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(増補版)655E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年8月)

題:(増補版)655E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
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1896年8月26日、関西鉄道会社が、城河鉄道の免許路線(四
 条畷駅~木津駅間、および、大住駅~八幡駅間)を、自社
 の延長線として建設を申請した。
  1897年1月20日、免許状下付、
  1897年2月26日、城河鉄道会社が解散した。
  発起人の異なる城河鉄道の免許が下り、それを、関西
 鉄道が自社の鉄道として建設した。
  関西鉄道は、設立当初から大阪進出を目指していた。
  そして、城河鉄道を買収し、四条畷駅~木津駅間の建
 設と合わせて名阪を結ぶ路線を手に入れた。
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1896年8月26日、関西鉄道会社が、浪速鉄道全線を自社の延
 長線とすることを申請した。
  1897年1月20日、認可、
  1897年2月9日、引渡しが完了して、浪速鉄道会社が解
 散した。
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1896年8月27日、イギリス・ザンジバル戦争
  イギリスの国益獲得の目的の戦争。
  ザンジバル島は、アフリカ東部のインド洋上の島。
  タンザニア沖にある・・マダガスカル島の北方である。
  この島は、1890年からイギリスの保護領であったが、
 1963年にやっと独立できた。
  1896年8月27日、イギリスとザンジバル保護国の間で、
 軍事衝突が発生した。
  この衝突は38分から45分で終了し、史上最短の戦争と
 言われている。
  衝突の原因は、この2日前に亡くなったスルタンの跡継
 ぎ問題だった・・
  ハリド・ビン・バルガシュが後を継いだが、イギリス
 が、別の、イギリスに都合の良い、イギリスの国益が得
 られる者をスルタンにしたいとしたことから衝突が起き
 た。
  イギリスが武力行使を始めた。
  被害数:
  イギリス・・負傷1名
  ザンジバル保護国・・戦死・負傷者500名、グラスゴー
   沈没、ランチ2隻沈没、沿岸砲1門破壊
  ザンジバルの略歴は・・
  10世紀頃から、アフリカ大陸の内陸との交易の基地と
   して繁栄した・・特に、白人が行なう卑劣な奴隷貿
   易の奴隷の積出港であった。
   今でも奴隷市場の跡がある。
   ザンジバルは、ペルシア語で「黒人の海岸」を意味
   する。
  16世紀に、ポルトガル人が侵略しようとしたが、島民
   とペルシャ湾沿岸地域から移住して来たアラブ人に
   よって撃退された。
   その後、アラブ人の影響が強まって・・
  1840年、オマーンのスルタン(君主)であったセイド・
   サイードが、ザンジバルに都を移し、東アフリカ地
   域の貿易を支配した。
  1858年に、ザンジバルのブーサイード朝からの独立を
   宣言・・イギリスが承認していた・・フランスも触
   手を伸ばすという複雑の状況にあった。
  『イギリス・ザンジバル戦争』は、武力差の大きい状
 態の弱小相手を牛耳るという卑劣さで「世界記憶遺産に
 するべきである」。
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1896年8月30日、北海道鉄道敷設部技術長・田辺朔郎が道内
 鉄道敷設部長に復命した。
  北海道庁長官・原保太郎が、この復命書に基づき、北
 海道における鉄道の第1期・第2期線の区分・工費等を作
 成し、拓殖務大臣に上申し、政府が一部を訂正ののち、
 第10回帝国議会に提出し、協賛を得た。
  田辺朔郎(たなべさくろう)は、土木技術者、琵琶湖
 疎水や日本初の水力発電の建設、関門海底トンネルの提
 言などを行なった日本の近代土木工学の礎を築いた人。
  北海道官設鉄道敷設部長として北海道の幹線鉄道開発
 に着手した。
  狩勝峠の名付け親。
  1861年12月2日、幕臣の田辺孫次郎(忠篤)の長男とし
   て東京市の根津愛染町に生まれた。
   生後、9ヶ月の時、父が病死・・家督を継ぐ。
  1873(12歳)岩倉遣欧使節団の一等書記官として洋行
   していた伯父が帰国し、横浜港へ迎えに行った際に
   外国汽船ゴールデンエイジ号の機関室で蒸気エンジ
   ンを見たことで工学に興味をもち、科学者を志した。
  1875年(14歳)工学寮付属小学校へ転校。
  1877年(16歳)工部大学校(工学寮より改称)に進み
   土木工学を専攻した。
  1883年(22歳)卒業と同時に、京都府の御用掛に採用
   され、弱冠22歳で大工事である琵琶湖疎水の担当と
   なった。
  1890年(29歳)第一疎水完成後、帝国大学工科大学(
   工部大学校より改称)の教授に任命されて帰京。
   同年、榎本武揚の媒酌で北垣の長女静子と結婚。
   北海道庁長官に就任した北垣の要請で、北海道全道
   に1000マイル(約1600km)の幹線鉄道敷設計画の調
   査に着手し、計画・建設に携わる。
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1896年8月31日、第2次伊藤内閣が総辞職した。
  第5代第2次伊藤博文内閣(~1896年8月31日)
  伊藤博文の単独辞任により黒田清隆が臨時兼任となる
 (1896年8月31日~1896年9月18日)
  この第二次伊藤内閣は波乱含みで、予算と不平等条約
 改正を論題として政争が繰り広げられた。
  冊封体制で朝鮮半島を自由にしていた中国・清に代わ
 りロシアが進出し、ロシアの属国の様な状況となった。
  (1896年2月11日の露館播遷は、ロシアの朝鮮王の軟禁
 行為・・ここでロシアは利権を色々と収奪した)
  朝鮮半島のこの様な状況で、1896年3月28日まで開かれ
 た第9議会では、陸海軍の更なる拡張や増税など大幅に拡
 充した予算案が、少ない削減だけで済んで通過した。
  また、造船奨励法、航海奨励法、民法など重要法案も
 次々と成立した・・が・・
  しかし、1895年8月には、前首相で大蔵大臣の松方正義
 と伊藤が対立し、松方が辞任していた。
  また、1896年5月には、陸奥も外相を辞任していた。
  また、1896年8月には、松方の後を引き受けた渡辺も、
 財政問題の行き詰まりから辞表を提出した。
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1896年8月31日、陸羽地震が発生した。
  209名の死者出る
  秋田県と岩手県の県境山間部での大地震。
  揺れは広範囲で観測されるが、強い揺れは山間部の極
 狭い範囲に集中した。
  死者209人、負傷者779人、全壊5792軒、半壊3045軒、
 山崩れ9899ヶ所。
  梅ノ湯温泉などで温泉の量と温度に変化が出る。
 (日本被害地震総覧)
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1896年8月31日、郡司成忠(ぐんじしげただ)らが、再び、
 千島列島の最北の占守島(しゅむしゅとう)に上陸した。
 (1896年9月説あり)
  (参考)郡司成忠:日本海軍軍人、探検家、開拓者。
     1860年12月28日~1924年8月15日、
      開拓事業団「報效義会」を結成し、北千島の
     探検・開発に尽力した。
      小説家の幸田露伴は弟。
  1892年、郡司の千島への夢は堅かった。
  郡司は、海軍大尉を退いて予備役となり、民間人とし
 て千島を目指すことにした。
  横須賀鎮守府で不要になった短艇を払い下げてもらい、
 これで千島へ向かうことにした。
  1893年2月22日、後に「千島拓殖演説」と呼ばれる講演
 を行なった。
  この翌々日には、土方久元宮内大臣から拓殖隊に「報
 效義会」という名が与えられた。
  これらが、新聞などのメディアで報じられると、その
 反響は大きく、1892年、シベリア横断を実行した福島安
 正とともに国民の人気を集めるようになった。
  これらの世論の高まりによって、岩崎弥太郎や黒田清
 隆、谷干城といった面々を始めとして、寄付金は当初の
 予定額を超えるほどに集まり、また、入会希望者も続々
 と増えた。
  そして、東京朝日新聞社の横川勇次(後の横川省三)
 が特派記者として同行することも決まった。
  日本中、注目は郡司に集まりすぎるほど集まっていた。
  そして、1893年3月20日、郡司以下、約80人の報效義会
 員は5隻のボートで千島へ向かった。
  当初、郡司は、航海日数33日、気象などのために航行
 不能の日が33日、それに余裕の10日を加えた計76日もあ
 れば目的地へ到達できると想定していた。
  しかし、実際には、この予定通りにはまったく行かな
 かった。
  1893年5月10日、一行は、全行程の約1/6の地点である
 釜石港付近にいた・・
  ・・が、当初の予定であればこの日には、全行程の約
 2/3の地点に当たる択捉島に着いているはずだった。
  当初の予定から、これほどの遅れを出していた。
  理由は、例年以上の荒天続きで、しかも向かい風であ
 る北風の吹く日が多く・・小さなボートのため接岸航海
 が必至だった。
  また、国民的な人気となっていたため、寄港した各地
 で歓迎会なども開かれた・・これが、時間を浪費した。
  しかし、悪影響のみではなく、気仙沼では、地元の篤
 志家から帆船「鼎浦丸」の寄贈を受けた。
  このような中、1893年5月22日、郡司一行にとって大き
 な事件が起きた。
  この日、八戸の鮫港を出航した郡司たちは、下北郡東
 通村白糠の沖で暴風雨に会ってしまった。
  ボートのうち1隻が遭難し、乗組員の10人が全員死亡し
 てしまった。
  さらに、1893年5月27日、別行程で千島へ向かっていた
 鼎浦丸が暴風雨により、鮫村(現:八戸市)大久喜沖で
 遭難した・・これでも、乗組員9人が全員死亡した。
  その上、1893年5月28日には、郡司が負傷し、八戸病院
 に入院することとなった。
  郡司の自殺未遂説もあるが、詳細は不明・・暴風雨で
 の隊員の死亡が原因か?
  この一連の事件のため、それまでの計画の完全見直し
 が行われた。
  軍艦・磐城に曳航され、当初の予定では占守島に着い
 ているはずの1893年6月5日に、函館へ入港した。
  ここで、白瀬矗らの陸行組と合流する・・、
  地元の富豪・平出喜三郎の好意で、その持船に便乗さ
 せてもらい、1893年6月17日、択捉島の紗那に到着した。
  郡司は、一旦、ここに報效義会の本部を設立すること
 にした。
  1893年7月3日、郡司の実父である幸田成延をはじめと
 した会員の家族も到着した。
  1893年7月20日、硫黄採掘のため捨子古丹島(しゃすこ
 たんとう)に向かうという泰洋丸という帆船が紗那に入
 港した。
  郡司が、便乗を依頼したところ、泰洋丸船主・馬場禎
 四郎の返事は、「捨子古丹島には、硫黄採掘のため20日
 ほど滞在するから、その間に、占守島まで送っても良い、
 ただし、全員は乗せられないので15人程度にしてほしい」
 というものだった。
  こうして、郡司は、自分や白瀬、横川勇次、高橋伝五
 郎など18人の先遣隊を選抜して、泰洋丸に乗り込んだ。
  1893年7月31日、泰洋丸は、捨子古丹島に到着した。
  しかし、ここで、馬場は、占守島への回航を拒否した。
  帰還途中に新知島(しんしるとう)に寄るのはどうか
 という代案を出してきた。
  馬場の推測される理由は・・、
  採掘に手一杯で、泰洋丸を占守島へ回航させる人員が
 確保できないこと・・千島が荒天気に入る時期であるこ
 と・・占守島へ回航させる間に不慮の事故が起きる心配・・
 硫黄を持ち帰れなくなる可能性・・など
  便乗者である郡司は、これに抗議することもできなか
 った。
  新知島のブロウトン湾の岩礁を爆破し、同湾を天然の
 良港に改造しようという計画を建て、その提案を了解し
 た。
  泰洋丸のメンバーが硫黄採掘をしている時に、郡司は、
 白瀬と共に島内一周の探検を実行した。
  郡司は、捨子古丹島での越年は可能と判断した。
  そして、先遣隊18人のうち高橋伝五郎など9人を残留さ
 せることにした。
  しかし、郡司は、占守島を全力で開拓することを目的
 としていた。
  (郡司は、その著書『千島国占守島探険誌』の中でこ
 の選択について「実ニ忍ビザル所アリ」と記している)
  捨子古丹島残留メンバーと別れた後、泰洋丸で新知島
 へ向かっていたが、その途中で、偶然、八戸から函館ま
 で郡司らを運んだ軍艦・磐城と再会した。
  軍艦・磐城は、測量のため、占守島へ向かうところで
 あり、郡司は、便乗させてもらうことを請願したところ、
 これが許可された。
  ただし、捨子古丹島に残留した9人については、任務の
 関係上、捨子古丹島への寄港が無理であり、回収はでき
 なかった。
  そして、1893年8月31日、郡司は、紆余曲折の末に占守
 島へ到着した。
  占守島における郡司らの越冬は、特に問題もなく過ぎ
 た。
  心配されていた脚気に罹る者もおらず、また、サケや
 マスが無尽蔵に獲れたことなどもあって食料にも困らな
 かった。
  春が訪れて島の雪が溶けだした頃には、島を精力的に
 探険する余裕さえあった。
  しかし、他の島における越冬は、郡司らのように順調
 には行っていなかった。
  1894年5月10日、島の周囲の流氷が流れ去ったため、郡
 司たちは、和田の安否を確認しようと艀(はしけ)で幌
 筵島(ほろむしろとう)へと渡った。
  しかし、和田は、小屋の中で死体となっていた。
  残された日記から、和田は、脚気に罹って、4月上旬ご
 ろに衰弱死したことが判明した。
  (参考)脚気:かっけ、ビタミンB1が不足することで
     発症する。
      初期には疲れやすい、食欲不振、倦怠感など
     の症状から始まり、次に、主に神経や心臓に関
     連した症状が現れる可能性がある。
      心拍数が増加することから、動悸や下肢のむ
     くみが生じることがあり、病状が進行すると、
     心不全を発症する。
  そして、1894年6月28日、再び、磐城が占守島に現れた。
  ここで、郡司は、衝撃的な事実を知らされた。
  捨子古丹島で越冬していた9人が、全員死亡・行方不明
 となっているというのだった。
  まず、9人のうち、高橋ら4人は、小屋の中で全員死体
 になっていたという。
  磐城の軍医によれば、死因は明らかに窒息死であり、
 寒気を防ごうと密閉した小屋の中で焚火をしたための一
 酸化炭素中毒であろうとのことだった。
  小屋に残されていた日記には、彼らが脚気に罹って衰
 弱していたことが記されていた。
  また、高橋の死体が、戸口の方に這っていった痕跡が
 あったことから、体の自由がきかず逃げ出すことができ
 なかったと推測された。
  そして、この日記から、残る5人が10月に食料補充のた
 め越渇磨島(えかるまとう)に出漁し、そのまま帰還し
 なかったということも判明した。
  (参考)越渇磨島(えかるまとう)は、1700年(元禄
     13年)、元禄国絵図のため、松前藩が幕府に呈
     上した松前島郷帳に、「ゑかるまし」の名が記
     載されている。
  白瀬は、後に、艀が流されて越渇磨島から帰還できな
 くなり餓死したか、帰航の途中で船が沈んだのだろうと
 推測している。
  磐城が告げたもう一つの衝撃的な事は・・、
  日清間に緊張が走っており、戦争になるかもしれない
 ということだった・・占守島にいた7人は、全員が予備役
 とはいえ軍人であり、戦争となれば召集される可能性が
 あった。
  郡司は、軍人としての使命と、千島の拓殖(たくしょ
 く、未開の地を切り開いて、そこに住みつくこと)とい
 う使命があった。
  磐城艦長の柏原長繁の強い説得もあって、占守島を引
 き揚げることを決意した。
  この時、郡司は、当初、全員を引き揚げさせる予定で
 あった。
  それに対して、択捉島から報效義会員5人を引き連れて
 磐城に便乗していた郡司の実父・幸田成延が・・、
  占守島の拓殖を完全に途切れさせるべきではないとし
 て、連れてきた会員5人と自分が、島に残留すると主張し
 た。
  郡司は、若者であっても生きていくのが厳しい極寒の
 地に老父(この時、60歳前後であったと推測されている)
 を残留させることは到底できなかった。
  また、新たにやってきた5人の会員は、越冬の経験も浅
 く、もし彼らを残留させるのであれば、経験の豊かな人
 間による統率がなければ捨子古丹島の二の舞になるのは
 目に見えていた。
  しかし、成延の「占守島の拓殖維持」という意志は固
 く、最終的に郡司は、白瀬に5人を率いての残留を頼みこ
 むことになる。
  最終的に、白瀬も、郡司の頼みを受け入れた。
  島に残った白瀬らであったが、彼らの越冬は凄惨なも
 のとなった。
  6人中3人は脚気のため死亡し、白瀬を含む生き残った
 3人も愛犬を射殺してその肉を食べ、かろうじて命をつな
 いだ。
  この様な危機に追い込まれた。
  白瀬らは、1895年8月になって、北海道庁長官の命令で
 差し向けられたラッコ猟漁船に救助された。
  この千島から帰還で、報效義会の第一次千島拓殖は終
 わった・・
  そして、第二次千島拓殖へと続く・・
  千島から帰還した郡司は、召集された。
  水雷敷設隊の分隊長などとして、日清戦争に参加した。
  防材破壊に使用する爆薬の不足に悩んでいた鈴木貫太
 郎に爆薬を提供したのが郡司だった。
  (参考)防材:ぼうざい、船舶の運航を遮断するため、
     鉄鎖などでつないで水路に敷設する大きな材木。
      敵の艦船の侵入を防ぐため、河口や港湾の入
     口などに敷設する木材類。
  戦争終結後、郡司は、報效義会の再生を図って来た千
 島の重要性を説く演説などを続けた。
  こうして、1896年の初夏ごろ、会員数57人の第二次報
 效義会を結成した。
  この第二次報效義会は、参加者の中に郡司の妻など女
 性も14人含まれていた。
  探険的要素が強かった前回とは違って、拓殖のみがそ
 の目的だった。
  また、谷干城らの尽力によって、「報效義会保護案」
 が議会で成立した。
  3年間、補助金が政府から出ることも決定した。
  1896年9月、占守島に、再び、渡った第二次報效義会
 は、前準備がしっかりしていたこともあり、今度は着実
 に成果を上げて行った。
  開拓本部に、魚肉の缶詰工場や、鍛(たん、金属をた
 たいて上質なものにする)工場が建設され、幌延島には
 分村が作られた。
  会員も増加して行き、1903年には、占守島の定住者は
 170人(男100人、女70人)にまで膨らんだ。
  この日本の領土の占守島が、ロシア(旧ソ連)に奪われ
 ている・・
  第二次世界大戦が終わっているのに、武力をもって不
 法占拠された・・
  しかも、日本の守備隊が戦いに勝っているにもかかわ
 らず・・
.
  (今日の言葉)
.
  題:それまで、韓国・朝鮮には、小学校は5校しかなかった・・
   ・・が、日本は、一生懸命、小学校を建てて、その数は、4271校にもなった。
.
紀元前2世紀、「スイス」のラテン語表記の源となったヘル
 ウェティイ族はケルト人の部族だった・・この頃の最初
 の記録が残されている。
  (参考)ヘルウェティイ族:現在のスイスから南ドイ
     ツにかけて居住していたガリア人の部族。
      スイスの古名であるヘルヴェティアは、この
     部族に由来する。
  (参考)ケルト人:中央アジアの草原から馬と車輪付
     きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパ
     に渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派
     の言語を用いていた民族。
      古代ローマ人からは、ガリア人とも呼ばれて
     いた。
  (参考)ガリア人:ケルト語派を話すいわゆるケルト
     人のうち、ガリア地域に居住してガリア語ある
     いはゴール語を話した諸部族の人々を指す。
      古代ローマ人は、ローマ側による呼称「ガリ
     ア人」と「ケルト人」をおおむね同義として扱
     った。
      しかし、いわゆるケルト人の中でも、小アジ
     アに移住したケルト人(ガラティア人)やブリ
     テン島の諸部族に対するガリア人は明らかに区
     別される。
  ヘルウェティイ族に関する最初の記録は、紀元前2世紀
 に遡(さかのぼ)る。
  紀元前1世紀に、現在のスイス中部平原とドイツ南西部
 に移り住んだ。
  現在のスイス東部には、ラエティア人が住んでいた。
  ラエティア人は、紀元前8世紀からイタリア半島で都市
 国家を築いたエトルリア人が起源になっていると考える
 学説もある。
  (参考)ラエティア:ローマ帝国の属州・・その領域
     は、現在のスイス東部および中央部(ライン川
     上流やボーデン湖を含む)、ドイツのバイエル
     ン州南部やドナウ川上流部、オーストリアのフ
     ォアアールベルク州、オーストリアとイタリア
     にまたがるチロル地方の大部分、および、イタ
     リアのロンバルディア州の一部からなる。
      ローマ帝国時代のラエティアは、西はヘルウ
     ェティイ族の国に接し、東はノリクム、北はウ
     ィンデリキア、南はガリア・キサルピナに接し
     た。
      北側の国境線は、リーメス(ドイツから続く
     長城)の一部によってドナウ川沿いに166kmにわ
     たって守られていた。
      ラエティアとイタリアとの間は、アルプス山
     脈をレッチェン峠(レージア峠)で越えるクラ
     ウディア・アウグスタ街道によって結ばれた。
     ・
     ・
     ・
13世紀半ば~14世紀初頭、アイヌは、ユーラシア大陸のア
 ムール川流域に居たが・・中国の『元』に追われて北方
 から、13世紀半ばから14世紀初頭に、日本に来た。
  これを、「北の元寇」と言い・・また、「北からの蒙
 古襲来」「モンゴルの樺太侵攻」「もうひとつの蒙古襲
 来」とも呼ばれている。
  この様に、アイヌは、北方(アムール川流域、そして、
 樺太)に住んでいた。
  日本へは、紀元前に既に、南方から日本に来たり、朝
 鮮半島から来たり、太平洋を渡って来たり、紀元前とい
 う遠い昔に、あらゆる方向から日本に来て、アフリカか
 らの人類移動の大きなうねりの様に北海道も含めて日本
 中を歩きまわり移動し、日本人が形成された・・この人
 たちが日本人の先住民であって・・アイヌは先住民では
 ない。
  人類の起源のホモ・サピエンス(新人)が、アフリカ
 に登場したのが紀元前20万年。
  ホモ・サピエンスが、全地球的な拡散を始めたのが紀
 元前5万年前(紀元前5~6万年説や紀元前6~7万年説や
 紀元前10万年説もある)
  そして、岩手県遠野市の金取遺跡の人類の足跡は、紀
 元前8~9万年・・この頃の人類の足跡は日本の各所で数
 千ヶ所ある。
  そして、ホモ・サピエンスが東アジアにまで到着した
 のが紀元前5~6万年。
  そして、紀元前4万年に、日本に、旧石器時代の遺跡が
 急に増えることから、研究者の多くが、現代の日本人に
 つながる人々が、少なくともこの頃に日本で暮らしてい
 たとしている(この頃には、アイヌは居ない)
  日本列島には、あらゆる方向から日本人の祖先となる
 人々が来たのが紀元前6万~紀元前4万年で・・アイヌは
 13世紀~14世紀。
  因みに、ホモ・サピエンスの前にアフリカを出たデニ
 ソワ人が、紀元前12万年に、日本には居た(島根県の砂
 原遺跡)
     ・
     ・
1492年10月12日、コロンブスが、アメリカ大陸の島を発見
 して、上陸した。
  大航海時代・・
  この時代に、ヨーロッパ人が持っていた世界観は・・
  「三つの大陸からなる平版状の世界で・・世界の果て
 は、奈落になっていて・・南方では、海が沸騰していて、
 その先には進むことが出来ない」
  大航海時代に、この世界観が崩れた。
  コロンブスが、1492年10月12日、アメリカの島を発見
 し、上陸し、そこが、インドの東端であると思った。
  また、出会った先住民をインディオと名付けて、呼ん
 だ。
  このコロンブスは、「大陸は三つだ」という世界の世
 界観の中で航海した。
  続いて、1503年、アメリゴ・ベスプッチが、アメリカ
 に到達し、この大陸を「新大陸」と呼んだ。
  (インドではなく、新大陸だと認識した)
  1519年~1522年、マゼランが、世界一周の航海をした。
  1569年、オランダの地図学者であるゲラルドゥス・メ
 ルカトルが、南北のアメリカ大陸の入った(アジアとは
 別だと認識して)世界地図を描いた。
  この頃(16世紀)は、まだ、太平洋が不明で、ベーリ
 ング海峡の存在も不明であった。
  このベーリング海峡は、1728年に、発見される。
  この様にして、ヨーロッパ人は、「球体の大地」と「
 四つの大陸」の世界の概念を構築して行った。
  この様な経過の中で、「キリスト教普遍史の世界観は
 否定され・・崩れ去った」。
  ヨーロッパ人が、「空論の想像で出来たキリスト教概
 念」から解放されて行った・・
.
15世紀半ば~17世紀半ば
  大航海時代の罪作りなところは・・
  (参考)大航海時代(だいこうかいじだい)とは、ヨ
     ーロッパ人が、アフリカ・アジア・アメリカ大
     陸への大規模な航海を行い、発見した土地で略
     奪や搾取の限りを尽くした時代。
      15世紀半ばから17世紀半ばまで続き、主にポ
     ルトガルとスペインにより行われた(wikipedia
     より)
  大航海が行なわれたこの時代にあった「罪作りな所」・・
  それを形成したのが、キリスト教概念・・
  そのキリスト教概念は・・
  「世界には、アダムの子孫の怪物がいる(アウグステ
 ィヌス)」とされ、洗脳されていた・・
  ヨーロッパ人たちは、航海技術を得て、世界へ出て行
 くと、出会ったのは「怪物では無くて、人間だった」。
  その人間が、キリスト教で「蔑視観を植え付けられた
 有色人種たちだった」。
  キリスト教徒のスペイン人とキリスト教聖職者たちは、
 長い年月に渡って「この人たちに対し、殺戮のし放題を
 した」。
  この行為が始まる最初に関わったのが、キリスト教の
 バチカンのローマ法王(教皇)だった。
  スペイン人とキリスト教聖職者たちは、このバチカン
 のローマ法王に、この現地人について問うと「人間では
 ない」という返事があった。
  キリスト教徒のスペイン人やポルトガル人たちは、こ
 れを契機に、先住民の「インディオの方々への殺戮」を
 開始した。
  「インドやアジアには怪物が居る」と説かれ、洗脳さ
 れて(この頃には、まだ、アメリカは発見されていなか
 った)・・この様なキリスト教概念を持って航海に出て・・
  アメリカへ行ったコロンブスは、第一回の航海の帰り・・
  その航海で記した・・
  「私は、多くの皆さんが考えているような怪物には出
 会っておりません」・・と・・
.
1697年4月24日(元禄10年3月4日)、賀茂真淵が生まれた
 (~1769年)
  (参考)賀茂真淵:江戸中期の国学者・歌人。
      遠江(とおとうみ)浜松の禰宜(ねぎ)の子・・
      浜松の脇本陣梅谷家に入婿後、上洛し、荷田
     春満(かだのあずままろ)門下となり学び・・春
     満没後、江戸へ出る・・村田春海,加藤千蔭ら
     を門下とする。
      1746年(49歳)田安宗武に仕ええたが、辞し、
      1760年(63歳)隠居。
      1763年(66歳)松阪で本居宣長が入門。
      浜町県居に住して、幾多の著述を完成する(
     広く古典を研究し、復古主義を唱える)
      近世国学(国学の基礎を築く)、及び、和歌
     史上大きな足跡を残し、国学の四大人の一人と
     される。
      著「万葉考」「にひまなび」「祝詞考」「冠
     辞考」「歌意考」「国意考」「賀茂翁家集」な
     ど・・
  日本には数多(アマタ)の識者がいる。
  賀茂真淵も、その日本の識者の一人。
  賀茂真淵は、国学者で万葉集を研究した。
  賀茂真淵は、静岡県浜松市に生まれた。
  賀茂真淵は、41歳の時に江戸に出た。
  弟子に優秀な学者の本居信長など多くの門人が居る。
  平賀源内も、賀茂真淵の弟子である。
  賀茂真淵が、名を成し、故郷・浜松の生家に帰った時、
 その長歌が残されている。
  それを、口語訳で記すと・・
  「江戸に暮らしていて、毎年、毎年、お慕い申してい
 るので、父と母は、故郷で健在でいらっしゃるかのよう
 に、いつもは、その様に思っていたのだけれども(中略)
  この度、唐突に帰って来て、出会った故郷の人々に尋
 ねてみると、父はもうこの世にはおられず、また、母も、
 この世にはいらっしゃらないけれども、私の妹が、白髪
 の目立つ頭で、家の門から出て来るのを見ると、ああ、
 母上は健在でいらっしゃたと見誤ってしまい(中略)
  妹の方は、父上が来られたと不思議そうに思っている
 のであった。
  しばらくは、互いに問いかける事もなく、玉のような
 涙をこぼして向かい合い、昔をしのぶ数々の言葉を交わ
 したことである」。
.
1830年代以降、アメリカのバッファローの大量殺戮
  アメリカの先住民であるアメリカ・インディアンの方々
 は、バッファローを食用とし、
  また、バッファローの毛皮は、服・靴・テントなど、
 骨は矢じりに利用し、バッファローは、生活に無くては
 ならないものだった。
  1830年代以降、アメリカは、そのバッファローを大量
 殺戮する様になる。
  また、大陸横断鉄道が敷設された1860年代以降は、ま
 たそれ以上、より多くの殺戮が行われた。
  1870年代の写真には、バッファロー(アメリカ・バイ
 ソン)を肥料にするために乱獲したとするそのバッファ
 ローの頭骨の山の頂(いただき)に立つ白人の写真があ
 る。
  アメリカは、バッファローを1400万頭も殺戮した。
  あきらかに、その目的は、アメリカ・インディアンの
 方々の食糧が、バッファローだったから、アメリカ・イ
 ンディアンの方々を絶滅させる目的で、アメリカは、バ
 ッファローを絶滅させた・・アメリカ政府の飢餓作戦だ
 った・・多くのバッファローが、利用もされずに放置さ
 れていた(肥料にするのだとされた)
  アメリカ・インディアンの方々は、食糧だけでなく、
 生活の手段もすべて失って、絶滅寸前になってしまった。
  カナダも、同様な事をした。
  カナダのインディアンの方々は、絶滅してしまった。
  この様な民族の排除行為は、ドイツのナチスと変わら
 ない卑劣な行為となって歴史に残った・・
.
1939年10月21日、アメリカで、原子爆弾の開発に関する最
 初の会合が行われた。
  ナチス・ドイツが、先に、核兵器を保有することを恐
 れた亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらは・・
  1939年、同じ亡命ユダヤ人のアインシュタインの署名
 を借りてルーズベルト大統領に信書を送った。
  アメリカ政府は、核開発への動きを始めた。
  すでに、1939年6月には、原子爆弾に関する画期的な研
 究が行われていた。
  イギリスのバーミンガム大学のユダヤ系物理学学者オ
 ットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスが、ウラン
 235の臨界質量に関して画期的な発見をしていた。
  計算によると、ウラン235を爆発させるには数kgから10
 kgで十分だと見積もられていた。
  また、オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルス
 は、「ガンバレル方式」と呼ばれる単純な兵器の機構と、
 ドイツが核兵器を開発しつつあることに対する警告のレ
 ポートを書いて、バーミンガム大学物理学科主任のマー
 ク・オリファントを通じて、イギリス防空科学調査委員
 会議長、オクスフォード大学のヘンリー・トマス・ティ
 ザードへ送っていた。
  学術的に、すでに、原子爆弾は出来上がっていた。
  (参考)ガンバレル方式:核兵器の構造の種類の一つ
     で、ヒロシマ型とも呼ばれる。
      核分裂反応の連鎖反応を引き起こす臨界状態
     を達成するために、砲身状の構造を用いる。
      臨界量に達する核物質を分割したうえで砲身
     状の構造の両端に置き、火薬により一方の物質
     をもう片方へと衝突させ、臨界を達成、核爆発
     を発生させる。
  ルーズベルトは、国立標準局長官のリーマン・ブリッ
 グズに命じて「S-1ウラン委員会」を設け、シラードから
 提案された問題を検討した。
  1939年10月21日に、ブリッグズは、シラード、ユージ
 ン・ウィグナーとエドワード・テラーと、初めての会合
 を開いた。
  1939年11月1日、諮問委員会は、大統領宛の報告書を作
 成し、潜水艦の動力源として核分裂反応の調査を開始す
 ることを報告した。
  しかし、「もしその(ウランの)反応が爆発性のもの
 ならば、既知のどんなものと比べてもはるかに大きな破
 壊力をもった爆弾になる」とも書いた。
  原子爆弾を投下される日本は・・
  1945年、日本は、原爆を落とされる前から、戦争を終
 結させようと活動していた。
  しかし、アメリカは、日本を降伏させなかった。
  その間、アメリカは、何をしていたのか?というと「
 原子爆弾が出来上がるのを待っていた」。
  アメリカは原爆を落としたかった・・その原爆威力を
 ソ連という次なる対決相手になる状況にあったソ連に見
 せ付けたかった・・
  そして、その原爆投下の行為によって・・
  鉄やガラスも蒸発するほどの高熱に晒された。
  その強烈な熱線によって、屋外にいた広島・長崎の人々
 は、全身の皮膚が炭化した・・
  そして、内臓組織に至るまで高熱で水分が蒸発して行
 った。
  その経過において、苦悶の姿態の形状を示す「水気の
 無い黒焦げの遺骸」が道路などに大量に残された。
  アメリカは、原爆の投下の前から、反撃力が皆無とな
 った日本に・・「まったく反撃のできない日本」に対し
 て、アメリカの勝ちが確定していたこの時に、アメリカ
 は、この様な非人道的な人非人行為を行った。
  アメリカは、また、戦争の終わった後のことを考えて
 都市爆撃をしていた。
  日本が居なくなった後に、すでに、ソ連が、新たな敵
 となることが見えていたので「世界で、唯一、アメリカ
 が原子爆弾を持った。その威力は絶大・・広島・長崎に
 原爆を投下して、その絶大な威力、悲惨な状況を見せつ
 け、その上、都市爆撃のじゅうたん爆撃さえした」・・
  また、アメリカは、戦争終結後、進駐する用地の確保
 のための卑劣な爆撃さえした。
  戦後、アメリカは、最初の大部隊を横浜に進駐したが、
 その兵舎を立てる広大な用地の確保がしたいため・・
  アメリカは、横浜の南区を爆撃し、まったくの住宅地
 で、戦争の「セ」の字もない「まったく関係のない住宅
 地」を、広く爆撃してさえしていた。
  無益な殺生、卑劣、この上ない行為をしていた。
.
1945年8月6日、広島に原爆が投下される。
  原爆に遭(あ)った女性が、「言い残したい」と語る
 話・・
  「忘れられない話の一つです」と語る・・
  広島で、原爆に遭ったその方が、その原爆投下された
 広島の道を歩いていると、小さな子供の手を引いて、向
 こうから歩いてくる若い女性に出会った。
  原爆投下後に、小さな子の手を引いた女性・・
  その女性は、背中にも赤ちゃんを背負っていた。
  そして、その女性に尋ねられた。
  「背中に背負っている子供は大丈夫でしょうか?」と。
  その女性は、背中をのぞくと、その赤ちゃんは、こと
 切れて、亡くなっていた。
  しかし、その女性は、そのことが告げられなくて、「
 大丈夫ですよ」と言った。
  それから・・そのまま、その若い女性は小さな子供の
 手を引いて歩いて行ったが・・
  この子供の手を引いて、背中にもう一人の子供を背負
 って、どこに行こうとしていたのだろうか?
  そして、この後、この3人は、どうなったのだろうか?
  もしかすると、さっきまで、原爆の落ちる前までは、
 手を引いた小さな子と、両親との所へ楽しい話をしなが
 ら行くところだったのかもしれない・・
  子供たちを(孫を)親に見せに行く、そして、「楽し
 い話をしていた」のかもしれない。
  「おじいちゃんとおばあちゃんに会えるんだ」と話し
 ていたのかもしれない。
.
1945年8月6日、広島に原爆が投下された後の情景・・
  こと切れた母の乳を吸う子は、今も無事(ぶじ)で、
 育っていたのだろうか?
  広島で原爆に遭(あ)い、倒れた母は、1本の木にもた
 れかかり、子供へ乳を与えた。
  この情景を証言する方は、この若い母は、この方が見
 た時には、亡くなられていたと・・
  だが、この抱かれた子は、懸命に、母の乳を吸ってい
 た・・と言う。
  母は、「最期の乳」を、我が子へ、必死になってあげ
 たのだろう・・
  我が子の「生」を祈って・・
  乳をあげながら、生を祈って、こと切れたのだろう・・
  シャローム・・キリスト教の教義。
  シャローム・・それは、キリスト教の教える平和の教
 義。
  キリスト教は、すべてを破壊しつくしての後に、平和
 が来ると教える。
  アメリカのキリスト教を強く信仰しているルーズベル
 ト大統領は、これを、広島・長崎に実行した。
  すべてを破壊しようと、広島・長崎に原爆を落とさせ
 た。
  それが、愚かな行為だと、まったく気づいていなかっ
 た。
.
1945年8月6日、広島に原爆が投下された後の情景・・
  そう・・そうなんだよ・・と、その方は言った。
  知人のその方は、原爆の投下時は、少し離れた所(学
 校)へ行っていたので、原爆の直撃は免れた・・
  しかし、自宅は、直撃を受けているのではないか?・・
 と・・その少年は、母が心配になる・・投下直後の自宅
 へ戻った・・まったく、灰だけになった町・・自宅を探
 すのも大変となってしまった生まれ育った見慣れた町の
 変貌ぶりだった・・その様相は、まったく違っていた・・
 やっと、自分の家を探し当て・・母の存在の痕跡はまっ
 たく感じさせなかった・・が・・家のコンクリートの基
 礎の形で、ここが台所だったなと思えるところに、母の
 「指輪だけ」が落ちていた・・と・・その方は言った。
  私が、本当にすべてが蒸発してしまうのですねと言っ
 たら・・冒頭の言葉・・「そう、そうなんです」と、上
 記の話をしてくれた・・この方が、原爆を受けている方
 とは知らずに言った言葉だった・・
  そして、どうも、その時、お客様が来ていたようだっ
 た・・応接間に、お役様用の茶碗と母の茶碗があったか
 らとも・・言った・・
  そのお客様も、その方のお母さんも、まったく蒸発し
 て・・痕跡も残していなかった・・と・・骨さえも残っ
 ていなかった・・と・・
  その方は・・友達仲間の中で・・一番早く亡くなられ
 てしまった・・原爆が影響していたのか・・?
.
2019年8月12日、中国に媚(こび)を売る事ばかりをするNHK、
  中国への媚(こび)売り番組の放送局のNHK、
  また、中国に利することばかりをするNHK、
  このNHK出身者の池上彰が、まったくNHKがやる
 ことと同じことをやっている。
  何もしないで平和なら、誰もがこれが一番なのは、当
 たり前。
  その様にあってもらいたいと思う・・が・・
  しかし、世の中、その様に行かない。
  日本の都市のすべてに、核爆弾を積んだミサイルの照
 準を合わせている中国。
  いざとなったら日本の都市のすべてを広島や長崎の様
 にしてしまうと言う中国。
  日本は、この様な中国に屈してしまう状況に今ある。
  このような時、池上彰は、この様な中国を支援するよ
 うな事をテレビでやっている。
  中国のやっていることを隠している・・
  そして、中国隠しで、放送の媒体を自由に使っている。
  日本国民を脅(おど)してばかりいる。
  中国に利する様な論理を展開する。
  日本が、中国の脅威から「自分を守ろうとすることは
 駄目だ」という偏った放送をする。
  元NHKの局員だという面目が躍如の放送をする池上彰。
  一生懸命に国を守る国防をすると悲劇が起きると洗脳
 的に言う池上彰の偏した論理が放送されている。
  2019年8月12日、テレビ東京、20:00~21:54、「池上
 彰の戦争を考える」
.
2019年、NHKは、不公正な放送局である。
  NHKは、日本を貶(おとし)めてばかりいる。
  NHKのその様な一つが以下である・・
  NHKは、日本の側ばかりを見せて、日本が好んで戦
 争を選択して行った様に「編集して作った番組」で、視
 聴者を錯覚させ、日本を貶めて放送した。
  NHKは、この様な番組の作り方を良くしていて・・
 そして、日本を貶めている。
  第二次世界大戦の場合も、日本側のみを編集して、番
 組を作るというマインド・コントロール番組を放送した。
  例えば、お化け屋敷において・・脅している方を映さ
 ないで、脅されている方ばかりを映して放送した場合、
 視聴者は全体像を把握できないで、その脅されている人
 を異常な状態と見えてしまう。
  お化け屋敷に入った人の状況のみの映像を放送したな
 らば、異常に怖がってばかりしているその人の印象しか
 残らない。
  その異常さが印象づけされ、印象操作されてしまう。
  この様な場合は、当然、脅している方も映し、また、
 それに反応している脅される方を映すのが当たり前であ
 るが、NHKはこの様なやり方をしない・・
  まったく異常状態の番組の作り方をして放送し、視聴
 者を繰っている。
  視聴者が、正しい状況把握が出来ない状態にして、印
 象操作している。
  このNHKが放送した第二次世界大戦の放送の場合も、
 日本側のみを放送して、日本が、だんだん、一方的に強
 硬な策を採用して、日本の悪い状況が作り出されてしま
 うという結果をNHKは作っている。
  お化け屋敷の脅す方が見えない状況と同じで、印象が
 日本が悪いという状況が作り出されてしまう。
  アメリカが、日本を戦争に追い込んでいく状況は、ま
 ったく見えない状況となっている。
  まったくNHKは、卑劣なやり方で、日本を貶めてば
 かりいる。
  「NHKスペシャル」「歴史秘話ヒストリア」などが、
 よくこの手を使う。
.
2019年、NHKやヤ池上彰は、朝鮮・韓国を日本が植民地
 にしたと貶(おとし)めるが、これは間違い、「併合し
 たのである」。
  植民地という用語は、元々は「開拓地」や「入植地」
 などと同様に、正否の価値判断を含まない一般術語であ
 り、近代植民地法制学においても、社会科学の講学上の
 概念にすぎない。
  ただし、外地を「植民地」「殖民地」と呼ぶことへの
 感情的な反発は、明治期からすでに存在していた。
  忌避語・侮蔑語のようなニュアンスがあり・・
  外地を植民地と呼称することは回避され・・
  「我国にては斯(植民)の如き公の呼称を法律上一切
 加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ」ことが事実上の
 慣例となった。
  この様な歴史を知っているのか?いないのか?NHK
 や池上彰は「日本は朝鮮を植民地にした」と放送し続け
 た。
  日本は、「朝鮮」と言い、また、「外地」と言ってい
 た。
  法的に「外地」と言っていた。
  多様な議員の中には、日本を貶めるため、「植民地支
 配」と表現する日本の議員も存在する。
  韓国は、反日教育の為、この併合が韓国・朝鮮の近代
 化に寄与している面をまったく隠している。
  そして、韓国は、韓国の方が、日本のおかげで近代化
 したと事実を言うと徹底的に弾圧されるという社会とな
 っている。
  逮捕され投獄される例さえある(言論弾圧)
  日本は、朝鮮・韓国を、日本と併合した同等の国とし
 て考え、自分の国の様に思って韓国・朝鮮の国づくりを
 した。
  日露戦争の兵隊を運ぶために鉄道を敷いたのだと韓国
 は言うが、それなら北へ行く1本の鉄道だけで済む。
  しかし、日本は、その様な目的ではないから、遅れて
 いる韓国・朝鮮に鉄道を敷いてあげようと、韓国・朝鮮
 の国のあらゆる所、韓国・朝鮮の国じゅうに鉄道を敷い
 た。
  また、教育が重要で大切だから、韓国・朝鮮の国じゅ
 うに小学校や中学校、大学まで国じゅうに造ってあげた。
  日本の大学以上に立派な大学さえある。
  それまで、韓国・朝鮮には、小学校は5校しかなかった
 が、日本は、一生懸命、小学校を建てて、その数は、4271
 校にもなった。
  無いに等しかった韓国・朝鮮の初等教育を作ったのは
 日本だった。
  勿論、中学校や大学までも作ってあげて、日本は、韓
 国・朝鮮の教育を作り上げた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  アイヌの人々は、日本の先住民ではありません。
  日本の先住民は、アフリカ由来の日本人です。
  アメリカの先住民が、アフリカ由来のアメリカ・イン
 ディアンの方々であるのと同じです。
  アイヌの人々は、13世紀に、蒙古に追われて日本に来
 ました(モンゴルの樺太侵攻、1264年の樺太アイヌへの攻
 撃など)
  2019年4月16日に、衆議院と参議院で成立した(菅官房
 長官の主導でなされたという)「アイヌの人々の誇りが
 尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法
 律(俗称:アイヌ新法)」は、科学的にも、また、歴史
 的にもまったく正しくありません・・間違った記述があ
 ります・・また、日本人がアイヌの人々を虐げてもいな
 いのに、さも、虐げ行為をしている様な法案名となって
 いる・・日本人が虐げられている法案名となっている。
  この法律の間違った記述を「正しく改正する」声を上
 げましょう。
  また、日本人の遺伝子・DNAを持った何千年も前の
 紀元前の縄文人が、北海道の縄文遺跡から出た縄文人の
 歯の遺伝子分析から科学的に立証されています。
  日本人が先住民族なのです・・そのような痕跡もない
 アイヌの人々を先住民だとしてしまいました。

# by suba28 | 2019-09-18 03:56 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)654E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年8月)

題:(増補版)654E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
.
1896年8月7日、日本における初めての私鉄である日本鉄道
 が、株主総会で、田端駅から目白駅間の鉄道建設(複線予
 定)を決定した。
  そして、この日、仮免許を出願した。
  1897年5月19日、仮免許状を受けた。
  1899年5月9日に、免許状が下付された。
  因みに、これまでの経緯を記せば・・
  1872年5月、高島嘉右衛門が、東京から青森に至る鉄道
 を建設して・・北海道の開拓を支える鉄道建設を政府に
 建言したことから、日本鉄道の歴史は始まる。
  さらに、高島は、政府の要人である岩倉具視を説いて、
 鍋島直大らをして、明治天皇陛下および政府へ、「華族
 と士族が家財を以って会社を建て、東京と青森、あるい
 は、東京と越後新潟に鉄路を敷いて、蒸気機関車を走ら
 せることを補す」ことを建言させた。
  1881年8月、会社の創立が決定した。
  1881年11月、設立特許条約書が下付され、会社が設立
 された。
  政府の財政難から民間資金の導入の動きが出た・・
  1882年、川口駅~熊谷駅間から建設が開始された・・
  1883年7月、上野駅~熊谷駅が開業し・・そして、延伸
 されて行った。
  1891年9月には、上野駅~青森駅(東北本線)の全線が
 開業するに至る。
.
1896年8月17日、文部省が、満6歳未満の就学を禁止した。
  この就学について、国内で激論が交わされた・・
  1872年に、日本に学制が布(し)かれたが・・
  1890年代末には、就学年齢について、満6歳と満7歳の
 いずれが妥当かという議論が激しく展開され・・
  この様な経緯の中で、日本の義務教育制度は確立して
 行った・・
  そして、6歳就学に決着して行った。
  この決定において、大きく影響を与えたのが三島道良
 (みしまみちよし、小児科医)の「6歳修学論」だった。
  氏は、「学校衛生学の父」と言われ、活躍していた。
  そして、氏は、小児科学を専門とする医学者の立場か
 ら、小学校・幼稚園の身体発育調査を実施し、ドイツ医
 学者らの知見と比較検討を行った。
  そして、それを根拠に、6歳就学を擁護する議論を展開
 した。
  氏は、満6歳という年齢の是非のみを問題とするのでは
 なく、
  家庭から学校への段差に、十分配慮すべきだという学
 術上の知見(身体発育論など)から、適切か否か判断の
 有意義な視点を提起した。
  学校教育や家庭の現実を見ながら、就学年齢・就学課
 題を考察し、論じている重要性があった。
  また、就学年齢を検討するには、身体発育、教育上の
 成績、財政状況など、多方面の要素を加えるべきだとい
 う議論も登場していた。
  「教科目を減らす必要がある」など、幅広い議論が行
 われていた。
.
1896年8月17日、クロンダイク・ゴールドラッシュの幕開け
  カナダ・ユーコン準州クロンダイク地方で金脈が発見
 された。
  このゴールドラッシュは1899年まで続いた。
  このニュースが、アメリカのサンフランシスコやシア
 トルに伝わると、一獲千金を狙う者どもが、大挙して殺
 到した。
  ゴールドラッシュで出来たドーソン・シティーは、一
 時、人口が3万人以上となった。
  クロンダイクを目指したのは10万人以上いたが、厳し
 い寒さや地形の険しさから、到達できたのは3万~4万人
 で・・実際に、金を採掘できた者は4000人程度だった。
  アラスカ州のノームで、1899年に、金鉱が発見される
 と、クロンダイクの騒ぎも終焉した。
.
1896年8月20日、李氏朝鮮の高宗が軟禁されたロシア公使館
 の機械厰で雇われたロシア技士の雇傭契約で、高額の金
 が支払われていた。
  身分:機械士官
  名前と俸給:Remnev(ベルト)に每年銀貨200元
.
1896年8月23日、独立を目指すフィリピン革命
  この年・1896年から始まるフィリピンの独立と、社会
 改革を求める革命運動。
  この運動に対して、1902年まで、弾圧のアメリカ統治
 が行なわれた。
  初め、フィリピンは、スペインに植民されていて卑劣
 な状況にあった。
  1896年、その様なスペインから独立したいと「独立戦
 争が開始された」。
  しかし、いったん、鎮圧されてしまったが・・
  米西戦争が始まると、この戦争に乗じて、共和国独立
 の宣言をした。
  しかし、米西戦争に勝利したアメリカは、その独立を
 認めず・・再度、また、フィリピンのアメリカからの独
 立戦争が始まったのだった・・当然、強いアメリカが勝
 った・・その結果・・
  1902年、フィリピンは敗れ、アメリカの統治を受けた。
  アメリカの植民地となってしまった。
  以上が経緯であるが・・
  19世紀の後半に、スペインからの独立運動が活発とな
 った時、この最初のフィリピン独立運動に、その組織者
 であるホセ=リサールがあらわれた。
  彼は、1892年、逮捕されてしまった・・
  しかし、同士のアンドレアス=ボニファシオが革命を
 組織した。
  その組織「カティプーナン(人民の子らの最も尊敬す
 べき至高の協会)」が、1896年8月、決起した。
  フィリピン革命が始まった。
  しかし、銃と山刀(ボロ)で武装しただけの革命軍は、
 内部連絡に原因もあって、スペイン軍に押されどおしだ
 った。
  そして、残念なことに、ホセ=リサールも1896年12月
 30日、銃殺されてしまった。
  カティプーナンは革命政府をつくり、アギナルドを臨
 時大統領とした。
  しかし、彼は、穏健路線をとって、対立するボニファ
 シオらを処刑し、内部分裂が発生した。
  アギナルドは、その後、山中でのゲリラ戦を続けた。
  そして、スペイン総督と取引をし、1897年、降服し、
 香港へ向かった。
  その翌年・1898年、米西戦争が勃発する。
  この機会をとらえて、アギナルドは、戦争後の独立の
 約束を得て、アメリカに協力することにした。
  (しかし、アメリカに裏切られる結果になる・・)
  アギナルドは、約束通り、フィリピン軍を率いてスペ
 イン軍と戦った・・そして・・
  1898年6月12日、アギナルドは、フィリピン共和国の独
 立を宣言した、
  マロロスで議会を開催し、初代大統領に就任した。
  (第1次フィリピン共和国=マロロス共和国)
  しかし、アメリカの裏切りが発生する・・
  1898年8月、米西戦争後のパリ講和会議で、フィリピン
 が、2000万ドルでスペインからアメリカへ売り渡される
 ことになった・・この様な茶番劇が行なわれた。
  この茶番劇の結果をたてにして、アメリカは、フィリ
 ピンの独立を認めないという行為を始めた。
  そして、フィリピンを、強引にアメリカの軍政下に置
 いた。
  しかし、フィリピンには、「フィリピンとアメリカの
 間で交わした約束があった」・・その正義があった。
  その様なフィリピンは、1899年2月、正義の戦争(フィ
 リピン=アメリカ戦争)に立ち上がった。
  アギナルドらのフィリピン革命軍は、アメリカのアー
 サー・マッカーサー将軍(日本の厚木に降り立ったダグ
 ラス・マッカーザーの父)らの指揮するアメリカ軍と戦
 った・・
  しかし、フィリピン独立革命軍は、アメリカに敗北す
 る・・
  フィリピン大統領は、アメリカに抑えつけられてしま
 った・・事実上のアメリカの植民地となった・・
  そして、アメリカの好き勝手を行なわれた・・フィリ
 ピン言語も英語化されるなどの「卑劣な占領下統治」が
 行われた。
  この様な結果になってしまったフィリピンの独立行動
 の最初には・・
  1896年のフィリピン革命に、ミンダナオのムスリムに
 対して、民族的な情熱を沸き立たせる契機があった。
  スペイン支配下には、どうしても拭う事の出来なかっ
 た「キリスト教徒対ムスリム」の対立があった・・、
  この革命行動によって、一時的であったが解消もした。
  キリスト教徒とムスリムの混成部隊が、スペインと戦
 うこともあった。
  スペイン支配のシンボルであったフォート・ピラーが、
 これによって陥落した。
  (参考)フォート・ピラー:フォートは城塞の意味、
     ピラール砦は、 フィリピンの サンボアンガ市
     にあるスペイン植民地政府によって建設された
     17世紀の軍事要塞。
      現在は、フィリピン国立博物館となっている。
  アルバレス将軍は、革命政府のサンボアンガ知事に任
 命された。
  しかし、1899年に、アメリカ軍が、フィリピンにやっ
 て来ると、キリスト教徒とムスリムは、再び、対立に変
 えられた。
  アメリカ軍は、ジョン・べーツ将軍をホロ島のスルタ
 ン・キムラ2世と会談させ、
  1899年8月、アメリカの主権を認めるべーツ協定が成立
 したが、ムスリムは、これを拒否した。
  ムスリムの民族独立戦争は、今度は、アメリカに対し
 て続いた。
  アメリカは、無慈悲に強力な武器で弾圧した。
  特に、初めの10年間は、特に卑劣だった。
  アメリカは、殺傷力の強いダムダム弾や、強力な最新
 兵器を使って殺戮した。
  また、ムスリムの反抗に、神経質に、即時、徹底的に
 武力で弾圧し、鎮圧した。
  また、最悪な事に、1906年には、徴税に反対したブド・
 ダホの女性の方々や、子供たちの600人を、アメリカ軍は
 虐殺した。
  この行為は、アメリカ軍は800人で行った。
  しかし、情報管制がなされているため、詳細が不明で、
 闇の中に、葬り去られようとしている。
.
1896年、日清戦争が、1894年に起きたが、この当時、日本
 の馬は、体形や体力ともに貧弱なうえ、調教も不十分で、
 砲の移動や補給業務も人力に頼らざるを得なかった。
  陸軍は、1896年に、軍馬補充部を設置し、支部を全国
 に展開した。
  特に、過酷な大陸の自然環境を馬に体感させられると
 して、北海道には4支部が置かれた。
  標津町には、1908年に、川上支部が設置されて、町の
 繁栄につながった。
  ここの支部では、馬を2歳から5歳まで育成し、戦地に
 送ったのは1945年までの37年間で約4万頭だった。
  冬も放牧していた。
  雪原で夜を過ごし、雪の下のササを探してはむような
 生存能力を鍛えるためだった。
  「日本釧路種」が開発された。
  これは、「日本唯一の馬の公認品種」・・しかし、既
 に、絶滅している
  この種は、日本馬の性格の良さを持ち、また、粘り強
 さも持っていた・・小型であったが力があった。
.
1896年、ロシアと清の秘密同盟
  日清戦争が、日本の勝利で終わった翌年・1896年に、
 清国(中国)は、秘密裏にロシアと同盟条約を結んだ。
  清国は、日本への日清戦争の「復讐戦争」を企画して
 いた。
  この秘密条約は、「李鴻章・ロバノフ条約」と言い、
 ロシアか、または、清国のいずれかが、日本と戦争にな
 った場合、他方が軍事援助をするという「日本敵視の秘
 密攻守同盟」だった。
  これは、日露戦争の伏線となった。
  つまり、日露戦争は、ロシアだけと戦争をしたと思わ
 れているが、そうではなく、この秘密条約で、清国とも
 日本は戦っていた。
  日本は、日露戦争で、満州でロシアと戦ったが、その
 時、この秘密条約の清国の中国とも、満州で戦っていた。
  日本は、その様な「ロシア・清国の同盟軍」と戦い、
 満州へ進軍した。
  第二次世界大戦で、アメリカが戦勝して沖縄へ軍事進
 出したのと同じで、日本の満州での戦いも、同様な状況
 で、当然、侵略とは程遠く、侵略ではない。
  「中露同盟軍」と戦い、戦勝しての満州地域の戦いと
 なった訳で、日本が侵略などと言われるいわれはない。
  これが侵略なら、アメリカも日本への侵略となる。
  国際法に則(のっと)った行為を日本はした。
  1896年、教科書にも載ってない、ロシアと中国(清国)
 の同盟条約・・「露清秘密同盟(李鴻章ロバノフ条約)」。
.
  (今日の言葉)
.
  題:2016年2月17日、慰安婦問題で、韓国が主張していたことは虚偽であるということがはっきりした。
    この日付での産経ニュースがある。
    また、国というものは簡単に消えるのだ・・北海道がその端緒でなければよいが・・
    また、一党独裁で、民の権利を認めない「非民主国家」を自由諸国圏に入れたのが「間違いだった」。
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紀元前2000年頃、インド・ヨーロッパ語族のラテン人が、
 イタリア半島に南下した。
  ここから、イタリア半島の歴史は始まる。
  因みに、紀元前771年、ロムルスが、ローマを建設した
 とされている・・
  ロムルスは、「伝説上」の王政ローマの初代王。
  レムスと共に双子の兄弟だったという。
  ラテン人の貴族の子で、紀元前717年7月5日に死去した
 という(ローマ神話)(紀元前753年説がある)
   ・
   ・
紀元前814年、「カルタゴが建国された」と言われている。
  紀元前820年説などもある。
  カルタゴは、現在のチュニジアにあった古代都市国家
 で、地中海貿易を広大に行なって、栄えていた。
  初め、農耕を営む者と、海で生活する者との長い闘争
 の歴史にあったが、海運の有力者たちが、都市の統治権
 を握って行った。
  船隊を組んで、北アフリカや南部スペインの銀のほか、
 果物、家具、象牙などの貿易を行なった。
  この貿易で勢力を蓄えた。
  紀元前720年頃、地中海に進出したフェニキア人が、貿
 易都市を建設したのが始まりという説もある。
  カルタゴは「新しい都市」を意味するが、ギリシャ人
 はカルケドンと呼び・・また、ローマ人は、フェニキア
 人を「ポエニ人の町」と呼んだ。
  そして、紀元前6世紀頃、カルタゴは、地中海西部の覇
 者となって行く・・
  そして、シチリアの領有をめぐって、ギリシャの諸都
 市との争いが生じた・・(紀元前4世紀頃に至るまで、こ
 のシチリア戦争は続いた)
  また、カルタゴは、マルカスという指導者のもと、ア
 フリカ内陸と沿岸一帯を領土として・・拡大した。
  紀元前540年、ギリシャとの海戦を勝利する。
  紀元前480年、カルタゴの大規模な軍事行動が開始され
 る。
  この始まりは、ギリシャに支援されたシラクサのゲロ
 ンが島を統一しようとしたことから始まった・・本格的
 なギリシャとの戦争の始まりだった。
  紀元前5世紀、カルタゴは、この地域の商業の中心地と
 なる。
  カルタゴは、強力な海軍力を有し・・ギリシャとの対
 立が増大する。
  紀元前3世紀頃より、シチリアにおける領土と、チレニ
 ア海の制海権をめぐって3回に渡ってポエニ戦争をローマ
 と戦う。
  カルタゴのハミルカル・バルカスは、30万の大軍を集
 めたと言われている。
  軍略を駆使して、ハンニバルらの将軍は、ローマと果
 敢に戦った。
  カルタゴの戦いの歴史が展開される。
  カルタゴは、ローマの名将軍スキピオ・アフリカヌス
 に敗れ(第2次ポエニ戦争)、カルタゴは凋落して行く。
  紀元前146年、カルタゴの復興を恐れたローマは、この
 年、徹底的な打撃を与え、全滅させた、
  略奪に放火・・町は廃墟となった(第3次ポエニ戦争)
  畑には塩が撒かれ、二度と作物が作れない様にもされ
 たという。
.
紀元前753年、ローマが、王政時代に入る(〜紀元前509)、
  そして、紀元前509年から共和政時代に入る。
.
紀元前700年頃、ギリシャノ詩人ヘシオドスは、歴史の見方
 を・・黄金の時代から銀の時代、銅の時代、英雄の時代
 を経て、今は鉄の時代だと述べた。
  この様な没落史観を持っていた。
.
紀元前509年、ローマが共和政時代に入るが、貴族の政権
 独占で出発したローマだった。
  貴族と農民は、激しい闘争を行ない、共和政治の組織
 が完成し、ローマは、イタリア半島の統一を完了した。
  そして、紀元前287年に至る。
.
紀元前384年、アリストテレスが生まれた(~紀元前322年
 3月7日)
  古代ギリシャの哲学者のアリストテレスの言葉・・
  「人間は、自然に(本性上)国的動物であり、また、
 偶然によってではなく、自然によって、国を為(な)さ
 ぬものは劣悪な人間であるか、あるいは人間より優れた
 ものであるのかのいずれかである」。
  アリストテレスが言っているこの「人間より優れたも
 の」は、「神々を指している」。
  故に、アリストテレスが言いたかったことは・・
  人間は、自然に(本性上)国的動物なのだ・・そうで
 なければ劣悪な人間だ・・
.
紀元前287年、イタリア半島が統一され、共和政治体制の時
 代は次の段階に入る。
  この紀元前146年までの時代、ローマは、カルダゴとの
 間で三度のポエニ戦争をする。
  その戦争のすべてに勝利する。
  また、ローマは、東方へも進出する。
  そして、ローマは、紀元前146年に、「地中海世界の覇
 者となった」。
.
紀元前146年、ローマが、地中海世界を制覇した。
  ポエニ戦争で、カルタゴを壊滅させ、滅亡させた。
  この年、地中海世界の覇者になった「ローマ」は、こ
 の覇権確立の反動でローマ社会は乱れて行く・・
  ローマ社会の伝統は崩れ、秩序も崩れ、次第に、強大
 な軍隊をに握った個人へ権力が集中し、権力を持って行
 く。
  カエサルが勝ち残った第一回三頭政治を経て、オクタ
 ビアヌスが第二回三頭政治を勝ち残り、帝政を開いて行
 く(〜紀元前27年)
.
紀元前27年、オクタビアヌスによる帝政と「5賢帝」に依る
 帝政の時代(〜紀元後180年)
.
70年、ローマ帝国が、エルサレムを完全に破壊した。
.
144年~166年頃、カニシカ王の統治。
.
180年〜284年、ローマ社会の秩序が、この頃、大きく崩れ
 た。
.
284年〜476年、ローマ社会の崩壊を、ディオクレティアヌ
 ス帝の専制君主制の樹立で食い止めた。
  しかし、ゲルマン民族の大移動でローマは分裂し、西
 ローマ帝国の滅亡に至る時代。
   ・
   ・
11世紀〜13世紀、中世と言われる中世中期の最盛期。
  社会を支えていたのは、農民の農奴の立場の人々だっ
 た。
  その農民を支配した者は、荘園を所有していた領主た
 ちで、主従の関係で結ばれていた。
  そして、騎士・・、
  そして、頂点のローマに居るローマ皇帝まで・・ピラ
 ミッド型の封建制度で築き上げられていた。
  それと、キリスト教の教皇(ローマ法王)を頂点とし
 た、キリスト教イデオロギーで、世俗社会に根を張った
 キリスト教カトリック組織が存在した。
  この頃、発生した都市には、ゴチック様式のキリスト
 教会が建ち・・
  また、この頃出来た大学・・キリスト教は、権威を得
 たいと、また、組織を大きくしたいと「この大学とくっ
 ついた」。
  そして、キリスト教は、組織の強大化のための金と、
 権威を得ることに執着し、世俗の権力を凌駕して行った。
  そして、その権力を得たキリスト教の圧迫から解放さ
 れたいと「12世紀ルネッサンス」と呼ばれる「人間性の
 復活を主張する運動」が花開いて行った。
  最終的に、キリスト教権力は、皇帝を凌駕し、アジア
 へ無謀なキリスト教十字軍を何度も派遣した。
     ・
     ・
1909年12月4日、朝鮮・韓国の最大の政党が「日韓合邦を要
 求する声明書」を提出した。
  朝鮮・韓国内は、日本と併合したいという意見に満ち
 ていた。
  その声明書の中には・・
  「我が国の皇帝陛下と大日本帝国天皇陛下に懇願し、
 朝鮮人も、日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政
 府と社会を発展させようではないか」と書かれていた。
.
1910年8月29日、日韓併合がなされた。
  そして、第二次大戦後は、アメリカ(アメリカ軍政庁)
 が、朝鮮半島南部(現:韓国の地域)の統治を開始した。
  そして、1948年8月15日に至り、アメリカ(アメリカ
 軍政庁)からの独立を宣言し、韓国(大韓民国第一共和
 国)の建国に至った。
  日韓併合がなされる前の李氏朝鮮という時代・・日本
 との日韓併合がなされる前の時代は、清朝・中国の冊封
 下の従属国、属国状態にあった。
  清朝・中国へ、日本は「朝鮮は独立の国だ」と主張し
 た・・その如くの状態だった・・この問題で、日本と中
 国に対立関係が生まれた。
  日本は説明した・・「朝鮮国は、自主の邦にして日本
 国と平等の権を保有せり」と・・
  中国は、朝鮮を属邦と考えていたため対立関係が生じ・・
  李氏朝鮮の王の高宗も「朝鮮は中国の属邦である」と
 言うくらいの、国の元首が言うくらいの「属邦根性の異
 常状況」だった。
  日本の国内には、「朝鮮に国力がつくまで保護国とす
 るべきだ」との意見もあった(伊藤博文)
  朝鮮・韓国というお荷物状態の国を背負わないで、状
 況の経過を見るという「この考え方が良かったのではな
 いか」と言える。
  桂太郎首相や小村寿太郎外相は、政府内で、「韓国の
 現状に照らして将来を考量(こうりょう、物事をいろい
 ろ考え合わせて考え判断する)するに、韓国を併合する
 より外に他策なかるべき」と演説した。
  伊藤博文も、「協同的に進み、進んで一家たらんをせ
 ん」と言った。
  韓国内も「日韓併合大歓迎」で、韓国の最大の政党の
 「一進会」は「日韓併合をして戴きたい」と「併合の推
 進運動」をした・・そして・・
  1909年12月4日、「日韓合邦を要求する声明書」を提出
 するという状況だった。
  その声明書の中には・・
  「我が国の皇帝陛下と大日本帝国天皇陛下に懇願し、
 朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受したい」と
 書かれていた。
  しかし、2019年の今、この様な歴史の事実をまったく
 (知ってか知らずか)非礼で、無視する韓国となってい
 る・・
  この様な状況であるので、可哀想ではあるが、本当の
 ことを言わなければならないので、以下の様な事を記す。
  韓国・朝鮮は貧しい国だった・・本当に貧しい国だっ
 た・・。
  李氏朝鮮は、悪い政権だった、良くない政権だった。
  それも長く続いた政権だった。
  「何の国づくりもしない」最悪の政権だった。
  道路は、畑のあぜ道のような状態のままだし・・
  学校も、5校という程度で、「ほとんどない」という
 状態で、「教育がなされていない」という国の状態だっ
 た。
  また、鉄道も、1本もないという状況だった。
  朝鮮・韓国社会には、リャンバン(両班)という特権
 階級が存在していて、一般庶民の方々を虐(しいた)げ
 ていた。
  農民や一般庶民の方々は、金銭を取り上げられ、また、
 労働も取り上げられ・・貧困に喘(あえ)いでいた。
  農民の方々は、生活に困って娘を売ったりした。
  韓国・朝鮮にはゼゲン(女衒、뚜 장이)というその様
 な娘を買う商売人たちが居た。
  (語彙)女衒(뚜 장이):女衒は、主に若い女性を買
     い付け、遊廓などで性風俗関係の仕事を強制的
     にさせる人身売買の仲介業であり、人買の一種。
  町に、この様な女性が居る韓国・朝鮮を、日本は救っ
 た。
  最悪状態だった朝鮮・韓国を救った。
  1910年に、日韓併合がなされ、韓国・朝鮮の方々は、
 皆、大喜びだった。
  日本のこの時のことを「良かったよ」と言う韓国の老
 人の方々が、大勢、居た。
  しかし、時が過ぎ、その様な老人の方々も亡くなって
 居なくなった。
  そして、韓国は、昔のことを忘れたのか?
  反日教育がなされ・・その様な教育で「反日を刷り込
 まれた若者が、まだ、日韓併合時の事を知っている老人
 の方々が居る頃は、反日教育を刷り込まれた若者が、日
 韓併合時の事を聞くと、「良かったよ」という返事を聞
 き、予想に反した返事に・・学校の反日教育との違いに、
 その返事にびっくりすることも起きていた・・
  しかし・・その様な老人の方々も少なくなって、居な
 くなると・・真実を教えてくれる人々も居なくなると・・
  現政権は、反日に、韓国の方々を煽っている。
  嘘の慰安婦像を建てることまでして、洗脳している。
  それも、世界中に立てるという行為を辱(はずかし)
 くもなく行っている。
  世界の方々が、この後、だんだん本当のことを知る様
 になって来たら・・その像が、逆に、韓国が軽蔑される
 像になることを、韓国は知らない。
  この様な嘘の低次元の事ばかりしている「現在の韓国
 政権」の状況となっている・・
  地続きの中国に虐げられ、冊封されて来て、韓国は、
 この様な態度を取る「ひねくれた性癖の国」になってし
 まった。
  この問題の根底には、長い中国の冊封支配がある。
  韓国・朝鮮は、この植民地支配下に、長い期間あった。
  海を隔てた日本は、この逆で、海の隔たりも幸いし、
 独立が守られ、豊かな文化の中で育(はぐく)まれた。
  日清戦争で、強烈にぶつかり合う時もあったが・・日
 本文化は豊かに育まれた。
  中国という国自体も、色々な民族が奪い合う「戦いの
 歴史の中にあった」。
.
1910年、日韓併合によってできた官庁の朝鮮統監府は(設
 置は1909年)、新たに、戸籍制度を朝鮮に導入した。
  そして、李氏朝鮮時代には、「人間とは見なされず」、
 姓を持つことも許されていなかった朝鮮・韓国の奴婢や
 白丁などの人々(賤民)へも、姓を名乗って良いとした。
  そして、その戸籍には、身分を記載する必要などない
 として、皆を平等に登録するようにした。
  それまでの朝鮮・韓国の非人道的な行為を廃して、人
 道的な行動を行なった。
  また、当然、その身分が開放された方々(賤民とされ
 た人々)の子弟も、日本が作った学校へ通えるようにし
 た。
  この様な状況に、身分解放に、反発する旧来の朝鮮・
 韓国の「特権階級に居た朝鮮の両班(リャンバン)」は、
 激しい抗議デモを繰り広げた。
  身分にかかわらず、機会均等に、教育機会を与えるべ
 きと考える日本政府によって、その反対行動は治められ
 退けられた。
  因みに、日本は、1918年のパリ講和会議においても、
 盛んに、「人種的差別の撤廃」を世界最初に訴(うった)
 え、主張した。
  (1918年11月13日、外交調査会において、「人種的偏
 見の除去」を主張している)
  1919年1月14日、パリに到着した日本全権団は、人種差
 別撤廃提案のため、各国との交渉を開始した。
  各国の賛同を得られたが・・結局、アメリカの策動の
 ため、この条項は採択されず、削除された。
  アメリカは、「内政干渉だ」と強い批判をした。
  アメリカは、「人種差別国だった」ので後ろめたかっ
 た。
  イギリスやカナダも、このアメリカに引きずられた。
.
1910年、困窮している朝鮮の方々を救うため、日韓併合で
 出来た朝鮮総督府は、土地調査事業を行ない、土地の所
 有権をはっきりさせて・・
  その所有者不明の土地を、朝鮮の農民の方たちへ安い
 価格で払い下げた。
  しかし、韓国は、この土地調査事業を土地の収奪の為
 だったと、ひねくれた言い方をしている・・韓国は、こ
 の様な言い方ばかりしている。
  日本は、李氏朝鮮時代の農地は荒廃していて、また、
 高い小作料から離村する人が多かった・・この改善のた
 め、この様な施策を行なったのだった。
  それでなくても、朝鮮民衆は、官吏や両班や高利貸し
 から苦しい圧迫を受け、収奪されていた。
  日本が指導した朝鮮総督府は、しっかりした農業経営
 が出来る様に、さらに、この朝鮮の農地の水防工事を行
 い、また、水利工事を行い、朝鮮の農業を育てようとし
 た。
  また、農業を伸ばそうと、水利組合を結成させたり、
 金融組合を結成させ、安い金利で融資を受けて、農業を
 大きく伸ばそうとした。
  日本を貶(おとし)める事ばかりをしているNHKや
 元NHK職員の池上彰は、「日本は朝鮮を植民地にした」
 と、日本を貶める印象操作の放送ばかりしている。
.
1940年10月、アメリカで、「マッカラム覚書」が作成され
 た。
  その中に、「日本を追い詰めて行く行動を行う計画が
 書かれていた」。
  そして、追い詰めて、日本を窮地に陥(おちい)らせ
 て、どうしようもない状態にすることが書かれていた。
  これは、はっきりとした「日本を暴発させようという
 策略の覚書だった」。
  全面的に禁輸にするのだと・・
  アメリカにある日本の資産を、資産としての活用をさ
 せないで、凍結して、経済的に締め上げるのだと・・
  生産活動や生活する上で重要な、そして、必ず必要な
 石油を、一切渡さないで・・禁輸にするのだと・・など
 などが書かれていた・・
  貴方の食事が、あなたの前に、一切、出て来なかった
 ら・・貴方はどうしますか?・・
  ご飯を食べないで、我慢が出来ますか?
  電車や車や、船も動かず・・
  「取り上げられたままの様な状態」になったら・・貴
 方はどうしますか?
  「大切な電気も来ない」という状況・・その様な生活
 となったら・・貴方は、どうしますか?
  この時、アメリカは、『まったく非常識な』、この様
 な事を、日本に対してやり始めた・・
  この様な計画を立てた。
  このアメリカの行為は、日本に対して戦いを始めたの
 と同じ行為だった・・
  『事実上の宣戦布告』だった。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、日本に対して「宣
 戦布告と同様なこと」を始めた。
  この覚書を作成したアメリカ海軍情報将校のアーサー・
 マッカラム少佐は、日本が暴発せざるを得ない状態にす
 る行動を書いた。
  ルーズベルトは、これを、着々と実施し、行なった。
  日本を追い込んで行った。
  戦争が起きる原因を、「完全にアメリカが」作ってい
 た。
  日本が、アメリカの最大の攻撃戦力の艦隊が、ハワイ
 の真珠湾に居る事を知っているのと同じように・・
  アメリカも、日本の艦隊の動きのすべてを知っていた。
  日本の艦隊の無線電信も「完全に把握していた」。
  アメリカは、日本を戦争に誘い込む道を「真空の海」
 と呼んでいた。
  だから、ハワイへ進む日本艦隊のすべてを知りながら、
 手出しをしないで、誘い込みをしていた。
  だから、総べてを知るルーズベルトは、つい、「明日、
 日本が攻めて来る」と、親しい人へ、事前に、言ってし
 まっていた。
  そして、真珠湾攻撃が起きると、「戦争を作った」と
 言って喜んだ。
  また、イギリスのチャーチルへ電話をかけ、戦争(第
 二次世界大戦)が始まったことを喜び合った。
  (すでに始まっていたイギリスのドイツとの戦いに、
 アメリカが参戦して、イギリスを助けに来てくれると・・)
  日本の無線電信で、アメリカは、日本の攻撃目標が、
 ハワイの真珠湾だと知っていたが、ハワイのアメリカ海
 軍司令部へ、そのことを連絡をせず、「日本の奇襲とい
 う形をでっち上げる行為をしていた」。
.
1941年1月20日、フランクリン・ルーズベルトが第39代アメ
 リカ大統領に就任した(~1945年1月20日)
  ルーズベルトの言葉・・
  (大統領に就任する直前・2ヶ月前の言葉)
  「私の先祖は、中国貿易に従事した事がある。
  だから、いつも中国人には親しみがある。
  そんな私が、『日本をやっつけよう』と言うスティム
 ソンに、同意しないわけがないではないか」。
  ルーズベルトは、中国を支援して、隠密に、秘密裏に、
 命令書を書き、アメリカ軍の正規兵や武器や資金を中国
 へ投入した。
  真珠湾攻撃以前から、秘密裏に、中国で、アメリカは
 参戦していた・・そして、日本を攻撃していた。
  卑怯な事に、ルーズベルトは、真珠湾攻撃を「日本の
 奇襲攻撃だと仕立てた」。
  そして、また、このフランクり・ルーズベルトの祖先
 の中国貿易と言ったって「麻薬貿易」だった。
  ルーズベルトの母方の家系であるデラノ家の祖父や伯
 父が、香港を根城・中心地にして、アヘン貿易で大儲け
 していた。
  その人非人の稼業で、巨万の富を築いた。
  大統領選挙の時に、この金が動いたのだろう。
.
1941年12月8日、真珠湾攻撃
  アメリカのルーズベルト大統領は、アメリカ議会で、
 「日本にだまし討ちにあった」と嘘の演説をした。
  ルーズベルトは、アメリカの議員の方々を騙した。
  ルーズベルト大統領に騙されたアメリカ議員の方々は、
 日本を「討ち負かせ」と、「日本に対して宣戦布告の戦
 争開始の議決をした」。
  ルーズベルト大統領の嘘の演説に、「完全に騙されて
 いた」。
  まったく、ルーズベルト大統領の策謀に嵌(はま)っ
 てしまったアメリカ議会だった。
  そして、事もあろうに、総べては、ルーズベルトが仕
 組んでいるのに、ルーズベルトは、策謀で、「ハワイの
 キンメル太平洋艦隊司令長官に、情報を伝えなかった・・
 にもかかわらず・・キンメル司令長官を悪者に仕立てて・・
  「キンメルが、真珠湾の対策を怠ったから悪いのだ」
 として、キンメルに罪を着せて、キンメルに責任をとら
 せた・・解任してしまった。
  戦後になって、これ等の「ルーズベルトの策謀が明ら
 かになる」と・・キンメルの親族や友人や支持者たちが、
 「キンメルの名誉回復のために起ちあがった」。
  アメリカ国民の方々は、ルーズベルトに騙されていた
 と真実を知るようになった。
  「日本の奇襲だ」なんて言う話は、完全に、ルーズベ
 ルトのデッチ上ゲだと分かったアメリカ国民の方々だっ
 た。
  「日本の暗号を、アメリカは、完全に解読していて、
 日本の行動の一部始終を、アメリカは完全に知っていて・・
 『日本の奇襲』なんて完全に嘘のデッチ上ゲであって、
 そんな事は言えないと・・「本当のことを知ることとな
 った」。
  また、アメリカは、卑劣にも、日本の攻撃によってア
 メリカの一般市民の方が亡くなったと嘘を言った・・
  しかし、日本の機動部隊は、ハワイの「軍事施設のみ」
 を攻撃目標にしており、日本は、一人のアメリカ市民の
 方々を標的にしていない。
  逆に、アメリカは、広島・長崎の原爆や、東京・大阪
 などの日本のあらゆる都市の一般市民を標的にして、「
 無差別爆撃のじゅうたん爆撃」をしており、国際法違反
 の行為をしている。
  この点においても、日本は非人道的な行為を、アメリ
 カの様にしていない。
  日本は、この点でも、アメリカを上回った行動にいる。
  日本の潜水艦に搭載した飛行機で、アメリカ本土爆撃
 をした時でさえ、日本の爆撃は、アメリカ市民を攻撃目
 標にしていない・・
  アメリカ市民の方々の命を狙うような爆撃を避けてい
 て、戦後、この飛行士が、アメリカの方々から表彰され
 ているくらいだった。
  この様な点でも、「日本は、完全にアメリカを上回っ
 ている」。
  アメリカは、戦争に勝ったとはいえ、愚かな卑劣な歴
 史を残している。
  今後、永久に、「このアメリカの汚点は歴史に刻み続
 けられる」。
  不名誉な事をしてでも勝ちたいという「アメリカの卑
 怯な愚かさが・・歴史に永久に残された」。
.
1941年12月8日、第二次世界大戦を、日本には、まったく
 アメリカと戦う必要性など完全になかった。
  日本には、アメリカと戦争をするつもりもなかった。
  しかし、アメリカの挑発によって、戦争に引きずり込
 まれて行った。
.
1950年代、中国には、400以上の民族が居ると言われている。
  実態は、よく分からない状態。
  中国は、色々な民族が、中央政府を取り合ってきた歴
 史の中にある。
  この多民族国家の中国、1950年代から、中国政府は、
 言語学者や民族学者に調査をさせ、民族認定をさせた。
  1979年に、順々に民族認定をして来て、この年、ジノ
 ー族が56番目の民族として確認された。
  しかし、これが最後となり、調査が終わってしまった。
  貴州省黄平県のグォージアレン《革(人偏)家人》民
 族は、民族とされなかった。
  今、57番目の民族として認めてもらいたいと「活動を
 している」。
  一時は、別の民族と一緒にされそうになった。
  その様な動きを拒絶し、押し返すことが出来た。
  今、中国には、未識別者が居る。
  その数は64万人と言われているが、不確(ふたし)か
 である。
  因みに、中国の総人口でさえ、はっきりした数が分か
 っていない状態。
  日本の様に、しっかり把握されていると思ったら大間
 違いである。
  中国のデーターで、確かなものは、「まったくない」
 と言ってもよい状態。
  中国は、今、漢民族の言葉に統一しようとしている。
  オロチョン族の人は、「自分たちの言語や伝統や文化
 が、無くなるとは思っても居なかった」と言う。
  習近平は、2020年までに「全国に標準語(漢民族語)
 を普及させる」としている。
  それを、「漢民族とその他の民族(55民族と言ってい
 る)を包括する『中華民族』にとって、共同体意識を強
 固にする」と、自分たちの漢民族に都合の良い理屈を言
 っている。
  そして、標準語(漢民族語)を修得すれば、仕事が得
 られるということを言ったりもしている。
  「漢民族化への圧力」が増している。
  中国は、超長期にわたって領土を拡大して来ている。
  中国は、57番目の民族として日本民族を狙っている。
  チベット、ウイグル、内モンゴルは、すでに、その被
 害を受けている。
  「満州族の地は、すでに無くなってしまった」。
  満州族の方々も居なくなった。
  どこへ行ったのか? 今は、まったく不明状態。
  地名は「中国東北部」となった。
  その実態は、「中国東北侵略部」。
  そして、今、中国は、その先のシベリヤのロシア領へ
 浸透を続けている。
  「太平洋を半分くれ」という事も「表明している」。
  南シナ海は、「すでに、占領を完了した」。
  今、太平洋の南の島々へ工作の手を広げている。
  一党独裁で、民の権利を認めない「非民主国家」を自
 由諸国圏に入れたのが「間違いだった」。
.
1965年、日韓基本条約が締結された。
  この条約によって「過去のわだかまりの一切が解決し
 た」と合意した。
  日本の首相は佐藤栄作首相、韓国は朴正罷(パクチョ
 ンヒ)大統領だった。
  日本は、この時、最大限の誠意を示した。
  この頃、日本は、まだ、裕福ではなく、外貨準備高も
 わずかで18億ドルしか無かった。
  しかし、日本は、その中から5億ドルも韓国に支払い、
 そして、与えた。
  外貨準備高の3割近い28%も、身を切って与え、支払っ
 た(無償3億ドル、有償2億ドルの賠償金とした)。
  日本は、大きな負担を背負ったのだった。
  精いっぱいの誠意を見せたのだった。
  これによって韓国経済は飛躍的に伸びた。
  「漢江の奇跡(はんがんのきせき)」と呼ばれるほど
 の発展をした。
  韓国は、この時、「個人補償は、国がやるから、総べ
 てを国家に支払ってもらいたい」と言い、「国家賠償に
 してくれ」と言った。
  これは、韓国政府の決定事項だった。
  しかし、後になって、今頃になって、個人補償が終わ
 ってないと言い出した。
  約束では国に払ってくれ、韓国の国に払ってくれれば、
 韓国の国から韓国の個人に支払うからと言われ、そして、
 約束し、だから、日本は韓国の国へ支払ったのに、終わ
 っていないと言い出した。
  いつもの韓国のやり方で、「約束を放り出して、ごね
 だした」。
  そして、要求をどんどん「せり上げて行った」。
.
1976年2月24日、ユバル・ノア・ハラリ(ヘブライ大学歴史
 学部教授)の言葉:・・
  「人間は、長い時間の中で、目の前にあるものが現実
 なのか、それとも誰かが創ったストーリーなのか、区別
 する能力を失った。
  結果、多くの人が、神や国家や会社という想像上のも
 のに自分を捧(ささ)げて戦争に行き、何百万人という
 人を殺戮した」。
  だから、「目の前にあるものが、現実か虚構なのかを
 区別し、その上で利用する方法を考えよ」。
  そして、「虚構の奴隷になるな、虚構を利用せよ」。
  (参考)1976年2月24日、生まれ。イスラエル人。
      著書「サピエンス全史、文明の構造と人類の
     幸福」「ホモ・デウステクノロジーとサピエン
     スの未来」
      2000年、オックスフォード在住中にヴィパッ
     サナー瞑想を開始し、それが「人生を変えた」
     と語っている。
  (参考)ビパッサナー瞑想:ナーマ(こころのはたら
     き、名〔みょう〕)とルーパ(物質、色〔しき〕)
     を観察することによって、仏教において真理と
     される無常・苦・無我を洞察する瞑想。
.
2016年2月17日、慰安婦問題で、韓国が主張していたことは
 虚偽であると言うことがはっきりした。
  この日付での産経ニュースがある・・以下その抜粋・・
  杉山外務審議官の発言要旨:慰安婦強制連行に関する
 国連女子差別撤廃委員会
  日本政府は、日韓間で慰安婦問題が政治外交問題化し
 た1990年代初頭以降、慰安婦問題に関する本格的な事実
 関係調査を行った。
  日本政府が発見した資料には、軍や官憲によるいわゆ
 る強制連行を確認できるものはなかった。
  慰安婦が強制連行されたという見方が広く流布された
 原因は、昭和58年(1983年)、吉田清治氏(故人)が「
 私の戦争犯罪」という刊行物の中で、自らが日本軍の命
 令で、韓国の済州島で大勢の女性狩りをしたという事実
 を捏造(ねつぞう)して発表したためだった。
  この内容は、朝日新聞社により、事実であるかのよう
 に大きく報道され、日本と韓国の世論のみならず国際社
 会にも大きな影響を与えた。
  しかし、この書物の内容は、複数の研究者により完全
 に想像の産物だったことが、すでに証明されている。
  朝日新聞も平成26年8月5、6日を含め累次にわた
 り記事を掲載し、事実関係の誤りを認め、正式に読者に
 謝罪した。
  20万人という数字も具体的な裏付けがない。
  朝日新聞は26年8月5日付の記事で、通常の戦時労
 働に動員された女子挺身(ていしん)隊と慰安婦を誤っ
 て混同したと自ら認めている。
  なお、「性奴隷」といった表現は事実に反する。
  日韓両政府は、昨年12月28日、ソウルで日韓外相
 会談を行い、慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決さ
 れることを確認した。
  両首脳も同日、電話会談を行い、合意を確認し、評価
 した。
  今後、韓国政府が元慰安婦の支援を目的とした財団を
 設立し、日本政府は10億円程度の資金を一括で拠出す
 る。
  現在、両政府はそれぞれ合意内容を誠実に実行に移す
 べく取り組んでいる。
  国際社会は日韓両国の合意を歓迎している。
  先の大戦にかかわる賠償や請求権の問題は、サンフラ
 ンシスコ平和条約、日韓請求権経済協力協定や日中の処
 理の仕方も含むその他の2国間の条約などによって誠実
 に対応してきている。
  条約の当事者間では、個人の請求権の問題を含めて法
 的に解決済みというのは、日本政府の一貫した立場。
.
2019年4月19日、アイヌ新法と言われる「アイヌの人々の誇
 りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関す
 る法律案」が成立した。
  そして、この法律の第一条に・・
  「日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族であ
 るアイヌの人々の・・」・・と、北海道の先住民族とし
 ている。
  これは、科学的に間違っている。
  北海道には、すでに、日本人の祖先である縄文人が住
 んでいた・・アイヌの人々が北海道に来る以前からであ
 る・・
  アイヌの人々は、13世紀に北海道に渡って来た。
  この歴史的史実は、立証されている。
  そして、日本人の祖先である縄文人は、そのアイヌの
 人々が北海道に来た時よりズーッと以前の「紀元前」か
 ら北海道に住んでいた。
  何故、科学的に間違った法律を成立させたのか?
  大いに疑問が残る・・
  この行動について・・
  「チェチェ思想(主体思想)を信奉している人たちが
 行なっていて、この後、自分たちの国を北海道に作る」
 と説明する人たちが居る・・
  その根拠は・・その事が明確にチェチェ思想の本に、
 そのことが、その様に書いてあるという。
  (参考)チェチェ思想:朝鮮労働党および北朝鮮の指
     導指針とされる思想。
  現在、「中国東北部」と呼ばれる地は、中国の漢民族
 とはまったく関係が無かった。
  この地には、満州人の方々が多く居て、日本は、「満
 州国の建国を助けた」・・しかし、戦後、この地は「中
 国東北部」という名で呼ばされ、中国の地とされてしま
 った。
  そして、気になるのは、今、満州人の方々が、まった
 く居なくなっていて・・(追い払われたのか?殺された
 のか?)・・満州人の方々の影も形も無くなっていると
 いう。
  今、中国の地だとされている「ウイグルの方々の地」
 でも、300万人ものウイグル民族の方々が、強制収容所へ
 入れられている」・・
  中国は、テロ対策だと言っているが・・この様な人権
 無視の行為がなされている。
  国が簡単に消えるのだ・・北海道がその端緒でなけれ
 ばよいが・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
# by suba28 | 2019-09-12 04:57 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)653E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年7月~1896年8月)

題:(増補版)653E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年7月~1896年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
 される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆J・ロックの言葉:議論こそは真理を広める唯一の正
  しい方法だ。
 ☆歴史を知って、アイデンティティが形成される。
.
1896年7月24日、名古屋に株式会社鉄道車両製造所(現:日
 本車両製造株式会社)が創業した。
  1896年9月に鉄道車両の製造販売を目的として設立との
 説明もある。
  別説:1896年7月26日、日本車輌製造株式会社設立。
  企業家・奥田正香ら中京財界人により創立。
  鉄道庁・鉄道関係者以外の民間人による車両会社設立
 は前例がなかった。
  この頃、車両だけでなく大八車も製作した。
  笹島仮工場にて操業開始。
  1896年8月18日、農商務省指令、第10399号
  「明治29年7月30日付申請、日本車輌製造株式会社設立
 の件、免許す」 農商務省大臣、子爵、榎本武揚
         申請者:奥田正香、他拾名
  1897年、熱田工場が稼働した。
.
1896年7月、上川線の空知太駅~旭川駅間の建設工事が着工
 された。
.
1896年7月、加能鉄道会社が、社名を七尾鉄道株式会社と改
 称した。
 沿革・・
  1894年5月、第4回鉄道会議の中で加能鉄道認可に関す
   る審議がなされた。
   鉄道会議とは、「鉄道会議規則」に基づき鉄道担当
   官庁が1892年に設置した諮問会議で、渋沢栄一は第1
   回より臨時議員として出席していた。
   加賀の津幡町から能登半島の七尾町に至る加能鉄道
   について「半島の突先に鉄道を架ける必要はない」
   などの意見があり、それに対して渋沢栄一は、突先
   であっても七尾港は良港であり、津幡から七尾への
   連絡線は地域のためにおおいに利益ある路線と反論
   した。
    また、地域の繁盛になることだから許可を希望す
   ると意見を述べた。
    審議の結果、過半数の賛成を得て加能鉄道への仮
   免状下付は可決された。
    この決定を受けて、加能鉄道会社には同年9月に仮
   免許が、1896年4月に本免許が下付された。
    同社は、七尾鉄道と社名を変更して工事に着手、
   七尾・津幡間の工事は1898年4月に竣工した。
.
1896年7月、関西鉄道会社と浪速鉄道(大阪片町・四条畷間
 営業)が譲受の契約を締結した。
  関西鉄道は、官設鉄道の経路から外れた東海道沿いの
 滋賀、三重県下の都市を東海道線に結ぶ目的で設立され
 た。
  しかし、大阪進出の意図はあった。
  そして、また、名古屋と大阪の間に出願した大阪鉄道
  (初代)との間で調整も行なわれていた。
  その後、路線を奈良へ向けて西へ延長し、片町~四条
 畷を開業していた浪速鉄道、および、四条畷から木津方
 面の路線免許を持つ(未開業の)城河鉄道を合併して現
 在の片町線経由で名古屋・大阪間を開通した。
  そして、1898年に大阪片町にターミナルを入手した。
  しかし、敷地の拡張が困難なため網島に起点を移設し、
 さらに湊町から奈良に路線網を持つ大阪鉄道 (初代)を合
 併し現在の関西本線を全通させ、湊町にターミナルを、
 再度、移転させた。
.
1896年7月、フランスが、朝鮮半島の鉄道敷設権を取得した。
  この年、ソウルと現在北朝鮮の新義を結ぶ京義線(き
 ょんうぃせん)の敷設権を取得した。
  結局、この後、この路線も日本が建設を行なう・・そ
 して、朝鮮半島・韓国の社会資本の充実の貢献を行なう。
  日本は、朝鮮半島のあらゆる地方の鉄道敷設を行ない
 朝鮮半島の物流の改善に貢献しており、朝鮮・韓国経済
 などの発展の元を築いた。
  韓国は、この様な日本の行為を、まったくと言って良
 いほど感謝の意を示していない。
  それまでは、畑のあぜ道の様な状況の道路に物流を頼
 っていた朝鮮・韓国・・この改善が第一に必要とした日
 本は、朝鮮・韓国の鉄道敷設に多くの日本の資本を提供
 し、実施した。
  また、これ等に従事した日本の技術者の汗の結晶に、
 韓国は感謝の意を示していない。
  また、これ等の多くの工事に従事し、亡くなった工事
 関係者の多くの方々への慰霊の意も示していない。
  韓国は、これは、日露戦争の兵士を送るために作った
 のだと、感謝どころか批判をしている。
  多くの朝鮮・韓国の人々が、汽車や列車に乗って生活
 を享受している姿を、その様に表現している。
  その便利さに笑顔でいる朝鮮の方々の顔を見ていない
 で、その様な言い方をしている。
  何をしてあげても、この国は感謝をしない国・・逆に、
 恩を仇で返す国。
  誠実に対処して来た日本の「ことごとくの好意」に、
 韓国は、意地の悪い言い方を続けている。
.
1896年7月、朝鮮で改革派が、独立協会を組織した。
  軍事、財政、人事権にまで干渉するロシアを排除する
 ため、市民を動員して万民共同会が開催された。
  多くの成果が上げられた。
  李商在、徐載弼、尹致昊、李完用らを中心に結成され
 た組織だった。
  これらの人々は、日本の好意を理解している人々だっ
 た。
  協会は、機関誌「独立協会報」を発行、また、ハング
 ル専用の「独立新聞」の発行した。
  因みに、このハングル文字も、それまで使われていな
 かったこの朝鮮文字の良さを発見し、使用する様に提案
 したのは、慶應義塾大学を創立した日本の福沢諭吉氏だ
 った。
  独立建設活動などにより一般大衆の支持を受け、わず
 か3ヵ月で会員約1万名に達した。
  この様にして、この協会は、民衆への啓蒙団体から、
 政治団体へ変化して行った。
  1898年10月に至り、協会は、官民合同によって官民共
 同会議を開催した。
  そして、国政を改善するための6ヵ条を決議した。
  しかし、政府は、決議案を空文化させ・・反対行動を
 とる様になる・・
  協会の幹部に対して懐柔行為がなされたり、果ては、
 強硬手段の逮捕など・・あらゆる手段を用いて弾圧する
 様になった。
  1899年、政府が、皇国協会を示唆し扇動して流血事件
 を引き起させた・・
  独立協会は、やむなく解散した。
  朝鮮の改革派の有志が、軍事、財政、人事権にまで干
 渉し、朝鮮の独立を崩壊させるロシアに対して立ち上が
 ったが、そして、市民も参加して大きな行動となったが、
 結局、弾圧を受けて崩壊して行く・・
  この様な所にも、日本が、ロシアに対して立ち上がっ
 た遠因があった・・
.
1896年8月1日、釧路鉄道の標茶駅~跡佐登駅間の営業が休
 止された。
  釧路鉄道(くしろてつどう)は、北海道東部の硫黄山
 で産出される硫黄の輸送を目的として建設された。
  硫黄輸送の専用鉄道で、鉄道事業者は安田財閥。
  安田財閥は、この事業で基盤が築かれたと言われてい
 る。
  しかし、鉱山保有する山田銀行への貸し付け分の回収
 が関係し、硫黄の採掘が中止され、開通から10年足らず
 で廃止となった。
  しかし、この鉄道によって釧路地域の開発が進展した。
  安田善次郎氏は、1921年に、釧路の発展の功績によっ
 て釧路区(現:釧路市)から表彰された。
  因みに、1872年、佐野孫右衛門が硫黄山の採掘を始め
 た・・
  1886年、北海道開拓使の方針に基づいて、採掘が開始
 された。
  佐野孫右衛門は、凾館の山田銀行に譲渡していた。
  1887年、山田銀行へ融資していた安田善次郎へ譲渡さ
 れた。
  この鉄道によって、当時、馬によって運び、標茶から
 船で運ぶという大変な運送が改善され改革された。

