人気ブログランキング | 話題のタグを見る

(増補版)672E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年5月~1897年5月)

題:(増補版)672E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年5月~1897年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年5月10日、日本郵船の艀船水夫六百名が同盟罷工した。
.
1897年5月11日、島村駐ハワイ公使が、日本人移民の受け入
 れ拒否問題を抗議した。
  日本人移民の上陸を拒否しながら・・1897年6月16日、
 アメリカはハワイ併合の新条約に調印し、ハワイを併合
 した・・日本はこれにも抗議をした。
  1897年にアメリカ大統領に就任した共和党のウィリア
 ム・マッキンレーは、ハワイ併合を推進し・・
  1897年6月に併合の新条約に調印した。
.
1897年5月13日、北越鉄道の春日新田駅~鉢崎駅(現:米山
 駅)間が開通した。
  北越鉄道は、新潟県内で鉄道を建設し営業した鉄道事
 業者・・
  北越鉄道は、現在の信越本線で・・
  1886年に、日本海岸の直江津から内陸の長野に向けて
   路線を伸ばしはじめたものの・・
   直江津以北の官設による建設は見通しが立たないと
   判明・・
   そのため、地元新潟県有志は、渋沢栄一に東京の資
   本家を呼び込むことを依頼した・・そして・・
  1895年、渋沢を発起人代表として、北越鉄道株式会社
   (本社:新潟市)を設立した。
  1897年、直江津側の春日新田駅~鉢崎駅を皮切りに、
   順次延伸し開業して行った。
.
1897年5月17日、名古屋に、御園座(みそのざ)が開場した。
  1895年、御園座の初代社長、長谷川太兵衛(たひょう
   え)は「東西に負けない一流の劇場を名古屋につく
   りたい」と、劇場設立に乗り出した。
  1896年、名古屋劇場株式会社が創立され、劇場名は御
   園座と定められた。
  1897年、劇場本館が完成した。
   左右に大きなドームがあるルネッサンス式洋風建築
   で、場内には大きなシャンデリアがつるされていた。
   当時の名古屋の芝居小屋で、ひときわモダンで新し
   い劇場の出現だった。
   客席はすべて桟敷で、玄関左には芝居茶屋五軒が並
   び、上等の客は芝居茶屋で食事をとる仕組みになっ
   ていた。
  1897年5月、開場し、柿葺落(こけらおとし)興行(
   1896年6月19日)は、初世市川左團次の一座・・
   当時「團・菊・左」(九世市川團十郎、五世尾上菊
   五郎、初世市川左團次)と称された人気役者の一座
   だった・・大盛況・・
   劇場内はつま先立ちで・・入場できなかった人は帰
   りかねて劇場の前にたむろしていた。
   続く6月の公演も左團次一座が勤めた。
.
1897年5月27日、東京鉱山監督署長が、足尾銅山に対して
 鉱毒除防工事命令を出した。
  足尾銅山の鉱毒予防工事命令は、1897年5月27日付で、
 古河市兵衛に伝達された。
  その工事内容は、第1回(1896年12月)、第2回(1897
 年5月13日)の予防工事命令とは、比較にならない規模の
 ものだった。
  東京鉱山監督署長によるこの命令書は、37項から成り、
 その主とするところは、「亜砒酸及煙媒を凝結降沈せし
 め、且、硫酸製造又其他脱硫の方法を以て亜砒酸瓦斯を
 除却」する脱硫塔、「沈澱池濾過池」、「泥渣堆積所」、
 「畑道及大烟突」等々の建設であった。
  そして、これらの建設を、期限をきって義務づけ、37
 項に、「此命令書の事項に違背するときは直に鉱業を停
 止すべし」としていた。
  明らかに、この命令書は、藩閥政府の意図に沿った鉱
 業継続を前提にしたものであった。
  とくに、この37項は、政府部内と農商務省内部の鉱業
 停止派、そして、被害農民への申しわけと、さらに、世
 論の鎮静化を狙いとしていた。
  この命令書がはらむ欺瞞と空洞性は、この予防工事の
 完成後、その命令責任者であった東京鉱山監督署長が、
 足尾鉱業所長に就任したことに、みごとに象徴されてい
 た。
  その内容について、類例のないこの予防工事は果して
 実効を収め得るものだろうか・・と、古河側すら危ぶむ
 ありさまだった。
  とくに、脱琉塔は、いかなる装置によるべきかは全く
 成案を欠き、確信のもてない古河の設計、そのまま承認・
 施工させるという、馴れあい工事だった。
  はじめ、古河側が危惧したようにその効果は薄く、脱
 硫装置に至っては全く機能せず、煙害は一層激化した。
  そのため製錬所の上流にある松木村民は、1901年1月に
 「煙害救助請願書」を政府に提出することになるが、結
 局、解決されずに、この年の暮に廃村となった。
  そして、古河は、最初の危惧をも忘れ去り、予防工事
 後は「足尾銅山に在る、脱硫塔は世界稀有の、殆ど、絶
 一の事業」と自慢し、以後は、完全に開き直ってしまっ
 た。
  この工事に要した費用は、賃金47万円、材料費42万円、
 食料雑費15万円、総計104万円で、その一部の資金は、
 第一銀行の渋沢栄一の融資でまかなった。
  この鉱毒予防工事命令の発動を、被害農民たちは、ど
 のように受けとったか・・
  多くの被害農民たちが、みずからの闘いの成果として
 受けとめた。
  被害農民の一人、永島与八は、「我々の願うところは
 防禦ではなく停止にあるとしながらも、
 長年の間、田中代議士が東奔西走身を挺して運動を続け、
 議会において幾度か血涙を揮って政府に質問を為したこ
 とが刺激となり、一方、「我々被害民が生命がけで運動
 したことが動機となって、ともかくこれだけの命令を下
 した)」としていることに、それが伺えた。
.
1897年5月、井上哲次郎らが、大日本協会を設立して、雑誌
 「日本主義」を創刊した。
  政府の欧化政策に対する反動として起こった国家主義
 思想で・・日本古来の伝統的精神を重視しようとした。
  欧化主義・民主主義・社会主義に反対しながら、日本
 古来の伝統や国粋を擁護しようとした思想、運動・・
  思想的には一定の体系を成しておらず、その内容は、
 論者によって相違するが、政治的には欧米協調主義への
 反対と国権・対外強硬策の強調を主張した。
