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(増補版)443E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年1月)

題:(増補版)443E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年、論・文学・本:つづき
・「国民の友」発行(2月)
  民友社(徳富蘇峰の設立)が発行した機関誌で、1899
 年(明治32年)8月の第 372号で廃刊した・・、
  「新日本之青年(1887年) 」で一躍評論家の雄となった
 蘇峰が、主筆となって始めた雑誌で、進歩的な社会評論
 誌。
  標榜(ひょうぼう)するところは、「人民全体ノ幸福ト
 利益」を主張すると言う・・平民主義。
  (この後、日清戦争の後に、蘇峰が、国家主義に転換
 して衰退した、「国民新聞」に併合されて廃刊)
  総合雑誌の先駆となった。
  中江兆民・田口卯吉・島田三郎・内村鑑三・坪内逍遥・
 北村透谷らが・・、
  また、二葉亭四迷、山田美妙(びみょう)、森鴎外、山
 路愛山らの文学者も寄稿し、
  政治・経済・社会・文学の各分野で、多彩な論調を展
 開、社会主義の紹介にも努めた。
  初め、月刊であったが、月2回、3回、週刊となり、時
 の藩閥政府の干渉政策に対抗し、自由と平等の実現を期
 する『急進的平民主義』の立場をとった。
・「支那地誌」 刊行
  著者:参謀本部管西局 編
  1887年から参謀本部によって刊行された『支那地誌』
 『満洲地誌』『蒙古地誌』には、いずれも「物産」の項
 目が含まれていた。
  初歩的な成果を収めたと評価された。
・ 「婦女鑑」(編:西村茂樹)
  「婦女鑑」(明治20年)は、明治天皇陛下の皇后陛下
 の内意を受け、
  宮内省文学御用掛であった西村茂樹によって編纂され
 た。
  そして、天皇陛下の内意を受けて元田永孚が中心とな
 り編纂した『幼学綱要』(1882年)の補遺として作成さ
 れた。
  作成の目的は、華族女学校の教科書に充てるためだっ
 たが、
  実際に、皇后陛下が行啓して、生徒に下賜された。
  この様な、特筆すべき成立事情が有する。
  全6巻、120の例話で126人の掲載は、当時としては他
 書を量的に圧倒した。
.
1887年、歌・流行・世相:
・鹿鳴館仮装舞踏会
  (氷川清話):鹿鳴館時代
  (氷川清話):明治20年には鹿鳴館時代が開始。また、
 保安条例公布による正論家たちの皇城3里外への追放。
  西欧に、形の上でも追い着き、条約改正をしたかった。
  その様な経過の中で生まれた鹿鳴館の舞踏会も、1887
 年4月20日の仮装舞踏会「ファンシー・ボール(fancy
 ball)」に至った。
  この舞踏会は、実際は、鹿鳴館ではなく、総理官邸で
 行われたもので、しかも、外交とは直接関係のない催し
 だった。
  伊藤博文総理・梅子夫人の主催ということで開かれた
 この舞踏会は、
  実際には、時のイギリス公使夫妻が主催したもので、
 伊藤は、好意で官邸を会場に貸し出したにすぎなかった。
  しかし、当時の常識ある人たちは、行き過ぎた催しと
 指摘し、
  外務大丞をつとめたこともある勝海舟でさえ、これを
 契機に憂国の感を深め、建白書にしたためて政府に意見
 したぐらいだった。
  西洋に媚びる面もあるこの「欧化主義」の臭いのする
 催し、
  鹿鳴館の洋装・洋服も行き着いてしまった末の仮装の
 感があった。・・そして・・
・この年に、女性(婦人)に「吾妻(東)コート」「肩掛
 け(ショール)」が流行した。
  吾妻(東)コートと肩掛け(ショール)のセットのフ
 ァッションだった。
  吾妻(東・あずま)コートは、着物の上に羽織るコー
 トで、ショールカラー(へちま襟)や道行襟(スクウェ
