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(増補版)344E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年3月~1877年5月)

題:(増補版)344E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年3月~1877年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年3月21日、西南戦争において、田原坂の攻防戦で敗
 れた薩軍が、この日に、早くも有明海・吉次峠・植木・
 隈府を結ぶ線に防衛陣地を築きあげた。
  こうすることによって、官軍の熊本への道を遮断でき、
 攻撃を遅らせられた。
  3月1日に始まった田原をめぐる戦い(田原坂・吉次峠)
 は、この戦争の分水嶺になった激戦だった。
  激戦のこの戦場の地は・・現在でも・・、
  戦争から100年以上たった今でも、現地では、当時の銃
 弾が、田畑や斜面からしばしば発見される。
  薩軍では、副司令格であった一番大隊指揮長・篠原国
 幹をはじめ、勇猛の士が次々と戦死した。
  官軍も、3月20日の戦死者だけで495名にのぼった。
  田原坂の激戦は、官軍の小隊長30名のうち11名が命を
 落としたことからも、その激戦の凄さが知れる。
  こうして多大な戦死者を出しながらも、官軍は、田原
 坂の戦いで薩軍を圧倒し、
  着実に、熊本鎮台救援の第一歩を踏み出していった。
1877年3月21日、岩村通俊(いわむらみちとし、土佐高知藩
 士、佐賀の乱に際し大久保利通に随員し、乱を鎮圧した)
 を鹿児島県令に任命した。
  この後の西南戦争後、県令として処置に手腕を振るっ
 た。
1877年3月23日、官軍が、植木・木留を攻撃し、一進一退の
 陣地戦に突入した。
1877年3月24日、『団々珍聞(まるまるちんぶん、政治風刺
 雑誌)』が創刊した。
  戯画、戯文で藩閥政府を攻撃し、自由民権思想の鼓吹
 (こすい、元気づけ、励ますこと)に努めた。
  しばしば発売禁止や発行停止の弾圧を受けた。
  以後30年間「マルチン」の愛称で親しまれ、人気を得
 た。
1877年3月25日、植木に柵塁を設け、攻撃の主力を木留に移
 した。
  また、官軍の衝背軍が上陸した。
  3月24日、長崎を出発した別働第2旅団(山田少将)・
 別働第3旅団(川路少将)は、25日午後、八代に上陸した。
  この時、一旦各旅団の名称が改められたが、後29日に、
 再び改称された。
1877年3月26日、熊本城長囲において、長囲軍が減少した
 薩軍は、桐野が熊本隊の建策を入れて、水責めを行うべ
 く、3月26日、石塘堰止を実行し、坪井川・井芹川の水
 を城の周囲に引き込んだ。
  これによって熊本城の東北、および、西部の田畑は、
 一大湖水に変じた。
  この策によって、薩軍は、城の東北及び西部に配する
 兵を数百名節約できたのだが、
  その一方、鎮台に対し城の西部を守る兵の削減を可能
 とさせ、結果的には鎮台側を益することになってしまっ
 た。
  また、小川方面の戦いでは・・、
  3月26日、黒田参軍は、別働第1旅団を左翼、別働第2旅
 団を中央、警視隊を右翼に配し、艦砲射撃の援護のもと
 三方から小川方面の薩軍を攻撃し、激戦の末、薩軍を撃
 退し、小川を占領した。
1877年3月30日、官軍主力が、三ノ岳の熊本隊を攻撃した。
  また、松橋付近の戦いでは・・、
  3月30日、黒田参軍は、別働第3旅団に娑婆神嶺、別働
 第1旅団・別働第2旅団に松橋を攻撃させた。
1877年3月31日、明治天皇陛下が、大阪の陸軍病院に、西南
 の役の傷病兵を親問された。
1877年3月、西南の役が起きると、臨時海事事務局が神戸か
 ら長崎に移った。
  兵員、軍需品輸送のため、長崎輸送局が置かれた(後
 に、陸軍運輸局と海軍運輸局に分かれる)
  軍団病院や、海軍仮病院が、市内に置かれ、騒然とな
