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(増補版)426E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年5月~1886年6月)

題:(増補版)426E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年5月~1886年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年5月30日、秋田市の大火(約3400戸焼失)(4月30日
 説あり)
  1886. 4.30 秋田町大火(俵屋火事3,474戸焼失、死傷
 204)
  鱗勝院山門:『明治19年(1886年)4月30日、
 俵屋火事で当寺もことごとく焼失しました。
  この門は、その後佐竹家より拝領した久保田城の裏門
 で、二ノ丸から本丸に至る裏御門坂にあったものです』
1886年5月31日、日清修好条規の改正交渉が開始された。
1886年5月、田中館愛橘(たなかだてあいきつ、帝国大学教
 授)が、ヘボン式ローマ字に反対し、日本式ローマ字を
 提唱した。
  日本式ローマ字は、音韻学の立場から理にかなったも
 のであることが判明・・とある。
1886年6月3日、静岡事件(6月11日説あり、また、6月12日
 説あり)
  自由党員の箱根離宮竣工式襲撃の陰謀が発覚した。
1886年6月5日、万国赤十字条約に加盟した。
  博愛社は、1883年(明治14年)5月に、ベルリンで開催
 された衛生、及び、救難法の博覧会に際し、
  政府から派遣された内務省御用掛の柴田承桂に、欧州
 に於ける赤十字事業と、ジュネーヴ条約加入手続きの調
 査を依頼し、
  当時ベルリンに住んでいた兄のアレキサンダー・シー
 ボルトにも協力を依頼した。
  そして、日本が加入手続きを開始すると、井上馨外務
 卿はアレキサンダー・シーボルトの協力を求め、
  モワニエへの働きかけに尽力した。
  このシーボルト兄弟は、博愛社の社員であり、博愛社
 規則の草案作りにも協力している。
  一方、西郷隆盛とは親戚関係にあり、1870年(明治3年)
 から1873年(明治6年)にかけて、ジュネーブに留学し、
 西南戦争時には政府軍の指揮官、その後陸軍卿となって
 いた大山巌は、
  3度フランスに渡り、各国兵制を研究する傍ら、同行し
 た橋本綱常・陸軍軍医監と共に、ジュネーヴ条約への加
 入手続きを調査した。
  この橋本綱常は、1883年(明治16年)、陸軍卿・大山巌
 の随行員として、欧州で万国赤十字条約加盟のために奔
 走した第一人者だった。
  橋本は、熊本藩の横井小楠らと交流があり、不平等条
 約に抗議し、安政の大獄で没した福井藩士・橋本佐内の
 実弟である。
  1884年(明治17年)9月に、ジュネーヴで開催された第
 3回赤十字国際会議には、日本のオブザーバー参加が認め
 られ、
  会議への招待状は、大山巌と博愛社社員のアレキサン
 ダー・シーボルトに宛てられていたが、
  大山の代理として橋本綱常が出席した。
  その後、陸軍大臣となった大山巌と、1885年(明治18
 年)に、軍医総監、陸軍省医務局長に就任した橋本綱常は、
  1886年(明治19年)6月、日本のジュネーヴ条約加入を
 実現させた。
  そして、博愛社社員だったアレキサンダー・シーボル
 トの協力を得て、条約の注釈書である『赤十字条約解釈』
 を作成した。
  そして、それを全将兵に配布して普及に努めた。
  ジュネーブ条約という国際条約への加盟は、単に、陸
 軍の衛生部隊だけの問題ではなく、
  日本の軍隊、引いては、日本が欧州列強から対等に扱
 われることを意味した。
  日本国として恥ずかしい真似はできなかった。
  軍備や衛生設備の充実だけでなく、国際的な人道的任
 務の理解も、
  軍人だけでなく、国民にも浸透させなければならなか
 った。
  ちなみに、1887年(明治20年)4月23日付の陸軍訓令と
 して出された、『赤十字条約解釈』の冒頭に掲げられた
 大山陸軍相の訓示は・・、
  『赤十字条約ノ儀ハ軍人軍属ニ在テ最緊要ノモノニ付、
 解釈ヲ容易ナラシムル為メ注釈ヲ加ヘ別冊頒布候条、遍
 ク熟読格守ス可シ』であった。
  (日本赤十字社・熊本県支部ホームページを参考にし
 た)
1886年6月9日、 長崎県喜々津村の大火。1000戸焼失。
1886年6月10日、伊藤博文宮内相が、帝室典則等皇族関係
 法律案を提出した。
1886年6月12日、甲府・雨宮製糸工場がストライキをした。
  (6月14日~16日説あり)
  山梨県甲府の雨宮製糸工場(あめみやせいし)で、過
 酷な労働に反発した女子工員がストライキをする。
  1886年6月 14~16日に、甲府の雨宮製糸で発生した日
 本最初の工場労働者の争議で、
  甲府は、開港以来、早くから、急速に製糸業が発達し
 た地域で、労働力不足に加えて、工女の多くが近郊の農
 村からの通勤工であったため、
  好条件を求めて工場を移動する者も少なくなく、業者
 の女子工員争奪が激しかった。
  このことから、製糸業者は連合し、
  同年・1886年、同業組合を結成し、
  女子工員取締り、引抜き防止協定(工女の移動禁止)、
 労働時間の延長、賃金切り下げなどの規約を決定し、実
 施していた。
  これに対し、雨宮製糸の工女100余名が就業を拒否した。
  そして、近くの寺に立てこもった。
  製糸業者側の歩み寄り・譲歩で解決した。
1886年6月12日、自由党員が、箱根離宮落成式襲撃計画を立
 てていたことが発覚し、逮捕された(静岡事件)。
1886年6月14日、内務省が、街路・乗合馬車・営業人力車・
 宿屋各取締規則標準を定めた。
  諸車取締規則と標準化・・、 
  明治期には、ほとんどの輸送手段の行動範囲は、地域
 的にとどまっていたので、各府県の取締規則の内容もま
 ちまちであった。
  そこで、内務省は、陸運関係取締規則制定の参考とし
 て、1886年(明治19年)6月、「街路・人力車・乗合馬車・
 宿屋取締規則標準」(訓令第7号)を定めた。
  同省は、この標準を示すに当たり・・、
  「人民の貧富、または、開明の程度、市街地と田舎に
 よって寛厳の差があってしかるべき」として、
  必ずしも全国画一の規則制定は求めてはいなかった。
  各府県は、この標準に沿って、取締規則の制定をすす
 めた。
  東京府の場合は、「人力車営業取締規則」(明治22年
 4月26日警察令第19号、53カ条)、「乗合馬車営業取締
 規則」(同22年10月8日警察令第30号、60カ条)などを
 制定しているが・・、
  その経緯について・・、
  「是ヨリ先キ、内務省訓示スルニ人力車取締ノ標準ヲ
 以テシ、漸次、之ニ拠テ取締ノ方法ヲ設定セシム。
  是レ此規則ヲ定ムル所以ナリ」・・と、
  『警視庁史稿 巻之一』に記述している(乗合馬車の
 場合も同様)。
  荷車のうち、荷馬車は、馬車取締規則の適用を受けて
 いたが、
  その後、保有台数の増加によって独立した取締規則が
 必要となってきたので、警視庁では、1891年(明治24年)
 1月21日、「荷車取締規則」(警察令第1号、25カ条)を
 制定した。
1886年6月15日、第六回条約改正会議
  この会議で、イギリス・ドイツ両公使が、日本案を実
 行不可能だとして、両国合同の条約改正案を提出した。
  内容は、通商条約案・裁判管轄条約案などだった。
  日本側もこれを良しとし、会議を、この英独案をたた
 き台として進めた。
  その骨子は、領事裁判権を撤廃し、関税率を5パーセン
 トから11パーセントに引き上げることを了承する代わり
 に、
  (1)条約実施後2年以内に、日本は、内地を開放し、
    外国人に居住権・営業権を与え、
     2年以後は、内地居住外国人は、日本裁判所の管
    轄に属すること。
  (2)条約実施2年以内に、日本は、「泰西ノ主義ニ従
    ヒ」、すなわち、西洋を範にとった刑法・民法・
    商法等法典の整備を行い、
     施行16ヶ月前に、その英文を諸外国政府に通知
    すること。
  (3)外国籍の判事・検事を任用すること。
  (4)外国人が、原告もしくは被告となった事件につい
   ては、直接控訴院(第二審)に提訴することができ
   る。
    その際、控訴院、および、大審院の判事は、過半
   数を外国人とし、公用語として英語を認めること。
 ・・を、日本側が受け容れるというものであった。
  法典の整備や、裁判制度の確立については、
  国内における合意形成や、法律を運用する法曹の育成
 などに一定の時間を要することから、
  当面は、日本がその方向に向かっていることを、諸外
 国に納得させて、
  改正への合意を引き出すよりほかになかった。
  この間、日本の方向性を納得させる説得材料として機
 能したのが鹿鳴館外交・欧化政策だった。
  井上の結論は・・、
  「条約改正には、兵力によるか、西欧諸国に、日本の
 開化を実感させて、治外法権を撤廃してもよいという感
 情を抱かせるかのどちらかしかないが、
  兵力による方法が不可能である以上、欧化政策を進め
 るよりほかに道がない」・・というものであった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:1943年のこと・・、
    アメリカのルーズベルトは・・、
   中国(蒋介石)とソ連を繰るが・・その読みは浅かった。
    結局、中国は共産化し・・ソ連は離反して、冷戦へ・・、
.
1943年2月2日、スターリングラード攻防戦(1942年6月28日
~1943年2月2日)で、この日、ドイツ軍が大敗北した。
  この日・2月2日、トラクター工場を中心に抵抗を続け
 ていたカール・シュトレッカー将軍の第11軍団が投降し、
 ドイツ第6軍の抗戦は終わった。
  ソ連赤軍は、勝利宣言を行い、ここにスターリングラ
 ード攻防戦は終結した。
  モスクワでは、クレムリンから祝砲が轟いた。
  しかし、ドイツでは、ラジオが「彼らは死んだ。ドイ
 ツが生きていくために」と、第6軍の将兵が全員戦死した
 と報じ、ベートーヴェンの交響曲第5番『運命』を放送し
 た。
  ゲッベルスは、3日間の服喪を発表した。
  こうした欺瞞に満ちたドイツのプロパガンダを、ソ連
 は、逆用した。
  膨大な数の捕虜がいて、生きていることを海外放送で
 発信した。
  また、モスクワ駐在の外国人記者の前に、パウルス(
 ドイツ第6軍司令官)と、将軍たちを引き出して撮影させ、
 さらには、捕虜に、家族宛ての書簡を書かせた。
  また、ドイツ軍陣地に散布した。
  当然、ドイツ司令部は、それらの回収と、焼却に奔走
 した。
  また、ドイツで帰りを待っている家族へ、ドイツ将兵
 たちが、現時点で生存していることを知らせようと、投
 函した将兵も少なくなかった。
.
  そして、次の話・・、
.
1943年11月22日、カイロ会談が開かれた。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、ソ連が、スターリ
 ングラードでドイツ軍を破る大勝利をすると(1943年2月
 2日)、
  欧州戦線は、目途(めど、物事の見通し、目指すとこ
 ろ)がついたと見た。
  残るは、太平洋方面における、対日戦線だと見た。
  その為にも、ソ連の対日戦への参戦をより強く促すた
 め、
  ルーズベルトは、ソ連と蒋介石・中国を引き合わせる
 必要性を痛感した。
  ソ連をより積極的にする必要があった。
  しかし、ソ連のスターリンは、蒋介石と公式に会う事
 を拒否し、また、蒋介石も渋っていた。
  米・英は共同して、この状態を打開すべく、1943年11
 月22日、カイロで米・英・中の会談を持った(カイロ会
 談)
  さらに、同様に、その6日後の11月28日に、米・英・ソ
 の『テヘラン会談』が持たれた。
  これが、米・英・中・ソの四か国会談が成立する前段
 の話で・・、
  そして、カイロ会談の、米・英・中の会談の2日目の
 11月23日に、ルーズベルトと蒋介石は・・、
  キザのピラミッドが見えるカイロのメナ・ホテルで、
 膝(ひざ)を突き合わせて話し合った。
  通訳は、蒋介石夫人の宋美齢(そうびれい)だった。
  他に誰も居なかった。
  そして、遼東半島の大連と旅順を、アメリカと中国の
 共同管理にする事にした。
  そして、ルーズベルトは、中国(蒋介石)の国民政府
 軍が、さらに強くなる支援を言った・・、
  90個師団を作り、アメリカが軍事訓練をすると言った。
  蒋介石は、中国・共産党を政府に招くと言い、そして、
 戦いが終わった後は、民主化をすると言った。
  ルーズベルトは、アメリカが後ろ盾(うしろだて)と
 なって「強い中国」となる「戦後の中国の形」を言った
 (米・英・中・ソの形へ持って行きたかった)。
  しかし、蒋介石の頭には、国民党と共産党が、その様
 に、順調に、簡単に、収(おさ)まるとは思っていなか
 った。
  国民党と共産党による内戦が、確実視された。
  また、一方、蒋介石は、大国のソ連や英国の内政干渉
 が始まる事を恐れていた。
  今・現在、アメリカが、国連を絡めて、盛んに日本に
 内政干渉をしているが・・、例えば、「皇室はこうしろ」
 とかと・・、
  蒋介石は、この様な内政干渉を恐れていた。
  フランスは、この時点では、お呼びのかからない埒外
 (らちがい)に置かれていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
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または
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by suba28 | 2016-09-30 04:01 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)425E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年5月~1886年5月)

題:(増補版)425E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年5月~1886年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年5月6日、農商務省が、漁業組合準則を公布した。
  農商務省令7号によって、漁業組合が、この漁業組合準
 則によって漁場の調整、漁場占有利用関係の規制を目的
 に作られた。
  漁業は、内水面、沿岸から海外漁場までを操業範囲と
 しているが、自由勝手に操業しているのではなく、
  漁業法を基本にした規則・規約等によって、一定の秩序
 と規制のもとに操業している。
  漁業法を基礎としたこの秩序と規制の体系を漁業制度
 というが・・、
  日本の漁業制度は、この漁協組合準則や、1901年の旧
 漁業法を経て成立して来た。
  そして、1910年の明治漁業法によって確立された。
1886年5月10日、教科書検定条例が制定された。
  教科書検定条例が公布し、教科書検定が始まった。
  国定教科書制度が成立する。
  小学校の教科書は、1886年(明治十九年)の小学校令
 の施行とともに検定制度が実施され、
  その後は、文部省の検定を経た教科書の中から選定し
 て使用することとなった。
  小学校の教科書については、すでに十年代(1877年以
 降)から統制が強化され、制度化が進められており、
  1883年(十六年)からは認可制度となっていた。
  すなわち、文部省に伺い出て認可を受け なければ使用
 できないこととなっていた。
  また、文部省では、早くから検定制度の実施を意図し
 て検討していた模様・・、
  このような状況を背景として、1886年(十九年)の森
 文相による学制改革に際して、検定制度が実現された。
  検定制度の実施については、1886年4月(十九年四月)
 に公布された小学校令中に・・、
  「小学校ノ教科書ハ文部大臣ノ検定シタルモノニ限ル
 ヘシ」(第一三条)・・と規定しており、
  1886年5月(同年五月)「教科用図書検定条例」が定め
 られた。
  1887年5月(二十年五月)には、これを改正して「教科
 用図書検定規則」が定められ、
  その後は、これに基づいて、検定制度が運営された。
  教科書の検定制度は、小学校のみでなく、師範学校・
 中学校等の教科書についても実施されたが、
  小学校教科書については、特に、詳細な規定が設けら
 れ厳格に行なわれた。
  教科書の採択方法については、1887年3月(二十年三月)
 「公私立小学校教科用図書採定方法」を定め、
  地方長官が審査委員を任命して採択を決定することと
 した。
  審査委員の構成は、その後しばしば変更されているが、
 地方の教育関係の首脳に位置する人々が参与した。
  しかし、府県一律採択のこの制度が審査委員と教科書
 会社との間に贈収賄事件を引き起こし、いわゆる教科書
 疑獄事件が発生して、検定制度そのものを崩壊させる原
 因となった。
  検定教科書の内容は、小学校令、および、これに基づく
 学科課程に関する法令によって統一され、
 時期を画して展開している。
  すなわち、第一期は、1886年(十九年)の小学校令、
 および、「小学校ノ学科及其程度」以後、
  第二期は、1890年(二十三年)の小学校令、および、
 小学校教則大綱以後、
  第三期は、1900年(三十三年)の改定小学校令、およ
 び、小学校令施行規則以後の時期で、
  また、1890年(二十三年)の教育勅語は、修身教科書
 をはじめ教科書の内容に大きな影響を与えた。
  検定教科書を形態の上から見ると、学年段階に応じて
 編集された教科書が一般化して、
  すなわち、検定制度は、古い型の教科書を一掃して近
 代教科書を普及させ る役割を果たした。
  検定教科書の形態、および、内容に著しい影響を及ぼ
 したものは、1891年12月(二十四年十二月)の「小学校
 修身教科用図書検定標準」でだった。
  これは、修身書をほかの教科書よりも厳格な基準によ
 って検定する趣旨のもとに定められたが、
  その内容は、教科書一般に共通する点が多く、他の教
 科書の編集の上にも大きな影響を与えた。
  つまり、児童用と教師用を区分して編集すること、学
 年段階に応じて程度を高めることなどはすべての教科書
 に通ずるものだった。
  (文部科学省のホームページを参考にした)
1886年5月19日、 川崎正蔵に貸下げられた兵庫造船所を、
 川崎造船所と改名した。
1886年5月19日、東京・京橋の風月堂が、新聞にアイスクリ
 ームの売り出し広告を出した。
  日本人が、初めてアイスクリームを食べたのは、江戸
 時代末期で・・、
  1860年、日米修好通商条約の批准書交換のため、徳川
 幕府が派遣した使節団一行が、
  訪問先のアメリカで、アイスクリームを食べたのが最
 初だったという・・、
  一行は、ホワイトハウスでの歓迎会でアイスクリーム
 の味に、大変感銘を受けたと・・、
  1869年(明治2年)、渡米経験のあった町田房蔵が、横
 浜の馬車道通りにアイスクリームの店「氷水屋」を開店、
  日本国内での最初のアイスクリーム製造販売となる。
  このアイスクリームは「あいすくりん」という商品名
 で販売され、
  原料は、牛乳、砂糖、卵黄と、基本的なものだったが、
 値段が当時の通貨で2分(現在の約8000円)と高額だった。
  そのため、外国人や一部の富裕層にしか売れなかった。
  一般に定着せず・・、
  その後、銀座に「開新堂」「風月堂」「函館館」など
 がアイスクリームの販売を開始した・・、
  次いで「資生堂」が、アイスクリームとアイスソーダ
 を発売、
  また、鹿鳴館で、晩餐会にアイスクリームが欠かせな
 いデザートとなり、文明開化のシンボル的な存在となる。
 (アイスクリームワールドを参考にした)
1886年5月20日、東京・浅草公園、開園祝賀会が行われた。
  我が国初の遊園地は、植物園を前身として、1886 年に
 開園した浅草花屋敷だと言われる。
  利用者は、主に上流階級であったが、徐々に、庶民向
 けの動物や見世物の展示、遊戯機器の設置を行うように
 なった。
  また、我が国初の近代動物園は、内国勧業博覧会を機
 に開園した大日本帝国農商務省博物館付属動物園(現:
 上野動物園)であった。
  続いて、京都、大阪、名古屋において、京都市動物園、
 天王寺動物園、鶴舞公園附属動物園(後に移転し東山動
 物園となる)が、それぞれ開園した。
  これら公立の動物園は、近代都市における社会教育施
 設として建設されたが、
  外国産動物の展示により大きく人気を集めたことによ
 り、次第に遊園地の一種として見なされるようになった。
  明治の末期以降には、遊園地や動物園の盛況ぶりに着
 目した電鉄資本が、
  沿線の顧客開拓の一環として、競い合うように子供や
 家族をターゲットにした遊園地や動物園が一体化した大
 衆娯楽的な行楽施設を各地に開設していった。
  (経済産業省資料を参考にした)
1886年5月21日、各地の中牛馬会社を合同し、東京下谷に
 共同中牛馬会社を設立した。
  日本陸運業の近代化の一翼を担うこととなる中牛馬会
 社の存在は、歴史学的な実証研究が手薄だった。
  国内の市場経済化とともに急速に発展・拡大した陸上
 運輸業全体の展開プロセスは、日本における交通運輸業
 の近代化の第一歩として無視することの出来ない重要な
 意味を持つ。
  明治前期に、あれほど活動的であった陸運企業が、牛
 馬背運送から鉄道運送へという交通技術上の転換によっ
 て衰退したわけではなかった事実に気づかされる。
  牛馬、馬車、鉄道は、いずれも陸運会社の輸送手段と
 して複合的に用いられたのである。
  地域間の貨物運送を行う業務にたずさわったのは、「
 内国通運会社」や「中牛馬会社」といった陸運企業経営
 体であった。
  特に、中牛馬会社は、日本の産業革命期の主役であっ
 た諏訪製糸業の勃興に際し、
  横浜への輸出生糸の運送を請負う陸運企業として重要
 な役割を果たした一例がある。
  (東北大学・王慧子氏の論文を、抜書き構成し参考に
 した)
1886年5月28日、尋常師範卒業生服務規則が公布された。
  (明治十九年五月二十八日文部省令第十一号)
  勅令第十三号師範学校令第八条ニ基キ尋常師範学校卒
 業生服務規則ヲ定ムルコト左ノ如シ
  尋常師範学校卒業生服務規則
  第一条:尋常師範学校卒業生ノ服務年限ハ卒業証書受
    得ノ日ヨリ十箇年トシ其間教職ニ従事スルノ義務
    ヲ有スルモノトス
  第二条:尋常師範学校卒業生ハ卒業証書受得ノ日ヨリ
    五箇年間其府知事県令指定ノ学校ニ奉職スルノ義
    務ヲ有スルモノトス
     但郡区長ノ薦挙ニ係ル生徒ハ卒業証書受得ノ日
    ヨリ五箇年間其郡区長指定ノ小学校ニ奉職スルノ
    義務ヲ有スルモノトス
  第三条:第一条第二条ノ義務ヲ尽ス能ハサルノ事故ア
    ルモノハ其理由ヲ具シテ府知事県令ノ指揮ヲ請フ
    ヘシ
  第四条:第一条第二条ノ義務ヲ終ヘタルモノハ其経歴
    書ヲ具シテ其府県庁ニ届出ヘシ
  第五条:謂ハレナク第一条第二条ノ義務ヲ尽ササルモ
    ノ或ハ服務年限内ニ於テ品行不正ニシテ其職務ヲ
    免シタルモノアルトキハ其都度府知事県令之ヲ文
    部大臣ニ具申スヘシ
  第六条:府知事県令ハ服務規則ニ関スル細則ヲ定ムル
    コトヲ得
.
  (今日の言葉)
.
  題:今度は、ソ連のスターリンが、手のひらを返した・・
   そして、米ソの雌雄を決する対決が始まる・・冷戦がはじまる・・
.
1946年3月、鉄のカーテン
  イギリスの元首相のチャーチルが演説で・・、
  「鉄のカーテン」・・と、米ソ冷戦の緊張状態を表す
 言葉として言った。
  第二次世界大戦が終結して、まだ、わずか『7か月』し
 か経ていなかった。
  鉄のカーテン(てつのカーテン)は・・、
  冷戦時代のヨーロッパにおいて、東西両陣営の緊張状
 態を表すために用いられた比喩のことで・・、
  イギリスのウィンストン・チャーチルが・・、
  第61代首相を退任後の1946年3月、アメリカ合衆国大統
 領ハリー・S・トルーマンに招かれて訪米し、
  ミズーリ州フルトンのウェストミンスター大学で行っ
 た演説の中でこう述べた。
  因みに、アメリカの大統領は・・、
  政治信条や、政策や、深い思想哲学に裏付けられて、
 選ばれて来るのではない・・と、知識人たちに言われて
 いる。
  マスコミによって、容易に動かされる大衆が、その好
 み、「好きだとか、嫌いだとか」によって選んでいるの
 だ・・と、言われている。
  また、第一次大戦までは・・、
  ヨーロッパの国々は・・アメリカのこの様な政治シス
 テムを、ほとんど信頼していなかった・・という。
  そして、アメリカという国を、むしろ厄介者だと考え
 ているくらいであった・・という。
  ヨーロッパの国々から見れば・・、
  アメリカという国は・・、
  ヨーロッパの国から、イギリスから・・しょせんは独
 立した新興国に過ぎない・・と・・感じていた・・と。
  第二次世界大戦に至る時ぐらいまでの百数十年間は、
  世界の二流国ぐらいに・・考えられていた。
  それが、第二次世界大戦を勝利に導き・・、
  世界を動かすようになったのだった。
  そして、その戦いののち、戦後に、「鉄のカーテン」
 とたとえられる時が来るのだが、
  第二次世界大戦の・・戦争中までは、互いに話し合う
 スターリンとアメリカ大統領のルーズベルトだったが、
  そして、日本の領土を餌に・・ソ連のスターリンへ、
 『日本への参戦を誘う』というアメリカの大統領のルー
 ズベルトだったが、
  この関係が・・、スターリンが戦後に、勝者となって
 の後に、国内の独裁体制を築き・・推し進め・・そして、
 かためたいと・・考えた所から、手のひらが返された。
  ソ連の、ソビエト圏の閉鎖が進んで行く・・、
  ここでチャーチルの「鉄のカーテンが下りて来た」の
 言葉が飛び出した。
  ソ連のスターリンは、勝者側の一方へ・・ソ連に対峙
 するその一方へ・・戦いを挑んで来たのである。
  その時に、冷戦が始まった。
  アメリカにとっては予想のしていなかったことで・・、
  その対応・応戦には、一時は戸惑った。
  そして、その後、この冷戦は、とめどなく、戦いは続
 けられて行く。
  科学の力を駆使し、持てる経済力のすべてを投入し、
 ぎりぎりの戦いが展開されて行く。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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by suba28 | 2016-09-27 04:59 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)424E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年4月~1886年5月)

