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(増補版)265D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1865年7月~1865年12月)

題:(増補版)265D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1865年7月~1865年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1865年、坂本龍馬が、長崎で活動する亀山社中は・・、
  亀山社中は、貿易結社で、且つ・・、
  物資の輸送とともに、航海訓練を行うなど、
  私的な『海軍』の性格も持っていて、海援隊の前身と
 なった。
  坂本龍馬(28歳)は、八月十八日の政変以後、公武合
 体派の反動化で、神戸海軍操練所が閉鎖され、この時点
 で、幕府への望みを断った。
  勝海舟の紹介で、西郷隆盛を知り、
  薩摩藩へ接近した。
  同藩の援助のもとに、長崎に亀山社中を作り、海運貿
 易にを行ない・・、そして・・、
1865年10月5日、勝海舟、長崎へ下向(幕府対長州藩抗争の
 調停を兼ねて)
1865年10月12日、山内作左衛門(やまのうちさくざえもん、
 幕臣、実業家)の一行6名が命ぜられ長崎を出帆した。
  遣露留学生の目付け役としてロシアに渡った。
  作左衛門は、後に東京・日本橋で資生堂を開く。
1865年10月13日、幕府は、フランスの協力を得て、レオン
 ス・ヴェルニーの指導で、横須賀製鉄所を着工した。
  横浜製鉄所・横須賀造船所が起工した。
1865年11月4日、兵庫開港要求事件(11月7日説あり)
  英・米・仏・蘭の四国の軍艦が兵庫に入港し、各国公
 使が京都に上りて開港を請う(こう、願う、求める)
  (別史料):イギリスの公使のパークスの主導で、英・
 仏・蘭の三ヶ国艦隊が、兵庫沖に来航した。
  (米が抜けている史料もある、これに関して、アメリ
 カ合衆国は、艦隊を派遣しなかったが、公使が同行して
 いるという説明史料もある)。
  条約勅許と兵庫の早期開港を求めた。
  1858年に結ばれた安政条約に明記されながら・・、
  今だに、朝廷の許可が無いために開港がなされていな
 かった兵庫(神戸港)・・7年間も粘った日本・・だった
 が、この問題を巡って・・、
  イギリスの公使のパークスが主導する英・仏・蘭・の
 連合艦隊が、1865年11月4日(慶応元年9月16日)に、兵
 庫沖に迫った。
  攘夷派への配慮から・・わざと幕府が、外交を停滞さ
 せているとみたパークスらは・・薩長が攘夷策を放棄し
 た時点で、障害はのぞかれたはずであるとした。
  兵庫開港か、条約勅許を求めた威圧行動だった。
  譲歩案として、イギリスは、下関戦争の「賠償金の引
 き下げに応じる」という姿勢を見せた。
  幕府は、外交の主導権と、交渉の主導権を握ろうとし
 て、老中の阿部正外・松前崇広らは、この動きに対して
 幕府単独で、開港という方針を決めた。
  しかし、朝廷との連携を重視する徳川慶喜は、この決
 定に驚き、
  朝廷との関係悪化が予想されたため、この決定に難色
 を示した。
  そして、慶喜は、独断で兵庫開港を決めた阿部・松前
 に対し、単独の無断開港決定に抗議すると共に、朝廷を
 介して老中らの罷免の令を出した。
  慶喜としては、幕府の屋台骨がぐらついてるこの時、
 朝廷の支持を失うことが一番恐れている事だった。
  慶喜は、朝廷の支持が無くなれば、雄藩による諸侯連
 合を唱える薩摩藩等の諸勢力に、政権は奪われるだろう
 と判断していた。
  しかし、この老中罷免の令が出るという異常事態に、
  また、朝廷による、幕政介入という事態に、
