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(増補版)96C3/3:気になった事柄を集めた年表(1597年2月~1600年6月)

題:(増補版)96C3/3:気になった事柄を集めた年表(1597年2月~1600年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1597年2月頃、慶長の役、第二次朝鮮出兵
  秀吉が、作戦目標を書いて、諸将に発した。
  その2月21日付朱印状によると、
  「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他
 にも進攻せよ」というものだった。
  明を支配し、東アジアに君臨したいという秀吉の夢。
  朝鮮に渡った石田三成が見たものは、食糧不足と、ゲ
 リラの襲撃に苦戦する姿、
  そして、病苦により多数の死者が出ている姿だった。
  太閤の夢を、この悲惨さを見て、止めさせることを思
 った三成だった。
  早く戦争を終結すべきとの考えに至った三成は、太閤
 を偽り、明の主張を入れた和平条約の締結に向け動き出
 した。
  太閤の趣旨に反した和平の動きをする三成らの工作が、
 太閤を偽ったものである事を憤っていた加藤清正は、
  遂に、その事を太閤に、その内容を知らせた。
  そして、明からやって来た講和使節を迎えて、秀吉の
 怒りは爆発した。
  明の皇帝の書簡は、「特に、爾(なんじ)を封じて、
 日本の国王と為す」とあった。
  秀吉は、言語道断の極みなりと言った。
  小西行長が呼び出された。
  小西行長は朝鮮にあって、配下の者を北京に派遣して
 この交渉に当たらせてきていた。
  太閤の怒りは、この行長に向けられた。
  この様な経緯から第二次の侵攻が始まっていた。
  第二次は、第一次の時より侵略者的な姿となっていた。
  論功行賞の証拠品だと言って鼻や耳を秀吉の下へ送っ
 たという。
  それが京都に遺る耳塚だという。
  李氏朝鮮側も、兵へ日本軍への攻撃命令しても、命令
 拒否がたび重なり、その三道水軍統制使の李舜臣が、罷
 免されるという状況だった。
  後任に元均が任命された。
  この元均も、最初は攻撃する事を渋っていた。
  日本軍は、その元均らを戦死させ大打撃を与えた。
  李舜臣が返り咲いた。
  この様な戦いが、1598年8月18日の秀吉の死去により、
 五大老や五奉行を中心に撤退が決定され、朝鮮の日本軍
 にも知らされず、秘かに撤収が開始された。
  この戦争について「明史」は、
  「豊人秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明
 では)10万の将兵を喪失し、100万の兵糧を浪費するも、
 中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊
 臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した」と総評する
 様な戦いだった。。
1597年7月、ルソン国(今のフィリピン)入貢。
1598年、耕地総面積、この頃の、全国の耕作地の総面積は、
 163万町歩、総石高1850万石。
  この頃から、大規模な新田開発や、灌漑施設の開発が
 活発になった。
1598年3月15日、秀吉、醍醐の花見
  太閤秀吉が、京都の醍醐三宝院において、花見の宴を
 催した。
  秀吉は、信長や家康に比べて非常に桜が好きだった。
  秀吉は、この醍醐の花見の4年前にも、吉野山で盛大な
 花見を催している。
  秀吉と秀頼を中心に、列をなして一帯にしつらえた茶
 室を巡り歩いた。
1598年5月5日、秀吉、発病
  秀吉はすでに咳気を患っていた。また、神経痛の気味
 でもあった。
  病気は、5月下旬あたりから次第に重くなっていった。
1598年7月1日、北政所が、秀吉の病気平癒の神学を催した。
  この翌日の2日に、秀吉は気絶し人事不省となったとい
 う。8日には、秀頼の奏請による神学も奏された。
  そして、寝たきりの状態となり、7月13日、その後の体
 制を考え、五奉行を定めている。
