(増補版)616E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年12月~1894年12月)

題:(増補版)616E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年12月~1894年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
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1894年12月9日、総武鉄道の本所駅(錦糸町駅)~市川駅間
 が開通することにより、本所駅~佐倉駅間が全通した。
  総武鉄道(総武線)は、1894年7月に、市川駅~佐倉駅
 間が開通していた。
  駅は、本所、亀戸、市川、船橋、幕張、千葉、四街道、
 佐倉の8駅だった。
  江戸川区域には駅が無く、1899年4月に、平井駅ができ
 た。
  蒸気機関車が黒い煙を吐いて運行されていたが・・、
  電化は、1932年6月、両国駅~お茶の水駅間が電化され
 た。
  そして、1933年3月、両国駅~市川駅間が電化し・・、
  1933年9月、市川駅~船橋駅間の電化・・
  1935年7月、千葉駅までの電化が完了した。
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1894年12月17日、朝鮮で、第二次金弘集(きんこうしゅう)
 政権が成立した。
  朴泳孝と連立した。
  金弘集は、朝鮮王朝(李朝)末期の政治家で、1880年
 に、来日(訪問)している。
  明治維新後の日本の発展の様子を視察して、朝鮮を開
 化するのだの思い・意欲を深めた。
  この時、持ち帰った清国の外交官の著書「朝鮮策略」。
  持ち帰って国王・高宗に上呈し、開化政策推進の契機
 とした。
  穏健的開化派としての彼は、常に、外交の前面に立ち、
 欧米諸国などとの修好通商条約の改正を目指した。
  1882年、壬午の軍乱の後、全権副官として、日本との
 済物浦(さいもっぽ)条約の交渉にあたった。
  また、甲午農民戦争以後、1884年、領議政 (初代総理
 大臣) となり親日的であった。
  そして、急進的な改革を行なった。
  しかし、最後は親露派に殺された。
  生涯に渡って終始、国家の非常の難局に当たった悲劇
 の政治家だった。
  (参考)朝鮮策略:ちょうせんさくりゃく、
      東京の中国公使館にいた黄遵憲が書いたもの
     で・・、
      朝鮮は、自強のため中国との関係を深め、日
     本と提携し、さらに、アメリカと国交を開くよ
     うに主張した。
      金弘集で知った朝鮮国王は、これを採用した。
      そして、2年後にアメリカと条約を結び、国内
     改革を始めた。
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1894年12月20日、中国の清国が、張蔭桓(ちょういんかん)
 らを、日清戦争の終結のための本格的講和全権使節に任
 命し、その事を、日本に通告して来た。
  日本も、直ちに伊藤首相、陸奥外相を全権に任命して
 講和交渉を開くことを承認した。
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1894年12月21日、筑豊鉄道の折尾駅~中間駅間が複線化さ
 れ、また、、筑前植木駅~直方駅間も複線して開通した。
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1894年12月22日、第8回帝国議会が召集された。
  1894年12月24日~1895年3月23日、通常会が開催された。
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1894年12月22日、クロード・ドビュッシーの「牧神の午後
 への前奏曲」がパリの国民音楽協会に於いて初演された。
  指揮はギュスターブ・ドレ。
  初演から好評で、二度のアンコールがあった。
  https://www.youtube.com/watch?v=Zw1OYRjpvFY
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1894年12月28日、筑豊鉄道の小竹駅~幸袋(こうぶくろ)
 駅間が開通した。
  石炭輸送全盛時代にあった。
  多数の側線が作られた。
  日本の鉄道は、1890年代から1900年代にかけて、めざ
 ましい発展をとげた。
  この約15年間に、営業キロは約2.5倍となる。
  特に、貨物輸送力は9.5倍に増加した。
  この頃は、紡績部門を中心として、日本の産業革命が
 進行した。
  そして、さらに、製鉄、製鋼部門を基軸とする重工業
 へと転換して行った。
  日本社会に資本主義経済体制が根付き、さらに、急速
 な発展をし、それが、鉄道の発達をうながした。
  また、その鉄道の発達が、さらなる資本主義の発展を
 促進するという展開となった。
  経済体制の発展と、鉄道の発展とが相互に相関的な発
 達となっていた。
  鉄道が、日本の輸送には欠くことのできない主座を占
 めて行った。
  1906年には、「鉄道国有法」が公布された。
  そして、幹線を構成していた私設鉄道17社が、1907年
 までに、すべてが国有化され、「国有鉄道」が成立した。
