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(増補版)316E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年12月~1874年1月)

題:*(増補版)316E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年12月~1874年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1873年12月8日(10月19日)公園の設置
  東京に、初めての公園を設置した。
  (浅草、増上寺、上野台地、富岡八幡、飛鳥山の五地)
1873年12月22日(11月3日)国旗の掲揚
  祭日に、国旗掲揚の制を定める。
  天長節から国旗を立てることにした。
  自国旗を掲揚するという当然の行為を、日教組は、戦
 争につながるという理由で、日本の国旗である日の丸の
 掲揚に反対している。
  子供たちに大きな影響を与えている。
  国旗であるから色々な場面に関わってくるのであるが、
 日教組はひたすら戦争を持ち出す。
  良い状況にも日の丸はいっぱい関わっているのだが、
 日教組は、そのことは言わない。
  まったく駄々っ子の様に理屈の通らない言で、拗(す)
 ねている。
  2カ国の国旗の掲揚の場合、当然、国旗を掲揚して、外
 国に敬意を表するという大事な意味合いがある。
  その場合は、外国の国旗をポール、または、壁に向か
 って左側の上位席に掲揚し、日本の「日の丸」は右側に
 掲揚するという国際的な儀礼がある。
  日教組は、この様な国際的な慣例などもまったく無視
 している(外国に対して非礼になっていることもお構い
 なしである)。
  因みに、3ヶ国の場合は、通常、日本の国旗を中央にし
 て、アルファベット順に左側、そして、右側の順に掲揚
 する。
  ちなみに、これは国連でもこの様にしている。
  日教組の筋の通らないわがままな主張は、この様な
 国連でもやっていることにお構いなしである。
1873年12月23日(11月4日)外国語学校を、東京に設立
 する。
  既設の官立外国語教育機関を統合し、この年に、設立
 された。
  翌年の1874年までに、東京を含めて、全国で計8校の
 設立をみた。
  この東京の外国語学校は、官立外国語学校のなかでは
 最初のものであった。
  略して、「語学校」とも称した。
  当初は、英・仏・独・清(中国)・魯(ロシア)の5語
 科が設置された。
  後に、英語科が分離して朝鮮語科が増設された。
  高等教育の基礎としての外国語教育と、通訳養成のた
 めの教育という二重の役割を持っていた。
1873年12月29日(11月10日)内務省を設置(1873年11
 月10日説あり)。
  内務省が設置され、行政・警察権の中心となった。
  初代内務卿は大久保利通。
  地方行財政・警察・土木・衛生・国家神道などの国内
 行政を担った。
  初代内務卿の大久保利通の思想を反映して、設立当初
 から国民生活全般への監視の課題もあった。
1873年12月29日(明治6年11月10日)、下野した西郷が、
 この日に、鹿児島に帰着した。
  以来、大半を、西郷は武村の自宅で過ごした。
  猟に行き、山川の鰻温泉で休養していた。
  1874年4月16日(明治7年3月1日)に、佐賀の乱で敗
 れた江藤新平が来訪し、
  翌日の4月17日、西郷は、江藤を指宿まで見送った。
  そして、江藤は、土佐で捕まった。
  これ以前の1874年3月(明治7年2月)に、閣議で台湾
 征討が決定した。
  この征討には、1874年6月(明治7年5月)木戸が反対
 して参議を辞めたが、西郷も反対していた。
  しかし、1874年6月17日(明治7年5月4日)、台湾征
 討軍の都督となった西郷隆盛の弟の三弟・西郷従道の要
 請を入れ、やむなく鹿児島から徴募して、兵約800名を
 長崎に送った。
  西郷の下野に同調した軍人・警吏が相次いで帰県した
 明治6年末以来、
  鹿児島県下は、無職の血気多き壮年者がのさばり、そ
 れに影響された若者に溢れる状態になった。
  そこで、これを指導し、統御しなければ、壮年・若者
 の方向を誤るとの考えから、有志者が西郷にはかり、県
 令・大山綱良の協力を得て、1874年7月(明治7年6月)
 頃に、旧厩跡に私学校がつくられた。
  私学校は、篠原国幹が監督する銃隊学校、
  村田新八が監督する砲隊学校、
