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(増補版)595E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年5月)

題:(増補版)595E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年3月29日、日本鉄道本社汽車課直轄の工場を大宮に
  設け、12月10日、操業開始した。
  (1896年9月1日、汽車課から分離し、大宮工場となる)

1894年3月、村井兄弟商会が、両切り紙巻煙草「ヒーロー」
 を発売した。
  紙巻きたばこの起源は、1853年~1856年のクリミア戦
 争の戦地で、パイプを失った兵士が、火薬を包むための
 紙で、刻みタバコ葉を巻いて吸ったのが始まりと言われ
 ている。
  しかし、コロンブス以前に、アメリカ・インディアン
 は、乾燥させたタバコの葉を刻んで植物などで巻いて吸
 うことを行っていた。
  1700年には、ラテンアメリカからスペインに向けて紙
 巻たばこ用の紙が輸出されている。
  クリミア戦争以前にも、特に、スペインでは紙巻たば
 こが吸われていた。
  紙巻たばこが、主流となったのは、ヨーロッパや日本・
 中国では第一次大戦後で、アメリカでは第二次大戦後。
  また、一般大衆を欺いている行為が・・ライトたばこ
 など、低タールをうたう製品は「ごまかし」がある・・
 大衆を欺いている。
  欧州では、「ライト」「低タール」といった用語の使
 用を禁止しているくらいである・・
  これは、実際には、減少したニコチン摂取量を補うた
 めに喫煙するたばこの本数が増えたり、より深く吸い込
 むことに、はっきりつながっていて、肺腺がんリスクを
 増大させている。
  マイルドやライトでも、吸い方によって吸い込むニコ
 チン量が急増している。
  2009年、アメリカに、タバコに起因する死亡は、44万
 3,000人であり、アルコールは9万8,334人というデーター
 がある。
  また、たばこを吸う人のうち、約半数は、たばこに関
 連した病気で死亡しているとする調査報告があり、
  たばこを吸う人は、そうでない人に比べて寿命が約14
 年短くなるという指摘もある。

1894年3月、朝鮮国内で東学党の乱。

1894年4月2日、日英通商航海条約交渉が開始された。
  この日、ロンドンで、第1回、日英条約改正委員会が
 開かれた。
  調印は、1894年7月16日・・、
  治外法権が撤廃された。
  これは、イギリスが、ロシア帝国の南下に対して、力
 の増した日本に期待した結果だった。
  内容は、内地開放を代償として、領事裁判権を撤廃さ
 せ、関税自主権も部分的に回復させた。
  また、片務的であった最恵国待遇を相互的だとした。
  この条約の調印の時、イギリス外相のキンバーリー伯
 は、日本の青木駐英公使に対して・・、
  「日英間に対等条約が成立したことは、日本の国際的
 地位を向上させるうえで清国の何万の軍を撃破したこと
 よりも重大なことだろう」・・と、日清戦争が起きると
 いう状況を掴(つか)んだ上で語っている。
  また、独り立ちした日本を承認したという形となり・・
  以降、この年の1894年から翌年の1895年にかけて、同
 内容の条約を、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシア、
 オランダ、イタリアなど14カ国に調印させた。
  これによって、日本は、法権のうえで、欧米列国と対
 等の関係に入った。

1894年4月8日、ブルックナーの交響曲第5番が初演された。
  グラーツオペラ座(Grazer Oper)

1894年4月10日、愛媛の道後温泉に、道後温泉本館が完成
 した。  
  道後温泉本館は、愛媛県松山市の道後温泉の中心にあ
 る温泉共同浴場で・・別名:愛称が「坊っちゃん湯」。
  1890年、道後湯之町の初代町長として伊佐庭如矢(い
   さにわゆきや)が就任し・・、
    この頃、町の最大の懸案は、老朽化していた道後
   温泉の改築であった。
    伊佐庭は、町長就任に際して、自らは無給とし、
   その給料分を温泉の改築費用に充てることとした。
    総工費は13万5千円。
    当時の小学校教員の初任給が8円といわれた時代で、
   あまりに膨大な予算に町民は驚き、町の財政が傾き
   かねない無謀な投資だと非難が渦巻いた。
    反対運動は激しさを増し、伊佐庭が命の危険を感
   じるほどだったが、伊佐庭は決定を貫き通した。
    棟梁は、城大工の坂本又八郎を起用し、姿を現し
   た木造三層楼は、当時でも大変珍しがられた。
    伊佐庭は、さらに道後への鉄道の引き込みも企図
   し、道後鉄道株式会社を設立した。
    一番町~道後、道後~三津口間に軽便鉄道を走ら
   せ、客を温泉へ運んだ。
    関西からの航路が開かれるなど、道後温泉が発展
   して行った。
  1895年、本館完成の翌年のこの年、文豪・夏目漱石が、
   松山中学の英語教師として赴任した。
    漱石は、その建築に感嘆し、手紙や、後の小説『
   坊つちやん』の中で「温泉だけは立派なものだ」と
   絶賛し、実際に、頻繁に通った。
    手紙では、8銭の入浴料で、「湯に入れば頭まで石
   鹸で洗って」もらえ、3階に上れば「茶を飲み、菓子
   を食う」ことができた・・と・・
    小説では「住田」の温泉として登場する。
    これにあやかって、「坊っちゃん湯」という。
  1994年、国の重要文化財(文化施設)に指定された。
  2009年3月、ミシュランガイド(観光地)日本編におい
   て2つ星に選定された。
  2007年3月、美しい日本の歴史的風土100選に、松山城
   と共に選定された。
  2009年、経済産業省「近代化産業遺産」に認定された。

