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(増補版)568E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年11月)

題:(増補版)568E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年11月23日、ピエール・ド・クーベルタンがオリンピ
 ックを提唱した。
  クーベルタンは男爵で、1863年生まれのフランスの教
 育者。
  古代オリンピックを復興させ、「近代オリンピックの
 創立者」と言われている。
  歴史書のオリンピアの祭典の記述に感銘を受け、古代
 オリンピックの復興を演説し、近代オリンピックを提唱
 した。
  そして、賛同者によって国際オリンピック委員会が設
 立されて・・、
  1894年6月23日、パリで、スポーツ競技者連合の会議が
 開催された時、その席上で、古代オリンピックにならっ
 た近代オリンピックの開催と、その為の国際オリンピッ
 ク委員会(IOC)の設立が決定された・・そして・・
  1896年のアテネ・オリンピックの開催につながった。
  この時、オリンピック讃歌が演奏された。
  この讃歌は、この第1回の大会のために、ギリシャの詩
 人パラマが詩を書き、同じく、ギリシャのオペラ作曲家
 スピロス・サマラスが作曲した。
  この後、この曲は忘れられていたが・・
  1958年、東京で、IOC総会が開催される間際、日本
 のIOC委員である東竜太郎へ、ギリシャのIOC委員
 から「第1回アテネ大会のオリンピック讃歌の譜面が見つ
 かった」と連絡が来た。
  その古い楽譜を、日本人が編曲し、また、訳詩して、
 62年ぶりに復活させた・・そして、集まったIOC委
 員の前で演奏した。
  集まった委員たちは感動し、以後、この曲を正式なオ
 リンピック讃歌とすると決定がなされた。
  因みに、東京オリンピックの開催は、1964年。
  五輪のマークも、クーベルタンが考案し、1920年のア
 ントワープ大会以降、開会式で使われている。
  彼は、第2代の国際オリンピック委員会の会長となって
 いる。
  しかし、「オリンピックは、勝つことではなく参加す
 ることにこそ意義がある」は、彼の言葉ではない・・他
 人の言葉を引用しただけ・・、
  また、クーベルタンは、社会進化論の信奉者で、「優
 れた人種は、劣等人種に社会的恩典を与えなくてもよい」
 と考えていた。
  1936年のナチス・ドイツのヒットラーの主催するベル
 リン大会を、クーベルタンは非常に喜んだ。
1892年11月24日、民法・商法の施行延期法を公布した。
  1890年に公布された旧民法は、1893年1月から実施され
 ることになっていた。
  しかし、1889年の東京大学法学士会の「民法は天賦人
 権論に基づき社会の人倫を破壊するもの」との反対意見
 の発表から論争が起こった。
  穂積八束(ほづみやつか、東京帝国大学法科大学長、
 衆議院議員、法典調査会査定委員)などは、国情にそぐ
 わないなどの意見を述べた。
  穂積の言葉である「法出デテ忠孝亡ブ」は非常に有名
 となった。
  因みに、氏は、日本法律学校(現在の日本大学)の設
 立に参画している。
  また、この翌年の1890年に公布された民法典、および、
 商法典の実施可否を巡って、延期派と断行派に国論を二
 分するはげしい論争が起こった(民法典論争)
  1880年以来、本格的な編纂が開始された民法は・・、
  1890年4月に、フランス人ボアソナードの起草になる財
 産法の部分が、同年・1890年10月に、日本人委員の起草
 になる身分法の部分が、いずれも元老院・枢密院の審議、
 修正を経て公布され、1893年1月1日から施行されること
 になっていた。
1892年11月25日、第四通常議会が召集された。
  第4回帝国議会の開催、1892年11月29日開会~1893年2
 月28日閉会 (通常会)
1892年11月27日 伊藤博文が、交通事故に遭遇した。
  伊藤博文の人力車が馬車と衝突し、伊藤首相は、しば
 らく意識不明の重体となった。
  井上馨内務相が、この日に臨時首相代理となり、1993
 年2月27日までの約2ヶ月間を務めた。
  この頃の道路は、今・現代の様では、当然、無く・・、
 非舗装で、雨が降れば水が溜まるところもあった。
  この頃は、自動車が表れる直前の頃で、人力車や馬車
 が一般的な乗り物だった。
  現代の自動車の様に、多くの台数が道を往来していた
 訳ではないが、けっこう事故は多かった・・、
  因みに、自動車は、1907年頃から利用され始める。
  また、自動車の出初めには、自動車を避ける方法を人々
 が慣れていなくて・・上手ではなく事故が多くなった。
  危険を感じ・・くもの巣を散らす様に逃げ惑ったとい
 う・・そのため、かえって車に轢(ひ)かれたという。
  運転手側、歩行者側、共に、双葉マークだった。
  多いのが馬車との接触事故、車におどろく馬の暴走に
 伴う事故が頻発した。
1892年11月28日、讃岐鉄道会社が、旅客運賃を改定した。
  讃岐鉄道は、香川県にあった会社線で、高松から琴平
 まで・・金刀比羅宮へ向かう参拝客の輸送を目的に設立
 された。
  この会社は、1890年に、女子の出札社員の募集をした
 が、成功しなかった。
1892年11月30日、千島艦事件(11月25日説あり)
  愛媛・松山沖で、日本の軍艦の水雷砲艦「千島」が、
 イギリス船と衝突し、沈没した。
  乗組員70人余が溺死した。
  沈没補償を巡って、日英両国間で係争事件となった。
  フランスで建造され、フランスから神戸へ回航中の日
 本の軍艦・水雷砲艦「千島」が、イギリス商船・ラヴェ
 ンナ号と、愛媛県堀江沖で衝突し、千島が沈没し、74名
 の乗務員が溺死した。
  日本政府は、ラベンナ号に不当航行の過失があったと
 して、翌年・1893年5月に、その所属会社P&O(ピーア
 ンドオー)汽船会社を相手取って、85万円の損害賠償を
 請求して、横浜のイギリス領事法廷に出訴した。
  これに対し、会社側は、逆に、10万円の損害賠償を求
 めて反訴した。
  第一審は、会社側の要求が不当だとされて、反訴が却
 下された。
  会社側は、その判決を受け、上海(シャンハイ)の領事
 法廷に控訴した。
  1893年10月、裁判長は第一審判決を破棄して、会社側
 を支持した。
  そのため、日本の世論は、その不当性と日本政府の処
 置を非難し、湧きたった。
  野党の反政府諸派が、議会内外でこれを利用して、第
 二次伊藤博文内閣が推進する条約改正交渉に反対する運
 動を展開した。
  1893年12月、衆議院は解散となった。
  日本政府は、さらに、ロンドンのイギリス枢密院に上
 告した。
  1895年7月、枢密院は、上海領事法廷の判決を破棄して、
 横浜の領事判決を復活した。
  本訴は、ふたたび横浜領事庁で争われることになった。
  1895年9月、和解となって、和解が成立した。
  会社側は、訴訟費用のほか、英貨1万ポンド(邦貨9万
 余円)を支払う事となり、事件は落着した。
1892年11月30日 伝染病研究所が設立された。
  (北里柴三郎・福澤諭吉・森村市左衛門らによる大日
 本私立衛生会伝染病研究所・・)
  北里柴三郎博士によって、最初の伝染病研究所が東京
 の芝公園内に建設され、設置された。
  福沢諭吉師が、北里博士に協力し、無償で別邸を貸与
 した。
  土地は福沢の所有で、研究資材は森村市左衛門の寄付
 によった。
  (参考)森村市左衛門:武具商・陶磁器業などを営ん
     だ森村財閥の当主。
      遠江国森村(現:静岡県菊川市)出身で、旗
     本屋敷などに出入りする武具商。
      日米修好通商条約で横浜が開港されると、横
     浜で外国人から洋服・靴・鉄砲・懐中時計など
     を仕入れ、土佐藩・中津藩などに販売を始めた。
      この頃、中津藩の福沢諭吉と知り合った。
  ここは、後に、大日本私立衛生会の所属となり、研究
 所を国へ寄付し、内務省の管轄となった。
  1914年(大正3年)12月、 私立伝染病研究所(現・東
 京大学医科学研究所)が内務省から文部省に移管され、
 東京大学に合併される時、
  初代所長・北里柴三郎は、移管に反対して所長を辞任
 した。
  この時、志賀潔を始めとする研究所の職員全員が一斉
 に辞表を提出し、総辞職となった(伝研騒動といわれる)
  本来の目標の遂行に懸念を抱いた北里柴三郎は・・、
  1914年11月5日に、新たに私費を投じて、私立・北里研
 究所を設立・創立して、信念を貫いた。
  1918年、北里研究所が社団法人として認可された。
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  (今日の言葉)
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  題:200発~300発の北朝鮮のミサイルが、日本に向かったら・・
    それを防ぐことは不可能という現在の日本がある。
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1223年、運慶(うんけい)が没した。
  運慶の生年は不祥である。
  運慶は、仏師であり、南都(現:奈良県)を拠点とし
 た奈良仏師の流れを引いている。
  宇治の平等院(京都府)の阿弥陀如来坐像(国宝)は
 定朝(じょうちょう)が造立した。
  運慶は、この流れを汲む。
  定朝以後、仏師は三つの派に分かれた。
  それが、「院派」「円派」「慶派」で、運慶は慶派で、
 運慶の父・康慶には、この「運慶」の他に「快慶」「定
 慶」らがいる。
.
1598年、キリシタン大名が武器の供給を受ける。
  キリスト教は、日本で弾圧を受けたと一方的に言うが、
 これは嘘、いつものキリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)
 である。
  キリスト教から、武器や弾薬の供給を受けた九州の弱
 小の不利な状態の大名は、そのキリスト教宣教師からの
 武器・弾薬の供給をあてにした・・そして、キリシタン
 大名となった・・背に腹は代えられずで、信仰上でキリ
 シタン大名になったのではなかった・・それ故、息子や
 孫の代ではキリシタン大名ではなくなっている。
  この大名たちは、武器・弾薬供給者のキリスト教宣教
 師たちに頭が上がらなくて・・キリスト教宣教師たちの
 やりたいことを好きにやらさせた。
  キリスト教宣教師たちは、信徒を煽(あお)って、信
 徒と共に、仏教寺院や神社などを破壊し打毀(うちこわ)
 した・・弾圧した。
  この様な最中(さなか)、長崎県曙町(あけぼのまち)
 にある、悟眞寺は開かれた・・抵抗・弾圧の中に開いた。
  この長崎県のキリスト教勢力の強い状態の中、浄土宗
 を布教しようと、厳しい弾圧を受けながら、僧・玄故(
 げんこ)上人は弾圧に立ち向かった。
  日本は、キリスト教を弾圧したと言うのはキリスト教
 の嘘宣伝であって・・
  また、例えば、長崎出島のオランダ商館が、キリスト
 教式の埋葬の仕方で、埋葬を行いたいと江戸幕府に願い
 出れば・・、
  1654年に、幕府は、その許可を出し・・そして・・
 出島近くの墓地で、希望のとおりに埋葬が行なわれた。
.
