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(増補版)487E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年5月)

題:(増補版)487E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1889年5月15日、大槻文彦著の「言海 (第一冊)」が発刊さ
 れた。
  最初の近代的国語辞書で、後に、大言海となる。
  1875年(明治8年)2月に起草(きそう、草稿を書くこと)
 し、
  1884年、脱稿して、これを4分冊にして
  1889年5月、この時に、第1版を刊行した。
1889年5月16日、宮内省図書寮付属博物館を廃止し、帝国博
 物館、帝国京都博物館、帝国奈良博物館を設置した。
  官制が成って、初代の博物館総長に九鬼隆一を任命し
 た。
1889年5月21日、最初の市会議員選挙、
  東京において本日より3日間行われた。
1889年5月23日、讃岐鉄道の丸亀~琴平間が開通した。
  この時の開通式で香川県議の大久保諶之丞が祝辞で瀬
 戸大橋の架橋を提唱した。
1889年5月28日、地久節(ちきゅうせつ)の御儀が初めて行
 われた。
  地久節は、皇后陛下の誕生日の旧称。
  老子の「天長地久」による語で、天皇陛下の誕生日の
 旧称である天長節(てんちょうせつ)に対する名称。
  地久節を奉祝すべきとの世論が高まり、女学校では、
 学業を休んで奉祝式を催すようになった。
  以来、昭和に至るまで続いた。
1889年5月31日、6月2日にかけて、雑誌「日本」にロンドン
 =タイムスに掲載された大隈条約改正案が翻訳されて、
 掲載され、波紋を引き起こした。
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  (今日の言葉)
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  題:愚かなる・・第二次世界大戦への道程・・そして、今のアメリカは・・??
.
1899年、アメリカが、「中国の門戸解放を宣言した」。
  これは、遅れて来たアメリカが、中国に参入したいと
 いう宣言だった。
  この様な「言い方」や「書き方」からは、事実が見え
 にくいが、これは「アメリカが中国に参入し、中国の旨
 (うま)い汁を吸いたいという宣言」だった。
  中国を「アメリカの利益を生み出す地にしたい」だっ
 た。
  中国市場参入を狙ったアメリカなのだった。
  それは、日露戦争前の極東では、清国の義和団の乱が
 収まると同時に、『 ロシアの満州支配 』が強まって
 いた。
  アメリカは、この動きに対抗した1899年の「門戸開放
 宣言」だった。
  ロシアに強く反発した。
  1904年に日露戦争が開戦すると、
  強まるロシアの力を抑止するため、『日本を応援』し
 た。
.
1906年、日露戦争に勝利した日本に、満州がロシアから移
 譲(いじょう、権限や権利、財産などを他に譲り移すこ
 と)された。
  この時のアメリカ大統領は、第26代大統領のセオドア・
 ルーズベルトだった。。
  アメリカは、中国を美味(おい)しい市場としたかっ
 た・・しかし・・、
  1899年に、アメリカは、中国市場の門戸開放をしろと
 宣言していた。
  出遅れていたアメリカのアピールだった。
  ヨーロッパ列強諸国、および、ロシアは、すでに、中
 国を美味しい市場としていた。
  イギリスは、あくどい麻薬のアヘンを使ってまでして、
 吸い取る限りの利益を中国から得ていた。
  満州は、ロシアの市場となっていた。
  そして、日露戦争が始まると、アメリカは、日本を支
 援した。
  しかし、日露戦争に日本が勝利すると、満州が、ロシ
 アから日本へ『移譲』された。
  「アメリカさん・・どうぞ・・」とは、ならなかった。
  日本は、中国政府とも条約を結び、満州に日本から資
 本を持って行って・・投じ、満州経営を始めた。
  アメリカの思惑と違った。
  ここが、アメリカには面白くなかった。
  白人植民地に入って来た新参の有色人種の日本となっ
 た。
  新興国の日本だった。
  ここのポイントからが、最終的に第二次世界大戦へ通
 じて行くことになる。
  日本がドアボーイの如く・・満州へ招き入れる日本の
 振る舞う事を、セオドア・ルーズベルトは期待していた。
  「満州のドアから入って来なさい」にはならなかった。
  満州から美味しい汁が来るとはならなかった。
  逆に、今、美味しい汁を吸っているアメリカの植民地
 のフィリピンが、日本にとられるという、脅威と感じる
 る『日本の見事な日露戦争の勝ち方』だった。
.
20世紀初頭、アメリカの西海岸地域に『黄禍論』という日
 本人差別が吹き荒れた。
  そのたびに、日米両国は、鋭い緊張関係に陥(おちい)
 った。
.
1906年、セオドア・ルーズベルト(第26代アメリカ大統領)
 が、日本との将来対決を意識した。
  そして、『対日戦争の準備』を始めさせた。
  この年に、対日戦争計画である『オレンジ計画』の準
 備を指令した。
  日露戦争の翌年のこの年、その指令を出した。
  このセオドア・ルーズベルトは、フランクリン・ルー
 ズベルト(第32代アメリカ大統領)と従兄弟関係にある。
  また、アメリカの大学生の歴史教科書に使われている
 「アメリカ外交史」(ロバート・ファレル著)には、
 「日露戦争こそが日米対立の序曲」と論じられている。
.
1933年3月14日、第32代アメリカ大統領に就任したてのフラ
 ンクリン・ルーズベルトが、閣僚会議で日本との戦争に
 ついて論じた(就任して10日目)。
  アメリカの日本の見方の転換は、「日露戦争後」にあ
 った。
  日露戦争後は、アメリカは、常に、日本を軍事的、経
 済的ライバルと意識してきた。
  それまでは、東洋の小国、近代化を一生懸命にやって
 いる発展途上国と見て来た。
  だから、日露戦争の時は、アメリカは、日本にとって
 良いタイミングで戦争の仲介をしてくれた。
  しかし、日露戦争後にその見方が変わった。
  それまでと変わって・・「ライバル国・日本」となっ
 た。
  1933年3月14日、ルーズベルトは、大統領就任後二回目
 の閣僚会議を開いた。
  この時、早くも、ルーズベルトは、日本との戦争につ
 いて論じた。
  前置きは・・「日本人が(マレー半島の)ジョホール
 から、中国の万里の長城まであふれるだろう」という言
 葉から始まった。
  そして、「できれば戦争を避け『兵糧攻め(経済制裁)』
 によって屈服させる方針をとりたい」と、
  しかし、戦争になった場合は、「陸軍は役に立たない。
  太平洋を挟んだ戦争は、海軍が主力になるためハワイ
 を基地とし、
  さらに、アリューシャン列島から日本本土を空爆すべ
 きだ」・・と、熱心に論じた。
.
1938年、日本は、中国のすべての港の封鎖に成功し、海上
 からの補給が出来なくすることに成功した、1838年の後
 半の事だった。
  この頃、あまりにも、アメリカなどの一方的な戦争介
 入が酷かった。
  ルーズベルトの頭にあったことは・・先に銃を抜く「
 農夫」だった。
  その農夫の「肩を持つ(かたをもつ)」わけではない
 が・・、
  その農夫の人格をも口汚く、品なく、あらん限りの悪
 口を言う「金持ち牧場種に雇われた銃の早撃ちの殺し屋」。
  とうとう、その農夫は耐えきれなくなり銃に手を掛け
 る。
  それを「待ってました」と早撃ちの殺し屋は、銃など
 持ったことのない農夫が銃を半分抜いたところで、農夫
 の心臓を撃ち抜いた。
  正当防衛だという。
  法律違反ではない人の殺し方で、金で雇われた殺し屋
 は依頼主の要望に応えた。
  アメリカは、この様な卑劣なファイトバックを歴史の
 あちこちでやっている。
  メキシコもやられた。
  領土を取られた。
  散々メキシコを虐めて・・メキシコが立ち上がったら・・
 これでもかというほどに・・「やっつける」。
  また、ドイツの・・、ナチスのヒトラーの肩を持つ訳
 ではないが・・、
  返済しても、返済しても、まだまだあるという膨大な
 借金を戦争に打ちひしがれて、「言い訳や反論もできな
 いドイツ」に、一方的に戦争に勝った者として押し付け
 た戦勝国。
  返済しきれない借金を、重い重い借金を敗戦国に背負
 わせた戦勝国。
  ここに・・正義は・・あるのか?
  正当性は・・あるのか?
  出来ないことを背負わせた方が、当然、悪いのである。
  出来ないことは、当然、言ってはいけないのである。
  暴力的に押し付けたあなたが悪い。
  そこには・・キリスト教の教義の復讐(ふくしゅう)
 の悪意しかない。
  そこからは、ヒトラーという人間も出て来るだろう。
  その様に仕向けた・・君たちに責任があるのだ。
  その責任の重さを分からないか?
  自分たちの責任に口をつぐんで、吐露しないで、謝罪
 しないで、懺悔しないで・・、
  次の世代の子供たちへ問題を先送りした・・
  この卑怯な自分たちの態度・行動を反省しないか?
  卑怯だと思わないのか?
  その自責の念は生まれないか?
  真の責任者は、君たちではないのか・・?
  日本も、長い期間、仕組まれていたのだった・・卑劣
 なアメリカ大統領のルーズベルトが仕組んでいた。
  知らないうちに、中国で、秘密裏に、アメリカは宣戦
 布告していた。
  ルーズベルトは「義勇軍だと、嘘のレッテルを貼って、
 『日本と戦え』と命じていた」(何だって・・レッテル
 は貼れる)。
  この時に、第二次世界大戦の開戦がなされた。
  アメリカの宣戦布告なしの開戦だった。
  これは、アメリカの日本に対するれっきとした『奇襲』
 だった。
  世界遺産に登録せよ!!
  1938年、日本は、中国沿岸の港のすべてを閉鎖するの
 に成功した。
  アメリカは、海洋からの中国への補給が出来なくなっ
 た。
  アメリカは、中国の蒋介石を援助しようと「援蒋ルー
 ト」を仏印(ベトナム、ラオス、カンボジア)に、無断
 で作った。
  国家の主権の侵害である。
  侵略行為である。
  侵略行為をしてまでして、アメリカは戦争に介入して
 来た。
  そして、アメリカは、秘密裏に、アメリカ正規軍まで
 この地点に上陸させて、派遣した。
  日本は、当然、このアメリカの仏印の武器弾薬の供給
 ルートを遮断したいとなる。
  日本は、真珠湾で、あたかも先に銃を抜いたように見
 せかけられた。
  卑劣なアメリカのルーズベルトのプロパガンダ(嘘宣
 伝)であった。
  真珠湾攻撃を知り・・ルーズベルトは「戦争を作った」
 と言った。
  そして、「シャローム」のキリスト教教義の様に、「
 完全破壊の原爆投下と、
  やはり、「シャローム」のキリスト教教義の「無条件
 降伏」を日本に突き付けた。
  キリスト教に強く洗脳されたルーズベルトのやりたい
 ことだった。
.
1943年8月11日、第一次ケベック会談(~1943年8月24日)
  実質、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチ
 ャーチル首相の会談(秘密会談)。
  カナダのウイリアム首相も加わった(カナダは、正式
 な参加国ではない)。
  イタリアの枢軸国からの脱落も話し合われた。
  日本は、ドイツ降伏後に、12か月以内に降伏させると
 した。
  中国の「援蒋ルート(中国の蒋介石に武器と金を援助
 するルート)」を強化する事についても話し合われた。
  ソ連と蒋介石の中国へも連絡された。
  また、反英運動が激化しているパレスチナについても
 話し合われた。
  核兵器の開発についても話し合われ、核兵器技術の共
 有に合意し、合意書が作成された。
.
1945年4月12日、ルーズベルト、脳出血で死去する。
  この日に、第32代アメリカ大統領フランクリン・ルー
 ズベルトは死んだが・・、
  ルーズベルトの妻エレノアによると、ルーズベルトは、
 「戦後は、社会主義的な世界になる」と予測していた。
  そして、スターリンが「アメリカとソ連が、いずれ立
 場を同じにする」と話したことに希望が湧いたという。
.
1945年9月に、FBIに駆け込むまで、スパイ網の要(かな
 め)にいたエリザベス・ベントレーは・・、
  1951年8月、アメリカ上院国内安全保障小委員会で、ホ
 ワイトら政府内の情報員の活動実態について証言した。
  ベントレーは、「工作員の役割は、秘密文書を持ち出
 す事の他に、
  アメリカの政策(ルーズベルトの政策)に、こちらの
 望むような影響を与える事だった」と言っている。
  それだからか、何故か? ルーズベルトの政策がおか
 しかった。
  第二次世界大戦中のルーズベルト政権が、如何に、ソ
 連スパイによって浸透されていたか?
  議会の調査委員会や、FBIの捜査で、かなりの部分
 が明らかにされた。
  ルーズベルトのやっていることがおかしいと、動いた
 アメリカ国民の方々もあった。
.
1947年、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(イギリ
 スの哲学者、バーバード大学教授、また、ケンブリッジ
 大学教授などを歴任、1861年~1947年)氏は言う・・、
  「私は、アメリカ人を3つに分けて考える。
  最初の3分の1は、まともで正直で優秀な人たち。
  次の3分の1は、善良であるけれど、それほど優秀でな
 い人たち。
  残りの3分の1のアメリカ人は、クリミナル(犯罪者〉
 だ」・・と。
  実際、アメリカ人の3人に1人は、「ケロッと嘘を付く」、
 その様な人が多い。
  この様な国民性だから「訴訟社会」となっている。
  ワシントンが、「桜の枝を折った」と正直に言ったぐ
 らいで大騒ぎに褒めちぎる・・その様な国。
  アメリカは、知的真剣さを持つ優秀な人もいるが、犯
 罪者タイプの狡猾で冷酷で偽善者的な人が多い。
  日本人は「誠実」「誠意を示す」を大切にしているが、
 その様な「日本人の誠意」は通じない。
  シニカル(冷笑的、嘲笑的、あざ笑う)に利用される
 だけ・・。
.
1953年11月に、アイゼンハワー政権のブラウネル司法長官
 が・・、
  アメリカ上院国内安全保障小委員会で、
 「ホワイト以外に、カリーや、陸軍省のジョージ・シル
 バーマンらの名前を明らかにした」ように・・、
  また、戦争中のソ連の交信記録(1943年~1944年)を
 解読したアメリカVENONA資料には・・、
  スパイ網は、FBI報告をはるかに上回る規模だった。
  何故、ルーズベルト政権に、ソ連協力者が浸透するこ
 とが出来たのか?
  また、浸透を止めることが出来なかったのか?
.
1953年(昭和28年)11月16日、ハリー・トルーマンは、ア
 メリカ大統領職を退(しりぞ)いた後も、全米に向けて、
 ラジオで言い訳し、説明しなければならない事があった。
  それは、ルーズベルト時代に蓄積された負の遺産の清
 算を迫られたからだった。
  急に、ルーズベルトから引き継いだ大統領職に就いた
 トルーマンは、ルーズベルトの悪が清算されないまま、
 引き続いて政治をやってしまっていた。
  ルーズベルト政権内には、ソ連の息のかかった人間が、
 うようよと居た。
  ソ連の巧妙なスパイ網となっていた。
  それが白日の下になると、アメリカ国民の方々は厳し
 く批判した。
  日本やドイツに厳しい制裁案を書いたり、そして、当
 時の財務長官のモーゲンソーの右腕で、そして、トルー
 マンも重く用いられて来ていた、そして、出世までさせ
 ていた財務次官補のハリー・デクスター・ホワイトも『
 ソ連のスパイ』だった。
  ホワイトは、消されたのか?・・米下院非米活動委員
 会の喚問を受けた直後に、心臓麻痺で死去した。
  国際通貨基金(IMF)の初代・米国理事をしたり・・
 「ブレトンウッズ体制」を作ったりした功績のあった人
 物だった・・が・・、
  そして、その他にも・・ルーズベルトが、推し進めた
 ニューディール政策の推進者の中にも、特に、多くのソ
 連スパイがいた。
.
2010年、そして・・今のアメリカ・・、
  グローバル化の制度の下で、貧富の格差は広がってい
 る。
  アメリカは、富める者を、「より富ませる政治」をや
 っている国。
  アメリカで、1980年から2010年までの30年間で、所得
 の低い下層(40%)の人々の所得は『減少』した。
  また、40%~60%の中間層の人々は『停滞、動かず』
 だった。
  豊かになった人々は、上層20%の人々だけだった。
  アメリカの株式の半分以上は、「最上層の1%」の人が
 所有している。
  この層が豊かになることに、アメリカの政治は集中し
 た。
  アメリカ政府が、「労働者の利益を上げる」と言った
 が・・??・・まったくの空論で、嘘だった。
  事態は・・空転していた。
  政府は、多額の『政治資金』を豊かな層から受け取っ
 て来ていた。
  そして、その層が豊かになる・・、その層に応える政
 策を行なった。
  貧富の差は・・拡大した。
  MITの経済学者のフランク・レビイらは、「これは、
 アメリカ経済の制度(グローバル制度)から来るものだ
 と説明した。
  それで・・、
  勤労者の経済的貢献が、反映していない仕組みとなっ
 ている・・と、
  (勤労者は、しっかり働いているが、制度が悪いから、
 この勤労の結果が反映しないで、この実態となっている)」
 ・・と・・、
  つまり、勤労者が、一生懸命に働いても、制度的なこ
 とから、上層に吸い取られてしまう・・と・・、
  また、1950年代~1970年代初期の約20年間で、アメリ
 カの大企業500社の会長の年収は、平均的労働者の20倍~
 30倍だった。
  しかし、1980年代からこの格差は、拡大し始め・・、
  アメリカ政府は・・貧富の格差が拡大する政策を露骨
 にやっていた。
  2000年には、何と! この格差は、525倍となった。
.
2016年、アメリカの上院議員のジェームス・ウェブ氏(ア
 メリカ上院外交委員会・東アジア・太平洋小委員会委員
 長など歴任)は言う、
  「アメリカに、貧富の差がこんなに拡がると、大変な
 ことになる。
  そのうち、アメリカ政治は、『動乱期』に入るのでは
 ないか」・・と・・、
  このウェッブ氏は、海軍士官学校卒の職業軍人で、正
 直な人だという。
  そして、彼は、アメリカの民主党が、陰で、金融業者
 (ゴールドマン・サックスなどという)に繰られている
 事に、非常に怒り、そして、嫌っていると表明した。
.
2016年以降、アメリカ連邦議会の予算局は、「2016年以降、
 アメリカの財政は、どんどん悪化していく」と見ていて、
 『国防予算を削るしかない』・・と、している。
  アメリカの政治家たちも、同じ見方で・・、
  アメリカの安全保障の最大の敵は、『財政難だ』と言
 っている。
  「予算を削減するところは、ここしかない」・・と・・、
  日本は、アメリカの日本での軍事費の75%を負担して
 いて、ドイツや韓国の負担割合の2倍から4倍と、超高率
 な負担を要求されている状況にある。
  アメリカの軍事費が縮減すれば、アメリカの軍事的な
 勢力圏は縮小せざるを得なくなる。
  その隙間に、中国の拡大となる・・その様な時代とな
 っている・・、
  アメリカの縮小の時代において・・日本の安全は、放
 っておけない『大問題』と・・なっている。
  手遅れにならないうちに、対応は・・急(いそ)がれ
 る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2017-01-31 02:52 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)486E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年5月)

題:(増補版)486E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年5月10日、会計検査院法が公布された。
  歴史・・、
  1969年(明治2年)太政官(内閣の前身)のうちの会計
   官(財務省の前身)の一部局として設けられた監督
   司を前身とした。
    その後、検査寮、検査局と名称を変えた。
  1880年(明治13年)太政官に直属する財政監督機関と
   して誕生。
  1889年(明治22年)大日本帝国憲法が発布され、憲法
   に定められた機関となった。
    以後、約60年間、天皇陛下に直属する独立の官庁
   として財政監督を行って来た。
  1947年(昭和22年)日本国憲法が制定され、憲法第90
   条の規定を受けて、現行の会計検査院法が公布され、
   施行された。
    会計検査院は、同法によって内閣に対し独立の地
   位を有するものとされた。
    改正点は、国会との緊密性、検査対象の拡充、検
   査結果の行政への、即、反映。
    (会計検査院ホームページを参考にした)
1889年5月11日、東京乗合馬車会社が創立された(1888年5月
 説あり)
  東京馬車鉄道株式会社の資料は多いが、この東京乗合
 馬車会社の資料は、下記の1点が発見された。
  菊川町(現:墨田区菊川のあたり)にこの乗合馬車の会
 社はあった。
  墨田区で著名な小島惟孝氏の「墨田の町々」によると、
  1889年(明治22年)5月の中外商業新聞(現在の日本経
 済新聞)に、
  「本所区菊川町二丁目の東京乗合馬車会社は、昨年(
 1888年)五月十一日其筋より設立の許可を得・・馬車も
 江木社長が英国にて購入し来りたる分三十両丈到着した
 るを以て、
  既に此の程より仮営業を始めしが・・」とみえ、
  菊川から二之橋を渡り、左折して馬車道を両国橋にで
 て、九段まで通じていた。
  市電が開通する三十五・六年まで繁盛した。
  今でも二之橋から北へ二本目の通りを「馬車通り」と
 いう愛称で呼んでいる・・とある。
  因みに、「東京馬車鉄道株式会社」の記述は・・、
  欧米視察の後、鉄道馬車の必要性を痛感して帰国する
 人は多く、第三十三国立銀行の種田誠一氏も、その一人
 だった。
  視察後に、他3名の発起人を含めて1880年(明治13年)
 「東京馬車鉄道株式会社」を設立した。
  馬180頭と馬車30両を収納する車庫兼厩舎が必要なこと
 から本社地の選定に苦心した。
  当時も、過密都市「東京」で、容易なことではなかっ
 た。
  民有地は無理と判断し、秋葉原の火除地や、上野駅周
 辺(駅がまだ作られていなかった頃)の借用を願い出た。
  しかし、これは許可されず、結局、汐留の鉄道局構内
 を借用することで許可が下りた。
  当時の鉄道局だった。
  出願したルートは下記の3路線。
  1、新橋停車場~新橋~日本橋~昌平橋~(御成り通り)
   ~上野公園~浅草広小路
  2、新橋停車場~新橋~日本橋~昌平橋~(大伝馬町通
   り)~浅草橋~浅草広小路
  3、新橋停車場~新橋~京橋~(日本橋東仲通り)~
   江戸橋~(馬喰町通り)~浅草広小路
  1882年(明治15年)6月25日、新橋~日本橋間で、最初
 の営業が開始された。
  停留所は、基本的に汐留本社、新橋、終着地のみで、
 途中の停留所は存在せず、利用者が降りたいところを車
 掌に告げれば下車できた。
  乗車の際も手を上げれば乗れた。
  そして、1882年の同年10月に、新橋~日本橋~上野~
 浅草~日本橋~新橋というP字形の環状線も竣工し、
  1882年12月3日に、盛大な開業式が行われた。
  1899年、品川馬車鉄道会社を吸収合併し、路線を品川
   まで延長した。
  1900年(明治33年)電車への動力変更の特許を得て、
   社名を東京電車鉄道株式会社に改称した。
  1903年(明治36年)電車に転換するまで、約20年間、
 営業された。
  ある下町っ子の東京馬車鉄道の回想・・、
  「大通りは其処をまた、小さな鉄道馬車が不景気な鈴
 を振立てゝ、みじめな瘠馬に鞭をくれ乍らとぼとぼと、
 汐留から只一筋に、漸く上野浅草へと往復して居りまし
 たが、
  今の電車と違って乗降も乗客の自由で、鳥渡(ちょっ
 と)言葉さへかければ何処の辻でも其処の角でも、勝手
 気侭に停めてくれました。
  馬は馬で所構はず糞便をたれ流す、車台は車台で矢鱈
 に脱線する、其都度跡の車台から駆者や車掌を招集して、
 はては乗客までも力を添へ乍ら掛声諸共元のレールヘ、
 をさめるのでありましたが、
  狡滑な人は其ひまに随分乗逃も出来たでせう。
  思へば実に幼稚な物で、其が東洋第一と誇る日本の主
 府、我東京市の面目を僅に保っていた唯一の交通機関で
 あったかと思ふと、全く情ないやうな心もいたします」
 (喜多川浅次著『下町物語』)
  この馬車鉄道が、最盛期には、300輌の車両と2000頭の
 馬を擁し、毎日、東京の中心地を馬糞まじりの砂ぼこり
 を蹴立てて往復しつつ、
  巨大な利潤をあげ、株主には、毎季3割5分の配当を行
 う我が国でも数少ない超優良企業であった。
  (東京都公文書館を、一部、参考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本が第二次世界大戦を開戦するまで、いったい、何があったのか?
    開戦前の状況を見る(1940年~1941年)・・、
.
