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(増補版)542E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年10月~1891年11月)

題:(増補版)542E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年10月~1891年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1891年10月30日、甲武鉄道会社が、官設鉄道、および、日
 本鉄道会社と、自社線との間における連絡運輸に関する
 取扱手続として、「甲武鉄道連絡運輸取扱手続」を制定
 した(11月1日から実施)
1891年10月、神戸駅構内に、「鉄道電信技術伝習生養成所」
 を設けた。
  また、「鉄道電信技術伝習生取扱内規」を定めた。
1891年10月、萩山平兵衛が、馬場駅で弁当・お茶の販売を
 開始した。
1891年11月1日、甲武鉄道会社が、業務の独立自営を実施し
 た。
  新宿から東京市内への路線延長について、1889年5月に、
 申請し、
  1889年7月に、仮免状が下付されていた。
1891年11月3日、山陽鉄道会社線の福山駅~尾道駅間(19.8
 km)が開業した。
1891年11月4日、関西鉄道会社線の身田駅~津駅間(3.6km)
 が開通し、津支線の亀山駅~津駅間(15.7km)が全通した。
1891年11月5日、陸軍省が、東京・九段の靖国神社に、維新
 前後の国事殉難者1277名を合祀した。
  因みに、幕末の志士である吉田松陰、坂本龍馬、高杉
 晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、大村益次郎
 等も維新殉難者として合祀されている。
  また、禁門の変で、長州藩勢と戦い、天皇陛下の守護
 行為をして戦死した会津藩兵らも祀られている。
  そして、1868年(慶応4年)2月15日に起きた堺事件(
 土佐藩の隊旗を奪ったフランス人水兵を、土佐藩兵が、
 切り捨てた事件)の責めを受けて、堺(現大阪府堺市)
 の妙国寺で切腹した11人の土佐藩兵も祀られている。
1891年11月5日、演劇新派の伊井蓉峰らが、済美館(せいび
 かん)を旗揚げした。
  この年、伊井蓉峰(いいようほう)は、銀行勤務をや
 め、川上音二郎一座に参加した。
  そして、この年、浅草の吾妻座で、依田学海の後援で、
 男女合同改良演劇を標榜して、済美館で旗揚げをした。
  『心中天網島』はじめ、近松の作品を忠実に上演した。
  森鴎外のせりふ劇や、島崎藤村、夏目漱石、尾崎紅葉、
 徳富蘆花、その他の文芸作品と意欲的に取組み、
  1912年に、明治座の座主となり、名実ともに新派界三
 巨頭(他に河合武雄,喜多村緑郎)の筆頭となった。
  (1915年の新派大合同劇では座長)
  代表的な役は、『不如帰』の武男、『金色夜叉』の貫
 一、『婦系図』の早瀬、『二筋道』の阿久津など・・、
1891年11月7日、幸田露伴の「五重塔」が、日刊紙「国会」
 に連載を開始した。
  「五重塔」は、幸田露伴(こうだろはん)の短編小説の
 傑作で、1891年11月~92年3月まで、新聞『国会』に連載
 した。
  抜群の腕前をもちながら、鈍重な性格ゆえに「のっそ
 り」とあだ名される大工の十兵衛は、谷中・感応寺の五
 重塔建立の計画を知って末代にわが名をとどめる好機と
 奮い立ち、先輩の川越源太から仕事を奪い取る。
  源太の侠気に満ちた協力の申し出も拒み、さまざまな
 妨害をはねのけて、あくまでも独力で塔を建てた。
  落成式の前日、暴風雨に襲われるが、塔は微動だにし
 なかった・・ここの描写は圧巻の評がある。
1891年11月8日、改進党首の大隈重信は、自由党の板垣退助
 と早稲田で会見し、自由党・改進党の両党の連合・連盟
 を話し合った。
  これを知った第4代内閣総理大臣の松方正義は、11月12
 日、大隈重信の枢密顧問官の地位を諭旨免職にした。
  この第一次松方内閣は、1891年5月6日に成立していた
 が、不幸にも、内閣成立の5日後の1891年5月11日に、大
 津事件が発生し、責任を負って外務大臣や司法大臣、内
 務大臣などが辞意を表明するなどして、安定した内閣で
 はなかった。
1891年11月16日、文武高等官官職等級表を公布した(勅令
 215号)
  高等官には、文官と武官の区分があった。
  能力などの等級制は、任免の基礎と捉え、制度化した。
  また、能力等級表の種類および等級構成は、任用に活
 用する観点から、もっともふさわしい形で、これらを設
 定することが求められていた。
1891年11月17日、小学校規則大綱が制定された(明治24年
 文部省令第11号)
  第一条、小学校ニ於テハ小学校令第一条ノ旨趣ヲ遵守
     シテ児童ヲ教育スヘシ
  徳性ノ涵養ハ教育上最モ意ヲ用フヘキナリ故ニ何レノ
 教科目ニ於テモ道徳教育国民教育ニ関連スル事項ハ殊ニ
 留意シテ教授センコトヲ要ス
  知識技能ハ確実ニシテ実用ニ適センコトヲ要ス故ニ常
 ニ生活ニ必須ナル事項ヲ撰ヒテ之ヲ教授シ反覆練習シテ
 応用自在ナラシメンコトヲ務ムヘシ
  各教科目ノ教授ハ其目的及方法ヲ誤ルコトナク互ニ相
 連絡シテ補益センコトヲ要ス
  第二条、修身ハ教育ニ関スル 勅語ノ旨趣ニ基キ児童
     ノ良心ヲ啓培シテ其徳性ヲ涵養シ人道実践ノ方
     法ヲ授クルヲ以テ要旨トス
  尋常小学校ニ於テハ孝悌、友愛、仁慈、信実、礼敬、
 義勇、恭倹等実践ノ方法ヲ授ケ殊ニ尊王愛国ノ志気ヲ養
 ハンコトヲ務メ又国家ニ対スル責務ノ大要ヲ指示シ兼ネ
 テ杜会ノ制裁廉耻ノ重ンスヘキコトヲ知ラシメ児童ヲ誘
 キテ風俗品位ノ純正ニ趨カンコトニ注意スヘシ
  高等小学校ニ於テハ前項ノ旨趣ヲ拡メテ陶冶ノ功ヲ堅
 固ナラシメンコトヲ務ムヘシ
  女児ニ在リテハ殊ニ貞淑ノ美徳ヲ養ハンコトニ注意ス
 ヘシ
  修身ヲ授クルニハ近易ノ俚諺及嘉言善行等ヲ例証シテ
 勧戒ヲ示シ教員身自ラ児童ノ模範トナリ児童ヲシテ浸潤
 薫染セシメンコトヲ要ス
1891年11月18日、内務大臣・品川弥二郎が、閣議に「鉄道
 政略ニ関スル件」を提出した(1891年7月説あり)
  閣議は、これを修正して、12月14日、第2回帝国議会に
 鉄道公債法案・私設鉄道買収法案として提出した。
  明治20年(1887年)頃~明治40年(1907年)頃は、一
 般に、幹線鉄道の建設を盛んにした時代だった。
  この時代、地域社会はみずから資本を調達して、私設
 鉄道を建設する意図をもつ例も少なくなかった。
  しかし、計画に対して開業にいたる比率ははなはだ少
 なかった。
  これは、地方の個々の地域社会における資本蓄積が十
 分ではなく、
  それ故、軽便鉄道や馬車・人車鉄道を除けば、巨額な
 資本を必要とする一般の鉄道の建設を行なうには、無理
 があった。
  多くの地域社会は、幹線鉄道のルート決定に際して、
 みずからの地域に有利なルートを採択させようと努力し
 た。
  この翌年・1892年に、鉄道敷設法が公布され・・、
  わが国における幹線鉄道網の将来像が画かれ、
  かつ、帝国議会を通じて地域社会の意志が鉄道建設に
 反映できるようになった。
  そして、この動きは活発化した。
  この「鉄道政略ニ関スル議」は、1891年7月に出され、
 長文の文書であった。
  要点は2つ・・、
  第1は、将来の日本の幹線鉄道の路線を決定し、政府は
 そのための長期計画を立てて、着実に建設を行なうため
 の法律、および、その資金を得るための公債発行の法律
 が必要。
  第2は、幹線鉄道網の一環となる私設鉄道を政府が買収
 する。
  政府は、井上勝(いのうえまさる)の建議に基づいて、
 鉄道公債法案と私設鉄道買収法案を、1891年12月、衆議
 院に提案した。
  しかし、「政府の私設鉄道の買収案」は否決され、「
 幹線鉄道路線計画案」は、議決に至らないうちに、衆議
 院が解散されてしまった。
  翌年・1892年5月、改選された帝国議会において、政府
 は上記2法案を再提案した。
  衆議院議員のなかからも、「鉄道拡張法案」あるいは
 「鉄道敷設法案」の名称で、各地の鉄道建設を促進する
 法案を独自に提案する者もあって、政府の提案は、これ
 らと折衷されて、1892年6月21日、「鉄道敷設法」(明治
 25年法律第4号)として公布された。
1891年11月20日、日本鉄道会社が、線路の保守・運輸・運
 転業務の独立自営を、井上鉄道庁長官・品川内務大臣に
 申請した(12月28日了承された)
.
  (今日の言葉)
.
  題:君たちだけが逃れられると思うのは『妄想だ』・・、
.
1882年、明治政府は、自由民権運動の鎮静化を狙って、こ
 の年、板垣と後藤に、ヨーロッパへ勉強する機会を与え
 た。
  自由党内部では、彼らの洋行に対して反対論が大きか
 ったが、
  両者とも、自らが信奉するリベラリズムがヨーロッパ
 の政治上どのように機能しているのか、現地に行って実
 際に見てみたい気持ちを抑えられず、根強い反対を押し
 切って洋行した。
.
1889年12月24日 山県有朋が、第一次内閣を組織した(~
 1891年5月6日)
  黒田清隆内閣は、大隈条約改正案の失敗で倒れたあと
 に成立した藩閥内閣で・・、
  国会開設を翌年に控えて、超然主義を掲げた。
  しかし、1890年7月の第1回総選挙では、反政府派の民
 党(旧自由党系、改進党)が多数を占める勢いであった。
  内閣は、議会乗り切りのため、その直前の5月に、改造
 を行い、陸奥宗光を農商務相として入閣させ、後藤象二
 郎とともに民党対策にあたらせた。
  他方、同年・1890年10月には、教育勅語を発布して、
 天皇制の精神的基礎の確立を目ざした。
  同年・1890年11月、開会の第1議会では、国是として主
 権線と利益線(朝鮮)の擁護を訴え、軍備拡張を基本と
 する予算案を提出した。
  これに対し、民力休養・政費節減を主張する民党は全
 予算の1割に及ぶ削減案で対抗した。
  そのため、内閣は、一方で衆議院解散をほのめかし、
 他方で後藤、陸奥を通じて自由党土佐派を切り崩して、
 からくも第1議会を乗り切った。
  第1議会閉会直後に総辞職し、松方正義内閣に引き継が
 れた。
.
1903年7月、ロシアは、アレクセーエフ提督を極東総督に任
 じた。
  (この提督は、日露戦争の原因を作った人と言われて、
 世界に知られている)
  この役職は、政治・軍事を問わず、極東に関するあら
 ゆる問題を管轄できる役職であり、
  日本・清・朝鮮など極東諸国との外交権を握っていた。
  さらに、その翌月、ヴィッテを罷免し、ベゾブラーゾ
 フ(1896年、日本との開戦の必要性を唱える請願書を皇
 帝に提出した人)を、ロシアの国務大臣に任命し、対日
 強硬路線へ突き進んでいくこととなった。
  ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、ロシアを欧州から遠ざ
 け、
  かつ、イギリスとロシアを対立させるチャンスと見て、
 ロシアの極東進出を応援した。
  1904年2月、ヴィルヘルム2世は、ロシア皇帝ニコライ
 2世に宛てて手紙を書いた・・、
  「偏見のない人なら誰でも朝鮮は、ロシアのものと考
 えている」として、ニコライ2世の方針に支持を表明し
 た。
  そして、彼に「太平洋提督」になることを勧めた。
  「黄色い猿(日本のこと)」を侮蔑するニコライ2世は、
 ロシアがどんなに強硬路線を取ろうと、「日本に、ロシ
 アと戦争する勇気などあるはずがない」としていた、
  そして、「ロシアが、自分が望まない限り、日露の戦
 争にはならない」と考えていた。
  1903年10月に、アレクセーエフ提督に対して、「私は、
 日本との戦争を望まないし、許可もしない」と述べたか
 と思えば・・、
  1903年12月には、「ロシアの強硬な圧力を受けて、日
 本が旅順から撤退した1895年を思い出す」
  「どっちにしても日本は野蛮な国だ」
  「開戦か、利権交渉か、一体どちらがよいことやら」
 と述べたりした。
  さらに、1904年1月の新年、レセプションの席で・・、
  「何人たりとも、ロシアの忍耐力と平和を愛する心に
 いつまでも期待をかけてはならない」
  「ロシアは大国であり、行きすぎた挑発は許さない」
  ・・と演説した。
  アレクセーエフは、全権を与えられているといっても、
 形式的にであれ、皇帝の裁可は不可欠であった。
  しかし、1903年8月~1903年11月にかけて、ニコライ2
 世は、西欧を歴訪していたこともあり、
  日本との交渉は遅々として進まず、日本の不信感は高
 まって行った。
  (参考)ベゾブラーゾフ(アレクサンドル・ミハイロ
     ヴィチ・ベゾブラーゾフ)は、イギリスの東イ
     ンド会社のような組織を設立して、朝鮮半島と
     満州における権益を確保して、それらを強制的
     に征服すべしとした。
.
