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(増補版)491E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年7月~1889年8月)

題:*(増補版)491E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年7月~1889年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年7月30日、第一回条約改正内閣会議
  この年・1889年1月の大隈重信の条約改正案が、外国人
 判事の任用や欧米流の法典編纂の約束を骨子とするとい
 う点では、井上案を基本的に踏襲したものであった。
  1889年4月19日に、『ロンドン・タイムズ』が、この条
 約改正案を公表し、論評を掲載した。
  1889年5月31日、日本の新聞各紙が、この「ロンドン・
 タイムズ」の記事を翻訳して、掲載した。
  その結果、反対運動が、ニュースが日本国内に伝わる
 や、世論から、激しい批判が湧き上がった。
  反対論の中には、日本の司法権が脅かされるとの批判
 があった。
  また、さらに重大なことには、発布されたばかりの帝
 国憲法に違反するとの指摘もあった(外人法官任用問題)。
  これは、憲法第19条「文部官任用条項」に抵触し、同
 第24条「裁判官による裁判を受ける権利」の侵害にあた
 るというものだった。
  これについては、すでに、この年・1889年3月末に、陸
 奥宗光駐米公使が指摘していたが、大隈はその重大さに
 気づいていなかった。
  国内では、民権派・国権派の大半が結集し、非条約改
 正委員会が組織された。
  そして、条約改正反対運動(非条約運動)が展開され
 た。
  憲法制定と条約改正は、同時並行で進められていたも
 のの・・相互に没交渉であったことに原因があった。
  大隈は、外国人法官任用問題に対して、法制局長官の
 井上毅に帝国憲法との整合性を検討させた。
  井上毅は、公権力の行使に関わるところで外国人任用
 した場合、
  当該外国人は、自動的に日本に帰化して日本国臣民と
 なる旨の法案(帰化法)を起こした。
  しかし、これは、逆に、イギリスとの交渉の進展をこ
 じらせた。
  井上毅は、郷里・熊本の先輩であり、明治天皇陛下の
 侍講でもある元田永孚に相談した。
  このことから、政府部内で、黒田首相・大隈外相らの
 条約改正断行派と・・、
  後藤象二郎逓信大臣・松方正義大蔵大臣・西郷従道海
 軍大臣・大山巌陸軍大臣らの・・大隈案に批判的な閣僚、
 元田ら条約改正反対の宮中グループ、
  また、黒田の手法に反発しながらも、大隈の外相就任
 に深く関わり条約改正は潰せないと考える伊藤博文枢密
 院議長など、各論議が展開することとなった。
  これまで、伊藤博文と黒田清隆の2人によって先導され
 てきた「内閣・枢密院包摂体制」は、機能不全に陥った。
  内閣の首班たる黒田は、大隈に条約改正をあたらせ、
 その条約改正推進の立場は揺るがなかったが・・、
  大隈もまた、現実的に、すでに、居留地や治外法権と
 いう、本来は、憲法に規定されていない事態が継続して
 いる以上、外交事情が憲法に優先するものと判断して、
  黒田からの強い支持がある以上、条約改正は、憲法が
 どのようなものであろうとも、最優先すべき課題であっ
 た。
  こうして、各国との外交交渉は、総理大臣と外務大臣
 の権限をもって、急ピッチで進められて行った。
  ところが、内閣と枢密院は、相互依存関係にあって、
 枢密院の会議は、専任の枢密顧問官と内閣の諸大臣を構
 成員としていた。
  そこで、枢密顧問官の一部や宮中顧問官は、枢密院会
 議の召集を要求し、条約改正反対論を述べる機会を求め
 た。
  枢密院会議が開催されれば、条約改正反対論が多数意
 見となることが確実と考えられていた。
  改正交渉の阻止の可能性があった。
  枢密院議長である伊藤の立場としては、召集の要求に
 応じることはできなかった。
  ここには、大隈の条約改正を承認し続けて、憲法違反
 の行為を認めてしまったという状況があった。
  枢密院で弾劾される恐れもあった。
  条約改正交渉が進められている段階での枢密院の介入
 は、憲法規定に抵触もした。
  伊藤の意図を離れた所で、話が行き詰っていた。
  条約改正問題によって生じた政治の機能不全を解きほ
 ぐそうとして調停にのりだされた明治天皇陛下、
  在野の民権派・国権派、官にあっては宮中グループや
 天皇親政派の人びとが、条約改正反対を唱えた。
  その様な状況のなか、1889年8月2日、黒田首相は、閣
 議を開いて、帰化法制定を条件として、条約改正路線を
 採ることで内閣の意見をまとめた。
1889年7月31日、土地収用法が公布された。
  (1889年7月31日法律第19号)
  事業認定:
  1、起業者:工事計画書・図面を地方長官に提出し事
   業認定申請。
  2、地方長官:提出書類を審査、内務大臣に具申。
  3、内務大臣:閣議に提出。
  4、内閣:事業認定。認定後、官報で起業者・起業地・
   工事種類を公告。
   一、国防其他兵事ニ要スル土地
   二、政府、府県郡市町村及公共組合ノ直接ノ公用ニ
    供スル土地
   三、官立公立ノ学校病院其他学芸及慈善ノ用ニ供ス
    ル土地
   四、鉄道電信航路標識及測候所ノ建設用地
   五、河川溝渠ノ掘鑿道路橋梁埠頭水道及下水ノ築造
    用地
   六、防火及水害予防竝検疫所火葬場其他公衆ノ衛生
    ニ要スル土地 (後略)
1889年7月、我国初の有料道路日見峠一等県道の道銭徴収を
 終了した。
  長崎街道の日見峠は、「西の箱根」と呼ばれた街道き
 っての難所だった。
  長崎河川国道事務所のホームページには・・、
  江戸時代、長崎から小倉間を結んだ長崎街道。
  その中で街道一急峻な坂道として知られた峠。
  江戸参府に赴くオランダ使節、幕末の志士たち‥往く
 も還るも、旅人の心に「長崎」を焼きつける道でした。
  現在も往時の姿をとどめており、平成8年に建設省の歴
 史国道として選定されています・・と説明されている。
1889年7月、特別輸出港規則が制定された。
  門司港などの特別輸出港は、輸出振興の見地から、開
 港の不足を補うため設けられた。
  当時、輸出無税品であった、米、麦、麦粉、石炭、硫
 黄などは、日本屈指の物産で、海外への輸出は年々増加
 していた。
  輸出を増進するため、その運搬に特別の便宜を図る必
 要があった。
  1889年(明治22年)7月、法律第20号「特別輸出港規
 則」が制定され、
  不開港のうち、これらの物品の産出地に近い適当な港
 を選んで、これを特別輸出港とし、
  この5品目に限って、
  日本船、又は、日本人雇入れの外国船によって、直接、
 海外に輸出できるようにした。
  1888年(明治21年)に、九州鉄道会社が発足した。
  路線は、門司~遠賀川、遠賀川~博多、博多~久留米、
 高瀬~熊本の4区間と決まった。
  筑豊の石炭産業は、幕末期頃から発展して来た。
  乱掘、乱売を防ぐために、石炭同業者間で、1885年(
 明治18年)11月、「筑豊五郡坑業組合取締所」を組織し
 た。
  政府も、海軍予備炭田の封鎖と、経営拡大のため、選
 定鉱区を設定した。
  そのため、小規模の炭坑が整理されることとなった。
  中央の財閥の進出が進んでいった。
  地場では、安川敬一郎が、筑豊等にあった炭坑を合わ
 せて炭坑会社「明治鉱業」を設立した。
  門司港の貿易品目は、特別貿易港指定からしばらくは
 石炭輸出のみであった
  門司港は、1889年(明治22年)特別輸出港に指定後、
 急速に、石炭輸出シェアを拡大し、
  1896年(明治29年)には、石炭輸出日本一となった。
  (門司税関のホームページを参考にした)
1889年8月3日、大隈重信が、イギリスの最恵国条項による
 内地居住権要求を拒否した。
1889年8月8日、ロシアとの新通商航海条約に調印した。
  しかし、発効せず。
1889年8月11日、甲武鉄道の、立川駅~八王子駅間が開通
 した。
1889年8月12日、藤岡市助が、白熱舎で白熱電灯を製作した。
  この日、後に、東芝へと発展する電灯会社「白熱舎」
 で、日本初の白熱電球が完成した。
  当時の世界の最先端技術であったこの白熱電球の国産
 化は、一国の産業発展の根幹をなす自給自足の精神を具
 現化して、
  独立した近代国家への道へと通じる大きな一歩となっ
 た。
  因みに、日本で初めて電灯が輝いたのは、1878年(明治
 11年)3月25日(電気記念日)で、
  東京虎ノ門の工部大学校(現:東京大学工学部)で開催
 された電信中央局開業祝賀晩餐会であった。
  藤岡市助、中野初子らが、グローブ電池で、フランス
 製デュボスク式アーク灯を点灯して人々を驚かせた。
  一方、白熱電球の日本初点灯は、1884年(明治17年)の
 上野~高崎間鉄道開通式で、
  この頃から白熱電球の暮らしや社会における利便性・
 事業性の認識が高まっていった。
  1887年(明治20年)、東京電燈(現:東京電力)が設立され、
 産業に使用できる電力体系が整備されるが、
  白熱電球は、アメリカ・ドイツ製などの高価な外国製
 品に依存するしかなかった。
  藤岡市助は、1884年(明治17年)、アメリカ・フィラデ
 ルフィア万国電気博覧会に、国の使節として派遣された
 際、エジソンと面会した。
  電気器具の国産化を指導され、白熱電球の国産化を決
 心したものの、いくつかの技術的な課題があった。
  それは、ガラス管球を作ること、管球の中から空気を
 排出すること、フィラメントを作ることなど・・さまざ
 まで、
  1889年(明治22年)、京橋の東京電燈の社宅で、試作・
 研究を開始した。
  翌年・1890年4月に、電球製造の独立経営を目指し、同
 郷の三吉正一と共に、電球製造会社「白熱舎」を京橋槍
 屋町に設立した。
  最初は、木綿糸でフィラメントを作ったが、エジソン
 が日本の竹を使用したと聞き、竹フィラメントの炭素電
 球12個を日本で初めて製造した
  (東芝未来科学館ホームページより)
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカには・・この様なスパイ話が・・嫌になるほどある・・
   そして・・今・現代も・・中国やソ連に繰られている・・
.
1939年8月23日、独ソ不可侵条約が調印された。
  そして・・その1週間後・・
.
1939年9月1日、ドイツが、ポーランドへ侵攻した。
  第二次世界大戦が始まった。
.
1939年9月2日、アメリカに、スパイ網があると暴露された。
  ヨーロッパに大戦がはじまった翌日だった・・、
  ウィタカー・チェンバースという男は・・、
  アメリカのジャーナリストであるが、コロンビア大学
 を卒業し、1925年に、アメリカ共産党に入党した。
  アメリカ共産党機関誌の編集長を歴任し、
  1934年に、党指導部より『地下活動を命じられた』。
  そして、種々の活動を経て・・その後に・・、
  1939年9月2日、国務次官エイドルフ・バーリーに、
  『アメリカに存在するスパイ網』について告白した。
  このチェンバースの離反で、『ソ連スパイ網』は、一
 時、活動を停止した・・が・・しかし・・、
  その告発に・・FBIは動かなかった。
  1944年、アメリカに亡命したロシア人スパイが変死し
 た。
  このことに脅威を抱いたチェンバースは、再び、FB
 Iにスパイ網を告発した。
  チェンバースの告発は、具体的だった。
  しかも、「パンプキン・ペーパー(カボチャ資料)と
 呼ばれる証拠物件を隠し持っていた。
  このことから、政府の大物が隠れおおせなくなった。
  疑惑を否定していた国務省高官アルジャー・ヒスは、
 偽証罪で有罪となった。
.
1941年7月、アメリカが、日本へ経済制裁をした。
  これは・・、
  ルーズベルトに、「日本との戦争に入りたいという欲
 望があったからだ」・・と・・フーバー元大統領は言っ
 た。
  また、この見方に、マッカーサーも同意した。
  そして、さらに・・、
  「この時、1941年7月のアメリカによる、日本への経済
 制裁は、単に、挑発で行なっただけではなく、
  日本に、戦争をやらざるを得ないというレベルの最悪
 のものだった」・・とフーバーは言った・・そして、な
 お、さらに・・、
  「日本は、例え、自殺行為であると分かっていても、
 日本に戦争を余儀なくさせるものだった。
  何故なら、この経済制裁は、殺人と破壊を除く、あら
 ゆる戦争の悲惨さを日本に強制するものであり、
  誇りのある国ならとても忍耐できるものではないから
 だ」・・と、フーバーは言った。
  この発言にも、マッカーサーは同意した。
  これは、戦後、1946年5月、フーバーが来日し、GHQ
 の連合国軍最高司令官だったマッカーサーに会った時に
 交わされた言葉だった。
.
1941年半ばのこの頃、日本が進めて来ていた調査報告が
 なされた・・、その経緯(いきさつ)・・、
  ☆《戦争開戦前に・・現状を詳細に分析した報告書が
 日本に存在した・・しかし、その現状認識を封印し・・
 戦争は・・始められた・・》
.