  大阪と伏見に集められた諸大名の下に、7月15日に、
 11ヶ条が示された。
  この遺言の形式の書状に対し、5大老・5奉行は起請文
 を記し、それぞれ血判を印した。
  その書に、
  「秀頼事、成りたち候やうに、此の書付の衆として、
 たのみ申し候、なに事も、此のほかにはおもひのこす事
 なく候、かしく」とある。
1598年8月11日、五奉行から重ねて誓書が家康らに出された、
1598年8月18日、秀吉が、伏見城にて、この日に息を引き取
 った(63歳)。
  「露とをち 露と消えにし わが身かな 浪速のこと
 は 夢のまた夢」
  家康が、大老として秀頼の後見をすることになった。
  おねは、髪を下ろし仏門に入った(51歳)。
1598年8月、秀吉が没し、徳川家康と前田利家が、朝鮮の兵
 を引き揚げさせた。
  名護屋城は解体され、
  城の建物は、唐津城や平戸城へ運ばれた。
  大名の陣屋も取り壊され、
 山野に忽然として生まれた大都会は、7年を待たずにして
 以前の大地に帰り、豪壮な石垣だけが残った。
1598年9月、豊臣秀吉が没した後の家康は・・、
  徳川家康は、秀吉の頼みをよく守っている。
  秀吉の死後、直ちに、反秀吉の行動を起こしたのでは
 ない。
  家康は、秀吉の死後も、引き続き、大阪、あるいは伏
 見にいる事が多く、
  江戸の政治を、やることができない状態だった。
  家康は、秀吉の言葉の『秀頼を頼む』を守っていた。
  政治は、江戸城に居る秀忠に任せていた。
  また、秀忠は、「凡庸な二代目」と言うのは間違いで
 ある。
  秀忠は、『我はただ先業を恪守(かくしゅ、遵守、真
 面目に守り従う事)せしという迄にて何の功徳なし」と、
 家康のやったことを謹んで守っただけだと・・、
  これは、謙遜して言っている、
  秀忠は、家康がやれなかった幕藩体制を軌道に乗せる
 事を忠実にやっている。
  福島正則らの外様有力大名の改易は、家康は出来なか
 ったが、しがらみのない秀忠は、23名の外様大名、及び、
 16名の徳川一門・譜代大名の改易処分を行い、
  将軍権威を絶対のものとしている。
  戦国時代を、秀忠は、完全に清算したのだった。
1599年4月27日(閏3月3日)、前田利家(まえだとしいえ、
 加賀藩大名)が没した(1538年?~1599年)、
  豊臣政権の五大老の一人。秀吉の死後、8ヶ月後に・・、
  前田利家は、秀吉と同じような苦労人、
  本能寺の変後に秀吉に臣従し、
  豊臣家の宿老として、秀吉と共に天下泰平を目指した。
  秀吉は、その信頼から、秀頼の後見人の一人として任
 じた。その要石の一人が没したのだった。
  顕在化して来た豊臣政権内の武断派と文治派の仲裁役
 が没したのだった。
  秀吉の死後、朝鮮での戦いで生まれた武断派と文治派
 (管理派)の溝は、加藤清正、小西行長らの帰国によっ
 て、豊臣政権内の対立へ移って行った。
  こうした中で、1599年正月には、秀吉の遺言によって
 淀殿は秀頼と共に家康ら5大老を従え、新装の大阪城に入
 っていた。
  豊臣政権の主城の大阪城。
  秀吉は、自分は伏見城に引っこみ、秀頼に大阪城をや
 ろうと思い立つと病床から城の補強を命じ、三の丸を作
 らせ、自然の淀川と大和川に加え、人工の川を作り、ま
 た大きな空堀(からぼり)を切って、城郭が2キロ四方
 という、現在の大阪城の5倍の大きさの城郭に改造させて
 いた。
  この様な守りの堅固な城にして、太閤は死んで行った
 のだった。
  淀殿が来るまでは、正室のおねが主(あるじ)だった。
  淀殿の入城と入れ替えにおねは、京都の三本木に引き
 籠った。
  ここに秀頼・淀殿・石田三成を中心とする豊臣が始ま
 っていた。
そして、1599年4月(閏3月3日)、前田利家が死に・・、
  利家は、秀吉より秀頼を頼まれていたが・・、
  そして、秀吉の武将の分裂・・、家康に何かが芽生え
 た・・
1599年4月、前田利家の葬儀の時、武断派の加藤清正・福島
 正則・黒田長政らは、遺恨のある石田三成を襲撃せんと
 したが・・、
  何かを事前に察知した三成は、何故か家康の居る伏見
 邸へと走った。
  家康は、武断派からの三成引き渡し要求を拒み、慰撫