  そして、その鉄道の技術も「自立」して行った。
  日本の経済のさらなる発展には、日本の「技術の自立」
 が必要不可欠だった。
  そして、その為の法制化、規格化が進んだ。
  日本の重工業の発展とともに、その車輌、機械類の自
 給体制も確立さ、完成させて行く。
  1894年、「鉄道局隧道定規」、および、「橋梁、鋼鈑
 桁ノ定規」を制定する。
  また、神戸商業会議所は、官設鉄道運賃低減を提案す
 る。
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1894年12月31日、三菱第1号館の完成
  イギリス・ロンドン出身の建築家ジョサイア・コンド
 ル(お雇い外国人)によって・・
  イギリス・クイーンアン様式の外観を持つ煉瓦造の建
 築物として設計され・・、
  また、建設工事は、曽禰達蔵現場主任があたり、直営
 工事による施工で完成した。
  丸の内ビル街の先駆で・・、
  その後、次々とオフィスビルが完成し、「一丁倫敦(
 いっちょうろんどん)」と呼ばれるオフィスビル街とな
 って行った。
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1894年12月、フランスでドレフュス事件が発生した。
  フランス第三共和政を揺がした政治危機で、1894年~
 1906年、フランス社会の根底に横たわる社会的・政治的
 緊張を露呈した。
  共和国の存続そのものを危険にさらした。
  1894年、ユダヤ系の陸軍大尉 A.ドレフュスが、ドイツ
 に情報を売っていた。
  そして、終身流刑に処せられた。
  ユダヤ系のドレフュス大尉への「差別がある」として
 再審を求める派と、判決を支持する派でフランス国論が
 二分された。
  フランス軍部内では、別に真犯人のいることが分かっ
 たが、軍の威信と反ユダヤ感情などのため事件を糊塗し
 ようとした。
  最初は、家族と知人を中心とした再審要求運動であっ
 たが、上院副議長 A.シューレル・ケストネル、後の首相
  G.クレマンソーらの支持を得て再審要求運動は拡大した。
  1898年、文人 É.ゾラが『オーロール』紙上で「私は弾
 劾する」で始る大統領あての公開質問書を発表するなど、
 世論は高まり、単に、個人の有罪、無罪の論議をこえて、
  左翼には、国権に対する個人の自由を守り、軍を議会
 の統制下におこうとした反教権的な「ドレフュス派」、
  右翼には、軍の威信や伝統的価値を擁護し、対ドイツ
 愛国心を強調する国家主義者、頑固なキリスト教カトリ
 ック、反ユダヤ人主義者、保守主義者などを中心とする
 「反ドレフュス派」が形成され、国論を2分して抗争した。
  1898年、H.アンリ大佐が、文書の一部偽造を告白して
 自殺したため、再審は確実となり・・、
  1899年、レンヌの軍法会議の再審で減刑されたが依然
 有罪で、大統領特赦で刑が免じられた。
  1903年、新たに有利な証拠が提出され・・、
  1906年7月、民事の破毀院は、レンヌの判決を全面的に
 破棄、議会も復権法案を可決した。
  1906年7月22日、ドレフュスも正式に復権した。
      (出典 ブリタニカ国際大百科事典)
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1894年12月、夏目漱石が、漱石ゆかりの地・鎌倉・円覚寺
 で参禅する・・、
  29歳の漱石は、同寺塔頭の帰源院で坐禅を組んだ。
  優秀な成績で、帝国大学文科大学(後の東京帝国大学、
 現・東京大学)を卒業していた漱石・・、
  そして、英語教師として東京高等師範学校の教壇にも
 立っていた漱石・・、
  しかし、自分の中にどうしてもしっくり来ないものが
 あった(漱石の記述)
  「卒業したときには、是でも学士かと思ふ様な馬鹿が
 出来上つた。
  それでも点数がよかつたので、人は存外信用してくれ
 た。
  自分も世間へ対しては多少得意であつた。
  たゞ、自分が自分に対すると甚だ気の毒であつた」
             (処女作追懐談)
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1894年、中国の軍閥
  1912年1月1日の中華民国成立の前後、私設の軍隊を背
 景に中国各地に並び立った勢力があった。
  特に、日清戦争後、北洋陸軍を私兵化した袁世凱の北
 洋軍閥が最大のもので、辛亥革命後、北京に軍閥政権を
 樹立した。
  死後、安微派、直隷派に分裂し、さらに、奉天派など
 も交えて抗争を続けていた。
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1894年、日本は、朝鮮・韓国の鉄道建設などの社会資本の
 充実に、本当に誠意をもって尽くした。
  韓国の加耶大学の崔基鎬(チェ・キホ)教授の自著の
 「日本人の税金で賄(まかな)われた朝鮮の鉄道建設」
 の項には、以下の様な記述がある。
  「鉄道は、未開国を近代国家に育成する機能を発揮す
 るための必要不可欠の動脈であり・・、
  市場経済の血管である・・、
  鉄道に代表される「大衆交通手段」の発達は、人類の
 生活向上と幸福の増進にも欠かせない・・、
  道なき山野に・・鉄道が敷設された事が・・、
  日本政府の目的がどこにあろうと、朝鮮民族にとって、
 長い間の地獄のような世から脱する事につながったこと