  村田が監督を兼任した幼年学校(章典学校)があり、
 県下の各郷ごとに分校が設けられた。
  この他に、1875年5月(明治8年4月)には、西郷と大
 山県令との交渉で確保した荒蕪地に、
  桐野利秋が指導し、永山休二・平野正介らが監督する
 吉野開墾社(旧陸軍教導団生徒を収容)もつくられた。
  (街道をゆく8)には、下記の記載がある・・、
  「西郷と彼が、鹿児島士族の二才衆(にせしゅう)を
 組織して在校10000万人という私学校を起こすが、
  私学校組織は巨細に見ると、もとの郷中(ごじゅう)
 組織であるにすぎない」・・と。
  郷中(ごじゅう)は、薩摩藩の武士階級子弟の教育法。
1873年12月、星亨(23歳、ほしとおる)が、横浜税関次
 官から横浜税関長になった(長官・中島信行が、神奈川
 県令に転出したため)
  在任期間:1873年12月(明治7年1月)~1874年8月
 (明治7年7月)
  翌年・1874年3月(2月)従六位に叙任。
  イギリス公使パークスとの紛争により、半年で税関長
 を免職した。
  しかし、その後まもなく、租税本案外事課長、また、
 条約改正委員にも任命され、
  1874年10月(明治7年9月)には、イギリス留学を命
 ぜられる。
  星が、「ハー・マジェスティー」を「女王陛下」と訳
 したところ、
  イギリス公使ハリー・パークスが、日本での女王は、
 皇族の内でも最下級で、このような呼び名を用いる事は、
 大英帝国君主の尊厳の冒瀆である、と激怒し、星の処罰
 を求めた。
  星は、英語の「クイーン」は、女の王、又は、王の后
 を意味する言葉で、「女王」と訳す事に差しつかえない、
  イギリスが、「皇帝」と訳して欲しければ「エムペラ
 ー」、又は、「エムプレス」の称号を用いるべき、と回
 答した。
  事件は、外務卿・寺島宗則が、イギリス公使の威圧に
 屈し、太政官布告によって外国君主には、全て皇帝の称
 号を用いることとし、星を免職にして解決した。
1873年、宇喜多氏の大赦
  宇喜多から浮田と、途中から姓を改めた秀家・豪姫に
 始まる八丈島の一族は、
  明治の御一新で、やっと大赦となり、
  明治天皇陛下は、明治6年に、東京板橋に宅地19900坪
 を与え、
  前田家も、金1000両を贈って、苦闘の一族(当時、8家
 に分裂)の労をねぎらった。
  それは、豪姫が、八丈島の夫や子供たちに思いを馳(
 は)せ金沢で死んでから、実に239年も後の事であった。
1873年、チェンバレンが来日し、東京大学で言語学を教え
 た。
  日本における国語学を確立した。(街道をゆく1)
1873年、横浜生糸改会社の社長に原善三郎 (横浜生糸商、
 1827年~1899年) が就任した。
1873年、抄紙会社が創立された(王子製紙)
1873年(明治6年)長崎造船局と改称した。
  後に、三菱社が、自家造船所経営の必要に迫られた。
  また、後になって、ちょうど政府が、工部省所管長崎
 造船局を民間に経営を委ねる方針を出した。
  その後、三菱社は、機を逸せず長崎造船局の貸与を願
 い出た。
1873年、ナポレオン3世が没した(1808年~1873年)
1874年(明治5年~明治6年)、出来事:
 ・北海道屯田兵制度が創設された。
 ・板垣退助、後藤象二郎らが民撰議院設立建白書を政府
  に提出した。
 ・【関八州大三角測量】 工部省の測量事業を内務省地
  理寮が引き継ぎ、「関八州大三角測量」と称して本格
  的な三角測量を開始した。
 ・板垣退助が土佐に立志社を創立した。
 ・郵便脚夫、
 ・ピストル取扱規則公布
1874年、スポーツ、
 ・工学寮にソフトボール競技の初め。
1874年、科学
 ・大坂~神戸の鉄道が開通した。
 ・釜石製鉄所が設置され発展した。
1874年、文化
 ・東京銀座にガス灯が灯った。
 ・二階建四頭立の乗合馬車、東京市内を通る。
 ・東京府、大通りの人道車道の区別を定める。
 ・新橋駅構内人力車夫数を制限する。
 ・東京市内街路樹を植える。
 ・読売新聞が発刊された。
 ・東京府、新墓地設定。
 ・浅草 伊勢屋弥兵衛、浜町(芳町)の美人芸者と結婚、
  お二人洋装、ワインで乾杯。
1874年、衣
 ・巡査の制服制帽公布。
 ・マント流行始まる。
 ・陸海軍人服制改定。
 ・長襟巻の流行。
 ・外国錦の輸入盛んになる。
 ・京都府石鹸使用を奨励する。
1874年、食
 ・津校正信、大阪市内で搾乳を始める。
 ・弘前のアメリカ人教師、アメリカよりリンゴの苗を移
  植した。