 った。
1877年3月、少年の投稿専門誌『頴才新誌(えんさいしんし)』
 が創刊した。
  最初、修身や立身出世を扱った教科書風の紋切型が多
 かったが、次第に、文学色を濃くしていった。
  尾崎紅葉や田山花袋らの明治の文学者の多くが本誌の
 愛読者であり、また、投稿者で、文学愛好の青少年に投
 稿を習慣づけて、明治文学の基盤づくりに寄与した。
1877年4月1日、半高山、吉次峠を占領した。
  また、宇土・堅志田・緑川の戦いでは・・、
  この日、別働第1旅団が、薩軍の夜襲隊を追撃して、
 宇土を占領した。
1877年4月2日、官軍が、木留をも占領し、薩軍は、辺田野
 に後退した。
  辺田野・木留の集落は炎上した。
1877年4月5日、官軍の本営にて軍議が開かれた。
1877年4月6日、熊本協同隊・宮崎八郎(みやざきはちろう、
 自由民権運動家)が戦死。
  西南の役が起きると協同隊を組織し、西郷に味方した。
  1875年(明治8年)2月の愛国者結成大会に参加した後、
 熊本で「民約論」を教科書として植木学校を創設し、県
 民会開設運動を展開した。
1877年4月8日、熊本城の包囲網が破れ、奥少佐の率いる第1
 大隊は、他の籠城している部隊の支援を受けつつ、この
 日の黎明、突撃を開始した。
  攻囲していた西郷軍は不意を突かれ、一時的に混乱し
 た。
  これなら突破できると思った奥少佐の頬に、火箸を当
 てられたような感覚が走った。
  左手で頬を抑えると被弾していて、そこから出血して
 いた。
  手で出血を迎えつつ、奥少佐は第1大隊の指揮を執り、
 西郷軍を突破していった。
  その勢いのまま、その日のうちに第1大隊は背面軍の
 陣地にたどり着き、宇土に達した。
  また、4月8日、辺田野方面は激戦となり、官軍は、萩
 迫の柿木台場を占領した。
  鎮台兵の出撃について・・、
  籠城が40日にもなり、糧食・弾薬が欠乏してきた鎮台
 は、余力があるうちに、征討軍との連絡を開こうとして、
 南方の川尻方面に出撃することにした。
  隊を奥保鞏少佐率いる突囲隊、小川大尉率いる侵襲隊、
 及び、予備隊の3つに分け、4月8日に出撃した。
  侵襲隊が、安巳橋を急襲し、戦っている間に突囲隊は
 前進し、水前寺・中牟田・健軍・隈庄を経て、宇土の衝
 背軍と連絡した。
  一方、侵襲隊は、薩軍の混乱に乗じて九品寺にある米
 720俵・小銃100挺などを奪って引き揚げた。
1877年4月12日、東京大學が創立された。
  東京開成学校と東京医学校を合併し、東京大学が設立。
  東京大学開校(東京開成学校と医学校が併合、東京帝
 国大学の前身)
  漱石ゆかりの地「東京帝国大学」  
  帝国大学発足(1886年)
1877年4月12日、官軍の黒田参軍は、衝背軍を部署した。
  そして、各方面への一斉進撃を企図し、
  4月12日、別働第3、第1旅団は一斉に攻撃を開始した。
  御船が、官軍に占領された。
1877年4月13日、黒田清隆率いる政府軍が、熊本城に入る。
 (4月14日説あり)
  衝背軍の熊本入城は、4月13日、別働第2旅団の山川浩
 中佐は緑川の中洲にいたが、友軍の川尻突入を見て、機
 逸すべからずと考え、兵を分けて、自ら撰抜隊を率いて
 熊本城を目指して突入し、遂に城下に達した。
  城中皆蘇生した思いで喜んだ。
1877年4月14日、小石川植物園を東京大学に附す。
1877年4月15日、薩軍は、4月12日に、最後の反撃をしたが、
  4月15日、植木・木留・熊本方面より撤退し、城南方
 面へ退いた。
  これを追って官軍は大進撃を開始した。
1877年4月16日、青年よ大志を抱け
  クラーク博士が、北海道月寒村島松(現=北広島市)
 の島松駅逓所で、札幌農学校1期生との別れの際に、「
 子供等よ、此老人の如く大望にあれ」(Boys, be
ambitious like this old man.)と発したとされる。
  5月に離日。  来日は(1876年)