  井上哲次郎のぼか、三宅雪嶺や高山樗牛らによって提
 唱された。
.
1897年5月、緒方正規が、ペスト菌がネズミのノミによって
 媒介していることを発見した。
  緒方正規(おがたまさのり、1853年12月5日~1919年
 7月30日(65歳没)
  肥後国八代郡河俣村小字鶴(現・熊本県八代市)
  衛生学者、細菌学者
  東京帝国大学医科大学学長、東京帝大教授。
  日本における衛生学、細菌学の基礎を確立した。
  長男の緒方規雄は細菌学者、次男の緒方益雄は衛生学
 者。
  1880年、東京帝大医学部を卒業。
  1881年、ドイツのマックス・フォン・ペッテンコーフ
   ァーのもとへ留学、
   ミュンヘン大学で衛生学を学んだ。
  1882年、ベルリン大学で、ロベルト・コッホの弟子で
   あるフリードリヒ・レフラーに細菌学を学ぶ。
  1884年、帰国。
  1885年、東大医学部の衛生学教室と内務省衛生試験所
   に着任し、衛生試験所に細菌室を創設。
  1885年、北里柴三郎にドイツ留学を勧めて、レフラー
   宛に紹介状を書く。
  1885年、脚気病原菌説を発表。
   ドイツ留学中の北里は、この学説を批判した。
   現在、北里の批判が正しかったことが分かっている。
   この事件によって、北里は、東大の医学部と対立し
   続けることになる。
   赤痢やペスト菌の研究でも二人は対立しあう。
   研究面で何かと対決することが多かったが、私生活
   では晩年まで交流が続く。
  1886年、帝国大学医科大学の衛生学初代教授となる。
  1896年、台湾でペストが流行した時、現地調査を行い、
   ペスト菌に対する北里の研究(1894年)の誤りを指
   摘した。
   北里が単体分離したと思っていた病原菌には、実は
   ペスト菌を含む2種類の菌が含まれており、この誤り
   を北里は認め、自説を撤回した。
   また、ペストは、ネズミのノミを媒介として流行す
   ることを証明し、ドイツの専門誌に発表した。
  1898年、医科大学学長を勤める。
   東京学士会院会員、第5回日本医学会総会会頭などを
   歴任。
  1919年、食道癌になり、静養していたが、気管支・肺
   に転移し、肺壊疽も併発し、1919年7月30日、死去。
  因みに、日本のペスト流行の初めは、1899年に、流行
 地の中国から侵入したのが初のペスト。
  この翌年、東京市は、予防のため一匹あたり5銭でネズ
 ミを買い上げた。
  ペストが、日本に侵入してから大小の流行が起こった。
  しかし、死亡が2420人に抑えられ、日本がペストの根
 絶に成功したのは、ペスト菌の発見者である北里柴三郎
 や、日本政府のペスト防御対策(特に、ペスト保菌ネズ
 ミの撲滅対策)にある。
  1926年以降、今日まで、ペスト患者は出ていない。
   北里は、研究者としてのみでなく、医療行政家とし
   ても極めて優秀だった。  
  1899年、北里の建議によって開港検疫法にペストが病
   原体として追加された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:韓国の謝罪がないのなら、韓国と妥協をするな!
    今回、韓国から謝罪もないのに、日本は妥協をした・・
.
1879年、琉球処分。
  琉球の島民66人が台湾に漂着した時、その54人が殺さ
 れるという事件が起きた。
  この解決に際して、中国・清は、台湾の民を「化外の
 民(けがいのたみ、中国の国家統治の及ばない者たち)」
 と日本へ回答した。
  この琉球処分の時も、中国・清は、琉球島民を日本国
 民と認めた。
  日本は、そこで、1879年(明治12年)琉球を日本領土
 とし、沖縄県を設置した。
  NHKの高校講座では、この様な事はまったく放送し
 ない・・中国の事ばかりを放送するという偏った講座と
 なっている。
  中国に偏するNHKとなっていて、高校生を洗脳して
 いる。
.
1882年7月23日、壬午(じんご)事変
  興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の首府漢城(現:
 ソウル)で起こった。
  閔氏政権が進める開化政策に不満をつのらせ・・
  また、朝鮮政府が日本人教官を採用して訓練した新式
 の軍隊を優先することへの不満から朝鮮の『旧軍隊』が
 反乱を起こした。
  この時、中国・清は軍隊を出した。
  日本も出したが、清は介入して事変を鎮圧し、そして、
 この事態に乗じて朝鮮政権にあった大院君を自国・中国
 へ連れ去った・・大介入だった。
  そして、閔氏政権を復活させてしまった。
  中国・清は、内政干渉以上の介入を強烈に行なった。
  日本は、この様な事態を憂慮し看過できなかった。
  日本より優れた軍事力を持つ中国・清国、この時、緊
 急的な日本の軍事力整備の必要性が痛感された。
  この年・1882年8月15日、山県有朋は「財政の議」を
 太政官に建議した。
  日本の望ましい軍備は、日本と直接関係ある列国(中国・
 清を指している)との比較からいった場合、軍艦48隻、さ
 らに運輸船若干であり、そして、これを東西の二鎮守府
 に分けて配備する必要があるとした。
.
1883年8月と1885年4月、清仏戦争
  中国・清国が、フランスに対して武力に訴えてまでし
 て安南(ベトナム)との宗属関係(冊封体制)を守ろうと
 した。
  当時、この清国のこの行為が、日本にとって衝撃的だ
 った。
  日本のマスコミもこれに大きく関心を示し・・この詳
 細が、当時、日本で報道され続けた。
  日本は、軍拡する清国が、この様な行動をとることに
 より「切実な問題」として捉えていた。
  この当時、一触即発の状況下にあった。
  1885年4月、イギリスは、この様な一触即発の事態に備
 える目的で、「巨文島を占領する」という挙に出た。
  巨文島(こむんとう)は、半島の南、朝鮮海峡上の要
 衝を占め、全羅南道と済州島を結ぶ水路の中間にある島
 で・・
  英露両国の対立が、当時、イギリスの保護領化されて
 いたアフガニスタン地域をめぐって顕在化していた。
  ロシアも、朝鮮半島北部の日本海側に位置する元山(ウ
 ォンサン、ポート・レザノフ)を奪い取ろうとしていた。
  この様な危機が、日本の周りに、現実的に目に見えて
 いた。
  また、英露は、これに伴ってこの地域に有利な制海権