1894年4月13日、移民保護規則が公布された。
  日本人の海外渡航は、明治維新(1868年)とともに始
 まった。
  今までにない変わりゆく改革の中で、急速な近代化と
 社会変化が起きた。
  農業形態も、経済構造が変わっていくなかの改革で、
 農村部に余剰労働力が生まれた。
  国内や海外へ移動する出稼ぎ労働者が現われた。
  1868年、横浜在住のアメリカ商人ユージン・バンリー
 ドは、150人の日本人労働者をハワイの砂糖プランテーシ
 ョンへ送った。
  また、40人をグアムへ送った。
  この労働者は、「元年者」として知られている。
  日本政府の許可や旅券を受けることなく日本を出国し
 た。
  近代日本の最初の海外移民だった。
  しかし、この「元年者」は、渡航地で奴隷にも等しい
 酷(ひど)い取扱を受けた。
  明治政府が、救出に乗り出さなければならないほどだ
 った。
  国民を大切にする日本政府は、この「元年者」の失敗
 で、この後、20年間近く、日本人の海外移住を許さなか
 った。
  かわりに、北海道開拓を推進した。
  そして、17年後の1885年、ハワイ「官約移民」で再開
 された。
  これは、ハワイ王国の依頼でもあった。
  アメリカによるハワイ乗っ取りへの対応・・アメリカ
 の行動を抑えたいというハワイ王国の日本に頼った面も
 あった。
  日本人の本格的な海外移住が始まった。
  「官約移民」制度は、日本と独立国であるハワイ王国
 の条約に則った正式な正規な行動であった。
  日本人労働者を3年契約で砂糖プランテーションへ送
 るというものだった。
  1894年までの9年間に、総計2万9千人ほどの日本人が、
 この制度によってハワイへ渡航した。
  また、この時、数千人の日本人が、太平洋上の木曜島
 (イギリス領)、ニューカレドニア、オーストラリア、
 フィージーなどへ渡った。
  この頃の渡航者のほとんどが、海外への永住をめざし
 た移民ではなく、数年間の契約労働を目的にしていた出
 稼ぎだった。
  そして、1893年、外務省関係者、知識人、ジャーナリ
 ストなどが集まり「殖民協会」を設立された。
  これは、日本も、西洋諸国の様に、国外市場を拡大し、
 海外へ向けて発展しなければならないとしていた。
  この殖民計画事業は、イギリスのオーストラリア移住
 (侵略)などのようには行かず・・失敗した。
  1899年、南アメリカのペルーへ、最初の契約労働者の
 渡航が始まった。
  そして、ラテンアメリカへの日本人渡航は盛んになっ
 て行った。

1894年4月14日、アメリカのニューヨークで、キネトスコー
 プが公開された。  
  キネトスコープは、1891年、トーマス・エジソンによ
 って発明された(1888年説あり)
  撮影機の方は、キネトグラフといい、キネトスコープ
 より先に、エジソンが発明した。
  1893年、シカゴ万国博覧会に出展された。
  1894年4月14日に、ニューヨークのブロードウェイ1155
   番地に、世界初の映画館(キネトスコープ・パーラ
   ー)が設置された。
    キネトスコープは世界的に大ヒットし、その後、
   2年でアメリカのほとんどの街にキネトスコープ・パ
   ーラーが設置された。
    これは、スクリーンに映写されるのではなく、箱
   の中をのぞき込む形だった。
    当時、「ピープショー」とも呼ばれ、ピープ(peep)
   とは、のぞくという意味。
  1895年、一度に多くの人が鑑賞できるスクリーンに投
   影される形の映画(シネマ)が、リュミエール兄弟
   によって発明された(シネマトグラフ)
  1896年11月25日~1896年12月1日、日本で、エジソンが
   発明したキネトスコープが、神戸の神港倶楽部で初
   上映された。
  1897年、リュミエールが発明したスクリーン式の「シ
   ネマトグラフ」が、大阪の南地演舞場や京都で披露
   された。

1894年4月16日、東海道線が、西ノ宮駅~三ノ宮駅間で複線
 開通した。

1894年4月、甲午(こうご)農民戦争
  朝鮮の全羅道(チュルラド)一帯の農民が、東学教徒
 とともに蜂起した。
  これをきっかけに、各地で農民蜂起があいつぎ、東学・
 農民軍は、随所で政府軍を撃破した。
  全羅道と、その周辺の官庁をつぎつぎと占領し、5月末
 には、全洲(チョンジュ)を制圧した。
  朝鮮李朝政府は、清に軍の派遣を要請する一方で、東
 学農民軍の指導者である全琫準(ジョン・ボンジュン)
 と交渉し、両者は和解した・・が・・

1894年4月、北越鉄道株式会社創立願を逓信大臣に提出した。
  (7月26日仮免状下付)

1894年5月1日、中国鉄道発起人が、岡山駅から津山駅・勝
 山駅・米子駅を経て、境駅に達する鉄道建設を出願した。
  (1894年7月14日、線路を岡山駅~米子駅間に改める)
  (1896年4月30日、免許状下付、のち免許線路の短縮を
  申請し、津山駅以北取消した)

1894年5月4日、朝鮮で、農民軍が白山に集結して、甲午農
 民戦争が再び開始された。

1894年5月7日、文官高等試験細則を制定した(閣令第2号)

1894年5月12日、第6特別議会が召集された(開会、15日)

1894年5月14日、イギリスでブラックプールタワーが公開さ
 れた。
  ブラックプールタワーは、ブラックプールにある塔で、
 エッフェル塔に触発されて建設され、この日に開業した。
  高さ:158メートル
  エッフェル塔:324メートル
  東京タワー:332.6メートル