1918年、 第一次世界大戦中の1918年に始まったスペイン
 インフルエンザのパンデミック(俗に「スペインかぜ」
 と呼ばれる)は・・、
  被害の大きさできわだっていた。
  世界的な患者数、死亡者数についての推定は難しいが、
 患者数は、世界人口の25%~30%(WHO)となった、
  あるいは、世界人口の3分の1(Frost WH,1920年)、約
 5億人(Clark E.1942年)で、
  致死率(感染して病気になった場合に死亡する確率)
 は、2.5%以上(Marks G, Beatty WK, 1976年; Rosenau
  MJ, Last JM, 1980年)、
  死亡者数は、全世界で4,000万人(WHO)、
  5,000万人(Crosby A, 1989年; Patterson KD, Pyle
 GF, 1991年; Johnson NPAS, Mueller J, 2002年)、
  一説には、1億人(Johnson NPAS, Mueller J, 2002年)
 とも言われている。
  日本の内務省統計では、日本で、約2300万人の患者と、
  約38万人の死亡者が出たと報告されている。
  ・・が、歴史人口学的手法を用いた死亡45万人(速水、
 2006年)という推計もある。
  スペインフルの第一波は、1918年3月に、アメリカと
 ヨーロッパで始まるが、
  この(北半球の)春と夏に発生した第一波は、感染性
 は高かったものの、特に、致死性ではなかった。
  しかしながら、(北半球の)晩秋からフランス、シエ
 ラレオネ、アメリカで同時に始まった第二波は、10倍の
 致死率となり、
  しかも、15~35歳の健康な若年者層において、もっと
 も多くの死がみられ、
  死亡例の99%が、65歳以下の若い年齢層に発生した。
  過去にも、またそれ以降にも、例のみられない現象が
 確認された。
  また、これに引き続いて、(北半球の)冬である1919
 年の始めに、第三波が起こった。
  一年のタイムスパンで、3回の流行がみられたことにな
 る。
  これらの原因については、多くの議論があり、これら
 の原因について、よくわかっていない。
  1918年の多くの死亡は、細菌の二次感染による肺炎に
 よるものであったとされているが、
  一方、スペインフルは、広範な出血を伴う一次性のウ
 イルス性肺炎を引き起こしていたことも分かっている。
  非常に重症で、かつ、短期間に死に至ったため、最初
 の例が出た際には、インフルエンザとは考えられず、脳
 脊髄膜炎、あるいは、黒死病の再来かと疑われた。
  もちろん、当時は、抗生物質は発見されていなかった
 し、
  有効なワクチンなどは論外であり、
  インフルエンザウイルスが始めて分離されるのは、1933
 年まで、待たねばならなかった。
  このような医学的な手段がなかったため、対策は、患
 者の隔離、接触者の行動制限、個人衛生、消毒と集会の
 延期といった、ありきたりの方法に頼るしかなかった。
  多くの人は、人が集まる場所では、自発的に、あるい
 は、法律によりマスクを着用し、
  一部の国では、公共の場所で、咳やくしゃみをした人
 は、罰金刑になったり、投獄されたりした。
  また、学校を含む公共施設は、しばしば閉鎖され、
  集会も禁止された。
  患者隔離と接触者の行動制限は、広く適用された。
  感染伝播をある程度遅らせることはできたが、患者数
 を減らすことはできなかった。
  この中で、オーストラリアは、特筆すべき例外事例だ
 った。
  厳密な海港における検疫、すなわち、国境を、事実上、
 閉鎖することによりスペインフルの国内侵入を、約6ヶ月
 遅らせることに成功した。
  そして、この頃には、ウイルスは、その病原性をいく
 らかでも失っており、
  そのおかげで、オーストラリアでは、期間は長かった
 ものの、より軽度の流行ですんだ。
  その他、西太平洋の小さな島では、同様の国境閉鎖を
 行って侵入を食い止めたところがあった。
  しかし、これらのほんの一握りの例外を除けば、世界
 中で、このスペインフルから逃れられた場所はなかった。
.
1972年、この年の春、アメリカは、ベトナム戦争の真った
 だ中というこの時に、同盟状態の南ベトナムを見捨てた。
  可哀想に、裏切られ、見捨てられた南ベトナムは、そ
 の3年後に、北ベトナムに降伏し、飲み込まれて行ってし
 まった。
  アメリカは、この時、勝手に、今までの方針を変えた。
  「南ベトナムが、北ベトナムの共産陣営に飲み込まれ
 てもかまわない」とした・・、
  手のひらを返した。
  こんな、アメリカの勝手は、歴史のあちこちにある。
  アメリカは、この様な国で・・、
  そして、アメリカは、「日本や台湾を守るために、中
 国と戦争したりしない」とも言った。
  ミアシャイマーも、ジャービス(コロンビア大学)も
 言っている、「自国(アメリカ)の国益を増進するため
 の道具」に過ぎない・・と・・、
  日本の対米依存主義(バンドワゴン)は、この様な「
 薄氷の上にある」。
.
1990年代、中国政府とインド政府は、1990年代の初めから、
 「21世紀の国際構造は、かならず多極化する」と明晰に
 分析し、
  自国が、その多極構造において有利な立場を獲得する
 ためのグランド・ストラテジーを構想し、着々と手を打
 った。
  (参考資料記述)外交の巧拙(こうせつ、巧みな事と
    つたないこと)は、交渉を指導し、これに従事す
    る者のかけひきの術に依存するのみならず、
     彼らの、彼我の相対的力量を冷静に測定し、交
    渉をめぐる国際・国内環境を現実的に把握し、大
    局を見すえて緻密に駒を進める能力に依存する。
     グランド・ストラテジーgrand‐strategyをもっ
    て外交を進めることが大切。
  (参考)ストラテジー(Strategy)とは、「戦略」「作
    戦計画」を意味する英単語。
     ギリシャ語で「軍を導く」という意味の言葉「
     Strategic」に由来する。
      ある目的を達成するために、総合的に進めら
     れる計画や運用方法。
  (参考)バンドワゴンとは、行列の先頭の楽隊車のこ
     とであり、
      「バンドワゴンに乗る」とは、時流に乗る・
     多勢に与する・勝ち馬に乗る、といった意味。
      経済学・政治学・社会学などで使われる。
      バンドワゴン外交・・キッシンジャー、ウォ
     ルト(ハーバード大学)、ミアシャイマー、ジ
     ャービス(コロンビア大学)などは、「(日本
     の)バンドワゴンする依存主義の外交は、その
     うちに大失敗するぞ」という。
      また、「自分の国の安全保障には、自分で責
     任を取れ」と繰り返し、著作や論文で警告して
     いる。
.
2017年1月18日、駐日アメリカ大使に、キャロライン・ケネ
 ディ大使が離任し、
  ジェイソン・ハイランド首席公使が臨時代理大使に就
 任した。
  氏は、これまで、在日米国大使館首席公使を務め、公
 使の職位を持つ上級外交官。
  アジアでの勤務、および、研究活動は17年に及び、最
 近では、在オーストラリア米国大使館首席公使を務めた
 (2010年~2013年)。
  在日米国大使館、在札幌米国総領事館、および、在福
 岡米国領事館に勤務し、福岡では首席領事(1995年~1998
 年)。
  国務省では、東アジア・太平洋局の特別補佐官(1998
 年~1999年) のほか、日本部に所属。
  1995年2月に、阪神・淡路大震災で被災した米国市民を
 支援するため、最初に、神戸に派遣された大使館チーム
 の一員として、国務省から グループ優秀名誉賞を受賞
 した。
  東京大学で、外国人客員研究員として研究活動を行っ
 たほか、アメリカ・カナダ大学連合日本研究センターで
 学んだ。
  国防分野の統合教育機関である米国防大学を構成する
 カレッジのひとつ、ナショナル・ウオー・カレッジで国
 家安全保障戦略の修士号を取得(2000年)
  また、タフツ大学フレッチャー法律外交 大学院(法律・
 外交学)で修士号、カリフォルニア大学バークレー校で
 学士号(歴史学)を取得した。
  バークレー校では、日本語を学び、日本史に関する卒
 業論文 の執筆により歴史学で優秀賞を受賞した。
  マサチューセッツ工科大学(MIT)セミナーXXI
 プログラムにフェローとして参加した。
  日本語のほか、ウクライナ語、アゼル バイジャン語、
 スペイン語も話す。
.
2017年、核攻撃のボタンを押した君も『死ぬ』ことになる・・、
  一旦、核戦争になったら・・誰も・・逃れられない。
  今現在、広島・長崎型原爆より、べらぼうに大きい核
 兵器・原爆を持つという人類となっている。
  その放射能たるや・・「福島原発事故どころではない」・・、
  全地球が、高濃度の放射能でおおわれる・・、
  今でも、福島は、帰還が出来ない・・帰ることが不可
 能な地域となっている・・、
  この福島どころではない高濃度の放射能に、長い年月、
 全地球が覆われる・・、
  高濃度の放射能に汚染された状態となる。
  生物の・・『生存が許されない地球』となる。
  だから、また、『核ボタンを押した君の家族』も・・、
  また、『君の知人・親戚も』・・
  その高濃度の・・長く続く・・放射能汚染から・・逃
 れる事は出来ない。
  君たちだけが逃れられると思うのは『妄想だ』・・、
  愚かなる兵器の押しボタンを持つ君に告ぐ!!
.
2017年、アメリカのコーネル大学の大学院の国際政治学の
 ゼミは・・、
  教授が、毎週、国際政治学や安全保障政策で、最も質
 の高い著作を4冊~5冊ずつを読ませるという、勉強量の
 多すぎる授業で・・、
  毎週毎週、教授にしごかれ、「ゆとり教育」という甘
 い状況どころではない・・、
  「ゆとり教育」というより、「しごき教育」という状
 況の教育。
  必死に、この教育・しごきについて行って、今、本当
 に本気で感謝していますと言う人は多い。
  「特に、役に立ったと言えばこれだ」とも言えると・・、
  しっかり勉強している者が多くないと、本物は作れな
 い・・似非(えせ)になってしまう。
  知的レベルの差は、ここから生まれ・・、
  加計学園だけに捉われ、『本当の政治課題から逃げて
 いる』野党の架空政治家は・・この事例の落ちこぼれ政
 治家版。
.