1896年8月6日、フランスが、マダガスカルを「植民地だ」
 と宣言した。
  フランスは、その強大な武力を背景に、アフリカ大陸
 の西側、インド洋上にある島々を侵略し・・また、イン
 ド、および、東南アジアを侵略して領有した。
  フランスは、広大な地を植民地とした。
  ヨーロッパ列強の一つのメンバーであるフランスの行
 為だけでも、この様な横暴を世界にしていた。
  マダガスカルは、4世紀から5世紀の頃、東南アジアか
 らオーストロネシア語系の人びとや、マライ系の人びと
 が、インド洋を渡ってやって来ていた。
  そして、アフリカ東岸に住みついて、社会が形成され
 た・・
  10世紀頃には、マダガスカル島に移住して来た人々が
 いるとされている。
  現在でも、マダガスカル島は、インドネシアや、マレ
 ーシアの人々との近親性があり、稲作農耕も行われてい
 る。
  15世紀以降、イスラーム化した・・アラブ系住民も増
 加した。
  イスラーム国家も存在した・・、
  19世紀後半、ヨーロッパ諸国の帝国主義の列強諸国に
 よるアフリカ分割の悪夢の時代に、フランスが侵入して
 来た。
  1880年代~1890年代、フランスは、優れた自分たちの
 武器による武力をもって、抵抗を排除して、領有権を奪
 った。
  マダガスカルの方々は抵抗した・・たびたびの反フラ
 ンスの抵抗運動は起きた・・しかし、その度に、武力で
 押さえつけられた。
  独立は、20世紀に至るまで果たせなかった・・
  1960年に至って、やっと独立が果たせた。
  マダガスカルの19世紀初めは、アンドゥリアナムプイ
 ニメリナ王の息子であるラダマ1世がメリナ王国を引き継
 いでいた。
  彼は、先進的な考え方の持ち主で、国民の教育レベル
 を引き上げようとした。
  ヨーロッパの知識を取り入れなければ、ヨーロッパに
 植民地にされたままになってしまうという危機感を持っ
 た。
  それに対し、今・現代の日本は、中国が、沖縄や北海
 道などを狙っている中にあるが、まったくその様な状況
 についての危機感は無いという状況になっている。
  植民地化の危惧を抱いていたラダマ1世は、モーリシャ
 スの『イギリス総督』であったファーカーの援助を受け、
 軍隊をイギリス流に訓練した。
  さらに、奴隷貿易の廃止運動を行ない・・また、学校
 の設立、アルファベットによるマダガスカル語表記の導
 入など、近代化=西欧化政策を進めた。
  日本が、学校を一生懸命に建設して、朝鮮・韓国の教
 育を一生懸命にしたのと同じ・・
  しかし、1828年、志なかばでラダマ1世は死去した。
  ラダマ1世の第一夫人が、ラナヴァルナ1世として即位
 した。
  彼女は、植民地行為がありありのヨーロッパ諸国に対
 し、敵視政策に切り替えた。
  まず、植民地行為の尖兵であったキリスト教を、1835
 年に、布教の禁止を行なった・・しかし・・
  1861年、ラナヴァルナI世は死去する。
  その息子が、ラダマ2世として即位した。
  ラダマ2世は、再び、ヨーロッパ化を推し進める苦悩の
 政策へと変更した。
  しかし、その政策が急であったため、欧化反対派によ
 って、1863年に、暗殺された。
  ラダマ2世の後継は、その妃であったラスヘリナが即位
 した。
  1868年、このラスヘリナも没する・・暗殺か?
  やむなく、従妹がラナヴァルナ2世として即位した。
  彼女は、行政改革に努めるが、メリナ王国は衰退して
 行く。
  メリナ王国が衰退を続けると、ハイエナの様なイギリ
 スは、王国の衰退を察して、植民地化の野心を向け始め
 た。
  これを察したフランスは、それに先んじるため、1883
 年に、タマタブ(マダガスカル東部の都市トゥアマシナ
 の旧称)を占領した。
  1883年、ラナヴァルナ2世が没する。
  その従妹が、ラナヴァルナ3世として即位した。
  1890年、メリナ王国の保護権をフランスに認めざるを
 得なかった。
  一方、イギリスに接近し、軍隊の再整備を進めた。
  1894年、フランスは最後通牒を突きつけた。
  1895年、メリナの王宮の置かれていたアンタナナリヴ
 (マダガスカルの首都)を占領する。
  1897年、フランスは、ラナヴァルナ3世を拘束し、レユ
 ニオン島に流した。
  そして、メリナ王国を滅ぼした。
  1896年8月6日、フランス政府は、マダガスカルを植民
 地としたことを宣言した・・フランスは、この宣言を正
 式だと称した。
  この様な歴史は、日本を貶める事ばかりを放送するN
 HKは、まったく放送しない。
  フランスがマダガスカルを植民地化した(1896年8月6
 日)・・
  この解放は、第二次世界大戦後の日本の戦いの後とな
 る。
.
  (今日の言葉)
.
  題:彦星(ひこぼし)と、織姫(たなばたつめ)と、今夜(こよい)逢(あ)ふ、
   天(あま)の川門(かわと)に、波(なみ)立(た)つなこめ
.
698年、遠い昔からジェンダー平等(男女平等)だった日本・・
  また、身分の上下ない社会だった。
  今(2019年)、盛んに国連はSDGsをして「ジェン
 ダー平等を啓蒙している」が・・
  世界は、日本をお手本とするべきである・・
  万葉集に・・
  「彦星(ひこぼし)と、織姫(たなばたつめ)と、今
 夜(こよい)逢(あ)ふ、天(あま)の川門(かわと)
 に、波(なみ)立(た)つなこめ」(詠み人知らず)・・
 がある・・
  (訳)彦星と織姫が逢う今夜なのです・・
  天の川の渡し場に、波よ、決して荒く立ってくれない
 でください・・
  今から1300年以上も前の日本人の優しい心が伝わって
 来る。
  彦星(牽牛星)と織女(織女星)の逢瀬が、年に一度
 だけ許されるという七夕(たなばた)の和歌です・・
  この伝説は、持統天皇が在位していた698年代頃、中国
 から日本に伝来したと言われているが・・
  この話は、それまで、それ以前から日本各地にあった
 「棚機津女(たなばたつめ)伝説」と融合した。
  それは、年に一度、7月に訪れる神への捧げものとして
 処女が水辺の棚で神衣(しんい)を織ったという話・・
  これと融合して庶民の間にも広まり、人々の想像力を
 掻き立てたのだった・・
  万葉集には、130余首も七夕歌が収録されている。
  その多くが庶民の歌で「詠み人知らず」となっている。
  身分の上下、貴賤もない社会の日本だった・・
  日本は、遠い昔から庶民の一般市民と隔たりない処遇
 をしていた優しい平等な国だった。
  遠いこの昔から、女性方々も尊重されていた。
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9世紀~10世紀、神聖ローマ帝国が出来た(~1806年)
  神聖ローマ帝国は、代々のドイツ王が、ローマ教皇か
 ら冠を授けられて、皇帝となった。
  神聖ローマ帝国は、実質的にはドイツ帝国・・
  神聖ローマ帝国は、巨大な領域を持つ。
  最盛期の版図は、現在のドイツ、オーストリア、イタ
 リア、フランス、チェコ、スイス、オランダ、ベルギー、
 ポーランド、リヒテンシュタイン、ルクセンブルク、モ
 ナコ、クロアチア、サンマリノ、スロバキアなど現在の
 EUの領土とほぼ同じ・・
  巨大だが、国家とか連邦という性格は・・ほとんど無
 い。
  帝国全体を総括する行政機関も無かった。
  多くの領域の緩い集合体の様なものだった。
  軍も借りものが集まったもので、帝国全域を包括する
 ナショナリズム持った。
  この様なこの領域は、独立を保つ実力も無かったが、
 権威を犯すなと存続した。
  しかし、1806年、ナポレオンの台頭で幕を閉じた。
  しかし、ドイツ人の武力によるリベンジは素早かった。
  1870年、普仏戦争でフランスを負かし、
  翌年の1871年には、鉄の宰相ビスマルクが活躍して、
 ドイツ帝国が起こった。
  そして、第一次世界大戦の敗北で、そのドイツ帝国が
 消滅すると、今度は、ヒトラーが台頭した・・そして、
 再再度、ヨーロッパ制覇を目論んだ。
  ヒトラー政権は、神聖ローマ帝国、後のビスマルクの
 ドイツ帝国に続く第三帝国と呼ばれた。
  そして、その第三帝国は、無残に滅び、消滅した。
  そして、二度と立ち直れないと思われたが、西ドイツ
 は、1990年、東ドイツを飲み込み、一体となりヨーロッ
 パで第一の大きな国となった。
  そして、今(2017年)、EUに君臨した。
  一番の影響力のある国となっている。
  そして、その軍事力でも強大になって行くと予測され
 ている。
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1158年、キリスト教聖職者のオットーが死んだ。
  キリスト教の「教父」と言われたアウグスティヌス(
 354年~430年)は、その生存した古代の時代なりの考え
 方をしていた。
  その様な古代の遅れた認識で、その存在が古代ゆえに
 やむを得ない面があるが・・問題は、その彼の遅れた論
 理が、今・現在もなお、現在に至るまで、多大にキリス
 ト教へ影響を与え、延々とキリスト教に引き継がれ、キ
 リスト教の遅れた状況を作り出す原因となっている
  その様なことの一つが、「キリスト教普遍史」である。
  彼=アウグスティヌスは、「ローマ帝国が終われば、
 人類が終わる」と考えた。
  そして、キリスト教の教義である「人類の終末に訪れ
 る最後の審判」となり、その審判を恐れた。
  悲しいかな、まったく無用な恐怖なのであるが、キリ
 スト教は、この恐怖を抱えていた・・今・現在も・・
  しかし、そのローマ帝国が滅び、年月を経ても、「何
 も起こらなかった」。
  びくびくして・・年月だけが過ぎた。
  当然の事だった。
  しかし、年を経て、その整合性を問う話が沸き出て来
 た・・そのことを考えた者が現れた。
  ドイツのキリスト教聖職者のオットーだった。
  彼は、中世的普遍史の完成者と言われている・・そし
 て、彼は「年代記」を書いてアウグスティヌスを訂正し
 た・・。
  彼は、ローマ帝国まではアウグスティヌスを踏襲した。
  問題はその後にあった。
  キリスト教が色々な面で、辻褄(つじつま)合わせを
 色々、苦労してやっているが、オットーもこの辻褄合わ
 せに苦渋した。
  そして、考え出したのが「帝権移動」の屁理屈論理だ
 った。
  何を意味するのか?・・まったくのこじつけ論理なの
 だが・・「ローマの帝権は移動し、そして、続いている」
 とこじつけた。
  だから、キリスト教が説く「終末は来なかったのだ」、
 また、「最後の審判」も無かったのだとした。
  彼の帝権移動論を細かく書くのも馬鹿々々しいが、そ
 の抜粋・概要を以下に書くと・・
  ローマ帝国は、ラテン人のローマ帝国だった。
  しかし、ローマ帝国の滅亡後、数世紀を経過しても、
 なお、世界は終末を迎えることなく存続していた。
  カール大帝が皇帝に即位した。
  ローマ建設から1552年、カールは、ローマ教皇によっ
 てパトロキウスの称号を与えられ、アウグストゥス以後
 第69代の皇帝かつアウグストゥスと呼ばれた。(中略)
  コンスタンティヌス帝から以後この時まで、首都にコ
 ンスタンティノーブルに中心が置かれていたローマ人の
 統治権は、こうしてフランク人に移された・・
  ・・意味不明な事を延々と書き・・
  はっきりしているのは、「ローマ帝国は滅亡してない、
 引き継がれた」・・だった。
  まだまだこの他にも「おひれはひれ」が付いているが
 割愛(かつあい、はぶく)する。
  何しろ、現在も、コンスタンティノーブルが存在して
 いるが、ならば、「現在も、ローマ帝国は存在している
 のか?」と、キリスト教に言いたいところだ。
  キリスト教は終末が来ること、その時に演じられる「
 最後の審判」におびえている・・
  この様に、遠い昔の古代から「いつ来るか?」「いつ
 来るか?」と怯えている。
  このキリスト教の終末論理には「色々な怪物も登場し
 たり、色々な華やかな話も展開する」。
  教父のアウグスティヌスは、「怪物たちもアダムの子
 孫だ」と言う様な人だった。
  そして、また、アウグスティヌスは、「この怪物と胎
 児」について「理性的で死すべき生き物」として、自分
 勝手な論理展開をした。
  そして、この定義に当てはまるので「すべて起き上が
 り、生きるか死ぬかを求められるべきだ」と言った。
  これらは、「インドは世界の果てだ」という言葉と共
 に語られる・・
  キリスト教において、「意味が分からなくても、心配
 してはならない世界の話」。
  ちなみに、オットーの生涯は1111年?~1158年。
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17世紀~18世紀、ヨーロッパの啓蒙時代
  「啓蒙時代」とは、17世紀~18世紀に、ヨーロッパで
 広まった、キリスト教神学に代表される旧来の伝統や権
 威を『理性のもとに批判』し、民衆を啓蒙し、目覚めさ
 せようとした時代だった。
  中世のヨーロッパは、キリスト教の考え方によって日
 常が歪(ゆが)められていた。
  しかし、科学知識が、革命的に得られて来た事によっ
 て、その知識を得た啓蒙主義者たちは、その歪んだキリ
 スト教の観念に立ち向かって行った。
  その一つが、「キリスト教普遍史」に立ち向かった知
 識人たちであった。
  彼らは、厳しく「キリスト教普遍史」を批判し、キリ
 スト教の「時間観念」に立ち向かった。
  そして、彼らは、キリスト教普遍史とまったく異なっ
 た「時間観念の下で過去を見直した」。
  キリスト教から見れば「異端的考え方をする者たち」
 だった。
  それまでの常識とされて来た「キリスト教から洗脳さ
 れた歴史の時間」からは「かけ離れた長大な時間だった」。
  「地球が巨大な火の玉だった」という事は、キリスト
 教観念からは・・まったく考えられなかった。
  その様な科学知識などを知った知識人たちには、キリ
 スト教観念に沿って説明することは「苦痛だった」。
  それでも、地球の誕生は7万5000年前と、また、人類の
 誕生は6000年~8000年前と、キリスト教の時間観念に妥
 協をした。
  でも、キリスト教普遍史の時間スケールからは「大き
 くはみ出していた」。
  すべてがはみ出していた。
  太陽系の他の惑星が同時に誕生したこと、地球の誕生
 前の「物質の創造」「光と闇の分離」など、どうしても
 キリスト教聖書に沿って説明が出来ない面が「多々あっ
 た」。
  キリスト教は、彼らを脅(おど)した。
  しかし、彼らは、そのキリスト教の脅しには屈しなか
 った。
  彼らは、また、一般人に配慮した。
  キリスト教に洗脳されていた一般人、この一般人から
 理解が得られる説明に心がけた。
  人類の誕生は、キリスト教聖書の記述に合わせたりし
 た。
  日常生活が、キリスト教観念によって影響されている
 一般人、その人々に配慮した。
  間違った観念の下で生きている問題に対し、正しい観
 念を「必ずしも与え得なかった」。
  間違った観念の下で暮らす怖さを取り除いてあげられ
 なかった・・そのもどかしさの中に科学者たち・知識人
 たちは居た。。
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1883年、アメリカで、黒人の方々に対し、大変卑劣な差別
 判決が出た。
  合衆国最高裁判所が、「アメリカ国民に与えられた色々
 な特権(公民権)は、そもそも州の市民にそなわるもの
 であるから、これ等は黒人の市民権付与を規定した憲法
 修正第十四条の適用は受けない」として、「1875年の公
 民権法を否定した」。
  この判決によって、アメリカでは、堂々と黒人の方々
 への「差別」が、一層さらに、行われる事態となった。
  交通機関、学校、レストラン、教会、映画館などなど
 において人種差別行為が行なわれ、また、隔離も行なわ
 れた。
  また、州法や市条例やその他によって、法制化して確
 実化した・・そして、縛(しば)った。
  1896年5月18日には、さらに、最高裁判所が、「列車で
 黒人隔離をしても、平等だ」という、「隔離しても平等
 という屁理屈判決」を出した。
  これが、また、差別行為を正当化して、アメリカ差別
 社会は、一層その卑劣さを増した。
  軽蔑を通り越すアメリカの黒人の方々に対する差別に
 憤りが湧く。
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19世紀末、スペインのバルセロナ地方に独立したいという
 動きがある・・差別が原因・・
  これは、19世紀の末頃から、常にあった。
  スペイン中央政府のカタルーニャ民族を軽視する行動
 が原因だった。
  また、カタルーニャは裕福な州で、中央政府のカタル
 ーニャへの支出金があまりに少なく・・
  カタルーニャ州が税金として支出する金額と隔たりが
 大きい・・還元される金額が少ないという状況もあり、
 独立運動と結び付いて行った。
  2010年代、特に、盛んになった。
  また、イギリスのグリーンランド地方でも独立したい
 という動きがある。
  理解できる活動である。
  今、帰属しているスペインやイギリスは、他国民の多
 くを殺戮して来た、本当に多くの人々を殺戮して来た。
  これを思うと、帰属している国と、我々は違う民族な
 のだと、それを主張したいとなるのだった。
  アメリカも、本当に、多くの他民族をキリスト教観で
 乱暴な対処をして来た。
  バルセロナ・・スペイン北東部のカタルニャ自治州で、
 バルセロナ県の県都である。
  伝承であるが、フェニキア人によって建てられた。
  バルセロナの名は、カルタゴの名家のバルカスによる
 とされている。
  ローマ人、そして、西ゴート人の支配を受け、そして、
  717年頃、イスラムの統治下に置かれた・・しかし・・
  801年、カロリング朝フランク王国のルイ1世によって
 征服された。
  9世紀末に、バルセロナ伯領の首都となった。
  中世を通じて、ゼノアやベネチアと並ぶ地中海岸の商
 業の中心地として発展した。
  カタルニャ王国の首都として、アラゴン王権に対抗し、
 商人層を中心とする民主的な自治を行なった。
  独立の気運は「常に高くあった」。
  内乱時には、人民戦線政府の最後の拠点となった。
  このカタルニャには「自治運動があった」。
  この地方は、スペイン中央部とは経済的にも文化的に
 も異なっていて・・
  19世紀末頃から自治運動が絶えなかった。
  1923年、再び自治運動が高まり・・
  1931年4月、地方選挙後、カタルニャ自治政府の樹立を
   宣言をした。
   この時、スペイン全土でも共和派が大勝し、国王は
   亡命した。
  1931年、共和憲法によって地方自治が承認された。
  1932年9月、カタルニャ自治法によって自治州と認めら
   れた・・しかし・・
  1934年10月、耕作法をめぐって中央政府と対立し、カ
   タルニャは独立を宣言したが、すぐに軍隊によって
   武力で鎮圧された・・そして、自治法は停止された。
   スペイン内乱中もカタルニャと中央政府との対立が
   続き「内戦中の内戦」が展開された。
  1939年、 F.フランコの勝利で自治運動も不可能となる。
   しかし・・
  1975年、フランコ総統が死に・・その後・・
  1977年、中央政府の了解のもとに臨時自治政府が成立
   した。
  1978年、新憲法によって正式に自治が認められた。
   中心都市はバルセロナ。
  1980年、第1回自治州議会選挙以来、穏健派連合が過半
   数を制してきた。
  1992年3月、自治州議会選挙では独立を標榜するカタル
   ニャ共和左翼党が野党第2党に進出した・・しかし、
   穏健派連合優位の構図に大きな変化はない。
  日本でも、中国が陰で働きかけるアイヌや沖縄を独立
 させようという工作や運動が水面下でなされている・・
.
1933年1月30日、ヒトラーが、ドイツ首相に就任した。
  ナチス(単数形のナチ)は・・
  1919年、K.ハラーによってミュンヘンで結成された「
   ドイツ労働党」を、ヒトラーが民族主義と社会主義
   を巧みに接合させた・・
  1920年、「国家社会主義ドイツ労働者党」と改名した。
  1921年、ヒトラーが党首となったが・・
  1923年、ヒトラーは、ミュンヘン一揆を企てて投獄さ
   れた。
   党は解散したが、ヒトラーの出獄とともに大衆政党
   として再出発した。
  1925年、党員数はわずか2万7000人にすぎなかった・・
   しかし、その後、群小右翼団体を吸収して膨張した。
  1929年、党員数17万6000人・・
  1930年9月、総選挙で 18.3%を獲得して第2党となり・・
  1931年、党員数80万6000人・・
  1932年7月、総選挙で37.4%を得て第1党に躍進した。
  1933年1月、軍部や財界と取引を行なって、この時、政
   権を獲得した・・
   党員数は390万人とふくれあがった。
  そして、破滅的な第2次世界大戦への道をとった。
  このヒトラー時代のドイツは、自国に有利になる様に
 「女性を道具として卑劣に使った」。
  まことに卑劣な話であるが、この時のドイツは、外国
 から来た者へ、自国女性に性的な対応をする様にさせた
(ハニートラップ)
  朝鮮・韓国が、中国に冊封されている時、国の施設を
 持って、この様な事を行なっていたが(これは、史実と
 して明確に確定している)・・ドイツも、この様な状況
 であった。
  また、ドイツは、「現地妻」を制度的に用いていた。
  外国からの者へ「現地妻」を提供していた。
  また、冷戦中には、ソ連のKGBも、この様な事を行
 なった。
.
1937年8月13日、第二次上海事変:アメリカに支援された中
 国軍が攻めて来た。
  上海事件・・この戦いが、本格的な中国との戦いにな
 ったきっかけだった・・
  この戦いは、陰で、アメリカが、中国を支援をしてい
 た。
  これが、最大の悲惨な状況を作り出す不幸だった。
  ベトナムとアメリカの戦争と同じだった。
  アメリカが、陰だとはいえ、間接的に参戦することに
 よって、中国での戦いは「悲惨な戦争となった」。
  大量の武器などの物量を中国へ与え、戦いを大きくし、
 また、戦いへ仕向けていっていたアメリカだった。
  歴史教科書にはこのような事は書かれていないが・・
  ただ日中の戦いだったら・・早期に「決着はついてい
 て、終わっていた」。
  戦う当事国同士なら、早期に戦いは決着し、悲惨な結
 果にもならずに済んだ戦いだった。
  アメリカという第三国による一方の中国への支援が、
 この様な形での「間接的な、アメリカの戦争への参戦」
 が、戦いを長引かせ、また、より悲惨な状況とした。
  ベトナムでの戦いも、ベトナムとフランスとの戦いで、
 すでに、決着し、終わっていた。
  しかし、アメリカが乗り出した・・より強力な武器を
 使って・・また、非人道的な武器や行為を行なって・・
  そして、結局、最後は、陰に隠れてい居られなくなっ
 たアメリカは表に出て来た。
  アメリカ軍それ自体が表で参戦するという、卑劣で破
 廉恥な戦争行為となった。
  そして、表面立ってのベトナムとアメリカの戦いが新
 たに生まれた。
  ベトナム・アメリカ戦に変わった。
  戦いは、また続いた・・戦いは長いものとなり、また、
 筆舌に尽くせぬ卑劣な手を使ってでもアメリカは勝とう
 とし(枯葉作戦など)、しかし、アメリカは勝つことが
 出来なかった。
  ただ、戦争と何ら関係ないベトナムの一般の方々が、
 女性の方々が・・そして、小さな子供たちが・・大勢、
 死んだだけだった・・多くの奇形児も生まれた・・
  日中の戦争も・・泥沼となった・・
.
1945年9月10日、GHQが「新聞報道取締方針」(SCAPIN-16)
 を発令し、検閲を開始した。
  アメリカは、あらゆる面で、日本をコントロールし始
 めた・・卑劣だった・・(戦争に勝ったら、そんなこと
 が出来るのか?)
  日本には誇るべき平安京の時代がある・・女性は尊重
 されていた。
  当然、その様な社会環境から・・女性も高い教養を身
 に付けていた。
  その様な社会環境から、「人類最初の長編小説」が、
 日本のこの時代に書かれた。
  アメリカは影も形もないこの時代・・1200年以上も前
 に書かれていて、そして、生まれていた・・
  日本の女性の手によって書かれていた。
  こんな遠い昔でも、日本は、アメリカの様な奴隷制度
 の欠片(かけら)もない平等な社会だった・・そして、
 女性の人格も尊重される社会だった。
  まったく卑劣極まるレベルのアメリカの奴隷社会とは、
 まったく隔絶されて違う・・品位ある社会だった。
  日本は遠い昔から、奴隷社会などという遅れた社会か
 ら隔絶していて・・戦争もなく、兵役もなく、宗教の自
 由があり、言論の自由もあった。
  アメリカが、第二次世界大戦後、その様なことを「日
 本に教えるのだ」と言ったのは間違いだった・・逆に、
 日本から学ぶべきだった。
  アメリカの自国の歴史をもって、「日本もそうなのだ
 ろう」と思うことは、「おこがましい(出過ぎている。
 さしでがましい)」・・反省してもらいたい。
  日本人のプライドを奪うことを、この後、戦後に、ア
 メリカは、まだまだ行った・・まったく卑劣である。
  そんなことは、どこの国もやらなかった。
  だから、その点について、イギリスのチャーチルは、
 さすがに言った。
  そんなことをしたら、「タルタル人の様だと」と・・
  タルタル人と同じではないかと・・
  「タルタル人の時代に戻ってしまうではないか」と・・
  アメリカは、戦争に勝ったかもしれないが、それでは、
 タルタル人と同等ではないか・・と・・
  チャーチルは、数日間、抵抗した。
  しかし、アメリカに押し切られた。
  歴史に裏打ちされた品格を持つ日本は、この点で勝利
 していた・・人間として大事なこの点で、日本はアメリ
 カに勝ち、アメリカは敗けていた。
  (参考)タルタル人:タタール(Tatar)は、北アジア
     のモンゴル高原とシベリアとカザフステップか
     ら東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い
     地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、
     ツングース系およびサモエード系とフィン=ウ
     ゴル系の一部など様々な民族を指す語として様々
     な人々によって用いられてきた民族総称。
      日本では、韃靼(だったん)という表記も用
     いた。
.
1994年、今(2019年)から25年前、アメリカと北朝鮮は、
 かなり危機的な状態となった。
  クリントン大統領の時である。
  アメリカに「やる」という話が出た。
  アメリカ海軍は、「トマホーク」を使えば、北朝鮮の
 原子燃料施設を破壊できるという考えだった。
  アメリカ兵の犠牲も出ない。
  金もかからない・・と・・
  「やる寸前」まで行った。
  しかし、北朝鮮がアメリカを脅した・・
  「もし、アメリカ軍がトマホーク攻撃を仕掛けてきた
 ら、地上戦でソウルを火の海にしてやる」と言った。
  また、作戦の実行に、アメリカ陸軍が反対した。
  韓国に、アメリカ軍3万人に加えて、その家族が3万5000
 人が居た。
  将兵家族の引き上げの問題である。
  そして、クリントン政権のペリー国防長官が、クリン
 トン大統領へ「全面戦争になったら、100万人の死者が出
 る」と・・言った。
  また、「アメリカ人も、8万人~10万人死亡する。
  そして、我が国が負担する軍事費用は、1000億ドル(
 11兆円)に上る」と報告した。
  クリントン大統領は・・屈した。
  この時が、北朝鮮の核施設を無くすチャンスだったと
 言われている。
  この時、日本は何をするべきだったのか?
  その考え方が、「まとまっていなかった」。
  この時、日米で共同作戦を取っていれば、「日米安保
 体制も、ゆるぎないものになっていた」という・・
  日本には、「自国の安全保障に対して何をなすべきか?」
 の「一本、筋の通った論理」が無かった。
  「何も考えないで、アメリカに、頼り切っている状態
 の日本があった」。
  日本の安全保障であるのに、それを真剣に突き詰めて
 いたのか・・?・・これは、今でも続いている・・
  ただただ、戦争は嫌だと言っているだけで良いのか?
  それで済むなら誰だってそれでよいとする・・
  NHKや池上彰は、「徴兵制は怖い」などと脅す事だ
 けをしている・・本質の解説は「逃げている」・・
  北朝鮮は、必死に生き残りをかけてやっていて・・北
 朝鮮は、核とミサイルで自国民を守った。
  アメリカは、最後まで責任をとってくれるのか・・?
  今日の香港・・明日の東京・・そして、ニューヨーク・・
  周りに核に囲まれた日本・・銃を持った者たちによっ
 て、あなたの愛する妻や子が囲まれた時、あなたは何を
 するのですか?・・
  今日も銃の乱射で多くの人が亡くなったアメリカの報
 道が新聞にあるが・・

.
1995年、クリントン政権のジョセフ・ナイ国防次官補が「
 アメリカのアジアに対する『深い関与』戦略」という論
 文を発表した。
  それは、「アメリカは、ヨーロッパから軍隊を引き揚
 げても、東アジアからは撤退しない、『深い関与』を続
 ける」というものだった。
  アメリカ軍が、駐留を続けることによって「東アジア
 地域での軍備競争を抑える」だった。
  また、ペリー国防長官も、似たような主張をした。
  アメリカは、「日本を抑え付けておきたい」と言えな
 いから、この様な言い方をした。
  また、「瓶のふた論」も展開できないから、こんな言
 い方をした。
  「瓶のふた論」は・・もう古い・・
  ペリー国防長官の言い方は、「東アジアを安定させた
 い。軍備競争が起きないようにしたい。それ故に、我々
 は、冷戦が終わっても日本に5万人のアメリカ軍を駐留さ
 せる」と。
  どの様な言い方になっても、結局、「瓶のふた論」の
 思想の行動をアメリカは続けている。
  そして、その「瓶のふた論」をするアメリカへ、「思
 いやり予算」と称して日本国民の血税が支払われている。
  ところが、このペリーという男が、曲者(くせもの)
 で、「中国が、大好きな親中派」・・
  それも、自分さえよければ良いの男だった。
  クリントン政権の前に居たカーター政権で何をやった
 かと言うと、「アメリカの軍事技術を、せっせと中国に
 渡していた」。
  国防次官という身分で、「軍事技術供与」と称して、
 アメリカのノウハウを渡していた。
  そして、この行為は、この後も続いた。
  カーター政権を辞め、スタンフォード大学に戻ってか
 ら、「武器・軍事技術輸出に関するコンサルティング会
 社」を作った。
  目当ては、政権にいた時に作った中国。
  中国を最大の客として、重要な軍事技術を中国へ渡し
 た。
  それも、20年以上の期間に渡って。
  中国は、国防予算をうなぎ上りに増やした。
  前代未聞の4年から5年ごとに、倍増・倍増・倍増の超
 軍拡。
  「東アジアに軍拡競争をさせない」というアメリカの
 公言(人前で隠しだてすることなく堂々と言うこと)は、
 「絵に書いた餅」となった。
  アメリカなんて、こんな事が展開する国だった。
  アメリカ企業は、中国をお得意様として、中国に対す
 る軍事技術の輸出をどんどん増やした。
  「自分の懐に、金が転がり込めば、何でもいいのさ」
 の状態だった。
  アメリカ政府は、黙認した。
  北朝鮮も、この時期、せっせと核弾頭の材料である核
 燃料を増産した。
  1994年、アメリカは、北朝鮮と「これ以上プルトニウ
 ムを作らない」合意をした。
  しかし、1996年、北朝鮮は、このアメリカとの合意・
 約束を破って、パキスタンから「ウラニウム濃縮技術」
 を導入した。
  アメリカは、この重大な情報を日本に秘密にした。
  日米同盟なんてチャンチャラおかしいという状態。
  同盟関係なんてありもしないという日米同盟だった。
  裏切り者の卑怯なアメリカだった。
  さらに、アメリカが、卑怯で卑劣なのは、この状態を
 黙認したこと、核弾頭の開発を続ける北朝鮮を野放しに
 したこと・・この様な事を、アメリカはした。
  何の対抗策も取らなかった。
  日本だけには、ガチガチと枠をはめるアメリカだった。
  日本の自主防衛能力の構築だけが、ガチガチに抑え付
 けられていた。
  そして、2017年、北朝鮮は、立派な核保有国となり、
  ICBM(大陸間弾道弾)も保有する国となった。
.
2002年2月18日、アメリカのブッシュ大統領が来日した。
  この時、「小泉首相と靖国神社に共同参拝したい」と
 申し入れられていたという。
  日本は、中国を刺戟したくないと、この申し入れを断
 った・・(何を怖がっているのか?)
  その結果、ブッシュ大統領の単独による明治神宮の参
 拝になったという。
  日本は、中国に気を使い過ぎている。
  ウイグルの方々を300万人も拘束している中国、ウイグ
 ルの方々へ「洗脳とか、思想教育とか」をしている・・
  この抗議に対して、中国は「テロ対策だ」という「説
 明にならない説明」をしている中国となっている。
  さらなる抗議に対しては、「内政干渉だ」と突っぱね
 る中国となっている。
  その様な状況に対して、その正反対に、気を使い過ぎ
 る日本となっている。
  明治神宮の共同参拝までしなかった日本・・
  「政教分離にならない」というのも理由だったという。
  アメリカは、大統領の就任式にキリスト教の聖書に手
 を置いて祈り、誓うが、一定の範囲に宗教が関わること
 は正しい、「正義だ」、「許されるのだ」。
  宗教を否定する共産主義の中国とは違うのだ。
  馬鹿々々しいほど律義に行なう日本の方が「おかしい」。
  民の選挙も行なわない・・そして、宗教を否定する中
 国の方が・・「おかしいのだ」。
  日本は、中国の内政干渉には、きっぱり撥ね付ける必
 要がある。
  アメリカは日本に対して言っている、「マッカーサー
 の神道指令」を卒業して、「独自の日本の正義の態度を
 示せ」と・・
  その背景に、「中国に毅然と日本の主張をせよ」との
 思いがある。
  最近のアメリカは、日本に対し、「もっと自分の国に
 誇りを持った歴史観を持つべきだ」というメッセージを
 盛んに発している。
  靖国神社の参拝についても、反対の意見は無い。
  逆に、この類の話の中で、「中国への警戒感や脅威論
 が出る」という状況となっている。
.
2011年、ドイツと中国の間で「二国間政府サミット」が定
 期的に開催されるようになった。
  これは、やはり、狙いは商談・・金儲け・・
  首脳同士、閣僚同士の会談の影で、盛んに産業界の大
 物たちが、政府のサポートを受けながら大型契約の交渉
 に熱中していた。
.
2018年1月14日、スエーデンで、「ジャングルで一番格好の
 良い猿」と言って、黒人の子供の写真を載せる宣伝広告
 がなされた。
  考えられないほどの、「最低の人種差別の宣伝」で、
 世界で、この会社の商品の不買運動を始めよう。
  最悪な卑劣さで、怒りが心頭に達する。
  産経ニュース、2018年1月14日、「ジャングルで最もか
 っこいいサル」…黒人差別の広告に抗議、南アでH&M
 店が襲撃される
  スウェーデンの衣料品大手H&Mが、黒人への差別的
 な広告を使用した問題で、南アフリカ国内にある同社の
 複数の店舗が13日に襲撃され、商品が盗まれるなどの
 被害が出た。
  黒人の権利擁護を訴える野党が、支持者に呼び掛けて
 いた抗議行動が過激化した。
  南アのメディアが報じた。
  地元警察によると、最大都市ヨハネスブルクの店舗で
 は、商品が略奪され警官隊がゴム弾で制圧。
  商品が床にまき散らされた店もあった。
  H&Mによると、客や店員にけがはなかった。
  「ジャングルで最もかっこいいサル」と記したパーカ
 を黒人少年のモデルに着せた写真を、H&Mが広告に使
 っていたことが今月に判明。
  「人種差別だ」と批判が相次いでいた。
  支持者に抗議行動を呼び掛けた野党、経済的解放の闘
 士(EFF)のマレマ党首は「黒人への侮辱は許さない。
  (H&Mは)教訓を学んだだろう」と述べ、襲撃の謝
 罪を拒否した。
.
2019年、存立危機事態(産経新聞の解説文)・・
  自衛隊による集団的自衛権の行使が可能だと日本政府
 が判断する事態の称呼。
  安全保障関連法は、「密接な関係にある他国への武力
 攻撃が発生し、日本の存立が脅かされ、国民の生命、自
 由、幸福追求の権利が根底から覆(くつがえ)される明
 白な危険がある事態」と定義している。
  「国民を守るため、他に適当な手段がない」「必要最
 小限度の実力行使にとどまる」と合わせて「武力行使の
 新3要件」を満たす場合に、集団的自衛権の行使が認めら
 れる。
  この条文を読んでいるうちに、中国や北朝鮮からの核
 ミサイルは・・着弾するだろう。
.
2019年8月2日、日本は、韓国への「ホワイト国の指定」を
 取り外した。
  これは、韓国が、「軍事上の重大違反」を繰り返すと
 いう重大ミスがあったからだった・・当然の処置だった。
  この韓国へ与えてあげていた「貿易上の優遇処置」の
 取り外しは、特に、「軍事関係の重要品」を不適切国へ
 輸出するという「重大違反を重ねていた」からだった。
  この様な事は、重要な事として韓国も十分知っている
 事だったが、現実に起きることは、韓国の『重大なミス
 が重なる』という状況だった。
  この様な事に対して、韓国は謝罪も説明も一切ない。
  韓国へ与えてあげていた『ホワイト国の優遇処置』を、
 『普通のポジションへ戻した』。
  韓国の輸出不正の多い状態は、「二段階降下が適正で
 あった」が、「普通レベルに留めて」あげた。
  軍事的に重要な戦略物資の不適切な輸出は、非常に神
 経を尖(とが)らせなければならない重要な面であるが、
 故意ではないかと疑われるほど、韓国は「重大ミスが重
 なるという韓国の状況であった」。
  そこで、日本政府になり代わって、韓国政府へ、以下
 の文を書く・・
  日本政府が、韓国のホワイト国(輸出手続き上の最遇
 国)から排除する決定を下した。
  これは、韓国政府が、問題を解決するための外交的努
 力を拒否し、事態を一層悪化させる極めて無謀な行為を
 繰り返していたことに依ることであって、深い遺憾を表
 明する。
  問題を解決するために、膝を突き合せようという日本
 政府の熱意と提案を、韓国政府は、ついに、頑なに自説
 を曲げないで受け入れなかった。
  一定の期限を定め、現状をこれ以上悪化させないよう
 にしながら交渉の時間を持つように促す米国の提案にも、
 韓国政府は応ぜず、解決案にほど遠い自説を曲げなかっ
 た。
  韓国政府は、日本政府と国際社会の外交的解決の努力
 を無視し、状況を悪化させて来た責任を、韓国政府は重
 く反省しなければならない。
  この様な責任が、韓国政府にあるという事が明らかに
 なった以上、これから起きる事態の責任も、全面的に韓
 国政府にあるという点を、はっきりと警告する。
  どの様な理由で言い訳をしようとも、韓国政府の今回
 の行動は、まったく国際社会のルールを踏み外している。
  決着している過去の問題を何度も蒸し返したり、持ち
 出したりして、建設的な前向きな解決をしようとしない
 韓国政府に問題が存在する。
  最も近い隣人であり、友好国であるべき韓国が、この
 様な行為をとって来た事は、実に失望すべき事であり、
 残念なことである。
  この様な不正を押し付ける韓国の姿勢は、国際社会の
 これからの為にも、はっきりと指摘して行かなくてはな
 らない。
  国際社会はお互いが助け合うことが基本であり、ルー
 ルに反することを、自国に有利だからと行なう韓国政府
 の行為は、断固指摘せねばならない立場に日本政府には
 ある。
  日本政府は、韓国のこの様は不当な行動に対し、断固
 として正しい事実に則った態度を取って行く。
  韓国政府が行なう盗人たけだけしく騒ぐ状況を決して
 日本政府は座視しない。
  日本政府は、韓国政府の行なう措置に応じて、対応措
 置を強化して行く。
  そして、今までの、韓国政府の甘えの体質も反省すべ
 きである。
  不正な行動をする韓国政府は、大きな代償があるとい
 うことを認識しなければならない。
  日本政府は、対抗の悪循環を望んではいない。
  止められる方法はただ一つ、韓国政府が、偽りの行動
 を反省し、誠実にそして真実の行動をとることにある。
  日韓両国には、日本が韓国の国づくり、また、社会資
 本づくりなどに貢献して来た歴史があるが、この事につ
 いても一切の感謝の気持ちを韓国は表明していない。
  韓国政府は、この様な事に対する誠実な感謝の気持ち
 を表明すべきである。
  遠い昔から、江戸時代から、韓国政府は、この様な蒸
 し返しの行為を、日本政府に対して繰り返し行なって来
 た歴史がある。
  しかし、日韓政府の正常化に挑戦して行くことに対し、
 日本政府は努力するが、肝心な韓国政府が昔から日本に
 して来たような態度を繰り返すならば、歴史は繰り返さ
 れることとなる。
  共に、日本と延びたいのならば、国際ルールに則り、
 正しい行動の出来る国に韓国政府はならなければならな
 い。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  ロシア(旧ソ連)よ!
  千島列島と北方四島を日本に返還しなさい。
  終戦後の1945年8月18日に、占守島に奇襲攻撃して来た
 行為を反省しなさい。
  占守島の戦いで日本は戦いに勝っていたのに、終戦後
 であったので、ソ連(現ロシア)と合意の上で日本は武
 器を置いた・・日露間の戦争はここに終わった。
  しかし、日露の合意の終戦の後、日本兵の居ない日本
 領の千島列島と北方四島をソ連(現ロシア)は不法に占
 拠し始めた。
  千島列島の最北端の占守島の戦いで、日本が武器を置
 く式を日露合意で行ったことを遵守せよ!
  だから、君たちには、日本の領土を勝手に盗る行為を
 行なう正義の論理は無い。


# by suba28 | 2019-09-05 03:34 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)652E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年7月~1896年7月)

題:(増補版)652E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年7月~1896年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
 される。
.
1896年7月6日、京釜鉄道株式会社の設立発起人総会が東京
 で開催された。
  京城(現:ソウル)と釜山を結ぶ京釜鉄道株式会社を
 日本は設立をして、朝鮮半島の国造りに努力した。
  朝鮮半島を縦貫するこの路線は最重要路線で、現在も、
 大韓民国の韓国鉄道公社(KORAIL)京釜線として継承さ
 れ、経済活動に貢献している。
  この様な日本の誠実な努力に、韓国は感謝しなければ
 ならない。
  朝鮮半島に誠実な国造りをした国は日本しかなく・・
 その他の国は韓国・朝鮮半島の利権ばかりをしゃぶって
 いた。
  19世紀の後半と言えば、朝鮮政府は大変に財政上、逼
 迫(ひっぱく、行き詰って余裕のないこと)していた。
  そこで、朝鮮政府は、多くの鉱山採掘権などの利権を
 外国に売り払い、そして、盗られていた。
  アメリカは、京仁鉄道の敷設権を得ていて、工事を開
 始したが途中で投げ出した。
  因みに、1896年3月、日本銀行は、朝鮮政府へ応援をす
 るため300万円の借款(長期間にわたる資金の融資)を与
 えていた。
  朝鮮という地は、建設を成功させにくい地でもある。
  このアメリカの場合は、労働争議や支払い争議で中止
 された。
  この路線も、日本が引き継いで完成させてあげた。
  1900年7月に全面開通した。
  因みに、1900年2月に、日本の衆議院は、朝鮮半島の鉄
 道が完成し、充実する様に法案まで成立させたりしてい
 た「帝国臣民ノ外国ニ於ケル鉄道敷設ニ関スル法律案」・・
.
1896年7月8日、東京美術学校に西洋画科・図案科の2科が
 新たに設置された。
  この年、西洋画科が新設され、黒田清輝、藤島武二、
 横山大観らが指導にあたった。
  東京美術学校は・・
 1884年7月、文部省に図画教育改良を目的とする図画調
  査会が置かれ、調査が行われ、官立美術学校を設置す
  ることに決定されたことに始まる。
 1885年12月、文部省学務一局に図画取調掛が置かれ、そ
  して、アーネスト・フェノロサ、岡倉覚三、狩野芳崖、
  狩野友信らが委員となって設立準備が進められた。
 1886年2月、図画取調掛の事務所が小石川植物園内に移さ
  れ、岡倉覚三がその主幹となった。
 1886年9月、文部省と宮内省が協議し、フェノロサと岡倉
  を委員とする欧米の美術及び秘術教育視察が行なわれ
  た。
 1887年10月、二人の報告に基づき、勅令によって、図画
  取調掛及び工部大学校内「工部美術部」を統合・改編
  して東京美術学校が設立された。
  また、校則も定められた。
 1887年12月、東京都台東区上野公園の現在地へ移転する。
 1889年2月、開校される。
  5年制の学校として、普通科(2年)、専修科(3年)、
  特別の課程(1年)を置いて、授業を開始した。
  普通科:絵画・造形、専修科:絵画(日本画)・彫刻
  (木彫)、美術工芸(金工・漆工)に分かれていた。
 1890年、岡倉覚三が就任し、事実上の初代校長となる。
  副校長はフェノロサが務めた。
  開校時の教官は、他に、黒川真頼・橋本雅邦、小島憲
  之であり・・
  後に、川端玉章・巨勢小石・加納夏雄・高村光雲らを
  加えた。
 1892年、鋳金科を設置。
 1893年、第1回卒業式が挙行される。
  横山大観らの卒業生を送り出す。
 1895年、鍛金科を設置。
 1896年、西洋画科と図案科を設置。
  西洋画家の教官には、黒田清輝・藤島武二・和田英作・
  岡田三郎助、
  図案科の教官には、福地復一・横山大観・本多天城ら
  が就任した。
 1898年、美術学校騒動が起きた。
  岡倉覚三の学校運営が問題とされ、岡倉をはじめ、橋
  本、横山、下村観山、菱田春草らの多数の教官が退任
  し、日本美術院を結成した。
 1899年、塑造科を設置。
 1902年、図案科に建築教室を設置。
 1905年、学科を再編成し、日本画、西洋画、図案、彫刻、
  金工、鋳造、漆工の7科とする。
 1907年、図案師範科(3年制)を設置。
 1914年、製版科(3年制)を設置された。
  (図案科が第一部(工芸図按)と第二部(建築装飾)
  に分離の史料もある)
  当時は、年限1年の予科、年限3年~6年の本科(絵画科、
 彫刻科、工芸科、建築科)と師範科、年限2年の研究科か
 らなった。
.
1896年7月10日、基隆駅~新竹駅間の鉄道運輸の営業が開始
 された。
  台湾総督府鉄道の営業開始で、台湾の近代化と地域開
 発の原動力となって行った。
  基隆(きいるん)は台湾北部にあり、新竹(しんちく)
 は台湾北西部にある。
  新竹駅の駅舎は、現在でも日本人建築家の松崎万長が
 設計し、そして、建設・完成された立派な状態で使用さ
 れている・・
  台湾での現存の最古の駅舎となっている。
  1994年から、台湾の学者、複数の有志の方々の呼び掛
 けや保存運動の展開によって・・
  1998年6月23日に、台湾の国定古蹟(台湾の国の文化遺
 産)に指定された。
.
1896年7月10日、新聲(声)社(現:新潮社)が創業された。
  佐藤義亮(さとうぎりょう)が新声舎を設立し、雑誌
 「新声」を刊行したが破綻した。
  1904年に新潮社を創立し、文芸雑誌「新潮」を創刊し
 た。
  佐藤(1878年~1951年)は、18歳の時に文学を志して
 上京し、1896年のこの年、新声社を設立したのだった。
.
1896年7月15日、北陸線の敦賀駅~福井駅間が開通した。
  北陸線と命名されたのもこの年・・
  そして、この日に、北陸線と各連絡社線との相互荷物
 取扱も開始された。
  この区間の建設において・・特に、敦賀駅~今庄駅間
 は険しい山地であったため、その山地を避け、海側の杉
 津駅経由で建設された(今の北陸トンネルの所)・・
  それでも、急勾配と12か所のトンネル、4か所のスイッ
 チバックが連続するという難所だった。
  難工事で命を落とした方も多かっただろう・・
  誠実な国造りの賜物で開通した・・快適な旅行が出来
 る現在、この様な先人の苦労を偲(しの)び、また、感
 謝しなければならない。
  日本の技術を駆使した朝鮮・韓国は感謝さえしない・・
.
1896年7月21日、日清通商航海条約が調印された。
  下関条約に基づいて結ばれた日本と清国との通商航海
 条約で、北京において、日本と清朝の間に締結された。
  領事裁判権・協定関税・最恵国待遇を含む欧米諸国と
 同一内容の条約。
  日清両国人の共同経営事業についての規定、日本人の
 登録商標・著作権保護の規定などを定め、追加条約も締
 結した。
  今・現在の中国の著作権を含む知的財産権を盗む行為
 の様な事が無い様にと約束した。
  これによって、日本と中国との通商の基礎ができた。
  1896年10月20日、批准書交換が行われた。
  1896年10月28日、発効。
  辛亥革命で成立した中華民国にも継続された。
  日本側全権は林董(はやしただす、伯爵、外交官)
  ちなみに、林董は、榎本武揚の軍に加わって箱館戦争
 に参加している。
  1928年に至り、中国は改訂したいとし、日本は応諾し
 て、条約の改定が行なわれた。
.
1896年7月21日、信越地方が数日にわたる降雨のため、軽井
 沢駅~直江津駅間の線路は、各所で破壊された。
  御代田付近では、機関車が30尺(9.1m)下に転落した。
  客車・貨車も、脱線転覆した。
  全線が運転中止となった。
  7月23日に一部区間が開通し・・
  全線開通は、8月22日だった。
.
1896年7月22日、新潟市から長岡市大洪水
  信濃川の堤防の各所が決壊した。
  被災面積は18000haに及んだ。
  信濃川の洪水としては有史以来の過去最大規模で・・
  破堤地にちなんで「横田切れ」と呼ばれる。
  破堤してから21日後でも、新潟市新通は、まだ浸水し
 ていた。
  長岡市中之島は、浸水が引かないため堤防上に小屋を
 建てて生活する人も居た。
  この「横田切れ」による被害は、死者43名、浸水家屋
 43684戸、浸水耕地58254ヘクタール。
  新潟市から長岡市のほぼ全域が浸水する大水害だった。
  この後、原田貞介が大河津分水工事改良案を提出し・・
  1909年、原田案をもとに、第二期大河津分水路工事が
 建設された。
  難工事で100名以上の殉職者を出しながら、1922年に、
 通水に成功した・・2年後の1922年、皆が待望し悲願した
 完成に至った。
  この分水によって、この後、信濃川本流が破堤するこ
 とはなくなった。
  (史料)大河津水位14尺4寸(4.32m)となる。
      各地の被害は・・木津に破堤あり、亀田郷は
     皆無作となる・・
      白根郷では赤渋字赤池の安中542の上手が破れ、
     新築早々の五幣氏宅は根こそぎ流される。
      横田でも破堤し、泥海となった(大洪水:横
     田切れ)鷲ノ木の煉瓦水門が損傷し漏水。
  初期の1918年~1941年に、千曲川第一期補修工事が進
 められていたが、洪水が、1年おきぐらいにどこかで起き
 るという状況で、苦労させられていた。
  尚、現在も、補修事業は進められている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:NHKや新聞は、南京へ進軍することを煽った。
    キリスト教に良いことをすれば、あなたにも良いことが起きますよと言われて、
    ローマのコンスタンティヌス帝はキリスト教を国教にしたが、その後、ローマは西ゴート人に侵略された。
    クーベルタンの言葉:「体力の劣る女性が、オリンピックに参加することは、オリンピックの品位を落とす」。
    学校放送の資質に欠けるNHK
    中国に、北海道の土地が、もう1割も買われている。
.
紀元前202年、ザマの戦いが起きた。
  北アフリカのザマを戦場として、ハンニバルの率いる
 カルタゴ軍は、スキピオの率いるローマ軍と戦い、敗北
 した。
  その16年前の紀元前218年、イベリア半島を出発したカ
 ルタゴ軍は、アルプスを越えてイタリア半島に侵入した。
  知将のハンニバルは、ローマ軍を蹂躙(じゅうりん)
 し、勢いづいた。
  ローマが、この時、恐れたことは、このハンニバル軍
 にイベリア半島に残っていたカルタゴ軍が合流すること
 だった。
     ・
     ・
410年8月24日、ローマ略奪(りゃくだつ)
  アラリック1世が率いる西ゴート族が、西ローマ帝国の
 ローマへ侵攻し、陥落させ、ローマ市内を略奪した。
  「永遠の都」として象徴的な地位にあったローマに対
 して、恥辱に溢れた略奪が行われた。
  外敵に対する無敵を誇ったローマが略奪されて、陥落
 した。
  このことは、ローマ帝国内外に大きな動揺をもたらし
 た。
  キリスト教聖職者で神学者であるヒエロニムスは、皮
 肉を込めて言った・・
  「全世界を収奪し続けたローマが、外敵から収奪され
 ている」・・と・・
  キリスト教は、ローマ帝国がキリスト教を国教とした
 ことを非常に讃美した(これは、今・現代もしている)
  これは、当然で、この事によってキリスト教は大いに
 宣教され、延びた。
  キリスト教になればいいことがありますよという「相
 互授受」を説いた・・この言葉が効いたのだった。
  国教にしたコンスタンティヌス帝は、キリスト教が説
 く「相互授受」、つまり、キリスト教にとって利するこ
 とをすれば、ローマ帝国にとっても良いことが、キリス
 ト教の神によってもたらされる、良いことが起きるとい
 う教義・原理で・・コンスタンティヌス帝も、これを当
 てにしていた・・しかし・・??・・
  キリスト教の神による見返りを期待して、国教とした
 のだった・・が・・
  今・現在も、キリスト教の神からの見返りの奇跡を信
 じて祈っているが・・古代は生贄(いけにえ)さえ捧げ
 て、その犠牲の見返りを求めていた。
  しかし、その後、このコンスタンティヌス帝に起きた
 ことと言えば・・決して、キリスト教が語らぬ酷(ひど)
 いことだった。
  410年、キリスト教が嫌う異民族である「西ゴート族」
 が・・その王のアラリック1世が・・侵入し・・これに
 よってローマ帝国は椋略(りょうりゃく)されてしまっ
 た。
  最悪の事が起きてしまった。
  キリスト教を国教にしてあげたのに、その結果は、永
 遠の都のローマが、蛮族の餌食となってしまった・・と・・
  この様な結果を怒ったのが「ローマの人たちだった」。
  キリスト教の神に乗り換えて、ローマの神々を追い出
 したから悪いのだと怒った。
  さらに、ローマの人たちは、キリスト教の神への批判
 を始め、そして、その責任を問う声を上げ、その声が満
 ちた・・ローマ中に沸き起こった。
  唯一神のキリスト教の神の災厄(さいやく)だ・・と・・
     ・
     ・
11世紀、ヨーロッパで盛んにつくられた世界図にTO図が
 ある。
  Tはドン川、ナイル川、地中海で、Oはオーケアノス。
  (参考)オーケアノス:ギリシア神話に登場する海神。
      ティーターンの一族に属し、特に、外洋の海
     流を神格化したもの。
  ギリシア神話の世界観では、世界は円盤状になってお
 り、大陸の周りを海が取り囲み、海流=オーケアノスがぐ
 るぐると回っているとされた。
  それ故、神話において、オーケアノスの領域という言
 葉は、しばしば「地の果て」という意味で用いられる。
  TO図は、ここまでは古代の考えを引き継いで、世界
 の中心にエルサレムを置いた。
  そして、東の果ては、アダムとエバが住むとして神聖
 な楽園とした。
  (東の東と言えば極東・・だとすれば、日本になる・・)
  そして、ノアの息子たちの子孫の、アジア人はセム、
 アフリカ人はハム、ヨーロッパ人はヤペテの子孫と考え
 ていた。
  7世紀から始まるイスラム世界の発展へも影響を与えた。
     ・
     ・
1896年4月6日、アテネオリンピックが開催された(~1896
 年4月15日)
  この開催は、フランスのピエール・ド・クーベルタン
 男爵の活動・提唱によると言うが・・
  このクーベルタンに次のような言葉がある・・
  「体力の劣る女性が、オリンピックに参加することは、
 オリンピックの品位を落とす」。
.
1937年8月13日、第二次上海事変が始まる。
  アメリカに武器・弾薬を援助されて、大部隊で日本を
 攻めて来た蒋介石の中国軍・・
  この第二次上海事変は、約2ヶ月間戦われた(~1937年
 10月26日)
  寝耳に水の上海の日本租界へ、中華民国軍の大部隊が
 攻めて来た。
  1937年7月29日の通州事件で、日本人が230名も虐殺さ
 れるという悲惨な、そして、卑劣な事件があったが・・
  この様な第二次上海事変という様なことがあるとも知
 らない日本は、その上海には、わずかな兵しかいなかっ
 た・・
  しかし、約2ヶ月の激烈な戦いで、日本は中国軍を撤退
 させた。
  この頃、欧米列強の思惑は・・
  フィリピンを橋頭保として中国の利権を得たいとする
 アメリカと・・そして・・
  アヘン戦争以来、広く中国にガン細胞の如くにはびこ
 り、美味しい汁を吸うシステムを構築していたイギリス
 などが・・
  新興のごとく現れた有色人種のアジア人の日本に対し
 「この美味しい利権を断たれるのではないかと恐れた」
 のは・・利権獲得者が「そう思うのも自然だった」。
  この様な行動を・・ロシア・ドイツ・フランスも中国
 で行なっていた。
  中国という広大な大領域の国には、利権漁りのアメリ
 カやヨーロッパ諸国が群がり「巣食っていた」。
  そして、第二次上海事変・・戦争はおさめたものの、
 この突然に攻めて来た中国軍を「追撃するか」どうかに
 日本は迷った・・
  南京まで進軍するかという時に、NHKや新聞などの
 メディアは、「煽って、進軍を肯定した」。
  突然に攻めて来た中国軍の悪さもあったが、この追撃
 するという方向になって行く・・「このままにする」と
 いう不拡大派を押し切って行く。
  日本国民も、このNHKやメディアに影響されて、正
 しい思考を阻(はば)まれ、熱狂した・・
  そして、国の方向を・・メディアの煽りで・・決めて
 行く・・
  NHKなどのメディアの責任は重大だった。
  今・現在も、NHKなどメディアが、不要な日本政権
 批判や、トランプ政権批判を行なっているが・・日本国
 民を洗脳し、繰っている状態になっているが・・
  この第二次上海事変の当時と同じことをやっている。
  お昼の、洗脳の「ニュース・バラエティ番組」も最悪
 である。
  この時の南京進軍も、NHKなどのマス・メディアの
 責任である。
  1932年の第一次上海事変が、華中に多くの利権を持つ
 アメリカやイギリスの圧力で、停戦協定が結ばれたよう
 に・・
  第二次上海事変も、アメリカやイギリスの干渉によっ
 て停戦にしたいと、中国国民政府の蒋介石は、戦争を仕
 掛けておきながら、停戦を希望し、思っていた。
  この時の日本のメディア(NHKや新聞)は、この様
 な中国を「日本を侮(あなど)っている」「暴挙なのは
 支那だ」と煽った。
  強硬論が強くなった時、天皇陛下は、不拡大の御意思
 を示された・・が・・
  不拡大の意見は孤立して行った。
.
1941年、アメリカの黒人の方々は、キリスト教会でさえ、
 白人と隔離され、出入りを禁止にされ、差別をされた。
  キリスト教会の「神の祈祷」すら白人と一緒に出来な
 かった。
  アメリカ中がその様な様相で、大都市であっても、汽
 車、電車、バス、映画館、学校、ホテル、レストラン、
 図書館、海水浴場、便所などなど、あらゆるところで、
 アメリカ白人たちは黒人の方々を差別した。
  黒人男性が、白人女性を乱暴したというような噂(う
 わさ)が広がると、「単なる噂であるのに」・・
  また、有罪無罪に関わらず、犠牲と勝手に選んだ黒人
 の方を野外でリンチして、木の枝に吊るして、絞殺をす
 るという残忍な殺し方をした。
  単に、黒人の方々だけではなく、この白人の優越感か
 ら来る残忍さは、全有色人種に向けておよんでいた。
  特に、1930年代後半から、日本人は許せないという「
 理由のない敵愾心」が、大東亜戦争(第二次世界大戦)
 の原因となった。
  その底には、日本が、アジアのリーダーになりつつあ
 る姿をアメリカは恐れた。
  しかし、結局、戦争は起き、結果はアジアの諸国が独
 立を勝ち得て、欧米列強の「収奪の植民地状態」から脱
 し得た。
  1941年、アメリカ上院議員クロード・ペッパーは言っ
 た・・
  「もし全能であるキリスト教の神が、ジャップ(日本
 に対する蔑称)に東洋を支配させる思(おぼ)し召しが
 あるのなら、必ず、彼らを白人人種におつくりになった
 であろう(キリスト教の神は、彼らを有色人種に作った
 のは、東洋を支配などさせるなとのことだ)」と議会で
 演説をした。
  アメリカには、人種差別感を持たない方々も居られる
 だろうが、戦争が起きようとしているこの時期、この様
 な有色人種蔑視感を丸出しの上院議員が議会演説をする
 という異常なアメリカだった。
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1950年6月25日、韓国・老斤里(のぐんり)における大虐殺。
  この卑劣な事件は、半世紀を経て明るみに出た。
  アメリカ軍が、避難民を約400人を虐殺した。
  老斤里は、忠清北道の永同郡にあり、ソウルから南へ
 160キロの所にある。
  韓国政府は冷たく扱い、この事をタブーとして語らせ
 なかった。
  1944年4月になって、やっと本にして出版できた・・小
 説として「君、われわれの痛みがわかるか」である。
  それまでアメリカ大統領へも陳情の手紙を送ったが、
 なしのつぶて、無回答だった。
  この事件は、朝鮮戦争が始まった直後の1950年6月25日
 から始まった。
  北朝鮮軍がソウルに侵入すると、非難だとして韓国住
 民が集められ、首都がソウルから大田に移されたが、そ
 の太田も7月20日に陥落すると、米軍は避難命令を出した。
  住民は、さらに、避難行動をした。
  他からの避難民も加わり、林渓里には数百人が集まっ
 た。
  7月25日、朝8時、米軍が突然来て、後方に非難するか
 ら集まれと命令した。
  午後11時頃、600人ぐらいを強制的に出発させた。
  深夜になって、米軍は、川辺の野原に這いつくばらさ
 せて、その周囲を銃をもって監視した。
  この日に、7人が撃ち殺された。
  その翌日、戦闘機2機で機銃掃射された。
  逃げた人々へも、米兵が銃撃した。
  この様な事を続けた。
  北朝鮮軍兵士は、この中には居なかった。
  トンネルに逃げ、そのトンネル内にも銃撃した。
  トンネルの双方からも銃撃した。
  29日まで続いた・・この様な虐殺事件だった。
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1988年3月、南シナ海問題・・中国とベトナム間で武力衝突
 が発生し・・ベトナム兵の77名が死亡した。
  1995年、中国が、ミスチーフ礁に建造物を設置した。
   この地の領有権のあるフィリピンが領有を主張し、
   中国とフィリピンが対立した。
   中国は習近平政権下で、軍事進出をする姿勢を強め
   た。
  2014年以降、中国が、南沙群島で人工島や軍事施設な
   どを建設し始めた。
  2016年、フィリピンが、中国を相手に提訴した国際裁
   判で、常設仲裁裁判所は、中国が領有して来たとす
   る南シナ海のほとんどの全域を含む「九段線」の主
   張は根拠がないとし・・中国の主張する歴史的な権
   利は「ない」との判決を下した。
  この様に、世界的な決定がなされている南シナ海は「
 公海」である・・
  この公海を、公海という本来の形にしておくことは、
 「世界の核心的利益である」。
  この海を、中国の資金で、元の海の姿へ戻させなけれ
 ばならない。
  また、この様な行為をする、本例の様な行為をする中
 国が、普通の脅威・リスクのない国に戻ったら、沖縄の
 辺野古の海も元の海へ戻さなくてはならない。
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2008年10月、アメリカが、北朝鮮の「テロ支援国家」の指
 定を解除した。
  今の北朝鮮を作ったのは、アメリカのブッシュ大統領
 の「テロ支援国家」の指定。
  この脅しをきっかけに、北朝鮮は、核とミサイルの開
 発を始めた。
  そして、中国が支援した。
  しかし、アメリカは、テロ支援国家の指定はしたが、
 対応に「中途半端な態度」を取った・・
  2006年10月、北朝鮮が、第一回の核実験の後、アメリ
 カは、手の平を返す・・
  まったく甘い対応に変えた。
  経済制裁も解除した。
  また、北朝鮮の核兵器製造施設を査察の対象から外し
 た。
  また、北朝鮮が、核弾頭用のウラニウム濃縮施設を数
 ヶ所を建設して来た事も問題にしない。
  そして、2008年10月、ブッシュ大統領が「テロ支援国
 家」の指定まで解除してしまった。
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2015年、リャルリー・エブト襲撃事件。
  キリスト教による、イスラムの方々への蔑(さげす)
 み行為が事件となった。
  フランスのパリで起きた事件。
  風刺週刊誌を発行している「リャルリー・エブト」の
 本社が襲撃され、編集者など12名が殺害された。
  この週刊誌は、イスラムの方々を蔑む風刺画を一度な
 らず何度も掲載し・・
  また、これだけではなく、イスラム教のムハンマド預
 言者を貶(おとし)める行為を絵などでたびたび掲載な
 どを行なっていた。
  「表現の自由がある」と軽薄に無制限に理解し、イス
 ラムの方々の尊重すべきことに全く配慮してなかった。
  イスラムの方々を、ただただ傷つける無配慮な行為を
 続けて来ていた。
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2017年8月30日、残念なことだが、北朝鮮は、ミサイルの大
 気圏再突入時の問題はクリアーした。
  技術的な問題を解決した。
  帯広のNHKの監視カメラの映像が、北朝鮮のミサイ
 ルが明るい光を放ちながら落下していく様子を撮影して
 いた。
  これは、北朝鮮のミサイルが、大気圏再突入をする時
 に、バラバラにならずに、正常に機能し、正常な形で落
 下して行った姿だった。
  また、近い将来、日本のミサイル防衛システムは、ま
 ったく役に立たなくなることが予測されている。
  日本のMDシステム(弾道ミサイルv防衛システム)
 では、北朝鮮の核攻撃を防ぐことが出来ないということ。
  また、北朝鮮は、近い将来、「巡航ミサイル技術を習
 得すると予測されている」。
  北朝鮮と一緒に、ミサイルを開発してきたイランとパ
 キスタンは、すでに巡航ミサイル技術を持っている。
  巡行核ミサイルは、小型の漁船や貨物船からも発射で
 きる小回りのきく核ミサイル。
  また、自由に航路を変えながら低空を飛行するため、
 日本のMDシステムでは、ほとんど北朝鮮の核攻撃を捕
 捉(ほそく)が不可能なので、防ぐことはできない。
  アメリカに命令されて、高価な金を払って買ったシス
 テムも役に立たない。
  中国の勢力圏拡張政策と、それと共生する北朝鮮。
  日本は、抜本的な防衛システムの構築をはかれ。
  また、中国・北朝鮮は、「大勢の工作員を、日本に、
 潜り込ませているが、そして、自国に都合の良い方向に、
 日本の内政と外交と世論を誘導しているが・・
  これにも対処せよ」。
  中国・北朝鮮のやりたい放題の活動の場と日本はなっ
 ている・・日本の世論誘導もやっている。
  日本の優秀なビジネスマン、銀行員、学者、ジャーナ
 リストが狙われている、繰られている。
  大量の金も、ばらまかれている。
  こういう静かな戦争が行われている。
  NHKは、日本国民を操作する番組ばかりを放送して
 いる、
  例えば、反日思想の沖縄の彫刻家の番組(この様に偏
 った企画の番組ばかりを放送するNHK)・・反日作家
 を特にクローズアップするNHK・・反日放送局となっ
 ている・・2017年8月30日のメモから・・
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2017年10月13日、日本とインドの同盟関係
  本当に「同盟」になり始めた日本とインドの関係(日
 経ビジネスを参考にして・・)
  安倍晋三首相は10月8日、インターネットテレビに出演
 して「日本とインドは同盟国といえるぐらいの関係にな
 っている」と明言した。
  その理由として、日印米3か国の海洋共同演習マラバー
 ルを挙げた。
  話の流れでそれ以上の説明はなかったのだが、この発
 言は日印の最新の動向をよく示している。
  日印間には、日米同盟のような深い関係はない。
  それでも過去数年、とくにここ数か月、日印間の防衛
 協力が明らかに進展している。
  最近の動向は、以下に挙げる3つの点で、日本とインド
 が「同盟」状態になりつつあることを示している。
  「同盟」の要諦は危機に臨んだ時の協力
  「同盟」関係にあるか、そうでないかを分ける指標は
 何だろうか。
  最も重要な指標は、条約が結ばれているかどうか、で
 はない・・戦争や危機の時に味方であるかどうかである。
  実際、条約を結んでいても味方とならない場合があり
 得る。
  例えば、イタリアは、第1次世界大戦の時、ドイツやオ
 ーストリアと同盟を約束する条約を結んでいたにもかか
 わらず、オーストリアに宣戦を布告した。
  イタリアは第2次世界大戦でも、途中まではドイツと一
 緒に戦ったが、戦争の最末期、政権が交代すると、連合
 国に加わった(連合国が勝つと分かっている時である)
  戦争や危機に臨んだときの態度は、同盟の最も重要な
 側面である。
  この観点から見た時に、日印「同盟」関係をはっきり
 と示したのが、6月16日から8月28日まで続いた、インド
 と中国の危機に際しての、日本政府の態度だ。
  危機が起きた地域はドグラム高地といい、中国とブー
 タンの双方が領有権を主張している。
  インドにとっては、インド「本土」とインド北東部を
 つなぐ細い鶴の首のような部分に、クサビのように突き
 刺さる地域で、防衛上の要地である。
  そのため、この地域は長年、安全保障上の問題になっ
 てきた。
  そのような敏感な地域で、中国軍は戦車の重量に耐え
 る道路の建設を開始した。
  当初、中国軍による建設を阻止すべくブータン軍が(
 たった8人で)割って入ったが、中国軍に追い返された。
  そこで、ブータンの安全保障を担うインドが軍を派遣
 して道路建設阻止に着手した。
  そこから73日間に及ぶ、にらみ合いの状態に入った。
  インド軍が数百人規模だったのに対し、中国は1万2000
 人、戦車150両、さらに、火砲もそろえた大陣容を派遣し
 た。
  さらに、中国空軍も新型戦闘機による飛行を大幅に増
 やしたほか、周辺のチベット地域では大量の物資を運び
 こんで大規模な軍事演習も実施した。
  中国軍の広報官は1962年に中国がインドを負かしたこ
 とを思い出すよう言及、明確に戦争を示唆した。
  これに対抗してインドも、ドグラム高地周辺の3個軍団
 4万5000人が陣地を構築した。
  さらに、4000㎞に及ぶ印中国境(含:実効支配線)全
 体でも警戒態勢に入ったため、印中が武力衝突する可能
 性が高まった。
  日本は、この対立で存在感を示した。
  戦後の日本の対応としては驚くべきことかもしれない。
  7月に、ヘリ空母「いずも」をインド洋に派遣した。
  インド空母、米空母とともに大規模な海洋共同演習「
 マラバール2017」を実施して、日印米の協力関係の強さ
 を示した。
  この派遣は、印中の危機が起きる前から決まっていた。
  しかし、中国のメディアは、「インドは日米に期待す
 るな」と報じた。
  これは、ヘリ空母「いずも」の存在も気にしている証
 といえる。
  さらに8月18日、日本の平松賢司駐印大使が、「力によ
 る現状変更を非難する」と発言した。
  これは一般論をいったにすぎない。
  しかし、インド政府は、当時、「力による現状変更を
 迫っている」と中国を非難しており、日本大使の発言は、
 その論理を受けたものだった。
  しかも、この発言は絶妙のタイミングで行われた。
  4000㎞の国境でにらみ合いを続ける印中両軍が8月15日、
 カシミールで小競り合いを起こした。
  取っ組み合いを始め、石を投げ合い、負傷者が出た。
  緊張が高まり、インドが不安を高めた瞬間に、日本大
 使が発言したのだ。
  しかも、このドグラム高地の印中対立について、米英
 豪などは中立的な発言しかしていなかった。
  だからインドは、日本が主要国で唯一、インドを無条
 件に支持したものと受け止めた。
  日本の存在感は、ここで終わらなかった。
  緊張が緩和し、印中両軍がにらみ合いの場所から150m
 ずつ後退した8月28日にも、日本の存在感が際立った。
  当時は、中国でBRICS会議が行われる直前で・・
  BRICS会議にインドのナレンドラ・モディ首相が
 出席するかどうか、中国は気にしていた。
  しかし、それだけではない。
  中国が気にしていたことがもう一つあった。
  9月にインドの国防相が訪日し、同月、安倍首相が訪印
 することだった。
  もし対立を続けていたら、日本とインドの対中防衛協
 力が大幅に進展してしまう。
  中国は、その前に危機を終わらせたかったと予想され
 た。
  この様に、実際の危機が起きたときに、日本とインド
 の協力関係が目に見える形で発揮された。
  訪日したインドの国防相も、安倍首相を迎えたモディ
 首相も、日本に感謝を表明した。
  インドの一部では、尖閣諸島で危機が起きたとき、イ
 ンドは日本を支持すべきか、議論が起き始めている。
  実際に条約を結んではいなくても、戦争や危機の時に
 作動する事実上の「同盟」関係は成立しつつある。
  機密情報を共有する仕組みはあるか
  戦争や危機に臨んだ時の関係以外にも、日印の「同盟」
 関係を示す指標がある。
  防衛上の機密情報を交換できる体制ができているか、
 防衛協力する際に使う物品を融通できる体制ができてい
 るか、
  防衛技術協力は進んでいるか・・だ。
  同盟国は共同で軍事作戦を行う。
  その時、何が必要だろうか
  軍事作戦にかかわる秘密情報を交換したり、燃料や弾
 薬といった物品を交換したりする体制が必要だ。
  また、同盟国は、機密性の高い高度な兵器を共同で開
 発をする。
  この点について、日本とインドの体制はどうか・・
  機密情報の交換について、日印は「防衛装備品・技術
 移転協定」「秘密軍事情報保護協定」の二つに2015年12
 月に署名した。
  安倍首相が、9月に訪印した時にモディ首相と発した共
 同声明は、「マラバール」共同演習について「対潜戦(
 対潜水艦戦)」を念頭に置いて協力すると明記している。
  対潜水艦戦は、もっとも機密度の高い情報を扱う分野
 の一つだ。
  次に補給品の融通に関して・・「マラバール2017」に
 おいて、海上自衛隊の護衛艦が初めて、インドの補給艦
 から給油を受けた。
  これはインドから燃料を買ったことを意味する。
  こうした協力について、海上安全保障保護協定のよう
 な正式な協定を結ぶべく、両国の間で、交渉が行われて
 いる。
  そして、防衛技術協力・・9月に、インドの国防相が訪
 日したときの共同声明と、同月に安倍首相が訪印したと
 きの共同声明をみると、その両方に防衛技術協力の記述
 がある。
  例えば、安倍首相訪印時の共同声明には「マラバール
 その他の共同訓練、警戒監視及び無人システム技術、防
 衛産業協力等の防衛装備品・技術協力を含む、防衛・安
 全保障協力及び対話を発展させること」と明記している。
  陸上無人車両(UGV)、ロボティクス分野、US2 救難飛
 行艇、デュアルユース技術(軍用にも使える民生用技術
 のこと)など具体的な名前を挙げて協力を進める方針1。
  (参考)外務省「日印共同声明:自由で、開かれ、繁
     栄したインド太平洋に向けて」2017年9月14日、
      インドが求める対パキスタンの協力、さらに、
     日印の「同盟」関係を示すものがあるとすれば、
     外交政策における協力である。
      2つの特徴的な動きがある。
      1つは、インドが日本の対北朝鮮政策に協力す
     ると同時に、日本がインドの対パキスタン政策
     に協力するようになっている。
  モディ首相が、2016年11月に、訪日した際の日印共同
 声明で初めて、「北朝鮮」と「パキスタン」の文言が同
 時に明記された。
  安倍首相が、2017年9月に、訪印した際の共同声明にも
 入っている。
  実は、これは、インド側の認識と関係している。
  インドは、北朝鮮の核開発問題をパキスタンの核開発
 の問題と同種に考える傾向がある。
  真の黒幕は中国で、北朝鮮とパキスタンは中国の支援
 を受けて核を開発しているとみる専門家がいる。
  したがって、日本が、対北朝鮮政策でインドとの協力
 を考える場合、インドは対パキスタン政策で協力するよ
 う要求してくる傾向がある。
  特に、インドが現在懸念しているのは、パキスタン国
 内にテロリストの拠点があることだ。
  故に、日本が、対北朝鮮政策でインドに協力を求める
 と、インドはパキスタンのテロリストについて日本の協
 力を求める。
  そこで昨年、この点について協議が行われた模様・・
  これまで日印共同声明に「北朝鮮」「パキスタン」の
 記述はなかった。
  しかし、昨年の共同声明には、北朝鮮を非難する声明
 が入った・・そして、「両首脳はまた、パキスタンに対
 し、2008年11月のムンバイにおけるテロ攻撃及び2016年
 のパタンコートにおけるテロ攻撃を含めたテロ攻撃の犯
 人を裁判にかけることを要求した」と明記した。
  パキスタンは、昨年、この共同声明を受け、すぐに懸
 念を表明した。
  しかし、今年の共同声明にも「パキスタン」の国名を
 記述しただけでなく、さらに具体的なテロ組織に言及し
 た記述がある。
  日印関係の変化をよく示している(ちなみに、パキス
 タンに対してより強いテロ対策を求める文言は、インド
 と会談した米国や英国などの声明にも盛り込まれており、
 インドを支持する方向へ態度が変化している)。
  (参考)外務省「日印共同声明」2016年12月12日、お
     よび、外務省「日印共同声明:自由で開かれ、
     繁栄したインド太平洋に向けて」2017年9月14日、
  インフラ開発で協力・・さらに、インフラ建設におけ
 る日印協力が、安全保障の色を帯びている。
  特に、今年9月の日印共同声明に盛り込まれたインド北
 東部におけるインフラ開発は対中政策として重要な影響
 を持つ。
  インド北東部の開発は、インドと東南アジアとの貿易
 を進展させるため、東南アジアにおける中国の影響力を
 押し下げる効果が期待されている。
  また、インド北東部は、印中両軍がにらみ合いをした
 ドグラム高地につながる。
  インド軍は、インド北東部のインフラを利用して、国
 境地域に軍をよりすばやく展開することが可能になる。
  そして興味深いことは、インド北東部は、外国では日
 本だけにインフラ開発の許可が下りている地域・・
  また、日印が進める「アジア・アフリカ成長回廊」構
 想も注目・・
  これまで日本とインドが別々に行ってきたアフリカに
 対する援助を、共同で進める構想・・
  日印はすでに5回もアフリカ政策を協議しており、調整
 が進んでいる。
  日印、日米、米印もアフリカ政策を調整しており、イ
 ンドは米国と一緒にアフリカの軍隊の訓練などにも着手
 している。
  よって、日印の協力は、日印米3か国協力の一環でもあ
 る。
  前述の共同声明でもアフリカについて繰り返し言及した。
  日印にとって、アフリカは、少なくとも3つの視点から
 重要・・中国がアフリカのインド洋沿岸地域に軍事拠点
 を作りつつある。
  第2に、資源が豊富で、これも中国と獲得競争となって
 いる。
  第3に、日印が国連常任理事国入りを目指すに当たって、
 アフリカは50以上の票を持つ。
  日印は、スリランカのトリンコマリー港や、イランの
 チャーバハール港、インドのアンダマン・ニコバル諸島
 などの開発でも協力しており、インド洋における中国の
 影響力拡大を抑える効果が期待されている。
  依然として世界で一定の力を持つ日本と、どんどん世
 界で発言力を高めるインドの「同盟」は、中国の台頭と
 ならんで、世界情勢を変える大きな要因となる。
  しかし、過去に、インド外務省・高官に次の様な言葉
 があったことを思い出す・・、
  「我々は、アメリカと、軍事同盟関係に入りたくない。
  アメリカという国は、他の諸国と本当に平等な同盟関
 係を結ぶことが出来ない国だ。
  アメリカと同盟関係に入った国は皆、独立した外交・
 軍事政策を運営する能力を奪われている。
  インドは、アメリカとの同盟関係に入ることによって、
 日本の様な惨(みじ)めな立場に置かれたくない」。
  一人立ち出来ない日本の防衛が、インドの叡智ある方々
 にはっきり見えていた。
.
2019年1月15日、NHK:学校放送の資質に欠けるNHK・・
  NHKが、高校講座の学校放送で、必死に光エネルギ
 ーは循環しないと教えていた。
  これは間違い。
  光エネルギーの循環サイクルが大きいだけだ。
  循環しないと教えるのは間違い。
  そして、地球上で循環しているエネルギーも存在して
 いるのだ。
  この様な事もNHKは教えていない。
  キリスト教に偏するNHKは、何度も洗脳的にこの「
 循環しない」を「繰り返して」この事を言った。
  これは、キリスト教に偏するNHKが、キリスト教が
 嫌う仏教の「輪廻を否定したい」からだった。
  だから、洗脳的なこの様なNHKの放送態度になった
 のだった。
  「天空の冷域との冷輻射の熱のやり取り」をNHKは
 「消えた」と教えた。
  これは間違い。
  アメリカの学校で進化論を否定する教育をしているが、
 このNHKの放送もその類いとなっている。
  アメリカの学校で進化論を認めたくない理由は、「キ
 リスト教の神が猿から人間を造るわけがない」という理
 由だった。
  だから、科学的に立証されているダーウィンの進化論
 を否定したのだった。
  NHKは、この様に宗教的に中立ではない。
  この結果、アメリカの様な「正しくない知識の教え方
 をする」。
  NHKは、学校放送に携わる資質に欠けている。
  NHKには、学校放送をさせないようにしなければな
 らない。
  2019年1月15日、午後2時40分~午後3時00分、NHKE
 テレビ、高校講座、「生物基礎」で現認。
.
2019年、北海道の土地はもう1割が中国に買われている。
  日本の主権を崩そうという種々の活動が行われている。
  チェチェ思想の中に旧民革命論がある。
  沖縄で、北朝鮮や韓国・中国からの旅行者が政治活動
 をしている・・これは法律違反行為であるが行なわれて
 いる。
.
2019年7月17日、MMT(現代貨幣理論)の提唱者が来日し
 た。
  そのインタビュー記事が読売新聞に報じられた・・
  以下はその抜粋・・
  「現代金融理論」(MMT)を提唱する米ニューヨー
 ク州立大のステファニー・ケルトン教授が16日、講演会
 出席のため来日したのを機に、読売新聞のインタビュー
 に応じた。
  日本は、積極的な財政出動で所得や個人消費の拡大を
 目指すべきだと強調した。
  MMT(Modern Monetary Theory)は、独自の通貨を
 持つ国は、通貨を発行すれば借金の返済に充てられるた
 め、物価が急上昇しない限り、赤字が増えても財政は破
 綻しないとする経済理論だ。
  2020年の米大統領選に向けて、米議会野党・民主党で
 支持が広がっている。
  インタビューで、ケルトン氏は、「政府予算と家計を
 同じように考えることは大きな間違いだ。
  (急激な)インフレにならない限り、財政赤字は過剰
 支出の証拠でなく、景気を下支えする。
  物価が4%上昇しても、この世の終わりでは無い」と話
 した。
  物価の上昇圧力が高まった場合に、増税や歳出削減を
 行なうべきだとした。
  日本の債務残高は、国内総生産(GDP)の約2.4倍で、
 主要国でも最も大きいが、物価の上昇は鈍い。
  ケルトン氏は、今後も、日本で急激に物価が上がる可
 能性は「限りなくゼロに近い」と述べ・・、
  保育や介護を担う人材の処遇改善などで個人消費を刺
 戟すべきだとした。
  10月に予定される消費税率の10%への引き上げについ
 ては、「国民の消費が過熱して物価が上昇している局面
 で消費増税を行なうことは理解できるが、日本が直面し
 ているのは正反対の問題だ」と指摘し、実施に否定的な
 認識を示した。
  ケルトン氏が出席して都内で行われた講演会には、積
 極財政を支持する元内閣官房参与の藤井聡・京大教授ら
 が参加した。
  ケルトン氏は、「政府の赤字は悪でも脅威でもない」
 と強調した。
  MMTに対し、主流派の経済学者などからは批判が相
 次いでいる。
  米連邦準備制度理事会(FRB)のパウエル議長は2月、
 MMTを「自国の通貨で借金するのは問題ないという考
 え方は間違っている」と語り・・
  米政府は支出を減らすか、収入を増やすべきだと主張
 した。
  ローレンス・サマーズ元米財務長官も、「極端な物価
 上昇を引き起こす。
  為替レートの崩壊を招くだろう」と指摘する。(以下略)
.
2019年、「隠れキリシタン」は、ウィキペディアでも下記
 のように説明されるが・・これ等は作られた虚構の状況
 である。
  従来からキリスト教徒の研究者によって、多くの研究
 がなされて来て・・
  その結果、キリスト教を美化するように、また、殉教
 とかの讃美などがなされて来て・・真実が曲げられ、公
 表がなされて来た。
  しかし、公平な立場で研究した事例を見ると・・その
 実態はまったく違う結果となる・・
  その例の一つが、中園茂生氏の研究・・
  中園氏は、平戸市生月町博物館の学芸員で・・その研
 究結果であるが・・
  その研究成果を発表した本「かくれキリシタンの起源」
 を見ると・・
  研究成果として従来語られた「迫害を逃れて辺鄙(へ
 んぴ)な離島や半島に住み着き、外部との接触を避け、
 貧しさの中で信仰を守った」というのは事実ではないと、
 作り上げられているとした。
  それを、各地域の生業・経済状況を歴史的にその経過
 をたどり、明らかにした・・と・・
  そして、キリシタン遺物についても、作り上げられて
 いて虚構だと・・検証している。
  また、次のような記述も見られる・・
  現在のキリスト教カトリックとの繋がりを思わせる「
 洗礼」や「オラショ」の祈りを唱える面がみられるが、
 まったく関係を感じさせない要素が多く・・
  また、地域の違いがあったりして、カトリックなら一
 定であるはずが、形態の異なる状況にある。
  また、仏教や神道に明確に帰依した信仰状態にある。
  キリスト教カトリックとは、根本的に違いが現れてい
 る・・と・・
  また、本「異端の歴史」には、ルターやイギリスの国
 教会も異端であって、キリスト教ではないとされている。
  因みに、ウィキペディアには、以下のように説明され
 ている・・
  『日本では、1549年にフランシスコ・ザビエルが来日
 して以降、キリスト教の布教がおこなわれて次第に改宗
 する者(キリシタン)が増えていった。
  しかし、江戸時代には、1614年に徳川家康による禁教
 令によってキリスト教信仰は禁止され、さらに1637年に
 起きた島原の乱の前後からは幕府による徹底したキリス
 ト教禁止、キリシタン取り締まりが行われた。
  当時のカトリック信徒(キリシタン)やその子孫は、
 表向きは仏教徒として振る舞うことを余儀なくされ、ま
 た、1644年以降は国内にカトリックの司祭が一人もいな
 い状況ながらも、密かにキリスト教の信仰を捨てずに代々
 伝えていった(潜伏キリシタン)。
  「潜伏キリシタン」は、ごく小さな集落単位で秘密組
 織を作ってひそかに祈祷文「オラショ」を唱えて祈りを
 続け、慈母観音像を聖母マリアに見立てたり(今日、そ
 れらの観音像は「マリア観音」と呼ばれる)、聖像聖画
 やメダイ、ロザリオ、クルス(十字架)などの聖具を秘
 蔵して「納戸神」として祀ったり、キリスト教伝来当時
 にならったやり方で生まれた子に洗礼を授けるなどして
 信仰を守りつづけた(これらの信仰の形式は地方によっ
 て異なる。
.
2019年、映像分野は、三権分立が確立していない。
  権力が、一か所に集まることを防いだり、行き過ぎを
 止められなくなることを防いだりというシステムが確立
 していない。
  膨大な権力がNHKに集中している・・あたかも専制
 君主の如くになっている。
  NHK内部にあるチェック・システムは「お飾りにな
 っている」・・
  国民・視聴者が、NHKとは別の機関で審査ができる
 システムを作るべきである・・
  現状は、NHKは、好き勝手に、巨大な影響力を持っ
 ている放送媒体となっている・・
  専制君主的に任されているということの自覚も責任感
 もない。
  だから、自由に、NHKにとって都合の良いことが「
 ひたすらに行われている」・・
  それが見える形になっているという一つが、NHK職
 員の給料だ・・一般人の給料の「何と! 4倍となってい
 る」・・お手盛りでこんなことまでやっている。
  NHKに都合の悪いものは、勝手にNHKは廃棄処分
 をしている・・この様な権利まで持っている・・
  また、国会の委員会などの映像を、すべてをNHKは
 撮影して・・NHKの単独判断で、それを中国へ渡して
 いる・・これは、スパイ行為である・・
  また、NHKは、公開放送や講演会などの撮影は、放
 送開始前から、入口から入場する一般人の観覧者・参加
 者の映像を無断で撮影している・・
  個人情報の無視をしている・・
  これを、中国へ無断で提供していないのかが心配にな
 る・・
  この様な無断撮影行為は、NHKセンターの入口の入
 場者の撮影でも行っている・・日本人の顔映像を収集し
 ているのでは?と思える様な状況である・・
  これも、中国へ渡すの?とNHKへ問いたい・・
  NHKへ来た「NHKへのクレーム」は、1年で廃棄処
 分にしている・・置き場がないというのがその理由・・
 都合の悪いのは早く処分したいのだろう・・処分の権利
 がNHKにあるのだと言う・・
  NHKの権力は分散せよ・・
  NHKの放送映像は、国立国会図書館が印刷物媒体を
 保管する様に、NHKの別機関がその映像媒体のすべて
 を保管せよ・・そして、NHKを提訴する時の証拠映像
 も発行し、出せるようにしなさい!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

# by suba28 | 2019-07-24 05:43 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)651E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年6月~1896年7月)