 して引き取らせた。
  その後、三成は奉行職を解かれ、佐和山へ閑居となっ
 た。
  この様な事になるとは、家康へ走った三成も思ってい
 なかっただろう。
慶長4年(1599年)閏3月13日、家康が、伏見城の西ノ丸に
 入った。
  利家が死去し、三成が閑居し、
  利家の後を継いで大老となった前田年長を含め、毛利
 輝元・宇喜多秀家・上杉景勝らの4大老を、色々な理由に
 て、領国へ帰国させた。
  中央に残ったのは家康だけとなった(6月~8月、多く
 の武将が帰国し、家康の独断状態となる)
慶長4年(1599年)7月上旬、家康が、単独でタイの王へ返
 書した。
慶長4年(1599年)9月9日、家康が、重陽の節句で、豊臣秀
 頼に祝詞を申し述べるというもののために出向いた。
  この時、家康の登城途中に家康を討つという計画がも
 たらされた(家康の暗殺計画発覚)。
  首謀者が前田利長で、浅野長政、大野治長らの名が出
 た。
  家康は、伏見より自軍の兵2万の兵を大阪へ呼び寄せた。
  その家康の軍が大阪城に入った。
1599年11月15日(慶長4年9月28日)、家康が、大阪城へ入
 城した。
慶長4年(1599年)10月2日、家康暗殺計画の処分
  浅野長政・大野治長・土方雄久が、蟄居または他家預
 けとなった。
  そして、この処分で減ったままの奉行体制(3奉行)と
 し、また、秀頼・淀君の側近も排除された(豊臣体制の
 切り崩し)。
慶長4年(1599年)10月3日、加賀征伐が発令された。
  前田利長の容疑は晴れず、風聞も高まって、前田征伐
 となった。
  前田利長は、家康に抵抗せずに屈した。
  この加賀征伐の声明を知った利長は、直ちに家老を家
 康の元へ送り、陳弁に努めた。
  そして、利長の母を江戸へ人質として出す事を決めた。
  前田家は家康の下に降った。
  この頃、家康は、秀頼の直轄地を勝手に加増に使った
 り、また、勝手に転封したりと、
  諸大名の多数派工作を行った。
慶長4年(1599年)11月20日、出羽仙北の戸沢政盛が、家康
 に、上杉景勝の動静を報じた。
  2月になって、家康は使者を派遣して上洛を勧告したが、
 景勝は応じなかった。
慶長5年(1600年)2月1日、家康が、単独で田丸忠昌の知行
 宛行(あておこない、所領などを給与すること)をした。
  家康の単独の大名の転封の最初の例。
慶長5年2月、上杉景勝が、城普請や城の修築をさせたり、
 急がせたりしている。
慶長5年3月、出羽山形城主の最上義光が大阪に上り、家康
 に、上杉の不穏な動きを進言している。
慶長5年3月11日、上杉景勝の重臣・藤田信吉が徳川方へ走
 り、景勝の叛意を訴え、内部告発した。
慶長5年3月16日、オランダ船・リーフデ号が豊後に漂着し、
 航海長のウィリアム・アダムスと乗組員のヤン・ヨース
 テンが家康に対面した。
慶長5年(1600年)3月22日、徳川秀忠が、上杉景勝に、「
 会津領内の普請は、領国の仕置のためであるから、もっ
 とものことである。家康も気にしていない」旨の書状を
 送った。
慶長5年4月1日、家康が、使者を会津に遣わし、景勝に上洛
 のうえ、非違八ヶ条につき陳謝するよう促した。
  これは、上杉が城下に浪人を雇い入れたり、
 軍備を増強したりしている事を謀反だと糾弾して、
  使者を派遣して、誓詞の提出と上洛しての釈明を要求
 したこと。
慶長5年4月14日、これに対する上杉家の反駁:直江状
  上杉家の家老の直江兼次は・・、
  この家康の書状に対し返書を送った。
  これは、各条ごとに反駁したもので、
  上洛を拒絶していた。
  会津攻めが決定的となった。
  家康にしっかりと物を言う武士が居た。
  前田もしり込みした家康にものを言う、これが、日本
 の正義。
  直江状の内容(概要・意訳):
  今朔の尊書昨十三日下着具に拝見、多幸々々。
 一、当国の儀其元に於て種々雑説申すに付、内府様御不
 審の由、尤も余儀なき儀に候、併して京・伏見の間に於
 てさへ、色々の沙汰止む時なく候、況んや遠国の景勝弱
 輩と云ひ、似合いたる雑説と存じ候、苦しからざる儀に
 候、尊慮易かるべく候、定て連々聞召さるべく候事。
