人気ブログランキング | 話題のタグを見る

(増補版)221D2/3:気になった事柄を集めた年表(1829年~1830年)

題:(増補版)221D2/3:気になった事柄を集めた年表(1829年~1830年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1829年、ギリシャが、オスマン・トルコ帝国から独立した。
  15世紀以来、ギリシャは、オスマン・トルコ帝国の支
 配下にあった。
  1821年2月、秘密結社「フィリキ・エテリア」が決起し、
 3月になると、ギリシャ本土で、「スパルタ・メッセニア
 軍団」がカラマタを占領した。
  反乱の火の手は拡大して行った。
  1821年~1829年まで9年間にわたるギリシャの独立戦争
 の結果、ロシアやフランスなどの支援もあり、1829年に、
 オスマン・トルコ帝国は、アドリアノーブル条約で、ギ
 リシャの独立を認めた。
1829年、写真機が発明された(1826年説あり)
  1826年に、ジョセフ・ニエプスが撮った「グラの家の
 窓から撮った景色」という風景写真がある。
  この写真が、現存する最古の風景写真とも言われてい
 る。
  ・・が、しかし、後年、このニエプスが、1825年に撮
 影した「馬を引く男」という題名の写真が見つかった。
  写真の定着に、世界で初めて成功したのがフランスの
 ニエプスだった。
  彼は、色々と実験を試みて来ていて、1822年~1824年
 の頃、アスファルトを感光剤に用いて、初めて、像の定
 着に成功した。
  そして、時を経て、日中の屋外でも8~12時間の露光
 時間であるが、また、ほとんどシルエットの様な画像で
 あるが、写真の様な画像が得られた。
  実用なものでは、まだまだ、なかった。
  1829年に、ニエプスは、1820年代半ばから独自に写真
 の研究を行なっていたフランスのルイ・ジャック・マン
 デ・ダゲールと、共同研究を進めた。
  そして、銀メッキした銅板に、ヨウ素を反応させた感
 光板を使う方法を考え出した。
  ダゲールは、1839年に、ダゲレオタイプという銀板写
 真を完成させている。
  ダゲールは、これを発売している。
  この写真機は、撮影時間が30分に短縮された。
  また、鮮明な写真を撮ることができる様にもなってい
 た。
1830年(天保元年)3月、おかげ参りが大流行
  この年の3月の下旬頃より始まった「お蔭参り」の流行。
  伊勢神宮への参詣は、14世紀末ころより、畿内を中心
 にして行われるようになっていたが、
  江戸時代になると、「お蔭参り」と称せられるように
 なり、全国に広がった。
  そして、1650年、1705年、1771年、そして、この年の
 1830年の4回が、特に、記録に残された大規模な参宮と
 なっている。
  正式な旅行手形が不要とされ、集団での参宮の発端は
 女性、子供から始まり、
  次第に数を増して行って、
  遂には、多数の老若男女の大きな集団の参宮となった。
  白い装束を付け、鏡、笛、鼓、太鼓などの囃子に合わ
 せて、念じる言葉をとなえて、伊勢神宮を目ざした。
1830年、薩摩藩が、三島の砂糖の惣買い入れ(砂糖の専売)
 を開始した(1829年説あり)
  三島は、大島・喜界島・徳之島で、
  薩摩藩は、500万両の借金返済に必死だった。
  荷抜きは死罪で、
  荷抜きとは、運送する荷物から一部をこっそり抜き取
 ることだが、
  この前年の1829年に、喜界島で荷抜きがあったため、
 この規定ができたのだった。
1830年、葛飾北斎(かつしかほくさい、浮世絵師)の「富
 嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」合巻が刊行
 された。
  富嶽三十六景は、錦絵で全46枚。
  富士山を題材にして、庶民の生活や風俗を活写した。
  1830年頃からの制作・出版だと推定されている。
  46図の中で、輪郭線が藍色で刷られているものが36図
 あるが、
  残りの10図は墨で、追加の出版とみられている。
  実際に、北斎は、関西への旅行をしており、この経験
 から、北斎らしい奇知(知恵)で、構図などがまとめら
 れた。
  追記:富嶽三十六景の初版は、1823年頃より作成が始
 まり、
  1831年頃から1835年頃にかけて、刊行されたと考えら
 れている。
1830年、三都講ができる。
  浪花講(なにわこう)の類似の講と言われている。
  浪花講は、街道の宿駅の風紀紊乱(びんらん)の悪い
 習慣(弊風・へいふう)の打破のために結成された旅宿
 組合の一つで・・、
  これは、大阪より諸国に下る商人を、浪花組に加入さ