題:(増補版)424E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年4月~1886年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年4月29日、日米犯罪人引渡条約に調印した。
  この日に、東京において調印された。
  1886年10月6日に、公布された。
  日本皇帝陛下及亞米利加合衆國大統領ハ、兩國內竝ニ
 其管轄內ニ於テ、司法事務ヲ益??到ナラシメ及ヒ犯罪ヲ
 防止セムカ爲メ、下ニ揭ル犯罪ニ付有罪ノ宣告若クハ告
 訴、告發ヲ受ケ未タ處分ヲ經スシテ逃亡スル者ハ、其情
 狀ニ據リ互ニ之ヲ引渡スノ便宜ナルヲ認メ、之レカ爲メ
 條約ヲ締結スルコトニ決シ、日本國皇帝陛下ハ外務大臣
 伯爵井上馨ヲ亞米利加合衆國大統領ハ日本駐劄特命全權
 公使「リチャード、ビー、ハッバード」ヲ各其全權委員
 ニ命セリ、因テ雙方全權委員ハ互ニ其委任狀ヲ示シ誠實
 適式ナルヲ認メ左ノ條條ヲ議定ス
  第一條
  締約國一方ノ管轄內ニ於テ第二條ニ揭ル犯罪ニ付有罪
 ノ宣告若クハ告訴、告發ヲ受ケタル者他ノ一方ノ管轄內
 ニ於テ發見セラレタルトキハ、締約兩國政府ハ本條約ニ
 開列スル情狀及ヒ制限ニ遵ヒ互ニ之ヲ引渡スヘシ
  第二條
  引渡スヘキ犯罪人ノ罪名・・云々
1886年4月30日、判任官等俸給令を公布した。
1886年4月30日、秋田で大火、焼失3500戸。
1886年4月、大学予備門が第一高等中学と改称した。
  第一高等学校(だいいちこうとうがっこう)は、現在
 の東京大学教養学部、および、千葉大学医学部、同薬学
 部の前身となった旧制高等学校であり、「旧制一高」と
 も呼ばれた。
  旧制一高は、旧制高等学校の中でも早い時期に創設さ
 れたナンバースクールの先駆けであり、
  1886年(明治19年)に、日本の近代国家建設のため必
 要な人材の育成を目的として第一高等中学校として創設
 された。
  校名が、第一高等学校に改称された1894年(明治27年)
 以降、一高の修学期間は3年となり、
  帝国大学の予科と位置づけられた。
  一部は、法学・政治学・文学、
  二部は、工学・理学・農学・薬学、
  三部は、医学であった。
  また、1921年以降は、文科甲/乙/丙類、理科甲/乙類と
 いう分類となった。
  一高の卒業生の多くは、東京帝国大学へ進学した。
1886年5月1日、東京横濱毎日新聞が毎日新聞に改称した。
  1871年1月28日(明治3年12月8日)に、横浜で創刊され
 た日本最初の日本語の日刊新聞で、
  横浜活版舎(のち横浜毎日新聞社)が発行した。
  当時の神奈川県令(県知事)・井関盛艮(いぜき・も
 りとめ)が、近代新聞の必要性を横浜の貿易商達に説き、
 印刷業者の本木昌造・陽其二の協力の下に、創刊にこぎ
 つけた。
  編集者は、横浜税関の翻訳官:子安峻(こやす・たか
 し)だった。
  そして、この日に、毎日新聞に改称した。
1886年5月1日、第1回 條約改正會議(~翌年4月)
  外務大臣・井上馨は、各国公使と第一回条約改正会議
 を、外務省にて開いた。
  そして、正式に、改正条約案を提出した。
  列国共同会議とも言った。
  (第1回条約改正列国会議)
  井上馨は、この条約改正では、以前の個別交渉方式を
 捨てて、列国会議方式をとって法権回復を優先させよう
 とした。
  普通、条約は、有効期間が来れば、または、廃棄の方
 法を規定して、期限がくると自動的に失効するか、
  または、一方が申出をして廃棄できるのが普通である
 のだが、
  日本の結んだ通商条約は、日本が鎖国へ戻ることを警
 戒して、
  1年前の予告を条件にして、1872年(明治5年)7月以降に
 改正交渉ができるという条項だけだった。
  そこで、明治維新後に、明治政府は、主権国家の名実
 を得るために、不平等条項の改正交渉を行ったが、
  アメリカなどの外国は、既得権の放棄を欲しなかった。
  列国は、交渉に応じなかった。
  法権回復(領事裁判権の回復)は日清戦争後の1899年
 になった。
  また、関税自主権の回復は、日露戦争後の1911年にな
 るという状況だった。
  (参考)領事裁判権:りょうじさいばんけん、不平等
    条約によって定められた治外法権のひとつで、
     在留外国人が起こした事件を、本国の領事が、
    本国法に則り裁判する権利をいう。
1886年5月2日、国産の鉛筆工場が、初めて東京・四谷に設
 置され、佐賀県人・真崎仁六により起業・・とあるが?
  鉛筆組合史年表によると・・違う?
  確かに、「日本鉛筆史・明治時代鉛筆製造業者一覧」
 の1887年(明治20年)に、
  真崎仁六、真崎鉛筆製造所、四谷内藤新宿、現:三菱
 鉛筆とあるが、最初ではない。
  この表では、1874年(明治7年)小池鉛筆製造所(小池
 卯八郎〉銀座3丁目が、最初だとある。
  そして、以下が、この鉛筆組合史年表の説明(一読の
 価値があるので転載させて戴く、一部読みやすくした)・・、
  わが国による鉛筆づくりは、明治時代初期に始まる。
  この頃の鉛筆づくりの形態は「手工業」で、「産業」
 と呼ぶには至っていなかった。
  維新を経て、多くの若者が特使として渡欧し、政治、
 法律、徴兵制等の近代国家のしくみを勉強していた際、
 都市にあったさまざまな西洋文物を我が国に持ち帰った。
  なかでも、鉛筆、石鹸、マッチ等の日常生活用品、つ
 まり、今日でいう中小工業的商品類の製造法に関しては、
 明治10年代~明治20年代に、日本と欧州との間に、積極
 的な人材の往来があり、製法の研究・伝授は大いに進ん
 だ。
  1872年(明治5年)学制がしかれて、寺子屋に代わる欧
   米式の学校が、各地に新設され鉛筆の需要は高まっ
   た。
  1873年(明治6年)藤山種廣、井口直樹が、ウィーンか
   ら鉛筆製法を伝えた。
    井口は、ドイツ・ヒツトワイス鉛筆製作所の製造
   機械の図解を模写、さらに、黒鉛を携えて帰国した。
    藤山は、ボヘミア州ハルトムートの製造所で、製
   法を学び帰国した。
    両者は、欧州工業の見聞の記録を小池卯八郎に伝
   えた。
  1877年(明治10年)小池卯八郎は、第1回内国勧業博覧
   会(東京上野)に国産初の鉛筆を出品した。
  1880年~1881年(明治13年~14年)頃、河原徳右衛門
   は、苦心して黒芯鉛筆を製造、小石川第六天に工場
   をもち、百人近い職工を使った。
    そして、1881年、開催の第2回内国勧業博覧会(東
   京上野)で二等賞を受けた。
  1882年(明治15年)河原は事業に失敗するが、多くの
   鉛筆職人を輩出した。
    井上吉兵衛、藍田貞三郎、大久保桂次郎、杉江鉦
   三郎、永谷健三郎、他。
  1884年(明治17年)杉江鉦三郎は、下谷区竹町に杉江
   蜻蛉社を設立し、
    1899年(明治32年)田端に日本鉛筆株式会社設立。
  1885年(明治18年)鉛筆が文房具としてわが国に輸入
   されたのは、1877年(明治10年)頃といわれている
   が、公式には1885年(明治18年)、輸入品目に鉛筆
   が計上されているのが最初。
    故に、それ以前の輸入は、おそらく見本程度の数
   量に過ぎず、ようやく、この頃から、鉛筆が商品と
   して扱われるようになったものと考えられる。
   この頃の輸入鉛筆には、イースタン・レッド・シダ
   ーが使われていた。
  1885年(明治18年)公立小学校上級生に英語の授業が
   行なわれるようになり、鉛筆の需要は急速に高まっ
   た。
  1887年(明治20年)眞崎仁六が、眞崎鉛筆製造所を内
   藤新宿1番地に興した。
   「鉛筆製造界に一異彩あるは眞崎鉛筆製造所なり」
   と言われた。
  1889年(明治22年)鉛筆の輸入は96,039グロス、当時
   の輸入鉛筆は、アメリカ、イーグル社製の黒軸銀文
   字入り、デックソン社製の銀軸文字入りなどであっ
   たが、1890年(明治23年)には、横浜アンバリウス
   商会がイーグル社の140番ゴム付鉛筆を輸入ヒットさ
   せた。
  鉛筆の価格・・
  1887年(明治20年)鉛筆1厘、そば1銭、風呂代1銭3厘。
  1907年(明治40年)鉛筆2厘、そば3銭、風呂代3銭。
  (参考)眞崎仁六の眞崎鉛筆製造所が、現在の三菱鉛
    筆株式会社に、
     また、河原徳石衛門の門下生の杉江鉦三郎と共
    に鉛筆づくりを始めた小川作太郎が、現在の株式
    会社トンボ鉛筆になっている。
1886年5月5日、裁判所官制を公布し、治安裁判所、始審裁
 判所、重罪裁判所、控訴院、高等法院、大審院の裁判所
 制度が定められた。
  明治政府が、1885年以降、太政官制を廃止して、官制
 の大改革をするが、これも三権の一つで重要であった。
  この官制で、裁判官の身分保障の法定などが盛り込ま
 れたが・・、
  裁判所官制は,日本の司法制度が制度・機構の両面にお
 いて近代的性格を有するに至ったことを示すものであっ
 た。
  そして、この内容は、ほとんど変更されることなく1890
 年の裁判所構成法に引き継がれた。
1886年5月4日、第2海軍区鎮守府を呉、第3海軍区鎮守府を
 佐世保と定めた(4月21日説、5月5日説あり)
  1886年4月22日、「海軍条例」において、全国に五つの
 海軍区を定め、各区の軍港に鎮守府を置くこととし、
  1886年5月4日に、第二海軍区(範囲「紀伊国南牟婁郡
 界ヨリ石見長門国界ニ至リ筑前遠賀宗像郡ヨリ九州東海
 岸ニ沿ヒ日向大隅国界ニ至ルノ海岸海面及四国ノ海面並
 内海」)を所管する鎮守府は、呉港に置くことが定めら
 れた。
  また、1886年(明治19年)4月21日、鎮守府官制が制定
 され、佐世保に「第三海軍区鎮守府」を置くことが決定
 した。
  九州を始めとする西日本地域一帯の防衛と朝鮮・中国
 等東アジアへの進出の根拠地として、
  九州の西岸に海軍の軍港を置くことになった。
  本来は、長崎だったが、市民から商港機能を阻害され
 ると猛反対され、土地買収費用の問題もあって断念され
 た。
.
(今日の言葉)
.
  題:あまりにも貧乏くじを引いた・・オバマ大統領
   そして、似たような状況を脱した・・ルーズベルト
.
2009年1月20日、オバマ大統領が就任した。
  アメリカのバラク・フセイン・オバマ2世(1961年8月
 4日生まれ~)が、この日に、第44代アメリカ合衆国大統
 領に就任した。
  2009年10月には、ノーベル平和賞を受賞した。
  実父のバラク・オバマ・シニアは、ケニアのニャンゴ
 マ・コゲロ出身である。
  そして、父は、奨学金を受給していた外国人留学生で、
 ハーバード大学を卒業した。
  母親は白人で、ハワイには母親の両親が居る。
  そして、オバマの両親は、ハワイ大学で知り合い、
  1961年2月2日に結婚した。
  しかし、両親は1964年(3歳の時)に離婚、オバマは、
 母親のもとで暮らした。
  父はケニアへ帰国し、この父とは1971年(10歳)に再
 開したが、父は、1982年(21歳)自動車事故で逝去した
 (46歳だった)
  母は、離婚後人類学者となり、ハワイ大学で知り合っ
 たインドネシア人留学生と再婚した。
  1967年(6歳)インドネシアが、クーデターでスハルト
 政権になると、ハワイからインドネシアに呼び戻され、
  オバマは、両親と共に、ジャカルタに移住した。
  オバマは、1967年の6歳から10歳まで、ジャカルタの公
 立小学校へ通った。
  そして、1971年(10歳)になると、オバマは、ハワイ
 のホノルルの祖父母のもとへ行った。
  地元の有名私立小中高一貫の学校へ入った。
  青年時代のオバマは、ハワイで母親と母親方の祖父母
 〈白人〉の下で成長した。
  1991年(30歳)法務博士の学位を取得して、シカゴ大
 学の法学フェローとなった。
  ハーバード大学ロー・スクール終了後、弁護士として
 法律事務所に勤務した。
  1992年(31歳)結婚する。
  1992年(31歳)から、シカゴ大学ロースクールの講師
 となる。
  1995年(34歳)母親が、癌で亡くなる。
  1996年(35歳)イリノイ州のイリノイ州議会上院議員に当選した。
  2004年11月(43歳)イリノイ州選出のアメリカ合衆国上院議員に初当
 選した。
  アフリカ系上院議員としては史上5人目(この時点では
 オバマだけ)。
  2004年7月27日(43歳)のアメリカ大統領選挙の基調
 演説が有名である。
  オバマは、ケニア人の父、そして、カンザス州出身の
 母がハワイで出逢い自分が生まれたこと、
  次いで、「すべての人は生まれながらにして平等であ
 り、自由、そして、幸福の追求する権利を持つ」と言う
 独立宣言を行なった国、アメリカ合衆国だからこそ、
  自分の様な人生があり得たのだ・・と、述べた。
  そして、
  「リベラルのアメリカも保守のアメリカもなく、ただ、
 『アメリカ合衆国』があるだけだ。
  ブラックのアメリカもホワイトのアメリカも、ラティ
 ーノ(ラテンアメリカ出身者)のアメリカもエイジアン
 (アジア人)のアメリカもなく、
  ただ『アメリカ合衆国』があるだけだ」「イラク戦争
 に反対した愛国者も、支持した愛国者も、みな同じアメ
 リカに忠誠を誓う『アメリカ人』なのだ」・・と語り、
  その模様が、広く全米に中継された。
  長年の人種によるコミュニティの分断に加え、
  2000年大統領選挙の開票やイラク戦争を巡って先鋭化
 した保守とリベラルの対立を憂慮するアメリカ人により
 この演説は高い評価を受けた。
  2008年(47歳)11月4日に行われたアメリカ大統領選で
 オバマは勝利した。
  しかし、オバマが、アメリカ大統領になった時は、ア
 メリカは大変だった。
  前のブッシュ(子、任期:2001年1月20日~2009年1月
 20日)が始めたイラク戦争(2003年3月20日開戦)の結末
 を付けなければならなかったし、
  また、2007年4月に、ニュー・センチュリー・ファイナ
 ンシャル(アメリカの住宅ローン会社)の倒産(連邦倒
 産法第11章の適用申請)が発端とし、波及し、サブプラ
 イム融資によって世界中に、前任のブッシュ大統領が、
 不良債権をまき散らかしていて、その不良債権を、オバ
 マ政権は買い取らなければならなかった。
  また、2009年、ゼネラルモーターズが破綻(はたん、
 オバマ大統領も苦労するが、もだえながら、2009年2月20
 日に経営破綻)した様に、
  長年の怠慢から、デトロイトの自動車産業は、技術的
 に遅れ劣ってしまって、オバマ政権が金を注入して、国
 際競争力を回復させなければならない企業になってしま
 っていたし、
  しかし、金を注入したって、デトロイトの自動車産業
 が破産状態から立ち直るのは望み薄だった。
  また、ブッシュがやったサブプライムローンの不良債
 権のかたまりの住宅は、1000万戸もあったし(べらぼう
 な戸数だ)、
  世界の金融業界は大混乱に陥らせてしまっていたし、
  まだまだ書けば書ける事があるというアメリカの最悪
 状態に就任した・・オバマ大統領だった。
  第二次世界大戦を、1941年に始めたアメリカの第32代
 大統領のフランクリン・ルーズベルト(任期:1933年3月4
 日~1945年4月12日)も、世界が大恐慌の真っ最中に大統
 領に就任した。
  オバマ大統領の様に、最悪の時に大統領になった。
  世界恐慌は・・、
  1929年10月24日、ゼネラルモーターズの株価が暴落し
 たのがきっかけで、株式市場は、11時頃には、売り一色
 の大暴落となった。
  そして、「暗黒の木曜日」と言われるこれがきっかけで、
 世界大恐慌は始まった。
  1930年代になっても、この世界恐慌は、規模と影響範
 囲が絶大で、手が付けられなかった。
  自律的な回復のめどが立たないほど困難だった。
  この様な、経済の最悪状態の時に、ルーズベルトは大
 統領になった。
  ルーズベルトは、最悪状態を抜け出すために、脱出す
 るために日本と戦争したいと考えた。
  結果的に、日本と戦争をはじめ、そして、経済はV字
 回復した。
  軍需産業は、フル回転し始めた・・、
  デトロイトの自動車産業にも依頼して・・タンクや大
 砲を造った(この産業界のプッシュもあったのか?)。
  また、日本をこのままにしておくと、アメリカがじり
 貧に陥(おちい)ると考えていた。
  アメリカの権益が減り、また、得られなくなり、更に、
 困った状況になると考えていた。
  ルーズベルトは、あらゆる策略を弄(ろう)して日本
 と戦争を始めようとした、
  そして、「勝てば官軍」の勝った者が正義だの論理で
 戦争を始めた。
  日本は追い詰められて、ルーズベルトの思惑にはまっ
 て行った。
  精神的にも戦争に駆り立てられて行った。
  アメリカでは、大きな戦争をして勝って(アメリカは、
 超大国、敗ける事はない)、その大統領は、尊敬を受け
 るというパターンが、それまでに多くの事例があった、
 ルーズベルトも、この軽蔑すべきパターンに入った。
  アメリカが、「戦争の好きな国」と言われる起因は、
 こんなところにも原因があった。
..
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(増補版)423E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年4月~1886年4月)