  慶喜に対する不満と疑念が、幕臣たちの間で深まって
 行った。
  この時、家茂が、将軍辞職の宣言をした(1865年11月
 18日)、
  そして、家茂が、江戸に帰国するという混乱が起きた。
  慶喜は、家茂を説得した(11月24日、正式撤回となっ
 た)
  また、慶喜は、条約勅許、兵庫開港をめぐって、在京
 の諸藩士を集め、
  その討議の上で、1865年11月22日(慶応元年10月5日)、
 朝廷の条約勅許を得た。
  (但し、兵庫の開港は不許可で延期)。
  この時、関税改正の合意も得るというイギリスの要求
 事項も受け入れられた。
  これで了承した四国艦隊は、兵庫沖から去った。
  翌年の1866年6月25日(慶応2年5月13日)に、改税約書
 (かぜいやくしょ)が調印された。
  これによって、欧米の日本市場への進出が決定的なも
 のとなった。
  この条約は、明治政府を困らせ、煩(わずら)わせる
 事となる。
  明治時代における不平等条約の改正(条約改正の主目
 標)となった。
  この条約によって、輸入関税が大幅に引き下げられた。
  日本への輸入量が急増し、日本の産業は壊された。
  大量生産による安価な綿製品に太刀打ち出来ず、日本
 の手工業的綿織物は大打撃を受けた(綿製品の輸入が激
 増)。
1865年、こうした時代の移り変わりの中で、薩摩藩は、徐
 々に、幕府に非協力的な態度を見せ始めた。
  そして、長州藩との提携を模索し始めた。
  薩摩藩の庇護下にあった土佐浪士の坂本龍馬や、
  同じく、土佐浪士で下関に逼塞していた三条実美らに
 従っていた中岡慎太郎らが、周旋し、薩摩と長州の両藩
 の接近が図られて行った。
  逆賊に指名されて、表向きの武器の購入が不可能とな
 っていた長州藩に変わって、薩摩藩が武器を購入する。
  両藩は、経済的な連携を行なっていき、絆がより強く
 なっていった・・そして、その後、
  1866年3月7日(慶応2年1月21日)に、京都薩摩藩邸内
 で、木戸孝允・西郷らが立ち会い、薩長同盟の密約が締
 結された。
  このあとの・・、
  1867年4月29日に、将軍慶喜が、英、仏、蘭の代表と
 大坂城で会見し、兵庫の開港実施を約した。
  1867年6月26日、勅許と決定。
  1867年7月7日、幕府が1868年1月1日より兵庫開港と布
 告した。
1865年11月9日、将軍・徳川家茂参内、兵庫開港と長州再征
 を奏請す、
  開港を許し給わず (再征討の勅許は下りた)
1865年11月13日、幕府の老中阿部正外、松前崇広等、大阪
 城中に会議を開き兵庫開港に決す
1865年11月14日、幕府の代表が兵庫に赴き、英艦にて各国
 公使と会見し、兵庫開港問題の延期を談判
1865年11月17日、朝廷が、幕府の閣老を免職する(松前伊
 豆守崇広、阿部豊後守正外の官位を剥奪)
  阿部・松前の二閣老譴責(けんせき)(氷川清話)
1865年11月18日、徳川家茂が、朝廷に将軍職の辞表を提出
 そして、江戸東帰を発表。(11月24日、正式撤回)
  将軍家茂退隠(たいいん)を奏請(そうせい)す、許
 されず、神戸軍艦操練所を廃す(氷川清話)
1865年、活躍する慶喜は・・四面楚歌だった。
  慶喜への幕臣たちの疑念も深まっていた。
  慶喜は、状況に屈せず、帰国の途につく家茂一向に追
 いついて、説得を行った、そして、将軍辞職を撤回させ
 た上で、大阪城に連れ帰った。
  そして、京都に乗り込み、大久保の政治工作に揺れる
 公家達を説得し、
  十月四日(西暦11月21日)から五日(11月22日)まで
 夜通しで行なわれた御前会議では、大久保派の公家達を
 「反対するなら命は無い」とも取れる恫喝まで行い、
  遂に、条約勅許を勝ち取る。
  勅許を得た慶喜は、大阪の四国艦隊代表達に、勅許を
