(増補版)599E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)

題:(増補版)599E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1894年6月12日、鉄道敷設法の一部改正を決定した。
  中央線や、その他5線の篠ノ井線・鹿児島線などを第1
 期線に追加し、篠ノ井線の起点を篠ノ井と決定した。
  鉄道敷設法(てつどうふせつほう)は、国が建設すべ
 き鉄道路線を定めた日本の法律で・・、
  1892年6月21日に制定された旧法と、同法を廃止し新た
 に1922年4月11日に制定された改正法がある。
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1894年6月12日、実業教育費国庫補助法が公布された。
  井上毅文相の実業教育振興政策に基づいて制定され、
 実業学校に国庫補助金を交付することを定めた。
  裁可:1894年6月11日、公布:1894年6月12日、施行:
 1894年9月1日
  朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル実業教育費国庫補助法ヲ裁
 可シ茲ニ之ヲ公布セシム
  御名御璽
  明治二十七年六月十一日
            内閣総理大臣 伯爵伊藤博文
            大蔵大臣   渡辺国武
            文部大臣   井上 毅
  法律第二十一号
  実業教育費国庫補助法
  第一条:実業教育ヲ奨励スル為ニ国庫ハ毎年度金十五
      万円ヲ支出シテ其ノ費用ヲ補助スヘシ
  第二条:公立ノ工業農業商業学校、徒弟学校及実業補
      習学校ニシテ実業ノ教育ニ効益アリト認ムル
      トキハ文部大臣ハ其ノ学校ニ補助金ヲ交付ス
      ヘシ
  地方官庁ノ認可ヲ経タル農工商組合ニ於テ設立シタル
 実業学校ハ文部大臣ノ特別ノ認定ニ依リ前項ニ準スルコ
 トヲ得
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1894年6月14日、北里柴三郎が、ペスト菌を発見した。
  1894年6月18日、北里柴三郎が、ペスト菌発見を公表
 した。
  この報告は、翌日の1894年6月19日の午前に内務大臣に
 伝えられた。
  そして、1894年6月21日に、新聞は報道した。
  北里は、さらに、コッホ研究所や、香港政庁を通じて
 イギリス植民地大臣に伝え、そして、このニュースは、
 世界へも伝えられた。
  北里は、研究成果を発表しようと、1894年7月7日に、
 論文を一気に書いた。
  これが、「ペスト病の原因調査第一報」だった。
  これは、ペスト菌に対する単なる報告書ではなかった。
  まず、異例ともいえる「ペスト病」検証報告書だった。
  そして、これには、続けて、ペスト菌発見に至る過程
 が記述されている。
  この記述は、ペスト菌に対する観察が精緻を極め、か
 なり長文に渡って説明されていた。
  そして、その中で問題となった部分・・専門的にもな
 る「グラム染色」に関わる件があった。
  北里は、この「グラム染色」の結論を書かなかった。
  「かのグラム氏複染色法を用い得るや否やは、後日を
 もってこれを報道すべし」として、結論を先送りしてい
 た。
  ここが問題とされた。
  北里が、もし、「ペスト菌はグラム陰性である」と記
 述していれば、その様な問題は発生しなかった。
  このグラム染色法は、デンマークの医師・グラムが開
 発したもので、菌の分類法である。
  菌が、「陽性」か、「陰性」を問う。
  北里柴三郎の論文は、後日、日本の官報に1894年7月31
 日と1894年8月1日の2回に分けて掲載された。
  緻密な調査報告書だった。
  また、北里には、この報告書の主要部分をまとめたド
 イツ語の論文もあった。
  このドイツ語論文を、イギリス人医師のラウソン国家
 医院副院長が読んだ。
  そして、このラウソンが、この論文を、イギリスの伝
 統と権威を持つ医学雑誌「ランセット」に掲載しません
 かと北里に薦めた。
  世界的権威のある雑誌であった。
  北里は、名誉ある事ですからとお願いした。
  そして、ラウソンが、自ら、英訳を買って出た。
  北里は、その好意に感謝し依頼し、即座に英訳され、
 北里の同意のもとに送付された。
  この論文は評価され、直ちに、掲載となり、8月1日号
 と8月25日号に掲載された。
  内容は、ペスト菌の発見を伝え、その論文と共に、標
 本の図解やイラストも掲載されていた。
  そして、そのイラストには、正しくペスト菌の形態も
 捉えていた。
  北里柴三郎が、明らかに、顕微鏡下にペスト菌を捉え、
 観察していることを示している証拠だった。
  さらに、北里は、コッホ研究所にドイツ語論文と共に、
 塗抹標本と培養菌を送っていた。
  コッホ研究所では、この菌で、追認試験が行われ、「
 北里柴三郎のペスト菌」は明らかにペスト菌で、「グラ
 ム陰性」であると確認された。
  今日のペスト菌についての常識である「グラム陰性・
 卵円形・短小棹菌」がここでも立証された。
  確かに、北里柴三郎は、1894年6月に、香港でペスト菌
 を発見したのだった。
  北里柴三郎が、流行の早期に、ペスト罹患の危険の中
 を香港へ積極的に行ったのが、ペスト菌発見に功を奏し
 た。
  ペスト患者が多くなると、種々の型のペスト菌も発生
 して、真のペスト原因菌の発見を複雑にする。
  (患者数が多いと発見はできないとも言われている)
  ただ、染色される菌についても北里は触れてもいた。
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1894年6月16日、日本政府が、清国に朝鮮の内政改革を共同
 で行う提案をした。
  陸奥外相が、清国に朝鮮内政の共同改革を提起した。
  清国が、共同での改革に合意しなければ日本は単独で
 でもこれを行いますと提案した。
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1894年6月20日、清の李鴻章が、ロシアに日清間の調停を依
 頼した。
  ロシアには南下して行きたいという「南下政策」があ
 り、この調停依頼自体が問題だった。
  問題を複雑にするだけの「干渉行為」ともなった。
  ロシアは、自国の南下政策上、日清両国の朝鮮撤兵を
 表明した。
  しかし、このロシアの南下政策を警戒していたイギリ
 スは反対し、日本を支持した。
  ロシアは、1860年代に、沿海州にどんどん侵略し始め
 ていた・・そして・・、
  1872年(この時から20年も前)から、すでに、ウラジ
 オストックを海軍基地を軍事基地にして、建設を完了し
 ていた。
  (今・現在の南シナ海・・中国の屁理屈で領土だとさ
 れ、基地化しないと初めは言っていたが・・今はミサイ
 ルやレーダーも配備している)
  この頃、朝鮮と関係していた国は、日本だけでなく、
 ロシア・清国・・そして、アメリカ・イギリス・ドイツ
 が朝鮮と関係していた。
  1884年、ロシアは、朝鮮と条約を結んだ(露朝修好通
 商条約)
  この時までは、ロシアは、アメリカやヨーロッパが、
 朝鮮の鎖国状態を開こうとしていたことに反対していた。
  そして、抵抗をしていた。
  (朝鮮の鎖国状態を維持させようとしていた)
  これは、ロシアが朝鮮に進出したいという下心(した
 ごころ、表に現わさず、ひそかに心の中で考えているこ
 と)があったためだった。
  また、ロシアは、朝鮮に進出するアメリカやヨーロッ
 パ諸国が、積極的に進出する事に対して、さらなる軍事
 的脅威が増すと考えていた。
  ロシアは、沿海州などの侵略において、ロシア人の入
 植を進める上で、朝鮮から食糧など、特に、家畜を得た
 いとしていた。
  故に、この露朝間の交易は拡大していた。
  この様な状況の中で、フランスが、朝鮮の開国を目的
 として、1866年に、フランス艦隊を朝鮮に出撃させた・・、
 また、1871年には、アメリカ艦隊が来た・・そして、開
 国を迫った。
  この時、アメリカは、ロシアから共同歩調をとる様に
 求められた・・が、しかし、拒否した。
  ロシアは、朝鮮から利益を得ることはなく、「形勢を
 観望的にする」としていた。
  この様な荒れる朝鮮情勢の中で、1876年2月、日朝修好
 条規が締結された。
  この時、日本は、ロシアも、朝鮮と同様な条約を結ば
 ざるを得なくなるだろうと見ていた・・ロシアが進出し
 て来るだろうと見ていた。
  そして、朝鮮は、宗主国・清国の主導で欧米への開国
 が実現された。
  今・現在、日本は、軍事的に弱い状況にあるが・・こ
 の様に、軍事的に弱い朝鮮は、この時も、主導権を持ち
 得ず、清国が宋主権を行使するという様な状況だった。
  清国の思惑は、日露の朝鮮に対する関係を牽制するも
 のでもあった。
  (結局、自国の宗主国的な立場を維持したいのだった)
  1882年5月、清国の仲立ちで、米朝修好通商条約が締結
 され・・、
  1882年6月には、同様に、清国の仲立ちで英朝間の、そ
 して、独朝間の同内容の条約が調印された(イギリスと
 ドイツとの条約)
  この様な状況を見て、ロシアは焦った・・色々画策す
 るが失敗に終わる・・この様に各国が渦巻く展開が続く・・
  この様な時、朝鮮は清国の属邦ではあるが、内治外交
 とも自主である趣旨の朝鮮国王のロシア皇帝あての照会
 が手渡された。
  日本は、米英独と共同歩調的な中にいた・・
  そして、朝鮮は、この様な中で、壬午軍乱後(1882年
 10月)の清国の重圧から脱するために、隣接国たるロシ
 アとの間で清国の仲介を得ずに条約を締結したい旨を申
 し入れていた・・特に、朴泳孝・金玉均は朝鮮が自主独
 立の国家であることを強調した。
  朝鮮は、大国たるロシアへの期待があった。
  日本も、この朝鮮の清国からの独立を確認をしたいと
 した。
  露朝条約が締結されると、1885年10月、ロシア大使が
 ソウルに着任した。
  大使館も開設され、朝鮮国王周辺の対露働きかけなど
 で朝鮮の政局に影響が及ぼされた。
  1888年、ロンドンの「タイムズ」が、朝鮮保護を約す
 る露朝間の『密約』が結ばれたと報じた・・これは誤報
 だった・・
  この様に、各国が策謀する朝鮮周辺だった。
  また、ロシア太平洋艦隊に対して、朝鮮沿岸を監視せ
 よとの命令が、ロシア政府から発せられたりした。
  また、朝鮮保護、朝鮮領土保全の多国間条約締結、ロ
 シア人軍事教官派遣などの命令が、ロシア政府から出さ
 れ、1885年6月、ロシア外交官がソウルへ派遣された。
  1885年4月、イギリスが巨文島を占領した。
  1886年、ロシア海軍省で、新浦(馬糞島)の獲得が検
 討された(不凍港獲得関係)
  しかし、ロシアが見たものは、大院君(全渓大院君、
 李氏朝鮮の第25代国王・哲宗の父)の釈放帰国に伴う清
 国勢力の優勢さと、朝鮮国王の不満の充満状態だった。
  1886年初頭、ロシア政府は、朝鮮国王からの援助要請
 があったが、清国の対朝武力干渉さらに朝鮮併合は、隣
 接する地の沿海州の安全を脅かすと危惧した・・そして、
 朝鮮の清国からの自立を慎重に検討した。
  ロシア政府は、清国によって朝鮮併合がなされるかも
 しれないと危惧していた。
  1886年秋、露清間で、朝鮮の安全保障に関する交渉の
 合意がなされた。
  この間、朝鮮国王廃位が取りざたされた。
  朝鮮は、可哀想だが各国からいい様に扱われていた・・
  だから、1910年に、日本に併合されて、安定した国の
 状態となり、衛生的な国にもなり、人口が3倍にもなり、
 国が栄えた時のことを、それを体験された朝鮮の御老人
 方は、「良かったよ」と言ったのだった。
  それまでの朝鮮は、各国列強にいい様に扱われていた。
  1888年5月、極東問題特別会議が開かれた。
  この会議は、極東のロシア領の現地のロシア当局と、
 極東諸国に駐在するロシア外交官の会議であったが、
 決議された事の1つに・・、
  「ロシアによる朝鮮獲得については、朝鮮は経済的に
 貧しく、軍事的には長い海岸線の故に防衛困難であり、
 外交的には朝鮮侵略は英清(イギリスと中国・清)との
 決裂をもたらすとして、この様な事をしない」・・とな
 った(領土欲の満々のロシアだった)
  そして、朝鮮が弱小である故、中国・清か日本の支配
 下に入るだろうが・・いずれの場合も、ロシアに対する
 脅威になる・・とした。
  そして、仮に清国が、朝鮮を恒久的に制圧するような
 ことになれば、中国海域での海軍の示威(じい、威力を
 示すこと)あるいはロシア国境近くの朝鮮海岸地方の一
 次的占領といった措置をとることとした。
  ロシアは、日本は行動を起こさないと無視した判断を
 している。
  この結果、1888年8月、ロシア・清国が朝鮮領土保全に
 関する条約を結んでいる・・また・・、
  1894年6月の清国の朝鮮出兵に対し、ロシアは、日本の
 出兵より危惧していた。
  1894年6月8日に、天津でロシア公使は清の李鴻章に、
 「清国は情報を故意に誇張し、朝鮮への対処をしている」
 とくぎを刺し・・「反乱が鎮圧され次第、直ちに撤兵を」
 と言っている。
  逆に、ロシアのカッシニ駐清公使は、日本の駐清臨時
 代理公使の小村寿太郎に対し、「日本の派兵の必要を認
 めていた」。
  清国の李鴻章は、「清は宗主国による属邦保護の旧例
 に従い朝鮮の要請により行ったものだ」と言い、
 「ロシアとは無関係」と言った。
  日本は、この様な推移の中、6月16日、仁川に上陸する。
  この後、日本と清国の角がぶつかり合って行く・・、
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  (今日の言葉)
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  題:工作員が一杯・・スパイ天国となっている日本・・あちこちで暗躍している・・
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紀元前1万3000年以前、日本の縄文時代は、紀元前13,000年
 頃から約1万年以上もの長い間続いた。
  その間に作られた土器の形や色など、また、住み方・
 家などが、だんだん変わって行った。
  また、その縄文(じょうもん)時代より以前・・、
  縄文時代より前の旧石器時代の人々は、マンモスなど
 の大きなえものを追いかけて、日本列島の中を移動しな
 がら生活をしていた・・
  その様な遠い昔からの歴史が、日本列島全体にある。
  そのため、住んでいたのは、すぐに移動ができるテン
 トのような家だったと考えられている。
  縄文時代になると、人々は、長い間、同じところで生
 活できる家を作った。
  みんなで集まって生活するようになった。
  これが、「村(ムラ)」の始まりだった。
  縄文時代の代表的な家を『竪穴住居』と言った。
  この住居は、地面を掘って何本か柱を立て、上に屋根
 を設けた。
  半地下式の家だった。
  ムラのなかには、竪穴住居だけでなく、太い柱を使っ
 た大きな建物や、みんなが集まる広場、死んだ人を埋葬
 する墓、貝がらや食料の食べかすを捨てる貝塚・・など
 が作られていた。
  また、ストーンサークルとも呼ばれる、いくつもの石
 を直径30~50メートルの大きな円形にならべた環状列石
 も見つかっている。
  ムラの周り広がる「クリやクルミなどの森」は手入れ
 がなされた。
  ここから、生活に必要な食料や木材を手に入れること
 ができる「縄文里山」として大切にされていた。
  縄文時代の人々は、丸木舟に乗って海をわたり、遠く
 はなれた場所の特産品を手に入れていた・・交流・交易
 をしていた。
  縄文時代の遺跡には、本州でしかとれないヒスイとい
 う美しい石が北海道で見つかったり・・、
  また、逆に、北海道の黒曜石が、本州で見つかったり
 している。
  また、暖かい南の海でしかとれない数種類の貝が、北
 海道で見つかっている。
  縄文人は、日本列島の広い領域を行き来していた。
  縄文の人々は、これらのヒスイや貝などを使って、首
 かざりや、腕輪などのアクセサリーを作っていた。
  また、とても硬い黒曜石は、先を鋭くとがらせて、狩
 (か)りに使う石ぞくや石やり、ナイフなどにしていた。
  縄文時代にも、日本列島での全国規模の交流が行われ
 ていて、人々やモノや情報の活発な動きや交換があった。
  そして、この縄文時代の住居である竪穴住居が、従来、
 考えられて来た茅(かや)が葺(ふ)かれた形ではない
 ことが分かって来た。
  茅が葺かれていたという痕跡がまったくないからで、
 逆に、「土(つち)の屋根」という痕跡が発見されてい
 る。
  例えば、岩手県一戸町の御所野遺跡に、火事にあって
 燃えてしまった縄文時代の住居があった。
  火事で、柱などの木部が炭化したため、腐敗菌に木質
 部が腐敗されずに残った。
  その様な腐らなかった竪穴住居の柱の部材の脇に焼け
 た土が、また、部材の間に堆積していた。
  それが、屋根部分の土だと推測された。
  また、茅には「ガラス質」が含まれているが、この住
 居跡からは、屋根に使われていただろう茅のガラス質が
 あまり検出されず、「屋根が茅だ」という痕跡が否定さ
 れ、「土葺きの竪穴住居の屋根」と推測された。
  また、土葺きの竪穴住居の焼却実験もなされ、この遺
 構の通りの様になることも実証された。
  この様な遺跡が、日本各地で発見され、北海道でも発
 見された。
  北海道の入江・高砂貝塚遺跡や、東北地方、関東地方
 などで発見された。
  縄文人は、日本全土で「土葺きの竪穴住居」に住んで
 いた。
  また、ガラス質を含む硬い茅を刈り取る道具の存在の
 可能性も無い事が、その裏付けにもなっている。
  今、北海道庁の会議で、北海道には、この様な縄文人
 は居ないという答弁がなされている。
  まったく、歴史的事実を無視した非科学的な議論がな
 されている。
  北海道庁の会議では、「無土の地」という間違った答
 弁がなされている。
  誰も居なかったという意味で、この様な間違った認識
 の議論がなされ、この様な間違った認識の議員が、北海
 道政を動かし、行なっている。
  そして、また、北海道の白老町では、北海道は「アイ
 ヌ民族の地だ」ということで、白老町の中のある地域を
 アイヌ民族に返還するという間違った話が進んでいると
 いう。
  しかも、国の金が、我々の税金の金が、100億円もの金
 が投資され、この記念館の箱物が建てられるという。
  また、この様な北海道に、中国が暗躍して、「アイヌ
 民族の独立の話」が画策されているという。
  まったく馬鹿げた話が北海道には一杯ある。
  日本民族の祖先の縄文人の歴史が、そして、その縄文
 人以前の旧石器人の存在が、まったく無視された企て(
 くわだて)が進んでいる。
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17世紀、キリスト教化したいと、暗黒のヨーロッパ中世に
 キリスト教は暗躍した。
  ヨーロッパのキリスト教司教領で、キリスト教の教義
 などの洗脳が影響し、子供だけでなく、地域全体が憑依
 (ひょうい、霊が乗り移り、異常状態で踊りまくる)す
 るという事件が起きた。
  感受性の強い子供の心を、結果的に、弄(もてあそ)
 ぶ事が起きている。
  キリスト教のお祭り「ハロウィン」が、日本で、無邪
 気に行われているが・・、
  そして、この魔女などが関連するこのお祭りに、小さ
 い子供が参加しているが・・、
 また、小学校では「国際感覚を身につけよう」という美
 名のもとに、公的小学校も含めて「ハロウィン」が行な
 われ、
 キリスト教系学校の学生が、喜々として駆けつけ、一緒
 になってやっているが、これは美名の下に行われるキリ
 スト教の「巧妙なる伝道行為」です。
 アメリカでも問題となり、裁判事例が多い「巧妙なる伝
 道行為」です。
 そして、この魔女が関連しているこの事例で、子供たち
 に何が起き?、影響したか?・・という事例・・、
 キリスト教には、「神を恐れよ」という教義がある。
 魔女事件の場合、キリスト教は、この教義によって権威
 を得ようとした。
 また、教勢を拡大したいとした。
 その為、「魔女は生かしておいてはならない」の教義が
 あるキリスト教は「死も辞さない」という姿勢だった。
 「死も辞さない」と言っても自分ではなく、相手を死に
 至らしめる行為でもって権威を得ようという目的だった。
 この例の様に、キリスト教の歴史は、周りに死の影や戦
 争が満ちる歴史となった。
  魔女事件の場合、年端(としは)の行かない3歳・5歳・
 7歳・12歳の子供達が憑依(ひょうい)した。
  これは、広がりやすい性質を持っていた。
  17世紀、キリスト教司教領で、子供だけでなく、地域
 全体が憑依するという事件となって起きた。
  魔女だと言われた女性が、自(みずか)らキリスト教
 聖職者の居る魔女委員会に申し出て、「多くの人々の体
 内に悪霊を祈り込んだ」と言った。
 すると、この町に憑依した、憑(つ)かれた主婦や子供
 達、大勢の群れが、この司祭領や隣接する地域にさ迷い
 出て来た。
 憑依した人たちは、未成年者が多い状況だった。
 町は混乱した。
 飛び火しやすいこの現象は、飛び火して行った。
 スウェーデンの場合は、プロテスタントの村だった。
 憑依した子供たちが現われ・・、
 子供達は意外と大人が何をやっているかを知っていて・・、
 大人たちの言動から、魔女とはどういうものかを見聞き
 し、よく知っていた。
 日頃から、キリスト教聖職者は、魔女の定型を話をして
 いた。
 怖い事に・・感受性の強い子供達は、特に、憑依しやす
 い状況で、親たちは、自分たちで救う事を断念するくら
 いだった。
 親たちは、当局へ原因の魔女の撲滅をする様にと押しか
 けるという騒ぎとなった・・、
 国王の調査委員会が取り調べるという事になり、騒ぎは
 ますます拡大して行った・・
 また、多くの他の村々へ伝染して行った・・、
 憑依した魔児たちは、無数の大人たちを告発した。
 「魔女の踊りをしていた」「悪魔のシナゴーグへ行った
 りしている」、それを見たと・・、
 ある村は、70人の女性と15人の子供が火炙りとなりまし
 た。
 これは、国境も越えて広がって行きました。
 ドイツで起きた事例では、ほとんどが10歳以下の子供
 でした。
 子供達は、キリスト教の教義と魔女を自己流に織りなし
 て語りました。
 想像力の強い子供達は、「魔女のサバト」「天国の幻視」
 「最後の審判と地獄の使者」を語り、告げるという状態
 でした。
  驚くことに「デーモン(悪魔)との性交渉」の詳細な
 証言に、裁判官(キリスト教裁判所の聖職者の裁判官)
 もびっくりしている状況でした。
 (参考)とし‐は【年端/年歯】 年齢のほど。年齢。
    としのは。「―のいかない子」
 (参考)ひょう‐い【憑依】 [名](スル) 霊などがの
    りうつること。「悪霊が―する」 」
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1804年12月2日、ナポレオンの戴冠式
  ナポレオンは、自(みずか)ら戴冠した。
  ローマ法王(教皇)のピウス7世は、ナポレオンの後ろ
 で、何もしないで静かに座したままだった。
  キリスト教が、何の役にも立たないことを知っていた
 のである。
  逆に、キリスト教の仮の権威がある如くの戴冠がなさ
 れ、その後、各地の王や諸侯が、キリスト教に教会を建
 ててあげたりする「おかしさ」を知っていた。
  ナポレオンは、俊英の皇帝だった。
  キリスト教の」虎の威を借りる狐」状態を知っていた。
  何ら、キリスト教に権威も何にもないのに、王位の冠
 (かんむり)をキリスト教が授けるようにする振る舞い
 の害を知っていた。
  このキリスト教は、自分の宗教の伝道より・・「金を
 得ること」と「権力を得ること」を、一生懸命にやって
 来ていた。
  それに気付いたナポレオンは、自分だけではなく・・
 自分の妃(きさき)の戴冠式も、ナポレオンが自ら、妃
 に戴冠した。
  キリスト教聖職者による戴冠を排除した。
  今までは、種々の王や諸侯の戴冠式の戴冠は、キリス
 ト教の聖職者が行なって、ある意味「キリスト教聖職者
 が、あたかも、冠(かんむり)を授けているように見え
 ていた」。
  ナポレオンに、その馬鹿げた虚構が見えた。
  今、キリスト教国・アメリカでは、大統領の就任式に、
 キリスト教の聖書に手を置いて宣誓する儀式が行われて
 いるが・・、
  あれほど、アメリカの初代大統領のワシントンが、キ
 リスト教色の排除と、キリスト教の影響力を排除しよう
 とした心が、「理解されていない状況」へと、今、アメ
 リカはあり、後退している。
  この初代大統領ワシントンは、アメリカ合衆国憲法を
 作る時にも、キリスト教の影響力を排除することに非常
 に心を砕いた。
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1937年12月8日、日本軍は12月8日には南京を包囲した。
  そして、1937年12月9日、日本軍は中国軍に対して無血
 開城を勧告した。
  中国軍は、開城勧告を拒否し、応じなかった。
  やむなく、日本軍は、勧告に応じない南京城を1937年
 12月10日、攻撃を開始した。
  1937年12月12日、南京防衛司令官の唐生智が逃げた・・
 一般兵たちを置き去りにして・・逃亡した。
  また、蒋介石を連れ去って、司令部を崩壊させたアメ
 リカ・・それで、司令部が崩壊し、混乱している中国軍
 が、なおさらに、南京防衛司令官の逃避で、まったく統
 制のされてない状態となった。
  そしてまた、統制の効いてない南京の中国軍の大半が
 組織的撤退を知らされていない状態で・・、
  また、日本軍の迫る頃から混乱が続いていた南京城は、
 逃げる人々にあふれ、中国軍が撤退することを知ってい
 ても安全に逃げられない状況であった。
  中国軍は、自軍の中国兵を、塹壕に足を縛って置き去
 りにしたりした・・塹壕に置き去りにして、防戦させる
 という卑劣なこともした。
  唯一の逃避路である北部の長江へつながる挹江門では、
 中国軍の仲間を撃つことを躊躇しないという中国軍は『
 督戦隊を置いた』。
  中国軍の撤退する側と同士撃ちとなった (挹江門事件)
  (参考)督戦隊:とくせんたい、軍隊において、自軍
     部隊を後方より監視し、自軍兵士が命令無しに
     勝手に戦闘から退却(敵前逃亡)或いは、降伏
     する様な行動を採れば、攻撃を加え、強制的に
     戦闘を続行させる任務を持った部隊のこと。
      この場合、中国軍が、自軍の中国軍を撃ち、
     中国兵を戦う事を仕向けた。
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1937年12月12日、挹江門事件(ゆうこうもんじけん)
  アメリカが介入して、中国軍の最高司令官である蒋介
 石が連れ去られ、中国軍の司令部は崩壊し、中国軍は乱
 れに乱れていた。
  督戦隊が置かれることまでされて、中国兵は戦わせら
 れた。
  あちこちで中国兵同士が撃ち合った・・その一つが挹
 江門事件だった。
  1937年12月12日の夜、挹江門事件が起きた。
  南京城へ進撃する日本軍の攻撃によって、中国軍は敗
 走に敗走を重ねた。
  その中国軍の一部隊が敗走して、挹江門を通り抜けよ
 うとした。
  その部隊は、中国国民政府軍87師と第88師、そして、
 教導総隊の潰走兵だった。
  その潰走(かいそう、戦いに敗けた兵士や隊が、四分
 五裂になって逃げること)する兵士たちと、それらを武
 力阻止する中国軍の督戦隊である国府軍第36師212団とが
 衝突した。
  中国軍同士の激しい撃ち合いとなった・・その双方の
 発砲で、瞬く間に約1000名の中国軍兵士が死亡した。
.
1937年12月13日、この日、混乱に次ぐ混乱の中で、中国軍
 は総崩れとなり南京城は陥落した。
  陥落時にも、南京城の北側から長江の対岸へと逃げよ
 うとした非常に多くの兵隊や一般人が、舟もない中で渡
 河しようとして、混乱の中で撃たれたり、途中で溺れ死
 んだりした。
.
1937年12月13日、中国の南京を日本軍が攻略した。
  この時、いわゆる南京事件が起きたとされているが・・
 まったくの嘘。
  戦勝国のアメリカは、裁く事が出来る法律が無い事か
 ら・・、
  「その裁くための法律を、わざわざ後から作ってまで
 して、東京裁判を裁くという・・卑劣な、戦勝国のアメ
 リカのやりたい放題のやり方で、東京裁判を裁いた」。
  この不当な、また、不法な、戦勝国のやりたい放題の
 東京裁判でさえ、この南京事件はあったとした。
  南京事件をデッチアゲタ。
  そのデッチアゲの南京事件の中国の犠牲者は「2万人」
 と言った。
  それを、中国の現在の政権・中華人民共和国(中共)
 は、だんだんその犠牲者数を増やして行った。
  「無いもの」を「ある」と言い・・そして、その数を
 だんだん増やすという行為を行なった・・よくあるパタ
 ーンを行なった。
  そして、今・現在に至った時点で、その犠牲者数を「
 30万人」と言っている。
  中共の好きに膨らませたこの30万人も、この後には、
 さらに、大きく風船のように膨らんでいくだろう・・
  だが・・この嘘つきの中国の中共の味方をする書物で
 さえ、この数を10万人としている。
  まったく言いたい放題の・・信用の出来ない中共など
 となっている。
  しかし、お粗末な事に、この中共に、ゴマすりをよく
 する「村上春樹は、本で40万人と書いた」・・
  村上春樹よ! 証拠を示せ! この嘘つきめ!
  この一件は、アメリカが、中国軍の最高指揮官の蒋介
 石(現政権の共産党軍ではない)を・・、
  そして、その司令部の最高将校の重要要員を、「救出」
 の名の下に、戦い真っ最中の南京から連れ去った・・
  このために起きた「中国軍の大混乱が原因」で、この
 大混乱・大混戦の原因は、アメリカが作った。
  また、この様に卑劣な参戦をしていたアメリカ軍こそ
 が、「東京裁判で裁かれるべき」だった。
  司令部の居なくなった中国軍は哀れな惨状を示した。
  当然の結果として・・乱れに乱れて、中国軍兵士は逃
 げ惑った。
  惑い、そして、逃げる自国の兵士を「逃げるな」と、
 置き去りにされた中国軍の下級将校たちは、自国軍の兵
 士へ向かって狙い撃ちをした。
  この様な卑劣な事態が起きた。
  東京裁判では隠された・・
  卑劣な裁判だった・・
  この様な南京攻略戦は、様々な事態の中で戦われた。
  また、卑劣にも、中国兵は、逃げられないと悟ると、
 軍服を脱いで、民間人の中に隠れた。
  これでは、民間人に被害が及んでしまう・・民間人が
 戦闘員と見間違われてしまう・・しかし、助かりたい中
 国兵は、この様な卑劣な事までした。
  そして、そこから日本兵を狙撃するという戦い方もし
  その民間人の中にある銃の探索が行われた・・当然・・
  民間人へ被害が及ぶことが分かっていても、中国兵は、
 民間人の中に卑劣に隠れた。
  当然、その民間人に隠れている中国兵と戦わざるを得
 ないという日本軍の事態だった。
  この様な様々な中の南京攻略戦だった。
  「修羅の状況」である。
  アメリカに援助された中国・蒋介石・国民政府軍は、
 「重慶」という中国の奥地へ拠点を移した。
  新しい都とした。
  これは、日本を叩きたいアメリカが、「日本の消耗」
 を狙っていたのだった。
  そして、アメリカは、延々と「援蒋ルート(蒋介石の
 中国軍を援助するルート)」を使って、厖大(ぼうだい、
 非常に大きく、多量なこと)な武器や弾薬を中国軍へ援
 助する。
  「日本との戦争ありきのアメリカ」
  そして、この先の第二次世界大戦ありきを決めてかか
 っているアメリカだった。
  この事の初め・・元々、アメリカは、厖大な武器・弾
 薬を支援して、中国・蒋介石軍に、上海を大軍で包囲さ
 せていた。
  その様な形で、中国・蒋介石軍は日本に迫って来た。
  上海の国際租界の中の日本租界へ向けて攻撃を開始し
 て来た(1937年8月13日、第二次上海事変)
  この時から、そもそもの戦いは始まった。
  アメリカの支援の下で、中国・蒋介石軍が、先に戦争
 を開始した。
  この武器・弾薬を与えて「アメリカが、焚き付けて始
 まった」・・その様な戦いだった。
  ルーズベルトが、第二次世界大戦がはじまったとき、
 「戦争を作った」と言ったが・・まさしくこの時以来の
 ことだった。
  キリスト教に偏して、日本を貶めてばかりいるNHK
 は、この事を隠し、まったく、この様な事を放送しない。
  この時、NHKはじめ日本のマスコミは、「戦争を煽
 った」。
  この時、上海事変で、蒋介石軍の攻撃を受けて、日本
 は戦い・・、
  そして、この戦いを・・日本が収めたとき・・、
  日本は、この時点で終わらせようとした。
  世論には、戦争を仕掛けた中国の蒋介石への思いに、
 「撤退し、逃げる蒋介石軍を追討するか?否か?」の判
 断において、国内には賛否の両論があった。
  この様に揺れている時に、NHKはじめマスコミは「
 囃(はや)し立てた」。
  このため、南京への追討否定派の意見はなくなった。
  NHKはじめ日本のマスコミは、常に、日本の戦いを
 煽り立てた。
  そして、進軍が決定すればすれで・・その進軍の様子
 を、「微に入り、細に入り報道」して「煽った」。
  そして、戦後の1948年11月13日・・、
  東京裁判の南京事件の責任者とされた日本の将軍に・・
 死刑判決がなされると・・、
  朝日新聞は、自らが勝ち誇ったように、「この一訴因
 で絞首刑」と記して報じた。
  NHKとこの朝日新聞は、今・現在、自社の一室を中
 国へ与えるという特別な事をしている。
  嘘の慰安婦問題をデッチ上げた朝日新聞と、そのNH
 Kは悪である。
.
1937年12月16日、中国の南京において、中国軍は、一般人
 民の中に隠れて、一般人民を卑劣にも盾にして、日本軍
 を狙い撃ちした。
  その掃討が、この日まで続いた。
  盾にされた中国の一般人民は、たまったものではなか
 った。
  南京での中国兵は、卑劣な行為である「軍服を脱いで
 戦う事をした」。
  軍服を着ていない一般人が戦うということではなく、
 今まで軍服を着ていた中国軍人が、その軍服を脱いで、
 一般人のふりをして戦った。
  軍服を着ていた中国兵が、着ている軍服を脱いで、人
 民の中に隠れて、日本軍と戦った。
  人民を盾とする卑劣な戦い方をする中国兵だった。
  日本軍は、その掃討(そうとう、残っている敵兵を撃
 ち払うこと)を行なったが、掃討戦は、1937年12月16日
 まで続いた。
  人民の中に隠れた卑劣で卑怯な中国兵、盾にされた中
 国人民・・この一般の中国人に犠牲者が出ない訳は無か
 った。
  上海戦から南京戦までの日本の戦死者の総数は24,000
 名に達した(戦病死者を含む)。
  この数は、日本軍の最高司令官である松井大将の日記
 にある数字で、ほとんどの戦死者が上海戦によるもの。
  一方、中国側のデーターについては、国民党軍軍政部
 長の何応欽上将の軍務報告に33,000名とある。
  何しろ、中国軍は、一般人民を盾にして、その人民の
 盾の陰から日本軍を狙撃するという卑劣な戦い方をした。
.
1943年、ソ連のスパイ機関が、アメリカ国内からソ連のモ
 スクワへ、スパイした内容を報告するのを、アメリカは
 知った・・そして、その傍受をする。
  この様な事があったと、1995年になって「VENON
 A(ベノナ)文書」が公表された。
  この文書が公開され始めて、戦中から戦後にかけて、
 この様なコミンテルンが、アメリカ国内で盛んに活動し
 ていたことが分かって来た。
  (参考)コミンテルン:共産主義インターナショナル
      Communist Internationalの略称。
      第3インターナショナル、第3インターとも呼
     ばれる。
      1919年3月にモスクワに創設され 1943年5月ま
     で存続した各国共産主義政党の国際統一組織。
      第1インターナショナル (1864年~1876年) 、
     第2インターナショナル (→社会主義インターナ
     ショナル、1889~1914) の崩壊後、V. I.レーニ
     ンらは、第1次世界大戦中から、新しい第3イン
     ターナショナルの創設を目指して活動を続け、
     30ヵ国の共産主義諸政党あるいは革命的組織の
     代表50余名をモスクワに集めて、1919年3月2日
     ~1919年3月6日、コミンテルン第1回大会を開い
     た。
      コミンテルンは、第2インターナショナルに比
     べ、はるかに強固な国際的団結と規律をもち、
     ソ連という社会主義国家を支柱とするに至った。
      また、民主的中央集権の組織原則をとり、コ
     ミンテルン執行委員会の指導のもとに活動する
     ことが定められた。
  そして、アメリカでのその実態が明らかになった。
  これは、カーター・クラークというアメリカの将軍が、
 ルーズベルト大統領にも秘密にして始めたプロジェクト
 だった。
  アメリカ陸軍の超秘密の暗号解読機関が、ソ連情報部(
 KGB、GRU)が、アメリカ国内からモスクワの本部
 に、報告する電報を傍受し、解読していた。
  解読作業は、1943年から始まり、1945年位から進捗す
 る。
  すると、ソ連のスパイが、ぞろぞろと判明した。
  国務省や財務省の官僚をはじめ、官庁のスタッフ、そ
 して、知識人、映画関係者、作家など広範囲な人のソ連
 スパイの存在が明らかになった。
  今・現在も、日本に盛んに中国の工作員が、日本に潜
 り込んでいるが、このアメリカの様な事になっていると
 言える。
  今・現在、沖縄県や北海道の中国化が急速に進んでい
 る。
  このベノナ文書で、ルーズベルト政権(ワシントンの
 連邦政府)に、常勤スタッフだけで200人以上、正規職員
 以外には300人くらいのソ連工作員(スパイやエージェン
 ト)が居た・・この事が確定的に判明した。
  (参考)エージェント:(1)代理人や代理店。また、
     仲介業者。(2)国家の秘密業務で働くもの。
  この影響が、1933年から1952年の約20年間、ルーズベ
 ルト大統領政権から、次のトルーマン大統領政権にまで、
 ソ連に繰られていた。
  今の日本も、非常に注意しなければならない時にある。
.
1979年1月、日米・コンピューター開発競争・・日本潰しの
 IBMスパイ事件へ
  1979年1月、IBMは、従来の中・小型コンピューター
 の5倍から6倍という抜群のコストパフォーマンスのI
 BM4330を発表した。
  これは、プラグコンパチブル機に対抗してそれらに致
 命症を与えるに充分な価格設定とおもわれた。
  事実、このために有力なコンパチブルメーカーであっ
 たアイテル社は痛手を負い、関連部門をナショナルセミ
 コンダクタへ売却した。
  そればかりか、IBMとコンパチブルでないイギリス
 のICL(International Computers Ltd.)も、主力工場
 であったウインズフォールド工場を閉鎖する事態におい
 こまれた。
  ところが、日本のメーカーは、わずか1ヶ月遅れで対
 抗機種FACOM130Fを出荷した富士通をはじめと
 して、各社ともIBMに追随してきたのである。
  しかも、1980年11月、IBMの特に強い超大型コンピ
 ュータの分野でも、IBM3081D(9.5MIPS)を発表
 した時すでに、日立は10.2MIPSのM200Hを、
  そして、IBMのコンパチブルではないが、日本電気
 のACOS1000は15MIPSという当時の最速の機種を
 発表しており、IBMは、日本のコンピュータに先を越
 されていた。
  この様に、日本のメーカーは、すくなくともハードウ
 ェアについては、IBMの技術に追い着き・・、
  半導体チップでは、日本の方が信頼性などの点で優れ
 いるとも言われるにまでに至っていた。
  そこで、IBMは、日本のコンパチブル機を振り切る
 決め手として、基本ソフトウェアであるOS(オペレー
 ティング・システム)を解析しにくくすることにした。
  それまで、磁気テープで供給してきたOSの機能を一
 部ファームウェア化してしまった。
  こうすれば、コンパチブルメーカーはOSを解析する
 までに相当時間を必要とする。
  1981年12月、こうして、この8000語ほどファームウェ
 ア化されたOSをもつIBM3081Kを発表すると共に、
 3081が、31ビットアドレッシングを採用している新しい
 アーキテクチャであること明らかにした。
  そして、IBMは、アーキテクチャが変わっても360シ
 リーズ以来のアプリケションソフトを実行できる新しい
 OS、MVS/SPを提供した。
  この31ビットアドレッシングと、新OSの高度なファ
 ームウェア化は、コンパチブルメーカー対策としては強
 力で・・、
  富士通、日立が、このファームウェアを解明するには
 2年はかかるとみられた。
  そのため、あせった日立が、新OSのソースリストを
 中心としたIBMの技術情報を入手しようとしたのを、
 FBIのおとり捜査にひっかかり摘発されたのが、1982
 年6月23日だった(IBMスパイ事件)
  この結果、IBMは、日立に多大な賠償金とIBMの
 技術情報が使用されているかどうかの製品検査権を認め
 させた。
  これにより、IBMは、日立の動向を掌握することが
 でき・・、
  いざとなれば、日立にコンパチブル機を作らせないこ
 ともできることになった。
  また、IBMは、この事件に直接関係なかった富士通
 に対してもOSの酷似をもって、富士通を訴え、実質的
 に著作権を認めさせた。
  日立や富士通は、IBMコンパチブルの路線をとる事
 になって行く。
.
1982年6月22日、IBM産業スパイ事件(アイ・ビー・エム
 さんぎょうスパイじけん)は、1982年6月22日、日立製作
 所(以下、日立)や三菱電機(以下、三菱)の社員など
 計6人が、米IBMの機密情報に対する産業スパイ行為を
 行ったとして逮捕された事件である。
  この事件は、各日本メーカーとIBM米本社との間の
 事件で、同日本法人である日本アイ・ビー・エム株式会
 社は無関係であり、同社関係者にも寝耳に水の事件であ
 った。
  IBMと日立は、翌年・1983年に和解した。
  また、1984年より、当初は当事者外であった富士通と
 IBMの交渉も進められ、1988年に和解した。
  1981年、IBMは、アドレスを31ビットに拡張し
 (System/370-XA)、オペレーティングシステム (OS) の
 一部をファームウェア化して互換機を作りにくくしたメ
 インフレームコンピュータの3081K を発表した。
  互換機メーカーであった日立は、 3081K に関する技術
 文書をNAS(ナショナル セミコンダクターの汎用コンピ
 ュータ部門で、日立からOEM供給を受けていた)から入手
 した。
  一方、かねてからコンサルティングで日立との取引が
 あったペイリン・アソシエーツ社から 3081K に関する報
 告書の売り込みがあった。
  日立はその目次を見て、NASから入手済みの資料に酷似
 しており、両方の文書が何らかの共通の資料に基づくも
 のと判断。
  ペイリン社に対して、「その資料は既に持っている。
 しかし、それは一部と思われるので、他にもあるなら購
 入したい」と伝えた。
  ペイリン社の社長ペイリーは、元IBM従業員であり、
 日立がIBM3081Kの資料を入手済みであることをIBMの
 ボブ・エバンズ(当時、副社長)に通報。
  結果として、FBIによるおとり捜査が行われ、日立
 と三菱の社員が逮捕されることになった。
  刑事事件自体は、1983年2月、司法取引により決着した。
  しかし、IBMは、日立に対して民事損害賠償訴訟を
 起こした。
  ・・IBM産業スパイ事件は・・、
  日立と三菱がスパイをやった、という程度の、企業が
 行き過ぎただけの話だと思われている・・が・・、
  1959年、日本のコンピューター開発、この年には、東
 京大学が中心となって、東芝・日立が協力し、TACが
 完成した。
  (参考)TAC:Tokyo Automatic Computerは、東京
     大学が開発したコンピュータで、一般に東大と
     東芝が共同開発したとされていて、大変な難産
     の結果、うまれた。
      東芝が協力していない部分や日立製作所が協
     力した部分があり、1959年に、最終バージョン
     が完成した。
  (参考)FUJIC:富士写真フイルムにおいて開発
     された我が国初の電子計算機で、真空管式電子
     計算機だった。
      レンズ設計に使用することを目的として岡崎
     文次により開発された。
      1949年より、岡崎は研究を開始した。
      1952年3月から、メモリ関係の研究と並行して
     全体の組立てが行われた。
      1955年11月に、電子通信学会電子計算機研究
     専門委員会の見学会で、動作のデモンストレー
     ションが行われた。
      1956年3月初めに完成し、栄誉ある我が国最初
     の電子計算機となった。
      真空管を約1,700本使用した2進法3アドレス方
     式の電子計算機で、記憶装置には超音波水銀遅
     延線(255語)が採用された。
      論理回路のクロック周波数は約30KHzであった
     が並列演算回路を採用し、加減算0.1ms,掛算1.6
     msと、当時としては比較的高速であった。
      目標はレンズ設計において人手計算の1,000倍
     であったが、約2,000倍の性能を実現した。
      2年半の間小田原工場で社内外の計算に使用さ
     れ、その後、早稲田大学に寄贈され、現在は国
     立科学博物館に保存されている。
  上記の様に、日本は、コンピューター開発の先端を歩
 んでいた。
  国の予算をつぎ込んだ国家プロジェクトとしても進め
 られ、目標は大きく野心的でさえあった。
  研究課程は難航し、何度も設計変更を繰り返した。
  1964年には、通産省の予算で富士通・沖電気・日本電
 気が共同でFONTACを作成した。
  (参考)FONTAC:年々輸入が増大していた大型
     コンピュータ分野に、通産省は補助金を交付し
     て大型コンピュータの国産化を狙った。
      1962年7月、そのために、富士通信機製造(現:
     富士通)、日本電気、沖電気の3社により日本電
     子計算機技術研究組合が設立された。
      FONTAC(Fujitsu-Oki-Nippondenki-
     Triple-Allied Computer)は、この3社の3年に
     わたる共同研究によって完成された大型コンピ
     ュータだった。
      1964年11月に完成し、日本電子工業振興会に
     納入された。
      FONTACシステムは、主コンピュータと
     して高速大容量の記憶装置と多数の入出力チャ
     ネルを持つ大型2進計算機を、衛星コンピュータ
     に可変語長のFONTAC Sub Iと固定語長のFONTAC
     Sub IIを使用し、主コンピュータと衛星コンピ
     ュータは密接に結合された。
      FONTAC Centralは、1語42ビットからなる2進
     法のコンピュータで、固定小数点の数値は、デ
     ータ36ビット、フラグ4ビット、パリティ2ビッ
     ト、浮動小数点の数値は指数部9ビット、仮数部
     27ビット、フラグ4ビット、パリティ2ビットよ
     り構成された。
      記憶装置として30mil/サイクルタイム2.2μs
     の磁心記憶を使用し、最大65,536語の容量を実
     現し、演算速度として固定小数点加減算/乗算
      4.4μs /25.2μs,秒浮動小数点加減算/乗算
      15.4μs /30.8μsの性能を有した。
  1962年7月、この共同研究で開発された技術を基に、
 CPU(中央処理演算装置)を担当した富士通信機製造
 (現:富士通)は、FONTAC Centralを一部改良し、FACOM
 230-50として商用化した。
  1964年11月、FONTACは、この3社の3年にわたる共同研
 究によって完成された大型コンピュータで、1964年11月
 に完成し、日本電子工業振興会に納入された。
  この頃から、各社が「コンピューターの作り方」を理
 解し、独自開発を開始した。
  日立のHITAC、富士通のFACOM、日本電気のNEAC、東芝
 のTOSBAC 、三菱のMELCOM、沖電気のOKIMINTAC・・
  コンピューターは、これから確実に産業の中心となる
 というのは明らかだった。
  1970年代初頭、IBMは、巨大メーカーに成長しつつ
 あった。
  日本国内だけで、6社も、互換性のないコンピュータ
 ーが乱立していて、これでは、日本のコンピューターは、
 大企業に潰されてしまうリスクが存在した。
  通産省は、「国内で、IBMに対抗できるコンピュー
 ターを育てる」ための方策を取った・・それは・・
  1) IBMと技術提携を行わない、IBM互換機路線
  2) IBMに対抗できる大企業の互換機路線
  3) 日本独自路線
  2 の大企業は、ハネウェル社。
  1960年代、アメリカには、8つのコンピューターメー
 カーがあった(「IBM と7人の小人」と呼ばれた)
  ハネウェルはその一つでありながら、1970年に MULTICS
 の技術を持つGE社と合併し、力を伸ばしていた。
  通産省は、国内の各社は上のいずれかの道を選び、提
 携することが求められた。
  富士通と日立はすでにIBM互換機を作成していたた
 め、互換路線を選んだ。
  日本電気はすでにハネウェルと提携していた。
  東芝も、すでにGEと提携していましたが、GEがハ
 ネウェルに吸収合併された。
  そこで、日本電気と東芝も提携し、ハネウェル互換路
 線を選んだ。
  三菱・沖電気は「取り残された」形で提携し、独自路
 線を歩むことになった。
  富士通と日立は提携し、技術的な交流は図りつつもお
 互い独自に、IBM System/370 の互換機を作成していた。
  (IBM との技術提携はない)
  ただし、IBM で System/360 (370の旧世代機)を設計
 した技術者で、後に独立したジーン・アムダールの会社
 と富士通は提携し、技術的ノウハウを得ていた。
  1981年、IBM はこうした「互換機」が世界中で増えて
 いたため、設計を一部変更して、性能を上げるとともに
 互換機を作りにくくした、System/370-XA を発表した。
  日立は、この「設計変更」の詳細を入手しようとして、
 IBM のおとり捜査に引っかかった。
  1982年、社員5名が逮捕され、この時、三菱社員1名
 も逮捕された。
  三菱は、当初、「独自路線」グループでしたが、この
 頃には余りに強くなった IBM の互換機を作ろうとしていた。
  この刑事事件は、司法取引により決着した。
  しかし、IBM から、民事損害賠償訴訟を起こされた。
  System/370-XA は、各種回路が特許で守られていたう
 え、それまでは後から読み込まれるソフトウェアであっ
 た「OS」の一部を、ハードウェア内に持つようになって
 いた。
  System/360 や 370 の頃は、同等の機能の回路で置き
 換えも可能でしたが、370-XA の特許は強力で、簡単には
 回避できなかった。
  また、BIOS に関しては単純な回路ではなく、プログラ
 ム…著作物です。
  著作権の場合「類似したもの」を作ったとしても、盗
 作としてアウト。
  少なくとも、この時点では IBM はそのような認識で動
 いていた。
  ずっと後に、IBM・コンパックが BIOS の著作権を争い、
 現在は違う認識となっている。
  結局、日立は IBM の許可を得ずに機械を販売しないこ
 と、訴訟費用は全部日立が負担すること、ソフトウェア
 やインターフェイスなどに関して、使用する対価を払う
 こと…などを条件に和解した。
  日立からすれば、IBM 互換路線に「お墨付き」を貰っ
 た格好で、この後も互換路線を進んだ。
  富士通も日立の訴訟に危機感を持ち、同様の取引を結
 びますが、徐々に IBM 互換路線から非互換路線にシフト。
  いずれにしても、通産省の狙った「独自技術による互
 換」という路線は無くなってしまった。
  この頃は、IBM が強くなりすぎてハネウェル社もコン
 ピューターから事実上の撤退。
  特に、吸収合併したGEの互換機は消滅し、GE互換
 だった東芝も撤退、同じグループだった日本電気にコン
 ピューター部門を売却した。
  独自路線だった三菱・沖も、先に書いたように三菱が
 IBM互換路線に進もうとして、スパイ事件に発展した。
  沖電気は、コンピューター本体は断念して、周辺機器
 製造に特化した。
  国策だった3グループ化は大失敗となった。
  日本のコンピューター産業は死んでしまう…。
  「IBM産業スパイ事件」とは、そうした危機的な状
 況を意味した。
  翌1983年、日本電気がスーパーコンピューターの新シ
 リーズ、SX-2 を発表します。
  この SX-2 は、世界で初めて GFLOPS を超えたコンピ
 ューターで、同時に初めてアメリカ以外のコンピュータ
 ーが速度で世界一になった機械だった。
  日本のコンピューター産業復活を狙った。
  この後、急に力を付ける日本のコンピューター業界に
 アメリカが危機感を感じ、1980年代後半から1990年代前
 半の貿易摩擦につなげて問題化する。
.
2012年3月、日本企業の大切な機密技術が、海外企業に盗ま
 れるという、流出した事例は多々ある。
  2012年3月には、工作機械大手のヤマザキマザックから
 設計図などの情報を不正取得したとして、愛知県警が中
 国籍の元社員を逮捕した。
  2012年4月には、新日本製鉄(現・新日鉄住金)が、高
 機能鋼板の製造技術を流出させたとして、元社員と韓国
 鉄鋼大手ポスコを相手取り、1000億円の損害賠償訴訟を
 起こしたりした。
.
2014年3月14日、この日の新聞やテレビなどの大手報道機関
 は、東芝のNANDフラッシュメモリに関する研究データ(機
 密情報)を韓国の大手メモリメーカーであるSK Hynixに
 提供した不正競争防止法違反(営業秘密開示)の容疑で、
 元技術者を警視庁が13日に逮捕したと報じた。
  元技術者(S容疑者)は、東芝とNANDフラッシュメモリの
 共同開発で提携してきたアメリカSanDiskの日本法人に勤
 務していた。
  この事件について、3月14日付けの読売新聞オンライン
 版では、S容疑者は、2007年4月から2008年5月にかけて、
 東芝四日市工場の管理サーバーに保存されていたNANDフ
 ラッシュメモリの研究データをUSBメモリに無断でコピー
 して持ち出し・・、
  2008年7月に、転職したSK Hynix(当時はHynix Semicon
 dcutor)に、持ち出した研究データを提供した。
.
2014年3月、技術流出・・日本政府の対応
  技術の流出防止と保護が極めて大切=東芝技術の流出
 問題で官房長官
  [13日 ロイター]菅義偉官房長官は、13日午前の会
 見で、東芝(6502.T)の技術が海外に流出したとの一部報
 道に関連し、技術の流出防止と保護が極めて大切との見
 解を示した。
  この問題について見解を求められた長官は、報道内容
 については承知しているが、個別事案についての言及は
 控えたいとした。
  その上で一般論と断りながら、「技術立国であるわが
 国にとって、守るべき技術の流出防止と適切な保護にし
 っかり取り組んでいくことが極めて大事だ」と強調した。
  政府として、知的財産戦略本部(本部長:安倍晋三首
 相)が、2013年6月に策定した「知的財産政策ビジョン」
 において技術・営業秘密の保護や強化の取り組みを打ち
 出していると語った。
  共同通信などによると、東芝のフラッシュメモリーの
 研究データを韓国の企業に不正に流出させた疑いが強ま
 ったとして、警視庁は13日までに、不正競争防止法違反
 容疑で、東芝と提携していた半導体メーカーの元技術者
 の逮捕状を取った。
.
2016年11月24日、アメリカは、中国を市場経済国と認めず 
 貿易摩擦激化へ
  アメリカ政府は23日、中国を世界貿易機関(WTO)
 協定上の「市場経済国」(自由な市場で経済運営が行わ
 れている国)とは認めない方針を明らかにした。
  日本も追随する方針。
  中国政府の優遇措置に支えられた中国鉄鋼メーカーな
 どのダンピング(不当廉売)を問題視。
  反ダンピング税を課しにくくなる「市場経済国」とは
 認定できないと判断した。
  中国は、WTO加入から15年を迎える来月の市場経済
 国移行を主張してきたが、米国の反対で事実上、不可能
 となった。・・以上・・(参考:毎日新聞)
  2017年12月12日、中国は「市場経済国」か? アメリ
 カ、認定に反対表明 WTOを試す「リトマス試験紙」
  世界貿易機関(WTO)の制度上の「市場経済国」認
 定を中国政府が求めていることについて、米国が正式に
 反対する通知をWTOに送付した。
  通商上の不利な扱いを受け続けることになる中国は反
 発しており、米中間の摩擦が再燃している。
  トランプ米政権がWTOを「機能していない」と批判
 する中、中国の認定問題は、米国のWTO脱退の引き金
 となりかねない火種となる可能性がある。
  米欧が共同戦線
  米政府がWTOに通知を送ったのは11月中旬。
  欧州連合(EU)も中国の市場経済国認定に反対して
 おり、米国は通知を通じてEUへの賛同を表明した。
  通商分野で米国とEUは対立するケースも多く、米欧
 が「異例の共同戦線」(米メディア)を張った。
  ・・以上・・(参考:産経新聞)
  アメリカは、中国を市場経済に組み入れ、そして、豊
 かになり、社会も開かれ来れば、政治システムも変化し、
 欧米的なシステムを受け入れて来ると見て、その様な意
 味からも、中国に対し甘やかす政策を取って来た。
  しかし、事は、その様な思惑の様には進展して来なか
 った。
  この問題は、今、気が付いたことではなかった・・が・・
  中国が、これまで経済を拡大できたのは、この恩恵だ
 った・・
  しかし、中国は、ありがたいという態度は表わさない・・
 心の底ではその様に思っているのかもしれない・・が・・
  そして、アメリカは、中国にはそのような態度をとっ
 ても・・日本に対しては厳しい態度を取り続けた。
  例えば、最新鋭の技術を取り上げる事をすることはし
 ても、日本へ提供をすることはしなかった。
  また、日本の企業が、最先端の技術を開発する事を妨
 害さえした。
  NECが、独自のコンピューターを開発するのを妨害
 した。
  三菱などが新しい技術を開発しようとすると、「研究
 員が犯罪を犯した」などと言いがかりをつけて阻止した。
  別の観点から見ると、アメリカは、中国を簡単に抑え
 られると見ていたと考えられる。
  中国は石油が不足している。
  代替エネルギーの開発も遅れている。
  この事例の様に、中国の技術は、アメリカからの提供
 が無ければ高度な製品が作れないなど、中国を抑え、コ
 ントロールできるとみていた。
  しかし、アメリカと中国は、これから貿易や通貨を巡
 って緊張度はさらに上がって行くと指摘されている。
.
2017年3月、日本学術会議が、大学などの軍事的研究を否定
 する声明を出した。
  軍事的研究と言ったって、この日本学術会議の人たち
 も含めて、日本人・国民を守る自衛隊などの研究をする
 ことまで否定した。
  日本国民を守る研究をしてはいけないと言い出した。
  まったく卑劣な声明である。
  「日本を攻めてくる勢力に利する行為」を行なってい
 る。
  どんな理屈があって、こんな事を言っているのだろう
 か?
  どんな論理があって、こんな声明を出しているのか?
  日本国民の命を守るという大切なことを放棄している。
  その様な研究をしてはいけないとした。
  日本国民の税金を使って日本学術会議の大学などは研
 究をしている。
  ならば、すべての研究費を辞退せよ!
  また、守るべき日本国民の税金で建てられた大学など
 の施設で研究ができるという恩恵に答えていない。
  また、日本国民から給料をもらい、自分や家族を養う
 金を貰っていながら・・この様な声明を出したという事
 になっている。
  ならば、自分の立場や給料も辞退せよ!
  まったく矛盾している、反逆している、日本学術会議
 や大学だと言える。
  そして、2018年6月9日の読売新聞によると、あろうこ
 とか?? 北海道大学という国立大学が、この日本学術
 会議の声明を受けて、防衛省の研究をしないと決めたと
 いう。
  中国や北朝鮮に、日本の存在が危うくなっているこの
 今・現在、この様な行為をしている
  (この様な事をするのは、この大学だけ)
  今まで、北海道大学は、研究をして来たけれど、これ
 からはしないとしたという。
  防衛省は、船体の摩擦抵抗を軽減する研究を、2016年
 度から委託していた。
  防衛省は、北海道大学の意向を尊重せざるを得ないと
 している。
  日本の国立大学の北海道大学・・何もかもが国民の御
 世話になっているこの大学が、この様な行為をする・・
 国民の為になる研究をしないと・・している。
  まったく理屈の立たない行為をした。
  北海度と言えば、沖縄県とともに、中国が暗躍してい
 るところ・・色々と工作をするところ。
  中国の国家的重要人物・要人が来て、中国の息のかか
 った農場を視察したりするところ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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# by suba28 | 2018-06-15 04:30 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)599E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)

題:(増補版)599E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年6月12日、鉄道敷設法の一部改正を決定した。
  中央線や、その他5線の篠ノ井線・鹿児島線などを第1
 期線に追加し、篠ノ井線の起点を篠ノ井と決定した。
  鉄道敷設法(てつどうふせつほう)は、国が建設すべ
 き鉄道路線を定めた日本の法律で・・、
  1892年6月21日に制定された旧法と、同法を廃止し新た
 に1922年4月11日に制定された改正法がある。
.
1894年6月12日、実業教育費国庫補助法が公布された。
  井上毅文相の実業教育振興政策に基づいて制定され、
 実業学校に国庫補助金を交付することを定めた。
  裁可:1894年6月11日、公布:1894年6月12日、施行:
 1894年9月1日
  朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル実業教育費国庫補助法ヲ裁
 可シ茲ニ之ヲ公布セシム
  御名御璽
  明治二十七年六月十一日
            内閣総理大臣 伯爵伊藤博文
            大蔵大臣   渡辺国武
            文部大臣   井上 毅
  法律第二十一号
  実業教育費国庫補助法
  第一条:実業教育ヲ奨励スル為ニ国庫ハ毎年度金十五
      万円ヲ支出シテ其ノ費用ヲ補助スヘシ
  第二条:公立ノ工業農業商業学校、徒弟学校及実業補
      習学校ニシテ実業ノ教育ニ効益アリト認ムル
      トキハ文部大臣ハ其ノ学校ニ補助金ヲ交付ス
      ヘシ
  地方官庁ノ認可ヲ経タル農工商組合ニ於テ設立シタル
 実業学校ハ文部大臣ノ特別ノ認定ニ依リ前項ニ準スルコ
 トヲ得
.
1894年6月14日、北里柴三郎が、ペスト菌を発見した。
  1894年6月18日、北里柴三郎が、ペスト菌発見を公表
 した。
  この報告は、翌日の1894年6月19日の午前に内務大臣に
 伝えられた。
  そして、1894年6月21日に、新聞は報道した。
  北里は、さらに、コッホ研究所や、香港政庁を通じて
 イギリス植民地大臣に伝え、そして、このニュースは、
 世界へも伝えられた。
  北里は、研究成果を発表しようと、1894年7月7日に、
 論文を一気に書いた。
  これが、「ペスト病の原因調査第一報」だった。
  これは、ペスト菌に対する単なる報告書ではなかった。
  まず、異例ともいえる「ペスト病」検証報告書だった。
  そして、これには、続けて、ペスト菌発見に至る過程
 が記述されている。
  この記述は、ペスト菌に対する観察が精緻を極め、か
 なり長文に渡って説明されていた。
  そして、その中で問題となった部分・・専門的にもな
 る「グラム染色」に関わる件があった。
  北里は、この「グラム染色」の結論を書かなかった。
  「かのグラム氏複染色法を用い得るや否やは、後日を
 もってこれを報道すべし」として、結論を先送りしてい
 た。
  ここが問題とされた。
  北里が、もし、「ペスト菌はグラム陰性である」と記
 述していれば、その様な問題は発生しなかった。
  このグラム染色法は、デンマークの医師・グラムが開
 発したもので、菌の分類法である。
  菌が、「陽性」か、「陰性」を問う。
  北里柴三郎の論文は、後日、日本の官報に1894年7月31
 日と1894年8月1日の2回に分けて掲載された。
  緻密な調査報告書だった。
  また、北里には、この報告書の主要部分をまとめたド
 イツ語の論文もあった。
  このドイツ語論文を、イギリス人医師のラウソン国家
 医院副院長が読んだ。
  そして、このラウソンが、この論文を、イギリスの伝
 統と権威を持つ医学雑誌「ランセット」に掲載しません
 かと北里に薦めた。
  世界的権威のある雑誌であった。
  北里は、名誉ある事ですからとお願いした。
  そして、ラウソンが、自ら、英訳を買って出た。
  北里は、その好意に感謝し依頼し、即座に英訳され、
 北里の同意のもとに送付された。
  この論文は評価され、直ちに、掲載となり、8月1日号
 と8月25日号に掲載された。
  内容は、ペスト菌の発見を伝え、その論文と共に、標
 本の図解やイラストも掲載されていた。
  そして、そのイラストには、正しくペスト菌の形態も
 捉えていた。
  北里柴三郎が、明らかに、顕微鏡下にペスト菌を捉え、
 観察していることを示している証拠だった。
  さらに、北里は、コッホ研究所にドイツ語論文と共に、
 塗抹標本と培養菌を送っていた。
  コッホ研究所では、この菌で、追認試験が行われ、「
 北里柴三郎のペスト菌」は明らかにペスト菌で、「グラ
 ム陰性」であると確認された。
  今日のペスト菌についての常識である「グラム陰性・
 卵円形・短小棹菌」がここでも立証された。
  確かに、北里柴三郎は、1894年6月に、香港でペスト菌
 を発見したのだった。
  北里柴三郎が、流行の早期に、ペスト罹患の危険の中
 を香港へ積極的に行ったのが、ペスト菌発見に功を奏し
 た。
  ペスト患者が多くなると、種々の型のペスト菌も発生
 して、真のペスト原因菌の発見を複雑にする。
  (患者数が多いと発見はできないとも言われている)
  ただ、染色される菌についても北里は触れてもいた。
.
1894年6月16日、日本政府が、清国に朝鮮の内政改革を共同
 で行う提案をした。
  陸奥外相が、清国に朝鮮内政の共同改革を提起した。
  清国が、共同での改革に合意しなければ日本は単独で
 でもこれを行いますと提案した。
.
1894年6月20日、清の李鴻章が、ロシアに日清間の調停を依
 頼した。
  ロシアには南下して行きたいという「南下政策」があ
 り、この調停依頼自体が問題だった。
  問題を複雑にするだけの「干渉行為」ともなった。
  ロシアは、自国の南下政策上、日清両国の朝鮮撤兵を
 表明した。
  しかし、このロシアの南下政策を警戒していたイギリ
 スは反対し、日本を支持した。
  ロシアは、1860年代に、沿海州にどんどん侵略し始め
 ていた・・そして・・、
  1872年(この時から20年も前)から、すでに、ウラジ
 オストックを海軍基地を軍事基地にして、建設を完了し
 ていた。
  (今・現在の南シナ海・・中国の屁理屈で領土だとさ
 れ、基地化しないと初めは言っていたが・・今はミサイ
 ルやレーダーも配備している)
  この頃、朝鮮と関係していた国は、日本だけでなく、
 ロシア・清国・・そして、アメリカ・イギリス・ドイツ
 が朝鮮と関係していた。
  1884年、ロシアは、朝鮮と条約を結んだ(露朝修好通
 商条約)
  この時までは、ロシアは、アメリカやヨーロッパが、
 朝鮮の鎖国状態を開こうとしていたことに反対していた。
  そして、抵抗をしていた。
  (朝鮮の鎖国状態を維持させようとしていた)
  これは、ロシアが朝鮮に進出したいという下心(した
 ごころ、表に現わさず、ひそかに心の中で考えているこ
 と)があったためだった。
  また、ロシアは、朝鮮に進出するアメリカやヨーロッ
 パ諸国が、積極的に進出する事に対して、さらなる軍事
 的脅威が増すと考えていた。
  ロシアは、沿海州などの侵略において、ロシア人の入
 植を進める上で、朝鮮から食糧など、特に、家畜を得た
 いとしていた。
  故に、この露朝間の交易は拡大していた。
  この様な状況の中で、フランスが、朝鮮の開国を目的
 として、1866年に、フランス艦隊を朝鮮に出撃させた・・、
 また、1871年には、アメリカ艦隊が来た・・そして、開
 国を迫った。
  この時、アメリカは、ロシアから共同歩調をとる様に
 求められた・・が、しかし、拒否した。
  ロシアは、朝鮮から利益を得ることはなく、「形勢を
 観望的にする」としていた。
  この様な荒れる朝鮮情勢の中で、1876年2月、日朝修好
 条規が締結された。
  この時、日本は、ロシアも、朝鮮と同様な条約を結ば
 ざるを得なくなるだろうと見ていた・・ロシアが進出し
 て来るだろうと見ていた。
  そして、朝鮮は、宗主国・清国の主導で欧米への開国
 が実現された。
  今・現在、日本は、軍事的に弱い状況にあるが・・こ
 の様に、軍事的に弱い朝鮮は、この時も、主導権を持ち
 得ず、清国が宋主権を行使するという様な状況だった。
  清国の思惑は、日露の朝鮮に対する関係を牽制するも
 のでもあった。
  (結局、自国の宗主国的な立場を維持したいのだった)
  1882年5月、清国の仲立ちで、米朝修好通商条約が締結
 され・・、
  1882年6月には、同様に、清国の仲立ちで英朝間の、そ
 して、独朝間の同内容の条約が調印された(イギリスと
 ドイツとの条約)
  この様な状況を見て、ロシアは焦った・・色々画策す
 るが失敗に終わる・・この様に各国が渦巻く展開が続く・・
  この様な時、朝鮮は清国の属邦ではあるが、内治外交
 とも自主である趣旨の朝鮮国王のロシア皇帝あての照会
 が手渡された。
  日本は、米英独と共同歩調的な中にいた・・
  そして、朝鮮は、この様な中で、壬午軍乱後(1882年
 10月)の清国の重圧から脱するために、隣接国たるロシ
 アとの間で清国の仲介を得ずに条約を締結したい旨を申
 し入れていた・・特に、朴泳孝・金玉均は朝鮮が自主独
 立の国家であることを強調した。
  朝鮮は、大国たるロシアへの期待があった。
  日本も、この朝鮮の清国からの独立を確認をしたいと
 した。
  露朝条約が締結されると、1885年10月、ロシア大使が
 ソウルに着任した。
  大使館も開設され、朝鮮国王周辺の対露働きかけなど
 で朝鮮の政局に影響が及ぼされた。
  1888年、ロンドンの「タイムズ」が、朝鮮保護を約す
 る露朝間の『密約』が結ばれたと報じた・・これは誤報
 だった・・
  この様に、各国が策謀する朝鮮周辺だった。
  また、ロシア太平洋艦隊に対して、朝鮮沿岸を監視せ
 よとの命令が、ロシア政府から発せられたりした。
  また、朝鮮保護、朝鮮領土保全の多国間条約締結、ロ
 シア人軍事教官派遣などの命令が、ロシア政府から出さ
 れ、1885年6月、ロシア外交官がソウルへ派遣された。
  1885年4月、イギリスが巨文島を占領した。
  1886年、ロシア海軍省で、新浦(馬糞島)の獲得が検
 討された(不凍港獲得関係)
  しかし、ロシアが見たものは、大院君(全渓大院君、
 李氏朝鮮の第25代国王・哲宗の父)の釈放帰国に伴う清
 国勢力の優勢さと、朝鮮国王の不満の充満状態だった。
  1886年初頭、ロシア政府は、朝鮮国王からの援助要請
 があったが、清国の対朝武力干渉さらに朝鮮併合は、隣
 接する地の沿海州の安全を脅かすと危惧した・・そして、
 朝鮮の清国からの自立を慎重に検討した。
  ロシア政府は、清国によって朝鮮併合がなされるかも
 しれないと危惧していた。
  1886年秋、露清間で、朝鮮の安全保障に関する交渉の
 合意がなされた。
  この間、朝鮮国王廃位が取りざたされた。
  朝鮮は、可哀想だが各国からいい様に扱われていた・・
  だから、1910年に、日本に併合されて、安定した国の
 状態となり、衛生的な国にもなり、人口が3倍にもなり、
 国が栄えた時のことを、それを体験された朝鮮の御老人
 方は、「良かったよ」と言ったのだった。
  それまでの朝鮮は、各国列強にいい様に扱われていた。
  1888年5月、極東問題特別会議が開かれた。
  この会議は、極東のロシア領の現地のロシア当局と、
 極東諸国に駐在するロシア外交官の会議であったが、
 決議された事の1つに・・、
  「ロシアによる朝鮮獲得については、朝鮮は経済的に
 貧しく、軍事的には長い海岸線の故に防衛困難であり、
 外交的には朝鮮侵略は英清(イギリスと中国・清)との
 決裂をもたらすとして、この様な事をしない」・・とな
 った(領土欲の満々のロシアだった)
  そして、朝鮮が弱小である故、中国・清か日本の支配
 下に入るだろうが・・いずれの場合も、ロシアに対する
 脅威になる・・とした。
  そして、仮に清国が、朝鮮を恒久的に制圧するような
 ことになれば、中国海域での海軍の示威(じい、威力を
 示すこと)あるいはロシア国境近くの朝鮮海岸地方の一
 次的占領といった措置をとることとした。
  ロシアは、日本は行動を起こさないと無視した判断を
 している。
  この結果、1888年8月、ロシア・清国が朝鮮領土保全に
 関する条約を結んでいる・・また・・、
  1894年6月の清国の朝鮮出兵に対し、ロシアは、日本の
 出兵より危惧していた。
  1894年6月8日に、天津でロシア公使は清の李鴻章に、
 「清国は情報を故意に誇張し、朝鮮への対処をしている」
 とくぎを刺し・・「反乱が鎮圧され次第、直ちに撤兵を」
 と言っている。
  逆に、ロシアのカッシニ駐清公使は、日本の駐清臨時
 代理公使の小村寿太郎に対し、「日本の派兵の必要を認
 めていた」。
  清国の李鴻章は、「清は宗主国による属邦保護の旧例
 に従い朝鮮の要請により行ったものだ」と言い、
 「ロシアとは無関係」と言った。
  すでに中国の清国軍が居る朝鮮に、日本は、この様な推移
 の中、6月16日、仁川に上陸する。
  この後、日本と清国の角がぶつかり合って行く・・、
.
  (今日の言葉)
.
  題:工作員が一杯・・スパイ天国となっている日本・・あちこちで暗躍している・・
.
紀元前1万3000年以前、日本の縄文時代は、紀元前13,000年
 頃から約1万年以上もの長い間続いた。
  その間に作られた土器の形や色など、また、住み方・
 家などが、だんだん変わって行った。
  また、その縄文(じょうもん)時代より以前・・、
  縄文時代より前の旧石器時代の人々は、マンモスなど
 の大きなえものを追いかけて、日本列島の中を移動しな
 がら生活をしていた・・
  その様な遠い昔からの歴史が、日本列島全体にある。
  そのため、住んでいたのは、すぐに移動ができるテン
 トのような家だったと考えられている。
  縄文時代になると、人々は、長い間、同じところで生
 活できる家を作った。
  みんなで集まって生活するようになった。
  これが、「村(ムラ)」の始まりだった。
  縄文時代の代表的な家を『竪穴住居』と言った。
  この住居は、地面を掘って何本か柱を立て、上に屋根
 を設けた。
  半地下式の家だった。
  ムラのなかには、竪穴住居だけでなく、太い柱を使っ
 た大きな建物や、みんなが集まる広場、死んだ人を埋葬
 する墓、貝がらや食料の食べかすを捨てる貝塚・・など
 が作られていた。
  また、ストーンサークルとも呼ばれる、いくつもの石
 を直径30~50メートルの大きな円形にならべた環状列石
 も見つかっている。
  ムラの周り広がる「クリやクルミなどの森」は手入れ
 がなされた。
  ここから、生活に必要な食料や木材を手に入れること
 ができる「縄文里山」として大切にされていた。
  縄文時代の人々は、丸木舟に乗って海をわたり、遠く
 はなれた場所の特産品を手に入れていた・・交流・交易
 をしていた。
  縄文時代の遺跡には、本州でしかとれないヒスイとい
 う美しい石が北海道で見つかったり・・、
  また、逆に、北海道の黒曜石が、本州で見つかったり
 している。
  また、暖かい南の海でしかとれない数種類の貝が、北
 海道で見つかっている。
  縄文人は、日本列島の広い領域を行き来していた。
  縄文の人々は、これらのヒスイや貝などを使って、首
 かざりや、腕輪などのアクセサリーを作っていた。
  また、とても硬い黒曜石は、先を鋭くとがらせて、狩
 (か)りに使う石ぞくや石やり、ナイフなどにしていた。
  縄文時代にも、日本列島での全国規模の交流が行われ
 ていて、人々やモノや情報の活発な動きや交換があった。
  そして、この縄文時代の住居である竪穴住居が、従来、
 考えられて来た茅(かや)が葺(ふ)かれた形ではない
 ことが分かって来た。
  茅が葺かれていたという痕跡がまったくないからで、
 逆に、「土(つち)の屋根」という痕跡が発見されてい
 る。
  例えば、岩手県一戸町の御所野遺跡に、火事にあって
 燃えてしまった縄文時代の住居があった。
  火事で、柱などの木部が炭化したため、腐敗菌に木質
 部が腐敗されずに残った。
  その様な腐らなかった竪穴住居の柱の部材の脇に焼け
 た土が、また、部材の間に堆積していた。
  それが、屋根部分の土だと推測された。
  また、茅には「ガラス質」が含まれているが、この住
 居跡からは、屋根に使われていただろう茅のガラス質が
 あまり検出されず、「屋根が茅だ」という痕跡が否定さ
 れ、「土葺きの竪穴住居の屋根」と推測された。
  また、土葺きの竪穴住居の焼却実験もなされ、この遺
 構の通りの様になることも実証された。
  この様な遺跡が、日本各地で発見され、北海道でも発
 見された。
  北海道の入江・高砂貝塚遺跡や、東北地方、関東地方
 などで発見された。
  縄文人は、日本全土で「土葺きの竪穴住居」に住んで
 いた。
  また、ガラス質を含む硬い茅を刈り取る道具の存在の
 可能性も無い事が、その裏付けにもなっている。
  今、北海道庁の会議で、北海道には、この様な縄文人
 は居ないという答弁がなされている。
  まったく、歴史的事実を無視した非科学的な議論がな
 されている。
  北海道庁の会議では、「無土の地」という間違った答
 弁がなされている。
  誰も居なかったという意味で、この様な間違った認識
 の議論がなされ、この様な間違った認識の議員が、北海
 道政を動かし、行なっている。
  そして、また、北海道の白老町では、北海道は「アイ
 ヌ民族の地だ」ということで、白老町の中のある地域を
 アイヌ民族に返還するという間違った話が進んでいると
 いう。
  しかも、国の金が、我々の税金の金が、100億円もの金
 が投資され、この記念館の箱物が建てられるという。
  また、この様な北海道に、中国が暗躍して、「アイヌ
 民族の独立の話」が画策されているという。
  まったく馬鹿げた話が北海道には一杯ある。
  日本民族の祖先の縄文人の歴史が、そして、その縄文
 人以前の旧石器人の存在が、まったく無視された企て(
 くわだて)が進んでいる。
.
17世紀、キリスト教化したいと、暗黒のヨーロッパ中世に
 キリスト教は暗躍した。
  ヨーロッパのキリスト教司教領で、キリスト教の教義
 などの洗脳が影響し、子供だけでなく、地域全体が憑依
 (ひょうい、霊が乗り移り、異常状態で踊りまくる)す
 るという事件が起きた。
  感受性の強い子供の心を、結果的に、弄(もてあそ)
 ぶ事が起きている。
  キリスト教のお祭り「ハロウィン」が、日本で、無邪
 気に行われているが・・、
  そして、この魔女などが関連するこのお祭りに、小さ
 い子供が参加しているが・・、
 また、小学校では「国際感覚を身につけよう」という美
 名のもとに、公的小学校も含めて「ハロウィン」が行な
 われ、
 キリスト教系学校の学生が、喜々として駆けつけ、一緒
 になってやっているが、これは美名の下に行われるキリ
 スト教の「巧妙なる伝道行為」です。
 アメリカでも問題となり、裁判事例が多い「巧妙なる伝
 道行為」です。
 そして、この魔女が関連しているこの事例で、子供たち
 に何が起き?、影響したか?・・という事例・・、
 キリスト教には、「神を恐れよ」という教義がある。
 魔女事件の場合、キリスト教は、この教義によって権威
 を得ようとした。
 また、教勢を拡大したいとした。
 その為、「魔女は生かしておいてはならない」の教義が
 あるキリスト教は「死も辞さない」という姿勢だった。
 「死も辞さない」と言っても自分ではなく、相手を死に
 至らしめる行為でもって権威を得ようという目的だった。
 この例の様に、キリスト教の歴史は、周りに死の影や戦
 争が満ちる歴史となった。
  魔女事件の場合、年端(としは)の行かない3歳・5歳・
 7歳・12歳の子供達が憑依(ひょうい)した。
  これは、広がりやすい性質を持っていた。
  17世紀、キリスト教司教領で、子供だけでなく、地域
 全体が憑依するという事件となって起きた。
  魔女だと言われた女性が、自(みずか)らキリスト教
 聖職者の居る魔女委員会に申し出て、「多くの人々の体
 内に悪霊を祈り込んだ」と言った。
 すると、この町に憑依した、憑(つ)かれた主婦や子供
 達、大勢の群れが、この司祭領や隣接する地域にさ迷い
 出て来た。
 憑依した人たちは、未成年者が多い状況だった。
 町は混乱した。
 飛び火しやすいこの現象は、飛び火して行った。
 スウェーデンの場合は、プロテスタントの村だった。
 憑依した子供たちが現われ・・、
 子供達は意外と大人が何をやっているかを知っていて・・、
 大人たちの言動から、魔女とはどういうものかを見聞き
 し、よく知っていた。
 日頃から、キリスト教聖職者は、魔女の定型を話をして
 いた。
 怖い事に・・感受性の強い子供達は、特に、憑依しやす
 い状況で、親たちは、自分たちで救う事を断念するくら
 いだった。
 親たちは、当局へ原因の魔女の撲滅をする様にと押しか
 けるという騒ぎとなった・・、
 国王の調査委員会が取り調べるという事になり、騒ぎは
 ますます拡大して行った・・
 また、多くの他の村々へ伝染して行った・・、
 憑依した魔児たちは、無数の大人たちを告発した。
 「魔女の踊りをしていた」「悪魔のシナゴーグへ行った
 りしている」、それを見たと・・、
 ある村は、70人の女性と15人の子供が火炙りとなりまし
 た。
 これは、国境も越えて広がって行きました。
 ドイツで起きた事例では、ほとんどが10歳以下の子供
 でした。
 子供達は、キリスト教の教義と魔女を自己流に織りなし
 て語りました。
 想像力の強い子供達は、「魔女のサバト」「天国の幻視」
 「最後の審判と地獄の使者」を語り、告げるという状態
 でした。
  驚くことに「デーモン(悪魔)との性交渉」の詳細な
 証言に、裁判官(キリスト教裁判所の聖職者の裁判官)
 もびっくりしている状況でした。
 (参考)とし‐は【年端/年歯】 年齢のほど。年齢。
    としのは。「―のいかない子」
 (参考)ひょう‐い【憑依】 [名](スル) 霊などがの
    りうつること。「悪霊が―する」 」
.
1804年12月2日、ナポレオンの戴冠式
  ナポレオンは、自(みずか)ら戴冠した。
  ローマ法王(教皇)のピウス7世は、ナポレオンの後ろ
 で、何もしないで静かに座したままだった。
  キリスト教が、何の役にも立たないことを知っていた
 のである。
  逆に、キリスト教の仮の権威がある如くの戴冠がなさ
 れ、その後、各地の王や諸侯が、キリスト教に教会を建
 ててあげたりする「おかしさ」を知っていた。
  ナポレオンは、俊英の皇帝だった。
  キリスト教の」虎の威を借りる狐」状態を知っていた。
  何ら、キリスト教に権威も何にもないのに、王位の冠
 (かんむり)をキリスト教が授けるようにする振る舞い
 の害を知っていた。
  このキリスト教は、自分の宗教の伝道より・・「金を
 得ること」と「権力を得ること」を、一生懸命にやって
 来ていた。
  それに気付いたナポレオンは、自分だけではなく・・
 自分の妃(きさき)の戴冠式も、ナポレオンが自ら、妃
 に戴冠した。
  キリスト教聖職者による戴冠を排除した。
  今までは、種々の王や諸侯の戴冠式の戴冠は、キリス
 ト教の聖職者が行なって、ある意味「キリスト教聖職者
 が、あたかも、冠(かんむり)を授けているように見え
 ていた」。
  ナポレオンに、その馬鹿げた虚構が見えた。
  今、キリスト教国・アメリカでは、大統領の就任式に、
 キリスト教の聖書に手を置いて宣誓する儀式が行われて
 いるが・・、
  あれほど、アメリカの初代大統領のワシントンが、キ
 リスト教色の排除と、キリスト教の影響力を排除しよう
 とした心が、「理解されていない状況」へと、今、アメ
 リカはあり、後退している。
  この初代大統領ワシントンは、アメリカ合衆国憲法を
 作る時にも、キリスト教の影響力を排除することに非常
 に心を砕いた。
.
1937年12月8日、日本軍は12月8日には南京を包囲した。
  そして、1937年12月9日、日本軍は中国軍に対して無血
 開城を勧告した。
  中国軍は、開城勧告を拒否し、応じなかった。
  やむなく、日本軍は、勧告に応じない南京城を1937年
 12月10日、攻撃を開始した。
  1937年12月12日、南京防衛司令官の唐生智が逃げた・・
 一般兵たちを置き去りにして・・逃亡した。
  また、蒋介石を連れ去って、司令部を崩壊させたアメ
 リカ・・それで、司令部が崩壊し、混乱している中国軍
 が、なおさらに、南京防衛司令官の逃避で、まったく統
 制のされてない状態となった。
  そしてまた、統制の効いてない南京の中国軍の大半が
 組織的撤退を知らされていない状態で・・、
  また、日本軍の迫る頃から混乱が続いていた南京城は、
 逃げる人々にあふれ、中国軍が撤退することを知ってい
 ても安全に逃げられない状況であった。
  中国軍は、自軍の中国兵を、塹壕に足を縛って置き去
 りにしたりした・・塹壕に置き去りにして、防戦させる
 という卑劣なこともした。
  唯一の逃避路である北部の長江へつながる挹江門では、
 中国軍の仲間を撃つことを躊躇しないという中国軍は『
 督戦隊を置いた』。
  中国軍の撤退する側と同士撃ちとなった (挹江門事件)
  (参考)督戦隊:とくせんたい、軍隊において、自軍
     部隊を後方より監視し、自軍兵士が命令無しに
     勝手に戦闘から退却(敵前逃亡)或いは、降伏
     する様な行動を採れば、攻撃を加え、強制的に
     戦闘を続行させる任務を持った部隊のこと。
      この場合、中国軍が、自軍の中国軍を撃ち、
     中国兵を戦う事を仕向けた。
.
1937年12月12日、挹江門事件(ゆうこうもんじけん)
  アメリカが介入して、中国軍の最高司令官である蒋介
 石が連れ去られ、中国軍の司令部は崩壊し、中国軍は乱
 れに乱れていた。
  督戦隊が置かれることまでされて、中国兵は戦わせら
 れた。
  あちこちで中国兵同士が撃ち合った・・その一つが挹
 江門事件だった。
  1937年12月12日の夜、挹江門事件が起きた。
  南京城へ進撃する日本軍の攻撃によって、中国軍は敗
 走に敗走を重ねた。
  その中国軍の一部隊が敗走して、挹江門を通り抜けよ
 うとした。
  その部隊は、中国国民政府軍87師と第88師、そして、
 教導総隊の潰走兵だった。
  その潰走(かいそう、戦いに敗けた兵士や隊が、四分
 五裂になって逃げること)する兵士たちと、それらを武
 力阻止する中国軍の督戦隊である国府軍第36師212団とが
 衝突した。
  中国軍同士の激しい撃ち合いとなった・・その双方の
 発砲で、瞬く間に約1000名の中国軍兵士が死亡した。
.
1937年12月13日、この日、混乱に次ぐ混乱の中で、中国軍
 は総崩れとなり南京城は陥落した。
  陥落時にも、南京城の北側から長江の対岸へと逃げよ
 うとした非常に多くの兵隊や一般人が、舟もない中で渡
 河しようとして、混乱の中で撃たれたり、途中で溺れ死
 んだりした。
.
1937年12月13日、中国の南京を日本軍が攻略した。
  この時、いわゆる南京事件が起きたとされているが・・
 まったくの嘘。
  戦勝国のアメリカは、裁く事が出来る法律が無い事か
 ら・・、
  「その裁くための法律を、わざわざ後から作ってまで
 して、東京裁判を裁くという・・卑劣な、戦勝国のアメ
 リカのやりたい放題のやり方で、東京裁判を裁いた」。
  この不当な、また、不法な、戦勝国のやりたい放題の
 東京裁判でさえ、この南京事件はあったとした。
  南京事件をデッチアゲタ。
  そのデッチアゲの南京事件の中国の犠牲者は「2万人」
 と言った。
  それを、中国の現在の政権・中華人民共和国(中共)
 は、だんだんその犠牲者数を増やして行った。
  「無いもの」を「ある」と言い・・そして、その数を
 だんだん増やすという行為を行なった・・よくあるパタ
 ーンを行なった。
  そして、今・現在に至った時点で、その犠牲者数を「
 30万人」と言っている。
  中共の好きに膨らませたこの30万人も、この後には、
 さらに、大きく風船のように膨らんでいくだろう・・
  だが・・この嘘つきの中国の中共の味方をする書物で
 さえ、この数を10万人としている。
  まったく言いたい放題の・・信用の出来ない中共など
 となっている。
  しかし、お粗末な事に、この中共に、ゴマすりをよく
 する「村上春樹は、本で40万人と書いた」・・
  村上春樹よ! 証拠を示せ! この嘘つきめ!
  この一件は、アメリカが、中国軍の最高指揮官の蒋介
 石(現政権の共産党軍ではない)を・・、
  そして、その司令部の最高将校の重要要員を、「救出」
 の名の下に、戦い真っ最中の南京から連れ去った・・
  このために起きた「中国軍の大混乱が原因」で、この
 大混乱・大混戦の原因は、アメリカが作った。
  また、この様に卑劣な参戦をしていたアメリカ軍こそ
 が、「東京裁判で裁かれるべき」だった。
  司令部の居なくなった中国軍は哀れな惨状を示した。
  当然の結果として・・乱れに乱れて、中国軍兵士は逃
 げ惑った。
  惑い、そして、逃げる自国の兵士を「逃げるな」と、
 置き去りにされた中国軍の下級将校たちは、自国軍の兵
 士へ向かって狙い撃ちをした。
  この様な卑劣な事態が起きた。
  東京裁判では隠された・・
  卑劣な裁判だった・・
  この様な南京攻略戦は、様々な事態の中で戦われた。
  また、卑劣にも、中国兵は、逃げられないと悟ると、
 軍服を脱いで、民間人の中に隠れた。
  これでは、民間人に被害が及んでしまう・・民間人が
 戦闘員と見間違われてしまう・・しかし、助かりたい中
 国兵は、この様な卑劣な事までした。
  そして、そこから日本兵を狙撃するという戦い方もし
  その民間人の中にある銃の探索が行われた・・当然・・
  民間人へ被害が及ぶことが分かっていても、中国兵は、
 民間人の中に卑劣に隠れた。
  当然、その民間人に隠れている中国兵と戦わざるを得
 ないという日本軍の事態だった。
  この様な様々な中の南京攻略戦だった。
  「修羅の状況」である。
  アメリカに援助された中国・蒋介石・国民政府軍は、
 「重慶」という中国の奥地へ拠点を移した。
  新しい都とした。
  これは、日本を叩きたいアメリカが、「日本の消耗」
 を狙っていたのだった。
  そして、アメリカは、延々と「援蒋ルート(蒋介石の
 中国軍を援助するルート)」を使って、厖大(ぼうだい、
 非常に大きく、多量なこと)な武器や弾薬を中国軍へ援
 助する。
  「日本との戦争ありきのアメリカ」
  そして、この先の第二次世界大戦ありきを決めてかか
 っているアメリカだった。
  この事の初め・・元々、アメリカは、厖大な武器・弾
 薬を支援して、中国・蒋介石軍に、上海を大軍で包囲さ
 せていた。
  その様な形で、中国・蒋介石軍は日本に迫って来た。
  上海の国際租界の中の日本租界へ向けて攻撃を開始し
 て来た(1937年8月13日、第二次上海事変)
  この時から、そもそもの戦いは始まった。
  アメリカの支援の下で、中国・蒋介石軍が、先に戦争
 を開始した。
  この武器・弾薬を与えて「アメリカが、焚き付けて始
 まった」・・その様な戦いだった。
  ルーズベルトが、第二次世界大戦がはじまったとき、
 「戦争を作った」と言ったが・・まさしくこの時以来の
 ことだった。
  キリスト教に偏して、日本を貶めてばかりいるNHK
 は、この事を隠し、まったく、この様な事を放送しない。
  この時、NHKはじめ日本のマスコミは、「戦争を煽
 った」。
  この時、上海事変で、蒋介石軍の攻撃を受けて、日本
 は戦い・・、
  そして、この戦いを・・日本が収めたとき・・、
  日本は、この時点で終わらせようとした。
  世論には、戦争を仕掛けた中国の蒋介石への思いに、
 「撤退し、逃げる蒋介石軍を追討するか?否か?」の判
 断において、国内には賛否の両論があった。
  この様に揺れている時に、NHKはじめマスコミは「
 囃(はや)し立てた」。
  このため、南京への追討否定派の意見はなくなった。
  NHKはじめ日本のマスコミは、常に、日本の戦いを
 煽り立てた。
  そして、進軍が決定すればすれで・・その進軍の様子
 を、「微に入り、細に入り報道」して「煽った」。
  そして、戦後の1948年11月13日・・、
  東京裁判の南京事件の責任者とされた日本の将軍に・・
 死刑判決がなされると・・、
  朝日新聞は、自らが勝ち誇ったように、「この一訴因
 で絞首刑」と記して報じた。
  NHKとこの朝日新聞は、今・現在、自社の一室を中
 国へ与えるという特別な事をしている。
  嘘の慰安婦問題をデッチ上げた朝日新聞と、そのNH
 Kは悪である。
.
1937年12月16日、中国の南京において、中国軍は、一般人
 民の中に隠れて、一般人民を卑劣にも盾にして、日本軍
 を狙い撃ちした。
  その掃討が、この日まで続いた。
  盾にされた中国の一般人民は、たまったものではなか
 った。
  南京での中国兵は、卑劣な行為である「軍服を脱いで
 戦う事をした」。
  軍服を着ていない一般人が戦うということではなく、
 今まで軍服を着ていた中国軍人が、その軍服を脱いで、
 一般人のふりをして戦った。
  軍服を着ていた中国兵が、着ている軍服を脱いで、人
 民の中に隠れて、日本軍と戦った。
  人民を盾とする卑劣な戦い方をする中国兵だった。
  日本軍は、その掃討(そうとう、残っている敵兵を撃
 ち払うこと)を行なったが、掃討戦は、1937年12月16日
 まで続いた。
  人民の中に隠れた卑劣で卑怯な中国兵、盾にされた中
 国人民・・この一般の中国人に犠牲者が出ない訳は無か
 った。
  上海戦から南京戦までの日本の戦死者の総数は24,000
 名に達した(戦病死者を含む)。
  この数は、日本軍の最高司令官である松井大将の日記
 にある数字で、ほとんどの戦死者が上海戦によるもの。
  一方、中国側のデーターについては、国民党軍軍政部
 長の何応欽上将の軍務報告に33,000名とある。
  何しろ、中国軍は、一般人民を盾にして、その人民の
 盾の陰から日本軍を狙撃するという卑劣な戦い方をした。
.
1943年、ソ連のスパイ機関が、アメリカ国内からソ連のモ
 スクワへ、スパイした内容を報告するのを、アメリカは
 知った・・そして、その傍受をする。
  この様な事があったと、1995年になって「VENON
 A(ベノナ)文書」が公表された。
  この文書が公開され始めて、戦中から戦後にかけて、
 この様なコミンテルンが、アメリカ国内で盛んに活動し
 ていたことが分かって来た。
  (参考)コミンテルン:共産主義インターナショナル
      Communist Internationalの略称。
      第3インターナショナル、第3インターとも呼
     ばれる。
      1919年3月にモスクワに創設され 1943年5月ま
     で存続した各国共産主義政党の国際統一組織。
      第1インターナショナル (1864年~1876年) 、
     第2インターナショナル (→社会主義インターナ
     ショナル、1889~1914) の崩壊後、V. I.レーニ
     ンらは、第1次世界大戦中から、新しい第3イン
     ターナショナルの創設を目指して活動を続け、
     30ヵ国の共産主義諸政党あるいは革命的組織の
     代表50余名をモスクワに集めて、1919年3月2日
     ~1919年3月6日、コミンテルン第1回大会を開い
     た。
      コミンテルンは、第2インターナショナルに比
     べ、はるかに強固な国際的団結と規律をもち、
     ソ連という社会主義国家を支柱とするに至った。
      また、民主的中央集権の組織原則をとり、コ
     ミンテルン執行委員会の指導のもとに活動する
     ことが定められた。
  そして、アメリカでのその実態が明らかになった。
  これは、カーター・クラークというアメリカの将軍が、
 ルーズベルト大統領にも秘密にして始めたプロジェクト
 だった。
  アメリカ陸軍の超秘密の暗号解読機関が、ソ連情報部(
 KGB、GRU)が、アメリカ国内からモスクワの本部
 に、報告する電報を傍受し、解読していた。
  解読作業は、1943年から始まり、1945年位から進捗す
 る。
  すると、ソ連のスパイが、ぞろぞろと判明した。
  国務省や財務省の官僚をはじめ、官庁のスタッフ、そ
 して、知識人、映画関係者、作家など広範囲な人のソ連
 スパイの存在が明らかになった。
  今・現在も、日本に盛んに中国の工作員が、日本に潜
 り込んでいるが、このアメリカの様な事になっていると
 言える。
  今・現在、沖縄県や北海道の中国化が急速に進んでい
 る。
  このベノナ文書で、ルーズベルト政権(ワシントンの
 連邦政府)に、常勤スタッフだけで200人以上、正規職員
 以外には300人くらいのソ連工作員(スパイやエージェン
 ト)が居た・・この事が確定的に判明した。
  (参考)エージェント:(1)代理人や代理店。また、
     仲介業者。(2)国家の秘密業務で働くもの。
  この影響が、1933年から1952年の約20年間、ルーズベ
 ルト大統領政権から、次のトルーマン大統領政権にまで、
 ソ連に繰られていた。
  今の日本も、非常に注意しなければならない時にある。
.
1979年1月、日米・コンピューター開発競争・・日本潰しの
 IBMスパイ事件へ
  1979年1月、IBMは、従来の中・小型コンピューター
 の5倍から6倍という抜群のコストパフォーマンスのI
 BM4330を発表した。
  これは、プラグコンパチブル機に対抗してそれらに致
 命症を与えるに充分な価格設定とおもわれた。
  事実、このために有力なコンパチブルメーカーであっ
 たアイテル社は痛手を負い、関連部門をナショナルセミ
 コンダクタへ売却した。
  そればかりか、IBMとコンパチブルでないイギリス
 のICL(International Computers Ltd.)も、主力工場
 であったウインズフォールド工場を閉鎖する事態におい
 こまれた。
  ところが、日本のメーカーは、わずか1ヶ月遅れで対
 抗機種FACOM130Fを出荷した富士通をはじめと
 して、各社ともIBMに追随してきたのである。
  しかも、1980年11月、IBMの特に強い超大型コンピ
 ュータの分野でも、IBM3081D(9.5MIPS)を発表
 した時すでに、日立は10.2MIPSのM200Hを、
  そして、IBMのコンパチブルではないが、日本電気
 のACOS1000は15MIPSという当時の最速の機種を
 発表しており、IBMは、日本のコンピュータに先を越
 されていた。
  この様に、日本のメーカーは、すくなくともハードウ
 ェアについては、IBMの技術に追い着き・・、
  半導体チップでは、日本の方が信頼性などの点で優れ
 いるとも言われるにまでに至っていた。
  そこで、IBMは、日本のコンパチブル機を振り切る
 決め手として、基本ソフトウェアであるOS(オペレー
 ティング・システム)を解析しにくくすることにした。
  それまで、磁気テープで供給してきたOSの機能を一
 部ファームウェア化してしまった。
  こうすれば、コンパチブルメーカーはOSを解析する
 までに相当時間を必要とする。
  1981年12月、こうして、この8000語ほどファームウェ
 ア化されたOSをもつIBM3081Kを発表すると共に、
 3081が、31ビットアドレッシングを採用している新しい
 アーキテクチャであること明らかにした。
  そして、IBMは、アーキテクチャが変わっても360シ
 リーズ以来のアプリケションソフトを実行できる新しい
 OS、MVS/SPを提供した。
  この31ビットアドレッシングと、新OSの高度なファ
 ームウェア化は、コンパチブルメーカー対策としては強
 力で・・、
  富士通、日立が、このファームウェアを解明するには
 2年はかかるとみられた。
  そのため、あせった日立が、新OSのソースリストを
 中心としたIBMの技術情報を入手しようとしたのを、
 FBIのおとり捜査にひっかかり摘発されたのが、1982
 年6月23日だった(IBMスパイ事件)
  この結果、IBMは、日立に多大な賠償金とIBMの
 技術情報が使用されているかどうかの製品検査権を認め
 させた。
  これにより、IBMは、日立の動向を掌握することが
 でき・・、
  いざとなれば、日立にコンパチブル機を作らせないこ
 ともできることになった。
  また、IBMは、この事件に直接関係なかった富士通
 に対してもOSの酷似をもって、富士通を訴え、実質的
 に著作権を認めさせた。
  日立や富士通は、IBMコンパチブルの路線をとる事
 になって行く。
.
1982年6月22日、IBM産業スパイ事件(アイ・ビー・エム
 さんぎょうスパイじけん)は、1982年6月22日、日立製作
 所(以下、日立)や三菱電機(以下、三菱)の社員など
 計6人が、米IBMの機密情報に対する産業スパイ行為を
 行ったとして逮捕された事件である。
  この事件は、各日本メーカーとIBM米本社との間の
 事件で、同日本法人である日本アイ・ビー・エム株式会
 社は無関係であり、同社関係者にも寝耳に水の事件であ
 った。
  IBMと日立は、翌年・1983年に和解した。
  また、1984年より、当初は当事者外であった富士通と
 IBMの交渉も進められ、1988年に和解した。
  1981年、IBMは、アドレスを31ビットに拡張し
 (System/370-XA)、オペレーティングシステム (OS) の
 一部をファームウェア化して互換機を作りにくくしたメ
 インフレームコンピュータの3081K を発表した。
  互換機メーカーであった日立は、 3081K に関する技術
 文書をNAS(ナショナル セミコンダクターの汎用コンピ
 ュータ部門で、日立からOEM供給を受けていた)から入手
 した。
  一方、かねてからコンサルティングで日立との取引が
 あったペイリン・アソシエーツ社から 3081K に関する報
 告書の売り込みがあった。
  日立はその目次を見て、NASから入手済みの資料に酷似
 しており、両方の文書が何らかの共通の資料に基づくも
 のと判断。
  ペイリン社に対して、「その資料は既に持っている。
 しかし、それは一部と思われるので、他にもあるなら購
 入したい」と伝えた。
  ペイリン社の社長ペイリーは、元IBM従業員であり、
 日立がIBM3081Kの資料を入手済みであることをIBMの
 ボブ・エバンズ(当時、副社長)に通報。
  結果として、FBIによるおとり捜査が行われ、日立
 と三菱の社員が逮捕されることになった。
  刑事事件自体は、1983年2月、司法取引により決着した。
  しかし、IBMは、日立に対して民事損害賠償訴訟を
 起こした。
  ・・IBM産業スパイ事件は・・、
  日立と三菱がスパイをやった、という程度の、企業が
 行き過ぎただけの話だと思われている・・が・・、
  1959年、日本のコンピューター開発、この年には、東
 京大学が中心となって、東芝・日立が協力し、TACが
 完成した。
  (参考)TAC:Tokyo Automatic Computerは、東京
     大学が開発したコンピュータで、一般に東大と
     東芝が共同開発したとされていて、大変な難産
     の結果、うまれた。
      東芝が協力していない部分や日立製作所が協
     力した部分があり、1959年に、最終バージョン
     が完成した。
  (参考)FUJIC:富士写真フイルムにおいて開発
     された我が国初の電子計算機で、真空管式電子
     計算機だった。
      レンズ設計に使用することを目的として岡崎
     文次により開発された。
      1949年より、岡崎は研究を開始した。
      1952年3月から、メモリ関係の研究と並行して
     全体の組立てが行われた。
      1955年11月に、電子通信学会電子計算機研究
     専門委員会の見学会で、動作のデモンストレー
     ションが行われた。
      1956年3月初めに完成し、栄誉ある我が国最初
     の電子計算機となった。
      真空管を約1,700本使用した2進法3アドレス方
     式の電子計算機で、記憶装置には超音波水銀遅
     延線(255語)が採用された。
      論理回路のクロック周波数は約30KHzであった
     が並列演算回路を採用し、加減算0.1ms,掛算1.6
     msと、当時としては比較的高速であった。
      目標はレンズ設計において人手計算の1,000倍
     であったが、約2,000倍の性能を実現した。
      2年半の間小田原工場で社内外の計算に使用さ
     れ、その後、早稲田大学に寄贈され、現在は国
     立科学博物館に保存されている。
  上記の様に、日本は、コンピューター開発の先端を歩
 んでいた。
  国の予算をつぎ込んだ国家プロジェクトとしても進め
 られ、目標は大きく野心的でさえあった。
  研究課程は難航し、何度も設計変更を繰り返した。
  1964年には、通産省の予算で富士通・沖電気・日本電
 気が共同でFONTACを作成した。
  (参考)FONTAC:年々輸入が増大していた大型
     コンピュータ分野に、通産省は補助金を交付し
     て大型コンピュータの国産化を狙った。
      1962年7月、そのために、富士通信機製造(現:
     富士通)、日本電気、沖電気の3社により日本電
     子計算機技術研究組合が設立された。
      FONTAC(Fujitsu-Oki-Nippondenki-
     Triple-Allied Computer)は、この3社の3年に
     わたる共同研究によって完成された大型コンピ
     ュータだった。
      1964年11月に完成し、日本電子工業振興会に
     納入された。
      FONTACシステムは、主コンピュータと
     して高速大容量の記憶装置と多数の入出力チャ
     ネルを持つ大型2進計算機を、衛星コンピュータ
     に可変語長のFONTAC Sub Iと固定語長のFONTAC
     Sub IIを使用し、主コンピュータと衛星コンピ
     ュータは密接に結合された。
      FONTAC Centralは、1語42ビットからなる2進
     法のコンピュータで、固定小数点の数値は、デ
     ータ36ビット、フラグ4ビット、パリティ2ビッ
     ト、浮動小数点の数値は指数部9ビット、仮数部
     27ビット、フラグ4ビット、パリティ2ビットよ
     り構成された。
      記憶装置として30mil/サイクルタイム2.2μs
     の磁心記憶を使用し、最大65,536語の容量を実
     現し、演算速度として固定小数点加減算/乗算
      4.4μs /25.2μs,秒浮動小数点加減算/乗算
      15.4μs /30.8μsの性能を有した。
  1962年7月、この共同研究で開発された技術を基に、
 CPU(中央処理演算装置)を担当した富士通信機製造
 (現:富士通)は、FONTAC Centralを一部改良し、FACOM
 230-50として商用化した。
  1964年11月、FONTACは、この3社の3年にわたる共同研
 究によって完成された大型コンピュータで、1964年11月
 に完成し、日本電子工業振興会に納入された。
  この頃から、各社が「コンピューターの作り方」を理
 解し、独自開発を開始した。
  日立のHITAC、富士通のFACOM、日本電気のNEAC、東芝
 のTOSBAC 、三菱のMELCOM、沖電気のOKIMINTAC・・
  コンピューターは、これから確実に産業の中心となる
 というのは明らかだった。
  1970年代初頭、IBMは、巨大メーカーに成長しつつ
 あった。
  日本国内だけで、6社も、互換性のないコンピュータ
 ーが乱立していて、これでは、日本のコンピューターは、
 大企業に潰されてしまうリスクが存在した。
  通産省は、「国内で、IBMに対抗できるコンピュー
 ターを育てる」ための方策を取った・・それは・・
  1) IBMと技術提携を行わない、IBM互換機路線
  2) IBMに対抗できる大企業の互換機路線
  3) 日本独自路線
  2 の大企業は、ハネウェル社。
  1960年代、アメリカには、8つのコンピューターメー
 カーがあった(「IBM と7人の小人」と呼ばれた)
  ハネウェルはその一つでありながら、1970年に MULTICS
 の技術を持つGE社と合併し、力を伸ばしていた。
  通産省は、国内の各社は上のいずれかの道を選び、提
 携することが求められた。
  富士通と日立はすでにIBM互換機を作成していたた
 め、互換路線を選んだ。
  日本電気はすでにハネウェルと提携していた。
  東芝も、すでにGEと提携していましたが、GEがハ
 ネウェルに吸収合併された。
  そこで、日本電気と東芝も提携し、ハネウェル互換路
 線を選んだ。
  三菱・沖電気は「取り残された」形で提携し、独自路
 線を歩むことになった。
  富士通と日立は提携し、技術的な交流は図りつつもお
 互い独自に、IBM System/370 の互換機を作成していた。
  (IBM との技術提携はない)
  ただし、IBM で System/360 (370の旧世代機)を設計
 した技術者で、後に独立したジーン・アムダールの会社
 と富士通は提携し、技術的ノウハウを得ていた。
  1981年、IBM はこうした「互換機」が世界中で増えて
 いたため、設計を一部変更して、性能を上げるとともに
 互換機を作りにくくした、System/370-XA を発表した。
  日立は、この「設計変更」の詳細を入手しようとして、
 IBM のおとり捜査に引っかかった。
  1982年、社員5名が逮捕され、この時、三菱社員1名
 も逮捕された。
  三菱は、当初、「独自路線」グループでしたが、この
 頃には余りに強くなった IBM の互換機を作ろうとしていた。
  この刑事事件は、司法取引により決着した。
  しかし、IBM から、民事損害賠償訴訟を起こされた。
  System/370-XA は、各種回路が特許で守られていたう
 え、それまでは後から読み込まれるソフトウェアであっ
 た「OS」の一部を、ハードウェア内に持つようになって
 いた。
  System/360 や 370 の頃は、同等の機能の回路で置き
 換えも可能でしたが、370-XA の特許は強力で、簡単には
 回避できなかった。
  また、BIOS に関しては単純な回路ではなく、プログラ
 ム…著作物です。
  著作権の場合「類似したもの」を作ったとしても、盗
 作としてアウト。
  少なくとも、この時点では IBM はそのような認識で動
 いていた。
  ずっと後に、IBM・コンパックが BIOS の著作権を争い、
 現在は違う認識となっている。
  結局、日立は IBM の許可を得ずに機械を販売しないこ
 と、訴訟費用は全部日立が負担すること、ソフトウェア
 やインターフェイスなどに関して、使用する対価を払う
 こと…などを条件に和解した。
  日立からすれば、IBM 互換路線に「お墨付き」を貰っ
 た格好で、この後も互換路線を進んだ。
  富士通も日立の訴訟に危機感を持ち、同様の取引を結
 びますが、徐々に IBM 互換路線から非互換路線にシフト。
  いずれにしても、通産省の狙った「独自技術による互
 換」という路線は無くなってしまった。
  この頃は、IBM が強くなりすぎてハネウェル社もコン
 ピューターから事実上の撤退。
  特に、吸収合併したGEの互換機は消滅し、GE互換
 だった東芝も撤退、同じグループだった日本電気にコン
 ピューター部門を売却した。
  独自路線だった三菱・沖も、先に書いたように三菱が
 IBM互換路線に進もうとして、スパイ事件に発展した。
  沖電気は、コンピューター本体は断念して、周辺機器
 製造に特化した。
  国策だった3グループ化は大失敗となった。
  日本のコンピューター産業は死んでしまう…。
  「IBM産業スパイ事件」とは、そうした危機的な状
 況を意味した。
  翌1983年、日本電気がスーパーコンピューターの新シ
 リーズ、SX-2 を発表します。
  この SX-2 は、世界で初めて GFLOPS を超えたコンピ
 ューターで、同時に初めてアメリカ以外のコンピュータ
 ーが速度で世界一になった機械だった。
  日本のコンピューター産業復活を狙った。
  この後、急に力を付ける日本のコンピューター業界に
 アメリカが危機感を感じ、1980年代後半から1990年代前
 半の貿易摩擦につなげて問題化する。
.
2012年3月、日本企業の大切な機密技術が、海外企業に盗ま
 れるという、流出した事例は多々ある。
  2012年3月には、工作機械大手のヤマザキマザックから
 設計図などの情報を不正取得したとして、愛知県警が中
 国籍の元社員を逮捕した。
  2012年4月には、新日本製鉄(現・新日鉄住金)が、高
 機能鋼板の製造技術を流出させたとして、元社員と韓国
 鉄鋼大手ポスコを相手取り、1000億円の損害賠償訴訟を
 起こしたりした。
.
2014年3月14日、この日の新聞やテレビなどの大手報道機関
 は、東芝のNANDフラッシュメモリに関する研究データ(機
 密情報)を韓国の大手メモリメーカーであるSK Hynixに
 提供した不正競争防止法違反(営業秘密開示)の容疑で、
 元技術者を警視庁が13日に逮捕したと報じた。
  元技術者(S容疑者)は、東芝とNANDフラッシュメモリの
 共同開発で提携してきたアメリカSanDiskの日本法人に勤
 務していた。
  この事件について、3月14日付けの読売新聞オンライン
 版では、S容疑者は、2007年4月から2008年5月にかけて、
 東芝四日市工場の管理サーバーに保存されていたNANDフ
 ラッシュメモリの研究データをUSBメモリに無断でコピー
 して持ち出し・・、
  2008年7月に、転職したSK Hynix(当時はHynix Semicon
 dcutor)に、持ち出した研究データを提供した。
.
2014年3月、技術流出・・日本政府の対応
  技術の流出防止と保護が極めて大切=東芝技術の流出
 問題で官房長官
  [13日 ロイター]菅義偉官房長官は、13日午前の会
 見で、東芝(6502.T)の技術が海外に流出したとの一部報
 道に関連し、技術の流出防止と保護が極めて大切との見
 解を示した。
  この問題について見解を求められた長官は、報道内容
 については承知しているが、個別事案についての言及は
 控えたいとした。
  その上で一般論と断りながら、「技術立国であるわが
 国にとって、守るべき技術の流出防止と適切な保護にし
 っかり取り組んでいくことが極めて大事だ」と強調した。
  政府として、知的財産戦略本部(本部長:安倍晋三首
 相)が、2013年6月に策定した「知的財産政策ビジョン」
 において技術・営業秘密の保護や強化の取り組みを打ち
 出していると語った。
  共同通信などによると、東芝のフラッシュメモリーの
 研究データを韓国の企業に不正に流出させた疑いが強ま
 ったとして、警視庁は13日までに、不正競争防止法違反
 容疑で、東芝と提携していた半導体メーカーの元技術者
 の逮捕状を取った。
.
2016年11月24日、アメリカは、中国を市場経済国と認めず 
 貿易摩擦激化へ
  アメリカ政府は23日、中国を世界貿易機関(WTO)
 協定上の「市場経済国」(自由な市場で経済運営が行わ
 れている国)とは認めない方針を明らかにした。
  日本も追随する方針。
  中国政府の優遇措置に支えられた中国鉄鋼メーカーな
 どのダンピング(不当廉売)を問題視。
  反ダンピング税を課しにくくなる「市場経済国」とは
 認定できないと判断した。
  中国は、WTO加入から15年を迎える来月の市場経済
 国移行を主張してきたが、米国の反対で事実上、不可能
 となった。・・以上・・(参考:毎日新聞)
  2017年12月12日、中国は「市場経済国」か? アメリ
 カ、認定に反対表明 WTOを試す「リトマス試験紙」
  世界貿易機関(WTO)の制度上の「市場経済国」認
 定を中国政府が求めていることについて、米国が正式に
 反対する通知をWTOに送付した。
  通商上の不利な扱いを受け続けることになる中国は反
 発しており、米中間の摩擦が再燃している。
  トランプ米政権がWTOを「機能していない」と批判
 する中、中国の認定問題は、米国のWTO脱退の引き金
 となりかねない火種となる可能性がある。
  米欧が共同戦線
  米政府がWTOに通知を送ったのは11月中旬。
  欧州連合(EU)も中国の市場経済国認定に反対して
 おり、米国は通知を通じてEUへの賛同を表明した。
  通商分野で米国とEUは対立するケースも多く、米欧
 が「異例の共同戦線」(米メディア)を張った。
  ・・以上・・(参考:産経新聞)
  アメリカは、中国を市場経済に組み入れ、そして、豊
 かになり、社会も開かれ来れば、政治システムも変化し、
 欧米的なシステムを受け入れて来ると見て、その様な意
 味からも、中国に対し甘やかす政策を取って来た。
  しかし、事は、その様な思惑の様には進展して来なか
 った。
  この問題は、今、気が付いたことではなかった・・が・・
  中国が、これまで経済を拡大できたのは、この恩恵だ
 った・・
  しかし、中国は、ありがたいという態度は表わさない・・
 心の底ではその様に思っているのかもしれない・・が・・
  そして、アメリカは、中国にはそのような態度をとっ
 ても・・日本に対しては厳しい態度を取り続けた。
  例えば、最新鋭の技術を取り上げる事をすることはし
 ても、日本へ提供をすることはしなかった。
  また、日本の企業が、最先端の技術を開発する事を妨
 害さえした。
  NECが、独自のコンピューターを開発するのを妨害
 した。
  三菱などが新しい技術を開発しようとすると、「研究
 員が犯罪を犯した」などと言いがかりをつけて阻止した。
  別の観点から見ると、アメリカは、中国を簡単に抑え
 られると見ていたと考えられる。
  中国は石油が不足している。
  代替エネルギーの開発も遅れている。
  この事例の様に、中国の技術は、アメリカからの提供
 が無ければ高度な製品が作れないなど、中国を抑え、コ
 ントロールできるとみていた。
  しかし、アメリカと中国は、これから貿易や通貨を巡
 って緊張度はさらに上がって行くと指摘されている。
.
2017年3月、日本学術会議が、大学などの軍事的研究を否定
 する声明を出した。
  軍事的研究と言ったって、この日本学術会議の人たち
 も含めて、日本人・国民を守る自衛隊などの研究をする
 ことまで否定した。
  日本国民を守る研究をしてはいけないと言い出した。
  まったく卑劣な声明である。
  「日本を攻めてくる勢力に利する行為」を行なってい
 る。
  どんな理屈があって、こんな事を言っているのだろう
 か?
  どんな論理があって、こんな声明を出しているのか?
  日本国民の命を守るという大切なことを放棄している。
  その様な研究をしてはいけないとした。
  日本国民の税金を使って日本学術会議の大学などは研
 究をしている。
  ならば、すべての研究費を辞退せよ!
  また、守るべき日本国民の税金で建てられた大学など
 の施設で研究ができるという恩恵に答えていない。
  また、日本国民から給料をもらい、自分や家族を養う
 金を貰っていながら・・この様な声明を出したという事
 になっている。
  ならば、自分の立場や給料も辞退せよ!
  まったく矛盾している、反逆している、日本学術会議
 や大学だと言える。
  そして、2018年6月9日の読売新聞によると、あろうこ
 とか?? 北海道大学という国立大学が、この日本学術
 会議の声明を受けて、防衛省の研究をしないと決めたと
 いう。
  中国や北朝鮮に、日本の存在が危うくなっているこの
 今・現在、この様な行為をしている
  (この様な事をするのは、この大学だけ)
  今まで、北海道大学は、研究をして来たけれど、これ
 からはしないとしたという。
  防衛省は、船体の摩擦抵抗を軽減する研究を、2016年
 度から委託していた。
  防衛省は、北海道大学の意向を尊重せざるを得ないと
 している。
  日本の国立大学の北海道大学・・何もかもが国民の御
 世話になっているこの大学が、この様な行為をする・・
 国民の為になる研究をしないと・・している。
  まったく理屈の立たない行為をした。
  北海度と言えば、沖縄県とともに、中国が暗躍してい
 るところ・・色々と工作をするところ。
  中国の国家的重要人物・要人が来て、中国の息のかか
 った農場を視察したりするところ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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# by suba28 | 2018-06-15 04:30 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)598E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)