題:(増補版)651E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年6月~1896年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
 される。
.
1896年6月20日、鉄道会議規則を改正した(勅令第257号、同
 会議議員増員)
  鉄道会議は、日本において1892年6月21日から1949年6
 月1日まで、鉄道敷設法16条に定められた「鉄道会議規則」
 (明治25年勅令第51号)に基づいて、鉄道担当官庁(内
 務省→逓信省→鉄道省→運輸通信省→運輸省)に設置さ
 れた諮問会議。
  鉄道敷設法で定められた鉄道建設の順序や鉄道公債の
 発行などについて主管大臣に諮問した。
  ただし、実際には、鉄道政策全体について諮問してい
 る。
  定数は議長1名・議員20名(ただし、臨時議員として複
 数名の追加が認められた)・幹事1名で構成されていた。
  初回会議は、1892年12月13日から20日まで開かれた。
  初代議長には、川上操六陸軍参謀次長が就任した。
.
1896年6月22日、李範晋(イ・ボムジン)が、駐米特命全権
 公使になった。
  李範晋は、1895年10月8日の閔妃暗殺事件(乙未事変)
 をロシアと組んで実行していた(高宗王の妃である閔妃
 は殺害された)
  そしてまた、李範晋は、その約1ヶ月半の後、1895年11
 月28日の春生門事件の首謀者だった。
  (総理大臣の金弘集を暗殺しようと企てた事件・・未
 遂に終わった・・失敗の後、ロシア公使館へ逃げ込む・・
 そしてのち、ロシアの指示で忠清道で暴動を起こした)
  閔妃が殺害された後、金弘集内閣は近代化への改革を
 推し進めていた。
  (これは、日本の指導で改革が進められ、小学校の設
 立、郵便網の整備、種痘法の施行、太陽暦の採用、断髪
 令、軍制改革などが行われた)
  この改革に反発した抵抗が起きていた・・
  その様な中、1896年2月11日、高宗王は、虚言で煽られ
 てロシア公使館へ移り、軟禁状態となった(露館播遷)、
 金弘集は殺害され、乙未改革(いつびかいかく)は終わ
 った。
  この日の前日の1896年2月10日に、ロシアは、ソウルに
 水兵107名と大砲を入れるという武力誇示の強行策を行な
 っていた。
  この時も、親露派の李範晋は策動していた・・「ロシ
 ア公使館への逃げ込み(露館播遷)を成功させた中心人物」
 と美化表現がされている・・実際は、嘘と脅(おど)し
 の誘い出しの策謀行為だった・・
  これで、ロシア公使館内の傀儡政権が成立し、ロシア
 はこの後、多くの朝鮮利権を獲得する・・そして、親日
 派の改革派を排除し、粛清し、近代化と逆行をする事を
 始めた(旧守派の行為)・・
  しかし、ソウル以外の地域では、このソウルの政策は
 まったく受け入れられず・・暴徒が蜂起したりしている・・
  ソウルの政令が地方に伝わらない状態(無政府状態)
 となっている。
  この様な展開の中、アメリカにも清国の権益の分け前
 を均等に得る権利があると主張するアメリカへ、李範晋
 は駐米特命全権公使となった。
  因みに、李範晋は、露館播遷の時に、法務大臣に就任
 していた。
  李範晋(1853年~1911年)は、大韓帝国の最初で最後
 の常駐ロシア公使(1899年)でもあった。
  日本とロシアが戦争状態になると、ロシア公使の李範
 晋への本国からの送金は途絶え・・生活に困窮した李範
 晋はロシアへ救済を求めた。
  李範晋の最後は、1911年1月13日に自殺をしている。
.
1896年6月25日、函樽鉄道会社の発起人が、東京府知事を通
 じて拓殖務大臣・逓信大臣へ会社創立認可の出願をした。
  1897年4月29日、拓殖務大臣から仮免状が下付された。
  北海道函館区平田文右衛門ほか200人は、函館鉄道を発
 起し、小樽・余市・長万部・森・函館間の鉄道建設を請
 願した。
  北海道の開拓は着々と行われた。
  小樽~函館間の鉄道として、1895年発起された北海道
 鉄道は、渋沢栄一らが発起人に加わって、1896年、函樽
 鉄道と改称され、再請願された。
  1900年、認可されて、北海道鉄道と再改称し、設立さ
 れた。
  また、渋沢栄一は、1897年設立の函館馬車鉄道の株主
 にもなっている。
.
1896年7月1日、渋沢栄一、浅野總一郎らにより東洋汽船が
 創立された。
  東洋汽船創立発起人総会は、渋沢栄一が56歳の時、1896
 年4月25日に行われていた。
  栄一、浅野総一郎外三十二名ト共ニ、我邦ト独・米・
 露間ノ三大海外定期航路ヲ開設スルノ目的ヲ以テ、東洋
 汽船株式会社創立ヲ発起シ、是日発起人総会ニ於テ創立
 委員ニ選バレ、後、創立委員長トナル。
  マタ大東汽船ノ合併ニモ与ル。
  この頃、渋沢栄一は、日本郵船の重役でもあり、競合
 企業の設立を支援したことで、栄一を非難する声もあっ
 た・・それに対しての渋沢栄一の言葉・・
  ・・余ノ事業ノ為メニ奔走スルハ一念国家ノ利益ヲ計
 ルニアリ、故ニ成立ノ見込アル事業ナレハ、幾箇ニテモ
 成立セシムルコトニ尽力シ、国家経済ノ発達ヲ助ケント
 ス、銀行業ナリ、紡績業ナリ、其他幾多ノ商工業ニシテ、
 余ノ関係セルモノ皆尽ク然ラサルナシ、但成立ノ見込ナ
 クシテ、徒ニ競争ノミヲ事トスルモノニ至テハ、余ノ取
 ラサル所ナリ [後略]
  関連年表・・
  1908年4月22日、三菱造船所で、わが国初のタービン船
   の天洋丸(東洋汽船)が完成した。
   全長168米、全幅19米、1万3454瓲、平均速力約20.6
   節、船価約4千万円
   建造費は工賃のみを三菱が請け負い、材料は東洋汽
   船が英国から支給・・燃料に初めて重油を使用。
   初めて短波無線送受信装置を採用した。
   客室設備は特別室をはじめ、ロンジ・喫煙室・読書
   室・食堂など豪華を極めた。
   桑港(サンフランシスコ)航路に就航した。
.
1896年7月2日、川上音二郎が、東京神田に川上座を開場し
 た。
  川上音二郎(1864年2月8日~1911年11月11日)は、筑
 前黒田藩(福岡藩)出身。
  「オッペケペー節」で一世を風靡した興行師・芸術家、
 新派劇の創始者。
  この新派劇は書生芝居、壮士芝居と言われ、やがて新
 派となり、旧劇(歌舞伎)と人気を競った。
  1895年に、歌舞伎座の舞台で「威海衛陥落」を上演し
 た。
  歌舞伎の殿堂に素人あがりの役者が出るのは異例のこ
 とだった。
  劇通の人々を驚かせ、市川團十郎は、川上が歌舞伎座
 の桧舞台を踏んだことに激怒し、舞台を削り直させたと
 いう。
  1895年末に、泉鏡花の小説を舞台化した「滝の白糸」
 を浅草座で上演した。
  この作品は、新派劇の代表的な演目となった。
  そして、1896年に、東京市神田区に川上座を開場する。
.
1896年7月3日、台湾総督府鉄道局告示第2号で「鉄道規則」
 を制定し、一般運輸営業に適用した。
  運用は台湾鉄道輸送規則。
  台湾鉄道会社を、1896年5月に発起し、南北縦貫鉄道建
 設を請願し、政府もこれを許可した。
  しかし、株式の募集は進展しなかった。
  総督府の後藤新平民政長官は、重要事業の鉄道建設は、
 民間会社では不可能と判断した。
  そこで、解決策として公債を募集したりして、積極的
 に政策を進めた。
.
1896年7月5日、東海道線の向日町駅~吹田駅間が複線で開
 通した・・ますます発展する東海道線だった・・
  この頃の東海道線の動き・・
  1895年10月、神戸駅から西へ伸びる山陽鉄道(現在の
   山陽本線)との直通運転が始まった。
  1896年、新橋駅~神戸駅間の急行列車の運行が開始さ
   れた。
  1900年、寝台車の連結が開始された。
  1901年、食堂車の連結が開始された。
  1906年、最急行が登場した。
  1909年、新橋駅~神戸駅間が12時間50分にまで短縮。
  1912年、最急行が特別急行(特急)に変更され、新橋
   駅~山陽本線下関駅間で運行された。
.
1896年7月5日、日本初の電力会社・東京電灯が営業を開始
 した。
  1896年、東京電灯の浅草発電所で、国産初の発電機を
 使用。
  電気事業取締規則が公布された(逓信省令第5号)
  電気事業の創業当初は、電気工作物に対する保安取締
 りが主たる行政だった。
  電気事業者の監督行政が全国統一化される。
  経緯・・
  1887年、東京電灯が第二電灯局を建設し、日本初の火
   力発電所を誕生させ(出力25kW)、家庭配電(210V
   直流)を開始した。
  1890年、東京電灯に、警視庁が電柱広告を許可し、電
   柱広告が始まる。
  1892年、東京電灯が、電灯1万灯祝典を挙行した。
   (開設当時の電灯数130余灯が5年あまりで1万灯を越
   えた)
  1895年、東京電灯・浅草発電所の操業が開始した。
   このとき使用したドイツ、AEG製の発電機が50ヘ
   ルツであった・・これで東日本標準が50ヘルツとな
   った。
  1896年、東京電灯・浅草発電所で国産初の発電機を使
   用し、電気事業取締規則が制定され、電気事業者の
   監督行政が全国統一化した。
   この頃の電気事業者は、火力発電23カ所、水力発電
   7ヶ所、水・火力併用3ヶ所、電灯数12万余。
.
  (今日の言葉)
.
  題:海洋圧迫戦略・・
    アメリカは、中国の接近阻止・領域拒否(A2/AD)戦略遂行の
   初動である第1列島線への短期高烈度の戦いを跳ね除け、
   中国軍に勝つことを決心した・・
    そして、その対中国戦略と作戦を完結させた。
    また、アメリカのトランプ政権は、日本が攻撃されれば
   アメリカは生命や財産をかけて、いかなる犠牲を払っても
   日本を守るとしている。
.
1815年、イギリスが、英仏戦争のとき、軍票を初めて発行
 した。
  軍票・・どこの国でもやったことに軍票というものが
 ある・・外国の戦地で、その軍票を刷って必要なものを
 調達した。
  今・現代でも、ダムが欲しいなら自国通貨を刷って造
 るという方法がある・・また、道路が欲しなら自国通貨
 を刷ればよいのだ・・自国の企業に、その仕事を発注す
 ればよい。
  わざわざ、裏付けのない中国・人民元を、一帯一路の
 中国に頭を下げて借りに行くことはない・・その様な行
 為は止めた方が良い
  自国の港が、担保で盗られるリスクがある。
  (参考)軍票:ぐんぴょう、軍用手票、戦争時におい
     て、占領地もしくは勢力下にて、軍隊が現地か
     らの物資調達、及び、その他の支払いのために
     発行する紙幣で、政府紙幣の一種と解された(
     こともある)。
      最終的に、その軍隊が所属する政府によって
     軍票所持者に対し債務支払いを行なう必要があ
     る。
.
1905年、クナップは、この年、通貨とは「法による創造物」
 であり、商品によるものではないと論じた・・MMT理
 論の始まり・・
  (参考)クナップ:ゲオルク・フリードリヒ・クナッ
     プ
  クナップは、国家は単なる紙としての通貨を創造する
 ことができ・・「その国家の納税においてこの通貨が受
 け入れられる限り」・・これを法定通貨として商品と交
 換可能な通貨にすることができる・・と論じた・・
  そして、従来の考え方を金属主義と名付けた。
  このクナップらの考え方から、MMT(現代貨幣理論)
 がまとめ上げられた。
  MMT(現代貨幣理論)、あるいは、新表券主義とは、
 現代経済の貨幣が借用書により成立していることを捉え
 て・・
  政府は、税収に制約される必要はなく、任意の自国通
 貨建て国債発行により財政支出量を調整することで、望
 ましいインフレレベルを目指す経済政策を行うことを理
 論の中心とした。
  これまで、一般的に行われて来た理論、また、多くの
 経済理論では、政府の財政赤字が拡大すれば、同時に、
 金利上昇と景気悪化を招くとしていた・・
  それ故に、政府の国債発行の拡大は望ましくないとし
 て来た・・その主眼を財政均衡主義に置いて主張されて
 きた。
  しかし、その一方で、MMTでは、財政赤字拡大で景
 気悪化を招くことはないとしていて・・
  ただ、マネーサプライの増加によるインフレ圧力がか
 かるのみだとした。
  この対立は、多くの議論を呼んで来ていた。
  また、政府は、将来の支払いに対して無制限的な支払
 い能力を有していることから、政府の債務超過による破
 綻は起こりえない・・
  赤字国債発行の限度はインフレ率によって示される・・
 としている。
.
2007年、麻生太郎氏(現:副首相、当時:外務大臣)が、
 「自由と繁栄の弧」という素晴らしい構想を説いた。
  これは、日本から始まって、カンボジアやラオス、ベ
 トナムといった東南アジアの国々を通り、
  さらには、中央アジア諸国やグルジア、アゼルバイジ
 ャンといったコーカサス地方の国々を経由して、
  トルコ、中欧、東欧からバルト三国までぐるっと延び
 る月(ムーン)のような形をした一帯を指している。
  これらの国々は、皆、経済がうまく行って、それなり
 に反映している。
  この各国と共通価値観を共有する。
  この共通の価値観で、一緒にやろうと話しかけた。
  麻生大臣は、大成功を収めた。
  この時、『中国やロシアは、この動きに大変脅威に思
 った』。
  軍拡を進める国を、平和の鎖が取り囲んだ形になった
 からだった。
  この様な価値観は、まったく持っていなかったので、
 対抗する価値観を築こうともしなかった。
  これは、ものすごい思想攻勢だった。
  日本の外交の王道は、ここにあった。
  今・現在、中国は、この価値に気付き、この凄さに気
 付き、この素晴らしさに気付き、『「一帯一路」構想を
 ぶち上げた』。
  中国の習近平総書記は、2013年9月7日になって、カザ
 フスタンのナザルバエフ大学で一帯一路構想を初めて演
 説した。
  そして、続けて、その約1ヶ月後、インドネシア国会で、
 アジアインフラ投資銀行(AIIB)を演説した。
  麻生太郎氏が構想を説いてから、5年の後のことだった。
.
2018年、アメリカのトランプ政権は、レパトリ減税を行な
 った。
  これは、『海外の利益や余剰金をアメリカに引き上げ
 る目的』があり・・従来の35パーセントを15.5パーセン
 トに引き下げた。
  中国の経済成長を促してきた「アメリカ資本の対中投
 資を中国から引き揚げさせる」ためでもある。
  通年の数倍の資金がアメリカへ戻った。
  また、今まで海外で発生した利益や余剰金は、翌年に
 繰り越すと課税されなかったが、トランプ政権は、この
 制度を廃止した。
  しかし、日本は、財務省が「プライマリーバランス黒
 字化目標」という『狂った目標』に固執し、日本はデフ
 レ脱却に『必須の政府支出拡大に踏み出せない』でいる・・
 そして、亡国の道を歩んでいる・・
  そして、減税どころか、消費税増税をしようさえして
 いる。
.
2019年、MMT(現代貨幣理論)という経済理論が脚光を
 浴びている・・
  https://www.youtube.com/watch?v=CMLYpWlQp1E
  注目される理由は・・
  MMTは、「自国通貨建てで財政赤字を拡大させれば
 政府は簡単に経済の長期停滞から脱出できる」としてい
 る・・
  経済学者の重鎮たちは批判をしている・・
  その批判は、財政支出の拡大によって金利が急騰し、
 民間投資が阻害される(クラウディングアウト)という
 もの・・
  また、財政支出を無限に拡大させるとハイパー・イン
 フレになると言っている・・
  これに対し、MMTを主張する人たちは・・
  クラウディングアウト懸念に対して、「中央銀行が
 固定(ゼロ)金利政策を採用し、財政赤字をそのままフ
 ァイナンスすれば、財政赤字の増加分、そのまま資金供
 給が増加するので、民間投資が押し出されることはない
 (また、中央銀行が、ゼロ金利政策を長期間維持するこ
 とが予想できれば、将来の政策金利の予想で決まる長期
 金利も低位安定するはずである)と・・
  むしろ、政府が、自らの負債である国債や通貨の発行
 量を増やしてこなかったことが、世の中の金回りを悪く
 して・・
  その結果として、長期的な景気低迷が続いていると・・
  MMT推進派の言い分は・・
  財政再建一辺倒で、消費税などの税金を上げて、消費
 を縮小させ、経済を停滞させるより・・
  政府の負債拡大によって、通貨の流通速度を上げ、民
 間部門にも新たな需要を『積極的に生み出す』ことが良
 いのだ・・と・・
  また、インフレ発生現象は、ある特定の部門の資金需
 要のバランスが崩れることに起こることに限られている
 と・・
  東洋経済ONLINEには以下の記述がある・・
  マネーストックが物価に影響するという考えに基づい
 て、日本だけでなく主要国では政府が国債を発行する際
 に、中央銀行が直接引き受けを行うことは原則として禁
 止されており、市中で消化している。
  これは、政府が国債を発行することでマネーストック
 が増加することを回避するためだ。
  新規に発行される国債を民間金融機関が引き受けると、
 国債発行額分だけ金融機関の日銀当座預金が減少するの
 で、多くの場合、日銀はこれを相殺するような操作を行
 い、金利やマネーストックが大きく変動しないようにし
 ている。
  しかし、マネーストックの変化がインフレを引き起こ
 すわけではないと考えているMMTでは、政府が発行す
 る国債を中央銀行が直接引き受けてマネーストックが増
 加しても、インフレの原因にはならないと考える。
  ミッチェル教授は、政府の財政赤字を通貨発行で賄う
 (明示的財政ファイナンス)ことが国債発行で賄うより
 もインフレ的だということはない、と述べている。
  インフレが起きるかどうかは支出の規模のみに依存し
 ており、総需要の成長速度が生産力の伸びを超えない限
 りハイパー・インフレーションの危険はないと主張して
 いる。
  日本では、1990年以降に、マネーストックが大幅に増
 加しているにも関わらず、名目GDPはわずかしか増加
 していない。
  古典派のような単純な貨幣数量説が成立していないの
 は明らかだ。
  日本は、ハイパーインフレどころか、前年比2%の消費
 者物価上昇すら視野に入ってこない状況なので、当面は
 財政赤字の継続による政府債務残高の増加が高インフレ
 をもたらすという心配は不要に見える。
  しかし、財政赤字が続くと民間部門、特に、家計の純
 金融資産が増加していくので、いずれ状況は大きく変わ
 るだろう。
  金融資産とは誰かの債務であり、MMTが強調する部
 門別のフローとストックの会計的な関係で分かるように、
 政府が財政赤字を続けると民間部門の金融資産は増加し
 ていく。
  1980年度末から2018年度末までの間に、日本の家計は
 純金融資産の名目GDP比を95.6%から279.5%にまで高
 めてきた。
  家計が金融資産を増やそうとしているときに、誰も債
 務を増やそうとしなければ家計は目的を達することがで
 きないので、さらに消費支出を切り詰めて金融資産を増
 やそうとする。
  このため経済は需要不足となって低迷する。
  だが、政府が減税するなり支出を増やすなりして債務
 を増やせば、GDPが高い水準に戻り均衡する。
  政府が提供する金融資産は通常は国債だが、MMTで
 は政府と中央銀行を一体と考えるので通貨(実際には民
 間銀行が日銀に保有する当座預金)だという違いがある。
  だが、狙っている経済効果には大差がない。
  金融緩和で株価を上昇させて家計金融資産を増やすと
 いうのも、家計の貯蓄意欲を満たすための政策と考えら
 れるだろう。
  こうした政策でしばらくの間は経済はフローの均衡を
 実現することができるが、時間が経てばストックにひず
 みがたまり、どこかで家計や企業の行動が大きく変化す
 る恐れが大きい。
  米国のITバブルや、サブプライムローンによる住宅
 バブルも、金融緩和で株価や住宅価格を上昇させて家計
 資産を増やすことにより、消費の拡大を維持しようとす
 る政策の結果起きたことだ。
  景気はしばらく好調だったが、資産価格の上昇を維持
 できなくなっていずれもバブルが崩壊し、経済が大混乱
 に陥った。
  資産価格を上昇させるのに比べれば、財政赤字を続け
 る方法は家計金融資産の増加が緩やかな分、持続性が高
 いだろう。
  しかし、家計貯蓄が黒字のまま維持されるとは限らな
 い。
  貯蓄を増やすためには消費支出を可処分所得以下に維
 持し続けなくてはならないが、現在積み上げられている
 貯蓄の多くは、将来の老後生活に使うなどの目的で蓄え
 られているものだ。
  団塊世代が完全に引退して、もっと高齢になって医療
 や介護で貯蓄を取り崩すようになると、日本の家計部門
 全体でも、毎年の所得に比べて金融資産が積み上がる状
 態が止まり、取り崩しが進んでいくと考えられる。
  日本の場合には人口の高齢化と減少が進むので、子孫
 のために残す資産は減少し、運用機会を求めて円建て資
 産から外貨建て資産へのシフトが今よりも活発になるだ
 ろう。
  円高のトレンドが弱まり円安に動き出せば、海外への
 資本逃避が加速するおそれもある。
  急速な円安が起こって輸入物価の上昇から消費者物価
 上昇率が大幅に高まっても、政府が増税や歳出削減を行
 うには国会の審議を経なくてはならず、対応が後手に回
 る恐れが大きい。
  単純化すると、MMTでは上図の青い線のようにGD
 Pギャップがプラスであれば物価が上昇し、マイナスで
 あれば物価が下落するという関係を想定していることに
 なる。
  インフレが行きすぎないようにするには、物価上昇率
 が高まったら、政府支出を削減したり増税したりしてG
 DPギャップを縮小すれば、物価上昇率は低下すればよ
 いことになっている。
  しかし、物価の動きはそれほど単純ではない。
  物価上昇率の低下が続いたデフレの状況ではGDPギ
 ャップと物価上昇率との関係は、赤い線のようにGDP
 ギャップがかなり大きなプラス(需要超過)にならない
 と物価上昇率がプラスにならない。
  逆に、過去に物価上昇が続いていたインフレの場合に
 は、黄緑色の線のようにGDPギャップがマイナス(供
 給超過)になっても物価上昇がしばらく続くというよう
 に、過去の物価状況の履歴が残ると考えられている(履
 歴効果)。
  このため、現在の日本のようにデフレ心理が定着して
 いる状況では、GDPギャップをかなり大きなプラスに
 しないと物価上昇率をプラスにできない。
  だが、物価が上昇するようになり、上昇率が高くなり
 すぎた場合、これを適切な水準に引き戻すためには、黄
 緑色のカーブが示すように厳しい財政引き締めが必要に
 なり、低所得層を中心に生活に悪影響が出るだろう。
  世界経済は1970年代から1980年代にかけて、失業率が
 高いにも関わらず物価上昇率が高いというスタグフレー
 ションに悩まされた。
  スタグフレーションでは、GDPギャップがプラスに
 なって実際の需要が経済の供給力を超えるよりも前に、
 物価上昇率が高まってしまう。
  ミッチェルらのマクロ経済学の教科書にもスタグフレ
 ーションの歴史の記述はあるが、どのような政策を行え
 ばよいと考えているのか明確な記述は見当たらなかった。
  状況認知の遅れ、判断の誤り、合意形成の遅れなど、
 最適な政策が最適なタイミングで実施できない可能性は
 歴史を見れば高い。
  経済の動きは、政府が自在に微調整できるというもの
 ではない。
  スタグフレーションへの対処法などわかっていないこ
 とも多いことを考えれば、政府がインフレをうまくコン
 トロールできるというのは、信用しすぎというものでは
 ないか。
  (参考)安倍総理は、国会での質問に答えて、MMT
     (現代金融理論)の提唱する政策を行っている
     わけではない、と述べたと報道されている。
.
2019年、アメリカの通貨発行が怪しいと言う意見・・
  現在の金融危機の根本は、アメリカ中央銀行であるF
 RBの強い独立性にある。
  強い独立性というよりも実際はこれは政府機関ではな
 く、民間資本によって運営されている銀行である。
  収支報告もなく、実態は闇の中だ。
  いま中国経済の不安が喧伝されているが、中国金融が
 アメリカと違うところは、中国の中央銀行である中国人
 民銀行は、ちゃんとした中国政府の管理下にあるという
 ことだ。
  歴史的にも、通貨発行権は本来国家のもとにある。
  国家管理を離れ、民間銀行によって恣意的に通貨を発
 行しているのが、アメリカの中央銀行であるFRBであ
 る。
  中国経済を不安視するマスコミは多いが、アメリカ経
 済の金融不安、特に、通貨発行権を疑問視するマスコミ
 は少ない。
  https://blog.goo.ne.jp/akiko_019/e/fbb31a794dd34556ffe301c0147f463b
  (参考意見)米国では政府が直接、通貨を発行するこ
     とのメリットを評価する声はいまなお、根強い。
      政治権力者にとっては、政府が直接、通貨発
     行権を掌握できれば、ウォール街から自由にな
     れる。
      発券銀行である中国人民銀行は、軍と行政府
     同様、党の支配下に置かれている。
      人民銀行から資金供給を受ける国有商業銀行
     も党支配下にある。
      つまり、人民銀行を中心とする金融システム
     全体が党によってコントロールされる。
      通貨の発行と配分権は、党指導者が保有して
     いるのだから、人民元はその本質において、政
     府紙幣である。
      見かけは日米欧のような中央銀行制度をとっ
     ているのだから、人民元はグリーンバックのよ
     うに国際金融資本から憎まれることもない。
      世界の大手金融機関は、人民元業務を新たな
     収益源にしようと躍起になっている。
  (参考情報)中国も国際経済上の要請によって金融改
     革すなわち金融門戸開放を行い、外国銀行が人
     民元口座を扱えるようになった。
      銀行は、銀行であるかぎり顧客の預金を元手
     に『信用創造を行うことができる』。
      外国銀行が人民元を預かるということは、外
     国銀行が人民元の信用創造を行うことができる、
     つまり、『人民元という中国の通貨を発行する
     ことができる』ことを意味する。
      一人の中国人がチェース・マンハッタン銀行
     の北京支店に人民元口座を開設し、1万元預け
     たとする。
      チェース・マンハッタン銀行はそれを準備金
     として、中国の企業が人民元を貸してほしいと
     言えば、約100万元まで融資することができる。
      その手続きはいたって簡単。
      その企業の銀行通帳に「1000000RNB」と印
     刷するだけである(信用創造)
      「外国の銀行も人民元を発行できる」こと・・
     その額が大きくなれば「通貨主権」そして「金
     融主権」への影響力も大きくなる。
      宋鴻兵氏は、米国ワシントンのアメリカン大
     学で修士号を取得。
      様々な職を経て、2002年から2007年まではフ
     ァニーメイとフレディマックでコンサルタント
     を務めた経歴を持つ。
      両者はサブプライム・ローン問題のまさに当
     事者であり、宋氏はそうした米国の金融証券業
     界に潜入し、その悪辣な詐欺的手法をつぶさに
     観察、分析した。
      その後、中国に戻り2008年より環球財経研究
     院院長である。
  http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=241276
  (参考意見)仮想通貨は、各国が通貨発行権によって
     コントロールできないお金である。
      すなわち、皆がビットコインで取引をすれば
     通貨の供給をコントロールする事によって景気
     をコントロールする事ができなくなる。
      両替も不要。
      投機的資金流入で乱高下。
      新たなお金になるか、単なる投機商品に留ま
     るか・・
      税金の支払いには利用できない。
      地方自治体がこの仕組みで資金調達が可能か?
  (参考)産経新聞・・抜粋・・
      2010年、中国は、国内総生産(GDP)規模
     で日本を抜き去った。
      人民元資金供給こそは中国の軍拡の原動力。
      リーマンショック後、人民銀行による人民元
     資金供給量がドル換算で1兆ドル増えるごとに、
     軍事費は約500億ドル増えた。
      中国は、米国の量的緩和政策に伴うドル資金
     増加量に見合う分、通貨を膨張させてきた。
      それに合わせて軍事にカネをつぎ込んだ。
      毛沢東は「銃口から権力が生まれる」と言っ
     たが、カネから銃口が生まれた。 
.
2019年7月17日、文政権(韓国)の日本批判は筋違いだ。
  この日の読売新聞が、標記の社説を報じた・・
  以下、その抜粋・概要・・
  「論点をすり替えて、日本非難に終始する韓国政府の
 姿勢は受け入れられない。
  韓国が、自国の輸出管理体制を検証し、見直すことが
 先決だ。
  日本政府が、軍事転用の恐れのある3品目の韓国向け輸
 出を厳格化した(ホワイト国指定を止めた・・優遇する
 ことを止め普通の国並みにした)ことに、韓国が反発し
 ている。
  (参考)ホワイト国とは・・大量破壊兵器等に関する
     条約に加盟し、輸出管理レジームに全て参加し、
     キャッチオール制度を導入している国について
     は、これらの国から大量破壊兵器の拡散が行わ
     れるおそれがないことが明白であり、俗称でホ
     ワイト国と呼んでいる。
  (参考)キャッチオール規制:輸出に当たり、製品、
     材料、技術(設計図、ノウハウなど)が相手国に
     よって大量破壊兵器(WMD)やミサイルの開発、
     生産に利用される可能性がある場合に、貿易管
     理を担当する政府機関(日本は経済産業省)に輸
     出許可の申請を行う制度。
  日本は、手続き簡略化の優遇を受けられる「ホワイト
 国」からも韓国を除外する方針。
  日本が問題にしているのは、韓国の輸出管理の緩さで
 ある。(中略)
  通常兵器にも使われる物資の輸出を制限する「キャッ
 チオール規制」が整っていない。
  日韓当局者の幹部協議は、2017年に文在寅政権が発足
 してから開かれていない。
  不正輸出の懸念が(韓国)にある以上、日本が手続き
 を厳しくするのはやむを得ない。
  文大統領は、日本側に一方的に非があると主張し、「
 日本経済に、より大きな被害が生じることを警告してお
 く」と批判している。
  日本の措置を政治的、経済的な動機と決めつけ、自ら
 事態改善に動こうとしない。
  世界の主要国は、民生品であっても兵器開発に利用さ
 れる可能性がある戦略物資の輸出には目を光らせてきた。
  日本も、2015年以降、経済産業省が行政処分を下した
 違法輸出を9件公表している。
  この中には、兵庫県の企業が3500キログラム超の炭素
 繊維を、韓国を経由して中国に無許可で輸出していた案
 件も含まれている。
  また、韓国政府は、2015年~2019年3月に戦略物資の違
 法輸出を156件も摘発したという(多すぎる)。
  北朝鮮の友好国であるイランやシリアに化学物質など
 が輸出されていた。
  韓国政府は、この様な実態なのに輸出管理が適正に行
 われていると言う・・違法輸出も増えている。
  EU(欧州連合)も韓国をホワイト国に指定していな
 い・・韓国向け輸出を、他のアジア諸国向けと同様な扱
 いで・・厳しい審査としている。
  (韓国の実態の緩さから)日本がEUと同じような措
 置をすることが適正だとした・・それを不当だと一方的
 に言うのは理解に苦しむ。(中略)
  日本政府は今回輸出手続きを厳しくした3品目で(韓国
 の)不適切な事案を確認したと発表している。
.
2019年、北朝鮮寄りとなった韓国の現政権であるが・・
  ・・というより、北朝鮮との一体化を目指す韓国の様
 相・・
  事大主義の韓国は、中国の顔色ばかり見ている・・
  その中国に対する・・アメリカの対中国の新戦略は・・
 『日本・アメリカ・台湾の防衛を一体化させる』という
 方針に変わった。
  アメリカは、従来のエアシーバトルに加え、海洋圧迫
 戦略の合体により『アメリカは中国に勝つことを決定し
 た』。
  (参考)統合エア・シー・バトル構想・・
      米国防総省は、2010年2月に議会に提出した
     QDR2010において、現在行われているテロと
     の戦いを最優先課題に位置付ける一方で、「将
     来において最も蓋然性が高く、死活的に重要な
     脅威に備える」ことを戦略目標として明示した。
      統合エア・シー・バトル構想は、その戦略目
     標を達成するための一手段として開発される。
      米国防総省が認識する「将来の脅威」とは・・
      それは、「戦力投射能力及び侵攻に対する抑
     止、並びに同盟国等の救援のための行動に対す
     る潜在的脅威」である。
      これらは、中国やイランなどが身に付けつつ
     ある「アクセス阻止」及び「領域拒否」の能力
     (戦略)によってもたらされる。
     「アクセス阻止」とは、前方展開基地などの固
     定地域や軍事目標への接近(戦域への戦力の展
     開、利用)を阻止することであり、「領域拒否」
     は、特定の地域における行動の自由を制限する
     ことを狙いとし、それらの対象領域は、海、空、
     陸、宇宙及びサイバー空間の全次元にわたる。
      なかでも、米国防総省が脅威の主たる対象と
     みているのは、中国のアクセス阻止/領域拒否
     の能力である。
      米国は、中国を脅威であるとは公言していな
     いが、QDR等の戦略文書や「中国の軍事力」
     報告書等を分析すれば、国防総省が脅威の主対
     象としているのは中国であることが見て取れる。
  (参考)海洋圧迫戦略・・
      米国は、中国の接近阻止・領域拒否(A2/AD)
     戦略遂行の初動である第1列島線への短期高烈
     度の戦いを跳ね除け、中国軍に勝つことを決心
     し、その対中戦略・作戦をほぼ完結させた。
      米国の戦略予算評価局(CSBA)が、2019年5月
     に海洋圧迫戦略(MPS)を発表した。
      MPSは、エアシーバトル(ASB)では曖昧であ
     った部分を補強し、対中国戦略を事実上完結さ
     せたもの・・
      ASBをはじめとするCSBA の考え方は国防省の
     戦略そのものになっていることから、間違いな
     く米国の戦略の主要部分となり、これで米国が
     2010年から検討を進めていたASBが10年がかりで、
     ついに完成したことになる。
      従来のASBの海空軍を主体とした「動的戦力」
     と今回のMPS の陸軍・海兵隊を主体とした地上
     発射かつ機動型の、いわゆる「静的戦力」を組
     み合わせ、その上でそれぞれの領域を大胆に跨
     ぎながら、統合作戦で戦うというものである。
      これは、防勢的ではあるものの、自衛隊が2009
     年以来、具体化してきた南西諸島防衛の作戦・
     戦略そのものである。
      わが国では、米国が当初に打ち出したASBに目
     を奪われるあまり、いくら第1列島線に地上発
     射型ミサイルを配置する意義を陸自関係者が説
     いても、軽んじられてきたが、米国からの逆輸
     入によってその重要性が認識され、日本のマル
     チドメイン(領域横断)の戦いが完成するなら、
     望ましい方向への戦略転換として歓迎しなけれ
     ばならない。
      海洋圧迫戦略(説明ー2)
      この戦略の目的は、西太平洋における中国の
     奇襲的侵攻による既成事実化を排除し、軍事侵
     攻の試みは失敗すると中国の指導者に思わせる
     こと(INF条約廃棄に対応)
      この戦略は拒否的抑止力で、第1列島線に沿
     って精密打撃ネットワークを構築するというも
     ので、①海空軍・電子戦などを後ろ盾に、②第
     1列島線沿いに米国、同盟国の対艦・対空・電
     子戦の部隊を配置するとともに、③東シナ海な
     どの内部で作戦する潜水艦・無人艇・無人ステ
     ルス爆撃機で構成するInside-Out Defense(イン
     サイドアップ・ディフェンス)作戦構想である。
      中国のA2/AD戦略を逆手に取るもので、
     主として海上目標に対して、地対艦ミサイルを
     発射する陸軍・海兵隊が中心(同盟国・友好国
     と一体化)
      米軍戦略として初めて南・東シナ海と共に台
     湾を明記した。
.
2019年、アメリカのトランプ政権は、日本が攻撃されれば
 アメリカは生命や財産をかけて、いかなる犠牲を払って
 も日本を守るとしている。
  また、日本の生命線の石油を、ホルムズ海峡を通って
 得ているが・・このホルムズ海峡を守っているのもアメ
 リカであり、日本はアメリカに頼り切っている。
  この様な日本の存立にかかわる時、日本は、当然、ア
 メリカの支援に駆け付けるべきだ。
.
2019年、米国国防権限法2019(NDAA2019)
  日本は、中国のわずかな発注の新幹線の仕事をした時、
 この重要な日本の技術は、中国に盗まれた。
  それ以後、中国は、この日本の重要な技術を使って、
 世界の新幹線の仕事を受注している。
  インドネシア新幹線が、日本の受注がほとんど決まっ
 ている時、中国の妨害工事費で受注が出来なかったこと
 などが代表例である。
  また、中国国内に新幹線網を構築して、軍事上の重要
 な措置を構築している。
  今、米国国防権限法2019(NDAA2019)は、これま
 での軍事技術に加え、『重要なインフラや先端技術』も、
 安全保障上の重要な問題だとした。
  また、この次の案であるNDDA2020では、中国軍と
 のかかわりが疑われる人物や企業・団体などと支援を受
 けている人物や企業・団体などリストの作成を指示して
 いる。
  同盟国(日本など)に対しても同調を求めている。
.
2025年、中国は、世界のテクノロジーの最先端国になると
 している。
  「中国聖像2025年」を掲げ、世界経済を支配したい
 としている。
.
2029年、AIが、人間の能力を超越する。
  (参考)AI:人間が持っている、認識や推論などの
     能力をコンピューターでも可能にするための技
     術の総称・・人工知能とも呼ぶ。
      AIを応用したシステムには、専門家の知識
     をデータベース化して問題解決に利用するエキ
     スパートシステムなどの例がある。
      また、人間の知能にできるだけ近い機械を作
     ろうとする研究の他に、人間が知能を使ってす
     ることを機械にさせようという研究の、大きく
     分けて2系統のトレンドが存在する。
      生物の遺伝原理を用いる遺伝アルゴリズム、
     専門家の知見を蓄積するエキスパートシステム、
     音声認識、画像認識、感性処理、ゲーム、自然
     言語処理、推論、探索、知識表現、データマイ
     ニング、ニューラルネット、そして、ロボット
     など、多彩な研究テーマの総体として疑似知能
     が模索されている。
  アメリカのAI研究者のレイ・カーツワイルは、人工
 知能の飛躍的な発展によって、AIと人間が一体化し「
 ポスト・ヒューマン」が誕生すると言う。
  彼は、2029年には、「AIが、人間の能力を超越する」
 と言い・・
  2045年には、「技術的特異点に至り、ポスト・ヒュー
 マンが誕生する」と言っている。
  しかし、人工知能には、「自分を振り返ることが出来
 ないという欠落点がある」と反論を言う人も居る。
  『人工知能は、自己認識をすることが出来ない』と指
 摘する。
  それは、あくまでも機械に過ぎない・・と言う。
.
2049年、中国の習近平主席は「中国の軍事と経済の世界一」
 達成を、この年を目標に掲げている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  中国・人民元は通貨覇権を狙っている。
  アメリカ・ドルへの挑戦を始めた。
  しかし、実態はただの紙切れ。
  その裏付けを保証するものは何もない。
  それは、実体のない通貨=人民元の身分不相応の振る
 舞い。
  何故? こんな大間違いが起きたのか?
  その中国・人民元の振る舞いの初めには、ウォール街
 の行なった間違いがあった。
  ウォール街は、中国を一時的に大いに助け、そして、
 援助し、そして、ウォールも大いに儲けた。
  アメリカの歴代政権も、「それはウィンウィンだ」と
 勘違いして、大いに進めた。
  そして、アジア・・
  アジアに大きな経済的影響力を持つ華僑・・
  この華僑と中国を刺戟させ、心身を興奮させないよう
 にという政策がとられ、固執し、続けられた。
  しかし、今、この間違いがとんでもないことになると、
 看過できない、見過ごせないと、何とかしなければとい
 う行動が・・とられ始めて来た。
  トランプ・アメリカ大統領は、中国・習近平のアキレ
 ス腱を撞く(つく)行動をとり始めた。
  その目標は、当然、「紙きれの中国・人民元に通貨覇
 権を絶対に握らせない」というところにある。
  高関税に始まり、金融戦争が始まる。
  例え、通商が犠牲になっても「国家の安全保障が大切
 だ」という理念がある。
  中国を甘やかせた最大のポイントは、人民元が変動相
 場制が通常なのに、その状態になっていない。
  中国・人民元は変動相場制に移行させるべき・・
  (日本は、堂々と、変動相場制に移行したが)・・こ
 の図体ばかり大きい中国は、変動相場制が恐怖なので、
 逃げ回ってばかりいた・・
  アメリカの保護下に居た・・そのアメリカを、身分不
 相応に食い始めた。
  今、中国は、ドルが枯渇している・・外貨準備も激減
 している・・資金が中国から逃げ、ますます、余計に、
 中国・人民元の裏付けが無くなっている・・
  それに、不動産バブルが崩壊・・空室ばかり・・株安
 も起きるという災禍・わざわいの中国となっている。
  直接投資が激減するだろう・・貿易も赤字となるだろ
 う・・もう中国の時代は終わった・・ASEANだ。
  異常な二桁の軍拡で作られた景気・・そして、人民元
 増発でも景気を煽るという嘘・・
  知的財産権無視で次世代技術を盗取し、軍事などへ転
 用している。
  アメリカのトランプ政権は、ファーウェイやZTEを
 阻止し、スパイ摘発をしている・・
  また、企業買収を止めさせ、拠点買収を阻止している。
  もう中国は、変動相場制へ移行させねばならない・・
 そんな最恵国待遇の特待席には、いつまでも置いておけない。
  有頂天でやっている「一帯一路」はしぼんで行く。
  世界の工場と言われた中国の生産拠点も「存在意義が
 無くなった」・・獅子身中の虫に成り下がった。
  中国の政治形態が変わり、真からの自由な経済社会に
 ならないのなら・・消えゆくのみ・・
  AIの熾烈な戦いが繰り広げられる戦国時代の後に、
 その様な社会が来る。
  少数の者が牛耳る監視社会が、多くの奴隷的農民層を
 使うという一時代前の形態の中国社会が生き残れるはず
 がない・・

# by suba28 | 2019-07-20 03:41 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)650E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年6月~1896年6月)

題:(増補版)650E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年6月~1896年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年6月4日、ヘンリー・フォードが初の四輪自動車の試
 作に成功し、この日に試運転をした。
  紀元前4000年、人類が「ころ」から車輪を発明した。
  1250年、哲学者のR.ベーコンが、「いつの日か、馬な
   どに引かせている車が、自身の力で走る車が可能と
   なろう」と言った。
  15世紀~16世紀、レオナルド・ダ・ビンチの新発明の
   意想図の中に、木をしなわせて力を蓄え、それを歯
   車で取り出し、車輪を回して走る自走車がある。
  1569年、オランダのシモン・ステビンが、2本のマス
   トの帆を動力源とした自走車を作った・・28人を乗
   せて海岸の砂上を時速24キロメートルで走った。
  1648年、ドイツのハンス・ハウチュが、ぜんまいで自
   走する1人乗りの車を作り、時速1.5キロメートルで
   走った。
  1680年、イギリスのニュートンが、ボイラーで作った
   高圧蒸気を、後方の細い管から噴射し、この推力で
   走る車の模型実験に成功した。
   また、この年、オランダのホイヘンスが、火薬を用
   いた内燃機関を提唱した。
  18世紀、蒸気機関を動力源とした自動車が試みられた。
   これが、最初の自動車の製作と言われている。
  1796年、フランスのN.J.キュニョー(ベルギー人?)
   が砲車牽引用の三輪の「蒸気を動力とする自動車」
   を作り、4人を乗せて時速9.5キロメートルで走った・・
   因みに、キュニョーはルイ15世の砲兵大尉だった。
   そして、この三輪車は長さ7.2メートル、幅2.3メー
   トルという巨大な車だった・・しかし、操縦不能で
   城壁に激突してしまった。
   以後、蒸気自動車は、アメリカ・イギリスなどで研
   究がなされて行き、実績を上げる。
  1801年、イギリスのトレビシックが、実用的な蒸気自
   動車を完成させた・・時速14キロメートルで走る・・
   運転手の不注意で爆発した。
  1803年、トレビシックが、改良型の蒸気自動車を作る・・
   直径3.2メートルの駆動輪兼用の後輪を持つ四輪車だ
   った。
   交通遮断したロンドン市中を走り、「馬車より速い」
   と言われ、成功した。
   また、この頃、マカダムが発明したタールを用いた
   簡易舗装の道路網が、イギリス全国に建設された。
  19世紀初、蒸気自動車が実用化され、バスやトラック
   などとして使われた。
  1831年、イギリスで、スチーム・コーチ(蒸気馬車、
   20人乗り六輪車)が定期旅客輸送が行われ始めた。
   4か月で3000人を運んだという記録がある(成功)
   同様に、この年、ハンコックが、ロンドン市中と近
   郊を結ぶ路線の定期運行を始めた。
  1840年代、スチーム・コーチの平均時速が25キロメー
   トルに性能向上している。
   ハンコックのオートマトンは32キロメートルを出し
   た。
  1850年代、スチーム・コーチが急速に姿を消す・・効
   率の良い鉄道が発達したため・・
   また、道路を傷めるという理由で、スチーム・コー
   チの道路通行料が12倍も高く設定された。
   また、ロード・ロコモティブは危険ということで、
   車の前を昼間は赤旗、夜間は赤ランプを持って走れ
   という規制や、町中では時速3.2キロメートル以下で
   走れなどの規制が厳しくなった。
   しかし、イギリスでは、蒸気自動車の改良がなされ
   て、使われ続ける(1930年代まで蒸気自動車は作ら
   れた)・・それに対する・・ガソリン自動車のアメ
   リカでの発達を待たねばならない状況だった・・
  19世紀半ば、電気自動車が発明された・・一時、普及
   した・・しかし、ネックは蓄電池の容量の問題だっ
   た。
   しかし、アメリカでは1920年代まで生産された。
  1858年、イタリアのバルサンティとマッテウッチが、
   石炭ガスを燃料とする内燃機関を製作した。
  1860年、フランスのルノアールが、点火装置を持った
   ガスエンジンを作った。
  1862年、フランスのボー・ド・ロシャが、4サイクル・
   エンジンの原理を発見した。
  1863年、フランスのルノアールが、ガソリンで回るエ
   ンジンを木製の四輪車に積み、走った。
  1864年、オーストリアのマルクスが、ガソリンエンジ
   ンの開発を進め、この年、それによって走る車を試
   作した・・1875年にも試作し、これは、時速8キロメ
   ートルで走ることが、後日、確認された。
  1865年、イタリアのベルナルディが、ガソリンエンジ
   ンを作った。
  1876年、ドイツのN.A.オットーが、実用的な4サイ
   クル・ガスエンジンを製品化し、それをダイムラー
   が改良して高速のガソリンエンジンを作った・・
   1885年には、このエンジンを付けた二輪ガソリン自
   動車を製作した・・
   また、この年、C.F.ベンツも2サイクルエンジン
   付きの三輪自動車を作った・・これらが、現代の自
   動車の原型となった。
   これらの技術が、、広大な土地のアメリカで発展し
   て行く。
  1884年、フランスのドラマール・ドブットビルが、ガ
   ソリン自動車の試作に成功した(この100年後、フラ
   ンスは盛大にこの発明を祝う)
  1886年、ダイムラーが、四輪馬車にハンドルを付け、
   また、460㏄のエンジンを付けて四輪自動車を作る。
   また、この年、ベンツが、独力でガソリンエンジン
   を製作し、実用的な三輪自動車を完成させ、後に、
   製造販売を企業化させた。
  1893年、アメリカでデュリエ兄弟が、四輪馬車を改造
   したアメリカ初のガソリン自動車を試作し・・後に、
   商業生産に入った・・多くのメーカーがこれに続い
   た。
  1894年、初のモータースポーツ・イベントが、フラン
   スの新聞社の主催で開かれた・・
   パリ~ルーアン間126キロメートで行われた・・1着
   は蒸気自動車で、6時間、平均時速21キロメートル
   (運転手と汽缶士による走行だった)・・
   因みに2位と3位はガソリン車だった・・ガソリン車
   の優位性が脚光を浴びた。
  1896年6月4日、ヘンリー・フォードが、初の四輪自動
   車の試作に成功し、この日に試運転をした。
  1899年、日本初の自動車であるアメリカ製の電気自動
   車が入った。
  1900年、フォードの大量生産方式によって大衆化した
   自動車・・日本への輸入はこの年・・
  1904年、日本で初の自動車製作が行われた(蒸気自動
   車)
  1907年、日本で初のガソリン自動車が製作された(東
   京自動車製作所)・・産業化には至らず。
  1908年、H.フォードが、T型車で単一車種の大量生産
   を始めた・・自動車普及の上で画期的なことだった。
   この年の10月1日に発表された「T型フォード」は、
   ハンドルが左にあり、エンジンとトランスミッショ
   ンの全体がボンネットで覆われ・・エンジンは4気筒、
   サスペンションは2つの半楕円形バネを使い・・運転
   が単純で、修理も容易、そして、安価だった。
  1910年頃、アメリカで、急速に自動車が普及し、個人
   単位の人と物流の速度が飛躍的に高まり、移動距離
   が大幅に伸びた。
.
1896年6月6日、フランス留学から帰国した黒田清輝(せい
 き)らが、洋画・彫刻の美術団体の白馬会を結成した。
  白馬会は、この年、明治美術会を脱会した黒田清輝、
 久米桂一郎、山本芳翠らによって設立され、和田英作、
 藤島武二、岡田三郎助、小代(しようだい)為重、小林
 万吾、長原孝太郎、彫刻の菊地鋳太郎、佐野昭(あきら)、
 版画の合田清らも参加した・・また、評論家の吉岡芳陵、
 岩村透(とおる)らも参加した。
  会名は、会の同志たちがしばしば白馬(しろうま)(ど
 ぶろく)を飲みつつ談論したことに由来した。
  明治美術会の脱会は、芸術家の自由を標榜し、感覚の
 解放を求めた(フランスの明るい画風の)外光派の人た
 ちにとって、明治美術会の古い体質は耐えがたかった。
  旧派ないし脂派 (やには) と呼ばれた明治美術会の暗
 い作風を不満とし、官僚的組織に対して自由主義を主張
 した。
  外光派的な明るい画風で新派また紫派と呼ばれ、しだ
 いに明治洋風美術の主流となった。
  フランス印象派の手法を伝え、研究所を設けて、和田
 英作・藤島武二などの後進の養成もした。
  1896年10月、岡倉天心の率いる日本絵画協会と合同で
 第1回展を開催し・・1910年の解散まで13回を数えた。
  1910年まで展覧会を続け、洋画の発展に多くの功績を
 残したが、1911年に解散し、中堅作家が光風会を組織し
 た。
.
1896年6月9日、日本とロシア間で、山縣=ロバノフ協定を
 締結した。
  山県有朋、ロシア外相ロバノフと朝鮮に関する議定書
 に調印する。
  李氏朝鮮の宮廷内の親日派と親露派の権力闘争による
 不安定な政治情勢は、日本とロシアの双方に対しても危
 険な状況にさらしていた。
  協定は、サンクトペテルブルク(モスクワ?)におい
 て、山縣有朋全権大使と、ロシア帝国の外務大臣A.B.
 ロバノフの間で交わされた。
  公開4条項と秘密2条項からなり、両国政府は必要な場
 合、合意をもって朝鮮に経済援助を与えること、朝鮮の
 独立を保証すること、朝鮮の財政改革を促進すること、
 近代的警察及び軍隊を組織すること、電信線を維持する
 こと、両国が合意をもって軍隊を派遣するときは用兵地
 域を確定すること、両国の駐屯兵因数などが協定された。
  背景は、ロシアの干渉などで、李氏朝鮮の不安定な政
 治情勢が、日露間に種々の軋轢となって存在していた。
  そこで、日露間で協定を結び、互いに朝鮮の独立を確
 認し合い・・
 そして、朝鮮の立場を保証することを約した。
  また、朝鮮財政の悪い状態の改革を促進することを約
 し・・その他・警察・軍事・電信線維持などを約した。
  ロシアのロバノフは、この協定とほぼ同時に、中国・
 清の李鴻章、朝鮮の朴泳煥と、それぞれ密約を結んでい
 た→露清同盟密約。
.
1896年6月12日 ロシア、月尾島西南地段(44,316m2 年銀貨
 361元)租借契約を取得。
  朝鮮の高宗がロシア公使館に軟禁され、ここで政務を
 取り行なった結果、ロシアは種々の利権を獲得した。
  また、欧米列強も同じような朝鮮利権を獲得するに至
 った。
  この様な状況は正規な状況ではなく、自主性は放棄さ
 せられていた。
  この様な状況は、この後の、日露戦争の結果、朝鮮は
 中立が宣言で来る。
  また、1895年11月28日には、ロシア、アメリカ、親露
 派の朝鮮の大臣・李範晋が、総理大臣の金弘集の暗殺を
 を企てた(春生門事件)
  この様に揺れ動く朝鮮内の事で日露は議定書の締結を、
 二度、続けた。
  しかし、この日、ロシアは、月尾島と361元の銀貨の租
 借契約を取得した。
  (参考)月尾島:ウォルミド、仁川広域市中区に属し
     ている島・・しかし、現在は、島と陸地の間が
     埋め立てられている。
      島の形状が半月の尾ひれの様な形から名付け
     られた。
.
1896年6月15日、明治三陸地震で大津波が起き、死者2万名
 を越えた・・
  午後7時32分30秒、震源は釜石町の東方200キロメート
 ルの三陸沖。
  三陸地方に大津波が押し寄せ、死者27,000人、家屋の
 流失・破壊1万戸に達した。
  村落の移転などの対策は進まなかった。
  地震規模はマグニチュード8.2~8.5で巨大地震・・
  観測史上最高の遡上高で、海抜38.2mを記録する津波が
 発生・・
  (参考)津波の遡上高:陸を駆け上って到達した高さ。
  各地の震度は2~3程度であり、緩やかな長く続く震動
 であった・・
  誰も気にかけない程度の地震であった・・
  最大は秋田県仙北郡の震度4・・
  地震動による直接的な被害はほとんどなかったが、大
 津波が発生し、甚大な被害が発生した・・
  海溝型地震と推定され・・三陸沖地震の一つと考えら
 れている・・
  固有地震であるが、震源域は特定されていない・・
  (別史料)
  三陸地方に弱い地震・・およそ40分後に大津波が襲来・・
  9879軒が流出、倒壊1844軒、船6930艘に被害、死者
 26,360人、負傷者4,398人・・
  村落集団移転を行った集落は、1933年の津波で被害は
 軽微だったが、移転しなかった集落は、再度、甚大な被
 害を受けた。
  (注意)この地震は、震度分布に基づいて長らくマグ
     ニチュード7.6とされてきた・・
      しかし、津波の大きさを考慮して数値が改め
     られている「理科年表 平成18年」
  大津波の第一波は、地震発生から約30分後の午後8時7
 分に記録され・・
  遡上高は、気仙郡吉浜村(旧:気仙郡三陸町吉浜、現:
 大船渡市三陸町吉浜)で22.4m・・
  同郡綾里村(旧:気仙郡三陸町綾里、現・大船渡市三
 陸町綾里)で21.9m・・
  綾里湾の奥では、入り組んだ谷状の部分を遡上して、
 日本の本州で観測された津波では、当時、最も高い遡上
 高である海抜38.2mを記録した。
  この時、ハワイへも2.4m~9.14m、カリフォルニアに
 2.90mの津波が到達している。
  ハワイでは、波止場が破壊され、住宅の複数棟が流失
 した(カリフォルニアの被害記録はなし)
.
1896年6月16日、軌制取調委員が、軌間、および、軌条重量
 の調査を終了した。
  1896年に、逓信省に軌制取調委員会が発足し、改軌に
 要する費用と、その利点・欠点などの調査を行った。
  この時まで・・1892年に、鉄道建設ブームが巻き起こ
 り、私設鉄道の規模が官営鉄道をまたたく間に上回る・・
 第2次鉄道建設ブーム・・
  日本各地には規模の小さな鉄道会社が設立された・・
  不安定な経営・・
  鉄道国営化による鉄道整備・輸送力増強促進、運賃の
 低廉化が求められる・・
  この様な中で起きた「改軌論争」・・1910年まで繰り
 広げられた大論争だった・・
  日本は、鉄道導入にあたって「狭軌」を選択した・・
  これは、イギリス(御雇い外国人?)が推薦したとい
 う説と、山岳河川の多い日本で、狭軌の方が有利という
 説・・鉄道整備を早く進められるから判断した説・・
  この「狭軌」を「標準軌」に改良し、輸送力を増強し
 ようとする動きが起きた・・この「改軌論」が日本の鉄
 道界で一大論争となった・・
  結論として・・
  1910年の鉄道会議で東海道本線・山陽本線などの主要
 14路線を1911年度からの13ヵ年で標準軌(当時はこれを
 「広軌」と呼んだ)に改築する案が可決された。
  これにより、東京の市街線や東海道・山陽本線で新た
 に建造される建造物は、標準軌規格で設計する通達も出
 された。
  この頃建設されていた磐越西線では、実際に平瀬トン
 ネルが一部標準軌の規格で建設されている。
  これに対し、原敬率いる立憲政友会が横槍を入れた。
  政友会の基本方針は、低規格でもいいから全国に路線
 を張り巡らせようとする「建主改従」となっており、後
 藤の提案した「改主建従」と真っ向から対立していた。
  帝国議会で両者がぶつかり合った結果、「改軌」に対
 する予算は出さないことになった。
  1911年4月、より低予算での改軌と、改軌線区の拡大を
 目指すため「広軌鉄道改築準備委員会」が政府内に発足
 し、審議が行われた・・しかし・・
  1911年8月、原敬が、内閣鉄道院総裁(内務大臣兼務)
 に就任したため、広軌計画は中止となった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国、ウイグル抑圧拡大・・
    中国の弾圧強化を憂慮する。
    香港デモ、イギリスが中国批判
    ロシア(旧ソ連)よ!
    千島列島と北方四島を日本に返還しなさい。
.
紀元前10~紀元前8世紀、ギリシャに都市国家(ポリス)が
 形成され始めた。
  ギリシャのこの小規模都市国家のポリスは、大小200ほ
 どが存在した・・
  強大な帝国という形ではなかった。
  このポリスの中心部には、アクロポリスという外敵を
 見張ることのできる丘があった。
  その周辺部に人々は集住した。
  ギリシャのこのポリス時代の前は「王国」だった。
  「シキュオン」や「アルゴス」などの王国があった。
  そこでは、スパルタを除いて、王は居らず、貴族政が
 行われた。
  (参考)ポリス:古代ギリシアの都市国家・・
      村落集住 (シュノイキスモス) によって、君
     主政に対立する国家形態として生じ・・
      その起源は紀元前10~紀元前8世紀にまでさか
     のぼる。
      自然風土や社会的・宗教的要因によって数多
     くのポリスが分立した。
      その規模は、ほとんどはごく小さく、植民市
      (アポイキア ) として成立したものも多い。
      ポリスは、中心市と農耕周域部から成り、大
     多数は城壁を備え、市内には原ポリスである城
     塞(アクロ・ポリス) 、市場 (アゴラ) が存在し、
     周域部には、市民の所有地、共有地があったが、
     その領域は通常狭い範囲に限られていた。
      ポリスは、自由と自治を理想とし、市民は氏
     族および宗教共同体の一員であるばかりでなく、
     国家共同体の一員としてもっぱら政務、軍務に
     たずさわった。
      完成されたポリスにおいては、そうした市民
     団の枠は在留外人 (メトイコス ) や奴隷などと
     身分的に厳格に区別された。
      このような体制を基盤として市民全体の政治
     参与を実現した民会 (エクレシア ) の存在は古
     典古代の特色的なこと。
      ポリスにはさまざまの型があった。
      最も典型的なのはアテネで、その民主政組織
     はほかのポリスに大きな影響を与えた。
      ポリスは、相互の絶えざる分立抗争と内部の
     党派争いなどによって紀元前4世紀には凋落しは
     じめた。
      続くヘレニズム時代の知的文化的基盤はポリ
     スの伝統に根ざしている。
      また、ポリスにおいては文明の発達とともに、
     さまざまな政治現象が生じ、多くの思想家たち
     は、これに刺激されて政治理論を生み出し、ポ
     リスは政治学の母胎だった。
  (参考)シキュオン:ペロポネソス半島の北部、コリ
     ントの北西に位置する古代ギリシアの都市。
      アルゴスの植民市 (アポイキア) として政治
     的、宗教的に従属していたが、紀元前660年頃、
     オルタゴラスによって僭主政が樹立され、その
     孫のクレイステネスのときに国力は最大となり、
     彼は、第1次神聖戦争でロクリスを破壊した。
      僭主政は、約100年続いたがスパルタによって
     倒され、以後スパルタの同盟市となり、紀元前
     3世紀にはアカイア同盟に参加。
      その後、衰退し、紀元前2世紀には廃虚となっ
     た。
      シキュオンは、アルカイック時代から美術の
     中心地として知られ、紀元前4世紀には、彫刻家
     リュシッポスを生んだ。
  (参考)アルゴス:ギリシアのペロポネソス半島北東
     部のアルゴリス地方の中心都市。
      中期青銅器時代から人が住み、ミケーネ期に
     隆盛をみた。
      紀元前1100~紀元前1000年、ドーリス人が、
     ここを基地に半島へ侵入したと推定されている。
      紀元前8世紀頃からスパルタと抗争・・
      紀元前669年、これを破って半島の度量衡を統
     一したが、スパルタの力が伸びるにつれて、ア
     テネ、コリント、テーベと次々に結んで対抗し
     た。
      テーベが衰えると、マケドニアのフィリッポ
     ス2世の支援を求め、紀元前229年には、アカイ
     ア連盟に加盟した。
      紀元前146年のローマのコリント破壊で相対的
     に重要性を増し、アカイア連盟の中核となった。
      3世紀後半頃、一時ゴート人に占拠されたが、
     ビザンチン時代には繁栄。
      1204年、フランク人のアカイア王国建設でア
     ルゴスは衰退した。
      14~15世紀にトルコ人に侵入され、住民はア
     ルバニア人と入れ替わった。
      19世紀のギリシア独立戦争で最初の自由議会
     がアルゴスに招集された。
  (参考)貴族政:代表的なポリスであるアテネでは、
     ドーリア人の攻撃をはねのけながらポリスを形
     成させる過程で、紀元前8世紀ごろまでに貴族が
     政権を独占するようになった。
      紀元前683年には、貴族の中から選ばれた9人
     のアルコン(執政官)(任期1年)が政務を担
     当する・・貴族共和政の形態となった。
      アルコンの任期を終えた貴族が終身議員とな
     るアレオパゴス会議(元老院)が国政や裁判に
     あたった。
  貴族政は、アテネの場合、僭主政を経て、紀元前5世紀
 初め、民主政に移行し・・
  その民主政が堕落して、アテネでソクラテスが処刑さ
 れるような衆愚政の時代となる。
  その後、ギリシャは、マケドニア王のアレクサンドロ
 スの支配下に入る。
  (参考)僭主:せんしゅ、古代ギリシアのポリスで、
     非合法に独裁政を樹立した支配者。
      本来、この語には「暴君」の意は含まれず、
     悪い意味が付加されるようになったのは民主政
     期、特に、紀元前4世紀のプラトン以降・・
      王政と違い、その支配が正統ではないため、
     僭主の地位維持には困難もあり、多くは1代か2
     代で終っている。
      紀元前7世紀~紀元前6世紀の前期僭主と、紀
     元前4世紀~紀元3世紀の後期僭主とに分けられ、
      前者には、コリントのキュプセロス、ペリア
     ンドロス、アテネのペイシストラトス、シキュ
     オンのクレイステネスらがおり、多くは貴族の
     出身で、貴族政の動揺期に貴族と平民の対立を
     利用して独裁政を打立て、民主政への過渡期の
     ポリスにおいて、巧みな政策によって民衆の指
     導者の役割を果し、ポリスの発展に貢献した場
     合も多かった。
      後期僭主には、テッサリアのフェライのイア
     ソン、シラクサのアガトクレス、ヒエロン2世ら
     がおり、前期僭主以上に軍事力を背景に独裁権
     を握り、民主政の形式は守ったが、それも市民
     共同体のためであるよりも、自己の支配権保持
     のためであった。
  (参考)僭主政:せんしゅせい、古代ギリシアのポリ
     スにおける僭主支配の政治体制。
      僭主政は、紀元前7世紀半ば頃~紀元前1世紀
     にまでわたるが、僭主の現れなかった紀元前460
     年~紀元前406年を境にして、前期僭主政と後期
     僭主政とに分ける。
      前者は、貴族政の動揺期、まだ独力で貴族を
     倒すだけの力が平民にない段階において、野心
     家の貴族が、重要な官職や祖国防衛戦での功績
     などを利用して平民の人気を集め、彼らの協力
     と、外国の権力者の援助などを得てクーデター
     を起こし、貴族政を打倒して樹立した独裁政で、
     コリントのキプセロスとその子のペリアンドロ
     ス、シキオンのクレイステネス、アテネのペイ
     シストラトス、サモスのポリクラテスなどが代
     表的な僭主であった。
      僭主は、市民から武器を取り上げ、自身は親
     衛隊や傭兵部隊を擁し、貴族に対しては処刑、
     追放、財産没収などで弾圧した。
      市民一般に対しても、陰謀を企てる機会を与
     えないために、中心市に出て怠惰に時を過ごす
     ことを禁じたり、財源確保のために租税を取り
     立てたりしたが、平民の支持を保つために小農
     民の保護や商工業の奨励に努め、また主要な官
     職は一族で抑えつつも、従来の官職組織や制度
     習慣はできるだけ維持した。
      さらに、詩人や芸術家を保護して独裁政の飾
     りとし、建築事業や土木工事を起こして、中心
     市を美化し、市民の生活に便宜を供し、有力な
     外国勢力や宗教の中心と友好関係を結んで支持
     者を拡大した。
      最悪の政治体制という古代の多くの政治思想
     家の批判にもかかわらず、かならずしも過酷な
     支配ではなかったが、暴君政に堕したものもあ
     り、また、平民の成長につれて独裁政への反発
     が強まったため、多くは2代で打倒され、もっと
     も長く続いた場合も100年であった。
      その崩壊には、平民より貴族のほうが貢献し、
     外国の武力干渉によった場合もあったので、崩
     壊後ただちに民主政になることは少なかったが、
     前期僭主政は、独裁政の維持を追求しながら平
     民の成長を助け、結局、民主政の成立を促進し
     た。
      後期僭主政は、前期僭主政との共通点も少な
     くなかったが、ポリスと民主政の衰退期に現れ
     たという事情から、平民よりも傭兵に頼る軍事
     独裁者の性格が強く、平民の利益を図る姿勢も
     弱かった。
      シラクサのディオニシオス1世、2世やアガト
     クレス、テッサリアのフェライのイアソンなど
     が主要な僭主であった。
     ・
     ・
1391年、スペインで、ユダヤ人の方々に対する大虐殺が起
 きた。
  スペイン南部、アンダルシア州のセビリヤでユダヤ人
 の方々へ対する大虐殺(ポグロム)が起きる。
  これは、その後、各都市に飛び火して行って、悲惨な
 連鎖反応でユダヤの方々は虐殺され、また、キリスト教
 への改宗を強いられた。
  キリスト教による異端審問は、この当時、ヨーロッパ
 の国々で行われ、ローマ教皇庁によって任命された異端
 審問官が巡回して異端審問が行われて、大規模にこの様
 な惨事が起きていた。
  レコンキスタが1492年に完了すると、スペインに統一
 王権が確立した・・そして、同時に権力も手に入れた。
  そこで、この様な惨事が、ローマ教皇庁と一緒になっ
 て発生して行く。
  ユダヤの方々は、人権を奪われ、金融業をやらざるを
 得なかったが(職業の選択の自由を奪われていた)、こ
 のユダヤの方々への多額の債務(借金)を無くそうとい
 う悪計・魂胆もあった。
  また、スペインの王権所持者は、ローマ教皇との親交
 を深める事も考えていた。
  キリスト教の異端審問は、すべてローマ教皇(法王)
 の管轄下で行われていた。
  ローマ教皇側もこの異端審問の権力をスペイン王へは
 渡そうとしなかった。
  (スペイン王は渡してくれと言ったが拒否された・・
 卑劣な権力の取り合いが演じられた)
  異端審問はセビリアから始められていた。
  (参考)ローマ教皇のインノケント三世は、第4回ラ
     テラノ公会議を招集し(1215年)、ユダヤ人を
     キリスト教社会から区別することを決めた。
      そして、排除するため、ユダヤ人であること
     を示す黄色の標識を付けさせると決めた。
      ペストで多くの人々が死ぬと、病原菌で病気
     が起きるという知識のないキリスト教徒たちは、
     ユダヤ人が井戸に毒を投げ入れたと、ユダヤ人
     の方々を弾圧した。
      キリスト教聖職者も、教会の説教壇の上から
     「ユダヤ人はすべてのスペインを奴隷化する」
     と洗脳し、煽った。
      煽られた暴徒はユダヤ人の方々を襲った。
.
1492年、総べてのユダヤ人の「スペインからの追放」・・
  この頃、どこのヨーロッパでも、ユダヤ人を虐(しい
 た)げていた。
  ユダヤ人たちは、特別な服を着せられ、また、特定の
 道や地区(ゲットー)に住まわされた。
  14世紀から、ユダヤ人の方たちは、ローマ・カトリッ
 ク教会から憎悪されていて、敵意に晒(さら)された。
  1878年、反ユダヤ主義運動。
  1881年~1914年には、ロシアの組織的大虐殺が起きる。
  これを逃れて200万人のユダヤ人が、アメリカへ渡った。
     ・
     ・
1945年8月18日、占守島(しゅむしゅとう)の戦い
  戦争が終わっているこの時、ソ連(現ロシア)が日本
 領・千島列島の最北端の占守島に奇襲攻撃をして来た。
  完全にポツダム宣言受託によって停戦となっている後
 の「不法なソ連(現ロシア)の攻撃だった」。
  日本軍はポツダム宣言受託に伴って、武装解除中であ
 った・・
  その様な時に攻めて来たのだった。
  日本軍の守備隊と戦闘となり、日本軍は優勢に戦い、
 勝っていた。
  しかし、ポツダム宣言受諾の停戦という軍命によって、
 日本軍は、8月21日に、戦闘行為を止め・・
  日本とソ連は合意の上で「8月21日、ソ連艦の艦上で降
 伏文書を調印している・・
  『日本とソ連は公式に停戦している』のだ・・
  1045年8月23日には、また、日本とソ連は、合意の上で
 武器を置き、武装解除がなされた。
  故に、当然に、この後の日本の領土の千島列島と北方
 四島を略奪行為はやってはいけないのに、その許せない
 行為をソ連は行った。
  この様な不法なソ連(現ロシア)の攻撃と領土掠奪で
 あった・・
  そして、さらに、日本兵と一般人は拉致され、ロシア
 (旧ソ連)へ連れて行かれた。
  因みに、占守島には、日魯漁業の缶詰工場があって、
 多数の日本人の工員(女子工員を含む)が居た・・民間
 人総数2000人。
  そして、この拉致行為のシベリア抑留で、日本の民間
 人も含めて多くの方々が亡くなった・・これから、この
 補償も求めなければならない。
  また、この様な不法行為についての謝罪を求めなけれ
 ばならない・・
  そして、今後このような事が起きないよう、教科書に
 記載し、正しい事実を伝えることを要求しなければなら
 ない。
  そして、さらに卑劣な事は、この様な合意の上での日
 本軍の武器が置かれて、武装解除なされた後に、完全な
 る停戦の後に、ソ連(現ロシア)は、日本領の千島列島
 と北方四島を不法に占拠し続けている。
  そして、恥の上塗り的に、それを「戦いで取ったのだ」
 と嘯(うそぶ)いている。
  (参考)嘯く:ほらを吹く、平然として言う、大きな
     ことを言う・・
  占守島は、日本が負けたのではない。
  日本は勝っていたが、終戦となって、君たち(ソ連)
 と合意して、日本は武器を置いたのだ。
  日本との合意の武器を置く式も行なったではないか・・
  ソ連(現ロシア)は、勝って終わったのではない・・
  武器を置いた後の日本領・千島列島と北方四島を君た
 ちは盗ったのだ。
  合意して武器を置いた後に盗ったのだ。
  千島列島を、早く日本へ返還しなさい。
  また、日本の固有の領土の北方領土は論外だ。
  この事を、君たちの子供たちへ教科書に書いて教えな
 さい。
  君たちは、日露戦争もそうだが、占守島(しゅむしゅ
 とう)の戦いでも負けたのだ。
  占守島の戦いの史料・・
  日本:堤不夾貴中将 、戦力:8480名、損害:死者256
    名、負傷者762名、
  ソ連:アレクセイ・グネチコ少将、戦力:8824名、死
    者:516名、行方不明(負傷)など1051名
  (参考)1945年8月15日に、トルーマン・アメリカ大統
     領は、ソ連のスターリン首相へ通知していて、
     その通知の中には、日本の降伏の受け入れ分担
     が通知されていて、千島列島をソ連の分担地域
     とはしていなかった・・そして、ソ連は、停戦
     がなされたことを知っていたのだ・・
      ソ連は樺太の南(北緯50度線以南)のみとさ
     れた・・
      ソ連は、分担域について異議を申し立てる。
      停戦状態になったことについて、異議申し立
     てはしていない・・この点からも停戦は成立し
     ている。
.
1945年8月~9月、ソ連が、日本領の千島列島と北方四島を
 不法占拠したが・・北海道新聞が以下を報じた。
  ソ連が、日本の領土の北方四島を占領するとき、アメ
 リカが援助していた。
  極秘に艦船貸与したり、訓練もしたりしていた。
  北海道新聞が探り当てた(2017年12月30日付報道)
  「プロジェクト・フラ」作戦、北海道の根室振興局が
 調査
  【根室】1945年8、9月に行われた旧ソ連軍による北方
 四島占領作戦に、米国が艦船10隻を貸与していたことを、
 根室振興局が米国とロシアの専門家による研究成果など
 を突き合わせ、明らかにした。
  米国はソ連の対日参戦に備え、大量の艦船の提供だけ
 でなく、ソ連兵の訓練も行っており、米国の強力な軍事
 援助が四島占領の背景にあったことが浮かび上がった。
  振興局の調査結果によると、樺太南部の返還と千島列
 島の引き渡しと引き換えに、ソ連の対日参戦が決まった
 1945年2月のヤルタ会談の直後、ともに連合国だった米ソ
 は「プロジェクト・フラ」と呼ばれる合同の極秘作戦を
 スタートさせた。
  米国は1945年5~9月に掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、
 護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与。4~8月
 にはソ連兵約1万2千人を米アラスカ州コールドベイの基
 地に集め、艦船やレーダーの習熟訓練を行った。
  コールドベイには常時1500人の米軍スタッフが詰め、
 ソ連兵の指導に当たったという。
  訓練を受けたソ連兵と貸与艦船は樺太南部や千島列島
 の作戦に投入された。
  8月28日からの択捉、国後、色丹、歯舞の四島占領作戦
 には、米の貸与艦船10隻を含む17隻が参加。ソ連軍は各
 島で日本兵の武装解除を行い、四島の占領は9月5日まで
 に完了した。
  こうした歴史的史実が判明したのは、根室振興局が2015
 年度から取り組む北方領土遺産発掘・継承事業がきっかけ。
  各国の資料を集める中で、ソ連が樺太南部と千島列島
 での作戦に投入した全艦船を調べ上げたイーゴリ・サマ
 リン氏(現ロシア・サハリン州戦勝記念館科学部長)の
 論文「1945年8月のサハリンとクリール諸島上陸作戦に参
 加した軍艦と補助船舶の注釈付きリスト」(2011年3月)
 を入手した。
.
2019年6月5日、中国の弾圧強化を憂慮する。
  天安門事件30年・・
  この日の読売新聞の社説が報じた・・以下、その抜粋・・
  人権や言論の自由を巡る状況は、著しく後退した。
  強権的な監視国家へと変貌しつつある中国の現状を深
 く憂慮する。
  中国の共産党政権が、民主化を求めた学生らを鎮圧し、
 多数の死傷者を出した天安門事件から、4日で30年となっ
 た。
  共産党は民主化運動を「反革命暴乱」と断じ、武力に
 よる弾圧を正当化した。
  党はその後、一党支配体制の強化による安定と経済成
 長を最優先し、民主化に背を向けてきた。
  事件に関する情報は隠滅され、事件自体を知らない若
 者も少なくない。
  真相が解明されぬまま、風化が進んでいるのは遺憾で
 ある。
  看過できないのは、習近平政権が反体制派や少数民族
 への締め付けを加速していることだ。
  人権派弁護士や活動家が大量に拘束され、不当な長期
 拘留が続く。
  事件の再評価を昨年求めた大学教授は停職処分となっ
 た。
  中国西武・新疆ウイグル自治区では、イスラム教を信
 仰する少数民族のウイグル族らが「治安維持」などの名
 目で、収容施設に拘束されている。
  米国務省は、3月の報告書で、200万人以上が収容され
 ている可能性を指摘した。
  中国では、ネット空間が政府の情報管理に利用され、
 強権統治を支えている。
  党や政府に批判的な言動が、人工知能(AI)や監視
 カメラで即時に把握され、封じ込められる。
  「国家の安全」を理由に正当化できる措置ではない。
  習氏は「一つのモデルですべての国の問題を解決する
 ことはできない」と述べ、米欧が求める民主化を受け入
 れない意思を示す。
  中国が豊かになれば政治改革に踏み出す、という日本
 や欧米の見通しは甘かったと言わざるを得ない。
  ポンペオ米国務長官は「中国が国際システムに融合さ
 れ、開かれた寛容な社会に変わるという期待は打ち砕か
 れた」と述べた。
  人権や自由などの基本的価値観すら共有できない中国
 が、「平和発展」を唱えても国際的な信頼は得られまい。
  通商や安全保障、ハイテク技術をめぐる米中対立の根
 源には、異質な大国への不信があることを習政権は認識
 すべきだ。
  共産党は、国民の生活水準を向上させ、一党支配への
 不満を抑え込んできた。
  だが、これまでのような高度成長は望めない。
  貧富の格差が広がり、環境汚染などの社会問題も深刻
 化している。
  習政権は、強権的な手法をどこまで拡大し続けるのか。
  国際社会は問題点を粘り強く指摘し、改革を促さねば
 ならない。
.
2019年6月18日、国連のテロ担当がウイグルを視察・・
  「迫害の正当化」の懸念が・・
  この日の読売新聞が伝えた・・以下、抜粋・・
  [北京=中川孝之]国連のテロ対策担当のトップが、中
 国当局によるイスラム教徒への迫害が指摘される新疆ウ
 イグル自治区を視察したことが波紋を呼んでいる。
  中国はテロ対策と称し、少数民族のウイグル族などを
 収容施設に隔離しており、米政府は、この措置を追認す
 る事につながりかねないと懸念している。
  視察したのは、ロシアの外交官出身のポロンコフ国連
 事務次長で、2017年に創設された国連テロ対策局の初代
 局長に任命された人物だ。
  中国外務省によると、中国側の招待で13日~15日に北
 京と新疆ウイグル自治区を訪問した。
  楽王成(ルォーユーチョン)外務次官はポロンコフ氏
 との会談で、「国境をまたいだテロ作戦の脅威」につい
 て意見交換し、「広範な共通認識」に達したという。
  米国務省のサリバン副長官は14日、国連のグテレス事
 務総長との電話会談で「中国は、ウイグル族などへの抑
 圧をテロ対策として正当化し続けている」と指摘し、ポ
 ロンコフ氏の訪中に強い懸念を伝えた。
.
2019年6月29日、中国人権問題、解決訴え・・ウイグル人ら
  この日の読売新聞が伝えた・・以下、抜粋・・
  中国政府の抑圧的な政策に抗議する少数民族の団体な
 どでつくる組織が28日、主要20カ国・地域(G20)首脳
 会議に合わせ、大阪市内で記者会見し、人権問題の解決
 を訴えた。
  中国・新疆ウイグル自治区出身の亡命ウイグル自治区
 出身の亡命ウイグル人らで作る「自由インド太平洋連盟
 (事務局・日本)のラビア・カーディル会長(72)は「
 ウイグルの様に弾圧、虐殺があった場所は他にどこにも
 ない。
  300万人が強制収容所に入っていると言われている」と
 指摘した。
  その上で、G20首脳会議で議題となることに期待感を
 示した。
  記者会見には、中国からの香港独立を主張する活動家
 の陳浩天氏(28)も出席し、中国本土への犯罪容疑者の
 移送を可能にする逃亡犯条例の改正案について、「香港
 の名声と利益を損ない、中国にしかメリットをもたらさ
 ない」と批判した。
.
2019年7月5日、香港デモ、イギリスが中国批判
  良好関係が一転、非難合戦に
  標記の表題で、この日の読売新聞は伝える・・抜粋
  香港から中国への犯罪容疑者引き渡しが可能にする逃
 亡犯条例改正案の撤回を求める香港の抗議運動を巡り、
 香港の旧宗主国である英国が繰り返し懸念を表明し、中
 国側との非難合戦に発展している。
  経済的な結びつきを優先し良好な英中の関係に、影を
 落としかねない状況。
  英国のハント外相は2日、英BBCで、1984年調印の英
 中共同宣言について触れ、「香港の人々に対する基本的
 な自由を規定した者だ。
  我々は香港の人々を支持している。
  国際的な法的合意が守られなければ深刻な結末を招く」
 と中国側をけん制した。
  また、保守党の党首を争うジョンソン前外相も「香港
 住民を完全に支持する」と中国との対決姿勢を示してい
 る。
  メイ首相も3日、「香港の高度な自治と自由は尊重され
 るべきだ」と述べた。(中略)
  こうした英国要人の発言に対し、中国外務省の副報道
 局長は3日の定例記者会見で、「今だに往年の植民地主義
 者の幻影にひたり、他国の問題に上からの目線で口出し
 する悪習に執着して入るようだ」と猛反発した。
  ロンドンでも、中国・駐英国大使が3日に記者会見し
 「英国政府は暴力的な法律違反者の味方をしている。
  半年が自由について語るのは大間違いだ。
  植民地下の香港には自由も民主主義も全く無かった」
 と批判した。
  英外務省は3日、駐英国の中国大使を呼び出し、「不正
 確で容認できない」と抗議した。
.
2019年7月5日、中国、ウイグル抑圧拡大
  この日の日付で読売新聞が報じた・・抜粋・・
  中国新疆ウイグル自治区で、少数民族ウイグル族と漢
 族が衝突した大規模抗議行動から5日で10年となる。
  中国当局は大規模抗議行動後、ウイグル族の管理を強
 化し、テロ対策を名目に施設に収容するなど強権的な姿
 勢を強めている。
  その対象は、同じくイスラム教を信じる近隣諸国から
 の来訪者にまで広がっている。
  (写真説明)バザールを警戒ずる武装した警官。
      バザール内には至り所に中華風の飾りつけが
      施されていた。
  ウルムチ市内のバザールには4日、銃を持って巡回する
 武装警察の姿があった。
  モスクの入り口には顔認証用ゲートが新設され、入場
 者を制限している様子がうかがえた。
  ウイグル族女性は「ちょっとしたことでも(当局に)
 疑われるような気がして怖い」と小声で不満を漏らした。
.
2019年、今、中国でウイグルの人たちが中国政府によって
 拘束されている。
  その数は、300万人という膨大な人数・・
  そして、中国政府は、「テロ対策だ」と言っている。
  日本人も、昔、戦争後、中国共産党政権によって拘束
 された。
  その全員が、日本へ帰って来たわけではない。
  帰れない人たちが大勢いた。
  多くの人たちが、そのままの状態になった。
  多くの日本人の人々が亡くなった。
  帰って来た人たちが語ったことは、まったく怖ろしい
 「中国共産党政権による洗脳教育だった」。
  帰りたいから、必死に中国共産党政権の言いなりにな
 った。
  身体に自ら染み込ませた。
  生きるか死ぬかの環境の中で、自由になりたいと願い、
 自らの体に言い聞かせ、発狂する者も居た。
  食糧も豊かではない中、中国共産党政権も、中国工作
 員にまで洗脳できそうではない者から排除し、処理する
 ことも行なわれた。
  性格まですっかり変わり、中国の思い通りになった者
 から解放された。
  ・・というより、中国の宣伝分子となって日本へ返さ
 れた(というより、日本へ、中国工作員と変わった者た
 ちから送り込まれた)。
  今、中国共産党政権によって拘束されている300万人の
 ウイグルの方々にも、昔、日本が経験したことと同じこ
 とが、行なわれている。
  結局、中国共産党政権にとって都合のよい者が、中国
 共産党政権の良否判断によって、人が人によって査定さ
 れて、処理されている。
  廃棄処分もそこにはある。
  そこには、ウイグルの方々の人権は「まったく二の次」
 とされている・・無視されている。
  世界は、それを、傍観している・・のか・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  ロシア(旧ソ連)よ!
  千島列島と北方四島を日本に返還しなさい。
  終戦後の1945年8月18日に、占守島に奇襲攻撃して来た
 行為を反省しなさい。
  占守島の戦いで日本は戦いに勝っていたのに、終戦後
 であったので、ソ連(現ロシア)と合意の上で日本は武
 器を置いた・・日露間の戦争はここに終わった。
  しかし、日露の合意の終戦の後、日本兵の居ない日本
 領の千島列島と北方四島をソ連(現ロシア)は不法に占
 拠し始めた。
  千島列島の最北端の占守島の戦いで、日本が武器を置
 く式を日露合意で行ったことを遵守せよ!
  だから、君たちには、日本の領土を勝手に盗る行為を
 行なう正義の論理は無い。

# by suba28 | 2019-07-11 04:55 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)649E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年5月~1896年6月)