1894年5月15日、第六特別議会が開会された。
  第六特別議会は、1894年5月15日開会~1894年6月2日解
 散で短い議会だった。
  景気は良くなったが、対外硬で激しく対立した。
・伊藤内閣第六議会解散(氷川清話)
  (参考)対外硬:たいがいこう、
      日清戦争直前、反政府派が、国際協調政策を
     とる政府の外交を攻撃するために唱えた標語。
      ロシアの東アジア進出により緊迫した国際情
     勢であった。
      これに対し、新聞「日本」をはじめとする民
     友社の「国民新聞」に至るまで反政府側の日本
     主義派・・、
      そして、自由党、改進党などの民党連合は、
     政府外交を批判し、また、政費節減・民力休養
     路線と批判した。
      それは不平等条約によって侵されている国家
     主権の回復と、積極的な対外進出を主張してい
     た。
      また、それは、対等条約を実現するためには
     現行条約を励行して、条約の規定のない所で外
     国人を厳しく取り締まり、彼らに不利益を与え、
      対等条約の交渉に列強が応じない場合は、条
     約破棄もせよというものだった。
  この第六回帝国議会で、貴族院議員の近衛篤麿・小沢
 武雄は、議員の二条基弘ほか50人の賛成を得て、「北海
 道ニ鉄道ヲ敷設シ及港湾ヲ修築スルノ建議案」を提出し
 た(建設線路は、函館・小樽間、空知太、網走間、旭川・
 宗谷間)
.
  (今日の言葉)
.
  題:イタリアは敗戦国だ・・しかし、アメリカ・イギリスは戦勝国側にした。
    日本やドイツは、今だに、国連憲章の敵国条項に落としめられている。
.
紀元前160万年、人類の先祖が、この頃、草原の生活で洗練
 された歩き方を始めた。
 160万年前のホモエレクトスだった・・、
 画期的な進化が現れたのだった・・、
 垂直に立つことによって脳は進化し、重く、大きく・・
 言葉の話せる脳への進化だった・・情報伝達力の向上で
 あった。
 アファール猿人の場合は、喉の奥が広くなく、まだ、
 音の種類は狭かった・・が・・、
 まっすぐ立つことによって、喉の奥に空間が出来て・・、
 複雑な音が出せるようになった。
 この脳は、足や手が発達した後に与えられたものだっ
 た・・
 木から降りて、猿と違って、二本の足で立って歩く生
 活になって・・貴方の祖先も・・ここから・・アダムと
 イブもここから・・
  キリスト教のアダムとイブの話の前に、これが無いと
 始まりません・・そうでなければいけません・・その様
 な進化があったのでした・・『進化する力を持つ人間』
 が存在していた・・
  思考を固定化しては、発展はありません・・
  キリスト教は、この最初から間違っていました・・
       ・
       ・
紀元前2万年、フランスの遺跡で、人間が集団で、馬を崖下
 に落とし、狩りをしていた状況が発見された。
 集団で複雑な役割分担をし、言葉で情報をやり取りし
 ・・人間は、さらに、あらゆる面で進化して行きました。
  脳が大きくなった人間・・さらに、この様な複雑な方
 法も手に入れた・・そして、コンピューターにたどり着
 く・・
       ・
       ・
紀元前206年、中国の漢の王朝に、前漢と後漢がある。
  この年、秦が討たれ・・前漢への時代が始まる。
  やっと、漢民族が、歴史に登場・・現れました・・
  中国初の統一王朝だった秦王朝の華夏族・・この秦王
 朝が、この年・紀元前206年、滅亡した。
  (参考)華夏族:かかぞく、漢の時代以前に、中原の
     黄河流域に暮らしていた部族。
  この後、中国は、この秦朝・華夏族を討った漢民族の
 各軍の将帥による群雄割拠の時代となる・・
  漢中、及び、巴蜀(はしょく、現在の四川省)に封じ
 られていた劉邦(りゅうほう、前漢を興した人)が・・、
  紀元前202年に、垓下の戦いで、項羽を討って、中国を
 再統一した。
  (参考)垓下の戦い:がいかのたたかい、中国、漢の
     劉邦が、その勝利を確定的にした戦いで・・
      垓下(現在の安徽省宿州市など)を中心に行
     われた。
      しかし、この戦いが、実際あったのかどうか
     に対して、歴史家から疑問が出されている。
  この劉邦が開いた前漢と、いったん滅亡したのち劉秀
 によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年と
 なる。
  今・現在、この漢民族が、チベット・ウィグル・内モ
 ンゴルを完全に漢民族国家にしようと暗躍している。
  また、南シナ海や尖閣諸島、および、沖縄などのその
 他の諸地域をも欲しいと狙っている。
  そして、この中国が使う手が冊封体制(さくほうたい
 せい)・・
  現在、この冊封体制下の国に北朝鮮・韓国が入ってい
 る。
  (参考)冊封体制:さくほうたいせい、中国の皇帝が、
     朝貢をして来た周辺諸国の君主へ、官号・爵位
     などを与えて、君臣関係を結んで、彼らにその
     統治を認める(冊封)・・、
      豊臣秀吉が、必死に、徳川家康を大阪城に来
     させようとしたことと同じ・・
      そして、この冊封は、宗主国対藩属国という
     従属的関係におくことをさす。
      朝貢とは、藩属国の使節が、漢皇帝に朝見し
     て土産の産物を献上することをいう。
      これに対し、皇帝は、回賜として、貢物以上
     の返礼物を与えて皇帝の威徳を示した。
      その状況から、朝貢は、君臣関係を表す政治
     的儀礼であった。
      歴史的に、この漢代における外臣の制度がそ
