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(増補版)638E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年2月)

題:(増補版)638E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年1月1日、北海道の渡島、後志、胆振、石狩に徴兵令
 を施行した。
  日清戦争後の国を守る政策改革の一環として行われた。
  そして、1898年、残る7カ国へ拡大して制度的な確立を
 みた。
  北海道開拓を一生懸命している北海道は一定の配慮が
 あった。
  徴兵令の施行を定めた明治28年(1895年)勅令第126号
 は開拓に配慮して、次のような条文を設けていた。
  第二条、前条ノ徴兵令施行地(渡島・後志・胆振・石
     狩)二転籍移住シ開墾其ノ他一定ノ生業二従事
     スル者ハ転籍移住ノ後五箇年二満ツル年迄徴集
     ヲ猶予ス但転籍移住ノ後前条の区域外二転籍し
     更に転籍移住シタル者ハ此の限二アラス
  第三条、屯田兵ノ戸籍内二在ル者ハ徴集ヲ免除ス
.
1896年1月6日、米国でユタが45番目の州となった。
  入植は1837年に始まった。
  モルモン教徒が開いた州。
  宗教の構成比(2008年時点)
    モルモン教...58%
    キリスト教...25%
      プロテスタント.......15%
      ローマ・カトリック...10%
      他のキリスト教........1%以下
    他の宗教......1%
    無宗教.......16%
  1869年、岩倉具視を団長とする岩倉使節団が訪れた史
 実があるせいか、親日的な土地柄である。
  太平洋戦争中、日系人の強制収容に唯一反対した州。
  また、戦後も日系人を多く受け容れてきたため、現在
 でも日系人の割合が比較的高い州である。
  2010年の人種構成・・
    白人.........80.4%、
    ヒスパニック.13.0%、
    アジア系.....2.0%、
    インディアン.1.2%、
    黒人.........1.1%、
    混血.........2.7%。
.
1896年1月13日、この年に、アメリカ大統領の選挙が行われ、
 ウィリアム・マッキンリーが、第25代アメリカ大統領と
 して当選したが・・
  このマッキンリーは、1896年1月13日まで知事職にあっ
 た。
  ちなみに、マッキンリーの在任期間は・・、
   1897年3月4日~1901年3月4日、および、
   1901年3月4日~1901年9月14日。
  1898年、当選から2年後、このマッキンリーは、数人の
 上院議員と元副知事アンドリュー・L・ハリスを産業委員
 会に任命した時、反トラスト運動を始めた。
  マッキンリーの時代には、アメリカ西部への伝統的な
 フロンティア開拓は終了していて・・
  新しくアメリカ以外の太平洋などの国外の「海のフロ
 ンティア」開拓を推し進めるという領土収奪を始めた。
  国内の反対の声もあったが、欲得が先行するアメリカ
 だった。
  アメリカは、この様な帝国主義政策へ突進し始めた・・
 この至る先に、日米の第二次世界大戦があった。
  マッキンリーは、保護貿易主義政策を行ない、外国製
 品に対し実に57%という史上最高の関税率をかけた「デ
 ィングレー関税法」を制定させた。
  また、マッキンリーは、覇権獲得の米西戦争へ国を導
 いた(第二次世界大戦を導いたルーズベルトの様に)、
  1898年には、ハワイ諸島を侵略し、併合した(ハワイ
 併合)。
  この時、日本の大隈重信総理は、『正義の書簡』で「
 これほど激烈で『宣戦布告か最後通牒に等しいような外
 交文書』は見たことがない」と言われるほどの抗議をし
 た。
  米西戦争では、アメリカは、当然、スペインに敵対す
 るフィリピンの独立勢力を支援した。
  しかし、この後、アメリカは、このフィリピンの独立
 勢力を裏切る。
  アメリカは、戦争に勝利するや、一転して、フィリピ
 ンの現地勢力を弾圧し始めた。
  そして、アメリカは、フィリピン、および、カリブ海
 のスペインの旧植民地をアメリカの保護下に置いてしま
 い、植民地としてしまった。
.
1896年1月20日、房総鉄道の蘇我駅~大網駅間が開通した。
  これが外房線の始まり。
  この1ヶ月後の1896年2月に、千葉駅で総武鉄道と接続
 した。
.
1896年1月24日、参宮鉄道の宮川駅~宇治山田駅間の線路延
 長免許状を下付した。
.
1896年1月25日、奈良鉄道の桃山駅~玉水駅間(20.2km)が
 開通した。
.