題:(増補版)649E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年5月~1896年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年5月、鉄道局が、イギリスに60ポンド軌条を発注した。
  1890年代から1900年代にかけて、日本の鉄道はめざま
 しい発展をとげた。
  営業キロが約2.5倍となり、貨物輸送力は9.5倍となっ
 た。
  紡績部門を中心として、日本に産業革命が進行した。
  そして、それが、製鉄、製鋼部門を基軸として重工業
 への転換がなされて行った。
  これに伴い資本主義経済体制も急速に発展し、それが
 さらなる鉄道の発達を促した・・そして、それが、資本
 主義のさらなる発展へ好結果をもたらした・・経済体制
 の発展と鉄道の発展は相関関係のある展開だった。
  鉄道は、日本の陸上交通の最重要の座を占めるに至っ
 た。
  法的整備もなされ、外国の技術も取り入れる一方、独
 自技術での自立も図られ、規格化もなされて行き、私設
 鉄道の17社も国有化されて行く。
  山岳地帯が多い日本に、長大トンネルへの果敢な挑戦
 もなされた。
  そして、蒸気機関車の完全な国産化への挑戦・・
  その中で、日本での量産体制の確立を前提とした試作
 品としての輸入があった。
.
1896年5月、伊万里鉄道会社に免許状が下付された。
  伊万里駅と有田駅を結ぶ計画だった。
  建設目的は、有田で造られる陶磁器(有田焼)の伊万
 里港への輸送と、九州鉄道と伊万里との連絡、そして、
 伊万里の炭田で産出する石炭の輸送だった。
.
1896年5月、筑豊鉄道の若松駅~折尾駅間の複線が開通した。
  日本経済の発展と近代化に重要で大きな影響を与えた
 北部九州の筑豊炭田・・
  1887年以降、石炭生産量を増大させた・・
  それと共に、従来から「川ひらた」と称する小舟に頼
 っていた運送・・遠賀川の水運による運搬・・石炭輸送
 が隈界に達した。
  1889年、陸運の必要性が高まるにつれ、筑豊興業鉄道
 が創立された。
  筑豊鉄道の役割は、筑豊炭田の石炭の若松港への陸送
 だった。
  これによって、筑豊石炭の輸送力は大幅に強化された。
  そして、この筑豊の石炭は、全国出炭量の半数を占め
 るに至る・・「月が出た出た」との讃歌もできる・・
.
1896年6月3日、露清密約
  李鴻章・ロバノフ協定ともいうモスクワで締結された
 秘密条約(ロシアは、外務大臣のロバノフと財務大臣の
 ヴィッテ)
  ロシアと清のいずれかが、日本との戦いになった場合、
 互いに共同して戦うための「清とロシアの共同参戦条約」・・
  参戦の義務を負うという条約・・
  そして、東清鉄道敷設などについて・・
  秘密交渉による条約の締結となっている。
  この条約での不平等な点は、ロシアが、東清鉄道敷設
 権を、清国から大幅に奪うという不平等性だった。
  これによって、領土欲の強いロシアは、南満洲へ勢力
 拡大をはかった。
  清国の李鴻章(りこうしょう)とロシアのロバノフ外相
 は、軍事的共同参戦の相互条約を結んだ。
  韓国を含む露清両国が攻撃されたとき、両国軍の相互
 参戦と単独不講和を約した。
  清国は、ロシアに屈して、ロシアに東清(とうしん)鉄
 道の敷設権と、それによる軍隊輸送権を与えた。
  日本は、当然、この密約の存在を知らなかった。
  日本は、日露協商を結ぼうという政策を進めた。
  しかし、この密約によって、この経済的発展を期した
 日露の条約締結もならなかった。
  この条約締結の失敗もあって、日本は。日英同盟を選
 択した。
  露清密約は、日露戦争の遠因の一つになっている。
  日露戦争の時、中国は、この条約によって、日露戦争
 に参戦していた。
  日本は知らなかったが・・日露戦争の形は、『日・露
 中戦争』となっていた。
  つまり、この戦争の戦勝国・日本は、ロシアだけでは
 なく『中国に対しても戦勝国となっていた』。
  中国は、秘密条約であった為、敗戦国としての立場か
 らの「日本に負うべき事々から免れていた」。
  当然、この露清密約(1896年6月3日)は、この後の日
 露戦争ではなく、『日・露中戦争』の状態となっていて・・
 日露戦争(日・露中戦争)の原因の一つとなっていて・・
  ロシアは、この秘密条約の締結によって、大幅な満州
 地域権益を中国・清に認めさせ、得ていたが・・不平等
 な条約だった・・
  ロシアが、清に、この不平等を認めさせた屁理屈が・・
 ロシアが三国干渉で日本から遼東半島を取り返してあげ
 たではないか、というものだった・・だから、見返りを
 得たいという要求の仕方だった・・子の屁理屈で実現し
 たものだった。
  この東清鉄道は、シベリア鉄道のチタ(ザバイカリエ
 地方の首都)から分岐し、満州の西北の満洲里(まんし
 ゅうり)から東南の綏芬河(すいふんが)の間を横断し、
 ウラジオストックに至るという本線と・・
  中間のハルビンから遼東半島の旅順・大連を結ぶ南満
 州支線とからなっている・・
  ロシア軍が、広域な軍事作戦行動ができるという軍事
 計画に基づいてなされた・・
  これによって、ロシアの強烈な支配権が強行に実施し
 得るというように計画された。
  この年に、ロシアは本線の施設権を得て・・支線を、
 この後の1898年に得た・・
  このロシアだけではなく、イギリス・フランス・ドイ
 ツの欧州列強4が、中国分割をした。
  1898年には、ドイツが、宣教師殺害事件で中国へ言い
 掛かりをつけ、山東半島の膠州湾を租借した。
  ロシアは、遼東半島の旅順・大連を取り・・内蒙古、
 沿海州、奉天、長春、ハルピン・・そして、朝鮮・・
  イギリスは、威海衛・九龍半島を取り・・安徽省(あ
 んきしょう)、上海、蘇州、湖北省、漢口、四川省、重
 慶、香港・・
  フランスは、広州湾を取った・・広東省、広州、広西
 省、雲南省・・
  そして、1899年、乗り遅れたアメリカも、美味しいも
 のが欲しいと清の門戸開放宣言をした。
  一番取っていたのが、ロシア・イギリス・フランスだ
 った・・
  ドイツは、山東省で露英仏の5分の1だった。
  日本は「無し」・・あるとすれば福建省あたり・・そ
 して、日露戦争に勝利して、ロシアから旅順(侵略では
 ない)・・清も参戦していた・・
  台湾は、日清戦争の勝利で清国より得ている・・
  しかし、世界はプロパガンダして、日本は侵略したと
 過大に嘘宣伝(漫画などで)されている。
  アメリカは、フィリピンなどを広大に取っている。
  ポルトガルはマカオ(1887年)
  ロシア・イギリス・フランス・ドイツの清を貪(むさ
 ぼ)る歴史は書かないがこちらの方が侵略である・・
  その1例・・ホーチミン国家主席の怒りの言葉・・
  「・・彼ら(フランス)は学校より多くの監獄を建
 て、容赦なく愛国者を殺害し、蜂起を血の川に溺れさ
 せた・・」(1945年の独立宣言に込められた怒り)
  アメリカも、フィリピンの非戦闘員の女性や子供を
 を含めて600人全員を皆殺しに逆する事例などがあり・・
  オランダも、インドネシアにおける事例があり・・
.
  (今日の言葉)
.
  題:フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領殿・・
    中国の一帯一路のお金を借りに行って、頭を下げて、
    「お金を貸してください」と言う必要はありません。
    貴国の貨幣であるフィリピン・ペソをどんどん刷って、
    貴国の国内の社会資本へ投資をすれば済むのです。
    下手に中国の「名目上の金」を借りると、フィリピン
   ペソでの返済は嫌だと言われて、担保にした貴国のどこ
   かの貴重な社会資本を担保に取られたりするというリス
   クが生じます。
.
紀元前8世紀、ギリシャの植民地が、イタリア半島の南部に
 作られた。
  ここは、「マグナ・グラエキア」と呼ばれた。
  ローマ人は、軍事力は強いが文化的には遅れていた。
  このイタリアのギリシャ植民地で、イタリア人たちは、
 ギリシャ文化の多くのものをギリシャ人たちから教えて
 もらった。
  ローマ字(ラテン文字)も、ギリシャ人たちから教え
 てもらったアルファベットから出来上がった。
.
紀元前304年、ギリシャなどの地域を領有したセレウコス
 1世が、インドのマウリヤ朝の王・チャンドラグプタの
 優位を認めて4州の支配権を譲って講和を結んだ。
  メガステネスは、このマウリヤ朝の首都・パータリプ
 トラへ赴いた。
  古代のギリシャ・・そのギリシャの宗教や神々は、エ
 ジプトから受け継いだ。
  そして、この古代ギリシャには、アジアから連れてき
 た奴隷たちが居た。
  この古代のギリシャ人の頭の中には、アジア人への蔑
 視観があった。
  アリストテレスも、「アジアの異民族に対しては動植
 物のように(扱ってよい)・・」と言っているくらいだ
 った。
  古代ギリシャ人の奴隷観は、「四本足」の羊や牛と同
 様、「人の足」を持った家畜だった。
  アリストテレスは、アジア人を「先天的に劣った人間」
 と考えていた。
  そして、この古代ギリシャ人の世界観は、「世界の周
 辺には様々な怪物たちが居る」と考えていた。
  紀元前4世紀~紀元前3世紀に、メガステネスは、イン
 ド王の宮廷へ大使として派遣された。
  (参考)メガステネス:ギリシャを含む大きな領域を
     治めたセレウコス朝に仕えたギリシャ人。
      このセレウコス朝とインドのマウリヤ朝の間
     で協定が結ばれた後、インドを赴いた。
      そして、「インド誌」を表わした。
      その中に、今まで以上に怪物を著わした。
  この様なギリシャ人の考え方が、ローマ人にそのまま
 引き継がれて行った。
  この様な非人間的な者への恐怖を形ばかりのもの、形
 骸化して、その恐怖を回避したい、安心を得たいとした。
  キリスト教聖書には奴隷の記述があるが、そして、キ
 リスト教は奴隷の所有を認めているが・・
  このローマ時代のキリスト教徒も、また同様に、奴隷
 と怪物の世界観を持っていた。
  キリスト教で教父と言われるアウグスティヌスも、「
 神の国」の中で怪物を論じている。
  ローマ時代の世界観は、ヨーロッパ(ローマ世界)は
 自由な市民=真の人間の住む地域とし・・、
  アジア(アフリカも)は一段と劣った人間たちの住む
 地とした。
  そして、アジアを「隷属」を特徴とする地域だとした。
  さらに、その外に、怪物たちの住む地域があるという
 世界観を信じていた。
  この時代のキリスト教徒たちの世界観だった。
     ・
     ・
1793年、アメリカ人のホイットニーによって、効率的な綿
 繰り機が作られた・・
  これによって、奴隷の必要性がさらに増した。
  アメリカの奴隷制は、さらに進展した。
  アメリカという国は、結局のところ、「北部政権」が
 牛耳っている。
  2017年の騒ぎ・・南部の象徴であるリー将軍の銅像を
 取り壊せという北部の圧力・・
  それに抗する南部の方々・・
  南北戦争のアメリカ南部の英雄「リー将軍」の銅像を
 壊せ、いや壊させない・・という圧力に抵抗する騒ぎで
 あった。
  アメリカ政権を牛耳るアメリカ北部政権にとって、「
 リー将軍の銅像」は、目の上のたん瘤の様に見えるのだ。
  この南北戦争前の19世紀の1800年代・・、
  イギリスは、産業革命が飛躍的に進展し、アメリカの
 綿花の必要性・需要が急激に増大した。
  アメリカとイギリスの戦争=独立戦争の頃は・・アメ
 リカのイギリスからの綿布輸入は途絶した。
  ここで、アメリカの自給自足への道は開かれた。
  綿花栽培が奨励され、ニューイングランド地方には、
 木綿工業が発展して行った・・
  イギリスに比べればわずかではあったが・・
  この時、画期的な事が起きた・・
  短繊維の陸地綿(アップランド・コットン)が導入さ
 れた。
  この綿花は、効率的に機械処理が出来た。
  1793年、アメリカの発明家イーライ・ホイットニーに
 よって、現代の機械的な綿繰り機が作られた。
  ホイットニーの綿繰り機は、ワイヤスクリーンと小さ
 なワイヤフックを組み合わせたものを使って綿を引き抜
 き、ブラシが綿くずを連続的に取り除いて詰まりを防い
 だ。
  これは、アメリカの綿花産業に革命をもたらした・・
  しかし、綿花労働者(黒人奴隷の方々)の需要が急速
 に増加したことで、アメリカに奴隷制の成長がさらに進
 展した・・アメリカに鞭の音が鳴り響いた・・。
.
19世紀前半、この頃・・アメリカは、カトリック陰謀論に
 取りつかれた。
  アメリカは、キリスト教プロテスタントの国であるが・・
  この清らかなプロテスタント国であるアメリカが、キ
 リスト教カトリックの陰謀で乗っ取られてしまうという
 妄想に取りつかれた。
  新聞もこの事を掻き立てた。
  スペインやポルトガルのカトリック国や、カトリック
 のバチカンは、「陰険な悪の一味だ」と言った。
  卑劣な事に・・これが高じて、19世紀末に、米西戦争
 が起きた。
  スペインが、カトリック国だということで、敵意が抱
 かれた(1940年代は日本だったが・・)
  アメリカには、カトリックの圧政から人民を救出する
 のだという「大義名分」が掲(かか)げられた。
  怖ろしいことに・・キューバ、プエルトリコ、フィリ
 ピンというスペインの植民地が、次々と攻撃された。
  そして、駆逐されて、陥落した。
  アメリカ国内のキリスト教カトリックの修道院さえも
 焼き討ちにあった。
  アメリカ国内のキリスト教プロテスタント教会が、こ
 の様な卑劣な運動に加担した。
  パラノイア、いわゆる「偏執病」の傾向が、アメリカ
 という国にはある。
  この様な性癖が、妄想思考が、アメリカ政治に染みつ
 いている。
  アメリカには、キリスト教の「選民思想」がある。
  アメリカは、キリスト教の神の特別な恵みによって建
 国された「例外的な国である」・・と考える。
  アメリカの独立宣言と憲法は、奇跡に等しいキリスト
 教の神の導きによって我々に与えられたものだ・・と考
 える。
  だから、アメリカ人は、何をおいてもそれを守らなく
 てはならない・・と考える。
  キリスト教を信じてない人々を敵視した・・
  また、その様なものと協調すると余計な負担を背負い
 込むと考えた。
  アメリカが享受する自由と繁栄を他国へ渡してはなら
 ない・・と考えた。
.
1924年9月1日、伊沢多喜男が台湾総督になった(~1926年
 7月16日)
  この「伊沢多喜男」を著書に書いた大西比呂志フェリ
 ス女学院大学教授は・・その著書に書く・・
  「伊沢多喜男は、台湾総督時代、台湾の人々に寄り添
 った統治を行ない、後々まで台湾の人々から慕われた」
 と。
  そしてまた、「伊沢多喜男は、決して理想通りには行
 かない政治の世界に、畏(おそ)れも持ちながら情熱を
 傾け、国家と国民に奉仕しようという意思が旺盛だった」
 と・・「真の政治家だった」と・・
.
1932年5月15日、犬養毅が没した(76歳)、五・一五事件
  犬養 毅(いぬかい つよし、1855年6月4日(安政2年4
 月20日)~1932年(昭和7年)5月15日)は、日本の政治
 家。位階は正二位。勲等は勲一等。通称は仙次郎。号は
 木堂、子遠。
  「犬養毅」を書いたノンフィクション作家の堀川恵子
 氏(書名:狼の義)は言う・・
  「政治とは、様々な代償や犠牲を払いながらも、その
 時代に求められている理想や、あるべき姿を見せて行く
 こと」と・・
  そして、この書で、犬養毅の偉大さを掘り起こした。
  「犬養毅は、政党政治を守るために、死ぬ覚悟で首相
 になった人」と・・
  一部にある「軍部に遠慮した」という声を否定した。
  「犬養毅は、軍部に激しく批判を与え、また、極左と
 極右の双方を危険視し、時勢に抗(あらが)っていた」
 と・・
  そして、「弱者の人々に、とことん優しかった」と・・
  そして、「政治の世界はきれいごとばかりではないが、
 犬養毅たちが命懸けで築いて来た政党政治が、どんな苦
 闘の道を歩んで来たかを(皆様に)考えてほしい」・・
 と、堀川氏は言う。
  ラジオなどのあらゆる記録音源、あらゆる書物にアク
 セスして、堀川氏は犬養毅を掘り起こした。
  (参考)犬養毅の最後の日・・1932年(昭和7年)5月
     15日はよく晴れた日曜日だった。
      犬養は、総理公邸でくつろいだ休日を過ごし
     ていた。
      夫人も、また、秘書官や護衛らも外出してい
     た。
      犬養は、往診に来た医者に鼻の治療を受けて
     いた。
      体にはなんの異常もなく、犬養は医者に「体
     中調べてどこも異常なしだ」。
      「あと100年はいきられそうじゃわい」と言っ
     ていた。
      17時30分ごろ、警備も手薄の中、海軍の青年
     将校と陸軍の士官候補生の一団が、ピストルを
     ふりかざして乱入して来た。
      襲撃犯の一人である三上卓は、犬養を発見す
     ると即座にピストルの引き金を引いた。
      しかし、偶然にも弾が入っておらず不発に終
     わり、その様子を見た犬養は両手を上げて、有
     名な言葉「話せば分かる」を口にした。
      そして、将校たちを応接室に案内した。
      応接間に着くと「靴ぐらい脱いだらどうだ」
     と述べた。
      彼らに煙草を勧めたが、三上は「何か言い残
     すことはないか」と返した。
      その言葉を聞いた犬養は何かを言おうとした
     が、興奮状態にあった山岸宏が「問答無用、撃
     て」と叫び、別働隊であった黒岩勇が応接間に
     突入し・・犬養毅を銃撃した。
      同時に、三上も発砲した。
      三上の弾丸は犬養の頭部に命中した。
      襲撃者たちは犬養に重傷を負わせるとすぐに
     去って行った。
      女中たちが駆けつけると、犬養は顔面に被弾
     し、鼻から血を流しながらも、意識ははっきり
     していた。
      縋(すが)りつく女中を制して「いま撃った
     男を連れてこい」・・
      「よく話して聞かすから」・・と述べた。
      22時ごろに大量の吐血をしたが、驚く周囲に
     「胃にたまった血が出たのだよ。心配するな」
     と、逆に励ますほど元気だった。
      そして、見舞いに来た家人に「9発撃って3発
     しか当たらぬとは、軍はどういう訓練をしてい
     るのか」と嘆いたという。
      しかし、その後は次第に衰弱した・・23時26
     分に至り、絶命した
.
1940年5月10日、ドイツのヒトラーが、欧州戦線の西部戦線
 の大攻撃を始めた。
  ナチス・ドイツ軍は、戦車2500両、飛行機3000機とい
 う従来では考えられない大規模で、従来の戦闘スケール
 をはるかに超える攻撃態勢の機動部隊で侵攻を始めた・・
  ロンメル将軍の率いる戦車部隊は、要塞「マジノ線」
 を迂回した・・
  そして、アルデンヌの森を突破し、なだれ込んだ。
  鮮やかな電撃戦で、英仏軍を壊滅させた。
  2週間でダンケルクの港まで追い込んだ。
  オランダやベルギーは、相次いで降伏した。
  作戦の開始からわずか4週間の1940年6月14日、フラン
 スのパリが・・無血で占領された。
  ドイツは165師団を動員していた。
.
1949年、小国のルクセンブルクが、第二次世界大戦後の1949
 年に、NATOに加盟し、徴兵制度を採用し、1968年に
 志願制に移行した。
  これによって、永世中立、および、非武装政策を放棄
 した。
  日本の必要以上の「戦争忌避教育」・・そして、「自
 虐教育」によって、軍事力に対する正確な、理性的な判
 断が出来ない人間が増えている。
  卑劣なのは公共放送のNHKでさえ不公正な自虐放送
 を行なっていて・・この傾向を作っている。
  また、外務省という「大切な部署にいる官僚」である
 のに、その軍事力に関する考え方が空虚となっていて、
 まったく空白になっている状況・・
  日本の大きな損失が起きている・・
  軍事力の抑止力など「考え及ばない外務省担当者」と
 なっている。
  避けるだけでなく、「理屈なく嫌悪」し、否定する。
  これでは十分な国の仕事は出来ない。
  空論の非武装論の上にいる。
  「北朝鮮の核弾道ミサイルが着弾するまでは生きてい
 られるのだ」という論理・・
  何もないなら何もされないという言い方・・
  そんな論理が通るなら、「人類、苦労はしてない」。
  「何もない者たちこそが虐殺された人類の歴史」を見
 ていない。
  抵抗しない者、抵抗力がない弱い者こそが餌食となっ
 て、駆逐されて、絶滅されてきた。
  この地球上に「一切の軍事力を保有していない国家」
 や「常備軍は保有していないが、制限された軍事力は保
 有している国家」は・・『まったく、無い』・・
  もう一度言う・・まったく、無し・・
  ただ、太平洋上の小さな島々、大西洋上の小さな島々、
 インド洋上の小さな島々・・それしかそのような状態し
 かないというのが現状・・
  地球上には、「どこもかしこも軍隊を持った国々」と
 なっている。
  キリスト教精神の大本のバチカンでさえ「軍の組織を
 持っている」・・
  そして、その軍は、ローマ法王(教皇)の直属となっ
 ている。
  バチカンは、第二次世界大戦中、必死に非武装中立の
 立場を取ったが、そんなことは何の役にも立たず、空襲
 や占領による攻撃を受け、被害を受けた。
.
1970年代後半、朝鮮戦争の始まった原因について、この頃
 の日本人の多くは、メディアなどの洗脳工作によって、
 「北朝鮮や中国の側に立った考え方」をしていた。
  アメリカや韓国が攻め込んだ・・と・・
  今(2019年)は、「朝鮮戦争は、1950年6月25日に、北
 朝鮮軍が、突然、38度線を越えて韓国に攻め込んで来た」
 と誰でも知っているが・・
  1970年代の後半の当時は、「韓国とアメリカが、北朝
 鮮に攻め込んだから朝鮮戦争は起きた」・・と、まった
 く逆のことを固く信じていた。
  日本中の左派系メディアだけでなく、権威ある学者や
 知識人、新聞、雑誌が、こぞってその様に書いていた。
  それほど、中国や北朝鮮の「日本への世論操作の手」
 は伸びていた。
  1970年代と言えば、北朝鮮による日本人拉致も繰り返
 し「盛んに」行われていた。
  日本政府は、見て見ぬふりをしていた。
  しかし、中国や北朝鮮の工作は、止むことなく今・現
 在(2019年)も行なわれている。
  韓国は、その功がそうして「赤化してしまった」。
.
2015年2月19日、朝日新聞の慰安婦報道を外部から検証して
 きた「朝日新聞『慰安婦報道』に対する独立検証委員会」
 が報告書を発表し・・
  1991年から1992年にかけての朝日新聞の慰安婦報道に
 ついて「強制連行プロパガンダ(宣伝)」と断定した・・
  この朝日新聞のプロパガンダによって、国際社会に誤
 った事実が拡散し、日本の名誉を傷つけていると結論づ
 けた。
  (参考)独立検証委員会:朝日新聞は2014年8月5日、
     6日付で、自社の慰安婦報道を検証する特集(
     以下、検証特集)を行った。
      遅きに失するものではあるが、過ちを認めて
     訂正をするのであれば悪いことではない。
      しかし、その検証は、自社の慰安婦報道に対
     するこの間の批判に反論、言い訳する目的でな
     されたものだった。
      その上、謝罪の言葉がなかったことや福島原
     発事故をめぐる誤報と相まって、かつてないほ
     ど朝日への批判が高まった。
      そこで社長があらためて謝罪会見を開き、「
     第三者委員会」なる組織に検証を依頼すること
     になった。
      7人の委員からなる「第三者委員会」は、同
     年12月22日付で報告書を公表した。
      その報告書は朝日の検証の問題点をある程度、
     指摘している点は評価できる。
      しかし、朝日の慰安婦報道がおかしくなった
     背景への分析がなく、その上、国際社会に与え
     た影響を分析する部分では、委員会としての見
     解をまとめられず、各委員の異なる見方が併記
     されるなど、不十分なものといわざるを得なか
     った。
      そこで私たちは昨年12月に以下のメンバーで、
     朝日新聞「慰安婦報道」に対する独立検証委員
     会(以下、独立検証委員会)を発足させた。
  朝日新聞にはこの慰安婦問題以外にも数々の片手落ち
 の主張がある。
  その意味で、朝日新聞という新聞は、偏頗(へんぱ、
 片寄っていて不公平なこと)な新聞であるが、その論の
 浅薄さの論理のサンプルの一つが、「防衛よりも対話で
 日本の平和を守ろう」という主張がある。
  朝日新聞は、この論理が好きで、度々、この主張の論
 理展開をしている。
  この論理は、小学生でもわかる「当たり前の論理なの
 である」。
  こんな論理を振りかざして、事がなせるなら、誰も苦
 労はしない。
  「対話」で「そうですね」「そうしましょう」で済め
 ば苦労はいらない。
  その先が重要で肝心なのである。
  朝日新聞は、その手前で論理展開をしないで、肝心の
 所は逃げているのである。
  卑怯な論理に逃げ込んでいる。
  国連で長く色々な討議をして、際限なく討議されて、
 事を荒立てなく治めようと努力がなされているが、これ
 で戦争が無くならないから、国連は苦労をしているので
 ある。
  国連で話を尽くしても戦争は無くなったか?
  朝日新聞よ 無くなったか??・・否である。
  朝日新聞は、この事実に対し、目をつぶっていて逃げ
 ている・・卑怯な状態となっている・・
  どのように答えるのだ・・
  朝日新聞の言うことは、手前の論理で浅すぎる・・
  それで済ませる不完全な理想論なのであり、理想過ぎ
 るのである。
  子供に諭(さと)すような浅い論理で誤魔化している・・
 未完成の理想論で誤魔化す朝日新聞となっている・・
  それで済んだら歴史から戦争は無くなっているし、苦
 労はいらない。
  現実は、朝日新聞の様な空理空論のようには行かない・・
  朝日新聞は、良く中国や韓国に利する発言をするが、
 慰安婦問題の時も、ありもしない嘘を言って、「韓国の
 言い分」の言い方をし過ぎて来たが・・?
  結局、朝日新聞の捏造(ねつぞう)で、嘘記事だった・・
 そして、朝日新聞は謝罪したが・・
  この「防衛しないで」という空理空論も、「日本に防
 衛させたくない中国」の利する肩を持っているのではな
 いか?
  かつて、あちこちで日本を裏切った朝日新聞・・
  数々の日本裏切り行為の過去がある新聞、この論理も
 それではないのか?
.
2016年以降に、アメリカの財政状況はどんどん悪化した。
  アメリカの民主党を繰る金融業者たち・・
  アメリカ知識人たちは、この輩たちを毛嫌いしている。
  バラク・オバマ元大統領(民主党)は、この金融業者
 のゴールドマン・サックスの会長を務めたルービンにべ
 ったりだった。
  そして、アメリカの知識人は、アメリカの最大の脅威
 は、アルカイダよりアメリカの財政事情だと言った・・
  アメリカの連邦議会の予算局とホワイトハウス予算局
 は、「2016年以降、アメリカ政府の財政状況はどんどん
 悪化していく」と言っている・・
  医療費や年金は、絶対に切れないので、まず最初に削
 られるのは「国防予算」だと言っている・・
  そこまでアメリカは借金大国になっていて、国が潰れ
 る形になっている・・と・・
  アメリカに頼る日本の安全保障体制は、破綻する恐れ
 がある・・
  アメリカの財政事情が、どんどん悪化する状況で、こ
 れが避け得ないと予測されている状況にある・・
  日本は、早めに自力で立つ手段を講じなければならな
 い。
  気休めを言う輩の言葉に惑わされている「時間は無い」。
.
2017年8月、何故か?・・この頃(2017年8月)、船の衝突
 の話が多く耳に入った。
  マラッカ海峡で、アメリカ海軍のイージス艦が衝突し
 た・・、
  船腹に大きな穴が開いた。
  自力航行は出来るものの、沈没は免れたものの、任務
 の遂行が出来なくなった。
  このイージス艦は、中国が自国海域だと主張した南シ
 ナ海の「自由航行作戦」をしたばかりだった。
  また、ベトナム船が、この南シナ海で、中国船に、故
 意に体当たりをされて・・沈没している。
  この海域は、「自国の海域だ」と主張する中国の行動
 となっている。
  この衝突は、「黙って見てばかりではないよ」「おと
 なしくしてばかりしていないよ」と主張している中国の
 行動の様・・
  皆が、核を持ち・・
  核を使った戦争をしたら・・
  勝利する国は無い・・という、絶大な破壊力を持った
 兵器を持ち合って・・
  結局、戦争の出来ない世界において・・
  相手は何もやって来ないという状況の中において・・
  自分の主張を・・
  自国の主張を・・
  ある程度、強硬に主張した方が得だ・・という、考え
 方が・・働いているのだ・・
  だんだん・・ことは、大きくなる方向へ行くのだろう。
.
2019年、「日本は侵略した」と回答しないと、「正解にさ
 れない」という大学入試となっている。
  だから、大学予備校でも、「侵略した」と教えられて
 いる。
  フィリピンとインドネシアに日本は侵略したとプロパ
 ガンダ(嘘宣伝)されているが、これは間違いで、嘘。
  フィリピンもインドネシアも戦後に独立で出来た国・・
  そして・・第二次世界大戦のとき、日本は、フィリピ
 ンを植民地支配していたアメリカと戦った。
  そして、戦後、独立して、解放されたフィリピンとな
 った。
  インドネシアも同様で、インドネシアという国は無か
 った・・戦後に独立してインドネシアとなった。
  日本が戦ったのは、植民地支配していたオランダだっ
 た・・
  『日本は、アジアの方々と戦ったのではない』。
  真実を捻じ曲げて、アジアの方々が統治する国を日本
 は侵略したと教え・・それが、アジアの国々を植民地と
 してうまい汁を吸っていたアメリカやオランダに都合が
 良い形だった・・
  このプロパガンダに日本の人々はまんまと乗せられて
 来た・・そしてまた、「自虐史観」に陥(おちい)らせ
 られて来た・・
  「日本は、アジアの人々の国を侵略したのではない」・・
  日本は解放軍であった・・
  戦った相手は、アメリカやオランダやイギリスなどの
 アジアの方々を植民地としてうまい汁を吸っていた国が
 『敵だった』。
  しかし、このプロパガンダは、大学の入試でも「日本
 は侵略した」と回答しないと正解にならないという様に
 仕組まれていて、根が深い問題となっている。
.
2019年、日本に原子爆弾を持たせると、キリスト教国のア
 メリカは、キリスト教の教義の「目には目を」に洗脳さ
 れ、頭にこびりついているから、日本に仕返しの原爆投
 下をされると思っている。
  それが怖くて、日本に原子爆弾を持たせることが出来
 ない。
  アメリカの最大の同盟国に軍隊を持たせない事をして
 いるし、原子爆弾も持たせない。
  アメリカという国の一国だけで用が足りればいいが・・
  今まではそれでよかったが・・
  アメリカだけで事が処せればそれでよいが、昔からア
 メリカと対抗して来た中国は、豊かになりたいと、アメ
 リカへの対抗意識は隠して、爪を隠して、ここのところ、
 やって来たのだが・・、
  豊かになった今、豊かになって、目的を達して来ると、
 隠していた爪を出して来た。
  南シナ海に軍事基地をしっかり作り、「太平洋を半分
 くれ」と言い出す始末・・
  北朝鮮を属国化して、ソ連と手を結び、そのソ連・北
 朝鮮と組んだ中国には、アメリカ一国で対抗できない状
 況となっている。
  事大主義の韓国は、機を見るのに敏感だから、今やア
 メリカ陣営から離れて行った。
  ますます、アメリカは孤立化して来ている。
  中国には、アメリカの背後から狙う核兵器があるとい
 う。
  北極海を挟んで飛んで来ると思っていたミサイルが、
 反対側の方から飛んで来るという・・
  アメリカの想定したミサイル防衛網をまったく無力化
 しているという。
.
2019年5月24日、中国の銀行が破綻(はたん)した・・国家
 管理となる。
  中国経済は破綻している。
  今、中国に本物の「金融危機」が迫っている。
  その前兆である「包商銀行」が国家管理となるという
 事態が『このたび起きた』。
  (参考)中国、内蒙古の地銀を実質国有化:日本経済
     新聞、2019年5月24日
      中国人民銀行(中央銀行)と中国銀行保険監
     督管理委員会は24日、内モンゴル自治区の地方
     銀行、包商銀行の経営を接収したと発表した。
      「重大な信用リスクが起きたため、預金者と
     その他の顧客の合法的な権益を守るため」と(
     表面的には)理由を説明している。
  内部情報に詳しいものが行なうインサイダー取引のA
 TM(現金自動預け払い機)の役割をする行為の様だっ
 た。
  そのおかしい経営を立て直すために、中国建設銀行に
 委託され再編が試みられている。
  おかしくなった中国の金融機関の統合と再編が進む方
 向にある。
  中国の国としての破綻要因として言われていることは・・
  造り過ぎたマンションがあちこちに群れとなって存在
 する。
  実質的には空き部屋ばかりの空のマンション群・・そ
 の数:1億2000万軒という・・話にならない多さ・・
  そのローン残高は、6500兆円という苦笑いがでるべら
 ぼうな巨額・・
  その住宅ローンが爆発するという恐怖が「中国に存在
 する」・・
  中国の中間層の人々の反乱は時間の問題・・いつ起き
 てもおかしくないという。
  それより大きな問題が・・国家管理がなされていない
 と言っていい状態の「中国債務」・・
  いったい中国の債務はいくらあるのか?・・という問
 題・・
  BIS(国際決済銀行)は、3,750兆円の債務が中国に
 あると言っている。
  (参考)国際決済銀行:各国の中央銀行の相互の決済
     をする、1930年に設立された国際的な組織。
  GS(ゴールドマン・サックス)のエコノミストは、
 9900兆円だと指摘した。
  社債発行が、2018年の1年間だけで1兆ドル(108兆円)
 も発行していて、自転車操業となっている。
  短期の借り換え、借り換えという状況・・
  また、中国の地方政府の債務はどうなって居るのか?
  また、中国の国有企業の債務はどうなって居るのか?
  海外資産の売却の迅速化が要請されている。
  緊縮予算にもならなくて、相変わらず「軍拡」は続行
 している。
  中国新幹線も、赤字なんて何のその、赤字も構わず続
 行されるという「シッチャカメッチャカ状態」・・87兆
 円の赤字も無視されている・・
  国際通貨の米ドルの調達が・・「綱渡り状態」・・
  中国は、そのため、個人の両替を大幅に制限している。
  また、海外への米ドル持ち出しも年間で5万ドルまでと
 している。
  そして、海外への送金も3000ドルを上限とした。
  子供が海外留学していたら、この3000ドル(32万円)
 では生活できない・・
  中国庶民は困って、金塊を使う手やビットコインを使
 う手などで中国資金を持ち出している状況・・
  ラスベガスのチップまでが資金持ち出しの操作に使わ
 れているという「庶民の悲鳴がある」・・マカオでチッ
 プを仕入れて、ラスベガスでアメリカドルに換えている。
  中国経済は長持ちしない・・
  https://www.youtube.com/watch?v=D28OjJRnmI8
.
2019年6月9日、香港で100万人規模のデモがあった。
  デモ隊への攻撃がなされる。
  香港警察は「暴動」と表現した。
  香港から資本が逃げ出している・・
  香港の資本流出は、この1年、進んできたが・・この様
 な事態を迎え、今後はさらに加速する・・
  個人レベルでも香港脱出が盛んに行われている・・
  香港に残る人々は、その様な金のかかること、金が必
 要なことが「出来ない人たち」・・切羽詰まった方たち・・
  止む無く命がけの抵抗行動となっている・・
  香港で生きるしかないという切羽詰まった中でのデモ
 となっている・・
  このデモに参加した人たちはICカードを使わなかっ
 た・・
  デモに参加した痕跡を残す事を恐れたからだった・・
  だから、地下鉄の切符も行列を作って、皆は、切符を
 買った・・後からの弾圧を恐れた・・
  中国が繰っていること・・何が起きるかに恐怖した・・
  記録が永久に残ることを恐れている・・
  今の認証技術は、後ろ姿でさえ個人を特定できるとい
 う・・
  https://www.youtube.com/watch?v=D28OjJRnmI8
  産経新聞(2019.6.26)によると・・、
  香港の民主派団体メンバーらは26日、日本、米国、英
 国などの在香港総領事館を訪れ、28日から大阪で始まる
 20カ国・地域(G20)首脳会議で香港問題を取り上
 げるよう求める請願書を手渡すなどした。
  26日夜には、香港中心部で集会を開催。
  中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条
 例」改正案の完全撤回を要求するなど、香港政府への圧
 力を強めている。
  参加した民主派メンバーは香港メディアに対し、「各
 国首脳が香港の一国二制度を守るため、中国の習近平国
 家主席に圧力をかけることを希望している」と述べた。
  中国外務省の耿爽報道官は26日の北京での記者会見で、
 「G20は国際的な経済協力を話し合う場であり、主に
 経済、貿易、金融分野の問題を討論する」と指摘。
  「G20は香港問題を討論しないし、中国も香港問題
 を話し合うことに絶対に同意しない」。
  「完全に中国の内政に属することだ」と述べ、G20
 の場で香港問題を取り上げることについて改めて拒否し
 た。
  因みに、G20で、韓国のためにプログラムを割くの
 は無駄との状態となっている・・誠実で正直な行動をと
 らない韓国は、この様な状況に国際的になっている。
.
2019年6月15日、中国経済・韓国経済がおかしい・・その様
 な中、日本も「とばっちりを受けるリスクが大きい」・・
  韓国は、対中輸出がGDPの10%ある(日本はその3分
の1以下、3%弱)
  中国に頼り切る韓国・・
  韓国の経常収支が赤字に転落した。
  韓国通貨のウォンがだんだん下がって来ている。
  在韓国の外資が、資金を韓国外へ逃がすという状況に
 なっている。
  韓国の実体経済、及び、金融の面で、首がだんだん締
 まって来ている。
  中国経済の影響を大きく受けている状況にある。
  韓国の基幹産業の半導体が、中国のファーウェイと大
 きくかかわっているのがその要因の一つ・・これから、
 さらに本格化する・・
  韓国が、対中依存し過ぎたことのしっぺ返しとなって
 いる・・
  金融危機に、また韓国がなるという心配が、大きくな
 っている・・
  中国は外貨不足になっているが・・
  チャイナプレミアムが「なされる恐れがあり」・・こ
 うなったら、中国の息の根は止まる可能性が大きい・・
  中国の弱味・・チャイナ・プレミアム・・
  「ファーウェイは潰す」ということになっている可能
 性が存在する・・そうなったら中国共産党も生き残れる
 か?
  この様に揺れる経済状況の中にあって・・日本も安穏
 な政策を行なっていられないという今がある・・
  この様な中国と韓国の中で、日本の危機が、受け身で
 生じて来るという状態の中にある・・政府に「その自覚
 はあるのか?」・・
  対中国の、日本のかかわりが3%だからと安心していら
 れない・・経済には乗数効果がある・・
  リーマンショックの対米比率が、その頃の日本は2.8%
 だった・・この時以上の負の効果が起きる・・
  (参考)乗数効果:投資などの独立的な支出の増加が、
     その有効需要が所得増加の過程を経て一連の波
     及効果を出尽くしたとき、最初の独立的支出の
     数倍の所得の増加をもたらす効果のことをいう。
  しかし、韓国大統領・文在寅(ムン・ジェイン)は、
 どこに根拠があるのか、「韓国経済は大丈夫だ」と言う。
  逆に、「韓国経済は良い方向にある」と言う始末。
  国民が苦労していることが、心配していることが、分
 かっているのか?
  韓国経済を支える韓国財閥は崩壊の途にあるのに?
  そして、ファーウェイについては、「使わない」とは
 言わない・・「民間に任せる」と「きれいごと」にして
 いる。
  (参考)中国GDPの伸び:2018年、6.6%
        貨物輸送量 :2018年、7.1%
        消費の伸長 :2018年、8.4%
    固定資産投資の成長率:2018年、5.9%
        輸入額成長率:2018年.16.4%
        輸出額成長率:2018年.14.1%
.
2019年、中国は、沖縄に工作員と資金を送り込んでいる。
  政党や新聞社、テレビ局などに潜り込んだ「平和ボケ
 教」の信者たち・・
  ケント・ギルバート氏と長谷川幸洋氏の対談本「ケン
 ト&幸洋の大放言」・・
  副題が、「中・韓・沖縄にはびこるペテン師たちの正
 体」。
  そして今、沖縄の常識のある知識人が言う言葉・・
  「沖縄を本当に愛してくれるのらば、潤沢な豊富な資
 金を県民へ渡さないでください」・・餌の如くの資金を
 与えないでください・・である。
  莫大な特別予算、補助金、特殊利権に群がる・・
  右も左も金の亡者ばかり・・
  中国系の人間が今の沖縄を動かしている・・
  反基地運動をやっているのは、主に、本土の極左、在
 日、韓国居住者という現状・・
.
2019年、フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領殿・・
  中国の一帯一路のお金を借りに行って、頭を下げて、
 「お金を貸してください」と言う必要はありません。
  貴国の貨幣であるフィリピン・ペソをどんどん刷って、
 貴国の国内の社会資本へ投資をすれば済むのです。
  下手に中国の「名目上の金」を借りると、フィリピン
 ペソでの返済は嫌だと言われて、担保にした貴国のどこ
 かの貴重な社会資本を担保に取られたりするというリス
 クが生じます。
  中国なんかに関わりを持たず、帰国のフィリピンペソ
 をどんどん刷って、帰国の必要な社会資本への投資にそ
 の金を使用すればいいのです。
  何も難しい話ではありません。
  逆に、中国と関わって、話を難しくすることは止めて
 下さい。
  他の国々の方々も同じですので、よくご検討ください。
  経済的裏付けのない中国の金を借りるリスクもありま
 すのでご注意ください。
  ドゥテルテ大統領殿・・ユメユメ、貴国の自国通貨の
 借金で、貴国が破綻するなど絶対ありませんので、これ
 を気になさらないようにしてください。
  誠実に必要な金であれば、いくら刷っても世間は何も
 言えませんから、建設的な金なら「中国などから借りず
 に」どんどん自国通貨を刷って使ってください。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸-1)
  アイヌの人々は、日本の先住民ではありません。
  日本の先住民は、アフリカ由来の日本人です。
  アメリカの先住民が、アフリカ由来のアメリカ・イン
 ディアンの方々であるのと同じです。
  アイヌの人々は、13世紀に、蒙古に追われて日本に来
 ました(モンゴルの樺太侵攻、1264年の樺太アイヌへの攻
 撃など)
  2019年4月16日に衆議院と参議院で成立した「アイヌの
 人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推
 進に関する法律(俗称:アイヌ新法)」は、科学的に、
 また、歴史的に正しくありません・・間違った記述があ
 ります・・また、日本人がアイヌの人々を虐げてもいな
 いのに、さも、虐げ行為をしている様な法案名となって
 いる・・日本人を虐げている法案名となっている。
  この法律の間違った記述を「正しく改正する」声を上
 げましょう。
  また、日本人の遺伝子・DNAを持った何千年も前の
 紀元前の縄文人が、北海道の縄文遺跡から出た縄文人の
 歯の遺伝子分析から科学的に立証されています。
  日本人が先住民族なのです・・そのような痕跡もない
 アイヌの人々を先住民だとしてしまいました。
  (追伸ー2)
  また、予備校が、キリスト教団体から金を渡され、予
 備校がしきりに、なんだかんだとキリスト教系の大学を
 宣伝している・・宗教的に不公正状態となっている。
  また、今・現在、予備校は、日本が侵略したと教え、
 日本を貶めている・・新たな歴史的史料に基づく教育も
 していない。
  「日本は侵略した」と回答しないと正解にされないと
 いう大学入試となっている。
  だから、大学予備校でも「侵略した」と教えなければ
 ならないと言う。
  フィリピンやインドネシアは、日本が侵略したとプロ
 パガンダ(嘘宣伝)されているが、これは嘘である。
  フィリピンもインドネシアも戦後に独立で出来た国で、
  第二次世界大戦のとき、日本は、フィリピンを植民地
 として支配していたアメリカと戦った。
  そして、戦後、独立してフィリピンとなった。
  インドネシアも同様で、インドネシアという国は無か
 った・・戦後に独立してインドネシアになった。
  日本が戦ったのは、植民地支配をしていたオランダで
 あり、日本はアジアの方々と戦ったのではない。

# by suba28 | 2019-07-05 04:31 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)648E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年5月~1896年5月)

題:(増補版)648E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年5月~1896年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年5月22日、流刑10年に処せられた閔泳駿(後に閔泳徽
 と改名)、赦免となる。
  朝鮮半島には李氏朝鮮が政権を握っていた。
  対外的に門戸を閉じ、閉鎖的な朝鮮の状況の中で、日
 本は、1876年の日朝修好条規によって、朝鮮を開国に踏
 み切らせてあげた。
  その様な朝鮮末期には保守的な党の事大党があった。
  事大党は、1882年の壬午事変から朝鮮政界を支配した。
  この事大党は、1882年の壬午事変で大院君(李氏朝鮮
 末期の王族、高宗の実父)を排除した閔氏一族を中心に
 形成された・・
  閔氏は朝鮮の一族に過ぎなかった。
  この保守的な事大党は、長く朝鮮に君臨して来た宗主
 国(中国の清)に従属することを主張して政権の維持を
 図った。
  何かと清の指図(さしず)を仰(あお)ぎ、清の軍人・
 袁世凱に特使を送って「その意見のお伺いを立てていた」。
  閔泳駿は、この袁世凱に推薦されて事大党に属してい
 た。
  1884年の甲申政変の後はさらに宗主国・清に接近して、
 優勢で羽振りも良かった・・日本との修好条規の規定も
 空洞化されたりもしていた。
  実権を握る閔氏一族の頂点には閔妃が居た。
  高宗も閔氏の専横に、朝鮮の将来に不安を抱いていた。
  しかし、その時代も日清戦争の後は一転していた。
.
1896年5月23日、野球の日本最初の国際試合が行なわれた。
  第一高等学校(後の東京大学教養学部など)野球部が、
 横浜の外国人野球チームと試合を行なった。
  結果は、29対4で、第一高等学校が大勝利した。
  この旧制一高ベースボール部と横浜在留アメリカ人の
 試合は、横浜公園でなされた。
  この時の、日本の旧制一高は、捕手以外は、皆、素手
 でやった。
  また、この頃の野球は、雨が降ると蓑笠(みのかさ)
 を付け、頭には「白はちまき」を巻き、腰に越中フンド
 シをし、ワラジばきといういで立ちだった。
  面白いエピソードとして・・ある遊撃手が袴(はかま)
 を着て出場したところ、「礼節を知る選手」として相手
 チームから絶賛された・・しかし、本当のところは、実
 際はゴロを後逸しないためだった。
  また、当時のストライク・ゾーンは三つあり・・
  目から胸までを「ハイボール」、腰までが「フェアボ
 ール」、膝までを「ローボール」と言っていた。
  そして、打者は、審判に向かって「余はハイボールを
 欲す」と予告した。
  そこに球が来なければ「ボール」となった。
  現在の様に「相手の弱点を狙わず」・・欲するものを
 与えて勝負する・・それが「正々堂々の試合」とされた
 という・・
  尚、この時、大負けしたアメリカチームは、再試合を
 申し込んで来た。
  その時のアメリカチームは、アメリカ東洋艦隊の選り
 すぐりのオールスターチームを結成して、再戦した。
  結果は、日本チームが、32対9の大勝で返り討ちにし、
 連勝した。
  この時、正岡子規は、第一高等中学の野球選手で・・
 1890年に卒業し、帝国大学文科に入学した。
  記録に(1896年分の外国試合のみが記載されていて)・・、
  1896年5月23日、在留米国人と横浜で試合し、29対4で
   日本の勝利。
  1896年6月5日、在留米国人と横浜で試合し、32対9で
   日本の勝利。
  1896年6月27日、米軍艦デトロイト号乗組員チームと
   向ヶ丘で試合をし、22対6で日本の勝利。
  1896年7月4日、在留米国人と米軍艦オリンピア号の連
   合チームと、横浜で試合をし、12対14で日本の負け。
   この試合には、アメリカチームにプロ野球選手のチ
   ャーチが入っていた・・
   野球発祥国・アメリカは、連敗続きで、あちこちか
   らの選りすぐりチームを編成して、是非、勝ちたか
   ったのだった。
.
1896年5月23日、播但鉄道の生野駅~和田山駅間の線路延長
 免許を受けて着工された。
  播但線(ばんたんせん)は、現在、兵庫県姫路市の姫
 路駅から兵庫県朝来市の和田山駅に至る西日本旅客鉄道
 (JR西日本)の鉄道路線(地方交通線)で・・、
  兵庫県の中央部を流れる市川・円山川に沿って山陽本
 線と山陰本線を結ぶ陰陽連絡路線。
  この路線は多くの鉄道ファンを引き付ける路線だった・・
 関西で代表的な非電化路線であり、1972年に蒸気機関車
 が廃止される時と、1992年3月14日の客車列車が全廃され
 る時には、多くの鉄道ファンが沿線に詰めかけた。
.
1896年5月23日、伊万里鉄道の建設免許状の下付がなされた
  (伊万里駅~九州鉄道有田停車場間)
  開業は、1898年8月7日、有田駅~伊万里駅間。
  この路線の建設の目的は、有田町で造られる陶磁器(
 有田焼)の伊万里港への輸送が主だった。
  九州鉄道と伊万里との連絡や、伊万里地区の炭田で産
 出する石炭の輸送もあった。
  しかし、物価騰貴の影響を受け、経営がうまく行かず、
 開業から1年たらずで九州鉄道に合併された(1898年12月
 28日、九州鉄道に合併)
.
1896年5月25日、「駅務従事員並ニ機関事務従事員へ徹夜食
 料支給方ノ件」制定(鉄運乙第721号、明治29年度から支
 給)
.
1896年5月26日、ダウ・ジョーンズ社(チャールズ・ダウ)
 がダウ平均株価を初めて発表した。
  12銘柄による平均株価としてスタートして、1928年以
 降は30銘柄で構成されている。
  チャールズ・ダウは、アメリカのコネチカット州スタ
 ーリング生まれ・・ハイスクールを中退後、新聞記者と
 なる。
  主に、ニューヨーク証券取引所での相場に関する記事
 を書いた・・
  この取材経験から「株価はすべての事象を織り込む」
 というダウ理論を提唱した。
  1882年に、エドワード・ジョーンズやチャールズ・バ
 ーグストレッサーと共に、ダウ・ジョーンズを設立した。
  当初は、手書きの経済ニュースレターをウォール街の
 経済関係者に配布を始めた。
  このニューズレターが、やがて発展して、1889年7月に
 『ウォールストリート・ジャーナル』となった。
  1896年のこの年、ニューヨーク証券取引所の株価動向
 を示す指標として、同紙に、ダウ・ジョーンズ工業平均
 株価を掲載した。
.
1896年5月28日、敦賀鉄道局出張所を福井に移し、福井鉄道
 局出張所と改称した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:NHKの自己チェック・システムは機能していない。
    NHKの学校放送などにも、教科書並みの検定制度を行なえ! 
    検定制度に「NHKの学校放送を組み入れよ!」
.
1793年、アメリカの黒人の方々への奴隷労働の強要
  綿花を効率的に処理できる綿繰機(コットン・ジン)
 が発明された・・そして、また、この機械は・・
  盛んに、黒人の方々を、アメリカ白人によって、機械
 の様に、人家畜として、非人道的な奴隷として、強制労
 働が行なわれていた。
     ・
     ・
1940年~1941年頃、アメリカは、日本へ奇襲をしていた。
  中国で、アメリカは、れっきとした正規のアメリカ軍
 兵士によって、日本へ奇襲をさせていた。
  日本のハワイの真珠湾攻撃を、アメリカは、盛んに「
 奇襲だ、奇襲だ」と言いつのっているが・・
  これは、アメリカが、、自分たちが中国で、日本を奇
 襲していることを隠し、薄めるためだった。
  アメリカは、日本の行動のすべてを知っていた。
  日本大使館の連絡行為を、すべて盗み取っていた。
  郵便物は、勝手に開封した・・開けていた。
  日本大使館の通信も盗聴し、暗号解読をして、日本の
 動きのすべてを知っていた(郵便物開封など卑劣な方法
 で暗号を知るという行為をしていた)
  ハワイへ向かう日本艦隊のその総べてさえ知っていた。
  アメリカは、それらのことを知らない振りをした・・
  日本艦隊がアメリカへ進む海を、アメリカは「真空の
 海」と称していた。
  戦後になって、中国での奇襲が知られると、アメリカ
 は、しらばっくれた・・
  それでも追及されると、「ボランティアだ」と卑劣な
 嘘を言った。
  しかし、アメリカ大統領が、正規の命令書を書いてい
 ることが明らかになった。
  その命令書が、アメリカ公文書館で発見され、その存
 在が確認された。
.
1941年8月、この頃、アメリカ大統領のルーズベルトの頭の
 中は・・「日本と戦争をする」で・・いっぱいだった・・
  そして、「戦争に勝って、日本から永久に軍備を取り
 上げる」だった。
  まだ、戦争が起きるか? 否か?の時にあってである。
  戦争を回避しようなどという考え・・避ける気などま
 ったく無かった・・
  日本とアメリカの戦争が始まる3か月も前に、すでに、
 アメリカ大統領のルースベルトは、日本と戦争をすると
 いう意思を『明確に』持っていた。
  日本が一生懸命「戦争回避の努力」をしても、この様
 なアメリカで、まったく無駄だった
  ルーズベルトは、イギリスのチャーチルへ、この事を
 語っている。
  このことが、『確かな事実』となっている。
  ニューファンドランド湾の沖合に停泊したイギリス艦
 の船上で会談した時だった。
  アメリカが、「日本が奇襲した」とか何とか言ってい
 るのは、作り上げられたプロパガンダである・・アメリ
 カの筋書き通りに進んでいるだけだった・・
  「すべて、アメリカが仕掛けを作って」始まった日本
 との戦争だった。
  「アメリカの陰謀」で戦争は始まった・・
  その翌年の1942年春でも、この事が証明された。
  この戦争を作り出したアメリカ大統領のルーズベルト
 の所へ、ソ連のモロトフ外相がやって来て、その会談の
 中でも、この時も、ルーズベルト大統領は、「日本は永
 久に軍備を持てない国にする」とその筋書きを言った。
  アメリカの軍事史家のマイク・シェリーも・・、
  「アメリカ政府は、1942年から、戦後の日本を独立し
 た外交政策が実行できない国にする」・・「日本から永
 久に自主防衛能力を奪うと決めていた」と言った。
  今・現代、北朝鮮の核ミサイルの攻撃の脅威にさらさ
 れている日本の姿は、この時、すでに決まっていた。
.
2000年~2009年、アメリカ白人の急速な高齢化
  アメリカの白人の45歳以下の人口は、840万人も減って
 いる。
  それに対し、白人の45歳以上の人口は、1260万人も増
 加している。
  アメリカの白人は、急速に高齢化している。
  これに対し、ヒスパニックの人たちは、若年多産状態
 にある。
  2009年、白人の老人が一人死ぬたびに、白人の赤ん坊
 は一人弱、生まれている。
  ヒスパニックの場合、老人が一人死ぬたびに、ヒスパ
 ニックの赤ん坊は9人生まれている(白人の場合の9倍以
 上)。
  2020年代には、アメリカの青少年の過半数は「非白人
 になる」。
  さらに、20年後(2042年頃)には、アメリカの白人は、
 半数以下となる・・アメリカの白人は、過半数を割る人
 種となる。
.
2001年1月20日、ジョージ・ブッシュがアメリカ大統領とな
 った(ブッシュ・子)
  アメリカ財政が、おかしくなった・・
  そのデーター事例・・
  ブッシュ大統領(子)の政権の時、アメリカのヘッジ・
 ファンド業者のトップ25人の総年収が、何と!アメリカ
 大企業の会長500人の会長・経営者の総収入より多いとい
 う事態となった。
  しかし、こんなに稼いでいる者たちの納税額は、「極
 端に少なかった」。
  こんな状態だから、アメリカは、財政破たん状態に陥
 (おちい)って来る。
  ヘッジ・ファンド業者に対する増税を「行なわせまい」
 と暗躍して、必死に阻止したのが「民主党の議員たち」
 だった。
  この連中の中に「ヒラリー・クリントン」も居た。
  何しろ、ヘッジ・ファンド業界の巨額な政治資金の7割
 が民主党へ貢(みつ)がれていた。
  因みに、トランプ大統領は共和党。
.
2006年4月、犯罪の巣窟であるNHKの報道局スポーツ報道
 センターのチーフプロデューサーが、カラ出張で総額約
 1762万円を横領し逮捕された。
.
2006年6月、犯罪集団と化しているNHKの横浜放送局職員
 が、知人の名前を使って保険証を偽造した。
.
2006年7月、NHKの山口放送局長が、カラ主張などで約51
 万円を着服した。
.
2006年8月、NHKのスポーツ報道センターの職員2人が、
 8万~10万円を着服し、減給と譴責処分となった。
.
2006年8月、NHKのスポーツ報道センターの職員が、経費
 精算の際に私的な会食の領収書を添付して約15万円を着
 服した。
.
2006年8月、民放のテレビを契約対象外として50年以上も受
 信料を未徴収であったことが判明した。
.
2006年9月、NHKサービスセンター職員が、入場売上を過
 少申告して約370万円を着服し懲戒免職となった。
.
2006年10月、NHKの富山放送局長が、万引きで逮捕され、
 停職3ケ月となった。
.
2006年10月、NHKエデュケーショナル社員が、児童買春
 をし、翌年の2007年に発覚し、逮捕された。
.
2006年12月、NHK職員が、電車内で男子大学生の下半身
 に触れ、現行犯逮捕された。
.
2006年12月、NHK政策局ディレクターが、大麻取締法違
 反(所持)の現行犯で逮捕された。
.
2007年1月、NHKの熊本放送局長が、女性スタッフにセク
 ハラで懲戒処分となった。
.
2007年3月、NHK職員が、川崎市の市道で男性をはね、死
 亡させ、業務上過失致傷容疑で逮捕された。
.
2007年3月、NHK報道局経済部男性記者が、深夜に住居侵
 入容疑で現行犯逮捕された。
.
2007年4月、NHKの松江放送局記者が、おにぎり1個を万
 引きし、窃盗罪で20万円の罰金刑を受けた。
.
2007年4月、NHKアナウンサーが、渋谷区内で強制わいせ
 つで現行犯逮捕された。
.
2007年6月、NHK政策局青少年こども番組部ディレクター
 が、強制わいせつ容疑で現行犯逮捕された。
.
2007年6月、NHKの番組制作局ディレクターが、電車内で
 女子高生の下着の中に手を入れて、尻を触り、強制わい
 せつで現行犯逮捕された。
.
2007年6月、NHK集金人(47歳)が、元妻を殺害し、殺人罪
 と死体遺棄罪で逮捕された。
.
2007年9月、NHK大津放送局記者が、平成7年に起こした
 連続放火事件で懲役7年の判決を受けた。
.
2008年1月、3人のNHK職員が、インサイダー取引を行い
 全員懲戒解雇され、当時の橋本会長も引責辞任した。
.
2008年1月、NHK経営委員が経営する企業が、7年間で約
 1億5千万円の所得を隠し、摘発された。
.
2008年1月、NHKの水戸放送局記者が、無免許運転で追突
 事故を起こし逮捕された・・免許停止の最中だった。

2008年2月、NHK職員が、イベント会場で、私物のノート
 パソコンを使って、わいせつ映像を流した。
  NHKは、わいせつがらみの犯罪が多い状況。
  金を誤魔化す事も多いが・・
.
2008年5月、NHKの10人以上の職員が、NHKの局内の職
 場で株取引をしていたことが発覚した。
.
2008年5月、NHKが、消費税13億3千万円の申告漏れを東
 京国税局から指摘されたと発表した。
.
2008年5月、NHKが、札幌の写真家の写真をニュースで無
 断使用した。
  告訴をされて、40万円の支払いを命じられた。
.
2008年7月、さいたま放送局のNHK集金人が、覚せい剤取
 締法違反と無免許運転で逮捕された。
.
2008年8月、不正で懲戒処分され、退職した富山・山口・熊
 本の各元放送局長たちを、NHK関連団体で再雇用して
 いた事実が判明した。
.
2008年9月、NHKの船橋営業センターの委託契約職員が、
 コンビニから現金約50万円を盗んだとして窃盗容疑で
 逮捕された。
.
2008年12月、NHKの「プロジェクトX」担当エクゼクテ
 ィブ・プロデューサーが衣料品を万引きして逮捕された。
.
2008年12月、NHKの京都放送局職員カメラマンが、宿泊
 費約60万円を着服し、懲戒免職。
.
2009年3月、NHKの「クローズアップ現代」の取材中に外
 部プロダクションのカメラマンらが、列車の運行を妨害
 した。
.
2009年4月、「NHKスペシャル、日本海軍400時間」の撮
 影スタッフが、中国共産党の宴会で泥酔して死亡した。
.
2009年7月、NHKが、退職者の企業年金の一部を、受信料
 から補てんしていた。
  2007年に約100億円・・2008年に約123億円。
.
2009年7月、漫画家の唐沢なおき氏が、NHKの「やらせ」
 に激怒し、取材拒否し話題となる・・、NHKが謝罪。
.
2009年7月、NHKの高知放送局技術部職員が、女性のスカ
 ート内を盗撮し、書類送検された。
.
2009年9月、NHKの秋田放送局放送部の女性スタッフが、
 仕事中に職場で飲酒・・また、後に飲酒運転で検挙され
 た。
.
2009年10月、特許製品の開発者に、NHK記者が、取材協
 力を強要するような脅迫的なメールを出した・・抗議さ
 れる。
.
2009年11月、NHKの技術制作局のカメラマンが、電車内
 で女性の下半身に触れた・・現行犯逮捕された。
.
2009年12月、NHKエデュケーショナルの不正受領が発覚
 した・・農水省から補助金4400万円。
.
2010年1月、NHKの営業局職員が、品川区の公園で女性に
 下半身を露出し、公然わいせつで逮捕された。
.
2010年4月、NHKサービスセンター福岡支局職員が、朝の
 電車内でOLに痴漢し、現行犯逮捕された。
.
2010年5月、平成19年放送の「NHK海外ネットワーク」イ
 ンド経済特集で、ヤラセが発覚した・・NHKが謝罪し
 た。
.
2010年5月、NHKの横浜放送局職員が、酔って商店街のシ
 ャッターを蹴り、注意した警察官に掴みかかり現行犯逮
 捕された。
.
2010年7月、NHKサービスセンターの偽装派遣が発覚した。
  東京労働局の指導を受けていた。
.
2010年10月、NHKの報道局スポーツ部記者が、日本相撲
 協会関係者に警察による家宅捜査の情報を漏洩した・・
 捜査を妨害。
.
2011年1月、NHKの首都圏放送センターのディレクターが、
 車上荒らしをしようとして窃盗未遂で現行犯逮捕された。
.
2011年1月、NHKの松江放送局ディレクターが、男子更衣
 室に潜入し、男性の裸体を盗撮しようとして現行犯逮捕
 された。
.
2011年2月、NHKの札幌放送局職員が、速度違反等で免許
 取消中に無免許運転で逮捕された。
.
2011年2月、NHKの名古屋放送局職員が、オシロスコープ
 などの放送機材を盗んだ・・ネットで販売し、窃盗容疑
 で逮捕された。
.
2011年2月、NHKの金沢放送局の委託カメラマンが、主婦
 を殺害した・・無期懲役。
.
2011年3月、NHKプラネット中部支社契約スタッフが、引
 越し荷物を置き引きし、窃盗で逮捕された。
.
2011年3月、NHKアート社員が、酒に酔ってタクシー内で
 嘔吐し口論となった・・運転手を殴り逮捕された。
.
2011年8月、NHK本部のチーフプロデューサーが、女性の
 スカート内を携帯カメラで盗撮し、逮捕された。
.
2011年9月、NHKの千葉放送局職員が、靴に仕込んだ小
 型カメラで女性店員のスカート内を盗撮して逮捕された。
.
2012年2月、NHK、松山放送局が、原稿閲覧システムの操
 作を権限のないアルバイトに任せていた。
.
2012年2月、NHK、編成部のディレクターが、麻薬所持で
 逮捕された。
.
2012年3月、NHK、ディレクターが、出演者にヘッドレス
 トを外して走行させて撮影し、道路運送車両法違反で逮
 捕された。
.
2012年5月、NHKの鹿児島放送局のNHK集金人が、放送
 受信契約書を偽造した。
.
2012年7月、NHK集金人が、千葉市内で業務中に下着泥棒
 で現行犯逮捕された。
.
2012年7月、NHK職員2人が、脱法ハーブを使用し、警察
 に事情聴取される。
.
2012年10月、NHKディレクターが、タクシーを数回蹴っ
 てドアをへこませ、現行犯逮捕された。
.
2012年12月、NHK、ニュース番組「おはよう日本」の人
 気アナウンサーが、電車内で強制わいせつで現行犯逮捕
 された。
.
2012年12月10日、プレイバック芸能スキャンダル誌 元NH
 Kアナ松平定知が、タクシー運転手を暴行した“殿”の
 ご乱心”. 日刊ゲンダイDIGITAL. 日刊現代 (2012年12月
 10日). 2017年8月11日閲覧。
.
2013年2月、NHKの静岡放送局の記者が、飲酒運転で追突
 事故を起こし現行犯逮捕された。
.
2013年5月、NHKの富山放送局スタッフが、窃盗自転車に
 二人乗りしていた所を職務質問されて、覚せい剤使用が
 発覚して逮捕された。
.
2013年6月、NHKが、危険なため1秒3回までの光点滅基準
 を上回る光点滅映像を45回も放送し・・謝罪する。
.
2013年10月16日、NHKの放送技術研究所の主任研究員が、
 架空発注で約280万円を詐欺し、懲戒免職となった・・詐
 欺で告訴へ 産経ニュース
.
2013年10月、NHK集金人が、広島で一人暮らしの18歳の
 少女宅を訪問し、受信料を支払えないなら体で払えと迫
 り強姦未遂で逮捕された。
.
2014年3月、NHKビジネスクリエイト営業部長が、約1億
 4千万円の売上水増しと隠蔽工作で懲戒解雇された。
.
2014年3月、NHK出版の学芸図書編集部の編集長が、約
 1350万円を不正流用し、懲戒免職となる。
.
2014年3月、NHKの横浜放送局かながわ東営業センター副
 部長が、同僚の財布から現金を繰り返し盗み・懲戒免職
 となる。
.
2014年4月、NHKの関連会社に出向中のNHK職員が、ス
 ナックの女性従業員を殴り、怪我をさせて現行犯逮捕さ
 れた。
.
2014年6月、NHKの高松放送局のスタッフが、取材先の民
 家で財布を盗んで逮捕された。
.
2014年6月、NHKの釧路放送局職員が、出張旅費を水増し
 請求し、約155万円を着服し、懲戒処分となる。
.
2014年11月、NHKの報道局の女性記者が、バッグを盗ま
 れたと警察に虚偽の通報した。
  社用の携帯紛失を隠すためだった。
  軽犯罪法違反で書類送検された。
.
2014年11月、NHKの放送文化研究所職員で、元NHKア
 ナウンサーが、飲酒運転でバイクに衝突し、「ビール数
 本飲んだ」と供述し、現行犯逮捕された。
.
2014年12月、NHKの旭川放送局職員が、17歳少女の財布
 から現金33000円を盗み、ラブホテルから逃走した・・窃
 盗罪で逮捕された。
.
2014年12月、NHK放送文化研究所の上級研究員が、飲酒
 運転で40万円の罰金、論旨免職となる。
.
2015年1月、NHK松山の契約スタッフが、知人宅の窓ガラ
 スを叩き割り逮捕された。
.
2015年3月、NHK、「クローズアップ現代」の取材に協力
 した男性が、NHKの記者に依頼されて架空の人物を演
 じたと週刊文春で告白した。
.
2015年6月、NHKの小会社の部長が、十数回もカラ出張を
 申請し、百数十万円をだまし取った・・論旨免職となる。
  上司数人も懲戒処分となる。
.
2015年7月、NHKインターナショナルのエグゼクティブ
 プロデューサーが、危険ドラッグを輸入して逮捕された。
.
2015年12月、NHKの小会社の職員2人が、6年で300件の架
 空工事をでっち上げ、2億円を横領した。
.
2016年1月、NHK・・危険ドラッグ所持で塚本堅一アナウ
 ンサーが逮捕された。
  アナウンサー室が家宅捜査された。
.
2016年1月、NHKさいたま放送局の記者によるタクシー券
 百万円以上の私的利用が発覚した。
  神戸放送局や大阪放送局でも、私的利用が発覚し、不
 正は全国規模におよぶ模様。
  この事態にNHKは全国調査をすると発表した。
.
2016年6月、NHKアナウンサー2人が、不倫カーセックス
 で降板した。
  番組終了1時間後、市街地から車で15分ほど離れた片側
 1車線の狭い道路で性行為をしていた。
.
2016年7月、NHK室蘭放送局の現役女子アナが、援助交際
 希望の女性を男性会員に紹介するという行為をした。
  「高級愛人クラブ」に登録していたことを本人が認め
 た。
.
2016年9月、NHKの30代男性職員が、休日出勤したと嘘の
 報告をし、勤務手当26万円をだまし取ったとして3か月の
 停職処分となった。
.
2016年12月、NHKの子会社「アイ・テック」元社員2人が、
 懲戒解雇となった。
  ダミー会社「ケイネット」に架空の発注を重ねていた。
  約2億円を不正に受領した疑い。
.
2017年1月、NHK大津放送局技術部職員が、弁護士事務所
 へ「殺す」と電話をし、恐喝容疑で逮捕される。
.
2017年1月、NHKがひた隠す・・受信料ネコババ職員(横
 浜放送局営業部)の自殺。
.
2017年1月、NHK福島放送局の20代の男性記者が、業務用
 のタクシーチケット十数万円分を不正に使用したほか、
 時間外手当を不正受給していた。
  不正額は計約20万円。
.
2017年2月、NHK山形放送局阪田報道室記者(28歳)、強
 姦致傷と住居侵入の疑いで逮捕された。
  NHKは、1万200人の職員だが、10年で70人以上が逮
 捕されている。
  他の民間放送局は、NHKの半分の職員で10年間で1人
 か2人なので、如何にNHKが犯罪の巣窟かが分かる。
  NHK職員の平均年収は1780万円・・膨大な給料とな
 っている。
  受信料(売上げ6千数百億円)で、ぼろもうけとなっ
 ているNHK。
  総資産が1兆円を超える金持ちのNHK。
  巨額な受信料で潤(うるお)うNHK・・それにぶら
 下がる企業が多い。
  また、NHKは、中国と甘い関係にあるNHKとなっ
 ている。
  その関係もあって、中国共産党の特別な待遇を受ける
 NHKで、中国紀行も制作したが、その見返りなのか、
 NHKは、国会のすべての委員会のすべてのビデオを中
 国に渡しているという・・
  中国へ情報を渡すスパイ行為をしているNHKとなっ
 ている。
  NHK建物内のNHK本部に、中国共産党の宣伝謀略
 機関が同居しているという。
  参考:https://www.youtube.com/watch?v=4TvBE1oyUAU
.
2017年3月30日、警視庁調布署は、強制わいせつ容疑で、
 NHKが業務委託する会社の社員を逮捕した。
  2016年11月14日、受信料の契約のために訪れた調布市
 内のアパートで、強制わいせつ。
.
2017年、アメリカは、巨額の医療支出となり、その負担に
 耐えられない状態にある。
  アメリカは、恒常的な財政危機状態に陥(おちい)る。
  アメリカの繁栄の姿は・・砂上の楼閣である。
  GDPの20パーセント以上も使わねばならない状況と
 なる。
  トランプ大統領おろしなんか「やっている暇はない」。
  アメリカの医療費負担の足かせは、非常に重い。
  また、アメリカの危惧する事は、外国などに金を借り
 続けてきたこと。
  アメリカの借金が超巨額になり、半端ない状態となっ
 ている。
  豊かに見えるアメリカ人・・だが、実際は、巨額な対
 外債務の負担に耐え切れない所に来ている。
  ウォーレン・バフェット氏も言う・・
  「2010年代後半、アメリカは、深刻な財政危機と通貨
 危機を引き起こすだろう」と・・
  そして、「アメリカの国内政治は、動乱状態になるか
 もしれない」と・・
  今、トランプ大統領を、チクチクやっているのは、そ
 の始まりなのか?
  アメリカの分配が、極端に不公正になったことが、そ
 もそもの問題の始まりだった。
  グローバル化だなんて言って、富める者がより富んで・・
  超富裕層が出る割に、貧困層がますます増え・・、
  そして、行きつくところは、税金を納めていた中間所
 得層まで居なくなるという偏した経済事情が、総てを、
 崩壊させた。
  その超富裕層の金が、アメリカを繰り、世界を繰り、
 日本を繰っている。
  1945年から1975年のアメリカ経済の所得配分システム
 は、公正(フェア〉だった。
  この状態に戻さなければならない。
  働いた人たち・皆に、働いた報酬がしっかり配分され
 ていた。
  自分の生産性上昇率に見合う所得増加も得ていた。
  アメリカは、それが駄目になってしまった。
  2019年の日本も・・?
.
2018年12月8日、中国・・痛い目に会わなければ分からない
 のか??
  【討論】米中戦争の行方と新世界秩序 [桜H30/12/8]
  https://www.youtube.com/watch?v=PMQjywlngxM
 ・釧路の広大な土地が中国に買われている。
 ・10万人が人質になっている・・自由に中国から出国で
  きなくなっている。
 ・資金も中国から引き上げられなくなっている。
 ・これからは多極化する・・防衛も多面的になる。
 ・ロシアは、シベリアなどの広大な地を守り切れていな
  い・・ここへ浸透している中国・・
 ・パンダ債・・日本が一帯一路を応援しているのか?
  中国内では、「日本が一帯一路を応援している」と言
  われている。
 ・アジア諸国で、日本の本心が疑われている。
 ・「日米同盟強化」と言われているが、言葉だけで、
  実態はそうなっていない・・南西諸島などをどう守る
  のか?
 ・日米安保を改定して双務性(そうむせい)を強化する
  などしなければならない・・
  日本の対中の力は落ちている・・双務性は絵に描いた
  餅になる方向にある。
 ・アメリカの共和党は、「日本の核武装を進めるべき」
  と言っている・・アメリカは米本土に退くという方向
  なので、日本は核武装して守れの論理。
 ・相互防衛条約に安保を持って行くべき。
 ・X‐35を100機買う。
 ・財務省は、金があるのに防衛できるのに嘘で抑えてい
  る。
 ・アメリカの核の日本国内展開をさせるのが「急ぐべき
  日本の現状の対応策」。
 ・中国共産党は、日本へのコントロールに成功している・・
  日本の政治家は中国寄りになっていて、自由な発言が
  出来なくなっている。
 ・中国が明らかに脅威であるのに、「仮想敵国だ」と言
  えない日本・・
  だから、対応策が取れない日本となっている・・やり
  たい放題にされる日本となっている・・
 ・統一朝鮮がその後の脅威となり、仮想敵国となる・・
 ・超音速の滑空体に中国は成功している・・
  これに核が搭載される・・世界で唯一成功している状
  態・・
 ・大国は、都合のよい時は国際法を守る、都合が悪くな
  ると兵を送る・・この様な国が、今、日本の周りを取
  り囲んでいる・・
 ・痛い目に会わなければわからないのか??・・中国も
  そうだが・・日本も・・
.
2019年6月2日、中国が、台湾問題で「戦いを辞さず」と言
 った・・中国の国防相の発言
  また、南シナ海の人工島の戦略拠点化は自衛だと言っ
 た。
  以下、読売新聞による概要・・
  中国の魏鳳和(ウェイフォンフォー)国務委員兼国防
 相は2日、シンガポールでの「アジア安全保障会議」で
 演説した。
  台湾問題で武力行使を辞さない姿勢を強調するなど、
 米国を意識した攻撃的な発言が目立った。
  「台湾を分裂させようとするなら、中国軍はいかなる
 代償を支払ってでも、戦うことをためらわない」
  演説では魏氏は、米国を念頭に声を張り上げた。
  独立志向の強い台湾の政権与党・民進党を名指しして、
 「中国軍の意思を見くびれば極めて危険だ」と警告した。
  南シナ海問題については、米国による「航行の自由作
 戦」が「南シナ海を不安定化する最大の原因だ」と語り、
 人工島の軍事拠点化は自衛目的だとの従来の主張を繰り
 返した。
  中国軍の役割に関する説明では、「祖国の神聖な領土
 を一寸たちとも失うわけにはいかない」と述べた。
  中国がこの会議に国防相を派遣するのは8年ぶりで、米
 国に妥協しない姿勢を示すのがおもな狙い。
  米海軍艦艇が今年に入り台湾海峡を5回通過するなど、
 中国が絶対に譲歩できない「核心的利益」と位置付ける
 台湾問題での(米国の)圧力は増している。
  強硬発言の一方で、魏氏は米国に向けて「衝突して戦
 争になれば、両国ばかりか全世界の災いとなる。
  衝突せず、互いに尊重する正しい軌道に向かうべきだ」
 と訴えた。
  (ならば、南シナ海の基地化を停止せよ!)
  ただ、会議に合わせて行った米国のシャナハン国防長
 官代行との会談などで、協調を打ち出せたテーマは、北
 朝鮮の非核化の推進にほぼ限られるなど、米中の歩み寄
 りは難しい状況。
  アジア安保会議は3日間の日程を終え、2日に閉幕した。
  (そもそも、南シナ海の中国の行為は、国際司法裁判
 所が「違法行為だ」としている・・中国は、この判決を
 受け入れよ!)
.
2019年6月2日、中国が、対米交渉で「譲歩せず」と言った。
  米中の貿易摩擦で「アメリカが、中国に理不尽な注文
 を付けている」と、中国の白書で発表した。
  読売新聞によると・・抜粋・・
  中国政府は2日、米中貿易摩擦に関する新たな白書を発
 表した。
  圧力をかけて譲歩を迫る米国の手法を強く批判し、「
 中国は核心的利益にかかわる原則問題では絶対に譲歩し
 ない」などと対決姿勢を鮮明にした。
  白書は「中米貿易協議に関する中国の立場」と題する
 もので、1日に対米報復関税を発動した中国の主張を国内
 外に宣伝する内容となっている。
  白書では、貿易摩擦は米中両国や世界経済に悪影響を
 与えたと指摘した。
  貿易協議が暗礁に乗り上げた原因について、「米政府
 が理不尽な注文をつけ、追加関税の撤回を拒否し、中国
 の主権にかかわる要求を協定文に書き込むことに固執し
 たため」と、米国側の対応に非があったと強調した。
.
2019年6月11日、反日的なNHKの学校放送
  日本の高校生などの若者が、NHKによって反日に洗
 脳されている・・
  NHKの学校放送などにも、教科書並みの検定制度を
 行なえ! 
  検定制度に「NHKの学校放送を組み入れよ!」
  NHK・・中国の「反日民族主義」を支援し、中国の
 代弁者の様に中国に偏する放送をしている・・
  日本の公共放送という立場を失っているNHKとなっ
 ている。
  NHKは反日放送をし続けている。
  その1例の学校放送・・
  NHKの重点は、日本の青少年向けに、中国の反日民
 族主義の言う反日放送・・
  その一つ、高校講座の日本史・・
  以下のように偏していて、プロパガンダ内容・・
  若い高校生の頭を、反日的に誤認混同させる説明・・
  中国寄りの偏った説明・・中国に都合よいことばかり
 を言っている。
  公正な、平等な、説明史料で説明していない。
  1例・・2019年6月11日、午後14時15分現認、NHKE
 テレビ、番組名:「高校講座、日本史」。
  北海道と沖縄を特に取り上げて・・
  北海道の場合、アイヌのシャクシャインの戦いのみを
 特に取り上げ・・
  その説明も表面的で、まったく偏った断定的な言い方・・
  「アイヌが松前藩と戦い、従うようになった」と結論
 だけを教える形で、それを大きな字幕で見せ、印象付け
 る洗脳的な教え方・・
  まったく掘り下げもなく、広がりもなく、その前後の
 説明もなく・・表面的にその一部しか教えず、それも、
 その結果、松前藩が武力で従えた様に放送し、印象付け
 るという形となっている・・
  これでは、「間違いだ」と言える状況であった。
  この例の事実・史実を言えば・・
  この戦いの起きる前には、アイヌ同士のテリトリーの
 戦いなどがあったりして、アイヌ同士の不満は高まって
 いて、アイヌ社会は不安定であった。
  この前段階の説明がまったく無い・・
  アイヌ同士のその不穏な繰り返される戦いが、松前藩
 へ向かう戦いへと拡大して行った・・
  その様なと経過が、まったく説明されていない・・
  そのため、突然、アイヌに戦いを挑んだ松前藩が武力
 で抑え込んだという様な印象の説明になっている。
  『アイヌが松前藩へ攻撃を仕掛けた』というのが事実・・
  その他の万事が、この様なNHKの教え方で、偏った
 印象を与える教え方の状況となっている。
  この様に、NHKは反日的に印象付け、誤解を与える
 説明の放送の仕方をし続けている。
  北海道は、日本書紀にも記されていて、日本とは古い
 時代からのかかわりがあった・・
  この様なことなども一言も説明しないというNHKと
 なっている。
  また、NHKは、北海道に縄文遺跡があることも説明
 していない・・
  また、その北海道の縄文遺跡の縄文人の歯のDNAか
 ら日本人の祖先だと分かったことも説明しなかった。
  日本人の痕跡を消そうとするNHKの学校放送の説明
 で・・反日的となっている。
  北海道は選挙権の実施が遅いから日本という意識は無
 かったとか・・捏造的な、こんな反日的な説明ばかりだ
 った。
  こんな印象付けばかりやる教え方だった。
  NHKは自己検閲をしていると言うが、この体制が「
 十分な効果を発揮していない」・・
  NHKの学校放送も『教科書並みの検閲をせよ!』
  この番組の沖縄に関しても、中国に不利な史実はまっ
 たく触れずに放送した・・まったく偏った状況にあった。
  北海道と同様に、反日的にばかり教えている。
  中国・清が、台湾を「化外の地」と言って、清とはま
 ったく関係ないと言ったことなどまったく説明せず・・
  その先の地の沖縄も、中国・清とはまったく関係ない
 地だという態度だった
  この様な中国・清の状況をまったく説明しないNHK
 だった。
  中国に都合のよい話ばかりを連ねるNHKの学校放送
 だった。
  NHKの自己チェック・システムは機能していない。
  NHKの学校放送は、教科書検定と同じレベルで行う
 ようにすべきである。
  この様なNHKに、ネット配信を許可したが、この様
 に自己チェックシステムが機能してないのならば、NH
 Kの高校講座の日本史などのネット配信の公開の場では
 反論を受けるページを作れ。
  また、この公開の場で、NHKは正しい歴史的反論を
 行なえ!・・
  現状は無チェックで、NHKの言いたい放題的となっ
 ている・・NHKからの一方通行の押し付けとなってい
 る・・
  NHKの自己チェックシステムの改善を行なえ!
  この様な偏する放送を制作している制作責任者を公表
 せよ!
  陰で反日活動をする行為は止めよ!
  その他の放送番組についても、この様に公開の批判を
 受けるページを作りなさい!・・
  その対応を公開で行え!
  その後の世界史のNHK高校講座も、ソ連誕生をまっ
 たく美しく放送している・・
  労働者の建国という美化の視点で説明した・・
  こんなことを年がら年中行っている・・
.
2019年6月12日、北朝鮮が、潜水艦の新たな造船を継続して
 いる。
  アメリカの研究機関の分析では、SLBMの搭載が可
 能としている。
  (参考)SLBM:潜水艦発射弾道ミサイル、現用兵
     器は、すべて核弾頭を装備する戦略兵器で、爆
     撃機や大陸間弾道ミサイルと並ぶ主要な核兵器
     運搬手段。
  以下、読売新聞によると・・
  米国の北朝鮮問題研究グループ「38ノース」は12日、
 北朝鮮が東部・新浦(しんぽ)の造船所で、潜水艦発射
 弾道ミサイル〈SLMB)を搭載できる潜水艦の新造を
 継続しているとの分析結果を公表した。
  4月~6月に撮影された衛星写真を分析したところ、部
 品は機材を移動していることが確認できたと言い、38ノ
 ースは「新たな潜水艦の建造が続いていることを示すも
 のだ」と分析した。
  係留施設では新たなクレーンの設置などの動きを確認
 したが、作業自体は限定的とみられるという。以上
  (関連情報)韓国も潜水艦を建造していて、北朝鮮と
      統一できたら、北朝鮮の核ミサイルを搭載し
      たい(搭載予定)としているという。
.
2019年6月14日、モンゴルが、中国の陣営に入るのか?
  この日の読売新聞によると(抜粋)・・
  上海機構、揺れるモンゴル・・中露が正式加盟迫る。
  中国とロシアが、欧米主導の国際秩序に対抗する地域
 協力機構「上海協力機構(SCO)」の拡大を目指し、
 オブザーバー国のモンゴルに正式加盟の働きかけを強め
 ている。
  モンゴルは、欧米と中露の間でバランス外交を続けて
 きたが、中露への経済依存が強まるなか対応に揺れてい
 る・・中略・・
  (参考)上海協力機構:SCO、2001年、中国とロシ
     ア、中央アジアの4か国(カザフスタン、ウズベ
     キスタン、キルギス、タジキスタン)の計6か国
     が上海で設立した。
      2017年にインドとパキスタンが加わり、正式
     加盟は8か国。 
      イランなどはオブザーバーに名を連ねる。
      加盟国同士による合同軍事演習も実施し、欧
     米への対抗組織として存在感を高めている。
  SCOは、加盟国同士のインフラ(社会基盤)の連結
 などを目指しており、中露は、モンゴル国内の鉱山資源
 の輸送などへの経済協力の見返りに、自陣営に引き入れ
 たい思惑があるとみられる。
  モンゴルと中露両国は、すでに貿易など経済面では密
 接な関係にある。
  中国はモンゴルへの直接投資企業数でも圧倒しており、
 インフラ整備の支援もしている。
  ウランバートル市内には、中国の援助で建設された橋
 や児童福祉施設などがある。
  こうした背景もあり、モンゴルのバトトルガ大統領や
 一部閣僚はSCOへの正式加盟に傾いている。
  バトトルガ氏は昨年、「地政学に一致した政策を実施
 しないと大規模投資は入ってこない。
  もっと積極的に協力すべきだ」と述べた。
  ただ、モンゴル政界では「中露の政治的な影響力が強
 まりかねない」など反対意見が強く、結論は出ていない。
  モンゴルは、1911年の辛亥革命で清朝の版図から分離
 した際、ソ連の支援を受けて人民共和国を建国した。
  しかし、徐々にソ連のイデオロギーが浸透した抑圧的
 な社会主義体制になった。
  1990年にようやく民主化を勝ち取ったモンゴル国民に
 とり、大国の干渉に対する不信は根強い。
  民主化以降、日本や米国など「第3の隣国」との関係強
 化にも力を入れている。・・以下略・・
  (参考情報)SCOの首脳会議が13日、中央アジア・
     キルギスの首都ビシケクで開幕する。
      14日には全体会合を開く。
      今回の会議では、保護主義を強める米トラン
     プ政権を念頭に、加盟国間での経済協力の強化
     が議論されるとみられる。
      会議にはオブザーバーとして、イランのロハ
     ニ大統領も出席する。
.
2019年6月14日、中国の一帯一路へ諸国がなびいている・・
 世界は二分されるか?
  この日の読売新聞によると・・抜粋・・
  中国の習近平国家主席が巨大経済圏・一帯一路構想を
 提唱してから5年あまりがたつ。
  数々のプロジェクトが実施段階に入り、参加国は拡大
 を続けるが、中国と貿易摩擦を抱える米国や参加国を多
 く抱える欧州は、警戒感を募らせている。
  中国が4月25日~27日に北京で開いた第2回「一帯一路
 国際協力フォーラム」。
  中国の李克強首相と25日に会見したマレーシアのマハ
 ティール首相は、中国重視の姿勢を鮮明にした。
  「マレーシアは中国の発展から利益を得ており、各分
 野で対中関係を強化したい」「一帯一路を支持し、中国
 企業の投資を歓迎する」と。
  マハティール氏は、フォーラムの2週間前まで、「反・
 一帯一路」の急先鋒と目されていた。
  首相に返り咲いた直後の2018年7月、一帯一路に関連す
 る「東海岸鉄道計画」の中断を命じたからだ。
  中国と契約した大型事業で国家財政が圧迫されるとの
 懸念から、計画再考を迫り、「新たな植民地主義は望ま
 ない」などと発言をしていた。
  ところが今年4月12日、マレーシア政府は一転して鉄道
 計画の継続で中国側と合意したと発表した。
  中国が建設費用の大幅削減を受け入れることで合意に
 こぎつけた。(中略)
  一帯一路では、中国が資金を支援して鉄道や道路、工
 業団地などの建設プロジェクトが進められる。
  公式発表によると、中国企業が2013年~2018年、一帯
 一路沿線国に投資した金額は計9.7兆円に達する。
  ラオスの昆明・ベトナム鉄道(62億ドル)、バングラ
 デシュのパドマ鉄道(31億ドル)などは建設が始まって
 いる。
  2013年~2018年の中国と一帯一路沿線国の貿易額は約
 648兆円に達した。
  当初は「沿線国」を64ヶ国としていたが、最近では「
 131ヶ国と覚書を交わした」などと拡大を誇示する表現が
 目立つ。
  先進7か国(G7)で初めて、一帯一路の協力に関する
 覚書に署名したのが・・イタリア。
  2019年3月、ジェノバ港の整備やトリエステ港周辺の鉄
 道整備に、中国企業が今日浴することなどで合意した。
 (中略)
  一帯一路に関連するプロジェクトについて、中国は投
 融資の詳細な情報を公開していない。
  環日本海経済研究所の河合正弘・代表理事は、「中国
 には、投融資相手国が債務を返せなくなった場合の処理
 ルールがない。
  国別、プロジェクト別のデータを公開し、透明性を高
 めるのが第一歩だ」と指摘する。
  米国国防省が6月1日に公表した「インド太平洋戦略」
 に関する報告書では、「中国は、軍の近代化や略奪的経
 済的手法を通じ、自国の利益に沿うように地域秩序を変
 革しようとしている」と痛烈に非難し、一帯一路をけん
 制した。
  欧州連合(EU)も3月に発表した対中国戦略で、中国
 を「経済的な競争相手」「体制上のライバル」と位置づ
 け、全てのEU加盟国が結束して対応するよう呼びかけ
 た。
  加盟28カ国のうち、一帯一路に参加しているのは17カ
 国と過半数を占める。
  中国の動きを放置すればEUが空中分解しかねないと
 の危機感がにじむ。(中略)
  中国は、当初の構想に加えて北極圏や南米などにも触
 手を伸ばしている。
  一帯一路は中国共産党の規約に組み入れられ、長期的
 な戦略という位置づけけだ。
  中国を排除しようとする陣営と、一帯一路の勢力圏が
 対立する状況が長期化すれば、世界を二分する事態を招
 きかねない。(後略)
.
2020年代、アメリカの財政赤字は悲劇的となる・・
  トランプ大統領の発言を、とやかく言っているが、そ
 の発言だけ捉えて批判するだけでは、アメリカの本質を
 見落とす。
  今、アメリカは、大きな数々の問題を抱えている。
  その問題が、抜き差しならない所まで来ている。
  その問題解決を期待されて大統領に選出されたトラン
 プ大統領には、その面がある。
  今までの路線を変えなければというアメリカ国民世論
 が、トランプ大統領を選出したのだ。
  アメリカの大きな問題の一つが「財政赤字」の問題で
 ある。
  元ハーバード大学経済学教授のローレンス・リンゼー
 教授は、アメリカがどんなに良い経過を辿(たど)った
 としても「恒常的にGDP7%を超える財政赤字となる」
 と言っている。
  しかも、「2020年代の財政赤字はさらに悪化する」と
 言っている。
  毎年、毎年、10%の財政赤字を抱え込む状態となる。
  企業だったら赤字決算で、毎年、毎年、その赤字は積
 み重ねられて、回復不可能と予測されている。
  当然、この様な企業が、存続してよい訳はない。
  この企業は破産で「社会から消える」。
  ならば、超一流国のアメリカを、その様に処して済む
 のか?
  存続させるのは、「現在の経済システムの否定である」。
  今、破綻国家アメリカが世界に存在して、それを存在
 させている、容認している世界なのである。
  隣の家が借金証書(米ドル札)を書いて、生活してい
 て、隣近所や商店街や地方自治体も「それでいいよ」と
 言っているようなもの。
  アメリカだから許されている「異常さ」なのである。
  しかも、貯金しないアメリカで、それでも貯金してい
 た層(白人層)が、日本の団塊の世代の様に、今、アメ
 リカでは戦後生まれのベビーブーム世代が隠退して、8割
 が白人で、その少ない貯蓄を食いつぶしている。
  アメリカ政府から年金支給を受け、老人医療予算を使
 い出している。
  資本不足のアメリカは、より資本不足状態になり、赤
 字財政解消は、箸にも棒にもかからない「笑い話状態に
 なっている」。
  「アメリカ以上なのが中国だ」という意見がある。
  中国の赤字は「3800兆円」だという。
  秘密主義の中国は、まったく世界のシステムを無視し
 ている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  アイヌの人々は、日本の先住民ではありません。
  日本の先住民は、アフリカ由来の日本人です。
  アメリカの先住民が、アフリカ由来のアメリカ・イン
 ディアンの方々であるのと同じです。
  アイヌの人々は、13世紀に、蒙古に追われて日本に来
 ました。
  2019年4月16日に衆議院と参議院で成立した「アイヌの
 人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推
 進に関する法律(俗称:アイヌ新法)」は、科学的に、
 また、歴史的に正しくありません・・間違った記述があ
 ります。
  この法律の間違った記述を「正しく改正する」声を上
 げましょう。
  また、日本人の遺伝子・DNAを持った何千年も前の
 紀元前の縄文人が、北海道の縄文遺跡から出た縄文人の
 歯の遺伝子分析をして科学的に立証されています。
  日本人が先住民族なのです・・そのような痕跡もない
 アイヌの人々を先住民だとしてしまいました。


# by suba28 | 2019-06-26 04:10 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)647E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年5月~1896年5月)