題:(増補版)598E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年6月10日、東学党軍と李氏朝鮮政府が、和睦
  朝鮮内で、圧政を行ない人々を虐(しいた)げていた
 政府に対して反乱を起こした東学党軍と、李氏朝鮮政府
 が、全州和約を結び、和睦した。

1894年6月10日、大鳥圭介在朝鮮公使が、陸戦隊を率い漢城
 府(かんじょうふ、ソウルの旧名)に帰任した。

1894年6月10日、山陽鉄道が糸崎駅~広島駅間が開通し、山
 陽鉄道の路線が、広島まで延長された。
  神戸駅~広島駅間の直通列車を、1日3往復の運転を開
 始した。
  2014年7月18日~8月10日に、三原駅(現:糸崎駅)~
 広島駅間開通120周年記念特別企画展が三原リージョン
 プラザで開かれた。

1894年6月11日、全州和約され、農民軍が全州を撤退した。

1894年6月12日、共同撤兵、袁世凱・大鳥間でほぼ妥結。
  日本を圧迫していた清国。
  日本には、潜在的対清恐怖感があった。
  そして、朝鮮に対して、清国は、宗主権的なものを持
 っていた。
  そして、華夷(かい=中国とえびす)秩序なるものが
 あった。
  この先、日清は、戦端を開くが、明治天皇陛下は、開
 戦には非常に消極的であられた。
  (参考)華夷秩序:かいちつじょ、中国の皇帝を頂点
     とする階層的な国際関係を指す。
      古来中国にある自分たちは優れた文明を持つ
     世界の中心(中華)で、周囲は未開の野蛮人(夷)
     であるとの考え方に根ざす。
      具体的には、中国皇帝の恩恵を受けるために
     朝鮮など周辺の国々は貢ぎ物をし(朝貢、ちょう
     こう)、代わりに皇帝が王と認める(冊封、さく
     ほう)という形をとった。
      アヘン戦争時は、朝鮮、ベトナムなどが中国
     と「朝貢・冊封関係」を結び、中国を「宗主国
     (そうしゅこく)」と位置づけていた。
      日本は離脱している。
  (参考)清国の意識:清国の戦線詔勅(部分)には、
     下記の様に、朝鮮を属国と完全に意識していて、
     西欧列強がアジアを植民地化して行く中で、力
     を付けつつある日本を完全に排除したかった。
      そして、朝鮮の従属化を強めて自勢力下に留
     めたかった。
      「朝鮮ハ我大清ノ藩屏〔ハンペイ:直轄の属
     領〕タルコト200年余、歳ニ職貢ヲ修メルハ中外
     共ニ知ル所タリ…」
      今(2018年)の中国も、この様な意識でいる
     のだろう。

1894年6月12日、日本の朝鮮派兵先遣隊が、仁川(じんせん、
 ソウルから40キロメートル)に到着した。
  1885年の天津条約に基づく行動。

1894年6月12日、山陽鉄道が、兵庫駅~広島駅間を開業した。
  2軸横扉の客車と荷物車の混成7両列車が、1日15本、
 昼間だけの単線運行を行った。
  岡山県内ルートでは、西大寺、玉島の港町などで、鉄
 道通過反対運動があり、やむなく、これらの市街地をは
 ずした北よりのルートに鉄道を敷設した。
  結果的に、西大寺や玉島は時代の波から取り残されて
 いった。
  この広島までの開通の後、日清戦争が起こり、山陽鉄
 道はその運搬に於いて重要な役割を果たした。
.
  (今日の言葉)
.
  題:真実は、解き明かされねばならない・・
    この行為は、これからの人類の行く末にも貢献すると確信する。
    そして、今、北朝鮮の技術で確実に届く範囲で、「攻撃しない方が良いと
    考えられる理由のない国」は・・日本だけだ。
.
1818年、アメリカの『本当の奴隷解放者』のフレデリック・
 ダグラスが生まれた。
  アメリカ合衆国は、多くの黒人の方々を奴隷にした卑
 劣な歴史を持っている。
  それも、長い期間に渡って、黒人の方々を虐(しいた)
 げた。
  それも、さらに、卑劣なのは、その黒人の方々を奴隷
 という身分から解放したのは、黒人の方々の自由獲得へ
 の努力と叫びにあったのを・・、
  そしてまた、黒人の偉大な奴隷解放運動家フレデリッ
 ク・ダグラスという活動の結果、奴隷解放がやっとなさ
 れたのに・・、
  この真実の歴史をアメリカ合衆国は隠し、白人のリン
 カーンが解放したのだと虚偽の、そして、真っ赤な嘘の
 プロパガンダ(嘘宣伝)をした。
  この真の奴隷解放者フレデリック・ダグラスは、奴隷
 出身であったため、生誕日の詳細は不明で・・、
  ただ、アメリカのメリーランド州タルボット郡に奴隷
 の子として生まれた・・としか分かっていない。
  人権無視の白人アメリカは、黒人の方々をこの事でさ
 えこのように処理した。
  教育も受けさせないという法律を作った社会だった。
  当然、選挙権は夢の権利だった。
  まったく、人権無視のアメリカ合衆国である。
  また、アメリカ合衆国の最大の卑劣な所は、今・現政
 権の美化を行なっているところだ・・
  現政権の起源が『南北戦争での北軍』にあるとしてい
 る・・そして、その勝利にあるゆえに、この北軍を美化
 し、南部軍を蔑(さげす)んでいる・・そして・・、
  この時の北軍の最高指揮官のリンカーンの記念堂まで
 作って美化し、讃えている。
  南部軍の最高指揮官のリー将軍を悪漢の如くに扱って
 いて・・先ごろも、このリー将軍の銅像を壊すのだとい
 う騒ぎがあった。
  (アメリカ南部の方々にとっては「尊敬するリー将軍」
 である)
  また、当然、アメリカの初代大統領ワシントンを・・、
  アメリカ憲法などをととのえてアメリカ政治をスター
 トさせた功労者を讃えるべきであるのに・・、
  16代大統領のリンカーンが、何の理由か? 記念堂を
 作ってまでして讃えているのである。
  そして、リンカーンが「奴隷解放をした」と嘘の宣伝
 をして美化している・・
  これは嘘なのである・・アメリカは「北部も南部も」
 白人サイドから奴隷解放がなされたのではない。
  北部だって、資本家は、工業資本家は、黒人の方々を
 搾取し、奴隷身分に置いて、その労働を搾取していたの
 である。
  故に、結局、黒人の方々が、血を吐くような努力をし
 ての結果の黒人奴隷解放だったのである。
  最後まで、白人サイドは、黒人の方々を搾取し、虐(
 しいた)げる側に居た。
  キリスト教の有色人種蔑視観に洗脳された白人の人々
 からは「積極的な黒人解放エネルギー・奴隷解放エネル
 ギーは出て来なかった」。
  この黒人のフレデリック・ダグラス氏が、奴隷解放の
 エネルギーの求心力となった方々の一人であった
  彼の数々の苦労・努力を、これから明らかにして行き
 たいが・・白人社会は黒人の方々の歴史を抹殺した。
  しかし、近年、少しづつ黒人の方々の歴史が掘り起こ
 されて来ている。
  このフレデリック・ダグラス・・彼の母は、彼が7歳の
 時に亡くなった。
  彼は、色々な白人奴隷所有者へ次々と売られて行くと
 いう経験をさせられた。
  人種差別のアメリカには、種々の卑劣な法律があった・・
 その一つが、「奴隷の方々へは、教育を与えてはならな
 い」というものだった。
  しかし、このフレデリック・ダグラスは、、12歳の時、
 この法を冒(おか)してまでして、この時の女主人は、
 彼に文字を教えてくれた・・
  だが、この後、彼女の夫がこの事を禁じたため、この
 様な事は行われなくなった。
  しかし、優秀な彼は、この後、街灯の下などで、また、
 使い古した教科書などを使って勉強をし続けた。
  成長するとともに、彼は、あちこちに売り回された。
  農場で働いたり、造船所で働いたり、北部の都市奴隷
 とされたり、売り渡され、苦労を重ねた。
  1838年(20歳)奴隷の境遇から脱出を図る・・逃亡で
 ある・・そして・・
  23歳の時、『反奴隷制協会』で初の演説をした。
  また、反奴隷を訴える新聞も発行する。
  1845年(27歳)本を発行した・・
  アメリカでは、「奴隷に教養がある訳がない」とされ、
 本の発行の機会も与えられていなかった。
  たが、この本は、ベスト・セラーとなった。
  フランス語・オランダ語に翻訳もされた。
  そして、フレデリック・ダグラスは、アイルランド、
 イギリスへもわたり反奴隷運動の活動した。
  1863年(45歳)リンカーン大統領、アンドリュー・ジ
 ョンソン大統領などと奴隷解放や黒人参政権について協
 議をし、黒人の方々の当然の人権を訴えた。
  そして、黒人の方々をまとめて黒人解放の活動をさら
 に実践して行った。
  駐アメリカ占領下ハイチ国合衆国領事をも務めた。
  1872年(54歳)大統領選で、副大統領候補に指名され、
 た。
  奴隷解放者と讃えられている「子供たちの偉人伝『リ
 ンカーンの伝記』は間違っています」・・、
  リンカーンは、「黒人奴隷を解放した」と言われてい
 ますが・・「間違いです」。
  彼には、「黒人奴隷を解放したい」という「希望や意
 志」は、「まったく有りませんでした」・・、
  リンカーンの黒人奴隷解放の意思は、「事の成り行き
 からその様な状況へ至った」「その様な状況を持った」
 という状況でした。
  その様に仕向けたのが、黒人の黒人奴隷解放戦士『フ
 レデリック・ダグラス』でした。
  また、その組織の働きかけがあったから、その方向に
 流れただけです・・これが真実なのです・・
  子供たちの伝記には間違いが書かれて居ります。
  嘘でプロパガンダ(嘘宣伝)された白人権力者たちの
 歴史・認識は代えられなければなりません・・正しい内
 容に書き換えられなければならないのです。
  キリスト教には、「有色人種は、黒人は、人ではない」
 とみる歴史が流れて来ております」。
  この様な見方に影響された人々がしたことは、黒人の
 方々の奴隷解放の努力で、黒人の奴隷解放に一旦ちょっ
 ぴり至っても、直ぐに自分たちの利にとらわれ、元に戻
 ってしまうという事も起きたりした。
  悲しいかな、黒人の方たちは、「人間ではない、奴隷
 という原罪がある」と理由づけられた考え方をされてい
 ました。
  キリスト教聖書にも書かれている奴隷制は、疑問なく
 容認するという考え方にありました。
  キリスト教聖書に説かれている奴隷制、当然のごとく、
 奴隷制を容認し、黒人の方達を奴隷として虐げました。
 この奴隷制寡頭勢力(かとうせい【寡頭制】 少数者が
 権力を握って行う独裁的な形態)は・・、
 自分たちの利が脅(おびや)かされ、自分の意に合わな
 い相手を殺す教義「異教徒は殺せ」の教義のままに行動
 した。
  その様なアメリカの中でも、共和党は、アメリカ全土
 の奴隷制反対勢力が応援し、育て、強固にした党だった。
  民主党は、奴隷制を容認する党だった。
  この様な中、1861年、南北戦争が起き、リンカーンは、
 この年に大統領に就任した。
  しかし、後代の歴史家が、「南北戦争は奴隷解放戦争」
 と位置付けしているが・・どうしてどうして・・
  この大切な時、このリンカーン大統領の大統領就任演
 説は、『奴隷財産を擁護する論理展開をするという卑劣
 な演説』だった。
  奴隷財産容認論のリンカーン大統領・・だった。
  アメリカ北部の政権は、プロパガンダをしてこの事を
 隠しました。
  リンカーンは、この様な大統領だった・・『何と愚か
 な演説なのだ』と彼に突き付けたい・・
  また、リンカーン記念堂の前に、この事実をはっきり
 説明書きした看板を立てたい。
  リンカーンの擁護派は(ようご、かばい守ること)、
 「奴隷制について、反対するか? 賛成するか? わか
 らない州が存在したから」と、筋の通らない言い訳した。
  それは嘘だ・・奴隷解放が大切な政治信条なら、この
 最大のチャンスに大きな声で、この時こそ訴えねばなら
 ない・・これが常識だ・・、
  その後の行動を見ても分かる・・
  リンカーンのその後の行動からみても、「奴隷解放の
 大統領」とは言えない。
  南北戦争の戦況は、リンカーンの奴隷解放への意思も
 なく、
  また、黒人の方々への人権無視や・・
  リンカーンの政治的意思の不決断もあって・・、
  また、北部軍首脳部の腐敗もあって・・北部軍は敗北
 が続いた。
  北部のシンボルである首都=ワシントンが、陥落する
 危険にさえさらされる緊急事態にもなった・・、
  この状況を救ったのが、黒人の黒人奴隷解放戦士『フ
 レデリック・ダグラス』だった。
  奴隷解放に不決断だったリンカーンは、黒人の軍への
 参加をも『容認しなかった』。
  フレデリックは、「黒人奴隷も、自由黒人も、黒人を
 軍務につかせよ」・・人権を認めよと訴えた。
  さらに、フレデリックは、「奴隷に対する自由が、今
 こそ、国会議事堂から全戦場の砲焔の空高く宣言されな
 ければならない」と、その行動を起こさないリンカーン
 に代わって叫んだ。
  黒人の人権を認めて・・「黒人を軍務につかせよ、そ
 して、黒人解放軍を組織せよ」・・と・・
  そして、さらに、「我等は、北部軍の兵士となって、
 南部に進軍し、奴隷たちの間に解放の旗を揚げるであろ
 う」と、世論に向かって叫んだ。
  しかし、愚かにも、リンカーンは、首都ワシントンが
 陥落の事態になっても・・、
  リンカーンは、黒人解放の明言を避け・・「黒人奴隷
 は漸進的に解放したい、一気に解放という事はしたくな
 い」などと黒人奴隷解放への意思表示を避けた。
  この時、卑劣にもリンカーンは、「解放された黒人は、
 アフリカかどこかに植民させたい」と考えていた。
  黒人の方たちを捨てるということ、「棄民」の考えだ
 った。
  当然、黒人の方たちから、強い反対の声が沸き起こっ
 た。
  今のアメリカの原点は、独立戦争で勝ち得た国の形に
 当然、あるが・・、
  南北戦争の北部軍に原点を持つ現政権は、リンカーン
 記念堂を建てた如く・・
  「現在のアメリカ政府をたどって行くと、『南北戦争
 時の北軍政府』へとたどり着く、行き着く」。
  それ故に、アメリカは、当時の北軍の最高位置にいた
 『リンカーン大統領』を誇りとし、「美しくしていたい」
 という気持ちが強くはたらいている・・、
  それ故に、このリンカーンに関して、プロパガンダす
 るアメリカ(北部)が見られ、存在する。
  そして、そのプロパガンダのために見えない「隠され
 た真実」がある・・
  世界の善良な方達のために、この悪影響を与えている
 部分は明らかにされねばならない。
  また、この悪行為は、回り回ってアメリカ合衆国のた
 めにも成り得ない。
  真実は解き明かされねばならない・・これからの人類
 の行く末にも貢献すると確信する。
.
1882年7月23日、壬午事変(じんごじへん)
  朝鮮の首都・漢城(現:ソウル)で、この日に起きた
 事変で、親日的な閔妃(びんひ、李氏朝鮮の第26代王・
 高宗の妃)政権の軍制改革に反対して、大院君(たいい
 んくん、興宣大院君、高宗の実父)が軍隊を動かした。
  日本人軍事教官が殺害され、また、日本公使館が焼き
 打ちされたりしたが失敗した。
  この結果、済物浦(さいもつぽ)条約が結ばれた。
  しかし、この後、清国が、「朝鮮支配を強化した」。
  そして、この事変の後、清と日本の軍隊が朝鮮の首都
 である漢城に駐留することになった。
  日本の朝鮮駐留軍より、清の駐留軍の方が勢力が多く
 て強く、それを背景に、守旧派が勢力を拡大していった。
  挽回しようとした開化派は、1884年、クーデターを起
 こし、一時政権を掌握した。
  しかし、清の駐留軍が、実力行使に乗り出したため、
 日本軍は退却して、クーデターは失敗した。
  1885年、日本と清は、天津条約を締結し、両国は軍を
 撤退させ、今後、朝鮮に出兵する際にはお互いに事前通
 告をすることとした。
.
1930年代、中国の国民党軍の蒋介石は、アメリカやドイツ
 から新型兵器を購入した。
  アメリカは、軍事顧問台を派遣した。
  アメリカの介入が始まる。
  また、これとは別に・・、
  1937年5月1日、アメリカ陸軍航空隊大尉のクレア・L・
 シェンノートは、国民党航空委員会の要請で、中華民国
 空軍の訓練教官・顧問となった。
  蒋介石は、空戦経験の豊富な彼を航空参謀長として遇
 する。
  対日戦について、大戦隊を持つことを蒋介石へ進言し、
 アメリカ政府もこの計画を承認した。
  第二次世界大戦が始まる以前から、戦闘機、武器、パ
 イロットを含むアメリカ正規軍の派遣が始まった。
  ルーズベルトが承認しているれっきとしたアメリカの
 対日宣戦布告であった・・アメリカは秘密にした。
  この事が「ばれて来る」と、初め、ルーズベルトは、
 「ボランティアだ」と嘘を言ったが・・、
  れっきとしたルーズベルトのサインした命令書が、そ
 の後、発見された。
  アメリカは、日本の奇襲によって第二次世界大戦は始
 まったと「嘘を言い続けて来ている」が・・
  真珠湾攻撃前に、「日本が攻めてくる」と書いた新聞
 が、ハワイで発刊されている様に・・
  また、ルーズベルトは、家族や親類に、「明日、日本
 が攻めて来る」と言っていたことも明らかになっている
 様に・・すべては、ルーズベルトの策謀の中に、第二次
 世界大戦は始まった。
.
1931年9月18日、柳条湖事件が起きた→満州事変
  満州事変の発端となった柳条湖の満鉄戦爆破事件が起
 きた。
  アメリカにも支援され、さらに、国共合作が成った中
 国・国民政府は強気(つよき)だった。
  「日本を全面排除する」の方針で強気で過激になった
 国民政府は、強気の対応を繰り返した。
  この事変の2ヶ月~3ヶ月前の1931年7月に、「中村震
 太郎大尉事件」が起きた。
  日本の陸軍軍人の中村大尉は、中国の南興安嶺を旅行
 していた、正式なビザも所持しており、まったく合法的
 であったが、中国軍に捕まった。
  (参考)1930年6月27日、陸軍参謀本部員・中村震太郎
     大尉と井杉延太郎曹長が、この日に、洮索(と
     うさく)地方、蘚鄲公爺(そかくこうや)廟近
     くの村落で、奉天軍所属の中国屯墾軍第3団(関
     玉衡指揮)中国兵に捕えられスパイ容疑で、6月
     27日、同大尉と同行の井杉延太郎予備騎兵曹長
     ら4人が射殺された。
      事件は、8月17日、日本側によって公表され、
     前後して起こった万宝山事件とともに、国内世
     論が湧きたった。
      日本は、南京政府に抗議し、陸相・南次郎は
     この機をとらえて満蒙問題を解決するため、武
     力発動を辞さないと声明した。
      また、陸軍は、中国の排日的姿勢の現れとし
     て態度を硬化させ、1931年9月18日の柳条湖事件
     を発端に満州事変に突入した。
      前後して起こった万宝山事件とともに満州事
     変勃発(ぼっぱつ)の一因となった。
.
1937年12月7日、蒋介石は、首都とした中国の南京の陥落が
 迫る時、アメリカ軍の手によって、この日、南京を脱出
 した。
  この様にすんなり書けば「そうか!」で終わるが・・?
  南京へ迫る大激戦が行なわれている最悪事態のところ
 で、アメリカが中国の最高指揮官を連れ去るという介入
 行為は・・、
  『中国の司令部の崩壊』を意味した。
  ただでさえうろたえていた中国兵は、司令部が、突然、
 無くなって・・「指揮系統の無い『無秩序の軍』と化し
 た」。
  そして、残された中国下士官が、その自分の命令を聞
 かそうと、自軍の兵を撃つという事態さえも起きる。
  逃げ惑い、逃げ帰る中国の自軍兵へ、「逃げるな!」
 と銃で撃つことさえ起きる。
  アメリカがやったことは、救助の名目で、戦いの中国
 中枢を崩壊させ、壊滅させるという最悪な卑劣行為だっ
 た。
  混乱状態が・・さらなる混乱となった。
  悲劇的事態が、このアメリカがやった「中国司令部崩
 壊行為」で起きた。
  また、アメリカ軍の中国への支援は、スムースに行か
 ない面もあった。
  1942年、アメリカのスティウェル将軍は、この年、軍
 事顧問団長としてジョージ・マーシャル陸軍参謀総長に
 よって蒋介石の参謀長に任命され、中国に派遣された。
  しかし、その後、共産軍を賞賛し、共産軍を支援する
 姿勢を貫いたため、
  1944年、彼は解任され、彼に代わって、中国戦区の総
 司令官としてウェディマイヤー将軍が派遣された。
  この様に、アメリカは、ベトナム戦争の時も、どっぷ
 りとベトナム戦争に浸かって・・アメリカ正規軍やアメ
 リカの武器・弾薬を使って戦争をしたように、第二次世
 界大戦がはじまる前から、アメリカは、中国で日本と戦
 争をしていた。
  中国よ! 南京で中国司令部と最高指揮官たちを、ア
 メリカが連れ去って、日本の攻撃から救ったと美しく言
 うのは嘘だ。
  中国の一般兵だけが残され、それでなくても戸惑う中
 国兵が、日本兵に追われ、逃げて来る中国の一般兵を、
 中国下士官が「逃げるな!」と統制が効かなくなった自
 軍兵を銃で撃つ・・その様な行為を展示せよ・・
  『 南京事件記念館に展示せよ! 』
  アメリカが、日中戦争に秘密裏に参戦し、卑劣な介入
 をしていたことも展示し・・糾弾せよ!
  また、アメリカは、イギリスなどを巻き込んで、中国
 の蒋介石を援助する「援蒋ルート」で、中国へ武器や弾
 薬を渡し、アメリカ正規軍までが介入し、ベトナム戦争
 と同じように、アメリカ自身が、第二次世界大戦前に、
 日本へ「秘密の宣戦布告をしていたこと」も展示せよ!
.

1945年8月6日、広島に原爆が投下された。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、『敗戦が決定的』
 な日本に、次に来る世界を試したいという気持ちが働い
 た。
  アメリカだけが手に入れた新兵器・核兵器・原爆の、
 この巨大な破壊力を世界に見せつけたかった。
  熱心にキリスト教を信仰するルーズベルトには、ため
 されるその有色人種への蔑視観のキリスト教教義に洗脳
 されて、広島への原爆投下に対する躊躇感は、まったく
 無かった。
  そのような経緯の中で、モルモットとなった日本の広
 島に原爆は投下された。
  その真っ赤な灼熱の「巨大な火の玉」の下に居た、日
 常を暮らしていた広島の方々は、原爆雲となって蒸発し、
 巻き昇って行った。
  その巨大な原子雲は、昇天して行った。
  悶(もだ)え苦しみを内へ秘め、天へ昇って行った。
  また、その下にもまだ、一瞬にして変わり果てた人々
 が、もだえ苦しむ数多(あまた)の人々が居た。
  それらの情景の中の一つが・・下記だ・・、
  若い、その女性は、木の根方(ねかた、木の根もと)
 へ来たら、その木を背中にして座り、抱いていた乳飲み
 子(ちのみご)へ乳をあげた・・
  自分に、その先が無いと悟っていた・・間近な死を悟
 (さと)っていた。
  その状況を見た方が、その直前までそうだったのだろ
 うと涙した姿だった。
  木の根方で、一生懸命、乳を飲む子の・・その母親は、
 こと切れていた。
  (事切れる:息が途絶える。生命が終わる)
  広島に原爆が落ちた直後の・・この様な光景が話され
 た。
  あまりにも・・悲惨な・・情景だった。
  乳飲み子に気付いた・・自身も大きな傷を負い・・気
 づき発見したその方は、その若い母親がこと切れている
 事に気付いた・・
  自分自身の命は、長くないと悟った女性は、自身の子
 の命は永遠に続きますようにと祈って、我が子に乳を与
 えたのだろう・・我が子へすべてを与えたいと祈ったの
 だろう・・。
  我が乳を、最後の我が乳を、一生懸命に、飲む我が子
 に、せめてもの安心を得て、その安心を頼りとして、こ
 の母は、命を閉じたのだろう・・絶命したのだろう・・、
  悲惨な事に、母の死を知らぬこの子は、一生懸命、乳
 を飲み、そして、発見された・・発見したその方も被爆
 し、地獄図となった広島の中でさ迷い、必死だったでし
 ょう・・この証言は複数あります。
.
1945年9月、結局、日本人の優しさが、戦後復興をさせた。
  誰もが、確かに、生きるのに必死だった。
  明日(あした)食べるものがない、米が無い・・との
 日本だった・・
  米が無い、なんて、よく言うが、もともと、米なんて
 いう上等なものはない。
  麦だった・・銀シャリが食べたいが庶民の夢だった。
  寿司米(すしまい)だ、こしひかりだは、想像外の世
 界だった・・
  その麦だって・・あったら良い方だ。
  粟(あわ)や稗(ひえ)だ。
  「粟や稗だって言っても」、今の人は分からないだろ
 う。
  鳥や家畜が食べるもの・・、
  当時は、食べるものが無いので、鳥や家畜が食べるも
 のを人間が食べていた。
  また、何でも食べられるものを食べていた。 
  芋の蔓(いものつる)だ・・野の草だ・・
  贅沢なんて言ってられない・・ぎりぎりの生活だった。
  隣近所で・・「栄養失調で死ぬ方まで出た」。
  美食なんて言う世界は、「夢のまた夢」だった。
  それでも・・
  それでも・・日本人の方々の心のどこかに「優しさが
 あった」。
  巷の傷痍軍人の方々へ・・財布の小銭だが渡した人々
 が居た・・
  助け合う・・人々が居た・・
  社会はしっかり形成されていた・・
  戦争の大破壊にも・・壊されてはいなかった・・
  そのような状態の中で、皆は、助け合っていた。
  これが・・日本の戦後復興を支えた・・
  キリスト教の様に、困った時に、「(キリスト教の)
 神の義があるから」という免罪符を与えられて、「隣国
 の富を奪いに行く」という、その様な考え方ではなかっ
 た・・その様な発想は微塵も無かった。
  助け合った・・そこから・・生存を・・切り開いた。
  その優しい心で、戦後復興を成し遂げた・・日本だっ
 た。
.
1979年2月1日、ホメイニー氏が、15年ぶりに、イランに帰
 国した。
  イランは、ホメイニ氏を指導者とする1979年のホメイ
 ニ革命以後、イスラム法学者の指導の下にシーア派イス
 ラム教の厳しい戒律が守られて来た。
  それまでのパーレビ2世国王(モハンマド・レザー・
 シャー・パフラヴィー)は、自由主義的な立場を取り、
 アメリカと親密な関係を築いて来ていた。
  しかし、冷戦下において、欧米や日本などの先進国と
 の石油外交を基礎にした深い経済関係を元に進めてきた
 近代化政策は、1970年代中盤に起きたオイルショック後
 の急速な原油価格の安定化もあり、1970年代後半に入る
 と破綻した。
  それに伴い国民の間での経済格差が急速に拡大し、政
 治への不満も高まりを見せ、皇帝の求心力も急激に低下
 した。
  モハンマドは、テヘラン市内に戒厳令を敷き、夜間外
 出禁止令を発令するなどしてこれに対応したものの事態
 は収拾がつかず・・、
  1979年1月16日に、休暇のためにイランを一時的に去る
 と称して皇帝専用機のボーイング727を自ら操縦し、皇后
 や側近とともにエジプトに亡命した後、モロッコ、バハ
 マ、メキシコを転々とした。
  ホメイニーは、1979年2月1日に、15年ぶりの帰国を果
 たすと、直ちにイスラム革命評議会を組織し、メフディ
 ー・バーザルガーンを首相に任命した。
  その後、モハンマドが任命したシャープール・バフテ
 ィヤール首相の指揮下で皇帝への忠誠を誓っていた帝室
 親衛隊、および、イラン陸軍の空挺部隊と内務省の治安
 部隊が、ホメイニーへの支持を表明したイラン陸軍内部
 の不満分子と戦闘状態になるものの、2月11日に制圧され
 た。
  バフティヤール首相や帝室親衛隊隊長らは逮捕され、
 バフティヤール首相は、2月13日に、正式に辞任した。
  その後、イスラム革命評議会が、イスラム主義を基礎
 に置いたイスラム共和制をしいた
  その為、アメリカは、ホメイニ革命以来、反イランの
 方向を取った。
.
2018年2月20日、「中国製スマホ使うな」米情報機関、衝撃
 勧告のウラ 日本でも販売
  CIA(中央情報局)やFBI(連邦捜査局)など、
 アメリカの情報機関が、アメリカ国民に対し、中国製ス
 マートフォンを使うべきではないと勧告したと、アメリ
 カCNNが報じた。
  情報を不正に改竄(かいざん)したりする機能などが
 あるためというが、問題視された中国企業のスマホは、
 日本でも販売されている。
  大丈夫なのか・・?
  CNN(15日、日本語版)の記事によると、アメリ
 カ上院情報委員会で13日、CIAやFBI、NSA(
 国家安全保障局)、DIA(国防情報局)の高官が証言
 に立ち、
  中国のスマホメーカーが、アメリカ人ユーザーの安全
 を脅かすという見方を示したという。
  FBIのクリストファー・レイ長官は、同委員会での
 証言で、企業や自治体などで、中国の「ファーウェイ」
 や「ZTE」の製品を使うことを問題視する理由につい
 て説明。
  製品の「情報を不正に改竄したり盗んだりする機能」
 や「密かにスパイ活動を実施する機能」を指摘したとさ
 れる。
  CNNは、「(米政府は)中国政府による情報収集活
 動に利用されることを懸念」とも報じた。
  衝撃的な内容だった。
  (参考)CNN:シーエヌエヌ、Cable News Network。
      タイム・ワーナーの一部門であるターナー・
     ブロードキャスティング・システムが所有する
     アメリカのケーブルテレビ、および、衛星テレ
     ビ向けのニュースチャンネル。
      1980年に、テッド・ターナーによって、世界
     初の24時間放送するニュース専門のチャンネル
     として設立された。
      ジョージア州アトランタに本社を置いている。
.
2018年4月19日、YAHOO!JAPANニュースに記載れていた「危
 ない中国食品 2018[第2弾] 最新回収事件」(文春オンラ
 イン)
  チキンナゲット販売中止以来、中国食品に事件がない
 と思ったら大間違い。
  回収事件は、昨年も、今年も、起きている。
  なぜ中国食品の品質は向上しないのか?
  回収事件の当事者や検疫に引っかかった業者の「告白」
 から浮かび上がるのは、相も変らぬ悲惨な現場の実態。
  まず、次のリストを・・
  日本マクドナルドの中国産チキンマックナゲット販売
 中止事件(期限切れ鶏肉の使用)が起きた、2014年7月以降
 の中国食品「回収事件」をまとめたもの。
  回収された商品名と当該企業の実名を可能なかぎり記
 載している。
  日本中の関心を集めた事件の後も、中国食品が問題を
 起こし続けていることがわかる。
  先週号で紹介した食品衛生法の違反は、港の検疫所で
 基準を超える細菌数や農薬が見つかったもので、いわば
 水際で上陸を食い止められた事例。
  幸いなことにいずれも日本の消費者の口に入ることは
 なかった。
  それに対し、今週取り上げる「回収事件」は、検疫所
 の目を逃れ、いったん日本の市場に出回った食品にあと
 から違反が見つかり、市や保健所などが回収を命じたり、
 自主回収したりしたもの。
.
2018年6月4日、天安門事件きょう29年、中国で強まる人権
 弾圧(産経新聞)
  中国で民主化を求める学生や労働者が武力弾圧された
 1989年の天安門事件から、4日で29年となる。
  中国共産党は、現在も学生らの民主化運動を「政治風
 波(騒ぎ)」と位置づけ、事件に関する情報発信を厳重
 に規制している。
  人権派弁護士の相次ぐ拘束や海外亡命者の監視など、
 中国の人権状況は「深刻さを増す一方」だ。
  北京出身の芸術家、楊偉東さん(52歳)は1989年6月3
 日の夜から翌未明にかけて北京の天安門広場にいた。
  当時、大学2年生。
  戒厳部隊の銃声が鳴りやまないなか、労働者とみられ
 る男性が三輪自転車で搬送されていた。
  負傷したふくらはぎからは骨がのぞき、男性は「共産
 党にやられた」とうめいた。
  楊さんは、未明に、知人の宿舎に逃れ無事だったが、
 同年9月に大学で始まった、人民日報の感想文提出などの
 「再教育」を拒否し、退学処分になった。
  その後、表現の自由を求める芸術家として活動してい
 たが、昨年・2017年6月に、家族とドイツへ亡命した。
  しかし、国外でありながら、今年・2018年5月末から、
 中国人による尾行が目立ち始めたという。
  「中国の領事館前で行われる追悼行事に私が参加する
 ことを警戒しているのだろう」と楊さんはいう。
  習近平指導部の下で、弾圧は強まっている。
  昨年・2017年7月に、事実上、獄死したノーベル平和賞
 受賞者で民主活動家の故劉暁波氏の妻、劉霞さんは、法
 的根拠がないまま当局の軟禁が続く。
  今年・2018年1月、憲法改正に関する書簡を公表した人
 権派弁護士の余文生氏は、2018年4月に、国家政権転覆扇
 動容疑などで逮捕された。
  妻の許艶さんによると、これまで弁護士が留置場を約
 20回訪れたが、接見は一度も認められていない。
  事件で子供を亡くした親の会「天安門の母」は、2018
 年6月1日付で、習国家主席に宛てた声明を発表し、「悲
 惨な事件は歴史になったが、災難は終わらず傷口は癒え
 ていない」と強調。
  「真相と賠償、責任追及」を求め続けると訴えた。
.
2018年、日本は、恐ろしいことだが、「北朝鮮の核の最前
 線に居る」・・と、認識しなければならない。
  北朝鮮は、韓国が国境を越えない限り核攻撃はしない。
  朝鮮民族の「同胞意識」である。
  北朝鮮にとっても「朝鮮統一が夢なのだ」。
  その話し合いもなされている。
  北朝鮮は、秘密裏に技術を教えてくれる中国へ「核攻
 撃する理由はない」。
  ロシアも同じだ。
  今、北朝鮮の技術で確実に届く範囲で、「攻撃しない
 方が良いと考えられる理由のない国」は、日本だけだ。
  北朝鮮の核技術とロケット技術の開発は、日本に対す
 るものだ。
  そして、北朝鮮の欲しい生存保証は、「アメリカに求
 めている」。
  だから、北朝鮮は、アメリカに対する抑止力(アメリ
 カからの核攻撃抑止)を持ちたいと考えている。
  そして、北朝鮮の核攻撃が、日本にあった場合、日本
 は、「その第一撃で潰れる」・・だろう。
  (日本は、憲法上、第一波の攻撃の後でなければ反撃
 は出来ない・・となっている・・)
  (まったく、日本人の生存を危ういものにしている憲
 法なのである・・
  「日本人の積極的生存」をないがしろにしている憲法
 なのである・・
  他国が一生懸命生存を、生き残りを考えているのに・・
 である)
  また、その第一波攻撃に対する防衛に成功する、成功
 しないにかかわらず、第二派の核攻撃が、日本に向けて
 行なわれないように、「アメリカの核の傘」が有効に働
 くか?・・である。
  アメリカの「日本への核の傘の実施」は、アメリカ自
 身への核攻撃を呼び込むことになり、実施が何ら抵抗な
 く行われる事は無い。
  そこに、実施の抵抗がある。
  「アメリカの核の傘の実施は、一旦、始まったら、機
 能しない」。
  始まるまでの脅し・・これを大いに行わなければ、な
 らない。
  しかし、日本は、これを、していない。
  日本は、自前の核を持つ以外、子供などの「後の世代」
 に対して「責任は持てないのである」。
  その様な状況下に置かれているのである。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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# by suba28 | 2018-06-07 05:56 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)597E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月~1894年6月)

題:(増補版)597E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年5月、片倉兼太郎が、諏訪に三全社を設立した。
  片倉兼太郎(かたくらかねたろう、1850年1月12日~
 1917年2月13日、67歳)実業家、製糸資本家。
  現在の片倉財閥の基礎を築く。
  1850年、片倉兼太郎は、信濃国諏訪郡三沢村(長野県岡
   谷市)の豪農の家に生まれる。
  1873年(23歳)実弟・光治と共に10人取りの座繰製糸
   を始め・・さらに・・
  1878年(28歳)32釜の器械製糸場を自村の天竜川河畔
   に設置した。
   後に、光治のほかの弟や従弟らも経営に参加し、得
   られた利益を共有資産として、一族一致団結して器
   械製糸経営を拡大させていった。
  1894年(44歳)10月6日、長野県諏訪郡川岸村に川岸製
   糸所(三百六十釜)を新設し、三全社と称した。
  1895年(45歳)片倉組を結成し、片倉組本部を三全社
   に置き、ここに松本製糸場及び三全社は片倉組所属
   として垣外製糸場(百六十釜)のみを開明社に属せし
   めた。
   兼太郎自らは、組長となり、一族の経営を統率した。
   明治後期以降、県外にも多くの製糸工場を設置して
   行き、
  1903年(53歳)以降、一族は北海道、朝鮮などで農場・
   山林経営に乗り出すとともに、両大戦間期には保険
   業、化繊工業などへの経営多角化を進めて地方財閥
   のひとつに数えられるに至った。
  1910年(60歳)60歳を超えても、「まだ尋常小学校を
   卒えたくらいにしか思っていない」と語ったという
   ほど、常に若々しく精力的な活動を続けた。
  1920年、没後のこの年に、片倉組の製糸経営を継承し
   て設立された片倉製糸紡績株式会社は、世界最大の
   製糸会社といわれた。
   末弟・佐一が養嗣子となり、初代没後、襲名して2代
   兼太郎となる。
  1934年、2代兼太郎没により、嗣子脩一が襲名し3代兼
   太郎となる。
   いかにも豪農の家と思わせる茅葺屋根の生家は現存
   している。
  ・・そして、片倉財閥は・・、
  1873年(23歳)片倉市助が、長野県諏訪郡川岸村(現
   在の岡谷市)で座繰り(ざぐり)製糸を開始したの
   を嚆矢(こうし、物事のはじめ)とする。
   「シルクエンペラー」と呼ばれた二代目片倉兼太郎
   (片倉佐一)の手により、製糸業から発展する。
  1895年(45歳)片倉組を設立し、東京京橋に進出する。
   以降、業容を拡大し、一財閥を形成した。
  戦後の財閥解体で解散となる。
  創立50年を記念して、諏訪市に温泉施設片倉館を建設。
  2017年、施設は現在も現役。
   一部は国の重要文化財に指定されている。
  <参考文献>足立栗園『初代片倉兼太郎君事歴』、『片
 倉製糸紡績株式会社20年誌』

1894年5月、『西鶴全集』(博文館刊)など発禁となる。
  博文館は、東京の出版社で、明治時代、国粋主義的な
 雑誌を創刊した。
  そして、取次会社・印刷所・広告会社・洋紙会社など
 関連企業も次々と創業し、日本最大の出版社となった。
  帝国文庫、軍書、稗史(はいし、世間のうわさなどを歴
 史風に書いたもの)、人情本、黄表紙、洒落(しゃれ)本な
 どを網羅(もうら)していた。
  《真書太閤記》は、よく売れた。
  この帝国文庫が発禁処分を受けた。
  1893年3月から刊行を始めた『帝国文庫』は、江戸時代
 の歴史、小説、歌舞伎、浄瑠璃、随筆、紀行文などを収
 録した全50巻で、後に続編50巻が出版され、計100巻とな
 った。
  この当時、類例のない大規模な出版だった。
  大量廉価販売の先駆けとなった。
  本文総ルビ、各冊約1000ページ、一冊50銭・・画期的
 だった。
  好評で、多くの人たちに歓迎され、刊行を重ねた。
  出版開始の翌年・1894年5月、及び、6月に刊行した『
 西鶴全集』上下巻が、風俗紊乱を理由に発禁処分、発売、
 頒布が禁止された。
 この『西鶴全集』は、尾崎紅葉、大橋乙羽による校訂で
「好色一代男」、「好色一代女」、「日本永代蔵」などの
 西鶴の主要な作品がほとんど網羅されていた。
  あらかじめ風紀上問題になりそうな部分は○○という
 伏字とした。
  しかし、発禁処分を受けた。
  新聞に取り上げられ、『読売新聞』は、翌日に、「西
 鶴死す」という見出しで報じた。
  さらに、その後、政府の処分を批判する「西鶴全集の
 発売禁止」を掲載した。
  博文館は、ただちに「発売禁止に着き謹告す」という
 いう新聞広告を掲載し、その中において、同書の発行は
 好評を博し、初版を売り尽くして、再版に移ろうとした
 矢先だったと記し・・、
  「然れども西鶴の遺著尽く風俗を害するものにあらず、
 あに一部の貯めに其の全部を埋没するに忍びんや、故に
 他日其・・」と、将来の再出版を約束した。
  そして、1903年8月、『校訂西鶴全集』の上巻刊行で実
 現した。
  しかし、これが、また、発禁処分を受けた。
  平田禿木から西鶴全集二巻を借用して熱心に読みふけ
 った樋口一葉は、「之があると本当に心強い」と述べた。
  『西鶴の書誌学的研究』の滝田貞治は、この『西鶴全
 集』を、「小説のほとんど大部分を結集したのは、まさ
 に、西鶴復刻史上の画期的事業であった。
  それが、発禁の災厄にあったので、ますます紙価を高
 からしめた」と書いた。

1894年6月2日、閣議が、清国が朝鮮へ派兵したことを受け
 て、朝鮮へ混成一個旅団の派遣することを決定した。
   朝鮮国内乱ニ関シ兵員派遣ニ関スル方針ノ件
  朝鮮国内乱ニ関シ兵員派遣ニ関スル方針 右御覧ニ供ス
  明治二十七年六月六日 内閣総理大臣伯爵伊藤博文 明治
 二十七年六月二日 朝鮮国乱民内ニ起リ京城駐在公使官ヨ
 リノ来電ニ拠ルニ官兵頻ニ敗レ乱民益々猖厥ヲ窮ムルノ
 勢アリト云将来乱民京城又ハ其他ノ日本人居留地ニ侵入
 スルコト無キヲ保チ難ク従テ公使館及国民ヲ保護スル為
 ニ兵員ヲ派遣スルノ必要アリ 天津条約第三款ニ依ルニ朝
 鮮国変乱又ハ重大事件アルニ当リ日支両国又ハ一国兵ヲ
 派スルトキハ行文知照スヘシトノ明文アリ故ニ出兵ニ当
 リ将来或ハ清国ト往復関係スヘキノ時機ヲ生スルモ料ル
 ヘカラズト雖、今度ノ事ハ急速ノ事変ニ係リ我カ兵ヲ以
 テ我カ国民ヲ保護スルヲ怠ルヘカラザルカ為ニ清国ト連
 合

1894年6月2日、閣議、朝鮮派兵決議して、衆議院解散。
  この時、西欧列強は植民地争奪合戦の真っ最中で、そ
 の様な世界情勢の中で、日清戦争へ至って行く・・特に、
 アフリカとアジアは、『ヨーロッパ列強(イギリス、フ
 ランス、ドイツ、ベルギー、ロシア)』のアフリカ、ア
 ジア分捕り合戦が同時進行していた。
  特に、地理的に近いアフリカは、弱肉強食の様相で、
 ヨーロッパ列強の最大の餌食となり、領土と資源・利益
 が収奪の的(まと)となっていた。

1894年6月4日、李鴻章が、朝鮮に援兵派遣指令。
  1894年の春、朝鮮の地方の小さな反乱からはじまった
 甲午農民戦争(東学党の乱)。
  この農民軍は、全羅道内全域を解放して、朝鮮政府の
 派遣した中央直轄軍をも撃退し、さらに北上する気配を
 示した。
  李氏朝鮮政府は、袁世凱(えんせいがい、中国・清の
 軍人)の示唆により清国へ援軍を求めた。
  清国の北洋大臣・李鴻章(りこうしょう)は、これに
 応じた。
  そして、1894年6月4日、清国の陸海軍を派遣した。
  そして、1885年4月の朝鮮の甲申政変の際に、日清間
 で結んだ天津条約に基づき、清国は日本へ通告した。
  日本は、早い時期から甲午農民戦争のゆくえを注視し
 ていたが、情報は、6月2日に、朝鮮政府が、清国に出兵
 を要請するとの情報を得た。
  日本の対応も速やかだった。
  閣議を開き6000人の派兵を閣議決定し、6月5日、大本
 営を設置、6月12日、派遣軍が漢城(現在のソウル)近郊
 に、既に来ていた清国軍と朝鮮の布陣となった。
 こうした状況の中、朝鮮政府は、6月10日、農民軍と和
 約を結んで事態を収拾した。

1894年6月5日、大本営を参謀本部内に設置した。
  1893年5月19日、大本営が、勅令第52号戦時大本営条例
   によって法制化された。
   そして、日清戦争において初めて設置された。
  1894年6月5日、この大本営が、東京の参謀本部内に設
   置され、
  1894年8月1日、皇居内に移った。
   その後、当時、東京を起点とする鉄道網の西端であ
   ったこと(広島駅)、また、大型船が運用出来る港
   (宇品港、現・広島港)が有ったことで、前線に向
   かう兵站基地となった広島市に移ることとなった・・
   そして・・
  1894年9月13日、大本営が宮中からこの地に移転した。

1894年6月5日、政府が、ペスト流行の調査のため、北里柴
 三郎らを香港に派遣した。
  この後、ペスト菌を発見する。

1894年6月7日、政府が、清国に朝鮮への派兵を通告し、こ
 の日、日清両国が、相互に出兵を通告した。
  1894年5月、朝鮮で甲午農民戦争が起ると・・、
  1894年6月、李朝朝鮮政府は、鎮圧のために清国に援兵
   を依頼し、そして、次いで日本に援兵を依頼した。

1894年6月7日、長崎港にペスト患者の発生したアメリカ船
 ペリュー号が入港した。
  長崎の人々の不安を呼んだ。
  ペストが怖い病気であるという事は知られていた。
  1899年、神戸で、ペストの疑似症状で13歳の少年が病
   死した時は、新聞は、「ペスト、神戸に侵入」の見
   出しでこれを報じた(「国民新聞」1899年11月11日
   付)
   周辺諸国からの、日本へのペスト来襲を懸念した政
   府は・・、
 1899年11月18日、官報号外で勅令第434号を公布、内務大
  臣は、伝染病予防のために必要と認めるときは物件の
  種類を限りその輸入を禁止できることとした。
  そして、同日、これを施行した。
  勅令公布と同時に、内務省は省令第54号を発令、ペス
  ト予防のため、インド・清国諸港・香港・台湾からの
  襤褸(ぼろ、使い古しの布)・古綿・古着・古紙・古
  皮革・古羽毛類の輸入を禁じた(「国民新聞」1899年
  11月19日付)
  そして、この年・1899年、大阪株式市場で株価が下落
 したが、その原因は、ペストの流行とその検疫励行によ
 って物流や人の移動が阻害されたためと噂された。
  事実、ペストの侵入地と目された神戸付近と、その以
 西の鉄株は、特に売り方が多かった(「国民新聞」1899
 年11月19日付)
  1899年のペスト患者は、「時事新報」(1900年1月1日
 付)によると、総計49名(内・死亡40名)で、内訳は、
 神戸市22名(内・死亡18名)、大阪市21名(内・死亡17
 名)、姫路で1名、そのほか広島・福岡・和歌山・長崎・
 静岡で死亡者各1名ずつと発表された。 
  このままでは、ペストが、神戸・大阪・岐阜を経てや
 がて沼津に至り、鉄路を伝わって東京へ侵入するやも知
 れない・・、
  そう危惧した松田東京市長は、一つの奇策を1900年12
 月27日の東京参事会に提案した。
  それが、鼠20万匹の買い上げ作戦であった(「報知新
 聞」1900年12月30日付)

1894年6月9日、清国軍が、朝鮮の牙山(あさん)に上陸し
 た(日本は6月12日) (6月8日説あり)
  牙山は、ソウルより南に85km・大田広域市より北北西
 65kmに位置している。
  1894年6月8日、葉志超(ようしちょう)総督と、聶士
 成山西太原鎮総兵に率いられた清国軍(北洋陸軍、歩兵
 約2,500名、山砲8門)が牙山に上陸した。
  1894年7月24日時点で3880名に達した。
  (参考)聶士成(じょうしせい):清の軍人。
      日清戦争の際には、提督:葉志超に従って朝
     鮮に赴き、牙山に駐屯した。
      遼東では、大高嶺一帯で日本軍の旅団長・富
     岡三造を戦死させるなど勇戦し、直隷提督に任
     命された。
      下関条約後、清朝は、陸軍の軍制改革を行い、
     北洋陸軍を武衛軍と改め、聶士成率いる30営を
     天津近郊の蘆台に駐屯させ、ドイツ式の軍事教
     練を行った。
      1900年、義和団の乱が発生すると聶士成は、
     鎮圧に努め、京津鉄道を保護した。
      八か国連合軍が侵攻すると、6月13日より天
     津の守備に就いたが、7月9日に戦死した。
      後に、忠節の諡号を贈られた。
  (参考)山西太原:たいげん、中国の山西省の省都。
      黄河の支流、汾河(ふんが)の東岸にあり、製
     鉄・機械工業が盛ん。
      明代に建造された正方形の城壁が残る。
      人口、行政区256万(2000年)
.
  (今日の言葉)
.
  題:規制の効く日本と、ホッタラカシにして来た北朝鮮の
    アメリカの姿勢が・・この、今の状況となっている。
    アメリカは韓国から撤退し、38度線は対馬海峡となり・・
.
1866年8月16日、ジェネラル・シャーマン号事件
  1866年7月、アメリカ合衆国の帆船であるジェネラル・
 シャーマン号(武装商船)が、李氏朝鮮の羊角島に来航
 し、事件を起こした。
  目的は、通商を求めたとされる・・が・・、
  朝鮮住民の方々が殺戮され、略奪を受けた。
  これに対し、朝鮮側は焼き討ちをし、撃退した。
  当初、朝鮮側の平壌の地方官は、難破船として処理し、
 食糧や薪・水を支給し、退去を命じる方針だった。
  しかし、朝鮮側の使者の舟が、シャーマン号側によっ
 て転覆させられ、使者は捕らえられた。
  そして、さらに、沿岸の朝鮮住民が砲撃を加えられ、
 川を遡行しはじめられた。
  この異常行動に、朝鮮側も攻撃を開始し、数日間の交
 戦状態となった。
  しかし、シャーマン号は座礁し、動けなくなったとこ
 ろを・・、
  1899年9月20日、焼き討ちした。
  そして、乗組員全員を殺害した(焼死や溺死との説も
 ある)。
  1867年1月、アメリカは、アジア艦隊を向かわせ、交渉
 させた・・この交渉は、数度におよんだが黙殺された。
  1871年、アメリカは、この事件の謝罪を求め、再度、
 アジア艦隊の軍艦3隻を向かわせた・・そして、朝鮮半島
 中西部の江華島で交戦した。
  しかし、アメリカは撃退され、開港交渉は失敗した。
  この結果、李朝朝鮮王朝は、一層、鎖国政策を強化し
 た。
  このアメリカのシャーマン号は、ヨーロッパの雑貨を
 積んで、通商を求める目的だったという話もあるが・・、
 平壌に散在する墳墓から宝貨を盗掘する目的もあった。
  朝鮮側は退去を求めたが、強引に開港を迫って来て、
 朝鮮の軍使や積荷を拉致(らち)された。
.
1910年8月29日、日韓併合
  日本と大韓帝国は、1905年、大韓帝国を「保護国」と
 する日韓保護条約を締結した。
  そして、この年・1910年に、「韓国併合に関する条約」
 を結び、この条約に基づいて日韓が併合された。
  1910年8月22日、韓国併合条約が、漢城(現在のソウル
 特別市)で、寺内正毅統監と李完用首相により調印され、
 1910年8月29日、裁可公布により発効した。
  しかし、今・現在における韓国の言い方は・・
  日韓併合をしてからの状況について、韓国の子供たち
 の歴史教科書にも書いているが・・、
  韓国は、「日本に虐(しいた)げられた」と、当然の
 ごとくに書いている。
  これ等の事は、後から立場が変わってから言い出した
 ことで、条約締結時の言い方とまったく逆の言い方とな
 っている・・、
  後からでは、何とでも言えるのであるが、あまりにも
 節操のない言い方である・・
  韓国は、この様な態度は、歴史上、何度もやっている
 事であるが・・恩を仇で返すやり方となっている。
  日韓併合されて、韓国が見違えるように良くなったこ
 とは、種々のデーターや記録が示している。
  だから、日韓併合時には、その様な日韓併合状態であ
 ることが、韓国にとって都合が良かったのだ・・だから、
 条約も結んだのだ。。
  韓国は、後になって、事実をまったくひん曲げている。
  朝鮮・韓国は、江戸時代も、その様な態度を、日本に
 対してとって来た。
  そこに、中国に冊封される韓国があった。
  また、日本に虐げられたと、韓国はデーターを使って
 説明しているが、そのデーターは不確かなデーターであ
 って・・間違いデーターであることが証明されている。
  最近でも、青山学院大学の木村光彦教授の説明でも、
 その韓国の主張は否定されている。
  その1例が、日韓併合によって、韓国・朝鮮人の「米の
 消費量が減った」という韓国の主張があるが・・、
  日韓併合によって、日本が、韓国の米を持ち去った如
 くに言いたいのだろうが?・・これは違う・・間違いだ
 と木村教授は言う。
  これは、このデーターを調査した調査官自身が、デー
 ターを修正しているごとく、間違いデーターである。
  そして、減っているのでは無くて、大した変わりはな
 く・・変化はしてないのである。
  今まで、日本を貶(おとし)めたいという気持ちの韓
 国が、今まで、この間違いデーターで、プロパガンダ(
 嘘宣伝)して来た。
  日本によって、「韓国・朝鮮社会は、激しく窮乏化を
 した」と・・韓国は、自国民にだけでなく、世界へと言
 っているが、間違いデーターに基づく発言となっている。
  人口が3倍に増え、環境改善も著しく、鉄道を張り巡ら
 せ、日本国内より立派なぐらいの学校を建て、ダムを造
 り・・経済発展して、豊かになっているのに、何を言う
 かである。
  まったくひどい韓国の言い方である。
  韓国の子供たちの歴史教科書も、謝罪記事を含めて書
 き直しをしなければならない。
  逆に、日韓併合に刺激された韓国農民の方々が、主体
 性を持って努力し、米の収穫量は拡大しているのである。
  この農業の他にも・・韓国は、会社設立も認められな
 かったと言っているが、これも嘘である。
  実際、朝鮮人による企業設立も多く見られ、朝鮮社会
 の工業化が、急速に進んでいる。
  経済も順調に成長して行った。
  青山学院大学・木村光彦教授は、この様な実際の現実
 を明らかにされている。
  そして、日本は、今・現在につながる、先を見た将来
 展望に基づく開発も朝鮮・韓国にしている。
  朝鮮半島北部のウラン採掘まで・・この当時に、すで
 に、しているのである。
.
1945年5月2日、ベルリン陥落。
  ソ連軍が、ドイツ国会議事堂に赤旗を掲げた(ライヒ
 スタークの赤旗)
  このドイツ国会議事堂(ライヒスターク)は、1933年
 の放火事件以来、ナチス体制下では、公式の目的では使
 用されておらず、完全な修復も成されていなかった。
  この建物内での猛烈な戦闘の末に、1945年5月2日、ソ
 ビエト赤軍は議事堂を制圧した。
  このような時、日本の敗戦も決定的になっていた。
  第二次世界大戦に勝つ見込みは、日本には「まったく
 無かった」。
  この頃、日本は、一生懸命、和平をアメリカやソ連、
 そして、スイスなど連合国側へ働き掛けていた。
  しかし、国民へは、可哀想だが、「あくまで戦うのだ」
 の意思表示をしていた。
  和平を一生懸命に投げかけている日本へは、言を左右
 にして応じる様子を見せなかった「アメリカ・ルーズベ
 ルトと、ロシアのスターリン」だった。
  スターリンは、日本からの和平の働きかけの内容をル
 ーズベルトに話し、その状況、及び、内容は、アメリカ
 に筒抜けだった。
  その様な状況の中で、ルーズベルトとスターリンとの
 間で話がなされたことが、「日ソ中立条約を破棄して日
 本領土を奪え」というアメリカ・ルーズベルト大統領の
 ソ連・スターリンへの『そそのかし』だった・・卑劣な
 事である。
  その為の戦いの準備のためのソ連の時間稼ぎと、アメ
 リカのソ連への武器援助・・ソ連へその為の武器弾薬を
 運ぶ時間が欲しいアメリカが、そこに居た・・(実際、
 アメリカは、船で、日本攻撃のための武器弾薬を、ソ連
 へ運んでいる)・・
  そして、それと、アメリカには、これからの重要な新
 兵器となる原爆の威力を試したいという欲望があった。
  そして、世界へ、その原爆の威力を示す・・その為の
 時間が欲しいアメリカが居た。
  それ故に、和平を進めて、終りにしたくないという事
 情があった。
  だから、この時、日吉に移った日本の地下司令部は、
 苦悩の時間だけが過ぎる場となっていた。
  その日吉の地下司令部を、最初に見た時、この様な事
 情を知らなかった・・その感想・・
  題:終戦間近の最末期・・はっきり見えた・・
    そして、戦争は、そこまで破壊していたのか?
  悲しいことだが、終戦間近の最末期の姿が、はっきり
 見えた気になりました。
  第二次世界大戦の戦争末期、旗艦まで軍艦として戦う
 ため、旗艦に乗っていた海軍司令部は陸(おか)にあが
 った。
  それが、日吉の慶応義塾大学の敷地内の地下に、陸に
 上がった海軍司令部がある。
  ここを見て、ここまでして戦う意味があったのかと、
 まず、思った。
  毎日、何万という膨大な大切な命を失って、日本の方々
 が各地で亡くなっていく・・死んでいる時に、決断でき
 ない最高のトップが居た・・慶応に行って思った、見え
 た。
  当時の、この戦争の責任者、指揮官方の・・トップの
 最上位の人たちは、ただ流されるように、右往左往して
 いた姿が見て取れた。
  勝つ見込みは無いことを、遠の昔に十分わかっている
 のに、そして、いま、その手が打てない状況の中で、こ
 の穴倉の中で、何をしていたのか?
  自分に死がおよぶことを恐れていたのか・・?
  その感がする。
  自分の死に、恐れをなしていた姿が、見れたような気
 がした。
  悲しい、本当に悲しいことだが・・・。
  停戦のボタンが押せないでいたトップたちが、ここへ
 行って、はっきり見えた。
 (参考)き‐かん【旗艦】艦隊の司令長官・司令官が乗
    って指揮をとる軍艦。マストにその司令官の階級
    に応じた旗を掲げる。
  終戦の詔を聞いて、最高戦争責任者の中に、腹に銃を
 発射し、自殺を図った人がいた。
  腹であったため死ねなかった。
  A級戦犯となり「死刑」となった。
  腹に撃っては死ねない。
  知っているはずなのに。
  この地下司令部の壕は、慶応大学の隣の民間人の地へ
 も伸びていた。
  緊急極秘につくられたが、この壕は、アメリカ軍に攻
 撃され、不幸なことに、この隣の民間人の方が亡くなら
 れている。
  送受信アンテナも、離れて設けたりしていたが、アメ
 リカ軍には、はっきり分かっていたようだ。
  誰が戦争を止める「 断 」をするかが、まったくう
 やむやだったとの事・・
  その様な状況の中に「ふわふわ」とあったような・・
  意志を出せない中で、時間だけが過ぎる組織だったよ
 うだ・・
  戦争は、「 そこまで破壊して居た 」のか・・
  ・・と、上記の様に、見学直後に感じたが・・
  実際は、日本は、和平を、一生懸命にしていたが・・
 それに応じない連合国側が居たことが・・その後になっ
 て分かった。
  ルーズベルトは、「アメリカの若者が死なないためと
 称して、原爆を落としたのは・・完全な嘘。
  戦後を見据えて・・日本をモルモットにしたのだった。
.
1945年5月頃、木銃で下から敵を撃滅せよ・・
  弾もでない木の銃で、子供に何をさせようとしたのだ
 ろうか・・
  私の履歴書:商船三井最高顧問・生田正治氏(抜き書き)
  1944年7月には、サイパン島守備隊が玉砕し、本土への
 空襲激化は時間の問題となったため、主要13都市で学童
 疎開が開始された。
  毎朝10時以降に警戒・空襲警報が出れば、昼の給食用
 の芋や代用食のドングリでこしらえたコッペパンなどを
 受け取り、地域ごとに走って帰宅することになった。
  10時以前だともらえないので、毎日10時になってすぐ
 に警報が鳴らないかと、不届きなことを願う日々だった。
  家に帰っても遊び道具はボール一つなく、もっぱら道
 路で仲間と軍艦ゴッコなどの戦争遊びや、高射砲弾の破
 片集めに興じた。
  父に2度目の召集令状が来たのは1944年の夏頃だった
 ろう。
  近くの東横線都立高校駅まで見送り、せみ時雨(しぐ
 れ)の中で敬礼をして乗車していく父の後ろ姿に手を振
 ったのが別れになった。
  1945年2月になると、縁故疎開先もなく、まだ、東京に
 いる全学童に強制集団疎開命令が出た。
  5年生以上約100人は、数人の先生に引率されて4月早々、
 山梨県・小渕沢に向かった。
  当時の小渕沢は文字通りの寒村だった。
  私たち男子約50人は駅前の「寿旅館」に、女子は近く
 のお寺にお世話になることになった。
  朝早く起きて近くのお宮の庭掃除と、荒削りの木銃で
 の厳しい軍事教練。
  何でも米軍は、九十九里浜上陸に合わせて甲府盆地に
 落下傘部隊を降下させるので、その時は、この木銃で下
 から敵を撃滅せよとの命令だった。
  弾も出ない木の銃で、子供に何をさせようとしたのだ
 ろうか。
  毎日午前中は自習だった。
  本を読んだり手紙を書いたりしてなんとなく過ごし、
 午後は勤労奉仕で山に枝払いや薪取りに行かされた。
  いつも腹をすかせていた。
  主食は大豆が8割で、残りの2割が米、麦と雑穀。
  炊くと大豆は膨らむので、見た目には大豆だけのよう
 だった。
  下痢をする者が多かったが、申告しても薬はない。
  決まって絶食療法を言い渡されるのがわかっているか
 ら、食べ盛りの私たちは、誰もがギリギリまで我慢した。
        (参考:日本経済新聞、2011年1月4日)
.
1945年8月6日、アメリカの卑劣な広島への原爆投下
  日本政府の 原爆投下に対する抗議
  カッセーゼ教授は、
  日本政府が、広島に原爆投下に対して、
  「それは、不必要な苦痛を与える非人道的兵器の使用
 を禁ずる国際法原則に違反する」との理由で、
  スイス大使館を通じてアメリカ政府に抗議を行った事
 実に触れ、
  短文の通諜ではあったが、
  立派な主張を提示したと述べている。
        (本:世界が裁く東京裁判、41頁)
  (参考)つう‐ちょう【通牒】 [名](スル)
    1 書面で通知すること。また、その書面。
    2 「通達1」の旧称。
    3 国際法上、国家の一方的意思表示を内容とする
     文書。「最後―をつきつける」
       ・
       ・
2010年12月2日、アメリカが、「世界の警察」を任じられな
 くなった時、日本は?
  景気低迷で疲弊するアメリカ・・、
  横浜で、オバマ大統領と会談した日本の菅首相は、思
 いやり予算の削減が頭にあったが、逆に、オバマ大統領
 から「増額」を求められた。
  厳しい見方の米国議員・・、
  その1:中国の軍事的脅威が増すのに、日本はアメリ
 カ軍のありがたみが分かっていない。 
  その2:沖縄の1万5000人の海兵隊員が中国に上陸して、
 何百万もの人民解放軍と戦うなんて誰も思っていない・・
  在日米軍の大規模な撤収を提唱。
  米国の2010会計年度の赤字、約135兆円・・、
  アフガニスタン戦費が重荷。 
  アメリカ議会の本音:地球の裏側まで面倒を見切れな
 い。
  オバマ大統領は、今のところ、アジアへの軍事的方向
 性は、強める方向。
  しかし、厳しい財政から続けられるかに大きな疑問符
 が周囲に・・。 
  北朝鮮とは事を荒立てたくないという心持ちか?
  アメリカ国防総省のラパン副報道官の言葉:在韓米軍
 を増強する予定はない。
  アメリカ軍のある幹部の言葉:北朝鮮の軍事施設を空
 爆するのは簡単だが、中国がどう反応するかが分からな
 い。
  軍事行動はあり得ない。
  危機管理が専門のユーラシア・グループのイアン・ブ
 レマー社長の言葉:北朝鮮は、ソウル攻撃以外の挑発な
 らば反抗はないと算段しているとみえる。 
  長引くアフガン戦争、長引く景気低迷で、疲弊するア
 メリカ・・、
        (参考:日経新聞、2010年12月2日)
.
2018年3月、中国の全国人民代表大会で・・、
  習近平国家主席は、21世紀半ばまでに、世界一流の軍
 事力を備えた「社会主義現代化強国」と、
  「一帯一路」の推進による中国主導の「人類運命共同
 体」を建設すると宣言した。
.
2018年4月17日、中国依存のドイツが味わう「ゆでガエル」
 の恐怖・・という記事が掲載された。
  ドイツの怖(こわ)いところ・・、
  ドイツは、ここ10年間、中国に非常に接近している。
  長いことドイツは、中国の政治体制に目をつぶり、中
 国と一体となって『儲けの話に加わってている』。
  ドイツの頭にあることは、『儲かれば良いのだ』にな
 っている。
  中国主導で進められているAIIB(アジアインフラ
 投資銀行、2016年1月16日に開業式典を行った)にどっぷ
 り浸(つ)かっている。
  アジアでインフラが進み、投資家は儲かる。
  アジアは、徐々に近代化されて行く。
  良さそうに見える。
  ここが落とし穴。
  ここで豊かになるのが、一部の投資家だけ。
  中国と強く結びついた一部の投資家だけ。
  「今までの植民地体制」も、宗主国と一部の民が搾取
 した。
  その宗主国にドイツが加わっている形。
  問題なのがAIIBに「貧困対策が無いこと」。
  民主主義ではない政治体制の国・中国、
  独裁体制の国・中国が、この金のかかわりで影響力を
 強めて行く。
  ドイツは、中国が民主主義国家ではないという大切な
 ポイントに目をつぶっている・・見落としている。
  将来、この様な経緯で、「世界中に、民主主義ではな
 い国々が増えても良い」くらいに考えている。
  政治体制が独裁的で、中国を頂点とする植民体制が広
 がって行く。
  中国の「一帯一路」にはそのような形がある。
  中国の「大きな問題である人権問題」に目をつぶり、
 中国の「勝手な軍事的行動」にも目をつぶっている危険
 がある。
  基本的人権などもない国家・中国と共同歩調をとって
 いる。
  ドイツは、必死で守らなくてはいけないものまで「捨
 て去っている」。
  人民抑圧している国家を許し過ぎていることを、ここ
 で、見直さねばならない。
  中国は、この論に反対したいのなら、「一回でも、自
 由選挙を行なえ」。
  (最新情報資料):中国依存のドイツが味わう「ゆで
       ガエル」の恐怖(2018・4・17)・・
       [15日 ロイター]
        独建設器械大手のバウアーBSAG.DEは、こ
 の数十年間、中国に積極投資を行った多くのドイツ企業
 に比べて、優位な立場にある。
  ドイツ南部バイエルン州を拠点とする、1790年創業の
 バウワーは、中国合弁パートナーの顔色をうかがう必要
 がない。
  上海と天津にある2つの工場は、100%自社で所有して
 いるからだ。
  また、同社が製造する特殊建設機械は、アジア全体で
 販売されており、不安定な中国建設市場における景気の
 波に左右されずにすむ。
  しかし、それでも一族経営の7代目にあたるトーマス・
 バウアー最高経営責任者(CEO)は、中国における自
 社事業の状況や、これまでドイツ企業と政治家が「確実
 に儲かる賭け」とみなしてきた中国との経済関係全般に
 ついて、危惧していると語る。
  「ドイツは、1つのバスケットに卵をたくさん入れす
 ぎた。
  そのバスケットとは中国のことだ」と話す62歳のバウ
 アー氏。
  バイエルンのアクセントが強く、陽気なバウアー氏は、
 ミュンヘンから車で約1時間の距離にあるシュロベンハ
 ウゼンの本社でロイターの取材に応じた。
  同社の懸念は、ドイツで広まりつつある恐れを示して
 いる。
  ここ10年以上、ドイツ経済は、世界金融危機やユーロ
 圏債務問題、大量の難民流入などにも耐え、欧州成長を
 けん引してきた。
  その強さの裏側には、2つのエンジンがあった。
  ドイツの革新的企業が、成長経済が必要とするハイエ
 ンド(高性能、あるいは最高級であるさま)な製品を数
 多く生産してきた。
  また、ドイツは、オープンでルールに沿った世界貿易
 システムから利益を上げることに長けており、そこから
 競争力を得ていた。
  中国は、この両面で重要だった。
  この10年、外国企業に対して徐々に門戸を開く中で、
 中国は、ドイツ製の自動車や機械を驚くべきペースで買
 い上げている。
  ドイツの自動車メーカーは、昨年だけで、米国販売の
 3倍以上に相当する500万台近くを中国で売り上げた。
  しかし、依然として好況が続いているものの、「ドイ
 ツ株式会社」の中国市場に対する見方には、劇的な変化
 が生じつつある。
  習近平政権の下で、中国の開放政策が逆回転を始めて
 いるだけでなく、中国企業も、ドイツ側の予想を大きく
 上回るスピードでバリューチェーン(価値連鎖)の上流
 へ移動してしまったのだ。
  ドイツが抱える中国のコナンドラム(謎)は、欧州が
 直面する、より広範な試練の一角だ。
  ここ数年、内向きな危機対応に追われていた欧州は、
 今後待ち受ける地政学的、経済的リスクに対応するには、
 政治的に分断されており、まだ準備不足の状態だ。
  欧州大陸はいまや、自己主張を強める中国と「アメリ
 カ・ファースト」を掲げるトランプ米大統領の間で、板
 挟みになるリスクに直面している。
  中国におけるドイツ企業の窮状を、密かに「ゆでガエ
 ル」に例える企業幹部もいる。
  常温の水にカエルを入れ、徐々に過熱すると、熱湯に
 なった時には跳んで逃げることもできず、ゆで上がって
 死んでしまうのだ。
  ドイツのクラウス駐中国大使は、ベルリンで先月開か
 れた企業経営者との会合で、ドイツと中国の関係に「地
 殻変動的な変化」が起きると警鐘を鳴らした。
  同会合の出席者が明らかにした。
  「中国とのパートナーシップの新時代について、われ
 われは心構えを呼びかける必要がある」と、ドイツ最大
 の産業グループであるドイツ産業連盟(BDI)の幹部
 は話す。
  「まだ今は黄金時代だが、今後何が起きるかについて
 は重大な懸念を持っている」
  <国家の役割>
  ドイツ企業は、先頭を切って中国進出を果たし、中国
 経済の発展に伴ってドイツに有利な状況をもたらした。
  2国間貿易は昨年、過去最高の1870億ユーロ(約24.7
 兆円)に達し、中国との貿易高がそれぞれ700億ユーロ程
 度だった英国やフランスを大きく凌駕している。
  2017年のドイツの対中貿易赤字は140億ユーロだったが、
 米国が抱える対中貿易赤字3750億ドル(約40兆円)に比
 べればわずかだ。
  世界70カ国で1万1000人を雇用するバウアーは、1990
 年代半ばに同社にとって初の中国生産施設を建設した。
  その当時は、高層ビルや発電所、空港などの基礎工事
 に必要な、同社が誇る黄色の巨大で複雑な掘削機を生産
 可能な中国企業は1社も存在しなかった。
  だが、2013年までに、そうした掘削機を生産できる中
 国の競合企業が36社に増加。
  バウアーCEOは、欧州サプライヤーが共同開発した
 部品を中国に売却したことで、シフトが加速されたと指
 摘する。
  10年前、バウアーの中国工場には1億ユーロ超の売上
 げがあった。
  続く9年のうち5年の年間売上げは、その半分に達しな
 かった。
  現在では、バウアーを含めたドイツ企業は、中国政府
 が自国経済に及ぼす役割を、何よりも懸念しているとい
 う。
  中国は、昨年、サイバーセキュリティ法を制定し、外
 国企業が本社との機密連絡に使う仮想プライベートネッ
 トワーク(VPN)を含めたインターネットに対する国
 家統制を強化した。
  最近では、複数のドイツ企業が、中国合弁パートナー
 の取締役に共産党役員を受け入れるよう圧力を受けてい
 ると苦情を申し立てている。
  バウアーCEOは、習近平国家主席が唱える「中国製
 造2025(メイド・イン・チャイナ2015)」戦略が、ドイ
 ツ製造業の優位を直接脅かすのではないかと懸念する。
  同戦略では、ロボティクスや航空産業、クリーン動力
 で動く自動車など10分野を重点分野に指定している。
  バウアーCEOは、自社の強みを維持するため、デジ
 タル化を急がせている。
  「これは模倣者との競争ではない。
  これは、われわれに取って代わろうとする革新的エン
 ジニアとの戦いだ」と、バウアーCEOは言う。
  「早期に答えを見つけ出さなければ、非常に悪い結果
 を招くだろう」
  <トランプ関税>
  ドイツが抱える不安は、中国に対して数百億ドル規模
 の追加関税を突き付けたトランプ米大統領の懸念に似て
 いる。
  しかし、ドイツ主要企業があまりにも中国市場への依
 存を深めていたため、独政府は中国との衝突を避けてき
 た。
  独自動車大手ダイムラー(DAIGn.DE)は2月、いかに一
 部企業が中国政府を怒らせないよう臆病になっているか
 を自ら体現している。
  チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世の言葉
 を引用した、高級車ブランドのメルセデス・ベンツのイ
 ンスタグラム広告が、中国で大きな反発を呼んだことを
 受け、同社はこの広告を削除した。
  その上で、同社のツェッチェCEOは声明を出し、「
 不注意で無神経な過ち」により、中国人に「痛みと悲し
 み」を与えたとして、深い遺憾の意を表したのだ。
  「ドイツの人々が、中国について話すことと、彼らが
 実際に考えていることの間には大きな違いがある」と、
 ベルテルスマン財団のベルンハルト・バーチ氏は言う。
  同財団は、「10年後には、中国が欧州の政治・経済シ
 ステムを大きく損なっている」と題する討論会を、ベル
 リンに本拠を置くメルカトル中国研究所(MERICS)
 と合同で今月行う予定だ。
  中国で活動するドイツ企業のムードも冷めつつある。
  中国のドイツ商工会議所が、昨年後半に行った調査に
 よると、中国内の新たな場所に投資を計画している企業
 数が、久しぶりに会員企業の半数を割り込んだ。
  また、中国に進出したドイツ企業の13%近くが、今後
 2年以内に撤退する可能性があると回答した。
  過去数十年間、中国に対するドイツのアプローチは「
 通商を通じた変化」という言葉で説明することができた。
  だが今や、この戦略は崩壊した。
  政府関係者からは、「ウィン・ウィンの新しい意味は、
 中国が2度勝つということだ」といったブラックジョー
 クも聞こえてくる。
  「緊密な経済関係が、開放を促進することを期待して
 いた。
  だが、明らかにそれは誤った期待だった」と、ある政
 府関係者は語る。
  「彼らは、口ではわれわれが聞きたがっていることを
 言うが、その正反対の行動を取る」
  ドイツ政府も、方針転換を始めている。
  昨年、中国家電大手の美的集団(000333.SZ)による独ロ
 ボット大手クーカ(KU2G.DE)の買収が批判を浴びたことで、
 ドイツ政府は外国企業の投資に対する規制を強化し、欧
 州における買収審査に関する新ルール策定に向けて動き
 始めた。
  昨年12月には、中国当局がソーシャルメディア上の偽
 アカウントを通じてドイツの政治家情報を集めていると
 独情報当局が指摘し、中国側を激怒させた。
  このように公然と非難することはまれで、中国にメッ
 セージを送る意図があったとドイツ政府は述べている。
  今年、予定されているドイツと中国の首脳会談におい
 て、独側はより強硬な姿勢を取る方向だと、政府高官は
 語る。
  しかし、その一方で、欧州連合(EU)の内部分裂や、
 単独歩調を崩さないトランプ米政権と欧州との距離が広
 がっていることから、中国政府に方針転換を強いるのは
 困難だと認識している。
  「中国が、本当に心配しているのは、欧州と米国が、
 中国に対して共同歩調を取ることだ」と、ドイツ政府関
 係者は語る。
  「その意味で、トランプ大統領はまさに中国にとって
 天の恵みだ」
.
2018年5月20日、この日の読売新聞に・・、
  「『日米欧』対『中国』の競争の時代」として、『世
 界秩序』はどの方向へ進んで行くのか・・についての意
 見が記載されていた。
  論者は、JR東海名誉会長の葛西敬之(かさいよしゆ
 き)氏である・・
  それを参考に、その抜粋を以下に記す・・
  「世界秩序は今、第二次世界大戦後、最大の転換期に
 入って来ている。
  それは、中国が世界秩序に対してとって来た曖昧な態
 度を改め、独自の価値観に基づいた新しい秩序作りに着
 手する姿勢を鮮明に打ち出したことで顕在化した。
  米国や欧州は、これまで、中国を国際市場に受け入れ
 て、経済的発展を支援すれば、やがて、中国の民主化が
 進み、自由と民主主義を基盤とする世界秩序に同化する
 と考えて来た。
  だが、中国政府は、自国の市場を閉ざしたまま、自国
 企業の海外市場への進出を強力に支援して、経済成長を
 遂げる一方、国内では、民主的な動きを警戒して、市民
 に対する言論統制を強め、軍備の近代化と増強を急速に
 進めている。
  3月の全国人民代表大会で、習近平国家主席は、21世紀
 半ばまでに、世界一流の軍事力を備えた「社会主義現代
 化強国」と、「一帯一路」の推進による中国主導の「人
 類運命共同体」を建設すると宣言した。
  これを見て、米欧は、中国が権威主義的な価値観に基
 づく独自のシステムを構築し、既存の世界秩序に挑戦す
 る意思表示と受け止め、対応を転換しつつある。
  世界は、異なる価値観に基づく二つのシステム、すな
 わち「自由・民主主義システム」と「新・中華システム」
 の間での競争時代に突入した。
  日本は、「自由・民主主義システム」の最前列に立つ
 ことになった。
  日本にとって喫緊(きっきん)の問題は、勿論、北朝
 鮮の核武装であり、その速やかな非核化である。
  但し、それは、北朝鮮の主体的な動きとして捉えるの
 ではなく、中国の前衛として、さらには、米中関係の一
 端として見るべきである。
  加えて、北朝鮮と国境を接する韓国の北朝鮮への傾斜
 が事態をより複雑にしている。
  韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員
 長による南北首脳会談が4月27日に行われ、「板門店宣言」
 が発表された。
  宣言には、抽象的な言葉が羅列されているが、その含
 意は明らかだ。
  「核のない朝鮮半島」という表現には、北朝鮮の核だ
 けでなく、米国の核をも争点にする底意が感じられる。
  また、「南北終戦宣言と平和協定締結」は、国連軍司
 令部を解散し、在韓米軍を形骸化する狙いをにおわせる。
  しかも、速やかに北朝鮮を非核化する意思は感じられ
 ない。
  総じて板門店宣言は、中国にとっても好ましい内容と
 なっている。
  こうした中で、日本にとって寛容なのは、日米同盟に
 依拠して揺るがない基盤を築くことである。
  力強く自信にあふれて日本と共に行動する米国と、そ
 れを同盟国として支える日本の覚悟が問われている。
  板門店宣言を一読して、「米国は、早晩、在韓米軍の
 撤退を提起するだろう」と感じた。
  韓国の強い要請と積極的な協力が無ければ、在韓米軍
 は機能しない。
  いずれ、撤退を決断せざるを得ないのであれば、「早
 く提起する方が賢明」という判断には理があると思う。
  北朝鮮の核に対する米国歴代政権の曖昧な姿勢が韓国
 民の不安を招き、今日の朝鮮半島情勢の流動化につなが
 ったとも考えられる。
  故に、米国が、新たな決意のもとに、韓国民の真意を
 問い直すことは意味がある。
  その場合、日本の立場は難しい。
  在日米軍に反対する勢力は勢いづくだろう。
  しかし、現実を直視すれば、日本の安全と独立が、今
 日ほど危機に瀕し、日米同盟による抑止力が死活的に重
 要だったことはない。
  「逆もまた真なり」で、米国にとって、日本の防衛と
 その為の米軍の存在は、ますます死活的になる。
  こうした中で、大切なのは強固な日米同盟を堅持する
 事であり、社会・産業分野においても、日米の連係を強
 める必要がある。・・以下略・・
  以下は、TPPへのアメリカの復帰を促す・・と、日
 米の「5G]技術の構築・・「第4次産業革命」の競争
 優位を持つ(中国も、戦略として5G分野を握り、中国
 企業の技術的優位性を保持させ(デジタルシルクロード
 の展開)・・情報戦略・・アメリカは、その中国戦略に
 対抗し、中国企業のアメリカの通信インフラでの使用リ
 スクを回避しようとしている・・この面での競争激化・・
 国家統治の安全保障・・
.
2018年、アメリカは、コントロールが効く日本に、「核を
 持たせたくない」と、「核は持たせない」と、やって来
 た。
  そして、アメリカは、日本の世論操作までした。
  アメリカは、韓国には『論外の国だ』という厳しさで
 やって来た。
  やはり、韓国も核は持ちたいと意識していたが、この
 様なアメリカに不満を持ち、秘めていた。
  ここで、今(2017年)、北朝鮮が核保有国になった。
  そして、この北朝鮮と韓国は、中国の冊封国、もしく
 は、冊封国への道を進んでいる。
  韓国は、「北朝鮮と一体となった国」になりたいと思
 うのと共に、この北朝鮮の「核の傘の下に入りたい」と
 も思っている。
  この意味で、今・現在(2018年)、韓国のアメリカ離
 れが進んでいる。
  あるのは、核保有国となる韓国である。
  北朝鮮の金日成の時からの方針である「核保有」は、
 今・現在、北朝鮮は達成し、韓国と共に核保有の軍事態
 勢に成功したとされる直前となっている。
  規制の効く日本と、ホッタラカシにして来た北朝鮮の
 アメリカの姿勢が・・この、今の状況となっている。
  アメリカは韓国から撤退し、38度線は対馬海峡となり、
 その先には核保有した朝鮮が居るという状況となる。
  その日本では、相変わらず国家の防衛論よりモリカケ
 論に終始する状況が続いている・・
  このまま、なし崩し的に・・隣の家までが核を持つ、
 それに怯(おび)え続ける日本となって行くのか??
  中国に脅されて重要技術を取られるという様な事が、
 隣国へもするような日本となるのか・・??
  そして、新聞に以下のことが記されていた・・
  「中国は、巧(たく)みに日本の親中派を厚遇し、批
 判的な人を冷遇して来た。
  しかし、そうすればするぼど、戦略思考を持つ政治家
 とのあいだの対話が成り立たず、利害調整がしにくくな
 って来た」・・と・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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# by suba28 | 2018-05-30 04:52 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)596E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月~1894年5月)