1871年12月23日、岩倉使節団が出発した(~1873年9月13日)
  この岩倉使節団が、欧米に2年間近く派遣された時、
 伊藤博文は、大使の岩倉具視に次ぐ副使となった。
  到着して、英語が話せる伊藤は、使節団を代表して演
 説した。
  その中で、伊藤は、数百年続いた我が国の古い制度は、
 「1個の弾丸も放たれず、一滴の血も流されず、撤廃され
 た」(廃藩置県の事を言っている)と述べた。
  そして、日本の国旗にある赤い丸は、「今まさに洋上
 に上ろうとする太陽を象徴し、我が日本が欧米文化のた
 だ中に向けて躍進するしるしであります」と述べた。
  これを聞いた聴衆は、万雷の拍手をした。
  この演説は「日の丸演説」と言われて有名。
.
1874年、殖産興業に関する「大久保利通の建白書」・・
  「そもそも国の強弱は、人民の貧富によるものであり、
 人民の貧富は物産の多少とかかわりがある。
  そして、物産の多少は、人民が工業に励むかどうかに
 根差すが、そのおおもとは、何処の国でも政府の指導奨
 励によるのである」。
  国の中心に居た大久保利通は、外国の機械を購入し、
 また、外国の知識人を招聘した。
  惜しまず資金をこの面に投入した。
  そして、速やかな技術の日本への定着を狙って、製糸
 や紡績などの官営工場を建設した。
  そして、その要点を掴(つか)んで来ると、その工場
 を民間に払い下げ、進んだ外国技術の広範な国内定着を
 して行った。
  江戸時代に、すでに、日本にあった近代的工業生産の
 意識が、この時、大きく花開いて行った。
  それを支えたのが、日本の高い教育水準にあった人た
 ちだった。
  日本に、すでにあった土台の上に、導入した西洋技術
 がより成熟して行った。
.
1877年(明治10年)5月、幕末の志士・桂小五郎(木戸孝允、
 鞍馬天狗のモデルとも言われている)が死去した。
  そして、この年、東京大学が、最初の総合大学として
 設立された。
  そしてまた、民間でも慶應義塾、同志社、東京専門学
 校(早稲田大学の前身)が設立され、日本に西洋の学問
 が定着して行った。
  それにつれて、医学や物理学、そして、化学などのあ
 らゆる分野で、日本人による本格的研究が始まり、そし
 て、世界的な業績を残す人々が出始めた。
  世界的な発明や発見が、相次いで生まれて行った。
  その主な方々だけでも・・、
 ・北里柴三郎(破傷風血清療法の発見)、
 ・志賀潔(赤痢菌の発見)、
 ・野口英世(黄熱病の研究)、
 ・鈴木梅太郎(ビタミンB1の発見)、
 ・高峰譲吉(ジアスターゼの創薬)、
 ・木村栄(緯度変化の研究)、
 ・大森房吉(地震計の発明)、
 ・長岡半太郎(原子模型の研究)らの方々だった。
  また、文化・芸術に関する方面でも日本人の優秀さが
 示されて行った。
  文学者としては・・、
 ・写実主義の坪内逍遥(小説神髄)、二葉亭四迷(浮雲)、
 ・ロマン主義の島崎藤村(若菜集)(詩集)、与謝野晶
  子(みだれ髪)(歌集)・・そして・・、
 ・ロマン主義から自然主義への動きの中に国木田独歩(
  武蔵野)、田山花袋(布団)、石川啄木(一握の砂)
  (歌集)、森鴎外(舞姫)(高瀬舟)、夏目漱石(吾
  輩は猫である)(こころ)・・など・・、
  新しい日本の文学の出発点には、坪内逍遥が居た。
  そして、日清戦争の前後に、人間の自由な感情を重視
 するロマン主義が起き、島崎藤村らが活躍した。
  日露戦争の頃には、人生や社会の現実をありのままに
 描く自然主義文学が盛んになって、田山花袋らが注目さ
 れた。
  森鴎外は、ヨーロッパ文学を紹介し、晩年には歴史小
 説を書いた。
  また、明治時代の芸術面では、西洋の近代芸術が、堰
 (せき)を切ったように押し寄せて来る中で、日本の伝
 統文化とは何かを深く考えた時代だった。
  文明開化の頃、日本の古い仏像や美術は価値のないも
 のとする欧米崇拝の風潮となった。
  これによって多くの仏像や寺が壊され、捨てられた・・
 また、貴重な芸術作品が海外へ流出した。
  これを救ったのが東京大学の外国人教師であったフェ
 ノロサだった、また、岡倉天心だった。
  伝統芸術を保存する事と復興する事に努めた。
  日本の芸術作品の価値が再評価された。
  狩野芳崖らは新しい日本画のあり方を模索した。
  洋画では、高橋由一や浅井忠らが写実的な油絵を描い
 た。
  また、彫刻では高村光雲らが活躍した。
  音楽では滝廉太郎らが活躍した。
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1884年12月4日、朝鮮で甲申事(こうしんじへん)変が起
 きた。
  金玉均(きんぎょくきん、1851年~1894年)が、朝鮮
 で政変(クーデター)=甲申事変を起こした。
  しかし、中国・清国軍が介入して3日で失敗した。
  この頃、朝鮮は、清国の冊封国として、属国化してい
 た。
  しかし、その清国との関係は、崩壊の危機にあり、国
 を守るにはこれに依拠するより、この従属関係を打破し
 て、独立近代国家の形成を図らなければならないとして
 いた(金玉均らの急進改革派の独立党の考え)
  この朝鮮の急進改革派は、日本との連携を強化したい
 とした。
  しかし、事変は失敗し、金玉均は日本に逃れた。
  金玉均は、後になって、中国に渡り、上海で暗殺され
 た。
  金玉均らの急進改革派は、明治維新後の日本のように
 自主独立の国を目指し、また、明治政府の進める殖産興
 業政策の様に新しい朝鮮を生み出し、近代化したいとし
 ていた。
  ここには、この8年前の1876年の日清修好条規によって、
 朝鮮を開国に踏み切り、独立国家として見る内容・姿に
 目が開かせられていた。
  また、清国の様な見方「朝鮮を冊封国として利益を収
 奪する対象の属国」としては、日本は、まったく見なく
 て、朝鮮を「開国した独立の国家としたい」としていた。
  その日本の考え方に、金玉均らは、朝鮮の開化を目指
 した。
  そして、1870年代の後半より、日本に接近していた。
  金玉均は、近代技術の導入と軍事力強化のために洋務
 開花論を唱えた朴珪寿の影響を強く受けた。
  また、1879年、開化派の李東仁を、金玉均らは、日本
 に密入国させた。
  そして、福沢諭吉や後藤象二郎などの日本の先人らと
 接触させ、交流も深めていた・・
  金玉均らの開化論は、一朝一夕で出来た開花論ではな
 かった。
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1891年6月、川上音二郎一座が、東京で初めて、壮士芝居を
 開演した。
  満都の人気を集めて大当たりした。
  1891年2月、自由党の壮士であった川上音二郎は、角藤
 の芝居に刺激されて、書生芝居の一座を起こした。
  そして、「板垣君遭難実記」等をもって、大阪堺の卯
 の日座で旗揚げをした。
  川上は、企画性にすぐれ、また、事業家でもあった。
  また、妻の川上貞奴のひきで後継者にめぐまれ、やが
 て宿願の東上ができることとなった。
  1891年6月、「板垣君遭難実記」と「監獄写真鏡」を東
 京・鳥越の中村座で上演し、大評判となった。
  この川上の成功は、「壮士芝居」の元祖・角藤定憲の
 あとをついで「壮士芝居」発展の道を開き、さらには「
 新派」発生への糸口になった。
.
1894年7月25日、日清戦争が始まった(~1895年11月30日)
  日清戦争の時、日本は、徹底的に、『兵士に国際法を
 教えた』。
  日本本土から、わざわざ教える係の者を派遣をしても
 教えた。
  アメリカやヨーロッパでもやらないことをした。
  逆に、アメリカは、卑劣な事をした。
  敵から情報を得るために、「罪を問わないから白状せ
 よ」と、白状を誘惑した。
  この様な事から、戦場では、国際法を遵守する精神が
 無くなって来た。
  国際法違反をしても許されるという心が働いた・・そ
 の様なことをアメリカは行なっていた。
  自国の兵の国際法違反を、厳然と罰しないアメリカ。
  兵士が、まず、「第一に守らなければならない国際法」
 を、ないがしろにする様なアメリカだった。
  だから、国際法で守られるはずの戦場の日本の病院が
 襲撃された。
  この様な風潮を、アメリカは生まれさせた。
  この様な事例をNHKは放送しない・・日本を貶める
 事例ばかりをNHKは放送している。
  不公正な卑劣な放送姿勢のNHKとなっている。
  日本の貶める番組ばかり製作して放送するNHK。
.