2017年、キリスト教は、国歌斉唱と国旗掲揚に反対してい
 る。
  また、マッカーサーGHQ司令官は、キリスト教系大
 学である国際基督教大学を作ったりした・・、
  そして、日本をキリスト教化したいとした。
  また、GHQの占領政策の中で、マッカーサーは、
 WGIP(War Guilt Information Program/ウォー・ギ
 ルト・インフォメーション・プログラム)を実施し・・、
  日本人に「罪悪感を植え付け」・・、
  戦前日本の文化・教育などのあり方をすべて否定させ・・、
  日本人から愛国心と自信を奪い取るという『プログラ
 ムを実施した』。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive



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by suba28 | 2017-07-28 04:10 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)541E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年10月~1891年10月)

題:(増補版)541E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年10月~1891年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年10月7日、文部省が、小学校の修身教科書の使用を通
 達した。
  1890年(明治23年)10月30日、「教育ニ関スル勅語」
 が出され、
  1891年(明治24年)「小学校教則大綱」(11月制定)
 と、「小学校修身教科用図書検定基準(標準)」(12月
 制定)が策定され、修身教科書の発行へ・・、
  1893年(明治26年)に至り、検定を受けた教科書がで
 き、
  また、この翌年・1894年(明治27年)4月から使用が開
 始された。
  ・1892年、東久世通禧『尋常小学修身書』4冊
  ・1893年、東久世通禧『高等小学修身書』4冊
  ・1892年、末松 謙澄『修身入門』1冊
  ・1892年、末松 謙澄『小学修身訓』3冊
  ・1892年、末松 謙澄『高等小学修身訓』4冊 
  ・1892年、末松 謙澄『修身女訓』4冊
  ・1893年、渡辺 政吉『実験日本修身書』入門共8冊
  ・1900年、普及舎編輯所『新編修身教典』(尋常科・
       高等科・女子用―各4冊)
  ・1900年、文学社『小学新修身』(尋常科・高等科・
       女子用―各4冊)
  因みに、アメリカでは、「初代大統領のワシントンは、
 桜の枝を折ったことを正直に言いました」という徳目主
 義があるが・・、
  これは、アメリカの初代大統領のワシントンを崇拝す
 る動きに於いて、この様な逸話が、1806年頃に作られた
 (その他、様々なこの類の行為を、アメリカは行なって
 いる)
1891年10月7日、鉄道庁旅費規定を改正(8月16日から適用)
1891年10月15日、東京に吊り橋「お茶の水橋」が落成し開
 通した。
  「お茶の水」の名の由来は、二代将軍の徳川秀忠が、
 この近くにあった高林寺の湧水で淹れた茶が気に入った
 ため・・、
  この付近一帯が、「お茶の水」と呼ばれるようになっ
 た。
  この初代の橋は、1891年、原龍太によって、日本人の
 設計としては初の鉄橋として架けられた。
  構造は、長さ38間(約69m)・幅6間(約11m)の上路式
 トラス橋だった。
  因みに、1904年に、橋の下に甲武鉄道(現在のJR中
 央本線)御茶ノ水駅が開設された。
  そして、1923年の関東大震災に会い、この橋の橋板に、
 木材が使われていたため、焼失した。
  神田川は、土砂崩れでせき止められた。
  1931年5月10日になり、震災復興事業として、架替が完
 成した。
  新たな橋は、橋桁と橋脚を一体構造にした鋼製ラーメ
 ン橋で、耐震性に優れ、現在まで至っている。
1891年10月28日、早稲田文学が創刊された。
  前年新設された早稲田大学の前身・東京専門学校文学
 科の機関誌として創刊された・・が・・、
  これは、第一次の早稲田文学で、
  現在まで、八次にわたって継続して発行されている文
 芸雑誌。
  第1次は、1891年10月~1898年10月の全156冊で、坪内
 逍遙が主宰だった。
  最初は、講義録風なものであったが、次第に逍遙、島
 村抱月、綱島梁川らの論文がふえていった。
  また、森鴎外との間で没理想論争を展開したりしたが、
  「文学」に対する理解の未分化な時代に、明治文学の
 嚮導者(きょうどう、先に立って案内すること)として
 果たした役割は大きい。
  発行所は、当初は東京専門学校、
  49号より早稲田文学社。
  最初の講義録的なものが変わって「記実主義」の方針
 を打ち出し、当時の文学状況を伝える「時文評論」や、
 文学界の動向を概括した「彙報(いほう)」欄に特色をみ
 せるようになった。
  そして、文学科卒業生の金子筑水(ちくすい)、水谷不
 倒(ふとう)、島村抱月(ほうげつ)、後藤宙外(ちゅうがい)、
 五十嵐力(ちから)らが誌面で活躍しはじめて、文芸誌と
 しての色彩を強まった。
  ほかに、高山樗牛(ちょぎゅう)、綱島梁川(つなじまり
 ょうせん)などが執筆に加わった
1891年10月28日、濃尾大地震
  岐阜県、愛知県、倒壊焼失家屋:約26万8000戸、死者
 数:約9万6000人。
  早朝、6時38分50秒、濃尾地方で濃尾地震が発生。
  直下型地震で美濃・尾張地震とも言う。
  震源:岐阜県本巣郡根尾村、北緯35度35分、東経136度
 20分の地点
  規模:M8.0(8.4?)、モーメントマグニチュードは、
 7.4と推定されている。
  根尾谷断層帯が活動した典型的な直下型地震で、日本
 の陸域で発生した地震としては最大規模。
  濃尾地震の被害は、濃尾2県はもとより、近隣の滋賀県
 や福井県にも及んだ。
  別史料に、死者7273人、負傷者1万7175人、全壊家屋
 14万2177戸、半壊8万戸。
  また、別史料:死者7466人、全壊:14万2177戸。
  岐阜県を中心に、岐阜、大垣、名古屋で被害甚大。
  西根尾(ねお)村(現=岐阜県本巣市)で、80kmにわ
 たる断層が発生した。
  名古屋・清洲・一ノ宮・木曽川・大垣の各駅本屋全壊、
 岐阜駅本屋大破、木曽川・長良川・揖斐川の各橋梁破損
 のほか線路等に大被害(完全復旧までに6か月を要した)
  なお、罹災者に対する救恤品は無賃、
  救護材料の運賃は、半額(災害罹災者に対する救恤品の
 無賃輸送および救護材料の運賃割引の最初)
  (参考)救恤(きゅうじゅつ):「恤」は、めぐむ意
     で、困っている人に見舞いの金品などを与えて
     救うこと。
1891年10月30日、帝国議会第二回仮議事堂が竣工した(第
 二次仮議事堂落成)(10月20日説あり)
  日本に議会が開設された1890年(明治23年)から現在
 の議事堂が完成するまで46年間がある。
  第1回帝国議会から第69回帝国議会まで、木造の仮議
 事堂を使用していた。
  1881年(明治14年)10月12日、明治天皇陛下から「明
 治23年を期し議員を召し国会を開く」旨の国会開設の勅
 諭が発せられ、
  そこで、1886年(明治19年)2月、内閣に臨時建築局が
 設けられ・・、
  議事堂建築が、スタートすることになった。
  不平等条約の改正に取り組む政府は、外交上の政略等
 もあって、外国の技術者を招聘することとし、ドイツか
 ら建築家を招聘した。
  日本からも、技師をドイツに派遣するなど準備に着手
 し、
  1887年(明治20年)4月の閣議において、議事堂建築
 予定地を麹町区(現在の千代田区)永田町1丁目に決定
 した。
  ドイツ人建築家により議事堂の設計(エンデ及びベッ
 クマンによる案)がなされ、
  中央諸官庁の集中建築計画が立てられた。
  ・・が、計画に従えば多大の経費を要すること、議事
 堂のような大建築物を造り上げるには、帝国議会の開設
 があまりにも切迫していたことから、議事堂の本建築は
 中止され・・、
  麹町区内幸町2丁目(現在の千代田区霞ヶ関1丁目経
 済産業省の区画)に仮議事堂を建築することとなった。
  仮議事堂は、2度火災で焼失したため、都合3回にわ
 たって建築された。
  第1回仮議事堂は、1890年(明治23年)11月24日、(
 第1回帝国議会召集の前日)竣功した。
  木造洋風2階建て。
  同年・1890年11月29日に、貴族院議場において、開院
 式が行われ、我が国最初の議会である第1回帝国議会が開
 会された。
  しかし、翌・1891年(明治24年)1月20日未明、突如出
 火し、数時間で、焼失してしまった。
  原因は漏電。
  議会開会中のため、貴族院は華族会館(旧鹿鳴館)、
 衆議院は東京女学館(旧工部大学校)に議場を移した。
  貴族院は、のちに華族会館が手狭なため帝国ホテルに
 移転した。
  第2回仮議事堂は、第1回仮議事堂の焼け跡に、1891年
 (明治24年)10月30日に竣功した。
  木造洋風2階建て。
  外観は、第1回仮議事堂とそれほど変わらなかったが、
 中央に1か所だった玄関が、貴族院と衆議院の両院に、
 それぞれに設けられ・・、
  防火壁、議場の音響効果改善など、細部に工夫が凝ら
 された。
  しかし、また、この議事堂も、1925年(大正14年)9月
 18日に焼失する事になる。
  補修工事業者の不始末からの火災だった。
  (参議院ホームページを参考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:1時間後には、やった方(攻撃した方)も、ほぼ居なくなる・・
.
1773年、アメリカのマサチューセッツで、知的な指導的
 黒人の方々が、『奴隷制度は自然権に反する』と主張し
 た。
  それ故、彼ら黒人奴隷にされている人々にも自由が与
 えられるべきだと主張した。
  そして、植民地議会に請願を行なった。
  1773年~1780年までに、マサチューセッツ、コネティ
 カット、ニューハンプシャーで行なわれた自由を求める
 黒人の方々の集団請願が、10数本にもなった。
  また、多くの黒人の方々が、個人的に、また、集団的
 に逃亡し、抵抗した。
  自由獲得への意思表示をして抵抗した。
  そして、また、多くの黒人の方々が、直接に革命軍に
 身を投じ、イギリス軍と戦った。
  また逆に、狡猾なイギリス軍は、この黒人の方々の逃
 亡奴隷の革命軍への参戦を利用して、1775年11月、イギ
 リス軍に味方して革命軍と戦う奴隷には、『イギリス国
 王の軍に参加した時点で、すべての奴隷を解放する』と
 布告した。
  このイギリスの国王軍には、卑劣にも大プランターが
 多く居て、多くの黒人の方々を奴隷にして虐(しいた)
 げていた。
  その様なイギリス軍だった。
  欺瞞的行動を悪びれず行なう卑劣なイギリス国王軍だ
 った。
  黒人の方々は、悲しいかな、この狡猾な「イギリスの
 引っ掛け」に引っ掛かってしまっていた。
.
1775年4月、アメリカの黒人の方々が、奴隷制反対協会を設
 立した。
  アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンからして奴
 隷所有者という遅れた国家であり、また、人間だった。
  この様なアメリカにおいて、1775年4月、アメリカ最初
 の奴隷制反対協会が、フィラデルフィアに設立された。
  そして、ついに、1794年1月に、フィラデルフィアで
 全国大会が開かれた。
.
1943年4月、バミューダ会議
  アメリカとイギリスの高官レベルの会議で、ユダヤ人
 の方々を、ナチスの手から助ける事に対して、「放棄す
 る」ということが、この会議で決定された。
  また、大量の難民発生に対し、アメリカ・フランス・
 トルコ・イギリスなどの大使館は閉鎖した。
  ユダヤ人の方々の受け入れの拒否行為をして対策した。
  それを、日本は、大使館などの館を開けていて、ユダ
 ヤ人の方々の受け入れをしていた・・受け入れを良いと
 していた。
  このため・・キリスト教が嘘宣伝する杉原千畝が褒め
 られるのではなく、日本の国・自体が褒められる事なの
 だ。
  第二次世界大戦中、ドイツで公然と行われたユダヤ人
 迫害に関して、アメリカも、また、ヨーロッパの国々も、
 長い間沈黙を守った・・というより、口をつぐんだ。
  また、ユダヤ人の方々を進んで救おうとするまとまっ
 た動きもしなかった。
  その挙句(あげく)の・・大使館閉鎖だった。
  1943年4月、アメリカとイギリスの高官レベル会議(バ
 ミューダ会議)で、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害政策
 に対しては、何もすべきではないことが正式に決まり、
 大量救出のためのあらゆる計画が放棄された。
  ユダヤの方々の流入が、「救出するより怖い」と判断
 したアメリカ・ヨーロッパ諸国だった。
  そこには、キリスト教の「主(イエス)殺しのユダヤ
 人」という差別の洗脳が働いた。
  この事を後世に残すために、世界記憶遺産に登録し、
 且つ、アメリカ各地にこの像を建立せよ!
.
1945年、下記は、第二次世界大戦で戦死された方々の人数
 (軍人+一般の方々)で・・、
  その当時の国民数に対する戦没者の方々の割合で順位
 づけらている。
  当時の国民数に対して、ポーランドの方々が一番多い
 割合(16.7%)で犠牲となられている。
  01・ポーランド、5,820,000人(16.7%)
  02・ソビエト連邦、28,000,000(16.61)
  03・ナウル、500(14.7)
  04・リトアニア、350,000(14.33)
  05・ティモール、70,000(14.00)
  06・ドイツ、9,000,000(12.88)
  07・ラトビア、230,000(11.78)
  08・ルアンダ=ウルンディ、300,000(7.1)
  09・シンガポール、50,000(6.87)
  10・ユーゴスラビア、1,027,000(6.67)
  11・フィリピン、1,057,000(6.6)
  12・ハンガリー、580,000(6.35)
  13・フランス領インドシナ、1,500,000(6.1)
  14・オランダ領東インド、4,000,000(5.76)
  15・ギリシャ、335,100(4.5)
  16・エストニア、50,000(4.44)
  17・日本、3,120,000(4.37)
  18・ルーマニア、800,000(4.01)
  19・中華民国 重慶国民政府、20,000,000(3.86)
  20・オランダ、301,000(3.45)
  21・チェコスロバキア、325,000(3.15)
  22・南洋諸島、57,000(3.00)
  23・アルバニア、30,000(2.81)
  24・フィンランド、97,000(2.62)
  25・マラヤ連邦、100,000(2.28)
  26・朝鮮、483,000(2.06)
  27・オーストリア、120,000(1.80)
  28・ビルマ、272,000(1.69)
  29・フランス、550,000(1.35)
  30・パプアニューギニア、15,000(1.17)
  31・ベルギー、88,000(1.05)
  32・イタリア、454,600(1.03)
  33・イギリス、450,900(0.94)
  34・ニュージーランド、11,900(0.73)
  35・インド、2,587,000(0.68)
  35・ルクセンブルク、2,000(0.68)
  37・オーストラリア、40,500(0.57)
  38・マルタ、1,500(0.56)
  39・カナダ、45,400(0.40)
  40・ブルガリア、25,000(0.38)
  41・アメリカ合衆国、418,500(0.32)
  41・ノルウェー、9,500(0.32)
  43・アイスランド、200(0.17)
  44・南アフリカ、11,900(0.12)
  45・デンマーク、3,200(0.08)
  46・エチオピア、100,000(0.6)
  47・タイ、7,600(0.04)
  48・モンゴル、300(0.04)
  49・ニューファンドランド、100(0.03)
  50・ブラジル、2,000(0.02)
  51・スウェーデン、600(0.01)
  51・イラク、500(0.01)
   ・キューバ、100(0.00)
   ・イラン、200(0.00)
   ・アイルランド、200(0.00)
   ・メキシコ、100(0.00)
   ・スイス、100(0.00)
   ・トルコ、200(0.00)
   ・ネパール、
   ・スペイン、
  計 85,000,000人(4.00%)
  因みに・・第一次世界大戦の犠牲者数は・・、
  協商国(アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、イ
 タリア、ルーマニアなど)・・9,407,136人(1.19%)
  中央同盟国(ドイツ、オスマン帝国、オーストリア=
 ハンガリー帝国、ブルガリア王国)・・7,153,241(5.0)
  中立国(ノルウェー、スエーデン、デンマーク)・・
 3,491(0.03)
  計 16,563,868人(1.75%)
  ・・となっていて・・、
  第二次世界大戦の戦没者数は、この5.1倍の戦没者数
 という激烈な人数となっている。
  (一般人の犠牲者数の激烈な増加)
  しかし・・、第三次世界大戦の核戦争になると・・
  1時間後には、地球上の人類の約半数が死ぬと言われ
 ている。
  そして、一旦、核戦争になれば、その放射能で、人類
 のすべてが生き残れない。
  「人類の殺傷技術の進歩」と言えば卑劣であるが、愚
 かな人類の歩みは、その様な時代を作ってしまった。
  より強烈になってしまった兵器を持つ愚かな人間が、
 今現在、地球上に居る。
  何百万年も、営々と築いて来た人類の叡智・・
  「その叡智の一端で、この様な兵器を創り、一瞬にし
 てすべてが崩れ、人類の生存はおろか、地球上の全生物
 が抹殺されるという時代」となっている。
  その様な事態が起きる歯止めの技術の進歩は・・、
  『まったくない』・・
.