  70年前の日米開戦前に、日本の国力を正確に予測しな
 がら、葬り去られた幻の報告書が存在した。
  1939年9月、関東軍参謀部で、満州国の建設主任から急
 きょ帰国した陸軍中佐の秋丸次朗は、
  「戦争経済研究班」を取り仕切って、その報告書を作
 成した。
  同班は「秋丸機関」と通称され知られた。
  秋丸は、英米との戦争に耐えられるかどうかの分析を
 命じられ、東大教授の有沢広巳、後に一橋大学学長にな
 る中山伊知郎らの学者を集め、徹底的に調べた。
  20~30人の研究チームだった。
  調査対象は人口、資源、海運、産業など広い分野に及
 んだ。
  資料収集に苦労を重ねた。
  経済封鎖されている日本。
  軍需産業育成にどれだけ力を注げるのか。
  英米との力の差は・・、
  分析が進んで行った。
  調査開始から1年半後の『1941年半ば』・・、
  12月8日の日米開戦まであと数カ月の時期に、陸軍首脳
 らに対する報告会が催された。
  秋丸は意を決して言った。
  「日本の経済力を「1」とすると、英米は合わせて「20」。
  日本は、2年間は蓄えを取り崩して戦えるが、それ以降
 は・・経済力は下降線をたどり・・、
  逆に、英米は上昇し始める。
  彼らとの戦力格差は大きく、持久戦には耐えがたい」。
  これが、秋丸機関の・・結論だった。
  列席したのは、杉山元参謀総長ら陸軍の首脳約30人。
  じっと耳を傾けていた杉山がようやく口を開いた。
  「報告書はほぼ完壁で、非難すべき点はない」と報告
 書の分析に敬意を示し・・そして続けた・・
  「その結論は国策に反する。
  報告書の謄写本はすべて燃やせ」。
  会議から帰って秋丸は報告書を焼却した。
  有沢は、直ちに活動から手を引くように命じられた。
  秋丸機関は、ほどなく解散し、現状認識を封印した戦
 争が始まった。
  結果は悲惨そのものであった。
  報告書の一部が秋丸の死後、遺品の中から発見された。
  詳細を極めた報告書であった。
(参考:日本経済新聞、2011・1・3)
.
1941年10月18日、東条内閣が成立した。
  東郷茂徳(とうごうしげのり)が、東条内閣の外相に
 なり、日米交渉において、第二次世界大戦の開戦の回避
 に死力を尽くした・・が・・、結局、開戦の責任者とな
 った。
  1945年に、再び、鈴木内閣の外相となり、終戦工作に
 挺身した。
  東京裁判に於いて、A級戦犯に問われたが、信念をも
 って戦争前後の行動の『正当性を主張した』。
  禁錮20年の判決を受け、服役した・・その服役中に・・
 逝去した。
  開戦時と終戦時に外相となった運命の方だった。
.
1941年11月26日、ハル・ノートの手交
  この日、「ハル・ノート」が手交された。
  この「ハル・ノート」は・・、
  ハリー・デクスター・ホワイトというアメリカの経済
 学者が・・、
  日本に対する最後通牒の役割を果たした「ハル・ノー
 ト」の原案となった対日交渉案を作成した。
  この男は・・この「ハル・ノート」など・・、
 アメリカの政策に大きな影響を及ぼした・・しかし・・?
  戦後になって・・1948年8月16日、アメリカ下院非米活
 動委員会公聴会で・・追及された「ソ連スパイ疑惑」を
 否定した直後・・急死した。
.
1941年12月8日(現地時間7日)ハワイ・真珠湾攻撃
.
1941年12月8日、アメリカ・イギリスが、対日宣戦布告
.
  この日、日米の戦端が開かれたが・・
  フーバー・第31代アメリカ大統領は、次のことを言っ
 ている・・、
  「日米戦争は、ルーズベルト・アメリカ大統領が仕掛
 けたもので、日本が原因ではない」・・と・・、
  また・・、
  日本への強い経済制裁を唱えた対日強硬論者のスタン
 レー・ホーンベックは・・、
  この日本の真珠湾攻撃直前にあっても・・、
  「日本には、アメリカを攻撃する能力はない」・・と
 いう主張を繰り返した。
  また、彼は、極東問題の専門家として・・、
  ルーズベルト大統領に助言したほか、
  コーデル・ハル国務長官に対しても、大きな影響力を
 与えた。・・そして・・悲惨な戦争が続き・・
.
1945年4月1日、アメリカが、沖縄に上陸した・・そして・・
 その約10日後に・・
.
1945年4月12日、フランクリン・ルーズベルト大統領が死ん
 だ。
  この死と共に、アール・ブラウダー(アメリカ共産党
 書記長)は、アメリカ共産党指導部から外された。
  そして、翌年・1946年、党を追放された。
  この男は、ソ連コミンテルンやKGBに情報を流す『
 アメリカ政府内のスパイ網の充実』に強い指導力を発揮
 していた。
.
1945年11月7日、エリザベス・ベントレーが、FBIに出頭
 した。
  そして、アメリカのスパイ網について白状する。
  彼は、1930年に、コロンビア大学を卒業すると、
  1935年に、アメリカ共産党に入党した。
  そして、1938年に、ソ連スパイ網の非公然のワシント
 ン駐在員のヤコブ・ゴロスに紹介された・・そして、
  特殊な関係となった。
  1943年、FBIの捜査が迫っているとの強迫観念に襲
 われ、FBIに出頭した。
  スパイ網での具体的な活動歴と、リストを提出した。
  1948年に、下院非米活動委員会公聴会でハリー・デク
 スター・ホワイトや、ソロモン・アドラーらをスパイだ
 ったと証言した。
.
1945年12月、アメリカのFBI(連邦捜査局)が、大統領
 (ハリー・S・トルーマン)へ「政府内に二つのスパイ
 網がある」と警告した。
.
1946年5月3日、東京裁判(極東国際軍事裁判)が開かれた
 (~1948年11月12日)
  しかし、日本の敗戦が確定的になった頃、すでに連合
 国は、卑劣にも、すでに、『日本の誰を死刑にするか』
 を打ち合わせていた・・決めていた。
  各国が、好き勝手なことを言っていた。
  そして、裁判をする前から「死刑が確定している」被
 告たちを、
  2年半以上も、
  死を恐れさせる立場に曝(さら)すという非人道的
 状況に置き・・そして、その中で裁判が行われた。
  しかし、この肝心な東京裁判では・・、
  日本を罪に落とす事に苦労した・・
  後追いで・・無い法律を・・わざわざ作った・・、
  日本は「侵略戦争をした」と追及された・・が・・、
  アメリカなどの連合国は、『侵略戦争と立証する事は
 出来なかった』。
  ドイツの場合は、戦争の始まる前から侵略の意図を持
 って、
  開戦の3年も前の1936年に、ヒトラーを中心にナチス指
 導者による明確な『共同謀議の記録』もあった。
  そして、そこには、最初にチェコスロバキアを侵略し、
 次がポーランド、そして、フランス、最後にソ連を植民
 地にするという『侵略計画があった』。
  しかし、日本には、勿論、その様なものもなく・・、
  また、共同謀議もなく・・同然、その記録もなかった。
  アメリカなどの連合国側は・・、
  ドイツの様な「一貫した侵略の意図」があり、また、
 「侵略の計画がある」と、無理にしたが、それらを・・
 『立証する事は出来なかった』。
  そんなもの・・侵略の意図は無いのであるから・・当
 然であった。
  しかし・・卑劣にも・・アメリカは・・プロパガンダ
 (嘘宣伝)した。
  日本は、させられた戦争に、事前の計画があるわけは
 なかった。
  連合国側は、初めから、罪に落としたかった・・、
  裁くべき法が無ければ、作るという卑劣な事までして、
 日本を罪に落としたかった・・
  そして、戦後・・、
  マッカーサーは、戦後の占領政策の中で、必死に日本
 人へ、「あの日本の戦争は、侵略戦争だった」というこ
 とを洗脳した・・、
  日本人に対してマインド・コントロール(嘘宣伝)し
 て、洗脳した。
  東京裁判において、「侵略戦争だ」と追及された日本
 の被告たちも・・、
  「そのような上等なものは、まったくありません」と、
 きっぱり否定をしていた。
  また、日本の凄い所・偉い所は、日本には、法律を犯
 した殺戮は一つもなかった。
  アメリカには、国際法違反の「一般市民殺戮」を、あ
 ちこちでやっているが・・、
  開戦についても、日本は、アメリカのルーズベルトの
 策にはまって行った。
  侵略の意図はなく、そして、「戦争は、常に、収めた
 い」という中に日本はあった。
  日本は、最初から、アメリカとの戦争は勝つことは出
 来ないという分析結果を持っていた。
  故に、だから・・、
  日本から好き好んで戦争を仕掛けることがある訳はな
 かった。
  その様にぜざるを得ない悲惨な窮地に、アメリカのル
 ーズベルトは、日本を追い込んで行った。
  日本は、「させられた戦争」をせざるを得なかった。
  そこに計画性があるわけはなかった・・、
  アメリカのルーズベルトには、あまり知られていない
 が・・、
  1941年(昭和16年)夏に、日本に戦争を起こさせよう
 と、徴発(ちょうはつ)した事件があった。
  未遂事件があった。
  逆に、アメリカのこの様な「戦争したい」が、東京裁
 判で、裁かれるべきだった。
  アメリカ巡洋艦を・・日本の領海内に侵入させた。
  (これだけで、アメリカの戦争を起こさせようとする
 戦争挑発行為だった)、
  そして・・さらに・・、
  日本の軍艦とわざと衝突させようとしていた。
  その様なことまでする「戦争したいのルーズベルト」
 だった。
  そして、インドのパール判事が、「こんな最後通牒の
 様な文書を出されたら、モナコでさえ武器を持って立つ」
 という糾弾を・・アメリカに対して発言した。
  そして、パール判事が、「日本政府が戦争したのは当
 然」と言うほどの「強圧的なアメリカだった」。
  事態は、ルーズベルトの思惑通りに運ばされていた。
  交通事故ではないが、一方が、完全に100パーセント悪
 いということはないのである。
  しかし、アメリカは、うまく立ち回った。
  アメリカは、完全に日本に一方的に責任をとらせ、自
 分は、卑劣にも・・責任から逃げた。
.
1949年、ロークリン・カリーが、ソ連スパイと確認された。
  カリーは、アメリカの経済学者で官僚だが、
  1925年、経済学研究を通じてハリー・デクスター・ホ
 ワイトと知り合う・・そして、親しい関係を保った。
  1934年にモーゲンソー財務長官に招かれて、財務省の
 高級官僚となった・・内心・・ほくそ笑んでいただろう。
  1941年、ルーズベルト政権の中枢に入り、中国支援の
 責任者となった(援蒋ルート)
  1941年~1943年、大統領特使として2回、中国訪問し、
 中国国民政府の蒋介石主席らと懇談した。
  戦後、KGB電文解読資料で、『ソ連スパイの一人』
 として確認された。
  1949年、アメリカ議会下院非米活動委員会の公聴会証
 人席に立ち、疑惑を否定したが、逆に、疑惑が深まった。
  その様な状況の中、南米・コロンビアへ向かい、
  1954年、アメリカ市民権を失った。
  ルーズベルト政権は、共産圏のソ連や中国に繰られて
 いた・・(今・現代でも)・・、
  また、ルーズベルトは、ソ連・スターリンへ甘い話を
 提供した。
  その中で、日本の固有の領土・北方四島、千島列島を
 奪われた。
.
1950年2月、アメリカのジョセフ・マッカーシーが、「国務
 省に205人の共産主義スパイがいる」と告発した・・
  当然、アメリカ国内のみならず・・世界中から注目を
 浴びた。
  朝鮮戦争直後のアメリカでは、共産主義勢力の横暴に
 怒る声が満ち満ちた。
.
1950年、アルジャー・ヒスという、ルーズベルト政権にも
 加わっていた男が、偽証罪で有罪とされた。
  この男は、ハーバード大学法律大学院を出た優秀な政
 治家で、
  ルーズベルト政権では、農業問題専門家としていた。
  ヤルタ会談に出るなど重責を担っていた。
  しかし、1948年、元ソ連スパイのウィタカー・チェン
 バーズの告発で・・スパイ疑惑が深まった(スパイだと
 暴露された)。
  アメリカ下院非米活動委員会の公聴会などで証言を求
 められた。
  しかし、1950年、立証され、偽証罪で有罪となった。
 4年間、服役した。
  後に、無罪を主張したが・・、KGB電文解読資料に
 よると、ヒスは、明らかにソ連赤軍第四部(情報部のス
 パイ網に属し・・、
  ヤルタ会議出席後、モスクワで、ソ連外交官・ビシン
 スキーからソ連への貢献を理由に勲章を授与されていた。
.