1940年1月12日、ソビエト連邦がフィンランドの各都市を空
 襲した。
1940年1月21日、浅間丸事件
  千葉・房総沖で、イギリス軍艦が浅間丸を臨検し、ド
 イツ人船客21人を拉致した。
  このため反英気分が再び強化した。
1940年2月16日、ノルウェー領海で、イギリスとドイツが軍
 事衝突(アルトマルク号事件)
1940年3月12日、ソビエト連邦・フィンランド講和条約が
 モスクワで調印された(冬戦争終結)
1940年3月20日、フランス・ダラディエ内閣辞職。レノー
 内閣が成立した。
1940年3月30日、汪兆銘(おうちょうめい)が、南京で親日
 政府樹立(南京政府)
  政府発足後、イタリア、タイ、フランス、満州国、バ
 チカンなどが国家承認した。
1940年4月9日、ドイツ軍が、デンマーク王国・ノルウェー
 王国に侵攻(北欧侵攻)、デンマークが降伏。
1940年5月10日、ドイツ軍が、オランダ王国・ベルギー王国・
 ルクセンブルク大公国・フランスに侵攻開始(ナチス・
 ドイツのフランス侵攻、オランダの戦い)
1940年5月10日、イギリスが、アイスランドに侵攻した。
1940年5月15日、オランダがドイツに降伏した。
1940年5月18日、日本が、重慶を空襲した。
1940年5月28日、ベルギーがドイツに降伏した。
1940年6月3日、ドイツ軍がパリを空襲した。
1940年6月4日、ドイツ軍がダンケルクを占領した。
  抱囲されていた英仏軍の大半が脱出に成功した(ダン
 ケルクの戦い、ダイナモ作戦)
1940年6月5日、ドイツ軍がフランス総攻撃を開始した。
1940年6月7日、ノルウェー国王のホーコン7世が、イギリス
 に亡命した。
1940年6月9日、ノルウェー国王が、イギリスより対独抗戦
 中止を命令した。
1940年6月10日、イタリアが、イギリス・フランスへ宣戦
 布告した。
1940年6月10日、アメリカのルーズベルト大統領が、イタリ
 アの対応について「背中から刺すようだ (Stab in the
 Back)」と非難した。
1940年6月10日、ノルウェーがドイツに降伏した。
1940年6月11日、フランス政府がトゥールに移転した。
1940年6月13日、フランス軍がパリから撤退した。
1940年6月14日、ドイツ軍がパリに無血入城した。
  フランス政府はボルドーに移転した。
1940年6月15日、イタリア軍が、フランス領に侵攻した。
1940年6月15日、ソ連軍がリトアニアに進駐を開始した。
1940年6月16日、フランスのレノー内閣が辞任し、ペタン元
 帥が首相に就任した。
1940年6月17日、フランスが、ドイツに敗北した。
  フランス・ペタン首相がドイツ軍に休戦提議した(正
 式調印6月22日)
1940年6月17日、ソ連軍が、ラトビア・エストニアに進駐を
 開始した。
1940年6月18日、フランスのド・ゴール将軍が、自由フラン
 スとして、ロンドン放送で、対独抗戦継続を呼びかけた。
1940年6月19日、日本が、中国への武器供給を中止するよ
 う求めた。
  『援蒋ルート』の閉鎖を要求した。
  日本は、フランス領インドシナ政府(フランス)に対
 し、アメリカが中国・蒋介石を援助して大量に無制限な
 武器と金を供給していた行為のルートとなっていた「援
 蒋ルート」を閉鎖するように要求した。
  しかし、このルートからの中国への供給が止まらない
 ため、日本は、このルートによる供給を止めるために、
 この地域に、1940年7月28日に進駐した(フランス政府は、
 1940年7月19日に、日本の要求を受け入れるとした。
  フランス領インドシナ総督ジョルジュ・カトルー将軍
 は、シャルル・アルセーヌ=アンリー駐日フランス大使
 の助言を受け、仏印ルートの閉鎖と、日本側の軍事顧問
 団(西原機関)の受け入れを了承した。
  また、アルセーヌ・アンリー大使との協議においても
 8月末に交渉を妥結し、松岡・アンリー協定が締結された。
  日本とフランスの利益を相互に尊重すること、フラン
 ス領インドシナへの日本軍の進駐を認め、さらに、これ
 にフランス側が可能な限りの援助を行うこと、日本と仏
 印との経済関係強化が合意された。
  しかし、アメリカは、仏印に上陸している自分の行為
 を棚に上げて、日本の上陸を侵略だとした。
  そして、これを、第二次世界大戦の開戦理由の一つに
 した。
  アメリカこそ、アメリカ正規軍や武器をこのルートに
 先に上陸させている。これこそ侵略行為だ。
  因みに、この2日前の6月17日に、フランスは、枢軸国・
 ドイツに敗北し、独仏休戦協定が締結されている。
  当然、休戦協定を受入れたフランスは、援蒋ルートを
 使う連合国・アメリカの行為を是認しない方針となって、
 日本の方針を了承した。
1940年6月19日、日本がフランスに対漢援助禁止を要求した。
1940年6月22日、独仏休戦協定が調印された。
1940年6月25日、アメリカの援蒋ルートの中国への武器援助
 ルートを閉鎖するため、南部仏印への進駐が決定された。
1940年6月27日、伊仏休戦協定が締結された。
1940年6月28日、ソ連がルーマニア領に進駐した。
1940年7月、アメリカが、「両洋艦隊法」を成立させた。
  この法律によって、予算措置がなされ、大西洋、太平
 洋の両洋で、ドイツや日本に対抗する海軍建設が決定さ
 れた。
  もう、この頃から、アメリカ大統領のルーズベルトは、
 日本を完全に仮想敵国として、戦う準備を始めていた。
  この計画は、モンタナ級戦艦5隻 (航空母艦建造に集
 中するため、のち建造中止)、アイオワ級戦艦2隻(航空
 母艦建造に集中するため、のち建造中止)、航空母艦18
 隻、アラスカ級大型巡洋艦 6隻,、巡洋艦 27隻,、駆逐艦
 115隻、潜水艦43隻など合計133万トン(7割増)の艦艇建
 造、15,000機の航空機製造などが決定された。
1940年7月2日、フランス政府がヴィシーに移動した。
1940年7月3日、イギリス艦隊が、アルジェリアのオラン港
 のフランス艦隊を撃滅した。
1940年7月5日、フランス政府(ヴィシー)がイギリスとの
 国交を断絶をした。
1940年7月10日、ドイツ軍によるイギリス本土空襲が開始さ
 れた(バトル・オブ・ブリテン)
1940年7月11日、 フランスのルブラン大統領が辞職した。
  ヴィシー政権でペタン元帥が国家主席に選出された(
 第三共和政終了)
1940年7月19日、ドイツ・ヒトラーがイギリスに和平を求め
 る国会演説を行った。
1940年7月21日、リトアニア、ラトビア、エストニアが独立
 した。「社会主義共和国」であると宣言した。
1940年7月23日、 サムナー・ウェルズ(アメリカ国務次官)
 がバルト諸国のソ連への編入を承認しない旨を宣言した
 (ウェルズ宣言)
1940年7月27日、南進政策を決定した。
  大本営政府連絡会議が「世界情勢の推移に伴う時局処
 理要綱」を決定した。
  日本は、世界情勢の変局に対処し、内外の情勢を改善
 し、速やかに支那事変の解決を促進するとともに、好機
 を捕捉し対南方問題を解決す。
  支那事変の処理いまだ終わらざる場合において、対南
 方施策を重点とする態勢轉換に関しては、内外諸般の情
 勢を考慮しこれを定む。
  右二項に對処する各般の準備は極力これを促進す」
「仏印(広州湾を含む)に対しては、援蒋行為遮断の
 徹底を期するとともに速やかにわが軍の補給擔(担)任、
 軍隊通過および飛行場使用等を容認せしめかつ帝國の必
 要なる資源の獲得に勉む。情況により武力を行使するこ
 とあり」
1940年8月20日、八路軍(中国・華北のすべての共産党系の
 軍)が、日本を大々的に攻めて来た。
  大攻勢の状態(百団大戦、~ 12月5日)。
1940年8月末、日本の松岡洋右外務大臣とアルセーヌ=アン
 リー大使との間で日本とフランスの協力について協議が
 開始された。
  8月末に、交渉が妥結し、松岡・アンリー協定が締結さ
 れた。
  ・フランス領インドシナへの日本軍の進駐の承認。
  ・極東における日本とフランスの利益を相互に尊重。
  ・仏印においてフランス側が可能な限りの援助を行う。
  ・日本と仏印との経済関係強化。
  以上がが合意された。
1940年9月7日、クラヨーヴァ条約:ルーマニア、南ドブロ
 ジャをブルガリアに割譲した。
1940年9月22日、日・仏印軍事協定成立(9月23日説あり)。
  この日、現地の両軍司令部間(西原一策・アンリ・マ
 ルタン)での軍事協定(西原・マルタン協定)が締結さ
 れた。
  翌日の9月23日より正式進駐が開始された。
1940年9月23日、日本軍が北部仏印へ進駐を開始した。
  日本軍、フランス領インドシナ北部に進駐(北部仏印
 進駐)
  一部で交戦となったが、ドクー総督の指令で、9月25日
 に停戦した。
1940年9月23日、イギリス軍が、西アフリカのフランス領へ
 侵攻した。
  フランス軍に撃退された。
1940年9月27日、日独伊三国同盟が締結された。
  アメリカは第二次世界大戦に参戦していなかったが、
 この三国同盟はアメリカを硬化させた。
1940年10月3日、フランス政権(ヴィシー)が、ユダヤ人並
 びに外来者に対する法を可決した。
1940年10月12日、三国同盟に対する対抗措置を取るとアメ
 リカが表明した。
1940年10月12日、ドイツ軍が、ルーマニアに進軍を開始し
 た。
1940年10月16日、アメリカが、くず鉄の対日禁輸を決定し
 た。
  また、援蒋ルートとしては、イギリス領ビルマのビル
 マ公路などを利用することで、蒋介石への援助を続けた。
1940年10月27日、メキシコが、対日禁輸を解除した。
1940年10月28日、イタリア軍が、ギリシアに進軍を開始し
 た(ギリシャ・イタリア戦争)
1940年10月28日、ドイツのヒトラーと、イタリアのムッソ
 リーニが会見した。
1940年11月5日、アメリカ大統領選挙で、フランクリン・ル
 ーズベルトが3選された。
1940年11月11日、イギリス海軍が、空母艦載機によりイタ
 リアのターラント軍港を攻撃した(タラント空襲)
1940年11月13日、御前会議で日華基本条約および支那事変
 処理要項を決定した。
1940年11月14日、ドイツ軍が、イギリス中部の都市コヴェ
 ントリーを空襲した。
1940年11月20日、ハンガリーが、枢軸国に加入した。
1940年11月22日、トルコ全土で戒厳令が敷かれた。
1940年11月23日、ルーマニアが、枢軸国に加入した。
1940年11月23日、タイ・フランス領インドシナ紛争が勃発
 した。日本が仲介役となる。(11月5日説あり)
  11月25日からはタイ王国とフランス領インドシナ間の
 国境紛争が勃発した(タイ・フランス領インドシナ紛争)
  陸上での戦いでは、タイが優勢だったものの、海上で
 の戦いでフランス側が勝利した。
  タイとフランスは、第三国に仲介を求めていたが、ア
 メリカやドイツはこれに乗り気ではなく、結果として、
 日本が仲介役を行うことになった(1941年5月9日、東京
 条約締結、タイ王国とフランス領インドシナ間の合意)。
1940年11月24日、スロバキアが、日独伊三国条約に加入し
 た。
1940年11月27日、ルーマニアで、イオン・アントネスクに
 よるクーデターが起きた。
  ニコラエ・ヨルグを含む、亡命中の旧国王カロル2世の
 支持者60人以上が逮捕・処刑された。
1940年11月30日、日華基本条約調印(汪兆銘政権承認、日
 清通商航海条約破棄)
1940年12月18日、ドイツのヒトラーが独ソ戦(バルバロッ
 サ作戦)の準備を命令した。
1940年12月28日、アメリカは、この時すでに、武器貸与を
 考えていたが、この日、アメリカ大統領のルーズベルト
 は、炉辺談話(ルーズベルトが行ったアメリカ国民向け
 のラジオ演説)で、「民主主義の兵器廠」発言を行い、
 連合国への支援意図を強調した(12月29日説あり)。
1941年1月2日、日本海軍航空部隊が昆明を爆撃した(〜3日)
1941年1月6日 - アメリカ海軍が 戦艦ミズーリを起工した。
1941年1月7日、皖南事変(かんなんじへん)。
  中国・国民党軍が、移動中の新四軍(国民革命軍新編
 第四軍)を包囲し攻撃した(第二次反共攻勢)
1941年1月10日、独ソ不可侵条約更新
1941年1月17日、国民政府が新四軍に解散命令
1941年1月18日、欧州航路最終の貨物船「だあばん丸」が横
 浜に帰港した。
1941年1月20日、中国共産党が新四軍を再編
1941年1月21日、松岡外相がタイ・仏印紛争に関して調停を
 申入れ、両国受諾
1941年1月22日、中国共産党が皖南事変に抗議し、国民政府
 に国共調整臨時弁法12条を要求した。
1941年1月31日、日本の調停によりタイ・仏印紛争が妥結し、
 停戦協定を妥結した。
1941年2月1日、第1回東亜児童大会を開催した。
  「大東亜共栄圏諸国」の児童約2,800人を招待され、東
 亜共栄圏の児童による合唱、芝居などが催され、楽しん
 だ。
1941年2月3日、対独伊ソ交渉要領が決定した(日ソ国交調整)
1941年2月7日、タイ・仏印紛争調停会議が東京で開催され
 た。
1941年2月14日、野村駐米大使がルーズベルト大統領と会談
 した。
1941年2月15日、堀切駐伊大使がムッソリーニ首相と会談し
 た。
1941年2月28日、タイ・仏印紛争緊迫によりハノイの邦人引
 揚げが準備された。
1941年3月8日、野村駐米大使とハル国務長官が日米交渉を
 開始した。
1941年4月3日、ロンメル将軍のドイツ軍が、北アフリカ戦
 線でイギリス軍を撃破した。
1941年4月6日、ユーゴスラビアが、ソビエト連邦と不可侵
 条約に調印した。
  ドイツが、ユーゴスラビアとギリシャに侵攻した(ユ
 ーゴスラビア侵攻、ギリシャ・イタリア戦争)
1941年4月13日、日ソ中立条約が成立した。
1941年4月17日、ユーゴスラビアがドイツに降伏した。
1941年4月23日、ギリシャがドイツに降伏した。
1941年5月8日 - 東京条約が締結され、タイ・フランス領イ
 ンドシナ紛争が終結した。
  1941年5月9日に締結された東京条約では、フランス領
 インドシナからカンボジアとラオスの一部地域を、タイ
 に割譲するという合意が成された。
  これは、領土・権益の保全を定めた、先の松岡・アン
 リー協定に反する内容であったが、フランスはこれを受
 け入れた。
1941年5月19日、越南独立同盟(ベトミン)が成立した。
1941年5月27日、ドイツ海軍の戦艦ビスマルクが沈没した。
  エルンスト・リンデマン艦長は、甲板に残りビスマル
 クと運命を共にした。
1941年5月27日、アメリカ合衆国大統領ルーズベルトが、国
 家非常事態宣言を発令した。
1941年6月、オランダ領東インド政府との交渉が決裂した。
  主要な資源供給先であるアメリカ・イギリスの輸出規
 制により、日本は資源の供給先を求めることになった。
  対象としてあげられたのはオランダ領東インドであっ
 たが、連合国であるオランダ政府が日本への輸出規制に
 参加する可能性も懸念されていた。
  日本は、オランダ領東インド政府に、資源の提供を求
 めたが叶わなかった。
  軍首脳から資源獲得のために南部仏印への進駐が主張
 されるようになった。
  また、援蒋ルート遮断も行なわざるを得ない事項だっ
 た。
1941年6月14日、16,246名のリトアニア人がソビエト当局に
 よってシベリアへ強制追放された(~6月18日)
1941年6月22日、ナチス・ドイツが、ソビエト連邦に対して
 攻撃開始(バルバロッサ作戦)し、独ソ戦が始まった。
1941年6月25日、南部仏印への進駐が決定された(南方政策
 促進ニ関スル件)
  6月30日、原案通り南部仏印進駐を行うことが決定。
1941年6月26日、フィンランドがソビエト連邦に対して宣戦
 布告した(継続戦争)
1941年6月27日、ハンガリーが、ソビエト連邦に対して宣戦
 布告した。
  ユーゴスラビアのチトーがパルチザンを組織し、ドイ
 ツ軍に対するゲリラ戦を開始した。
1940年6月28日、フランクリン・ルーズベルト大統領が国防
 力強化のため、科学者動員令を発令し、科学研究開発局
 を設置した。
1941年6月30日、対ソ戦を拒否。
  ドイツが、日本に対して対ソ参戦を申入れた。
  日本は拒否した。
1941年7月5日、駐日イギリス大使のロバート・クレイギー
 が、日本の南進について外務省に懸念を申し入れた。
  日本側は情報漏洩に驚いた。(アメリカによる諜報)
1941年7月7日、アイスランドにアメリカ軍が駐留した。
1941年7月12日、英ソ相互援助協定締結
1941年7月14日、加藤外松駐仏大使が、フランス政府の副首
 相のフランソワ・ダルランと会談し、南部仏印への進駐
 の許可を求めた。
  この日、加藤外松駐仏大使が、ヴィシー政府副首相の
 フランソワ・ダルランと会談し、南部仏印への進駐許可
 を求めた。
  フランス政府は、7月19日の閣議で、日本側の要求を受
 け入れることを決定した。
1941年7月18日、第3次近衛内閣成立(外相豊田貞次郎)
  戦後になって、マッカーサーが、フーバー前大統領と
 会談した時、マッカーサーは言った・・、
  「ルーズベルトは、1941年夏に、日本側が模索してい
 た近衛文麿首相との日米首脳会談を行い、戦争回避の努
 力をすべきだった」・・と、批判した。
  また、この様な事実を明かした米歴史家のジョージ・
 ナッシュ氏は・・、
  「この事実を記したこの著書が、今でも米国の英雄と
 されているルーズベルト大統領への歴史評価を見直すき
 っかけになってほしい」・・と、話した。
1941年7月19日、フランス政府が、日本の要求(フランス領
 インドシナ・南部仏印への日本の進駐)を受け入れると
 閣議で決定した。
1941年7月23日、ルーズベルト米大統領、シェンノート指揮
 下のアメリカ正規軍の中国配置を認可し、軍事援助を明
 らかにする。
  (アメリカは義勇空軍だと言い訳を言った。しかし、
 義勇だ何だと言おうと、アメリカの正規の軍隊なのだ。
  例えば、真珠湾へ向かう日本の軍隊を、アジアの植民
 地解放の義勇軍だと言ったって、アメリカ・イギリスは
 認めたくないだろう)
1941年7月23日、日本・仏印間に南部仏印進駐細目の話合い
 成立。
  そして、日本は、アメリカに「平和進駐である」こと
 を説明すると決めている。
1941年7月24日、日本が、フランス領インドシナに進駐する
 事をアメリカに説明した。
  野村大使とサムナー・ウェルズ国務次官の会談が行わ
 れた。
  野村大使は、南部仏印進駐がやむを得ない措置である
 とした。
  日本は、アメリカに25日も、また、27日にも、軍事占
 領ではないと説明した。
  また、豊田外相も、駐日アメリカ大使と会談し説明し
  そして、28日の進駐となった。
  結果、さらに日米間の関係は悪化する。
  アメリカは、問題をすべて、日本側に転嫁した。
1941年7月25日、アメリカが、在米対日資産を凍結(アメリ
 カは日本の進駐を、ドイツの作戦と呼応して行っている
 と誤認し、誤解した。
  元はと言えば、アメリカが戦争に介入して、中国へこ
 の地域を使って武器・弾薬を上陸させ、送っておいて・・、
 アメリカが先にこの地域を軍事的に占領し、利用してい
 ることを棚に置いている。
1941年7月26日、イギリスが在英日本資産を凍結した。
  極東アメリカ軍をフィリピンに創設した(司令官:ダ
 グラス・マッカーサー中将)
1941年7月27日、蘭印が在蘭印日本資産を凍結
1941年7月28日、日本軍が、フランス領インドシナ南部進駐
 した(南部仏印進駐)
  アメリカの援蒋ルートによる中国への武器供給が止ま
 らないため、日本は、そのルートからの供給を止めよう
 と仏印進駐をした。
1941年8月1日、アメリカが、石油の対日輸出全面禁止を発
 表(日本の息の根が止められた。すべてが破綻するのは
 火を見るより明らかだった)。
  日本に、やむをえずの早期開戦論が生まれる。
  当然、アメリカもその様になることは分かっていた。
  おおもとの石油が無くなれば破綻しかないので、どこ
 の国でもそうなるだろうという評論が多いアメリカの行
 為だった。
1941年8月18日、豊田外相が、日米首脳会談を要請した。
1941年8月25日、イギリス・ソビエト連邦がイラン進駐を開
 始した。
1941年9月3日、日米首脳会談の要請をアメリカが拒否した。
1941年9月28日、日本軍が、西貢(サイクン、香港特別行政
 区)に派遣された。
1941年10月16日、近衛首相、内閣を総辞職。
1941年10月18日、東條内閣を組閣。
1941年11月23日、南雲機動艦隊が単冠湾(ひとかっぷわん)
 に集結した。
1941年11月26日、ハル国務長官が、日本案を拒否し、中国
 撤兵要求を提議(ハル・ノート:最後通牒)
  南雲機動艦隊が単冠湾を出港。
1941年11月27日、大本営政府連絡会議が、「ハル・ノート
 は日本に対する最後通牒である」とした。
1941年12月6日、イギリスが、フィンランド・ハンガリー王
 国・ルーマニア王国に対して宣戦布告した。
1941年12月8日、真珠湾攻撃で第二次世界大戦(大東亜戦争)
 となる。
  日本、対米英宣戦布告。
  但し、真珠湾攻撃の現地ハワイの日付は12月7日。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2017-01-27 05:24 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)485E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年4月~1889年5月)

題:(増補版)485E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年4月~1889年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年4月30日、大同団結運動の河野広中ら政社組織化を唱
 え、大井憲太郎らのゆるい連合組織形成派と対立した。
1889年5月1日、東京府で、市制・町村制が施行された。
  東京15区で市制を施行し、東京市が誕生。
1889年5月3日、幸田延(こうだのぶ)が、米国留学のため
 横浜港を出発した。
  日本初の音楽留学としてアメリカ、ドイツ、オースト
 リアに留学した。
  1870年、東京の幸田家に、幸田露伴の妹として生まれ
 る。
  ピアニスト、ヴァイオリニスト、音楽教育家、作曲家。
  1895年(25歳)帰国し、東京音楽学校教授として瀧廉
 太郎、山田耕筰、久野久らを育てた。
  1895年に作曲したヴァイオリンソナタ変ホ長調(3楽章、
 未完)と、1897年のヴァイオリンソナタニ短調(1楽章の
 み)は、日本人による初のクラシック音楽作品(現在、
 全音楽譜出版社から2曲とも出版されている)。
  1915年(45歳)大正天皇御即位を祝した混声4部合唱付
 交響曲「大礼奉祝曲」を作曲した。
  1937年(67歳)帝国芸術院を設立し、会員にもなる。
1889年5月9日、正岡子規(22歳)が、常盤会寄宿舎で血を
 吐く。
  因みに、子規は、この年の4月3日から、常磐会の友人
 と2人で、菊池謙二郎の実家のある水戸まで、徒歩旅行を
 行っている。
  1902年(明治35年)9月、死去。享年34。
  東京都北区田端の大龍寺に眠る。
  辞世の句:「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」
       「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」
       「をとゝひのへちまの水も取らざりき」よ
 り、子規の忌日9月19日を「糸瓜忌」といい、
  雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。
  因みに、獺は、「うそ」または「おそ」と読み、カワ
 ウゾの別名。
1889年5月10日、大同団結運動は、政社派が大同倶楽部を、
 連合派が大同協和会を興し、事実上分裂した。
  この日、河野広中派が大同倶楽部を結成し、大井憲太
 郎派が大同協和会を結成した。
1889年5月10日、東海道線の下等列車に洋式トイレを設置
 した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカ合衆国の独立宣言について・・、
.
1776年7月4日、アメリカ合衆国の独立
  大陸会議はアメリカ独立宣言を採択(7月2日に決議)
 し、この日に、公布された。
  以下に、アメリカ独立宣言の全訳を記すが・・、
  その前に、今・現代、アメリカのどこに、その理念が
 あるのだ?・・と言いたい、
  「すべての人間は生まれながらにして平等であり、創
 造主によって一定の奪いがたい権利を与えられ、その中
 には生命、自由、および、幸福の追求が含まれているこ
 とを、我々は自明の真理であると信じる」とあるが?
  これは嘘だ!!
  アメリカの人種差別は、その『極に達している』。
  人種差別国に成り下がっているではないか?
  アフリカの方々を、一番多く奴隷にして、虐げた国で
 はないか?
  創造主なんて「奪いがたい権利など与えてなんかいな
 いではないか?」。
  嘘つき創造主となっている。
  侵しがたい生命なんて嘘八百ではないか?
  ネイティブ・アメリカン(アメリカ・インディアン)
 の方々を、動物の如くに「殺戮の限りをした」ではない
 か?
  自由だって、自分たちの都合よく考えて「暴力によっ
 て、蔑(さげす)むべき方法によって、奪いに、奪った」
 ではないか?
  生まれて来た子を奪い取って、自分のものとし、奴隷
 の身分に落とし、生母と別々に売ったではないか?
  「自由を奪う卑下されるべきアメリカ」となったでは
 ないか?
  幸福の追及なんて「自分たちだけの幸福」で、狭い、
 そして、狡(こす)い理念ではないか?
  今・現代だって、黒人の方々を虐げているではないか?
  奪い取りと殺戮の歴史しか、アメリカにはないではな
 いか?