1949年、1949年のこと・・、
  GHQは、アメリカのマッカーサー司令官の独裁的支
 配機関であった。
  占領政策の中で、マッカーサーは、WGIP(War
 Guilt Information Program/ウォー・ギルト・インフ
 ォメーション・プログラム)を実施した。
  これは、日本人に「罪悪感を植え付け」て・・、
  戦前日本の文化・教育などのあり方をすべて否定させ
 て・・、
  日本人から愛国心と自信を奪い取る・・
  ・・という、プログラムであった。
  1949年になって、日本を、あまりにも自分の考え方だ
 けで規制しているのを反省したのか・・GHQは、それ
 まで映画を検閲していたが止めた。
  時代劇も駄目だったが、時代劇もできるようになった。
  それから、約5年後くらいの1950年代後半に、日本は、
 映画全盛期を迎える。
  観客数ピークは、1958年に、11億2745万人。
  因みに、2015年は、1億6700万人。
  別史料に、GHQの下部の組織であるCIE(民間
 情報教育局)によって、日本の映画は管理されていたが、
 1952まで続いたとされている。
  また、戦争に協力したとして、1947年に追放された監
 督らが、その追放の処分解除が、1950年になされた。
  また、1951年に、サンフランシスコ講和条約が締結さ
 れると、その翌年の1952年に、GHQによる映画検閲が
 廃止になった。
  そして、これによって、上映禁止となっていた時代劇
 が復活した。
  1951年には、黒澤明の「羅生門」が、ベネチア国際映
 画祭グランプリを受賞した。
  また、GHQによって制限されていた戦争映画の制作
 がされはじめ、
  1950年には、関川秀雄の「きけ、わだつみの声」がで
 きた。
  因みに、ルーズベルト米大統領のブレーンの多くは、
 共産主義者だった。
  終戦を迎える以前の1943年から、アメリカにはOSS
 (Office of Strategic Serevices/戦術局)かあった。
  そこでは、日本が敗戦した後に、どのように日本を支
 配していくかを話し合っていた。
  OSSの中心的な構成員は、ドイツから亡命してきた
 マルクス主義を基にするフランクフルト学派のユダヤ人
 達であった。
  彼らは、日本をマルクス主義の実験場にしたかった。
  東西冷戦が起きた。
  当時のアメリカにとって、ソ連は、日本・ドイツ・イ
 タリアを共に攻める同盟国であったため、社会主義国に
 対する警戒意識は、当時、まだ持っていなかった。
  ルーズベルト大統領も、左翼思想の持ち主であり、彼
 のまわりは左翼思想家ばかりが取り巻いていた。
.
1949年、フーバー元アメリカ大統領の回想録「フリーダム・
 ビトレイド(FREEDOM BETRAYED、裏切られた自由)」が
1948年4月に出版された・・しかし・・
  1949年のこの年に、ダグラス・マッカーサーGHQ司
 令官は、日本での翻訳と、出版を禁じた。
  (卑劣な口封じ)
  第二次世界大戦は、日本は、『防衛のため』やむを得
 ず戦いをした・・と書かれている。
  このアメリカの不利な言説を、GHQは封じようとし
 た。
.
1963年、中性子爆弾の最初の実験が行われた。
  中性子爆弾(ちゅうせいしばくだん)は、核兵器の一
 種で、核爆発の際のエネルギー放出において、中性子線
 の割合を高め、生物の殺傷能力を高めたもの。
  放射線強化型核爆弾とも呼ばれる。
  中性子線は透過力が強く、薄い鉛などの金属板も透過
 する。
  地下鉄程度であれば透過するため、都市圏であればほ
 とんど助かる可能性はない。
  爆発による破壊よりも、人間を初めとする生物には放
 射線障害による死傷を与えることができ、爆風などの被
 害半径よりも中性子線による被害半径のほうが大きくな
 っている。
  中性子爆弾は、戦術核兵器として使用後の占領時に市
 街の建造物やインフラ設備を利用できるようにするため
 に爆発力を縮小させており、主として自軍地上部隊の行
 動を視野に入れた運用が考えられていた。
  そのため、弾頭威力も核兵器としては小さく、残留放
 射能も少量になるように設計されている。
  1ktの弾頭ならば、被害半径を1000m程度に抑えられる
 こともあって、戦術核兵器としての利用が考えられた。
  最初の実験は、1963年に、アメリカのネバダ核実験場
 で行われた。
  1970年代には、スプリント弾道弾迎撃ミサイル用のW66
 に中性子弾頭が使用された。
.
2017年、核戦争が一旦、起きたら、一時間後には、地球上
 の人類の『約半数が死ぬ』と言われている。
  その様な『はかない状況』の中に人類は生存している。
  (その後まで続くのであれば、人類絶滅へ、強烈な放
 射能もある状態で、人類は、誰も逃れる事は出来ない・・
 生き延びる事は出来ない)
  今現在、広島・長崎型原爆より、べらぼうに大きい核
 兵器・原爆を持つという人類となっている。
  北朝鮮のICBMは、約30分後には、アメリカに着弾
 する。
  ヨーロッパは、北朝鮮から遠いからなんて、言ってい
 られない・・今現在なのだ。
  また、その放射能と言えば・・「福島原発事故どころ
 ではない」・・、
  全地球が、高濃度の放射能でおおわれる・・、
  今でも、福島は、帰還が出来ない・・帰ることが不可
 能な地域である・・この様に、長い年月、全地球が、そ
 の高濃度の放射能に汚染された状態となる。
  生物の・・『生存が許されない地球』となる。
  そして、1時間後には、やった方(攻撃した方)も、
 ほぼ居なくなる核戦争の「核兵器システム」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive



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by suba28 | 2017-07-24 03:47 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)539E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年6月~1891年8月)

題:(増補版)539E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年6月~1891年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年7月1日、九州鉄道会社線の高瀬駅~熊本駅間(28km)
 が開通し、門司駅~熊本駅間(195.4km)が全通した。
1891年7月5日、北海道炭砿鉄道会社線の岩見沢駅~歌志内
 駅間(49.7km)が開業し、手宮駅~歌志内駅間の直通運転
 が実施された。
1891年7月5日、清国の北洋水師(艦隊)が、戦艦「鎮遠」
 「定遠」と軍艦他4隻で、示威(名目上は親善)活動の
 ため東京湾へ来航した。
  本「頭山満と玄洋社物語」(続)(平井晩村著1915年
 刊)の第10章に、
  「日本の海軍の10倍の「鎮遠」「定遠」の巨艦を擁し、
 東京湾にあらわれ丁汝昌は、『眼中に日本なし』とせせ
 ら笑い、長崎に寄港して横暴のかぎりをつくした」とあ
 る(日清戦争の遠因)
  日本は、戦争回避もあってか? 金を出し、長崎市と
 協力して歓迎大会を開催した。
  また、横浜、呉などにおいても大歓迎会を催している。
  しかし、長崎においては、前回の時と違い、上陸して
 くる清国水兵に復讐する者もいた。
  (前回、清国水兵の乱暴狼藉事件があったため)
  上泉少尉は・・、「折角、親善を標ぼうして、来朝し
 て来る者を遇する道ではない」・・と、清国艦隊が、日
 本を去るに際し、最後の交歓をなすべく率先奔走した。
1891年7月11日、卒業式で君が代が歌われた。
  東京音楽学校の卒業式で「君が代」が歌われた。
1891年7月14日、山陽鉄道会社線の倉敷駅~笠岡駅間(28.1
 km)が開業した。
1891年7月19日、讃岐鉄道会社が、定数乗車券(乗車回数30
 回、通用期間2か月、普通運賃の2割5分引きの記名式回数
 券乗車券)を発売した。
1891年7月27日、高等官任命及俸給令が公布された(勅令第
 82号、高等官官等俸給令は廃止)
  官吏(かんり)は、具体的な任命のあり方に応じて、
 親任官、勅任官、奏任官、および、判任官の身分的区分
 が定められた。
  そして、このうち、親任官、勅任官、および、奏任官
 は、高等官とされた。
  高等官には、文官と武官の区分があった。
  任用については、文官は、高等文官試験に合格した者
 を任用する方法があり、
  また、武官は、陸軍士官学校・海軍兵学校を卒業した
 者を任用する方法が、それぞれ主流としてあった。
1891年7月27日、判任官俸給令が公布された(勅令83号、8月
 16日施行、従来の判任官官等俸給令は廃止)
  判任官(はんにんかん)は、官吏のうち、高等官では
 ない官吏の事を言う。
  高等官(勅任官・奏任官)の下に位置していた。
1891年7月27日、「鉄道庁高等官俸給ノ件」公布(勅令第117
 号、8月16日から施行)
1891年7月27日、技術官俸給令が公布された(勅令第84号、
 8月16日から施行、従来の技術官官等俸給令は廃止)
  技術官は、工芸・技術に関する職務に従事した官吏の
 ことをいう。
  判任官を技手、高等官を技師と称した。
1891年7月、鉄道庁長官(井上勝)が、「鉄道政略ニ関スル
 議」を内閣総理大臣に提出した。
  5713.2kmの鉄道建設が必要であるとして、第1期財源に
 充てるため公債募集を提議した。
  井上勝(いのうえまさる、1843年~1910年)は、山口
 県出身で、子爵になった人。
  1863年(文久3年、20歳)に、伊藤博文らとともに渡航
 し、ロンドン大学で鉱山・土木工学を学んだ。
  この時の5人を「長州五傑・ちょうしゅうごけつ)」と
 言い・・、
  長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣され、主にロ
 ンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した。
  井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博
 文)、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士を指す。
  武器商人のトーマス・ブレーク・グラバー(グラバー
 商会)らの協力を得て成し遂げられた。
  この5名は、ロンドン大学に、「長州ファイブ(Choshu
 Five)」として顕彰碑が建てられている。
  1868年(明治元年、25歳)に帰国し、以後、井上勝と
 称した。
  1871年(明治4年、28歳)工部省鉱山寮鉱山頭兼鉄道寮
 鉄道頭、
  1872年(明治5年、29歳)鉄道頭専任となり、京阪神間
 鉄道の建設に尽力。
  1882年(明治15年、39歳)工部大輔、
  1885年(明治18年、42歳)内閣鉄道局長官兼技監など
 を歴任。
  1890年(明治23年、47歳)貴族院議員、内務省鉄道庁
 長官。
  1891年(明治24年、48歳)鉄道国有論を主張して、「
 鉄道政略ニ関スル議」を提出し、鉄道敷設法制定の契機
 となった。
  1896年(明治29年、53歳)汽車製造合資会社を設立し、
 社長に就任。
  鉄道院顧問となり渡欧したが、病にかかり、ロンドン
 で、1910年(67歳)客死した。
1891年7月、欧字新聞の検閲が始まった。
  1883年に軍隊や軍艦の動静(どうせい、物事の動き、
 様子、消息)の掲載などの禁止がなされた。
  そして、外交上の秘密事項なども加わった。
  1891年の大津事件は戦争に至る可能性もあったため、
 軽率なる報道への検閲の必要性があった。
  また、清国の不穏な日本を馬鹿にし、また、蔑視する
 行動などもあった。
1891年8月5日、世界初と言われるトラベラーズ・チェック
 (旅行小切手)が発行された(アメリカン・エキスプレ
 ス)
  因みに、現在、クレジットカードの普及など決済サー
 ビスの多様化に伴って、近年では利用が減少し、日本で
 唯一販売を続けていたアメリカン・エキスプレスは、2014
 年に販売を止めた。
1891年8月7日、日本最初の魚形水雷の試射(相州浜にて海
 軍省技師、喜志・坂本両氏による)
  1861年~1895年の間、清朝政府は、造船を最も重要な
 ものとし、4つの造船所と2つのドックを柱とする官営造
 船機構の整備を進めた。
  それは、江南機器製造総局(濾局)、福州船政局(閾局)、
 天津機器総局、黄哺船局並びに大沽ドック、旅順ドック
 である。
  そして、特に、中国の北方地域、首都・北京と港湾都
 市・天津、及び、その周辺地域において造船関連産業を
 振興させることが急務としていた。
  そして、防衛上の要衝地・天津に最新鋭の西洋式軍事
 機器を製造する天津機器総局を創設するべきとした。
  この1例の様に、中国は軍事化、そして、その近代化に
 邁進していた。
  実施する規模も雄大であり、最新の機器が備えられて
 行った。
  御雇い外国人も多数、要請していた。
  その分局の一つの東局の例を見ても、技師と技術労働
 者2000名を擁し、弾薬、銃砲、水雷および各種の軍需機
 器を製造していた。
  第二弾薬工場など新機器工場などと共に、建設計画が
 続いた、火薬工場なども・・諸処の工場には、イギリス
製の製造装置も備えられ、火薬工場は世界最大規模と言わ
れた。
  また、当時では最先端研究となる潜水艦の研究も進め
 られ、新しい船種、船型の建造が極秘裏に進めてもいた。
  日本よ!このままで良いのか?という状況だった。
  まったく、今現在と同じ・・、
  また、清国は、1866年~1868年の間、イギリスやフラ
 ンスから続々と軍艦を購入していた(澄波号など)。
  1873年には、自国建造修理も行い、洋式の進んだ銃砲
 の製造も行ない始めた。
  清国の状況は概略しか記せないが、あらゆる面を積極
 的に進めていた。
  1880年には、すでに、李鴻章は、イギリスやドイツか
 ら11隻の軍艦を購入して、海軍を創設していた。
  また、1882年~1913年の間に、大沽ドック゚だけで大小
 38隻の艦艇が建造されていた。
  それに対して、日本は、1891年に至ってやっと魚形水
 雷を試射するという段階だった。
  (参考)水雷:すいらい、多量の爆薬を詰め、水中で
     爆発させて艦船を破壊する装置。
      魚形水雷(魚雷)・機械水雷(機雷)など。
.
  (今日の言葉)
.
 題:あられもない教義に・・
.
1000年頃、イタリアのウンブリア山村の民衆は、キリスト
 教隠者の聖ロムアルドゥスを危うく撲殺しかけた。
  誠に愚かなことだが、それは、彼を失いたくなかった
 ための行為だった。
.