 は論をまたない。
  1894年、日清戦争勃発を契機として・・、
  朝鮮に鉄道敷設の機運は熟していたが、当時の李朝は、
 財政・経済に対する基礎的知識もなく、交通・鉄道に関
 する認識もなかった。
  1896年「京仁線(ソウル~仁川間)」38.9キロの鉄道
 敷設権を、日本企業「京仁鉄道合資会社」が、アメリカ
 人のモールスから買収して、1900年7月8日に、全線を開
 通させた。
  これが、朝鮮で最初の鉄道だった。
  ちなみに、日本で新橋~横浜間が開通したのは1872年
 で、その28年後のことであった。
  従来、今までソウル~仁川間の往復は、5日から6日も
 かかっていた。
  ソウルの両班老人たちは、初めて見る汽車を「鉄馬」
 と呼び、その「鉄馬」に乗って一日中、往復を繰り返し
 て楽しんだと伝えている。
  (両班・りゃんばんは、特権階級で朝鮮庶民から収奪
 する階層だった)
  往復で5日~6日の所要時間は、2時間~3時間に短縮さ
 れた。
  何とありがたい事であろう・・、
  元来、両班とは、働かずに、農工民が生産したものを
 優先的に処分する権利を保有していたから、「鉄馬」に
 乗って一日を消費して、それを最高の享楽と感じたのだ
 ろうことは容易に想像できる。
  「京釜線(ソウル~釜山間)」450.6キロは、「京釜鉄
 道〉株)」が、1905年1月1日に、全線を開通させた。
  京仁・京釜線鉄道の買収額(建設費)は、3500万円だ
 った。
  それに対して同年の大韓帝国の収入額(税・印紙税総
 額)は、784万円だったから、自力での鉄道敷設は夢でし
 かなかった。
  それまでフランスやロシアも競って鉄道敷設権を獲得
 したが、その資金の裏付けもなく、工事の着工もできな
 かった。
  アメリカのモールス(京仁川敷設権取得者)も事情は
 まったく同じで・・、
  彼らが頼りにしたのは李朝であったが、以上のような
 財政事情で、まったく実現の可能性が無かった。
  その様な事情から、日本企業が、この難局を切り抜け、
 京仁・京釜線が敷設された事は、天佑神助(てんゆうし
 んじょ、天や神の助け)というべきであった。
  京義線(ソウル~新義州間)は、フランスのグリール
 が敷設権を取得したが、これも日本が買収して、建設を
 受け継ぎ、1906年4月に、全線を開通した。
  京義線と馬山浦線の建設費、は3138万円で、したがっ
 て、京仁・京釜・京義・馬山浦線建設費を合わせると、
 6638万円になる。
  この6638万円は、日本人の血税で賄われた。
  ・・が、その活用は、日本人・朝鮮人共用であり、朝
 鮮側の享受した利益は「莫大なものであった」。
  もしも、1896年~1906年の1円が、今の10万円に相当す
 るとすれば、6.6兆円であり・・、
  それを、2003年11月25日の為替レートで韓国ウォンに
 換算すれば、79兆6560万ウォンに相当する(2003年11月
 現在、物価指数による換算)。
  こうして、1910年の日韓併合時には、既に全国1039.7
 キロの路線が完成した。
  これに続き、日韓併合後は、寺内・長谷川の両総督時
 代に、湖南線・京元線(ソウル~元山間)・平南線が、
 1917年には、会寧~清津間が開通した。
  併合後に、朝鮮総督府が、鉄道敷設に投資した費用は、
 次ページの一覧の通りである。
  日本の斎藤実総督は、1921年9月に開催した「産業調査
 委員会」の提議によって、吉林~会寧間の敷設計画と、
 それ以降の12ヵ年計画を立ち上げたが、その概要は、以
 下の通りであった。
  鉄道建設12ヵ年計画、
  期間:1927年~1939年、
  総経費:3億円、
  路線:図們線(雄基~潼闕鎮)156キロ、
  恵山線(恵山鎮~吉州)142キロ、
  満浦線(順天~満浦)286キロ、
  東海線(安辺~浦項・釜山~浦項)549キロ、
  慶全線(晋州~全州・院村~漂陽)251キロ、
  計1384キロ
  また、朝鮮総督府が建設する鉄道で、1930年末までに
 完工した路線は、次の通りである。
  鉄道建設状況(1930年末)
  京釜線 450.6キロ、
  京仁線 38.9キロ、
  馬山浦線 40.1キロ、
  鎮海線 20.6キロ、
  京義線 499.3キロ、
  兼二浦線 13.1キロ(黄州~兼二浦)、
  平壌炭鉱線 23.3キロ(大同江~勝湖里)
  平南線 55.3キロ(平壌~鎮南浦)
  博川線 9.3キロ(孟中里~博川)、
  竜山線 6.7キロ(竜山~唐人里)、
  新義州貨物取扱所線 1.8キロ、
  湖南線 260.7キロ、
  群山線 23.0キロ(裡里~群山)
  慶全線・慶全北部線 25.3キロ(裡里~全州)、
  光州線 36.4キロ(松汀里~漂陽)
  京元線 223.7キロ、
  威鏡線 617.6キロ(元山~会寧)
  川内里線 4.4キロ(竜漂~川内里)、
  清津線 9.0キロ(輪城~清津)
  会寧炭鉱線 10.6キロ(会寧~鶏林)
  北青線 9.4キロ(北青~新北青)、
  遮湖線 4.9キロ(会山~遮湖)
  鉄山線 3.0キロ(羅興~鉄山)、
  平元西部線 67.0キロ(西浦~新倉)、
  東海線・東海中部線 148.8キロ(大邸~慶州)、
  東海北部線 31.4キロ、
  図們線・図們西部線 59.6キロ(会寧~潼闕鎮)
  図們東部線 31.4キロ(雄基~訓戒狭)
  その後、新倉~高腹間の平元線146.8キロ、吉州~恵山