(当家への御不審の様ですけど噂です。聴き捨てて下さい)。
 一、景勝上洛延引に付何かと申廻り候由不審に候、去々
 年国替程なく上洛、去年九月下国、当年正月時分上洛申
 され候ては、何の間に仕置等申付らるべく候、就中当国
 は雪国にて十月より三月迄は何事も罷成らず候間、当国
 の案内者に御尋ねあるべく候、然らば何者が景勝逆心具
 に存じ候て申成し候と推量せしめ候事。
 (景勝が上洛しないので御不審なのでしょうが、去年、
 会津に来たばかりで、冬も来ますから、その様な事情か
 らです。ここの冬が厳しいのはお尋ね下さい)
 一、景勝別心無きに於ては誓詞を以てなりとも申さるべ
 き由、去年以来数通の起請文反古になり候由、重て入ら
 ざる事。
 (当家は秀頼様を裏切るようなことは致しません。誓紙
 も出しましたし、何度も提出させて戴きました)。
 一、太閤以来景勝律儀の仁と思召し候由、今以て別儀あ
 るべからず候、世上の朝変暮化には相違候事。
 (太閤様からは景勝は律儀な仁と言われていました)。
 一、景勝心中毛頭別心これなく候へども、讒人の申成し
 御糾明なく、逆心と思召す処是非に及ばず候、兼て又御
 等閑なき様に候はば、讒者御引合せ是非御尋ね然るべく
 候、左様これなく候内府様御表裏と存ずべく候事。
 (当家の景勝は別心ありません。噂を言う人の方を調べ
 て下さい)。
 一、北国肥前殿の儀思召のままに仰付られ候、御威光浅
 からざる事。
 (前田家にも御威光を示されたようですけど・・、御威
 光は浅くないのですから・・)。
 一、増右・大刑少御出頭の由委細承り及び候、珍重に候、
 自然用所の儀候へば申越すべく候、榊式太は景勝表向の
 取次にて候、然らば景勝逆心歴然に候へば、一往御意見
 に及んでこそ侍の筋目、内府様御為にも罷成るべく候処
 に、左様の分別こそ存届けず候へども、讒人の堀監物奏
 者を仕られ、種々の才覚を以て妨げ申さるべき事にはこ
 れなく候(や)、忠信か、佞心か、御分別次第重て頼入
 るべく候事。
 (前田氏と大谷氏が家康様の所へ行ったそうですが、ま
 た、榊原氏がちゃんと当家の事を言ってくれれば良かっ
 たのですが、何故、そんなに当家の事を悪く言うのか理
 解できません。御理解下さい)。
 一、第一雑説ゆえ上洛延引候御断り、右に申宣べる如に
 候事。
 (景勝が上洛しないから、色々、言われるのでしょうけ
 ど、雑説です)。
 一、第二武具集候こと、上方の武士は今焼・炭取・瓢べ
 以下人たらし道具御所持候、田舎武士は鉄砲弓箭の道具
 支度申し候、其国々の風俗と思召し御不審あるまじく候、
 不似合の道具を用意申され候へば、景勝不届の分際何程
 の事これあるべく候や、天下に不似合の御沙汰と存じ候
 事。
 (武具を集めていることについてですが、都と違ってこ
 ちらは物騒なんで鉄砲を揃えています。悪いことをしよ
 うとしているのではありません)。以下略
慶長5年4月下旬、家康が、この頃に、会津征伐軍の先鋒を
 細川忠興・福島正則・加藤嘉明に命じた。
慶長5年5月3日、家康が、諸大名に会津征伐への出陣命令を
 出した。
慶長5年5月7日、前田玄以・長束正家・増田長盛(五奉行の
 うち)・堀尾吉晴・生駒親正・中村一氏(三老中)が連
 署で、家康に会津征伐の中止を申し入れた。
慶長5年6月2日、家康が、公儀の為と言って関東の諸将に
 会津出征の軍備を発令した。
慶長5年6月6日、諸将を大坂城へ集めて会津征伐の部署を決
 定した。
慶長5年6月15日、家康に、秀頼より黄金1万枚、米2万石
 が下賜された。
  これによって豊臣家のための戦いという形になった。
  「景勝が上洛せずに秀頼様への出仕を怠っているのは
 謀反の証拠である。だから秀頼様の命令の元に大老とし
 て景勝を征伐する」という形になった。
慶長5年(1600年)6月18日、家康が、会津征伐へ向けて、
 伏見城を出陣した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/
by suba28 | 2015-05-11 02:12 | 皆様とともに 幸せになりたい


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