1231年11月17日、エルジェーベト (ハンガリー王女)が没し
 た。
  (参考)エルジェーベト(1207年7月7日~1231年11月
     17日)は、ハンガリー王エンドレ2世とメラーノ
     公女ゲルトルードの娘。
      テューリンゲン方伯ルートヴィヒ4世の妻。
      ドイツ名のエリーザベトでエリーザベト・フ
     ォン・ウンガルン、あるいは、エリーザベト・
     フォン・テューリンゲンとも呼ばれる。
      また、キリスト教のローマ教皇グレゴリウス
     9世により列聖された。
      聖エルジェーベト、聖エリーザベト、聖エリ
     ザベートなどと呼ばれる。
  そして、このテューリンゲンの聖エリザベートの遺体
 が、まだ埋葬されなかった時、善男善女の一群が、彼女
 の顔に巻き付けてあった布片を切り取ったり、引き裂い
 たりして持ち帰った。
  彼女の髪や爪を切り取り、果ては、耳や乳房までもち
 ぎり去った。
.
1274年に、トマス・アクィナスが、フォッサ・ヌォヴァの
 僧院で没すると、そこの修道士たちは、貴重な遺物が彼
 らの手から失われるのを恐れ、気高き師の遺体を文字通
 り漬け込んでしまった。
  つまり、頭を切り離し、煮て、調理してしまったのだ
 だった。
.
1441年頃、キリスト教は、古い昔から有色人種を軽く見て
 いた、卑劣な事である。
  それは、キリスト教の教義から来ていた。
  古代は、このキリスト教の教義に洗脳されたキリスト
 教徒によって、エチオピアの黒人の方々などが奴隷にさ
 れた。
  キリスト教聖書に書かれているので、まったく罪悪感
 は無かった。
  近年になっても・・、
  ポルトガルのエンリケ王子は、「できるだけ多くの土
 人(アフリカの黒人の方々の事)を生け捕りにして、持
 ち帰れ」・・と、命令を出した。
  コロンブスが、アメリカ大陸に達する半世紀前の頃(
 1441年頃)に、ヌニョ・トリスタンというポルトガル人
 (武装帆船の船長で、騎士の身分)は、アフリカ人の集
 落を襲撃した。
  そして、激しい戦闘の後、男女と少年の10名を生け捕
 りにした。
  こうして生け捕った12人を、リスボンに連れ帰り、エ
 ンリケ王子の所へ連れて行った。
  エンリケ王子は、大いに喜んだ。
  キリスト教に洗脳された頭には、まったく罪悪感は無
 かった。
  また、ローマ法王へも特別使節をたてて、このことを
 報告して説明した。
  ローマ法王も、大いに喜び、歓迎した。
  そして、『あらゆる罪が赦免される』という言葉を言
 った・・、
  「この戦いに従事する者すべてに対し、あらゆる罪の
 完全な赦免を与える」・・と、卑劣な事である・・
  この言葉によって・・、
  『以後、アフリカの方々を奴隷にする事が罪にならな
 くなった』、
  また、そればかりか、『過去の罪も完全に赦免される
 こと』になった。
  まったく、キリスト教の最高の頂点に立つ者であるの
 に、卑劣この上ない言葉だった。
  アフリカの方々に対する人権への意識は皆無だった。
  キリスト教に洗脳された者たちの頭には、有色人種を
 奴隷にする事は、あたかも物を分捕って来るがごとくの
 行為となった。
  そればかりか、それに加えて、過去の罪まで許される
 という事になった。
  キリスト教により『精神的未開人状態になっている』
  人権への自覚は・・まったく無かった。
.
15世紀中頃、屈辱の奴隷貿易が、この頃に始まった。
  ポルトガルによって行なわれた・・白人・キリスト教
 徒の奴隷貿易・・、
  人身売買・・人の売り買いが、この卑劣行為がなされ
 るアフリカの海岸を「奴隷海岸」というが・・、
  この行為を恥じたのか? 
  この非人道的行為を恥じたのか? 
  この「奴隷海岸」の名を消したいとしている。
  この白人キリスト教徒にとっての不名誉な事柄(奴隷
 海岸の名)は、負の人類遺産として長く記憶にとどめる
 べき事柄である。
  また、世界記憶遺産に登録すべきである。
  ・・が、しかし、この卑劣な非人道的行為を・・忘却
 の彼方に捨て去りたいとしている。
  19世紀には、また、卑劣なアフリカ侵略をしたヨーロ
 ッパの白人キリスト教徒たち、卑劣なアフリカ侵略の行
 為をした輩たち・・、
  近代植民地主義の低劣行為の限りをし尽くしたヨーロ
 ッパ・キリスト教国・・、
  その搾取の卑劣さには言葉を失して、嫌悪の情が湧く。
  低劣な人間たちが、無実の方々の『人間の尊厳』を無
 謀に奪った。
  それだけでなく、そもそも人間が人間である事さえ完
 全に否定するというキリスト教教義そのものを行なう。
  動物のレベルで、「奴隷狩り」という観念で、何世紀
 も奴隷貿易をした。
  16世紀~17世紀初頭には、スペインやポルトガルのキ
 リスト教国から始まった。
  独占的に行い、大きな儲けを享受した・・人間の売り
 買いで・・。
  何世紀も奴隷貿易をし、そして、イギリス、オランダ、
 フランスも、この巨大な利益を自分たちも得たいと・・
 この最悪の悪行為を引き続き行っていく。
  この人肉史上に、アメリカが首を突っ込んで、黒人の
 方々を、アメリカが最大に苦しめた。
  美味しい分け前をくれと主張し始め、この展開が、最
 悪の人肉市場を育てた。
  卑劣なアメリカであった。
  ジプシーの名も変えたいとしているが、散々、ジプシ
 ーの方々を虐げ、差別して来ていながら、その汚名を消
 したいとしている。
  だから、ジプシーの名を変えたいとしているのは、そ
 の本源的解決から逃避していて、ジプシーの方々の根本
 的救済にはなっていない。
.
1510年~1511年、ポルトガルが、ゴアやマラッカを征服し
 た。
.
1533年、スペインのピサロが、むごたらしい南米のインカ
 帝国征服を行なった。
.
1565年、スペインが、フィリピンを占領した。
.
1580年、スペインが、ポルトガルを併合した。
.
1595年、スペインが、奴隷貿易に関し、スペイン王室によ
 る独占的請負制だと主張し、この制度を導入した。
  従来の許可制から、よりおいしい利益を得たいと、こ
 の非人道的行為に関与した。
  この美味しい権利には、ヨーロッパのキリスト教国が
 群(むら)がり、取り合った。
  1640年は、ポルトガルからオランダへ奪われ。
  さらに、1701年には、フランスへ奪われ。
  1755年には、イギリスが奪った。
  儲けの多いこの非人道的行為に、ハゲタカの様にキリ
 スト教諸国は群がり、美味しい汁を吸った。
  皮肉な事に、アメリカへの最初の奴隷船は、「希望号
 (デザイヤー)」という船名が命名された。
  まったく、罪悪感のない輩たちだった・・軽蔑さるべ
 き輩たち。
.
1618年11月、巨大な彗星が現れる。
  あられもない事を言って世を惑(まど)わすキリスト
 教・・、
  「総(す)べてが破壊されて後に、平和は訪れる」と
 いう「キリスト教のシャローム(平和)」の教え・教義。
  この最悪の教え・教義によってアメリカ大陸のインカ
 帝国などのインディオの方々は大殺戮され、全滅させら
 れた。
  また、広島・長崎に原子爆弾が、キリスト教に酷く洗
 脳させられているアメリカ大統領によって投下された。
  1618年11月、この年、巨大な彗星が現れた。
  あまりに巨大なこの彗星は、天を焦がす如くに人々に
 は見え、人々は慄(おのの)いた。
  キリスト教に洗脳された天文学者兼占星術師パウル・
 ナーゲルは、まったく科学的な裏付けのない、口から出
 まかせの事を言った・・、
  「サートウルヌス(土星)とユピテル(火星)の影響
 だ・・云々・・」・・と・・、
  この男は、1577年の時にも、キリスト教聖書のヨブ記
 にある、巨獣ビヒモスと海獣リヴァイアサンに関連して、
 適当な事を言っていた、
  「混乱、悪の権化となって、キリスト教の創造の神に
 反抗する」・・と・・、
  「だから、キリスト教の神の恐ろしい刑罰がヨーロッ
 パに迫っている」、「目の前に迫っている」・・と・・、
  このナーゲルは、1621年に死ぬ、しかし、一旦は葬(
 ほうむ)られたが、
  その後、その適当さと不穏な言い方(預言)が断罪さ
 れ、墓は掘り返され、野に晒(さら)された。
.
1661年、アメリカのバージニア州の議会が、黒人の方々を
 『終身奴隷』とした。
  「役畜、家財道具、皿、書物などと同等に見なされる
 ことが、法律によって定められる」という卑劣なアメリ
 カだった。
  デュボイスは、「はりつけ、火あぶり、断食などは奴
 隷を罰する法律的やり方である」と、アメリカ卑劣さを、
 皮肉って言った。
  黒人の方々の一挙手一投足までも規制する法律=黒人
 奴隷取締規則(スレイブ・コード)が制定された。
  そして、1661年、バージニア州の議会が、黒人の方々
 を『終身奴隷』とした。
  この後、マサチューセッツ州(1641年)、
  コネチカット州(1650年)、
  ロードアイランド州(1652年)、
  メリーランド州(1663年)、
  ニュージャージー州(1664年)、
  ニューヨーク州(1664年)などなど・・
  アメリカ諸州が、白人だけに都合の良い、そして、非
 人道的な黒人奴隷制度が法律で決められて行った。
  卑劣で、遅れているアメリカだった。
  これと軌を一にして、益々、黒人奴隷数を増加させる
 というアメリカという低劣国だった。
  アメリカの独立当時の1776年頃には、総人口が約250万
 人の内、黒人奴隷が50万人も居た。
  また、その後の1790年には(最初の国勢調査)には、
 総人口392万9000人のうち、69万8000人が黒人奴隷(自由
 黒人を含めた黒人数は75万7000人)であった。
  黒人の方々の『血と汗と涙で出来たアメリカ合衆国』
 だった。
  黒人の方々へ感謝すべきである。
  そして、この国民の感謝日を創るべきである。
.
1672年、イギリスが、大々的に奴隷貿易の乗り出した。
  ヨーク公はじめ王侯貴族、大商人、大プランター(経
 営者)などが、こぞって奴隷貿易に関与した。
  その卑劣な巨大な儲(もう)けを受けるため、巨大な
 奴隷貿易独占会社である『王立アフリカ会社』を作った。
  日本との貿易なんて関わっていられなかった。
.
1754年、7年戦争が起きた。
  1754年~1763年まで戦われたイギリスとフランスの植
 民地も関係した戦争で・・、
  発端に、1740年~1748年の戦争・オーストリア継承戦
 争がある。
  このオーストリア継承戦争は、神聖ローマ帝国の皇帝
 位とオーストリア大公国の承継問題が係争点だった。
  何でも武力に訴えるキリスト教諸国の戦争ばかりの状
 況だった。
  この愚かさに引きずられて来たこの7年戦争は、イギリ
 スとプロイセンを主役とし、それに対して、その他の諸
 国(フランス、オーストリア、ロシア、スペイン、スウ
 ェーデン)が争った。
  この当時のキリスト教諸国のすべてが争った。
  悲しいかな植民地とされたインドにまで波及した(イ
 ギリスがベンガル地方を奪おうとした)。
  結果は、イギリスが勝って(フランスが凋落し)、イ
 ギリスは、時代の寵児となって行く・・、
  そして、イギリスは、インド・中国など世界各地で卑
 劣な極みの事をしでかして行く・・、
.
1755年、フレンチ・インディアン戦争(フレンチ・アンド・
 インディアン戦争)が起きた。
  1755年~1763年まで、北アメリカで行われた戦争で、
 世界的な戦争となった。
  (7年戦争ともいうが、ヨーロッパでは、この戦争に関
 し、決まった呼び名はない・・汚辱のこの戦争を歴史か
 ら消したいとしている・・卑劣な君たちがしでかしたこ
 とだ・・甘受せよ!)
  イギリスとフランスの戦争であるが、先住民のインデ
 ィアンの方々にとって、今まで自分たちの国土が奪われ
 て来た痛みが痛切で、自分の国土を奪還したいと、悲し
 いかなインディアンの方々は、フランスと同盟を結んで
 戦わざるを得ない状況だった。
  まったく自分には罪がないインディアンの方々が、や
 むを得ないこの様なこの戦いによっても、民族としての
 消耗が行われた。
  (しかし、何といっても最大のインディアンの方々の
 民族の消耗は、アメリカによる虐殺である)
  しかし、狡猾なイギリスは、インディアンの方々と同
 盟を結んでいた。
  (悲しいかなインディアンの方々の各部族の連携は取
 られていなかった・・ただただ、自分たちの国土を取り
 戻したいという感情だけだった、その感情に付け入った)
  狡猾なイギリスは、故に、表題の様に、フレンチ・イ
 ンディアン戦争と呼び、呼ばせ、そして、世界にプロパ
 ガンダ(嘘宣伝)する・・根本は、イギリスとフランス
 のアメリカ領土の奪い合いの戦争である・・ヨーロッパ
 での戦争・衝突の延長でもある。
  この戦争に、アメリカ合衆国の初代大統領となったジ
 ョージ・ワシントンがイギリス側に加わっている。
  また、卑劣な事に、この戦争に於いてイギリスが、フ
 ランス側についているスペインからフロリダを割譲され
 たり、
  スペインは、その見返りとして、イギリスからキュー
 バのハバナを貰ったり・・、
  フランスが、同盟国のスペインに、ミシシッピー川以
 西のルイジアナを割譲したり・・アメリカの領土をやり
 とりした・・インディアンの方々は、ただただ、血が流
 れただけだった。
  結果、イギリスが、北アメリカの東半分を植民地とし
 て勢力支配地とした。
.