  以下に、そのアメリカ独立宣言の全訳を記す・・、
  『人の営みにおいて、ある人民にとって、他の人民と
 結びつけてきた政治的な絆を解消し、自然の法や自然の
 神の法によってその資格を与えられている独立した、対
 等の地位を地上の各国のうちに得ることが必要となると
 き、人類の意見をしかるべく尊重するならば、その人民
 をして分離へと駆り立てた原因を宣言することが必要と
 されるだろう。
  我らは、以下の諸事実を自明なものと見なす。
  すべての人間は、平等につくられている。
  創造主によって、生存、自由、そして、幸福の追求を
 含むある侵すべからざる権利を与えられている。
  これらの権利を確実なものとするために、人は政府と
 いう機関をもつ。
  その正当な権力は、被統治者の同意に基づいている。
  いかなる形態であれ、政府が、これらの目的にとって
 破壊的となるときには、それを改め、または、廃止し、
 新たな政府を設立し、人民にとってその安全と幸福をも
 たらすのに最もふさわしいと思える仕方で、その政府の
 基礎を据え、その権力を組織することは、人民の権利で
 ある。
  確かに、分別に従えば、長く根を下ろしてきた政府を
 一時の原因によって、軽々に変えるべきでないというこ
 とになるだろう。
  事実、あらゆる経験の示すところによれば、人類は、
 害悪が忍びうるものである限り、慣れ親しんだ形を廃す
 ることによって非を正そうとするよりは、堪え忍ぼうと
 する傾向がある。
  しかし、常に変わらず同じ目標を追及しての権力乱用
 と権利侵害が度重なり、人民を絶対専制のもとに帰せし
 めようとする企図が明らかとなるとき、そのような政府
 をなげうち、自らの将来の安全を守る新たな備えをする
 ことは、人民にとっての権利であり、義務である。
  これら植民地が堪え忍んできた苦難は、そうした域に
 達しており、植民地をしてこれまでの統治形態の変更を
 目指すことを余儀なくさせる必要性もまたしかりである。
  今日のグレートブリテン国王の歴史は、繰り返された
 侮辱と権利侵害の歴史であり、その事例は、すべてこれ
 らの諸邦に絶対君主制を樹立することを直接の目的とし
 ている。
  それを証明すべく、偏見のない世界に向かって一連の
 事実を提示しよう。
  公共の利益のために、最も穏当かつ必要な法律に裁可
 を与えることを拒否した。
  緊急かつ切迫した要のある法律を通過させることを総
 督に禁じ、総督をして国王の裁可が得られるまでその権
 能において保留させることを課し、そのようにして保留
 させた上で(裁可すべき)法を全く閑却した。
  広範な地域の人民のための他の法を通過させることを
 拒み、その人民に、本国の立法府において代表される権
 利を放棄することを求めた。
  そのような権利は、人民にとってかけがえのないもの
 であり、これを恐れるは専制君主のみである。
  立法府を普通でない、公文書の保管所からも離れた不
 便な地に召集した。
  疲弊させることにより本国の施策に従わせんとするた
 めである。
  人民の権利の侵害に対し、断固とした雄々しい決意を
 もって反対した代議院をたびたび解散した。
  そのような解散ののち、長きにわたって新たな代議員
 が選出されるようにはからうことを拒否した。
  これにより、消滅することのない立法権限は、人民全
 体にその行使が返還されたのである。
  その間も、その邦は外からの侵略、内なる騒乱のあら
 ゆる危険にさらされていたのである。
  これら諸邦の人口を抑制せんと努めた。
  その目的のために、外国人帰化諸法を妨害し、この地
 への移民を促進する他の諸法の通過を拒み、新たな土地
 の割り当ての条件をつり上げた。
  司法権を確立させる諸法への裁可を拒否することによ
 り、司法の執行を妨害した。
  判事を、その地位、俸給額、俸給の支払いについて、
 己の意志にのみ依存せしめた。
  おびただしい数の新たな官職を創設し、この地へ官吏
 の大群を送って、我らが人民を悩ませ、我らが物資を蚕
 食した。
  平時において、我らのうちに、我らの立法府の同意な
 く常備軍を駐留させた。
  軍部を文民権力から独立させ、それに優越させようと
 努めた。
  我らを、我らが国制にとって異質で我らが法によって
 認められていない権限のもとにおくべく(本国議会と)
 共謀し、
  本来の権能を逸脱した立法府の下記の目的の諸法に裁
 可を与えた。
  我らのうちに大規模な軍を宿営させるその兵が、これ
 ら諸邦の住民に対して殺人を犯しても、みせかけばかり
 の裁判をすることによって処罰を免れさせる。
  世界各地と我らの通商を遮断する。
  我らの同意なく我らに税を課する。
  多くの場合において、陪審に基づく裁判の恩恵を奪う。
  でっちあげの罪状によって、我らを海の向こうへ移送
 して裁く。
  隣接する植民地(カナダ)において、英国法の自由な
 体制を廃し、そこに専横的な政府を設立し、その境界を
 広げることによって、その地を我らが植民地にも同様の
 専制支配を導入するための先例とし、格好の道具とする。
  我らの特許状を取り上げ、我らの貴重この上ない法を
 廃し、我らの政府の形態を根本的に変更する。
  我ら自身の立法権限を停止し、いかなる場合において
 も我らに代わって立法する権限が自分たち(本国議会)
 にあると宣言した。
  我らを国王の保護の外にあると宣言し、我らに戦争を
 しかけることによって我らの統治を放棄した。
  我らの領海を収奪し、沿岸を荒らし、町を焼き、人民
 の命を奪った。
  現在も外国人傭兵の大軍を送ってくるところで、それ
 により、最も野蛮な時代にさえその比をみない、およそ
 文明国の元首の名に値しない残虐と不実の状況を伴って
 始められた死と荒廃と専制を完成させようとしている。
  公海において捕らえられた我らが同胞たる市民に祖国
 に対して武器を取らせ、その友人兄弟を処刑するか、さ
 もなくばその手にかかって自らが命を落とすようにして
 いる。
  我らのうちに内乱をひき起こし、我らが辺境の住人に
 対し情け知らずのインディアンをけしかけようと努めた。
  インディアンの戦い方が、年齢、性別、社会的地位に
 関わりなく無差別に殺害するものであることはよく知ら
 れている。
  これらの抑圧のあらゆる段階において、我らは最も謙
 虚な言葉をもって改善を請願してきた。
  我らの度重なる請願は、度重なる侮辱によって応えら
 れたのみだった。
  このように専制君主の定義となりうるあらゆる行動に
 よって特徴づけられる資質をもった君主は、自由な人民
 の統治者たるに不適当である。
  我らは、英国の同胞に対しても注意を怠ってきたわけ
 ではない。
  折に触れては、英国の立法府が、不当な権限を我らに
 対して及ぼそうとしていることを警告してきた。
  我らが祖国を出、この地に落ち着いた事情を想起させ
 てきた。
  同胞たちの生来の正義心と度量に訴え、共通の血が流
 れる絆により、彼らがこれら、我らのつながりと交渉を
 必ずや絶ち切ることになる権利侵害を非とすることを懇
 請してきた。
  同胞らもまた、正義と血縁の声に耳を傾けなかった。
  したがって、我らは、我らの分離を宣言する必要性を
 認めざるをえず、祖国の同胞は他の人類と同様、戦時に
 あっては敵、平時にあっては友とみなさざるをえない。
  ゆえに、我らアメリカの連合諸邦(the united States
 of America)の代表は、連合会議に集い、世界の至上な
 る審判者に対し、我らが意図の正当性を訴えて、これら
 植民地のよき人民の名と権威において、厳粛に公に宣言
 する。
  これら連合植民地(United Colonies)は、自由にして
 独立な国家であり、また、そうであるべきものである。
  英国王に対する忠誠はいっさいこれなく、グレートブ
 リテンとの間の政治的なつながりは、完全に解消されて
 おり、また、そうあるべきものである。
  諸邦は、自由にして独立な国家として、戦争を行ない、
 講和を締結し、同盟を結び、通商を確立し、その他、独
 立国家が、当然の権利として行ないうるあらゆる行為を
 なす完全な権限をもつものである。
  この宣言を支えるため、神の摂理への堅い信頼ととも
 に、我らは、相互にその生命、財産、そして、神聖なる
 名誉を捧げあうことを約するものである』
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2017-01-25 05:00 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)484E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年4月~1889年4月)

題:(増補版)484E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年4月~1889年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年4月11日、甲武鉄道(中央線)、新宿駅~立川駅間が
 開通した。
  この甲武鉄道開通時の錦絵がある。
  それには、甲武鉄道沿線の名所旧跡が紹介されている。
  それには、小金井桜、玉川、高尾山の説明文がある。
  その錦絵には、中央の下に新宿停車場が描かれ、そし
 て、立川停車場に向かって行く蒸気機関車が描かれてい
 る。 
  左上に富士山、高尾山、御嶽山の遠景があり、
  御嶽山の方から流れているのが玉川(多摩川)(中央
 左側)で、羽村からは、玉川上水が東京市街地に向かっ
 て流れている。
  玉川には、立川と日野との間に甲州街道の橋が架けら
 れてる。
  西南戦争の戦費調達等のため、国は膨大な財政支出が
 迫られ、国家財政は窮地に立っていた。
  そこで、民間に任せたほうが望ましい分野は民営化し
 ようという方針の国。
  その様な中で、国は、1881年(明治14年)「私設鉄道」
 を認める方向に転換した。
  約10年間続けた「官設官営鉄道」に終止符を打った。
  そして、甲武鉄道の敷設・・さまざまな反対運動があ
 った。
  甲州街道で栄えていた府中や調布は、商人、宿屋、人
 力車夫などが、客がとられるといって反対した。
  農家もまた、汽車のばい煙が桑の葉や野菜を害すると、
  火の粉がわらぶき屋根にかかって火事になると、
  家畜に悪影響が生じるといったいろいろな反対理由が
 叫ばれた。
  また、中野でも、青梅街道と宮園通りの中間を東西に
 貫いて行くという計画に対して、
  地主や村民等が・・「鉄道は村を衰微せしむ」という
 理由をぶち上げた・・頑強な反対運動を展開した。
  こうした反対運動のために・・、
  甲武鉄道は、やむなく・・計画を大きく変更した。
  そして、えい!やー!・・っと、抵抗の少なかった武
 蔵野の原っぱを・・原野を、現在の東中野あたりから立
 川までを、定規で一直線に引っ張った・・そして、敷設
 した。
  1889年(明治22年)4月11日のこの日、後に中央線とな
 る甲武鉄道が・・、
  内藤新宿駅と立川駅間の27.2kmで開通した。
  内藤新宿より中野・境(武蔵境)・国分寺の3駅を経て、
 立川まで運行された。
  新宿を午前7時14分に出発した列車は、立川駅に予定時
 間の8時14分に到着した。
  新宿から1時間。
  新宿駅発7時14分~中野駅7時25分~境駅7時48分、国分
 寺駅8時1分、途中の各駅に1分間停車し、終点の立川駅に
 8時14分に到着。
  列車のスピード:平均時速30kmだった。
  北海道の原野の様な中野駅構内に停車している明治39
 年の蒸気機関車が写る写真がある(複線)。
  車両は、イギリスから直輸入したナスミス・ウィルソ
 ン社製の軸配置1B1型(先輪1軸、動輪2軸、従輪1軸)・
 タンク蒸気機関車(国鉄400形蒸気機関車)
  客車は、「マッチ箱」と呼ばれた箱型客車。
  運行は、午前・午後2本ずつ、1日4往復。
 (内藤新宿駅発、7時9分、10時0分、14時30分、17時30分)、
 (立川発、8時40分、11時40分、16時10分、18時55分)
  運賃は、上等・中等・下等と3段階に分け、運賃の基準
 は、下等は1マイル(約1609m)1銭で、中等は下等の2
 倍、上等は下等の3倍。
  1889年(明治22年)は、もり・かけそばが1銭なので、
 かなり高額。
  立川~八王子間はわずか9.7kmしかないが、鉄道架橋
 が計画した工期以上にかかり遅れた。
  1889年(明治22年)7月に多摩川本橋(約418m)、浅
 川橋(139.5m)が完成。
  この架橋の完成で、立川~八王子間は、新宿~立川の
 開業から4ヶ月遅れの1889年(明治22年)8月11日に開業
 する。 
1889年4月16日、メートル法条約に加盟する(1885年説あり)。
  メートル法条約は、メートル法による度量衡標準の国
 際的統一、および、その完成を目指して、1875年5月20日、
 パリで締結された。
  14ヵ条の本文と 22ヵ条の付則と6ヵ条の過渡規定から
 成り、パリに度量衡万国中央局を設置すること、国際度
 量衡委員会、国際度量衡総会その他を規定している。
  日本は、1885年(明治18年)に加盟手続を終わってい
 たが、公布されたのは翌年・1886年4月16日であった。
  メートル条約が締結されると、フランス政府は、各国
 に対して加盟の呼びかけを行い、日本にも、駐独公使を
 通じて勧誘してきたが、政府の意見は一致せず、
  1884年(明治17年)重ねての勧誘の際、新たにメート
 ル原器とキログラム原器をつくって加盟国に配布する旨
 の通知に接して加盟が定まった。
  日本のメートル法化(にっぽんのメートルほうか)と
 は、1885年のメートル条約加盟と、1891年の度量衡法公
 布により始まった。
  1884年、新たに原器を製作するとの報に接し、これを
 機にメートル条約への加盟が決断された。
  1885年10月9日に加盟手続を終わり、
  翌1886年4月16日にメートル条約(明治19年4月20日勅
 令)として公布された。
  日本の原器は、抽選によりメートル原器はNo.22、キロ
 グラム原器はNo.6とされ、
  1889年に在パリ公使館の大山綱介・書記官が受け取り、
  翌1890年4月に日本に到着した。
1889年4月16日、静岡駅~浜松駅間の鉄道が竣工して開通し、
 開業した。
  ここに初めて東海道全線(官設鉄道)が開通した(7月
 説あり)
  日本は、この様に、国家建設のため地道に努力を積み
 重ねて来た。東海道線も全線開通した。
1889年4月19日、ロンドン・タイムスに大隈重信(外相)条
 約改正案が掲載され、論評が載る。
  以後、反対世論高まり、猛烈な批判を招いた。
  井上馨が努力していた条約改正を引き継いだ大隈外相
 は、各国と交渉を続けていたが、ロンドン・タイムスに
 報道されてしまう。
  井上馨は、妥協した改正案で・・、
  「領事裁判権の撤廃、輸入関税の一部引き上げの代わ
 りに外国人裁判官を任用し、内地雑居を認める」とした。
  大隈重信の改正案は・・、「外国人判事任用を大審院
 に限る」とした。
  そして、比較的理解を示していたアメリカ・ドイツ・
 ロシアと秘密裏に個別に交渉していた、調印する・・が、
 発効せず(メキシコとは対等条約を締結済み・1888年11
 月30日に締結)、
  しかし、イギリスの新聞:ロンドン・タイムスが・・
 大隅改正草案を掲載した。
  そして、既に締結したメキシコとの条約が内地雑居を
 認めるのなら・・イギリスは最恵国待遇なので、同じ様
 に認めるのだねと論評した。
  大隅は、これを、最恵国有条件主義を唱えて拒否した。
  日本国内でも違憲論が起き、話はこじれていく・・、
  大隅がテロに遭い負傷し・・条約改正交渉中止となる。
1889年4月21日、民法財産編を公布した(1890年説あり)
  1890年(明治23年)3月:民法(財産編、財産取得編、
 債権担保編、証拠編)公布
  1890年(明治23年)に、公布された民法典の施行をめ
 ぐって論争が展開された。
  日本における民法典編纂は、ボアソナードの指導のも
 と、フランス民法典を範として進められ、
  1890年公布し、1893年に施行されることになっていた。
  しかし、1889年、イギリス法学系の法学士会が・・、
  「法典編纂ニ関スル意見書」を発表、
  民法典と商法典との不統一などを指摘して慎重論を展
 開すると、法典の実施可否をめぐって激しい論争が繰り
 広げられた。
  特に、延期派の穂積八束が、「民法出テテ忠孝亡フ」
 を著して、日本固有の家族制度を美俗と捉える立場から
 民法実施に反対した。
  これは大きな影響力をもった。
  これに対し、断行派の梅謙次郎や岸本辰雄らは、フラ
 ンス法的市民法原理にもとづいた民法実施の必要性を強
 調した。
  結果的には、1892年の第三議会で、民法・商法を延期
 する法律案が可決されて延期が決定した。
  論争は、固有法と継受法の衝突、イギリス法・フラン
 ス法・ドイツ法の学派的抗争、自然法学と歴史法学の対
 立のほか、立法技術や条約改正をめぐる問題、実業界と
 政界の思惑など複雑な要因が絡み合って展開されたが、
  その後、法典調査会で審議・修正された新民法は、ド
 イツ民法を模範に、戸主権を重視した家中心のものとな
 った」(日本思想史辞典)
  民法典論争は、1890年(明治23年)に公布された民法
 (旧民法)の施行時期をめぐり、延期派と断行派の間で
 行われた論争のことで、不平等条約を撤去する条約改正
 を実現するため、近代的な基本法典の制定を迫られてい
 た明治政府は、フランス人の法学者ボアソナード、G. E
 に民法草案の起草を依頼し、旧民法が公布された。
  しかし、公布の前から、延期派は、その個人主義的な
 性格が日本社会の淳風美俗の根本にある伝統的な家族道
 徳を損なうものとして法典の編纂に反対した。
  その際に発表され世間の注目を集めたのが、延期派の
 中心人物、穂積八束の論文「民法出デテ忠孝亡ブ」(『
 法学新報』第5号)だった。
  激しい論争の末、1892年に、帝国議会で延期が決定さ
 れ、結局旧民法は実施されず、論争は延期派の勝利に終
 わった」。
  (参考-1)
  1887年(明治20年)10月、諸法典編纂の事業を完成す
   るために、法律取調委員会を設置。山田顕義司法大
   臣を委員長とする。
  1887年(明治20年)11月、井上馨失脚に伴い、民法編
   纂、司法局に戻る。
  1888年(明治21年)民法典第一草案成立
  1889年(明治22年)民法典論争(~1892年)
  (参考ー2)
  改めて民法の編纂に取り掛かり、財産権、財産取得編
 の主要部分、債権担保編、証拠編をボアソナードに起草
 させる一方(一部を除き現行民法の財産法部分に相当)、
 人事編及び財産取得編中の相続・贈与・遺贈・夫婦財産
 契約に関する部分(ほぼ現行法の家族法部分に相当)は
 特に日本固有の民族慣習を考慮する必要があるというこ
 とから、熊野敏三、磯部四郎などの日本人委員に起草さ
 せた。
  1888年(明治21年)に、ボアソナード担当部分の草案
 が成立し、
  1889年(明治22年)に、元老院の議決を経て
  1890年(明治23年)4月、『民法財産編・財産取得編・
 債権担保編・証拠編』(明治23年4月21日法律第28号)と
 して公布、
  1890年10月、残部についても、この時に『民法財産取
 得編・人事編』(明治23年10月7日法律第98号)として公
 布され、
  1893年(明治26年)1月1日、双方とも、この時から、
 実施すべきものと定められた。
  この法律28号、第98号が旧民法。
1889年4月25日、宮武外骨(みやけがいこつ)の不敬事件に
 禁錮3年、罰金100円の判決。
  外骨は、控訴した。
1889年4月26日、大阪府警本部が、大阪壮士倶楽部の解散と
 壮士募集広告の取り消しを命令する。
  壮士とは、自由民権運動の活動家の事を言うが・・、
  明治二十二年のこの時、「大阪朝日新聞」などの大阪
 の新聞に奇妙な広告が載る。
  勇悍猛烈の壮士二十名募集す内十七名は散宿せしめ学
 費を給し三名は同居を諾し学費を給す。
  北区天満橋筋一丁目大阪壮士倶楽部取締、菅野道親
  これは何だ?と・・新聞は取り上げた・・そして、記
 した。
  「世に巡査の募集とか生徒の募集とか将(は)た雇人
 の募集とか申すこと屡々あれど壮士の募集とはまた希有
 なるべし」・・と。(明治二十二年四月二十二日)
  そして、これが、「治安に妨害あり」と認められ・・、
  そして、募集差止並に壮士倶楽部解散を命ぜられたる」
 となった。
  しかし、今度は・・
  「温厚篤実の壮士二十名募集す」という広告に切り替
 えられて、再び、募集記事が出た。
  しかしこれも・・、
  「如何なる冠詞を附するも壮士募集は総て治安を妨害
 する趣(おもむき)、内務大臣の訓令なりとて、警察本
 部より差止めら」れた・・
  そこで・・
  「募集を取り消す」という広告まで出された。
1889年4月26日、日本画家・河鍋暁斎(かわなべきょうさい)
 死去。
  弟子の中に鹿鳴館設計者のコンドルが居た。
  3歳で初めてカエルを描き、7歳で浮世絵師の国芳に入
 門した。
  1831年(天保2年)、現在の茨城県古河市に藩士・河鍋
 記右衛門の次男として誕生した。
  数え年2歳で家族ともども江戸に移り住んだ。
  絵が格別に好きな幼少時代、他の遊びや菓子を食べる
 のも忘れて絵を眺めたという。
  わずか7歳で浮世絵師の歌川国芳に入門した。
  1839年5月(8歳)梅雨による出水で、神田川に浮かん
 だ生首を写生して、周囲を驚かせたという。
  珍しいもの何でも写生をしたという・・。
  1840年(9歳)国芳の侠気(きょうき、おとこぎ)と品
 行を心配した父は、国芳の元から駿河台の狩野派絵師・
 前村洞和愛徳の門に替えた。
  前村洞和愛徳は、周三郎(暁斎の幼名)の画才を見込
 んで「画鬼」と呼び、可愛がった。
  異例の若さといわれる19歳の1847年(嘉永2年)「洞郁
 陳之」(とういく・のりゆき)の号を授かって、狩野派
 の修業を終えた。
  幕末・明治の動乱期、強烈な個性を前面に押し出し、
 日本画の表現領域を広げ続けた桁外れの絵師だった。
  この群を抜いた筆力・写生力で海外でも高く評価され
 ている天才絵師が、この日に没した、享年58歳だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカも・・日本と同じように・・戦争に突入させられて行く・・
    (変な大統領を・・選んだからだ・・)
.
1933年1月30日、フランクリン・ルーズベルトが、第32代ア
 メリカ大統領になる約1ヶ月前のこの日、ドイツのナチス
 のヒトラーが、首相の座に就いていた。
  ルーズベルトが、何故か? また、愚かにも、演説が
 ヒトラーに似ている事の疑問が・・解けた。
  ヒトラーの首相就任後の約5週間後に、大統領になった
 アメリカ大統領ルーズベルトは、ヒトラーに強く影響さ
 れていた。
  ヒトラーと同じ様な調子で「アジ演説」をアメリカ国
 民の方々へした。
  ヒトラーと同じような調子で、感情的に、アメリカ国
 民の方々を煽(あお)る演説をして、「戦争をする特権
 をくれ」と言っていた。
  そして、ヒトラーが、国家統制経済で産業を効率的に
 して行きたいとしたが、
  ルーズベルトも、同じ考えで、国家復興庁(NRI)
 で産業効率を良くしたいとした。
  ルーズベルトは、ヒトラーと高い類似性がある大統領
 だった。
.
  題:アメリカは・・人格的な欠陥の大きい大統領によって・・戦争に突入して行った・・
.
1940年5月16日、ルーズベルトは、この頃、明らかに戦争を
 する、戦争したいと想定していて、軍備増強をアメリカ
 上下院の合同議会で訴えた。
  議会は、ルーズベルトの戦争思考に反発し、戦争回避
 運動を展開し、反発した。
  また、アメリカ国民の方々も、ルーズベルトの危険な
 戦争思考に反発した。
  多くの様々な団体が、強く反発した。
  また、個人も、例えば「リンドバーグ」らも反発した。
  この頃、陰湿な事だが、ルーズベルトは、陰の世界(
 裏社会)で働く輩を持っていた。
  ルーズベルトの意を受けた大統領首席報道官のスティ
 ーブ・アーリーは、その陰の暗躍者へ連絡を取った・・、
  「大統領のお願いですが、大統領がした軍備増強の演
 説以来、軍備増強に反対する電報が、数多く舞い込んで
 いる。
  その差出人が誰かを掴(つか)んでもらいたい」と。
  このルーズベルトに便利に使われていたのがジェイ・
 エドガー・フーバーだった。
  この男は、アメリカ連邦捜査局(FBI)の前身の司
 法省捜査局長だった。
  ルーズベルトは、この男を『闇の情報屋』という使い
 道を掴んでいた。
  この男とルーズベルトとのつながりは、1933年に、ル
 ーズベルトが政権の座に就(つ)くと、フーバーの方か
 らルーズベルトへ近づき、「地位の継続」を求めた。
  1934年には、ルーズベルトは、アメリカのナチズムの
 信奉者を調べる指示を出している。
  フーバーの過酷なのは、プライバシーの闇の部分に大
 きく踏み込むところだった。
  ルーズベルトは、そこに価値を見出した。
  ルーズベルトは、調査対象をさらに広げた・・、
  政敵も調査させた。
  ルーズベルトを厳しく批判した前大統領(第31代アメ
 リカ大統領ハーバート・フーバー)も調べさせた。
  ルーズベルトは、その様な分厚い調査資料を貰い、喜
 んだ。
  そして、思わず、「こんな価値ある報告書を本当にあ
 りがとう」と言った。
  また、異例な行為である、感謝状まで送ったこともあ
 った。
  ルーズベルトは、卑劣にも、大恐慌や戦争を言い訳に
 して、「違法な捜査を奨励」した。
  危機の時代だからいいのだと・・、まったく自分勝手
 な理由を付けて・・違法行為をさせていた。
  ファシストと共産党も、ルーズベルトは命令を出して、
 監視させた。
  1939年6月26日には、大統領令を出し、スパイ、破壊活
 動防止の権限をFBIと陸海空の情報部へ与えた。
  アメリカは、監視国家となった。
  ルーズベルト大統領夫人エレノアの禁断の密会情事も、
 こんなアメリカの監視社会から分かった。
  FBIは、ルーズベルト大統領の直属の様な汚い情報
 を貢(みつぐ)組織に成り下がっていた。
  「盗聴器を仕掛けること」を命じるハレンチなルーズ
 ベルト大統領だった。
  その記録が残っている。
.
  そして・・、
.
1940年夏、ランドルフ(A・フィリップ・ランドルフ、黒
 人指導者)が、フランクリン・ルーズベルトと会談し、
 「黒人の地位向上」を訴えた。
  この時点で、アメリカ海軍の総人員は、13万9000人だ
 ったが、黒人のアメリカ海軍軍人は皆無、0人だった。
  完全な人種差別状態だった。
  雑役夫と料理係に4000人の黒人の方々が居た。
  日米開戦後、人員不足で、アメリカは、やむを得ず黒
 人の方々を採用したが、
  それでも差別は止まらなかった。
  黒人の方々は、「艦船で、白人の軍人と一緒に戦うこ
 とが禁止されていた」。
  卑劣極まりないアメリカと、日本は戦っていた。
  大半の黒人の方々は、雑役か、港湾での爆弾運びの仕
 事だった・・悲劇が起きた・・
  1944年7月17日、サンフランシスコの軍港で爆弾が爆発
 した。
  大音響が轟いた。
  黒人雑役兵が、爆弾を運んでいた。
  近くの兵舎も吹き飛んだ。
  320人が即死し、390人が重軽傷を負った。
  アメリカの規則で、従事していたのは黒人の方々だけ
 だった。
  故に、犠牲者の大半は、黒人の方々だった。
  黒人の方々は、黒人の方々だけが、危険な仕事に従事
 させられて来たことに反発した。
  当然だった。
  また、この事故後のアメリカの国の対応でさえも、人
 種差別行為をしていた。
  事故後、白人将校達には、この事故を理由に「1ヶ月の
 休暇」が与えられたが、
  黒人の方々・雑役兵に対しては、何の配慮もされず、
 休暇は与えられなかった。
  黒人の方々・雑役兵は、「爆弾運びを拒否した」。
  そして、復帰命令に反発して、現場復帰をしなかった
 50人には、「反逆罪」が課せられた。
  そして、「15年の強制労働」という卑劣な厳罰が下さ
 れた。
  この時から50年を経た後に・・、
  クリントン・アメリカ大統領(第42代大統領)は、こ
 の人種差別の酷(ひど)いアメリカの状況を反省し、
  50年月以上をさかのぼって、この時に厳罰を下された
 一人の黒人兵に、嘆願を受け入れ、
  50年以上さかのぼって恩赦を与えた。
  今・現在の時点でも、アメリカは、人種差別をし、人
 種差別の恩赦を与えるという行為をしなければならない
 『遅れた国の実態』となっている。
  日本の事を内政干渉するべきアメリカという国の状態
 ではない。
  このランドルフ氏は、ワシントン行進を計画(軍需産業
 及び、政府内の雇用における人種差別を禁ずるという大
 統領行政命令8802号を引き出すという功績を残した。
  黒人指導者として頭角を現していたランドルフは、事
 態打開のために、この「ワシントン行進」を提唱し、こ
 の運動が戦時態勢下に実行されることを危惧したルーズ
 べルト大統領から、軍需関連産業における雇用差別を禁
 止する大統領行政命令第8802号を勝ちとるとともに、
  この行政命令の実施状況を監督する機関、公正雇用委
 員会を設立させた。
  A・フィリップ・ランドルフ(1889年~1979年)は、
 労働運動指導者、公民権運動家で、
  フロリダ州クレセント・シティに生まれた。
  ニューヨーク市立大学に学び、仲間と共同で職業紹介
 所を創設した。
  1917年(28歳)には、アフリカ系アメリカ人労働問題
 月刊誌「メッセンジャー」を発刊した。
  1925年(36歳)アフリカ系アメリカ人労働組合の最初
 の成功例、寝台車ポーター友愛会を設立した。
  1940年(51歳)アメリカ大統領と会談して、国人の地
 位向上を訴えた。
  1941年(52歳)大統領行政命令8802号を出させた。
  1944年(55歳)7月、サンフランシスコの軍港で爆弾が
 爆発し、黒人の方々が、大勢、亡くなった。
  1948年(59歳)トルーマン大統領に働きかけて軍隊内
 の人種差別を廃止させた。
  1960年(71歳)黒人アメリカ労働会議を結成した。
  1963年(74歳)公民権を求めるワシントン大行進を指
 揮した。
.
  そして・・、
.
1941年12月9日(アメリカ東部時間12月8日)、日本の真珠
 湾攻撃の翌日、フランクリン・ルーズベルトは、アメリ
 カ議会へ急いだ。
  日本への宣戦布告を議会に承認してもらうためだった
 (日本の、アメリカへの宣戦布告は、すでに、なされて
 いる)。
  ルーズベルトは、普段は、スピーチライターに演説文
 を書いてもらっているが、この時は、自分で書くとした。
  当初の演説草稿は、「昨日、12月7日は、世界史に残る
 日となるでしょう」で書き始められていたが、
  「世界史」の部分が、「汚辱」に書き換えられた。
  日本の攻撃行為や、攻撃個所などが生々しく書き加え
 られて行った。
  卑劣な演説文となって行った。
  日本を、「だまし討ち攻撃」をしたという印象を持た
 せようとした。
  そして、「汚辱の日を忘れるな」という呼びかけがな
 された。
  このルーズベルトの「汚辱の日」から、アメリカ国民
 の方々は、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘
 れるな〉」が生まれ、そして、誓った。
  しかし、こんな話、すべてが、ルーズベルトが仕組んだ
 ことだった。
  この様にして、議会演説書をルーズベルトは作った。
  ルーズベルトは、「劇的な効果を狙いたい」という狙
 いがあったことを、後に、手紙で友人へ書き送っている。
  そして、「大衆心理、あるいは、個人の心理状態を配
 慮した」と言った。
  そこまで考え、「煽(あお)る」ルーズベルトだった。
  ルーズベルトが、演壇に立った時、会場は熱狂に近い
 状態になっていた(ヒトラーの熱狂と同じだった)。
  ルーズベルトが、すぐに、演説を始められないほどだ
 った。
  アメリカ国民の方々は、この熱狂にあおられた。
  火付け役が、ルーズベルトだった。
  ルーズベルトは、「改革十字軍」という言葉を使った。
  「改革十字軍を助けてほしい」と言った。
  「武器をとれ」と言った。
  ヒトラーの『アジ演説』と何ら変わらない状況だった。
  アメリカは、戦争に引きずり込まれて行った。
  (日本が引きずり込まれ・・そして・・アメリカが引
 きずり込まれて行った)
.
