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(増補版)199D2/3:気になった事柄を集めた年表(1807年~1808年)

題:(増補版)199D2/3:気になった事柄を集めた年表(1807年~1808年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1807年5月16日、皆川淇園(みながわきえん、儒学者)が没
 した(74歳)
  私塾の弘道館をおこした。
1807年9月18日、幕府が、絵入読本改掛(えいりよみほんあ
 らためかかり)名主(なぬし、江戸時代の地方・じかた
 三役の一つ)を設置した。
  改掛名主:あらため担当の名主が、自主的な改めを行
 ない、また、出版に際して、この名主に出版伺いをたて
 なさいというもの。
1807年10月、松前奉行(まつまえぶぎょう)を置く。
  この奉行は、遠国奉行の一つ。
  蝦夷地支配の蝦夷奉行、次いで箱館奉行となり、この
 年に、松前に移されて松前奉行となった。
  この奉行は、1821年に、蝦夷地が、松前藩に返還され
 て、廃止となった。
1807年12月1日、寛政の三博士の一人・柴野栗山(しばのり
 つざん、儒者)が没した(72歳)
  讃岐(香川県)の農家に生まれ、後藤芝山に学び、18
 歳で江戸に出て、林大学頭信充に入門した。
  1788年に、老中・松平定信による昌平坂学問所の改革
 が始まり、教官となり幕臣となった。
  幕府に任官してから、朱子学を唱え、官学とした。
  そして、松平定信に寛政異学の禁を建議し、実施した。
1807年12月4日、幕府が、天文方・高橋景保(たかはしかげ
 やす、1784年~1829年)に洋書による新訂万国地図(し
 んていばんこくぜんず)の作成を命じた。
  景保は、伊能忠敬の測量事業を監督し、援助し、
  その実測に基づく「日本輿地全図」「日本辺海略図」
 を編纂した。
  新訂万国全図は、幕府の作成した世界地図で、
  ヨーロッパ諸国の東洋進出によって、日本近海に異国
 船の出没があるため、
  幕府は、国策上の必要から、景保に、作成を命じたの
 だった。
1807年、蘭方医の杉田玄白が「野叟独語(やそうどくご)」
 を著した。
  問答形式で書かれ、幕政批判の書、外政に対する積極
 的手段を論じている。江戸防備についても論じている。
  本書は公開されなかった。
1807年、山東京伝作・歌川豊国画「於六櫛木曽仇討(おろ
 くぐきそのあだうちし)」が刊行された。
  この書によって、当時、木曽の名産だった「於六櫛」
 が江戸に紹介された。
  木曽路の宿屋で知り合った於六と蚤屋「善吉」夫婦が
 中心人物。
1807年、蒸気船が発明された。
  ロバート・フルトン(アメリカ)が、外輪式蒸気船を
 開発し、1807年8月17日に、ハドソン川で試運転に成功し
 た。
  このアイデアは、ローマ時代からあった事が確認され
 ている。
1807年、アーク放電灯が発明された。
  ハンフリー・デービー(イギリス)が、ボルタの電池
 を電源としたアーク放電灯を完成した。