     の始まりと言われている。
      例えば、朝鮮半島北方に成立した渤海(ぼっか
     い)などは、中国・唐と冊封関係を結んだので、
     東アジアの国際情勢は、唐を中心とした冊封体
     制のなかに組み込まれた状態だったが・・、
      日本は、この時、この体制の外にあって・・
     中国とは対等の隣国関係を保持したなどの経緯
     が歴史上にある。
.
2世紀頃、日本で、一番古い『漢字』の記載事例・・
  日本で、これまで知られている漢字で、最も古いもの
 は、2世紀ごろの土器に書かれたもの・・、
  そして、中国の歴史書に、3世紀のころ、日本と中国
 との間で、手紙のやり取りがあったとする記述がある。
  優秀な日本人は、これを発展させて・・、平安時代に、
 中国にない表音文字の平仮名(ひらがな)や片仮名を発
 明した。
  9世紀前半に入ると、漢字と片仮名が混じった文章例が
 みられ・・さらに発展させた表記法を行なった・・
  表意文字と表音文字の混合させた・・世界にはこの様
 な事例なく、日本唯一の優秀な表記法。
  また、10世紀から、平仮名は、漢字と並ぶ文字として
 認められ、ひらがなで書かれた豊かな文学が花開いた・・
  豊かな芸術が花開き・・世界に誇る最初の長編小説や
 日記文学が書かれ、他国の追随を許さない『孤高の光』
 の輝きがあった・・それを、優秀な日本の女性方が成し
 遂げた・・
  この様な素晴らしさを理解の出来ない、戦後の進駐軍
 のアメリカ司令部のマッカーサーは、日本人を馬鹿にし
 て、こんなに多くの漢字を覚えている訳はないと、日本
 人の識字率テストをしたりした、そして、日本を英語化
 しようとした・・
  日本は、中国から漢字を伝えられたが、日本は、更な
 る、豊かな表現手段として平仮名・片仮名を発明し、表
 音文字・表意文字を駆使して美しく豊かな日本文化を発
 展をさせて行った・・
  今・現在でも、ノーベル文学賞を貰うべき方々は、数
 え切れないほど居られるが・・キリスト教に偏するノー
 ベル委員会が授与しないだけ(キリスト教国に偏る)・・
       ・
       ・
980年、キエフ公国は、黒海の北方のウクライナ、ベラルー
 シ、ロシアの西部を領する地であるが・・、
  この国のウラジミール1世(在位980年~1015年)の意
 向によって、キリスト教東方正教会が広まった。
  ウラジミール1世は、ユダヤ教、イスラム教、キリスト
 教を見比べた上で、キリスト教東方正教会を選んだ。
  それは、まったく個人的な好みの「卑劣な選択」だっ
 た。
  彼は、4人までの妻が持てるイスラム教に惹(ひ)か
 れた。
  しかし、禁酒の戒律が嫌だった・・それが、イスラム
 教にあったため、東方正教会のキリスト教を選んだ・・
 酒が飲みたかった・・
  これによって、東方正教会がスラブ人の間に広まった。
  キエフ公国は、バザール・ハン国を滅ぼした後、モス
 クワ近くまで支配した。
  しかし、13世紀半ばに、この国は、モンゴル人によっ
 て滅ぼされた。
.
1008年、日本の才女・紫式部が、源氏物語の執筆を始めた。
  古い時代から女性に優しかった日本・・男女平等をは
 じめ、平等の国・日本の才女・紫式部・・、
  この日本の女性が、世界で最初の長編文学を著わした。
  紫式部は、幼いころから聡明な女性だった。
  彼女の父も、式部省に勤める学者として名高かった。
  この父親が、彼女の弟に漢文を教えていると、そばで
 聞いていた紫式部の方が先に覚えてしまったという話が
 伝わっている。
  20歳代の頃・・紫式部は、国司として赴任する父親に
 従って越前(福井県)に赴(おもむ)いた。
  彼女は、藤原宣孝(のぶたか)から求婚されていた。
  しかし、この宣孝は遊び者であった。
  それで、紫式部は、返事を先延ばしにしていた。
  その様なところだったので、この事もあって、紫式部
 は、京を離れたのだった。
  越前では、父の秘書として、才能を発揮し、その役割
 を果たした・・そして、広い知識も収めた。
  結局、紫式部は、藤原宣孝と京で結ばれたが、夫に先
 立たれた。
  その後、一条天皇の后(きさき)の彰子(しょうし、
 藤原道長の娘)に仕えた。
  才女の集まる宮廷は、優雅で、知的な社交の場だった。
  優秀な才媛らと、その才能を競った。
  そのような環境から、世界に誇る優れた文学が生み出
 された。
  紫式部日記もこの環境を伝える文学となっている。
  宮仕えを終えた紫式部は、1008年頃から、不朽の名作
 「源氏物語」の執筆にとりかかった。
  全54巻にもおよぶ長編小説だった。
  現代に至っても、なお燦然と輝き続ける人類の宝とな
 っている。
.
1297年、ベネチア共和国の第49代元首のピエトロ・グラデ
 ニーゴは、政治改革案を提案した。
  ベネチアの政治は、非常に民主的な政治を目指してい
 た。
  ベネチアの考え方は・・「この世の仕組みは、あくま
 でこの世の民が決める・・(キリスト教の神ではない・・
 また、その代理人であるキリスト教聖職者でもない)」・・
 とした。
  故に、ベネチアは、力を誇示するローマ法王の「支配
 を及ぼそうとする権力」と対峙した。
  ローマ法王(教皇)が嘆いたほどだった・・「教皇で
 ある自分は、ベネチアだけは違う(支配は出来ない)」・・
 と・・、
  べネツアは、キリスト教司祭でさえベネチアの民・住
 民が選び、ローマ法王の権力を排除した。
  ベネチアの政治体制は、ローマ帝国の長さと同じ500年
 間も続いた。
  ベネチアの為政者の選出も神経を使っていた。
  まず、複雑な手順で、その「選出のための有権者」が
 決められた。