題:(増補版)647E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年5月~1896年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年5月8日、臨時北海道鉄道敷設部官制が公布された(勅
 令第186号)
  臨時北海道鉄道敷設部は、北海道庁に置かれ北海道に
 おける官設鉄道の建設業務を掌理、拓殖務大臣の監督に
 属し、北海道庁長官が管理する。
  (参考)北海道官設鉄道:明治時代の北海道庁鉄道部
     が建設し、運営した鉄道のこと。
      北海道の鉄道は、1880年に開業した官営幌内
     鉄道に始まる。
      1886年に、北海道開拓使が廃止され、北海道
     庁が置かれると鉄道払い下げの方針が出されて、
     北海道炭礦鉄道が設立され、1889年に、幌内鉄
     道へ譲渡され、民営化した。
      北海道庁にとって、開拓の推進ため、鉄道の
     建設が不可欠であった。
      しかし、北海道炭礦鉄道にはその遂行は不可
     能と判断されて、北海道庁自らが鉄道建設・運
     営を行う方針が出された。
      国も、北海道における鉄道網建設計画を策定
     していた。
      そして、1896年、北海道鉄道敷設法が公布・
     施行され、北海道庁が建設にあたることになっ
     た。
      1898年、滝川駅~空知太駅間の開業を皮切り
     として、現在の函館本線、宗谷本線、根室本線
     (富良野線)等の開業をして行った。
  (参考)掌理:しょうり、ある仕事を担当してとりま
     とめること。
.
1896年5月10日、南和鉄道の高田駅~葛駅(現:吉野口駅)間
 が開通した。
  南和鉄道(なんわてつどう)は奈良県にある私設鉄道
 だった・・現在、西日本旅客鉄道(JR西日本)和歌山線。
  奈良県の吉野川流域は、大阪鉄道の広大な計画の中で
 路線が建設されると期待されていた。
  しかし、その実現は困難であるとなった。
  そのため、地元資本で路線を敷設することになり、大
 阪鉄道の高田から分岐し、五条に至る鉄道の敷設が申請
 された。
  1891年に仮免許となり、1893年、免許、
  1896年、開業した。
  吉野川沿いの木材資源のために建設された。
  全車が箱型(いわゆる「マッチ箱」)車体の二軸車で、
 一二等合造車3両、二等車3両、三等車14両、三等郵便荷
 物車1両、三等荷物車4両、郵便荷物車3両の計28両で運行
 された。
  現在、高田駅から和歌山駅まで運行されている。
.
1896年5月14日、朝鮮駐在公使の小村寿太郎が、ロシア公使
 の K.I.ウェーバーと朝鮮問題ニ關スル覚書を調印した。
  ソウルにおける、日露間での朝鮮問題に関しての討議
 結果の覚書。
  ロシア公使館に、幽閉的に居る朝鮮国王の還宮(げん
 ぐう、宮を元にもどす)の実現について・・
  また、両国軍隊の駐屯定員などの取決め・・
  訳文(抜粋)・・
  一、朝鮮國王陛下ノ王宮へ還御ノコトハ陛下御一己ノ
   裁斷ニ一任スヘキモ日露兩國代表者ハ陛下ガ王宮ニ
   還御アラセラルヽモ其ノ安全ニ付キ疑惧ヲ抱クニ及
   バザル時ニ至ラバ還御アランコトヲ忠吿スヘシ又日
   本國代表者ハ茲ニ日本壯士ノ取締ニ付キ嚴密ナル措
   置ヲ執ルベキ保證ヲ與フ
  三、露國代表者ハ左ノ點ニ付キ全ク日本國代表者ト意
   見ヲ同フス卽チ朝鮮國ノ現況ニテハ釜山京城間ノ日
   本電信線保護ノ爲メ或場處ニ日本國衞兵ヲ置クノ必
   要アルベキコト及現ニ三中隊ノ兵丁ヲ以テ組成スル
   所ノ該衞兵ハ可成速ニ撤囘シテ之ニ代フルニ憲兵ヲ
   以テシ左ノ如ク之ヲ配置スベキコト卽チ大邱ニ五十
   人可興ニ五十人釜山京城間ニ在ル十箇所ノ派出所ニ
   各十人トス尤右ノ配置ハ變更スルコトヲ得ベキモ憲
   兵隊ノ總數ハ決シテ二百人ヲ超過スベカラズ而シテ
   此等憲兵モ將來朝鮮政府ニ於テ安寧秩序ヲ囘復シタ
   ル各地ヨリ漸次撤囘スベキコト
.
1896年5月14日、北海道鉄道敷設法が公布された(法律第93
 号)
  この頃、北海道開拓が一生懸命なされていた。
  その一環として、北海道鉄道敷設法が公布された。
 ・石狩国旭川ヨリ十勝国十勝太及釧路国厚岸ヲ経テ北見
  国網走ニ至ル鉄道
   富良野線・根室本線の大部分(北海道官設鉄道)・
  釧網本線。
   釧網本線は、実際には厚岸ではなく東釧路駅で分岐
  となった。
   その後も標茶~厚岸間は菱川線構想として敷設運動
  が続いた。
 ・十勝国利別(現:池田町域)ヨリ北見国相ノ内(現:
  北見市域)ニ釧路国厚岸ヨリ根室国根室ニ至ル鉄道
   池北線・根室本線の一部。
   池北線は池田駅で分岐、利別駅は途中駅となる。
   また、北見駅で分岐し、相ノ内駅(初代)は経由せ
  ず。
 ・石狩国旭川ヨリ北見国宗谷ニ至ル鉄道
   宗谷本線(北海道官設鉄道・一部)・天北線
 ・石狩国雨竜原野ヨリ天塩国増毛ニ至ル鉄道
   留萌本線
 ・天塩国奈与呂ヨリ北見国網走ニ至ル鉄道
   名寄本線・湧網線
 ・後志国小樽ヨリ渡島国函館ニ至ル鉄道
   函館本線の一部(北海道鉄道)・・など
  (注意)今、日本で、この様な北海道での真摯(しん
     し、まじめで熱心なこと)な開拓の歴史が消さ
     れようとしている。
      北海道の歴史博物館は、アイヌの人々を特に
     展示するという偏りの展示となっている。
      この様な行動の背後に外国からの工作・圧力
     がかかっているという。
      北海道の歴史には、縄文時代の遺跡もあり、
     その遺跡からは、日本人のDNAを持った縄文
     人も発掘され、日本人の祖先だと確認されてい
     る・・この様な事実・史実が消されようとして
     いる。
      古くからの、日本の歴史に刻まれている事が、
     無視されている。
  日本の地である北海道の予定線6路線が制定された。
  「北海道官設鉄道」を整備するなかで、十勝線・天塩
 線・釧路線・富良野線・根室本線・宗谷本線などが次々
 と開通させた明治の先人の努力・・
  産業の発展、人口の拡大とともに鉄道は、北海道全域
 へと広がって行った。
.
1896年5月18日、アメリカ合衆国の汚点:プレッシー対ファ
 ーガソン裁判(黒人の方々の既得の権利の無効化)
  人種差別になっている州法を『合法だ』と認めるとい
 うアメリカだった。
  「人種差別の分離はする・・しかし、その行為は平等
 だ」という屁理屈な判決だった。
  有色人種への蔑視のキリスト教の屁理屈的教理から来
 ている判決だった・・、
  公共施設などで、あらゆるところで(鉄道やバスの交
 通機関などや、ホテル・病院・キリスト教教会・映画館・
 レストラン・喫茶店・トイレ・公園のベンチなどなど)
 での黒人の方々への分離行為が「人種差別に当たらない
 のだ」とした。
  そして、この行為を『合憲だ』としたアメリカ合衆国
 の最高裁判所の判決だった。
  7対1の賛成多数によってこの判決は下された。
  軽蔑すべきなのは、長い年月、この判決がアメリカで
 支持された。
  1954年の「ブラウン」対「教育委員会」の裁判で、最
 終的に否定されるまで、アメリカの標準的な主義だとし
 て、またこれが正義だとされて、社会の法だと残った。
  故に、この判決が生きている第二次世界大戦において
 も、この判決の精神で、黒人の方々は差別的に扱われ、
 「より多くの危険な目に会った」・・
  「真っ先に危険な所へ赴く命令」が黒人の方々へ出さ
 れた・・
  また、危険性の大きい「爆弾運び」などをさせられた・・
  実際、これで事故が起きて、多くの黒人の方々が亡く
 なった・・
  この事件は、有名な事件となって記憶されている。
  アメリカは、さらに卑劣なのは、これらのことごとを
 アメリカ南部の方々の「せいにする」傾向がある。
  北部政権ではないのだと逃げている・・
  まったく破廉恥な軽蔑すべき主張で・・、
  この判決も、施設などが平等であれば、黒人を白人か
 ら隔離しても、その行為は、アメリカ憲法の違反にはな
 らないという連邦最高裁判所の判決だから始末が悪かっ
 た・・、
  アメリカの下級裁判所ではなく、最高裁判所が出した
 という驚きの卑劣な重圧で苦しめる判決だった。
  この様な明確な人種差別行為を、アメリカ特有の屁理
 屈で「人種差別ではない」として人種差別行為を行なっ
 た。
  さらに悲劇的なのは・・この判決が、アメリカの「基
 本的な考え方だ」となって、あらゆるところで適用され
 るところだった。
  どこででも、アメリカ中で、堂々と、黒人の方々が差
 別されるという行為が行われた。
  アメリカという国の怖い所は、この宗教的な、また屁
 理屈的な考え方・偏見で、明らかに筋が通っていない事
 ででも、アメリカ特有の屁理屈で、「不正義」を「正義」
 としてしまうところだった。
  これは、黒人の方々のみならず「非白人」の「有色人
 種全般」にまで適用された。
  この判決は、アメリカという国の「人種関係全般を支
 える法的原理」となった。
  これから「バス」で、「学校」で、「教会」で、あら
 ゆるところで人種差別が堂々とアメリカ中で行われた。
.
1896年、イギリス人の首相となったチャーチルは、若いこ
 ろ、ますます苦しくなる家計のため、更なる従軍経験と
 新聞特派員としての原稿料を得たいと渇望した。
  そして、オスマン=トルコ帝国の支配に抗して蜂起し
 たクレタ島へ赴く事を希望した。
  そしてまた、ジェームソン侵入事件が発生した南アフ
 リカなどに特派員として赴く事を希望した。
  結局、これらは、実現しなかった・・が・・
  1896年冬、第4女王所有軽騎兵連隊とともに、チャーチ
 ル(22歳)は、イギリス領インド帝国に転勤することと
 なった。
  インドを虐(しいた)げていたイギリス・・インド駐
 留のイギリス軍将校は、まるで王侯のように暮らした。
  日常生活のすべてをインド人召使にさせた。
  チャーチルも、そのような生活を送った。
  インド人召使をかなり安い給料で雇うことができた。
  インドでチャーチルはよく読書をした。
  そして、このインド勤務時代、実戦に参加した。
  1897年夏、インド西北の国境付近で発生したパシュト
 ゥーン人の反乱を鎮圧した。
  この反乱が発生するとチャーチルは、マラカンド野戦
 軍に入隊を希望した。
  はじめは新聞の特派員として、
  また、将校に欠員が生じた後には、その後任として、
 戦闘に参加した。
  チャーチルは、勲章が得たいと焦った。
  その為、しばしば独断で無謀な行動に出た。
  そのため、チャーチルは、帰隊を命じられた。
  後になって、チャーチルは、「歴史に学べ」という言
 葉を繰り返し言った。
  (参考)パシュトゥーン人:アフガニスタンの中部・
     南部、および、パキスタン北西部のカイバル・
     パクトゥンクワ州・辺境部族自治区に各1千数百
     万人が居住している。
      アフガニスタン人口の45%とパキスタン人口の
     11%を占めている。
      インド・ヨーロッパ語族イラン語派のパシュ
     トー語を話し、多くの部族集団に分かれて伝統
     的には山岳地帯で遊牧などを行って暮らしてき
     た。
      強固な部族の紐帯(ちゅうたい、血縁・地縁・
     利害関係など、社会を形作る結び付き)を維持
     しており、パシュトゥーンワーリと呼ばれる慣
     習法を持ち、男子は誇りを重んじている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本も、これにどう対応するのか?となっている。
    日本は、アメリカを当てに出来なくなっている。
.
1864年9月11日、勝海舟と西郷隆盛が会談をした。
  この時、第一次長州征伐が行なわれていた。
  西郷隆盛は、薩摩藩に所属していて、この頃、「大島
 吉之助」と名乗っていた。
  西郷は、大阪に赴き、幕臣の勝海舟に面会を求めた。
  勝海舟は、西郷隆盛らを旅館に迎えた。
  ここで、勝海舟は、長州藩を征伐する考えを持ってい
 た西郷隆盛へ、薩摩藩や長州藩を含めた有力諸藩による
 共和政治を実現するように説得した。
  西郷隆盛は、この様な勝海舟に感銘を受けた。
  そして、長州藩と協力して共和政治を目指す事を決意
 した。
  大久保一蔵(後の大久保利通)宛ての手紙で、西郷隆
 盛は、勝海舟について「実に驚き入り候う人物」「ひど
 く惚れ申し候」などと絶賛した。
.
1872年、マニフェスト・デスティニー・・アメリカ侵略の
 正当化論理。
  この言葉は、元々は、アメリカの西部開拓を正当化す
 る標語であった・・が・・
  その後、この言葉は独り歩きをし、アメリカを侵略行
 為へ向かわせた・・太平洋諸国をも蹂躙し・・ハワイな
 ど、フィリピン、中国、日本へと来る。
  「明白なる使命」とか「明白なる運命」「明白なる大
 命」などと訳出し、美しく、キリスト教の神の召命だと
 した。
  1872年に描かれた「アメリカの進歩」という絵画には、
 女神の右手には書物と電信線が抱えられ、アメリカ合衆
 国が西部を「文明化」という名の下に征服しようとする
 様子が描かれている・・背後には、1869年に開通した大
 陸横断鉄道も栄光的に描かれている。
  (参考)召命:しょうめい、キリスト教性悪説の罪の
     世界に生きていた者が、神に召され呼出されて
     救いを与えられるという意味で使われ・・旧約
     聖書ではイスラエルの民の選抜や、預言者の召
     命などがこの例。
      16世紀の宗教改革者たち、ルターをはじめカ
     ルバンも、この語を、すべてのキリスト者につ
     いてのものと理解し、そして、強調するように
     した。
  この言葉に洗脳されたアメリカは、「世界を清め、救
 うために、他国家をアメリカ化すべきだ」として、「文
 明の西漸説」に酔った・・
  西への侵略行為をし続けた。
  また、キリスト教的な感覚で、有色人種をアメリカ白
 人の支配下に置き、自国に有利なルールを勝手に作り、
 都合の悪いことは禁止する・・というやり方をとった。
  この「マニフェスト・デスティニー」の言葉は・・、
  アングロサクソン人種の人種的優越感と、道徳的貴族
 としての特権と思い込み、「信仰的状態で進められた」・・
  故に、非アングロサクソン・非白人(有色人種)に対
 する軽蔑と侮蔑を表わした・・
  アングロサクソンは、「自分たちだけが、キリスト教
 の神から選ばれた優越な民族であって・・、有色人種の
 日本人や支那人や黒人などの劣等民族を下層に置き、ま
 た、置かねばならないのだ」とした。
  日米戦争などの有色人種との戦争を誘因し生む「原因
 となった」。
.
1904年2月8日、日露戦争が始まった(~1905年9月5日)
  ロシアの朝鮮半島においての蛮行によって、そのまま
 では、沖縄は割譲され、佐世保や呉は租借されるという
 危機感が生じた。
  日露戦争は、その様な瀬戸際の戦争だった。
  日露戦争は、その様になる可能性に抗した戦争だった。
  ロシアは、昔から領土欲の強い国だった。
  不凍港も欲しかった・・
  アメリカのルーズベルトは、ここを利用して日本への
 参戦をそそのかした。
  「日本の領土を取ってしまったら」と、ソ連(ロシア)
 のスターリンをそそのかし、言った。
  また、占守島(しゅむしゅとう)の戦いに勝った日本
 は、終戦となってため武器を置いた。
  日本とソ連(ロシア)は、その双方が了解してその様
 な行動がとられた。
  それ故に、これ以降、日本軍は、この時点で占守島以
 北の千島列島から居なくなった。
  その様な戦う日本軍の居ない占守島より以南の「日本
 領の千島列島」を、ソ連(ロシア)は奪うという不法行
 為を行った。
  この様にして日本領を奪ったロシアは、今・現代、『
 戦って奪い取ったのだ』と嘘を言っている。
  占守島では、戦争が終わって、ソ連(ロシア)と日本
 は了解して武器を置いた。
  その様な占守島の戦いの以後、ソ連(ロシア)は、不
 法な行為で、日本領の千島列島を不法占拠をして行った。
  戦いなどまったく行われていない。
  ロシアは、「戦って取った」と嘘を言わないこと!
.
1928年9月26日、マザーテレサさんは、18歳のこのとき、
  インドの話を聞いて、インドを中心に旅行をしたいと
 思った、
  また、旅行だけではなく現地密着の海外活動をしたい
 と思い立った。
  若い女性らしい思い立ちだった・・、
  今、キリスト教の広告塔にされているマザーテレサさ
 んは、あらゆる美化がなされているが・・
  初め・・この時・・
  マザーテレサさんのこの行動は、この様な広告塔の大
 きな話になるという訳では、まったく、なかった。
  18歳のマザーテレサさんは・・、
  インドで・・、
  ヒンズー教徒の方々が・・行っている・・、
  『弱者救済の運動とその行動』の中に入って行って・・、
  ヒンズー教徒の方々と共に弱者救済活動を行なった。
  その行為が、そのことが・・、素晴らしい業績となっ
 ていますが・・、
(注):
  世間には・・キリスト教のプロパガンダ・嘘宣伝だけ
 が・・あまりにも声高に・・叫ばれているため・・、
  真実が・・隠されています。
  初めて、上記の文を・・読まれた方は・・驚かれたと
 思いますが・・「真実は・・上記なのです」。
  キリスト教は・・、
  マザーテレサさんが、アメリカの映画に取り上げられ・・、
  脚光を浴びた頃、その事を知り・・、マザーテレサさ
 んに着目し・・キリスト教の・・「広告塔」にしました。
  そして、ヒンズー教の方たちを隠しました。
  ヒンズー教徒の方々は・・まったくと言ってよいほど、
 陰に隠れた状態に・・なってしまいました。
  それでも、インド政府は、マザーテレサさんを・・、
 国葬にして・・マザーテレサさんを讃えました。
  そして・・、
  マザーテレサさんには、「別の業績」がありました・・、
  それは・・、
  「キリスト教の神は居ない」・・と、表明されたこと
 でした。
  マザーテレサさんは・・、キリスト教の「神の存在」
 に悩んでいました。
  キリスト教の神は居ない・・と・・、
  本国の色々な司祭などに・・長い期間、悩みを打ち明
 け続け・・、
  そして、相談をし続けていました。
  その事実は・・隠されていました・・が、
  また、彼女のこの悩みである「キリスト教の神の不存
 在」は、「彼女の死に至るまで」・・続きました。
  彼女は、死ぬまで、キリスト教の神は居ないと悩んで
 いました。
  このキリスト教の神が居ないという事実を、公表する
 事が・・彼女の希望であったのでしょう、このキリスト
 教に『不利な事実』・「真実」が公表されました、キリ
 スト教の神は居ない・・と・・、
  このキリスト教の神は居ない・・神の死は・・
  今、アメリカに・・、
  「神の死の神学」という人々が居ます。
  この方たちは・・キリスト教の『神の不存在を主張』
 し・・、
  成熟した現代社会・世界の人々は・・、それで十分や
 って行けるのだと言っています。
  『古代に発生したキリスト教』・・、
  その様な時代の、古代人とは・・現代人は違う・・と、
 主張する・・方たちです。
  そして、マザーテレサさんは思っていたと思います・・、
  「神が居ない」と言い続けて、公表に至ったことは・・、
  その行為が・・「人類に貢献しうること」・・と、
  そう考えられて居られたから公表がなされました。
  また、『キリスト教の神の実在性を主張するそのもの
 が・・人類にとってよくないこと・・よくないもの』と、
  マザーテレサさんが、そう考えられているから・・、
 この様な、行動が取られたのだと言えます。
  (参考)
  神の死の神学:
  ニーチェの言葉である・・「神は死んだ」は・・、
  1960年代になり、公民権運動が盛んな時代のアメリカ
 の神学者たちも使うようになった。
  アメリカの神学者たちは・・、
  現代社会において神は・・、人間に・・、
  『リアルな存在ではない』・・・
 ・・という意味で、
  「神は死んでしまった」という意味で用いる。
  1957年に、
  アメリカの神学者ゲイブリル・ヴァハニアンは・・、
  『神は死んだ』と題した著書を著した。
  ヴァハニアンは・・その中で・・、
  無神論を・・『アメリカの大衆の生き方である』・・
 と、述べている。
  アメリカ人の神学者・トマス・アルタイザーは・・、
  エモリー大学で教えている間に、『神は死んだか?』を
 出版する。
  また、アメリカの神学者のウィリアム・ハミルトンが、
 異なった立場から・・、
  1961年に、著書『キリスト教の新しい本質』で・・、
 異なった視点の・・『神の死の神学』を展開した。
  そして、神が居ないと自覚する事で・・、
  人間の主体性が、そして、自律性が・・とりもどされ、
  前の時代の・・神に拘束された非人間性から・・脱却
 でき・・そして、人間らしさが取り戻せる・・と・・
.
1940年10月7日、マッカラム覚書
  第二次世界大戦を引き起こす切っ掛けとなったアメリ
 カのマッカラム覚書。
  1940年10月7日付けのマッカラム覚書には・・
  『日本に最初に手出しをさせよ』・・その日本に先に
 一撃を撃たさせる方策のための引っ掛けの8項目の提案が
 提出された。
  そして、アメリカは、卑劣な経済制裁を日本に行なっ
 た。
  これは、もう、アメリカが始めた戦争だった・・戦争
 の状態だった・・
  『経済制裁は戦争行為』であり、『侵略を始めたのは
 アメリカ』の方だった。
  マッカラムは、この時代の日本と日本人の行動や感情
 や心理を、できる限り引き出して・・日本に、戦争の行
 為へ至らせようとした。
  そして、アメリカの海軍情報部極東部長のマッカラム
 は、「その思惑を、結果的に、成功させた」。
  マッカラムは、ルーズベルト大統領のお気に入りの軍
 人だった。
  そして、ロバート・B.スティネットは・・、
  2万件以上の「反論不能なほどの、また、出所の明確
 なアメリカ政府内資料とインタビュー」で、アメリカの
 日本への引っ掛け工作を明らかにした。
  (参考)ロバート・B.スティネット:1924年、米国
     カリフォルニア州オークランドに生まれ・・
      真珠湾攻撃の時は高校在学中。
      1942年の卒業と同時に海軍に志願入隊した。
      1946年まで、海軍大尉だったジョージ・ブッ
     シュ元大統領のもとで太平洋、および、大西洋
     の戦場に従軍する。
      この軍功により青銅従軍星章10個、及び、大
     統領感状の授与を受けた。
      戦後は、オークランド・トリビューン紙の写
     真部員兼記者を勤め・・1986年退社。
      BBC、NHK、テレビ朝日の太平洋戦争関
     係顧問も務めた。
      その著書に、「Day of Deceit(真珠湾の真実)」
     がある。
  (参考)アメリカは、日本の暗号を完全に解読してい
     た。
      日本は、暗号を変え続けたがアメリカに解読
     された。
      そのアメリカの暗号の解読も、アメリカは卑
     劣な方法を取った。
      日本の外務省の急使の手荷物を盗んで、暗号
     書の入っている箱を開け、暗号書の内容を急い
     で写真に撮っていた。
  そして、日本に勝算の無い戦争を始めさせた直接の原
 因の一つとなったのが『ABCD包囲網』の卑劣な村八
 分攻撃だった・・
  これによって、日本を『挑発』し、あからさまな戦争
 行動を先に起こさせるため・・この計画の一環として提
 示された。
  (参考)ABCD包囲網:A(アメリカ)、B(イギ
     リス)、C(中国、現在の共産圏の中華人民共
     和国ではない)、D(オランダ)による日本に
     戦争を起こさせるための包囲網
  これらのことを傍証するアメリカ政府・軍関係者の証
 言は、多数、存在し・・
  それによって、アメリカが戦争を始めたいという意図
 は・・『明らかに存在していた』・・
  もちろん、日本が、「侵略の意図から始めた」という
 論理は、どの様に見ても成立しない。
  また、ルーズベルトは、すでに、1919年に立案された
 対日戦争計画「オレンジ」に則って行動を起こしていた。
  ルーズベルトは、「宣戦布告せず交戦する技術」や「
 宣戦布告せず経済制裁する技術」を行使していた。
  ルーズベルトは、すでに、1937年10月5日、ルーズベル
 トによる「隔離演説」を行なっている・・
  また着々と、その手順を進めた・・
  1939年7月、日米通商航海条約破棄を通告・・1939年12
 月 モラル・エンバーゴ(道義的輸出禁止)として航空
 機ガソリン製造設備、製造技術の関する権利の輸出を停
 止するよう通知・・1940年1月、日米通商航海条約失効・・
 1940年6月、特殊工作機械等の対日輸出の許可制・・1940
 年7月、国防強化促進法成立(大統領の輸出品目選定権限)・・
 1940年7月26日、鉄と日本鉄鋼輸出切削油輸出管理法成立・・
 1940年8月、石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃
 料)、航空ガソリン添加用四エチル鉛、鉄・屑鉄の輸出
 許可制・・1940年8月航空機用燃料の西半球以外への全面
 禁輸・・1940年9月、屑鉄の全面禁輸・・1940年12月、航
 空機潤滑油製造装置ほか15品目の輸出許可制・・1941年
 6月、石油の輸出許可制・・1941年7月、日本の在米資産
 凍結令・・1941年8月石油の対日全面禁輸・・
  マッカーサーの議会証言でも分かる通り、これ等のア
 メリカの卑劣な行動で、事実上、戦争が始まっていた・・
 日本の失業者は「日本に満ち溢れた」。
  1951年5月3日、米国上院軍事外交共同委員会における
 マッカーサー証言:
  「明治維新以来、欧米列強に対抗する為の『富国強兵』
 策の地盤固めとして欠かせなかった重工業の継続的発展
 が、これら一連の禁輸措置によって『停滞』するどころ
 か、『日本に1000万人から1200万人の失業者を生じさせ
 た』。
  『日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障
 (Security)によるものだった』と・・また・・
  1928年12月7日、アメリカ議会上院の不戦条約批准の
 是非を巡る討議に於いて、米国国務長官のケロッグは、
 『経済封鎖は戦争行為そのもの』と断言した。
  因みに、不戦条約では、「その戦争が自衛かどうかを
 決定するのは各国の判断に委ねる」としている・・
  つまり、アメリカには、以下の日本の主張に対して反
 論できない・・「アメリカが行なった経済的に死命を制
 する事実上の戦争行為に対して、日本が自衛のために戦
 争を行なった」・・
  日本が「大東亜戦争は自衛戦争であった」、あるいは
 「大東亜全域の欧米列強の侵略・植民地化に対する集団
 的自衛権の行使だった」と事実を述べることに対して・・
 反論する権利はない・・侵略的行為は、アメリカからな
 された・・
.
1952年4月28日、この日のサンフランシスコ平和条約発効直
 後の5月1日、木村篤太郎法務総裁から戦犯の国内法上の
 解釈についての変更が通達され、戦犯拘禁中の死者はす
 べて『公務死』として、戦犯逮捕者は『抑留又は逮捕さ
 れた者』として取り扱われる事となり、戦犯とされた人々
 のために数度にわたる国会決議もなされた。
  ゆえに、「国内法」という意味であれば、我が国には
 A級戦犯は存在しません。
 1952年6月9日、「戦犯在所者の釈放等に関する決議」、
 1952年12月9日、「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する
  決議」・・そして・・
 1953年8月3日、「戦犯」とされた者を赦免し、名誉を回
  復させる「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
  が社会党を含めて圧倒的多数で可決された。
   この議決は、前年(1952年)に、戦犯とされた者を
  即時に釈放すべしという国民運動が発生し、4千万人の
  日本国民の署名が集まった事に起因する。
   そして、「恩給改正法」では、受刑者本人の恩給支
  給期間に拘禁期間を通算すると規定され、
 1955年には、「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」
  がされた。
  そうしてサンフランシスコ講和条約第11条の手続きに
 もとづき関係11か国の同意を得たうえで減刑による出所
 が順次、行われることになる。
  なお、日本政府はこの法について、刑の執行からの解
 放を意味すると解し、いわゆるA級戦争犯罪人として極
 東国際軍事裁判所において有罪判決を受けた者のうち「
 赦免」された者はいないが、減刑された者は10名(いず
 れも終身禁錮の判決を受けた者である)であり、いずれ
 も昭和33年4月7日付けで、同日までにそれぞれ服役した
 期間を刑期とする刑に減刑されたものとし、この法律に
 基づく「赦免」及び「刑の軽減」が判決の効力に及ぼす
 影響について定めた法令等は存在しないという見解を示
 している。
  ・・以上、「公式見解」・・
  ただし
  外務省:
 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/09.html
  この裁判について、様々な議論があることは承知して
 いますが、我が国は、サンフランシスコ平和条約第11条
 により、極東国際軍事裁判所の裁判を受諾しており、国
 と国との関係において、この裁判について異議を述べる
 立場にはないと考えています。
  ゆえに「国際法」上は「極東国際軍事裁判所の裁判を
 受諾」しているため、「国と国との関係において、この
 裁判について異議」を唱える事ができないわけです。
  例えば、「日本国憲法」第9条により、我が国は陸海
 空軍その他の戦力を保持しないにもかかわらず、仮に自
 衛隊は「戦力ではない」と仮定しても、明らかに「戦力」
 である「在日米軍」が存在しているのは、国際条約(日米
 安保条約など)によります。
  つまり、我が国において現実には「条約」が「国内法」
 より優位にたっており、ゆえに「A級戦犯」の問題が存
 在するわけです。
  一応言っておくと、憲法学上の「通説」は、「憲法優
 位説」であり、アメリカも「日米安保条約」を自国の憲
 法より優先させる事はないはずです。
  「A級戦犯」についての評価はおくとしても、現在の
 状態は、我が国が「独立主権国家」であるかどうか?
  という疑問を投げかけているようにも見えます。
.
2005年7月、NHKの編成局経理担当職員がNHK保有のソ
 ルトレークオリンピックの入場券を転売し飲食代約50万
 円を着服した。
.
2005年11月、NHKの大津放送局記者が連続放火で逮捕さ
 れ、懲役7年となった。
.
2018年10月31日、中国が南沙諸島の運用を開始した。
  この時から遡ること3年2ヶ月前の2015年8月20日、アメ
 リカ国防総省は、「アジア太平洋での海洋安全保障戦略」
 と題した報告書を公表し・・
  中国が、2013年12月に、南沙諸島での埋め立てを開始
 して、2015年6月までに、2,900エーカー(約12km2)を埋
 め立て、その面積が、周辺諸国による埋め立てを含めた
 全体の約95パーセントに当たることを明らかにした。
  また、埋め立てから滑走路や港湾施設の建設によるイ
 ンフラ整備に重点が移行していることも指摘した。
  中国が、この様にして実効支配して、軍事拠点化して
 いるこの場所を、地球上でやり取りされている原油や液
 化天然ガス(LNG)の約半分が通過している。
  そして、2016年1月、アメリカのCSIS(戦略国際問
 題研究所)は、報告書において、中国の空母打撃群保有
 の可能性と併せて、「2030年までに、南シナ海が事実上
 中国の湖となる」と警鐘を鳴らした。
  2016年7月12日、オランダ・ハーグの常設仲裁裁判所は、
 中国が、南シナ海のほぼ全域で領有権を主張する独自に
 設定した境界線「九段線」には、国際法上「歴史的権利
 を主張する法的根拠はない」と認定する裁定を下した。
  また、中国が、南沙諸島などで人工島の造成などをし
 ている岩礁はすべて「島」ではなく、「岩」または高潮
 時に水没する「低潮高地」であると認定する裁定も下し
 た。
  2018年10月31日、ファイアリー・クロス礁、ミスチー
 フ礁、スビ礁を運用開始したと、中国が公表した。
.
2018年12月8日、中国はもう正せなくなっているのか?
  叩けなくなっているのか?
  一番、のんべんだらりとしているのが日本。
  中国もロシアも、日本接近してきているのは、日本の
 国防力が伸びないで、昔のままになっていて、組みし易
 いから。
  【討論】米中戦争の行方と新世界秩序[桜H30/12/8]
  https://www.youtube.com/watch?v=PMQjywlngxM
  パネリスト:
   鍛治俊樹(軍事ジャーナリスト)
   河添恵子(ノンフィクション作家)
   石平(評論家)
   福島香織(ジャーナリスト)
   矢野一樹(元海上自衛隊潜水艦隊司令官 海将)
   矢野義昭(元陸上自衛隊小平学校副校長 陸将補)
   湯浅博(国家基本問題研究所主任研究員)
  司会:水島総
  10年前のCIAS
  核抑止は万全か?
 1、米中の戦略核バランス
   中国が先制攻撃すれば、アメリカは4千万~5千万人
  の損害、中国は2600万人の損害。
   アメリカが先制攻撃すれば、中国は最大1億人の損害、
  アメリカも数千万人の損害か?
   アメリカおよび中国は、核戦争にエスカレートする
  恐れのある軍事挑発はできない。
 2、米中の通常戦力バランス
   アメリカの海・空の技術的優位は明らか。
   特に、戦闘機と潜水艦、空母が優位。
   中国大陸での本格的地上戦はアメリカでも不可能。
 3、問題は、アメリカが、戦略核戦力の対中劣勢にある。
   (アメリカの空母も容易に接近できず)
   ロシアの核戦力も4分の1程度は極東に向いている。
   そして、中露接近は当面続いて行く。
   北朝鮮の弾道ミサイル脅威も数的には中国並み。
  (参考)中国の戦略核は400から600ある。
      北朝鮮も、中国並みになって来ている(400か
     ら600)
      アメリカ1国だけで、中・露・北朝鮮に対抗で
     きない
      中国は、原子力推進の超超長距離を飛べる巡
     航ミサイルを保持したと言ったが、こうなると
     アメリカの防衛が北極海を向いているので、防
     御が大変な事になる。
      アメリカが、それに対抗するためには、韓国
     からも、また、日本からも、アメリカの軍事力
     を引き上げてアメリカ本土を固めなければなら
     ない。
      軍事バランス的に、10年間は、中国が台湾を
     取りに行っても、アメリカはそれに対応できる
     状況にはない。
      日本も、これにどう対応するのか?となって
     いる。
      日本は、アメリカを当てに出来なくなってい
     る。
      アメリカは、本土を守るのに手いっぱい。
      20兆ドルを超える赤字のアメリカ、財政的に
     も非常に厳しい。
      米中の貿易摩擦は、だから、貿易問題ではな
     く、『アメリカの存亡の安全保障上の問題』。
      中国は、技術的にも急速にアメリカに追いつ
     いて来ている。
      中国の技術的追い上げが厳しい。
      中国は、軍事基地を地下化をして耐力が上が
     っている。
  米国の対応
 1、トランプ政権は、核戦力の増強、近代化推進方針を
  明示した。
 2、核戦力の整備に最優先で予算配分する、配分は可能
  と保証
 3、核戦力の3本柱(ICBM、SLBM、戦略爆撃機)
  を更新。
 4、核弾頭の新型開発(戦力化は約10年後)、その間、
  寿命延長
 5、ロシアに対抗し低出力核を増強
 6、核インフラの整備
 7、核関連の人材養成、施設の整備更新
 8、アメリカの核抑止力強化と同盟国への核の傘の信頼
  確保。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  アイヌの人々は、日本の先住民ではありません。
  日本の先住民は、アフリカ由来の日本人です。
  アメリカの先住民が、アフリカ由来のアメリカ・イン
 ディアンの方々であるのと同じです。
  アイヌの人々は、13世紀に、蒙古に追われて日本に来
 ました。
  2019年4月16日に衆議院と参議院で成立した「アイヌの
 人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推
 進に関する法律(俗称:アイヌ新法)」は、科学的に、
 また、歴史的に正しくありません・・間違った記述があ
 ります。
  この法律の間違った記述を「正しく改正する」声を上
 げましょう。

# by suba28 | 2019-06-14 03:38 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)646E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年4月~1896年5月)

題:(増補版)646E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年4月~1896年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年4月、逓信省に軌制取調委員会を置き、軌間をめぐる
 問題について調査した。
  改軌論争(かいきろんそう)・・日本の軌道幅は、発
 祥時に1067mm軌間(狭軌)を採用した。
  この軌道幅を、1435mmの標準軌へ軌間を変更しようと
 した。
  軌間は、車両限界や軌道の強度と異なり、小さい側で
 も大きい側の路線を通行することができないため、日本
 だけではなく1840年代のイギリスでも、早々に、別々に
 広がった4フィート8インチ半(1435mm)軌間と7フィート
 1/4インチ(2140mm)軌間で相互通行ができず、どちらか
 が全面改軌すべきだという結論になって軌間戦争(Gauge
 war)が発生した。
  最終的に広軌側が敗れることになった。
  この様な事は、各国でも似たようなトラブルが起きて
 いる。
  1887年頃、鉄道の輸送量が増加すると、軍事的にも、
 より軌道幅の広い標準軌への改軌を良いとする「鉄道改
 正権議案」が提出された。
  これに対し、鉄道局長で鉄道国有論者の井上勝は、東
 海道本線さえ開業していない現状では、路線拡大を優先
 すべきだとして、当初通りの計画とした。
  井上は、狭軌ブームの頃のイギリスに留学していた。
  また、鉄道建設の現場で長年働いた経験もあり、「地
 形の複雑な日本には標準軌より狭軌のほうが向いている」
 という考えがあったと言われている。
  1894年に起きた日清戦争で、鉄道の輸送量はさらに増
 加し・・1896年に、逓信省で軌制取調委員会が発足し、
 改軌に要する費用とその利点・欠点などの調査が行われ
 た。
  しかし、鉄道局内には改軌論者がほとんどいなかった。
  そして、鉄道を国有化して行くことが重要と方針を改
 められ、改軌の実施には至らず・・
  1899年、軌制取調委員会は解散si
た。
.
1896年4月、登録税が創設された。
.
1896年5月1日、郡是製糸株式会社が設立された(1896年8月
 10日説あり)
  現在のグンゼ株式会社。
  「郡の是」とは、国の方針である国是、会社の方針で
 ある社是のように、創業地の何鹿郡(現:京都府綾部市)
 の地場産業である蚕糸業を、郡(地域)を挙げて振興・
 推進していこうという、元農政官僚で殖産興業の父と呼
 ばれた前田正名の趣旨に基づく。
  現在、東証1部上場企業。
  本社所在地:大阪府大阪市北区梅田。
  本店所在地:京都府綾部市青野町膳所1番地。
  特色は、紳士肌着で首位。素材、機能性繊維、電子機
 能材料、メディカルも成長。不動産事業も手がけている。
  2018年には、京都府と地域活性化包括連携協定を締結
 している。
  創業は、創業者の波多野鶴吉が、前田正名の講演を聞
 き感銘を受け、1896年8月10日に、創業地の産業である蚕
 糸業の振興を目的に、郡是製絲株式會社として設立した。
  蚕糸・紡績業が国家的事業として力が注がれていた明
 治期にあって、早くから海外に生糸を輸出し、高い評価
 を得た。
  海外の拠点開設も早い段階から行い、急速に業績を拡
 大した。
  また、製糸工場は、女性の労働者が中心であり、地域
 の養蚕農家の子女を集めて操業し・・
  女工哀史があるが、劣悪な労働環境の工場の多い時代、
 同社は、工場内に女学校を設立し、人間教育に務め、低
 賃金労働ではない。
.
1896年5月2日、ハンガリーのブダペスト地下鉄が開通した。
  この年に開業した1号線は、世界でロンドン、イスタン
 ブールに次いで3番目。
  電気運転の地下鉄としては世界初の地下鉄。
  地下鉄として唯一世界遺産に登録される。
  路面上での建設が反対されたため、1870年に、国民議
 会が地下鉄建設計画とし、受け入れられた。
  1894年、ドイツのシーメンス・ウント・ハルスケ社に
 よって建設が開始され、最新の機械と2000人の労働者に
 より、2年足らずで完成した。
  ハンガリー人「カルパチア盆地征服定住千年祭」に合
 わせて1896年5月2日に完成した。
  因みに、イスタンブールで1875年に開業したテュネル
 は地下ケーブルカーという特殊な方式をとっている。
.
1896年5月4日、イギリスのタブロイド紙「デイリー・メー
 ル」が創刊した。
  「忙しい人の日刊紙」の触れ込みでの朝刊全国紙。
  アソシエーテッド・グループ系主力紙。
  ノースクリフ卿、ロザミアの兄弟によって創刊され、
 半ペニーの廉価な新聞として、中小商店主、事務員、職
 人などの中流層や労働者、女性に読者層を持った。
  アメリカの大衆紙「ペニー・ペーパー」をまねて編集
 し、記事は簡潔、女性向けの我が意が豊富で、海外ニュ
 ースの報道にも力を入れ読者を獲得した。
  現代大衆紙の原型といわれている。
  1896年、創刊時の反響は上々で、約40万部が売れ、当
   時としては驚異的な数であった。
  1898年、50万部、
  1900年、100万部に達する発行・・大衆紙として支持を
   確固なものとして政党の補助金を排し、言論の自由
   を確立した。
  1920年代は、イギリス新聞界の最大の発行部数を誇る。
  1929年、200万部発行と休息の伸びを示す。
  1960年『ニューズ・クロニクル』 (1930創刊) を合併、
  1960年代後半は200万部を超え、以後、減少傾向へ、
  1971年『デーリー・スケッチ』 (1909創刊) を事実上
   統合した。
  1990年代前半から発行部数が上向きに転じた。
  1996年、大幅に前年を上回って再び200万部を超えた。
  1997年、朝刊204万9100部を発行。
  1998年、約239万部の発行。
  2003年、251万部とピークに達するが、以後、低下傾向、
  2011年、213万部の発行。
  ロンドン、マンチェスター、エディンバラで発行し、
 傾向は保守的。
  ウェブ版「メール・オンライン」は1日平均のアクセス
 数がイギリスのトップ。
.
1896年5月4日、徳島鉄道の徳島駅~川田駅間の建設仮免許
 状が下付された。
  吉野川に沿って徳島県の東西を結んでいる。
  全線にわたってほぼ吉野川の南岸を経由する。
  明治期には、当線開業の後に、小松島港と小松島軽便
 鉄道(後の小松島線、および、牟岐線の徳島駅~中田駅
 間)が相次いで整備され、当線と小松島軽便鉄道、そし
 て、小松島駅~大阪航路(大阪商船と阿波国共同汽船な
 ど)を経由しての貨客輸送が行われた。
  約100年後の1988年に、JR四国は、線路名称を改正し、
 徳島本線を徳島線に改称した。
  また、「よしの川ブルーライン」の愛称が付けられた。
.
1896年5月5日、台湾鉄道株式会社が創立した。
  1896年10月27日許可を受け・・
  1897年の翌年に、台湾を南北に縦貫する夢の縦貫鉄道
   を造ろうと測量に着手した・・が、2年後・・
  1899年10月に解散し実際には鉄道建設は行なわれずに
   終わってしまった・・しかし・・
   総督府の後藤新平民政長官は、鉄道建設は民間会社
   で行なうのは不可能と判断した。
   そして、後藤民政長官は、1899年3月、「台湾事業公
   債法」(法律第75号)を発布して、鉄道敷設のため
   の公債を募集するとともに・・国有鉄道の・・
   10か年2,880万円の鉄道国有計画として確定した。
   それとともに、在来線の基隆駅~新竹駅間の改良や、
   新竹駅~高雄駅間の建設に着手した。
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  (今日の言葉)
.
  題:国家が崩れて行くのは、外部の敵対勢力によって
   ではなく、国家の衰退、国家の滅亡は、内部から起る・・
.
紀元前500万年、人の祖先が、チンパンジーとの共通祖先か
 ら分岐した。
  因みに、現時点で、人とチンパンジーとはDNAで、
 98.5%が一致している。
  また、この時以降、東アフリカの大地溝帯で、十数種
 類のヒト科の化石人類が次々と出現した。
  「キリスト教の神が、その都度、創造した」という「
 キリスト教の神の食い違い話」は言っても始まらないレ
 ベル。
  (参考)化石人類:化石として発見される古い人類。
      具体的には、約400万年前~1万年前までの更
     新世以前の人類のこと。
      次のように4つの進化段階に分けられている。
     (1) 猿人:パラントロプスを含んだアウストラ
      ロピテクス類のこと。
       およそ400万年前~100万年前、不完全なが
      ら二足歩行をして、礫石器を使用していた。
      (参考)礫石器:れきせっき、礫の周囲を簡
         単に打ち欠いた石器。
     (2) 原人:ピテカントロプス、北京原人などホ
      モ・エレクトスをさす。
       およそ、150万年前~20万年前、完全に直立
      二足歩行し、握斧を作った。
       火を使用したと思われる。
     (3) 旧人:ネアンデルタール人などのことで、
      およそ、20万年前~5万年前、おもに剥片石器
      を使用した。
      (参考)剥片石器:はくへんせっき、石材の
         外面を次々に打剥した剥片をそのまま、
         あるいは整形加工を加え、鋭利な側縁
         を刃器として用いた石器。
     (4) 新人:現生人類と同類である。
       石刃を多目的に加工して使用した。
       (参考)石刃:せきじん、円錐状石刃核の
          打面を周縁に沿って打撃し、側面か
          ら次々に打剥された剥片石器。
       約3万5000年前、更新世の最終寒冷期(いわ
      ゆるビュルム氷期)以降に生存したとみられ
      るため、化石現生人類とも称せられる。
       上記の人類は、いずれも現生人類の先祖で
      あるとの可能性が考えられている。
       今後、残存DNAなどにより、系統が明ら
      かになる可能性がある。
       尚、上記の二つの段階の中間に位置する化
      石も存在する。
       また、人類に近縁な化石類人猿として古く
      からドリオピテクス類があげられているが、
      今日では、ヒトとは、若干、道を異にしたゴ
      リラやチンパンジーなど、現生類人猿の祖先
      とみられている。
  また、因みに、現代人の祖先であるホモ・サピエンス
 は、その前に発生したネアンデルタール人と交雑してい
 ることが、最近、科学的に立証された。
  ネアンデルタール人のDNAの2%を、現代人の我々ホ
 モ・サピエンスは持っている。
  両者の遺伝子差異は、他の動物種ならば、当然、別種
 と認定されるレベルで、ネアンデルタール人とホモ・サ
 ピエンスは混血できなかったとする考え方が有力だった。
  しかし、ここ約10年の化石人類の発見ラッシュと遺伝
 学的研究の発展によって、この定説は大きく書き換えら
 れた。
  2010年、ネアンデルタール人のゲノムが解読された。
  そして、あらゆる地域の染色体6万個とネアンデルタ
 ール人のハプロタイプを比較したところ、サハラ以南ア
 フリカの地域以外の世界中の人々の遺伝子に、ネアンデ
 ルタール人のDNA配列が存在することが分かった。
  アフリカ人を除く全ての現生人類は、ネアンデルター
 ル人の遺伝子を平均で2%持っていた。
  ネアンデルタール人は、2万数千年前に絶滅したヒト属
 の一種。
  体格はがっしりしており、脳容量も現生人類より大き
 く、男性の平均が1600cm3あった。
  (現代人男性の平均は1450cm3)。
  ヨーロッパに分布し、肌は白く、髪は金髪もしくは赤
 かったとされる。
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紀元前260万年、世界最古の石器
  ヒト属(ホモ属)によるものは、エチオピアのアファ
 ール盆地のゴナにある化石人類遺跡で発見されたオルド
 ワン型礫石器群。
  約260万~約250万年前(新生代新第三紀鮮新世後期)、
 ホモ・ハビリスによるものと推定されている。
  (参考)オルドワン石器:堅いハンマーで打撃を加え
     て製作された剥片やチョッピング・ツールを特
     徴とする石器文化。
      製作は、250万年前に始まり、アフリカやアジ
     アの各地で2万年前まで続く。
      アフリカの大地溝帯(オルドヴァイ峡谷など)
     で遺跡とともに最古の石器が発見される。
      これらの石器は、礫を打ち欠いて制作した簡
     単な礫器や剥片からなり、解体された動物骨と
     ともに見つかる。
      ホモ属(ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトス
     など)はもとより、アウストラロピテクス猿人
     などにより製作された可能性がある。
  また、これ以前には、加工しない自然石の使用もあっ
 たと予想される・・この場合、無石器時代と呼ぶ時代も
 予想される。
  因みに、我々ホモ・サピエンスの出現は、紀元前20万
 年である。
     ・
     ・
     ・
紀元前4004年、キリスト教の神の「天地創造」
  キリスト教は、キリスト教の神による天地創造を、わ
 ずか紀元前4004年だと説いた。
  キリスト教の神が天地創造する前に、数多くの種類の
 人類が、すでに存在していたことになる。
  また、「ノアの大洪水」で、全人類が絶滅する時を、
 その天地創造後、1656年だと説いた。
  故に、ノアの大洪水は、紀元前2348年に起きたことに
 なる。
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紀元前2348ねん、キリスト教の「ノアの大洪水」
.
紀元前600年頃、キリスト教の世界観につながって行く「バ
 ビロニアの世界観」
  この世界観は、平らな円盤状で、天空は七つの島が支
 えていると考えられていた。
  そして、その世界は、「苦(にが)い河(鹹河・かん
 が、塩辛い河)」で囲まれていた。
  この様に非常に狭い世界観の中に居た。
  その世界観の範囲は、まだ、メソポタミア地方のみ範
 囲で、チグリス河とユーフラテス河の両大河と、世界の
 中央にバビロン、周辺にいくつかの都市というものがあ
 った・・
  この様なものが刻み込まれた粘土板があり、「バビロ
 ニアの世界図」と言われている。
  キリスト教の『聖書』と言ったってこの様な狭い世界
 観の人たちによって書かれた。
.
紀元前550年、ギリシャ人で、最初に世界地図を書いたとい
 うヘカタイオス(紀元前550年~紀元前475年)
  彼は、アジア大陸とヨーロッパ大陸を初めて区別して
 書いた。
  そして、「アジアの一部にリビア」という地名を書き
 込んだ。
  リビアが、アフリカという大陸に存在するとは認識し
 ていなかった。
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紀元前6世紀まで、ギリシャ人は、盛んに黒海や地中海沿岸
 を植民し、ポリスを建設し、盛んに広く商業活動を展開
 した。
  ギリシャ人は、バビロニア人の世界観を承継していた。
  ギリシャ人のホメーロス(紀元前8世紀)の「オデュッ
 セイア」に、次の記述がある・・
  トロイからの帰り、嵐で流され、世界を取り囲んでい
 る「オーケアノス」の海を漂い巡って、世界の東端にあ
 る黒海の入口を探しあて、そこから入り地中海へ戻った・・
 という。
  ギリシャ人は、「バビロニア人の知恵」と言ってバビ
 ロニア人の文化に深い尊敬の念を持っていた。
  このホメーロスは、バビロニア人の世界観を承継して
 いた。
  紀元前6世紀まで、ギリシャ人は、盛んに黒海や地中海
 沿岸を植民し、ポリスを建設し、盛んに広く商業活動を
 展開していた。
.
紀元0年、今・現在、世界は、「イエス紀元」の年号を使用
 しているが・・
  これは何も、キリスト教の年代記が正しいとか、信頼
 できるとかの話ではない。
  実際は、その逆で、キリスト教年代記は信頼できない
 不確かなものとなっている。
  「もはや、キリスト教の普遍史的・キリスト教年代記
 は、信頼できない不確かなもの」となっている。
  そして、普遍史的・キリスト教的意味は失われている。
  ただ、中性的な数学的意味から紀元の年代として使用
 しているだけ・・
  だから、イエス前(紀元前)9000年という年号は、キ
 リスト教にはあり得ない年号だが・・平気で使われてい
 る。
  これは、キリスト教の神の「天地創造以前の時」とな
 ってしまう。
  キリスト教は、神の「天地創造以前は、時間がないと
 している」。
  「時間」そのものを存在しないとしている。
  現代科学は、ビックバンを紀元前138億年としている。
  但し、種々の科学的な説はある。
  また、京都大学理学部による物理実験の結果に注目が
 集まっている、それは、「ビッグバン」理論に関わる有
 力仮説をひるがえす「否定する論文」を作成し、アメリ
 カの物理学会誌に掲載された。
  実験を指導したのが京都大学理学研究科の川畑貴裕准
 教授。
  ビックバン理論の骨子は・・
  ・ビックバン直後の宇宙はエネルギーが満ちているだ
   けで物質は存在しなかった(キリスト教の神は、物
   質を創ったのではなかった)
  ・エネルギーからクォークや電子などの素粒子が作り
   出され、100万分の1秒後ごろ、陽子と中性子が作ら
   れた。
  ・その後、核反応が起らない温度に宇宙が冷却される
   までの約20分間に、ヘリウムなどの軽い元素が作ら
   れた。
  この水素・ヘリウム・リチウムの作られた量が「理論
 上の数値と実際に観測できた数値との矛盾が生じた」。
  リチウムの量が少なくなっている。
  ベリリウムもできている・・しかし、不安定な原子核
 で・・。
  ビックバン直後に、このベリリウムが水素・ヘリウム・
 リチウムに変化している。
     ・
     ・
759年、並木道の始まり。
  この年に東大寺の僧侶・普照が、道に果樹を植えるこ
 とを奏上し、並木が植えられるようになった。
  江戸時代になっても、幕府も並木の効用を良く知って
 いて、街道を並木道にするように命じた。
  暑い夏には、旅人に涼しい緑陰を提供し・・また、寒
 い冬には、吹き付ける風や雪から旅人を守った。
  また、道そのものへも、並木は、風雨や日差しから守
 った。
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1601年1月、東海道の街道の成立。
  東海道は、古代からあったが、また、中世にも東西交
 通の重要な幹線道路であった。
  江戸時代、街道の重要性を認識した江戸幕府は、その
 交通体系を本格的に整備した。
  東海道は、その重要な五街道の一つの道で、重点整備
 がなされた。
  そして、1601年1月、幕府は、東海道の各宿に対して、
 徳川家康の伝馬朱印状と、伊奈忠次、彦坂元正、大久保
 長安の連署による「御伝馬之定」を公布した。
  この年のこの二つの文書の公布によって、東海道に宿
 駅伝馬制度が敷かれて東海道が成立した。
.
1778年、フランスのビュフォンが「自然の諸時期」という
 本を書き、出版された。
  「キリスト教の呪縛」に長い間もがいていた科学者た
 ちは、その呪縛から解き放たれた。
  彼は、初め法律を学んだが、その後、医学、植物学、
 数学を学んだ。
  そして、確率論の研究が認められ、26歳で、科学アカ
 デミー副会員となった。
  そして、1739年(32歳)に、パリの王立植物園の園長
 に任命された。
  I・ニュートンの書物を翻訳したり、実験科学の方法
 論を体系的に展開したりして、「自然科学における経験
 的基礎の重要性」を説いた。
  そして、長い間、キリスト教の呪縛下にあって、6000
 年くらいとされていた地球の年齢を、8万年以上と唱えた。
  この勇気ある発表は話題となった。
  キリスト教に影響された天変地異説を否定した。
  そして、自然は、動植物の種を含めて徐々に変化をと
 げるものだと言い、後の「進化論形成に影響を与えた」。
  標記の本「自然の諸時期」には、地球誕生時の白熱状
 態を第一期として、その後、冷却する過程で海や大陸が
 形成され、また、海生生物と陸生の動植物が発生したと
 『キリスト教聖書とまったく違うことを記した』。
  そして、現在の状態に至るまでを七つの時期に分けた。
  最後の第七期始まる、現在から6000年前~8000年前に、
 「人間は最後に創造された」と書いた。
  そして、「人間が最初に定住した場所は、陸生動物の
 場合と同じに、アジアの高地だったと思われる」と書い
 た。
  そして、火山の噴火や地震の恐怖、そして、野獣の餌
 食になる恐怖にとりつかれ、この様な状態から一刻も早
 く脱出するため、人間は技術を発展させたと書いた。
  そして、社会が形成されたと書いた。
.
1786年、カントやルソーは、さすが、「『アダムとイブ』
 からという歴史の始まり方」をしなかった・・キリスト
 教社会の真っただ中にいたのだが・・
  この年、カントは、「人間歴史の憶測的起源」を書い
 た。
  この二人・カントとルソーは、人間の起源について、
 キリスト教の「アダムとイブから歴史を始めなかった」。
  彼らは、さすがに、社会がキリスト教に洗脳されてい
 る真っただ中にいると言うのに、キリスト教の人間の起
 源は「おかしいと感じていた」。
  1786年に、カントは、「人間歴史の憶測的起源」を記
 述し、キリスト教の「アダムとイブの創造の奇蹟にはま
 ったく触れなかった」。
  カントは、アダムとイブから歴史を始めないで、全体
 を『憶測』として記述した・・キリスト教的歴史の時代
 は、「寓話・伝説的な世界だ」とした。
  キリスト教の話の展開は、19世紀で「その命運は尽き
 ていた」。
  真実の歴史の記述に目覚めた一人であった「ビュフォ
 ン」も、次の様に記述した・・
  「彼ら(古代人)は、まず、翡翠(ひすい)などの硬
 い石を斧(おの)の形に尖らせることから始めた」と・・
  そして、「雷石と呼ばれるその種の石は、雷によって
 形成されて、空から落ちて来たと信じられもしたが、実
 際にはまったく自然の状態にあった人間が、技術を駆使
 して作り出した最初の遺物(石器)に他ならない」と。
  (解説)雷が鳴り響く大雨の時、土砂崩れが起き、そ
     の土砂崩れの土の中から、古代人が作った石器
     が、雨に洗われた土砂の中から出て来た・・こ
     れを「雷石」と人々は呼んでいたが、ビュフォ
     ンは、古代人が造った石器だと見抜いていた・・
     そして、キリスト教の「アダムとイブの創造の
     話」が崩されて行く時代へと入って行く・・
.
1808年、アメリカが奴隷貿易をやっと止めた。
  アメリカやヨーロッパ諸国は、この頃の江戸時代の末
 期まで卑劣にも奴隷貿易をしていた。
  まったく非人道的な卑劣な事である。
  アメリカが、奴隷貿易を禁止したのが1808年・・イギ
 リスも1808年・・デンマークは1802年・・フランスは1819
 年である。
  しかし、この後も、白人・キリスト教徒たちは、黒人
 の方々を奴隷的な扱い方をして『搾取をし続けた』。
  アメリカ大統領のジェファーソン(アメリカ北部の人
 間)は黒人の方々を奴隷にしていた。
  アメリカ世論に、「黒人奴隷制度は、積極的な善」と
 いう奴隷哲学があった。
  (「アメリカの奴隷制は南部だけだ」と言うのはアメ
 リカ北部のプロパガンダ・嘘宣伝・・南部の方々へ卑劣
 な奴隷行為の罪をなすりり付けている)
  そして、「人権のある黒人の方々の奴隷」を動産とし
 て扱った。
  あくまでも黒人の方々を、奴隷として搾取するのを「
 心地よいと感じる輩たちだった」。
  (参考)ジェファーソン:アメリカ独立宣言の起草者。
     第3代大統領。約150人の奴隷を所有した。
     若くして独立運動の指導者となった・・また、
     独立戦争の指導者ともなった。
.
19世紀、アメリカは親日国だった。
  ・・が、しかし、イギリスは残虐で、略奪に満ちた植
 民地支配をした。
  それに比べアメリカは、非常におおらかで明るかった。。
  日本からの咸臨丸や岩倉使節団などが赴(おもむ)く
 と、アメリカは手厚く歓迎した。
  幕末から明治政府が出来るまでのアメリカは、親日国
 だった。
  日本は、アメリカと戦争をするなどとは、夢にも、ま
 ったく思ってもいなかった。
  そして、2019年の今からでは想像が出来ないが、当時、
 アメリカは、まだ、国力は小さく、イギリスが超大国で、
 第一次世界大戦までは、アメリカと日本は、相並ぶ新興
 の国で、日本とアメリカは拮抗(きっこう)していた。
  (参考)拮抗:勢力がほぼ同等のもの同士が、互いに
     張り合って優劣の無いこと。
.
1856年、ネアンデルタール人が、この年、発見された。
  ネアンデルタール人の発見は、ダーウィンの『種の起
 原』が公刊される3年前の1856年だった。
  この頃、キリスト教的世界観の支配する時代だった。
  その為、ヨーロッパでは、この発見が大論議を呼んだ。
  珍説や奇説が数多く生み出された・・
  そして、そのあげく、病気の人の骨格、病理的な骨格
 だとして処理されて、見捨てられてしまった。
  これが、日の目をみるのは、約半世紀後の1901年だっ
 た。
.
1939年、アメリカは、悪意を持って「日米通商航海条約」
 を破棄した。
  日本は、この時まで、アメリカを信頼していた。
  この時に、日本は、驚き、目を覚ました。
  この時が、転機だった。
  突如として目の前に「日本を敵視する・・日本の敵の
 アメリカが飛び出して来た」という感じだった。
  日本は、アメリカが日本の生糸を必需品として必要と
 していると思っていたし・・また・・
  対日輸出で利益を享受しているアメリカは、日本との
 経済関係を切り捨てないと思っていた。
  しかし、アメリカは、日本の生糸に匹敵するナイロン
 を発明した。
  アメリカの「日本と戦争をして、日本を叩くの方針」
 は、以前から不変だった。
  日本の望まぬ方向へ、時は進んで行った。
  アメリカは、小国から大国へと転換する中で「するべ
 きこと」「しなければならないこと」としていたことは・・
 「拮抗する日本」を叩くことがあった。
  「世界の覇権を握りたい」・・これが、アメリカが目
 指すことだった。
  今、2019年、中国が、これと同じ様な「世界に覇権を
 得る」という国家目標を掲げて、(一帯一路という形に
 なってはいるが)、世界のあちこちで軋轢を起こしてい
 る。
  どこかで回避策がなされないならば、この日本とアメ
 リカの時の様な歴史が「繰り返されることになる」であ
 ろう・・
  日本とアメリカがぶつかった様になるであろう。
.
1981年3月30日、レーガン大統領の暗殺未遂事件が起きる。
  この日の午後2時30分、アメリカのワシントンD.C.
 で、ロナルド・レーガン大統領が狙撃された。
  犯人は、回転式拳銃の6発のすべてを発射した。
  銃弾は、大統領専用車の車体に当って跳ね返り、レー
 ガン大統領の左胸部に命中した。
  そのほか、ジェイムズ・ブレイディ大統領報道官、ワ
 シントンD.C.首都警察のトマス・バラハンティ巡査、
 シークレットサービスのティモシー・マッカシーに命中
 した。
  犯人は、ジョン・ヒンクリーという学生で、シークレ
 ットサービスや警官にすぐに取り押さえられた。
  犯人は、逃亡しようともせず、その場で身柄が拘束さ
 れた。
  レーガン大統領は、緊急手術を受けた・・弾丸は、心
 臓をかすめ肺の奥深くで止まっていた・・
  そして、かなりの内出血を起こしていた・・
  かなりの重傷であったが、意識ははっきりしていて、
 弾丸は取り除かれた。
  他の人については、ブレイディ大統領報道官が頭部に
 弾丸を受けたため、一命をとりとめたが障害を残した・・
  そして、この後、2014年、この傷が原因で死亡した。
  他の二人は軽傷で済んだ。
  この時、冷戦下でもあったため、「国家の安全上の理
 由」から報道が控えられた・・
  実際、事件直後、ソ連の潜水艦が、アメリカの大西洋
 沿岸に集結するという事態が見られた。
  そして、この事件で言われていることは・・
  レーガン大統領は、大統領選の時から「FRB(連邦
 準備制度理事会)と民間法人機関である各連邦準備銀行
 の問題点に疑問を持っていた」。
  FRBの問題点を理解をしていた。
  レーガンは、大統領に当選すると、FRB議長のボル
 ガ―と面会をしようとした。
  しかし、ボルガ―は、相手がアメリカ大統領だと言う
 のに・・この大統領の意向に応じようとしなかった。
  しかし、色々あって、結局、ボルガ―は、大統領の意
 向に応じて面会は行われた・・が・・
  面会の開口一番、レーガンは言った、「FRBは、何
 故、必要なのか?、この質問をよく受けるのだが・・」
 ・・と・・
  この質問が発せられると、「ボルガ―は、その言葉に
 慌てた」・・
  ・・と、グリーンスパンの回顧録に書いてある。
  グリーンスパンは、FRB議長を務めた事のある人物
 であるが、このグリンスパンの本の端々には、「政治家
 は、FRBにタッチすべきではない」というニュアンス
 が何度も書いてある。
  アメリカのドル札が発行されると、アメリカ国民の税
 金から国際銀行家へ、利子が支払われるというシステム
 になっている。
  イギリスの新聞の「タイムス」が、社説で・・、
  「アメリカが利子なしで通貨を発行できるようになっ
 たら、アメリカは、文明国の中で史上類のない繁栄を謳
 歌するだろう」と書いた・・その利子である。
  そして、イギリスのロンドン・シティの国際銀行家た
 ちが、このシステムの頂点に居る。
.
1991年3月、この頃、バブルが崩壊し始める・・
  そして、このバブルの崩壊後に、デフレがやって来て・・
 デフレ不況の中で、『お金を回さなければならない時に』・・
 必死に、ひたすら、日本は借金を返済した。
  そしてまた、日本はリストラという名の首切りに励み・・
  せっせ、せっせと、経済を縮小させた・・
  さらに、不要な内部留保を積み上げたるという日本の
 民間企業だった。
  これでは、日本経済は、一層、縮み続けるのが当たり
 前だった。
  景気が回復する訳は・・『無かった』。
  この流れの中に、『今・現在もある』。
  安倍政権が、一生懸命、経済の活性化策をとっている
 から、今、経済は持ち直して来ているけれど・・
  トランプ~中国の雲もあるが・・
.
2017年、この2017年の頃、思っていたこと・・
  今(2017年時点)許せないことは、アメリカが、日本
 を守ってあげているからと、アメリカが日本に押し付け
 てくる間違った政策と価値判断。
  そして、日本も日本で、守ってくれているからと、そ
 のアメリカの要求を、そのまま受け入れてしまうという
 行為をしていた・・
  まったく従属国状態になっている。
  アメリカは、傲慢に要求し、日本の政府高官や政治家
 たちは、OKマンとなって、こんな事をしていた(2019
 年もそうか?)
  トインビーやギボン(「ローマ帝国衰亡史」の著者)
 は・・、
  「国家が崩れて行くのは、外部の敵対勢力によって
 ではなく、国家の衰退、国家の滅亡は、内部から起る」
 と指摘している。
  この様な、アメリカと日本の関係の様な衰退から起き
 る。
  歴史で、色々な帝国が、「外部からの攻撃で崩れたよ
 うに見える時でも、その国家の崩れは、実は内部からす
 でに崩れていた」・・と歴史家は結論している。
  戦争に敗けて、この様な見えざる形で『徹底的に屈服』
 させられて、従属国的な心になり、「信念まで失った」
 ように、アメリカに追従している。
.
2019年。怪しい・・アメリカ財務省中央銀行総裁会議。
  この会議に集まる人たちは、「公的な立場の人たちで
 はない」。
  まったく公的な人たちの集まりの様に見えるから質(
 たち)が悪い。
  今・現在、アメリカは、自国の通貨を発行するのに、
 アメリカ国民の方々の税金から利子という形で金が支出
 し、支払われている。
  公的機関であるべきアメリカの通貨発行機関が民間機
 関とされて、その利子を支払う立場に立たされているか
 らである。
  この美味しい旨い金を受け取っているのが「国際銀行
 家たちの一部」である。
  この様な儲かるシステムを・・、
  国際銀行家たちの一部は、二匹目のドジョウ的に、世
 界中でやりたいと考えている。
  「グローバル化だ」と言ってまやかし的に、このシス
 テムをアメリカ以外にも定着させたいとしている。
  その会議が、毎年、開かれる『財務省中央銀行総裁会
 議』で、その圧力が仕掛けられている。
  日本もターゲットになっている。
  本当は・・民間人の集まりの財務省中央銀行総裁会議
 が、それを決めようとしている。
  このメンバーが、国際銀行家とよく知る、また、気脈
 の通じる者たちということになっている。
  また、世界の中央銀行が株主となっている国際決済銀
 行(BIS)も、公的なものと言えない。
  民間人たちによって支配される機関である。
  よって、この機関から出る「BIS規制」などは国際
 的な取り決めだと思ってはいけない。
  この様な怪しい手段によってコントロールしようとい
 う動きがある。
  (参考)国際決済銀行:1930年、スイスのバーゼルで、
     第一回シオニスト会議が開かれてから33年後の
     この年に・・、
      ロスチャイルド家の最初の「世界銀行」であ
     る「国際決済銀行(BIS:Bank for International
     Settlements)」が、同じスイスのバーゼルに設
     立された。
      BISは、銀行家たちから「中央銀行の中央
     銀行」と呼ばれていた。
      BISの特権の一例:中国やメキシコをはじ
     め世界各国でBISが管理運営する建物や事務
     所に対する、大使館に準ずる外交特権・・
      いかなる政府機関にも業務を監督されず、報
     告の義務もなく、監査も行われない・・
      司法権からの独立と、独自の警察組織さえ有
     する・・など・・
      ロスチャイルドの工作員が、1925年~1929年
     までカルビン・クーリッジ大統領のもとで副大
     統領を務めた。
      オーウェン・D・ヤング(1874年~1962年、
     ロスチャイルドの工作員で、RCAの設立者。
     1922年~1939年までGM(ゼネラル・エレクト
     リック社)の会長を務めた。
  ジョージタウン大学の歴史学者でもあるキャロル・キ
 グリー教授は、その著「悲劇と希望」の1975年版に・・
  「金融資本の影響力は実に広く、それがめざすところ
 は、民間による世界的な金融支配のシステムを創出し・・、
  あらゆる国の政治制度や、世界経済全体の支配を可能
 にすることに他ならない。
  このシステムは、協調して動く世界の中央銀行が、頻
 繁に会合や会議を開いては密約を結ぶという「封建的な
 方法」で運営されることとなった。
  このシステムのトップは、スイスのバーゼルにある国
 際決済銀行のはずだったが・・
  この民間銀行を所有し、支配していたのは、世界各国
 の中央銀行だった。
  そして、これらの中央銀行自体もまた民間企業だった。
  中央銀行は、それぞれに自国の政府を支配することを
 望み、そのために財政融資や為替の操作を行って、国家
 の経済活動の水準に影響を及ぼした。
  また、実業界での経済的な見返りを約束することで、
 協力的な政治家に影響力を与えた」・・と記している。
.
2019年5月22日、日本の国会議員がアイヌ新法という「ア
 イヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施
 策の推進に関する法律」を4月に成立させたが・・、
  この法律は完全に間違った認識の下に成立させている。
  この為、本日、首相官邸やその他に下記の文を送信し
 た。
  この法律は、早急に改正し修正されねばならない。
  (送信文)
 題:アイヌの人々は、ロシアの先住民ではありますが、
   日本の先住民ではありません。
  拝 啓
  御公務、ありがとうございます。
  標記の題目について下記に書かせて戴きました。
  是非、御一読を賜りますようお願い申し上げます。
  ーー 記 ーー
  一昨日(おととい)の2019年5月19日の日曜日に、ある
 無人島にA民族が上陸した。
  その次の日の2029年5月20日の昨日(きのう)の月曜日
 に、また、その島にB民族が上陸した。
  そして、その次の日の2019年5月21日の今日(きょう)
 の火曜日に、その島に後から上陸したB民族は「A民族
 が先住民だ」と宣言した。
  以上の様な例の事が、この度のロシアの「アイヌがロ
 シアの先住民だ」という宣言について起きている。
  わずか200年前にアジアに来たロシア白人が、そこに居
 たアイヌの人たちを『ロシア』の先住民だと言った。
  そうしたら、日本の政治家も、それを受けて「アイヌ
 が『日本』の先住民だ」と法律に書いて、その法律を成
 立させてしまった。
  しかし、真実は、その日本に、そのアイヌの人たちは、
 13世紀~14世紀のわずか700年前~800年前に日本に来た
 人たちだった。
  そして、「アイヌが、『日本』の先住民だ」とした法
 律を作った日本人は、読売新聞が報じる様に、3800年前
 の遠い昔に、すでに、北海道に住んでいたというその縄
 文人は、DNA鑑定で日本人の血を持つ『日本人の祖先
 だ』と証明されていた。
  この度の法律には、「真実ではない記述がなされてい
 る」。
  真実に沿う様に「法律を修正し、改正されなくてはな
 らない」。
  その齟齬があって、修正し改正されねばならない法律
 の名称は、「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実
 現するための施策の推進に関する法律」です。
  そして、今・現在、ロシアに占領されている樺太(サ
 ハリン)が、アイヌの人たちの故郷である。
  この地にこそ「アイヌ記念館を建設すべきである」。
  この件の詳細について、下記のブログを、是非、ご覧
 ください。
  URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009/以上
.
2019年6月1日、中国、米に「見くびるな」・・台湾巡り、
 国防トップ会談で・・
  この日の読売新聞によると・・
  米国のシャナハン国防長官代行は5月31日、シンガポー
 ルで中国の魏鳳和(ウェイフォンフォー)国務委員兼国
 防相と会談した。
  中国国防相の報道官によると、魏氏は台湾問題に関し
 て「中国軍の決心と能力を見くびるべきではない」と米
 側へ伝えた。
  (参考)見くびる: 軽く見る、侮(あなど)る、実力
     などを過小評価する・・などの意味の表現。
  (参考)侮る:相手を見下げて軽んずるのこと。
  米軍艦艇が台湾海峡の航行を増やすなど、動きを活発
 化させていることに対する抗議とみられる。
  米国防総省の当局者は、海上などでの偶発的な衝突防
 止の方策について話し合ったと説明した。
  シャナハン氏は会談に先立ち、中国による南シナ海の
 軍事拠点化は「度を越している」と批判しており、会談
 で強い懸念を伝えた模様だ。
  両氏は31日開幕の「アジア安全保障会議」(通称・シ
 ャングリラ対話)に出席している。
  日本からは岩屋防衛相が参加する。
  岩屋氏とシャナハン氏は6月1日、それぞれ北朝鮮問題
 とインド太平洋戦略を主要テーマに演説する。
  魏氏は2日に演説予定だ。
  中国国防相の出席は8年ぶりとなる。
.
2019年6月2日、アメリカが、中国へ「主権を侵害する行為
 を止めよ」と正義の発言をした。
  この日付に読売新聞によると(抜粋)・・
  表題:米「中国は主権侵害停止を」・・インド太平洋・・
 関与強化表明・・アジア安保会議・・
  米国のシャナハン国防長官代行は1日、シンガポール
 で開催中の「アジア安全保障会議」で演説し、「中国は
 他国の主権を侵害し、不信を生むような行動は止めるべ
 きだ」と要求した。
  インド太平洋で中国が不当に台頭することを抑えるた
 め、米国が地域への関与を強化する姿勢も鮮明にした。
  米国防総省は演説に合わせ、「インド太平洋戦略」に
 関する報告書を公表し、対中包囲網の形成を念頭に、日
 本などと多国間協力を進める考えを打ち出した。
  米国防長官代行の演説骨子
 1、中国に対し、他国と協調的な関係を構築するよう要
  請。
 2、自由で開かれたインド太平洋地域への関与として、
  経済力が小~中規模の国のインフラ整備支援拡大に意
  欲。
 3、台湾の自衛能力支援を続けると強調。
 4、日本、オーストラリアなどの同盟国、地域の友好国
  と連携強化を進める。
  (考察)国境を無くす狙いを持つグローバリズム・・
     主権を無視するとも言える・・中国は他国の主
     権を無視する・・南シナ海の蛮行を行なって、
     強力な基地化が達成されつつある・・韓国は、
     生き残るため、中国寄りとなって赤化した・・
     今や、対馬海峡が38度線。
.
2019年6月2日、中国「南シナ海」攻勢・・人工島に3000メ
 ートル滑走路・・進む拠点化・・
  この日の読売新聞によると・・
  中国は南シナ海のスプラトリー(南沙)諸島やパラセ
 ル(西沙)諸島で複数の人工島を建設し、軍事拠点化を
 加速させている。
  海上や上空での軍事的な優勢を確保し、米軍をこの地
 域から排除する狙いがある。
  (参考)接近阻止・領域拒否(A2AD):有事に米
     軍の接近を防ぐ中国の軍事戦略。
  「主要な軍事施設を完成させた」。
  米国防総省は5月の年次報告書で、中国が埋め立て工事
 を進めて来たスプラトリー諸島の七つの人工島(計12.9
 平方キロメートル)のうち、三つについての現状分析を
 示した。
  規模の大きさから「ビッグスリー」と呼ばれるファイ
 アリー・クロス、スービ、ミスチーフの3礁で、滑走路
 や航空機の格納庫、レーダー施設などを備える。
  昨年は対艦巡行ミサイルや地対空ミサイルを一時展開
 し、南シナ海で「航行の自由作戦」を続ける米軍を威嚇
 した。
  3礁のうち、3000メートル級の滑走路を備えるファイ
 アリー・クロス礁を拠点に軍事作戦を行った場合、南シ
 ナ海で領有権を争うフィリピンやベトナム、マレーシア
 の大半を作戦の範囲内におくことができる。
  日本の防衛省は4月公表の資料で、米軍の介入への接近
 阻止・領域拒否(A2AD)能力の向上につながると警
 告した。
  中国本土よりのパラセル諸島では軍事拠点化がさらに
 進んでいる。
  最も規模の大きいウッディ島では、2013年からの工事
 で既存の滑走路を延長し、昨年5月に主力戦略爆撃機「H
 (轟)6K」を南シナ海で初めて離着陸させた。
  戦闘機の使用も常態化している。
  中国の着超主義により、南シナ海という重要なシーレ
 ーン(海上交通路)で、航行の自由が脅かされるとの懸
 念も強まる。
  中国海軍の艦艇や、各国漁船の監視に当たる中国海警
 局の公船は、スプラトリー諸島やパラセル諸島の人工島
 に建設した大型港湾を補給地点として使用し、南シナ海
 の全域に展開している。
  海中には、対米核抑止力の切り札として、戦略ミサイ
 ル原潜が海南島の基地を拠点としている。
  人工島には昨年、妨害電波で敵の通信やレーダーをか
 く乱する電子戦兵器が設置された。
  中国が電子戦兵器を使用すれば商船の通信設備に障害
 が起こり、航行不能状態に陥る危険がある。
.
2019年6月7日、安倍晋三総理大臣殿
       菅義偉(すがよしひで)内閣官房長官殿
  「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するた
 めの施策の推進に関する法律」は、間違った法律です。
  拝 啓
  御公務、ありがとうございます。
  最近成立した法律「アイヌの人々の誇りが尊重される
 社会を実現するための施策の推進に関する法律」は、間
 違った法律です。
  本法律は、改正し、修正されなくてはなりません。
  下記のブログ「(増補版)645E2/3:2/3:3/3:気に
 なった事柄を集めた年表(1896年4月~1896年4月)」を
 御覧ください。
  URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
  この法律は、歴史的な事実を無視して居ります。
  歴史学上、完全に間違って居ります。
  また、「真の先住民である日本人」を「先住民では無
 い」として差別して居ります。
  「アイヌの人々が先住民だ」と間違った記述をして居
 り・・この行為によって、日本人の誇りをも奪って居り
 ます。
  大切な「日本人の存立の基盤」への尊重をも欠いて居
 ります。
  正しくない科学的な認識に基づいて、この様な立法行
 為が行われてしまいました。
  そしてまた、今、現実には、日本においてアイヌの方々
 の誇りを無くすような行為はなされていないのに、法律名
 は、さも、現時点の日本人が、アイヌの方々を差別をして、
 誇りを尊重せず、そして、差別しているように思わせると
 いう日本人へ無実の罪を着せる法律名となって居ります。
  是非、正しい法律に改正し、修正してください。
                  敬 具
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  アイヌの人々は、日本の先住民ではありません。
  日本の先住民は、アフリカ由来の日本人です。
  アメリカの先住民が、アフリカ由来のアメリカ・イン
 ディアンの方々であるのと同じです。
  アイヌの人々は、13世紀に、蒙古に追われて日本に来
 ました。
  2019年4月16日に衆議院と参議院で成立した「アイヌの
 人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推
 進に関する法律」には科学的に、また、歴史的に間違っ
 た記述があります。
  この法律の間違った記述を「正しく改正する」声を上
 げよう。

# by suba28 | 2019-06-08 04:27 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)645E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年4月~1896年4月)