 を築こうとしていた。
  (状況)領土的野心を持つ欧米列強諸国の中のフラン
     スは、1840年頃より、ベトナム(阮朝)に対し
     て、その行動が始まっていた。
      1858年~1862年のコーチシナ戦争で、フラン
     スはベトナム(阮朝)が南部に設置していたい
     くつかの行政区を武力併合した。
      そして、それらを統合して仏領コーチシナを
     形成し、東南アジアの進出の拠点とした。
      侵略し、領土を奪おうとする欧米列強諸国だ
     った。
.
1884年12月、甲申政変(こうしんせいへん)が起きた。
  これはクーデターで、朝鮮・韓国の開化党らが、中国・
 清の影響下にある閔氏打倒のために起こした。
  この後、朝鮮国王のアドバイザーとして、中国・清は、
 袁世凱を駐剳(ちゅうさつ)朝鮮総理交渉通商事宜として
 派遣した。
  この様にして伝統的な宗属関係(冊封)を越えて、権
 力的な関係に再編強化した。
  この様に中国・清も直接的に加わって、朝鮮の周りに
 不穏な情勢が渦巻いていた。
  中国・清は、朝鮮・韓国へ駐剳朝鮮総理交渉通商事宜
 を送って、朝鮮・韓国の中国人商人たちの商業活動がう
 まくいくようにし、関税を壟断(ろうだん、利益や権利
 を独り占めに独占する)した。
.
1885年4月15日、イギリス東洋艦隊が、朝鮮の巨文(くもん)
 島を占拠した。
  イギリスが、巨文島を占領した時、イギリスは、中国・
 清の許可をとった上で実行した。
  この事は、当時の日本に「大きな衝撃を与えた」。
  朝鮮、韓国の独立性は、「第三国もその独立性を認め、
 認め合うことが大事で必要」と日本は見ていた。
  当時の様な、中国・清の冊封体制によっての韓国・朝
 鮮の属国化による占有化は異常事態と見ていた。
  その様な立脚点が、巨文島占領におけるイギリスの中
 国・清への許可を求めたことによって否定された。
  この様な事態の推移から、ロシアの「朝鮮・韓国の港
 湾などの占領」の可能性も高まったからだった。
  イギリスは、自らの帝国主義的行為の実施に、中国・
 清の冊封の従来の宗属関係を利用したのだった。
  また、中国の従来の宗属関係は、ロシアの朝鮮占領の
 可能性を作り出す恐れを作っていた。
  朝鮮・韓国に、この様な事態が起きることを山県や西
 周は憂慮していた。
  そして、英露の対決の事態、懸念、危険性が生じて来
 た・・英露の対決が深まって行く。
  朝鮮における、中国・清の宗主権の主張は、イギリス
 やロシアに朝鮮侵入の契機を与えることになった。
.
1910年8月29日、日韓併合
  日韓併合の時点、韓国・朝鮮には公立学校は、たった
 100校しかなかった。
  日韓併合後、日本は、日本並みに韓国・朝鮮にしたい
 と誠実に、一生懸命に学校を作った・・その結果、1930
 年、の段階で、公立学校1500校も日本は創った。
  そして、1942年には、4271校の公立学校を作り・・
  しかも、鉄筋コンクリートの立派な学校を日本は作っ
 た。
  そして、立派なレンガ造もある。
  その点、日本は?と言えば、1950年になっても、日本
 の小学校は木造で、そんなに良い校舎ではなかった。
  日本は、誠実に、台湾と共に朝鮮・韓国も、日本の地・
 内地と同じような学校、または、それ以上の学校をを建
 てた。
  日本の内地と同じ(差別などない)統治をした。
  この事を韓国は感謝の意思を表明すべきである。
.
1937年8月13日、第二次上海事変
  表面上は、日本と中国の戦争のようではあるが・・背
 後からアメリカの大きな介入があった・・最近の資料開
 示で、そのことが明らかになった・・
  これが、第二次世界大戦の遠因となっている・・
  「日本が、中国で戦争を拡大させた」という批判は、
 安易な、また、物事をよく見ていない言い方である。
  一例を言えば、中国の上海という場所は、イギリス人
 などのヨーロッパ人や日本人が居た(租界と言った)。
  その租界に、各国は、その居留民を守るため、兵士を
 駐留させて居た。
  日本も、日本兵を駐留させて居た。
  戦争のための駐留ではない・・故に、僅かな兵力だっ
 た。
  しかし、この日本をターゲット(攻撃目標)に、中国
 は攻撃を仕掛けて来た。
  日本も鎮圧したが、深追いせずにいた。
  国際連盟から賞賛されたくらいだった。
  しかし、アメリカに支援された中国・国民党軍は、巨
 大な兵力で、また、攻めて来た。
  この攻撃する戦力のさらに外にも、アメリカに支援さ
 れた「巨大な戦力」を持った軍で、日本を二重に包囲す
 ることがなされるという状況で・・、
  戦争が、収まるという状況ではなかった。
  中国・国民党軍(蒋介石)を、アメリカなどが支援す
 る「何本もの援蒋ルート」の存在が、すべての問題の根
 幹で・・これが、戦争を止めさせないシステムだった。
  アメリカは、日本を徹底的に叩(たた)きたいのでこ
 の様な事をやった。
  中途半端におさめたくないアメリカだった。
.
1937年8月13日、第二次上海事変・・日本租界に、中国軍が
 攻めて来たが・・
  NHKは日本を貶(おとし)めようと、内容は、日本が
 攻撃するというまったく逆の番組を作って放送する放送
 局だった・・
  NHKは「日中戦争は日本が始めた」と、まったく史
 実に反する番組を作って放送した。
  そのNHKの放送行為を批判して書いた本が「日中戦
 争、戦争を望んだ中国、望まなかった日本」(2008年、P
 HP研究所)だ。
  この本は、中国人歴史学者の林思雲氏も加わっている。
  NHKのプロパガンダの間違い番組が槍玉に挙げられ
 て、こてんこてんに批判がされている。
  NHKは、何しろ「何でも日本がやったとした」。
  中国は、まったく関係ないという番組だった。
  日本が好きに何でも日本の意向ですべて決まって行っ
 たとした。
  中国人歴史学者の林思雲氏は、こんな木偶の坊(でく
 のぼう)の様な中国人ではないと批判し指摘する。
  日本にされるがままの中国ではないという。
  中国を擁護するNHKは、逆に、「中国を無能な人形
 の様に扱っている」・・その様なところに気がつかない
 NHK。
  だから無能な中国に、「悪漢の日本」がしたい放題に
 できたという「低劣・劣悪な番組の筋となる」。
  NHKは、日本さえ貶めれば良いと思っていた。