1952年、フランク・コーというアメリカの高級官僚もソ連
 のスパイだった。
  フランク・コーは、シカゴ大学を卒業して財務省に入
 省した。
  そして、1946年、国際通貨基金(IMF)の事務局長
 となった。
  そして、上司で財務次官だったハリー・デクスター・
 ホワイトとともにスパイ疑惑で追及された。
  1952年、財務省を辞職し、スパイ疑惑を否定した後に、
  1958年に、中国へ移住し、社会科学院の客員研究員と
 なった。
  1995年に、ソ連KGB電文を解読した史料が公開され、
 第二次大戦中に、ソ連側へ情報を流していたことが確認
 された。
  アメリカには・・こんな話が・・嫌になるほど・・う
 じゃうじゃある・・今・現代も・・中国やソ連に繰られ
 ている・・
  (トランプ大統領は、中国ロビイストなどを排除する
 としている)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
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by suba28 | 2017-02-08 17:39 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)490E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年6月~1889年7月)

題:*(増補版)490E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年6月~1889年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年6月、新聞に講談の連載が流行した。
  口演速記が新聞に連載され、また、単行本にもなった。
  また、名人上手と言われる講釈師も登場した。
  そして、速記の口演をした講釈師の実演を聞いてみよ
 うと、この頃から、釈場(講釈場)もにぎわった。
1889年7月1日、呉・佐世保の南鎮守府が開庁した。
  同時に海兵団・呉海軍病院なども業務開始した。
1889年7月1日、東海道本線全通(新橋~神戸間鉄道全通)
  大津駅~長浜駅間が開通し、東海道線が全通した。
  新橋~神戸間に、直通長距離列車が(毎日1往復)登場
 した。
  現在の東海道本線にあたる新橋駅~神戸駅間の記念す
 べき全通だった。
  東海鉄道全通(氷川清話)
1889年7月1日、山梨県甲府に市制が実施された。
  この日、甲府総町(こうふそうまち)、上府中総町(
 かみふちゅうそうまち)、増山町(ますやまちょう)、
 飯沼村(いいぬまむら)、稲門村(いなかどむら)があ
 つまり、甲府市に市制が施行された。
  全国では34番目、関東では4番目の市の誕生だった。
  人口は31,128人、
  戸数は6,855戸だった。
1889年7月19日、第三高等学校に法学部を設置した。
  旧制第三高等学校(きゅうせいだいさんこうとうがっ
 こう)は、京都市、および、岡山市に所在した旧制高等
 学校で、略称は「三高」。
  現在の京都大学総合人間学部、および、岡山大学医学
 部の前身。
  そして、この年・1889年、第三高等中学校を京都市(
 現:京都大学本部構内)に移転し、法学部の設置した。
  因みに、1894年(明治27年)に、第三高等中学校は、
 第三高等学校に改組された。
1889年7月24日、艦隊条例を公布した。
  艦隊条令公布により、常備艦隊を編成した。
  この艦隊条例によって、本格的な機構を持った艦隊と
 して「常備艦隊」が設置された(第1艦隊の前身)
  そして、1894年に、「常備艦隊(決戦用主力)」と、
 西海艦隊(沿岸警備用:清との戦争に備え新設)の2つの
 艦隊を統合指揮するため、「連合艦隊」が編成された。
  (日清戦争後は、解散して元の常備艦隊に戻った)
  常備艦隊司令長官が、連合艦隊司令長官を兼ねた。
1889年7月28日、入谷の朝顔市
  東京都台東区下谷の入谷鬼子母神(真源寺)と、その
 界隈で開催される「入谷朝顔まつり(朝顔市)」は、
  毎年7月の6・7・8日の3日間、開催される。
  入谷の朝顔が有名になったのは江戸末期の文化・文政
 の頃、
  最初は、御徒町の下級武士、御徒目付の間で盛んに栽
 培されていた。
  御徒町の発展とともに、また、江戸幕府の崩壊で、
  入谷に居た十数軒の植木屋が造るようになった。
  その出来が素晴らしいので評判となり、木戸銭を取っ
 て見せるほどになった。
  「変わり咲き」の朝顔がとても珍しかった。
  変化咲きの朝顔の不思議な美しさが、江戸から続く伝
 統の中で、人々へ魅力を伝え、そして、引き付けた。
  下谷繁盛記(大正三年明治教育社発行)には・・、
  「入谷の朝顔の全盛を極めたりしは、明治二十四・五
 年頃にして、其の頃は、朝顔を造る植木屋十数軒を数え、
 入谷の通りは、毎朝、往来止めとなる程なりし也。
  殊に、当時は、周囲一面の蓮田を廻らしたれば、涼し
 き朝風に吹かれ乍ら、朝顔を見又蓮の花を見るを得たり
 敷かば、観客頗る多く、非常の盛況を呈したり」・・と。
  そして、一旦、廃れるが・・
  戦後のすさんだ世を明るくしようと、昭和23年に、地
 元の有志の方々が復活させた。
  そして、江戸情緒豊かな夏の風物詩として、人々の心
 を、今も温かくしている。
1889年7月29日、英国公使が、日本・メキシコ間の条約締結
 による内地居住権に関して、最恵国条項により同等の権
 利を要求した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカのルーズベルト大統領が作った『ヤルタ体制』は・・、
    ソ連・スターリンの「欲望に火をつけた」だけだった・・
    ブッシュ大統領は・・批判した・・、
    その後のアメリカは・・、これの対処に・・何年も苦労した・・
    何年も・・そして、それは、今も続いている・・その後遺症が・・
    日本も・・領土を奪われたままとなっている・・
.
1900年、北清事変が起きた。
  アメリカ大統領・フーバー・・、
  親中反日が多いアメリカ大統領に於いて、このフーバ
 ー大統領は公正だった。
  その理由の一端は・・、
  若い頃、フーバーは、この北清事変が起きた頃、鉱山
 開発で中国に居た。
  そして、その時、この北清事変を見ていた。
  フーバーが大変ショックを受けたという・・中国の義
 和団と、清国政府の双方の残虐さを、直に見ていた。
  中国人の殺し合いは、身の毛のよだつ残虐非道だった
 ・・と・・
  フーバーは、それを実際に見て、大変なショックを受
 けたと言う。
  義和団事件の時も、日本人と中国人には、天地雲泥の
 差があった。
  フーバーは、それを見たのだった。
  義和団事件の時、各国の外交官たちは、中国の義和団
 に包囲され、籠城(ろうじょう)を余儀なくされた。
  これを取材していたイギリス人ジャーナリストは、日
 本を絶賛している。
  本「守城の人」にも描かれているが、
  北京に出兵していたロシア軍やフランス軍、そして、
 イギリス軍も、
  この時、皆、略奪を繰り返すという卑劣な軍の状況だ
 った。
  しかし、柴五郎大将の日本軍だけは、規律正しく、事
 変を収束し、
  そして、制圧した後の、引き揚げ方も極めて整然と
 潔(いさぎよ)かった。
  そして、この話には後日談があった。
  この時の義和団制圧の「連合国軍総司令官」ともいう
 べき人は、駐支イギリス公使のクロード・マクドナルド
 だった。
  彼は軍人だった。
  それであるから、特に、日本軍、及び、日本人の素晴
 らしさがよく分かった。
  北清事変直後、彼は、駐日公使に転じると、この時の
 ソールズベリー首相に、日英同盟の締結を勧めた。
  マクドナルド公使は、「将兵が、あれだけ規律正しい
 国であれば、同盟を結んでも、何の心配もいらない」と
 説明した。
  そして、1902年、日英同盟は締結された。
.
.
1906年、アメリカの日本人差別の歴史
  この年、サンフランシスコ市の教育委員会が、日本人
 の学童の『隔離教育』を決定した。
.
  1907年、サンフランシスコで反日暴動が起きた。
.
  1908年、日米紳士条約が締結された。
   (日本が、移民を自粛する代わりに、アメリカも排
   日的な移民法を作らないことを約束する)
.
  1913年、カリフォルニア州で、排日土地法が成立した。
.
  1920年、カリフォルニア州で、新たな排日土地法が成
   立した。
   (1913年の土地法は、。「日本人移民」の土地所有
   を禁止するものだったが、この1920年の法律では、
   「日本人移民の子供=いわゆる二世」までもの土地
   所有が禁じられた)
.
  1922年、アメリカ最高裁が「黄色人種(日本人)は、
   帰化不能外国人であり、帰化権はない」とする判決
   を出した。
.
  1924年、『絶対的排日移民法』が成立した(約束違反)
   これは連邦法で・・、
    アメリカという国家全体として、日本からの移民
   を排斥するという破廉恥な約束違反の法律だった。
   アメリカは・・国家全体で日本を排斥した。
.
1941年7月18日、第二次近衛内閣総辞職・・と同時に、第三
 次内閣が成立した。
  第3次近衛内閣が誕生して、和平の道へ努力が行われた。
 しかし・・、
  フーバー第31代アメリカ大統領は・・マッカーサー
 と会見した時に、マッカーサーから言われた・・
  「1941年の日本の(近衛内閣の)誠実な和平への努力
 を、アメリカは受け入れるべきだった」・・と・・、
  「しかし、ルーズベルトには、受け入れる意図は、初
 めから全くなかった」・・と、この時、フーバーは言っ
 ている。

1941年8月1日、アメリカ、対日石油輸出の禁止
  フーバー(アメリカ元大統領)の言葉:
  『これは、宣戦布告なきアメリカの宣戦布告だ』と・・
  「(1941年7月~8月のアメリカの日本に対して行った
 経済制裁は)・・
  『明らかに、日本に対する宣戦布告なき、戦争の仕掛
 けだった』・・と・・フーバー元アメリカ大統領は言っ
 た。
.
1954年、ダライ・ラマ法王(チベット仏教の最高指導者)
 と、パンチェン・ラマ(ダライ・ラマ法王に次ぐ存在)
 が、お互いに相手を承認するという関係になった。
  本「新・戦争論」で、池上彰氏は言う。
  そして、中国共産党が、チベットを占領した後の1954
 年に、
  ダライ・ラマも、パンチェン・ラマも、毛沢東に呼ば
 れ、チベット代表として、全国人民代表大会のメンバー
 になった。
  ダライ・ラマは、常務委員会副委員長・・、
  この時、実は、ダライ・ラマは、一時だが共産主義に
 憧れた。
  ところが、1955年春、チベットへ帰る前日、毛沢東が、
 自分の執務室に彼を呼び出し、
  「最後に、ぐっと体を近づけ、『あなたの態度はとて
 もいい。
  だが、宗教は毒だ。第一に人口を減少させる。
  何故なら、僧侶と尼僧は独身でいなくてはならないし、
 第二に、宗教は物質的進歩を無視するからだ」と言った。
  これを聞いて、私は激しい嵐のような感情が顔に出る
 のを感じ、突然、非常なおそれを抱いた。
  『そうなのですか。あなたは、結局、ダルマ(法)の
 破壊者なのですね』、私は心の中で、怒りを込めて呟(
 つぶや)いた」(『ダライ・ラマ自伝』)。
  そして、チベットに戻ってみると、自分の留守の間に、
 チベット仏教がすっかり弾圧されていた。
  それで反発し、インドに亡命する事になりました。
  しかし、パンチェン・ラマは、北京に残って、中国共
 産党の方針に従い、出世していく。
  しかし、そのパンチェン・ラマも、年を取ってからチ
 ベットに戻って布教活動を始める。
  そして、チベットの状況を見て、共産党に対する批判
 的な事をわずかに口にする。
  その途端、変死するのです。(後略)
.
1966年~1976年、中国・文化大革命。
.
1979年1月1日、台湾関係法
  台湾関係法は、アメリカ合衆国の法律である。
  中華民国(台湾)に関するアメリカ合衆国としての政
 策の基本が定められていて、
  事実上のアメリカ合衆国と中華民国(台湾)との間の
 軍事同盟。
  1979年1月1日に、民主党のジミー・カーター大統領は、
 中国との国交を樹立し、中華民国(台湾)との国交は断
 絶した。
  ホワイトハウスのこの方針は、ソビエト連邦と中華人
 民共和国の離間を決定的なものとし、
  また、アメリカ企業が、中国大陸の『巨大な市場を獲
 得』するための重要な布石となった。
  しかし、同時に、米華相互防衛条約の無効化に伴うア
 メリカ合衆国台湾防衛司令部の廃止と、
  在台米軍の撤退によって、東アジアに急激な軍事バラ
 ンスの変化が起きることが懸念され、
  自由主義陣営の一員である中華民国(台湾)が、中華
 人民共和国に占領される事態を避けるため、
  また、中華民国政府(民主党とほぼ唯一のパイプであ
 った許国雄僑務委員会顧問)や、在米国台湾人(台湾独
 立派を含む)からの活発な働きかけもあって、
  台湾関係法が、1979年4月に制定され、
  1月1日にさかのぼって・・施行された。
  アメリカは、国内法規である台湾関係法に基づき、通
 常の軍事同盟のように中華民国(台湾)に駐留こそして
 ないものの、武器売却や日本の沖縄県の在日米軍基地な
 どにより、中華人民共和国を牽制している。
  そして、もともと、中国は、台湾を「化外の地」だと
 日本へ言った地で、
  中国とは何ら関係ありませんよ・・と・・日本に説明
 した地である。
  (参考)化外:けがい、国家の統治のおよばない地。
.
2003年11月27日、台湾の独立を問う公民投票法
  台湾の陳水扁総統によって、「台湾の独立」を、台湾
 の方たちに問う住民投票を「実施するか?否か?」の発
 議をし、
  その「公民投票法」が、2003年11月27日に、成立しそ
 うになった。
  「中国は青くなった」「反対した」・・と言うより、
 どんなことがあっても阻止したいとした。
  これが、このまま進んでいくと、住民投票の結果に関
 わらず、少なくとも「台湾民主主義の完成」の証になっ
 てしまうからだった。
  また、仮に、住民投票の結果が「独立すべき」となっ
 たら、中国は全く対応できず、台湾は名実ともに完全な
 独立国になる。
  この様な方向へ進む法案だった。
  2003年12月初旬、アメリカのブッシュ大統領(第43代)
 は、「台湾の住民投票に我々は反対する」と言った。
  中国の北京政府の「住民投票など絶対に容認しない」
 という声明も出ていた。
  また、「我々の忍耐もすり減ってきた」の強硬姿勢も
 あった。
  そして、この言葉が、台湾というより、むしろ、アメ
 リカ向けだったことも影響した。
  そして、また、その時、中国の温家宝首相が、アメリ
 カ訪問し、ホワイトハウスで行なわれた首脳会談の後の
 発言でもあった。
  また、アメリカの希望した「北朝鮮の核保有問題を協
 議する六か国協議の開催を中国が受け入れたから」と
 みられた(実際、この後、開催された)。
  日本の外務省は、公式ルートで、台湾の住民投票に反
 対を声明した。
  台湾は、見捨てられたのか?
