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2015年 10月 14日 ( 1 )

(増補版)224D2/3:気になった事柄を集めた年表(1833年~1835年)

題:(増補版)224D2/3:気になった事柄を集めた年表(1833年~1835年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1834年(天保5年)、日本の総人口:27,064,000人
1834年、高島秋帆(たかしましゅうはん、兵学者、砲術家)
 が、歩兵銃25挺をオランダに注文した(生没年:1798年
 ~1866年))
  他の町年寄たちも、その都度、一緒に歩兵銃を注文し、
 秋帆の仕事に協力した。
  秋帆は、1835年にも、30挺注文し、また、1836年にも、
 80挺注文した。
  高島家は、長崎の町年寄の名家で、
  秋帆は、1798年に、高島四郎兵衛茂紀の三男として長
 崎に生まれた。
  そして、父に荻野流砲術を学び、オランダから銃砲や
 砲弾の鋳型を輸入した。
  そして、西洋式砲術の研究をした。
  1840年のアヘン戦争で、中国の清が、イギリスに敗退
 した時、その情報を受けた秋帆は、
  外国勢力に対処するため、海防等の備えと、西洋の軍
 事技術の導入を説いた(天保上書・てんぽうじょうしょ)、
  1841年には、武蔵国徳丸ヶ原・とくまるがはら(現在
 の東京都板橋区高島平)での西洋式訓練を実施した。
  しかし、一部の者のねたみから、1842年には、、無実
 の罪で捕えられた。
  1853年に釈放されると、直ぐ、開国の必要性を幕府に
 建議(けんぎ) した(嘉永上書・かえいじょうしょ)
  晩年は、幕府の砲術教授を務つとめたりして、軍制の
 改革に貢献した。
  そして、1866年に、江戸で没した(69歳)
  秋帆に限らず、日本はヨーロッパ諸国などが、何をし
 ているかを良く見ていた。
1834年2月、江戸大火(甲午火事)
  2月7日に、神田佐久間町より出火し、北西風に煽られ
 延焼した。
  2月13日までの間に、日本橋・小石川・駒込などから
 相次いで出火した。
  死者:4000人以上。
1834年3月、水野忠邦(みずのただくに)が老中になった。
  将軍・徳川家慶に信任された。
  天保の改革を行なう。
1834年7月、長崎に、注文したドンケルスクロク(または、
 イクルスコロックか?)という潜水器(泳気鐘、ケーソ
 ン)が到着した。
  しかし、これは、日の目を見ないまま出島の倉庫に眠
 り続けた。
  鋳鉄製で、重さは4.5トン、
  台船に吊り下げられて、中で2人位が腰掛けられる。
  ダイバーは、膝のあたりまで水に浸かりながら、海底
 の様子が調査できるという。
  上部の通気孔からポンプで空気を送り、
  また、上部のガラス製の円窓から採光しているという。
1834年10月9日、近藤勇が生まれた(1834年~1868年)
  武蔵国多摩郡(武州調布町上石原窪村)の百姓の宮川
 久次郎の三男として生まれた。
  旧制・宮川、幼名、勝太、昌宣(まさよし)、
  この地は、将軍直轄の地であり、伊豆韮山(にらやま)
 の代官・江川太郎左衛門の支配地であっただけに、尚武
 (しょうぶ、武道・武勇を重んじること)の気風が盛ん
 であった。
  父・久次郎は、天然理心流の達人・近藤周助に出稽古
 を頼む。
  天然理心流は、八王子を基盤としており、同地域から
 三多摩地方にかけて門人が多かった。
  近藤周助に剣を学んで、彼の養子になった。
  1863年に、将軍・家茂の上洛にあたり、その警備役に
 加わった。
  後に、京都に残って新選組を組織した(幕臣、新選組
 隊長)
  1864年に、池田屋事件など、尊王攘夷運動の弾圧にあ
 たった。
  王政復古(1867年12月9日、江戸幕府を廃絶し、同時に、
 新政府の樹立を宣言した政変)の後は、鳥羽伏見の戦い
 を経て、関東に下り、
  甲州勝沼、下総(しもうさ)流山で官軍と戦ったが、
 敗れて降伏し、
  板橋庚申塚(こうしんづか)で死刑になった。
1834年、江藤新平(えとうしんぺい)、政治家)が生まれ
 た(1834年~1874年)
  佐賀藩士の子に生まれ、尊王攘夷運動に携わった。
  維新後、政府に仕えた。
  江戸遷都を唱えた。
  1872年に、司法卿となり、フランスの刑法や民法を移
 植するのに功績をたてた。
  1873年に、参議になったが、征韓論を唱えて、入れら
 れず辞職した。
  1874年に、民選議院設立建白書の署名者の一人となっ
 たが、
  その直後、佐賀の不平士族におされて乱を起こし(佐
 賀の乱)、敗れて死刑となった。
1834年、ファラデー(イギリス)が、電気分解の法則を発
 見した。
1835年(天保6年)、松平容保(まつだいらかたもり、陸奥
 (むつ)会津藩藩主)が、生まれた(1835年~1893年)
  運命の京都守護職に任命された。
  幕府にとって、会津藩しかなかった。
  孝明天皇の信を得て、公武合体を推進した。
  幕府の影を担った藩だった。
  幕府の終末を担って会津で戦い、官軍に降伏した後は、
 因幡(いなば、鳥取県東部)に幽囚(ゆうしゅう、捕ら