  ただそれだけだった。
  真実を探ろうという本筋は消えている。
  林思雲氏は書く・・
  「中国人から見ると、この様に片方だけに戦争責任を
 求める論法には傲慢さが含まれている。
  即ち、日本を日中戦争の主導者と見なし、日本が戦争
 を拡大しようと思えば拡大でき、拡大させまいと思えば
 拡大させぬことが出来たのであり、戦争の方向は日本の
 意思でコントロールできたと言うものであるが、自発的
 に進んで戦おうとした中国人の意思が軽視されている。
  この様な見方は、当時の実情に符合しない。
  実際には、当時の日本は、決して戦争の方向をコント
 ロールしていなかった。
  中国側において自発的に日本と戦おうとする意思が高
 まっている状況では、たとえ日本が戦争を拡大したくな
 くても、中国側は日本と全面戦争を開始したであろう」
 と書く・・
  林思雲氏は、日中戦争は、日本の意思で起こったもの
 ではなく、中国人が日本との全面戦争を決意し、自発的
 に戦う意思を持っていたことで起こった・・と説明して
 いる。
  NHKは、日本を貶(おとし)めたい一心でこの様な
 まったく逆のプロパガンダの筋の番組を作ったが、史実
 を捻じ曲げてまでこの様な行為をする「とんでもない放
 送局となっている」。
  大量の資金と武器を、中国は、アメリカから支援され・・
 ドイツからは、軍事的な指導者を招き入れ、トーチカの
 防御陣地群を作ってまでして、まったく寝耳の日本租界
 を襲って来た・・この第二次上海事変から日中戦争の泥
 沼戦争が始まった。
  アメリカに支援されているから延々と戦いは続いた。
  第二次世界大戦の遠因になって行った・・
     ・
     ・
1947年、戦後の日本に、新しい憲法が発布した。
  戦争の後、日本を占領したアメリカは、戦争前からの
 日本の政府を「存続したままにした」。
  また、憲法も変えずに「そのままにした」。
  戦後も、大日本帝国憲法の国が存続していた。
  その体制がしっかりしていたので、アメリカはそのま
 まにする方が有利りだとした。
  アメリカは、この日本政府へ指示を出して色々なこと
 をさせた。
  日本国民は、この様にして、アメリカの支配を受けて
 いた。
  戦争が終わった後の1945年、1946年、1947年に渡って
 大日本帝国の日本が存続し、その日本に、海外に居た元
 日本兵や一般人の400万人〜500万人の人たちが一斉に帰
 国した。
  それまでは、乏しいながらも流通していた食糧の流通
 がこの時に至って途絶えた。
  それまでは、食糧はある程度は回っていて、食糧はあ
 った。
  流通も動いていて、犯罪もほとんどない社会だった。
  しかし、交通網は麻痺する社会となった。
  流通は途絶えた。
  食糧難が起きた。
  そして、アメリカ進駐軍の性的犯罪が氾濫した。
  1946年が最悪だった。
  その翌年もまだ大変だった。
  1948年に、少しずつ回復の兆(きざ)しが見え、日本国
 民は耐えた。
  この様にして復興した日本に『韓国は金をせびる』。
  まったく関係のない事柄に、言いがかりを付けて来る・・
     ・
     ・
1989年9月、日米構造協議が始まった。
  そして、この協議開始と時を同じにするように、何故
 か?『日本のプラス成長』も止まった。
  1989年9月、第1回の日米構造協議が開催された・・悪
 夢の始まりだった。
  これは、日米両国の次官級の経済協議であるが・・
  1989年7月の日米首脳会談において、ブッシュ大統領と
 宇野宗佑首相によって合意され、そして、始められた。
  この頃、日本経済が好調で・・
  1985年9月に、プラザ合意がなされて・・
  これ以降、日本は努力し、「円高・ドル安の為替調整」
 の方向へ動かし・・
  また、日本は、内需拡大の努力も行った・・
  しかし、アメリカ側の努力が足りずに、アメリカの対
 日貿易赤字が縮小しなかった。
  そのため、アメリカは、日米構造協議という名目で、
 この事態を改善したいと日本へ言って来た・・
  年間500億ドルのアメリカの対日貿易赤字は減らないの
 だった。
  1989年の日米首脳会談で、ブッシュ大統領は、このこ
 とを言った「日米間の貿易不均衡に端を発した日米貿易
 摩擦で、この解消を目指した協議」をしたいと、そして・・
  1989年9月、第1回協議は・・開催された。
  そして、それ以後・・2か月に1回、会議は開催された・・
  1990年6月に至って「最終報告」がまとめられた。
  この報告は・・
  日本は、1991年から10年間で公共投資を430兆円へ拡大
 せよ・・
  また、大規模小売店舗法の規制緩和を行なえ・・
  系列取り引きの排除・・などを行なえ・・となった・・
  1991年5月に至って、第1回の追補年次報告書が作成さ
 れ、アメリカは「日本市場は開かれてない」と言った・・
 日本は「閉鎖的だ」と言い、「商法などの改正も行なえ」
 と要求した・・そして・・
  1991年以降も、フォローアップ(事後点検)会合が開
 かれた・・
  1992年7月、第2回の追補年次報告書が作成され、最終
 報告に盛込まれた措置の進展状況に関する再評価が行わ
 れた。
  これに加え、第2回年次報告書には、1992年1月の日米
 首脳会談での日米構造協議の再活性化に関する合意をふ
 まえた両国のビジネス環境に対処するための新たな取決
 めが含まれた・・そして・・
  1993年1月にビル・クリントン政権になって、G・H・W・
 ブッシュ政権時代の日米構造協議のかわりに「日米包括
 経済協議」としたいと言って来た・・
  より厳しい要求を日本へ掲げて来た・・
  これは、「構造問題と個別の産業交渉」を組み合わせ
 て日本を変ようという要求で・・アメリカに良好な状況
 を作ろうというものだった・・そして・・
  1993年夏以降、その日米包括経済協議は始まった。
  1995年に、自動車が・・そして・・
  1996年に、フィルムが・・、
   世界貿易機関(WTO)への提訴という動きも起り、
   摩擦が起こりながら、難航した。
   その後・・日米間の経済協議は・・、
  1997年から、日米規制緩和対話となり・・
  2001年、「成長のための日米経済パートナーシップ」
   となり・・、
  2002年から、「規制改革イニシアティブ」・・などと
   なり・・話は続いている・・