題:(増補版)596E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月~1894年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年5月16日、北村透谷が自殺(縊死)
  北村透谷(きたむらとうこく、1868年~1894年)評論
 家、詩人。)
  1868年12月29日、相模国足柄下郡小田原で没落士族の
   家に生まれる。
  1881年(13歳)一家で上京し、東京の数寄屋橋近くの
   泰明小学校に通う、翌年、卒業。
  1883年(15歳)横浜のグランド・ホテルのボーイとな
   り、この年、東京専門学校(現:早稲田大学)政治
   科に入学。
  1886年(18歳)この頃まで、東京専門学校に籍を置く
   が、左翼と知り合い、自由民権運動に参加する。
   学校は卒業はしていない。
    自由民権運動は閉塞してゆく・・、
    大阪事件の際、同志から活動資金を得るため強盗
   をするという計画を打ち明けられ、その行動を勧誘
   された・・苦悩のうちに参加を拒絶し、絶望してそ
   の運動を離れる。
  1888年(20歳)数寄屋橋教会で洗礼を受ける。
  1888年(20歳)石坂ミナと結婚、キリスト教への入信
   を支えにする。
    通訳として麻布教会へ通う。
  1889年(21歳)『楚囚の詩』を自費出版したが、出版
   直後に、その出版を後悔し、自ら回収し、みずから
   廃棄した。
   第一::曽《か》つて誤つて法を破り
   政治の罪人《つみびと》として捕はれたり、
   余と生死を誓ひし壮士等の
   数多《あまた》あるうちに余は其首領なり、
   中《なか》に、余が最愛の
   まだ蕾《つぼみ》の花なる少女も、
   国の為とて諸共《もろとも》に
   この花婿も花嫁も。
   第二::余が髪は何時《いつ》の間《ま》にか伸び
  ていと長し、
   前額《ひたい》を盖《おお》ひ眼を遮《さえぎ》り
  ていと重し、
   肉は落ち骨出で胸は常に枯れ、
   沈み、萎《しお》れ、縮み、あゝ物憂《ものう》し、
   歳月《さいげつ》を重ねし故にあらず、
   又た疾病《しつぺい》に苦《くるし》む為ならず、
   浦島が帰郷の其れにも
   はて似付《につ》かふもあらず、
   余が口は涸《か》れたり、余が眼は凹《くぼ》し、
   曽《か》つて世を動かす弁論をなせし此口も、
   曽つて万古を通貫したるこの活眼《かつがん》も、
   はや今は口は腐《くさ》れたる空気を呼吸し
   眼は限られたる暗き壁を睥睨《へいげい》し
   且つ我腕は曲り、足は撓《た》ゆめり、
   嗚呼《ああ》楚囚! 世の太陽はいと遠し!
   噫《ああ》此《こ》は何の科《とが》ぞや?
   たゞ国の前途を計《はか》りてなり!
   噫此は何の結果ぞや?
   此世の民に尽したればなり!
   去《さ》れど独り余ならず、
   吾が祖父は骨を戦野に暴《さら》せり、
   吾が父も国の為めに生命《いのち》を捨《すて》たり、
   余が代《よ》には楚囚となりて
   とこしなへに母に離るなり。
  1889年(21歳)日本平和会の結成に参画、機関誌『平
   和』に寄稿。
  1891年(23歳)5月、『蓬莱曲』を自費で出版する。
    劇詩で、キリスト教的世界観からインド仏教的世
   界観への屈折がみられる。
    養真堂刊という形で自費出版した。
    蓬莱山つまり富士山の麓(ふもと)・中腹・絶頂を
   舞台に設定、現世を捨ててここにきた気性鋭い内攻
   的な青年に、大魔王が自分こそこの世の物質的な繁
   栄を支配していると同時にその破滅をも支配してい
   る、と告げ、自分に服従せよというが、青年はそれ
   を拒み富士山頂で死ぬ。
    青年は、作者透谷のおもかげを宿す。
    未完の『蓬莱曲別篇(べつへん)』が付載されてい
   て、そこでは青年の恋人の愛が彼の霊を彼岸(ひがん)
   での救いに導く。
  1892年(24歳)評論「厭世(えんせい、この世・人生
   をはかなむ)詩家と女性」を『女学雑誌』に発表。
   「恋愛は人世の秘鑰(ひやく、秘密のかぎ)なり」
  1893年(25歳)島崎藤村らと創刊した『文学界』誌上
   に「人生に相渉るとは何の謂ぞ」、「内部生命論」
   など多くの文芸評論を執筆する・・しかし、ロマン
   チシズムの文学論は透谷自体を追い詰め、病気、貧
   困なども加わる。
  1894年(26歳)次第に精神に変調をきたし、評論『エ
   マーソン』を最後に、芝公園で首吊り自殺をした。
    原罪を意識させ、自分は悪いのだを洗脳させるキ
   リスト教・・この様な希望のない性悪説ではなく、
    一切衆生悉有仏性・・皆が持つ希望の仏性・・の
   未来の希望はあるの考え方を持つように・・
  (参考)大般(だいはつ)涅槃経に、「仏身常住(ぶ
     つしんじようじゆう)」:悟りを開いた仏の身
     体は法として永遠に存在する・・
      「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうし
     つうぶつしよう)」:すべての方々、また、生
     きとし生けるもの、すべてが、生まれながらに
     して、仏となりうる可能性(仏性)を有し、す
     べてを悟り得る存在です・・、

1894年5月26日、山形市大火。
  この大火は、山形市南大火と呼ばれ、蝋燭町(ろうそ
 くまち、現:十日町の嘯月あたり)を火元とし、強風に
 よって火の手は四方に広がり、約10時間燃え続け、十日
 町・八日町・三日町・小姓町など、市外南部を中心に、
 17ヶ所に及んだ。
  焼失したのは本家数だけで1,608軒。
  因みに、 ろうそくの製造を家業とする職人が住んでい
 たことから名付けられ・・、
  当時の絵図には「アカシマチ」となっている。
  この町の最上ろうそくは明るく長持ちすると大変好評
 で、徳川家康が夜宴を開いた際、暗いので最上ろうそく
 に取り換えさせたというエピソードがある。
  領主の最上家の将軍家への土産品にも蝋燭は欠かせな
 いもので、慶長10年(1605年)に、家康を訪問した際に
 は千挺(ちょう、1000本)も献上した。

1894年5月26日、綿糸輸出を促進するために、綿糸輸出関税
 を撤廃した。
  この頃、綿花輸入税・綿糸輸出税の廃止運動が行なわ
 れていた・・これは・・、
  1890年に、日本の綿糸生産量は、原料綿花の輸入量を
 上回るようになったからだった。  
  国内の綿花栽培農家を保護するための綿花輸入税や、
 綿織物生産業者を保護するための綿糸輸出税の存在は、
 力がついて来た日本の紡績業の国際競争における足かせ
 となって来ていた。
  そのため、大日本綿糸紡績同業連合会は、1888年以後、
 両税の廃止を働きかけた・・また・・、
  1891年以後に、商業会議所などを巻き込んで本格的な
 運動を開始した。
  これに対して、大日本農会は、国内農家保護の観点か
 ら反対運動を起こし、帝国議会でも議論が行われた。
  だが、郵便報知新聞・日本・東京経済雑誌などの主要
 なマスコミが両税廃止運動を支持した。
  因みに、綿花輸入関税の撤廃は、1896年。
  開国後の近代化で、日本には、綿糸製造産業が、欧米
 の技術を導入して各地に設立されていた。
  そして、その産業を保護するために、産業が確立され
 るまで、その製品の綿糸が外国に流れて、日本の産業が
 育たないことにならない様に、綿糸輸出関税をかけてい
 た。
  しかし、日本の綿糸生産が、外国からの原料(綿花)
 の輸入量を超えるくらいに育ったため、そして、その育
 った日本の綿糸が輸出しやすくするために、綿糸輸出関
 税を撤廃した。
  また、綿花を国内で生産をしていたとしても、日本の
 経済成長、工業発展もあって、綿花を輸入せざるを得な
 い状況になっており・・、
  また、綿花栽培農家は、他の生産物への転換が容易だ
 ったことによって、綿花栽培農家のための保護関税を撤
 廃し、原料綿花のコスト低減のための綿花輸入関税の撤
 廃を行なった。

1894年5月30日、甲午農民戦争で、東学党軍が、ほぼ朝鮮全
 羅道を制圧した。
  李朝朝鮮政府は、清国に援助を要請した。

1894年5月31日、朝鮮農民軍が、全州占領。朝鮮内乱重大化。
  甲午農民戦争(東学党の乱): 乱徒が朝鮮全州を占領。

1894年5月31日、衆議院が、内閣弾劾上奏案を可決した。
  この年の3月1日の第三回総選挙は、自由党は30近く議
 席を回復し、硬六派は180から40議席も減少していた。
  そして、景気は良く、経済情勢には対立激化の要因は
 なかった。
  しかし、対外硬の面で、激しい対立が続いた。
  野党はなお130の議席を確保した。
  そして、さらに、無所属切り崩し、衆議院を制圧でき
 る可能性出て来た。
  また、マスコミも、国粋派の新聞「日本」や、民友社
 の「国民新聞」にまで反政府側だった。
  そして、また、枢密院や貴族院の一角までが、条約励
 行案支持となっていた。
  対外硬派の狙いは、藩閥政府の打倒にあった。
  しかし、この狙いを越えた行動・・対外硬の行動とし
 て現れて行った。
  また、中国・清側も、日本を弱小国としてみて、強硬
 な態度に相変わらずいた。
  ここに、朝鮮世情の不安定さが加わった。
  始まりは・・6月1日の李朝朝鮮政府が、東学党の農民
 軍に大敗したことにあった・・
  李朝朝鮮政府は、清国に出兵を要請した。
  日本も、清国との申し合わせによって出兵した。
  1885年に、日本と清国は、朝鮮に出兵する時には、事
 前にお互いに、相手側へ通知し合うという条約を結んで
 いた。
  この事態になるまでに、日本国内にも、マスコミが騒
 ぐ状況が起きた・・
  清の中国軍の朝鮮出兵に対し新聞論調は一夜にして急
 変した。
  国民新聞を先頭に朝鮮出兵を叫び始めた。
  対外硬もたちまち対清硬に変じた。
  1894年6月2日、衆議院の上奏が却下され、解散した。
  そして、1894年6月4日、出兵が開始された。
  そして、1894年6月5日、大本営が設置された。
  そして、この当時の国際的重要国であるイギリスと、
  1894年7月16日、日英日英通商航海条約の新条約が調印
 された。
  これは、イギリスの日本への支持を示すものでもあっ
 た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国は色々な民族の地・・
    中国は、種々の民族が入れ代わり立ち代わり領有(りょうゆう、
   領地として持つこと)した・・
    例えば・・唐が「漢民族を名乗った」のは、「中原の支配権を正当化するため」に
   自身が漢民族の末裔であることを主張したかった。
.
紀元前1万4000年、今から16,000年前の縄文時代の人骨から
 分かること・・、
  《古人骨と食べ物》 
  米田 穣氏(東京大学大学院新領域創成学研究科准教
 授):
  縄文や弥生の時代の人骨を分析して、当時の日本人が
 何を食べていたかを探る研究が進んでいる・・、
  同位体生態学・・、
  骨を分析すれば、そこから食べていたものを突き止め
 られる・・、
  古人骨に含まれる元素の重い同位体や、軽い同位体の
 比率を調べる・・
  およそ1万6000年前に始まる縄文時代の人骨・・
  亜寒帯の北海道、温帯の本州、亜熱帯の沖縄・・
  北海道では、オットセイの様な海生哺乳類、鮭などの
 魚を主なタンパク源とエネルギー源にしていた。
  本州は、氷河期が終わって森で覆われていて、クリな
 どの木の実を主食にしエネルギー源とし、魚をタンパク
 源としていた。
  これに対し、沖縄では、サンゴ礁で採れる小魚や貝類
 が主体で、これをタンパク源としていた。
  紀元前800年頃に始まる弥生時代は、稲作が伝わる。
  「縄文時代の後期に、本州の人口が減少する・・、
  森で何かが起きて、木の実が採りにくくなったのが原
 因と思われている・・、
  そこで、弥生時代には、稲を積極的に導入し、タンパ
 ク源は、従来同様、魚に求めていた・・、
  米と魚に象徴されるスシ文化は・・弥生時代に確立さ
 れたともいえる。
  でも・・、植物のデンプンをエネルギー源に、魚をタ
 ンパク源にする伝統的な日本食文化の起源は・・縄文時
 代に確立していた・・
  私たちの祖先が、アフリカのジャングルで暮らしてい
 た頃は、果実など植物質の食べ物で胃袋を満たしていて、
  サバンナに出てくると、肉食に転換した。
  初めは、猛獣が食べ残した動物の骨を石器で砕き、骨
 髄などを食べていたと考えられる。
  アフリカを出て・・欧州で進化したネアンデルタール
 人の骨を分析した結果、大型の哺乳類を主に食べていた
 事が分かっている。
  これに対し、人類学の分類上、人と直接つながるクロ
 マニヨン人が、魚や小型の動物を食べていたようで、最
 終氷期(8万~2万年前)の終わり頃、温暖化に向かう
 中で、植物を食事に取り込むようになった。
  火で加熱して糖分に替えたりして、植物のデンプンを
 食べるようになった。
       (参考、日本経済新聞、2010年9月18日)
       ・
       ・
907年、中国の唐が崩壊した。
  これは中国の統一王朝だった。
  これ以来、中国は群雄割拠の分割政権が続く。
  この唐以来の中国統一政権を樹立したのが元(げん)
 だった。
  唐の滅亡後、五代十国となる。
  そして、宋となるが、西夏や遼があり、中国統一王朝
 ではなかった。
  唐は、李淵(りえん)が、隋を滅ぼして建国した。
  李淵は、唐の初代皇帝となり、漢民族だと言われるが、
 漢民族ではない・・、
  学説での実際は・・「鮮卑系の出自であり、本来の姓
 も大野氏である」とある・・、
  鮮卑(せんぴ)は、紀元前3世紀~6世紀にかけて、中
 国北部に存在した遊牧騎馬民族であり、漢民族ではない。
  プロパガンダが働いている・・
  五胡十六国時代、南北朝時代に南下して中国に北魏な
 どの王朝を建てているが・・、
  この唐が「漢民族を名乗った」のは、「中原の支配権
 を正当化するため」に自身が漢民族の末裔であることを
 主張したかった。
  そして、この唐が滅ぶと・・中国は五代十国時代とな
 る・・これは・・
  黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)
 と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十
 国)とが、興亡する漢民族を含む『色々な民族』の時代
 だった。
  そして、宋の時代になるが、この王朝は、中国全土を
 配下に収めることが出来ず、遼や西夏が存在した。
  そして、宋は、趙匡胤(ちょうきょういん)が五代最
 後の後周から禅譲を受けて建てた国だった。
  趙匡胤は、河北省古安県の人で、父は後唐の禁軍将校
 だったから「漢民族と名のるだけの人」だった(実際は、
 鮮卑系の人・・遊牧騎馬民族)。
  そして、元(げん)が中国統一王朝を造るが・・、
 モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した王朝であ
 った。
  この様に、漢民族が『中国の地の民族などとはまった
 く言えない』・・その様な歴史が存在しているのである。
  この漢民族の現政権の中華人民共和国が、「漢民族が、
 中国古来からの民族だ」の様に言うのは、完全なプロパ
 ガンダ(嘘宣伝)で、この論理でチベット、ウィグル、
 内モンゴルの諸民族の地を、漢民族の領土にしようと暗
 躍しているのは、まったくの侵略行為となっている。
  そして、元(げん)民族に中国が駆逐され、制覇され
 た時、その国の広大さは、中国全土を飲み込むどころか、
 西は、ヨーロッパの地にまで達した。
  「漢民族の中国」などというイメージは、何処を見て
 も完全に影も形もなく、消え去っていた。
  だから、元(げん)民族が、中国の土地は我が民族の
 土地だと、現政権の中共の如くに言っても同じ理屈で言
 ってもよい・・だから、内モンゴルを漢民族の国土だと
 画策するのは侵略であり、間違い。
  その他の地も、漢民族の屁理屈で奪うのは侵略行為。
  この元(げん)は、東は、朝鮮を、いとも簡単に飲み
 込んだ・・そして・・、
  さらに、その東の日本を駆逐し、太平洋へ出たいと、
 突然の如くに、日本にやって来た。
  13世紀末の事であった。
  しかし、日本を駆逐する事は・・できなかった。
  大軍でもって、二度、日本に襲来を試みたが、目的は
 達せられなかった。
  その二度の日本襲来の軍船を造るために、朝鮮の山の
 木は伐られ、朝鮮の山は、どこも禿山(はげやま)とな
 った。
  三度目の日本襲来を計画したが、朝鮮には、その軍船
 を造るための木は乏しかった。
  そして、時代を経て・・その朝鮮の禿山に緑林したの
 が、日韓併合時の日本だった・・献身的な日本だった。
  この事例もそうだが・・日韓併合時は、日本は、一生
 懸命に朝鮮の国づくりを行なった。
  朝鮮戦争の時、その日本が植林した山に、この様な山
 に復活させた事情をよく知るアメリカ兵が、朝鮮戦争の
 戦いの為、この朝鮮の山へ砲弾を撃ち込むのが忍びなか
 ったと言っている。
  日本が、この様に、美しく復活させた植林した山だと
 思っていたと・・、
       ・
       ・
1941年半ば、徹底的に分析された幻の報告書
  第二次世界大戦の戦争の開戦の前に、日米比較が徹底
 的になされ、現状分析がなされた・・幻の報告書
  戦争開戦前に、現状を詳細に分析した報告書が存在し
 た・・
  しかし、現状認識を封印し、戦争は始められた・・
  その結果は悲惨そのものだった・・報告書の通りだっ
 た・・、・
  70年前の日米開戦前に、日本の国力を正確に予測しな
 がら、葬り去られた幻の報告書が存在した。
  戦争が始められる2年3ヶ月も前・・1939年9月、関東軍
 参謀部で満州国の建設主任から急きょ帰国した陸軍中佐
 の秋丸次朗は、「戦争経済研究班」を取り仕切って、そ
 の報告書を作成した。
  同班は「秋丸機関」と通称され、知られた。
  秋丸は、米英との戦争に耐えられるかどうかの分析を
 命じられ、東大教授の有沢広巳、後に、一橋大学学長に
 なる中山伊知郎らの学者を集め、徹底的に調べた。
  20~30人の研究チームだった。
  調査対象は人口、資源、海運、産業など広い分野に及
 んだ。
  資料収集に苦労を重ねた。
  経済封鎖をさせられている日本。
  軍需産業育成にどれだけ力を注げるのか。
  米英との力の差は。
  分析が進んで行った。
  調査開始から1年半後の1941年半ば・・、
  1941年12月8日の日米開戦まであと数カ月の時期に、陸
 軍首脳らに対する報告会が催された。
  秋丸は意を決して言った。
  「日本の経済力を1とすると、英米は合わせて20。
  日本は2年間は蓄えを取り崩して戦えるが、それ以降は
 経済力は下降線をたどり、逆に、米英は上昇し始める。
  彼らとの戦力格差は大きく、持久戦には耐えがたい」。
  これが秋丸機関の結論だった。
  列席したのは杉山元参謀総長ら陸軍の首脳約30人。
  じっと耳を傾けていた杉山がようやく口を開いた。
  「報告書はほぼ完壁で、非難すべき点はない」と報告
 書の分析に敬意を示し、そして続けた、「その結論は国
 策に反する。
  報告書の謄写本はすべて燃やせ」。
  会議から帰って秋丸は報告書を焼却した。
  有沢は、直ちに活動から手を引くように命じられた。
  秋丸機関はほどなく解散し、現状認識を封印した戦争
 が始まった。
  結果は悲惨そのものであった。
  報告書の一部が、秋丸の死後、遺品の中から発見され
 た。
  詳細を極めた報告書であった。
         (参考:日経新聞2011年1月3日)
.
1954年、中国は、ソ連からの原爆技術供与の交渉に成功し
 た。
  毛沢東は、アメリカによる、日本への原子爆弾投下以
 来、原子爆弾を持ちたいと強く願い続けた。
  原爆を使ったアメリカに恐怖した・・
  そして、朝鮮戦争中に、そのアメリカから、核攻撃を
 暗示された。
  その際に、毛沢東は、スターリンに原爆製造技術供与
 を要請した。
  この時、ソ連側は、技術供与に消極的だった。
  しかし、その後の1954年、台湾海峡危機や、ハンガリ
 ー動乱を巡るソ連内部の政治混乱が起き・・これを機会
 に、中国はソ連からの技術供与交渉に成功した。
  そして、中国は、1960年代初頭に設立した第9学会(
 北西核兵器研究設計学会)により、核兵器の開発が進め
 た。
  そして、1964年10月16日、新疆ウイグル自治区のロプ
 ノール湖にて初の核実験が行なわれた。
  また、1967年6月17日、初の水爆実験が行われた。
  中国は、アジア初の核保有国となった
.
1964年10月16日、中国が、新疆ウイグル自治区のロプノー
 ル湖にて初の核実験を行なった(コードネーム596)
  中国は、1964 年から1996 年まで、東トルキスタンの
 ロプノールの核実験場において、延べ46回、総爆発出力
 22メガトン(広島原爆の約1370発分)の核爆発実験を行
 った。
  1964年10月16日の第1回には、20キロトンの地表爆発型
 の実験を始めて行った・・空中爆発である・・
  そして、最大の核爆発は、1976 年11月17日の4メガト
 ンの地表核爆発だった・・これも空中爆発だった・・
  中国の核実験の実態は、長い間、秘密にされ、不明だ
 った。
  日本放射線防護センター代表の高田純氏は、新疆ウイ
 グル自治区で行われた核実験について・・、
  1964年~1996年に行なわれた中国の核実験によって、
 ここの住民、計19万人の命が奪われたと推定した・・
  また、劣悪な医療環境などの影響もあって・・影響は
 広がり・・約75万人の死者が出たという。
  そして、日本のNHKは、西遊記の製作のために、こ
 のウイグル地域に入った。
  1978年と1979年と、2度も続けて・・、
  このために、女優の夏目雅子さんが、この地へ行った。
  その後、夏目雅子さんに癌ができる。
  1981年の2年後に、甲状腺が腫れ(バセドー病)、この
 手術をした・・、その後に、また、瞼が腫れた・・
  1892年には、腎盂炎になり、そして、子宮内膜症にな
 る・・
  そして、夏目雅子さんは、1985年2月に白血病となる。
  そして、1985年9月に亡くなられた。
  そして、このNHKの番組「シルクロード」を見た日
 本人・27万人がシルクロードへ旅行した。
  その様な時のある日本人青年の体験は・・、
  ローカルバスで南新疆に向けて走っていると、突然、
 「ピカッ」っと光るものを見た。
  その後、バスの中を見渡すと同乗者の皆が「鼻血」を
 流していた・・その光景は、その青年には滑稽にさえ思
 えたという・・しかし、その青年も、自分の鼻に手を当
 てると自分も同じように血を流していたという。
  バスの中は騒然となったという・・
  その後、あの時、被爆したのだと思っているという・・、
  札幌医科大学教授・高田純氏は、中国西域の観光から
 帰国した後に「白血病」「肺がん」「悪性リンパ腫」を
 発症したという方や、その家族から情報が寄せられてい 
 るという・・
.
1964年10月27日、中国が、核弾頭を装備した東風2号Aミサ
 イルが酒泉衛星発射センターより発射され、20キロトン
 の核弾頭が、ロプノールの標的上空569mで空中爆発させ
 た。
.
1967年6月17日、中国が、初の水爆実験を行なった。
  威力2メガトンの熱核爆発で、爆発高度地表130メート
 ルの空中爆発の核実験が行われた。
.
1970年、中国は、この年初頭から1971年にかけて、核兵器
 をチベット高原に輸送し、青海省アムドの北西部先端に
 あるツァイダム盆地に、DF-4ミサイル発射用地を完成さ
 せ、核ミサイルを配備した。
  現在もチベット四川省のツァイダム(二カ所)、テルリ
 ンカ、青海省と四川省の境界の四カ所にミサイル発射用
 地が整備されている。
.
1973年6月27日、中国が、航空機からの原爆投下をした。
  航空機からの投下、威力2.5メガトンの熱核爆発の核実
 験を行なった。
  カザフスタンの報告では、爆発高度は1000メートル。
.
1992年、大量の死者が出された中国の原爆
  この年に、ウイグル人のアザト・アキムベク、ユシュ
 ムべク・ムフリーシ氏は、世界核被害者大会で被曝の状
 況を訴えた。
  そして、1998年に、イギリスのチャンネル4で「Death
  on the Silk road(死のシルクロード)」というドキュ
 メンタリーが放送された。
  日本では、あまり東トルキスタンの被曝の状況が知ら
 されることはなかった・・報道が隠されていた・・
.
2002年8月、中国の核による被害調査を、日本人の大学教授
 が行ない・・、
  核防護学者・高田純札幌医科大学教授による2002年8月
 以降の調査では・・、
  中国が、ウイグル地区で実施した核実験によって、同
 自治区のウイグル人を中心に19万人が急死した・・
  そして、急性放射線障害など健康被害者は129万人に
 のぼり・・、
  そのうち、死産や奇形などの胎児への影響が3万5000人
 以上、白血病が3700人以上、甲状腺がんは1万3000人以上
 に達すると発表した。
  また、被害は、シルクロード周辺を訪れた日本人観光
 客27万人にも及んでいる恐れがあり、影響調査が必要で
 あると同教授は指摘した。
  高田教授による調査は、1996年までの中国の46回の同
 地区における核実験の爆発威力や放射線量、気象データ
 や人口密度などを基礎データとした。
  楼蘭遺跡の近くで実施されたメガトン級の核爆発では
 高エネルギーのガンマ線やベータ線、アルファ線などを
 放射する「核の砂」が大量に発生し、東京都の136倍に相
 当する広範囲に及んだ。
  同教授によれば、中国の核実験は、核防護策がずさん
 で、被災したウイグル人への医療ケアも施されずに、広
 島原爆被害の4倍を超える被害者を出した。
  高田教授は「人道的にもこれほどひどい例はない。中
 国政府の情報の隠蔽も加え、国家犯罪にほかならない」
 と批判した。
  このような状況の中で「(中国政府に)実験のモルモ
 ットにされた」と訴えるウイグル人も現れた。
  ウイグル人医師のアニワル氏は、「中国では、被曝者
 が団体を作ることも、抗議デモをすることも許されない。
  また、国家から治療費も出ない。
  中国政府は、『核汚染はない』と公言し、被害状況を
 隠蔽している。
  そのため、海外の援助支援団体も入れない状況となっ
 ている。
  原爆症患者が、30年以上も放置されたまま」・・
  ・・などとして、中国政府の対応を激しく批判した。
  また、核実験場は、最も近い居住エリアから10キロし
 か離れていなかった。
  そのため、ウイグル人の悪性腫瘍の発生率が、中国の
 他の地域の漢人と比べて、35%も高くなっている。
  そして、漢人であっても、ウイグル自治区に30年以上
 滞在しているものは、ウイグル人と同じ発生率となって
 いる。
  また、先天性異常のために歩くことも話すこともでき
 ない「障害児ばかりが生まれる地域」もある。
  中国による同地区核実験については、イギリスBBCが、
 1998年8月に、隠し撮りによるドキュメンタリー「死の
 シルクロード」(27分)を報道し、
  この作品は、ローリー・ペック賞を受賞した。
  アニワル医師も、同作品に同行した。
  この様な事は、中国に利する事ばかりしている日本の
 NHKは行わないだろう。
.
2010年、西側諸国が民主化を煽った。
  「アラブの春」と・・美しい世の中が来ると煽った。
  そして、今、「難民受け入れ」を人道的な問題に絡め
 てとやかく言っているが・・それは、「事後処理をして
 いるごとく」で問題だ。
  これを、とやかく言う前に、この様な難民を発生させ
 ている原点・発生点の問題を追求しなければならない。
  難民を発生させているシリア内戦は、大国によってつ
 くられた紛争である。
  2010年より西側は、民主化を煽った。
  「アラブの春」と美しい世の中が来ると煽った。
  既存の政権が、「遅れた態勢で悪い」ように見せた。
  既存の政権を、次々と壊して行った。
  西側は、「民主主義を根付かせるのだ」が最終目標だ
 った・・が、民主主義が根付いた国は無かった。
  エジプトは、結局、軍制になってしまった。
  リビアは、国の体制がシッチャカ、メッチャカのまま
 で混沌の中にある。
  西側諸国が、かえって悪いことをした結果となった。
  西側諸国は、シリアも、アサド政権の独裁体制を倒し
 たかったのだろうが、難民を生む結果となって、泥沼が
 続いている。
  最初、西側は、アサド政権を倒したいとイスラム国と
 称したISを応援し・・武器を渡した。
  次に、クルド族を応援した。
  アメリカとEUは、このクルド族へ武器を渡してIS
 と交戦させた。
  アサド大統領は、最初から、「我々の敵は、テロリス
 トだ」と言っていたが、アメリカやEUは、聞く耳を持
 っていなかった。
  そして、結局、今・現在(2018年)の泥沼の悲惨な結
 果となっている。
  ロシアは、アサド政権を応援し、大国の代理戦争の様
 相になった。
  ロシアは、IS及びアサド反対派への空爆をしている。
  この難民もEUへ行く。
  アメリカは、何千機ものミサイルをアサド反対派の応
 援のために渡した。
  このミサイルによる難民もEUへ行く。
  EUのドイツは、第二次世界大戦の罪滅ぼしだと、難
 民を受け入れている。
  「非生産的なサイクルだけ」が回っている。
  「みんなが不幸になるサイクルだけ」が回っている。
  アメリカ・ロシアの代理戦争で難民にされた人々が、
 EUに流れ込む。
  そのどばっちりをトルコやEU周辺国などが受けてい
 る。
  トルコの難民は、何と、200万人を越えている。
  かつて、ユダヤの方々が世界中をさ迷ったが、このト
 ルコの難民の方々が世界へさ迷わないで済むようにしな
 ければならない。
  そして、元の国へ帰れるようにしなければならない。
  トルコは、トルコのお金でこの難民を救済している。
  アメリカやロシアは、このトルコを支援していない。
  また、トルコは、EUに支援を要請したが、EUは知
 らん顔をしている。
  何度も無視されている。
  難民の方々は、アメリカ・ロシアを目指せ、問題を作
 った国を目ざせ。
  トルコを反民主主義だと批判するのは間違いだ。
.
2015年9月10日、「ディー・ツァイト」紙に、スラヴォイ・
 ジジェクという哲学者の論文が掲載された。
  (参考)「ディー・ツァイト」紙:ドイツ・ハンブル
     クに本拠を置く、週刊発行される全国新聞。
      質の高い新聞としての評価されている。
      発行部数:488,036、推定読者数:200万人以
     上。
      最も広く読まれるドイツの新聞の一つ。
  (参考)スラヴォイ・ジジェク:スロベニアの哲学者。
      難解で知られるラカン派精神分析学を映画や
     オペラや社会問題に適用してみせ、一躍、現代
     思想界の寵児となった。
  スラヴォイ・ジジェク氏は、この論文の中で・・
  「現在、EUを危機に陥(おとしい)れている難民問
 題は、グローバリズムが原因で、それは新たな奴隷制度
 を形成して行くだろう」と結論付けた。
  そして、そのEUの理念は、「美しく『統合』という
 所に立っている」が・・、
  しかし、それは、美しくEU内だけが統合されている
 だけであって・・
  その美しいEUの統合の外側には、「EUが、自由に
 搾取できる広大な地域・世界が広がっている」という状
 況の中に「美しく統合を目指すEU」がある。
  EUの外側世界が搾取される1例を示せば・・
  2001年、国連が、中部アフリカのコンゴにおける資源
 の不法な搾取について調査した。
  コンゴには、豊かな地下資源がある・・
  それは、ダイヤモンド、金、コバルト、コルタンだっ
 た。
  この豊かな資源を巡って、奪い合いの戦争が起きた。
  コンゴ内戦などである。
  (参考)コンゴ内戦には、コンゴ動乱(1960年~1965
     年)、第一次コンゴ戦争(1996年~1997年)、
     第二次コンゴ戦争(1998年~2003年)がある。
      結局、1960年~2003年、戦争状態が続いた。
      この地には、この他にも、コンゴ共和国内戦
     として(1993年~1994年)(1997年~1999年)
     がある。
  その奪い合いの戦争に・・欲深いグローバル資本があ
 った。
  コンゴは、壊されていた。
  もはや、国家と言えるものは無かった。
  資源を搾取する側のEU諸国をはじめとする外国資本
 が、うごめいていた。
  その外国資本が、コンゴの各部族と結び付いて、利権
 を奪いあい・・追い求めていた。 
  EU諸国をはじめ、その外国資本は、コンゴという国
 家を無視し、コンゴの各部族の首領と結び付いて利得を
 追求していた。
  軍隊を作らせ、麻薬中毒にした少年兵にまで戦わせて
 いた。
  巨額の利益が、EU諸国をはじめとする外国資本へ入
 った。
  その利益が、コンゴの人々へ入ることは無かった。
  コンゴの人々は、鉱山で奴隷のごとくの労働をさせら
 れた。
  または、コンゴの人々は、住民の方々は、「難民とな
 って逃げた」・・逃げ惑った。
  西側が奪った、西側に入った資源は、パソコンやスマ
 ホなどのハイテク機器に使われた。
  1514年から1566年の長きにわたって、EUのスペイン
 のキリスト教徒とキリスト教聖職者たちは、南米・中米・
 北米メキシコ、および、その離島で、インディアスの方々
 の1000万人以上を殺しに殺したが・・このEU諸国など
 の1960年代の蛮行は、そのかつての16世紀の極悪蛮行を、
 再び、現代に行ったごとくだった。
.
2015年10月10日、ドイツのベルリンで、TTIP反対デモ
 が行われた。
  代々のアメリカの政権は、その政治は、一握りの者た
 ちに握られ、繰られている。
  本来ならば、大衆の意思が反映されるべき政治の権利
 が、その大衆が持つべきものが・・奪われている。
  大きな資金を寄せた者・・その寄付した者の力が牛耳
 っている。
  金によって有利に・・金を寄せた力が利する政治へと
 繰られている。
  政治を行なうものは、当然、金を必要としているため、
 金を持つ力に繰られてしまうという状態になっている。
  「その意に沿うという政治」が行われる。
  そこにはアメリカの人々・民衆は登場していない。
  これが、ここアメリカだけの問題に終わらない所に大
 きな問題がある・・世界に波及して行くのである。
  民主主義のアメリカ・・アメリカは戦争をしてまで・・
  「民主主義を根付かせるのだ」という大義を立てて戦
 争までするアメリカが・・その民主主義をないがしろに
 しているという状況になっている。
  この様に、民主主義を売り込むアメリカで、民主主義
 が崩壊している。
  この金を持つ力は、世界で莫大に稼いでいる。
  その稼ぐ力の「稼ぐ行為」に抵抗し、逆らう状況を生
 むのが、世界の各国の法律である。
  その1例を言うならば・・農業・・
  農業の遺伝子組み換え作物の数々の事例がその1例・・、
  例えば、EUでは、ほとんどと言ってよいほど「遺伝
 子組み換え作物は禁止」されている。
  しかし、EUの基準は、アメリカ基準より厳しいので、
 アメリカの輸出サイドは困るのである。
  アメリカは、トウモロコシ、大豆、サトウキビなど、
 そのほとんどが、90%が、遺伝子組み換え作物である。
  だから、ここで、アメリカは、このEUの基準を変え
 させようとする。
  色々と・・言いがかりをつけて・・
  EUで遺伝子組み換え作物で儲けたいからである。
  その他、アメリカは、ホルモン剤で成長を速めた牛を
 売りたがっている。
  また、塩素消毒した鶏肉なども、アメリカは、甘い基
 準でOKとなっている。
  このアメリカの甘い規準に、他国に合わさせようとし
 ている。
  今、EUで問題となっているのが、TTIP(環大西
 洋貿易投資パートナーシップ協定)である。
  アメリカの基準の押し付けで、「どこが、パートナー
 だ」と叫びたい状況にある。
  ここで、アメリカ規準が押し付けられている。
  こんなメカニズムで、アメリカの政治を牛耳った「金
 を持った力」が、他国の基準を変えてまでして、輸出し
 て、儲けようとしている。
  民主主義の欠片(かけら)もない。
  一部の特権セクションの言う事を聞くアメリカ政治で、
 圧力を行使するという一部の君主制の如くの政治的圧力
 行動がなされている。
  2015年10月10日に、ベルリンでTTIPの反対デモが
 行われた。
  このデモは空前の規模となった。
  主催者は、25万人と発表した。
  EUの人々の96%が、このTTIPに反対していた。
  人々は、『消費者の安全がないがしろにされている』
 と主張した。
  このアメリカの甘さが、EUの甘さとなり、「消費者
 の安全基準」の劣化・低下が恐れられている。
  そして、この様なアメリカのやり方を、「民主主義の
 崩壊のシステムだ」と糾弾し、主張している。
  民主主義の本家のアメリカが、自分が、「民主主義を
 壊す最右翼に居ること」に気づいていない。
  お粗末の限りである。
  そして、このTTIPにある『ISD条項(投資家対
 国家間の紛争解決条項)』が曲者(くせもの)である。
  つまり、ある企業が、外国で、現地の企業に比べて不
 当に扱われたと感じたとき、その国の政府を、訴える権
 利があるとしている。
  「感じる」という主観的な、曖昧な、怖さもある。
  その様な曖昧な感じから、「調停裁判所」に訴えられ
 たら、そこでの審議は秘密の非公開で行われ・・
  (直接、利害関係のある人々・大衆が知らない所で審
 議される)。
  そして、その決定が最終決定で、上告もできない。
  そして、この決定(判決)には拘束力があり、従わさ
 れるという状況となる。
  その国にある、各国の法律は無視され、その「各国の
 法律よりも強い決定だ」とされている。
  アメリカという「裁判マニア」の国の御都合に沿って
 いるようになっている。
  『暗黒の決定に従う』、それも、何やら分からぬ仲裁
 裁判所という私的な組織の決定に従わされるという・・
 民主主義のひとかけらもない。
  アメリカ政権に、大金を献金するだろう「ある民間営
 利企業の利益」のために、締結国の法律が無効にされる
 という落とし穴を持っている。
  各国には、今まで、修正したり、改正したりして来た
 洗練された法律がある・・その様な法律を、種々、持っ
 ている。
  その総ての法律が「ないがしろにされ」、その法律よ
 り強い決定だというやり方に、何ら民主主義のやり方で
 ないものが、大手を振って歩き出そうとしている。
  人々の税金などの資金が、その様なやり方で奪われ、
 吸い取られ、吸収されそうになっている。
.
2015年11月12日、難民を受け入れていたスウェーデンが、
 入国検査をするという決定をした。
  これは、事実上の『難民の受け入れ拒否』を意味した。
  これをさかのぼること5年の2010年、「アラブの春」と
 呼ばれる民主化運動が、アメリカやヨーロッパ諸国の西
 側諸国に煽(あお)られて、2010年より始まっていて、
 そして、既存の政権が次々と倒された。
  その結果、よりよい政権が生まれたかと言えば、まっ
 たく違っていた。
  庶民の方々は、その混乱の中に投げ出された。
  西側諸国の横暴で「不幸の中に落とされた」という結
 果となった。
  西側諸国は、民主主義を根付かせるのだとした。
  その結果は、成功したかと言えば、成功した例は「ま
 ったく、無かった」。
  ただ、荒れすさぶ国々ができただけだった。
  そして、その荒れすさぶアフリカ諸国から、地中海を
 渡って、難民の方々が、ヨーロッパへ渡るという事態が
 起きた。
  2015年11月11日、EUとアフリカ諸国の首脳が、総勢
 60人が、マルタ島に集まって、サミットが開かれた。
  議題は、アフリカ情勢を安定させて、難民発生を抑え
 る事だった。
  しかし、EUがすることが出来たことは、アフリカ諸
 国への経済援助しかなかった。
  EUの難民を救済するという理念は悲鳴を上げていた。
  そして、この翌日・2015年11月12日、難民を受け入れ
 ていたスウェーデンが、難民の入国検査をするという決
 定をした。
  これは、事実上、難民の受け入れ停止を意味した・・
 難民受け入れ拒否を意味した。
  スウェーデンは、方向転換した。
.
2015年11月、EU・・「難民問題でゆれて」見えたもの・・
  EU・・「統合だ」「グローバリズムだ」・・と美し
 い理念で始まったEU・・、
  そのEUに、「難民」の話が起きて、ある意味EUの
 実態が見えた、
  難民問題は、ある意味、「リトマス試験紙」だった。
  EUの中から「キリスト教徒なら受け入れる」という
 声が出た・・
  「家族を呼び寄せるのは駄目だ」の声・・
  「EU国境線でしっかり入国審査をする」・・
  「地方自治体の首長の難民拒否の意思表示・・我が町
 で増えてもらいたくない」
  「EU議会内でのドイツ批判・・ドイツの行為はスタ
 ンドプレーだ」
  「ドイツに付き合っていられない」
  「ドイツが難民を呼び込んでいる・・迷惑だ」
  「ドイツが、今さら、連帯なんて言わないでくれ」
  「ドイツは、二つの顔を使い分けている」
  「喜んで難民を受け入れるEU内の国は皆無だ・・難
 民の押し付け合いの戦いの状態」
  「EU国境の防衛だ」との政治家や民の声がする。
  ドイツ国民も、二つに分かれて、シッチャカ、メッチ
 ャカになった。
  難民の受け入れに積極的なメルケル首相の支持率も急
 落した。
  ここまでで・・見えて来た事は・・
  「難民は迷惑」
  「難民はEUに入れない」
  「EU国境で審査する仕組みを作る」
  「世界を感動させた『ワンダフルEU』は、急速に過
 去の話になった」
  「美しい理想で始まったEUは、難民処理で可視化さ
 れ、当初の目標であった統合は、そっちのけで各国が、
 それぞれ自国の利益を死守しようとする姿が・・はっき
 り見えた」
  「人道主義や善意は、背に腹は代えられないになった」。
  難民の方々が、逆に、可哀想な状態に置かされるとい
 うEUの形となった。
  EUなんて営利団体・・結局、自分たちがその特典を
 維持し、あるいは強化する目的の団体と化した・・
.
2015年11月21日、ベルギーは、最大のテロ警戒態勢を引い
 た。
  民主主義。
  アメリカやヨーロッパが、民主主義の教えを垂れよう
 と、その国に関わる(余計なおせっかいを始める)。
  民主主義は良い主義なのだから、我々の行動は正しい
 のだの論理でやる。
  この関わりから事が広がって、その国の利益を収奪す
 る様になる。
  特に、アフリカ・・、
  様々な西側資本が、最後には、アフリカの搾取に余念
 がなくなる。
  巧妙なる収奪行為を行う。
  結局、やっていることは、最後に悪となる。
  草刈り場は、アラブからアフリカへ移った。
  新しい草を刈り取りたいと、年がら年中、こんなこと
 をしている。
  アメリカ・ヨーロッパの街がきれいなのも、この様な
 収奪の結果なのだ。
  そして、難民が生まれる。
  哲学者のスラボイ・ジジェク氏は言う・・、
  「難民が出ないようにしたいのならば、やるべきこと
 は簡単だ。
  それは、それらの国々で儲けている西側資本が手を引
 けばよい」・・と・・、
  そして、さらに、「資源の利益が(西側諸国が収奪し
 ないで)現地に還元される様になればさらに良い」と。
  アラブやアフリカの国家の崩壊は、その諸国が悪いの
 ではなく、欲の深い西側諸国が利益を収奪している結果、
 起きていることなのだ。
  この様な国ばかりになっている。
  強国が、弱い者いじめをしているのだ。
  この荒れた国々からテロリストも発生し、悲惨な事件
 も起きるのだ。
  その様な一つが、2015年11月21日、ベルギー政府は、
 ブリュッセル首都圏に、深刻なテロが発生する可能性が
 あるとして、警戒を最高レベルに引き上げた。
  地下鉄は止まり、店は閉まり、町はシーンと静まり返
 った。
  その街を重装備をした警察官と兵士がパトロールする。
  ベルギーは、コンゴからうまい汁を吸った。
  かつての宗主国だった。
  その様に好きにして来た国々から難民が生まれている。
  難民が出ないようにしたいなら、今までやってきた欲
 深い行為を止め、それらの国々で儲けている西側資本(
 グローバリズムを良い事に儲けまくっているグローバル
 企業)が手を引けばよいだけの話。
  そして、資源の利益は、横取りしないで、現地へ還元
 されるようにしなければならない。
  アラブの国家は、そして、アフリカの国家の崩壊は、
 現地だけの問題ではない。
  西側資本が、利益を収奪することが問題なのだ。
  西側強国が、経済的植民地にしている結果なのだ。
  ヨーロッパ列強が、利益を得つづけたアラブ諸国から、
 また、西側資本が、様々な収奪・搾取を余念なくやって
 きたアフリカから、今、難民がなだれ込んでいる。
  この様な状況となった責任は、なだれ込まれているヨ
 ーロッパ列強諸国にある。
.
2016年2月15日、「アラブの春(2011年)」から5年が経ち、
 アラブ世界の状況はかつてないほど悪いが・・と、一方
 の陰の仕掛人のイギリスのエコノミスト誌が、この日に
 言った・・
  「アラブの春」は、ほとんどの当事国にハッピーエン
 ドをもたらさず、リビアとイエメンは内部崩壊、エジプ
 トとバーレーンは以前より強硬な独裁制となり、シリア
 は奈落の底に・・、
  また、他のアラブ諸国も状況は悪く・・イラクは事実
 上、クルド、シーア派、IS支配地域に分裂した。
  アルジェリアとスーダンは、略奪的な軍事政権に支配
 され、パレスチナは孤立と弱体化を深めている。
  富裕な湾岸諸国でさえ、石油価格の急落や増える若年
 層の高い失業率等、体制が揺さぶられるような深刻な事
 態に直面している・・と・・報じた・・
  「民主主義は良い制度だ」と西側諸国が仕掛けた・・
 だからと言って「よくない方法で根付かせよう」とした・・
 ここが悪かった・・ここから難民が発生した。
  ドイツは、第二次世界大戦で卑劣な事をした、だから
 と、罪滅ぼし的に難民受け入れの基本法を持った。
  しかし、その法は、何ら、「悲惨な難民発生を未然に
 防ぐこと」に寄与していない。
  この点に関して、「無力な対応なのだ」。
  例えば、シリアの内戦は、イラクやリビアと同じく、
 「作られた戦争」で、これに対し、まったく関係ない、
 無力の存在。
  西側諸国は、「民主主義を根付かせるのだ」と、2010
 年から、「アラブの春だ」と煽った。
  そして、次々と既存の政権を壊した。
  しかし、前記した様に、不安定な争いの社会ができた
 だけだった。
  この2015年から2017年と、世界を心配させている難民
 問題も、「シリアのアサド政権を倒すのだ」と西側諸国
 が煽った。
  そして、ISへ武器援助をして戦争を作った。
  そして、卑劣な事に、クルド族へ武器を渡して、IS
 に対峙させた。
  アメリカやEUは、戦争づくりをしている。
  そして、収拾の付かない事態となっている。
  ただ、戦争とまったく関係ない人々が殺され、亡くな
 っている・・そして、難民の方々ができた。
  ロシアの大国も参戦して来て、アメリカとロシアの代
 理戦争の状況となった。
  この逆をされたらどう思うのか?
  この主義が良いのだと、勝手な主義の政権を良いと押
 し付けられたら、アメリカやEUはどう思うのか?
  トルコには、200万人の難民の方々が居る。
  こんなにまで大勢の難民数にならなければならないく
 らい問題はこじれている。
  そして、このトルコの難民は、EUには来てもらいた
 くない。
  EUに行きたい難民の方々が、トルコに留まっている。
  トルコは、その難民にかかる費用を援助してくれ、増
 額してくれと、何度もEUに言っているが、EUは、ま
 ったくの知らん顔となっている。
  逆に、苦しんでいるこのトルコを、ドイツは、「反民
 主主義だ」などと非難した。
  ドイツも厳しい状況に置かれているんだろうが・・
  2019年のドイツの生活保護を受ける人の数は、100万人
 増えると推計されている。
  難民の方の一人当たりかかる費用は、医療費を含めて、
 1ヶ月およそ1000ユーロ。
  1ユーロが約130円だから、130円×1000×12ヶ月×1000
 万円は、1.7兆円が・・今までとは別に増える。
  お荷物のギリシャも面倒を見なければならないし・・?
  結局、ドイツの方々に、先々のドイツの崩壊が見えて
 来た・・、その心配が浮上して来た・・、
  ドイツ国内の難民の方々の宿舎に火がつけられる事件
 が起きるようになった。
  こんな事件が、相次ぐようになった。
  難民を受け入れる態度を表明する自治体の町長に、脅
 迫状が送られて来ることなども起きた。
  キリスト教に偏するNHKは、日本を貶(おとし)め
 る放送はするが、この様な放送はまったくしない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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# by suba28 | 2018-05-26 03:53 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)595E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年5月)

題:(増補版)595E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年3月29日、日本鉄道本社汽車課直轄の工場を大宮に
  設け、12月10日、操業開始した。
  (1896年9月1日、汽車課から分離し、大宮工場となる)

1894年3月、村井兄弟商会が、両切り紙巻煙草「ヒーロー」
 を発売した。
  紙巻きたばこの起源は、1853年~1856年のクリミア戦
 争の戦地で、パイプを失った兵士が、火薬を包むための
 紙で、刻みタバコ葉を巻いて吸ったのが始まりと言われ
 ている。
  しかし、コロンブス以前に、アメリカ・インディアン
 は、乾燥させたタバコの葉を刻んで植物などで巻いて吸
 うことを行っていた。
  1700年には、ラテンアメリカからスペインに向けて紙
 巻たばこ用の紙が輸出されている。
  クリミア戦争以前にも、特に、スペインでは紙巻たば
 こが吸われていた。
  紙巻たばこが、主流となったのは、ヨーロッパや日本・
 中国では第一次大戦後で、アメリカでは第二次大戦後。
  また、一般大衆を欺いている行為が・・ライトたばこ
 など、低タールをうたう製品は「ごまかし」がある・・
 大衆を欺いている。
  欧州では、「ライト」「低タール」といった用語の使
 用を禁止しているくらいである・・
  これは、実際には、減少したニコチン摂取量を補うた
 めに喫煙するたばこの本数が増えたり、より深く吸い込
 むことに、はっきりつながっていて、肺腺がんリスクを
 増大させている。
  マイルドやライトでも、吸い方によって吸い込むニコ
 チン量が急増している。
  2009年、アメリカに、タバコに起因する死亡は、44万
 3,000人であり、アルコールは9万8,334人というデーター
 がある。
  また、たばこを吸う人のうち、約半数は、たばこに関
 連した病気で死亡しているとする調査報告があり、
  たばこを吸う人は、そうでない人に比べて寿命が約14
 年短くなるという指摘もある。

1894年3月、朝鮮国内で東学党の乱。

1894年4月2日、日英通商航海条約交渉が開始された。
  この日、ロンドンで、第1回、日英条約改正委員会が
 開かれた。
  調印は、1894年7月16日・・、
  治外法権が撤廃された。
  これは、イギリスが、ロシア帝国の南下に対して、力
 の増した日本に期待した結果だった。
  内容は、内地開放を代償として、領事裁判権を撤廃さ
 せ、関税自主権も部分的に回復させた。
  また、片務的であった最恵国待遇を相互的だとした。
  この条約の調印の時、イギリス外相のキンバーリー伯
 は、日本の青木駐英公使に対して・・、
  「日英間に対等条約が成立したことは、日本の国際的
 地位を向上させるうえで清国の何万の軍を撃破したこと
 よりも重大なことだろう」・・と、日清戦争が起きると
 いう状況を掴(つか)んだ上で語っている。
  また、独り立ちした日本を承認したという形となり・・
  以降、この年の1894年から翌年の1895年にかけて、同
 内容の条約を、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシア、
 オランダ、イタリアなど14カ国に調印させた。
  これによって、日本は、法権のうえで、欧米列国と対
 等の関係に入った。

1894年4月8日、ブルックナーの交響曲第5番が初演された。
  グラーツオペラ座(Grazer Oper)

1894年4月10日、愛媛の道後温泉に、道後温泉本館が完成
 した。  
  道後温泉本館は、愛媛県松山市の道後温泉の中心にあ
 る温泉共同浴場で・・別名:愛称が「坊っちゃん湯」。
  1890年、道後湯之町の初代町長として伊佐庭如矢(い
   さにわゆきや)が就任し・・、
    この頃、町の最大の懸案は、老朽化していた道後
   温泉の改築であった。
    伊佐庭は、町長就任に際して、自らは無給とし、
   その給料分を温泉の改築費用に充てることとした。
    総工費は13万5千円。
    当時の小学校教員の初任給が8円といわれた時代で、
   あまりに膨大な予算に町民は驚き、町の財政が傾き
   かねない無謀な投資だと非難が渦巻いた。
    反対運動は激しさを増し、伊佐庭が命の危険を感
   じるほどだったが、伊佐庭は決定を貫き通した。
    棟梁は、城大工の坂本又八郎を起用し、姿を現し
   た木造三層楼は、当時でも大変珍しがられた。
    伊佐庭は、さらに道後への鉄道の引き込みも企図
   し、道後鉄道株式会社を設立した。
    一番町~道後、道後~三津口間に軽便鉄道を走ら
   せ、客を温泉へ運んだ。
    関西からの航路が開かれるなど、道後温泉が発展
   して行った。
  1895年、本館完成の翌年のこの年、文豪・夏目漱石が、
   松山中学の英語教師として赴任した。
    漱石は、その建築に感嘆し、手紙や、後の小説『
   坊つちやん』の中で「温泉だけは立派なものだ」と
   絶賛し、実際に、頻繁に通った。
    手紙では、8銭の入浴料で、「湯に入れば頭まで石
   鹸で洗って」もらえ、3階に上れば「茶を飲み、菓子
   を食う」ことができた・・と・・
    小説では「住田」の温泉として登場する。
    これにあやかって、「坊っちゃん湯」という。
  1994年、国の重要文化財(文化施設)に指定された。
  2009年3月、ミシュランガイド(観光地)日本編におい
   て2つ星に選定された。
  2007年3月、美しい日本の歴史的風土100選に、松山城
   と共に選定された。
  2009年、経済産業省「近代化産業遺産」に認定された。

1894年4月13日、移民保護規則が公布された。
  日本人の海外渡航は、明治維新(1868年)とともに始
 まった。
  今までにない変わりゆく改革の中で、急速な近代化と
 社会変化が起きた。
  農業形態も、経済構造が変わっていくなかの改革で、
 農村部に余剰労働力が生まれた。
  国内や海外へ移動する出稼ぎ労働者が現われた。
  1868年、横浜在住のアメリカ商人ユージン・バンリー
 ドは、150人の日本人労働者をハワイの砂糖プランテーシ
 ョンへ送った。
  また、40人をグアムへ送った。
  この労働者は、「元年者」として知られている。
  日本政府の許可や旅券を受けることなく日本を出国し
 た。
  近代日本の最初の海外移民だった。
  しかし、この「元年者」は、渡航地で奴隷にも等しい
 酷(ひど)い取扱を受けた。
  明治政府が、救出に乗り出さなければならないほどだ
 った。
  国民を大切にする日本政府は、この「元年者」の失敗
 で、この後、20年間近く、日本人の海外移住を許さなか
 った。
  かわりに、北海道開拓を推進した。
  そして、17年後の1885年、ハワイ「官約移民」で再開
 された。
  これは、ハワイ王国の依頼でもあった。
  アメリカによるハワイ乗っ取りへの対応・・アメリカ
 の行動を抑えたいというハワイ王国の日本に頼った面も
 あった。
  日本人の本格的な海外移住が始まった。
  「官約移民」制度は、日本と独立国であるハワイ王国
 の条約に則った正式な正規な行動であった。
  日本人労働者を3年契約で砂糖プランテーションへ送
 るというものだった。
  1894年までの9年間に、総計2万9千人ほどの日本人が、
 この制度によってハワイへ渡航した。
  また、この時、数千人の日本人が、太平洋上の木曜島
 (イギリス領)、ニューカレドニア、オーストラリア、
 フィージーなどへ渡った。
  この頃の渡航者のほとんどが、海外への永住をめざし
 た移民ではなく、数年間の契約労働を目的にしていた出
 稼ぎだった。
  そして、1893年、外務省関係者、知識人、ジャーナリ
 ストなどが集まり「殖民協会」を設立された。
  これは、日本も、西洋諸国の様に、国外市場を拡大し、
 海外へ向けて発展しなければならないとしていた。
  この殖民計画事業は、イギリスのオーストラリア移住
 (侵略)などのようには行かず・・失敗した。
  1899年、南アメリカのペルーへ、最初の契約労働者の
 渡航が始まった。
  そして、ラテンアメリカへの日本人渡航は盛んになっ
 て行った。

1894年4月14日、アメリカのニューヨークで、キネトスコー
 プが公開された。  
  キネトスコープは、1891年、トーマス・エジソンによ
 って発明された(1888年説あり)
  撮影機の方は、キネトグラフといい、キネトスコープ
 より先に、エジソンが発明した。
  1893年、シカゴ万国博覧会に出展された。
  1894年4月14日に、ニューヨークのブロードウェイ1155
   番地に、世界初の映画館(キネトスコープ・パーラ
   ー)が設置された。
    キネトスコープは世界的に大ヒットし、その後、
   2年でアメリカのほとんどの街にキネトスコープ・パ
   ーラーが設置された。
    これは、スクリーンに映写されるのではなく、箱
   の中をのぞき込む形だった。
    当時、「ピープショー」とも呼ばれ、ピープ(peep)
   とは、のぞくという意味。
  1895年、一度に多くの人が鑑賞できるスクリーンに投
   影される形の映画(シネマ)が、リュミエール兄弟
   によって発明された(シネマトグラフ)
  1896年11月25日~1896年12月1日、日本で、エジソンが
   発明したキネトスコープが、神戸の神港倶楽部で初
   上映された。
  1897年、リュミエールが発明したスクリーン式の「シ
   ネマトグラフ」が、大阪の南地演舞場や京都で披露
   された。

1894年4月16日、東海道線が、西ノ宮駅~三ノ宮駅間で複線
 開通した。

1894年4月、甲午(こうご)農民戦争
  朝鮮の全羅道(チュルラド)一帯の農民が、東学教徒
 とともに蜂起した。
  これをきっかけに、各地で農民蜂起があいつぎ、東学・
 農民軍は、随所で政府軍を撃破した。
  全羅道と、その周辺の官庁をつぎつぎと占領し、5月末
 には、全洲(チョンジュ)を制圧した。
  朝鮮李朝政府は、清に軍の派遣を要請する一方で、東
 学農民軍の指導者である全琫準(ジョン・ボンジュン)
 と交渉し、両者は和解した・・が・・

1894年4月、北越鉄道株式会社創立願を逓信大臣に提出した。
  (7月26日仮免状下付)

1894年5月1日、中国鉄道発起人が、岡山駅から津山駅・勝
 山駅・米子駅を経て、境駅に達する鉄道建設を出願した。
  (1894年7月14日、線路を岡山駅~米子駅間に改める)
  (1896年4月30日、免許状下付、のち免許線路の短縮を
  申請し、津山駅以北取消した)

1894年5月4日、朝鮮で、農民軍が白山に集結して、甲午農
 民戦争が再び開始された。

1894年5月7日、文官高等試験細則を制定した(閣令第2号)

1894年5月12日、第6特別議会が召集された(開会、15日)

1894年5月14日、イギリスでブラックプールタワーが公開さ
 れた。
  ブラックプールタワーは、ブラックプールにある塔で、
 エッフェル塔に触発されて建設され、この日に開業した。
  高さ:158メートル
  エッフェル塔:324メートル
  東京タワー:332.6メートル

1894年5月15日、第六特別議会が開会された。
  第六特別議会は、1894年5月15日開会~1894年6月2日解
 散で短い議会だった。
  景気は良くなったが、対外硬で激しく対立した。
・伊藤内閣第六議会解散(氷川清話)
  (参考)対外硬:たいがいこう、
      日清戦争直前、反政府派が、国際協調政策を
     とる政府の外交を攻撃するために唱えた標語。
      ロシアの東アジア進出により緊迫した国際情
     勢であった。
      これに対し、新聞「日本」をはじめとする民
     友社の「国民新聞」に至るまで反政府側の日本
     主義派・・、
      そして、自由党、改進党などの民党連合は、
     政府外交を批判し、また、政費節減・民力休養
     路線と批判した。
      それは不平等条約によって侵されている国家
     主権の回復と、積極的な対外進出を主張してい
     た。
      また、それは、対等条約を実現するためには
     現行条約を励行して、条約の規定のない所で外
     国人を厳しく取り締まり、彼らに不利益を与え、
      対等条約の交渉に列強が応じない場合は、条
     約破棄もせよというものだった。
  この第六回帝国議会で、貴族院議員の近衛篤麿・小沢
 武雄は、議員の二条基弘ほか50人の賛成を得て、「北海
 道ニ鉄道ヲ敷設シ及港湾ヲ修築スルノ建議案」を提出し
 た(建設線路は、函館・小樽間、空知太、網走間、旭川・
 宗谷間)
.
  (今日の言葉)
.
  題:イタリアは敗戦国だ・・しかし、アメリカ・イギリスは戦勝国側にした。
    日本やドイツは、今だに、国連憲章の敵国条項に落としめられている。
.
紀元前160万年、人類の先祖が、この頃、草原の生活で洗練
 された歩き方を始めた。
 160万年前のホモエレクトスだった・・、
 画期的な進化が現れたのだった・・、
 垂直に立つことによって脳は進化し、重く、大きく・・
 言葉の話せる脳への進化だった・・情報伝達力の向上で
 あった。
 アファール猿人の場合は、喉の奥が広くなく、まだ、
 音の種類は狭かった・・が・・、
 まっすぐ立つことによって、喉の奥に空間が出来て・・、
 複雑な音が出せるようになった。
 この脳は、足や手が発達した後に与えられたものだっ
 た・・
 木から降りて、猿と違って、二本の足で立って歩く生
 活になって・・貴方の祖先も・・ここから・・アダムと
 イブもここから・・
  キリスト教のアダムとイブの話の前に、これが無いと
 始まりません・・そうでなければいけません・・その様
 な進化があったのでした・・『進化する力を持つ人間』
 が存在していた・・
  思考を固定化しては、発展はありません・・
  キリスト教は、この最初から間違っていました・・
       ・
       ・
紀元前2万年、フランスの遺跡で、人間が集団で、馬を崖下
 に落とし、狩りをしていた状況が発見された。
 集団で複雑な役割分担をし、言葉で情報をやり取りし
 ・・人間は、さらに、あらゆる面で進化して行きました。
  脳が大きくなった人間・・さらに、この様な複雑な方
 法も手に入れた・・そして、コンピューターにたどり着
 く・・
       ・
       ・
紀元前206年、中国の漢の王朝に、前漢と後漢がある。
  この年、秦が討たれ・・前漢への時代が始まる。
  やっと、漢民族が、歴史に登場・・現れました・・
  中国初の統一王朝だった秦王朝の華夏族・・この秦王
 朝が、この年・紀元前206年、滅亡した。
  (参考)華夏族:かかぞく、漢の時代以前に、中原の
     黄河流域に暮らしていた部族。
  この後、中国は、この秦朝・華夏族を討った漢民族の
 各軍の将帥による群雄割拠の時代となる・・
  漢中、及び、巴蜀(はしょく、現在の四川省)に封じ
 られていた劉邦(りゅうほう、前漢を興した人)が・・、
  紀元前202年に、垓下の戦いで、項羽を討って、中国を
 再統一した。
  (参考)垓下の戦い:がいかのたたかい、中国、漢の
     劉邦が、その勝利を確定的にした戦いで・・
      垓下(現在の安徽省宿州市など)を中心に行
     われた。
      しかし、この戦いが、実際あったのかどうか
     に対して、歴史家から疑問が出されている。
  この劉邦が開いた前漢と、いったん滅亡したのち劉秀
 によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年と
 なる。
  今・現在、この漢民族が、チベット・ウィグル・内モ
 ンゴルを完全に漢民族国家にしようと暗躍している。
  また、南シナ海や尖閣諸島、および、沖縄などのその
 他の諸地域をも欲しいと狙っている。
  そして、この中国が使う手が冊封体制(さくほうたい
 せい)・・
  現在、この冊封体制下の国に北朝鮮・韓国が入ってい
 る。
  (参考)冊封体制:さくほうたいせい、中国の皇帝が、
     朝貢をして来た周辺諸国の君主へ、官号・爵位
     などを与えて、君臣関係を結んで、彼らにその
     統治を認める(冊封)・・、
      豊臣秀吉が、必死に、徳川家康を大阪城に来
     させようとしたことと同じ・・
      そして、この冊封は、宗主国対藩属国という
     従属的関係におくことをさす。
      朝貢とは、藩属国の使節が、漢皇帝に朝見し
     て土産の産物を献上することをいう。
      これに対し、皇帝は、回賜として、貢物以上
     の返礼物を与えて皇帝の威徳を示した。
      その状況から、朝貢は、君臣関係を表す政治
     的儀礼であった。
      歴史的に、この漢代における外臣の制度がそ
     の始まりと言われている。
      例えば、朝鮮半島北方に成立した渤海(ぼっか
     い)などは、中国・唐と冊封関係を結んだので、
     東アジアの国際情勢は、唐を中心とした冊封体
     制のなかに組み込まれた状態だったが・・、
      日本は、この時、この体制の外にあって・・
     中国とは対等の隣国関係を保持したなどの経緯
     が歴史上にある。
.
2世紀頃、日本で、一番古い『漢字』の記載事例・・
  日本で、これまで知られている漢字で、最も古いもの
 は、2世紀ごろの土器に書かれたもの・・、
  そして、中国の歴史書に、3世紀のころ、日本と中国
 との間で、手紙のやり取りがあったとする記述がある。
  優秀な日本人は、これを発展させて・・、平安時代に、
 中国にない表音文字の平仮名(ひらがな)や片仮名を発
 明した。
  9世紀前半に入ると、漢字と片仮名が混じった文章例が
 みられ・・さらに発展させた表記法を行なった・・
  表意文字と表音文字の混合させた・・世界にはこの様
 な事例なく、日本唯一の優秀な表記法。
  また、10世紀から、平仮名は、漢字と並ぶ文字として
 認められ、ひらがなで書かれた豊かな文学が花開いた・・
  豊かな芸術が花開き・・世界に誇る最初の長編小説や
 日記文学が書かれ、他国の追随を許さない『孤高の光』
 の輝きがあった・・それを、優秀な日本の女性方が成し
 遂げた・・
  この様な素晴らしさを理解の出来ない、戦後の進駐軍
 のアメリカ司令部のマッカーサーは、日本人を馬鹿にし
 て、こんなに多くの漢字を覚えている訳はないと、日本
 人の識字率テストをしたりした、そして、日本を英語化
 しようとした・・
  日本は、中国から漢字を伝えられたが、日本は、更な
 る、豊かな表現手段として平仮名・片仮名を発明し、表
 音文字・表意文字を駆使して美しく豊かな日本文化を発
 展をさせて行った・・
  今・現在でも、ノーベル文学賞を貰うべき方々は、数
 え切れないほど居られるが・・キリスト教に偏するノー
 ベル委員会が授与しないだけ(キリスト教国に偏る)・・
       ・
       ・
980年、キエフ公国は、黒海の北方のウクライナ、ベラルー
 シ、ロシアの西部を領する地であるが・・、
  この国のウラジミール1世(在位980年~1015年)の意
 向によって、キリスト教東方正教会が広まった。
  ウラジミール1世は、ユダヤ教、イスラム教、キリスト
 教を見比べた上で、キリスト教東方正教会を選んだ。
  それは、まったく個人的な好みの「卑劣な選択」だっ
 た。
  彼は、4人までの妻が持てるイスラム教に惹(ひ)か
 れた。
  しかし、禁酒の戒律が嫌だった・・それが、イスラム
 教にあったため、東方正教会のキリスト教を選んだ・・
 酒が飲みたかった・・
  これによって、東方正教会がスラブ人の間に広まった。
  キエフ公国は、バザール・ハン国を滅ぼした後、モス
 クワ近くまで支配した。
  しかし、13世紀半ばに、この国は、モンゴル人によっ
 て滅ぼされた。
.
1008年、日本の才女・紫式部が、源氏物語の執筆を始めた。
  古い時代から女性に優しかった日本・・男女平等をは
 じめ、平等の国・日本の才女・紫式部・・、
  この日本の女性が、世界で最初の長編文学を著わした。
  紫式部は、幼いころから聡明な女性だった。
  彼女の父も、式部省に勤める学者として名高かった。
  この父親が、彼女の弟に漢文を教えていると、そばで
 聞いていた紫式部の方が先に覚えてしまったという話が
 伝わっている。
  20歳代の頃・・紫式部は、国司として赴任する父親に
 従って越前(福井県)に赴(おもむ)いた。
  彼女は、藤原宣孝(のぶたか)から求婚されていた。
  しかし、この宣孝は遊び者であった。
  それで、紫式部は、返事を先延ばしにしていた。
  その様なところだったので、この事もあって、紫式部
 は、京を離れたのだった。
  越前では、父の秘書として、才能を発揮し、その役割
 を果たした・・そして、広い知識も収めた。
  結局、紫式部は、藤原宣孝と京で結ばれたが、夫に先
 立たれた。
  その後、一条天皇の后(きさき)の彰子(しょうし、
 藤原道長の娘)に仕えた。
  才女の集まる宮廷は、優雅で、知的な社交の場だった。
  優秀な才媛らと、その才能を競った。
  そのような環境から、世界に誇る優れた文学が生み出
 された。
  紫式部日記もこの環境を伝える文学となっている。
  宮仕えを終えた紫式部は、1008年頃から、不朽の名作
 「源氏物語」の執筆にとりかかった。
  全54巻にもおよぶ長編小説だった。
  現代に至っても、なお燦然と輝き続ける人類の宝とな
 っている。
.
1297年、ベネチア共和国の第49代元首のピエトロ・グラデ
 ニーゴは、政治改革案を提案した。
  ベネチアの政治は、非常に民主的な政治を目指してい
 た。
  ベネチアの考え方は・・「この世の仕組みは、あくま
 でこの世の民が決める・・(キリスト教の神ではない・・
 また、その代理人であるキリスト教聖職者でもない)」・・
 とした。
  故に、ベネチアは、力を誇示するローマ法王の「支配
 を及ぼそうとする権力」と対峙した。
  ローマ法王(教皇)が嘆いたほどだった・・「教皇で
 ある自分は、ベネチアだけは違う(支配は出来ない)」・・
 と・・、
  べネツアは、キリスト教司祭でさえベネチアの民・住
 民が選び、ローマ法王の権力を排除した。
  ベネチアの政治体制は、ローマ帝国の長さと同じ500年
 間も続いた。
  ベネチアの為政者の選出も神経を使っていた。
  まず、複雑な手順で、その「選出のための有権者」が
 決められた。
  それから、その有権者らの投票で、元首(ドージェ)
 が選出された。
  そして、さらに、専制的にならないように、元首が、
 補佐官の数名と相談して事を為すというシステムになっ
 ていた。
  それでも・・同じ家から二代目、三代目と続かないよ
 うに・・、
  そして、いつの間にか「君主制に転じていた」なんて
 ならないように注意していた。
  今、世の中が進んでいる21世紀だというのに、独裁的
 な国家・・タミの声を聞かない「中国」や「北朝鮮」が
 存在し、その独裁者が、大量殺戮兵器の核ミサイルを世
 界へ向けている。
  このベネチアの元首・グラデニーゴが、1297年に、政
 治改革案を提案したのも、民主政が形骸化して、ダンド
 ロ家やティエポロ家、モロシーニ家といった名門から元
 首が選ばれることが多くなり、金銭が絡む不正や衆愚政
 治的な動きによって政治が左右されることが多くなった
 からだった。
  しかし、この時、グラデニーゴの提案が受け入れられ
 て、改革が行われたと思ったが・・しかし・・、
  中産階級が大幅な増員という形となって、発言力が増
 していた。
  確かに、上流階層の発言力は抑えられたが、また、以
 前から発言力のない下層民衆と共に、この発言を抑えら
 れた・・
  そのため、上流階層と下層民衆の双方から、グラデニ
 ーゴは攻められた。
  また、ローマ法王もベネチアの台頭を快(こころよ)
 く思っていなかったため・・奸計(かんけい、悪意ある
 はかりごと)を巡らせた・・
  ローマ法王は、反対派と共に、グラデニーゴの失脚を
 画策した・・
  よく歴史上で、政治に首を出すキリスト教法王だった。
  1310年6月15日に、クーデターが勃発した。
  だが、グラデニーゴの対応によって、このクーデター
 は失敗に終わった。
  そして、政治改革を行なうのであるが、グラデニーゴ
 は、何故か?、この翌年、急死する・・毒殺?・・
  反対派の毒殺説が存在する。
  ピエトロ・グラデニーゴ:1252年生まれで、1311年に
 59歳で没した・・、
  元首としての在任は、1289年(37歳)から1311年(59
 歳)の22年間だった。
.
15世紀、この頃になると、スラブ人のモスクワ大公国の勢
 力が拡大し目立った。
  キリスト教東方正教会は、キリスト教の三大分流の一
 つだが・・、
  1054年、東ローマ帝国圏のコンスタンティノポリスと
 ローマの総主教座が、東西に分裂し・・、
  以後、西方のローマ‐カトリック教会に対して、正(
 オーソドックス、正統だの意味)教会として発展した。
  15世紀頃になると、ギリシャ正教会が、オスマン帝国
 の支配を受けるようになり・・主流が、ロシア正教会
 (ハリストス正教会)に移った。
  モスクワ大公国のイヴァン3世(在位1462年~1505年)
 は、ロシアをほぼ統一させ、ビザンツ帝国の最後の皇帝
 の姪を妻に迎えた・・、
  この後、ロシア人が、スラブ系の諸勢力の中心となっ
 て、キリスト教の東方正教会の主導権を握った。
  そして、20世紀になって、その多くが・・共産圏へ入
 った。
.
1637年、哲学者・デカルトの最初の著書「方法序説」が書
 かれた。
  この中で、デカルトは、キリスト教のイエズス会のラ・
 フレーシュ学院で学んでいたが・・キリスト教の数々の
 論理矛盾に対し・・そして、これを、伝統的に受け入れ
 ているだけの学問に対し・・批判した。
  当然、その結論は・・そこには、確実なものは「ほと
 んど見当たらない」と・・、
  最新の科学にも通じていて・・「このデカルトやパス
 カル」は、その合理主義を取った。
  そして、科学的思考も重んじた・・非科学的な論理矛
 盾だらけのキリスト教を嫌悪した。
  デカルト等は、「人間の理性は、非合理なものを断ち
 切る知恵を持つ」・・と説いた。
  そして、絶対王政の下で、「キリスト教会が定めた戒
 律」より・・「個々人の理性による判断」の方が確かだ
 ・・と・・
  そして、その思考法を重んじる近代哲学が広まって行
 った。
  近代哲学は、科学的根拠のないキリスト教の宗教行事
 も・・、
  イエスやマリヤの像を拝(おが)むなどの現世利益を
 求めるキリスト教の非合理なすべての事々を、当然、指
 摘した。
  「誰が救われ、誰が救われないかなど、あらかじめキ
 リスト教の神(主)によって決められている」という陳
 腐さなどを指摘した。
  同時に、キリスト教によって権威づけられた国王の統
 治に対する疑問へも気付かされる。
  また、権威づけられた国王・諸侯側も、キリスト教側
 へ種々の利便を与えた。
  デカルト派の近代哲学者は、「人間が理性を持って判
 断したことに『誤りはない』」と断言した。
  ここから、「より多くの人々が理性的判断を下す」と
 いう『民主主義の望ましさが認識されて行った』。
  民主主義の目覚め・・
  そして、「国王は、キリスト教の神(主)から授けら
 れたものであるから、国王は思いのままの政治を行なう
 ことが出来る」という『王権神授説』は、『否定されて
 行った』・・キリスト教の虚構は崩れて行った・・
.
1918年11月11日、第一次世界大戦が終結した。
  ヨーロッパ諸国やアメリカは、あれほど強烈に「植民
 地の収奪をしておきながら、その植民地諸国に対して、
 謝罪など一度もしていない」・・、
  朝鮮は、中国に冊封されていて、なんだかんだと中国・
 清朝の翼下に入りたがっていた。
  強いものに付くという状況だった。
  1894年3月29日に起きた甲午農民戦争の朝鮮国内の反乱
 が抑えきれないと見ると、「中国・清の出兵を要請し、
 助けを求める」というような李氏朝鮮の状況だった。
  日本が、力を付けて、中国・清と対等に行動できるよ
 うになると、朝鮮の態度も変わった。
  そして、日清戦争に日本が勝利すると、朝鮮は清から
 独立することが出来た。
  それとともに、日本の翼下に入って来た。
  日本と朝鮮・・日朝はこの様な関係にあった。
  誠実な日本は、朝鮮の国づくりを一生懸命に行なった。
  他国がしない様な投資を、日本は、一生懸命、朝鮮に
 した。
  しかし、時を経て、時代が変わると、朝鮮は、日本が
 『植民地支配をした』と言い出した。
  日本へ、その謝罪の要求さえもした。
  「もう二度と、この様な謝罪要求などしないから」と
 いう言葉に引っ掛かって、ならば・・と、友好のためと、
 日本が謝罪をすると・・、
  その後に、その様な経緯は捨て去って、その後、「日
 本が謝罪した」と世界に喧伝した。
  ヨーロッパ諸国やアメリカなどより、日本は、朝鮮の
 国造りに貢献しているという日本に対して・・、
  二度と謝罪要求しないという前言はどこ吹く風と、何
 度も謝罪を要求するという態度をとった。
  ヨーロッパ諸国やアメリカは、植民地に強引に自国の
 法律や習俗までも押し付け、植民地収奪をするという事
 までしていた。
  キリスト教の自国の宗教でさえ押し付けた。
  ヨーロッパ諸国やアメリカの強国の植民地へのあくな
 き要求・欲望は極まっていた。
  世界大戦まで引き起こした。
  (第一次世界大戦では、オスマントルコの領有した中
 近東の広大な地域を、イギリスやフランスの勢力下に入
 れた)
  日本の対応は、善意に満ちていた。
  その何よりものその証拠が、朝鮮の人口が3倍にもな
 った。
  衛生状態も、見違えるほど向上した。
  日本と同等、または、それ以上の教育の充実にも、日
 本は努力した。
  産業も起こし、鉄道も朝鮮じゅうにくまなく敷設した。
  ・・など、その例は、枚挙にいとまがない。
  朝鮮からの感謝の言葉もない。
  この貢献の事実は、朝鮮は、認識し、認めよ。
  日本の国民の資金・税金が投入されて、なされたこと
 なのだ。
  また、因みに、第一次世界大戦の勝利側は、イギリス
 帝国、フランス共和国などの連合国側で・・
  一方、敗戦国側の中央同盟国側には、ドイツ帝国、オ
 ーストリア=ハンガリー帝国のほか、オスマン帝国が居
 た。
  このオスマン帝国の中近東の広大な領土が、イギリス・
 フランスの勢力下に入り、この後、色々な問題を引き起
 こす。
.
1944年8月、国際連合憲章が、アメリカ合衆国、イギリス、
 ソビエト連邦、中華民国の代表がワシントンD.C.郊外の
 ダンバートン・オークスで会議を開き(ダンバートン・
 オークス会議)、憲章の原案となる「一般的国際機構設
 立に関する提案」を作成した(~1944年10月)
  そして、1945年6月26日、サンフランシスコ会議におい
 て、51ヶ国により署名された。
  そして、この国際連合憲章の第53条第1項後段(安保理
 の許可の例外規定)は、「第二次世界大戦中に連合国の
 敵国だった国」が、戦争により確定した事項を無効に、
 または排除した場合、国際連合加盟国や地域安全保障機
 構は安保理の許可がなくとも、当該国に対して『軍事的
 制裁を課すことが容認』され、この行為は『制止できな
 い』としている。
  また、敵国の侵略政策の再現に備える地域的取極がな
 されている場合も、安保理の許可がなくとも『敵国に対
 して軍事的制裁を課すことができる』としている・・
  そして、馬鹿らしくも、戦後、70年以上も経た今でも、
 『有効だ』とされている・・「時代遅れの国連憲章」と
 なっている。
.
1945年10月24日、国際連合が活動を開始した。
  国際連合憲章の発効に伴って、国際連合が発足した。
  本部は、アメリカのニューヨーク市のマンハッタンに
 ある。
  韓国は、日韓併合で、第二次世界大戦を、「れっきと
 日本と共に戦った」のに、中国の上海か?どこか?に居
 た日本と対決していた小さいわずかなグループを引き合
 いに出して、都合よく・・「そのグループの後を引き継
 いだ」という言い方を言い出した。
  『だから、韓国は戦勝国だ』という卑劣な言い方を言
 い出した。
  日本にも、日本の敗戦を最初から予測し、確信してい
 た人は多くいた。
  つまり、日本国政府の意思と一致しない人々は多く居
 た。
  日本には、だから・・「その人々の意思を引き継いだ」
 なんて言い出す事はしない・・
  『卑劣な節操のない屁理屈は言わない』が・・
  韓国のその言い方は、『馬鹿者』と言いたいくらいの
 その様な恥ずかしいもの・・。
  韓国兵士・・当時は、日韓併合の兵士(東京裁判で、
 有罪となった兵士の方も居るという状況)も、勇敢に、
 アメリカやイギリスの連合国軍と戦い、日本の将校とな
 って、東京裁判でその軍事行為が裁かれた。
  韓国は、日本と同じ枢軸国として裁かれている。
  また、汚いのは「イタリアだ」。
  ドイツと一緒になって、あれほど戦い、その枢軸国に
 後から日本も加わって、戦って・・、形成が悪くなると、
 イタリアは、クルッと向きを変え、勝っている方へ加担
 して、最高位の人間・ムッソリーニを捕らえて、殺して
 (私刑・リンチ)、戦勝国に化けてしまった。
  そして、アメリカも、イギリスも、その様に遇してい
 るから・・おかしい???
  ドイツの裁判や、日本の裁判の様な事はしていない。
  すべてを不問としている。
  おかしいではないか・・おかしい事が起きているでは
 ないか・・
  誤魔化しが起きている。
  例えば、何人も殺してきた犯人が、ある時、クルッと
 態度を変えて、行動が変わったら、「犯人ではなくなっ
 てしまった」・・という様なもの・・
  こんな話は通らない・・こんな理屈は通らない・・イ
 タリアだって同じ様に裁判を受けるべき敗戦国だ。
  例えば、信長が本能寺で、明智光秀に討ち取られ「明
 智光秀の三日天下」となった。
  その後の豊臣秀吉との戦いに敗れた。
  しかし、秀吉は、光秀の首を取り損なっている。
  光秀の天下は、実態としては、秀吉に、その体制は崩
 されたが・・、
  もしかしたら、光秀は、どこかで態勢を取り直すとい
 う過程にもあった。
  つまり、光秀が敗れて、逃避行の身にはなったが・・
 戦に敗れた時点で終わったとしてはいけない。
  一分の可能性を持って信長を破って手に入れた、光秀
 の天下は続いている。
  実態は、天下は、秀吉に流れて行くのだろうが?・・
 しかし、100パーセントでは無い。
  そして、可能性を求めて逃げ延びた光秀は、逃避行途
 中の山の中で、落人狩りの百姓に討ち取られてはいるが、
 一分の可能性があった光秀の可能性が・・ここで無くな
 ったのである。
  その残っていた僅(わず)かな光秀の可能性を「その
 百姓たち」が奪ったわけである。
  光秀は、可能性はほとんどない状態に居たが、その僅
 かな可能性を、百姓たちが奪い取ったのである。
  つまり、可能性のほとんどない、その可能性は、その
 落人狩りの百姓グループに移った、99.99999・・パーセ
 ントの可能性は秀吉だろうが。
  しかし、秀吉は、この百姓から当然、その残りの
 0.000・・1%を取り返さなかった。
  秀吉は、「100%の天下人では無い」と言えるか??
  これは、屁理屈である。
  こじつけ論理である。
  くだらない論理である。
  しかし、「この様なこじつけ論理」が、イタリアの場
 合にも言われているのである。
  くだらない事に・・アメリカ・イギリスが、このくだ
 らない論理を振り回して、「正義だ」「正しいのだ」と
 言っている。
  アメリカ・イギリスは、この様に・・勝手に自分だけ
 の論理を振り回してやって来た。
  問われるべき罪もないのに・・罪があるのだとして殺
 して来た。
  また、罪を問うべきを問わないで・・公正・公平に行
 なわないで来た。
  お好みで、すべてを処して来た。
  イタリアは、連合国状態になってしまった。
  そして、日本やドイツに対して・・国連の敵国条項が、
 今だに、現在もまだ、存在しているという・・
  これが、アメリカに都合が良いと、いまだに、その状
 態を取って、世界中に、そして、日本・ドイツに押し付
 けている。
.
2014年、ロシアは、クリミアを強引にロシアへ併合させてし
 まった。
  クリミア半島は、地理的にヨーロッパの南端と言えた。
  これは、キリスト教圏とイスラム圏との境界でもあっ
 た。
  この様な位置関係から、古い時代から様々な多様な信
 仰を持った民族が、クリミアに侵入してきた。
  東ローマ帝国の系統の東方正教会のキリスト教徒が、
 ロシアやウクライナへ侵入し、また、クリミア半島へも
 入ってきた。
  また、オスマントルコが、クリミア半島に、イスラム
 教を入れた。
  この様な両宗教の地となって来た。
  また、モンゴル系のクリミアタタールの人々もいる。
  クリミアには、ロシア正教、ウクライナ正教、イスラ
 ム教スンニー派の3者の方々の複雑な宗教的関係がある
 状態となっている。
  大国や強国が、武力で解決する問題ではない。
.
2015年9月、EUへ向かう難民の方々・・それも豊かなド
 イツへ
  幼い3歳の難民の子供が波に漂(ただよ)う悲惨な姿
 はEU諸国へショックを与えた。
  豊かなドイツへ向かう難民の方々・・、
  そのドイツ・・なんとも歯切れが悪く・・その悲惨な
 幼児の姿を見て、難民の受け入れを決めた・・が・・
  元々は、ドイツには、難民を救済するとする基本法が
 あった・・第二次世界大戦時の卑劣な行為の罪滅ぼしで
 あったが・・、
  この頃になると、ニコニコ顔で受け入れるという当初
 のドイツではいられない・・当初とはだいぶ違っていた。
  この3歳児の悲惨な姿の報道後、一時は、態度を変えた
 が・・しかし、ドイツは、『入国審査を再開する』と言
 い出した。
  即刻、ドイツは、アウトバーンで「検問を復活させた」。
  このアウトバーンの検問は、30年ぶりだった。
  この様な事までやり出すドイツだった。
  アウトバーンは大渋滞となった。
  ドイツへ来る列車も運休にされた。
  押し寄せる難民の方々に対し、ドイツは、この様な事
 をした。
  列車で到着した難民の方々は、最初の3日間で3万1000
 人に達した。
  だから、他のEU諸国も、同様な態度を取り出した。
  オーストリアは、すぐさまハンガリー国境に軍隊を派
 遣した。
  チェコも、国境監視を始めた。
  EUの「自由往来」のシェンゲン圏内の取り決めは、
 まったく『無視』の「あるが無きのごとく」だった。
  EUの美しく飾り立てた理念「人、モノ、金、サービ
 スの自由な移動」は、どこかへ行ってしまっていた。
  「シェンゲン協定」も、「ダブリン協定」も、まった
 く捨て去ったEUだった。
  2015年9月だけで、難民の方々は、16万4000人が入国
 した。
.
2015年9月、EUへの、多くの難民の流入が続く・・
  ドイツの豊かさが私たちも欲しいと・・、
  それが得たいと・・難民となってドイツへ流入する、
 押し寄せる・・その難民を受け入れるドイツ・・そうし
 なければならないと・・、
  難民が押し寄せるような良い国に、ドイツの今のお年
 寄り方がしたのだが・・子供たちの為にと一生懸命に働
 いて・・国づくりに励んだ・・今のドイツはその努力
 の結果で・・
  2015年、ドイツの難民の入国数は「80万人と予想され
 た」。
  しかし、その流入は激しく、この数が、100万人に修正
 された。
  人口8000万人の国に、この年だけで100万人を受け入れ
 る。
  この難民の受け入れに「○○万人だ」と上限を決める
 事はおかしいと発言する声・・その様な論理があった・・
  しかし、無制限に難民が入ってくれば・・社会も、労
 働市場も、学校も、混乱してしまう。
  メルケル首相は、自身が、東ドイツ出身で、悲惨な東
 ドイツから豊かな西ドイツへ来たという体験をした人で
 あるため、難民の方々へ理解を示し、難民の方々の身に
 なった発言をしていた。
  そして、「できる」と発言した。
  ドイツ中が、この「できる」で高揚した。
  かつて、第二次世界大戦に至った、あの高揚の様な、
 似た状況にドイツはあった。
  少しでも異議を唱える人間には「非人道的」というレ
 ッテルが張られた。
  下手な発言は、極右だとされた。
  この様な中で、ドイツ社会の中に難民が入って来て、
 定着して行った。
  そして、ドイツが変わり始めた。
  ドイツ社会がきしみだした。
  問題の原点には・・難民を発生させる、そもそもの原
 因があるが、その解決が見えない中に、ドイツへたどり
 着いた難民の方々、そのたどり着いたその場の崩壊が、
 現実となって行った。
  警察沙汰が増加した。
  収容施設は、ぎゅうぎゅう詰めとなった。
  そこで、暴力沙汰が増えた。
  難民の民族と民族の、「民族の違いの闘争」が起きた。
  2015年9月27日、ヘッセン州の収容所で、コソボのアル
 バニア人とパキスタン人の大規模な闘争が起き、400人も
 の難民が暴れた。
  警察官も負傷し、難民の方々も負傷し、その他の多く
 の難民施設でも、一触即発の事態が続いているという状
 態になった。
  言葉も宗教も違い・・昨日までまったく知らない者同
 士が、狭い中に、ぎゅうぎゅうと押し込まれて居るとい
 う欲求不満の塊の社会ができていた。
  警察も限界に来ていた。
  民間の警備会社が投入されたが、警備員には移民系が
 多いので・・火に油を注ぐという結果になった。
  2015年9月28日、警察が、宗教別に収容すると発表した。
  この様な人々が、これからドイツ文化を受け入れて、
 静かに生活して行けるのかという事が「危ぶまれた」。
  この様な時に、ハンガリーは、国境を封鎖した。
  クロアチアも、続いて、国境封鎖した。
  EUの国境が・・閉じられて行った。
  それでも、難民の流れは止まらなかった。
  民族移動が、一旦、始まると止められないのごとくだ
 った。
  難民は、悪路でも、何でも、迂回したりして入って来
 た。
  ユーゴ内乱の時の地雷が残る「地雷地帯」にまで入っ
 てきた。
  10月になって、気温が下がっても、冷たい雨が降って
 も、道がぬかるんでも、難民の行軍はあった。
  スロベニアは、難民の数があまりにも多いので、その
 数に驚いて、軍隊を出し、流入を防ごうとした。
  しかし、その隣のクロアチアは、スロベニアにどんど
 ん難民を送り出していた。
  2015年10月17日、この難民問題が、からんでケルン市
 長の有力候補がナイフ刺された。
  犯人は、『難民政策が気に食わない』のでやったと言
 った。
  10月末の冷たい川に、首まで浸かってでも渡河してい
 る人々の様子が報道された。
  水温は8度だった。
  赤ん坊、お年寄り、子供が、どうなっているのかが心
 配された。
  この様な原因を作っている「元が悪いのだ」が・・?
.
2016年3月13日、テレビ報道は、年がら年中、日本国民の世
 論操作をしている。
  例えば・・
  ☆2016年3月13日、日本テレビ:
  自民党大会での安倍総理の「選挙の為だったら何でも
 する、こんな無責任な勢力に敗ける訳にはいかない」と
 の発言を、悪意ある編集をして内容をまったく変えた・・
  「安倍首相『選挙が為だったら何でもする』」と表示
 をして、「安倍首相の悪印象」を印象付けた。
  またこれは、総理という立場での指導的発言を、首相
 という国の代表に立場を変えるという悪意もある。
  国の責任者にある状況にして、異常発言の状態に編集
 し、放送し、悪印象へと操作をしている・・まったく許
 せぬ日本テレビの放送のやり方。
  日本テレビは、仏教蔑視の放送も年がら年中している。
  悪い場面で、お寺の鐘をゴーンとならしたり、仏壇の
 リンをチーンと鳴らしたりと、年がら年中している世論
 操作・印象操作ばかりする放送局となっている・・テレ
 ビコマーシャルを依頼している企業へも悪印象を与えて
 いる。
  ☆2014年9月10日、テレビ朝日:
  川内原発に関する報道で、原子力規制委員会の田中俊
 一前委員長がいくつかの記者の質問に対して回答を拒否
 した部分のみを放送して偏向した編集をして世論に偏っ
 た印象を与えた。
  ☆2015年6月5日、フジテレビ:
  VTR内で日本についてインタビューに答えている韓
 国人2人について、翻訳の字幕や日本語吹き替えの内容
 と異なる映像を使用し、韓国人が日本を嫌っているかの
 ように放送した。
  ☆2017年7月3日、TBS、
  小池百合子東京都知事が就任あいさつをした際に、握
 手をした映像をカットして「自民党の川井重勇都議会議
 長(当時)が握手を拒否」と放送して、全く事実と違う
 放送をした。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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# by suba28 | 2018-05-15 04:02 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)594E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年3月)

