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(増補版)277E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年3月~1868年4月)


題*(増補版)277E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年3月~1868年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年、静寛院宮と天璋院:官軍が御配慮すべきことだった
  官軍は、鳥羽伏見の戦いに大勝した・・、
  意気盛んな官軍であった・・、
  これから江戸城攻撃に出発する・・
  この時にあたって、官軍が・・最も御配慮しなければ
 ならないこと・・は、静寛院宮と天璋院のことであった。
  静寛院宮(皇女・和宮、家茂夫人)は、公武合体論の
 盛衰の中に過ごされた。
  これを周旋し、勧めたのは岩倉具視(いわくらともみ)
 であった。
  岩倉としては、先帝・孝明天皇の霊に対しても責任を
 感じていた、
  何とかして宮を安泰に救わねばならないと思っていた。
  しかも、徳川方には、静寛院宮を擁して旗を上げると
 いう動きさえあるという情報もあった。
  また、天璋院は、13代の家定将軍の夫人であって、島
 津斉彬の妹御として関東に輿入れしていた。
  そして、その婚儀に際し、走り使いをしたのが西郷隆
 盛だった。
  それ故、西郷としては、天璋院の運命に関してが最大
 の関心事だった。
  無責任では到底いられない事だった。
  京都から勝と大久保宛に、次の様な達しが届いたのは
 1月22日(1868年2月15日)であった。
  「各通、勝安房守、大久保越中守、和宮御事、
  往年天下の為を以て御東下の処、其旨趣総て画餅と成
 り、既に先帝御遺憾の御沙汰も在らせられるの次第、
  古今に至り実以て容易ならざる形勢、万一不慮の事変
 も測り難く、今上に於ても言うべからざるの御苦慮在ら
 せられ、
  其方誠忠の義、兼て聞食され候間、暖急守衛、海陸便
 宜に従い、御帰京の処置深く頼みに思召され候旨、仰下
 され候事」。
  この達しが京都から届いたことによって、幕閣におけ
 る勝と大久保(忠寛)の立場に、微妙な変化が生じた。
  (西軍へのチャンネルを持っている・・と)(氷川清
 話)
  勝海舟、静寛院宮(和宮)御守衛、便宜御帰京の処置
 を頼む思召の旨、御所より内命を賜る(氷川清話)
1868年、慶喜は思った・・、
  勝・大久保が、京都側との有力なパイプとなりうると
 分かった時、迷っていた慶喜は、このパイプを通じて恭
 順の方針を貫くことが出来れば、何とか局面打開の道は
 あろうと思った。
  翌、慶応4年1月23日付で、勝は陸軍総裁、大久保は会
 計総裁に任ぜられた。
  陸軍総裁と言えば老中格であり、勝は若年寄格に引き
 上げられた(勝は、これをすぐ辞退した)。
  これで実質的には、勝・大久保の非常時内閣が誕生し、
 勝は、兵馬の大権を握って、徳川幕府の終戦処理の全責
 任を負う事になった(氷川清話)
1868年3月8日(2月15日)堺事件(土佐藩兵とフランス水兵
 の衝突事件、泉州事件ともいう)
  原因は、フランス人水兵が、町で狼藉をしたため、捕
 らえようとしたら、捕縛を逃れ、しかも、捕縛をしよう
 とした隊の隊旗を奪って逃走した。
  まったくフランス側が悪い事件だった。
  そして、事件処理が横暴であった。
  初め、堺の湾内に入って来たフランス軍艦が、湾内を
 無断で測量を始めた。
  この間に、上陸したフランス士官ら数十名が、市内で
 遊びまわり、どんちゃん騒ぎをしていた。
