスタンの
 ロプノールの核実験場において、延べ46回、総爆発出力
 22メガトン(広島原爆の約1370発分)の核爆発実験を行
 った。
  1964年10月16日の第1回には、20キロトンの地表爆発型
 の実験を始めて行った・・空中爆発である・・
  そして、最大の核爆発は、1976 年11月17日の4メガト
 ンの地表核爆発だった・・これも空中爆発だった・・
  中国の核実験の実態は、長い間、秘密にされ、不明だ
 った。
  日本放射線防護センター代表の高田純氏は、新疆ウイ
 グル自治区で行われた核実験について・・、
  1964年~1996年に行なわれた中国の核実験によって、
 ここの住民、計19万人の命が奪われたと推定した・・
  また、劣悪な医療環境などの影響もあって・・影響は
 広がり・・約75万人の死者が出たという。
  そして、日本のNHKは、西遊記の製作のために、こ
 のウイグル地域に入った。
  1978年と1979年と、2度も続けて・・、
  このために、女優の夏目雅子さんが、この地へ行った。
  その後、夏目雅子さんに癌ができる。
  1981年の2年後に、甲状腺が腫れ(バセドー病)、この
 手術をした・・、その後に、また、瞼が腫れた・・
  1892年には、腎盂炎になり、そして、子宮内膜症にな
 る・・
  そして、夏目雅子さんは、1985年2月に白血病となる。
  そして、1985年9月に亡くなられた。
  そして、このNHKの番組「シルクロード」を見た日
 本人・27万人がシルクロードへ旅行した。
  その様な時のある日本人青年の体験は・・、
  ローカルバスで南新疆に向けて走っていると、突然、
 「ピカッ」っと光るものを見た。
  その後、バスの中を見渡すと同乗者の皆が「鼻血」を
 流していた・・その光景は、その青年には滑稽にさえ思
 えたという・・しかし、その青年も、自分の鼻に手を当
 てると自分も同じように血を流していたという。
  バスの中は騒然となったという・・
  その後、あの時、被爆したのだと思っているという・・、
  札幌医科大学教授・高田純氏は、中国西域の観光から
 帰国した後に「白血病」「肺がん」「悪性リンパ腫」を
 発症したという方や、その家族から情報が寄せられてい 
 るという・・
.
1964年10月27日、中国が、核弾頭を装備した東風2号Aミサ
 イルが酒泉衛星発射センターより発射され、20キロトン
 の核弾頭が、ロプノールの標的上空569mで空中爆発させ
 た。
.
1967年6月17日、中国が、初の水爆実験を行なった。
  威力2メガトンの熱核爆発で、爆発高度地表130メート
 ルの空中爆発の核実験が行われた。
.
1970年、中国は、この年初頭から1971年にかけて、核兵器
 をチベット高原に輸送し、青海省アムドの北西部先端に
 あるツァイダム盆地に、DF-4ミサイル発射用地を完成さ
 せ、核ミサイルを配備した。
  現在もチベット四川省のツァイダム(二カ所)、テルリ
 ンカ、青海省と四川省の境界の四カ所にミサイル発射用
 地が整備されている。
.
1973年6月27日、中国が、航空機からの原爆投下をした。
  航空機からの投下、威力2.5メガトンの熱核爆発の核実
 験を行なった。
  カザフスタンの報告では、爆発高度は1000メートル。
.
1992年、大量の死者が出された中国の原爆
  この年に、ウイグル人のアザト・アキムベク、ユシュ
 ムべク・ムフリーシ氏は、世界核被害者大会で被曝の状
 況を訴えた。
  そして、1998年に、イギリスのチャンネル4で「Death
  on the Silk road(死のシルクロード)」というドキュ
 メンタリーが放送された。
  日本では、あまり東トルキスタンの被曝の状況が知ら
 されることはなかった・・報道が隠されていた・・
.
2002年8月、中国の核による被害調査を、日本人の大学教授
 が行ない・・、
  核防護学者・高田純札幌医科大学教授による2002年8月
 以降の調査では・・、
  中国が、ウイグル地区で実施した核実験によって、同
 自治区のウイグル人を中心に19万人が急死した・・
  そして、急性放射線障害など健康被害者は129万人に
 のぼり・・、
  そのうち、死産や奇形などの胎児への影響が3万5000人
 以上、白血病が3700人以上、甲状腺がんは1万3000人以上
 に達すると発表した。
  また、被害は、シルクロード周辺を訪れた日本人観光
 客27万人にも及んでいる恐れがあり、影響調査が必要で
 あると同教授は指摘した。
  高田教授による調査は、1996年までの中国の46回の同
 地区における核実験の爆発威力や放射線量、気象データ
 や人口密度などを基礎データとした。
  楼蘭遺跡の近くで実施されたメガトン級の核爆発では
 高エネルギーのガンマ線やベータ線、アルファ線などを
 放射する「核の砂」が大量に発生し、東京都の136倍に相
 当する広範囲に及んだ。
  同教授によれば、中国の核実験は、核防護策がずさん
 で、被災したウイグル人への医療ケアも施されずに、広
 島原爆被害の4倍を超える被害者を出した。
  高田教授は「人道的にもこれほどひどい例はない。中
 国政府の情報の隠蔽も加え、国家犯罪にほかならない」
 と批判した。
  このような状況の中で「(中国政府に)実験のモルモ
 ットにされた」と訴えるウイグル人も現れた。
  ウイグル人医師のアニワル氏は、「中国では、被曝者
 が団体を作ることも、抗議デモをすることも許されない。
  また、国家から治療費も出ない。
  中国政府は、『核汚染はない』と公言し、被害状況を
 隠蔽している。
  そのため、海外の援助支援団体も入れない状況となっ
 ている。
  原爆症患者が、30年以上も放置されたまま」・・
  ・・などとして、中国政府の対応を激しく批判した。
  また、核実験場は、最も近い居住エリアから10キロし
 か離れていなかった。
  そのため、ウイグル人の悪性腫瘍の発生率が、中国の
 他の地域の漢人と比べて、35%も高くなっている。
  そして、漢人であっても、ウイグル自治区に30年以上
 滞在しているものは、ウイグル人と同じ発生率となって
 いる。
  また、先天性異常のために歩くことも話すこともでき
 ない「障害児ばかりが生まれる地域」もある。
  中国による同地区核実験については、イギリスBBCが、
 1998年8月に、隠し撮りによるドキュメンタリー「死の
 シルクロード」(27分)を報道し、
  この作品は、ローリー・ペック賞を受賞した。
  アニワル医師も、同作品に同行した。
  この様な事は、中国に利する事ばかりしている日本の
 NHKは行わないだろう。
.
2010年、西側諸国が民主化を煽った。
  「アラブの春」と・・美しい世の中が来ると煽った。
  そして、今、「難民受け入れ」を人道的な問題に絡め
 てとやかく言っているが・・それは、「事後処理をして
 いるごとく」で問題だ。
  これを、とやかく言う前に、この様な難民を発生させ
 ている原点・発生点の問題を追求しなければならない。
  難民を発生させているシリア内戦は、大国によってつ
 くられた紛争である。
  2010年より西側は、民主化を煽った。
  「アラブの春」と美しい世の中が来ると煽った。
  既存の政権が、「遅れた態勢で悪い」ように見せた。
  既存の政権を、次々と壊して行った。
  西側は、「民主主義を根付かせるのだ」が最終目標だ
 った・・が、民主主義が根付いた国は無かった。
  エジプトは、結局、軍制になってしまった。
  リビアは、国の体制がシッチャカ、メッチャカのまま
 で混沌の中にある。
  西側諸国が、かえって悪いことをした結果となった。
  西側諸国は、シリアも、アサド政権の独裁体制を倒し
 たかったのだろうが、難民を生む結果となって、泥沼が
 続いている。
  最初、西側は、アサド政権を倒したいとイスラム国と
 称したISを応援し・・武器を渡した。
  次に、クルド族を応援した。
  アメリカとEUは、このクルド族へ武器を渡してIS
 と交戦させた。
  アサド大統領は、最初から、「我々の敵は、テロリス
 トだ」と言っていたが、アメリカやEUは、聞く耳を持
 っていなかった。
  そして、結局、今・現在(2018年)の泥沼の悲惨な結
 果となっている。
  ロシアは、アサド政権を応援し、大国の代理戦争の様
 相になった。
  ロシアは、IS及びアサド反対派への空爆をしている。
  この難民もEUへ行く。
  アメリカは、何千機ものミサイルをアサド反対派の応
 援のために渡した。
  このミサイルによる難民もEUへ行く。
  EUのドイツは、第二次世界大戦の罪滅ぼしだと、難
 民を受け入れている。
  「非生産的なサイクルだけ」が回っている。
  「みんなが不幸になるサイクルだけ」が回っている。
  アメリカ・ロシアの代理戦争で難民にされた人々が、
 EUに流れ込む。
  そのどばっちりをトルコやEU周辺国などが受けてい
 る。
  トルコの難民は、何と、200万人を越えている。
  かつて、ユダヤの方々が世界中をさ迷ったが、このト
 ルコの難民の方々が世界へさ迷わないで済むようにしな
 ければならない。
  そして、元の国へ帰れるようにしなければならない。
  トルコは、トルコのお金でこの難民を救済している。
  アメリカやロシアは、このトルコを支援していない。
  また、トルコは、EUに支援を要請したが、EUは知
 らん顔をしている。
  何度も無視されている。
  難民の方々は、アメリカ・ロシアを目指せ、問題を作
 った国を目ざせ。
  トルコを反民主主義だと批判するのは間違いだ。
.
2015年9月10日、「ディー・ツァイト」紙に、スラヴォイ・
 ジジェクという哲学者の論文が掲載された。
  (参考)「ディー・ツァイト」紙:ドイツ・ハンブル
     クに本拠を置く、週刊発行される全国新聞。
      質の高い新聞としての評価されている。
      発行部数:488,036、推定読者数:200万人以
     上。
      最も広く読まれるドイツの新聞の一つ。
  (参考)スラヴォイ・ジジェク:スロベニアの哲学者。
      難解で知られるラカン派精神分析学を映画や
     オペラや社会問題に適用してみせ、一躍、現代
     思想界の寵児となった。
  スラヴォイ・ジジェク氏は、この論文の中で・・
  「現在、EUを危機に陥(おとしい)れている難民問
 題は、グローバリズムが原因で、それは新たな奴隷制度
 を形成して行くだろう」と結論付けた。
  そして、そのEUの理念は、「美しく『統合』という
 所に立っている」が・・、
  しかし、それは、美しくEU内だけが統合されている
 だけであって・・
  その美しいEUの統合の外側には、「EUが、自由に
 搾取できる広大な地域・世界が広がっている」という状
 況の中に「美しく統合を目指すEU」がある。
  EUの外側世界が搾取される1例を示せば・・
  2001年、国連が、中部アフリカのコンゴにおける資源
 の不法な搾取について調査した。
  コンゴには、豊かな地下資源がある・・
  それは、ダイヤモンド、金、コバルト、コルタンだっ
 た。
  この豊かな資源を巡って、奪い合いの戦争が起きた。
  コンゴ内戦などである。
  (参考)コンゴ内戦には、コンゴ動乱(1960年~1965
     年)、第一次コンゴ戦争(1996年~1997年)、
     第二次コンゴ戦争(1998年~2003年)がある。
      結局、1960年~2003年、戦争状態が続いた。
      この地には、この他にも、コンゴ共和国内戦
     として(1993年~1994年)(1997年~1999年)
     がある。
  その奪い合いの戦争に・・欲深いグローバル資本があ
 った。
  コンゴは、壊されていた。
  もはや、国家と言えるものは無かった。
  資源を搾取する側のEU諸国をはじめとする外国資本
 が、うごめいていた。
  その外国資本が、コンゴの各部族と結び付いて、利権
 を奪いあい・・追い求めていた。 
  EU諸国をはじめ、その外国資本は、コンゴという国
 家を無視し、コンゴの各部族の首領と結び付いて利得を
 追求していた。
  軍隊を作らせ、麻薬中毒にした少年兵にまで戦わせて
 いた。
  巨額の利益が、EU諸国をはじめとする外国資本へ入
 った。
  その利益が、コンゴの人々へ入ることは無かった。
  コンゴの人々は、鉱山で奴隷のごとくの労働をさせら
 れた。
  または、コンゴの人々は、住民の方々は、「難民とな
 って逃げた」・・逃げ惑った。
  西側が奪った、西側に入った資源は、パソコンやスマ
 ホなどのハイテク機器に使われた。
  1514年から1566年の長きにわたって、EUのスペイン
 のキリスト教徒とキリスト教聖職者たちは、南米・中米・
 北米メキシコ、および、その離島で、インディアスの方々
 の1000万人以上を殺しに殺したが・・このEU諸国など
 の1960年代の蛮行は、そのかつての16世紀の極悪蛮行を、
 再び、現代に行ったごとくだった。
.
2015年10月10日、ドイツのベルリンで、TTIP反対デモ
 が行われた。
  代々のアメリカの政権は、その政治は、一握りの者た
 ちに握られ、繰られている。
  本来ならば、大衆の意思が反映されるべき政治の権利
 が、その大衆が持つべきものが・・奪われている。
  大きな資金を寄せた者・・その寄付した者の力が牛耳
 っている。
  金によって有利に・・金を寄せた力が利する政治へと
 繰られている。
  政治を行なうものは、当然、金を必要としているため、
 金を持つ力に繰られてしまうという状態になっている。
  「その意に沿うという政治」が行われる。
  そこにはアメリカの人々・民衆は登場していない。
  これが、ここアメリカだけの問題に終わらない所に大
 きな問題がある・・世界に波及して行くのである。
  民主主義のアメリカ・・アメリカは戦争をしてまで・・
  「民主主義を根付かせるのだ」という大義を立てて戦
 争までするアメリカが・・その民主主義をないがしろに
 しているという状況になっている。
  この様に、民主主義を売り込むアメリカで、民主主義
 が崩壊している。
  この金を持つ力は、世界で莫大に稼いでいる。
  その稼ぐ力の「稼ぐ行為」に抵抗し、逆らう状況を生
 むのが、世界の各国の法律である。
  その1例を言うならば・・農業・・
  農業の遺伝子組み換え作物の数々の事例がその1例・・、
  例えば、EUでは、ほとんどと言ってよいほど「遺伝
 子組み換え作物は禁止」されている。
  しかし、EUの基準は、アメリカ基準より厳しいので、
 アメリカの輸出サイドは困るのである。
  アメリカは、トウモロコシ、大豆、サトウキビなど、
 そのほとんどが、90%が、遺伝子組み換え作物である。
  だから、ここで、アメリカは、このEUの基準を変え
 させようとする。
  色々と・・言いがかりをつけて・・
  EUで遺伝子組み換え作物で儲けたいからである。
  その他、アメリカは、ホルモン剤で成長を速めた牛を
 売りたがっている。
  また、塩素消毒した鶏肉なども、アメリカは、甘い基
 準でOKとなっている。
  このアメリカの甘い規準に、他国に合わさせようとし
 ている。
  今、EUで問題となっているのが、TTIP(環大西
 洋貿易投資パートナーシップ協定)である。
  アメリカの基準の押し付けで、「どこが、パートナー
 だ」と叫びたい状況にある。
  ここで、アメリカ規準が押し付けられている。
  こんなメカニズムで、アメリカの政治を牛耳った「金
 を持った力」が、他国の基準を変えてまでして、輸出し
 て、儲けようとしている。
  民主主義の欠片(かけら)もない。
  一部の特権セクションの言う事を聞くアメリカ政治で、
 圧力を行使するという一部の君主制の如くの政治的圧力
 行動がなされている。
  2015年10月10日に、ベルリンでTTIPの反対デモが
 行われた。
  このデモは空前の規模となった。
  主催者は、25万人と発表した。
  EUの人々の96%が、このTTIPに反対していた。
  人々は、『消費者の安全がないがしろにされている』
 と主張した。
  このアメリカの甘さが、EUの甘さとなり、「消費者
 の安全基準」の劣化・低下が恐れられている。
  そして、この様なアメリカのやり方を、「民主主義の
 崩壊のシステムだ」と糾弾し、主張している。
  民主主義の本家のアメリカが、自分が、「民主主義を
 壊す最右翼に居ること」に気づいていない。
  お粗末の限りである。
  そして、このTTIPにある『ISD条項(投資家対
 国家間の紛争解決条項)』が曲者(くせもの)である。
  つまり、ある企業が、外国で、現地の企業に比べて不
 当に扱われたと感じたとき、その国の政府を、訴える権
 利があるとしている。
  「感じる」という主観的な、曖昧な、怖さもある。
  その様な曖昧な感じから、「調停裁判所」に訴えられ
 たら、そこでの審議は秘密の非公開で行われ・・
  (直接、利害関係のある人々・大衆が知らない所で審
 議される)。
  そして、その決定が最終決定で、上告もできない。
  そして、この決定(判決)には拘束力があり、従わさ
 れるという状況となる。
  その国にある、各国の法律は無視され、その「各国の
 法律よりも強い決定だ」とされている。
  アメリカという「裁判マニア」の国の御都合に沿って
 いるようになっている。
  『暗黒の決定に従う』、それも、何やら分からぬ仲裁
 裁判所という私的な組織の決定に従わされるという・・
 民主主義のひとかけらもない。
  アメリカ政権に、大金を献金するだろう「ある民間営
 利企業の利益」のために、締結国の法律が無効にされる
 という落とし穴を持っている。
  各国には、今まで、修正したり、改正したりして来た
 洗練された法律がある・・その様な法律を、種々、持っ
 ている。
  その総ての法律が「ないがしろにされ」、その法律よ
 り強い決定だというやり方に、何ら民主主義のやり方で
 ないものが、大手を振って歩き出そうとしている。
  人々の税金などの資金が、その様なやり方で奪われ、
 吸い取られ、吸収されそうになっている。
.
2015年11月12日、難民を受け入れていたスウェーデンが、
 入国検査をするという決定をした。
  これは、事実上の『難民の受け入れ拒否』を意味した。
  これをさかのぼること5年の2010年、「アラブの春」と
 呼ばれる民主化運動が、アメリカやヨーロッパ諸国の西
 側諸国に煽(あお)られて、2010年より始まっていて、
 そして、既存の政権が次々と倒された。
  その結果、よりよい政権が生まれたかと言えば、まっ
 たく違っていた。
  庶民の方々は、その混乱の中に投げ出された。
  西側諸国の横暴で「不幸の中に落とされた」という結
 果となった。
  西側諸国は、民主主義を根付かせるのだとした。
  その結果は、成功したかと言えば、成功した例は「ま
 ったく、無かった」。
  ただ、荒れすさぶ国々ができただけだった。
  そして、その荒れすさぶアフリカ諸国から、地中海を
 渡って、難民の方々が、ヨーロッパへ渡るという事態が
 起きた。
  2015年11月11日、EUとアフリカ諸国の首脳が、総勢
 60人が、マルタ島に集まって、サミットが開かれた。
  議題は、アフリカ情勢を安定させて、難民発生を抑え
 る事だった。
  しかし、EUがすることが出来たことは、アフリカ諸
 国への経済援助しかなかった。
  EUの難民を救済するという理念は悲鳴を上げていた。
  そして、この翌日・2015年11月12日、難民を受け入れ
 ていたスウェーデンが、難民の入国検査をするという決
 定をした。
  これは、事実上、難民の受け入れ停止を意味した・・
 難民受け入れ拒否を意味した。
  スウェーデンは、方向転換した。
.
2015年11月、EU・・「難民問題でゆれて」見えたもの・・
  EU・・「統合だ」「グローバリズムだ」・・と美し
 い理念で始まったEU・・、
  そのEUに、「難民」の話が起きて、ある意味EUの
 実態が見えた、
  難民問題は、ある意味、「リトマス試験紙」だった。
  EUの中から「キリスト教徒なら受け入れる」という
 声が出た・・
  「家族を呼び寄せるのは駄目だ」の声・・
  「EU国境線でしっかり入国審査をする」・・
  「地方自治体の首長の難民拒否の意思表示・・我が町
 で増えてもらいたくない」
  「EU議会内でのドイツ批判・・ドイツの行為はスタ
 ンドプレーだ」
  「ドイツに付き合っていられない」
  「ドイツが難民を呼び込んでいる・・迷惑だ」
  「ドイツが、今さら、連帯なんて言わないでくれ」
  「ドイツは、二つの顔を使い分けている」
  「喜んで難民を受け入れるEU内の国は皆無だ・・難
 民の押し付け合いの戦いの状態」
  「EU国境の防衛だ」との政治家や民の声がする。
  ドイツ国民も、二つに分かれて、シッチャカ、メッチ
 ャカになった。
  難民の受け入れに積極的なメルケル首相の支持率も急
 落した。
  ここまでで・・見えて来た事は・・
  「難民は迷惑」
  「難民はEUに入れない」
  「EU国境で審査する仕組みを作る」
  「世界を感動させた『ワンダフルEU』は、急速に過
 去の話になった」
  「美しい理想で始まったEUは、難民処理で可視化さ
 れ、当初の目標であった統合は、そっちのけで各国が、
 それぞれ自国の利益を死守しようとする姿が・・はっき
 り見えた」
  「人道主義や善意は、背に腹は代えられないになった」。
  難民の方々が、逆に、可哀想な状態に置かされるとい
 うEUの形となった。
  EUなんて営利団体・・結局、自分たちがその特典を
 維持し、あるいは強化する目的の団体と化した・・
.
2015年11月21日、ベルギーは、最大のテロ警戒態勢を引い
 た。
  民主主義。
  アメリカやヨーロッパが、民主主義の教えを垂れよう
 と、その国に関わる(余計なおせっかいを始める)。
  民主主義は良い主義なのだから、我々の行動は正しい
 のだの論理でやる。
  この関わりから事が広がって、その国の利益を収奪す
 る様になる。
  特に、アフリカ・・、
  様々な西側資本が、最後には、アフリカの搾取に余念
 がなくなる。
  巧妙なる収奪行為を行う。
  結局、やっていることは、最後に悪となる。
  草刈り場は、アラブからアフリカへ移った。
  新しい草を刈り取りたいと、年がら年中、こんなこと
 をしている。
  アメリカ・ヨーロッパの街がきれいなのも、この様な
 収奪の結果なのだ。
  そして、難民が生まれる。
  哲学者のスラボイ・ジジェク氏は言う・・、
  「難民が出ないようにしたいのならば、やるべきこと
 は簡単だ。
  それは、それらの国々で儲けている西側資本が手を引
 けばよい」・・と・・、
  そして、さらに、「資源の利益が(西側諸国が収奪し
 ないで)現地に還元される様になればさらに良い」と。
  アラブやアフリカの国家の崩壊は、その諸国が悪いの
 ではなく、欲の深い西側諸国が利益を収奪している結果、
 起きていることなのだ。
  この様な国ばかりになっている。
  強国が、弱い者いじめをしているのだ。
  この荒れた国々からテロリストも発生し、悲惨な事件
 も起きるのだ。
  その様な一つが、2015年11月21日、ベルギー政府は、
 ブリュッセル首都圏に、深刻なテロが発生する可能性が
 あるとして、警戒を最高レベルに引き上げた。
  地下鉄は止まり、店は閉まり、町はシーンと静まり返
 った。
  その街を重装備をした警察官と兵士がパトロールする。
  ベルギーは、コンゴからうまい汁を吸った。
  かつての宗主国だった。
  その様に好きにして来た国々から難民が生まれている。
  難民が出ないようにしたいなら、今までやってきた欲
 深い行為を止め、それらの国々で儲けている西側資本(
 グローバリズムを良い事に儲けまくっているグローバル
 企業)が手を引けばよいだけの話。
  そして、資源の利益は、横取りしないで、現地へ還元
 されるようにしなければならない。
  アラブの国家は、そして、アフリカの国家の崩壊は、
 現地だけの問題ではない。
  西側資本が、利益を収奪することが問題なのだ。
  西側強国が、経済的植民地にしている結果なのだ。
  ヨーロッパ列強が、利益を得つづけたアラブ諸国から、
 また、西側資本が、様々な収奪・搾取を余念なくやって
 きたアフリカから、今、難民がなだれ込んでいる。
  この様な状況となった責任は、なだれ込まれているヨ
 ーロッパ列強諸国にある。
.
2016年2月15日、「アラブの春(2011年)」から5年が経ち、
 アラブ世界の状況はかつてないほど悪いが・・と、一方
 の陰の仕掛人のイギリスのエコノミスト誌が、この日に
 言った・・
  「アラブの春」は、ほとんどの当事国にハッピーエン
 ドをもたらさず、リビアとイエメンは内部崩壊、エジプ
 トとバーレーンは以前より強硬な独裁制となり、シリア
 は奈落の底に・・、
  また、他のアラブ諸国も状況は悪く・・イラクは事実
 上、クルド、シーア派、IS支配地域に分裂した。
  アルジェリアとスーダンは、略奪的な軍事政権に支配
 され、パレスチナは孤立と弱体化を深めている。
  富裕な湾岸諸国でさえ、石油価格の急落や増える若年
 層の高い失業率等、体制が揺さぶられるような深刻な事
 態に直面している・・と・・報じた・・
  「民主主義は良い制度だ」と西側諸国が仕掛けた・・
 だからと言って「よくない方法で根付かせよう」とした・・
 ここが悪かった・・ここから難民が発生した。
  ドイツは、第二次世界大戦で卑劣な事をした、だから
 と、罪滅ぼし的に難民受け入れの基本法を持った。
  しかし、その法は、何ら、「悲惨な難民発生を未然に
 防ぐこと」に寄与していない。
  この点に関して、「無力な対応なのだ」。
  例えば、シリアの内戦は、イラクやリビアと同じく、
 「作られた戦争」で、これに対し、まったく関係ない、
 無力の存在。
  西側諸国は、「民主主義を根付かせるのだ」と、2010
 年から、「アラブの春だ」と煽った。
  そして、次々と既存の政権を壊した。
  しかし、前記した様に、不安定な争いの社会ができた
 だけだった。
  この2015年から2017年と、世界を心配させている難民
 問題も、「シリアのアサド政権を倒すのだ」と西側諸国
 が煽った。
  そして、ISへ武器援助をして戦争を作った。
  そして、卑劣な事に、クルド族へ武器を渡して、IS
 に対峙させた。
  アメリカやEUは、戦争づくりをしている。
  そして、収拾の付かない事態となっている。
  ただ、戦争とまったく関係ない人々が殺され、亡くな
 っている・・そして、難民の方々ができた。
  ロシアの大国も参戦して来て、アメリカとロシアの代
 理戦争の状況となった。
  この逆をされたらどう思うのか?
  この主義が良いのだと、勝手な主義の政権を良いと押
 し付けられたら、アメリカやEUはどう思うのか?
  トルコには、200万人の難民の方々が居る。
  こんなにまで大勢の難民数にならなければならないく
 らい問題はこじれている。
  そして、このトルコの難民は、EUには来てもらいた
 くない。
  EUに行きたい難民の方々が、トルコに留まっている。
  トルコは、その難民にかかる費用を援助してくれ、増
 額してくれと、何度もEUに言っているが、EUは、ま
 ったくの知らん顔となっている。
  逆に、苦しんでいるこのトルコを、ドイツは、「反民
 主主義だ」などと非難した。
  ドイツも厳しい状況に置かれているんだろうが・・
  2019年のドイツの生活保護を受ける人の数は、100万人
 増えると推計されている。
  難民の方の一人当たりかかる費用は、医療費を含めて、
 1ヶ月およそ1000ユーロ。
  1ユーロが約130円だから、130円×1000×12ヶ月×1000
 万円は、1.7兆円が・・今までとは別に増える。
  お荷物のギリシャも面倒を見なければならないし・・?
  結局、ドイツの方々に、先々のドイツの崩壊が見えて
 来た・・、その心配が浮上して来た・・、
  ドイツ国内の難民の方々の宿舎に火がつけられる事件
 が起きるようになった。
  こんな事件が、相次ぐようになった。
  難民を受け入れる態度を表明する自治体の町長に、脅
 迫状が送られて来ることなども起きた。
  キリスト教に偏するNHKは、日本を貶(おとし)め
 る放送はするが、この様な放送はまったくしない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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# by suba28 | 2018-05-26 03:53 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)595E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年5月)