 せて、旅行鑑札を渡し、
  諸街道で、誠実な宿屋を選んで、店頭には浪花組の招
 牌(しょうはい、看板のこと)を掲げさせた。
1830年、この頃、江戸で獣肉食店が流行した。
  一方、獣肉食の流行を、蘭学者の悪風として、肉食の
 反対論者も居た。
  肉食の禁忌もあり、また、薬喰いとも言われた。
  戦国時代末期のキリスト教宣教師は、よく食肉したが、
  そしてまた、フランス人が馬肉を嫌悪するごとく、日
 本人は牛肉、豚肉、羊肉を嫌悪したと記したが、
  日本人は、牛は農業に用いるから・・とした。
  1830年のこの頃に記された書によると、江戸初期に四
 谷で野獣肉が販売されていたとある。
  また、1818年~1845年の種々の書から抜き書きをした
 小山田与清(国学者)の書によると、
  小山田は、大の肉食反対論者であり、獣肉食の悪習が
 流行し、江戸が穢(けが)れていると記している。
  また、1832年~1836年に記された書によると、
  「山鯨」に、種々の獣肉鍋を供する店で、大いに飲食
 も行われていて、
  その「もんじ屋」は、盛況だと活写されている。
1830年、会席料理は、天保年間(1830年~1840年代)の頃
 に始まった。
  「なだ万」の創業は、1830年の日本料理の店。
1830年、吉田松陰が生まれた(1830年~1859年)、
  長州藩(宗家は萩藩)は、1763年に撫育方(ぶいくか
 た)という新組織(人材養成の組織。下級武士の登用の
 場でもあった)を創設した。
  そして、財政困窮の改善に取り組んだ。
  この組織は、下級武士の新しい生きがいともなって、
 貧困に意気消沈していた藩は、がぜん、活性化した。
  50石取りの軍学師範だった吉田松陰も、この様な組織
 から登用された。
  1851年に脱藩し、その罪で士籍を失った吉田松陰へも、
 藩主・毛利敬親(もうりたかちか)は、陰から温かい知
 遇(ちぐう、人格・能力などを認め、厚く待遇すること)
 を与え続けた。
  門閥や縁故のない松下村塾生たちは、松蔭の推薦によ
 って藩の役を与えられ、
  あるいは江戸遊学の機会を得た。
  登用された門下生の多くは、松蔭の死(1859年)後、
 志士として活躍したが、
  脱藩して、浪人となった他藩人とは違って、
  微禄であっても、長州藩に籍が置けた。
  それは、自由な行動を許す長州藩の体質で、信頼して
 いたからだった。
  また、藩主・敬親は寛大であった。
  この1830年の生まれの吉田松陰と、坂本竜馬(1835年
 生まれ)の二人・・、
  坂本家は、町人郷士で・・、
  高知城下でも指折りの裕福な商家であった。
  竜馬は、長兄と父子ほども年の違う次男坊で、恵まれ
 た環境の中で、ゆったりと屈託なく育った。
  これに対し吉田松陰は、長州の家禄26石の下士の7人
 兄弟の次男坊に生まれた。
  まさに赤貧洗うがごとき貧苦にさらされ、
  しかも、5歳で養子に出された。
  その養子の先は、藩の兵学師範だったから、古今の兵
 学を竹刀(しない)でうちすえられながら、厳しく叩き
 込まれた。
  一刻の猶予も許さぬスパルタ教育で、エスケープ(逃
 避)する自由なども無かった。
  幕末の革命家の二人の出発点は、この様に違った。
  故に、竜馬は、直線的・ラジカルに目標に向かった松
 蔭と違って、放物線的・しばし軌道から逸脱し・ゆった
 りと目標に近づいた。
  そこで、吉田松蔭のおおよそを記せば・・、
  松蔭は、叔父の吉田家を継いでいる。通称:寅次郎。
 松陰は号。
  1849年の19歳で、家職の山鹿流軍学師範となった
  1850年に、九州遊学。
  1851年、江戸遊学(佐久間象山に師事)を通じて国事
 への志が深まり、脱藩して罪を受けた(21歳)。
  1853年、江戸で再び佐久間象山に洋学を学び、海外渡
 航を決意した。
  1854年(24歳)、下田沖の米国軍艦に投じたが、自首
 して藩に幽閉された。
  1857年、荻の自宅に松下村塾を開く(27歳)、
  多くの門下生があり、久坂玄瑞、高杉晋作、前原一誠、
 山形有朋、伊藤博文など。
  1858年、幕府の安政の条約調印を怒り、攘夷討幕を企
 てて再び下獄(げごく、牢に入って刑に服すること)し、
  江戸に送られ、安政の大獄で死刑に処せられた。
  この日本の大偉人は、29歳の生涯だった。
1830年、大久保利通が生まれた(1830年~1878年)
  また、この年に、日本を作った大物の一人・大久保利
 通(おおくぼとしみち)が生まれた。
  政治家、薩摩藩出身、
  討幕派の中心人物、
  薩長同盟の推進者、
  版籍奉還や廃藩置県を敢行した。
  西郷隆盛らの征韓論に反対して対立した。
  参議・大蔵卿(おおくらきょう)・内務卿を歴任、