  それから、その有権者らの投票で、元首(ドージェ)
 が選出された。
  そして、さらに、専制的にならないように、元首が、
 補佐官の数名と相談して事を為すというシステムになっ
 ていた。
  それでも・・同じ家から二代目、三代目と続かないよ
 うに・・、
  そして、いつの間にか「君主制に転じていた」なんて
 ならないように注意していた。
  今、世の中が進んでいる21世紀だというのに、独裁的
 な国家・・タミの声を聞かない「中国」や「北朝鮮」が
 存在し、その独裁者が、大量殺戮兵器の核ミサイルを世
 界へ向けている。
  このベネチアの元首・グラデニーゴが、1297年に、政
 治改革案を提案したのも、民主政が形骸化して、ダンド
 ロ家やティエポロ家、モロシーニ家といった名門から元
 首が選ばれることが多くなり、金銭が絡む不正や衆愚政
 治的な動きによって政治が左右されることが多くなった
 からだった。
  しかし、この時、グラデニーゴの提案が受け入れられ
 て、改革が行われたと思ったが・・しかし・・、
  中産階級が大幅な増員という形となって、発言力が増
 していた。
  確かに、上流階層の発言力は抑えられたが、また、以
 前から発言力のない下層民衆と共に、この発言を抑えら
 れた・・
  そのため、上流階層と下層民衆の双方から、グラデニ
 ーゴは攻められた。
  また、ローマ法王もベネチアの台頭を快(こころよ)
 く思っていなかったため・・奸計(かんけい、悪意ある
 はかりごと)を巡らせた・・
  ローマ法王は、反対派と共に、グラデニーゴの失脚を
 画策した・・
  よく歴史上で、政治に首を出すキリスト教法王だった。
  1310年6月15日に、クーデターが勃発した。
  だが、グラデニーゴの対応によって、このクーデター
 は失敗に終わった。
  そして、政治改革を行なうのであるが、グラデニーゴ
 は、何故か?、この翌年、急死する・・毒殺?・・
  反対派の毒殺説が存在する。
  ピエトロ・グラデニーゴ:1252年生まれで、1311年に
 59歳で没した・・、
  元首としての在任は、1289年(37歳)から1311年(59
 歳)の22年間だった。
.
15世紀、この頃になると、スラブ人のモスクワ大公国の勢
 力が拡大し目立った。
  キリスト教東方正教会は、キリスト教の三大分流の一
 つだが・・、
  1054年、東ローマ帝国圏のコンスタンティノポリスと
 ローマの総主教座が、東西に分裂し・・、
  以後、西方のローマ‐カトリック教会に対して、正(
 オーソドックス、正統だの意味)教会として発展した。
  15世紀頃になると、ギリシャ正教会が、オスマン帝国
 の支配を受けるようになり・・主流が、ロシア正教会
 (ハリストス正教会)に移った。
  モスクワ大公国のイヴァン3世(在位1462年~1505年)
 は、ロシアをほぼ統一させ、ビザンツ帝国の最後の皇帝
 の姪を妻に迎えた・・、
  この後、ロシア人が、スラブ系の諸勢力の中心となっ
 て、キリスト教の東方正教会の主導権を握った。
  そして、20世紀になって、その多くが・・共産圏へ入
 った。
.
1637年、哲学者・デカルトの最初の著書「方法序説」が書
 かれた。
  この中で、デカルトは、キリスト教のイエズス会のラ・
 フレーシュ学院で学んでいたが・・キリスト教の数々の
 論理矛盾に対し・・そして、これを、伝統的に受け入れ
 ているだけの学問に対し・・批判した。
  当然、その結論は・・そこには、確実なものは「ほと
 んど見当たらない」と・・、
  最新の科学にも通じていて・・「このデカルトやパス
 カル」は、その合理主義を取った。
  そして、科学的思考も重んじた・・非科学的な論理矛
 盾だらけのキリスト教を嫌悪した。
  デカルト等は、「人間の理性は、非合理なものを断ち
 切る知恵を持つ」・・と説いた。
  そして、絶対王政の下で、「キリスト教会が定めた戒
 律」より・・「個々人の理性による判断」の方が確かだ
 ・・と・・
  そして、その思考法を重んじる近代哲学が広まって行
 った。
  近代哲学は、科学的根拠のないキリスト教の宗教行事
 も・・、
  イエスやマリヤの像を拝(おが)むなどの現世利益を
 求めるキリスト教の非合理なすべての事々を、当然、指
 摘した。
  「誰が救われ、誰が救われないかなど、あらかじめキ
 リスト教の神(主)によって決められている」という陳
 腐さなどを指摘した。
  同時に、キリスト教によって権威づけられた国王の統
 治に対する疑問へも気付かされる。
  また、権威づけられた国王・諸侯側も、キリスト教側
 へ種々の利便を与えた。
  デカルト派の近代哲学者は、「人間が理性を持って判
 断したことに『誤りはない』」と断言した。
  ここから、「より多くの人々が理性的判断を下す」と
 いう『民主主義の望ましさが認識されて行った』。
  民主主義の目覚め・・
  そして、「国王は、キリスト教の神(主)から授けら
 れたものであるから、国王は思いのままの政治を行なう
 ことが出来る」という『王権神授説』は、『否定されて
 行った』・・キリスト教の虚構は崩れて行った・・
.
1918年11月11日、第一次世界大戦が終結した。
  ヨーロッパ諸国やアメリカは、あれほど強烈に「植民
 地の収奪をしておきながら、その植民地諸国に対して、
 謝罪など一度もしていない」・・、
  朝鮮は、中国に冊封されていて、なんだかんだと中国・
 清朝の翼下に入りたがっていた。
  強いものに付くという状況だった。
  1894年3月29日に起きた甲午農民戦争の朝鮮国内の反乱
 が抑えきれないと見ると、「中国・清の出兵を要請し、
 助けを求める」というような李氏朝鮮の状況だった。
  日本が、力を付けて、中国・清と対等に行動できるよ