1757年、イギリスが、インドを奪った。
.
1763年10月7日、1763年宣言(1763ねんせんげん)
  イギリスが植民地に押し付けた宣言で、
  イギリスの国王ジョージ3世が、宣言を発した。
  アメリカのフランス領を、7年戦争に勝ったので、この
 得た広大は土地への入植や、土地の購入や、取引(毛皮)
 などの規則を定めた。
  インディアンの方々は、土地を奪われた(イギリスは、
 購入したと主張)・・それ故に、このアメリカの土地は、
 イギリスが、独占的に取引する権利を有すると宣言した。
  既に、土地を持っている入植者をはじめ、インディア
 ンの先住の方々の権利は無視された・・先に入植してい
 た入植者たちも憤った。
.
1763年、ポンティアック戦争 (1763年~1766年)
  この戦争は、以前から、フランスが、領有権を主張し
 ていた土地を、イギリスが奪い、そして、占有すること
 を阻止するために・・
  このインディアンの方々に対して現れた新たな土地を
 奪うイギリスという国に対し、
  先住民族である本当の土地所有者のインディアンの方々
 が起こした戦争だった・・が・・、
  悲しいかな不成功に終わった。
  「1763年宣言」は、ポンティアック戦争以前に宣言さ
 れていたが、紛争の勃発により、その実行が急務となっ
 た。
  イギリス政府の役人は、アメリカ・インディアンの方々
 に、イギリスの規則を認めさせようとし、また、それ以
 上の敵対的行動を抑えようとした。
.
1764年4月5日、「砂糖法」で金を巻き上げるイギリス。
  イギリスが、植民地に押し付けた規則「砂糖法」で、
 この規則などの植民地規制は、、植民地に大きな不満を
 引き起こした。
  砂糖法は、この日、イギリス首相のジョージ・グレン
 ヴィルの主導によって、イギリス議会で制定された。
  この規則は、関税に関する法律で、「アメリカ歳入法」
 「アメリカ関税法」とも言われた。
  序文に・・、
  「この王国(イギリス)の歳入を改善するには、新し
 い規定と規制を確立すべきである・・また・・歳入を高
 めるべく努めることは正当であり、不可欠である・・上
 述のものを防衛し、保護し、安全を確保する費用を負担
 するために」・・と、自分に都合良く述べられている。
  砂糖法の制定以前に、糖蜜法(1733年成立)があって、
  これは、イギリス領ではない植民地から輸入される糖
 蜜に、1ガロン当たり6ペンスを課すことによって、イギ
 リス領西インド諸島産の糖蜜のものだった。
  砂糖法は、関税率を1ガロン当たり3ペンスに減額する
 ことで、徴税の強制力を強めたものだった。
  また、課税対象が、ワイン、コーヒー、衣類などに広
 げられた。
  賄賂や袖の下が通用し・・密貿易者はその手を多用し
 た。
  それ故に、それを取り締まり役員・職員には、甘いも
 のとなった。
  イギリスは、フレンチ・インディアン戦争で負った莫
 大な負債を返済するため、資金集めという意図が強かっ
 た。
.
1765年3月22日、印紙税法(または印紙法)
  イギリスの植民地の方々を虐(しいた)げるこの「印
 紙税法」の制定に至り、その不満は、憤激に代わった。
  しかし、イギリスは、さらに、1767年に「タウンゼン
 ト法」を制定した。
  イギリスは、植民地政策を、一層、強化した。
  そして、1770年3月5日に『ボストンの虐殺』が起きて
 行く・・、
  この印紙税法は、この日、イギリス本国で、議会が制
 定した。
  新聞や公文書、そして、証書や手形など、植民地のあ
 らゆる印刷物に、所定額の収入印紙を貼ることを命じた。
  そこからの収入を、駐屯軍費用と密貿易取締り費用に
 あてようとした。
  年間・6万ポンドの税収を見込み、イギリス本国の財政
 窮迫にも対処しようとした。
  これは アメリカの13の植民地全体の商人、農民、漁民、
 弁護士、出版業者など・・あらゆる階層に、そして、職
 業に影響が及ぶものであった。
  しかし、横暴にもイギリスは、そうであるにもかかわ
 らず、植民地議会の同意を得ていなかった。
  これは、イギリス憲法によって保障されている植民地
 の権利を無視するものだった。
  「代表なくして課税なし」というスローガンに集約さ
 れる広範な反対運動を引き起した。
  反対運動は、植民地議会や、各地の反対決議、9植民地
 代表による印紙税法会議開催、街頭デモ、印紙指定販売
 人襲撃、イギリス製品の不買などの形をとり、イギリス
 本国でも反対運動が起り、翌年の1766年3月に撤回された。
.
1775年4月19日、レキシントン=コンコードの武力衝突。
  このアメリカとイギリスの武力衝突を経て独立戦争が
 始まる契機となった。
  マサチューセッツのレキシントン(ボストンの近く)
 にて、反乱者を逮捕しようと向かったイギリス軍と植民
 地軍(アメリカ)が交戦。
  ここから独立戦争が始まる。
  数で負けるイギリス軍はボストンへ逃げ込み、反乱軍(
 アメリカ軍)は街を包囲。
  その知らせを聞いた民兵たち(アメリカ軍)が、各地
 からぞくぞくと集まって来た。
.
1789年、アメリカ合衆国憲法ができた。
  しかし、卑劣な事に、その第4条第三節第二項において、
 アメリカ合衆国の広大な土地を「合衆国に直属する領土」
 として、
  先住民のインディアンの方々の権利を、ことごとく奪
 った。
.
1947年7月19日、エクソダス号事件
  イギリスは、ユダヤの方々を虐(しいた)げた。
  イギリスは、ユダヤ人難民4530人のパレスチナ上陸を
 拒否した。
  この方々は、ナチスの強制収容所で、幸い殺されず、
 生き残った方々だった。
  この時のイギリスのやり方は強引で、イギリス兵は銃
 撃した。
  武器のない難民の方々は、空き缶や野菜を投げて抵抗
 した。
  3時間の虐げの攻撃を受けた。
  また、エクソダス号は、体当たり攻撃も受けていたの
 で船は浸水していて、降伏した難民の方々は、別の船に
 乗り移らされた。
  イギリスは、ハンブルグ(ドイツ北部の都市)へ連れ
 て行き、強制的に下船させ、そして、リューベックの収
 容所へ入れた。
  ナチスの手をやっと逃れた方々を、再び、ドイツの収
 容所へ入れた。
  国際的な批判も受け、イギリスは、今後、難民の方々
 をヨーロッパへは戻さないと言った(ユダヤの方々に対
 し虐げのヨーロッパ世論でもあった)
  因みに、ハンブルグには歴史博物館があるが、その記
 述には・・
  「1933年にヒットラーが政権をとり・・、
  1938年11月9日~10日にかけて、ユダヤ人の方々への組
 織的迫害を始め・・、
  1941年秋には、ハンブルクのほぼ全員のユダヤ人の方々
 が、ミンスクやリガへ輸送されて行った。
  1933年のヒットラーが政権を取る以前は、17000人もの
 ユダヤの方々が居られたのに、
  1945年5月には、たった数百人のユダヤの方々しか居な
 かった」・・と・・、
  そして、この事件をモデルとした映画・栄光への脱出。
  Exodusは「大挙した脱出」という意味で、キリスト教
 の史実に実存しない「架空のデッチアゲ話の出エジプト
 記」になぞらえている(1960年、映画化)
.
1991年1月17日、湾岸戦争が始まる(気化爆弾が使われた)
  この戦争は、第41代アメリカ大統領ジョージ・H・W・
 ブッシュ(父)の主導で、イラクの空爆を行なうことで
 始まった。
  この時、気化爆弾が使われた。
  この爆弾は、爆発による破片による殺傷ではなく、急
 激な気圧の変化による内臓破裂などを起こさせる爆弾で、
 非常な威力があった。
  それは、人体が、1kgf/cm2 程度の爆風(=風)でも、
 急性無気肺や肺充血を起こすからで、
  また、さらに、一酸化炭素を大量に含んだ酸素バラン
 スが悪いガスが襲い掛かってくるため、酸欠と一酸化炭
 素中毒と呼吸困難を同時に起こすことになり、窒息死を
 したようになった。
  だから、建物に避難している人たちをも、無差別に殺
 された。
  (戦闘員だけを対象にした爆弾ではない・・その最初
 から無差別殺戮を目的としている非人道的兵器)。
  また、燃え残ったこの爆弾の燃料が、大地に広がった
 だけでも危険という代物(しろもの)。
  アメリカは、この兵器を開発して、保有しているが、
 積極的に使用したがっている。
  この湾岸戦争のとき、広範囲の砂漠に分散して砂中に
 隠されたイラク軍戦車部隊や、随伴歩兵らの兵力を削ぐ
 べく、この兵器が使用され、
  多数のイラク兵が、この兵器の作動時に発生する巨大
 な火球によって、塹壕(ざんごう)や戦車の中で蒸し焼
 きになって焼き殺された。
  また、衝撃波で(目立った外傷も無く)圧死させられ
 た。
  この爆弾は、BLEVE現象による殺戮となる・・
  (参考)BLEVE(ブリーブ、ブレビー)は、液体
     の急激な相変化による爆発現象。
      日本語では、「沸騰液膨張蒸気爆発」や「沸
     騰液体蒸気拡散爆発」などと訳す。
  この爆弾の研究は、第二次世界大戦中にドイツで始ま
 った。
  これは、爆発性の高い燃料を、ポンプで散布するので
 はなく、燃料自身の急激な相変化によって行われる。
  そのため、秒速2㎞もの超急速度で拡散する。
  このため、数百kgの燃料であっても、放出に要する時
 間は100ミリ秒に満たない。
  だから、爆弾が、時速数百kmで自由落下しながらでも、
 瞬間的に広範囲に燃料を散布できる。
  燃料の散布が完了し、燃料の蒸気雲が形成され、着火
 され、自由空間蒸気雲爆発が起きる。
  大きな破壊力を発揮する。
  爆鳴気の爆発で、空間爆発の強大な衝撃波を発生させ、
 12気圧に達する圧力と、2,500℃~3,000℃の高温が発生
 し、人体に多大な影響を与える。
  音速飛行の戦闘機や航空機でも投下でき、湾岸戦争の
 時、アメリカはヘリコプターで投下した。
.