1896年1月、クーデンホーフ伯爵と光子夫人、ヨーロッパへ
 向けて出発した。
  光子夫人は本名「青山ミツ」と言い、ヨーロッパで最
 も有名な日本人と言われた。
  骨董店の娘だったミツは、日本に赴任したオーストリ
 ア・ハンガリー帝国の外交官ハインリッヒ・クーデンホ
 ーフ・カレルギー伯爵に見初められる。
  その知り合いのきっかけは、クーデンホーフ伯爵が着
 任早々、乗っていた馬ともども凍った道で転んだことだ
 った。
  この時、親切に光子に助けられた。
  1896年、この時、伯爵と共にウィーンへ帰国し、社交
 界へもデビューした。
  そして、その後、チェコのロンスベルフ城へ移る。
  彼女は、日本で生まれた二人の子供と共に7人の子供に
 恵まれた。
  しかし、悲劇が訪れる。
  1906年、ヨーロッパへ向かった1896年から10年後、光
 子は、伯爵を突然の心臓発作で失う。
  ボヘミアの地に広大な領地を所有するクーデンホーフ
 家。
  そのすべての遺産を相続するにあたり、異国の女性に
 相続させることを望まない親族との間で裁判が起きる。
  しかし、この裁判に勝ち、光子は、クーデンホーフ家
 の当主となった。
  1908年、そして、ウィーン・ビーつぃんぐ地区の大邸
 宅へ移住するとともに、「黒い瞳の伯爵夫人」として、
 ウィーンの社交界へ復帰した。
  しかし、1914年から始まった第一次世界大戦によって、
 そのすべてを失った。
  ウィーン郊外へ移住し、病魔にも襲われた。
  1941年、そして、この年、67歳で亡くなる。
  光子は、ウィーン・ヒーツィング墓地に埋葬された・・
  渡欧して45年、光子は一度も日本に帰らなかった。
  この光子の東京で生まれた子・次男が、「欧州連合の
 父」とも言われる人・・
  80年前に、欧州統合を主張し、EUの概念を訴えた人・・
 そして、この人物をモデルとした映画が「カサブランカ」
 の名作。
  尚、「ミツコ」というゲラン社の香水もある・・東洋
 的な香りがする。
  ゲラン社のジャック・ゲランも、ウィーン社交界でク
 ーデンホーフ光子との面識も有った事でしょう・・なか
 ったにしろ、この美しく気高い日本人女性の評判はジャ
 ックの耳にも入っていたでしょうとゲラン社は書いてい
 る。
.
1896年1月、朝鮮中部の忠清道堤川で柳麟錫(りゅうりんし
 ゃく)らが親日政権打倒を掲げ、指揮した。
  柳麟錫は朱子学を唯一の正学とする学者で、攘夷論を
 主張する。
  日本の攘夷論者と同じように日本排斥に行動した。
  1866年に、アメリカ船やフランス艦隊の侵入の際も、
 李朝の王へ提言書などを提出する活動をしている。
  この1896年1月の時も、門人らと蜂起し、忠州(忠清北
 道北部の都市)を占領し地方官を殺害して勢力を振るっ
 たが、朝鮮政府軍に敗れた。
  1896年5月には、堤川も失った。
  李氏朝鮮政府は、この時期、日本の助けを利用しなが
 ら国家を強化する事で、西洋近代の広がりによる世界の
 変化に対応しようとしていた。
  李氏朝鮮政府側からすれば、近代国家の形成のために、
 集権的な政治制度の樹立は不可欠な課題であったため、
 その「国」以下の政治空間における儒教的な文明に基づ
 いた動きに対して抑圧すべきとされた。
.
1896年1月、閣議は明治27年法律第6号「比較線路決定ニ関
 スル法律」中改正および「鉄道敷設法」改正の2法律案を
 第9回帝国議会に提出(いずれも未成立)
.
1896年1月、参謀本部が、「全国鉄道ヲ四呎八五ノ軌道ニ改
 築シ、且ツ、其幹線及重要ナル各枝線ヲ直チニ複線ト為
 シ若クハ他日複線ト為シ得ル如ク準備スヘキ意見」ト題
 する意見書を作成した。
  (広軌改築に関する14項目にわたる調査事項添付)
  1890年、ドイツへ留学しドイツ軍制を研究した田村(
 旧姓早川)怡与造は、この年の愛知県における陸海軍連
 合大演習で、田村は、東海道の幹線鉄道と武豊線を利用
 して人馬を輸送することを提案した。
  また、二年後の1892 年には、栃木県宇都宮周辺におい
 て陸軍特別大演習がおこなわれ、そこで彼は、日本鉄道
 と両毛鉄道を用いて騎兵以外のほとんど全軍を集結させ
 ることを考案した。
  これらの計画は、「まさにモルトケ戦術そのものであ
 った」。
  (参考)モルトケ:ドイツ、プロシア軍人。近代ドイ
     ツ陸軍の父。
      1835年、中近東を視察旅行し、そのままトル
     コ軍顧問となってその再編、近代化に尽した。
      1839年、帰国、再びプロシア軍に入り、
      1855年、フリードリヒ・ウィルヘルム (後の
     フリードリヒ3世) の副官、
      1858年、参謀総長となり軍制改革を推進し、
     デンマーク戦争 (1864年) 、プロシア=オース
     トリア戦争 (1866年) 、普仏戦争 (1870年~1871
     年) を指導、そのすぐれた戦略・戦術的才能を
     遺憾なく発揮した。
      彼が参謀部に設けた新制度 (総括的作戦指令)
     は、その後近代化されたあらゆる軍隊が範とす
     るに至った。
  鉄道輸送の利用法の考案以上に明確に、ドイツ陸軍の
 軍制を日本陸軍の制度に田村が採用したものとしては、
 操典類の制定がある。
  田村は、まず、草案という形で1889年に公布された「
 野外要務令」をまとめた。
  1887年に公にされた軍部の主張としては、当時の参謀
 本部長・有栖川熾仁親王によって政府に上奏された「鉄
 道改正建議案」がある。
  有栖川建議案は、当時すでに開通、もしくは敷設され
 つつあった諸鉄道(東海道幹線も含む)の経営方針が、
 「経済上ノ便益ノミニ」基づきすぎるものだと考え、「
 軍事上ノ要求ニ適セズ」と判断した。
  建議案の内容も、次の6項目のように、諸鉄道に対する
 軍事的要請を前面に出した。
  「鉄道改正建議案」のなかの6要項
  1、線路ノ位置ヲ防備上務メテ海岸ニ遠サカラシムル
   コト。(山県建議書に類似。鉄道線路の内陸化)
  2、軌道ノ幅員ヲ一米突四三五ニ擴ムルコト。(広軌
   化について)
  3、幹線ハ必ス複線トナスコト(複線化について。な
   お、以上の3項目が6要項のなかでも「主要ノ事項」
   とされる)
  4、隄道ノ高サヲ車輛ノ床板ト水平ナラシメ載卸ノ便
   ヲ増スコト(プラットフォームの高さの利便性向上
   について)
  5、車輛ノ幅員ヲ増廣シ其他構造ヲ改ムルコト。
  6、陸軍官憲ヲシテ大ニ鉄道ノ議ニ参セシムルコト。
.
