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(増補版)372E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年2月~1882年3月)

題:(増補版)372E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年2月~1882年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1882年2月8日、北海道開拓使、廃止(三県一局時代)
  開拓使を廃止して、函館県・札幌県・根室県の3県を
 設置した。
  北海道には、この3県のほか、
  北海道事業管理局(農商務省の一部局)が設置されて
 いた。
  3県と事業管理局は、1886年1月26日の北海道庁の設置
 に伴って廃止された。
  1871年10月3日(明治4年8月19日)、当時の北海道開拓
 使は、北海道の開拓の目途として、翌年・1872年から10
 年間1,000万円をもって総額とするという大規模予算計画、
 いわゆる開拓使十年計画を決定していた。
  そして、開拓使十年計画の満期を迎えた1882年、当初
 の計画通り、北海道開拓使を廃止した。
  そして、その当時置かれていた北海道開拓使の札幌の
 本庁、および、函館・根室の2支庁のそれぞれの管轄区域
 に応じて、道外と同様に、県という行政区域を新たに3つ
 設定することになった。
  開拓事業については、これらの3県と農商務省管轄の北
 海道事業管理局とで、地方レベル・国レベルを各々分担
 する形で引き継がれることになった。
  北海道開拓使の廃止直前に、「開拓使官有物払下げ事
 件」が起きて混乱が生じたものの、
  1882年2月8日のこの日に、予定通り北海道開拓使に代
 わって札幌県・函館県・根室県の3県が成立した。
  これによって、北海道全体としては、初めて近代行政
 機関・近代行政区画を持つことになった。
1882年2月12日、東洋議政會(とうようぎせいかい)が結成
 された。
  矢野文雄・尾崎行雄・犬養毅ら、東洋議政会を興す。
  東洋議政会は、慶應義塾(現・慶應義塾大学)の出身
 者によって結成された明治時代前期の政治結社で、「三
 田派(みたは)」とも呼ばれた。
  慶應義塾内では、早くから演説を導入していて、三田
 演説会などの政談演説会が、頻繁に開催されていた。
  主に、急進的な「政談演説討論会」(馬場辰猪・西村
 玄道・犬養毅・波多野承五郎・大石正巳・奥宮健之・竹
 内正志ら)と、
  穏健的傾向の「政談演説会」(小幡篤次郎・鎌田栄吉・
 藤田茂吉ら)の2派に分かれていた。
  そして、馬場辰猪は、田口卯吉・末広鉄腸と共に、よ
 り急進的な「国友会」を結成していた。
  そして、この日・1882年2月12日に、明治十四年の政変
 で下野した「嚶鳴社」・「鷗渡会」の同人と協議して、
 立憲改進党の結成に参加した。
  2院制・立憲君主制を標榜して、英国流の漸進的な改革
 を目指した。
1882年2月15日、劇場取締規則
  警視総監と東京府知事が、劇場を10座に制限するな
 どの劇場取締規則を定めた。
  1877年に、「寄席取締規則」が出されているが、どち
 らも寄席・劇場に対する客席数や営業時間などを規制し
 た。
  そして、劇場取締規則においては、下劣なものを避け
 る様にとの指導がなされた(高尚なものに)。
  鑑札制度・興行届出制・臨官席設置・定員・興行時間
 が定められた。
1882年2月25日、植物学会の創立(2月15日説あり))
  これまで、動物研究者と一緒だった東京大学生物学会
 (1878年、創立)に、東京植物学会が創立された(植物
 専攻研究の始め)
  機関誌「植物学雑誌」も、この年に創刊された。
  尚、東京大学生物学会は、植物学者が、この時に脱会
 した後、東京生物学会と名を改めた。そして、1885年に、
 東京動物学会と名を改めた。
1882年2月25日、九段遊就館ができた。
  靖国神社の祭神の霊を慰め、その徳を頌する(しょう
 する、ほめる)ため絵馬堂を兼ねて祭神の遺物を陳列す
 る所とし、1878年(明治11年)に、陸軍卿・山県有朋そ
 の他の主唱によって、西南戦争の際に献納された華族の
 恤兵金(じゅっぺい、兵士の慰問)の一部で建築に着手
 した。
  1882年、幕末維新の新政府軍(官軍)戦没者ゆかりの
 品を展示する目的で開館した。
1882年2月25日、参議・伊藤博文らが、憲法、及び、制度研
 究のため西欧諸国へ差遣を命じられた。
  さかのぼること1881年6月~7月にかけて、法律と政治
 を司る法政官僚の井上毅が、
  ドイツ人の法律顧問・ロエスレルに意見を聞いて、憲
 法に関する綱領をまとめ、岩倉具視に示していた。
 (1)欽定(きんてい、君主による制定)憲法とすること。
 (2)プロイセン=ドイツ流の漸進主義とする。
  急激な改革はしないで、徐々に進む形にする。
 (3)陸海軍の統率、宣戦と講和、外国との条約などは天皇
 陛下の大権とする。
 (4)元老院と、国民の選挙で選ばれる民撰議院を設ける=
 二院制とする。
  この頃、大隈重信は、イギリス流の二大政党政治を主
 張していたが、
  伊藤博文や、岩倉具視は、君主制イギリス流は急進的
 過ぎ、また、革命思想が強いと考えていた。
1882年2月、福島事件(自由民権運動の民権激化事件)
  福島県令が、三方道路建設を計画し、無償で工事に従
 事することなどを決定して、農民の反対運動が起こった。
  この年の2月に、県令に着任した三島通庸は、着任すぐ
 に、会津地方から新潟県、山形県、栃木県へ通じる県道
 (会津三方道路)の工事をするために、
  会津地方六郡下の15歳から60歳までの男女を、2年にわ
 たり、月一日人夫として働くか、一日につき男15銭、女
 10銭の人夫賃を出すかと布告した。
  さらに、工事に従事しない者の財産は、競売に出すな
 どとした。
  この布告に、県会議長・河野広中らと福島県会は反発
 した。
  各地で、三島非難の演説会が開かれた。
  春から8月までに、36回余りの演説会が開かれ、うち
 19回が解散させられた。
  警察の弾圧が激化した。
  その様な中、福島県会が開会し、県側から、前年度2.5
 倍の地方税増税が提案された。
  これにも県会は抵抗し、否決に追い込んだ。
  しかし、三島県令は、内務卿・山田顕義から「原案執
 行」の特別許可を得て、県会の議決を事実上無効にした。
  さらに、三島は、自由党に対抗するため旧会津士族か
 らなる帝政党とつくった。
  そして、民権家を襲わせ、流血事件が続発した。
1882年2月、桑原紡績所が開業した。
  1870 年代末から1880年代にかけて、明治政府による紡
 績機械の輸入と、民間への払い下げを通して、
  綿糸紡績業が始動し始めた。
  当時導入された紡績機の紡錘数は2000であり、この紡
 錘機1基をもって一工場とする小規模な操業であった。
  (注)紡錘(ぼうすい):糸をつむぐとき、その糸を
    巻きつける心棒。
  桑原紡績所は、大阪府に所在し、政府の保護の立て替
 え払いを受け、2000の錘で操業した。
1882年3月1日、 「日本銀行創立ノ儀」
  松方大蔵卿「日本銀行創立ノ議」を建議する。
  松方正義大蔵卿、中央銀行設立・外国為替取引などを
 太政官に提出。
  明治維新以降、わが国は、富国強兵策によって、列強
 に伍することを目ざし、積極的な殖産興業政策を展開し
 ていた。
  しかし、財政的基盤のまだ固まっていない政府は、そ
 の資金の調達を不換紙幣の発行に依存せざるを得なかっ
 た。
  そうした中、明治10年、不平士族が立ち上がり、政府
 は、これに対処する事態となった。
  特に、1877年2月、西南戦争が勃発し、大量の不換政府
 紙幣、不換国立銀行紙幣が発行された。
  このことから、激しいインフレーションが発生してし
 まった。
  そこで、1881年、大蔵卿(現在の財務大臣)に就任し
 た松方正義は、不換紙幣の整理をはかるため、正貨兌換
 の銀行券を発行する中央銀行を創立した。
  それによって、通貨価値の安定を図るとともに、中央
 銀行を中核とした銀行制度を整備し、
  近代的信用制度を確立することが不可欠であると提議
 した。
  こうして、明治15年(1882年) 6月、日本銀行条例が
 制定され、
  同年・1882年10月10日、日本銀行が業務を開始するに
 至る。
1882年3月1日、 「時事新報(日刊新聞)」 が公刊した。
  日刊新聞の創刊ラッシュの時代だった。
  福沢諭吉が、「時事新報」を創刊し、官民調和を唱え
 た(主宰・福沢諭吉)
  慶應義塾大学、及び、その出身者が全面協力して運営
 され、
  創刊に当たって・・、
  「我日本国の独立を重んじて、畢生(ひっせい、一生
 を終わるまでの期間、終生)の目的、唯国権の一点に在
 る」・・と宣言した。
  創刊時より、国権論的主張を展開し、社説には、朝鮮
 に関する論説や、中国に関わる様々な形の東洋政略を論
 じたものが極めて多かった。
  この国権論は、慶応同窓に引き継がれ、条約改正問題
 や、朝鮮問題に際し影響を与えた。
  創刊よりの「国権皇張」「不偏不党」を掲げて発行部
 数は伸びた。
  ロイター通信社とも独占契約を、1896年に締結した。
  福沢諭吉の経営する「時事新報」の編集部は、三田の
 慶応義塾内にあった。
1882年3月1日「速達列車」
  「速達列車(そくたつれっしゃ)」とは、主要な駅だ
 けに停車し、目的地に早く到着する列車のことをいい、
 優等列車とも言った。
  新橋~横浜間の鉄道が、ダイヤ改正で1日で14往復にな
 った。
  このうち、4往復は、途中の品川と神奈川だけに停車す
 る速達列車で、所要時間は45分に短縮された。
  急行列車の始まり。  
  鉄道の創成期は、すべての列車が各駅停車だった。
  路線が長くなるに従い、長距離の利用乗客に対し、速
 達サービスの停車駅を限定する列車が出現した。
  そして、1882年3月、新橋~横浜間で、品川と神奈川に
 のみ停車する列車を「急行」と称した。
1882年3月1日、軽便鉄道の工部省鉱山局・釜石鉄道が、旅
 客運輸を開始した。
  工部省釜石鉄道の経緯:
  1880年2月17日、工部省釜石鉄道として、釜石桟橋~大
 橋間18kmの本線と、小佐野~小川山(わらびの)間4.9km
 の支線、さらに、工場への支線を含めた総延長26.3kmの
 鉱山専用鉄道として試運転を開始した。
  1880年9月7日に、製鉄所と鉄道の仮開業式が執り行わ
 れた。
  これは、新橋駅~横浜駅間鉄道と、京都駅~神戸駅間
 鉄道に続く、日本で3番目に開業した鉄道だった。
  軌間は838mm(2フィート9インチ)の特殊なものであっ
 たが、レールは16kg平底と丈夫なものを使用した。
  機関車は、英国シャープ・スチュアート社から輸入し
 たサドルタンク式の3両を使用した。
  1882年3月1日に、製鉄所の燃料用の炭焼竃の大半が、
 失火により焼失して、製鉄所が休止した。
  そして、それに伴い、遊休施設となった釜石鉄道は、
 一般へ開放され、旅客運輸を開始した。
  1882年12月、官営製鉄所の操業停止と、鉱山閉山によ
 り、鉄道が全廃された。
  燃料となる木炭が不足したことと、代替燃料となるコ
 ークス使用の目処が立たなかったことが原因だという。
  機関車2両と軌条は、大阪の阪堺鉄道(現、南海電気鉄
 道)へ売却された。
  近代化へ苦悩する明治政府だった。一朝一夕で、今が
 あるのではない。
1882年3月10日、日本最初の鉄道連絡船。
  琵琶湖の湖上連絡船・大津~長浜間航路が開業した。
  1882年(明治15年)、琵琶湖上で、長距離航路を運営
 する多数の会社が合同し、設立された。
  その後、いくつかの会社を吸収し、琵琶湖最大の船舶
 会社となった。
  同年・1882年に、金ヶ崎駅(現在の敦賀港駅)から長
 浜駅までの鉄道が開通したのを受けて、
  日本初の鉄道連絡船が、大津駅(現在の浜大津駅)ま
 での区間に就航した。
  この航路は、翌年・1883年(明治16年)に、長浜駅か
 らの鉄道が東海道本線に接続されてから、
  1889年(明治22年)に、湖東線(関ヶ原駅~米原駅~
 馬場駅(現在の膳所駅))が開業するまでの間、東海道
 の交通を担っていた。
1882年3月13日、立憲帝政党(りっけんていせいとう)が結
 成された。
  この日の1882年3月13日に、自由党、立憲改進党などに
 対抗し、
  東京日日新聞社長の福地源一郎、明治日報の丸山作楽、
 東洋新報の水野寅次郎によって結成された。
  4月4日には、大阪で、機関紙である大東日報を創刊し
 た(社長:羽田恭輔・主筆:原敬)
  立憲帝政党は、天皇主権・欽定憲法の施行・制限選挙・
 シビリアンコントロール・司法の独立・言論の自由など
 を党議綱領に掲げた。
  自由党や立憲改進党に対抗する政府与党を目指し、
  国学者、旧士族層や有力商人、高級官吏、神官・僧侶
 らなどの体制擁護を意図した。
1882年3月14日、伊藤博文が、西園寺公望らと欧州へ憲政視
 察(憲法調査・取調べ)で出航した(帰国は1883年8月3
 日)
  伊藤博文が、「憲法取調の大命」を受け、横浜を出帆。
  5月にベルリンに到着し、
  ドイツの憲法学者・ダナイスト、モッセラについて講
 義を受けた。
  しかし、伊藤は、「文字言語の不通」のうえ、きわめ
 て系統立ったモッセの憲法講義に、すっかり厭(あ)き、
  そして、疲れ、自信を失い、その困難をしきりと日本
 政府の参議・山形有朋や井上馨らに訴えていた。
  しかし、8月8日、オーストリアに入り、ロレンツ・フ
 ォン・スタイン邸を訪れてから、にわかに元気になった。
  岩倉具視にあてた手紙に「スタイン博士の講話は、私
 の感銘を興起せしめました」とある。
  「私は、グナイスト、スタインの両師について、国家
 組織の大体を了解することができ、
  皇室の基礎を固定し、大権を失墜させないための大眼
 目を十分に相立てました。・・
  いま、わが国の現情は、自由過激論者が英・米・仏流
 の思想を誤信し、
  ほとんど国家を傾けんばかりの勢いでございますが、
 これ挽回する論理と手段とを、私がつかみましたことは、
 報国の赤心を貫徹する時機において、その効果をあらわ
 す大切な要具になると存じます。
  私は心ひそかに死場所を得た心地です」
  (1882・8・11、岩倉宛伊藤博文書簡)(原文のまま)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
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または
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by suba28 | 2016-06-28 04:02 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)371E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年1月~1882年2月)

題:(増補版)371E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年1月~1882年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1882年1月1日、全国人口が、3670万人118人
  東京:98万2143人、
  横浜:7万人と・・15年間で倍になった。
1882年1月1日、刑法・治罪法(ちざいほう)が施行された。
  1880年7月17日に、太政官布告37号で制定され、公布さ
 れていた日本で最初の近代的刑事訴訟法典。
  御雇外国人のG・ボアソナード (フランス人) が、フラ
 ンスの治罪法を基礎に、
  諸国の法を参照し、原案を起草した。
  それを、元老院において修正のうえ公布していた。
  1890年に、刑事訴訟法の施行によって廃止された。
  この法律の制定以前の明治初頭においては・・
  日本の刑事法制は、律令法制の復活に始まり、
  1870年の新律綱領、そして、
  1873年の改定律例とあいついで制定された。
  しかし、ヨーロッパ近代法(特に、フランス法)を範
 とした刑事手続の近代化の動きも、個々的に進められて
 いた。
  そして、治罪法制定までの間に、改定律例の自白によ
 る断罪を定めた規定の廃止や、
  証拠裁判主義や、
  1876年の自由心証主義の採用や、検事の公訴による国
 家訴追主義、
  そして、予審、保釈、裁判公開などの制が確立された。
  1878年の弾劾主義の確立、
  1879年の拷問の廃止などの法改革も進められていた。
1882年1月4日、陸軍および海軍に「軍人勅諭(ぐんうじん
 ちょくゆ)」が発布された。
  元となったのは武士道の考え方・・で、
  それまでの武士階級の規範だったものを・・国民一般
 の軍人の規範とした。
  忠節、礼儀、武勇、信義、質素が5つの柱となっている。
  西周(にしあまね、幕臣、官僚、啓蒙思想家)が、起
 草し、
  福地源一郎・井上毅・山縣有朋‎によって加筆修正され
 た。
  天皇陛下より下賜された当時、西南戦争・竹橋事件・
 自由民権運動などの社会情勢によって、世の中の状況に
 不安があり、また、設立間もない軍部に動揺が広がって
 いたため、
  これに対して精神的支柱を確立する意図で起草された
 ものされている。
  1878年(明治11年)10月に、陸軍卿・山縣有朋‎が、全
 陸軍将兵に印刷し、配布した軍人訓誡が元になっている。
  特に、「忠節」の項において、「政論に惑わず政治に
 拘わらず」と軍人の政治への不関与を命じている。
  また、戦いに於いては、「普段は命を無駄にせず、け
 れども時には義のため、国のために、命を捨てよ」と命
 じている。
1882年1月8日、京都に体育演武場が開場した。
1882年1月15日、フランス人画家・ビゴーが来日した。
  ジョルジュ・フェルディナン・ビゴーは、明治時代の
 日本で17年間にわたり活動した。
  当時の世相を伝える多くくの絵を残した。
  ビゴーは、1876年(16歳)の時に、フランスの国立高
 等美術学校であるエコール・デ・ボザールを退学し、
  その後、日本美術愛好家として知られたフェリックス・
 ビュオや、アンリ・ゲラールから日本美術についての知
 識を得た。
  また、挿絵の仕事で出会ったエミール・ゾラや、エド
 モン・ド・ゴンクールなどからも、ジャポニスムの魅力
 を知るようになった。
  そして、1878年に、フェリックス・レガメが、旅行記
 『日本散策』を出版したりして、日本ブームだったこの
 年、
  パリ万国博覧会で、浮世絵と出会い、興味をより強く
 抱いた。
  1880年には、美術研究家ルイ・ゴンスによる大著『日
 本美術』の挿絵の一部を担当した。
  1881年より、人気の作品の挿絵を担当するなど活躍し、
 フランスで高い知名度を得ていた・・が、
  東洋の高い文化の国・日本への思いは強く、日本への
 渡航を決断した。
  そして、21歳の1882年のこの年、マルセイユ港を発ち、
 来日した。
  日本でのビゴーは、陸軍卿・大山巌の尽力で、御雇外
 国人・絵画講師としての高給の安定した生活を得た。
  そして、日本の隅々まで見て回り、スケッチした。
  また、幸い、その画集が好評を得て、御雇外国人の契
 約が切れた後も、経済的な支えとなり、日本に住み続け