題:(増補版)594E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年3月9日、明治天皇陛下大婚満二十五年祝典挙行
  明治天皇陛下銀婚式
  明治天皇陛下・御夫妻の「大婚25年祝典」(銀婚式)
 が行われた。
  記念日から1ヶ月遅れの開催だった。  
・大婚25年祝典(氷川清話)
  これより、日本で銀婚式が広まった。
  そして、この日、明治銀婚の記念切手が発売された。
  明治天皇陛下の大婚25年記年祝典で、逓信省が記念切
 手2種類をはじめて発行する。
  日本で初めての記念切手は、紅色が内地用で2銭、青
 色が外地用で5銭だった・・
  デザインは、菊の花の紋章にオスとメスの2羽のツル
 が描かれている。
  実は、外国人の新聞の投書がきっかけとなり、急に、
 記念切手の発行が決まったといわれ、日本最初の記念切
 手となった。
  この式典に、渋沢栄一は召されて参内しました。
  そして、栄一に同行した長女の穂積歌子(ほづみ・う
 たこ、1863年~1932年)は、その著書「はゝその落葉」
 の中で、この日のことを以下の様に記している・・、
  (上略)久かたの天の御柱めぐりめぐりて。
  廿年あまり五つとせと云ふにならせ給ヘバとて。
  やがて其年の春三月九日。
  御祝典取行はせ給ひ。
  勅任以上の司人。
  および民間にあるも四位以上の人々ハ。
  其夫人と共に九重の内に召しのぼせ給ひ。
  御代ことほぎの舞楽拝観をなんゆるさせ給ひける。
  されバ数ならぬ身も此おほん恵ミの露にもれざりし事
 こそいとうれしかりしか。
  大人にハ冠をかけ給ひしより。
  公の御儀式にたづさはらんも要なしとて。
  議会開院の式にすら出まし給はざりけれどこたびハあ
 まりの御めでたさに。
  始めて四位の大礼服調ぜさせられて参内せさせ給ひき。
  (下略)
  はゝその落葉、穂積歌子著、明治三三年二月刊
 
1894年3月12日、堀井新治郎が、謄写版(ガリ版)の特許を
 取得した。
  初代の堀井新治郎は、明治・大正時代の日本の発明家
 で、謄写版(ガリ版)印刷機の開発者。
  幕末のただなかにあたる安政3年9月16日(1856年10月
 14日)、近江国蒲生郡駕輿丁村の、菱田弥左衛門の次男
 として生まれた。
  内務省勧農局紅茶伝習所に入り、緑茶再生法伝習所等
 を経て・・、
  1879年(23歳)8月13日、岐阜県御用係となり、その後、
   農商務省製茶巡回教師になる。
  1883年(27歳)8月、滋賀県蒲生郡岡本村で、代々醸造
   業を営む堀井家の養子となり、亡夫と儲けた一児を
   連れた堀井ヒデと結婚して、第38代堀井家の家主・
   新治郎となる。
   滋賀県勧業委員や米質改良委員などを歴任した後、
  1893年(37歳)1月、新治郎は、簡易印刷方法研究のた
   め官職を退く。
    巡回教師活動は、多くの資料を複数部用意する必
   要があるが、当時の印刷は高く、一般が利用できる
   金額でないことから、同文を一括して印刷できる簡
   易な印刷方法の必要性を仕事を通じて痛感していた。
    仕事を通じて欧米で簡易印刷について調査してい
   たことから、開発の方向性は見え始めていた。
    なお、子息・耕造も、同時期に勤務先である三井
   物産を退職し、父と行動を共にし簡易印刷方法の研
   究に邁進することとなった。
    当時、日本で行われた簡易印刷としてはコンニャ
   ク版印刷があったが、多くて20枚の印刷が限界で、
   企業や役所・学校はより多数の同文書類を必要とす
   ることが多く、質の高い簡易印刷は様々な活動にお
   いて強く求められていた。
    簡易印刷の方向性が纏まりかけて来たことから、
  1893年(37歳)3月、シカゴ万博視察を兼ねて、印刷技
   術の先進国であるアメリカ合衆国に簡易印刷方法の
   情報収集・技術習得に出向く。
    アメリカでは、エジソンが孔版印刷ミメオグラフ
   (謄写版)の理論を、1861年に開発し、新次郎が渡
   米した頃、エジソンは原型を完成させた。
    その間、日本では、度重なる研究開発費に渡米費
   用等の資金を捻出するため、子息・耕造は、蒲生郡
   の自宅を含め、仏壇を除く資産を売却し、
  1893年(37歳)4月、その資金で、一家は東京府東京市
   神田鍛冶町へ転居した。
   家族の生活は極貧の状態であった。
  1893年(37歳)10月、視察を終えた新治郎は、日本に
   帰国した。
  1894年(38歳)1月、新治郎親子は、「蠟引きした原紙
   をやすり上におき、鉄筆で書いて製版する方法」を
   発明し、「謄写版」と命名し、発表した。
    この頃、謄写堂と社名を称する。
    また、速やかに特許出願を行うが、資金がなく自
   力申請した結果、書類に不備があって特許受理には
   至らなかった。
    堀井家にとっては早々の資金化が必要なことから、
  1894年(38歳)7月、ジャパン・ウィークリー・メイル
   (横浜居留地にて発行された在日外国人向けの新聞、
   明治維新期から近代化する日本の情報を世界に発信
   しつづけた英字紙)に謄写版の広告を出し、大きな
   反響を得ることができた。
    また、東京帝国大学講師ウエングステンからも優
   秀な発明との賞賛を得、横浜のモルフ商会他在日外
   国商社等から資金支援の申し出があったが、条件面
   での不満があって、これらの申し出を謝絶した。
    営業は主に耕造が担当したが、当時は簡易印刷へ
   の期待の高さから詐欺的営業も多く、堀井の謄写版
   に対しても世間の信頼を得ることはできなかった。
  1894年(38歳)7月、日清戦争が勃発すると、簡易印刷
   機は軍部においても必要なものであることから、陸
   軍省より堀井親子に多量の謄写版発注があった。
    製造途中において火災に遭い、印刷紙の多くを消
   失するなどの問題が生じたものの、新治郎親子の昼
   夜を厭わない作業により、期限内に完納することが
   できた。
  1895年(39歳)3月12日、2499号にて特許(謄写印刷紙)
   が認められた、加えて、軍への納入は世間に十分信
   用証明するものであったことから、以後は役所等よ
   り多くの注文を得るに至った。
    新治郎親子も営業に注力すべく行商活動する従業
   員を雇って販売を広げながらも、掛売りの焦げ付き
   などから資金面では厳しい展開が続いた。
    それでも、堀井親子の謄写版が簡易印刷の主流と
   なるに及んだ。
  1897年(41歳)3月、耕造が結婚し、5月には博覧会創
   設25年記念博覧会(京都)において賞杯を受ける。
  1904年(48歳)4月、新次郎は病に倒れて隠居し、子息・
   耕造が第39代堀井家家主となる。
  1916年(60歳)5月8日、緑綬褒章を受章し、
  1917年(61歳)新次郎は「新治郎」の名を息子・耕造
   に襲名させ、自らは「元紀」と名を改めた。
  1922年(66歳)4月29日、帝国発明協会優等賞を、
  1926年(70歳)9月17日、帝国発明協会最高賞である帝
   国表彰を、
  1929年(73歳)10月16日、特等賞を受賞した。また、
  1929年(73歳)11月30日、産業貿易功労者として子息・
   新次郎が表彰された。
  1932年(76歳)7月19日、新治郎(元紀)は目白台の自
   邸にて永眠する。
  生前特許出願数は647件、内特許件数433件(日本特許
 394件、イギリス・アメリカ・フランス・イタリアでの
 特許39件)に達した。

1894年3月28日、朝鮮の政治指導者・金玉均が、上海に誘い
 出され、拳銃で暗殺された。
  これは、李氏朝鮮の刺客だった。
  金玉均の遺体は、中国・清朝の軍艦で朝鮮に運ばれ、
 遺体になっても卑劣な刑(凌遅刑)が執行された。
  中国・清朝と朝鮮・李朝の示し合わせた暗殺だった。
  日本人の和田延次郎は、秘かに金玉均の髪と衣服の一
 部を日本に持ち帰り、浅草本願寺で葬儀を営んだ。
  金玉均には、凾館で知り合った妻が居たが、金玉均の
 暗殺が起きた直後、東学党の乱が起き、金玉均の妻子の
 安否状況が心配されたが、日本軍が、偶然、発見し、そ
 の妻と女の子を保護した。
  その時の二人の姿は、まったく憐れむべき状況・姿だ
 ったという。
  因みに、朝鮮は、この金玉均だけでなく、金玉均の朝
 鮮開花派の人々をも処刑した(問答無用の蛮行がなされ
 た)。
  暗殺者は、朝鮮帰国後、李氏朝鮮の高宗(第26代国王)
 から激賞され、要職に就いた・・そして、開化派を弾圧
 し続けた。

1894年3月29日、朝鮮南部の全羅道で、農民を基盤とする在
 地宗教の東学党が、圧政に抵抗して蜂起した・・甲午農
 民戦争が始まった。
  農民の蜂起の原因は、李朝朝鮮の圧政と腐敗で、その
 「腐敗した役人の追放要求」と、「利益を収奪する外国
 人の追放」だった。
  農民の勢いは強く、朝鮮半島の一部を制圧するほどだ
 った。
  兵力の弱い李氏朝鮮王朝は、清国に出兵を求めた。
  日本も、清国との申し合わせによって出兵した。
  そして、この後、日清両国に衝突が起きた。
  そして、このぶつかり合いが、拡大して行った・・
  日清戦争の原因となった。
  戦場は、拡大し続け、満州南部などに拡がった。
  これまで清国に劣勢だった日本の兵力は、この時点で
 は、陸戦でも海戦でも、清国と対等、もしくは、圧倒す
 るくらいまでになっていた。
  これまで、圧倒する清国に対して、日本は、努力を重
 ねて来ていて、「新兵器も用意し、装備していた」。
  また、「軍隊の訓練に励み、規律も優秀で優っていた」。
  そして、「日本人全体の意識が、国民として一つにま
 とまっていた」。
  因みに、1885年に、日本と清国は、朝鮮に出兵する時
 には、事前にお互いに、相手側へ通知し合うという条約
 を結んでいた。
  (参考)東学農民の蜂起の原因:この1894年に朝鮮南
     部で起きた農民戦争の原因は・・、
      外国貿易の開始による経済変動で、南部地方
     の農民は生活破たんを起こすほど悪かった。
      この様な苦境に直面している民に、新興の民
     族宗教東学は、こうした農民層に浸透し救済し
     た。
      また、李朝の郡守の圧政に怒った全羅道郡古
     阜の農民たちが、全琫準を指導者として、東学
     の組織を通じて決起した。
      この「東学党の乱、甲午農民戦争」と、苦境
     にあえいでいた農民の方々の大農民反乱に発展
     した。
      農民軍は、全羅道都の全州を占領、また、他
     国に軍事介入の口実を与えぬように、悪質李朝
     官吏の処罰や身分解放などを条件に李朝政府軍
     と休戦した・・が・・
  
1894年、横浜で鉄桟橋が完成した。
  横浜港は、1859年の開港以来、急増する貨物量に対し
 て、
  『イギリス波止場』(後の「象の鼻」波止場と呼ばれる)
 や、『フランス波止場』と呼ばれる艀荷役に必要な小規
 模の船溜まりこそあったものの・・、
  直接岸壁に接岸して荷役が行える施設はなかった。
  増加一途の貨物量は、艀荷役だけでは対応しきれなく
 なっていた。
  接岸荷役を可能にする近代埠頭の必要性は高まってい
 た。
  艀荷役が、慢性的な埠頭不足により、近代国家に相応
 しい埠頭を建設することが早急の課題とされた。
  明治維新直後から、井上馨大蔵大輔や、神奈川県知事
 はその建設を要請していた。
  1870年になって、工部省お雇い外国人の英国人技師リ
 チャード・ヘンリー・プラントンが、横浜築港桟橋計画
 の提案をした・・また・・、
  1874年にも、内務省お雇い外国人オランダ人技師ファ
 ン・ドールンも築港計画提案をした。
  大隈重信大蔵卿からも、接岸荷役体制に向けた築港計
 画が上申された。
  しかし、これ等の多くの要望があったが実現はできな
 かった。
  また、当時は、既に、「東京港の建設」の機運にあり、
 品川沖に築港する案もあった。
  しかし、その東京港建設案は、財政難や、横浜からの
 反対などもあり、実現はしなかった。
  1886年、横浜開港から27年が経過したこの年、機運が
 やっと高まった。
  内務省から、オランダ人技師デ・リーケへの設計要請
 があり・・また・・、
  神奈川県より、イギリス陸軍大佐であり技官であった
 ヘンリー・スペンサー・パーマーへの設計要請が行なわ
 れた。
  しかし、この両者の設計案は、政府内で議論が沸騰し
 た・・
  さらに、政府内にその上位案件として、東京港建設と
 横浜港建設のどちらを先行させるかといった議論が起き
 た。
  この時、外務大臣となっていた大隈重信は、横浜港建
 設を強く進言した。
  さらに、パーマーがイギリス・タイムス記者を兼職し、
 同紙上で、日本を好意的に報道した実績や、不平等条約
 改正に向けた日英同盟への働きなどがあり、
  正式に、パーマーの横浜港築港案が採択されるに至っ
 た。
  また、さらに、下関砲撃事件での賠償のうち、アメリ
 カへの支払った賠償金が、べらぼうな取り過ぎだったた
 め・・、
  1883年、グラント大統領、及び、アメリカ議会の承認
 により、日本への償還が承認された。
  この償還賠償金785,000ドルを充当させることで資金的
 な目処も立った。
  1889年、このようにして、やっと横浜築港第一期工事
 が始まった。
  待望した接岸荷役が可能な埠頭の建設が始まった。
  しかし、基礎に必要な螺旋杭は、当時の日本の精錬所
 からは供給できなかった・・まだ、技術の未熟な日本が
 そこにあった。
  大量の螺旋杭を輸入し、難局を乗り越え、建築された。
  1894年、こうして、現在の大さん橋の前身となる「鉄
 桟橋」が完成した。
  鉄桟橋は、陸地からの総延長738メートル、桟橋部分は
 457メートル、幅19.2メートルで・・当時の技術では最先
 端を行く近代埠頭だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:仏陀の言葉:もろもろの事象は
          過ぎ去るものである
          怠ることなく修行を完成なさい。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 11
.
  カクッター川
  水浴びをしている水牛・・
  それを見て・・気持ち良さそうだねー・・
  今は、その様な情景が流れる・・
.
  仏陀は、パーバ村とクシナガラの間に流れる、このカ
 クッター川のほとりにさしかかった時、ついに耐え切れ
 なくなります。
  ここで袈裟を敷いて腰をおろし、アーナンダに水を汲
 んで来るように頼みます。
.
  仏陀は、弟子に対して、こういう風に語る部分があり
 ます。
  非常になんか こう、人間味のあるエピソードなんで
 すけれど・・、
  それは そのー、もしも自分に何かあったならば、そ
 のことで、自分に供養の食事を出した鍛冶屋の子の責任
 が、問われる様なことになりはしないか・・、
  彼は、けっして悪くないんだと、彼がその事で自戒の
 念に悩まされ、自分に悪徳があるのではないのかと、こ
 ういう風に考えない様に、彼によく言って聞かせてくれ
 と・・、
  当時の鍛冶屋と言いますと、芸能人とかその他の職業
 と同じ様に、いわば当時は、カーストの外にあった、大
 変こう、大きな差別を受けていた階層の人たちですね。
  そういう人たちの供応を喜んで受け、そういう人々に
 心を配るという、そういう遊女だ、あるいはアウト・カ
 ーストの人だという人々にも、まったく平等に、自分の
 思いを伝え、接することを、日常の事としていた、仏陀
 の偉大さというものを、今の、近代を超えて来た私達、
 人権なんていう事をですね、改めて学んでいる私達以前
 に、仏陀は、自ら、率先してその事を教えてくれたよう
 な気がして、感動しない訳にはいきません。
.
  仏陀は、アーナンダに、今夜、クシナガラにある2本
 並んだ沙羅の木の間で、自分は死ぬだろうと予言をしま
 した。
  そして、こう続けました。
.
     アーナンダよ、
     鍛冶工の子・チュンダの後悔の念は
     この様に言って、取り除かねばならない
     『 友よ、
     修行完成者は、
     最後の供養の食べ物を食べて
     お亡くなりになったのだから
     お前には利益(りやく)があり
     大いに功徳がある。
     友・チュンダよ、
     この事を尊師から
     目の当たりに聞き、承った 』。
.
  仏陀が、35歳の時、悟りを開いたのは、供養の食事
 がきっ掛けでした。
  自らの死のきっ掛けとなるチュンダの食事も、それに
 劣らないほどの功徳があると、仏陀は言います。
.
     この二つの供養の食べ物は、
     正に等しい実り、
     正に等しい果報があり、
     他の供養の食べ物よりも、
     はるかに優れた、
     大いなる功徳がある。
     その二つとは何であるか?
     修行完成者は、
     供養の食べ物を食べて、
     無常の完全な悟りを達成したのと、
     及び、供養の食べ物を食べて、
     煩悩の残りのない、
     二ルヴァーナの境地に入られたのとである。
.
  クシナガラに達した仏陀は、もはや、動くこともまま
 ならず、頭が北向きになるように、床をしつらえさせ、
 病み、疲れた身体を横たえました。
  大パリニッバーナ経は、仏陀が横になると、沙羅双樹
 に変化が現れたとしています。
.
     さて、
     その時、
     沙羅双樹は、
     時ならぬのに花が咲き、
     満開となった。
     それらの花は、
     修行完成者に供養するために、
     修行完成者の身体に、
     降りかかり、
     ふりそそぎ、
     ちりそそいだ。
     また、
     天のマンダーラワ花は、
     虚空から降って来て、
     修行完成者に供養するために、
     修行完成者の身体に、
     降りかかり、
     降りそそぎ、
     ちりそそいだ。
     天の楽器は、
     修行完成者に供養するために、
     虚空に奏でられた。
     天の合唱は、
     修行完成者に供養するために、
     虚空に起こった。
.
  仏陀、入滅の地、クシナガラ。
  今も尚、仏陀の死を悼み、参拝に訪れる人が絶えませ
 ん。
  町の中心には、仏陀・入滅を祈念する涅槃堂が建てら
 れております。          (つづく)
.
  (参考)ニルヴァーナ: サンスクリット語の仏教用
     語で、涅槃(Nirvana) のこと。
  (参考)利益: (りやく)仏教の言葉。ためになる
     こと。法力によって恩恵を与えること。自らを
     益するのを功徳(くどく)、他を益するのを利
     益という。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 12
  涅槃堂への道を・・歩く・・
  涅槃堂の鐘の音が・・響く・・
.
  敷地内には、沙羅双樹の木が、代々、植えられ涅槃堂
 を見守り続けております。
  (涅槃堂に入っていく、そして、涅槃像の前で座り・・
  祈る・・)
.
  仏陀が入滅されたときの姿を顕す大涅槃像。
  死を間近にした仏陀の周りには、多くの弟子や信者が
 集まったと言います。 
  大涅槃像の台座には、25年もの間、仏陀と共に歩ん
 できた弟子・アーナンダの像が刻まれています。
  今にも訪れるであろう師との別れを悲しみ号泣する・
 アーナンダ。
  仏陀は、アーナンダを呼び寄せ、こう、諭しました。
.
     止めよう、アーナンダよ。
     悲しむな
     嘆くな
     私は、あらかじめ、この様に、説いたではないか。
     すべての愛する者
     好む者からも
     別れ
     離れ
     異なるに至るという事。
     およそ、
     生じ
     存在し
     つくられ
     破壊さるべきものであるのに
     それが破壊しないようにという事が
     どうしてありえようか 」。
.
  仏陀は、死の間際まで、この世に残される者たちを、
 励まし続けました。
.
  涅槃堂から出て行く・・、出口のところで手を合わせ、
 静かにあたまをさげる。
.
  仏陀を辿る旅は、ここが終着点です。
  (大きく鐘の音が・・響く)
.
  理想的な死と言うものがあるのでしょうか・・
  その、問いに・・、
  それは・・、私・個人の事は、旅の途上で消える様に、
 死んで行ければ幸せだと思いますね。
  あのー、子供の頃から、ずーっと、小学校は4回転校
 し、中学校は3回変わり、ほとんど自分の家というもの
 を持たずに、転々と過ごして来ましたから・・、
  ずーっと自分の人生は旅だと考えて来ましたのでね。
  生涯の終わりというものも、何かの形での旅の途中で、
 世を去るというのは、本当に理想的な終わり方ではない
 かと思います。
  その意味で、仏陀の旅は、本当にうらやましい、齢80
 を重ねて、大変な旅だったでしょうけども・・、
  旅の途中で、しかも豪華な都や宮殿の中でなく、美人
 の中でもなく、
  そういう寂しい寒村の林の中で亡くなった、
  そういう仏陀の姿に、本当に共感と言いますか、憧れ
 と、尊敬というか、そういうものを感じます。
  人間の死に方と言うのは、その様なものだろうと感じ
 ます。
.
  仏陀は、自分が死んだ後、いかにあるべきかについて、
 修行僧たちに説きました。
  そして、最後に聞いておくべき事はないかと、三度、
 訊ねます。
  修行僧たちは、己のなすことを充分に理解し、黙って
 いました。
  そこでアーナンダは、この様に言いました。
.
     尊い方よ。
     不思議であります。
     珍しい事であります。
     私は、この修行僧の集いを
     このように喜んで信じています。
     仏陀に関し
     あるいは、法に関し
     あるいは、集いに関し
     あるいは、道に関し
     あるいは、実践に関し
     一人の修行僧にも
     疑う疑惑が起こっていません。
.
  満足した仏陀は、最後の言葉を口にします。
.
     さー、修行僧たちよ。
     お前たちに告げよう
     もろもろの事象は
     過ぎ去るものである
     怠ることなく修行を完成なさい 」
.
  ・・・と。
  こう、言った訳ですね。
  仏陀の生涯・悟った法というもの、まあーダルマと言
 いますか、
  宇宙・自然・人間存在の真理というもの、それを最後
 に一言で、もろもろの総てのものは過ぎ去るものである、
 変化しないものはない。
  こういう風に最後まで、修行僧たちへ告げて、そして、
 怠ることなく、その真理というものを学びなさいと、こ
 ういう風に、あたかも自分達の同胞・友達に向けて語る
 様に、語りつつ・・、
  仏陀は、ここで生涯を終える訳です。
  仏陀を考えて見ますと、仏陀は、求道(ぐどう)の人
 と同時に、
  そして、偉大なる求法(ぐほう)の人、あるいは、伝
 道の人であった。
  死の直前まで、人々に向かって自分の悟った真理とい
 うものを語り続けようとした。
  ここに、仏陀の宗教者としての存在、それから、人間
 としての魂のやわらかさ、そういうものを感じないでは
 いられません。
  体制の保持者である王とも語る、貴族とも語る、財界
 や商人たちとも語り合う、それでいて、差別された人々
 とか偏見を持たれた人々に対して、まったく率直に、そ
 ういう人々の立場に立って、ものを考え、法を説くとい
 う、こういう事を考えますと、仏陀の持っている現代性
 といいますか、こういうものの大きさを改めて感じたこ
 とでした。
  仏陀のイメージが随分変わりました。
.
紀元前483年頃、ブッダ最後の旅 13
  ブッダの入滅
  悟りを開いてから45年の間、苦しみの海に沈む人々
 を導き続けた仏陀。
  病と如何に向き合い、老いをどう受け入れ、そして、
 死にどう臨むのか・・、
  仏陀は、最後の旅で身をもって示しました。
  仏陀の遺体は、クシナガラで荼毘にふされました。
  その遺骨は、仏陀にゆかりの深い8ヶ所に分骨され、
 それぞれストゥーパに納められました。
  大パリニッバーナ経は、この様に締めくくられていま
 す。
.
     その遺功によって、
     この豊かな大地は、
     最上の供養物をもって飾られているのである。
     この様に、
     この眼のある人(=ブッダ)・仏陀の遺骨は、
     よく崇敬され、
     種々に、
     いとも良く崇敬されている。
     最上の人々によって、
     この様に供養されている、
     合掌して、
     彼を礼拝せよ。
     「 げにブッダは 
          百劫(ひゃくごう)にも
                  会うこと難し 」
                       (完)
  (参 考)五百塵点劫: (ごひゃくじんてんごう)
      とは、法華経如来寿量品で、釈迦の成道の久
      遠をたとえた語である。
       正しくは五百億塵点劫である。
       法華経の如来寿量品第16に・・、
        「今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて
       伽耶城を去ること遠からず、道場に座して
       阿耨多羅三藐三菩提を得たりと思えり。
        しかし、われは実に成仏してより已来(
      このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり」
      とあり、
       続けて・・
        「たとえば、五百千万億那由他阿僧祇の
      三千大千世界を、仮に人ありて抹(す)りて
      微塵となし、東方五百千万億那由他阿僧祇の
      国を過ぎて、すなわち、一塵を下し、かくの
      如く、この微塵が尽きんが如き(無くなるま
      で)、東に行くとしたら、この諸々の世界の
      数を知ることを得べしや、不(いな)や」と
      弥勒菩薩に質問している。
       これは、化城喩品第7にも同様の記述がある。
       「たとえば、三千大千世界のあらゆる地種
      を、仮に人ありて磨(す)りて墨となし、東
      方の千の国土を過ぎて、乃ち一点を下さん。
      大きさ微塵の如し」
       この化城喩品のたとえ話を三千塵点劫と称
      される。
       これに対し、寿量品(本門)の「五百千万
      億那由他阿僧祇」を、五百(億)塵点劫と称
      して、化城喩品(迹門)の三千塵点劫よりも
      はるかに長遠であるかが示されるようになっ
      た。
       法華経における釈迦成道は・・、
       「われは実に成仏してより已来(このかた)、
      無量無辺百千万億那由他劫なり」と説いてお
      り、経文の記述に素直に従うならば、この五
      百塵点劫はあくまでもたとえ話として出され
      ただけであって、釈迦が成道した時ではない。
       また、化城喩品の三千塵点劫も、たとえ話
      として持ち出された話に過ぎない。
       しかし、日蓮は、『釈迦御所領御書』など
      で・・、
       「過去五百塵点劫より、このかた、この
      娑婆世界は、釈迦菩薩の御進退の国土なり」
      などと、五百塵点劫の言葉に開近顕遠の意味
      を持たせたことから、釈迦が本当に覚った時
      と解釈されるようになった。
       なお、一般的に、釈迦は、インドで生まれ
      菩提樹下で成道したとされる。
       これを伽耶始成、また、始成正覚というが、
      法華経においては、釈迦は、そのようなイン
      ド応誕の仏ではなく、本当は、遠い過去に成
      道していた、と打ち明ける。
       これを久遠実成をという。
                 (Wikipediaより)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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# by suba28 | 2018-05-11 03:22 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)593E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年3月)

題:(増補版)593E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年1月1日、イギリスでマンチェスター運河が開通した。
  マンチェスター船舶運河は、鉄道時代になってから建
 設されたが、鉄道に対して十分な競争力を持っていた。
  しかし、時代と共に外洋船が大きくなったため、その
 競争力は失われた。
  しかし、現代でも、その使用は可能の状態にある。
  この頃に、日本の琵琶湖疏水が建設されている。
  琵琶湖疎水の第一疎水は、1890年に完成している。

1894年1月4日、ロシア・フランス政治軍事同盟が締結され、
 正式に成立した(露仏同盟)
  1891年から1894年に、フランスと帝政ロシアの間に結
 ばれた政治協定であり、また、軍事協定であった。
  1894年1月4日のこの日、フランス側の軍事協定承認の
 通告をもって同盟の完成とされた。
  ロシア側は、1893年12月27日に批准していたが、1918
 年まで秘密にされていた。
  ドイツ、オーストリア、イタリアの3国の攻撃に対して、
 ロシアとフランスは、協力して戦おうというもので、そ
 の後、イギリス、フランス、ロシアの「三国協商」へと
 発展した。
  この条約は秘密条約で、初めは、対ドイツの防衛同盟
 の性格を持ったが、イギリスが加わって三国協商となっ
 た。
  この条約は、ロシアの苦しい状況があった。
  1890年に、ドイツ・ロシア間の再保障条約が満期とな
 り、その再延長をドイツが拒否した・・
  そこで、ロシアは、フランスに接近した。
  1891年に、政治協定を結び、
  1892年に、秘密協定の軍事協定を結んだ。
  そして、この1894年に、フランスが、軍事協定承認を
 通告して同盟関係が確定した。
  ロシアは、今までの歴史に於いて、一番条約を破る国
 となっている・・
  日本との中立条約も破って、日本領土を奪うようなこ
 とをしている・・、
  そして、その日本領の日本人たちを戦車などで、多数、
 殺戮し・・、
  また、シベリアへ、日本人を不法に、多数、拉致をし、
 多くの日本人をその極寒のシベリアで死に至らしめてい
 る・・亡くなっている・・
  しかし、ロシアは、この事例の様に、自分は、条約が
 無いと心配するというような国・・
  💢💢💢・・約束を守らない国が💢💢何を言うか・・と言
 いたい💢💢💢
  💢💢💢・・一番、歴史を汚してきた国・・💢💢💢

1894年1月4日、日本鉄道の八戸線の尻内駅~八戸駅間が開
 通した。

1894年1月7日、豊州鉄道会社が、伊田駅から奈良駅の線路
 延長の出願をした(1895年10月5日免許状下付)

1894年1月18日、初瀬鉄道の奈良駅~桜井駅間の建設仮免許
 状が下付された。

1894年1月24日、鉄道局歳入歳出出納規程が制定された。

1894年1月26日、天満紡績争議
  大阪天満紡績で、職工達が労務管理に反対して騒動を
 起こした。
  1887年に設立された天満紡績会社は、その翌年・1888
 年に、大阪府西成(にしなり)郡川崎村で開業した。
  1889年10月30日から翌月・11月6日にかけて、おりから
 の米価騰貴のなかで、賃金引上げなどを要求し、300~
 400名が職場を放棄のストライキをした。
  この時、会社側の賃上げの約束と憲兵の説得によって
 問題は収まった。
  そして、また、1894年1月26日、開業早々の第二工場に
 おいて、「賞与が出ないこと」と、「厳しい技師長に対
 する不満」から30名ほどが食堂に立てこもった・・そし
 て、罷業(ひぎょう、仕事を意識的に休むこと、ストラ
 イキ)を呼びかけた。
  別説では、1894年1月27日、夜勤を終えた工員たちが技
 師・工務係ら上司3名の解雇を求めて午前6時ころより食
 堂を占拠し、出勤してきた昼勤の工員たちに同盟罷業(
 ストライキ)を呼びかけ、これに従わない一部の工員に
 対して夜勤の工員が殴打した・・とある。
  そして、13名が勾引(こういん、尋問のため、被告人・
 容疑者を強制的に裁判所・警察署などに連れて行くこと)
 されたが、同日の夜業は3分の1運転にとどまった。
  争議は失敗に終わった。
  4名の男工が2か月の重禁錮を科された。
  多数の職工には、義捐(ぎえん)金を醵出(きょしゅつ)
 されたとされている。
  また、別の史料には、会社側の要請を受けた曾根崎警
 察署の警察官が、工場に入り作業を再開させる一方、会
 社側は、技師たちに解雇相当の理由はないとして工員た
 ちの要求を退けた。
  これに対し、工員たちの中には納得をせず退社する者
 も出た。
  なお、昼勤工員の殴打に関して、工員6名が暴行によっ
 て告発され、5名が有罪判決を受けてそれぞれ重禁錮2か
 月・罰金3円、1名はその後の控訴によって重禁錮1か月・
 罰金2円判決が下された・・とある。

1894年2月1日、富山の薬売り業者らが設立した私立の共立
 富山薬学校が開校した。
  (1894年は、発足との説がある)
  因みに、この年に、日本薬剤師会が発足している。
  そして、この後に、官立旧制薬学専門学校となり、富
 山大学の旧制前身校の一つとなる。
  富山市の補助金と、富山県内所在の複数にわたる製薬
 会社による寄付金で設立された。
  本科(修業年限2年、入学資格 満17歳以上)、速成科
 (修業年限1年、入学資格 満15歳以上)、選科を設置し
 た。
  1895年2月に、開校始業式が行なわれた。

1894年2月1日、関西鉄道、官設鉄道・参宮鉄道と旅客貨物
 の連帯運輸を開始した。
  私設鉄道は、官設鉄道との競争の中にあった。
  日本の鉄道敷設計画は、最初から、しっかりとした考
 えの筋が通っていた・・
  「しっかりとした日本の背骨にする鉄道計画」という
 視点・捉え方をした・・、
  また、日本の先人の偉い所は、外資が入ると日本の植
 民地化への道をひらくと、「外資鉄道計画をきっぱり拒
 否した」。
  しかし、スタートだけは、イギリスの資本と技術に頼
 らざるを得なかった。
  そして、1872年、新橋駅~横浜駅間が開業した。
  当然、目標としては、東京と関西圏を結ぶところに置
 いていた。
  そして、中山道ルートが想定されたが・・なかなか、
 その実現性・見通しは立たなかった。
  新政府の中心人物である岩倉具視は、鉄道建設により
 産業開発を図るという「日本鉄道計画」を作った。
  そして、 1881年、東京駅~高崎駅間と、東京駅~青森
 駅間の免許状下付を受けた。
  東京駅~高崎駅間は、政府が予定する中山道幹線鉄道
 の一部であった。
  また、青森への縦貫線は、東北地方の開発を目指すも
 のだった。
  1883年の上野駅~熊谷駅間の開業に始まり、翌年・
 1884年には、高崎駅まで全通した。
  明治天皇陛下をお迎えした開業式は・・まさに、日本
 の幹線鉄道の完成を祝うものだった。
  私設鉄道の免許状下付は、鉄道建設は官設で進めると
 いう方針を変えるもの・・、
  政府として、財政事情からのやむを得ない措置として、
 半官半民の会社で、鉄道建設を促進することとした。
  半官半民の日本鉄道より2年後には、純粋の民間資本に
 よる鉄道(阪堺鉄道)が登場した。
  短距離鉄道だが、地の利を得て業績は好調だった。
  この成功を見て、各地に鉄道会社が誕生した。
  1888年に、幹線鉄道として山陽鉄道が姫路まで開業し、
  また、難工事の中山道ルートから 東海道ルートへと変
 更がなされ・・順調に工事は進み・・、
  1889年、に全通した。
  そして、ようやく蓄積されて来た民間資本による鉄道
 建設が進んで行く。
  日清戦争時に、広島まで開通していた山陽鉄道が活躍
 し・・、
  1900年度末の鉄道営業キロは、官設鉄道1206kmに対し
 て私設鉄道4674kmと4倍近い差があった。

1894年2月8日、洋風に改装されていた京五条大橋が元に戻
 った。
  五条大橋の歴史・・
  1589年、桃山時代(天正17年)に、秀吉が五条大橋を
   作った、橋脚は石で造営した。
  1645年、江戸時代(正保2年)に、高欄に青銅の擬宝珠
   が左右に16基つけられた。
    五条大橋は、江戸時代に五度架け替えられた。
    鴨川と高瀬川の両方をまたぐ大橋梁で、中央の反
   り返りが高く、「虹のような橋であった」と言われ
   ている。
  1878年、明治時代(明治11年)に、高瀬川の小橋とは
   分けて、長さ48間、幅4間2尺の板橋に架け替えら
   れた。
    この時、擬宝珠がはずされ、洋風のペンキで塗装
   された。
    ここで、当然、景観論争が起きた。
    洋風のペンキで塗装された姿への批判・・
    「槇村知事が、洋風心酔により旧形を変じてペン
    キ塗りの嫌らしきものとなせし」と新聞で批判は
    高まった。
  1894年(明治27年)に、擬宝珠高欄のある現在の形に
   戻された。
    この完成時、渡り初めは、80歳以上の高齢者夫婦
   54組が行った・・元に戻され、京の人々は喜んだ。。
    擬宝珠のある五条の橋は、京都の人のあこがれと
   なっていて、明治27年2月8日、昔の通りなつかしい
   擬宝珠がつけられ、106歳の高橋茂兵衛氏は、立烏帽
   子の大紋をつけ、きれいどころも加わって雄々しく
   渡り初めがなされたという。
   (参考)立烏帽子:たてえぼし、烏帽子の一種。
       烏帽子の中で最も格式が高い 。

1894年2月14日、朝鮮全羅道で農民らが反乱を起こした。
  朝鮮官吏の汚職など政治は腐りに腐っていた。

1894年2月15日、また、朝鮮全羅道古阜で、農民反乱が発生
 する。

1894年2月16日、天満紡績騒動で、職工の指導者4人が重禁
 固刑となった。

1894年2月17日、出納官吏の身元保証金算率を制定(公達第
 83号)

1894年2月20日、信越線の客車、および、緩急車に真空ブレ
 ーキが取付けられ、技術の刷新がなされた。

1894年1月22日、葉山御用邸が完成した。
  1897年、隣接の旧紀州藩主徳川茂承邸を買い上げて葉
 山南御用邸とし・・、
  さらに、1905年には、三宮錫馬邸を編入し、葉山御用
 邸付属邸とした。

1894年2月23日、タカジアスターゼが発明された。
  日本の製薬会社三共の事実上の創業者である高峰譲吉
 は、麹菌からジアスターゼを抽出し、自身の名の「タカ」
 を冠してタカジアスターゼと命名し、世界最初の消化酵
 素薬剤の製造法を米国特許庁に出願した。  
  発売は1897年、
  日本での発売は1899年。
  1854年、高峰譲吉は、越中国高岡(現・富山県高岡市)
   の山町筋と呼ばれる御馬出町(おんまだしまち)の
   漢方医・高峰精一の長男として生まれた。
  1855年(1歳)父の学問所「壮猶館」の勤務のため加賀
   国金沢城下の梅本町(現・石川県金沢市梅本町)へ
   移住。
    幼い頃から、外国語と科学への才能を見せ、加賀
   藩の御典医であった父からも西洋科学への探求を薦
   められた。
    母は、造り酒屋(鶴来屋)津田家(塩屋弥右衛門)
   の娘で、名を幸子(ゆき)と言い、後年の清酒醸造
   の麹の改良にも繋がっている。
  1865年(12歳)加賀藩から選ばれて長崎に留学し、海
   外の科学に触れたのを最初に、
  1868年(14歳)京都の兵学塾、大阪の緒方塾(適塾)
   に入学、
  1869年(16歳)大阪医学校、大阪舎密(せいみ)学校
   に学ぶ。
    工部大学校(後の東京大学工学部)応用化学科を
   首席で卒業。
  1880年(26歳)英国グラスゴー大学への3年間の留学を
   経て、農商務省に入省。
  1884年(30歳)アメリカ、ニューオリンズで開かれた
   万国工業博覧会に事務官として派遣され、そこで出
   会ったキャロライン・ヒッチと婚約する。
    博覧会取材のラフカディオ・ハーン に会う。
  1886年(32歳)帰国後、専売特許局局長代理となり、
   欧米視察中の局長・高橋是清の留守を預かって特許
   制度の整備に尽力する。
  1887年(33歳)結婚。
  1890年(36歳)渡米し、アメリカへ永住することにな
   る。

1894年2月、奥羽線の福島駅~米沢駅間が着工された。

1894年3月1日、第3回臨時衆議院議員の総選挙が行なわれた。
  自由党が120人と議席をのばした。

1894年3月5日、イギリスで第5代ローズベリ伯爵内閣が成
 立した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:仏陀の言葉・・この世界は美しい、
            そして、
             人生は甘美である。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 7
  病を克服した仏陀は、回復するといつもの様に托鉢に
 出かけました。
  後ろには弟子のアーナンダが従います。
  仏陀の従兄弟でもあるアーナンダは、25年にわたっ
 て、常に行動を共にして来ました。
  この日、托鉢から戻り食事を終えた仏陀が発した言葉
 に、周りの弟子達はおどろかされました。
  それは、何時も身近に居るアーナンダですら、始めて
 耳にする言葉でした。
.
  インドの子供達が、大喜びで水浴びする・・その姿を
 微笑みながら見る・・、
.
  アーナンダとの対話 アンバパーリーとのいきさつ、
 そして、仏陀の老いと病と、そういうものが、いくつも
 つき重なった場所なんですけど、この場所で、ある日、
 仏陀とアーナンダの間に、こういう対話があります。
  「仏陀・最後の旅」の中から、とても印象深い対話で
 す。
.
     さて尊師は、
     早朝に、内衣を付け
     外衣と鉢とをたずさえて
     托鉢の為にベーサーリー市へ行った。
     托鉢の為にベーサーリーを歩んで
     托鉢から戻って食事を済ませた後で
     若き人・アーナンダに告げた。
     アーナンダよ、
     座具を持って行け
     私はチャーパーラ霊樹の元へ行こう
     昼間の休息の為に。
     そこで尊師は、
     チャーパーラー霊樹の元に赴いた
     赴いてから、あらかじめ設けられていた座席に
    座した。
     若き人・アーナンダは、尊師に敬礼して一方に
    座した。
     一方に座した若き人・アーナンダに、尊師はこ
    の様に言われた。
     アーナンダよ、
     ベーサーリーは楽しい
     ウデーナ霊樹の地は楽しい
     ゴータマカ霊樹の地は楽しい
     七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい
     タフブッダ霊樹の地は楽しい
     サーランダ霊樹の地は楽しい
     チャーパーラ霊樹の地は楽しい。

  これは中村元さんが、パーリー語から訳された言葉な
 んですけれども、あのー、色々ありまして、サンスクリ
 ットの方から訳されたこのくだりにはですね、非常に印
 象的な言葉が加えられています。
.
     この世界は美しい
     そして、
     人生は甘美である
.
  まあ、こんな風に、サンスクリット語の本の方には書
 かれている訳なんですけれども、そこまで本当に、仏陀
 が、言われたかは分かりません。
  この物語を編んだ人が、霊樹の地は楽しいという言葉
 を、さらに、普遍して、その様に自分の思いを付け加え
 たかもしれません。
  この辺は分かりませんですけれども、人々が、仏陀に
 そういう風な言葉を言って欲しいなーという風に、心か
 ら思っていたことが伺えるのですね。
  仏陀の信仰と言いますか、法の教えの第一歩は、人生
 というものは、苦であるという、いわば、ネガティブ・
 シンキングと言いますか、どん底から出発する訳です。
  この世というものは苦しいものである、そして、生老
 病死、様々な苦しみに満ちている。
  この苦しみの中から人はどのように苦しみに耐えて生
 きていくか。
  仏陀は、その事を終生、ずーッと追求し続けた人なん
 ですが、
  それでも苦から出発したこの世界、この認識がですね、
 仏陀の最後の旅の「 末期の眼 」の中で、
  『 この世界は美しい、人生は甘美である 』、
  例え、苦の世界であったとしても、こんな風に、最後
 に、仏陀に呟いて欲しいと思った人々が、どれほど居た
 ことなんでしょうね。
  人間というものは、『 決定的な絶望の中に生き続け
 ることは、本当は難しいこと 』です。
  そして、私達・弱い人間というのは、どうしてもその
 様に、物語の中で自分達の思いを、仏陀に託して、そし
 て、こういう事を言って欲しかったという事を付け加え
 て、伝承というものが生まれてきます。
  ですから、それは、仏陀が、言った言わないとは別に、
 人々が、その様に、苦から出発して、あるいは楽の世界、
 醜の世界から美の世界、辛い世界から甘美な世界へ行き
 たいという願いを抱き続けて、2500年も生き続けて
 来たという事を表している訳ですから、それはそれで真
 実であろうという風に思う所があります。
.
  若き人・アーナンダに、尊師は、この様に言われた。
.
     アーナンダよ
     ベーサーリーは楽しい
     ウデーナ霊樹の地は楽しい
     ゴータマカ霊樹の地は楽しい
     七つのマンゴの霊樹の地は楽しい
     タフブッダ霊樹の地は楽しい
     サーランダ霊樹の地は楽しい
     チャーパーラ霊樹の地は楽しい。
.
  雨季が明け、再び、旅に出る日がやってきました。
  ヴァイシャリーの人々は、何時までも、別れを惜しん
 だと言います。
  町の郊外にあるレリック・ストゥーパは、ヴァイシャ
 リー王によって建立されたと伝えられております。
  小さな半円形のストゥーパからは、仏陀の遺骨の一部
 を納めたシャリ容器が、半世紀前に発掘されました。
.
  インド人のプッドゥ・バランさんは、このあたりで布
 教活動しているお坊さんです。
  バランさんは、ここで、毎日、お経を上げています。
  バランさんの言葉: 
   今から2500年も前の話になりますが、お釈迦様
  は、好んでこの地で法を説いていました。
   ある日、ヴァイシャリーの人々に、この様に語った
  と伝えられています。
.
     私は、この地にずっと留まることは出来ません。
     西にあるクシナガラという町へ向かいます。
     名残惜しいけれど、どうか、私を行かせて下さ
    い。
     この物語に基づいた歌を唄いたいと思います。
.
  インドのお坊さんの経: 
     ヴァイシャリーの人々は
     お釈迦様が歩き出すと
     泣き出しました。
     お釈迦様は、クシナガラの
     サーラの方へ出発しました。
     村の人々が、皆、泣き出しました。
                     (つづく)
  (補 注): アンバパーリーは、徹夜でご馳走を用
      意し、翌日、釈迦の一行が訪れた時は自ら給
      仕してもてなしました。
       食事が終わった時、彼女は、釈迦が留まっ
      た果樹園を教団に寄贈することを申し出て釈
      迦はこれも受けています。
       最後の場面はこんなふうに伝えられていま
      す。
.
     尊師は法に関する講話をもってかの女を教え、
     諭し、
     励まし、
     喜ばせ、
     座から起って、
     去っていった 。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 8     
  インドのお坊さんの経: 
     お釈迦様が、
     ヴァイシャリーにいるときは
     いろんな処に
     仏教が広まっていきました。
     お釈迦様は、
     何事も正直に話すようにと
     繰り返し語っていきました。
     お釈迦様は、
     ヴァイシャリーの人々を
     誰よりも愛してくれました。
     お釈迦様が、
     クシナガラのサーラの森に行くときは
     老若男女、みんなが泣きました。
.
  お経を唱えながら、裸足で水に濡れた田の畦道を行く
 仏教僧の映像。
  畦の道に僧の経が流れて行く。
  ・・・。
  そして、悪路を車で進んで行く・・
  大きく左右にゆれる車。
  警笛を鳴らしながら、乗客を満載したバスと行き違う。
.
  イヤー、もう、照り返しがすごいですね。
  イヤー、もうこれは、死にそうだ。
  ナマステー。
  お茶を一杯下さい。
  (お茶の葉を沸騰している鍋に直接入れ、煮て、)
  なんか戦後を思い出すね。
.
  仏陀の足跡を辿り、連日、悪路を進む・・、
  旅は、まだ、半ばを過ぎたところです。
.
  ありがとう。
  あちちっ、・・・旨いですね。
  もう、極楽という感じだな。
  (多くのハエが・・ それを手で払う店の人、周りを
  飛ぶ)
.
  今までの旅の風情は?
  イヤー、なんか修行という感じですね。
  前にインドに来た時は楽な旅をしたもんですからね。
  本当は苦行修行の旅なんですね。
  こういう農村を見ないと、インドは分からないという
 のは、本当ですね。
  仏跡は地方の農村地帯に残っている。
  仏蹟探訪の旅 ロマンティックな感じはしますけれど、
 本当は苦行修行の旅なんですね。
  だから観光の積もりできたのでは、もうもたないでし
 ょう。
  お遍路の様な覚悟で、やはりやらなければならない旅
 ですね、苦行の・・・・。
  ナマステ。サンキュー。
  イヤー、またこれはひどい日差しだな。
.
  ヴァイシャリーを出た仏陀は、更に北に向かって
 歩き続けます。
  ヴァイシャリーから北西に、およそ50キロ、当時の
 ヴァッジ国の国境にあたる場所に発掘中の巨大な遺跡が
 あります。
  (ケッサリア・ストゥーパ)
  イヤー、これはすごい。あー。
.
  このストゥーパは、紀元200年~紀元700年の間
 に建てられたものと考えられています。
  本格的な調査が始まったのは、1998年。
  現在発掘されている部分だけでも、直径123メート
 ル、高さ31メートルにおよぶ、レンガ造りの巨大なス
 トゥーパです。
  さらに、この下にどれ程の遺跡が埋もれているかは、
 まだ、明らかになっていません。
 (遺跡を登り、進む・・)
  あー、ここに仏陀像があるんだね、あー、
  (頭を下げ、手を合わせる)
.
  大パリニッバーナ経によると、旅の途中、仏陀の前に
 悪魔が現れました。
  悪魔は、今こそ、尊師のお亡くなりになる時ですと告
 げます。
  まだ、その様な時期ではないと退けます。
  (カラスが、ぎゃーぎゃーと鳴いている)
  カラスがすごい。
  しかし、その一方で仏陀は、死に向かう準備を始めま
 す。
  (巨大ストゥーパの周りをくるくる歩く・・、
   何匹ものカラスが木にとまり、ぎゃーぎゃーと鳴く)
  ストゥーパだから、中に入る事はないんだね。
  (ストゥーパの上も、何匹ものカラスが飛び回る)
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 9
  ある時、アーナンダに向かって、仏陀は衝撃的な言葉
 を述べます。
  それは、「自分は、もう、3ヶ月後には、この世に居
 ないだろう」という、そういう予言です。
  アーナンダは、さぞかし、もう、驚愕し絶望したに違
 いありません。
  しかし、余命は、もういくばくもない、自分は3ヵ月
 後に、この世を去る。
  自分の言っていることは、決して間違いない。
  こういう風に、仏陀は、断定します。
  おそらく、仏陀の80年の生涯の中で、自分の人生の
 終わりというものを、すっきりと予感した。
  そういう瞬間だっただろうと思いますね。
  ・・・で、仏陀は、アーナンダに、「自分はこの世を
 去る・・
  去る前に、自分が、色々、言っておきたいことがある。
  だから、「修行僧達を沢山集めなさい」 こういう風に、
 アーナンダに命じます。
  そして、アーナンダが、集めた大勢の修行僧を前に、
 仏陀は、この様に言われたという風に、経典には書かれ
 ています。
.
     そこで尊師は、
     修行僧達に告げられた
     さあー、修行僧達よ
     私は、いま、お前達に告げよう
     諸々の事象は過ぎ去るものである。
     怠ることなく修行を完成なさい。
     久しからずして
     修行完成者は亡くなることだろう
     これから3ヶ月過ぎた後に
     修行完成者は亡くなるだろう・・と、
.
     尊師・幸いな人、
     師はこの様に説かれた。
     この様に説いたあとで
     さらに、
     次のように言われた
     我が齢は熟した。
     我が余命はいくばくもない。
     汝らを捨てて、私は行くであろう。
     私は自己に帰依することを成し遂げた。
     汝ら修行僧たちは、
     怠ることなく よく気をつけて
     よく戒めをたもて。
     その思いをよく定め統一して
     おのが心をしっかりと守れかし
     この教説と戒律とに務め励む人は
     生まれを繰り返す輪廻を捨てて
     苦しみも終滅するであろう・・と、
,
  物事は、移り変わるものだという様な事を、いくら口
 で言っても、どんなものでも流転するという様なことを、
 自分の身をもって、みんなに語ろうとしているんではな
 いでしょうか。
  例えば、仏陀という人が、尊敬され、そして、その教
 えが、広がれば広がるほど、その人を、偶像化して、永
 遠に戴いて崇拝していこうという気分というのは、強ま
 ってきます。
  どっかで自分は、もう、如何に仏陀といえども、自分
 も涅槃に入るんだという事を言って、それで、その時、
 突然、自分が居なくなって、周りが大混乱するよりも、
 あと3ヶ月というこの日々を、周りの修行僧やアーナン
 ダ達が、しっかり心に刻んで、あと1日、あと1日とい
 う風に、大事にして生きるようにという、生きるもの・
 残されたものへの配慮だという風に、思いますけどね。
  ・・・・・。
  あのー、僕自身はね、余命ということを考えないんで
 す。
  むしろ、天命という考え方、で、自分が何時まで生き
 るとか、
  何時、死ぬとか、そういうことはね、ほとんど考えた
 ことは無いんです。
  あのー、出来れば長く元気で生きられれば良いと思い
 ます
  けれども、人間の天寿というものは、あらかじめ決ま
 っているんじゃないかなーという事を考える事がありま
 してね。
  その天寿を全うしたい、ですから、世の中というのは、
 すごく不合理なもので、30歳の天寿の人も居れば、10
 代で亡くなる人も居る、90歳、100歳まで生きる人
 も居る。
  ですから、僕は自分の人生と言うのは、ある時期から、
 「いつでも」と言うのは、おかしいのですけれども、
 「もういいよ」という、声なき声が、聞こえてきた時が、
 自分の寿命の尽きる時だと思っていますし、寿命が尽き
 ると言うことがですね、何か終わるとか、無くなるとか、
 そういう風に考えていないのですね。
  ですから、何か新しい出発と感じもしますし、とりあ
 えず、与えられた、今日一日、明日の一日、仏陀の言葉
 の様にですね、
  元気を出して、苦しみに耐えてという風に思ってます
 ね。
  ですから、寝る時は、もう、明日は目が覚めないかも
 しれないという風に思いますし、起きた時に、「あー、
 今日一日あったな」と思いますし、あまり、そういう風
 に先の事を考えたことが無いですね。
.
  自らの死を予言した仏陀。
  別れを惜しむ人々が、数多く後を追ってきました、し
 かし、仏陀は、彼らに戻るように説き、形見として自分
 の托鉢の鉢を渡しました。
.
  インドの仏教歌: 
     金のお皿でご飯を
     食べて貰いましょう
     仏陀に乳粥(ちちがゆ)を
     差し上げましょう
     金の台の上に
     席を用意しましょう
     仏陀にお願いして
     座って貰いましょう
     ここで仏陀に
     静かに休んで貰いましょう
     私は、みんなに仏陀が
     来ていることを知らせます
.
  長い汽笛を鳴らして走り、そして去っていく列車
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 10
  霊鷲山を出てから、半年になろうとしていました。
  仏陀は、熱心な信者が居るパーバ村へ向かっていまし
 た。
  ナマステー。
  当時、この一帯にはマンゴー園が広がっていました。
  持ち主は、パーバ村の鍛冶屋の子・チュンダ。
  以前、仏陀が、パーバ村を訪れた時に帰依した敬虔な
 信者です。
  チュンダは、仏陀を歓迎するために、貧しいながらも
 できるだけの準備をととのえ、首を長くして待っていま
 した。
  燃料に使う、牛糞ですか?
  あれなんか、積み重ねているところなんかも、何千年
 も同じ様に、燃料に使っているわけなんですね。
  牛糞に、藁を混ぜて・・・。
  あっ、そのままでなくてね。
  あ、そうか、そのままでは燃えないのだ。やっぱり。
  あーそれじゃー、一応加工している訳なんだね。
  えー、だけど、昔の村らしい村ですねー。
  ナマステー。
  (加治屋さんのところに来て)
  あー、ふいごですね、昔のねー。
  あのー、なんか、鍛冶屋さんと言うにはあまりに素朴
 なー。
  でも、こんな風にして、農機具とか色々を作るのでし
 ょうねー。
  (あるインドの方へ)ナマステジー。
  あのー、仏陀が最後の旅の中で、この村で病気をした
 と、聞いたのですが?
  この村で言い伝えられてきた話によると、仏陀は、仙
 人に姿を変えて南から 来たそうです。
  日が暮れ始めていたので、仏陀は、この村に泊まるこ
 とにしました。
  村の誰かが、夕飯を用意したそうです。
  いろんな言い伝えがありますが、豚肉料理を出した
 という説と、ククルムタと呼ばれるキノコ料理を出した
 という話があります。
  (手を合わせて)ナマステジー。(お礼を言って立ち
 去る)
  (鍛冶屋さん、鞴・フイゴを手でこいで風を送っている)
.
  仏陀は、チュンダが用意してくれた食事を、快く受け
 入れました。
  しかし、口に入れて直ぐ、それが、食べてはいけない
 ものだと分かりました。
  ここで、仏陀は、チュンダにこう告げます。
  チュンダよ、
  残ったキノコ料理は、それを穴に埋めなさい。
  神々・悪魔・梵天・修行者・バラモンの間でも、
  また、神々・人間を含む生き物の間でも、
  世の中で修行完成者(=仏陀)のほかでは、
  それを食して完全に消化し得る人は見出せません
 ・・・と。
  「かしこまりました」と鍛冶工の子・チュンダは、尊
 師に答えて、残ったキノコ料理を穴に埋めて、尊師に近
 づいた・・・。
  近づいて尊師に敬礼し、一方に座した。
  チュンダが、一方に座した時に、尊師は、彼を教え・
 諭し・励まし・喜ばせて、出て行かれた。
.
  その時、仏陀は、激しい腹痛に見舞われていました。
  仏典には、こう記されています。
.
     さて、尊師が、
     鍛冶工・チュンダの料理を食べられた時
     激しい病が起こり
     赤い血がほとばしり出る
     死に至らんとする激しい苦痛が生じた。
     尊師は、
     実に、正しく思い
     良く気を落ち着けて
     悩まされる事無く
     その苦痛を堪え忍んでいた。
     さて、尊師は、
     若き人・アーナンダに告げられた
     『さー、アーナンダよ、
     我々は、クシナーラーに赴こう』・・・と。
.
  80歳の老いた身に、血が出るほどの激しい下痢。
  立っていることさえままならない身体を、引きずるよ
 うにして、仏陀は、自ら終焉の地と思い定めた、クシナ
 ガラを目指しました。
  パーバ村からクシナガラまでは、およそ20キロの道
 のりです。 
                     (つづく)
  (参 考):クシナーラー = クシナガラ
  (解 説):チュンダは、釈尊への尊崇の念で食事の
      供養をしようとして珍味のキノコ料理をさし
      上げたが、結果、釈尊の死を早めるに至った。
       釈尊は、チュンダが後悔して嘆くであろう
      し、また、まわりの者たちがチュンダを責め
      るようになるであろうと、チュンダに同悲さ
      れ、「私の生涯で二つのすぐれた供養があっ
      た。
       その供養は、ひとしく大いなる果報があり、
      大いなるすぐれた功徳がある。
       一つは、スジャータの供養の食物で、それ
      によって私は無上の悟りを達成した。
       そして、この度のチュンダの供養である。
       この供養は、煩悩の全くない涅槃の境地に
      入る縁となった。
       チュンダは善き行いを積んだ」と仰せにな
      った。
       最初のスジャータの供養とは、釈尊がさと
      りを開かれる前、
       極限にいたるほどの苦行をされていたが、
      極端な苦行は悟りへの益なきことを知り、そ
      れまでの苦行を捨て、村娘のスジャータから
      乳粥の供養を受けられた。
       それによって体力を回復し、菩提樹の下に
      座り、「悟りを開くまではこの座を決しては
      なれない」という決意でもって坐禅瞑想に入
      られた。
       そして、この上ない悟りを開かれたと伝え
      られている。
       スジャータの供養は、悟りに至る尊い縁に
      なったのである。
       そして、このスジャータの供養の功徳とひ
      としく、このたびのチュンダの供養は、大い
      なる涅槃に至る尊い縁となると、釈尊は、チ
      ュンダの食物の供養を讃えておられる。
       チュンダがさし上げた特別のキノコはどう
      やら食用に適さなかったようある。
       しかし、チュンダは自分のせいで釈尊を死
      に至らしめたという後悔をするだろうし、ま
      た、周りの僧俗がチュンダを責めるであろう
      と釈尊は思われ、チュンダの嘆きに寄り添っ
      て、「チュンダは大いなるすぐれた功徳を積
      んだ。
       チュンダの供養で、私は煩悩の残りなき大
      いなる涅槃に入ることになった。
       「チュンダは善いことをした」と、チュン
      ダの供養をほめ、起こるであろうチュンダの
      嘆きと周りからの責めをあらかじめ取り除か
      れたのである。
       ここに釈尊の慈悲の深さ、同悲のお姿が伺
      われる。
       仏教で言われる慈悲の行いとは、具体的に
      どういうものなのかがよく示されている。
       しかも、釈尊のチュンダへの言葉は、無理
      にチュンダを慰めているというものではなく、
      ご自分の死を「大いなる涅槃に入る縁」と見
      られてのものである。
       ご自分の死んでいくことに対して、不幸と
      もいわず、嘆きもせず、静かに受け止められ
      るばかりではなく、煩悩が全く消滅する大涅
      槃に入る尊い縁として見ておられるのである。
       そういう背景があってチュンダの供養を讃
      えておられるのであって無理にチュンダを慰
      めているのではなかろう。
       このことによって教えられることは、自分
      にふりかかるどのような〈災厄〉をも、転悪
      成善(悪を転じて善と成す)で、善き縁であ
      ると受け止める智慧があって、初めて他者へ
      の憎悪や責める心から解放されるのであろう。
       もし、自分は内心で嘆いているけど、人を
      悲しませてはいけないという愛情であれば、
      それはそれで尊いとしてもなお暗いものがあ
      る。
       このように釈尊は、ご自分の死を大涅槃の
      悟りに至る機縁と見られたが、この釈尊の死
      の意味は、浄土の教えを信じる者における死
      の意味と重なるものであろう。
       自らの死を大涅槃界である浄土に生まれる
      縁といただいている念仏の信心と、釈尊にお
      ける死への智見とは、内面的に連なるものが
      ある。
       真実の信心は、死をも浄土へ生まれる縁で
      あるとの智見を生むのである。
              (寺報「草菴仏教」より)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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# by suba28 | 2018-05-10 03:14 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)592E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年1月)

