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(増補版)275E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年2月~1868年2月)

題:(増補版)275E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年2月~1868年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年2月3日(慶応4年1月10日)徳川慶喜の官位剥奪
  徳川慶喜・松平容保(会津藩主、元京都守護職)・松
 平定敬(桑名藩主、元京都所司代)を初め幕閣など27名
 の官位が剥奪され、京都藩邸など領地も没収という処断
 が下された。
1868年2月3日(1月10日)大君の名称を天皇に変える旨、条
 約国に示す(氷川清話)
1868年2月4日(1月11日)新政府が、諸藩に対して兵を上京
 させるように命じた。
1868年2月4日(1月11日)慶喜ら、品川到着、幕府内騒然
  慶応4年1月11日に、慶喜らが、伏見鳥羽の戦いに敗れ、
 軍艦で品川に帰った。
  幕閣では、連日、議論百出、てんやわんやの騒動であ
 った。
  会議をリードしていたのは小栗上野介・小野友五郎ら
 の経済閣僚だった。
  フランスの援助によって断乎一戦を交えようという主
 戦論派であった。
  勝・大久保の恭順論は意気地なし、腰抜けの議論と見
 られていた。
  慶喜自身は、中間にあった。
  勝・大久保が、京都から「其の方、誠忠の義、兼て聞
 食(きこしめす、聞くの敬語)され候」と呼びかけられ
 ていて、この事で、京都側との有力なパイプとなりうる
 と分かった時、迷っていた慶喜の決心はついた。
  このパイプを通じて恭順の方針を貫くことが出来れば、
 何とか局面打開の道はあろうという、先の光が見えて来
 た。
  慶応4年1月23日付で、勝は陸軍総裁、大久保は会計総
 裁に任ぜられ、小栗一派の主戦派は追放される事になっ
 た。
  (幕臣の日記):今夜、品川御着船。此程日々風烈。
 昨日、浦賀御一泊。
1868年2月4日(1月11日)神戸事件(明治最初の外交問題)
  神戸の三宮神社前で、備前藩(現・岡山県)兵が、隊
 列を横切ったアメリカ・イギリス・フランスの水兵らを
 切り捨てた(無礼討で負傷させた)。
  銃撃戦になり、また、居留地予定の地を検分中の欧米
 諸国公使らにも銃撃を加えた。
  神戸港に停泊する日本船舶が拿捕されたり、神戸を占
 拠されるなどした。
  明治政府の初の外交問題となった。
  決着は、備前藩の隊の責任者の滝善三郎が切腹し、ま
 た、備前藩の家老の謹慎処分などで一応の決着を見た。
  しかし、又も、日本側が悪いとなった。
  武家諸法度にも記されている「供割(ともわり)」と
 呼ばれる最高に無礼な行為となっている。
  日本の法や慣習(無礼行為)などを知らない外国側が
 悪い訳なのだが?
