(増補版)257D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1862年12月~1863年6月)

題:(増補版)257D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1862年12月~1863年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1863年(文久3年)1月、勝海舟、山内容道に謁す(氷川清
 話)
  勝海舟、土佐藩亡命の士、坂本龍馬以下数名を預かる
 許しを得る(氷川清話)
1863年1月13日、勝海舟、兵庫を出帆(順道丸)(氷川清話)
1863年1月15日、勝海舟、下田港に入る(氷川清話)
1863年1月16日、勝海舟、帰府(氷川清話)
1863年1月23日、勝海舟、同艦に松平春嶽侯を乗せて品海を
 出帆(氷川清話)
1863年1月29日、勝海舟、大阪着(氷川清話)
1863年1月31日、英国公使館焼打ち事件が実施された。
  高杉晋作・久坂玄瑞・品川弥次郎らの長州藩士10名が、
 江戸品川御殿山に新築されたばかりのイギリス公使館を
 焼き討ちした。
  幕府の追補が始まるとみるや藩は、彼らを京都に呼び、
 形式的に叱責して藩邸内にかくまった。
  浪士、品川御殿山公使館の門衛を殺害す(氷川清話)
  幕府は、東禅寺事件などの対策の為、また、諸外国の
 要求を受け入れて、各国公使館を品川御殿山の景勝地に
 移す工事を進めていた。
  一度未遂に終わったこの行為が、この日に、実施に移
 された。
  何故、イギリスだけがこの様な目に会うのか?
  当時の志士たちも知っていたのだ。
  イギリスだけが、特に、正義が無かった。
  イギリス公使館だけが、この時、火薬を仕掛けられて
 全焼してしまった。
  攘夷の事件(24の事件)
  1、安政3年(1856年)ハリス襲撃未遂事件
  2、安政6年(1859年)ロシア海軍軍人殺害事件
           フランス領事館従僕殺害事件
  3、安政7年(1860年)日本人通訳殺害事件
           フランス公使館放火事件
           オランダ船長殺害事件
  4、万延元年(1860年)フランス公使従僕傷害事件
           マイケル・モース事件
           ヒュースケン殺害事件
  5、文久元年(1861年)第一次東禅寺事件
  6、文久2年(1862年)第二次東禅寺事件
           生麦事件
            英国公使館焼打ち事件
  7、文久3年(1863年)井土ヶ谷事件
  8、元治元年(1864年)鎌倉事件
  9、慶応2年(1866年) 鳶の小亀事件(仏水兵殺害)
            ハリー・パークス恫喝事件
 10、慶応3年(1867年)アーネスト・サトウ襲撃事件
           英国水兵殺害事件
           ヘンリー・スネル襲撃事件
           英国水兵襲撃事件
 11、慶応4年(1868年)神戸事件
           堺事件
           パークス襲撃事件
1863年(文久3年)2月、朝廷が、島原を領する松平主殿頭
 に勅して、諏訪社の再建を急ぐようにと命じた。
1863年2月6日、勝海舟、病気をおして順道丸に乗り大坂出
 帆(氷川清話)
1863年2月11日、勝海舟、帰府平臥(氷川清話)
1863年2月12日、松平容保、入京
  将軍上洛に先立ち・・、
  会津藩主・松平容保が、京都守護職として入京した。
  町奉行の永井尚志・瀧川播磨守は、三条橋東まで容保
 を出迎えた。
  これは老中・所司代の入京時と同じだった。
  容保は、寺町本禅寺で衣服を改め、関白・近衛忠熙を
 訪ね、天機を伺ってから、宿舎である金戒光明寺(黒谷)
 に入った。
  黒谷には、所司代・牧野忠恭(備前守)・伏見奉行・
 林忠交(肥後守)などが挨拶に来た。
  『京都守護職始末』には、この日、守護職の行列(一
 里ほどの長さ)を見ようと、蹴上から黒谷の道の両脇は、
 鈴なりの人だったという。
  これまで京都人は、京都所司代や京都守衛をしていた
 彦根藩士が浪士を鎮圧できないので、腰抜けだと見てい
 た。
  しかし、容保の行列が立派であり、また、容保が関白
 に立ち寄るという朝廷尊崇の姿勢をみせたことなどが好
