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(増補版)241D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1854年~1855年8月)

題:(増補版)241D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1854年~1855年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1854年(嘉永7年、安政1年)、まだまだ、諸外国には、日
 本に対しての不満があった。
  ・・というより、幕府の二枚腰と言ってもよいのか?
  幕府は、「和親条約」を結んでも、「通商条約」は結
 ばなかった。
  国家どうしが和親を結んだ「和親条約」・・だけ、
  仲良くやって行こうという和親・・だけ、
  一つの国と条約を結んだら、我も我もと、各国が、日
 本に雪崩(なだれ)を打ってやって来たが・・、
  幕府も粘り強く、「徳俵(とくだわら)」を残してい
 た。
  通商条約は結んでいなかった。
  これが、後に、不平等条約になって苦労をするのだが・・、
1854年5月、日本の手作りの船:「鳳凰丸」が竣工した(浦
 賀奉行与力:中島三郎助が担当)
  鳳凰丸は、洋式の帆船だった。
  浦賀で、ペリーの軍艦に、前の年は、腰を抜かしては
 いたが、その翌年のこの時には、この船を造ってしまっ
 た日本だった。
  既に記した、浦賀奉行・与力の中島三郎助を造船主任
 として、
  イギリス船をモデルとして(この説もある)、自前の
 技術で、国産で造った。
  浦賀で建造した、画期的な西洋型軍艦との評もあるが、
  計画と着工は、1853年6月3日の黒船来航以前だったと
 いう話もある。
  幕府が、海軍力充実の必要性から、すでに着工してい
 たという説。
  幕府の大船建造禁止令の解除と、「鳳凰丸」建造の公
 式発表が、ペリー来航後であったため、
  来航後に着工して造ったという話になったという説で
 ある。
  そして、また何と、薩摩藩は、この翌年の1855年に、
 「登平丸」「鳳瑞丸(ほうずいまる)」「大元丸」とい
 う三隻を造って、幕府に献上している。
  薩摩藩は、当時、日本唯一の近代的な工業施設を持っ
 ていた。
  この生産力で、実現させたのだった。
  このことを、日本中が知った。
1854年、その薩摩藩では、この年、、西郷隆盛という幕末
 から明治維新を創った「維新の人材」が登場して来る。
  この年、薩摩藩藩主・島津斉彬に、西郷隆盛(26歳)
 が抜擢された。
  この年、斉彬は、隆盛の優秀さを知った。
  西郷吉之助(隆盛の当時の通称)は、藩主の傍近くに
 控えるお庭番(秘書役)に抜擢された。
  そして、幕末の世の中に登場して行く。
  吉之助は、藩主の使者として、たびたび開明諸藩を訪
 れる機会を得た(恵まれた)。
  そして、一橋慶喜の将軍擁立運動に奔走し、各藩の志
 士と知り合った。
  しかし、安政の大獄(1858年)が始まり、また、斉彬
 の死があった。
  吉之助に、良い・恵まれた時は続かなかった。
  斉彬の後に藩主となった島津久光は西郷を遠ざけた。
  西郷も斉彬を敬慕するあまり、久光を軽んじた。
  その間に、大久保(利通)が、島津久光のお傍役に取
 り立てられた。
  1862年、大久保利通は、久光から一蔵(いちぞう)の
 名を賜わり通称を改めた。
1854年、吉田松陰が、国禁を犯して米船に乗船しようとし
 たことで自首した。
1854年、各地で打毀・強訴など農民騒擾(そうじょう、集
 団で騒ぎを起こし、社会の秩序を乱すこと)起こる。
  理由:増税反対、
1854年9月27日、八世・市川団十郎が、大阪の旅館で夜の謎
 の自殺(32歳)。
  翌日の大阪公演が控えていて、この日も、船で道頓堀
 に入ったところを、多くの大阪の人たちが迎え、「八代
 目!八代目!」と歓声が上がって、歓迎ぶりは大変なも