2017年、偉大な日本人の発明がまた・・、
  ほとんどの物は、酸化(燃焼)するときに、熱を発す
 る。
  今・現在、炭素を酸化させて(燃やして)人類は、熱
 (エネルギー)を得ている。
  この事によって、人類は、文明が維持され、生活が維
 持され、保たれている。
  しかし、この炭素の燃焼は、炭酸ガスの発生による地
 球温暖化の問題を発生する。
  アルプスの氷河が無くなり、また、ハワイのワイキキ
 の浜辺が、海水面の上昇で無くなって来ている。
  この様な現状を打開する発明が、輝かしくも日本人の
 手によってなされ、このシステムが成立しつつ、ほぼあ
 る。
  偉大な日本人の偉業が、また一つ増えるという状況で、
 ノーベル賞の有力候補となっている。
  炭素の燃焼に、人類が頼(たよ)っているのは、その
 保存性と燃焼性であるが・・、
  その炭素に代わって、アンモニアを燃焼させようと、
 そのアンモニアの燃焼の欠点が、日本人の発明・研究に
 よって克服されつつある。
  実証実験の段階となっている。
  アンモニア燃焼の良さは、燃焼後の発生ガスが、水素
 と窒素であるため、地球温暖化の問題も発生しない。
  日本人研究者が、その燃焼性と保存性の解決策を発明
 した。
  有望な触媒による発明がなされて、解決し、また、一
 連のシステム成立の可能性が、現在、大いに高まってい
 る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2017-07-12 06:47 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)538E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年5月~1891年6月)

題:(増補版)538E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年5月~1891年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年5月27日、大審院長の児島惟謙が、政府の大逆罪適用
 の要求に反対し、津田に無期判決を下す(大津事件)
  大津事件に関する大審院が、大津地方裁判所で開廷さ
 れ、津田三蔵に対する死刑求刑に対し、謀殺未遂罪で無
 期徒刑の判決を下した。
1891年5月30日、ロシアが、シベリア鉄道を着工した(5月
 31日説あり)
  ロシアが、シベリア鉄道をウラジオストクで起工した。
  航空機が登場する前は、日本とヨーロッパを結ぶ欧亜
 連絡運輸において最速の交通路でもあった。
  後に、第二シベリア鉄道と呼ばれるバイカル・アムー
 ル鉄道(バム鉄道)が建設された。
  バム鉄道の西の始点は、シベリア鉄道との分岐点イル
 クーツク州タイシェトであり、
  東は、日本海に面したワニノを通りソヴィエツカヤ・
 ガヴァニの港へ至る。
  シベリア鉄道はバイカル湖の南を通るが、バム鉄道は
 北を通る。
  1850年代、シベリア鉄道の計画は、請願は多数に登っ
 たものの、いずれも実行に移されることはなかった。
  (イギリス人案、アメリカ人案などの外国人案もあっ
 た)
  1864年のヴャトカ飢饉を契機に、飢饉救済のため中国
 国境までの鉄道敷設に関心が払われるようになった。
  ロシア西部の鉄道が随時拡張されて来ると(1877年の
 オレンブルグ鉄道や、1878年のウラル鉄道の完成など)、
  ロシアの運河の完成とともに、鉄道により水路を連結
 し、鉄道と水路を併用する計画が生まれた。
  そして、水路と鉄道を繋げることによって廉価に交通
 が開発され、その輸送力でもって全通鉄道の工事の着手
 ができると見込まれた。
  そして、水路併設鉄道案が隆盛を見た。
  全長は約25715km、内、水路は16015km、鉄道は9700km
 程度となった。
  費用は鉄道に関するもので1625万ルーブル、水路は735
 万ルーブルの合計約2360万ルーブルと試算された。
  ただ、水路の氷結のため、1年の内、わずか4か月しか
 充分に使用できないという暗い見通しがあることも分か
 っていた。
  紆余曲折があって後、水陸併用線の欠点を踏まえ、こ
 れが否定され、シベリア貫通大鉄道の敷設が決定された。
  1891年3月29日、ツァーリー(君主の称号)のアレクサ
 ンドル3世は、勅諭をアジア各地へ訪問中の皇太子ニコラ
 イに与えた。
  その勅諭は・・「私は、今日、シベリア全土を貫通す
 る鉄道布設の詔勅を発し、天産富饒のこの地を、ロシア
 の線路に連絡させる。
  よって汝に命ず、東洋諸国の漫遊を終えた後に、シベ
 リアに至ったならば、私のこの意を諸有司に告げて、兼
 ねてシベリア大線路ウスリー線の第一軌鉄をウラジオス
 トクに布設するところに臨行せよ。
  この線路は、国庫の財をもって布設し、その監督もま
 た官の任じるものであり、まさに国家事業である。
  汝がこの事業に参与するのは、私がシベリアと他の領
 内との交通を便にし、シベリアの平和的発達を図る希望
 切なるを世に知らしめるためである」
  以上の勅諭を、皇太子は、1891年5月12日、ウラジオス
 トクにおいて宣揚し、シベリア鉄道定礎式の盛典を行っ
 た。
  建設は、露仏同盟を結んでいたフランス資本から資金
 援助を受けながら難工事を進めて行った。
1891年5月、東京浅草の12階建ての塔「凌雲閣」のエレベー
 ターの故障が、開業当日より頻発していたため、使用中
 止となった。
  1923年(大正12年)9月1日の関東大震災によって建物
 の8階部分より上が崩壊した。
  この地震発生時には、頂上展望台付近に、12人~13人
 の見物者が居た。
  福助足袋の看板に引っかかって助かった1人を除いて、
 全員が崩壊に巻き込まれ即死した。
  1823年9月23日、経営難から、復旧困難となったため、
 陸軍赤羽工兵隊の手で、爆破解体され、その幕を閉じた。
1891年5月、大阪鉄道会社が、学校生徒の団体運賃割引制度
 を設け、人員および距離に応じて1割~5割までの運賃割
 引を実施した。
1891年6月7日、洋学者・教育家・文学者・啓蒙学者・法学
 者の中村正直(なかむらまさなお)が逝去した、60歳。
  1832年に東京に生れて、昌平黌(昌平坂学問所)に学
 び、後に、教授となる(儒学を佐藤一斎、蘭学を桂川甫
 周(国興)に学んだ)
  1862年(文久2年、30歳)幕府儒官となる。
  渡英し、帰国後、明六社の設立に参加し、啓蒙思想の
 普及につとめた。
  また、1871年(39歳)スマイルスの『セルフーヘルプ』
 を翻訳した『西国立志編』を出版した。
  1872年(31歳)ジョン・スチュアート・ミルの「自由
 之理」を翻訳し、新思想を紹介した
  私塾同人社を設け、「三田聖人」福沢諭吉と並び、「
 江戸川の聖人」と言われた。
  自由民権思想の紹介者。
  (参考)ジョン・スチュアート・ミル(1806年~1873
     年)は、イギリスの哲学者で、政治哲学者、経
     済思想家でもあり、
      政治哲学においては自由主義・リバタリアニ
     ズムのみならず、社会民主主義の思潮にも多大
     な影響を与える。
      晩年は、自ら社会主義者を名乗り、倫理学に
     おいて、ベンサムの唱えた功利主義の擁護者と
     して知られる他、
      論理学分野において、バートランド・ラッセ
     ルら後続の分析哲学にも強い影響を与え、初期
     科学哲学の重要な哲学者として存在する。
1891年6月17日、小学校祝日大祭日儀式規程を定めた。
  小学校祝日大祭日儀式規程の制定(御真影拝礼・教育
 勅語奉読などを規定)
1891年6月22日、鉄道庁が、勅令第27号に基づき、宿泊また
 は徹夜勤務者に食料支給を定めた(4月1日から適用し、
 従来の弁当料支給を廃止)
1891年6月23日、「言海」(大槻文彦)完成祝賀会(紅葉館)
  大槻文彦編の「言海」出版祝賀会が開かれ、政府関係
 者らが出席した。
  招待されていた福沢諭吉は欠席した(祝詞の順番が伊
 藤博文の後だったためと言われている)
1891年6月23日、『国民之友』に、メーデーの紹介記事が載
 った。
1891年6月、春日局が、東京歌舞伎座で初演された。
  歌舞伎座にて、演劇改良論者の福地桜痴居士作の「春
 日局」が初演され、9世市川団十郎が演じた活歴物の代表
 作で、団十郎の春日局が、好評を博した。
1891年6月、川上音二郎、藤沢浅二郎の書生芝居が、中村座
 に乗込み、意外の大入りとなる。
  東京における書生芝居の始めで、その後、各種の書生
 芝居、続々起こった。
  川上音二郎(かわかみおとじろう)は、この年・1891
 年、堺で川上書生芝居を旗揚げし、地方巡演ののち『板
 垣君遭難実記』で東京公演に成功した。
  またこの年・1891年、貞奴 (→川上貞奴 ) と結婚した。
  因みに、川上貞奴(かわかみさだやっこ)は、1871年
 7月15日(18日説あり)に東京で生まれ、女優。本名は
 小熊貞。
  15歳で芸者となり、東京葭(よし)町の美貌の芸者とし
 て知られ、伊藤博文や奈良原繁、福沢桃介らと知り合う。
  1891年、川上音二郎と結婚し、以後、川上のよき協力
 者となる。
  1898年、夫とともに渡米、サンフランシスコで、はじ
 めて舞台にたつ。
  欧米を『武士と芸者』などを売物に巡業し、「マダム
 貞奴」の名を高め、人気を得て知られた。
  「芸者と武士」などの演技に魅せられたひとりにジッ
 ドがあり、また、ピカソは素描を残した。
   1901年~1902年、再度渡米。
  帰国後、1903年から明治座をはじめ、日本の舞台でも
 活躍・・正劇の女優として活躍、人気女優となった。
  『オセロ』などに出演。
  1908年、帝国女優養成所 (のち帝劇附属技芸学校) を
 開設し、後進の育成に尽くした。
  1911年、音二郎と死別した後は、 次第に、劇界から孤
 立した。
  それとともに凋落して、1918年に引退した。
  (1917年の「アイーダ」が最後)
  1917年~1918年、明治座で引退興行をしたのち、一時、
 川上児童音楽劇団を主宰した。
  意外なことに、本人は役者が嫌いで、晩年は演劇界と
 関係しなかった。
.
(今日の言葉)
.
  題:南樺太と千島列島は、国連が預かっている状態。
    ロシアのものともは決定されていない。
.
1939年6月、ナチスに追われたユダヤ人の波が押し寄せ始め
 た時、
  アメリカは、1939年6月の「スミス法」で外国人受け入
 れ取締りを強化した。
  そしてまた、卑劣な事に、続いて、1941年11月には「
 ラッセル法」を制定してビザ発行を制限した。
  1939年5月には、すでに、アメリカは、ユダヤ難民を乗
 せ、ドイツからキューバに到着したものの、アメリカを
 目前にヨーロッパに送り返した。
  この『セント・ルイス号』の難民の悲劇ほど、ユダヤ
 難民の方々に対するアメリカの冷淡さを象徴する事件は
 なかった。
  また、1942年以降、ユダヤ人虐殺の悲報がホワイトハ
 ウスに届けられたにもかかわらず、ルーズベルト大統領
 は、何ら積極的な行動に出ようとはしなかった。
  さかのぼる事1938年8月15日、最初のユダヤ人難民が、
 オーストリアからイタリアの船で上海にたどり着いた。
  1939年の6月には、8,200人ものユダヤ人難民が到着し
 ていた。
  日本は、上海でも、ユダヤ人の方々を「亡国の民」と
 して保護した。
  上海には、日本の管理する租界があった。
.
1941年6月22日、ドイツの「ソ連侵攻」
  ドイツが、突然、ソ連に侵入し、戦争状態となった。
  アメリカ大統領のフーバーが書いた「フーバー大統領
 回顧録」という本があるが・・、
  この本でも、「日本の戦争は自衛戦争だった」と、フ
 ーバー大統領も認めていて・・、
  この本で、フーバーは言う・・、
  「ソ連共産主義を助けたこと」が、アメリカの最大の
 大きな過ちだった・・と・・、
  「アメリカの歴史の全史を通じてもっとも政治の大道
 が失われたのが、ヒトラーが、ソ連を、1941年に攻撃し
 たとき、アメリカが、共産・ソ連を支援し・・、
  アメリカとソビエト連邦が、『非公然の同盟関係にな
 ったこと』だった」・・と言った。
  その結果、「第二次大戦の唯一の勝者が、ソ連とスタ
 ーリン」になってしまった・・と・・
.
1945年5月7日、ドイツ降伏
  ドイツ国防軍最高司令部作戦部長、アルフレート・ヨ
 ードルがフランスのランスで降伏文書に調印した。
  第二次世界大戦の死亡者
  第二次世界大戦のヨーロッパ戦線では、ナチス・ドイ
 ツとソ連の激しい死闘があった。
  その死亡者は・・、
  ソ連   …2,000万人
  ドイツ  …  970万人
  ポーランド…  603万人
  フランス …   52万人
  イタリア …   40万人
  アメリカ …   33万人
  イギリス …   32万人
   ・   ・   ・   
  その他の虐殺・・、
  但し・・、ポーランドやウクライナやバルト三国や少
 数民族における虐殺は・・不明。
  キリスト教の考え方に影響されて、ナチス・ドイツの
 ホロコーストで、ユダヤ人の方々に対する虐殺が、600
 万人に達した。
  この様にキリスト教世界に於ける虐殺は、目を覆いた
 くなるほど悲惨だった。
.
1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約が締結された。
  日本は、この条約締結国に対して、この条約の第2条
 (C)で、すべての権利、権原、及び、請求権を放棄し
 た。
  それ故、サンフランシスコ平和条約の上では、南樺太、
 及び、千島列島の最終的な帰属は、将来の国際的解決手
 段に委ねられることとなっている。
  だから、それまでは、南樺太、及び、千島列島の『最
 終的な帰属は未定である』ということ・・、
  以上が、日本の外務省の見解でもある。
  だから、南樺太と千島列島は、国連に預けてあるとい
 う状態で・・、
  ましてや、この条約の未締結国のソ連の領土という事
 には到底ならない。
  日本政府には、この事を、十分、検討し、交渉しても
 らいたい。
  北方四島は、当然の、日本の領土だけれど・・、
  中立条約を破棄して、南樺太、千島列島、北方四島に
 対して、日本が負けると決まっていた時に、ソ連は、そ
 の領土を取りに来た。
  アメリカにそそのかされて・・卑劣である・・
  これは・・強盗行為となる・・、
  ソ連へ、戦争の終結を依頼している日本に対して、ソ
 連は、中立条約を破棄する理由は皆無であるのに・・、
  また、日本と戦争をする理由は皆無であるのに対して・・
  領土が欲しいだけの理由で、ソ連は、中立条約を破棄
 して・・奪い取った。
  例えの話になるが・・、
  イラクとアメリカが戦争している時に、まったくの第
 三国が、急に、バクダットへ侵攻して、奪ってしまうよ
 うなものなのだ。
  アメリカは、ソ連に、その様なことをしろと・・日本
 に対して、その様な行為をそそのかしてまでしてやらせ
 た。
  そして、正当だとした。
  また、誰かが・・隣家に強盗が入っている時に・・、
  その様な隣家に、第三者が入って行って、金品を奪う
 行為をする様なもの。
  この様な行為が、正当である訳はない。
  成立などしない。
  正当である訳がない。
  逆に、この行為は、犯罪行為である。
  アメリカが、おかしな事を、ソ連にそそのかして、や
 らせただけで、まったく、成立しない・・正当ではない
 行為なのだ。
  だから故に、今・現在、ロシアにこの事を説明して、
 南樺太、千島列島、北方領土を、白紙から打ち合わせを
 するべきなのだ。
  成立しない、不正な行為なのだから、返すのが当然な
 のですと・・、
.
1961年10月30日、驚異の水爆(ツァーリ・ボンバ)の実験
 が、ロシアで行われた(広島の原爆の3300倍)
  第二次世界大戦で使われた「すべての爆薬量の10倍」。
  ツァーリ・ボンバ(「ツァーリの爆弾」の意)は、ソ
 連が開発した人類史上最大の水素爆弾の通称。
  正式名称はAN602。
  開発時のコードネームはイワン(Иван)。
  「ツァーリ・ボンバ」の名称は、西側諸国がクレムリ
 ンに展示されている世界最大の鐘ツァーリ・コロコル、
 世界最大の大砲ツァーリ・プーシュカになぞらえて付け
 たもの・・(現在はロシアでも広く用いられている)
  単一兵器としての威力は、人類史上最大。
  1961年10月30日に、ノヴァヤゼムリャで、唯一の大気
 圏内核実験が行なわれて、消費された。
  (以後製造されていない)
  TNT換算で99,000キロトン(約100メガトン)、
  実際の出力は、50メガトンに制限されたが、それでも
 広島型原子爆弾「リトルボーイ」の3,300倍(リトルボー
 イは15キロトン)に達した。
  何と! これは、第二次世界大戦中に全世界で使われ
 た総爆薬量の10倍の威力を持つといわれる。
  この100メガトン級(実際は50メガトン)核爆弾の核爆
 発は、2,000キロメートル離れた場所からも確認され、
  その衝撃波は地球を3周した。
  因みに、ノヴァヤゼムリャは、北極海に浮かぶ列島で、
 冷戦時代には軍事的に重要な拠点だった。
  ソビエト空軍は、島の南部にロガチェボ空軍基地を置
 き、初期にはインターセプター機(基地や艦隊の上空の
 防御を担当する戦闘機)を配備した。
  その後、1955年より、核実験のための戦略的な支援施
 設となった。
  ソビエト連邦は、冷戦の最中の1954年6月に、ノヴァヤ
 ゼムリャを核実験場とすることを宣言した。
  そして、この年・1954年10月に、早々と実験場の建設
 に着手した。
  現在も、ロシア連邦の核実験場として使用されている。
  現在まで、臨界前核実験などの未公表実験を除き、約
 224回程度の核実験が行われている。
.