 鎮間の恵山線141.6キロ、順天~満浦間の満浦線286.6キ
 ロ、釜山鎮~蔚山線70.8キロなどが、開通した。
  その他にも、総督府は、私設鉄道に対する補助を行な
 ったが、1915年~1930年までに、その総額は4000万円を
 超えた。
  1910年の日韓併合以来、旅客運賃収入と貨物収入は、
 67ページ下段の表の様に飛躍的に発展しており、物流の
 活発化を裏付けている。
  こうして、1945年の終戦の日まで、鉄道網の拡張は続
 けられた。
  その総延長は、6632キロ、駅の数は762、従業員数は
 10万527名に達した。
  それまでの姿・・「人間の背中に頼っていた李朝時代
 の物流」・・、
  それ以前の李朝時代の物品の交流は、褓負商ボブサン
 (行商人〉に頼っていた。
  たとえば、全州チョンジュの行商人(褓負商ボブサン)
 は妻子とともに、全州名産の生姜(しょうが)と櫛(く
 し)を背負って、平壌ピョンヤンまで3週間余りかけて歩
 き、そこで販売する。
  次に、人力車も通れない道を、再び、歩いて、元山ウ
 オンサンに行き、昆布と干魚を売りさばくという具合だ
 った。
  時間が予定以上にかかったり、滞在が伸びたりしたら、
 利益は見込めない。
  その様を想像しただけでも、道路やインフラ整備を怠
 った李朝が、百姓にとって、いかに苛酷な統治者であっ
 たかが分かる。
  この場合でも、馬を使うのが普通だが、馬には人間以
 上の経費がかかる。
  結局、運搬道具として、牛馬ならぬ人間の背中が最も
 利用されることとなった。
  朝鮮には、遠い昔から運搬具として「チゲ」というも
 のがあって、今も農村では欠かせない道具だが、肩に掛
 ければ荷重が背中全体に、公平に分配されるから肩が痛
 くないという特徴がある。
  嶺東には、蜂蜜の生産は多いが、塩が無く、平安道ピ
 ョンアンドでは、鉄の生産が多いが蜜柑・レモンは無く、
 ハムギョンドでは、朝鮮人参の生産は多いが、綿布は生
 産されない。
  この様な地方特産品を、鉄道の敷設によって流通させ
 ることが出来れば、住民の生活向上につながることは言
 を俟(ま)たない。
  暗黒の国土に、鉄道が開通し、日本の先導で、ようや
 く近代化のきざしが、朝鮮にも見られるようになった史
 実は、否定できない。(以上)
  今・現在、中国及びその手先は、『日本は、軍隊を運
 ぶために朝鮮・韓国の鉄道を作ったのだ」と日本の努力
 を無にすることを言うが・・
  その為だけならば、この様に朝鮮の国土を縦横無尽に
 張り巡らす様に鉄道を造る必要はない。
  日本は、心から朝鮮の日本並みの発展を願っていたの
 だ。
  朝鮮・韓国は、その日本の恩を感じなければならない。
  その日本の恩を無にする言動をする韓国となっている。
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  (今日の言葉)
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  題:朝鮮・韓国は、その日本の恩を感じなければならない。
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683年(天武12年)鏡王女(かがみのおうきみ)が、この日、
 薨去(こうきょ)したが・・、
  その前日、天武天皇は親しく病床を見舞われた。
  万葉集に・・
  玉櫛笥(たまくしげ)覆(おお)ふを易(やす)み
  明(あ)けて去(い)なば 君が名はあれど
  我が名し惜(お)しも
              鏡王女
  訳:箱に蓋をすると中のものが見えなくなるように、
    私たちのことを覆い隠すのは簡単だとお思いに
    なって、夜が明けてからお帰りになれば、
    あなたの名はともかく、わたくしの名が惜しうご
   ざいます。
  藤原鎌足が鏡王女と婚をなすために訪れた夜の明け方、
 なかなか帰ろうとしない鎌足に王女が贈った歌です。
  歌の背景には妻問い婚(つまどいこん)が普通であっ
 た当時、男性が夜明けまで女性の家に居て帰ろうとしな
 いと、ご近所の噂がひどかった、という事情がありまし
 た。
  鏡王女は天智天皇の異母妹で、若き日の天智天皇の妃
 (きさき)となり、その後、鎌足の正室となった女性で
 す。
  古代国家の基礎を築きつつある天智天皇にとって、鎌
 足は無くてなならぬ人物でした。
  加えて鎌足は、とかくギクシャクしがちな天智天皇の
 実弟・大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)
 と天智天皇との関係を、取り持つことができる唯一の人
 物でもあったのです。
  天智天皇の妃であった鏡王女がなぜ鎌足と結婚したか、
 その詳細は不明ですが、王女は愛する夫にして異母兄・
 天智天皇と鎌足の絆を不動のものにするために、天智天
 皇の願いを受けて再婚したのだと思います。
  天智天皇の愛が薄れて再婚したのではなく、わたくし
 はそこに、天智天皇の王女への深い信頼と愛を読み取る
 のです。
  藤原鎌足、天智天皇に先立たれ、壬申の乱(じんしん
 のらん)にも遭遇するという激動の古代を生きた王女は、
 晩年、懐古(かいこ)の鳥とされている呼子鳥(よぶこ
 どり)の声に、そんなに鳴かないでおくれ、昔を恋い慕
 う心を募るばかりだから、と深く嘆じました。
  神奈備(かむなび)の 磐瀬の杜(いわせのもり)の
  呼子鳥 いたくな鳴きそ 我(あ)が恋(こい)増(