題:(増補版)595E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年3月29日、日本鉄道本社汽車課直轄の工場を大宮に
  設け、12月10日、操業開始した。
  (1896年9月1日、汽車課から分離し、大宮工場となる)

1894年3月、村井兄弟商会が、両切り紙巻煙草「ヒーロー」
 を発売した。
  紙巻きたばこの起源は、1853年~1856年のクリミア戦
 争の戦地で、パイプを失った兵士が、火薬を包むための
 紙で、刻みタバコ葉を巻いて吸ったのが始まりと言われ
 ている。
  しかし、コロンブス以前に、アメリカ・インディアン
 は、乾燥させたタバコの葉を刻んで植物などで巻いて吸
 うことを行っていた。
  1700年には、ラテンアメリカからスペインに向けて紙
 巻たばこ用の紙が輸出されている。
  クリミア戦争以前にも、特に、スペインでは紙巻たば
 こが吸われていた。
  紙巻たばこが、主流となったのは、ヨーロッパや日本・
 中国では第一次大戦後で、アメリカでは第二次大戦後。
  また、一般大衆を欺いている行為が・・ライトたばこ
 など、低タールをうたう製品は「ごまかし」がある・・
 大衆を欺いている。
  欧州では、「ライト」「低タール」といった用語の使
 用を禁止しているくらいである・・
  これは、実際には、減少したニコチン摂取量を補うた
 めに喫煙するたばこの本数が増えたり、より深く吸い込
 むことに、はっきりつながっていて、肺腺がんリスクを
 増大させている。
  マイルドやライトでも、吸い方によって吸い込むニコ
 チン量が急増している。
  2009年、アメリカに、タバコに起因する死亡は、44万
 3,000人であり、アルコールは9万8,334人というデーター
 がある。
  また、たばこを吸う人のうち、約半数は、たばこに関
 連した病気で死亡しているとする調査報告があり、
  たばこを吸う人は、そうでない人に比べて寿命が約14
 年短くなるという指摘もある。

1894年3月、朝鮮国内で東学党の乱。

1894年4月2日、日英通商航海条約交渉が開始された。
  この日、ロンドンで、第1回、日英条約改正委員会が
 開かれた。
  調印は、1894年7月16日・・、
  治外法権が撤廃された。
  これは、イギリスが、ロシア帝国の南下に対して、力
 の増した日本に期待した結果だった。
  内容は、内地開放を代償として、領事裁判権を撤廃さ
 せ、関税自主権も部分的に回復させた。
  また、片務的であった最恵国待遇を相互的だとした。
  この条約の調印の時、イギリス外相のキンバーリー伯
 は、日本の青木駐英公使に対して・・、
  「日英間に対等条約が成立したことは、日本の国際的
 地位を向上させるうえで清国の何万の軍を撃破したこと
 よりも重大なことだろう」・・と、日清戦争が起きると
 いう状況を掴(つか)んだ上で語っている。
  また、独り立ちした日本を承認したという形となり・・
  以降、この年の1894年から翌年の1895年にかけて、同
 内容の条約を、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシア、
 オランダ、イタリアなど14カ国に調印させた。
  これによって、日本は、法権のうえで、欧米列国と対
 等の関係に入った。

1894年4月8日、ブルックナーの交響曲第5番が初演された。
  グラーツオペラ座(Grazer Oper)

1894年4月10日、愛媛の道後温泉に、道後温泉本館が完成
 した。  
  道後温泉本館は、愛媛県松山市の道後温泉の中心にあ
 る温泉共同浴場で・・別名:愛称が「坊っちゃん湯」。
  1890年、道後湯之町の初代町長として伊佐庭如矢(い
   さにわゆきや)が就任し・・、
    この頃、町の最大の懸案は、老朽化していた道後
   温泉の改築であった。
    伊佐庭は、町長就任に際して、自らは無給とし、
   その給料分を温泉の改築費用に充てることとした。
    総工費は13万5千円。
    当時の小学校教員の初任給が8円といわれた時代で、
   あまりに膨大な予算に町民は驚き、町の財政が傾き
   かねない無謀な投資だと非難が渦巻いた。
    反対運動は激しさを増し、伊佐庭が命の危険を感
   じるほどだったが、伊佐庭は決定を貫き通した。
    棟梁は、城大工の坂本又八郎を起用し、姿を現し
   た木造三層楼は、当時でも大変珍しがられた。
    伊佐庭は、さらに道後への鉄道の引き込みも企図
   し、道後鉄道株式会社を設立した。
    一番町~道後、道後~三津口間に軽便鉄道を走ら
   せ、客を温泉へ運んだ。
    関西からの航路が開かれるなど、道後温泉が発展
   して行った。
  1895年、本館完成の翌年のこの年、文豪・夏目漱石が、
   松山中学の英語教師として赴任した。
    漱石は、その建築に感嘆し、手紙や、後の小説『
   坊つちやん』の中で「温泉だけは立派なものだ」と
   絶賛し、実際に、頻繁に通った。
    手紙では、8銭の入浴料で、「湯に入れば頭まで石
   鹸で洗って」もらえ、3階に上れば「茶を飲み、菓子
   を食う」ことができた・・と・・
    小説では「住田」の温泉として登場する。
    これにあやかって、「坊っちゃん湯」という。
  1994年、国の重要文化財(文化施設)に指定された。
  2009年3月、ミシュランガイド(観光地)日本編におい
   て2つ星に選定された。
  2007年3月、美しい日本の歴史的風土100選に、松山城
   と共に選定された。
  2009年、経済産業省「近代化産業遺産」に認定された。

1894年4月13日、移民保護規則が公布された。
  日本人の海外渡航は、明治維新(1868年)とともに始
 まった。
  今までにない変わりゆく改革の中で、急速な近代化と
 社会変化が起きた。
  農業形態も、経済構造が変わっていくなかの改革で、
 農村部に余剰労働力が生まれた。
  国内や海外へ移動する出稼ぎ労働者が現われた。
  1868年、横浜在住のアメリカ商人ユージン・バンリー
 ドは、150人の日本人労働者をハワイの砂糖プランテーシ
 ョンへ送った。
  また、40人をグアムへ送った。
  この労働者は、「元年者」として知られている。
  日本政府の許可や旅券を受けることなく日本を出国し
 た。
  近代日本の最初の海外移民だった。
  しかし、この「元年者」は、渡航地で奴隷にも等しい
 酷(ひど)い取扱を受けた。
  明治政府が、救出に乗り出さなければならないほどだ
 った。
  国民を大切にする日本政府は、この「元年者」の失敗
 で、この後、20年間近く、日本人の海外移住を許さなか
 った。
  かわりに、北海道開拓を推進した。
  そして、17年後の1885年、ハワイ「官約移民」で再開
 された。
  これは、ハワイ王国の依頼でもあった。
  アメリカによるハワイ乗っ取りへの対応・・アメリカ
 の行動を抑えたいというハワイ王国の日本に頼った面も
 あった。
  日本人の本格的な海外移住が始まった。
  「官約移民」制度は、日本と独立国であるハワイ王国
 の条約に則った正式な正規な行動であった。
  日本人労働者を3年契約で砂糖プランテーションへ送
 るというものだった。
  1894年までの9年間に、総計2万9千人ほどの日本人が、
 この制度によってハワイへ渡航した。
  また、この時、数千人の日本人が、太平洋上の木曜島
 (イギリス領)、ニューカレドニア、オーストラリア、
 フィージーなどへ渡った。
  この頃の渡航者のほとんどが、海外への永住をめざし
 た移民ではなく、数年間の契約労働を目的にしていた出
 稼ぎだった。
  そして、1893年、外務省関係者、知識人、ジャーナリ
 ストなどが集まり「殖民協会」を設立された。
  これは、日本も、西洋諸国の様に、国外市場を拡大し、
 海外へ向けて発展しなければならないとしていた。
  この殖民計画事業は、イギリスのオーストラリア移住
 (侵略)などのようには行かず・・失敗した。
  1899年、南アメリカのペルーへ、最初の契約労働者の
 渡航が始まった。
  そして、ラテンアメリカへの日本人渡航は盛んになっ
 て行った。

1894年4月14日、アメリカのニューヨークで、キネトスコー
 プが公開された。  
  キネトスコープは、1891年、トーマス・エジソンによ
 って発明された(1888年説あり)
  撮影機の方は、キネトグラフといい、キネトスコープ
 より先に、エジソンが発明した。
  1893年、シカゴ万国博覧会に出展された。
  1894年4月14日に、ニューヨークのブロードウェイ1155
   番地に、世界初の映画館(キネトスコープ・パーラ
   ー)が設置された。
    キネトスコープは世界的に大ヒットし、その後、
   2年でアメリカのほとんどの街にキネトスコープ・パ
   ーラーが設置された。
    これは、スクリーンに映写されるのではなく、箱
   の中をのぞき込む形だった。
    当時、「ピープショー」とも呼ばれ、ピープ(peep)
   とは、のぞくという意味。
  1895年、一度に多くの人が鑑賞できるスクリーンに投
   影される形の映画(シネマ)が、リュミエール兄弟
   によって発明された(シネマトグラフ)
  1896年11月25日~1896年12月1日、日本で、エジソンが
   発明したキネトスコープが、神戸の神港倶楽部で初
   上映された。
  1897年、リュミエールが発明したスクリーン式の「シ
   ネマトグラフ」が、大阪の南地演舞場や京都で披露
   された。

1894年4月16日、東海道線が、西ノ宮駅~三ノ宮駅間で複線
 開通した。

1894年4月、甲午(こうご)農民戦争
  朝鮮の全羅道(チュルラド)一帯の農民が、東学教徒
 とともに蜂起した。
  これをきっかけに、各地で農民蜂起があいつぎ、東学・
 農民軍は、随所で政府軍を撃破した。
  全羅道と、その周辺の官庁をつぎつぎと占領し、5月末
 には、全洲(チョンジュ)を制圧した。
  朝鮮李朝政府は、清に軍の派遣を要請する一方で、東
 学農民軍の指導者である全琫準(ジョン・ボンジュン)
 と交渉し、両者は和解した・・が・・

1894年4月、北越鉄道株式会社創立願を逓信大臣に提出した。
  (7月26日仮免状下付)

1894年5月1日、中国鉄道発起人が、岡山駅から津山駅・勝
 山駅・米子駅を経て、境駅に達する鉄道建設を出願した。
  (1894年7月14日、線路を岡山駅~米子駅間に改める)
  (1896年4月30日、免許状下付、のち免許線路の短縮を
  申請し、津山駅以北取消した)

1894年5月4日、朝鮮で、農民軍が白山に集結して、甲午農
 民戦争が再び開始された。

1894年5月7日、文官高等試験細則を制定した(閣令第2号)

1894年5月12日、第6特別議会が召集された(開会、15日)

1894年5月14日、イギリスでブラックプールタワーが公開さ
 れた。
  ブラックプールタワーは、ブラックプールにある塔で、
 エッフェル塔に触発されて建設され、この日に開業した。
  高さ:158メートル
  エッフェル塔:324メートル
  東京タワー:332.6メートル