  そして・・、
.
1946年、フーバー元大統領が訪日し、マッカーサーと会談
  フーバー元大統領が批判・・「ルーズベルトは狂気の男」
  (産経新聞、2011年12月7日、22:41)
  【ワシントン=佐々木類】ハーバート・フーバー第31
  代米大統領(1874年~1964年)が、日本軍が1941年12月
 8日、米ハワイの真珠湾を攻撃した際の大統領だったフラ
 ンクリン・ルーズベルト(第32代1882年~1945年)につい
 て、「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い
 込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判していたことが分
 かった。
  米歴史家のジョージ・ナッシュ氏が、これまで非公開だ
 ったフーバーのメモなどを基に著した「FREEDOM 
 BETRAYED(裏切られた自由)」で明らかにした。
  真珠湾攻撃に関しては、ルーズベルトが対独戦に参戦
 する口実を作るため、攻撃を事前に察知しながら放置。
  ドイツと同盟国だった日本を対米戦に引きずり込もうと
 した・・などとする「陰謀説」が日米の研究者の間で浮か
 んでは消えてきたが、
  米大統領経験者が、「陰謀説」に言及していたことが判
 明したのは初めて。
  ナッシュ氏の著書によると、フーバーは第33代大統領の
 トルーマンの指示で戦後の日本などを視察。
  1946年に訪日し、東京で連合国軍総司令部(GHQ)の
 マッカーサー元帥と会談した。
  その際、フーバーは、マッカーサーに対し、日本との戦
 争は「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男』
 の願望だった」と指摘。
  在米日本資産の凍結など1941年7月の経済制裁は「対独
 戦に参戦するため、日本を破滅的な戦争に引きずり込も
 うとしたものだ」と語ったという。
  マッカーサーも、「ルーズベルトは、1941年夏に、日本
 側が模索した近衛文麿首相との日米首脳会談を行い、戦争
 回避の努力をすべきだった」と批判していた。
  著書では、フーバーが、「米国から日本への食糧供給が
 なければ、ナチスの強制収容所並みかそれ以下になるだろ
 う」と、マッカーサーに食糧支援の必要性を説いていたこ
 とも詳細につづられており、
  フーバーの対日関与の功績に光を当てるものにもなって
 いる。
  ナッシュ氏は「この著書が、今でも米国の英雄とされて
 いるルーズベルト大統領への歴史評価を見直すきっかけに
 なってほしい」と話している。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2017-01-21 05:28 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)483E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年3月~1889年4月)

題:(増補版)483E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年3月~1889年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年3月22日、横浜相生町が大火となり、1600戸が焼失し
 た(1890年3月説あり)
  1889年4月、横浜は、市制を施行した(戸数:26000戸、
 人口:11万6000人)。
  そして、従来の消防を廃止し、新たに横浜警察署に移
 管した。
  そして、ホース絡車の消防隊を編成し、各派出所ごと
 に絡車1台に消防夫3人をもって1分隊とし、取締役1
 人を配置した。
1889年3月23日、北海道で麋鹿(となかい)保護のために、
 鹿猟が禁止となる。
1889年3月23日、土地台帳規則が制定された。
  地券と地券台帳を廃止し、地租は、土地台帳に記載さ
 れた地価を基準として徴収する旨が公布された。
  地券(ちけん)とは、明治初期に土地の所有権を示す
 ために明治政府が発行した証券のこと。
1889年3月31日、佐渡と生野の両鉱山が、帝室(皇室)財産
 に編入されて、宮内庁御料局の所管となり生野支庁と改
 称された。
  フランス人技師フランソア・コワニェ(薩摩藩当時に、
 領内の鉱業振興のために雇用されていた)と共に、生野
 銀山の近代化に取り組んできた朝倉盛明は、
  御料局移管と同時に、御料局理事生野支庁長に昇進し
 た。
1889年3月、由良要塞が起工された。
  由良要塞(ゆらようさい)は、大日本帝国陸軍の要塞
 の一つ。
  大阪湾防衛の目的で、紀伊半島と淡路島の間の紀淡海
 峡周辺に作られた。
  歴史・・、
  1889年(明治22年)3月、生石山第三砲台を起工、由良
   要塞の建設開始。
  1896年(明治29年)7月、由良要塞司令部開設
  1898年(明治31年)10月8日、司令部は兵庫県津名郡由
   良町に移転[2]。
  1903年(明治36年)5月、鳴門要塞を吸収合併
  1904年(明治37年)2月、動員下令(日露戦争)
  1913年(大正2年)4月、佐瀬川保塁、深山第一砲台、
   深山第二砲台、赤松山保塁、伊張山保塁、成山第一
   砲台、成山第二砲台廃止の方針が出た。
1889年4月1日、2府32県で市制・町村制が施行された。
  弘前市、横浜市、久留米市など31都市が選ばれる。
  横浜に市制が施行された(2万5000戸、人口:11万6000
 人)。
  1888年(明治21年)4月25日に市制と町村制が公布され
 この日に、施行された。、
1889年4月7日、大阪北野茶屋に9階建ての凌雲閣が落成した。
  同名の建物が東京の浅草にもあるが、これは、「浅草
 十二階」とも呼ばれた建物で1890年11月11日に開館した。
  そして、この大坂の凌雲閣は、大阪・北野茶屋町の遊
 園地「有楽園」内にたてられていて、9階建て、高さ39メ
 ートルだった。
  この9楼凌雲閣に先立つ1888年には、浪速区日本橋の遊
 園地「有宝地」内に、5階建て、高さ31メートルの眺望閣
 が造られていた。
  「キタの九階」「ミナミの五階」と呼ばれ、
  眺望閣は、六角柱状パノラマ式高塔で、日本で最初の
 西洋式高層建築といわれ、周囲には露天街もでき、1904
 年に解体されたが、通称としての地名が現在でも残って
 いる。
1889年4月8日、帝国大学文科大学に、中学校教員養成のた
 め、特約生教育学科を開設した。
  東京大学の教育学の教育は、1887年(明治20年)に始
 まった。
  その講義を担当したドイツ人教師が、エミール・ハウ
 スクネヒトだった。
  これが、東京帝国大学文学部教育学科の発祥点である。
  そして、彼の講じた教授理論(ヘルバルト派教授理論)
 が、その後、明治中期から後期にかけての、日本の教育
 学界、及び、教育現場の動向を強く規定していく。
  彼の携えて来た教授理論の影響力の大きさの故に、日
 本の近代教育学史・教育史のうえで、極めて重要な位置
 を、これが占めている。
  彼が、帝国大学に着任したのは1887年(明治20年)1月
 で、その翌々年の1889年(明治22年)2月から、帝国大学
 文科大学に「特約生教育学科」という特別の仮定が置か
 れた。
  そして、1890年(明治23年)には、12名の「特約生」
 が、その課程を卒業して行った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:高度な文明国なのか?
.
1933年9月、初秋のニューヨークの大通りが、25万人のデモ
 行進の群衆で埋まった。
  記録的な群衆だった。
  茶色の制服を着て、胸に青鷲(あおわし)の記章を付
 けた人々も居た。
  沿道は150万人の人々が居た。
  「私たちは国(アメリカ)のための役割を果(は)た
 している」と訴えていた。
  フランクリン・ルーズベルト政権へのアッピールと不
 満があった。
  ルーズベルトは、法改正などで強大な権力を得て、ま
 た、次なる権力も得ようとしていた。
  ルーズベルトは、「アメリカ企業をコントロールしよ
 うとしていた」。
  1933年4月12日の記者会見では、「アメリカ企業は、馬
 鹿げた過剰生産をしている」と、ルーズベルトは、不満
 を口にしていた。
  そして、「何とか規制したい」と言っていた。
  ルーズベルトの考え方は、「市場を放任しているから
 シッチャカメッチャカになるんだ」という考え方だった。
  「そんな、市場の放任の考え方は、今や破綻(はたん)
 している」と言った。
  「私は、自分のやり方(市場を放任状態にしない)が
 正しいと確信している」と言った。
  資本主義を救うには、ある程度の規制が必要だという
 考え方だった。
  ルーズベルト批判派は、「ニューディールは、ファシ
 スト運動だ」と批判した。
  しかし、ルーズベルトが、不況の克服の特効薬として
 推進した一連の構想は、1年も経(た)たない内に、次々
 と行き詰って行った。
  ルーズベルトの「ニューディール政策は、うまく行っ
 た」という話は、真っ赤なウソである。
  プロパガンダ(嘘宣伝)である。
  ルーズベルトが、不況克服のために、戦争需要を得て、
 景気刺激をしたがるのは、この点から発していた。
  その相手をさせられた日本が可哀想だった。
  可哀想を通り越し、それでは済まされない怒りが湧く・・、
  ルーズベルトが進めた「アーサーデール入植」も失敗
 する。
  金をいくら注ぎ込んでも駄目だった。
  内務長官(ハロルド・イッキーズ)は・・、
  「どんどん予算は膨張するし、まるで酒飲みの水兵が
 (酒代に給料のすべてを)注ぎ込むようなものだ」と、
 非難していた。
  こんな具合のものばかりのニューディール政策を・・、
 「成功した」と言いたかったアメリカは、
  経済復興のために戦争をしたと、本当のことを指摘さ
 れたくなかったからだった。
.
  そして・・、
.
1934年9月20日、アメリカにあった革命未遂。
  革命未遂の事は、アメリカのそのクーデター計画が、
 事前に暴露された事から判明された。
  1934年9月20日、計画が暴露された「アメリカ下院の非
 アメリカ特別委員会」は、アメリカ海兵隊の退役軍人ス
 メドレー・バトラー少将を証人として尋問した。
  少将は、明確に証言した、「ファシストによるクーデ
 ター計画が存在する」・・と。
  このバトラーに、ウォール街の債権ブローカーのジェ
 ラルド・マクガイアが接触して来たのは、1933年初秋の
 頃で、この約1年前のことだった。
  マクガイアは説明した、「ルーズベルトのニューディ
 ール政策は、アメリカの企業家精神を蝕(むしば)んで
 いる」・・と。
  そして、アメリカを救うには貴方(バトラーのことを
 将軍と言った)が・・「退役軍人を組織して立ち上がら
 ねばなりません」
  「ルーズベルトを軟禁するのです」
  「新政府を樹立すべきです」・・と。
  特別委員会の委員は、最初は、信じられないという表
 情をした。
  ジョン・マコーマック委員長も信じられないという様
 子だった。
  しかし、話を聞いて行くと・・、
  「バトラーが資金を300万ドル提示された」という話や、
  「有名企業のシンガーミシンの会長ロバート・クラー
 クが、5000万ドルもの軍資金を、すでに用意していた」
 という話や、
  「生活に困っていた退役軍人の兵士が、50万人、動員
 されることになっている」という話や、
  「銃は、レミントン社」が、
  「火薬は、デュポン社がまかなう」など・・、
  具体的な話が続くと委員たちは唖然(あぜん)とした。
  説明は、具体的で詳細だった。
  その基底に、ニューディールの批判を続けていて、強
 めていた「アメリカ自由同盟」の面々が連なっていた。
  マコーマック委員長は、その事実性を強め、心証を強
 めた。
  実際、フランクリン・ルーズベルトは、深刻な不況と
 はいえ、自由の国・アメリカで、「経済の国家統制」と
 いう、当時のファシズムや共産主義のような政策を行な
 っていた。
  この流れの先に・・、この国で初めての「政府転覆」
 という大掛かりな政治暴力がなされようとしていた。
  マコーマック委員長は、記者会見で、「バトラーは、
 証拠を持っている」と言った。
  そして、事件追求に自信を見せた。
  しかし、12月に入ると、不思議な事に、何故か? 公
 聴会は開かれなくなり、
  アメリカ国民の方々をつんぼ桟敷に置き、秘密のベー
 ルが降ろされた。
  そして、不明のうちに、その翌年の1935年2月に・・、
  証拠不十分として、追及は取り止めにするとされた。
  そして、委員会が、追及を中止した直後の1935年3月、
 マクガイアは、急に病死した。
  『反ニューディール勢力』は、以後、強い監視下に置
 かれた。
  「ルーズベルト潰(つぶ)し集団」のレッテルが貼ら
 れた。
.
  そして・・、
.
1936年頃、フランクリン・ルーズベルト大統領を・・、
  何か?おかしい大統領だと・・アメリカ国内でも、多
 くの方々が、その様に見ていた。
  国益をアメリカにもたらそうとするアメリカ大統領な
 のだが・・、
  共産主義のソ連と、枢軸国側(ドイツ、日本、イタリ
 ア、オーストリー)を共通の敵として戦っている間は、
  こだわりなく・・同じテーブルに座っていた。
  しかし、愚かにも、そのドイツや日本の枢軸国側の敗
 退が見えて来た頃より、
  まだまだ、戦いが続いているというその戦争中に・・、
  次なる敵が・・また、新たに見えてきたという輩たち
 だった。
  昨日まで、同じテーブルに座っていた者たちが、敵に
 見えてきた輩たち。
  連合国側のアメリカ・イギリスに対抗する共産国=ソ
 連が・・その敵対相手だと・・。
  愚かさの極みだった。
  キリスト教の「異端の排除教義」に洗脳され、毒され
 た者たちだった。
  ルーズベルト政権に居たホワイトは、「根っからの共
 産主義ではなく・・むしろ共産主義という理念が・・理
 想に見えた輩だった。
  そして、ソ連へ情報提供するというスパイ活動をした
 輩となった。
  ベンレートが言うように・・ルーズベルト政権には、
 ソ連のスパイたちが「うようよ」と居た。
  アイゼンハワー政権のブラウネル司法長官が・・、
  1953年11月に、アメリカ上院国内安全保障小委員会で、
 「ホワイト以外に、カリーや、陸軍省のジョージ・シル
 バーマンらの名前を明らかにした」ように・・、
  また、戦争中のソ連の交信記録(1943年~1944年)を
 解読したアメリカVENONA資料には・・、
  スパイ網は、FBI報告をはるかに上回る規模だった
 様に・・。
  何故、ルーズベルト政権に、ソ連協力者が浸透するこ
 とが出来たのか?
  また、浸透を止めることが出来なかったのか?
  1945年9月に、FBIに駆け込むまで、スパイ網の要
 (かなめ)にいたエリザベス・ベントレーは・・、
  『1951年8月、アメリカ上院国内安全保障小委員会で、
 ホワイトらの政府内の情報員の活動実態について』証言
 した。
  ベントレーは、「工作員の役割は、秘密文書を持ち出
 す事の他に、
  アメリカの政策(ルーズベルトの政策)に、こちらの
 望むような影響を与える事だった」と言っている。
  それで、何故か? ルーズベルトの政策がおかしかっ
 た。
  第二次世界大戦中のルーズベルト政権が、如何に、ソ
 連スパイによって浸透されていたか?
  議会の調査委員会や、FBIの捜査で、かなりの部分
 が明らかにされた。
  ルーズベルトのやっていることがおかしいと、動いた
 アメリカ国民の方々もあった。
  1936年1月24日、モーゲンソー財務長官は、この日の午
 後3時、いつものようにニュースを聞くと、
  「GM(ゼネラル・モーターズ社)が、突然、大量の
 米ドル売りを開始した」。
  米ドルは、英ポンドに対して急落した。
  これは、ルーズベルトへも伝えられた。
  ルーズベルトは怒った・・、
  「祖国の貨幣を貶(おとし)めるとは、これほど非愛
 国的行為を知らない」・・と、鋭い口調で言った。
  ルーズベルトが、これほど怒ったのは、翌日、民主党
 の大物が、反ルーズベルト演説をやる予定だったからだ
 った。
  これに呼応して、ドル売りをしたと・・。
  この演説会は、「アメリカ自由同盟」の主催で・・、
  GMや、デュポン社グループだったからだった。
  また、この頃、ルーズベルトは、大統領選の再選を意
 識していた。
  また、ニューディールを誇らしげに語っていたが・・、
  実際は、経済が好転したわけでもなく、また、失業者
 が減った訳でもなく、
  さらに悪い事に、国家復興庁(NRA)の価格統制が、
 違憲という判断が出て、
  その違憲判断などを受けて、『アメリカの自由を損ね
 ているルーズベルト』という見方や意見が、アメリカ国
 内で広まり、強まっていた。
  民主党のスミスは、米ドル売りの翌日、演説で言った、
  「ニューディールは、マルクスとレーニンの事なので
 す」・・と、
  そして、また、「問題は、ワシントンか?モスクワか
 ?」と、
  また、「星条旗か? それとも、赤旗か? の選択な
 のです」・・と。
.
  そして・・、
.
  題:遅れた国=アメリカの「人種差別から戒厳令まで」・・
.
1943年6月20日~22日、アメリカ合衆国で・・、
  白人の人種差別意識が原因とする『戒厳令も出るとい
 う騒ぎ』が起きた。
  銃撃戦がアメリカ国内で行われた内戦状態だった。
  アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトは、ど
 うしても黒人の方々を、同じ人間と見れない、同じ人た
 ちと認めたくないという大統領だった。
  奴隷解放したという「リンカーンだって」同じだった。
  リンカーンが奴隷解放したからと言って、黒人の方々
 に対して、差別観のない・・、人間として平等な感情を
 持っているのかと言えば、それは違うと言えた。
  それは、間違いだった。
  そうではなかった。
  このルーズベルトにしたって、黒人の方々に対して、
 人間として平等という『当たり前の感情』を持っていな
 かった。
  ルーズベルトのこの様な人種偏見を持った、差別感を
 持った大統領は、日本人に対しても、その様な感情(有
 色人種蔑視感情)を持った。
  故に、第二次世界大戦が、より悲惨な戦争となった。
  このルーズベルトの「人種差別観」は、キリスト教に
 よって生まれ、醸成された。
  ルーズベルトが、日本へ「無条件降伏」の要求をした
 のも、チャーチル英国首相でさえ、その異常さにびっく
 りしたのだった・・が、
  その「無条件降伏の日本への要求」は、キリスト教の
 「シャローム」の教義から来ていた。
  この卑劣なキリスト教教義は、「すべての殺戮と破壊
 から平和が来る」という教義で・・、
  キリスト教の有色人種蔑視の教義とともに、すべての
 殺戮・破壊が伴った。
  原子爆弾の投下とともに、完全破壊活動の末の「無条
 件降伏の要求」という「卑劣さを極めた」。
  この様なキリスト教のマインド・コントロールされた
 ルーズベルトは・・、
  同じアメリカ国民である黒人の方々へも「差別観をむ
 き出し」にし、差別観を持って対した。
  ルーズベルトの政策の中に「黒人の方々は無かった」。
  ルーズベルトは、民主主義を解きながらも、その民主
 の民には、「黒人の方々は含まれていなかった」。
  この差別観は、あらゆる面で生じていた。
  その差別に耐えて来た黒人の方々は・・、
  1943年6月20日から22日にかけて、やむなく行動を起こ
 した・・爆発した。
  黒人の方々は立ち上がった。
  白人たちは、黒人暴動だと表現した。
  フランス革命に市民の方々が立ち上がったのと同様に
 気高い行動だった。
  黒人の方々の行動は、当然の結果だった。
  立場を守る行動は美しかった。
  その行動は、デトロイトで起きた。
  切っ掛けは、公園で、黒人の方と、人種に対して蔑視
 観を持つ白人と・・その個人的口論から始まった。
  これが、公園にいた周りの人々を巻き込んだ。
  騒ぎは大きくなった。
  それだけ、ルーズベルトの政策をはじめ、白人たちの
 虐(しいた)げが「極限に達していた」。
  そして、双方が入り乱れての騒ぎとなり・・、
  止まることなく広がって行った。
  それだけ、黒人の方々が、ルーズベルトに始まる虐げ
 の中にいた。
  白人の・・黒人の方々への蔑視感があった。
  同じだという平等観から、尊重するという態度や姿勢
 はまったく無かった・・それが原因だった。
  それまでには、例えば・・、白人地区をただ歩いてい
 たというだけで、黒人の方が殴打された、
  そして、死ぬまでの殴打をされた・・この様な事が頻
 発していた。
  この様な差別観から来る差別行為が、この様な騒ぎと
 なった。
  差別観を植え付けたキリスト教の罪だった。
  ルーズベルトは、21日に戒厳令を発令した。
  この様な段階まで問題化した。
  名誉な事ではなかった。
  文明国ではなかった。
  ここまで騒ぎは大きくなった。
  『正規の黒人部隊』が武器庫を襲うという事態も起き
 た。
  革命である。
  アメリカ軍が出動した。
  戦争である。
  銃撃戦が行われた。
  死者35人、重軽傷者700人が出た。
  不名誉な人種差別の末の戦いだった。
  まったく遅れた人種差別の国=アメリカだった。
  この後にも、この様な騒ぎが、度々、起き、
  そして、戒厳令が出されたりするという「アメリカと
 いう遅れた国」だった。
.
  そして・・、
.
2016年、大富豪だが、質素な生活を送っているので尊敬さ
 れている投資家のウォレン・バフェット氏が・・、
  数年前に、2016年の事を予測して言った・・、
  「2016年以降のある時点で、アメリカは、対外債務の
 負担に耐え切れなくなり、深刻な財政危機と、通貨危機
 を引き起こすだろう。
  アメリカの国内政治は、動乱状態になるかもしれない」
 ・・と。
  奇しくも、トランプという大統領が登場した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2017-01-18 03:52 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)482E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年3月~1889年3月)

題:(増補版)482E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年3月~1889年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年3月14日、電信電話線私設条規(明治22年逓信省令
 第004号)が公布された。
  信書の秘密保護を訓諭(逓信省)
1889年3月14日、国税徴収法(こくぜいちょうしゅうほう、
 法律第 9 号国税徴収法)が公布された。
  旧国税徴収法(1897公布)は、1889年に制定された国税
 徴収法と国税滞納処分法とを統合したもの。
  この1889年(明治22年)の新たな国税徴収法・国税滞
 納処分法が制定されたが、
  これは、この年の明治憲法成立、同じく、この年の市
 制・町村制成立とも関連する。
  明治22税徴は、国税徴収に関する市町村の役割を明ら
 かにして、また、国税と一般債権との関係について、納
 税人が一般債権の負債により身代限りの処分を受けた時
 は、徴税令書を発している場合には納期に至らなくとも
 「他の債主に先立ち』税金を徴収すること(第14条)
  及び、その場合に、税金の納期限よりも1箇年前に「質
 入書入」をなしたものがあるときは、物件の売却代金を
 質入書入付き債権に充当してから税金を徴収すること(
 第15条)を既定した。
  さらに、租税の時効についても定めた。
  (獨協大学、小柳春一郎教授の論文などを参考にした)
1889年3月15日、大日本紡績同業連合会が、対罷工規約を制
 定した。
  大阪紡績を始めとする紡績会社の創業が進められるな
 かで、旧来の紡績聯合会も、1888年6月に改組されて、
 「大日本紡績同業聯合会」と改称した。
  その新しい規約第7条には・・、
  「罷工ヲナス等ノ場合」は、「速ニ其職工ノ姓名ヲ同
 盟中ニ通知」し、雇傭停止措置をとることとした。
  大阪天満紡績のストライキに先立つこと6ヵ月であるが、
 この規約は、当時、大阪紡績のストライキ対策に効果が
 あったという。
  (参考)ストライキとは、労働者による争議行為の一
 種で、労働法の争議権の行使として雇用側(使用者)の
 行動などに反対して被雇用側(労働者、あるいは労働組
 合)が労働を行わないで抗議することで、
  日本語では「同盟罷業」(どうめいひぎょう)、ある
 いは、「同盟罷工」と呼ばれ、一般には「スト」と略さ
 れる。
1889年3月16日、薬品営業・薬品取扱規則が公布された。
  薬品営業並薬品取扱規則(やくひんえいぎょうならび
 やくひんとりあつかいきそく、明治22年3月16日法律第10
 号)は、薬品の取り締まりや医薬品販売業に関する日本
 最初の法律で、
  1889年(明治22年)3月16日に公布、1890年3月1日から
 施行された。
  一般には「薬律」と呼ばれていた。
  人間の生活と医薬品は、極めて密接な関係があるので、
 医薬に関する法制(普通これを薬制と言う)も、相当、
 昔からあった。
  現在の薬事法の淵源は、この薬律、更に、それ以前の
 1874年(明治7年)の「医制」にまでさかのぼることが
 できる。
1889年3月22日、後藤象二郎が、逓信大臣に就任し、大同団
 結運動に亀裂が生じる。
  板垣退助らとともに愛国公党を組織し、民撰議院設立
 建白書の提出に参画し、のち、1887年(明治20年)反政
 府の大同団結運動を提唱し、巻き起こしていた。
  そして、機関誌「政論」を刊行するなどしたが
  1889年(明治22年)のこの年、黒田清隆首相に誘われ、
 政府に協力して、逓信相、農商務相などに就任して行く。
  若い時は、土佐藩士で馬廻(うままわり)格。
  義叔父の吉田東洋の推挙で登用されたが、東洋暗殺後
 は逆境にあり、
  藩論一変後の1864年(元治1年)に大監察となり、
  藩主・山内豊信(とよしげ)(容堂)の信任をえて、土
 佐勤王党を断罪、
  1866年(慶応2年)には、参政として開成館事業を運営し、
 長崎、上海に赴くなどして藩の「富国強兵」につとめた。
  坂本竜馬と相知り、幕府の第2次征長失敗後、
  竜馬の大政奉還策を将軍徳川慶喜によって現実化する
 ことにつとめた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:引っ掛け話・・日本が引っ掛かってしまう話・・
.