題:(増補版)645E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年4月~1896年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年4月28日、名古屋鉄道局出張所・八王子鉄道局出張所・
 篠ノ井鉄道局出張所を設置した。
  中央線の名古屋駅~八王子駅間の建設を担当する逓信
 省鉄道局出張所を名古屋と八王子に設置した。
  そして、篠ノ井線(しののいせん)は・・、
  長野県長野市の篠ノ井駅から長野県塩尻市の塩尻駅ま
 でを結んでいるが・・急峻な山間部を走るため、姨捨駅
 や2か所ある信号場のうち1か所がスイッチバックとなっ
 ている。
  歴史を振り返ると・・
  関東と近畿を連絡する鉄道としては、当初、平時には
 海路の便があり、戦時に敵の攻撃を受けやすい海岸を走
 る東海道本線ではなく、中山道を経由する路線が検討さ
 れていた。
  実際に、この路線は着工されたが、建設費が嵩むこと
 や開通後の輸送力が制約されることなどから、工事がほ
 とんど進まないうちに中止となった。
  この路線のための資材輸送線として建設が始まった直
 江津から長野を経由し上田へ至る路線はそのまま建設が
 続行され、さらに延長されて碓氷峠を越えて、高崎まで
 1893年4月に完成した。
  一方、1892年6月には、鉄道敷設法が制定され、後の中
 央本線にあたる路線の建設が決定した。
  これを受けて、長野県会では同年・1892年12月に中央
 本線と信越本線を連絡する「長野若シクハ篠ノ井ヨリ松
 本ヲ經テ塩尻又ハ洗馬ニ至ル線路」を第一期線に追加す
 るように帝国議会へ要請する決議を採択した。
  これを中央連絡線と称した。
  1893年3月から鉄道庁の技師が派遣されて路線の調査を
 行った。
  この結果6つの路線が候補として上がった。
  東側から現在の国道254号に沿って松本と上田を結ぶ三
 才山線、長野県道181号下奈良本豊科線に沿って松本と上
 田を結ぶ保福寺線、国道143号に沿って松本と上田を結ぶ
 二線路線、国道19号・国道403号に沿って松本と篠ノ井を
 結ぶ篠ノ井線、国道19号や犀川に沿って松本と長野を結
 ぶ犀川線、国道147号・長野県道31号長野大町線・国道19
 号に沿って大町経由で松本と長野を結ぶ大町線である。
  どのルートを選んでも険しい峠を長大トンネルで克服
 したり、地質の悪い区間を通過したりしなければならな
 かったが、距離が最も短い篠ノ井線が建設費や開業後の
 運営の点で有利と判断された。
  この報告を受けて1894年6月23日に、帝国議会で「長野
 県下長野若ハ篠ノ井ヨリ松本ヲ経テ前項ノ線路ニ接続ス
 ル鉄道」が第一期線に格上げされ、また同時に提出され
 た法案により起点は篠ノ井と確定された。
  1896年、予算で建設費は3,597,470円とされ、明治28年
 度から31年度までの予定で施工されることになった。
  しかし、その後、工期の変更と予算の増額があり、明
 治35年度まで掛かって予算7,677,751円で施工された。
  全線を11の工区に分けて、1896年10月に着工され、1900
 年から篠ノ井方より順次延伸され、1902年に塩尻まで全
 通した。
.
1896年4月28日、新橋駅構内に新永間建築事務所を設置し、
 『東京市街線の建設』を管掌(かんしょう、自分の管轄
 の職務として責任をもって取り扱うこと)した。
  (1897年12月、市街線の設計決定)
  日本の鉄道の8割は明治時代に完成した。
  日本初の鉄道である新橋駅~横浜駅間の工事は、1870
 年3月の東京・汐留方向からの測量と、4月の横浜・野毛
 浦付近からの測量に始まった。
  北ボルネオで鉄道建設に従事していたイギリス人のお
 雇い外国人のエドモンド・モレルが鉄道兼電信建築師長
 として日本に呼び寄せられた。
  そして、彼の指導の下、イギリス人技師たちの主導で
 測量が行われた。
  その指導を受ける鉄道掛の役人たちの服装は陣笠、羽
 織袴に大小の刀を差し、足元は雪駄や草鞋だった。
  この日本初の鉄道工事は、旧幕時代の作事方の方法に
 倣い、工事の材料はすべて官給、工事は職種別に切り投
 げ方式で発注された。
  鹿島は鹿島岩吉名義で線路に撒布する砂利を1,000立坪
 (1,800㎥)納入している。
  距離にして数百m程度の撒布量でしかない。
  当時、鹿島は「洋館の鹿島」と言われており、横浜に
 本店を置いて、外国商館などの建築を請け負っていた。
  1872年9月(旧暦。新暦では10月)、新橋駅~横浜駅間
 の鉄道開通後、1874年5月に、大阪・神戸間、1877年2月
 に京都・大阪間、1880年7月に京都・大津間と線路は敷か
 れていく。
  1880年に着工した日本で5番目の営業路線である長浜駅
 ~敦賀駅間(1884年4月開通)の工事では、鹿島組が初め
 て鉄道請負として参画した。
  その後、鉄道の路線は日本各地に伸びていく、そして、
 都心にできた鉄道空白地帯・・
  東京中心部は、江戸年間に都市として発達し、それな
 りの交通手段・運搬手段が網羅されており、鉄道の発達
 とは無縁だった。
  そのため、銀座、京橋、日本橋といった東京の中心地
 には1882年に開通した馬車鉄道程度の簡易な路線しかな
 かった。
  新橋・上野間わずか6kmに、乗合馬車で45分、徒歩で1
 時間以上かかっていた。
  この馬車鉄道は、軌道上を走る乗合馬車で、最盛期に
 は2,000頭以上の馬が300台以上の馬車をひいていた。
  基本3路線があり始発終点以外は合図して自由に乗り降
 りできた・・そして、明治末年には路面電車に移行して
 行った。
  1884年11月、東京府市区改正意見書が発表された。
  初の都市計画である。
  これを発議した東京府知事芳川顕正は、1870年に、伊
 藤博文に同行してアメリカのナショナルバンクについて
 学び、帰国後は、大蔵省紙幣頭などを務めたのち、東京
 府知事に就任した。
  彼は、東京をロンドンやパリのような近代国家の首都
 にふさわしい都市に改造しようとした。
  意見書には、東京に経済と人口が集中したことによっ
 て起きるさまざまな問題と、それらを整備していくため
 の事業計画、近代国家の首都として必要な設備が盛り込
 また。
  その中に、鉄道の敷設や道路の整備があった。
  鉄道については、「新橋・上野両停車場間を線路で結
 び、鍛冶橋内および万世橋の北に停車場を設置すべきも
 のとする」と書かれていた。
  その理由として、「昔から東京市区内の貿易商業が一
 番盛んなのは日本橋とその近辺である。
  日本橋近辺から現在のように上野や新橋まで運搬する
 労力は相当なものである。
  また、品海築港(東京港計画)が実現すればなおさら
 陸揚げ貨物の輸送に、今までのように車馬を使っていて
 は足りるものではない。
  新橋・上野間に線路を通し、最低2か所の停車場を新設
 し、交通及び貨物運輸の便利を増進させるべきである」
 と述べられていた。
  当時の物流において、新たな輸送手段である鉄道の期
 待は絶大だった。
  政府は、翌1885年、内務省内に東京市区改正審議会を
 設置し、この意見書の審議した。
  各省の代表者と渋沢栄一、益田孝が委員となった。
  1888年3月、最終案が決議され、1888年5月に公布され
 た。
  これを細かく詰めていく改正審査会中、一人の委員か
 ら意見が出た。
  「巨額の費用をかけて道路の幅員を広げ、路線を改正
 しても、その端から鉄道線を敷設して、改正した道路を
 横断して汽車の運転を始めれば、人馬の通行を途絶する
 ことになる」と・・
  そこで、1888円11月21日の会議で「鉄道は新橋、上野
 両停車場の線路を接続して、鍛冶橋および万世橋の北に
 停車場を設置すべきものとする・・ただし、線路は高架
 線とする」と条件づけられた。
  同時に「市街鉄道線路線調査委員」が設けられた。
  1890年9月17日、内務大臣から鉄道庁長官に東京市の中
 央に一大停車場を設置し、その南側から新橋までを鉄道
 庁に、その北側から上野までを日本鉄道会社に託すこと
 が告げられた。
  新橋から中央停車場(現・東京駅)までは東海道線の
 延伸であるから官営、上野駅までは日本鉄道会社が資金
 調達して鉄道庁に工事を委託するか、自社で建設すると
 いう暗黙の了解ができた。
  鉄道庁では帝大出で欧米視察から帰国したばかりの技
 師・仙石貢が、日本鉄道会社では九州鉄道で顧問を務め
 ていたドイツ人のお雇い外国人ルムシュッテルがそれぞ
 れ調査を行った。ルムシュッテルは、複線一組を長距離
 用、もう一組を市街線用とした4本の線路を、ベルリンの
 高架鉄道をモデルとした煉瓦造のアーチ式高架橋に走ら
 せることを提案する。
  街路と外濠に鉄橋を架すほかはすべて径間8~10mの煉
 瓦造連続拱橋(きょうきょう。アーチ橋のこと)であっ
 た。
  鉄道庁側もこれを参考に煉瓦造拱橋の設計を行った。
  1893年8月、すべての敷設免許が出願される。
  しかし、1894年7月、日清戦争がはじまったことにより
 諸事業は中止され、高架線の計画は棚上げされてしまっ
 た。
  その上、原案を作ったルムシュッテルは、王室プロシ
 ア建築技師に任ぜられたこともあり、ドイツへ帰国して
 しまう。
  明治中期を過ぎると旅客も貨物もどんどん増えていっ
 た。
  貨物の輸送は品川線を作ることで回避できたが、もと
 もと新橋駅も上野駅もそれほど規模が大きいものではな
 く、飽和状態になることは目に見えていた。
  幹線のターミナル駅を結ぶことは急務であった。
  しかし、東京市内の土地・建物の価格は年々値上がり
 していた。
  最初の計画から既に10年が経過している。
  鉄道建設のための土地買収はますます難しくなってき
 ていた。
  そこで政府は戦勝気分で沸き立つ1895年に、当初計画
 の新橋・上野間の連絡線のうち、新銭座(現・港区浜松
 町2丁目)から永楽町(現千代田区丸の内2丁目)までの
 区間と、中央停車場(東京駅)の建設を政府主導で進め
 る計画を立てる。
  12月5日の第7回鉄道会議で「官制規制鐡道改良の件」
 は信越線、東海道線などの改良工事と共に明治29年度か
 ら35年度までの7か年継続事業として可決された。
  鉄道局では、1896年4月、この計画を再開するため新永
 間建築事務所を新橋駅構内に開設した・・そして、いよ
 いよ着手することとなった。
  工事は線路の実測から始まった。
.
1896年4月29日、筑豊鉄道の若松駅~折尾駅間が複線で開通
 した。
  北九州地区で、九州鉄道に次いで二番目に敷設された私
 設の筑豊興業鉄道は、1889年に、筑豊炭田の石炭を若松港
 に陸送するために設立された。
  これによって筑豊の石炭の輸送力は大幅に強化され、そ
 の後の豊州鉄道の創立と共に、筑豊の石炭は、全圏出炭量
 の半数を占めるに至った。
  また、交通の要衝となった若松港とともに、門司港の発
 展が促進され、1897年、官営八幡製鉄所が誘致されて、工
 業都市としての北九州市の骨格が作られて行った。
  筑豊興業鉄道は、北九州市や日本の近代化に果たした役
 割はこの様に極めて大きなものだった。
  筑豊鉄道の建設の機運は、1887年以降、大手資本の参入
 によって筑豊の石炭生産量が増大し・・それと共に、従来
 から行なわれていた遠賀川の小舟による水運輸送では対応
 出来ず、そのため、地元有志により鉄道建設が計画された。
  そして、翌年の1888年6月、若松・直方・飯塚・赤池間
 を結ぶ筑豊興業鉄道の設立趣意書が、県知事の副申を添え
 政府に提出された。
  そして、早くも同年翌月の1888年7月に、仮免許状が下
 附された。
  そして、筑豊興業鉄道会社が設立され、直ちに、路線の
 建設が着手された。
  悪疫が流行したり、工事が難工事であったり、資金難で
 もあったりと悪戦苦闘したが・・1891年8月、若松駅~直
 方駅間の24.8キロメートルの開業に至った。
  以後、増大する石炭の生産量に対応するために、逐次、
 路線の延長を図った。
  路線も延長され目的を果たす中、1893年4月、本社を石
 炭集散地の若松町へ移転した。
  そして、路線延長も続けて伸ばし、また、資本金も増額
 して行った。
  石炭輸送が充実し拡大するにつれて、九州鉄道と競合す
 る形にもなって、両社の株保有株主からの強い要望で・・
  1897年10月、合併に至り、今、九州を支え、日本を支え
 る路線となっている。
.
1896年4月、民法が公布された。
  民法は、1896年の明治29年法律第89号により定められ公
 布された民法第一編・第二編・第三編(総則、物権、債権)、
  及び、1898年6月21日の明治31年法律第9号により定めら
 れた民法第四編・第五編(親族、相続)で構成されていて・・
  また、附属法令として1898年6月15日、明治31年法律第
 11号民法施行法が公布され・・、
  全体が、1898年7月16日から施行された。
  民法は、すんなりと日本の法律として育ち、根付いたも
 のではなかった。
  明治政府の委嘱によって、お抱え外国人のG・ボアソナ
 ードが中心となって、フランス民法を基礎に起草した旧民
 法は、1890年に一度公布をされ、1893年に施行されながら・・
  「民法出デテ忠孝亡ブ」と穂積八束が言うような攻撃を
 受け、激しい民法典論争が展開し、行なわれた・・
  そのため、施行が、1892年の帝国議会で法典実施の無期
 延期が議決された。
  そして、別の新たな民法(ドイツ民法第一草案を基本と
 して編纂したもの)が起草され、つくられた・・そして、
 1898年から施行された。 
  因みに、1896年と1898年の民法は、現行民法と区別する
 意味で「明治民法」と俗称されている。
.
  (今日の歴史)
.
  題:紀元前1800年の北海道の縄文遺跡から、現代日本人が受け継ぐゲノム(全遺伝情報)
   を持つ縄文人女性が居たということが科学的なゲノム分析で確認され立証された。
    現代日本人の祖先と言える縄文人女性の存在の確認である。
    太古の歴史から日本人の祖先が北海道で生活して居た。
.
紀元前1800年頃、北海道の礼文島の縄文時代の遺跡で見つ
 かった女性の人骨から、ゲノム(全遺伝情報)を高精度
 に解析することに成功した(~紀元前1500年頃)
  また、その解析から、この縄文時代の女性は、現代日
 本人へと続く祖先だと確認された。
  読売新聞(2019年5月14日)が報道するその内容は・・
  国立科学博物館などの研究チームが発表した概要は・・、
  女性は、茶色の瞳を持ち、肌の色は濃い目で、酒に強
 かったとみられている。
  この解析標本は、約3800年前~3500年前(縄文時代後
 期)の北海道の船泊(ふなどまり)遺跡から出土した女
 性の人骨。
  奥歯の中に、保存状態のいいDNAが残されていて、
 現代人のDNAと同程度に解析が成功した。
  遺伝子の特徴から、女性の肌はシミができやすく、耳
 あかに湿り気があり、髪の毛は細く縮れていたとみられ
 ている。
  船泊の縄文人は、脂肪の多いアシカなどを食べていた
 とみられ、高脂肪食に適応した遺伝子変異も見つかった。
  現代日本人が、縄文人のゲノムの約10%を受け継いで
 いることも判明した。
  東アジアでは、大陸にいる漢民族より、韓国、台湾、
 フィリピンにいる人に近いという。
     ・
     ・
紀元前400年頃、北海道の続縄文時代の初め頃の日本人の祖
 先の方々は、大麦を食糧として生活に利用していたこと
 が確認された(~紀元前200年頃)
  読売新聞(2019年5月19日)によると・・
  北海道で大麦の利用が始まったのは、従来の説より約
 1000年も遡(さかのぼ)る紀元前400年~紀元前200年頃
 (続縄文時代初め)だったことが判明した。
  北海道・礼文島の浜中2遺跡で出土した種子の年代測
 定で分かった。
  大麦の形態が東北アジアのものと類似していて、専門
 家は大陸から北回りでもたらされたと推定している。
  本州以南が弥生時代に入った頃、北海道の人たちが本
 州よりも北方との交流を深めていたとして注目されてい
 る。
  同遺跡の調査は2011年から、北海道大学と海外の大学
 の共同研究として行われていた。
  ベルリン自由大学のクリスティアン・ライペ特別研究
 員が、最新の放射性炭素年代測定法による測定を行った。
  その結果、2014年に出土した大麦1点の年代が紀元前
 375年~紀元前203年と判明した。
  これまでは、北海道での大麦の利用は、大量に出土す
 る様になる紀元後7世紀~紀元後8世紀頃が始まりと考え
 られていた。
  高瀬克範・北海道大学准教授の話・・
  「続縄文時代になると、北海道はサハリン(樺太)な
 ど北方との交流が盛んになる。
  その頃に大陸から北回りで大麦が入って来た可能性は
 十分ありえる」。
  (参考)続縄文時代:ぞくじょうもんじだい、北海道
     を中心に、紀元前3世紀頃~紀元後7世紀(弥生
     時代から古墳時代)にかけて、擦文文化が現れ
     るまで続いた時代で、気候的条件からか水田を
     造らず縄文時代の生活様式を継承していた。
      この続縄文時代前は、本州と北海道の住民は
     同じ縄文文化であった。
      続縄文文化の人たちは竪穴式住居に住み、狩
     猟と漁労を中心に、採集と原始的栽培も行なっ
     ていた。
      遺物には、道具としての石斧、石ナイフなど
     多様な石器がある。
      他に、本州で製作された鉄製品が入り込んで
     いる。
      骨角器も多く出土している。
      遺物として残りにくい木器と繊維製品は出土
     数は少ないが、かなり多く用いられていたと考
     えられている。
      北方に算出される琥珀製品の玉類が北海道か
     ら東北地方北部にまで分布している。
      また逆に、佐渡島に産するとみられる碧玉製
     品の管玉(くだたま)が石狩川河口付近にまで
     みられる。
      この時代の人的交流の広さが分かる。
      この時代の広がりは、東北地方の北部から、
     樺太の南部や千島列島まで広がっていた。
      この人的交流の中で、交雑も長い時代の中で
     進んでいたと考えられる。
      アフリカからの人類の移動のうねりは、沖縄
     から北海道まで、長年月、日本列島においても
     南から北まで行われ、交雑が繰り返されていた。
  (参考)管玉:くだたま、管状になっている宝飾装身
     具の部品、ビーズの一形態で、管に糸を通して
     腕飾り(ブレスレット)や首飾り(ネックレス)
     などとして用いられる。
      古代においてはガラスも含む希少な宝石(宝
     玉)から作られたので、漢字文化圏では別の形
     状である曲玉・とんぼ玉とともに「ビーズ」に
     代えて「玉」(ぎょく)名で分類する。
      日本では、縄文時代からみられ、今日と同じ
     ように腕飾りや首飾りなどとして用いられてい
     たものとみられる。
  (参考)擦文文化:さつもんじだい、北海道の歴史の
     うち、7世紀頃~13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代
     後半)にかけて、擦文文化が栄えた時期を範囲
     とする時代。
      本州の土師器(はじき)からの強い影響を受
     けた擦文式土器を特徴とする。
      6世紀~7世紀の飛鳥時代の頃は前の時代の続
     縄文土器の影響が残っているが・・
      7世紀後半~8世紀の奈良時代の頃になると、
     擦文文化独特の土器になった。
  (参考)土師器:弥生土器の流れを汲み、古墳時代~
     奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のか
     わらけ(土器)・焙烙(ほうろく)に取って代
     わられるまで生産された素焼きの土器。
      多く生産されたのは甕(かめ)等の貯蔵用具。
  尚、北海道の道議員は、「縄文時代人は、北海道には
 居ない」など科学的根拠のない、また、科学的知見を無
 視する議論をしているが・・この様な数々の史実からも、
 まったく根拠のない無智な空論の議論をしていることが
 分かる。
  また、アイヌの人々を、「日本の先住民だとした国会
 議員」も「この道議員と同じレベル」だ。
     ・
     ・
3世紀~13世紀、オホーツク文化
  アイヌ文化と違い、3世紀から13世紀までオホーツク海
 沿岸を中心とする、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代
 文化。
  この文化の遺跡が主としてオホーツク海の沿岸に分布
 していることから名付けられた。
  北海道の分布に関しては推定域となっている。
  海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送っていた。
  オホーツク人は『日本書紀』に現れる粛慎と考える見
 方が有力で、近年行われた人骨の遺伝子調査から、ニヴ
 フ人やコリヤーク人との近似性が示されている。
  (参考)粛慎:しゅくしん、みしはせ、あしはせ、日
     本の正史である『日本書紀』や『続日本紀』な
     どの中に記述が見られる民族。
      また、古代中国の東北方面に居住した民族の
     見方もある。
      粛慎の呼称はすでに『国語』『史記』その他
     の古典にみえ、特に『国語』の粛慎貢矢の伝説
     が有名で、聖天子の出現と彼らの入朝貢献を結
     びつけて説明されている。
  (参考)粛慎貢矢の伝説:中国歴代王朝は、自らの正
     統化を図ってさまざまな瑞祥を演出した。
      3〜6世紀における粛慎(しゅくしん)の朝貢は
     そうした瑞祥の一つである。
      戦国時代の文献には、周王朝開国の際に、粛
     慎が「コ(木+苦)矢石ド(奴+石)(しせきど)」(ハ
     ナズオウの矢柄(やがら)と石の鏃(やじり))を貢
     納したという伝説が見える。
  (参考)ニヴフ人:樺太北部、及び、対岸のアムール
     川下流域(現:ロシア領)に住む少数民族で、
     古くはギリヤークと呼ばれた。
      アイヌやウィルタと隣り合って居住していた。
  (参考)コリヤーク人:ロシアのカムチャツカ地方の
     先住民族で、ベーリング海沿岸地帯からアナデ
     ィリ川流域南部、および、チギリ村を南限とす
     るカムチャツカ半島極北部にかけて居住してい
     る。
.
720年、北海道の松前地方の名が歴史上最初に現れるのは、
 『続日本紀』の養老四年(720年)の記事に「渡島津軽津
 (わたりしまつがるつ)」の記述がある。
  渡島は蝦夷地を指し、津軽津は津軽地方への渡し口で
 ある松前付近の地のこと。
  (津軽津は、津軽地方であるという説と松前地方とす
 る説とがあって、現在では松前地方であるとする説が有
 力)
.
1000年頃、この頃のオホーツク文化の復元家屋が北海道の
 標津町(しべつちょう)のポー川史跡自然公園にある。
  このオホーツク文化は、オホーツク沿岸の沿海州・樺
 太・北海道東北部・千島列島に広がっていた文化で、ア
 イヌ文化ではない。
.
1233年、異端審問や魔女裁判が行われたキリスト教裁判所
 の宗教裁判所が恒常的な機関となった。
  記録によれば、中世異端審問が最も活発に行われた1233
 年に、南フランスの異端審問官に任命されたロベール・
 ル・プティは数百人に火刑を宣告した。
  中世、キリスト教会は、金と権威を得ることに躍起と
 なった。
  そして、権威を得たキリスト教会は、知識と情報を独
 占した。
  そして、その知識や情報が拡大することをしばりつけ
 た。
  また、ヨーロッパの貴族と言っても大部分の者は、字
 を読むことが出来ず、一般人も言うに及ばずの状態であ
 った。
  その様な状況もあって、字による知識や情報の伝播が
 行われることは乏しかった。
  ヨーロッパ中世はその様な暗黒の時代で、知識の衰退
 もあった。
  時代が進めば知識が進歩するという見方は誤りである・・
 また、「時の経緯と共に、歴史の進歩がある」という見
 方も成立しない。
  中世のキリスト教は、権威が欲しいと、当時、権威の
 あった薬草学の知識のある女性の方々を排除した。
  その女性の方々は、病気を治し、また、赤ん坊の誕生
 を助ける助産婦として活躍する女医の方々であって、そ
 の行為から、民の尊敬を集め、権威も備(そな)わる女
 性の方々だった。
  この方々を、魔女として殺した。
  キリスト教会の儀式の中で、キリスト教裁判所の中で、
 キリスト教聖職者が裁判官となって、その中で死刑宣告
 をして排除した。
  これによって、西洋の薬草学は滅んだ、消滅した。
  この事例の様に、知識の後退は存在し、起きた。
  今あれば、東洋の薬草学と同様に、人類の多くの方々
 を救い、また、助ける学問となっている。
.
13世紀半ば、モンゴルの樺太侵攻(~14世紀初頭)
  モンゴル帝国(元朝)による樺太(サハリン)アイヌ
 (骨嵬)への攻撃をいう。
  日本への元寇に対し、「北からの蒙古襲来」「もうひ
 とつの蒙古襲来」「北の元寇」という。
.
1264年、アイヌが北海道に来る。
  この年に、アムール川下流域から樺太にかけて、この
 地域に住んでいた「吉里迷(ぎれみ)族」が、フビライ
 に「アイヌが攻めて来る」と報告した。
  因みに、この前年の1263年に、この集団は、モンゴル
 に遠征されていて、服従していた。
  そして、この服従しているこの集団が、1264年、「骨
 㟴(くい)」や「亦里于(いりう)」が、「毎年の様に
 侵入して来る」という訴えをフビライへ報告した。
  ここで言う骨㟴は、アイヌを指している。
  フビライは、この事によって元寇より早い時期に、こ
 の地域へ襲来した(北からの蒙古襲来)
  この元寇に追われて、アイヌが北海道へ移住したと考
 えられている。
  樺太侵攻(1264年~1286年)
  この様に、日本での短い歴史から、北海道へ来たアイ
 ヌの人々は、同化の少ない移動前の独特の文化を、保持
 して来ていた。
  今では、同化が進み、まったく日本人と同じで、見分
 けも出来ない、差異の無い同じ状態となっている。
  民族の主張をするときに民族衣装を着るから、その衣
 装によって分かるようなものとなっている。
  着なかったら、まったく日本人と同じ。
.
15世紀~17世紀、二風谷遺跡(にぶたにいせき)は、北海
 道沙流郡平取町二風谷にある15世紀から17世紀にかけて
 のアイヌ文化の遺跡で、沙流川(さるがわ)河口より20
 kmぐらいのところにある。
  北側にポロモイチャシ跡があり、南側にユオイチャシ
 跡がある。
  建物跡が11軒みつかり、その中で炉が確認されたのが
 6軒ある。
  道跡や送り場跡(クマなどの動物を送る場)もある。
  建物が20軒以上あったとみられるとする文献もある。
  樽前山火山灰b層の分析より、1667年以前のアイヌの生
 活跡と推定される。
  アイヌ文化はこの頃に形成されていた。
.
15世紀後半、史跡上之国館跡 勝山館跡(国指定史跡)
  勝山館は、後の松前氏の祖である武田信廣が15世紀後
 半に築いた山城で、16世紀末頃まで武田・蠣崎氏の日本
 海側での政治・軍事・交易の一大拠点であった。
  20年以上の発掘調査で、中国産青磁・白磁・染付、国
 産の美濃焼、越前焼など約5万点の陶磁器や、金属製品、
 木製品など10万点余りの出土品や建物・井戸・空壕・橋
 などの跡が多数見つかった。
  そして、注目されるのは、この当時、アイヌの人々が
 使っていた500点余りの骨角器が出土した。
  研究者は、「この館にアイヌと本州人が混住していた
 ことはほぼ明らかといってよいのではないだろうか」と
 言う。
.
1753年、この年に、フランス人医師が、キリスト教の聖書
 の命運が尽きる事柄を指摘した。
  世は大騒動となった。
  これまでのキリスト教聖書は、「神の言葉をそのまま
 書き記した書物」と受け取られていた。
  中に、頭の良い人が居て、その様なことはある訳はな
 いと思っていても、口には出せなかった・・しかし、こ
 の年になって、「決定的論証(ろんしょう)」が行われ
 た。
  (参考)論証:思考を働かせ、判断とその論拠を結ぶ
     推理の過程を命題の連鎖によって示したものを
     いう。
      普通、論拠を前提、判断を帰結という。
      妥当な推理の連鎖が前提と帰結を結ぶとき、
     その判断は可証であるといい、さらに前提が真
     であるとき、真であるという。
      このため、恒真なる命題と妥当な推理の形式
     が究極的に必要とされるが、現在、恒真なる命
     題群は唯一でないこと、また、推理の形式も唯
     一ではないことが明らかになっており、普遍的
     で唯一な論証形式の存在は否定されている(キ
     リスト教の聖書の様な唯一真は存在しない)。
      このため、ある公理系と恒真なる命題を出発
     して、どのくらい論証が簡潔かつ有効に行いう
     るかという論証力の評価が問題とされる。
      なお、論証は、証明、立証、定立ともいい、
     厳密には複雑な構成の有無、命題の連鎖を律す
     る規則の有無によって、推理一般とは区別され
     る。
  そして、この人は、フランス人の医師ジャン・アスト
 リュックで・・、
  彼が、指摘した事は、「創世記の7日間での天地創造が
 語られている」のに、また、再び、「アダムの創造」が
 語られることの「不思議」だった。
  何故?、『同一の人類創造部分』が、『同一の内容』
 が、『繰り返し語られるのか?』。
  また、7日間の創造の部分の「神」は「エローヒーム」
 で、アダムの創造部分の神は「ヤハーウェ」と違う呼ば
 れ方をしている。
  アストリュックは気付いた・・「神をそれぞれの名で
 呼ぶ別の人間集団が書き記した『別々の文書だ』」と。
  そして、彼は、創世記でヤハーウェを使用している部
 分、エローヒームを使用している部分をそれぞれ別個に
 つなぎ合わせると、同じ内容の二編の文書が出来る事を
 発見した。
  『創世記は、複数の人間集団が残した文書を編集した
 ものだ』・・ということがはっきりした。
  これは、『ダブレットの問題』として、ある知的階層
 の人たちには、常識的に知られている事項となってしま
 った。
  この年は、「『モーゼ五書』の中心が崩れ去った年」
 となってしまった。
  モーゼが神の言葉を書き記したものではなく、はるか
 後の時代の「複数の人間集団が書いた『ただの歴史的文
 書』」となった。
  キリスト教聖書の記述に忠実に従ってきた「普遍史の
 根本的前提」を「破壊してしまった」。
  創世記第五章のアダムの系図にある父祖たちの年齢な
 どの記述についても、神をエローヒームと呼ぶ人間たち
 が書いた歴史的文書に過ぎないということになった。
  聖書のこの部分を頼りに年数計算をしてきた「聖書年
 代学」も『絶対的根拠を失った』。
  「ノアの大洪水」などの記述も、ある時代の人間集団
 の信じた「神話に過ぎない」ということになってしまっ
 た。
  この様な事から、18世紀は、「年代学論争をする意味
 自体が無くなって、論争の終焉を迎えた」。
  キリスト教普遍史は「その土台も崩壊」し、また、「
 その支える支柱も失って」・・崩壊を遂げてしまった。
  キリスト教は、この年、今まで広げて来た大風呂敷を、
 たたんで行く時代に入っていくこととなった。
.
19世紀、この世紀に、歴史を科学的に考察する歴史学が・・
  近代的な科学的歴史学が始まって、キリスト教の「神
 の創造の奇蹟」や「終末」が・・完全に、歴史学から無
 視されるようになった。
.
1860年、この年の前年に、横浜港は開港しているが・・
  この年・1860年に、江戸幕府は、早速、外国船を監視
 し、また、外国船の攻撃から守る防御ための海岸砲台を
 作った。
  作られた砲台は「神奈川台場」と言われた。
  日本各地には、この様な海岸砲台が築かれたが、その
 数は約1000ヶ所となっている。
  この時代、しっかり国を守るという意識が日本にはあ
 った・・今の日本は「のほほん」としていて、国をしっ
 かり守ろうという意識はない。
  「原爆を落とされてから反撃する」などというノホホ
 ンさである。
  原爆を落とされて、空気の様になって蒸発してしまっ
 てから、国を守ろうなんて・・それで、愛する人々を守
 れるはずはない・・責任放棄である。
  隣の中国は、20%になろうという国防費の伸びを、毎
 年、続ける国防に熱心に取り組んでいる。
  また、その隣国の日本に、「工作員を送り込む」こと
 までして、国の安全に努めているということまでしてい
 る・・
  何もしないで・・戦争したくないと言っているだけで
 済むのならば・・誰でもそうするだろう・・
.
1941年3月、アメリカのルーズベルト大統領が、「武器貸与
 法」を成立させ・・そして、この後、公約破りをし続け
 た。
  アメリカのルーズベルト大統領は、中立を装いながら
 アメリカ国民の方々を、完全に裏切って行った。
  はっきりと「戦争には参加しません」と公約して、ア
 メリカ国民の方々へ約束して、大統領選挙を行っていた
 が・・大統領選挙に勝って、大統領になったら、この公
 約を破った。
  特に、イギリスを支援して、そして、後に、戦争に参
 加した。
  1941年3月に、「武器貸与法」を成立させ・・、
  そして、1941年7月には、対米軍事品を買い付けて、
 支払いを容易にするため、イギリス政府に対して、アメ
 リカの復興金融会社から4億2500万ドルの大金の借款を
 共有するとした。
  また、続けて、1941年9月には、武器貸与法の追加予算
 案の59億8900万ドルの超大金を提出させた。
  そして、これは、増額されて61億6100万ドルとなって
 成立された。
  ふんだんにアメリカはイギリスへ資金援助し、その大
 金でアメリカの武器を買わせ、与え、関与した。
  しかし、世界には、ドイツの潜水艦が出没していて、
 輸送中のアメリカから渡される武器などの援助物資の4割
 が海中へ沈められた。
  イギリスの周辺海域は、ドイツによって完全に抑え込
 まれていた。
.
2008年6月6日、「アイヌ民族を先住民族とすることを求め
 る決議」が、衆参両院で全会一致で採択され・・このこ
 とを受けて、同日、菅義偉(すがよしひで)内閣官房長
 官は、次の談話を発表した。
  「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」に
 関する内閣官房長官談話
 1.本日、国会において「アイヌ民族を先住民族とするこ
  とを求める決議」が全会一致で決定されました。
 2.アイヌの人々に関しては、これまでも平成8年の「ウ
  タリ対策のあり方に関する有識者懇談会」報告書等を
  踏まえ文化振興等に関する施策を推進してきたところ
  ですが、本日の国会決議でも述べられているように、
  我が国が近代化する過程において、法的には等しく国
  民でありながらも差別され、貧窮を余儀なくされたア
  イヌの人々が多数に上ったという歴史的事実について、
  政府として改めて、これを厳粛に受け止めたいと思い
  ます。
 3.また政府としても、アイヌの人々が日本列島北部周辺、
  とりわけ北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の
  独自性を有する先住民族であるとの認識の下に、「先
  住民族の権利に関する国際連合宣言」における関連条
  項を参照しつつ、これまでのアイヌ政策をさらに推進
  し、総合的な施策の確立に取り組む所存であります。
 4.このため、官邸に、有識者の意見を伺う「有識者懇談
  会」を設置することを検討いたします。
  その中で、アイヌの人々のお話を具体的に伺いつつ、
  我が国の実情を踏まえながら、検討を進めて参りたい
  と思います。
 5.アイヌの人々が民族としての名誉と尊厳を保持し、こ
  れを次世代へ継承していくことは、多様な価値観が共
  生し、活力ある社会を形成する「共生社会」を実現す
  ることに資するとの確信のもと、これからもアイヌ政
  策の推進に取り組む所存であります。
  (考察)日本政府は、アイヌの人々が、北海道を居住
     圏とする先住民の人々だという認識であり、こ
     の認識は科学的に間違っている。
      アイヌの人々の居住圏を、この様に狭い領域
     のみの人々と考えるのも科学的に立証できない。
      アイヌの人々は、文字を持たない狩猟採集民
     族で・・アムール川下流域や沿海州、カムチャ
     ツカ半島南部、樺太(サハリン)、千島列島の
     オホーツク海地域一帯地域に居住する民族で・・
      1855年2月7日、アイヌの人々は、この年の日
     露和親条約での国境線決定によって、ロシア国
     民となった・・そして・・
      2018年12月、ロシアのプーチン大統領は、日
     本の領土を不法占拠している北方四島を含む千
     島列島(クリル諸島)など(樺太など)に住ん
     でいるアイヌ民族を、ロシアの先住民族に認定
     する考えを示した。
      また、ロシアは、戦後(1945年の敗戦後)、
     千島列島や樺太などのアイヌの人々を、日本へ
     移送し、移住させ、移動するという非人道的な
     行為をしている。
      歴史的には、以下の様な史実が示す様に、ア
     イヌの人々は、13世紀に、日本への元寇がある
     前、モンゴルの襲来で、日本の北海道へ来た。
      歴史を振り返ると・・
       『続日本紀』にも記載がある様に北海道は
      古くから日本と関係ある地であった・・
      1205年にも、北海道の知内川(しりうちがわ)
       で砂金が採れ、この日(元久2年7月23日)
       に金山祭を行ったという日本人の記録があ
       る。
      1206年、蒙古で、ジンギス・カンが即位した。
      1220年、日本の京都の強盗や海賊を北海道へ
       島流ししていた。
      1220年代はじめ、モンゴル軍がキエフ大公国
       を攻めはじめる。
      1223年、モンゴルのカルカ河畔の戦い(ルー
       シ侵略)
      1227年、西夏が、チンギス・カンに滅ぼされ
       た。
      1237年、モンゴル軍の大軍がモスクワを陥落
       させた。
      1240年、キエフの戦い(この頃、盛んにモン
       ゴル軍がーロッパを攻略している)
      1247年、モンゴルが朝鮮の高麗へ4度目の侵攻。
      1258年、高麗がモンゴルに征服された。
      1259年、モンゴルが南宋に侵入する。
      1260年3月、フビライが、内モンゴルで最高意
       思決定機関のクリルタイを開いて皇帝位に
       就いた。
      1264年、アムール川下流域から樺太にかけて
       この地域に住んでいた「吉里迷(ぎれみ)
       族」が、フビライに「アイヌが攻めて来る」
       と報告した。
        因みに、この前年の1263年に、この集団
       は、モンゴルに遠征されて服従していた。
        そして、この服従しているこの集団が、
       1264年、「骨㟴(くい)」や「亦里于(い
       りう)」が、「毎年の様に侵入して来る」
       という訴えをフビライへ報告した。
        ここで言う骨㟴は、アイヌを指している。
        フビライは、この事によって元寇より早
       い時期に、この地域へ襲来した(北からの
       蒙古襲来)
        この元寇に追われて、アイヌが北海道へ
       移住したと考えられている。
        樺太侵攻(1264年~1286年)
      1274年、日本の元寇(文永の役)
      1276年、南宋が臨安を占領されてモンゴルに、
       事実上、滅ぼされた。
      1281年、日本の元寇(弘安の役)
      1320年、津軽の安東氏がアイヌの人々と交易
       をしている。
.
2018年10月31日、中国が、南沙諸島の運用を開始する。
  この時から遡ること3年2ヶ月前の2015年8月20日、アメ
 リカ国防総省は、「アジア太平洋での海洋安全保障戦略」
 と題した報告書を公表した・・
  中国が、2013年12月に、南沙諸島での埋め立てを開始
 し・・
  2015年6月までに、2,900エーカー(約12km2)を埋め立
 て、その面積が、周辺諸国による埋め立てを含めた全体
 の『約95パーセント』に当たることを明らかにした。
  また、埋め立てから滑走路や港湾施設の建設によるイ
 ンフラ整備に重点が移行しているとも指摘した。
  中国が、この様にして実効支配し、軍事拠点化してい
 るこの場所を、地球上でやり取りされている原油や液化
 天然ガス(LNG)の『約半分』が通過している。
  そして、2016年1月、アメリカのCSIS(戦略国際問
 題研究所)は、報告書において、中国の空母打撃群保有
 の可能性と併せて・・、
  「2030年までに、南シナ海が事実上中国の海となる」
 と警鐘を鳴らした。
  2016年7月12日、オランダ・ハーグの常設仲裁裁判所は、
 中国が、南シナ海のほぼ全域で領有権を主張する「独自
 に設定した境界線『九段線』」には、国際法上「歴史的
 権利を主張する法的根拠はない」と認定する裁定を下し
 た。
  また、中国が、南沙諸島などで人工島の造成などをし
 ている岩礁は、すべて「島」ではなく、「岩」または高
 潮時に水没する「低潮高地」であると認定する裁定も下
 した。
  2018年10月31日、ファイアリー・クロス礁、ミスチー
 フ礁、スビ礁を運用開始したと、中国が公表した。
.
2019年2月15日、アイヌ支援法案を閣議決定 
  「先住民族」と明記→2019年4月19日、参議院本会議で
 可決し成立した。
  (1)産経新聞(2019.2.15)が以下のように報じた・・
  政府は15日、アイヌ民族を支援する新法案を閣議決
 定した。
  アイヌ民族の地位向上などを目指して「先住民族」と
 初めて明記し、アイヌ文化の維持・振興のための交付金
 制度創設を盛り込んだ。
  来年の東京五輪・パラリンピックに向けて民族の共生
 を世界にアピールする狙いもあり、今国会に提出し、会
 期中の成立を目指す。
  法案は、アイヌの人々が誇りを持って生活する環境の
 整備が目的。
  菅義偉官房長官は15日午前の記者会見で「アイヌの
 方々が民族としての名誉と尊厳を保持し次世代に継承し
 ていくことは、多様な価値観を共生し活力ある共生社会
 を実現するために必要だ」と意義を強調した。
  法案では条文に「先住民族であるアイヌの人々」と明
 記した。
  差別や権利の侵害を禁止し、民族としての誇りが尊重
 される社会の実現を目指す考えだ。
  アイヌ民族に関しては平成9年施行のアイヌ文化振興
 法があるが、先住民族との記載は見送られていた。
  交付金は、アイヌ文化の継承や振興を目的として市町
 村が実施する事業に政府が支給する。
  菅氏は「新たな交付金制度を創設し、旧来の福祉政策
 や文化振興に加え、地域振興や産業、観光の振興を含む
 多岐にわたる施策を進める」と説明した。
  アイヌ民族をめぐっては20年、衆参両院が先住民族
 認定を政府に求める国会決議を採択。
  政府は来年4月、北海道白老(しらおい)町にアイヌ
 文化を体感できる「民族共生象徴空間」を開設する予定
 で、アイヌ文化の振興を進めるが、先住民族への配慮を
 求める声は国際的にも高まっており、新たな支援措置が
 必要と判断した。
  (2)また、朝日新聞(2019.4.19)は以下の様に報じ
 た・・
  「先住民族であるアイヌの人々…」新法に明記、万感
 の声
  アイヌ民族を法律上初めて「先住民族」と位置づけた
 アイヌ新法が19日、参議院本会議で可決され、成立し
 た。
  アイヌ文化を守り育てる施策を国の責務と定めたこと
 に「一歩前進」という評価がある一方、土地や資源など
 先住民族としての権利に触れていないなど課題も残す。
  「先住民族であるアイヌの人々」。
  新法の第1条はこうした表現で始まる。
  アイヌ民族にかかわる従来の法律と大きく異なる点だ。
  差別禁止を明記し、アイヌ施策を国や自治体の責務と
 した。
  民族の儀式や文化伝承を目的にした国有林の利用、サ
 ケの採捕などに特例措置を設けた。
  政府が公式に「先住民族」と法律で認めたことは評価
 する声も多い。
  参議院の傍聴席では、北海道アイヌ協会の加藤忠理事
 長(80)が何度もうなずきながら笑顔を見せた。
  一緒に成立を見守った協会の人たちと握手を交わしな
 がら、喜びを分かち合った。
  加藤理事長は「泣いています。うれしくて。北海道旧
 土人保護法からアイヌ文化振興法、そして今の新法へと、
 抱えきれないような苦しみと悲しみの歴史があり、長い
 時間がかかった。
  いま先住民族と認めていただき、今日から出発できる
 ということは、歴史の大きな一ページ。感謝しています」
 と話した。
  だが新法の目的はあくまで文化や経済、観光の振興。
  国連の「先住民族の権利に関する宣言」に盛り込まれ、
  アイヌの人々が長年求めてきた「先住権」は明記され
 ず、生活や教育の支援も含まれなかった。
  (以下、有料頁のため略)
  (3)この日、内閣官房アイヌ総合政策室は以下を発
 表した・・
  「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するた
 めの施策の推進に関する法律案」を閣議決定
  先住民族への配慮を求める国内外の要請等に鑑み、従
 来の福祉政策や文化振興に加え、地域振興、産業振興等
 を含めた様々な課題を早急に解決することを目的とした
 「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するため
 の施策の推進に関する法律案」が閣議決定されました。
  1 背景
  平成20年、衆参両院の本会議において「アイヌ民族を
 先住民族とすることを求める決議」が行われ、その前年
 には、国際連合において「先住民族の権利に関する国際
 連合宣言」が採択されるなど、国内外において、先住民
 族への配慮を求める要請が高まっています。
  また、アイヌの人々からは、従来の福祉政策や文化振
 興に加え、地域振興、産業振興、観光振興を含めた様々
 な課題を早急に解決することが求められており、アイヌ
 の人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策を
 総合的に推進していく必要があります。
  さらに、政府においては、北海道白老郡白老町に、ア
 イヌ文化の復興等に関するナショナルセンターとして、
 アイヌ語で「おおぜいで歌うこと」を意味する「ウポポ
 イ」を愛称とする「民族共生象徴空間」を整備している
 ところであり、2020年4月の開業に向けて、今後とも必
 要な準備を円滑に進めていく必要があります。
  2 概要
  (1) 目的規定、基本理念、国の責務等
  目的規定においてアイヌの人々が日本列島北部周辺、
 とりわけ北海道の先住民族であるとの認識を示すととも
 に、アイヌ施策の推進に関し、基本理念、国の責務等を
 定める
  (2) アイヌ政策を総合的かつ継続的に実施するための
 支援措置
   ① 政府によるアイヌ施策の総合的かつ効果的な推進
    を図るための基本方針の策定
   ② 市町村による基本方針に基づくアイヌ施策推進地
    域計画の作成、同計画の内閣総理大臣による認定
    の申請
   ③ 認定を受けたアイヌ施策推進地域計画に基づく事
    業に関し、交付金の交付等の特別の措置
  (3) 民族共生象徴空間の管理に関する措置
    国土交通大臣及び文部科学大臣が指定する法人に
   対し、民族共生象徴空間を構成する施設の管理を委
   託
  (4) アイヌ政策推進本部
    アイヌ施策を総合的かつ効果的に推進するため、
   内閣に、アイヌ政策推進本部を設置
  (考察)アイヌの人々を尊重し、共生することは大切
     である・・しかし・・
      何故? 科学的に正しくない「先住民だとい
     う認定をするのか?」。
      科学的に正しくないことは、何年たっても「
     正しくない」。
      また、何故、アイヌの人々だけをこの様な最
     恵国待遇的な扱い方をするのか?
      また、この行為は「逆の差別を生んでいる」。
      そして、また、今後、歴史を捻じ曲げて、こ
     の様な行動をする人々が現れることを恐れる。
.
2019年4月26日、「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を
 実現するための施策の推進に関する法律」が公布された。
  「先住民族であるアイヌの人々」と言っている。
 第一章 総則
  (目的)
 第一条 この法律は、日本列島北部周辺、とりわけ北海道
   の先住民族であるアイヌの人々の誇りの源泉である
   アイヌの伝統及びアイヌ文化(以下「アイヌの伝統
   等」という。)が置かれている状況並びに近年にお
   ける先住民族をめぐる国際情勢に鑑み、アイヌ施策
   の推進に関し、基本理念、国等の責務、政府による
   基本方針の策定、民族共生象徴空間構成施設の管理
   に関する措置、市町村(特別区を含む。以下同じ。)
   によるアイヌ施策推進地域計画の作成及びその内閣
   総理大臣による認定、当該認定を受けたアイヌ施策
   推進地域計画に基づく事業に対する特別の措置、ア
   イヌ政策推進本部の設置等について定めることによ
   り、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活
   することができ、及びその誇りが尊重される社会の
   実現を図り、もって全ての国民が相互に人格と個性
   を尊重し合いながら共生する社会の実現に資するこ
   とを目的とする。
  以下の条文は、(定義)(基本理念)(国及び地方公
 共団体の責務)(国民の努力)がきされている。
  (国民の努力)
 第六条 国民は、アイヌの人々が民族としての誇りを持っ
   て生活することができ、及びその誇りが尊重される
   社会の実現に寄与するよう努めるものとする。
  そして、第二章、基本方針等(基本方針)(都道府県
 方針)第三章 民族共生象徴空間構成施設の管理に関する
 措置、第四章 アイヌ施策推進地域計画の認定等(アイヌ
 施策推進地域計画の認定)(認定を受けたアイヌ施策推
 進地域計画の変更)(報告の徴収)(措置の要求)(認
 定の取消し)(交付金の交付等)(国有林野における共
 用林野の設定)(漁業法及び水産資源保護法による許可
 についての配慮)(商標法の特例)(地方債についての
 配慮)第六章 指定法人(指定等)(業務)(民族共生象
 徴空間構成施設管理業務規程)(事業計画等)(区分経
 理)(国派遣職員に係る特例)(職員の派遣等について
 の配慮)(役員の選任及び解任)(報告の徴収及び立入
 検査)(監督命令)(指定の取消し等)(指定を取り消
 した場合における経過措置)第七章 アイヌ政策推進本部
 (設置)(所掌事務)(組織)(アイヌ政策推進本部長)
 (アイヌ政策推進副本部長)(アイヌ政策推進本部員)
 (資料の提出その他の協力)(事務)(主任の大臣)(
 政令への委任)第八章 雑則(権限の委任)(命令への委
 任)(罰則)附 則(施行期日)(アイヌ文化の振興並び
 にアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する
 法律の廃止)(アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等
 に関する知識の普及及び啓発に関する法律の廃止に伴う
 経過措置)(準備行為)(漁業法等の一部を改正する等
 の法律の一部改正)(アイヌの人々の誇りが尊重される
 社会を実現するための施策の推進に関する法律の一部改
 正)(内閣府設置法の一部改正)(国土交通省設置法の
 一部改正)(政令への委任)(検討)(内閣総理大臣臨
 時代理・総務・法務・外務・文部科学・厚生労働・農林
 水産・経済産業・国土交通・環境大臣署名)
 http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/gian/198/pdf/s0801980241980.pdf
.
2019年5月、「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現
 するための法律の施行期日を定める政令」
  「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するた
 めの法律施行令」
.
2019年、今・現代は紀元2019年であるが、今から3800年も
 遡(さかのぼ)った頃・・故に、紀元前1800年頃になる
 が、
  紀元0年から紀元2019年までの期間とほぼ同じぐらいの
 長い歴史を遡ると・・この古い時代の北海道に日本人の
 祖先たちが住んでいた・・
  このことが科学的に立証された・・
  日本人の血を持っている人たちが、北海道で生活して
 居たことが科学的に立証された。
  アイヌの人々が先住民族ではありません。
  この事は、2019年5月14日の読売新聞で報じられた。
  そして、時代が進めば「クオーター」となり「ハーフ」
 と交雑の濃さは濃くなる関係にある・・
  また、より血の濃い人々も居ると考えられる・・
  紀元前の1800年の遥か昔に、交雑した日本人が北海道
 に住んでいたことが立証された。
  そしてまた、2019年5月19日の読売新聞は、日本人の祖
 先の縄文人が、北海道で大麦を栽培して立派に生活して
 居ることも報じられている。
  この様に、日本人の祖先が紀元前から北海道に居て、
 立派に生活し、存在していたというのに・・、
  礼文島という北海道の北端まで行って生活していたと
 いう事例が発見され・・存在しているというのに・・、
  日本の国会は、日本に、その後の3000年以上もの後に
 日本に来たアイヌの人々を「日本の先住民だとした」。
  紀元13世紀頃に、日本に来たアイヌの人々を「日本の
 先住民だ」とした。
  また、北海道の道議会は、「北海道に日本人は居なか
 った」などという無智な議論が行われている。
  こんな知識レベルで、こんな無知なレベルで、政治的
 決定が行なわれている。
  そしてまた、最近と言っても良い200年くらい前に、ア
 ジア地域に来て侵略行為をした「ロシア白人たち」にと
 って、「そこに居たアイヌの人々が、ロシアの先住民と
 なるであろう」が、そのロシア白人が「アイヌの人々を
 ロシアの先住民とした」からと、日本の国会議員たちは、
 日本人もその様なロシア白人と同じようなのだとの思考
 で考えて、「アイヌの人々を日本の先住民だ」としてし
 まった。
  「紀元前の何万年も前から日本の地に居た日本人にと
 って、そのアイヌの人たちは、後から来た人たちとなる」。
  わずか600年前~700年前の紀元13世紀~14世紀に、日本
 に来たというアイヌの人たちなのだ。
  日本人の「先住民となる訳はない」。
  それを、最近になってアジアに来たロシア白人と同じ
 思考をする日本の政治家となっている・・歴史的な認識
 を、「まったく持ち合わせていない」と言える。
  この間違った法律「アイヌの人々の誇りが尊重される
 社会を実現するための施策の推進に関する法律」は、改
 正し、修正しなくてはならない
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

# by suba28 | 2019-05-27 03:09 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)644E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年4月~1896年4月)

題:(増補版)644E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年4月~1896年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年4月9日、横川駅~直江津駅間が営業開始された。
  また、日本・両毛・甲武・川越の各鉄道、および、貨
 物連絡運輸が開始された。
  碓氷峠を挟む横川駅~ 軽井沢駅間は、難所のため工事
 が遅れた。
  1888年から1893年にかけて、碓氷馬車鉄道という馬車
 鉄道が国道18号上に敷設されていた。
  しかし、輸送可能な量が少ない上に峠越えに2時間半も
 かかっていた。
  延長11.2 kmの間に、18の橋梁と26のトンネルが建設さ
 れ、着工から1年9か月後の1892年12月22日に、工事が完
 了した。
  翌年の1893年4月1日に、官営鉄道中山道線(後の信越
 本線)として横川駅~軽井沢駅間が開通した。
  そして、1997年10月1日に、横川駅~軽井沢駅は廃止と
 なった。
  これは、北陸新幹線の高崎駅~長野駅間の先行開業に
 伴う廃止だった。
  ヨーロッパの技術を取り入れ、お抱え外国人の技術提
 案なども取り入れ、アプト式で有名なこの路線、苦労し
 て開業したが、現代になって、新幹線がスマートに走り
 抜けて行く区間となった・・その様な世界に誇る鉄道技
 術を持つ日本となった。
.
1896年4月14日、板垣退助が、第2次伊藤内閣の内務大臣に
 就任した。
  自由党と政府の提携がなり、板垣退助が内相に就任し
 た。
  第9議会を前に政府との提携を模索していた自由党は、
 1895年11月22日、立憲政体と責任内閣の方針を同じくす
 るものと、相共に連携するとの「宣言」を発表した。
  この宣言は、藩閥、とりわけ伊藤博文との提携があり
 うることを示していた。
  伊藤首相は、これを受けた・・閣僚を集め演説を行っ
 た。
  自由党の方針は、内閣と同じく立憲政体の完成にあっ
 た。
  「譲るべきは譲り」「相共に謀(たばか)るべき」で
 あると主張した。
  そして、両者の提携の必要を訴えた。
  (参考)謀る:(1)計画・方法などを思いめぐらす。
     工夫する。(2)相談する。(3)計略をめぐら
     してだます。
  自由党は、第9議会に与党として臨んで・・
  1896年4月には、板垣退助が離党の上、内相として入閣
 した。
.
1896年4月15日、逓信省大臣官房及各局分課規程を改正し、
 施行した。
  鉄道局に、新たに汽車課・建設部が設置された。

1896年4月16日、音楽家の幸田延(こうだのぶ)が、帰朝し、
 披露演奏会を行った・・ピアニスト、ヴァイオリニスト、
 音楽教育家、作曲家。
  東京音楽学校の教授として滝廉太郎、山田耕作らを育
 てた。
  1895年に作曲したヴァイオリンソナタ変ホ長調(3楽章、
 未完)と・・
  1897年のヴァイオリンソナタニ短調(1楽章のみ)は、
 日本人による初のクラシック音楽作品であり、素晴らし
 い作品である。
  兄に、小説家の幸田露伴と、海軍軍人であり探検家の
 郡司成忠が居る。
  妹もヴァイオリニストの安藤幸。
.
1896年4月18日、奈良鉄道の木津駅~奈良駅間が開通し、京
 都駅~奈良駅間が全通した。
  日本の二大古都が鉄道で結ばれた。
  しかし、京都駅~奈良駅間でほぼ並行する近畿日本鉄
 道京都線が、スピード、列車本数とも圧倒的優位に立っ
 ていて・・
  長らく非電化であった奈良線は、輸送力の小さな脇役
 的な鉄道の地位にとどまっていた。
  1984年に、電化された後も、その地位は本質的には変
 わっていない。
  1987年、日本国有鉄道の分割民営化で、西日本旅客鉄
 道に所属した。
  列車はすべて木津より関西本線に乗り入れて京都~奈
 良間に直通運転される。
.
1896年4月20日、森正道が、小児病のひとつ脾疳(ひかん)
 の治療法を発表した。
  (参考)脾疳: 身体が痩せ、腹がふくれてくる小児病。
     小児の慢性胃腸病。
  (参考)森正道:もりまさみち、1860年~1932年、医
     師。東京大学卒。
      ドイツに留学して外科学をおさめ、1905年、
     帰国。三重県羽津病院長をつとめる。
  1904年、三重県の小児科医の森正道は、農山村の貧困
 な家庭の小児が、過食と下痢で腹が大きく膨れ、頭髪が
 薄くなり、夜盲症や眼の結膜炎を起こして化膿、失明す
 る病気があり、脾疳(ひかん)と呼ばれた。
  森は、この病気が脂肪の不足によって起こるとして、
 肝油を与えて治療を行った。
  この様な病気が、その後、ドイツやデンマークでも報
 告された・・世界各地で見られる病気であることが分か
 った。
  肝油からビタミンAを単離して結晶化する研究は、日
 本の理化学研究所が成功した。
  ビタミンAの化学構造は、1931年に、スイスのカラー
 が、オヒョウ肝油からの研究で決定した。
.
1896年4月20日、日本勧業銀行法・農工銀行法のそれぞれを
 公布した。
  農工銀行は、各府県に設立された特殊銀行で、農工業
 の改良発達のため、長期で低利な貸付を目的とした(土
 地を持たない小作人への融資の道も開いていた)が・・
  1921年に、勧農合併法が制定され、漸次、日本勧業銀
 行に合併された。
  1898年~1900年に、全国46府県に各1行を設立した。
  北海道は北海道拓殖銀行。
  府県が半額出資し、その中央機関として日本勧業銀行
 (現:第一勧業銀行)を設立した。
  資金源の債券発行が伸びず、勧銀の代理貸付けを行っ
 て、1921年~1944年に、すべてが勧銀に合併された。
.
1896年4月22日、ロシアが、朝鮮の利権を獲得した。
  朝鮮の慶源・鍾城の鉱山採掘権を取得した。
  ロシアは、実質的な権力のない高宗におもねり鍾城・
 慶源の鉱山採掘権を取得した。
  また、朝鮮北部の森林伐採権も取得した。
  また、関税権などの国家基盤をも取得して朝鮮半島で
 の影響力を増して行った。
  この様な事から、この後に起きる日露戦争は、朝鮮半
 島でロシアが侵略した朝鮮西北部のロシア軍と戦うこと
 となる。
  例えば、朝鮮の咸鏡道は、戦争初期において、ロシア
 軍の占領下に置かれていたが、1904年8月以降は、日本軍
 が徐々に北上して解放して行った。
  ロシア軍は、ウスリー川地域に軍隊を置き、圧迫をし
 ていた。
  この様な時、韓国政府はロシア側に付くでもなく、日
 本側でもなく、中立の宣言をしていた。
.
1896年4月26日、桑田熊蔵、山崎覚次郎、高野岩三郎ら、社
 会政策研究団体を設立した。
  翌年・1897年4月24日、社会政策学会と命名した。
  毎月1回の例会で社会問題を討議した。
  経済学者を中心としたが理論研究にとどまらず、足尾
 鉱毒事件調査など実際問題や、政策の提言にも熱意を示
 した総合的な学会だった。
  1907年12月、工場法を論題としたことを皮切りに公開
 の活動を開始し、記録を『社会政策学会論叢(ろんそう)』
 として刊行するなど啓蒙(けいもう)的役割も担った。
  労働問題の解決に力を注ぎ・・
  1922年、282名の会員を数えた。
  ドイツの同学会に範をとり社会主義と一線を画し、社
 会改良主義の立場を貫いた・・が・・
  1924年12月、第18回大会を最後に休眠状態に入った。
  設立当初、この研究会は、ドイツ留学で当時最先端の
 経済学とされていた社会政策学派の講壇社会主義(当時
 は「講壇社会党」と呼ばれた)を学んだ桑田・山崎が、
 社会問題の激化予防と解決のため、ドイツ社会政策学会
 をモデルに設立した。
  会は、さらに、金井延・田島錦治・高野房太郎・佐久
 間貞一らを会員に加え、月例会も開催した。
  1898年7月、桑田・金井・戸水寛人の執筆による「社会
 政策学会趣意書」を発表した。
  「趣意書」は、自由放任主義、および、社会主義への
 反対を表明し、
  また、「現在の私有的経済組織を維持し、其範囲内に
 於て箇人の活動と国家の権力に由つて階級の軋轢を防ぎ
 社会の調和を期す」とある。
  これは、明確に、資本主義の枠内での社会改良主義の
 立場を標榜し・・
  と同時に、この趣意書には、会員の片山潜らが結成(
 1898年)した社会主義研究会との違いを明確にするとい
 う意図も込められた。
.
1896年4月27日、民法(明治29年法律第89号)が公布された。
  民法第一編・第二編・第三編(総則、物権、債権)が
 定められ、公布された。
  これによって、日清戦争後の経済発展の基礎固めが行
 なわれた。
  続いて、1898年6月21日の明治31年法律第9号により定
 められた民法第四編・第五編(親族、相続)・・
  附属法令として、1898年6月15日、明治31年法律第11号
 民法施行法が公布され・・
  全体が1898年7月16日から施行された。
  原案起草者は、穂積陳重・富井政章・梅謙次郎の三名。
.
  (今日の言葉)
.
  題:200年前にアジアに来たロシア白人が、アイヌを先住民だとした・・
    それを見て・・日本の政治家たちが・・
    紀元前の何万年も前から日本に住んでいる日本人の先住民は、アイヌだと決めた・・
    先住民の日本人の後から来たアイヌの人たちが先住民だとした・・
    アイヌの人たちは、13世紀~14世紀に、北方からやって来たのに・・
.
紀元前12万年、ナウマンゾウが本州から津軽海峡を渡って
 北海道へ行った。
  紀元前1万3000年になると、最後の氷期は終了した。
  この氷期には、海水面が80~140mも下がっていて、津
 軽海峡や宗谷海峡がなくなっていて大陸と地続きとなっ
 ていた。
  幕別町忠類村(ちゅうるいむら)で見つかったナウマ
 ンゾウの全身化石は、12万年前のものだった。
  このゾウは、本州から津軽海峡を渡って北海道へ行っ
 た・・
  また、その様なゾウを食糧としようと本州から人々が
 渡って行った。。
  4万5千年前から2万年前頃になると、サハリンを通って
 大陸から渡ってきたマンモスゾウがいた。
  マンモスゾウを追って、北海道に北方の人々が渡って
 来た。
  また、渡ることが出来る津軽海峡で、北海道と本州の
 人の行き来がなされていた。
  日本人の先住民である縄文文化の人びとの暮らしが、
 北海道各地に残された遺跡から知ることができる。
  北海道では、旧石器文化、縄文文化など約1万2,000ヶ
 所の遺跡が確認されている。
  そのうちの約7,000ヶ所という多くの遺跡が、縄文時代
 の遺跡となっている。
  日本の各地を、沖縄から北海道まで、アフリカからの
 人類のうねりの様に、日本の先住民たちは移動し、そし
 て、交雑した。
  縄文文化の遺跡から、住居や「ムラ」の跡、土器や石
 器などの道具がたくさん見つかっている。
  墓地や水場、狩りの跡なども見つかる。
  また、北海道では、多くの「貝塚」も見つかっている。
  伊達市北黄金貝塚からは、ハマグリ、カキ、ホタテな
 どの貝がらだけでなく、マグロやヒラメの骨、オットセ
 イやクジラなど海獣の骨、さらに、縄文文化の人びとの
 お墓やシカの頭の骨をならべた儀式の跡なども見つかっ
 ている・・この人たちはアイヌの人々とは違う。
  釧路市にある東釧路貝塚からも、貝類や魚の骨のほか、
 イルカの頭骨を放射状に並べたものが出土している。
  縄文文化の人びとは、すべてのものや事象に魂がある
 と考えていた。
  「貝塚」は、人びとが使い終わったものを、恵みをも
 たらしてくれる世界へ送る場だったと想像もできる。
  函館市大船遺跡や垣ノ島遺跡で見つかった「盛土(も
 りど)」遺構も、同じような祭祀や儀礼の場であったと
 想像され推定されている。
  このような「送り場」は、縄文文化の人びとの精神文
 化を伝えてくれていると推定されている。
  北海道北東部には、約7,000年前に「石刃鏃(せきじん
 ぞく)」という独特な鏃(やじり)が伝わった。
  これはシベリアなど大陸の影響を受けたものと想像さ
 れている。
  また、北海道の西南部と津軽海峡を挟んだ北東北は、
 縄文時代前・中期に同じ特徴の円筒状の土器を使うなど、
 共通の文化圏を持ち、つながりがあった。
  このことからも津軽海峡を挟む18ヶ所の縄文遺跡群は、
 現在、世界遺産登録を目指している。
  北海道からは、北黄金貝塚、入江・高砂貝塚、鷲ノ木
 遺跡、大船遺跡、キウス周堤墓群、垣ノ島遺跡の6ヶ所が
 入っている。
  (北海道博物館 赤れんがサテライトを参考にした)
     ・
     ・
8世紀頃、擦文文化(さつもんぶんか)
  擦文土器を持つ文化で、北海道、東北地方北部に分布
 している。
  これは、東北地方の古墳文化の影響を受け、そして、
 成立した。
  8世紀頃より、鎌倉時代および室町時代に及んだとされ
 る。
  北海道の続縄文文化に本州から北上した土師器 (はじ
 き) を伴う文化が接触したと考えられる。
  そして、これは、アイヌとも違い、アイヌ文化に先行
 する文化とされる。
  この遺構は、江別市や恵庭市などの道央部に発見され
 る。
  奈良時代の律令政府とかかわりのあった人が被葬者だ
 と考えられている東北地方の末期古墳と同形で、出土遺
 物も、土師器(はじき)、直刀、蕨手(わらびで)刀、
 鉄斧、鉄鎌、銙帯(かたい)金具、勾玉や和銅開珎など
 似たものが多い・・
  おもな、生業は漁労であり、方形の竪穴住居には「か
 まど」があり、粟、ひえ、そばなどが出土することによ
 って、小規模な栽培も行われていた。
  そして、この擦文文化の時代には、北海道には縄文人
 の子孫は居たが、アイヌは居なかった。
  この後、13世紀頃、樺太に居たアイヌが、モンゴルの
 攻撃などの歴史的事変で、それまでの居住区を追われ、
 北海道に移動して来たと考えられている。
  それは・・アムール川下流域から樺太にかけての地域
 に「吉里迷(ぎれみ)族」が住んでいた。
  この集団は、モンゴルに遠征されて、1263年、モンゴ
 ルに服従した。
  その翌年・1264年、この族は、「骨㟴(くい)」や「
 亦里于(いりう)」が、「毎年の様に侵入して来る」と
 いう訴えをフビライへ報告した。
  ここで言う骨㟴は、アイヌを指している。
  (参考)「北からの蒙古襲来の真相」中村和之(法政
     大学国際日本学研究所所属)、
      クイ(骨㟴、蝦夷)は、二ヴフ語でアイヌを
     意味するkuyiを音訳したものと思われる。
  この訴えを受け、元朝はアイヌを攻撃した。
  (参考)『元史』「世祖本紀」至元元年十一月丙子(
     1264年11月25日)条に記されている。
  これが「北からの蒙古襲来」で、鎌倉幕府への侵攻の
 「元寇」よりも10年早い時に起きた。
  この元寇に追われて、アイヌが北海道へ南下したと考
 えられている・・アイヌの人々の北海道居住の初め・・
.
802年5月22日、(延暦21年4月14日)阿弖流為(あてるい)
 と母禮(もれ)は、兵5百余人を率いて胆沢城(いさわ
 じょう)の坂上田村麻呂将軍に投降したと日本紀略に記
 されている。
  (参考)阿弖流為:あてるい、平安初期の蝦夷の族長。
     北上川流域一帯を支配し、延暦8年(789年)、
     征東将軍紀古佐美(きのこさみ)軍を破る。
      延暦21年(802)、征夷大将軍の坂上田村麻呂
     が胆沢城を造営し始めると、これと戦うことな
     く、盤具母礼と共に一族五百余人を率いて投降
     し、河内国杜山で処刑された。
      田村麻呂は助命懇願した。
  (参考)蝦夷:えぞ、えみし。古代、日本の北辺、実
     際には中部以東、北陸、関東、奥羽地方に住む
     人々は、大和朝廷より、蝦夷という名で異民族
     扱いされていた。
      蝦夷はまたエミシとも読む。
      彼らがいかなる人種、民族であったかは、江
     戸時代以後、多くの史学者によって論じられて
     きたが、決め手がなく、一方、人類学者もこの
     解明を手がけたが、人骨などの実証拠が乏しか
     った。
      新井白石や本居宣長は蝦夷すなわちアイヌ説
     をとった。
      長谷部言人ら人類学者は、石器時代人骨の研
     究から、非アイヌ説をとり、日本人でも東国、
     北辺に住む化外 (けがい) の民を蝦夷と称した
     としている。
      金田一京助は奥羽地方に残る地名をアイヌ語
     で解釈できるものとして、奥羽地方にいた蝦夷
     はアイヌであると考えるが、考古学的資料から
     はにわかに説明しがたい。
      東北地方出土人骨のうち、アイヌであると思
     われるものはごく少い。
  (参考)蝦夷:最初は〈えみし〉といい、〈夷〉〈毛
     人〉の字をあてた。
      大化改新後はおもに北越・奥羽地方および北
     海道に住む人びとをいい、〈蝦夷〉と書くこと
     が多くなったが、9世紀~15世紀には〈夷〉が
     一般的で〈蝦夷〉という表記は少ない。
      訓も〈えみし〉のほか〈えびす〉〈えぞ〉が
     混用された。
      中世での〈蝦夷〉の表記は安東(安藤)氏を
     指すことが多いとされ、奥羽・北海道に住む人々
     一般をいったかどうかは個々のケースにより異
     なる。
      こうしたことばとアイヌとの関係については、
     まだ明確でない。
      中世期の〈蝦夷〉を明確に定義するのは困難
     である。
      またこうしたことばとアイヌとの関係につい
     てもまだ明確でない。
.
1060年、北海道は遠い昔から和人が渡っていた。
  律令時代にも北海道への人的な行き来は確認されてい
 るが・・意冨比(おおひ、おおい)神社という道南の北
 斗市にある神社には、平安時代の康平三歳(1060年)の
 銘が入る鰐口がある。
.
1135年、船魂神社
  船魂神社は、函館の港を見下ろす函館山の麓、函館観
 光の中心地に鎮座する、北海道最古の神社で・・
  古来、船の守護神、海上安全、大漁祈願、交通安全、
 開運導きの神様として崇敬されて来ている。
  また、源義経を津軽海峡の海難から助け、この地へ導
 いたという伝説も残る神社・・
  起源は、保延元年(西暦1135年)崇徳天皇の御代に、
 融通念仏宗開祖の良忍上人がこの地に着いて、ここは神
 霊の宿る処だと里人に伝え、海上安全を祈念して奉られ
 た。
  これ等の神社の多くは道南の漁業拠点に集中し、道南
 には古社は多い。
  平安時代の奥州藤原氏の残党が渡島で神社を建立した
 という説もある。
  一例として、意冨比(おおひ、おおい)神社、旧大日
 堂という道南の北斗市にある神社には、平安時代の康平
 三歳(1060年)の銘が入る鰐口を有する。
.
1205年8月16日、北海道の知内川(しりうちがわ)で砂金が
 採れ、この日(元久2年7月23日)に金山祭を行ったとい
 う記録がある。
.
1220年頃、この頃からの鎌倉時代には、京都などの強盗・
 海賊は、いったん関東へ連行し、津軽の大名・安藤氏が、
 北海道へ島流しにしていた。
  この者たちの多くは、道南に住んだ。
.
1264年、アムール川下流域から樺太にかけての地域に住ん
 でいた「吉里迷(ぎれみ)族」が、元朝のフビライに、
 「アイヌが攻めて来る」と報告した。
  フビライは、この事によって日本への元寇より早い時期に、こ
 の地域へ襲来した(北からの蒙古襲来)
  この元寇に追われて、アイヌが北海道へ移住したと考
 えられている。
.
13世紀、この時期のアイヌの北海道の居住地域は、オホー
 ツク沿岸や道東に限られていた・・
  この後、北海道全域へ広がって行く。
  そして、1220年頃からの鎌倉時代には、京都などの強
 盗・海賊は、いったん関東へ連行し、津軽の大名・安藤
 氏が、北海道へ島流しにしていた。
  13世紀の北海道のアイヌは、オホーツク海岸や道東に
 多く住んでいて、流刑者は道南地方に追放されたので、
 この後に、道南は、アイヌと和人の雑居地状態なったと
 考えられる。
  1320年頃から、この安藤氏は、アイヌの人たちとの交
 易を行なっている。
.
1320年頃、この頃から、津軽の大名・安藤氏は、アイヌの
 人たちとの交易を行なった。
.
1456年、コシャマインの戦い(~1458年)
  蝦夷地のアイヌが起こした大規模な安東氏らに対する
 蜂起。
  津軽半島の十三湊(とさみなと)を本拠としていた安東
 (安藤)氏の蝦夷地への逃亡(1443年)の後、深まった
 対立が原因で起こった。
  蝦夷地南西部(現在の道南地方)の安東氏ら根拠地の
 支苔(志濃里)(しのり)館など(道南十二館)のうち10
 館が一度はアイヌの手におちた。
  若狭(わかさ)出身だと伝えられる武田信広(松前氏の
 祖)が、蝦夷地東部の首長コシャマイン父子を討って、
 戦は終わった・・
  この後、武田信広は、「上ノ国守護」の蠣崎(かきざき)
 季繁の女婿となって蠣崎家を継いだ。
  そして、武田信広の子孫は、支配地の「三守護職」の
 権能を掌握して、松前藩を成立させた。
.
1648年、アイヌの人々同士の争い
  アイヌのメナシクルは、現在の新冠町から白老町方面
 にかけての集団であるシュムクルと・・
  シベチャリ川(静内川)流域の領分をめぐって遅くと
 も1648年から対立をしていた。
  (参考)メナシクル:静内以東の太平洋沿岸地域など
     に居住するアイヌ集団の名称。
.
1669年6月21日、シャクシャインの戦い
  シブチャリのアイヌの首長シャクシャインを中心とし
 て起きた、松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起。
  アイヌ惣大将のメナシクルとシュムクルは、シブチャ
 リ地方の漁猟権をめぐって、争いを、1648年から続けて
 いた。
  シャクシャインは、メナシクルの副首長であったが、
 カモクタインが、1653年に、シュムクルによって殺害さ
 れたために首長となっていた。
  抗争を危惧した松前藩は、仲裁に乗り出した。
  1655年には、両集団は一旦講和をした。
  この時、シュムクルは松前藩に接近した。
  シュムクルは、松前藩に親善的な友好な立場となった。
  1665年頃から、アイヌ同士の対立が再燃した。
  1668年5月31日には、メナシクルによってオニビシが
 殺害された。
  (参考)オニビシ:北海道に存在したアイヌ集団のひ
     とつハエクル(シュムクル)の首長・惣乙名。
  松前藩は、アイヌとの交易の特権を豊臣秀吉から得て
 いたが・・
  また、江戸時代になっても、この特権は、徳川家康か
 らも与えられていた。
  この様な交易の特権を得ていた松前藩とアイヌとの交
 易は、松前藩が財政的な困窮度が増して行った事もあっ
 て、厳しい対応となって行った。
  米と干鮭の交換レートなどに厳しさが増した。
  この頃、全国的な飢饉が発生していて、やむを得ない
 面もあった。
  松前藩は、米が無くなって3000俵を幕府から借りる事
 もあったくらいだった。
  また、この様な状況の中、アイヌが、交易を一方的に
 「押買されたりする行為」もあった。
  また、和人の山師が、砂金堀のため、内陸部を切り開
 く行為もアイヌにとって生活を脅かす行為となった。
  また、大名の鷹狩り用の鷹を勝手に捕獲することもア
 イヌの人々の生活を脅かした。
  また、シャクシャインにオニビシを殺されたハエのア
 イヌは、松前藩庁に武器の提供を希望した・・
  しかし、松前藩は、これを拒否した。
  サル(現:日高地方)の首長ウタフは疱瘡で死んだが、
 これが、「松前藩によって毒殺された」と思われること
 なども影響した。
  これらが発端となって、シャクシャインは各地のアイ
 ヌの方々たちへ蜂起を呼びかけた。
  アイヌの方々はこれに呼応した。
  和人の製品がアイヌの方々の生活に根付いていて、こ
 れを得るのに交換レートが厳しくなっていることも蜂起
 の心情を作った。
  また、アイヌの惣大将同士の争いも多くなっていた時
 期で、アイヌの方々の不満の心情も鬱積し高まっていて、
 対松前藩蜂起へと移行し爆発した。
  1669年6月21日(寛文9年6月4日) 、シャクシャインら
 の呼びかけによりイシカリ(石狩地方)を除く、東は釧
 路のシラヌカ(現:白糠町)から西は天塩のマシケ(現:
 増毛町)周辺において一斉蜂起が行われた。
  決起した2,000の軍勢は、鷹待や砂金掘り、交易商船を
 襲撃した。
  突然の蜂起に、和人は対応できず、東蝦夷地では213人、
 西蝦夷地では143人の和人が殺された。
  松前藩はこれに対応し、また、幕府へ蜂起を急報し、
 援軍を求めた。
  幕府は、松前藩の要請に応じて、弘前津軽氏・盛岡南
 部氏・秋田佐竹氏へ出兵を命じた。
  シャクシャイン軍は松前を目指した。
  1669年7月末、援軍の兵が松前藩と合流し、戦闘は8月
 上旬まで続いた。
  兵器の差や、内浦湾一帯のアイヌが分断されて力を発
 揮できず、シャクシャイン軍は不利な状況となって行く。
  シャクシャインは長期戦に備えた。
  松前藩は戦いの長期化を恐れた・・
  それは、戦いの長期化による交易の途絶や、幕府によ
 る改易を恐れたのだった・・
  松前藩は和睦を提案した。
  シャクシャインは和睦に応じて、1669年11月16日、松
 前藩陣営に出向いた・・
  その和睦の酒宴で、松前藩は、シャクシャインを殺す
 という卑怯な行為をしてしまった。
  指導者を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰えて行った。
  その後、松前藩は、交換レートを緩めた。
.
1859年、江戸幕府が、開港場居留地における外国人の信仰
 の自由を認めた・・キリスト教信仰の容認・・
  また、キリスト教宣教師の来日を許可した。
  キリスト教カトリック教会は、パリ外国宣教会を通し
 て宣教師を派遣して来た。
  フランス横浜領事館付通訳兼司祭として来日したS・
 B・ジラールは江戸入りした。
  また、彼は、1862年1月、横浜天主堂も建立した。
  ベルナール・プティジャンは、1862年に来日し・・、
 1864年に大浦天主堂を建立した。
  アメリカ、イギリス、カナダ、オランダからはキリス
 ト教プロテスタントの宣教師が来日した。
  キリスト教正教会は、1861年、ニコライ・カサートキ
 ンが来日し、函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭となった。
  そして、後に、キリスト教日本ハリストス正教会を設
 立した。
  キリスト教が、明治時代になって高札の撤去まで弾圧
 があったと過大な嘘を言うが・・、日本は早くからキリ
 スト教に対して見過ごして来て、また、無視して来た・・
 弾圧などはまったく早い時期からやっていない。
  そして、明治時代の維新となって、日本が近代国家へ
 の歩みを始めた頃、逆に、キリスト教を含めて、日本に
 は『西欧礼賛』があった。
  何でもかんでも西欧が良いと、「真の姿を見ず」に西
 欧を美化し礼賛し取り入れた。
  この頃、キリスト教関係書が盛んに翻訳された・・し
 かし・・今・現代、キリスト教関係者は、この頃の翻訳
 は駄目だと言っている・・翻訳のレベルがまったく低い
 と言う・・この様なレベルでキリスト教徒になった人も
 多く居た・・
  翻訳について、内容の正確さの問題もあったが、翻訳
 文の日本語として成立しないようなレベルの物もあった
 と・・
  この様な知識レベルで、キリスト教にのめり込んだ人
 たちは多かった・・
.
1937年、杉原千畝が、ソ連への入国の拒否通告を受ける。
  杉原千畝は外交官ではない・・日本のスパイとして働
 いていた。
  その様な職員の身分なのだ。
  ソ連人女性と結婚してまでして、ソ連の情報を得よう
 とした。
  ここまでして、日本軍に有利となる情報を探った。
  ソ連から入国を拒否されるくらいの情報を探ったスパ
 イだった。
  しかし、杉原千畝のソ連人の妻から「逆スパイをされ
 ていた」という話もある。
   ・
   ・
2018年10月31日、中国が、南沙諸島の運用を強行に開始し
 た。
  この時から遡ること3年2ヶ月前の2015年8月20日、アメ
 リカ国防総省は、「アジア太平洋での海洋安全保障戦略」
 と題した報告書を公表した・・
  中国が、2013年12月に、南沙諸島での埋め立てを開始
 して・・、
  2015年6月までに、2,900エーカー(約12km2)を埋め立
 て、その面積が、周辺諸国による埋め立てを含めた全体
 の『約95パーセント』に当たることを明らかにした。
  また、埋め立てから滑走路や港湾施設の建設によるイ
 ンフラ整備に重点が移行していることも指摘した。
  中国が、この様にして実効支配をして、軍事拠点化し
 ているこの場所を、地球上で取引されている原油や液化
 天然ガス(LNG)の約半分が通過している。
  そして、2016年1月、アメリカのCSIS(戦略国際問
 題研究所)は、報告書において・・、
  中国の空母打撃群保有の可能性と併せて、「2030年ま
 でに、南シナ海が事実上中国の海となる」と警鐘を鳴ら
 した。
  2016年7月12日、オランダ・ハーグの常設仲裁裁判所は、
 中国が、南シナ海のほぼ全域で領有権を主張する「独自
 に設定した境界線『九段線』」には、国際法上「歴史的
 権利を主張する法的根拠はない」と認定する裁定を下し
 た。
  また、中国が、南沙諸島などで人工島の造成などをし
 ている岩礁はすべて「島ではなく」、「岩」または高潮
 時に水没する「低潮高地」であると認定する裁定も下し
 た。
  しかし、2018年10月31日、ファイアリー・クロス礁、ミスチー
 フ礁、スビ礁を運用開始したと、中国が公表した。
.
2019年、今、ロシアが困っている・・中国の浸透が続いて
 いるのが・・その理由・・
  中国が、シベリアへの浸透を謀(はか)っている。
  中国とロシアの長い国境線では・・ロシアは、その為
 の国境の壁を、そのすべてに設けられない・・、
  また、長い国境線の厳重な管理も難しいという状態・・
 その様な中を・・中国は浸透を謀(はか)っている。
  アメリカも、国境に壁と作ろうとしているが、その為
 の金がないという、予算措置が出来ないという。
  必死に国づくりをして、良い国となり、その国づくり
 の努力の結果、幸せな生活ができるようになる・・
  そうすると、国境を『違法に越えて』、自分も幸せに
 なりたいと、違法に国境を越える者たちが増える。
  中国は・・日本が満州族の方々が多かった地に、その
 満州族の方々の国の建国の手助けをして、満州国を建国
 して差し上げたが・・、
  しかし、その地は、日本が戦争に負けると、中国の地
 だと「知らぬ間になってしまった」。
  今、その地には、満州族の方々は居ないという。
  殺されたのか・・他に移住させられたのか・・不明の
 状態となっている。
  そして、「中国東北部」と称されて、「中国のもの」
 とされている。
  中国の漢民族が少数だったこの地は、明らかにこの様
 になってはいけない地であって・・、
  本当は、この地は、「中国東北侵略部」と称するのが
 正しい。
  そして、この地の北のロシアのシベリア部分に、中国
 が浸透している今・現在なのである。
  そして、その地も、そのうち、「中国東北侵略部・北
 地区」とでも名付けられるだろう。
  中国の歴史は、昔からこの様な周辺国・周辺部への侵
 略・浸透が行われて来た・・
  そして、「洗国」という事が行われた・・
  洗国とは・・国を洗うと書くが、その国のその地の男
 だけを他の場所に移して、その地へ「中国の漢民族の男
 だけ」を移り住まわせて、強制的に漢民族を増やさせて
 「漢民族化を行なって」・・「国を奪う」という事を、
 昔からやってきた国だった。
  キリスト教聖書にも、この事が記述されている・・
  キリスト教の神は叫ぶ、「△△人は、男だけを殺せ」
 と・・そして、場合によっては、このキリスト教聖書に
 書かれたキリスト教の神は、「生娘は生かして置け」と
 も叫んだ。
  そしてまた、キリスト教の聖書の神は、「○○人は、
 皆殺しにせよ!」とも叫んだ。
  この様な事を、中国は、昔からやってきた。
  チベットやウイグル、そして、内モンゴルや中国南方
 の諸国・諸地域が、今・現在、「半・中国化されてしま
 っている」。
  中国は、長期にわたる侵略国なのである。
  日本の沖縄や北海道も狙われている。
  そのうち、洗国という手が使われる可能性があるとも
 言える・・それは、中国が昔からやって来た事である。
.
2019年4月8日、韓国の子供たちは、「酷いことをした日本」
 というイメージで教え込まれている。
  それも、「嘘の話をでっち上げられて」教えられてい
 る。
  例えば、韓国の小学校6年生の社会の教科書に裸の酷い
 状態の男の人たちが写っている写真が掲載されている。
  産経新聞社の加藤達也氏によると・・、
  この写真の元は北海道の旭川新聞がかつて掲載した写
 真であって、これらの人達は日本人を撮影した写真であ
 って「朝鮮人徴用工とは縁もゆかりもない人たち」であ
 る。
  それを、韓国の小学生の社会科の教科書には「強制労
 役に動員された我が民族」と書かれている。
  この写真は、1926年に、旭川新聞が掲載した写真で、
 道路建設現場の写真で、写っている人たちは日本人。
  韓国が日本の貶めのために作っている徴用工の銅像の
 モデルとなっている写真とも言われている。
  産経新聞は、この事を韓国に指摘した・・その指摘を
 受けた韓国教育省は、「韓国教科書の誤りを認めた」。
 「訂正することも約束した」。
  しかし、間違い教科書を回収するという事ではなく「
 シールを貼って隠す」というものだった。
  韓国は、この1例の様に、雑な荒っぽい認識で事を処し
 ・・この様なレベルで韓国の子供たちの洗脳・刷り込み
 をしている。
  韓国の少年少女たちを反日へと導く教育がなされてい
 る・・この様な洗脳教育の怖ろしさを、韓国政府は認識
 していない。
  韓国は、この1例だけではなく、次々と根拠のないこと
 で「歴史を改ざん」し、日本を貶め、反日教育をしてい
 る。
  竹島は、韓国の領土だと刷り込んでいる。
  また、まったく無かった従軍慰安婦も「あった様に」、
 事実であった様に、子供たちへ刷り込んでいる(反日教
 育の刷り込みばかりに重点を置いている)。
  そして、日本の教科書を批判している。
  日本の一部のグループが、日本の歴史の多数を歪曲し
 て教科書を作り、2011年に、日本政府の検定審査を通過
 しているとしている・・
  そして、これは、韓国・中国をはじめとする政治的紛
 争を起こしていると教えている・・自分たちの行為を希
 薄化するために、この様なことを言っている。
  日本が、故意にトラブルを作っているという洗脳をし
 て・・「日本だけが悪い」というイメージを作り上げて
 いる。
  日本は、周辺国と友好的に行きたいと、今まで「何も
 言わずに来た」が、やはり、正しい事実を、認識を主張
 しなければならない状況にある。
  反日観を刷り込まれた韓国の青年が、スポーツの国際
 大会で政治的な行動をするなどの問題が発生している。
  そして、韓国の間違った認識を世界に流布している。
  間違った反日教育で歪められた歴史観を、世界に流布
 している。
  日本の青少年自体も間違った認識を持つように教えら
 れている。
  それは、近隣の周辺国への配慮から、真実を正確に教
 えて来なかった日本がある。
  真実を教えられない日本の青少年は、韓国だけが発信
 する事柄を、その間違った認識をなんとなく持ってしま
 っている。
  朝鮮・韓国の元徴用工は、日本で働いで良い生活をし
 たいということで、志願したことを教えた・・
  また、慰安婦にも「志願者が数多く存在した」ことも
 教えてみたら・・その様な意見聴取をしてみると・・「
 びっくりです」という言葉が返って来る・・
  また、「それでは、話が変わって来ますね」という返
 事にもなる。
  そして、日本で、真実を、何故、教えないのか、教え
 てほしかった・・という言葉にもなる。
  その様なことはわからなかった・・その様な解らない
 状態では誤解を生むので、その様な所まで教えた方がい
 い・・という言葉にもなる。
  近隣への配慮から、日本は、近現代史はプリントを配
 るぐらいで「教えない」という状態になっている。
  「日本軍が無理やり連れ去った」という様なまったく
 嘘の「事実ではないイメージまで生まれてしまっている」。
  日本には、「近隣諸国条項」という、「近現代の歴史
 的事象の扱いに、国際理解と国際協調の見地から必要な
 配慮がされていること」と書かれた条項あり・・、
  必要以上に、中国・北朝鮮・韓国に配慮した教科書の
 検定基準がある。
  中国や韓国は、「事実よりも」、政治的にうまく行く
 ようにという観点から歴史を教える形になっている・・
 だから、「事実は二の次」という形から間違った記述が
 なされる教科書が生まれている。
  日本政府も、それに異議を言う訳でもなく、逆に、す
 り合わせる様な状態も生まれている。
  韓国は、「国」が教科書を作っている。
  日本を貶める別の写真には「戦争に動員された幼い学
 生たち」と書いている・・動員という言葉を使って悪い
 イメージ作りをしている。
  韓国の戦争記念館では、朝鮮戦争で活躍した韓国兵士
 の経歴が掲示されて、大々的に説明されているが・・、
  この韓国の軍人たちは、日本と一緒になって、第二次
 世界大戦でアメリカなどと戦った軍人であるが、この経
 歴は、まったく記されず、隠されていて書かれていない。
  日本の軍事教育を受けて、朝鮮戦争でも活躍するよう
 な軍人になったことなど、「まったく説明されていない」。
  韓国は、この様な改竄(かいざん)までして、刷り込
 みのイメージ作りをしている。
  日本を貶めるという一貫した行為が、韓国でなされて
 いる。
  この様な韓国の嘘を、外国メディアが「真実だと思っ
 て」世界へ配信してしまっているという取り返しがつか
 ないことまで起きている。
  日本が、変な配慮から指摘をしないので、この様な事
 まで起きている。
  ロイターという大メディアが世界に配信して・・「間
 違いだった」という「訂正」は、なされていない・・日
 本は、間違いを「されっぱなしになっている」。
  朴槿恵時代の韓国の教科書と、文在寅(むん・じぇい
 ん)時代の教科書はまったく違う・・
  朝鮮戦争の場合、今・現代の文在寅時代は・・、国連
 軍が韓国国民を「虐殺している」から北朝鮮軍が、韓国
 へ入って来た・・という記述になってしまっている・・
  事実は、突如、北朝鮮軍が38度線を越えて攻めて来た
 のに・・国連軍の虐殺も何もないのに・・文在寅は、こ
 の様な内容でありたいという思いで、朴槿恵時代の教科
 書を書き換えた。
  韓国の事を「南韓」と書いている・・北朝鮮の意向に
 沿った書き方となって来ている韓国の教科書の状態。
  小学校の内から、日本帝国主義ということを植え付け
 て、「日帝」という言葉を使って学ぶ。
  日本は、周辺国から孤立していると思い込ませている。
  高校になると、教科書の111頁(全424頁)が日帝の事
 を貶めるというボリューム比率となっている。
  日本の貢献によって、経済的発展をした韓国の姿など、
 少しも記述していない。
  韓国にある「全国教職員労働組合」は、教職員の組合
 だが、北朝鮮の思想であるチュチェ思想など「親北な教
 育を行なう職員」も在籍していて、この様な行為が過去
 に韓国のメディアから批判を受けている。
  この組織が「7割」くらいへ影響を与えている。
  文在寅を支える組合の中核的な組合となっている。
  活動目標は「日韓の分断」と「親北朝鮮」。
  日本が間違いを指摘して、証拠を提示しても無視する
 現状となっている。
  しかし、日本にも、河野洋平官房長官(当時)が謝罪
 するという「韓国に迎合した行為」がある。
  そして、この「間違いの迎合した談話」を取り下げる
 事もしない日本がある。
  結局、日本の態度から認めているという姿もある。
  お互いを理解しようという目的で始まった「日韓談話」
 をしても、韓国は史実はどうでもよいとなって、「韓国
 を悪く言ってそれで良いのか」の感情論となる。
  事実認定から始めて、事実の認識を積み重ねようとい
 う目的が果たせない。
  まず、日本は、韓国がそうであっても・・、
  世界中で、事実ではない悪宣伝をしている韓国の行為・・
 この様な行為を止める様にしなければならない。
  河野談話の当時は、その様な事も言って、その様な歴
 史認識だったが、間違いだったと、世界や第三国に分か
 ってもらうように・・日本はすべきだ。
  また、日本の青少年にもしっかり事実を教える・・近
 現代史を教えなかったことも反省すべきだ。
  また、歴史問題を利用する「反日的日本人が存在する」
 ことも問題だ・・日本を貶める行為をしている人間が居
 る。
  その様なことをしているのがNHKやNHK職員・・
  そして、朝日新聞や東京大学の教授・・京大・一橋大
 の教授たちの行動・・
  大学入試問題の答えに「日本が侵略した」と書かない
 と正解にならないという問題がある・・
  予備校も、この様に教えざるを得ない状態にある。
  https://www.youtube.com/watch?v=MAdfFKqVp_I&list=PLwHocn02O9IZAcGWND9SjCqwmuk5tLBnV
  「反日教育の実態」出演者・・
  司会:上念司(経済評論家)
  西川史子(医師・タレント)
  武田邦彦(中部大学教授)
  藤井厳喜(国際問題アナリスト・評論家)
  須田慎一郎(経済ジャーナリスト)
  井上和彦(軍事ジャーナリスト)
  加藤達也(産経新聞社会部編集委員 元ソウル支局長)
  村上政俊(元衆議院議員・元外交官)
  吉木りさ(タレント)
  鈴原ゆりあ(タレント)
  大高未貴(ジャーナリスト)
  眞鍋由佳(主婦)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

# by suba28 | 2019-05-19 02:47 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)643E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年4月)