1894年5月15日、第六特別議会が開会された。
  第六特別議会は、1894年5月15日開会~1894年6月2日解
 散で短い議会だった。
  景気は良くなったが、対外硬で激しく対立した。
・伊藤内閣第六議会解散(氷川清話)
  (参考)対外硬:たいがいこう、
      日清戦争直前、反政府派が、国際協調政策を
     とる政府の外交を攻撃するために唱えた標語。
      ロシアの東アジア進出により緊迫した国際情
     勢であった。
      これに対し、新聞「日本」をはじめとする民
     友社の「国民新聞」に至るまで反政府側の日本
     主義派・・、
      そして、自由党、改進党などの民党連合は、
     政府外交を批判し、また、政費節減・民力休養
     路線と批判した。
      それは不平等条約によって侵されている国家
     主権の回復と、積極的な対外進出を主張してい
     た。
      また、それは、対等条約を実現するためには
     現行条約を励行して、条約の規定のない所で外
     国人を厳しく取り締まり、彼らに不利益を与え、
      対等条約の交渉に列強が応じない場合は、条
     約破棄もせよというものだった。
  この第六回帝国議会で、貴族院議員の近衛篤麿・小沢
 武雄は、議員の二条基弘ほか50人の賛成を得て、「北海
 道ニ鉄道ヲ敷設シ及港湾ヲ修築スルノ建議案」を提出し
 た(建設線路は、函館・小樽間、空知太、網走間、旭川・
 宗谷間)
.
  (今日の言葉)
.
  題:イタリアは敗戦国だ・・しかし、アメリカ・イギリスは戦勝国側にした。
    日本やドイツは、今だに、国連憲章の敵国条項に落としめられている。
.
紀元前160万年、人類の先祖が、この頃、草原の生活で洗練
 された歩き方を始めた。
 160万年前のホモエレクトスだった・・、
 画期的な進化が現れたのだった・・、
 垂直に立つことによって脳は進化し、重く、大きく・・
 言葉の話せる脳への進化だった・・情報伝達力の向上で
 あった。
 アファール猿人の場合は、喉の奥が広くなく、まだ、
 音の種類は狭かった・・が・・、
 まっすぐ立つことによって、喉の奥に空間が出来て・・、
 複雑な音が出せるようになった。
 この脳は、足や手が発達した後に与えられたものだっ
 た・・
 木から降りて、猿と違って、二本の足で立って歩く生
 活になって・・貴方の祖先も・・ここから・・アダムと
 イブもここから・・
  キリスト教のアダムとイブの話の前に、これが無いと
 始まりません・・そうでなければいけません・・その様
 な進化があったのでした・・『進化する力を持つ人間』
 が存在していた・・
  思考を固定化しては、発展はありません・・
  キリスト教は、この最初から間違っていました・・
       ・
       ・
紀元前2万年、フランスの遺跡で、人間が集団で、馬を崖下
 に落とし、狩りをしていた状況が発見された。
 集団で複雑な役割分担をし、言葉で情報をやり取りし
 ・・人間は、さらに、あらゆる面で進化して行きました。
  脳が大きくなった人間・・さらに、この様な複雑な方
 法も手に入れた・・そして、コンピューターにたどり着
 く・・
       ・
       ・
紀元前206年、中国の漢の王朝に、前漢と後漢がある。
  この年、秦が討たれ・・前漢への時代が始まる。
  やっと、漢民族が、歴史に登場・・現れました・・
  中国初の統一王朝だった秦王朝の華夏族・・この秦王
 朝が、この年・紀元前206年、滅亡した。
  (参考)華夏族:かかぞく、漢の時代以前に、中原の
     黄河流域に暮らしていた部族。
  この後、中国は、この秦朝・華夏族を討った漢民族の
 各軍の将帥による群雄割拠の時代となる・・
  漢中、及び、巴蜀(はしょく、現在の四川省)に封じ
 られていた劉邦(りゅうほう、前漢を興した人)が・・、
  紀元前202年に、垓下の戦いで、項羽を討って、中国を
 再統一した。
  (参考)垓下の戦い:がいかのたたかい、中国、漢の
     劉邦が、その勝利を確定的にした戦いで・・
      垓下(現在の安徽省宿州市など)を中心に行
     われた。
      しかし、この戦いが、実際あったのかどうか
     に対して、歴史家から疑問が出されている。
  この劉邦が開いた前漢と、いったん滅亡したのち劉秀
 によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年と
 なる。
  今・現在、この漢民族が、チベット・ウィグル・内モ
 ンゴルを完全に漢民族国家にしようと暗躍している。
  また、南シナ海や尖閣諸島、および、沖縄などのその
 他の諸地域をも欲しいと狙っている。
  そして、この中国が使う手が冊封体制(さくほうたい
 せい)・・
  現在、この冊封体制下の国に北朝鮮・韓国が入ってい
 る。
  (参考)冊封体制:さくほうたいせい、中国の皇帝が、
     朝貢をして来た周辺諸国の君主へ、官号・爵位
     などを与えて、君臣関係を結んで、彼らにその
     統治を認める(冊封)・・、
      豊臣秀吉が、必死に、徳川家康を大阪城に来
     させようとしたことと同じ・・
      そして、この冊封は、宗主国対藩属国という
     従属的関係におくことをさす。
      朝貢とは、藩属国の使節が、漢皇帝に朝見し
     て土産の産物を献上することをいう。
      これに対し、皇帝は、回賜として、貢物以上
     の返礼物を与えて皇帝の威徳を示した。
      その状況から、朝貢は、君臣関係を表す政治
     的儀礼であった。
      歴史的に、この漢代における外臣の制度がそ
     の始まりと言われている。
      例えば、朝鮮半島北方に成立した渤海(ぼっか
     い)などは、中国・唐と冊封関係を結んだので、
     東アジアの国際情勢は、唐を中心とした冊封体
     制のなかに組み込まれた状態だったが・・、
      日本は、この時、この体制の外にあって・・
     中国とは対等の隣国関係を保持したなどの経緯
     が歴史上にある。
.
2世紀頃、日本で、一番古い『漢字』の記載事例・・
  日本で、これまで知られている漢字で、最も古いもの
 は、2世紀ごろの土器に書かれたもの・・、
  そして、中国の歴史書に、3世紀のころ、日本と中国
 との間で、手紙のやり取りがあったとする記述がある。
  優秀な日本人は、これを発展させて・・、平安時代に、
 中国にない表音文字の平仮名(ひらがな)や片仮名を発
 明した。
  9世紀前半に入ると、漢字と片仮名が混じった文章例が
 みられ・・さらに発展させた表記法を行なった・・
  表意文字と表音文字の混合させた・・世界にはこの様
 な事例なく、日本唯一の優秀な表記法。
  また、10世紀から、平仮名は、漢字と並ぶ文字として
 認められ、ひらがなで書かれた豊かな文学が花開いた・・
  豊かな芸術が花開き・・世界に誇る最初の長編小説や
 日記文学が書かれ、他国の追随を許さない『孤高の光』
 の輝きがあった・・それを、優秀な日本の女性方が成し
 遂げた・・
  この様な素晴らしさを理解の出来ない、戦後の進駐軍
 のアメリカ司令部のマッカーサーは、日本人を馬鹿にし
 て、こんなに多くの漢字を覚えている訳はないと、日本
 人の識字率テストをしたりした、そして、日本を英語化
 しようとした・・
  日本は、中国から漢字を伝えられたが、日本は、更な
 る、豊かな表現手段として平仮名・片仮名を発明し、表
 音文字・表意文字を駆使して美しく豊かな日本文化を発
 展をさせて行った・・
  今・現在でも、ノーベル文学賞を貰うべき方々は、数
 え切れないほど居られるが・・キリスト教に偏するノー
 ベル委員会が授与しないだけ(キリスト教国に偏る)・・
       ・
       ・
980年、キエフ公国は、黒海の北方のウクライナ、ベラルー
 シ、ロシアの西部を領する地であるが・・、
  この国のウラジミール1世(在位980年~1015年)の意
 向によって、キリスト教東方正教会が広まった。
  ウラジミール1世は、ユダヤ教、イスラム教、キリスト
 教を見比べた上で、キリスト教東方正教会を選んだ。
  それは、まったく個人的な好みの「卑劣な選択」だっ
 た。
  彼は、4人までの妻が持てるイスラム教に惹(ひ)か
 れた。
  しかし、禁酒の戒律が嫌だった・・それが、イスラム
 教にあったため、東方正教会のキリスト教を選んだ・・
 酒が飲みたかった・・
  これによって、東方正教会がスラブ人の間に広まった。
  キエフ公国は、バザール・ハン国を滅ぼした後、モス
 クワ近くまで支配した。
  しかし、13世紀半ばに、この国は、モンゴル人によっ
 て滅ぼされた。
.
1008年、日本の才女・紫式部が、源氏物語の執筆を始めた。
  古い時代から女性に優しかった日本・・男女平等をは
 じめ、平等の国・日本の才女・紫式部・・、
  この日本の女性が、世界で最初の長編文学を著わした。
  紫式部は、幼いころから聡明な女性だった。
  彼女の父も、式部省に勤める学者として名高かった。
  この父親が、彼女の弟に漢文を教えていると、そばで
 聞いていた紫式部の方が先に覚えてしまったという話が
 伝わっている。
  20歳代の頃・・紫式部は、国司として赴任する父親に
 従って越前(福井県)に赴(おもむ)いた。
  彼女は、藤原宣孝(のぶたか)から求婚されていた。
  しかし、この宣孝は遊び者であった。
  それで、紫式部は、返事を先延ばしにしていた。
  その様なところだったので、この事もあって、紫式部
 は、京を離れたのだった。
  越前では、父の秘書として、才能を発揮し、その役割
 を果たした・・そして、広い知識も収めた。
  結局、紫式部は、藤原宣孝と京で結ばれたが、夫に先
 立たれた。
  その後、一条天皇の后(きさき)の彰子(しょうし、
 藤原道長の娘)に仕えた。
  才女の集まる宮廷は、優雅で、知的な社交の場だった。
  優秀な才媛らと、その才能を競った。
  そのような環境から、世界に誇る優れた文学が生み出
 された。
  紫式部日記もこの環境を伝える文学となっている。
  宮仕えを終えた紫式部は、1008年頃から、不朽の名作
 「源氏物語」の執筆にとりかかった。
  全54巻にもおよぶ長編小説だった。
  現代に至っても、なお燦然と輝き続ける人類の宝とな
 っている。
.
1297年、ベネチア共和国の第49代元首のピエトロ・グラデ
 ニーゴは、政治改革案を提案した。
  ベネチアの政治は、非常に民主的な政治を目指してい
 た。
  ベネチアの考え方は・・「この世の仕組みは、あくま
 でこの世の民が決める・・(キリスト教の神ではない・・
 また、その代理人であるキリスト教聖職者でもない)」・・
 とした。
  故に、ベネチアは、力を誇示するローマ法王の「支配
 を及ぼそうとする権力」と対峙した。
  ローマ法王(教皇)が嘆いたほどだった・・「教皇で
 ある自分は、ベネチアだけは違う(支配は出来ない)」・・
 と・・、
  べネツアは、キリスト教司祭でさえベネチアの民・住
 民が選び、ローマ法王の権力を排除した。
  ベネチアの政治体制は、ローマ帝国の長さと同じ500年
 間も続いた。
  ベネチアの為政者の選出も神経を使っていた。
  まず、複雑な手順で、その「選出のための有権者」が
 決められた。
  それから、その有権者らの投票で、元首(ドージェ)
 が選出された。
  そして、さらに、専制的にならないように、元首が、
 補佐官の数名と相談して事を為すというシステムになっ
 ていた。
  それでも・・同じ家から二代目、三代目と続かないよ
 うに・・、
  そして、いつの間にか「君主制に転じていた」なんて
 ならないように注意していた。
  今、世の中が進んでいる21世紀だというのに、独裁的
 な国家・・タミの声を聞かない「中国」や「北朝鮮」が
 存在し、その独裁者が、大量殺戮兵器の核ミサイルを世
 界へ向けている。
  このベネチアの元首・グラデニーゴが、1297年に、政
 治改革案を提案したのも、民主政が形骸化して、ダンド
 ロ家やティエポロ家、モロシーニ家といった名門から元
 首が選ばれることが多くなり、金銭が絡む不正や衆愚政
 治的な動きによって政治が左右されることが多くなった
 からだった。
  しかし、この時、グラデニーゴの提案が受け入れられ
 て、改革が行われたと思ったが・・しかし・・、
  中産階級が大幅な増員という形となって、発言力が増
 していた。
  確かに、上流階層の発言力は抑えられたが、また、以
 前から発言力のない下層民衆と共に、この発言を抑えら
 れた・・
  そのため、上流階層と下層民衆の双方から、グラデニ
 ーゴは攻められた。
  また、ローマ法王もベネチアの台頭を快(こころよ)
 く思っていなかったため・・奸計(かんけい、悪意ある
 はかりごと)を巡らせた・・
  ローマ法王は、反対派と共に、グラデニーゴの失脚を
 画策した・・
  よく歴史上で、政治に首を出すキリスト教法王だった。
  1310年6月15日に、クーデターが勃発した。
  だが、グラデニーゴの対応によって、このクーデター
 は失敗に終わった。
  そして、政治改革を行なうのであるが、グラデニーゴ
 は、何故か?、この翌年、急死する・・毒殺?・・
  反対派の毒殺説が存在する。
  ピエトロ・グラデニーゴ:1252年生まれで、1311年に
 59歳で没した・・、
  元首としての在任は、1289年(37歳)から1311年(59
 歳)の22年間だった。
.
15世紀、この頃になると、スラブ人のモスクワ大公国の勢
 力が拡大し目立った。
  キリスト教東方正教会は、キリスト教の三大分流の一
 つだが・・、
  1054年、東ローマ帝国圏のコンスタンティノポリスと
 ローマの総主教座が、東西に分裂し・・、
  以後、西方のローマ‐カトリック教会に対して、正(
 オーソドックス、正統だの意味)教会として発展した。
  15世紀頃になると、ギリシャ正教会が、オスマン帝国
 の支配を受けるようになり・・主流が、ロシア正教会
 (ハリストス正教会)に移った。
  モスクワ大公国のイヴァン3世(在位1462年~1505年)
 は、ロシアをほぼ統一させ、ビザンツ帝国の最後の皇帝
 の姪を妻に迎えた・・、
  この後、ロシア人が、スラブ系の諸勢力の中心となっ
 て、キリスト教の東方正教会の主導権を握った。
  そして、20世紀になって、その多くが・・共産圏へ入
 った。
.
1637年、哲学者・デカルトの最初の著書「方法序説」が書
 かれた。
  この中で、デカルトは、キリスト教のイエズス会のラ・
 フレーシュ学院で学んでいたが・・キリスト教の数々の
 論理矛盾に対し・・そして、これを、伝統的に受け入れ
 ているだけの学問に対し・・批判した。
  当然、その結論は・・そこには、確実なものは「ほと
 んど見当たらない」と・・、
  最新の科学にも通じていて・・「このデカルトやパス
 カル」は、その合理主義を取った。
  そして、科学的思考も重んじた・・非科学的な論理矛
 盾だらけのキリスト教を嫌悪した。
  デカルト等は、「人間の理性は、非合理なものを断ち
 切る知恵を持つ」・・と説いた。
  そして、絶対王政の下で、「キリスト教会が定めた戒
 律」より・・「個々人の理性による判断」の方が確かだ
 ・・と・・
  そして、その思考法を重んじる近代哲学が広まって行
 った。
  近代哲学は、科学的根拠のないキリスト教の宗教行事
 も・・、
  イエスやマリヤの像を拝(おが)むなどの現世利益を
 求めるキリスト教の非合理なすべての事々を、当然、指
 摘した。
  「誰が救われ、誰が救われないかなど、あらかじめキ
 リスト教の神(主)によって決められている」という陳
 腐さなどを指摘した。
  同時に、キリスト教によって権威づけられた国王の統
 治に対する疑問へも気付かされる。
  また、権威づけられた国王・諸侯側も、キリスト教側
 へ種々の利便を与えた。
  デカルト派の近代哲学者は、「人間が理性を持って判
 断したことに『誤りはない』」と断言した。
  ここから、「より多くの人々が理性的判断を下す」と
 いう『民主主義の望ましさが認識されて行った』。
  民主主義の目覚め・・
  そして、「国王は、キリスト教の神(主)から授けら
 れたものであるから、国王は思いのままの政治を行なう
 ことが出来る」という『王権神授説』は、『否定されて
 行った』・・キリスト教の虚構は崩れて行った・・
.
1918年11月11日、第一次世界大戦が終結した。
  ヨーロッパ諸国やアメリカは、あれほど強烈に「植民
 地の収奪をしておきながら、その植民地諸国に対して、
 謝罪など一度もしていない」・・、
  朝鮮は、中国に冊封されていて、なんだかんだと中国・
 清朝の翼下に入りたがっていた。
  強いものに付くという状況だった。
  1894年3月29日に起きた甲午農民戦争の朝鮮国内の反乱
 が抑えきれないと見ると、「中国・清の出兵を要請し、
 助けを求める」というような李氏朝鮮の状況だった。
  日本が、力を付けて、中国・清と対等に行動できるよ
 うになると、朝鮮の態度も変わった。
  そして、日清戦争に日本が勝利すると、朝鮮は清から
 独立することが出来た。
  それとともに、日本の翼下に入って来た。
  日本と朝鮮・・日朝はこの様な関係にあった。
  誠実な日本は、朝鮮の国づくりを一生懸命に行なった。
  他国がしない様な投資を、日本は、一生懸命、朝鮮に
 した。
  しかし、時を経て、時代が変わると、朝鮮は、日本が
 『植民地支配をした』と言い出した。
  日本へ、その謝罪の要求さえもした。
  「もう二度と、この様な謝罪要求などしないから」と
 いう言葉に引っ掛かって、ならば・・と、友好のためと、
 日本が謝罪をすると・・、
  その後に、その様な経緯は捨て去って、その後、「日
 本が謝罪した」と世界に喧伝した。
  ヨーロッパ諸国やアメリカなどより、日本は、朝鮮の
 国造りに貢献しているという日本に対して・・、
  二度と謝罪要求しないという前言はどこ吹く風と、何
 度も謝罪を要求するという態度をとった。
  ヨーロッパ諸国やアメリカは、植民地に強引に自国の
 法律や習俗までも押し付け、植民地収奪をするという事
 までしていた。
  キリスト教の自国の宗教でさえ押し付けた。
  ヨーロッパ諸国やアメリカの強国の植民地へのあくな
 き要求・欲望は極まっていた。
  世界大戦まで引き起こした。
  (第一次世界大戦では、オスマントルコの領有した中
 近東の広大な地域を、イギリスやフランスの勢力下に入
 れた)
  日本の対応は、善意に満ちていた。
  その何よりものその証拠が、朝鮮の人口が3倍にもな
 った。
  衛生状態も、見違えるほど向上した。
  日本と同等、または、それ以上の教育の充実にも、日
 本は努力した。
  産業も起こし、鉄道も朝鮮じゅうにくまなく敷設した。
  ・・など、その例は、枚挙にいとまがない。
  朝鮮からの感謝の言葉もない。
  この貢献の事実は、朝鮮は、認識し、認めよ。
  日本の国民の資金・税金が投入されて、なされたこと
 なのだ。
  また、因みに、第一次世界大戦の勝利側は、イギリス
 帝国、フランス共和国などの連合国側で・・
  一方、敗戦国側の中央同盟国側には、ドイツ帝国、オ
 ーストリア=ハンガリー帝国のほか、オスマン帝国が居
 た。
  このオスマン帝国の中近東の広大な領土が、イギリス・
 フランスの勢力下に入り、この後、色々な問題を引き起
 こす。
.
1944年8月、国際連合憲章が、アメリカ合衆国、イギリス、
 ソビエト連邦、中華民国の代表がワシントンD.C.郊外の
 ダンバートン・オークスで会議を開き(ダンバートン・
 オークス会議)、憲章の原案となる「一般的国際機構設
 立に関する提案」を作成した(~1944年10月)
  そして、1945年6月26日、サンフランシスコ会議におい
 て、51ヶ国により署名された。
  そして、この国際連合憲章の第53条第1項後段(安保理
 の許可の例外規定)は、「第二次世界大戦中に連合国の
 敵国だった国」が、戦争により確定した事項を無効に、
 または排除した場合、国際連合加盟国や地域安全保障機
 構は安保理の許可がなくとも、当該国に対して『軍事的
 制裁を課すことが容認』され、この行為は『制止できな
 い』としている。
  また、敵国の侵略政策の再現に備える地域的取極がな
 されている場合も、安保理の許可がなくとも『敵国に対
 して軍事的制裁を課すことができる』としている・・
  そして、馬鹿らしくも、戦後、70年以上も経た今でも、
 『有効だ』とされている・・「時代遅れの国連憲章」と
 なっている。
.
1945年10月24日、国際連合が活動を開始した。
  国際連合憲章の発効に伴って、国際連合が発足した。
  本部は、アメリカのニューヨーク市のマンハッタンに
 ある。
  韓国は、日韓併合で、第二次世界大戦を、「れっきと
 日本と共に戦った」のに、中国の上海か?どこか?に居
 た日本と対決していた小さいわずかなグループを引き合
 いに出して、都合よく・・「そのグループの後を引き継
 いだ」という言い方を言い出した。
  『だから、韓国は戦勝国だ』という卑劣な言い方を言
 い出した。
  日本にも、日本の敗戦を最初から予測し、確信してい
 た人は多くいた。
  つまり、日本国政府の意思と一致しない人々は多く居
 た。
  日本には、だから・・「その人々の意思を引き継いだ」
 なんて言い出す事はしない・・
  『卑劣な節操のない屁理屈は言わない』が・・
  韓国のその言い方は、『馬鹿者』と言いたいくらいの
 その様な恥ずかしいもの・・。
  韓国兵士・・当時は、日韓併合の兵士(東京裁判で、
 有罪となった兵士の方も居るという状況)も、勇敢に、
 アメリカやイギリスの連合国軍と戦い、日本の将校とな
 って、東京裁判でその軍事行為が裁かれた。
  韓国は、日本と同じ枢軸国として裁かれている。
  また、汚いのは「イタリアだ」。
  ドイツと一緒になって、あれほど戦い、その枢軸国に
 後から日本も加わって、戦って・・、形成が悪くなると、
 イタリアは、クルッと向きを変え、勝っている方へ加担
 して、最高位の人間・ムッソリーニを捕らえて、殺して
 (私刑・リンチ)、戦勝国に化けてしまった。
  そして、アメリカも、イギリスも、その様に遇してい
 るから・・おかしい???
  ドイツの裁判や、日本の裁判の様な事はしていない。
  すべてを不問としている。
  おかしいではないか・・おかしい事が起きているでは
 ないか・・
  誤魔化しが起きている。
  例えば、何人も殺してきた犯人が、ある時、クルッと
 態度を変えて、行動が変わったら、「犯人ではなくなっ
 てしまった」・・という様なもの・・
  こんな話は通らない・・こんな理屈は通らない・・イ
 タリアだって同じ様に裁判を受けるべき敗戦国だ。
  例えば、信長が本能寺で、明智光秀に討ち取られ「明
 智光秀の三日天下」となった。
  その後の豊臣秀吉との戦いに敗れた。
  しかし、秀吉は、光秀の首を取り損なっている。
  光秀の天下は、実態としては、秀吉に、その体制は崩
 されたが・・、
  もしかしたら、光秀は、どこかで態勢を取り直すとい
 う過程にもあった。
  つまり、光秀が敗れて、逃避行の身にはなったが・・
 戦に敗れた時点で終わったとしてはいけない。
  一分の可能性を持って信長を破って手に入れた、光秀
 の天下は続いている。
  実態は、天下は、秀吉に流れて行くのだろうが?・・
 しかし、100パーセントでは無い。
  そして、可能性を求めて逃げ延びた光秀は、逃避行途
 中の山の中で、落人狩りの百姓に討ち取られてはいるが、
 一分の可能性があった光秀の可能性が・・ここで無くな
 ったのである。
  その残っていた僅(わず)かな光秀の可能性を「その
 百姓たち」が奪ったわけである。
  光秀は、可能性はほとんどない状態に居たが、その僅
 かな可能性を、百姓たちが奪い取ったのである。
  つまり、可能性のほとんどない、その可能性は、その
 落人狩りの百姓グループに移った、99.99999・・パーセ
 ントの可能性は秀吉だろうが。
  しかし、秀吉は、この百姓から当然、その残りの
 0.000・・1%を取り返さなかった。
  秀吉は、「100%の天下人では無い」と言えるか??
  これは、屁理屈である。
  こじつけ論理である。
  くだらない論理である。
  しかし、「この様なこじつけ論理」が、イタリアの場
 合にも言われているのである。
  くだらない事に・・アメリカ・イギリスが、このくだ
 らない論理を振り回して、「正義だ」「正しいのだ」と
 言っている。
  アメリカ・イギリスは、この様に・・勝手に自分だけ
 の論理を振り回してやって来た。
  問われるべき罪もないのに・・罪があるのだとして殺
 して来た。
  また、罪を問うべきを問わないで・・公正・公平に行
 なわないで来た。
  お好みで、すべてを処して来た。
  イタリアは、連合国状態になってしまった。
  そして、日本やドイツに対して・・国連の敵国条項が、
 今だに、現在もまだ、存在しているという・・
  これが、アメリカに都合が良いと、いまだに、その状
 態を取って、世界中に、そして、日本・ドイツに押し付
 けている。
.
2014年、ロシアは、クリミアを強引にロシアへ併合させてし
 まった。
  クリミア半島は、地理的にヨーロッパの南端と言えた。
  これは、キリスト教圏とイスラム圏との境界でもあっ
 た。
  この様な位置関係から、古い時代から様々な多様な信
 仰を持った民族が、クリミアに侵入してきた。
  東ローマ帝国の系統の東方正教会のキリスト教徒が、
 ロシアやウクライナへ侵入し、また、クリミア半島へも
 入ってきた。
  また、オスマントルコが、クリミア半島に、イスラム
 教を入れた。
  この様な両宗教の地となって来た。
  また、モンゴル系のクリミアタタールの人々もいる。
  クリミアには、ロシア正教、ウクライナ正教、イスラ
 ム教スンニー派の3者の方々の複雑な宗教的関係がある
 状態となっている。
  大国や強国が、武力で解決する問題ではない。
.
2015年9月、EUへ向かう難民の方々・・それも豊かなド
 イツへ
  幼い3歳の難民の子供が波に漂(ただよ)う悲惨な姿
 はEU諸国へショックを与えた。
  豊かなドイツへ向かう難民の方々・・、
  そのドイツ・・なんとも歯切れが悪く・・その悲惨な
 幼児の姿を見て、難民の受け入れを決めた・・が・・
  元々は、ドイツには、難民を救済するとする基本法が
 あった・・第二次世界大戦時の卑劣な行為の罪滅ぼしで
 あったが・・、
  この頃になると、ニコニコ顔で受け入れるという当初
 のドイツではいられない・・当初とはだいぶ違っていた。
  この3歳児の悲惨な姿の報道後、一時は、態度を変えた
 が・・しかし、ドイツは、『入国審査を再開する』と言
 い出した。
  即刻、ドイツは、アウトバーンで「検問を復活させた」。
  このアウトバーンの検問は、30年ぶりだった。
  この様な事までやり出すドイツだった。
  アウトバーンは大渋滞となった。
  ドイツへ来る列車も運休にされた。
  押し寄せる難民の方々に対し、ドイツは、この様な事
 をした。
  列車で到着した難民の方々は、最初の3日間で3万1000
 人に達した。
  だから、他のEU諸国も、同様な態度を取り出した。
  オーストリアは、すぐさまハンガリー国境に軍隊を派
 遣した。
  チェコも、国境監視を始めた。
  EUの「自由往来」のシェンゲン圏内の取り決めは、
 まったく『無視』の「あるが無きのごとく」だった。
  EUの美しく飾り立てた理念「人、モノ、金、サービ
 スの自由な移動」は、どこかへ行ってしまっていた。
  「シェンゲン協定」も、「ダブリン協定」も、まった
 く捨て去ったEUだった。
  2015年9月だけで、難民の方々は、16万4000人が入国
 した。
.
2015年9月、EUへの、多くの難民の流入が続く・・
  ドイツの豊かさが私たちも欲しいと・・、
  それが得たいと・・難民となってドイツへ流入する、
 押し寄せる・・その難民を受け入れるドイツ・・そうし
 なければならないと・・、
  難民が押し寄せるような良い国に、ドイツの今のお年
 寄り方がしたのだが・・子供たちの為にと一生懸命に働
 いて・・国づくりに励んだ・・今のドイツはその努力
 の結果で・・
  2015年、ドイツの難民の入国数は「80万人と予想され
 た」。
  しかし、その流入は激しく、この数が、100万人に修正
 された。
  人口8000万人の国に、この年だけで100万人を受け入れ
 る。
  この難民の受け入れに「○○万人だ」と上限を決める
 事はおかしいと発言する声・・その様な論理があった・・
  しかし、無制限に難民が入ってくれば・・社会も、労
 働市場も、学校も、混乱してしまう。
  メルケル首相は、自身が、東ドイツ出身で、悲惨な東
 ドイツから豊かな西ドイツへ来たという体験をした人で
 あるため、難民の方々へ理解を示し、難民の方々の身に
 なった発言をしていた。
  そして、「できる」と発言した。
  ドイツ中が、この「できる」で高揚した。
  かつて、第二次世界大戦に至った、あの高揚の様な、
 似た状況にドイツはあった。
  少しでも異議を唱える人間には「非人道的」というレ
 ッテルが張られた。
  下手な発言は、極右だとされた。
  この様な中で、ドイツ社会の中に難民が入って来て、
 定着して行った。
  そして、ドイツが変わり始めた。
  ドイツ社会がきしみだした。
  問題の原点には・・難民を発生させる、そもそもの原
 因があるが、その解決が見えない中に、ドイツへたどり
 着いた難民の方々、そのたどり着いたその場の崩壊が、
 現実となって行った。
  警察沙汰が増加した。
  収容施設は、ぎゅうぎゅう詰めとなった。
  そこで、暴力沙汰が増えた。
  難民の民族と民族の、「民族の違いの闘争」が起きた。
  2015年9月27日、ヘッセン州の収容所で、コソボのアル
 バニア人とパキスタン人の大規模な闘争が起き、400人も
 の難民が暴れた。
  警察官も負傷し、難民の方々も負傷し、その他の多く
 の難民施設でも、一触即発の事態が続いているという状
 態になった。
  言葉も宗教も違い・・昨日までまったく知らない者同
 士が、狭い中に、ぎゅうぎゅうと押し込まれて居るとい
 う欲求不満の塊の社会ができていた。
  警察も限界に来ていた。
  民間の警備会社が投入されたが、警備員には移民系が
 多いので・・火に油を注ぐという結果になった。
  2015年9月28日、警察が、宗教別に収容すると発表した。
  この様な人々が、これからドイツ文化を受け入れて、
 静かに生活して行けるのかという事が「危ぶまれた」。
  この様な時に、ハンガリーは、国境を封鎖した。
  クロアチアも、続いて、国境封鎖した。
  EUの国境が・・閉じられて行った。
  それでも、難民の流れは止まらなかった。
  民族移動が、一旦、始まると止められないのごとくだ
 った。
  難民は、悪路でも、何でも、迂回したりして入って来
 た。
  ユーゴ内乱の時の地雷が残る「地雷地帯」にまで入っ
 てきた。
  10月になって、気温が下がっても、冷たい雨が降って
 も、道がぬかるんでも、難民の行軍はあった。
  スロベニアは、難民の数があまりにも多いので、その
 数に驚いて、軍隊を出し、流入を防ごうとした。
  しかし、その隣のクロアチアは、スロベニアにどんど
 ん難民を送り出していた。
  2015年10月17日、この難民問題が、からんでケルン市
 長の有力候補がナイフ刺された。
  犯人は、『難民政策が気に食わない』のでやったと言
 った。
  10月末の冷たい川に、首まで浸かってでも渡河してい
 る人々の様子が報道された。
  水温は8度だった。
  赤ん坊、お年寄り、子供が、どうなっているのかが心
 配された。
  この様な原因を作っている「元が悪いのだ」が・・?
.
2016年3月13日、テレビ報道は、年がら年中、日本国民の世
 論操作をしている。
  例えば・・
  ☆2016年3月13日、日本テレビ:
  自民党大会での安倍総理の「選挙の為だったら何でも
 する、こんな無責任な勢力に敗ける訳にはいかない」と
 の発言を、悪意ある編集をして内容をまったく変えた・・
  「安倍首相『選挙が為だったら何でもする』」と表示
 をして、「安倍首相の悪印象」を印象付けた。
  またこれは、総理という立場での指導的発言を、首相
 という国の代表に立場を変えるという悪意もある。
  国の責任者にある状況にして、異常発言の状態に編集
 し、放送し、悪印象へと操作をしている・・まったく許
 せぬ日本テレビの放送のやり方。
  日本テレビは、仏教蔑視の放送も年がら年中している。
  悪い場面で、お寺の鐘をゴーンとならしたり、仏壇の
 リンをチーンと鳴らしたりと、年がら年中している世論
 操作・印象操作ばかりする放送局となっている・・テレ
 ビコマーシャルを依頼している企業へも悪印象を与えて
 いる。
  ☆2014年9月10日、テレビ朝日:
  川内原発に関する報道で、原子力規制委員会の田中俊
 一前委員長がいくつかの記者の質問に対して回答を拒否
 した部分のみを放送して偏向した編集をして世論に偏っ
 た印象を与えた。
  ☆2015年6月5日、フジテレビ:
  VTR内で日本についてインタビューに答えている韓
 国人2人について、翻訳の字幕や日本語吹き替えの内容
 と異なる映像を使用し、韓国人が日本を嫌っているかの
 ように放送した。
  ☆2017年7月3日、TBS、
  小池百合子東京都知事が就任あいさつをした際に、握
 手をした映像をカットして「自民党の川井重勇都議会議
 長(当時)が握手を拒否」と放送して、全く事実と違う
 放送をした。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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# by suba28 | 2018-05-15 04:02 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)594E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年3月)