 た。
  1885年~1887年頃に、中江兆民の仏学塾でフランス語
 を教え、塾で自由民権家とも接し、運動を知った。
  また、1885年に、日本の新聞「団団珍聞」への漫画寄
 稿や、
  1886年、「郵便報知新聞」の掲載された小説の挿絵の
 仕事を得たり、
  また、1886年に、フランス新聞社の「ル・モンド・イ
 リュストレ」や、イギリス新聞社の「ザ・グラフィック」
 などから、日本を題材とした報道画家の仕事を得た。
  しかし、ビゴーは、当時の日本の悲願である条約改正
 については理解を示さず、
  当時、居留する外国人と同じ意見である「条約改正は
 時期尚早である」の立場を取り、
  また、「日本の近代化にはまだ時間がかかる」との立
 場にいた。
  そして、日本にとって手痛い風刺画を、自分で発行し
 た風刺雑誌「トバエ」に描き、発表した。
  そのため、日本での身の置き所の心配が生じ、警察も
 注意を配すべき外人とした。
  例えば、必死に条約改正をしようと鹿鳴館で苦労する
 日本女性の休息室をのぞき見し・・、
  疲れて休んでいる女性の姿を・・皮肉たっぷりに描い
 たりした。
  また、身だしなみを整え、鹿鳴館で対応する日本の紳
 士・淑女を、
  鏡の前に立ったその姿と、鏡に映ったその姿をビゴー
 は描き、
  鏡の中に居るその日本の紳士・淑女は、みすぼらしい
 姿であると描いている。
  いたずらに、日本を見下し、バカにした風刺画といっ
 たところで、
  何らそこには、高貴な叡智溢れる風刺の姿はない。
  ただ、低劣な蔑(さげす)みの皮肉な風刺画がある。
  しかし、日本に居留する外国人たちには人気があった。
  酒を注がせ、脇に女性を侍らせ、料理を食べながら、
 西洋に追い付け追い越せと勉強している外交官を描いた
 りしている。
  まったく、正しく、正当に日本を見ていない「風刺屋・
 皮肉屋」がそこにいた。
  ビゴーの絵で、ロシアの監視下で、中国(清)と日本
 が、一生懸命、朝鮮という魚を釣り上げようとしている
 絵は有名であるが・・、(まだ、ちょんまげ姿の日本に
 している)
  教科書にも載っているこの絵なのだが・・、
  ビゴーは、自分の国・フランスやイギリスが、麻薬と
 いう卑劣な商品を用いて、それを売りつけるという行動・
 戦争によって、清国をとことん虐(いじ)め、奪った過
 去の残酷な歴史については、何も語っていない。
1882年1月21日、大日本山林会が設立された。
  現在も存続し、活動している本会のホームページには、
  「大日本山林会は・・、林業の改良・進歩を目的とし、
  明治15年1月21日創立されました。
  爾来130年有余を数え、わが国で最も長い歴史をもつ
 伝統ある林業団体です。
 この間、大正4年4月5日には、社団法人の認可(農商務
 省)を得、
  歴代総裁には皇族を奉戴いたしております。
 新公益法人制度の施行に伴い、平成22年10月1日付けで、
 公益社団法人に移行しました」・・とある。
1882年1月23日、大阪府、旧堺県の和泉・河内・大和の合併
 に当たり、
  同地方の鍼灸、水蛭、吸玉による治療の新規開業を禁
 止した。
1882年1月24日、神官の教導職兼補を廃止。
  自今神官ハ教導職ノ兼補ヲ廃シ葬儀ニ関係セザルモノ
 トス。
  明治十五年一月二十四日内務省達乙第七号
1882年1月25日、条約改正協議の「第1回各国連合予議会」
 が開催された。
  議長は、井上馨外務卿。
  日本や、中国には、イギリスやアメリカなど、外国に
 警察権を奪われた地があったり、また、行政権まで奪わ
 れた地があったり(中国の租界など)、
  自分たちのお好みのシステムに組み込んで、日本など
 の国家主権を好きに牛耳っていた。
  関税や裁判権なども牛耳られていた。
  また、欧州やアメリカなどの内のある国が、条約で得
 た「旨味のある権利」は、
  自動的に、他のアメリカやヨーロッパの他の国へも適
 用する事という・・まったくバカげた片務的な最恵国待
 遇が設けられていた。
  アメリカ・ヨーロッパが連合して弱小のアジアを牛耳
 る「まったく、不平等な条約」となっていた。
  強者のアメリカ・ヨーロッパ諸国の・・
  強者による、弱者への収奪以外の何物でもなかった。
  日本の地であっても、日本の法律が聞き入れらない悲
 しさ、
  そして、日本の裁判も・・無視された(治外法権)
  そして、日本に入って来る外国製品に関税を掛ける自
 由も奪われていた。
  イギリスが、卑劣な麻薬を中国へどんどん売った様な
 悪行為に対しても・・阻止する手はもがれていた。
  また、イギリスは「自由貿易の旗手」だなんて美しい
 事を言っているのに、
  日本の関税は低くさせて、イギリス品は日本に輸出し
 やすくしたのに、
  日本品のイギリスへの輸出品には、その5倍以上の関税
 を掛けた。
  どこが「自由貿易の旗手なのだ」と言いたい。
  アメリカなどは、そのイギリスの2倍という卑劣さだっ
 た。
  (アメリカは、日本の17倍以上の関税を掛けた)。
  日本の研究者は、その5倍や17倍の不平等さの半分でも
 改善されれば、日本の農民が税金で苦しむ事もなかった
 と言う(日本の間接税は全廃できた・・と)。
  財政難の日本は、この様な差別から国庫を潤す事も出
 来なかった。
  国内産業の発展にも「大きなブレーキ」がかかった。
  外国商人は、日本の法律の外の地位で、貿易で多大な
 利益を得て、さらに、日本の貿易を左右していた。
  その様な、程度の悪い、卑劣な条約内容だった。
  そして、この年・1882年、条約改正予議会が開催され
 た。
  (条約改正会議の開催は、1886年になった、そして、
 鹿鳴館は、1883年に落成する)。
  予備会議は、この年・1882年1月25日に、東京の外務省
 で第1回が開かれ、
  フランス・ドイツ・イギリスなど8か国が参加した(
 アメリカはこの時は参加しなかった)。
  この後になって、アメリカ合衆国とベルギーなども加
 わって、1882年7月27日まで計21回、開催された。
1882年1月、東京日日新聞と東京横浜毎日新聞の間で、主権
 所在論争が起こり、加熱した。
1882年1月、玉島紡績所が開業した(1881年説あり)
  岡山県繊維産業の勃興の端緒。
  1888年に、倉敷紡績が設立されたりしている。
  倉敷市児島地域の繊維産業は、明治時代に入り、由加
 山の参拝客が減少し、土産物として人気のあった真田紐、
 小倉帯地が売れなくなったことから、県外に販路を拡大
 するとともに、袴地や前掛地に転換していった。
1882年1月、井上馨が、条約改正に着手する。
  1882年~1887年頃に、井上馨は、条約改正に尽力した
 が、
  外国人判事任用問題で非難をあびて失脚した。
  日本に国力がまだ無く、
  外国は、日本の改正行動に対し、高をくくっていた(
 大したことはないと見くびっていた)。
  鹿鳴館など、欧化政策を必死にしていたが、まだ、し
 っくり身についていない日本の西欧化は・・蔑まされる
 面もあった。
  (ビゴーの風刺画は、風刺・ウィット(機知)と言う
 より蔑みである)
  そこには、日本の猿まねという見方があった。
  屈辱的な不平等条約を押し付けた欧米外国側に、その
 責任があるのに、その点へは、まったく思いは及んでい
 なかった。
  軍事力もまだない、そしてまだ、文明の未発達の日本
 だった。
  健気に、必死に歩んでいる日本、その日本の井上馨の
 涙ぐましい努力も、その様に受け取られていた。
  また、苦労をしている庶民サイドからも、鹿鳴館的な
 行為は、良くは感じられていなかった。
  当の在日外国人からも強く批判される鹿鳴館だった。
  また、舞踏曲の日本の演奏もまだまだ未熟であった。
  愛おしい明治の方々・明治人の一時期の出来事だった。
  結果は、功を奏さず。
1882年1月31日、日本初の生命保険金の受取人が出たことが
 報じられた。
  この生命保険会社ができたのは前年・1881年7月で、そ
 れから半年を過ぎ、加入者も1000名に達した頃の、
  1月20日に、心臓病で急死した警部長で、支払われた保
 険金は1000円。
  当人が払った保険料は30円だった。
  因みに、当時の1000円は、小学校教員の初任給の約200
 倍に相当した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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by suba28 | 2016-06-26 05:56 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)370E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年1月~1882年1月)

題:(増補版)370E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年1月~1882年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年、住:
・1882年11月1日、米国のブラッシ会社より、初めて発電機
 が移入され、銀座二丁目に2000燭光の弧光燈の電燈が灯
 された。
  東京・銀座に灯された日本初の電灯(アーク灯)には、
 連日、大勢の人が見物に訪れた。
  翌年の1883年には、京都の祇園に、この電気の街灯が
 登場し、
  そしてまた、その翌年の1884年には、大阪の道頓堀に
 設置された(その場に据え付けたバッテリーから電力を
 供給する形だった)
  発電所からの電力供給が始まったのは、1886年で、
  室内電燈は、1887年1月に、鹿鳴館の室内に、日本で初
 めて、室内電燈が灯った。
  次いで、皇居に、1889年1月6日に、電燈が灯され、
  営業用に電燈が使われるようになったのは、1890年11
 月の浅草・凌雲閣だった(12階の塔、お雇い外国人のイ
 ギリス人の設計、関東大震災で倒壊)
  東京電燈(日本で最初に誕生した電力会社)は1886年
 に設立され、火力発電所を、日本橋・茅場町や、麹町な
 ど、5か所に建設した。
  その後、次々と電力会社が誕生し、
  1888年:神戸電燈、
  1889年:大阪電燈、京都電燈、名古屋電燈、
  1890年:品川電燈、横浜共同電燈、深川電燈、熊本電
      燈、
  1891年:帝国電燈・・などが火力発電所を建設した。
  1894年に、日清戦争が始まると、電力が不足し、東京
 電燈は集中発電所として、浅草発電所を完成させた。
  浅草発電所の発電機は、石川島造船所が制作したもの
 で、交流200kw。
  ドイツのアルゲマイネ社の発電機を併用した。
  この発電機が50サイクルで、
  同時期に大阪電燈が採用したGE社の発電機が60サイク
 ルで、この違いが、現在まで続く日本の周波数の違いの
 起源となった。
1882年、その他:
・1882年6月25日に、東京で、鉄道馬車(てつどうばしゃ)
 が開通した。
  都市交通機関の軌道上に馬車を走らせるという輸送手
 段の東京馬車会社が、
  新橋~日本橋間の開通・開業させたのが最初。
  1882年10月1日までに、日本橋~上野~浅草~本石町~
 日本橋の循環線を完成させた。
  1372ミリメートル幅の軌道上を、定員24~28名の客車
 1両を、2頭の馬が牽引(けんいん)した。
  乗合馬車に比べてたいへん快適とされ、この後、主要
 都市の市街交通機関となった。
  1891年に大阪に、そして、1898年には函館(はこだて)
 でも開通した。
  しかし、京都の市街電車をまねて、東京でも1903年(
 明治36年)、東京馬車鉄道が電車に変わった。
  そして、地方都市でも、次第に、鉄道馬車は電車や、
 ガソリンカーに代わり、市街電車の普及により廃止され
 て行った。
  1914年の第一次世界大戦前までには、ほぼ姿を消した。
  尚、これにさかのぼること1869年、北海道茅沼炭坑で、
 軌道上を牛が炭車を引く方式が採用されたが普及しなか
 った。
  因みに、鉄道馬車の普及の前に、普及していた乗合馬
 車は、1877年9月には、雷門~新橋間のものだけで、車両
 数が87もあり、また、1日の平均売上げが、100円にも達
 するという盛況を見せた。
  しかし、1882年6月に、鉄道馬車が開設されると、次第
 に、中央部から駆逐され、
  1910年には、東京市内の乗合馬車はまったく姿を消し
 た。
・民の中に、馬にひかせる二輪車が使われ出した。
  日本における馬車の歴史は・・、
  運搬の手段としての馬は、古くから用いられていて、
  古代律令(りつりょう)制においては、駅制が整備され、
 駅馬も制度化された。
  しかし、これは、車を引かせるものではなかった。
  馬に人が乗ったり、馬の背に荷物を乗せて運んだので、
 こうした車を使用しない馬の使用は、ずっと後まで続い
 た。
  畜力による車としては、牛車(ぎっしゃ)だった。
  しかし、牛車に乗れる人は貴人に限られ、一般庶民は
 徒歩がほとんどで、
  駕籠(かご)や、馬の背を利用できる人も限られた人た
 ちだった。
  荷物を運ぶのも、人や馬の背によって行われ、駅から
 駅を付け通しする中馬(ちゅうま)制度も、車を用いるも
 のではなかった。
  日本における馬車の出現は遅く、幕末になってからで、
 横浜居留地の外人が私用に使ったり、
  外国の公使館が、幕府のある江戸とを往復するために
 用いたのが最初といわれている。
  こうした、馬車の使用を見た横浜の川奈幸左衛門ら数
 名が、1869年(明治2年)2月、乗合馬車の営業を出願し、
 出願者が共同で、成駒屋(なりこまや)という店名で、
  1870年9月、営業を開始した。
  2頭立てで乗客は6人、東京までの所要時間:4時間、運
 賃は75銭だった。
・共同運輸会社・大日本山林会・大日本水産会が設立。
 ☆共同運輸会社(きょうどううんゆかいしゃ)は、
  三菱会社の海運独占による高運賃に対抗し、1882年、
 三井資本を中心に、政府出資も得て、設立された海運会
 社だった。
  維新政府の海運振興策によって、1875年以来、船舶の
 払下げや助成金の交付などで、特別の保護・助成を受け
 て来た三菱会社との間に、
  運賃ダンピングによる死闘が展開された。
  両者が共倒れの危機となって、こうした状態を是正を
 し、海運業の一層の発展を図るため、政府が、仲介し、
  (政府は、三菱の海運界の独占を是正したいと、共同
 運輸会社の設立に対して、半額出資していた)
  1885年9月、三菱と共同運輸は合併し、10月、半官半民
 の日本郵船として開業となった。
 ☆大日本山林会(だいにほんさんりんかい)は、
  この会が設立されたのを契機として、全国各地に組織
 された民間の林業を指導した。
  大日本山林会は、1879年に、山林に関する学術知識を
 交換論究するために設立された山林学共会を先駆として、
  そして、この年・1882年に、山林共進会の開催を機に
 設立され、
  国内外の森林・林業の発展を図ることを目的とする公
 益社団法人。
  初代会頭:伏見宮貞愛親王(1882年1月~1915年4月)
  事業:
  (1)森林・林業に関する指導・普及・普及
  (2)森林・林業に関する政府への提言
  (3)森林・林業に関する調査・研究
  (4)雑誌『山林』の発行
  (5)小林記念林業文献センターの運営
 ☆大日本水産会(だいにほんすいさんかい)は、
  水産業者の養成を目的として設立した民間の教育機関。
  水産業に関係する生産者、加工業者、流通業者、小売
 販売会社など、約400の会員で構成される業界団体(一般
 社団法人)。
  沿革:
  1882年2月、「大日本水産会」が創立され、
  小松宮彰仁親王を会頭に奉戴し、品川弥二郎を初代幹
 事長に選出した。
  事業:
  (1)水産業会の意見を国の施策に反映させる。
  (2)漁業における国際会議や地域管理機関などの活動
   をNGOの立場で支援する。
  (3)漁船から食卓までの品質衛正管理の向上を目指す。
・この年になされた郵便関係のこと:
  ・郵便葉書取扱手続を制定した。
  ・郵便集配人の被服制定が改正された。
  ・駅逓局に運輸課が置かれた。
  ・外国書留郵便物の事故には、万国郵便連合条約によ
   り弁償金支払。
  ・郵便物の留置は私書函貸与に限ること:受取人の願
   による取扱禁止。
  ・郵便条例公布。
   1873年太政官布告97号・1873年制定された郵便規則
   により郵便事業官営と全国均一料金制を採用。(後に、
   郵便条例(1882年)などに整理される)
  ・郵便条例公布:郵便為替を12章に、駅逓局貯金を13
   章におさむ。
  ・府県管内地方郵便を「約束郵便」と改称。
・慈恵病院が創業した。
  1882年8月 高木兼寛が、有志共立東京病院を開院。
  1887年4月 当時の皇后陛下(明治天皇陛下の皇后・昭
 憲皇太后)より、「慈恵」の名を賜り、東京慈恵医院と
 改称した。
  現:東京慈恵会医科大学附属病院
・この年のコレラ流行で、3万3784人が死亡する。
  幕末から明治にかけて「三日コロリ」「虎列刺(これ
 ら)」「虎狼痢(ころり)」「暴瀉病(ぼうしゃびょう)」
 とよばれ、非常に恐れられた。
  1877年には、西南戦争の戦線でコレラが発生し、帰還
 兵によって全国に感染が広がった。
  以後、1879年、1882年、1886年も多くの犠牲者が出た。
  この様な事態に、明治政府は、衛生、防疫体制の整備
 を急ぎ、
  1879年に「虎列刺病予防仮規則(太政官布告第23号)」、
  1880年には「伝染病予防規則(太政官布告第34号)」
 を公布した。
  伝染病予防法心得につき県達前書、明治14年11月11日
  目今、本邦流行伝染病中、最モ予防注意ヲ要スヘキハ
 虎列刺、腸窒扶私、赤痢、実布垤利亜、発疹窒扶私、痘
 瘡ノ六病トス。
  而テ各種ノ病症ニ従ヒ、予防ノ法モ亦其趣ヲ異ニスト
 雖モ、其要領ハ之ヲ約スルニ四項ニ出テス。
  其一ハ、病毒ノ萌動及ヒ蔓延ノ因ヲ除却スルニアリ(
 即チ清潔法)
  其二ハ、各人体中有スル所ノ感受性ナカラシムルニア
 リ(即チ摂生法)
  其三ハ、病毒伝播ノ媒介ヲ隔離スルニアリ(即チ隔離
 法)
  其四ハ、伝染病毒ヲ消滅スルニアリ(即チ消毒法)
  右ノ四項ニ依リ、予防ノ事ヲ施サヽルヘカラス。
  故ニ其大意ヲ示スコト左ノ如シ(後略)
・下岡蓮杖が、浅草に写真館を開業した。
  1862年、蓮杖は、40歳で、横浜の野毛、ついで、弁天
 通5丁目横町で写真館を開業した。
  これが、横浜における営業写真館の最初であるという。
  明治15年(1882年)、蓮杖は、浅草公園第五区に写真
 館を移した。
・田鎖綱紀(たくさりこうき)が、速記文字を創案、習う
 者多し。
  大学南校で鉱山学をまなぶかたわら、在学中、偶然に
 目にした欧米の速記記号に興味を抱いて研究を始め、
  グラハム式の英語速記法をもとに、日本語速記法を考
 案した。日本語速記術の創始者。
  欧米の速記術を研究して日本語速記法を考案、明治15
 年(1882年)に、「日本傍聴筆記法」を発表し、速記普
 及につとめた。
  弟子たちは、帝国議会発足と同時に貴族院、衆議院の
 速記者として活躍したが、
  自らは、仕官を好まず、もっぱら速記普及の全国行脚
 に努めた。
  終生、速記記号を日本文字にとの願いを失わなかった。
  明治27年、藍綬褒章。著作に「新式速記術」など。
・スダレを豪州に輸出した。
.