題:(増補版)423E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年4月~1886年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年4月28日、帝国大学が、詰襟洋服を制服とし、菱形帽
 を制帽と決定した。
1886年4月28日、農商務省の兵庫造船所を、川崎正蔵に貸下
 げた。
  造船王と言われるまでになる。
  川崎 正蔵(かわさき しょうぞう、1836年8月10日(天
 保7年7月10日)~大正元年(1912年)12月2日)、
  日本の実業家、政治家。神戸川崎財閥の創設者。
  川崎造船所(後の川崎重工業)創業者、貴族院議員。
 男爵。従五位。
  1836年、鹿児島の小さな商家・町人の家・長男に生れ、
  独学で国学や英語を学ぶ、
  巨大海商の山木屋へ就職し、鹿児島と長崎で海運、貿
 易、造船に従事した。
  大阪での小売商をへて、
  1853年(17歳)で、長崎へ出て、貿易企業に従事する。
  そして、異人商会相手の商売を身につけ、薩摩藩の経
 済官僚となる。
  1863年(27歳)のとき、大阪へ出て、物産店を開業、
 鹿児島との雑貨の交易を業とした。
  この間、二度、乗船が遭難し、そのときの経験から西
 洋船舶に強い信頼を抱くと同時に、その建造に乗り出す
 意思を固めたといわれる。
  明治維新の動乱に際し勤王志士を助け、
  1871年(35歳)上京、大蔵省から琉球特産品の調査を
 依頼される。その縁から、
  1873年(37歳)郵便蒸気船会社の副頭取となる。
  副頭取として、琉球航路の開設に成功した。
  同社が、三菱(みつびし)会社に合併されると、彼は、
 一時、三菱に属した。
  大久保利通、前島密らの知遇を得た、
  1877年(41歳)には、琉球(りゅうきゅう)官糖取扱店
 を開き、
  さらに、海運業も営むなど、多角的に事業を経営し、
 この利益は、創業当初の造船業を支えた。
  1878年(42歳)5月、東京京橋区築地に川崎造船所を創
 業(この創業は、大蔵省から官有地と、3万円を借用し、
 また、諸戸清六や森村市左衛門の融資を得たのだった)
  そして、創業後は、五代友厚から初期の運転資金の援
 助を受けた。
  1880年(44歳)沖縄県貢糖の特権的販売人に任命され
 て多額の手数料を得た。
  また、海運業や川崎紡績所の経営で資本を蓄積した。
  1881年(45歳)さらに兵庫造船所を建設して開設。
  1886年(50歳)4月、官営兵庫造船所の貸下げを申請し
 て認められ、貸し下げを受け、経営の合理化を行った上
 で、
  1887年7月(51歳)払い下げが許可され、1割利引計算
 法によって約6万円を即納し、
  私営の川崎造船所としてスタートした。
  「商戦は最初の5分間」「大厦の材は一丘の木にあらず」
 を経営のモットーとし、市場の拡大のために奔走して造
 船所を拡大した。しかし、
  1896年(60歳)10月に、施設の拡充を遂行するため同
 所を株式会社に改組し、この株式会社に組織変更したと
 きに松方幸次郎を社長に就任させ、
  自らは、病気のため顧問に退いた。
  新会社の2万株の大株主として死去するまでに187万円
 の莫大な配当を得た。
  これで、多数の株式と土地を購入し、
  1898年(62歳)に、神戸新聞社、
  1905年(69歳)に、神戸川崎銀行、
  1906年(70歳)に、朝鮮に川崎開成社という小作農場
 を設立した。
  美術品の収集家としても知られ、神戸布引の本邸内に
 長春閣という美術館を設けて、政財界人と交歓した。
  人脈作りの才能を持ち、大久保利通、松方正義、五代
 友厚らと熱い交友を持ち、関係者や友人に愛された。
1886年4月29日、師範学校令に基づき「高等師範学校」とし
 て改編・設立した。
  中等学校と小学校の教員養成をあわせ行なってきた従
 来の制度を改め、尋常師範学校教員の養成を中心とする
 機関とし、
  また、附属体操伝習所を廃止し、体操専修科を設置し
 た。
1886年4月29日、商船学校、高等師範学校などの官制交付
  高等師範学校・高等中学校・東京商業学校の各官制の
 公布。
  また、東京大学予備門を第一高等中学校に、大阪大学
 分校を第三高等中学校に、東京師範学校を高等師範学校
 と改組した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:サンフランシスコ講和条約にからむ話で・・、
    何とも・・滑稽(こっけい)な話が・・
.
  日本が、第二次世界大戦に敗けて・・、
  1951年の、サンフランシスコ講和条約で、再び、独立
 を果たした・・が・・、
.
1951年(昭和26年)7月9日、ダレス国務長官補は、韓国大
 使との会談で、「韓国は、日本と戦争状態にあったこと
 はなく、連合国共同宣言にも署名していない」ことを理
 由に、韓国は講和条約署名国となれないことを、再度、
 正式に通知した。
  この韓国の嫌になるくらいの粘り強さを、学ばなけれ
 ばならない。
.
1951年8月10日、韓国の要求に対して、アメリカは、ラスク
 書簡で要求を拒否した。
  韓国側は、日本の在朝鮮半島資産の韓国政府、および、
 アメリカ軍政庁への移管、竹島・波浪島の韓国領編入、
 マッカーサー・ラインの継続などを記した要望書を提出
 したうえで「十分な信頼と信任により平和を愛する世界
 の国々との機構への日本人の受け入れに反対する」と、
  日本を国際社会に復帰させようとする対日講和条約締
 結に反対した。
  これに対し、アメリカは、1951年8月10日に、ラスク書
 簡で最終回答を行い、
  在朝鮮半島の日本資産の移管についてのみ認め、韓国
 のほかの要求を拒否した。
  この韓国の嫌になるくらいの粘り強さを、学ばなけれ
 ばならない。
.
1951年8月22日、韓国の要求に対して、アメリカは、ラスク
 書簡で、再度、要求を拒否した。
  通知後も韓国は、「署名国」としての地位の要求を継
 続した。
  これに対してダレスは、1951年(昭和26年)8月22日に、
 韓国大使の署名要求を、再度、拒否するとともに、
  講和会議へのオブザーバー資格での参加も拒否した。
  ただ「非公式の参加は可能」と回答した。
  この韓国の嫌になるくらいの粘り強さを、学ばなけれ
 ばならない。
.
1951年9月8日、この日に、サンフランシスコ条約が締結さ
 れたが、韓国は、日本と日韓併合で一体となっていたの
 で、当然、国として認められず、署名国として招請(し
 ょうせい、招き迎えること)されていなかった。
  それに対し・・
  韓国は、「署名国」としての参加を度々表明し、一時
 は署名国リストにも掲載されていたが、
  当時の大韓帝国は、日本に併合され、
  また、大韓民国臨時政府を承認した国も存在せず、
  また、他の亡命政府のような「大韓民国臨時政府」の
 指揮下にある軍も存在しておらず、日本と交戦していな
 かったため招請されなかった。
  当然である。
  この韓国の嫌になるくらいの粘り強さを、学ばなけれ
 ばならない。
.
1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ講和条約が
 結ばれた(署名された)。
  日本は独立した。
  アメリカの主導する占領から解放された。
  国際社会に、独立国として、堂々と復帰した。
  しかし、この時、締結した「サンフランシスコ講和条
 約の条項」に、卑劣にも書かれた条項を、日本は、守ら
 なくてはならなかった。
  それは、「日本は、東京裁判(極東国際軍事裁判)の
 判決を受諾し・・刑を執行する・・」「裁判によって言
 い渡された判決」を受け入れるという事だった。
  日本の軍人を、日本の兵士を(日韓併合で日本国だっ
 た、そして、日本人だった韓国の兵士も判決を受けてい
 た)東京裁判で判決し、殺したりしたが、受け入れよと
 言うものだった。
  東京裁判で死刑判決になった人がいたが、これも、ま
 ったく卑劣に決められた。
  日本が敗れると分かっていたころ、東京で裁判が行わ
 れる以前に、すでに、連合国は、誰を死刑にするかを決
 めていた。
  公正な裁判が行われて、その結果、死刑になったとい
 う事ではなかった。
  裁判をして、公正に死刑になりましたという風に、世
 界へ演技をして見せかけただけだった。
  アメリカなどの連合国は、すでに死刑にしたい人間を
 決めていて、裁判をするという演技をしていた。
  卑劣である。
  アメリカは、「東条英機を死刑にしたい」と打ち合わ
 せで言った。
  中国国民政府(今の中国共産党政権の国ではない、日
 本と戦争をしてない国ではない)は、「板垣、土肥原、
 松井・・」と言い、
  ソ連は、「広田弘毅・・云々」と言い、
  各国が、好きに、裁判の判決もないのに言いたい放題
 だった。
  リンチ(私刑)の見本のような下劣な事をやった。
  そして、東京裁判の演技裁判が行われて、日本の軍人
 (兵士)たちは責任を取らされた。
  これが、サンフランシスコ講和条約に書かれて、「受
 け入れよ」とされていた。
  まったく卑劣に、連合国の国際的取引のまな板の上で、
 日本の兵士の命がやり取りされていた。
  また、この条約は、英語・フランス語・スペイン語が、
 正式の正本とされ、日本語は正本とされなかった。
  つまり、下記の日本語の条約は、サンフランシスコ講
 和条約の正式な条文ではない。
  下記の日本語の条文に、間違いが無ければ問題はない
 が、下記の条文には間違いがある。
  正本との違いがある。
  それが、肝心かなめな間違いであるから、問題は大き
 いのである。
  つまり、日本は、「東京裁判の結果を受け入れよ」と
 言われたのではなく、
  「東京裁判の判決の結果を受け入れよ」と言われてい
 たのであった。
  「判決の結果だけを受け入れるのと」「裁判の全体を
 意味する裁判を受け入れよ」とは大きな違いがある。
  翻訳のミスがあったのだ。
  戦後、東京裁判史観があるが・・?、
  こんな単純ミスから、日本人は、律義に・正直に・誠
 実に、『東京裁判の全体』を受け入れ、
  自虐史観に陥(おちい)っているのが?
  なんとも滑稽な話」となっている。
.
  (参考)
  サンフランシスコ講和条約:第十一条
  日本国は、極東国際軍事裁判所、並びに、日本国内、
 及び、国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、
  且つ、日本国で拘禁されている日本国民に、これらの
 法廷が課した刑を執行するものとする。
  これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び、
 仮出獄させる権限は、各事件について、刑を課した一又
 は二以上の政府の決定、及び、日本国の勧告に基く場合
 の外、行使することができない。
  極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、こ
 の権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定、
 及び、日本国の勧告に基く場合の外、行使することがで
 きない。
..
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by suba28 | 2016-09-24 07:14 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)422E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年2月~1886年4月)