  明治政府の指導的役割を果たした人、
  そして、不平士族により暗殺された、
  「維新の三傑の一人」と言われる人。
1830年代、この年代から、オーストラリアは、イギリスの
 囚人の移送先から、
  原材料の供給地、あるいは、資本の投資場所へと変わ
 った。
  そして、政府が補助する移民も急増した。
1830年5月23日、この日に、インディアン強制移住法が、ア
 メリカ合衆国の下院で成立した。
  翌年の暮れから、移住は始まった。
  厳しい冬の集団移住は悲惨だった。
  アメリカの先住民のインディアンの方たちを、体よく
 片付ける方法となっている・・居留地へ物を片付けるご
 とくに扱った。
  アメリカ合衆国は、インディアンの方たちを、この方
 法で集め、片付けて行った。
  そして、その居留地が必要となれば、またまた、イン
 ディアンの方たちを、
  またまた、別の居留地に移動するなどという、
  インディアンの方たちの社会とか、コミュニティなど
 など、一切合切を知らぬ存ぜぬと、無視して、インディ
 アンの方たちを、まるで物を片付ける様に、非人道的に
 移動した。
  家庭なんてあったの? 
 家族なんてあったの?・・である。
  また、その移動の仕方が酷いため、移動中に多くのイ
 ンディアンの方たちは亡くなった。
  特に、体の弱い方、弱者の方々が、幼児が、ご老人が、
  そして、何と、1830年に、アメリカ合衆国のジャクソ
 ン大統領は、「インディアン強制移住法」を制定した。
  ミシシッピの東側に居たインディアンの方々が邪魔に
 なったのだった、
  この方たちを、ミシシッピの西のアメリカ中西部の辺
 境地に強制的に移住させる法律だった。
  そして、法律なのだから・・正義なのだ・・とした。
  このアメリカ合衆国・白人にとっての正義のこの法律
 によって、アメリカ・インディアンの方たちは、オクラ
 ホマ州への移住が、強制的に、合法という形で行われた。
  インディアンの方たちがいるミシシッピ東岸の地(現
 在のジョージア州北西部、テネシー州、アラバマ州北部)
 は肥沃で、白人のアメリカ人は欲しがった。
  アメリカ合衆国政府は、度々、インディアンと条約を
 結び、インディアンの居住権を保証したが、現実には、
 守る事はなかった。
  インディアンの方たちに「つけ」で生活物資を買わせ、
 費用を払えないとその代わりに土地を取り上げるという
 形で・・、
  実質的には、インディアンの方たちを追い立てた。
  また、宝くじを使ってインディアンの方々を追い立て
 た。
  それは、ジョージア州政府がやったことで、
  「チェロキー・ランド宝くじ」を作って売った、
  まだ、インディアンの方たちが生活をしているのに、
 出て行く予定だと、チェロキー・インディアンの方たち
 の土地を宝くじの景品にした。
  当選した白人は、まだ出て行かないインディアンの方
 たちを追い立てた。
  チェロキー・インディアンの方たちの移住は、1838年
 9月から1839年3月にかけて、
  アメリカ東南部のジョージアから、ミシシッピを越え、
 はるか西部のオクラホマまでの1300キロの距離を、長い
 長い距離を、遠い遠い所へ1万3000人を1000にんずつの
 13グループに分けて実施された。
  幌馬車が1グループに50台、一人に毛布1枚が支給され、
 食糧調達のために66ドルが支払われた。
  しかし、その食料を与える白人は、値段を不当に吊り
 上げた。
  そのわずかなお金は、たちまち、底をついた。
  インディアンの方たちは、寒さと飢えで、次々に病に
 罹った。
  それも、非情な事に、「80日間で移動せよ」とされて
 いたので、病気の人が居ても、留まることが出来なかっ
 た。
  病気の人を置いて移動しなければならない状況も生ま
 れた。
  やむを得ず、家族であっても、体の弱い方々を置いて
 行くという事がなされた。
  これで4分の1のインディアンの方々が・・悲惨な事に、
 命を落とした。
  肺炎で死んだ人も多かった。
  この道を『涙の旅路(The Trail of Tears)」と・・
 インディアンの方たちは言った。
  1839年3月になって、やっと、インディアンの方たちは、
 オクラホマに着いた。
  テネシー州を越え、ミシシッピー州を越え、アーカン
 ソー州を越える・・家族が亡くなる、死の旅路だった。
  長い長い死の旅路だった。
  ユネスコの世界記憶遺産に登録すべきだ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
by suba28 | 2015-10-09 16:11 | 皆様とともに 幸せになりたい