1896年2月1日、プッチーニ「ラ・ボエーム」が初演された。
  フランスの作家・ミュルジェの自己体験によってまと
 め上げた短編集《ボヘミアンの生活情景》に基づく・・
  4幕のオペラで、もっともよく演奏されるイタリアオペ
 ラの一つ。
  初演は、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮によりト
 リノ・ レージョ劇場で行われた。
  https://www.youtube.com/watch?v=PNQVRzCKDFs
  物語は、1830年ころのパリのラテン区、芸術家を志す
 4人の若いボヘミアンたちが気ままな生活を送っている屋
 根裏部屋。
  消えたろうそくの火をもらいにきたのが縁で恋におち
 たボヘミアンの一人、詩人のロドルフォと隣に住む貧し
 いお針娘ミミの淡い恋物語。
  第1幕
  パリにある、ボヘミアン仲間が暮らす屋根裏部屋。
  クリスマス・イヴ。
  画家・マルチェッロと詩人・ロドルフォが火の気の無
 い部屋で仕事をしている。
  寒さに耐えかねてロドルフォが売れ残りの原稿を暖炉
 に入れて燃やす。
  「世界の損失だ」などと軽口をたたいていると哲学者
 コッリーネが帰ってきて、何も金になることがなかった
 とぼやく。
  そこへ音楽家ショナールが食料・薪・煙草などを運ぶ
 従者たちとともに意気揚々と入ってくる。
  ショナールはこれらをどうやって稼いだかを得意げに
 語るが、誰も耳を貸さず貪るように食料に飛び付く。
  しかし、ショナールはワイン以外は取り置いて、「今
 夜はクリスマス・イヴなのだから、皆でカフェ・モミュ
 スに繰り出そう」と提案し、一同大賛成する。
  そこへ家主のブノアが未払い家賃の催促にやってくる。
  ボヘミアンたちはブノアにショナールの金を見せて安
 心させ、ワインをすすめておだてる。
  家主が酔った勢いで、妻があるにもかかわらず浮気を
 していたことを語ると、一同憤慨したふりをして家主を
 部屋から追い出してしまう。
.
1896年2月3日、衆議院議員・市島謙吉ほか31名、第9回帝国
 議会において、「東海道鉄道複線敷設ニ関スル質問書」
 を提出し、広軌の単線か狭軌の複線かについて政府狭軌
 複線案提出に関して答弁を請求・・
  翌4日、逓信大臣は、「衆議院議員・市島謙吉君提出
 東海道鉄道複線敷設ノ件質問ニ対スル答弁書」で、政府
 は広軌改築案を認めない旨答弁した。
.
1896年2月5日、豊州鉄道の伊田駅~後藤寺駅間が開通した。
  豊洲鉄道は、田川地域の石炭搬出を主目的として設立
 された。
.
1896年2月5日、李範晋が、ロシアの指示で春川、忠清道で
 暴動を起こした。
  また、日本の電信線を切断したりした。
  李氏朝鮮の末期は、朝鮮為政者の権力闘争や、様々な
 国の権益を売却し、また、ロシアには半植民地化される
 という状況あった。
  その様な状況の中で、各地で暴動が発生した。
  また、財政難で改革に手が付けられないという、数々
 の問題を抱えていた。
  欧米列強も朝鮮の権益を得るという草刈り場状態の中
 に居た。
  李氏朝鮮は、陸続きの中国・清の冊封体制下にあった。
  その様な中で近代法体系が整わず、国民の教育に手が
 回らず、産業基盤もほとんどない状態だった。
  1896年、高宗勅令で、閔妃殺害事件の犯人として特赦
 された趙羲淵、禹範善、 李斗璜、李軫鎬 李範来 権濚鎮
 の首を持ってロシア公館に持参せよと命令した。
  この様な中、この日にロシアの指示によって李範晋が
 暴動を起こした。
  そして、1896年2月10日、ロシア軍が王宮に突入した。
  150名のロシア兵と共に、漢城へ大砲が運び込まれた。
  高宗が、ロシア公使館で政務を執り行うという状況に
 なり、親露派の政権の李氏朝鮮は、財政不足から、不平
 等条約による治外法権どころか、様々な権益、鉱山の採
 掘権や森林伐採権、鉄道の施設権が欧米列強諸国へ売り
 渡された(李氏朝鮮は欧米の草刈り場状態)
.
  (今日の言葉)
.
  題:電磁パルス攻撃が・・一旦、起きれば・・
    敵味方なく・・人類は絶滅へ・・人類の歴史も終結する・・
.