題:(増補版)594E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年3月9日、明治天皇陛下大婚満二十五年祝典挙行
  明治天皇陛下銀婚式
  明治天皇陛下・御夫妻の「大婚25年祝典」(銀婚式)
 が行われた。
  記念日から1ヶ月遅れの開催だった。  
・大婚25年祝典(氷川清話)
  これより、日本で銀婚式が広まった。
  そして、この日、明治銀婚の記念切手が発売された。
  明治天皇陛下の大婚25年記年祝典で、逓信省が記念切
 手2種類をはじめて発行する。
  日本で初めての記念切手は、紅色が内地用で2銭、青
 色が外地用で5銭だった・・
  デザインは、菊の花の紋章にオスとメスの2羽のツル
 が描かれている。
  実は、外国人の新聞の投書がきっかけとなり、急に、
 記念切手の発行が決まったといわれ、日本最初の記念切
 手となった。
  この式典に、渋沢栄一は召されて参内しました。
  そして、栄一に同行した長女の穂積歌子(ほづみ・う
 たこ、1863年~1932年)は、その著書「はゝその落葉」
 の中で、この日のことを以下の様に記している・・、
  (上略)久かたの天の御柱めぐりめぐりて。
  廿年あまり五つとせと云ふにならせ給ヘバとて。
  やがて其年の春三月九日。
  御祝典取行はせ給ひ。
  勅任以上の司人。
  および民間にあるも四位以上の人々ハ。
  其夫人と共に九重の内に召しのぼせ給ひ。
  御代ことほぎの舞楽拝観をなんゆるさせ給ひける。
  されバ数ならぬ身も此おほん恵ミの露にもれざりし事
 こそいとうれしかりしか。
  大人にハ冠をかけ給ひしより。
  公の御儀式にたづさはらんも要なしとて。
  議会開院の式にすら出まし給はざりけれどこたびハあ
 まりの御めでたさに。
  始めて四位の大礼服調ぜさせられて参内せさせ給ひき。
  (下略)
  はゝその落葉、穂積歌子著、明治三三年二月刊
 
1894年3月12日、堀井新治郎が、謄写版(ガリ版)の特許を
 取得した。
  初代の堀井新治郎は、明治・大正時代の日本の発明家
 で、謄写版(ガリ版)印刷機の開発者。
  幕末のただなかにあたる安政3年9月16日(1856年10月
 14日)、近江国蒲生郡駕輿丁村の、菱田弥左衛門の次男
 として生まれた。
  内務省勧農局紅茶伝習所に入り、緑茶再生法伝習所等
 を経て・・、
  1879年(23歳)8月13日、岐阜県御用係となり、その後、
   農商務省製茶巡回教師になる。
  1883年(27歳)8月、滋賀県蒲生郡岡本村で、代々醸造
   業を営む堀井家の養子となり、亡夫と儲けた一児を
   連れた堀井ヒデと結婚して、第38代堀井家の家主・
   新治郎となる。
   滋賀県勧業委員や米質改良委員などを歴任した後、
  1893年(37歳)1月、新治郎は、簡易印刷方法研究のた
   め官職を退く。
    巡回教師活動は、多くの資料を複数部用意する必
   要があるが、当時の印刷は高く、一般が利用できる
   金額でないことから、同文を一括して印刷できる簡
   易な印刷方法の必要性を仕事を通じて痛感していた。
    仕事を通じて欧米で簡易印刷について調査してい
   たことから、開発の方向性は見え始めていた。
    なお、子息・耕造も、同時期に勤務先である三井
   物産を退職し、父と行動を共にし簡易印刷方法の研
   究に邁進することとなった。
    当時、日本で行われた簡易印刷としてはコンニャ
   ク版印刷があったが、多くて20枚の印刷が限界で、
   企業や役所・学校はより多数の同文書類を必要とす
   ることが多く、質の高い簡易印刷は様々な活動にお
   いて強く求められていた。
    簡易印刷の方向性が纏まりかけて来たことから、
  1893年(37歳)3月、シカゴ万博視察を兼ねて、印刷技
   術の先進国であるアメリカ合衆国に簡易印刷方法の
   情報収集・技術習得に出向く。
    アメリカでは、エジソンが孔版印刷ミメオグラフ
   (謄写版)の理論を、1861年に開発し、新次郎が渡
   米した頃、エジソンは原型を完成させた。
    その間、日本では、度重なる研究開発費に渡米費
   用等の資金を捻出するため、子息・耕造は、蒲生郡
   の自宅を含め、仏壇を除く資産を売却し、
  1893年(37歳)4月、その資金で、一家は東京府東京市
   神田鍛冶町へ転居した。
   家族の生活は極貧の状態であった。
  1893年(37歳)10月、視察を終えた新治郎は、日本に
   帰国した。
  1894年(38歳)1月、新治郎親子は、「蠟引きした原紙
   をやすり上におき、鉄筆で書いて製版する方法」を
   発明し、「謄写版」と命名し、発表した。
    この頃、謄写堂と社名を称する。
    また、速やかに特許出願を行うが、資金がなく自
   力申請した結果、書類に不備があって特許受理には
   至らなかった。
    堀井家にとっては早々の資金化が必要なことから、
  1894年(38歳)7月、ジャパン・ウィークリー・メイル
   (横浜居留地にて発行された在日外国人向けの新聞、
   明治維新期から近代化する日本の情報を世界に発信
   しつづけた英字紙)に謄写版の広告を出し、大きな
   反響を得ることができた。
    また、東京帝国大学講師ウエングステンからも優
   秀な発明との賞賛を得、横浜のモルフ商会他在日外
   国商社等から資金支援の申し出があったが、条件面
   での不満があって、これらの申し出を謝絶した。
    営業は主に耕造が担当したが、当時は簡易印刷へ
   の期待の高さから詐欺的営業も多く、堀井の謄写版
   に対しても世間の信頼を得ることはできなかった。
  1894年(38歳)7月、日清戦争が勃発すると、簡易印刷
   機は軍部においても必要なものであることから、陸
   軍省より堀井親子に多量の謄写版発注があった。
    製造途中において火災に遭い、印刷紙の多くを消
   失するなどの問題が生じたものの、新治郎親子の昼
   夜を厭わない作業により、期限内に完納することが
   できた。
  1895年(39歳)3月12日、2499号にて特許(謄写印刷紙)
   が認められた、加えて、軍への納入は世間に十分信
   用証明するものであったことから、以後は役所等よ
   り多くの注文を得るに至った。
    新治郎親子も営業に注力すべく行商活動する従業
   員を雇って販売を広げながらも、掛売りの焦げ付き
   などから資金面では厳しい展開が続いた。
    それでも、堀井親子の謄写版が簡易印刷の主流と
   なるに及んだ。
  1897年(41歳)3月、耕造が結婚し、5月には博覧会創
   設25年記念博覧会(京都)において賞杯を受ける。
  1904年(48歳)4月、新次郎は病に倒れて隠居し、子息・
   耕造が第39代堀井家家主となる。
  1916年(60歳)5月8日、緑綬褒章を受章し、
  1917年(61歳)新次郎は「新治郎」の名を息子・耕造
   に襲名させ、自らは「元紀」と名を改めた。
  1922年(66歳)4月29日、帝国発明協会優等賞を、
  1926年(70歳)9月17日、帝国発明協会最高賞である帝
   国表彰を、
  1929年(73歳)10月16日、特等賞を受賞した。また、
  1929年(73歳)11月30日、産業貿易功労者として子息・
   新次郎が表彰された。
  1932年(76歳)7月19日、新治郎(元紀)は目白台の自
   邸にて永眠する。
  生前特許出願数は647件、内特許件数433件(日本特許
 394件、イギリス・アメリカ・フランス・イタリアでの
 特許39件)に達した。

1894年3月28日、朝鮮の政治指導者・金玉均が、上海に誘い
 出され、拳銃で暗殺された。
  これは、李氏朝鮮の刺客だった。
  金玉均の遺体は、中国・清朝の軍艦で朝鮮に運ばれ、
 遺体になっても卑劣な刑(凌遅刑)が執行された。
  中国・清朝と朝鮮・李朝の示し合わせた暗殺だった。
  日本人の和田延次郎は、秘かに金玉均の髪と衣服の一
 部を日本に持ち帰り、浅草本願寺で葬儀を営んだ。
  金玉均には、凾館で知り合った妻が居たが、金玉均の
 暗殺が起きた直後、東学党の乱が起き、金玉均の妻子の
 安否状況が心配されたが、日本軍が、偶然、発見し、そ
 の妻と女の子を保護した。
  その時の二人の姿は、まったく憐れむべき状況・姿だ
 ったという。
  因みに、朝鮮は、この金玉均だけでなく、金玉均の朝
 鮮開花派の人々をも処刑した(問答無用の蛮行がなされ
 た)。
  暗殺者は、朝鮮帰国後、李氏朝鮮の高宗(第26代国王)
 から激賞され、要職に就いた・・そして、開化派を弾圧
 し続けた。

1894年3月29日、朝鮮南部の全羅道で、農民を基盤とする在
 地宗教の東学党が、圧政に抵抗して蜂起した・・甲午農
 民戦争が始まった。
  農民の蜂起の原因は、李朝朝鮮の圧政と腐敗で、その
 「腐敗した役人の追放要求」と、「利益を収奪する外国
 人の追放」だった。
  農民の勢いは強く、朝鮮半島の一部を制圧するほどだ
 った。
  兵力の弱い李氏朝鮮王朝は、清国に出兵を求めた。
  日本も、清国との申し合わせによって出兵した。
  そして、この後、日清両国に衝突が起きた。
  そして、このぶつかり合いが、拡大して行った・・
  日清戦争の原因となった。
  戦場は、拡大し続け、満州南部などに拡がった。
  これまで清国に劣勢だった日本の兵力は、この時点で
 は、陸戦でも海戦でも、清国と対等、もしくは、圧倒す
 るくらいまでになっていた。
  これまで、圧倒する清国に対して、日本は、努力を重
 ねて来ていて、「新兵器も用意し、装備していた」。
  また、「軍隊の訓練に励み、規律も優秀で優っていた」。
  そして、「日本人全体の意識が、国民として一つにま
 とまっていた」。
  因みに、1885年に、日本と清国は、朝鮮に出兵する時
 には、事前にお互いに、相手側へ通知し合うという条約
 を結んでいた。
  (参考)東学農民の蜂起の原因:この1894年に朝鮮南
     部で起きた農民戦争の原因は・・、
      外国貿易の開始による経済変動で、南部地方
     の農民は生活破たんを起こすほど悪かった。
      この様な苦境に直面している民に、新興の民
     族宗教東学は、こうした農民層に浸透し救済し
     た。
      また、李朝の郡守の圧政に怒った全羅道郡古
     阜の農民たちが、全琫準を指導者として、東学
     の組織を通じて決起した。
      この「東学党の乱、甲午農民戦争」と、苦境
     にあえいでいた農民の方々の大農民反乱に発展
     した。
      農民軍は、全羅道都の全州を占領、また、他
     国に軍事介入の口実を与えぬように、悪質李朝
     官吏の処罰や身分解放などを条件に李朝政府軍
     と休戦した・・が・・
  
1894年、横浜で鉄桟橋が完成した。
  横浜港は、1859年の開港以来、急増する貨物量に対し
 て、
  『イギリス波止場』(後の「象の鼻」波止場と呼ばれる)
 や、『フランス波止場』と呼ばれる艀荷役に必要な小規
 模の船溜まりこそあったものの・・、
  直接岸壁に接岸して荷役が行える施設はなかった。
  増加一途の貨物量は、艀荷役だけでは対応しきれなく
 なっていた。
  接岸荷役を可能にする近代埠頭の必要性は高まってい
 た。
  艀荷役が、慢性的な埠頭不足により、近代国家に相応
 しい埠頭を建設することが早急の課題とされた。
  明治維新直後から、井上馨大蔵大輔や、神奈川県知事
 はその建設を要請していた。
  1870年になって、工部省お雇い外国人の英国人技師リ
 チャード・ヘンリー・プラントンが、横浜築港桟橋計画
 の提案をした・・また・・、
  1874年にも、内務省お雇い外国人オランダ人技師ファ
 ン・ドールンも築港計画提案をした。
  大隈重信大蔵卿からも、接岸荷役体制に向けた築港計
 画が上申された。
  しかし、これ等の多くの要望があったが実現はできな
 かった。
  また、当時は、既に、「東京港の建設」の機運にあり、
 品川沖に築港する案もあった。
  しかし、その東京港建設案は、財政難や、横浜からの
 反対などもあり、実現はしなかった。
  1886年、横浜開港から27年が経過したこの年、機運が
 やっと高まった。
  内務省から、オランダ人技師デ・リーケへの設計要請
 があり・・また・・、
  神奈川県より、イギリス陸軍大佐であり技官であった
 ヘンリー・スペンサー・パーマーへの設計要請が行なわ
 れた。
  しかし、この両者の設計案は、政府内で議論が沸騰し
 た・・
  さらに、政府内にその上位案件として、東京港建設と
 横浜港建設のどちらを先行させるかといった議論が起き
 た。
  この時、外務大臣となっていた大隈重信は、横浜港建
 設を強く進言した。
  さらに、パーマーがイギリス・タイムス記者を兼職し、
 同紙上で、日本を好意的に報道した実績や、不平等条約
 改正に向けた日英同盟への働きなどがあり、
  正式に、パーマーの横浜港築港案が採択されるに至っ
 た。
  また、さらに、下関砲撃事件での賠償のうち、アメリ
 カへの支払った賠償金が、べらぼうな取り過ぎだったた
 め・・、
  1883年、グラント大統領、及び、アメリカ議会の承認
 により、日本への償還が承認された。
  この償還賠償金785,000ドルを充当させることで資金的
 な目処も立った。
  1889年、このようにして、やっと横浜築港第一期工事
 が始まった。
  待望した接岸荷役が可能な埠頭の建設が始まった。
  しかし、基礎に必要な螺旋杭は、当時の日本の精錬所
 からは供給できなかった・・まだ、技術の未熟な日本が
 そこにあった。
  大量の螺旋杭を輸入し、難局を乗り越え、建築された。
  1894年、こうして、現在の大さん橋の前身となる「鉄
 桟橋」が完成した。
  鉄桟橋は、陸地からの総延長738メートル、桟橋部分は
 457メートル、幅19.2メートルで・・当時の技術では最先
 端を行く近代埠頭だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:仏陀の言葉:もろもろの事象は
          過ぎ去るものである
          怠ることなく修行を完成なさい。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 11
.
  カクッター川
  水浴びをしている水牛・・
  それを見て・・気持ち良さそうだねー・・
  今は、その様な情景が流れる・・
.
  仏陀は、パーバ村とクシナガラの間に流れる、このカ
 クッター川のほとりにさしかかった時、ついに耐え切れ
 なくなります。
  ここで袈裟を敷いて腰をおろし、アーナンダに水を汲
 んで来るように頼みます。
.
  仏陀は、弟子に対して、こういう風に語る部分があり
 ます。
  非常になんか こう、人間味のあるエピソードなんで
 すけれど・・、
  それは そのー、もしも自分に何かあったならば、そ
 のことで、自分に供養の食事を出した鍛冶屋の子の責任
 が、問われる様なことになりはしないか・・、
  彼は、けっして悪くないんだと、彼がその事で自戒の
 念に悩まされ、自分に悪徳があるのではないのかと、こ
 ういう風に考えない様に、彼によく言って聞かせてくれ
 と・・、
  当時の鍛冶屋と言いますと、芸能人とかその他の職業
 と同じ様に、いわば当時は、カーストの外にあった、大
 変こう、大きな差別を受けていた階層の人たちですね。
  そういう人たちの供応を喜んで受け、そういう人々に
 心を配るという、そういう遊女だ、あるいはアウト・カ
 ーストの人だという人々にも、まったく平等に、自分の
 思いを伝え、接することを、日常の事としていた、仏陀
 の偉大さというものを、今の、近代を超えて来た私達、
 人権なんていう事をですね、改めて学んでいる私達以前
 に、仏陀は、自ら、率先してその事を教えてくれたよう
 な気がして、感動しない訳にはいきません。
.
  仏陀は、アーナンダに、今夜、クシナガラにある2本
 並んだ沙羅の木の間で、自分は死ぬだろうと予言をしま
 した。
  そして、こう続けました。
.
     アーナンダよ、
     鍛冶工の子・チュンダの後悔の念は
     この様に言って、取り除かねばならない
     『 友よ、
     修行完成者は、
     最後の供養の食べ物を食べて
     お亡くなりになったのだから
     お前には利益(りやく)があり
     大いに功徳がある。
     友・チュンダよ、
     この事を尊師から
     目の当たりに聞き、承った 』。
.
  仏陀が、35歳の時、悟りを開いたのは、供養の食事
 がきっ掛けでした。
  自らの死のきっ掛けとなるチュンダの食事も、それに
 劣らないほどの功徳があると、仏陀は言います。
.
     この二つの供養の食べ物は、
     正に等しい実り、
     正に等しい果報があり、
     他の供養の食べ物よりも、
     はるかに優れた、
     大いなる功徳がある。
     その二つとは何であるか?
     修行完成者は、
     供養の食べ物を食べて、
     無常の完全な悟りを達成したのと、
     及び、供養の食べ物を食べて、
     煩悩の残りのない、
     二ルヴァーナの境地に入られたのとである。
.
  クシナガラに達した仏陀は、もはや、動くこともまま
 ならず、頭が北向きになるように、床をしつらえさせ、
 病み、疲れた身体を横たえました。
  大パリニッバーナ経は、仏陀が横になると、沙羅双樹
 に変化が現れたとしています。
.
     さて、
     その時、
     沙羅双樹は、
     時ならぬのに花が咲き、
     満開となった。
     それらの花は、
     修行完成者に供養するために、
     修行完成者の身体に、
     降りかかり、
     ふりそそぎ、
     ちりそそいだ。
     また、
     天のマンダーラワ花は、
     虚空から降って来て、
     修行完成者に供養するために、
     修行完成者の身体に、
     降りかかり、
     降りそそぎ、
     ちりそそいだ。
     天の楽器は、
     修行完成者に供養するために、
     虚空に奏でられた。
     天の合唱は、
     修行完成者に供養するために、
     虚空に起こった。
.
  仏陀、入滅の地、クシナガラ。
  今も尚、仏陀の死を悼み、参拝に訪れる人が絶えませ
 ん。
  町の中心には、仏陀・入滅を祈念する涅槃堂が建てら
 れております。          (つづく)
.
  (参考)ニルヴァーナ: サンスクリット語の仏教用
     語で、涅槃(Nirvana) のこと。
  (参考)利益: (りやく)仏教の言葉。ためになる
     こと。法力によって恩恵を与えること。自らを
     益するのを功徳(くどく)、他を益するのを利
     益という。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 12
  涅槃堂への道を・・歩く・・
  涅槃堂の鐘の音が・・響く・・
.
  敷地内には、沙羅双樹の木が、代々、植えられ涅槃堂
 を見守り続けております。
  (涅槃堂に入っていく、そして、涅槃像の前で座り・・
  祈る・・)
.
  仏陀が入滅されたときの姿を顕す大涅槃像。
  死を間近にした仏陀の周りには、多くの弟子や信者が
 集まったと言います。 
  大涅槃像の台座には、25年もの間、仏陀と共に歩ん
 できた弟子・アーナンダの像が刻まれています。
  今にも訪れるであろう師との別れを悲しみ号泣する・
 アーナンダ。
  仏陀は、アーナンダを呼び寄せ、こう、諭しました。
.
     止めよう、アーナンダよ。
     悲しむな
     嘆くな
     私は、あらかじめ、この様に、説いたではないか。
     すべての愛する者
     好む者からも
     別れ
     離れ
     異なるに至るという事。
     およそ、
     生じ
     存在し
     つくられ
     破壊さるべきものであるのに
     それが破壊しないようにという事が
     どうしてありえようか 」。
.
  仏陀は、死の間際まで、この世に残される者たちを、
 励まし続けました。
.
  涅槃堂から出て行く・・、出口のところで手を合わせ、
 静かにあたまをさげる。
.
  仏陀を辿る旅は、ここが終着点です。
  (大きく鐘の音が・・響く)
.
  理想的な死と言うものがあるのでしょうか・・
  その、問いに・・、
  それは・・、私・個人の事は、旅の途上で消える様に、
 死んで行ければ幸せだと思いますね。
  あのー、子供の頃から、ずーっと、小学校は4回転校
 し、中学校は3回変わり、ほとんど自分の家というもの
 を持たずに、転々と過ごして来ましたから・・、
  ずーっと自分の人生は旅だと考えて来ましたのでね。
  生涯の終わりというものも、何かの形での旅の途中で、
 世を去るというのは、本当に理想的な終わり方ではない
 かと思います。
  その意味で、仏陀の旅は、本当にうらやましい、齢80
 を重ねて、大変な旅だったでしょうけども・・、
  旅の途中で、しかも豪華な都や宮殿の中でなく、美人
 の中でもなく、
  そういう寂しい寒村の林の中で亡くなった、
  そういう仏陀の姿に、本当に共感と言いますか、憧れ
 と、尊敬というか、そういうものを感じます。
  人間の死に方と言うのは、その様なものだろうと感じ
 ます。
.
  仏陀は、自分が死んだ後、いかにあるべきかについて、
 修行僧たちに説きました。
  そして、最後に聞いておくべき事はないかと、三度、
 訊ねます。
  修行僧たちは、己のなすことを充分に理解し、黙って
 いました。
  そこでアーナンダは、この様に言いました。
.
     尊い方よ。
     不思議であります。
     珍しい事であります。
     私は、この修行僧の集いを
     このように喜んで信じています。
     仏陀に関し
     あるいは、法に関し
     あるいは、集いに関し
     あるいは、道に関し
     あるいは、実践に関し
     一人の修行僧にも
     疑う疑惑が起こっていません。
.
  満足した仏陀は、最後の言葉を口にします。
.
     さー、修行僧たちよ。
     お前たちに告げよう
     もろもろの事象は
     過ぎ去るものである
     怠ることなく修行を完成なさい 」
.
  ・・・と。
  こう、言った訳ですね。
  仏陀の生涯・悟った法というもの、まあーダルマと言
 いますか、
  宇宙・自然・人間存在の真理というもの、それを最後
 に一言で、もろもろの総てのものは過ぎ去るものである、
 変化しないものはない。
  こういう風に最後まで、修行僧たちへ告げて、そして、
 怠ることなく、その真理というものを学びなさいと、こ
 ういう風に、あたかも自分達の同胞・友達に向けて語る
 様に、語りつつ・・、
  仏陀は、ここで生涯を終える訳です。
  仏陀を考えて見ますと、仏陀は、求道(ぐどう)の人
 と同時に、
  そして、偉大なる求法(ぐほう)の人、あるいは、伝
 道の人であった。
  死の直前まで、人々に向かって自分の悟った真理とい
 うものを語り続けようとした。
  ここに、仏陀の宗教者としての存在、それから、人間
 としての魂のやわらかさ、そういうものを感じないでは
 いられません。
  体制の保持者である王とも語る、貴族とも語る、財界
 や商人たちとも語り合う、それでいて、差別された人々
 とか偏見を持たれた人々に対して、まったく率直に、そ
 ういう人々の立場に立って、ものを考え、法を説くとい
 う、こういう事を考えますと、仏陀の持っている現代性
 といいますか、こういうものの大きさを改めて感じたこ
 とでした。
  仏陀のイメージが随分変わりました。
.
紀元前483年頃、ブッダ最後の旅 13
  ブッダの入滅
  悟りを開いてから45年の間、苦しみの海に沈む人々
 を導き続けた仏陀。
  病と如何に向き合い、老いをどう受け入れ、そして、
 死にどう臨むのか・・、
  仏陀は、最後の旅で身をもって示しました。
  仏陀の遺体は、クシナガラで荼毘にふされました。
  その遺骨は、仏陀にゆかりの深い8ヶ所に分骨され、
 それぞれストゥーパに納められました。
  大パリニッバーナ経は、この様に締めくくられていま
 す。
.
     その遺功によって、
     この豊かな大地は、
     最上の供養物をもって飾られているのである。
     この様に、
     この眼のある人(=ブッダ)・仏陀の遺骨は、
     よく崇敬され、
     種々に、
     いとも良く崇敬されている。
     最上の人々によって、
     この様に供養されている、
     合掌して、
     彼を礼拝せよ。
     「 げにブッダは 
          百劫(ひゃくごう)にも
                  会うこと難し 」
                       (完)
  (参 考)五百塵点劫: (ごひゃくじんてんごう)
      とは、法華経如来寿量品で、釈迦の成道の久
      遠をたとえた語である。
       正しくは五百億塵点劫である。
       法華経の如来寿量品第16に・・、
        「今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて
       伽耶城を去ること遠からず、道場に座して
       阿耨多羅三藐三菩提を得たりと思えり。
        しかし、われは実に成仏してより已来(
      このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり」
      とあり、
       続けて・・
        「たとえば、五百千万億那由他阿僧祇の
      三千大千世界を、仮に人ありて抹(す)りて
      微塵となし、東方五百千万億那由他阿僧祇の
      国を過ぎて、すなわち、一塵を下し、かくの
      如く、この微塵が尽きんが如き(無くなるま
      で)、東に行くとしたら、この諸々の世界の
      数を知ることを得べしや、不(いな)や」と
      弥勒菩薩に質問している。
       これは、化城喩品第7にも同様の記述がある。
       「たとえば、三千大千世界のあらゆる地種
      を、仮に人ありて磨(す)りて墨となし、東
      方の千の国土を過ぎて、乃ち一点を下さん。
      大きさ微塵の如し」
       この化城喩品のたとえ話を三千塵点劫と称
      される。
       これに対し、寿量品(本門)の「五百千万
      億那由他阿僧祇」を、五百(億)塵点劫と称
      して、化城喩品(迹門)の三千塵点劫よりも
      はるかに長遠であるかが示されるようになっ
      た。
       法華経における釈迦成道は・・、
       「われは実に成仏してより已来(このかた)、
      無量無辺百千万億那由他劫なり」と説いてお
      り、経文の記述に素直に従うならば、この五
      百塵点劫はあくまでもたとえ話として出され
      ただけであって、釈迦が成道した時ではない。
       また、化城喩品の三千塵点劫も、たとえ話
      として持ち出された話に過ぎない。
       しかし、日蓮は、『釈迦御所領御書』など
      で・・、
       「過去五百塵点劫より、このかた、この
      娑婆世界は、釈迦菩薩の御進退の国土なり」
      などと、五百塵点劫の言葉に開近顕遠の意味
      を持たせたことから、釈迦が本当に覚った時
      と解釈されるようになった。
       なお、一般的に、釈迦は、インドで生まれ
      菩提樹下で成道したとされる。
       これを伽耶始成、また、始成正覚というが、
      法華経においては、釈迦は、そのようなイン
      ド応誕の仏ではなく、本当は、遠い過去に成
      道していた、と打ち明ける。
       これを久遠実成をという。
                 (Wikipediaより)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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# by suba28 | 2018-05-11 03:22 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)593E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年3月)