  ま)さる
  683年(天武12年)王女薨去(こうきょ)。
  その前日、天武天皇は親しく病床を見舞われた。
         (国文学者・石丸昌子氏の名文です)
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1147年、第二回十字軍(~1148年)・・北方十字軍
  この12世紀の西欧諸国におけるカトリック教会の権威
 確立を目的とした第二回十字軍の壊滅的な敗退は、返っ
 てカトリック教会の権威を失墜させる危機に陥れた。
  クレルヴォー修道院長ベルナールは、これを打開する
 ため新たな十字軍を提唱した。
  西欧諸国からはドラクリア(竜の地)、東欧諸国では
 ディアボロシア(悪魔の地)と呼ばれ、現地の人々から
 はウェリ・クン・ナーラ(天神に祝されし国々)と総称
 される、カグレア、シルリア、ペグゼリア、タンムリア、
 カラキアにおける異教異民族への十字軍だった。
  この十字軍は、「最も成果の無かった十字軍」と呼ば
 れ、実態は敗北だった。
  ただただ、スラブ人を殺す十字軍という状況だった。
  後に、これは北方十字軍と呼ばれる。
  北方十字軍は、受け継ぐ封土を持たぬ封建諸侯の子弟
 達(この憤懣のガス抜きの十字軍)、そして、相次ぐ戦
 乱と飢饉で家屋や土地を失った貧民達から構成されてい
 た。
  そして、「フロンティアが獲得できる」という夢を吹
 き込み、それを目的としたので大いに受け入れられた。
  厳しく戦った事例としては、北方十字軍の攻撃を受け
 たカグレア人・・この民族は、かねてから国境付近でザ
 クセン公国と対立を深めていた。
  (参考)気高きグレアを意味するカグレア・・しかし、
     その地は過酷な地であった。
      凍てつく北方に位置するこの大地は、地味が
     乏しく、作物も実らず、狩るべく鳥獣や漁る魚
     貝も少なく・・その上、海の彼方からは、絶え
     ずユグラドラシスの異民族の襲撃を受け、その
     王国・バレア王国との紛争に明け暮れた。
      僅かな食糧と、その食糧を得る為の領土を奪
     い合う、殺し合う・・生き延びる事の困難なこ
     の地の人々は、戦いが多く、そのため強かった。
  ウェリ・クン・ナーラでも、勇猛な戦闘部族で知られ
 ていたカグレア人は、 スペル・ユニオル族族長レーベル
 クを中心に、前九年・後三年と、合わせて十二年に渡り
 激しく抵抗した。
  一時は、カグレアの地よりドイツ諸勢力を一掃し、逆
 に、ザクセンに侵入し、ヴァグリアを征服するにまで至
 った。
  しかし、カグレア諸部族に服属していたシルリア人が、
 突如、自らキリスト教を受け入れ、北方十字軍と手を結
 んでカグレアの背後をつくと、一気に形成は逆転した。
  カグレア諸部族は総崩れとなり、北方十字軍に征服さ
 れた。
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13世紀、北方十字軍
  「異民族のキリスト教化」という名目上の目標を掲げ
 て、バルト海沿岸地域へ進出した「北方十字軍」は・・、
 遠征の当初から本来の宗教的な目的を失っていた。
  その実際の実態は、「北方諸国の植民地化」だった。
  ローマ教皇からお墨付きをもらって・・、
  世俗の最高権力者である神聖ローマ皇帝の思惑とも重
 なって、キリスト教による征服事業の拡大を続けた。
  その先鋭に立ったのが「ドイツ騎士団」だった。
  13世紀、ハンガリー王国から追放されたドイツ騎士団
 だった。
  その武力集団は、異教徒征伐の命を受けてプロイセン
 の地(現在のカリーニングラード〜ポーランド北部)に
 活動拠点を移した。
  そして、その武力の威力によって、先住民であるプロ
 イセン人の殺戮を尽くして制圧した・・そして、その地
 のすべてを掠奪・収奪した。
  その後も・・略奪と搾取を重ねながら、莫大な富を築
 き、「ドイツ騎士団領」という軍事国家まで作った。
  しかし、乱逆なこのキリスト教集団は、周辺諸国の貴
 族を集めて「人間狩りツアーを開催する」など、その残
 虐きわまりない性質と傍若無人ぶりだった。
  ドイツ騎士団は、リヴォニア(現在のラトヴィア西部
 からエストニア南部)を征服していたリヴォニア帯剣騎
 士団を吸収した。
  そして、さらに、現在のリトアニアの地へと侵攻した。
  それに対して、ミンダウカス王の元に諸部族が結集し
 てリトアニア大公国が誕生する。
  そして、強大な戦力を形成し、ドイツ騎士団を押し返
 した。
  その後、お互いが侵略行為を重ねる。
  拮抗した戦争状態が続く・・
  同じ様にドイツ騎士団と領土問題で対立を深めるポー
 ランドとの同盟関係を成立させる。
  1385年、ついにリトアニアはキリスト教を受け入れ(
 当初は形式的なものだった)、両国は連合国となってド
 イツ騎士団と対立する。
  キリスト教の教義でもある「異教徒は殺せ」の異教徒
 との戦いという大義名分を失ったドイツ騎士団は激高し
 て、互いの存亡をかけた激烈な総力戦へなる。
  そして、ポーランド・リトアニア連合は、1410年の「
 グルンヴァルト(タンネンベルク)の戦い」で勝利し、
 ドイツ騎士団に壊滅的な打撃を与える。
  ドイツ騎士団は、徐々に衰退し、やがて消滅した。
  ポーランド・リトアニア連合国は、ヨーロッパ最大領
 土の国へと発展する。
  そして、その後、200年に渡る黄金時代を築く。
.