1915年1月18日、二十一カ条の要求
  日本は、第一次世界大戦に連合国側として参戦し、
  そして、ドイツと戦い、
  日本は、この戦争の勃発の翌年の1915年1月18日に、
  第一次世界大戦で戦う相手国・ドイツの「中国におけ
 るドイツの権益」を中国へ還付(かんぷ、返すこと)し、
  そして、日本への継承を中国(中華民国)に要求した。
  また、これは、満蒙の権益問題や、そこにいる日本人
 の保護についても話し合われ、決着した。
  日本の大隈重信内閣は、中国の袁世凱政府に二十一カ
 条の要求を示した(五項と二十一条からなる)
  なお、この要求は、第一次世界大戦の終結後の1919年
 6月28日に開かれたベルサイユ条約において、連合国(ア
 メリカ、イギリス、フランス、イタリア、ベルギー・・
 など)に認められた(ここが大事)。
  第一項:「山東省に関する件」日本のドイツ権益を継
 承を認めることと、
  芝罘(煙台)と膠済鉄道(青島~済南)をつなぐ新鉄
 道の敷設権を要求。(全4条)
  第二項:「南満州および東部内蒙古(内モンゴル)に
 関するする件」(全七ヵ条)
  その主なものは・・、
  (1)旅順・大連の租借期限を99ヶ年延長すること
  (2)日本人の土地租借権と土地所有権を認めること
  (3)日本人の居住と営業の自由
  (4)鉱山採掘権の承認
  (5)政治、財政、軍事についての顧問を求める場合は
 まず日本政府と協議すること
  (参考)この頃の状況を伝える史料・・、
  1)孫文は、「二十一カ条の要求は、袁世凱(えんせい
 がい)自身によって起草され、要求された策略であり、
 皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払
 った代償である」と述べている。
  因みに、孫文は、辛亥革命のとき、日本に資金援助と
 武器の援助を要求しており、
  そのかわり「満州をやる」と提案している。
  2)この頃、支那は、辛亥革命(1911年)によって、
 共和国が誕生していたが、非常に不安定な政権で、混乱
 が続いていて、大総統の袁世凱は「皇帝」になりたかっ
 た。
  3)アメリカ公使ポール・ラインシュの国務省への報告
 書には、「支那側は、譲歩すると約束したよりも要求が
 はるかに少なかったので、最後通牒の寛大さに驚いた」
 とある。
  4)中国は、策謀が錯綜(さくそう)する国で、
  また、権謀術数(けんぼうじゅっすう、人を欺くため
 のはかりごと。種々の計略)の国で、
  日本が、要求をのませたと言われているが・・、
  実際は、この逆であることが明らかになっている。
  日本が要求したとなっているが・・、
  当時の袁世凱・中華民国大総統が、「国民に理解させ
 るために、この様な形で出してもらいたい」と言ってい
 た。
  日本側が、積極的に出したものではなかった。
  袁世凱から、日本側へ頼んでいるのだった。
  しかし、策謀の国・中国の裏の目的は、「中国の引っ
 掛け外交」だった。
  これは、当時の外務大臣の加藤高明の自伝に記述され
 ている。
  また、東郷茂徳外相が、巣鴨プリズンで書いた回顧録
 にも記されている。
  そこには、「日本の武力行使だと見せかけたい」とい
 う中国があった。
  また、日本が、不当な要求を、武力で脅して押して来
 たと、世界に見せたかった、公表したかった。
  事実、国際社会での日本の立場は、中国の思惑通りに、
 急に悪くなった。
  日本は悪者にされた。
  そして、このことから、中国は、次に、成立した条約
 も無効だと言い掛かりを付けた。
  正当に話し合って、国と国が結んだ条約であっても、
 簡単に反故(ほご、無駄に捨てる)にできるの戦略だっ
 た。
.
  そして・・、
.
  (関連)「田中上奏文」:
  日本が、引っ掛かった事件。
  2005年、日本が引っ掛けられていたという事件の無実
 が明らかになった。
  2005年の春、モスクワのロシアのテレビやラジオ放送
 が、「田中上奏文は、ソ連KGBの前身のОGPUが偽
 造したものだ」と放送した。
  80年ぶりに日本の「濡れ衣」が、剥がされた。
  卑怯な事に、東京裁判のアメリカなどは、その事を知
 っていた。
  それで、「田中上奏文は、証拠にも取り上げなかった」。
  日本への有利な「この偽造証拠」は隠された。
  この当時の日本の痛手は甚大だった。
  この事も世界へプロパガンダ(嘘宣伝)されて、世界
 が日本への敵意を強くした。
  ルーズベルトも「日本への敵意を強くした」と言って
 いる。
  日本は、今・現代でも、この様な卑劣なプロパガンダ
 (嘘宣伝)する中国や韓国に対し、必要な資金をしっか
 り使って反駁すべきだ。
  正しい事を、正義を、しっかり世界へ伝え、主張して
 行かねばならない。
  また、今でも、このはっきりした捏造された嘘話を、
 中国は、教科書や辞典などに「事実だ」と記載している。
  嘘教育をしている。
  盧溝橋事件も、中国共産党軍が起こした謀略だったこ
 とが明らかになっている。
  こんな事ばかりだ。
.
  そして・・、
.
1929年~1930年、中国と満州で、日本人叩(たた)きが、
 最高潮に達した。
  中国をアメリカは支援し、「金と武器を、無尽蔵に流
 入させていた」。
  だから、中国は強気だった。
  そして、何故か?この頃、アメリカでも、日本を排除
 する風潮が盛んだった。
  ここに共通するアメリカは、世界も繰っていた。
  中国の日本人たちのそれまでの努力は、無に帰されて
 いた。
  露骨な「日本の追い落とし行為」が行われていた。
  長く続く、アメリカと同じ様な「排日行為」だった。
  日本人たちは、日本総領事館へ訴えるが、まったく無
 駄だった。
  アメリカに繰られた中国は、その様な行動を変えるつ
 もりは無かった。
  満州には、20万人の日本人と、80万人の朝鮮の方々が
 居た。
  この時は、朝鮮は、日本との併合関係にあって、一体
 で満州を開拓しようと努力していた。
  その朝鮮の方々へも危害を加えて来た。
  1931年6月~7月には、中国を正式なピザを持って旅行
 中の日本軍人が、中国軍に捕まり、秘密裏に殺害された。
  これを知って、日本国内で世論は沸き立った。
  アメリカの仕掛けに、中国も、日本も、はまって行っ
 た。
  中国は、日本からの調査依頼を無視した。
  逆に、「日本のデッチアゲだ」と反駁した。
  何か?この後の時代にも、この様な中国の対応があっ
 た。
  中国は、いつもこんな風だ。
  1931年7月には、朝鮮の農民の方々(200名)が、中国
 人に虐殺され、迫害された(万宝山事件)。
  日本の本国政府は、それなりに努力しているが、中国
 の誠意は見られなかった。
  また、日本政府も国際協調・日中(支那)友好を大切
 として、実行の上がらない、空転が続いていた。
  現地の満州は、切羽詰まっていた。
  実効ある対応が、切実に必要な状態にあった。
  陰にアメリカが居る中国は、強気で、止(とど)まる
 ことを知らなかった。
  事が大きくなることを狙った行動が続いていた。
.
  そして・・、
.
1930年代、アメリカは、ソ連のスパイ網が、アメリカの政
 府中枢に張り巡らされて居るという情報を掴んだ。
  それで、アメリカは、アメリカ国内のソ連高官とモス
 クワとの秘密電信を解読する作戦を始めた。
  第二次世界大戦前の日本も、アメリカに傍受されてい
 て、完全に暗号は解読されていて、
  日本が困っていることなど・・すべての状況を手の内
 にして、日本の戦争へ至る道を繰っていた。
  また、ハワイへ向かう日本の連合艦隊の通信なども完
 全に傍受し、
  ハワイへ迫る艦隊の位置情報も知っていた。
  『奇襲攻撃』なんて、アメリカ・ルーズベルトの作り
 ごと。
  アメリカは、国内のソ連高官とモスクワとの秘密電信
 を解読する作戦を始めたが、
  この作戦は、アメリカ陸海軍情報部の通信傍受部隊に
 よってひそかに進められた。
  1943年、また、この年の後半は、特に、盛んとなって
 行った。
  この長い期間に、アメリカ政府内に、何と200人近いソ
 連側への情報提供者が居た。
  そして、政府中枢部のスパイが浮かび上がった。
  (今・現在も、アメリカは、盛んに日本を含む世界中
 に、傍受作業を行なっている、当然に・・、)
  ソ連は、信じられない様なスパイ網をアメリカに作り
 上げていた。
  第二次世界大戦の終了間際は、その頂点に達していた。
  (今・現在も、中国は行なっていて、アメリカの次期
 大統領のトランプは、中国を含むロビーイスト達などを
 含む情報員を、排除する考えを明らかにしている。
  また、日本にも、中国の組織員が多く潜入している事
 が知られている)。
  アメリカは、ソ連のスパイであったアメリカ政府高官
 の名前もつかんだ。
  (日本の今・現在の官僚にも、多く中国と連絡をとり、
 情報提供する官僚が多くいる)。
  大統領補佐官の「ロークリン・カリー」、財務省次官
 の「ホワイト」までがスパイだった。
  (日本も、今・現在、『国防の話』が安心して開けな
 い状態となっている)。
  この組織は、戦後、5年を経て崩壊した・・と言われて
 いる?
  スパイ網の解明に重要な役割を果たしたのが『KGB
 電信』だった。
  (参考)KGB:ソ連国家保安委員会(それんこっか
     ほあんいいんかい、略称:КГБ(カーゲーベ
    ー)は、1954年からソ連崩壊(1991年)まで存在
    したソビエト社会主義共和国連邦の情報機関・秘
    密警察。
     軍の監視や国境警備も担当していた。
     東西冷戦時代にはアメリカの中央情報局(CIA)
    と一、二を争う組織と言われていたが、ソ連崩壊
    と同時にロシア連邦保安庁(FSB)に権限を移行し
    た。
     日本での略称は КГБ を翻字した KGBが使わ
    れる。
  このホワイトからの政府高官のスパイへ、アメリカ政
 府内の200人近い者たちが、アメリカの情報を提供する
 『情報提供者』となっていた。
  アメリカの情報が、秘密情報が、大量に流れ出ていた。
  しかし、これでも、アメリカが、秘密流出のスパイ行
 為の裏付けとして解読に成功したのは2900通で、交信全
 体の数パーセントに過ぎず、
  判明した部分は、ほんの僅かとなっている。
  ソ連スパイだったアメリカ政府内にいた不明な高官
 「X」は、1943年5月、ワシントンでの、ルーズベルトと
 チャーチルの米英首脳会議にも加わっていて、
  この両首脳と意見を交換するほどの高官だった。
  アメリカ政府高官のハリー・ホワイトのスパイ発覚が
 明らかになって、急速に、すべての状況が明らかになっ
 て行った。
  アメリカでは、この衝撃が、アメリカを1850年代、極
 端な反共運動(マッカーシズム)へと突き動かした。
  そして、ルーズベルトの半世紀の後までも、まだ、ソ
 連スパイ網が出来ていた。
  (今・現在も、日本において、中国工作員が多くいる
 と判断されるリトマス試験紙が、
  今・現在、こんなに、中国経済がシッチャカメッチャ
 カで、中国崩壊の可能性が大きい時に、同じ言葉で、口
 裏を合わせて、同じ様な論理で、「平気だ、平気だ」と
 同じ様に言う者たち・・)
.
  そして・・、
.
1930年、アメリカ合衆国に「黒シャツ隊」が結成された。
  世界大恐慌の真っ最中のアメリカ社会で、仕事のない
 社会だった。
  この「黒シャツ隊」は、「白人が仕事を得るまでは、
 すべての黒人の職を奪うのだ」という行動目標が掲げら
 れていた。
  また、この頃、黒人の方々は、白人たちから「リンチ」
 を受けていた。
  死者が出るという激しいものだった。
  ルーズベルトは、この様な時、1933年に、アメリカ大
 統領に就任した。
  黒人の方々は、黒人の方々の人権を守るために、「全
 米黒人地位向上協会(NAABC)」を結成した。
  そして、1938年、リンチを取り締まる「連邦法」の成
 立を求めて行動した。
  しかし、ルーズベルトは無視した。
  ルーズベルト政権の支援も得られず、廃案とされた。
  リンカーンが「奴隷解放した」と言うが、リンカーン
 には奴隷解放の意思はなく、
  社会の流れが、長い黒人の方々の虐げの終わりを、さ
 すが、続けていられないという反省・反動の中で、終わ
 る流れの中にあっただけで・・、
  その自由になった黒人の方々を、アメリカは、どうし
 ようと・・そして・・、
  そして、「リベリア」というアフリカの土地を取得し、
  そのアフリカの地を独立させ、自由黒人の方々を棄民
 しようとした。
  そして実行した。
  リンカーンも賛成していた、この政策を推し進めた。
  この様な社会のアメリカのその後も、この1863年のリ
 ンカーンの奴隷解放宣言の後も、黒人の方々は虐げ続け
 ていた。
  何ら立場は改善されずに居た。
  最下層の仕事にしかつけず、与えられずにいた。
  ルーズベルト大統領の世界不況の時は、さらに、黒人
 の方々は虐げられた。
  この頃の黒人の方々の失業率は、5割以上、5割を超え
 た。
  白人優先だった。
  黒人の方々への差別は激化していた。
  そして、アメリカ社会は、黒人の方々の「職を奪う」
 風潮が荒れ狂った。
.
  そして・・、
.
  題:グローバル・スタンダードに合わせるという事で
   戦争への坂を下りて行った・・、
    国際協調一点張りでは無理・・、
.
1931年9月18日、満鉄線爆破事件が起きた。
  この事件が・・満州事変の引き金を引いたとされるが・・、
  国際法で、国家間の懸案を解決をするため「保障占領」
 が認められていて合法だった。
  この事件が起きる直前に、「中国側が、今後も、日本
 側の抗議に応じないなら、奉天の町を軍事占領(保障占
 領)する」と検討されていた。
  それが、日本の総領事館で検討されるほど、中国の行
 動は過激だった。
  また、この事件に至る悲劇だったのは、また、この事
 件の遠因となったのは、日本の経済的不安定を生み出し
 たウォール街を発信源とする世界恐慌だった。
  そして、日本の経済的不安定を生みだした「このウォ
 ール街を原因とする恐慌」に対する索=「金解禁」の政
 策だった。
  浜口雄幸を首相とする浜口内閣の大蔵大臣の井上準之
 助は、「グローバル・スタンダード」に合わせるという
 考え方だった。
  (今・現在も「グローバリズムが良いのだ」というア
 メリカを発信源とする花が咲いているが?)、
  そこで、この井上準之助・大蔵大臣は、前記の様に、
 世界がウォール街を震源とする「株の大暴落の大嵐の中」、
  また、金本位制が、世界で崩れつつあるという中、
  井上大蔵大臣は、グローバルだと、それが良いのだと
 の理想を掲げて、その理想のなせる罪=金解禁を行なっ
 た。
  その結果、日本経済は「めちゃめちゃ」になった。
  奈落のどん底へ突き落とされた。
  やってはいけない、下劣なるグローバル協調路線を突
 き進んでしまっていた。
  日本は、必死に国際協調しよう、しなければとしてい
 たが、日本を潰(つぶ)したいというアメリカの思惑は
 変わらなかった。
  そして、この後、悲劇の「リットン報告書」が出て来
 る。
  グローバル主義には、「日本の伝統の否定」があり、
  また、「日本の文化の否定」があり、
  「日本の天皇制の否定」があった。
  また、この事について、コミンテルンも同調していた。
  そして、国内に同調する大学の教授陣が居り、
  また、取り込まれた官僚と、その上の高級官僚、
  そして、外務省官僚が居て(今・現在と非常に似てい
 た)、
  戦争への坂を、アメリカの頑(かたく)なな方針と共
 に降りて行った。
  「抵抗するものは排除」としながら戦争への坂を降り
 て行った。
  さも、「異教徒は殺せの排除思想」の行動だった。
  (参考)保障占領:ほしょうせんりょう、条約上の一
    定条件の履行を、相手国に間接に強制するために、
    相手国領域の一部 (ときには全部) を占領するこ
    と。
     講和条約が発効し、交戦国間に平時関係が成立
    したのちも、条約上の義務、たとえば、賠償支払
    義務、その他の条約実施を確保するために行われ
    る。
.
  そして・・、
.
1931年9月、フーバー大統領の政権に居た国務長官のスティ
 ムソンは、フーバー大統領へ二つの案を提示した。
  「経済制裁を行なって、日本を圧迫する」という案と、
 「国際世論を喚起して、警告する案」・・だった。
  スティムソンは、フーバー大統領へ、前者の「強行策
 の経済制裁」を勧めるのだった。
  しかし、フーバー大統領は、冷静に、次のように言っ
 た。
  「いかなる国も経済を破壊され、国が飢える様な制裁
 に、素直に応じるとは思えない」、
  「制裁は、銃撃を伴わない戦争行為である」・・と、
  また、フーバー大統領は言った・・、
  「イギリスやフランスも中国に利権を持っていて、日
 本と同じことをしている」、
  「日本に仲間意識も持っている」・・と。
  日本だけを経済制裁をするという『論理の公正さが無
 い』と指摘した。
  フーバー大統領の偉い所は、『自分たちも同じことを
 やっている』と考えた所だった。
  アメリカは、「フィリピンで、甘い汁を吸っていた」。
  そして、フーバー大統領は確かめた。
  「経済制裁の延長線上にある戦争の可能性について、
 真剣に考慮した。
  そして、実際、極秘で、対日参戦の意志を確認した。
  アメリカは、ルーズベルトの前の「フーバー大統領の
 時」でさえ、「日本との一戦の考え方が存在して居た」、
 「日本と戦う」の考えが存在していた。
  このフーバー大統領の後のルーズベルト大統領が、「
 日本に、真珠湾攻撃の奇襲攻撃をされたから、第二次世
 界大戦が起きた」と、急に、戦争に至った様に言うのは、
 『下手な茶番劇』だ。
  下手な演技はするな・・と言いたい。
  フーバー大統領は、この時、「イギリスに、戦争開始
 の意志を確かめた」、そして、否定されている。
  また、フーバー大統領は、「陸海軍長官に、日本に勝
 利することが出来るか?」と、その可能性を確認してい
 た。
  そして、フーバー大統領は、「日本と開戦すれば、ア
 メリカの植民地のフィリピンが占領されるだろう」と予
 測していた。
  また、「イギリスの参戦が望めないと・・参戦否定さ
 れているので、イギリスの参戦が望めないなら、戦争は
 長引き、5年間が戦争期間になるだろう」と予測し、
  「その為の戦争準備が必要である」としている。
  そして、急な開戦は無理として・・、
  「戦争をするのは、問題外」としている。
  スティムソンは、フーバー大統領の考え方に「完全に
 一致した訳ではなかった」・・が、「戦争は、回避しよ
 う」という考えに至った。
  スティムソンの考えは、「経済制裁で戦争に至ること
 はない」「経済制裁で日本の行動を止められる(自分た
 ちだけは、甘い汁は、吸い続ける・・だった)」。
  日本は、「日本から自分たちの資本を持って行って」、
 その資本を投下して、そして、共に豊かになろうという
 方針だった。
.
  そして・・、
.
  題:実質、戦争だという策を、アメリカは採用した。
.
1931年10月、アメリカの国務長官が、二つの提案をした。
  そして、これに始まって・・、
  1941年7月25日、フーバー大統領が、「戦争になるよ」
 と言った経済制裁の、最も強い制裁である制裁が、ルー
 ズベルト大統領によって、日本に加えられた。
  それは、アメリカにある「日本の資産が凍結された」
 のだった。
   第37代大統領であるフランクリン・ルーズベルト大
 統領の前の大統領であるハーバート・フーバー大統領は、
 回顧録に書く・・、
  フーバー大統領の時の国務長官であるスティムソンは、
 1931年10月の段階で、日本の行動を止めるための提案を
 二つした。
  一つが、国際社会による経済制裁であり、
  もう一つが、外交と国際世論による説得だった。
  そして、フーバーは言う・・「私は、もちろん後者を
 望んだ。
  だが、国務長官(スティムソン)は、外交官と言うよ
 りも戦士の様であり、
  『制裁で解決できると信じていた』。
  国務長官(スティムソン)は、制裁が、戦争につなが
 ると考えなかったようだが・・、第一次大戦の経験に照
 らせば・・大国に対する経済制裁は、「実質的な戦争を
 意味していた」。
  スティムソンは、強硬策を主張した。
  そして、このスティムソンの考え方は、ルーズベルト
 に継承された。そして、
  1940年6月、ルーズベルト政権の陸軍長官に、このステ
 ィムソンが迎えられた。
  ルーズベルト大統領の政策が、より一層、日本への強
 い経済制裁へとエスカレートして行った・・そして・・、
  1941年7月25日、アメリカ国内の「日本の資産が凍結さ
 れる」という最強の制裁をアメリカは日本へした。
  アメリカは、常に、強硬策を日本へ加えるという『強
 者の立場』と『強者の論理』の中に居た。
  フーバー大統領ではないが、ルーズベルト大統領は、
 戦争を仕掛け行為をするのに夢中な中にいた。
.
  そして・・、
.
1932年7月2日、ルーズベルトは、民主党の大統領候補の指
 名を受け、シカゴで『ニューディール』の呼びかけを行
 っていた頃、アメリカの首都ワシントンのアメリカ議会
 周辺では、2万人以上の退役軍人らが、居座りテントで埋
 まっていた。
  この人たちは、第一次世界大戦後、帰還しても仕事が
 無く、極貧の生活を送らざるを得ない方々だった。
  不況の最大の犠牲者の方々だった。
  政府が約束した「退役年金のボーナス」を即座に支払
 うようにと求めていた。
  通りや空き地、そして、道路に面したビルなどを占拠
 していた。
  1932年7月28日、朝、群衆の投石で始まった小競り合い
 は、警察側の発砲で退役軍人の2人が即死した。
  これがきっかけで、群衆の5000人以上が、レンガやこ
 ん棒を手に暴れ回って、手が付けられない状態になった。
  午後になって、警察は、フーバー大統領に、軍の出動
 を要請した。
  アメリカ陸軍参謀総長のダグラス・マッカーサー(後
 のGHQ最高司令官)は、直ちに、軍を出動させ、鎮圧
 を命じた。
  6両の戦車も出動して、銃剣を付けた歩兵大隊、そして、
 サーベルを抜刀した6縦列の騎兵隊が出動するという物々
 しい市街戦もどきとなった。
  テントなども焼き払われた。
  内乱の様相だった。
  アメリカ国民の方々は、一層、不安と恐怖に陥(おち
 い)った。
  群衆には革命を起こしたいという意図があったと言わ
 れた。
  作戦に参加したアイゼンハワーやパットンは、英雄と
 祭り上げられて行く。
.
  そして・・、
.
1933年、アメリカの失業者数が、最悪の1400万人に膨れ上
 がった。
  因みに、1929年の4年前は155万人・・で、
  1930年は、434万人だった。
.
  そして・・、
.
1933年2月15日、ルーズベルトが狙撃された。
  アメリカ大統領に就任する約2週間前、ルーズベルトは
 狙撃された。
  アメリカは、この様な社会不安の中にあった。
  破壊的な不況が社会をむしばんでいて、アメリカ国民
 の方々は、恐怖に捉(とら)われていた。
  「社会改革。さもなくば革命を」という事を、初期の
 ルーズベルト政権を支えたアドルフ・バーレは警告した。
  この狙撃された日、ルーズベルトは、友人のヨットで
 カリブ海を周遊していた。
  そして、国民や支持者に顔を見せ、挨拶したいと、マ
 イアミ公園に立ち寄ることになった。
  会場は、新大統領を、一目、見たいと群衆が溢(あふ)
 れた。
  そこに警護官に警護されたルーズベルトのオープンカ
 ーが現れた。
  後部座席のルーズベルトは、群衆の歓声に手を挙げ応
 えた。
  ルーズベルトは、簡単な挨拶ぐらいで立ち去ろうと思
 っていた。
  近くには知人のシカゴ市長のアントン・サーマック氏
 が居た。
  サーマック氏が、ちょうど、ルーズベルトへ話し掛け
 た時、鋭い銃声がした。
  銃弾は、サーマック氏の胸を貫いた。
  ルーズベルトからわずか10数センチの所だった。
  サーマック氏は、これで死亡した。
  群衆の数人も、流れ弾で重傷を負った。
  青年の単独犯行ということで、大きな政治事件になら
 なかった。
  この様な血なまぐさい事件が、この頃、アメリカでは
 頻発していた。
.
  そして・・、
.