 (今日の言葉)
.
  題:アメリカが言う屁理屈・・
.
  その言葉は、人類の『負の遺産』。
  人類の『負の遺産』に、まさになろうとしている。
  後々の世まで、大きな弊害を、人類に与え続けて行く・・
  その、計り知れない大きなマイナス要因を人類社会へ
 与えている。
  その様な・・恐ろしさがある・・、
  アメリカのその屁理屈は・・キリスト教の教義「目に
 は目を」の「同罪報復」から来ている・・
  「同罪なら報復しても良い」という考え方・・その教
 義に・・
  考え方を、洗脳され、マインド・コントロールされ・・
  アメリカは・・これによって・・「広島・長崎に原爆
 を投下した」・・実行した・・
  「広島・長崎の原爆投下」は、『真珠湾の報復だった』
 ・・『報(むく)いだった・・』・・だから・・だから、
 アメリカは、正しいのだ・・投下は正しいのだと言う・・
  そして・・また言う・・「広島・長崎に原爆投下をし
 なかったら」・・もっと多くのアメリカの青年が死んで
 いたと、だから、広島と長崎に原爆投下したのだと、
  アメリカは悪行を糊塗して言った・・が・・しかし・・
  これは、研究者が間違いだと指摘している・・
  この様な論理や数字は成立しないと・・
  「広島・長崎の原爆投下による死者の数の方が多い」
 と言う・・しかし・・
  しかし、しかし・・このキリスト教的な・・同じ数な
 ら同罪報復だから良いとか・・多い死者数だから投下し
 て良いとか・・、低劣きわまりない・・キリスト教的発
 想・考え方の低劣さ・・??
  恐ろしい正当化の理論である・・、
  誰が何と糊塗しようと・・何しろ、このキリスト教の
 教義の考え方は、正しくない・・正義でも何でもない・・、
  ある話を・・する・・、
  もしもの・・仮定のはなし・・、
  Rや・・Cという国が・・、
  「Aという国は、自分を正当化して・・なんだかんだ
 と無実の人々を、何人も・・、
  歴史の今までに、何人も・・何人も・・殺して来た。
  だから、これから先も、この様に・・何人も、何人も、
 人々を・・無実の人々を殺して行くだろう・・だから・・
  だから、だから・・その様なことをしない様に・・こ
 のAなる国へ、原爆を投下しても正義なのだ・・」・と、
  これから、Aの国に殺される多くの人々を救う事にな
 るから・・と・・
  こういう論理が成立するのだ・・と・・
  こんな論理は・・屁理屈だ・・成立しない・・する訳
 ない・・
  アメリカの屁理屈は・・世界へ言えば言うほど・・
  世界に公言して憚(はばか)らないアメリカの行動・
 発言・・
  愚かなことを言い続ける・・そして、もしも・・もし
 も・・この事を正義と勘違いして・・実行してしまう・・
 恐ろしさ・・
  キリスト教の教義は、この様な論理・考え方を・・正
 義だというように勘違いさせて、
  これまでの歴史の様に、そして、今・現代も・・
  そして、つい先ごろの事もそうだが、悪行をやって来
 た・・、
  アメリカの「広島・長崎の原爆投下のキリスト教教義
 からの理論は・・大間違いなのだ」・・、
  「20万人~30万人殺されるだろうから、先に、20万人
 ~30万人殺した」・・、
 というキリスト教の教義の理論は大間違いなのだ・・、
  「一人、殺されようが・・」、「二人、殺されようが
 ・・」「スペインのキリスト教徒とキリスト教聖職者た
 ちが、南米などで一千万人以上の人々を殺した」様に、
 その人数は波及していく、
  その考え・教義が間違っているのだ・・
  キリスト教の教義の大罪なのだ・・、
  「一人であろうが」「二人であろうが」「一千万人で
 あろうが」・・何人・・殺そうが・・
  殺人は・・『絶対悪』なのだ。
  殺人を正当化する論理は、「まったく存在しないのだ」
 ・・「正当化理論は、まったく無いのだ」。
  こんな論理が分からないで・・キリスト教にマインド・
 コントロールされ、アメリカは、洗脳されて、さも正義
 の様に思って、今・現代も同じことを・論理を言ってい
 る、言い続けている。
  そして、「広島・長崎の原爆投下は正しかった」と、
  恐ろしい事は・・人類の歴史に・・原爆投下の正当化
 の『愚かな先例』が刻み込まれた・・若しくは、刻み込
 まれようとしていることだ。
  キリスト教の遅れた教義・考え方に毒されている。
..
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by suba28 | 2016-06-22 04:18 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)369E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年12月~1882年1月)

題:(増補版)369E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年12月~1882年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年、出来事:
・デフレーションですべて産業に陰り。
  松方財政によるデフレーション政策は、繭の価格や米
 の価格などの農産物価格の下落を招き、農村の窮乏を招
 いた。
  このデフレーション政策に耐えうる体力を持たない窮
 乏した農民は、農地を売却し、都市に流入し、資本家の
 下の労働者となったり、自作農から小作農へと転落した
 りした。
  一方で、農地の売却が相次いだことで、広範な土地が
 地主や高利貸しへと集積されていった。
  一部の農民は、経済的困窮から、蜂起活動に走り、各
 地では自由党による激化事件に参加して反政府的な暴動
 を引き起こすようになった(当時、農村は自由党の支持
 基盤だった)。
  また、官営工場の払い下げにより政商が財閥へと成長
 して行った。
  しっかりした資本家層が生まれ、一層、労働者層との
 分離が進んだ。
  資本主義経済の醜い面が、より一層強く日本に形づく
 られて行った。
1882年、流行・世相:
・東京にコレラが大流行し、全国に伝染して行った。
・世相:東京で開店や売り出しに景品を付ける富籤(とみ
 くじ)に似た行為が流行 → 各警察署が取締
  また、この取締り強化で、興農競馬会社は、富くじ付
 き前売り入場券が、発売できなくなり収入は激減した。
・1882年11月1日、東京・銀座にアーク燈がともった。
  東京電灯会社による、日本最初の電気街灯建設の地=
 東京都中央区銀座2丁目に電気街灯がともった。
  アメリカ製の可搬型小型発電機を使って、直流110ボル
 トの電気がが供給され点灯された。
  それまで、1874年に、銀座~京橋間に85本のガス灯に
 よる街灯が点灯された。
  また、この年・1874年は、日本橋馬喰町に石油ランプ
 の街灯が灯されている。
1882年、データ・物価:
・新聞・雑誌の発行禁止・停止処分件数 132件。
・鉄道運賃
  (3等・新橋起点)品川まで6銭、大森まで10銭、
 横浜まで30銭、京都まで3円75銭、大阪まで3円97銭、
 神戸まで4円13銭、
1882年、本:
・ 「民約訳解(みんやくやくかい)」(著:ジャン・ジャック・
 ルソー/訳:中江兆民)
  兆民主宰の仏学塾出版局発行の雑誌《政理叢談》に、
 原著の第2編第6章までが訳載された。
  全訳は、1877年および1883年に、兆民以外の人によっ
 てなされた。
  兆民は日本語訳でなく、漢文訳だった。
  兆民は、漢文の簡潔で豊富な表現力に傾倒し、その素
 養を深めることこそ文に長ずる道とみて、
  その文人・兆民の漢文修業の労苦の結晶であった。
  兆民の「解」が付してあり、兆民は「東洋のルソー」
 と言われた。
  この『民約訳解』は、民権派人士に歓迎され自由民権
 運動に大きな影響を与え、理論的支柱となった。
  しかし、後に、批判が加えられるようになり、時代遅
 れの理論とされるようになった。
  しかし、兆民の普遍的価値に接近していこうとする態
 度などから「東洋のルソー」と言われる機縁となった。
  兆民の「ルソーの本著の精読」から・・、
  『民権至理也自由平等是れ大義也』という確信は、
  『民権自由は欧米の専有に非ず』とする認識へ結び付
 いて行った。
  『古来、日本にもあった』と言いたかったのだろう・・
・ 「良政府談(りょうせいふだん)」(原題・ユートピア/著:
 トマス=モア/訳:井上勤)
  因みに、この頃までのユートピア文学で表現されてき
 た「理想郷」に共通する特徴は・・、
  (1)周囲の大陸と隔絶した孤島。
  (2)科学と土木によって、その自然は、無害かつ幾何
   学的に改造され、幾何学的に建設された城塞都市が
   中心となっている。
  (3)生活は、理性により厳格に律せられ、質素で規則
   的で、一糸乱れぬ画一的な社会。
    ふしだらで豪奢な要素は徹底的にそぎ落とされて
   いる。
    住民の一日のスケジュールは、労働・食事・睡眠
   の時刻などが厳密に決められている。
    長時間労働はせず、余った時間を科学や芸術のた
   めに使う。
  (4)人間は機能・職能で分類される。
    個々人の立場は、男女も含め、完全に平等だが、
   同時に個性はない。
    なお、一般市民の下に奴隷や囚人を想定し、困難
   で危険な仕事をさせている場合がある。
  (5)物理的にも社会的にも衛生的な場所である。
    黴菌などは駆除され、社会のあらゆるところに監
   視の目がいきわたり犯罪の起こる余地はない。
  (6)変更すべきところがもはやない理想社会が完成し
   たので、歴史は止まってしまっている(ユートピア
   は、ユークロニア(時間のない国)でもある)。
・ 「露国虚無党事情」(訳:西川通徹)
  虚無党(きょむとう):1、帝政ロシア時代、チェル
 ヌイシェフスキーを指導者とする革命的民主主義者の党
 派の称。
  2、ロシア皇帝暗殺などの非常手段に訴えた1870~80
 年代の革命家たちを、非難してよんだ語。
  (参考)虚無(きょむ):
  1、何物もなく、むなしいこと。空虚。
  2、この世に存在するすべてのものに価値や意味を認
 めないこと。
・ 「人権新説(じんけんしんせつ)」(著:加藤弘之)
  優勝劣敗の社会進化論を肯定し、
  天賦人権(てんぷじんけん、天がすべての人に対して
 平等に、分かち与えた権利)の存在を否定。
・イタリアの作家コローディ『ピノキオ』を発表。
1882年、衣:
・銀座に丸善・森村・大倉組などの洋服店ができた。
  洋服は、1871年(明治4年)頃より普及が始まった。
  丁稚奉公人として入店し、10年の年季奉公を済ませ、
 その後に、洋服職人として2年か3年のお礼奉公をし、
 独立開業して巣立った。
・二重マワシを着るものあり、横浜で金巾の輸入が、最も
 盛ん。
  「二重回し(にじゅうまわし)」は、この頃に生まれ
 たケープコート(ポンチョ風コート)、主に、紳士向け
 の外套だった。
  また、金巾(かなきん・かねきん)は、綿布の一種で、
 固くよった糸で目を細かく織った薄地の広幅綿布。
  白足袋(しろたび)、割烹着(かっぽうぎ)、和服の
 裏地に使われた。
・浅草で学生カバン製造され、漸次普及する。
  折鞄とも言われ、材料はズック製で、後に皮革等でも
 作られ、寸法は45cm~78cm位。
  革の工人、革具師、馬具師、文庫職人等々に依る発想
 で、1869年(明治2年)頃から1877年(明治10年)頃にかけ
 て通称、胴乱が鞄になり、
  「鞄」漢字の常用は1881年(明治14年)頃。
  (参考)胴乱(どうらん):皮または布製の四角の袋
    で、印章や薬などを入れて腰に下げるもの。
     もと、鉄砲の弾丸を入れるのに用いた。
1882年、食:
・神戸港で米の輸入が始まった。
  日本の米の輸入量と、輸出量は・・、
  1868年(明治1年)輸入:436千円、輸出:不明、
  1869年        4432千円    不明、
  1870年        14598千円    不明、
  1871年        1260千円    不明、
  1872年          0千円    不明、
  1873年         30千円    553千円、
  1874年         24千円    316千円、
  1875年         22千円     16千円、
  1876年          1千円    810千円、
  1877年(明治10年)    0千円    2269千円、
  1878年          0千円    4644千円、
  1879年         248千円    417千円、
  1880年         435千円    211千円、
  1881年         135千円    262千円、
  1882年         20千円    1652千円、
  明治維新にもとづく内乱と凶作の為、1869年と1870年
 に国内不安を鎮めるために輸入した。
  1870年の米の輸入額は、すべての輸入の43パーセント
 が米の輸入額という大量の輸入量となった。
  明治政府は、この時、米の輸出禁止令を出した。
  その結果、1872年以降は、米の輸入は、ほとんど皆無
 に近くなった。
  逆に、1873年7月15日の米輸出禁止令が解除になると、
 輸出される量が、急激に伸びた。
・搾乳場
  大阪に七つの搾乳場あり、牛乳過剰で、バター製造を
 始めた。
  1874年(明治7年)に、愛媛県の下井小太郎氏は、乳用
 牛を飼育し、搾乳し、粉乳製法を研究している。
  1863年(文久2年)に、横浜で牛乳の生産を開始した。
  これにより庶民でも牛乳を手に入れる事ができるよう
 になった。
  1876年(明治9年)、北海道根室に東梅牧場(柳田藤吉
 による国内初の大規模な近代牧場)が築かれて以降、北
 海道において欧米の酪農技術を取り込んだ近代的な酪農
 経営が行われるようになった。
・松本市で馬肉を食べ始めた。
  因みに、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエル
 は、日本の僧の食習慣を真似て肉食をしなかった。
  また、1863年(文久3年)の遣欧使節団としてヨーロッ
 パへ派遣された一行は、肉食はもちろん、パンも牛乳も
 喉を通らなくなっていった・・とある。
・神谷伝兵衛コウザン蜂印ブドウ酒製造に成功する。
 伝兵衛は、浅草の神谷バーの経営者。
  この年に、ブドウ酒を発売した。
  そして、伝兵衛は、1882年~1886年頃、速成ブランデ
 ーを製造・販売した。
  この頃、大流行していたコレラに効くと大いに宣伝さ
 れた。
  この後、また当時、流行していた「電気」という語を
 冠して「電気ブランデイ」を売り出した。
  電気ブランは、浅草の神谷バーの名物として愛飲され
 た。
  甘く強い酒で、飲み過ぎると足を取られ、店ではカッ
 プ3杯以上は売らなかった。
  電氣ブランデー(デンキブラン)の説明に・・「ブラ
 ンデーベースのカクテルで、ジンや薬草などが使われて
 いて、アルコール度数は40度。 当時、洋風の洒落たもの
 には『電気』の名をつけた」とある。
..