1894年9月17日、黄海海戦(清との海戦))
  清国は、目ざましく軍備を増強して行った。
  例えば、海軍力は、1881年(この海戦の13年前)には、
 清国と日本は、所有する軍艦は共に3隻であったが、清国
 は大型艦で、日本の艦艇は貧弱だった。
  しかし、清国は、その後も大型艦をどんどん作り・・、
  1887年には、清国10隻、日本は4隻と、圧倒的な清国の
 海軍力となった(2017年の中国と日本との差の様に)。
  日本も中国の脅威に、1888年(この海戦の6年前)から、
 艦船数を増やす努力をして行った。
  また、大型艦を増やして行ったが、中国・清に追い着
 くことは、しばらく出来なかった。
  しかし、1892年(海戦の2年前)には、ほぼ対等の状態
 にたどり着くようになった。
  この様な中で、1894年9月17日に、黄海海戦を、日清
 両国は戦った。
  日清戦争は、中国で戦われたと思われ勝だが、朝鮮半
 島でその多くが戦われた。
  清国軍が威海衛から渡海し、朝鮮のソウル(当時の漢
 城)近くに上陸し、日本と交戦したりした。
  また、平城近くでも戦っている。
  日本軍は、九州や沖縄から出撃して行った。
  この黄海海戦は、日本海軍・連合艦隊と清国海軍・北
 洋艦隊の間で戦われた海戦で・・、
  『近代的な鉄甲蒸気船同士で行われた世界史上初の大
 規模な海戦』だった。
  この海戦の結果、日本は勝利をおさめた。
  清国海軍は、大幅に戦力を低下させ、黄海と渤海の制
 海権を失った。
  日本の連合艦隊司令長官は、伊東祐亨(いとうすけゆ
 き)海軍中将だった。
  清国の損害5隻喪失、大中破で、日本の喪失は無し、
 大破4隻だった。
  海戦の場所は、黄海、鴨緑江沖。
  1894年午前10時過ぎ、両艦隊がお互いの煤煙を確認し
 た。
  連合艦隊は、直ちに、戦闘態勢を取って急接近した。
  北洋艦隊も、日本艦隊を迎え撃つ体制にした。
  連合艦隊は12隻で、第一遊撃隊4隻、そして、司令長
 官の率いる本隊6隻、そして、本隊後方に2隻だった。
  北洋艦隊は14隻で、連合艦隊より2隻多く、本隊10隻、
 そして、4隻が続いた。
  12時18分、連合艦隊司令長官は、攻撃開始の国際信号
 旗・旗旒信号(きりゅうしんごう)を発した。
  北洋艦隊は、楔形の横列陣で、連合艦隊に直進して来
 た。
  12時52分、本隊の旗艦「松島」が距離3500mで砲撃を
 開始した。
  12時55分、第一遊撃隊も、北洋艦隊右翼に回り込み距
 離3000mに近づき砲撃を開始した・・速射砲で猛烈な砲
 火だった。
  北洋艦隊は、連合艦隊に突進して、衝角戦(しょうか
 くせん、体当たり攻撃で、船復を破り大浸水を起こす)
 にしようとした・・そして、双方、砲火を交わし被弾。
  13時5分、北洋艦隊の艦が火を噴く、30分後に沈没。
  そして、北洋艦隊のもう1隻も多数被弾し、火を噴き
 戦闘不能となる。
  日本側も第一遊撃隊「吉野」が被弾し、弾薬が誘爆し
 て火災が発生した。
  この様な戦いが延々と続いた。
  日本側に、幸運な命中弾などもあり「赤城」は危機を
 脱したりした。
  また、連合艦隊の「西京丸」が、魚雷3本を発射された
 が喫水が浅いのが幸いして、その1本が船底の下を通過し、
 命中を免れ、九死に一生を得た。
  15時10分、連合艦隊第一遊撃隊、距離3700mで、本隊
 と共に北洋艦隊へ十字砲火を発射した。
  15時15分、北洋艦隊は大打撃を受け、3隻で火災が発生。
  北洋艦隊に戦線離脱する艦も現れる(敵前逃亡で、海
 戦後に斬首の刑に処された)
  つられて、逃亡を途中まで試みる北洋艦隊の2艦があり。
  北洋艦隊が集中砲火を浴び・・1隻沈没。
  15時30分、北洋艦隊の30.5㎝砲弾が、連合艦隊「松島」
 に命中、大破し炎上する。
  16時7分、「松島」、鎮火するも被害甚大、舵が不調。
  北洋艦隊も味方の火災、逃亡、沈没が続いて、四分五
 裂となる・・2隻を残して、4隻が戦線離脱体制となる・・
 他の2隻も退却を始める・・連合艦隊の第一遊撃隊が追撃
 態勢に移る。
  16時45分、司令長官が、交戦する本隊の各艦に進撃を
 中止し、旗艦「松島」に集結信号を出す。
  16時48分、第一遊撃隊が逃走する北洋艦隊の1隻に追い
 付き、攻撃開始し、命中度が高く、艦首から沈没した。
  17時40分、再集結した連合艦隊本隊は、順次、南方へ
 後退する。
  それを見た、残った北洋艦隊2隻も退却を開始した。
  17時45分、第一遊撃隊が敵艦を追おうとしたが、司令
 長官からの「合流せよ」の信号が発せられ引き返す。
  20時、伊東司令長官は、旗艦を「橋立」に変更して移
 乗、大破した「松島」は呉軍港へ帰還させる。
  翌日・18日1時15分、「西京丸」、朝鮮半島の日本海軍
 根拠地に帰還。
  3時30分、北洋艦隊の1隻が帰還中に被弾による舵の不
 調から座礁し、放棄された。
  5時50分、連合艦隊の1隻が根拠地に帰投。
  18日12時から連合艦隊司令部は、帰投した北洋艦隊を
 再補足の目的で発進したが・・発見できず。
  その後、日本海軍の水雷部隊が、帰投した北洋艦隊を
 発見し、威海衛の戦いをする。
  2隻撃沈、1隻大破・座礁、その後自沈、4隻は鹵獲(ろ
 かく、戦いで得る・ぶんどる)して日本海軍に編入。
  これによって北洋艦隊は降伏。
.
1904年2月8日、日露戦争がこの日に始まるが・・、
  日露戦争の開戦前・・、ロシア帝国は、満州から兵力
 を引かず・・、
  逆に、シベリア鉄道によって兵力を増強し続けた。
  日本とロシアの兵力差は、完全にロシア有利だった。
  ロシア:日本の兵力差は・・、
  歩兵・・1740:156大隊、
  騎兵・・1085:54個中隊、
  火砲・・12000:636門、
  総兵力・・207万人:20万人、
  戦艦・・11:6、
  装甲巡洋艦・・12:6、
  巡洋艦・・10:12、
  総トン数・・45:26万トン。
  ロシアは、圧倒的な大国だった。
  そして、満州は、ロシア兵だらけだった。
  また、ウラジオストクと大連が、ロシアの軍港で、完
 全に日本はロシアの脅威に囲まれていた。
  そして、ロシアは、1900年に起きた義和団事件を口実
 に、満州へ2万の兵を送り込んで来た。
  そして、そのまま居座った。
  そして、朝鮮半島の国境を越えようとしていた。
  この時、外交官の小村寿太郎の意見が、『日英同盟を
 結ぶべき』の意見だった。
  この意見が政府を動かし、政府の方針となった。
  1902年、日英同盟は締結された。
  因みに、義和団は、郷村(ごうそん)の自衛組織を基
 盤とした「中国の伝統宗教の流れをくむ組織」で、外国
 人を排斥し、殺害行為をし・・、
  そして、北京の各国公使館を包囲した。
  その為、日本やイギリス、アメリカ、ロシアなどの8ケ
 国が連合軍を送り、鎮圧した。
  日英同盟において、イギリスは、東アジアに勢力を拡
 大するロシアを押さえたいとしていた。
  ロシア勢力拡大への懸念から日英同盟を結びたいとし
 ていた。
  ロシアは、日本の10倍の国家予算を持つ、また、軍事
 力も10倍以上だった。
  そして、満州の兵力を増強し続け、朝鮮国境をついに
 越えた。
  そして、朝鮮北部に軍事基地を建設し始めた。
  この勢いは止まる気配はなく、放置すればロシアの強
 大な勢力圏が構築され、領域は不安定な状況となること
 がはっきりしていた。
  日本は、手遅れになることを恐れた。
  ロシアの強硬な進出が原因だった。
  朝鮮は、ロシアの支配下に入りつつあった。
  イギリスやアメリカは、朝鮮半島が、ロシアの支配下
 になることを望まなかった。
.
1904年2月8日、日露戦争
  日露戦争は、日本の生き残りをかけた、安全保障上の
 戦いだった。
  当時、世界最大の陸軍大国だったロシア。
  日露戦争は、何処の国も日本が敗けるだろう、日本が
 勝利することは無いだろうと見ていた。
  巨人に挑(いど)む小さな日本の漫画をフランスの新
 聞が掲載しているが、世界中の見方は、まさに、この漫
 画のごとくだった。
  しかし、世界中の予測に反し、日本の勝利で終わった。
  これは、植民地にされていた人々へ希望を与えた。
  将来の民族の独立の夢を描かせた。
  ヨーロッパで、この結果を、特に、喜んだ国は、長年、
 ロシア帝国に抑圧されていたフィンランド、ポーランド、
 トルコの人々だった。
  この国々の人々は、日本の勝利を熱烈に歓迎した。
  しかし、有色人種への蔑視観がある白人キリスト教国、
 特に、アメリカに、将来、白人社会を脅かす有色人種と、
 日本は見做され、「警戒すべき黄色人種」という黄禍論
 が巻き起こった・・これが、世界大戦へつながっていく。
 ☆中国革命の父・孫文の言葉・・、
  「日本がロシアに勝った結果、アジア民族が独立に対
 する大いなる希望を抱くに至ったのです」。
 ☆インドの独立運動家で、後の首相ネルーの言葉・・、
  「もし、日本が、最も巨大なヨーロッパの国に対して
 よく勝利を博したとするならば、どうしてそれをインド
 が成し得ないと言えるだろう?」。
 ☆イランの詩人・シーラーズイーの言葉・・、
  「立憲制によってこそ日本は偉大になった。
  その結果、かくも強き敵に打ち勝つことが出来るのだ」。
 ☆エジプト民族運動の指導者ムスタファー・カミールの
 言葉・・、
  「日本人こそは、ヨーロッパに身の程をわきまえさせ
 てやった唯一の東洋人である」。
.
1905年9月5日、日露戦争が終わる。
  日露戦争で、隠れた逸話となっている話が・・、
  「陸軍大将の乃木希典は、日露戦争の後、敗れたロシ
 アの将軍の助命に奔走した。
  助命のための様々な努力をした」。
  大東亜戦争(第二次世界大戦)において、アメリカは、
  日本の将兵を罪に落とす法律を後から作ってまでして、
 日本の将軍を殺したが・・、
  まったくの正反対の不正義な行為をしたアメリカだっ
 た。
  この卑怯な卑劣な、後から法律まで作って罪に落して
 殺す不正義な行為は、長く歴史に書き留められることに
 なる。
.
1928年2月、初めての普通選挙。
  有権者の数が、人口の約20%で、それまでの4倍近くに
 増えた。
  この選挙の結果、政友会が第一党になった。
  1925年に普通選挙法が成立し、納税額にかかわらず25
 歳以上の男子全員が選挙権を得た。
.
1937年12月17日、南京に入城し、式典を行った。
  日本の中世において、日本の武士は、正々堂々とお互
 いが名乗りを上げて戦った。
  自分が、敵に対して戦う者であると『明示』し(どこ
 の誰だかを言った)、そして、戦った。
  また、武具をはっきり付け、身を固めているので戦う
 者いだと「敵にもはっきり分かった」。
  これは、戦わない者に類が及ばない様にという、戦う
 者の「配慮でもあった」。
  戦わない者が死ぬ様なことが無いようにという「心配
 り」だった。
  それが武士であり、武士道であり、日本人の優しさだ
 った。
  しかし、近代になると、この戦わない者を逆に狙うと
 いう「ならず者的な輩」が出て来た。
  「軍需工場を狙います」とアメリカ国内で了解を得て
 いた原子爆弾を、広島・長崎の町の真ん中に、一般市民、
 女性や子どもたち、赤ん坊も居る人たちが生活する真上
 に、アメリカは原爆を落した。
  中国兵も、いつの時代も、「敵の裏をかく・卑怯な事
 を常にする」という歴史にあるが・・、
  中国兵は、軍服を脱いで、逆に、一般庶民の中に隠れ
 た。
  一番「やってはいけないこと」をやった。
  軍服を脱いで、一般庶民の姿をして、一般庶民の中に
 隠れて、日本兵を狙い撃ちにした。
  一般市民に類が及ぶと分かっていても、中国兵は、こ
 のやってはいけない、一番否定されている「軍人の卑劣
 行為」を南京で行った。
  一般市民に類がおよぶと分かっていても、中国兵は、
 この卑怯な事をした。
  やむなく、一般市民に混じる中国兵と戦う羽目に陥(
 おちい)った。
  蒋介石の司令部は、自分たちの兵士を置いて、先に逃
 げるという、これも一番やってはいけない最悪な卑劣な
 事をして逃げた。
  アメリカが、この司令部を一般の兵士より先に連れ出
 すというハレンチな事をやって、日中戦争に参戦した。
.
