人気ブログランキング | 話題のタグを見る

(増補版)645E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年4月~1896年4月)

題:(増補版)645E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年4月~1896年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年4月28日、名古屋鉄道局出張所・八王子鉄道局出張所・
 篠ノ井鉄道局出張所を設置した。
  中央線の名古屋駅~八王子駅間の建設を担当する逓信
 省鉄道局出張所を名古屋と八王子に設置した。
  そして、篠ノ井線(しののいせん)は・・、
  長野県長野市の篠ノ井駅から長野県塩尻市の塩尻駅ま
 でを結んでいるが・・急峻な山間部を走るため、姨捨駅
 や2か所ある信号場のうち1か所がスイッチバックとなっ
 ている。
  歴史を振り返ると・・
  関東と近畿を連絡する鉄道としては、当初、平時には
 海路の便があり、戦時に敵の攻撃を受けやすい海岸を走
 る東海道本線ではなく、中山道を経由する路線が検討さ
 れていた。
  実際に、この路線は着工されたが、建設費が嵩むこと
 や開通後の輸送力が制約されることなどから、工事がほ
 とんど進まないうちに中止となった。
  この路線のための資材輸送線として建設が始まった直
 江津から長野を経由し上田へ至る路線はそのまま建設が
 続行され、さらに延長されて碓氷峠を越えて、高崎まで
 1893年4月に完成した。
  一方、1892年6月には、鉄道敷設法が制定され、後の中
 央本線にあたる路線の建設が決定した。
  これを受けて、長野県会では同年・1892年12月に中央
 本線と信越本線を連絡する「長野若シクハ篠ノ井ヨリ松
 本ヲ經テ塩尻又ハ洗馬ニ至ル線路」を第一期線に追加す
 るように帝国議会へ要請する決議を採択した。
  これを中央連絡線と称した。
  1893年3月から鉄道庁の技師が派遣されて路線の調査を
 行った。
  この結果6つの路線が候補として上がった。
  東側から現在の国道254号に沿って松本と上田を結ぶ三
 才山線、長野県道181号下奈良本豊科線に沿って松本と上
 田を結ぶ保福寺線、国道143号に沿って松本と上田を結ぶ
 二線路線、国道19号・国道403号に沿って松本と篠ノ井を
 結ぶ篠ノ井線、国道19号や犀川に沿って松本と長野を結
 ぶ犀川線、国道147号・長野県道31号長野大町線・国道19
 号に沿って大町経由で松本と長野を結ぶ大町線である。
  どのルートを選んでも険しい峠を長大トンネルで克服
 したり、地質の悪い区間を通過したりしなければならな
 かったが、距離が最も短い篠ノ井線が建設費や開業後の
 運営の点で有利と判断された。
  この報告を受けて1894年6月23日に、帝国議会で「長野
 県下長野若ハ篠ノ井ヨリ松本ヲ経テ前項ノ線路ニ接続ス
 ル鉄道」が第一期線に格上げされ、また同時に提出され
 た法案により起点は篠ノ井と確定された。
  1896年、予算で建設費は3,597,470円とされ、明治28年
 度から31年度までの予定で施工されることになった。
  しかし、その後、工期の変更と予算の増額があり、明
 治35年度まで掛かって予算7,677,751円で施工された。
  全線を11の工区に分けて、1896年10月に着工され、1900
 年から篠ノ井方より順次延伸され、1902年に塩尻まで全
 通した。
.
1896年4月28日、新橋駅構内に新永間建築事務所を設置し、
 『東京市街線の建設』を管掌(かんしょう、自分の管轄
 の職務として責任をもって取り扱うこと)した。
  (1897年12月、市街線の設計決定)
  日本の鉄道の8割は明治時代に完成した。
  日本初の鉄道である新橋駅~横浜駅間の工事は、1870
 年3月の東京・汐留方向からの測量と、4月の横浜・野毛
 浦付近からの測量に始まった。
  北ボルネオで鉄道建設に従事していたイギリス人のお
 雇い外国人のエドモンド・モレルが鉄道兼電信建築師長
 として日本に呼び寄せられた。
  そして、彼の指導の下、イギリス人技師たちの主導で
 測量が行われた。
  その指導を受ける鉄道掛の役人たちの服装は陣笠、羽
 織袴に大小の刀を差し、足元は雪駄や草鞋だった。
  この日本初の鉄道工事は、旧幕時代の作事方の方法に
 倣い、工事の材料はすべて官給、工事は職種別に切り投
 げ方式で発注された。
  鹿島は鹿島岩吉名義で線路に撒布する砂利を1,000立坪
 (1,800㎥)納入している。
  距離にして数百m程度の撒布量でしかない。
  当時、鹿島は「洋館の鹿島」と言われており、横浜に
 本店を置いて、外国商館などの建築を請け負っていた。
  1872年9月(旧暦。新暦では10月)、新橋駅~横浜駅間
 の鉄道開通後、1874年5月に、大阪・神戸間、1877年2月
 に京都・大阪間、1880年7月に京都・大津間と線路は敷か
 れていく。
  1880年に着工した日本で5番目の営業路線である長浜駅
 ~敦賀駅間(1884年4月開通)の工事では、鹿島組が初め
 て鉄道請負として参画した。
  その後、鉄道の路線は日本各地に伸びていく、そして、
 都心にできた鉄道空白地帯・・
  東京中心部は、江戸年間に都市として発達し、それな
 りの交通手段・運搬手段が網羅されており、鉄道の発達
 とは無縁だった。
  そのため、銀座、京橋、日本橋といった東京の中心地
 には1882年に開通した馬車鉄道程度の簡易な路線しかな
 かった。
  新橋・上野間わずか6kmに、乗合馬車で45分、徒歩で1
 時間以上かかっていた。
  この馬車鉄道は、軌道上を走る乗合馬車で、最盛期に
 は2,000頭以上の馬が300台以上の馬車をひいていた。
  基本3路線があり始発終点以外は合図して自由に乗り降
 りできた・・そして、明治末年には路面電車に移行して
 行った。
  1884年11月、東京府市区改正意見書が発表された。
  初の都市計画である。
  これを発議した東京府知事芳川顕正は、1870年に、伊
 藤博文に同行してアメリカのナショナルバンクについて
 学び、帰国後は、大蔵省紙幣頭などを務めたのち、東京
 府知事に就任した。
  彼は、東京をロンドンやパリのような近代国家の首都
 にふさわしい都市に改造しようとした。
  意見書には、東京に経済と人口が集中したことによっ
 て起きるさまざまな問題と、それらを整備していくため
 の事業計画、近代国家の首都として必要な設備が盛り込
 また。
  その中に、鉄道の敷設や道路の整備があった。
  鉄道については、「新橋・上野両停車場間を線路で結
 び、鍛冶橋内および万世橋の北に停車場を設置すべきも
 のとする」と書かれていた。
  その理由として、「昔から東京市区内の貿易商業が一
 番盛んなのは日本橋とその近辺である。
  日本橋近辺から現在のように上野や新橋まで運搬する
 労力は相当なものである。
  また、品海築港(東京港計画)が実現すればなおさら
 陸揚げ貨物の輸送に、今までのように車馬を使っていて
 は足りるものではない。
  新橋・上野間に線路を通し、最低2か所の停車場を新設
 し、交通及び貨物運輸の便利を増進させるべきである」
 と述べられていた。
  当時の物流において、新たな輸送手段である鉄道の期
 待は絶大だった。
  政府は、翌1885年、内務省内に東京市区改正審議会を
 設置し、この意見書の審議した。
  各省の代表者と渋沢栄一、益田孝が委員となった。
  1888年3月、最終案が決議され、1888年5月に公布され
 た。
  これを細かく詰めていく改正審査会中、一人の委員か
 ら意見が出た。
  「巨額の費用をかけて道路の幅員を広げ、路線を改正
 しても、その端から鉄道線を敷設して、改正した道路を
 横断して汽車の運転を始めれば、人馬の通行を途絶する
 ことになる」と・・
  そこで、1888円11月21日の会議で「鉄道は新橋、上野
 両停車場の線路を接続して、鍛冶橋および万世橋の北に
 停車場を設置すべきものとする・・ただし、線路は高架
 線とする」と条件づけられた。