  台湾が、中国に落ちれば、次は、沖縄県である。
  今、中国は、この次の次の手を打っている。
  最後は、アメリカと近接するところまでを中国は目標
 としている。
  中国は、「太平洋を、アメリカと半分づつ」と言明し
 ている。
.
2005年、アメリカ大統領のブッシュ大統領(子)が、『ヤ
 ルタ体制は間違いだった』と演説した。
  ブッシュ大統領は、バルト三国のラトビアの首都リガ
 へ行って、ヤルタ体制の批判をした。
  フランクリン・ルーズベルト大統領が、第二次世界大
 戦の時にした失敗を批判した。
  ルーズベルトが、焚き付けたから・・東ヨーロッパが、
 ソ連に奪われ、日本の領土を奪われた。
  その様に事を運んだソ連のスターリンだった。
  ルーズべルトが「取ったら」と言った領土は・・
  「それ以上に、ソ連は取り」
  そして、手のつけられないスターリンに、面食らった
 ルーズベルトだった。
  そして、ブッシュは、「東ヨーロッパを解放できなか
 った」と批判した。
  そして、また、バルト三国も解放できなかったと言っ
 た。
  「それから、50年、経ってしまったではないか」と批
 判した。
  アメリカは、冷戦という形で東欧解放のために、ソ連
 と戦わなければならなかったではないか・・と批判した。
  「ソ連を大きくした」ルーズベルトを、批判した。
  日本の固有の領土の北方領土は取られ、千島列島は取
 られ、ルーズベルトが言った満州や旅順だけでは済まな
 かった。
..
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by suba28 | 2017-02-06 17:26 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)489E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年6月~1889年6月)

題:(増補版)489E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年6月~1889年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年6月8日、市制実施後、最初の東京市会を開いた。
  市には市会を置き、土地所有と納税額による選挙権制
 限と高額納税者の重みを大きくした三等級選挙制によっ
 て市会議員を選出した。
  市は、条例制定などの権限を持つ。
  市長は、市会が候補者3名を推薦し、内務大臣が天皇陛
 下に上奏裁可を求めて決めた。
  市会は、別に助役と名誉職参事会員を選出した。
  市長、助役、名誉職参事会員で構成される市参事会が
 市の行政を統括した。
  東京市会は、1889年(明治22年)5月1日に、市制・町
 村制の施行に基づいて東京15区を市域とする東京市が設
 置された。
  東京市は、市制特例によって京都市・大阪市と共にい
 わゆる「三都」として一般の市よりも上位に位置付けら
 れ、
  東京府知事が、東京市長を兼務すると共に、従来の区
 も東京市長の指揮下でそれぞれ単独の区長(官選制)・
 区会を持つ変則的な自治体制が敷かれた。・・が、
  東京・大阪両市有志同盟が、特例撤廃を働き掛けた結
 果、1898年(明治31年)10月1日に、東京市は、一般市と
 なり、東京市長(官選制)と府知事の役職分離・東京市
 役所(庁舎は麹町区有楽町の東京府庁と共用)の設置が
 実現した。
1889年6月10日、第1回貴族院多額納税議員選挙
  議院や議員の権限などについては、議院法、貴族院令
 (明治22年勅令第11号)、その他の法令に定められた。
  議員の任期は原則として7年で、皇族議員、華族議員の
 うち公爵・侯爵議員、勅任議員のうち、勅選議員につい
 ては終身議員とされた。
  華族議員のうち、伯爵・子爵・男爵議員は、それぞれ
 同爵の者による互選により選出された。
  (参考)勅任議員:ちょくにんぎいん、勅任されて議
    員となった者、すなわち勅選議員・帝国学士院会
    員議員・多額納税者議員の総称。
1889年6月11日、ドイツと新通商航海条約に調印した。
  しかし、発効せず。
  グートシュミット独公使は、この条約が失敗した理由
 について・・、
  関税問題を除いて、ドイツとしては段階的に日本を解
 放する事を意図していたと後になって発言した。
1889年6月16日、横須賀線鉄道が開通した。
  横須賀線の大船駅~横須賀駅間が開通した。
  横須賀は、海軍の軍港を抱える軍港都市で、
  横須賀線は、軍事上、重要な路線だった。
  また、横須賀は、歴史のあるところで、幕府の俊英・
 小栗上野介(おぐりこうづけのすけ)とフランス人技師
 ウェルニーの胸像が立っているが、江戸幕府の造船所が
 あった。
  そして、横須賀鎮守府(ちんじゅふ:海軍の首都防衛
 拠点)と海軍工廠(こうしょう:軍用艦船の造船・修理
 所)・・、
  それまでの人員や物資の輸送は、横浜からの船便だっ
 た。
  軍は、鉄道が結ばれる事を要求し、1886年(明治19年)
 軍は請議書を提出した。
  そこで、1887年、測量が開始され、
  1888年初頭に起工し、そして、
  1889年6月、大船から鎌倉、逗子を経て、横須賀へ開通
 させた。
  横須賀線という名が決定したのは、1909年(明治42年)
  軍は、観音崎までを計画していたが、費用と用地確保
 で実現しなかった。
  一時は、貨物取扱量も増え、また、造船所もあり、ド
 ックもあり・・で、広大な操車場もあったが、今は、公
 共施設や高層住宅となっている。
  また、米軍と自衛隊の基地で、原子力潜水艦などの基
 地にもなっている。
  (因みに、アメリカ軍は、終戦後、この地を基地とす
 るため、ほとんど空襲を行なわずに温存した・・その様
 な軍港としての最適地)
1889年6月20日、富山県伏木に米騒動が起きる。
  1889年は凶作で、
  1890年に入ると、米価が暴騰し、
  1890年1月18日、富山市で、貧民が救助を要求して騒動
 を起こしたのを最初として、
  1890年4月~8月にかけて、鳥取市、新潟県下、下関市、
 高岡市などで貧民の暴動が相次いだ。
  また、この1889年の日本国内の凶作のため、翌年の1890
 年に、米の輸出量が激減した。
  そして、米騒動の最終目的は、小売米価の値下げの他
 に、救助基金の支出獲得にあった。
  そもそも、町当局があずかる救助基金(そのものの創
 設は1889年の米騒動(翌・1890年の全国的米騒動の引金
 となった)に由来し、
  ふたたび、2000人余もの大集団が参加するような大騒
 動をなからしめんがために、
  あるいは、また、騒動が起きたときの備えのために、
 町の有志たちが仲仕の労銀の中から輸出米一石につき、
 2銭~3銭の金を取り立て、
  それを積み、救助基金として管理したことからはじま
 り、それが後に町に移管された。
1889年6月、陸海軍造兵廠や石川島造船所の機関部職工ら、
 同盟進工組を結成した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカ大統領になった・・ルーズベルトという男は・・??
.
  第二次世界大戦の日本との戦いが開始されると・・
  『戦争を作った』・・と、この男(フラクリン・ルー
 ズベルト)は言った。
  この男・ルーズベルトの思惑通りに事が進んだ・・
  そこで・・この様な言葉が飛び出したのだろう。
  (読売新聞、2017・1・30)に・・、
  本:『アメリカが隠しておきたい日本の歴史』の広告
 があった。
  その広告には・・以下の記述があった。
  著者は、マックス・フォン・シュラー氏で・・
 アメリカの精鋭部隊である海兵隊に所属した人だった。
  著者は言った、「本当のことを知らせることは・・、
  これから生きていく方々の為にもなる」・・と、
  また、広告の文には・・、
  「アメリカ人は、プロパガンダ(嘘宣伝)が巧みだ」
 ・・と、
  「アメリカ人は、大東亜戦争(第二次世界大戦)につ
 いて・・『日本人は腐敗した指導者たちに騙されていた』
 と言うが・・、
  アメリカが、日本を戦争に追い込んだという『事実』
 については絶対に認めません」・・と、
  (アイデンティティーが一気に崩れ去るので依怙地
 を張っている)
.
.
  この様な状況の中の要(かなめ)に居た・・戦争を始
 めたアメリカ大統領のルーズベルト・・は・・??
.
.
1905年3月17日、フランクリン・ルーズベルト(第32代アメ
 リカ大統領、そして、第二次世界大戦を作った男)は結
 婚した。
  セオドア・ルーズベルト(第26代アメリカ大統領)の
 姪(弟の子)のアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚し
 た。
  フランクリン・ルーズベルト23歳、エレノア19歳だっ
 た。
  しかし、悲しいかな・・この夫婦はうまく行かなかっ
 た。
  ルーズベルトに責任があった。
  ルーズベルトが裏切ったのだった・・不誠実な男・夫
 ・・だった。
  「私はジャグラー(曲芸師、ペテン師)だ」と自ら言
 っていたルーズベルト。
  また、嘘をついても良いという自分勝手なルールを持
 っていたルーズベルトは、妻・エレノアまでも裏切った。
  夫・ルーズベルトに、愛人のルーシーが居るという事
 を知った妻・エレノアは、「世界が崩れ去ったようだっ
 た」と語った。
  「誠実」とか「信頼」とかの言葉から「遠かった男」
 だった。
.
.
1913年、フランクリン・ルーズベルトは、海軍省海軍次官
 補の要職に就いた。
  この時、アメリカ海軍内に伝統的に強かった太平洋で
 の日本脅威論を身をもって体験した。
.
.
1913年、ラザフォード・ルーシーが、この年、フランクリ
 ン・ルーズベルトの妻・エレノアの秘書となった。
  そして、フランクリン・ルーズベルトとも知り合いと
 なり、
  そして、愛人関係と・・なった・・
  その事を、1918年に、妻エレノアは、ルーシーの恋文
 を発見して知った・・、
  エレノアは、ルーズベルトに「愛人と別れるか、離婚
 するか」を・・ルーズベルトへ迫った。
  ルーズベルトは、「二度とルーシーには会わない」と
 誓った。
  そして、ルーシーも、かなり年の差があるラザフォー
 ドという人と結婚した・・、が・・1941年に死別。
  そして、よりが戻る・・ルーズベルトとの間が元に戻
 った。
  1944年以降は、堂々とホワイトハウスでも密会する様
 になった。
  密会も多くなった・・、
  ルーズベルトが死ぬとき、傍にいたのは・・ルーシー
 だった。
.
.
1915年、アメリカの連邦最高裁判所が、日系移民には市民
 権の資格がない・・とした。
  また、帰化申請も認めない・・とした。
.
.
1917年、アメリカは、アジア地域の移民禁止地域を設けて、
 アジアからの移民を制限した・・さらに、有色人種蔑視
 へと向かった。
 (全てのアジア系移民は・・アメリカ入国禁止となった)
.
.
1918年、アメリカの大統領となるフランクリン・ルーズベ
 ルトの妻・エレノアは、この年に、夫ルーズベルトの不
 倫を知った。
  そして、家庭の妻という立場を棄てる決意をした。
  社会奉仕や公民権運動に貢献するが・・、
  その間、元アメリカ共産党員だったジョセフ・ラッシ
 ュとの深い関係が暴露された。
  FBIの卑劣な監視を受けるなどのスキャンダルに見
 舞われた。
  エレノアは、裕福な家庭に生まれたが・・、
  父(セオドア・ルーズベルト大統領の実弟)は、勝手
 気ままな性格で、また、アルコール依存症であり、
  エレノアは祖母に預けられ、ここで育った。
.
.
1922年、アメリカは、ケーブル法で・・、
  日本を含むアジア系移民と結婚したアメリカ女性の市
 民権を剥奪した。
  (因みに、キリスト教聖書には、「異教徒に嫁に行か
 せるな」の遅れた教義がある・・隠されて、知らされて
 いないが・・)
.
.
1923年、アメリカは、インド人もターゲットにして、排斥
 した。
  キリスト教の有色人種蔑視教義による『虐げ社会が吹
 き荒れた』。
  (今・現代でも、黒人の方々やマイノリティーの方々
 は虐げられている)
.
.
1925年10月、「主権国家」・・ロカルノ条約
  この時、スイスのロカルノで協議が行われ、
  1925年12月1日に、ロンドンで正式に調印され・・、
  この条約締結によって、ドイツは、ベルサイユ講和会
 議で制限された国防に関する条項が再確認された。
  ドイツは・・、
  「一人前の安全保障能力を持つ主権国家とされない」
 という地位に置かれた。
  自らが、主権国家として、自らを守ることが出来ない、
  『そうすることをを・・阻止される国家』だと・・、
  ドイツは、1919年のベルサイユ講和会議で、
  ドイツは、徴兵制や飛行機・戦車の保有を禁じられ、
 軍人の数も十万人以下と制限された。
  このベルサイユ条約の159条から213条は、軍備条項と
 されていて、ドイツの軍備に対し厳しい制限が加えられ
 た。
  さらに、武装解除についても規定された。
  その条項の1例は・・、
  ☆ドイツの陸軍兵力は、1920年3月31日までに歩兵・騎
   兵・将校を含めて10万人以下とする。
  ☆ドイツの海軍兵力は、本条約締結から2か月以内に1
   万5000人に縮小する。
  ☆参謀本部は持ってはならない。
  ・・等が決められ、
  ドイツ国民の方々は、大砲などを破壊した。
  また・・、
  「兵器などについても色々と制限された」
  「兵器、航空機を含む製造は連合国の許可を受けるこ
 と」
  「潜水艦・戦車・装甲車などの輸入・製造禁止」
  「海軍は、戦艦6隻、軽巡洋艦6隻・・で、潜水艦はだ
 め」
  「今、ドイツの港湾にある艦艇の所有権を放棄せよ」
  「航空機とその部品の製造・輸入禁止」・・など、
  日本も、日本の国防に関して『自由度を失っている』。
  自分の国を自由に守ることについて考えることが出来
 なくされている。
  『憲法があるからではない』。
  「主権国家」として、自国を守る自由が拘束されてい
 る。
  特に、キッシンジャーは、親中(反日)派で、
  中国寄りの考え方から、日本の国防についての軍備に
 ついて、厳しい考え方を持っていた。
  日本は、『国際的不正義のもとに置かれている』。
  国家の防衛主権というものがあるのだ。
  長期的観点で、アメリカの退潮を考えるとき、
  中国が、今度、内政干渉して来るだろう。
  1922年に、ワシントン会議で、日英同盟が廃棄された
 が、
  これは、今まで言われていた「アメリカの策略」では
 なく、中国の孫文などが先頭に立って計画し仕掛けた工
 作によっての結果だった。
  中国の歴史が、総べて、この「同盟関係を潰す戦略」
 の中で展開したが・・その姿であった。
.
