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(増補版)276E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年2月~1868年3月)

題:(増補版)276E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年2月~1868年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年2月、勝海舟、越前・肥後両侯に一書を呈し外交の要
 を述べ、反省を求む(氷川清話)
1868年2月、洋銀1で金3歩に換えることを布告す(氷川清話)
  日米和親条約の通貨取り決めで、自国貨幣と外国貨幣
 の自由な交換を認めさせられたのは、外国貨幣の自国内
 通用を公然と認めたことになって、
  我が国の通貨主権の喪失となり、不平等条約の一面で
 あった。
  メキシコが、銀産出が世界一で多く、国際的な決済通
 貨となっていた。
  米ドル銀貨もこのメキシコ銀の洋銀であった。
  この様な洋銀(0.866オンス、銀含有量90%内外)と、
 我が国の貨幣(一分銀など)との換算率が問題だった。
  日米和親条約締結の当初は、米ドルの1ドル=銭1貫200
 文としていた。
  その後、着任したハリスは、アメリカが不利だと主張
 し、アメリカ有利に変えさせられた。
  この様な変遷の中にある貨幣主権だった。
1868年2月18日(1月25日) パークスが、戊辰戦争に対する
 英国の局外中立を宣言した。
  これは、2月14日(1月21日)の新政府の要請を受けた
 形で行われた。
  これは、諸外国が、かつて条約を締結した政府として
 の徳川家と、新政府が交戦状態になっていると確認させ
 た事となった。
  他国もこれに追従した(米、仏、蘭、普、伊の5か国が
 局外中立を宣言した)。
1868年2月20日(1月27日)倒幕の官軍が、菊花章の旗幕を
 用いた。
1868年2月25日(2月3日)「徳川慶喜親征の詔」を発した。
  明治天皇は、二条城太政官に行幸し、倒幕の為の「徳
 川慶喜親征の詔」を発布した。
  朝廷が、幕府討伐、東征の大号令を発した。
  有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が、
 慶喜追討の旨を洛中洛外に公布した。
  諸藩に勤王を誓わせ、征東軍の陣容を整えた。
  自身は、親征大総督として、十余藩を率い、3月15日を
 江戸総攻撃の日と目し、東海道を江戸に進んだ。
  徳川慶喜親征の詔::
  朕夙に天位を紹き今日一新の運に膺り文武一途公議を
 親裁す國威の立不立蒼生の安不安は 朕か天職を盡不盡
 に有れは日夜不安寝食甚心思を労す 朕不肖と雖も 列
 聖の餘業 先帝の遣意を継述し内は列藩百姓を撫安し外
 は國威を海外に耀さん事を欲す然るに徳川慶喜不軌を謀
 り天下解体遂及騒擾萬民塗炭の苦に陥んとす故 朕不得
 止断然親征の議を決せり且巳に布告せし通り外國交際も
 有之上は将来の處置最重大に付天下萬姓の為に於ては萬
 里の波濤を凌き身を以て難苦に當り誓て國威を海外に振
 張し 祖宗 先帝の神霊に對んと欲す汝列藩 朕か不逮
 を佐け同心協力各其分を盡し奮て國家の為に努力せよ
  (氷川清話):関東追討使宣下る。慶喜、大阪城を退
 き江戸城に帰る。
1868年、各国公使を参朝させる(氷川清話)
  参朝(さんちょう):朝廷に出仕すること。参内(さ
 んだい)
1868年2月末~3月初旬、幕府軍の殺気・・充満
  2月初旬(1868年2月末~3月初旬)より、幕府の兵隊の
 殺気が充満。
  脱走をはかるもの四方に起こる。
  ために、勝海舟、東西に奔走、説諭鎮撫に忙殺される。
  ある夕方、銃丸雨射にあう。
  従卒2名倒れる(氷川清話)
  この事について・・、
  慶応4年、幕府の兵隊は、およそ8000人もあって、それ
 が機会さえあれば、どこかへ脱走して、事を挙げようと
 するので、
  俺も、その説諭にはなかなか骨が折れた。
  何でも2月であったが、3番町に兵隊が2大隊、およそ
 1000人ばかりあるのを、1大隊は、どうかこうか説諭して
 静まらせたけれど、
  もう1大隊の方は、まだ、その暇がないうちに、200人
 ばかりは、5日に脱走するし、
  残り300人ばかりは、7日の夜、にわかに塀を越えて大
 路へ出て、むやみに鉄砲を放って乱暴をするので、士官
 も手のつけようがなく困っていた。
  そこで、俺は、先に説諭した1大隊をも土手ぎわへ整列
 させて、「もうこうなったは致し方がないから、貴様た
 ちの中にも俺の説諭が分からない者があるなら、この際、
 勝手に逃げろ」と命令した。
  その間に、かの塀を越えた300人は、どんどん九段坂を