題:(増補版)422E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年2月~1886年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年2月24日、法律命令の格式を制定(公文式)
  公文式が公布された。
  公文式(こうぶんしき:法律・命令の公布方法を規定
 した日本の旧法令(明治19年勅令第1号)。
  法律から各官庁規則までの形式を定めたもの。
1886年2月26日、主要各省の官制を公布
  各大臣の職務を規定、
1886年2月27日、各省官制通則を公布
  職種・指揮命令系統を定める。
  外務省、内務省、陸軍省、海軍省、司法省、文部省、
 農商務省、逓信省の通則と各省官制が公布される。
  内務省には衛生局が置かれ、局内に衛生課と医療課が
 置かれた。
1886年2月28日、六鎮台を廃し、師団とした(東京・仙台・
 名古屋・大阪・広島・熊本)
1886年2月、最初の修学旅行
  東京師範学校(後の東京高等師範学校、東京教育大学)
 が、11泊12日の日程で実施した、東京と千葉県銚子(ちょ
 うし)の間を徒歩で往復する長途遠足に始まるのが最初と
 いう。
  心身の鍛錬と、規律正しい集団行動を目ざす兵式訓練
 的要素と、
  その当時、流行だった直観教授の主張、すなわち、実
 物に触れることを重視する教育理論に基づく校外学習の
 要素、
  親睦(しんぼく)の要素で実施された。
  今日の修学旅行の原型。
  修学旅行という用語は、1888年の「尋常師範学校設備
 準則」に初めて使われた。
  修学旅行は、1900年代に入ると、小学校の高学年に行
 なう例が普及した。
  1899年に、当時の日本鉄道会社が、50人以上の団体に
 対して割引料金制度を導入したことによる促進もされた。
1886年3月1日、名古屋~武豊間に鉄道が開通した。
  武豊駅~熱田駅間が開業(武豊線・たけとよせん)
1886年3月1日、東京教育博物館から東京図書館が分離独立
 した。
1886年3月1日、帝国大学の創立記念日(帝国大学発足)
  帝国大学令の制定にともなって記念日と定めた。
  官立東京大学は、帝国大学と改組改称された。
  法・医・工・文・理の5分科大学から成る総合大学。
  東京大学発足
  公布は翌日2日。
1886年3月2日、帝国大学令の公布
  森有礼文相が、帝国大学令を公布し施行した。
  学校令とは、、この時に、諸種の学校を総合規定して
 いた教育令が廃止されて、
  同年・1886年3月~4月に公布された帝国大学令、師範
 学校令、小学校令、中学校令、諸学校通則の5単行勅令を
 さす教義の学校令で・・、
  広義には、それ以降、1947年3月の学校教育法により、
 再び、大学から幼稚園までの諸学校が総合規定されるま
 での間に公布された、学校種別単行勅令の総称をいう。
  そして、日本の帝国大学制度は、1880年代に入って、
 憲法の制定作業に入った伊藤博文(当時、参議)らによっ
 て構想された。
  プロイセン・ドイツやオーストリアの国法学者たちから
 大学の国家経営が重要であることを学んできた伊藤は、
  1885年、内閣を組織するとともに、初代文相・森有礼
 とはかって、帝国を代表する政府直轄の大学の設立に入
 り、
  翌・1886年、帝国大学令を制定した。
  それは、分科大学と大学院から成る総合大学で、
  〈国家ノ須要ニ応スル〉(帝国大学令1条)専門教育と学
 術研究を進める機関とされ、学位審査権も与えられた。
  日本の先達の方たちは、誠実に、他国に学んで、日本
 を良くしようと燃えていた・・、
1886年3月3日、各省に次官を置いた。
  この時に、各省官制が制定され、次官職が誕生した。
  直後には、次官を含む局長級以上の勅任官は、文官任
 用令には何も規定がなかった。
1886年3月9日、初代東京府知事(兼東京市長)に議官・高
 崎五六(たかさきごろく)が任命された。
  高崎 五六(1836年4月4日(天保7年2月19日)~1896年
 (明治29年)5月6日)、江戸時代末期の薩摩藩士、
  安政末期、水戸藩有志とともに井伊直弼襲撃を策謀し
 た。
  維新後、大久保利通に用いられて、元老院議官。
1886年3月18日、参謀本部条例を改正した。
  陸軍部と海軍部に分けられた。
  長は参謀本部長で、次長が2名置かれた。
1886年3月18日、名古屋に株式取引所が設立された。
  東京株式取引所設立から8年後に設立された。
1886年3月21日、物集高見(もずめたかみ、国学者)が、
 「言文一致」を発表して、口語体文章を主張した。
  この年の3月、帝国大学教授に任ぜられ、さらに、東京
 師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)や文部省参
 事官を兼任した。
  この当時、三遊亭円朝の講談速記がもてはやされ、
  また、文章の方面でも、この年に、矢野文雄の「日本
 文体文字新論」、末松謙澄の「日本文章論」が出たりし
 た。
  文芸の上でも、坪内逍遥の「小説真髄」など新思潮の
 動きが活発だった。
  これらの情勢から言文一致体の小説が生まれて来た。
1886年3月22日、東京・本郷に共立女子職業学校(現=共立
 女子大学)が開校した。
  宮川保全、那珂通世などによって設立された。
1886年3月22日、海軍軍事部が廃止された。
1886年3月23日、帝国大学大学院規程が制定された。
1886年3月26日、税関官制が公布された。
1886年3月29日、郵便汽船三菱が、三菱社と改名した。
1886年3月31日、井上馨外相が 、日清修好条規改正を清国
 政府へ提議するよう、公使・塩田三郎に指示した。
  日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)は・・、
  1871年9月13日(明治4年7月29日)に、天津で、日本と
 清の間で初めて結ばれた対等条約で・・内容には・・、
  ・両国は、互いの「邦土」への「侵越」を控える(第1
   条)
  ・外交使節の交換、および、双方に領事を駐在させる
   (第4条、第8条)
  ・両国の交渉には漢文を用い、和文を用いるときには
   漢文を添える(第6条)
  ・制限的な領事裁判権をお互いに認める(第8条、第9
   条、第13条)
  ・両国の開港場では刀剣の携帯を禁じる(第11条)
  ・通商関係については、欧米列強に準ずる待遇(最恵
   国待遇・協定関税率)をお互いに認め合う
   ・・など、といった内容であった。
  この条約は、欧米列強から軍事同盟の密約の疑惑を持
 たれるなどしていた。
  また、領事裁判権の存在などに対する反対論があった。
  そのため、批准が遅れるという事情があった。
  そして、この相互治外法権が、最恵国待遇条項のため、
 欧米諸国から余計な非難を受け、欧米列強と日本との治
 外法権を撤廃をさせる足かせとなっていた。
  しかし、清国は、相互治外法権の撤廃という改正に応
 じようとしなかった。
  日本としては、国の近代化のために、この欧米との不
 平等な条約を改正することが急務だった。
  日本は、諸外国との条約改正会議を、1886年5月1日に
 開催して、1887年7月まで続け、努力する。
  因みに、朝鮮を自主独立の国と認めたのは、日本とア
 メリカだけだった。
1886年3月31日、大木喬任・民法編纂局総裁が、民法第2、
 第3草案を内閣に提出した。
  民法編纂局は廃止され、民法起草業務が司法省へ移っ
 た。
  日本の明治前半期の最重要課題は、諸外国の従属的な
 国と民族とを完全に独立させることだった。
  日本は、形の上では独立国だったが、列強の思うがま
 まの条約に於いて従属国であった。
  不平等で片務的な条約を対等な条約に改正することが
 最重要課題であった、そして、その為にも、国内の法典
 の編纂と整備が急務だった。
  当初は、「『フランス』民法を以って日本民法と為さ
 んとす」とされた。
  そして、「誤訳も亦妨げず、唯速訳せよ」と江藤新平
 は箕作麟祥に命じた。
  今思えば、フランス民法が、即、日本民法となって、
 問題ないと言えば無理な相談だった・・が、その様な日
 本だった。
  富国強兵、殖産興業を急がねば、日本は危ういという
 意識が根底にあった・・、
  日本の明治政府は、1873年に、ボワソナードを招聘し
 た。
  しかし、ボワソナードは、大木喬任から民法典起草を
 付託されたが、完全なる法学者でもなかった。
  そして、日本はこれから生みの苦しみをして行く・・、
  民法典編纂局における編纂作業、
  1886年の民法編纂局の閉局と、民法典草案の内閣への
 上申、
  元老院への下付と、返上・・、
  委員長を山田顕義とする法律取調委員会の設置と、
  1887年の法律取調委員会の移管、
  1888年の法律取調委員会案の内閣への上申、
  元老院での審議、
  枢密院での審議、
  1890年の閣議決定と公布・・と・・、
  (参考:中央学院大学、大久保輝氏の論文より)
1886年、体育会が設立された。
  帝国大学運動会が組織された。
  これは、日本の学校での体育会・校友会組織の最初の
 もの。
1886年4月3日、改進党大会で地方自治・言論集会の自由の
 2件を政府に建議することを決議した(4月4日説あり)
1886年4月4日、東洋絵画共進会が開催された。
  (於:上野公園)
1886年4月、帝国大学の制服と制帽を定めた。
1886年4月10日、学校令、師範学校令・小学校令・中学校令、
 諸学校通則を公布する(4月9日説あり)
  教科書の採用は認可制を改め、小学校令・中学校令に
 より検定制となった。
1886年4月16日、メートル法が公布された(4月20日説あり)
  日本でメートル条約が公布され、前年のメートル条約
 への加盟による。
  しかし、日本に定着せず、尺貫法が広く用いられた。
  1891年(明治24年)3月24日、度量衡法(明治24年法律
 第3号)が制定された。
  尺・貫をそれぞれ定義しメートル法の計量も認める間
 接的なメートル法採用体系で、尺貫法という言葉ができ
 た。
1886年4月17日、会計検査院官制が公布された。
  造幣局、印刷局と共に、会計検査院の官制が公布され
 た。
  因みに、会計検査院は、1869年(明治2年)に、太政官
 (内閣の前身)のうちの会計官(財務省の前身)の一部
 局として設けられた監督司を前身として、
  その後、検査寮、検査局と名称の変遷を経て、
  1880年(明治13年)に、太政官に直属する財政監督機
 関として誕生した。
  そして、1889年(明治22年)、大日本帝国憲法が発布
 されるとともに、会計検査院は、憲法に定められた機関
 となった。
  以後60年間、天皇陛下に直属する独立の官庁として財
 政監督を行って来た。
1886年4月20日、外務大臣の井上馨が、青木周蔵を条約改正
 全権委員に任命した。
  第一次伊藤内閣の井上馨外務大臣は、外務次官として
 青木周蔵を任命した。
  そして、井上馨と青木周蔵は、条約改正全権委員に任
 命された。
  やっと、条約改正への動きが活発化する。
  青木周蔵は、1887年まで、井上外交を支えた。
  列強各国は、明治になって20年になんなんとするこの
 時まで、列強の立場を享受していた。
  進んで公正に、そして、公平にしようという気は、さ
 らさらなかった。
1886年4月22日、海軍条例が制定される(4月26日説あり)
  海軍条例が公布され、5海軍区と鎮守府が設置された。
  全国が、5つの「海軍区」を定められて、
  横須賀鎮守府は、第一海軍区として「陸中陸奥国界ヨ
 リ紀伊国南牟婁東牟婁郡界ニ至ノ海岸海面及小笠原島ノ
 海岸海面」を所管した。
  また、「鎮守府官制」により、鎮守府の組織として参
 謀部・軍医部・主計部・造船部・兵器部・建築部・軍法
 会議・監獄署などが置かれた。
1886年4月27日、ドイツ人建築家のベックマンが来日した。
  ヴィルヘルム・ベックマン(1832年1月29日~1902年10
 月22日)、ドイツの建築家は、
  この時、ジェームス・ホープレヒト、バウマイスター
 のR・フォークトらと来日した。
  東京を、近代国家の首都として整備しようとした明治
 政府に招聘された。
  2か月の間に、東京の地形などを調査し、都市計画案、
 議事堂・司法省・裁判所の概略案を作成し、帰国した。
  ベックマンの都市計画案は、パリやベルリンに匹敵す
 るような壮大なバロック都市計画であった。
  しかし、財政上困難であり、まもなく計画は縮小され
 た。
  1887年になり、ベルリンでまとめられた議事堂などの
 設計案を持ってエンデが来日した。
  しかし、エンデ帰国の直後に外務大臣・井上馨が辞任
 したことで、官庁集中計画そのものが頓挫することにな
 った。
  議事堂・司法省・裁判所の設計は続けられたが、
  1890年、エンデ・ベックマンとの契約も解除された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカのブッシュ大統領が靖国神社に参拝したいと言った・・、
.
2002年2月、アメリカのブッシュ大統領が、靖国神社に参拝
 したいと言った。
  訪日の際、日本の首相と一緒に参拝したいという希望
 を、日本は申し込まれた。
  日本の外務省は、「近隣諸国への配慮」という理由か
 ら、「変更して欲しい」と、願い出た。
  結局、明治天皇陛下が祀られている明治神宮になり、
  アメリカのブッシュ大統領は、日本の首相と一緒に、
 明治神宮を参拝した。
  アメリカは、アメリカのマッカーサーが主導したGH
 Qが発令した「神道指令」が、すでに、まったく関係な
 いものに、なっていることを示した。
  中国がとやかく言う話は、「過去の話」「済んだ話」
 になったという事を示した。
  そして・・、
  2002年5月には、在日するアメリカ軍が、靖国神社へ集
 団で参拝した。
  アメリカ軍の将校クラスが、「自分たちを同じ、命を
 かけて国を守ろうという使命感を持った軍人たちに、敬
 意を表して参拝するのは当然である」・・と、その理由
 を示した。
  そして、大きな花輪を献花した。
  中国共産党政権が、戦勝国でも何でもない国が、戦勝
 国のように振る舞うのは・・何ともおかしい。
  そして、この靖国神社への参拝について、とやかく言
 うのはおかしい。
  今、各国の武官(大使館付軍人)は、靖国神社へ、普
 通に、そして、常に、靖国神社へ詣でて、参拝している、
  その行為をし続けている。
  なんだかんだと言うのは中国共産党政権だけである。
  何が、権利があって言うのか?
  今や、国際社会は、靖国神社を、日本という国におけ
 る、敬意を表すべき第一の「本来の戦没者慰霊施設」と
 している。
  中国共産党政権は・・おかしい。
.
  そして、次の話・・
.
2002年6月、靖国神社へ慰霊・参拝するとしても、「政教分
 離してない」という批判は・・間違い。
  アメリカで定着している考え方を示すと・・、
  2002年6月、アメリカで、宗教と国家をめぐる裁判の事
 例がある。
  アメリカの公立学校では、毎朝、子供たちが「アメリ
 カ国旗に対する忠誠を誓う」という宣誓の言葉を唱和し
 ている。
  日本でもしてもらいたい行為である・・、
  そして、このアメリカで、子供たちがしている唱和の
 言葉の中に「神のもとに」という宗教的な表現がある。
  この事が・・裁判となって争われた。
  「憲法に謳われた宗教の自由、あるいは、政教分離を
 侵している」と訴えられた・・、
  そして・・、裁判の判決は、この訴えを認めた・・、
  この訴えを・・支持した。
  「違憲だ」・・と、訴えが肯定された。
  ところが・・、
  アメリカ全土から、この判決に対する抗議が起きた・・
 沸き起こった。
  アメリカ議会も、急遽、この問題を取り上げ・・、
  そして、圧倒的多数で、この判決が否認された・・
  そして、決議された。
  アメリカの国民の方々、および、議会が持っている考
 え方は、当然、信教の自由と、政教分離という大原則は
 肯定している・・しかし、より深い解釈をしたのである・・
  当然、その様な大原則は・・持ちながらも・・、
  国家のアイデンティティの拠り所を崩してはいけない
 という・・考え方であった。
  この考え方が、アメリカでは定着している・・
  日本も、当然、同様である・・
  今、日本の状況において・・、
  公共放送と言う立場のNHKは、日本の国旗・日の丸
 を、
  そして、日本の国歌・君が代を・・、
  非常に蔑ろ(ないがしろ、厳然とあるのに、無いかの
 ように軽んずること)にしている。
  日本は、この件についてはおとなしいが・・
  この件の、このNHKの行為は、アメリカでは、「裁
 判で、敗訴する行為である」・・、
  NHKは、日本の、日本人の大切なアイデンティティ
 を崩壊させようとしている。
  また、日教組が、NHKと同様な行動をしている。
  教科書に掲載されているのに・・、
  子供たちへの教育を怠る(おこたる、しなければいけ
 ない行為を、なまける)行為をしている。
  また、キリスト教も、国旗掲揚と国歌斉唱に反対して
 いる。
..
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(増補版)421E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年1月~1886年2月)

題:(増補版)421E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年1月~1886年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年1月1日、正貨兌換を開始する(銀本位制)
  1886年を政府紙幣の銀兌換開始と書いてある史料が多
 いのですが、
  (注) 何と!・・
  日本銀行金融研究所貨幣博物館のホームページには、
 1885年(明治18年)、日本銀行券(兌換銀券)の発行開
 始→銀本位制度確立へ・・と書かれている。
  そして、説明文に・・、
  1885 年(明治18年)5月、最初の日本銀行券が発行さ
 れ、これにより中央銀行としての日本銀行の基礎が整っ
 た。
  日本銀行券は、『兌換銀行券条例』により、銀貨兌換
 を行う兌換銀券とされ、また、銀行券発行高に対し、相
 当の銀貨を置き引換え準備に充てることが求められた。
  日本銀行券は、広く受け入れられ、その流通高は、順
 調に増加していき、紙幣に対する信用は回復した。
  そして、日本銀行券による紙幣統一へと向かい、また、
 銀本位制も確立し、
  幕末以来の貨幣制度の混乱に終止符が打たれることに
 なった・・とある。
1886年1月1日、定期券の発売
  新橋~横浜間の鉄道定期乗車券が初めて発行(発売)
 された。
  日本における鉄道定期乗車券の発行は・・、
  1873年(明治6年)5月、新橋~横浜間の上等車旅客に
 対し、3か月(のちに90日)の「常乗切手」を120円(この
 区間の片道運賃は1円12
 


