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(増補版)94C3/3:気になった事柄を集めた年表(1594年~1595年7月)

題:(増補版)94C3/3:気になった事柄を集めた年表(1594年~1595年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
16世紀後半、日本は、この時、世界で一番、鉄砲を所有す
 る国になっていた。
  日本に、1543年に、鉄砲が伝来してわずかな期間、30
 ~40年の間に、その技術をマスターしたことに驚くどこ
 ろか、世界一の鉄砲所有国になっていた。
  しかし、ダートマス大学教授のノエル・ペリン氏が、
 主張したいところは、それ以上の事だった。
  人々は、その技術習得も凄いと言われるが、更に、日
 本の凄い所と、そして、世界に希望を与える所は、「軍
 縮への希望」を日本は示したのだと言われる。
  人間の本性から、軍縮は不可能と言われる世界に、希
 望を与えたと言う。
  例えば、イギリスのダンセイニ卿は言う・・、
  「むろん(私は)改革を示唆しているのではない。毒
 ガス兵器の時代から鉄砲の時代に後戻りできない様に、
 鉄砲の時代から刀剣の時代へは後戻りできないからであ
 る」・・と。
  この様な世界の考え方の中で、ノエル・ペリン教授は
 言う・・、
  「現代社会を根底から脅かしている核兵器による人類
 破壊の危機を憂慮する一人として、過去にあって、当時
 の最先端の新式武器(鉄砲)を捨てた日本の経験に学ん
 で、核兵器は放棄すべきであり、また放棄できるのだ、
 と(日本は)強く示唆しているのである」・・と。
  ノエル・ペリン教授は、安土桃山時代の鉄砲の使われ
 方が、その急速的にマスターし、競って戦いに取り入れ
 られ(その死の商人をしたのがキリスト教宣教師、この
 輸入鉄砲を使ったのが主に九州の大名、そして、技術を
 マスターした日本の鉄砲鍛冶)、
  そして、そこで、凄い事あ起きるのである。
  日本人は悟るのである。
  その殺戮性に、その非人道性に・・。
  そして、それに気付いた日本人は、その後、鉄砲を用
 いる戦いを控えて行く、止めて行く。
  その過程を知り、そして、江戸時代に昔の刀剣の時代
 に戻ったことを知った驚きが、教授にあった。  
  教授は、日本のこの事実を世界に発表した。
  世界から驚きと賛辞が沸いた。
  世界のマスコミが、この事を、次々に取り上げた。
  世界に、日本のこの軍縮の希望を見出した時となった。
  ノエル・ペリン著「鉄砲を捨てた日本人」をお読みく
 ださい。
1594年1月3日、秀吉が、伏見城の築城のための6人の普請
 奉行を任命した。
  そして、朝鮮に出動していない諸大名には、築城の軍
 役を賦課(ふか、割り当てる)した。
1594年1月29日、羽柴秀次が、新年挨拶のために大阪城へ登
 城した。2月10日まで逗留した。
1594年2月21日、秀吉が、羽柴秀次を招待して茶会を開催し
 た後、直ちに大阪城に帰城した。
1594年2月25日、秀吉が、羽柴秀次・諸大名・公家衆を従え
 大和国吉野山において花見を行うため大阪城を発ち、当
 麻に到着する。
  27日、秀吉が、大和国吉野山に登り、豊臣秀保の建て
 た茶屋において花見を行う。
  3月2日まで滞在する。
1594年3月17日、秀吉が、大阪より伏見に到着し、伏見城の
 普請の様子を視察する。
1594年4月16日、秀吉が、小西行長を通じて書簡を送付して
 来た島津義弘へ、長陣の慰労をし、明の返答次第でさら
 なる軍勢を派遣する予定を通知した。
1594年4月22日、秀吉が、徳川家康からの湯治見舞いを謝し、
 筋痛により湯治する旨を通知した。
1594年4月28日、羽柴秀次が、聚楽第より大阪城に登城し、
 本丸において秀吉に謁見する。
  次いで、秀吉と共に、二の丸の秀頼と対面する。
  秀次は、秀吉・秀頼父子、北政所、淀殿にそれぞれ進
 物を贈呈した。
1594年4月29日、徳川家康が、摂津国の有馬へ湯治に赴いた
 秀吉への見舞いとして家臣の平岩親吉を派遣した。
1594年6月2日、秀吉が、島津義弘へ長期の在陣を慰労して、
 栗毛の馬・1疋を贈った。
1594年6月28日、秀吉が、鍋島直茂へ、干鱈200枚の献上を
 謝す。
  また、明・朝鮮からの和議の申し出を容認する旨を通
 達する。
  釜山海・金海・熊川など受持ちの城の留守番を堅固に
 して帰朝すべきを命令した。
1594年7月、秀吉が、日向国・薩摩国・大隅国への検地衆の
 派遣に関する覚書を認めた。
1594年7月10日、秀吉が、再度、朝鮮へ渡海する吉川広家へ
 油断無きよう指示を与えた。
1594年7月22日、秀吉が、大政所の3回忌のため、東寺五重
 大塔を建立した。大塔供養が行われた。
1594年8月23日、大盗賊の石川五右衛門が、三条河原で釜茹
 になった。
1594年9月9日、秀吉が、伏見の家康邸を訪問した。