.
1926年、イタリアのムッソリーニが、独裁的な権力を握る。
  以後、ドゥーチェ(指導者)の地位を維持した。
  イタリアは、このムッソリーニの、国家の主動の下に、
 産業を再編し、
  公共事業や軍需生産の拡大で「景気の浮揚」を図った。
  このイタリアの国家管理経済に、アメリカのルーズベ
 ルトも『理解を示した』。
.
.
1927年、リンドバーグが、「スピリッド・オブ・セントル
 イス号」で世界初の単独大西洋横断に成功し、アメリカ
 国民の英雄となった。
  因みに、リンドバーグは、1932年3月、長男が誘拐され、
 殺害されたのを機に・・欧州在住となった。
  『ルーズベルトの好戦的な所』を批判した。
  ルーズベルトからは、「親ドイツ派」と誤解を招く、
 プロパガンダの非難がされた。
.
.
1928年、この頃から深刻になりつつあった大恐慌で・・
  アメリカは、さらに、社会不安が社会に深まって行っ
 た。
  ルーズベルトは、この様な状況の中、大統領選に出馬
 した。
  そして、結果的に、ルーズベルトは、アメリカ史上最
 長の在任期間を誇る大統領となった。
  在任中に、戦争に突入する事により、アメリカは大恐
 慌の危機から脱した。
  ニューディール政策だからではない・・、
.
.
1929年、アメリカの ホワイトハウスが火災となった。
.
.
1929年10月24日、ウォール街の株価が大暴落に至った(世
 界大恐慌勃発)
.
.
1930年代初頭、粛正(しゅくせい)のソ連
  この頃、独裁権を確立し、独裁者となったスターリン
 (レーニンの後継者)は・・、
  数百万人におよぶ人々を殺戮(数千万人の説もある)
 するという徹底した粛正を行なった。
  この様な暴力によって、独裁国家を確立し、権力を掌
 握して確立し、5ヵ年計画によって、「一国社会主義建設
 路線」を進めた。
  1930年代後半に、国際情勢が緊迫の度を加えると・・、
  スターリンは、ドイツの攻撃を恐れて、また、同時に
 第一次世界大戦で失った「旧ロシア帝国領土」を回復し
 たいという目的で、
  1939年8月に、「独ソ不可侵条約」を締結した。
  条約の秘密議定書には、ポーランドの分割、東ヨーロ
 ッパにおける独ソ両国の勢力範囲が記されていた。
.
.
1931年9月24日、上海の英語誌が「田中メモリアル」を掲載
 した。
  これが、陰謀の日本を貶(おとし)める策略だった・・、
  これが、日本にとって痛かった。
  日本にとって・・「根も葉もないこと」を言われた。
  日本が、「侵略国家体質だ」と言われた。
  世界を手中に収めたいという『大それた陰謀を持った
 国だ』と言われた・・、
  その流言飛語が・・世界中に・・根も葉もない印象を
 付けられてしまう日本だった・・、
  今・現代においても、節操なく・・「慰安婦とか」「
 南京事件とか」・・作り話が、日本をターゲットにして
 行われているが・・放っておいてはいけないのである。
  この様な行為を・・『軽く見ないこと』。
  この様な根拠のない流言を放っておかないで、「しっ
 かりした根拠を持って反論を行なえ」
  必ず・・反論をせよ・・、
.
.
1932年1月7日、スティムソン・ドクトリン
  アメリカの国務長官のスティムソンが、日本を『九カ国
 条約違反』というドクトリン(原則)を発表した。
  この男が・・曲者(くせもの)だった。
  この時点から、日本に対するアメリカの態度が、さら
 に、硬化して行った。
  また、世界の態度も・・アメリカに引きずられて行っ
 た。
  スティムソンは、何故か? 日本に対して批判的に見
 る、また、日本を貶める政治家だった。
  日本は、日露戦争までは、アメリカと良い関係にあっ
 た・・うまく言っていた。
  しかし、日露戦争の日本の勝利によって、ロシアから
 満州を移譲され、
  そして、日本は、満州へ、日本から資本を持って行っ
 て、また、人材を投入して「満州づくり」を始めた。
  「満蒙開拓団」という言葉もあり、自らも汗を流した。
  日本人が、額に汗して、誠実に満州を豊かな地にしよ
 うと立ち上がっていた。
  満州鉄道の敷設も始めた。
  この時点が、そして、この満州鉄道が、アメリカと火
 花を散らす一点でもあった。
  アメリカも、満州での利権が欲しかった。
  アメリカは、すでに、植民地としているフィリピンを
 拠点として、盛んに中国大陸へ進出していた。
  そして、満州においても、日本の満州鉄道敷設と同じ
 行為をし始めた。
  日本の鉄道敷設と並行して鉄道敷設を始めるという、
 日本の行動を邪魔する行為を始めた。
  日本は、中国政府との交渉の上で、満州鉄道敷設をし
 ており、
  また、この話し合いにおいて、並行する路線は敷設し
 ないと決めていた。
  これによって、当然に、アメリカの満州鉄道敷設は、
 実施できないことになった。
  この様にして、アメリカと日本は、満州で火花を散ら
 した。
  この様な経過の中で、日本は、南満州鉄道を敷設して
 行った。
  しかし、アメリカは、世界のどの国も理解していた日
 本の満州鉄道沿線の開拓行動を、「侵略だ」と、言い掛
 かりをつけた。
  この論理のポイントになったのが、このスティムソン
 の「九ヵ国条約の違反のドクトリン」だった。
  言い掛かりのドクトリン発表だった。
  この接点から「日本は、侵略国のレッテル」が張られ
 た。
  日本は、日露戦争の戦勝によってロシアから満州を移
 譲され、中国政府も認めていた。
  侵略行為ではない。
  中国政府との話し合いの上での行動という筋が通った
 行動だった。
  逆に、アメリカなどが、筋の通った話ではなかった。
  また、アメリカは、自分の都合の悪い本は、『焚書』
 として日本国民が読めなくした。
  卑劣な事である。
  (参考)九ヵ国条約(きゅうかこくじょうやく)は、
 1922年(大正11年)のワシントン会議に出席した9か国、
 すなわち、アメリカ合衆国・イギリス・オランダ・イタ
 リア・フランス・ベルギー・ポルトガル・日本・中華民
 国間で締結された条約。
  中国の関税自主権を拡大した。
  しかし、中国の領土や主権の尊重は、アメリカをはじ
 め、イギリスなど尊重する気配などはまったく無かった。
  大混乱の中国のおいしい権益を得ようと、うまく、立
 ちまわっているだけだった。
  (参考)焚書:(ふんしょ)学問・思想を権力によっ
 て弾圧するための手段として、書物を焼き捨てる事。
  第二次世界大戦後においても、GHQ(連合国軍総司
 令部)によって、7000冊以上の書物が焚書とされ、世の
 中から消された。
  正しい言論の道が閉ざされ、日本は自虐史観にプロパ
 ガンダ(嘘宣伝)されて行く。
  この焚書のすべてではないが、戦後70年を経て、少し
 ずつ世に出て来ている。
  真実の歴史に書き改められて来ている。
.
.
1934年3月、「日本、陰謀論」、日本の黒い噂を世界に流す、
 日本追い落としの論。
  この月の「アジア」というアメリカの雑誌に、この論
 が掲載された。
  この論文は、10年前に掲載されていて、今回は再掲載
 だった。
  その再掲載の狙いは、ルーズベルト政権の10年前の状
 況と大きく違って、
  ルーズベルト政権の厳しい対日姿勢を伝える狙いがあ
 った。
  10年前は、日本が、ワシントン会議で、日本は不利な
 状況を課せられたが受け入れて、
  海軍軍縮を誠実に実施していると、
  また、中国市場は、日本にとって重要であることに理
 解を示さなければならないという・・日本を少し思いや
 る様な記述もあった。
  そして、「旧思考を捨て去るべきだ」という事まで書
 かれていた。
  そして、編集長のコメントとして、「(ルーズベルト)
 海軍次官補として日本との戦争を常に念頭に置いてきた
 ルーズベルト氏の見解を今、紹介するのは非常に有益」
 と書いていた。
  「日米共存だ」という記述であった。
  この様なアメリカの状況から、何が変えさせたのか?
  また、何が変わったのか?
  ルーズベルトは、1913年から1920年まで、海軍次官補
 として勤めていた時は、この様な考え方だった。
  しかし、この時・1934年、日本についての黒い噂が世
 界に流された。
.
.
1934年6月、アメリカ、この頃から、ニューディールの批判
 が高まって行く。
  アメリカ国民の方々の不満の中で、ニューディール政
 策は行われた。
.
.
1937年8月13日、第二次上海事変が起きた。
  この事変も、新史料が公開されて、史実が明らかにな
 る・・曲者(くせもの)が横行する事変だった。
  この事変の新事実が明らかになった。
  この日、中国国民党軍が、上海の日本海軍陸戦隊に
 大攻撃をした。
  和平への可能性が、最終的に・・「完全に吹き飛んだ」。
  そして、中国国民党軍との全面戦争へと突入した。
  新たに明らかになった事は、中国国民党のトップの蒋
 介石は、『日本と和平をしようとの方針』だった。
  日本と合った和平への方向性だった。
  これが、ルーズベルトには都合が悪かった・・、
  また、この蒋介石の命令を無視して、当時、国民党の
 上海方面の総司令官の張治中(将軍)は・・、
  実は、中国共産党の秘密党員で、スパイ工作員であっ
 た。
  蒋介石の和平方針命令を無視して、日本軍に対しての
 攻撃を指揮し、戦いが起こした。
  中国共産党とコミンテルンの指令を受けて始まった攻
 撃だった。
  ソ連コミンテルンも大きく関(かか)わっていた。
  中国共産党とソ連のスターリンは、中国国民党軍と日
 本の戦いによって、その両者の消耗を尽くさせようと仕
 組んでいた。
  そして、自国軍の温存を計っていた。
  スパイの根は深かった。
  かつて、孫文の妻・宋慶齢は、中国共産党のスパイだ
 った、それで、ソ連のスターリンの命令を忠実に果たし
 ていた。
  背後には、「国際共産主義としての結束と目標」があ
 った。
.
.
1937年、盧溝橋事件、(スターリンの工作だと分かった)
  日本は、事件を収めたい、収束したいと努力していた。
  この事件の後、不拡大方針をとって、現地解決を進め
 る日本を・・その様にさせまいと・・、
  何としても日本を引きずり込んで・・日中全面戦争へ
 引きずり込みたいと・・、スターリンと中国共産党によ
 る工作が行われていた・・
  そして、上海で・・日本軍に対しての総攻撃が行われ
 た。
  これが・・全面戦争の始まるきっかけだった。
  この様なことが、戦後60年を経て、明らかになり・・
 証明されるようになった。
  (ユン・チアン他著「マオ≪上≫」第19章、2005年刊)
  また、アメリカも・・酷いことをしていた・・
  中華民国の蒋介石政権に対して行われていたアメリカ
 や、イギリスなどによる軍事援助は・・、
  いわゆる『援蒋ルート』を通じて行われていた。
  アメリカは、火に油を注ぐように・・武器を供給した。
  戦いが収まるわけはなかった。
  特に、フランス領インドシナを経由するルート(仏印
 ルート)は4つの『援蒋ルート』の中で最大のものであっ
 た。
  このアメリカの『援蒋ルート』が・・問題の根本原因
 だった。
  そして、この中国への武器・弾薬の支援が、第二次世
 界大戦が開始される・・『根本的な原因』だった。
.
.
1940年12月29日、ルーズベルトが、兵器庫になると発言。
  アメリカは、世界に武器をばらまくと宣言した。
.
.
1940年、アメリカに『正論』が現れた・・アメリカのリチ
 ャードソン海軍大将が、
  「日本との戦争なんか利益が無い」と、ルーズベルト
 大統領へ言った。
  ルーズベルト大統領は、リチャードソン海軍大将を、
 即解任し、そして、降格した。
.
.
1940年、フランクリン・ルーズベルト大統領は、断固とし
 て日本と戦争をしたかった。
  この年に、リチャードソン海軍大将は、日本との戦争
 はするべきではないという考えから・・、
  『日本との戦争の検討計画は止めるべきだ』との意見
 を、さらに、主張した。
  ルーズヘルトは、直ちに、アメリカ海軍艦隊司令長官
 で、且つ、太平洋艦隊司令長官であったこのリチャード
 ソン海軍大将を解任した。
  また、卑劣にも、少将に降格した。
  この様な人事は、異例中の異例だった。
  しかも、リチャードソン海軍大将は、超エリートだっ
 た。
.