題:(増補版)643E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年3月、山川健次郎、水野敏之丞らが、X線によるレン
 トゲン撮影に成功した。
  X線発見の第一報が日本に到達したのは、1896年2月20
 日前後、長岡半太郎博士(1865年~1950年)であろうと
 いう。
  X線の利用が行われたのは、「物理学界では、ドイツ
 に留学中の長岡半太郎博士からの報を受けて・・
  一方では、東京大学理科の山川健次郎教授、鶴田賢次
 助教授、水木友次郎助手(技師)が・・
  他方では、第一高等学校・水野敏之丞教授、山口鋭之
 助教授がおのおの個々に実験にとりかかり、共に成功し、
 少し遅れて京都でも第三高等学校・村岡範為馳教授、及
 び、島津源蔵が島津源吉、島津常三郎、粕谷宗資と共に
 実験に成功している。
  「医学界では、済生学舎の外科・丸茂文良学士は、東
 京大学スクリーバ教授の勧めにより鹿島清兵衛の援助を
 得て、医学者として初めてレントゲン線発生実験に成功
 し、細菌に対する影響についても研究している。
  これについて、5月31日、済生学舎校友会行った講演と
 実験供覧の記事「レントゲン氏の所謂X光線のデモンス
 トラチオン」が済生学舎医事新報42号508頁、6月15日に
 載っている。
  翌年の1897年になると、4月には、東京帝国大学医学部
 解剖学教室にX線装置が設置され、
  9月には、島津製作所が教育用X線装置を製作して、巡
 回展示し、
  10月には、小西六社がX線発生装置を輸入して、実験
 を開始し、この装置は、翌年、兵庫県立病院に貸し出さ
 れて診療に利用されている。
  1898年になると、X線の医学利用も次第に本格化し、
 東京帝国大学医学部外科学教室に設置されたX線装置で
 スクリーバが、3月17日の東京医学会例会において人体透
 視を供覧した。
  12月には、芳賀栄次郎が、自分の留学費用でドイツで
 購入したシーメンス社製X線装置を東京軍医学校に設置し
 ている。  
  特筆すべきは、日露戦争が始まった1904年6月には、芳
 賀栄次郎が、陸軍にX線装置を携行させて、第四野戦病
 院に設置し、戦傷治療に使用した。
.
1896年4月1日、青梅鉄道、甲武鉄道会社に営業を委託(建設
 は当初から委託した)
.
1896年4月1日、広島大本営が解散した。
  日清戦争の大本営が戦後処理を終えて、詔勅によって
 解散した。
  1894年8月8日、広島城内にあった第五師団司令部の建
 物が、明治天皇陛下の広島の御滞在所とされていた。
  陛下は、1894年9月15日から1895年4月27日までの7か月
 間、この地に御滞在された。
.
1896年4月3日、イタリアのスポーツ新聞「ガゼッタ・デロ・
 スポルト」が創刊された。
  スポーツ報道以外にも、1909年から開催されている自
 転車ロードレース、ジロ・デ・イタリアを主催している。
.
1896年4月6日、第1回夏季オリンピックがアテネで開催され
 た(~1986年4月15日)
  第1回国際オリンピック大会
  近代オリンピック競技大会の第1回大会が、フランス
 のピエール・ド・クーベルタン男爵の提唱によって、ギ
 リシャのアテネで開催された。
  開会式は、アテネのパンアテナイ競技場に5万人の観
 衆を集めて行なわれ・・参加国は欧米先進国の14か国だ
 った。
  選手は、男子のみで280人で、古代オリンピックと同じ
 ように女子禁制の大会だった(参加人数241人説あり)
  実施競技は、陸上、水泳、体操、レスリング、フェン
 シング、射撃、自転車、テニスの8競技43種。
  ヨットも予定されたが悪天候のため中止になった。
  ウエイトリフティングは、体操の一種目として実施さ
 れた。
  観衆に人気の陸上競技は、アメリカが圧倒的な強さを
 発揮し、全11種目のうち9種目において優勝した。
  ギリシャの財政事情によって金メダルは無く、優勝者
 には銀メダルが、第2位には銅メダルが、第3位には賞状
 が授与された。
  記録は、100メートル陸上競技男子は12秒0で、アメリ
 カのトーマス・バークが優勝した。
  金メダル獲得数、アメリカ(11)、ギリシャ(10)、
 ドイツ(6)、フランス(5)、イギリス(2)、ハンガリ
 ー(2)、オーストリア(2)、オーストラリア(2)、デ
 ンマーク(1)、スイス(1)、混合チーム(1)
  オリンピック賛歌は、この第一回アテネオリンピック
 で演奏されたもの・・スピロ・サマラス作曲、コスティ
 ス・パラマス作詞
.
1896年4月8日、河川法が公布された(底水工事より高水工
 事への転換した)
  日本で最初の河川法である。
  この法律は、河川管理者を原則として都道府県として
 いて、必要に応じて国が工事を実施する体勢を定めた。
  当時、相次いで起こっていた水害の防止に重点をおい
 たもので、以後日本の大河川の改修は、この河川法の下
 で実施された。
  当時、森林法・砂防法と合わせ『治水三法』と呼ばれ
 た。
  この旧河川法における河川管理の特色は、河川を「河
 川法適用区間」と「河川法準用区間」に分け・・
  適用区間については、内務省(戦後は建設省)によっ
 て直轄管理を行い、
  準用区間については、各都道府県知事が管理を行うと
 いうものであった。
  制定当時は、治水にのみ重点をおいた法整備であった
 ため、利水に関する想定はされていなかった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:米中の対立が始まったが、これは、「中国の態勢が
    崩れる」まで、アメリカは行なう・・
    そして、ドイツ国民の半数以上が、難民に対して
   「否定的な感情を持っている」と、アンケートの調査結果で
    明確となった。
.
紀元前5世紀、「古代ギリシャ人が到達した世界観」を書き
 残したのが「歴史の祖」と言われるヘロドトスだった。
  ヘロドトス(紀元前484年~紀元前425年)は、彼の著
 「歴史」の第4巻に書いた・・
  世界は、「オーケアノス」によって取り囲まれ、「ア
 シエー(アジア)」「エウローペ―(ヨーロッパ)」「
 リビュエー(リビア)」の三大陸からなっている・・と
 書いた。
  この三大陸を分かつのは、「タナイス(どん)川」「
 ネイロス(ナイル)側」「地中海」だと言い・・、
  ナイル川右岸にある「エジプト」はアジアだ・・と・・
  また、アジアの東の果てにあるのは「インド」で、そ
 のインドから東の地は、すでに「無人の境」で、その状
 況を語り得る者は一人も居ない・・と・・
.
紀元前202年、中国の楚(そ)の項羽(こうう)は、劉邦
 (りゅうほう)の率いる漢軍に囲まれ、四面から流れる
 楚の歌を聞いた。
  もはや、楚軍は降伏してしまったものと勘違いをし、
 絶望した。
  名高い「四面楚歌」の故事にまつわる紀元前202年の出
 来事だった。
     ・
     ・
5世紀、イギリスの初め・・
  この頃、ゲルマン部族の一系統のアングロサクソン族
 がブリテン島に移住した。
  そのゲルマン系諸部族は、「七王国」と言われる様に、
 7つに分かれて・・数百年間にも渡って戦ってばかりい
 た。
  しかし、不思議にも、この七王国は「言語ではまとま
 っていた」。
  ここから、後に、英語となる祖型が生まれて行った。
  後の時代、統合された国が形づくられる前、英語とい
 う統合言語が生まれていた。  
  9世紀になる頃、海から、バイキングにブリテン島は
 攻撃された。
  バイキングは、北欧を拠点とした海賊で、「ノルマン
 人」あるいは「デーン人」と呼ばれる、ヨーロッパ各地
 を荒らしまわる者たちだった。
  871年、イングランドの南西部のウェセックス国で、ア
 ルフレッドという名の者が王位に就いた。
  即位の当初、この王国は、このバイキングに追い詰め
 られていた。
  アルフレッドは、その気性の様に「野生の猪」と言わ
 れ猛進し逆襲した。
  バイキング達も侵攻を再開するという状態で、アルフ
 レッドを窮地に陥れた。
  アルフレッドは、追い詰められ、忠実な家臣団だけと
 共に小島に逃れ、潜(ひそ)んだ。
  深い森で、敵も近づき難かったが、味方も動きにくか
 った。
  アルフレッドは、農家に匿(かくま)われた。
  アルフレッドの素性を知らない農婦に、アルフレッド
 は、番をする様に命じられた「ケーキを焦がし」、彼女
 にこっぴどく叱られた。
  そのうち、アルフレッドの支持者が、だんだん数を増
 し、数年後、デーン人に対して決定的勝利をおさめた。
  もはや、デーン人は、イングランドの北東部の一地方
 に留まるしかなく、アルフレッドの勢力は、ロンドンを
 含む南部を手中に収(おさ)めた。
  北方からの渡来者のノルマン人は、対岸のフランス北
 岸に行かざるを得なくなり、今日、この地をノルマンデ
 ィーと呼ぶ。
  アルフレッドは、「大王」を付けて「アルフレッド大
 王」と呼ばれる。
  アルフレッドは、法典や年代記の編纂(へんさん)に
 努力した。
  1066年、「ノルマン人の征服」はイギリス史の大事件
 となっている。
  849年に、アルフレッドは生まれ・・、
  853年の4歳の時、教皇のレオ4世に謁見。
  855年の6歳の時、父とローマを再訪し、帰途、西フラ
 ンク王国の王女ユーディスと再婚した。
  871年(22歳)兄たちが次々に死に、兄の後を継いで即
 位した。
  875年(26歳)ウェセックス勢が初めて海戦で勝利を収
 めた。
  878年(29歳)伝説的に語られる天然の要害で助けられ
 た・・この時は、デーン人に急襲されていた。
  886年(37歳)ロンドンを奪回した。
  899年10月26日、死去・・死ぬまでデーン人の侵攻に苦
 しめられた。
  デーン人は、イングランド東部に定着していて、常に
 攻撃を仕掛けていた。
  兄の死も、871年のアッシュダウンの戦いというデーン
 人との戦いのときの傷が悪化して死んでいる。
  イギリス人の「史上初の王」。
  (参考)デーン人:北ゲルマン人の一支族。
      初め、スウェーデン南西部スコーネに居住し
     ていたが・・、
      今日のデンマークの諸地方に進出 (デンマー
     クの語は「デーン人の国」の意)
      ゲルマンの民族移動後も故郷にとどまり、ス
     コーネのスキョル朝は、古英語詩『ベーオウル
     フ』にもスキョルディンガスとして知られてい
     る。
      フランク王国のカルル1世 (大帝) がザクセン
     を征服して、デーン人と直接接触し、ユトラン
     ト(ユラン) のデーン王ゴッドフレッドは積極的
     にこれに対応、シュレースウィヒ南方に長大な
     土塁を築く一方、艦隊を率いてフリースランド
     海岸を襲撃した (810年)
      830年代からは、東西フランク王国およびイン
     グランドに侵入・・、
      ハンブルク、パリ、ロンドンなどの重要都市
     を攻撃し、占領した。
      彼らは、ノルウェー系バイキングに比し組織
     的で、全ヨーロッパを恐怖に陥れた。
      イングランド全島を征服する試みは、ウェセ
     ックスのアルフレッド大王にはばまれたが・・、
      9世紀後半、中部イングランドには、デーン人
     の自治のもとに彼らの法が行われるデーンロー
     地域が形成された。
      北フランスにおいても、彼らの首領ロロは、
     西フランク国王から彼らの実力で支配した土地
     を正式に封土として受け、これがノルマンディ
     ーとなった (911年) 。
      10世紀末より、再び、デーン人は、イングラ
     ンドに繰返し侵入して、略奪し、貢納 (デーン
     ゲルト) を要求した。
      1013年、イングランド王となったデーン人の
     スウェイン1世は、翌年没したが、その子カヌー
     ト(大王) とその子孫は、イングランドにデーン
     朝を開いた (1018年~1042年)
.
1016年、デンマーク王子クヌットは、ついにイングランド
 を征服して王となり、デーン朝を開いた。
  彼はまもなくデンマーク王となり、ノルウェー王をも
 兼ね、スウェーデンの一部をも支配する北海帝国を建設
 した。
  この頃が、デーン人の活動の最盛期。
.
1658年、マルティノ・マルティニが「中国古代史」を出版
 した・・すると、ヨーロッパのキリスト教社会に大きな
 論争が巻き起こった。
  この本は、「ヨーロッパで初めて出版された、最も信
 頼に足る中国史」と評された。
  今・現代は、キリスト教の聖書に記述される「アダム
 とイブの創造」や、「ノアの大洪水」など・・キリスト
 教徒でさえ、それは作りあげられた仮想の歴史だと知っ
 ているが・・
  17世紀の頃、キリスト教のイエズス会キリスト教宣教
 師たちが、東洋にやって来て・・、
  中国に入り、中国の歴史の事実を知ると・・大問題が
 持ち上がった。
  ヨーロッパへ・・中国に関する様々な情報をヨーロッ
 パへもたらすと・・その歴史に、驚異的事実が書かれて
 いる事にキリスト教徒たちは驚いた。
  ヨーロッパでは・・矛盾の多いキリスト教の出来事に
 種々の歴史的主張が行われ、歴史が経過して来ていたが・・、
  それでも、なんだかんだと辻褄(つじつま)を合わせ
 ようとする年月が過ぎていたが・・
  17世紀に至って・・中国の歴史を知ると、キリスト教
 の歴史や、年代史との矛盾が生じた。
  それも、中国の歴史を知れば知るほど、中国の歴史の
 方が正しいと分かって来た。
  今まで、キリスト教の歴史研究者たちには、まともな
 中国史は登場していなかった。
  メランヒトンの普遍史(キリスト教の聖書が叙述する
 内容に基づくキリスト教的史観から構成された世界史)
 にも、中国史は登場していなかった。
  (参考)メランヒトン:ドイツの神学者、宗教改革者、
     大学のギリシア語教授、ルターに次ぐ指導者、
     1497年~1560年、
  マルティノ・マルティ二(1614年~1661年)の「中国
 古代史」が、問題発生のきっかけだった。
  マルティ二も、自(みずか)らも、中国で宣教活動を
 しながら、中国の史書などを読み、本書を記した。
  彼は、三皇五帝から夏・殷、そして、周、さらに、彼
 のいる清朝の今まで続く諸王朝は、疑いの無い事実とし
 て分かって来ていて・・「事実だ」と認めるに至った。
  となると、キリスト教の話の歴史の根拠が崩れること
 になる。
  (参考)夏:殷(いん)以前にあった中国最古の王朝。
      始祖は禹(う)。
      紀元前15世紀ごろの桀(けつ)王が暴政を行っ
     たため、殷の湯(とう)王に滅ぼされた。
  (参考)殷:いん、中国史上、実在の明らかな最古の
     王朝。
      紀元前17世紀末、もしくは、紀元前16世紀初
     め~紀元前11世紀、今の河南省を中心に黄河下
     流域に威を振るった。
      開祖は湯王。
      自らは首都の名である〈商〉を国号として用
     い、しばしば都を移した。
      最後の都(王朝の後半期)が殷墟である。
      紀元前1050年ごろ、紂(ちゅう)王の時、周の
     武王に滅ぼされた。
  中国の三皇五帝の最初の帝王の伏羲(ふくぎ)は、イ
 エスよりはるか以前の年代に統治を始めたことになる。
  また、ヘブライ語聖書の「ノアの大洪水」より600年以
 上も古くなる。
  ノアの大洪水で人類は絶滅して、ノア等の人類が再出
 発したという話もおかしくなる。
  ヨーロッパは、「矛盾という話」どころか、中国の歴
 史書類が「間違っていると論証できない」なら・・、
  「キリスト教聖書の記述や年代の方が、間違っている
 ことになる」と気付いた。
  当然、マルティにも気付いていた。
  しかし、マルティニは、中国の歴史書の記述を否定す
 ることが出来なくなっていた。
  また、マルティニだけではなく、ヨーロッパの歴史学
 者たちも、「アダムとイブの創造」や「ノアの大洪水」
 などのキリスト教聖書の記述を歴史的事実として信じて
 いたが・・高度な水準を有している中国の歴史書を、そ
 の記述を・・否定することが「出来なかった」。
  否定的根拠を提示することが・・出来なかった。
  中国の文明は、それなりに重大な事実の歴史の積み重
 ねの「事実の上」にあった。
  これは、キリスト教の「根も葉もない話」を、明確に
 指摘する数多くのエピソードの一つである。
  キリスト教カトリックも、また、キリスト教プロテス
 タントも、このキリスト教の根拠を崩される大問題に、
 対立しあいながらも、キリスト教の根拠を守ろうとして
 努力をした・・が・・
  その両派の一致した見解をまとめる事もできず、また、
 その根拠も見い出す事も出来なかった。
  世は大航海時代。
  18世紀にかけて、色々な研究が行なわれるが、次々と
 新しい説が唱えられるが、相互の批判や論争が叫ばれる
 だけで、さらに混乱は増した。
  「キリスト教の存立の根拠の危機」が深まるばかりだ
 った。
  それに、大航海時代・・新たな諸民族の歴史などの新
 事実は、キリスト教の考える枠内に入れられるものでは
 なかった。
  悲しいかな科学的根拠を欠いたキリスト教が、「その
 根拠を崩される時代」だった。
  思えばキリスト教の天動説を崩されたガリレオの地動
 説の科学の進歩から、このキリスト教の悲劇は始まって
 いた。
  所詮(しょせん)、最初からその様な宗教だった。
  キリスト教の学者たちが、どのように論争を重ねたか
 の歴史を書いてみたって時間の無駄になるだけなので省
 く。
  人間観も、「神の似姿観」におさまることへの不合理
 さを「つくづく感じる時代」となって行く・・
  この転換を理解が出来ずに、取り残される人は居るが・・
  天地創造第六日に神の姿をかたどって創造され、支配
 者として「特別な地位を与えられた」・・その様な傲慢
 な考え方から、色々な問題発生の根源ともなって来た・・
  森林伐採などに始まる地球の環境破壊の「やり放題の
 人間さま」が生まれた・・など・・
  「地を従えよ」のキリスト教教義は、温暖化で悩む今・
 現代の「自然破壊の原因の考え方」のキリスト教教義だ・・
  謙虚に自然を見る目も育たない。
  人間のバランスある理性も損なわれる・・
  自然の中の一員、小さな分かち合いしかない人間を気
 付かせない・・
  傲慢にふるまう権利など、人間は、誰からももらって
 いない・・
.
1872年6月12日、日本で、「初めての鉄道」が創業した。
  新橋~横浜の鉄道開始と言われる、品川駅~横浜駅(
 現:桜木町駅)間で仮開業がなされ、1日2往復の列車運
 行が行われた。
  翌日の1872年6月13日には、6往復となった。
  経営は国営で、路線は旧東海道に沿って敷かれ、単線
 だった。
  途中に、品川、川崎、鶴見、神奈川の4つの駅(停車場・
 ていしゃば)が置かれた。
  鶴見以外は江戸時代の宿場で・・、
  鶴見は、武蔵国橘樹(たちばな)郡の東海道沿いにあ
 った村落で、宿場ではなかった。
  ただ、付近を流れる鶴見川は水運に利用されていた。
  線路は、1881年の9年後に複線となった。
  そして、やがて、終点の横浜から関西の神戸まで延伸
 され、東海道本線となり、日本を支える大動脈となった。
.
1873年1月10日、徴兵令が布告された。
  明治維新・・新政府は、この様な布告が出来る所まで
 力を付けた。
  明治維新の1867年、新政府が出来て・・新政府は、当
 然、中央の政府が統治する形の確実な確立を、当然なが
 ら目指した。
  しかし、各地に独自の軍事力を有する諸藩(旧大名)
 が存在した。
  新政府は、独自の直轄の軍事力を整備すると共に、反
 体制を解体したいとした。
  しかし、諸藩の抵抗と財政難によって簡単には実現し
 そうになかった。
  1871年2月、新政府は、西郷隆盛の協力を得て、薩摩藩・
 長州藩・土佐藩の兵力から政府直轄の軍隊である御親兵
 (後の近衛兵)を編成した。
  そして、その力を背景に、1871年7月、廃藩置県を断行
 した。
  さらに、地方の秩序を維持するため、全国の要所に鎮
 台・分営を配置した。
  そして、ここに、旧藩の兵力を集めて行った。
  そして、1873年1月10日、徴兵令が布告されるに至った。
.
1913年12月23日、アメリカで、民間の中央銀行が出来ると
 いうハレンチな重大法案の「連邦準備法」が成立した。
  クリスマス休暇で、議員が選挙区に帰り、不在中、ほ
 とんど審議されないという状態で可決した。
  「世界を手玉にとる」。
  その為に、際限なく人を大量に殺す力を得ようとする。
  一方、金融で、世界を牛耳ろうとする者たちも居る。
  自分だけに都合よく世界が回るようにと、その様なこ
 とをする。
  中国が、何年間も10%台の伸びの軍拡を続けて、その
 伸び率は20%にも届こうかという異常さもある。
  そして、軍事力でアメリカを抜こうという状況である。
  この国の怖さは、「一握りの者たちによる独裁」とい
 う政治体制である。
  会議と言ったって、『ナチスのハイルヒトラー』を彷
 彿とさせる「反対の出来ない・・全員が賛成を唱和する
 議決をする状況」。
  厳しい討論の場面などない。
  一党独裁で、野党が居ない状態。
  また、民の選挙による「民の選択」も排除されている。
  また、金融でも、世界を牛耳ろうとする者たちが、世
 界中の金持ちが、『ある国の金融状況を操作する』。
  目的は、「座して、金が自然に転がり込んで来る」で
 ある。
  リンカーンの暗殺による死後、法定通貨を駆逐し、そ
 して、二度におよぶ恐慌を起こさせて、世界的な金融資
 本家たちは支配力を強めて行った。
  その目的は、金が儲かるアメリカの「通貨発行権」を
 握る事だった。
  この試みは3回目だった。
  その為の秘密会議が、アメリカのジョージア州の小島・
 ジキル島で開かれた。
  詳しくは、ユースタス・マリンズ著「民間が所有する
 中央銀行」にあるが・・
  アメリカは、この主権を失った。
  この会議のメンバーは・・、
  ①ネルソン・オルドリッチ、上院議員(娘婿はジョン・
   D・ロックフェラー・ジュニア)
  ②フランク・バンダーリップ、銀行頭取(ロックフェ
   ラーの銀行)
  ③ヘンリー・ダビットソン(モルガン商会経営者)
  ④チャールズ・ノートン、銀行頭取(モルガンの管理
   下)
  ⑤ベンジャミン・ストロング、副頭取(モルガンの管
   理下)
  ⑥ポール・ウォーターバーグ、商会の経営者(ドイツ
   系ユダヤ人)
  ⑦ピアット・アンドリュー、財務省次官補・・
  以上の様にアメリカの二大財閥(J・P・モルガンと
 ロックフェッラー)関係ばかり。
  そして、その影の背後に居て影響力を行使したのが・・
 イギリスのロスチャイルド家・・
  ロスチャイルド、モルガン、ロックフェラーによって
 アメリカの中央銀行の民間銀行の形による設立が画策さ
 れた。
  そして、出来たのがフェデラル・リザーブ・システム
 (FRS=連邦準備制度)
  これは、真の目的が見えにくくしたためだった。
  参加者は、中央銀行を想像させる名前を回避すること
 で一致した。
  目的は、アメリカ議会から通貨の米ドルの発行権限を
 奪う事だった。
  この法案は、1913年12月23日、クリスマス休暇で議員
 が選挙区に帰り、不在中、ほとんど審議がなされない中
 で可決した。
  連邦準備法は、その様な状況で成立した。
  この様な「どさくさ」で民間の中央銀行が出来る事と
 なった。
  日本でも、最近(2019年)、この様な似た状態で、ほ
 とんど審議もしないで『移民法』が可決した。
.
1936年12月12日、西安(せいあん)事件が起きる。
  西安は古都の長安である。
  蒋介石が変身した。
  この変身から日中戦争、そして、第二次世界大戦に至
 る経緯が始まった。
  アメリカが、この蒋介石に陰で関わっているが、戦後
 になって、新事実が公開されて、コミンテルンの謀略も
 あったことが明らかになった。
  1936年に起きた「西安事件」は、怪しげな動きを始め
 た中国が原因で起きた事件だった。
  蒋介石が騙(だま)され、誘拐され、そして、監禁さ
 れてしまった。
  やったのは張学良だった。
  (参考)張学良:ちょうがくりょう、中国、東北の軍
     閥。
      1928年、中国町北部の実権を掌握し、蒋介石
     の国民政府と提携した。
      1928年12月29日、中国東北全土で青天白日旗
     (中華民国国民党の党旗)を掲揚した。
      1931年の満州事変以後、国府の対日方針に従
     って無抵抗主義を取り、東北を日本軍にゆだね
     た。
      共産党軍の長征に際して西北剿匪副司令に任
     命されたが、秘かに共産党軍と停戦を結び・・
      (剿匪(ぴんいん)の意味は、匪賊を討伐す
     る、共産党を討伐する)
      1936年12月、共産党軍の討伐を督励するため
     に西安に到着した蒋介石を捕らえるという西安
     事件を起こした。
  そして、蒋介石は、共産党勢力と共闘するように求め
 られた。
  共産党を倒したいと戦っていた蒋介石だが・・しかし、
 ここで、蒋介石は、共産党勢力と共闘するという180度の
 転換をした。
  ソ連との密約があったという。
  共産党を取り締まる役(剿匪)に付いた張学良が、蒋
 介石を捕らえるのも怪しかった・・
  そして、盧溝橋事件が起きる。
  1937年7月7日夜、盧溝橋で、突然、日本の駐屯軍へ中
 国軍が発砲した。
  この日本の駐屯は、中国政府と北京議定書の協定で駐
 屯を行なっている事で、他の国も同様に駐屯していた。
  しかし、この様な状況の中で、中国は、日本に発砲し
 た。
  戦後、情報が公開されて、中国兵の発砲で、蒋介石の
 国民党軍と日本が戦うように仕組んだコミンテルンの策
 謀だとはっきりした・・
  コミンテルンは罠に嵌(は)めようとしていた。
  この翌日の1937年7月8日には、事態を重視した日本は
 森田中佐を派遣し、宛平県長・王冷斉、及び、冀察外交
 委員会専員・林耕雨等も中佐に同行した。
  そして、これに先立って豊台部隊長が、直ちに蘆溝橋
 の中国兵に対しその不法を難詰した。
  また、同所の中国兵の撤退を要求した。
  しかし、それらの交渉中の8日午前4時過ぎ、龍王廟付
 近、及び、永定河西側の長辛店付近の高地から日本軍に
 対して、迫撃砲、及び、小銃射撃によって攻撃がなされ
 た。
  日本軍も止むを得ず自衛の応戦をし、龍王廟を占拠し、
 蘆溝橋の中国軍に対して武装解除を要求した。
  午前9時半、中国側の停戦要求によって両軍は停戦状態
 に入った。
  日本側は中国の行動を監視した。
  この後、戒厳令が施行され、比較的平穏に経過した。
  中国側は、1937年7月9日の午前5時を期して部隊を撤退
 することを約束した・・
  しかし、午前6時になっても盧溝橋付近の中国軍は、撤
 退しないばかりか、逆に、兵力は増加して行った。
  そして、日本軍に対して度々銃撃を行なった・・
  日本軍は止むを得ずこれに応戦し、中国軍の銃撃を止
 めさせた。
  日本軍は中国軍に協定不履行に対して厳重抗議を行な
 った。
  中国側は、9日午前7時、旅長及び参謀を盧溝橋に派遣
 して、中国軍の撤退を督促させた・・
  中国軍は、午後0時10分、ほぼ撤退を完了した・・
  しかし、一方で、川の西岸に兵力を増加し、弾薬など
 の軍備品を補充するなど、戦備を整える状況であった。
  この様な中国側のはっきりしない状況が続き、10日も
 日本軍監視部隊に射撃を加えるなどをした。
  そして、ついに、中国軍が協定を無視した。
  中国軍は龍王廟を占拠した・・
  そして、引き続き盧溝橋の日本軍を攻撃した。
  ここで戦闘が開始された・・日本軍は午後9時頃、龍王
 廟をとり返した・・
  11日早朝、龍王廟を日本軍は退去した。
  しかし、中国軍は、兵力を増加させて行った。
  この様な状況の中、日本軍駐屯軍参謀長は、北平に於
 いて、中国側首脳部と折衝に努めた。
  中国側の態度は強硬であった・・
  打開の道が無く、交渉も決裂するのもやむを得ない状
 況に陥った。
  しかし、日本側の強固な決意を見て、中国側は急遽、
 態度を変えて、午後8時、松井特務機関長に対し、日本側
 の提案を受け入れた。
  そして、二十九軍代表・張自忠、張允栄の名を以って
 署名の上、日本側と手交した。
  1937年7月11日、停戦は成立した。
  協定内容は、中国側は、協定違反などの責任者を処分
 する・・
  また、将来、再び、この様な事件の惹起をすることが
 無きよう防止につとめること・・
  また、蘆溝橋、及び、龍王廟から兵力を撤去し、保安
 隊を以って治安維持に充てること・・
  及び、抗日の各種団体の取締を行う・・など
  しかし・・この後、この年の1937年12月になって・・、
 上海の日本人の生活している居留民地区(他の国々の人
 たちも居る地区)の日本人地区に、大部隊の中国の国民
 党軍が攻めて来る。
  日本兵は3000人くらいであったが、アメリカなどが支
 援するその数が10倍以上の大部隊で攻撃して来た。
  日本は、戦わざるを得ない状況に置かれて行った。
  この時、日本の兵力はわずかだった・・日本からの支
 援部隊を送らざるを得なくなった。
  支那事変(日中戦争)が起こされて行った。
.
2019年4月1日、アメリカは、中国の態勢が崩れるところま
 でやる!・・今・現在のトランプ政権の姿勢・・
  『ニュース女子』 #207(平成を振り返る~経済・社会・
 政治・国際情勢~) ・・以下は、その聞き取り記述・・
  https://www.youtube.com/watch?v=_YA9HIqvWCo
・平成元年(1989年)12月、日経平均株価、最高値3万8,957
 円を記録した。
  第26代、日銀総裁の三重野康氏が、バブル経済の抑制
 を目的とした「金融引き締め策」を実施した。
  これはかえって景気が悪くした。
  平成2年(1990年)バブルは崩壊した。
  その結果、「失われた20年」がやって来る・・不況が
 続く時代へと突入した。
  平成9年(1997年)四大証券の一角の山一證券が経営破
 綻し、つぶれた。
  「山一證券」の最後の社長の野澤正平氏が、「私ら(
 経営陣)が悪いのであって、社員は悪くありませんから!」
 と、涙で記者会見をした。
  号泣状態の会見がメディアで大々的に報じられた。
  平成9年(1997年)タイのバーツが暴落し、アジアが通
 貨危機に陥(おちい)った。
  日本の金融業界はいずれも業績が悪化し、銀行は生き
 残りをかけて合併に次ぐ合併の再編が行われた。
  平成13年、さくら銀行+住友銀行=三井住友銀行
  平成14年、第一勧業銀行+富士銀行+日本興業銀行=
 みずほ銀行
  平成18年、東京三菱銀行+UFJ銀行=三菱東京UF
 J銀行
  急速に拡大したのがITベンチャー企業・・ライブド
 ア、楽天、ヤフー、サイバーエージェント
  六本木ヒルズに拠点を持った。
  セレブな生活を送る・・「ヒルズ族」と言われた・・
  ライブドア元社長の堀江貴文氏は・・
  平成16年(2004年)プロ野球球団買収、平成17年(2005
 年)ニッポン放送買収を仕掛けて世間を騒がせたが、ど
 れもうまく行かなかった。
  平成18年(2006年)堀江社長は逮捕された・・証券取
 引法違反容疑だった・・ライブドアの株価は暴落(ライ
 ブドア・ショック)ITバブルの陰り・・ライブドア株
 価がたったの94円となる。
  平成20年(2008年)平成最大の金融危機・・リーマン・
 ショック・・アメリカの罪・・アメリカのサブプラムロ
 ーン問題が発端・・国際的な金融危機・・世界中、また、
 日本にも大打撃を与え、株価が大暴落した・・
  そして、歴史的な円高となる・・企業業績はみるみる
 悪化し・・その後遺症は残ったままとなる・・何時、良
 くなるのかの見通しが立たない状態・・
・平成は災害の時代・・未曾有の大災害が日本に襲来した・・
  平成7年(1995年)1月7日、阪神・淡路大震災(マグニ
 チュード7.3)兵庫県南部・・国内観測史上初の最大震度
 7を記録した・・商業ビルや高速道路が倒壊した・・死者
 6,434人(関連死を含む)、住宅被害は約64万棟(消防庁
 確定)・・
  平成23年(2011年)3月11日、東日本大震災(マグニチ
 ュード9.0)東北地方・・マグニチュード9.0は国内観測
 史上最大・・死者1万5,897人(警察庁発表、2019年3月1
 日時点)、行方不明者2,533人・・福島第一原発、水素爆
 発・メルトダウンなど重大事故が発生した・・
  平成7年(1995年)地下鉄サリン事件・・オウム真理教
 が起こす・・世界で初めて化学兵器が一般人に使用され
 た無差別テロだった・・死者13人、負傷者6,300人以上・・
 平成30年(2018年)死刑囚13人の死刑が執行された(オ
 ウム真理教元代表・松本智津夫元死刑囚ら)・・
・事故・・
  平成17年(2005年)JR福知山線脱線事故・・JR福
 知山線の塚口駅~尼崎駅間で発生・・死者107人(運転士
 1人含む)、負傷者562人・・史上最悪事故・・
・凶悪事件・・
  平成9年、神戸連続児童殺傷事件、さかきばらせいとと
 名のった。
  平成10年、和歌山毒物カレー事件
  平成12年、世田谷一家殺害事件
  平成13年、附属池田小事件
  平成20年、秋葉原無差別殺傷事件
  平成28年、相模原障碍者施設殺傷事件・・最大の殺傷
 事件
・雲仙普賢岳(長崎県)の噴火・・平成2年(1990年)11月、
 198年ぶりに噴火。
  翌年、再噴火後、最大の火砕流が発生し、43人の使者・
 行方不明者を出した。被害者の多くが報道陣や消防団関
 係者だった。
・平成の経済史・・
  リーマン・ショック、
  ライブドア事件、
  銀行破綻、
  消費税導入、
  バブル崩壊・・日銀と大蔵省が導いた。
  1991年1月、皆がこのバブルは終わらないと考えていた
 が、不動産価格が下落し、株価が下落し、生活も一変し
 た。
  これが、今だに尾を引いている。
  失われた20年、30年と言われる・・
  今に残るこの出来事の要因は2つ・・日銀の金融引き
 締め(利上げ)と、大蔵省の総量規制、産業規制(不動
 産、建設、ノンバンクへ融資をするなとした)・・ピー
 クを過ぎた頃にやって、かつ、やり過ぎた・・大崩壊へ・・
  株価は違法な取引で高くなっていたのは事実、土地も
 そう・・それで、税法が修正された。
  また、インフレになってないのに、やってはいけない
 この様な時に、引き締めを日本銀行がやってしまった・・
 不動産規制はやっても良いが、金融引き締めは、日銀の
 大間違い。
  この大間違いを国内で言わないのが不思議・・
  世界では、国際社会では、皆が言っているのに??・・
  逆に、日本国内では、三重野日銀総裁はバブル退治に
 邁進して「平成の鬼平」とマスコミは「称賛するという
 始末」・・ていたらく・・
  平成元年から金融引き締め政策を実施した犯人・張本
 人は日銀・・日銀は馬鹿なことをしたのだった。
  物価が上がってない時にやったら駄目なのだ、絶対に
 駄目なのだ・・
  それでも、日銀は、「正しい正しい」と言っている・・
  この引き締めをズーット続けた日銀の罪も重い・・
  失われた30年は日銀が作った・・そして、大手銀行も
 破綻して潰れる状況・・日本長期信用銀行も潰れた(1952
 年、設備資金等長期資金の安定供給を目的として設立さ
 れた銀行)・・
  皆が、都市銀行が潰れるなどと想定してないことが起
 きてしまった・・
  預金を集めるのが業務だったのが、借り手を探す世の
 中になった・・バブルで企業に金が余っているので借り
 手が居ない・・だから、無理に金を貸してビルを建て替
 えさせた。
  「税金対策に良いですよ」と言って無理に借金を作ら
 せた・・しかし、バブルが崩壊して、不動産価格が暴落
 して、その借りた方たちは借金だけが残り、借金の山を
 築いた・・
  破綻した個人が多く出るという悲劇が生まれた・・千
 代田区、港区に、特に、多く出た・・銀行の口車に乗っ
 た人たちの悲劇が起きた・・
  北海道拓殖銀行も潰れた。
  官僚に「潰しに行け」という指示が出る時代だった・・
  平成9年、北海道拓殖銀行が経営破綻。
  平成10年、日本長期信用銀行が経営破綻。
  バブルの時は、大蔵省担当の者が居て、大っぴらに接
 待攻勢をかけていた・・ノーパンしゃぶしゃぶが大流行
 した。
  この様な大問題を生じさせた日本銀行は、その責任を
 とったのか??
  今だに、全然、その責任をとっていない。
  政策をミスするのは人間だからあるのだろうが、その
 責任をとらない日銀は大問題だ。
  1989年(平成元年)国際経済や政治ががらっと変わっ
 た年だった。
  冷戦も終わり、日本の戦後の居心地の良い温室が壊れ
 た。
  安全保障はアメリカ任せだったし・・軽武装で、経済
 成長と、経済だけを謳歌しているだけで良いとしていた。
  その甘い時代は終わった。
  大衆文化の代表の美空ひばりも死んだ。
  戦後の終わりを感じさせた。
  そして、日本に大変な時代がやって来た。
・平成の社会史・・東日本大震災や原発事故から思うこと
 は・・
  「大きな技術は、皆、嘘だった」ということが露見し
 た・・「地震の予知がまったくできない」ということが
 分かっているのに、東海地震に金をかけてやった。
  東海は山ほどやったのに・・阪神・淡路の大震災が起
 き、東北大震災が起きた。
  完全な技術のミスだ。
  津波の予知のブイは、ほとんど東海地方にしか置いて
 なかった。
  東北地方も予知されていたがブイは置かなかった。
  そのブイで、津波の大きさが分かっていれば、消防団
 の方々が海岸で退避勧告をする危険性も予知できたし、
 その他の方々へその大きな津波の規模の危険性を伝える
 ことが出来た・・のに・・
  その犠牲者は15,000人の方々だ。
  予知ができないのに、今でも発生確率を発表している。
  『科学で地震の予知はできない』。
  「無いよりまし」な程度と思うか? まったく無駄と
 思うか?・・の話。
  この30年に起きた地震は、発生確率が5万分の1などと
 非常に小さく低い地域に発生している。
  予知を出すから問題が起きるのだ。
  下手に予知をするから、「見落とされたところの被害
 が大きくなる」のだ。
  しかし、その場所で、どのくらいの大きさの地震が起
 きるのか?は分かる。
  エネルギーの蓄積度が分かっているからだ・・
  だから、自治体から出ているハザードマップは非常に
 正確だ。
  それを見て、家の対策をすれば安全が確保できる。
  この様な事の周知徹底がなされていないという現状が
 ある・・それで知って、対策を事前に立てよ!・・
・原発事故について・・
  二つの大きな嘘がつかれた・・
  チェルノブイリは爆発するけど、軽水炉の原発は爆発
 しない・・
  それは、事故制御性と多重防御の二つの柱で事故が発
 生しないようにしている・・しかし、これは嘘だった・・
  専門家会議でも嘘が通っていた・・これは、今でも嘘
 をついた状態となっている・・
  この様な専門家の嘘が存在することが問題・・
  嘘をつかない専門家となることが大切なことで基本だ・・
  間違ったなら正直に言うのが大切・・次のステップア
 ップに役に立つ展開に持って行くのが大切・・これがな
 されていない・・
  この点、東北新幹線は、東日本大震災の時に、28両が
 走っていたが事故を起こさなかった・・
  これは、それ以前の新潟の教訓が生きていて、耐震策
 を行なったからだった・・
  300キロ/時で走っていたのが27両も居たが、事故にな
 らずに対策が生きた・・技術は正直に積み重ねるのが大
 切な基本・・(面子で嘘をついて糊塗するな!)・・
  今、運転している原発の安全性は大丈夫か?・・
  (技術上の)本当のことを言ったら、総ての原発関係
 の仕事から外された・・
  「官僚に周りを固められて動きが取れない」という答
 えが返って来た・・
  その様に言う本人にも覚悟がない・・責任者が国民の
 命よりも自己保身に走った・・勲章が貰いたいという意
 識が垣間見られる・・だから、真実を絶対に言わない・・
 (「それでも地球は回っている」とキリスト教裁判所で
 言ったガリレオの如く・・技術は、誠実に実施し、行動
 してこそ生きるのだ)・・
・オウム真理教の事件について・・
  日本の憲法の現状から、「日本は無防備状態」で来て
 いる・・
  オウムの事件は、テロ事件であるが、本当は、国防事
 件である・・
  本当は、軍隊レベルで対処しなければならない・・
  長野県のサリンの事件も、地方の警察が対処するには
 荷が重すぎる・・
  日本で使われた初めてのサリン事件で、警察で対処で
 きるものではない・・
  日本の軍がしっかりしていれば、軍が出て行ってしっ
 かり調べ、対処しなければいけなかった問題だった・・
  しかし、曖昧にしてしまった・・
  日本はこの様な体制が出来ていないという『大問題』
 がある・・
  国軍の必要性はこの様な点からもある(必要な憲法の
 改正)・・
  これから、「国民の生命と財産」の安全のために、逃
 げて通れるものではない・・
  オウムは、ロシアともやろうとしていた・・ロシアか
 らヘリコプターを買い、オーストラリアのウランを手に
 入れようとし、核爆弾の開発もしようとしていた・・
  日本の公安調査庁も不十分だ・・機能不全に陥ってい
 る・・
  破壊活動防止法:暴力主義的破壊活動を行う団体に対
 する規制措置を定めるなど、公共の安全を確保する事を
 目的とする法律・・
  この法律がありながら、必要な行動ができなかった公
 安調査庁だった・・
  国際的な感覚から「ずれている日本」・・世界はこの
 問題が最大の問題と捉えているのに、のほほんとしてい
 る日本の当事者や日本の公的担当機関・・
  また、国会でこの法律の議論が『タブー』とされてい
 る・・
  前向きな改善に進まない「最大の病根」となっている・・
  議論もできなければ、『言ってはいけないのだ』と言
 われる日本の国会となっている・・
  まともな行動がとれない元凶が「ここにある」・・
  諜報機関も日本にはない・・
  ちゃんとした情報を持ち得ない現況の日本は、「お手
 上げ状況にある」・・
  逆に、国会議員たちは束(たば)になって「発言者の
 口を封じをしようとする」という「異常さ」・・
  これから移民が日本に押し寄せて来るが、そして、色々
 な人が入って来るという日本であるが・・「その対応が、
 まったくできてない」という状況を「さらけ出している」・・
  相手に「好き勝手が出来ますよ」と言っているような
 もの・・
  スパイ防止法や特定秘密保護法を作ったが、この法律
 もまったく「骨抜きになっている」・・
  諜報活動がやり放題の日本・・国家としての日本が、
 その国家としての対応が出来ないという状態にある・・
  オウムの事例が生きていない・・反省をしているのか?・・
・政治・国際情勢編・・
 日本国内・・
  平成5年(1993年)自民党、55年体制に終止符・・細川
 連立内閣が誕生した・・細川護煕総理大臣が誕生・・
  平成13年(2001年)小泉純一郎総理大臣、小泉内閣発
 足・・郵政民営化、聖域なき構造改革、
  平成14年(2002年)拉致問題解決のため、北朝鮮へ電
 撃訪問・・
  平成17年(2005年)社会保険庁、年金記録問題、ミス
 ター年金の活躍、悪夢の序章、
  平成21年(2009年)民主党が政権奪取、鳩山由紀夫総
 理大臣、鳩山内閣が誕生、円高に誘導して企業の競争力
 がなくなり経済は大混乱に陥った、次の菅政権も酷かっ
 た、
  平成23年(2011年)3月11日、東日本大震災、菅政権の
 福島原発事故での酷い対応、菅内閣が大失態をする、失
 態続きだった、
  平成24年(2012年)第2次安倍内閣が誕生、アベノミク
 ス政策で経済が安定、
・国際情勢・・
  平成元年(1989年)ベルリンの壁が崩壊した、
  平成3年(1991年)ソビエト連邦が崩壊した、米ソ「冷
 戦」が終結した、
  平成5年(1993年)EU(欧州連合)が発足、通貨の統
 合、
  平成13年(2001年)9月11日、米国同時多発テロ事件、
  平成15年(2003年)イラク戦争の勃発、同時多発テロ
 事件の報復としてやった・・その後、国際テロ組織が乱
 立する、
  平成22年(2010年)尖閣諸島で中国漁船衝突事件
  平成24年(2012年)李明博韓国大統領が竹島へ上陸
・民主党政権は円高を放置して酷かった、企業の業績悪化
 で就職難になった、公約は何一つ守らなかった、消費税
 を上げた、政権交代で出来た民主党によって国民は悪夢
 を見た、
・郵政民営化・・平成17年成立、平成19年実施、
  小泉総理による行政改革の本丸で、郵政選挙に勝利し
 法案を成立させた。
  郵政三事業(郵便、簡易保険、郵便貯金)などを国か
 ら民間会社に移行した、
  民営化の1000頁の法案ができた・・「郵政民営化」以
 外は民営化ではない、水道の民営化も民営化ではない、
 地下鉄の民営化も民営化ではない、道路の民営化も民営
 化ではない、これ等のすべては「会社化」というもの・・
  株式も民間で、働く人も民間なら民営化で、これは郵
 政以外は無い・・
  株式は、国が持つものがほとんど、だから、民営化で
 はない・・東京の地下鉄も株式は国が持っている・・外
 資に郵政が盗られると言われたので、法律で盗られない
 様にした・・
  世襲制の郵便局員が「郵政民営化」に反対した・・郵
 便制度ができる時に協力し、資産を貸し、また、郵便業
 務に協力した人たちが世襲制となっている・・
  郵便事業は採算が合わない事業、だから、民営化は無
 理・・田舎の「人がほとんど居ない方たちへまで」郵便
 を届けなければならないという責任がある事業・・3割の
 年賀状で儲かるだけ、あとわずかなビジネス便だけ・・
 「郵政民営化」への執念が強かった小泉総理・・
・選挙制度・・実現しない二大政党制・・
  「選挙制度改革」は大失敗・・
  中選挙区制度から小選挙区制へ変わったのは改悪だっ
 た・・小選挙区比例代表並立制は駄目だ・・
  選挙制度改革:平成6年に公職選挙法が改正されて、衆
 議院の選挙制度が、中選挙区制から小選挙区比例代表並
 立制に変更された・・
  小選挙区制は、「執行部が絶対的な権力を持つ」制度・・
 公認の権利を持つ執行部・・
  小選挙区比例代表並立制は、有権者が1人2票を持ち、
 小選挙区と比例代表の2つの選挙を並行して行う。
  定数が465人で、小選挙区289人・比例代表176人・・
  1選挙区で1人が選ばれる一騎打ち方式なので、公認を
 受けないと絶対勝てないという選挙の状態になる・・そ
 のため、選挙に勝つには公認を貰うのが必須となる・・
  「その公認権を持つ執行部」に権力が生まれた・・
  執行部の言う事を聞かざるを得なくなる候補者となる・・
 議論などできない、自分の意見なんて言えなくなる・・
  自民党に派閥があるが、派閥のトップの力が落ちた・・
  派閥のトップで、総裁になろうとする人さえいない状
 態・・
  「議論が基本の政治」を駄目にした「選挙制度改革」・・
 自民党の活力も無くなった・・定数3の中選挙区制へ戻す
 べきだ・・
  二大政党制で、政権交代が出来る様にとして小選挙区
 制にしたが、その思惑は空振りだ・・
  国民の選択次第で代わるだけ・・
  金権腐敗政治の根絶を掲げた「選挙制度改革」でもあ
 った・・政党助成金を税金から出す様にした・・
  だからと言って、政党への企業献金を禁止してないと
 いうのが現状・・
・国際情勢について・・
  「1991年のソ連の崩壊」と「中国の興隆」・・
  1989年11月、ベルリンの壁崩壊だが・・、
  緊密な関係がある「ソ連の崩壊」と「中国の興隆」・・
  平成元年12月、マルタ会談:地中海のマルタで行われ
 た米国とソ連の両国の首脳会談。
  この会談をもって、44年間続いた東西冷戦は終結した・・
 ブッシュ大統領(父)とゴルバチョフが船上で会談した・・
  1990年8月、イラクのクエート侵攻・・
  1991年1月、湾岸戦争、中東への介入が泥沼化して行く・・
 この様な事が、30年間続いて・・
  2018年に、トランプ政権が、シリアからも、そして、
 アフガニスタンからも引くとした・・アメリカの30年の
 武器介入は終わった・・
  この30年間で、「漁夫の利で一番力を付けたのが中国」・・
 米中の対決時代となってしまった・・
  日本は、その中国の脅威にさらされるという状態とな
 った・・
  日本の経済力も、その30年間に下る一方で、中国に凌
 駕された・・
  ベルリンの壁崩壊が、世界に与えた影響は、良かった・・
  ソ連よりも全体主義の強い東ドイツが、平和裏に崩れ
 たのが良い・・史上まれに見る平和的な解決だった・・
  これは、世界の考え方も変えた・・
  資本主義と社会主義の対立軸の見方が崩れて変わった・・
  社会主義は明確に敗北した・・そして、ソ連の抑えが
 無くなった中東で暴れる者が出て来た・・
  ソ連崩壊で社会主義が駄目となり、市場主義万能とな
 った・・
  そして、ボーダーレス化し、自由化し、何でもよいと
 なった・・
  「ソ連崩壊」で急速に進んだボーダーレス化だった・・
  ボーダーレス・エコノミーで、貧しい人も豊かな人も、
 もっと豊かになれると思った・・しかし、違った・・
  グローバル化の大競争の時代に入った・・市場の取り
 合いもあって、一面、資本主義が元気な状況になった・・
  だが、ボーダレス化は良い面ばかりではない・・総て
 が「市場化すれば良い」というものでもない。
  体制の出来てない所に、その様な国を、無理に市場化
 したら弊害が起きる・・国境があるという状態で、経済
 をしっかりさせないと、「基本を作らないと駄目だ」と
 分かった・・
  それが分かった今・現代だった・・
  そして、米中の対立が始まったが、これは、「中国の
 態勢が崩れる」まで、アメリカは行なう・・
・出演者・・
  司会:上念司(経済評論家)
  西川史子(医師・タレント)
  武田邦彦(中部大学教授)
  筆坂秀世(元参議院議員・政治評論家)
  藤井厳喜(国際問題アナリスト・評論家)
  髙橋洋一(元財務省官僚・嘉悦大学教授)
  須田慎一郎(経済ジャーナリスト)
  杉原杏璃(タレント)
  脊山麻理子(フリーアナウンサー)
  大田明奈(タレント・舞踊家)
  眞鍋由佳(主婦)
.
2019年4月30日、ドイツ国民の半数以上が、難民に対して
 「否定的な感情を持っている」と、アンケートの調査結
 果で明確となった。
  この日の読売新聞によると・・ドイツの政治財団「フ
 リードリヒ・エーベルト財団」が25日に公表した難民に
 関するアンケート調査の結果・・
  54.1%が、難民申請者に対して否定的な感情を持って
 いると答えた。
  調査は、昨年・2018年9月~今年・2019年2月に、ドイ
 ツ国内の1890人を対象に実施された。
  ドイツでは、難民申請者が2015年に急増して約90万人
 に達した。
  2017年は(難民申請者が)約19万人に減ってはいるが、
 難民による暴行事件なども起こっていて、反難民感情が
 高まっている・・これがアンケート結果に浮き彫りとな
 った。
  旧東独地域では63.1%が否定的となっている。
  経済発展の遅れから、難民対応の予算を投入すること
 への不満も背景にある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
# by suba28 | 2019-05-05 02:56 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)642E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)

題:(増補版)642E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年3月30日、官吏恩給法及官吏遺族扶助法補則公布(法
 律第36号)
  1.恩給法上の公務員
  恩給の対象となる公務員は、具体的には、次のような
 者をいう。
  (なお、公務員の年金制度は昭和30年代に旧共済年金
 に移行しており、恩給の対象となる公務員は、旧共済制
 度発足前に退職した公務員及びその遺族である。
  したがって、現職者に恩給の対象者は存在しない。)
 (1) 一般文官 ア 文官(官にある者)〔最短恩給年
   限17年〕
  イ 教育職員(公立学校等の職員)〔最短恩給年限17
   年〕
  ウ 警察監獄職員(警部補以下、副看守長以下、消防
   士補以下の者)〔最短恩給年限12年〕
  エ 待遇職員(形式的には官吏ではないが判任官以上
   の待遇を受ける者のうち、恩給法令により特に指定
   したもの。
    例えば、神宮司庁職員、地方道路技師等)〔最短
   恩給年限17年〕
 (2) 旧軍人(兵~大将)〔最短恩給年限 兵・下士官
   12年、准士官以上13年〕
  2.公務員の遺族
   遺族の順位は、
  ア 配偶者
  イ 未成年の子
  ウ 父母
  エ 成年の子(公務員の死亡当時から重度障害の状態に
   あり、生活資料を得る途のない者に限る。)
  オ 祖父母・・である。
  (以上、抜粋・・総務省ホームページより)
.
1896年3月30日、事業公債条例が公布(法律第50号)され、事
 業公債をもって鉄道改良費の資金とする。
.
1896年3月30日、逓信省官制改正(勅令第85号、4月1日施行、
 勅令第150号は廃止)
.
1896年3月30日、客車代用貨車取扱規程を制定(鉄運乙第534
 号)
.
1896年3月31日、拓殖務省官制の公布
  拓殖務省(たくむしょう)は、この年に、台湾事務局
 関係事務と、北海道拓殖事務を統轄する機関として、拓
 殖務省が設置された。
  しかし、1年余ののちに廃省となり、その後、南樺太、
 朝鮮の併合、関東州の租借、南洋委任統治などの植民地
 行政拡大に伴い、1910年以後、拓殖局、1922年以後、拓
 殖事務局、1924年以後、内閣拓殖局がそれぞれ設置され
 て統轄機関となった。
  1929年、田中義一内閣のとき、拓務省官制として省に
 昇格したが、所管事務として旧内閣拓殖局の事務と従来
 内務省社会局の権限であった「移民に関する事務」を引
 継いだ。
  具体的には、朝鮮、台湾両総督府、関東、樺太、南洋
 3庁の事務を統督し、南満州鉄道株式会社、東洋拓殖株式
 会社などの監督にあたった。
  1942年11月、大東亜省設置に伴い、対満事務局、興亜
 院とともに吸収され、廃省となった。
.
1896年3月31日、横浜のペスト患者が死亡した(4月1日説
 あり)
  開港した横浜、伝染病も流入して来る。
  日本にベストが初めて上陸した。
  横浜港に入港したアメリカ船籍のゲーリック号の乗客
 の一人(外国人)が病気のため下船した。
  そして、市内の病院に入院する。
  患者は容態が急変し、4月1日に死亡した。
  検査して「ペスト」と判明した。
.
1896年3月31日、台湾総督府直轄諸学校官制が公布された。
  日本は韓国や朝鮮、そして、台湾の教育制度を整備し
 教育を施すことに熱心だった。
  欧米列強の様な捨てて置く様な事はしなかった。
  修学年限や修学の科目などを決めたりした。
  女子には、特別に、この教科が必要などと、きめの細
 かい指導をしてあげた。
  そして、必要に応じて、その後も、向上させて行った。
  それに応じて、財源を配慮もした。
  今、韓国は、何かと恩になった日本を批判するが、韓
 国が出来なかった小学校や大学などの学校づくりを、誠
 実に日本は行っただけではなく・・その他に、日本は、
 それだけではなく、その教育が実際にうまく行くように
 配慮して、行なっていた。
  日本と遜色(そんしょく)なく、まったく平等で、師
 範科なども置いたりした。
  日本語の習得に関して強制することなく行われた。
  日本語を常用せざる者の別建てのコースも作った。
  だからと言って、全く同等で差別などもしていない。
  同じように豊かになろうという体制だった。
  大学なども日本人との共学の大学も置かれた。
  日本を批判することは「何事においてもできる」が、
 日本がしなかったならば、大学も小学校もない状態だっ
 た。
  できた状態が「ああだった」とか、「こうだった」と
 かという批判は、想像すれば何事も言える状況で、教育
 施設が無い状態を考えれば、その様な批判はできないは
 ずだ。
  そこまで言うのであるのならば、何故?自分たちで造
 らなかったのですか?と問いたい。
  恩を売っている訳ではないが・・感謝の気持ちを持っ
 てもらいたい。
  日本の先人の方々は、資金だけではなく、誠実に努力
 していたのです。
.
1896年3月末、酒造税法・営業税法・葉煙草専売法などが公布
 された。
  酒造税法 (明治29年3月28日法律第28号)
  葉煙草専売法 (明治29年3月28日法律第35号)
  営業税法 (明治29年3月28日法律第33号・・翌年の明治
  30年1月1日に施行された。
  この法律は、明治29年11月の税務管理局官制、すなわち
 税務署創設の前提となっている。
  この法律は、複雑な課税標準を設定したため、その執行
 に専門的な税務行政の必要性が生じ、対応できる期間の創
 設を促した。
  この法律は全国的な反対運動も起きた。
.
1896年3月末、陸軍平時編成を改め、近衛および第1師団~第
 12師団が設置された。
  師団の増設に伴う師管の改編によって旅管が廃止されて
 13師管となり、従来の大隊区は連隊区と改称された。

  その一つ・・札幌に陸軍第7師団が編成され、北海道の
 開拓と警備を担った屯田兵が基盤となった。
  初代師団長は屯田兵司令官であった永山武四郎。
  1899年に旭川への移転が決定、
  1902年、移転が完了。
  北海道に置かれた常備師団で、北辺の守りを担う重要な
 師団だった。
  北海道民は畏敬の念(いけいのねん、畏れ、かしこまり、
 敬う心情)で見ていた。
  この「北鎮部隊」の元で、旭川は軍都として発展する。
  十勝(→旭川)連隊区・札幌連隊区・函館連隊区・根室
 →釧路)連隊区
  部隊は、日露戦争の二〇三高地や太平洋戦争のガダルカ
 ナルなど、歴史に残る激戦地へ派遣された。
.
1896年3月末日、臨時軍事費特別会計が終結した。
  日清戦争の臨時軍事費特別会計が編成されたのが、1894
 年6月1日からだったが、1896年3月末日で終結した。
  歳出:200百万円
  うち:陸軍82.1%(人件費18.4%、糧食費12.4%、被服費
 10.8%、兵器弾薬費5.6%、運送費16.9%、その他18.0%
  海軍17.9%(物件費75.0%・人件費19.5%・その他5.5
 %(ただし、別の資料では、海軍の人件費1.1%、艦船費6.4
 %、兵器弾薬費・水雷費5.0%、その他5.4%)
.
1896年3月、進歩党が結成された(大隈重信総裁)
  憲改進党ほか諸派が自由党に対抗して結成した。
  改進党、立憲革新党、財政革新会、中国進歩党などが合
 同し、進歩主義に立つことを宣言した・・
  また、責任内閣の完成、国権拡張、財政整理を政綱に掲
 げた。
  1896年9月に、事実上の党首大隈重信が、第2次松方正義
 内閣に外相として入閣して、進歩党も与党となって第10議
 会では金本位制確立のための貨幣法案や、戦後経営関連諸
 法案を成立させた。
  議会後、大隈は農商務相を兼任した。
  また、党幹部が農商務次官・局長、県知事などに就任・・
  1897年8月、新設の勅任参事官にも多数任命されたため
 官僚勢力との利害が対立することになる。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカは、自国の通貨を発行するたびに、アメリカ財務省が、
   民間銀行の株主に金を払う(利子を払う)という「おかしな形」と
   なっている・・??
    また、アメリカは、「通貨供給量の生殺与奪の魔法の力」が
   握られている。
    そして、これが、アメリカの財政赤字の原因の一つとなっている。
.
紀元前261年頃、アショカ王が、全インドへ仏教を広める。
  アショカ王・・紀元前3世紀のインドのマウリヤ王朝の
 王子として生まれ、マウリヤ朝の第3代国王となる・・生
 没年は不詳。
  紀元前3世紀の半ば、史上初めてインドのほぼ全土を統
 一した。
  仏教に熱心に帰依し、不殺生や慈悲などの仏法にもと
 づく政治を掲げた・・そして、仏教のその精神にもとづ
 く世界秩序をめざす。
  世界中に伝道師を派遣し・・エジプトのアレクサンド
 リアにまで訪れる伝道僧も居た。
  この地道な布教活動は、幾世代も続いた。
  アショカ王は、仏法をを説いた碑を多く建てているが、
 アショカ王の建てた碑にアラム語の碑もあり、アフガ二
 スタンの南西部で発見された・・
  キリスト教のイエスはアラム語を話していたが・・ア
 ラム語は、オリエント世界の公用語だった。
  また、ギリシャ語の碑もあり、ギリシャ人は集団で移
 住し、その地に住んでいた。
  キリスト教は「一神教の壁があった」と嘘を言うが、
 東西の交流は頻繁(ひんぱん)になされ、仏教も伝わっ
 ていた。
  アショカ王は、厚い信仰心を人々に示し、また、その
 地を栄えさせた。
  王は肉食を断ち、人々や狩人、また、王の漁師たちも
 猟や漁を止めた。
  ギリシャ人の王・ミリンダ(メナンドロス)と仏僧と
 の宗教問答をつづった「ミリンダ王の問い」(那先比丘
 経・なせんぴくきょう)も残っている。
  高名な仏僧・ナーガセーナの説法は見事だった。
  ミリンダ王はそれに屈し、仏法に帰依するのだった。
  イエスもこの様な状況の中で、仏教に触れている可能
 性が高く・・この様な所から「汝の敵を愛せよ」の仏教
 の慈悲に影響された言葉が発せられたと言える。
  因みに、近年になって、アメリカの研究集団は、キリ
 スト教の聖書におけるイエスの言葉はほとんど無いとし
 ている。
     ・
     ・
958年、韓国・朝鮮の両班のはじめ・・
  この年、高麗・李朝時代に中国の科挙に由来する制度
 によって地方豪族などから登用する両班制度を始めた。
  両班の多くは地方の地主層であった。
  しかし、その制度は、300年後の14世紀になって後に崩
 れて行く・・
  14世紀頃から、韓国・朝鮮の両班(りゃんばん)は、
 様々な理由から増加し出した。
  特に、18世紀後半は、最悪の状況となった。
  両班(りゃんばん)。
  これが、韓国・朝鮮の諸々の悪の根源だった。
  両班は、王の両側にいた側近で、東班(とんばん)と
 西班(そばん)の特権的な官僚(最上級身分の支配階級)。
  東班(文班)は文官で、西班(武班)は武官だった。
  本来の姿は、この官位・官職は独占世襲し、種々の特
 権・特典を受けた・・血縁的身分として固定化された。
  両班は、兵役・賦役免除の特権を持ち、封建的土地所
 有を行なって常民・奴婢を支配した。
  そして、党派に分かれて党争を繰り返した。
  両班は、「働く人を蔑(さげす)んだ」。
  額(ひたい)に汗して働く人を蔑んだ。
  両班は、頭を働かせて知的に働くのを良しとした。
  両班は、科挙の試験を通ったエリートだった。
  だから、前記した頭脳労働者への偏重の思想を持った。
  韓国・朝鮮には、この両班が約7%居た。
  ただ、韓国・朝鮮ではこの頭脳労働偏重の思想が、肉
 体労働者への蔑みが大きく出た。
  また、韓国・朝鮮には家系を尊ぶ思想がある。
  そして、その家系によって肉体労働者は、ズーッと常
 に肉体労働者でなければいけないという慣例・風習があ
 った。
  これと、両班が持つ特権が、くっついた。
  本来なら科挙の試験を合格しなければならない資格が、
 肉体労働者の家系から抜け出たいとするものが、その両
 班の地位を金で買うことがなされた。
  最後には、両班は、国民の50%近くまで行った。
  もう、ここまで来たら誰でもが両班と言えるような状
 態になった。
  韓国・朝鮮には、両班が持っていた肉体労働を蔑む風
 潮が社会に根付いているが・・、
  その点、日本は、匠(たくみ)と言って技術を極めた
 方々を、日本では尊敬し、大切にして尊んだ。
  この様な日本の様な状況は、韓国・朝鮮にはない。
  そして、両班は、様々な悪事の極みを行なっていた。
  虐(しいた)げられた家系から抜け出し、両班になっ
 た者たちは、逆に、虐げる側になって、民を虐げた。
  韓国・朝鮮は、中国に長く冊封される体制を受けて来
 た風潮や性格から属国根性は染み込んでいた。
  この両班の地位を作る科挙は中国の制度で・・大陸で
 地続きにある隣国の中国・・そして、朝鮮半島の小国に
 は、常に蹂躙され続ける歴史があった。
  虐げられた民は、両班のことを・・、
  「朝鮮の官人はみんなが盗賊だ」とか、「転んでも自
 分で起きない」とか、「箸と本より重い物は持たない」
 などと揶揄(やゆ、からかう、なぶる)した。
  両班は、「兵役の免除」「刑の免除」、「地租以外の
 徴税・賦役免除」、そして、常民に道や宿の部屋を譲ら
 せる権利や、家・衣服・墳墓・祭礼などに常民以下に様々
 な特権を持って、住民から金銭も払わずに収奪した。
  マリ・ニコル・アントン・ダヴリュイは、「世界一傲
 慢な貴族階級」と蔑んだ。
.
1619年、オランダが、アフリカの方々を、アメリカへ奴隷
 として運び、売った。
  オランダ船が、アメリカのバージニアへ、20人のアフ
 リカの方々を連れて行き、売った。
  バージニアという地は、まったく卑劣な地で、特に多
 くの黒人の方々を奴隷とした。
  1680年~1750年には、何とバージニアの人口の44パー
 セントが黒人奴隷の方々だった。
  参考:サウスカロライナは61パーセント。
.
1624年、江戸と京都の間に53の宿場が整備され、東海道五
 十三次となった。
  1600年の関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、次々と
 新しい政策を実施した。
  街道整備もその一つだった。
  1601年、東海道の伝馬制度を定め、江戸と京都の間に
 37の宿場を置いた。
  横浜には、「神奈川宿」と「保土谷宿」の2つの宿が置
 いた。
  その3年後の1604年に、「戸塚宿」が加わり、横浜は3
 つの宿場となった。
  1624年には、江戸と京都の間に53の宿場が置かれ、東
 海道五十三次となった。
  東海道のメインの街道は、参勤交代の大名や幕府の役
 人、商人や伊勢神宮などの社寺の参詣の旅人で賑わった。
  旅人は、その道中で・・名物料理を食べたり、土産物
 を買ったり、寄り道をしたり、物見遊山を楽しんだりし
 た。
.
1640年、ジョン・パンチ裁判
  黒人のパンチは、逃亡し、裁判となり・・判決で・・
 「当地、および、他の場所で、所有者、および、その受
 託者に生涯仕える」ことと命じられた。
  法律を犯したとき、黒人の方の場合、奉公期間が『無
 制限』に延長するという卑劣な事をするアメリカだった。
.
17世紀、アメリカへ、労働力を補うためヨーロッパから多
 くの年季奉公人が送り込まれた・・特に、イギリスから
 供給された。
  半奴隷的な扱いをした。
  アメリカは、その様な雇い主の白人へ、広い土地を与
 えた。
  また、「他の人間を支配する名誉」まで与えた。
  アメリカの人権無視に、あらためて腹が立つ。
  それまでは、イギリスからの年季奉公人を使っていた
 アメリカだった・・が・・
  この年季奉公人には、ある年数の奉公に対する購入費、
 そして、年期中の諸経費、解放時の給付金があった。
  これに対し、アフリカの黒人奴隷の方々の費用は格段
 に安かった。
  イギリスは、自分の国の「質の悪い国民」を片付ける
 様にして、かき集め、アメリカへ連れて行った。
  道路にたむろしている「貧しい弱者」や「ホームレス」
 を、なかば強制的に捕獲した。
  イギリスは、この捕獲という言葉がまったく当てはま
 るかの様に、この様な弱者の方々を捕獲した。
  人権無視のイギリスだった。
  その様な年季奉公人を、承知してアメリカは使った。
  イギリスと、人権無視の共犯的な行為をするアメリカ
 だった。
  しかし、アフリカからの黒人の方々は、安いだけでは
 なく、質の良い労働力でもあった。
  また、まったくの「人権無視の行為が出来る」という
 労働力だった。
  それを得たいアメリカだった・・アメリカはこれを「
 これ幸い」とし・・非人道的な「奴隷」に落とした。
  キリスト教の聖書にも書いてある「奴隷概念」が実行
 された。
  最初の購入費以外、費用はまったくかからなかった。
  なおかつ、黒人奴隷の方々の宗教をアメリカは奪った。
  また、卑劣な事に、その言語をも奪った。
  アフリカの言葉を話せない様にした。
  そして、家族のつながりも配慮されず、バラバラに
 されて、生まれ育った家族のつながりも奪われるアフリ
 カからの黒人の方々だった。
  まったく家畜同然だった。
  キリスト教の洗脳によって、その行為に対し、まった
 く罪悪感は無かった。
  生まれた子供は奪われた、そして、その子は売られた。
  年季奉公人は、待遇改善の要求などをしたが、黒人奴
 隷の方々には、それが許されなかった。
  その様な抗議は、当然のように、黒人の方々へは許す
 ようなことはしなかった。
  また、アフリカに居た時も農業にいそしんでいた。
  また、逃亡の時、肌の色から見分けがはっきりして、
 捕まえ易さがあり、法律上の権利もまったく与えられて
 居なかった。
  公的機関から配慮されるような事もまったく無かった。
  アメリカは、言うことも憚(はば)れるような軽蔑的
 思考で、黒人の方々をキリスト教の聖書の概念の奴隷と
 して扱った。
  非文明国家の極みにあった。
  そして、卑劣にも、イギリスが、アフリカから易い物
 品で拉致の様にして連れて来る役を担った。
  せっせとアフリカから黒人の方々をアメリカへ捕まえ
 て、安いヨーロッパの物品と交換して奪った・・そして、
 アメリカへ連れて行った。
  黒人の方々が、絶えず供給されるという点を、アメリ
 カは必要事項として、イギリスへ要求した。
  アメリカ南部のプランテーションだけではなく、アメ
 リカ北部の大商人や船主たちが、アフリカの方々を奴隷
 として要求した・・(北部には奴隷要求は無いと言うが、
 まったくの嘘・・アメリカ北部政権のプロパガンダ)
  アメリカ全土が黒人の方々の奴隷の恩恵を受けたいと
 考えていた。
  因みに、年季奉公人制度は、「偽装された奴隷制度だ」
 とされている。
  表面的な目を誤魔化す行為とされている。
  状況は悪化さえしている。
.
1664年、英蘭戦争(~1667年)
  イギリスは、この戦争で勝利するとオランダと・ポル
 トガルが持っていた奴隷貿易を独占した。
  長い間、イギリスは奴隷貿易を続けた。
  酷い輸送で死亡率が高かった。
  奴隷にされた女性が産んだ子供も「奴隷という解釈」
 で、黒人の方々は、その方の人生以上の長きにわたって、
 白人から逃れられないという解釈の下におかれた。
.
1672年、ロイヤル・アフリカン・カンパニーが、イギリス
 に設立され、イギリスは奴隷貿易を本格化させた。
  この組織に、奴隷貿易を専従させた。
.
1676年3月、バージニアのナサニエル・ベイコンの反乱
  アメリカの植民地としての最初の反乱。
  イギリス領バージニア植民地の反乱。
  オランダ人の経済的圧迫などでその防衛を求めた。
  また、税金も高く要求された。
  1674年、植民地の住人は、ロンドンにいるバージニア
 の領主であるアーリントン卿とカルペッパー卿に対して
 政治的働きかけを行う代理人を送るために更なる課税を
 要求された。
  この状況は、入植者の悲惨さをさらに悪化させるもの
 であり、バージニア総督ウィリアム・バークリー卿の指
 導のまずさもあって、政府に対する憤懣が広がった。
  また、アメリカの先住民族であるアメリカ・インディ
 アンの方々との関係も悪化していた。
  1676年3月、ジェームズタウンに戻った後、ベイコンと
 バークリー支持者の間に紛争が起こった。
  ベイコンの一党はバークリー派に打ち勝ち、総督はバ
 ージニアの東海岸に逃走した。
  ベイコンの一党は、首都を3ヶ月間占領し、貴族政府の
 象徴である町を破壊した。
.
1708年、アメリカは、先住民のアメリカ・インディアンの
 方々を奴隷にした。
  この年、1例として、サウスカロライナ州で、最も先住
 民のアメリカ・インディアンの方々の奴隷化が進んでい
 た。
  12,580人の人口中、1,400人の11.1パーセントの先住民
 奴隷が居た。
  この状態は、卑劣にも19世紀になっても行われていた。
  誰でも彼でも、白人以外は奴隷とするキリスト教の聖
 書の奴隷の記述に洗脳された輩どもだった。
.
1794年、銀の市場価格が低下を始めた。
  このことで、アメリカの貨幣法で前提とされた「15:1」
 という金・銀の価格比が、市場での実体と乖離すること
 となった。
  そのために、連邦議会は、1834年に、ドルの純金分を
 減らすことで、複本位制の金・銀の価格比を「16:1」へ
 と調整した。
  グレシャムの法則(Gresham’s law)として知られる
 通り、「品位の劣る鋳貨が流通に投ぜられると、流通中
 の高品位の鋳貨が退蔵された」。
  この法則によれば、金・銀貨が、固定比率でドルとし
 て等価で流通する場合には、市場価格と比較して過小評
 価された貨幣(この場合は金貨)が退蔵されるはずであ
 る。
  実際に、Laughlin は、1792年~1834年の期間に、アメ
 リカで、金硬貨は殆ど使用されなかったと述べて、過小
 評価されたドルが「駆逐」されたと結論付けた。
  1837年の法律改正で、ドルの金含有量がさらに微調節
 された後も、アメリカ貨幣制度は、金・銀複本位制を保
 っていたが、カリフォルニアでの金ブームの結果、金の
 銀に対する相対価格が低下し、貨幣制度の上では、今度
 は、銀が過小評価されることとなった。
  そして、金が流通の主役となった。
.
1834年8月1日、イギリスで奴隷廃止法が出された。
  この日に発布されたイギリスの奴隷制廃止法では・・
  黒人の方たちは、奴隷身分からは解放されたものの年
 季奉公人として元の奴隷主の下で週45時間働くことを強
 いられた。
  まったく卑劣な事を、まだ行うイギリスだった。
  そして、表面的には奴隷解放がなされたように見える
 が・・実際には・・この奉公人の制度は、奴隷制と変わ
 らないばかりか、部分的にはそれよりも悪くなっていた。
  そして、白人の行なうこの制度を監視する役割を担っ
 た有給判事は、プランターの白人経営者と奉公人との間
 の紛争を処理する役目であったが・・公平な紛争処理の
 態度ではなく、白人のプランター側に着いた処理であっ
 た。
  奉公人と名前は変わっても、まだまだ「鞭打ち」や「
 虐待」などがなされた。
  そして、元の奴隷制に戻そうとのキャンペーンまで行
 なわれた。
  そして、1838年8月1日には、年季奉公人制を廃止する
 ことをイギリス政府は決議した。
  まったく唾棄すべきイギリスの状況だった。
.
1835年4月28日、ジャマイカにおいて、白人が経営する農場
 で、「ムチ、ムチ」という叫び声が聞こえるという手紙
 が残っている。
  そして、今まで以上に奴隷状態に置かれている状況を
 伝えている。
  5月30日の手紙では、今までの3倍悪くなっていると伝
 えている。
  黒人の方々にも抑えきれない不満が鬱積(うっせき)
 していると伝え、抵抗を作り出していると伝えている。
  このままでは反乱となるだろうと伝えている。
.
1835年6月22日、ジャマイカ西部のトレローニー教区のウェ
 イクフィールド農園という白人の経営する農場で働いて
 いたジェイン・リードという奴隷状態の奉公人の事例。
  奴隷状態の女性が、気分が悪くなったので監督に言い
 に行くと・・地下牢に行くよう命じられ、
  そこで、翌日まで食事は与えられず、特別判事の所へ
 連れて行かれた。
  白人の特別判事は、踏み車を4日間踏むように命じた。
  この女性は、踏み車に手首をくくりつけられ、鉄の首
 輪をはめられ、腰に鎖を掛けられるということを、この
 後、行われたりした。
.
1861年3月4日、アメリカ第16代大統領に、リンカーンが就
 任した。
  アメリカ北部は、「北部は、黒人たちをあまり奴隷に
 しなかった」と自慢気に言うが・・、
  これは、アメリカ北部の主義主張が奴隷にしなかった
 とかではなく、初めから奴隷労働を必要としなかっただ
 けだったという・・しかし、これもマユツバ・・
  南部の綿花を、北部の綿布工場が綿布にする工場では、
 黒人の方々が、奴隷として、しっかり使われていた。
  何ら、アメリカ北部が自慢するような事ではなかった。
  また、アメリカ北部には奴隷思想が無いかと言えば、
 それは、まったくの嘘で・・、
  アメリカ北部は、インディアンの方々を盛んに奴隷に
 していた。
  アメリカ北部の象徴的人間のリンカーンが、積極的に
 奴隷制度に反対しなかったのもその証拠で・・
  黒人奴隷の方々を、たまたま開放する段階になったか
 ら「奴隷解放宣言」をしたまでであって、そして、アメ
 リカ北部政権が、そのことをプロパガンダ(嘘宣伝)し
 たので、アメリカ北部のリンカーンは、奴隷解放論者だ
 と錯覚されているだけ・・
  リンカーンは、「まったく奴隷解放などしたくない」
 という演説までしている。
  また、「私(リンカーン)は、奴隷解放論者ではない」
 とまで言っている。
  黒人の方々をアフリカのリベリアへ棄民さえしたアメ
 リカ大統領のリンカーンだった。
  アメリカ・インディアンの方々は、土地勘があり、す
 ぐ逃げたり、また、民族として連携が強く、繋(つな)
 がりの強い救済があったりして、奴隷にしにくかった。
  しかし、アメリカ北部人は、このアメリカ・インディ
 アンの方々を必死に奴隷にしようとした。
  アメリカ北部に奴隷思想が無かったというのは、「真
 っ赤な嘘」。
  日本のテレビ朝日は、アメリカにゴマをする「奴隷解
 放をしたリンカーン」という嘘放送を今日(2019年4月20
 日)もしていた。
.
1863年、リンカーンが発行した法定通貨の金債権との兌換
 性が取り消された。
  グリーンバック(greenbacks)と呼ばれる合衆国紙幣
 (法定通貨、United States notes)の発行を、リンカー
 ンは、1862年に始めていたが、発行当初に保証されてい
 た金債券との兌換性は、1863年に取り消された。
  グリーンバックは、連邦政府の信用のみで価値を担保
 されていた。
  そして、法定通貨のグリーンバックは、金との交換比
 率が低下して行った・・半分以下にまで減価した(その
 様に操作されていた)
  アメリカ財務省は、グリーンバックの価値の回復に努
 めた。
  1875年、正貨兌換復帰法が採択され・・
  1879年に、グリーンパックの兌換が再開された。
.
1863年、横浜の山の手に、この年以降、イギリス軍やフラ
 ンス軍の軍隊が駐屯した。
  1868年の戊辰戦争の時、官軍が横浜に到着した時、戦
 闘が発生する様な事も無かった。
  諸外国は、横浜における貿易が出来る状態にして置く
 ことを重点としていた。
  貿易の出来ない状態、乱れることを望まなかった。
  その様な状況から、横浜は平穏な場所であった。
  1868年1月14日(戊辰戦争が始まった1月3日から11日後)
 平穏に安定している横浜に、戦闘で大怪我をした36人が
 送り込まれた・・
  忠右衛門の手紙には・・「当浜御役所へ上り薬用中に
 これあり」と記されていて、横浜の役所で治療を受けて
 いることを伝えている。  
  また、死去した兵士の処置で横浜は「大混雑」してい
 ることも記されている。
.
1865年、この年以降の15年の間に、「50%のデフレ―ショ
 ン」が、アメリカで起きていた。
  通貨不足と物価下落の影響で、アメリカ国民は苦しめ
 られた。
  特に、最も苦しめられたのが農民だった。
  作物価格の下落と、利子率高騰の2つの要因で、農民の
 生活は追い詰められた。
  農民は、通貨不足に悩む一部の産業資本家と協力し、
 グリーンバック党(Greenback Party)という新党を、
 1874年に、組織し、グリーンバック増発を訴え、通貨縮
 小をもたらす兌換回復に反対した。
  グリーンバック党は、1876年の大統領選に、独自候補
 を擁立したが、その運動は短命であった。
.
1868年1月14日、戊辰戦争で大怪我をした者(36人)が横浜
 に運ばれて来て、横浜の役所で治療を受けた。
  イギリスとフランスの軍隊が、1863年の文久3年以降、
 横浜の山の手に駐屯した。
  戊辰戦争が発生した頃、そして、日本が戦乱で動揺し
 たこの頃、諸外国は日本が戦乱の渦の中で乱れ、貿易も
 なされないという状態になることを望まなかった。
  戊辰戦争の官軍が横浜に到着しても、横浜では戦闘も
 起きず、平穏な地として経過した。
  1868年1月14日に、戊辰戦争で大怪我をした者の36人が、
 横浜に上陸し、横浜の役所で治療を受けた・・この様な
 事を記した日記が残されている。
  また、戦死した兵の処置で横浜は「大混雑している」
 と書かれた日記もある。
  安全な場所とされた横浜は、その様な役目も果たして
 いた。
  「次々と怪我人が運び込まれる」の記述もある。
.
1875年、アメリカは、正貨回復法(正貨兌換復帰法)を採
 択した。
  法定通貨を独自に発行した「アメリカの第16代大統領
 リンカーン」は、暗殺された(1865年4月14日)
  犯人は、「ユダヤとの関係を感じさせた」。
  その後のアメリカ大統領が、リンカーンの発行した法
 定通貨を慌てふためいて回収したが・・その姿が、その
 怪しさを表わしていた。
  また、このリンカーンの法定通貨の無力化が、政府組
 織ではない手によってなされた。
  ロンドン・シティやウォールストリートの銀行家たち
 は、ち密な工作を着々と進めた。
  1875年、正貨回復法を成立させた。
  そして、金(ゴールド〉のみを正貨とした。
  そして、銀(シルバー)硬貨を廃止する様にした。
  その後、持っていた財務省証券をアメリカ政府に買い
 取らせた。
  金(ゴールド)が手に入るように要求した。
  アメリカ財務省の保有する金はショートした、金は無
 くなった。
  1883年に、金融パニックが、アメリカに発生させられ
 た。
  この機に乗じて、彼らの銀行家は、金融を引き上げて、
 そして、新規貸し出しを縮小させた。
  ここで、アメリカは、史上最悪の金融恐慌が起こされ
 てしまった。
  さらに、イギリスは、植民地のインドに、「コイン鋳
 造用の銀の受け取りの拒否をさせた」・・
  この事によって、完全に、銀に、正貨の地位を失わせ
 させた。
  銀の価値を完全に失わせ・・金(ゴールド)のみが価
 値を持つ世界を作ってしまった。
  1900年、アメリカは、やむなく金本位制を成立させた。
  この様な状況の中で、アメリカの財務省の金保有は減
 った。
  リンカーンの法定通貨は、その裏付けを失わせられて
 行った・・
  逆に、金を大量に保有しているイギリスの銀行家の力
 は強まって行った。
  当然の結果、アメリカ金融は、イギリスの影響下に置
 かれて行った。
  アメリカ財務省は、必死に抵抗するが、金融パニック
 を再び起こされた。
  これで万事が窮することとなった。
  1907年、ニューヨークの中堅銀行が倒産に追い込まれ
 た。
  ウォールストリートの財閥系銀行がやった・仕組んだ
 のだという噂が立った。
  そして、金融恐慌が起こされた。
  アメリカは屈服した。
  モルガンやロックフェラーなどの財閥とつながるアメ
 リカ大統領のセオドア・ルーズベルトは、反トラスト法
 の停止を宣言した。
  恐慌はおさまった。
  この後、財閥は、さらに、市場独占を強めた・・
  そして、より大きな支配力を持って行った。
.
1878年、アメリカに、銀の購入を義務付ける法(ブランド・
 アリソン法)が成立した。
  アメリカに、自由銀運動(Free Silver Movement)が
 あった。
  アメリカ西部の銀産出州の利害も、また、反映された。
  その結果、自由銀運動によって、連邦政府に、毎月一
 定額の銀の購入を義務付けるブランド・アリソン法が、
 1878年に、成立した。
  さらに、その2年後の1880年には、シャーマン銀購入法
 によって、ブランド・アリソン法の2倍の銀の購入が、財
 務省に課された。
  その支払いには、財務省紙幣(treasury notes)が発
 行されるべきだとされた。
  これが意味する事は、アメリカ財務省は、アメリカで
 産出する銀のすべてを購入することになり・・
  その購入額分の紙幣が発行されることで、通貨膨張が
 避けられないということになった。
  そして、クリーブランド大統領による「銀購入法の撤
 廃」に至る。
.
1913年12月23日、アメリカに設立されたFRBは、民間銀
 行となってしまった・・アメリカ政府は『一株も持って
 いない』。
  (参考)FRB:連邦準備制度理事会 (Federal Reserve
     Board) の略で・・、
      主要都市に散在する12に分かれた地方の連
     邦準備銀行を統括する。
      予算の割り当てや人事の干渉を受けない。
      そして、最悪なのは監査制度もなく、活動実
     態の情報公開もなされない。
  最も力を持つニューヨーク連邦準備銀行の株主は・・
  ロスチャイルド銀行(ロンドン)、
  ロスチャイルド銀行(ベルリン)、
  ラザール・フレール(パリ)、
  イスラエル・モーゼス・シフ銀行(イタリア)、
  ウォーバーグ銀行(アムステルダム)、
  ウォーバーグ銀行(ハンブルク)、
  クーン・ローブ商会(ニューヨーク)、
  ゴールドマン・サックス(ニューヨーク)、
  チェース・マンハッタン銀行(ニューヨーク)、
  これらの国際主義の外国銀行が、「利子の利益を得る
 株主」となっている。
  これ等の株主は、無国籍のユダヤ系と言える・・
  また、歴代のFRB議長もユダヤ系が続くという状態。
  FRBの設立とともに、「連邦所得税法」が成立した。
  これは、アメリカ国民の方々の所得税によって返済が
 担保される様になった。
  絶対に「とりっぱぐれが無い」という状態。
  これは、やはり、アメリカ国内で「憲法違反」ではな
 いかと「ひと悶着」となった。
  紙幣の発行・・通貨が発行されると、利子や手数料が
 自動的に転がり込むというシステムで・・大儲け状態と
 なった・・
  アメリカは、自国の通貨を発行するたびに、アメリカ
 財務省が、民間銀行の株主に金を払う(利子を払う)と
 いう「おかしな形」となっている・・??
  また、アメリカは、「通貨供給量の生殺与奪の魔法の
 力」が握られている。
  そして、これが、アメリカの財政赤字の原因の一つと
 なっている。
.
1918年11月11日、第一次世界大戦の休戦協定が、連合国と
 ドイツの間で締結された。
  この日の休戦協定が成立する約2年前の1916年12月30日、
 早くも、仏首相のブリアンは、連合諸国を代表し、大戦
 終結後の欧州新体制を律する原則が、次のようなもので
 ある事を、当時まだ中立国であったアメリカ政府を通し
 てドイツ・オーストリア側へ伝えた。
  1、侵害された諸国民の権利への補償、
  2、諸民族と少国家の自由な存立、
  3、諸国家に対する脅威の恒久的な防止、
  4、世界の安全確保のための効果的保証、
  これ等の原則で、大戦終結後に、民族自決権の確立、
 ドイツへの賠償要求、国際連盟の設立として具現化され
 た。
  しかし、ドイツ・オーストリア側は、この和平提案を
 拒否した。
  さらに、1917年1月10日、ブリアンは、再び、連合諸国
 を代表し、上述の原則をさらに具体的に表現した、対独
 要求を含む次の8項目からなる文書を、アメリカ大統領の
 ウィルソンに伝え、同意を求めた。
  1、ベルギー、セルビア、モンテネグロの回復と、その
   損害補償、
  2、フランス、ロシア、ルーマニアの侵略地域からの撤
   退とその損害補償、
  3、欧州の再編成。諸国民、諸民族の権利の尊重。不正
   な侵略に対して国境・領海を保障する領土協定と国
   際規約の設定、
  4、住民の意思に反して武力により奪われた連合諸国の
   領土回復。
  5、イタリア人、スラブ人、ルーマニア人、チェコ・ス
   ロバキア人を外国人による支配から解放。
  6、トルコ人の残酷な暴政下にある民族の解放。西洋文
   明とは異質なオスマン帝国を欧州から追放。
  7、ロシア皇帝によるポーランド解放宣言の確認。
  8、連合諸国側は、ドイツ民族の絶滅や政治的消滅の意
   図を有しないこと。
.
1920年代、「アメリカは、民主主義国家だ」は、作られた
 幻想。
  「アメリカは、民主主義の国だ」は、作られた幻想で、
 洗脳された思い込み・・
  これ等の思い込みは、「金」と「情報」を使って操作
 された洗脳の結果で・・
  この様な事は、1920年代に、既に、リップマンやバー
 ネイズは、「アメリカの民主主義の幻想」に気付いてい
 て、「錯覚の世界に生きていて、それに洗脳されている」
 と見抜いた。
  世論操作が始められている・・
  今・現代、中国が、盛んに金を使って情報操作をして
 いるが・・
  アメリカを初めて明確に「民主制の国」であるとした
 のは・・アレクシス・ド・トクビルだった。
  また、アメリカの支配勢力が、「民主主義を用いて人々
 を支配し、利用するために使っている」とも言われてい
 る。
  また、「民主主義の革命的技法」を使えば、「合意の
 でっちあげ」ができると・・リップマンは主張した。
  宣伝工作技術を駆使すれば、「人々が本来望んでいな
 かったことについても、同意を取り付けられる」という
 意味の事を言った。
  リップマンは言う・・
  第一の市民階級は、専門知識を持つ特別階級で、政治・
 経済、イデオロギーのシステムにおける諸問題の分析、
 実行、意思決定、管理を行っている。
  これらの人々は、人口のごく一部でしかない・・
  しかし・・この特別階級から漏れた人々・・すなわち、
 人口の大部分を構成する多くの人たちは、「とまどえる
 群れ」(戸惑う人たち)・・と称した。
  この様な人たちが、「大多数の意見を構成する」。
  リップマンは、この人たちを「観客」にはなるが、行
 動には参加しない・・と説明した。
  選挙において、観客は、一旦、誰かを支持し、そして、
 後は、また、観客に戻って傍観する・・と・・
  だから・・とまどえる群れを飼いならす事だ・・と・・
  また、とまどえる群れに激高を起こさせてはならない・・
 横暴を許してはならない・・不都合なことを起こさせて
 はならない・・と・・
  アメリカの大統領選は、「金が続いたものが生き残る」
 と言われている・・
  そして、それが、「合意のデッチアゲ」の「民主主義
 が行われた」という満足の結果だと・・これが実態だと・・
  リップマンは、彼の代表作と言われている「世論」(
 1922年)で、「民主主義の基盤となる国民の世論が、マ
 ス・メディアの圧倒的な影響力の下にある」ということ
 を指摘した。
  マス・メディアによって世論は操作されている。
  その様な所から形成された民主主義社会が実態・・
.
2019年、「違い」こそが、豊かさを生む。
  「違い」こそが、歓迎すべきところなのだ。
  豊かな差異・「違い」から、人類の幸せが生まれて来
 る。
  「違い」をことさら言い立てて、糾弾すべきものでは
 ない。
  「違い」を愛(め)で、「違い」を味わい、幸せを感
 じ、皆とその「違い」があることを喜び合わなければな
 らない。
  「違い」を指摘し、言い立てて、糾弾し、「異端」を
 追求し、殺した・・キリスト教。
  異端審問・・そして、「異教徒は殺せ」の教義を存在
 させている・・この様になってはならない。
  キリスト教の「異教徒は殺せ」の教義は大きな間違い
 である。
  人類、最大の間違いの教義・教えである。
  この洗脳によって・・何と多くの人々が殺され、殺し
 合って来たか?
  多様な違いの中に「豊かさがあるのに」。
  多様な違いが、互いに調和して人類を幸せに存続させ
 て来ている事に感謝せよ・・その喜びを感謝し、享受せ
 よ・・
  多様な多神の中に存在する「喜び」に感謝しなければ
 ならない・・多神に感謝の気持ちで祈れ・・
  他を排除する一神ではない・・他を排除する戦争の神
 ではない・・
  慈悲ある多神の中に人類の幸せがある。
  智慧ある多神の存在、その他の存在に感謝する・・大
 きな気持ちとなれ・・
  グローバル化が良いのだと、一神の、一色共通の、他
 を否定する・・また、人種のるつぼで一色にすることが、
 良いのではない。
  るつぼに突っ込んで同じの一つになるのが・・良いの
 ではない・・
  違いの中に、「その豊かさを求めて行く世界」でなけ
 ればならない。
.
2019年、「友好親善」は、結局、絵に描いた餅になると歴
 史が示す・・だから「友好親善だけでは駄目」。
  外交のすべてが、友好親善で事が処せれば、外交なん
 て優しい仕事・・
  肝心な外交項目は、そんな生易しいものではない。
  肝心の外交は、大人の駆け引きの世界。
  友好親善なんて言っていたら、付け込まれて、ほぞを
 かまされるだけ。
  結局、ぎりぎりのところを戦う。
  どこかで踏みとどまって戦わないと同盟国にも見捨て
 られる。
  ハンス・モーゲンソーは、同盟について・・、
  「お互いに何らかの意味で強い国どうしでなければ(
 同盟関係なんて)意味がない」・・と言い・・
  「ぶら下がるだけの同盟国は捨てられる」と言ってい
 る。
  日本の「友好親善」は、結局、お坊ちゃま的なのか・・
 駄目となるのか・・、
  また、「貢ぐのでも駄目」・・
  金と譲歩の安易な外交だったら、「日本の未来はない」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/


# by suba28 | 2019-04-27 03:42 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)641E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)

題:(増補版)641E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年3月24日、航海奨励法と造船奨励法のそれぞれが公布
 された。
  航海奨励法は、日本船の遠洋航海促進を目的に制定さ
 れた。
  総トン数1000トン以上、最大速力10ノット以上、船齢
 15年以内の鉄鋼船に一定率の奨励金を支給するようにし
 た。
  これによって日本郵船は、ヨーロッパ・北米・オース
 トラリア航路へ進出した。
  また、東洋汽船も、サンフランシスコ航路を開設した。
  また、造船奨励法は、国内の造船保護の法令で、イギ
 リスとの生産力の格差は大きかった。
  建造原価が割高であった国内造船所に補助金を出して、
 発注増による造船業発達を企図した。
  補助金は700総トン以上(のち1000総トン以上)の船の
 建造、自製エンジンに対し支給した。
  海運業界は、コスト競争の為、船舶は輸入に依存して
 いて、その為、日本の造船業の発展は阻まれていた。
  しかし、この法律で、この様な状況が一転した。
  因みに、日本は、第1次大戦中の造船ブームで造船技
 術は国際水準に達した。
.
1896年3月24日、市町村立小学校教員年功加俸国庫補助法を
 公布した。(3月23日説あり))
  第一条 市町村立尋常小学校及高等小学校ノ正教員及
     准教員ニシテ五箇年以上同一学校ニ勤続スル者
     ニハ国庫ヨリ年功加俸ヲ給ス
  第二条 年功加俸ハ五箇年勤続シタル者ニ本俸ノ百分
     ノ十五ヲ給シ後五箇年ヲ加フル毎ニ更ニ百分ノ
     十ヲ加ヘ百分ノ三十五ニ至リテ止ム
  以下・・略
  内閣総理大臣臨時代理、枢密院議長:伯爵.黒田清隆
             大蔵大臣:子爵.渡辺国武
             文部大臣:侯爵.西園寺公望
.
1896年3月26日、衆議院議員・福田久松ほか1人、「鉄道建
 築規定ニ関スル建議案」を議会に提出し、衆議院本会議
 で可決した。
.
1896年3月27日、大阪砲兵工廠が、塩基性平炉(3トン)の
 操業を開始した。
  大阪砲兵工廠は、大阪府大阪市にあった大日本帝国陸
 軍の兵器工廠(造兵廠)。
  大口径の火砲を主体とする兵器の製造を担ったアジア
 最大規模の軍事工場だった。
  また、技術水準もトップクラスだった。
  日本の陸軍の建設の指揮を揮った兵部大輔・大村益次
 郎の建言により設置が決まった。
  1870年、幕府の長崎製鉄所の機械や技術者、および、
 職工を移設して新設された。
  当初の敷地は、大坂城三の丸米蔵跡地だけだったが、
 その後、拡張されて行った。
  因みに、最大の行員数は、1945年8月に、6万4000人で、
 関係の民間工場の従業員は、約20万人で、火砲、戦車、
 弾薬類を開発し、製造した。
  1945年8月14日の大空襲でその機能のほとんどが破壊さ
 れた・・その時の戦死者382名(近隣の犠牲者は不明)
.
1896年3月27日、アメリカが、朝鮮の雲山の金鉱採掘権や
 京仁線の敷設権、そして、漢城の電灯・電話・電車の敷
 設権を取得した。
  李氏朝鮮は、為政者の権力闘争なども激しく、末期的
 な状況だった・・追放・失脚・暗殺も繰り返された。
  国の大切な権益を売り払っていて、アメリカをはじめ、
 ヨーロッパ諸国・ロシアなどは「草刈り場」のように反
 植民地状態」に置いていた。
  産業基盤もほとんどなく、500年も続く清の冊封体制下
 に沈んでいた。
  その様な中、日本と同様に、欧米列強と不平等条約を
 結ばされてもいた。
.
1896年3月28日、登録税法・酒造税法・営業税法・葉煙草専
 売法のそれぞれを公布した。
  明治時代初期には、税収に占める地租の割合が圧倒的
 であったが・・、
  その後、1899年(明治32年)には、酒造税が税収に占め
 る割合がトップに立つ(28%)。
.
1896年3月29日、横浜港に中国人のペスト患者が上陸した。
  これが、日本に初めての「ペスト」の上陸だった。
  横浜港に入港したアメリカ船籍ゲーリック号の乗客の
 一人(外国人)が病気のため下船し、市内の病院に入院
 した。
  この患者は、容態が急変して4月1日に死亡する。
  検査が行われたところ、「ペスト」と判明した。
  ネズミとノミを媒介し伝染するペスト・・幸運にも、
 この時は、大流行はしなかった。
  この頃、19世紀・・「ペスト」はパンデミック(世界
 的感染)の真っ最中で・・国家存亡に関わる重大事件と
 なっていた。
  これまで、幸い、「ペスト」は、日本では発症してい
 なかった。
  それ故、国内に病原菌を持ち込まないよう「検疫体制」
 の確立が急がれていた。
  ペストのパンデミック(世界的感染)は、史上3回起っ
 ていた。
  そして、三回目の世界感染は、アジアから起った。
  香港、広州で大流行して、1894年頃には、8万人〜10万
 人の死者が出たと推計されている。
  その後、全世界に広がり、1903年〜1921年の20年間で
 ペストによる死亡者は、1,000 万人を越えたとされてい
 る。
  この時期に、日本の各港が開港していて、その危険性
 が増していた。
  横浜にペストが初めて上陸したが、初めて感染した日
 本人も、横浜に住む沢田松五郎(23歳)だった。
  この人は、1899年11月に、中国から帰国し、門司港で
 下船し、広島で発病し、亡くなった。
  記録で、真性ペスト第一号とされている。
  1902年、横浜市内で、初めて流行が確認された。
  1894年、北里柴三郎は、第3回の世界流行のさなか、香
 港でペスト調査を行い、ペスト菌を発見した。
  因みに、同行した研究員は、ペストで亡くなった。
  (参考)最初のペストの世界的流行は、6世紀~7世紀
     の東ローマ帝国における流行で、「ユスティニ
     アヌスの斑点」と呼ばれた。
      二回目の流行は、14世紀、ヨーロッパで発生
     して世界へ広がった。
      全世界で、およそ8,500万人、当時のヨーロッ
     パ人口の3分の1~3分の2、約2,000万人~3,000
     万人が死亡したと推定されている。
.
1896年3月30日、製鉄所官制が公布した。
  この前年の1895年に、製鉄事業調査会を設置され、そ
 して、この製鉄所官制が公布され・・
  八幡製鉄所が、この製鉄所官制に基づいて、福岡県遠
 賀郡八幡町に、官営の製鉄所として設置された。
  この年の第9回帝国議会で、官営製鉄所建設案が可決し、
  1897年の翌年、筑豊炭田を後背に抱える福岡県八幡村
 枝光に建設が開始された。
  ドイツ人の御雇い外国人グーテホフヌングスヒュッテ
 が、設計から建設までを担当した。
  1899年に、中国湖北省ターイエ(大冶)鉄鉱山の鉄鉱
 を原料とする長期契約が結ばれた。
  1901年2月5日、東田第一高炉で火入れが行われ、操業
 が開始された。
  日本初の銑鋼一貫製鉄所(→銑鋼一貫作業)としての
 操業開始。
  因みに、八幡製鉄所は、1887年から操業を続ける釜石
 鉱山田中製鉄所に続く、日本国内で2番目の製鉄所。
  そして、先に国内初で成功を収めていたこの釜石鉱山
 田中製鉄所から選抜派遣された7人の高炉作業者が派遣さ
 れている。
  同年・1897年11月18日、東京から多数の来賓を迎え、
 作業開始式が祝われた。
  日露戦争後、飛躍的発展を遂げ、北九州工業地域の主
 要工場となった。
  操業の十数年後、全国生産の 7~8割を占める。
.
  (今日の言葉)
.
  題:キリスト教よ! 日本を貶める行為を止めなさい。
    嘘のデッチ上げで、日本を貶めるな!
.
紀元前3万8000年、人類の居住の始まり
     ・
     ・
紀元前488年、レオニダス一世が即位した。
  レオニダス一世は・・歴史に名を残す知性ある王。
  古代ギリシャのスパルタの王であり、ギリシャ人の方々
 が誇りとしている英雄。
  この王には、二人の兄が居たがこの二人が亡くなった
 ため王位に就く運命となった。
  そして、ペルシャ戦争を戦うことになる。
  紀元前5世紀、この王は、その才能のゆえにかペルシャ
 戦争の歴史書を書いている。
  この事から「歴史の父」とも言われる。
  また、知的好奇心からか?この王は、南イタリアを訪
 れたり、エジプトのピラミッドを見物したりしている。
  世界周遊の探検旅行家でもあった。
  この王の立派だったことは、このペルシャ戦争につい
 ての記述で、敵将を褒め、また、敵兵を褒めた。
  「敵将と言えども立派に戦って死んだ者であれば、そ
 の将兵へあからさまな侮辱を加えることは無かった」。
  この対極にある卑劣な行為をしたのが第二次世界大戦
 におけるアメリカだった。
  アメリカは、東京裁判で裁くべき法律が無いのに、後
 から法律を新たに作って「日本の将兵を罪に落とした」。
  「無罪の人間を死刑にしてしまった」。
  レオニダス一世は、生年不詳で、紀元前488年に即位し
 た。
  紀元前480年のペルシャ戦争は、ギリシャ連合軍を率い
 てテルモピュライに布陣し、アケメネス朝ペルシャの大
 軍を迎撃した。
  粘り強く戦い、最後に残ったスパルタ兵300人と共に戦
 死してしまった。
.
紀元前480年8月、テルモピュライの戦い。
  ペルシャのとてつもない大軍団が、ギリシャへ攻めて
 来る・・
  ギリシャのスパルタ王・レオニダス一世は・・、
  ペルシャ王クセルクセスが、大遠征軍を率いてギリシ
 ャの北方に迫った時、これを迎え撃とうと、ギリシャ軍
 をテルモピュライという狭隘(きょうあい)な峠に陣ど
 らせた。
  そして、100万を超えるともいわれる大軍勢を待ち構え
 た。
  これはオーバーに誇張された人数だとされるが、僅か
 7000人足らずのギリシャ重装歩兵連合軍は、この様な状
 況に、恐怖のどん底にあった。
  撤退を口にする者もあった。
  その様な撤退希望者には、レオニダス一世は、それを
 認めた。
  ギリシャのスパルタ王レオニダス一世は、部下300人と
 この地に踏みとどまった(ギリシャ側総数は7000人とす
 る説もある)
  残ったスパルタ兵は、選りすぐりの兵だった。
  ペルシャ王は、斥候を出し、ギリシャ軍の動向を探ら
 せた。
  すると、スパルタ兵は、体育に精を出し、櫛(くし)
 で頭髪を手入れするのに余念がない・・という報告を受
 けた。
  生死を賭した決戦の前の態勢とはほど遠いと思った・・
 そして、いずれ、逃げ出すに違いないとペルシャ王は思
 った。
  しかし、5日目が来ても、撤退する気配はまったくなか
 った。
  怒ったクセルクセスは、「スパルタ兵を生け捕りにし
 ろ」と命じ、外国人部隊に襲撃させた。
  しかし、スパルタ兵は手ごわく、ペルシャ兵の被害は
 甚大だった。
  こうなったらと、「エリート軍団」の「不死部隊」に
 攻めさせた・・
  しかし、戦果は上がらなかった。
  スパルタ軍は戦術に優れていた・・敗走するように見
 せかけ、必死に追いかけ、その敵兵が追いつく頃、一斉
 反撃をした。
  狭隘な峠にも抜け道があった。
  この道がペルシャ側に知られてしまう・・
  逆に、スパルタ兵が、ギリシャ兵の背後にまわり、ペ
 ルシャ軍は、ギリシャ軍の前後を挟んだ態勢を作った。
  それでも、レオニダス一世の精鋭の兵士は、出撃して
 行って、戦いに戦った。
  ペルシャ兵の大軍の放つ矢は、雨の如く、また、嵐の
 如く降り注いだ。
  さすがのスパルタ兵も力が尽きた・・
  しかし、ペルシャ兵の戦死者も、夥(おびただ)しか
 った。
  戦いが終わった戦場に出たペルシャ王クセルクセスは、
 レオニダス一世の遺骸に出くわすと、八つ裂きにして首
 をはねさせた。
  そして、木に吊るして、さらし首にした。
  戦死者を丁重に扱うペルシャ人の慣例に反することを
 行なった。
  それほど、クセルクセスの憤りは激しく、怒りが抑え
 難い状態だった。
  それほど、レオニダス一世は、少人数ながらも華々し
 く果敢に戦ったのだった。
  クセルクセス王は、兄弟を二人戦死させている。
  レオニダス一世のその統率された精鋭部隊の勇気から
 出た「大いなる戦い」が讃えられている。
  因みに、ペルシャ陸戦部隊(ウィキペディア)は・・
  歩兵...................................1,700,000
  騎兵......................................80,000
  アラビア人のラクダ部隊・リビアの戦車部隊..20,000
  ヨーロッパよりの歩兵.....................300,000
   合計.................................2,100,000
  この後、歴史上では、この戦いが生かされて、サラミ
 ス海戦(紀元前480年9月)で、ギリシャ艦隊(アテネを
 中心とする戦力)がペルシャ大艦隊を撃破する状況が起
 きる。
     ・
     ・
1868年3月、戊辰戦争の新政府軍が、横浜に到着した。
  1868年の江戸から明治に代わる頃、横浜の外国人居留
 地の門は、外国人兵士が守るという関門になっていた。
  1868年3月、戊辰戦争で、東海道を進んで来た薩摩と長
 州の軍は・・横浜に到着した。
  しかし、外国人軍隊が駐屯する開港場では戦闘は発生
 せず、戦いは起きなかった。
  この翌月の4月には、横浜は、佐賀藩を中心とする新政
 府軍によって平和裡に接収された。
  また、この頃、横浜では、奥羽の大名が、戦艦や武器
 を購入したりするという、横浜はその様な状況の中にも
 あった。
  また、横浜の病院には、戊辰戦争の重傷者が、前線の
 病院から担ぎ込まれたりしていた。
  幕府と関係した周辺の庶民が、その様な横浜に用事で
 訪れたり、また、新政府と関係する庶民も訪れるという
 戦闘の無い横浜であった。
  戊辰戦争の敵・味方・・その関わりの中の横浜であっ
 た。
.
1873年2月24日、キリスト教の禁止が撤廃された。
  明治6年のこの年になって、太政官布告によりキリシタ
 ン禁制の高札が撤去された。
  しかし、それよりずーっと以前の1858年に、江戸幕府
 は、開港場居留地において、外国人の信仰の自由を認め
 ている。
  また、宣教師の来日も許可している。
  キリスト教は、過酷なキリスト教の取締りが行われた
 と、ヨーロッパと同様な卑劣な弾圧が日本でも行われた
 とプロパガンダするが・・江戸時代の初期の一時期だけ
 が厳しいという日本だった。
  実態は、上記の信仰の自由の令だけではなく、『実際
 の取締りが行われていない』という状態だった。
  各藩においても、キリスト教の信仰がたとえ知られて
 も、見て見ぬ振りをする状況の中において、何ら取り締
 まりは行われていなかった。
  しかし、キリスト教の教義の中には「殉教」を讃美す
 る言葉があり、日本での取り締まりも、厳しい状況であ
 ったと、殉教があったと・・仕切りに過酷に表現した。
  このキリスト教禁止が撤廃される260年間の間、日本で
 は過酷な弾圧が行われたとキリスト教はプロパガンダ(
 嘘宣伝)をして、日本だけではなく世界に間違った印象
 を与えている。
  この禁止撤廃がなされる前にも、実態は、しきりに宣
 教師が江戸入りして居たり、教会が建てられたりもして
 いる。
  このキリスト教禁止の撤廃は、「法のけじめ」をつけ
 るためにやっただけの事で、キリスト教が言う「それま
 で厳しく取り締まった」というのは『嘘のプロパガンダ』
 である・・キリスト教は嘘で日本を貶める行為は止めな
 さい。
  また、「隠れキリシタン」と言ったって、牧師も神父
 も居ない中で、「隠れキリシタンと言われる人たち」が
 近所の神社・仏閣にお参りする人たちを「隠れたキリシ
 タンだ」と言えるか・・言えるわけはない。
  信仰の実態も、キリスト教からかけ離れた状況になっ
 ていて、「もう、別の宗教となっている」・・キリスト
 教の存在が殆どない状況となっている。
  一生懸命、キリスト教の面影(おもかげ)を探すが、
 その点を拡大し、誇大に表現しているが、それが隠れた
 キリシタンだという言い方をすることは間違っている。
  キリスト教は、隠れキリシタンだとしたいため、仕切
 りにキリスト教への入信を勧めるが、村の古老が「我々
 のやり方とは、違う」とはっきり断っている。
  その古老の心には、キリスト教に対して、明らかに、
 「我々とは違う宗教だ」と言っていることになっている。
  それを、無理に、キリスト教への入信を勧める行為を
 するキリスト教は、「新たな宗教弾圧を行なっている状
 況になっている」。
  最近は、けばけばしいキリスト教の聖職者の服を着て、
 その方たちの儀式へ参列したりしているが、キリスト教
 から離れて『別の宗教となっている宗教』への強制的参
 入をしている状態となっている。
  キリスト教の専門解説書にも、「260年間の断絶の上の
 発見は、世界史的にも特異である」と解説している様に、
  「その特異なもの」を、美しく、自分たちに都合のよ
 い状況の捏造をしているのである。
  そして、キリスト教は、「260年間、耐えて来た」と説
 明しているが、耐えても何もない状況を仕切りに悲惨な
 状況を印象付けている・・それなりの宗教を作って来て
 いるだけなのだ。
  明らかに、その実態は、神道や仏教や呪術と合体した
 「キリスト教とは、まったく別の宗教」なのである。
  キリスト教徒の研究者の片岡弥吉という人でさえ「政
 治、社会、宗教などの異常な環境条件がいかに人間の思
 想や信仰まで異常化させるか」と述べている様に、『異
 常化』と表現する様に「別の状態になっている」のであ
 る。
  日本の宗教が異常とは言えないが・・年月がその様に
 変えてしまったのである。
  そこを、美しく書いて世界遺産へ申請して・・、
  今回、世界遺産となったが・・??
  日本のキリスト教の申請を許可する世界のキリスト教
 社会は、前回は却下したが、今回このデッチ上げを取り
 上げたのだった。
  日本には皆無だった弾圧の虚像が作られようとしてい
 る(当初のほんの一時期だけなのである)
  「日本を植民地化する」という方針のキリスト教が、
 その実態を知った日本の統治者(秀吉や徳川幕府)が、
 日本の法に従わないキリスト教宣教師たちの取締りを強
 化したことが拡大表現されしてプロパガンダされている。
  また、日本で行ったキリスト教の弾圧行為の絵だと卑
 劣な状況を作った絵を・・、
  そして、誰が書いたかわからない絵を、最近は、とっ
 てつけた様な「真実そうな解説」を付けて、仕切りにプ
 ロパガンダしている・・やることが卑劣である。
  実態を見ていない空想の絵を、さも見た者が居て描い
 たのだなどとの嘘のプロパガンダなどが行われている。
  それが、大学という学術的な場所で、キリスト教系の
 教職員によって嘘講義が行われている・・大学の権威失
 墜行為を行っている。
.
19世紀末、ロシアが極東に達し、南下し、中国を侵略する。
  そして、朝鮮半島を侵犯しながら、日本とも軋轢を生
 む・・
  ロシアと、あちこちで衝突していたイギリスは、この
 ロシアと日本が戦うように行動した。
  戦いとなってロシアが敗ければ、イギリスの目的は果
 たせて都合は良くなるのだった。
  イギリスの中国利権を侵食するロシアへ打撃を与える
 目的もあった。
  この頃、イギリスは、チベットやウイグルやネパール
 で、このロシアと凄(すさ)まじい戦いをしていた。
  だから、この様なロシアが、日本と戦うことは、イギ
 リスにとって好ましいことだった。
  そして、日露戦争が起きる。
  日露戦争を戦った日本は消耗したが、力を付ける状況
 にもなった。
  欧米列強と伍す(ごす、他と同等の位置に並ぶ)状況
 となった。
  衰退する日本ではなかった。
  この様な日本とアメリカは満州でぶつかる・・アメリ
 カは満州の利権が欲しかった。
  また、同様に、ドイツも、中国の利権漁りに暗躍する。
  このドイツは、イギリスとぶつかった。
  イギリスは日本と、1902年、日英同盟を結んだ。
  まだ、この頃のアメリカは、イギリスの下にいた。
  日露戦争まで、アメリカは親日的だった。
  日本は、日露戦争後、アメリカがあれほど嫌日政策を
 とるとは予想できなかった。
  ここから、方向転換がなされて行く。
  この後、日本は、イギリスとの同盟関係も無くなって
 行く・・ここでアメリカが色々と工作し行動した。
.
1936年7月18日、スペイン内戦(~1939年3月)
  この5か月前の1936年2月16日に、スペインで総選挙が
 行なわれた。
  その結果、共和主義者や社会党、そして、共産党の協
 力による人民戦線が、右翼の国民戦線に対して勝利した。
  そして、1936年2月19日、選挙に勝利した共和主義者が
 中心となって、アサニャを首班とする人民戦線政府を成
 立させた。
  この左翼政権は、ソ連が支配している赤色政権だった。
  この様な結果は、1931年の第二共和政の成立以来、激
 しくなっていた国内の政治的対立を、ますます激しくし
 た。
  選挙に勝利した人民戦線政府は、2年前の1934年10月の
 反ファシスト政府蜂起における政治犯の釈放や、農地改
 革、カトリック教会の特権の縮小などを課題とした。
  しかし、大衆は、さらなる徹底した社会変革を望んで
 いた。
  特に、スペインにおいて強力であったアナキスト系の
 労働者や農民は、人民戦線政府の意向を越えて・・革命
 化していた。
  これに対して、自由主義的な中間層や社会党・共産党
 の指導下にある労働者などは、人民戦線政府に協力する
 態度をとっていた。
  一方、大資本・地主・キリスト教会を基盤とする右翼
 諸勢力は、軍部を中心として秘かにこの政府の打倒計画
 を進めた。
  革命の陰謀は、フランコらの何人かの将軍を指導者と
 して練られた。
  1936年7月17日のモロッコにおける駐屯軍の蜂起を機に、
 その翌日の1936年7月18日に、軍部が、スペイン各地で反
 乱を起こした。
  この時、フランコは、カナリア諸島からクーデターの
 宣言を放送した。
  反乱は、短期決着を狙ったクーデターとして始まった。
  しかし、労働者の抵抗など、人民戦線政府側の反撃に
 あって、このクーデター計画は失敗した。
  ここで、フランコは、指揮下に、モロッコを拠点にし
 た反乱軍を確保し、ドイツとイタリアの援助も受けて、
 本土に上陸した・・
  フランコ将軍は首都へ進軍した。
  ここから長い内戦が始まった。
  ソ連は、当然のごとく政府側を支援し、政府側は、ま
 た、国際義勇軍の支援も受けた。
  一方、ドイツとイタリアは、フランコ将軍の革命軍側
 に協力した。
  この状態で、イギリスとフランスは、政府側についた。
  イギリスは、ソ連と共同戦線を張った。
  スペインが戦場のこの内戦で、イギリスとフランスは、
 ナチス・ドイツと戦った。
  これで、イギリスとフランスは、『徹底的に』、ドイ
 ツとイタリアと対立した。
  ここに、第二次世界大戦の芽が生まれた。
  スペイン内戦は、結局、ドイツとイタリアの援助を受
 けた軍部・右翼勢力が勝ち、フランコ将軍の独裁体制が
 成立した。
  そして、フランコ将軍が死去する1975年まで独裁政権
 を維持した。
  この内戦は、ピカソの絵画「ゲルニカ」のモチーフに
 なった。
.
1946年11月12日、閣議で現代かなづかいを決定(アメリカ
 の指図)
.
1946年11月15日、アメリカの日本語の破壊行為
  脅威の芽を日本から摘み取るという名目で、GHQが
 行った日本の文化破壊・・その一つである日本語の「国
 語破壊」。
  これは、『改革』という美しく聞こえる名目で始めら
 れた。
  GHQが実施したのが、国語改革・・
  やり方は・・内閣告示という形で、日本人が自ら行っ
 た様に見せかけた。
  1946年(昭和21年)11月15日、内閣訓令第七号「当用
 漢字表の実施に関する件」、第八号
  「現代かなづかいの実施に関する件」
  江藤淳氏は、この国語改革を以下の様に批判した。
  『漢字制限をおこない、表音的かなづかいを強制する
 ということは、アメリカの占領者の側から見れば、日本
 語を少しでも素通しに近いものに変形させ、アメリカ人
 に習得しやすいものにするにとどまらず、それによって
 日本語の周辺に漂っていると思われた神秘的な要素を、
 一挙(いっきょ)に洗い流してしまうことをも意図して
 いた」。
  (参考)江藤淳:えとうじゅん、1932年12月25日~1999
     年7月21日、神奈川、鎌倉、評論家。
      東京工業大学、慶應義塾大学教授等を歴任、
      本名:江頭淳夫。
      1957年、慶應義塾大学英文科卒業。在学中、
     胸を病む。
      1976年、芸術院賞受賞。日本文芸家協会理事
     長などを歴任。
      1998年、妻慶子に先立たれ、亡くなるまでを
     綴った手記『妻と私』を発表、その後自殺した。
      代表作:『奴隷の思想を排す』(1958年)
          『小林秀雄』(1961年)
          『成熟と喪失』(1967年)
          『海は甦える』(1976年)
          『漱石とその時代』(1970年、未完)
      主な受賞歴:新潮社文学賞(1962年)
            菊池寛賞(1970年)
            野間文芸賞(1970年)
            日本芸術院賞(1976年)
            正論大賞(1997年)
  その結果・・どういうことが起きたか・・
  漢字及び仮名遣いの両面において・・、
  大東亜戦争以前の日本の言語文化は、戦後の言語文化
 と制度的に切り離されることになった。
  豊かな日本語・・その言葉に内包する日本人の情念や
 意志も、その連続性が断たれることとなった。
  江藤教授は・・
  「『言葉』の変質とは、単なる言い換えにとどまりは
 しない」、
  「変質させる側からいえば夥(おびただ)しいエネル
 ギーを奪取することであり、変質される側にとってみれ
 ば際限もない脱力感を経験させられること」で・・、
  「『大東亜戦争』が『太平洋戦争』と言い換えられた
 とき、『大東亜戦争』のために傾注されて来たあらゆる
 エネルギーは、一挙に空無化され」・・、
  「そのあとには果てしない徒労感のみが残る。
  一方、かつて『太平洋戦争』を戦ったことがない日本
 人が、『太平洋戦争』という記号に自己の経験を重ね合
 わせることは、きわめて困難だといわなければならない」
  『自由と禁忌』と江藤淳教授述べた。
  歴史的仮名遣いは、使う人の趣味やある種の芸術性の
 有無の問題などではなく、
  日本人の「国語」としての成り立ち、合理性、わかり
 やすさの問題で・・
  それは、今日、生きている日本人の歴史的財産である
 はずで・・
  それを排除されてしまっては、日本の文化遺産に触れ
 ることも、過去の日本人の心情を理解することもできな
 くなってしまう・・
  そういう畏れを持ちたかった・・
  「守るべきもの」を、「失いつつあること」を自覚す
 る、その痛みを感じる・・
  福田恆存の次の言葉を・・
  「言葉は、私達の生まれる前から存在し、長い歴史を
 生きて来たのであり、私達は、日本語といふ大家族の一
 員として生れた新参者なのである。
  とすれば、私達は言葉を学ぶのではなく、言葉が私達
 に生き方を教へるのである。
  私達は、謙虚に言葉に附き合はなければいけない。
  自然と歴史と言葉、この三者は、知識としては教育の
 対象ではあるが、それ以上に最上の教師である事を忘れ
 てはならない」。
  「言葉は教師である」
  守るべきは、自然と歴史と言葉・・
.
1946年11月16日、内閣が当用漢字・現代かなづかいを告示
 (アメリカの指図)
.
1963年6月、アメリカのケネディ大統領が政府紙幣を発行し
 た。
  アメリカのケネディ大統領は、大統領令11110号
(Executive Order 11110)に署名した。
  そして、1963年6月に、財務省証券という名前の政府紙
 幣を発行した。
  その札は、FRBが発行している紙幣とほぼ同じデザ
 インだった。
  ただFRBのマークが無く、その代わり「政府券」と
 印刷された紙幣だった。
  42億ドル分が発行されたが、FRBの持つ独占的な通
 貨発行権への挑戦だった。
  そして、ケネディは、1963年11月22日に暗殺された。
  犯人とされたオズワルドも、ダラス警察署の中で射殺
 された。
  ケネディの後の大統領となった副大統領のリンドン・
 ジョンソンは、ケネディが発行したドル紙幣を秘かにそ
 のすべてを回収させた。
  政府発行紙幣など無かったかのように・・
  ケネディ暗殺と政府発行紙幣が関係があるかのように、
 明らかな関係性をその行動は「ある」と示していた。
  エドワード・グリフィンの「マネーを生み出す怪物」
 を読まれよ。
  (参考)チャールズ・リンドバーグ下院議員は、連邦
     準備法が可決された1913年12月23日に次のよう
     に述べた・・
     「連邦準備法は、世界で最も巨大な信用を規定
     するものだ。
      ウィルソン大統領がこの法案にサインすれば、
     金融権力という見えない政府が合法化される。
      この銀行制度と通貨に関する法案によって、
     世紀の重大な犯罪が準備されることになるのだ」
      アメリカ国民の方々が支払った税金の20%が
     国際金融資本家へ流れている。
.
2015年、日本の平均年収:420万円
  この平均年収は、前年度より約5万円増となった。
  男性が、521万円(前年より3万円増加している)、
  女性が、276万円
  前年に比べて、男性は1.2%増、女性1.4%増。
  因みに・・この年のNHK平均年収:1780万円
  一般庶民の日本国民は、努力してこの平均年収となっ
 ている・・が・・
  NHKはこの4.24倍・・貴方の4年分の働き分以上を貰
 っている。
  あなた方の4人分以上の金を得ている。
  NHKは、優雅に、ろくに働かなくて、高給をお手盛
 りで得ている。
.
2015年、外国人の犯罪・・中国32.3%・・など
  日本における外国人の犯罪データーについて・・、
  衆議院議員の自由民主党の長尾敬氏の調査した結果が
 以下である。
  平成27年度の検挙件数と検挙人数、
 ☆総件数:...14,267件、
  ①中国:....4,615件(32.3%)
  ②ベトナム:3,315件(23.2%)、
  ③ブラジル:1,410件(9.9%)、
  参考値、アメリカ:245件(1.7%)、
 ☆総人数:...10,042人、
  ①中国人:..3,637人(36.2%)、
  ②ベトナム:1,967人(19.6%)、
  ③フィリピン:833人(8.3%)、
  ④韓国:......696人(6.9%)
  参考、アメリカ:178人(1.8%)
 ☆沖縄における外国人犯罪:2018年、
  外国人総検挙数:119件、
  その内、アメリカ人関係(米軍関係)総検挙数:31件、
  粗暴犯・窃盗犯16件(以上:米軍広報の発表)2014年、
  沖縄人口比:0.24%、米軍の犯罪比率0.05%・・
  沖縄の米軍の犯罪の比率は少ない
  (参考)外国人は逮捕しにくい。
      また、犯罪を起こしたら、すぐ帰国してしま
     うという傾向がある。
.
2017年1月20日、ドナルド・トランプ氏が、第45代アメリカ
 合衆国大統領に就任した。
  2015年6月16日に、2016年のアメリカ合衆国大統領選挙
 へ共和党から出馬することを表明した。
  トランプ氏の初期キャンペーンは、大々的にメディア
 の注目を浴び、広く一般の支持を集めた。
  ヒスパニックへの愛を表明し、マンハッタンのトラン
 プ・タワーで各分野のラティーノ指導者らと会談を持ち、
 マイノリティの声に耳を傾けてもいる。
  (参考)ラティーノ:スペイン語を母国語とする中南
     米出身者やその子孫で、米国に住む人々。
  また、親しい黒人女優のオマロサ・マニゴールトとと
 もにミシガン州デトロイトを訪れ、黒人有権者らとセル
 フィ(画像撮影)したり、赤ちゃんを抱っこしたり、一
 緒に踊ったりし、差別されてきた人たちを理解している
 ことを訴えた。
  2016年11月8日、2016年アメリカ合衆国大統領選挙一般
 投票が行われ、開票の結果、一部の州を除き、全米で過
 半数の選挙人を獲得する見通しとなったため、第45代ア
 メリカ合衆国大統領に就任することが確実となった。
  そして・・
  労働者が、今、「労働者」と言うと何か?古そうに感
 じるが・・、
  その労働者が、豊かになりたいと、「労働争議権を獲
 得して、豊かな賃金を獲得して、その夢を実現して来た」。
  しかし、グローバル化の音頭の中で、企業は、高賃金
 の国から、「低賃金の労働力を求めて」出て行った。
  高賃金を獲得したその労働者は失職し、年収はがた減
 りした。
  一方、グローバリズムの波に乗って、「グローバル企
 業は儲けた」。
  経営者は、より高い年収となり、その年収の格差は拡
 大した。
  グローバリズムで、「豊かな者は、より豊かになり」・・
 一方、貧者は、さらに貧困層へ下落した。
  トランプ大統領は、この貧者を救いたいと「反グロー
 バリズム」を掲げた。
  その方針の中で「アメリカ第一主義」を掲げた。
  今まで世界を牛耳ってきた『エスタブリッシュメント
 たち(特権階級の者たち)』にとって一大事となった。
  キリスト教は、特に、このグローバリズムの本質を説
 明しないで、グローバリズムを良いものと「錯覚させて
 説く」。
  特に、卑劣なのは・・キリスト教系大学の学長が、学
 院生へ説く言葉・・
  「多様性に対する寛容とナショナリズム克服の進展が
 ある」と美しくグローバリズムをとらえて讃美して説く。
  そして、対極にあるナショナリズムは「分断と排除だ」
 と悪く思い込ませて説く・・、
  キリスト教の宗教が、今までやって来たことと同じ様
 にすり替えて、グローバリズムを美しく思い込ませて洗
 脳的に説く。
  キリスト教こそ、「異教徒は殺せ」の異質な者への排
 除をして来て、グローバリズムとまったく逆であったの
 に・・「ナショナリズムは、異質な者への尊重が無い」
 と悪者にすり替えて説く。
  キリスト教の「選民思想(神に選ばれし民の思想)」
 こそ、「反グローバリズムである」のにひた隠しにし・・
  キリスト教の聖書で、キリスト教の神が「奴隷にせよ、
 奴隷にせよ」と叫ぶことさえひた隠しにして・・、
  (「我が民族以外は奴隷にしてしまえ」をひた隠しに
 して)、グローバル化へ衣替えして、美しく言い換えて
 いる。
  トランプ大統領の政策・・
  ・低所得層の税金は免除する。
  ・法人税を35%を半分以下の15%にする。
  ・海外に移転した企業をアメリカに呼び戻す。
  ・不法移民は受け入れない(不法なので当然。入国し
   たいのなら合法的にアメリカに入国しなさい)
  世界のメディアは、日本のメディアも含めて、このト
 ランプ大統領の足を引っ張る事ばかりをする・・その様
 に印象操作をする。
  特権階級のエスタブリッシュメントとつながる「メデ
 ィアの黒い線」が世界に張り巡らされている。
.
2019年3月11日、この日に放送されたTBSの番組「1番だ
 けが知っている」に、IQ(知能指数)188の天才、太田
 三砂貴(みさき)氏(24歳)が出演した。
  IQは、東大生の平均が120、レオナルド・ダ・ヴィン
 チが180だという。
  そして、
  IQ188になると5億人に一人の天才で、日本の歴史上
 最高の天才だという。
  太田氏は、高校時代の16歳の時にMENSA(高知能
 者の集まる組織、高知能の人しか入会できない組織)の
 入会試験で高得点を出した。
  脳科学者の中野信子氏によると、「IQが高ければ学
 力が高いわけではない」と言われる。
  そして、「これは、IQを語るときのジレンマで、今
 の受験勉強というのは、記憶力が高ければ受かる仕組み」。
  「記憶学習能力とIQは違う」。
  「記憶学習能力が高いことは、頭がいいということで
 はない」と言われる。
  (参考)
  知能指数(Intelligence Quotient、IQ)
  IQが高いほど知能が高いことを、低いほど知能が低
 いことをあらわす。
  中央値が、IQ100
  IQ85~IQ115の間に約68%の人が収まる。
  IQ70~IQ130の間に約95%の人が収まる。
  IQ50~IQ70は軽度知的障害、IQ35~IQ50は中
 度知的障害、IQ20~IQ35は重度知的障害、IQ20未
 満は最重度知的障害とされる。
  年齢の低い児童の場合は、IQが200を超えるような場
 合もある。
  ミシガン大学のNisbett教授によると、IQの平均は
 1947年から2002年の間に18上昇しているという。
  30年で約10上昇している。
  この現象のことをFlynn effect(フリン効果)と呼ぶ。
  性差は、知能に関する多くの調査では性差は発見され
 ていない。
  カリフォルニア大学ロサンゼルス校ラスキン公共政策
 大学院の研究者 JISUNG PARK の研究で、2001年から2014
 年までの13年間、1000万人のアメリカ人学生に行われた
 PSAT試験の追跡調査が行われた。
  その結果、気温が高い年の試験結果が悪くなる傾向が
 みられた。
  特に、空調の恩恵を受けられない貧困家庭などに大き
 な影響がみられた。
  同一人物のIQは、ある程度は、年齢とともに変動す
 るものだと言うことができるとされている。
  また、「小学校1年生時点のIQはそれ以降大きく変わ
 るケースが多い」ということと、「小学校3年生以上では、
 IQの変化はかなり少なくなってくる」という研究結果
 もある。
  また、大きな事件があった場合や、深い悩みがあった
 場合などはIQが大きく変動する。
  性悪説で悪く思考したりすることは良くない。
  評価:
  130以上・・非常に優れている。2.3%
  120~129・・優れている。6.8%
  110~119・・平均の上。16.1%
  90~109・・平均。49.5%
  80~89・・平均の下。16.1%
  70~79・・境界線。6.8%
  69以下・・知的障害(認知症を含む)2.3%
.
  IQ:74~88、全人類の約20%
  IQ:89~100、全人類の約25%・・普通
  IQ:101~111、全人類の約25%・・普通
  IQ:112~120、全人類の約15%
  IQ:121~125、全人類の約5%
  IQ:126~131、全人類の約3%
  IQ:132~137、全人類の約1%
  IQ:138~150、全人類の約0.9%
  IQ:151~160、全人類の約0.09% リンカーン、コペル
   ニクスなど
  IQ:161~176、全人類の約0.009% アインシュタイン、
   デカルトなど
  IQ:177~200、全人類の約0.0009%ゲーテ、シェイクス
   ピア、ニュートンなど
         以上合計、95パーセント
  以上から
  IQ:0~23、全人類の約0.0009%
  IQ:24~39、全人類の約0.009%
  IQ:40~49、全人類の約0.09%
  IQ:50~62、全人類の約0.9%
  IQ:63~68、全人類の約1%
  IQ:69~74、全人類の約3%
  IQ:75~79、全人類の約5%
  IQ:80~88、全人類の約15%
  IQ:89~100、全人類の約25%・・普通
  IQ:101~111、全人類の約25%・・普通
  IQ:112~120、全人類の約15%
  IQ:121~125、全人類の約5%
  IQ:126~131、全人類の約3%
  IQ:132~137、全人類の約1%
  IQ:138~150、全人類の約0.9%
  IQ:151~160、全人類の約0.09% 
  IQ:161~176、全人類の約0.009%
  IQ:177~200、全人類の約0.0009%
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
# by suba28 | 2019-04-20 04:57 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)640E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)