1594年9月22日、秀吉が、「伏見移徒祝儀」を献上して来た
 毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ謝意を表した。
1594年10月20日、秀吉が、徳川家康らを引き連れて聚楽第
 を訪問した。
1594年10月25日、秀吉が、蒲生氏郷邸を訪問。28日には、
 上杉景勝邸を、そして、30日には、佐竹義宣邸を訪問し
 ている。
1594年11月10日、秀吉が、島津義弘の長期の朝鮮在陣を慰
 労し、寒気に備えて暖をとるよう指示している。
1594年11月25日、秀吉が、伏見の徳川家康邸を訪問する。
  30日には、家康と共に入京している。
1594年12月3日、秀吉が、小早川秀秋の下国に際し、種々の
 出迎え・馳走の様子を山口正弘より報告を受けて、毛利
 輝元へ謝意を表わし、
  また、毛利輝元による熊谷元直の派遣を賞した。
1594年12月4日、秀吉が、吉川広家からの高麗鷹の献上を謝
 した。
  また、小早川隆景の養子となる豊臣秀秋の下向、拾丸
 の伏見城移徒、
  来春の番替の軍勢が派遣されるため帰朝命令を予告し、
 御用あれば馳走する旨を通知した。
1594年12月6日、秀吉が、摂津国の有馬へ湯治した。
1594年12月8日、木下吉隆氏が、摂津国有馬惣中へ羽柴秀吉
 への進物停止・自粛の旨を通知した。
1594年12月10日、秀吉が、摂津有馬湯山年寄衆へ、新御殿
 造営のため、破却された在家65軒の地子銭・年貢を免除
 した。
  また、100石の年貢米を下した。
  また、474匁の地子銀子の免状を下した。
1594年12月20日、秀吉が、吉川広家からの高麗虎の献上を
 謝した。
  また、この日、吉川広家へ、朝鮮在陣衆の入れ替えを
 指示、
  明後年に予定されている羽柴秀次・豊臣秀秋・宇喜多
 秀家の初渡海を伝えた。
  また、古米の入れ替えを指示。
  来年早々の兵糧輸送を通知した。
  そして、この日、献上された虎を、秀吉・秀次・徳川
 家康・前田利家などと見物した。
  そして、来春予定の羽柴秀次の出陣、拾丸の伏見城移
 徒、兵糧輸送、豊臣秀秋が小早川隆景の養子となる事な
 どを伝達した。
1595年1月11日、秀吉が、小出秀政へ摂津国内の北政所知行
 方目録を下し、その運上を命令した。
1595年2月1日、大阪城中より多数の金銀が盗難される事件
 が発生した。
1595年2月7日、蒲生氏郷が、京都において病死した。
1595年3月7日、秀吉が、伏見より入京し、前田利家邸に宿
 泊した。
1595年3月8日、秀吉が、聚楽第において羽柴秀次と対面し
 た。
1595年3月27日、秀吉が、禁裏に参内し、先に羽柴秀頼が叙
 爵した御礼などを奏上した。
1595年3月28日、秀吉が、徳川家康邸を訪問した。
1595年4月8日、秀吉が、秀頼の病気見舞いの為、伏見城に
 入城した。
1595年4月10日、秀吉が、伏見城において、聚楽第より下向
 した羽柴秀次と対面した。
1595年4月16日、羽柴秀保が、横死(おうし、殺害されたり、
 災禍のために死ぬこと)する事件が発生した。
1595年4月28日、秀吉が、虎の肉などを送付して来た鍋島直
 茂へ、今後一切の狩猟は無用であることを通知した。
1595年5月3日、徳川家康が、江戸へ向けて京都を出発した。
1595年5月20日、秀吉が、江戸の徳川家康へ、蝋燭などの贈
 物の礼を述べ、新茶の壺を贈答し、口切の9月頃に茶会を
 開催する事を申し合わせた。
1595年6月3日、秀吉が、島津義弘へ蒲生氏郷の老臣どもの
 不正を糾弾し、蒲生秀行を近江2万石に転封することを通
 達した。
1595年6月29日、秀吉が、島津義弘へ検地後に57万石の知行
 宛行目録を下した。
1595年7月3日、秀次が、謀反の嫌疑で石田三成・増田長盛
 らの羽柴秀吉奉行衆より詰問を受けた。
1595年7月5日、長宗我部盛親、山田庄屋の門田藤兵衛・谷
 甚左衛門へ7月25日までに鉄砲玉薬の納品を命令した。
1595年7月8日、秀吉が、羽柴秀次を召還し、関白・左大臣
 の官職を剥奪し、羽柴秀次は出家し高野山へ追放となっ
 た。
1595年7月12日、徳川家康・毛利輝元・小早川隆景が、羽柴
 秀頼への忠誠、および、太閤様御法度を順守し、不断在
 京の上で羽柴秀頼への御奉公すること、
  および、徳川家康・毛利輝元が交替で暇乞をして下国
 する事を起請文を以って誓約。
1595年7月12日、石田三成・増田長盛が、全5ヶ条の起請文
 を提出。
  豊臣秀頼への表裏別心無く、盛り立てること。
1595年7月15日、秀吉の姉の子の羽柴秀次が切腹させらてた
 「言経卿記」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/
by suba28 | 2015-05-08 04:08 | 皆様とともに 幸せになりたい


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