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by suba28 | 2016-06-20 04:19 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)368E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年10月~1881年12月)

題:(増補版)368E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年10月~1881年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1881年10月21日、陸軍・大山巌と、海軍・川村純義を参議
 兼任に任命した。
  (参考)大山巌(おおやまいわお)1842年~1916年、
  薩摩(鹿児島)藩士の生まれ、西郷隆盛の従弟。
  陸軍軍人、元帥・陸軍大将、公爵、元老、
  1862年(20歳)に、大坂に出て倒幕運動に参加。
  薩英戦争でイギリス艦の大砲の威力を認識し、戦後、
 江戸の江川塾で砲術を学ぶ。
  1868年(26歳)の戊辰戦争では、薩摩藩兵の砲隊長。
  維新後の1869年(27歳)に、欧州に派遣され、砲術を
 研究する。
  そして、普仏戦争で勝利したプロシア軍に従ってパリ
 入城をする。
  1871年(29歳)再び渡欧、
  パリ・スイスに住んでフランス語・砲術を学ぶ。
  1877年(35歳)の西南戦争では、旅団司令官として西
 郷軍とたたかう。
  1880年(38歳)、陸軍卿となって、以後は陸軍内部の
 薩摩閥の首領の地位を占め、長州の山県有朋とともに陸
 軍を2分した。
  陸相・参謀総長を務め、日本陸軍の創設にあたった。
  1884年(42歳)には、陸軍の俊秀をひきいて渡欧し、
 各国の兵制を視察し、帰国後、陸軍大臣として軍制改革
 を行った。
  1894年(52歳)日清戦争では第二軍司令官、
  1904年(62歳)日露戦争では満州軍総司令官をつとめ
 た。陸軍大将、元帥、
  因みに、イギリス軍楽隊長のJ・W・フェントンが国歌
 の必要を説いたとき、
  大山巌が、薩摩琵琶歌の「蓬莱山」から「君が代」を
 歌詞として選定したという。
  (参考)川村純義(かわむらすみよし)1836~1904、
  薩摩(鹿児島)藩士の家に生れる。
  軍人、参議兼海軍卿、海軍大将、伯爵、枢密顧問官、
 日本海軍の創設者の一人。
  戊辰(ぼしん)戦争で活躍。
  1877年(41歳)西南の役征討に軍艦を行動させて参軍
 し、活躍。
  1878年(42歳)参議兼海軍卿。勝海舟の後任の海軍卿
 となる。
  薩摩勢力を海軍部内にのばした。以後、海軍充実に尽
 力した。
  上記の大山巌の普仏戦争の観戦について・・、
  1870年8月15日、大山巌(28歳)らは、普仏戦争観戦を
 命ぜられ、8月28日、横浜から米飛脚船クレド・ハフリッ
 ク号で出発した。
  太平洋を横断し、サンフランシスコからニューヨーク
 経由で大西洋を渡り、
  10月23日に、ロンドン到着、
  閏10月23日に、ベルリン着、
  11月11日(西暦1871年1月1日)以後、普仏戦争を観戦
 した。
  フランス政府が、プロシヤに降伏後、大山はパリに入
 り、3月19日に、マルセーユから日本への帰途についた。
  5月5日(明治4年3月16日)横浜に帰着した。
  すでに、1870年12月の勅使・岩倉具視らが鹿児島を訪
 問したとき、
  藩主の依頼により鹿児島県大参事の職にあった西郷隆
 盛は、岩倉に提出した改革意見二十五箇条の中で、
  明治新政府の軍事力を世襲の士族軍隊を中核とするこ
 とを主張していた。
  翌年・1871年2月13日に、政府は、薩長土3藩の兵を徴
 して御親兵の編成を命令した。
  そして、4月25日に、大山巌は、その御親兵を統括する
 兵部省の役職兵部権大丞に任命された。
1881年10月28日、日本語速記術の発明
  田鎖綱紀(たくさりこうき)が、日本語の速記術を発
 明し、講習会を開いた。
  大学南校(政府所轄の洋学校)で鉱山学を学ぶかたわ
 ら、グラハム式の英語速記法をもとに日本語速記法を発
 明した。
1881年10月29日、自由党の結党式
  東京にて、板垣退助を総裁とする急進主義の自由党が
 結成された。
  我が国最初の組織政党として全国の農村に根を張るこ
 とになる。
1881年11月11日、最初の私鉄・日本鉄道会社が設立された。
  日本最初の民間資本による鉄道会社である日本鉄道が
 設立された。
  代表は岩倉具視。 上野~熊谷間開通(1883年)
  運行期間:1883年~1906年
  今のJR東日本の路線の多くを建設し、運営した。
  横浜の実業家の高島嘉右衛門(たかしまかえもん)が、
 1872年5月、東京から青森に至り、北海道開拓を支える鉄
 道の建設を政府に建言し、却下されるも、高島は、政府
 要人の岩倉具視を説き、
  鍋島直大、蜂須賀茂韶をして、明治天皇陛下および当
 時の政府に、
  『華族と士族が家財をもって会社を建て、東京と青森、
 あるいは、東京と越後新潟に鉄路を敷き蒸気機関車を走
 らせることを補す』ことを建言させた。
  こうした経緯を経た1881年8月1日、岩倉具視をはじめ
 とする華族などが参加して私立鉄道会社「日本鉄道」の
 創立が決定し、
  同年・1881年11月11日、設立特許条約書が下付され、
 初代社長に吉井友実を選出し、会社が設立された。
1881年11月、 日本初の官製唱歌集『小学唱歌集』が刊行さ
 れた。
  君が代・蝶々・蛍(蛍の光)などを収めた『小学唱歌
 集(しょうがくしょうかしゅう)』初編を刊行した。
  文部省音楽取調掛が編集した日本最初の音楽教科書。
  明治14年に初編、~明治17年(1881年~1884年)刊。
  初編に「蝶々」「蛍の光」、
  第二偏に「霞か雲か」、
  第三編に「仰げば尊し」「庭の千草」などを収録。
1881年12月7日、紅綬・緑綬・藍綬の褒章が定められた。
  太政官布告第63号の褒章条例(1881年)で定められ、
  初めは、紅綬褒章、緑綬褒章、藍綬褒章の3種で、
  紅綬褒章:自分の危険を顧みず人命救助をした人に、
  緑綬褒章:孝子(孝行な子)・節婦(節操堅固な婦人)・
 徳行卓絶なる人や、実業に精励して一般人の模範たるべ
 き人に、
  藍綬褒章:教育、衛生事業、学校・病院建設、道路・橋
 梁などの修築、田野の開墾、森林の栽培、水産の繁殖、
 実業の発達などに貢献した人に与えることとした。
  1918年に、公益のために私財を寄付した人に授与する
 紺綬褒章が加わり、
  1955年、政令により、条例の一部が改正され、業務に
 精励し衆民の模範である人を緑綬褒章から切り離して黄
 綬褒章の対象に、
  また、従来は藍綬褒章に含まれていた学術・芸術・発
 明などの顕著な功績に対し新たに紫綬褒章の各褒章がで
 き、6種となった。
  勲章が、国家に功績ある者に与えられるのに対して、
 社会や公共のため尽くした人々に与えられる栄典だった。
1881年、アメリカの野心を訴えるハワイ王国の国王
  原因に・・そこには・・巧妙に「ハワイ」を手に入れ
 ようとするアメリカ合衆国があった。
  ハワイには「ちゃんとした政府があって」「チャント
 統合する国があって」「チャント統合する王が居て」「
 ちゃんとその王国・政府に従う人々が幸せに生活してい
 る」というのに・・、
  そこが弱者の国だと思うと・・自分のものにしたくな
 ったアメリカ合衆国だった。
  当然、そこに、何らの正義は無かった・・まったく、
 無かった。
  この年に、ハワイ王国のカラカウア王一行が来日した。
  予定の行事をこなしながらの或る日、王は、付き纏(
 つくろ)うアメリカ随行員の目をくらまして赤坂離宮を
 訪ね、明治天皇陛下(当時29歳)との極秘会談に及んだ。
  カラカウア王のこの行動は、外国の『国家元首』の最
 初の明治天皇陛下への訪問となった。
  王は、その場で、次のように訴えた。
  意訳概要:
  「我が国は、主権を持つ独立国家である。
  その我が国に対し、アメリカ合衆国が太平洋上の拠点
 にしようという野心を抱いている。
  今や列強諸国は利己主義に走り、相手国の立場を尊重
 する気持ちが微塵も無い。
  アジア諸国は列強の支配を受けながら、互いに孤立を
 深めている。
  この状況を抜け出すには、各国が一致団結して欧米列
 強諸国に対峙することが急務です。
  日本の進歩には実に驚くべきものであり、
  アジア連合を起こすとすれば、その盟主には日本以外
 には無い。
  また、天皇陛下こそが相応しい。
  日本は、今、列強諸国に治外法権(不平等条約の改正)
 を認めさせようとして苦労していると伺います。
  日本なら連合実現が、より容易にできるはずです。
  どうか協力してアジア諸国連合を結び、その盟主とな
 っていただきたい。
  そうなれば私は、陛下を支え、大いに力をお貸しさせ
 て戴きたいです。
  私は、その証として、姪であり皇位継承資格を持つカ
 イウラニ(Kaiulani)王女を差し出します。
  日本とハワイの絆の為、是非もらって戴きたい。
  私は、貴国の良い返事を待ち続けます」
  (「明治天皇紀」のカラカウア王の言葉)。
  そして、この後・・、
  「明治天皇陛下とカラカウア・ハワイ国王の極秘会談」
 は、直ちに外務卿・井上馨に伝えられた。
  井上馨は、伊藤博文を後継し、明治政府の重要な地位
 に居る人だった。
  ハワイ王国の国王による国王間直訴は・・その後・・、
  1882年(明治15年)3月22日になって、ハワイ国王・カ
 ラカウアによる日本との連合計画提案に対し、明治政府
 の回答がカラカウア王へ届けられた。
  「政府に、そこまでの余力はない」との内容だった。
  また、カイウラニ王女と日本の皇族の結婚に関しても
 最終的にはウヤムヤとなって行き・・幻となった。
  井上馨は・・、
  「カイウラニ王女の話はうまく運ぶだろう」という見
 解を示し、
  伏見宮邦家親王の第17王子の山階宮定麿親王(当時15
 歳、後に海軍兵学校卒業後、英国プレスト海軍兵学校留
 学、小松宮依仁親王となる))との「将来の御成婚」が、
 画策された。
  ・・が、しかし、懸念材料はアメリカだった。
  アメリカとの関係の悪化を懸念する意向が前面に出て、
 幻となって行った。
  かくて、「カラカウア王の望み(秘策)」は潰(つい)
 えてしまった。
  カイウラニ王女は・・その後・・、
  1889年に、カラカウア王の指示で、イギリスへ留学し
 た。
  そして、その留学中に、カラカウア王は死去されてし
 まった。
  カイウラニ王女は、叔母のリリウオカラニから王位継
 承権第1位に指名され、
  美貌の彼女は、ヨーロッパ社交界の教養を身につけ、
 英仏社交界の華になった・・が・・、
  アメリカの思惑(アメリカ帝国主義によるハワイの地
 の取得)がうごめくハワイの政変が続くハワイの事情か
 ら・・帰国が出来ず・・帰国が延び続けるという状況と
 なった。
  日本とハワイの連邦化を夢見ていたハワイ王国は・・
 消滅し・・そして、ハワイはアメリカ化し・・今、アメ
 リカ合衆国の州となっている。
1881年2月24日、イリ条約
  ロシアと中国(清国)との間で、1871年に起きた国境
 紛争事件(イリ事件)の条約が結ばれた。
  ロシアのイリ地方占拠を、清朝は左宗棠の働きで1875
 年から1877年にかけて排除した。
  しかし、1879年に、ロシアとのイリ返還を交渉した清
 朝の全権大使・満州貴族・嵩厚保がいったん領土を大幅
 に譲歩した条約を締結した。
  そのため、激怒した光緒帝が批准を拒み、改めて曽紀
 沢(曽国藩の子)が交渉に当たり、
  ようやく1881年に、イリ条約を成立させ、イリ地方は
 清に返還された。
  しかし、清朝もロシアに多額の賠償金を支払い、新疆
 全土を市場としてロシアに経済的に開放することを認め
 た。
1881年3月12日、ロシア皇帝アレクサンドル二世が暗殺され
 た(3月13日説あり)
  1867年、フランスを訪問中のアレクサンドル2世は、パ
 リで襲撃されたが、この時は難を逃れた。
  その後も、皇帝暗殺計画は再三にわたって企てられ、
  1880年2月には、アレクサンドル2世を狙った冬宮食堂
 爆破事件が起きて、多数の死傷者が出た。
  これをきっかけに、最高指揮委員会が設置され、下ヴ
 ォルガ臨時総督として暴動鎮圧に成果を収めたミハイル・
 ロリス=メリコフが委員長に任命された。
  政治を安定させ、内政の改革を進めることがテロや暴
 動の抑止になると考えたロリス=メリコフは、行政改革
 と財政改革を皇帝に進言し、
  これを受けて最高指揮委員会は解散され、ロリス=メ
 リコフが内務大臣となった。
  社会の不安を除くため、人々の怨嗟の的となっていた
 悪名高い秘密警察・皇帝官房第三部を廃止し、
  立憲制導入に向けてまず一種の「議会」導入を提案し、
 一般委員会や国家評議会にゼムストヴォの代表や大都市
 自治会の代表などを参加させようとした。
  1881年3月13日、アレクサンドル2世は、没落したシュ
 ラフタの家柄で「人民の意志」党員のポーランド人イグ
 ナツィ・フリニェヴィエツキの投じた爆弾(キバリチチ
 式手投げ爆弾)により、サンクトペテルブルク市内で暗
 殺された。
1881年5月、フランスが、チュニジアを保護国化した。
  1830年のフランスによるアルジェリア占領以後、
 フランスとイタリアによる植民地化の対象となった。
  ベクは、1867年立憲君主制憲法を制定し、トルコの力
 をかりて独立維持をはかった。
  1869年、チュニジアは財政破綻してイギリス・フラン
 ス・イタリアの管理下に置かれ、
  1873年~1877年の改革派官僚のハイルッディーンによ
 る改革が行われたが、宮廷内の保守派の反対で成果を上
 げることが出来なかった。
  普仏戦争でフランスが敗れるとイタリアがチュニジア
 に進出したのでフランスは危機感を強めた。
  1878年のベルリン会議では、イタリアとフランスが、
 チュニジアの鉄道敷設権を巡って対立したが、
  フランスは、チュニジアに於けるフランスの権利を認
 めさせ、
  最終的にイタリアが折れ、西欧列強によってチュニジ
 アにおけるフランスの優先権が確認された。
  フランスは、1881年に、軍隊を派遣し、首都チュニス
 を占領して、保護領とした。
1881年7月2日、アメリカ合衆国大統領の暗殺事件が起きた
  第20代大統領のガーフィルド大統領が暗殺された。
  ワシントンのボルティモア・ポトマック駅で大統領は
 銃撃され、9月19日に死亡した。
  暗殺犯のチャールズ・J・ギトーは、色々な職業に手を
 出して失敗していた。
  神学、法律実務、集金、オナイダ・コミュニティ(キ
 リストの再臨を信じる共同社会)だった。
  大統領は、就任から4か月の短期間だった。
1881年7月14日、ビリーザ・キッドが、満21歳で、射殺され、
 この日に死んだ。
  彼は、アメリカ西部開拓時代のアウトロー(犯罪など
 によって法の保護を受けられなくなった人)で、強盗な
 どを行なっていた(1859年~1881年)
  罪名:殺人と脱獄。
  職業:牧場手伝、ギャンブラー、牛泥棒、アウトロー。
  ニューヨークで生まれたらしい、西部のニューメキシ
 コ州で育った。
  偽名が多く、父親は良く分からない。
  12歳の時に、母親を侮辱した男を殺してアウトローに
 なったとされる。
  死ぬまでに21人を殺害したとするが、この人数の中に
 はインディアンの方々の人数は含まれてないとされる(
 有色人種への無視・軽視・蔑視)。
  アリゾナ、テキサス、メキシコ国境あたりをさすらっ
 たという。
  用心棒もした。この時、リンカーン郡戦争と呼ばれる
 騒動となった。この時、4人を射殺。
  1880年12月、友人でもあった保安官に、仲間と共に
 逮捕される。
  しかし、1881年4月18日に刑務所を脱走した。
  この事が、ニューヨーク・タイムズに報じられ有名に
 なる。
  1881年7月14日に、ニューメキシコ州フォートサムナー
 で、ギャレットに射殺された。
  鏡で銃を抜く敵を見て、振り返らずに撃ち殺したなど、
 嘘もあるだろうが・・彼の銃の腕前を示す話は多い。
  この様なアメリカ西部の様相の中で、西部は開拓され
 て行った。
  誠実に農地開拓をしている農夫の土地を、欲しがる牧
 場主が、プロの殺し屋を雇い、この正直な農夫を殺そう
 とする。
  その時、殺し屋は次の手を使う、
  町の酒場に農夫を呼び出し、この農夫に対して、あら
 んかぎりの嫌(いや)らしい事を言う。
  農夫は、愛する妻や子供も居るので我慢してその話を
 聞いているが、続けて、殺し屋は人格攻撃も含めて、い
 やらしい攻撃を続け、
  この続く人格攻撃などの中で、農夫は、やむを得ず腰