1933年3月4日、フランクリン・ルーズベルトが、第37代ア
 メリカ大統領就任式に臨んだ。
  ルーズベルト大統領は、大統領就任の時点で、すでに、
 不埒(ふらち、道理が外れていて、けしからぬこと)に
 も、戦争を利用した景気浮揚策が、彼の頭の中にあった。
  アメリカ国民の方々の8割以上が「戦争はしない」とし
 ていて、また、ルーズベルト本人も、大統領選挙期間中
 に、何度も何度も「戦争はしない」と宣言していた。
  しかし、その様に宣言していたのに、ルーズベルトの
 頭の中には、世界恐慌から脱却するためには戦争需要を
 利用しようという考えがあった。
  ルーズベルトの前任の大統領のフーバーは、ルーズベ
 ルトへ、「国際経済を重視すべき」と訴え続けた。
  しかし、ルーズベルトは、フーバーを避け続けた。
  世界経済とともにアメリカ経済も転落の一途をたどり
 続けていた。
  取付け騒ぎが連鎖的に起きていて、銀行は、次々と閉
 鎖状態に追い込まれていた。
  アメリカ経済は、急速な悪化の中にいた。
  フーバーは、1933年2月、退任まであと10日しかない時
 点で、ルーズベルトへ手紙を書いた・・、
  「不況の問題は、人々の心の中に潜んでいる。
  将来への不安な増大し、今や危険点に達している。
  新大統領である貴方(ルーズベルト)の確約こそ人々
 に自信をよみがえらせ、購買欲を引き起こし、景気を回
 復させることが出来るのです」・・と。
  ニューヨークで、風刺劇を観劇中に、この親展の手紙
 を手渡されたルーズベルトは、それを無視しただけでな
 く、2週間も返事さえ書かなかった。
  1933年3月4日、ルーズベルトは、大統領就任式に臨ん
 だ。
  ルーズベルトは演説で言った・・、
  「偉大な国は必ずや復活し、栄える。
  恐るべきは恐慌です。
  必要なのは行動であり、重視すべきなのは失業者を仕
 事に就かせることなのです。
  この危機に直面し、私は、戦争をも想定したような幅
 広い権限を議会に求めるでしょう。
  実際、外国の侵略を受けた時に与えられるであろうほ
 どの強大な権限をです」。
  民衆へ言った。
  当時、急速に普及したラジオで、多くのアメリカ国民
 の方々がこれを聞いた。
  これを聞いたルーズベルトの妻のエレノアは、ルーズ
 ベルトが演説で『戦争を想定した』と言ったとたん、聴
 衆が思わず歓声を上げ、拍手喝采(かっさい)した事に
 「恐ろしい印象を受けました」と語っている。
  まったく、ドイツのヒトラーの民衆を煽(あお)る『
 アジ演説』と同じ、ルーズベルトの演説だった。
  取付け騒ぎ(とりつけさわぎ)とは、特定の金融機関
 や金融制度に対する信用不安などから、預金者が預金・
 貯金・掛け金等を取り戻そうとして(=取り付け)、急
 激に金融機関の店頭に殺到し、混乱をきたす現象のこと。
  アジ演説は、民衆を扇動する演説。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2017-01-15 05:23 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)481E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年2月~1889年3月)

題:(増補版)481E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年2月~1889年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年2月、全国で憲法発布の祝賀会が行われる。
  理解していない人も多かった。
  1889年2月9日:東京では、11日日の憲法発布をひかえ
 てその準備のため、言語に絶する騒ぎを演じていた。
  至るところで奉祝門(ほうしゅくもん)、イルミネー
 ション(照明)や行列等の祝賀行事が行われた。
  だが、こっけいなことには、誰も憲法の内容を存じな
 いのだ。
  1889年2月11日(東京)本日、憲法発布。
  天皇陛下の前には、やや左に向かって諸大臣、高官が
 整列し、そのうしろは貴族で、そのなかに、維新がなけ
 れば立場をかえて将軍であったはずの徳川(田安)亀之
 助氏(徳川家達氏)や、
  ただ一人(洋服姿でいながら)なお、正真正銘の旧い
 日本のまげをつけているサツマの島津侯(忠義=島津久
 光の長男で、開成所を創設、藩の近代化を進め、また、
 1867年、密勅を受けて上洛し、王政復古に尽力した)を
 認めた。
  珍妙な光景だ!‥‥残念ながらこの祝日は,忌(い)
 まわしい出来事で気分がそがれてしまった――森文相の
 暗殺である。
  1889年2月16日(東京)日本憲法が発布された。
  新聞が、すべて満足の意を表している。
  東京帝国大学で26年間医学を講義したドイツ人医学者
 ベルツの日記より抜粋した)
1889年2月12日、黒田清隆首相が、地方長官に超然主義の
 方針を訓示した。
  超然主義は、他の動きには関知せず、自分の独自の立
 場から事を行うという主義で・・、
  大日本帝国憲法下で、藩閥官僚政府が、政党の影響を
 受けずに政治を運用しようとした政治姿勢を言った。
  この時の黒田清隆首相が、地方長官を鹿鳴館に集めて
 演説した。
  その中で、「政府は、常に一定の方向を取り、超然と
 して政党の外に立ち、至公至正の道に居らざる可らず」
 とのべたことから『超然主義』が一つの政治姿勢をあら
 わす言葉として使われるようになった。
  大日本帝国憲法は、政党内閣を制度として認めていな
 い。
  藩閥官僚、とりわけ山県有朋系の官僚内閣に政党政治
 から距離を置く傾向があった。
  (薩長閥の均衡と交代を基調に、組閣や内閣運営を行
 なう体制としたいという意向だった)。
  しかし、政党の政治的力はしだいに強まって行った。
  その後、超然主義を持続することは困難となった。
1889年2月13日、海軍治罪法が公布された(2月15日説あり)
  海軍治罪法は、大日本帝国海軍の軍人を主な対象に施
 行された軍法で、
  1884年(明治17年)に、海軍治罪法(明治17年3月21日
 太政官布告第8号)として制定され、
  1889年(明治22年2月15日法律第5号)に全部改正され
 た。
  1922年(大正11年)に「海軍軍法会議法」(大正10年
 4月26日法律第91号)が制定され、それにより廃止された。
  構成は・・、
  第一章:総則、第二章、軍法会議ノ構成、第三章:軍
 法会議ノ権限、第四章:海軍検察、第五章:審問、第六
 章:判決、第七章:再審、第八章:復権、第九章:特赦
1889年2月15日、秋田新報(秋田日報)をあらためて、秋田
 魁新報(あきたさきがけしんぽう)が創刊された。
  東北地方で最も長い歴史を持つ新聞で、首相になる犬
 養毅が主筆を務めていた時もあった。
1889年2月23日、『女学雑誌』が、皇室典範を批判した。
  女学雑誌は、1885年7月に、「女学新誌(1884年)」の
 後身として創刊された女性向け婦人雑誌で、
  (婦人論が活発になった風潮をみて「女学新誌」を、
 1年で廃刊して「女学雑誌」を創刊した)
  編集のほとんどを明治女学校の校長・巌本善治が担当
 し、
  男女同権論や自由恋愛論など、婦人解放の立場に立っ
 た啓蒙的な活動をしていたが、
  その後は、北村透谷、石橋忍月、山路愛山、内田魯庵
 らを登場させ、明治浪漫主義文芸運動の母体となった 。
  明治20年代(1887年代)のオピニオン・ジャーナリズム
 の一翼を担った。
  1904年(明治37年)2月、526号で廃刊となった。
  (1903年には『文学界』が分離独立していった)
1889年2月、『頓智協会雑誌』が、憲法発布に合わせ、宮武
 骸骨が程度の悪い絵などを使い、
  寓意画入りの「頓智研法発布」論説を掲げ、 不敬罪で
 発禁処分を受けた。
  (同誌創刊者で編集発行人の宮武外骨(みやたけがい
 こつ、20歳)は、3月4日に、収監された)
1889年2月、全国で、憲法発布に関する錦絵出版が盛んにな
 る。
1889年3月2日、東京図書館官制を公布し、東京図書館を文
 部省直轄機関として独立させた。
  東京図書館官制公布によって東京教育博物館から分離
 し、独立の図書館となるが、
  財政や施設が、ともに貧弱であり、国立図書館という
 にはまだまだ不十分でだった。
1889年3月9日、参謀本部条例、海軍参謀本部条例が公布さ
 れた。
  参謀本部は、創設以来、日清戦争に至るまで、制度は
 しばしば改正された。
  外征ができるための機構の改編だった。
  1886年(明治19年)、参謀本部は、陸海軍を統一管掌
 する機関となった。
  そして、参謀本部に陸軍部と海軍部が置かれた。
  1888年(明治21年)に、陸海軍を統一管掌する参謀本
 部を参軍と改めた。
  そして、その下に陸軍参謀本部と海軍参謀本部を置く
 制度となった。
  機構の充実のための措置だった。
  翌年の1889年に、参軍制は廃止され、参謀本部条例が
 制定されて、陸軍の軍令機関として参謀本部は残り、
  海軍の軍令機関は、海軍大臣に属する海軍参謀本部に
 機構を縮小された。
  1889年5月、陸地測量部条例が公布された。
  参謀本部の一局であった測量局は分離され、本部長直
 属の独立官庁として、陸地測量部となった。
  その主務は、「陸地測量を施行して兵要地図、及び、
 一般の国用に使うべき内国図を製造し、修正して正す業
 務、そして、その他の量地に関する事を行なった」。
  そして、下部組織に三角・地形・製図の三科、および、
 修技所を置いて、測量局の業務を引き継いだ。
  この時の組織改正によって、全国規模で行われる測量
 については、行政上・国防上の見地から、陸地は陸軍に、
 水路は海軍で、それぞれ統括するという方針が組織面か
 ら確立された。
  これは、1945年の終戦まで継続された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカのこと・・、
.
1924年7月1日、アメリカは、卑劣にも「排日移民法」を施
 行(しこう、実際に行うこと。政策などを実行すること)
 した。
  アメリカは、日本を、国家として貶(おとし)めた。
  また、アメリカは、日本人を人種として貶めた。
  また、アメリカは、日本の文明を貶めた。
  アメリカは、その様な、あらゆる点で、日本を貶める
 法規を作った。
  日本へ、そして、日本人へ、強い劣等意識を突き付け
 た。
  何ら、その法の根拠はなく、ただ、感情的に差別した。
  根には、キリスト教の有色人種蔑視の教義・考え方が
 あった。
.
  そして・・、
.
1927年(昭和2年)3月、昭和金融恐慌(経済恐慌)が発生
 した(日本経済)。
  因みに、世界大恐慌は1929年に始まった。
.
  そして・・、
.
1928年、アメリカ大統領のフーバーが、「貧困という言葉
 が無くなるだろう」と豪語するくらい、アメリカは好景
 気だった。
  しかし、この時、アメリカ景気は、曲がり角に来てい
 た。
  第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは、大戦への
 輸出によって発展した重工業の投資、
  帰還兵による消費の拡張、
  モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍
 進、
  ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、
  同地域への輸出の増加などによって・・「永遠の繁栄」
 と呼ばれる経済的好況を手に入れた(この後の時代のル
 ーズベルト大統領も第二次世界大戦を引き起こして利用
 した戦争景気)。
  1920年代前半に、既に、農作物を中心に余剰が生まれ
 ていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題
 は発生しなかった。
  しかし、農業の機械化による過剰生産とヨーロッパの
 復興、相次ぐ異常気象から農業恐慌が発生。
  また、第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国
 の購買力も追いつかず、社会主義化によるソ連の世界市
 場からの離脱などにより、アメリカ国内の他の生産も過
 剰になって行った。
  また、農業不況に加えて、鉄道や石炭産業部門も不振
 になっていた。
  1927年に、ジュネーブで行われた世界経済会議では、
 恐慌に備えて商業・工業・農業に関する多くの決議が審
 議・採択された。
  商業では、関税引き下げ、
  工業では、コストダウン目的の産業国有化、独占禁止
 と生産調整の国際協定、
  農業では、方法の改良と資金の貸付について議論され
 た。
  しかし、決議そのものは、各国議会から無視されてし
 まっていた。
  3月には昭和金融恐慌が起きた。
  そして、1929年7月30日、ニューヨーク・タイムズが
 信用収縮に直結するような重大事を書いた。
  ニコライ2世の親族らが、保有する財産600万ドルを返
 還させるためにアメリカ中の銀行を訴える構えだという。
  他にもロシア貴族について何人もの遺族たちが、総額
 で1億ドルほどを保有し、返還を請求しているという見出
 しであった。
  記事によると、請求されている資産のうち、およそ500
 万ドルがギャランティ・トラスト・カンパニーに、また、
 100万ドルがナショナル・シティー銀行に、ロシア革命の
 ときから不法に預けられているものであった。
.
  そして・・、
.
1929年7月30日、世界恐慌のきっかけとなるニューヨーク・
 タイムズ紙が信用収縮に直結するような重大事を書いた。
  ニコライ2世の親族らが、保有する財産600万ドルを返
 還させるためにアメリカ中の銀行を訴える構えだという。
  他にもロシア貴族について何人もの遺族たちが、総額
 で1億ドルほどを保有し、返還を請求しているという見出
 しであった。
  記事によると、請求されている資産のうち、およそ500
 万ドルがギャランティ・トラスト・カンパニーに、また、
 100万ドルがナショナル・シティー銀行に、ロシア革命の
 ときから不法に預けられているものであった。
.
  そして・・、
.
1929年10月25日、この日のニューヨーク・タイムズ紙が、
 「株式市場は、史上最大の破壊的な落ち込みに襲われた」
 と、大見出しで歴史的大暴落を報じた。
  この約2か月後、アメリカのホワイトハウスが火事に
 なり西棟が焼け落ちた。
  アメリカ国民へ、一層、暗いイメージを与えた。
.
  そして・・、
.
1929年12月24日、クリスマスイブのこの日の夕刻、ホワイ
 トハウスが火事になり、5時間後には瓦礫(がれき)の山
 になり、分厚いコート姿のフーバー大統領は、ただ呆然
 (ぼうぜん)と立ち尽くしていたと記録されている。
  ホワイトハウス西棟が焼け落ちた。
.
  そして・・、
.
1932年11月、ルーズベルトは、前任の大統領のフーバーと
 の大統領選挙に勝った後、11月に、ホワイトハウスに、
 わざわざ、立ち寄った。
  フーバーとルーズベルト、二人が、直接、顔を合わせ
 たのは、この時が初めてだった。
  ルーズベルトは、上機嫌だった。
  フーバーは、足元を見つめ、苦虫を噛み潰したような
 顔をしていた。
  重苦しい雰囲気を破ったのはフーバーだった。
  フーバーは、アメリカの現状や課題などを語りだした。
  約1時間にわたって語り続けた。
  「第一次世界大戦で最大の債権国となったアメリカ」
  「世界が大不況にある今、その債権の借金を取り立て
 ては駄目で、一時的にもあきらめなければならない」
  「不況の悪循環は、避けねばならない」などと。
  同行していたルーズベルトの政策顧問のレイモンド・
 モーレイは、「フーバーが、具体的な数字を含め、完全
 に問題点を理解しており、その緻密(ちみつ)さに圧倒
 された」と証言している。
  その間、ルーズベルトは、まるで素人のような質問を
 繰り返すばかりで、問題点や、論点を理解していなかっ
 たという。
  アメリカは、間違った選択をしたと言える。
  今、2017年、オバマ大統領から、トランプ大統領へと
 バトンが渡されて行くが、この様な間違いのバトンタッ
 チではないことを・・祈る。
  ルーズベルトの様な、「問題点や論点を本当の意味で
 理解していないで、トンチンカンな素人に毛が生えたく
 らいで大統領になった」という・・過去の悪い事例の様
 にならない様にと・・祈る。
.
  そして・・、
.
1933年3月4日、フランクリン・ルーズベルトが、第32代の
 アメリカ大統領に就任した。
  ルーズベルトは就任した際、ヘンリー・モーゲンソウ
 を連邦農業審議会の議長に指名した。
  そして、翌年の1934年に、財務長官のウィリアム・ウ
 ッディンが病気で辞任すると、このモーゲンソウを、後
 任の財務長官に指名した。
  そして、ルーズベルトが、この財務長官のモーゲンソ
 ウに言った言葉が記録されている。
  それは・・、「私〈ルーズベルト)はジャグラー(曲
 芸師)なのだ。
  右手と左手がまったく別々の動きをする。
  例えば、欧州向けに特定の政策があっても、北米や南
 米では、まったく正反対の政策を、平気で実施すること
 が出来る。
  私は、矛盾だらけで、ミスリード(失敗の間違った政
 策〉だってする。
  戦争に勝つためなら・・嘘だってつく」。
  この言葉は、本当に、アメリカの政治を現わしている。
  アメリカの利益になれば、嘘だってつき、弱い者でも
 誰でも暴力をふるう。
  領土や、金を、利益を奪う・・である。
  歴史学者のウォーレン・キンポールが、ルーズベルト
 を軽蔑して「曲芸師(ジャグラー)」と呼ぶ。
.
  そして・・、
.
1945年2月4日少し前、ヤルタ会談が開かれる前の事である。
  アメリカが、地中海方面での会談を望んだ。
  しかし、スターリンは、「長旅が禁じられている」「
 気候の変化がよくない」などと、のらりくらりと会談の
 出席を断り続けた。
  ドイツが敗退し始めると、ソ連の東欧占領が確実にな
 って行った。
  逆に、アメリカのルーズベルトは、そうした状況に焦
 っていた。
  早急に戦後を協議する必要性に迫られていた。
  スターリンは、ソ連軍の進撃があればあるほど、占領
 地域が拡大して行った。
  協議の開催が、遅ければ遅いほどソ連に有利に働いた。
  スターリンも、その様に判断していた。
  ルーズベルトは、この頃、体が、体調が、最悪な状態
 にあった。
  焦るルーズベルトに、イギリスのチャーチルが「最悪
 の場所」と呼んだヤルタに向かうしか選択の道は残され
 ていなかった。
  ヤルタはクリミアの都市で、クリミア半島南端に位置
 し、黒海を臨んでいる地。
  スターリンには近いが、体が弱っているルーズベルト
 には遠かった。
.
  そして・・、
.
1945年2月8日~2月11日、ヤルタ会談が行われた。
  ヤルタは、ソ連領のクリミア半島南端に位置し、黒海
 を臨む地だった。  
  このヤルタ会談は失敗だった。
  ドイツがソ連領から退却し始めて、それで、ソ連は、
 自信を付けたのか? ヤルタ会談以降のソ連は、特に、
 横暴となった。
  ヤルタという遠隔地に赴(おもむ)いたアメリカ大統
 領のルーズベルトには、その出張は重荷だった。
  その様なルーズベルトの印象が、スターリンにその様
 な横暴な態度をとることをさせたのか?
  何しろ、チャーチルが言うように、ヤルタは「最悪の
 場所」だった。
  この事からも、この地が会談場所として選ばれた事は、
 ソ連の勝利の一端が伺(うかが)える。
  ヤルタ会談から2か月後、駐ソ連大使のハリマンは、是
 非、帰国したいと、アメリカ国務省に願い出た。
  すると、国務長官のステティニアスは、「持ち場を離
 れることは許されない」と拒否した。
  サンフランシスコの国連憲章会議に出席するソ連外相
 のモロトフに同行するという名目で、ハリマンは、4月19
 日に、ワシントンに来ることが出来た。
  早速、翌日・1945年4月20日、ハリマンは、ホワイトハ
 ウスを訪れ、新大統領のトルーマンに会った。
  ルーズベルトの葬儀から5日後だった。
  国務長官のステティニアスと国務長官代理のグルーが
 同席した。
  ハリマンは言った、「大統領、今、ヨーロッパでは新
 たな野蛮による侵略が起こりつつあります」・・と。
  「ソ連に対する幻想を捨てなくてはなりません」と。
  ハリマンは、ヤルタ会談以降、ソ連が横暴となり、欧
 州解放宣言にもかかわらずソ連占領地では、傀儡(かい
 らい)政権が樹立され、どんどん共産化が進んでいる・・
 と報告した。
  ハリマンは、1945年5月にも、再度、帰国し政府首脳に
 訴えた。
  「日本をどうするか?」の話を乗り越えた、大きな懸
 念が生まれていた。
  そして、日本を、この様な状態にした行為が正しかっ
 たのか?
  また、良かったのか?
  また、日本を、完全破壊するのか?
  ・・の疑問が・・、
  アメリカ政府首脳の頭に去来していた。
  国務長官代行のグルーは、眠れぬ夜を過ごした。
  この様な時の流れの中で、ルーズベルトが進めてきた、
 20億ドルもの巨費を投じて開発した原子爆弾が完成しよ
 うとしていた。
  新大統領トルーマンと、陸軍長官スティムソンと、ト
 ルーマンに大きな影響力を持つ新国務長官のバーンズら
 3人は、それを、原爆を日本に投下すべきかの国際法違反
 行為の原爆投下の選択をどうするかが迫られていた。
  グルー等は、「日本の国体維持・天皇制維持の承認を
 する」・・それで、「原子爆弾投下は、一種の脅し」で、
 戦争の早期終結を計る・・という考え方にあった。
  そして、その提案をした。
  だが、トルーマンの決断に影響を与えたのは・・バー
 ンズだった。
  トルーマン大統領をはじめ、アメリカの政府首脳たち
 は、このバーンズの強力な原子爆弾投下論に対する意見
 を持っていなかった。
  結局、このバーンズの投下論が、アメリカ政府意見・
 判断となった。
  バーンズは、1945年5月28日に、核融合の研究者で、原
 爆製造計画に携わってきたシカゴ大学のレオ・ジラード
 と会った。
  手にはアルバート・アインシュタインの推薦状を持っ
 ていた。
  サウスカロライナのバーンズの自宅を訪ねていた。
  ジラードは、最初、トルーマン大統領に面談を求めた
 が、トルーマンからは、バーンズに会ってくれと言われ
 ていた。
  ジラードは、15ページもの書類をバーンズへ渡し、原
 爆開発に携わった科学者の総意を記した内容を説明した。
  それは、『ナチズムの終焉のために開発してくれ』と
 言われ、ユダヤの方々の研究者が多く参加し、組織され
 た開発組織によって開発されたのだった。
  日本へ投下すべきとして開発されたのではない。
  「(ドイツが降伏して)戦争終結が間近な今、原爆投
 下の意味はない」。
  「原爆投下は単なる破壊でしかない」。
  「原爆の使用によって、戦後、ソ連などと一層の開発
 競争を強める可能性もあり、使用は、まだ、控えるべき」。
  バーンズは、その話を聞き、信じられないという顔を
 した。
  そして、言った・・、
  「あなた方は何もわかっていない。巨額の開発費に見
 合う結果を出さずに、次の研究への予算が議会を通ると
 でも思うのですか?」・・と反論した。
  バーンズは、結果を、成果を出さないと政治問題化す
 ると言った。
  スティムソンやグルーの脅しに使うという意見に対し
 ても、
  バーンズは、「そんな警告を与えたら、目標地点に捕
 虜の米兵を送り込むだろう」
  「原爆が不発(使わない)で終わったら、原爆が不発
 だったと逆宣伝されるに違いない」・・と。
  そして、ポツダムでの会談へ向かうトルーマンらのア
 メリカ政府首脳たちは、この時には、「京都、広島、新
 潟」の三地点のどこに投下するか?・・の話になってい
 た。
.
  そして・・、
.
  アメリカのやった事。
  アメリカは、国際法で「してはならない」とされた『
 非戦闘員(民間人)の殺戮』をした。
  民間人殺戮を目的とした「原爆投下」や「じゅうたん
 爆撃」など・・、
  そして、負けた国のプライドや、文化や価値観を、土
 足で踏みにじった。
  そして、敗戦国を二度と立ち上がれないようにした。
  明らかに、その様にしようという意思でもって行った。
  未発達の昔でも、非武装の婦女子を大量に、無差別に
 殺戮はしなかった・・という、人類の『最低の掟」を踏
 みにじった。。
  このやってはならない卑怯・卑劣な事を、アメリカは
 行なった。
  アメリカとは、その様な国である。
  アメリカは、自分が正しいのだと、そして、自分こそ
 正義だと、「独善的な考え方」で、事を処理し、そして、
 外交をした。
  自分たちだけに都合の良いイデオロギーや、歴史解釈
 をやった。
  これが正しいのだと、他国に一方的に押し付けた・・
 また、押し付け続けた。
  納得しない者・・国は・・異教徒とされ・・
  「異教徒は殺せ」とキリスト教の考え方となった。
  また、今も・・多分に・・その中にいるアメリカとな
 っている。
  納得できない・・お前が・・悪いのだ・・と・・、
  また、戦争に勝つためなら何をやってもいいのだとい
 う考え方で・・、
  「戦争に勝つためには手段を選ばず」・・と、
  非武装の子供や女性を含む一般人を・・大量に無差別
 に虐殺した。
  そのアメリカの歴史が、累々と積み重なって来ている。
  ネイティブ・アメリカン(アメリカ・インディアン)
 の方々は何千万人と・・殺された。
  ベトナムの方々も、卑劣な武器によって殺され・・新
 しい武器を試す・・などという・・卑劣な行為もなされ
 た。
  フィリピンの方々も、ドゥテルテ大統領が怒ったよう
 に・・多くの方々が、フィリピンの方々も殺された。
  ハワイの方々も・・メキシコの方々も・・
  日本も・・日本人は、卑劣な武器である原爆を落とさ
 れ、また、都市という都市を、市民をターゲットにして、
 非戦闘員に対して、無差別に大量の爆弾が落とされた。
  この他、まだまだ数多くの行為がある・・
  また、アメリカは、戦争に勝つと、負けた国を徹底的
 に叩き潰した。
  二度と自主防衛すら出来ないようにしておこうとした。
  こんな事は・・どこの国もやらなかった。
  傲慢でエゴイスティックな鉄血宰相のビスマルクでさ
 え、やらなかった事を・・アメリカはした。
  ビスマルクは、「相手の国に恨みを残すようなことを、
 してはならない」・・と、口癖のように言っていた。
  しかし、野蛮性を持ったアメリカは、戦争に勝つと、
 相手の国に土足で上がり込んで来て・・、
  相手国の人々(国民)へ、「戦争に敗けた国は邪悪な
 国である」というプロパガンダ(嘘宣伝)を吹き込んだ。
  さらに・・敗戦となった国が、二度と独立した外交政
 策や国防政策を実行できないようにするため、
  敗戦国を「不能国家」「去勢国家」に作り替えを行な
 った。
  キリスト教の神が居るから「勝ったのだし」・・その
 様な行為が「許されるという迷信」の下に行われた。
  卑怯・卑劣な独善的な外交アジェンダ(政治・政策的
 な分野で、検討課題、行動計画)を押し付けてくる。
  ケナンや、ウォルツなどが言っている・・、
  「第一次世界大戦の後、アメリカが、あんな無責任外
 交をしていなければ、第二次世界大戦は起きていなかっ
 た」・・と、
  アメリカ外交の二大目標は、「日本とドイツを二度と
 自主防衛できない状態にしておく」とした。
  アメリカは、日本人の歴史解釈まで強制的に変更させ
 た。
  そして、アメリカは、戦争に勝ったのだからと、さも
 権利の如くに、敗戦国をディモナイズ(悪魔化)した。
  また、ディヒューマナイズ(非人間化)した。
  アメリカは、敗戦国の子供や女性を含む一般市民を『
 何百万人も虐殺していること』に対しての「罪悪感」さ
 え感じていない。
  今でも、現代でも、アメリカは、中東で、アフガンで、
 世界中で、ディモナイズし、ディヒューマナイズしてい
 る。
  ディビット・ハルバーズタムは言う・・、
  「アメリカ外交を見ると、本当に『アメリカ人は田舎
 者だ』と思う。
  アメリカ人は、いつまで経っても、国際政治が理解で
 きない田舎者の集団だ。
  だから、ベトナム戦争の様な愚劣な戦争をやって、と
 んでもない破壊行為を実行するのだ」・・と、
  アメリカは、自分たちだけが、世界を支配するんだと
 いう意識しかなかった。
  自分たちがすべての国を押さえつけていないと駄目だ
 ・・と、傲慢に考える。
  ウォルツも言う・・、
  「アメリカ外交というのは、自分たちのやり方を、全
 部、他の国に押し付けようとする。
  過剰な介入主義を実行する。
  それが出来ない場合は、腹を立てる。
  そして、そっぽを向き、引きこもって、孤立主義をや
 る」・・と。
  トランプも・・これなのか・・?