 感され、心を安んじたとある。
  この頃の京の浪士たちは・・、
  会津藩主・松平容保(たかもり)が、会津兵を率いて
 京都守護職に任じたとき、それまで京都で、佐幕派の暗
 殺に跳梁していた過激浪士たちは、会津が来るという噂
 (うわさ)だけで戦慄(せんりつ)したという(竜馬が
 ゆく・1)
1863年、そして、この頃の、長州藩
  長州藩はずっと萩で我慢した。
  大老の井伊直弼が、江戸桜田門外で暗殺され、幕威が
 にわかに落ちたのを見て、
  長州藩は、1862年に、そっと、藩庁を山口に移してい
 た。
  幕威が盛んな頃なら、この一事だけでも、毛利家の取
 り潰しは確実であった。
  この時、幕威が、いかにその威力をなくし、権威もな
 くしていたかが、この長州藩のしたこの態度一つでも分
 かる。
  ところが、その後、幕府は、第一次長州征伐で長州藩
 を圧倒した。
  長州藩は、家老数人に腹を切らせて幕府に謝ったが、
 この時、幕府は「山口城を破却して、萩へ戻れ」と命じ
 た。
  長州藩は、「山口にあるのは城ではない、役所である」
 として、言を左右にして破却せず、
  ただ、藩主が、萩城へ戻るだけで、わびを済ませた。
  その後、長州が勢いを盛り返した時、再び、藩庁を山
 口に置いた。
  この藩が、山口に固執したのは、この町が、領内の交
 通上の要衝にあるため、幕末風雲期における、情報入手
 や命令伝達に都合がよかったからである(街道をゆく1)
1863年2月24日、勝海舟、品川出帆(同艦)(氷川清話)
1863年2月26日、勝海舟、大阪着(氷川清話)
1863年3月、将軍・徳川家茂の上洛
  これは、三度目の上洛である。
  朝廷は、従来通りの政務委任とともに攘夷の沙汰を申
 しつけ、幕府はやむなく5月10日(旧暦)をもって攘夷を
 実行することを奏上し、諸藩にも通達した。
  だが、幕府は、他方で、生麦事件と第二次東禅寺事件
 の損害賠償交渉にも追われており、
  攘夷決行は、諸外国と勝ち目のない戦争をすることに
 なり、その損害は計り知れないという趣旨の通達も諸藩
 に伝えていた。
  幕府は、賠償金44万ドルを攘夷期日の前日の5月9日に
 イギリスに支払うと共に、各国公使に対して文書にて開
 港場の閉鎖と外国人の退去を文書で通告し、
  攘夷実行の体裁をとった。
  しかし、同時に、口頭で、閉鎖実行の意志がないこと
 も伝え、
  9日後には文書にて閉鎖撤回を通達した。
1863年、京都は実に物騒なところ
  この年の家茂公が御上洛なさるについて、その頃、京
 都は実に物騒で、
  この時、おれも、船でもって上京したけれど、
  市中を歩いていたら、寺町通りに、3人の壮士がいきな
 り俺の前へ現れて、ものも言わずに切りつけた。
  驚いて、おれは、後ろへ逃げたところが、おれの側に
 いた土州の岡田以蔵(いぞう)、にわかに長刀を引き抜
 いて、一人の壮士を真っ二つに斬った。
  「弱虫どもが、なにをするか」と一喝したので、あと
 の二人は、その勢いに、辟易してどこともなく逃げて行
 った。
  なにぶん岡田の早業には感心したよ(氷川清話)
  勝海舟、京都滞在中、寺町通りで壮士の刃にあう。岡
 田以蔵の防御で免れる(氷川清話)
1863年3月、勝海舟、和歌山に砲台諮問の招きに応ず。紀伊
 中納言に諮す(氷川清話)
1863年4月、幕府が、神戸に海軍操練所を設立した
  長崎製鉄所より機械類の一部を移送、機械方職工数人
 を転任させた。
  長崎製鉄所は、神戸操練所の付属工場に。
1863年4月、海軍操練所、家茂に直取引で許可を得る
  神戸に、海軍操練所を設けることは、前年に、幕府が、
 軍制度を改革したときに、大阪御船手組の改組の一環と
 して、海舟が建白していたプランであったものを、文久
 3年4月に、大阪湾の船の上で、将軍・家茂にねだって、
 直取引で、許可を貰ってしまったものだった。
  同時に、勝の私塾として海軍塾を併置する許可も取っ
 ておいた。
  この操練所並びに海軍塾を作る狙いは、咸臨丸以来の
 勝の持論である「能力ある人材をあらゆる階層から発掘
 する」ということ、
  「挙国一致の世論の形成」という事にあった。
  この海軍局には、坂本龍馬を塾頭に、薩摩の伊東四郎
 (後元帥、海軍大将、伯爵伊東祐亨)、紀州の伊達陽之
 助(後外装、伯爵・陸奥宗光〉ら、天下の人材が集まっ
 た。
  理念である「一大共有の海局」というのは、幕府も諸