1580年、豊臣秀吉は、スペインのフェリペ2世へ「日本は
 神の国である」と毅然と言った。
  スペイン王の命令を受けたコロンブスが、1492年、大
 西洋を渡ってアメリカ大陸の手前の西インド諸島に達し
 た。
  それから、79年後、1571年10月7日に起きたレパントの
 海戦(ヨーロッパでの初めての大海戦、参加した船は285
 隻)で、キリスト教国は、イスラム教国を破り、閉ざさ
 れていた東の海域を開いた。
  この時、このレパントの海戦で戦ったのがスペイン・
 ベネチア連合海軍と、オスマン帝国海軍だった。
  スペイン王は、フェリペ2世だった。
  因みに、フィリピンという国の名は、このフェリペ2世
 から取った名であり・・、
  最近、フィリピンのドテルテ大統領は、この国の名は
 フィリピンの汚辱に満ちた歴史上の由来の名前だから「
 変えよう」という話がある。
  このフェリペ2世と対等に渡り合ったのが日本の豊臣秀
 吉だった。
  秀吉は、一歩も引かずに、スペインなどのキリスト教
 の欺瞞に満ちた行為(日本の娘たちを売る人身売買や植
 民地化など)を糾弾した。
  そして、ルソン島(フィリピン)のキリスト教本部へ、
 「日本を植民地などにするな」などとの書簡を送った。
  ルソン島のスペイン総統は、「日本にはすごい男が居
 る」、「どうしたらよいか?」と、スペイン本国へ打診
 した。
  1580年、秀吉は、毅然としたしっかりした態度で、フ
 ェリペ2世と書簡を交換した。
  「日本は神の国である」、それ故、「日本は耶蘇教(
 キリスト教)を受け入れる訳にはいかぬ」と、自分の意
 見を突き付けた。
  同時に、物品の交換もしている。
  また、秀吉は、「何故、日本を植民地にしようとする
 のか?」と正論を言った。
  日本の秀吉は、フェリペ2世と対等に正義と正論を貫い
 た。
  フェリペ2世は、日本のキリスト教宣教師たちへ「日本
 には手出しをするな」(余計な植民地への動きはするな)
 と指令した。
  この時、フェリペ2世から豊臣秀吉へ送られた物は「
 立派な鐙(あぶみ)の付いた黒アラビア馬1頭と、沢山の
 宝物(ほうもつ)」だった。
  日本からは、鎧兜(よろいかぶと)や種々の立派な贈
 り物を贈り返した。
  これらの鎧兜などは、今でもマドリッドの博物館に貯
 蔵され、陳列されている。
.
17世紀、ロシアは、シベリア東部に進出し、中国の清と戦
 争を繰り返した。
  1689年には、中国の清(満州族国家)とネルチンスク
 条約が結ばれている(中国の現政権の漢民族ではない満
 州族国家との条約)
  シベリア・・それは、ロシアのウラル山脈以東のアジ
 ア部であって、東は太平洋岸までで・・
  北は北極海から、南はカザフスタンやモンゴルとの国
 境までの地域・・
  それは、東西 7000km以上、南北 3500km、面積約 1000
 万km2 (太平洋岸まで含めると約1300万km2)
  16世紀、西シベリアにあったシビル・ハン国に、また
 は、チュルク語のシブ (「眠っている」の意) 、イル (
 「土地」の意) に由来するという。
  永久凍土帯が広く分布している。
  シベリアは、地下資源に恵まれていて・・石炭、石油、
 天然ガス、ダイヤモンド、金、鉄、ニッケルなどを埋蔵
 している。
  16世紀後半のロシアのシベリア進出以前は、フィン=
 ウゴル語派に属する言語をもつ諸民族や、古アジア諸族
 などが住んでいた。
  これらの人々は、牧畜、狩猟に従事していた。
  ヤクート(サハ)族、トゥバ族、ブリヤート族などは
 それぞれ共和国を形成していた・・
  そのほか、コリヤーク、チュクチなどいくつかの民族
 については自治管区(もと民族管区)が設けられている。
  今、約3200万人が住み(1989年)、95%が移住者。
  また、アンガラ川河岸に、旧石器時代後期のマルタ遺
 跡、ブレチ遺跡がある・・
  また、各地に新石器時代、青銅器時代の遺跡がある。
  また、紀元前3世紀末には、匈奴(きょうど)が、シベリ
 アをその領土に加えている。
.
1774年、米中貿易の最初
  アメリカは、アメリカの東部に産する「野生の朝鮮ニ
 ンジン」を、アメリカ船「エンプレス・オブ・チャイナ」
 に積み、中国・清の広東へ向かった。
  これが、米中貿易の最初だった。
  ペリーが、日本に来る79年前の事だった。
  イギリスの弟分のアメリカの「自立へ向かっての動き」
 だった。
  そして、この頃から、アメリカは、急速な発展をして
 行く。
.
19世紀、イギリス帝国とロシア帝国は、中央アジアを盗り
 合って戦った(グレート・ゲーム)
  砂漠や大山脈が舞台となったこの戦いは、探検隊めい
 た戦いだった。
  この中央アジアの覇権を巡るロシア帝国とイギリス帝
 国の敵対関係・戦略的抗争は、一体化して行く世界にあ
 って、空白域となっていた地を巡る戦いだった・・
  そして、これをグレート・ゲームと称する。
  その主とするところは、アフガニスタンの争奪抗争で、
 舞台は、コーカサスからチベットにおよぶ広大な地域に
 およんだ。
  これに、アメリカや中国が加わり、このグレート・ゲ
 ームは、今なお引き継がれていると言える。
  一般的には、1800年代初頭に始まり、1907年の英露協
 商協定をもって終結したとされている。
  この第1期の中に、香港・上海に拠点を得て、海上から
 清朝を侵略したイギリス帝国と・・
  シベリアに鉄道を敷設し、満洲から清朝を侵略したロ
 シア帝国との競争が・・
  中国・朝鮮・日本といったアジア諸国を巻き込んで争
 われた・・極東において進行した。
  (参考)英露協商協定:1907年8月 31日、イラン、ア
     フガニスタン、チベットに関してイギリスとロ
     シアが結んだ協約。
      アジアにおける両国の利害対立から、日露戦
     争に際しても、イギリスはロシアに敵対的な外
     交政策をとった。
      しかし、ロシアの敗北、ドイツの強硬な世界
     外交をみて、中東における英露の勢力範囲を調
     整し、ドイツ包囲の協商網の実現をはかろうと
     し、1906年から交渉を進め、ペテルブルグで協
     約を成立させた。
      内容は・・
     (1) イランについては、テヘランを含む北部お
      よび中部をロシアの、南東部をイギリスの勢
      力範囲とし、その間に緩衝地帯をおく。
     (2) アフガニスタンについては、イギリスの勢力
      範囲とする。
     (3) チベットについては、中国の宗主権を認め、
      内政不干渉を守る、など。
     この協商の結果、ドイツ包囲の英仏露三国協商
     が成立した。
.