1964年4月18日、ニール・ファーガソンが生まれた。
  彼は、イギリス人で、ハーバード大学教授で・・、
  歴史学者でジャーナリスト、専門は経済史、金融史な
 のだが、重要な事を発表した。
  このイギリスの歴史家ニール・ファーガソンが支持し
 ており、1943年、「(アメリカによる)秘密諜報報告に
 よれば、アイスクリームと3日間の休暇だけが約束され
 ており・・・(中略)・・・アメリカ軍将兵に降伏した日
 本将兵を殺害しないよう説得すること」としていると述
 べている。
  ファーガソンは、これらが、1944年後半、日本軍将兵
 捕虜が1:100の割合で処刑されたと述べている。
  ファーガソンは、連合軍司令部が、戦死者と日本軍捕
 虜の比率を改善する処置をとり、1945年中頃までには、
 1:7に改善されたと付け加えている。
  それでも1945年6月4日、沖縄戦においてアメリカ軍が
 捕虜を連行しないことは一般的に黙認されていた。
  (捕虜にしないで殺してしまえば済むと言う)
  また、アメリカの歴史家、ジェームズ・J・ワインガル
 トナーによれば、アメリカ軍の捕虜となった極少数の日
 本軍将兵は2個の重要な要因を含んでおり、日本軍将兵
 が降伏することを渋ることとアメリカ軍将兵の大部分が
 「日本人は「動物」か「人間以下の存在」であり日本軍
 将兵が通常の処置に値しないことで一致していた。
  さらにファーガソンは、ドイツ人がロシア人を見た
 ときと同じように、連合軍将兵も日本人を見ていた。
 「劣等人種として」としており、理由を補強している。
  また、アメリカ合衆国、オーストラリア将兵の書いた
 日記についての研究論文を発表したリチャード・オール
 ドリッチによれば、連合軍将兵は時折、捕虜を処刑した。
  また、オールドリッチによれば、アメリカ軍が捕虜を
 連れて行かなかったことはよくあることだとしている。
  そして、シュトラウスによれば、「それが不必要に部
 隊を危険にさらすという理由から上官は捕虜を連行する
 ことに反対していた・・・(後略)」、それでも捕虜を連
 行する場合、しばしば、「彼ら(捕虜となるべき日本将
 兵)を連行するにはあまりにも面倒があったため」輸送
 途中で射殺された。
.
2009年1月20日、アメリカのオバマ大統領(任期:2009年
 1月20日~2017年1月20日)は、ある意味、正直な大統領
 だった。
  TPPは自由貿易協定だとされているが、オバマ大統
 領は、「そうではない」という意味を口を滑らせた。
  年頭教書演説で、つい言ってしまった・・、
  「TPPで、アジアに、アメリカのルール、アメリカ
 のビジネスのルールを適用させるのだ」・・と・・、
  アメリカのルールで、アメリカの一人勝ちのルールを
 TPPで実現させる・・と。
  アメリカのルールを適用し、アメリカのエスタブリッ
 シュメント(ウォールストリートなど)が、第一に狙っ
 ている日本の甘い汁を吸うシステムにする・・と・・、
  第一に狙っているのが日本の郵貯・・
  そして、保険。
  それを、我々のルールの下で我が物にしたいという・・、
  また、農協にも美味しいものがあると、
  「農協改革だ」と銘打って、その美名の下に、
  農家の方々が地道に努力して積み上げて来たお金、
  JAバンクの96兆円(2016年3月:現在)も戴きたいと
 している。
  色々と日本を批判し、JAも解体させたいとしている。
  ルールがある所は・・「それは規制だ」と批判した。
  どこにだってルールはあるだろう・・と言いたいが、
 それは規制だと言いつのった。
  必要なルールは無くしたら駄目なのだ。
  その様なルールはあるのだ・・、
  君の国だってルールがあるように・・、
  美味しい汁を吸う作戦に従って、日本のルールを攻め
 て来る。
  医療に於いても、金持ちしか進んだ先端医療が受けら
 れないという状態になっているアメリカの様に、
  また、アメリカの貧困層の方々は、医療サービスを、
 まったく受けられないという現状の様に・・、
  アメリカは医療面でも差別社会となっているように・・、
  政府が、その様な格差をなくすようにしなければなら
 ない羽目にはまっているアメリカのように・・
  「国民の幸福を実現させなければならない」という当
 たり前のことに対し、
  ・・それと相反する様な・・多国籍企業の利益を享受
 するための行動を、日本に向かってしたいとしている。
  また、日本以外の『他国の市場』でも、なんだかんだ
 と美名をかこつけて活動し、利益を享受しようとしてい
 る。
  我々が活動しやすいグローバル化が良いのだと・・、
  そして結果、弱者の方々が見捨てられ、格差が広がり・・
 その様な現状を知っていながら、更なる利益をという欲
 の世界に入って行く。
  アメリカン・ルールが正義なのだと、臆面もなく押し
 付けて来る。
  その様なTPPで、グローバル論理だった。
.
2012年12月28日、北朝鮮による拉致被害者の方々は、868人
 に上ることが公開された。
  この日に、「救う会徳島」が、『行政機関の保有する
 情報の公開に関する法律』に基づき行った「情報開示請
 求」により、警察庁が公開した情報によると、
  2012年11月1日時点で「拉致の可能性が否定されない特
 定失踪者」として、捜査・調査が行われている対象者数
 が全国で868人にのぼっている。
  まったく、酷い話だ。
  この様な行為を未然に防ぐ法律を充実せよ!
  民進党も、この問題を前向きにとらえて、徹底的に検
 討せよ。
  ある日、あなたのお子さんも、ある日、突然、拉致さ
 れることも起き得る、横田めぐみさんの様に・・、
.
2017年、グローバリズムが良いのだという「作られた美名」
 のもとに、民族の固有の良さが消されて行く・・、
  そして、その民族の依(よ)って立つところの国も否
 定するグローバリズム・・、
  ある話し・・
  彼女は、「引っ越しばかりでした」と、寂しそうに言
 った。
  過ぎ去って行った時の中に、自分を包み込んでくれる
 何かが無いことを感じた。
  物足りなさを感じた。
  そのことを・・その様に表現した彼女だった。
  個性が形成される幼児期から、そして、人間形成の大
 事な時期の小学生の時期の自分にも、
  風に吹かれて・・ふわふわと飛ばされる花の種子の様
 に、一定地域に留まることなく、
  定まった地のコミュニティの中で、文化を味わい、雰
 囲気の臭(にお)いを嗅(か)いで、人と触れ合う温か
 さを感じ、環境に触れ遊び、育(はぐく)まれた時が無
 かった事を、言外に憂(うれ)いていたのだった。
  連綿と続く文化、
  そして、その連続性から、より高い繊細な文化へと昇
 華して行く。
  その様な歴史ある文化に育まれていく『幸せ』。
  その様な事が、無かったという嘆きだった。
  その様なことを否定するのが『グローバリズム』。
  今、アメリカは、「人種のるつぼ」と言われるのを嫌
 う。
  グローバリズムを標榜するなら、人種は、必然的に「
 るつぼ的になる」でしょう。
  それを嫌うなら、グローバリズムを標榜する資格は、
 ありません。
  近年、日本が、世界に誇れる日本文化が、意図あって
 消されている、その様に活動する輩たちが居る・・
.
2017年、南樺太と千島列島は国連が預かっている状態。
  ロシアのものともは決定されていない。
  この様な事を頭に起きながら、日本とロシアは、関係
 を強化していく必要がある。
  現状以上の関係を構築して行くという事に関し、深い
 検討の下での行動としたい!
  この原点で、この領域について、日本とロシアの共同
 の経済協力策を案出して行きたい。
  必要なら、この案件に於いて、アメリカの参画も打診
 し、米ロの関係強化に一役買って行なうべきだ。
  この三国による長期の経済関係が構築できるプランを
 練って行きたい(中国対策ともなる)。
.
2017年、自分勝手なアメリカの論理。
  アメリカは、ミャンマーに、「宗教が固定化している
 ではないか」と言った。
  「軍隊にも、仏教徒以外の信者がいるはずだから、そ
 の信仰の自由を認めるべきだ」・・と。
  アメリカは、この様な論理で、ほかの国にも、この様
 な要求ばかりしている。
  しかし、しかし、この逆は、まったくと言って「なっ
 てない」。
  アメリカン海軍兵学校も、また、アメリカの陸軍士官
 学校も、この様には、なってないと訪れた人が言う。
  「冗談言うな」・・と。
  アメリカの学内敷設の中には、キリスト教の教会しか
 ないではないか・・と。
  アメリカの物言いは、すべてこの伝で、このやり口で・・
 自分だけに都合よく言う。
  教育面でも宗教の公平性や宗教の自由度が無い。
  アメリカの小中学校には、卒業式や入学式といった式
 典の時のみ日の丸を掲示する日本とは違って、
  教室の黒板の横に必ず星条旗が飾られている。
  アメリカでは、学校教育のことあるごとに各教室にお
 いて、子供たちが星条旗の前で胸に手を当てて、「私た
 ちは(キリスト教の)神の下にひとつになった自由と正
 義の国、合衆国に忠誠を誓います」という『忠誠の誓い』
 を暗唱させられる。
  また、表面上は政教分離が設けられているが、大統領
 が、大統領就任式やその他の行事でも、ことあるごとに
 “May God Bless America” (アメリカに神の祝福があり
 ますように)とか、「神を信じる」と言ってスピーチを終
 えることがよくある。
.
2017年、馬淵睦夫氏は、元ウクライナ兼モルドバ大使など
 をされた方ですが・・、
  馬淵氏が言われることは、日本はユダヤの方々を差別
 していないから、杉原千畝のような行為は、どこの大使
 もやっていましたよ・・と言われる。
  何故、杉原千畝だけが、美談だとデッチ上げられるの
 だろうか?
  この杉原千畝のデッチ上げは、以前からズーッと、キ
 リスト教組織によってなされて来ていた。
  そこに、日本を貶(おとし)める嘘を入れることまで
 していた。
  日本が、ユダヤの方々を差別していたという嘘を言う
 のである・・デッチ上げるのである。
  そのキリスト教の嘘の言い方は、「日本は、三国同盟
 でドイツと同盟を組んでいたので、ユダヤの方々を虐げ
 ていた」・・という言い方で嘘を言った。
  日本が、ドイツの様なユダヤの方々の虐げ行為をして
 いたと嘘を言った。
  これは、「最悪の嘘である」。
  日本をナチと一緒にした。
  日本は、ナチスに、逆に、ユダヤの方々に対して共同
 歩調を取れと言われたのを、「拒絶しているくらいだっ
 た」。
  キリスト教組織は、その『真逆の大嘘』をでっち上げ
 た。
  この様な言い方を、日本のテレビや新聞までが同調し
 た。
  読売新聞や、キリスト教に偏するNHKや・・、
  そして、この展示会・・キリスト教組織が、この嘘の
 ストーリーで展示会を行なっていたので、この点を指摘
 すると、「まったく答えられない」という状況、展示責
 任者もすべて承知の嘘展示であった。
  展示場を貸している、公的機関の責任者にも話すと、
 そのことを、十分、知っていて、「個人名で開催すれば
 よい?」と屁理屈判断をしてその公的機関の最高責任者
 が許可をしたと言う。
  まったく卑劣この上ないこの嘘のパターンで、「ウソ
 の杉原千畝の展示」が、今、日本各地で行われている。
.
2017年、日米のある識者の対話
  ある日本の識者が言う・・、
  「日本は、3核武装国に囲まれており、しかも、今後
 ますますバランス・オブ・パワー環境が悪化して行く日
 本は、自主核を持って自主防衛をせざるを得ない」
  それに答えて、あるアメリカの識者が言う・・、
  「その意見は分かる。
  きわめて常識的なバランス・オブ・パワー外交論だ。
  しかし、日本人のいったい何人が、君のような普通の
 バランス・オブ・パワーのパラダイム(思考パターン)
 を使って議論しているのだ?
  日本の政治家と官僚が、国際政治に関して常識的なパ
 ラダイムを理解し、そのパラダイムに依拠してバランス・
 オブ・パワー政策を実行するというなら、私だって日本
 の核武装に反対しない。
  ところが、実際に日本国内の外交議論を見ているとど
 うだ。
  日本の政治家たちは、歴史論争とか、加計学園とか、
 靖国論争とか、知的に何の生産性もない議論にうつつを
 抜かして時間を浪費しているではないか。
  中国の政治指導者と外交官の方が、日本人より頭がい
 い、中国人には、戦略的な思考力がある」。
.
2017年、アメリカは、政教分離を国是としている。
  この政教分離をしっかりしている国で、アメリカとい
 う国のために殉じた戦没者に対して、年に3回の「戦没者
 追悼式」が、国の主動で行っている。
  国の式典として行っている。
  アメリカは、アメリカの首都のワシントンDCに隣接
 するバージニア州の国立のアーリントン墓地において行
 なっている。
  追悼式は、円形のキリスト教会のチャペルの中で、キ
 リスト教牧師によって行う宗教色で行っている。
  日本も、アメリカの様に、靖国神社で、年に3回の「
 戦没者追悼式を行なうべきである」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2017-07-05 03:30 | 皆様とともに 幸せになりたい


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