題:(増補版)593E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年1月1日、イギリスでマンチェスター運河が開通した。
  マンチェスター船舶運河は、鉄道時代になってから建
 設されたが、鉄道に対して十分な競争力を持っていた。
  しかし、時代と共に外洋船が大きくなったため、その
 競争力は失われた。
  しかし、現代でも、その使用は可能の状態にある。
  この頃に、日本の琵琶湖疏水が建設されている。
  琵琶湖疎水の第一疎水は、1890年に完成している。

1894年1月4日、ロシア・フランス政治軍事同盟が締結され、
 正式に成立した(露仏同盟)
  1891年から1894年に、フランスと帝政ロシアの間に結
 ばれた政治協定であり、また、軍事協定であった。
  1894年1月4日のこの日、フランス側の軍事協定承認の
 通告をもって同盟の完成とされた。
  ロシア側は、1893年12月27日に批准していたが、1918
 年まで秘密にされていた。
  ドイツ、オーストリア、イタリアの3国の攻撃に対して、
 ロシアとフランスは、協力して戦おうというもので、そ
 の後、イギリス、フランス、ロシアの「三国協商」へと
 発展した。
  この条約は秘密条約で、初めは、対ドイツの防衛同盟
 の性格を持ったが、イギリスが加わって三国協商となっ
 た。
  この条約は、ロシアの苦しい状況があった。
  1890年に、ドイツ・ロシア間の再保障条約が満期とな
 り、その再延長をドイツが拒否した・・
  そこで、ロシアは、フランスに接近した。
  1891年に、政治協定を結び、
  1892年に、秘密協定の軍事協定を結んだ。
  そして、この1894年に、フランスが、軍事協定承認を
 通告して同盟関係が確定した。
  ロシアは、今までの歴史に於いて、一番条約を破る国
 となっている・・
  日本との中立条約も破って、日本領土を奪うようなこ
 とをしている・・、
  そして、その日本領の日本人たちを戦車などで、多数、
 殺戮し・・、
  また、シベリアへ、日本人を不法に、多数、拉致をし、
 多くの日本人をその極寒のシベリアで死に至らしめてい
 る・・亡くなっている・・
  しかし、ロシアは、この事例の様に、自分は、条約が
 無いと心配するというような国・・
  💢💢💢・・約束を守らない国が💢💢何を言うか・・と言
 いたい💢💢💢
  💢💢💢・・一番、歴史を汚してきた国・・💢💢💢

1894年1月4日、日本鉄道の八戸線の尻内駅~八戸駅間が開
 通した。

1894年1月7日、豊州鉄道会社が、伊田駅から奈良駅の線路
 延長の出願をした(1895年10月5日免許状下付)

1894年1月18日、初瀬鉄道の奈良駅~桜井駅間の建設仮免許
 状が下付された。

1894年1月24日、鉄道局歳入歳出出納規程が制定された。

1894年1月26日、天満紡績争議
  大阪天満紡績で、職工達が労務管理に反対して騒動を
 起こした。
  1887年に設立された天満紡績会社は、その翌年・1888
 年に、大阪府西成(にしなり)郡川崎村で開業した。
  1889年10月30日から翌月・11月6日にかけて、おりから
 の米価騰貴のなかで、賃金引上げなどを要求し、300~
 400名が職場を放棄のストライキをした。
  この時、会社側の賃上げの約束と憲兵の説得によって
 問題は収まった。
  そして、また、1894年1月26日、開業早々の第二工場に
 おいて、「賞与が出ないこと」と、「厳しい技師長に対
 する不満」から30名ほどが食堂に立てこもった・・そし
 て、罷業(ひぎょう、仕事を意識的に休むこと、ストラ
 イキ)を呼びかけた。
  別説では、1894年1月27日、夜勤を終えた工員たちが技
 師・工務係ら上司3名の解雇を求めて午前6時ころより食
 堂を占拠し、出勤してきた昼勤の工員たちに同盟罷業(
 ストライキ)を呼びかけ、これに従わない一部の工員に
 対して夜勤の工員が殴打した・・とある。
  そして、13名が勾引(こういん、尋問のため、被告人・
 容疑者を強制的に裁判所・警察署などに連れて行くこと)
 されたが、同日の夜業は3分の1運転にとどまった。
  争議は失敗に終わった。
  4名の男工が2か月の重禁錮を科された。
  多数の職工には、義捐(ぎえん)金を醵出(きょしゅつ)
 されたとされている。
  また、別の史料には、会社側の要請を受けた曾根崎警
 察署の警察官が、工場に入り作業を再開させる一方、会
 社側は、技師たちに解雇相当の理由はないとして工員た
 ちの要求を退けた。
  これに対し、工員たちの中には納得をせず退社する者
 も出た。
  なお、昼勤工員の殴打に関して、工員6名が暴行によっ
 て告発され、5名が有罪判決を受けてそれぞれ重禁錮2か
 月・罰金3円、1名はその後の控訴によって重禁錮1か月・
 罰金2円判決が下された・・とある。

1894年2月1日、富山の薬売り業者らが設立した私立の共立
 富山薬学校が開校した。
  (1894年は、発足との説がある)
  因みに、この年に、日本薬剤師会が発足している。
  そして、この後に、官立旧制薬学専門学校となり、富
 山大学の旧制前身校の一つとなる。
  富山市の補助金と、富山県内所在の複数にわたる製薬
 会社による寄付金で設立された。
  本科(修業年限2年、入学資格 満17歳以上)、速成科
 (修業年限1年、入学資格 満15歳以上)、選科を設置し
 た。
  1895年2月に、開校始業式が行なわれた。

1894年2月1日、関西鉄道、官設鉄道・参宮鉄道と旅客貨物
 の連帯運輸を開始した。
  私設鉄道は、官設鉄道との競争の中にあった。
  日本の鉄道敷設計画は、最初から、しっかりとした考
 えの筋が通っていた・・
  「しっかりとした日本の背骨にする鉄道計画」という
 視点・捉え方をした・・、
  また、日本の先人の偉い所は、外資が入ると日本の植
 民地化への道をひらくと、「外資鉄道計画をきっぱり拒
 否した」。
  しかし、スタートだけは、イギリスの資本と技術に頼
 らざるを得なかった。
  そして、1872年、新橋駅~横浜駅間が開業した。
  当然、目標としては、東京と関西圏を結ぶところに置
 いていた。
  そして、中山道ルートが想定されたが・・なかなか、
 その実現性・見通しは立たなかった。
  新政府の中心人物である岩倉具視は、鉄道建設により
 産業開発を図るという「日本鉄道計画」を作った。
  そして、 1881年、東京駅~高崎駅間と、東京駅~青森
 駅間の免許状下付を受けた。
  東京駅~高崎駅間は、政府が予定する中山道幹線鉄道
 の一部であった。
  また、青森への縦貫線は、東北地方の開発を目指すも
 のだった。
  1883年の上野駅~熊谷駅間の開業に始まり、翌年・
 1884年には、高崎駅まで全通した。
  明治天皇陛下をお迎えした開業式は・・まさに、日本
 の幹線鉄道の完成を祝うものだった。
  私設鉄道の免許状下付は、鉄道建設は官設で進めると
 いう方針を変えるもの・・、
  政府として、財政事情からのやむを得ない措置として、
 半官半民の会社で、鉄道建設を促進することとした。
  半官半民の日本鉄道より2年後には、純粋の民間資本に
 よる鉄道(阪堺鉄道)が登場した。
  短距離鉄道だが、地の利を得て業績は好調だった。
  この成功を見て、各地に鉄道会社が誕生した。
  1888年に、幹線鉄道として山陽鉄道が姫路まで開業し、
  また、難工事の中山道ルートから 東海道ルートへと変
 更がなされ・・順調に工事は進み・・、
  1889年、に全通した。
  そして、ようやく蓄積されて来た民間資本による鉄道
 建設が進んで行く。
  日清戦争時に、広島まで開通していた山陽鉄道が活躍
 し・・、
  1900年度末の鉄道営業キロは、官設鉄道1206kmに対し
 て私設鉄道4674kmと4倍近い差があった。

1894年2月8日、洋風に改装されていた京五条大橋が元に戻
 った。
  五条大橋の歴史・・
  1589年、桃山時代(天正17年)に、秀吉が五条大橋を
   作った、橋脚は石で造営した。
  1645年、江戸時代(正保2年)に、高欄に青銅の擬宝珠
   が左右に16基つけられた。
    五条大橋は、江戸時代に五度架け替えられた。
    鴨川と高瀬川の両方をまたぐ大橋梁で、中央の反
   り返りが高く、「虹のような橋であった」と言われ
   ている。
  1878年、明治時代(明治11年)に、高瀬川の小橋とは
   分けて、長さ48間、幅4間2尺の板橋に架け替えら
   れた。
    この時、擬宝珠がはずされ、洋風のペンキで塗装
   された。
    ここで、当然、景観論争が起きた。
    洋風のペンキで塗装された姿への批判・・
    「槇村知事が、洋風心酔により旧形を変じてペン
    キ塗りの嫌らしきものとなせし」と新聞で批判は
    高まった。
  1894年(明治27年)に、擬宝珠高欄のある現在の形に
   戻された。
    この完成時、渡り初めは、80歳以上の高齢者夫婦
   54組が行った・・元に戻され、京の人々は喜んだ。。
    擬宝珠のある五条の橋は、京都の人のあこがれと
   なっていて、明治27年2月8日、昔の通りなつかしい
   擬宝珠がつけられ、106歳の高橋茂兵衛氏は、立烏帽
   子の大紋をつけ、きれいどころも加わって雄々しく
   渡り初めがなされたという。
   (参考)立烏帽子:たてえぼし、烏帽子の一種。
       烏帽子の中で最も格式が高い 。

1894年2月14日、朝鮮全羅道で農民らが反乱を起こした。
  朝鮮官吏の汚職など政治は腐りに腐っていた。

1894年2月15日、また、朝鮮全羅道古阜で、農民反乱が発生
 する。

1894年2月16日、天満紡績騒動で、職工の指導者4人が重禁
 固刑となった。

1894年2月17日、出納官吏の身元保証金算率を制定(公達第
 83号)

1894年2月20日、信越線の客車、および、緩急車に真空ブレ
 ーキが取付けられ、技術の刷新がなされた。

1894年1月22日、葉山御用邸が完成した。
  1897年、隣接の旧紀州藩主徳川茂承邸を買い上げて葉
 山南御用邸とし・・、
  さらに、1905年には、三宮錫馬邸を編入し、葉山御用
 邸付属邸とした。

1894年2月23日、タカジアスターゼが発明された。
  日本の製薬会社三共の事実上の創業者である高峰譲吉
 は、麹菌からジアスターゼを抽出し、自身の名の「タカ」
 を冠してタカジアスターゼと命名し、世界最初の消化酵
 素薬剤の製造法を米国特許庁に出願した。  
  発売は1897年、
  日本での発売は1899年。
  1854年、高峰譲吉は、越中国高岡(現・富山県高岡市)
   の山町筋と呼ばれる御馬出町(おんまだしまち)の
   漢方医・高峰精一の長男として生まれた。
  1855年(1歳)父の学問所「壮猶館」の勤務のため加賀
   国金沢城下の梅本町(現・石川県金沢市梅本町)へ
   移住。
    幼い頃から、外国語と科学への才能を見せ、加賀
   藩の御典医であった父からも西洋科学への探求を薦
   められた。
    母は、造り酒屋(鶴来屋)津田家(塩屋弥右衛門)
   の娘で、名を幸子(ゆき)と言い、後年の清酒醸造
   の麹の改良にも繋がっている。
  1865年(12歳)加賀藩から選ばれて長崎に留学し、海
   外の科学に触れたのを最初に、
  1868年(14歳)京都の兵学塾、大阪の緒方塾(適塾)
   に入学、
  1869年(16歳)大阪医学校、大阪舎密(せいみ)学校
   に学ぶ。
    工部大学校(後の東京大学工学部)応用化学科を
   首席で卒業。
  1880年(26歳)英国グラスゴー大学への3年間の留学を
   経て、農商務省に入省。
  1884年(30歳)アメリカ、ニューオリンズで開かれた
   万国工業博覧会に事務官として派遣され、そこで出
   会ったキャロライン・ヒッチと婚約する。
    博覧会取材のラフカディオ・ハーン に会う。
  1886年(32歳)帰国後、専売特許局局長代理となり、
   欧米視察中の局長・高橋是清の留守を預かって特許
   制度の整備に尽力する。
  1887年(33歳)結婚。
  1890年(36歳)渡米し、アメリカへ永住することにな
   る。

1894年2月、奥羽線の福島駅~米沢駅間が着工された。

1894年3月1日、第3回臨時衆議院議員の総選挙が行なわれた。
  自由党が120人と議席をのばした。

1894年3月5日、イギリスで第5代ローズベリ伯爵内閣が成
 立した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:仏陀の言葉・・この世界は美しい、
            そして、
             人生は甘美である。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 7
  病を克服した仏陀は、回復するといつもの様に托鉢に
 出かけました。
  後ろには弟子のアーナンダが従います。
  仏陀の従兄弟でもあるアーナンダは、25年にわたっ
 て、常に行動を共にして来ました。
  この日、托鉢から戻り食事を終えた仏陀が発した言葉
 に、周りの弟子達はおどろかされました。
  それは、何時も身近に居るアーナンダですら、始めて
 耳にする言葉でした。
.
  インドの子供達が、大喜びで水浴びする・・その姿を
 微笑みながら見る・・、
.
  アーナンダとの対話 アンバパーリーとのいきさつ、
 そして、仏陀の老いと病と、そういうものが、いくつも
 つき重なった場所なんですけど、この場所で、ある日、
 仏陀とアーナンダの間に、こういう対話があります。
  「仏陀・最後の旅」の中から、とても印象深い対話で
 す。
.
     さて尊師は、
     早朝に、内衣を付け
     外衣と鉢とをたずさえて
     托鉢の為にベーサーリー市へ行った。
     托鉢の為にベーサーリーを歩んで
     托鉢から戻って食事を済ませた後で
     若き人・アーナンダに告げた。
     アーナンダよ、
     座具を持って行け
     私はチャーパーラ霊樹の元へ行こう
     昼間の休息の為に。
     そこで尊師は、
     チャーパーラー霊樹の元に赴いた
     赴いてから、あらかじめ設けられていた座席に
    座した。
     若き人・アーナンダは、尊師に敬礼して一方に
    座した。
     一方に座した若き人・アーナンダに、尊師はこ
    の様に言われた。
     アーナンダよ、
     ベーサーリーは楽しい
     ウデーナ霊樹の地は楽しい
     ゴータマカ霊樹の地は楽しい
     七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい
     タフブッダ霊樹の地は楽しい
     サーランダ霊樹の地は楽しい
     チャーパーラ霊樹の地は楽しい。