題:(増補版)592E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年、出来事:
・金玉均が暗殺された。
  1894年3月28日、金玉均が暗殺された(43歳)
  金玉均(きんぎょくきん、1851年2月23日~1894年3月
 28日)は、李氏朝鮮における後期の政治家で、朝鮮独立
 党の指導者だった。
  1882年(31歳)2月から日本に学び、福沢諭吉の支援を
 受け、慶応義塾に学んだ。
  金玉均は、日本の明治維新を模範として、中国・清朝
 からの独立を果たしたいと、その実現を目指し、また、
 朝鮮の近代化も成し遂げたいとした。
  その実現が、清仏戦争が起きた時を好機と見て、1884
 年12月4日、政権打倒クーデター(甲申事変)を朝鮮で起
 こした。
  清仏戦争で清の介入は無いと見たが、清の介入で、事
 件は失敗に終わった。
  その実行は、3日間の政権で終わった。
  日本へ亡命し・・その後・・、
  李鴻章と会うために上海に渡ったが、この地で暗殺さ
 れた。
  福沢諭吉は、金玉均の法要を営んだ。
・東学党の反乱
  1894年3月29日、朝鮮で東学党の反乱が起きた・・そし
 て、広がって行った。
  抑圧され、圧迫されて来た朝鮮農民の方々のこの反乱
 は、甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)とも言わ
 れる・・
  朝鮮王朝(李朝)の重税政策に苦しみ、また、両班(
 りゃんばん、李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を
 担った支配階級の身分の者のこと)たちの賄賂横行と不
 正横行などで、民衆の生活は苦しい状況で、その朝鮮政
 府の暴政に対して、農民戦争が起きた。
  そして、東学という宗教的訴えが、狡猾な李朝朝鮮の
 地方官に利用され、逆に、農民が収奪される口実ともさ
 れた。
  農民たちの訴えは、その汚吏(おり、汚職や不正な事
 をする役人)に向けられ、政治的要求へと変わった。
  そして、行動は反乱となり、1894年2月、全羅道古阜郡
 の民乱を契機にして始まり、一応の成果を得て解散はし
 た・・が・・
  その後、政府派遣の官吏の不法弾圧に激怒した全琫準
 (ぜんほうじゅん、東学党の乱の指導者)は、全羅各地
 に呼びかけて、1894年5月、古阜、泰仁で本格的な闘争に
 立ち上がった。
  全羅各地で蜂起した農民軍は、白山に集結、大多数が
 農民で、東学徒は少なく、指導者は東学メンバーだった。
  全琫準らの指導者は、農民軍を軍隊式に編成し、また、
 四大綱領を発表し、広範な農民層の支持を得た。
  農民軍は、黄土峴、長城で政府軍を撃破し、全州を占
 領した。
  政権は、これに驚き、清国に出兵を要請する、その一
 方、農民軍の改革案を受け入れた。
  全州での和約後、農民軍の大半は解散したが、全羅道
 53郡に農民軍の自治機関である執綱所が設置され、実質
 上の政権機関として機能した。
  朝鮮政府の暴政に対し、次のような詩が朝鮮国内に広
 く伝わった。
  金の樽に入った美酒は、千人の血からできており
  玉椀にある美味い魚は、人民の油でできている
  ろうそくから蝋が滴るとき、人々の涙も滴り
  歌舞の音楽が高く鳴り響くとき、人々の怨嗟の声も高
 くとどろく
・伊藤内閣第六議会解散(氷川清話)
  第六特別議会は、1894年5月15日開会~6月2日解散で短
 い議会だった。
  景気は良くなったが、対外硬で激しく、対立した。
  (参考)対外硬:たいがいこう、
      日清戦争直前、反政府派が、国際協調政策を
     とる政府の外交を攻撃するために唱えた標語で、
      この時は、ロシアの東アジア進出により緊迫
     した国際情勢にあった。
      これに対し、新聞「日本」をはじめとする民
     友社の「国民新聞」に至るまで、反政府側の日
     本主義派・・そして・・自由党、改進党などの
     民党連合は、政府外交を批判した・・、
      また、政費節減・民力休養路線を主張した。
      不平等条約によって侵されている国家主権の
     回復と、積極的な対外進出を主張した。
      また、対等条約を実現するためには、現行条
     約を励行して外国人を取り締まり、彼らに不利
     益を与え、対等条約の交渉に列強が応じない場
     合は条約破棄もというものだった。
  (参考)現行条約励行運動:
      対外強硬六派いわゆる「硬六派」によって唱
     えられた反政府の言論運動で・・幕末期に江戸
     幕府が諸外国とむすんだ不平等条約について、
     条約正文に明白に規定されていない事項に関し
     てはいっさい外国人の権利を認めず、日本国内
     における外国人の活動や生活を制約することを
     通じて条約改正を行ない、平等条約の実現を図
     ろうというもの。
・日英通商航海条約が締結された。
  1894年7月16日、ロンドンで日英通商航海条約が締結さ
 れた。
  陸奥宗光外相(1844年~1897年)の治外法権の廃止交
 渉が功を奏した。
  陸奥宗光は、不平等条約「治外法権」の撤廃に粘り強
 く交渉を重ねた。
  日本は、この不平等条約に苦しんでいた。
  その一事例が、和歌山県沖のノルマントン号事件。
  イギリスの罪を問うことが出来なかった。
  この不平等な治外法権の権利のため、この事件の裁判
 を担当したのはイギリス人判事だった・・
  そして、イギリス人乗組員のほとんどが「無罪」とな
 ってしまった。
  この様な不平等条約の改正を、1894年、ついに、イギ
 リスとのあいだで治外法権の撤廃に成功した。
  陸奥の目論見どおり、大国のイギリスが改正に応じた
 ため、他の国々もあとに続き、15か国から治外法権の撤
 廃を日本は勝ち取った。
・日清戦争
  1894年8月1日、この日、日清両国が宣戦布告した。
  欧米列強、そして、ロシアなどの各国の奪い取りの世
 界が演じられて来たアジアの世界・・、
  ただただ、無節操なその奪い取りの世界・・日本の周
 囲の国々、また、東シナ海・南シナ海などの大部分、ま
 た、日本の北や南に広がる主要な国々が、そのことごと
 くが列強の手に落ちるのを日本は見て、鳥肌の立つほど
 の恐怖感を感じないではいられなかった。
  また、日本には、列強諸国との不平等条約がまだあり、
 それに縛られるという「半植民地の様な国家の状態」だ
 った。
  その様に領土を漁(あさ)る列強に取り巻かれている
 日本の姿だった。
  どの列強各国も、この日清戦争では、日本が敗北する
 だろうと予測していた・・
  それだけ、清の力は強く、また、日本は弱小であった。
  先年の長崎での事件などでは、まったく清に馬鹿にさ
 れている日本だった。
  また、日本は、最強の清国艦隊を見せつけられていた。
  列強諸国は、「アジアの中心は中国」と見ていた。
  しかし、結果は、日本の勝利だった。
  列強諸国は喝采した。
  また、列強は、日本での特権を相次いで放棄した。
  これを逆から見れば、この列強諸国は、日本が負けれ
 ば、日本を蔑(さげす)み、また、不平等条約は、その
 ままにして、日本からうまい汁を吸い続けるという様相
 だった。
  これで、日本が解放されると共に、朝鮮もまた中国か
 ら初めて解放され・・独立国となれた。
  また、中国文明より低い国と侮(あなど)られた列強
 諸国の蔑視の視点も変える事が出来た。
・天皇行幸(氷川清話)
  1894年9月15日に、明治天皇陛下が呉行幸のため、広島
 の宇品港へ御出発された。
  これは、日清戦争時に、広島城に大本営が置かれ、明
 治天皇陛下はその行幸をなされた。
  「広島御発輦呉港幸行之図」小国政・画がある。
  (参考)御発輦:ごはつれん、天皇陛下の御車が出発
     すること。
・広島において第七議会(氷川清話)
  第7回帝国議会(だいななかい ていこくぎかい)は、
 1894年10月18日に開会された大日本帝国の帝国議会(臨
 時会)で、開催地は広島市の広島臨時仮議事堂だった。
  日本の憲政史上で、唯一、東京以外の場所で開かれた
 国会だった。
.
1894年、産業:
・紡績工場の数:45
・花王石鹸
  神楽坂に花王石鹸の工場が開設され、ねり歯磨きが製
 造開始された。
・服部時計店
  東京・銀座尾張町角に服部時計店が店を構え、時計塔
 を設置した。
  また、服部時計店懐中時計の製作に成功した。
  服部金太郎は、1884以降、横浜の外国人商館から洋時
 計を仕入れるようになり、品揃えを豊富にしたことで斬
 新な品揃えだとして、評判が立った。
  当初は、輸入に頼っていて、仕入れた時計は飛ぶよう
 に売れた。
  国産時計は、1892年、服部金太郎が作った精工舎で始
 められ、3年後には、輸出も行われるようになった。
  記録には以下の様に記される・・
  「服部時計店社長・服部金太郎氏の創立に係る、同氏
 は、夙(しゅく、早い時期から)に、時計製造の如き精
 密工業が、最も我国民に適し、他日、必ず、日本の重要
 工業の 一として成功すべきことを確信し、其の創立を
 決意すると共に、現顧問・吉川鶴彦氏を技師長として招
 聘した」
  「明治二十五年(1892年)五月、東京市本所区石原町
 に仮工場を設け、始めて掛時計の製造に着手せり・・」
  1894年、精工舎は、創業二年半にして、最初の懐中時
 計である22型タイムキーパー製造にも成功させた。
  そして、清国(中国)に少量ながら輸入も始めた。
  「明治二十九年(1896年)には、懐中時計機械の製作
 を創む、當時の懐中時計は、二十二型 シリン式にして
 之を現時流行品たる八形九形の如き小型の時計と比すれ
 ば全く隔世の感なくんはあらす」
・オーヴィル・ヘンリー・ギブソンが大手ギターメーカー
 のギブソン・ギター・コーポレーションを創業した。
.
1894年、交通:
・甲武鉄道市街線新宿〜牛込間開通、牛込・四ツ谷・信濃
 町の各駅開業。
・カール・ベンツの「ビクトリア」が1000キロの長距離ド
 ライブに成功した。
.
1894年、論・文学・本:
・樋口一葉「大つごもり」
  1894年12月、「文学界」第24号に発表された。
  大みそかを背景に、女中奉公をしている薄幸の娘お峰
 のその女中生活を通じて明治の女性の哀感を描いた。
  一葉の貧乏生活の体験から生まれた作品。
  この年は、一葉が、下谷龍泉寺町(東京都台東区竜泉)
 から本郷区丸山福山町(文京区西片)へ転居し、荒物雑
 貨・駄菓子店を営みつつ執筆に専念している時期の作品。
  [ 筋 ]・・18歳のお峰が、山村家の奉公人となってし
      ばらくした後、お暇がもらえたため、初音町
      にある伯父の家へ帰宅する。
       そこで病気の伯父から、高利貸しから借り
      た10円の期限が迫っているのでおどり(期間
      延長のための金銭)を払うことを頼まれ、山
      村家から借りる約束をする・・が・・
・高山樗牛「滝口入道」連載(讀賣新聞)
  1894年4月~1894年5月まで『読売新聞』に連載された。
  平家の滅亡を背景に、斎藤時頼と横笛との悲恋を描く。
  『平家物語』に材を得て、擬古文によって書かれたこ
 の悲恋物語は、『読売新聞』懸賞歴史小説首席(二等)
 の入選作で、大学生某の匿名で発表されて話題となった。
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1894年、歌・流行・世相:
・この頃から自転車が流行する。
  この前年・1893年、我が国で最初の自転車倶楽部であ
 る日本輪友会が設立された。
  1890年頃から自転車の修理、及び、試作車を手掛けて
 いた宮田栄助が、1893年、本格的に自転車の製造販売を
 開始した。
  1893年、森村兄弟が、東海道をサイクリングする。
  1893年、ダーズリー・ペダーセンは、独創性のある三
 角フレームの自転車を製作した。
  イギリス軍はこれをボーア戦争で使用する。
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1894年、医・衛生:
・北里柴三郎が香港へ行ってペスト菌を発見した。
  明治政府の命により香港に渡っていた北里柴三郎は、
 思わず声をあげた。
  「これだ、ついに発見したぞ、ペストだ」。
  それは1894年6月14日のことだった。
  長年に亘(わた)って人類を苦しめて来たペスト・・、
  多くの人々の命を奪って来たペストの正体を暴いた瞬
 間だった。
  説としては・・古代エジプトやローマの時代からすで
 にあったと言われているこの疫病は、感染力や致死率が
 非常に高かった・・、
  しかし、その原因がつかめず、また、姿が見えないた
 めに大いに恐れられていた。
  そのペストが、この年・1894年に、中国南部で再び発
 生し、香港でも猛威をふるい始めた。
  そこへ原因を突き止めるために北里らは向かった。
  当時、香港でペストがもっとも多く発生していた地区
 では、患者のいない家庭はないほどだった。
  香港政庁は、該当する約12,000坪(約40,000平方メー
 トル)を封鎖し、区域内の患者と住人を強制退去させた
 のち、家屋を取り壊し、家具を焼きはらった。
  それしか対処の方法が見出せない恐怖の伝染病だった。
  その様な一刻の猶予もならない壊滅的な状況のなかで、
 北里ら一行は、到着するや病死した患者の解剖に急いで
 着手する。
  ところが、いざ北里が顕微鏡で解剖標本をのぞくと、
 すでに腐敗が始まっており、雑多な菌が無数に増殖して
 いる。
  これでは埒(らち)があかない。
  しかし、北里には、経験に基づくある試みたい方法が
 あった。
  それは「症状や臓器の変化を既知の伝染病と比較する
 こと」だった。
  もし、共通点があれば病原菌の性質も似ている可能性
 が高い。
  改めて取り出した臓器を調べてみる。
  「なるほど炭疽(そ)症に近いぞ。
  あれは血液中に菌が入り敗血症を起こす。
  ペストの病原菌も同じではないか?」
  北里は、ペスト患者の血液を手に入れた。
  すると顕微鏡の視野に、特徴的な細菌が認められた!
  このときを境に、ペストという見えざる脅威は、目に
 見える病原菌へと姿を変えた。
  こうなれば、ペストを防ぐには、その菌を調べていけ
 ばよかった。
  そして、加熱や消毒液への耐性といった性質や、推定
 される感染経路などが次々と明らかになって行った。
  家屋等の消毒や菌を運ぶクマネズミの駆除をはじめ、
 公衆衛生の対策がなされると、香港は、落ち着きを取り
 戻していった。
  その香港での発見から五年後、ついにペストが神戸に
 侵入し、大阪、さらに関東にまで感染が広がった。
  北里自身が制定に関わった伝染病予防法の下、さらな
 る感染拡大を防ぐため、自ら指揮をとり奔走した。
  そして、ペスト伝播につながるネズミの駆除を徹底さ
 せ、終息に導けたた。
  1926年以降は、国内で、一度もペストの発生を見ない。
  疫病は静まった。
  一方このあと「発見者論争」が巻き起こる。
  (テルモ株式会社のホームページを参考にした)
.
1894年、その他:
・葉山御用邸が完成した。
・鹿鳴館が華族会館として払い下げられた(1889年説あり)  
  落成は1883年。
・陸軍板橋火薬製造所で綿火薬が製造開始された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:仏陀は、教えを請うものなら誰であろうと分け隔てなく、法を説かれました。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 2
  齢80の仏陀は、ただひたすら歩み続けられる・・、
  出発点・霊鷲山から旅の終わりとなったクシナガラま
 での道のりは、およそ400キロ・・、
  この道を、80歳の仏陀は、ひたすら歩き続けられま
 した。
  仏陀が最後に歩んだこの道を辿ってみますと・・、
  霊鷲山から北西に16キロ。
  仏陀は、ナーランダ村に立ち寄られています。
  行く先々で、仏陀の元には多くの人々が、集まってき
 ました。
  王侯貴族からカーストの差別を受けている人たちまで、
 さまざまな階層の人々です。
  仏陀は、教えを請うものなら誰であろうと分け隔てな
 く、法を説いたと言われています。
  仏陀・最後の旅は、いつもと変わらぬ、布教の旅とし
 て始まりました・・、
.
  ブッダの歩かれた道、あーなんだか、もう本当に夢の
 様な幻想的な風景です・・、
  木があって、なだらかな丘があって、その向こうに、
 また、木陰に白い塔がある・・、
  村の人たちが、三々五々、ここに座ったり 腰掛けた
 り、子供達が走り回ったりしていますが・・、
  自然の中に、こんな場所があるなんて、何と贅沢なこ
 となんだろうと感じます。
  ナマステジー・・ナマステジー
  一つの堂に来ました・・あたりを見渡します・・
  暗くて見えませんけども、この中にあるのは仏陀の坐
 像です・・釈迦牟尼坐像・・
  ナマステジー・・
  あのーチョット伺いますけれども、この塔の中にある
 仏像は・・?
  仏陀の像です・・お釈迦様の像です。
  何時ごろからあるものなのですか?
  むかしむかしからあります。
  昔々というと、おじいさんの代からですか、もっと昔
 ですか?
  祖父の親の前から さらに前から・・、
  すごいですねー、これは驚きました。
  この丘の上の小さな祠の中に・・いやー、まさしくこ
 れは仏陀の坐像です。
  ・・イヤー、驚きました。
  素晴らしい仏像ですけれども、相当古いものだと思い
 ますが、とにかく立派なのです・・
  シルエットといい、バランスといい それにしても、
 この右手とお顔の損傷というのは実に生々しい。
  インドの歴史のありようを感じさせてくれる様な気が
 致します。
  ナーランダに心行くまで留まった仏陀は、ある日、弟
 子のアーナンダに こう告げます。
  『さー、アーナンダよ、パータリ村へ行こう』
  仏陀は、三つの袈裟と托鉢用の鉢一つだけをだずさえ
 て、パータリ村を目指して歩みを進めます。
  その後ろには、仏陀を慕う多くの修行僧がつき従って
 いました。
.
  インドの祈りの歌・・
     私は仏陀に帰依します。
     私は仏法に帰依します。
     私は僧伽(そうぎゃ)に帰依します。
.
  (参考)僧伽:〔仏〕〔梵 sagha の音訳〕仏教修行者
     の集団。僧侶の集団。
      広義には、在家を含む仏教教団全体をいうこ
     ともある。
      和合衆。和合僧。僧祇(そうぎ)。
.
  ナーランダからパータリ村までは、およそ90キロの
 道のり・・
  悪路で自動車は大きく揺れました・・・・
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 3
  インドの聖なる河・ガンジス。
  ヒマラヤの山間部からベンガル湾に至るその長さは、
 およそ2500キロ・・、
  インド最大の大河です。
  仏陀が目指したパータリ村は、このガンジス河のほと
 りにある小さな村でした。
  現在のパトナ市・・ビハーレ州の州都です。
  人口は、およそ140万。
  米を中心に、農産物の集散地として賑わっています・・
  パトナ市内、ガンジス河のほとりにある市場・・
  この辺は、昔のパトナ村という、村だけあって、なん
 だか野菜のバザールの様になっています・・、
  ジャガイモあり、たまねぎあり、インゲンあり、ニン
 ジンあり・・
  大根もあります・・
  それにしても、大変な賑わいです・・
  ナマステー。
  みかんを見ると、懐かしいですね・・
  どんな味がするんでしょうか・・
  ・・酸味があって、本当に「みかん」らしいです。
  戦後のみかんは、こんな感じだったです・・、
  これは旨い・・
  ガンジス河へ向かう・・
  見えてきたなー・・これが ガンジスかー・・
  河辺に来て・・あー 涼しい。
  ガンジスの流れというと、何か、こう、黄色く濁った
 流れだけを想像したんですけれど、この辺の水は青いで
 す・・、
  対岸の方には、ずーっと青い草が見えて、真っ白な洲
 があって・・、
  あー、こんなにガンジスが、美しいとは・・、
  ナーランダの村を通過して、そして、このパトナ村へ
 やって来て、仏陀は、ここからガンジス河を超えるわけ
 です・・
  おそらく、ここまで70~80キロか、90キロ・・
  どの位あるんでしょう・・
  途中で休み休み、色んなところに寄って来る訳でから、
 ずいぶん掛かったと思います
 ・・けども、この河のほとりに立った時に、おそらく、
 仏陀は、単に、物理的に川を越えるっていうだけではな
 く、何か、人生の大河を越えるという、非常に大きな感
 慨を抱かれて、この河の流れを御覧になったに違いあり
 ません・・
  仏陀は、生涯に、さまざまな形で、河を越えてきてい
 る人だと思います。
  信仰の河、思想の河 人間の河、 ・・・。
  その仏陀が、このパータリ村から河を超えて、対岸に
 渡る有様を 古い古いお経の「ダイパリミッダーナ経」
 という、日本では「大般涅槃経」として知られるお経の
 経文の中に、仏陀の旅のガンジス河のあたりの風景が、
 短く描かれています。 
.
   ついで尊師は、
   ガンジス川に赴いた、
   その時、
   ガンジス河は、
   水が満ちていて、
   水が渡し場のところにまで及んでいて、
   平らかであるから、
   カラスでさえも水が飲めるほどであった。
   ある人々は船を求めている。
   ある人々は大きないかだを求めている。
   また、ある人々は
   小さないかだを結んでいる。
   いずれも、
   彼方の岸辺へ行こうと欲しているのである。 
   そこであたかも力士が、
   屈した腕を伸ばし、
   また、伸ばした腕を屈するように、
   まさにその様に、
   僅かの時間のうちに、
   こちらの岸において没して、
   修行僧の群れと共に、
   向こう岸に立った。
.
  (参考)大般涅槃経:だいはつねはんぎょう、サンス
     クリット:Mahāparinirvā?a Sūtraマハ-パニル
     ヴァ-ナ ス-トラ 、パーリ語:Mahaaparini
     bbaana-suttanta、タイ語:mahǎprinípphaaná
     sùttantàは、釈迦の入滅(=大般涅槃(だいは
     つねはん)を叙述し、その意義を説く経典類の
     総称。
      阿含経典類から大乗経典まで数種ある。
      略称『涅槃経』。大乗の涅槃経 は、初期の涅
     槃経とあらすじは同じだが、「一切衆生、悉有
     仏性」を説くなど、趣旨が異なるので、相互を
     混同してはならない。
      パーリ語で書かれた上座部経典長部に属する
     第16経が大般涅槃経と同じもの。
      漢訳の、長阿含第2経「遊行経」および「仏般
     泥洹経」(2巻)、「般泥洹経」(2巻)、「大
     般涅槃経」(3巻)がこれに相当する。
      釈尊の晩年から入滅、さらに入滅後の舎利の
     分配などが詳しく書かれている。
      これらに基づいて大乗仏教の思想を述べた「
     大般涅槃経」という大部の経典もある。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 4
  ガンジスの河の上を舟に揺られる・・
  日本も戦争が終わって各地から引き上げる方々も、こ
 の様に川も渡ったでしょう・・
  朝鮮のソウル・・当時、京城(ケイジョウ)といいま
 した・・
  京城には、ハンガンという、当時は漢江(かんこう)
 と言いましたけれども、ハンガンという、実に大きな流
 れがあった。
  また、ピョンヤン(=平壌)という町には、ケドンガ
 ンというのですが、大同江(ダイドウコウ)という名前
 で呼ばれた大きな川があった。
  敗戦になって、引揚者と言いますか、難民となって、
 ピョンヤンから去るのですけれども、その引き上げが始
 まるまでの1~2年の間に、本当にたくさんの日本の人々
 が、そこで亡くなりました。
  夏ですと、どこか目立たないところに穴を掘って、火
 葬ができますが・・、
  冬は零下20度、30度という寒さ・・、地面はツン
 ドラの様に凍って、ツルハシも立たないほどです・・、
  そこで仕方なく、火葬にすることも出来ず、土葬にす
 ることも出来ず、テンドンガンという凍りついた厚さ1
 メートル以上も氷が張っている河の、魚を釣るために、
 あちこちに、ぽこっ、ぽこっと穴が開いているんですが、
  毛布に包んで、その穴から流して弔うということが、
 しばしばありました。
  そして、今、ガンジスの川の流れの上に居る・・
  人々の苦悩に・・仏教は答え得るのか・・
.
   その時、
   ガンジス河は水が満ちていて、
   水が渡し場の所までおよんでいて、
   平らかであるから、
   カラスでさえも水が飲めるほどであった。
   ある人々は船を求めている。
   ある人々は大きないかだを求めている。
   また、ある人々は小さないかだを結んでいる。
   いずれも
   彼方の岸辺に行こうと欲しているのである。
   そこで、
   あたかも力士が屈した腕を伸ばし、
   また、伸ばした腕を屈するように、
   まさにそのように僅かの時間の内に、
   こちらの岸において没して、
   修行僧の群れと共に向こう岸に立った。
   ついで尊師は、
   ある人々が船を求め、
   ある人々はいかだを求め、
   ある人々はいかだを結んで、
   あちらとこちらへ
   行き来しようとしているのを見た。
   そこで尊師は、
   この事を知って、
   その時、
   この環境の言葉を一人つぶやいた。
   『沼地に触れないで橋を架けて、
   広く深い海や湖を渡る人々もある。
   木切れや、つた草を結びつけて、
   いかだを作って渡る人々もある。
   聡明な人々は、
   既に渡り終わっている』
.
  ガンジス河を如何にして渡るか・・、
  それは、どの様にして、涅槃、すなわち煩悩から解き
 放たれた理想の境地に至るかという事の例えだとされて
 います。
  仏陀は、いともたやすくガンジス河を越えられた。
.
  (参考)「ブッダンサラナンガッチャーミ、ダンマン
     サラナンガッチャーミ、サンガンサラナンガッ
     チャーミ」と三度唱え、仏教の三宝に帰依する。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 5
.
  インドの仏教歌:
        金のお皿でご飯を
        食べて貰いましょう
        仏陀に乳粥(ちちがゆ)を
        差し上げましょう
        金の台の上に
        席を用意しましょう
        仏陀にお願いして
        座って貰いましょう
        ここで仏陀に
        静かに休んで貰いましょう
        私は、みんなに仏陀が
        来ていることを知らせます
.
  ガンジスを渡った仏陀は、いくつかの村を経て、
 ヴァイシャリーへと向かいました。
  そこは、商業で栄えるヴァッチ国の首都でした。
  仏陀の時代、北インドは、16もの国にも分かれてい
 ました。
  その中にあって、ヴァッチ国は、国の方針を話し合い
 で決める進んだ国でした。
  大パリ二ッバーナ経には、仏陀が、ヴァッチ国の事を
 賞賛した言葉が記されています。
.
        ヴァッジ人が、
        しばしば会議を開き、
        会議には多くの人が参集する間は、
        ヴァッジ人には繁栄が期待され、
        衰亡は無いであろう。
        ヴァッジ人が、
        共同して集合し、
        共同して行動し、
        共同してヴァッジ族として
        なすべき事をなす間は、
        ヴァッジ人には、
        繁栄が期待され、
        衰亡は無いであろう。
.
  仏陀は、ヴァッジ国をこよなく愛していました。
  仏陀の一行は、ヴァイシャリー郊外のマンゴー園に留
 まります。
  布教の旅では、決まって町外れに滞在します。
  修行の為には静かな環境が望ましいが、托鉢をするに
 は人の集まるにぎやかな場所が必要です。
  「俗に染まらず、俗から離れず」
  大パリ二ッバーナ経には、このマンゴー園での逸話が
 残されています。
.
  イヤー、見事な果樹園ですね・・あのー、これは、マ
 ンゴーの木なんだそうです。
  私は、マンゴーは、恥ずかしながら、畑の中に生ると
 思っていたのですが、こういう堂々たる木の中に、マン
 ゴーが沢山生ってる姿は、想像しませんでした。
  ここは、ヴァイシャリーという所の郊外のマンゴー畑
 なんですけれども、ガンジス河を渡った仏陀は、このヴ
 ァイシャリーの街中ではなく、街からチョット離れた、
 この郊外のマンゴー畑の中に居を定めます。
  そして、しばらくここに滞在する訳なんですね。
  それで、このー、不思議な事に、ここにはとっても華
 やかで人間的なエピソードが一つあるんですが・・、
  このマンゴー畑の所有者といいますか、地主の方が、
 ヴァイシァリーの町では大変著名なサロンの女主人公と
 言いますか、実は、高級娼婦・遊女と言われている人な
 んですが、遊女と言ってもですねー、ただの遊女ではな
 くて、一夜の値段が、牛何十頭などという、王侯貴族を
 相手にするという様な、しかも教養もあり、音楽的素養
 もあり、文学も出来、詩も詠めるという素晴らしい、高
 名な女性であったらしいんですね・・、
  ・・で、そのアンバパーリーという女性なんですが、
 その女性は、自分のマンゴー園に高名な仏陀が滞在して
 いるという事を聞いて、そして、教えを乞いに仏陀のも
 とへやって来ます。
  そして、仏陀から様々な話を聞いて大変深く感動して、
 感動したアンバパーリーは、自分の、是非、屋敷に招待
 して一夜の宴(うたげ)を催したいという風に、仏陀に
 申し入れます。
  遊女の申し込みなんで、本来なら、僧がどういう風に
 応対すべきか、ちょっと、分かりませんが、仏陀は、そ
 こんところを非常に快く、つまり、法といいますか、仏
 法というものを尊ぶ心の持ち主ならば、いかなる職業で
 あっても差別しないという、そういう気持ちからでしょ
 うか、仏陀はそれを承諾するんですね。
.
  仏陀が、ヴァイシャリー郊外に滞在していることを
 聞きつけた若い貴族たちが尋ねてきます。
  「自分達も仏陀を招待したい」と申し入れました。
  しかし、仏陀は、既に、遊女・アンバパーリーの招き
 を受けていると、その申し出を断ります。
  貴族達の中には、自分達より遊女を優先するのかと非
 難する者も居ました。
.
  ここで遊女という、アンバパーリーという、女性の話
 が出てくるというところがですね、この経典の中での、
 ある種の非常に興味深い所です。
  それは何かと言いますと、やっぱり当時のインドでも、
 女性に対する偏見というのは、今よりもっともっと深い
 ものがあったに違いありません。
  ましてや職業の貴賤ということに関しては、さらに偏
 見が多かったと思うんです。
  そういうときに、例えそれが娼婦であろうと、どうい
 う職業の人間であろうと、分け隔てなく接する、そして、
 「人間は、皆、平等だ」という仏陀の基本的な仏教の考
 え方というものがですね、そのエピソードの中に盛り込
 まれているんじゃないか、今から2500年前、それほど
 の昔にですね、今でも、なお、残っている女性に対する
 蔑視とか、職業に対する差別とか、そういうものを乗り
 越えて最後の旅を続けて行く仏陀の姿に、なんとなく共
 感を押さえる事が出来ません。
.
  ヴァイシャリー郊外に、遊女アンバパーリー縁(ゆか
 り)といわれる仏教遺跡が、今も残されています。
  後の時代に、インド北部一帯を支配したアショーカ王
 が建立した石柱とストゥーパ・仏塔です。
  仏陀と一人の遊女の出会いが、人々の心を動かし、大
 きな仏教遺跡となって残されたのでしょうか。
  仏陀は、このバイシャリーの地で大きな試練に出会う
 ことになります。
  ここで命をも脅かす様な、重い病を得たのです。
              (つづく)
  (参考)ヴァッジ国:ヴァッジ国(パーリー語 )ある
     いはヴリジ国は・・古代インドの国名。
      初期仏教の聖典『アングッタラ・ニカーヤ』
     の中で、十六大国のひとつに数えられる。
      首都はヴァイシャリー。
      位置:現在のビハール州北部にあたり、南北
     にはガンジス川北岸から現在のネパールまで広
     がり、西はガンジス川を挟んでマッラ国および
     コーサラ国と隣接していた。
      また、東は現在のビハール州と西ベンガル州
     の州境付近を流れるマハーナンダ川近辺、ある
     いはビハール州を流れるコーシー川までで、ア
     ンガ国と接していたと考えられている。
      民族:ヴァッジ国は、ヴァッジ族、リッチャ
     ヴィ族(離車族)、ジニャートリカ族、ヴィデ
     ーハ族など、8つの部族が連合して形成していた
     と伝えられている。
      統治機構:ヴァッジ国王は、「ヴァッジ・サ
     ンガ」と呼ばれた代表議会の議長であったと考
     えられている。
      「ヴァッジ・サンガ」は、各地方からの代表
     者から成り、国政を取り仕切っていたものと考
     えられている。
      近年、このような古代インドの国家をガナ・
     サンガ国というようになっている。
      宗教:リッチャヴィ族(離車族)は、ジャイ
     ナ教を信奉していたが、後に仏教に改めたと、
     仏典は伝えている。
      実際に、ブッダは、ヴァッジ国の首都ヴァイ
     シャーリーを何度も訪問して説法していたし、
     仏教の修行者のための修行道場が設置されてい
     たという記録がある。
      したがって、ヴェーダの宗教に並び、ジャイ
     ナ教や仏教も盛んであったと考えられる。
              (Wikipediaより)
.
紀元前484年頃、「ブッダ最後の旅 6」
  この周辺に住まいしていた時期、ちょうど雨季に入り
 ました。
  そして、雨季というのはもう、往来が困難だし、疫病
 がはやったり、大変な時期なんで、雨安居(うあんご)
 と言って、その時期、旅を休んで瞑想にふけり、思索に
 ふけります。
  ちょうど、その時ですね、仏陀は、思いがけなくも、
 本当に大きな病にかかる訳ですね。
  最後の旅のほんとに途中なんですけれども、その時の
 模様を こんな風に「大パリニッバーナ経」・「仏陀・
 最後の旅」 には書かれています。
.
     さて尊師が、
     雨季の定住に入られたとき
     恐ろしい病が生じ
     死ぬほどの激痛が起こった。
     しかし尊師は、
     心に念じて
     よく気をつけて
     悩まされることなく
     苦痛を堪え忍んだ。
     そのとき尊師は、
     次のように思った
     「私が侍者たちに
     別れを告げないで
     修行僧達に別れを告げないで
     ニルヴァーナに入ることは
     私には相応(ふさわ)しくない
     さぁ私は元気を出して
     この病苦を堪(こら)えて
     寿命のもとを留めて
     住することにしよう」と
.
  (参考)ニルヴァーナ: サンスクリット語の仏教用
     語で、涅槃 (nirvaaNa) のこと。
.
  つまり大変な激痛が生じてですね。
  本当にもう、耐え難いほどの痛みと苦しみの中で、仏
 陀は、それに耐え忍び、そして、今は死ねないと感じる
 んですね。
  それがまだ自分には残した仕事があると感じていたの
 か、あるいは、自分に与えられた事を最後までやり遂げ
 るために、この旅を続けようという意思なのか、あるい
 は、天と言いますか、目に見えない大きなものの命ずる
 ままに、自分の人生というものを、もう一度、生きてい
 こうという風に考えるのか、その辺は良く分かりません
 けれども、老いと病というものは、まあ、普通に言われ
 るように、生易しいものではありません、人間が最後の
 旅に出る時に、必ず、この老いと病を道連れにして、生
 きていく訳です。
  その最後の旅の中で、仏陀もまた、この病気と苦痛と、
 そして、老いというものを感じつつ、この辺に留まって
 居られたということを思いますと、人間・仏陀、人間で
 はないけれども、人間的なそのような苦しみを、人一倍、
 深く背負った仏陀という存在、そこに、私達人間も、と
 っても同じ様な、親しみと共感、そして、尊敬の念を覚
 えるところがあります。
.
  車の中で、ちょっと七転八倒したんですよね。
  朝4時に起きて、ほとんど徹夜のまま撮影をやって、
 それからあの悪路をバスで走っているでしょう。
  でも、昔はね、シベリヤ横断したってなんとも無かっ
 たくらいだったのに、僅かこの位の事で、こんなに苦し
 まなければならないのかという、ほんとに、パトナへの
 道は、地獄への道でしたね。
  ですから あの時、ホントにねー、もう薬を飲んでも
 効かない、水を飲んでもどうにもならない、今にも吐き
 そうでという、その時に、やっぱり、今の体力の衰えと
 いうものをね、今度の、やっぱり、インドの旅では、つ
 くづく感じさせられましたね。
  ですから、実感がとってもありますよ。
  まして、私はまだ70代の前半ですけどね、齢(いわ
 い)80に達したら、この旅を車なんて文明の利器を使
 わずにしている 仏陀の大変さというのは、おそらく想
 像を絶するものが、あったに違いありません。
.
  仏陀・最後の旅には、常に苦楽を共にする弟子が
 付き添っておりました。その名は、アーナンダ。
  弟子の中でも、人一倍、心優しく、純粋な人間だった
 と伝えられています。
  病から回復した仏陀の姿を見て、アーナンダは歓喜し、
 こう言います。
  「尊師が病気の間、呆然自失して、方角も教えすらも、
 分からなくなっていました。でも、もう安心です」。
  そんなアーナンダに、仏陀はこう答えました。
.
     アーナンダよ
     私はもう老い朽ち
     齢(よわい)を重ね老衰し
     人生の旅路を通り過ぎ
     老齢に達した
     我が齢(よわい)は八十となった
     例えば、古ぼけた車が
     革紐(かわひも)の助けによって
     やっと動いていくように
     おそらく私の身体も
     革紐の助けによって
     もっているのだ。
.
  さらに、仏陀は、自分が死んだ後の心構えについ
 て、修行僧達に説きました。
.
     この世で、
     自らを島とし、
     自らを頼りとして
     他人を頼りとせず
     法を島とし、
     法を拠り所として、
     他のものを拠り所とせずにやれ。
.
     アーナンダよ、
     今でも、また、私の死後にでも、誰にでも、
     自らを島とし、
     自らを頼りとし、
     他人を頼りとせず、
     法を島とし、
     法を拠り所とし、
     他のものを拠り所としないでいる
             人々が居るならば、
     彼らは、我・修行僧として
             最高の境地にあるであろう。
.
  あのー、非常に文脈としてですね、捉えにくい言葉な
 んですけど、言っていることは一つだと思うんですね。
  自分の尊敬する人が居ることは結構である。
  だけど、大事なことは、そういうことであることより
 も、権威とか、あるいは他人に対する親愛の情とか、そ
 ういう事よりも、もっと大事な、仏教の法というものが
 ある。
  ダルマといいますね。
  そういう仏教の真実や真理、そういうものこそ頼りと
 して、他人の権威・社会の常識、そういうものに囚われ
 ることなく、自分が学んだ仏教の心を心として、そして、
 自分が亡くなった後も、雄雄しく立派に生きて行って欲
 しい、それが大事だぞと、こういう事を最後に言ってい
 る訳です。 
  仏陀の言っていることというのは、私は、決して、自
 分に頼れという風に、自我を強調しているのではないと
 思いますね。
  それよりもっと大きな宇宙の真理というものがある。
  そういうものを自覚して、そして、自分が感じた直感
 というものを拠り所にし、そして、それを、島と言うの
 も例えですけれども、河の中洲という風に訳する人も居
 ますね。
  水が増えてきても没することなく、世の中の激流に呑
 まれる事も無く、大きな永遠不朽の真理というものをし
 っかりと身に付けて、その真理を頼りにして、自分自身
 の道を歩くが良いと、仏陀は、こういう風にここで語っ
 ているんだろうと思います。
.
     この世で
     自らを島とし
     自らをたよりとして
     他人をたよりとせず
     法を島とし
     法をよりどころとして
     他のものを
     よりどころとせずにあれ。
               (つづく)
  (参考) 安居:(あんご)は、それまで個々に活動し
     ていた僧侶たちが、一定期間、一カ所に集まっ
     て集団で修行すること。
      及び、その期間の事を指す。
      安居とは元々、梵語の雨期を日本語に訳した
     ものである。
      本来の目的は雨期には草木が生え繁り、昆虫、
     蛇などの数多くの小動物が活動するため、遊行
     (外での修行)をやめて一カ所に定住すること
     により、小動物に対する無用な殺生を防ぐ事で
     ある。
      後に雨期のある夏に行う事から、夏安居(げ
     あんご)、雨安居(うあんご)とも呼ばれるよ
     うになった。
      釈尊在世中より始められたとされ、その後、
     仏教の伝来と共に中国や日本に伝わり、夏だけ
     でなく冬も行うようになり(冬安居)、安居の
     回数が僧侶の仏教界での経験を指すようになり、
     重要視された。
      現在でも禅宗では、修行僧が安居を行い、安
     居に入る結制から、安居が明ける解夏(げげ)
     までの間は寺域から一歩も外を出ずに修行に明
     け暮れる。
                  (Wikipediaより)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2018-05-07 02:15 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)591E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年12月~1893年12月)

題:(増補版)591E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年12月~1893年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年12月16日、ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」
 が初演された。(カーネギー・ホール)
  https://www.youtube.com/watch?v=9n8R3x68yuI
  https://www.youtube.com/watch?v=tsi5eJp4EVY
  この曲は、ドヴォルザークのアメリカ滞在中(1892年
 ~1895年)に作曲された。
  アメリカの黒人の方々の音楽が、彼の故郷のボヘミア
 (現在のチェコの西部・中部地方)の音楽に似ているこ
 とに刺激を受けて、「新世界から」故郷ボヘミアへ向け
 て作られた。
  1893年12月15日、楽譜が出版され・・、
  1893年12月16日、ニューヨークのカーネギー・ホール
   にて、アントン・ザイドル指揮、ニューヨーク・フ
   ィルハーモニック協会管弦楽団によって初演された。
   初演は、大成功だったという。
  因みに、日本初演は、1920年12月29日、東京の帝国劇
 場において、山田耕筰指揮、日本楽劇協会によって行わ
 れた。
  また、ベートーヴェンの交響曲第5番『運命』、シュー
 ベルトの交響曲第7(8)番『未完成』とともに「3大交響曲」
 と言われている。
1893年12月19日、衆議院で安部井磐根らの提出した現行条
 約励行建議案が上程された。
  条約改正を遂行する政府は、衆議院の10日間停会を決
 定した。
  第5回帝国議会は、1893年11月28日~1893年12月30日ま
 で開かれたが、星亨・衆議院議長の不信任決議案の可決
 などで荒れた・・星亨は居座った。
  この帝国議会は、与党化した自由党と、野党硬六派の
 対決の議会だった。
  (参考)硬六派は以下の6党だった。
     立憲改進党(自由党との民党連合がうまくいか
      なかったため対外硬派に転向した)
     東洋自由党(かつての自由党左派・大井憲太郎) 
     国民協会(西郷従道・品川弥二郎が下野して1892
      年6月に結成された)
     大日本協会(元「内地雑居講究会」安部井磐根)
     同盟倶楽部(元吏党)
     政務調査会 
  この条約励行建議案提出は、進行中の条約改正の阻害
 になるため、議会が停会となり、解散された。
  また、大日本協会に解散が命じられた。
  大日本協会は、明治政府の外交を柔弱と非難して、「
 条約励行・自主外交・対清強硬」を掲げた。
  また、対等条約締結以外の一切の条約改正の拒否し、
  また、内地雑居反対論などを掲げた。
  しかし、大日本協会内の一部過激派が、外国人襲撃事
 件を起こした。
  そのために、日英通商航海条約締結を目前とした政府
 の態度は硬化し、条約励行建議案に対抗するために衆議
 院解散が行われた。
  そして、1893年12月29日、突如集会及政社法の対象と
 なる政治団体の指定を受け、その日のうちに、大日本協
 会は度重なる外国人襲撃事件を理由として、解散を命じ
 られた。
  政府与党は抑制的で、また、野党は好戦的だった。
1893年12月20日 筑豊興業鉄道の中間駅~筑前植木駅間が複
 線で開通した。
  筑前植木駅は、福岡県直方市大字植木にある九州旅客
 鉄道(JR九州)筑豊本線(福北ゆたか線)の駅。
  1893年12月20日、底井野信号場~植木間を複線化。
   植木信号所を駅に変更。
  1893年12月20日、信号所から信号場に格上げ、植木駅
   として開業した。
1893年12月23日、フンパーディンク歌劇ヘンゼルとグレー
 テルが初演された(ヴァイマル)
  (参考)エンゲルベルト・フンパーディンク :1854年
     9月1日~1921年9月27日、ドイツの作曲家。
      ジークブルク生まれ。ケルン音楽院などで学
     ぶ。1890年旅行中にワーグナーに巡り会い、助
     手を務めるようになる。
      その後、作曲教師や音楽批評家として活躍。
      代表作品は、ワーグナーの楽劇の手法を組み
     入れたオペラ「ヘンゼルとグレーテル」(1893年)
     オペラ「不本意な結婚」(1905年)など
  (参考)ヘンゼルとグレーテル:グリム兄弟の『子供
     と家庭の童話』に収められた昔話。
      森に捨てられた兄妹が菓子でできた家に行き、
     魔法使いの老婆に捕えられる。
      ヘンゼルは閉じ込められて太らされ、グレー
     テルは下女代りに使われるが、老婆を殺して宝
     石を奪い、かもの助けをかりて家に帰りつく。
  (参考)ヴァイマル:ドイツ・テューリンゲン州の都
     市。面積は84,27 km2、人口は約64,000人。
      1999年に、欧州文化首都に選ばれた。
1893年12月25日、関根常五郎が、墨汁の特許を取得した。
1893年12月26日、毛沢東が誕生した。
  中国共産党中央委員会主席・中華人民共和国初代国家
 主席(~1976年)
  1893年、下層中農の子に生れる・・、
  1911年(18歳)辛亥革命が起ると革命軍に約半年間参
   加する。
  1913年(20歳)湖南省立第一師範学校に入学し、在学
   中に進歩的青年団体「新民学会」を組織した。社会
   的政治的活動に踏出した。
    五・四運動のなかで、湖南の学生連合会機関誌『
   湘江評論』の編集と執筆にあたる・・、
  1920年(27歳)夏頃からマルクス主義者となって、社
   会主義青年団の地方組織をつくる。
  1921年(28歳)7月、上海における中国共産党創立大会
   に湖南代表として出席する。
  1923年(30歳)6月、三全大会で中央委員に選ばれる。
  1924年(31歳)国共合作が成立すると国民党中央委員
   候補に選出された。
  1926年(33歳)国民党二全大会で再選、さらに、広州
   の農民運動講習所所長となり農民運動の組織化に努
   める。
  1927年(34歳)国共分裂後、秋収暴動を組織、指導し
   たが、失敗。井崗山にたてこもる。
  1928年(35歳)4月、朱徳の部隊と合流し、中国工農紅
   軍を組織し、その政治委員となった。
   以後、農村の土地革命、紅軍強化、ソビエト政権樹
   立などのために戦う。
  1931年(38歳)11月、江西省瑞金に中華ソビエト共和
   国臨時政府が樹立され、主席に選出された。
  1934年(41歳)再選。
   その後、5回にわたる国民政府軍の包囲攻撃と戦う。
  1934年(41歳)10月、根拠地の移動を余儀なくされ、
   長征を開始、途中の貴州省遵義・・
  1935年(42歳)1月、中国共産党中央政治局拡大会議が
   開かれた際、党中央の指導権を握った。
   1931年以来、日本軍事が強まるなかで、内戦停止と
   一致抗日を呼びかけた。
  1936年(43歳)西安事件を契機に日中戦争勃発する。
   (参考)西安事件:1936年12月12日、共産軍討伐の
      ため、陝西省の西安に駐屯中であった張学良
      麾下の東北軍と楊虎城の十七路軍が、南京か
      ら西安へ督戦(とくせん、部下を激励・監視
      して戦わせること)に来た蒋介石を監禁し、
      国共内戦の停止と挙国一致による抗日を要求
      した事件。
       一時、国民党が西安攻撃の構えをみせ緊張
      状態となったが、斡旋にあたった共産党の周
      恩来の要求を蒋介石がいれたため、1936年12
      月25日に釈放された。
       1936年12月26日のこの翌日、蒋介石は共産
      党と連合して抗日にあたる旨の声明を発表し
      たため、第2次国共合作が進み、抗日民族統一
      戦線の結成がなされた。
       張学良は事件解決直後、蒋介石が南京に戻
      るときに軟禁され、1949年台湾に連行された。
       中国側からの戦争行為によって日中戦争の
      勃発状態となる。
  1937年(44歳)9月、国共合作が成立し、この間、1937
   年には『実践論』『矛盾論』を書いて党内の教条主
   義と経験主義の誤りを批判した。中国独自の革命理
   論を展開した。
  1938年(45歳)『持久戦論』を書いて抗日戦勝利の理
   論的根拠を明らかにし、人民戦争論を打出した。
  1940年(47歳)『新民主主義論』で新民主主義革命の
   理論を深めた。
  1942年(49歳)整風運動を指導した。
  1945年(52歳)『連合政府論』のなかで民主連合政府
   の必要性を説いた。
  1945年(52歳)4月、七全大会で党中央委員会主席に選
   出された。
  1945年(52歳)8月、日本の敗北後、民主連合政府を樹
   立するため蒋介石と交渉を行なった・・国府はアメ
   リカと連携。
  1946年(53歳)夏から解放区に全面的な攻撃を開始し、
   約3年にわたる内戦。
  1949年(56歳)10月1日、中華人民共和国の成立と同時
   に中央人民政府主席に選ばれ、中国の最高指導者と
   なる。
  1954年(61歳)9月、第1回全国人民代表大会で憲法が
   制定され、共和国国家主席に選出される。
  1959年(66歳)辞任し、劉少奇に代わる。
   1945年以来党中央委員会主席の地位にあって内外の
   政策を指導した。
  1965年(72歳)文化大革命でその先頭に立った(~
   1969年・76歳)まで。
  1972年(79歳)R.ニクソン大統領、田中角栄首相らと
   会見し、国交正常化に努める。
  1976年(83歳)天安門事件で、鄧小平の解任と華国鋒
   の総理就任を提案する。
  1976年9月 83歳で死去。
1893年12月28日 鉄道局出納官吏任命規程が制定された(逓
 信省達第6号)
1893年12月28日 逓信省出納官吏身元保証金取扱規程を制定
 した(公達第542号)
1893年12月29日、衆議院で、再度、現行条約励行案が提出
 された。
  政府方針は条約改正で、陸奥宗光外相が条約励行案反
 対を演説した後、政府は衆議院の14日間停会を命じた。
  また、現行条約励行案を提出した大日本協会の解散を
 併せて命令した。
1893年12月30日、衆議院が解散された。
  星亨議長の弾劾案を衆議院で可決し、伊藤首相は第五
 議会を解散した。
  2回目の衆議院解散だった。
1893年12月31日、参宮鉄道の津駅駅~宮川駅間が開通した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:エリートが、霞が関や永田町をはじめ、アカデミズム
   やマスコミなど、日本のあらゆる分野で、指導的地位を
   占めている可能性が、1970年~1980年代のレフチェンコ
   事件当時とは比較にならないほど高いものがあるという
   ことを知らねばならない・・と・・
.
紀元前2350年、アッカド帝国の成立
  アッカド帝国は、チグリス・ユーフラテスの流域(上流
 域から下流域)に成立した帝国である。
  しかし、キリスト教は、モーゼの「エジプト脱出」の
 話を成立させたいため、メソポタミアのウルからヘブラ
 イ人が、エジプトへ向かったとしたい・・
  しかし、このキリスト教の話は、このアッカド帝国の
 領有する地域から考えても無理筋な話となっている。
  キリスト教の成立の最初の方々である「ウルのヘブラ
 イ人」は、このアッカド帝国の領内の上流域へ、チグリ
 ス・ユーフラテス川の上流域へ向かった。
  (エジプトへは向かっていない)
  アッカド帝国時代(紀元前2350年~紀元前2113年)・・、
  この「アッカド」とは、サルゴンが作ったバビロニア
 の北にある中心都市「アガデ」の別称である。
  そこの住民は、シュメール語と異なるセム語派のアッ
 カド語を話すため、シュメール人からアッカド人と呼ば
 れた。
  アッカド王のサルゴンは、当時では特殊であった常備
 軍を有することで、シュメールに対する軍事的優位性を
 確保すると、統一されたばかりのシュメールに攻め入っ
 てルガルザゲシを破り、シュメール地方とアッカド地方
 からなるメソポタミアの統一を果たした。
     ・
     ・
紀元前484年頃、ブッダが最後の旅に出る。
  ブッダは、最晩年の1年間、最後の旅と言われる旅に出
 られました(入滅は紀元前483年頃)
  多くの弟子と共に、ラージャグリハ(霊鷲山)から降
 り・・そして、旅へ・・
  霊鷲山(りょうじゅせん)は、インドのビハール州の
 ほぼ中央に位置する山。
  仏陀(釈迦佛)が、無量寿経や法華経を説いたとされ
 る山・・、
  誰にもやがて訪れる死・・、
  ハーハーと息を弾ませながら霊鷲山の階段を登る・・、
  人生の旅路の最後で、人は、老いや死と、どの様に向
 き合えば良いのでしょうか・・、
  およそ2500年前、その問いに一つの答えを出した人が
 居ました。
  その人の名は、ゴーダマ・シッタールダ(パーリ語形、
 釈迦。仏教の開祖)
  人々からは目覚めた人・仏陀(ブッダ)と呼ばれまし
 た。
  最後の階段を昇る・・
  ナマステ。ナマステー。
  (遠くから、お経を上げる声が聞こえる)
  (参考)ナマステ: サンスクリット語、インドやネ
     パールで交わされる挨拶の言葉。
  生きること、老いること、病(やまい)、そして死。
  人生は苦しみに満ちている。
  仏陀は、その苦しみと、「共に生きること」を説き続
 けました。
  (キリスト教は「人は生まれながらに原罪があるとし、
 神に救って貰うとした」・・とは違う)
  「ブッダンサラナンガッチャーミ、ダンマンサラナン
 ガッチャーミ、サンガンサラナンガッチャーミ」・・
  「何という静かな場所なんだろう」。
  仏陀が、最晩年に至るまで教えを説いたこの霊鷲山を
 初めて訪れました。
  ちょうど、齢80を迎える頃に、この霊鷲山に滞在し
 ていた仏陀は、そこから山を降りて、そして、大変困難
 な旅、ガンジスを超えて、北へ北上するという、6ヶ月・
 数百キロにおよぶ旅に出発される・・、
  そして、その最初の出発点がこの霊鷲山・・、
  一体、仏陀が80歳になって何を感じ、そして、大変
 困難な旅に出発する、その最初の動機は何であったんだ
 ろうかというふうに勝手に想像します・・、
  人間というものは、ある時期に達すると、自分の人生
 というものを振り返ってみながら、そして、その自分の
 人生の締めくくりという様なことを 否でも応でも感じ
 ない訳にはいかない訳です・・、
  仏陀が死を迎える・・
  死への旅である、そして、最後の旅である その仏陀
 の死の旅の足跡を、自分の人生に重ねてみる・・、
  不思議な感じとなる・・
  霊鷲山にある仏像・・手を合わせる・・
  悟りを開いて45年・・、
  常に布教・伝道の旅にあった仏陀・・、
  80歳で、ここ霊鷲山を旅立ちます。
  それが最後の旅になりました。
  苦難に満ちた旅の中で、仏陀その人は、いかに老いを
 受け入れ、病(やまい)に耐え、そして、どの様に死を
 迎えたのか・・
  およそ2500年前、釈迦族の王子として生まれながら、
 出家し、苦行のはてに悟りをひらいた仏陀・・、
  その教えは、時を越え、多くの人々の中に広まって行
 きました・・
  人は、何故、苦しむのか、苦しみと如何に向きあうの
 か・・、
  仏教2500年の歩みは、その「問いかけ」の歴史でもあ
 りました。
  21世紀を迎えた今も、人々は変わらず多くの苦しみ
 を抱いています。
  その中にあって仏教は何をなし得るのでしょうか・・
  ブッダ最後の旅 インド
  さまざまな伝説に彩られ、なぞに満ちた仏陀の生涯。
  しかし、その晩年については克明な記録が、いくつか
 の経典として残されています・・、
  大般涅槃経や、ダイパリミッパーナ経。
  そこには、仏陀の死と、最後の旅の様子が記されてお
 り・・、
  霊鷲山から旅立つ前、仏陀は弟子達を集め、悟りに至
 る道について次のように説かれました。
.
  戒律と共に修行して
  完成された精神統一は 
  大いなる果報をもたらし、
  大いなる功徳がある。
  精神統一と共に修養された智慧は、
  偉大な果報をもたらし、
  大いなる功徳がある。
  智慧とともに修養された心は、
  もろもろの汚れ、すなわち、
  欲望の汚れ、
  生存の汚れ、
  無明の汚れから
  『 まったく解脱 』 する。 
.
紀元前473年~紀元前463年、第1回仏典結集。
  仏典結集(ぶってんけつじゅう)は、仏教経典の編集
 で・・、
  伝説によると、釈尊の入滅後、弟子たちが王舎城に集
 って釈尊の教えを唱集した(口伝の教法・ダルマを集成・
 整理して、後世に伝えた)
  釈尊に常侍した阿難が経典を暗唱、他の者が唱和し、
 優波離 (うぱり) が律を暗唱、他の者が唱和した。
  こうして釈尊の教えの記憶を確かめ、その正しい伝承
 に努めた。
  これが第1次結集。
  (有能な弟子500人が、マガダ国の首都ラージャグリハ・
 王舎城に集まって行なった)
  この時、釈尊の侍者アーナンダ(阿難)が中心となっ
 て教法が結集され、ウパーリ(優婆離)が中心となって
 戒律(ビナヤ)が結集された。
  100年後に第2次結集を行い、アショーカ王の援助で第
 3次を、カニシカ王の援助で4次結集を行なったという。
  三蔵(経・律・論)の成立をみた。
.
317年、日本へ伝わった大乗仏教は、インドのマウリア朝
 (紀元前317年頃~紀元前180年頃)で繁栄した。
  その後、アフガニスタンのクシャーナ朝(1世紀頃~3
 世紀頃)を経て・・
  中央アジア(西域に紀元前1世紀~紀元1世紀)、
  敦煌を経由し、長安(紀元前1世紀~紀元1世紀)を経
 て中国に伝わった。
  そして、百済(384年)、日本(538年)に伝わった。
  因みに、仏教は、中国に入った後、儒教や道教の持つ
 「陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)」を取り入れた。
.
6世紀、この頃、インドから達磨(だるま)が、中国へ来て
 禅を起こした。
  その後、6世紀半ば、朝鮮半島を経由して日本に入った。
  高句麗(372年)、新羅(528年)
.
6世紀後半、チベット仏教(ラマ教)ができた。
  4世紀~5世紀のインドでは、バラモン教の呪術、天文
 学、医学、薬学などを取り入れた密教が作られた。
  さらに6世紀後半に、チベットの吐蕃(とばん)王朝が、
 密教を中心としたインドの仏教を学び、それをチベット
 の独自性を融合させてチベット仏教(ラマ教)ができた。
     ・
     ・
1947年、日本人の平均寿命・・男:50.06歳、女:53.96歳
  参考に・・
  2016年、男:80.98歳、女:87.14歳、
  未来の2060年、男:84.19歳、女:90.93歳、
.
1950年、チベットが、中国に乗っ取られている。そして、
 多くのチベットの方々が中国に殺されている。
  以下は、1950年~1976年の間の中国の侵略で死んだチ
 ベットの方々の犠牲者数である。
  戦闘・抵抗活動中での死亡・・432,705人
  処刑死・・・・・・・・・・・156,758人
  拷問死 ・・・・・・・・・・・92,731人
  強制収容所・刑務所での死亡:173,221人
  餓死・・・・・・・・・・・・342,970人
  自殺:・・・・・・・・・・・・9,002人
  計:・・・・・・・・・・・1,207,387人
.
2003年4月20日、朝日新聞が、また、ひどい記事を書いた・・
  それを、百田尚樹氏が、ツイッターに、「昔、朝日新
 聞は、『北朝鮮からのミサイルが日本に落ちても、一発
 だけなら誤射かもしれない』と書いた。
  信じられないかもしれないが、これは本当だ」・・と、
 ツイートした。
  2003年4月20日に、朝日新聞が、東京版朝刊第2面に書
 いたこの記事は・・
  2017年4月24日、朝日新聞の政治部次長は、「確かに、
 書いていました」と認めた。
  そして、朝日新聞は、「一般論で書いた」と言い訳に
 ならない言い訳をした。
  それに対し、世論は・・、
  「核ミサイルを撃ち込まれて、焼け野原になって、皆
 が蒸発して居なくなって、一般論でしたという論理が通
 じる訳はないだろー」・・と、軽蔑(けいべつ)を交え
 て反論した。
.
2009年1月20日、アメリカのオバマ大統領の就任式が行われ
 た。
  アメリカのオバマ大統領が就任したこの年は、アメリ
 カが起こした卑劣な経済犯罪の「リーマンショックの直
 後」だった。
  2009年のアメリカ経済の成長率は、マイナス2.78%と
 いう最悪の状況だった。
  オバマ大統領は、当然、経済を軌道に乗せ、アメリカ
 経済の活力を取り戻したいと考えていた。
  マスコミも、オバマ大統領の1年目は、アメリカ経済が
 全面的な恐慌に近づくくらいのグレートリセッション(
 大不況)を経験したと報じた・・
  1929年~1930年の大恐慌の初期より「大きく落ち込む
 ほどだ」と報じた。
  オバマ大統領は、金融業界と自動車業界の救済を主眼
 点としていた。
  アメリカのデトロイトの自動車企業は、オバマ大統領
 に「30兆円の金を出せ」と言った。
  また、「金融機関には150兆円の金を『緊急だ』と言っ
 て出してるではないか」と言った。
  ゼネラル・モーターズ(GM)や、クライスラーや、
 フォードの三社は、オバマ大統領から注文を付けられた。
  言われたことは・・
  「国際競争力を回復する研究をせよ、努力をしなさい」
 と言われ・・
  そして、その為の研究課題などが言われたが、ピント
 はずれのトンチンカンな返事をした。
  それは、後ろ向きの案ばかりだった。
  「社長の給料を削ります」
  「労働者を減らします(首切り提案)」
  「工場閉鎖をして、経費節減をいたします」・・など
 だった。
  アメリカ国民の方々は、「努力もしないで、競争に負
 けた会社に、国民の金を使うな」と言った。
  日本の鎌田実氏の「頑張るな」が伝染した訳ではない
 だろうが・・? 努力する姿勢はまったく無く、後ろ向
 きの案や姿勢ばかりで・・金だけをせびった。
  鎌田氏もキリスト教徒で、キリスト教の活動方針に沿
 った「頑張るな発言」をよくしていたが・・
  努力もしないで「金ばかりをせびる姿」に、アメリカ
 国民の方々は怒った。
  第二次世界大戦の時は・・、ルーズベルト大統領が、
 第二次世界大戦を起こして、アメリカが恐慌で、「経済
 がどん詰まり状態だったのを打開して、経済を上向けた
 いという策として、この様な卑劣な戦争を起こすという
 手を打ったが・・
  この時は、ゼネラル・モーターズ(GM)などは、タ
 ンクや大砲を、どんどん作って潤(うるお)い、息を吹
 き返したが・・
  この時のオバマ大統領は、ルースベルトの様な卑劣な
 手を使う様な汚い大統領では無かった・・
  そして、そんなに甘くは無かった・・
  当然である。
  アメリカ国民の方々へ「極秘」にして、戦争を起こし
 たルーズベルトとは違っていた。
  オバマ大統領は、当然、この様な卑劣な、非人道的な
 事はしなかった。
  アメリカ共和党も、ゼネラル・モーターズ(GM)な
 どが、自由競争に負けたのは「怠けた自動車企業の自業
 自得だ」と言った。
  「怠(なま)けた君たち自身が、責任を取れ」と言っ
 た。
  「政府は甘やかすな、政府の救済には反対だ」と言っ
 た。
  議事妨害をしてでも反対する・・阻止すると言った。
  正義の共和党だった。
  オバマ大統領も正義の人だった。
  ここで思い出されるのが、キリスト教に偏するNHK
 で・・、
  NHKは、国民の祝日という日のたびに、「特別番組
 を組んで」、長時間番組として「頑張るな」のキャンペ
 ーン放送を常に続けた。
  キリスト教徒の鎌田実氏は、常に、NHKに呼ばれる
 という最大の恩恵を受けていた。
  キリスト教の「頑張るな運動」に同調するNHKだっ
 た。
.
2015年9月4日、EUの難民騒ぎは・・最悪の状態だった。
  当然、難民の方々に「幸せになる権利があった」。
  そして、ドイツには、第二次世界大戦の非人道的行為
 の反省から生まれたドイツ基本法があって・・
  「難民の方々を救済する事が決められていた」。
  豊かなドイツ・・EUで、唯一の経済的に豊かな国。
  その豊かさを求める難民と称する人々。
  存在する格差を縮めたいと、豊かさを求めてドイツへ
 向かう人々。
  ドイツは、自国の基本法を遵守する事は出来なかった・・
 守り切ることが出来なかった。
  国が壊れて行く状況だからだった。
  この様な事態に、さすが、基本法といえども守れない
 ドイツがそこにあった。
  そのしわ寄せが・・「難民通過国のハンガリー」に行
 った。
  ドイツが、事実上、放棄したドイツ基本法のしわ寄せ
 で、ハンガリーに「難民が溜まり出した」。
  ハンガリーも限界を超えた。
  早く言えば・・、「難民救済のお金をやるから来ても
 良いよ」と言った『救済する基本法を持つドイツ』へ向
 かった難民の方々を、ドイツが拒否したようなものだっ
 た。
  唯一の豊かなドイツが、難民の受け入れが、我が国の
 最大の方針ですという「宣言を取り下げた形」となった。
  豊かではないハンガリーは、そのとばっちりを受けた
 形となった。
  しかし、可哀想に、ドイツほど豊かではない、難民を
 受け入れる余裕のないハンガリーに、非難は集中した。
  国が保てないから国境に柵を作れば、「非人道的だ」
 と責められ・・
  難民を受け入れて、その受け入れ施設が、超満杯状態
 になれば、それで待遇が悪くなれば、その待遇が刑務所
 のようだと、非人道的だと責められた。
  やむなく・・「ドイツ行の列車」を、難民が乗った列
 車をドイツへ行く列車を、発車させれば・・何故、発車
 させたのだと責められ、「ハンガリーの首相は独裁者だ」
 と言われた。
  ハンガリーのオルバン首相は怒っていた。
  「この問題は、ドイツの問題だ」と核心を突いた非難
 をドイツに対して行なった。
  結局、グローバリズムを守り切る気概が無いのに、問
 題を他国のハンガリーへ押し付けるところに齟齬(そご、
 意見や事柄が、くいちがって、合わないこと)があった。
  難民の方々は、この両国の間(ハザマ)で、業を煮や
 して(ごうをにやして)、徒歩で、オーストリア国境へ
 向かい始めた・・ドイツへの歩みを始めた。
  ハンガリーから続くその道を歩く列が、何キロも続い
 た。
  その状況が、上空から撮影されて、テレビで放送され
 た。
  「EUの起こした罪」の姿が放映された。
  2015年9月4日に、EUに起きた悲劇だった。
  主犯は、ドイツだった。
  財産もすべてなげうって、病気の方も居られるだろう、
 乳飲み子(ちのみご)を抱えた女性の方々も居られるだ
 ろう・・大人とともに歩く幼子も居ただろう・・
  しかし、EUの誰もがも、救いの手を差し伸べない放
 置された歩く姿がそこにあった。
  キリスト教会の前も通って歩いてドイツへ向かったの
 だろう。
  キリスト教国のEUに起きた事だった。
.
2015年9月4日、キリスト教国のEU国内を歩き出した難民
 の方々。
  難民の方々は、EU諸国が、あまりに冷たいので、強
 硬手段を取った。
  難民の方々は、歩いて豊かなドイツへと向かった。
  EU内の唯一の経済強国のドイツへと向かい出した。
  自分も幸せになりたいと・・。
  ご老人も、乳飲み子を抱える女性も、やっと歩くこと
 が出来る幼児も・・その列は延々と続いた。
  本当は、この列が、ドイツにとっての選別の篩(ふる
 い)の役をした・・
  山を越え、谷も越え歩き・・キリスト教会の前も通り、
 その教会の救済の一人も出ない状況の中を歩き続けた。
  この様な時、哀(あわ)れな3歳児の死体の写真が報
 道された。
  波打ち際に横たわり、波に揺れる幼児の死んだ姿だっ
 た。
  第一に保護すべき幼児が、この様な姿になっていた・・
  そして、その子を保護する親もその海を越えられず、
 この子と同じ運命となったのだろうと想像された。
  この報道が、EUの冷たさを反省させ、驚愕させた・・
 自分の冷たさに改めて気づいたEUだった・・
  以下が、その時の報道・・
  題:幼児溺死写真の反響広がる・・難民受け入れ義務
   で仏独が合意・・
  [3日 ロイター]地中海を渡って欧州を目指す難民
 や移民が急増している問題で、フランスのオランド大統
 領は3日、欧州連合(EU)全域で「難民受け入れを割
 り当てる恒久的で義務的なメカニズム」について、ドイ
 ツのメルケル首相と合意したと語った。
  メルケル首相は、ドイツが近隣諸国より多くの難民を
 受け入れる用意があるとし、「公正で、それぞれの国に
 可能なことを考慮した割り当てやルール」に沿って各国
 が役割を果たす必要があると強調した。
  一方、トルコの観光地ボドルム近郊の砂浜で横たわる
 溺死した幼児の写真が、ソーシャルメディア上で広がり
 大きな波紋も呼んでいることについて、フランスのバル
 ス首相は、「欧州全域で緊急な対応が必要だ」とツイッ
 ターに投稿。
  欧州各国の政治家にも反響が広がった。
  死亡したのは、シリア難民のアイラン・クルディちゃ
 ん(3歳)で、家族らとともにボートでギリシャに向か
 っていたところ転覆し、一緒に乗っていた5歳の兄と母
 親も死亡したという。 ・・以上・・
  この報道を見たEU内に、「この悲劇を見過ごす事は
 罪だ」「トボトボ歩いている難民を救え」という声が高
 まった。
  2015年9月5日、ドイツは発表した、「『例外措置』と
 して、ハンガリーにいる難民を受け入れる」・・と・・
  ダブリン協定を、あっさりと「無視した」。
  しかし・・ドイツは、その後・・この辺について「奥
 歯にものが挟まったように言った」・・、
  「ダブリン協定は、治安維持のために、一時停止した
 だけだ」・・と・・
  とぼとぼ歩く難民の方々へ、バスが差し向けられたが・・
 何とも、先行きが曇るドイツだった・・
  難民の方々も、この行為を疑って、バスに乗ることを
 拒否した・・ハンガリーへ連れ帰される罠(わな)だと
 思った・・ドイツやEUのやることに信頼性を失ってい
 た難民の方々が、そこに居た・・
  ドイツ行の列車も次々と発車していた・・、
  2015年9月5日に、ミュンヘン中央駅に着いた難民は、
 8000人・・、
  そして、その翌日・2015年9月6日は、13,000人だった・・
  「ドイツの人道主義の勝利だ」と報道するドイツ・メ
 ディアもあった。
  しかし、ここまで来れた難民の方々は、体の強い方々
 だけの「一部の人たち」だった。
  また、実は、裏話があって・・お金のある人は、この
 難民を運ぶことを「にわか商売」にした「人の移動手段」
 を使ったという・・だから、また、お金のある人がここ
 まで来れた。
  その様なにわか商売の人が色々と居たという・・
  金さえあれば何でもできたという・・この様な「にわ
 か商売人」を利用できた人たちがたどり着けた・・
  髭剃り屋も居たし・・スマホの充電屋も居た・・物売
 り屋も出ていて、金さえあれば困ることのない状況だっ
 た・・と・・
  また、色々な斡旋業者も出て、難民が困っていること
 を処理してくれたという・・
  つまり、この難民の方々は・・やっとたどり着いたと
 いうボロボロの状態ではなく・・報道陣のカメラにVサ
 インをして笑顔を見せるという人たちだった・・
  多分、本当に困っている難民の方々は、列の後方に居
 て・・どこかで力尽きて、とどまっているのだろう・・
  その方たちは、報道されることは無かった。
  そして、おかしなことに?? この到着した難民の方々
 へ、メルセデス・ベンツ社が言った・・「まさに、この
 様な人々を、この様な人材を、わが社は求めている」と・・
 代表取締りの言葉だった。
  つまり、この到着した人たちは、経済力のある、英語
 も通じる・・
  そして、裕福だった人々が多く、それなりの教育を受
 けている人々だった・・
  ドイツの産業界は、そのことを知っていた・・
  そして、安価で、良質な、やる気のある労働力が手に
 入り込んで来たと・・捉(とら)えていた。
  安い良質な労働力が得られたと喜んでいる産業界だっ
 た・・
  ドイツでは、この後、この難民問題に、ハッピーエン
 ドで終わらない事態が続く・・
.
2018年、現代は、従来、絶対に公開されないとされて来た
 諜報に係(かかわ)る秘密文書が、続々と公開され、こ
 れまで真実とされて来た『歴史』が次々と修正されてい
 る・・この様な時代である。
  また、「マオ」という本には、毛沢東は、二十世紀最
 大の殺人者、大悪党であったという事が、豊富過ぎるほ
 どの事実をもって示されている。
  「敵の中に、秘密の同盟者を持て」という言葉がある。
  これが、軍隊なら何個師団にも相当すると言われてい
 る。
  今・現在、日本の官僚、特に、外務省や宮内庁に居る
 のではと思わせる事が起きる。
  この様な危険性は、識者も言う・・、
  「エリートが霞が関や永田町をはじめ、アカデミズム
 やマスコミなど、日本のあらゆる分野で、指導的地位を
 占めている可能性が、1970年~1980年代のレフチェンコ
 事件当時とは比較にならないほど高いものがあるという
 ことを知らねばならない」・・と。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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# by suba28 | 2018-05-01 04:22 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)590E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年11月~1893年12月)

題:(増補版)590E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年11月~1893年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年11月28日、ニュージーランド総選挙(史上初の婦人に
 よる投票)
  被選挙権は、この時に遅れること26年後の1919年から。
  そして、日本の婦人参政権の運動は、「大正デモクラ
 シー」の時期の1924年に、市川房枝氏らが婦人参政権獲
 得期成同盟(1925年に婦選獲得同盟に改称)を結成して
 運動を開始した。
  1925年に、25歳以上の男性に選挙権が与えられる「普
 通選挙法」が成立したが、婦人参政権は第二次大戦後の
 1945年12月の改正選挙法で実現し、満20歳以上の男女に
 よる平等な選挙制度となった。
  翌年・1926年4月の総選挙では婦人議員が39名当選し
 た。
1893年11月29日、衆議院が、星亨の不信任動議を可決した。
 星は辞職を拒否した。
1893年11月、阪鶴鉄道会社が、摂津鉄道を買収した(1897
 年説あり)
  尼崎地域史事典には・・
  摂津鉄道(せっつてつどう):
  1892年、川辺馬車鉄道の輸送力を増強するため馬車を
   蒸気機関車に変えることが計画され・・、
   資本金を10万円から24万円に増資し、摂津鉄道会社
   と改称した。
   この増資の間に大阪資本が進出した。
  1894年、社長の伊達尊親が退任し、大阪の鴻池新十郎
   が社長に就任した。
  1893年12月、路線も伊丹から小戸(おおべ)村(現:
   川西市)までの延長が実・・。蒸気機関車となった
   ため馬車鉄道時代のように官設鉄道の横断が許可さ
   れず、神崎駅の南北に停車場を設けて、乗客は、そ
   の間を徒歩で乗り換えるという事がなされた。
   不便はあったが(貨車は人力で押して横断した)
   尼崎-長洲間10分、長洲-伊丹間12~13分と所要時間
   は大幅に短縮した。
   また、客貨輸送量も飛躍的に増大した。
  1897年、阪鶴鉄道に買収された。
1893年11月、明治座の開場式。
1893年12月2日、衆議院が、議長の星亨の不信任上奏案の動
 議を可決した(12月1日説あり)
  この第2次伊藤博文内閣の第五議会に於いて、衆議院は、
 議長の星亨への不信任上奏案動議を可決した。
  そして、1893年12月5日に、星の1週間の出席停止とし、
  1893年12月13日には、議員除名を決議した。
  そして、1893年12月29日に、衆議院が、現行条約励行
 決議案を上程し、10日間の停会処分を受け・・、
  1893年12月29日、衆議院が、陸奥宗光外相の条約励行
 決議案反対の演説後、再び、14日間の停会を命じられた。
  政府は、大日本協会(対外硬派)に解散命令をした。
  星亨は、1892年の第2回総選挙に当選して衆議院議長と
 なっている・・しかし・・、
  1893年11月に、相馬事件の収賄疑惑によって議長不信
 任案が可決された。
  しかし、議長を不信任となったにも関わらず、議長席
 への着席に固執した。
  そのため、衆議院から除名されてしまった。
  相馬事件は、お家騒動であるが、新興新聞がセンセー
 ショナルに扱って、日本は煽られた。
  (マスコミ報道の是非が問題となった・・マスコミの
 犯罪的な煽りの行動があった)
  この年・1893年、相馬家の関係者が告訴されたり、遺
 体の発掘騒ぎなど陰湿な騒ぎが続いた。
  そして、星は、この年・1893年、後藤象二郎とともに
 取引所設置をめぐる疑獄事件に連座して除名された。
  この時、議長解任の決議を数度にわたり無視して登院
 した。
  (参考)現行条約励行運動は、1893年~1894年にかけ
     て、対外強硬六派によって唱えられた反政府の
     言論運動で・・、
      幕末期に、江戸幕府が諸外国とむすんだ不平
     等条約について、条約正文に明白に規定されて
     いない事項に関してはいっさい外国人の権利を
     認めず、日本国内における外国人の活動や生活
     を制約することを通じて条約改正を行ない、平
     等条約の実現を図ろうというもの。
      この頃、イギリスのロンドンで条約改正交渉
     が大詰めに近づいていたので、外国の世論を刺
     激することを怖れた第2次伊藤内閣は、1893年12
     月末に衆議院解散によって苦境を打破しようと
     した。
      しかし、1894年3月1日の総選挙(第3回衆議院
     議員総選挙)では、自由党も硬六派(立憲改進
     党・国民協会など)もともに過半数を獲得でき
     なかった。
      このことから、政府は、厳しい対応をせまら
     れた。
1893年12月3日、山陽鉄道新川線の兵庫駅~新川駅間が営業
 開始した。
  そして、新川駅は、この日、山陽鉄道の新川荷扱所(
 貨物駅)として開業した。
1893年12月5日、松平容保公が亡くなられた・・59歳だった。
  松平容保(まつだいらかたもり、1836年~1893年)は、
 幕末・維新期の陸奥(むつ)会津藩の藩主。
  天保6年(1836年)12月29日、美濃(みの、岐阜県)高
 須藩の城主・松平義建(よしたけ)の子(6男)として生
 まれた。
  会津藩主・松平容敬(かたたか)の養子となる。
  1852年(16歳)、襲封(しゅうほう、領地を受け継ぐ
   こと)し、陸奥会津藩(福島県)藩主・松平(保科)家
   9代となる。
  1853年(17歳)ペリー来航に際して、井伊直弼ととも
   に国書受理に賛成した・・
   また、本来、京都守衛は、所司代(しょしだい)の
   任務であったが、このペリー来航後、京都守衛は、
   幕府の威権にかかわる重要な問題として浮上した。
   そのため、幕府は、朝廷や諸大名の守衛不備の批判
   を避けるため、彦根藩、津藩を中心とする守衛体制
   をつくった。
  1860年(24歳)桜田門外の変で、井伊直弼が横死する
   と、容保は、幕府と水戸藩との調停にあたった。
   また、幕府の命によって、松平慶永とともに、幕政
   に参与した。
  1862年(26歳)幕府の強い要請により、京都守護職に
   任命された。
   京都守護職は、徳川幕府末期の京都守衛を職務とす
   る幕府官職だった。
  1862年閏8月、京都守護職に就任し、京都の治安維持と
   公武合体の実現に努め・・幕末の困難な政局にあた
   った・・尊攘急進派の長州藩を一掃した・・
   そして、京都の幕府勢力を代表して、孝明天皇の信
   を得て、一橋慶喜とともに公武合体を推進した。
  1863年(27歳)9月30日(文久3年8月18日)の八月十八
   日の政変では、中川宮(なかがわのみや)や薩摩藩ら
   と結んで攘夷親征を計画し、長州藩などの尊攘派を
   京都より追放し・・弟の所司代・松平定敬と京都の
   治安を確保した。
   そして、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)、松平慶永
   (よしなが)、山内豊信(やまうちとよしげ)、伊達宗
   城(だてむねなり)、島津久光(しまづひさみつ)とと
   もに、参与として朝政に参画した。
   そして、公武合体策による国政挽回(ばんかい)を図
   ったが、内部対立のために失敗。
  1864年(28歳)8月20日、これを好機として禁門の変
   を起こした長州藩・・この戦いでは、薩摩藩・桑名
   藩とともに、長州側を圧倒し撃退した。
  1864年(28歳)長州征伐には陸軍総裁職、のち軍事総
   裁職につき、また京都守護職に復した。
   その後、徳川慶喜と協力して条約勅許問題などで活
   躍した・・が・・
   西南諸藩との対立は決定的となる。
  1867年(31歳)薩長両藩の画策が功を奏し、容保誅戮(
   ちゅうりく、罪ある者を殺す)の宣旨(せんじ)が出さ
   れ・・
  1867年(31歳)江戸幕府の15代将軍の徳川慶喜の大政
   奉還に反対し、武装する・・も・・
   大政奉還後、慶喜とともに大坂に退去し、
  1868年(32歳)・・恭順の意を表したが入れられず・・
   鳥羽・伏見の戦いに敗北し、海路、江戸へ・・そし
   て・・慶喜へ再挙を説いたが入れられず・・、
  1868年(32歳)会津戦争では、30余藩の佐幕派列藩同
   盟の中心となって、東北・北陸に兵を展開し、徹底
   抗戦した・・
   しかし、会津城に籠城し、討幕軍に抗戦した・・
   ・・が・・会津若松城で敗れて降伏・・
  1868年(32歳、明治元年)因幡(鳥取藩)に幽囚(永
   預・えいあずけ)となる・・のちに和歌山藩へ・・
  1872年(36歳)謹慎を解かれて、のちに正三位に叙さ
   れた。
  1880年(44歳)日光東照宮宮司となられた。
  明治26年(1893年)12月5日、逝去される、59歳。
  言葉:幾人の 涙は石に そそぐとも その名は世々
 に 朽じとぞ思ふ
  会津戦争で戦死した藩士を追慕して詠まれた。
1893年12月12日 摂津鉄道の尼ヶ崎駅(現:尼崎港)~池田駅
 (現:川西池田)間が開通した。
  既設の尼ヶ崎駅~伊丹駅間を改築さらに伊丹駅~池田
 駅間に新線を延長敷設)した。
1893年12月13日、衆議院が、星亨を除名決議した。
1893年12月15日、三菱社が、三菱合資会社に改組された。
  三菱財閥は、日本の三大財閥の1つであるが・・、
  1870年、土佐藩出身の岩崎弥太郎が、土佐藩の事業を
   継承して、海運事業(九十九商会・つくもしょうか
   い)を創立し、
  1872年、三川(みつかわ)商会に改称。
  1873年、三川商会を三菱商会に改称。
  1874年、拠点を東京に移し、社名を三菱蒸気船会社と
   改称。
  1875年、上海定期航路を開く・・これは、我が国で初
   めての外国定期航路。
   政府の保護のもとにあった日本国郵便蒸気船会社の
   人員・施設を吸収して、社名を郵便汽船三菱会社と
   改称。
   上海のボイド商会と出資し、横浜に船舶修理工場の
   三菱製鉄所を開いた(外国資本との提携の始め)
  1876年、三菱商船学校を設立する。
  1879年、東京海上保険会社を設立(華族と共同出資)
  1880年、横浜正金銀行を設立する。
   また、三菱為換店を設立(三菱の銀行業、倉庫業の
   始め)、
   また、千川水道会社を設立(東京都水道の始め)
  1881年、長崎県の高島炭坑を買収し、経営する。
   また、明治生命保険会社を設立する。
  1884年、工部省管轄の長崎造船所を借り受けた。
  1885年、初代社長・岩崎彌太郎が死去(50歳)
   副社長であった岩崎彌之助が第2代社長に就任した。
   そして、第百十九国立銀行を継承する。
   そして、三菱と、共同運輸両社が合併し、日本郵船
   会社を設立した。
  1886年、岩崎彌之助が、三菱社を設立し、海運以外の
   事業を経営する(吉岡銅山、高島炭坑、長崎造船所、
   第百十九国立銀行、千川水道会社・・など)
  1887年、有限責任・東京倉庫会社を設立する(現:三
   菱倉庫)
   そして、借り受けていた官有・長崎造船所の払い下
   げを受けた。
  1888年、日本石油を設立。
  1889年、三菱社の管事・川田小一郎が、第3代の日本銀
   行総裁に就任した。
   そして、この年、丸の内と神田の官有地13万5千坪の
   払い下げを受けた。
  1891年、小野義真、岩崎彌之助、井上勝との共同によ
   って岩手県盛岡市郊外に農牧場を開いた(1899年、
   岩崎家の所有となった)
  1893年、商法の実施により三菱社を廃し、三菱合資会
   社を設立した。
   社長の岩崎彌之助は監務(後見職)となり、副社長
   の岩崎久彌が第3代社長に就任した(資本金500万円)
   そして、総務、銀行、営業、炭坑、鉱山、地所の各
   部を設置し、分権体制を敷いて、長崎造船所の拡張
   と神戸、下関造船所の新設、そして、麒麟麦酒の設
   立など、事業がいっそう拡大された。
  三菱は、富国強兵政策の明治政府の保護もあって発展
 した。
  主に、海運業に注力(ちゅうりょく、力を注ぐこと)
 するが、造船業・鉱業・鉄道・貿易など、あらゆる分野
 に進出した。
  第二次世界大戦後、GHQの財閥解体にあう。
.
  (今日の言葉)
.
  題:難民に困るドイツが編み出した・・ダブリン協定・・
    ハンガリーのオルバン首相は独裁者だと、ドイツは言った・・
    難民は、EU内を自由通行するな・・と、決められた・・
    自由通行のEUの・・国境に・・突貫工事で塀が作られた・・
.
紀元前8000年、チグリス・ユーフラテスに囲まれた「肥沃
 な三日月地帯」において・・、
  これまでの狩猟と採集の生活から、牧畜(牛・羊の飼
 育)と農耕(麦類栽培)を主体とした生活が行われるよ
 うになったとみられる遺構が・・、
 紀元前8000年頃のジャルモの地層から発見された。
     ・
     ・
紀元前3500年頃、メソポタミア文明が作られた。
  チグリス・ユーフラテス川は、水源地帯の雪解けによ
 り定期的に増水するため、運河を整備することで豊かな
 農業収穫が得られた。
  初期の開拓地や文化から始まり、エジプトなどよりも
 早く農業が行われた。
  この文明のメソポタミア諸王朝と、エジプト王国は、
 互いに自らが作り上げた文化に高い誇りを持ち続けて、
 相手の科学思想を取り入れようとしないなど、『交易な
 どなされず』にいた。
  ヘブライ人は、アラム人などとの貿易をしていた。
  キリスト教は、ヘブライ人が、メソポタミアからエジ
 プトへ向かったという話にしたいので・・だから、史実
 に反する話をする。
  これは、ヘブライ人が、エジプトへ向かわないと「モ
 ーゼのエジプト脱出」の話が「作り話になる」からで・・、
  しかし、モーゼのこの話は、史実にはない「作り話」
 で、歴史家も、「モーゼの実在を否定している」。
  キリスト教は、無理筋の嘘話を言うが、これもその一
 つ。
.
紀元前3200年頃、チグリス・ユーフラテス川の下流域のウ
 ルクで、紀元前3200年頃、ウルク古拙文字と呼ばれる絵
 文字が生まれた。
  ウバイド期に続く次の時期をウルク期(紀元前3500年
 ~紀元前3100年)と呼び・・、
  この時期は、都市文明の開始期で、都市文明の担い手
 はシュメール人だった。
  ウルク文化期後期には、支配階級や専門職人や商人が
 現れ、ウバイド文化期には認められなかった円筒印章や
 プラノ・コンヴェクス煉瓦が登場した。
  紀元前3200年頃に、ウルクで、ウルク古拙文字と呼ば
 れる絵文字が生まれた。
  ほぼ同時期に、東のエラムでは、原エラム文字や、エ
 ラム線文字が使われ、
  エジプト初期王朝時代では、ヒエログリフとヒエラテ
 ィックが使われていた。
  研究者は、原エラム文字とインダス文字が非常によく
 似ていると指摘している(インドとの交易)
.
紀元前3100年、メソポタミアの楔型(くさびがた)文字は、
  この時より前に出現していた。
.
紀元前3000年頃、ウルク期に続くジェムデト・ナスル期(
 紀元前3100年~紀元前2900年)になると・・、
  紀元前3000年頃、銅にすずを混ぜる青銅合金の製造法
 が発見され、青銅製の武器が作られた。
  銅の供給地は、バット遺跡。
  スズの供給地は、トロス山脈のケステル。
  武器の発達によって、都市国家間は戦乱時代となり、
 ウルクの市域は最大領域に達し、ジェムデト・ナスル文
 化はペルシャ湾岸まで達した。
  しかし、ジェムデト・ナスル期末期にシュルッパクの
 王ウバル・トゥトゥの治世下で、メソポタミア全域が大
 洪水に見舞われ、ウルクの繁栄が終わり、シュメールの
 中心は上流域のキシュに移った。
  (上流域との関係が強いのである・・エジプトではな
 い・・また、ウルク、ウルは下流域。
.
紀元前2900年、初期王朝時代(紀元前2900年~紀元前2350
 年)には、ウル、ラガシュのような多くの新興シュメー
 ル都市国家が成立し、王朝が成立した。
  考古学的に、実在が確認されている最古の王は、紀元
 前2800年頃のキシュ第1王朝の王エンメバラゲシで、
  アワン朝古エラム時代(紀元前2700年頃)、3代に渡っ
 てシュメールを支配したと伝えられる。
  紀元前2700年頃、シュメール下流の都市が繁栄し、キ
 シュはさびれた。
.
紀元前2850年、神聖文字(ヒエログリフ)などのエジプト
 の絵文字は、紀元前2850年頃から使われていた。
  このエジプト文字が、元となってアラム文字、フェニ
 キア文字、ヘブライ文字などが作られた。
  これ等の文字によって、中近東の紀元前2000年~紀元
 前1000年といった極めて古い時代の歴史を知ることが出
 来る。
.
紀元前2600年、この頃と考えられているウルク第1王朝の王
 ギルガメシュは、『ギルガメシュ叙事詩』によってその
 名を知られているが、エンメバラゲシの実在が確認され
 た事から実在が確実視されている。
  シュメールとの交易相手にはen:Majan、ディルムン、
 en:Meluhhaが知られており、この時代には、広大な交易
 網が形成されていた。
  ラガシュの王ウル・ナンシェの碑文に、ディルムンと
 交易していた記録が残っている。
  en:Meluhhaが、インダス文明であるとする説をヘルシ
 ンキ大学のアスコ・パルボラ博士とen:Simo Parpolaら多
 数の学者が支持している。
  楔形文字が、完全な文字体系に整理されたのは、紀元
 前2500年頃である。
  伝説では、ウルク第1王朝の王エンメルカルが文字を使
 ってアラッタに降伏を勧告した(エンメルカルとアラッ
 タの領主。
     ・
     ・
30年頃、この頃、エルサレムの町には予言者が一杯いた。
  吉凶の前兆をめぐって予言者や占師がはびこるという
 エルサレムだった。
  イエスは、儲かるからと、この商売に就いた。
  イエスは、故郷の人から、「予言者とは、いい商売を
 しているな」と言われていた。
.
129年頃、古代ローマの医師・ガレノスが、トルコのペルガ
 モンの裕福な建築家の家庭に生まれた。
  父の支援のもとに、各地で哲学や医学を、アレクサン
 ドリアで学んだ。
  この地は、唯一、医学解剖が許される地だった。
  この地で、彼は、技術を磨き、経験を重ねた。
  27歳(156年頃)の時、故郷へ帰り、ここで剣闘士の
 治療医となった。
  肉を切り裂く流血の競技をする剣闘士の担当医として
 外科医のかけがえのない経験を積んだ。
  30歳(159年頃)を過ぎて、ローマへ行った。
  ローマは、五賢帝最後の皇帝マルクス・アウレリウス
 が即位したばかりだった。
  この地で、ガレノスは解剖の技量を示し、名医として
 の評判を得て、また、名を高めた。
  この評判が皇帝の耳に入り、目にとまった。
  皇帝の侍医となる。
  166年(37歳)、疫病が大流行した。
  この病気がイタリアに到来する頃、ガレノスは、ロー
 マを離れ帰郷した。
  これは口実だった。
  実際は、医学論争での対立から身の危険を感じたのだ
 った。
  ガレノスは、「激昂(げっこう)しやすい人」だった。
  しかし、名医としての名声が、故郷に居る事を許さず、
 ほどなく、皇帝の命で呼び戻され、帝室の侍医となった。
  やがて、北方からのゲルマン人の侵入の脅威が高まっ
 た。
  マルクス帝は遠征をした。
  ガレノスは、随行するようにと言われるが固辞(こじ、
 かたく辞退しつづけること)した。
  180年、マルクス帝が死去する。
  18歳の子のコンモドゥスが帝位についた。
  この帝は、直ちに和平を進め、代償金(損害のつぐな
 いをする・・その金)を支払い北方戦線から撤退した。
  この帝は、簡単にローマ人の威信を挫(くじ)いた。
  そして、この子の帝は、ひいきの側近に政治を任せ、
 怠惰で放埓(ほうらつ、ほしいままに振る舞って酒や女
 に溺れること)な行動を始めた。
  命も再三にわたって狙われるという始末だった・・が、
 結局、側近らの共謀によって殺害された。
  ガレノスは、宮廷の侍医であった、そして、比類なき
 名医であった、それは誰もが認めた・・名声も博した。
  ガレノスに対抗する医学の諸派もあったが、ガレノス
 の晩年頃には、そのほとんどが勢いを失っているほど、
 ガレノスは、地中海世界の医学における唯一の皇帝の様
 な名医だった。
  ガレノスは、また、厖大な著作を残した。
  また、彼は、医学だけに没頭したからこそ、権謀術数
 が渦巻く彼の世界の中(宮廷社会の中)で生きて行けた
 と言える。
  ヒポクラテス以来の誇大医学を集大成し、ルネッサン
 ス期まで西洋医学に絶大な影響を及ぼしたというガレノ
 スだった。
  ガレノスは、200年頃に没した(71歳くらい)
  「現代医学の治療の要(かなめ)は、古代のガレノス
 の時代からさほど変わっていない」と言われているほど
 である。
     ・
     ・
1857年7月、北海道・函館に、五稜郭が起工する。
  フランス式築城術で建設された日本初の稜堡式城郭で、
  天守閣を備えた城郭は持たない。
  当初は、幕末の開港による外国の脅威を念頭に、より
 多くの堀や城累の設置が検討されたが、後に、設計は縮
 小された。
  (参考)稜堡:りょうほ、大砲を主要防御武器として
     設計された城で、多数の大砲が、死角を補い合
     うように造られている。
      16世紀~18世紀のヨーロッパで行われ、日本
     ではこの五稜郭・龍岡城・・
  (参考)龍岡城:たつおかじょう、長野県佐久市田口
     にある日本の城跡で、幕末期に築城され、龍岡
     藩(田野口藩)の藩庁が置かた。
      日本に二つある五芒星形の西洋式城郭の一つ。
      龍岡五稜郭、あるいは、桔梗城とも呼ばれる。
  1854年3月、日米和親条約の締結により箱館開港が決定
   すると、江戸幕府は、松前藩領だった箱館周辺を上
   知して・・、
  (参考)上知:あげち、江戸時代の大名や旗本が、領
     知である知行地(→知行)を官に返すこと。
  (参考)領知:りょうち、土地を領有して支配するこ
     と。
  1854年6月、箱館奉行を再置した。
    箱館奉行所は、前幕領時代(1802年~1807年)と
   同じ基坂(函館山の山麓一帯にある坂のひとつで、
   当時は、松前藩の箱館奉行詰役所があった)に置か
   れた。
    初代奉行の竹内保徳は、松前藩の建物を増改築し
   て引き続き使用する方針を示したが、
    続いて奉行に任命された堀利煕は、同所は箱館湾
   内から至近、かつ、遮るものがなく、加えて外国人
   の遊歩区域内の箱館山に登れば、奉行所を眼下に見
   下ろすことができるので防御に適さず、亀田方面へ
   の移転が必要だと上申した。
    そして、竹内と堀は江戸に戻ると、箱館湾内から
   の艦砲射撃の射程外に位置する鍛冶村中道に「御役
   所四方土塁」を築いて、奉行所を移転する意見書を
   老中・阿部正弘に出した。
    これが、幕閣に受理され、五稜郭の建設が決定し
   た。
    併せて、矢不来(やぎらい、現在の北斗市矢不来
   (やふらい))・押付・山背泊(やませどまり)・
   弁天岬・立待岬・築島・沖の口番所の7か所の台場の
   新改築からなる箱館港の防御策も上申されたが、阿
   部は、これらを同時に築造するのは困難なので、ま
   ず、弁天岬(弁天台場)と築島(着工されず)に着
   手するよう指示している。
  1855年7月、フランスの軍艦コンスタンティーヌ号が、
   箱館に入港した際・・、
    箱館奉行所で、器械製造と弾薬製造の御用取扱を
   務めていた武田斐三郎が・・、
    同艦の副艦長から指導を受け、大砲設計図や稜堡
   の絵図面を写し取った。
    武田は、この絵図面をもとに、五稜郭と弁天台場
   の設計を行った。
    そして、五稜郭と弁天・築島・沖の口台場の築造
   からなる総工費41万両の予算書が作成された。
    当初は、工期20年の計画だったが、蝦夷地警備を
   命じられた松前藩(戸切地陣屋)・津軽藩(津軽陣
   屋)・南部藩(南部陣屋)・仙台藩(白老陣屋)の
   各陣屋が、既に、完成していたことから、
    五稜郭や台場の工事が遅れると、箱館市民や外国
   人に対して幕府の権威を失うことになるので、弁天
   台場と五稜郭の築造を急ぐこととなった。
  1856年11月、組頭・河津祐邦、調役並・鈴木孫四郎、
   下役元締・山口顕之進、諸術教授役・武田斐三郎ら
   を、台場並亀田役所土塁普請掛に任命し、
  1857年7月、五稜郭の築造を開始した。
    建物については、1856年から、郭外北側に役宅を
   建設、
  1861年、奉行所庁舎建設を開始した。
    施工は、土木工事を松川弁之助、石垣工事を井上
   喜三郎、奉行所の建築を江戸在住の小普請方鍛冶方
   石方請負人・中川伝蔵が請け負った。
    当初は、まず、掘割と土塁工事、
    続いて、建物工事、
    最後に、石垣工事を行う計画だったが、
    この地は、地盤が脆弱で、冬季の凍結・融解によ
   り掘割の壁面が崩落したため、急遽、石垣工事を先
   行させた。
  1864年、竣工。
   1864年6月15日、箱館奉行・小出秀実が、旧奉行所か
   ら郭内の箱館御役所に移転、業務を開始。
    引き続き防風林や庭木としてのアカマツの植樹や
   付帯施設の工事も行われ、
  1866年、全ての工事が完了した。
    箱館奉行・小出秀実が、奉行所を五稜郭内に移転
   して業務を開始した。
  そして、後に、箱館戦争(1868年~1869年)では、榎
 本武揚率いる徳川幕府軍が入城し、城塞であるとともに
 榎本らが設立した「蝦夷共和国」行政府としても機能し
 た。
.
1892年11月、大倉土木組が、日本土木会社から継承され設
 立された(現:大成建設)
  1873年10月、大倉喜八郎が、資本金15万円をもって大
   倉組商会を創立し、機械などの直輸入貿易をおこす
   とともに諸建造物の造営などに当たった・・これが
   起源。
  1887年3月、大倉喜八郎は、渋沢栄一氏、藤田伝三郎氏
   と共に、資本金200万円をもって有限責任日本土木会
   社を設立し、大倉組商会の業務の内、土木関係に関
   するものを分離し継承・・日本の土木建築業の初め
   となる。
  1892年11月、有限責任日本土木会社は解散し、その事
   業を大倉喜八郎単独経営の大倉土木組に継承する。
  1911年11月、大倉土木組が、株式会社大倉組に合併さ
   れ株式会社大倉組土木部となる。
  1917年12月、株式会社大倉組より分離し、資本金200万
   円の株式会社大倉土木組となる。
  1920年12月、日本土木株式会社と改称。
  1924年6月、大倉土木株式会社と改称。
  1946年1月、大倉土木株式会社を廃し、大成建設株式会
   社と改称した。
  因みに、大倉財閥は、政商・大倉喜八郎が一代で創設
 した財閥で、幕末・維新の動乱に乗じて銃砲販売で台頭し
 た。
  大倉喜八郎は、明治期に軍需物資用達などの政商活動
 や貿易活動を中心に事業を拡大したが、そこで蓄積した
 資本を基礎に、合名会社大倉組(1893年、設立)を持株会
 社とし、大倉商事、大倉鉱業、大倉土木の直系3社を事業
 の中核とするコンツェルン機構が第1次世界大戦期に形成
 された。
  また、大倉喜八郎は、財界の有力者として多数の会社
 の設立に関与し、出資していたため、昭和初期には投資
 先会社数が100社以上にのぼり、巨大総合財閥(三井、三
 菱)には及ばないものの、第二級の資本規模を有する財閥
 に発展した。
.
20世紀初め、この頃、排満革命の機運が中国で高まった。
  汪兆銘(おうちょうめい)。
  清朝の満州人(満州族)に、漢人(漢族)が支配され
 ている中国だった。
  孫文の率いる革命勢力の中で、汪兆銘は頭角を現して
 いた。
  そして、清朝摂政王の暗殺を試みた。
  しかし、失敗した。
  汪兆銘は、捕まって、死刑宣告を受けた。
  汪兆銘は、蒋介石の4年前に生まれ、日本の法政大学に
 留学し、学んでいた・・その様な人物だった。
  死刑宣告を受けた汪兆銘は、幸い、1911年に、辛亥(
 しんがい)革命が起きたため、釈放された。
  中国の愛国者であり、民族主義の急進派であり、親日
 的だった。
  だが、しかし、今(2018年)、中国共産党政権は、「
 漢奸(かんかん、中国の国を売る輩・同国人)」として、
 売国奴呼ばわりをしている。
  しかし、この汪兆銘は、蒋介石と違って「容共路線」
 を主張していた。
  汪兆銘は、病気治療のため渡仏した。
  その間、蒋介石は、中国の実権を握った。
  汪兆銘は、同調して反共に転じた。
  1927年頃まで、汪兆銘は決死で活動し、自分の命をも
 惜しまない「革命の家の姿」であり、孫文の後継者とし
 ての気概があった。
  しかし、反共路線を取る汪兆銘と、親日的な姿に「漢
 奸」の姿を感じさせてしまっていた。
  蒋介石の蔭にアメリカが居て、中国の反日姿勢が強ま
 り、日中関係が悪化するとともに、汪兆銘の「漢奸のイ
 メージが、膨らんで行った」。
  1930年、蒋介石は重慶に政府を移し、アメリカに影響
 され、対日徹底抗戦を主張した。
  汪兆銘は、その方針に異議を唱えた。
  そして、南京に新政府を樹立した。
  そして、戦争で被害を受ける国民が頭にあった汪兆銘
 は、戦争への道ではない日中関係の打開を試み始めた。
  日中の関係を冷静に考える汪兆銘には、中国国民の膨
 大な被害が見えていた。
  何としても汪兆銘は、その視点からも、戦争は避けた
 かった。
  汪兆銘の愛国者の視点は、中国の人たちの犠牲を受け
 る姿から発していた。
  しかし、汪兆銘は、反日派から狙撃され、重傷を負っ
 てしまった。
  しかし、汪兆銘は、方針を変えることなく、和平の道
 を探し求めた。
  汪兆銘は、1944年11月10日に病没した。
  61歳だった。
.
1945年8月15日過ぎに、ソ連は、日本領の南樺太(南のサハ
 リン)に攻めて来た。
  日本の交渉団が・・、
  「8月15日の終戦が過ぎていて、戦争は集結しているの
 で、交渉し、話し合いをしよう」と・・、
  交渉団が、ソ連側へ白旗を掲げて行くと、ソ連は、そ
 の日本の交渉団へ向かって機関銃で日本の交渉団を皆殺
 しにした。
.
1946年、日本新聞協会は、「日本全国の新聞社・通信社・
 放送局が倫理の向上を目指して、戦後間もない1946年に
 創立した自主的な組織です」・・と説明されているが、
 果たして、その通りなのか?
  『隠れ蓑』になっているのではないか?
  日本の新聞ほど、偏頗(へんぱ)な新聞はない。
.
2015年8月27日、オーストリアの首都ウィーン近くの高速道
 路の路肩に、一台の冷蔵車(7.5トン)が乗り捨てられて
 いた。
  見回りの係員によると、猛烈な腐敗臭が漂い、ドアの
 隙間から液体が漏れ出ていた。
  ふたを開けると71体の腐乱死体。
  男性が59人、女性が8人、子供が4人。
  国籍は、大半がシリア人であった。
  オーストリアか、ドイツで、庇護申請しようとしてい
 たと思われている。
  死因は、窒息死だった。
.
2015年8月、ハンガリーの中央駅に、シリア難民が、大勢、
 溜まってしまって、どうしようもない状態になってしま
 った。
  この異常な事態に大騒ぎとなった。
  ハンガリーには、特に、多くの難民が押し寄せていて、
 ハンガリーの人口の1000分の5に当たる難民が流入してい
 る。
  目的地は、ドイツ。
  日本だったら60万人に相当する人数となる。
  この地で、難民が滞る理由は条約(ダブリン協定)の
 決定で・・、
  ハンガリーは、その難民の登録をし、保護し、審査し
 なければならないとされている。
  その条約には、最初にEUに踏み入れた国は、その難
 民に対する「その行為をしなければならない」とされて
 いる。
  これでは、「EUの周辺国」に、難民が溜まってしま
 う事になるのは『明らか』で、難民に困るドイツが編み
 出した。
.
2015年8月末、ハンガリーから、ドイツへ向けて、難民の
 方々を乗せた列車は発車した・・これを許可したのがハ
 ンガリーのオルバン首相だった。
  EUは、豊かな国からEU加盟国が広がって行った・・
 増えて行った。
  そして、時が経て・・その豊かなEUの中心の国を目
 指して難民の方々が押し寄せた。
  最初は、美しい理念で出来たEUのその理念に沿って
 その難民の方々は受け入れていたが・・、
  だんだん、その我慢も限界に・・、
  そして、「痩せ我慢の限界」を超えた。
  そこで、「ダブリン協定」という取り決めが、力のあ
 る豊かなEUの中心となっている国の意向が生きて、取
 り決めされた。
  難民が流れ込んで来るEUの豊かな国に都合のよい協
 定=ダブリン協定であった。
  今度は、難民が通過する国だったEUの周辺国に、難
 民の方々が「通過できずに溜まり出した」。
  しかし、豊かな国へ行きたい難民の方々は、法を犯し
 てまでして豊かなEUの中心の国へ向かった・・難民の
 方々の流れは絶えなかった。
  そのEUの中心の豊かな国も「ギブアップして、お手
 上げ状態となった」。
  難民の方々は、さらに、その先へと向かった。
  ドーバー海峡でも、大々的に国境を越えて行った。
  目指すのは・・イギリスだった。
  イギリスは、手続きも簡単で、景気が良く、仕事を得
 るチャンスがよりあった。
  ユーロトンネルを多くの難民の方々が越えた。
  トラックや列車に飛び乗った。
  当然、イギリスとフランスの国境警備隊が、共同で取
 り締まっていた。
  埒(らち)のあかない「追っかけっこ」が続いた。
  ダブリン協定なんて「機能なんかしてなかった」。
  難民の方々が、溜まりに溜まっているハンガリー・・、
  そのEU周辺国のハンガリーも、事実上、無能となっ
 たダブリン協定の状態を見ていた。
  2015年8月末、ハンガリーのオルバン首相は、ダブリン
 協定を無視して、難民の方々が乗ったドイツ行の列車の
 発車を許可し、命じた。
  列車は、発車して行った。
  途中のオーストリアで、列車は止められるという騒ぎ
 が起きた・・が、結局、オーストリアも、列車を発車さ
 せた(ダブリン協定違反)
  列車は、2日かかって、ドイツのバイエルン州の州都
 ミュンヘンに着いた。
  この列車を発車させたEU周辺国のハンガリーが、E
 Uから非難された。
  ドイツ政府も、このハンガリーを汚い言葉で非難した。
  「ハンガリー政府のオルバン首相は独裁者だ」
  「ハンガリー政府は、反民主主義だ」などと・・、
.
2015年、公正であるべき近代社会・・だが・・??
  ましてや、『グローバリズムだ』と美しい理念を掲げ
 て「国境を取っ払ったEU」・・??
  そこには・・行動を起こされる「格差」が存在した。
  EU内の唯一の経済強国のドイツ。
  このドイツの顔色を他のEU諸国は見る様になった・・
 伺(うかが)うようになった。
  EU外の諸国の民は、「EUには国の垣根はない」と
 言われれば、この豊かな国・ドイツへ行きたいとなった。
  本当の難民なのか?どうか?分からぬ人々も居るとい
 う人々が、ドイツを目指した。
  ドイツは、第二次世界大戦で非人道的行為をしていた
 ため、憲法に難民を救済するような条文があった。
  その様な憲法もあるドイツは、流入する人々を受け入
 れた。
  ドイツのある地方は、ドイツの国柄が変わるほど、ド
 イツという国が壊れるほど・・受け入れた。
  そのうち、ドイツは・・心で悲鳴を上げた。
  EUは、ドイツの意向が働くところとなっていた。
  『ダブリン協定』ができた。
  この協定で、「流入する人々は、EU内での登録は1
 回しか出来ない」と決められた。
  また、EUに入った最初の国で、登録申請しなければ
 ならないと決められた。
  また、EU内の「内国の自由通行の権利」は、この流
 入する人々には「認められない」・・とされた。
  これらの取り決めから見える姿は、EUの内国のドイ
 ツで、流入する人々の難民申請は、事実上、出来ないと
 いう状況だった。
  その結果・・EU圏の周辺国に、どんどん難民と称す
 る人々が増加するという状況となった。
  そして、難民申請が認められても、この人たちには、
 「EU内の自由通行権は認められてない」・・故に、E
 U周辺国に流入する人々が、その場で滞(とどこお)り、
 増加し続けるという状況となった。
  当然、EU周辺国は・・悲鳴を上げた。
  2015年、ハンガリーは、国境の150キロに渡って、突貫
 工事で、高さ4メートルの塀を作った。
  EUは、非人道的だと非難をした(後に、この非難は
 無くなった)
  しかし、この塀を何とかして人々は通過し、続々と流
 入し続けた・・そして、ドイツを目指した。
  列車のチケットがあろうが、なかろうが、ドイツを目
 ざして列車に乗り込んだ。
  これが、2015年8月の様子だった。
.
2018年、アメリカでの黒人の方々への差別の現状。
  アメリカで、黒人の方々が差別されている状況を知る
 データーの一つが・・、
  「公職についている黒人の方々の比率」が『1.5%とい
 う低い比率』であること・・、
  アメリカには、12%の黒人の方々が居られるので、そ
 の低い比率差がお分かり戴けるだろう。
  黒人の方々は、現在の10倍の方々が公職に就(つ)い
 ていても良い状況となっている。
  他国には、平等を求めるアメリカは、キリスト教の有
 色人種への蔑視観に洗脳されて、この例の様に、『黒人
 の方々を差別している』。
  この事は、ユネスコの世界記憶遺産にしっかり登録さ
 れねばならない。
  こんな明白な人種差別は、即刻、止めさせる意味から
 でも、ユネスコへの登録行動を起こす運動を始めよう。
.
2018年、北朝鮮が、核の開発に成功し、また、ミサイル開
 発にも成功し・・、
  そして、日本へ向けた「核ミサイル配備も完了し・・
 これに対する守りをどうするか・・??
  ・・という・・大切なこの時に・・日本は、国内の問
 題で明け暮れている・・、
  広島の原爆どころではない「北朝鮮の威力を増した核
 兵器」が、現実のものとなり・・
  日本に差し向けられているというこの大事なこの時に・・
 しっかり日本を守るべきこの時に・・国内の問題を、ひ
 たすら「ああだ、こうだ」と取り上げている。
  この北朝鮮の大危機から目をそらされている・・
  このそらさせる行為が・・行われている。
  日本の「国民の目をそらさせている」日本の特定のマ
 スコミ・・など・・
  また、北朝鮮は「原爆より巨大な水爆をも持っている
 ・・というのに、この様な、緊急事態が発生しているこ
 の時に??」。
  この緊急事態に対処して日本を守ろうと・・そして、
 日本を守るためには、「憲法を改正しなければならない」
 というこの時に・・この憲法を改正させないようにと、
 「この国民の目をそらさせようと、仕組まれたマスコミ
 行動などがなされている」。
  朝日新聞は、「安倍政権を倒すのだ」とキャンペーン
 を行なっている。
  「憲法改正をさせたくないのだ」という気持ちがそこ
 にはある。
  また、慰安婦問題を追及されて、とうとう朝日新聞は、
 「慰安婦問題の嘘を謝(あやま)らざるを得ない状況と
 なって・・やっとこさ、謝ったが・・その恨(うら)み
 が朝日新聞にはある」。
  朝日新聞は、系列のテレビである「テレビ朝日」も使
 って、連日、この国内問題を放送して、国民の目を惑(
 まど)わせている。
  こんな番組を『提供している企業も、企業だ』。
  安倍政権の支持率も低くなっていないのに、「支持率
 が下がった、下がった」と煽(あお)った。
  そして、今は、国民の方々も、それに惑(まど)わせ
 られて、支持率は下がってきた・・が・・この様なやり
 方で、日本の皆様は繰(く)られている・・日本世論を
 繰っている。
.
2018年、何でもアメリカの真似(まね)をする中国。
  アメリカのルーズベルト大統領が、アメリカ国民の方々
 を繰って、嘘をついて、第二次世界大戦を始めさせたが・・、
  戦争が始まった時に、「私は戦争を作った」と言った
 くらいだった・・ルーズベルト・・、
  また、当然、ルーズベルトは、戦争が始まることを知
 っていて、親族に、「明日、日本が攻めて来るよ」と言
 っていた。
  アメリカのルーズベルト大統領は、日本が先に攻めた
 様に見せかけた・・
  ・・が、実際は・・アメリカが先に、中国で、日本を
 攻めていた。
  この様な大嘘をついて、アメリカ国民の方々や世界の
 人々に嘘をついて、「繰っていた」が・・これを、現在、
 真似しているのが中国だ。
  世界へ工作員を行かせて、その国の世論を操作してい
 る。
  日本にも、大勢の工作員を潜り込ませている。
  そして、日本に行かさせて、「日本国籍を取らせて・・」
  そして、日本国籍を取ったその中国工作員は、「日本
 人の様な顔をして、中国に有利な事をやらせている」。
  中国にとって、一番に怖い事を止めさせようとしてい
 る・・
  その中国が一番怖い事は、『日本にアメリカ軍が居る』
 ということ、そして、『日本の防衛力が強くなるという
 こと』・・、
  この事に対して、一生懸命に妨害をしている。
  その一例が・・沖縄だ・・
  連日、沖縄の人が困るほど・・大騒ぎをしている。
  日本が憲法を改正して、「日本の防衛力が強くなるこ
 とを、最大に恐れている」・・
  だから、一生懸命、日本の憲法改正の足を引っ張って
 いる」。
  憲法改正をさせない様にと、一生懸命、動き回ってい
 る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2018-04-26 16:14 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)589E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年10月~1893年11月)