  同時に「市街鉄道線路線調査委員」が設けられた。
  1890年9月17日、内務大臣から鉄道庁長官に東京市の中
 央に一大停車場を設置し、その南側から新橋までを鉄道
 庁に、その北側から上野までを日本鉄道会社に託すこと
 が告げられた。
  新橋から中央停車場(現・東京駅)までは東海道線の
 延伸であるから官営、上野駅までは日本鉄道会社が資金
 調達して鉄道庁に工事を委託するか、自社で建設すると
 いう暗黙の了解ができた。
  鉄道庁では帝大出で欧米視察から帰国したばかりの技
 師・仙石貢が、日本鉄道会社では九州鉄道で顧問を務め
 ていたドイツ人のお雇い外国人ルムシュッテルがそれぞ
 れ調査を行った。ルムシュッテルは、複線一組を長距離
 用、もう一組を市街線用とした4本の線路を、ベルリンの
 高架鉄道をモデルとした煉瓦造のアーチ式高架橋に走ら
 せることを提案する。
  街路と外濠に鉄橋を架すほかはすべて径間8~10mの煉
 瓦造連続拱橋(きょうきょう。アーチ橋のこと)であっ
 た。
  鉄道庁側もこれを参考に煉瓦造拱橋の設計を行った。
  1893年8月、すべての敷設免許が出願される。
  しかし、1894年7月、日清戦争がはじまったことにより
 諸事業は中止され、高架線の計画は棚上げされてしまっ
 た。
  その上、原案を作ったルムシュッテルは、王室プロシ
 ア建築技師に任ぜられたこともあり、ドイツへ帰国して
 しまう。
  明治中期を過ぎると旅客も貨物もどんどん増えていっ
 た。
  貨物の輸送は品川線を作ることで回避できたが、もと
 もと新橋駅も上野駅もそれほど規模が大きいものではな
 く、飽和状態になることは目に見えていた。
  幹線のターミナル駅を結ぶことは急務であった。
  しかし、東京市内の土地・建物の価格は年々値上がり
 していた。
  最初の計画から既に10年が経過している。
  鉄道建設のための土地買収はますます難しくなってき
 ていた。
  そこで政府は戦勝気分で沸き立つ1895年に、当初計画
 の新橋・上野間の連絡線のうち、新銭座(現・港区浜松
 町2丁目)から永楽町(現千代田区丸の内2丁目)までの
 区間と、中央停車場(東京駅)の建設を政府主導で進め
 る計画を立てる。
  12月5日の第7回鉄道会議で「官制規制鐡道改良の件」
 は信越線、東海道線などの改良工事と共に明治29年度か
 ら35年度までの7か年継続事業として可決された。
  鉄道局では、1896年4月、この計画を再開するため新永
 間建築事務所を新橋駅構内に開設した・・そして、いよ
 いよ着手することとなった。
  工事は線路の実測から始まった。
.
1896年4月29日、筑豊鉄道の若松駅~折尾駅間が複線で開通
 した。
  北九州地区で、九州鉄道に次いで二番目に敷設された私
 設の筑豊興業鉄道は、1889年に、筑豊炭田の石炭を若松港
 に陸送するために設立された。
  これによって筑豊の石炭の輸送力は大幅に強化され、そ
 の後の豊州鉄道の創立と共に、筑豊の石炭は、全圏出炭量
 の半数を占めるに至った。
  また、交通の要衝となった若松港とともに、門司港の発
 展が促進され、1897年、官営八幡製鉄所が誘致されて、工
 業都市としての北九州市の骨格が作られて行った。
  筑豊興業鉄道は、北九州市や日本の近代化に果たした役
 割はこの様に極めて大きなものだった。
  筑豊鉄道の建設の機運は、1887年以降、大手資本の参入
 によって筑豊の石炭生産量が増大し・・それと共に、従来
 から行なわれていた遠賀川の小舟による水運輸送では対応
 出来ず、そのため、地元有志により鉄道建設が計画された。
  そして、翌年の1888年6月、若松・直方・飯塚・赤池間
 を結ぶ筑豊興業鉄道の設立趣意書が、県知事の副申を添え
 政府に提出された。
  そして、早くも同年翌月の1888年7月に、仮免許状が下
 附された。
  そして、筑豊興業鉄道会社が設立され、直ちに、路線の
 建設が着手された。
  悪疫が流行したり、工事が難工事であったり、資金難で
 もあったりと悪戦苦闘したが・・1891年8月、若松駅~直
 方駅間の24.8キロメートルの開業に至った。
  以後、増大する石炭の生産量に対応するために、逐次、
 路線の延長を図った。
  路線も延長され目的を果たす中、1893年4月、本社を石
 炭集散地の若松町へ移転した。
  そして、路線延長も続けて伸ばし、また、資本金も増額
 して行った。
  石炭輸送が充実し拡大するにつれて、九州鉄道と競合す
 る形にもなって、両社の株保有株主からの強い要望で・・
  1897年10月、合併に至り、今、九州を支え、日本を支え
 る路線となっている。
.
1896年4月、民法が公布された。
  民法は、1896年の明治29年法律第89号により定められ公
 布された民法第一編・第二編・第三編(総則、物権、債権)、
  及び、1898年6月21日の明治31年法律第9号により定めら
 れた民法第四編・第五編(親族、相続)で構成されていて・・
  また、附属法令として1898年6月15日、明治31年法律第
 11号民法施行法が公布され・・、
  全体が、1898年7月16日から施行された。
  民法は、すんなりと日本の法律として育ち、根付いたも
 のではなかった。
  明治政府の委嘱によって、お抱え外国人のG・ボアソナ
 ードが中心となって、フランス民法を基礎に起草した旧民
 法は、1890年に一度公布をされ、1893年に施行されながら・・
  「民法出デテ忠孝亡ブ」と穂積八束が言うような攻撃を
 受け、激しい民法典論争が展開し、行なわれた・・
  そのため、施行が、1892年の帝国議会で法典実施の無期
 延期が議決された。
  そして、別の新たな民法(ドイツ民法第一草案を基本と
 して編纂したもの)が起草され、つくられた・・そして、
 1898年から施行された。 
  因みに、1896年と1898年の民法は、現行民法と区別する
 意味で「明治民法」と俗称されている。
.
  (今日の歴史)
.
  題:紀元前1800年の北海道の縄文遺跡から、現代日本人が受け継ぐゲノム(全遺伝情報)
   を持つ縄文人女性が居たということが科学的なゲノム分析で確認され立証された。
    現代日本人の祖先と言える縄文人女性の存在の確認である。
    太古の歴史から日本人の祖先が北海道で生活して居た。
.
紀元前1800年頃、北海道の礼文島の縄文時代の遺跡で見つ
 かった女性の人骨から、ゲノム(全遺伝情報)を高精度
 に解析することに成功した(~紀元前1500年頃)
  また、その解析から、この縄文時代の女性は、現代日
 本人へと続く祖先だと確認された。
  読売新聞(2019年5月14日)が報道するその内容は・・
  国立科学博物館などの研究チームが発表した概要は・・、
  女性は、茶色の瞳を持ち、肌の色は濃い目で、酒に強
 かったとみられている。
  この解析標本は、約3800年前~3500年前(縄文時代後
 期)の北海道の船泊(ふなどまり)遺跡から出土した女
 性の人骨。
  奥歯の中に、保存状態のいいDNAが残されていて、
 現代人のDNAと同程度に解析が成功した。
  遺伝子の特徴から、女性の肌はシミができやすく、耳
 あかに湿り気があり、髪の毛は細く縮れていたとみられ
 ている。
  船泊の縄文人は、脂肪の多いアシカなどを食べていた
 とみられ、高脂肪食に適応した遺伝子変異も見つかった。
  現代日本人が、縄文人のゲノムの約10%を受け継いで
 いることも判明した。
  東アジアでは、大陸にいる漢民族より、韓国、台湾、
 フィリピンにいる人に近いという。
     ・
     ・
紀元前400年頃、北海道の続縄文時代の初め頃の日本人の祖
 先の方々は、大麦を食糧として生活に利用していたこと
 が確認された(~紀元前200年頃)
  読売新聞(2019年5月19日)によると・・
  北海道で大麦の利用が始まったのは、従来の説より約
 1000年も遡(さかのぼ)る紀元前400年~紀元前200年頃
 (続縄文時代初め)だったことが判明した。
  北海道・礼文島の浜中2遺跡で出土した種子の年代測
 定で分かった。
  大麦の形態が東北アジアのものと類似していて、専門