 ・政府『紅茶製法書』を刊行。
 ・浅草に紙巻タバコつくるものあり。
 ・千葉の山田箕之助、野菜の缶詰をつくる。
1874年、住
 ・竹橋陣営、煉瓦造三階建の工事完了。
 ・東京ガス会社、ガス灯の点火を開始する。
 ・工部大学校生徒館(煉瓦造二階建)できる。
 ・舶来ランプだけでなく、和製も出まわり、東京市中に
  ランプ普及する。
 ・各家庭に石油ランプが普及。
 ・駿河町三井組三階煉瓦建築成る。
1874年1月7日(明治6年11月19日)初めて郵便はがきが、
 発行された。
1874年1月12日(11月24日)山田顕義少将を清国公使に
 任命した。
1874年1月12日(11月24日)日本の最初の政党・愛国公党
 が結成された。
  政府を去った西郷隆盛が、1873年12月12日に、鹿児
 島へ帰郷し、
  この日・1874年1月12日に、板垣退助、副島種臣、後
 藤象二郎、江藤新平、由利公正、小室信夫、岡本健三郎、
 古沢滋、奥宮正由の9人が、愛国公党を結成した。
  愛国公党綱領署名式。
  副島種臣屋敷にて、
  天賦人権論に立脚して、人民の基本的人権(通義権理)
 を保護主張し人民の自立を図ること。
  「天の斯民(シミン)を生ずるや、必ず之に附するに道義
 権理を以てす。
  ・・我党の目的は、唯(タダ)斯人民の道義権理を保護
 主張し、以て斯人民をして自主自由、独立不羈の人民た
 ることを得せしむるに在る而巳(ノミ)」。
  この党は、後に、自然消滅した。
  また、「自由党史」によると・・、
  板垣退助が、土佐出身の英国帰りの2人(前海軍中佐・
 片岡健吉・前外務省6等出仕・林有造)に、国会開設建
 白を勧める。
  2人は、板垣が先頭にたつべきとしたため、板垣は、後
 藤に相談。
  後藤は、同意し、英国帰りの前左院3等議官小室信夫・
 古沢滋の意見を聞くことになる。
  次に、板垣は江藤・副島を誘う。
  「政体書」の起草者・副島は、立法権独立に理解があ
 り、板垣に賛同。
  江藤は、明治元年に議会論を唱導し、佐賀藩政改革で
 も「下之議院」を構想し、明治3年の諸官制改革案におい
 て上下議院の導入を図り、左院の議会化にも工夫をめぐ
 らすなど、筋金入りの議会論者であったから、
  これも大賛成。
  さらに、五箇条誓文の原案起草者で前東京府知事の由
 利公正や大蔵大丞岡本健三郎らも仲間に加わった。
1874年1月15日、東京警視庁の創設
  鍛冶橋内旧津山藩江戸藩邸に設置され、旧薩摩藩士の
 川路利良が、初代大警視(後の警視総監)に任じられた。
  警視庁発足時から各地で士族反乱が発生し、地方の警
 察力では対処できなかった。
  政府は、全国の警察を一元化するため、1877年(明治
 10年)1月11日に警視庁を廃止し、内務省直轄の東京警
 視本署へと改編した。(庁舎はそのまま使用された)
  沿革
  1874年(明治7年)1月15日 東京警視庁を設置(太政
    官達6号)。
  1877年(明治10年)1月11日 東京警視庁が廃止され、
    内務省に警視局を設置(太政官布告4号、太政官達
    15号、内務省達)。27日 東京警視本署を設置(警
    視局布達甲3号)。
  1877年(明治10年)3月 警視隊抜刀隊を編成、西南戦
    争に従軍。
1874年1月17日、民撰議院設立建白書を提出
  愛国公党を結成した5日後、板垣らは、この日・1月17
 日に、古沢滋(迂郎)と小室信夫が起草し、
  由利公正(前東京府知事)、岡本健三郎(前大蔵大丞)
 も加えた合計8名で、民撰議院設立建白書を政府に提出
 した。
  これは、「政治権力が、上である天皇陛下(帝室)に
 もなく、また、下である人民にもない。
  ただ、一部の官僚に集中してあるという状態、
  だから、民撰議院を設立して行く事が、国民の幸福に
 なる」、、という趣旨のもので、
  故に、議会を開くべし・・というものだった。
  しかし、政府に却下されてしまう。
  だが、翌日の新聞「日新真事誌」に全文が掲載される
 と、大きな反響を呼んだ。
  ここから、次第に自由民権運動が盛んになって行った。
1874年1月18日、勝海舟、叙正四位(氷川清話)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
by suba28 | 2016-03-21 01:42 | 皆様とともに 幸せになりたい


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