 得たので、兵庫港開港延期の交渉をした。
  四国艦隊代表も同意。
  孝明天皇へ兵庫港開港の延期を報告した。
  絶望的な状況から・・四面楚歌の状況から・・、その
 状況を打破をして行き・・結局、慶喜を中心に、当時の
 京都政局は回っていた。
  そこに、薩摩藩の大久保利通が居た。
  そして、この間、長州藩は、大村益次郎の軍制改革の
 もとに、日々着実に、近代軍隊となって行っていた。
  この差が、この数年の後に、現実となる。
  大村益次郎:(1824年~1869年)
  長州出身の洋学者、陸軍創立者。
  緒方洪庵に師事、適塾で蘭学を修め医師となり、一時、
 幕府にも出仕するが、のち、長州藩で兵学を講じ、また、
 第二次長州戦争に備えて軍制改革も行なう、そして、参
 謀として優れた戦略を示した。
  戊辰戦争では、官軍の指揮をする。
  兵制の近代化に尽力した。
  襲撃され、命を絶たれるが、遺志は、山形有朋らに継
 承された。
1865年11月22日、開港条約改正の勅許下る
  朝廷が、条約に対する勅許を出す。兵庫開港は認めず。
1865年11月24日、将軍家茂、上奏して辞意を撤回
1865年12月12日、福岡藩(筑前藩)で起こった佐幕派によ
 る勤皇派弾圧事件。
  福岡藩の家老・加藤司書など、勤王の士の数名に切腹
 が命じられ、その他の一味が流罪となった。
  家老の司書は、福岡藩を代表して薩摩の西郷吉之助(
 隆盛)らと、長州藩に寛大な斡旋をして、征長軍を解兵
 させるという偉業があった。
  司書という大藩の家老職ゆえに、この事が成せた。
  明治維新以後、生きていたら、維新政府の大きなポジ
 ションを占めていた様な人と言われている。
  また、司書の偉業としては、幕府から長崎警護を命じ
 られていた筑前藩士として、1853年に、長崎に来たロシ
 アのプチャーチンと、幕府の外国奉行の川路左衛門尉聖
 謨(かわじさえもんのじょうとしあきら)を助け、折衝
 し、藩兵500人を指揮して、艦隊を無事に国外へ立ち去ら
 せていた。
  司書の偉業の第一次長州征伐時の解兵のいきさつは・・、
  蛤御門の戦いで、長州は敗退するが、
  この時の処置として、幕府は、前尾張藩主・徳川慶勝
 (とくがわよしかつ)を総督として、36藩を動員し、長
 州征討をする。
  この時、広島に各藩の藩兵が参集した。
  加藤司書も、福岡藩を代表し、そして、薩摩を代表し
 て西郷吉之助も居た。
  この時、長州藩の毛利敬親・元徳(たかちか・もとの
 り)親子を切腹させて、長州藩を召し上げるという強行
 論まで出ていたが・・、
  福岡藩主・黒田長溥(くろだながひろ)は、外国艦隊
 の脅威がある時に、国内で戦っている場合ではない、国
 防に専念すべきだという考えで、穏便に解決したいと、
 加藤司書に建白書を持たせ、徳川総督に提出した。
  司書と西郷が、参謀会議を止戦へとリードして、元治
 元年の暮(1864年12月9日と10日)に、長藩の三家老らに
 腹を切らせ、恭順を条件に解兵が実現した。
  長州征伐が取り止められた。
  この時に、司書が詠んだ唱が・・、
  皇御国(すめらみくに)の武士(もののふ)は
  いかなる事をか勤むべき
  只(ただ)身にもてる赤心(まごころ)を
  君と親とに尽くすまで
  (今でも、博多の町では、この「祝いめでた」は愛唱
 されているという)
  尚、ここの部分には、次の記述もある・・
  「1864年11月23日、大阪において、西郷は、総督の徳
 川慶勝へ、長州藩降伏へのプロセスの腹案を述べた。
  慶勝は、その場で、西郷へ脇差一刀を与えて、信任の
 証とした。
  西郷は、征討軍の全権を委任された参謀格となった。
  長州藩と西郷の会談後、長州の家老切腹、参謀斬首を
 催促し、受け入れられ、行なわれ終息した」