 アーネック)の四分の三丈コートのことで、和装用コー
 トの走り。
  東京から流行し始めたので「東」コートと命名された。
・「国益」という文字が流行した。
  マッチの製造にも、牛肉店にも、この2字がつくぐら
 いだった。
・流行歌:「ノルマントン号沈没の唄」
  一番:岸打つ波の音高く、夜中の嵐に夢さめて
     青海原をながめつつ、わが兄弟は何処ぞと
     木々の影はゆらゆらと、
  二番:呼べど叫べど声はなく、たずねさがせど影はなし
     うわさに聞けば過る月、二十五人の兄弟は
  三番:旅路を急ぐ一筋に、外国船とは知りつつも
     航海術に名も高き、イギリス船ときくからに
  四番:ついうかうかと乗せられて、波路もとおき遠州の
     七十五里もはや過ぎて、今は紀伊なる熊野浦
・日本製の絹ハンカチが、外国で評判になる。
・食の流行:西洋料理
  1876年(明治9年)東京の上野に、日本人のための本格
 的な西洋料理店ができたが、
  明治期は、西洋料理は高級なものであり、フランス料
 理が中心であった。
  当時の厨房は、現在とは比較にならないくらい原始的
 な設備で調理を行っていた。
  そのため、その調理技術は極めて特殊で、熟練が求め
 られた。
  それもあって、職人は、非常に重宝され、腕の良いコ
 ックは、破格の高給の処遇を受けていた。
  この年・1887年(明治20年)の『時事新報』には、西
 洋料理のコックについて、
  「甲が十五円を与うれば、乙は二十円を与えんと言い
 出し、雇い主の間に競争を生じたり」という記事が載っ
 たほどだった。
  この獲得競争の結果、富士屋ホテルの記録によると、
 明治30年頃の給与台帳では、支配人の月給が二十五円で
 あったのに対し、料理長の月給は五十四円五十銭もあっ
 た(支配人の倍以上)。
・生活面の流行:自転車
  この年、アメリカのオバーマン・ホイール・カンパニ
 ーが、前輪にスプリング・フオーク(サスペンション装
 置)を取り付けたビクター号を開発した。
  この翌年・1888年、東京浅草の向山嘉代三郎が、帝国
 自転車製造所を開業した。
  1887年4月、大型の二輪車(自転車)が流行の記録も
 ある。
  また、次の記録もある・・、
  1887年1月13日、1月13日快晴 午後2時散歩の際、徳川
 将軍、及び、公子が、自転車を召されて市中御散歩を相
 見たり(松本亀次郎日記より)
  1887年2月18日、静岡大務新聞、自転車脱税の取締り。
  1887年3月8日、静岡県令第30号、自今道路ニ於テ夜中
 自転車ノ使用ヲ禁止ス。
  1887年4月29日、めさまし、水曲社の水上自転車
  1887年5月5日、毎日新聞、曲乗りの水上自転車 浅草公
 園の旧勧工場跡にて興行中なる水曲社の水上自転車は、
 大小二輪車に乗り水面を行く事あたかも平地を走るに異
 ならず、随分珍しきよしにて種々の曲乗りをなすと言う。
  1887年5月14日、毎日新聞、三輪車は卒業、二輪車の客
 が多い。
・娯楽面の流行:娘義太夫
  大阪では、豊竹呂昇が人気で、
  東京では、1887年には、大阪から上京した竹本綾之助
 が空前の人気となり、
  芸能での人気を歌舞伎と二分するほどになった。
  また、別史料には・・、
  娘義太夫.、明治20年代から40年代にかけ、浄瑠璃の一
 派「義太夫」を若い女性が演じて、東京を中心に大流行
 が起こった・・とある。
  また、別史料には・・、
  絵は、洗耳筆「寄席(娘義太夫)」『東京風俗志下の
 巻』94頁で・・、
  2階席はないものの、電燈が附いている。
  また、書生さんらしき姿は見えないので、本郷や神田
 あたりの寄席ではないと思われる・・とある。
  屋根には、真打の芸名を記した軒行灯を掲げ、木戸口
 の横には一座の芸人名や演芸を連ねて記した大行灯を掲