1996年12月、日本版NSCへの一歩・・
  日本に、いざという事が起きた時・・国民の命を守る
 ために・・
  緊急事態が起きた時、迅速な対応が図れるため、内閣
 総理大臣の判断によって、自衛隊の部隊が迅速対処でき
 るようになった。
  安保会議、及び、閣議で決定された「我が国の領海、
 及び、内水で潜没航行する外国潜水艦への対処について」
 により、自衛隊の部隊が、わが国の領海、及び、内水で
 潜没航行する潜水艦に対して浮上・掲旗要求、退去要求
 を行うにあたり、あらかじめ閣議において、その基本方
 針と手順を決定しておいた。
  これにより個々の事案発生時に、改めて個別の閣議決
 定を経ることなく、内閣総理大臣の判断により、自衛隊
 の部隊が迅速に対処し得るようになった。
  「日本版NSC」を機能させるために、こうした手法
 を検討する余地があるかもしれない・・と、政府は説明
 している。
  朝日新聞など、日本を何かと正視していないメディア
 のアンケート調査は、「まゆつば」である。
  アンケート調査なのだから正しいのだというが、これ
 が、「データで嘘を言う方法」という本もある如く、嘘
 が作られている。
  メディアは言う、「国民に調査をすると、第一位に経
 済対策をしてくれ」と答えている。
  「北朝鮮などの脅威に対する対策への要望は、その後
 だ」となっている・・と。
  これは、「今日そして明日、まず、女房・子供が、飯
 を食わせられるようにしてくれ」という国民の声であっ
 て、差し迫っている飢餓を回避したいという要望なので
 ある。
  そして、結局、広島・長崎の方々の様に、「火だるま」
 になることから、愛する人々を救いたいという要望の先
 に来ている結果なのである。
  アンケートの取り方に「仕掛けがある」のである。
  一つを選べとなっている。
  現政権への最重要課題となっている。
  ならば、「まず、飢えないようにしてくれ」が第一位
 の声になる・・
  メディアは、この様な仕方で嘘をついている。
  「実験計画法」という学問があるが、実験結果におい
 ても、非常に微妙な差によって結果が大きく違って来る
 ことは常識なのである。
  実験をした人の違いによっても、同じ実験をしている
 のに結果が違ってしまうとか・・、
  実験した日時の違いによっても結果が違ってしまうと
 か・・
  実験なんかは、同じことをすれば、同じ結果になるか
 と言えば、「そう簡単にはならない」のである。
  ましてや、色々な想念が頭を巡っている人間に対する
 アンケートにおいて、その設問の仕方などで大きく変わ
 って来るのは当たり前なのである。
  アンケートを受けた時、アンケートを取るメディアが
 自分たちの考えている理想としている結果に導こうとし
 ている質問側のアンケートの取り方に遭遇した事がある・・、
  この様なことで、国の大切な問題である国防に関する
 ことが・・、
  戦後・70年以上すぎているのに、疎かにされて来て・・
  そして、このアンケートの様な日本の今がある。
  200発~300発の北朝鮮のミサイルが、日本に向かった
 ら・・それを防ぐことは不可能という現在の日本がある
 のにである。
  それでも、国防論を後回しにするのか・・
  今日・明日の食べる事が大切なのか・・

1996年(平成8年)、皇后宮(きさいのみや)陛下御歌
  海陸(うみくが)のいづへを知らず姿なき
  あまたの御霊(みたま)国護(まも)るらむ
  (歌意)
  この日本の國の海も山河も平野も總べて國の爲に生命
 を捧げた數多の英霊の御魂によって護られてゐます。
  皇后陛下のお言葉
  慰霊の旅では、戦争の被害の最も大きかった四地域を
 訪れましたが、この訪問に重ね、戦争で亡くなった全て
 の人々の鎮魂を祈りました。
  戦争により、非命に倒れた人々、遺族として長い悲し
 みをよぎなくされた人々、更に戦争という状況の中で、
 運命をたがえた多くの人々の上を思い、平和への思いを
 新たにいたしました。
.
2005年12月9日、「男女共同参画基本計画改定にあたっての
 要望書」
  自由民主党が、過激な性教育・ジェンダーフリー教育
 がなされている状況を調査するための「実態調査プロジ
 ェクトチーム」を結成した。
  そして、内閣府に於いて検討されている首記の件につ
 いて、過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プ
 ロヘクトチームは、2005年3月に発足以来、10ヶ月間にわ
 たり、実態調査したりして、教育の正常化を目指すため
 論議を重ねて来た。
  そのための全国的な実態調査も行い、寄せられた3500
 もの実例を調査・分析した。
  その結果、「ジェンダーフリー」という名のもと、過
 激な性教育が行われ、また、「家族の否定教育」が行な
 われていることが分かった。
  同時に、教育現場でこの様な暴挙が堂々と行われてい
 る根拠が、男女共同参画基本計画を恣意的(しいてき、
 論理的な必然性なく、思うまま)に解釈し、組合組織の
 活動方針としていることなども現場での調査で確認され
 た。
  文献にも、以下のような記述がある・・、
  日教組は、「ジェンダー・フリー」を推進した。
  ジェンダー・フリーには、ひな祭りなどの伝統文化を
 否定する。
  「球技を男女一緒させる」という話もある。
  その場合、女性を保護する意味もあって「(一緒に)
 球技をさせると、男子と女子の差がある」と質問しただ
 けで、「それは男女差なのか?」という言葉が返って来
 る。
  偏頗(へんぱ、片寄って不公平なこと)な性差イデオ
 ロギーで押し切る日教組である。
  女性の良さの話をしようと「女らしさ」と、男という
 「男らしさ」を話に出したら、それを頭から否定する。
  これでは、逆に、日教組は、「女性を虐げている」こ
 とになる。
  日教組は、「中性」が良いという。
  「男性」と「女性」を否定している。
  世に存在している「男性も駄目」「女性も駄目」と主
 張している。
  こんな立場で、教育ができる訳がない。
  こんな変な考え方から発展して、「専業主婦」という
 言葉すら使うなという。
  そして、この教育を子供たちにする。
  日教組は、「性に捉われないのが良い」と悦に入って
 (えつにいる、満足して喜ぶ)いる。
  女性の良さを美化し、逆に、男性の良さは美化できな
 い日教組の組織。
  古い封建的観念を否定的に持っている、また、まった
 くの封建的観念に浸っているという日教組。
  こんな組織で明日ある教育ができる訳が無い。
  また、日教組は言う、「男らしさ、女らしさを否定し
 ない、しかし、それにとらわれないものを大切にする」
 と。
  しかし、これは、詭弁(きべん、道理に合わない、言
 いくるめの議論、ごまかしの議論)なのだ。
  女らしさ、男らしさを否定しないと言いながら、「女
 らしさ」という事を否定している。
  「とらわれない」ために、女らしさを言い、男らしさ
 も言うのが正解なのが分からない。
  その様な封建的観念の論者となっている。
  広く封建的観念から脱却できない日教組となっている。
  また、文献に、下記の様な記述もある・・、
  日教組に感化された教師たちが、性教育という錦御旗
 を立てて・・教室で何をしでかしていたのかは、子供た
 ちにした、その詳細は分からないが・・その教師の話が、
 何であったかを、家に帰って来た子供の行動で分かる。
  その母親が仰天したのは、何も知らなかった子が、妹
 の上にまたがって腰を振っているのを見て、母親は、卒
 倒しかけたという。
  教師が、こんなことまで実演した。
  日教組に感化された教師が、教室でやったことは、い
 たずらに興味を持たせ、焚き付け行為をしたということ
 だった。
.
2011年3月11日、東日本大震災(M9.0)、日本海溝で起き
 た巨大地震と津波・・
  宮城県東南東沖などの一帯を震源地とする未曾有の大
 震災。
  1000年に1度と言われた規模。
  死者は、2万名を越える残念な災害が起きた。
  震災直後、混乱の中、決してパニックになることなく、
  当然のごとく暴動や掠奪も起きず、整然とした行動が
 とられ、ボランティアの方たちと、その後の行動をした。
  世界中は、震災報道もしたが、日本人のその後のこの
 様子も、称賛の中で報道した。
  日本の民度の高さを称賛した。
  公共心や道徳心に驚嘆した。
  その根を支える性善説の宗教心に驚嘆した。
  長く日本人の心にあったものは失われていなかった。
  少子高齢化とか、長いデフレなどで、社会は縮小して
 いると言われ、マイナス・マインドが洗脳され、マイン
 ド・コントロールされているが、何ら日本人の特質は、
 失われていず、
  逆に、その特質は磨きがかかり、高い資質になってい
 ると言える。
  何しろ前向きに性善説的に物事をとらえ、日本の長い
 歴史で蓄積した潜在能力を引き出して行くことが、肝心
 なのである。
.
2017年11月27日、日英が地位協定の協議へ
  (読売新聞、2017年11月27日)に表記の表題の記事が
 載った。
  これは、日本とイギリスの両政府が、自衛隊とイギリ
 ス軍が、互いの国で円滑に活動できるようにするため、
 法的な立場を明確にする「協定を締結しよう」との方針
 を決めた。
  今後、協議を重ねて行くが、協定の名は「訪問部隊地
 位協定(VFA)」。
  昨年・2016年、イギリス空軍が来日し、初の2国間訓練
 が実現した。
  来年・2018年には、イギリス海軍の最新空母を日本近
 海に展開して、海上自衛隊と訓練を行うほかに・・、
  陸上自衛隊とイギリス陸軍との共同訓練も実施する方
 向で検討中。
  防衛省幹部は、「日英間の信頼関係をアピールし、ア
 ジア太平洋の抑止力につなげる狙いもある」と。
  日英は、12月の2プラス2で、新型空対空ミサイルの試
 作についても合意する。
  試作品は、2023年度頃の完成を目指す方針。
  イギリスなど6カ国が共同開発した中距離空対空ミサイ
 ル「ミーティア」に、日本製の高性能センサーを組み合
 わせて命中精度を向上させるという内容。
  装備品の共同開発が実現すれば、同盟国のアメリカ以
 外では初めてとなる。
  日英の安保協力は、すでに、安倍内閣の下で推進され
 て来ていて・・、
  2013年7月に、装備品の共同開発を進める協定を結んで
 いる。
  そして、2014年度から、ミサイル技術の共同研究も始
 めている。
  また、今年・2017年1月には、自衛隊とイギリス軍が、
 弾薬などを融通し合える物品役務相互提供協定(ACS
 A)を締結している。
  また、今年・2017年8月~9月には、メイ英首相が来日
 して国家安全保障会議(NSC)に出席し、「日英の安
 保協力をさらなる高みに引き上げる」ことを確認してい
 る。
  (参考)訪問部隊地位協定:共同訓練や災害救援など
     で一時的に国内で活動する外国軍の法的地位を
     定める協定。
      長期駐留を前提にした日米地位協定と異なり、
     事件・事故の裁判権などは含まないケースもあ
     る。
      日本では2014年に協議入りしたオーストラリ
     アとのVFAが近く合意に達する見通し。
.
2017年、今、ドイツは、アメリカとの関係が、安全保障上、
 国の命運を握るという死活的だった時代は、今・現代、
 去っている。
  ドイツは、グローバル化が正しいのだとの風潮に煽(
 あお)られ、その流れの中で移民も受け入れて来た。
  15年間続けた移民も、100万人を越えた。
  移民は、「ドイツに同化するより」ドイツの文化を破
 壊し、過去のものとした。
  ある地域からは、すっかりドイツ文化が消えた。
  その移民は、難民として人道的面もあったが、あまり
 の流入数、その多さ・・その異質の文化や習慣も、その
 数と共に一緒に入って来て、過去からの「いつものドイ
 ツの日常」は消え去った。
  今、また、その「移民の家族」を呼び寄せる問題が起
 きている。
  移民・難民は、ドイツの生活レベルの高さから、その
 ほとんどがドイツに定住している。
  そして、その地域と周辺ドイツとの格差問題も生まれ
 ている。
  (新しくドイツ人となった元移民・難民の人々と、ド
 イツに居た人々との格差問題)
  グローバル化が正しいとしたアメリカは、主に、経済
 的理由から、アメリカのエスタブリッシュのグローバル
 企業の論理から「その正しさが唱(とな)えられた」が、
  建国からの移民の流入で、「人種のるつぼ」とアメリ
 カは化したが、その人種間の異質文化を乗り越えること
 が出来ずに、人種差別行為に明け暮れている。
  異質な人々を、中世のヨーロッパで、特に、ユダヤの
 方々がその対象とされ、「ゲットー」という特定地域を
 決められて押し込められた・・
  この如く、今・現代において、アメリカで、黒人の方々
 をゲットーに押し込めている(ニューヨークの黒人街な
 ど)
  結局、グローバル主義の行き先に、いつの時代になっ
 ても乗り越えられない人種問題が横たわっている。
  人間の本質を尊重する、その個性を尊重する、その違
 いを尊重する・・が正しいが・・それを乗り越えること
 が出来ないのが実態となっている。
  「グローバルだ」と無理に混ぜ、軋轢(あつれき)を
 乗り越えろと命じるが、結局、非人道的行為を引き起こ
 す事態・始末になっている。
.