字数制限で中略します・・是非、下記のブログを御覧ください・・


 の日本人をホノルルへ送り
 出した。
  このハワイ王国との公式の初の日本人移民は、『元年
 者』と呼ばれた。
  日本とハワイ王国とは、この様に、古くから立派に成
 立する国交を開いていた。
  ハワイ王国は立派に成立した国だった。
  そして、何故か?・・
  この様に、立派に国として活動していたハワイ王国が、
  このハワイ王国の国民・原住民の方々が、アメリカの
 統治になった後に、伝染病が流行し、原住民の方々は激
 減した。
1886年1月31日、日本政府は、朝鮮政府と、絶影島地所借入
 約書を調印した。
  絶影島(ぜつえいとう)は、韓国の南端、釜山港の湾
 口にある島で・・、
  日本人の荒木嘉作は、所有地を持っていた。
  日本は、この島に貯炭庫を設けるため絶影島地所借入
 約書を結んだ。
  (今、北海道や、対馬や、沖縄や、その他にある外国
 に買われた地に・・外国が、国として・・何をするのか? 
 何が起きるか?)
  因みに、1898年1月21日に、ロシア軍艦が、この島に
 入港し・・、
  絶影島にある日本人・荒木嘉作の所有地に、勝手に、
 松や杉などの苗を植え付け、
  さらに、貯炭庫を設置しようとして・・問題が起きた
 (絶影島問題、または、絶影島貯炭庫設置問題という)
  この時、日本との契約が立派に存在していたが・・、
 大韓帝国の外務大臣であった露国派の閔種默は、独断で、
 ロシアに借入を許容した。
1886年2月5日、宮内省官制が公布された。
  宮内庁は、天皇陛下に近侍した古代からの官職をその
 淵源(えんげん、物事の起こり基づくところ)とするも
 ので・・、
  日本最古の歴史書とされる『日本書紀』の680年(白鳳
 9年)の条に、「宮内卿」「宮内官大夫」の官職が記述さ
 れている。
  また、686年(朱鳥元年)の条には、天武天皇の葬送に
 際して「宮内事」を誄(しのびごと、死者の生前の功徳
 をたたえて哀悼の意を述べる言葉)したとあり、
  天武天皇の時代には、原型となる官職が形成されたと
 考えられている。
  そして、この時・1886年に、この公布によって、2課5
 職6寮4局の組織が定まった。
1886年2月9日、松本大火。
  放火による大火だという。
  1100戸が焼失した。
  まだ明けやらぬ、午前3時、北深志鍛冶町の山辺小路か
 ら出火した炎は、折からの南の強風に乗ってたちまちの
 内に風下に燃え広がった。
  まず、餌差町から上横田町、下横田町へと延び、
  観音小路、東町、和泉町、出居番町、捨堀町、安原町
 をひと舐めにして、
  天白町から下町、下々町、上下丁、東ノ丁、西ノ丁な
 ど、北深志の大半を灰にして・・午前7時鎮火した。
  焼失面積は、東西5丁(545m)、南北15丁(1635m)の890
 平方km。
  民家999戸、そのほか松本座、正行寺、奮惠光院、妙光
 寺、天白稲荷が焼失した。
1886年2月10日、平塚らいてう、生誕
  大正・昭和期の評論家で、婦人運動家。
  東京都麹町の生まれで、本名は、奥村明(はる)
  筆名は、雷鳥をかな書きしたもの。
  1903年(17歳)日本女子大学校(→日本女子大学)入
 学し、哲学書に親しみ、参禅し、自我を追求する。
  1906年(20歳)、卒業。
  1908年(22歳)、文学講座を通じて知り合った作家の
 森田草平と心中未遂事件を起こし、物議をかもし、夏目
 漱石に衝撃を与えた(森田草平と事実婚?)
  1911年9月(25歳)女性文芸誌「青鞜」を創刊する。
  創刊の辞に「元始、女性は太陽だった」は、今日に繋
 ぐ女権宣言となった。
  以後『青鞜』は、女性解放思想の拠点となった。
  そして、女性の解放と新しい女の生き方を示した。
  1914年(28歳)、5歳年下の画学生・奥村博史と、法律
 によらない自由な結婚を実践、1男1女をもうけた。
  エレン・ケイの『恋愛と結婚』翻訳を契機に、その思
 想に共鳴し、育児を社会的仕事と位置づけ、母性の尊重
 を主張した。
  1918年(大正7年)(32歳)与謝野晶子、山川菊栄らと
 『婦人公論』誌上で、母性保護論争を展開した。
  第1次世界大戦後の1920年(1919年?)(34歳)市川
 房枝・奥むめおらと、女性の地位向上を目ざす新婦人協
 会を結成し、婦人参政権運動を展開した。
  1925年の昭和初期のころ(≒39歳)アナーキズムに接
 近するなどした・・、
  1930年(昭和5年)(44歳)高群逸枝らの無産婦人芸術
 連盟に参加、『婦人戦線』に関与した。
  また、協同自治社会の理想をめざして、成城に消費組
 合を設立した。
  第2次大戦後は、再軍備反対の声明発表など、反戦・平
 和運動に尽力した。
  婦人団体連合会初代会長、新日本婦人の会代表委員な
 ども歴任し・・、
  終焉まで、女性解放運動の先頭に立った。
  1971年5月24日、没する(85歳)
  著作に、「平塚らいてう著作集」全7巻・補1、「円窓
 (まるまど)より」「わたくしの歩いた道」など。
  自伝「元始、女性は太陽であった」
  漱石の「三四郎」に登場する美禰子のモデルとも言わ
 れた。
  (参考)アナーキズム(anarchism):一切の政治的、
    社会的権力を否定して、個人の完全な自由と独立
    を望む考え方。無政府主義。
1886年、2月20日、 石川啄木が生誕した。
  石川一(啄木、いしかわたくぼく) が生まれた(~1912
 年4月13日)歌人、詩人。
  岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)
 に、曹洞宗日照山常光寺住職の父・石川一禎(いってい)
 と母・カツの長男として生まれた。
  1887年(明治20年)3月、1歳の時に、父が渋民村(現
 在の盛岡市渋民)にある宝徳寺住職に転任したのにとも
 なって一家で渋民村へ移住する。
  1898年(明治31年)(12歳)岩手県盛岡尋常中学校で
 学んだ。
  3年先輩に、金田一京助が居た。
  また、10年後輩には、宮沢賢治が入学する。
  中学時代に、のちに妻となる堀合節子や、親友の金田
 一京助らと知り合う。
  『明星』を読んで、与謝野晶子らの短歌に傾倒し、
  また、上級生の野村胡堂らの影響を受け、文学への志
 を抱いた。
  短歌の会「白羊会」を結成したのも・・この頃、
  1901年(明治34年)12月(15歳)から翌年にかけ、友
 人とともに『岩手日報』に短歌を発表し、
  啄木の作品も、「翠江」の筆名で掲載され、
  これが初めて活字となった啄木の短歌だった。
  1905年5月3日(19歳)出版費用を自分でも集めた第一
 詩集『あこがれ』を、小田島書房より出版した。
  上田敏による序詩と、与謝野鉄幹の跋文(ばつぶん、
 書物の本文の後ろに添える文章)が寄せられた。
  1905年5月12日(19歳)啄木は不在だったが、堀合節子
 との婚姻届を、父親が盛岡市役所に出す。
  この時、啄木は親戚が集まった結婚式に出席しなかっ
 た(形式的だからという?)
  1906年(明治39年)3月4日(20歳)妻と母を連れて渋
 民村に戻った。
  1906年4月14日、渋民尋常高等小学校に代用教員として
 勤務。
  1906年4月21日、徴兵検査。筋骨薄弱で、徴集が免除
 された。
  1906年6月、小説を書き始める。
  1906年12月29日、長女・京子が生まれる。
  1907年(明治40年)4月1日(21歳)、新生活を北海道
 で開こうとし、教職を離れることを決意し、退職する。
  1907年8月25日の函館大火により、勤務先の小学校・新
 聞社がともに焼失する。
  1908年4月28日より東京・千駄ヶ谷の新詩社に暫く滞在。
  1908年5月2日(22歳)、与謝野鉄幹に連れられ森鴎外
 宅での観潮楼歌会に出席する(参会者は8名)。
  1908年5月4日、中学で一学年上(3年?)だった金田一
 京助の援助もあり本郷区菊坂町赤心館に止宿、
  生計のため、小説を売り込むが、成功せず。
  逼迫した生活。
  1908年6月23日~25日にかけて、「東海の小島…」「
 たはむれに母を背負ひて…」など、後に広く知れ渡る歌
 を作り、続いて作った246首とともに翌月の『明星』に
 発表する。
  金田一は、自身が結婚するまで、友人として啄木に金
 銭を含むさまざまな支援をしている。
  1908年11月、『東京毎日新聞』に小説「鳥影」を連載。
 『明星』は終刊するも、続けて『スバル』の創刊準備に
 あたる。
  1909年6月16日(23歳)、函館から妻子と母が来て、本
 郷区本郷弓町の床屋「喜之床」の二階に移った。
  啄木の幸せな時は、この『一瞬の様な数年』だったと
 感じる。
  1909年12月に、父も同居するようになる。
  1910年9月15日(24歳)『朝日新聞』紙上に「朝日歌壇」
 が作られ、その選者となる。
  1910年10月4日、長男・真一が誕生したが、27日に病死
 する。
  1910年12月、第一歌集『一握の砂』を、東雲堂より出
 版する。
  1911年9月(25歳)宮崎郁雨(みやざきいくう)が、
 節子に送った無記名の手紙に「君一人の写真を撮って送
 ってくれ」とあったのを読み、
  これを妻の不貞と採った啄木は、節子に離縁を申し渡
 すと共に、
  郁雨と絶交することを告げた。
  1911年9月16日付の啄木の妹・光子宛の葉書では、こ
 の事件を「不愉快な事件」と記している。
  1912年(明治45年)3月7日、母・カツ死去。
  1912年4月13日午前9時30分頃、小石川区久堅町にて肺
 結核のため死去。
  妻、父、友人の若山牧水に看取られている。享年26歳。
  (参考)宮崎 郁雨(みやざき いくう、1885年4月5日
    ~1962年3月29日)、日本の歌人。
    本名は、大四郎(だいしろう)
    石川啄木夫人・節子の妹の夫。
    啄木の生前から啄木一家を物心両面にわたって支
   え、啄木の死後も墓碑建立、「啄木を語る会」を発
   足させるなどの実績がある。
    啄木を函館日日新聞社に紹介し、遊軍記者として
   勤めさせているが、在籍期間は8月18日〜25日の8日
   間であった。
    1908年4月、啄木が上京するにあたって、郁雨は、
   啄木の家族を託され面倒を見る。
    そして、この年、郁雨は正八位に叙せられている。
    1909年10月26日、啄木夫人・節子の妹・堀合ふき
   と結婚、啄木とは義理の兄弟の関係となる。
    金額的に、一番、この郁雨が、啄木を支えていた。
    1913年4月13日の啄木一周忌に、函館図書館長の岡
   田健蔵と、啄木追悼会を開き、函館の立待岬に墓碑
   「石川啄木一族の墓」を建て遺骨を移す。
    節子未亡人の依頼もあり、啄木の遺品を納め、函
   館図書館啄木文庫を作った。
    1927年6月、郁雨は、弘文社より『啄木書翰集』
   (石川啄木著)を編集、刊行した。
    1940年(55歳)功により勲六等瑞宝章を授与され
   た。
    1956年(71歳)函館の郷土雑誌「海峡」に啄木関
   係の記事の執筆を始める。
    1958年(73歳)函館市文化賞を受賞。函館図書館
   に「啄木を語る会」を発足させ、毎回出席し講演す
   る。
    1961年(76歳)啄木50回忌記念として森屋より『
   函館と啄木』を阿部たつを、田畑幸三郎との共編で
   刊行する。
    1962年3月29日午前0時10分に生涯を閉じた。
   享年78(満76歳没)
    宮崎家の墓は、函館の立待岬の「啄木一族の墓」
   に寄り添うよう建てられている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカ、中国、韓国は・・プロパガンダする。
.
1876年(明治9年)、日朝修好条規が結ばれた。
  明治となった日本は・・、すぐ隣の国=朝鮮と国交を
 結ぼうとした。
  実際、江戸時代には、日本と朝鮮は、良好な関係にあ
 ったからだった。
  しかし、中国・清朝の朝貢(ちょうこう)をしていた
 朝鮮は、外交関係を結ぶ事を拒絶した。
  しかし、この年・1876年に、日朝修好条規が結ばれた。
  その第1条に、「朝鮮国は自主の国」であるというた
 った。
  そして、「日本と平等の権利を有する国家と認める」
 とうたった。
  朝鮮にとって清朝は恐ろしい国だった。
  しかし、それ以上に恐ろしい大国は、不凍港が欲しい
 というロシアだった。
  ロシアは、1891年に、シベリア鉄道の建設に着手し、
 その脅威は朝鮮半島に迫っていた。
  東方へ領土を拡大しつつあるロシアだった。
  条規がととった朝鮮は、日本にならって近代化の道を
 歩み始めた。
  朝鮮からも日本へ視察団が訪れた。
  明治維新の日本の成果を学んだ。
  朝鮮は、他国から犯されないように軍制改革にも取り
 組み始めた。
  種々の改革に、日本は朝鮮を援助した。
.
  そして、この国交が整ってから、時が下って・・
.
1910年、日韓の併合がなされた。
  色々と悪くプロパガンダされる日韓併合だが・・、
  下記のブログが真実を伝える史料だと思います・・、
  http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/rekishi02.htm
  申し訳ないですが、当時の朝鮮の方々は、ひどい貧困
 にあえいで居られました。
  当時を語る朝鮮のご老人が・・
 「日本人はとても親切な人たちだった」と言われる。
  『生活者の日本統治時代』(三交社)という本にも、
 写真と共に朝鮮の庶民の方々の言葉が残されている。
  プロパガンダされて無い真実の言葉が残されている。
  今、アメリカや、韓国・中国が、盛んにプロパガンダ
 しているが・・、
  結局、結びの言葉は・・
  「朝鮮人と日本人は仲良く生きていた」・・だった。
  そして・・、
  韓国の加耶大学(かやだいがく)客員教授・崔基鎬(
 チェケイホ)氏の本「日韓併合」によれば・・、
  教授が、1910年の日韓併合に至るまでの経緯を研究し
 て来て、
  色々、おかしな洗脳(プロパガンダ)が韓国で行われ
 ているという・・、
  現在の韓国の教科書が教えている事と、日本の統治時
 代の実態とは、あまりにもかけ離れている・・と言う。
  そして、韓国の歴史観は、歪曲が甚だしいと言う。
  独りよがりで、被害者意識に凝り固まり、事実をとら
 えようとはしていない・・と言う。
  そして、教授は、また言う、
  「この様な発言をすると・・、韓国で、日本の統治時
 代の日本の統治について、肯定的にとらえようとするの
 は相当の覚悟がいる」と言う。
  そしてまた、「極端な話、身の危険も覚悟しなければ
 ならない」・・と言う。
  そして、教授は、また言う、
  「作家の李光洙氏が言うように・・、
  韓国の民族の最大の欠点は『嘘つきで、人をだますこ
 と』だと言う。
  そして、この様なことが、「歴史の歪曲、身勝手な解
 釈は、韓民族の宿痾(しゅくあ、長い間治らない病気)
 であり、
  これがもとで、幾度、実態を見誤り、国を滅ぼしてき
 たかしれない。
  感情に流される事なく、歴史に何があったかを正しく
 見つめ、
  そこから教訓をすくい取るという事が、この国(韓国)
 にはあまりにも欠けている。
  簡潔に言えば、李朝に、500年にわたって支配されて来
 た併合前の朝鮮半島の実態を、(韓国を含む朝鮮半島の
 人々は)、余りにも知らなすぎる。
  最も分かりやすい例で言えば、21世紀のこの時代にあ
 って、当時の大多数の国民が飢餓に苦しむ、専制独裁国
 家を思い起こすと良い。
  (今の)北朝鮮は、李氏朝鮮のまさにクローンである。
  戦後、日本時代の遺産をすべて壊し、元の姿に戻った
 に過ぎない。
  仮に今、日本が、北朝鮮を併合して統治するとなれば、
 金一族を除く北朝鮮国民は、随喜の涙(ずいきのなみだ、
 うれしさのあまり、あふれ出る涙)を流すに違いない。
  その北朝鮮に同情を示し、呼応して、「反日・反米」
 を叫んでいるのが韓国であり、
  近年、その傾向は強まる一方だ。
  何が本当で、何が嘘か、誰が見方で、誰が敵か、
  嘘で固めた歴史観では、正当な判断力が養われる訳が
 ない。
  これは、歴史で何度も繰り返された亡国のパターンで
 あり、
  私は早くから『このままでは韓国はつぶれる』と唱え
 て来たが、
  その危機がいよいよ近づいてきたことを感じずにはお
 られない。
  いかにして、真実を究明するかの理由がここにある・・
 と、崔基鎬教授は言う。
  因みに、加耶大学は、慶尚南道金海市に本部を置く大
 韓民国の私立大学。
.
1910年、日本の朝鮮(大韓帝国)への財政負担
  1910年:2500万円
  日本人は本当に優しい国民性を持っている。
  この様な大金を、毎年、朝鮮へ与えた。
  財政的に厳しい明治政府が、日本人の血税から分け与
 えた。
  日教組は、日本は侵略国家だと言い、子供たちに擦り
 込み教育をして洗脳しているが、全く事実は違う。
  そして、この金額がいかに大金かは、朝鮮の税収入の
 倍の金額だと言われればお分かりと思います。
  日本は、朝鮮の国の税の収入の2倍のお金を渡していた。
  日本が完全に支えていた。
.
  そして・・、
.
1910年、韓国の加耶大学の崔基鎬(チェ・キホ)教授は自
 著に以下のように書く・・、
  題:『総督府による治山治水事業』・・、
  (日本の作った)朝鮮総督府は、土地調査事業が終わ
 ると、続いて米穀および雑穀・綿花など、立ち遅れた朝
 鮮の農村を、日本の農村並みに振興させるために、昼夜
 を分かたぬ努力を傾注した。
  その最大のものが治水事業である。
  当時の朝鮮は、禿(はげ)山ばかりで、赤土だけが山
 の表面を覆い、雨が降れば保水能力はなく、河川の下流
 域は、すぐに洪水に見舞われた。
  ソウル市内も、今のソウル駅近くの葛月洞(カルウオ
 ルドン)まで、漢江の水があふれ、四方は海と化した。
  山野の草木は、すべて燃料のために刈り取られ、
  植林はほとんどなされず、
  森林が残ったところは、鴨緑江と豆満江(とまんこう)
 流域のみで、人間の通れない原生林と墳墓周辺を除くと、
 荒涼たるはげ山ばかりであった。
  朝鮮半島の日本海側は、豆満江を除いて、河川の流路
 は短く、東シナ海に注(そそ)ぐ河川は大河が多い。
  だが、600年以上、治山も治水も本格的に行われたこと
 がなく、ほとんどが自然のまま放置されていた。
  歴史的には、新羅時代(1500年前)の「碧骨堤」とい
 う大堰堤(えんてい、全長1800歩)が作られ、
  その後、修築もあったが、李朝末期になると、国土が
 荒廃し、以前の堰堤も、遺跡しか残っていないという状
 況であった。
  李朝の歴史記録には、堰堤・堤防の施設は、朝鮮半島
 で2万4000ヶ所以上といわれているが「万石堤」という貯
 水池以外、実態は何も見えない。
  農業用の灌漑(かんがい)施設は、大かた、腕力によ
 る流水のくみ上げしかなく、
  足踏み水車すらほとんど見る事が出来なかったから、
 一般には「天水水田」といって雨水に頼り、極めて原始
 的な農業が行われていた。
  道路・河川・林野・港湾が、自然のまま放置されてい
 たのは、李朝末期の財政破たん、国政紊乱(びんらん、
 秩序・風紀などが乱れること)によるものである。
  朝鮮総督府は、治山治水のための砂防工事、山林復活、
 農作物増産のための技術改革に着手し、
  1915年からは治水調査システムをスタートさせ、気象・
 水位流量・修改築予定区域の実測調査も施行した。
  土地の所有権、地価、地質、地形、土地の模様などの
 正確な調査の結果、多くの『隠し田』が発見され、耕地
 面積は倍増し、したがって課税額も倍増となった。
  近代国家建設に不可欠の事業であったが、これが「隠
 結=脱税」という長年の因習に慣れた両班層にとっては、
 不平の種なったことはいうまでもない。
  (参考)両班:りょうはん、高麗・李氏朝鮮王朝時代
    の官僚機構・支配機構を担った身分階級。
  何しろ李朝下では、住民から徴収する税金額の9割は途
 中でなくなるのが普通だった。
  例えば、住民から3000万円の税金を徴収したら、国に
 納める納税額は300万円が相場だった。
  それでも、官僚の責任が追及されなかったのは、その
 上の王族と族戚政権が売官買職に狂奔(きょうほん)し
 ていたからで、
  彼らに任命された官僚たちによる横領ぐらいの事は、
 問題にされるはずもなかった。
.
  1910年の朝鮮の米穀生産高は、1040万6000石であった
 が、
  1918年には、1529万4000石(47%増)、
  1931年は1587万3000石(53%増)と、年々増産の一途
 をたどっている(驚くべき増収である)。
  朝鮮総督府の産米増産計画(1920年~1934年)は、当
 時の日本・朝鮮の人口急増に伴う食糧問題を解決するた
 めの国策事業であったが、
  日本が、「働かざる者、食うべからず」という勤労精
 神を植え付けたことは、李朝500余年、不労所得層が農民
 を支配し、労働とは最も軽蔑するものと教え込まれてき
 た朝鮮住民にとって、精神的な大革命であり、ルネッサ
 ンスでもあった。
  大部分の住民たちは、この様な日本の農工業振興策、
 及び、金融政策に共鳴し、感謝の心で積極的に協力した
 ことは、勿論である。
  この期間に植え付けられた正しい勤労精神によって、
 今日の韓国という経済先進国を建設する事もできたのは、
 まぎれもない事実であった。
  何しろ李朝では、両班に属し、科挙試験に合格した官
 僚たちが、生産的勤労には絶対に就かないばかりか、空
 理空論を振りかざすばかりで、
  毎日の享楽生活を保証する王朝への恩義など、まった
 く感ずることもなく、批判するばかりであったのだから。
  李朝518年と、その後の日韓合邦期を通じても、この
 「ゾンビ」は生き残り、空理空論にふける習性は、今日
 でも変わっていない。
  第二次大戦後、再び、この連中が甘言利説を尽くして
 政権を取るようになると、
  祖国近代化に献身的に尽力し、祖国の工業、商業、政
 治、経済発展に貢献した真の愛国者を民族反逆者とみな
 し、
  自分は何も仕事をしないで他人を法網にかけたり、前
 科物を愛国者だと褒(ほ)め称(たた)えたりして今日
 に至っている。
  国のためにはなにもした事もなく、法に違反した前科
 者だけが、愛国者として待遇されるのが韓国の実態であ
 ることは、周知の事実である。
  ・・崔基鎬(チェ・キホ)教授は、上記の様な事を、
 自著に書かれている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-09-21 00:21 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)420E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年12月~1886年1月)