 のだったという。だが・・、
1854年12月23日《11/04》安政東海地震
  駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とする
 M8.4という巨大地震が発生した。
  (東日本大震災のような震源域が広い大地震、津波も
 大きくなった)。
  沼津から天竜川河口に至る東海沿岸地の被害が著しく、
 町全体が全滅した場所も多数あった。
 地震発生の後の、数分から1時間前後に、大津波が発
 生した。
  東海沿岸地方を襲った。
  伊豆下田、遠州灘、伊勢志摩、熊野灘沿岸に押し寄せ
 た津波で、多くの被害が出た。
  伊豆下田では、推定6~7メートルの津波が押し寄せ、
 948戸中927戸(98%)が流失し、122人が溺死した。
 清水から御前崎付近までの地盤は、1~2メートル隆
 起した。
  清水港も使用不能となった。
  内陸部では、甲府で7割の家屋が倒壊し、
  また、松本、松代、江戸でも、倒壊家屋の記録がある
 など、広範囲に災害が発生した。
 地震の被害は、流失家屋8300余戸、死者600人余と、甚
 大なものとなった。
  この安政大地震の津波で、伊豆下田に碇泊していたロ
 シア使節プチャーチンの乗艦・ディアナ号が大破した。
 ディアナ号は、全長52.8米、幅13.6米、トン数2千ト
 ン、大砲52門、マスト3本のロシア製フリゲート船で、
遠洋航海が不能になった。
  ディアナ号は、修理のため、君沢郡の戸田に回航した。
  しかし、途中、激しい波風に押し流されて、駿河湾の
 奥深く、富士郡宮島村沖に錨をおろした。
  装備や積荷のほとんどをおろしたディアナ号は、地元
 漁民の決死の協力で、再び、航行を試みた。
  しかし、失敗した。
  艦は、浸水が激しく、駿河湾で沈没した。
  寒い冬の海に投げ出された約500人の乗組員は、沿岸の
 漁民たちが、総出で救出した。
  この後、ロシア側は感銘を受けて、プチャーチンは、
 幕府の許可を得て、戸田港で、帰国の代船を建造するこ
 とにした。
  その技術で、洋船技術が日本へ伝わった。
  そして、建造された第1船は「ヘダ(戸田)号」と命
 名された。
  また、もう1隻の同型船とともに、条約締結の使命も
 果たしたプチャーチン一行は、無事、ロシアへの帰途に
 つけた。
1854年12月、幕府が、下田で、日露通商条約に調印し、下
 田、函館、長崎を開港した。
  幕末のオランダ通詞・蘭学者で、のち造船・製鉄・航
 海術・印刷術にも通じる本木昌造が通訳をつとめた。
  洋船技術が、この本木も知るところとなっただろう。
1854年、福沢諭吉が、長崎に赴いて蘭学を学ぶ、
  19歳の福沢諭吉が、蘭学研究のため、生まれ故郷の中
 津から長崎を訪れた。
  蘭学を学びに来たが、確たる目的も持たずに。
  田舎の中津が嫌で、外に出たいだけのあやふやな動機
 だった。
  砲術への関心が高まり、兄に砲術を極めるには、蘭語
 の原書が読めなければと、桶屋町の光永寺の食客となっ
 た。
  光永寺は、中津藩の家老の子、奥平壱岐が砲術研究の
 ため寄寓(きぐう、一時的によその家に身をよせて世話
 になること)していたためだった。
  後に、大井手町の奉行所付触頭で砲術家の山本物次郎
 (秋帆の一門)の食客となった。
  長崎遊学は、わずか1年ながらその影響は絶大だった。
1854年、ペリーの置き土産:蒸気機関車と炭水車など
  ペリーが、横浜へ再来航の時、お土産に汽車の模型を
 持って来た。
  蒸気機関車と炭水車と客車の3両セットだった。
  レールを敷いて、人を乗せて、試運転をさせた。
1855年(安政2年)1月15日、曳航中のディアナ号座礁。
  4日後に沈没。
1855年1月、江川太郎左衛門が没した(1801年~1855年)
1855年1月19日、勝海舟、蕃所翻訳勤務命ぜられ、翌日、大
 阪近海、勢州海岸見分命ぜられ23日出立、巡回(氷川清
 話)
  勝海舟が、この年、蕃書翻訳御用出役になり、海軍伝