 げる。
  木戸口を入ると、札場、下足預り場がある。
  芝居小屋に見られるような花道、桝席はない。
  女義太夫で賑わい、メッカの一つだった若竹亭・・と
 ある。
・娯楽の流行:花合わせ、トランプ
  大阪で流行の記述あり、
  また、東京日日新聞の、1887年11月16日に・・、
  拙者、西洋カルタ(トランプ)引取のため横浜商館に
 到り、談話の際、洋人の曰く、日本の花骨牌は盛に流行
 して販路広大なるに反して、
  我西洋カルタは、東京を除くの外、甚尠なし、
  欧米各国の如きは、孰の国を不問、「トランプ」の流
 行、殊に盛に、文明国としてトランプの流行せざる事な
 きはトランプをもつて文明の遊具といふに依ても明なり
 といふ
  尚、高位貴顕の方にもトランプのため、交はりを結ぶ
 等の益あり
  今日、東洋の開明国と称せらるゝ日本にして、此の流
 行なかる可からずと、
  本年本国より取寄たるトランプの着荷は、土蔵の床板
 も下る計りの噸数に及びたり、
  然るに、これを引取る商人なく、幸ひ貴家に於ては、
 日本花骨牌の販売広く、且つ、西洋骨牌も亦狭からずと
 〓けば何とか拡張を謀る方法なきやと、
  我答曰、トランプ流行せざるにあらず、未だ、使用法
 の委しからざると、価の高価なるがため、随て販路狭き
 のみ、
  若し、これを拡張せんとなれば、着荷を従来の半額に
 て、五万個を限り売捌く憤発ありたし、
  上方屋も亦、是に憤発を加へ、トランプ使用法を無代
 価で添るとせば、自然販路を拡張するの道に適せんと、
  洋人、大に賛成なし、愚意に随ひ来る
  十一月十五日より、三十日迄を限り、左の拡張安売仕
 候、元より西洋人の拡張心より安売仕候事に付、同業者
 と雖も左の直段より更に引なし
  又日限後は、通常直段に引直し候ことは無論、
  地方の御注文は、是亦拡張のため、今般限り郵券代用
 不苦安売代価の外に、一個に付逓送税八銭、御添の程願
 上候
.
  (今日の言葉)
.
  題:フィリピンのこと(その1~その3)・・、
    その1:独立を目指して・・、
.
1896年8月23日、フィリピン革命戦争
  「プカット・ラウインの雄叫び」で、フィリピン革命
 戦争が始まった。
.
1896年のフィリピン革命
  モロ戦争の歴史。
  1896年のフィリピン革命は、ミンダナオのムスリムに
 対して、民族的な情熱を沸き立たせる契機となった。
  スペイン支配下には、どうしても拭う事の出来なかっ
 た「キリスト教徒対ムスリム」の対立が、一時であった
 が解消した。
  キリスト教徒とムスリムの混成部隊が、スペインと戦
 うこともあった。
  スペイン支配のシンボルであったフォート・ピラーが、
 これによって陥落した。
  アルバレス将軍が、革命政府のサンボアンガ知事に任
 命された。
  しかし、1899年に、アメリカ軍が、フィリピンにやっ
 て来ると、キリスト教徒とムスリムは、再び、対立に変
 えられた。
  アメリカ軍は、ジョン・べーツ将軍をホロ島のスルタ
 ン・キムラ2世と会談させ、
  1899年8月、アメリカの主権を認めるべーツ協定が成立
 した。
  だが、ムスリムは、これを拒否した。
  ムスリムの民族独立戦争は、今度は、アメリカに対し
 て続いた。
  アメリカは、無慈悲に強力な武器で弾圧した。
  特に、初めの10年間は、特に卑劣だった。
  アメリカは、殺傷力の強いダムダム弾や、強力な最新
 兵器を使って殺戮した。
  また、ムスリムの反抗に、神経質に、即時、徹底的に
 武力で弾圧し、鎮圧した。
  また、最悪な事に、1906年には、徴税に反対したブド・
 ダホの女性の方々や、子供たちの600人を、アメリカ軍は
 虐殺した。
  アメリカ軍は800人で行った。
  しかし、情報管制され詳細が不明で、闇の中に、葬り
 去ろうとした。
.