.
1940年~1942年、ルーズベルト大統領は、CIAの前身の
 OSSに、「対日占領プランを作るように」にと命令し
 た。
  また、ルーズベルトは、「人種差別主義者」だった。
  さらに、ルーズベルトは、スミソニアン研究所の文化
 人類学者アールス・ヒルデリカを、ホワイトハウスに招
 き・・、
  「日本人全員を、温和な南太平洋の原住民と強制的に
 交配させて、やる気がない、無害な民族につくり替える
 計画をたてたい」と・・研究する事を命令した。
.
.
1945年8月6日、この日に、広島に原爆が投下されたが・・、
  フーバー第31代アメリカ大統領は・・、
  「原爆を投下する理由はなかった」と言った。
  また・・、
  「原爆を投下しないでも、日本は降伏させることは
   出来た」・・と言った。
  さらに・・また・・、
  「原爆投下の罪は、アメリカ国民の上に重くのしかか
 っている」
   ・・と言った。
.
.
1946年5月3日、東京裁判(極東国際再軍事裁判)が始まった。
  しかし、フーバー・第31代アメリカ大統領は、
  「東京裁判史観は、全面的に否定する」・・と、言っ
 た。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2017-02-04 18:20 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)488E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年6月)

題:(増補版)488E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年5月31日、華族女学校が完成した。
  沿革・・、
  1885年(明治18年)四谷区尾張町に華族女学校を創設
   した。
    この年、皇族・華族子女のための官立の教育機関
   として華族女学校の名で四谷に創立された。
  1889年(明治22年)麹町区永田町に移転。
    永田町に移転し、平民子女の入学も許可された。
  1906年(明治39年)華族女学校と学習院を併合し、華
   族女学校を学習院女学部と改称した。
  1918年(大正7年)女学部は青山に移転し、女子学習院
   となった。
  アリス・ベーコンは、日本の家族の令嬢たちがおとな
 しくて、アメリカとは全然違うことに驚いている。
  確かに、彼女たちは、まだ小さいころから、歩き方や
 座り方、襖の開け方や箸の使い方まで、細かく注意され
 て育っていた。
  とくに、かつて大名だった華族の令嬢たちは、姫君に
 ふさわしい気品を身につけるために、「小笠原流」の礼
 式を厳しく教えこまれていた。
  たとえば、食事の時に箸の先が「一寸や一寸五分」も
 汚れる食べ方は行儀が悪いとされ、
  ご飯やおかずに触れていいのはわずか「六分」だった。
  一寸は、約3.03センチメートルで、
  一分は、その十分の一である。
  つまり、六分は約1.8センチにすぎないわけで、箸
 をそれしか汚さずに食事するのは至難の業だ。
  さらに、華族の令嬢たちは、歩き方から寝ているとき
 の姿まで、すべて品良く、美しく見えなければならない、
 とうるさく教えこまれた。
  そうしたしつけの成果が見事に発揮されて、アメリカ
 人のアリスには、十代の彼女たちが「完璧な淑女」に見
 えたのだろう。
  因みに:アリス・ベーコンは、アメリカの女性教育者
 で、
  育った家庭は貧しかったようだ。
  大学進学は、経済的理由であきらめた。
  しかし、1881年、ハーバード大学の学士検定試験に合
 格し、学士号を取得した。
  1883年、ハンプトン師範学校正教師となる。
  1884年、大山捨松や津田梅子の招聘により華族女学校
 (後の学習院女学校)英語教師として来日した。
  来日中の1年間の手紙をまとめたものを、1894年『日本
 の内側』(日本語訳題『華族女学校教師が見た明治日本
 の内側』)として出版し反響を呼んだ。
  帰国後は、ハンプトン師範学校校長となっていたが、
  1900年4月、大山捨松と津田梅子の再度の招聘により、
 東京女子師範学校(現:お茶の水女子大学)と、津田梅
 子が建てた女子英学塾(現:津田塾大学)の英語教師と
 して赴任して来た。
  1902年4月に、任期満了で帰国するまで貢献した。
  特に、女子英学塾ではボランティアで教師を務め、梅
 子にかわって塾の家賃を代わりに支払うなど貢献は大で
 あった。
1889年5月、北海道で鶴猟が禁止された。
  明治維新をきっかけとして、江戸時代の禁鳥制度が廃
 止され、野生鳥獣の乱獲が進んだ。
  1872年、そこで、明治政府は、この年に『鉄砲取締規
 則』を、
  1873年、『鳥獣猟規則』を、
  1892年、『狩猟規則』を公布し、
  捕獲を禁止する鳥類として12種を保護鳥として指定し
 た。
  また、保護鳥は、別に捕獲禁止期間指定種を設け、
 保護鳥、および、期間指定鳥に対しての売買も禁じた。
  1895年、『狩猟規則』が『狩猟法』へ改正され、
  小雀(こがら、シジュウカラ科の鳥)や郭公(かっこ
 う、カッコウ目カッコウ科の鳥)など4種が保護鳥に追加
 された。
  1910年、再び改正が行われ、60種を超える鳥類が保護
 対象となった。
  1918年、本法律に関する抜本的な見直しが図られた。
1889年5月、法学士会が、法典編纂に関する意見書を提出し、
 民法施行延期を主張し、民法典論争が起こった。
  民法典論争(みんぽうてんろんそう)は、民法典を、
 「このまま施行して良いのか」の是非をめぐって行われ
 た論争で、
  条約改正促進のために、近代的法典の整備を迫られて
 いた明治政府は、
  1890年、フランス人 のG.ボアソナードを中心に完成し
 た民法典 (旧民法 ) を、1890年に公布して、そして・・、
  1893年から施行することを定めていた、しかし・・、
  この年・1889年、東京大学法学士会の、「民法は天賦
 人権論に基づき社会の人倫を破壊するもの」との反対意
 見発表から実施延期・断行の論争が起こった。
  国論は、「延期派と断行派に二分され」、はげしい論
 争が起こった。
  この法典論争は、「商法典論争」、あるいは、「民法
 典論争」とも呼ばれた。
  この基本には、「日本の民俗慣習に合わない」、それ
 故、施行を延期すべきだ・・という議論が出て来たのだ
 った。
  明治政府は「施行を断行しようとした」、
  これに対し、穂積八束などが「国情にそぐわない」な
 どとして、施行の延期を主張した。
  1892年になって、旧民法の施行延期を求める法案が議
 会で可決された。
  旧民法は流産し、結局、施行はされなかった。
1889年6月1日、青年絵画共進会が、上野公園で展覧会を開
 催した。
  小堀鞆音は、この時・1889年、東京美術協会・青年絵
 画共進会に出品し、一等褒状を受け、この頃から雅号を
 「鞆音」と改めた。
  因みに、日本絵画協会は・・日本の美術家の団体でま
 ぎらわしいが・・、、
  1891年(明治24年)9月に、画塾間の交流を図り、日本
 画家の川端玉章が川辺御楯らに働きかけて、後進の育成
 を目的として日本青年絵画協会を設立した。
  そして、1891年10月に、岡倉覚三(天心)が会頭に就
 任した。
  また、岡倉天心を盟主とする日本青年絵画協会の創立
 により、同協会共進会の委員、審査員として活動し自ら
 も幾多の力作を発表した。
  1892年(明治25年)、第1回日本青年絵画協会主催、青
 年絵画共進会展開催。
  1893年(明治26年)第2回展、
  1894年(明治27年)第3回展、
  1895年(明治28年)第4回展と回数を重ねるに従って、
 岡倉秋水、本多天城、高屋肖哲、岡不崩といった狩野芳
 崖の門下生が影をひそめ、川端玉章による東京美術学校
 の自然主義的、写生派的な傾向が台頭してきた。
  1896年(明治29年)に、日本青年絵画協会は、日本絵
 画協会と改称した。
1889年6月1日、伊藤博文が著した「憲法義解(けんぽうぎげ)」
 が刊行した(明治憲法・皇室典範の逐条解説書)
  この年に発布された大日本帝国憲法、および、皇室典
 範の逐条解説書で、
  「大日本帝国憲法義解」と「皇室典範義解」の2部から
 成っている。
  両者を合わせたものが公刊以来「憲法義解」と呼ばれ
 ている。
  両法案が、枢密院に諮詢(しじゅん、参考として他の
 機関などに意見を問い求めること)された際、
  各条項ごとに、説明を付した原案理由書ともいうべき
 文書が配布された。
  井上毅が執筆し、伊藤が加除修正してできたものであ
 った。
  両法が制定されるや、この文書に対し伊藤が中心とな
 って、井上ほかの草案起草関係者に専門学者を加えた審
 査委員会がつくられ、綿密な共同審査を行って完成した
 のが本書だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:朝鮮・韓国・・そして、中国・・は・・
.
1603年、江戸時代(徳川幕府)、朝鮮とは濃密に付き合っ
 ていた。
  朝鮮通信使は、徳川幕府のもとにやって来ていた。
  この時、必ず、この朝鮮通信使が持ち出す話が、「豊
 臣秀吉の朝鮮出兵」の話だった。
  そして、「謝罪せよ」と繰り返し幕府へせまった。
  いつの時代も・・そして、今・現在の韓国・朝鮮と同
 じである。
  その時、幕府の取った対応が・・「完全なる無視」だ
 った。
  とっくの昔に講和は終わっているのに、この様に話を
 持ち出すのが、この国の昔からのやり方だった。
  友好を結びたいから朝鮮通信使は送って来る、しかし、
 過去のことを蒸し返して・・『言ってみたい』だった。
  そして、なお、朝鮮通信使が謝罪を求めた場合は・・、
  徳川幕府は、朝鮮使節を、京都の東山の高台寺へ案内
 した。
  高台寺は、秀吉ゆかりの寺で、ここに秀吉の朝鮮出兵
 の時に戦いで、倒した朝鮮の兵士たちの耳を埋めた「耳
 塚」があった。
  これは日本だけの事ではなく、当時の世界的な慣行で
 あった。
  自分たちの戦いの戦果を示す方法だった。
  そのため、討ち取った兵士の耳をそいで持ち帰り、戦
 いの働きの証明にして(御褒美を戴き)、そして、塚に
 して・・供養していた。
  その耳塚を、朝鮮使節に見せて・・、
  「これ以上、問題を持ち出すな、また、新しい耳塚が
 出来る事になりますよ」・・
 ・・と・・暗に示して・・脅した。
  しかし、その後、延々と170年余りに渡って『謝罪』を
 求め続けたのだった・・。
  徳川幕府は、無視し続けた。
  しかし、だからと言って日朝間に戦争は一度も起こら
 なかった。
  今・現在、『最終決着ですよ』・・と、
  『無い事まで有ったようにして』・・一筆書かされ、
  10億円出した・・日本。
  金額の問題ではない。
  また、一筆という形、完全に前と同じパターンである。
  前も・・これで終りにしますからと言って・・やられ
 ていた。
  終りにするという朝鮮側の一筆は取りそこなった。
  そして、蒸し返された。
  こんなパターンを、繰り返す国なのだ。
  子供に、これで終わり、これで終わりと、ねだられて、
 与え続けるようなものなのだ。
  また、のど元過ぎた頃、話は蒸し返されるだろう。
  優しい国・・日本だから。
  いつも、なんだかんだと助けてきた・・日本だった。
  しかし、最近は、いやらしい手を使う。
  日朝問題に第三国へ言いふらす手を使う。
  あたかも・・「○○ちゃんが、△△したよ」と、クラ
 ス中に言いふらす様にだ。
  これは、逆に・・日本は、それを知ったら、一つ一つ
 丁寧に、話して・・事実を伝えに行くにかぎる。
  黙っていてはいけない、どこまでも、どこまでも、手
 抜きをせずに、事実を伝えて行かねばならない。
  黙っていては・・終りは来ない。
  逆に、日本への・・信頼は増すのだ。
  これが・・大事な仕事なのだ。
  これしかない。
  これをきっかけに、その第三国と、より緊密な関係が
 結ばれるのだ。
  もう謝罪して治まる国ではないという事は、歴史の上
 で、何度も何度も・・何度も何度も繰り返して来た、
  もうこの具の骨頂は繰り返さないにしよう・・、
  仮の謝罪だ何て絶対に思わないこと。
  日本が失うもの、日本国民が失うものが、絶大に大き
 すぎるのだ。
  「たかが10億円」などと思うな。
  毅然と自国の主張すべき所は主張し続けよ!
  このような基本は、絶対に崩さないこと!
  極端に言えば、この国の立場を崩せば国が無くなるく
 らいに思うこと!
  この事は、特に、特に・・安きに流れないこと!
.
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1905年、竹島は、この年以降、日本領となっている。
  1951年8月10日の「ラスク書簡」には以下の様に記され
 ている。
  アメリカ政府より、「竹島は韓国の領土として扱われ
 たことは無く、1905年以降、日本領である」とし拒絶さ
 れる(ラスク書簡)。
  以上の様に、「ラスク書簡」には、「竹島は韓国の領
 土として扱われたことはない」と明記されている。
  そして、「1905年以降、日本領である」と拒絶された。
.