 家は大陸から北回りでもたらされたと推定している。
  本州以南が弥生時代に入った頃、北海道の人たちが本
 州よりも北方との交流を深めていたとして注目されてい
 る。
  同遺跡の調査は2011年から、北海道大学と海外の大学
 の共同研究として行われていた。
  ベルリン自由大学のクリスティアン・ライペ特別研究
 員が、最新の放射性炭素年代測定法による測定を行った。
  その結果、2014年に出土した大麦1点の年代が紀元前
 375年~紀元前203年と判明した。
  これまでは、北海道での大麦の利用は、大量に出土す
 る様になる紀元後7世紀~紀元後8世紀頃が始まりと考え
 られていた。
  高瀬克範・北海道大学准教授の話・・
  「続縄文時代になると、北海道はサハリン(樺太)な
 ど北方との交流が盛んになる。
  その頃に大陸から北回りで大麦が入って来た可能性は
 十分ありえる」。
  (参考)続縄文時代:ぞくじょうもんじだい、北海道
     を中心に、紀元前3世紀頃~紀元後7世紀(弥生
     時代から古墳時代)にかけて、擦文文化が現れ
     るまで続いた時代で、気候的条件からか水田を
     造らず縄文時代の生活様式を継承していた。
      この続縄文時代前は、本州と北海道の住民は
     同じ縄文文化であった。
      続縄文文化の人たちは竪穴式住居に住み、狩
     猟と漁労を中心に、採集と原始的栽培も行なっ
     ていた。
      遺物には、道具としての石斧、石ナイフなど
     多様な石器がある。
      他に、本州で製作された鉄製品が入り込んで
     いる。
      骨角器も多く出土している。
      遺物として残りにくい木器と繊維製品は出土
     数は少ないが、かなり多く用いられていたと考
     えられている。
      北方に算出される琥珀製品の玉類が北海道か
     ら東北地方北部にまで分布している。
      また逆に、佐渡島に産するとみられる碧玉製
     品の管玉(くだたま)が石狩川河口付近にまで
     みられる。
      この時代の人的交流の広さが分かる。
      この時代の広がりは、東北地方の北部から、
     樺太の南部や千島列島まで広がっていた。
      この人的交流の中で、交雑も長い時代の中で
     進んでいたと考えられる。
      アフリカからの人類の移動のうねりは、沖縄
     から北海道まで、長年月、日本列島においても
     南から北まで行われ、交雑が繰り返されていた。
  (参考)管玉:くだたま、管状になっている宝飾装身
     具の部品、ビーズの一形態で、管に糸を通して
     腕飾り(ブレスレット)や首飾り(ネックレス)
     などとして用いられる。
      古代においてはガラスも含む希少な宝石(宝
     玉)から作られたので、漢字文化圏では別の形
     状である曲玉・とんぼ玉とともに「ビーズ」に
     代えて「玉」(ぎょく)名で分類する。
      日本では、縄文時代からみられ、今日と同じ
     ように腕飾りや首飾りなどとして用いられてい
     たものとみられる。
  (参考)擦文文化:さつもんじだい、北海道の歴史の
     うち、7世紀頃~13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代
     後半)にかけて、擦文文化が栄えた時期を範囲
     とする時代。
      本州の土師器(はじき)からの強い影響を受
     けた擦文式土器を特徴とする。
      6世紀~7世紀の飛鳥時代の頃は前の時代の続
     縄文土器の影響が残っているが・・
      7世紀後半~8世紀の奈良時代の頃になると、
     擦文文化独特の土器になった。
  (参考)土師器:弥生土器の流れを汲み、古墳時代~
     奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のか
     わらけ(土器)・焙烙(ほうろく)に取って代
     わられるまで生産された素焼きの土器。
      多く生産されたのは甕(かめ)等の貯蔵用具。
  尚、北海道の道議員は、「縄文時代人は、北海道には
 居ない」など科学的根拠のない、また、科学的知見を無
 視する議論をしているが・・この様な数々の史実からも、
 まったく根拠のない無智な空論の議論をしていることが
 分かる。
  また、アイヌの人々を、「日本の先住民だとした国会
 議員」も「この道議員と同じレベル」だ。
     ・
     ・
3世紀~13世紀、オホーツク文化
  アイヌ文化と違い、3世紀から13世紀までオホーツク海
 沿岸を中心とする、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代
 文化。
  この文化の遺跡が主としてオホーツク海の沿岸に分布
 していることから名付けられた。
  北海道の分布に関しては推定域となっている。
  海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送っていた。
  オホーツク人は『日本書紀』に現れる粛慎と考える見
 方が有力で、近年行われた人骨の遺伝子調査から、ニヴ
 フ人やコリヤーク人との近似性が示されている。
  (参考)粛慎:しゅくしん、みしはせ、あしはせ、日
     本の正史である『日本書紀』や『続日本紀』な
     どの中に記述が見られる民族。
      また、古代中国の東北方面に居住した民族の
     見方もある。
      粛慎の呼称はすでに『国語』『史記』その他
     の古典にみえ、特に『国語』の粛慎貢矢の伝説
     が有名で、聖天子の出現と彼らの入朝貢献を結
     びつけて説明されている。
  (参考)粛慎貢矢の伝説:中国歴代王朝は、自らの正
     統化を図ってさまざまな瑞祥を演出した。
      3〜6世紀における粛慎(しゅくしん)の朝貢は
     そうした瑞祥の一つである。
      戦国時代の文献には、周王朝開国の際に、粛
     慎が「コ(木+苦)矢石ド(奴+石)(しせきど)」(ハ
     ナズオウの矢柄(やがら)と石の鏃(やじり))を貢
     納したという伝説が見える。
  (参考)ニヴフ人:樺太北部、及び、対岸のアムール
     川下流域(現:ロシア領)に住む少数民族で、
     古くはギリヤークと呼ばれた。
      アイヌやウィルタと隣り合って居住していた。
  (参考)コリヤーク人:ロシアのカムチャツカ地方の
     先住民族で、ベーリング海沿岸地帯からアナデ
     ィリ川流域南部、および、チギリ村を南限とす
     るカムチャツカ半島極北部にかけて居住してい
     る。
.
720年、北海道の松前地方の名が歴史上最初に現れるのは、
 『続日本紀』の養老四年(720年)の記事に「渡島津軽津
 (わたりしまつがるつ)」の記述がある。
  渡島は蝦夷地を指し、津軽津は津軽地方への渡し口で
 ある松前付近の地のこと。
  (津軽津は、津軽地方であるという説と松前地方とす
 る説とがあって、現在では松前地方であるとする説が有
 力)
.
1000年頃、この頃のオホーツク文化の復元家屋が北海道の
 標津町(しべつちょう)のポー川史跡自然公園にある。
  このオホーツク文化は、オホーツク沿岸の沿海州・樺
 太・北海道東北部・千島列島に広がっていた文化で、ア
 イヌ文化ではない。
.
1233年、異端審問や魔女裁判が行われたキリスト教裁判所
 の宗教裁判所が恒常的な機関となった。
  記録によれば、中世異端審問が最も活発に行われた1233
 年に、南フランスの異端審問官に任命されたロベール・
 ル・プティは数百人に火刑を宣告した。
  中世、キリスト教会は、金と権威を得ることに躍起と
 なった。
  そして、権威を得たキリスト教会は、知識と情報を独
 占した。
  そして、その知識や情報が拡大することをしばりつけ
 た。
  また、ヨーロッパの貴族と言っても大部分の者は、字