題:(増補版)640E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年3月1日、大隈重信が進歩党を結成した(~1898年6月
 20日)
  この日、立憲改進党、立憲革新党、大手倶楽部、帝国
 財政革新会、中国進歩党などが合同し・・
  立憲改進党などを中心にして、代議士99名で結成した。
  大隈重信が事実上の党首であったが、正式な役職には
 就かず、形式的には犬養毅、尾崎行雄、大東義徹、柴四
 朗(東海散士)、長谷場純孝の5名の総務委員が代表者と
 なった。
  進歩主義に立つことを宣言し、責任内閣の完成と、国
 権の拡張、財政整理を掲げた。
  自由党に対抗して、小政党を合併して組織された政党
 だった。
  1896年9月に、第2次松方正義内閣に大隈重信が入閣し
 進歩党も与党となって、第10議会では金本位制確立のた
 めの貨幣法案を成立させた。
  1898年に、第三次伊藤内閣の成立後、自由党と合同し
 て憲政党に改組された。
.
1896年3月1日、第一次エチオピア戦争: アドワの戦い
  イタリア軍とエチオピア軍が、エチオピアのティグレ
 州アドワ近郊で戦ったが・・
  イタリアのエチオピア征討軍は、アドワで大敗した。
  イタリアの敗北が決定づけられた。
  19世紀のアフリカは「悲惨な世紀」だった。
  ヨーロッパ列強各国によって、いい様に殺戮され、植
 民地化された。
  アフリカの大部分は、ヨーロッパ列強の国々によって
 影も形も無い状態だった。
  アメリカの黒人の方々の棄民目的でリンカーンが造っ
 たアフリカの国=リベリアと、このエチオピアのみが独
 立国であった・・ほとんどの国々が植民地で、蹂躙され
 ていた。
  だが、植民地獲得の欲望が収まらないヨーロッパ各国。
  そして、このエチオピアへも侵略が行なわれた。
  エチオピア軍を率いたのは「メネリク2世」だった。
  イタリア軍は、補給に事欠く状況だったが、本国の命
 令でオレステ・バレティエ将軍は、1896年2月29日、進軍
 を命じた。
  この状況を察知していた優秀なエチオピア軍は、即座
 に全面攻撃を命じた。
  イタリア軍14,527名、エチオピア軍12万人・・エチオ
 ピア軍は、各地でイタリア軍を包囲した。
  イタリア軍が撤退をすれば、追撃をし続けた。
  イタリア軍は8,000名を失った・・また、エチオピア軍
 も1万名を失った。
  主力を欠いたイタリア軍は降伏をせざるを得ず、アジ
 スアベバ条約を締結して、エチオピアの当然の独立を承
 認した・・
  『白人の横暴な行為』が挫けた事例として燦然と輝く。
.
1896年3月7日、沖縄県に県区制、郡区制が公布され、県下
 を首里区、那覇区と5郡で区分する。
  明治29年勅令第13号「沖縄県ノ郡編制ニ関スル件」に
 より・・、
  島尻郡、中頭郡、国頭郡、宮古郡、八重山郡の5郡を設
 置し、宮古と八重山に島庁(島司)を置いた。
  また、「那覇市」の前身「那覇区」と、首里市の前身
 「首里区」を設置した。
.
1896年3月7日、衆議院議員・立石岐ほか5人は、「鉄道敷設
 上本位軌道採用ニ関スル建議案」を提出した。
  また、市島謙吉ほか4人は、「広軌鉄道ニ関スル建議案」
 を議会に提出した。
  建議案は、特別委員に付託され、3月25日、本会議に
 修正案報告、同修正報告案賛成多数で可決された。
.
1896年3月10日、参謀総長の小松宮彰仁親王は、閣議決定を
 みた台湾縦貫鉄道、ならびに、基隆築港測量費の10万円
 のうち約7万3000円を鉄道建設調査費として支出すること
 を台湾総督に通牒(つうちょう、書面で通知すること)
 した。
  この調査費によって、この年の6月までに、新竹・打狗
 間の予測が終了した。
.
1896年3月11日、東海道線の大阪駅~西ノ宮駅間が複線とし
 て開通した。
  1869年、政府は、東京~京都の両京を結ぶ鉄道を幹線
 と定め、重視して施策を進めた。
.
1896年3月13日、奈良鉄道の玉水駅~木津駅間が開通した。
.
1896年3月15日、日本郵船が、欧州定期航路を開設した。
  土佐丸が就航する。
  また、1896年10月には、豪州航路を開設した。
  2年間の激しい競争の末、日本郵船のボンベイ航路は、
 国際的に認められた。
  「近海の海運」から「遠洋への海運」へと事業は拡大
 して行った。
  続いて挑戦したのが・・「欧州航路」だった。
  1896年、日本郵船は、ロンドン支店を設置し、土佐丸
 をヨーロッパに向け出航させた。
  しかし、またしても、欧米の海運会社組織が、既得権
 を主張した。
  復路(東航)のロンドンと、往路(西航)の上海寄港
 を阻止してきた。
  この最大の貨物集積地に寄港できないことは、ビジネ
 ス上の大きなマイナスだった。
  しかし、その相手を刺激すれば、ビジネスそのものが
 できなくなる状況だった。
  屈辱的な条件のもとで、運航を続けた。
  その様な運行状況ながらも、日本郵船は、船隊の拡充
 を進めて行った。
  信濃丸を含む13隻が揃った。
  総トン数で欧州海運会社に匹敵する体制ができあがっ
 て行った。
  この様な立派な体制になっては、対抗相手側も無視で
 きず、日本の海運を対等の競争相手と認めざるを得なか
 った。
  1902年、日本郵船は、欧州極東往航同盟への正式加入
 を果たした・・
  これを契機にして、海外への航路網を飛躍的に伸ばし
 て行った。
.
1896年3月16日、陸軍が、6個師団の増設を決定した。
  1871年に、明治政府は、東京鎮台、大阪鎮台、鎮西鎮
 台、東北鎮台の4鎮台を設置した。
  そして、1873年、2鎮台を増設して、東京鎮台、大阪鎮
 台、名古屋鎮台、広島鎮台、熊本鎮台(旧:鎮西鎮台)、
 仙台鎮台(旧:東北鎮台)の6鎮台を設置した。
  そして、1896年から、軍備拡張によって師団が増設さ
 れ・・、
  明治末には、国内の師団数は18となった。
.
1896年3月16日、朝鮮の大院君一派の人々が逮捕された。
  漢城府観察使の金経夏や呂圭亨など数十名が逮捕され
 裁判へ
  1896年2月11日、李氏朝鮮の第26代王・高宗が、ロシア
 公使館へ騙(だま)され、脅されて、逃げ込んで、親露
 政権が作られだが、そして、その結果、ロシアは種々の
 利権を獲得していくが・・
  そして、この日、親日派だとして金允植が流刑にされ
 たり、親日派が殺されたりした。
  この様な状況に怒った民衆が暴動などを起こしたり(
 1896年2月18日)・・
  1896年2月22日、李範晋が、法部大臣兼警務使となり、
 大院君派の粛清を開始した。
  朝鮮国内は荒れていた・・そして、この日、高宗と対
 峙する大院君派が逮捕された。
.
1896年3月22日、「生物始源、一名:種源論」立花銑三郎訳、
 経済雑誌社、
  立花銑三郎が、ダーウィンの著作を「生物始源(一名
 種源論)」という題で日本初翻訳をした。
  1000ページを超える大著だった。
  この時、28歳の銑三郎は、学習院嘱託教授であった。
  ちなみに、銑三郎は、夏目漱石の大学予備門時代から
 の同級生だった。
  銑三郎は、1900年、35歳で早世するが、漱石は、1909
 年に発表した中篇「満韓ところどころ」のなかで、銑三
 郎を親しげに「銑さん銑さん」と呼んでいたことを回想
 している。
  銑三郎と夏目漱石は、行く時期はずれたが、共に、ド
 イツとイギリスへ留学している・・
  そして、その翌年の1900年に、遅れて来た夏目漱石と
 対面した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本人の一般国民も、多数、拉致され、シベリアへ連れて行かれていた。
    シベリア抑留者は、拉致され、監禁された。
    その実態は、非人道的な足枷(あしかせ)をされている監禁の状態だった。
.
紀元前5万年以上、原人:「ホモ・ルゾネンシス」がフィリ
 ピンで発見される。
  2018年4月11日の読売新聞に・・新「原人」化石、フィ
 リピンに。アジアで5番目・・と報道されていた・・
  以下、その記事の抜粋・・
  フィリピン・ルソン島で、新種の人類の化石が見つか
 ったと、フランスとフィリピンなどの研究チームが発表
 した。
  同島に5万年以上前に生存していた原人とみられる。
  (参考)原人:人類の進化は5段階(初期の猿人、猿人、
     原人、旧人、現生人類)に大別され、その3段階
     目にあたる。
      猿人とは違い、アフリカからユーラシア大陸
     に進出した。
      猿人より脳が増大し、顎や歯が縮小した。
  アジアで発見された第5の原人となり、同チームは「東
 南アジアの島々における人類の進化の複雑さなどを示す
 発見だ」としている。
  論文が11日、英科学誌ネイチャーに掲載される。
  化石が見つかったのは、同島北部のカラオ洞窟。
  歯や手足の骨の化石で、分析した結果、猿人の様な原
 始的な特徴と30万年~20万年前に誕生した現生人類(ホ
 モ・サピエンス〉などに似た特徴が混在し、同時代にア
 ジアにいた他の原人と異なっていた。
  同チームは新種と判断し、「ホモ・ルゾネンシス」と
 命名した。
  化石の年代測定から、5万年以上前に同島にいたとみら
 れる。
  アジアの原人は、中国の北京原人、インドネシアのジ
 ャワ原人とフローレス原人、中国の和県人(わけんじん)、
 台湾の澎湖人(ほうこじん)が過去に見つかっていた。
  ホモ・ルゾネンシスの臼歯は極端に小さく、海部陽介・
 国立科学博物館人類史研究グループ長は・・身長1メート
 ルあまりのフローレス原人のように「小型化していた可
 能性がうかがえる」と指摘。
  「アジアの島々では非常に独特は進化が起きており、
 他の島でも新種が見つかる可能性がある」と話す。
  ・・以上・・
 (関連事項):
  以上の話の中に、日本の先住民として、アイヌの根拠
 となる話はまったく出て来ない・・また、想像も、まっ
 たくできない。
  それは、アイヌは、それよりズーット後の世の1300年
 代にできたことが科学的に判明していて、分かっている
 からで・・
  アイヌは、まったく先住民ではない・・
  その様なことが分かっていながら、今、日本では、ま
 ったく異常な、非科学的な、また、まったく根拠のない
 「アイヌが日本の先住民族だ」という政治的決議がなさ
 れようとしている。
  今回の地方選で演説していた立憲民主党の女性議員と
 話し合ったが・・
  その論理に、まったく科学的な根拠がなく、ただ政治
 的な動きで「先住民としようとしていることが、はっき
 りわかった」。
  その議員が、「北海道でアイヌは先住民として生きて
 来た」と主張したので・・
  「北海道には、アイヌの人たちより何万年も前から縄
 文人の人たちが居たのですよ。縄文遺跡もいっぱいあり
 ますよ」と教えてあげた。
  「アイヌは日本人なんです」と主張したので・・
  「そうです。しかし、樺太のアイヌは日本人ではあり
 ません」と答えた・・
  「私は人類学をやって来た」と主張したので・・
  「そんな看板で話はしないでください」と言った。
  「国連が決めているから」と主張したので・・
  「国連が間違ったことを決める訳がない。国連が間違
 っているのなら、国連に科学的に正しいことを教えてや
 ってください」と伝えた・・
  「アイヌの言語が独特だ」と主張するから・・
  「言語が独特というなら、1例として中米のインディオ
 の方々には160もの言語があるのです。160もの先住民が
 居るという事ですか?」と・・返事が出来ない、答えら
 れない。
  「北海道にはアイヌの地名が一杯ある」と主張するの
 で・・
  「アイヌの地名なら九州にだってあるんですよ」と説
 明する。
  「学者・専門家に言って下さい」と主張するので・・
  「学者にも言っています。今は、間違っている政治家
 のあなたに間違いを説明しているのです」と言った。
  などなど・・最後は、応援演説をしたいのでと言って
 逃げた。
.
1836年、合衆国第二銀行の期限が来る・・アメリカの運命
 を決める中央銀行の期限が来る・・
  アメリカに中央銀行を作らせ、この通貨発行権を握ろ
 うと暗躍するイギリスのロスチャイルド家。
  そのアメリカの中央銀行を民間銀行として、その株式
 を牛耳ろうとするやり方自体も異常である。
  アメリカの通貨である「米ドル」を発行する銀行を民
 間銀行とするというのも異常であるが、この株式をロス
 チャイルドが牛耳ってしまおうというのも異常である。
  これによって、ロスチャイルド家には、自動的に金が
 転がり込んでくる。
  アメリカは抵抗するが、中央銀行は出来てしまう。
  その最初の合衆国第一銀行も期限が来て閉じられたが・・、
 また、色々な工作が行われて合衆国第二銀行が出来る。
  そして、その合衆国第二銀行も20年の期限が、この年・
 1836年に来た。
  アメリカ大統領のジャクソンは、その期限の来る少し
 前の1832年に、「更新はしない」と、合衆国第二銀行の
 存続の更新を否定した。
  アメリカ国内は、上や下への大激論、激しい攻防が繰
 り広げられた。
  ジャクソン大統領は、頑強に反対し、抵抗し、妥協も
 しなかった。
  そして、期限切れを迎えた。
  合衆国第二銀行は終了し、閉じられた。
  ジャクソン大統領は、暗殺のターゲットになった。
  そして、狙撃された。
  幸い不発だったため、命は助かった。
  中央銀行に反対したので狙われたと言われた。
  中央銀行が無いので、一般の銀行が銀行券を発行して
 流通させた。
  銀行券は何種類も出回った。
  金融を支配する通貨発行権を手に入れたいロスチャイ
 ルド家の目的は、達成されないままとなった。
.
1861年4月12日、南北戦争が始まった(~1865年5月9日)
  アメリカの南北戦争の勃発の理由について、イギリス
 のユダヤ系列の首相のディズレーリは言った・・、
  「何故、アメリカを二分する必要があったかというと、
 イギリスのコントロールが効かなくなったアメリカを発
 展させないためだ」・・と・・
  イギリスが、アメリカを二分しようと計画していたと
 いうこの発言を裏付ける話は明らかに色々ある。
  また、因みに、アメリカの南北戦争のアメリカ北軍の
 トップであるリンカーン大統領は、「奴隷解放の父」と
 讃美されているがまったくの嘘で「でっち上げ」。
  後から付け足されたもの。
  「奴隷解放」は・・北軍の「戦争の大義」としてでっ
 ち上げられたものだった。
  リンカーンは、はっきり「私は奴隷制度を廃止しよう
 と思っていない」と言っている。
.
1865年4月15日、リンカーン大統領が暗殺される。
  (参考)その直ぐ後の1865年5月9日、南北戦争は終わ
     る。
  南北戦争の時、リンカーン大統領は、戦費の調達に困
 った。
  ロスチャイルドなどの銀行家から資金を借りようとし
 た。
  しかし、ロスチャイルドは、非常に高い利率の利息を
 要求した。
  ロスチャイルドは、24%~36%とひっくりするほどの
 高い利子をリンカーンに要求した。
  リンカーンは、借り入れを断念した。
  ここで、リンカーンは、とんでもないことをした。
  リンカーンは、自分で金を刷ることにした。
  アメリカ政府の信用で、独自紙幣を発行した。
  「グリーンバックス」と言われるアメリカ財務省の法
 定通貨だった。
  紙幣の裏を緑色に印刷したので「グリーンバックス」
 と呼ばれた。
  アメリカの最初の法定通貨だった。
  輪転機を動かせば、いくらでも、どんどん金が刷れた。
  戦費を賄(まかな)うのは簡単だった。
  リンカーンは、「打出の小槌(うちでのこづち)」を
 手に入れた。
  イギリスのロスチャイルドらの銀行家は、南軍にも北
 軍にも金を貸して、大儲けしようとしていたが、その目
 論見は「完全に外れた」。
  イギリスの銀行家は、リンカーンを倒したいと思った。
  また、この様な行為を許していたら、アメリカの通貨
 発行権を握ってアメリカを支配するという戦略が崩壊し
 てしまう。
  そして、アメリカが、独自通貨をいくらでも発行する
 ということは、その先にアメリカの繁栄がある。
  イギリスに対抗する国家が出現してしまう。
  イギリスの脅威となってしまう。
  当時のイギリスの「タイムス」紙が社説で報じた・・
  「アメリカの法定通貨が、コストをかけずに供給され
 ている」
  「コストをかけずに通貨を供給できるということは、
 通貨発行銀行である民間の中央銀行に、利子を支払う必
 要が無い」
  「もし、アメリカに起源を持つあの有害な法定通貨政
 策が定着してしまえば、アメリカ政府は通貨をコストを
 かけずに供給することになる。そうなると、アメリカ政
 府は債務を完済し、債務のない政府になる。
  アメリカ政府は、商業活動上、必要なすべての通貨を
 所有することになり、文明国の中で史上類のない繁栄を
 謳歌することになる。
  すべての国の人材も富もアメリカ合衆国へ移動してし
 まう」
  「アメリカ政府は打倒されるべきである。
  さもなければ、アメリカ政府は地上のすべての君主国
 を破壊するだろう」・・と。
.
1895年、韓国・朝鮮が、それまでの「慕華思想」から「慕
 和思想」に転換した。
  崔基鎬教授は、自著で書く・・
  「1895年、日清戦争の終結と同時に、韓国では、それ
 までの500年に渡る慕華思想(中国に対する敬慕)から
 一転して、慕和思想(日本に対する敬慕)に転換した。
  それが、1945年からは、慕華でもなく慕和でもなく、
 他人を尊重する心を見い出す事も至難になった・・と。
  (参考)崔基鎬:チェケイホ、1923年生まれ。
      明知大学助教授、中央大学、東国大学経営大
      学院教授を経て、加耶大学客員教授。
       民間レベルでの日韓関係改善に努め、サハ
      リン在住韓国人の本国往来問題、原爆被爆者
      の治療援助、在日韓国人の法的地位向上のた
      めに尽力。
.
1899年、アメリカの門戸開放宣言
  アメリカの国務長官ヘイによって提唱された外交政策。
  中国の領土保全と門戸開放、商業上の機会均等を主張
 したもので、遅れて登場したアメリカが列強の帝国主義
 競争への割り込みを意図したものだった。
  このアメリカには、一貫した方針が、ズーットあった。
  自国の領土の拡大である。
  アメリカ・インディアンの方々の地であるアメリカ大
 陸の奪取に引き続き・・太平洋の島々を奪い・・フィリ
 ピンを奪った。
  しかし、アメリカが、アジアに到達したときは遅すぎ
 た。
  イギリスが、もう堂々とそのほとんどを植民地とし、
 インドからシンガポールへ至り、また、香港へ至り、中
 国各地に利権を確立させていた。
  ロシアはシベリアに達して、北から中国へ至っていた。
  また、フランスもすでに南から中国へ至り・・もはや
 出遅れているとアメリカは思った。
  そこで発したのが、この中国の門戸開放宣言だった。
  これは、「俺にも美味しい分け前をよこせ」だった。
  日本とロシアがぶつかった日露戦争において、アメリ
 カは日本を応援した。
  これは、ロシアが退くことがアメリカにとって都合が
 良かった。
  だから、日露戦争が、日本の勝利で終わると、アメリ
 カは手のひらを返したように、今度は、日本と対抗する
 ような態度になった。
  ここが始まりとして、日本はアメリカと戦争をするよ
 うにされて行く。
  だから、アメリカは、日本と対抗することを前提とし
 て行動を続けて行った。
  日本はぎりぎりまで戦争回避に努めた。
  しかし、アメリカは、日本を追い込む手を緩めなかっ
 た。
  アメリカは、日本との開戦への路線をひた走った。
  アメリカは、中国の上海から中国浸透を企てた。
  キリスト教宣教師を利用する手をこうじた。
  中国での利益確保の先兵としてキリスト教を利用した。
  中国人留学生向けの予備校を作った。
  「精華学園」と言った。
  それと共に「日貨排斥(日本商品ボイコット)」を支
 援して、日本の貶(おとし)めと排斥行為を燃え上がら
 せた。
  キリスト教宣教師は、反日のスパイとして行動した。
  また、蒋介石の国民政府の手先となった。
  でたらめ情報のプロパガンダを盛んにした。
  これは、戦後の東京裁判までも影響するほどの嘘宣伝
 工作だった。
  アメリカは、満州の権益を欲しがった。
  この時、特に、日本が居る事を邪魔だと感じるアメリ
 カだった。
  アメリカは、日本排除へ武力行使を始めた。
  フィリピンやグアムを軍事拠点として、イギリスやオ
 ーストラリア、オランダと一緒になって南太平洋を取り
 囲むように、日本を包囲し、締め付け、また、攻撃態勢
 を作った。
  アメリカは、日本に対して威嚇的になった・・また、
 強圧的になった。
  日本が先に手を出したように見せかけの中で、実際は、
 陰で隠れてアメリカが先に武力行使をしていた。
  アメリカが、真珠湾攻撃前に日本を攻撃している事実
 は、今時点では確定されている真実である。
  「あれはボランティアだ」と言い訳するが、大統領の
 命令書があることが確認されている(アメリカ公文書館
 にその書類がある)
  この様に、アメリカは挑発行為を行った。
  中国から日本への大爆撃まで計画していた。
.
1910年8月29日、日韓併合
  「韓国併合に関する条約」が日本と大韓帝国との間で
 調印がなされた。
  この条約は、日本が求めてなされたのではない。
  イギリス・アメリカ・ロシアなどから、「韓国は独立
 してやって行けない。日本が統治した方が良い」と薦め
 られた。
  植民地ではない。
  日本が保護し統治しなければ「駄目な国と国際的に見
 られていた」。
  その様な経済レベルの国だった。
  また、社会資本もまったく整備されてない国だった。
  日本は、膨大な資金を投資して、朝鮮・韓国の「国造
 りをしていく」。
  その恩ある日本に対して、韓国は、今になって御礼を
 言うどころか、恩ある日本を貶める行為をしている。
  この様な態度が取られるのであるなら「併合という形
 ではなく、ただの保護国という形にしておけば良かった」
 と言える。
  必死に日本の資金を投入して、日本並みの国にして上
 げようという奉仕をしなければ良かったと思う。
  良い国になりたいなら「自分たちで努力しなさい」と
 いう立場で居た方が良かった。
  「ただ、軍事的には守ってやりますよ」で充分だった。
  その他の事は、何もしなけれは良かった。
  沢山の金を投入して「教育環境を整えたり」「農地を
 調整して食糧増産をしたり」「裁判制度などの社会基盤
 を充実させたり」「鉄道や道路の建設を一生懸命にやっ
 たり」「帝国大学や小学校などを、沢山、造ったり」、
 色々、手を尽くしてやったが、何の有り難みも感じない
 国・・そんなことをしてやる様な相手国ではなかった。
  この様に感謝もしない国には、今後、何もしてやる必
 要はない。
  挙げ句の果てに、日本の領土の「竹島」まで盗ってし
 まった。
  国際司法裁判所で話し合いましょうと言っても、「韓
 国は敗ける」と分かっているから、その話に応じようと
 もしない卑怯な態度をとっている。
  日本領の竹島の不法侵犯をしている。
.
1920年代、アメリカは、民主主義国家だは、作られた幻想。
  「アメリカは、民主主義の国だ」は、作られた幻想で、
 洗脳された思い込みだ。
  「金」と「情報」を使って操作されている・・この様
 な事は、1920年代に、リップマンやバーネイズは、「ア
 メリカの民主主義の幻想」に気付いていて、「錯覚の世
 界に生きていて、それに洗脳されている」と見抜いてい
 た。
  それから、世論操作をし始めた。
  今・現代、中国が、盛んに金を使って情報操作をして
 いる。
  アメリカを初めて明確に「民主政の国」であるとした
 のはアレクシス・ド・トクビルだった。
  また、「アメリカの支配勢力が、民主主義を用いて人々
 を支配し、利用するために使っている」とも言われてい
 る。
  また、「民主主義の革命的技法」を使えば「合意ので
 っちあげ」ができる、とリップマンは主張した。
  「宣伝工作技術を駆使すれば、人々が本来望んでいな
 かったことについても、同意を取り付けられる」という
 意味の事を言った。
  リップマンは言う・・第一の市民階級は、専門知識を
 持つ特別階級で、政治・経済、イデオロギーのシステム
 における諸問題の分析、実行、意思決定、管理を行う。
  これらの人々は人口のごく一部でしかない・・しかし・・
  この特別階級から漏れた人々・・すなわち人口の大部
 分を構成する多くの人たちは、「とまどえる群れ」(戸
 惑う人たち)と称した。
  この様な人たちが、「大多数の意見を構成する」。
  リップマンは、この人たちを「観客」になるが、行動
 には参加しないと説明した。
  選挙に於いて、観客は、一旦、誰かを支持し、そして、
 後はまた観客に戻って傍観する・・と・・
  だから・・とまどえる群れを飼いならす事だ・・と・・
  また、とまどえる群れに激高を起こさせてはならない・・
 横暴を許してはならない・・不都合なことを起こさせて
 はならない・・と・・
  アメリカの大統領選は、「金が続いたものが生き残る」
 と言われている・・
  そして、それが、「合意のデッチアゲ」の「民主主義
 が行われた」という満足の結果だと・・これが実態だ・・
  リップマンは、彼の代表作と言われている「世論」(
 1922年)で、「民主主義の基盤となる国民の世論が、マ
 ス・メディアの圧倒的な影響力の下にある」ということ
 を指摘している。
  マス・メディアによって世論は操作されている。
  その様な所から形成された民主主義社会・・
.
1931年、東部グリーンランド事件
  グリーンランド東部の無人地帯に、ノルウェーの捕鯨
 業者が上陸した。
  そして、ノルウェー政府が、その地を併合するという
 宣言をするという「東部グリンランド事件」が発生した。
  ノルウェー政府の主張は、グリーンランドにおけるデ
 ンマークの主権は、植民地(人が住んでいる地域)に限
 定されている・・と・・
  また、古い文書では、「グリーンランド」という言葉
 は西海岸の植民地(デンマークが実際に開拓している地
 域)のみを指している。
  故に、それ以外の地域は、「デンマーク領であるとこ
 ろのグリーンランドではない」・・
  ノルウェーが占有する正当性がある・・と主張した。
  しかし、これは、デンマークの提訴を受けた国際司法
 裁判所の裁定によって退けられた。
  デンマークは、以前からグリーンランド全域に適用す
 る法令を制定したりしている・・
  つまり、人が住んでいなくても統治してきたのだから
 ノルウェーの主張はいれられない。
  人口が希薄で人が定住していない地域については他国
 が優越的主張を立証出来ない限り主権的権利の行使はご
 くわずかであってもよい。
  また、地図において、慣習的に使われる地名は反証の
 ない限り通常の意味に解すべきなので・・「グリーンラ
 ンド」という慣習的な地理的名称は、ノルウェー側が有
 力な反証をあげられない限りにおいてグリーンランド全
 島を指していると考えるべきである・・となった。
.
1939年8月23日、独ソ不可侵条約
  ドイツとソ連が、お互いに不可侵を約束した。
  そして、アメリカのルーズベルト大統領・・
  この大統領ほどアメリカの行く道を誤らせた大統領は
 いなかった。
  このルーズベルト大統領の周りには、うようよと大勢
 の工作員が居た。
  今・現在の日本の政権の周りも、この様な状況が起き
 ていると言われている・・、
  ルーズベルト政権の周りには、ソ連と深く精神的に通
 底した「共産主義に傾倒する側近たち」で満ちていた。
  1939年2月、戦争が始まりそうなこの時、ソ連は、ドイ
 ツと「独ソ通商協定」を結んだ。
  また、続けて、この年の8月、「独ソ不可侵条約」も結
 んだ。
  アメリカは、これに大きな衝撃を受けた。
  また、この様なアメリカに限らず、日本を含めて世界
 が大きなショックを受けた。
  アメリカも、そして、世界中もが、「ドイツとソ連は
 敵対関係にある」と見ていた・・その様に思っていた。
  これを演じたのは、「ヒトラーとスターリン」だった。
  アメリカは、ソ連を、自分の陣営に引き込みたいと考
 えていた矢先だった。
  ソ連は、この様なドイツとの関係を作った後に、好き
 勝手な「武力行為を行い始めた」。
  この翌月の1939年9月、ポーランド侵攻の侵略行為を始
 めた。
  この侵略は、あっという間の武力侵攻だった。
  そして、ドイツと「独ソ間のポーランド分割協定」を
 結んで侵略を完成させた。
  また、ソ連は、その2か月後の1939年11月、フィンラン
 ドへも侵略を開始した(フィンランド戦争、冬戦争)。
  何とかソ連を取り込もうとしていたアメリカをはじめ
 西側諸国にとって、これは許せない行為だった。
  侵略国家・ソ連の性癖のむき出しの悪行為だった。
  東京裁判時にも、この蛮行は裁くべきだった。
  または、絶対に、ニュールンベルク裁判で裁かれるべ
 きだった。
  しかし、不公正な連合国の諸国は、この不正行為に目
 をつぶった。
  フィンランドは立派だった。
  敢然と不正をするソ連に立ち向かった。
  仕組まれた日本が、アメリカに立ち向かったのと同じ
 行動だった。
  フィンランドの方々は敗れたが、不正な行為に正義の
 戦いを挑み、フィンランドの「国の正義」を通した。
  これによって、フィンランドの方々には、大いなる誇
 りが生まれた。
  その誇りが、戦後のフィンランドの立派な立つ瀬を作
 り、国の立つ位置を作った。
  アメリカには、当然の「対ソ国交断絶論」が出た。
  しかし、卑劣にもアメリカは、あいまいな態度に終始
 した。
  ソ連の行動を非難したりする声明を出したりしたが、
 また、対ソ連の輸出を差し控える勧告を出したりしたが、
  ソ連の「さらなる暴力や脅迫」に晒された北欧諸国へ
 金融援助をしたりしたが・・
  アメリカの国民の方々の意見に従う行動をアメリカ政
 権はしたが・・
  しかし、結局は、ルーズベルト政権は、対ソの国交断
 絶論は否定した。
  これは、この様な卑劣な事をソ連がしても、アメリカ
 は目をつむると見透かされ・・ルーズベルト側近たちに
 動かされるルーズベルトはおかしかった。
  それでもソ連を引き込みたいというアメリカは見透か
 されていた。
  その後のソ連は、まだ、更なる暴力行為・武力行為の
 蛮行を続けた。
  1940年には、バルト三国を取ってしまった。
  そしてまた、この年・1940年、ルーマニア領を侵略し
 た。
  しかし、まだ、アメリカは、その様な横暴なソ連へ黙
 り続けた・・逆に、ソ連に対して、対ソ連の宥和(ゆう
 わ、大目に見る)政策を取った。
  その行動・・宥和政策を強化した。
  アメリカは、バルト三国のエストニア、ラトビア、リ
 トアニアから領事を引き上げて、「バルト三国はソ連領
 だ」という意味の態度を取った。
  そして、ウラジオストクに、総領事館を開設するとい
 うアメリカだった。
  また、対ソ連の物資輸送を増加した。
  そして、さらに、1941年1月には、「対ソ道義的禁輸」
 を撤廃さえした。
  そして、1941年3月には、「米ソ東亜通商協定」まで締
 結した。
  この様な事までしてアメリカはソ連を取り込んでいく
 のだが、結局は、冷戦状態となって、原子爆弾と大陸間
 弾道の核ミサイルの軍拡の競争をする相手となる。
.
1940年、アメリカが、デンマーク領のグリーンランドとア
 イスランドに進駐した。
  ドイツが、海上封鎖水域をアイスランド周囲まで拡張
 したからだった。
  また、ドイツの爆撃でイギリス本国が危うくなったか
 らだった。
  日本は、ベトナム(フランスの植民地)に上陸したが、
 この時、フランスの許可を得ていた。
  アメリカは、グリーンランドとアイスランド政府の許
 可を取っていない。
  しかし、アメリカのルーズベルト大統領は、日本のこ
 の行動を徹底的に利用して日本を悪者に仕立てた。
  日本は、フランスのビシー政権の許可を得ていた。
.
1941年4月13日、日ソ中立条約が調印された。
  正式名称:大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和
 国連邦間中立条約が締結された。
  相互不可侵、および、一方が第三国の軍事行動の対象
 になった場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文
 など・・
  この時まで、ソ連を宥和(ゆうわ、相手を寛大に扱う)
 したいアメリカは、なりふり構わず、ソ連の喜ぶこと、
 節操のない行動をとっていた。
  ソ連は、好きなように、ドイツとポーランドを分割し、
 何かとドイツと巧くやっていた。
  その様なソ連を、引き込みたいと、アメリカは焦(あ
 せ)っていた。
  この様なソ連の立場と対極にあったのが日本だった。
  アメリカが日本を排斥するのは病的でさえあった。
  この様な状況の時、驚天動地の事が起きた。
  1941年4月13日、日本とソ連が中立条約を締結した。
  ドイツからソ連を引き剥がしたいアメリカ、そして、
 そのソ連が、日本と中立条約を結んだのだった。
  アメリカは、ソ連へ宥和政策を進めて来た行動が頓挫
 したと思った。
  しかし、1941年6月22日に至ると、ドイツが、ソ連へ突
 如侵入した。
  この日の3時15分、ドイツ軍は、作戦名「バルバロッサ」
 の下にソ連を奇襲攻撃した。
  ソ連にいじめられていた反ソ感情の強い周辺国は、ド
 イツへ加担した。
  当然、ソ連は、ドイツに対して開戦した。
  これで、ソ連は、アメリカ側へ入ったのだった。
  1941年11月には、アメリカは、ご褒美ではないが10億
 ドルの供与をソ連へ贈った。
  アメリカ国務省から軍事品のソ連への供与が発表され
 た。
  この共産圏の国=ソ連の立つ瀬をアメリカは作った。
  逆に、アメリカの対日経済封鎖の厳しさは増していた。
  そして、その後、共産圏・中国の毛沢東をも助けるア
 メリカとなる・・毛沢東を支援し、国際舞台の中心国の
 立場にするアメリカとなる。
  この端緒・・ソ連を助けたことに始まるアメリカの行
 動の判断は、歴史上の大汚点、大いに間違った判断とな
 った。
  この後、東ヨーロッパも共産圏・ソ連に抑えられた。
  ルーズベルトのやったことは大間違いだった。
  そして、今・・この共産圏・中国は、アメリカを食お
 うとしている。
  そして、アメリカは、共産圏・中国に追い越されそう
 になっている。
.
1945年8月23日、シベリア抑留
  完全なる終戦の後に、ソ連(現:ロシア)によって行
 なわれた国際法の違反・違法行為である。
  日本国民の拉致である。
  スターリンは、戦争の終結した1945年8月14日の第二次
 世界大戦の終戦宣言の後の1945年8月16日には、「日本人
 を捕虜として用いない」という命令を内務人民委員ラヴ
 レンチー・ベリヤに下していたが、
  何と、終戦後の後も後の1945年8月23日に、これを翻し、
 「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜
 (拉致)50万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労
 働を行わせる命令を下した。
  しかし、下記の実態の1事例の様に、日本人の一般国
 民も、多数、拉致され、シベリアへ連れて行かれていた。
  シベリア抑留者は、拉致され、監禁された。
  その実態は、非人道的な足枷(あしかせ)をされてい
 る監禁の状態だった。
  稲葉俊郎・東大病院助教、医師のおじいさんは、足枷
 を付けて脱走し、日本へ帰って来た。
  (参考)第二次世界大戦末期の1945年8月9日未明、ソ
     連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣
     戦布告をし、満ソ国境に展開する174万人のソ連
     極東軍に命じて、満州・朝鮮半島北部に軍事侵
     略した(ソ連対日参戦)。
      日本は、すでに、1945年8月14日、中立国を通
     して降伏を声明し、アメリカやイギリスの連合
     国に受け入れられていたが、ソ連は、1945年8月
     16日には日本領南樺太へ、1945年8月18日には千
     島列島へも侵略して占領した。
      樺太では直後に、日本の防衛的戦闘で、日本
     は勝利していたが千島の占守島では1945年8月22
     日に、日本から停戦命令が下り、武器を置いた。
.
1950年代半ば、毛沢東による対日戦犯裁判
  中国では・・、
  ☆中華人民共和国によって対日戦犯裁判が行われた(
 近年、中国で新史料が公開された)。
  ☆1950年、シベリアに抑留されていた旧『満州国』や
 関東軍の関係者がソ連から中国に送還された。
  ☆終戦後、中国に残留し、国共内戦下で共産党軍と戦
 って捕虜となった日本人将兵、戦犯と見なされ、拘留さ
 れた。
  1526名。
  毛沢東思想に基づく思想改造を、長年、強烈に受けさ
 せられた。
  1956年に、大半が釈放された。
  (BC級戦犯なのに、約1000名が死刑にされた)
  ☆毛沢東は、「南京虐殺について、触れることはほ
 とんどない・・言及もしていない」。
  この事からも、南京事件は、後から中国(支那)によ
 る作り出された捏造ということがはっきり分かる。
.
2017年1月20日、ドナルド・トランプ、アメリカ大統領の就
 任式で・・
  「今、この瞬間からアメリカ第一主義(アメリカ・フ
 ァースト)が始まる」と演説された。
  そして、また、新大統領は、「世界の国々と友好的で
 善意に基づく関係を築きますが、すべての国には自国の
 利益を最優先する権利があります。
  私たちは、自分たちのやり方を他の誰かに押し付けた
 りはしませんが、「輝く模範として見習われる存在にな
 ります」と演説した。
  すべての国々が、自国の国民の幸せを第一に考えるの
 が当然で、自国の国益を最優先するのも当然で、その様
 な自立した国々同士が友好関係を結んでいくのが「最も
 当然な最善な事」と示された。
  そこには、今までの様なアメリカが勝手に最善として
 思い込んだ考えを押し付けるようなことはしないという
 宣言があった。
  戦争の遠因となっていた「アメリカの考え方・イデオ
 ロギー」の勝手な押し付けはしないの宣言があった。
  今まで、アメリカは『自由と民主主義』と言って表面
 的には良いように見えることを、実際はアメリカだけが
 良いという勝手な事を「他国へ押し付けた」。
  持っている武力を振り回し、自国の若者も死に至らせ、
 また、他国の人々・・戦争とまったく関係ない方々を殺
 して来た。
  この様な「勝手な独りよがりな介入はしない」という
 宣言だった。
  実際は、「アメリカのやり方」「アメリカ・スタンダ
 ード」なのに・・「グローバル・スタンダード」だと嘘
 を言って、アメリカの超富裕層に都合の良いシステムを
 押し付けて来た。
  当然の様に他国の内政に干渉し、屁理屈で「ああだ、
 こうだ」と言った。
  この様な事を、当然のように、『間違っている』と「
 否定した大統領」だった。
  しかし、今まで「利益を享受して来た組織」が、盛ん
 に抵抗している。
  その今までの組織に「おもねっている」・・日本のゴ
 マすり「マス・メディア」も、盛んに、「トランプ大統
 領に対抗する反対報道」をしている。
.
2019年、アイヌの方たちだけが特別ではない。
    アイヌ特別立法はお止めください。
  アメリカで『キンタクンテ』が話題になった頃、それ
 が日本でも話題になった頃、「ルーツ」「ルーツ」と
 自分のルーツに皆が関心が向かった頃・・、
  キンタクンテは、「そのルーツをアフリカに発見した」。
  その頃、自分の事を調べてみると、何と、せいぜい隣
 村くらいの狭い社会の中で「先祖の方たちは生きて来た」
 ことが分かりびっくりした。
  同じ村、若しくは、隣村との結婚が繰り返されていた。
  これでは、「武蔵野民族ではないか」と思った。
  知人に、京都で、明治に生まれた方が居られて、関東
 大震災の時に東京に出て来られたが・・、
  その頃、鹿児島の薩摩弁の方と青森の津軽弁の方が、
 話が通じ合わなくて、通訳をしてあげたと言っていた。
  京都で育ち、都で色々な方と接して、薩摩弁と津軽弁
 が通訳できたのだ。
  今・現代、通信機器も発達し、テレビ・ラジオの放送
 も氾濫し、標準語が定着し、その様な話は夢の様だけど・・、
  また、先の話は、交通手段が発達し、遠くまで簡単に
 行ける現代、男女の接触もSNSでも会えるという時代。
  男女の接触も広くなって、その様な話しはまったく想
 像が出来ないが、武蔵野民族の自分だって同化したが「
 武蔵野民族なのだ」。
  九州には「熊襲(くまそ)」という民族が居て、ある
 時、世間の話題になったが、今は完全に同化して、話題
 になることも無い。
  能には「吉備人」が出て来てる様に、日本には「アイ
 ヌの方々だけではない方々が色々生活して居た」。
  アイヌの方々だけが特別ではない。
  武蔵野民族は完全に同化したが・・ならば、「武蔵野
 民族の方々にも特別法を作りなさいと言いたい」・・そ
 して、「武蔵野民族を無視する理由はありませんと言い
 たい」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
# by suba28 | 2019-04-12 05:09 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)639E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年2月~1896年2月)

題:(増補版)639E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年2月~1896年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年2月10日、貴族院議員・近衛篤麿ほか2人、議員・二
 条基弘ほか43人の賛成を得て、「北海道鉄道敷設法案」
 を提出した・・北海道開拓の実を上げるため必死に鉄道
 敷設に取り組んで行く。
  特別委員会付託となり・・、
  1896年3月7日、貴族院可決・・
  1896年3月25日、衆議院可決、
  1896年3月26日、両院協議会を開き衆議院修正案可決、
   貴族院同意。
.
1896年2月10日、法律第1号により官設鉄道用品資金25万円
 が増加となって205万円となる。
.
1896年2月10日、ロシア兵の107名の水兵 20名の食料担当兵
 大砲一門を漢城に搬入し実力支配をする。
  ロシア兵は150名となった・・親露政策へ・・反ロシア
 派への弾圧・一掃・・民衆の親露政権への反発・・
  また、ロシアは、種々の実質的な利権を獲得する結果
 となる。
  また、付随して欧米列強も同等の利権を獲得すること
 になった。
  宮女ゲン(元?)金明載より「各大臣等日本兵が密か
 に国王を廃位しようとしているので甚だ危険なり。
  速かに露館に播遷し回避されたし」旨の親露派が作っ
 た手紙・作文の書状を高宗に届けた。  
  そして、翌日(2月11日)、高宗と世子(純宗)が宮女
 用のかごに乗り、ロシア公使館へに逃げ込んだ。
.
1896年2月11日、オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」が
 パリで初演された。
  実は、1892年に、名女優サラ・ベルナールの主演でロ
 ンドン上演をする予定だったが、当局の検閲で上演禁止
 となった・・内容の背徳性から、しばらく上演されなか
 った。
  (イギリスでは1931年まで禁止されていた・・聖書に
 登場する人物や事件を舞台にかけることが禁じられてい
 た)
  1893年に、アンドレ・ジッドとピエール・ルイスの校
   閲を経て、フランス語版の戯曲がパリで出版され、
   評判になった。
  1894年に、アルフレッド・ダグラス卿の英訳に、ワイ
   ルド自身が徹底的な修正を加えて、当時、22歳の奇
   才オーブリー・ビアズリーの幻想味あふれ、退廃的
   挿絵付きの英語版がロンドン出版された英訳版は大
   きな反響を呼んだ。
  世紀末のデカダンスの欧米芸術に強烈な衝撃を与えた。
  古臭い乾からびた伝統的な男性中心主義の女性観など
 へ衝撃を与えて行く。
  洗礼者ヨハネが首を斬られたことが興味を引いた発端。
  1903年~1905年に、リヒャルト・シュトラウスが1幕の
 オペラを作曲する。
  このシュトラウスの「サロメ」には紛れもなく世紀末
 風なデカダンスの雰囲気が濃厚に存在する。
  「ああ!ヨカナーンや、私は、おまえの口にくちづけ
 したよ、ヨカナーン(洗礼者ヨハネ)、おまえの口にく
 ちづけしたよ」というサロメの無気味な歓喜の言葉が流
 れる最終場面・・妖艶・・
  何故、お前は私の顔を見なかったのだ・・
  死の秘密より大きい愛の秘密・・
  そんなことはどうでもよい・・私はお前の口に接吻し
 ましたよ・・
  https://www.youtube.com/watch?v=VT-5zz92mNQ
  現在、戯曲「サロメ」が上演されることは滅多になく、
 舞台といえばもっぱらオペラ「サロメ」。
  内容:
  ユダヤの王妃エロディアスには、最初の結婚によって
 もうけた娘サロメがいる。
  サロメは王に捕えられている預言者ヨカナーンを恋し
 ているが、ヨカナーンは彼女を拒む。
  サロメは王の求めに応じて踊り、褒美にヨカナーンの
 首を所望する。
  何でも望むものを与えると約束していた王は、やむな
 くサロメの願いを聞き届ける。
  サロメは首を持って踊り狂い、王の命令を受けた兵士
 たちに殺害される。
.
1896年2月11日、露館播遷(ろかんはせん)
  朝鮮国王が、ロシア公使館に移らされた。
  金允植(キム・ユンシク)は、穏健な開花的な人物だ
 ったが(科挙の試験にも合格する才能ある人物)・・、
  朝鮮のこの親露政権が成立すると、親日派だとして済
 州島に流刑された。
  1896年2月11日~1897年2月20日、、朝鮮王の高宗が、
 ロシア軍によってロシア公使館へ移らされ、親露政権が
 樹立させられた・・
  親日派の政権閣僚は殺害されたりした。
  そして、この結果、ロシアは、数々の種々利権を獲得
 し、他のヨーロッパの各国やアメリカの列強も同等の利
 権を獲得することになった。
  また、これは国としての自主性を放棄するのに等しい
 行為であった。
  この事に対する朝鮮有志による抵抗行動が起きる。
  朝鮮政府に好き勝手をしていたロシアの横暴。
  (参考)播遷:はせん、遠くさすらうこと。
  高宗は勅令を出さざるを得なくなる・・
  実体は、ロシア公使ウェーベルの傀儡政権の成立。
 1.閔妃殺害事件の犯人として特赦された趙羲淵、禹範善、
  李斗璜、李軫鎬、李範来、権濚鎮の首を持ってロシア
  公館に持参せよ。
  (閔妃殺害事件についての再調査も実施され、漢城で
  発行されていた英文雑誌に調査結果が掲載された)
 2.新内閣の公示・・総理大臣に金炳始、内部大臣に朴定
  陽、軍部大臣兼警務使に李允用、法部大臣に趙秉稷、
  学部大臣に李完用、宮内大臣に李載純を命じる。
  (在朝ロシア公使は、スペール趙羲淵、兪吉濬、張博、
  李軫鎬等は日本に亡命・・前総理金弘集と前農工商大
  臣鄭秉夏は亡命せず・・警務庁前で暴徒に捕まり惨殺、
  遺体は焼却された)
.
1896年2月13日、博多湾鉄道発起人が、設立願を政府に提出
 した。
  1896年6月、線路計画変更、
.
1896年2月18日、朝鮮・仁川に、4000余名の暴徒が蜂起した。
  観察使(地方の行政権・兵権・司法権を握る役職)を
 殺害し、郡司を逐訴するなど、政令はソウルの外には伝
 わらず、無政府状態に陥って・・官衙官宅を毀壊した。
.
1896年2月21日、ロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式の出席の
 ため、明治天皇陛下の御名代として伏見宮貞愛親王(陸
 軍少将)が出席されることになり・・また、この日、山
 県有朋が、ロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式の出席と、
 朝鮮問題対応のため、特命全権大使に任命された。
.
1896年2月22日、日本海上保険が設立された(3月説あり)
  色々と変遷の後に、2014年9月1日に、 損害保険ジャパ
 ンと合併して、損害保険ジャパン日本興亜が発足してい
 る・・そして、発足と同時に「損保ジャパン日本興亜ホ
 ールディングス」に商号を変更した。
.
1896年2月25日、房総鉄道の千葉駅~蘇我駅間が開通した。
.
1896年2月29日、日本銀行旧館(本館)の建物が完成した。
  設計は、辰野金吾(工科大学:現東京大学工学部)教
 授。
  当初は永代橋のたもとにあったが、手狭のため中央区
 日本橋本石町に建設し、移転した。
  この日本橋という所は、江戸時代から両替商が軒を連
 ねていた場所で、金融機関が集まっていた。
  また、商業の中心地ともなっていた。
  構造:石積みレンガ造
  外装:花崗岩貼り
  工事費:112万円(当初予算は80万円であったが、この
 時期、物価上昇した)
  着工:1890年9月
  1891年に発生した濃尾地震の被害から建物の軽量化が
 図られた。
  1923年の関東大震災でも被害は無く、建物はびくとも
 しなかった・・ただ、近隣に発生した火災によりシンボ
 ルだった丸屋根が焼け、その後、復元したの屋根が現在
 に至っている。
  ちなみに、2階の廊下には代々の総裁の肖像画が展示さ
 れていたが、関東大震災ですべてが焼失し、現在の肖像
 画は、その後、再製されたもの。
  故人になられていた方は、写真から模写された。
  エレベーターや水洗便所など先進的な設備を取り入れ、
 また、防火シャッターやスチールサッシなど外国製品も
 採用した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:この果てしない巨万の富は、ヨーロッパ全域へ、そして、世界へ、
   ロスチャイルドの影響力を行使できる額だった。
.
1567年9月5日、「独眼竜政宗」で有名な伊達政宗(仙台藩
 初代藩主)の話。
  伊達政宗は、出羽の国と陸奥の国の戦国大名である。
  そして、伊達氏17代の当主であり、近世大名としては
 仙台藩の初代の藩主である。
  1567年9月5日、伊達政宗は生まれた。
    出羽国・米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗
   の嫡男として、正室の最上義守の娘・義姫から生ま
   れた。
    政宗は、幼少の時に患った疱瘡(天然痘)によっ
   て右目を失明した。
  1579年(12歳)仙道の戦国大名の三春城主・田村清顕
   の娘・愛姫(12歳)を正室に迎える。
  1581年(14歳)4月、初陣。隣接の相馬氏と合戦。
  1584年(17歳)10月、父・輝宗の隠居で家督を相続し、
   伊達家第17代当主となる。
  1585年(18歳)5月、蘆名領檜原を攻め、8月に、大内
   領小手森城を攻めた。
  1586年(19歳)4月、二本松城攻め、7月、二本松城の
   明け渡し。
  1587年(20歳)12月、関白・豊臣秀吉が、関東・奥羽
   の諸大名、特に、関東の北条氏と奥州の伊達氏に対
   し、惣無事令(私戦禁止令)を発令した。
    しかし、政宗は秀吉の命令を無視し、戦争を続行
   した。
  1588年(21歳)2月、北方の大崎氏の内紛に介入したが、
   黒川晴氏の離反と大崎方の頑強な抵抗に合い敗北。
    伯父の最上義光に大崎側に立って参戦されてしま
   い、伊達領の各地が攻め落とされた(大崎合戦)
    また、蘆名氏・相馬氏に侵攻され、苗代田城を攻
   め落とされる(郡山合戦)・・7月、和議が成立して
   窮地を脱した(愛姫の実家・田村氏領の確保に成功)
  1588年(21歳)9月、豊臣秀吉へ恭順の意を示す。
   秀吉は、翌年・1589年の前半に上洛する様に求める。
  1589年(22歳)5月~6月、摺上原の戦い・・
    この頃、政宗は、全国的にも屈指の大きな領国規
   模を築いた・・近隣諸氏・豪族も政宗の勢力下に入
   る。
  1589年(22歳)11月、後北条氏が真田領へ侵攻したこ
   とにより、豊臣氏により征伐が行われることになっ
   た。
    政宗は、父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係
   にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべ
   きか、直前まで迷っていた。
  1590年(23歳)1月、伊達政宗は、豊臣秀吉から「小田
   原城攻めをするから、参陣せよ」という命令を受け
   た。
    しかし、正宗は、これに応じなかった。
    それどころか、秀吉陣営に属していた会津・黒川
   城の芦名義弘を討った。
    父・輝宗を騙した畠山善継に味方した芦名を討っ
   たのは『敵討ち』であるという大義名分があったが、
   明らかに秀吉への反抗でもあった。
    さらに、正宗には、小田原参陣に遅れる事件もあ
   る。
    実母・保春院が、弟・小次郎を立てるため政宗を
   毒殺しようとした。
    政宗は、辛くも命拾いをした。
    小次郎を斬殺し、母を米沢へ追放した(後に、仙
   台へ戻す)。
    この様な事で参陣が遅れたのだった。
  1590年(23歳)5月、秀吉の小田原攻囲(小田原征伐)
   中であるこの時・1590年5月、豊臣配下の浅野長政か
   ら小田原参陣を催促された。
    政宗は、5月9日に会津を出立すると米沢・小国を
   経て同盟国・上杉景勝の所領である越後国・信濃国、
   甲斐国を経由して小田原に至った。
    秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉に服属した。
    参陣が遅れたことに、秀吉は激怒した。
    政宗が、小田原へ赴くと、秀吉は、会見も許さず、
   箱根・底倉へ政宗を幽閉した。
    この時、政宗は、前田利家へ「田舎者ゆえ礼儀を
   わきまえない。千利休に茶の湯を習いたい」と告げ
   た。
    秀吉は、それを聞いて引見することとした。
    死ぬか生きるかという時に良い度胸だという訳だ
   った。
  1590年(23歳)7月、政宗が、秀吉に服属してほどなく、
   北条氏政・北条氏直親子が秀吉に降伏した。
    秀吉は、宇都宮城で奥州仕置(宇都宮仕置、1590
   年7月~8月に行われた)を行った。
    ここに、秀吉の日本統一が達成されたが、政宗は、
   会津領などを失った。
    陸奥出羽のうち13郡、およそ72万石に減封された。
    秀吉は、会津領を没収したものの、伊達家の本領
   72万石(おおむね家督相続時の所領)は安堵とした。
    先の遅参の詰問に来た前田利家らに千利休の茶の
   指導を受けたいと申し出だことに秀吉らが感嘆した
   からと言われている。
  1591年(24歳)蒲生氏郷とともに、葛西大崎一揆を平
   定するが、政宗自身が一揆を煽動していたことが露
   見する。
    しかし、これは、氏郷が、「政宗が書いた」とさ
   れる一揆勢宛の書状を入手したことに端を発する。
    また、京都では、政宗から京都に人質として差出
   した夫人は偽者であるとか・・
   一揆勢が立て篭もる城には政宗の幟(のぼり)や旗
   が立てられているなどの噂が立ち、秀吉の耳にも届
   いていた。
    喚問された政宗は上洛し、一揆扇動の書状は偽物
   である旨を秀吉に弁明した・・
    その結果、許されるが・・、
    本拠地であった長井・信夫・伊達を含む6郡の代わ
   りに(6郡没収)、一揆で荒廃した葛西・大崎13郡を
   与えられ、米沢城72万石から玉造郡岩手沢城へ58万
   石に減転封された。
    この時、秀吉の前に出る政宗の様子・・
    家康や利家をはじめ諸武将が居ならぶ席上、秀吉
   が、末席に控えている政宗へ、杖で政宗を指し・・
   「政宗、政宗」と声をかけた・・「是へ、是へ」と
   秀吉のもとに招いた。
    政宗は、脇差を抜いて知人に預け、一間(1.8メー
   トル)ほどの所まで近づいて挨拶した。
    「脇差ノ抜ヤウ、マタ、御挨拶ノフリ、誠二悪ビ
   レタル気色モナク、田舎人ナレドモ、聞キ及ビタル
   程ノ者也」(政宗記)。
    田舎者だが、噂にたがわぬ堂々とした男だと秀吉
   は言った。
    片目ながら政宗の大胆さ、そして、繊細さを、55
   歳の秀吉は鋭く見抜いた・・24歳の政宗をいっぺん
   に気に入った。
    秀吉は、鎬(しのぎ)藤四郎作の名刀を与えた。
    そして、伊達政宗は、陸奥五十四郡、出羽十二郡、
   計六十六郡の半分を所有する大名として認められた。
  1593年(26歳)政宗は、秀吉の文禄の役に従軍した。
  1599年(32歳)秀吉の死後のこの時、政宗と、五大老
   の徳川家康は、天下人であった秀吉の遺言を破った。
    政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を
   婚約させた。
  1600年(33歳)7月25日、家康が会津の上杉景勝討伐の
   軍を発した・・すると政宗はこれに従った・・そし
   て、この日、登坂勝乃が守る白石城を、政宗は奪い
   返した。
  1600年(33歳)8月、100万石へ復帰・・
    家康は、政宗に対して、岩出山転封時に没収され、
   この時点では上杉領となっていた旧領6郡49万石の領
   土の自力回復を許す旨の書状(百万石のお墨付き)
   を贈った。
  1600年9月、関ヶ原の戦いが勃発。
    正宗は東軍に属した。
  1601年(34歳)政宗は、徳川家康の許可を得て、居城
   を仙台に移した。
    城下町建設を始め、仙台藩が誕生した。
    仙台城、及び、城下町の建設は大工事となった。
    徳川幕府から松平の名字を与えられ「松平陸奥守」
   と称した。
  1606年(39歳)家康の6男・忠輝と長女・五郎女(いろ
   は)を結婚がなり、伊達家はより安泰となった。
  1613年(46歳)政宗は、仙台藩とイスパニアとの通商
   を企図した。
    仙台領内において、イスパニア国王・フェリペ3世
   の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によって
   ガレオン船・サン・フアン・バウティスタ号を建造
   した。
    この大船の建造に、材木を気仙、磐井、江刺緒郡
   から伐り出し・・公儀船大工・与十郎を棟梁とした。
    イスパニア航海士や技術者も参加した。
    政宗は、家康の承認を得ると、ルイス・ソテロを
   外交使節に任命し・・
    家臣・支倉常長ら一行180余人をヌエバ・エスパー
   ニャ(メキシコ)、イスパニア(エスパーニャ)、
   および、ローマへ派遣した(慶長遣欧使節)
    この実施で、正宗は、家康へ交易で大きな利益が
   徳川幕府にももたらされると説得していた。
  1613年(46歳)12月19日、支倉常長がノビスパニア(
   メキシコ)のアカプルコに到着した。
  1614年(47歳)大阪冬の陣・・大和口方面軍として布
   陣する。
  1615年(48歳)大坂夏の陣・・道明寺の戦い、後藤基
   次らと戦う・・基次は自刃した。
    また、他の戦いで乱戦となり、政宗は味方討ちを
   している・・抗議をされ、「伊達家の軍法には敵味
   方の区別はない」と言った・・幕府はこれを黙殺。
    論功行賞で、政宗の子(庶長子の伊達秀宗)が10
   万石を与えられた(宇和島藩)
  1615年(48歳)9月、支倉常長がローマ・バチカン市国
   で法王パウロ五世と会った。
  1620年(53歳)支倉常長が帰国した。
    この支倉常長の航海の目的には、イスパニア艦隊
   を引き連れて帰国するかもしれないという威圧が、
   無言で幕府を脅迫し、徳川幕府の挙動を抑える効果
   を狙って、伊達家安泰を図っていたとも言われてい
   るが・・?
  1626年(59歳)政宗が、仙台城下・若林に隠退した。
    春は城の桜を愛で、初夏に近郊のホトトギスの声
   を聞き、秋には月を愛で、鷹狩りを楽しんだ。
    また、政宗は、北上川水系の流域整備や開拓、領
   国開発、農業生産改良、文化の向上、技師の招聘、
   大崎八幡宮(今、国宝となっている)、瑞巌寺など
   の建設、石巻港建設、海路の整備などを行なった。
    また、下城する政宗に、徳川家光が、護身用に10
   挺の火縄銃を与えたという話もある。
  1634年(67歳)食事不振となり、嚥下に難を抱えると
   いう体調不良を訴え始めた。
  1636年5月22日(68歳)、母・義姫を弔う保春院の落慶
   式を終えた後、城下を散策した政宗は、経ヶ峰に杖
   を立て、「死後はここに埋葬せよ」と言った。
    この2日後の5月24日、参勤交代に出発した政宗は、
   急に病状が悪化・・宿泊した郡山では嚥下困難に嘔
   吐が伴い、何も食べられなくなる。
    6月1日、江戸に入った頃、絶食状態となる。
    腹に腫れが生じていた・・しかし、病をおして参
   府した・・
    この様な政宗を、家光は、6月24日、伊達家上屋敷
   に赴いて政宗を見舞った。
    政宗は、行水して身を整えた・・そして、家光を
   迎えた。
    しかし、お目見え後に、奥へ戻る時には杖を頼り
   に何度も休みながら進まざるを得ないという状態だ
   った。
  1636年6月27日、卯の刻(午前6時)死去。
    享年(満68歳)・・仕えた主君は、豊臣秀吉→秀
   頼→徳川家康→秀忠→家光
.
1636年7月、徳川の御三家の『水戸藩』の家租となる頼房が、
 徳川姓を許された。
  水戸徳川家(水戸家)は、徳川家康の十一男の徳川頼
 房を家租としている。
  領国の石高は、実収が28万石程度だった。
  しかし、御三家の格式から、公称35万石としたため、
 水戸藩の財政を厳しくした。
  紀州藩の資料に、頼房が徳川姓を許されたのは1636年
 7月とあり、それまでの33年間は「名字定まらず」とされ
 ている。
  徳川家康は、水戸藩を成立させるにあたり、武田・北
 条・今川など、かつて敵対し、滅亡した戦国大名の家臣
 も採用した。
  水戸藩は、さながら「敗者復活藩」だった。
  御三家の「第三位の地位」が確立したのは、徳川家宣
 (第6代将軍、在任1709年~1712年)が将軍となって、甲
 府徳川家が解消した後だった。
  また、水戸家当主は、参勤交代の対象外であり、江戸
 定府とされ、基本的には国許に帰国することはまれだっ
 た。
     ・
     ・
1791年2月25日、アメリカの中央銀行である第一合衆国銀行
 が設立された。
  それまでは、13植民地がそれぞれに銀行を持ち、また、
 通貨および財政制度と政策を持っていた。
  財閥・ロスチャイルド家の策謀・・
  アメリカ合衆国で通貨発行権を得て『打ち出の小槌
 (こづち)』の様な状態の利益を得ようと暗躍したロス
 チャイルド家(イギリスにある)は・・、
  アメリカの初代財務長官・アレクサンダーに、「中央
 銀行の設立の提案」をさせた・・が、しかし・・、
  そのおかしな挙動と危険性を熟知していたベンジャミ
 ン・フランクリンや、トーマス・ジェファーソン(アメ
 リカ合衆国独立宣言を起草した人)は、そのハミルトン
 の案に反対した。
  大議論が続き、決定はされなかったが・・、
  反対したフランクリンが死んだ後・・1791年に、ジェ
 ファーソンの反対は押し切られた・・
  ハミルトンは、中央銀行の設立に成功したのだった。
  ワシントン大統領が署名して、第一合衆国銀行は設立
 された。
  しかし、この銀行は、アメリカ合衆国憲法に違反する
 という民間銀行の形で、このアメリカの中央銀行は設立
 されていた・・?
  アメリカ合衆国憲法には、はっきりと「貨幣鋳造権限
 は、アメリカ合衆国連邦議会が有する」と規定されてい
 る。
  (参考)対訳アメリカ合衆国法
      第1条8節1項(また、合衆国議会は以下の
     権限を有する)
      第1条8節5項(貨幣の鋳造、度量衡の基準
     の設定権)
      貨幣を鋳造し、国内および外国通貨の価値を
     規律し、また度量衡の基準を定める権限。
  (参考)註解アメリカ憲法
      第10条、州に対する制約
      第一項、各州は、同盟もしくは連合を締結し、
     捕獲免許状を付与し、貨幣を鋳造し、信用証券
     を発行してはならない。
      「信用証券とは、州の信用を基礎にする紙幣
     のことであって、これを発行することは許され
     ない」
      (州による紙幣の発行は禁止されている)
  この中央銀行の8割の株式は民間で、連邦政府は2割に
 過ぎない。
  この様にして、実質的な権利者となる株式を所有した
 のが、イギリスのロスチャイルド家だった。
  また、ニューヨークの民間銀行も所有した。
  そして、20年間のこの期限が1811年に訪れた。
  更新して継続するのか?・・の大論争がなされた。
  正論が通って・・「民間銀行が通貨発行権を持つのは
 おかしい」という主張が、一票差で「更新するという案
 を否決した」。
  この正当な決議に怒ったのが「旨い汁を吸い続けたい
 とする『イギリス・ロンドンの銀行家たち』だった」。
  イギリス政府に、当時は、イギリスの弱小従属国的だ
 ったアメリカへの「けしかけ」や「圧力」を与えた。
  そして、不埒にも、1812年に、「英米戦争」に至った。
  この問題以外には、何の問題も無いという英米関係だ
 ったのだったが・・?
  イギリスのロンドンの銀行家たちは、戦費調達に窮す
 るアメリカに、「戦費調達先の必要性」と、その為の「
 中央銀行の保持の必要性を思い知らせるという『仕掛け』」
 だった。
  この英米戦争で、「アメリカ政府の債務(借金)は3倍
 となった」。
  アメリカは、深刻なインフレに見舞われた。
  このインフレに対処するにも苦労するアメリカだった。
  アメリカ内に、中央銀行の必要性が出て来た。
  1816年、アメリカ合衆国連邦議会は、第二合衆国銀行
 の設立法案を可決した。
  またまた、第一合衆国銀行の時と同じように、民間8割、
 政府2割となった。
  そして、その株主もまったく同じで、ロンドンのロス
 チャイルドと、ニューヨークのウォールストリートの民
 間銀行だった。
  また、同じに、通貨発行権を一部の民間が手に入れた。
 そして、その更新期限が、1836年に来るのだった・・
  (参考)因みに・・1963年6月4日に、ケネディ大統領
     の大統領令11110 (Executive Order 11110) に
     よって政府紙幣が復活する・・
      しかし・・その約半年後の11月22日に、ケネ
     ディ大統領は暗殺されてしまった。
      1971年1月以降は、政府紙幣の新規発行は行わ
     れていない。
      但し、現在でも法律上、財務長官は、3億ドル
     を限度に「合衆国紙幣」(United States Note)
     を発行することができることとされている (合
     衆国法典第31編第5115条)。
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1815年6月18日、ワーテルローの戦い(ナポレオンの最後の
 戦い)
  ベルギー(当時ネーデルラント連合王国領)のワーテ
 ルロー近郊で、フランス皇帝ナポレオン1世(ナポレオン・
 ボナパルト)が率いるフランス軍(大陸軍=グランダルメ)
 が・・
  イギリス・オランダをはじめとする連合軍、および、
 プロイセン軍との間とで戦闘を行った。
  この戦いは、ナポレオンの最後の戦いとなった。
  ナポレオンのフランス軍は敗れた。
  戦力比較
  フランス軍72000、連合軍68000+プロセイン軍50000
  死傷者数
  フランス軍40000、連合軍27000+プロセイン軍7000
  エルバ島から帰り、フランス皇帝に復帰したナポレオ
 ン。
  そのナポレオンを打倒しようと、第七次対仏大同盟が
 出来上がろうとしていた。
  ナポレオンとしては、これが出来上がって、態勢が整
 ってしまう前に叩いてしまおうというのがナポレオンの
 作戦だった・・
  そして、ナポレオンは出陣したのだった。
  戦いは・・1815年6月16日から始まっていた。
  この時、ユダヤ財閥を築くことになるロスチャイルド
 は、戦況の分かる付近に配下の者を送り込んでいた。
  そして、ナポレオンが敗れると、馬を駆ってその情報
 をロスチャイルドへ伝えさせた。
  この情報を聞いたロスチャイルドは、普通と逆のこと
 を行なった。
  取引所で、イギリス国債を大量に売却した。
  これを見ていた周りの仲介人も、「情報通のロスチャ
 イルドが、イギリス国債を売っている、イギリスが敗れ
 たに違いない」と、一斉に取引所は、「イギリス国債売
 り一色となった」。
  イギリス国債は、当然、大暴落した。
  ロスチャイルドは、その暴落して安くなったイギリス
 国債を、「秘かに、大量に買い戻した」。
  しばらくして、ウェリントン軍が勝利したという情報
 が伝わると、イギリス国債は、この逆の動きをして買わ
 れた。
  反転して「大暴騰」となった。
  その高値で、ロスチャイルドは売り抜けた。
  巨万の富が、ロスチャイルドに残った。
  この果てしない巨万の富は、ヨーロッパ全域へ、そし
 て、世界へ、ロスチャイルドの影響力を行使できる額だ
 った。
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1896年3月1日、第一次エチオピア戦争:(アドワの戦い)
  イタリア軍とエチオピア軍が、エチオピアのティグレ
 州アドワ近郊で戦った・・が・・
  イタリア(エチオピア征討軍)は、アドワで大敗した。
  イタリアの敗北が決定づけられた。
  19世紀は、アフリカにとって悲惨な世紀だった。
  ヨーロッパ列強各国によって、いい様に殺戮され、植
 民地化された・・アフリカの大部分がヨーロッパの国々
 によって影も形も無かった。
  アメリカの黒人の方々の『棄民目的』でリンカーンが
 造った国・リベリアと、このエチオピアのみが、アフリ
 カの独立国であった・・そのほとんどが、ヨーロッパ諸
 国の植民地などで・・蹂躙されていた。
  だが、植民地獲得の欲望が収まらないヨーロッパ各国。
  そして、このエチオピアへも侵略は行なわれた。
  エチオピア軍を率いたのはメネリク2世だった。
  イタリア軍は、補給に事欠く状況だったが、本国の命
 令でオレステ・バレティエ将軍は、1896年2月29日、進軍
 を命じた。
  この状況を察知していた優秀なエチオピア軍は、即座
 に全面攻撃が命じられた。
  イタリア軍14,527名、エチオピア軍12万人・・エチオ
 ピア軍は、各地でイタリア軍を包囲した。
  イタリア軍が撤退すれば・・追撃をし続けた。
  イタリア軍は8000名を失った・・また、エチオピア軍
 も1万名を失った。
  主力を欠いたイタリア軍は降伏をせざるを得ず、アジ
 スアベバ条約を締結した。
  エチオピアの当然の独立を承認させた・・『白人の横
 暴な行為』が挫けた事例として燦然と輝く歴史となった。
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1898年4月25日、アメリカとスペインの戦争(米西戦争)
  この戦争もアメリカの策謀(さくぼう、たくらみ)で
 始まった。
  真珠湾攻撃も、アメリカの謀略(ぼうりゃく、人をあ
 ざむく「はかりごと」)によって始まったことは、今・
 現代では、誰でも知っていて、はっきりしていることだ
 が・・
  この米西戦争も、はっきりと、アメリカの引っ掛けの
 策謀だった。
  第二次世界大戦の大東亜戦争にも、アメリカに明確な
 「日本を潰したい」という「アメリカの動機」があった。
  そして、また、この米西戦争も、アメリカに同様に
 「スペインを潰したい」という「アメリカの動機」があ
 った。
  この年・1898年2月15日、夜9時40分、没落するスペイ
 ンの残された植民地「キューバ」のハバナ港に停泊して
 いたアメリカ戦艦「メイン号」が、謎の爆発を起こした。
  不思議なのは・・乗員の多くが爆発の起きた艦の前方
 に寝ていて、死亡してしまい・・艦長をはじめとする士
 官クラスは、不思議に、艦の後部に居て難を逃れていた。
  この時、メイン号は沈没し、260人の乗組員が犠牲と
 なった。
  また、この艦に、8名の日本人も乗船していて、6人が
 犠牲となっている。
  爆発原因は、今日に至るまで特定されず「謎となって
 いる」。
  スペインが沈没に関わったという理由も見い出されて
 いない。
  しかし、アメリカは、謎で爆発の理由が分からないの
 にもかかわらず、スペインのせい(所為)にした。
  アメリカは、爆発の原因が不明にもかかわらず、スペ
 インの仕業(しわざ)だとして、スペインに宣戦布告を
 した・・(アメリカは怖い国である)
  さらに、おかしい事に、この時、アメリカは、都合良
 く、事前に、アメリカの太平洋艦隊を「香港に集結させ
 ていた」。
  そして、このアメリカの宣戦布告で米西戦争が始まる
 と、「すぐに」、スペインの植民地であるフィリピンを
 この艦隊に急襲させた。
  そして、マニラ湾に居たスペインの東洋艦隊を全滅さ
 せてしまった・・「マニラ湾奇襲攻撃」である。
  たったの4時間の戦いだった。
  そして、フィリピンの首都・マニラも陥落させた。
  スペイン本国から、フィリピン防衛の救援に、急遽、
 駆け付けたスペイン艦隊も間に合わず・・、
  こんなアメリカの計画的な素早い行動に追い付ける訳
 は無く、このスペイン艦隊も、スエズ運河を通過したと
 ころで、マニラの陥落までの戦況が一気に進んでしまっ
 たことを知り、本国へ空しく引き上げる状況となった。
  これで、完全に、スペインの息の根は止まってしまっ
 た。
  スペインは、これで、歴史上の表舞台から消え去って
 行った。
  アメリカは、歴史上、この様な事ばかりをしている。
  米西戦争のマニラ湾の戦闘状況・・
  1898年5月1日、米西戦争のフィリピンでの最初の戦闘
 のマニラ湾海戦が行われ、6時間の戦闘で、スペイン艦隊
 は旗艦を含む3隻が沈没、4隻が炎上するなどの壊滅状態
 に陥った。
  アメリカ艦隊の被害はほぼ無傷。
  アメリカ施政者のウィリアム・マッキンリー大統領(
 在任期間1897年3月4日~1901年9月14日)は、アメリカ国
 民の方々を煽った・・「ハワイよりも遥か西に敵がいる」
 と。
  この時、アメリカは、既に、ハワイを手に入れようと
 手を打って・・そして、この様な言い方で、アメリカ国
 民の方々を煽った。
  そして、国内宣伝を行って・・煽った。
  スペイン領のフィリピンが狙いだった。
  中国進出のための橋頭保としてフィリピンが欲しいア
 メリカだった。
  そして、さらに、「フィリピンの更に西に敵が居る」
 と、アメリカ国民の方々を・・煽って行く。
  それは、台湾だった。
  日清戦争後の台湾は、日本が関係して居た。
  アメリカ施政者は、「ハワイよりも遥か西に敵がいる。
 アメリカが攻撃されるぞ!」とアメリカ国民の方々へ危
 機感を煽った。
  そして、米西戦争でフィリピンのスペイン艦隊を殲滅
 してし(1898年5月1日)続けて、ハワイを併合してし
 (1898年8月12日)・・
  そして、アメリカの目の前には、台湾(日本)があっ
 た・・そして・・日米戦争の第一幕が開いて行った。
  植民地獲得競争に出遅れていたアメリカは、この様な
 行動をしていた。
  マッキンリー大統領の使った手は・・、
  スペインに対して、「キューバでの蛮行を止めよ」と
 いう聞こえの良い正論などを言って煽った・・
  事前に・・アメリカ国民の方々は・・アメリカ世論は・・
 この様な形の発言の数々で、スペインに対する憤りで沸
 き立たされて行っていた。
  そして、1898年に、米西戦争は勃発した。
  アメリカは、90日間でキューバとフィリピンを手に入
 れた。
  「小戦争」とこの戦争を馬鹿にして発言をした高官も
 居た。
  プエルトリコ、グアム、フィリピンもアメリカに併合
 され、キューバは占領された。
  マッキンリーは、1901年に、暗殺された。
.
1898年8月12日、ハワイ併合宣言・・日本の正義の抗議
  アメリカはハワイ諸島を侵略し、武力的にハワイ王国
 を併合した。
  この時、日本の大隈重信総理は、『正義の書簡』で、
 「これほど激烈で『宣戦布告か最後通牒に等しいような
 外交文書』は見たことがない」と言われるほどの抗議を
 した。
.
1899年、アメリカとドイツが、サモアを分割して奪った。
  太平洋上に「サモア」という島がある。
  昔の地図には「米領サモア」とか、「独領サモア」と
 かと書いてある。
  (参考)サモア諸島:ニュージーランドとハワイ諸島
     以外ではポリネシアで最大の面積のサバイイ島
     などがある。