1906年6月、日本の領土である竹島で、日本の漁民が、漁協
 組合の設置申請をした。
  今・現在、竹島は、不本意ながら韓国に不法占拠され
 ている。
  この事を示す新資料が、また出て、裏付けられた。
  (産経新聞、2017年1月21日、08:48)が伝えている。
  「竹島」領有権に新資料 明治時代に隠岐の住民が漁
 業組合設置を計画 島根
  これを受け、県は、漁業組合設置に関する文書の存在
 を調査した。
  県公文書センターに「竹島貸下(かしさげ)海驢(あ
 しか)漁業」と題した竹島関連文書のつづりがあり、そ
 の中に、中井らが明治39年6月、県に提出した「竹島
 漁業組合設置認可申請」などの書類を確認した。
  当時、県は、この申請について国と協議し、国は、不
 許可とする意見を伝達した。
  県は、これを基に「住所を有しない竹島への出稼ぎ目
 的の出漁であり、漁業組合を設置すべきものではない」
 と漁業法に基づいて判断、不許可とした・・などの経緯
 が、残された文書で判明した。
  隠岐の島町は、町内の「久見竹島歴史館」で、これら
 の資料の展示を検討している。
  県竹島資料室は、「漁業組合設置の動きは、これまで
 ほとんど知られておらず、貴重な資料といえる。
  結果的に申請は却下されたとはいえ、県が竹島をめぐ
 って行政権を行使した証拠となっている。
  こうした事実を積み上げていきたい」としている。
  資料:中井養三郎氏らが島根県に提出した「竹島漁業
 組合設置認可申請」の書類。
  「竹島貸下海驢漁業」の綴りの中にあった(島根県提
 供)
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1919年、毛沢東が、この年の五・四運動前後にマルクス主
 義に触れた。
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1920年~1930年、この頃、金日成は、毛沢東の中国側に居
 たが、毛沢東の物質的な支援が、たいしてできないとい
 う理由で、
  1930年代の末ごろ、金日成は、ソ連が極東に設立した
 朝鮮人部隊に、ソ連軍の軍人として所属し、くら替えし
 た。
  ソ連は、1945年に、朝鮮半島における38度線の北側を
 占領した際、金日成を連れて行き、
  その後、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)となる政
 権の指導者として擁立した。
  金日成とスターリンのソ連は、直ちに、ソ連を模範と
 して北朝鮮社会を軍国化し始めた。
  この抑圧に、朝鮮戦争の始まるまでに、すでに100万人
 近い北朝鮮国民が、背負えるものだけ持って、やっとの
 思いで南へ逃げた。
  金日成は、最初は、分捕った日本軍の残していった武
 器で北朝鮮人民軍を武装した。
  そして、入手できる限りのソ連の武器で補強した。
  1950年の春には、ソ連が、北朝鮮に大量の武器を配給
 した。
  また、1949年末に、朝鮮半島から引き上げたソ連軍(
 12万人のイワン・チスチャコフ大将の軍)の武器のすべ
 てが、機材とともに、北朝鮮人民軍に引き渡された。
  そして、金日成は、南へ奇襲攻撃を始める。
  1950年6月25日までに、ソ連のスターリンは、T34戦車
 を150台~200台、長距離砲、戦闘機を北朝鮮人民軍へ与
 え、武装し終えていた。
.
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  題:中国の・・『 国際世論操作 』・・、
    本当に、深いところまで、中国の要員が存在している
.
1930年代、中国は、巧妙だった。
  中国は、アメリカの国民の方々を味方に付けなければ
 駄目だと、アメリカの国民の方々の世論を、中国の味方
 になる様な作戦をとった。
  それも、アメリカの文化人や、芸術家や、知識人を味
 方にするのが合理的だという作戦をとった。
  金を使った。
  そして、その作戦は、自国内でも行われた。
  味方に引き込む作戦が行われた。
  この理解者を獲得して行く作戦を「統一人民戦線」と
 言った。
  中国は、柔軟路線をとり、中国は柔軟だと印象付けた。
  中国も民主主義国家だと印象付けた。
  実態はどうであろうと・・。
  アメリカ世論を中国に引き入れ、中国・蒋介石政権と
 の戦いに勝利をおさめたいとして、結果、勝利をおさめ
 た。
  この様な中国の歴史は、連綿と今・現在も続いている。
  また、中国には「モグラ」という作戦がある(中国名
 は、「沈底魚」と呼ばれている)。
  それは、日本の頭の良いエリートを、日本の大切な部
 署・権力の中枢に送り込み、
  一定の期間、何の活動もさせず、工作もさせずに出世
 させる。
  やがて時が来ると、重大な秘密を流させる。
  日本の例ではないが、蒋介石の部下の胡宗南将軍は、
 22年間、「中国共産党特務」で、毛沢東へ情報を流し続
 けた。
  また、しばしば、中国・国民党軍が不利になる作戦の
 指揮をとり、中国・国民党軍を敗北へと導いた。
  1972年の田中首相の訪中以降、日本と中国共産政権と
 の「人材交流」という名目で、中国との人的交流が、大
 々的に行なわれているが、大いに危険という日本の知識
 人は指摘している。
  NHKが、ロシアの冬季オリンピック(2014年、ソチ
 オリンピック)の時、安倍首相が参列しているのに、ま
 ったく放映しなかった。
  (ちらっと、物の陰の首相が写ったという話はあるが、
 それにしても異常だった・・?)、
  その時のNHKの放送では、中国の首脳は、長時間、
 それも、あらゆる角度から写し、放映し、また、中国選
 手団が、その中国首脳へ手を振り、そして騒ぐ姿まで、
 丁寧に、長い時間、放映した。
  まったく、どこの国の放送局かと思えるほどだった。
  日本を蔑視するNHK、日本を蔑(さげす)むNHK
 だった。
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1934年10月15日、中国共産党、長征開始
.
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1935年1月13日、毛沢東の指導権確立
  延安への長征途上、指導権を確立した
.
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1937年7月29日、通州事件(つうしゅうじけん)が起きた。
  通州事件とは、1937年(昭和12年)7月29日に、中国陥
 落区の通州(現:北京市通州区)において、
  冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、日本軍の
 通州守備隊・通州特務機関、及び、日本人居留民を襲撃
 した事件で・・、
  通州守備隊は、包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅
 した、そして、
  猟奇的な殺害、処刑が行われた。
  通州虐殺事件とも言われている。
  通州は、北平(現:北京市)の東約30kmにあった通県
 (現:北京市通州区北部)の中心都市で、
  殷汝耕が、南京政府から離脱して設立した冀東防共自
 治政府が置かれていた。
  (別史料)
  1937年(昭和12年)7月29日に、中国の通州において、
 冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、日本軍部隊・
 特務機関、及び、日本人居留民を襲撃し、大量虐殺した
 事件。
  日本軍は壊滅し、日本人居留民の385名のうち223名が
 虐殺され、女性はほとんど強姦されて殺害され、殺害方
 法も猟奇的なものがおおかった。また、朝鮮人慰安婦も
 殺害されている(日本人が連れて来たのではない。この頃、
 朝鮮人が自国の娘を連れて来て、商売をするという行為が
 あちこちで行なわれていた)。
 韓国! 銅像を建ててあげなさい。
.
.
1949年10月1日、中国・共産党政権樹立。
  中国大陸において国民党軍を破った中国共産党軍によ
 り、北京市にて中華人民共和国が建国された。
  人口は13億5千万人。
  台湾の領有も主張している。
.
.
1949年~1950年初め、国際共産主義の頂点
  この頃に、国際共産主義の一枚岩体制が頂点に達した。
  主要な、共産主義指導者たちは、共産主義による世界
 制覇という野望に、唯一の目標を見い出していた。
  そして、サミットが開催され、
  今ある東アジアの枠組みが作り出された。
  そして、一連の決定がなされた。それは・・、
  1、金日成に、韓国侵略のゴーサインが出た。
  2、毛沢東に、チベット制服のゴーサインが出た。
  3、毛沢東に、台湾侵略のゴーサインが出た。
  4、ホー・チ・ミン体制の承認と、彼へのインドシナ征
   服のゴーサインが出た。
  5、駐留米軍に武力抵抗しない日本共産党への非難がな
   された。
.
.
1950年1月、アメリカの国務長官のアチソンは、この日、声
 明した、「我々・アメリカは、朝鮮半島や台湾問題には
 干渉しない」・・と・・この言葉が、朝鮮戦争を起こさ
 せた・・この5ヶ月後に・・、
  朝鮮戦争が始まる1950年6月25日の約5ヶ月前だった。
  1972年に、アメリカのニクソン大統領が、中国訪問を
 した。
  ニクソンは、毛沢東と周恩来と話し合った時に、ニク
 ソンは質問をした、
  「朝鮮半島で我々がぶつかった理由は何だと思います
 か?」・・と。
  周恩来が答えた、「それは台湾です」・・と。
  そして、その理由を、周恩来は、「あの時、アメリカ
 は第七艦隊を派遣して、台湾を我々から切り離した」
  「我々は、それへの対抗策をとらなければならなかっ
 た」・・と。
  1950年6月25日、北朝鮮の金日成は、この日、38度線の
 休戦ラインを越えて韓国に侵攻したが、
  毛沢東の中国共産党政権は、この時、台湾へ武力侵攻
 する機会をうかがっていた。
  侵攻しようと思っていた時、アメリカが、突然、台湾
 海峡へ第七艦隊を送り込んだ。
  中国が、朝鮮での動乱を利用して渡ろうとしていたこ
 とが挫折した。
  そこで、中国共産党政権は、朝鮮半島へ介入した。
  戦争なんて、この様に・・簡単に、トップの思惑で始
 められてしまうもの。
.
.
1950年6月25日、日本との平和条約に、韓国は参加できない
 と、再度、決定された。
  この日に、朝鮮戦争が勃発し、アメリカ・イギリスも、
 この戦争に参戦する中・・、
  1951年(昭和26年)5月のアメリカ・イギリスの協議等
 において・・、
  第二次世界大戦において、韓国が日本側で、戦争をし
 ていなかったことを理由に、
  イギリスが、韓国の条約署名に反対した。
  イギリスの方針表明を受けて、アメリカも、大戦中に
 韓国臨時政府を承認したことがない(その様な政府が存
 在したのか?の状態)ことから・・方針はイギリスと同
 一とした。
  (これは、1949年(昭和24年)12月29日の条約草案で
 は、韓国が締結国のリストに一旦加えられたが、その締
 結国リストに入れないとされた)。
  この様なしつこい韓国の「嫌になるくらいの粘り強さ」
 は、学ばなければならない。
.
.
  題:中国の諜報
.
1970年代、フランスのパリの中華レストランの5分の1は、
 中国大使館の情報ネットワークになっていた。
  イギリスの治安機関の見方も、中国系レストランの15
 %~20%は、中国政府とかかわりがあるとみている。
  早く言えば、中国政府のスパイの出先機関の役目を負
 っていた。
.
.
1970年、この年代初頭の話・・、
  中国共産党軍が、朝鮮戦争に参戦して、朝鮮戦争は、
 悲惨な戦争になった。
  数百万人が死んだ。
  しかし、この責任を、中国共産党に問うこと無く、国
 連(国際連合)は、中国共産党の北京政権に、常任理事
 国の座を与えた。
  この様な不合理が、何故、起きたのか?
  これもまた、アメリカの都合であった。
  1970年代初め、アメリカは、ソ連との冷戦を戦うにあ
 たって・・
  何としても、共産中国を、対ソ冷戦の同盟国として引
 き入れたいとしていた。
  そこで、共産中国の戦争責任を問わなかった。
  だから、この理屈の様に、この理屈通りの逆の場合の
 第二次世界大戦の場合は、日本の戦争責任を取らす事が、
 アメリカに都合がよかったのである。
  そうしたのは、過去のその時の場合に都合が良いだけ
 で・・
  だから、今・現在、その都合はなくなっているので、
 日本は、昔のその都合の論理を言われる「いわれ」はな
 いのである。
  だから、当然に、日本は、過去のアメリカの御都合の
 歴史観に捉(とら)われている必要はない。
  西洋の国際秩序観に付き合う必要はない。
  日本は、立派に戦争責任を果たした。
  そこで、今、何ら、戦争責任を追及されてないアメリ
 カがいて、アメリカは戦争責任を果たしてない逆の面が
 ある。
.
.
1970年代、この時になって中国は、急に、尖閣諸島に関す
 る領有権を主張し始めた。
  国連が、この地域に石油が埋蔵されていると発表した
 からだった。
.
.
1971年、中国・北京政権が、国連の常任理事国になった。
  中国・国民党(蒋介石)政権は、常任理事国の席から
 降ろされた。
  中国・北京政権は、朝鮮戦争で、国連軍と戦い、この
 国連軍と韓国人を数百万人も殺戮した。
  アメリカは、この様な中国・北京政権を、ソ連との冷
 戦を戦うにあたって、自分側に引き入れたいと、朝鮮戦
 争の戦争責任を、何ら問う事もしないで、最良のポスト
 (地位)を与えた。
  何でもアメリカの『さじ加減』で進んで行く世界だっ
 た。
.
.
1974年、韓国と北朝鮮との間にある非武装地帯。
  ここで、韓国軍が、4本のトンネルを発見した。
  地下を通って韓国へ侵入するためのトンネルである。
  最初の発見が1974年。
  最後が1989年。
  少なくとも北朝鮮軍は、20本のトンネルを掘っている
 と推測されている。
.
.
1983年6月6日、中国の鄧小平が、初代国家中央軍事委員会
 主席になった(この時、国家主席は李先念)(~1990年
 3月19日)
  鄧小平が残した16文字というのがある。
  それは、「冷静観察、沈着対応、韜光養晦、決不当頭」
 である。
  以下の解説が見られる。
  「頭を低くし、こちらの能力を見せつけてはならない。
  外国との摩擦は極力避け、経済発展がある段階を越え
 るまでは隠忍自重せよ。
  矛盾は矛盾のまま放置し、将来の解決に備えるにとど
 めよ。
  自らの力を付けることに、何よりの関心を集中せよ」。
  この意味するのは「中国は表と裏、二つの顔を持て」
 ということ。
  これは、中国の伝統論理で、最も優れた指導者の資質
 とされてきた。
  「中国は、いずれ、がらりと態度を変える」・・とあ
 る。それが・・今。
.