  建前は、「お互いに構造問題を指摘し合う」というも
 のだったが・・アメリカの要求ばかりが強すぎる会議と
 なっている・・
  表題:日米両国の対外収支の不均衡是正に向けてマク
 ロ経済の政策協調努力を補完するものとして、日米双方
 が相手国の構造問題を指摘し合い、みずからが必要と考
 える構造改革に取組むことを目的とする協議・・と美し
 いが・・
  1990年7月の最終報告で・・「日本側措置として、公共
   投資の拡充、大店法および独禁法の改正策」などと
   なり・・
   「米側措置として、財政赤字削減、競争力の強化」
   などが最終報告書に盛込まれ、発表された。
  (このアメリカの財政赤字削減は達成されていない)
  この協議は、まったく不公平な協議であった。
  完全に日本に対して、見下す的な、要求の多い協議だ
 った。
  日本は、アメリカの強硬な要求に応ずるしかなかった。
  アメリカは、基礎的な経済学の原則すら完全に無視し、
 屁理屈理論を一方的に強弁した。
  言い掛かりばかりの発言で、協議の体のなさない協議
 だった。
  「日米間の貿易赤字が存在する理由の大部分は、日本
 のアン・フェア・トレード(不公正な通商政策)にある・・
 とされた。
  これを直ちに是正しないと、日本企業に厳しい制裁を
 加える・・とされた・・
  制裁が嫌なら、アメリカの財とサービスを日本が強制
 的に購入せよ」・・とされ・・この様な一方的な要求と
 恫喝が行なわれた・・
  経済学のロジックを完全に無視するアメリカだった。
  「日米構造協議」は命令だった・・
  または、命令に近い指導(強要だった)・・?
  アメリカの冷酷で利己的な金融業者の発言権があり・・
  また、投票権が与えられ・・
  彼らに、日本企業の経営や人事まで介入させるという
 状況で・・
  この様な状況ならば、日本の雇用関係と人間関係は破
 壊されて行く・・という結果となった・・
.
2004年7月、NHKのチーフプロデューサーの磯野克己が、
  制作費を着服した。
  (1996年~2001年で約4888万円)
  その後の報道で、1億円以上という多額となった。
.
2007年、『性奴隷などというものは存在しなかった』とい
 う調査結果が出ていた・・
  2007年に、すでに、「性奴隷」は存在しなかったとい
 う調査結果を受け取っているにもかかわらず、それを無
 視して、在米中国人団体が慰安婦像を立て始めた。
  アメリカの中国人団体の「この像を建てる目的」は、
 『日米韓を離反させる』ためだった。
  慰安婦のオモニ(おばさん)と自称する人が叫んでい
 た「2度と再び日本を立ち上がれなくする」・・そのた
 めの情報戦略の一環だった。
  これは、「伊藤博文を殺害した安重根記念館を作る」
 と韓国に持ちかけた工作と・・絡んでいた。
  はっきりと「20万人強制連行」という行為が、報告書
 によって、慰安婦像をつくる前から『否定されていて』・・
  一方、諸外国に『韓国は、ただの売春婦と、外国要人
 を殺害したテロリストの銅像を建てる国』という印象を
 与えてしまう事を恐れた(事実がその通りなのだが・・)
  韓国の信用を毀損してしまうという事が起きている・・
  騒いで世界の注目を集めて、一方、その事実を世界が
 知ると・・その韓国の嘘・韓国のデッチアゲが分かって
 しまい、信用失墜となる心配があった。
  日本は、『根拠の無い主張』がなされている像によっ
 て、「在米住民同士が対立するという懸念がある」と表
 明した・・像を建立するアメリカの各自治体へ建立中止
 行動をすべき・・
.
2017年07月15日、日本を裏切り続けるNHK
  貴方のNHK受信料が、日本を貶(おとし)めるために
 使われています。
  日本を貶めるために作られている「外国で発行される
 冊子」に使われています。
  NHKは、「その様な団体へ金を渡し、支援していま
 す」。
  外国で発行している「日本を貶(おとし)めるフリー
 ペーパー」に、NHKは、貴方のNHK受信料の金を出
 して支援している・・スポンサーになっている。
  日本を裏切る行為をしているNHKとなっている。
  日本を貶める番組を外国へ送る行為もしているNHK
 だ。
  海外に居る日本人が、その様なNHKの提供した番組
 を見て、びっくりして連絡をして来た。
  こんなNHKの受信料を支払うのは「止めましょう」。
  (資料)
  日本を貶めるフリーペーパーのスポンサーに『NHK
 も名を連ねる』 
  欧州の『反日』フリーペーパーはこんなにヒドい…
  2017年07月15日 03:00
  前衆議院議員 杉田水脈 月刊正論8月号
  4月と5月に大統領選挙の取材で出かけたフランスで、
 私のツイッターを見たパリ在住の女性から相談が寄せら
 れた。
  早速お会いして話を伺うことになりました。
  彼女は30代。
  現地でフランス人と結婚し、仕事をしています。
  住み始めて15年になるそうです。
  社会保障の話なども詳しく伺ったのですが、私が最も
 びっくりしたのは彼女が持ってきてくれた一冊のフリー
 ペーパーでした。
 この「ZOOM JAPON」という名のフリーペーパ
 ーは、2010年6月創刊。
  フランス語圏において、日本の文化的情報を総合的に
 発信する唯一の無料月刊誌とのことです。
  現在、フランス国内約850ヶ所に配布拠点があり、
 フランスを中心に毎月7万部、多い時には15万部も発行
 されています。
  英語、イタリア語、スペイン語にも翻訳され、ヨーロ
 ッパ中で配布され、JAPAN EXPOや国際旅行博
 覧会の会場をはじめ、多種多様な日本関連イベント会場
 でも積極的に配布をされています。
.
2017年、理化学研究所の改革の必要性・・
  国の最高の研究機関と言われる理化学研究所の研究発
 表会へ行った。
  そこで得たパンフレットのデーターを見て驚いた。
  今回、初めて見た理研のデーター(一部)だったが・・
  (理研のパンフレットでその様なデーターを見るは初
 めて・・)
  それまで、理研のイメージは、国の最高研究機関で「
 すごいのではないか」と思っていた・・が・・
  しかし、その先入観は打ち砕かれた・・
  それまで思っていたイメージのものとは「真逆だった」。
  そのパンフレットに書かれていたその数値は、イメー
 ジしていた数値とあまりにもかけ離れた「低水準さだっ