 を読むことが出来ず、一般人も言うに及ばずの状態であ
 った。
  その様な状況もあって、字による知識や情報の伝播が
 行われることは乏しかった。
  ヨーロッパ中世はその様な暗黒の時代で、知識の衰退
 もあった。
  時代が進めば知識が進歩するという見方は誤りである・・
 また、「時の経緯と共に、歴史の進歩がある」という見
 方も成立しない。
  中世のキリスト教は、権威が欲しいと、当時、権威の
 あった薬草学の知識のある女性の方々を排除した。
  その女性の方々は、病気を治し、また、赤ん坊の誕生
 を助ける助産婦として活躍する女医の方々であって、そ
 の行為から、民の尊敬を集め、権威も備(そな)わる女
 性の方々だった。
  この方々を、魔女として殺した。
  キリスト教会の儀式の中で、キリスト教裁判所の中で、
 キリスト教聖職者が裁判官となって、その中で死刑宣告
 をして排除した。
  これによって、西洋の薬草学は滅んだ、消滅した。
  この事例の様に、知識の後退は存在し、起きた。
  今あれば、東洋の薬草学と同様に、人類の多くの方々
 を救い、また、助ける学問となっている。
.
13世紀半ば、モンゴルの樺太侵攻(~14世紀初頭)
  モンゴル帝国(元朝)による樺太(サハリン)アイヌ
 (骨嵬)への攻撃をいう。
  日本への元寇に対し、「北からの蒙古襲来」「もうひ
 とつの蒙古襲来」「北の元寇」という。
.
1264年、アイヌが北海道に来る。
  この年に、アムール川下流域から樺太にかけて、この
 地域に住んでいた「吉里迷(ぎれみ)族」が、フビライ
 に「アイヌが攻めて来る」と報告した。
  因みに、この前年の1263年に、この集団は、モンゴル
 に遠征されていて、服従していた。
  そして、この服従しているこの集団が、1264年、「骨
 㟴(くい)」や「亦里于(いりう)」が、「毎年の様に
 侵入して来る」という訴えをフビライへ報告した。
  ここで言う骨㟴は、アイヌを指している。
  フビライは、この事によって元寇より早い時期に、こ
 の地域へ襲来した(北からの蒙古襲来)
  この元寇に追われて、アイヌが北海道へ移住したと考
 えられている。
  樺太侵攻(1264年~1286年)
  この様に、日本での短い歴史から、北海道へ来たアイ
 ヌの人々は、同化の少ない移動前の独特の文化を、保持
 して来ていた。
  今では、同化が進み、まったく日本人と同じで、見分
 けも出来ない、差異の無い同じ状態となっている。
  民族の主張をするときに民族衣装を着るから、その衣
 装によって分かるようなものとなっている。
  着なかったら、まったく日本人と同じ。
.
15世紀~17世紀、二風谷遺跡(にぶたにいせき)は、北海
 道沙流郡平取町二風谷にある15世紀から17世紀にかけて
 のアイヌ文化の遺跡で、沙流川(さるがわ)河口より20
 kmぐらいのところにある。
  北側にポロモイチャシ跡があり、南側にユオイチャシ
 跡がある。
  建物跡が11軒みつかり、その中で炉が確認されたのが
 6軒ある。
  道跡や送り場跡(クマなどの動物を送る場)もある。
  建物が20軒以上あったとみられるとする文献もある。
  樽前山火山灰b層の分析より、1667年以前のアイヌの生
 活跡と推定される。
  アイヌ文化はこの頃に形成されていた。
.
15世紀後半、史跡上之国館跡 勝山館跡(国指定史跡)
  勝山館は、後の松前氏の祖である武田信廣が15世紀後
 半に築いた山城で、16世紀末頃まで武田・蠣崎氏の日本
 海側での政治・軍事・交易の一大拠点であった。
  20年以上の発掘調査で、中国産青磁・白磁・染付、国
 産の美濃焼、越前焼など約5万点の陶磁器や、金属製品、
 木製品など10万点余りの出土品や建物・井戸・空壕・橋
 などの跡が多数見つかった。
  そして、注目されるのは、この当時、アイヌの人々が
 使っていた500点余りの骨角器が出土した。
  研究者は、「この館にアイヌと本州人が混住していた
 ことはほぼ明らかといってよいのではないだろうか」と
 言う。
.
1753年、この年に、フランス人医師が、キリスト教の聖書
 の命運が尽きる事柄を指摘した。
  世は大騒動となった。
  これまでのキリスト教聖書は、「神の言葉をそのまま
 書き記した書物」と受け取られていた。
  中に、頭の良い人が居て、その様なことはある訳はな
 いと思っていても、口には出せなかった・・しかし、こ
 の年になって、「決定的論証(ろんしょう)」が行われ
 た。
  (参考)論証:思考を働かせ、判断とその論拠を結ぶ
     推理の過程を命題の連鎖によって示したものを
     いう。
      普通、論拠を前提、判断を帰結という。
      妥当な推理の連鎖が前提と帰結を結ぶとき、
     その判断は可証であるといい、さらに前提が真
     であるとき、真であるという。
      このため、恒真なる命題と妥当な推理の形式
     が究極的に必要とされるが、現在、恒真なる命
     題群は唯一でないこと、また、推理の形式も唯
     一ではないことが明らかになっており、普遍的
     で唯一な論証形式の存在は否定されている(キ
     リスト教の聖書の様な唯一真は存在しない)。
      このため、ある公理系と恒真なる命題を出発
     して、どのくらい論証が簡潔かつ有効に行いう
     るかという論証力の評価が問題とされる。
      なお、論証は、証明、立証、定立ともいい、
     厳密には複雑な構成の有無、命題の連鎖を律す
     る規則の有無によって、推理一般とは区別され
     る。
  そして、この人は、フランス人の医師ジャン・アスト
 リュックで・・、
  彼が、指摘した事は、「創世記の7日間での天地創造が
 語られている」のに、また、再び、「アダムの創造」が
 語られることの「不思議」だった。
  何故?、『同一の人類創造部分』が、『同一の内容』
 が、『繰り返し語られるのか?』。
  また、7日間の創造の部分の「神」は「エローヒーム」
 で、アダムの創造部分の神は「ヤハーウェ」と違う呼ば
 れ方をしている。
  アストリュックは気付いた・・「神をそれぞれの名で
 呼ぶ別の人間集団が書き記した『別々の文書だ』」と。
  そして、彼は、創世記でヤハーウェを使用している部
 分、エローヒームを使用している部分をそれぞれ別個に
 つなぎ合わせると、同じ内容の二編の文書が出来る事を
 発見した。
  『創世記は、複数の人間集団が残した文書を編集した
 ものだ』・・ということがはっきりした。
  これは、『ダブレットの問題』として、ある知的階層
 の人たちには、常識的に知られている事項となってしま
 った。
  この年は、「『モーゼ五書』の中心が崩れ去った年」
 となってしまった。
  モーゼが神の言葉を書き記したものではなく、はるか
 後の時代の「複数の人間集団が書いた『ただの歴史的文
 書』」となった。
  キリスト教聖書の記述に忠実に従ってきた「普遍史の
 根本的前提」を「破壊してしまった」。
  創世記第五章のアダムの系図にある父祖たちの年齢な
 どの記述についても、神をエローヒームと呼ぶ人間たち
 が書いた歴史的文書に過ぎないということになった。
  聖書のこの部分を頼りに年数計算をしてきた「聖書年
 代学」も『絶対的根拠を失った』。
  「ノアの大洪水」などの記述も、ある時代の人間集団
 の信じた「神話に過ぎない」ということになってしまっ
 た。
  この様な事から、18世紀は、「年代学論争をする意味
 自体が無くなって、論争の終焉を迎えた」。
  キリスト教普遍史は「その土台も崩壊」し、また、「
 その支える支柱も失って」・・崩壊を遂げてしまった。
  キリスト教は、この年、今まで広げて来た大風呂敷を、
 たたんで行く時代に入っていくこととなった。
.
19世紀、この世紀に、歴史を科学的に考察する歴史学が・・
  近代的な科学的歴史学が始まって、キリスト教の「神
 の創造の奇蹟」や「終末」が・・完全に、歴史学から無
 視されるようになった。
.
1860年、この年の前年に、横浜港は開港しているが・・
  この年・1860年に、江戸幕府は、早速、外国船を監視