1855年2月7日、日露通好条約で、国後島や択捉島が、日本
 の領土と確定した。
  日米和親条約に続き、下田で日本側全権・筒井政憲(ま
 さのり)・川路聖謨(かわじとしあきら)と、ロシア特派大
 使プチャーチンが調印した日露間の和親条約。
  国境を択捉(えとろふ)島と得撫(うるっぷ)島の間とし、
 樺太(からふと)(サハリン)には国境を設けないとした
  (日本の主権がおよぶ混住の地とした)
  国境を北緯50度を国境とすることを議題とした。
  また、ロシア船のために箱館(はこだて)、下田、長崎
 を開き、船の修理と薪水(しんすい)・食料・石炭の供給
 をすること、および、箱館、下田のうち一港に領事を置
 くことを定め、居留民は相互に本国の法で処分する双務
 的領事裁判権を認めた。
  1858年、安政五か国条約の一つとして日露間に修好通
 商条約が結ばれたが、この条約も他の諸国との条約と異
 なり、領事裁判権と最恵国条款が双務的であった。
.
1866年10月、丙寅(へいいん)の洋擾(ようじょう)
  李氏朝鮮とフランス帝国は戦いとなった。
  この時の朝鮮の近代化は遅れていて、近代的な軍隊と
 戦った最初の経験となった。
  しかし、戦いは、文殊山城の戦いと鼎足山城の戦いに
 勝利した朝鮮軍側の優位に進んだ。
  また、同時期に発生したゼネラル=シャーマン号焼き
 討ち事件によるアメリカ合衆国の侵略介入行動が阻止さ
 れた(辛未洋擾)
  アメリカの武装商船シャーマン号が交易を求めて大同
 江を遡上して侵略し、交戦も行ない、最後は平壌付近で
 焼き沈められ、乗組員の全員が戦死した。
  アメリカ船やフランス艦隊が朝鮮へ侵略した際に、柳
 麟錫(りゅうりんしゃく)は朝鮮国王へ意見書を提出す
 る斥和上疏運動を行なった。
  尚、この後、朝鮮は孤立路線を取る・・そして、この
 10年後に結ばれれる日朝修好条規が締結され、朝鮮は目
 覚める。
.
1867年8月28日、アメリカの領土欲・・ミッドウエイ諸島の
 侵略・領有など・・
  領土拡張欲に乗っかり、この年、アラスカをロシアと
 談判し、買収した(ロシアが持ち主などではないアラス
 カを、買うという演技をした)。
  そして、続けて、アリューシャン列島を経て、満州黒
 竜江(こくりゅうこう)に至る電信線(海底ケーブル)
 の架設を企て・・、
  さらに、この年・1867年、ハワイ王国のミッドウェー
 諸島を侵略し、領有し、島名を改名した。
  そして、ウィリアム・マッキンリー大統領と、セオド
 ア・ルーズベルト大統領の両大統領の時代(1897年~1909
 年)からアメリカの帝国主義の政策が強くなった。
.
1881年、アメリカが、海軍の軍備拡張に乗り出した。
  「国益を確保したい」。
  美しく言えば上記のような言い方となるが、欲に絡ん
 で『儲けたい』ということだった・・金が欲しいという
 ことだった。
  西欧列強各国は、これで競って来ていた。
  何も人類社会を「良くしよう」などという頭は微塵も
 無かった。
  その西欧列強の競いには、当然、武力の軋轢(あつれ
 き)が生じた。
  その態度の前提に・・「自分たちは進んだ武力を持っ
 ている」という卑怯な卑劣な前提があった。
  そこで、さらに、西欧列強各国は、自国の武力を研ぎ
 澄ます事に専念した。
  そして、スエズ運河が出来て・・出やすくなったアジ
 アがその収奪の地となった・・儲けの場となった。
  この様なヨーロッパ各国が、列強の国々が、アジア諸
 国を植民地とした・・
  この様なこの頃・・盛んに美味しい汁を吸うヨーロッ
 パ諸国の巧い行為をを見ながら・・アメリカは出遅れて
 いた・・出遅れてやって来た。
  残っている所は・・中国(支那)しかなかった。
  アメリカは、中国やアジアの儲けの場へ行くために「
 パナマ運河」を拓(ひら)く必要性を考えた(1914年、
 開通)。
  しかし、その前に、パナマ運河を我が物とするまでに、
 没落したとはいえ覇権を誇示するスペインの「カリブ海」
 があった。
  そして、その海域の「キューバ」は、盛んにスペイン
 へ貢(みつ)がされていた・・キューバは、収奪を行な
 っているスペインの植民地だった。
  アメリカは、そのスペインを叩かねばならないと思っ
 た・・
  その為にも、「海軍力の増強の必要性を痛感するアメ
 リカ」だった。
  アメリカは、1881年から、海軍拡張を行なった。
  そして、海軍力が整った1898年、アメリカは、スペイ
 ンと戦争を行なった(米西戦争)
  そして、アメリカは、パナマ運河を通りその軍艦と共
 にアジアへと向かった。
  当然、戦いが発生するとしていた。
  この様なアメリカの動きの中で、「スペインの時代は
 去った」。
  このアメリカとスペインの戦争も、アメリカの汚い引
 っ掛けから戦争が始まった。
  アメリカは、歴史上この様な事ばかりをしている。
     ・
     ・
2007年9月12日、NHK関連団体の剰余金886億円、検査院
 が改善求めた(読売新聞、2007年9月12日)
.