  これは中村元さんが、パーリー語から訳された言葉な
 んですけれども、あのー、色々ありまして、サンスクリ
 ットの方から訳されたこのくだりにはですね、非常に印
 象的な言葉が加えられています。
.
     この世界は美しい
     そして、
     人生は甘美である
.
  まあ、こんな風に、サンスクリット語の本の方には書
 かれている訳なんですけれども、そこまで本当に、仏陀
 が、言われたかは分かりません。
  この物語を編んだ人が、霊樹の地は楽しいという言葉
 を、さらに、普遍して、その様に自分の思いを付け加え
 たかもしれません。
  この辺は分かりませんですけれども、人々が、仏陀に
 そういう風な言葉を言って欲しいなーという風に、心か
 ら思っていたことが伺えるのですね。
  仏陀の信仰と言いますか、法の教えの第一歩は、人生
 というものは、苦であるという、いわば、ネガティブ・
 シンキングと言いますか、どん底から出発する訳です。
  この世というものは苦しいものである、そして、生老
 病死、様々な苦しみに満ちている。
  この苦しみの中から人はどのように苦しみに耐えて生
 きていくか。
  仏陀は、その事を終生、ずーッと追求し続けた人なん
 ですが、
  それでも苦から出発したこの世界、この認識がですね、
 仏陀の最後の旅の「 末期の眼 」の中で、
  『 この世界は美しい、人生は甘美である 』、
  例え、苦の世界であったとしても、こんな風に、最後
 に、仏陀に呟いて欲しいと思った人々が、どれほど居た
 ことなんでしょうね。
  人間というものは、『 決定的な絶望の中に生き続け
 ることは、本当は難しいこと 』です。
  そして、私達・弱い人間というのは、どうしてもその
 様に、物語の中で自分達の思いを、仏陀に託して、そし
 て、こういう事を言って欲しかったという事を付け加え
 て、伝承というものが生まれてきます。
  ですから、それは、仏陀が、言った言わないとは別に、
 人々が、その様に、苦から出発して、あるいは楽の世界、
 醜の世界から美の世界、辛い世界から甘美な世界へ行き
 たいという願いを抱き続けて、2500年も生き続けて
 来たという事を表している訳ですから、それはそれで真
 実であろうという風に思う所があります。
.
  若き人・アーナンダに、尊師は、この様に言われた。
.
     アーナンダよ
     ベーサーリーは楽しい
     ウデーナ霊樹の地は楽しい
     ゴータマカ霊樹の地は楽しい
     七つのマンゴの霊樹の地は楽しい
     タフブッダ霊樹の地は楽しい
     サーランダ霊樹の地は楽しい
     チャーパーラ霊樹の地は楽しい。
.
  雨季が明け、再び、旅に出る日がやってきました。
  ヴァイシャリーの人々は、何時までも、別れを惜しん
 だと言います。
  町の郊外にあるレリック・ストゥーパは、ヴァイシャ
 リー王によって建立されたと伝えられております。
  小さな半円形のストゥーパからは、仏陀の遺骨の一部
 を納めたシャリ容器が、半世紀前に発掘されました。
.
  インド人のプッドゥ・バランさんは、このあたりで布
 教活動しているお坊さんです。
  バランさんは、ここで、毎日、お経を上げています。
  バランさんの言葉: 
   今から2500年も前の話になりますが、お釈迦様
  は、好んでこの地で法を説いていました。
   ある日、ヴァイシャリーの人々に、この様に語った
  と伝えられています。
.
     私は、この地にずっと留まることは出来ません。
     西にあるクシナガラという町へ向かいます。
     名残惜しいけれど、どうか、私を行かせて下さ
    い。
     この物語に基づいた歌を唄いたいと思います。
.
  インドのお坊さんの経: 
     ヴァイシャリーの人々は
     お釈迦様が歩き出すと
     泣き出しました。
     お釈迦様は、クシナガラの
     サーラの方へ出発しました。
     村の人々が、皆、泣き出しました。
                     (つづく)
  (補 注): アンバパーリーは、徹夜でご馳走を用
      意し、翌日、釈迦の一行が訪れた時は自ら給
      仕してもてなしました。
       食事が終わった時、彼女は、釈迦が留まっ
      た果樹園を教団に寄贈することを申し出て釈
      迦はこれも受けています。
       最後の場面はこんなふうに伝えられていま
      す。
.
     尊師は法に関する講話をもってかの女を教え、
     諭し、
     励まし、
     喜ばせ、
     座から起って、
     去っていった 。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 8     
  インドのお坊さんの経: 
     お釈迦様が、
     ヴァイシャリーにいるときは
     いろんな処に
     仏教が広まっていきました。
     お釈迦様は、
     何事も正直に話すようにと
     繰り返し語っていきました。
     お釈迦様は、
     ヴァイシャリーの人々を
     誰よりも愛してくれました。
     お釈迦様が、
     クシナガラのサーラの森に行くときは
     老若男女、みんなが泣きました。
.
  お経を唱えながら、裸足で水に濡れた田の畦道を行く
 仏教僧の映像。
  畦の道に僧の経が流れて行く。
  ・・・。
  そして、悪路を車で進んで行く・・
  大きく左右にゆれる車。
  警笛を鳴らしながら、乗客を満載したバスと行き違う。
.
  イヤー、もう、照り返しがすごいですね。
  イヤー、もうこれは、死にそうだ。
  ナマステー。
  お茶を一杯下さい。
  (お茶の葉を沸騰している鍋に直接入れ、煮て、)
  なんか戦後を思い出すね。
.
  仏陀の足跡を辿り、連日、悪路を進む・・、
  旅は、まだ、半ばを過ぎたところです。
.
  ありがとう。
  あちちっ、・・・旨いですね。
  もう、極楽という感じだな。
  (多くのハエが・・ それを手で払う店の人、周りを
  飛ぶ)
.
  今までの旅の風情は?
  イヤー、なんか修行という感じですね。
  前にインドに来た時は楽な旅をしたもんですからね。
  本当は苦行修行の旅なんですね。
  こういう農村を見ないと、インドは分からないという
 のは、本当ですね。
  仏跡は地方の農村地帯に残っている。
  仏蹟探訪の旅 ロマンティックな感じはしますけれど、
 本当は苦行修行の旅なんですね。
  だから観光の積もりできたのでは、もうもたないでし
 ょう。
  お遍路の様な覚悟で、やはりやらなければならない旅
 ですね、苦行の・・・・。
  ナマステ。サンキュー。
  イヤー、またこれはひどい日差しだな。
.
  ヴァイシャリーを出た仏陀は、更に北に向かって
 歩き続けます。
  ヴァイシャリーから北西に、およそ50キロ、当時の
 ヴァッジ国の国境にあたる場所に発掘中の巨大な遺跡が
 あります。
  (ケッサリア・ストゥーパ)
  イヤー、これはすごい。あー。
.
  このストゥーパは、紀元200年~紀元700年の間
 に建てられたものと考えられています。
  本格的な調査が始まったのは、1998年。
  現在発掘されている部分だけでも、直径123メート
 ル、高さ31メートルにおよぶ、レンガ造りの巨大なス
 トゥーパです。
  さらに、この下にどれ程の遺跡が埋もれているかは、
 まだ、明らかになっていません。
 (遺跡を登り、進む・・)
  あー、ここに仏陀像があるんだね、あー、
  (頭を下げ、手を合わせる)
.
  大パリニッバーナ経によると、旅の途中、仏陀の前に
 悪魔が現れました。
  悪魔は、今こそ、尊師のお亡くなりになる時ですと告
 げます。
  まだ、その様な時期ではないと退けます。
  (カラスが、ぎゃーぎゃーと鳴いている)
  カラスがすごい。
  しかし、その一方で仏陀は、死に向かう準備を始めま
 す。
  (巨大ストゥーパの周りをくるくる歩く・・、
   何匹ものカラスが木にとまり、ぎゃーぎゃーと鳴く)
  ストゥーパだから、中に入る事はないんだね。
  (ストゥーパの上も、何匹ものカラスが飛び回る)
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 9
  ある時、アーナンダに向かって、仏陀は衝撃的な言葉
 を述べます。
  それは、「自分は、もう、3ヶ月後には、この世に居
 ないだろう」という、そういう予言です。
  アーナンダは、さぞかし、もう、驚愕し絶望したに違
 いありません。
  しかし、余命は、もういくばくもない、自分は3ヵ月
 後に、この世を去る。
  自分の言っていることは、決して間違いない。
  こういう風に、仏陀は、断定します。
  おそらく、仏陀の80年の生涯の中で、自分の人生の
 終わりというものを、すっきりと予感した。
  そういう瞬間だっただろうと思いますね。
  ・・・で、仏陀は、アーナンダに、「自分はこの世を
 去る・・
  去る前に、自分が、色々、言っておきたいことがある。
  だから、「修行僧達を沢山集めなさい」 こういう風に、
 アーナンダに命じます。
  そして、アーナンダが、集めた大勢の修行僧を前に、
 仏陀は、この様に言われたという風に、経典には書かれ
 ています。
.
     そこで尊師は、
     修行僧達に告げられた
     さあー、修行僧達よ
     私は、いま、お前達に告げよう
     諸々の事象は過ぎ去るものである。
     怠ることなく修行を完成なさい。
     久しからずして
     修行完成者は亡くなることだろう
     これから3ヶ月過ぎた後に
     修行完成者は亡くなるだろう・・と、
.
     尊師・幸いな人、
     師はこの様に説かれた。
     この様に説いたあとで
     さらに、
     次のように言われた
     我が齢は熟した。
     我が余命はいくばくもない。
     汝らを捨てて、私は行くであろう。
     私は自己に帰依することを成し遂げた。
     汝ら修行僧たちは、
     怠ることなく よく気をつけて
     よく戒めをたもて。
     その思いをよく定め統一して
     おのが心をしっかりと守れかし
     この教説と戒律とに務め励む人は
     生まれを繰り返す輪廻を捨てて
     苦しみも終滅するであろう・・と、
,
  物事は、移り変わるものだという様な事を、いくら口
 で言っても、どんなものでも流転するという様なことを、
 自分の身をもって、みんなに語ろうとしているんではな
 いでしょうか。
  例えば、仏陀という人が、尊敬され、そして、その教
 えが、広がれば広がるほど、その人を、偶像化して、永
 遠に戴いて崇拝していこうという気分というのは、強ま
 ってきます。
  どっかで自分は、もう、如何に仏陀といえども、自分
 も涅槃に入るんだという事を言って、それで、その時、
 突然、自分が居なくなって、周りが大混乱するよりも、
 あと3ヶ月というこの日々を、周りの修行僧やアーナン
 ダ達が、しっかり心に刻んで、あと1日、あと1日とい
 う風に、大事にして生きるようにという、生きるもの・
 残されたものへの配慮だという風に、思いますけどね。
  ・・・・・。
  あのー、僕自身はね、余命ということを考えないんで
 す。
  むしろ、天命という考え方、で、自分が何時まで生き
 るとか、
  何時、死ぬとか、そういうことはね、ほとんど考えた
 ことは無いんです。
  あのー、出来れば長く元気で生きられれば良いと思い
 ます
  けれども、人間の天寿というものは、あらかじめ決ま
 っているんじゃないかなーという事を考える事がありま
 してね。
  その天寿を全うしたい、ですから、世の中というのは、
 すごく不合理なもので、30歳の天寿の人も居れば、10
 代で亡くなる人も居る、90歳、100歳まで生きる人
 も居る。
  ですから、僕は自分の人生と言うのは、ある時期から、
 「いつでも」と言うのは、おかしいのですけれども、
 「もういいよ」という、声なき声が、聞こえてきた時が、
 自分の寿命の尽きる時だと思っていますし、寿命が尽き
 ると言うことがですね、何か終わるとか、無くなるとか、
 そういう風に考えていないのですね。
  ですから、何か新しい出発と感じもしますし、とりあ
 えず、与えられた、今日一日、明日の一日、仏陀の言葉
 の様にですね、
  元気を出して、苦しみに耐えてという風に思ってます
 ね。
  ですから、寝る時は、もう、明日は目が覚めないかも
 しれないという風に思いますし、起きた時に、「あー、
 今日一日あったな」と思いますし、あまり、そういう風
 に先の事を考えたことが無いですね。
.
  自らの死を予言した仏陀。
  別れを惜しむ人々が、数多く後を追ってきました、し
 かし、仏陀は、彼らに戻るように説き、形見として自分
 の托鉢の鉢を渡しました。
.
  インドの仏教歌: 
     金のお皿でご飯を
     食べて貰いましょう
     仏陀に乳粥(ちちがゆ)を
     差し上げましょう
     金の台の上に
     席を用意しましょう
     仏陀にお願いして
     座って貰いましょう
     ここで仏陀に
     静かに休んで貰いましょう
     私は、みんなに仏陀が
     来ていることを知らせます
.
  長い汽笛を鳴らして走り、そして去っていく列車
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 10
  霊鷲山を出てから、半年になろうとしていました。
  仏陀は、熱心な信者が居るパーバ村へ向かっていまし
 た。
  ナマステー。
  当時、この一帯にはマンゴー園が広がっていました。
  持ち主は、パーバ村の鍛冶屋の子・チュンダ。
  以前、仏陀が、パーバ村を訪れた時に帰依した敬虔な
 信者です。
  チュンダは、仏陀を歓迎するために、貧しいながらも
 できるだけの準備をととのえ、首を長くして待っていま
 した。
  燃料に使う、牛糞ですか?
  あれなんか、積み重ねているところなんかも、何千年
 も同じ様に、燃料に使っているわけなんですね。
  牛糞に、藁を混ぜて・・・。
  あっ、そのままでなくてね。
  あ、そうか、そのままでは燃えないのだ。やっぱり。
  あーそれじゃー、一応加工している訳なんだね。
  えー、だけど、昔の村らしい村ですねー。
  ナマステー。
  (加治屋さんのところに来て)
  あー、ふいごですね、昔のねー。
  あのー、なんか、鍛冶屋さんと言うにはあまりに素朴
 なー。
  でも、こんな風にして、農機具とか色々を作るのでし
 ょうねー。
  (あるインドの方へ)ナマステジー。
  あのー、仏陀が最後の旅の中で、この村で病気をした
 と、聞いたのですが?
  この村で言い伝えられてきた話によると、仏陀は、仙
 人に姿を変えて南から 来たそうです。
  日が暮れ始めていたので、仏陀は、この村に泊まるこ
 とにしました。
  村の誰かが、夕飯を用意したそうです。
  いろんな言い伝えがありますが、豚肉料理を出した
 という説と、ククルムタと呼ばれるキノコ料理を出した
 という話があります。
  (手を合わせて)ナマステジー。(お礼を言って立ち
 去る)
  (鍛冶屋さん、鞴・フイゴを手でこいで風を送っている)
.
  仏陀は、チュンダが用意してくれた食事を、快く受け
 入れました。
  しかし、口に入れて直ぐ、それが、食べてはいけない
 ものだと分かりました。
  ここで、仏陀は、チュンダにこう告げます。
  チュンダよ、
  残ったキノコ料理は、それを穴に埋めなさい。
  神々・悪魔・梵天・修行者・バラモンの間でも、
  また、神々・人間を含む生き物の間でも、
  世の中で修行完成者(=仏陀)のほかでは、
  それを食して完全に消化し得る人は見出せません
 ・・・と。
  「かしこまりました」と鍛冶工の子・チュンダは、尊
 師に答えて、残ったキノコ料理を穴に埋めて、尊師に近
 づいた・・・。
  近づいて尊師に敬礼し、一方に座した。
  チュンダが、一方に座した時に、尊師は、彼を教え・
 諭し・励まし・喜ばせて、出て行かれた。
.
  その時、仏陀は、激しい腹痛に見舞われていました。
  仏典には、こう記されています。
.
     さて、尊師が、
     鍛冶工・チュンダの料理を食べられた時
     激しい病が起こり
     赤い血がほとばしり出る
     死に至らんとする激しい苦痛が生じた。
     尊師は、
     実に、正しく思い
     良く気を落ち着けて
     悩まされる事無く
     その苦痛を堪え忍んでいた。
     さて、尊師は、
     若き人・アーナンダに告げられた
     『さー、アーナンダよ、
     我々は、クシナーラーに赴こう』・・・と。
.
  80歳の老いた身に、血が出るほどの激しい下痢。
  立っていることさえままならない身体を、引きずるよ
 うにして、仏陀は、自ら終焉の地と思い定めた、クシナ
 ガラを目指しました。
  パーバ村からクシナガラまでは、およそ20キロの道
 のりです。 
                     (つづく)
  (参 考):クシナーラー = クシナガラ
  (解 説):チュンダは、釈尊への尊崇の念で食事の
      供養をしようとして珍味のキノコ料理をさし
      上げたが、結果、釈尊の死を早めるに至った。
       釈尊は、チュンダが後悔して嘆くであろう
      し、また、まわりの者たちがチュンダを責め
      るようになるであろうと、チュンダに同悲さ
      れ、「私の生涯で二つのすぐれた供養があっ
      た。
       その供養は、ひとしく大いなる果報があり、
      大いなるすぐれた功徳がある。
       一つは、スジャータの供養の食物で、それ
      によって私は無上の悟りを達成した。
       そして、この度のチュンダの供養である。
       この供養は、煩悩の全くない涅槃の境地に
      入る縁となった。
       チュンダは善き行いを積んだ」と仰せにな
      った。
       最初のスジャータの供養とは、釈尊がさと
      りを開かれる前、
       極限にいたるほどの苦行をされていたが、
      極端な苦行は悟りへの益なきことを知り、そ
      れまでの苦行を捨て、村娘のスジャータから
      乳粥の供養を受けられた。
       それによって体力を回復し、菩提樹の下に
      座り、「悟りを開くまではこの座を決しては
      なれない」という決意でもって坐禅瞑想に入
      られた。
       そして、この上ない悟りを開かれたと伝え
      られている。
       スジャータの供養は、悟りに至る尊い縁に
      なったのである。
       そして、このスジャータの供養の功徳とひ
      としく、このたびのチュンダの供養は、大い
      なる涅槃に至る尊い縁となると、釈尊は、チ
      ュンダの食物の供養を讃えておられる。
       チュンダがさし上げた特別のキノコはどう
      やら食用に適さなかったようある。
       しかし、チュンダは自分のせいで釈尊を死
      に至らしめたという後悔をするだろうし、ま
      た、周りの僧俗がチュンダを責めるであろう
      と釈尊は思われ、チュンダの嘆きに寄り添っ
      て、「チュンダは大いなるすぐれた功徳を積
      んだ。
       チュンダの供養で、私は煩悩の残りなき大
      いなる涅槃に入ることになった。
       「チュンダは善いことをした」と、チュン
      ダの供養をほめ、起こるであろうチュンダの
      嘆きと周りからの責めをあらかじめ取り除か
      れたのである。
       ここに釈尊の慈悲の深さ、同悲のお姿が伺
      われる。
       仏教で言われる慈悲の行いとは、具体的に
      どういうものなのかがよく示されている。
       しかも、釈尊のチュンダへの言葉は、無理
      にチュンダを慰めているというものではなく、
      ご自分の死を「大いなる涅槃に入る縁」と見
      られてのものである。
       ご自分の死んでいくことに対して、不幸と
      もいわず、嘆きもせず、静かに受け止められ
      るばかりではなく、煩悩が全く消滅する大涅
      槃に入る尊い縁として見ておられるのである。
       そういう背景があってチュンダの供養を讃
      えておられるのであって無理にチュンダを慰
      めているのではなかろう。
       このことによって教えられることは、自分
      にふりかかるどのような〈災厄〉をも、転悪
      成善(悪を転じて善と成す)で、善き縁であ
      ると受け止める智慧があって、初めて他者へ
      の憎悪や責める心から解放されるのであろう。
       もし、自分は内心で嘆いているけど、人を
      悲しませてはいけないという愛情であれば、
      それはそれで尊いとしてもなお暗いものがあ
      る。
       このように釈尊は、ご自分の死を大涅槃の
      悟りに至る機縁と見られたが、この釈尊の死
      の意味は、浄土の教えを信じる者における死
      の意味と重なるものであろう。
       自らの死を大涅槃界である浄土に生まれる
      縁といただいている念仏の信心と、釈尊にお
      ける死への智見とは、内面的に連なるものが
      ある。
       真実の信心は、死をも浄土へ生まれる縁で
      あるとの智見を生むのである。
              (寺報「草菴仏教」より)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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# by suba28 | 2018-05-10 03:14 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)592E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年1月)