  その行為が、あまりにひどかったのだろう、夕刻にな
 って、そのあまりの酷さを、住民は、苦情として役所に
 届けた。
  役人は、艦に帰るようにとを論示(教え諭す)したが、
 言う事を聞かなかった。
  日本側は、やむを得ず、捕縛しようとした。
  フランス水兵は、土佐藩の隊旗を奪い、逃げた。
  土佐藩は、仕方なく発砲。
  銃撃戦となった。
  フランス水兵側に、射殺者も出て、また、酔っての足
 なのだろう海に落ち・・、
  酔いなのだろう自力で這い上がれず、水死者も出た。
  フランス側は、日本という国内法を無視して銃撃して
 いる、しかし、この後に、この行為については、まった
 く問題にされないで、
  日本側だけの射殺行為が問題にされた。
  また、これは交戦である、互いに撃っている。
  これに対し、フランスは、何もしないのに突如銃撃を
 受けたと主張した。
  死亡したフランス水兵は11名。
  列強のいつもの通りの強硬な日本政府に対する抗議・
 主張・圧力が始まった。
  結局、日本側の謝罪となった(韓国の慰安婦の問題の
 様に・・謝るべきところがないのに謝罪する日本が、こ
 の頃からあった)。
  駐日フランス公使ロッシュの5つの要求を、明治政府
 は受諾させられた。
  フランス水兵の死者数と同じ11名の土佐藩士の切腹が
 行なわれた。
  また、土佐藩主の山内豊範の謝罪もなされ、
  何と、明治天皇からの謝意も行われた。
  そして、賠償金の15万ドルも支払わされ・・、
  まったく、腹の立つ事件だった。
  尚、水兵の埋葬時にフランス公使のロッシュは、激烈
 な復讐を誓う弔文を読んだ・・「とことん復讐する」と。
  まったく、「目には目を」のキリスト教教義の教える
 ところを行なった。
1868年3月8日(2月15日)兵隊の脱走
  氷川清話:慶応4年2月15日に、赤阪屯所(とんしょ)
 の兵隊が、甲州に逃げたのを、八王子まで追って、
  新宿の宿屋まで率いて帰って、
  そこで説論を加えている間に、脱走の張本たる伍長の
 某は、とても志を達せられぬと覚悟したと見えて、
  突如、反対派の伍長某を刺して、すぐその場で自殺し
 てしまった。
  これがため、俺は(海舟〉殺されもしないですんだ。
1868年3月16日(2月23日)旧幕臣も彰義隊を組織し、上野
 に籠った。
  渋沢成一郎(しぶさわせいいちろう)らの旧幕臣が、
 彰義隊を結成して、上野に籠った。
  この成一郎は、この後、振武軍を作って飯能で官軍と
 戦い、また、北海道の箱館・五稜郭にも行き、新政府軍
 と戦った。
  明治4年に大蔵省に入省し製糸法の調査研究にヨーロッ
 パ留学し、明治7年になって、渋沢商店を開き、廻米問屋、
 生糸売込問屋を営み、東京株式取引所の理事長も務めた。
1868年3月16日(2月23日) 勝海舟が、陸軍総裁(後に軍事
 総裁)に任命され、
  幕府全権として、新政府軍との講和を目指した。
1868年3月16日(2月23日)新政府が、京都で機関紙『太政
 官日誌(だじょうかんにっし)』を創刊した。
  官報の先駆となった。
  この日、明治新政府が、太政官総裁局日誌司に編集さ
 せ、京都の御用書物師・村上勘兵衛に命じて発行させた。
1868年3月17日(2月24日)柳川春三(やながわしゅんさん)
 らによって、佐幕派の最初の機関新聞となった中外新聞
 が発刊された。
  5月の彰義隊(しょうぎたい)の戦いに際して、『別段中
 外新聞』を発行した、
  これは、新聞号外の元祖といえる。
  しかし、官軍が、佐幕派新聞に対し厳しい許可制を
 敷いたので、6月8日の第45号で廃刊となった。
1868年3月18日(2月25日)勝海舟、京都に使いに行くの内