2017年12月1日、ロシアが、千島に対艦ミサイル
  標記の表題で(読売新聞、2017年12月1日)が報じる・・、
  また、その表題は、「配備計画、北方領射程、米に対
 抗か」とある。
  ・・以下に、それを参考に記すと・・
  ロシア紙イズベスチヤ(29日付)は、ロシア軍が千島
 列島マトゥア島(日本名:松輪島)とパラムシル島(日
 本名:幌筵島・ほろむしるとう)に基地を建設し、地対
 艦ミサイルを配備する計画を進めていると報じた。
  アジア太平洋地域で活発に展開するアメリカ軍に対抗
 する狙いとみられる。
  ロシア軍は来年(2018年)、マトゥア島とパラムシル
 島で、最新型地対艦ミサイル「バル」(最大射程120キロ)
 と「バスチオン」(同600キロ)の配備に取り掛かると
 いう。
  専門家が派遣され、基地建設のための調査やミサイル
 の配備場所の選定に入っているという。
  ロシア軍は昨年(2016年)11月に国後島に「バル」を、
 択捉島に「バスチオン」を配備し、両島に計3500人の兵
 力を駐留させている。マトゥア島に地対艦ミサイルが配
 備されれば、カムチャッカ半島から北方領土の択捉島ま
 で射程に入るといい、同紙は「オホーツク海を押さえ、
 沿海地方とサハリン州を敵の攻撃から守ることができる」
 としている。
  マトゥア島とパラムシル島は第二次世界大戦中、日本
 軍が対米防衛の拠点として重視し、滑走路や港湾を整備
 し兵力を配置していた。
  軍事専門家のアレクサンドル・モズガボイ氏は同紙に
 「(当時の)日本人は両島の戦略的な重要性を理解して
 いた。
  現在の国際情勢を考慮すれば、ロシアの軍事力の配備
 は理に適っている」と指摘した。・・以上・・
  アメリカのルーズベルト大統領が、第二次世界大戦(
 大東亜戦争)の時、ソ連のスターリンをそそのかして、
 日本を攻める武器・弾薬までも、ソ連にまで運んで、日
 本と戦えと言った・・
  そしてまた、日本の領土を取っても、アメリカは何も
 言わないという「うまい話」でそそのかして、日本を攻
 めさせ(国際法違反で成立しない戦いまでして)日本か
 ら奪った地に、今度は、日本やアメリカを攻撃するミサ
 イルが配備された・・と、報じたニュースだった。
  こんなことを、アメリカのルーズベルト大統領がして
 いなければ、この地に、日米安保のミサイルが配備でき
 ていたであろう。
  この様な事から、北方領土・千島列島・南樺太は、日
 本に返還がなされる可能性は完全に薄い(ロシアの国際
 法違反のままの状態となる)
  また、トランプ大統領の行動が、この様な形で、事態
 が展開して来て・・、一(いち)・・北朝鮮だけではな
 く、ロシアが敏感に反応し・・ますます、高性能な武器
 に囲まれた地となった。。
  事態はますます、日本が孤立する状態となった。
  丸腰状態の日本が居る状態となっている・・防衛に責
 任を持て!
  (戦争は嫌だ・・戦争反対だと叫んでいるだけで・・
 女性や子供たちを・・家族たちが守れるなら・・戦争が
 起きないのなら・・苦労はいらない)
  その世論を繰っている・・恐怖心を起こさせているだ
 けのNHKの罪は重い!!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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by suba28 | 2017-12-12 04:34 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)567E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年11月)

題:(増補版)567E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年11月12日、官吏の勤務時間を、夏期を除き、退庁時
 間を1時間延長した。
  これによって、拘束8時間制となった(閣令第6号) (
 11月22日説あり)
  因みに、江戸時代の幕藩体制の頃の武士の執務時間は
 6時間だった。
1892年11月14日、高等官官等俸給令公布(勅令第96号)
  この法令によって、親任官以外の高等官が9等分され、
 親任官・一等官・二等官が勅任官、三等官から九等官まで
 が奏任官と定められた。
  (参考)官庁に勤める者を、官吏と管吏でない者(嘱
     託・雇員など)に分け、
      官吏は、高等官と判任官にわけた。
      また、高等官は、親任官と勅任官と奏任官に
     分けられた。
      親任官は、天皇陛下の親任式を経て任命され、
      勅任官は、高等官一等と二等を言い、
      奏任官は、高等官三等~九等を呼んだ。
1892年11月14日 山田顕義が死去した。
  山田顕義(やまだあきよし、1844年~1892年)陸軍軍
 人・政治家。
  1844年10月9日、山口県(長州長門・萩藩士)に生まれ
 た・・藩の海軍頭を務めた山田顕行の長男。
  吉田松陰の松下村塾に学び、京都を中心に尊王攘夷に
 活躍し、蛤御門の変に敗れ、品川弥次郎らと御楯隊(み
 たてたい)を結成、四国連合艦隊とも戦った。さらに、
 元治(げんじ)の内戦にも活躍。
  1864年8月20日(20歳)の禁門の変に参加した。
  1864年(20歳)の江戸幕府の長州征討では高杉晋作の
 下で「丙寅丸」の砲隊長として幕府艦を撃破した。
  1868年(24歳)の戊辰戦争では東征大総督参謀として、
 越後、東北、箱館・五稜郭と奮戦し功をたてた。
  明治維新後となって・・
  1869年(25歳)兵部省に出仕し、兵部大輔・大村益次
 郎の下で兵部大丞(ひょうぶだいじょう)を務めた。
  大村の死後は、遺志を継いで兵制の確立に力を注いだ。
  1871年(27歳)陸軍少将、そして・・、
  1871年12月23日(27歳)岩倉遣外使節に理事官として
 随行して随行し、フランスをはじめ、欧米の兵制を視察
 した。
  1873年(29歳)帰国して東京鎮台司令長官となった。
 また、清国特命全権公使を拝命した。
  1874年(30歳)佐賀の乱が勃発し、司法大輔(しほう
 たいふ)を兼任して、その鎮圧に当った。
  1874年(30歳)台湾出兵の閣議決定に反対を唱えた。
  1877年(33歳)西南戦争の際は、別働の征討第2旅団司
 令長官として活躍した。
  1878年(34歳)陸軍中将(西南戦争の功による)
  1878年(34歳)刑法草案審査委員となり、法典編纂事
 業に寄与する一方、元老院技官を兼任・・そして・・
  1879年(35歳)参議に就任、内務卿、工部卿を兼任し
 て歴任。
  1882年(38歳)皇典講究所の設置に関与する。
  1883年(39歳)司法卿になる。
  1884年(40歳)伯爵を授けられる。
  1885年(41歳)内閣制度創設以後も、第一次伊藤博文
 内閣の司法相に入閣し務めた。
  1887年(43歳)この年から法律取調委員長を務め「法
 典伯」の異名をとるほどの熱意で、刑法はじめ法典編纂
 に尽力し、法典の整備をした。
  1889年(45歳)大隈重信外相の条約改正案に「大審院
 に外国人判事を任用する」という譲歩的事項が含まれて
 いたことが「憲法違反」として世論の攻撃にさらされる
 と、帰化法の制定を閣議に提案し、外国人判事の採用を
 可能にしようとした。
  1889年(45歳)皇典講究所の所長に就任し、また、日
 本法律学校(のちの日本大学)、国学院を創立した。
  1890年(46歳)民法はフランス人ボアソナード、商法
 はドイツ人レースラーの原案起草を得て、共にこの年の
 公布にこぎつけた。
  しかし、フランスに範をとる民法が、日本の国情に合
 わないという法典論争の議論が起こった。
  山田は早期施行を主張したが、結局、両法ともに施行
 されなかった。
  1891年(47歳)大津事件では、担当大臣として大逆罪
 適用を主張した。
  1891年5月(47歳)大津事件が無期徒刑の判決直後に辞
 任、病気のためだった。
  第一次伊藤内閣の司法相、黒田・第一次山県・第二次
 松方の各内閣でも司法相を歴任(1891年・47歳まで)
  1892年(48歳)枢密顧問官となったが・・
  1892年11月11日、死去、49歳。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカ軍は、日本の本土防衛のために駐留しているのではない・・
    アレクシス・ジョンソン国務次官から、ニクソン大統領に提出されたメモ
.
1676年、ナサニエル・ベイコンの反乱。
  アメリカ・バージニアで起き、黒人の方々の抵抗・反
 乱として初めてのものだった。
  弾圧による不満の極致にあった黒人奴隷の方々が立ち
 上がった。
  これに不満を抱いていた開拓者も加わった。
  この年に、メリーランドでも反乱が起きた。
  1739年9月9日、サウスカロライナでカトーの黒人奴隷
   の反抗。
   これは最大の蜂起と言われている。
   捕まった奴隷の方々は、そのほとんどが処刑された。
   生き残った少数は、西インド諸島の市場に売却され
   た。
   サウスカロライナ州議会は法律を作って、黒人奴隷
   の方々の移動を制限し、また、教育も制限し、組合
   結成も制限した。
  1770年3月5日、自由黒人クリスバス・アタックスが、
   「ボストンの虐殺」で軍の銃弾に倒れた。
   イギリスの締め付けが厳しい事で反抗した。
  1773年1月6日、「フェリックス」、解放を求める奴隷
   の請願書
  1773年4月20日、ピーター・ベステスと他の奴隷、解放
   を求める請願書 
  1773年6月、マサチューセッツのハッチンソン総督・オ
   リヴァー副総督の本国あて私信が暴露される。
   植民地人の自由を制限することを主張していた。
   マサチューセッツの黒人が、議会に自由を求める請
   願書を提出。
  1775年、イギリス軍に参加する奴隷には自由を与える
   という、破廉恥な方法で兵士を集める「バージニア
   総督・ダンモア卿の布告」
  1776年、独立宣言が行われる年になって、やっと、ア
   メリカ軍が自由黒人の軍隊参加を承認した。
   後追いの処置となっている。
   黒人嫌いのリンカーン大統領は、黒人の軍隊参加を
   渋っていた。
   黒人の方々は、何度、頼んでも許可しないリンカー
   ンを軽蔑し、すでに、軍隊へ飛び込んで参戦してい
   た。
.
1789年、アメリカ合衆国憲法が制定された。
  「3/5条項」や奴隷貿易存続などを承認したことにより、
 このアメリカ憲法が奴隷制度を容認する状態となる。
.