 た」。
  理研の予算は約1000億円である・・しかし、その研究
 成果である特許料収入は3億円である・・少なすぎる・・
 0.3%の特許料収入である・・驚くべき低水準のパーセン
 テージである・・一桁・二桁違う・・自分の研究費ぐら
 い自分で稼げ!
  これでは、一緒に共同研究をしている企業は儲かって
 いないで困っているなと思えた・・理研との共同研究は、
 逆に、「お荷物だ」くらいに思われているのではないか
 と思えた。
  また、特許の出願件数が、国内出願・海外出願を合わ
 せて年間400件である・・これも非常に少ない・・研究員
 数は3014名、その他職員を含めて3531名である・・
  つまり、研究職の約10名が、「たった1件の特許を、1
 年間かけて出願している」という数字である・・
  ほとんどの研究職員が、肝心かなめの「特許出願をし
 ない研究員」ということになる。
  『10人中9名が特許も出さない研究員』・・
  「国を富ます知的財産権・工業所有権を得る大切さを
 理解しているのか?」・・と言いたい・・
  『ほとんどの研究員が遊んでいるのではないか?』
  また、『特許のひらめかない欠陥研究員ではないか』
  1年間あれば、1名が4~5件の特許の出願くらいは普通
 は出来るはずである・・
  10名居れば「40件~50件の特許が出願できる」はずで
 ある・・この低率さに非常に驚く・・
  今は、多項制の特許出願ができるので、その特許出願
 の価値はこの数倍となる・・
  (この多項制の特許にも気付かねばならない・・ひら
 めかなければならない)
  そして、『研究論文数も少ない』・・
  年平均2510論文である・・
  研究員数が3500名以上であるので・・
  これは、1年間、研究を行なって来た研究員が、その研
 究成果の論文を、『まったく何も出さない』という者も
 多く居るという数字となる・・
  研究成果をまとめて論文にすることもしない・・特許
 も出さない・・という姿が見えて来る・・
  ただただ、研究費の消費だけとなる。
  『まったく呆れる』状況に見える・・
  最低、論文は、1年間に1件は出さなければ、自分の研
 究成果をまとめる事をしなければ、資格剥奪ぐらいにす
 べきである・・
  『何もまとめるべき研究成果が無い』という事となる。
  論文が出せないというのであるのならば『失格である』。
  1000億円の予算を消費する理化学研究所・・それへの
 研究投資は、改革すべきところが多々ある課題である。
.
2018年、中国には、農村に戸籍を持つ者(農民工)がいる。
  2018年には、2億8836万人と中国国家統計局が発表して
 いる・・全人口の約2割・・
  平均月収が、3721元(約6万2000円)
  1980年以降に生まれた新世代農民工は、農民工全体の
 約51.5%を占めた。
  しかし、農民工の平均年齢が40.2歳と高齢化が進んで
 いる。
  都市と農村という二元的な管理構造を持つ中国で・・
 格差が生じている・・
  1980年代の半ばまで、都市労働者について一律いわゆ
 る「固定工」システムがとられ、学校を卒業すれば、国
 から職が行政的に分配された・・
  そして、基本的に定年まで、その職場で勤務が出来た。
  都市労働者の就業は、基本的に国によって保障されて
 いた。
  これが出来るのは、農村からの人口移動を戸籍制度に
 よって厳しく制限し、都市を閉じられた空間に出来たか
 らだった。
  中国の発展のカラクリは、農民工という差別した人々
 を存在させていることだった・・
  安い労働力の供給源となっている。
  その安い労働力を使いたいと、外国企業が中国進出し
 た・・これが「世界の工場となった中国のカラクリ」・・
  中国へ進出した外国企業などの資本・金は、中国の外
 へ持ち出せないとされた。
  だから、いくら中国で儲けても、その中国で儲けた金
 が、中国外へ持ち出せないようにされていた。
  結局、中国へ進出した企業は、名前だけは進出した企
 業名ではあるが、中国の中だけでの再投資しかできない
 ので、『中国の発展に尽くすだけの企業』となり、さも、
 中国企業と同じような立場となる・・
  中国発展だけに尽くすだけの企業となる。
  中国進出の企業は、必ず、中国企業との合弁の形をと
 らされる。
  これは、進出企業の「総べてのノウハウを奪う」とい
 う目的だった。
  それまでに培(つちか)ったその企業のすべての美味
 しい技術などのノウハウが盗られてしまった。
  中国の発展を、さらに補強するため、中国は、あらゆ
 る手段を使って「外国の知的財産を盗む」。
  その為には、国際法も無視し、ネットを通じて盗んだ
 り、中国人学者を学生として外国の大学や研究所へ送り
 込んだりしている(産業スパイ)
  大学や最先端研究所へ、日本の最高の研究機関である
 理化学研究所にも大勢来ている。
  外国への拠点づくり、中国は、自国の土地は外国人は
 所有できないが、外国は、その逆で、「中国人は、外国
 の土地を買って、所有する」・・そのことを許している。
  そこで、中国は、国家として(表は、個人として)外
 国の土地を世界中で買っている。
  そこで、中国へ進出した企業にした逆のことをする。
  それは、その外国で、『中国企業だけの商サイクル』
 をつくり、利益を中国本国へ送っている。
  中国が進出した国(日本など)の利益は無く、その国
 に経済的に貢献していない。
  今まで華僑として個人がしていたことを、中国という
 国家が、『国家規模でやり出した』。
  そして、国家がやるから規模も壮大だし、必ず、利益
 は、『すべてが中国へ還元される』。
  「世界のトップの頭脳」を中国の国家が、目の飛び出
 る金で招聘する。
  また、優秀な学生を、目の飛び出る様な給料で募集す
 る。
  これは、今までアメリカがやっていたこと。
  今までのアメリカの発展を、中国は、これで奪おうと
 考えている。
  民間の力でやるのではなく、人民元がいくらでも刷れ
 る中国という国家が、これをやる。
  人民元を「固定相場制もどき」にしたところに問題の
 根本がある。
  中国は、この為替の利点を享受して来た。
  アン・フェアな形で世界に入って来た。
  それを中国に許してしまった。
  中国を、公正なシステムの中へ戻せ。
  この国の事だから為替操作をするだろうが、形は公正
 にしなければならない。