 えられて、閉じ込められること)された。
  また後、和歌山藩にも永預(えいあずけ)となった。
  謹慎を解かれて後は、正三位に叙された。
  日光東照宮の宮司も勤められた。
  明治26年(1893年)まで存命された。
  ただ、59歳だった。
  「幾人の 涙は石に そそぐとも 
         その名は世々に 朽じとぞ思ふ」
    (会津戦争で戦死した藩士への追慕の歌)
1835年3月、美濃百姓一揆。
1835年6月5日、前島密(まえじまひそか、貴院議員、逓信
 次官)が生まれた(1835年~1919年)
  1870年(明治3年)に、飛脚に代わる郵便制度の調査の
 ため渡欧した、
  1871年(明治4年)に、帰国し、国営による近代的郵便
 制度の確立に尽くした。
1835年9月、天保通宝(てんぽうつうほう、天保銭)が発行
 された。額面が100文の銅銭。
  銭貨の不足と、藩札の整理を目的とした。
  1891年(明治24年)まで通用した。
  4億8480万枚が鋳造された。
  明治に入ってからは、約80文で通用していた。
  1871年(明治4年)に、1枚で8厘の通用とした。
1835年12月、幕府が、諸大名に国絵図(くにえず)の作成
 を命じた。
  徴税その他の治政上の必要から諸大名に命じて作成さ
 せた一国単位の行政用の地図(絵図)。
  江戸時代を通じて3回つくられ、この時の絵図を、天保
 国絵図(てんぽうくにえず)と呼ぶ。
  数年間を費やして、全国80余枚の地図を作った。
  良質の料紙を用いて、縮尺は2万1600分の1だった。
  狩野派の御用絵師が極彩色で細密に描いた。
  内容が正確で信頼性は高い。
  村名や石高を明示して財政地図の性質も持った。
1835年、坂本龍馬(さかもとりょうま、幕末の志士)が生
 まれた。
  訂正:坂本龍馬を1835年に生まれたとしたのは誤りで
 す。訂正いたします。
  正しい生没年は、(1836年1月3日~1867年12月10日)
 です。
  本名:直柔(なおなり)
  1853年に、江戸に出て尊王攘夷論者と交わった。
  1861年に、帰郷後、武市瑞山らの攘夷派に加わったが、
 この間、画家・河田小龍らから海外事情について知ると
 ころがあった。
  1862年に、脱藩し、江戸で勝海舟の門に入る。
  1863年8月18日、この日の政変以後、公武合体派の反動
 化で幕府への望みを断ち、
  勝の紹介で、西郷隆盛を知って薩摩藩へ接近し、
  同藩の援助のもとに、長崎に亀山社中を作り、海運貿
 易に従った。
  これから後、海援隊に発展した。
  1864年に、神戸海軍操練所設立に勝を助けた。
  1866年に、明治維新への導因となった薩長連合盟約の
 締結に、仲介の労をとった。
  1867年に、帰藩し、後藤象二郎とともに、前藩主の山
 内豊信(容堂)を説いて、大政奉還建白を実現させた。
  さらに、京都で奔走していたが、
  中岡慎太郎と会談中、刺客に襲われ、殺された。
1835年、福沢諭吉(ふくざわゆきち、思想家、教育家)が
 生まれた(1835年~1901年)
  啓蒙思想家、慶應義塾創設者、
  備前中津(現在の大分県中津市)下級藩士の子として、
 大坂蔵屋敷に生まれ、
 緒方洪庵の塾で蘭学を学ぶ。
  1858年に、藩命により出府し、
  1859年に、英学に転向、
  1860年~1867年に、幕府の翻訳方に勤め、また、
  1860年、1861年、1867年の3回、幕府使節に随行して洋
 行し、近代文明をつぶさに観察した。
  1868年に、塾を新銭座へ移して、慶應義塾と名付け(
 1871年に三田へ移転)
  以後、もっぱら民間で活発な著作活動を行なった。
  「西洋事情」「学問のすすめ」「文明論之概略」など
 はその代表作であり、
  その中で、近代文明を紹介するとともに、門閥制度に
 対する徹底的な憎悪を吐露し、官尊民卑を激しく攻撃し、
 儒教にかかる実学を主張し、「独立自尊」の4字に集約
 される国民の創出に努め、政府及び民衆に比類ない影響
 を与えた。
  一方、「演説」を創始し、明六社に参加し、さらに、
 家族道徳の革新には終生関心を持ち続けた。
  しかし、自由民権運動が起こると批判的態度をとり、
 国民主義に移行し、
  1882年に、「時事新報」を創刊して、官民調和を唱え、
 日清戦争を熱烈に支持した。
  また、日本を信じ、西洋に30年あれば追い着くと言っ
 た。
1835年、吉田松陰(5歳)が養子に出された。
1835年、アメリカ合衆国の先住民の方たちへの虐(いじ)
 めは続いた。
  有利な条約で、狡猾な条項を潜ませたりする卑劣なや
 り方で、先住民のアメリカ・インディアンの方々の土地
 を奪って行った。
  この年、アメリカ大統領のジャクソン大統領の提示し
 た条約を、アメリカ・インディアンのセミノール族のオ
 セオーラ族長は、公開の席上で、皆が見る前で、条約を
 書いた紙を引き裂いた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
by suba28 | 2015-10-14 04:03 | 皆様とともに 幸せになりたい


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