1790年、フランス領ハイチで奴隷革命が起きた。
  そして、1803年に黒人共和国が成立した。
  アメリカの黒人奴隷の方々は、これに大いに勇気づけ
 られた。
.
1793年、アメリカで逃亡奴隷取締法が成立した。
  この年、イーライ・ホイットニーが、綿繰機を発明し
 た。
  これが綿花栽培の発展の契機となる。
  そして、この綿畑に黒人奴隷の方々が、大勢、連れて
 来られる。
.
1794年、アメリカ白人のキリスト教教会が、黒人差別をす
 ることに対して、黒人のリチャード・アレンが、最初の
 黒人の教会をフィラデルフィアに設立した。
  この年には、奴隷制反対協会の全国大会が、フィラデ
 ルフィアで開催されている。
.
1896年、アメリカというキリスト教国が、『黒人差別をし
 ても良い』という判決を出した。
  まったく破廉恥な軽蔑すべき判決で・・、
  施設などが平等であれば、黒人を白人から隔離しても
 その行為は憲法違反にはならない・・という連邦最高裁
 判所の判決で・・、
  アメリカの下級裁判所ではなく、最高裁判所が出した
 という卑劣な判断だった。
  こんなにはっきりした明確な人種差別行為を、アメリ
 カ特有な屁理屈で「人種差別ではない」として人種差別
 を行なった。
  この判決が、アメリカの基本的考え方として適用され、
 どこでも、アメリカ中で、堂々と、黒人の方々を差別す
 るという行為が行われた。
  アメリカという国の怖い所は、宗教的な偏見で、明ら
 かに筋が通っていない事でも、アメリカ特有の屁理屈か
 ら「不正義」を「正義」としてしまう。
  これは、黒人の方々のみならず「非白人」の「有色人
 種全般」に適用された。
  このアメリカという国の「人種関係全般を支える法的
 原理」になった。
  これから「バス」で、「学校」で、「教会」で、あら
 ゆるところで人種差別が堂々とアメリカ中で行われる。
.
1900年6月20日、義和団事件(~1901年9月7日)
  この事件で、中国は、列強各国に賠償金を支払う事に
 された。
  アメリカは、この金を、キリスト教関係へ流した。
  そして、中国でのキリスト教の布教活動を活発化させ
 た。
  キリスト教系の学校が、多数、創設された。
  また、多数のキリスト教宣教師が中国へ渡った。
  アメリカでの募金活動も広がった。
  そして、キリスト教系の人と莫大な金が中国へ流れた。
  (しかし、結果的にキリスト教信徒は増えなかった)
  1927年、一地方軍閥にすぎない蒋介石が、北京に政府
 樹立の宣言をするや、アメリカは承認して中央政府とし
 た。
  キリスト教宣教師は蒋介石と連合した。
  この動きの中にアメリカ雑誌の「タイム(TIME)」
 「ライフ(LIFE)」創立者のヘンリー・ルースが居
 た。
  しかし、信徒が増えないという状況で、募金打ち切り
 と宣教師の引き上げが検討されるようになった。
  そこで、キリスト教宣教師たちが使った手が、日本を
 貶(おとし)めて、アメリカにおいて、再び、中国に関
 心を向けさせるという手だった。
  キリスト教牧師のマギーは、南京市民を撮影して、ア
 メリカの政府関係者や、新聞記者に見せて、反日を煽っ
 た・・中国への同情と関心を喚起した。
  この例の様なキリスト教関係者の反日行動があちこち
 でなされた。
  上海のボイントン宣教師は、新聞記者や外交官へ、テ
 ィンパーリィ記者(オーストラリア人記者、実は、中国
 国民党宣伝機関のイギリス支部責任者)が金で依頼され
 て執筆した南京事件などを吹聴した。
  この様な色々な行動の中で、アメリカにおける反日感
 情が作り出されて行った。
  1937年に至って、ルーズベルト大統領の「日本を疫病
 患者に見立てた卑劣な批難演説」となる。
  そして、日本が戦争に負けて、東京裁判に於いて、キ
 リスト教聖職者のマギーは、証言で、見てもいない日本
 のありもしない卑劣な行為を言い続けた。
  反対尋問に於いて、マギーは、見ても居ないことを、
 延々と色々、言っていることが一つ一つ嘘だと暴露され
 た。
  特に、キリスト教宣教師たちの語ったその言葉の嘘・
 悪口・雑言はその極致にある(エスピー報告)
  当時の日本側の馬淵逸雄中佐(上海派遣軍報道部)も
 以下の様に指摘している・・
  「それ(南京の外人記者)にもまして悪影響の種をま
 いたのは、アメリカ宣教師たちの悪質デマ通信であった。
  あたかも入城した日本軍が鬼畜の行動をしたかのごと
 く通信をし、世界の対日感情を悪化させた・・(中略)
  首都・南京の占領も、この二つの事件(パネー号事件、
 および、レディバード号事件)とキリスト教宣教師のデ
 マ宣伝とによって、その対外的価値を半減した」・・と。
  今でも、キリスト教は日本を貶めている。
  そして、日本のシンボルである「国旗」と「国歌」に
 対しての貶め行為は酷いものである。
  この貶め行為が、日本に定着して来ると「表から消え
 る」というキリスト教である。
  キリスト教に偏するNHKは、盛んにその肩代わりを
 している。
  そして、そのNHKの息のかかる「放送大学」も、N
 HKにゴマを摺っているのか、盛んに日本を貶めている、
 また、キリスト教の「巧妙なる伝道行為」をしている。
.
1901年、官営の八幡製鉄所が開業して、鉄鋼の国産が開始
 された。
  それに伴い、造船業も発展を遂げた。
  日露戦争の後には1万トン以上の造船も可能となった。
  『日本の産業革命』と言われる時代が始まった。
  日本のこの目ざましい近代産業の発展は、江戸時代以
 来の民間の高い教育水準がそこにはあった。
  また、国民の勤勉さがあった。
  四民平等の施策によって、国民に自分の努力と工夫に
 よって人生が切り開かれる社会体制があり・・、
  また、渋沢栄一(埼玉県深谷の豪農の生まれ)の様な
 有能な民間の実業家が、多数、登場した。
  また、日本の施策が優秀で、日本の発展のための的確
 な施策がなされて行った。
  重点的になされた「交通網の拡充」も最適切だった。
  産業の発展を支えた。
  1889年には、東海道線の新橋~神戸間が全線開通した。
  そして、全国の鉄道網が拡大して行った。
  また、馬車などの通行が可能なように、道路も整備さ
 れて行った。
  地方の都市や農村にも鉄道が通って、それまでの街道
 筋に変わって、駅周辺が新たに発展した。
  農村も様々な副業が試みられ、生活水準も向上した。
  米食が普及し、人口も着実に増加して行った。
  子女を製糸工場に出稼ぎに出したり、都市に移住して
 工場の労働者になる人々も、多数、出る状況にあった。
.
1905年9月5日、日露戦争が、日本勝利で終わった。
  日露戦争の後、ロシアは、東アジアでの動きを止めた。
  南下政策もあきらめた。
  そして、活動拠点を、再び、ヨーロッパへ移し、進出
 を模索した。
  ヨーロッパの情勢は、そのため、緊迫するものとなっ
 た。
  ドイツは、すでに、1882年に、オーストリアとイタリ
 アとで三国同盟を結んでいた。
  そして、海軍力を強め、海外へ進出をした。
  これを恐れたイギリスは、ロシアとフランスに接近し
 た。
  ロシアは、1891年に、フランスと露仏同盟を結び、ま
 た、1907年には、イギリスと英露協商を結んだ。
  また、1904年には、英仏協商が結ばれている。
  そこで、この三国(イギリス、ロシア、フランス)は、
 1907年に、三国協商を結びドイツを包囲し、ドイツなど
 の三国同盟と対峙(たいじ、にらみ合って対立すること)
 した。
  これによってヨーロッパは、緊張が高まって行った。
  この時、日本は、1902年に、日英同盟を結び、1905年
 の日露戦争の戦勝の後、1907年には、ロシアと日露協約
 を、また、フランスと日仏協約を結んだ。
  日本は、三国協商の三国とのつながりを強めた。
  この頃、バルカン半島に緊張が高まった。
  民族の独立を目指す運動が高まった。
  この地域に利害を持つイギリスをはじめとする三国協
 商の列強諸国と、ドイツをはじめとする三国同盟の列強
 諸国は、この独立運動を利用して勢力を伸ばそうとした。
  そのため、バルカン半島は、「ヨーロッパの火薬庫」
 と呼ばれた。
  一触即発の緊張状態となり、この状態が続いた。
  これは、東アジアの中国の軍閥が割拠する頃の状況と
 同じ様な緊張状態だった。
  バルカン半島で、ヨーロッパ列強各国がうごめくこと
 が良くて、「満州ではダメ」なんて言えない状態だった。
  こんなことをしでかして来たヨーロッパ各国が、満州
 で日本をとやかく言うような事が出来るのか・・?
  そして、結局、1914年、オーストラリア皇太子夫妻が、
 ボスニアのサラエボで、親ロシアのセルビア青年に殺さ
 れると(サラエボ事件)、これを切っ掛けとして第一次
 世界大戦を起こしてしまった。
  他人(ひと)の事をとやかく言えない状況をやってい
 た。
.
1905年、日清戦争後、中国から、日本の近代化に学ぼうと
 して、多数の留学生が日本に来て・・そして・・
  1905年、孫文は、東京で留学生を中心に中国同盟会を
 結成した。
  そして、三民主義を掲げて、清朝を打倒する運動を開
 始した。
  1911年、中国では、民衆の反政府運動と軍の反乱が結
 び付いて、多くの省が清朝からの独立を宣言して、辛亥
 革命(しんがいかくめい)が起きた。
  1911年、そして、この年、南京に革命派の代表が集ま
 って孫文を臨時大総統に選びんだ。
  1912年の翌年に、中華民国の成立を宣言した。
  首都は、南京に置かれた。
  清朝政府の実力者だった袁世凱(えんせいがい)は、
 この革命派と結び、皇帝を退位させて清朝を滅ぼした。
  そして、その引き換えに孫文から大総統の地位を譲り
 受けた。
  しかし、袁世凱は、大総統に就任してから、自己の権
 力強化を図った。
  袁世凱は革命派を弾圧し始めた。
  その後、中国は、統一性を失って行った。
  権力を持つ地方政権である大小の軍閥が発生すること
 によって、各地方がバラバラに支配されるようになった。
  この一地方軍閥が蒋介石。
.