 のけん銃に手を掛ける。
  その途端、プロの殺し屋の銃が、いち早く火を噴く。
  可哀想に、この善良な農夫は殺される。
  キリスト教は、この様なこの行為を、この殺し屋の行
 為を悪くないとしている。
  だから、アメリカの西部では、この様に殺される人が
 多かった。
  キリスト教は、「(キリスト教の)神の義があれば、
 人を誅しても良い」と、神の義による殺人を是としてい
 る。
  この様な論理・教義で、隣国の富を奪いに行く。
  当然、戦争の頻発地となる。
  長い歴史、キリスト教の回りには多くの戦争の歴史が
 記録されている。
  キリスト教聖書に記されている「相手に警告を与えれ
 ば何をやっても良い」という教え・・、
  また、キリスト教の聖書記載の手順を踏めば、攻撃を
 加えて良いという教え・・
  「相手の町を包囲して、ぐるぐる回れば、何をやって
 も良い」とかと・・この様な記載が、色々多い。
  キリスト教には蛮行の実行につながる教義が多い。
  「目には目を」という教義は有名だが、「同罪報復を
 認める」教義である。
1881年9月、エジプトでアラービー=パシャの乱が起きた(~
 1882年)
  アフマド=ウラービー=パシャ・・エジプトの反イギ
 リス民族闘争の指導者は、
  1881年に、イギリス・フランスの支配に反発し、立憲
 政治実現を要求して革命を試みたが、イギリス軍によっ
 て鎮圧されてしまった。
  世界中で、武力によって、やりたいことをやっている
 イギリス、そして、ヨーロッパ列強のキリスト教国。
  パシャは尊称で、
  エジプト人の農民の子として生まれ
  軍人となり、
  ワターニューン(愛国者たちの意味、ワタン党ともい
 う)という秘密結社を組織して、
  ムハンマド=アリー朝を支え陸軍大臣にまで昇り、
  パシャの称号を認められ、ウラービー=パシャと言わ
 れた。
  19世紀中頃のエジプトが、イギリスとフランスの経済
 的支配を受けて、
  政治干渉も受けるという二国管理体制下におかれ、
  これに強く反発した(誰だって反発したくなるだろう
 よ)、
  エジプトの方々のエリート層や、高等教育を受けた
 方々は、ヨーロッパ人が、エジプト社会を牛耳ることに
 よって、
  自らの出世の道が閉ざされることも不安視した。
  また、農民は、課せられた重税に対して不平を募って
 いた。
  また、差別も存在した。
  エジプトは識字率も向上し、1870年代から188年代には、
 出版も盛んになり、新聞も発行されるようになった。
  人々は、社会の情勢・変化を知り、行動を起こした。
  1881年に、クーデターを起こして、エジプト王を退位
 させ、実権を握り、立憲政治の実現などの改革を進めよ
 うとした。
  しかし、イギリスが直ちにアレクサンドリアを砲撃、
 陸上からも攻撃し、革命を強烈な軍事力で抑えつけた。
  その結果、この出来事は〝反乱〟に終わった。
  ウラービー=パシャは捕らえられ、セイロンに流され
 た。
  彼が掲げた〝エジプト人のためのエジプト〟のスロー
 ガンは、
  その後のエジプト民族運動に受け継がれ、
  ウラービー運動といわれるようになった。
  → アラブ民族主義運動へ
..
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(増補版)367E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年9月~1881年10月)

題:(増補版)367E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年9月~1881年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1811年10月1日、國會期成同盟 第3回大会
  第三回大会は自由党結党の会だった。
  1881年(明治14年)10月に開かれる予定の第3回国会期成
 同盟大会での重要議題は、各地で作成された「憲法私案
 の審議」であった。
  また、10月1日~10月2日の幹部相談会では、常務委員
 の林包明(はやしほうめい、自由民権運動家、自由党幹
 事となる)を中心として、
  大日本国会期成有志公会と自由党(準備会)を糾合して、
 新党を結成する相談がなされた。
  そうした中、開拓使官有物払下げ事件が明るみとなり、
 政府側を追求した。
  その結果、明治十四年の政変(1881年8月31日)が起こ
 った。
  大隈重信は、政府から追放された。
  ・・と同時に、政府は批判をかわすために・・、
  1881年(明治14年)10月12日に、『国会開設の詔を発
 布』し、
  1890年(明治23年)に、国会を開設することを決めた。
  国会開設の目的は達せられた。
  この様ないきさつから、目的達成と判断した自由民権
 運動家達は、大会での憲法私案の審議を見送った。
  そして、「政党を樹立すべき」との意見が、大勢を占
 めた。
  しかしなお、地方出身者層と都市出身者層との間で意
 見の相違は発生していた。
  そのため、嚶鳴社(おうめいしゃ、自由民権系の政治
 結社)の沼間守一らは、新党結成から離脱した。
  1881年10月18日に、東京の井生村楼(いぶむらろう、
 浅草にあった演説会場として利用された会場)に全国各
 地から代表78人が集まって大会が開かれた。
  大会では、議長に後藤象二郎、副議長に馬場辰猪が選
 ばれた。
  そして、翌日の1881年10月19日には、自由党盟約・規
 約が作成され、
  1881年10月29日には、総理(党首)に板垣退助を、副
 総理に中島信行が選び、自由党を発足させた。
1881年10月2日、大日本自由政党結成會を組織した。
1881年10月9日、黒田清隆が、大隈重信の「国会開設早急
 論」に反対し、そして、三条実美へ趣意書を提出した。
  『開拓使官有物払下げ事件』:
  北海道開拓使長官の黒田清隆は、1881年に、開拓使の
 廃止方針が決定したため、この開拓使の事業を継承させ
 るために、官有の施設・設備を安値で払い下げる事にし
 た。
  黒田は、その払下げ予定事業が赤字であったため、非
 常な安値で払い下げ価格を設定した。
  払下げの対象は、船舶・農園・炭鉱・ビール・砂糖工
 場などで、
  例えば、「1400万円の国費を投じたもの」を「38万円
 (無利息30年賦)」という破格の低価格だった。
  その払い下げを受けたのが、関西貿易商会(黒田と同
 郷の薩摩出身者・五代友厚ら)だった。
  破格の値段の払下げ先が同郷の薩摩だったので、薩閥
 政治への不満が高まって行った。
  当然の様に、この方針に、政府部内の薩長出身参議は
 賛成した。
  しかし、政府内でも批判の声が起こり、特に、払下げ
 の規則を作った前大蔵卿の大隈重信が反対した。
  この経緯(いきさつ)を新聞がすっぱ抜いた。
  この秘密をリーク(意図的に秘密や情報などを漏らす
 こと)したのが「大隈だろう」と疑われた。
  さらに、大隈が登用した大蔵官僚の間にも、払下げ中
 止を求める意見が出された事から、
  払下げ中止を目的として「大隈が仕掛けた」という話
 が広まった。
  この様な中、黒田清隆は、天皇陛下の裁許を戴いて払
 下げを決定してしまった。
  しかし、批判の声は、ますます高まった。
  そして、大隈が、東京を離れた間に、伊藤博文らは、
 収拾策の方針を決定し、天皇陛下に裁許を仰ぎ、大隈の
 追放、国会開設の詔勅(藩閥政治への不満への対応)、
 払下げ中止などを発表した(明治十四年の政変)。
  その後、黒田も開拓使長官を辞め、内閣顧問の閑職と
 なった。
  薩長閥でない大隈が退かされた、薩長閥主導の時代と
 なった。
  薩長閥の黒田は、問題視され無かった。
  民意を尊重する政治・・、
  日本には、明治以前から、早々と、民意を受けて、民
 意によって政治を司るという考え方はあった。
  そして、明治になって草々の1868年の「五箇条の御誓
 文」・・第一条「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」
 と形となって・・議会開設の理念は示されていた。
  この様な流れから、大隈の「国会即時開設論」はその
 流れの中にあった。
  しかし、政府は漸近主義をとり、
  その中に、「イギリス型の議院内閣制か」、「ドイツ
 型の超然内閣の選択か」などの思考があった。
  大隈らはイギリス型案だった。
1881年10月11日、明治十四年の政変
  伊藤博文らが、大蔵卿参議・大隈重信を追放、罷免し
 た(10月12日説あり)
  自由民権運動の嵐が吹き荒れる世のなかで・・、
  また、その方向へ世の中が流れるなかで・・、
  憲法制定論議が高まり、政府内でも、君主大権を残す
 「ビスマルク憲法」か、「イギリス型の議院内閣制の憲
 法」とするか・・で争われていた。
  前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する
 大隈重信と、ブレーンの慶應義塾門下生らを、政府内か
 ら追放した。
  クーデター状態だった。
  明治10年代の政治は・・、
  大久保利通亡き後は・・、国会開設運動が興隆して行
 った。
  政府が、いつ立憲体制に移行するか・・という課題の
 ある・・問題が持ち上がっている時代だった。
  この様な時代の流れの中にあって・・、
  政府は、消極論者の右大臣・岩倉具視を擁しながら、
 漸進的な伊藤博文・井上馨(長州閥)と、
  やや急進的な大隈重信(参議・大蔵卿・肥前藩出身)
 を中心に運営されていた。
  この頃は、政治への介入工作などもあって、政情は不
 安定の中にあった。
  「薩長土肥」四藩の連合が変化し、「薩長」二藩至上
 主義的方向へ姿を変えて行った。
  そして、明治14年の政変は・・起きた。
1881年10月12日、国会開設の詔
  1890年(明治23年)に国会開設の詔勅。
  明治天皇陛下が、来る明治23年を期して、10年後(1890
 年)国会を開設する旨の詔書を下し給う。
  天皇陛下が、行幸から帰京された10月11日に、御前会
 議の裁許を得て、
  翌日・1881年10月12日のこの時、「国会開設の詔勅」
 などが公表された。
  また、大隈邸を、伊藤と西郷従道が訪れて、辞表の提
 出を促し、大隈は了承した。
  なお、この際に、
  「建国の本各源流を殊にす(とりわけ、格別)。彼れ
 を以て此れに移すべからず」という政府首脳間の合意が
 為された。
  そして、結果として、自由民権運動や大隈の唱えるフ
 ランス流やイギリス流を否定したものの、
  岩倉らの進めようとしたプロシア流についても、一旦
 は白紙撤回された。
  ドイツ憲法に傾いていくのは、岩倉が公家出身という
 立場も関係した。
  政変で下野した官僚:犬養毅、牛場卓蔵、大隈英麿、
 尾崎行雄、小野梓、河野敏鎌、島田三郎、津田純一、中
 野武営、中上川彦次郎、前島密、牟田口元学、森下岩楠、
 矢野文雄、
  (注)国会開設奏議、明治十四年十月十一日
  「国会開設ノ期限ヲ定ムル勅諭ノ事」 『岩倉公実記』
  日本憲政基礎史料:
  諸參議連署の立憲政體に關する建奏(明治十四年十月
 十一日):
  憲法を定める標準に至ては臣等竊に以為く建国の本各
 源流を殊にす。彼を以て此れに移すべからず。祖宗基を
 始め伝うるに神器を以てす。民と之を守る万世不易の道
 なり。陛下時期を照鑑し古今を変通し将に政権を分て之
 を衆庶に公にせんとす。蓋、実に祖宗の遺烈を掲げ懿訓
 を広むるに過ぎざるなり。今民間政談を為す者を視るに
 好で欧米詭激の説を主張し国体の何たるかを省みざる者、
 往々之れ有り。臣等、実に之を危む。竊に願くは憲法の
 成各国の長を採酌するも、而も我国体の美を失わず広く
 民議を興し公に衆思を集むるも而も我皇室の大権を墜さ
 ず乾綱を総攬し有極を建立し以て万世不抜の基を垂れん
 ことを。…
  以上陳ぶる所を総ぶるに、国会の開設の期を予定する
 は大政の向う所を公示する所以なり。憲法を定めるに国
 体を重んずるは篤く祖宗の遺業を守る所以なり。…
1881年10月18日、自由党、結成
  板垣退助らが、自由党(自由主義派)を結成した。
  初の政党(総理・板垣退助)。
  この日・10月18日に、東京・浅草の井生村楼で自由党
 結成会議が開催された。
  10月29日に、板垣退助を総理に選び、副総理・中島信
 行(のぶゆき)以下の本部役員を選出し、盟約3章と規則15
 章を決定して正式に発足した。
  日本最初の近代的な政党。
  1881年8月以後に起草した植木枝盛の「東洋大日本国国
 憲按」(私擬憲法)が作成されていた。
1881年10月21日、参事院(さんじいん)が設置された。
  この日、太政官布達89号によって、官制改革太政官に
 参事院が設置された。
  初代の長は、参議・伊藤博文。
  1872年7月の太政官達で設けられた正院法制局を受継い
 だもの、
  尚、1885年12月22日に、内閣法制局発足とともに廃止
 された。
1881年10月21日、松方デフレの開始
  松方の前々任者の大隈重信は、1873年10月25日に大蔵
 卿に就任し、1880年2月28日まで務めた。
  そして、この大隈の後は、大隈と「同じ肥前閥」の佐
 野常民が、この1880年2月28日に就任し、1881年10月21日
 まで務めた。
  そして、この日・1881年10月21日に、閥が変わって、
 「薩摩閥」の松方正義が、参議兼大蔵卿に就任し(~
 1885年12月22日)、方針は転換された。
  大蔵卿に就任した松方正義は、薩摩閥の地で発生した
 西南戦争による戦費調達で生じたインフレーションを解
 消しようと、デフレーション誘導の財政政策を行なった。
  世はデフレ不況へ向かって行く・・、
  この松方財政(まつかたざいせい)の緊縮財政によっ
 て政府は、紙幣の回収を進めた。
  紙幣価値の安定と、正貨の蓄積を図る「松方財政」を
 推し進めた。
  松方正義は、また、欧州各国の中央銀行をモデルに、
 「一国の金融の心臓」として日本銀行の設立を提案し、
  紙幣発行権を、日本銀行に集中させ、兌換券の発行を
 目指した。
  1877年の西南戦争の戦費の大半を、紙幣増発でまかな
 ったことなどから、政府紙幣の整理の問題が焦点となっ
 ていたからだった。
  松方は、大隈が進める外債による政府紙幣の整理に真
 っ向から反対していたのだった。
  それによって、1年半まえの1880年2月28日には、松方
 正義は、伊藤博文の配慮によって、内務卿に転出する形
 で大蔵省を去っていたのだった。
  松方は、1877年(明治10年)には渡欧して、経済を勉
 強していた。
  1878年(明治11年)3月~12月には、第三共和制下のパ
 リを中心とするフランスに滞在し、
  フランス蔵相レオン・セイ(「セイの法則」で名高い、
 フランスの経済学者のジャン=バティスト・セイの孫)
 から3つの助言を得ていた。
  (1)日本は、発券を独占する「中央銀行」を持つべき、
  (2)その際、フランス銀行やイングランド銀行は、そ
    の古い伝統故に、モデルとならない、
  (3)従って最新のベルギー国立銀行を例として、これ
    を精査すること・・を、勧められた。
  1881年(明治14年)7月に、帰国した松方は、「日本帝
 国中央銀行・説立案」を含む政策案である「財政議」を
 政府に提出した。
  そして、政変によって大隈が失脚すると、
  参議兼大蔵卿として復帰し、日本に中央銀行である日
 本銀行を、ベルギーの中央銀行制度を原型にして創設し
 た(1882年10月10日)。
  この後の1883年(明治16年)に、松方は、明治天皇陛
 下に奏上して、恩になったレオン・セイに、勲一等旭日
 大綬章が贈られるように図っている。
  そして、1885年の内閣制度発足と同時に、大蔵大臣に
 就任し、兌換銀行券条例に基づき兌換券(銀貨兌換)を
 発行した、
  さらに、1886年に兌換を開始し、近代的信用制度の確
 立をはかった。
  松方は、財政家として、政府紙幣の全廃と、兌換紙幣
 である日本銀行券の発行による紙幣整理と、
  煙草税や酒造税や醤油税などの増税による歳入増や、、
  政府予算の圧縮策などの財政政策や、
  官営模範工場の払い下げなどによって、財政収支を大
 幅に改善させ、インフレーションも押さえて行った。
  ただ、これらの政策は、深刻なデフレーションを招い
 たために、「松方デフレ」と呼ばれ、世論の反感を買う
 こととになった。
  物価が急落し、そして、景気が、急速に下降し
 インフレを終息させることには成功したが、農民の方々
 の多数が土地を失うなど、
  農民の方々への被害が、特に、甚だしく大きかった。
  地主制の成立の促進の現象となった。
  農民層の分解が進み、資本主義的体制の基礎を作った
 という別の一面が語られた。
  明治新政府は金が無かった。
  不換紙幣を乱発して世はインフレとなり・・、