題:(増補版)589E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年10月~1893年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年10月1日、大日本協會が結成された。
  大日本協會(たいにほんきょうかい)は、政治団体で、
  神鞭知常、安部井磐根、大井憲太郎、坂本則美、大竹
 貫一らがかねてより組織していた内地雑居研究会を改変
 したもの。
  (1)外国人への内地開放、内地雑居に反対する内地雑
   居講究会派が、全国的な政治運動展開のために組織
   した。
  (2)領事裁判制廃止のためには、当然、居留地を廃止
   し、内地開放を行わなければならないという主張を
   批判した。
  (3)内地開放を行うか否かの決定権は、条約締結国に
   あると主張した。
  条約改正 (不平等条約の改正) にあたって、第2次伊藤
 博文内閣の外交政策 (外相:陸奥宗光) に反対した。
  内地雑居 (内地雑居問題) を時期尚早とした。
  そして、現行条約の励行を主張した。
  第5議会には、条約励行建議案を提出するなど、対外硬
 派の中心的存在として活躍した。
  10日間の停会ののち、情勢不利とみた伊藤内閣は、12
 月30日議会を解散すると同時に、治安妨害を理由に圧迫
 を加え、大日本協会は解散させられた。
1893年11月1日、東京・日本橋に明治座が開場した。
  明治座は、江戸時代末期の富田某三兄弟の「三人兄弟
 の芝居」という菰張 (こもばり) 芝居が前身で・・、
  (参考)菰張芝居:菰はむしろの意味で、菰を垂らし
     た豪華ではないという感じ・・、
  1873年、両国橋畔の興行禁止にあい、久松町に喜昇座
   (きしょうざ)の名で転身した。
  1879年、改築して久松座と改称した。
   その時の座頭は助高屋高助。
   火事、台風の災を受けるなどして廃座へ・・、
  1885年、千歳座として再建され・・、
   9世市川団十郎、5世尾上菊五郎、1世市川左団次らの
   名優の出勤する気鋭の座となった。
  1890年、火事で全焼となる。
  1893年11月、座名も日本橋座から明治座と改称・・、
   初世市川左団次はこの座により、この地に新劇場を
   建設し、左団次一座の本拠となる。
   団十郎、菊五郎の拠る歌舞伎座と対抗した。
  1907年、帰朝した2世左団次は、翌年・1908年、新興行
   法を実施して失敗する。
  1912年、伊井蓉峰の手に渡り、さらに中村伝九郎に・・、
  1919年に、松竹の所有となる。
   関東大震災で被災し・・後、浜町金座通りに移る。
   第2次世界大戦にも戦災で焼失し・・、
  1950年、復興し、松竹から独立し、独立劇場となる。
  1957年、失火により焼失。
  1958年、再建、客席1階~3階、客席数1688、大衆演劇
   の中心の独自の講演を組んだ。
  1990年6月、公演を最後に高層ビル化のため取りこわさ
   れた(新劇場建設のための閉鎖)
  1993年3月、新築開場した、18階ビルの中の劇場として
   再開場した。
1893年11月1日、高木惣吉(たかぎそうきち)が生誕した。
  (1893年~1979年7月27日)は、日本の海軍軍人。海兵
 43期、海大25期首席。最終階級は海軍少将。
  東久邇宮内閣の内閣副書記官長を務めた。
  旧制中学校への進学が叶わない貧しい家に生まれ・・、
  働きながら独学で海軍兵学校への入校を果たした。
  海軍大学校を首席で卒業する。
  第二次世界大戦(大東亜戦争)半ばに、海軍省教育局
 長に補職された高木は、早期終戦を模索した。
  しかし、最終的に、東條首相を暗殺して、和平内閣を
 誕生させ、英米間との和平を実現させるべきとの結論に
 達した。
  実際に、暗殺計画を立案したものの、実行直前に東條
 が昭和天皇陛下からサイパンの責任を問われ、内閣総辞
 職を決意したため、未遂に終わった。
  その後、小磯内閣の海軍大臣に就任した米内光政と、
 海軍次官に転補された井上成美から、終戦工作の密命を
 受け、熱海の藤山愛一郎邸を拠点として、鈴木貫太郎内
 閣総辞職に至るまでの期間、各方面と連携をとりつつ戦
 争終結に向け奔走した。
  本土決戦に固執する帝国陸軍中堅将校クラスの妨害を
 排除しつつ、終戦への基盤づくりを行った。
  終戦直後、東久邇宮内閣の内閣書記官長・緒方竹虎に
 請われ、各省の次官たちを統べる初代の内閣副書記官長
 (現在の内閣官房副長官)に就任した。
  これは少将の高木にとって異例の抜擢人事であった。
  戦後は、公職追放を経て、軍事評論家として「辰巳亥
 子夫」のペンネームで著述活動を行いつつ、海上自衛隊
 幹部学校に於いて山梨勝之進と共に、戦史戦略の特別講
 師を務めた。
  高木が記録した政界諸情報綴は、現在、国立国会図書
 館憲政資料室と防衛庁防衛研究所図書館史料閲覧室に保
 存されており、重要な資料となっている。
  著書に書かれた高木の批判の矛先は、陸軍だけでなく、
 海軍に対しても、戦術から人事に至るまで容赦なく書か
 れている。
1893年11月4日、逓信省官房各局分課章程を制定した。
  11月10日施行。
1893年11月4日、日本鉄道が、隅田川線(現:JR常磐線)田
 端駅~千住町駅間の鉄道建設を出願した。
 翌・1894年11月2日、免許状が下付された。
1893年11月7日、日本を代表する会社である日本郵船の最初
 の遠洋航路であるボンベイ航路が開設された。
  広島丸が就航した。
  この航路の開設は、生易しいものではなかった。
  既得権益を守ろうとの外国の会社からの圧力は大きか
 った。
  それでも、日本を代表とする日本郵船は、積極的に航
 路を拡大して行った。
  国内主要港に、支店、出張所を設け、外国航路では、
 朝鮮半島や中国、マニラ、ウラジオストクまで定期配船
 を行うとともに・・、
  東南アジア、南太平洋、北米などの海洋航路に不定期
 船の運航を始めていた。
  そして、課題が、ボンベイ(現:ムンバイ)への遠洋
 定期航路への進出だった。
  この当時、日本の基軸産業として日本経済をリードし
 ていた紡績業で、インドからの綿花輸入量が急増してい
 た。
  しかし、日本とインド間の航路は、イギリス・オース
 トラリア・イタリアの三社が組織する「ボンベイ・日本
 海運同盟」が支配していた。
  そして、綿花に課せられていた高率の運賃が、わが国
 の産業振興の大きな足枷(あしかせ)・障害となってい
 た。
  1893年のこの年、「本航路上のみならず、貴社の既得
 航路においても激甚な競争を試みる」という外国三社の
 同盟側の強い中止要求があった・・
  ・・が、この要求にもひるまず、日本郵船は、国内紡
 績会社連合会と1年間の輸送契約を結び、ボンベイ定期航
 路を開設した。
  同盟側は、大幅なダンピングをして対抗して来た・・
  その攻撃に対し、日本郵船は、適正価格を守り通した。
  紡績会社の多くが、「自国の海運を守らなければなら
 ない」という強い意識で団結していてくれた。
  これは、大きな力となった。
  2年間、激しい競争に晒(さら)された・・その末、競
 争停止を申し入れて来たのは同盟側だった。
  日本郵船のボンベイ航路は「国際的に認められた」。
  そして、日本郵船は、近海海運会社から遠洋海運会社
 へと事業は拡大していった。
  続いての挑戦は・・欧州航路だった。
1893年11月10日、鉄道局に、鉄道線路調査掛が設置された。
1893年11月10日、特別の理由ある場合以外は、官吏の賞与
 を廃止することに閣議決定した。
  内閣(1893)「官吏賞与ヲ廃止シ・予算編成上庁費其
 他ノ費額標準ヲ定メ・官制改正ニ付二十七年度以降雇員
 俸給ヲ雜給ノ支弁トナスニ付テハ特別ノ技術ヲ要スルモ
 ノノ外月俸十二円以下ト決定ス」『公文類聚・第十七編』
 (国立公文書館所蔵)
  当該閣議決定の前に、明治26年(1893年)勅令第5号に
 より、「文武官及雇員ノ俸給ハ本令施行ノ日ヨリ六箇年
 間其ノ十分一ヲ國庫ニ納付セシム」
  (第1 条)として、雇員は国防対策上の製艦費の負担
 対象者に含まれた(ただし、第2条により「雜給ヲ以テ支
 辨スル雇員」には不適用とされた)ことから、雑給以外
 の雇員が存在したことを窺い知ることができる。
  なお、明治26年勅令第169号により、雇員は明治26年度
 に限り判任官俸給予算定額内より俸給を支給できるとの
 経過措置が取られた。
  この措置は明治27年(1894年)勅令第20号により、さ
 らに1 年延長された。
1893年11月10日、青森・福島・敦賀の各鉄道庁出張所をそ
 れぞれ鉄道局出張所と改称した。
1893年11月10日、逓信省鉄道局各課分掌規程を制定した。
1893年11月16日、筑豊興業鉄道が、九州鉄道会社から機関
 車、および、石炭車を借り受け、鯰田・勝野両炭坑から
 門司行の運炭を開始した。
  (27年1月19日から若松駅構内石炭荷卸しにかがり火に
 代えて電灯を設けた)
1893年11月17日、三井銀行が、田中製作所を買収して、芝
 浦製作所と改称した。
  東芝の前身。
  国の重要文化財指定を受けている機械式和時計「万年
 自鳴鐘(まんねんじめいしょう)」を設計・製作したこ
 とで知られる田中久重が通信機工場を設立した。
  そして、弟子の田中大吉により、1882年に、「田中製
 造所」が設立された。
  1893年、「芝浦製作所」に改称。
  1939年に「三井財閥」系列の下で、「東京電気」と合
 併し「東京芝浦電気株式会社」となった。
1893年11月25日、第5回帝國通常議會が開会(召集)した。
  会期:33日間。
  衆議院議長の星亨が、不信任案を可決されたため、同
 盟倶楽部(後に立憲革新党)の副議長である楠本正隆が
 昇格し、副議長は安部井磐根が就任した。
  貴族院議長は留任し、副議長は西園寺公望が就任した。
  与党化した自由党に対して、民党の立憲改進党に、品
 川弥二郎の率いる国民協会が接近した。
  11月29日、衆議院は、星亨議長の不信任の動議を可決。
  12月1日、衆議院は、星亨が議長の辞職を拒否したので、
   不信任上奏案を可決した。
  12月2日、明治天皇陛下は、「上奏は議長更迭の誓願か、
   議院の不明を謝する意か」と質問された。
   衆議院は、「後者の意」との奏答案を可決した。
  12月4日、衆議院は、農商務省の汚職問題を弾劾する官
   紀振粛上奏案を可決した。
  12月29日、衆議院は、外務大臣の陸奥宗光の条約励行
   案反対の演説後、14日間の停会を命じられた。
  12月30日、衆議院が、解散を命じられた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:今、日本政府は、中国人に限っての入国管理を甘くして来ている。
.
4万年前~1.5万年前、モンゴロイドの人々がアメリカ大陸
 へ渡った。
  (参考)モンゴロイド:形態人類学における人種分類
     概念の一つ。
      日本では、一般に黄色人種・蒙古人種とも訳
     される。
      18世紀、ドイツ人の人類学者ブルーメンバッ
     ハによって分類された。
  4万年前~1.5万年前に、日本人と同じモンゴロイドの
 人々が、ベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へ達した。
  氷河期の最盛期には、蒸発した海水が両極に氷床とし
 て固定されるため、海水の量が減少して海水準が低下す
 る。
  海面が、現在より約150m程度下がっていたと考えられ
 ている。
  そのため、アジアと北アメリカの間のベーリング海峡
 は陸続きとになり、4~1.5万年前頃に、パレオ・インデ
 ィアンがユーコン地方に達した。
  (参考)パレオ・インディアン:旧石器時代の北米大
     陸に定住していた原始的な古代インディアンで、
     現インディアンの祖先。
  また、1.4~0.85万年前には、アジアから別の移住があ
 ったもよう・・、
  北アメリカの西北部に拡散したエスキモーの祖先、ア
 リューシャン列島に定着した古アリュート、ナディーン
 (北西インディアン)の祖先など・・、
  (参考)アリュート族(ウナンガン族):アリューシ
     ャン列島の島々の沿岸部に約9000年前に移り住
     んだ古シベリア系北方先住民の人々。
      考古学的な発掘異物や文化的遺産から判明。
      アザラシの皮と骨、木材を組み合わせて作っ
     たアリューシャンカヤックでクジラ漁、アザラ
     シ漁を行なう。
      また、ナディーン(北西インディアン):DN
     A解析によると、南北アメリカ大陸に住んでい
     る先住民(ネイティブアメリカン)の方々は、
     全員、シベリア南部(バイカル湖辺り)に住ん
     でいたという・・、
  遠い昔、海峡を越えてアメリカ大陸に達した人々・・
 この人々へ思いをはせれば・・、
  今・現在、アメリカ合衆国に居られるアメリカ・イン
 ディアンの方々・・そして・・、
  アラスカ・極北の地に居られるエスキモーの方々・・、
  アメリカ・インディアンの方々は、誰でも知っている
 様に、アメリカ白人のキリスト教徒によって大虐殺がな
 された・・今、アメリカ・インディアンの方々は絶滅の
 危機にある・・、
  まったく卑劣な行為が行われたものだ。
  また、「その北への思い」をはせれば・・エスキモー
 の方々が・・今・現在、アザラシ漁やクジラ漁をして幸
 せに暮らしている。
  しかし、その中間にあるカナダが・・何故か?この地
 のモンゴロイドの人々の情報がまったくの空白である・
 ・?
  その北と、その南に、モンゴロイドの方々が居て・・、
  何故? カナダの空白地域があるのか・・??
  偶然、その情報が得られた。
  やはり、カナダ・インディアンの方々はいた・・その
 集落の写真を見た・・
  そうだろう、アメリカに居て、エスキモーも居て・・
 その間のカナダに『居ないわけがない』・・と・・
  そこで、かねてからの疑問だったことを知りたいと、
 その写真の表示している方へ連絡を取った。
  種々、質問をさせて戴いたが・・
  「現在のカナダ・インディアンの存在」については、
 その方は、答えを「されなかった」・・答えを避けた。
  私は、その答えで、『答えが解った』・・
  カナダ・インディアンの方々は、絶滅させられている
 ・・と・・、
  アメリカ・インディアンは、銃による虐殺が続き、最
 後の方で、アメリカ・インディアンの方々が食糧として
 いるアメリカ野牛(アメリカ・バイソン)が殺された。
  飢え死に作戦で、アメリカ野牛が、「絶滅寸前まで殺
 された」。
  アメリカ・インディアンの方を、絶滅させようという
 意図の「卑劣な野牛絶滅作戦」だった。
  アメリカ西部の原野に、食糧にしたわけでもないアメ
 リカ野牛の頭だけが、山と積まれていた・・卑劣な事で
 ある。
  カナダ・インディアンの方々の場合は、このアメリカ
 野牛の絶滅作戦が使われたらしい・・
  カナダは、アメリカの北に位置し、さらに、その寒い
 環境の中で、食糧を断たれたカナダ・インディアンの方々
 への打撃は強烈だったろうと想像できる。
  カナダ・インディアンの方々が、今・現在、存在され
 ておられるのかどうか?は、今だに、不明となっている。
  カナダ政府は、「過去の不正な行為を明らかにする」
 という姿勢を、最近、少し示したが・・これ等の情報は
 秘密にしている。
  カナダ政府は、一時は、これではいけないと、自国に
 不利な情報を開示したが・・しかし、この件についての
 不明状態は続いている。
  カナダ・インディアンの方々は、推測だが、完全に絶
 滅させられたため、カナダ・インディアンの方々のサイ
 ドからの情報は出て来ないという状況なのだろう・・
  この件は、国連のユネスコの世界遺産へ登録し・・事
 実を明らかにして行くべきである。
.
紀元前9000年頃、農耕の起こり、牧畜の始まり。
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紀元前6000年頃、世界各地への農耕の広まり。
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紀元前3100年頃?~紀元前2890年頃?、エジプト第一王朝。
  古代エジプトにおいて、史上初めて、上エジプト(ナ
 イル川上流域)と下エジプト(ナイル川下流域)を統一
 したとされている王朝。
  統一勢力であったかどうかはクエスチョンである・・
  第1王朝以前の王朝の存在も発見されている。
  この王朝の出現を以てエジプト初期王朝時代の始まり
 とされている。
.
紀元前2890年頃?~紀元前2686年頃?、エジプト第二王朝。
  エジプト第2王朝は、先行するエジプト第1王朝よりも
 記録・史料が乏しく、通史的な歴史は、現在のところ復
 元されていない。
  マネトンの記録によれば、第2王朝には9人の王がいた。
  しかし、マネトンの記す王名は、わずかに知られてい
 る同時代史料に登場する王名と一致しない。
  (参考)マネトン:紀元前3世紀初頭のエジプト人神官
     で歴史家。
      ラテン名はマネト。生没年不詳。
      紀元前280年ころ、ヘリオポリスの古文書を用
     いて、ギリシア語で「エジプト史」3巻を著した。
      メネス王からアレクサンドロス大王までの時
     代を30の王朝に分けて、これを古・中・新王国に
     三分する彼の区分は、現在でもエジプト年代学
     の基礎となっている。
      原典は失われたが、その抜粋はユダヤ人史家
     やキリスト教教父の著作に引用され、伝えられ
     ている。
.
紀元前2850年頃、エジプトで大規模な農耕が繁栄。
.
紀元前2800年頃、メソポタミアで大規模な農耕が繁栄。
.
紀元前2686年~紀元前2613年、エジプト第三王朝。
  史上名高いジェセル王の階段ピラミッドを建造した王
 朝であり・・
  この王朝から古代エジプトを象徴する建造物であるピ
 ラミッドが大々的に建設されるようになった。
  一般的に、この王朝の成立を以ってエジプト古王国時
 代の始まりとされる。
.
紀元前2613年~紀元前2498年、エジプト第四王朝。
  古代エジプト文明を代表する建造物であるギーザの大
 ピラミッドを建設した王朝であり・・
  そのピラミッドを建設した王としてクフ王、カフラー
 王、メンカウラー王の名は広く知られている。
  第4王朝期に入ると、スネフェル王が、既存のピラミッ
 ドを基調に、メイドゥームに51度の勾配を持つピラミッ
 ドを造り上げた。
  このメイドゥームのピラミッドは、最初に、四角錐の
 形状を採用しており、その意味では、画期的な建造物で
 あった。
  ただし、これは後に(あるいは建設途中に)崩壊した。
.
紀元前27世紀、階段ピラミッドの最初が築かれた。
  階段ピラミッドは、ピラミッドの最初の形態で・・、
  紀元前27世紀、第3王朝時代サッカラに、宰相イムホテ
 プが設計し、ジェセル王が築いたジェゼル王のピラミッ
 ドがその始まり。
  初めは、日干し煉瓦によって、方形に建立され、ピラ
 ミッド状とすることは想定されていなかったようだ・・
  しかし、幾度もの試行錯誤の末、次々と上部に煉瓦を
 積み上げ・・最終的に、階段状の巨石建造物とした。
  完成時の寸法は、東西約121m、南北約109m、高さ約60m。
.
紀元前2560年頃、クフ王のピラミッド
  世界一高いピラミッドは、スネフェルの次のクフ王に
 よって、紀元前2560年頃、ギザに築かれたギザの大ピラ
 ミッドで、勾配は51度52分。
  底辺は、各辺230m、高さ146mに達する。
.
紀元前2500年頃、黄河流域で大規模な農耕が繁栄した。
.
紀元前2498年頃~紀元前2345年頃、エジプト第五王朝。
  エジプト第4王朝時代に比べ小規模ではあるが、引き続
 いてピラミッドの建設が行われた。
  また、太陽神ラーを祀る太陽神殿が熱心に建造された。
.
紀元前2345年頃~紀元前2185年頃、エジプト第六王朝。
  エジプト古王国時代最後の王朝であり、その初期には
 活発な対外遠征を繰り返して周辺諸国を征服した。
  やがて、第6王朝の中央権力の弱体化とともにエジプト
 の各地で州の長官たちが自立勢力となり、第1中間期と呼
 ばれる分裂の時代が訪れた。
  この王朝の崩壊を以って、エジプト古王国の終焉とさ
 れる場合が多い。
.
紀元前2300年頃、インダス川流域で大規模な農耕が繁栄し
 た。
     ・
     ・
紀元前800年頃、カナートを用いた人工のオアシスを利用し
 た農耕が広まった。
     ・
     ・
476年、西ローマ帝国が、ゲルマン人に滅ぼされた。
  ゲルマン人の流入が起きた。
  故に、今のヨーロッパ人は、昔のヨーロッパ人とは違
 う人種。
  ヨーロッパの多くの王国や諸侯が、ゲルマン人にその
 地位を奪われた。
  今・現在、2018年の日本に、中国人が大量に流入して
 いるが、このゲルマン人の様な事にならなければよいが・・
  知らないうちに、政治や経済、そして、文明などが、
 日本という国が奪われなければよいがという気持ちで、
 以下を書く。
  これら、流入した多くのゲルマン人の王や諸侯が並び
 立った。
  そして、この王や諸侯は、あい争うという戦乱・混乱
 をもたらし、ヨーロッパはその戦争戦乱状態となった。
  ヨーロッパの王、貴族、騎士たちは、その戦乱に明け
 暮れるという世界へ入った。
  科学や学問は、まったく顧(かえり)みられることな
 い時代となった。
  この様な程度の低い、そして、乱れるヨーロッパの状
 態が「300年間も続いた」。
  人種も変わり、政治も変わり、文化も変わった。
  この様な状況に終止符を打ったのがカール大帝だった。
.
768年、カール大帝が、フランク王国の国王となった。
  (在位:768年~814年)。
  フランス名では、シャルルマーニュ。
  カロリング朝の父王ピピン3世の後を、弟カールマン
 (751年?~771年)とともに、フランク王位を継ぎ・・、
  弟の死とともに、771年、単独の王となった。
  このカロリング朝は、アウストラシア宮宰ピピン1世と
 メッツ司教アルヌルフとの家系から生じ、しだいに全宮
 宰職を獲得した。
  (参考)メッツ司教アルヌルフ:580年頃~640年頃、
     ダゴベルト1世の師傅(しふ、貴人の子を養育す
     る役目)。
      俗人でありながらメッツの司教、ついで隠修
     士(修道生活を送る者)となり、後に聖人とさ
     れた。
      彼の息子アンゼギゼルとアウストラシア宮宰
     ピピン1世の娘ベッガとの結婚からピピン家、後
     のカロリング家が栄えたので、特に、後者の始
     祖の一人とみなされる。
  そして、800年のクリスマスの日に、フランク王カール
 大帝が、ローマ教皇レオ3世の手から王冠を受け、ローマ
 人の皇帝とされた。
  これは、西ヨーロッパにおいて、中世キリスト教を肯
 定するという象徴するできごととなった。
  これで、キリスト教は、大きな権威を再び得ることが
 出来た。
  また、キリスト教を受容した強大な部族=フランク王
 国というものを強調した。
  ここまで上り詰めるには・・カロリング朝フランク王
 のカール大帝は、ザクセン族を抑え込んで来た・・
  この事を達成できたことで、カール大帝は、その大き
 な転機をむかえることができた。
  カール大帝は、長期に渡って一連の戦争(772年~804年)
 を行なった・・そして、この戦いによって、ザクセン族
 を征服した。
  そして、執拗に伝統的祭祀を守ろうとするザクゼン族
 の抵抗を押しつぶした、そして、キリスト教を受容させ
 た。
  そして、この強大な部族を、フランク王国の中に取り
 込んだ。
  この戦いは、8世紀からのフランク王国の東方への侵攻
 を開始された。
  ザクセンは抵抗したが、その版図はカール大帝の一部
 にされた・・、
  フランク王カール大帝は、降伏したザクセン人のリー
 ダーであるヴィドゥキントを、キリスト教に改宗させた。
  そして、ザクセン公とした。
  そのザクセンは、ドイツ東部と北部に位置する。
  (参考)ザクセン:ドイツ東部の地方名。
      その名は、西ゲルマンの一部族ザクセン (サ
     クソン) に由来する。
      しかし、地域としてのザクセンの範囲は、時
     代によって変遷した。
      カール1世 (大帝) による征服で、フランク帝
     国に編入され、
      843年、帝国の分割で、ルートウィヒ2世 (ド
     イツ王) の支配する東フランク王国が成立した。
      この頃は、その北部で、ザクセン部族公領 (
     現:ドイツのニーダーザクセン州あたり) を形
     成した。
      オットー1世 (大帝) 以来、神聖ローマ帝国初
     期のザクセン朝のもとでは、帝国の中枢部とし
     て対スラブ東方政策の拠点となり、
      12世紀以降の東方植民を通じてのザクセンの
     領域は、エルベ川以東に大きく広がった。
      この東方の新領域を中心として、15世紀に、
     ウェッティン家のもとで、マイセン辺境伯領を
     も含むザクセン公国が成立したが、
      1485年の国土分割によって、エルンスト家系
     とアルベルト家系に分れ、
      シュマルカルデン戦争(1546年7月10日~1547
     年5月23日)までは、前者が選帝侯国として M.
     ルターの宗教改革運動の中心をなした。
      (注)シュマルカルデン戦争は、カトリック
        教会を支持する神聖ローマ皇帝カール5世
        とプロテスタント勢力(シュマルカルデ
        ン同盟)の間で争われた戦争。
      チューリンゲン地方を含むエルンスト家系の
     ザクセン公国は、それ以後、ワイマール、ゴー
     タなど、いくつかの小領域に分解し (→ザクセ
     ン諸公国) 、
      18世紀には、プロシアの衛星国を形成した。
      ライプチヒ、ドレスデンを中心とするアルベ
     ルト家系ザクセン公国は、鉱山資源に恵まれて
     経済的に発展し、近代のドイツにおけるプロテ
     スタントの指導的国家だった。
.
800年、カール大帝の戴冠式
  カール大帝が、戦勝を重ねて、混乱するヨーロッパを
 まとめ上げ、フランク王国を強固な強大な国とした。
  フランク王国は、現在のフランス・イタリア北部・ド
 イツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイ
 ス・オーストリア、および、スロベニアに相当する地域
 支配する大国だった。
  ほぼ西ヨーロッパの全域に、その勢力を及ぼした。
  このカール大帝に、媚びへつらったのがキリスト教だ
 った。
  800年、カール大帝は、キリスト教ローマ法王(教皇)
 のレオ3世から戴冠された。
  そして、西ローマ皇帝だとされた。
  (カール大帝は、この戴冠に、あまり乗り気ではなか
 ったという)
  この行為は、「虎の威を借りる狐」状態の行為だった。
  これが切っ掛けとなって、西ヨーロッパの君主が、ロ
 ーマ法王から戴冠されるようになり・・
  キリスト教によって「国王に任命される風」な風潮と
 なった。
  キリスト教が、あたかも国王を任命するようにも見え
 た。
  これ以降、キリスト教の権威が高まった。
  そして、キリスト教は、これ等の王や諸侯の保護を受
 けた。
  そして、9世紀以降は、各地に、その保護のもと各地に
 キリスト教会が作られて行った。
  キリスト教聖職者は、庶民へ、「キリスト教になると
 御利益がある」と布教し、また、「イエスや、イエスの
 母マリアの救いがある」と布教した。
.
1096年~1270年、十字軍
  11世紀頃、西ヨーロッパでは、農地の開発が急速に進
 んで、人口も大きく増加した。
  それによって、勢力が拡大した国王や諸侯がそこに居
 た。
  この力を持った国王や諸侯は、更なる領地獲得の欲望
 にかられた。
  ここに悪辣なローマ法王(教皇)がからんだ。
  ローマ法王の悪計(あっけい、邪悪な計略)が働く。
  領地獲得を目指して「十字軍」と呼ぶ連合軍を結成し、
 イスラム圏の領土を奪うという行動を始めたのだった。
  十字軍が結成され、イスラム圏へ攻め込んだ(1096年
 ~1270年)
  しかし、イスラム世界は、学問が進んでいて、キリス
 ト教世界より「科学技術は進んでいた」。
  そして、その裏付けの「優れた兵器」も持っていた。
  例えば、十字軍の騎士の鉄の鎧(よろい)を貫く弓(
 クロスボウという大型の弓)を持っていた。
  キリスト教十字軍は、このイスラム諸国に敗れた。
  しかし、キリスト教世界は、この様な事を隠し、逆に、
 「このイスラム圏は劣っている」と嘘のプロパガンダが
 なされた。
  この様な事で、キリスト教のローマ法王が仕組んだ十
 字軍は大失敗し、この後、ローマ法王(教皇)の権威は
 凋落(ちょうらく)した。
  国王の勢力は拡大し、これを契機に、イタリアの諸都
 市の繁栄が起きたりした。
  また、今までキリスト教に牛耳られてきた人間性を抑
 えられた状況を変える、打ち破る「人間本来の心の叫び
 =ルネッサンス」が沸き起こった(14世紀~16世紀)
     ・
     ・
1930年代後半、中国の蒋介石は、自国の軍備が他国に比べ
 て遅れているため、外国の新型兵器を購入した(アメリ
 カ政府の承認)
  また、アメリカやドイツから外国人軍事顧問を雇い入
 れ軍備の近代化を図った。
  後々、これが、アメリカ正規軍の中国支援の参戦とな
 り、極秘裏による、大統領の署名のある命令で、日本の
 真珠湾攻撃前の、対日参戦に至る。
  アメリカ大統領は、極秘裏の形で対日宣戦布告をして
 いた。
  派兵計画は、アメリカ大統領直属の官僚が行なった。
  資金援助もルーズベルト大統領の関係する中国援助オ
 フィスが担当する形をとった。
  中国とアメリカが一体となって、蒋介石の国民政府軍
 の増強がなされて行った。
  アメリカは、退役させたから義勇軍だと、当初、屁理
 屈を言った・・こんな理屈が通るなら何でもできる。
  条約も何もあったもんじゃない・・、
  何しろ、組織的な活動(政府の関わり)が無ければで
 きない様な規模や行動をアメリカはしている・・卑劣な
 言い逃れをしている。
  アメリカという国は、自国の卑劣な行動を、常に、正
 当化して言う。
  例えば、アメリカが大々的に蒋介石に武器や弾薬・資
 金を援助した援蒋ルートは、ベトナム・タイ・ビルマを
 通っていた。
  その武器・弾薬の支援ルートを遮断しようと日本軍が
 その地へ入ると・・侵略だと言い出した・・自分たちこ
 そ先に侵略していて、この様な言い方をした。
  また、日本は、行動を起こす前に、先に、その目的を
 説明をしていたのにである。
  何しろ、「戦争を作った」と発言したルーズベルトの
 シナリオは、自分たちは何をやっても良いだった・・日
 本は不正だった。
.
1949年、GHQ内に、キャノン機関というスパイ組織がで
 きた。
  マッカーサーは、アメリカが主動するGHQのマッカ
 ーサー司令部内にスパイ組織を作らせた。
  名前を、首領の名をとって「キャノン機関」と言った。
  これは、GHQによる占領中の日本に置いたGHQ参
 謀第2部直轄の秘密諜報機関で・・、
  司令官は、ジャック・Y・キャノン(Jack Y. Canon)
 陸軍少佐・・旧岩崎邸に置かれ、メンバーは26人だった。
  この他にも、下部組織として、多数の工作員を抱えた。
  柿の木坂機関、矢板機関、日高機関、伊藤機関という
 多数の日本人工作員組織を傘下においた。
  目的は、共産圏情報、ソ連・北朝鮮情報、スパイ工作
 摘発など・・
  Z機関(Z-Unit)、本郷機関などとも呼ばれた。
  このキャノンの最後は、1981年、テキサス州の自宅ガ
 レージで、胸に銃弾を2発撃ち込まれて死んだ。66歳。
.
1954年、人種差別国=アメリカ
  「ブラウン判決」が出された1954年、アメリカ11州で
 の白人が通う学校で、黒人生徒が通学できたのは皆無に
 近く・・、
  その比率は、わずかに0.1%だった。
  しかし、この比率が改善されたかというと、その後、
 まったく改善されず、その10年の後も、その数値は、た
 ったの2%だった。
  卑劣な人種差別状態の続くアメリカだった。
  (参考)ブラウン判決:正式には、「ブラウン対教育
     委員会事件判決」、また、「人種隔離違憲判決」
     ともよばれている。
      1954年5月に、アメリカ合衆国の連邦最高裁判
     所が下した、黒人・白人分離問題に関する歴史
     的判決だった。
      アメリカの各州は、19世紀の末に、学校や病
     院、交通機関や公園など、公共施設において白
     人と黒人とを分離する法律、いわゆる人種差別
     法(ジム・クロウ法)を相次いで制定し、黒人
     差別の制度化を図った。
      アメリカ連邦最高裁は、1896年のプレッシー
     対ファグソン事件判決において、屁理屈判決で
     ある「分離はしても平等」なる法理を打ち出し、
      施設や設備が平等であれば人種の分離は合憲
     と判断し、人種の分離に法的根拠を与えた。
      これに対し、ブラウン判決は、「分離された
     教育施設は本質的に不平等」との当然の判断を
     下し・・、
      「分離はしても平等」という法理を明確に退
     けた。
      やっと人種差別国のアメリカに、まともな判
     決が出た。
      分離は、アメリカ合衆国憲法第14条修正のう
     たう法の平等な保護を奪うというものであった。
      判決は、公立学校における黒人・白人共学を
     実現させる長い道程の出発点となったばかりで
     なく、人種の分離や隔離そのものを原理的に非
     とすることにより、アメリカ合衆国の人種関係
     改善に向けて画期的な判決となった。
      公民権運動は、この判決を武器に大きく前進
     した。
.
1964年、人種差別国のアメリカで、公民権法が成立する。
  人種差別をしていないと言うアメリカ・・そして、特
 に、その様に言うアメリカ北部。
  しかし、これは嘘。
  アメリカ北部の政治集団のプロパガンダ(嘘宣伝)で
 ある。
  1964年、黒人の方々の努力によって、公民権法が成立
 した。
  そして、この後、アメリカ南部は、急激に、黒人の子
 供たちの学校へ通う通学率が改善した。
  1966年に15%となり、1968年には18%となり、1973年
 には46%となった。
  しかし、それに対し、アメリカ北部は、アメリカ南部
 の通学率が改善しているこの時に、28%~29%と「改善
 は、まったくなされなかった」。
  アメリカ北部の黒人の方々への人種差別は、相変わら
 ずだった。
  それにしても、アメリカは、白人生徒と黒人生徒を同
 じにしなかった。
  人種隔離を行なった。
  また、白人たちは、黒人の子供たちが通うと、白人た
 ちは、郊外へ移り住んで、黒人の方々を毛嫌いして、精
 神的な差別行為もした。
  1980年の首都ワシントンの白人生徒の比率は、4%とい
 う状況だった。
  他の地域も大同小異で、アトランタ8%、デトロイト12
 %だった。
.
2015年1月19日、今、日本政府は、中国人に限っての入国管
 理を甘くして来ている。
  外国の圧力に屈している。
  この日、中国人の高所得者用(家族を含む)のマルチ
 ビザを法制化した。
  有効期間:5年(更に長期)、訪問先は自由
  おかしいのは、高所得者と言っても、年収を公表する
 必要を要求していない・・という「おかしさ」。
  2011年7月1日にも、日本政府は、「中国人個人観光客
 向けマルチビザ」を解禁している。
  最長3年(移民的な長期)で入出国は自由となっている。
  おかしいのは、今、問題となっている沖縄を最初の訪
 問地としている。
  2010年7月1日にも、中国人向けに、日本政府は、緩和
 策を講じている。
  中国人の対象を1600万世帯として、日本の総世帯数の
 1/3の規模に匹敵するという大多数を対象としている
 (菅直人内閣の時)
  そして、今、住みやすい日本に残ろうという不法残留
 者も急増している。
  そして、不法残留の他に不法在留者もいる。
  日本の警察も追いきれない数だという。
  留置場の房も満杯状態で、北京語で話されたら何を房
 ごとに話しているかがつかめない状態で、混沌としてい
 る状態という・・
  日本の安全保障は大丈夫かの問題・・、
  中国だけに、何故、甘いのか?が不明の状態・・、
  韓国人も「観光だ」と言えばビザ不要だという・・入
 出国が手放しで自由の状態・・、
  中国人と韓国人の大学生は、月に17万円を日本政府か
 らもらえる。
  (日本人学生はもらえないのに)・・
  また、日本人の老齢者と結婚して、3年経つと永住資格
 が貰(もら)えるから、それまで結婚(結果的には偽装
 結婚)をしている事例も増えているという・・
  住みやすい日本に住みたいと・・永住資格を貰ったら
 サヨナラだという・・
  日本の永住資格の大安売り政策の結果だという・・初
 めは、民主党内閣(野田内閣)が始めたのだという・・
.
2015年、今、日本への中国人の流入が急増している。
  2015年のデーターで・・、
  中国人      68万人、
  中国人永住許可者 22万人、
  韓国・朝鮮人   49万人、
  フィリピン人   22万人、
  ブラジル人    18万人 ・・となっている。
  中国人は工作員だという。
  チベットへも、中国は、「中国の国策」として漢民族
 を流入させて、チベット人を上回っている状況にした・・
  チベットの自治領の名称も変える勢い・・チベットと
 いう国が無くなる問題が見えている。
  日本への中国人の流入も、着実に増加の一途となって
 いる。
  また、中国人の永住許可者も、急激な増加となってい
 る。
  その中国人の配偶者・家族の流入も多い状況。
  また、中国人が、日本のアパートを買って、民泊の法
 改正で、中国人を住まわせることも行われているという。
  この様な地域は、日本の警察も入りにくいという。
  そして、今、日本は、中国へ、企業人であれば「10年
 ビザ」を与えている・・中国は、工作員をこの企業社長
 にして、この法律適用がなされているという。
  つまり、中国の元工作員の企業社長が、日本の「10年
 ビザ」を持つことがなされているという。
  また、チベット人をチベットから追い出し、ウィグル
 に流入させて、ウィグル人とチベット人の問題を起こさ
 せるという工作もしているという。
  ウィグル自治領も無くなるだろう。
  中国の漢民族には、清朝という満州族の国を作られた
 苦い経験がある。
  今、日本が手助けして作った旧満州に、まったく満州
 族がいなくなってしまっているという。
  今、長い歴史が続いて来たからと、日本が、これから
 も長く続くと思ったら「甘い今となっている」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2018-04-19 03:16 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)588E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年10月~1893年10月)

題:(増補版)588E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年10月~1893年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年10月、日本郵船会社が、青森~函館~室蘭間を結ぶ
 三港定期航路を開設した。
  日本郵船が、青森~函館航路を延長する形で青森~函
 館~室蘭の定期航路を開設した。
  この頃の室蘭は活発な発展のスタートを切ったところ
 だった。
  室蘭市史によると・・
  1892年、夕張鉄道が全通するとともに、北海道炭礦鉄
 道会社(以下、北炭)が石炭積み出しのため、岩見沢・室
 蘭(輪西)間に鉄道を敷設し、現在の新日鐵住金の一門付
 近に、室蘭停車場を開設して、一般旅客の取り扱いを開
 始した。
  同時に、イトツケレップ(現:御崎駅付近)に、貨物専用
 駅を設置し、
  木造桟橋では、石炭の積み出しも開始され、
  この年は、室蘭が大きく飛躍する記念すべき年となっ
 た。
  さらに、1894年、室蘭港が特別輸出港に指定され、石
 炭・米・麦粉・硫黄に限って、海外直輸出が出来るよう
 になってからは、北炭が、小樽港を国内向け石炭の供給
 地とし、
  太平洋の玄関口を占める室蘭港を外国向け石炭輸出港
 としたことにより、室蘭港は、石炭積み出し港として飛
 躍的に発展した。
1893年10月、讃岐鉄道会社が、丸亀駅~高松駅間延長の免
 許を申請した。
  (1895年10月10日免許状下付)
  1893年7月、讃岐鉄道会社は、「丸亀~高松間は経済・
 社会・政治の面からみて、密接な結び付きを有しており、
 この区間に鉄道を敷設することは急務である」という趣
 旨で、丸亀駅~高松駅間の延長を決定した。
  その後、1895年9月(10月?)、鉄道延長の免許証が
 交付され、
  その年・1895年の暮れ、工事に着手・・、
  翌年・1896年のうちには、ほとんど竣工していたが、
 土砂くずれなどの思わぬ事故があり、開通は、1897年2月
 21日となった。
  また、本州・四国の海上の連絡について・・
  高松と本州を結ぶ鉄道連絡船は、1897年頃、讃岐鉄道
 汽船会社によって始められた。
  しかし、本格的には、1903年の山陽汽船による高松航
 路の開通に始まる。
  この時、高松航路は、岡山駅から京橋まで人力車、京
 橋船着き場から三蟠までを小型汽船、三蟠から玉藻丸で
 高松へという形で、乗客にとってはたいへんだった。
  そこで、岡山~宇野間の鉄道敷設と、宇野築港を要望
 の声もあり、1910年、宇野線の開通を待って、宇野~高
 松間の鉄道連絡船が就航した。
  これによって、本州、四国を結ぶ航路の中心は、宇高
 航路となった・・
  また、高松港は、本州と四国を結ぶ四国の玄関口とし
 て確固たる地位をもった。
1893年10月、フランスが、ラオスを植民地化した。
  帝国主義時代になると、ヨーロッパの列強諸国は、ア
 ジア各地を次々と植民地にして行った。
  ラオスもその例外ではなかった。
  ラオスは、ヨーロッパ諸国・列強の侵略に巻き込まれ
 た。
  1885年、フランスは、中国の清と戦争をした。
  その清仏戦争の結果、清は、ベトナムに対する宗主権
 フランスに奪われた。
  1863年、すでに、フランスは、カンボジアを植民地化
 して、植民地化の標的をラオスへ定めた。
  1887年に、黒旗軍が、ルアンパバーン王国に侵攻し、
 壊滅的な打撃を受けたが、フランスに助けられた事件を
 きっかけに、ルアンパバーン王国は、フランスの保護を
 受け入れる道を選択した。
  (参考)黒旗軍:こっきぐん、清朝統治に反対する武
     装闘争したのが始まりだったが・・フランスが
     侵略して来るとその撃退に立ち向かった
      指揮官の劉永福は、ベトナム国王より三宣副
     提督の職に任じられていた。
  (参考)ルアンパバーン王国:メコン川中流域ルアン
     パバーンに18世紀~20世紀にかけて展開したラ
     ーオ族の王朝。
  (参考)ラーオ族:ラオスおよびタイ東北部(イーサ
     ーン)に住むタイ族の一派。
  1893年、タイ王国との間でラオスをめぐり仏泰戦争が
 起き、フランスはタイを圧倒し、
  1905年には保護国化(植民地化)を完了し、フランス
 領インドシナが完成した。
  1902年から6年間に渡ってオン・ケーオによる反乱がタ
 ーテーン(セーコーン県)で起こった。
  (参考)仏泰戦争:フランスとタイ(シャム)の戦争。
  (参考)オン・ケーオとオン・コマダムの反乱は、フ
     ランスによる植民地での地下活動で、ラオス南
     部ボーラヴェン高原で起きた愛国的反乱。
      植民地にして、利益を収奪したいフランスに    
     愛国的行為として立ち向かった。
  1940年11月、タイとフランスとの間で、仏印国境紛争
 が起こり、タイは反仏宣伝の一環として対ラオス工作を
 開始。
  ラジオ放送や宣伝ビラ、パンフレットの活用、工作員
 の潜入などを通して行われ、「ラーオ人もタイ人も結局
 は同じタイ系民族である」との民族同胞性を強調するこ
 とによって、抑圧者のフランスに対して抵抗することを
 協力することを訴えた。
  このタイの反仏抵抗に対して、フランスがとった政策
 は、ルアンパバーン王国の強化と文教政策、ラオス刷新
 運動であり、フランスのラオス植民地維持政策であった。
  学校教育を重視し、小学校が各地に新設され、「勤勉・
 家族・祖国」をスローガンに、「母なる祖国・フランス」
 への奉仕が説かれた。
  美しいなの下で、結局、フランスの利益になる様に仕
 向けた。
  この様な政策を広めるために大きな役割を果たしたの
 は、1941年1月に発刊されたラーオ語紙であった。
  しかし、ラオス人のなかに「ラオス」という祖国・国
 民を構想したく、そして、構想するものが現れてきた。
  1945年3月9日、日本軍によって、フランスの武装解除
 が達成された。
  そして、この仏印武装解除後、ラオスの方たちに、祖
 国・国民を構想する動きが活発になっていった。
  第二次世界大戦中、日本の占領下にある1946年、ラー
 オ人の民族主義者らはフランスからの独立を宣言できた。
  日本の「アジアの解放・・大東亜共栄圏の達成」の目
 的の一つが達成された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:明治維新は、『公(おおやけ)のために働くことを自己の使命と
   考えていた武士たち』によって実現した改革だった。
    そして・・奴隷国ができるだけ・・、
.
70万年前頃、概ね、この頃から、10万年周期の気候変動が
 見られるようになる。
.
約50万年前、北京原人
  中国北京郊外、周口店の石灰岩洞穴から発見された化
 石人類。
  更新世中期、50万~20万年前の生息と推定されている。
  原始的な石器を用い、火を使った。
  ホモエレクトゥス‐ペキネンシス
.
約40万年前、マンモスは、北東シベリアで誕生したとされ
 ている。
  別の説は、最古のマンモスが、約500万年前~400万年
 前、北アフリカにおいて生まれたと考えられている。
  また、別の説は、マンモスゾウの化石は、これまでお
 もに、ユーラシア北部から北アメリカ北部にかけての約
 11万5000年前から1万年前にかけての地層から発見され
 ている。
  しかし、2001年に、東シベリア海東部のウランゲリ島
 で発掘されたマンモスゾウの化石は、7000年から4000年
 前のものだった・・もっとも新しい発見。
.
約23万年前、ネアンデルタール人が出現した。
  この頃、温暖期のピーク。
  この後、緩やかに寒冷化へと向かい、14万年前頃に氷
 期のピークとなった。
  別の説は、約25万〜3万年前に、欧州と西アジアに住ん
 でいた。
  また、別の説は、第三間氷期およびビュルム氷期第一
 期、年代としては15万年前~3万5000年前に生存していた
 と考えられている。
.
約20万年前~19万年前、ホモ・サピエンス(現在のヒト)
 が出現した。
  別の説は、ヒト属とチンパンジーの共通祖先が分岐し
 たのは・・およそ200万年前~1000万年前・・、
  ホモ・サピエンスとホモ・エレクトスの共通祖先が分
 岐したのは・・およそ20万年前~180万年前と見られて
 いる。
.
約15万年前、マンモスがヨーロッパに現れた。
.
約14万年前、氷期(リス氷期)のピーク。
  この後、急速に温暖化へと向かった。
.
約13万年前~12万年前、温暖期のピーク。
  現在よりも温暖であったと考えられている。
  この後、急速に寒冷化し、約11万年前頃から緩やかに
 上下を繰り返しながら徐々に氷期へと向かった。
.
約12万5千年前、初期のヒト属による火の利用
  日常的に、広範囲にわたって、火が使われるようにな
 ったことを示す証拠が、約12万5千年前の遺跡から見つか
 っている。
.
約10万年前、マンモスは、ヨーロッパから北アメリカ大陸
 にまで生息分布を広げた。
  マンモスは、寒冷な草原での生活に適応していた。
.
約10万年前、現代人(ホモ・サピエンス)が、アフリカを
 出て、世界各地に拡がった。
  (アフリカ単一起源説を裏付けるもの)
  7万年前との説(後述)もある。
  ミトコンドリアDNAの分析では、現代人の共通祖先の分
 岐年代は14万3000年前±1万8000年である。
.
8万1000年前、地球温暖化に伴う海面の急速な上昇が起こっ
 ていた。
  国際研究グループが、気候変動に伴う氷床の拡大、縮
 小は、今まで考えられていたよりも急速に起きる可能性
 があると発表した。
.
約7万3000年前、スマトラ島のトバ火山の大噴火。
  スマトラ島のトバ湖は、この時の噴火によって形成さ
 れたカルデラ湖。
  ここ10万年ほどでは、最大級の噴火とされ、地球の気
 温が数年間3度~3.5度低下した。
  ヒトのDNAの解析によれば、7万年ほど前に、人類の人
 口が1万人以下に激減し、遺伝的な多様性の多くが失われ
 現在の人類につながる種族のみが残った。
  「ボトルネック効果(遺伝子多様性減少)」があった
 と考えられるが、これが、トバ火山の大噴火に関連する
 と考えられている。→ トバ・カタストロフ理論、
.
7万年前、ヒトが、衣服を着るようになり、ヒトに寄生する
 ヒトジラミは、7万年前に2つの亜種、主に毛髪に寄宿す
 るアタマジラミと、主に衣服に寄宿するコロモジラミに
 分岐した。
.
7万年前、この頃のヒトの出アフリカ説。
  7万年前±1万3000年に、ヨーロッパ人と日本人の共通
 祖先が分岐。
.
約5万年前、クロマニョン人
  ヨーロッパ、北アフリカ各地で発見された。
  別の説は、3万5000年前~1万年前に生息し、頭が大き
 く現代人によく似ているが、身長はやや高い。
  文化的には、後期旧石器時代に属し、洞窟壁画などを
 残している。
.
約5万年前、隕石の衝突で、バリンジャー・クレーター(ア
 メリカアリゾナ州)が形成された。
.
約4万年前、オーストラリアに人類が渡島したのは4万2000
 年前~4万5000年前である。
  また、オーストラリア最古の人骨の年代は、およそ4万
 5000年前である。
.
約3万年前、ネアンデルタール人がこの頃絶滅した。
  最古の洞窟壁画
  現在知られている古いものでは、南フランスのショー
 ヴェ洞窟壁画(約3万年前?)がある。
  また、ラスコー(約1万8000年前~1万6000年前)、ア
 ルタミラ(約1万4000年前~1万3000年前)など、多くの
 洞窟壁画がある。
.
約3万年前~2万年以前、モンゴロイドがアメリカ大陸に渡
 った。
  氷河期の時代にベーリング海峡は地続きになっていた。
  この頃、ユーラシア大陸から無人のアメリカ大陸に人
 類が移り住んだと考えられている。
  約1万年前頃までには、南アメリカ大陸の南端地域まで
 到達した。
.
2万6500年前頃、タウポ湖が大爆発を起こす。
.
2万5000年前頃、姶良(あいら)火山が大爆発を起こす。
  姶良カルデラは、鹿児島湾北部(湾奥)において直径
 約20kmの窪地を構成しているカルデラで・・、
  南九州のカルデラ群のひとつで、現在のカルデラを形
 成した姶良噴火は、約3万年前と推定されている。
  桜島火山のマグマ供給源とされる。
.
約2万年前、ウルム氷期(最終氷期)のピーク。
  気温は、年平均で7℃~8℃も下がった。
  そのため、地球上で氷河が発達し、海水面が現在より
 も100mから最大で130mほど低かったと考えられている。
  その後、温暖化と寒冷化の小さな波をうちながら、長
 期では徐々に温暖化に向かった。
.
約1万8000年前、日本海に、津軽海峡を通って寒流である親
 潮が流入し、この影響で、朝鮮海峡あるいは、対馬海峡
 から表層水が流出した。
  (参考)表層水:ひょうそうすい、海や湖などの表層
     の水。
      太陽光が届く深さで、活発に光合成が行われ、
     有機物が生産される。→海洋深層水
.
約1万6500年前、青森県外ヶ浜町にある大平山元I遺跡から
 土器、石器が出土している。
  AMS法による放射性炭素年代測定法の算定による。
.
約1万6000年前、東南アジアにあったとされるスンダランド
 が、海面上昇により徐々に後退した。
  海面の上昇により、他にも、アラスカとロシアの間に
 あるベーリング海峡(氷期には陸続きだった)の海没や、
 大陸と地続きだった日本も徐々に島化が進んだ。
.
約1万4000年前~約1万年前、この頃までに、ヒトがイヌを
 飼い慣らしたと考えられている。
  別の説は、シリア・ドゥアラ洞窟にあるネアンデルタ
 ール人の住居遺跡(約3万5千年前?、ムスティエ文化(
 ムスティリアン文化))から発掘されたイヌ科動物の下
 顎骨:埴原和郎らが発掘。
  オオカミの下顎骨に比べて小さく、これを世界最古の
 イエイヌとする説がある。
  (参考)埴原和郎:はにはらかずろう、1927年~2004
     年、昭和後期-平成時代の人類学者。
      1972年、東大教授となる。
      1987年、国際日本文化研究センター教授。
      諸人種の歯の形態を比較し、モンゴロイドの
     歯の特徴に注目。
      骨や歯の特徴を統計学的に処理し、性別や年
     齢を推定する方法を考案。
      また、南方系の縄文人と北方系の弥生人が混
     血したことによって日本人は形成されたとする
     「二重構造モデル」を提唱した。
.
約1万3000年前、日本列島が、大陸から完全に離れ、ほぼ今
 の形を整えたと考えられている。
  マイナス約60mの宗谷海峡が海水面下に没した。
  対馬暖流は、一進一退を繰り返しながら日本海に流入
 して行き・・、
  約1万年前~8000年前の間に、現在と同じような海洋環
 境になったと考えられている。
.
約1万3000年前~1万年前、温暖化が進行しつつあったが、
 寒冷気候に戻った時期。
  北ヨーロッパなどでは「新ドリアス期」と呼ばれてい
 る。
.
約1万2000年前、この頃は、こと座(七夕の織り姫星付近)
 が北極星だった。
  地球の歳差運動により、北極星は25,920年周期で変化
 している。
.
約1万2000年前、この頃、アメリカ大陸に人類が移動したと
 されている。
.
約1万2000年前、ナイアガラ滝の形成がはじまる。
  解凍した氷河の水で滝の形成がはじまった。
  初期の滝は、現在より10kmほど下流にあり、年1mほど
 のペースで後退しながら現在の姿となった。
.
約1万2000年前、イスラエルのヒラゾン・タクティット洞窟
 遺跡で、農耕開始以前の人々が宴会を開いていた証拠が
 見つかっている。
.
約1万2000年前、ジェームズ・チャーチワードが、著書の
 失われたムー大陸(1926年刊)で、この時期に太平洋上
 に存在したムー大陸が沈んだと証言している。
.
約1万年前、この頃、最後の氷期(最終氷期)が終わった
 とされる。
.
約1万年前、この頃、ヨーロッパ中部の火山活動が終息へ。
  アイフェル高地(ドイツ、ベルギー)や中央高地(フ
 ランス)の火山活動がおおむね終息。
  ピュイ=ド=ドームは約8,000年前まで活動を続けた。
.
紀元前8800年頃、人類が最初に精錬した金属は、銅だった。
  銅製の小玉が、イラクから出土しており、最古の銅製
 品と言われている。
  農耕革命(農耕の開始)
  人類史上、重大な事件の1つとされる。
  この時期より主に磨製石器が使われたことから新石器
 革命(新石器時代)とも。
.
紀元前5300年頃、鹿児島南方の鬼界カルデラで大噴火。
  日本周辺で、ここ1万年間の火山活動の中では大規模
 なものとされている。
.
紀元前5000年~紀元前3000年頃、完新世の気候最温暖期。
  この頃、海面は現在よりも数m(4mから10mまで諸説あ
 り)程度高かったと考えられている。
  → 海面上昇、縄文海進。
.
紀元前約5000年~紀元前4000年、北海道に人類が現れたの
 は、おそらく数万年前といわれている。
  そして、室蘭地方に先住民が住み始めるのは、その生
 活跡から、約7千年から6千年前頃(紀元前約5000年~紀
 元前4000年)とみられ、縄文時代早期の土器が絵鞆遺跡
 から出土する。
  この絵鞆遺跡を含め、室蘭市内では、37カ所の埋蔵文
 化財包蔵地(ほうぞうち)が確認されている。
  (室蘭市史を参考にした)
.
紀元前約4000年、地球上で最後まで生き残っていたマンモ
 スの化石が、ロシア国内の北極海の島(ウランゲリ島)
 で見つかっている。
.
紀元前3000年頃(5000年前)初期の文明が現れる。
  古代エジプト文明、メソポタミア文明など。
  人為による環境破壊が少しずつ表面化。
  塩害、塩類集積、森林破壊、レバノン杉など参照。
      ・
      ・
      ・
紀元前552年、キュロス二世が、イラン高原のメディア王国
 に反旗を翻した。
  キュロス二世・・アケメネス朝ペルシャの始祖。
  紀元前600年頃に生まれた。
  紀元前552年に、イラン高原のメディア王国に反旗を翻
   し・・、
  紀元前539年には、メソポタミアの新バビロニア王国
   を征服し、古代オリエント世界を統一した。
   アケメネス朝を始祖した。
  キュロスが、バビロンに入城した時、その地の王が、
 人望を失っているせいか、ほとんど抵抗らしい抵抗は無
 く、無血入城できた。
  この時、バビロンには、様々な民族が住んでいた。
  キュロスは、ユダヤ人だけではなく、そのすべての民
 族に寛大な対処をした。
  (バビロン捕囚からの解放は、ユダヤ人だけではなか
 った)
  キュロスは、紀元前529年に死去する。
.
726年、東ローマ帝国のレオ3世が、聖像禁止令を発布した。
  聖像崇拝を巡った、東キリスト教会と西キリスト教会
 の対立は激化した(~643年)
  東ローマ帝国の皇帝教皇主義が確立した。
.
756年、フランク王国のピピン3世が、ローマ教皇にラベン
 ナ地方を寄進した。
  ローマ教皇領の始まり。
.
800年、ローマ教皇(レオ3世)によるフランク王国カール
 大帝の戴冠。
  ローマ教皇の東ローマ帝国からの独立。
.

869年、貞観地震(M8.6以上)日本海構造で起きた巨大地
 震と津波。
.
962年、ローマ教皇による東フランク王国(フランク王国
 が分裂して成立した)のオットー1世の戴冠。
  神聖ローマ帝国の成立。
.
1054年、東西教会が完全に分裂した。
  西:ローマ・カトリック教会。
  東:東方正教会。
.
1543年9月23日、鉄砲が種子島に伝来した。
  大隅国の種子島に一隻の船が漂着した。
  100人余りの乗客のほとんどとは言葉が通じなかった
 が、西の村の地頭であった西村織部之丞は、この船に乗
 っていた明の儒者・五峯と筆談し、ある程度が分かり理
 解した。
  そこで、この船を、領主・種子島時堯(たねがしまと
 きたか)の居城がある赤尾木まで曳航した。
  船は、1543年9月25日、赤尾木に入港し、時堯が改め
 て法華宗の僧・住乗院に命じて五峯と筆談を行わせた。
  この船には、2人の商人の代表者が居て、フランシス
 コとキリシタ・ダ・モッタという名だった。
  時堯は、2人が実演した火縄銃2丁を買い求めた。
  そして、家臣の篠川小四郎に火薬の調合を学ばせた。
  時堯が、射撃の技術に習熟したころ、紀伊国根来寺の
 杉坊某もこの銃を求めたので、津田監物(つだけんもつ)
 に1丁持たせて送り出した。
  (参考)津田監物:津田流砲術の祖。紀伊の人。名は
     算長(かずなが)。
      種子島で、ポルトガル伝来の銃を譲り受けて
     砲術とその製造法を学んだ。
      1544年、鍛冶屋の芝辻清右衛門(妙西)に鉄砲
     を作らせ、根来寺(ねごろじ)の杉之坊をはじめ
     とする根来衆に広めた。
  そして、さらに、時堯は、残った1丁を複製するべく
 金兵衛尉清定ら刀鍛冶を集め、新たに数十丁を作った。
  また、堺から、橘屋又三郎が、銃の技術を得るために
 種子島へ来て、1、2年で、殆どを学び取っている。
  日本最初の鉄砲鍛冶だと言われている人物には、鉄砲
 伝来の年の1543年に、種子島で既に鉄砲生産に成功した
 八坂清定(金兵衛)らが居る。
  螺子(ねじ)の技術など当時の日本では知られていな
 かった技術が用いられていたため、八板らは苦心をして
 鉄砲を製作した。
  しかし、要領が明らかになると比較的単純な技術で製
 作が可能となり、各地にその生産が広まった。
  種子島以外では、和泉国の堺、紀伊国の根来、近江国
 の国友及び日野などが、代表的な産地であったが、他に
 も、刀剣や農具の生産で知られていた備前国の長船や、
 城下町である鹿児島・仙台も知られた。
  この様に、日本は、どこでも高い技術力を古来から磨
 いて来ていて、それ故に、直ぐに、鉄砲生産に対応する
 ことができていた。
  鉄砲が伝わり、その道理が分かってしまえば、たちま
 ち我が手で作ってしまう日本だった、そして、すぐに、
 日本全国へ広まった。
  そして、時を経ずして「日本は世界一の鉄砲生産国」
 となってしまった。
  丁度、日本史上、唯一の戦乱の時代だったからでもあ
 った。
  そして、この時から32年後の1575年6月29日に、鉄砲戦
 で有名な長篠の戦の設楽原決戦が行なわれる。
  (鉄砲を使った新しい戦法が編み出された)
  織田信長・徳川家康連合軍3万8千と、竹田勝頼1万5千
 が設楽原(したらがはら、愛知県新城市)付近で激突し
 た。
  この戦いは、「鉄砲三千丁・三段撃ち」が通説となっ
 ている。
  この日の早朝、鳶ヶ巣山(とびがすやま)攻防戦の大
 勢が決したと思われる頃・・、
  設楽原では、敗戦を知って決戦を挑んだ武田軍が、織
 田・徳川軍を、武田軍の得意な騎馬隊を中心にして、次々
 と攻撃をかけた・・戦いは昼過ぎまで続いた(約8時間)
  しかし、騎馬隊は馬防柵に妨げられ、信長の側近部将
 が指揮する鉄炮隊の迎撃を浴びた。
  武田軍は多数の将士を失った。
  そして、織田・徳川軍から追撃され・・武田軍は1万
 名以上の犠牲(鳶ヶ巣山攻防戦も含む)を出した。
  織田・徳川軍の勝利で・・合戦は終結した。
  織田・徳川軍には主だった武将に戦死者が見られない
 のに対し、『信長公記』に記載される武田軍の戦死者は、
 譜代家老の内藤、山県、馬場を始めとして・・、
  原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土
 屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守など・・、
  武田信玄以来の重臣や指揮官にも及び、被害は甚大と
 なっていた。
  騎馬戦法の武田軍に対し、新兵器の鉄砲を組織的に使
 った「足軽の鉄砲隊を中心にした集団戦法」の織田・徳
 川軍の圧勝だった。
  武田勝頼は、わずか数百人の旗本に守られながら、一
 時は菅沼定忠に助けられ武節城に篭ったが、信濃の高遠
 城に後退した。
.
1867年、この年、江戸時代から明治へと変わったが・・、
  モーリス・パンゲが、著書「自死の日本史」で以下の
 ような事を書いている。
  「日本の特権階級であった武士は、他の階級によって
 倒されたのではありません。
  外国の圧力の前に、自ら革命を推進し、その為、自ら
 を消滅させるという犠牲を払った。
  革命と言っても、それは、ある階級が他の階級を倒す
 という、普通の意味の革命ではありません。
  武士たちの望みは、日本という国の力を呼び覚ます事
 だった」・・と・・、
  明治維新は、『公(おおやけ)のために働くことを自
 己の使命と考えていた武士たち』によって実現した改革
 だった。
.
1886年、ノルマントン号事件
  イギリスの汽船ノルマントン号が和歌山県の紀伊半島
 沖で暴風雨のため沈没した。
  この時、船長以下26人のイギリス人船員は救出された
 が、日本人乗客25人は全員が見殺しにされて溺死した。
  審査したイギリス領事裁判所は、船長に禁固3ヶ月とい
 う軽い罰を与えただけだった。
  日本国民の不満の声が湧いた。
  政府は、治外法権の撤廃を目指したが、外国に認めさ
 せようと、政府の作った妥協案が、「治外法権とするが、
 外人裁判においては、過半数を外国人とする」とした。
  しかし、日本国民の厳しい反対の反応にあった。
  人種差別の事故だった。
.
1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布された。
  この日は前夜からの雪で、東京市中は一面の銀世界だ
 った。
  祝砲が轟(とどろ)き、山車(だし)が練り歩き、仮
 装行列が繰り出し、祝賀行事一色と化した。
  憲法が発布されると、政府批判の論陣を張って来た新
 聞も、「聞きしにまさる良憲法」「実に賞賛すべき憲法」
 などと讃えた。
  また、憲法は翻訳されて、世界各国に通告された。
  イギリスの新聞は、「東洋の地で、周到な準備の末に
 議会制政権法が成立したのは何か夢の様な話だ。
  これは偉大な試みだ」と書いた。
  イギリスのある学者は、「日本の憲法が、古来の歴史
 と習慣を元とした穏健な立場で作られていることが最も
 賛成できる点である」と述べた。
  ドイツのある法律家は、「議会を両院に分け、衆議院
 の他に貴族院を設けた知恵を高く評価した。
  その理由は、何処の国でも下院(衆議院)は急進的に
 なるものだ。
  その暴走による社会不安を和(やわ)らげるには、国
 に対する責任感と良識のある人々からなる上院(貴族院)
 が欠かせない」というものだった。
.
1968年、日本が、GDPでドイツを抜いた。
  ドイツは、日本が、ドイツの後塵(こうじん)を拝し
 ていた間は、好意的だった。
  ドイツは、日本が、ドイツを越えることは決して許し
 ていなかった。
  鼻の差でも後を走る日本という姿しか、ドイツは容認
 できなかった。
  しかし、この年、日本は、ドイツを抜き去った。
  ドイツは、この時から、あからさまに日本を攻撃する。
  ドイツには、小癪(こしゃく、いかにも生意気で、癪
 に障るようすであること)な日本となった。
  近年、益々、ドイツの日本攻撃が激しくなっている。
  それでも、お人好しの日本は、ドイツを好意的に見て
 いる。
  ドイツは、自国の技術に自信を持っている、また、プ
 ライドを持っている。
  GDPが抜かれたことで、それが傷ついたようにも感
 じたのだろう。
  日本の後塵だけは被(かぶ)りたくないのだろう。
  それにしても、2015年のフォルクスワーゲンの不正ソ
 フトの裏切りは酷かった。
  検査の時は、排ガスが抑え込まれ、普通に走行すると
 きは、ガンガン排気ガスを吐き出して突っ走った。
  検査時の40倍もの排気ガスを吐き出した。
  開いた口が閉まらない大嘘の大嘘を吐くドイツという
 体たらくだった。
  嘘つきドイツは、信用できない国として世界の信用は
 がた落ちした。
  (参考)2015年、ドイツ自動車大手フォルクスワーゲ
     ン(VW)が、排出ガス検査に合格するよう設計
     された不正ソフトウエアを、1千万台以上もの自
     動車に搭載していた。
  この事件の後に、ドイツの恥の上塗り事件が起きる・・
  このフォルクスワーゲンが、さらに不祥事をするとい
 う・・地に落ちたドイツを「さらに信用失墜するという
 事件」が起きていた・・、
  (毎日新聞、2018年2月2日)
  ドイツの自動車大手フォルクスワーゲン(VW)が、
 ディーゼルエンジン車から出る排ガスを人や猿に吸わせ
 る実験をしていたと独メディアが報じ、波紋を広げてい
 る。
  責任を取りVWの幹部が辞任に追い込まれた。
  VWは、2015年に、米国での排ガス規制逃れ事件が
 発覚しており、相次ぐ不祥事に倫理観を問う声が高まっ
 ている。
  独誌シュピーゲルなどによると、実験を行ったのは
 VWやBMW、ダイムラーなどで作る研究機関で、VW
 が主導的役割を果たした。
  独国内で、2013年、ボランティアの被験者25人を対象
 に3時間にわたって排ガスを吸わせる実験を実施。
  2014年には、米国内で猿10頭に4時間にわたって排ガ
 スを吸わせる実験を行ったという。
  独政府のザイベルト報道官は、2018年1月30日、「猿
 どころか人までを対象にした実験はいかなる場合でも倫
 理的に正当化できない」と政府の見解を示し・・、
  ツィプリース経済・エネルギー相は、「越えてはなら
 ない明確な倫理的一線(を越えた)」と厳しい言葉で非
 難した。
  批判の高まりを受け、VWで実験を把握していたとさ
 れるトーマス・シュテーク氏が、2018年1月30日に辞任。
  ミュラー会長も、テレビのインタビューで「実験の事
 実に衝撃を受けた」として謝罪し、再発防止を約束した。
  シュテーク氏は、2002年から2009年まで、シュレーダ
 ー、メルケル両首相の政権で独政府副報道官を務めるな
 ど、政界と近い人物として知られる。
  排ガス規制逃れ事件発覚後も、独政界には自動車業界
 の規制に及び腰な姿勢が支配的で、今回の問題がどのよ
 うな影響を及ぼすかは不明だ。
.
1989年11月9日、ベルリンの壁崩壊
  それまで、東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされ
 ていた東ドイツ政府が、その対応策として旅行、及び、
 国外移住の「大幅な規制緩和」の政令を・・「事実上の
 旅行自由化」と受け取れる表現で発表した。
  このことで、その日の夜に、ベルリンの壁にベルリン
 市民が殺到し、混乱の中で国境検問所が開放された・・、
  翌日・1989年11月10日に、ベルリンの壁が撤去され始
 まった・・、
  これによって、1961年8月13日のベルリンの壁着工から
 28年間に亘った、東西ベルリンが遮断されてきた東西分
 断の歴史は終わった。
  東欧革命を象徴する出来事だった。
  この事件を切っ掛けとして、東欧諸国で、続々と共産
 党政府が倒されて行った。
  そして、翌年・1990年10月3日、東ドイツが西ドイツに
 編入される形で『東西ドイツが統一された』。
  この統一に関わったソ連は、この翌年・1991年12月、
 ソビエト連邦共産党を解散し、各連邦を構成する共和国
 の主権国家として独立、そして、1991年12月25日に、ソ
 連大統領のゴルバチョフが辞任し、ソ連は解体された。
  しかし、この話のすべては、美しく無かった・・、
  このドイツ統一で、東ドイツの実態が分かった・・が・・、
 東ドイツの惨状は、半端なものではなかった。
  だから、この統一による西ドイツの経済負担は、半端
 なものではなく・・
  西ドイツは、この統一による経済負担に、これから喘
 (あえ)いで行った。
  西ドイツの人たちは、統一前、人口と領土が増加する
 なら、消費も増加し、景気も向上するだろうと考えてい
 た。
  しかし、西ドイツが見たものは・・旧東ドイツの完璧
 に破綻(はたん)した財政だった。
  競争力のある産業は、一つもなかった。
  環境も、空気も、地下水も、土壌も、重度に汚染され
 ていた。
  ケムニッツにあるウラン鉱山は、1991年までに、22万
 トンのウラン鉱を産出していたが、安全管理は劣悪で、
 鉱山は閉鎖され、その後、その除染に莫大な費用と年月
 を要した。
  この様な事例が、これだけではなかった。
  山ほどあり・・大きな食肉工場の横の湖には、血と汚
 物でどす黒い赤色となり、異臭を放っていた。
  化学工場の脇の湖には、水面に厚く膜が張り、ぬめぬ
 めと光り、「輝く湖」と呼ばれた。
  東ドイツへ投資しようとしていた人々は、その実態を
 知って、東ドイツへの投資の期待は、一気にしぼんだ。
  その改善経費だけが、天文学的に膨らんで行った。
  西ドイツの人々は、誠実に一つ一つ整備し、解決して
 行った。
  年金を積み立ててない人の年金を払い、医療保険を払
 っていなかった人の医療費を払い、失業保険を払ってい
 なかった失業者を養った。
  東ドイツの失業率は、20%を越えていた。
  西ドイツは、その苦難を乗り越えた。
.
2012年、EUは、ユーロ導入十周年を祝った。
  ドイツは、ユーロの冥利(みょうり、知らず知らずの
 うちに受ける恩恵)を一番授かる国だった。
  そして、EUの多くの加盟国は、EUよりも自分たち
 の国の国益を優先するという事実を、最早(もはや)、
 隠そうともしない状態となっていた。
  どの国も半身に構えていた。
  EUに、全力投球する国は・・無くなった。
  しかし、EUは、動いていた。
  次々と、色々な事が・・決められた。
  その決定の陰には、力あるドイツの意思があった。
  また、それが、尊重されねばならないという空気があ
 った。
  加盟国は、ドイツの事を思って、一応の合意をすると
 いう雰囲気だった。
  何しろ・・ドイツは強すぎた。
  加盟国間に疑心暗鬼(ぎしんあんき)が、うごめいて
 いた。
  (参考)疑心暗鬼:疑心が起こると、(ありもしない
     鬼の姿が見えるように)何でもない事まで恐ろ
     しくなる。
.
2013年、欧州委員会は、ドイツの稼ぎ過ぎに御咎めを出し
 た。
  EU・・、
  美しい理念で作られたEU・・本当に美しいのか?
  「グローバリズムは、良いのだ」を体現したいEUは・・
 果たして・・美しいのか?
  結論を先に言えば・・「奴隷国ができるだけだ」。
  グローバリズムは、「手放しで、美しいと言ってはい
 けない論理・考え方」なのだ。
  (NHK出身の宮崎緑氏は、NHKを退職した後もN
 HKの番組に出て、「グローバリズムはいいのだ、グロ
 ーバリズムはいいのだ」と何度も連呼する様に言ってい
 たが・・そうではないのだ・・NHKは、この様な方法
 などでグローバリズムは良いのだを洗脳する放送局)
  2013年、欧州委員会は、ドイツに対して、「輸出超過」
 をして、好きに稼いでいるドイツに・・『お咎(とが)
 め』を言い渡した。
  (参考)咎め:とがめ、犯した罪や過失を責めること。
     また、それに対する罰。そしり。非難。𠮟責 (
     しっせき) 。「お咎めを受ける」
  EUの劣等生のギリシャもギリシャで、だらしがない
 が・・、
  ドイツから、「財政引き締めをしなければ、援助はし
 ない、金は貸さないよ」と、更なる引き締めを言われる
 という体たらくな国であるが・・?
  「EUという政治形態が持つ欠陥」もあるのだ・・
  ドイツのフォルクスワーゲンの問題もあるが?? ド
 イツの高品質で優秀な商品は誰でも欲しがる。
  EUは、美しく国境の垣根を取っ払ったが・・ドイツ
 から、その優秀な商品が、どんどんEU内の他の各国へ
 流れ出して行く。
  普通なら・・EUの様な形態になっていないなら・・
 買う国は、輸入超過になるからと「為替が連動して輸入
 量が調整されたりする」・・が・・
  しかし、美しく垣根のないEU内の諸国は、『皆がユ
 ーロ』で、輸入超過して逼迫(ひっぱく、追い詰められ
 て、ゆとりがない状態)している国でも、為替で調整が
 できずに、自国のユーロが、どんどんドイツへ流れ出て
 行って・・吸い取られてしまう。
  EU内の諸国は、ドイツにとってお得意様となってい
 る。
  ドイツの輸出は、EU内でのものが6割を占めている。
  だから、欧州委員会は、ドイツへ、「いい気になって
 売り過ぎてんじゃないの?」と苦言を呈した。
  「EU内には経済破綻(はたん)国」が存在している。
  そして、ドイツは、そのグローバリズムの『美しいと
 された理念』で出来た「EUというシステム」で稼いだ
 金で潤っている。
  そして、ギリシャへ、「財政引き締めをしないと、金
 は貸せないよ」と言っている。
  しかし、そのEU内の経済破綻国で、しっかり稼いで、
 ドイツは、経済的援助をしたと、「ドイツは、胸を張っ
 て・・そして、思っている」。
  一面、高利貸しが、困った人に金を貸して、「助けて
 やった」と胸を張っている姿の様にも見え、なんか似て
 いる感じがする。
  困っている人からしっかり稼いで、金を巻き上げてお
 いて・・為替の調整手段を取り上げておいて・・ドイツ
 を儲けさせるシステム・・経済弱者の「EU内の金に困
 っている諸国」をさらに困らせるシステム。
  ドイツへ貢ぐ国々の形になっている。
  ドイツは、ドイツで、「非難されてはたまらない」と
 思っている。
  EUというシステムは、「ドイツのような強国をどん
 どん強くするシステム・・弱小国の利益が吸い上げられ
 るシステム・・ドイツよ、御目出度うとなるシステム」。
.
2018年3月26日、米ソ冷戦の時は、アメリカと日本とが協
 力して、ソ連の共産主義は崩壊したが、そして、ソ連は、
 自由主義経済のもとに下ったが・・、
  「二匹目のドジョウが居ないか??」と中国を見た。
  中国が、豊かになれば・・自由な民主主義社会になる
 と思った。
  しかし、経済的なゆとりができてみれば・・「ますま
 す軍備を拡張し」「独裁政治の国家」へと邁進している。
  「かつての懐柔政策」は失敗している。
  この様な事を思っていると、図らずも2018年3月26日の
 読売新聞に春名幹男氏(国際ジャーナリスト)が記事を
 寄せられていた・・
  表題は、「中国を取り違えた西側」・・、
  中国が全国人民代表大会(全人代=国会)の決定で独
 裁政治への道を踏み出したことに、欧米のメディアは鋭
 い警戒の目を向けている・・という書き出しで始まった・・、
  以下、その概要(抜書き・要点)・・、
  今までの西側の期待が裏切られた経緯(をたどってい
 る)・・
  西側指導者は、中国を世界貿易機関(WTO)の様な
 機構に組み込めば、中国をルールに基づく戦後のシステ
 ムに縛(しば)りつけられると信じた。
  経済の統合によって中国は豊かになり、民主主義的自
 由や人権、法の支配を求めると期待した・・、
  (しかし、そうとはならず)(中国が)大規模な開放
 をせずに一貫した成長をしたことが、中国共産党と国家
 主導の経済モデルを正当化する結果となった・・、
  (共産主義体制のまま・・成功体験をしてしまった・・
 体制批判へとは働かず、その方向へ動かなかった)
  (その成功体験で、より自信を持った独裁体制の現政
 権は、その体制をより強固にする制度・機構作りへ・・)
  この度、この20年間で最大の政府機構改革を行なった・・
  (そして)巨大経済圏構想「一帯一路」などで、外交
 戦略を強化する・・、
  (そして)中国は、世界中で、中国を支持する勢力の
 拡大に躍起になっている。
  (中国の資金力を使った行動、オーストラリアの事例)
  2017年12月、南シナ海の中国領有権を尊重する様に主
 張した(オーストラリアの)野党上院議員が(問題とな
 る騒ぎが起きた)・・
  (そして)中国による内政干渉の阻止を念頭に、外国
 人からの政治献金を禁止する法案が提出された。
  (この様な事は、オーストラリアに限らず、世界各地
 に起きている)
  今、ロシアのアメリカへの工作が焦点に当てられてい
 るが・・ロシアより、むしろ中国の方がもっと陰険で複
 雑な問題だという指摘がある・・、
  アメリカ国内の中国人留学生・35万人が(工作員予備
 軍?)・・この学生組織が監視下に置かれ、管理・監理
 されている。
  また、シンクタンクの研究機関に寄付金が寄せられて、
 その結果、その研究が、その研究報告が「親中に偏向」
 する恐れが心配されている・・、
  これが、中国の「シャープパワー」と呼ばれる強制的
 な工作・・、
  中国の習金平国家主席は、自由主義の政治モデルに対
 して根本的な挑戦をしている・・、
  (参考)シャープパワー:相手国の社会制度や文化伝
    統などを鋭利な、すなわちシャープな刃物で切り
    裂くように分断し、自国に有利な状態を作る戦略
    のこと。
     2017年11月に、アメリカの研究機関「全米民主
    主義基金(NED)」という組織の2人の研究者
    が、中国とロシアという独裁(オーソリタリアン)
    国家の戦略をシャープパワーと名付けた論文を発
    表し、注目されるようになった。
     この様なパワー、新しい国力について議論が始
    まったのは1980年代中頃、ソビエト連邦が崩壊す
    る予兆が感じられる様になった時期から・・、
     第二次世界大戦終了後は、アメリカとソビエト
    という二大大国が軍拡競争を繰り広げ、国力は軍
    事力だったが、ソ連が解体してしまったので、軍
    事力に代わるパワーが研究され始めた。
     ハード、エコノミック、ソフトパワー:未来学
    者のアルビン・トフラー、カーター大統領の特別
    補佐官であったズビグニュー・ブレジンスキー、
    ハーバード大学の政治学者ジョセフ・ナイなどの
    見解が有名・・、
     その要約・・冷戦構造が崩壊するまでは、「軍
    事力(ハードパワー)」が国力であったが、1970
    年代以後の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の
    時代は「経済力(エコノミックパワー)」が重要
    だった。
     しかし、1990年代のバブル経済の崩壊とともに、
    ジョセフ・ナイが提唱した「文化力(ソフトパワ
    ー)」が重要と言われるようになった。
     ソフトパワーは、自国の文化や制度を外国に浸
    透させ、友好的な関係を構築するという戦略で、
     その本質は、魅力(アトラクティブネス)と説
    明されている。
     これは、人材、物資、資金、情報などを自国に
    有利になるように他国に提供したり、他国から受
    け入れるということ。
     その影響で登場したのがイギリスの「クール・
    ブリタニア」や日本の「クール・ジャパン」で自
    国の文化を積極的に海外に売り出すということだ
    った。
     ところが、最近になって、中国とロシアという
    独裁国家の新しい戦略が登場した・・それが「シ
    ャープパワー」。
     シャープパワーの一例:
     2010年のノーベル平和賞は中国の人権運動の活
    動家で何度も投獄された経験があり、当時も獄中
    にあった劉暁波氏に贈られ、ノルウェーのノーベ
    ル委員会は劉氏の釈放を中国に求めた。
     これは、ノーベル賞の歴史上、中国在住の中国
    人として初めての受賞で、かつ獄中にあった人物
    に授与した最初の例だった。
     しかし、中国は「内政干渉は許さない」とか、
    「ノーベル平和賞は西側の利益の政治的な道具で
    ある」などと強硬に反発した。
     それだけではなく、ノルウェーから輸入してい
    た養殖サーモンの輸入制限をするなど経済制裁を
    実施した。
     ノルウェーは、新政権のソルベルグ首相が外務
    大臣と貿易産業大臣を伴って、2017年4月に、中
    国を訪問して習近平国家主席に面会し、「今後、
    中国の核となる問題については批判しない」とい
    う声明に署名して、ようやく関係が修復された。
     エコノミックパワーを利用して、自国の制度や
    文化を押し通すとともに、相手国の制度や文化を
    切断したシャープパワーというわけだった・・、
     韓国も同様の経験をしている。
     北朝鮮の弾道ミサイルの発射を早期に探知し、
    迎撃するために、昨年・2017年、アメリカが高高
    度ミサイル防衛システム(THAAD)の機器を
    韓国のゴルフ場の敷地に搬入した。
     北朝鮮はもちろんだが、中国も反発し、韓国商
    品の輸入規制など報復措置を実施し、ゴルフ場が
    ロッテ商事の土地であったため、中国はロッテグ
    ループを非難し、ロッテの商品の不買運動も発生
    した。
     韓国の輸出の26%は中国向けなので、大変な打
    撃となった。
     さらに韓国への団体観光旅行を禁止したため、
    昨年2017年の11月末までの中国人観光客は前年比
    で42%も減少した。
     その様な背景から、昨年・2017年12月に国賓と
    して中国を訪問した韓国の文大統領に対し、中国
    高官との食事は昼食会2回のみで冷遇した一方、
    文大統領は北京大学で「中国の夢が全人類と共に
    見る夢になることを期待する」という講演を行っ
    ている。
     これも、エコノミックパワーを駆使して自国の
    主張を押し付けた結果。
     全米民主主義基金の論文が指摘した、もう一つ
    の国がロシア・・、
     そのシャープパワーは、アメリカの大統領選挙
    の時に発揮された。
     2018年2月16日に、アメリカのロバート・モラー
    特別検察官が、13人のロシア人と、3社のロシア
    企業を起訴した。
     容疑は、先の大統領選挙で、アメリカ市民を装
    って、ソーシャルメディアの何百というアカウン
    トを使って架空のオピニオンリーダーを作り出し、
    クリントン候補を落選させるための情報を発信し
    たというもの。
     何億円という予算を使い、専属の人間を雇い、
    偽情報を大量に発信し、見事に目的を達成したと
    いう・・、
     このパワーは、北風と太陽に例えると分かりや
    すく・・、冷戦中は軍事力というハードパワーの
    戦いで北風だったが、それが終了して登場したソ
    フトパワーは太陽ということ・・、
     しかし、シャープパワーは一見、太陽のようだ
    が、その光線に有害な紫外線などが含まれて、相
    手を傷つける力があるということ・・、
     この光線は目に見えないために対応が困難だが、
    「欧米の民主主義国家が、中国のシャープパワー
    を無視することは、西側の危険を意味する」とい
    う意見のように、国際的な政治活動や経済活動の
    水面下では、この様な光線が頻繁に発射されてい
    ることを知る必要がある時代となった・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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# by suba28 | 2018-04-14 03:53 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)587E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年10月~1893年10月)