1877年4月17日、薩軍諸隊が、熊本城・植木から逐次撤退し
 てきた4月17日のこの日に、桐野らは、本営木山を中心に、
 右翼は、大津・長嶺・保田窪・健軍、左翼は、御船に亘
 る20km余りの新たな防衛線を築いた。
  そして、ここで南下する官軍を迎え撃ち、官軍を全滅
 させる作戦をとることにした。
1877年4月20日、別働第5旅団の主力が、4月20日、保田窪
 地区の薩軍を攻めた。
  午後3時には、猛烈な火力を集中して、薩軍の先陣を突
 破し、後陣に迫ったが、中島が指揮する薩軍の逆襲で左
 翼部隊が総崩れとなった。
  腹背に攻撃を受けた官軍は、漸く包囲を脱して後退し
 た。
  この結果、別働第5旅団と熊本鎮台の連絡は、夜になっ
 ても絶たれたままになった。
1877年4月21日、この日、薩軍は、矢部浜町の軍議で、村田
 新八・池上が大隊指揮長を辞め、本営附きとなって軍議
 に参画すること、全軍を中隊編制にすること、三州(薩
 摩国・大隅国・日向国)盤踞策をとること、人吉をその
 根拠地とすることなどを決めた。
1877年4月22日 参軍・山県有朋が、各旅団長を木山に招き、
 謀議を凝らす。
  また、この日に、西郷隆盛が、人吉に退く。
1877年4月23日、山県有朋が、西郷隆盛に書面を送り、その
 立場に同情し、投降自決を勧告した。
1877年4月27日、参軍・川村純義らが、海路鹿児島に至り、
 兵を各地に配置した(西南戦争)。
  また、4月27日に、人吉盆地に入った薩軍は、本営を
 人吉に置いた。
  4月26日~30日、薩軍は、球磨盆地の人吉で、浜町(矢
 部)で決めた新戦略の元、再編した部隊で行動を始めた。
  球磨盆地の出口に部隊を配置して守りをかため、豊後・
 大口・鹿児島へ隊を送り政府軍を牽制し、
  その間に兵と物資を蓄え、機を見て打って出るという
 ものだった。
  人吉および球磨盆地一帯は、薩軍に協力する人吉隊を
 出していた事。
  また、幕末・相良藩時代の人吉大火(寅助火事)の際に
 は薩摩藩から多大な援助を受け、それを恩義に感じてい
 た領民が多かった事。
  さらに維新戦争では、薩摩藩配下で共に戦った仲でも
 あったので、薩軍(鹿児島士族)に好意的であった。
  しかし、薩軍が、球磨盆地へ来た頃は、すでに政府軍
 優勢は伝わっており、薩軍に協力はしても募兵に応じる
 者は少なかった。
  薩軍をさらに悩ませたのが兵の規律低下だった。
  歴戦の勇士は戦死し、生き残った薩兵は心身ともに疲
 れ切っており、軍を脱走する者が出始めていた。
  また、食糧の欠乏もあった。
1877年4月28日、この日に江代に着いた薩軍の桐野は、ここ
 に出張本営を置き、軍議を開いた。
  江代軍議で決められた事は、人吉に病院や弾薬製作所
 を設けること、各方面に諸隊を配置することなどで、逐
 次実行に移された。
  この時、桐野が、人吉を中心に南北に両翼を張る形で
 薩軍を配置した。
  4月27日、人吉まで退却した西郷らに続き、桐野は、江
 代まで退却し、再びここで軍議して諸方面の部署を定め、
 新たに編制した中隊を各地に派遣した。
  以後しばらく桐野は、人吉本営で指揮していたが、戦
 況が不利と見て、軍を立て直すべく宮崎に赴いた。
1877年4月、大阪に、小学校の夜学が開設された。
  京都は教育の進んだところで、明治維新前より私塾・
 寺子屋も多かった。
  京都市は、1869年(明治2年)に、柳池小学校(日本初)
 を筆頭に全国に先駆けて64校の小学校を創設した。
  明治4年に文部省が創設されたが、それ以前の小学校創
 設だった。
  明治4年に京都の教育状況を視察した福沢諭吉は、
  「民間の学校を建て人民に教育せんとするは、余輩の
 積年の志なりしに、
  今、京都に来たりて、その実際を見たる日、恰(あたか)
 も故郷に省りて知己に会うが如し。
  およそ世間の人この学校を見て感ぜられるは、報知の
 心無きと言うべきなり・・・」と言っている。
  その京都の南浜小学校(第2尋常小学校 字丹後)は、