  地租を確保しようとしたら、世は一揆が一斉に起き、
  外債を発行して、海外へ資金を求める大隈政府だった。
  松方正義大蔵卿は、支出を削減しながら、官営事業を
 払い下げたりして・・金を作った。
  富岡製糸は、31万円で整備したが、三井への払下げの
 売却は12万円だった。
  院内・阿仁鉱山は、古川へ売却し、
  兵庫造船は、川崎に売却し、
  長崎造船は、三菱に売却したが、
  いずれも破格の値段で、格安払下げをし、政府の儲け
 はなかった。
  ただ唯一、三井炭鉱は、三井が競り落としたが、整備
 費の6倍となり、政府に金が入った。
  この様な中で、間接税である消費税の大増税を行なっ
 た。
  煙草も課税の対象にしたが、その他、醤油税、菓子税、
 酒造税などを行ない。
  酒税は、1875年に250万円の収入となり、1884年には
 1400万円と5~6倍となった。
  因みに、松方正義は、オックスフォード大学の名誉博
 士である。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-06-16 16:52 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)366E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年3月~1881年9月)

題:(増補版)366E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年3月~1881年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1881年4月5日、大日本農会が、東京に創立された。
  公益社団法人大日本農会(だいにほんのうかい)は、
 元農林水産省生産局所管の公益社団法人。
  主な目的は、農業の発展・農村振興など
1881年4月7日、農商務省が設置された。
  農林、商工行政を司る中央官庁の農商務省を置き、農
 林・水産・商業・工業・鉱業などの産業行政一切を担当
 した。
  明治政府は、日本の産業の資本主義的発展を達成する
 ために、殖産興業政策を、その課題として掲げた。
  そして、農・商・工の各分野で、行政指導を懇切丁寧
 に進めて行った。
  欧米の機械制工場制度の移植や、鉄道・電信の導入な
 どを促進した。所管する役所は工部省(1870設立)、
  そして、農政を所管した内務省(1873創設)、
  さらに、大蔵省が、当時の産業振興の重要な部門であ
 った。
  工部省中心の移植産業政策と、内務省中心の在来農業
 の資本主義化政策は、1870年代になると、めまぐるしく
 機構の改廃が行われた。
  また、その統合を重ねるという過程で、相互に補完し
 あいながら、資本主義育成策の重要な部分をなして来た。
  ただ、これまでの産業行政や殖産興業政策は、内務省・
 工部省・大蔵省などに分散していたことが、官業政策の
 限界と、殖産興業経費の過重が明らかとなって来た。
  そのために、政策の転換と、産業行政の一元化を図る
 ため、1880年に、工場払下概則を発令し、この年・1881
 年に、農商務省を設け、統合した。
  外務卿・河野敏鎌(こうのとがま)を農商務卿に任命
 した。
  因みに、この農商務省は、1925年に、農林省と商工省
 に分け、分離して、発展解消された。
  現在の農林水産省と通商産業省の前身。
1881年4月8日、三省堂書店(さんせいどうしょてん)が創
 業した。
  この日、亀井忠一・万喜子の母子が古書店として創業
 した。
  日本初の「日本百科大辞典」などを刊行した。
  三省堂書店は、書店ゼロの留萌に進出した。
  これは、「子供に必要」と地元の訴えに応えたもので、
 日本経済新聞が、2011年7月22日に報じた。
1881年4月25日、陸前・福島の大火(約1780戸焼失)
1881年4月26日、初めて、天皇陛下の主催で、吹上御苑で観
 桜御会が開かれた。
  皇族、大臣、参議、各国公使、来日中のシャム王族な
 どが招かれた。
  これは、不公正条約の条約改正を促進させる意図のも
 とに開かれた。
1881年4月、東京に、12か所の憲兵屯所が新設された。
  1881年3月には、フランスの憲兵制度を模範にして、憲
 兵条例が制定され、
  その第一条に、憲兵の役割を「陸軍大臣ノ管掌ニ属シ
 主トシテ軍事警察ヲ掌(つかさど)リ兼テ行政警察司法警
 察ヲ掌ル」と規定した。
1881年4月、自由・民権などを凧に託して凧揚げ大会が開か
 れた。
1881年5月4日、小学校教訓則領(しょうがっこうきょうそ
 くこうりょう)が定められ、初等・中等・高等に区分し
 た。
  初等科3年、中等科3年、高等科2年の計8年。
1881年5月8日、鶴見~横浜間が複線化した(5月7日説あり)
  鶴見~横浜間の鉄道の複線化工事が完成して、新橋~
 横浜間が複線運転になった。
  単線が複線化して、ますます鉄道ダイヤが密となり、
 使いやすくなり、だから人々も利用するという好循環で
 日本の鉄道は、急速に敷設距離数が伸びて行く。
  そして、今、鉄道技術は、日本の得意の技術・お家芸
 となっている。
1881年5月31日、勤王家・蒲生君平(がもうくんぺい、学者)
 に正四位を追贈。
1881年5月、五代友厚(ごだいともあつ、実業家)が、関西
 貿易会社を設立した(1835年~1885年)
  薩摩藩出身、長崎の海軍伝習所で航海や砲術を学び、
 勝海舟・榎本武揚・寺島宗則・佐野常民・高杉晋作らと
 交遊し、また、トーマス・グラヴァーとも親交を重ね、
 開明的知識を得た。
  1859年(24歳)の時、水夫として上海に行きドイツ汽
 船を購入した。
  1863年(28歳)の時、薩英戦争が起こると、寺島宗則
 と共に、イギリス艦隊と交渉し、戦い、捕虜となり、横
 浜に拉致された。
  釈放後、武州、長崎などで亡命生活を送ったが、帰藩
 を許され、
  1865年(30歳)の時に、薩摩藩留学生の引率者として
 ヨーロッパ(イギリス・ベルギー・フランス)を視察し、
 紡績機械や武器を購入、また、貿易商社設立契約や、万
 国博への出品委託を行なった。
  渡欧中、薩摩藩主へ富国強兵に関する18カ条の建言書
 を送った。
  1866年(31歳)に帰国して後、御用人席外国掛に任ぜ
 られ、外国貿易や鹿児島紡績所の建設・長崎小菅修船場
 の建設・薩長合弁商社設立の計画を行うなど、薩摩藩の
 殖産興業政策を推進した。
  そして、藩の開明派の指導者となり、藩の貿易発展に
 活躍した。
  明治維新後に、外国事務掛、外国官権判事、大阪府判
 事を歴任、大阪を中心として外交・貿易事務、造幣寮の
 建設にかかわるとともに、通商・為替会社設立などを契
 機に大阪経済界とも接触した。
  そして、1869年(34歳)の時、その官僚や外交官を経
 て、実業界・実業家(政商)へ転じた。
  大阪株取引所(現:大阪取引所)や大阪商工会議所(
 1878年)の創設などに力を注ぎ、
  また、製鋼・貿易・銀行・鉄道会社の設立し、事業を
 おこすことにも尽力した。
  その主なものは、金銀分析所、弘成館(鉱山経営)、朝
 陽館(製藍事業)、大阪活版所、大阪製銅会社、阪堺鉄道、
 大阪商船、神戸桟橋会社、堂島米会所、大阪株式取引所、
 大阪商法会議所(現在の商工会議所)、大阪商業講習所(大
 阪市立大学の前身)など。
1881年6月18日、小学校教員心得を制定(6月17日説あり)
  「小学校教員ノ良否ハ普通教育ノ弛張ニ関シ普通教育
 ノ弛張ハ国家ノ降盛ニ係ル其任タル重且大ナリト謂フヘ
 シ今夫小学教員其人ヲ得テ普通教育ノ目的ヲ達シ人々ヲ
 シテ身ヲ修メ業ニ就カシムルニアラスンハ何ニ由テカ尊
 王愛国ノ志気ヲ振起シ風俗ヲシテ淳美ナラシメ民生ヲシ
 テ富厚ナラシメ以テ国家ノ安寧福祉ヲ増進スルヲ得ンヤ
 小学教員タル者宜ク深ク此意ヲ体スヘキナリ因テ其恪守
 実践スヘキ要款ヲ左ニ掲示ス苟モ小学教員ノ職ニ在ル者
 夙夜黽勉服膺シテ忽忘スルコト勿レ」
  尚、約1ヶ月前の1881年5月4日には、「小學校教則綱
 領(しょうがっこうきょうそくこうりょう)」(明治14
 年文部省達第12号)が出されている。
  第一条:小学科ヲ分テ初等中等高等ノ三等トス
  第二条:小学初等科ハ修身、読書、習字、算術ノ初歩
     及唱歌、体操トス
      但唱歌ハ教授法等ノ整フヲ待テ之ヲ設クヘシ
  第三条:小学中等科ハ小学初等科ノ修身、読書、習字、
     算術ノ初歩及唱歌、体操ノ続ニ地理、歴史、図
     画、博物、物理ノ初歩ヲ加ヘ殊ニ女子ノ為ニハ
     裁縫等ヲ設クルモノトス
  第四条:小学高等科ハ小学中等科ノ修身、読書、習字、
     算術、地理、図画、博物ノ初歩及唱歌、体操、
     裁縫等ノ続ニ化学、生理、幾何、経済ノ初歩ヲ
     加ヘ殊ニ女子ノ為ニハ経済等ニ換ヘ家事経済ノ
     大意ヲ加フルモノトス
1881年6月、「海員掖済会」が東京府南品川の心海寺の一部
 を借り受け「海員寄宿所」を開設した。
  実質的な事業の開始となる。
  海員の寄宿と、乗船の斡旋事業を開始した。
  また、高等海員養成所を併設し、高等海員の養成に着
 手する。
  後に、横浜、大阪、神戸、長崎と相次いで海員寄宿所
 を設け、主要な港に配置し終える。
  1886年(明治19年)3月、有栖川宮威仁親王を本会総裁
 に迎え、会名を「日本海員掖済会」と改称した。
1881年7月2日、パストゥール予防注射に成功。
  フランスの化学者で細菌学者のパスツールは、1880年、
 狂犬病の研究を開始し、
  1881年に、弱毒性変異炭疽菌株によるヒツジの免疫実
 験の成功を発表した。
  続いて、プュイ・ル・フォルにおいて炭疽免疫公開実
 験を行って、完全に成功し、
  同年・1881年、ニワトリコレラと炭疽のすべての成績
 をロンドンの国際医学会で発表した。
1881年7月6日、天皇陛下へ、岩倉具視が、憲法制定意見を
 上奏した。
  岩倉具視の憲法構想とは・・、
  憲法について岩倉具視が、上奏した意見書を、箇条書
 きで記したもので、起草者は、井上毅と言われている。
  (1)欽定憲法(きんていけんぽう、君主によって制定
 された憲法。大日本帝国憲法など)たること、
  (2)漸進主義をとること、
  (3)プロシアをモデルとすること、
  (4)内閣組織は議院と距離を保つこと、
  (5)二院制の採用、
  (6)選挙のあり方(制限選挙)など、
  その内容の大半が、明治憲法に採り入れらた。
  そして、この時・1881年、これを基にした「大綱領」
 が天皇陛下に上奏された。
1881年7月9日、明治生命が開業した。
  福澤諭吉門下の阿部泰蔵らにより、東京・木挽町に、
 有限明治生命保険会社が創業した(日本最初の生命保険
 会社)。
  設立は7月8日。三菱財閥系。
1881年7月、北海道・札幌農学校の演武場(現=札幌市時計
 台)が、玄関正面部と鐘楼を取り壊し、骨組みを強化し
 て日本初の時計台を設置した。
  「3面の文字盤を持ち、鐘の鳴る装置を備えた機械」を
 米・ハワード時計会社に注文したが、到着した機械が、
 予想以上に大きかったため、
  玄関正面部と、鐘楼を取り壊し、骨組みを強化して設
 置した。改修費は1329円。
  8月12日に、初めて4km四方に鐘を響かせて時を告げた。  
  この演武場は、1878年に建築されていた。
  尚、これは、開拓長官の黒田清隆の発案による。
1881年7月21日、黒田清隆が、北海道開拓使官有物の払下げ
 計画を太政大臣に申請した。
1881年7月29日、「中學校教則大綱」(文部省達第二十八号)
 が公布された。
  第一条:中学校ハ高等ノ普通学科ヲ授クル所ニシテ中
    人以上ノ業務ニ就クカ為メ又ハ高等ノ学校ニ入ル
    カ為メニ必須ノ学科ヲ授クルモノトス
  第二条:中学科ヲ分テ初等高等ノ二等トス
  第三条:初等中学科ハ修身、和漢文、英語、算術、代
    数、幾何、地理、歴史、生物、動物、植物、物理、
    化学、経済、記簿、習字、図画及唱歌、体操トス
    第四条 高等中学科ハ初等中学科ノ修身、和漢文、
    英語、記簿、図画及唱歌、体操ノ続ニ三角法、金
    石、本邦法令ヲ加へ又更ニ物理、化学ヲ授クルモ
    ノトス
  第五条:中学校ニ於テハ土地ノ情況ニ因リ高等中学科
    ノ外若クハ高等中学科ヲ置カス普通文科、普通理
    科ヲ置キ又農業、工業、商業等ノ専修科ヲ置クコ
    トヲ得
  第六条:普通文科ハ高等中学科中ノ三角法、金石、物
    理、化学、図画等ノ其科ヲ除キ或ハ其程度ヲ減シ
    修身、和漢文、英語、本邦法令等某科ノ程度ヲ増
    シ又歴史、経済、論理、心理等ノ某科ヲ加フルモ
    ノトス
  第七条:普通理科ハ高等中等科中ノ和漢文、英語、本
    邦法令等ノ某科ヲ除キ又ハ其程度ヲ減シ金石、物
    理、化学、図画等某科ノ程度ヲ増シ又ハ代数、幾
    何、測量、地質、重学、天文等ノ某科ヲ加フルモ
    ノトス
  第八条:初等中学科卒業ノ者ハ高等中学科ハ勿論普通
    文科、普通理科其他師範学科、諸専門ノ学科等ヲ
    修ムルヲ得ヘシ
  第九条:高等中学科卒業ノ者ハ大学科、高等専門学科
    等ヲ修ムルヲ得ヘシ
     但大学科ヲ修メソトスル者ハ当分ノ内尚必須ノ
    外国語学ヲ修メソコトヲ要ス
1881年7月29日、北海道官有物を、関西貿易商会に払下げ決
 定した。
  しかし、世論の反対で10月12日に中止に至る。
  7月21日に、北海道開拓使官有諸施設払下げ問題が起こ
 り、
  民権派は、激しく政府を攻撃した。
  これに対して政府は、10月12日、10年後に国会を開設
 するという詔書を出すとともに、大隈参議を罷免した。
  民権派は、10月29日自由党を結成した。
1881年7月30日、明治天皇陛下が、東北、北海道巡幸御発輦
1881年8月1日、開拓使官有物払下げ事件が起こる。
  黒田清隆が、官有物を格安で払い下げた。
1881年8月2日、「学生」の称の始り
  東京大学本科生が学生と呼ばれるようになる。
1881年8月19日「師範学校教則大綱」(文部省達第二十九号)
 が公布された。
  第一条:師範学校ハ小学校教員タルニ必須ノ学科ヲ授
    クル所トス
  第二条 師範学科ヲ分テ初等中等高等ノ三等トス
  第三条 初等師範学科ハ修身、読書、習字、算術、地
    理、物理、教育学学校管理法、実地授業及唱歌、
    体操トス
     但唱歌ハ教授法等ノ整フヲ待テ之ヲ設クヘシ以
    下之ニ傚フ
  第四条 中等師範学科ハ修身、読書、習字、算術、地
    理、歴史、図画、生理、博物、物理、化学、幾何、
    記簿、教育学学校管理法、実地授業及唱歌、体操
    トス
  第五条 高等師範学科ハ修身、読書、習字、算術、地
    理、歴史、図画、生理、博物、物理、化学、幾可、
    代数、経済、記簿、本邦法令、心理、教育学学校
    管理法、実地授業及唱歌、体操トス
  第六条 師範学校ニ於テハ土地ノ情況ニ因リ某学科ノ
    程度ヲ斟酌シ農業、工業、商業等ヲ加フルヲ得殊
    ニ女子ノ為ニハ本邦法令、経済等ヲ除キ若クハ某
    学科ノ程度ヲ斟酌シテ裁縫、家事経済等ヲ加フヘ
    シ
  第七条 高等師範学科卒業ノ者ハ小学各等科ノ教員タ
    ルヲ得ヘク中等師範学科卒業ノ者ハ小学中等科及
    初等科ノ教員タルヲ得ヘク初等師範学科卒業ノ者
    ハ小学初等科ノ教員タルヲ得ヘキモノトス
  第八条 師範学科ヲ修メントスル生徒ハ品行端正、体
    質強健、年齢十七年以上ニシテ小学中等科卒業以
    上ノ学力アル者タルヘシ
     但年齢ハ土地ノ情況ニ因リ十五年以上トスルモ
    妨ケナシ又初等中等学科卒業ノ者ハ高等師範学科
    第四年級ニ入ルコトヲ得
  第九条 師範学校ノ修業年限ハ初等師範学科ヲ一箇年
    トシ中等師範学科ヲ二箇年半トシ高等師範学科ヲ
    四箇年トス
1881年8月20日、勅を奉じて編纂せる元田永孚(もとだなが
 ざね、漢学者)の修身教科書「幼学綱要(ようがくこう
 よう、幼童のための欽定教訓書)」刻本(こくほん、印
 刷した本)完成する。
1881年9月、横浜に、連合生糸荷預所(れんごうきいとにあ
 ずかりしょ)が設置された。
  生糸取引方法の改革を主張する「生糸売込問屋」らと、
  それを阻止しようとする「外国商館」との間で紛争が
 生じた。
  茂木惣兵衛、原善三郎、渋沢喜作らの横浜生糸売込問
 屋は、従来、外国商館が現物を引き込んで検査、計量を
 行っていた取引は、弊害が多いと批判した。
  そして、検査・計量を、連合生糸荷預所で行う見本品
 取引に改めた。
  また、同所を通じて輸出生糸流通を独占的に掌握しよ
 うとした。
  外国商館は、一致して取引を拒否しつつ、対抗した。
  9月下旬~11月中旬まで、約2ヵ月にわたり外国商館へ
 の生糸売込みは途絶した。
..