はじめまして、ブログを始めさせていただきました


by suba28

カテゴリ

全体
悲惨な戦争を無くしたい
悲惨な戦争を無くせないのでしょうか
皆様とともに 幸せになりたい
未分類

以前の記事

2023年 10月
2022年 10月
2022年 09月
2022年 08月
2022年 07月
2022年 06月
2022年 05月
2022年 04月
2022年 03月
2022年 02月
2022年 01月
2021年 12月
2021年 11月
2021年 10月
2021年 09月
2021年 08月
2021年 07月
2021年 06月
2021年 05月
2021年 04月
2021年 03月
2021年 02月
2021年 01月
2020年 12月
2020年 11月
2020年 10月
2020年 09月
2020年 08月
2020年 07月
2020年 06月
2020年 05月
2020年 04月
2020年 03月
2020年 02月
2020年 01月
2019年 12月
2019年 11月
2019年 10月
2019年 09月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月

フォロー中のブログ

最新のコメント

メモ帳

最新のトラックバック

ライフログ

検索

タグ

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

脳の萎縮を遅くし、脳の活性化..
at 2023-10-30 02:46
水俣病・・まだ、続く、本日・..
at 2023-10-13 02:41
水俣病・・当時、有機水銀の様..
at 2023-10-09 05:42
水俣病・・石牟礼道子さんは、..
at 2023-10-08 04:51
水俣病・・まったく悲惨な、そ..
at 2023-10-06 05:27

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

日々の出来事
20代

画像一覧

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31