 命あり、陸軍総裁罷免を乞う。
  同日、免ぜられ軍事取扱を命ぜられる(氷川清話)
  この日に、勝海舟は、陸軍取扱という職に異動された
 が、会計総裁となった一翁らと、朝廷の交渉に向かうこ
 とになった。
  そして、官軍が駿府城にまで迫ると、早期の停戦と、
 江戸城の無血開城を主張して、ここに歴史的な和平交渉
 が始まった。
1868年3月21日(2月28日)徳川慶喜親征の詔(氷川清話)
 (2月3日説あり)
  朕夙に天位を紹き今日一新の運に膺り文武一途公議を
 親裁す國威の立不立蒼生の安不安は 朕か天職を盡不盡
 に有れは日夜不安寝食甚心思を労す 朕不肖と雖も 列
 聖の餘業 先帝の遣意を継述し内は列藩百姓を撫安し外
 は國威を海外に耀さん事を欲す然るに徳川慶喜不軌を謀
 り天下解体遂及騒擾萬民塗炭の苦に陥んとす故 朕不得
 止断然親征の議を決せり且巳に布告せし通り外國交際も
 有之上は将来の處置最重大に付天下萬姓の為に於ては萬
 里の波濤を凌き身を以て難苦に當り誓て國威を海外に振
 張し 祖宗 先帝の神霊に對んと欲す汝列藩 朕か不逮
 を佐け同心協力各其分を盡し奮て國家の為に努力せよ。
1868年3月22日(2月29日)外国の報道
  この日の「ル・タン」には、香港のイギリス紙からの
 転載として、
  「日本では大君が、大名軍に完敗を喫し、江戸へ逃れ
 た由。
  内乱のため、貿易は麻痺。
  帝(みかど)は、外国公使たちに諸条約を尊重すると
 の覚書を送った」と報じた。
1868年3月23日(2月30日)パークス襲撃事件
  英国公使パークスが、京都で攘夷党の壮士数名に襲わ
 れるが、後藤象二郎らに救われた(陰暦30日)
  イギリス公使パークス一行は、明治天皇に謁見するた
 め宿舎の知恩院を出て御所に向かう途上、2人の男に襲撃
 された。
  すぐさま、護衛の中井弘蔵と後藤象二郎が反撃し、犯
 人の一人朱雀操を斬殺した。
  もう一人の犯人である三枝蓊も、他の警護兵に重傷を
 負わされ、逃走しようとした所を捕縛され、襲撃は失敗
 に終わった。
  三枝は、同年3月4日に斬首された。
1868年3月25日(3月2日)勝海舟が、薩摩藩・南部弥八郎、
 肥後七左衛門、益満休之助、冬より拘留、今般申旨あり、
 許可を得、右3名本日より勝邸に預かる(氷川清話)
1868年3月28日(3月5日)勝海舟が、山岡鉄舟(山岡鉄太郎)
 に会う。
  勝海舟、初めて山岡鉄太郎に会う。
  駿府滞在中の西郷参謀に一書を寄す。
  山岡が持参す。益満が同行する(氷川清話)
  この時、勝海舟は、次なる策も考えていた・・
  西郷との談判が不調に終わって、どうしても戦争とな
 った時の策として、勝海舟の用意したことは3つあった。
  1つは、慶喜の亡命策である。
  第2は、焦土戦術で、
  江戸を焼き払ってしまう策である。
  これは、ナポレオン戦争に学んでいる、侵攻されたロ
 シアの策である。
  ナポレオンは、モスコーを陥落させるために苦しめら
 れている。
  勝も、あらかじめ、都下の無頼の徒を、とび職や、火
 消組の親分、そして、博徒の親方、運送の親方、非人の
 頭など、主だったもの35,6名を組織して、合図があった
 ら直ちに動けるようにしてあった。
  将軍・慶喜の奥方にお咲という女性が居たが、この女
 性の父親が、浅草の新門辰五郎という江戸の町火消のボ
 スで、人物も立派で、江戸のそういう連中から尊敬され
 ていた。
  新門の親分が、大の慶喜ファンであるから、この親分
 の「つて」で他の親分にも渡りを付け、海舟は、4つの手
 籠に乗って、一々、それらの頭の家へあいさつ回りをし
 て手を打った。
  何しろ安房守様が直々に頼みに来たのであるから、彼
 らは感激した。