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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by suba28 | 2017-01-13 15:55 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)480E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年2月~1889年2月)

題:(増補版)480E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年2月~1889年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年2月6日、横浜正金銀行条例改正。
  横浜正金銀行条例が改正され、6月1日に施行される。
  取締役の就任に、大蔵大臣の許可が必要となる。
  また、大蔵省による、特別監督制度が始まった。
  正金銀行の政府所有株が、家族世襲財産法に該当とな
 る。
  横浜正金銀行の対外金融機関化が進んだ。
  正金銀行の業務は、創設後から海外関係が多く、特に、
 欧米銀行との為替取引がその大半を占めており、国立銀
 行と異なっていた。
  こうした状況下で、1987年(明治20年)7月、政府は、
 「横浜正金銀行条例」(勅令第29号)を制定した。
  この条例は、正金銀行が、創設時の準拠法規である国
 立銀行条例に比べ、外国貿易・為替関係業務を担当する
 特殊銀行の条例として、
  さらに、正金銀行は、政府の保護監督のもと特殊金融
 機関(外為・貿易金融機関、政府在外資金取扱銀行)で
 あることを法的に明確にするものであった。
  この条例によって、正金銀行に対する大蔵省の監督規
 定が明らかとなり、その後の正金銀行の営業活動の規制
 も強化されることになった。
  そして、1888年(明治21年)9月、正金銀行と日本銀行
 は協約を締結し、両行ともに政府の機関であり、
  外国に関する業務(国際金融)は正金銀行が取扱い、
  日本銀行は、その後見役として必要な円資金(年間300
 万円、年3部)を供給し、その返済は正貨で行うことにし
 た。
  しかし、1889年(明治22年)3月、正金銀行は、この間
 の政府資金による御用外国荷為替制度が廃止されて、経
 営の転換を余儀なくされた。
  この制度の廃止により、正金銀行は、外国為替相場の
 変動、為替資金の調達・貸出金利など、外国為替業務に
 おける損益は自行に帰着する事になった。
  正金銀行は、営利採算を考慮した経営を行なうことが
 不可欠となり、こうした条件のもとに外国貿易・為替を
 専門担当して行くことになったが、
  その後においても、正金銀行の経営は依然として政府
 の強い規制(政府出資や大蔵省の管理機構)のもとに置
 かれた。
  また、その間、富田鉄之助日本銀行総裁が、日本銀行
 による外国為替の取り扱いを要求し、大蔵省や正金銀行
 と激しく対立した。
  しかし、1889年6月、松方大蔵大臣は、日本銀行が正金
 銀行に資金を供給して、
  正金銀行に、外国為替の取り扱い、及び、正貨吸収に
 当らせることにした。
  富田は、これを拒否して、日本銀行総裁を辞任したた
 め、松方大蔵大臣は、この後任として、川田小一郎を登
 用する事とした。
  こうして、1889年10月、「準備金」が、紙幣交換基金
 特別会計に移されたが、
  政府は、正金銀行を、国際金融の直接の担当者とする
 方針を堅持し、
  正金銀行は、日本銀行との間に外国為替手形再割引契
 約を締結した(年額1000万円を限度、2分)、
  日本銀行の信用供与、そして、さらに、政府の保護政
 策を背景に、対外進出をすすめ、外国貿易・為替を取扱
 い、日本の対外貿易における商権の回復に努めた。
  しかし、1890年(明治23年)、正金銀行は、凶作に伴
 う金融のひっ迫や、
  同行内部の紛争に加え、
  アメリカのシャーマン銀買上法に伴う銀価の暴騰、
  さらに、ベアリング恐慌の影響のもと、
  再び、経営の危機に直面した。
  (菊池道男氏の論文・その他を参考にした)
1889年2月9日、東京府の指示で、東京在住の俳優・鑑札・
 納税事務の合理化ための東京俳優組合を結成した。
  日本俳優協会の前身、頭取に市川団十郎
  鑑札:かんさつ、ある種の営業や行為に対して役所が
 与える許可証。
1889年2月10日、『風俗画報』が創刊された。
  風俗雑誌で、東陽堂発行。1916年3月に廃刊となった。
  通巻478号。号数外の増刊を含む総冊数は517冊。
  西欧のグラフ雑誌の影響を受け、はじめは主として石
 版画で、後に、写真版が挿入された。
  日本で初めて誌名に「画報」の文字が使われた。
  創刊号は28ページ、定価10銭。
  「画ヲ以テ一ノ私史ヲ編纂スルノ料ヲ作ル」ことを目
 的に、江戸時代風俗の考証、各地に伝わる地方風俗の紹
 介、刊行時における流行風俗の記録を編集方針としたが、
 創刊当初は、復古調の時流を反映して、江戸研究に重点
 が置かれた。
  絵にふりがな付の文章が載った。
1889年2月11日、大日本帝国憲法(欽定憲法・明治憲法)が
 発布した。
  翌年・1890年11月29日に施行された。
  また、同日、皇室典範、衆議院議員選挙法、貴族院令、
 議員法、大赦令、会計法を公布した。
  アジア初の近代的な憲法(立憲君主制) で、国号が大日
 本帝国となった。
  ドイツ・プロシアの立憲君主制を範としたもので、そ
 の制定は、1881年の政変に際して決定されていた。
  天皇主権を原理とする成文憲法で、7章76か条からなる。
  天皇陛下の大権、臣民の権利・義務、帝国議会の組織、
 輔弼(ほひつ)機関、司法、会計などについて規定される。
  伊藤博文を中心に井上毅(いのうえこわし)らが起草し
 た。
  明治維新にあたり、政府は、五ヵ条の誓文、政体書を
 出し政府組織を整えるとともに、版籍奉還、廃藩置県、
 身分制の廃止、徴兵令、地租改正等によって近代国家と
 しての体裁を形成していった。
  しかし、西洋諸国との間の不平等条約を撤廃させるた
 めには、富国強兵政策を推進する一方で、文明国にふさ
 わしい近代法典を整備する必要があった。
  勝海舟、憲法発布記念章授与(氷川清話)
  勝海舟、勲一等に叙せられ瑞宝章を賜う(氷川清話)
  憲法、皇室典範発布(氷川清話)
    内閣総理大臣 伯爵 黒田清隆
    枢密院議長  伯爵 伊藤博文
    外務大臣   伯爵 大隈重信
    海軍大臣   伯爵 西郷従道
    農商務大臣  伯爵 井上馨
    司法大臣   伯爵 山田顕義
    大蔵大臣
    兼内務大臣  伯爵 松方正義
    陸軍大臣   伯爵 大山巌
    文部大臣   子爵 森有礼
    逓信大臣   子爵 榎本武揚
 大日本帝国憲法
  第一章 天皇
  第一条:大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
  第二条:皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之
   ヲ継承ス
  第三条:天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
  第四条:天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲
   法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
  第五条:天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
  第六条:天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
  第七条:天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及
   衆議院ノ解散ヲ命ス
  (以下、略)
1889年2月11日、 「皇室典範(こうしつてんぱん)」が公布し
 た。
1889年2月11日、 「議院法」が公布した。
1889年2月11日、 「衆議院議員選挙法」が公布した。
「貴族院令」公布、
「大赦令」公布
1889年2月11日、万歳三唱が始まる。
  天皇陛下が、青山観兵場へ臨幸し、その時、帝大・外
 山正一教授の音頭によって、万歳三唱が始めて行われた。
1889年2月11日、大阪朝日新聞が、憲法全文を東京より電報
 を使って入手し、号外を発表した。
1889年2月11日、新聞「日本」が創刊された。
  社長:陸羯南
1889年2月11日、西郷隆盛へ、正三位が追贈された。
1889年2月11日、文部大臣森有礼、暴漢に襲われ重傷。
  森有礼(もりありのり)、日本の武士(薩摩藩士)、
 外交官、政治家。
  初代文部大臣を務めた他、一橋大学を創設し、明六社
 会長、東京学士会院初代会員、大日本教育会名誉会員を
 務め、明治六大教育家に数えられた。
  正二位子爵。
  2月11日の大日本帝国憲法発布式典のこの日、
  式典に参加するため、官邸を出た所で国粋主義者・西
 野文太郎に短刀で脇腹を刺された。
  応急手当を受けるが傷が深く、翌日午前5時に死去した。
 43歳だった。
  当時の新聞の誤報が原因という話がある(伊勢神宮不
 敬事件)
  文部大臣・森有礼が兇徒に倒れる(氷川清話)
  明治22年には文相・森有礼の暗殺(氷川清話)
1889年2月12日、森有礼が死去した。
  享年:42歳。
.
  (今日の言葉)
.
  題:やむなく、日本は、対米戦争を決意した・・、
.
1941年9月6日、種々いろいろと、戦争を避けようと努力し
 て来た日本だったが・・、やむなく、日本は、対米戦争
 を決意した・・、
  ・・が、このことを、
  アメリカは、暗号解読をして、すでに知っていた。
  アメリカ上下院合同真珠湾調査委員会の報告書によれ
 ば・・、
  アメリカは、1941年(昭和16年)9月6日の日本の御前
 会議の内容を暗号解読機「マジック」によって解読し、
 把握していた。
  日本が対米戦争を決意したことや、12月1日を、対米交
 渉の最終期限などのことまでも・・、
  アメリカは、11月25日までに、既に把握していた。
  ドール米陸軍大佐(元ルーズベルトの娘婿)の証言と
 も符合する。
  ドール大佐は、朝食の場で、ルーズベルトが、「明日
 (12月7日(日本時間:8日))戦争が起きる」と発言し
 てたということを暴露している。
.
  そして・・、
.
1941年、アメリカが、どう言い繕(つくろ)おうが・・、
  何と! アメリカは、第二次世界大戦が、はじまる前
 から日本の交信を傍受し、かつ、その解読に成功してい
 た。
  日本の手の内は、アメリカに、大戦の開始前から筒抜
 けだった。
  しかも、日本は、そのことを知ってか? 知らずか?
  その状態で、戦争末期まで至って行った。
  当然、真珠湾攻撃に至る前の、アメリカの日本大使館
 と日本(本国)の交信内容を、アメリカは把握しており、
  真珠湾攻撃が『奇襲』だと、降って湧いたように「戦
 争が起きた様に言うアメリカの言い方」は・・、
  「ちゃんチャラおかしい『真っ赤なウソ』なのだ」、
  故に、1945年7月頃も・・、
  アメリカ・イギリス・ソ連のポツダム会談が開かれる
 前の頃も・・、、
  日本が、必死に戦争を終結しようと行動している事も、
 すべて筒抜けであった・・、
  日本外務省とモスクワ大使館の秘密交信も筒抜けだっ
 た。
  日ソ中立条約を頼りに、日本は、中立国・ソ連に・・
 「戦争終結の仲立ちをしてもらおうと、必死に行動して
 いた」。
  日に日に増して行く日本のその絶望的な交信量の多い、
 そのすべての交信内容が・・、
  連合国の知るところにあった。
  そして、アメリカの駐ソ連大使のハリマンが、就任直
 後、すぐに感じていたソ連の対応の仕方・・、
  「友好という関係を築くより、現実的な利益を優先す
 る態度」、
  そして、「目的のためには手段を選ばないという態度」、
  この様な、ソ連外交の凄(すさ)まじさは、日本の駐
 ソ連の佐藤大使も、「その凄まじさ」を思い知らされた。
  これは、2016年の安倍首相も、プーチンに感じられた
 ことでしょう・・、
  そして、戦争終結をソ連へ依頼して、交渉を続けてい
 た日本の駐ソ連の大使へ、突如、マ反対のこと、「ソ連
 の対日の宣戦布告」がなされた・・、
  仲立ちの話をしに行ったら、宣戦布告をなされた・・、
 日本の大使も、さぞ、びっくりされたことであろう。
  ソ連は、この様な国なのだ。
  アメリカのルーズベルトがエサを撒(ま)いたとはい
 え・・。
  ソ連とは、今後とも、この様な「スタンス」で対して
 行かなければならない国なのだ。
  アメリカのルーズベルトが、他人(ひと)のもの、中
 国や日本の領土をソ連にやっているときは、
  エサを貰っている時は、「蜜月」だったが・・、
  そのルーズベルトも死に、おいしい土産が途絶えると、
 そのアメリカとソ連の関係はおかしくなり、
  アメリカでは、ソ連に対する強い疑惑が湧き、蜜月も
 終わり、その次にやって来たのは共産主義への激しい怒
 りだった。
  ソ連への反撥があった1950年代前半のアメリカの「マ
 ッカーシズム」という激烈な反共産運動だった。
.
  そして・・、
.
1941年10月頃、昭和天皇陛下が、日本の陸海軍に対し、ア
 メリカ・イギリスへの攻撃を禁じられていた。
  戦後になって・・、
  アメリカのヘラルド・トリビューン誌が・・、
  「ヒロヒト(昭和天皇)の1941年における平和への呼
 びかけは、彼を救うかもしれない・・連合軍は、彼を皇
 位にとどめるか」・・という論説記事を掲載した。
  アメリカ国務省の公開文書の中に、日本の真珠湾攻撃
 のほぼ2ヶ月前に、天皇陛下が、日本の陸海軍に対し、
 アメリカ・イギリスへの攻撃を禁じていた・・という、
 文書が含まれていた。
.
  そして・・、
.
1941年11月26日、日本の連合艦隊が真珠湾へ出撃した。
  1941年11月23日、大日本帝国海軍第一航空艦隊(機動
 部隊)が、日本の領土・択捉島(えとろふとう)単冠(
 ひとかっぷ)湾に集結し、
  1941年11月26日に、真珠湾攻撃のため、連合艦隊は、
 ハワイへ向けて出港した。
  アメリカは、通信を傍受するなど、この情報を完全に
 掴んでいた。
.
  そして・・、
.
1941年12月1日頃、ハワイの新聞が、「1週間後に、日本が
 攻めて来る」と報道した。
  日本の秘密情報は、アメリカに筒抜けだった。
  アメリカは、そこまで、日本の情報を掴(つか)んで
 いた。
  アメリカ軍内で、「アメリカ艦隊を、ハワイに置いて
 おいてよいのか?」・・ということが、問題となったく
 らいだった。
  航空母艦は隠した。
..
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by suba28 | 2017-01-12 05:38 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)479E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年2月)

題:(増補版)479E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年1月20日、大日本水産会の水産伝習所が開所した。
 後の東京水産大学。
  歴史・・、
  1888年(明治21年)11月29日、東京府認可
  1889年(明治22年)1月20日、開所式:仮校舎
   京橋区木挽町(大日本水産会)
   大みくに とまさん道をわたつみの
      波の底まで ひらきつくせよ(小松宮親王)
  1889年(明治22年)7月31日、日本橋区箱崎町3丁目1番
   地
   北海道庁建物へ移転
  1890年(明治23年)5月31日、芝区三田四国町に移転
   教場2棟、現業教場1棟、事務所1棟
  1893年(明治26年)11月3日、新築校舎落成式(52,140
   m2)教室2階建、食堂、寄宿舎(2階建)、事務所等
  1894年(明治27年)8月31日、火災により教室、寄宿舎
   各一棟焼失
  1895年(明治28年)5月15日、教室・現業場竣工
  1897年(明治30年)3月、水産講習所開設に伴い廃校?
  (港区立、港郷土資料館ホームページを参考にした)
1889年1月22日、徴兵令が大改正され、公布された。
  徴兵令の抜本的改正(1月23日説あり)
  徴兵猶予の制度廃止、戸主の徴兵猶予を廃止
  官吏、官立学校生徒、戸主、代人料納入者などの兵役
 を免除する広範な免役条項が存在していたが、
  再三の改正によってしだいに制限されて行き、この年
 に、徴兵令の抜本的改正が行われ、
  従来の徴集猶予制が廃止され、国民皆兵の原則が図ら
 れた。
  この後の徴兵制の基本的骨格が確定された。
1889年1月23日、三池鉱山が、三井組に払い下げられた。
1889年1月24日、官吏の政事上・学術上の演説、叙述を解禁
 する。
1889年1月25日、石川島造船所が、会社組織に改組して発足
 した。
  沿革・・、
  1853年(嘉永6年)石川島造船所が創設された。
  1876年(明治9年)石川島平野造船所が設立された。
  1889年(明治22年)有限責任・石川島造船所が設立さ
   れた。
  1907年(明治40年)播磨船渠(株)設立(後に合併)
  1924年(大正13年)(株)石川島飛行機製作所が設立
   された(後の立飛企業(株)、新立川航空機(株))
  1929年(昭和4年) 自動車部門分離、(株)石川島自
   動車製作所設立(後にいくつかの合併を経て、いす
   ゞ自動車(株)に
   播磨船渠(株)が(株)播磨造船所に改称した。
1889年1月27日、中外物価新報が、中外商業新報と改題した。
  『日本経済新聞』の前身。
  1876年12月2日、三井物産の益田孝(たかし)らが週刊
   で創刊したタブロイド4ページの『中外物価新報』が
   起源。
  1882年7月、三井物産の手を離れた(週3回刊。
  1885年7月、日刊となり、
  1889年1月27日、『中外商業新報』と改題した。
    経済、財政を中心に、政治その他内外の情勢の報道
   にあたったが、日清(にっしん)戦争後の企業勃興(
   ぼっこう)期ごろから紙面も充実、
   わが国財界の発展とともに社業も発展した。
  1911年8月、資本金 10万円で日本の新聞社最初の株式
   会社となり、
  1920年7月、一挙に 100万円に増資した。
  1942年(昭和17年)11月1日、政府の新聞統合令により
   「日刊工業」「経済時事」両紙と合併。
   「日本産業経済」と改題、後の「日本経済新聞」
1889年1月31日、憲法修正案の再審会議が終了した。
1889年1月、『国民之友』掲載の裸体が、話題を呼ぶ(発禁、
 裸美人を口絵にした最初)
  民友社発行の雑誌。
  1887年2月、創刊、
  『新日本之青年』 (1887年) で一躍評論家の雄となっ
 た徳富蘇峰が始めた進歩的評論誌で、初め月刊であった
 が月2回、3回、週刊となり、時の藩閥政府の干渉政策に
 対抗、自由と平等の実現を期する急進的平民主義の立場
 をとった。
  後に、国家主義に転じ、
  1898年(明治31年)『国民新聞』に併合されて廃刊し
   た(別説:1899年8月、第 372号で廃刊)
1889年2月1日、みやこ新聞を都新聞と改めた。
  演劇・文芸記事に特色があって下町好みの新聞であっ
 たが、
  1942年、新聞事業令 (1941.12.公布) により『国民新
   聞』と合併、
   夕刊地方紙の『東京新聞』となった。
1889年2月1日、国府津~静岡間の鉄道が開通した。
  東海道線の開通で(国府津~沼津間は後の御殿場線)
  開通に伴い、新橋~静岡間に直通列車上下2本が設定
 されたが、運転当時は片道7時間5分を要した。
1889年2月1日、静岡一番町で大火。1200戸焼失。
  東海道線の開通日たるこの日、1889年2月1日、静岡県
 庁所在地に於ける鉄道開業故に、開通式典、及び、開通
 披露式には、駅前に移転新設された西洋式旅館・大東館
 に於いて盛大に開催する為に、
  前日までに東京から次々と政府高官が来静し待機して
 いた。
  開業当日深更、静岡一番町在の焼芋屋の残火不始末が
 原因で同家から出火し、
  折から駿河湾から吹く冬の季節風に煽られた事から火
 は次々と燃拡がり、
  静岡町中心部13町1100世帯が焼失する明治22年静岡大
 火が発生した。
  この大火の影響で、中心部から離れた静岡停車場や大
 東館は被災焼失外地で無事だったが、
  時の初代静岡縣知事・関口隆吉(せきぐち たかよし)
 は、被災民の心情に配慮し、開通式典会場を静岡駅構内
 ホーム上に変更し、且つ、会場たるホームを幕で囲み簡
 素厳に執行させ、披露式典に於いて出席者に配布する為
 に準備されていた、幕の内弁当、餅、紅白饅頭、酒類は、
 全部被災民への見舞供与に活用された。
  また、当日は、該県内御殿場に於いても大火が発生し、
  県将来の為に期待を抱いていた者達にとって、幸先良
 い日ではなかった。
1889年2月1日、東京美術學校が開校した。
  東京・上野公園に移転した東京美術学校(現=東京芸
 術大学美術部)が開校し、
  絵画科、彫刻科、美術工芸科、漆工科の4科で、74人の
 生徒が入学した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本・・かく戦えり・・、
.
1943年5月12日~5月29日、アッツ島の戦い(アッツとうの
 たたかい)は、1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ軍
 のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍
 との戦闘。
  山崎保代陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島守備隊
 は、上陸したアメリカ軍と17日間の激しい戦闘の末に玉
 砕した。
  太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北
 (玉砕)が発表された戦いであり、
  また、第二次世界大戦で唯一、北アメリカで行われた
 地上戦であった。
  1943年7月29日~、キスカ島撤退作戦、
  1943年(昭和18年)7月29日に行われた日本軍の北部
 太平洋アリューシャン列島にあるキスカ島からの守備隊
 撤収作戦。
  キスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず、日
 本軍は無傷で守備隊全員の撤収に成功した。
  このことから「奇跡の作戦」と呼ばれている。
  1944年6月15日~7月9日、サイパンの戦い(サイパンの
 たたかい)
  この戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)中、1944年6月
 15日~7月9日に行われ、
  アメリカ軍と日本軍のマリアナ諸島サイパン島におけ
 る戦闘。
  斎藤義次中将が指揮する第43師団を、主力とした日本
 軍が守備するサイパン島に、ホランド・スミス中将指揮
 のアメリカ軍第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団
 が上陸し、戦闘の末に日本軍は全滅した。
  このサイパンの戦いにともない、海上ではマリアナ沖
 海戦(6月19日〜20日)が戦われた。
  1944年7月24日~8月2日、テニアンの戦い(テニアンの
 たたかい)
  この戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)中、1944年7月
 24日~8月2日に、マリアナ諸島テニアン島において行わ
 れた日本軍とアメリカ軍との戦闘。
  テニアン島では、日本軍守備隊側が、民間人の安全に
 配慮した(角田海軍中将が「軍と共に玉砕する事はない
 のですよ」と説明を行った)
  戦闘開始前に、住民の方々は安全な地へ退避してもら
 い、当然、日本軍人が戦った。
  日本軍:戦死者 約8100名、生存者 313名
  アメリカ軍:戦死者 389名、戦傷者 1816名
  1945年(昭和20年)8月6日の広島、8月9日の長崎への
 原爆投下作戦の B-29 は、ここから発進した。
  1944年9月15日~11月25日、ペリリューの戦い(ペリリ
 ューのたたかい)
  この戦いは、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)9月15
 日~11月25日にかけ、ペリリュー島(現在のパラオ共和
 国)で戦われた。
  日本軍守備隊(守備隊長:中川州男陸軍大佐)と、ア
 メリカ軍(第1海兵師団長:ウィリアム・リュパータス海
 兵少将、第81歩兵師団長:ポール・ミュラー陸軍少将)
 の陸上戦闘。
  アメリカ側の作戦名は、ステールメイトII作戦(「膠
 着」の意味)。
  要塞化した洞窟陣地などを利用し、ゲリラ戦法を用い
 るという、日本軍が見せた組織的な抵抗戦術は、アメリ
 カ軍を苦しめ、後の硫黄島の戦いへと引き継がれた。
  1945年2月19日~1945年3月26日、硫黄島の戦い(いお
 うとうのたたかい、いおうじまのたたかい)
  この戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)末期に、東京
 都小笠原諸島の硫黄島において、日本軍とアメリカ軍と
 の間で行われた戦い。
  アメリカ軍側の作戦名は、デタッチメント作戦。
  1945年3月26日~6月23日、沖縄戦(おきなわせん)
  この戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年
 (昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍とイギリ
 ス軍を主体とする連合国軍と、日本軍との間で行われた
 戦い。
  連合軍側の作戦名は、アイスバーグ作戦(氷山作戦)。
  アメリカの太平洋の島伝いに北上する飛び石作戦は、
 順調に進んで行ったが、
  アメリカ軍の死傷者の数は、欧州戦線に比べてかなり
 多くなっていた。
  欧州方面での戦死者が13万5000人だったのに対し、太
 平洋方面は17万人を越えていた。
.
  そして、・・
.
1945年(昭和20年)4月7日、沖縄への海上特攻に赴いた戦
 艦大和をはじめ巡洋艦矢矧(やはぎ)など二隻、駆逐艦
 三隻が、敵(アメリカ)の空襲を受けて沈没した。
  「現場の海面で、浮遊物につかまり、漂流中の無抵抗
 な乗組員に対して、
  空母を飛び立ったアメリカ軍戦闘機の群が、執拗に来
 襲しては情け容赦もなく機関銃を撃ちまくり殺戮した」
  (矢矧の原艦長の証言)
  「この悲惨な状況をあざ笑うかのように、アメリカ軍
 機は、何時間にもわたって、無抵抗の漂流者に、執拗な
 機銃掃射を加え続けた」(著書「伊藤整一」、大和と運
 命を共にした第二艦隊司令長官)
  同様な残虐行為は、ニューギニア近海でもおこなわれ
 た。
  1943年(昭和18年)3月3日、この日に起きたビスマル
 ク海戦(空襲)の結果、
 陸軍の兵士を乗せた輸送船八隻と駆逐艦四隻が、敵機の
 攻撃により沈められたが、
  沈没した日本の艦船からボートや筏で逃れ、浮遊物に
 つかまり漂流中の千名の兵士達に対して、
  アメリカとオーストラリア軍の飛行機が、低空から機
 銃掃射をおこない、
  機関銃の弾を撃ち尽くすと、基地に戻り弾を補給し、
 映画撮影のカメラマンまで乗せて、何度も、弾の補給に
 往復しては攻撃を続けた。
  「決して男らしいやり方ではなかった」と、第五爆撃
 隊のある少佐は戦闘記録の中で報告していた。
  「隊員の中には、気分が悪くなる者もいた」。
  救命ボートや、その周辺を、文字どおり血の海に変え
 たその殺戮の様子を、機上から撮影した実写フィルムが、
 十年ほど前に、オーストラリアのテレビ局から放映され
 て、
  国民に大きなショックを与えた。
  「我々は、フェアーな戦をしたと思っていたのに..