  ここで「ある情報」・・
  中国側の厳しい規制にもかかわらず、香港やベトナム、
 ラオス、ロシア国境など、中国と陸続きの税関において、
 毎日のように何回も入出国を繰り返す運輸業者、旅行業
 者、行商人、国境を越えて通勤する一般人などの中には、
 多額の現金を数回に分けて合法的に中国国外へ持ち出し・
 持ち込みを請け負っている例もあるという。
.
2019年12月8日、中国びいきのNHK・・
  デジタル人民元のNHKの解説は、完全に中国の側に
 立った解説だった。
  中国を『正当だ』とし、中国がやっている方向は『未
 来的だ』と美化ばかりするNHKとなっていた。
  この様なNHK・・「NHKが良い放送局か」の調査
 をした結果、5ポイント低下して5割を割ったという報告
 がある。
  イギリスのジョンソン首相が、公共放送のBBCの「
 受信料を廃止する」と示唆した。
  日本の公共放送と言われるNHKも「受信料を廃止に
 すべきだ!」。
  2019年12月12日、ジョンソン首相は、世論調査でも不
 満が多数を占めていると認識していた。
  そして、この日に投開票されるイギリス総選挙を前に、
 ジョンソン首相は、受信料を撤廃することについて「必
 ず検討する」と発言した。
  イギリスでも、日本のように「若者のテレビ離れ」が
 起きているという・・その若者の批判が強いという・・
  NHKは、とり過ぎの受信料が余剰することによって
 「金があるから拡大する」というおかしな拡大が、不合
 理な拡大が続いて来た。
  余剰のNHKの受信料は、優良民放番組の支援へその
 余剰資金を与えるべきである。
  (民放には、NHKをはるかに超える優良番組が数多
 くある・・それを「より育てよ!」)
  この民放の有料番組へ、NHKの余剰金で応援せよ!
  NHKは、甘い体制の中で拡大だけを続けている・・
  大改革をしなければならない課題が多いNHKである・・
  イギリスは、公共放送の受信を「拒否できる権利」を
 検討している・・
  選択権を個人に持たせようとしている・・
  NHKは、公共放送は名ばかりで・・
  日本を貶めたり、キリスト教に偏した放送をしたり、
 中国が喜ぶ番組にしたり・・と・・
  どぶに捨てたいような放送局となっている・・
.
2019年、日本の技術立国の構築は『国是』である・・
   しかし、この事を裏切る日本の研究者ばかり・・
.
  日本の『技術立国は国是』である。
  これは知的財産権を確立することで成立する。
  日本の財産である知的財産権の特許などを構築して行
 くことが大切・・
  だからこそ、日本政府は、研究開発費を助成している。
  しかし、この行為を行なわない日本の研究者ばかりな
 のである。
  本来のやるべきことをしていない日本の研究者。
  技術研究会・技術発表会を聞きに行って、どこでも思
 う事は「技術立国の日本にしよう」と思っていない研究
 者たちの姿をそこに見る。
  結論を先に言えば・・知的財産権の特許などに関わり
 たくない・・「知的財産権の構築は大変だから」と逃げ
 ている・・研究時間が無くなる・・特許を出すのは大変
 だ・・など・・
  「知的財産権の一つである特許」なんてものは出さな
 いという研究者ばかりの姿を見るということになる。
  「質問をすると」言い訳ばかり言って逃げる研究者ば
 かりである。
  『研究開発者』という言葉があるが、この様な「研究
 開発者」にお目にかかる技術発表会に「ぶち当たること
 はない」。
  すべてが「研究者」である・・肝心の「開発」はやら
 ない。
  開発行為から逃げているから、開発が抜け落ちた研究
 者ばかりである。
  自分の研究行為から得た新規な知見から「さらにアイ
 デアを閃(ひらめ)かせて特許を得ようという段階を上が
 る者が皆無の研究発表会ばかりである」。
  これでは、我々・納税者の税金を食べているだけであ
 る。
  いつまで経っても税金を納税し続けるだけで、「いつ
 まで経っても日本の技術立国の実現が達成できる訳がな
 い」。
  この点の改善をしないと研究開発費を投入しても、そ
 の効果は上がらない。
  「特許が出せない研究者」は居る・・アイデアを閃(
 ひらめ)かせられない研究者は居る・・しかし、これは
 不適格者である。
  アイデアを豊かに「閃かせさせることができる開発者」
 も居る。
  しかし、アイデアを豊かに閃かせられる研究開発者な
 のに、面倒だからと、特許を出さないで「逃げている研
 究開発者も居る」。
  今・現在の日本の研究所や技術センターと称する所は
 この様な研究者ばかりである。
  研究開発費を配分する評価システムが悪いのだ・・
  その様に指導する組織が、日本には組織されていない・・
 日本には皆無である。
  研究さえしていればOKという組織ばかりである。
  「肝心の技術立国への成果」を求めない組織ばかりで
 ある。
  日本の最高の研究所である理化学研究所をはじめ○○
 (名を伏す)や△△(名を伏す)などまったく甘い。
  理化学研究所に至っては、10人の研究者が1年に1つの
 特許を出願だけである。
  10人の研究者たちが、1年間に、よってたかってアイデ
 アを絞ったら1つしか、「アイデアが閃(ひらめ)なかった」
 という体たらくである(こんなんで技術立国が構築でき
 るわけがない)
  『肝心のアイデアを閃かせる業務=辛(つら)い業務』
 から逃げているからである。
  貴重な研究開発費を貰っている研究所は、日本では、
 こんな研究所ばかりである。
  「特許をもっと出せ」と言う憎まれ役が、各研究所に
 居ないのである・・
  各研究所に「この様なことを言う憎まれ役や部署を作
 れ!」。
  肝心な特許庁にも作ることである。
  現状は、皆んなが「仲良しグループになっている」。
  甘い研究体制で満足しているのである・・
  この点を「アメリカに学べ!!」。
  「知財権獲得の苦労話」がまったく出ない研究発表会・
 技術発表会ばかりである。
  質問すれば、「知りません・・業者に任せています」
 と、肝心の特許出願の行為を「他人事の様に言う研究者」
 の返事が来たこともあった・・
  いつまで経っても日本の技術立国は達成できない。
  中国に抜かれっ放しとなっている。
  この様な心の持ちようなら、魂胆なら、次の目標の「
 世界特許を目指そう」というより高い、向上心のある状
 況・気にもならないだろう。