 し、また、外国船の攻撃から守る防御ための海岸砲台を
 作った。
  作られた砲台は「神奈川台場」と言われた。
  日本各地には、この様な海岸砲台が築かれたが、その
 数は約1000ヶ所となっている。
  この時代、しっかり国を守るという意識が日本にはあ
 った・・今の日本は「のほほん」としていて、国をしっ
 かり守ろうという意識はない。
  「原爆を落とされてから反撃する」などというノホホ
 ンさである。
  原爆を落とされて、空気の様になって蒸発してしまっ
 てから、国を守ろうなんて・・それで、愛する人々を守
 れるはずはない・・責任放棄である。
  隣の中国は、20%になろうという国防費の伸びを、毎
 年、続ける国防に熱心に取り組んでいる。
  また、その隣国の日本に、「工作員を送り込む」こと
 までして、国の安全に努めているということまでしてい
 る・・
  何もしないで・・戦争したくないと言っているだけで
 済むのならば・・誰でもそうするだろう・・
.
1941年3月、アメリカのルーズベルト大統領が、「武器貸与
 法」を成立させ・・そして、この後、公約破りをし続け
 た。
  アメリカのルーズベルト大統領は、中立を装いながら
 アメリカ国民の方々を、完全に裏切って行った。
  はっきりと「戦争には参加しません」と公約して、ア
 メリカ国民の方々へ約束して、大統領選挙を行っていた
 が・・大統領選挙に勝って、大統領になったら、この公
 約を破った。
  特に、イギリスを支援して、そして、後に、戦争に参
 加した。
  1941年3月に、「武器貸与法」を成立させ・・、
  そして、1941年7月には、対米軍事品を買い付けて、
 支払いを容易にするため、イギリス政府に対して、アメ
 リカの復興金融会社から4億2500万ドルの大金の借款を
 共有するとした。
  また、続けて、1941年9月には、武器貸与法の追加予算
 案の59億8900万ドルの超大金を提出させた。
  そして、これは、増額されて61億6100万ドルとなって
 成立された。
  ふんだんにアメリカはイギリスへ資金援助し、その大
 金でアメリカの武器を買わせ、与え、関与した。
  しかし、世界には、ドイツの潜水艦が出没していて、
 輸送中のアメリカから渡される武器などの援助物資の4割
 が海中へ沈められた。
  イギリスの周辺海域は、ドイツによって完全に抑え込
 まれていた。
.
2008年6月6日、「アイヌ民族を先住民族とすることを求め
 る決議」が、衆参両院で全会一致で採択され・・このこ
 とを受けて、同日、菅義偉(すがよしひで)内閣官房長
 官は、次の談話を発表した。
  「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」に
 関する内閣官房長官談話
 1.本日、国会において「アイヌ民族を先住民族とするこ
  とを求める決議」が全会一致で決定されました。
 2.アイヌの人々に関しては、これまでも平成8年の「ウ
  タリ対策のあり方に関する有識者懇談会」報告書等を
  踏まえ文化振興等に関する施策を推進してきたところ
  ですが、本日の国会決議でも述べられているように、
  我が国が近代化する過程において、法的には等しく国
  民でありながらも差別され、貧窮を余儀なくされたア
  イヌの人々が多数に上ったという歴史的事実について、
  政府として改めて、これを厳粛に受け止めたいと思い
  ます。
 3.また政府としても、アイヌの人々が日本列島北部周辺、
  とりわけ北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の
  独自性を有する先住民族であるとの認識の下に、「先
  住民族の権利に関する国際連合宣言」における関連条
  項を参照しつつ、これまでのアイヌ政策をさらに推進
  し、総合的な施策の確立に取り組む所存であります。
 4.このため、官邸に、有識者の意見を伺う「有識者懇談
  会」を設置することを検討いたします。
  その中で、アイヌの人々のお話を具体的に伺いつつ、
  我が国の実情を踏まえながら、検討を進めて参りたい
  と思います。
 5.アイヌの人々が民族としての名誉と尊厳を保持し、こ
  れを次世代へ継承していくことは、多様な価値観が共
  生し、活力ある社会を形成する「共生社会」を実現す
  ることに資するとの確信のもと、これからもアイヌ政
  策の推進に取り組む所存であります。
  (考察)日本政府は、アイヌの人々が、北海道を居住
     圏とする先住民の人々だという認識であり、こ
     の認識は科学的に間違っている。
      アイヌの人々の居住圏を、この様に狭い領域
     のみの人々と考えるのも科学的に立証できない。
      アイヌの人々は、文字を持たない狩猟採集民
     族で・・アムール川下流域や沿海州、カムチャ
     ツカ半島南部、樺太(サハリン)、千島列島の
     オホーツク海地域一帯地域に居住する民族で・・
      1855年2月7日、アイヌの人々は、この年の日
     露和親条約での国境線決定によって、ロシア国
     民となった・・そして・・
      2018年12月、ロシアのプーチン大統領は、日
     本の領土を不法占拠している北方四島を含む千
     島列島(クリル諸島)など(樺太など)に住ん
     でいるアイヌ民族を、ロシアの先住民族に認定
     する考えを示した。
      また、ロシアは、戦後(1945年の敗戦後)、
     千島列島や樺太などのアイヌの人々を、日本へ
     移送し、移住させ、移動するという非人道的な
     行為をしている。
      歴史的には、以下の様な史実が示す様に、ア
     イヌの人々は、13世紀に、日本への元寇がある
     前、モンゴルの襲来で、日本の北海道へ来た。
      歴史を振り返ると・・
       『続日本紀』にも記載がある様に北海道は
      古くから日本と関係ある地であった・・
      1205年にも、北海道の知内川(しりうちがわ)
       で砂金が採れ、この日(元久2年7月23日)
       に金山祭を行ったという日本人の記録があ
       る。
      1206年、蒙古で、ジンギス・カンが即位した。
      1220年、日本の京都の強盗や海賊を北海道へ
       島流ししていた。
      1220年代はじめ、モンゴル軍がキエフ大公国
       を攻めはじめる。
      1223年、モンゴルのカルカ河畔の戦い(ルー
       シ侵略)
      1227年、西夏が、チンギス・カンに滅ぼされ
       た。
      1237年、モンゴル軍の大軍がモスクワを陥落
       させた。
      1240年、キエフの戦い(この頃、盛んにモン
       ゴル軍がーロッパを攻略している)
      1247年、モンゴルが朝鮮の高麗へ4度目の侵攻。
      1258年、高麗がモンゴルに征服された。
      1259年、モンゴルが南宋に侵入する。
      1260年3月、フビライが、内モンゴルで最高意
       思決定機関のクリルタイを開いて皇帝位に
       就いた。
      1264年、アムール川下流域から樺太にかけて
       この地域に住んでいた「吉里迷(ぎれみ)
       族」が、フビライに「アイヌが攻めて来る」
       と報告した。
        因みに、この前年の1263年に、この集団
       は、モンゴルに遠征されて服従していた。
        そして、この服従しているこの集団が、
       1264年、「骨㟴(くい)」や「亦里于(い
       りう)」が、「毎年の様に侵入して来る」
       という訴えをフビライへ報告した。
        ここで言う骨㟴は、アイヌを指している。
        フビライは、この事によって元寇より早
       い時期に、この地域へ襲来した(北からの
       蒙古襲来)
        この元寇に追われて、アイヌが北海道へ