1868年2月5日(1月12日)前将軍・徳川慶喜が、品川から
 江戸に入った(江戸帰還)。
  (前将軍・徳川慶喜様)、浜御殿へ御上陸。
  直ちに韶切りにて西丸へ還御(かんぎょ、高貴な人が
 出かけた先から帰ること)。
  「素より天朝に対し奉り他心あるにあらず、宸襟(し
 んきん、天子の心)を悩まし奉りしは恐懼(きょうく、
 おそれかしこまること)に堪へざれば、浪華城(ろうか
 じょう、大阪城)は尾張、松平に託し、謹みて東退仕る
 なり」との奏聞(そうもん、天子に申し上げること)書
 を捧げた。
  正月十二日、江戸に帰った慶喜は、一意恭順して、朝
 敵の汚名を雪ごうと努力した。
  静寛院宮(和宮)は、慶喜の衷情を知り、徳川の滅亡
 を救うべく周旋された。
  実に御一身にかえての奏請であった。
  輪王寺宮も、水戸慶篤も、田安慶頼も奔走し、小田原
 藩主以下の諸侯も、慶喜の為に、数多く上書した。
  しかし、其の効を見る前に、戦機は刻々迫って行った。
1868年2月5日(1月12日)、この日の夜、小川町伝習隊の兵
 卒が2大隊、それも乱暴をしながら逃げたのだが・・、
 (氷川清話)
1868年2月6日(1月13日)徳川慶喜が、江戸城中にて和戦
 会議(和か?戦か?)を開いた。
1868年2月8日(1月15日)明治天皇が、元服された。
1868年2月8日(1月15日) 朝廷が、東久世通禧を派遣し、
 各国外交団に対し開国和親・条約遵守を宣言し、神戸事
 件の交渉を開始した。
1868年2月8日(1月15日)王政復古の通告(2月3日説あり)
  王政復古を、外国公使に通告した。
  新政府外国事務取調掛の東久世通禧が、兵庫で、各国
 の公使と会見し、王政復古の国書を手渡した。
  「明治元年一月十日付
  日本国天皇、各国帝王及び其の臣人に告す。
  さき将軍・徳川慶喜政権を帰するを請い、制してこれ
 を允し内外政事これを親裁す。
  乃ち日く。
  従前の条約、大君の名称を用いると雖も、今より以後、
 まさに天皇の称を以て換ふべし。
  しかして各国交際の職専ら有司等に命ず。
  各国公使この旨を諒知せよ」
1868年2月8日(1月15日) 徳川慶喜が、主戦派の中心人物
 である小栗忠順を解任し、恭順の意志を表明した。
1868年2月9日(1月16日)親王、及び、大臣の席次を定めた。
1868年2月、福沢諭吉は・・、
  福沢諭吉は、鳥羽伏見の戦いに敗れ、徳川慶喜が大阪
 城を抜け出して江戸に帰還し、江戸城が上へ下への大騒
 ぎになったときに、それを見て、苦笑し、江戸で戦火が
 開かれれば自分は真っ先に逃げると公言していた。
  上野の彰義隊が攻撃を受けているときに、平然と塾生
 に経済学の勉強をさせていたのも、これも当事者でない
 からできた。
  しかし、まさに幕臣の頂点に立っていた勝はそうは行
 かない。
  勝は、実行家にならざるを得ず、しかも、矛盾した事
 でもやらざるを得なかった。
  その矛盾とは・・、近代国家を目ざしながら徳川家の
 名誉だけは守るという事であった。
  結果として、勝は、江戸城無血開城をやり遂げた。
  氷川清話に、「勝海舟、軍艦奉行より海軍奉行並命ぜ
 られる(2月10日)」とある。
1868年2月9日(1月16日) 長崎奉行・西役所が、長崎会議
 所と改められ、長崎奉行の権限が引き継がれた。
  この後、3月9日(2月16日)に至り、「長崎会議所」を
 廃止し、「長崎裁判所」が正式に発足した。
  これは、明治政府が、旧長崎奉行支配地を管轄する行
 政機関として長崎裁判所を置いたのだった。
  そして、府庁が外浦町に設置された。
  また、所内に「九州鎮撫長崎総督府」が置かれた。
  1869年(明治2年)7月28日、「長崎府」が「長崎県」
 にあらためられた。
1868年2月10日(1月17日)外国総奉行・堀直虎が、江戸城
 において、徳川慶喜に恭順を直諌し、潔く自刃した。
1868年2月10日(1月17日)勝海舟が、軍艦奉行より海軍奉
 行並を命ぜられた。
1868年2月12日(1月19日)フランス公使ロッシュが、一旦、
 江戸に戻り、江戸城に徳川慶喜を訪れ、再挙・再起を促
 すが拒否された。
  不届き至極のフランス公使ロッシュだった。