16世紀半ば~17世紀初頭、南蛮貿易が行われた。
  1543年に、種子島にポルトガル船が漂着したが・・、
  南蛮貿易は、ポルトガル及びスペインとの間で貿易が
 行われた。
  中国・明のマカオが拠点で、特に、ポルトガル人が中
 心に営まれ、日本の銀が流出した。
  中国とは生糸が取引された。
  16世紀の前半から灰吹法によって銀の産出量が増えて
 いた。
  (参考)灰吹法:はいふきほう、鉱石からいったん鉛
     に溶け出させて産出する方法。
  キリスト教イエズス会は、プログラドールという貿易
 や財務を担当する役職を作って貿易を指揮し、担当し、
 交易し、利益を得た。
  長崎のこのキリスト教のプロクラドールは、岬に建設
 されたキリスト教会内のカーザ(建物・倉)に貿易品を
 貯蔵し、取り引きを行ったので、キリスト教会が商館の
 ように機能した。
  このプラグドールは、キリスト教宣教師のザビエルの
 提案したことから実現した。
  せっせと南蛮貿易に精を出すキリスト教だった。
  そして創設されたパウロ学院には金庫が置かれていて、
 貿易の利益のほか、貿易に税を掛けて金を取り、この教
 会内の金庫に金がうなる様にあった。
  このキリスト教会の主動する南蛮貿易の卑劣なところ
 は、日本の若い女性を売るという人身売買をしていた所
 だった。
  「70万人の日本女性を売った」という記載が、ポルト
 ガルの文書にある。
     ・
     ・
1910年8月26日、キリスト教徒のマザー・テレサが生まれた。
  マザー・テレサは、キリスト教の神は死んだと言った。
  マザーテレサさんは・・インドで・・ヒンズー教徒の
 方々が行っている・・『弱者救済の運動とその行動』の
 中に入って行って・・、
  ヒンズー教徒の方々と共に・・弱者救済活動を行なっ
 た。
  その行為が、そのことが・・素晴らしい業績となって
 いますが・・、
  (注):
  世間には、キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)だけ
 が・・あまりにも声高に叫ばれているため・・真実が、
 隠されています。
  初めて、上記の文を読まれた方は・・驚かれたと思い
 ますが・・「真実は、上記なのです」。
  キリスト教は・・、
  マザーテレサさんが、アメリカの映画に取り上げられ・・
 脚光を浴びた事を知り・・マザーテレサさんに着目し・・、
 キリスト教の「広告塔」にしました。
  そして、ヒンズー教の方たちを隠しました。
  ヒンズー教徒の方々は・・まったくと言ってよいほど、
 陰に隠れた状態に、なってしまいました。
  それでも、インド政府は、マザーテレサさんを国葬に
 して・・マザーテレサさんを讃えました。
  そして・・、
  マザーテレサさんには、「別の業績」がありました・・、
  それは・・、
  「キリスト教の神は居ない」と、表明されたことでし
 た。
  マザーテレサさんは、キリスト教の神の存在に悩んで
 いました。
  キリスト教の神は居ない・・と・・、
  本国の色々な司祭などに、長い期間、悩みを打ち明け
 続け・・そして、相談をし続けていました。
  その事実は、隠されていました・・が・・、
  また、彼女のこの悩みである「キリスト教の神の不存
 在」は、「彼女の死に至るまで」続きました。
  彼女は、死ぬまで、キリスト教の神は居ないと悩んで
 いました。
  このキリスト教の神が居ないという事実を、公表する
 事が・・彼女の希望であったのでしょう、このキリスト
 教に『不利な事実』『真実』が公表されました・・キリ
 スト教の神は居ない・・と・・、
  このキリスト教の神は居ない・・神の死は・・今、ア
 メリカに、「神の死の神学」という人々が居ます。
  この方たちは、キリスト教の『神の不存在を主張」し・・
 成熟した現代社会・世界の人々は・・、それで十分やっ
 て行けるのだと言っています。
  『古代に発生したキリスト教』・・、
  その様な時代の、古代人とは・・現代人は違うと主張
 する方たちです。
  そして、マザーテレサさんは思っていたと思います・・、
  「神が居ない」と言い続けて、公表に至ったことは・・、
 その行為が・・「人類に貢献しうること」・・と、そう
 考えられて居られたから・・公表がなされました。
  また、『キリスト教の神の実在性を主張するそのもの
 が、人類にとってよくないこと・・よくないもの』と・・、
  マザーテレサさんが、そう考えられているから・・こ
 の様な、行動が取られたのだと言えます。
  (参考)神の死の神学:ニーチェの言葉である「神は死
 んだ」は・・、
  1960年代になり、公民権運動が盛んな時代のアメリカ
 の神学者たちも使うようになった。
  アメリカの神学者たちは・・現代社会において神は・・、
 人間に・・『リアルな存在ではない』という意味で・・、
 「神は死んでしまった」という意味で用いる。
  1957年に、アメリカの神学者ゲイブリル・ヴァハニア
 ンは・・『神は死んだ』と題した著書を著した。
  ヴァニハンは、その中で・・無神論を、『アメリカの
 大衆の生き方である』と、述べている。
  アメリカ人の神学者・トマス・アルタイザーは・・、
 エモリー大学で教えている間に、『神は死んだか?』を
 出版する。
  また、アメリカの神学者のウィリアム・ハミルトンが、
 異なった立場から・・、
  1961年に、著書『キリスト教の新しい本質』で・・異
 なった視点の・・『神の死の神学』を展開した。
  そして、神が居ないと自覚する事で、人間の主体性が、
 そして、自律性が・・とりもどされ・・、
  前の時代の・・神に拘束された非人間性から・・脱却
 でき・・そして、人間らしさが取り戻せる・・と・・
          (参考:wikipedia)
.
1920年、南洋諸島のパラオは、日本の統治となった(~1945
 年)
  この頃の首都はコロール。
  パラオには、スペイン南洋庁が置かれていた。
  日本からの移住者も多かった。
  パラオは、スペイン→ドイツと統治がされて来た。
  しかし、パラオの方たちは、日本の統治時代を非常に
 懐かしみ、「日本の統治は良かった」と言う。
  パラオ共和国の国旗も、日本の国旗に似せている。
.