 藩もない。
  対立や分裂の中に最大公約数を発見し、その公約数的
 なものを育てて行こうというものである。
  門地〈血筋、家柄、身分)に拘泥せず、人材であれば
 百姓でも漁師でも良いとした。
  海舟は、幕府の中に、地位・肩書だけの人間をさんざ
 ん見て来たのだ。
  しかし、当時にあって、この様な考え方を抱く集団は、
 「幕府=徳川家」という考え方を離れられない幕閣首脳
 から見ると、危険な存在であった。
  元治元年11月、「わが処置宜しからずとて、江戸に召
 還せられ、退職、謹慎す。事業ついに崩壊せり」で、御
 役御免となり、役高2000石も取り上げられ、氷川の屋敷
 に閉門同様となった。
  神戸操練所は解散となったが、短期間ながらその存在
 の意味と影響力は大きい。
  この期間に作られた「一大共有」という思想と「門地
 に拘泥」せぬ人脈とは、もう数年に迫った「維新」の火
 種になる(氷川清話)
1863年4月、日清韓合従連衡説
  勝海舟、「日清韓合従連衡説」を桂小五郎などに談ず
 (氷川清話)
1863年4月、5月10日を期して、朝廷は、攘夷を決行せんと
 す(氷川清話)
1863年4月25日、勝海舟、汽船(順道丸)で姉小路少将(公
 知)摂海試乗に従い、大いに海軍の要を得く(氷川清話)
1863年4月28日、勝海舟、将軍が順道丸で紀淡海岸を巡覧さ
 れこれに従う(氷川清話)
1863年4月、勝海舟、将軍の内海巡覧に従い摂州神戸村で軍
 艦操練所取立。内海警備の直命を受く(氷川清話)
1863年5月1日、島津久光が、2回目の入京をした
 (4月21日鹿児島発、5月1日京都着)
  しかし、長州藩を後ろ盾にした尊攘急進派の専横を抑
 えられず、足かけ5日間の滞京で帰藩した
  (5月5日日京都発、5月28日鹿児島着)
  しかし、帰藩後も、尊攘派と対立関係にあった中川宮
 や近衛忠煕・忠房父子、また、尊攘派の言動に批判的だ
 った孝明天皇から、再三、上京の要請を受ける。
  長州藩の勢力を京都から追放するべく、薩摩藩と会津
 藩が、中心となって画策し、天皇の支持を得た上で決行
 された八月十八日の政変が成功した後、3回目の上京を果
 たす(10月24日鹿児島発、11月13日京都着)。
1863年5月1日、勝海舟、八幡山崎関門修築の事を命ぜられ
 る(氷川清話)
1863年5月4日、勝海舟、将軍また順道丸で淡播摂海岸を巡
 覧、これに従う(氷川清話)
1863年5月、姉小路、途上に暗殺さる(氷川清話)
1863年5月、勝海舟、諸太夫に昇進の内達あり、固持する
 (氷川清話)
1863年6月24日、幕府が、生麦事件解決のため、イギリスへ
 10万ポンドを支払った。
  支払を決断した老中の小笠原長行は、1863年7月に老中
 職を罷免された。
1863年6月25日、攘夷行動をとる長州藩
  長州藩が米仏蘭艦船に砲撃開始
  長州、下関通交の外国船を砲撃す(氷川清話)
  孝明天皇の強い要望により、将軍・徳川家茂は、文久
 3年5月10日(1863年6月25日)をもっての攘夷実行を約束
 した。
  幕府は、攘夷を軍事行動とはみなしていなかったが、
 長州藩は、馬関海峡(現 関門海峡)を通過する外国船へ
 の砲撃を実施した。
  戦後、長州藩は、幕命に従ったのみと主張したため、
 米英仏蘭に対する損害賠償責任は、徳川幕府のみが負う
 こととなった。
  この様な戦いは二度あり、前段としてのこの文久3年
 (1863年)5月は、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中の
 米仏蘭艦船に対して無通告で砲撃を加えた。
  約半月後の6月、報復として米仏軍艦が馬関海峡内に停
 泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与え
 た。
  しかし、長州藩は、砲台を修復した上、対岸の小倉藩
 領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続
 行した。
  戦力:米仏英蘭・軍艦3隻、長州藩・軍艦4隻
1863年6月25日、攘夷運動の中心となっていた長州藩は、日
 本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である馬関海峡(下関
 海峡)に砲台を整備し、
  藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙
 辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸:いずれ
 も元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の
 態勢を取った。
  攘夷期日の6月25日(旧暦:5月10日)、長州藩の見張
 りが、田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ペンブローク号
 を発見。
  総奉行の毛利元周(長府藩主)は、躊躇するが、久坂
 玄瑞ら強硬派が攻撃を主張し、決行と決まった。
  翌日、午前2時頃、海岸砲台と庚申丸、癸亥丸が、砲撃
 を行い、攻撃を予期していなかったペンブローク号は、
 周防灘へ逃走した。
  外国船を打ち払ったことで、長州藩の意気は、大いに
 上がり、朝廷からもさっそく褒勅の沙汰があった
  フランスの通報艦:キャンシャン号の被害
  7月8日(旧暦:5月23日)、長府藩(長州藩の支藩)の
 物見が、横浜から長崎へ向かうフランスの通報艦キャン
 シャン号が、長府沖に停泊しているのを発見。
  長州藩は、これを待ち受け、キャンシャン号が、海峡
 内に入ったところで各砲台から砲撃を加え、数発が命中
 して損傷を与えた。
  キャンシャン号は備砲で応戦するが、事情が分からず
 (ペンブローク号は長崎に戻らず、上海に向かったため、
 同船が攻撃を受けたことを、まだ知らなかった)、
  交渉のために書記官を乗せたボートを下ろして、陸へ
 向かわせたが、藩兵は銃撃を加え、書記官は負傷し、水
 兵4人が死亡した。
  キャンシャン号は、急ぎ海峡を通りぬけ、庚申丸、癸
 亥丸がこれを追うが深追いはせず、キャンシャン号は、
 損傷しつつも翌日長崎に到着した。
  7月11日(旧暦:5月26日)、オランダ東洋艦隊所属の
 メデューサ号が、長崎から横浜へ向かうべく海峡に入っ
 た。
  キャンシャン号の事件は知らされていたが、オランダ
 は他国と異なり鎖国時代から江戸幕府との長い友好関係
 があるので攻撃はされまいと油断していたところ、長州
 藩の砲台は、構わず攻撃を開始し、癸亥丸が接近して砲
 戦となった。
  メデューサ号は、1時間ほど交戦したが死者4名、船体
 に大きな被害を受け周防灘へ逃走した。
1863年6月25日、NHK、嘘つき放送をする下関事件
  この下関事件は・・、
  長州藩は、最初、アメリカ商船のペンブローク号を砲
 撃した。
  不意を突いて狙って撃った。
  その後、フランスやオランダの軍艦に、長州は砲撃を
 加えられた。
  翌月、アメリカ軍艦から報復攻撃を受けた。
  この史実を、NHKは史実を曲げた。
  NHKは、日曜大河ドラマで「花燃ゆ」をしているが、
 この第21話「決行の日」(5月24日放送)がでたらめ
 だった。
  史実はアメリカ艦を撃っているが、これを止めて、史
 実を曲げてフランス戦を撃ったことにして放送した。
  この「花燃ゆ」の脚本家3人が、著者になっている小説
 版の「花燃ゆ」第2卷(NHK出版刊)は、このドラマ
 のシナリオ本であるが、
  史実通りに「アメリカ船」になっているので、放送で
 は確信犯的に史実を変えて、フランス船に撃ったことに
 した。
  見ている日本の方々が間違った事を認識しようが構わ
 ないというNHKだった。
  こんな事を、NHKは、良くやる放送局だ。
  キリスト教に偏するNHKは、キリスト教を宣伝しよ
 うと、ガラシャ夫人がお城の中でキリスト教の十字架を
 祈るシーンを、何度も、放送し、天井まである大き過ぎ
 る十字架が、これでもかという極大十字架を祈ったりし
 ている。
  違和感極大のシーンを臆面もなく放送している。
  特に、キリスト教の偏するNHKの最もキリスト教に
 偏する番組がこの日曜大河ドラマだ。
  視聴率が大きい番組を狙ってこんなことをしているN
 HKなのだ。
  「歴史修正主義のNHK」と批判されている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2015-12-10 04:14 | 皆様とともに 幸せになりたい


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