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by suba28 | 2016-06-15 03:33 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)365E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年12月~1881年3月)

題:(増補版)365E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年12月~1881年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1881年、出来事:
・明治天皇陛下が、東北・北海道を御訪問。
・松方正義が、大蔵卿(現在の大蔵大臣)に就任した。
 松方正義の緊縮財政政策で不況に陥る。
1881年、データ:
・租税総額に占める地方税の割合:36.2%
1881年、流行:
・唄 書生節:「書生、書生と軽蔑するな~大臣参議はみな
 書生~」
・「蛍の光(ほたるのひかり)」:日本の唱歌。
  原曲はスコットランド民謡、
  作詞は、稲垣千頴(いながき ちかい、国学者、教育
 者、歌人、教科書編集者)
・ステッキ・懐中時計が流行した。
・洋式自転車が、輸入されたのは、明治14年か15年の頃、
  反骨のジャーナリストにして一代の奇人である宮武外
 骨は、
  東京で、外国人がこれを乗り回しているのを見て、無
 性にほしくなり、明治17年に購入した。
  東京、横浜、大阪を駆け巡ったが、売り物は1台もなく、
 神戸の居留地で、ようやく中古を見つけ、
  談判の末、192円で買い取った。
  小学校教員の初任給が、5円の時代の192円で、
  大得意で郷里・高松に帰り、乗り回していたら、たち
 まち評判となった。
  日本一のバカ者と笑われた・・、
  『しかるに近年は大流行にて、山間にもベルの音を聞
 く、うたた灌漑にたえず』と、明治36年に記している。
1881年、マスコミ:
・新聞創刊:東洋自由新聞(1881年3月18日、創刊)
  西園寺公望が、フランスから帰国して社長となり、パ
 リで知り合った中江兆民を主筆として創刊した。
  自由民権派の日刊新聞(自由民権運動の中心的言論機
 関たらんとして発刊した)。
・新聞・雑誌の発行禁止・停止処分件数:62件
1881年、本・理論書:
・「東洋學藝雑誌(とうようがくげいざっし)」 創刊
   1881年10月に、東洋学芸社から創刊された自然科学
 を含む月刊誌。
  日本で最初の学術総合雑誌。
  杉浦重剛と千頭(ちかみ)清臣が井上哲次郎や磯野徳
 三郎らの協力のもとに、その範をイギリスの科学雑誌《
 Nature》にとり、啓蒙を旨として編集された。
・ 「社会平権論」(著:スペンサー/訳:松島剛)
  スペンサーは、明治前半期の日本に大きな影響を与え、
 『社会静学』が松島剛(まつしまこう)(1854―1940)訳
 『社会平権論』(1881~1883)の名訳によって紹介され、
 「民権の教科書」として愛読された。
・ 「時事小言(じじしょうげん)」(著:福澤諭吉)
  《時事小言》、および、その前後の一連の著作では、
 立憲制とイギリス流の議院内閣制・政党内閣制によって
 〈官民調和〉を実現するという原理が明確に示されてい
 た。
1881年、衣:
・地方の町村に靴を履く者が出る。
1881年、食:
・牛乳配達が始まる。
・東京に粉ミルク・バターの製造が始まり、その売捌店は
 市内13軒をかぞえた。
・第2回内国勧業博覧会に、11道府県より缶詰の出品あり、
 殆どが魚介を材料とした。
  また、2府3県から琺瑯(ほうろう)品が出品された。
  これは鍋等の飲食器であった。
・東京湾の金沢に、カキの移植がなされた。
・芝日影町で、日本人のラムネ製造が始まった。
1881年、住:
・東京下町に、1月と2月に重ねて大火があり、火災の後、
 内地釘が間にあわぬため、西洋釘を輸入して、にわかに
 洋釘使用が普及した。
1881年、その他:
・官吏と新聞記者の交際がふえ、好ましくない風潮だ(朝
 野新聞)
・東京職工学校が創立された。
 「東京工業大学」は、1929年設立され、東京都目黒区に
 本部を置く、日本の国立大学だが・・、
  その創立は、母体である東京職工学校が創設された1881
 年とされている。
・小学校で、体操と唱歌を正科とした。
  1881年5月の「小学校教則綱領」あたりから次第に小学
 校の教科として取り入れられたのが、「唱歌」と「体操」
・竹器の輸出が盛ん・・、
  竹材は、1878年から、見本的な輸出が行われていた。
  輸出先は、ドイツ・イギリス・アメリカ。
  注文待ちの形ではなく、どの様な需要があるかを考え
 て、積極的に売り込んだ。
  そして、輸出を本格化させて行った。
  1881年に、森村商事が、米国でモリムラ・ブラザーズ
 を立ち上げた。
  1880年代半ば~1890年代半ばにかけて、アメリカに輸
 出された竹材のうち、
  特に、盛んに取引されたのは、箒(ほうき)柄竹だっ
 た。
  当時のアメリカの需要は、年間4,000万本といわれた中
 で、日本からの輸出は1,000万本を占めた(アメリカ市
 場における、日本商品のシェア25パーセント)。
  いくら集荷しても供給が追い付かないという状況だっ
 た。
  しかし、残念なことに、この箒のアメリカ市場の最後
 は、日本の業者間の安値競争と、その多い需要に応える
 ため、粗悪品を輸出したため、信用を失い、まったく注
 文が来ないという状況となった。
・船会社が運賃協定をはかる。
  1880年頃の関西を起点とした航路に就航していた船は、
 110余隻、70余名の船主に達していた。
  この頃は、三菱と共同運輸の双方が、横浜を中心に激
 しい競争を繰り広げていた。
  日本の船会社は、満身創痍の状態で、この様な事では
 外国汽船会社に漁父の利を与えかねないと、政府首脳や
 両社の社長が話し合いを重ねた。
  1885年に漸く、両社が合併して、日本郵船会社を設立
 した。
 この日本郵船会社は、日本の海運業界のガリバー的存在
 で、三菱会社から汽船29隻、帆船1隻を、
  そして、共同運輸から汽船29隻、帆船10隻の合計69隻
 を保有していた。
  この日本郵船会社は、半官半民に近く、正副社長や理
 事は、保証期間中、政府が特命することになっていた。
  また、航路の開設についても、政府の命令に従ってい
 た。
  そして、この日本郵船会社が、圧倒的な大きさを誇る
 一方で、
  瀬戸内を中心とした船主は、互いに競争したり、協調
 したりを繰り返していた。
・二人乗自転車について、東京の新聞が、珍しげに記事を
 かかげた。
  現在の自転車の原形である『安全型自転車』が出来上
 がったのは1885年(明治18年)で、
  この時期に、日本への輸入も始まっている。
  国産化も早く進み、宮田製銃所(現:宮田工業)が、
 国産第1号を製作したのは、1890年(明治23年)。
・大阪鉄工所・小野田セメント・日本鉄道・大日本農会な
 ど設立された。
  後に、日立造船となる大阪鉄工所が、1881年に、イギ
 リス人のE・ハンターによって創立した。
  また、この年に、小野田セメントの前身の会社が、毛
 利藩士族・笠井順八によって、「セメント製造会社」と
 して山口県小野田に創立された。
  日本での最初の民間セメント会社で、1891年に、「小
 野田セメント製造会社」に改称した。
  また、日本初の私鉄である「日本鉄道」が、この年に、
 設立された。
  日本鉄道は、今・現在のJR東日本の路線の多くを建設・
 運営していた会社。
  また、公益社団法人の大日本農会が、この年の4月5日
 に設立され、我が国で最も古い団体となっている。
・パスツールが、狂犬病ワクチンを完成させた。
  1879年、パスツールが57歳の時、ニワトリコレラ菌の
 研究から、「弱毒性の病原体で免疫ができる」ことを発
 見した。
  1880年の58歳に至り、狂犬病の研究を始めた。
  そして、1881年2月、炭そ病のワクチンを開発した。
  そして、1885年7月6日、狂犬病にかまれたメイステル
 少年が来て、
  パスツールは、初めて人間に狂犬病のワクチンを注射
 した。
  メイステルは回復し、
  世界中から狂犬病の患者が押し寄せる状況となった。
  そして、1886年に、狂犬病治療、および、研究のため、
 パスツール研究所を設立した。
  1888年、パスツール研究所は完成した。
・ピカソが生まれた(1881年~1973年)
  スペインの画家のパブロ・ピカソが、スペインのマラ
 ガに生まれた(1881年10月25日)。
1881年1月4日、警察庁再設置(1月14日説あり)
  内務省の一部局となっていた東京警視本署が、警視庁
 として再び設置された。  
  設置(1874年)  内務省移管(1877年)
  東京に警視庁を設け憲兵を置く。
1881年1月15日、初代の警視総監として陸軍少将・樺山資紀
 が任命された。
  警察関係の整備が盛んに行なわれた。
1881年1月17日、明治法律学校(めいじほうりつがっこう、
 現在の明治大学)が、東京麹町有楽町に開校した。
  自由民権運動と強い関わりを持つ。
  私立の法律学校(校長:岸本辰雄)
1881年1月26日、東京大火(明治最大)
  神田より深川に延焼し、1万5200戸を焼失。
  神田区松枝町から出火した火は、折から北西の強風に
 あおられて瞬く間に東神田一帯を焼きつくし、
  日本橋馬喰町、横山町へと延焼し、神田川沿いの元柳
 町、吉川町から両国橋を越えて本所、深川に及んだ。
  この火災による被害は、神田、日本橋、本所、深川の
 4区52ヶ町におよび、全焼1万673戸、焼損面積12万7697
 坪(42万1400平方メートル)、
  被災者数3万6542人に達し、明治期最大の大火となった。
  この大火は、火元の町名をとって神田松枝町の大火と
 一般に呼ばれた。
1881年1月、記念祭・記念碑・記念盃などの語が流行する。
  それまでは「記念」を「かたみ」と読んでいたが、下
 記の様に「きねん」と呼びだしたという。
  『読売新聞』は1878年9月に大津の三井寺に「西南戦死
 人の記念碑(きねんひ)」が完成したという記事を、翌
 月には「学習院の紀念式(きねんしき)」が行われたと
 いう記事を掲載している。
  1879年に創刊された『朝日新聞』では、同年2月に大阪
 鎮台の有志が中之島に「紀念碑(きねんひ)」「明治記
 念標(きねんひょう)」の建設を計画中という記事が確
 認できる。
1881年2月2日、出版・雑誌統制
  新聞紙・雑誌などを内務省警保局へ納付方令達、検閲
 の強化。
  内務省警保局への新聞・雑誌等納入を命ず。
1881年2月11日、東京神田大火(7700戸焼失)
  東京・神田小柳町から出火。
  松枝町の大火からわずか半月後の明治14年2月11日に、
 神田区で大火が発生し、また、さかのぼって、その約1ヶ
 月前の、1880年(明治13年)12月30日にも、神田区で大
 火が発生している。
1881年2月21日、東京・四谷の大火
  東京・四谷箪笥町より出火して、1500戸焼失。
  午後8時ごろ、箪笥町22番地から出火、四谷から麹町に
 かけて延焼し、11時40分鎮火。
  10か町1496戸、6万7305平方m余(2万360坪余)を焼失。
1881年2月28日、ウラジオストク~長崎の航路が、日本郵船
 の前身・郵便汽船三菱会社により開設された。
  汽船1隻で3週に1回、両港を出港。
  朝鮮の釜山や元山に寄港。冬季は元山止り。
  長崎で横浜上海線、長崎天津線に連絡。
  1889年に、神戸まで延長し、
  また、1907年(明治40年)4月に、敦賀起点の直行便が
 大阪商船により開設し、長崎線が大きく後退した。
1881年2月、綿糖糸茶共進会の開催(山梨・静岡・愛知・三
 重県の連合)
1881年3月1日、第2回・内国勧業博覧会
  期間:3月1日~6月30日、会場:東京・上野公園
  コンドル設計の博物館新館(旧本館)が竣工し、美術
 館として使用された。
1881年3月11日、憲兵本部を東京に創設し、憲兵中佐・三間
 正弘を部長に任命した。
  フランスの国家憲兵制度(フランス国家憲兵隊)を範
 として、憲兵条例により設置された。
  憲兵制度は、竹橋事件の影響や、自由民権運動の牽制、
 警視庁の薩摩閥勢力の減殺などのために創設されたとも
 いわれる。
  憲兵は、軍組織内において警察活動を行い、特定の任
 務を果す特別部隊。
  通常、各国とも、軍隊内部の犯罪捜査、脱走兵の逮捕、
 軍刑務所の管理と警備、軍交通の整理、防諜、軍事施設
 の警備などの任務が与えられている。
  通常は、一般警察権の及ばない軍隊内や、軍隊に関係
 ある行政警察、司法警察の業務を併せ行う。
  (参考)行政警察:広義では、犯罪の捜査および被疑
 者の逮捕の作用である司法警察に対して、公共の安全と
 秩序を維持するために、一般統治権に基づいて、人の自
 然の自由を制限する作用を行政警察という (行政法学上
 の警察) 。
  司法警察:警察権の発動に基づく諸活動のうち、犯罪
 事件の捜査、被疑者の逮捕、身柄拘束のための対人的強
 制処分令状の執行などのほか、裁判所、検察官の命ずる
 法定事務も合せて総称する。行政警察に対するもの。
  統治権:(1)国土・国民を治める権利。
 (2)最高の権威、または、国家の主権と同義、または、
 類似の概念であるが、国家、政府、独立、民主主義など
 と関連して政治学や国際法において最も論争の多い言葉。
 (3)国民、および、国土を支配する権利。主権とか国権
 とよばれることもあり、また私法上の権利と区別された
 公法上の権利であるという意味で高権とよばれることも
 ある。国民に対する支配権を対人高権、領土に対する支
 配権を領土高権という。
1881年3月18日、東洋自由新聞(とうようじゆうしんぶん)
 が創刊された(2月18日説あり)
  自由民権派の日刊新聞。
1881年3月27日、越後・出雲崎の大火(約540戸焼失、死者
 26名)
1881年3月、参議・大隈重信が、早期国会開設・政党内閣制
 を内容とする意見書を出す。
  独断での即時国会開設の意見書の提出であったため、
 政府部内はもめた。そして、分裂した。
  1881年は、開拓使の「官有物払下げ事件」が明るみに
 出たことに対し、参議の大隈重信は、新聞も用いて、開
 拓使長官の黒田清隆を鋭く批判した。
  また、早期の国会開設を主張した。
  その内容は、イギリス流議院内閣制にもとづく憲法の
 制定と、国会の一刻も早い開設を主張する・・大隈の意
 見だった。
  この意見に対し、伊藤博文の考えは、ドイツ流の君主
 大権をのこしたビスマルク憲法を範とすべきとした。
  また、国会開設は時期尚早であり、立憲政体の整備は
 漸進的に進めるべきだとした。
  結果的に、伊藤が、大隈を政府から追放する事件「明
 治十四年の政変」に発展し、大隈は政府を去ることにな
 った。
  これは、大久保利通暗殺後の、政府部内の主導権争い
 でもあったが、
  世論がこの事件に対して激化し、
  また、自由民権運動が、さらに高揚の様相を呈したた
 め、政府は、近い将来の議会制度確立を約束し、運動の
 尖鋭化を抑えようとした。
..