2008年5月、東京国税庁がNHKに対して消費税約13億
 3千万円の申告漏れを指摘した(脱税行為)
.
2017年8月27日、「電磁パルス攻撃」の脅威 
  上空の核爆発で日本全土が機能不全に・・と報じられ
 た。(産経新聞、2017年8月27日)
  北朝鮮が、核兵器や弾道ミサイルで挑発を続けるなか、
 もう一つの深刻な脅威として「電磁パルス攻撃」の可能
 性が指摘されている。
  上空で核爆発を起こし、広範囲で都市機能を破壊する
 もの・・
  北朝鮮は既に攻撃能力を持つとみられるが、日本の対
 策はほぼ手つかずで、専門家からは懸念の声が上がる。
  大規模停電の恐れ
  電磁パルス攻撃は、高度30~400キロの上空で核
 爆発を起こして行う。
  その際に生じたガンマ線が、大気を構成する窒素や酸
 素などの分子に衝突。
  分子に含まれる電子がはじき飛ばされて雷のような巨
 大な電流が発生するなどした結果、強力な電波の一撃で
 ある電磁パルスが地上に襲いかかる。
  電磁パルスは、送電線を伝ってコンピューターなどの
 電子機器に侵入。
  その電圧は5万ボルトに達するため、機器はIC(集
 積回路)の機能停止で損壊し、同時に大規模な停電も発
 生すると予測される。
  核爆発に伴う熱線や衝撃波は、地上には届かない。
  影響範囲は、爆発の高度や規模によるが、高度100
 キロで広島型原爆の3分の2に相当する10キロトン(
 TNT火薬換算)の場合、日本全土をほぼ覆う半径約
 1100キロにも達する。
  1962年に、米国が北太平洋上空で行った高高度核
 実験「スターフィッシュ・プライム」では、高度400
 キロの宇宙空間での核爆発で電磁パルスが発生。
  爆心から1400キロも離れた米ハワイ・ホノルルな
 どで停電が引き起こされ、その威力が実証された。
  空から襲う“津波”
  現代社会は、電気なしでは成り立たない。
  電磁パルス攻撃によって大規模な停電が発生し、公共
 インフラを支える電子機器が損壊すれば、都市機能はま
 ひする。
  電話やインターネットなどの通信やガス、水道の供給
 が停止。
  飛行中の航空機が操縦不能になったり、電力を絶たれ
 た原子力発電所が制御不能に陥ったりする恐れも指摘さ
 れている。
  米国の専門家チームが、今世紀に入ってまとめたシナ
 リオでは、10キロトンの核爆弾がニューヨーク付近の
 上空135キロで爆発した場合、被害は首都ワシントン
 を含む米国東部の全域に及ぶ。
  損壊した機器を修理する人員や物資が大幅に不足し復
 旧には数年を要し、経済被害は最悪で数百兆円に達する。
  電磁パルスは健康に直接影響しないとされるが、食糧
 不足や病気などで死傷者は数百万人に上ると推定してい
 る。
  元陸上自衛隊化学学校長の鬼塚隆志氏は・・
  「電磁パルス攻撃は宇宙から襲う津波のようなものだ。
  被害を完全に防ぐことは難しくても、備えを固めるな
 どして減災に取り組む必要がある」と強調する。
  「日本は無防備」
  電磁パルス攻撃は、地上への核攻撃と違い、ミサイル
 の弾頭部分を大気圏再突入時の高熱から守る技術は必要
 ない。
  小型の核弾頭を搭載したミサイルを発射し、目標上空
 で起爆するだけだ。
  米国防総省の内部では、北朝鮮が既に核弾頭の小型化
 に成功したとの見方もある。
  成功が事実なら、弾道ミサイルや人工衛星を搭載した
 ロケットが上空を通過するとみせかけ、日本の真上の宇
 宙空間で核爆発を起こすことも可能だ。
  日本の領土や領海に着弾する恐れがない場合、迎撃ミ
 サイル発射のタイミングを逃す可能性は十分にある。
  電磁パルス攻撃は、米国やロシア、中国も能力を保有
 しているとされる。
  核爆発以外の方法でも可能だ。
  米露中のほか、北朝鮮や中国の脅威にさらされる韓国
 や台湾でも、インフラや軍などの防護対策が進んでいる。
  これに対し日本は、取り組みが遅れている。
  電子戦に関わる研究開発を担う防衛省の電子装備研究
 所は、電磁パルス攻撃を受けた場合に「(自衛隊の)指
 揮・統制機能が無力化される恐れ」があるとして、今秋
 にも防護技術の動向調査を始める。
  だが、その内容は、攻撃の脅威に関する調査や、防護
 技術の実現に向けた課題の明確化など基礎的な検討にと
 どまる。
  電磁パルスが、防衛装備品に与える影響に詳しい企業
 関係者は・・、
  「日本には、電磁パルス攻撃への備えがまともに存在
 しない。
  社会全体が無防備な現状は非常に危険だ」と警鐘を鳴
 らす。
.
2017年9月11日、電磁パルス攻撃
  産経ニュース(2017年9月11日)に以下のことが記され
 ている(抜粋)
  北を「石器時代」に戻す米国の「贈り物」電磁パルス
 攻撃受けるのは金正恩氏 地中貫通核爆弾も!