 うになると、朝鮮の態度も変わった。
  そして、日清戦争に日本が勝利すると、朝鮮は清から
 独立することが出来た。
  それとともに、日本の翼下に入って来た。
  日本と朝鮮・・日朝はこの様な関係にあった。
  誠実な日本は、朝鮮の国づくりを一生懸命に行なった。
  他国がしない様な投資を、日本は、一生懸命、朝鮮に
 した。
  しかし、時を経て、時代が変わると、朝鮮は、日本が
 『植民地支配をした』と言い出した。
  日本へ、その謝罪の要求さえもした。
  「もう二度と、この様な謝罪要求などしないから」と
 いう言葉に引っ掛かって、ならば・・と、友好のためと、
 日本が謝罪をすると・・、
  その後に、その様な経緯は捨て去って、その後、「日
 本が謝罪した」と世界に喧伝した。
  ヨーロッパ諸国やアメリカなどより、日本は、朝鮮の
 国造りに貢献しているという日本に対して・・、
  二度と謝罪要求しないという前言はどこ吹く風と、何
 度も謝罪を要求するという態度をとった。
  ヨーロッパ諸国やアメリカは、植民地に強引に自国の
 法律や習俗までも押し付け、植民地収奪をするという事
 までしていた。
  キリスト教の自国の宗教でさえ押し付けた。
  ヨーロッパ諸国やアメリカの強国の植民地へのあくな
 き要求・欲望は極まっていた。
  世界大戦まで引き起こした。
  (第一次世界大戦では、オスマントルコの領有した中
 近東の広大な地域を、イギリスやフランスの勢力下に入
 れた)
  日本の対応は、善意に満ちていた。
  その何よりものその証拠が、朝鮮の人口が3倍にもな
 った。
  衛生状態も、見違えるほど向上した。
  日本と同等、または、それ以上の教育の充実にも、日
 本は努力した。
  産業も起こし、鉄道も朝鮮じゅうにくまなく敷設した。
  ・・など、その例は、枚挙にいとまがない。
  朝鮮からの感謝の言葉もない。
  この貢献の事実は、朝鮮は、認識し、認めよ。
  日本の国民の資金・税金が投入されて、なされたこと
 なのだ。
  また、因みに、第一次世界大戦の勝利側は、イギリス
 帝国、フランス共和国などの連合国側で・・
  一方、敗戦国側の中央同盟国側には、ドイツ帝国、オ
 ーストリア=ハンガリー帝国のほか、オスマン帝国が居
 た。
  このオスマン帝国の中近東の広大な領土が、イギリス・
 フランスの勢力下に入り、この後、色々な問題を引き起
 こす。
.
1944年8月、国際連合憲章が、アメリカ合衆国、イギリス、
 ソビエト連邦、中華民国の代表がワシントンD.C.郊外の
 ダンバートン・オークスで会議を開き(ダンバートン・
 オークス会議)、憲章の原案となる「一般的国際機構設
 立に関する提案」を作成した(~1944年10月)
  そして、1945年6月26日、サンフランシスコ会議におい
 て、51ヶ国により署名された。
  そして、この国際連合憲章の第53条第1項後段(安保理
 の許可の例外規定)は、「第二次世界大戦中に連合国の
 敵国だった国」が、戦争により確定した事項を無効に、
 または排除した場合、国際連合加盟国や地域安全保障機
 構は安保理の許可がなくとも、当該国に対して『軍事的
 制裁を課すことが容認』され、この行為は『制止できな
 い』としている。
  また、敵国の侵略政策の再現に備える地域的取極がな
 されている場合も、安保理の許可がなくとも『敵国に対
 して軍事的制裁を課すことができる』としている・・
  そして、馬鹿らしくも、戦後、70年以上も経た今でも、
 『有効だ』とされている・・「時代遅れの国連憲章」と
 なっている。
.
1945年10月24日、国際連合が活動を開始した。
  国際連合憲章の発効に伴って、国際連合が発足した。
  本部は、アメリカのニューヨーク市のマンハッタンに
 ある。
  韓国は、日韓併合で、第二次世界大戦を、「れっきと
 日本と共に戦った」のに、中国の上海か?どこか?に居
 た日本と対決していた小さいわずかなグループを引き合
 いに出して、都合よく・・「そのグループの後を引き継
 いだ」という言い方を言い出した。
  『だから、韓国は戦勝国だ』という卑劣な言い方を言
 い出した。
  日本にも、日本の敗戦を最初から予測し、確信してい
 た人は多くいた。
  つまり、日本国政府の意思と一致しない人々は多く居
 た。
  日本には、だから・・「その人々の意思を引き継いだ」
 なんて言い出す事はしない・・
  『卑劣な節操のない屁理屈は言わない』が・・
  韓国のその言い方は、『馬鹿者』と言いたいくらいの
 その様な恥ずかしいもの・・。
  韓国兵士・・当時は、日韓併合の兵士(東京裁判で、
 有罪となった兵士の方も居るという状況)も、勇敢に、
 アメリカやイギリスの連合国軍と戦い、日本の将校とな
 って、東京裁判でその軍事行為が裁かれた。
  韓国は、日本と同じ枢軸国として裁かれている。
  また、汚いのは「イタリアだ」。
  ドイツと一緒になって、あれほど戦い、その枢軸国に
 後から日本も加わって、戦って・・、形成が悪くなると、
 イタリアは、クルッと向きを変え、勝っている方へ加担
 して、最高位の人間・ムッソリーニを捕らえて、殺して
 (私刑・リンチ)、戦勝国に化けてしまった。
  そして、アメリカも、イギリスも、その様に遇してい
 るから・・おかしい???
  ドイツの裁判や、日本の裁判の様な事はしていない。
  すべてを不問としている。
  おかしいではないか・・おかしい事が起きているでは
 ないか・・
  誤魔化しが起きている。
  例えば、何人も殺してきた犯人が、ある時、クルッと
 態度を変えて、行動が変わったら、「犯人ではなくなっ
 てしまった」・・という様なもの・・
  こんな話は通らない・・こんな理屈は通らない・・イ