 習性として長崎でオランダ人に学んだ。
1855年2月7日、日露和親条約締結。
1855年2月、幕府、講武場(のち講武所)設立。
1855年2月22日、幕府が、蝦夷地を直轄地とする(1月説あ
 り)
  日米和親条約によって、箱館が開港されると、
  幕府は、松前藩から福山周辺を除く(松前地方のみを
 残して)、蝦夷地の全領地を上知(没収)することを命
 じた。
  箱館奉行支配の直轄地とした。
1855年3月18日、飛騨地震。
1855年4月、勝海舟、帰府(氷川清話)
1855年5月、高島秋帆、講武所砲術師範役となる(氷川清話)
1855年5月、蘭人を招き、長崎で公開の術を伝習させる(氷
 川清話)
1855年5月、東西蝦夷地一円上知講武所建つ(氷川清話)
1855年5月、薩州、西洋形船大元丸を献ず(氷川清話)
1855年6月、洋式訓練を奨励。
1855年6月8日、オランダ軍艦・フェデー号が、幕府に寄贈
 する蒸汽船のスンビン号を率いて入港した。
  フェデー号には、グ・ファビウス中佐、
  スンビン号には、海軍伝習隊長ベルス・ライケン大尉
 以下22人の派遣教官が乗り込んでいた。
1855年6月8日、オランダ軍艦・フェデー号に乗組む一行中
 に、オランダ国王侍従長リンデン伯の姿もあった。
  リンデン伯は、滞在中の見聞録をまとめて帰国後の
 1860年に、「日本印象記」を出版した。
1855年7月、遂に長崎に海軍伝習所が開設されることになっ
 た。
  ズームピング号の士官であったベルスレーケン大尉ら
 21名を教師として、旗本及び諸藩から集めた約200名の
 伝習生に、オランダ式の海軍教育が開始された。
  観光丸が練習艦となる。
  永井岩之丞尚志を諸取締とし、勝麟太郎は伝習生監、
 そして、幕臣より70名、佐賀藩48名、福岡藩28名、薩摩
 藩16名、長州藩15名、津藩12名、熊本藩5名が選抜された。
  これらの名簿の中に、榎本武楊(後の海軍中将、海軍
 卿、子爵)を見いだす(氷川清話)
1855年7月、勝海舟、長崎表において和蘭寄贈汽船運用、
 そのほか伝習命ぜられる(氷川清話)
1855年7月4日、オランダ国王が、電信機と説明書を、将軍
 に献上するため長崎奉行へ届けた。
  後に、ことの重要性を認識した幕府は、海防・軍備に
 役立てるため、海軍伝習所に電信機の研究を命じた。
  後に、佐賀藩主・鍋島直正は、電信機の政治的、軍事
 的価値を見抜いて、
  長崎から資料を取り寄せて研究をさせた。
  1857年になって、日本で初めて、電信機の試作に成功
 した。
1855年7月、日本に初めて、コレラが発生した。
  「嘉永明治年間録」より・・、
  「暴瀉(ぼうしゃ)病7月下旬より、天下普(あまね
 く)流行、
  阿蘭陀(オランダ)にては、コレラと云うよし、
  両三度も暴瀉すれば、更に治し難し、
  故に、是をコロリ病と痛言する也」
  江戸での死者は、3~4万人に、これ以前には、コレ
 ラは見られなかった。
1855年8月、勝海舟、小十人組へ番入を命ぜられ長崎海軍
 伝習生徒監(氷川清話)
1855年8月、勝海舟、賜暇(出張の事)、金二枚時服二を賜
 う(氷川清話)
1855年8月、蕃書調所を置く、箕作阮甫(みつくりげんぽ)
 杉田成卿教授職となる(氷川清話)
1855年8月、和蘭字典、刊行さる(氷川清話)
1855年8月4日、幕府が、松平乗全、松平忠固の両老中を罷免
 した。
1855年8月14日、徳川斉昭が、政務参与を命ぜられた。
1855年8月25日、オランダ国王から、蒸気船スンビン号を寄
 贈された(後、観光丸)
1855年8月30日、幕府が、洋学所(のち蕃書調所、開成所)を設
 立した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
by suba28 | 2015-11-09 01:44 | 皆様とともに 幸せになりたい


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