1932年2月、リットン報告書が出された。
  満州が、リットン報告書などでアメリカからの策動(
 さくどう、秘かに計略を巡らして行動すること)を受け
 ていた頃・・、
  この当時、日本国内には、ソ連から指令を受けた、コ
 ミンテルンの命令下にある共産主義者が大勢いた。
  いつでも日本国内で、国家転覆をしようという者たち
 だった。
  そして、その様な手が打たれている日本でもあった。
  いつ、その者たちの活動が活発化するかの可能性も高
 かった。
  実際、その様なソ連の指令を受けた日本人も加わって
 いた。
  尾崎秀美(ほつみ)がその一人で、ゾルゲと連絡を取
 り暗躍していた。
  (参考)尾崎秀美:日本の評論家、ジャーナリスト(
     朝日新聞記者)、共産主義者。
      近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論
     界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を
     持ち、日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(
     大東亜戦争)開戦直前まで、政治の最上層部・
     中枢と接触し、策動し、国政に影響を与えた。
  (参考)リヒャルト・ゾルゲ:ソビエト連邦のスパイ、
     1933年~1941年にかけてゾルゲ諜報団を組織し、
     日本で諜報活動を行ない、ソルゲ事件の首謀者
     だった。
      ゾルゲは、コミンテルン本部の指令で1933年
     9月に来日し、上海で旧知の尾崎らと接すること
     で軍、政府上層部から得た日独両国の機密情報
     をソ連に流したり、二・二六事件、三国同盟、
     関東軍特別大演習など日本の対ソ情報を入手し
     通諜していた。
      ドイツの新聞社特派員として駐日ドイツ大使
     の信任を得ていたゾルゲ(ソ連共産党第4本部
     所属)は、コミンテルンの命令を受けていた。
  (参考)日中戦争:実際は、アメリカが極秘に参戦し
     ていて、アメリカ大統領は「ボランティアだ」
     と言い逃れしたが、大統領署名の命令書が存在
     し、また、アメリカという国が膨大な米機を中
     国へ与え、パイロットも派遣していた・・日米
     中の戦争状態だった。
  その活動の一つが「日中戦争(実際は、日中米戦争)
 へ日本を導く」という活動だった。
  結局、実際に、日本は、日中米戦争へはまっていく。
  今・現在も、共産・中国(中共)の活動家が、日本で
 活動している。
  この当時の状況の様に・・、
  または、それ以上の人数の居る日本の状況となってい
 る。
  今、日本は、簡単に移民ができる様になっている。
  アメリカの圧力でなったのだが、日本は、今、「移民
 天国」の状態で、スパイ天国の様相となった。
  長野の冬季オリンピックの時、指令によって、長野に
 集まった共産圏・中国の活動家が、謀議し、手に手に種々
 な武器を持って暴れた。
  長野県のこの中国工作員の暴動行動は、怒号と騒乱状
 態に陥(おちい)った。
  これは国際問題の騒乱(共産中国とチベット国)であ
 ったため、日本の警察は、周りを取り囲み、手を出さな
 かった。
  この様にして、日本の国内においても、共産圏・中国
 の国家指令の活動が行なわれている。
  チベット国が、共産中国に蹂躙されていることを、日
 本国内で訴えようとした行動を・・中国の工作員・活動
 家が、武力行使して、そのチベット国の方々の行動を封
 じ込めようとした。
  共産圏・中国の本国から指令を受けた大勢の活動家に
 よる暴挙だった・・今、日本には、この様な輩が、うよ
 うよといる。
  普段は、普通に日本で生活している。
  あなたは、その中国活動家の普段の生活は、何ら違和
 感は持たないだろうが、いざとなるとこの長野の様な事
 を起こすのだ。
  普段は、「いい人だ」くらいに思っているがである。
  帰化して、それも本当に簡略化された手続きで(アメ
 リカの内政干渉でこうなった)簡単に日本人に帰化した
 元・共産圏・中国のこの様な活動家が・・、
  「普段の、いい人だ」の印象だけから、「この人たち
 は日本人になってくれたのに選挙権が無いのは、おかし
 い」となる・・外国人の選挙権問題が起きる。
  この行き過ぎた事例がドイツにある。
  ある自治体の地方自治権が奪われた。
  れっきとして「ドイツ人の票決の結果」と公表されて
 いるが、移民の自治体と化している。
  また、オーストラリアのタスマニア島(日本の佐渡島
 くらいの大きな島)が、正統な経済活動だと言われてい
 るが、共産圏・中国の手中に入った。
  (参考)2016年4月、オーストラリアのタスマニア州の
     村落・タラリアが中国に売却への動き
      2016年4月、ギリシャ最大の港を中国企業が爆
     買い、総支出額は約1850億円
      2015年10月、オーストラリアで、韓国1つ分に
     相当する面積を中国企業が爆買い
  今、日本は、盛んに北海道が中国に買われている。
  北海道経済が、潤っている(息が付ける)というが?・・
  こんな「たわごと」で済むのか??
.
1937年12月、この時、「南京事件が起きたという嘘」がデ
 ッチ上げられている。
  今、種々の新史料が公開され、この南京事件が、さら
 によく見えて来た。
  南京事件の実態は、当時の中国の様々な情報工作によ
 って作られていて、「真実」は隠蔽されている・・
  不当で不条理な罪が、日本に押し付けられている・・
  その様な『事実』も判明して来た。
  今・現代、中国が南京事件をとやかく言うのは「もは
 や陳腐化している」。
.