2019年、アメリカで、日本を貶(おとし)める慰安婦像を
 建てているのは「中国人団体」であって、韓国系団体で
 はない。
  在米の中国人団体の影響・・
  「世界抗日戦争史実維護連合会」を参照のこと。
  古森義久氏によると、慰安婦の碑に関わった在米韓国
 人の団体は、慰安婦に関することを活動目標としていな
 い。
  この在米韓国人の団体は、規模が非常に小さく、設立
 して間もない団体でしかないという。
  米国における慰安婦像の建立の中心的動き・・
  従軍慰安婦碑の建立を、広範に、また且つ、積極的に、
 組織的に推進しているのは、在米韓国人の団体ではなく、
 「中国政府系」の在米中国人団体である・・
  その名は・・『世界抗日戦争史実維護連合会』である。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E3%81%AE%E7%A2%91#.E5.9C.A8.E7.B1.B3.E4.B8.AD.E5.9B.BD.E4.BA.BA.E5.9B.A3.E4.BD.93.E3.81.AE.E5.BD.B1.E9.9F.BF
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/


by suba28 | 2019-12-26 17:23 | 皆様とともに 幸せになりたい


はじめまして、ブログを始めさせていただきました


by suba28

カテゴリ

全体
悲惨な戦争を無くしたい
悲惨な戦争を無くせないのでしょうか
皆様とともに 幸せになりたい
未分類

以前の記事

2023年 10月
2022年 10月
2022年 09月
2022年 08月
2022年 07月
2022年 06月
2022年 05月
2022年 04月
2022年 03月
2022年 02月
2022年 01月
2021年 12月
2021年 11月
2021年 10月
2021年 09月
2021年 08月
2021年 07月
2021年 06月
2021年 05月
2021年 04月
2021年 03月
2021年 02月
2021年 01月
2020年 12月
2020年 11月
2020年 10月
2020年 09月
2020年 08月
2020年 07月
2020年 06月
2020年 05月
2020年 04月
2020年 03月
2020年 02月
2020年 01月
2019年 12月
2019年 11月
2019年 10月
2019年 09月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月

フォロー中のブログ

最新のコメント

メモ帳

最新のトラックバック

ライフログ

検索

タグ

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

脳の萎縮を遅くし、脳の活性化..
at 2023-10-30 02:46
水俣病・・まだ、続く、本日・..
at 2023-10-13 02:41
水俣病・・当時、有機水銀の様..
at 2023-10-09 05:42
水俣病・・石牟礼道子さんは、..
at 2023-10-08 04:51
水俣病・・まったく悲惨な、そ..
at 2023-10-06 05:27

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

日々の出来事
20代

画像一覧

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31