  そして、次の(今日の言葉)
.
  題:評論家:伊藤貫氏が対談で話す・・
    その2:アメリカのした事・・フィリピンの場合・・
.
1898年、アメリカが、フィリピンを軍事占領した。
  下記は、伊藤貫氏(国際政治・米金融アナリスト、政
 治思想家、評論家)の対談での言葉である。
  下記のURLを御覧ください。
  https://www.youtube.com/watch?v=Kla8vz0fx-U&index=3&list=PLn2kLGRySM2jWCzJaowldZXCZrT7Nlda3
  ・・略・・
  (中国がアメリカの言う通りのことをしたら、アメリ
 カは)皆、拍手したわけね、
 だけど、すごく滑稽なのは、その前の年にね、
 その(中国が)門戸開放宣言をやった前の年にね、
 アメリカは、米西戦争をやっているわけ、
 米西戦争をやって、スペインからキューバとフィリピン
をもぎ取ったわけよ、
 米西戦争をやる時、アメリカは、フィリピン人に独立さ
せると約束しておきながら・・、
  一旦、フィリピンを取ったら、独立させるという約束
 を、あっという間に裏切って・・、
 (フィリピン人の)独立派を、20万人か、30万人を殺し
ている訳ですよ、
 1898年に、フィリピンを軍事占領して、
 独立を願うフィリピン人を、20万人~30万人殺してね、
 要するに、1899年もね、殺している最中な訳です、
 フィリピンを自分たちの植民地にしようと思って、フィ
リピン人をいっぱい殺している最中に・・、
  日本人とか、ロシア人とか、ヨーロッパ人とかには、
 (理想的な)ジョン・ヘイの三原則とか、領土保全とか
 言っているわけですよ、
 これって、おかしいでしょう?
 フィリピンで、めちゃめちゃな事をやっておきながら、
 アメリカ人って、そういう人たちで・・、
  要するに、フィリピンでめちゃくちゃやってても、他
 の国に対して、ものすごく立派な事を、『我こそ理想主
 義者』という態度でお説教をするわけね ・・略・・、
.
  そして、次の(今日の言葉)
.
  題:アメリカ人は、フィリピンの方々を蔑んだ・・、
 その3:しかし、マッカーサーだけは違ったと・・
   そして、それは、アメリカ人としては「珍しい」と
  フィリピンの方々は言った。
   そのくらい、アメリカ人は、フィリピンの方々を蔑んでいた。
.
1930年9月、アメリカ人は、フィリピンの方々を蔑(さげ
 す)んだ。
  それは、アメリカ人は、最初からフィリピン人を軽蔑
 し、「無知と怠惰の抜け殻」と蔑(さげす)み発言する
 のが常だった。
  だが、1930年9月に、ダグラス・マッカーサーが、フィ
 リピンを去る時、「アメリカ人、フィリピン人双方が、
 互いの欲望、希望、そして、熱望に対して、同情的理解
 を共有する事が必要だ」と語った。
  フィリピンの方々は、ダクラスは、フィリピンを理解
 する珍しいアメリカ高級軍人だと感じた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
by suba28 | 2016-10-27 05:43 | 皆様とともに 幸せになりたい


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