題:(増補版)420E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年12月~1886年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年、出来事:
・内閣総理大臣・伊藤博文、在任:1885年(明治18年)12
 月22日~1888年(明治21年)4月30日
  伊藤 博文(いとう ひろぶみ/ひろふみ、天保12年9月
 2日(1841年10月16日)~明治42年(1909年)10月26日)
 は、日本の武士(長州藩士)、政治家。
  初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣、
  および、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国
 統監を歴任した。
  位階勲等爵位は、従一位大勲位公爵。
・北海道庁に統一された(北海道庁設置)。
  1869年7月8日、開拓使を設置した。
  1869年8月15日、それまで和人地、及び、蝦夷地と呼称
   されていた地域名を、北海道と改め、
   域内に11箇国86郡を設置した。
  1870年2月13日、樺太開拓使の設置に伴い、北海道開拓
   使と改称した。
  1871年8月7日、樺太開拓使を統合し、再び、開拓使に
   復した。
  1882年2月8日、北海道開拓使を廃止し、函館県・札幌
   県・根室県の3県を置いた(廃使置県)
  1886年1月26日、3県を廃止し、北海道庁を設置した。
   札幌に本庁が、函館と根室に支庁(後年のものとは
   別組織)が置かれた(廃県置庁)
・鎮守府、軍港を置く。
  この年の海軍条例制定に伴って、日本の海岸・海面を
 五海軍区に分かち、
  それぞれに、軍港と鎮守府を設置する方針が出された。
  その結果、1889年7月、呉(くれ)(第二海軍区)、佐世
 保(させぼ)(第三海軍区)に、鎮守府が開庁された。
・標準時が始まる。
  標準時の制定は、1884年、アメリカのワシントンで開
 催された「本初子午線并(ならびに)計時法万国公会」で
 決議された。
  その結果、日本においては、1886年(明治19年)7月12
 日勅令第51号をもって、「本初子午線経度計算方及標準
 時」が公布された。
1886年、データ
・人口 38,151,217人
・世帯数 7,727,610戸
  1871年(明治4年)、戸籍法が公布され、
  各地より提出された戸籍(壬申戸籍)に基づき、内務
 省により、明治5年1月29日(太陽暦では1872年3月8日)
 付で『日本全国戸籍表』が編纂された。
  翌年・1873年(明治6年)~1886年(明治19年)までは、
 毎年1月1日現在、
  1886年~1897年(明治30年)までは、12月31日現在で
 の戸籍上現存する人口によって作成した戸籍表を提出さ
 せ、
  これを集計して、毎年の全国の『日本全国戸籍表』(明
 治6年1月1日~明治9年1月1日調)、
  『日本全国戸口表』(明治10年1月1日~明治11年1月1日
 調)、
  『日本全国郡区分人口表』(明治12年1月1日調)、
  『日本人口統計表』(明治13年1月1日、明治14年1月1日
 調)、
  『日本全国戸口表』(明治15年1月1日~明治18年1月1日
 調)、
  『日本全国民籍戸口表』(明治19年1月1日調)、
  『日本帝国民籍戸口表』(明治19年12月31日調~明治31
 年12月31日調)が編纂された。
  (明治19年は1月1日調と12月31日調の二種類作成された)
・紡績工場の数:20、
1886年、物価
・氷1貫目・6銭~7銭、
1886年、経済・金融・貿易:
・初めて、アメリカ綿を輸入した。
  アメリカ綿の最初の出会いは、1862年、日本からアメ
 リカへの綿花輸出だった。
  アメリカは、当時、世界最大の綿花生産国だったが、
 南北戦争によって、綿花生産がストップした。
  その為、日本から、日本綿16.4トンがアメリカへ送ら
 れた。
  そして、アメリカ綿が、日本に輸入され始めたのは、
 その輸出から24年後の1886年(明治19年)だった。
  試験的に、1俵のアメリカ綿が輸入された。
  これが輸入の皮切りだった。
  以後、徐々に増えて行き、1932年(昭和7年)には、
 229万俵を記録した。
  (参考:日本綿業振興会ホームページ)
1886年、産業:
・1886年頃、この頃から、日本に、鉄道や紡績などの様々
 な分野で会社設立のブームが起こった。
  機械技術を本格的に導入する産業革命が始まった。
・神戸に曳船廻漕会社設立
1886年、衣:
・帝国大学が、制服・制帽を定めた。
  この年に定められた帝国大学令の制定によって、1877
 年に創立の東京大学が改められて帝国大学となった。
  そして、制服と制帽が定められた。
  因みに、1897年に、京都帝大(京都大学)が設立され、
 後、1939年までに、東北(東北大学)、九州(九州大学)、
 北海道(北海道大学)、京城、台北、大阪(大阪大学)、
 名古屋(名古屋大学)の各帝大が設立された。
  ここで注目なのが、朝鮮と台湾も、なんら差別するこ
 となく日本と平等に、日本は教育を行なった。
  逆に、朝鮮や台湾の学校の方の施設を立派に作る日本
 だった。
  何ら、韓国が言うような酷(ひど)いことは日本はし
 ていない。
  日本は教育に熱心な国だった。
  それを、差別なく行った。
  プロイセン・ドイツやオーストリアの国法学者たちから
 『大学の国家経営が重要である』ことを学んできた伊藤
 は、1885年に、内閣を組織するとともに、
  初代文相・森有礼とはかって、帝国を代表する政府直
 轄の大学の設立に入り、
  翌年・1886年、帝国大学令を制定した(差別なくこの
 令に朝鮮・台湾も入れた)。
  そして、この様に優秀な政治家の伊藤博文を、優秀で
 あるからこそ初代の韓国総督府の総監に赴かせた。
  その伊藤博文を韓国は暗殺をする、そして、暗殺行為
 者を英雄扱いしている。
  「恩を仇で返す」ことをしている。
・時計の輸入37,000余個
  外国商館が、服部時計店に優先的に新しいモデルを卸
 してくれるようになり、
  服部時計店は、比較的短い期間にめざましい躍進をと
 げた。
  そして、1886年(明治19年)の好景気時から、創業者・
 服部金太郎は、舶来時計の卸・販売に集中していくこと
 になった。
  (参考:セイコーミュージアムホームページ)
・「フロックコート」
  フロックコートは、男子用の昼間の礼服で、
  上着丈はひざまであり、ダブルで、襟には黒絹をかぶ
 せ、縞のズボンと組み合わせて着る。
  現在は、モーニングコートが主に用いられている。
  また、フロックコート風の衣装を「タキシード」と呼
 ぶが、
  因みに、この年の1886年に、ニューヨークのタキシー
 ド・パーク倶楽部の正装舞踏会で、
  全員が燕尾服を着ている中で、グリスウォルド・ロリ
 ラードという人物が、
  燕尾服に着替えるのを忘れ、真っ赤なスモーキングジ
 ャケットを着用したままパーティーに参加したことが、
 アメリカにおける始まりと言われている。
・「吾妻下駄」
  吾妻下駄(あずまげた)は、台に畳表を張った樫 (か
 し) の薄歯の女性用の下駄で、
  江戸初期に吾妻という遊女が履いたので名づけられた
 と言われている。
  江戸末期に流行したという記事もある。
1886年、食:
・瓶詰めの酒が発売された。
・アイスクリームが発売開始された。
・三田育種場『舶来穀菜要覧』を刊行、農家で栽培法を会
 得するものあり。
・コレラ流行に際し、ラムネの宣伝功を奏し東京市民一般
 ラムネの存在をしる。
1886年、住:
・ドイツ建築技師ビョクマンの好意により、日本の建築技
 師、及び、職人20名がドイツに建築を学ぶため出発する。
・東京電燈会社が、電球の製造に着手した。
1886年、報道:
・不便な地方では、官報のとどくのがおそくて、法令の成
 立日とずれが生じる(東京日日新聞)
1886年、論・文学・本:
・「龍門雑誌」 創刊
・ 「信濃教育雑誌」 創刊
・ 「包丁塩梅」(料理雑誌) 創刊
・大槻文彦が『日本辞書言海』の再訂を終えて提出(3月
 23日)
・徳富蘇峰 「将来之日本」
・山田美妙著『新体詩選』刊(8月)
・君論(著:マキャヴェリ/訳:永井修平)
・矢野文雄 「日本文体文学新論」
・福澤諭吉 「男女交際論」
・鈴木金次郎 「新編明治毒婦論」
・山川一声 「英船ノルマントン号沈没事件審判始末」
・高田早苗 「当世処世気質の批評」
・ 二葉亭四迷) 「小説総論」
・末廣鐡腸 「二十三年未来記」
・末廣鐡腸 「雪中梅」
・ジキル博士とハイド氏(スティーブンソン)[英]
1886年、教育:
・建築学が始まる。
・小学校制度が変更された。
 尋常小学4年、高等小学4年の計8年。
・共立女子職業学校が設立された。
・共立病院内に、看護婦教育所が設立された。
1886年、歌・流行・世相:
・世相 「こっくりさん」
・民権数え歌などが流行した。
1886年、演劇:
・演劇改良會が設立された。
・黙阿弥 「月白刃梵字彫物」が初演された。
1886年、発明:
・カール・ベンツが、ガソリン自動車を発明した。
  ドイツのマンハイム通りを走る。
1886年、医・衛生:
・薬局方が公布された。
・コレラ、腸チフス、天然痘が猛威を振るう。
 コレラの死者:10万8405人
 天然痘の死者:1万8678人
 腸チフスの死者:1万3807人
1886年、事件:
・ノルマントン号事件が起こった。
・(氷川清話)明治19年には静岡事件(箱根離宮襲撃計画)
  自由民権運動関係の静岡事件。
・(氷川清話)長崎事件(清国水兵の殺傷事件)
・吉松寿太郎ら、天皇陛下の暗殺を計画する。
1886年、その他:
・大阪で18歳未満の人力車夫を禁じ車夫服装を定める規則
 を公布。
・若松港に筑豊?業組合設立
・甲府の製糸工場で日本初のストライキ。
.
  (今日の言葉)
.
  題:この事によって、何人の方々が、愛する方々のもとから、
   帰らぬところへと、旅たって行ったことだろうか・・、 
.
1917年11月2日、石井・ランシング協定が締結された。
  石井・ランシング協定(いしい・ランシングきょうて
 い)は、1917年11月2日、アメリカ合衆国ワシントンD.C.
 で日本の特命全権大使・石井菊次郎とアメリカ合衆国国
 務長官ロバート・ランシングとの間で締結された、中国
 での特殊権益に関する協定である。
 
  権力を持つ者が、権力を持つが故に・・、
  その権力を持つ者に許された「権力の行使手段」を
  「行使する権利」が与えられる。
  途方もなく巨大な権利を、自由に使える状況に置かれ
 る。
  権力を持つ者は、その超巨大な権力を行使する手段を
 持っていることを・・常に・・意識して・・日常を送る。
  彼の頭に・・何とかしなければならない存在が居ると
 感じた時・・思った時・・、
  その様な・・何とかしなければならない様な『存在』
 が居た場合・・、
  常に・・その存在を何とかしなければならないと・・、
  その立場ゆえに・・常に考えている。
  ある時は、「取り込もう」と考える。
  (アメリカのルーズベルトは、一時は、日本を『取り
 込もう』と考えた)
  そして、だから、その時は、その「取り込みの条約」
 を締結する様にと、部下たちに命じた。
  取り込みの条約は、締結された・・
  立派に・・国際的にも遜色(そんしょく、見劣りする)
 するところの無い、立派な条約となって締結された(石
 井・ランシング協定)
  問題は解決したと思えた・・平和が訪れたと思えた。
  そして、この後に、彼=権力を持った者の頭に浮かん
 で来たことが、取り込んで握手はしたが・・、
  世界に平穏をもたらしたと・・思った一方・・、
  取り込みんでうまくいったと思った一方・・別の一面
 が頭を一杯にして来た。
  取り込んで妥協した点が気になった・・、
  妥協したという点が、その大きさが、だんだんと大き
 くなって来る。
  取り込んで握手をしたのが・・「ある意味の敗北だ」
 の様に見えて来る。
  この考えが・・浮かんだところが分岐点だった。
  また、この権力を持つ者は、非常に強い、熱心なキリ
 スト教を信じる人だった。
  そして、妥協した相手の者が有色人種だった。
  この権力を持った者は、この有色人種と妥協した点が
 引っ掛かった。
  キリスト教の「有色人種蔑視」の意識が、頭に湧き出
 して来てしまった。
  その時、その権力を持った者の地も、キリスト教の「
 有色人種蔑視」の行為が盛んに行なわれている地だった。
  また、この様な考え方は、世界中のキリスト教の白人
 社会は持っていた。
  悲しい点はここだった。
  初めて有色人種が、白人社会の大国を戦争で破った時
 は、有色人種の社会は、皆、喜んだ。
  世界中の有色人種の方々は喜んだ。
  白人社会のキリスト教の「有色人種蔑視の教義・観念」
 は、その行為がなされている側・・行われている有色人
 種側にも、逆の意味で・・その観念の逆の、反対の状態
 で生まれてしまっていた。
  キリスト教の逆の観念が、悲しいかな世界中に、また、
 伝播してしまっていた。
  白人社会と有色人種社会が、二つの社会に二分されて
 しまって居た。
  悲しい事である。
  白人のキリスト教のアクションの反動によって、さら
 に、世界は分断されてしまって居た。
  この強いキリスト教観念を持った権力を持った者=ル
 ーズベルトは、ここで手のひらを返した。
  悲しいかな、平和のために取り込んで妥協した事が、
 敗北のように思えて来てしまうい、有色人種と妥協した
 点が引っ掛かってしまい、その点が気になり、大きくな
 って来てしまって、手のひらは返された。
  次の会議で手のひらが返され、「ワシントン体制」へ
 持って行かれた・・ワシントン体制へのスタートが切ら
 れた。
  その権力を持った者は、世界最大の大国・アメリカで
 あるが故に、他の白人のキリスト教国は同調し、ワシン
 トン体制は、着々と築き上げられ、
  逆の体制である・・包囲網の体制が築かれて行った。
  中国では色々と策謀がなされ、入植していた人々が殺
 されたり、
  その有色人種国の軍人が、スパイをしたと捕まり、秘
 密裏に殺され、
  その抗議にも誠実に答えず、逆に、その国へ言い返す
 始末で、事が収まるどころか、火に油を注ぐがごとくだ
 った。
  そして、第二次世界大戦へ続く行為が起きてしまう。
  大国に支援された中国は強気だった。
  アメリカは、自分の目的が達せられる代理戦争の形で
 あるので、都合はよかった。
  金と武器は、ふんだんに、どんどんと供給された。
  そのうち、アメリカ大統領に命令された正規の部隊ま
 でが派遣された。
  卑怯な事にこの事も秘密にされた。
  アメリカの国民の方々は、まったく知らない事だった。
  戦後、何年も経って、この事がばれると、卑怯な事に、
 「ボランティアだ」と嘘の屋上屋を重ねた。
  卑怯の極みであった。
  アメリカ国民の方々が知らされたのは、何と!!70年
 も後の事だった。
  卑劣である。
  何も知らされない状態に、この様な長い間、置かされ
 た。
  卑劣極まりない状態に置かれた。
  この事によって、何人の方々が、尊い命を、愛する方々
 のもとから去って行ったことだろう。
  そのあまりにも多い命の数に言葉も詰まる。
 (アメリカは、日本の権益・満州と東部内蒙古を、一旦は
  認めていたが、この様な事態となってしまった)
  (参考)旅立つ:たびたつ、旅に出かける、また、死
    ぬことを婉曲(えんきょく)に言う。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-09-19 02:38 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)419E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年12月~1885年12月)

題:(増補版)419E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年12月~1885年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年12月27日、阪堺鉄道(はんかいてつどう)開業式
  阪堺鉄道は、南海電気鉄道の前身となる鉄道事業者。
  現在の南海本線難波駅~堺駅間を開業させた。
  日本鉄道と東京馬車鉄道に次ぎ、日本で3番目の民営鉄
 道事業者(私鉄)。
  関西における商業都市として栄えた大阪と堺の間を結
 ぶ鉄道計画は明治初期から考えられていた。
  それが具体化することになったのは、両都市における
 有力者や、明治初期の財界人である藤田伝三郎・松本重
 太郎・田中市兵衛・外山脩造などが集まった1882年頃の
 ことだった。
  同年・1882年5月に、大阪堺鉄道として大阪府に出願し
 工部省へ進達された。
  しかし、翌年・1883年2月に、敷設区間が大阪府内に留
 まること、普通の鉄道と異なるとの理由により大阪府に
 て詮議することとして返戻されてしまった。
  そして、種々、検討がなされ・・、
  1883年に、敷設が始まり、
  1885年12月27日、開業式が挙行される運びとなった。
  1885年12月29日、難波駅を起点にし、天下茶屋、住吉
 を経て大和川北岸(大和川駅)に至る区間の営業を開始
 した。
  大和川橋脚を架ける工事には、時間・費用を要すると
 見られたため、このような暫定開業となった。
  1887年5月に、堺市街へ入るための延伸工事を開始し、
  1887年10月に、洪水によって中断を余儀なくされるが、
  1888年3月に、竣工した。
  そして、1888年5月15日、堺の吾妻橋駅まで延伸運転が
 開始され、大和川仮駅は廃止された。
1885年12月28日、井上勝が、初代鉄道長官に任命された。
1885年12月28日、内閣に統計局を設置した。
  統計院を廃止し、内閣に統計局を設置した。
  翌年・1886年(明治19年)2月15日に、各省院庁に統計
 主任を置き、統計局との連絡に当たらせることとし、
  ここに、統計局を中心とした政府統計組織体系が確立
 した。
1885年12月28日、布告・布達は、官報掲載を以て公式とし、
 別に配布しないことを定めた。
1885年12月、東京商船学校が、逓信省の所管となる。
1885年、別子銅山の亜硫酸ガスによる被害が拡大した。
  急激な近代化の道をひた走っていた日本。
  1691年(元禄4年)に開かれた別子銅山も、機械設備の
 導入、索道、鉄道の敷設などによって、出鉱量の拡大が
 図られた。
  また、これに対応する製錬能力を確保するため、別子
 山中にあった製錬所は、新居浜の沿岸部に移設された。
  しかし、繁栄の象徴となるはずだった新居浜の製錬所。
  その排出される煙(亜硫酸ガス)が、周辺地域の農作
 物に被害を及ぼした。
  予期せぬ事態が発生した。
  しかし、誠実な対策の努力がなされた・・が・・
  1904年(明治37年)四阪島に移転した溶鉱炉の試験運
 転を開始すると間もなく、
  対岸の宮窪村友浦から麦の葉に被害が出た。
  1905年(明治38年)本操業を開始すると、越智・周桑
 両郡の各村から煙害の叫びが起こった。
  1906年~1907年(明治39~40年)煙害の声が、一層、
 大きくなった。
  愛媛県、別子鉱業所が、それぞれ調査し、
  その結果、農業被害は煙害であることが確認された。
  被害地域は、新居浜製錬所当時よりもはるかに広い範
 囲にわたり、
  四阪島を中心に、越智・周桑・新居・宇摩四郡の農村・
 山林地帯まで拡大した。
  1908年(明治41年)煙害は従前より一段と激しくなっ
 た。
  これは、この年に「煙害日和」(被害の多い時の気象、
 つまり、海陸各地の風向きが一致して風力が弱いときや、
 静穏な時、日光が強くて気温が高いとき等のことをいう)
 が、頻繁に続いたものと考えられた。
  前記の四郡の麦作は、減収になったばかりか、7月~8
 月には、亜硫酸ガスに襲われた稲の葉に一様に黄褐色の
 斑点が生じ、
  前年程度の結実さえも期待できなくなった。
  被害区域は、三郡四町38ヶ村(宇摩郡の被害地域はこ
 れには含まず)に及び、
  被害を受けた農家戸数は3万余戸、
  田畑反別は、およそ1万2000町歩~1万3000町歩に達し
 た。
  四阪島は、新居浜、今治からそれぞれ18キロメートル
 離れているといっても、内海であったために、
  西よりの風を除くどの方向の風でも、どこかに被害が
 発生した。
  特に、春から夏の農作物育成期には、北東よりの風が
 多く、それだけ被害を激化させることとなった。
  農民たちが、4年間に被った損害額は、米麦の被害だけ
 で合計約37万円になると算定された。
  一戸当りの被害額は10円強と少ないが、この地域一帯
 が愛媛県第一の穀倉地帯であることを考慮すれば、農民
 が物心両面に受けた打撃は決して小さくはなかった。
  農家煙害の被害は米麦のみならず、
  山林、果樹、そ菜等にも及ぶが、それらの被害は、自
 給度の高い生活を営んでいる普通の農家にとって、きわ
 めて重大な問題であった。
  当時は、亜硫酸ガスの回収方法が確立されておらず、
 技術的に解決することは極めて困難だった。
  そのため、時の、住友総理事・伊庭貞剛は、
  製錬所を四阪島へ移転するという決断を下した。
  四阪島は、新居浜から約20キロ離れた無人島で、
 ここに製錬所を移転すれば、亜硫酸ガスは瀬戸内海上で
 拡散され、
  煙害が発生することはないと考えた。
  しかし、無人島に製錬所を作るには、港や道路、住宅
 をはじめとするインフラを、初めから整備しなければな
 らず、
  莫大な費用がかかった。
  実際にかかった総建設費は、
  当時の別子銅山の2年分の純利益に相当した。
  約170万円という、まさに、社運を賭けた大事業だった。
  煙害問題は、周辺の農民に深刻な被害をもたらします
 が、
  その一方で、産銅業は、日本が世界の列強に対抗して
 いくための基本となる事業であった。
  休止するわけはなかった。
  この様なジレンマのなか、伊庭は、あくまでも、損害
 賠償で片づけることをせず、
  事業の利益をつぎ込んででも、将来のための『真の解
 決策』を求め、
  煙害の根絶にこだわった。
  しかし、1905年(明治38年)に、操業を開始した四阪
 島の製錬所は、
  予想に反し、煙害を愛媛県の東予地方全体にまで拡大
 させる結果となった。
  瀬戸内海上で拡散されると考えた亜硫酸ガスが、風に
 乗って、そのまま四国本土にまで流れた。
  農民達は、煙害の根絶と、損害賠償を求めて、激しい
 運動を繰り広げた。
  これに対して、住友総理事・鈴木馬左也は、
  「(煙害の)除害方法については、住友家においても
 熱心に研究しており、
  また、政府の調査会も、これに重きを置いて研究され
 るであろう。
  その方法が、発明されれば、住友家は、除害設備など
 少しも厭うところではない、
  たとえ、煙害に対する損害を弁償する額以上であって
 も、これを支出して、施設する覚悟である」
  ・・との決意で事態にあたった。
  住友は、その後も、煙害問題の完全解決まで、終始、
 この姿勢を貫いた。
  1910年(明治43年)被害者農民との間で、損害賠償と
 亜硫酸ガス排出抑制のための操業制限に関する契約が結
 ばれた。
  農民側が挙げた「被害の実例」は下記・・、
  (1)一般耕作物の被害は大きく、大根の根がふとらず、
    そ葉類は生育しない。
  (2)苗、葉に赤色はん紋を生じる。果樹は結実の減少
    を来し、ついに枯死する。
  (3)松の葉が伸びにくく、葉の色は黄褐色に変わる。
  (4)桑の葉が繁茂せず、養蚕も臭煙に襲われ不結果を
    生じる。
  (5)呼吸器病が増加する。
  (6)藁の目方が軽く、靭性を失って縄などに適しない。
  (7)屋根瓦、漆喰、石垣などが赤変する。
  (8)墓石に生えた苔がことごとく剥落する。
  (9)降雨の際屋根の点滴が泉水に落ち、鯉や鮒などが
    死ぬ。
  一方で、煙害克服に向けたさまざまな技術改良に着手
 した。
  まず、原料中の硫黄分を減少させるため、
  1913年(大正2年)に、住友肥料製造所を開設し、硫化
 鉱に含まれる硫黄から硫酸を作り、
  さらに、これから過燐酸石灰を製造した。
  また、煙害の除去、軽減のため、いくつもの試験研究
 を実施した。
  これらの対策により、四阪製錬所から排出される硫黄
 量は、1926年(大正15年)には、1919年(大正8年)の半
 分にまで減少した。
  大正末、ドイツ人ペテルゼンが発明した「塔式硫酸製
 造方法」(硝酸を使用して亜硫酸ガスを硫酸にする方法)
 を導入することにより、
  四阪島製錬所は、ようやく煙害根絶のきっかけを掴(
 つか)んだ。
  1927年(昭和2年)には、ペテルゼンと正式に特許実施
 契約を結び、工事を実施した、
  さらに、選鉱操業の変更もあって、放出される亜硫酸
 ガスの量は減少し、
  また、その濃度も希薄となり、
  もはや、実害を伴う煙害は見られなくなった。
  さらに、1937年(昭和12年)には、中和工場の建設に
 着手した。
  これは、溶鉱炉の煙突から放出される希薄な亜硫酸ガ
 スを、アンモニア水で中和して、
  すべて、亜硫酸アンモニアの溶液として回収する。
  この設備は、1939年(昭和14年)7月に、完成。
  以後、亜硫酸ガスはまったく見られなくなった。
  煙害の被害を根絶した。
  四阪島に製錬所が移転してから34年後のことだった。
1885年、朝鮮の勢道政治が盛ん
  朝鮮では、1392年~1910年まで李氏朝鮮が続いたが、
 その後期に、勢道(せいどう)政治となった。
  清朝には完全に屈服し、
  定期的に、貴族の娘を数知れずとなく清の宮廷に献上
 する習わしがあった。
  また、冊封(さくほう)使節が清から到来すると、言
 葉にすることも憚(はなか)られる性的接待をする韓国・
 朝鮮の慣例があった。
  こうした事実からも、鬱積(うっせき)した心理が朝
 鮮にはあり、
  また、その長年の反動からの形成されて来た体質も存
 在した。
  排他的な、恨みもともなった。
  また、反動的に出て来た優越の入り交じった感情もあ
 った。
  過去の韓国・朝鮮の歴史について・・、
  韓国の歴史教科書には・・、
  「勢道(せいどう)政治による中央政治の不正・腐敗
 と堕落は、そのまま地方政治に波及し、地方の官吏や郷
 吏は、権力を乱用して私利私欲をむさぼった。
  彼らは、法律にない各種の税金を思い通りに徴収し、
 百姓を捕らえては罪名を着せ、財物を略奪したりする風
 潮が生じた」・・とある。
   (参考)勢道政治:せいどうせいじ、朝鮮の李朝におい
    て、国王の信認を得た特定の人物や集団が・・、
    政権を独占する場合を指し、
    世道(せどう)政治ともいう。
     こうした人物や集団は、王室と血縁関係か婚姻
    関係にある外戚の場合が多く、
     正祖時代(1776年~1800年)の洪国栄(1748年~
    1881年)以来、外戚の勢道政治が李朝末期まで続い
    た。
     特に、純祖(在位1800年~1834年)以降は、幼少
    の国王が相ついだため勢道政治に拍車をかけ、
     安東金氏(純祖、哲宗の両時代)、豊壌趙氏(憲宗
    時代)、驪興閔氏(高宗時代)などによって政権の私
    物化が行われた。
1885年、朝鮮に対する、列強の横暴
  ロシアが、朝鮮から海軍基地(永興湾)の提供を受け
 ようとした。
  朝鮮の李朝は、ロシアににじり寄った。
  日英中は、この案を潰した。
  この反動で、イギリスは、朝鮮の巨文島を占領した。
  ロシアは怒った。
  そして、ロシアも朝鮮を占領すると言った。
  中国も仲介をした、
  そして、ロシアの占領がないことを条件に、イギリス
 も占領を止めた。
  中国は、朝鮮への勢力圏を拡大したいと意識していた。
  各国の欲の勢力圏争いが展開した。
  そして、この頃、アフリカ分割の大国の欲が、主に、
 ヨーロッパ列強の各国が展開することになる。
  日本は、この頃から、朝鮮は独立させたいとし、
  そのためには、清国に朝鮮半島から手を引かせたいと
 考え始めた。
  また、その実現のためには、やむを得ない場合には、
 戦争にも至るだろうと意識し始めた。
  この様な時、朝鮮に農民の反乱が起きた。
  李朝では、鎮圧できなかったため、清国に出兵を要請
 した。
  日本は、条約に基づいて、朝鮮へ出兵した。
  これが日清戦争の原因となった。
1885年6月23日、イギリスに、第一次ソールズベリー侯爵内
 閣が発足した。
  この時に、アイルランド国民党の党首チャールズ・ス
 チュワート・パーネルと連携して、第二次グラッドスト
 ン内閣を倒閣することに成功し、
 代わって保守党政権第一次ソールズベリー侯爵内閣を発
 足させた。
  パーネルに配慮して、アイルランド小作人に自作農へ
 の道を開くアシュバーン法を制定したが、
  総選挙の敗北を経て、
  アイルランド国民党がグラッドストンとの連携に動い
 た結果、
  1886年1月には、退陣に追い込まれた
1885年、ダイムラーが、世界で初めて、オートバイを発明
 した。
  ダイムラーとマイバッハは、1890年に、ドイツAGを退
 社し、
  ダイムラー・モトーレン・ゲーゼルシャフト(ダイム
 ラー・エンジン会社)を設立した。
  その会社の目的は、オットーの会社で発明したのと同
 じ技術を使って、小型で高速の内燃機関を作ることであ
 った。
  1885年、ダイムラーとマイバッハは、オットー・サイ
 クルの内燃機関を積んだオートバイを設計、開発した。
  そして、特許も取得した。