 下りて逃げるものだから、こちらの奴もじっとしていら
 れない、
  50人ばかり、闇に乗じて後ろの方から俺に向かって発
 砲した。
  すると、かの脱走兵の中にも踏みとどまって、俺の提
 灯を目がけて一緒に射撃するので、俺の前に立って居た
 従卒二人は、急に、胸を貫かれて倒れた。
  この二人は、いずれも勇気のある男だから、始終俺の
 側に置いた者だ。
  従卒は倒れる、提灯は消える、
  付近は真っ暗になったものだから、俺は幸いにちょっ
 とも負傷はしなかったが、
  兵隊は残らず逃げてしまった。
  今の土手際へ整列していた1000人も、勢い留まるわけ
 にはいかないから、これも千住の方へ逃げてしまった。
  この時、死んだ者は、兵卒がわずかに4人で、傷を負っ
 たものは6,7人に過ぎなかった(氷川清話)
1868年2月25日(2月3日)新政府が、官制を改め、三職八局
 の制とした。
  慶応3年旧12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号
 令が出されると、依然として強力な政治体制を維持して
 いた江戸幕府に代わる政治体制の確立が急務となった。
  そこで、幕府・征夷大将軍・摂政・関白に代わるもの
 として、総裁(有栖川宮熾仁親王)、議定(皇族2名・公
 卿3名・薩摩・尾張・越前・安芸・土佐の各藩主の計10名)、
 参与(公卿5名、議定5藩より各3名の計20名)の三職が任
 命された。
  慶応4年(明治元年)1月には、この下に神祇・内国・
 外国・海陸軍・会計・刑法・制度の七科を置いて三職七
 科とし、当面の政務に当たることになった。
  翌2月には、科を局として総裁局を設置し、三職八局と
 した。
  総裁局には副総裁を置き、議定の岩倉具視と三条実美
 をこれに任命して、熾仁親王を補佐することとなった。
1868年2月、渡仏した徳川昭武らの苦労
  徳川昭武(あきたけ)らが、1867年2月に、使節団を率
 いて渡仏したが、
  この使節団には、フランスから金を借りるという役目
 もあった。
  しかし、慶応4年1月(1868年2月)、昭武の兄である将
 軍・徳川慶喜が、大政奉還を行なったことを知り、
  使節団の立場も微妙なものとなった。
  慶応4年3月(1868年4月)鳥羽・伏見の戦いの報が、フ
 ランスの新聞に掲載された。
  随行していた栗本安芸守らは帰国し、昭武らの7名は残
 った。
  ほどなく、明治新政府から帰国要請が届くが、
  慶応4年4月(1868年5月)に、慶喜から、このまま滞在
 し勉学する様にと、手紙が送られて来ていた。
  しかし、1868年8月に至り、新政府より帰国命令書が届
 いた。
  そして、ついに帰国する事となった。
  この様な経緯から、フランス政府は、欧州に5年間留学
 の予定であった徳川昭武や、他の留学生の指導などにト
 ラブルが発生した。
  これは、在日しているアーネスト・サトウらが、薩摩
 寄りのため、
  「日本は一種の連邦国家であり、幕府は全権を有して
 いない」などとの情報も、もたらしてもいたからだった。
  この様な事から、フランス政府も無視できず、結果的
 に小栗忠順が成約したフランスからの600万ドル借款が、
 取り消されてしまった。
  このあたりの事について、勝海舟は書いている・・、
  慶喜様の時になっては、とうとう、幕府も往生して、
 はるばるフランスまで、金を借りに行くことになった。
  使者は、あの向山黄村(むこうやまこうそん、徳川昭
 武の随行員)で、
  随行員は、田辺太一などの連中であった。
  ところがかえって、フランス自身があのような革命騒
 ぎになったものだから、
  他国へ金を貸すどころの話でない。
  そこで、向山らは、仕方がないから、オランダまで廻
 ってきたが、さてそれから日本に帰る旅費が無い。
  それは、最初、向山らは、フランスに着きさえすれば、
 金は確かに借りられるものと、あまり大丈夫に当て込ん
 だから、
  行く時に、帰国の旅費を持たなかったのだ。
  しかし、まあ、やっとのことで、オランダで旅費だけ
 を工面して、ようやく帰ったが、ずいぶん辛かったであ
 ろうよ(氷川清話)
1868年3月1日(2月8日)歌舞伎ブーム
  戊辰戦争の頃の治安の悪さ、不景気をよそに一時、花
 が咲いたように「田之助ブーム」で沸き立った。
  それは慶応3年の9月に、脱疽のために片足を失った美
 貌の名女形・三代目・沢村田之助が戻って来たからであ
 った。
  2月8日が初日だった。
1868年3月2日(2月9日)有栖川宮熾仁親王を、東征大総督
 に、嘉彰親王を海軍総督に定めた。
  鳥羽・伏見の戦いにおいて設置された征討大将軍の職
 が廃止された後、
  慶応4年(1868年)2月9日に、新政府は、東征大総督府
 を設置し、新政府の総裁に任命されていた有栖川宮熾仁