題:(増補版)592E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年、出来事:
・金玉均が暗殺された。
  1894年3月28日、金玉均が暗殺された(43歳)
  金玉均(きんぎょくきん、1851年2月23日~1894年3月
 28日)は、李氏朝鮮における後期の政治家で、朝鮮独立
 党の指導者だった。
  1882年(31歳)2月から日本に学び、福沢諭吉の支援を
 受け、慶応義塾に学んだ。
  金玉均は、日本の明治維新を模範として、中国・清朝
 からの独立を果たしたいと、その実現を目指し、また、
 朝鮮の近代化も成し遂げたいとした。
  その実現が、清仏戦争が起きた時を好機と見て、1884
 年12月4日、政権打倒クーデター(甲申事変)を朝鮮で起
 こした。
  清仏戦争で清の介入は無いと見たが、清の介入で、事
 件は失敗に終わった。
  その実行は、3日間の政権で終わった。
  日本へ亡命し・・その後・・、
  李鴻章と会うために上海に渡ったが、この地で暗殺さ
 れた。
  福沢諭吉は、金玉均の法要を営んだ。
・東学党の反乱
  1894年3月29日、朝鮮で東学党の反乱が起きた・・そし
 て、広がって行った。
  抑圧され、圧迫されて来た朝鮮農民の方々のこの反乱
 は、甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)とも言わ
 れる・・
  朝鮮王朝(李朝)の重税政策に苦しみ、また、両班(
 りゃんばん、李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を
 担った支配階級の身分の者のこと)たちの賄賂横行と不
 正横行などで、民衆の生活は苦しい状況で、その朝鮮政
 府の暴政に対して、農民戦争が起きた。
  そして、東学という宗教的訴えが、狡猾な李朝朝鮮の
 地方官に利用され、逆に、農民が収奪される口実ともさ
 れた。
  農民たちの訴えは、その汚吏(おり、汚職や不正な事
 をする役人)に向けられ、政治的要求へと変わった。
  そして、行動は反乱となり、1894年2月、全羅道古阜郡
 の民乱を契機にして始まり、一応の成果を得て解散はし
 た・・が・・
  その後、政府派遣の官吏の不法弾圧に激怒した全琫準
 (ぜんほうじゅん、東学党の乱の指導者)は、全羅各地
 に呼びかけて、1894年5月、古阜、泰仁で本格的な闘争に
 立ち上がった。
  全羅各地で蜂起した農民軍は、白山に集結、大多数が
 農民で、東学徒は少なく、指導者は東学メンバーだった。
  全琫準らの指導者は、農民軍を軍隊式に編成し、また、
 四大綱領を発表し、広範な農民層の支持を得た。
  農民軍は、黄土峴、長城で政府軍を撃破し、全州を占
 領した。
  政権は、これに驚き、清国に出兵を要請する、その一
 方、農民軍の改革案を受け入れた。
  全州での和約後、農民軍の大半は解散したが、全羅道
 53郡に農民軍の自治機関である執綱所が設置され、実質
 上の政権機関として機能した。
  朝鮮政府の暴政に対し、次のような詩が朝鮮国内に広
 く伝わった。
  金の樽に入った美酒は、千人の血からできており
  玉椀にある美味い魚は、人民の油でできている
  ろうそくから蝋が滴るとき、人々の涙も滴り
  歌舞の音楽が高く鳴り響くとき、人々の怨嗟の声も高
 くとどろく
・伊藤内閣第六議会解散(氷川清話)
  第六特別議会は、1894年5月15日開会~6月2日解散で短
 い議会だった。
  景気は良くなったが、対外硬で激しく、対立した。
  (参考)対外硬:たいがいこう、
      日清戦争直前、反政府派が、国際協調政策を
     とる政府の外交を攻撃するために唱えた標語で、
      この時は、ロシアの東アジア進出により緊迫
     した国際情勢にあった。
      これに対し、新聞「日本」をはじめとする民
     友社の「国民新聞」に至るまで、反政府側の日
     本主義派・・そして・・自由党、改進党などの
     民党連合は、政府外交を批判した・・、
      また、政費節減・民力休養路線を主張した。
      不平等条約によって侵されている国家主権の
     回復と、積極的な対外進出を主張した。
      また、対等条約を実現するためには、現行条
     約を励行して外国人を取り締まり、彼らに不利
     益を与え、対等条約の交渉に列強が応じない場
     合は条約破棄もというものだった。
  (参考)現行条約励行運動:
      対外強硬六派いわゆる「硬六派」によって唱
     えられた反政府の言論運動で・・幕末期に江戸
     幕府が諸外国とむすんだ不平等条約について、
     条約正文に明白に規定されていない事項に関し
     てはいっさい外国人の権利を認めず、日本国内
     における外国人の活動や生活を制約することを
     通じて条約改正を行ない、平等条約の実現を図
     ろうというもの。
・日英通商航海条約が締結された。
  1894年7月16日、ロンドンで日英通商航海条約が締結さ
 れた。
  陸奥宗光外相(1844年~1897年)の治外法権の廃止交
 渉が功を奏した。
  陸奥宗光は、不平等条約「治外法権」の撤廃に粘り強
 く交渉を重ねた。
  日本は、この不平等条約に苦しんでいた。
  その一事例が、和歌山県沖のノルマントン号事件。
  イギリスの罪を問うことが出来なかった。
  この不平等な治外法権の権利のため、この事件の裁判
 を担当したのはイギリス人判事だった・・
  そして、イギリス人乗組員のほとんどが「無罪」とな
 ってしまった。
  この様な不平等条約の改正を、1894年、ついに、イギ
 リスとのあいだで治外法権の撤廃に成功した。
  陸奥の目論見どおり、大国のイギリスが改正に応じた
 ため、他の国々もあとに続き、15か国から治外法権の撤
 廃を日本は勝ち取った。
・日清戦争
  1894年8月1日、この日、日清両国が宣戦布告した。
  欧米列強、そして、ロシアなどの各国の奪い取りの世
 界が演じられて来たアジアの世界・・、
  ただただ、無節操なその奪い取りの世界・・日本の周
 囲の国々、また、東シナ海・南シナ海などの大部分、ま
 た、日本の北や南に広がる主要な国々が、そのことごと
 くが列強の手に落ちるのを日本は見て、鳥肌の立つほど
 の恐怖感を感じないではいられなかった。
  また、日本には、列強諸国との不平等条約がまだあり、
 それに縛られるという「半植民地の様な国家の状態」だ
 った。
  その様に領土を漁(あさ)る列強に取り巻かれている
 日本の姿だった。
  どの列強各国も、この日清戦争では、日本が敗北する
 だろうと予測していた・・
  それだけ、清の力は強く、また、日本は弱小であった。
  先年の長崎での事件などでは、まったく清に馬鹿にさ
 れている日本だった。
  また、日本は、最強の清国艦隊を見せつけられていた。
  列強諸国は、「アジアの中心は中国」と見ていた。
  しかし、結果は、日本の勝利だった。
  列強諸国は喝采した。
  また、列強は、日本での特権を相次いで放棄した。
  これを逆から見れば、この列強諸国は、日本が負けれ
 ば、日本を蔑(さげす)み、また、不平等条約は、その
 ままにして、日本からうまい汁を吸い続けるという様相
 だった。
  これで、日本が解放されると共に、朝鮮もまた中国か
 ら初めて解放され・・独立国となれた。
  また、中国文明より低い国と侮(あなど)られた列強
 諸国の蔑視の視点も変える事が出来た。
・天皇行幸(氷川清話)
  1894年9月15日に、明治天皇陛下が呉行幸のため、広島
 の宇品港へ御出発された。
  これは、日清戦争時に、広島城に大本営が置かれ、明
 治天皇陛下はその行幸をなされた。
  「広島御発輦呉港幸行之図」小国政・画がある。
  (参考)御発輦:ごはつれん、天皇陛下の御車が出発
     すること。
・広島において第七議会(氷川清話)
  第7回帝国議会(だいななかい ていこくぎかい)は、
 1894年10月18日に開会された大日本帝国の帝国議会(臨
 時会)で、開催地は広島市の広島臨時仮議事堂だった。
  日本の憲政史上で、唯一、東京以外の場所で開かれた
 国会だった。
.
1894年、産業:
・紡績工場の数:45
・花王石鹸
  神楽坂に花王石鹸の工場が開設され、ねり歯磨きが製
 造開始された。
・服部時計店
  東京・銀座尾張町角に服部時計店が店を構え、時計塔
 を設置した。
  また、服部時計店懐中時計の製作に成功した。
  服部金太郎は、1884以降、横浜の外国人商館から洋時
 計を仕入れるようになり、品揃えを豊富にしたことで斬
 新な品揃えだとして、評判が立った。
  当初は、輸入に頼っていて、仕入れた時計は飛ぶよう
 に売れた。
  国産時計は、1892年、服部金太郎が作った精工舎で始
 められ、3年後には、輸出も行われるようになった。
  記録には以下の様に記される・・
  「服部時計店社長・服部金太郎氏の創立に係る、同氏
 は、夙(しゅく、早い時期から)に、時計製造の如き精
 密工業が、最も我国民に適し、他日、必ず、日本の重要
 工業の 一として成功すべきことを確信し、其の創立を
 決意すると共に、現顧問・吉川鶴彦氏を技師長として招
 聘した」
  「明治二十五年(1892年)五月、東京市本所区石原町
 に仮工場を設け、始めて掛時計の製造に着手せり・・」
  1894年、精工舎は、創業二年半にして、最初の懐中時
 計である22型タイムキーパー製造にも成功させた。
  そして、清国(中国)に少量ながら輸入も始めた。
  「明治二十九年(1896年)には、懐中時計機械の製作
 を創む、當時の懐中時計は、二十二型 シリン式にして
 之を現時流行品たる八形九形の如き小型の時計と比すれ
 ば全く隔世の感なくんはあらす」
・オーヴィル・ヘンリー・ギブソンが大手ギターメーカー
 のギブソン・ギター・コーポレーションを創業した。
.
1894年、交通:
・甲武鉄道市街線新宿〜牛込間開通、牛込・四ツ谷・信濃
 町の各駅開業。
・カール・ベンツの「ビクトリア」が1000キロの長距離ド
 ライブに成功した。
.
1894年、論・文学・本:
・樋口一葉「大つごもり」
  1894年12月、「文学界」第24号に発表された。
  大みそかを背景に、女中奉公をしている薄幸の娘お峰
 のその女中生活を通じて明治の女性の哀感を描いた。
  一葉の貧乏生活の体験から生まれた作品。
  この年は、一葉が、下谷龍泉寺町(東京都台東区竜泉)
 から本郷区丸山福山町(文京区西片)へ転居し、荒物雑
 貨・駄菓子店を営みつつ執筆に専念している時期の作品。
  [ 筋 ]・・18歳のお峰が、山村家の奉公人となってし
      ばらくした後、お暇がもらえたため、初音町
      にある伯父の家へ帰宅する。
       そこで病気の伯父から、高利貸しから借り
      た10円の期限が迫っているのでおどり(期間
      延長のための金銭)を払うことを頼まれ、山
      村家から借りる約束をする・・が・・
・高山樗牛「滝口入道」連載(讀賣新聞)
  1894年4月~1894年5月まで『読売新聞』に連載された。
  平家の滅亡を背景に、斎藤時頼と横笛との悲恋を描く。
  『平家物語』に材を得て、擬古文によって書かれたこ
 の悲恋物語は、『読売新聞』懸賞歴史小説首席(二等)
 の入選作で、大学生某の匿名で発表されて話題となった。
.
1894年、歌・流行・世相:
・この頃から自転車が流行する。
  この前年・1893年、我が国で最初の自転車倶楽部であ
 る日本輪友会が設立された。
  1890年頃から自転車の修理、及び、試作車を手掛けて
 いた宮田栄助が、1893年、本格的に自転車の製造販売を
 開始した。
  1893年、森村兄弟が、東海道をサイクリングする。
  1893年、ダーズリー・ペダーセンは、独創性のある三
 角フレームの自転車を製作した。
  イギリス軍はこれをボーア戦争で使用する。
.
1894年、医・衛生:
・北里柴三郎が香港へ行ってペスト菌を発見した。
  明治政府の命により香港に渡っていた北里柴三郎は、
 思わず声をあげた。
  「これだ、ついに発見したぞ、ペストだ」。
  それは1894年6月14日のことだった。
  長年に亘(わた)って人類を苦しめて来たペスト・・、
  多くの人々の命を奪って来たペストの正体を暴いた瞬
 間だった。
  説としては・・古代エジプトやローマの時代からすで
 にあったと言われているこの疫病は、感染力や致死率が
 非常に高かった・・、
  しかし、その原因がつかめず、また、姿が見えないた
 めに大いに恐れられていた。
  そのペストが、この年・1894年に、中国南部で再び発
 生し、香港でも猛威をふるい始めた。
  そこへ原因を突き止めるために北里らは向かった。
  当時、香港でペストがもっとも多く発生していた地区
 では、患者のいない家庭はないほどだった。
  香港政庁は、該当する約12,000坪(約40,000平方メー
 トル)を封鎖し、区域内の患者と住人を強制退去させた
 のち、家屋を取り壊し、家具を焼きはらった。
  それしか対処の方法が見出せない恐怖の伝染病だった。
  その様な一刻の猶予もならない壊滅的な状況のなかで、
 北里ら一行は、到着するや病死した患者の解剖に急いで
 着手する。
  ところが、いざ北里が顕微鏡で解剖標本をのぞくと、
 すでに腐敗が始まっており、雑多な菌が無数に増殖して
 いる。
  これでは埒(らち)があかない。
  しかし、北里には、経験に基づくある試みたい方法が
 あった。
  それは「症状や臓器の変化を既知の伝染病と比較する
 こと」だった。
  もし、共通点があれば病原菌の性質も似ている可能性
 が高い。
  改めて取り出した臓器を調べてみる。
  「なるほど炭疽(そ)症に近いぞ。
  あれは血液中に菌が入り敗血症を起こす。
  ペストの病原菌も同じではないか?」
  北里は、ペスト患者の血液を手に入れた。
  すると顕微鏡の視野に、特徴的な細菌が認められた!
  このときを境に、ペストという見えざる脅威は、目に
 見える病原菌へと姿を変えた。
  こうなれば、ペストを防ぐには、その菌を調べていけ
 ばよかった。
  そして、加熱や消毒液への耐性といった性質や、推定
 される感染経路などが次々と明らかになって行った。
  家屋等の消毒や菌を運ぶクマネズミの駆除をはじめ、
 公衆衛生の対策がなされると、香港は、落ち着きを取り
 戻していった。
  その香港での発見から五年後、ついにペストが神戸に
 侵入し、大阪、さらに関東にまで感染が広がった。
  北里自身が制定に関わった伝染病予防法の下、さらな
 る感染拡大を防ぐため、自ら指揮をとり奔走した。
  そして、ペスト伝播につながるネズミの駆除を徹底さ
 せ、終息に導けたた。
  1926年以降は、国内で、一度もペストの発生を見ない。
  疫病は静まった。
  一方このあと「発見者論争」が巻き起こる。
  (テルモ株式会社のホームページを参考にした)
.
1894年、その他:
・葉山御用邸が完成した。
・鹿鳴館が華族会館として払い下げられた(1889年説あり)  
  落成は1883年。
・陸軍板橋火薬製造所で綿火薬が製造開始された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:仏陀は、教えを請うものなら誰であろうと分け隔てなく、法を説かれました。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 2
  齢80の仏陀は、ただひたすら歩み続けられる・・、
  出発点・霊鷲山から旅の終わりとなったクシナガラま
 での道のりは、およそ400キロ・・、
  この道を、80歳の仏陀は、ひたすら歩き続けられま
 した。
  仏陀が最後に歩んだこの道を辿ってみますと・・、
  霊鷲山から北西に16キロ。
  仏陀は、ナーランダ村に立ち寄られています。
  行く先々で、仏陀の元には多くの人々が、集まってき
 ました。
  王侯貴族からカーストの差別を受けている人たちまで、
 さまざまな階層の人々です。
  仏陀は、教えを請うものなら誰であろうと分け隔てな
 く、法を説いたと言われています。
  仏陀・最後の旅は、いつもと変わらぬ、布教の旅とし
 て始まりました・・、
.
  ブッダの歩かれた道、あーなんだか、もう本当に夢の
 様な幻想的な風景です・・、
  木があって、なだらかな丘があって、その向こうに、
 また、木陰に白い塔がある・・、
  村の人たちが、三々五々、ここに座ったり 腰掛けた
 り、子供達が走り回ったりしていますが・・、
  自然の中に、こんな場所があるなんて、何と贅沢なこ
 となんだろうと感じます。
  ナマステジー・・ナマステジー
  一つの堂に来ました・・あたりを見渡します・・
  暗くて見えませんけども、この中にあるのは仏陀の坐
 像です・・釈迦牟尼坐像・・
  ナマステジー・・
  あのーチョット伺いますけれども、この塔の中にある
 仏像は・・?
  仏陀の像です・・お釈迦様の像です。
  何時ごろからあるものなのですか?
  むかしむかしからあります。
  昔々というと、おじいさんの代からですか、もっと昔
 ですか?
  祖父の親の前から さらに前から・・、
  すごいですねー、これは驚きました。
  この丘の上の小さな祠の中に・・いやー、まさしくこ
 れは仏陀の坐像です。
  ・・イヤー、驚きました。
  素晴らしい仏像ですけれども、相当古いものだと思い
 ますが、とにかく立派なのです・・
  シルエットといい、バランスといい それにしても、
 この右手とお顔の損傷というのは実に生々しい。
  インドの歴史のありようを感じさせてくれる様な気が
 致します。
  ナーランダに心行くまで留まった仏陀は、ある日、弟
 子のアーナンダに こう告げます。
  『さー、アーナンダよ、パータリ村へ行こう』
  仏陀は、三つの袈裟と托鉢用の鉢一つだけをだずさえ
 て、パータリ村を目指して歩みを進めます。
  その後ろには、仏陀を慕う多くの修行僧がつき従って
 いました。
.
  インドの祈りの歌・・
     私は仏陀に帰依します。
     私は仏法に帰依します。
     私は僧伽(そうぎゃ)に帰依します。
.
  (参考)僧伽:〔仏〕〔梵 sagha の音訳〕仏教修行者
     の集団。僧侶の集団。
      広義には、在家を含む仏教教団全体をいうこ
     ともある。
      和合衆。和合僧。僧祇(そうぎ)。
.
  ナーランダからパータリ村までは、およそ90キロの
 道のり・・
  悪路で自動車は大きく揺れました・・・・
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 3
  インドの聖なる河・ガンジス。
  ヒマラヤの山間部からベンガル湾に至るその長さは、
 およそ2500キロ・・、
  インド最大の大河です。
  仏陀が目指したパータリ村は、このガンジス河のほと
 りにある小さな村でした。
  現在のパトナ市・・ビハーレ州の州都です。
  人口は、およそ140万。
  米を中心に、農産物の集散地として賑わっています・・
  パトナ市内、ガンジス河のほとりにある市場・・
  この辺は、昔のパトナ村という、村だけあって、なん
 だか野菜のバザールの様になっています・・、
  ジャガイモあり、たまねぎあり、インゲンあり、ニン
 ジンあり・・
  大根もあります・・
  それにしても、大変な賑わいです・・
  ナマステー。
  みかんを見ると、懐かしいですね・・
  どんな味がするんでしょうか・・
  ・・酸味があって、本当に「みかん」らしいです。
  戦後のみかんは、こんな感じだったです・・、
  これは旨い・・
  ガンジス河へ向かう・・
  見えてきたなー・・これが ガンジスかー・・
  河辺に来て・・あー 涼しい。
  ガンジスの流れというと、何か、こう、黄色く濁った
 流れだけを想像したんですけれど、この辺の水は青いで
 す・・、
  対岸の方には、ずーっと青い草が見えて、真っ白な洲
 があって・・、
  あー、こんなにガンジスが、美しいとは・・、
  ナーランダの村を通過して、そして、このパトナ村へ
 やって来て、仏陀は、ここからガンジス河を超えるわけ
 です・・
  おそらく、ここまで70~80キロか、90キロ・・
  どの位あるんでしょう・・
  途中で休み休み、色んなところに寄って来る訳でから、
 ずいぶん掛かったと思います
 ・・けども、この河のほとりに立った時に、おそらく、
 仏陀は、単に、物理的に川を越えるっていうだけではな
 く、何か、人生の大河を越えるという、非常に大きな感
 慨を抱かれて、この河の流れを御覧になったに違いあり
 ません・・
  仏陀は、生涯に、さまざまな形で、河を越えてきてい
 る人だと思います。
  信仰の河、思想の河 人間の河、 ・・・。
  その仏陀が、このパータリ村から河を超えて、対岸に
 渡る有様を 古い古いお経の「ダイパリミッダーナ経」
 という、日本では「大般涅槃経」として知られるお経の
 経文の中に、仏陀の旅のガンジス河のあたりの風景が、
 短く描かれています。 
.
   ついで尊師は、
   ガンジス川に赴いた、
   その時、
   ガンジス河は、
   水が満ちていて、
   水が渡し場のところにまで及んでいて、
   平らかであるから、
   カラスでさえも水が飲めるほどであった。
   ある人々は船を求めている。
   ある人々は大きないかだを求めている。
   また、ある人々は
   小さないかだを結んでいる。
   いずれも、
   彼方の岸辺へ行こうと欲しているのである。 
   そこであたかも力士が、
   屈した腕を伸ばし、
   また、伸ばした腕を屈するように、
   まさにその様に、
   僅かの時間のうちに、
   こちらの岸において没して、
   修行僧の群れと共に、
   向こう岸に立った。
.
  (参考)大般涅槃経:だいはつねはんぎょう、サンス
     クリット:Mahāparinirvā?a Sūtraマハ-パニル
     ヴァ-ナ ス-トラ 、パーリ語:Mahaaparini
     bbaana-suttanta、タイ語:mahǎprinípphaaná
     sùttantàは、釈迦の入滅(=大般涅槃(だいは
     つねはん)を叙述し、その意義を説く経典類の
     総称。
      阿含経典類から大乗経典まで数種ある。
      略称『涅槃経』。大乗の涅槃経 は、初期の涅
     槃経とあらすじは同じだが、「一切衆生、悉有
     仏性」を説くなど、趣旨が異なるので、相互を
     混同してはならない。
      パーリ語で書かれた上座部経典長部に属する
     第16経が大般涅槃経と同じもの。
      漢訳の、長阿含第2経「遊行経」および「仏般
     泥洹経」(2巻)、「般泥洹経」(2巻)、「大
     般涅槃経」(3巻)がこれに相当する。
      釈尊の晩年から入滅、さらに入滅後の舎利の
     分配などが詳しく書かれている。
      これらに基づいて大乗仏教の思想を述べた「
     大般涅槃経」という大部の経典もある。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 4
  ガンジスの河の上を舟に揺られる・・
  日本も戦争が終わって各地から引き上げる方々も、こ
 の様に川も渡ったでしょう・・
  朝鮮のソウル・・当時、京城(ケイジョウ)といいま
 した・・
  京城には、ハンガンという、当時は漢江(かんこう)
 と言いましたけれども、ハンガンという、実に大きな流
 れがあった。
  また、ピョンヤン(=平壌)という町には、ケドンガ
 ンというのですが、大同江(ダイドウコウ)という名前
 で呼ばれた大きな川があった。
  敗戦になって、引揚者と言いますか、難民となって、
 ピョンヤンから去るのですけれども、その引き上げが始
 まるまでの1~2年の間に、本当にたくさんの日本の人々
 が、そこで亡くなりました。
  夏ですと、どこか目立たないところに穴を掘って、火
 葬ができますが・・、
  冬は零下20度、30度という寒さ・・、地面はツン
 ドラの様に凍って、ツルハシも立たないほどです・・、
  そこで仕方なく、火葬にすることも出来ず、土葬にす
 ることも出来ず、テンドンガンという凍りついた厚さ1
 メートル以上も氷が張っている河の、魚を釣るために、
 あちこちに、ぽこっ、ぽこっと穴が開いているんですが、
  毛布に包んで、その穴から流して弔うということが、
 しばしばありました。
  そして、今、ガンジスの川の流れの上に居る・・
  人々の苦悩に・・仏教は答え得るのか・・
.
   その時、
   ガンジス河は水が満ちていて、
   水が渡し場の所までおよんでいて、
   平らかであるから、
   カラスでさえも水が飲めるほどであった。
   ある人々は船を求めている。
   ある人々は大きないかだを求めている。
   また、ある人々は小さないかだを結んでいる。
   いずれも
   彼方の岸辺に行こうと欲しているのである。
   そこで、
   あたかも力士が屈した腕を伸ばし、
   また、伸ばした腕を屈するように、
   まさにそのように僅かの時間の内に、
   こちらの岸において没して、
   修行僧の群れと共に向こう岸に立った。
   ついで尊師は、
   ある人々が船を求め、
   ある人々はいかだを求め、
   ある人々はいかだを結んで、
   あちらとこちらへ
   行き来しようとしているのを見た。
   そこで尊師は、
   この事を知って、
   その時、
   この環境の言葉を一人つぶやいた。
   『沼地に触れないで橋を架けて、
   広く深い海や湖を渡る人々もある。
   木切れや、つた草を結びつけて、
   いかだを作って渡る人々もある。
   聡明な人々は、
   既に渡り終わっている』
.
  ガンジス河を如何にして渡るか・・、
  それは、どの様にして、涅槃、すなわち煩悩から解き
 放たれた理想の境地に至るかという事の例えだとされて
 います。
  仏陀は、いともたやすくガンジス河を越えられた。
.
  (参考)「ブッダンサラナンガッチャーミ、ダンマン
     サラナンガッチャーミ、サンガンサラナンガッ
     チャーミ」と三度唱え、仏教の三宝に帰依する。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 5
.
  インドの仏教歌:
        金のお皿でご飯を
        食べて貰いましょう
        仏陀に乳粥(ちちがゆ)を
        差し上げましょう
        金の台の上に
        席を用意しましょう
        仏陀にお願いして
        座って貰いましょう
        ここで仏陀に
        静かに休んで貰いましょう
        私は、みんなに仏陀が
        来ていることを知らせます
.
  ガンジスを渡った仏陀は、いくつかの村を経て、
 ヴァイシャリーへと向かいました。
  そこは、商業で栄えるヴァッチ国の首都でした。
  仏陀の時代、北インドは、16もの国にも分かれてい
 ました。
  その中にあって、ヴァッチ国は、国の方針を話し合い
 で決める進んだ国でした。
  大パリ二ッバーナ経には、仏陀が、ヴァッチ国の事を
 賞賛した言葉が記されています。
.
        ヴァッジ人が、
        しばしば会議を開き、
        会議には多くの人が参集する間は、
        ヴァッジ人には繁栄が期待され、
        衰亡は無いであろう。
        ヴァッジ人が、
        共同して集合し、
        共同して行動し、
        共同してヴァッジ族として
        なすべき事をなす間は、
        ヴァッジ人には、
        繁栄が期待され、
        衰亡は無いであろう。
.
  仏陀は、ヴァッジ国をこよなく愛していました。
  仏陀の一行は、ヴァイシャリー郊外のマンゴー園に留
 まります。
  布教の旅では、決まって町外れに滞在します。
  修行の為には静かな環境が望ましいが、托鉢をするに
 は人の集まるにぎやかな場所が必要です。
  「俗に染まらず、俗から離れず」
  大パリ二ッバーナ経には、このマンゴー園での逸話が
 残されています。
.
  イヤー、見事な果樹園ですね・・あのー、これは、マ
 ンゴーの木なんだそうです。
  私は、マンゴーは、恥ずかしながら、畑の中に生ると
 思っていたのですが、こういう堂々たる木の中に、マン
 ゴーが沢山生ってる姿は、想像しませんでした。
  ここは、ヴァイシャリーという所の郊外のマンゴー畑
 なんですけれども、ガンジス河を渡った仏陀は、このヴ
 ァイシャリーの街中ではなく、街からチョット離れた、
 この郊外のマンゴー畑の中に居を定めます。
  そして、しばらくここに滞在する訳なんですね。
  それで、このー、不思議な事に、ここにはとっても華
 やかで人間的なエピソードが一つあるんですが・・、
  このマンゴー畑の所有者といいますか、地主の方が、
 ヴァイシァリーの町では大変著名なサロンの女主人公と
 言いますか、実は、高級娼婦・遊女と言われている人な
 んですが、遊女と言ってもですねー、ただの遊女ではな
 くて、一夜の値段が、牛何十頭などという、王侯貴族を
 相手にするという様な、しかも教養もあり、音楽的素養
 もあり、文学も出来、詩も詠めるという素晴らしい、高
 名な女性であったらしいんですね・・、
  ・・で、そのアンバパーリーという女性なんですが、
 その女性は、自分のマンゴー園に高名な仏陀が滞在して
 いるという事を聞いて、そして、教えを乞いに仏陀のも
 とへやって来ます。
  そして、仏陀から様々な話を聞いて大変深く感動して、
 感動したアンバパーリーは、自分の、是非、屋敷に招待
 して一夜の宴(うたげ)を催したいという風に、仏陀に
 申し入れます。
  遊女の申し込みなんで、本来なら、僧がどういう風に
 応対すべきか、ちょっと、分かりませんが、仏陀は、そ
 こんところを非常に快く、つまり、法といいますか、仏
 法というものを尊ぶ心の持ち主ならば、いかなる職業で
 あっても差別しないという、そういう気持ちからでしょ
 うか、仏陀はそれを承諾するんですね。
.
  仏陀が、ヴァイシャリー郊外に滞在していることを
 聞きつけた若い貴族たちが尋ねてきます。
  「自分達も仏陀を招待したい」と申し入れました。
  しかし、仏陀は、既に、遊女・アンバパーリーの招き
 を受けていると、その申し出を断ります。
  貴族達の中には、自分達より遊女を優先するのかと非
 難する者も居ました。
.
  ここで遊女という、アンバパーリーという、女性の話
 が出てくるというところがですね、この経典の中での、
 ある種の非常に興味深い所です。
  それは何かと言いますと、やっぱり当時のインドでも、
 女性に対する偏見というのは、今よりもっともっと深い
 ものがあったに違いありません。
  ましてや職業の貴賤ということに関しては、さらに偏
 見が多かったと思うんです。
  そういうときに、例えそれが娼婦であろうと、どうい
 う職業の人間であろうと、分け隔てなく接する、そして、
 「人間は、皆、平等だ」という仏陀の基本的な仏教の考
 え方というものがですね、そのエピソードの中に盛り込
 まれているんじゃないか、今から2500年前、それほど
 の昔にですね、今でも、なお、残っている女性に対する
 蔑視とか、職業に対する差別とか、そういうものを乗り
 越えて最後の旅を続けて行く仏陀の姿に、なんとなく共
 感を押さえる事が出来ません。
.
  ヴァイシャリー郊外に、遊女アンバパーリー縁(ゆか
 り)といわれる仏教遺跡が、今も残されています。
  後の時代に、インド北部一帯を支配したアショーカ王
 が建立した石柱とストゥーパ・仏塔です。
  仏陀と一人の遊女の出会いが、人々の心を動かし、大
 きな仏教遺跡となって残されたのでしょうか。
  仏陀は、このバイシャリーの地で大きな試練に出会う
 ことになります。
  ここで命をも脅かす様な、重い病を得たのです。
              (つづく)
  (参考)ヴァッジ国:ヴァッジ国(パーリー語 )ある
     いはヴリジ国は・・古代インドの国名。
      初期仏教の聖典『アングッタラ・ニカーヤ』
     の中で、十六大国のひとつに数えられる。
      首都はヴァイシャリー。
      位置:現在のビハール州北部にあたり、南北
     にはガンジス川北岸から現在のネパールまで広
     がり、西はガンジス川を挟んでマッラ国および
     コーサラ国と隣接していた。
      また、東は現在のビハール州と西ベンガル州
     の州境付近を流れるマハーナンダ川近辺、ある
     いはビハール州を流れるコーシー川までで、ア
     ンガ国と接していたと考えられている。
      民族:ヴァッジ国は、ヴァッジ族、リッチャ
     ヴィ族(離車族)、ジニャートリカ族、ヴィデ
     ーハ族など、8つの部族が連合して形成していた
     と伝えられている。
      統治機構:ヴァッジ国王は、「ヴァッジ・サ
     ンガ」と呼ばれた代表議会の議長であったと考
     えられている。
      「ヴァッジ・サンガ」は、各地方からの代表
     者から成り、国政を取り仕切っていたものと考
     えられている。
      近年、このような古代インドの国家をガナ・
     サンガ国というようになっている。
      宗教:リッチャヴィ族(離車族)は、ジャイ
     ナ教を信奉していたが、後に仏教に改めたと、
     仏典は伝えている。
      実際に、ブッダは、ヴァッジ国の首都ヴァイ
     シャーリーを何度も訪問して説法していたし、
     仏教の修行者のための修行道場が設置されてい
     たという記録がある。
      したがって、ヴェーダの宗教に並び、ジャイ
     ナ教や仏教も盛んであったと考えられる。
              (Wikipediaより)
.
紀元前484年頃、「ブッダ最後の旅 6」
  この周辺に住まいしていた時期、ちょうど雨季に入り
 ました。
  そして、雨季というのはもう、往来が困難だし、疫病
 がはやったり、大変な時期なんで、雨安居(うあんご)
 と言って、その時期、旅を休んで瞑想にふけり、思索に
 ふけります。
  ちょうど、その時ですね、仏陀は、思いがけなくも、
 本当に大きな病にかかる訳ですね。
  最後の旅のほんとに途中なんですけれども、その時の
 模様を こんな風に「大パリニッバーナ経」・「仏陀・
 最後の旅」 には書かれています。
.
     さて尊師が、
     雨季の定住に入られたとき
     恐ろしい病が生じ
     死ぬほどの激痛が起こった。
     しかし尊師は、
     心に念じて
     よく気をつけて
     悩まされることなく
     苦痛を堪え忍んだ。
     そのとき尊師は、
     次のように思った
     「私が侍者たちに
     別れを告げないで
     修行僧達に別れを告げないで
     ニルヴァーナに入ることは
     私には相応(ふさわ)しくない
     さぁ私は元気を出して
     この病苦を堪(こら)えて
     寿命のもとを留めて
     住することにしよう」と
.
  (参考)ニルヴァーナ: サンスクリット語の仏教用
     語で、涅槃 (nirvaaNa) のこと。
.
  つまり大変な激痛が生じてですね。
  本当にもう、耐え難いほどの痛みと苦しみの中で、仏
 陀は、それに耐え忍び、そして、今は死ねないと感じる
 んですね。
  それがまだ自分には残した仕事があると感じていたの
 か、あるいは、自分に与えられた事を最後までやり遂げ
 るために、この旅を続けようという意思なのか、あるい
 は、天と言いますか、目に見えない大きなものの命ずる
 ままに、自分の人生というものを、もう一度、生きてい
 こうという風に考えるのか、その辺は良く分かりません
 けれども、老いと病というものは、まあ、普通に言われ
 るように、生易しいものではありません、人間が最後の
 旅に出る時に、必ず、この老いと病を道連れにして、生
 きていく訳です。
  その最後の旅の中で、仏陀もまた、この病気と苦痛と、
 そして、老いというものを感じつつ、この辺に留まって
 居られたということを思いますと、人間・仏陀、人間で
 はないけれども、人間的なそのような苦しみを、人一倍、
 深く背負った仏陀という存在、そこに、私達人間も、と
 っても同じ様な、親しみと共感、そして、尊敬の念を覚
 えるところがあります。
.
  車の中で、ちょっと七転八倒したんですよね。
  朝4時に起きて、ほとんど徹夜のまま撮影をやって、
 それからあの悪路をバスで走っているでしょう。
  でも、昔はね、シベリヤ横断したってなんとも無かっ
 たくらいだったのに、僅かこの位の事で、こんなに苦し
 まなければならないのかという、ほんとに、パトナへの
 道は、地獄への道でしたね。
  ですから あの時、ホントにねー、もう薬を飲んでも
 効かない、水を飲んでもどうにもならない、今にも吐き
 そうでという、その時に、やっぱり、今の体力の衰えと
 いうものをね、今度の、やっぱり、インドの旅では、つ
 くづく感じさせられましたね。
  ですから、実感がとってもありますよ。
  まして、私はまだ70代の前半ですけどね、齢(いわ
 い)80に達したら、この旅を車なんて文明の利器を使
 わずにしている 仏陀の大変さというのは、おそらく想
 像を絶するものが、あったに違いありません。
.
  仏陀・最後の旅には、常に苦楽を共にする弟子が
 付き添っておりました。その名は、アーナンダ。
  弟子の中でも、人一倍、心優しく、純粋な人間だった
 と伝えられています。
  病から回復した仏陀の姿を見て、アーナンダは歓喜し、
 こう言います。
  「尊師が病気の間、呆然自失して、方角も教えすらも、
 分からなくなっていました。でも、もう安心です」。
  そんなアーナンダに、仏陀はこう答えました。
.
     アーナンダよ
     私はもう老い朽ち
     齢(よわい)を重ね老衰し
     人生の旅路を通り過ぎ
     老齢に達した
     我が齢(よわい)は八十となった
     例えば、古ぼけた車が
     革紐(かわひも)の助けによって
     やっと動いていくように
     おそらく私の身体も
     革紐の助けによって
     もっているのだ。
.
  さらに、仏陀は、自分が死んだ後の心構えについ
 て、修行僧達に説きました。
.
     この世で、
     自らを島とし、
     自らを頼りとして
     他人を頼りとせず
     法を島とし、
     法を拠り所として、
     他のものを拠り所とせずにやれ。
.
     アーナンダよ、
     今でも、また、私の死後にでも、誰にでも、
     自らを島とし、
     自らを頼りとし、
     他人を頼りとせず、
     法を島とし、
     法を拠り所とし、
     他のものを拠り所としないでいる
             人々が居るならば、
     彼らは、我・修行僧として
             最高の境地にあるであろう。
.
  あのー、非常に文脈としてですね、捉えにくい言葉な
 んですけど、言っていることは一つだと思うんですね。
  自分の尊敬する人が居ることは結構である。
  だけど、大事なことは、そういうことであることより
 も、権威とか、あるいは他人に対する親愛の情とか、そ
 ういう事よりも、もっと大事な、仏教の法というものが
 ある。
  ダルマといいますね。
  そういう仏教の真実や真理、そういうものこそ頼りと
 して、他人の権威・社会の常識、そういうものに囚われ
 ることなく、自分が学んだ仏教の心を心として、そして、
 自分が亡くなった後も、雄雄しく立派に生きて行って欲
 しい、それが大事だぞと、こういう事を最後に言ってい
 る訳です。 
  仏陀の言っていることというのは、私は、決して、自
 分に頼れという風に、自我を強調しているのではないと
 思いますね。
  それよりもっと大きな宇宙の真理というものがある。
  そういうものを自覚して、そして、自分が感じた直感
 というものを拠り所にし、そして、それを、島と言うの
 も例えですけれども、河の中洲という風に訳する人も居
 ますね。
  水が増えてきても没することなく、世の中の激流に呑
 まれる事も無く、大きな永遠不朽の真理というものをし
 っかりと身に付けて、その真理を頼りにして、自分自身
 の道を歩くが良いと、仏陀は、こういう風にここで語っ
 ているんだろうと思います。
.
     この世で
     自らを島とし
     自らをたよりとして
     他人をたよりとせず
     法を島とし
     法をよりどころとして
     他のものを
     よりどころとせずにあれ。
               (つづく)
  (参考) 安居:(あんご)は、それまで個々に活動し
     ていた僧侶たちが、一定期間、一カ所に集まっ
     て集団で修行すること。
      及び、その期間の事を指す。
      安居とは元々、梵語の雨期を日本語に訳した
     ものである。
      本来の目的は雨期には草木が生え繁り、昆虫、
     蛇などの数多くの小動物が活動するため、遊行
     (外での修行)をやめて一カ所に定住すること
     により、小動物に対する無用な殺生を防ぐ事で
     ある。
      後に雨期のある夏に行う事から、夏安居(げ
     あんご)、雨安居(うあんご)とも呼ばれるよ
     うになった。
      釈尊在世中より始められたとされ、その後、
     仏教の伝来と共に中国や日本に伝わり、夏だけ
     でなく冬も行うようになり(冬安居)、安居の
     回数が僧侶の仏教界での経験を指すようになり、
     重要視された。
      現在でも禅宗では、修行僧が安居を行い、安
     居に入る結制から、安居が明ける解夏(げげ)
     までの間は寺域から一歩も外を出ずに修行に明
     け暮れる。
                  (Wikipediaより)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2018-05-07 02:15 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)591E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年12月~1893年12月)