 タリアだって同じ様に裁判を受けるべき敗戦国だ。
  例えば、信長が本能寺で、明智光秀に討ち取られ「明
 智光秀の三日天下」となった。
  その後の豊臣秀吉との戦いに敗れた。
  しかし、秀吉は、光秀の首を取り損なっている。
  光秀の天下は、実態としては、秀吉に、その体制は崩
 されたが・・、
  もしかしたら、光秀は、どこかで態勢を取り直すとい
 う過程にもあった。
  つまり、光秀が敗れて、逃避行の身にはなったが・・
 戦に敗れた時点で終わったとしてはいけない。
  一分の可能性を持って信長を破って手に入れた、光秀
 の天下は続いている。
  実態は、天下は、秀吉に流れて行くのだろうが?・・
 しかし、100パーセントでは無い。
  そして、可能性を求めて逃げ延びた光秀は、逃避行途
 中の山の中で、落人狩りの百姓に討ち取られてはいるが、
 一分の可能性があった光秀の可能性が・・ここで無くな
 ったのである。
  その残っていた僅(わず)かな光秀の可能性を「その
 百姓たち」が奪ったわけである。
  光秀は、可能性はほとんどない状態に居たが、その僅
 かな可能性を、百姓たちが奪い取ったのである。
  つまり、可能性のほとんどない、その可能性は、その
 落人狩りの百姓グループに移った、99.99999・・パーセ
 ントの可能性は秀吉だろうが。
  しかし、秀吉は、この百姓から当然、その残りの
 0.000・・1%を取り返さなかった。
  秀吉は、「100%の天下人では無い」と言えるか??
  これは、屁理屈である。
  こじつけ論理である。
  くだらない論理である。
  しかし、「この様なこじつけ論理」が、イタリアの場
 合にも言われているのである。
  くだらない事に・・アメリカ・イギリスが、このくだ
 らない論理を振り回して、「正義だ」「正しいのだ」と
 言っている。
  アメリカ・イギリスは、この様に・・勝手に自分だけ
 の論理を振り回してやって来た。
  問われるべき罪もないのに・・罪があるのだとして殺
 して来た。
  また、罪を問うべきを問わないで・・公正・公平に行
 なわないで来た。
  お好みで、すべてを処して来た。
  イタリアは、連合国状態になってしまった。
  そして、日本やドイツに対して・・国連の敵国条項が、
 今だに、現在もまだ、存在しているという・・
  これが、アメリカに都合が良いと、いまだに、その状
 態を取って、世界中に、そして、日本・ドイツに押し付
 けている。
.
2014年、ロシアは、クリミアを強引にロシアへ併合させてし
 まった。
  クリミア半島は、地理的にヨーロッパの南端と言えた。
  これは、キリスト教圏とイスラム圏との境界でもあっ
 た。
  この様な位置関係から、古い時代から様々な多様な信
 仰を持った民族が、クリミアに侵入してきた。
  東ローマ帝国の系統の東方正教会のキリスト教徒が、
 ロシアやウクライナへ侵入し、また、クリミア半島へも
 入ってきた。
  また、オスマントルコが、クリミア半島に、イスラム
 教を入れた。
  この様な両宗教の地となって来た。
  また、モンゴル系のクリミアタタールの人々もいる。
  クリミアには、ロシア正教、ウクライナ正教、イスラ
 ム教スンニー派の3者の方々の複雑な宗教的関係がある
 状態となっている。
  大国や強国が、武力で解決する問題ではない。
.
2015年9月、EUへ向かう難民の方々・・それも豊かなド
 イツへ
  幼い3歳の難民の子供が波に漂(ただよ)う悲惨な姿
 はEU諸国へショックを与えた。
  豊かなドイツへ向かう難民の方々・・、
  そのドイツ・・なんとも歯切れが悪く・・その悲惨な
 幼児の姿を見て、難民の受け入れを決めた・・が・・
  元々は、ドイツには、難民を救済するとする基本法が
 あった・・第二次世界大戦時の卑劣な行為の罪滅ぼしで
 あったが・・、
  この頃になると、ニコニコ顔で受け入れるという当初
 のドイツではいられない・・当初とはだいぶ違っていた。
  この3歳児の悲惨な姿の報道後、一時は、態度を変えた
 が・・しかし、ドイツは、『入国審査を再開する』と言
 い出した。
  即刻、ドイツは、アウトバーンで「検問を復活させた」。
  このアウトバーンの検問は、30年ぶりだった。
  この様な事までやり出すドイツだった。
  アウトバーンは大渋滞となった。
  ドイツへ来る列車も運休にされた。
  押し寄せる難民の方々に対し、ドイツは、この様な事
 をした。
  列車で到着した難民の方々は、最初の3日間で3万1000
 人に達した。
  だから、他のEU諸国も、同様な態度を取り出した。
  オーストリアは、すぐさまハンガリー国境に軍隊を派
 遣した。
  チェコも、国境監視を始めた。
  EUの「自由往来」のシェンゲン圏内の取り決めは、
 まったく『無視』の「あるが無きのごとく」だった。
  EUの美しく飾り立てた理念「人、モノ、金、サービ
 スの自由な移動」は、どこかへ行ってしまっていた。
  「シェンゲン協定」も、「ダブリン協定」も、まった
 く捨て去ったEUだった。
  2015年9月だけで、難民の方々は、16万4000人が入国
 した。
.
2015年9月、EUへの、多くの難民の流入が続く・・
  ドイツの豊かさが私たちも欲しいと・・、
  それが得たいと・・難民となってドイツへ流入する、
 押し寄せる・・その難民を受け入れるドイツ・・そうし
 なければならないと・・、
  難民が押し寄せるような良い国に、ドイツの今のお年
 寄り方がしたのだが・・子供たちの為にと一生懸命に働
 いて・・国づくりに励んだ・・今のドイツはその努力
 の結果で・・
  2015年、ドイツの難民の入国数は「80万人と予想され
 た」。
  しかし、その流入は激しく、この数が、100万人に修正