  北朝鮮が「石器時代に戻る」可能性が浮上している。
  地中貫通核爆弾は後回しにし、まずはEMP攻撃とは
 何かの復習・・
  EMP攻撃は、高度30~400キロの上空での核爆
 発を起点とする。
  その時生じたガンマ線が大気を構成する窒素や酸素な
 どの分子に衝突。分子中の電子がはじき飛ばされて雷の
 ような巨大な電流が発生するなどした結果、強力な電波
 の一撃であるEMPが地上に襲来する。
  「宇宙より押し寄せる津波」に例えられるゆえん。
  EMPは送電線を伝ってコンピューターといった電子
 機器に侵入。
  電圧は5万ボルトに達するので、機器はIC(集積回
 路)の機能停止で損壊し、同時に大規模停電にも見舞わ
 れる。
  影響範囲は爆発の高度や規模によるが、高度100キ
 ロで広島型原爆の3分の2に相当する10キロトン(T
 NT火薬換算)のケースでは、日本全土をほぼ覆う半径
 約1100キロにも達する。
  現代社会は電気なしでは成り立たない。
  大規模停電で公共インフラを支える電子機器が損壊す
 れば、都市機能はマヒする。
  携帯電話&電話&インターネットなどの通信やガス&
 水道の供給が停止。
  飛行中の航空機が操縦不能になり、電力を絶たれた原
 子力発電所が制御不能に陥る。
  自衛隊・警察・消防の指揮・命令系統や金融機関も機
 能不全となる。 
  EMP攻撃は地上への核攻撃と違い、ミサイルの弾頭
 部分を大気圏再突入時の超高熱から守る素材や突入角度
 制御に関わる技術は必要ない。
  小型の核弾頭を搭載したミサイルを発射し、目標上空
 で起爆するだけ。
  米国防総省では、北朝鮮が既に核弾頭の一定程度の小
 型化に成功し、EMP攻撃能力を備えたと確信している。
  この恐るべき兵器を米国は当然、研究・開発し、実戦
 段階まで昇華している。
  実際、米国は1962年、北太平洋上空で高高度核実
 験《スターフィッシュ・プライム》を実施、高度400
 キロの宇宙空間での核爆発でEMPを発生させた。
  ところが、爆心より1400キロも離れた米ハワイ・
 ホノルルなどで停電が引き起こされ、予想通りの「魔力」
 が実証された。
  米国の専門家チームが近年まとめたシナリオでは、10
 キロトンの核爆弾がニューヨーク付近の上空135キロ
 で爆発すると、被害は首都ワシントンが所在する米国東
 部の全域に及ぶ。
  損壊した機器を修理する技術者や物資が大幅に不足し、
 復旧には数年を要し、経済被害は最悪で数百兆円に達す
 る。
  EMP攻撃で、北朝鮮の核・ミサイル施設&基地を含
 む軍事拠点や各種司令部&各部隊間をつなぐ電子・通信
 機器=指揮・統制システムを不通にできれば、もはや戦
 (いくさ)はワンサイド・ゲームと化す。
  その上、EMP攻撃敢行のハードルは、核爆弾の直接
 攻撃に比べハードルが低い。
  EMPの場合、核爆発に伴う熱線や衝撃波は地上には
 届かない。
  EMPは被攻撃側の人々の健康に直接影響しない。
  半面、食糧不足や病気などで数百万人単位もの死傷者
 は出る。
  病院をはじめ、無線などの情報通信やテレビ・ラジオ
 もマヒし、被害情報把握も救援・復旧活動も困難に。
  信号機も突如消え、交通事故や火災で死者を増やし、
 大パニックに陥るため。
 こうした、一般の北朝鮮国民への被害をどう局限し、国
 際世論の批判をかわすか、米国は今、シミュレーション
 を繰り返している。
  もちろん、米国にとり最優先事項は人道ではなく、E
 MPの届きにくい地下坑道に陣取る北朝鮮・朝鮮人民軍
 の通常・核兵器による報復の芽を摘み取る点にある。
  核施設の制御不能回避も大きな課題だ。
  以上の課題も、米国は着々と解決している。
  ところで、北朝鮮の韓大成・駐ジュネーブ国際機関代
 表部大使は5日、あろうことかジュネーブ軍縮会議で「
 米国が北朝鮮に圧力を加えようと無駄な試みを続けるな
 ら、わが国のさらなる『贈り物を受け取ることになる』
 だろう」と演説した。
  が、現実には『贈り物を受け取ることになる』側は、
 北朝鮮になるかもしれない、ということだ。
  20階建て鉄筋ビルを貫通して爆破する「大型貫通爆
 弾=MOP」
  さて、《地中貫通核爆弾》を論じたい。 
  バラク・オバマ政権は、政権の最終盤に入って、よう
 やく北朝鮮の脅威に気付いた。
  昨年11月の政権引き継ぎ会談で、当時のオバマ大統
 領は、大統領選挙を制したドナルド・トランプ次期大統
 領に、「米国の最大脅威は北朝鮮」だと、自戒を込めて
 伝えた。
  米国防総省も引き継ぎ直前、秘中の秘たる《地中貫通
 核爆弾B-61タイプ11》の模擬弾投下試験を超異例
 にも公表。
  大統領選で激突していたトランプ候補とヒラリー・ク
 リントン候補に、暗に覚醒を促した。
  地中貫通核爆弾B-61タイプ11こそ、朝鮮人民軍
 がこもる地下要塞殲滅の切り札だ。
  朝鮮人民軍の指揮・統制施設や、核・生物・化学兵器
 &弾薬の貯蔵施設といった軍事中枢は、地下深くにあっ
 て分厚い岩盤+ベトン(コンクリート)で鎧われ、坑道
 も十重二十重に掘られている。
  陸軍の火砲や地対艦ミサイルも坑道内を移動して、射
 撃時に「顔」を出す。
  空軍の軍用滑走路は低山の斜面をえぐって造られ、軍