題:(増補版)591E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年12月~1893年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年12月16日、ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」
 が初演された。(カーネギー・ホール)
  https://www.youtube.com/watch?v=9n8R3x68yuI
  https://www.youtube.com/watch?v=tsi5eJp4EVY
  この曲は、ドヴォルザークのアメリカ滞在中(1892年
 ~1895年)に作曲された。
  アメリカの黒人の方々の音楽が、彼の故郷のボヘミア
 (現在のチェコの西部・中部地方)の音楽に似ているこ
 とに刺激を受けて、「新世界から」故郷ボヘミアへ向け
 て作られた。
  1893年12月15日、楽譜が出版され・・、
  1893年12月16日、ニューヨークのカーネギー・ホール
   にて、アントン・ザイドル指揮、ニューヨーク・フ
   ィルハーモニック協会管弦楽団によって初演された。
   初演は、大成功だったという。
  因みに、日本初演は、1920年12月29日、東京の帝国劇
 場において、山田耕筰指揮、日本楽劇協会によって行わ
 れた。
  また、ベートーヴェンの交響曲第5番『運命』、シュー
 ベルトの交響曲第7(8)番『未完成』とともに「3大交響曲」
 と言われている。
1893年12月19日、衆議院で安部井磐根らの提出した現行条
 約励行建議案が上程された。
  条約改正を遂行する政府は、衆議院の10日間停会を決
 定した。
  第5回帝国議会は、1893年11月28日~1893年12月30日ま
 で開かれたが、星亨・衆議院議長の不信任決議案の可決
 などで荒れた・・星亨は居座った。
  この帝国議会は、与党化した自由党と、野党硬六派の
 対決の議会だった。
  (参考)硬六派は以下の6党だった。
     立憲改進党(自由党との民党連合がうまくいか
      なかったため対外硬派に転向した)
     東洋自由党(かつての自由党左派・大井憲太郎) 
     国民協会(西郷従道・品川弥二郎が下野して1892
      年6月に結成された)
     大日本協会(元「内地雑居講究会」安部井磐根)
     同盟倶楽部(元吏党)
     政務調査会 
  この条約励行建議案提出は、進行中の条約改正の阻害
 になるため、議会が停会となり、解散された。
  また、大日本協会に解散が命じられた。
  大日本協会は、明治政府の外交を柔弱と非難して、「
 条約励行・自主外交・対清強硬」を掲げた。
  また、対等条約締結以外の一切の条約改正の拒否し、
  また、内地雑居反対論などを掲げた。
  しかし、大日本協会内の一部過激派が、外国人襲撃事
 件を起こした。
  そのために、日英通商航海条約締結を目前とした政府
 の態度は硬化し、条約励行建議案に対抗するために衆議
 院解散が行われた。
  そして、1893年12月29日、突如集会及政社法の対象と
 なる政治団体の指定を受け、その日のうちに、大日本協
 会は度重なる外国人襲撃事件を理由として、解散を命じ
 られた。
  政府与党は抑制的で、また、野党は好戦的だった。
1893年12月20日 筑豊興業鉄道の中間駅~筑前植木駅間が複
 線で開通した。
  筑前植木駅は、福岡県直方市大字植木にある九州旅客
 鉄道(JR九州)筑豊本線(福北ゆたか線)の駅。
  1893年12月20日、底井野信号場~植木間を複線化。
   植木信号所を駅に変更。
  1893年12月20日、信号所から信号場に格上げ、植木駅
   として開業した。
1893年12月23日、フンパーディンク歌劇ヘンゼルとグレー
 テルが初演された(ヴァイマル)
  (参考)エンゲルベルト・フンパーディンク :1854年
     9月1日~1921年9月27日、ドイツの作曲家。
      ジークブルク生まれ。ケルン音楽院などで学
     ぶ。1890年旅行中にワーグナーに巡り会い、助
     手を務めるようになる。
      その後、作曲教師や音楽批評家として活躍。
      代表作品は、ワーグナーの楽劇の手法を組み
     入れたオペラ「ヘンゼルとグレーテル」(1893年)
     オペラ「不本意な結婚」(1905年)など
  (参考)ヘンゼルとグレーテル:グリム兄弟の『子供
     と家庭の童話』に収められた昔話。
      森に捨てられた兄妹が菓子でできた家に行き、
     魔法使いの老婆に捕えられる。
      ヘンゼルは閉じ込められて太らされ、グレー
     テルは下女代りに使われるが、老婆を殺して宝
     石を奪い、かもの助けをかりて家に帰りつく。
  (参考)ヴァイマル:ドイツ・テューリンゲン州の都
     市。面積は84,27 km2、人口は約64,000人。
      1999年に、欧州文化首都に選ばれた。
1893年12月25日、関根常五郎が、墨汁の特許を取得した。
1893年12月26日、毛沢東が誕生した。
  中国共産党中央委員会主席・中華人民共和国初代国家
 主席(~1976年)
  1893年、下層中農の子に生れる・・、
  1911年(18歳)辛亥革命が起ると革命軍に約半年間参
   加する。
  1913年(20歳)湖南省立第一師範学校に入学し、在学
   中に進歩的青年団体「新民学会」を組織した。社会
   的政治的活動に踏出した。
    五・四運動のなかで、湖南の学生連合会機関誌『
   湘江評論』の編集と執筆にあたる・・、
  1920年(27歳)夏頃からマルクス主義者となって、社
   会主義青年団の地方組織をつくる。
  1921年(28歳)7月、上海における中国共産党創立大会
   に湖南代表として出席する。
  1923年(30歳)6月、三全大会で中央委員に選ばれる。
  1924年(31歳)国共合作が成立すると国民党中央委員
   候補に選出された。
  1926年(33歳)国民党二全大会で再選、さらに、広州
   の農民運動講習所所長となり農民運動の組織化に努
   める。
  1927年(34歳)国共分裂後、秋収暴動を組織、指導し
   たが、失敗。井崗山にたてこもる。
  1928年(35歳)4月、朱徳の部隊と合流し、中国工農紅
   軍を組織し、その政治委員となった。
   以後、農村の土地革命、紅軍強化、ソビエト政権樹
   立などのために戦う。
  1931年(38歳)11月、江西省瑞金に中華ソビエト共和
   国臨時政府が樹立され、主席に選出された。
  1934年(41歳)再選。
   その後、5回にわたる国民政府軍の包囲攻撃と戦う。
  1934年(41歳)10月、根拠地の移動を余儀なくされ、
   長征を開始、途中の貴州省遵義・・
  1935年(42歳)1月、中国共産党中央政治局拡大会議が
   開かれた際、党中央の指導権を握った。
   1931年以来、日本軍事が強まるなかで、内戦停止と
   一致抗日を呼びかけた。
  1936年(43歳)西安事件を契機に日中戦争勃発する。
   (参考)西安事件:1936年12月12日、共産軍討伐の
      ため、陝西省の西安に駐屯中であった張学良
      麾下の東北軍と楊虎城の十七路軍が、南京か
      ら西安へ督戦(とくせん、部下を激励・監視
      して戦わせること)に来た蒋介石を監禁し、
      国共内戦の停止と挙国一致による抗日を要求
      した事件。
       一時、国民党が西安攻撃の構えをみせ緊張
      状態となったが、斡旋にあたった共産党の周
      恩来の要求を蒋介石がいれたため、1936年12
      月25日に釈放された。
       1936年12月26日のこの翌日、蒋介石は共産
      党と連合して抗日にあたる旨の声明を発表し
      たため、第2次国共合作が進み、抗日民族統一
      戦線の結成がなされた。
       張学良は事件解決直後、蒋介石が南京に戻
      るときに軟禁され、1949年台湾に連行された。
       中国側からの戦争行為によって日中戦争の
      勃発状態となる。
  1937年(44歳)9月、国共合作が成立し、この間、1937
   年には『実践論』『矛盾論』を書いて党内の教条主
   義と経験主義の誤りを批判した。中国独自の革命理
   論を展開した。
  1938年(45歳)『持久戦論』を書いて抗日戦勝利の理
   論的根拠を明らかにし、人民戦争論を打出した。
  1940年(47歳)『新民主主義論』で新民主主義革命の
   理論を深めた。
  1942年(49歳)整風運動を指導した。
  1945年(52歳)『連合政府論』のなかで民主連合政府
   の必要性を説いた。
  1945年(52歳)4月、七全大会で党中央委員会主席に選
   出された。
  1945年(52歳)8月、日本の敗北後、民主連合政府を樹
   立するため蒋介石と交渉を行なった・・国府はアメ
   リカと連携。
  1946年(53歳)夏から解放区に全面的な攻撃を開始し、
   約3年にわたる内戦。
  1949年(56歳)10月1日、中華人民共和国の成立と同時
   に中央人民政府主席に選ばれ、中国の最高指導者と
   なる。
  1954年(61歳)9月、第1回全国人民代表大会で憲法が
   制定され、共和国国家主席に選出される。
  1959年(66歳)辞任し、劉少奇に代わる。
   1945年以来党中央委員会主席の地位にあって内外の
   政策を指導した。
  1965年(72歳)文化大革命でその先頭に立った(~
   1969年・76歳)まで。
  1972年(79歳)R.ニクソン大統領、田中角栄首相らと
   会見し、国交正常化に努める。
  1976年(83歳)天安門事件で、鄧小平の解任と華国鋒
   の総理就任を提案する。
  1976年9月 83歳で死去。
1893年12月28日 鉄道局出納官吏任命規程が制定された(逓
 信省達第6号)
1893年12月28日 逓信省出納官吏身元保証金取扱規程を制定
 した(公達第542号)
1893年12月29日、衆議院で、再度、現行条約励行案が提出
 された。
  政府方針は条約改正で、陸奥宗光外相が条約励行案反
 対を演説した後、政府は衆議院の14日間停会を命じた。
  また、現行条約励行案を提出した大日本協会の解散を
 併せて命令した。
1893年12月30日、衆議院が解散された。
  星亨議長の弾劾案を衆議院で可決し、伊藤首相は第五
 議会を解散した。
  2回目の衆議院解散だった。
1893年12月31日、参宮鉄道の津駅駅~宮川駅間が開通した。
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  (今日の言葉)
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  題:エリートが、霞が関や永田町をはじめ、アカデミズム
   やマスコミなど、日本のあらゆる分野で、指導的地位を
   占めている可能性が、1970年~1980年代のレフチェンコ
   事件当時とは比較にならないほど高いものがあるという
   ことを知らねばならない・・と・・
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紀元前2350年、アッカド帝国の成立
  アッカド帝国は、チグリス・ユーフラテスの流域(上流
 域から下流域)に成立した帝国である。
  しかし、キリスト教は、モーゼの「エジプト脱出」の
 話を成立させたいため、メソポタミアのウルからヘブラ
 イ人が、エジプトへ向かったとしたい・・
  しかし、このキリスト教の話は、このアッカド帝国の
 領有する地域から考えても無理筋な話となっている。
  キリスト教の成立の最初の方々である「ウルのヘブラ
 イ人」は、このアッカド帝国の領内の上流域へ、チグリ
 ス・ユーフラテス川の上流域へ向かった。
  (エジプトへは向かっていない)
  アッカド帝国時代(紀元前2350年~紀元前2113年)・・、
  この「アッカド」とは、サルゴンが作ったバビロニア
 の北にある中心都市「アガデ」の別称である。
  そこの住民は、シュメール語と異なるセム語派のアッ
 カド語を話すため、シュメール人からアッカド