 された。
  人口8000万人の国に、この年だけで100万人を受け入れ
 る。
  この難民の受け入れに「○○万人だ」と上限を決める
 事はおかしいと発言する声・・その様な論理があった・・
  しかし、無制限に難民が入ってくれば・・社会も、労
 働市場も、学校も、混乱してしまう。
  メルケル首相は、自身が、東ドイツ出身で、悲惨な東
 ドイツから豊かな西ドイツへ来たという体験をした人で
 あるため、難民の方々へ理解を示し、難民の方々の身に
 なった発言をしていた。
  そして、「できる」と発言した。
  ドイツ中が、この「できる」で高揚した。
  かつて、第二次世界大戦に至った、あの高揚の様な、
 似た状況にドイツはあった。
  少しでも異議を唱える人間には「非人道的」というレ
 ッテルが張られた。
  下手な発言は、極右だとされた。
  この様な中で、ドイツ社会の中に難民が入って来て、
 定着して行った。
  そして、ドイツが変わり始めた。
  ドイツ社会がきしみだした。
  問題の原点には・・難民を発生させる、そもそもの原
 因があるが、その解決が見えない中に、ドイツへたどり
 着いた難民の方々、そのたどり着いたその場の崩壊が、
 現実となって行った。
  警察沙汰が増加した。
  収容施設は、ぎゅうぎゅう詰めとなった。
  そこで、暴力沙汰が増えた。
  難民の民族と民族の、「民族の違いの闘争」が起きた。
  2015年9月27日、ヘッセン州の収容所で、コソボのアル
 バニア人とパキスタン人の大規模な闘争が起き、400人も
 の難民が暴れた。
  警察官も負傷し、難民の方々も負傷し、その他の多く
 の難民施設でも、一触即発の事態が続いているという状
 態になった。
  言葉も宗教も違い・・昨日までまったく知らない者同
 士が、狭い中に、ぎゅうぎゅうと押し込まれて居るとい
 う欲求不満の塊の社会ができていた。
  警察も限界に来ていた。
  民間の警備会社が投入されたが、警備員には移民系が
 多いので・・火に油を注ぐという結果になった。
  2015年9月28日、警察が、宗教別に収容すると発表した。
  この様な人々が、これからドイツ文化を受け入れて、
 静かに生活して行けるのかという事が「危ぶまれた」。
  この様な時に、ハンガリーは、国境を封鎖した。
  クロアチアも、続いて、国境封鎖した。
  EUの国境が・・閉じられて行った。
  それでも、難民の流れは止まらなかった。
  民族移動が、一旦、始まると止められないのごとくだ
 った。
  難民は、悪路でも、何でも、迂回したりして入って来
 た。
  ユーゴ内乱の時の地雷が残る「地雷地帯」にまで入っ
 てきた。
  10月になって、気温が下がっても、冷たい雨が降って
 も、道がぬかるんでも、難民の行軍はあった。
  スロベニアは、難民の数があまりにも多いので、その
 数に驚いて、軍隊を出し、流入を防ごうとした。
  しかし、その隣のクロアチアは、スロベニアにどんど
 ん難民を送り出していた。
  2015年10月17日、この難民問題が、からんでケルン市
 長の有力候補がナイフ刺された。
  犯人は、『難民政策が気に食わない』のでやったと言
 った。
  10月末の冷たい川に、首まで浸かってでも渡河してい
 る人々の様子が報道された。
  水温は8度だった。
  赤ん坊、お年寄り、子供が、どうなっているのかが心
 配された。
  この様な原因を作っている「元が悪いのだ」が・・?
.
2016年3月13日、テレビ報道は、年がら年中、日本国民の世
 論操作をしている。
  例えば・・
  ☆2016年3月13日、日本テレビ:
  自民党大会での安倍総理の「選挙の為だったら何でも
 する、こんな無責任な勢力に敗ける訳にはいかない」と
 の発言を、悪意ある編集をして内容をまったく変えた・・
  「安倍首相『選挙が為だったら何でもする』」と表示
 をして、「安倍首相の悪印象」を印象付けた。
  またこれは、総理という立場での指導的発言を、首相
 という国の代表に立場を変えるという悪意もある。
  国の責任者にある状況にして、異常発言の状態に編集
 し、放送し、悪印象へと操作をしている・・まったく許
 せぬ日本テレビの放送のやり方。
  日本テレビは、仏教蔑視の放送も年がら年中している。
  悪い場面で、お寺の鐘をゴーンとならしたり、仏壇の
 リンをチーンと鳴らしたりと、年がら年中している世論
 操作・印象操作ばかりする放送局となっている・・テレ
 ビコマーシャルを依頼している企業へも悪印象を与えて
 いる。
  ☆2014年9月10日、テレビ朝日:
  川内原発に関する報道で、原子力規制委員会の田中俊
 一前委員長がいくつかの記者の質問に対して回答を拒否
 した部分のみを放送して偏向した編集をして世論に偏っ
 た印象を与えた。
  ☆2015年6月5日、フジテレビ:
  VTR内で日本についてインタビューに答えている韓
 国人2人について、翻訳の字幕や日本語吹き替えの内容
 と異なる映像を使用し、韓国人が日本を嫌っているかの
 ように放送した。
  ☆2017年7月3日、TBS、
  小池百合子東京都知事が就任あいさつをした際に、握
 手をした映像をカットして「自民党の川井重勇都議会議
 長(当時)が握手を拒否」と放送して、全く事実と違う
 放送をした。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


by suba28 | 2018-05-15 04:02 | 皆様とともに 幸せになりたい


はじめまして、ブログを始めさせていただきました


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