題:(増補版)587E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年10月~1893年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年10月26日、第13代東京府知事に三浦安(みうらやす
 し)がなった。
1893年10月26日、『二六新報』が創刊された。(社主:秋
 山定輔)
  二六新報は日刊新聞。
  記事が硬くて、売行きは不振だった。
  そのため、1895年6月に休刊し、
  1900年2月1日、復刊した。
  復刊後は、三井財閥への暴露攻撃、たばこ王・岩谷天
 狗退治、吉原の娼妓の自由廃業キャンペーンなどで世間
 の注目を集め、日露戦争直前には日本一の発行部数を誇
 った。
1893年10月28日、ラベンナ号事件(千島艦事件)の控訴審
 で、上海イギリス高等裁判所は、日本側の敗訴の判決を
 した。
  日本は、イギリス上院に上訴した。
  この事件は、1892年11月30日に起きた事件で、ラベン
 ナ号はイギリス商船。
  日本の立場が牛耳られている時代に、イギリス法廷で
 堂々と争う日本は立派だったが・・その様な日本が、相
 手の土俵で争うのは、まったくその結果は分かったもの
 だった。
  そして、その後にも、イギリス本国の枢密院へも上告
 を決め、とことん争う日本だった。
  1895年7月3日に、枢密院は、上海の判決を破棄して横
 浜領事館への差し戻しを命じるとともに、P&O(ラベンナ
 号の所有会社のピーオー汽船会社)に、日本側の訴訟費
 用約12万円の負担を命じた。
  その後、イギリス外務省の意向を受けた領事館によっ
 て和解が図られ・・、
  1895年9月19日に、日本政府とP&Oの間で和解が成立、
 P&Oは1万ポンド(日本円で90,995円25銭)の和解金と、
 日本側の訴訟費用全額を負担する代わりに日本政府は一
 切の請求権を放棄した・・で決着した。
1893年10月28日、チャイコフスキー交響曲第6番の初演。
  この交響曲は『悲愴』という副題で良く知られている。
  https://www.youtube.com/watch?v=wHAfvUFtCIY
  残されている資料によれば、1893年2月17日(第3楽章)
 に作曲に着手した。
  作業は急ピッチで進められ、それから半年後の8月25日
 にはオーケレストレーションまで完成し、
  同年・1893年10月16日(グレゴリオ暦では10月28日)
 に作曲者自身の指揮によりサンクトペテルブルクで初演
 された。
  あまりに独創的な終楽章もあってか、初演では当惑す
 る聴衆もいたものの、この曲へのチャイコフスキーの自
 信が揺らぐことはなかった。
  しかし、初演のわずか9日後、チャイコフスキーは、コ
 レラ、及び、肺水腫が原因で急死した。
  この曲は、彼の最後の大作となった。
1893年10月30日 筑豊興業鉄道会社が、飯塚駅~原田駅、ま
 たは、鳥栖駅間、および、山家駅~吉井町駅間線路の建
 設を出願した。
  (飯塚、原田または鳥栖間については、1894年7月31日
 仮免状下付された、また、
  1896年1月、飯塚駅~長尾駅間等の免許を申請し、1897
 年5月、飯塚駅~長尾駅間の仮免状が下付された)
1893年10月31日、文官任用令、文官試験規則が公布された。
  試験任用制度が確立した。
  奏任官については、原則として高等文官試験に合格し
 た者としたが、勅任官については,自由任用制をとって
 いた。
  奏任官:そうにんかん、奏任によって任命された三等
     以下九等までの高等官の称。
  奏任:奏上を経て、官職に任命すること。
  奏上:そうじょう、天皇陛下に申し上げること。
  勅任官:ちょくにんかん、もとの官吏任命法で勅任に
     よる官。
     一等・二等の高等官。広義では親任官も含む。
  勅任:勅命で官職に任命すること。
  勅命:ちょくめい、天皇陛下の御命令。
1893年10月31日、逓信省官制の公布(勅令第149号)
  鉄道庁を廃止して鉄道局を設置した(勅令第151号、11
 月10日施行)
  逓信省(ていしんしょう)は、交通・通信行政の中央官
 庁で、後、電気・航空行政をも管掌した。
  1885年、内閣制度実施とともに、工部省の電信、灯台、
   農商務省の駅逓、管船の各局管掌事務を引き継いで
   設置された。
  1890年、以降、電話事業、
  1893年、以降、官設・私設鉄道事業を管轄、陸上交通を
   含む広範な行政官庁となった。
   この間、特に、郵便・電信業務の近代化をはかり、日
   露戦争前後の時期にはほぼこれを完成した。
  1908年12月5日、鉄道監督行政は、新設の鉄道院(内閣
   直属)に移り、
  1923年、航空局を陸軍省から引き継ぎ、民間航空事業
   の監督、育成を担当した。
1893年10月31日、技術官俸給令を一部改正した(勅令第168
 号)
1893年10月31日、文官任用令(勅令第183号)・文官試験規則
 (勅令第197号)を公布した。
  文官高等試験合格者を奏仕官として採用した。
1893年10月31日、逓信省鉄道書記補郵便電信書記補及郵便
 為替貯金書記補任用令(勅令第195号)公布
1893年10月、文官任用令・文官試験規則を公布した(高等文
 官試験確立)
1893年10月、夏目漱石が、湯島聖堂内にあった東京高等師
 範学校(校長:嘉納治五郎、筑波大学の前身)の英語嘱
 託教師に就任した。
  夏目漱石(なつめそうせき、1867年2月9日~1916年12
 月9日)小説家、評論家、英文学者、
  江戸の牛込馬場下横町(東京都新宿区喜久井町)に、夏
 目小兵衛直克と千枝の末子として生まれた。
  生後すぐ里子に出され・・また、養子にも出された。
  不遇のうちに幼時を送り、作品にもその影を残す。
  1877年の10歳(9歳?)のころ、養父母の離婚のため、
 生家に戻ったが、こころ落ち付く、やすらかな帰属感を
 抱くことは出来なかった・・父母は必ずしも温かく迎え
 なかった。
  肉親の愛に恵まれなかった漱石・・この孤独な幼年期
 の記憶は・・漱石のこころの奥に秘められ残った・・
  肉親の中にさえある他者と見られる非情な人間を見た
 漱石だった・・
  少年時は、浅草界隈で送り、江戸の町人文化に親しん
 で育ち、漢詩文に親しみ、、
  漢学好きな少年は二松学舎(にしょうがくしゃ)など
 に学んだ・・
  また、成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)
 に進むころから、英文学研究を生涯の仕事として選ぶ・・
  また、この大学予備門で正岡子規を知って俳句を学ぶ。
  1893年、東大英文科卒、一時大学院に籍を置く・・後・・
  1895年~1896年、愛媛県の松山中学に赴任(この体験
 は、面白おかしく『坊ちゃん(1906年)』の活発な筆致
 作品となる)、
  そして、1896年~1900年、第五高等学校で英語教師を
 務め・・
  1900年秋、渡英・英語研究の文部省留学生として英国
 留学を命じられた・・英文学者としての道が大きく開い
 て行く・・
  1903年1月、帰国
  そして、1903年4月、東京帝大英文科初の日本人講師と
 なり、英文学を教え、また、「文学論」「十八世紀英文
 学論」「シェイクスピア」などを講じた。
  (前任者の小泉八雲を押しのける形だった・・また・・
  この頃から、正岡子規と親しくなり俳句をよくする)
  高浜虚子の勧めで写生文を手がけ、『吾輩は猫である』
 を手始めに多彩な創作活動を展開した。
  1905年1月、「吾輩は猫である」を、雑誌「ホトトギス」
 に発表して、その軽妙洒脱さが評判となる。
  以後、「倫敦塔」「幻影の盾」「草枕」など溢れんば
 かりの文才を示し・・社会や人間の不正を糾弾する作品
 も書いた・・
  また、「坊っちゃん」も書く。
  その後、1907年、職業作家の志が芽生え・・教職を辞
 し、朝日新聞に入社(専属作家として迎えられ)し・・
  自然主義に対立し、心理的手法で近代人の孤独やエゴ
 イズムを追求した・・、
  この年・1907年に「虞美人草(ぐびじんそう)」
  1908年、「夢十夜」「三四郎」で文壇にゆるぎない地
 位を確立した。
  また、朝日新聞の文芸欄を主宰した漱石は、「現代日
 本の開化」「私の個人主義」などの講演を行なった。
  欧米では漱石の心理小説が注目され、その翻訳に恵ま
 れた。
  「それから(1909年)」「門(1910年)」「彼岸過迄」・・
  1910年、修善寺にあって大患を患った・・これ以後、
 死の危機を自覚した漱石は、生への認識が一層深まり、
 「行人(こうじん、1912年~1913年)」「こころ」「明
 暗」「道草」など、晩作での対策で、さらなる孤独さの
 内面に分け入った。
  自意識の不安と苦悩を著わした。
  晩年は、「則天去私」の境地を求めた
  (参考)則天去私:そくてんきょし、『天に則(のっと)
     り私を去るの意』
      夏目漱石が、晩年に、文学・人生の理想とし
     た境地。
      自我の超克を自然の道理に従って生きること
     に求めようとしたもの(漱石自身の造語)
  正岡子規と交わり、俳句や漢詩に親しんだが・・
  俳句は、約三千句をなし、また、晩年は、気品のある
 文人画も描いた。
  作品の追求した問題は広く深く、日本の巨匠として世
 界に広く紹介されている。
  また、漢詩をよくして、「永日小品」「硝子戸の中」
 などのなつかしい随筆も残している。
  また、師弟関係に恵まれ・・小宮豊隆、森田草平、寺
 田寅彦、鈴木三重吉、安倍能成、高浜虚子などの漱石の
 人脈の山脈が聳えている。
  教師であった漱石は、鈴木三重吉や芥川龍之介、久米
 正雄らの多くの俊英も育てる教師でもあった。
  漱石が残した知友門弟に書いた手紙や葉書も貴重なも
 のとなっている。
  また、妻:夏目鏡子の『漱石の思ひ出』が味わい深い。
  またまた、江藤淳の『漱石とその時代』、同編『朝日
 小事典 夏目漱石』、三好行雄ほか編『講座夏目漱石』全
 5巻、尹相仁『世紀末と漱石』ほか、おびただしい研究書
 のある人物・・それが夏目漱石。
  1916年に歿した・・50歳だった・・少し早い幕引きだ
 った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:この地球・・人類が生存できないような状況は「何度も起きている」・・
.
2億5000万年前、爬虫類から双弓類を経て進化した恐竜が
 出現した。
  (参考)双弓類(そうきゅうるい)は、四肢動物のグ
     ループの一つで、頭蓋骨の両側に側頭窓と呼ば
     れる穴を、それぞれ2つ持っている。
      この穴が出来た事でその下部の骨が細いアー
     チ状になっているが、これを解剖学では「弓」
     と呼び、このため学名は「二つの弓 = 双弓類」
     と名付けられた。
  中生代の三畳紀、ジュラ紀、白亜紀を通して恐竜が繁
 栄した。
  恐竜は、気嚢(きのう、呼吸器官)を持ち、低酸素環
 境に対応できた。
  哺乳類の祖先の横隔膜をもつ単弓類は低酸素環境に対
 応できずに衰退した。
  (参考)単弓類(たんきゅうるい)は、脊椎動物のう
     ち、陸上に上がった四肢動物のグループの一つ。
      哺乳類、及び、古くは哺乳類型爬虫類とも呼
     ばれたその祖となる生物の総称。
      共通する特徴としては、頭蓋骨の左右、眼窩
     後方に「側頭窓」と呼ばれる穴がそれぞれ1つず
     つあって、その下側の骨が細いアーチ状となっ
     ていて、この骨のアーチの「弓」が、このグル
     ープでは片側に一つ持っているために単弓類と
     呼ばれた。
.
2億2500万年前、最古の哺乳類のアデロバシレウスが出現し
 た。
  魚類、両生類、爬虫類、鳥類には、4タイプの錐体細胞
 を持つもの(4色型色覚)が多く・・、
  一方、ほとんどの哺乳類は、錐体細胞を2タイプしか持
 たない(2色型色覚)
  哺乳類の祖先は、4タイプ全ての錐体細胞を持っていた
 が、初期の哺乳類は、主に夜行性であったため、色覚は
 生存に必須ではなかったために退化した。
.
2億2000万年前、生物が大量絶滅した(三畳紀末)
.
2億2000万年前、マニコーガン・クレーターの形成。
  カナダにある北アメリカ最大のクレーター(直径約100
 km)。
.
2億年前、酸素濃度が12%まで低下した。
  二酸化炭素濃度は、現代の数倍から10倍程度に増加し、
 この前後は、温暖な気候が続いた。
  これ以降、徐々に、酸素濃度が上昇し、二酸化炭素濃
 度が減少した。
.
2億年前、パンゲア大陸の分裂がはじまった。
.
1億8000万年前、北はローラシア大陸、南はゴンドワナ大陸
 へと分裂し・・、
  ゴンドワナ大陸は、その後、西ゴンドワナ大陸と東ゴ
 ンドワナ大陸へと分裂した。
.
1億5000万年前、始祖鳥(鳥類が出現した)
.
1億4000万年前、白亜紀に入ると、西ゴンドワナ大陸は、ア
 フリカ大陸と南アメリカ大陸に分裂し、
  その間に、大西洋が成立した。
  また、東ゴンドワナ大陸は、インド亜大陸、及び、マ
 ダガスカル島と、南極大陸、及び、オーストラリア大陸
 に分裂した。
  この分裂が、オーストラリア大陸でのその後の単孔類
 の生き残りや有袋類の独自進化につながる。
  (参考)単孔類:たんこうるい、哺乳綱単孔目に属す
     る動物の総称で、哺乳類であるにもかかわらず
     卵生で、消化管、排尿管、輸卵 (精) 管が同時
     に開口する総排泄孔を持つ。
.
1億年前、恐竜の全盛時代
.
6550万年前、生物が大量絶滅した(白亜紀末)
  この頃、恐竜が絶滅し、アンモナイトも絶滅した。
  隕石の落下による環境の激変を原因とする説が有力と
 考えられている。
  → K-T境界、チクシュルーブ・クレーター
.
6千数百万年前、インド半島の大部分を占めるデカン高原は、
 膨大なマグマが噴出して形成された。
.
約6550万年前、霊長類が出現した。
.
約5500万年前、この頃に現れたアダピス類が、初期の霊長
 類と考えられている。
  これより前の約7000万年前に、北米に出現したプレシ
 アダピス類のプルガトリウスを最古とする考え方もある。
  霊長目で、ビタミンC合成能力が失われたのは、約6300
 万年前であり、直鼻猿亜目(合成能力なし)と曲鼻猿亜
 目(合成能力あり)の分岐が起こったのと、ほぼ同時で
 ある。
  ビタミンC合成能力を失った直鼻猿亜目には、メガネザ
 ル下目や真猿下目(サル、類人猿、ヒト)を含んでいる。
  ビタミンC合成能力を有する曲鼻猿亜目には、マダガス
 カルに生息するキツネザルなどが含まれる。
.
5500万年前、暁新世・始新世境界で、突発的温暖化事件が
 発生し、新生代では、最も高温の時代になった。
  (始新世温暖化極大・始新世高温期)
  その原因として、1500Gtのメタンハイドレートの融解
 などの温暖化ガスの大量放出があり、地表5℃~7℃の気
 温上昇の温暖化が起こった。
.
4500万年前、インド亜大陸が北上を続け、ユーラシア大陸
 に衝突し、ヒマラヤ山脈を形成した。
.
約4000万年前、南極大陸で、氷河の形成がはじまり、徐々
 に寒冷化した。
  これ以前は、非常に温暖な時期だった。
  → 古第三紀、海水準変動
.
4000万年前~3000万年前、真猿下目の狭鼻下目(旧世界ザ
 ル)と広鼻下目(新世界ザル)が分岐した。
  一説では、当時のアフリカ大陸で大きな洪水が起こり、
 倒れて流された大木に乗った真猿下目のサルが、当時、
 それ程広がっていなかった大西洋を越えて、南アメリカ
 にたどり着いて、広鼻下目の祖先となった。
.
3000万年前、2色型色覚(赤緑色盲)に退化した哺乳類のう
 ち、霊長目狭鼻下目が、3色型色覚を再獲得した。
  ビタミンCを豊富に含む色鮮やかな果実等の獲得と生存
 に有利だった。
.
2800万年前~2400万年前、狭鼻下目のヒト上科(テナガザ
 ル、オランウータン、チンパンジー、ゴリラ、ヒトの共
 通祖先)が、オナガザル上科から分岐し・・、
  同時に、ヒト上科で、尿酸を分解する尿酸オキシダー
 ゼ活性が消失した。
  尿酸が、直鼻猿亜目で、合成能が失われたビタミンCの
 抗酸化物質としての部分的な代用となった。
.
2500万年前、最古の類人猿と思われる化石・・?
  アフリカのケニヤで発見された。
.
約2500万年前、アルプス・ヒマラヤ地帯などで山脈の形成
 がはじまった。
  テチス海が消滅し、造山運動により隆起。→ 新第三紀、
 Geology of the Himalaya
.
2000万年前~1600万年前、ヒト科とテナガザル科が分岐し
 た。
.
約2000万年前、現存する最古の湖が形成された。
  バイカル湖、タンガニーカ湖 → 古代湖
.
約1800万年前~1700万年前、この頃のウマの化石が、岐阜
 県可児市で、1961年と1971年に発見された。
  「アンキテリウム属」の1種で、和名「ヒラマキウマ」
 という。
  日本最古とされていたが、アジアでも最古級であるこ
 とが分かった。
.
1600万年前頃、大和三山の内の畝傍山や耳成山、また、二
 上山も、この頃、火山活動していた。
  「ステゴロフォドン」の頭骨化石の一部が、茨城県常
 陸大宮市で、2011年12月に発見された。
.
約1500万年前、ヨーロッパに隕石が落下、クレーターを形
 成する。
  現在のドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州にある
 リース隕石孔、シュタインハイム・クレーター。
.
約1400万年前、ヒト科が、ヒト亜科とオランウータン亜科
 に分岐したと推定されている。
.
1300万年前、この頃からヨーロッパ、南アジア、東アジア
 などユーラシア各地にも類人猿の化石が現れた。
.
約1000万年前、ヒト亜科が、ヒト族とゴリラ族に分岐した
 と推定されている。
.
1000万年前~500万年前、アフリカで大地溝帯(グレート・
 リフト・バレー)の形成が始まる。
  人類誕生に大きな影響を与えたとする説。
.
約700万年前、ヒト族は、ヒト亜族とチンパンジー亜族に
 分岐したと推定されている。
  猿人の出現。
  直立二足歩行が開始された。
.
700万年前~600万年前、現在最古の人類化石は、中央アフ
 リカ発見のサヘラントロプス・チャデンシスとされてい
 る。
  2002年に報告される。
.
推定約600万年前~400万年前、琵琶湖が形成された。
  琵琶湖は、世界に現存する湖の中では3番目に古い湖
 と考えられている。
.
370万年前~100万年前、アウストラロピテクス(猿人)
  最初の人類とされる。
  一定の道具を使用した。
.
約250万年前~180万年前、この頃、石器の使用がはじまっ
 た。
  エレクトス原人が出現する(250万年前)。
  丹沢山地の大爆発(約250万年前)面積1万1750km2、降
 下火山灰のみの体積は2.8km3を超え、火山爆発指数VEIは
 5。
  オルドヴァイ文化、オルドワン石器
  (参考)オルドヴァイ文化:東アフリカのタンザニア
     北部にあり、リーキーらが調査したオルドバイ
     遺跡を標式とする世界最古の旧石器文化。
      その担い手は、アウストラロピテクスで、こ
     の文化は東アフリカに始まり、中央アフリカを
     除くアフリカ全土、および、西アジアにひろが
     る。
      主体となる石器は、円礫、もしくは、角礫の
     一端を打ち欠いて刃をつけ、ものをたたき切っ
     たりつぶしたりするのに用いたチョッパーであ
     るが、その他、肉を切ったりものを削ったりす
     るスクレーパーをはじめ、数種類の石器があり、
     すでに用途によって形態が分化していた。
  (参考)円礫:えんれき、岩石の破片のうち、大きさ
     が2mm以上のものを礫といい、川原の玉石のよう
     な丸いものを円礫、砂利道の砂利のような角張
     ったものを角礫という。
.
約200万年前、フィリピン海プレートに乗って移動してきた
 伊豆半島が、北アメリカプレートに衝突し、富士山や箱
 根などの噴火の引き金になった。
.
180万年前、グルジアのクラ川下流の下カルトリ地方ドゥマ
 ニスィ(ドマニシ)で発見された化石は、ユーラシア最
 古の原人として知られる。
  180万年前~150万年前に、アフリカの地を脱してユー
 ラシア大陸の熱帯・温帯に拡散したらしい。
.
約78万年前、最新の地磁気の逆転。
  地球磁場は、10万年~100万年ぐらいの不規則な周期で
 何度も逆転している。
  この頃の逆転が直近のものである(ブリュンヌ期、約
 78万年前~現在)
  これより前の逆転は、約250万年前(松山期、約250万
 年前~78万年前)
  なお、松山期には、数回の地磁気逆転イベントが存在
 する(約100万年前のハラミヨ亜期など)
   ・
   ・
   ・
紀元30年、イエスが刑死したと言われている年
  イエスの実在性は、ほとんどないが、イエスは、キリ
 スト教を作ったパウロに祭り上げられた。
  イエス本人には、まったくキリスト教を作ろうという
 意思は無かった。
  キリスト教は、ユダヤ教を引き継いでいるが、ユダヤ
 教は、最初、神が多くいる多神教だった。
  また、イエスの母・マリアは、ユダヤ教のエルサレム
 神殿を参詣するユダヤ教徒だったが・・、
  そのマリアの子=イエスも、ユダヤ教を信仰していた。
  (因みに、イエスは、ユダヤ教を信仰する立場で死ん
 でいる。
  つまり、刑死するイエスは、ユダヤ教徒としての信仰
 の中に死んでいる)
  故に、イエスは、「ユダヤ教の神(主)」を信仰する
 ユダヤ教徒だった。
  だから、イエスには、少しもキリスト教を立宗しよう
 という意思はなかった。
  イエスの刑死後、キリスト教が立宗される動きは・・
 「まったく無かった」。
  その様な動きがまったく無い状態の中に、時は過ぎて
 行った。
  エルサレムの街や、その他の街でも、当然、普通の
 日々が流れていた。
  だから、イエスの死後、3日後の、イエスが復活した
 などという騒ぎなどは「まったく無かった」。
  ましてや、イエスが昇天したなどという騒ぎも「当然
 無かった」。
  ただただ、普通の日常が流れていた。
  キリスト教の福音書が、イエスの死後、50年も経って
 から書かれたように・・、
  西暦70年~90年頃に書かれた事からも分かる様に、イ
 エスは忘れ去られ・・何十年とキリスト教の話などは無
 く、少しも表われ出ない時が流れていた。
  最初の福音書は、マルコが書いたが・・この頃には、
 もう、イエスのことは、完全に、誰もがすっかり忘れら
 れていた。
  イエスに関係する者たちは、そのグループは、ユダヤ
 教から「破門の処分」を受けていた。
  その様な状態の中に、時は過ぎて行った、年月が流れ
 ていた。
  この様な状況の中で、キリスト教を作ったというパウ
 ロが居る。
  パウロは、サウロとも呼ばれ、紀元65年に死んでいる
 が・・、
  生前は、テント職人で、ユダヤ教ファリサイ派の人で
 あった・・、
  高名なユダヤ教のラビのガマリエル1世の下でユダヤ教
 を学んだ「熱心なユダヤ教徒だった」。
  パウロは、ユダヤ教の要職の人で、ユダヤ教以外の人々
 を、「上部組織の許可を得て捕まえる役目」をしていた。
  イエスのグループも逮捕対象だった。
  捕まえられた人が死刑になることもあるというパウロ
 の役目だった。
  ある日、逮捕の許可を得ようとして道を行くパウロに
 「ふと、嫌気がさした」のだろう。
  多分、何時(いつ)までこんなことをしているのだろ
 うかと自分の行動を顧(かえり)みて思ったのだろう。
  この時、パウロは転身(てんしん、方針を変える)す
 る。
  ここは、キリスト教の聖書には、美しく書かれている・・
 一転、空は掻(か)き曇り、天からイエスの声が聞こえ
 たと書かれている。
  大きな転換点なので、キリスト教もドラマティックに
 書きたかったのだろう。
  イエスの声で、何でお前は迫害するのかと言ったとい
 う・・パウロの行動を批判した。
  パウロは、この時、自分の行なっているユダヤ教以外
 のグループを許可を得て捕まえるという役のむなしさを
 感じていたのだろう。
  ここで、パウロは、180度の方針転換をする。
  この事が起きたのが紀元34年だという。
  パウロは、宗教の立宗を思い立つ。
  当然、パウロは、ユダヤ教に詳しく精通していた。
  そして、ユダヤ教の聖典に書いてある事と同じやり方
 で立宗の行動をした。
  パウロが考えたことは、イエスの生涯とか、行いとか
 はすべて捨て、無関係とした・・
  そして、イエスの名だけを借りた。
  エルサレム神殿の庶民の経営する屋台などを、暴れ回
 って壊したりするイエスの行動など利用したいとも思わ
 なかったのだろう。
  パウロによって、イエスの人となりは、まったく利用
 されない形でキリスト教は出来上がって行った。
  刑死し、復活し、昇天するというユダヤ教の聖典の形
 にした。
  しかし、だからと言って・・福音書が作られる紀元70
 年~90年頃までは、50年近くの空白の長い年月が流れて
 いたのだった。
  近年、アメリカの研究グループが、4つあるキリスト教
 の福音書を研究・検討したが、その中に、イエスの言葉
 はほとんどないという結果となった、その様な福音書の
 状態だという結論に達した。
  イエスの言葉が一つもないという福音書があるくらい
 だった。
.
70年代、キリスト教の最初の福音書である「マルコによる
 福音書」が書かれた。
  この「マルコによる福音書」は、キリスト教の意に沿
 わない福音書であった・・依って、この後に「マタイに
 よる福音書」が書かれた。
  だから、聖書には、年代的には「マルコによる福音書」
 が先に書かれているが、聖書への掲載は、「マタイによ
 る福音書」が先に掲載され、この「マルコの福音書」は、
 「マタイによる福音書」の後に掲載されている。
  この様な差別は、特定の一部の者にしか明らかにされ
 ていない。
.
80年代、キリスト教の福音書である「マタイによる福音書」
 と「ルカによる福音書」が書かれた。
.
90年代、キリスト教の福音書である「ヨハネによる福音書」
 が書かれた。
.
2世紀、この頃までに、キリスト教の新約聖書に盛り込まれ
 る手紙類などが出揃(でそろ)った。
  しかし、矛盾が多く含むものとなった。
  この矛盾の辻褄(つじつま)を合わせるために、この
 後、キリスト教神学が発生した。
  キリスト教神学の生まれた経緯は、キリスト教の教義
 の深化のためではなかった・・辻褄合わせが、学問の発
 生の因だった・・、
.
180年頃、ローマ帝国内に、キリスト教の五大教会が造られ
 た。
  キリスト教五大教会は、「ローマ」「エルサレム」「
 コンスタンティノーブル」「アレキサンドリア」「アン
 ティオキア」。
.
313年2月、ミラノ勅令。
  ローマ帝国の皇帝のコンスタンチヌス1世(大帝)が、
 キリスト教を公認した。
  コンスタンチヌス大帝が、ミラノで、リキニウス帝と
 会見をした際に発した勅令。
  増大しつつあるキリスト教徒の支持を得ようとして行
 った。
  そして、392年、キリスト教が国教となった。
  以上の様な史実があるとされるが・・??
  厳密に言うと、ミラノで、その様な勅令が出されたと
 いう「歴史的事実はない」。
  ただ、両皇帝のミラノでの協定に基づいて、リキニウ
 スが、313年、ニコメディアで両皇帝の名において発した
 訓令の内容の記録が伝わるに過ぎない。
  これを、キリスト教に偏する後世の史家が、これをミ
 ラノ勅令と呼んだだけの作り話。
  ローマ帝国のキリスト教迫害政策は、4世紀の初期にな
 って、行き詰まった・・そこで、政策のゆるみが出て、
 寛容への動きも出ていた(311年、ガレリウス帝の寛容
 勅令など)。
  しかし、このミラノ勅令と言われるこの頃、帝国が、
 キリスト教の取締りの域を超えて、キリスト教との融合
 の方向へと踏み出した・・歴史の転換点ともいうべき位
 置を示している。
.
381年、コンスタンティノーブル公会議で、再び、三位一体
 神を正統とした。
  そして、教義として確立した。
.
392年、キリスト教が、ローマ帝国の国教となった。
.
395年、ローマ帝国が、西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂
 した。
  この後、ローマ教会とコンスタンティノーブル教会と
 は、別々の君主の元で歩んだが・・、
  コンスタンティノーブルの司教が、「ローマ教会の司
 教と対等の立場」を主張した。
  そして、この後の5世紀末に、東西のキリスト教会の反
 目が本格化した。
  ローマ司教は、「単性説」を主張していたコンスタン
 ティノーブルの司教を破門した。
  6世紀に、ローマ司教は、ローマ教皇となった。
  867年には、東西の両教会は、「互いに破門を宣言しあ
 った」。
  1054年、完全に物別れとなり、教会の東西分裂となっ
 た。
.
397年、カルタゴ会議で、「旧約聖書」と「新約聖書」が、
 キリスト教の聖典となった。
.
451年、キリスト教ローマ教会は、権威を強化したいと、こ
 の年のカルケトン公会議で・・異端とされた単性説のコ
 ンスタンティノーブル司教を破門にした。
  5世紀末は、ローマ教会の権威は強大となった。
.
5世紀半ば、ローマ法が作られた。
  キリスト教は、ローマ法と矛盾するところを妥協し、
 習合した。
  そして、キリスト教の戒律は、聖なる部分のみに適用
 されるものとした。
  だから、当然、キリスト教の免罪符を持っていても罰
 せられた。
  だから、当然、強盗が免罪符を持っているからと言っ
 て許されるものではなかった。
.
6世紀、東ローマ帝国が、コスティニアス1世の時に領土拡
 大した。
  ローマも支配下に入れた。
.
6世紀、ローマ帝国内の五大教会の一つのローマ教会の指導
 者であるローマ司教が、ローマ法王(教皇)となった。
  このローマ法王が、キリスト教カトリックの最高権威
 があるとされた。
.
900年、ヨーロッパ大陸は、森林に覆(おお)われていたが、
  この後、そのほとんどが失われてしまった。
  ヨーロッパは、うっそうたる原生林の中の地だった。
  「ヘンゼルとグレーテル」が迷い込んだ森の道に、迷
 い行くとお菓子の家があるという、子供たちの話のよう
 な深い森のあるヨーロッパの地だった。
  しかし、その森も、キリスト教の『地を従えよ』の教
 義・教えによって・・、
  「自然を大切にしない教義」によって、「地を従える
 という自然破壊」を『良い事だと教えるキリスト教の教
 義』によって、ヨーロッパの森は、破壊しつくされた。
  今、古来からの原生林は、ドイツのある地方の一画だ
 けという状況。
  現在のフランスの森林の割合は、23パーセントだとい
 う。
  中世初期は、最も開拓が進んでいるサン・ジェルマン・
 デ・プレ修道院の平野部でさえ、4割以上が森林だった。
  900年頃の想定地図を見ると、『殆ど森しかない』とい
 う状況だった。
  土地の9割以上は、原生の地であり、村の周囲だけが
 切り開かれているという状況だった。
  あるキリスト教修道院は、柱となる大木を手に入れれ
 たのは「神の思し召しだ!」などと喜んで伐採した。
  日本の里山の思想・仏教の思想は・・『山や森と共生
 する』という思想は、キリスト教の思想には「まったく
 無かった」。
  キリスト教の『地を従えよ』の自然破壊を奨励する教
 えに洗脳されたキリスト教徒のヨーロッパ人たちは、「
 自然破壊をすることに何ら罪悪感の無い心にされて」、
 ヨーロッパ大陸の自然を破壊し続けた。
  今、地球は、自然破壊のために、「異常気象が頻発(
 ひんぱつ)」している・・が・・
  キリスト教の罪悪は、この点でも、計り知れない事を
 起こしている。
  「もう人類は、今・現代、すぐに、キリスト教の教え
 を捨てなくてはならない」。
  「罪悪感のない自然破壊」を改めなくてはならない。
  今、地球は、地球上のあちこちで、罪悪感のない森林
 破壊の伐採が行われている。
  「キリスト教に洗脳された自然破壊」が行われている。
.
1520年、ルターのキリスト教の宗教改革活動が始まった。
  まったく金にまみれたキリスト教カトリックだった。
  ローマ法王のレオ10世が、ローマのサン・ピエトロ大
 聖堂を建てたいと、金を集め出した。
  ドイツで、大量の免罪符が売り出された。
  ルターは、これに抗議した。
  ルターは言った、「免罪符なんか持ってなくても天国
 へ行ける」「免罪符を持って居たからって救われない」
 と。
  キリスト教カトリック教会は、ルターを破門にした。
  そして、弾圧を加えた。
  キリスト教教会から、なんだかんだと金を取られ苦し
 んでいた人々は、ルターに同調した。
  また、ドイツの諸侯や、各地の知識人も同調した。
  因みに、キリスト教の信者数の割合。
  カトリック  53%(10.9億人〉、
  プロテスタント17%(3.7億人)、
  東方正教会  11%(2.2億人)、
  その他    19%(3.9億人)、計20.7億人
.
1642年1月8日、この年、ガリレオが失意のうちに亡くなっ
 た。
  ガリレオは、イタリアの科学者で天文学者。
  天文学の父と言われている。
  科学的探究の結果、地動説を説明するが・・キリスト
 教に「異端の考え方だ」とされ、一生、監禁状態の生活
 を強いられた。
  職も失い・・貧困の中に苦しい生活を送らされた。
  長女も付き添って看病をしてくれたが、この最愛の長
 女・ビルジニアにも、ガリレオは先立たれた。
  この長女は、ガリレオの死の8年前、病気で1634年に
 亡くなっている。
  キリスト教は、科学的に非常に遅れた宗教で、非科学
 的な記述に満ち満ちている。
  キリスト教は、「ある時、キリスト教の神が創造を始
 めた」という設定から始まったという話から始めた。
  キリスト教の聖書もその記述から始めている。
  この認識を基礎として、キリスト教の宗教の信仰が始
 まっている。
  因みに、先のガリレオに対するキリスト教の間違いは、
 400年も経って、ローマ法王はガリレオに詫(わ)びた・・
 『謝罪のミサ』を行った。
  『キリスト教の宇宙創造論』も、結論から言えば「間
 違い」で・・、
  この様な話にすると、キリスト教のストーリーの初め
 から話が崩れ去ってしまう・・このストーリーが崩れる
 と・・「キリスト教の神の存在が否定され」・・キリス
 ト教の宗教としての存在も否定されてしまう・・
  だから、この点は、死守したいところだが・・間違い
 だという事が判明して来た。
  キリスト教は、ストーリーの初めから、躓(つまづ)
 いている。
  キリスト教は、聖書の初めに書いてある「キリスト教
 の神が宇宙を創造した」という創造論が確かにあったと
 したい・・が・・
  科学が進歩して来ると、色々なことが分かって来て、
 その科学で分かったことが、キリスト教の聖書に記述し
 てある事と食い違う事が多く・・
   「一致する」と胸をなで下ろすというキリスト教と
 なっている。
  事実は、そうではないという展開となっている。
  この400年前のガリレオは、キリスト教の様になってな
 いと言うって、キリスト教を仰天させ、大騒ぎになった
 が・・キリスト教は卑劣な事にもガリレオを弾圧した・・
  あまりにもひどい・卑劣なキリスト教の弾圧にあって・・
 とうとうガリレオも、やむなく「地球の周りに太陽は回
 っている」と、キリスト教に押し付けられた言葉を言っ
 たが・・
  科学的に間違って居る事を言わされたが・・しかし、
 最後に、ガリレオは、「ガリレオが、その様に言ったっ
 て、キリスト教が言うように、太陽が地球の周りを回り
 始める訳はない」・・という事で・・ガリレオは、『そ
 れでも地球は、太陽の周りを回っている』と言った。
  キリスト教は、科学に照らして間違いだらけの宗教で、
 今・現在は、キリスト教は、『太陽が、地球の周りを回
 っている」とは言わなくなったが、キリスト教にはこの
 様に、「たくさんの訂正事項」の中に、今のキリスト教
 が存在して居る。
  キリスト教は、まったく非科学的な宗教である。
  信じるに値しない。
  このキリスト教に繰られて、洗脳されて、今まで、何
 千万人もの有色人種が、「キリスト教によって殺されて
 来た」が・・本当に悔(くや)しい思いである。
  これは、ローマ法王が、有色人種を「人では無い」と
 言った事から始まった。
  キリスト教には、有色人種への蔑視観がある。
  キリスト教は、科学が進むとともに、その非科学性が、
 ますます立証され、証明されて来ているという状態。
  これからの人類の幸福のためには、絶対、キリスト教
 は「無くさねばならない宗教」・・、
  また、未来の愛すべき「これからの世界を支える子供
 たち」の為にも、絶対、キリスト教を無くして行かねば
 ならない。
.
1821年、メキシコが、スペインから独立すると、今は、ア
 メリカのテキサス州だが、この地は、メキシコのコアウ
 イラ・イ・テハス州という名の州となった。
  例えばの話、あなたの左隣の家が、あなたの右隣の家
 へ、「あなたの家を持って良い(奪ってよい)」と言っ
 たら・・、
  あなたの家は、右隣の家になるのか?
  (右隣の所有する家になるのか?)
  また、例えばの話、本当に例えばの話なのだが・・、
  「日本が、メキシコに、アメリカのテキサス州を持つ
 ことを認める」と言ったら、アメリカのテキサス州は、
 メキシコのものになるのか?
  つまり、この逆のことを、アメリカはしていた。
  アメリカの前には、イギリスがしていた。
  こんな事ばかりを言って、世界にトラブルの種を撒(
 ま)いていた。
.
1876年、オーストラリアの先住民のアボリジニの方々・・
 そのタスマニア島の方々は、3万7000人が住んでいた・・
 が・・イギリスの入植によるアボリジニの方々の銃殺権
 の法律(人権のまったくの無視の卑劣な法律)により、
 この年に絶滅した。
  タスマニア原住民で最後の人となったトルガニナさん
(女性)がこの年に亡くなった。
  また、オーストラリア本土の先住民のアボリジニの方々
 も、イギリス人(オーストラリア人)が、獣狩りのごと
 く、アボリジニの方々を銃で撃っていた。
  『その様な法律があった』というのだから、その「卑
 劣さ」も極まるが・・、
  「今日は、○○匹、獲った」という日記などの記録が
 残されている。
  また、森に罠(わな)が仕掛けられたりした。
  また、ハワイの原住民の方々が、何故か?ある時、激
 減した。
  『伝染病を媒介された』という話がある。
  ハワイの原住民の方々は、予防措置がとられていなか
 った。
  約30万~50万人のハワイの原住民の方々が、何と!9割
 の方々が亡くなり、約4万人となってしまった。
  そして、現在、純血のハワイの方は、約8000人と言わ
 れている・・98%は混血。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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# by suba28 | 2018-04-12 04:33 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)586E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年9月~1893年10月)

題:(増補版)586E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年9月~1893年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年9月11日、万国宗教会議がシカゴで開催された(〜1893
 年9月27日)
  日本からは土宜法龍・野口復堂・釈宗演が参加した。
  日本仏教が、世界へ伝播して行く中に於いて、1960年
 代に、アメリカで『禅ブーム』が起きた。
  これは、世界では、よく知られていることで、「世界
 の禅者」と鈴木大拙は言われた。
  彼のZENに関する英文の著作に端を発していた。
  これ以前にも、このシカゴ万国宗教会議で脚光を浴び
 ている。
  鈴木大拙の禅の師である釈宗演が、日本仏教の代表と
 して演説した。
  鈴木大拙は、師の演説の英訳を引き受けている。
  釈は、この演説で、伝統仏教から脱却し、近代社会に
 合致した新しい普遍宗教としての仏教の可能性を示した。
  キリスト教国・アメリカに、仏教が、真理を体現する
 宗教としての価値があることをアメリカ社会に示した。
  この時、この演説が、『大乗仏教を基盤とする日本仏
 教』を、アメリカ社会に初めて示したという意義があっ
 た。
1893年9月19日、初の自動車用ナンバープレートをフランス
 が導入した。
  世界で最初に設置を義務化した。
1893年10月1日、安倍井磐根ら、外国人雑居を認めて条約改
 正を行う政府の政策に反対し、その運動のため大日本協
 会を結成した。
  神鞭知常、安部井磐根、大井憲太郎、坂本則美、大竹
 貫一らがかねてより組織していた内地雑居研究会を改変
 したもので・・、
  不平等条約の改正にあたって、第2次伊藤博文内閣の外
 交政策 (外相:陸奥宗光) に反対した。
  外国人への内地開放・・および・・内地雑居は、時期
 尚早だとして、現行条約の励行を主張した。
  領事裁判制の廃止の為には、当然、居留地を廃止し、
 内地開放を行なわなければならいという主張を批判した。
  内地開放を行なうか否かの決定権は、条約締結国にあ
 ると主張した。
  第5議会には、条約励行建議案を提出するなど、対外硬
 派の中心的存在として活動した。
  10日間の停会ののち、情勢不利とみた伊藤内閣は、12
 月30日に議会を解散した。
  そして、それと同時に、治安妨害を理由に圧迫を加え、
 大日本協会は解散させられた。
1893年10月5日、南方熊楠(みなかたくまぐす)の論文「極
 東の星座」が、イギリスの「ネイチャー」の懸賞論文第
 1席となった。
  1892年9月21日、熊楠の乗った船は、大西洋を渡り、イ
   ギリスのリバプール港に到着した。
    熊楠は、首都・ロンドンに入り、横浜正金銀行ロ
   ンドン支店長の中井芳楠を訪ねた。
    中井は、和歌山県人で、南方家とは古くからの知
   り合いだった。
    ロンドンでは、下宿代が安い下町に住み、植物標
   本の整理をしたり、カルキンス、アレンなどとしば
   しば植物標本や手紙の交換をする一方、大英博物館
   や南ケンシントン博物館、美術館を訪ねたりしてい
   た。
  1893年8月17日、アメリカ滞在の時より購読していた英
   国第一の週間科学雑誌『ネイチャー』にM・A・B
   なる人の「星宿構成に関する5条」の質問を見出し、
   下宿屋の老婆に借りた不備な辞書をたよりに、答文
   「極東の星座」を起稿した。
    ロンドンで知り合いになった片岡プリンスは、身
   なりこそみすぼらしいが、熊楠の博識の深さに気付
   いた。
    そして、大英博物館の考古学・民俗学部長で富豪
   のサ-・ウオラストン・フランクスに紹介した。
    また「極東の星座」の原稿の指導を受けたことも
   あって、博物館に出入りするようになった。
    科学雑誌『ネイチャー』への答文、「極東の星座」
   は、30日で完成し、それが『ネイチャー』に掲載さ
   れて、一躍有名になり、識者に名を知られるように
   なった。
    以後、しばしば同誌に論文を発表した。
  更に、随筆問答雑誌『ノーツ・アンド・クィアリーズ』
 にも寄稿を始め、多数の論考や答文を発表した。
  熊楠は、帰国した後も、議論に参加し、東洋学の権威
 者としてその名を馳せた。
  熊楠の名が知られるようになり、ロンドン大学事務総
 長ディキンスや、フランクスの後任ダグラス、リード部
 長などとも、親交を深めた。
  大英博物館には、毎日のように通い、収蔵されている
 古今東西の稀覯(きこう、めったに見られないこと)書
 物を読みふけった。
  主として考古学、人類学、フォ-クロア(民俗学)、
 宗教学などを勉強した。
  筆写したノート類は、52冊もある。
  「ロンドン抜書(ぬきがき)」として、今も、南方邸
 や、南方熊楠記念館に保存されている。
  英・仏・独・伊・スペイン・ポルトガル・ギリシャ・
 ラテンなどの小さい字で、ぎっしりと書きこまれている。
  熱心に大英博物館に通ううち、熊楠の博識に感心した
 同館東洋図書部長のダグラスから、館員になるよう勧め
 られたが、自由の身である方がよいと断った。
  しかし、自分の勉強をしながら、同館の書籍目録の作
 成や仏像の名称の考証などを手伝った。
  (『大英博物館日本書籍目録』、『大英博物館漢籍目
 録』の編纂に尽力)
  1897年3月、ロンドンで、中国革命の父といわれる孫文
   と知り合った。
    大英博物館のダグラスの部屋で初めて出会った2人
   は、たちまち意気投合し、毎日のように行き来し、
   時のたつのも忘れて語り合った。
  また、土宜法竜(後年:高野山管長)との出会いは、
 土宜がアメリカ.シカゴの万国宗教大会に日本仏教代表
 委員として講演し、その後、英国の正金銀行ロンドン支
 店長中井芳楠の家であった。 
  年上の土宜とは、最も心を許しあい宗教学を論じあい、
 その後も生涯書簡の交流がつづく・・、
  熊楠は、その学識が一部の学者などから高く評価され
 る一方で、有色人種だと、東洋人だということでさげす
 まれるようなこともあった。
  1900年9月1日、ロンドンの南ケンジントンの下宿を出
   発し、テームズ川の港で、日本郵船の阿波丸に乗船、
   帰国の途についた。
    その日の日記には、「4時出帆、夜暫時甲板に出、
   歩す」と書かれている。
1893年10月22日、東京市で近代水道起工式(淀橋浄水場予定
 地)
  淀橋浄水工場建設予定地で、改良水道起工式が盛大に
 挙行された。
  参列者のために、上野駅、及び、新橋駅から特別列車
 が仕立てられた。
  来賓は、3000余名の多数だった。
  しかし、府知事の設計告示の1890年7月から、既に、3
 年以上もの年月が経過していて、この起工式に至るまで
 に、様々な紆余曲折があった。
  1890年9月、設計告示後、市会は、水道建設及び関連す
 る道路建設等の費用総額1000万円の市区改正予算を全員
 一致で可決した。
  事業期間は、1891年度から5年間で、財源はすべて公債
 でまかなうこととした。
  当時の東京市の一般財政の規模は、50万円程度に過ぎ
 なかったので、5ヶ年継続事業とはいえ1000万円にものぼ
 る市区改正予算は巨額なものだった。
  公債発行に当たって、市の公債が、政府の公債と同等
 の価値を保証されるよう政府に働きかけた。
  しかし、思うように運ばず約1年が経過した。
  1891年10月、やむなく、東京市は、政府の許否にかか
 わらず市公債の募集を開始した。
  公債発行の遅延で、当初予定した明治24年度の工事開
 始は見送られた。
  しかし、この間、巨額な工事費を投じてまで水道を建
 設する必要はないとの意見を中心とした工事反対の世論
 が高まって来た。
  このため、公債募集を開始したにもかかわらず、着工
 できない事態となった。
  事態打開をするため、市会は、市区改正経済審査委員
 を選任し、問題点の調査検討を行うこととした。
  同委員は、「水料」収入方針を明確にし、道路事業の
 財源の一部を水道建設に充て・・、
  また、公債の一部募集延期、配水工費の分納・助成等
 を決めるなどして、市民の納得を得るよう務めた。
  1892年4月、市会は、前年・1891年12月に提案された用
 地買収の案件をようやく可決することができた。
  用地買収は、淀橋に限らず本郷、芝、新水路予定地等
 施設建設予定の各所で難航するが、買収完了を待たずに
 1892年9月、淀橋工場仮事務所盛土工事に着手し、
 1892年12月から、本工事が開始された。
  明治26年度に入って、施工体制が軌道に乗り、
 1893年の秋、盛大に起工式を開催することができた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:人類は未定の中に生きている・・
.
138億年前、宇宙の誕生・・か・・?
  ビッグバン理論の全盛であるが、その理論を中心とし
 て成立する宇宙の始まり・・本当にそうなのか・・?、
  しかし、今だに解明が進んでいない最初期の宇宙とい
 う現状にある。
  キリスト教の神が創ったという「宇宙創造論」と一致
 するからと、この理論は喜ばれ、そして、もてはやされ
 ている・・が・・、
  しかし、このビッグバン論理の背景にあるインフレー
 ション理論などの大部分が、未(いま)だ推測の域の話
 の展開で・・推測から成立しているだけの理論という段
 階にある・・、
  「しっかりした科学の裏付けのある話」という訳では
 ない。
  しかし、さもその様にあったと思っている人々が多い
 のが現状・・、
  そして、以前は、「ビッグバンから始まった」・・と
 された・・
  しかし、そのうちに、「ビックバンは、急に起きるも
 のではない」のだ・・と言われる様になった・・
  つまり、ビッグバンの『前段階があるのだ』という事
 が分かって来た・・
  そして、それが、確かなのではとなって来た・・
  そして、ビッグバンの起きる前段階があるとされて来
 て・・その前段階は確かに存在するとされて来ているが・・
  ここで困ったのがキリスト教・・
  キリスト教の神が創った宇宙という『創造論』からキ
 リスト教の話は始まる・・
  だから、科学が、「宇宙はビッグバンから始まった」
 と言い出したら・・これだと、キリスト教はこの話の乗
 っかった・・
  このビッグバンが、「キリスト教の神」が宇宙を創っ
 た時だ・・とした・・しかし・・
  しかし、時を経て、そのキリスト教の神が創る前に・・
 「誰かが、そのビッグバンを起こす前段階の所作(しょ
 さ、ふるまい)をしている」・・となった・・
  その所作=ビッグバンを起こす前段階があるのだと・・
  (その所作をしたのは佛なのだろう・・)
  すると・・キリスト教は臆面もなく・・その前段階の
 初めが「ビッグバンだ」と言い出した・・
  今、その状況にある・・が・・??
  ならば、その前段階の前の状態は何なのか?・・と問
 えば・・、
  その前段階の前の状態は・・「時間さえない時代」な
 ので「遡ることは不可能な時代」と逃げた・・??
  それにしても、キリスト教は無理筋の論理を展開する
 ・・??
  ビッグバンは、Big Bangで、大爆発の意味・・、
  大爆発の「前段階の前」は、Big Bang(ビッグバン)
 ではない。
  ビッグバンという大爆発の大膨張があり、後に、宇宙
 の星々となる星間物質が作られた。
  キリスト教の神が創ったという物は、「この宇宙の大
 膨張(大爆発)のビッグバンの時に作られている」とし
 なければ説明はつかないのだが・・??
  それ故、その「前段階の前」に持って行っては、キリ
 スト教聖書に書いてあることと違って来る・・食い違っ
 てしまう。
  キリスト教の神は、6日間、せっせせっせと物を創った・・
 疲れたので7日目に休んだ・・、
  しかし、これも・・おかしい?? 
  ビッグバンは「6日間もかかっていない」・・一瞬だ・・
 だから、Bang(バン)で爆発・・ここも、キリスト教の
 聖書に書いてある通りではない・・
  キリスト教は、最初、「これだ}と乗っかったのは良
 かったが、そうは問屋が卸さない・・キリスト教の筋通
 りにはいかない・・
  キリスト教聖書の話は「作り話」となっている・・昔
 の人の「ただの想像なのだ」・・
  「無謬(むびゅう、キリスト教の神は、絶対、間違い
 はしない)だ」と、屋上屋を重ねる嘘を言う結果となる。
  キリスト教は、必死にもがいて、物質もできていない
 「前段階の前」をビッグバンだと言い、バンでも何でも
 ない段階をバンだと言った。
  また、キリスト教の神が言うような物は、ビッグバン
 で・・宇宙に物質が出来たからと言ったって、すぐに、
 そのキリスト教の神が言う様な物質が出来たわけではな
 い・・
  キリスト教の神は、「創った」「創った」と言ったっ
 て、そんなにすぐに出来る訳のないことを言っている・・
 「ここも嘘だ」と分かる。
  そして・・
  宇宙の終焉(しゅうえん)について・・
  宇宙進化の最終段階の議論に、様々な科学理論が存在
 して、その期限が『有限だ』と言う説だったり、『無限
 だ』という説・・その両方がある。
  宇宙の起源は、また、終焉は・・未確定だらけだ・・
  その終焉の一つが、開いた宇宙は、わずかに減速しな
 がらも永遠に膨張をし続け、熱的死を迎える・・という
 「開いた宇宙の熱的死」・・という終焉の形・・と・・、
  やがて、星間ガスは尽きて、新たな星形成は起こらな
 くなるという「星形成の停止説」・・、
  超巨大ブラックホールが、宇宙に散在した状態で、互
 いに宇宙膨張で離れていくという「ブラックホール成長
 説」・・、
  そして、ブラックホールの温度が外界よりも高い場合
 には、放射を出して蒸発して行くという「ブラックホー
 ル蒸発説」・・、
  そのブラックホールが総べて蒸発した後に、光子エネ
 ルギーが非常に低く、光子から再び物質粒子が生成する
 事はないという「放射のみの宇宙説」・・、
  大統一理論が正しいとして、陽子が崩壊するという「
 陽子崩壊説」・・、
  ビックバンがあるなら、その逆もあるという「ビッグ
 クランチ説」・・
  正の宇宙定数が、「宇宙膨張を加速」している可能性
 が発見され、それなら、ありとあらゆる物理的構造が、
 いずれ素粒子にまでバラバラになってしまい、かくして、
 宇宙は、永遠に加速しながらお互いから遠ざかる素粒子
 だけになってしまうという「素粒子だけ説」・・など・・
 実態は未定・・
.
46億年前、太陽系が形成され始めた。
  太陽は、過去の超新星爆発で散らばった星間物質がふ
 たたび集まって形成された星と考えられている。
.
45億4000万年前、地球が誕生した。
  太陽系の隕石や月の岩石の生成年代から、この頃、原
 始地球が形成されたと考えられている。
  地球が形成された位置は、後に、生命を育むことがで
 きる液体の水を保持することができるハビタブルゾーン
 に位置していた。
.
44億年前、地球最古の岩石鉱物ができた。
  西オーストラリア州のジャック・ヒルズで発見された
 ジルコン粒子のうち最古の物(44億400万±800万年前)
.
40億年前、原始海洋ができた。
  花崗岩(カナダ北部のアカスタ片麻岩)ができた。
  プレートができた。
  この海洋は、原始大気に含まれていた水蒸気が、火山
 からの過剰な噴出と温度低下によって凝結して、雨とし
 て降り注いで形成されたものであった。
.
40億年前、この頃、原始生命が誕生したと考えられている。
.
38億年前、現在、知られている最古の堆積岩が現れる。
  堆積作用があったことから、この頃には、海が存在し
 ていたと考えられている。
.
38億年前、真正細菌(バクテリア)と古細菌(アーキア)
 が出現した(共通祖先)
  共通祖先に近い原始的な生物は好熱性を示すものが多
 く見られる。
.
35億年前、生物活動の化石証拠
  地球上での最古の化石(西オーストラリア・ピルパラ
 地域からのバクテリアの化石)
  メタン生成の痕跡。
.
32億年前、光合成をする生物が現れる。
  藍藻(シアノバクテリア)。
  ストロマトライトは、藍藻(シアノバクテリア)の活
 動で形成された岩石。
  32億年前までには、光合成をする生物が現れ、海中に
 酸素を供給しはじめた。
  二酸化炭素光合成を行う生物が誕生すると、それらは
 二酸化炭素を酸素に変換するようになる。
  さらに、二酸化炭素が生物の体内に有機物として蓄積
 されるようになり(炭素固定)、長い時間をかけて過剰
 な炭素は化石燃料、生物の殻からできる石灰岩などの堆
 積岩といった形で固定される。
.
27億年前、シアノバクテリアが大量発生。
  酸素の供給量が増加。
.
25億年前、縞状鉄鉱層が形成される。
  シアノバクテリアの活動で海中の酸素量が増加し、海
 中の2価の鉄イオンが3価鉄に酸化して沈殿したため形成
 された。
  縞状鉄鉱層の形成が、およそ19億年前まで続き、これ
 以後は形成されなくなる。
.
24億年前、現在分かっている最古の氷期(ヒューロニアン
 氷期、~22億年前)
.
22億2000年前、マクガニン氷河時代(全球凍結)
.
21億年前、ミトコンドリア、葉緑体等に相当する生物と共
 生した真核生物の出現。
.
20億年前、大気中の酸素の増加。
  酸素は初期の生物の大量絶滅と酸素を効果的に利用し
 た生物のさらなる進化を導いた。
  海中の鉄イオン濃度が低下し、海中の鉄イオンが酸化
 し尽くされると縞状鉄鉱層の形成も停止し、余剰となっ
 た海中の酸素が大気中にも多く供給されるようになった。
  大気中の酸素は紫外線と反応しオゾンをつくった。
  オゾン層は、地表に到達するDNAを破壊する有害な紫外
 線が減少させ、生物が陸上にあがる環境が整えられた。
.
20億年前、最初の超大陸(ヌーナ大陸)出現か?(~19億年
 前)
  大陸移動説によれば、大陸は、数億年程度の周期で離
 散集合を繰り返していると考えられ、この頃、ヌーナ大
 陸と名づけられた超大陸が出現したと考えられている。
.
20億年前、酸素濃度が、現代の1/100以上のレベルとなり
 大きくは増加しなかった(~10億年前)
.
10億年前、ロディニア大陸誕生(~7億年前)
.
10億年前、この頃、多細胞生物が出現したと考えられてい
 る(~6億年前)
  多細胞生物は原口 (生物学)の獲得により強力な捕食能
 を有するに至った。
.
8億5000万年前、この頃の1年は約435日。
.
8億年前、大規模な氷河時代であったとされる(~6億年前)
.
7億年前、スターチアン氷河時代(全球凍結)
.
6億5000年前、マリノアン氷河時代(全球凍結)
.
6億年前、酸素濃度が現代の水準に近づく。
.
6億年前、エディアカラ生物群(~5億5000万年前)
  大型の軟体性の生物群であるエディアカラ生物群は、
 地球全体が氷に覆われていた時期(スノーボールアース)
 の直後に出現し、その大部分がカンブリア紀の始まる前
 に絶滅した。
.
6億年前、ゴンドワナ大陸がロディニア大陸から分裂。
.
5億4200万年前、生命の多様化、カンブリア爆発(~5億3000
 万年前)
  カンブリア爆発と呼ばれる生物の多様化が起こる。
  突如として脊椎動物をはじめとする今日見られる動物
 界のほとんどの門 (分類学) が出そろった現象。
  この頃から多くの化石が発見されるようになる。
.
5億3000万年前、 バージェス動物群
  三葉虫などの生物が現れる。
.
5億年前、二酸化炭素の濃度は現代の20倍程度(~4億年前)
.
4億6000万年前、一時的な氷河期(アンデス-サハラ氷期)
 (~4億3000万年前)
.
4億3000万年前、生物の大量絶滅(オルドビス紀末)
  6000光年以内で起こった超新星爆発によるガンマ線バ
 ースト仮説。
.
4億2000万年前、植物の上陸
.
4億年前、節足動物の上陸。
.
4億年前、アンモナイトが現れる。
.
3億6000万年前、生物の大量絶滅(デボン紀後期)
  寒冷化と海洋無酸素事変(海水中の酸素欠乏状態)の
 発生。
.
3億6000万年前、温暖期
  氷河の消滅。
  この頃、大森林が各地に形成され、石炭の元になった
 とされる(石炭紀)
  石炭の原料が地表に積もる。
  光合成により二酸化炭素が減少し、温室効果が減少し、
 寒冷化に向かい酸素濃度が増える。
.
3億6000万年前、脊椎動物(両生類)の上陸
.
3億5000万年前、大規模な氷河時代だったとされる(カルー
 氷期、~2億5000万年前)
.
3億年前、二酸化炭素濃度が現代の程度まで低下する。
  この前後寒冷化する。
  酸素濃度が最高の35%となる。
  これ以降、リグニンを含む樹木を分解できる菌類(白
 色腐朽菌)が登場し酸素濃度が徐々に減少に向い、二酸
 化炭素濃度は増加に向かう。
.
3億年前、昆虫が拡大。
.
3億年前、爬虫類の出現
.
2億5000万年前頃、ローレンシア大陸、バルティカ大陸、シ
 ベリア大陸などすべての大陸が次々と衝突したことによ
 ってパンゲア大陸が誕生した。
.
2億5000万年前、生物の大量絶滅(ペルム紀)
  地球史の中で何度か生じた生物の大量絶滅の中で最大。
  海生生物のうちの95%~96%、全ての生物種で見ても
 90%~95%が絶滅したとされる。
  メタンハイドレートが、大量に気化し、酸素濃度が著
 しく低下した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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# by suba28 | 2018-04-05 17:34 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)585E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年7月~1893年9月)

題:(増補版)585E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年7月~1893年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年7月、奥羽本線の青森駅~碇ヶ関駅間が着工された。
1893年7月、関西鉄道が、四日市駅~富田駅間の建設費の都
 合で四日市駅~桑名駅間に変更認可を受けて着工した。
  1893年6月15日、関西鉄道(現:関西本線)が、桑名駅
   ~名古屋駅間の免許を取得する。
  1894年7月5日、四日市駅~桑名仮停車場間(11.87km)
   が延伸開業し、富田駅と桑名仮停車場が開業した。
1893年8月1日、鉄道庁第三部出納事務所を長野に設置した。
1893年8月5日、日本鉄道が、水戸駅~岩沼駅間鉄道と川口
 から水戸に連絡する60マイルの鉄道建設を出願した。
  翌・1894年2月15日に仮免状が下付)された。
1893年8月5日、日本鉄道会社が、上野駅~秋葉原駅間の貨
 物線高架改築、および、新橋に至る高架線架設について
 出願した。
  のち、出願猶予を申請し再申請はなされずに終わった。
  (参考)日本鉄道会社:日本最初の民間鉄道会社で・・、
     1881年に創設され、東北地方の中心的鉄道とな
     った。
      1906年、国有化した。
1893年8月6日、八王子中心街で大火
  遊廓「新万楼」から出火し、八王子町の八日町・本町
 の702戸を焼く大火が発生した。
  大火後、甲州街道沿い横山町等に散在していた遊廓を
 元横山町妙薬寺裏の田地に移した。
  現在でも、遊郭が立ち並んでいた通りは、片側1車線、
 幅員18.43メートルの幅広い道路として、かつての名残
 を見せている。
1893年8月11日、鉄道庁が、官制を改正した。
  線路調査のための増員。
1893年8月12日、文部省が、祝日大祭日唱歌を公布した。
  学校の祝日大祭日の儀式に用いる唱歌8編を定めた。
  そして、文部省告示で、「君が代」を儀式用唱歌に指
 定した。
  「小学校祝祭日大祭儀式規定」の公布により、小学校
 の祝日・大祭日の唱歌として8曲が定められた。
  公示されたのは「君が代」「勅語奉答」「一月一日」
 「元始祭」「紀元節」「神嘗祭」「天長節」「新嘗祭」
  (参考)勅語奉答:作詞・勝安芳(勝海舟)
           作曲・小山作之助
   あやに畏(かしこ)き天皇(すめらぎ)の
   あやに尊(とうと)き天皇の.
   あやに尊く畏くも 下し賜へり大勅語(おおみこと)
   是(これ)ぞめでたき日の本(ひのもと)の
   國の教(おし)えの基(もとい)なる
   是ぞめでたき日の本の 人の教えの鑑(かがみ)なる
   あやに畏き天皇の 勅語(みこと)のままに勤(いそ
  し)みて
   あやに尊き天皇の 大御心(おおみごころ)に答へ
  まつらん
    https://www.youtube.com/watch?v=l6fVquDNhOY
  (参考)文部省は、1891年に、小学校に祝祭日のお祝
     いの儀式を執り行うよう通達し、その儀式のと
     きに歌う歌を、1893年8月に選定し、『祝日大祭
     日唱歌』を公布した。
      この儀式唱歌の中に、知られている歌「年の
     はじめの ためしとて」で始まる『一月一日』
     がある。
      また、『紀元節』『天長節』が含まれ・・、
      昭和の時代に入ると、明治天皇陛下の遺徳を
     たたえる明治節(11月3日)が新設された。
      明治以来の四方節(1月1日)、紀元節、天長
     節(昭和天皇陛下の誕生日、4月29日)と共に四
     大節(しだいせつ)としてお祝いされた。
      四大節の祝日には、家の門柱には国旗が掲げ
     られ、小学生はよそ行きの洋服を着て登校し、
      儀式では、御影(天皇・皇后両陛下の御写真)
     開扉、君が代斉唱(2回)、御真影(ごしんえい、
     天皇陛下・皇后陛下の御写真)に敬礼して教育
     勅語の奉読をし・・、
      校長の訓話を聞いて、祝日の唱歌を歌った。
      そして、御影閉扉で式が終わった。
      式が終わると、生徒は、担任の先生から紅白
     のお菓子をもらって下校した。
1893年8月12日、第1期長崎港湾改良工事が落成した。
  起工は1882年で、膨大な支出のため工事は中止という
 形での落成となった。
  工事費は31万1261円で、維持管理が不充分であった長
 崎港は、港内の海底が河川より流入した土砂で浅くなり、
 船舶に出入りに支障をきたしていた。
  大規模な浚渫・砂防・中島川変流工事をした。
  中島川は、江戸町と出島の間に迂回させ、西浜町と築
 町、築町と出島が陸続きになった。
  長崎港沿岸を浚渫した土砂で大波止から大黒町にかけ
 ての沿岸を埋立て・・、
  中島川筋3642坪、江戸町岸傍715坪、出島新橋傍1050坪、
 大波止沿岸643坪、突堤傍1906坪の計7956坪・・、
  また、海岸線では、市街地より北部への連絡道路とし
 て時津街道が埋立されて整備された。
  また、この時、長崎街道の日見峠切通と茂木街道の拡
 幅が行なわれた。
  この近代化政策で、市街地外とをつなぐ連絡道路が整
 備された。
1893年8月30日、紀和鉄道が、五条駅から橋本駅を経て和歌
 山駅に至る鉄道建設の免許を申請した。
  1894年7月3日、仮免状が下付され
  1896年4月30日、免許状が下付された。
1893年8月、全国に赤痢が大流行した。
  赤痢で41,284人が死亡した。
  春、赤痢が神奈川県下に流行する。
  四国災害アーカイブスに、この年、6月25日~8月4日ま
 で降雨なく、旱害・・とある。
  1893年~1894年に、西日本で猛威を振るった赤痢の記
 述もある。
  この頃、流行を抑えるため、警察衛生と自治衛生制度
 が導入された。
  警察衛生は、伝染病の蔓延を防ぐために、患者を避病
 院に隔離し、その地域の交通を遮断し、汚染地域の人や
 生鮮食品等の移動を禁止し、劇場などを閉鎖し、集会を
 禁止した。
  その結果、交通の遮断もあり、物価が高騰、ならびに、
 魚介類などの販売禁止で生活難となった。
  工場が閉鎖などになる場合もあった。
  封鎖は、患者住居の一角を警察によって封鎖し、通行
 が制限され、道路の真ん中に塀を立てて、患者の発生し
 た地区を封鎖し、出入口で警察官が立ち番をした。
  地域の衛生委員が中心となって、その家の周囲が石炭
 酸などで、徹底的に消毒された。
  患者は、町ごとに作られた避病院に隔離し・・、
  十分な治療法が確立していない当時の避病院の悲惨さ
 は、この流行から13年後に書かれたベルツの日記にも登
 場する・・、
  「400人の患者に、無経験の医者を含めて8人しかいな
 い、(やむなく)患者の扱いは馬以下の様だった」
  医療の確立されていない当時・・伝染性の強い病気の
 流行は、悲惨という状況で・・このべルツの見た避病院
 は、現在も継続して、存在していて、その病院正面入り
 口の道を挟んだ向かいには葬儀屋が店を構えていた。
1893年8月、関西鉄道が、桑名駅~名古屋駅間を着工した。
  同区間に架設した揖斐川橋梁には、わが国ではじめて
 橋脚の沈井に鉄製楕円筒を使用した。
  (参考)沈井:ちんせん、オープンケーソン、
     防波堤などの水中構造物として使用され、ある
     いは、地下構造物を構築する際に用いられるコ
     ンクリート製、又は、鋼製の大型の箱のこと。
      軟弱地盤や地下水の多い地盤を施工すると、
     水や泥が作業箇所に流入し掘削作業が非常に困
     難になる。
1893年8月、阪鶴鉄道が、大阪駅~舞鶴駅間の鉄道建設を
 出願した。
  12月に、計画路線を延長して福知山駅~和田山駅~八
 鹿駅間を追加出願した。
1893年9月4日、ビアトリクス・ポターが、ピーターラビッ
 ト(子ども向けの絵本)の話を書き送った。
  内容:イタズラ好きのピーターラビットが、マグレガ
 ーさんの庭でいたずらをし、見つかって追われるが、結
 局、脱出することができたという・・内容・・、
  4500万部も売れたオールタイム・ベストセラー作品。
1893年9月7日 房総鉄道の蘇我駅~大網駅間の建設の免許状
 が下付された。
1893年9月8日、加能鉄道が、津幡駅~七尾駅間の鉄道建設
 の願書を、石川県知事に提出した。
  1896年4月30日、免許状が下付された。
1893年9月10日、官営富岡製糸場が、三井高保に払い下げら
 れた。
  この群馬県の富岡製糸場は、2014年に、世界遺産に認
 定され・・、続いて・・、
  2014年の年末に、3棟の建物が国宝に指定された。
  明治政府は、殖産興業で、生糸輸出での貿易や、産業
 振興のために、官営で工場をスタートした。
  この製糸場も、明治時代の後半、一時期、三井傘下に
 あって大きな発展をした。
  この富岡製糸場を払い下げられた三井は、官営の時代
 には、生産効率が上がらなくて赤字経営を続けていた状
 態を・・、
  工女の人々の救済や、失業救済もあって、旧士族を優
 先していた募集形態も改善し、新技術を磨くことを、当
 然のこととして優先した。
  そして、給料も出来高制にし、新しい機械も導入する
 などして赤字経営から脱却した。
  操業は、1987年(昭和62年)に停止し、115年の歴史を
 刻んだ。
.
  (今日の言葉)
.
  題:一番長い歴史を持つ人類・・日本人の祖先である縄文人が、
   現世人類の中で、最も古い時代に分岐した集団であると分かった。
    そして、グローバルだと財布を一緒に出来るのか??
.
紀元前3万年~紀元前2万年、日本人の祖先である縄文人が、
 アフリカから東アジアや東南アジアに移動してきた現世
 人類の中で、最も古い2万年~3万年前に分岐した集団と
 見られることが分かった。
.
紀元前1500年頃、多数のイラン人が、イラン高原に移住し
 て来た。
  このイラン人は、インド人やヨーロッパの白人と同じ
 アーリア系の民族。
.
紀元前1200年、ヘブライ人(セム系ユダヤ人、キリスト教を
 作る)は、ラクダを家畜化して、この効率化によって勢力
 を大きく伸ばした。
  それまで、ヘブライ人が、運搬用として飼っていた家
 畜はロバだった。
  ロバは、1日以上、水を飲まないと病気になった。
  ラクダは、乾燥と高温に強く、砂漠で何日か水を飲ま
 なくても元気に移動ができた。
  このラクダを手に入れたヘブライ人は、乾燥地で遠距
 離の貿易ができるようになった。
  ラクダの隊商で富を得たヘブライ人は、カナン(パレ
 スチナ)の各地に都市を営んだ。
  そして、ヘブライ王国が作られていく。
.
紀元前1020年、ヘブライ王国の「サウル」が、最初の国王
 となった・・そして・・、
  紀元前1004年~紀元前965年の治世の『ダビデ』が王と
 なり、ペリシテ人を破ってエルサレムを王都とした・・
 次いで・・
  紀元前965年~紀元前932年の治世の『ソロモン』が王
 となった。
  ソロモンは、官僚組織を整(とと)えて、ヘブライ王
 国を全盛に導いた。
  また、ソロモンは、カナン(パレスチナ)の各地の商
 業都市を地方行政の中心とした。
  そして、ヘブライ人の貿易商を統制して、ヘブライ王
 国を商業国家にして全盛にした。
  ヘブライ商人は、この時代、アラビア半島、エジプト、
 メソポタミア、エチオピアなどの広い地域で活躍した。
  ソロモン王とアラビア南部のシバ王国の女王との交流
 の話は有名。
  ソロモンは、国を栄えさせたが、非人道的行為も行な
 い国民の恨(うら)みを買っていた。
  紀元前932年に、ソロモン王が死ぬと、ヘブライ人は、
 二派に分裂し、国も二つに分裂した。
  ヘブライ人の10部族が、ソロモン王に反旗を翻し、『
 ヤロプアム』を王に立てて、サマリアを都とする『イス
 ラエル王国』を作った。
  残りの2部族「ユダ族」と「ベニヤミン族」が、ソロモ
 ンの子の『レハブアム』に付いてエルサレムの地に『ユ
 ダ王国』を立てた(血筋からは、こちらが直系)
.
紀元前1000年、今から3000年前の縄文人は・・?
  この時代の縄文人の全遺伝情報(ゲノム)の解析に、
 総合研究大学院が成功し・・、
  日本人のDNAは、縄文人から12%を受け継いでいる
 ことが分かった。
  また、アイヌ人が縄文人に最も近く、次に琉球人が、
 そして、本土のヤマト人。
  また、縄文人は、アフリカから東アジアや東南アジア
 に移動してきた現世人類の中で、最も古い2万年~3万年
 前に分岐した集団と見られることも分かった。
  縄文人が、日本列島で独自の進化と遂げたと言える。
   (読売新聞、2016年9月2日より)
.
紀元前800年頃、メソポタミア、イラン高原、中央アジアな
 どの乾燥地帯に「カナート」という灌漑施設が、急速に
 広まった。
  このことにより、多くのオアシスが開発された。
  カナートは地下水路で、オアシスからその地下水路で、
 乾燥地の畑に水が供給された。
  食糧の増産・確保ができ、イラン高原、アラビア半島
 などで人口が増加した。
  そして、イラン高原は、有力な交易路となって栄えた。
  また、このオアシス都市群を支配する強国が現れた。
.
紀元前9世紀、預言者と呼ばれるユダヤ教のラビが現れた。
  (参考)ラビ:ユダヤ教の指導者で、律法に精通した
     宗教的指導者の敬称。
      ラビは、ヘブライ語から来た言葉で、もとも
     とは「わが師」「わが主人」という意味。
  ヘブライ王国は、南北に分裂した後、政治は乱れ、信
 仰も乱れ、最高神のヤハウェも軽視された。
  勝手な生き方をする有力者も現れた。
  紀元前9世紀以降、預言者と呼ばれるラビが現れた。
.
紀元前722年、ヘブライ人のイスラエル王国が、アッシリア
 に滅ぼされた。
.
紀元前8世紀、イラン人が、古くからイラン高原に居たエラ
 ム人を追い出し、オアシスに頼る生活をしていた都市群
 を制圧した。
  そして、このイラン人は、紀元前8世紀から盛んにカナ
 ート(地下灌漑水路)を開発し、オアシスの水を広く活
 用して勢力を拡大した。
.
紀元前625年、イラン人のメディア王国が建国された。
  メディアは、やがて、イランと小アジア(トルコ)を
 支配する大国となり、インドとメソポタミアとの間の貿
 易で大きな利益を上げた。
.
紀元前586年、メディア王国が、メソポタミアに本拠がある
 新バビロニアへの圧力を高めた。
.
紀元前586年、ヘブライ人のユダ王国が滅亡した。
  新バビロニアのネブカドネザル2世の侵攻にあって、ユ
 ダ王国が滅亡した。
  この新バビロニアは、エルサレム神殿を破壊した。
  ユダ王国の人々は、新バビロニアの首都であるバビロ
 ンへ連れて行かれた(バビロン捕囚・ほしゅう)
  苦難の状況を強いられ、元ユダ王国の人々は、それま
 でのヤハウェ信仰をユダヤ教へと変えて行った。
.
紀元前537年、この年の初め頃、イラン高原に本拠を置く
 アケメネス朝ペルシャ王キュロス2世は、新バビロニア
 を滅ぼした時、ヘブライ人のエルサレム帰還を許した。
  そして、捕らわれていたヘブライ人へ、エルサレムに
 帰還して神殿を再建することを許す布告を出した。
  総督ゼルバベルと大祭司エシュアに導かれた「流刑囚」
 と「奴隷」や「歌うたい」たちがエルサレムへ戻った。
.
紀元前520年、エルサレム神殿の再建が始まった。
  紀元前515年に、神殿は完成した。
.
紀元前6世紀頃、ゾロアスター教が、イラン高原で活躍して
 いたゾロアスターによって作られた。
  ゾロアスター教は、善なる神と悪なる神との対立する
 世界観で作られている。
  このゾロアスター教の影響を受けたユダヤ教は、「終
 末の時に人間は報いを受ける」という教義を持ち、この
 教義を引き継いだキリスト教も、同じ終末論の教義とな
 った。
  ユダヤ教は、常に、オリエントやギリシャの影響を受
 けていた。
  そして、キリスト教は、その影響された教義によって
 構成された。
.
紀元前5世紀頃、この頃、ユダヤ教が成立した。
  ユダヤ教は、ユダヤ教の少し前にペルシャで成立した
 ゾロアスター教の影響を受け、「最後の審判」の終末論
 は、このゾロアスター教のもの。
.
紀元前333年、この時まで、ユダヤ人は、アケメネス朝ペル
 シャの支配を受けた。
  紀元前538年から205年間続いた。
.
紀元前63年、この時まで、ユダヤ人は、ギリシャ系のアレ
 キサンダーの帝国やセレウコス朝などの統治を受けた。
  そして、この年に、カナン(パレスチナ)の地は、ロ
 ーマ帝国の軍門に下り、ローマ領となった。
  民は、ローマ帝国の重税に苦しむこととなる・・そし
 て・・
  紀元6年、ローマの直轄領とされ、ローマ総督の支配下
   に置かれた・・そして・・、
  紀元63年、カナン野地の民は、苛酷なローマの支配に
   耐えかねて、大反抗の挙兵をした。
   エルサレムの城で1年半、戦ったが・・、
  紀元70年、敗北した。
   エルサレム神殿は破壊された・・そして・・、
  紀元73年、最後の戦いも終わり、カナン(パレスチナ)
   から追われた。
  ローマ帝国は、カナンの地名を「パレスチナ」に変え
 た。
  この「パレスチナ」の名の意味は、ヘブライ人より以
 前にカナンに居た民族「ペリシテ人」の地という意味だ
 った。
  つまり、ユダヤ人の地ではなく、パレスチナ人の地と
 いう意味だった。
  流浪のユダヤ人が発生した。
  この流浪の民には、大きく二つの流れがある・・、
  その一つが「アシュケナジ」という東欧系の人々で、
 イディシュ語(ドイツ語系)。
  もう一つが「スファルディ」の人々・・スペイン系ラ
 ディノ語。
  アシュケナジ系の人々は、紀元1世紀に、ローマ帝国支
 配下のガリア(現:フランス)に集まり住んだ。
  そして、ここから「ドイツ」「ポーランド」などへ広
 がった。
  スファルディの人々は、パレスチナに近い「小アジア
 (トルコ)」に定住し、後に、イスラム帝国が支配する
 「スペイン」などとアラブ圏に広がった。
.
紀元30年頃、イエスが刑死したとされている。
  イスラエルという国は、日本の九州くらいの大きさで、
 今・現代、この地を、パレスチナの方々と土地に対する
 争いが続いている。
  しかし、この地は、まだまだ多くの民族の方々が居る・・
 その様な地・・、
  イエスは、実在していたかが不明な人なのだが、イエ
 スが居たと言われる約2000年前にも、この地には、多く
 の民族の方々が居た。
  そして、この地・カナン(聖書で「乳と蜜の流れる地」
 と言われる狭い、そして、わずかな緑の地)を、多くの
 民族が取り合っていた。
  イエスは、父と共に大工をしていた。
  そして、多分、その父が亡くなったために・・、
  イエスは、父としていたその大工の仕事を止め、幼な
 じみ(馴染)の漁師をしていた仲間たちの数人と、エル
 サレムに出た。
  エルサレムへ行く前、イエスは、従姉妹(いとこ)の
 「洗礼者ヨハネ」の洗礼を受けた。
  そして、ほんのわずかな期間、この従姉妹の行なって
 いること学び、実行した(荒野での断食行)
  そして、洗礼者ヨハネから学んだ事と同じことを言い
 ながら、幼なじみたちと予言者をしようとエルサレムに
 出た。
  イエスの郷里の人が、「予言者稼業とは、うまいこと
 をやっているな」と、イエスに言ったように・・、
  「エルサレムでの予言者稼業は、一番儲かる良い仕事」
 だった。
  それ故に、同じ様なことをする人たちでエルサレムは
 満ちていた。
  エルサレムの町は予言者だらけだった。
  予言者には、公的な立場を持つ立派な身分を持つ人も
 居たが、イエスの様なにわか予言者は、「私的予言者」
 だった・・公的予言者にはなれなかった。
  イエスとその仲間たちは、にわか予言者グループを作
 って、エルサレムのあちこちで仕事を始めた。
  そして、結局、エルサレムの公的機関は、このにわか
 予言者たちを総べて処刑する。
  イエスの活動も・・1年~2年で終わった。
  当時の平均年齢を越えた・・晩年の30歳位の時から始
 めたことだった。
  (この当時の平均年齢は・・26歳~27歳くらいと言わ
 れている)
  イエスは、紀元前6年、または、紀元前4年頃に生まれ、
 紀元30年頃に刑死したとされている。
.
1130年10月18日、朱子(しゅし、1130年~1200年4月23日)
 が中国・福建省に生まれた。
  本名は朱熹(しゅき)で、朱子と尊称された。
  南宋の儒学者で、宋以降の中国、日本の思想界に圧倒
 的な影響を及ぼした。
  地方官としての治績にもみるべきものがあるが、本領
 は、あくまでも壮大な理気の説を基にしたその思想だっ
 た。
  朱子は、程顥、程頤、張載などの北宋道学を集大成し、
 宇宙論、人性論、道徳論のすべての領域をおおう理気の
 思想を完成させた。
  膨大な著作がある。
  『四書集註』 (19巻) 、『周易本義』 (10巻) 、『詩
 集伝』 (20巻) 、『朱子文集』 (100巻、続集 11巻、別
 集 10巻) 『朱子語類』 (140巻) など。
 (参考)朱子学:朱子が大成した儒学。
   格物致知を眼目とする実践道徳を唱えた。
   中国、南宋の朱子、あるいは朱子に代表される人々
  の学説。
   周敦頤 (しゅうとんい) 、程顥 (ていこう) 、程頤
   (ていい) 、張載 (ちょうさい) などの思想を、仏教
  や道教に触発されながら体系化したもので、宋以後の
  中国、朝鮮、日本の中核的思想となった。
   その思想は、万物の構成原質である「気」と、万物
  の理想的なあり方を示す「理」とを中心とする。
   天地、人性、道徳のすべての事象がこの理と気によ
  って説明される。
   それはまた、当時の士大夫の存在意義、その目指す
  方向を、宇宙論的規模での理論づけに成功したもので、
  それ故、この思想は、以後の士大夫社会に、常に、安
  定した力をもち続けた。
   朱子学は、中国では元(げん)以後、日本では江戸
  時代に官学となった。
   日本への流入は、俊仍 (しゅんじょう) に始るが、
  学派としての権威を確立したのは、江戸時代初期の藤
  原惺窩、林羅山からである。
   江戸時代の朱子学者としては、山崎闇斎、新井白石
  などが注目される。
   朱子学の合理的性格は、実証的精神、合理的思考を
  はぐくみ、幕末維新の西欧文化受容の下地を準備する
  ことになった。
 (参考)格物致知(かくぶつちち):物事の本質まで突
  き詰め(=格)て行って、知識を深める(=致)こと。
 (参考)致知(ちち):格致(かくち)とも略され・・、
  (1)朱子学で、知識をきわめて物事の道理に通じる
    こと。
  (2)陽明学で、本然の良知を明らかにして完全なも
    のとすること。
     良知を最大限に発動すること。→格物致知(かく
    ぶつちち)
   『礼記』大学篇(『大学』)の一節「致知在格物、
  物格而知至」に由来し、儒学史上、さまざまな解釈が
  なされた。
   宋代以降の儒教(宋学)において『易経』説卦伝に
  由来する「窮理」(理を窮(きわ)め性(せい)を尽
  くし以て命(めい)に至る)と結びつけられ、事物の
  道理を追究することとして重要視された。
.
1878年、イギリスは、日本でも「アヘン(麻薬)」を売っ
 て利益を得ようとした。
  あれほど中国で人非人行為をしていたイギリス・・、
  中国で味を占めたイギリスは、日本でもそれをしよう
 とした。
  1878年、アヘンを密輸して来た。
  日本は、それを摘発した。
  イギリスは言った「アヘンは薬です」・・と・・、
  そして、イギリス商人を、治外法権を使って『無罪』
 とした。
  日本国民は怒った・・明治11年のことだった・・、
.
1942年9月9日、日本のアメリカ本土空襲
  「ルックアウト空襲」と言われた・・、
  この日、日本が、アメリカ本土を空襲した。
  日本の潜水艦に乗った日本軍機による空襲だった。
  1942年8月15日、帝国海軍の伊号第二五潜水艦(伊25)
 は横須賀を出港した。
  アリューシャン列島を通り・・、
  1942年9月7日、オレゴン州沖に到着した。
  零式小型水上偵察機は、天候の回復を待つため、沖合
 いで2日間、待機した・・そして・・、
  1942年9月9日、深夜、空襲の決行に移った。
  田上艦長ら搭乗員が見守る中を、藤田信雄飛曹長と奥
 田兵曹が操縦する零式小型水上偵察機は、76キロ焼夷弾
 2個を積んで太平洋上の「伊25」を飛び立った。
  目標地点である太平洋沿岸のブランコ岬に到達してか
 ら内陸へ進み、
  カリフォルニア州との州境近くのブルッキングス近郊
 の森林部に2個の焼夷弾を投下した。
  森林部は延焼した。
  アメリカ軍の地上からの砲撃も、戦闘機の迎撃もなく
 任務は遂行された。
  「伊25」へ帰還・・藤田機は空襲を終えて「伊25」へ
 の帰還すべく飛行中・・オレゴン州森林警備隊の隊員で
 あるハワード・ガードナーによって発見されている。
  そして、アメリカ陸軍に通報され、アメリカ陸軍航空
 隊のロッキードP-38戦闘機が迎撃に向かっている。
  しかし、防空体制の不備により発見はなされなかった。
  また、この突然の空襲で、アメリカ陸軍や警察が沿岸
 地域を徹底的に捜索した。
  藤田機の帰還後、「伊25」は、沿岸警備行動中の陸軍
 航空隊のロッキードA-29ハドソン哨戒爆撃機に発見され
 攻撃を受けた・・損害なし。
  2回目の空襲が・・、
  1942年9月29日、真夜中に決行された。
  藤田機は、同様に、76キロ爆弾2個を、再び、オレゴン
 州オーフォード近郊の森林部に投下し森林部を延焼させ、
 「伊25」へ帰還した。
  この2回目の空襲も、地上からの砲撃も戦闘機の迎撃
 もなかった・・任務遂行ができ、「伊25」に帰還した。
  「伊25」に、予備の爆弾があったが、アメリカ太平洋
 沿岸部の警備が厳しくなった。
  以後の空襲決行の取りやめを決定した。
  「伊25」は、横須賀の母港へ帰還途中に・・
  1942年10月4日、及び、10月6日、アメリカタンカー(
 SSカムデンとSSラリー・ドヘニー)を1隻ずつ撃沈した。
  そして、太平洋を横断して母港の横須賀へと帰還する
 が・・、
  1942年10月11日の帰還中、ウラジオストクからパナマ
 運河経由でムルマンスクへ回航中のソ連海軍の潜水艦(
 L-16)を、「アメリカ海軍の潜水艦」として撃沈した。
  (日ソ間に日ソ中立条約が締結されており、戦争状態
 にはなかった)
  アメリカ側の被害と反応については・・、サンフラン
 シスコ市内に張り出されたシェルターへの避難案内と、
 日系アメリカ人に対する強制退去命令があった。
  この日本の空襲目的は、最初から人的被害を出すこと
 を目的とした空襲でなかった(アメリカ軍人や民間人に
 死者は発生しなかった)
  また、爆撃前日の雨により、空襲による森林の延焼は、
 本格的な消火活動が行われることなく、自然消火した。
  空襲による直接的被害は少ない。
  しかし、アメリカ史上初の敵軍機による本土空襲に驚
 いたアメリカ政府は・・、
  太平洋戦線における日本軍に対する相次ぐアメリカ軍
 の敗北に意気消沈する国民に対する精神的ダメージを与
 えないため・・「軍民に厳重な緘口令を敷き」この空襲
 を極秘扱いとした。
  しかし、まもなくマスコミに知れ渡り、当時、太平洋
 戦線で負け続きであったアメリカ国民を大いに怯(おび)
 えさせた。
  この空襲以降、アメリカ西海岸地域を問わず、アメリ
 カの全ての沿岸部における哨戒活動、及び、防空が、厳
 重なものとなった。
  また、サンフランシスコなどの西海岸地域の大都市に、
 日本軍機による空襲に備えたシェルターや防空壕が、急
 遽、設置された。
  そして、この空襲作戦の過程において、日本人移民や、
 日系アメリカ人の関与や協力などが一切ない事は明らか
 であるにもかかわらず、有色人種蔑視観の強い、人種差
 別的指向を持っていたフランクリン・ルーズベルト大統
 領の命令によって・・、
  1942年2月から、ハワイを除くアメリカ全土で行われて
 いた日系人の強制収容を正当化する「口実とされた」。
  後日談・・
  1962年の終戦後・・、
  藤田飛曹長は、オレゴン州ブルッキングス市から招待
 を受けた。
  そして、市民から「歴史上唯一アメリカ本土を空襲し
 た敵軍の英雄」として大歓迎を受け、同市の名誉市民の
 称号を贈られた。
  また、その時、同市市民から藤田飛曹長が投下した焼
 夷弾の破片を贈られた。
  その破片から、かすかに火薬の臭いがしたという。
  また、藤田飛曹長は、戦争中、軍刀として用いた愛刀
 をブルッキングス市に寄贈した。
  この招待があった時、藤田飛曹長は、外務省から伝え
 られたが、その招待の趣旨が知らされていなかったため、
 現地に到着するまで「戦犯として収監されるのかもしれ
 ない」と思っていた。
  寄贈した軍刀は、戦後、密かに所持していたもので、
 収監されそうになった時、自決するため、荷物に忍ばせ
 て持参したものだった。
  その後、藤田飛曹長は、同市に植林を行ったり、同市
 市民を、日本に招待するなど日米友好に残りの半生を費
 やした。
  この様な友好の貢献に対して・・後に、ロナルド・レ
 ーガン大統領は、ホワイトハウスに掲揚されていた星条
 旗を藤田氏へ贈った。
  この星条旗と爆弾片は、茨城県土浦市の「まちかど蔵
 野村」に保存され、公開されている。
  1995年12月29日、このエピソードが、この日の放送の
 『たけし・さんまの世界超偉人伝説』(日本テレビ)で
 取り上げられ、藤田飛曹長本人も出演した。
  このエピソードは、日本では余り知られる事がなかっ
 たため、ゲストで出演していた元海軍軍人の西村晃も、
 「この話は全く知らなかった」と発言している。
  (参考資料)「NEWSポストセブン 2011.12.08 07:00」
  より・・
  米本土爆撃した日本人へ爆撃地から『敬意表したい』
 と招待状・・、
  12月8日は、日本軍がハワイ・真珠湾を攻撃し、太平洋
 戦争が開始してから70年目の日である。
  そして 1942年6月、日本はミッドウェー海戦で敗退。
  戦局は大きく米国側に傾きつつあった。
  そこで、起死回生の一撃を見舞うという意図のもとに
 計画されたのが米本土爆撃計画だった。
  同年7月、伊号25潜水艦の藤田信雄飛曹長が海軍省に呼
 ばれ、作戦を指示された。
  同年9月9日、米西海岸沖600カイリの地点からパイロッ
 トの藤田を乗せた零式小型水偵が、オレゴンに向けて飛
 び立った。
  520個の小型焼夷弾が詰められた76キロ爆弾2個を投下、
 オレゴンの森を火に包んだ。
  歴史上初めて、米国本土が航空機によって爆撃された
 瞬間だった。
  戦後の1962年5月、藤田の元に招待状が届く。
  米国は、オレゴン州ブルッキングス市からのものだっ
 た。
  「貴方の勇気と愛国心に敬意を表したい」と書かれて
 いた。
  爆撃したその地の人々から、なぜ招待されるのか。
  日本で評価されなかった自分が、どうして敵国から敬
 意を表されるのか。
  藤田は、「万が一」の時に備え、伝家の日本刀を荷物
 に忍ばせた。
  いざとなったらこれで割腹自殺する覚悟だった。
  だがそれは杞憂だった。
  ブルッキングス市民は、「米国本土を爆撃したただひ
 とりのサムライ」と心から称えていたのだ。
  藤田は感激し、罪滅ぼしとして、持参した日本刀を寄
 贈した。
  それから36年後の1998年10月、藤田の遺族が同市を訪
 れた。
  1年前に亡くなった藤田の遺灰を、「アメリカ大陸が
 唯一日本機に空爆された地点」と書かれた標識の袂に埋
 めるためだった。
  遺族らが歓迎を受けたのは言うまでもない。
   2011年12月28日号
.
1981年、中国の文化大革命は・・完全な誤り・・
  中国の共産党中央委員会が、毛沢東の死後の1981年、
 文化大革命は、毛沢東による「完全な誤り」と断じた『
 歴史決議』を行なった。
  文化大革命は、鉄鋼生産でイギリスを追い越すと号令
 して多数の餓死者を出した。
  「大躍進」で威信が低下した毛沢東が、奪権目的で発
 動したとされる。
  江青ら4人で組織した「中央文化革命小組」を中心に、
 若者らによる伝統的な権威や道徳の否定が進められ、高
 給幹部や知識人らの迫害、虐殺や冤罪(えんざい)も相
 次いだ。
  1億人が被害に遭(あ)い、死者は1000万人以上に上る
 ともいわれる。
  今・現在、習政権は、贈収賄などの摘発だとして、多
 くの人々を収監しているが、この文化大革命と同じ行為
 だという指摘もある・・政敵の逮捕・監禁・・?
.
1994年、北朝鮮の核兵器開発・・北朝鮮は何度もだました。
  1994年の合意は、北朝鮮が核爆弾の原料となるプルト
 ニウムの抽出が容易な黒鉛減速炉の建設の凍結、及び、
 運転の凍結する・・だった。
  その見返りに、アメリカは、核兵器への転用が難しい
 軽水炉を提供し、軽水炉完成まで年間50万トンの重油を
 提供する約束だった。
  しかし、北朝鮮は・・秘密裏に核開発を継続した。
  2002年10月、ウラン濃縮計画を自ら公表したことで、
 合意事項が守られていないことがはっきりした・・
  合意に基づくすべての協力は、当然、打ち切られ、ス
 トップした。
.
2007年4月21日、第二次世界大戦の原因を作ったアメリカが
 立証された。
  フライング・タイガー戦闘機部隊(第二次世界大戦の
 開始前に、中国で日本と戦っていた秘密の戦闘機部隊)
 のエドワード元大佐が、この日・2007年4月21日に、中国
 を訪問し、この時に、次のことも明らかにした。
  『アメリカは、日本が真珠湾攻撃をする前に、中国で、
 対日参戦していた』。
  アメリカ正規軍による日本本土計画にも、アメリカ大
 統領のルーズベルトは署名したりもしていた。
  (参考)フライング・タイガー:日中戦争時に、中国
     国民党軍(蒋介石軍)を支援したアメリカ合衆
     国の戦闘機部隊。
      追及され、とうとう・・アメリカは義勇軍だ
     と卑劣にも屋上屋を重ねる様な嘘を言った・・
     が・・、
      戦闘機(100機)や、パイロットはアメリカ政
     府が準備し、配備しており、実質、義勇軍の名
     を借りたアメリカの対日戦闘部隊だった。
      そして、次についた嘘が、戦ったのは真珠湾
     攻撃後だと言い出した。
      初めは「ボランティア」と言い、大統領の正
     式な命令書の証拠が発見され、出ると、この様
     な言い方をする卑劣なアメリカとなっている。
      南京事件の日中戦争などにも、アメリカはれ
     っきと参戦していて、真珠湾攻撃の、大分、以
     前からアメリカと日本は交戦していた。
.
2008年12月、北朝鮮の核兵器開発・・北朝鮮は何度もだま
 した。
  2005年、北朝鮮と合意した・・それは、・・
  国際社会による経済・エネルギー支援の提案に対して、
 北朝鮮は、第一段階として、寧辺(よんびょん)の核施
 設の「停止・封印」、
  第二段階で、核施設の「無能力化」とすべての核計画
 の「申告」、
  第三段階で、核施設や核物質の「解体・廃棄」を約束
 した。
  しかし、2008年12月の6カ国協議で、プルトニウムの生
 産量確認や、核施設の検証開始時期をめぐって交渉が決
 裂した。
  政権交代を約1ヶ月後に控えていたブッシュ政権は、拙
 速(せっそく)な対応を繰り返した・・
  それが、北朝鮮に核・ミサイル開発の時間を与えてし
 まい、時間稼ぎを許してしまった。
.
2015年、夢から覚めたギリシャ・・こんな事は、すでに、
 3年前の2012年に起きていたこと・・??
  「命が救われるから」と、手術をしたら死んでしまっ
 た・・ギリシャは、まさに、その様な状態になってしま
 った。
  『グローバル化が良いのだ』と・・、
  だから、EUを作ればいいのだ・・と・・
  その欧州連合に入りなさい・・と・・、
  ギリシャの古代の文明がヨーロッパの根幹にあり、欧
 州連合に加わってもらいたい・・と・・、
  そんなことを言われ・・そして、加わって・・欧州通
 貨のユーロが使えるようになって・・、
  世界から・・物が買いやすくなって・・、
  また、ギリシャへドンドン投資がなされ・・、
  金が流入し・・
  ギリシャ経済が浮上し・・また、浮上させようとされ
 た・・
  ・・が、EUに加入するときには、ギリシャは、既に
 大赤字だった・・
  しかし・・その実態は隠された・・、
  それは、EUが一緒になって隠していて・・
  EU諸国自身も・・その様な後ろめたい国ばかりだっ
 た・・なんてことも分かったりして・・
  ギリシャは、半端ない大赤字の実態なのに・・投資資
 金はどんどん入って来た・・が・・
  その金は、消費に使ってしまって、投資の目的の「新
 たな金を生む」というわけもなく・・
  赤字は膨らみっぱなしの「ぱなし状態」・・
  悲惨な実態が隠されているギリシャは・・バブル状態
 となり・・表面上は豊かなギリシャとなって・・、
  賃金は上昇して・・浮かれ喜んで居た。
  そんな状態が長くは続くはずもなく・・
  その嘘がばれるまでの短い期間をエンジョイするギリ
 シャ正教のキリスト教国だった。
  結局・・当然・・当たり前に・・嘘がばれて・・宴(
 うたげ)の後は・・厳しい借金の山が残った・・
  以前より・・惨(みじ)めなギリシャとなった。
  EUが美しくでっち上げたEUスローガンの「ギリシ
 ャの幕」は下ろされた。
  結果は・・大失敗だった。
  手術で命が救われるからと、手術に臨(のぞ)んだギ
 リシャだったが、当然の手術の失敗のギリシャだった。
  瀕死のギリシャと・・なってしまった。
  「経済は完全な破綻状態」となってしまった。
  そして今、「貸した金は返せ」の『返せコール』の真
 っ最中・・、
  EUは返せと言って・・せっつき・・ギリシャは、せ
 っつかれて売れるものは、皆、売ってしまったギリシャ
 となっている。
  ギリシャの港も中国に売って・・、
  中国の軍艦が来るようになり・・中国は、素晴らしい
 橋頭保が出来た、「世界制覇の重要拠点だ」と喜んでい
 る。
  EUの手術が失敗したギリシャは、『以前より苦しい』
 と・・悲鳴を上げている。
  何とかしてくれと「チプラス氏」を首相に選出した。
  チプラス首相は、「借金を返す方針にするか?」は国
 民に問う・・として、EUの借金返済期限までに、借金
 を返済する行為を無視して、その国民投票期日を決めた。
  最初から返済の話は頭にない状態に、EUなどは『唖
 然』とした。
  ここで、当然、ルールの「ギリシャのデフォルト」「
 債務不履行宣言」「破産宣告」がなされるわけだった。
  金を、一生懸命に貸した「EUの唯一の経済健全国の
 ドイツ」が・・、チプラス首相をぼろくそに言い出した。
  大人の世界、それも世界トップの大人の世界の人たち
 が、子供の世界と同じとなった。
  「チプラスは無能だ」「自己中だ」と悪党呼ばわり、
 ギリシャ国民を奈落の底に突き落とす悪党代表の様に言
 い立てた。
  欧州議会の議長もドイツ人で・・言った・・
  「ギリシャの銀行から金が無くなったのは、チプラス
 のせいだ」
  「糖尿病で、妻の薬が買えないと泣いていた男が居た。
  その責任を、君たちは、どのようにとるのだ」・・と。
  実際、ギリシャは、3年前の2012年に、すでに破綻(は
 たん)していて、社会福祉の金は40パーセントも削減さ
 れて、喘いでいる状態になっていた。
  何も今さら、それを言うか?と言う話。
  診察も手術も受けられない人だらけのギリシャに、す
 でに、なってしまっている。
  とっくの昔の話なのだ。
  チプラス政権のせいではない。
  EUの君たちが、その時の政権としたことが、その様
 にした・・その失敗だからでしょう?・・と、言われか
 ねない様な厭味(いやみ)も言った。
  こんな失敗は、2008年に、アイスランドでも起きてい
 た・・?
  この悪者は、ローンを「異常にやった銀行」が悪者だ
 と言われた。
  こんな事ばかりが起きているEUなのに・・グローバ
 ルさはどこにもない?
  ひっかきまわして『悪くしている』だけ・・
,
2015年7月5日、ギリシャ国民投票が行われた。
  EUなどの国際債権団が、ギリシャ再建策として歳出
 削減策などを提示したが、その受け入れを、ギリシャ国
 民の方々は、「拒否する民意」をこの投票で示した。
  賛成38.7%、反対61.3%で受け入れは拒否。
  そして、その後の話・・、
  EU・・グローバリゼーション・・??
  ヨーロッパをグローバルに統合して皆で豊かになろう
 といいう美しい理念で始まったEU(欧州連合)。
  しかし、ギリシャで躓(つまづ)いている。
  EUは、経済的に弱小な国ばかりだった。
  その弱小国の諸国を支える国は、ドイツだけという寂
 (さび)しい状態。
  そこに、ドイツの支援をとことん食いつぶすギリシャ
 という国が現れた。
  ギリシャが支援を受けて浮上して、困った国をドイツ
 と共に支える国になれればよいが、現実は、ドイツから
 借りた金は返せない、「焦げ付き」となる状態。
  ギリシャの国の資産を売って辻褄(つじつま)を最大
 限とろうとしているが、その売れる資産も先が見え、再
 建策も次々と厳しくなるばかり。
  借金返済免除のカードも何度も出したが、事態はよく
 ならず・・、
  とうとう、チプラス氏に何とかしてもらいたいと、首
 相に選任され、チプラス首相が行なった国民投票で、ギ
 リシャ国民の方々の意思を問えば・・、
  『EUの再建プランの受け入れは拒否する』となった。
  ここでルールは、ギリシャの財政破たん・・なのだが
 ・・??
  とことん行き詰ったEU。
  ギリシャを、財政破たんをさせたくないEU。
  ドイツはとことんギリシャを攻めていたが・・ギリシ
 ャの国民投票の2日後・・そのトーンが変わって来た・・
  ギリシャを厳しく糾弾する声が変わった・・
  「チプラスはごろつきだ」と言っていた声が変わった・・
  厳しくなる一方のギリシャへの再建策の提示への後ろ
 めたさか??
  「金融緩和だ」の声が出て来た・・
  とことん冷え込んだギリシャの景気・・こんな状態で
 ギリシャ経済が回復するわけがない・・の声だった。
  つまり、金融緩和は、景気刺激のために金を供給する
 こと・・、
  おい、待てよ・・こんなことは前にやっていたではな
 いか?・・
  失敗したではないか??・・
  ・・という声とともに・・「人道援助だ」の声が出て
 来た・・
  困っている人がいるのなら、食糧、医療品、エネルギ
 ーなど、必要物資の援助をするのが筋だ・・の声だった・・
  EU加盟国に、こんなになるまで放っておいたのは誰
 だ・・の声まで出た・・
  「ドイツだ」・・と、「ドイツが悪者」の声も出る・・
  ドイツだけを攻めたって?・・という事も出た・・
  ギリシャだって税収の酷さ、税金を払わない国民性と
 でも言える状態・・、
  ギリシャの国鉄でさえ未納の税金の山、
  その調査を2012年に行えば、賄賂の横行が明るみに出
 る・・という国・・、
  ギリシャ経済は、25%の「4分の1が裏で動いていた」。
  汚職の横行も酷い。
  富裕層は・・税金逃れの責任を取れ、
  ギリシャは、ここから直さなければならない国。
  そして、それから投資を促して、雇用を促進して、経
 済が勢いがつくまで社金の返済免除をして・・と
  結局、振出しに戻って来る・・最初、それをしようと
 やっていたら、ギリシャはすべて消費に回してしまって
 いた。
  国の実体が壊れていて・・税をとる方も半分あきらめ
 てしまっていた・・ここまで壊れているギリシャ・・
  とことん借金を免除をしたドイツは・・これ以上は無
 理だ・・の顔をしている・・
  ここで借金の免除をすれば、「何でギリシャだけ??」
 と・・、
  スペイン・ポルトガル・イタリアなどの擬似ギリシャ
 国も、私も私もと言うだろう・・
  ドイツだけの財布に群がるその様な「EU諸国」・・、
  NHKは年収1800万円の高給も珍しくない組織だが、
 NHKが美しく言うグローバリゼーションで、年収200万
 円のあちこちの家の財布と一緒になって、年収400万円に
 なったら、笑って居られるか??
  NHKは、小池知事が実施した様に、「NHKの給与
 半減の法を提出せよ」・・NHKは、日本の人たちの4倍
 の給与を貰っている。
  半減しても・・「それでも2倍だ」。
  これと同じ話の様な・・豊かなドイツがギリシャを救
 えるか?
  グローバルだと財布を一緒に出来るのか?
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2018-04-02 05:02 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)584E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年7月~1893年7月)