1917年2月23日、2月革命(~1917年2月27日)
  ロシアの崩壊はこの日のデモが切っ掛けだった。
  日本と衝突した日露戦争の際の1905年の第1次ロシア
 革命、
  第一次世界大戦中の第2次ロシア革命は、いずれも民
 衆の暴動から始まった。
  その中から1917年に世界最初の社会主義政権ソヴィエ
 ト=ロシアが誕生し、最後の皇帝ニコライ2世は処刑さ
 れ、ロマノフ朝は終わりを告げた。
  1917年2月23日、ペトログラードで国際婦人デーにあわ
 せてヴィボルグ地区の女性労働者がストライキに入り、
 デモを行った。
  食糧不足への不満を背景とした「パンをよこせ」とい
 う要求が中心となっていた。
  他の労働者もこのデモに呼応し、数日のうちにデモと
 ストは全市に広がった。
  要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大した。
  ロシアは、ドイツとの戦争が長引いて、庶民は食糧難
 にあえいでいた。
  そして、都市の市民に暴動がおこり、これに兵士が加
 わった。
  これを契機としてロマノフ王朝が倒れた。
  国外に逃亡して革命の機会を待って居たレーニンは、
 直ちに、この機会を利用した。
  レーニン派は、武装蜂起し、兵士と労働者を中心にし
 て、代表者会議(ソビエト)を拠点とする政府を作った。
  そして、他の党派を武力で削除し、共産党の一党独裁
 体制を築いた。
  ソビエト政府は、ドイツとの戦争をやめ、革命に反対
 する国内の勢力との内戦に没頭した。
  ロマノフ王朝の皇帝一族を処刑し、また、共産党が敵
 とみなす資本家、キリスト教聖職者、地主、貴族、知識
 人らの多数を処刑した(ロシア革命)。
.
1917年12月、日本の軍艦の艦隊が編成されてヨーロッパへ
 派遣された。
  1902年に日英同盟が結ばれ、また、1907年には日仏協
 約や日露協約を結んだ日本は、第一次世界大戦において、
 この三国協商の側について、ドイツなどの三国同盟側と
 戦った。
  ドイツの潜水艦が、イギリス・フランスなどの協商側
 の商船を警告もなく無制限に攻撃する作戦をしている事
 から、日本は軍艦を地中海へ派遣して(イギリスの要請)、
 マルタ島を基地として、三国協商の輸送船団を、ドイツ
 の潜水艦から守った。
  また、ドイツの租借地であった中国の山東半島の青島
 (チンタオ)を攻撃した(この近くに有名な租借地・威
 海衛はイギリスの租借地がある)。
  また、日本は、太平洋の赤道以北のドイツ領の島々を
 攻撃した(赤道以南はオーストラリアおよびニュージラ
 ンドが統治)。
  また、遼東半島の関東州などのドイツ租借地を攻撃し
 た(因みに、ドイツやイギリスは、中国のあちこちに広
 大な租借地を持っている)
.
1918年、シヘリア出兵
  アメリカやヨーロッパ諸国は、ソビエト政府の共産主
 義に強い警戒心を抱いていた。
  長年、シベリアを勢力圏におさめ、南下するロシア及
 びソ連の脅威を、日本も受けていた。
  このアメリカ・ヨーロッパ諸国・日本は、ロシア領内
 で孤立したチェコスロバキア部隊の救出と、革命阻止と、
 シベリアへの影響力を持つことを目的に、共同して出兵
 した。
.
1921年、第二回全黒人地位改善協会大会が開かれた。
  アメリカは、とことん黒人の方々を虐(しいた)げる
 国だった・・軽蔑すべき国だった。
  アメリカの自国だけでなく西インド諸島やアフリカの
 新大陸にまでその魔の爪先を伸ばして・・虐げた。
  黒人の方々は、リンチや人種的抑圧、その他さまざま
 な差別を激しく非難した。
  そして、抵抗行動として「税金の不払い」「黒人差別
 法の無視」「暴力には『手段を選ばぬ』自己防衛」をと
 った。
  1921年に、ニューヨークで開かれた第二回全黒人地位
 改善協会大会は、アメリカの全地域から集まっただけで
 なく、西インド諸島や南アメリカ、アフリカからも多く
 の黒人の方々が集まった。
  この黒人指導者のガーウェイは、「アフリカ帝国」の
 樹立を宣言し、自らその臨時大統領に就任した。
  黒、赤、緑の三色の国旗も制定した。
  このガーウェイの行動の重要な所は、この後に、アメ
 リカ全土を席巻する「公民権獲得運動」への発展して行
 くところだった。
.
1923年3月3日、タイム(TIME、雑誌)が、ヘンリー・
 ルースによって創刊された。
  アメリカにおける初の週刊ニュース雑誌だった。
  2009年の発行部数は340万部。
  また、ヘンリー・ルースは、1936年11月23日、アメリ
 カで写真を中心としたグラフ雑誌の「ライフ(LIFE)」
 を創刊している。
  この雑誌は、1967年~1970年頃に850万部の最盛期の
 最高発行部数を記録した(1972年12月29日の1862号で休
 刊した・・1978年に復刊したが、2000年に再び休刊)
  このヘンリー・ルースは、中国の山東省に生まれた。
  父は、北京で布教活動に従事していた医師だった。
  そして、この父親は、中国で、燕京大学(えんきょう
 だいがく)をはじめとするミッション系大学を設立に貢
 献した。
  (因みに、この燕京大学は、1952年、中国政府によっ
 て解体されている)
  そして、このヘンリー・ルースは成長して、アメリカ
 に戻ると、上記した様にニュース週刊誌『タイム』と、
 写真週刊誌『ライフ』を創刊した。
  ヘンリー・ルースは、『タイム』の表紙に蒋介石を使
 った。
  そして、『ライフ』には、日本軍の爆撃にあったとい
 う赤ん坊の嘘のデッチアゲ写真を載せた。
  中国への同情を掻き立てるためであり、募金を募って
 蒋介石を支援した。
  メディアの媒体を使って日本を貶(おとし)め行為を
 盛んにした。
  アメリカの国民の方々の反日感情を掻き立てた。
  「ライフ」も「タイム」も反日で、親中国の宣伝誌だ
 った。
  (今・現在も、アメリカでは、巨大な中国資本で、日
 本の悪宣伝が行われている。
  サンフランシスコでは、韓国の慰安婦像の建立を中国
 が支援している)
  また、キリスト教宣教師の父を持つ、このヘンリー・
 ルースは、宣伝媒体・映画も使った。
  ニュース映画『マーチ・オブ・タイム』を製作して、
 野蛮な日本を掻き立てた。
  そして、その日本と戦うけなげな中国というイメージ
 を盛んに宣伝した。
  2018年(来年)、日本のキリスト教は、これと似た方
 法で日本を貶める映画を公開する予定だという。
  遠藤周作の「沈黙」の原作を改作して、嘘でデッチ上
 げて作り直し、キリスト教を美化して、日本を貶める映
 画を公開する予定だという。
.
1923年、日英同盟がワシントン会議で失効した。
  当時のイギリス外相のバルフォアは・・、
  「20年も維持し、その間、二回の大戦に耐えた日英同
 盟を破棄することは、たとえそれが不要の物になったと
 しても忍び難いものがある。
  だが、これを存続すればアメリカから誤解を受け、こ
 れを破棄すれば日本から誤解を受ける。
  この進退困難を切り抜けるには、太平洋に関係のある
 大国全てを含んだ協定に代えるしかなかった」・・と。
.
1928年、老将軍の張作霖は、この年まで満州を支配下に置
 いていた。
  張作霖は、北京の「中央政府」に権力を得たこともあ
 ったが、満州の地の地方的軍閥で・・張作霖は、満州を
 自分の私領と思っていた。
  そして、二度、満州の独立を宣言した。
  1928年、張作霖が爆死すると、息子の張学良が、父の
 領地と軍を引き継いだ。
  張学良は、親イギリス的で、統率力は父ほどではなく
 低かった。
  その為、「共産系匪賊(ひぞく、集団を成して略奪な
 どを行なう賊)」に荒らし回られた。
  住民の心は、張学良の政治を悪政と感じ、張学良から
 離れていて、独立を求める気運の中にあった。
  中国情勢は混沌(こんとん、区別が立たず物事が入り
 混じっている状態)としていた。
.
1937年8月13日、中国の南京で起きたこと・・この日、蒋介
 石軍が、突然、上海の日本租界を攻撃を始めた(第二次
 上海事変)
  この攻撃から南京事件につながる日中戦争が始まった。
  この頃、日本は、軍を引き上げようとしていた。
  日本政府は、1937年7月28日、揚子江沿岸に在留してい
 た日本人約29,230名の引き揚げを訓令した・・そして・・
  1937年8月9日までに上海への引き揚げを完了していた。
  また、軍も引き上げようとしていた。
  そして、アメリカは、中国の数々の軍閥の中で、中国・
 蒋介石軍を支援した。
  まだ、中国国内のあちこちに、色々な軍閥が割拠して
 いるのに・・、
  1928年6月、この蒋介石が、北京で政府を作ったと宣言
 したからというのがその理由だった。
  ただそれだけの理由だった。
  そして、アメリカは、この蒋介石へ、武器・弾薬を与
 えた。
  日本の消耗を狙った消耗戦があった。
  日本が消耗したら、今度は、自分が出て行くつもりだ
 った。
  アメリカは、後になってベトナム戦争の時もこの作戦
 を使った。
  そして、イギリスは、中国で膨大な権益を持っていた。
  そのため、日本と連合して、時には治安行動を行なう
 という事もあった。
  (1902年~1923年、日英同盟を結んでいた・・特に、
 第二次日英同盟の時に攻守同盟を結んだ・・そして、第
 三次日英同盟の時に、日本は、第一次世界大戦を連合国
 として参戦した)
  1937年のこの時に、上海に居た日本軍は、日本に戻ろ
 うとしていた。
  この様な時、アメリカの支援を受けた蒋介石軍は、多
 くのその支援物資とともに、屈指の精鋭部隊である3万人
 の大部隊で、上海の国際共同租界の日本人区域を包囲し
 た・・ここから日中戦争が始まった。
  そして、1937年8月13日、攻撃を仕掛けた。
  この時、上海に居た日本軍は少数であった。
  日本軍の内訳は、上海陸戦隊2200、日本に引き揚げよ
 うと漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊300など4000人だ
 った。
  日本に戻ろうとしていた日本軍は、日本へ戻ることが
 出来なくなった。
  当然、その戦闘を行なうという状態となった。
  日本領事は、国際委員会を招集して、中国軍の撤退を
 要求した。
  しかし、中国軍は攻撃されたからだと真っ赤な嘘を主
 張した。
  そして、また言った「中国軍は攻撃されない限りは攻
 撃しない」と・・まったくの嘘の話を主張した・・中国
 は、中国側の責任を全く認めなかった。
  日本は、やむなく派兵を要請した。
  戦いは拡大して行った。
  この戦いの詳細は・・1937年8月13日午前10時半、中国・
 蒋介石軍は、日本軍陣地に対して機関銃による射撃を、
 突然開始する事から始まった。
  物資の豊富な蒋介石軍は強力だった。
  午後5時頃には、中国軍はあちこちの橋を爆破した。
  砲撃も激しかった・・日本軍は応戦した。
  そして、5時頃、戦いが収まりそうにないと判断した日
 本の司令官は、全軍の戦闘配置を指令し、激烈な戦闘が
 開始された。
  長谷川清海軍中将(海軍上海特別陸戦隊及び第三艦隊
 司令長官)は、戦争回避をしたいと考えていた・・、
  長谷川中将は、1937年7月から、華北での戦火拡大から
 考え、中国軍はすでに開戦を意図していると察していた。
  日本への攻撃を意図した蒋介石は、中国・蒋介石軍を、
 無錫や蘇州に20万人以上の大部隊を待機させ、戦争の準