  それぞれが莫大な金ももらっていた。
  これが、江戸の治安を維持するにも役立ち、無警察状
 態になった市中を取りまとめる働きをした。
  そして、いざとなれば直ちにゲリラ活動に移って、一
 斉に火を放ち、薩長の錦切れと見れば襲撃するという段
 取りだった。
  第3には、江戸の市民の生命財産を出来るだけ安全に
 守り、その逃げ道を考えて、船で千葉・神奈川の沿岸地
 方へ退去させる策である。
  信田歌之助・成川禎三郎・伊志田某に命じて、秘かに
 房総の海岸にある大小の船という船はことごとく借り上
 げ、これを江戸の川々に導き、小舟から大舟へと被災者
 を運んで逃がす寸法である。
  これらの準備のため、会計総裁の大久保忠寛から莫大
 費用を出させた。
  また、この時に、用意した火付けの道具類なども、後
 で、品川の海へ捨てるのに苦労した上、そのことで大い
 に官軍の疑惑も受けた。
1868年4月1日(3月9日)江戸城の無血開城のいきさつ
  俺は、この罪のない江戸市民の百万の生霊をいかにし
 ようかという事に、一番苦心したのだが、
  もはやこうなっては仕方がない。
  ただ至誠(しせい、極めて誠実なこと、まごころ)を
 もって利害を官軍に説くばかりだ。
  官軍が、もしそれを聞いてくれねば、それは官軍が悪
 いので、俺の方には、少しも曲がったところがないのだ
 から、その場合には、華々しく最後の一戦をやるばかり
 だと、こう決心した。
  それで、山岡鉄太郎が静岡へ行って、西郷に会うとい
 うから、俺は、一通の手紙を預けて西郷へ送った。
  山岡と会ったのは、この時が初めてだった。
  それも、大久保一翁などが、山岡は、俺を殺す考えだ
 から用心せよと言って、ちょっとも会わせなかったのだ
 が、
  この時の面会は、その後、十数年間、莫逆(ばくぎゃ
 く、ばくげき、心に逆らうことなし、非常に親しい間柄)
 の交わりを結ぶもとになった。
  さて、山岡に預けた手紙で、先ず、俺の精神を西郷へ
 通じておいて、それから、彼が品川に来るのを待った、
  さらに手紙をやって、今日の場合、決して兄弟(けい
 てい)牆(かき)に鬩(せめ)ぐべき時でないことを論
 じたところが、向こうから会いたいといってきた。
  そこで、いよいよ官軍と談判を開くことになったが、
 最初に、西郷と会合したのは、ちょうど3月の13日(1868
 年4月5日)で、この日は、何も他の事は言わずに、ただ
 和宮(皇妹、将軍・家茂夫人)の事について、一言、言
 ったばかりだ。
  全体、和宮の事については、かねて京都から、俺の所
 へ勅使が下って、「宮もよんどころない事情で、関東へ
 御降嫁になったところへ、はからずも今度の事が起こっ
 たについては、陛下もすこぶる寝襟(しんきん)を悩ま
 して居られるから、お前が宜しく忠誠を励まして、宮の
 御身の上に万一の事のないようにせよ」とのことであっ
 た。
  それ故、俺も、最初にこのことを話したのだ。
  「和宮の事は、定めて貴君もご承知であろうが、拙者
 も一度お引き受け申した上は、決して別条のある様な事
 は致さぬ。
  皇女一人を人質に取り奉るというごとき卑劣な根性は
 微塵(みじん)も御座らぬ。
  この段は何とぞご安心下されい。
  その他のお話はいずれ明日罷り出て、ゆるゆるいたそ
 うから、それまでに貴方も篤と御勘考あれ」と言い捨て
 て、その日はすぐ帰宅した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
by suba28 | 2016-01-19 03:13 | 皆様とともに 幸せになりたい


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