       移住したと考えられている。
        樺太侵攻(1264年~1286年)
      1274年、日本の元寇(文永の役)
      1276年、南宋が臨安を占領されてモンゴルに、
       事実上、滅ぼされた。
      1281年、日本の元寇(弘安の役)
      1320年、津軽の安東氏がアイヌの人々と交易
       をしている。
.
2018年10月31日、中国が、南沙諸島の運用を開始する。
  この時から遡ること3年2ヶ月前の2015年8月20日、アメ
 リカ国防総省は、「アジア太平洋での海洋安全保障戦略」
 と題した報告書を公表した・・
  中国が、2013年12月に、南沙諸島での埋め立てを開始
 し・・
  2015年6月までに、2,900エーカー(約12km2)を埋め立
 て、その面積が、周辺諸国による埋め立てを含めた全体
 の『約95パーセント』に当たることを明らかにした。
  また、埋め立てから滑走路や港湾施設の建設によるイ
 ンフラ整備に重点が移行しているとも指摘した。
  中国が、この様にして実効支配し、軍事拠点化してい
 るこの場所を、地球上でやり取りされている原油や液化
 天然ガス(LNG)の『約半分』が通過している。
  そして、2016年1月、アメリカのCSIS(戦略国際問
 題研究所)は、報告書において、中国の空母打撃群保有
 の可能性と併せて・・、
  「2030年までに、南シナ海が事実上中国の海となる」
 と警鐘を鳴らした。
  2016年7月12日、オランダ・ハーグの常設仲裁裁判所は、
 中国が、南シナ海のほぼ全域で領有権を主張する「独自
 に設定した境界線『九段線』」には、国際法上「歴史的
 権利を主張する法的根拠はない」と認定する裁定を下し
 た。
  また、中国が、南沙諸島などで人工島の造成などをし
 ている岩礁は、すべて「島」ではなく、「岩」または高
 潮時に水没する「低潮高地」であると認定する裁定も下
 した。
  2018年10月31日、ファイアリー・クロス礁、ミスチー
 フ礁、スビ礁を運用開始したと、中国が公表した。
.
2019年2月15日、アイヌ支援法案を閣議決定 
  「先住民族」と明記→2019年4月19日、参議院本会議で
 可決し成立した。
  (1)産経新聞(2019.2.15)が以下のように報じた・・
  政府は15日、アイヌ民族を支援する新法案を閣議決
 定した。
  アイヌ民族の地位向上などを目指して「先住民族」と
 初めて明記し、アイヌ文化の維持・振興のための交付金
 制度創設を盛り込んだ。
  来年の東京五輪・パラリンピックに向けて民族の共生
 を世界にアピールする狙いもあり、今国会に提出し、会
 期中の成立を目指す。
  法案は、アイヌの人々が誇りを持って生活する環境の
 整備が目的。
  菅義偉官房長官は15日午前の記者会見で「アイヌの
 方々が民族としての名誉と尊厳を保持し次世代に継承し
 ていくことは、多様な価値観を共生し活力ある共生社会
 を実現するために必要だ」と意義を強調した。
  法案では条文に「先住民族であるアイヌの人々」と明
 記した。
  差別や権利の侵害を禁止し、民族としての誇りが尊重
 される社会の実現を目指す考えだ。
  アイヌ民族に関しては平成9年施行のアイヌ文化振興
 法があるが、先住民族との記載は見送られていた。
  交付金は、アイヌ文化の継承や振興を目的として市町
 村が実施する事業に政府が支給する。
  菅氏は「新たな交付金制度を創設し、旧来の福祉政策
 や文化振興に加え、地域振興や産業、観光の振興を含む
 多岐にわたる施策を進める」と説明した。
  アイヌ民族をめぐっては20年、衆参両院が先住民族
 認定を政府に求める国会決議を採択。
  政府は来年4月、北海道白老(しらおい)町にアイヌ
 文化を体感できる「民族共生象徴空間」を開設する予定
 で、アイヌ文化の振興を進めるが、先住民族への配慮を
 求める声は国際的にも高まっており、新たな支援措置が
 必要と判断した。
  (2)また、朝日新聞(2019.4.19)は以下の様に報じ
 た・・
  「先住民族であるアイヌの人々…」新法に明記、万感
 の声
  アイヌ民族を法律上初めて「先住民族」と位置づけた
 アイヌ新法が19日、参議院本会議で可決され、成立し
 た。
  アイヌ文化を守り育てる施策を国の責務と定めたこと
 に「一歩前進」という評価がある一方、土地や資源など
 先住民族としての権利に触れていないなど課題も残す。
  「先住民族であるアイヌの人々」。
  新法の第1条はこうした表現で始まる。
  アイヌ民族にかかわる従来の法律と大きく異なる点だ。
  差別禁止を明記し、アイヌ施策を国や自治体の責務と
 した。
  民族の儀式や文化伝承を目的にした国有林の利用、サ
 ケの採捕などに特例措置を設けた。
  政府が公式に「先住民族」と法律で認めたことは評価
 する声も多い。
  参議院の傍聴席では、北海道アイヌ協会の加藤忠理事
 長(80)が何度もうなずきながら笑顔を見せた。
  一緒に成立を見守った協会の人たちと握手を交わしな
 がら、喜びを分かち合った。
  加藤理事長は「泣いています。うれしくて。北海道旧
 土人保護法からアイヌ文化振興法、そして今の新法へと、
 抱えきれないような苦しみと悲しみの歴史があり、長い
 時間がかかった。
  いま先住民族と認めていただき、今日から出発できる
 ということは、歴史の大きな一ページ。感謝しています」
 と話した。
  だが新法の目的はあくまで文化や経済、観光の振興。
  国連の「先住民族の権利に関する宣言」に盛り込まれ、
  アイヌの人々が長年求めてきた「先住権」は明記され
 ず、生活や教育の支援も含まれなかった。
  (以下、有料頁のため略)
  (3)この日、内閣官房アイヌ総合政策室は以下を発
 表した・・
  「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するた
 めの施策の推進に関する法律案」を閣議決定
  先住民族への配慮を求める国内外の要請等に鑑み、従
 来の福祉政策や文化振興に加え、地域振興、産業振興等
 を含めた様々な課題を早急に解決することを目的とした
 「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するため
 の施策の推進に関する法律案」が閣議決定されました。
  1 背景
  平成20年、衆参両院の本会議において「アイヌ民族を
 先住民族とすることを求める決議」が行われ、その前年
 には、国際連合において「先住民族の権利に関する国際
 連合宣言」が採択されるなど、国内外において、先住民
 族への配慮を求める要請が高まっています。
  また、アイヌの人々からは、従来の福祉政策や文化振
 興に加え、地域振興、産業振興、観光振興を含めた様々
 な課題を早急に解決することが求められており、アイヌ
 の人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策を
 総合的に推進していく必要があります。
  さらに、政府においては、北海道白老郡白老町に、ア
 イヌ文化の復興等に関するナショナルセンターとして、
 アイヌ語で「おおぜいで歌うこと」を意味する「ウポポ
 イ」を愛称とする「民族共生象徴空間」を整備している
 ところであり、2020年4月の開業に向けて、今後とも必
 要な準備を円滑に進めていく必要があります。
  2 概要
  (1) 目的規定、基本理念、国の責務等
  目的規定においてアイヌの人々が日本列島北部周辺、
 とりわけ北海道の先住民族であるとの認識を示すととも
 に、アイヌ施策の推進に関し、基本理念、国の責務等を
 定める
  (2) アイヌ政策を総合的かつ継続的に実施するための
 支援措置
   ① 政府によるアイヌ施策の総合的かつ効果的な推進
    を図るための基本方針の策定
   ② 市町村による基本方針に基づくアイヌ施策推進地
    域計画の作成、同計画の内閣総理大臣による認定
    の申請
   ③ 認定を受けたアイヌ施策推進地域計画に基づく事