1807年、間宮林蔵が、択捉島を測量した。
  そして、開発した。
  村上島乃丈が林蔵の師匠だった。
  間宮は、守備隊にロシアと戦う様に言い、そして、ロ
 シアと戦い、守った。
  また、幕府から樺太の調査を命じられた。
  ロシアが、どこまで迫っているかを調べよとの命だっ
 た。
  1808年に、間宮林蔵は、再度、樺太へ向かった。
  10月4日に、樺太中部に到着した。
  凍傷になった。
  樺太にいたアイヌの人々に助けられた。
  翌年に、間宮海峡を発見した。
  樺太アイヌの人々が大陸へ行くと言うので、一緒に共
 に行きたいを言う。
  1809年8月に、樺太から大陸へ渡り、デレンと言う地へ
 向かった。
  アムール川を100キロさかのぼった。
  間宮たちは襲われたりした。
  そして、苦難の末に、目的の地に着くことが出来た。
  ロシアは、まだ、来ていない事を確認した。
  林蔵の著作として知られているものは、「カラフト島
 見分仕候趣申上候書付」「東韃地方紀行」「北蝦夷図説」
 「窮髪紀譚」など、
  幕府は、樺太を直轄地とした。
  ロシアのクーゼンシュテインという探検家は、間宮の
 行跡・功績を知らされた時、「これは日本人の勝だ」と
 言った。
  林蔵は、伊能忠敬を尊敬していた。
  「忠敬が居なければ自分はなかった」と言った。
19世紀前半、北海道余市町に「旧下ヨイチ運上家(きゅう
 しもよいちうんじょうや)」という、大きな木造の家が
 ある。
  間口約40メートル、奥行き約16メートルと広い。
  この場所は、北海道南端の渡島(おしま)半島にあっ
 た松前藩の所。
  藩は、農業に向かない土地柄から、藩士にアイヌと交
 易の場を与え、その利益を給与に充てていた。
  藩士は、和人の商人に交易を請け負わせ、そして、設
 置したのが運上屋だった。
  和人商人たちは、アイヌとの交易から漁業に軸足を移
 した。
  アイヌの方々を雇い、近くの海でサケやニシンを取っ
 た。
  加工もした。
  運上屋の真ん中に、板張りの管理の場所があった。
  ここで酒を酌み交わしたようだ。
  ここで請け負った商人は、3年間の運上金などを556両
 払った。
  米で換算すると、今の2200万円以上になる。
  利益は大きかったようだ。
  幕府は、江戸時代の後期、幕府は、ロシアの南下を警
 戒して整備を進める。
  そして、整備した道路建設も、請け負い商人に負担さ
 せている。
  商人は、明治に制度が終わるまで、4代続けてこの権利
 を堅持した。
  商売に絶大なうまみがあったのだろう。
1808年1月4日、江戸とその近隣諸国に、50年来の大雪が降
 った、二尺余り(約60センチメートル)とある。
  この頃、小氷期と言われている。冷夏や厳冬大雪の年
 頻繁に現れる。
  この年の11月にも、飛騨は豪雪で、シカ、イノシシが
 千匹以上も里に迷い出て死んだのを、村人が哀れに思っ
 て作った碑がある。
  碑には、半日で、180センチメートルも積もる大雪とな
 った。
  本来、飛騨南部は積雪が少ないのにと書かれている。
1808年1月、伊能忠敬が、幕命で、畿内・四国沿岸の側量に
 出発した。
1808年2月6日、幕府は、本木正栄(もときまさひで)らの長
 崎通詞6人に、オランダ商館長ズーフのもとで、フランス
 語を学ぱせた。
  翌年には、英語学習を行なう。
  オランダ語を基礎外国語として、フランス語や英語の
 研究を進め、蘭学から洋学への橋渡し役を務めた人たち
 だった。
1808年3月29日、幕府が、朝鮮使節の応接費用を調達するた
 め、以後5年間、臨時賦役の上納を諸大名に命じた。
  朝鮮使節は親善使節であったが、その応接に多くの費
 用が必要とされた。
  その様な応接がなされた(宴席、献立、贈答品など)。
  日本の行く先々で大変な接待をした。
  また、その様な接待の下で行われた。
  通過する藩がその費用を負担したが、幕府の出費も夥
 しかった(新井白石は、待遇の簡素化と、経費節減を図
 った)。
  国情探索もあったようだが、将軍の代替わりの祝賀が
 主な目的。
  江戸時代に、12回の使節が来ている。
  1607年には、家康と秀忠とに会見して国交が回復して
 いる。
1808年3月、幕府が、オランダ通詞の馬場佐十郎(ばばさじ
 ゅうろう、蘭学者でもある)を天文方に任命し、「万国
 全図(ばんこくぜんず)」の補訂作業を命じた。
  万国全図は、1602年に、中国で出版された漢文の「坤
 輿万国全図(こんよばんこくぜんず)」を参考にしてい
 る。
1808年3月、銅版画家の亜欧堂田善(あおうどうでんぜん、
 松平定信に見いだされる)が、「医範提綱(いはんていこ
 う)」(宇田川玄真訳撰)の付図として 銅版解剖図を刊
 行する。
  医範提綱は、津山藩医の宇田川玄真が刊行した江戸時
 代のベストセラーの医学書だったという。
  玄真は、師から引き継いだ西洋の内科や薬学の研究を
 した。
  玄真は、「内科治療をするにも、薬の処方をするにも、
 まずは体内の構造を知らなければならない」と考えたと
 いう。
  人体の器官と働きを明らかにすることによって、病気
 の原因や治療法が分かると探ったという。
  西洋の名医の本を数冊翻訳もしたという。
  そして、その要点を簡単にまとめて刊行したのが、こ
 の「医範提綱」だという。
  考え方は、まったく正統で驚く。
  この本は、何度も藩を重ねて、明治になっても、医学
 校の教科書に使われたという。
  現在も使われている身体器官の名前には、この書で定
 着したものがいくつもあるという。
  例えば、玄真の優れたところの一端は、リンパ腺の「
 腺」や膵臓の「膵」の字は、中国で作られた漢字ではな
 く、この玄真が、器官の働きを考えて作った文字(国字)
 なのだ。
  「腺」の字は、逆に、今・現在、中国で使われている。
  杉田玄白と同等、または、それ以上の偉人と言える人。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009
by suba28 | 2015-09-04 03:56 | 皆様とともに 幸せになりたい


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