 親王を、総裁在任のまま、東征大総督に任命し、
  先行して設置されていた東海道、東山道、北陸道の鎮
 撫使を、改めて先鋒総督兼鎮撫使として、東征大総督府
 の指揮下に置いた。
1868年3月5日(2月12日)徳川慶喜が、江戸城を出て、上野
 の東叡山寛永寺に入り、謹慎の意を表した。
  慶喜、東叡山大慈院に入り謹慎す(氷川清話)
  [慶喜、上野寛永寺へ向かい謹慎へ]
  朝六つ、慶喜は上野寛永寺大慈院に向かった。
  あくまで恭順と進言したのは勝安房らであった。
  慶喜を護衛した精鋭隊長・高橋伊勢守(泥舟)も同じ
 考えであった。
  上野に入ったのは、そこが徳川家の菩提寺であり、住
 職を輪王寺宮こと一品宮公現法親王が勤めていた。
  慶喜は、本坊の輪王寺宮に謁し、京都への謝罪の周旋
 を依頼してから、その塔頭の一つ大慈院に入った。
  謹慎し、武力抵抗のない事を素手の慶喜は示そうとし
 た。
1868年3月5日(2月12日)、その日の事・・、
  1月16日(1868年2月9日)に、江戸に帰った近藤勇と土
 方歳三の両名は、佐倉藩江戸留守居役・依田七郎に江戸
 城に召し出されて面談した。
  そして、鳥羽伏見の戦いの状況について説明した。
  幕府軍の装備が遅れていることを進言した。
  銃と大砲が無ければ戦いになりませぬ、剣と槍では戦
 は不可能だと・・、
  そして、再び、2月12日(1868年3月5日)に、近藤勇は、
 江戸城に召し出され、慶喜の護衛を命ぜられた。
  「新選組に、上野寛永寺に謹慎中の慶喜公の警護を任
 せたい」と、・・
  しかし、この日、雑司ヶ谷茗荷屋(ぞうしがや、みょ
 うがや)に秘かに集まったものが居た。
  その数・17名・・後に、彰義隊となって行く。
  その会合召集の書状は「橋府随従之有志」の名で出さ
 れている。
  慶喜の大政奉還を「公明至誠の御英断」と讃え、それ
 なのに追討令が下ったことを「切歯に堪ゆべからず候」
 という。
  「君恥らるれば臣死するの時」、いよいよ官軍が東下
 するにあたり、鴻恩に報いるため百事相談したい。
  これは、慶喜の出身である一橋家に仕える者達の回状
 であった。
  起草者は本多敏三郎。
  後半は伴門五郎という。
1868年3月10日(2月17日)彰義隊の結成会合(2)
  彰義隊の前身の集まり(3月5日)は、17名で、これで
 は人数が少ないという事で、改めてこの日・1868年3月10
 日、四ッ谷鮫ヶ橋円応寺に集まった。
  さらに3月14日にもあつっまり、円応寺に集まった人数
 は67人と、人数は増えて行った。
1868年3月16日(2月23日)彰義隊の結成会合(3)
  彰義隊の前身の集まりは、会合を重ねるうちに人数も
 増えて行ったが、この日・3月16日には、浅草本願寺に場
 所を移した時は130名になっていた。
  そして、彰義隊と名を付けた。
  そして、「同盟哀訴申合書」を旧幕府に差し出した。
  幕府の政治に温かさを感じた人たちの多かったことを
 これは示していた。
  そして、この書は、慶喜の恭順に同意しつつも、君側
 の奸を除くという表現や、同盟決死といった不穏な表現
 もあって、旧幕府側はこの上申を拒否した。
  しかし、この集まりの噂を聴いて本願寺に馳せ参ずる
 ものは多かった。
  まったく名が示すように「義」を「彰(しょう、あら
 わす)」、義をあらわす無欲の人達の隊だった。
  日本人の誰もが持つ徳性をあらわす隊だった。
  その勢力は日毎に増して、平和開城派の勝安房らは、
 これを憂慮した。
  西郷が送り込んでいた輩などの行動などもあって、ち
 ょうど、江戸市中の治安も悪化していて、白昼から盗賊
 が横行していた。
  むしろ、彰義隊を使って、これを治めさせれば暴発も
 すまい・・と、市中警護を申付けた。
  つまり、幕府の正規軍となった。
  彰義隊の300余人は、喜んで、丸提灯に朱を塗っている
 類は「彰」の字を、あるいは「義」の一字を表して、日
 夜、市中を回った。
  江戸市民は、彰義隊を「徳」とし、ますます隊士は増
 加した。
  真実の市民革命・名誉革命の様相だった(イギリスの
 偽の名誉革命ではない)。
  人数がますます集まり、東本願寺では手狭となった。
  ついに、恭順中の慶喜公を守護せんと、上野東叡山に
 屯集した。
  上野に引き入れずばなるまいとしたのは輪王寺宮側近
 の執刀覚王院義観であった。
  しかし、この様な武力集団が上野に立てこもって困っ
 たのは謹慎中の慶喜と勝安房らであった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
by suba28 | 2016-01-18 01:31 | 皆様とともに 幸せになりたい


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