 と」。
  (容赦なき戦い、ジョン・ダワー著)
  ちなみに、ハーグの陸戦条約第23条では、兵器を捨て
 た自衛手段を持たない漂流者に対する攻撃を禁止してい
 る。
  アメリカ海兵隊兵士による蛮行  ルーズベルト大統領
 の息子で、海兵隊大尉のジェームズ・ルーズベルトも加
 わっていたカールソン襲撃隊は、
  戦死した日本兵の死体を切り刻み、男根と睾丸とを日
 本兵の口中に詰め込んだ。
  太平洋戦争について熱心な研究者で著書もあり、また、
 テレビの連続番組(戦線、Battle-Line)のプロデューサ
 ーであるシャーマン・グリンバーグが、
  20年後に、カールソン隊員の一人にその時の模様を(
 テレビで)詳細に語っている。
  その隊員は、戦友たちのやった蛮行を写真に撮ってい
 た。
  (ジョセフ・ハリントン著の「ヤンキー・サムライ」
 から)
  「その二」:マキン島へ救援に赴いた私(谷浦中尉)
 は、戦場で妙なことに気が付いた。
  どういうものか仰向けになった屍体が15~16あり、し
 かもすべて下腹部を露出している。
  死後一週間経っていたため、原形は完全に崩れていて、
 顔の穴という穴はすべて蛆で真っ白である。
  どうしてこんな格好をしているのだろう。
  被弾して苦痛のあまり無意識にズボンをずり下げたの
 か?。
  アメリカ兵といえばキリスト教徒であり、日本人以上
 に文明人とみなされ、しかも選りすぐった精兵とこの種
 の蛮行を結びつけることなど、遺体収容作業に当たった
 誰一人として思いつく者はいなかった。
  戦後50年経って、意外な事実を知り、愕然とした。
  それは、マキン襲撃の際に行われた海兵隊の蛮行を物
 語る、翻訳された出版物を読んだからである。
  (マキン、タラワの戦い、独立陸戦隊、中隊長谷浦英
 夫著)
  「その三」:作家・上坂冬子氏の著書によれば、硫黄
 島の洞窟内から、戦後、米兵により持ち去られた日本兵
 の頭蓋骨は1000個にもなる。
  彼等は、それでロウソク立て、灰皿やペン皿を作った
 といわれ、
  また、硫黄島で戦死した日本兵の頭蓋骨と称するもの
 が、ロサンゼルスの骨董店で一個25ドルで売られていた。
  (硫黄島いまだ玉砕せず)
  「その四」:リンドバーグが見たもの、1927年(昭和
 2年)に、チャールズ・リンドバーグは、ニューヨークか
 らパリへ、史上初の大西洋横断、単独無着陸飛行に成功
 したが、
  この偉業は、後に、「翼よあれが、パリの灯(ひ)だ」
 の題名で映画化された。
  彼は、1944年昭和19年)に、ニューギニアの米軍基地
 で陸軍将校として4ヶ月過ごしたが、
  その体験を、日記に記して、後に、「第二次大戦日記
 上巻、下巻」として出版した。
  (この本は、私が読んだ後に、どういう理由からか絶版
 になった)
  それによると、彼は、戦場で見たものにショックをう
 けた。
  それは、兵士が嬉々として敵を殺したからではなく、
 米兵が、日本兵に対して抱く露骨な人種蔑視の念と、そ
 れに基づく残虐行為を目のあたりにしての苦悩であった。
  たとえ、敵味方に別れて戦い、軍服に違いがあるとし
 ても、敵の人間としての勇気は勇気として、兵士の使命
 は使命として、認めなければならないにもかかわらず、
 太平洋地域の連合軍の中には、そうした感情のカケラも
 ないことを発見した。
  そこでは、士官も、兵士も、日本人に対する人種差別、
 蔑視から、自分達と同じ人間とは考えず、人間以下の単
 なる動物としか見ていなかった。
  1944年(昭和19年)6月21日、この日の日記には、
  日本人捕虜にタバコをやり、気がゆるんだところを後
 ろから押さえ、のどを「真一文字にかき切った」という
 のを、日本兵捕虜殺害の一例として教えてくれたある将
 軍との会話を要約している。
  残虐行為に対するリンドバーグの異議は、嘲笑と「あ
 われみ」をもって軽くあしらわれた。
  6月26日の彼の日記には・・、
  日本兵捕虜の虐殺、および、パラシュート降下中の日
 本航空兵の射殺について述べている。
  降伏し捕らえられた二千数百人という日本兵捕虜のう
 ち、捕虜収容施設に引き渡されたのは僅か百人か二百人
 に過ぎなかった。
  残りの者たちは殺害されたが、事故に遭ったと報告さ
 れた。
  「仲間が降伏したにもかかわらず機関銃で撃たれたと
 いう話が、日本兵に広がれば、投降しようという者など
 まずいなくなるだろう」とリンドバーグは聞かされた。
  つまり、黄色い猿に過ぎない捕虜を取り扱う、余分な
 手間や面倒がはぶけるという理由からであった。
  7月13日の日記では、
  「われわれの兵士たちは、日本人捕虜や降伏しようと
 する兵士を射殺することをなんとも思わない。
  彼等は、ジャップに対して、動物以下の関心しか示さ
 ない。
  こうした行為が大目にみられているのだ」と記されて
 いた。
  8月30日に、リンドバーグは、中部太平洋ギルバート諸
 島にあるタラワ環礁を訪ねた。
  そこでは、日米の激戦が行われ、米軍も甚大な死傷者
 が出たのだが、
  日記には、捕虜になった数少ない日本兵を一列に並べ、
 尋問に英語で答えられる者だけを残し、
  あとは全て殺させた海軍士官のことが出てくる。
  ある仲間のパイロットから直接聞いた話によれば、後
 ろ手に縛られた日本人捕虜達を、輸送機に乗せて収容施
 設のある地域に輸送する際に、彼等を、飛行中に突き落
 とす行為がおこなわれた。
  そして、報告書には、捕虜全員が自分から飛び降りた
 と記録された。
  (以上、第二次大戦日記、チャールズ・リンドバーグ
 著)
  ニューギニア戦線でのオーストラリア軍や、マッカサ
 ー指揮下の第四十一師団は、
  「捕虜を取らない」、つまり、武器を捨て両手を上に
 挙げて降伏しようとする日本兵や、
  既に、降伏した日本兵を殺するので有名だった。
  軍事歴史家デニス・ウォーナーは、1982年年に出版し
 た日本の特攻隊に関する本の中で、
  ブーゲンビル島での自らの体験を紹介している。
  そこで彼は、投降しようとした日本の負傷兵を、オー
 ストラリア軍の司令官が射殺するように命じるのを目撃
 する。
 「しかし、彼等は、傷つき、おまけに降伏を望んでいま
 す」と、日本軍の大規模攻撃が失敗に終わったあとの戦
 場で、部下の大佐が司令官に反論した。
  「私の言うことが聞こえただろう」と、両手を挙げた
 日本兵からわすか数ヤード離れただけの少将(司令官)
 は答えた。
  「捕虜はいらない。
  全員射殺してしまえ」。
  そして、彼等は撃たれた。
  日本軍も、負傷兵や捕虜に対する連合国側の殺害に関
 する情報をつかんでいて、
  戦時中の日本からの対米宣伝放送(東京ローズ)では、
 第四十一師団のことを「屠殺者、Slaughterer」と呼んで
 いた。
  終戦直後、ある米陸軍大尉が、公表した記事には、第
 四十一師団、捕虜を取らずという堂々たる見出しが付け
 られていた。
  この師団が、例外的に、日本兵を捕虜にしたのは、軍
 事情報の収集のために、捕虜が必要な場合だけであった。
  (容赦なき戦争、副題太平洋戦争における人種差別、
 カリフォルニア大学教授ジョン・ダワー著)
  アメリカ軍の日本の病院に対する爆撃  昭和十九年
 (1944年)五月二十四日に、
  ブーゲンビル島ラバウル基地にあった第八海軍病院が、
 米軍機による攻撃を受けて、患者、看護婦、医師ら千四百
 名が死傷した。
  病院の屋根には、国際法の定めに従い、上空からよく
 見えるように赤十字の標識を大きく塗装していたにもか
 かわらず、それを無視して、病院の建物に対して爆撃や
 銃撃を加えるという国際法違反の非人道的攻撃をおこな
 った。
  日本兵の遺体を損壊する行為  日本兵を自分達と同じ
 人間とは見なさない連合国兵士による、死体や、死にか
 けた日本兵から金歯、耳、骨、頭皮、頭蓋骨などを収集
 し、
  戦果の証とする堕落した行為が広く行われていたこと
 も、
  米国民の間で戦時中からよく知られていた。
  日本軍との戦いを前にして、武勇自慢をし合う若い兵
 士達の会話を、ジャーナリストのリチャード・トレガキ
 スが記録している。
  「ジャップは、金歯をたくさん入れているそうだが、
 それを頂いてネックレスでも作るかな」と一人が言う。
  「おれは、奴らの耳を持って帰るよ」ともう一人が宣
 言する。
  「塩漬けにしてな」。(ガダルカナル日記、1942年)
  戦後出版された水兵の日記の1944年(昭和十九年)
 七月の記述に、すでに、十七個の金歯を集めた海兵隊員
 がいて、
  その最後の金歯は、サイパンで負傷してまだ手を動か
 している日本兵の頬を、ナイフで切り裂きほじくり出し
 て取ったものだ、と事もなげに述べられている。
  (容赦なき戦争、ジョン・ダワー著)
  太平洋の激戦地ペリリュー島および沖縄で、日本兵の
 死体から 手を切り取って、戦果のトロフィーとする、
 金歯をあさる、死体の空いた口を目がけて小便をする、
 恐れおののく沖縄の老女を撃ち殺し、「みじめな生活か
 ら、解放してやっただけだ」 と気にも留めない海兵隊員
 の様子を目撃した。
 (E・スレッジ、生物学者、1981年に出版の回想録)
  「その五」:フィリピンのラグナラ州カランバには、
 日本兵を収容するルソン第一捕虜収容所があったが、
  ここは、フィヒリピンにおける最大規模の収容所であ
 った。
  米軍の発表によれば、収容された捕虜のうち、戦争が
 既に終了した昭和二十年(1945年)末までに、栄養
 失調で死亡した日本兵捕虜は、一万二千人にものぼった。
  もし、日本側の捕虜収容所が、このような米兵の大量
 死を起こしていたら、原因や経過はどうであれ、B C 級
 戦犯裁判に掛けられて多数の責任者、兵隊が絞首刑にな
 ったことは間違いない。
  しかし、ここの米軍責任者は、誰も罪を問われなかっ
 た。
  そこには、「バターンの死の行進」に対する復讐の意
 図から、敗戦後も栄養失調状態であった多数の捕虜に対
 して必要な食糧補給をしなかったからである。
  (孤島の土となるとも、B C 級裁判)
  「その六」:ベトナム戦争においても、かなりの数の
 アメリカ軍兵士が、ベトナム人の頭蓋骨を収集していた
 が、
  アジア人が、アメリカ人兵士の死体に対して、このよ
 うなことをすれば、アメリカではどんな反応が起きるか
 は、考えてみる価値があるだろう。
  (米英にとっての太平洋戦争、下巻)
  太平洋戦争中の米国による日本人に対する残虐行為は、
 人種差別に根ざすものだと英国人ジャーナリストのラッ
 セル・スーパーは述べています。
  「アメリカ人は絶望的になっている敵国人を殺戮する
 ことに、気がとがめなかった。
  彼らは、太平洋において人種戦争を常に派手に戦って
 きた。
  新聞の大見出しになる種を探しているアメリカの高官
 連中は、公然と、日本人を殺すことはシラミを殺すより
 も悪いことではないと言明した。
  この残虐性は、四ヶ月後に、広島、長崎でその頂点に
 達することになる」
.
  参照:http://soumoukukki.at.webry.info/200802/article_4.html
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2017-01-10 05:38 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)478E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)

題:(増補版)478E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年(明治22年)1月1日、日本標準時が開始された。
  1886年(明治19年)7月13日に、日本の標準時に関して
 初めて制定された法令である「本初子午線経度計算方及
 標準時ノ件(明治19年勅令第51号)」が公布された。
  そして、この日、適用された。
1889年1月1日、東京~熱海間に、公衆市外電話の通話が開
 始された。
  市外電話創始の地の碑がある・・、
  熱海市役所から北へ200メートルの地点にあるレイホー
 ニューフジヤホテルの敷地内に、この碑はある。
  その碑文の概要は・・、
  温泉と風光に恵まれ、冬暖かく、夏涼しい熱海は、明
 治の頃、多くの政治家や政府高官が、保養や会談のため
 来遊したので、東京との連絡が非常に多く、
  そのため、東京~熱海間に電話回線が敷かれ、明治22
 年1月1日に開通しました。
  東京の電話交換業務が開始されたのが、それから2年後
 の明治23年12月でした。
  それまで、熱海側は、内務省きゅうき館(熱海電信局)、
 東京側は、木挽町にあった東京電信局で、通話料のほか、
 呼出手数料をとって、公衆電話の取扱いを開始したもの
 です。
  これが、わが国最初の市外通話です。
  きゅうき館のあったのが, この場所でしたので、わが
 国市外通話発祥の地を記念して「市外電話創始の地」の
 碑を立てました。(中略)
  東京で、電話交換業務が始まるより前に、東京~熱海
 の市外電話ができていたとは、当時から、大物政治家や
 有名人が、多数熱海に来ていたことが分かる。
1889年1月1日、高島炭坑で、新規募集坑夫らが、募集係の
 約束不履行に反発して紛争を起こした。
1889年1月3日、朝日新聞が、大阪朝日新聞に改題された。
  大阪本社発行の「朝日新聞」が、「大阪朝日新聞」と
 改題された。
  1940年9月1日には、大阪朝日新聞と東京朝日新聞の題
 号を「朝日新聞」に統一した。
1889年1月7日、英・仏・露・墺・伊の各国駐在公使へ、改
 正条約草案を送付し、条約改正交渉再開を開始した。
1889年1月16日、水戸~小山間の鉄道が開通した(今の水戸
 線)。
  水戸鉄道(みとてつどう)は、現在の東日本旅客鉄道
 (JR東日本)水戸線及び常磐線の一部を建設、運営した
 私設鉄道である。
  1889年に開業し、1891年に日本鉄道に事業譲渡され、
 消滅した。
1889年1月16日、枢密院が、憲法修正案につき再審会議を開
 催した(1月17日説あり)。
  この日、枢密院は、憲法草案の第二審会議を開催し、
 当日の内に、ほぼ原案通り可決した。
  これを受け、伊藤は、1月27日、井上、伊東、金子とと
 もに、枢密院第三審会議に提出する憲法草案を協議した。
  その結果、枢密院第三審会議に提出された憲法草案に
 おいて、質問条項について「両議院ニ於テハ文書ヲ以テ
 政府ニ質問ヲ為スコトヲ得」(第50条)と、
  「両議院」が主語から外され、主語を明記していない
 ものの「議員」と読むのが自然なように修正された。
  この修正について、伊藤は、1月29日の第三審会議で
 「両議院ハト云フトキハ必ス議院ノ名ヲ以テスルヲ要ス
 ルカ如シ故ニ之ヲ改メタリ」と説明した 。
  「十月草案」以来の憲法草案が「議院の質問権という
 思考を維持してきた」にもかかわらず、「その観念を放
 棄するという意味をもった」。
  この修正に対しては、同日の審議で議院全体の名で質
 問がなされるべきとの異議が唱えられた。
  審議は、翌日に持ち越され、逆に「議院法ニ明文アル
 ヲ以テ足レリ」として野村靖枢密顧問官から本条削除の
 提案が出された。
  採決の結果、出席者18名の内、10名が削除に賛成し、
 質問権の条文は削除されてしまった 。
  これにより、質問制度は、帝国憲法に位置づけられた
 質問権から、議院法に位置づけられた議事手続へと後退
 することとなった 。
  そして、帝国憲法は、1889年2月11日に発布され、
  1947年に、日本国憲法が施行されるまで、改正されな
 かった。
  1月31日、議了。
  2月11日、大日本帝国憲法発布。
  また・・、
  (新庄勝美氏論文「1889年帝国憲法の公布:立憲主義
 時代の開幕に向けて)には、以下の様な記述がある。
  枢密院第一審会議は、1888年(明治21年)6月18日から
 はじまり、7月13日に議了している。
  議決された憲法草案は、天皇陛下に奉呈され、天皇陛
 下は、これについて内閣での再検討を命じられた。
  再検討とはいうものの、実際は、伊藤博文が中心とな
 って作業が進められ、
  枢密顧問官を除いて閣僚だけの要人たちによる事実上
 の修正審議だった。
  そこでまとめられた24ヵ条の修正条項は、翌・1889年
 (明治22年)1月初め、閣議で了承された。
  枢密院の再審会議に付すべき憲法・議院法等の修正決
 議案の決定をみたのは同・1月12日だった。
  なお、皇室典範は、この時には除外されていた。
  1889年1月16日に開会した第二審会議に報告されたこれ
 らの修正決議案については、内閣による修正条項に限り
 審議し、第一読会を省いて開かれた第二読会で同日に可
 決された。
  この第二審会議後、伊藤議長は、修正条項に関して内
 閣法律顧問・ロエスレルに意見を求めるとともに、井上、
 伊東、金子を招いて議決事項の再検討を行う機会が設け
 られた。
  その後も見直しがなされ、細かい規定ミスに手が加え
 られ、修正箇所が16ヵ条となった憲法修正原案が、同・
 1月29日~1月31日の3日間にわたり開かれた第三審会議(
 1回の読会で議事決了する方式)において決定された。
  そこでの会議の進め方は、第二審会議の例にならい、
 議長による修正諸条の朗読に続いて、意見提出があって
 も議決で賛成を得られなかった諸条と意見未提出の諸条
 については表決せずに可決とするという手順で進められ
 た。
  このように議決されていった憲法草案を最終確認する
 ために、1889年2月5日に、最後の枢密院会議が招集され、
 字句の対校を行った上で「大日本帝国憲法」(7章76条)
 と題して清書され、
  皇室典範や議院法、衆議院議員選挙法、貴族院令など
 とともに、天皇陛下に上奏された。
  枢密院会議における憲法審議は、天皇陛下臨御のもと
 に厳粛な雰囲気のもとに進められた。
  「三審会三読会」方式の会議は、日数にすると14日間、
 午前と午後をそれぞれ1回の会議として計算すると24回、
 通算時間数は46時間50分にわたった。
  枢密院での審議経過・会議全体はきわめて効率よく、
 淡々と進められた。
  憲法起草者や枢密院顧問官のそれぞれの矜持の火花を
 散らしての激しい応酬も時にはあった。
  帝国憲法原案の起草作業に心血を注いできた憲法起草
 者にしても、「維新以来文勲武勲中より」選ばれた顧問
 官にしても、近代立憲国家体制づくりという国事に共に
 携わっている以上は、激しい質疑応答のやりとりがあっ
 ても不思議ではなかった。
  自説に固執する顧問官に対して質問・討議の打ち切り
 を宣した議長、
  顧問官の質問・提案への果敢な論駁を試みた起草者、
  説得力ある例証によって顧問官の質問に答えた井上毅
 や伊東己代治らの報告員、
  これら「語り手」たる起草者らに対して「聞き手」の
 立場に甘んずることなく論戦を繰り広げた顧問官。
  これらの会議参加者による議論の応酬の末に、重要な
 条項修正も可能になった例が少なからずあった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:キリスト教教義「シャローム」から来る無条件降伏の要求
.
1942年11月8日、アメリカとフランスが戦う
  北アフリカのカサブランカ上陸で、アメリカとフラン
 スが戦った。
  アメリカ大統領ルーズベルトは、完全にアメリカの
 『国益を追求』して、第二次世界大戦まで仕掛けたが、
  それらの史実の一端はすでに示したが・・
  色々の史実で・・そのことが・・分かるが、
  そして、その一つが・・以下・・、
  「ルーズベルトは、フランスのドゴールを嫌った」。
  フランスのドゴールは、イギリスへ逃げ・・「自由フ
 ランス」を掲げ・・名乗っていた。
  そして、「フランスの栄光」という言葉もよく使った。
  そして、誇り高き・・また・・気位の高いドゴールの
 「フランスの栄光」という言葉には、
  アフリカやアジアにある『仏領植民地の復活』を意味
 していた。
  しかし、イギリスも含め、英仏の植民地主義は、アメ
 リカの『国益』にそぐわないと、ルーズベルトは嫌った。
  英仏からの解放をも含む大東亜共栄を目的とする日本
 と路線は一致していた。
  実は、アメリカとフランスは、この第二次世界大戦で
 戦っている。
  カサブランカ会談の前に行われた「北アフリカ上陸作
 戦」で、アメリカとフランスの「初めての軍事衝突」が
 なされた。
  1942年11月8日、アメリカ軍の上陸部隊(アイゼンハワ
 ー将軍)は、4つに分かれて、モロッコのカサブランカや、
 アルジェリアのアルジェなどに上陸した。
  大した抵抗はないとしていたが、そこに居た「フラン
 ス植民地軍が抵抗した」。
  フランス植民地軍は、アメリカに植民地が取られると
 見えた。
  フランス植民地を奪いに来た「侵略軍と解釈した」。
  その抵抗は激しかった。
  まだ、これまで本格的な戦闘経験をしていなかったア
 メリカ軍は、大きな犠牲を出した。
  悲惨な状況となった。
  アメリカ軍の上陸用舟艇が浜辺に着くたびに、フラン
 ス軍から猛烈な砲火を浴びた。
  上陸できない状態が続いた。
  アメリカ軍のアイゼンハワー将軍は、やむなく停戦交
 渉をせざるを得なかった。
  フランス植民地軍の発言力があり、また、本国のビシ
 ー政権の要人ジャン・ダルランと停戦交渉をした。
  因みに、ダルランは、フランスがナチス・ドイツに降
 伏する時、ドイツに協力し、その見返りにビシー政権の
 指導者アンリ・ペタン将軍の後継者に指名されていた。
  そして更に、アイゼンハワー将軍との交渉では、フラ
 ンス領北アフリカ全域の高等弁務官という地位を、アメ
 リカとイギリスに保証させ、そして、停戦に応じた。
  ダルランは、この後、1942年12月24日、フランス人青
 年に撃たれ、その銃弾に倒れている。
  また、アイゼンハワーは、アイゼンハワーで、「ダル
 ラン取引」と言われるこの停戦交渉について、アメリカ
 国内で批判を受けた。
  そして、困ったことが生じた。
  それは、ダルランの地位を保証したため、「フランス
 領の北アフリカが、まるで独立をしたかのような格好と
 なった」。
  そして、最高司令官に任命されたダルランに、連合国
 から武器と弾薬あ提供され、ドイツと戦うダルランが作
 り出された。
  ルーズベルトは、このダルランと、ジローを支援した。
  イギリスが、ドゴールを推している姿勢と違った。
  ちなみに、ジローは、1879年生まれ、1940年にドイツ
 軍の捕虜となったが、
  1942年に逃亡し、アメリカ軍の北アフリカ上陸作戦に
 合わせて連れて来られていた。
  アメリカは、そりの合わないドゴールに代わって、こ
 のアンリ・ジロー将軍を据えようとしていた。
  この様に、複雑なフランスは、1940年6月、ドイツ機甲
 師団の破竹の進撃に、フランスは、あっさり降伏し、
  それ以来、フランスは、アメリカの味方なのか? 
  それとも・・準敵国なのかさえ、分からなくなってい
 た。
  この様に、ドイツに融和的なビシー政権に抵抗するド
 ゴールを、イギリスは拾い上げた。
  アメリカと違った路線だった。
.
1943年1月14日、カサブランカ会談(~1943年1月23日)
 (~26日説あり)
  アメリカのF・ルーズベルト大統領とイギリスのW・
 チャーチル首相が、モロッコのカサブランカで開いた第
 3回連合国戦争指導会議。
  この時の最終日に、無条件降伏をルーズベルトは示し
 た。
  無条件降伏をルーズベルトが口にした時にチャーチル
 は絶句した。
  チャーチルは、「そこまで要求していいのか?」と反
 問した。
  歴史上にもない「異例」な条件だったからだった。
  その様な例は、今まで無かったからだった。
  それまでの通例の「講和会議」に持ち込んで終戦する
 という通常のやり方ではなかったからだった。
  ある条件における終戦を拒否した「それまでにない常
 軌を逸したルーズベルトの異例さ」があった。
  「日本嫌い」のルーズベルトと・・、
  キリスト教に洗脳された「日本人という蔑視さるべき
 有色人種」に対するルーズベルトの完全絶滅の後に来る
 「キリスト教の『シャローム』の平和」にマインド・コ
 ントロールされたルーズベルトがあった。
  日本には、このキリスト教教義により突き付けられた
 「条件の一切を認めない」という事から、とことん戦い
 続けるしか道は残されなかった。
  卑劣な条件を、敗けると分かっている日本に突き付け
 たルーズベルトだった。
  戦争を長引かせることと、この異常さにチャーチルは
 反対したが、ルーズベルトはここを押し切って、ルーズ
 ベルトの思い通りに事は進んで行った。
  この様なマル秘の話は、めったに公にされなかった。
  アメリカとイギリスの首脳だけの会談・・と言うより
 密談だった。
  そして、米英軍のアフリカ作戦成功後の作戦について、
 シチリア島とイタリア本土への上陸を敢行することを決
 めた。
.
1943年1月21日、アメリカ大統領のルーズベルトは、北アフ
 リカの上陸作戦を成功させた約2万人のアメリカ第5軍兵
 士を慰問していた。
  この時のルーズベルトの心境は・・、
  太平洋でのミッドウェー海戦(1942年6月5日)で、日
 本の機動部隊をほぼ壊滅していて、
  日本との戦争の決着がほぼ見え・・、
  そして、今、アフリカ上陸作戦を成功させて、第二次
 世界大戦の決着が見えて来ていて、
  ルーズベルトは、この時、アメリカ兵たちとともに、
 ジャズバンドの演奏する「チャタヌガ、チューチュー」
 の軽やかなメロディーを聞きながら、アメリカ兵たちは
 笑い声でリズムをとる声をを快(こころよ)く聞いてい
 た。
  昼食が並ぶテーブルがあった。
  北アフリカのカサブランカ会談は、1943年1月14日に始
 まっていた。
  ソ連首相のスターリンは欠席していた。
  また、中国の蒋介石は招待されていなかった。
  故に、結局、米英の首脳会談となっていた。
  ソ連は、この時、ドイツの200個師団(約200万人)と
 壮絶な死闘を繰り広げていた。
  このアフリカの米英が、上陸作戦をした地には、30万
 人のドイツ・イタリア軍が居た。
  1941年6月以降、イギリスは、ドイツとの本格的な交戦
 を避けるようになった。
  それに対して、ソ連の方は、ドイツとの戦いが厳しく、
 スターリンが、カサブランカ会談に欠席するくらいだっ
 た。
  これは、すでにこの時、大戦後の姿を見る戦況の状況
 になっているからだった。
  次なる対抗軸上に居るソ連が見え始めていた。
  ソ連軍を消耗させ、
  さらに、ソ連の国力そのものの減退を招かせようとし
 ていた。
  戦後になって、欧州における「そのソ連の脅威」を阻
 止するためだった。
  だからソ連は、ドイツの軍が、ソ連に集中している現
 状を辛(つら)いと思っていた。
  アメリカ・イギリス軍によるフランス上陸を、今か今
 かと待っていた。
  この第二戦線が、早く出来て、ソ連へのドイツ軍の攻
 勢が弱まってもらいたいと思っていた。
  スターリンは、疑惑を持っていた。
  そして、その疑惑が強くなっていた。
  スターリンは・・、
  「あなた方が約束した第二戦線はどうなったか?
  もうこれ以上、時間を浪費すべきで無い」・・という
 電文をルーズベルトへ送りつけた。
  結局、このスターリンが望む第二戦線が出来るのは、
 ソ連の消耗を進ませようと実行を遅れに遅らせた。
  結局、ソ連が、ドイツを破り、ソ連の勝利が確定した
 後の「ノルマンディー上陸(1944年6月6日)」まで第二
 戦線は形成されなかった。
  「スターリングラードだけでなく、ロシア中央でも、
 ドイツとの戦闘が激しくなっている。
  こんな時に、ロシアを離れられる訳はない(カサブラ
 ンカ会談に出席できるわけはない)」のスターリンだっ
 た。
  ルーズベルトは、「ドイツの戦後を話し合おう」とい
 う状況・心境であった。
.
1943年1月24日、ルーズベルトの無条件降伏の要求宣言が出
 た・・、
  カサブランカ会談の最終日だった。
  アメリカ軍幹部を含め、だれ一人も予想しないものだ
 った。
  イギリス首相・チャーチルは怒り、その怒りで顔が青
 ざめていた。
  そして、「これでは、ドイツ軍の決意を強めるだけだ」
 と批判した。
  誰もが・・日本とドイツが、最後の一兵になるまで戦
 う決意を固めたと思った。
  ルーズベルトは言った・・、
  「皆さんに知ってもらいたい、ドイツと日本の戦争能
 力を、完全に破壊するまで、決して平和はやって来ない
 です。
  我々は、ドイツ、イタリア、日本に対し、無条件降伏
 を突き付けたい」・・と、
  キリスト教に強く洗脳されたルーズベルトは、キリス
 ト教の「シャローム」の教義・考え方があった。
  「完全破壊をして平和が来る」という教義で、キリス
 ト教の歴史に、有色人種の絶滅が多いのは、この卑劣な
 教義の影響・・、
  アメリカ国務長官コーデル・ハルは、これを聞いて言
 葉を失った。
  ハルは、「ドイツなど枢軸国などは、冷静な判断を無
 くして絶望的な戦いを繰り広げ、
  結果として、破壊されつくした敵国は、自ら復興でき
 なくなり、最終的に、アメリカがその責任を負わなくて
 はならない」・・と。
  ルーズベルトは、反省したのか? 1943年12月に、「
 無条件降伏は、ドイツ、日本の指導者に求めたものだ」
 と訂正した。
  そして、「無条件降伏は、ドイツ、日本の一般市民に
 求めたのでは無い」・・と否定した。
  故に、日本の歴史教科書にある「日本は、無条件降伏
 をした」という記述は、間違い。
  ルーズベルトの後のトルーマン大統領も、一時は、無
 条件降伏を口にしたが、
  沖縄戦で手ひどい反撃を受け、更なるアメリカ兵の死
 を回避したいアメリカ軍指導部は、即座に、条件受け入
 れを了解した。
  だが、アメリカ政府内に、無条件降伏にこだわる意見
 もあった。
  そして、アメリカは、論議の末に、結局、「天皇、及
 び、日本政府は、占領軍最高司令官に従属する」という
 条件で・・日本の国体維持の『有条件』での日本の降伏
 の形となった。
  しかし、この様ないざこざが終戦を遅らせる最大の原
 因になった。
  日本の子供たちの歴史教科書の『無条件降伏の記述を
 訂正せよ!』。
.
1945年8月14日、日本は、『降伏』をアメリカに通達した。
  戦争が終わった。
  戦争を、その身に痛く感じた方々は、開戦の悪さは言
 わなかったが、終戦の遅さは『悪かった』と言われた。
  卑劣なルーズベルトが、日本の国体まで奪おうとして
 いたことが・・終戦が延び延びになった原因だった。
  アメリカとソ連が、停戦を送らせていた・・、
  ソ連には、日本領土が欲しいという理由があった、そ
 して、日本領土を奪い・・
  そして・・
  アメリカは、無条件降伏という前例のない、そして、
 何ら実のない空論の「シャローム」の観念からくる要求
 があった。
  そして、その「シャローム」の完全破壊の原爆投下と、
 その原爆の威力を知る実験がしたかった。
  戦後に来る、ソ連との対抗軸上にある武器のデーター
 を得たくて、卑劣な非人道的な原爆を投下した・・
  そして・・
  「シャロームの観念上の国体まで奪おうという卑劣さ」
 があった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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