 用機は通常、滑走路横の低山内の坑道に格納される。
  海軍基地も、沿岸部をくりぬいた坑道内に小型艦艇/
 小型潜水艦・潜水艇/半潜水艇を収容する。
  この種の海軍艦艇は、戦端が開かれる前や直後に工作
 員や特殊作戦部隊員を乗せ韓国近海に侵入、上陸して要
 人テロや軍・政治・経済中枢破壊を実行するプラットフ
 ォームになる。
  2012年に、国際問題誌ディプロマットは《軍事衛
 星の監視を外れる地下航空基地は20カ所、地下砲兵陣
 地は数千カ所》と報じる。
  米軍は、国土が要塞化されている北朝鮮の特性を受け、
 地中貫通爆弾+核爆弾の組み合わせによる北攻撃を立案
 している、と筆者はみる。
 (1)非核弾頭を搭載した通常型地中貫通爆弾=バンカ
   ーバスター
 (2)核爆発力を抑えた「小さな核爆弾=ミニ・ニュー
   ク(戦術核)」
 (3)通常型地中貫通爆弾では破壊できぬ深く堅牢な地
   下施設を破壊する、「小さな核爆弾」を装填した地
   中貫通核爆弾
  上記の3種類の使い分け・・
  使い分けは、作戦と予想される戦況によって変わる。
  軍用機や潜水艦を敵の攻撃から防護する掩体壕を撃ち
 抜く地中貫通爆弾=バンカーバスターは第2次世界大戦
 (1939年~1945年)時には実戦投入されていた
 が、イラクのクウェート侵攻で勃発した湾岸戦争(19
 91年)でも、イラク軍の地下司令部を無力化すべく使
 用された。
  しかし、北朝鮮とイランが進める核・ミサイルの脅威
 が高まると、従来の地中貫通爆弾では地下施設に対して
 破壊力不足だとの実験・シミュレーション結果が判明し
 た。
  そこで開発した切り札が、格段に大きな破壊力を有す
 《大型貫通爆弾=MOP》である。
  米空軍のB-2ステルス戦略爆撃機の弾倉に搭載され
 るMOPは、1万メートルの高高度で投下され、猛烈な
 重力加速度を付けて落下する。
  弾頭部分は、弾着時の強烈な衝撃に耐えるように高強
 度鋼を鍛造して仕上げている。
  GPSや慣性航法装置による自律誘導で、発射された
 爆弾の半数が目標の2メートル範囲内に着弾する。
  貫通力は、一般の分譲マンションが使用する鉄筋コン
 クリートの強度に比し、はるかに硬い標的を相手にして
 も、60メートル(20階建てビルに相当)も「深掘り」
 する。
  その倍の強度=超高層マンションの基礎部分の柱に使
 われる鉄筋コンクリートでも8メートルを突き進む。
  標準的な硬岩なら40メートル下まで達する。
  限界深度に到達後に起爆して、地下施設を吹っ飛ばす。
  大型貫通爆弾=MOPのパワー・アップ費&生産費や、
 MOPのプラットフォームとなるB-2ステルス爆撃機
 の改修費について、米国防総省は2000年代に入り近
 年でも頻繁に請求 → 認められている。 
  対する北朝鮮の核・ミサイル施設は地下深く、鉄筋コ
 ンクリートや硬岩、鋼鉄などを巧みに組み合わせて構築
 されている。
  しかも、時間の経過とともに地下施設は補強され、強
 度を増している。
  かくして、米国が「克服しなければならない課題」は
 多数残っている。
  けれども、「克服しなければならない課題」は着実に
 「克服」されているもようだ。
  30センチ以下の動く対象を捉える米国の偵察衛星は
 移動式発射台のワダチをさかのぼり、核・ミサイル格納
 トンネルを特定する。
  軍事利用している衛星の種類には資源探査型があり、
 地質構造・地表温度を識別して、地下施設・坑道の構造
 や深度が一定程度判別可能だ。
  こうして長年蓄積し続けた膨大な量の偵察・監視資料
 を精緻に総合的に再分析する。
  すると、見えなかった地下施設が浮かび上がる。
  例えば、地下施設建設前と建設後で、地上地形がどう
 変化していったか/地形変化のスピード/掘削機の能力
 割り出し/トラックで運び出される土砂の量/トラック
 で搬入されるセメント・鉄骨・鋼板などの量/労働者数…
 など。
  地下施設といえども、兵器や技術者、軍人が出入りす
 る出入り口は絶対に必要だ。
  換気施設も然り。
  絶好の監視対象であり爆撃ポイントになる。 
  北朝鮮の金正恩・朝鮮労働党委員長の秘密居所は、地
 下150メートルともいわれ、MOPですら荷が重い恐
 れがあるが、先述の《地中貫通核爆弾B-61タイプ11》
 であれば確実に粉砕する。
  《電磁パルス(EMP)攻撃》と同様、地中貫通核爆
 弾B-61タイプ11は、他の核搭載兵器に比べ、実戦
 投入のハードルは低い。
  爆発威力を抑えれば、地下での起爆であり、一般国民
 の住む地上の被害を抑え、核汚染被害も局限できる。
  地下に蓄えられる朝鮮人民軍の生物・化学兵器も、核
 爆発力を抑えた「小さな核爆弾=ミニ・ニューク」が発
 する熱波で蒸発 → 無害化に一定程度貢献しよう。
  やっぱり、「贈り物」が届く先は金正恩委員長が震え
 ながら閉じこもる「地下の住まい」・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
by suba28 | 2019-03-29 04:38 | 皆様とともに 幸せになりたい


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