 1876年(明治9年)4月、校内に夜学生を収容し教授・・と
 の記録がある。
  働く子供のための措置だったという。
1877年5月1日、博愛社(赤十字社の前身が創立された。
  元老院議官:佐野常民や大給恒らが、博愛社(日本赤十
 字社)を興した。
1877年5月1日~9日、4月の末の薩軍は、政府軍の動きが緩
 やかな事もあって、わずかな休息も取ることが出来た。
  しかし、5月に入ると、薩軍の休息もそう長くは続かな
 かった。
  城東会戦以後緩やかだった政府軍は、5月に入って一気
 に動き始め熊本・鹿児島(宮崎)・大分に展開した。
  人吉攻撃の中核・別道第2旅団(司令官:山田顕義少将)
 は、球磨盆地へ入る7街道から攻め込む作戦をとった。
  前衛隊が薩軍の守りが厚い球磨川道・佐敷道から攻め、
 薩軍・破竹・常山・鵬翼・正義の4隊と接触。
  球磨盆地へ入る街道はいずれも難所の連続で、大部隊
 が一気に通るには困難な地形である。
  薩軍は、各街道沿いの要所に部隊を置き政府軍を待ち
 かまえた。
  政府軍は各地で敗退。
  鵬翼隊は大口の雷撃隊と連携し、佐敷へ攻め込んだ。
 しかし、薩軍の攻勢もここまでだった。
  一度に大部隊は送れない状況下であっても、政府軍は、
 兵と物資を絶え間なく動員出来る力があるが、薩軍は消
 耗を補う事が出来なかった。
 また精鋭・有能な指揮官を田原坂以来の戦いで失い、か
 つてほどの勢いがなかった。
  政府軍第2旅団が八代・水俣へ増援に入る頃から、政
 府軍優勢が色濃くなって行った。
1877年5月8日、この日、辺見・河野主一郎・平野・淵辺は
 それぞれ雷撃隊・破竹隊・常山隊・鵬翼隊の4個隊を率い
 て神瀬箙瀬方面に向かった。
  官軍との戦闘は、翌日の5月9日に始まったが、
  5月15日には、破竹隊の赤塚源太郎以下1個中隊が官軍
 に下る(降伏)という事件が起きた。
  これより神瀬周辺での両軍の攻防は一進一退しながら
 6月頃まで続いた。
1877年5月9日、久木野・山野を手に入れた辺見は、5月9日、
 自ら隊を率いて官軍に激しい攻撃を加えて撃退し、肥薩
 境を越えて追撃した。
  5月11日、雷撃隊は、水俣の間近まで兵を進め、大関山
 から久木野に布陣した。
  人吉防衛のため球磨川付近に布陣していた淵辺率いる
 鵬翼隊6個中隊(約600名)も佐敷を攻撃した。
  また、池辺率いる熊本隊(約1500名)も矢筈岳・鬼岳
 に展開し、出水・水俣へ進軍する動きを見せた。
  5月12日、鵬翼隊は、佐敷で敗れたが、雷撃隊は圧倒的
 に優る官軍と対等に渡り合い、「第二の田原坂」といわ
 れるほどの奮戦をした。
  これを見た官軍は増援を決定し、第3旅団を佐敷へ、第
 2旅団を水俣へ派遣した
1877年5月14日、人好しの攻防戦において・・、
  4月30日、常山隊三番中隊は中村、遊撃隊六番小隊春田
 吉次は頭治などそれぞれ要地を守備したが、
  5月3日から7日までの宮藤の戦い、
  5月10日から14日までの平瀬の戦いで、
  官軍は、中村中佐の活躍によりこれらを敗走させるこ
 とに成功した。
1877年5月16日、大野方面は、この日、官軍が、一ノ瀬の鵬
 翼隊五番中隊を攻撃した。
  薩軍は苦戦したが、大野からきた干城隊三番中隊の参
 戦により官軍を退けることができた。
1877年5月18日 西南戦争による九州の人心鎮定のため、東
 京より巡査700名を派遣した。
1877年5月20日、別働第3旅団が久木野に進入した。
1877年5月23日 軍用に使用する軽気球が、東京築地の海軍
 省練兵所で揚げられる
1877年5月23日、別働第三旅団が倉谷・高平・大野方面の
 薩軍を次々と破り、大野に進入した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
by suba28 | 2016-05-04 04:39 | 皆様とともに 幸せになりたい


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