    業に関し、交付金の交付等の特別の措置
  (3) 民族共生象徴空間の管理に関する措置
    国土交通大臣及び文部科学大臣が指定する法人に
   対し、民族共生象徴空間を構成する施設の管理を委
   託
  (4) アイヌ政策推進本部
    アイヌ施策を総合的かつ効果的に推進するため、
   内閣に、アイヌ政策推進本部を設置
  (考察)アイヌの人々を尊重し、共生することは大切
     である・・しかし・・
      何故? 科学的に正しくない「先住民だとい
     う認定をするのか?」。
      科学的に正しくないことは、何年たっても「
     正しくない」。
      また、何故、アイヌの人々だけをこの様な最
     恵国待遇的な扱い方をするのか?
      また、この行為は「逆の差別を生んでいる」。
      そして、また、今後、歴史を捻じ曲げて、こ
     の様な行動をする人々が現れることを恐れる。
.
2019年4月26日、「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を
 実現するための施策の推進に関する法律」が公布された。
  「先住民族であるアイヌの人々」と言っている。
 第一章 総則
  (目的)
 第一条 この法律は、日本列島北部周辺、とりわけ北海道
   の先住民族であるアイヌの人々の誇りの源泉である
   アイヌの伝統及びアイヌ文化(以下「アイヌの伝統
   等」という。)が置かれている状況並びに近年にお
   ける先住民族をめぐる国際情勢に鑑み、アイヌ施策
   の推進に関し、基本理念、国等の責務、政府による
   基本方針の策定、民族共生象徴空間構成施設の管理
   に関する措置、市町村(特別区を含む。以下同じ。)
   によるアイヌ施策推進地域計画の作成及びその内閣
   総理大臣による認定、当該認定を受けたアイヌ施策
   推進地域計画に基づく事業に対する特別の措置、ア
   イヌ政策推進本部の設置等について定めることによ
   り、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活
   することができ、及びその誇りが尊重される社会の
   実現を図り、もって全ての国民が相互に人格と個性
   を尊重し合いながら共生する社会の実現に資するこ
   とを目的とする。
  以下の条文は、(定義)(基本理念)(国及び地方公
 共団体の責務)(国民の努力)がきされている。
  (国民の努力)
 第六条 国民は、アイヌの人々が民族としての誇りを持っ
   て生活することができ、及びその誇りが尊重される
   社会の実現に寄与するよう努めるものとする。
  そして、第二章、基本方針等(基本方針)(都道府県
 方針)第三章 民族共生象徴空間構成施設の管理に関する
 措置、第四章 アイヌ施策推進地域計画の認定等(アイヌ
 施策推進地域計画の認定)(認定を受けたアイヌ施策推
 進地域計画の変更)(報告の徴収)(措置の要求)(認
 定の取消し)(交付金の交付等)(国有林野における共
 用林野の設定)(漁業法及び水産資源保護法による許可
 についての配慮)(商標法の特例)(地方債についての
 配慮)第六章 指定法人(指定等)(業務)(民族共生象
 徴空間構成施設管理業務規程)(事業計画等)(区分経
 理)(国派遣職員に係る特例)(職員の派遣等について
 の配慮)(役員の選任及び解任)(報告の徴収及び立入
 検査)(監督命令)(指定の取消し等)(指定を取り消
 した場合における経過措置)第七章 アイヌ政策推進本部
 (設置)(所掌事務)(組織)(アイヌ政策推進本部長)
 (アイヌ政策推進副本部長)(アイヌ政策推進本部員)
 (資料の提出その他の協力)(事務)(主任の大臣)(
 政令への委任)第八章 雑則(権限の委任)(命令への委
 任)(罰則)附 則(施行期日)(アイヌ文化の振興並び
 にアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する
 法律の廃止)(アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等
 に関する知識の普及及び啓発に関する法律の廃止に伴う
 経過措置)(準備行為)(漁業法等の一部を改正する等
 の法律の一部改正)(アイヌの人々の誇りが尊重される
 社会を実現するための施策の推進に関する法律の一部改
 正)(内閣府設置法の一部改正)(国土交通省設置法の
 一部改正)(政令への委任)(検討)(内閣総理大臣臨
 時代理・総務・法務・外務・文部科学・厚生労働・農林
 水産・経済産業・国土交通・環境大臣署名)
 http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/gian/198/pdf/s0801980241980.pdf
.
2019年5月、「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現
 するための法律の施行期日を定める政令」
  「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するた
 めの法律施行令」
.
2019年、今・現代は紀元2019年であるが、今から3800年も
 遡(さかのぼ)った頃・・故に、紀元前1800年頃になる
 が、
  紀元0年から紀元2019年までの期間とほぼ同じぐらいの
 長い歴史を遡ると・・この古い時代の北海道に日本人の
 祖先たちが住んでいた・・
  このことが科学的に立証された・・
  日本人の血を持っている人たちが、北海道で生活して
 居たことが科学的に立証された。
  アイヌの人々が先住民族ではありません。
  この事は、2019年5月14日の読売新聞で報じられた。
  そして、時代が進めば「クオーター」となり「ハーフ」
 と交雑の濃さは濃くなる関係にある・・
  また、より血の濃い人々も居ると考えられる・・
  紀元前の1800年の遥か昔に、交雑した日本人が北海道
 に住んでいたことが立証された。
  そしてまた、2019年5月19日の読売新聞は、日本人の祖
 先の縄文人が、北海道で大麦を栽培して立派に生活して
 居ることも報じられている。
  この様に、日本人の祖先が紀元前から北海道に居て、
 立派に生活し、存在していたというのに・・、
  礼文島という北海道の北端まで行って生活していたと
 いう事例が発見され・・存在しているというのに・・、
  日本の国会は、日本に、その後の3000年以上もの後に
 日本に来たアイヌの人々を「日本の先住民だとした」。
  紀元13世紀頃に、日本に来たアイヌの人々を「日本の
 先住民だ」とした。
  また、北海道の道議会は、「北海道に日本人は居なか
 った」などという無智な議論が行われている。
  こんな知識レベルで、こんな無知なレベルで、政治的
 決定が行なわれている。
  そしてまた、最近と言っても良い200年くらい前に、ア
 ジア地域に来て侵略行為をした「ロシア白人たち」にと
 って、「そこに居たアイヌの人々が、ロシアの先住民と
 なるであろう」が、そのロシア白人が「アイヌの人々を
 ロシアの先住民とした」からと、日本の国会議員たちは、
 日本人もその様なロシア白人と同じようなのだとの思考
 で考えて、「アイヌの人々を日本の先住民だ」としてし
 まった。
  「紀元前の何万年も前から日本の地に居た日本人にと
 って、そのアイヌの人たちは、後から来た人たちとなる」。
  わずか600年前~700年前の紀元13世紀~14世紀に、日本
 に来たというアイヌの人たちなのだ。
  日本人の「先住民となる訳はない」。
  それを、最近になってアジアに来たロシア白人と同じ
 思考をする日本の政治家となっている・・歴史的な認識
 を、「まったく持ち合わせていない」と言える。
  この間違った法律「アイヌの人々の誇りが尊重される
 社会を実現するための施策の推進に関する法律」は、改
 正し、修正しなくてはならない
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