2005年、全世界の金融資産が、2005年には140兆ドル(約
 1万7200兆円=1京7200兆円)で世界GDPの316%とな
 った。
  これは、1980年の109%、1995年の218%から飛躍して
 増大した。
  アメリカは、1995年303%から2005年405%と急増した。
  資本市場の機能は、金融システム間のM&A金融など
 仲介業務に比重を置くようになった。
  そして、規制がさらに撤廃され(自由が良いのだの大
 合唱)、リスクを伴う冒険的な大規模投資も合法的に可
 能となった。
  国際証券資本市場における支配力も強大となった。
  アメリカ産業史上初の業界の枠を越え、且つ、国境を
 越える超大型合併の波は、ユーロ圏を巻き込み、さらに、
 第三世界ロシア、中国、ブラジルのBRICs諸国の巨
 大資本をも引き込み・・
  世界は、国境を越え、M&Aの壮大な展開という新し
 い経験の試みの場と化した。
  故に、ネオリベラル・グローバリゼーションのダイナ
 ミックな主役は、巨大M&Aを業界の垣根と国境を越え
 て、グローバル企業帝国を築くビックビジネスの様相。
  (参考)ネオリベラル・グローバリゼーションにおけ
     るアメリカ「帝国」の覇権(上)、奥村皓一 著
      抄録:21世紀に入り・・、
     「冷戦」が終わって・・10年以上過ぎたという
     のに・・「帝国」「帝国主義」が、世界人類の
     当面、最大課題となり始めた。
      ソ連邦が崩壊し・・、
      旧社会主義陣営の国々が、資本主義市場経済
     を受け入れ始める一方で、資本主義大国間のグ
     ローバル競争が激化し始めた。
      加えて中国、ロシア、ブラジル、インドとい
     った新興の市場経済大国は、興隆をはたすなか
     で経済超大国をも目指し始めた。
      唯一、超大国のアメリカは、経済力の相対的
     な地盤沈下のなか、圧倒的な軍事力を活用して、
     全世界を制覇し・・、
      米国のビッグビジネス(メジャーズ)を、スー
     パーメジャーズに編成して、先進国世界のみな
     らず、GAPと呼ばれる第三世界、開発途上諸
     国、旧社会主義国のすべてをその勢力下に組み
     込もうとするようになった。
      米国国際石油資本をはじめとする米国の多国
     籍企業は・・、
      グローバルに展開できるスーパー・メジャー
     として、全地球的に展開し始めた。
      国際競争力が相対低下して・・アメリカのビ
     ッグビジネスは、アメリカの軍事力を活用した
     セオドア・ルーズベルト型の「軍事帝国主義」
     を背景に「自由とデモクラシー」の旗を掲げた
     ウィルソン型の「理想主義的帝国主義」を前面
     に全地球的展開を開始した。
      その典型は、ネオコンサーバティブの主導す
     るイラク単独進攻と占領である。
      世界で、石油埋蔵量第2位の、イラクの石油開
     発、生産を独り占めにし・・、
      イラクの「民主化」による親米政権の樹立と
     イラクの軍事基地化によって、中東と北アフリ
     カ、中央アジア(中東)の油田地帯に、アメリカ
     の石油秩序を確立しようとしている。
      さらに、アメリカは、南西アフリカ、南アジ
     ア、ラテンアメリカへと、「帝国」を広げよう
     としており、米国の軍事関与は、百数カ国に及
     び、冷戦下では実現できなかった戦線の拡張に
     ある。
      だが、資本展開の膨張に、米軍事力は無限に
     応ずることはできず、米国の単独主義の行きつ
     くところは自己破産・・軌道修正を迫られる。
.
2011年7月28日、高倉蒼甫(たかおかそうすけ)というタレ
 ントが、フジテレビで、「フジテレビは韓国のテレビ局
 か?」と発言したら、事務所(スターダストプロモーシ
 ョン)が解雇した。
  (cf)高岡奏輔(たかおかそうすけ)ウィキペディ
      ア
  (cf)2011年のフジテレビ騒動、高岡蒼甫のツイー
      ト:ウィキペディア
.
2018年、現在、世界全体で・・2800万人を数える華僑。
  その90%が、アジアに居る。
  インドネシア650万人(23%)
  タイ・・・・610万人(22%)
  マレーシア・520万人(19%)
  シンガポール209万人( 7%)
  フィリピン・120万人( 4%)
  ベトナム・・100万人( 4%)
  他・・・・・591万人(21%)
  輩出するところは・・
  広東省・・ 1500万人(54%)
  福建省・・・700万人(25%)
  海南省・・・170万人( 6%)
  他・・・・・430万人(15%)
  福建省は、僑郷(華僑のふるさと)として、広東省に
 次いで多くの華僑を送り出している。
  強力な経済力とネットワークで知られる華僑。
  アヘン戦争から逃れ最高潮となる・・100万人に達した。
  海外に中華街ができると、そこが足場にできるので、
 急増した。
  中国政府の圧政に農民が反乱(太平天国の乱など)を
 起こすとともに海外へ、その様な中国から逃れ出ようと
 農民も増加した。
  太平天国の乱に敗れた人々も・・海外へ逃れた。
  1933年には、800万人となった・・この内訳に於いて、
 福建省出身はその40%(320万人)となった。
  帰国して中国ナショナリズムを高揚させたりした。
  華僑の模範、そして、民族の輝きだとして毛沢東は、
 陳嘉庚を賞賛した・・
  彼は、シンガポール(マレーシア)でゴム大王として成
 功した。
  華僑は、常に、新天地の政府に対して用心深かった。
  そして、沖縄県は、2016年(平成28年)、沖縄県と福
 建省の友好親善に貢献するためだとして、奨学金を支給
 する奨学生を福建省へ送ることにした・・
  学費や宿泊費、そして、食費は・・中国側が負担する・・
 国際交流・協力の推進だとする美しい名目がある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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by suba28 | 2018-10-30 04:41 | 皆様とともに 幸せになりたい


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