1865年12月24日、幕府が第二次長州出兵を命じた。
  幕府が、大目付を広島に遣わし、毛利藩主を審問した。
  また一方、彦根以下31藩に、長州征伐出兵を命じ、
  徳川茂承を総督と為す
  幕府は、第二次長州征伐の勅許を得た。
  幕府は、日米修好条約の勅許問題と、兵庫港開港問題
 を切り抜けた。
  そして、幕府は、第二次長州征伐の本格的準備へと入
 った。
  しかし、予想以上に、諸藩の第二次長州征伐への取り
 組みが悪かった。
  諸藩の第二次長州征伐の取り組みが悪かった理由は・・、
  (1)建前として、禁門の変の時の長州藩は、首謀者
    である三家老の自刃をする事により果たされてい
    る。
    それ故、第二次長州征坺の大義は無い。
  (2)諸藩は、第一次征伐の時と違って、幕府への不
    信感が存在した。
  第一次長州征伐は筋が通り、成功した・・、
  そして、成功した幕府は、参勤交代制度の強化した。
  また、幕府は、慶応元年の天狗党に対して、処刑をし
 た。
  この事などから、次は自藩か?と思わせた。
  第二次征伐のあと、自藩になるかもしれないという事
 を思わせた。
  (3)どこの藩も、財政難であった。
  この様な、大儀と財政が・・問題だった。
  準備の進まない状況の中で、幕府は・・、
  慶応二年一月二十二日(1866年3月8日)に、「領土10
 万石の削減、藩主親子の蟄居」等の長州藩への最終処分
 案を朝廷を通して発表した。
  幕府の、長州藩を屈服させたいという意思が、ここに
 あった。
  一会桑も働いて、朝廷を介し、第二次長州討伐を正式
 に発令した。
  世は、薩長同盟が成立している世だった(1866年3月7
 日)。
1865年、長州征伐の時の・・幕府側の兵のこぼれ話
  「井伊の赤備」、敵兵だったのか・・?
  長州征伐の時、彦根は、旗本の旗頭だったから旧例に
 よって先鋒を命ぜられた。
  そして、その大将は、岡本黄石であった。
  彦根は、いまだ泰平300年の夢が覚めない時であったか
 ら、本当の戦争を知らない連中ばかりで、
  300年も昔の様に、やはり赤具足を着込んで、旗差物を
 押し立てて、笛や太鼓でヒュードンヒュードン」とはや
 し立てて進んで行った。
  (注・赤備え:すべての将兵の武具を赤色にした軍勢。
 徳川の臣で関ケ原の戦いで武功をたてた井伊直政の手勢
 など)
  ところが、長州の武士は、すでに開化している。
  尻をはおって身軽ないでたち、紙くず拾いか何ぞの様
 な風で、
  旗、太鼓、堂々たる幕軍とすれ違いに、そばの小道を
 通って、こっちへ進んで来た。
  しかし、風体が風体だから、幕軍の方では、それが敵
 兵であろうとは、少しも気づかなかった。
  長州兵は、そのすきに乗じて、こともなく幕軍の先鋒
 をやり過ごして、さて、不意に本陣の大将を目がけて鉄
 砲を放った。
  そこで、幕軍は、大騒ぎをしているうちに、大将が討
 ち死にをしたという噂が、先方へ聞こえて来た。
  ここのおいてか、さすがの黄石も狼狽して後へ返した
 ということだ。
  後で、黄石が、直接、俺に話してくれた(氷川清話)
  海舟の心:この事を知って、海舟は幕府の死に体を、
 一層、痛感し、見限る方向へ心を動かした。
  この第二次長州戦争で、彦根藩は参戦し、小瀬川の戦
 いで旧軍制と旧装備であったために、長州に敗北した。
  日本の次世代の、新しい体制の軍の萌芽が、その一方
 にあった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
by suba28 | 2015-12-24 03:39 | 皆様とともに 幸せになりたい


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