1885年12月28日、イギリスの人種差別に憤(いきどお)る
 インドの方々が、ボンベイで第1回インド国民会議を開
 いた。
  イギリスの植民地であった英領インドのボンベイ(現・
 ムンバイ)で、72人の代表を集めて第1回の会議が開催さ
 れた。
  この会議は、インドにおける人種差別的行政に憤った
 インド人初のイギリス下院議員となったダーダーバーイ
 ー・ナオロージーが、
  インド知識人層の不満を吸収しつつ、
  インド人の政治参加を漸次拡大するための体制補完的、
 穏健的な団体として設立した。
  当初は、年末の4日間だけ活動する程度のものであった。
  これは、当時のイギリス人のインド総督の承認が必要
 なためだった。
  インドの方々が、イギリスの行なう人権無視の政治に
 目覚め、
  そして、イギリス側も、その統治側からすると、「急
 増する反英勢力への安全弁」としての役割を期待してい
 た。
  (参考)インド国民会議派
    インド最大、最古の政党で、会議派と略称される。
     1885年のこの年に、ボンペイで開催されたイン
    ド国民会議に起源を発し・・、
     ガンジーの指導の下に、1920年、小ナーグブル
    大会を基として近代的な政党に脱皮し、
     独立運動を指導した。
     1947年の独立以後、1977年から2年半ほどジャナ
    タ党に政権の座を譲ったが、一貫して中央政府の
    構成する与党となっている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:1931年という年は・・、
.
1931年6月、中村震太郎大尉事件(~7月)が起きた。
  日本の軍人中村大尉が、中国の南興安嶺(現:チチハ
 ル)辺りを旅行していた時、中国軍に捕らえられ、
  日本側には一切伝えられずに、処刑された。
  スパイ容疑とされた。
  中村大尉は、正式なビザを持っていた。
  この事が、後に、日本へ伝えられると、日本国民は怒
 り、国内は沸騰した。
  中国側へ、日本は抗議をした。
  中国側は、「日本によるデッチ上げだ」とした。
  そして、調査にも応じなかった。
  逆に、日本のデッチ上げだとして抗議をして来た。
  当時の日本の幣原(しではら)外相は、今で言う「日
 中提携路線」で行くという方針で、
  また、「国際協調路線」で行くという路線だった。
  日本国民の世論にも耳を貸さず、日本の主権を犯され
 た事にも目をつむった。
  この時、日本の陸軍省や、参謀本部も、内閣の路線を
 不満ながらも受け入れた。
  しかし、明らかに、日本兵士の命が、日本の主権を無
 視されて奪われ、軽んじられていた。
  中国は支援を受け、後ろ盾を得て強気だった。
1931年7月、万宝山事件が起きた。
  満州の地で、開拓していた朝鮮の農民の方々が、中国
 人に虐殺された。
  この地域にいる日本人居留民の間にも、ますます不安
 感は高まった。
  東京の日本政府の「国際協調路線」や、「日中提携路
 線」で、
  結局、何もしない路線に対しても不安は増した。
  この地で戦われた25年前の日露戦争の後から駐留して
 いる日本軍(日中間の合意によって駐留している関東軍)
 も、何もしない方針である政府方針で、事が処せなくな
 っていた。
  結局、中国からの武力行使をやられる状況と、
 日本政府の穏便な何もしない方針が、現地の関東軍を板
 挟み(いたばさみ)にした。
  切羽詰まった状態に、追い詰めた。
  そして、「武力行使もやむを得ない」という判断に至
 らせた。
  その様な緊縛(きんぱく)した現地の状況だった。
  何か対処をしなければと追い詰められ・・て、
  9月18日、柳条湖において満鉄線爆破に至った。
1931年9月、ソ連の指令を受けたゾルゲらは、満州事変の直
 後から動き始め、日本に対ソ連攻撃をさせないようにす
 るため、日中全面戦争へと導いて行き、日中戦争を推進
 した。
  そして、日本を日米戦争に誘い込んで行った。
  リヒャルト・ゾルゲは、ソビエト連邦のスパイで・・、
  ドイツの有力新聞「フランクフルター・ツアイトング」
 の記者という隠れ蓑が与えられた。
  1933年~1941年にかけて、ゾルゲ諜報団を組織し、日
 本で諜報活動を行い、朝日新聞記者だった尾崎秀実もゾ
 ルゲ諜報団だった。
  ドイツと日本の対ソ参戦の可能性などの調査に従事し、
 ゾルゲ事件の首謀者として日本を震撼させた。
  イギリス警察が、1933年5月に、ゾルゲをソ連のスパイ
 とほぼ断定した。
  ソ連は、頑なに自国のスパイではないと言っていたが、
 1964年11月5日に、ゾルゲに対して「ソ連邦英雄勲章」が
 授与され、その働き・スパイ行為を評価した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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by suba28 | 2016-09-16 02:35 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)418E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年12月~1885年12月)

題:(増補版)418E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年12月~1885年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年12月24日、逓信省を東京・日本橋区本材木町に仮設。
  逓信省(ていしんしょう)は、工部省の電信局、灯台
 局から引き継ぎ、
  また、農商務省の駅逓局、管船局の各局管掌事務を引
 き継いで設置され、
  郵便、電信、灯台業務、船舶業務、簡易生命保険など
 を管理した中央官庁の旧称だが、この年に設置され、
  駅逓局、電信局、灯台局、管船局、会計局、庶務局の
 6局があった。
  初代大臣は、榎本武揚だった。
  当初の逓信省は、郵便、郵便為替(かわせ)、および、
 貯金、電信、海運の全般を管掌した。
  後に、電気・航空行政も管掌した。
  1868年、駅逓司が設置された、
  1885年、逓信省が設置された、
  1887年2月に、郵便のマークとして親しまれている〒を
     制定し、
  1890年以降、電話事業を開始し、
  1892年~1909年には、鉄道行政も管轄した。
  1893年以降、官設・私設鉄道事業を管轄、陸上交通を含
     む広範な行政官庁となった。
      この間、とくに郵便・電信業務の近代化をはか
     り、日露戦争前後の時期には、ほぼこれを完成
     した。
  1908年12月5日、鉄道監督行政は、新設の鉄道院(内閣
     直属)に移り、
  1909年に、電気行政を、
  1916年10月、簡易保険を、
  1923年に、航空局を陸軍省から引き継ぎ、民間航空事
     業の監督、育成を担当した。
  1925年に、万国郵便条約、
  1926年、郵便年金を創始した。
  1928年に、国際無線電信条約などに加盟した。
  1943年11月、行政整理のため解体され、運輸通信省が
     新設されて統合され、
  1945年5月、逓信院と改称、内閣に移管され、
  1946年7月、ふたたび逓信省として復活し、ただし、所
     管は通信行政のみに縮小、
  1949年6月1日、郵政省と電気通信省とに分割した。
  1952年、電気通信省の主体は日本電信電話公社(現:
     日本電信電話株式会社となり、電波監理行政や、
     日本電信電話公社の監督業務を担当し、
  1985年、電気通信省は、日本電信電話公社を経て、こ
     の年に、民営化され、日本電信電話株式会社と
     なった。
  2001年、総務庁などと統合されて総務省となる。
  2003年、発足した国営公社「日本郵政公社」に郵政事
     業が引き継がれた。
  2007年、同公社の民営化、分社化に伴い、日本郵政グ
     ループ各社に引き継がれた。
1885年12月24日、工部大学校が、工部省廃止に伴い文部省
 へ移管された。
  1871年、工学寮が、伊藤博文・山尾庸三(ようぞう)の
     建議に基づいて発足し、
  1873年、機械工学者ダイエルほか8人のイギリス人教師
     を招いて開校し、
      工学頭(こうがくのかみ)は山尾、教頭はダイ
     エル、
      土木、機械、造家、電信、化学、冶金(やきん)、
     鉱山の7学科をもつ、6年制の官費の専門学校で、
     学理面と実地面とを融合した、当時、世界でも
     進歩的な工学教育機関であった。
  1877年に、工部省工学寮工学校を改称し、工部大学校
     が設立された。
      日本最初の工業教育機関で、総合的な工業教
     育を行なった。
      工作局長・大鳥圭介(けいすけ)が総理となっ
     た。
      工部省の事業をになう技術者を、外国人から
     日本人に切り換える教育をした。
      6年制をとり、予科・専門科・実地科の3期に
     分けた。
  1879年に、最初の卒業生19人を出し、
  1881年、陸軍参謀本部(東京)をカペレッティが設計し
     た。
  1882年に、造船科を増設、
  1885年、工部省廃止に伴い文部省に移管され、
  1886年、東京帝国大学工芸学部と合併し、帝国大学工
     科大学となった。
      辰野(たつの)金吾、高峰譲吉、藤岡市助、井
     口在屋(いのくちありや)ら、明治の工学界・産
     業界の指導者・技術者を輩出した。
      近代工学の理念の移植と定着が、意外と早か
     った事が驚かれている。
      日本人の優秀性がここにもある・・、
  1887年、工部大学校本館(東京)をボアンビル(C.de
     Boinville)が設計した、
1885年12月25日、東京・浅草に仲見世が新築された。
  「仲見世ホームページ」を抜書きし、その概要を記す
 と・・、
  仲見世は、日本で最も古い商店街の一つ・・とある、
  徳川家康が、江戸幕府を開いてから、江戸の人口が増
 え、浅草寺への参拝客も一層賑わった・・と、
  それにつれて、浅草寺境内の掃除の賦役を課せられて
 いた近くの人々に対して、
  境内や、参道上に出店営業の特権が与えられ・・、
  これが、仲見世の始まり・・、
  元禄、享保(1688? 1735)の頃・・、
  江戸時代に、伝法院から仁王門寄りの店を役店(やく
 だな)と呼んで、
  20件の水茶屋が並び・・、
  雷門寄りは平店(ひらみせ)と呼び、
  玩具、菓子、みやげ品などを売っていて・・、
  次第に、店も増えて、日本でも一番形の整った門前町
 へ発展していった。
  明治維新になると・・、寺社の所領が政府に没収され、
 浅草寺の境内も・・東京府の管轄となって・・
  ・・政府は、新しく東京に5公園を作って、
  公園法を制定して・・、
  以前からの一切の特権を、仲見世から取り上げた。
  1885年(明治18年)5月、東京府は、仲見世全店の取り
 払いを命じ・・、
  泣き泣き退店した後に・・、
  1885年12月に、煉瓦造りの洋風の・・豊かな新店舗が
 完成し、近代仲見世が誕生した・・、
  そして、浅草の繁昌が始まる・・、
  途中・・関東大震災と・・戦災での完全な焼失があっ
 たが・・
  今の仲見世には・・東側に54店、西側に35店、合計89
 店の店舗があり・・長さは約250メートル・・
  美しい統一電飾看板と・・四季折々の装飾が石畳に映
 えて・・雷門をくぐった海外からのお客さまなどは、み
 ごとな日本的情緒に思わず「ワンダフル」を連発いたし
 ます・・と記されている。
1885年12月26日、鉄道局官制を制定した(12月22日説あり)
  日本の鉄道の所管官庁は、1871年(新橋~横浜間鉄道
 開業の前年)に設置された工部省鉄道寮(のち工部省鉄
 道局)が最初だった。
  1885年に、工部省が廃止されると、鉄道局は内閣の直
 属となった。
  その後、相次いで所管が変更されるが、この混乱は、
 鉄道の国有化の問題があったからだった。
  このため、政府は、1908年12月5日、鉄道局と帝国鉄道
 庁を統合した内閣鉄道院を新設し、再び、内閣の直属機
 関とする。
  1885年12月22日、新橋~横浜間の定期乗車券発行規定
     を制定 主要事項
  1885年12月25日、鉄道本局の位置を旧工部省構内と定
     めた(内閣告示第7号) 主要事項
  1885年12月26日、鉄道局官制を定め(内閣達第79号)、
     長官・技監・事務官・技長・属・技手を置く、
     同時に、鉄道局長官具状事項7か条を定め、その
    他は長官の専行に任せる 主要事項
  1885年12月26日、鉄道局長官の事務処理事項通達(内閣
    書記官局令第14号) 主要事項
  1885年12月26日、会計について会計事務取扱方通達(内
    閣書記官局令第15号) 主要事項
  1885年12月28日、鉄道局長官に井上勝就任 主要事項
  1885年12月28日、鉄道局長官・井上勝
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカは、満州の日本の権益を認めていた。
   また、東部内蒙の日本の権益をも認めていた。
    アメリカは、日本の権益(満州、東部内蒙古)を
   認めていた。
.
1921年11月12日、ワシントン会議(~1922年2月6日)
  1914年~1918年まで、第一次世界大戦が戦われたが、
 その第一次世界大戦後に、第29代アメリカ合衆国大統領
 ウォレン・ハーディングの提唱で、この時、ワシントン
 D.C.で国際軍縮会議が開かれた。
  国際連盟の賛助を得ずに実施されたこの国際会議・・、
  太平洋と東アジアに権益がある日本・イギリス・アメ
 リカ・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベル
 ギー・ポルトガルの計9カ国が参加した。
  ソビエト連邦は、会議に招かれなかった。
  アメリカ合衆国が主催した初の国際会議であり、また、
 史上初の軍縮会議となった。
  このワシントン会議は、ワシントン体制を作る目的も
 あった。
  総額47億ドルにのぼる対英債権をもつアメリカの発言
 力は絶大であった。
  そして、このアメリカは、第二次世界大戦(1941年)の
 時には、この債権のあるイギリスが負けることを避けた
 いために、第二次世界大戦に『参戦したい』という第32
 代アメリカ大統領のルーズベルト(任期:1933年~1945
 年)が居た、
  (選挙戦の時は「参戦しない」と、何度も言っていた
 ルーズベルトだった)
  そして、アメリカが主導するこの会議・ワシントン会
 議、
  また、アメリカに引っ張られるヨーロッパ列強各国。
  この時までには、アメリカには、「日本を取り込む」
 という選択肢であった。
  しかし、「日本の取り込みが無理ならば、皆で、列強
 各国で包囲して追い詰めて行く」という選択肢もあった。
  その「日本取り込みの行動」の中に、石井・ランシン
 グ協定があった。
  石井・ランシング協定は、1917年11月2日、アメリカ合
 衆国ワシントンD.C.で、
  日本の特命全権大使・石井菊次郎とアメリカ合衆国国
 務長官ロバート・ランシングの代表で締結された。
  中国での特殊権益に関する協定で、
  アメリカが、日本の中国の領土を認めるというものだ
 った。
  公文によって共同宣言をした「公式の国際取り決め」
 だった。
  協定の内容は、日本・アメリカ両国が、中国の領土的・
 行政的統一を尊重して、中国大陸における門戸開放政策
 を支持することを誓った上で、
  日本の中国大陸における特殊権益(満州・東部内蒙古)
 を『認める』ものだった。
  すなわち、アメリカの中国政策の一般原則と、日本が
 主張する特殊利益との間の妥協点を決定するものであっ
 た。
  しかし、ワシントン会議の後、アメリカの主動の列強
 各国の『ワシントン体制』が出来上がって行った。
  そして、日本は孤立させられて行く。
  日英同盟は、アメリカによって破棄させられた。
  そして、「九カ国条約」で、中国について「列強は常
 に強調して臨み、各国が勝手に利権を広げない」として、
 日本はタガをはめられ、歯止めをかけられて行った。
  そして、ソ連(1917年のロシア革命で共産党国家を樹
 立していた)は・・、
  世界各国でも共産革命を起こしたいとし、
  また、起こさせようと、世界の各国で画策していた。
  コミンテルン(国際共産党組織)によって、資本主義
 国で労働争議を起こしたり、
  テロ事件を起こすという秘密工作を行っていた。
  日本が手助けして建国し、独立した満州にも、このコ
 ミンテルンの指令を受けた者が、中国本土から流入して
 来た。
  この頃、中国は、国民党政府が統一を果たしていた。
  この国民党政府が、コミンテルン勢力と共に、満州に
 流入して来た。
  満州に入植していた、満州に居た日本人に対し、暴行
 を働いたりした。
  また、日本人と同じく、満州開拓に居た朝鮮の方々へ
 も暴行したり、迫害したりした。
  そして、満州で人々を煽り、プロパガンダ活動をした。
  また、日本製品の不買運動をし、極めて過激な排日運
 動まで始めた。
  この様な行動で、1931年の満州事変へと至って行く・・、
  それ以前、、1929年11月には、ウォール街に始まる株
 の大暴落が起きていた。
  そして、世界は大恐慌の嵐に襲われていた。
  日本の経済も、大きく落ち込んだ・・、
  その様な中、アメリカやイギリスは、日本からの製品
 輸入を完全に締め出す策に出た。
  関税同盟を結び、日本商品に対し高率な関税を課し、
 貿易協定などで関税障壁を張り巡らせた(ブロック経済
 体制)
  日本経済は、完全にどん底になった。
  自殺が頻繁に起きた。
  また、餓死者も出た。
  農家の娘の身売りなどの社会不安が蔓延する日本とな
 った。
  満州に日本人が居たのは、満州国の建国も手助けした
 が、日露戦争で日本が戦勝し、条約にのっとり、ロシア
 の侵略の区切りを付け、そして、止めたという行動があ
 った。
  日本人兵士の命を犠牲にした、平安があった。
  そして、日露戦争の戦勝の日本は、ポーツマス条約で、
 「南満州鉄道(満鉄)や、その付属地の経営などの権利
 を持っていた」。
  国際法に基づく行為だった。
  中国を統一した漢民族の国民党政権は、この様に平安
 な満州の地、
  満州族(女真族)の地の満州の平穏の地に、波風を立
 てる行為に出た。
  国際法上でも立派に存立している地に、武力で侵略し
 て来た。
  満州事変の伏線となった行為、1930年の満州事変の前
 年の行為だった。
  そして、この翌年・1931年、満州事変は起きる。
  この安寧状態に対し、挑戦するこの行為に、大きくか
 らんでいたのが、アメリカだった。
  アメリカは、日本が得ていた満州鉄道の様な利権が欲
 しかった。
  アメリカは、露骨に日本の満州鉄道と並行に鉄道を敷
 く行為を始めた。
  これは、日本と締結した条約に、中国が違反する行為
 だった。
  中国は、アメリカに鉄道を引かせることを許諾しては
 いけなかったのだった。
  日本と中国は、取り決めをしていた。
  アメリカの行為は完全に、この条約違反行為だった。
  日本潰しの意図で、あえて行った条約無視行為でもあ
 った。
  また、満鉄付属地の鉱山経営もできる日本の行為にも、
 条約無視で足を引っ張った。
  日本人に土地売買を禁止する法律を作ったりした。
  そしてまた、条約で決めた鉱山事業まで禁止して来た。
  日本は、欧米のような「搾取だけ」の行為ではなく、
 その地の利益にもなるように、資本を投下して、経営し
 ていたが、
  この巨大な資本投下した企業経営が、続けられなくな
 る事態に陥(おちい)った。
  アメリカは、第二次世界大戦に参戦するとき、イギリ
 スに大きな投資をしていたので、イギリスを助けたいと、
 だから参戦したいという経緯(いきさつ)があったが、
  アメリカは、満州で、この逆の行為をした。
..
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by suba28 | 2016-09-14 05:16 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)417E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年11月~1885年12月)