題:(増補版)584E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年7月~1893年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年7月13日、パークナム事件
  フランスが、「タイ(シャム)の属領のルアンパバー
 ン王国・チャンパーサック王国・シエンクワーン王国と
 タイ領の旧ヴィエンチャン王国」(ラオス地域)の領有
 を迫った事件で・・、
  メナム川下流のパクナム付近(タイ中部の都市、現:サ
 ムトプラカン)で、タイとフランスが衝突した。
  両国は、メコン川流域の国境をめぐって、多年、紛争
 を続けて来ていた。
  この時・1893年7月13日、フランスの軍艦2隻は、タイ
 の首都バンコクに迫り、この武力的な威圧でもって、タ
 イにメコン左岸の土地割譲をはじめ、多くの譲歩を強圧
 的・強引に従わせ、余儀なくさせた(強奪行為)
  この事件は、イギリスを刺激した。
  そして、英仏両国の間にタイを「緩衝国家」とみなす
 協定を成立させる端緒をつくった。
  これまでに・・、
  19世紀後半頃は、フランスとイギリスは、雲南問題を
 抱えていた。
  (参考)雲南問題:イギリスと清朝の間で起きた外交
     問題で、19世紀末~20世紀に起きた中国雲南省
     とビルマとの国境をめぐる問題。
      ビルマを領有したイギリスは、雲南省から貴
     州省、四川省を経て、揚子江流域の自己の勢力
     圏と連絡しようとし、1875年のマーガリー事件
     以後も、中国側地域のビルマ帰属を主張した。
      そして、一部地域を占領するなどした (片馬
     事件) 。
      フランスも、イギリスと同じ様に領土欲から
     インドシナから雲南へ進出した、そして、中国
     の民族意識を大いに刺激した。
      そして、この問題は、雲南の地下資源や、雲
     南経由の通商路の利権開拓を企図したイギリス・
     フランスと中国との問題だった。
      1868年、インド政府は、第1回雲南調査に次い
     で、1874年に、ブラウン大佐が率いる探検隊を
     ビルマ(現:ミャンマー)経由で派遣した。
      北京のイギリス公使館は、通訳にマーガリー
     を送るが、1875年2月21日、雲南・ビルマ国境付
     近で武装した中国人に殺害された(マーガリー
     事件)
      イギリス公使トマス・ウェードは、この事件を
     機に中国・イギリス間の懸案を解決するという表
     向きの目的で芝罘(チーフー)で李鴻章と交渉
     を始め、1876年、芝罘協定が結んだ・・が・・
  そして、1884年~1885年に、ベトナムの支配権をめぐ
 って、清国とフランスとの間で戦争(清仏戦争)が起き
 た。
  この戦争に清軍は敗北した。
  そして、天津条約によって、清国は、ベトナムに対す
 る宗主権を放棄し、フランスの保護国化を承認した。
  この事によって、英仏間の問題も解決した様に見えた・・
 が・・、
  フランスは、新たに雲南より南に位置ある「インドシ
 ナへの進出」を画策した・・常にあるのは・・領土欲・・、
  ただで見ていられないイギリスも、同時期に、ビルマ
 側からタイ北部のシャン地方へ進出を試みる・・、
  この為、フランスも、さらに競って・・イギリスに遅
 れを取らぬように、ベトナム領から当時のタイ領ラオス
 地域への進出を急ぐのだった・・、
  1886年5月7日に、フランスは、鉱山業・林業における
 『優先権を確立』するために・・ルアンパバーンに領事
 館を設置した。
  そして、宗主国タイとの間で、ルアンパバーン条約を
 締結した。
  しかし、1887年に至ると、西双版納(シップソーンパ
 ンナー、中国南部、タイ族自治州、景洪:けいこう市を
 中心に栄えた国家)で、パンゼーの乱(中国、清代の雲
 南イスラム教徒の反乱、1855年~1873年)の残党のチン・
 ホー族による反乱が起きた。
  その為、フランスは、ルアンパバーン王国領内に兵を
 進め侵略した・・そして・・、
  1888年に、シップソーンチュタイ(現:ライチャウ省、
 中心地はディエンビエンフー)を制圧し、手に入れ・・
 掌握した。
  これ以後、この橋頭堡を築いたフランスは・・、
  「ルアンパバーン王国の宗主権はベトナムにあり、ベ
 トナム領を有する仏領インドシナが、ルアンパバーンの
 宗主権を持っている」という『自分に都合のよい立場の
 主張』をしてタイ軍駆逐の侵略を図り始めた・・そして・・
  1892年、オーギュスト・パヴィ(フランス出身の植民
 地行政官)が、仏ルアンパバーン領事に任命された。
  すると、この領事は、以前からタイ政府が提案してい
 た交渉による国境画定案(非戦の提案)を拒否し・・、
  武力をちらつかせて、タイ軍に、ルアンパバーン王国
 領から撤退を求めた・・当然、フランスの好戦的なやり
 方で・・
  タイ政府側のラオス中部のカムムアン県知事プラ・ヨ
 ートムアンクワーンとフランス軍とが衝突した。
  その結果、フランス人将校が戦死した。
  格好のフランスにとって都合のよい言い掛かりができ、
 インドシナに軍事的緊張が走った。
  フランスは、プラ・ヨートムアンクワーンを捕らえた。
  そして、国境画定交渉を拒否していたにも関わらず「
 平和交渉時に将校を殺した」という筋の通らない理屈で、
 有罪判決を出して、投獄した。
  そして、フランス国内では、「タイは、国際常識を無
 視した」という煽(あお)りのプロパガンダ(嘘宣伝)
 が広がった・・「タイへ武力行使を行え!」というフラ
 ンス国民の世論が高まった。
  そして、これによって、より大きな戦いであるパーク
 ナム事件が勃発してしまった・・自分に都合よく作られ
 た事件だった・・やりたい放題だった・・
  1893年7月13日、夕方18時15分、フランス海軍は、2隻
 の軍艦、通報艦「インコンスタン」と砲艦「コメート」
 でチャオプラヤー川のワット・アルンとワット・カラヤ
 ナミトルの間にある運河河口から上流へ進入しようとし
 て・・いつもの様に、格段の差のある武力を行使した。
  天候は雲の厚い雨天だった。
  フランス海軍は、この時、タイの官警から警告を受け
 た。
  しかし、無視した・・そして、侵入を開始した。
  18時30分、雨がやんだ。
  この時、灯台をフランス軍艦が通り過ぎる姿をタイ兵
 が確認していた。
  その数分後、フランス軍艦は、要塞が射程圏に入った
 ことを確認し、戦闘が開始された。
  タイ軍は、オランダ人司令官が指揮するパークナムに
 最近作られたチュラチョームクラオ要塞と、デンマーク
 人副提督Phraya Chonlayutthayothinが率いるタイ海軍の
 軍艦で応戦した。
  要塞には、旧式の6インチ砲が備えられていた。
  また、16個の機雷を敷設していた。
  タイ軍は、指揮系統が西洋化されていたものの、近代
 的軍備のフランス海軍の軍艦には歯が立たなかった。
  10時頃までに、赤子の手をひねる様な戦いで・・フラ
 ンス軍艦2隻が、フランス大使館へ着くと、フランスは、
 すぐさま・・タイ政府に対して「メコン川東岸のフラン
 スへの割譲」を要求した。
  これを、タイ政府は、国家存続を揺るがす大きな問題
 だと、当然、認識した。
  当時のタイの君主であったラーマ5世(チュラーロンコ
 ーン)は、そのフランスの不当な行為である要求を、そ
 の割譲を拒んだ。
  そして、穏便に、賠償金で済ませようとした(日本も、
 幕末、大金を何度も取られた・・)
  そして、タイ政府は、フランスとインドシナ問題にお
 いて対立関係にあったイギリスから賠償金を借りようと
 した。
  しかし、それは失敗した。
  結局、メコン川東岸全域が、フランスへ割譲される事
 となって、タイの領土が奪われてしまった。
  ラーマ5世は、これを、「死刑を待つ死刑囚の様な悲し
 みだ」と言った・・そして、寝込んでしまった。
  一方、バンコク市民は、この異常事態において、混乱
 を極めた。
  フランス軍の発砲を恐れて逃げ惑(まど)った。
  1893年10月、フランスは、平和条約の締結を迫った。
  そして、この条約で、以下の要求を迫った・・
 (1)メコン川東岸のラオス各王国の宗主権の完全放棄
 (2)メコン川の中州すべての割譲
 (3)メコン川西岸25キロ地域の中立地帯化(武装解除)
 (4)カンボジアのバッタンバン州、シェムリアップ州で
   の武装解除
 (5)フランス領からタイへの輸入時における関税自主権
   の放棄
 (6)保護民を含むフランス人の自由貿易を容認し、タイ
   の司法権の管轄外とすること
  ・・と言いたい放題の条件を認めさせた。
  また、一方、フランスは、チャンタブリー県、トラー
 ト県の港の占領もした。
  また、フランス大使館は、この後、仏領インドシナの
 ベトナム人、ラオス人、カンボジア人のみでなく、タイ
 国民(特に、華僑)にまで、ワイロで保護民の地位を与
 えたため、タイの治安は大きく乱れてしまった。
  これに大きく悩んだタイ政府は、1904年に、新たな条
 約を結んだ。
  以下がその内容・・、
 (1)タイが、サイニャブーリー県、および、チャンパー
   サック県を割譲する代わりに、チャンタブリー県か
   らフランス海軍を撤退させること。
 (2)保護民の登録を制限すること(華僑の流入を抑えて
   くれの悲鳴)
  タイ政府は、苦肉の策で問題を妥協・解決し・・、
  1905年1月22日、フランス海軍は、チャンタブリー県か
 ら撤退したが、完全に約束を果たしたわけではなかった。
  いつもの都合のよい嘘行動・・
  トラート県に移動するのみに留まった。
  『正義の天からの裁き』は・・起きないのか・・??
1893年7月15日、大阪天満橋下流で、淀川の川開きが、初め
 て開催された。
1893年7月22日、文部省が、女子教育のため、小学校に裁縫
 教科の設置を指導した。
  井上毅文相は、文部省訓令「女子就学並裁縫教員に関
 する件」を府県に通達した。
  「普通教育ノ必要ハ男女ニ於テ差別アルコトナク、且
 女子ノ教育ハ将来家庭教育ニ至大ノ関係ヲ有スルモノナ
 リ、・・今不就学女子ノ父兄ヲ勧誘シテ就学セシムルコ
 トヲ怠ラサルヘキト同時ニ、女子ノ為其教科ヲ益々実用
 ニ近切ナラシメサルヘカラス、裁縫ハ女子ノ生活ニ於テ
 最モ必要ナルモノナル故ニ、地方ノ実情ニ依リ成ルヘク
 小学校ノ教科目ニ裁縫ヲ加ヘルヲ要ス」
1893年7月、御木本幸吉夫妻が、半円ながら、初めて真珠の
 養殖に成功した。
1893年7月、川上清哉らが、恙虫(つつがむし)研究会を設
 立した。
  ツツガムシ(恙虫)は、ダニ目ツツガムシ科のダニの
 総称で、ツツガムシ科に属するダニ類は、日本では、約
 100種が報告されている。
  川上清哉(かわかみせいや)は、1854年、長岡藩(現:
 新潟県)の生まれ・・、
  戊辰戦争で敗れた長岡藩の復興のため小林虎三郎らが
 設立した国漢学校を経て、東京大学医学部に入学した。
  かねてより、ツツガムシ(恙虫)病に興味を持ち・・、
  1878年には、べルツを信濃川へ案内し、東京医事新誌
 に「新験毒虫考」を発表した。
  後、東京大学医学部を中退し・・、
  1887年、「私立新潟県恙虫研究所」を設立した。
  1895年、41歳で病没した。
  恙虫病は、かつては、日本では、新潟県、山形県、秋
 田県などで、夏季に河川敷で感染する風土病で あった。
  戦後、新型ツツガ虫病の出現により、沖縄県や離島な
 どを含め、全国的に発生が報告されている。
  ツツガムシの幼虫は、0.2ミリほどの大きさで、肉眼で
 確認することが難しい。
  アカツツガムシ以外に吸着された場合には、ほとんど
 痛みや痒みを感じない。
  刺された覚えのない発病者も多い。
  つつが虫病リケッチアによる感染症で・・、
  つつが虫病リケッチアを保有するツツガムシに刺され
 て5~14日の潜伏期の後に、
  全身倦怠感、食欲不振とともに頭痛、悪寒、発熱など
 を伴って発症する。
  体温は、段階的に上昇し数日で40℃にも達する。
  刺し口は、皮膚の柔らかい隠れた部分に多い。
  刺し口の所属リンパ節は、発熱する前頃から次第に腫
 脹する。
  第3~4病日より不定型の発疹が出現するが、発疹は
 顔面、体幹に多く四肢には少ない。
  テトラサイクリン系の有効な抗菌薬による治療が適切
 に行われると劇的に症状の改善がみられる。
  重症になると肺炎や脳炎症状を来す。
  北海道、沖縄など一部の地域を除いて、全国で発生が
 みられる。
  発生時期は、春~初夏及び晩秋から冬であるが、媒介
 ツツガムシの生息地域によって異なる。
  我が国では、1950年に、伝染病予防法によるツツガム
 シ病の届け出が始まり、
  1999年4月から、感染症法により4類感染症全数把握疾
 患として届け出が継続されている。
  感染症法施行後の患者数をみると・・、
  1999年(4〜12月)には588人、
  2000年(1〜12月)には急増して754 人が報告された。
  2001年には460人に減少した。
  毎年、数人の死亡例も報告され、依然として命を脅か
 す疾病である。
  治療が遅れると播種性血管内凝固をおこすことがあり、
 致死率が高い。
  本症の予防に利用可能なワクチンはなく、ダニの吸着
 を防ぐことが最も重要。
  因みに、「恙」(つつが)は、病気や災難という意味。
1893年7月、陸奥宗光外相の条約改正交渉。
  1892年、陸奥宗光は、第2次伊藤内閣に迎えられて外務
 大臣に就任した。
  そして、外相に就任した陸奥宗光は、青木周蔵元外相
 を在英国公使に任命し、条約改正交渉に当たらせた。
  1894年に至って、青木公使とキンバレー英国外相との
 間に日英通商航海条約を締結し(1894年7月16日、調印)、
 幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功した。
  この条約によって、領事裁判権が撤廃されたほか、関
 税自主権が部分的に回復し、最恵国待遇条款を相互的な
 ものにし、「安政の不平等条約」の改正の第一歩がしる
 された。
  以後、アメリカ合衆国とも同様の条約に調印し、ドイ
 ツ、イタリア、フランスなどとも同様に条約を改正した。
  陸奥が、外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた
 15ヶ国すべてとの間で条約改正(治外法権の撤廃)を成
 し遂げた。
  これによって、半植民地状態から陸奥宗光伯は わが
 国の「独立自尊」を世界に認めさせた。
  1894年8月、子爵を叙爵した。
  一方、この年・1894年5月に、朝鮮で甲午農民戦争が始
 まると清の出兵に対抗して派兵した。
  不平等条約改正に最も反対していたイギリスが態度を
 軟化させた背景には、ロシアの極東進出に対する懸念が
 あった。
  イギリスの条約改正交渉には、「改正後も函館の貿易
 港としての使用を認めること」という交渉条件が付けら
 れていた。
  陸奥は、函館の条件さえ呑めば条約改正に応じるに違
 いないと判断し、ロンドンの青木公使宛に「必要あらば、
 条約改正後も、函館を貿易港と定めても苦しからず」と
 打電した。
  返電は、イギリスが条約改正交渉に応じるというもの
 だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:『正義の天からの裁き』は・・起きないのか・・??
.
紀元前3500年、メソポタミアを通覧(つうらん、全体に一
   通り目を通すこと)すると・・
  紀元前3500年、メソポタミア文明:生産の発達に伴い、
   この頃以降に、多数の都市が誕生する。
  紀元前3300年頃、この頃からメソポタミアの地に、シ
   ュメール人の文化が生まれた。
    砂漠化が進む気候の中で・・、
    チグリス・ユーフラテス河に集まった人たちは、
   その豊かな水で、大規模な農耕をした。
  紀元前3000年頃、メソポタミア地方で普通小麦の栽培
   が始まった。
  紀元前3000年、メソポタミア文明:シュメール人が、
   この頃から都市国家の時代へ入った。
  紀元前2500年頃、シュメール人が、『ウル第一王朝』
   の王国を築いた。
  紀元前2000年、バビロニア:この頃に、シュメール人
   が建設したメソポタミアに、セム系のアムル人が侵
   入し、バビロニアという強大な国を作った。
  紀元前1830年、アルム人が、ユーフラテス川中流の都
   市「バビロン(バクダード南方90キロ)」を中心に
   覇を唱えた(古代バビロニア)
  紀元前1600年、アーリア人:この頃、イラン高原、メ
   ソポタミア、エーゲ海、さらに、ヨーロッパなどへ
   進出した。
  紀元前1530年、古バビロニアが滅亡した。
   ヒッタイト人が、人類初の鉄製武器を使い、この頃、
   古バビロニアを滅ぼした。
  紀元前1500年、古代ユダヤ:セム系ユダヤ人(ヘブラ
   イ人)は、シリアの近くで遊牧生活を送っていたが、
   この頃以後、ユダヤ人の一部分が、カナン(カナー
   ン、パレスチナ、イスラエル)へ移住した。
  キリスト教は、このメソポタミアの民(ヘブライ人)
 が、チグリス・ユーフラテス川を北へ向かい、そして、
 「乳と蜜の流れる地・・カナン」へ向かう話から始まる。
  そして、このキリスト教の発祥の地「イスラエル」は、
 日本の九州ぐらいの大きさである。
  キリスト教が、異民族とか、異教徒とかとした「ペリ
 シテ人」や「フェニキア人」や「アラム人」は・・、
  「ペリシテ人」はイスラエルの南部に居て・・、
  「フェニキア人」と「アラム人」は、イスラエルの北
 部に居た。
  つまり、この「ペリシテ人」は「鹿児島県の人」のよ
 うで・・、
  「フェニキア人」や「アラム人」は、「福岡県の人」
 や「大分県の人」の様な関係となる。
  キリスト教は、この様に『非常に狭いスケール観』の
 中で展開している宗教なのである。
  結局、このスケール観の中で「鹿児島県」や「福岡県」
 や「大分県」の人々が、「異教徒だ」とか、「異端の人
 だ」として存在していて・・、
  「異教徒は殺せ」のキリスト教の教義が展開し、困っ
 たときには、この異教徒からの富を奪う事を、(キリス
 ト教の)神の義があるという免罪符が与えられて、富を
 奪う行為が行われていた・・戦争ばかりの「奪い合いの
 世界」に居た。
.
紀元前1800年頃、この頃まで、メソポタミアと、インドの
 インダス文明との間に強い交流があった。
  文明的な交流が行われる「メソポタミア文明とインダ
 ス文明」は、強いつながりを持っていた。
  多くの考古資料も存在しているが・・、
  メソポタミアはインド文明に影響され、また、インド
 も影響された。
  イラン高原に「スーサ」という地があるが、この地は
 交通の要衝で、種々の人々が往き交った。
  また、文明も発達していた(エラム人のトランス・エ
 ラム文明)。
  この文明のいくつかの要素が、インダス文明の素(も
 と)になった。
  また、インダス文明との関係が強く、紀元前1800年頃
 のインダス文明の崩壊時期まで、メソポタミアの諸王朝
 は、インドの木材や金属を、イラン高原経由で入手して
 いた。
  この交易と共に、人も往き交い、文明も往き交った。
  キリスト教は、メソポタミアに影響されて、関係して
 いるが、この様にキリスト教は、インドのインダス文明
 に「大きく関(かか)わっていた」。
  キリスト教が言う、「一神教の壁があって、インド文
 明の影響は受けていない」という話は、「まゆつば」の
 「嘘の話」である。
  インド仏教のストゥーパ(仏塔)の建設にギリシャ人
 の関与を示す考古資料がある。
  また、メソポタミアの考古資料にインドの物語の史料
 があり、これがキリスト教にも影響を与えている・・な
 ど・・
  人々は、頻繁(ひんぱん)に往き交っていて、また、
 情報も往き交っていた。
  メソポタミアの人々は、エジプトより、イラン・イン
 ド方面に親近感を持っていたようだった。
  メソポタミアとエジプトとの関係は、紀元前6世紀に、
 イラン高原を本拠とするアケメネス朝ペルシャが、メソ
 ポタミアを征服し、また、エジプトも征服した。
  この両地の交流は、この時から始まって、それまでは、
 まったくと言って交流は無かった。
  ユダヤ教の戒律も、このアケメネス朝ペルシャの支配
 の下で、整(ととの)えられて行く。
.
紀元前13世紀後半、ヘブライ人が、メソポタミアからカナ
 ンへ向かった。
  キリスト教を作るこのヘブライ人は、アジア人だった。
  ヘブライ人は、アフリカ北部からアラビア半島、そし
 て、メソポタミアや小アジア(トルコなど)の広い範囲
 に居たセム系の言語を話すアジア人だった。
  セム系の言語を話すアジア人として・・この他に、ア
 ラブ人、フェニキア人、アラム人、エチオピア人、アッ
 シリア人などが居る。
  このアジア人が、キリスト教を作った。
  地球上の世界の三大宗教は、そのすべてをアジア人が
 作っていた。
  ヘブライ人の先祖は、古くはメソポタミアに居た遊牧
 民で、紀元前13世紀後半頃、このカナン(カナーン、パ
 レスチナ)へ向かった。
.
紀元前13世紀後半、キリスト教の聖書に、多神の神々、多
 くの神々が書かれているが・・
  この様に、「乳と蜜の流れる地」と言われたカナン(
 パレスチナ)へ移住して行ったヘブライ人たちは、種々
 の神々を信じる『多神教の民だった』。
  カナンの地も雨の少ない乾燥地だった。
  遊牧の羊を育てるには欠かせない雨、何日も晴天の日
 が続くとヘブライ人たちは、心から雨を待ち望んだ。
  遊牧民のヘブライ人たちは、多神の神々の中でも嵐の
 神であるヤハウェを最高神として重んじる様になって行
 った。
  ヘブライ人だけでなく、このパレスチナ(カナン)周
 辺に居るアラム人や、アラブ人などの諸部族も多神教の
 神々の一つとしてある嵐の神ヤハウェを祭っていた。
.
紀元前5世紀頃、ユダヤ教の教義が確立して行く。
.
紀元前5世紀頃、「ミシュナ(口伝律法)」ができる。
  キリスト教の旧約聖書は、砂漠の地で生きて行くため
 の『マニュアル』である。
  だから、故に、生きるために、この教えは、「何より
 も大切なものだった」。
  環境の厳しい砂漠で、また、その砂漠の狭い地域に、
 多数の部族が居るという状況に、その地域はあり・・そ
 れは、生きるに必須なものだった。
  また、「主(神)」というのは、みだりに「ヤハウェ」
 と神の名を言えないがゆえの「便宜上の言葉」だった。
  信仰は、この『主』が、そのマニュアルの事ごとを、
 上から与えるという「上から目線」の砂漠の地の信仰の
 形となった。
  マニュアルとして、「トーラー(律法)」「ネビイー
 ム(預言書)」「ケトゥビーム(諸書)」の三つがあり、
 「旧約聖書」としている。
  「タルムード(教訓)」は、古くから伝えられて来た
 戒律をまとめたもので、口伝するべきとした。
  それが、紀元前5世紀頃に、「ミシュナ(口伝律法)」
 という書にまとめられた。
  そして、このミシュナに、「ゲマラ(補完)」という
 補足と解説が付いた。
  そして、5世紀~6世紀の頃までに、「ミシュナ」と「
 ゲマラ」を整理した「タルムード(教訓)」をまとめ上
 げた。
  キリスト教の旧約聖書は、ユダヤ教の「聖典(正典)」
 を『拝借したもの』である。
.
紀元前4世紀頃、今は居ないケルト民族の人々が、ヨーロッ
 パ全域(フランス、スペイン、イギリス・ブリテン島、
 イタリア、バルカン半島、小アジア(トルコなど)へ、
 この頃、移動し、生活していた。
  ケルト民族は、近年、注目されて来ている民族で・・
 ヨーロッパ中に、そのケルトの方々は居た(過去形)
  日本人も、このケルトの人々の様な運命にならないよ
 うにしなければならないが??
  (過去形で語られるような民族にならないように・・)
  このケルトの人々の原住地や起源については、いろい
 ろな説・議論がある・・、
  この民族は、ローマ人が、ガリア人と呼んだ人々で・・、
  言語は、インド=ヨーロッパ語族の人々・・、
  紀元前3000年~紀元前2000年、ケルト文化を形成した。
  南ドイツのバイエルン、及び、ボヘミアに、先史鉄器
 時代のケルト人遺跡が出土する・・また・・
  紀元前1500年頃までに、ドイツのドナウ、ライン川沿
 岸の森林地帯に移動し、定着し、文化を形成したとされ
 ている。
  紀元前7世紀~紀元前3世紀に、ガリア、ブルタニア、
 西ドイツ、北イタリア、イベリア、バルカンに移住し・・、
  紀元前5世紀~紀元前1世紀に、ヨーロッパ中部、及び、
 西部で、活躍したとみられている。
  この頃のライン地方の貴族の墳墓、および、出土品は、
 初期ケルトの美術の美しさを見せている。
  紀元前4世紀頃から、フランス、スペイン、イギリス・
 ブリテン島、イタリア、バルカン半島、小アジア(トル
 コなど)などへ移動する。
  紀元前387年(または390年)ケルト人は、イタリアに
 侵入し、アッリアの勝利の後、ローマへ至った。
  (参考)アッリアの戦い:ガリア人(ケルト人)が、
     初めてイタリアを侵略した際に起きた戦いで・・、
      テヴェレ川の支流のアッリア川付近で行われ
     た戦い・・、
      この戦いでローマ側は敗北し、ガリア人(ケ
     ルト人)が、ローマを奪取する経路が開かれた。
      この戦いは、紀元前390年、または、紀元前387
     年に起きた。
  紀元前390年に、ケルト人は、ローマの住人となり、北
 イタリアのアドリア海岸に定着した。
  ケルト人は、ローマにとって不断の脅威となる・・
  そして・・
  紀元前192年までに、ローマの支配権を失う。
  紀元前16年~紀元前10年には、大陸の最後のケルト民
 族の拠点も、ローマの支配下に入る。
  ケルト人の地、ガリアは完全にローマ化した。
  ケルトの民は長身で、戦士は筋骨たくましくあった。
  ケルト人は、混合農耕を営み、音楽や美術の才能にも
 恵まれ、、森の神、泉の神など自然物に基づく多様な神々
 (多神教)を信仰していた。
  そのような話が「金の斧・銀の斧」という子供たちの
 話として、現代にも伝わっている。
  ギリシャも多くの神々を祀る多神教であったが、この
 多神教のヨーロッパに、一神教のキリスト教が入って来
 る。
  キリスト教は、当初、生き残ろうと、盛んにヨーロッ
 パの宗教である多神教と習合した・・節操もなく多神教
 を取り込んだ。
  キリスト教は、次第に、権威と金を得て行った。
  また、ローマ帝国の承認も得て力を得て行く。
  それとともに、ヨーロッパに既存していた多神教のケ
 ルト族を圧迫し殺戮し駆逐して行く。
  今・現代は、ヨーロッパの西端の半島の突端に居るか?
 と言われるケルト民族となってしまった。
  かつては、ヨーロッパ中に居た民族であったが・・、
  そして・・森が広がるヨーロッパの民の多神教の信仰
 が、砂漠の宗教・キリスト教の一神教に変わった。
  中世の暗黒のキリスト教社会を経験する。
  魔女の騒ぎや、異端審問や、ユダヤの方々がヨーロッ
 パ中を逃げ回る時代を迎える。
  ギリシャやイタリアや、また、イギリス、フランス、
 ドイツなど、かつては森の国で・・多神教が信仰されて
 来た国々が、一神教のキリスト教の砂漠の宗教の暗黒の
 経験をすることとなる。
  ヨーロッパの空は、曇り空の如く、全滅する村も出る
 という・・その様な焚刑が行われるという・・惨劇が繰
 り広げられた。
  最近、行なわれるようになったキリスト教の祭りであ
 るハロウィンは、全滅させられたケルト民族の祭りであ
 った・・
  習合して取り入れたキリスト教が、その祭りを、キリ
 スト教の祭りとした・・
  しかし、キリスト教は、この事を言われると、ケルト
 の祭りだと言って逃げるが・・?
.
12世紀、アララト山の命名
  アララト山は、トルコ共和国の東端にある標高5,137m
 の山で・・成層火山である。
  キリスト教の「旧約聖書」に出て来る「ノアの方舟」
 が大洪水の後、流れ着いたとされる山で・・、
  12世紀以降にヨーロッパ人により命名された。
  「ノアの方舟」・・
  キリスト教の教会でやるような「キリスト教の教義の
 宣伝映画・ノアの方舟」を、NHKは買って、全国放送
 をした。
  NHKは、キリスト教に利する放送をよく行う、多く
 行う放送局である。
  この行為もその一つである。
  「ノアの方舟」の話は本当にあったのだという内容で、
  「その証拠があるのだ」と、その証拠をアララト山に
 求めた話の内容である。
  しかし、キリスト教の教会内でやっている分には嘘の
 話であってもやっても良いが・・、
  公共放送のNHKが、その嘘の話を「本当だ」という
 内容の放送を、日本全国に放送するという事になったら、
 問題である・・
  法律違反となる・・「虚偽の話を本当だ」と、このN
 HKの番組の視聴者に思い込ませる事となる。
  虚偽の話をするという、やってはいけない行為である。
  しかし、キリスト教に偏するNHKは、この嘘放送を、
 虚偽の放送を行なった。
  キリスト教のデッチ上げの虚偽の話「ノアの方舟」が
 実際にあったと言った。
  「実際にあった」と言ったって、「あったあった」と
 形容詞で言うばかりで、その証拠を発掘調査する、探査
 するという行動の映像はあるが、その証拠が発見された
 という話は、まったく「雲の様に霞(かす)んだ中」で、
  ただ「あったあったと言う話」のたぐいであった。
  何だか分からぬ石を示して「これだ」とか、
  大袈裟に、もっともらしく人工衛星写真のアララト山
 付近を示し、放送して、「これだ」と言うだけ・・、
  どこをどの様に証明したのだ?・・と、質問したい話
 が連続するだけ・・?
  その様な「うやむやの話」なので、「もともとがうや
 むや」なので、具体的に説明できない代物。
  その様な放送行為をしておきながら・・今だに、NH
 Kは「嘘の間違い放送だった」と「訂正放送も無ければ」
 「謝罪放送もない」。
  「ノアの方舟」の話が、「真実ではない」という事は、
 今・現代、常識になっているが・・、
  NHKは、その事実を無視して、キリスト教に利する
 放送をした。
  その「ノアの方舟」が虚偽であり、あり得ないという
 話に満ちているが・・、
  その一つが・・「キリスト教の神が、40日間、雨を降
 らし続け、5000メートルを超えるアララト山(この地方
 で一番高い山)の頂(いただき)が隠れるほどの洪水と
 した・・
  そして、地球上の生物のすべてが死滅させた」という
 話である・・
  ノアが救った「一つがいの動物」だけを生き残らせた
 という話である。
  この40日間、雨が降り続いて、5000メートルを超える
 水深の洪水は起こりえない。
  アララト山の標高5,137メートル(世界一のエレベスト
 山を知らない人たちのおとぎ話なので、アララト山とな
 っている)を、40日間で割ると、1日の降水量が128,425
 mmの降水量となる。
  もうこれであり得ないと直ぐ分かる。
  2014年、コロンビアで年間降水量が、3,240mm・・こ
 れが世界一多い降水量記録である。
  それも「年間」である。
  この地域だけに限って雨が降った降水量である。
  ノアの方舟は、「世界中すべてに、猛烈に雨が降り続
 いた」という話である。
  年間のこの数値の39.6分の1にしかならない。
  40日とすると1,584分の1となる。
  この様に、ちょっと考えれば「おかしな話」を、NH
 Kは、このキリスト教の宣伝映画を買って、日本中に放
 送した。
  キリスト教に偏するNHKは、こんな類いのキリスト
 教の「巧妙なる伝道行為」を多くやっている。
  ノアが、世界中の動物を「一つがい捕まえて来る」と
 いう話もおかしいし、方舟に乗せたという話だってあり
 得ないとすぐ分かる・・(どんだけの大きさ??)
  餌(えさ)はどうしたの? 糞尿の処理などの世話は
 どうしたの?・・など、疑問だらけとなる・・
  そして、洪水で流された草木はどうなったの?
  この草木は何故、「ノアの方舟」に乗せなかったの?
  この草木も命があるのだが? などという疑問は、次
 から次と出る。
  この様な話に、NHKは、まったく「疑問を持たない」
 というお粗末な、おかしな公共放送となっている。
.
1587年、バテレン(伴天連)追放令
  フィリピンを拠点にしていたスペインのキリスト教宣
 教師たちには、キリスト教を広める行為と共に、植民地
 獲得・拡大の尖兵となる隠れた要務(ようむ、重要な職
 務・任務)があった。
  キリスト教宣教師たちが、南アメリカを初めとする、
 北米・中米・その離島のすべてのアメリカ大陸で、イン
 ディオの先住民を殺戮し、全滅させて・・領土を奪った
 と同じように・・、
  中国や日本を、武力で奪い取る「征服する計画」があ
 った。
  キリスト教のアメリカ大陸でのその殺戮・全滅行為は、
 凄(すさ)まじく、50年間という超長期に渡り、先住民
 のインディオの方々を、1000万人以上殺すという卑劣極
 まりない行為だったが・・この様な行為が日本で行なわ
 れようとしていた。
  この時、この日本を救ったのが豊臣秀吉だった。
  秀吉は、この様な情報を掴(つか)むと、部下に確か
 めさせた。
  そして、「その情報が間違いない」と分かると、キリ
 スト教宣教師を呼び出し、秀吉・自らが確かめ詰問(き
 つもん、相手を攻めながら、返事を迫って問い立てるこ
 と)した。
  そして、秀吉・自らが、キリスト教が、その様な悪行
 をしていると確認すると、その行為を叱責し、また、フ
 ィリピンのマニラのキリスト教本部へ書簡を送り、「卑
 劣な行為をするな」と言った。
  そして、1587年、バテレン(伴天連)追放令を発した。
  その令の中で、日本の神社や寺院を、キリスト教宣教
 師たちが打毀す行為をしていた事を「止めよ」と言い、
 叱責し・・、
  そして、「20日以内に立ち去れ」と命じた。
  また、キリスト教宣教師たちは、キリシタン大名へ鉄
 砲などの武器や弾薬を渡し、「死の商人」をしていた。
  そして、その領地内で、神社・仏閣を破壊し、好き勝
 手をしていた。
  また、南蛮貿易では、日本の若い女性を連れ去り人身
 売買も行ったりと、倫理観がまったく無い劣悪な行為も
 行っていた。
  「卑劣な輩ども」の形容がぴったりの者どもだった。
.
18世紀、この頃までに、日本は、産業の大きな発展を見た。
  そして、18世紀という偉大な世紀を迎える。
  これまでに起きた産業の発達の中、日本は、ここで、
 教育の必要性を感じ、大事さを感じた。
  武士だけではなく、一般民衆も、盛んに教育を求めた。
  日本の各地に、多くの寺子屋が作られた。
  多くの子供たちが「読み書き・そろばん」を身につけ
 た。
  (参考)読み書き・そろばん:文字・文章を読むこと、
     内容を理解して文章を書くこと、および、計算
     すること、ならびに、それらができる能力を持
     っていること。
      特に、近世末期以降、初等教育における基本
     的な教育内容とされ、また、初等教育で獲得さ
     せる基礎的な能力・学力を言った。
  寺子屋の数は、全国で約1万を数えた。
  その結果、日本全国各地で、町人や農民の生活に即し
 た新しい学問が花ひらいた。
  教育水準は向上し、当時の日本人の識字率は、『世界
 最高の水準となった』。
  町人たちの勤勉さと、倹約を説いた京都の石田梅岩(
 いしだばいがん)は、その代表。
  武士の子弟も、藩が設けた藩校で学んだ。
  この時代、著名な偉人が、多数、輩出した・・
  「本居宣長」「杉田玄白と前野良沢」「平賀源内」「
 伊能忠敬」「林子平」「会沢正志斎」「頼山陽」など・・、
 その偉人たちは枚挙のいとまない状態だった。
  (参考)石田梅岩:(1685年~1744年)心学者、思想
     家。
      社会教化運動のひとつとされる石門心学(せ
      きもんしんがく)の始祖。師は小栗了雲。
      1685年9月15日、丹波国桑田郡(現:京都府)
     の農家に生まれ・・、
      幼くして、一時、京都の商家に奉公に出るが、
      1700年(15歳)で、一旦帰郷する。
      1708年(23歳)で、再び上京し、商家黒柳家
     に仕え、その業に励むとともに、儒学などを独
     学する。
      1728年(43歳)小栗了雲に邂逅(かいこう、
     めぐり会う)し、「心を知る」の課題を「性は
     目なし(無我の境地)にこそあれ」と開悟(かい
     ご、迷いから脱却して審理を悟ること)するに
     至る。
      1729年(45歳)京都車屋町の自宅に、講席(
     塾)を開き、聴講無料、紹介者不要の開放的な
     形式をとって講義・布教に専念する・・
      当初の聴講者はわずかであったが、庶民層に
     門弟が漸増し、大坂に出講するまでに至る。
      その教えは、人間価値の平等や商人の利潤の
     正当性を認めて、説き、「人の人たる道」を追
     求した。
      実戦的倫理思想を分かりやすく説いた・・、
      商業観・人間観において自由さと清新さを示
     し・・京の町人層に歓迎された。
      大坂・河内・和泉などへの出講は、手島堵庵・
     斎藤全門・富岡以直らの人材を得て、心学興隆
     の基礎を築いた。
      1739年(54歳)主著「都鄙(とひ)問答」は、
     門弟の要望を容れた教説の基本原理を記述した
     テキストであるが・・、
      心学教化運動の原点として後世の教育へ深甚
     (しんじん、意味が非常に深いこと)な影響を
     与えた。
      1744年頃(59歳)梅岩が重んじている倹約に
     ついて、人間の本性の洞察にまで思惟(しい、
     心で深く考えること)を深めた『倹約斉家論』
     を出版した。
      1744年、歿、60歳。
.
1924年7月1日、排日移民法が、アメリカで施行された。
  卑劣な法律だった。
  アメリカは、「排日移民法」を作り、日本人を排斥し
 た。
  完全にその根底には、キリスト教の有色人種の蔑視思
 想による洗脳された姿があった。
  今でも、黒人の方々は、アメリカで差別を受けている
 が・・当時の日本も差別され、大きなダメージを受けた。
  精神的なダメージも大きかった。
  また、日本は、国家としても貶(おとし)められた。
  人種としても、文明としても貶められた。
  強い劣等意識を突き付けられた。
  これを、第二次世界大戦に至る大きな要因の一つに挙
 げる学者も多い。
  最初、中国系労働者が排斥され・・そして、日本人に
 代わって来た。
  当時、日本人が、写真だけの見合い結婚をする習慣自
 体も卑下されたりした。
  (移民した日本人の若者が、郷里から写真だけで「お
 嫁さんに来てもらいたい」とプロポーズすることが、お
 かしいとされた)
  やむなく、日本政府は、このアメリカの押し付けを受
 け入れ、1920年に禁止とした。
  今・現代、ロシアは、平均離婚回数が3回だという。
  学生時代に「試し結婚をする」という。
  写真ではなくても、「離婚が目の前にある様な結婚」
 は許されるのか・・、
.
1932年1月28日、上海事変が始まる。
  第一次上海事変が起きた。
  白川義則大将の上海派遣軍と、中国の国民党(十九路
 軍)とがぶつかった・・が・・、
  白川大将は、中国軍を撃退したが、深追いはしないで、
 停戦した。
  これは、『国際連盟で高く評価された行動』だった。
  そして、これは、平和主義の昭和天皇陛下が、白川大
 将へ「事変の不拡大」で、「国際連盟との衝突にならな
 い様に」と伝えていた戒めを守ったからだった。
  しかし、国民政府軍(蒋介石軍)は、1936年12月の西
 安事件の後、第二次国共合作によって、一丸となって大々
 的に日本への攻撃を準備していた。
  この時、日本は、条約を順守して、わずかな兵しか、
 上海に居なかった。
  しかし、中国軍は、このわずかな2500人の日本の上海
 駐留軍へ、十数万の大軍で先制攻撃を仕掛けて来た。
  このため、上海の戦闘は泥沼となった。
  急遽、駆け付けた日本兵など・・4万もの日本兵が死傷
 するという大きな死傷者を出した。
  これによって、戦争は拡大方向へ進むようになり、南
 京へも拡大して行った。
  南京事件の原因は、アメリカに支援された中国とアメ
 リカが起こしていた。
  中国軍の攻撃が、南京進撃の因となった。
  陰で・・アメリカが、中国へ兵器の供給をしていた。
  そして、NHKなどのマスコミが煽(あお)った。
  また、租界は、西欧諸国も、中国に持っていた。
  上海は、日本人の住む租界だった。
  この上海租界に、2000人強の日本兵が駐留していた。
  中国軍は、条約で決められた通りにしているこの日本
 租界へ、アメリカに支援されて、大準備を整えた大軍・
 12万の兵で、圧倒的兵力差で攻めて来た。
  上海の日本は、自衛の戦いを、苦しい戦いを、強いら
 れた。
  尚、この中国の大軍の背後には、さらに、アメリカに
 支援された30万の兵の包囲網が形成されていた。
  中国の泥沼的に続く戦いは、この無限に続くアメリカ
 の武器支援により形成された。
  ルーズベルトが、「第二次世界大戦を作った」と言っ
 たが・・、アメリカは、その第二次世界大戦の開始以前
 から、この様に・・この上海の戦いの様に、戦争へ介入
 していた。
  そして、戦争は始まり、そして、行なわれる方向への
 行動・支援を行なっていた。
  アメリカ国内では、日本人の移民も不法という法律を
 作って日本を差別し、また、日本人を差別した。
  この様な人種差別の行為も「戦争の大きな原因」だっ
 た。
  当然、日本は、この逆のアメリカ人を差別するような
 事は行っていない。
  アメリカは、本当に卑劣な事を色々するアメリカだっ
 た。
  アメリカが、背後で武器支援して始められた、この支
 那事変が、日中全面戦争となり、そして、第二次世界大
 戦へとつながって行った。
  当時、日本には、戦争を拡大をしようという方針・考
 えは少しもなかった。
  西欧諸国も租界に兵を置いたが、この上海の日本の租
 界が、アメリカに支援を受けた中国軍が攻めて来た・・
 そのことから戦争は始まった。
  国際連盟でも評価されたように「日本には、戦争をす
 る意思もなく」、「拡大する意思も、方針も当然なかっ
 た」。
.
1937年8月13日、日中戦争が始まる・・この時、その発端の
 『上海事件(第二次上海事変)』が起きた。
  日中戦争は、1937年7月7日の盧溝橋事件からと言われ
 ているが、これは間違いで・・1937年8月13日の上海事件
 (第二次上海事変)から始まった。
  盧溝橋事件と上海事件の間は、約1ヶ月しかないが、盧
 溝橋事件には戦争になる様相はまったくなく、和平が行
 なわれていた。
  その後に・・国共合作が行なわれ・・日本と戦うとい
 う方針となり・・そして、アメリカの支援を受けた大攻
 撃が始まった・・故に、日中戦争は、上海事件から始ま
 っている。
  故に、日中戦争は、日中(米)戦争と言える。
  ベトナム戦争も、アメリカが、最初から加わっていた
 が・・、
  日中戦争においても、アメリカは司令官を置き、軍事
 顧問団を置き、大きな資金を援助し、多くの武器を供給
 し、秘密裏にアメリカ軍が日本を攻撃したりと、何処か
 ら見ても、日中米戦争の状態、もしくは、日中(米)戦
 争だった。
  アメリカは、アメリカ国民の方々に、この実態を明確
 に説明していないで、国民の目の届かない形(秘密)に
 して戦争を進めていた。
  アメリカは、アンフェアな国なのである。
  世界の目を誤魔化し、世界を繰る国なのである。
.
1939年9月1日、第二次世界大戦がはじまる。
  ドイツの陸・空軍が、ポーランド進撃を開始し第二次
 世界大戦が始まった。
  そして、1941年12月8日、大東亜戦争が始まった。
  日本は、この戦争を、アメリカによって「させられた
 戦争」だった。
  アメリカ大統領のルーズベルトが、「私は戦争を作っ
 た」と発言した様な直接的な言葉だけではなく・・
  アメリカ主導の「ABCD包囲網」で、窮地に陥(お
 ちい)らされて、戦争へ『無理に』向かわせられていた。
  (参考)ABCD包囲網:アメリカ(A)、イギリス
    (B)、中国(C)、オランダ (D)が、日本に対し
     ABCD包囲網を作って、通商航海条約の廃棄、日
     本資産の凍結、対日石油禁輸などを強化して、
     太平洋戦争へと向かわせられ、導かれた。
  日本は、ドイツの様な突然の侵攻による戦端開始の理
 由ではなかった。
  日本は、その前から、アメリカが、中国へ武器の支援
 をしていたり、兵力を送って、隠れて、秘密裏に、日本
 と中国で戦っていたりした。
  (参考)この史料が公開されて明らかになっている・・
     アメリカは、ボランティアだと初めは言ってい
     たが、アメリカ大統領の承認した正規軍だとい
     う事も判明している。
  アメリカは、完全に勝つ戦争と思っており、当然、日
 本もそのことは知っていた。
  日本は、戦争になる前から、その様な分析はしっかり
 しても居たし、十分承知していた・・しかし、せざるを
 得ない事態に追い込まれて行った。
  戦争に至らざるを得ない事々を、いくつもなされてい
 た・・戦端を開かざるを得ない事情に追い込めて行かれ
 た。
.
1941年、アメリカによる「戦争に至らせようとする挑発」・・
  例えば、一例として、日本の領海内に、アメリカ巡洋
 艦を侵入させて、日本と衝突事件を引き起こそうとした
 りした。
.
1941年11月26日、ハル・ノート
  「厳秘」と書かれ、また、冒頭に、「一時的、且つ、
 拘束力無し」と書かれていたが・・、
  正式には「アメリカ合衆国及び日本国間協定の基礎概
 要」と称され・・、
  また、アメリカでは「1941年11月26日アメリカ提案」
 と言われている(提案ではなく・・最後通牒)
  この日に、日米交渉において、アメリカ側から和平を
 したい日本側に提示された文書だった。
  交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国
 務長官の名前から「ハル・ノート」と称されている。
  東京裁判で、判事であるインドのパール判事が・・、
  「この様な最後通牒を出されては、モナコでさえ武器
 をとって立つ。
  日本が戦争に至ったのは、当然の行為だった」と言う
 ほど強圧的な内容だった。
  また・・アメリカには、キリスト教の考え方から、「
 先に銃を抜からなければ、罪にならない」という考え方
 がある。
  だから故に、アメリカ西部劇でも「卑劣な殺し屋が、
 善人の農夫を撃ち殺す」という事件が起きる。
  金持ちの牧場主に雇われた殺し屋は、農夫の持つ農場
 を欲しい牧場主の依頼通りに、農夫を撃ち殺す。
  農夫は、愛する妻や息子のために、農場は、売りたく
 なかった。
  ここで、殺し屋が、とことん善人の農夫を虐(いじ)
 め、『人格攻撃の卑劣な言葉』を浴びせる。
  農夫をぎりぎりまで追い詰める悪漢・殺し屋。
  暴発せざるを得ない状況に追い込み、農夫が銃に手を
 掛けた途端、殺し屋は、その農夫を撃ち殺す。
  毎日、毎日、撃ち殺す練習をしている殺し屋には、何
 らいつもの練習通りの行動で、殺し屋には、何ら危険は
 生じていない事態だった。
  毎日、鍬(すき)や鍬(くわ)を持って、銃など持つ
 事のない善人の農夫。
  当然の様に、結果は、リスクは、農夫側に100パーセン
 トあった。
  しかし、キリスト教の考え方は、先に銃を抜いた農夫
 が悪く、殺し屋は無実になる。
  熱心なキリスト教を信仰するアメリカ大統領のルーズ
 ベルトは、この様な考え方を持って日本を徴発した。
  「先に日本に手を出させれば、アメリカは正義だ」だ
 った・・卑劣な考え方だった・・、
  ニューヨーク・タイムズが、その点を指摘したが、「
 その通りだった」。
  卑劣さのあるルーズベルトだった。
  法律に、「過失相殺」とか、「責任相殺」とかの考え
 方がある。
  キリスト教的な考え方を否定している。
  「撃たせた側」も責任は、免れ得ないとしている。
  一方的に片方だけの責任を追及するという考え方は「
 間違っている」としている。
.
1941年12月11日、日独伊三国間単独不講和協定を締結する・・
 しかし、裏切るドイツ。
  第二次世界大戦(大東亜戦争)の頃、すでに、日本は、
 「ドイツは、ロシアに次いで、最も頻繁に同盟や条約を
 破って来た国だった」と知っていた。
  「国際信義に劣る国」と知っていた。
  逆に、日本は、条約などの国際取り決めを、しっかり
 と守る国際信義の高い国だった(今もそうだが)
  しかし、日本は、1941年12月11日、日本・ドイツ・イ
 タリアと、「単独不講和の確約(日独伊三国間単独不講
 和協定)」を結んだ。
  (因みに、連合国側も同じことをやっていた)
  (参考)日本、ドイツ、イタリアのいずれも「相互ノ
     完全ナル了解二依ルニ非サレハ『アメリカ』合
     衆国及英国ノ何レトモ休戦又ハ講和ヲ為ササル
     ヘキコトヲ約ス」
  これは、それぞれ単独では連合国と講和をしないとい
 う協定だった。
  そして、日本は律義に、この協定を、約束を、最後ま
 で守り抜いた。
  日本は、連合国と停戦するきっかけを失った。
  だから、日本は、ドイツが、めちゃめちゃにやられ、
 破壊され、敗北し、そして、ドイツが無くなった後に、
 日本は降伏するという道をたどった。
  しかし、ドイツは、秘密にロシアと講和の交渉を、す
 でに、1943年に行っていた。
  それも、1944年まで、何度も行っていた。
  そして、アメリカやイギリスとも、講和を単独で行お
 うとしていた。
.
1943年11月5日、日本が、大東亜会議を、東京で開催した。
  第二次世界大戦(大東亜戦争)は、「栄光ある戦争」
 という言葉で表現することができる。
  この戦争は、アジアの国々の解放(かいほう、束縛を
 解いて自由になること)につながったことは論を待たな
 い、間違いない事実だ。
  この年・1943年、日本は、アジア各国の首脳を東京に
 招いて「大東亜会議」を主催し、各国の共存共栄を謳っ
 た。
  そして、「大東亜共同宣言」を発表した。
  アメリカや、ヨーロッパ諸国の植民地であったアジア
 各国の自主独立を唱(とな)えたこの宣言は・・、
  21世紀の今日(こんにち)、日本が、日本人が、世界
 へ誇れる行動の史実だ・・財産だ。
  そして、日本人は、この戦いに於いて、大変な団結心
 を示し・・また、目ざましい自己犠牲の精神を示した。
  明日の公正な社会を啓(ひら)く特攻隊などの行動が
 あった。
  (参考)啓く:ひらく、蒙(もう)を啓(ひら)くの意味
     《「啓蒙 (けいもう) 」を訓読したもの》道理に
     くらい者や知識に乏しい者を教え導く。
  命を捧げた日本の若者たちの行動と、その精神は、世
 界のどの国民の方々からも賞賛されている。
  中西輝政京都大学大学院教授は言われる・・、
  「私が、昭和40年代に、イギリスへ留学した時、そこ
 で言われたのが・・『あなたの国には、カミカゼを行な
 った素晴らしい人たちがいた』というものだった。
  私が、少し勉強を怠けていると、『あなたは、自己犠
 牲と大変な頑張りの精神を示した素晴らしい先輩のいる
 国の人でしょう。少しはしっかりしなさい」・・と、外
 国の人から言われたものでした。
  あの戦争で、日本人が示した自己犠牲の精神は、大い
 なる『民族の叙事詩』として、胸を張って子々孫々に伝
 えて行くべきものであり・・、
  日本人の世代が大きく変わろうとする今こそ、そのこ
 とを前面に押し出さなければならない時だ」・・と。
.
1945年8月6日、広島の原爆投下を、40キロ離れたところで
 経験した若松八郎氏は言う・・、
  「学校で変な光を見た直後、ものすごい衝撃が来て、
 空に変な雲が上がるのを見ました。
  幼年学校は、田舎に分散疎開し、私は、市の中心部か
 ら40キロほど離れた吉田という場所に居たので、被爆を
 免れました。
  吉田にあった赤十字の分院に、負傷者たちがトラック
 などで運ばれ・・、
  私たち幼年学校生は、彼らを抱えて、3日~4日、不休
 で病床に寝かせました。
.
1945年8月15日、天皇陛下の玉音放送。
  天皇陛下は終戦の詔勅(しょうちょく)で、「万世ノ
 為二太平ヲ開カムト欲ス」と言われた。
  日本が国として立って行くための基軸の大切さ、孫子
 (まごこ)の世代まで受け継いで欲しいというお気持ち・
 「大御心(おおみごころ)」をお言葉にされた。
.
1945年8月15日、第二次世界大戦(大東亜戦争)、この日、
 敗戦を宣言したが・・、
  日本のこの行動が・・アジア諸国の方々が・・、
 アメリカ・イギリスなどのヨーロッパ諸国に、植民地に
 されて、好き勝手をされていた・・その状況から解放し
 たいという事に関し・・この後・・、
 アジア諸国が独立して行くことで・・日本の目的は叶っ
 た。
  その1例を記せば・・、
  イギリスは、アジア各国の港を押さえ、植民地経営だ
 けでなく、アジア各国の社会資本にまで、イギリスの所
 有物の様に好き勝手に使用したりしていた。
  そして、香港やシンガポールの港さえ押さえ、船の燃
 料だった油や石炭を積むことのできるポイントを押さえ
 たりしていた。
  それを、日本が戦って、植民地を解放をしたことによ
 って、アジアの国々は独立し、植民地は無くなった・・
  そして、この様なイギリスに都合のよかった港も、「
 イギリスだけのものではなくなった」。
  イギリスは、日本を恨(うら)んだ。
.
1945年8月15日、鈴木貫太郎内閣が総辞職した。
.
1945年8月16日、日本政府が、明確に陸海軍に停戦を命じた。
  中国大陸では、9月半ばまで中華民国軍と戦闘が続いた。
  中国・共産党軍は、陰に隠れて日本とは戦っていなか
 った。
  ソ連軍が、南樺太と満州へ侵攻を開始した。
.
1945年8月16日、ベトミンが独立を期して、総蜂起を発動し
 た。
.
1945年8月28日、蒋介石と毛沢東による国共首脳会談が開催
 された(重慶会談)
.
1945年9月5日、ソ連(ロシア)は、この日まで、不法に日
 本領土を奪い続けた。
  日本の領土の樺太、千島、北方四島に対してである。
  北方四島は、既に、江戸時代から日本の施政権がおよ
 んでいる・・、
  日本人が居住し、住み暮らし、経済活動がなされた地
 で・・ロシア人の「ロ」の字もない、完全な日本である。
  樺太は、日本人が住み始め、その後にロシア人が来て、
 住むようになった。
  その後なって、ロシアは樺太を混住地だと主張し始め、
  その後、日本とロシアの間で色々とトラブルが起き、
 問題は無くならなかった。
  日本とロシアは、千島列島と樺太の交換条約を締結し、
 問題の解決を図った。
  そして、第二次世界大戦の時に、ソ連(ロシア)は、
 アメリカのルーズベルト大統領にそそのかされて、日本
 の領土が欲しいと・・日本領土の各地に、「日ソ中立条
 約」を一方的に破棄して、日本領に攻めて来た。
  そして、日本領土の北方四島、千島列島、樺太などを
 占領した。
  北方四島は、択捉島(えとろふとう)、国後島(くな
 しりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞諸島(はぼ
 まいしょとう)で、当然、日本の固有の領土。
  終戦の時、1万7000人の日本人が住んでいた。
  そして、8月28日~9月5日の武力行使で、北方四島や
 千島列島や樺太を奪った。
  現在も、日本へ返還しないで「不法占拠」を続けてい
 る。
.
1945年9月8日、連合国軍が、東京に進駐した。
  以後、都内の建物の600箇所以上を接収した。
  アメリカの日本の戦後統治の草案は、反対意見もあっ
 たが、主流となっていた案は、完全なキリスト教の「シ
 ャロームの考え方・教義」で、完全破壊であった。
  日本の工業力を根こそぎに破壊する・・だった。
  それでなくても、日本は、爆撃で完全に破壊され、荒
 廃し尽くされた状態だった。
  まったく血も涙もない案だった。
  この上に、こんな懲罰を加えるアメリカに正義が、あ
 る訳はなかった。
.
1945年9月10日、GHQが、大本営廃止を発令した。
  (9月13日24時以前に廃止)
.
1945年、勝てば官軍ではないが・・、
  今・現在(21世紀)、敗戦国サイドに居たくないと、
 「我々は、戦勝国だ」と言い出す国や・・、
  戦争もしていないのに、戦勝国サイドに居たんだよと
 主張する節操の無い国や・・、
  また、敗戦が、見えてきたら、戦争遂行者はこいつだ
 と、その一人が全責任あるようにして、捕らえて殺し、
 我々は、だから戦勝国サイドに居ますと言っている国、
 卑怯な国々がある。
  イタリアは、卑劣なリンチ(私刑)で、ムッソリーニ
 を殺した。
  戦後の裁判も行われず、総括して無い卑怯な国などが
 ある。
  連合国の追及の逃れている。
  日本は、堂々と、国際社会の中で事を処して来た。
  日本は、ドイツに共にソ連侵攻などの作戦案があった
 (ドイツから誘われた)、しかし、日本は、ソ連との「
 中立条約があるから・・それを守った」、
  しかし、その後、アメリカのルーズベルトは、その条
 約を破って、日本へ侵攻した方がよい・・その領土は認
 めると、ソ連を誘った・・日本が守った条約を、ソ連は
 破って日本へ攻めて来た。
  ソ連が、以前から、領土を欲しがっていたことを、ル
 ーズベルトは知っていたので・・誘ったのだった。
  ソ連は、その誘いに乗って日本との条約を破って、ア
 メリカの誘いの通りに、日本へ侵攻して来た。
  日本の多くの入植者の方々が、ソ連の戦車に踏みつぶ
 され、機関銃で撃ち殺された。
  中立条約国のソ連が、日本の虚を突いた。
  町でも、野でも、日本人は殺され・・また、日本の女
 性方は強姦され、また、殺された。
.
1946年2月2日 ソ連が、不法にも、全樺太と全千島列島の領
 有を宣言した(2月20日説あり)
.
1946年7月4日、フィリピンが独立した。
  第三次フィリピン共和国がアメリカ合衆国より独立し
 た。
.
1946年8月、インドネシア共和国が独立を宣言した。
.
1946年9月、ベトナム民主共和国が対仏独立を宣言した。
.
1946年12月、フランス軍が共産ベトナムを攻撃開始した。
 (インドシナ戦争勃発、~1954年)
.
1947年8月14日、パキスタンが、イギリスから独立した。
.
1947年8月15日、インドが、イギリスから独立した。
.
1948年1月4日、ビルマが、イギリス連邦を離脱して独立を
 宣言した。
.
1948年2月4日、セイロン(スリランカ)が、イギリスから
 独立した。
.
1949年12月27日、独立戦争の結果、インドネシアの独立が、
 オランダから承認された。
.
1989年6月4日、六四天安門事件(第二次天安門事件)
  民主化を求めるデモ隊と中国軍や警察との衝突。
  多数の死傷者を出した。
  中国の天安門広場の前で、戦車の前に立ちはだかった
 中国市民の英雄・・
  今、どうなって居られるでしょうか?
  日本にも、幾多の若い英雄が、勝敗を度外視して、ア
 メリカの前に立ちはだかった幾多の若い英雄が居られま
 した・・
  昨日までの若い市井の青年たちは、特別攻撃をされて
 行きました。
  トルコのイスタンブールの市民の方々も、戦車の前に
 立ちはだかりました。
  中国・天安門の場合、へしまがった持ち主の居ない自
 転車が、何台も路上に散乱している写真を見ました。
.
2003年7月、中国は、前言を取り消した・・香港のこと・・
  中国の姿勢。
  中国は、昔から覇権志向である。
  「短期の国際協調、長期の覇権志向」である。
  鄧小平が、「今は豊かになることに専念する」は、本
 質は隠して、陰に・・覇権志向がある。
  鄧小平の言葉・・、
  「冷静観察、沈着対応、船光養陶、決不当頭」
  (頭を低くして冷静に観察して、落ち着いて対処し、
 こちらの能力を見せつけてはならない。
  外国との摩擦は・・極力避け、経済発展がある段階を
 越えるまでは隠忍自重し、好機を待て、
  決して先頭に立つな・・
  矛盾は矛盾のまま放置し、将来の解決に備えるにとど
 めよ。
  自らの力を付ける事に、何よりの関心を集中せよ」。
  そして、問題をすべて「政治化する」・・、
  靖国問題、歴史教科書問題・・など、など・・
  また、中国は、言った事を守らないことが、甚(はな
 は)だしい。
  また、言ったことを・・直ぐ変える。
  中国に言わせれば、「君子豹変するものだ」と言いた
 いのだろう。
  言ったことだって、「何時、変るか?」安心していら
 れない。
  鄧小平が、「香港の自由は、今後、百年経っても保障
 する」と言ったが・・??
  2003年7月の6年後に、前言を取り消しとなった。
  香港の1割の市民の方々・60万人の方々が、デモに立
 ち上がった。
  台湾にしたって、明治の日本政府に、「化外の地だ、
 御自由にどうぞ」と、中国は言ったのだ。
  (参考)化外の地:(けがいのち)は、中華文明に於
     いて文明の外の地方を表す言葉。
      中華思想では、中国の権力・法律が行き届か
     ない地方、中国の領土外のことをいい、また、
     その地方に住む民族を「蛮族」と呼んだ。
      中国の古代では、中原から遠く、中華文化の
     影響が薄かった台湾・海南・新疆などのことを
     指す。
  南シナ海の九段線にしたって、「2000年前から、中国
 のものだった」と言っているが、船もない時代のことの、
 裏付けのない事を、中国は言っている。
  覇権を得たいがための妄言だ。
  だから、国際司法裁判所の「中国の権利は及ばない」
 の判決は正しい。
  これ等の事に対処するためにも、日本は、情報を得る
 手段を構築し、また、ミサイルの脅威に対処する手段も
 構築すべき・・、
  戦前、アメリカの画策によって、「日英同盟が破棄さ
 せられた」・・が・・これが、大きな問題点だったが・・
  そして、今、日本は、日米を基軸の中心とすべきだが・・、
  しかし、アメリカには、今ですら、建国以来の覇権志
 向があって・・日本の志向する方向と違って来る時があ
 る・・
  これには、注意しなくてはならない。
.
2015年7月5日、ギリシャの国民投票が行われ・・
  『EUの再建策を受け入れない』・・となった。
  厳しいEUの再建策は、『嫌だ』と、ギリシャの人々
 は、国民投票で意思表示をした。
  金を借りる時は、「にこにこ顔だったギリシャ」だっ
 たが、その金を返す段階になったら・・豹変した。
  この様な事は、こと・・ギリシャに限ったことではな
 いのだが・・? 
  また、ギリシャは、借りた金のほとんどを飲み食いに
 使ってしまっていた。
  ギリシャという国を改善するための投資の金という名
 目の金も、ギリシャは消費に使ってしまった。
  投資で「利潤が生まれる」という展開では無かった。
  ギリシャの人々は、チプラス首相を頼った。
  チプラス首相は、EUを批判した・・、
  「再建策の提案は、EUのルールと基本的な権利を侵
 害している」・・と、
  そして、「そのEUの再建策を受け入れるか?どうか
 は、7月5日の国民投票で決める」とした。
  ギリシャが借りた金を返す期限は「6月30日だった」。
  債務の返済期限を越えた、債務の支払期限を越えてい
 る・・もう、この時点で、返済を無視した話だった。
  EUは、『唖然とした』。
  「新たな融資」にも踏み切れない状態だった。
  ギリシャは、この時点で「アウト」がそのルールだっ
 た。
  債務不履行である。
  ギリシャは、デフォルトとなる訳だった。
  しかし、『うやむや』の空気が流れた。
  ギリシャも『デフォルト』は嫌だった・・避けたかっ
 たが・・EUも嫌だった。
  ギリシャ国内では、急速にユーロが無くなって行き、
 銀行ではお金が下ろせなくなった・・または、少額しか
 下ろせなかった。
  ECB(欧州中央銀行)は、緊急で、ユーロを放出し
 て支援した。
  しかし、この様な状態が長く続くとは、誰も思わなか
 った。
  銀行の業務が滞(とどこお)ると、貿易も止まった。
  NGO(非政府組織)も金が下ろせず、NGOが援助
 している難民救済の業務はできなくなった。
  しかし、そのギリシャの国民投票の結果は、チプラス
 の勝利となった。
  EUの再建策は受け入れないとなった。
  ECB・IMF(国際通貨基金)・EUは、大きなシ
 ョックを受けた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2018-03-20 16:32 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)583E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年6月~1893年7月)

題:(増補版)583E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年6月~1893年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年6月、帝国海上保険会社が設立された。
  安田火災海上保険の前身の一つ。
  そして、この年、東京火災保険(株)を傘下に入れ、
  翌・1894年、共済五百名社を改組して、共済生命保険
 (資)とした。
  1899年、安田商事(名)を設立し、ここを拠点に金融以
 外の事業へも進出を図ったが、おおむね成功を収めなか
 った。
1893年6月、国産蒸気機関車の第1号が完成した(5月説あり)
  イギリス人技術者の指揮の下、日本初の国産機関車で
 ある860形の1輌が、鉄道庁神戸工場で製造された。
  故に、この860形は、日本国有鉄道の前身である逓信省
 鉄道庁が、自庁の神戸工場で製造したタンク式蒸気機関
 車で、
  記念すべき日本初の国産蒸気機関車(車軸配置2-4-2
 (1B1)で2シリンダ複式の飽和式タンク機関車)である。
  設計と製作の指揮を行ったのは、当時、神戸鉄道局の
 汽車監察方として雇われていた、イギリス人のリチャー
 ド・フランシス・トレビシック・・、
  彼は、当時、イギリス本国で注目を集めていた2シリン
 ダ複式機関車の試作を思い立った。
  そして、森彦三や太田吉松といった日本人の技術者た
 ちを指揮して、1892年10月、本形式の新製に着手した。
  また、実際の製造に携わった神戸工場の工員たちも、
 すべて日本人であり、外国人の工員は一人もいなかった。
1893年7月3日 筑豊興業鉄道会社線の小竹~飯塚間が開通し
 た。
  これによって、直方~飯塚間が全通した。
  かつては、石炭輸送が盛んであって、炭鉱などに通じ
 る多くの貨物支線が有ったが、炭鉱の閉山によって、現
 在はすべて廃止されている。
  現在の列車は、旅客列車のみとなっていて、直方市~
 飯塚市などの市町から、北九州市・福岡市などとの通勤・
 通学路線となっている。
1893年7月10日、東京美術学校で第1回卒業式が挙行された。
  横山大観らの11人が卒業した。
  東京美術学校は、1887年に設立された美術専門学校で、
 日本初の美術教員・美術家養成のための機関だった。
  1886年~1887年にかけて、文部省図画取調掛委員とし
 て、岡倉覚三(天心)およびフェノロサは、欧米調査旅
 行を行った。
  この旅行は、美術教育全般に関わる調査を目的とした
 もので・・、
  美術学校の組織管理、および、学科教授法も含まれて
 いた・・、
  1887年10月、2人の報告に基いて、勅令により図画取調
 掛および工部大学校内「工部美術部」を統合・改編し、
 東京美術学校が設立された。
  修業年限は2年で、基礎実技と学科を担当する「普通科」
 は3年で、専門科目を担当する「専修科」も設置した。
  取調掛委員長の濱尾新は、事務取扱にとどまり、
  1889年2月の開校後・・、
  1890年に就任した岡倉覚三が、事実上の初代校長とな
 った。
  副校長は、フェノロサが務め・・、
  開校時の他のスタッフは、岡倉を幹事、フェノロサを
 「雇」(外国人教師)としたほか・・、
  教官は、黒川真頼、橋本雅邦(教諭)、小島憲之(嘱
 託)・・、
  後に、川端玉章・巨勢小石・加納夏雄・高村光雲らを
 加えた。
  教官となったのは、ほとんどが日本画家などの伝統的
 美術家で・・、
  (狩野芳崖も、教授就任が打診されていたが開校直前
 に死去したため実現しなかった)
  伝統美術の振興をめざす岡倉とフェノロサの理念が具
 体化された形となった。
1893年7月11日、御木本幸吉が真珠の養殖に成功した。
  御木本幸吉が三重県の英虞湾で、真珠の養殖に成功。
  真珠5粒をあこや貝のなかから取り出した。
  この真珠は半円のものだった。
  御木本幸吉(みきもとこうきち、1858年3月10日~1954
 年9月21日)実業家。養殖真珠の創始者(ミキモト・パー
 ルとして、世界的に有名)、真珠王と言われる貴族院議
 員。
  1858年、志摩(三重県)の「うどん製造販売業」の長
   男に生まれた。
   幼い頃から、旧藩士や、洋学者のもとへ勉学に通う。
   少年時代には、青物行商など行なって、生計を立て
   た。
   商才もあり、鳥羽沖に停泊したイギリスの測量船に
   青物を売り込み、外国人を相手にする商売のうまみ
   を開眼した。
  1880年(22歳)鳥羽町会議員となる・・また、海産物
   取引などに従事し・・天然真珠の売買も行った。
   進取の精神のある祖父の血を受けた幸吉は、地の利
   を生かす海産物取引に着眼した・・
   そして、干しアワビを取り扱ううちに、真珠へ関心
   を寄せた。
  1887年(29歳)明治天皇陛下の母君(英照皇太后)へ
   真珠を上納する。
   この時を切っ掛けに、真珠貝の増殖に取り組み、腐
   心する。
  1888年(30歳)真珠貝の養殖を試みる。
  1890年(32歳)第3回内国勧業博覧会に、真珠貝(アコ
   ヤガイ)や真珠を出品した・・、
   審査官の動物学者である帝国大学 (現:東京大学)
   の箕作佳吉(みつくりかきち)氏に出会う。
   真珠養殖を決意(アコヤガイの乱獲による絶滅寸前
   を憂えた・・、
   当初は、アコヤガイの養殖を始めて・・、
   後に、真珠そのものの養殖を思い立った・・ここで
   箕作先生らの指導を受ける)
   (着眼したのは、アコヤガイに、ガラスや貝殻など
   で作った半球形の核を挿入すること・・)
   箕作佳吉・西川藤吉・見瀬辰平の各氏らの労苦ある
   指導を受けて・・、
   この後、稚貝の養殖に成功する・・、
   (アコヤガイは、水温8℃以下では死滅する・・
   冬季の湾内の真珠いかだは、冷潮に注意しなければ
   ならなかった・・そのため、西方の温暖な五ヶ所湾
   や、南方の海山町(みやままち)の引本や尾鷲市九
   鬼方面へ移動した)
   さらに、本格的な真珠養殖に着手する。
   幾度かの失敗を重ね、辛苦を重ねる・・
   また、真珠貝の他にも、カキ、エビの他県への移植
   などにも活躍した・・
  1893年(35歳)志摩相島 (おじま、現:真珠島) で養
   殖の成功をみる・・
   そこには・・タンポと呼ばれる金網の籠をつるした
   養殖いかだの点綴(てんてつ、一つ一つを綴り合わ
   せること)する湾の風景があった。
   この時、半円真珠を、初めて市場に出した。
   また、御木本は、養殖真珠に関する資料を収集し、
   相島の施設を整備し、この島を観光の島へとして行
   く・・、
  1896年(38歳)養殖技術に関する特許を取得する。
   この後、数々の特許を獲得・・、
  1899年(41歳)銀座裏に、御木本真珠店を開店。
   この頃から、ほぼ毎年、海外博覧会へ出品。
  1900年(42歳)パリ博覧会へ真珠を出品。
  1905年(47歳)真円真珠の養殖法に成功する・・天然
   真珠と異ならない品質だった。
   以後、これを事業化。・・、
  1907年(49歳)三重県の見瀬辰平氏が、真円真珠の特
   許を得る。
  1919年(61歳)ロンドン市場に売り出す。
   この頃から、ロンドン、ニューヨーク、パリなどに、
   直販店を開設し、「世界のミキモト」としての地位
   を確立して行く・・、
  1928年(70歳)養殖場を志摩郡の英虞湾・田徳島(後
   に、多徳島へ名称変更)へ移転する。
   また、県外へも養殖場を拡大する事に意を用いた。
   事業が成功に導かれたのは、この優良な養殖場が確
   保できた事にもあった。
   そして、3回の外遊の時にも、日本の真珠を積極的に
   宣伝し・・、
   養殖真珠は、日本の重要な輸出品にまで高められた。
   また、販売面において、海外市場の開拓に多大な功
   績を残した。
  1954年9月21日、死去する。96歳・・没後、勲一等が
   贈呈された。
   御木本幸吉の誕生の地には、パールアイランド、養
   殖真珠のモデル工場、真珠博物館、海女実演場など
   がある。
  [言葉]:人間は運と知恵だけでは成功しない。健康が大
     切だ。
  [モットー]:世界中の女性の首を真珠で飾りたい。
1893年7月11日、アフガニスタンとイギリス領インドが、国
 境線を画定した。
  アフガニスタンは、イギリスと第二次アフガン戦争を
 せざるを得なかった。
  1879年、この戦争の結果、アフガニスタンは、イギリ
 スに外交権を奪われ、保護国となった。
  本当は、アフガニスタンの激しい抵抗は功を奏してい
 た。
  そして、事実上は、アフガニスタンは勝利し、イギリ
 スは敗北していた・・が・・、
  しかし、イギリスは、外交渉に於いて・・、
  「イギリスは、アフガニスタンの内政には、一切、干
 渉しない。
  故に、だから、アフガニスタンは、イギリス以外のい
 かなる国とも政治的な関係を結ばない」・・という約束
 を、アフガニスタンから取り付けた。
  これは、事実上のアフガニスタンの『保護国化』だっ
 た。
  そして、また、イギリスは、イギリスになびく、また、
 イギリスに都合のよい「王の擁立に成功した」。
  このアフガニスタンの王と、イギリス領インドとの間
 で、この年・1893年、国境線の画定がなされた。
  この時、アフガニスタンの側が不利であった・・が・・、
 アフガン国王への補助金を、年間120万ルピーから180万
 ルピーに引き上げるという話で・・納得させた・・させ
 られた。
  しかし、無理に確定した、各民族の納得する確定では
 ない「無理があった」ため・・、
 「民族の意思を無視する面」もあったため・・問題を残
 し・・また・・、
  アフガン国王も、『暫定的なものだ』というようなこ
 とも言われていたので、その様に思っていた・・しかし・・、
  しかし、その後、改訂されるようなことは・・行われ
 なかった・・その様な・・イギリスだった。
  インド側にも不満があるし、この様な、『イギリスの
 ペテン的なやり方』は、現代に至っても、問題は解決せ
 ずに・・、
  現代に至っても『引きずる問題』となっている・・
  こういう意味で、イギリスは、世界のあちこちで、こ
 んなことをやって来ていて・・『問題を作る国』だった。
  今・現在の・・ターリバーン政権の誕生や、国際テロ
 組織がからむ問題にもつながっている。
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  (今日の言葉)
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  題:結局、中国は、軍拡は無駄だという事を・・理解すべきだ。
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紀元前3300年頃、この頃からメソポタミアの地に、シュメ
 ール人の文化が生まれた。
  砂漠化が進む気候の中で・・、
  チグリス・ユーフラテス河に集まった人たちは、その
 豊かな水で、大規模な農耕をした。
  河は、定期的な洪水で、肥沃な土を運んで来た。
  紀元前2500年頃になると、このシュメール人は、『ウ
 ル第一王朝』の王国を築いた。
  エジプトは、砂漠と海に守られて、安定した社会だっ
 た・・が・・、
  ・・が、しかし・・このシュメール人の地は、侵入さ
 れやすい地だった。
  アラビア半島や、イラン高原や、アナトリア高原(小
 アジア、現在のトルコ)などから、様々な民族が、メソ
 ポタミアの地へ侵入した。
  そして、シュメールは、セム系のアッカド人に滅ぼさ
 れた。
  アッカド時代(紀元前3350年~紀元前2180年)になっ
 た。
  そして、セム系のアムル人が、紀元前1830年に、メソ
 ポタミア全土を統一し、『古バビロニア王国』を建国し
 た。
  セム系はアジア人で・・アラブ人、ユダヤ人、フェニ
 キア人、エチオピア人などがセム系。
  この古バビロニア王国は、紀元前796年まで続く・・、
  この王国は多神教で、神の総数は4000もあった。
  シュメール時代から受け継がれて来た神があったり、
 アッカド時代に加えられた神々があったりした。
  古バビロニアの時、君主が、マルドゥク神を最高神と
 した。
  メソポタミアも、多神教の神々の中の一つの神を、最
 高神とした。
  多神教から一神へ代わっていく、変化があった。
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紀元元3000年頃、この頃より、地球規模で雨量の減少が始
 まり・・、
  紀元前1000年頃に至ると、現在の様なアフリカ北部か
 ら中近東を経て、チベットなどのインド北部に至る広大
 な乾燥地が出現した。
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紀元前2300年頃、インドの北西部のインダス川流域にイン
 ダス文明が作られた。
  インダス文明は、現在、インド南部に居るドラビダ人
 によってつくられ・・、
  農耕に基礎を置き、多神教を信じた。
  このインダス文明は、地球が乾燥化して行く中で、紀
 元前1800年頃に終焉した。
  インドは、紀元前1500年頃に至って、北方の遊牧民で
 あるアーリア人の侵入を受けた・・そして、新たな文明
 となった。
  アーリア人は、この後、インド北東部のガンジス川流
 域に本拠地を移し、農耕を始めた。
  アーリア人は、火で樹木や草を焼く焼畑農耕を行なっ
 た。
  紀元前1200年頃より、アーリア人は、火の神を農耕神
 とする信仰となった。
  この後、一時的に、太陽神やモンスーンの神を農耕神
 としたこともあったが・・、
  アーリア人の民の間には根付かず・・、
  アーリア人の信仰は、バラモン教の形となった。
  紀元前650年頃には、バラモンと呼ばれる司祭者たちに
 よって、ブラフマンが最高神とされた。
  この最高神は、『全世界(宇宙)の創造者』とされ、
  この信仰は、この後に、仏教やビンズー教やキリスト
 教へ影響を与えた。
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紀元前21世紀頃、この頃から、エジプトの中王国の時代、
 アメン・ラーを最高神とする信仰が広がった。
  だが、この頃のメソポタミアは多神教だった。
  いろいろの神を信仰の対象とした。
  君主が、一時期、マルドゥク神を最高神としたが、民
 衆には定着しなかった。
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紀元前17世紀頃、中国の殷(いん)(紀元前17世紀頃~紀
 元前1046年)が成立した。
  殷は、中国の王朝で・・文献で、天乙が夏を滅ぼして
 王朝を立てたとされ・・、
  考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝。
  殷王朝の軍隊は、氏族で構成され、殷王による徴集を
 受けると、普段は農耕に従事していた氏族の構成員たち
 が武器をとり、出征するという形で軍隊を編成した。
  この軍隊を指揮するのは、各氏族の貴族だった。
  強大な軍事力を誇ったこの殷王朝は、度重なる戦争に
 勝利を収めるために、兵種、戦法、軍備などを発展させ
 て行った。
  その中で、特筆すべきは、「三師戦法」という大量の
 戦車を活用する戦術だった。
  殷王朝が、歩兵中心の軍制から、戦車を中心とした軍
 制に変化するのは・・、
  殷の支配域が拡大して、黄河中下流域や、中原など、
 戦車を疾駆させるのに適した平原地帯が戦場となって行
 ったからだった。
  戦車は、歩兵と共同して戦いを行った。
  1輌の戦車には、3人の兵が乗り、左側の兵士が弓を、
 右側の兵士が矛や戈を持ち、中央の兵士が御者となった。
  戦車部隊は、5輌が最小単位で、戦車兵15人と付随する
 歩兵15人からなっていた。
  100輌の戦車と戦車兵と歩兵がそれぞれ300人・・、
  25輌の戦車と戦車兵と歩兵が75人というふうに、
  戦車が、5の倍数で、戦車兵と歩兵は15の倍数で編成さ
 れていた。
  戦車の運用法では、「三師戦法」が編み出され、これ
 は軍隊を左、右、中の3つの部隊に分け、互いに連携して
 敵に対処するというものだった。
  軍備は、戦車戦に適した戈や矛、弓矢、木製の盾、刀
 などが使われた。
  しかし、紀元前11世紀に、帝辛の代に周によって滅ぼ
 された(殷周革命)
  この殷は、農耕の繁栄をもたらす天の神「上帝神(じ
 ょうていしん)」を祀っていた。
  そして、殷の後半頃に「天(てん)」という最高神に
 なった。
  儒教を開いた孔子は、この天の考えを元に「『天』と
 は人間が従うべき真理である」と言った。
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紀元前14世紀末、エジプトに、唯一神のアトン神の信仰が
 できた。
  しかし、このアトン神は、まもなく祀られなくなった。
  この一神教のアトン神は、新王国のエジプト第18王朝
 の国王と、アメン・ラーの祭司たちとの対立が切っ掛け
 で作られたものだった。
  エジプト第18王朝は、紀元前14世紀に入ったころから
 次第に国王の権力が拡大していたが・・、
  王都のテーベの神殿を本拠とする最高神アメン・ラー
 の祭司たちが、政治に色々と口を出し、王の政治を困ら
 せ、行き詰まらせ、王の権力を抑えるほどになった。
  アメンホテプ四世(在位:紀元前1377年~紀元前1358
 年)が王となった頃には、アメン・ラーの神殿の祭司た
 ちは、エジプト王国の収入の半分以上を自分たちが、思
 のまま消費するというありさまだった。
  忍耐の限界を超えたアメンホテプ四世は、新たな王都
 を築き、アメン・ラー神に代えて、アトン(アテン)神
 を新たな国の守り神とした。
  彼は、紀元前1373年、王朝発祥の地テーベを放棄し、
 新たな都テル・エル・アマルナを築いた(アマルナ改革)
  ここを、アトン神の聖地とし、神殿を築かせた。
  これは、王権と宗教的権力を一本化することを狙って
 もいた。
  (参考)エジプト第18王朝:紀元前1570年~紀元前1293
     年、新王国時代最初の古代エジプト王朝。
      アメンホテプ4世は、従来の多神教であったエ
     ジプトの宗教を変えて、世界初の一神教と言わ
     れるアテン神信仰を追求した。
      しかし、「実際は二神教であった」とする学
     説もある。
      それは、伝統的なエジプト宗教と同じく・・
     王たるアメンホテプ4世自身も神であるとされて
     いた。
      神アテンは、アメンホテプ4世だけの神で・・、
      民は、アメンホテプ4世自身を神として崇拝す
     る様に説かれ、このアメンホテプ4世の神が、民
     を救済するという形だった。
  (参考)アメンホテプ4世:紀元前1362年?~紀元前
     1333年?、古代エジプト第18王朝の王(ファラ
     オ)(在位紀元前1353年?~紀元前1336年頃?)
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1274年、元寇
  この年に、文永の役の元寇があり・・、
  この時は、900隻の船で、3万の中国の「元(げん)」
 の兵が、日本へ襲って来た。
  また、7年後の1281年6月、弘安の役の時は、4400隻の
 船で、14万の兵が襲って来た。
  この時の日本政府の鎌倉幕府は、よく戦った。
  鎌倉幕府の御家人たちは、よく防いだ。
  日本側は、略奪と暴行の被害を受けた。
  中国の元に駆逐された朝鮮軍も一緒になって攻めて来
 た。
  日本の九州へ襲来する前に、日本の「対馬(つしま)」
 を襲っていたが・・、
  その時、朝鮮軍は、日本の対馬の女性方を手籠め(性
 的乱暴)を加え、また、連れ去ったりしていた。
  朝鮮・韓国は、この件については、一言も触れない。
  日本の兵士・御家人たちは、新しい武器の攻撃を受け
 たが、よく戦った・・
  例えば、夜の闇に紛(まぎ)れて、元の船に乗り込み、
 さんざん斬り回ったあげく、船に火をつけて引き上げた
 りした。
  今・現代、中国が、尖閣諸島を奪いに来るときも、こ
 の様な状況になるだろう。
  多数の漁船に、漁師に見せかけた中国兵が、尖閣諸島
 に多数で来襲するだろう。
  2014年10月に起きた、日本の小笠原の珊瑚を奪う時も、
 最多となる212隻が来て、この手を使った。
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2018年3月3日、アメリカの大陸間弾道ミサイルが『無力化』
 する。
  中国は、IMF(国際通貨基金)の出資金は少ないの
 に(日本より少ない)、自国の武力増強にばかり、金を
 使うという国になっている。
  その中国が、アメリカのICBMを無力化したという。
  日本の『核の傘』でもある「アメリカの核ミサイル群」
 を・・、
  中国が『無力化できる技術』を手に入れた・・という・・
  世界破壊の兵器・・全人類絶滅の兵器となっている核
 兵器。
  この日の読売新聞に・・アメリカの核弾道ミサイルが
 『無力化した』という記事が・・記載された。
  その記事を参考にして・・以下に記述すると・・
  表題は、「中国の『多弾頭型』警戒」「防衛研究所報
 告書」「アメリカのICBM破壊可能」とある・・、
  防衛省の防衛研究所は2日、中国の軍事情勢などに関す
 る報告書「中国安全保障