.
1998年、金大中・韓国大統領が訪日した。
  金大中氏は、「もう歴史問題は持ち出しません」と約
 束した。
  しかし、いつもの韓国の道徳レベルの低さを露呈した。
  その後、韓国の国のトップが、この様に約束したって、
 どこ吹く風として、言いたい放題だった。
  国家の成熟度が問われる大切なポイントなのに、その
 様なものは必要ありません、いりませんの態度だった。
  約束なんてどうでもいいの国家だった。
  繰り返すのである。
.
.
  題:中国の岐路であって、中国方針決定となった事件・・
   そして、時を得て・・今、中国へなびく国が連なる・・
   中国と北朝鮮は蜜月だ・・、
.
2001年4月、中国の海南島付近で、アメリカの偵察機が、中
 国の戦闘機と衝突した。
  今日(こんにち)、分かっている事であるが、この時、
 アメリカと中国は、「一触即発の状態」にあった。
  そして、その後、中国は、アメリカと対抗できる力を
 付けるまで、少しでも時間を稼ぐ戦略となった。
  中国と北朝鮮、この二つの共産主義国同士の繋(つな)
 がりは強い。
  ロシアの北朝鮮の影響力は・・ない。
  1990年に、ソ連が、韓国と国交正常化をして以来、こ
 の時の北朝鮮の金日成は、ソ連との関係を「切断」する
 ほどの強い否定的態度をとった。
  その態度は、変わらず続いて、北朝鮮は、完全に中国
 に取り込まれてしまった。
  今、2016年10月にも、フィリピンが、中国の投資・
 金を呼び込むために、中国に取り入れられてしまった。
  しかし、『人民元下落』が長期的視野の中にある現在、
 この問題と共に・・中国は、経済から破綻して行くと言
 われている。
  ここの革命がなければ、『救われない社会』と言われ
 てる。
  そこが、できるか? 否か? が・・大きな岐路とな
 っている。
  プーチン時代になって、改善を図ろうとの動きの中で、
 北朝鮮の金正日が、モスクワへ行く・・その時・・、
  必ず、金正日は列車を使った。
  金日成には、父親譲りの「暗殺への恐怖」があるから
 で、表面的には「飛行機嫌い」とされている。
  金正日が、延々と、シベリア横断鉄道に乗って、そし
 て、列車を乗り継いで、モスクワ参りをした。
  これは、中国に対し、「中国べったりではないよ」と、
 中国をけん制したい気持ちからの行動だった。
  また一方、これは、「列車にする」という不信感が、
 ロシアに対してあることを示している、暗殺されたくな
 いという。
  また、この様な行動で、中国を引き付けるという『中
 国への重要度の高さ』を示している。
  しかし、今・2016年、北朝鮮からの高級幹部のエリー
 ト層の脱北が続いている。
  (読売新聞、2016・10・13)には、「北朝鮮・秘密警
 察幹部が、韓国亡命」とある。
  北朝鮮の秘密警察・国家安全保衛部の局長級幹部が、
 韓国に亡命していたことが分かったと報じている。
  脱北や反体制的活動を監視し、強い権力を持つ国家安
 全保衛部の幹部の亡命は、「異例中の異例」と報じてい
 る。
  今、恐怖政治を進める金正恩(きんじょんうん)・・、
  ロシアの建設現場で働いていた北朝鮮労働者10人が逃
 げ出し、サンクトペテルブルク(ロシア西部のレニング
 ラード州の州都)の韓国総領事館に逃げ込んだ。
  中国レストランの従業員が集団脱北した話もある。
  在イギリス大使館のナンバー2が亡命もあった(8月)。
  中国・北京の北朝鮮代表部の保険省幹部の亡命(10月)。
  今、北朝鮮は、恐怖と粛正で荒れている。
.
.
2002年5月、中国にある日本の瀋陽(しんよう)領事館事件。
  日本の領事館の中は、日本の国内と同じで、中国は、
 侵す事が出来ない、侵犯できない、尊重しなければなら
 ない。
  しかし、しかし、まったく恥ずかしい事件が起きた。
  まったく、日本が馬鹿にされた事件が起きた。
  中国の国家権力の侵犯があった。
  日本の領土侵犯と同じ行為が起きたのだった。
  しかも、この対応が最悪だった。
  当然、この時点で、日本政府は、中国政府へ『厳重抗
 議をするべき』だった。
  しかし、この領事館の敷地内に無断で侵入してきた武
 装警察官に対して、日本の外交官は、何ら抗議も何もし
 なかった。
  逆に、この武装警察官が落した帽子を拾い、「ご苦労
 様でした」と言わんばかりにして、渡してやったのだっ
 た。
  お粗末な外交官である。
  この日本の外交官は、恥ずかしい事に、この領事館の
 副領事だったという・・トップだったからさらに情けな
 い。
  筋を通すことのできない、また、日本を貶(おとし)
 める外交官だった。
  これは、日本の外交姿勢を表わす典型的事例であり、
 これは例外ではない。
  日本の外交は、こんな形で行われている。
  こんな姿勢で行なわれている。
  中国から完全に馬鹿にされている。
  結局、この時、この日本の総領事館に助けを求め、駆
 け込んだ北朝鮮からのこの家族(脱北家族)は、中国政
 府に捕らわれ、連れ去られてしまった。
  安全地帯の日本の総領事館内に逃げ込むことに成功し
 ていたのにである。
  何が原因で、この様な哀れな日本の状態になっている
 のか?
  とことん国と国の状態を突き詰めて行ったとき、中国
 は、何ら、日本を恐れるに足る国ではないと見ているか
 らである。
  「仁」や「徳」を説いた国ではないのである。
  それは、すでに消え去っている国なのである。
  「パワー・オブ・バランス」である。
  これが崩れているのである。
  明確な国際条約(領事関係に関するウィーン条約)違
 反であるが、中国は謝罪しようともしない。
  こんな日中関係なのである。
  互いに尊重するなどという状態にない。
  こんな様な状態なので、可哀想に・・、日本の外交官
 の自殺事件(上海)が起きるのである。
  国際法に則(のっと)り謝罪を求めなくてはならない
 時は、毅然と謝罪を求めなくてはならない。
  謝罪を求めたのか、求めもしなかったのか?・・とい
 うみじめな判然としない、判別できないような『謝罪の
 求め方』では、馬鹿にされはすれ、何の益も無い、
  惨(みじ)めになるだけである。
  この様な日本の姿を「他の国も見ている」のである。
  この様な時に毅然とした日本の態度がなされることに、
 「日本外交の基底」があり、醸成されるのだ。
  大切な所なのだ・・おろそかにできないのだ。
  ここが「貧ずれば、鈍し」、豊かな日本外交が築ける
 はずがない。
  最重要なポイントなのだ。
  この最重要ポイントが、日本は『ないがしろにされて
 いる』。
.
.
  題:日本国内に1000人の活動家がいると・・中国外交官が・・、
.
2005年、中国の外交官が亡命した。
  これが、ただの亡命なら何も問題なかったが、
  この中国の外交官は、「日本の国内には、1000人をは
 るかに超える中国のスパイがいて、盛んに活動している」
 と言った。
  2005年、この中国外交官は、オーストラリアのシドニ
 ー総領事館にいた一等書記官で、オーストラリアに亡命
 した。
  また、彼は、中国国内で、中国の民主化の活動をした
 活動家が、身の安全が危うくなり、海外へ逃れても、中
 国は、その活動家を拉致して、中国・本国へ連れ帰る事
 もしていると暴露した。
  約100年前、ロンドンにいた孫文が、当時の中国清朝政
 府に拉致され。
  北京に連れ戻されそうになったが、その血が、今だに
 中国共産党政権にも流れている。
.
.
  題:丸腰で・・一人立つ・・、
.
2005年5月11日、北朝鮮が、寧辺(ニョンビョン)の実験用
 黒鉛減速炉から、『使用済み核燃料棒8000本を取り出し
 た』と宣言し、
  この事によって、東アジア情勢が一気に緊迫の度を増
 した。
  そして、不安視していた道へ進んで行く、
  これが始まりだった。
  六か国協議(2003年8月が第1回~、だが、2007年3月の
 第6回以降開かれず)をやったが、何ら事は解決しなかっ
 た。
  この「北朝鮮の核保持への道」は、北朝鮮を代理とし
 て、中国が進めて来た事だった。
  これは、時を経て、最終的に核を手に入れ・・、
  ロケット技術も手に入れて・・行く。
  その向かう先は「アメリカと日本」だった。
  この技術は、北朝鮮だけでは出来なかった。
  寧辺の原子炉は旧ソ連が造った。
  そして、中国が引き継いだ。
  1970年代末の中国の鄧小平時代以降、旧ソ連に変わっ
 て北朝鮮の核開発を積極的に支援した。
  1990年代以降も、中国は核開発を促してきた。
  アメリカのペンタゴン(米国国防省)の情報部門出身
 で連邦議会上院外交委員会の首席顧問も務め、中国の軍
 事・情報問題分析に定評のあるウィリアム・トリプレッ
 ト氏の本「悪の連鎖、北朝鮮と中国の無法」に示されて
 いる。
  中国は、北朝鮮の動きを完全に掌握している。
  それを、水面下のものとして・・隠した。
  中国は、北朝鮮に大きな影響力を保持している。
  そして、ミサイル開発にも多かれ少なかれ関与して来
 た。
  中国は、秘かに、北朝鮮に手を貸してきた。
  「北は、中国が、アメリカと日本に突き付けた刃(や
 いば)」だと・・トリプレット氏は言った。
  そして、やはり一番は、核のない北朝鮮の国としての
 存続に対する懸念があった。
  核のない北朝鮮に、非常な危うさを感じたのである。
  そこから、国の興廃(こうはい、盛んになるか、衰え
 るか)に大きく関係する核の保持を求め、持たざるを得
 ないという考え・意識に至ったのだった。
  日本も立場は同じ・・、
  丸腰で、周りが銃を持っている者ばかりの中に立って
 いる様なもの・・。
.
.
2014年2月7日、ソチ・オリンピック
  ロシアのソチで、第22回冬季オリンピックが開幕した
 (~2014年2月23日)
  日本のマスコミは、何故か?中国の諜報活動や情報活
 動に触れる事に遠慮している。
  NHKなどは、NHKの局内に、中国のための部屋を
 与えていると言う、特別待遇をしている。
  ソチオリンピックでは、安倍首相が出席されて居るの
 に、「放送したのか?」と疑われるくらいの軽い軽い扱
 いなのに、
  中国首脳の場合は、超アップで、大変な長時間、また、
 中国選手が『エールを送る姿』まで、しっかり日本の放
 送局NHKは放送した。
  まったく逆転している放送局=NHKである。
  まだまだおかしいNHKである??
  そして、何と、この様な事をしろと、日本の外務省の
 動きがあるという?
  日本の官僚からして腐っている。
  自分の仕事を楽にするため「日本を売っている」。
  日本の外務省は、この他でも日本を売っている、曲者
 (くせもの)である。
  是非、日本のために働く、苦労する、安易な日本を売
 る様な事をしない外務省になってもらいたい。
  競う、そして戦う、外務省になってもらいたい。
.
.
2015年4月2日、日本のマスコミが、この頃に、「日本は孤
 立している」というプロパガンダを執拗にした。
  日本のマスコミは、非常に中国寄りになっている。
  特に、朝日新聞が、この頃に、中国のアジアインフラ
 投資銀行(AIIB)に日本を参加させようと、この論
 調のプロパガンダを盛んにした。
  そして、特に、朝日新聞は、「日本はアジアで孤立し
 てはいけない」と歴史問題などで中国や韓国への迎合や
 譲歩を説いた。
  この様な論理展開する朝日新聞の思考レベルの低さを
 感じる。
  例えば、「日本はアジアで孤立してはいけない、だか
 ら、朝日新聞の論調は、日本のアジアでの孤立を助長す
 るから、今後、朝日新聞の論調のすべてを、今までの論
 調の反対を主張すべきだ」・・という言い方も、成立す
 るのだ。
  朝日新聞というのは、その朝日の言い方は、前段の論
 理を、誰でも分かる、正しい事を言う、しかし、その後
 の後段で、自分の言いたい論調を無理にくっつけるとい
 う言い方なのである。
  うっかりしていると朝日新聞の言い方に引っ掛かって
 しまう。
  極端な言い方にすれば、「砂糖は甘い、だから、塩も
 甘いのである」的な言い方なのである。
  こんな言い方は何でも、いくらでもできる。
  「自動車事故は怖い、だから、安倍政権は怖いのであ
 る」など。
  この様にはっきりしていれば、「おかしい」と、すぐ
 に分かるが、微妙な事項と組み合わせて、この様な言い
 方の記事を書かれると引っ掛かるのである。
  この様な記事を書く朝日新聞なのである。
  「アジアで孤立する」ような状況は、誰もが良くない
 と容易に判断できる。
  しかし、日本の立場を説明もしないで、迎合や譲歩を
 良しとする、その様な論理を説く朝日新聞は間違いであ
 る。
  「正しい意見を、考え方を、丁寧に分かりやすく説き
 なさい」というべきなのだ。
  朝日新聞こそ、いつも、偏頗(へんぱ、かたよってい
 て不公平なこと)なものの言い方・論調は止めて、他の
 正論に耳を傾け、迎合・譲歩をしなさい。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2017-02-02 07:11 | 皆様とともに 幸せになりたい


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