題:(増補版)417E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年11月~1885年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
(追記)1883年8月、清仏戦争が起きた(ベトナムの取り合い)。
  中国の清と、フランスの戦いである。
  また、1885年4月にも、この2つの国は戦争している。
  フランスは、インドに於いて、イギリスとの植民地の
 奪い取り(争奪戦)に敗け・・、
  「それなら別のアジアの国を植民地にしよう」とベト
 ナムへやって来て・・植民地にしようと進出して来た。
  まったく武力の強い、欲深いヨーロッパ列強の国々が、
 アジアの弱い国々を分捕(ぶんど)るという、弱い者い
 じめのしたい放題だった。
  このフランスの領土的野心の行動は、1840年代から始
 まっていた。
  そして、この戦争に負けた清国は、また一つ、朝貢国
 (清国へ貢物・みつぎものを持って訪れる国)が減った
 のだった。
  ベトナムが、フランスの支配下に入ったからで・・、
  清国への朝貢国は、次々と減って行っていた。
  朝貢国が減るということは、『清国では、皇帝の徳が
 なくなって行く』という意味があった。
  中国・清を中心とする『アジアの秩序が崩壊している
 事態』であった。
  清に残された最後の朝貢国は朝鮮だった。
  清は朝鮮を失いたくないと、強く思っていた。
  そこで、日本を敵視した。
  明治維新、産業を興し、そして、学び、努力して、国
 を富ませ、強くしてきた日本が、力を持って来ていた。
  この状況から、日清がぶつかる時が来ていた。
  日本は、開国した朝鮮に、その近代化を手助けした。
  また、朝鮮の、独自の国を守ろうという、力を得たい
 とする行動を援助した、軍隊の制度改革を援助した。
  色々と援助する日本だったが、日本の改革に取り残さ
 れた一部に、冷遇されたと不満を持つものが居た。
  そのエネルギーが、壬午事変(じんごじへん)として
 暴発した。
  1882年に起きたこの事変に、清は、この時に乗じ、
 数千の軍隊を派遣して来た。
  また、なんだかんだと清は、軍隊を派遣して来た。
  1884年には、日本の明治維新を見本として近代化を進
 めたいと金玉均たちの起こしたクーデターの時も、
  清は、軍の力を行使し、押さえ込んだ(甲申事変・こ
 うしんじへん)
  日本の軍事力は、この時点では、清にはおよばなかっ
 た。
1885年11月11日、三条実美太政大臣、黒田清隆の右大臣任
 命につき、諸参議と協議を行った。
  開拓使長官・黒田清隆は・・、
  「北海道開拓使官有物払下げ」を申請して・・
 (1400万円余の官営開拓事業をわずか39万円・無利息30
 年賦で、同郷の薩摩藩政商・五代友厚らに払下げようと
 した)
  「それは、汚職なのだ」という事件が、1881年に起き
 る。
  そして、払下げは中止となった。
  黒田は、北海道開拓10年計画の終了にあたり、1400万
 円の国庫金を投下した官有物を、五代友厚に払い下げよ
 うとした。
  払下げは、すでに閣議決定を経て、公式に発表されて
 いた。
  大隈重信が大反対をした。
  世論も攻撃をした。
  政府は、立往生をした。
  しかし、これは、権力闘争の色があり、喧嘩両成敗の
 決着となった。
  大隈は辞職し、黒田の行なった払下げは中止に・・、
  大隈の国会開設が急進的国会開設論で・・、
  また、イギリス流議院内閣制を推していたのも懸案(
 けんあん、問題とされながらまだ解決がつかない問題)
 になっていた。
  この政変を、決着を付けられたのが、明治天皇陛下の
 『1890年(明治23年)に国会を開設する』という詔が、
 1881年10月12日に、下りてだった。
  因みに、この黒田清隆は・・、
  薩摩藩の出身で、戊辰戦争で活躍し、五稜郭開城に際
 して榎本武揚(えのもとたけあき)を助命し、
  明治政府では、開拓次官、そして、後に、参議兼開拓
 長官として北海道開発に力を尽くした。
  そして、1888年に、首相となり、一度、失脚した大隈
 重信(外相)とともに、条約改正を試みた・・が、失敗
 する。
  1883年7月20日の、岩倉亡き後・・、
  その岩倉にあった調整能力は喪失状態であった。
  現状の太政官制と大臣とを前提とする限り、新たな政
 治関係の創出はむずしく・・、
  太政官制の改革が喫緊(きっきん、差し迫っていて、
 重要なこと)の課題となっていた・・、
  この頃、三条実美が、右大臣補任を主張した。
  三条は、自分の引退に繋がりかねない太政官制の改革
 には反対だった。
  止む無く、右大臣に黒田清隆を推薦した。
  そして、微妙な波紋を広げたこの問題も・・、
  曲折の後に、天皇陛下が、先ず組織を定めて、然る後
 その人を議するべしとの事態打開に動き、
  伊藤の期待した内閣制度創設へとようやく動き出した。
  12月に入ると、伊藤はかねて用意していた内閣制度案
 を提出し、
  諸参議の了承を得て、
  これを受けて、三条が、即日、官制改革案と総理大臣
 は伊藤が適任である旨を上奏した。
  そして、早くも12月7日に、機構改革と、伊藤の内閣総
 理大臣就任が内定した。
1885年11月11日、足利織物講習所が設立された。
  足利の織物の発展に貢献した人たち
  工商会の父:川島長十郎
  川島長十郎は、五十部町の人で嘉永元年(1848年)4
 月、当時丹南藩の領地であった五十部村の目付役、平右
 衛門の子として生まれました。
  明治5年学制発布とともに小学校設立に尽力し、村の
 人びとの敬意を受けて戸長(村長)になります。
  明治12年、栃木県議会議員になり10年間勤続、その間、
 足利織物の発展に尽くしました。
  当時足利織物は粗製乱造がたたり声価が失墜していま
 したが、彼は各地の業界を視察、組合設立の必要を説き、
  明治15年足利工商会を組織しました。
  明治18年(1885年)には、染織講習所設立に尽力し、
 さらに明治21年には、足利、簗田機業組合の2代組合長に
 就任しました。
  評価の悪かった足利輸出織物が他に比類なしといわれ
 るようになった影には、他の先達とともに、川長こと、
 川島長十郎の力が大いにあずかっています。
  (足利市ホームページより)
1885年11月13日、華族女学校の開校式(皇后宮行賓)
  東京に華族女学校が開校し、屋内体操場が竣工する。
  華族女学校行啓
  後に、学習院女子中・高等科になる、皇族・華族子女
 のための官立の教育機関として華族女学校の名で東京・
 四谷に創立された。
1885年11月14日、最初の坑業組合となる九州の筑豊石炭坑
 業組合が成立した。
  日本の発展と共に必要とされて、採炭量は年率20%で
 伸びた。
  筑豊炭田の石炭産出量は、1882年(明治15年)が19万
 1000トン)で、3年後の1885年(明治18年)が35万3000
 トンとなった。
  当時、日本の平均の伸び率は10%位だった。
  この様な中、筑豊の炭坑主たちは、福岡県の指導のも
 とに、
  1885年11月に、筑豊石炭坑業組合を設立した。
  以後、筑豊の石炭鉱業の発展に士道的役割を果たした。
  組合の初期の目的は、価格決定権など、石炭市場の主
 導権を握っていた問屋勢力から、主導権を回復する事に
 あった。
  生産者による流通支配が成功する確率は、どの産業に
 おいても高くないが、
  特に、流通における卸売業者(問屋)が、生産者を支
 配する形態は歴史上どの産業にもあったが・・挑戦的な
 行動であった。
  そして、このような行動は、古くにもあった。
1885年11月18日、兵式体操を学校で実施するため、教員の
 体操伝習所(たいそうでんしゅうじょ)養成を決定する。
  体操伝習所は、1878年、東京に設置された文部省直轄
 の西洋式体操の教育機関で、
  日本で最初の体操専任教師が養成された。
  アメリカ人 G.A.リーランドを教師として、西洋の体操
 を導入した。
  リーランドの退任後は、坪井玄道が、その跡を継いで、
 日本の学校体育の基礎確立の中心となった。
  また、手引書を出すようになって、ようやく体操が、
 全国的に普及しはじめた。
  その体操は、軽体操と呼ばれ、
  後には、普通体操と呼ばれるようになるが、内容は、
 やはり保健的性格のものであった。
  そして、遊戯場が、次第に、体操場と呼ばれるように
 なっていく。
  しかし、この伝習場での体操は、室内体操場で実施す
 ることを前提にしていたため、
  屋外が、体操実施の場として本格的に機能し始めるの
 は、1886年に、兵式体操が、学校へ導入されてからであ
 った。
  実際に成果をみるのは、体操学校(現,日本体育大学)
 や、東京高等師範学校体操科(現,筑波大学体育科学系)
 などの体育教員養成学校が整備されてから・・、
1885年11月18日、明治天皇陛下が、日比谷操練場に御閲覧
 された。
  日比谷公園・・、
  維新後、江戸時代には鍋島・毛利家など8家の大名屋敷
 だった現・日比谷公園は、一時、政府の推奨により桑畑
 や茶畑に転用された。
  しかし、1871年(明治4年)に、陸軍日比谷操練場とし
 て使用され、
  1885年(明治18年)から、陸軍日比谷練兵場と名称を
 変え、
  その後、政府は、練兵場を青山へ移し、
  日比谷官庁街計画を立てたが、
  1889年(明治32年)の東京市区改正設計において、「
 帝都にふさわしい公園」をつくることを決定した。
  現在の日比谷公園の礎が着手された。
  そして、陸軍省は永田町(現・憲政記念館付近)に、
  海軍省は、築地(現・中央卸売市場)に設置されてい
 た。
1885年11月21日、黒田清隆が、右大臣就任を辞退した。
1885年11月23日、大阪事件
  大阪事件:自由党員による国内改革計画
  自由党の大井憲太郎ら、自由民権運動の再興をめざし
 た朝鮮でのクーデターによる日清対立計画が発覚し、大
 阪で逮捕された。
  最終的な逮捕者は合計で139人に上った。
  (氷川清話)大井憲太郎らの朝鮮クーデター計画(大
 阪事件)
1885年12月10日、文部省内に図画取調掛が設置された。
  後の東京美術学校。
  東京芸術大学の説明に・・、
  前身は、1879年、音楽の調査・研究をはかるために、文
 部省に設置された音楽取調掛を引きついで、
  1887年に、発足した東京音楽学校と、
  1885年に、国粋保存と日本画振興のもとに、文部省専
 門学務局設置の図画取調掛が発展して、
  工部大学校付置の工部美術学校を母体として、同じく、
 1887年に、設置された東京美術学校がある・・と、
1885年12月12日、公立小学校の修業期間について、1年で
 1学級の学年制に改められる。
  この年に、文部省は、等級制を廃して、半年単位の級
 編成をやめ、
  修業期間1年をもって1学級とすることとし、学年制が
 小学校に普及していくこととなった。
1885年12月16日、東京大学理学部鉱工業関係学科を分離し、
 工芸学部を新設。
  また、文学部政治学科を法学部に移し、法学部を法政
 学部と改変。
1885年12月21日、朝鮮と海底電線設置条約続約に調印した。
  因みに、1896年には、日清戦争で獲得した台湾への電
 信線敷設のため、日本最初の本格的海底ケーブル敷設船
 となる沖縄丸を導入。
  国産船では小笠原丸が、1906年に、太平洋横断ケーブ
 ル工事を目的として建造された。
1885年12月22日、内閣制度が発足
  内閣制度が確立し、設置された。
  伊藤博文が初代の総理大臣に就任し(宮相兼務)
  (第一次伊藤博文内閣が発足)、
  井上馨外務卿が外務大臣となった・・ほか。
  最初の内閣は、11名で構成された(内閣総理大臣、及
 び、宮内・外務・内務・大蔵・陸軍・海軍・司法・文部・
 農商務・通信の各大臣を置く)
  閣僚は、薩長土肥で構成された。
  また、宮中に内大臣をおいた(三条実美)
  宮内以外の諸大臣で内閣を組織することを定める。
  太政官制を廃止し、内閣制度が発足(施行)
  太政大臣、左右大臣、参議の制を廃し、新たに内閣各
 省を置き、官制改革が行われる。
  また、工部省と参事院、制度取調局を廃止し、
  宮中顧問官と逓信省を新設、
  工部省所管の燈台局・電信局を逓信省へ、
  鉄道局を内閣直属に、
  鉱山・工作関係事務を農商務省へ、
  長崎造船所を大蔵省へ移管した。
1885年12月23日、内閣法制局と宮内省御料局を設置した。
  初代法制局長官・山尾庸三を任命した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:怨念が、充ちて行く
.
2016年9月6日、フィリピン大統領が、アメリカに対して暴
 言を言った・・と報じられた・・が、
  ・・というが、
  ここに至るまでの事を知り、吟味して、「暴言」と決
 めつけたのかが・・疑問・・・?
  (読売新聞、2016年9月7日)には・・、
  フィリピン大統領のドゥテルテ大統領は・・、
  フィリピンの庶民層の『圧倒的支持』を受けて大統領
 となった人である・・と、
  ドゥテルテ・フィリピン大統領は、その様な人だと・・、
  そして、このフィリピンの庶民層の方々は・・、
  旧宗主国のアメリカに対して反感を持って来た・・と
  また、そのアメリカを後ろ盾として、アメリカの陰で
 旨(うま)い汁を吸って来たフィリピンのエリート層に
 対しても、フィリピン庶民層の方々は反感を持って来た
 ・・と、
  その様な歴史の経過の中で、ドゥテルテ大統領の暴言
 と言われる・・発言があった・・、
  ある意味では・・暴言ではない・・
  『公憤である』・・『義憤である』・・、
  (参考)義憤:ぎふん、道義に外れたことに対する、
     また、不公正な事に対する憤(いきどお)り。
  この事によって、アメリカ大統領と、フィリピン大統
 領の会談が取り止めとなった・・・・が・・、
  そのフィリピン大統領ドゥテルテ氏の発言は・・、
  「アメリカは、フィリピンで多くの悪事を働いて来た
 ・・が、今まで謝罪したことがない」
  「アメリカは、我が国・フィリピンを侵略し、我々・
 フィリピン人を牛耳り(ぎゅうじり)支配した」
  「フィリピンは、隷属国(れいぞくこく、奴隷の様に
 隷従する国)ではない」
  「私は、フィリピン国民には誠実に答えるが、彼(ア
 メリカ大統領のオバマ氏)に対しては、気にしてない」
  「彼(オバマ大統領)は何様だと言っているのだ。
  私(フィリピン大統領)も、主権国家のれっきとした
 大統領なのです」
  「我々・フィリピン人が、アメリカの植民地人だった
 のは、遠く過ぎ去った昔のことだ。
  (私の主人顔をするな)、私の主人は、フィリピンの
 国民だけだ。
  敬意は、示されなければならない」
  「質問や声明を投げかけるだけなら(誰にでもできる)
 それだけではいけない」
  「裁判なしで人を殺してきた酷い記録がある」
.
  そして、この発言の翌日のフィリピン大統領ドゥテル
 テ氏の発言・・、
.
  「私の発言が(会談中止の)直接の原因だ」
  「アメリカ大統領への個人的な攻撃と受け取られてし
 まった、(この様に受け取られたのなら)後悔する、(
 しかし、これは社会を良くしたいという公憤だ)」
  (参考)公憤:こうふん、社会の悪に対して、自分の
       利害を越えて発する憤(いきどお)り。
  「すべての国、アメリカとも関係を深め、フィリピン
 独立(1946年に、アメリカから独立した)の方針を進め
 て行くのが我々・フィリピンにとって重要だ」
  (参考)1943年、日本によるフィリピンの解放によっ
 て、フィリピンは独立した。
  しかし、卑劣な事に、アメリカは、この1945年の日本
 の敗戦とともに、フィリピンを、再度、植民地とした。
  しかし、その後、フィリピンの方々は、1946年に、再
 度、独立を勝ち取った。
  そして、この様な、二度にわたるアメリカの植民地時
 代の苦しさを知っている、その庶民層の大統領だった。
.
  そして、この日の、この読売新聞は、別の欄に・・、
  オバマ大統領の発言を載せている・・、
.
  「ベトナム戦争で犠牲になった市民への和解の精神で
 ラオスを訪問した。
  不発弾処理に3年間で9000万ドル(この日レートで、92
 億4000万円)をラオスに拠出する。
  アメリカは、ラオスの傷をいやす道義的責任がある」
.
  (評)アメリカは、歴史が進めば進むほど、そして、
 歴史が経過すればするほど、
  戦争ばかりしているアメリカは・・、
  世界のあちこちで、『アメリカに対する怨念が、充ち
 て行く』
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-09-12 05:06 | 皆様とともに 幸せになりたい


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