1868年2月13日(1月20日) 青松葉事件。
  尾張藩内での佐幕派弾圧事件。
  この日、尾張藩内の佐幕派の領袖と目されていた尾張
 徳川家の家老・渡辺新左衛門在綱を始め、三重臣が、名
 古屋城二丸御殿向屋敷にて斬首された。
  1月25日(1868年2月18日)までに更に十一名の尾張藩
 士が処刑された。
  なぜ起きたかの真相は不明となっている・・が、
  幕末の主な大名家は、一橋家の血統に繋がる人物が藩
 主となり、
  それに対抗しているのが、系統的には水戸の血を引く
 一橋本家という捻れ現象だった。
  尾張藩も例外ではなく、一橋系が藩主を務めていた。
  ・・が、しかし、14代・慶勝は、支藩の高須家から入
 った人物で、水戸の血縁のため、勤王の考えに近い人物
 だった。
  家臣も2派に分れて、付家老の竹越を中心にした佐幕派
 と、成瀬を中心にした勤王派で、青松葉事件というクー
 デターで、慶勝・成瀬ラインが佐幕派の粛正に成功し、
 官軍に加わった。
1868年2月14日(1月21日)新政府が、外国事務総督・東久
 世通禧から諸外国の代表に対して、徳川方に武器・軍艦
 の供与や兵の移送、軍事顧問の派遣などの援助を行わな
 いよう要請した。
1868年2月14日(1月21日)薩摩藩の沖直次郎と、芸州藩の
 石津蔵六を、長崎の会議所総代として、京都にのぼらせ
 た。
  二人は、長崎奉行が脱走して空席となった後の、長崎
 の治安状況や、外交処理の経過を、中央政府に詳しく報
 告するためだった。
  また、二人は、鎮撫使(ちんぶし、諸国の治安の巡察、
 監察などを任務とした)の下向を強く要請した。
  鎮撫使は、兵力をもって治安にあたる軍政機関であっ
 て、軍政と民政の総督を兼ねていた(治安維持権力の要
 請)。
1868年2月15日(1月22日)大阪に鎮台を設置した。
1868年2月16日(1月23日)徳川慶喜が、主戦論者を排除し、
 恭順論の主唱者・勝海舟を用いた。
  勝海舟、収拾のため起用される。
  勝安房守義邦、陸軍奉行、慶応4年1月23日~4年4月(
 氷川清話)
  権力を失った幕府は、小栗忠順を罷免し、勝安房守(
 あわのかみ)を収拾のために起用した。
  勝海舟、陸軍総裁若年寄を命ぜられ若年寄は直ちに辞
 す(氷川清話)
  [勝海舟へ戦争の勧め]
  勝海舟が、陸軍総裁となって3日目、フランス陸軍教官
 シャノワンが、士官数名と共に勝に会いに来た。
  そして、戦争を勧めた。
  「吾々が、これまで教え育てた優秀な士官兵隊数百名
 は、皆、熟練した兵力である。
  今や陸軍総裁となった男が、これを率いて戦えば必ず
 勝つ。
  吾々も大いに協力しよう。・・どうかご返事を承わり
 たい」。
  勝は、困ってしまって、「明日に御返事しましょう」
 と言って帰した。
  その夜、勝は、直ちに、フランス公使ロセスを訪ね、
 幕府の方針は、恭順に決した事を言い、
  シャノワンの厚意は有り難いが、その雇いを解約した
 い、と申し入れた。
  翌日、シャノワンの館を訪ねて、同様の事を説明して、
 幕府は、決して戦わぬ方針に決めた、と告げると、
  シャノワンは不思議は面持ちで、どうしてこんなに優
 勢な兵力があるのに戦わないのか。
  戦えば必ず勝ち、東北諸藩も協力して、形勢は我に有
 利になるのに、実に惜しい。
  君自身の立場もなくなるではないか、と懇々(こんこ
 ん)と説教した。
  勝は、その親切は有り難いが、今はやむを得ない。
  たとえ自分の身がどうなろうと、それは天のみぞ知る、
 御教訓は忘れない・・と、答えて別れた。
  公使ロセスは、慶喜の所にも行って、極力抗戦を勧め
 たのである。
  しかし、勧告が聞かれないと見るや、ロセスは急いで
 帰国し、フランス軍教官たちは、この後、榎本武楊らの
 脱走兵について、東北・北海道に転戦するのである(氷
 川清話)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
by suba28 | 2016-01-17 01:41 | 皆様とともに 幸せになりたい


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