by suba28 | 2019-05-27 03:09 | 皆様とともに 幸せになりたい


はじめまして、ブログを始めさせていただきました


by suba28

カテゴリ

全体
悲惨な戦争を無くしたい
悲惨な戦争を無くせないのでしょうか
皆様とともに 幸せになりたい
未分類

以前の記事

2023年 10月
2022年 10月
2022年 09月
2022年 08月
2022年 07月
2022年 06月
2022年 05月
2022年 04月
2022年 03月
2022年 02月
2022年 01月
2021年 12月
2021年 11月
2021年 10月
2021年 09月
2021年 08月
2021年 07月
2021年 06月
2021年 05月
2021年 04月
2021年 03月
2021年 02月
2021年 01月
2020年 12月
2020年 11月
2020年 10月
2020年 09月
2020年 08月
2020年 07月
2020年 06月
2020年 05月
2020年 04月
2020年 03月
2020年 02月
2020年 01月
2019年 12月
2019年 11月
2019年 10月
2019年 09月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月

フォロー中のブログ

最新のコメント

メモ帳

最新のトラックバック

ライフログ

検索

タグ

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

脳の萎縮を遅くし、脳の活性化..
at 2023-10-30 02:46
水俣病・・まだ、続く、本日・..
at 2023-10-13 02:41
水俣病・・当時、有機水銀の様..
at 2023-10-09 05:42
水俣病・・石牟礼道子さんは、..
at 2023-10-08 04:51
水俣病・・まったく悲惨な、そ..
at 2023-10-06 05:27

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

日々の出来事
20代

画像一覧

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31