 備を整えていた。
  戦いが始まって、日本は、この様な状況も察知し、こ
 の部隊への爆撃命令が出された。
  日本艦艇も蒋介石軍機によって空襲された。
  この蒋介石軍の空襲で、フランス租界や国際共同租界
 も爆撃された。
  路上にいた729人が即死し、861人が負傷した。
  また、避難所も蒋介石軍に空襲され1012人が死亡、1007
 人が負傷し、民間人の多数が犠牲となった。
  これも、中国・蒋介石軍は、日本軍機によるものだと
 嘘を承知で誤った内容を発表した。
  日本の爆撃も、九州から渡洋爆撃をするなど拡大した。
  この様な戦闘の結果、1937年11月中旬頃、日本は、や
 っと、その蒋介石軍を退けることが出来た(3ヶ月間の戦
 いだった)
  蒋介石軍は、南京へ退却して行った。
  ここで、日本軍は、日本に凱旋できるはずだった。
  「上海戦を制すれば、ただちに軍事行動を停止し、欣
 然(きんぜん、よろこんで)日支の友交をおさむるに吝
 (やぶさ)かならず(軍令部第一部甲部員/支那事変処理)」
 ・・喜んで日支の友好に努める・・だった・・
  退却する蒋介石軍を追撃するか否かの時に、日本のマ
 スコミ(NHKを初めとする日本のマス・メディア)は
 報道で煽った・・そして、参謀本部から11月19日に追撃
 命令が出た。
  日本には、追撃することに対しての反対意見もあった。
  報道の煽(あお)りでこの意見が封じられた。
  南京に入場するときに、日本では「ちょうちん行列」
 で祝った(1937年12月13日)が、この様に、日本国民を煽
 ったNHKをはじめ日本のマスコミは、大きく軍の行動
 の判断を狂わし、動かした。
  南京へ向かう日本軍を、NHKはじめマスコミは、そ
 の都度、詳細に報道し、その報道に日本国民は煽られた。
  「南京城に日章旗が翻(ひるがえ)るまで」とNHK
 はじめマスコミは報道合戦を繰り広げた。
  1937年12月7日、南京に・・日本軍が迫ると、アメリカ
 は、蒋介石や蒋介石軍の司令部の者たちを、アメリカ軍
 の2機の飛行機やパイロットまで出して連れ去った。
  アメリカは、『救出』と言いたいのだろうが、これは、
 完全に日本軍と蒋介石軍との戦いへの介入だった。
  アメリカの参戦だった。
  ここで起きた悲劇は、多くの蒋介石軍の兵士が置き去
 りにされたことだった。
  この事から悲劇が始まった。
  アメリカによって、中国・蒋介石軍の指揮・命令系統
 が無くなされた。
  指揮・命令系統のない中国・蒋介石軍の兵士が戦場に
 残された・・卑劣な状態である。
  可哀想なのが中国の一般の方々・民衆の方々だった。
  指揮・命令系統のない蒋介石軍兵士は、一般の中国民
 衆を守れる状態ではなくなった。
  逃げ惑う中国・蒋介石軍兵士となった。
  その逃げる兵士を、蒋介石軍の下級将兵が、自軍の兵
 士へ向かって「逃げるな」と銃撃した。
  この様な「乱れに乱れた南京の状況」が現出した。
  降参して来る右の蒋介石軍兵士が、左から、やはり、
 降参して白旗を上げて来る蒋介石軍兵士が騙して銃撃す
 るという事もあって、右の兵士も左の蒋介石軍兵士とも、
 再び、銃撃戦になるという事も起きた。
  また、中国軍艦が、白旗を上げて降参しているので、
 日本の軍艦が近づいて行くと魚雷を発射して逃げるとい
 う中国軍艦のやり方・・、
  中国は、騙したってなんだって勝てばよいという考え
 方のやり方を昔からやって来た。
  騙される方が悪いという、国際法もあったもんじゃな
 いという中国だった。
  三国志(歴史書)を読めば分かる。
  日本の様に正々堂々と戦うのを良しとするのではなく、
 騙し合いの中国・世界である。
  卑怯なことだってなんだってやるという国だった。
  また、最悪なのが・・中国の民間人に隠れて、民間人
 の服に着替えて(軍服を脱いで)、そして、日本兵を狙
 撃して殺すという卑劣な卑怯な方法を多用した。
  こんなことをしては、中国の民間人に類が及ぶ(るい
 がおよぶ、他人の非が降りかかり、巻き添えを食う)の
 を分かっていてもやるという中国兵だった。
  まともな兵士なら、絶対、やってはいけない卑怯な行
 為だった。
  (日本を貶める事ばかり放送するNHKは、この様な
 事をまったく放送しない。日本を貶めてばかりいる)
  中国の庶民の方々を守る責任のあるものを奪い去った
 アメリカは、その指揮系統を無くしたアメリカの罪は非
 常に重かった。
  上海で・・攻撃を開始された日本は、アメリカが沖縄
 を攻めて来たように、南京まで攻めて行ったのであって、
 当然、侵略ではない。
.
1940年7月、アメリカの予備選で、黒人の方が排除されると
 いう事態が起きた。
  黒人の方々が投票することが出来ないという事が起き
 たのである。
  まったく卑劣な事がテキサス州で起きた。
  この事は、最高裁まで争われるという裁判になった。
  しかし、何と! テキサス州の最高裁判所は、その黒
 人の方への排除は適法だったと判決した。
  裁判所は、「政党の私的行為だから」とその判決理由
 を述べた。
  選挙には、すべて政党はつきものである・・この判決
 は、アメリカ特有の屁理屈だと言いたい。
  アメリカ大統領につながる予備選が私的行為である訳
 がない。
  この原告の黒人の方の投票できなかった事に関しての
 この屁理屈判決は、連邦最高裁判所まで持ち込まれた。
  ここでやっと、この4年後の1944年4月に、先の判決が
 ひっくり返り、「黒人の方の主張が認められた」。
  アメリカという国は、最近まで、この様に低劣な人種
 差別が激しい国だった。
  今・現在においても、完全に、この卑劣な人種差別が
 無くなっているとは言えない国である。
  「歴史のないアメリカ」は、まだまだ未熟な国なので
 ある。
.
1950年、卑劣な人種差別国・アメリカは、朝鮮戦争(1950
 年)の頃になって、やっと、アメリカ史上、初めて、「
 黒人の方々が、差別を受けず、白人と隔離なき統合され
 た軍隊」として動員された。
  リンカーンの奴隷解放なんてどこにあるのかというア
 メリカだった。
  1945年になって、やっと、アメリカ大統領が、大統領
 行政命令で連邦レベルで黒人差別を否定したことによる
 結果で、州法が制定される実施例が出た。
  この年に、ニュージャージー州とニューヨーク州に、
 雇用における人種差別を禁止する法令を州法によって制
 定した。
  (アメリカ北部の州も、やっと、この様な法令を制定
 した。
  アメリカ北部は人種差別をしていないなんて言うのは、
 完全なアメリカのプロパガンダ・嘘宣伝である)
  人種で雇用を差別することが、やっと、禁止された。
  肌の色や出身国や信条で、就業機会の差別をしてはい
 けないとされた。
  就業を妨げたりしてはいけないとされた。
  まったく遅いアメリカの法令化だった。
  しかし、まだまだ、卑劣な事に、州内の色々な公共施
 設における人種差別に関しては、そのままとされた。
  黒人の方々が、白人と同じ『市民的権利』を持つとす
 ることが出来ないアメリカだった。
  (トイレの差別など、乗り物の差別など・・などなど)
  この後、長くアメリカは、あらゆるところで『この差
 別を続けた』、今でもあるとさえ言える軽蔑すべき状態
 にある(この銅像を建てなさい・・)
  まったく差別のない日本とは大きく違う劣悪な人種差
 別国アメリカである。
.
1964年、アメリカに公民権法が、やっと、成立した。
  黒人の方々への差別を無くす法律がやっと成立した。
  (差別行為者はWASP)
  黒人の方々の大変な苦労がやっと実った。
  そこに、何と多くの黒人の方々の血が流された事であ
 ろうか・・
  そこには、白人・アメリカ人の悍ましい(おぞましい、
 身震いするほど嫌な感じ)人種差別の行為があった・・
 厳しく糾弾されるべき行為があった。
  黒人の方々の長い絶えざる広範な闘いが、そこに必要
 だった。
  (この闘いの指導者である黒人のキング師は暗殺され
 た)
  リンカーンの奴隷解放宣言は何だったのだろうか・・?
  何ら生かされていないというアメリカだった。
  キリスト教国・アメリカのWASP(W:白人、AS:
 アングロサクソン、P:キリスト教プロテスタント)の
 差別行為・圧迫行為は酷(ひど)かった。
  しかし、この卑劣な差別は、まだまだ、アメリカで続
 いている。
  キリスト教の教義「有色人種蔑視観」の洗脳により根
 深くアメリカに根付いてしまっている。
.
1971年8月24日、『核の傘」は幻影・・
  アメリカは日本を守らない。
  アメリカの「対日政策の見直し」により、核の傘は日
 本防衛の為ではないと明記された。
  アメリカの核の傘で守られているというのは幻想。
  本「仮面の日米同盟」の52頁などに、以下のような意
 味の記述がある・・、
  在日しているアメリカ軍は、日本防衛のために在日し
 ているのではない
  アメリカ軍の日本を防衛するコストはゼロである。
  「国家安全保障検討メモ(NSSM)122号」における
 「対日政策の見直し」の指示を受け、国務省が1971年8月
 24日付けでキッシンジャーに提出した文書ちょり・・
  「日本を協力的にとどめることを確保するコストには
 次のようなものが含まれる。
  核の傘の維持と米抑止力の信頼性。
  核の傘は、いずれにしても米国が自国の防衛のために
 疑いなく維持するので、核の傘の提供によって、日本の
 防衛に対する直接的なコストはかかっていない。
  日本国内、および、その周辺に配備されたアメリカ軍
 部隊は、アジアにおける米国の他の防衛公約を満たすの
 が第一の目的であり、日本防衛の為ではない」
.
1971年12月29日、アメリカ軍の駐留は、日本防衛ではない。
  日本は、目を覚まさねばならない。
  日本は、日本防衛のために立ち上がらなければならな
 い。
  アメリカ軍は、日本の本土防衛のために駐留している
 のではない・・
  アレクシス・ジョンソン国務次官から、ニクソン大統
 領に提出されたメモより・・、
  「在日アメリカ軍は、日本本土を防衛するために駐留
 している訳ではなく(それは日本自身の責任である)、
 韓国、台湾、及び、東南アジアの戦略的防衛の為に駐留
 している。
  北大西洋条約機構(NATO)と違って、日本とは、
 統合司令部に関する取り決めがなく、何らかの種類の統
 合計画もない・・
  このように、在日、及び、在沖縄米軍基地は、ほとん
 どすべてがアメリカ軍の兵站の目的のためにあり、戦略
 的な広い意味においてのみ日本防衛に務める。
  こうしたより大きい立場からの安全保障の思考は、日
 本自身の安全保障を直接的に損ねる、と我々は感じるか
 もしれないが、この見解は、多くの、多分ほとんどの日
 本人には共有されていない。
  日本人の多くは、アメリカ軍の存在は脅威とみなして
 おり、アメリカ軍の使用によって、日本自身が作り出し
 たわけではない紛争に日本を巻き込む恐れがあるとみて
 いる」。
  春名幹男氏著「仮面の日米同盟」(47頁~48頁)
  https://www.youtube.com/watch?v=RUtjdMpJZdk
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2017-12-01 06:18 | 皆様とともに 幸せになりたい


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