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by suba28 | 2016-06-11 05:20 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)364E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年11月~1880年12月)

題:(増補版)364E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年11月~1880年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1880年12月14日 伊藤博文が、立憲政体に関し建白した。
  概歴を記すと・・、
  1875年に、大久保利通・伊藤博文・木戸孝允・板垣退
 助らの大阪会議での合意に基づいて、
  続いて、1875年4月14日に、明治天皇陛下が出された立
 憲政体の詔書によって、
  1875年4月25日、左院にかわり設置された元老院が、
  1876年(明治9年)9月、この元老院に対し、「国憲起
 草の詔」が発せられた。これによって、憲法制定の第一
 歩が踏み出された。
  日本は、比較的、明治の早い時期に、憲法制定に関す
 る意思を示していた。
  また、この時期は、1874年(明治7年)1月17日の民撰
 議院設立建白の後で、自由民権運動の機運が盛り上がろ
 うとする時期だった。
  そして、元老院は、1876年のこの時に、国憲取調委員
 を置いて、各国の憲法を調べ、
  1876年10月に、「日本国憲按(にほんこくけんあん)」
 と題する「憲法第一次草案」を奏上した。
  さらに、1878年に第二次草案をつくった。
  しかし、この案は、岩倉具視らの強い反対を受け、我
 が国の国体に十分適合するものではないとして、成案と
 なるに至らなかった。
  さらに再修正され、1880年に「日本国憲按」(第三次
 確定案)として奏上された(成案とならず)。
  1881年(明治14年)10月12日には、国会開設の勅諭が
 発せられ、政府として、憲法制定の本格的準備を進めて
 行く。
  憲法制定という、法典の中心をなす近代憲法の制定の
 動きは、上記の様に、1874年の民撰議院設立建白書に触
 発されたが・・、
  しかし、政府は、急速な憲法制定を望まず、漸進主義
 をとっていた。
  1875年に設立された元老院が、この方針の下で憲法案
 の作成の立場にあったが・・、
  そして、ベルギー憲法、プロイセン憲法に範をとった
 「日本国憲按」が、1876年、そして、1878年にできたが、
  その立憲的傾向は、岩倉具視などのいれるところでは
 なかった。 
  他方、明治10年代(1877年代)に活発化した自由民権
 運動の中から、
  イギリスやフランスの憲法に影響をうけたさまざまな
 憲法私案(私擬憲法)が発表された。
  その憲法私案は、また、政府の採るところではなく、
 自由民権運動自体が、やがて抑圧されていった。
  この様な中で、伊藤博文が浮上してくる。
  1877年(明治10年)には、木戸が没し、
  また、同年の1877年には、西南戦争で西郷隆盛が敗死
 し、
  翌・1878年(明治11年)5月14日には、大久保も暗殺さ
 れた。
  伊藤博文は、この様な状況の中で、この頃の1878年5月
 15日に、二度目の内務卿を、大久保亡き後に継承し、維
 新の三傑なき後の明治政府の指導者の1人として、政治に
 否応なく、大いに関わって行った。
  1881年(明治14年)1月、伊藤博文は、日本の立憲体制
 をどう作るかを、井上馨や大隈重信と熱海で会談した。
  しかし、大隈が、急進的な構想を内密に提出して、独
 走するようになると、政界追放を決め、1881年10月に大
 隈下野の目的を果たした。
  そして、政府の重責を担(にな)って行く。
  伊藤は、1882年(明治15年)3月3日に、明治天皇陛下
 から憲法調査のための渡欧を命じられた。
  1882年3月14日、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直
 胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東
 巳代治らの随員を伴い、ヨーロッパへ向けて出発した。
  はじめ、ベルリン大学の公法学者ルドルフ・フォン・
 グナイストに教示を乞い、
  そして、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐
 条的講義を受けた。
  後に、ウィーン大学の国家学教授・憲法学者であるロ
 ーレンツ・フォン・シュタインに師事し、歴史法学や行
 政について学んだ。
  これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝
 国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつなが
 った。
  その後、伊藤博文は、1885年12月22日に、内閣制度を
 創設し、初代の首相(組閣4回)となった。
  そして、枢密院の設置(1888年に創設)し、大日本帝
 国憲法の制定をして行った(1889年2月11日に公布、1890
 年11月29日に施行)。
  伊藤は、日本の近代国家の枠組みを作って行った。
  不平等条約の条約改正も実現して行った。
1880年12月15日 河野広中、松田正久、沼間守一などが、東
 京において、自由党の盟約を成立させた。
  自由党は、日本最初の全国的な自由主義の政党だった。
  国会開設運動が全国的に高揚した自由民権運動の中の
 この時・1880年に始まった。
  植木枝盛らから、全国に拡大した運動の組織を強化す
 るため、
  国会期成同盟を改組して、自由主義を標榜する政党を
 組織すべしとする意見が提出された。
  そして、国会論・財政論の対立に、開拓使官有物払下
 問題が加わって引き起こされた「明治14年の政変」によ
 り、国会開設の勅諭が発布される1881年10月12日に相前
 後して、この提案は議決され、
  次いで、自由党の盟約・規則の審議が行われ、組織され
 た。
  そして、重要な役割を果たした。
   1881年10月18日に、板垣退助・中島信行・後藤象二郎・
 末広重恭・馬場辰猪らが結成した。
  総理は板垣で、
  中央機関紙の『自由新聞』を発行した。
  しかし、1884年(明治17年)には、日本最初の近代政
 党は解散となる。
  急進派の行動を抑えることが出来なかったのが理由。
1880年12月23日、「集會條例」改正
  警視長官・地方長官に、「政治結社解散権」と、「管
 内における1年以内の演説禁止権を与える」ように改正さ
 れた。
1880年12月24日 大阪大火(南区に出火、約3000戸焼失)
  島之内出火:南区笠屋町約3000戸焼失
1880年12月28日、「教育令」改正
  改正教育令、公布(国家統制が強化される)
  河野敏鎌(こうのとがま)文部卿の手で、再度、国家管
 理強化の方向に改正された。
  太政官布告59号をもって改正し (通称、改正教育令) 、
 地方官の権限を強め、また、就学義務などを強化した。
   1886年になって、初代文部大臣・森有礼(もりありの
 り)の制定した「小学校令」の結果、廃止されるに至る。
1880年12月30日 東京・神田・日本橋で大火
  神田区で大火が発生し、神田、日本橋一帯の町家2188
 戸を焼失し、
  焼損面積2万5100坪(8万2830平方メートル)の大火と
 なった。
  さらに、松枝町の大火からわずか半月後の明治14年2月
 11日にも、神田区で大火が発生している。
  この大火によって、神田・日本橋両区の48か町、7751
 戸が全焼し、焼損面積は8万8328坪(29万1482平方メート
 ル)に達した。
  わずか40日ほどの間に3件の大火が発生し、この大火
 だけで79万5712平方メートルを焼失したというのだから
 凄まじい状況だった。何かがあったのか??
1880年4月23日、イギリスに、ウィリアム・グラッドストン
 の第二次内閣ができた。
  1880年の総選挙で、自由党が大勝したため、第二次グ
 ラッドストン内閣を組閣した。
  アイルランド土地法を改正し、アイルランド小作農の
 地代を地代法廷で決めるなど、小作農保護を強化した。
  また、選挙区割りについて、野党保守党に妥協するこ
 とで第三次選挙法改正を達成し、男子普通選挙に近い状
 態を実現した。
  グラッドストンは、小英国主義者であり、帝国主義に
 は消極的だったが、
  オラービー革命が発生したエジプトには派兵し、革命
 を鎮圧してエジプトを半植民地とした。
  一方、マフディーの反乱が発生したスーダンは、放棄
 を決定し、
  国民的英雄チャールズ・ゴードン将軍を同地に派遣し、
 スーダン駐屯エジプト軍の撤退の指揮をとらせようとし
 たが、
  ゴードンは、撤退しようとせずにいた。
  そして、戦死してしまったため、内閣支持率に大きな
 打撃を受けた。
  1885年に、強行策のアイルランド強圧法を制定しよう
 とした。
  このことにアイルランド国民党は反発した。
  そして、ソールズベリー侯爵が率いる保守党との連携
 に動いた結果、議会で敗北し、総辞職した。
1880年、ハインリッヒ・ヘルツ(ドイツの物理学者)がラ
 ジオを発明した。
  以上のような情報があるが・・? おかしい??
  無線での音声放送(ラジオ)を世界で初めて実現した
 のは元エジソンの会社の技師だったカナダ生まれの電気
 技術者レジナルド・フェッセンデンという情報もある。
  レジナルドは、1900年に、歪みはひどいものの、最初
 の通信テストに成功した・・とある。
   そして、彼は、引き続き、ヘテロダイン検波方式や、
 電動式の高周波発振器を開発して、ラジオの改良に取り
 組んだ・・とある。
  そして、1906年12月24日に、アメリカ・マサチューセ
 ッツ州の自己の無線局から、自らのクリスマスの挨拶を
 ラジオ放送し、
  フェッセンデンは、この日、レコードでヘンデル作曲
 の「ラルゴ」を、そして、自身のバイオリンと歌で
 “O Holy Night”を電波に乗せた・・とある。
  そして、偶然に傍受した無線技術者たちを驚かせたこ
 の放送は、「世界初のクリスマス特別番組」で、フェッ
 センデンは「史上初のラジオアナウンサー&プロデューサ
 ー」と言える・・とある。
  また、この他に、グリエルモ・マルコーニ(イタリア
 の無線研究家)は、激しい無線送信距離競走の中、
  イギリスの資本と国力を背景に実用化を試み、成功さ
 せた・・とある。
  1901年12月12日、イギリス(ワイト島)からカナダニ
 ューファンドランドへ、
  大西洋を3000km横断する無線通信の実験を、25kwの出
 力で成功させた・・とある。
  1909年には、無線通信の発展に貢献したとして、ブラ
 ウンとともにノーベル物理学賞を受賞した・・とある。
  wikipediaは、元エジソンの会社の技師だったレジナル
 ド・フェッセンデンを最初の成功者としている。
  しかし、YAMAHAのホームページには、イタリアのグリ
 エルモ・マルコーニが、
  1896年に、イギリスで無線通信に関する特許を取得し
 たことをもって、発明者だと記している。
1880年頃、19世紀後半、ドイツの富豪ハインリヒ・シュリ
 ーマンが、私財を費やして、幼いころから夢に見ていた
 トロイアや、ミケーネの遺跡を発見した。
  彼は、ドイツの考古学者・実業家とされている。
  幼少期に聞かされたギリシア神話に登場する伝説の都
 市トロイアが実在すると考え、実際にそれを発掘によっ
 て実在していたものと証明した・・とある。
  しかし、これは、彼の功名心から、後から作られた話
 で、
  当時は、すでに、トロイアの遺跡の発掘は行われてい
 た。
  「トロイアの実在説」は、荒唐無稽なものではなかっ
 た・・と。
  この人の嘘は数多い、発掘の調査費を出すために、貿
 易などの事業に奔走しつつ、ホメーロスの「イーリアス」
 の研究と語学にいそしんだと・・、
  自作の著書に何度も書き、また、講演でも繰り返した
 が、
  実際には、発掘調査に必要な費用が用意できたので事
 業をたたんだのではなく、
  事業をたたんでから、遺跡発掘を思いついた・・など。
19世紀末頃、アメリカ合衆国が、フィリピンを植民地にす
 る。
  フィリピンが、19世紀末の米西戦争の結果、アメリカ
 の植民地となった。
  19世紀末の「フィリピン独立の父とされるホセ・リサ
 ール」・・、
  リサールは、1896年12月30日に銃殺された。
  1898年、米西戦争勃発により、アメリカ合衆国は、エ
 ミリオ・アギナルドらの独立運動を利用するため支援し
 た。
  しかし、実際は、後に判明するように、アメリカが、
 スペインからフィリピンを奪って、自国の植民地にする
 ことが目的だった。
19世紀になって、産業革命、各国はこれに追随した。
  産業革命は、一国内現象ではなく、原料獲得と廉価な
 工場製品の輸出で成立する世界システムであり、
  先進国の工業化は、後進地域の伝統産業や社会を破壊
 した。
  先進国の、後進国への破壊と搾取となった。
  イギリスによる、インドの綿産業の壊滅行為は、最大
 の不幸だった。
19世紀末以後の中国では、革命思想が高まり、多くの組織
 が出来上がっていた。
  1911年に、武昌で起こった反乱(第一革命)に各地で
 呼応し、辛亥革命が始まった。
  1912年1月、帰国した孫文が、南京で臨時大総統となり、
 中華民国の成立を宣言したが、
  清朝北洋軍閥の袁世凱が、その地位を奪い、清朝皇帝
 を退位させた。
1880年代、ヨーロッパは、18世紀末ごろから、アフリカの
 内陸部に対する興味を深めた。
  19世紀半ばには、ディヴィッド・リビングストンや、
 ヘンリー・スタンリーらの探検家が現れた。
  キリスト教の布教を目的としていた。
  1880年代から、第一次世界大戦前の1912年までにかけ、
 ヨーロッパの帝国主義の列強によって激しく争われたア
 フリカ地域の争奪と植民地化行為、修羅の奪い合いの行
 為だった。。
  イギリス、スペイン、ポルトガル、イタリア、フラン
 ス、ドイツ、ベルギーが、この悪の分割行為国だった。
1880年、アメリカ・インディアンは、そのすべての部族が、
 アメリカ軍に統制された。
  この先住民の方々は、奴隷状態に陥らされ、WASPの
 都合の良い様に処せられた。
  そして、居留地に移動させられ、
  また、卑劣な事に、再移動を繰り返された。
  これは、完全に、本来の持ち主からの略奪行為であっ
 た。
  そして、卑劣な事に、この移住の地は、まったく肥沃
 ではなく、その様な地を選んで移動させた。
  また、鉱物資源もなく、最小の土地を与えた。
  当然、インディアンの方々は、食糧自給が出来る訳が
 なく、土地を略奪した白人・アメリカ人(WASP)は、
  食料をアメリカ・インディアンの方々へ与えたが、救
 助などと呼ぶべきものではなかった。
  救助すべき状況に陥らせて「救助」と称した。
  しかし、白人・アメリカ人は、あくまで「救助」と称
 した。
  可哀想なことに、インディアンの方々は、やむなく、
 その食料に頼るしかなく、
  また、白人・アメリカ人の役人のなすがままの状況に
 なって行った、陥って行った。
  戦いの戦士は、今は居ない状況だった。
  アメリカ・インディアンの方々の生活状況は、全く不
 安定の中に置かれた。
  白人アメリカ人たちが、自分たちが利得したいという
 事によって、アメリカ・インディアンの方々が自給でき
 ていた領土を奪い、その利を横取りし、救援と称して、
 インディアンの方々へ全く不安定な生活に陥らせて、食
 料を与えた。
  まったく、ひどい話ではないか・・、
  インディアンの方々に、居留地と言う名の牢獄から、
 拘束された生活から、悲鳴と苦悩が生まれた。
  インディアンの方々は、祈るしかなかった。
  「もうすぐ春が来れば偉大な精霊が訪れ、狩猟の獲物
 たちが走り回る大地を取り戻してくれるだろう。
  そして、死んだ同胞たちもふたたびこの世によみがえ
 るだろう」・・と。
  インディアンの殺戮史が展開するアメリカ合衆国だっ
 た。
  人間性のかけらもない土地だった。
  豊かな土地は白人のもの。
  広大な領土を奪い、わずかな不毛の土地を与えること
 をしでかしていた。
  世界記憶遺産(ユネスコ記憶遺産)に登録せよ・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-06-09 14:10 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)363E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年7月~1880年11月)

題:(増補版)363E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年7月~1880年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1880年8月5日、「海員掖済会(えきさいかい)」の設立。
  前島密ほか、明治政府の要人や海運界首脳の約50名が
 発起人となり「海員掖済会」が設立され、
  わが国海運の振興を図るためや、海員に対する福利厚
 生が目的とされた。
  掖済の「掖」は、「たすける、よい方へ導く」、「済」
 は、「たすける、救う」の意。
  1881年(明治14年)6月、東京府南品川の心海寺の一部
 を借り受け、「海員寄宿所」を開設。
  実質的な事業の開始となる。
  海員の寄宿と、乗船の斡旋事業を開始した。
  高等海員養成所を併設し、高等海員の養成も着手した。
  後に、横浜、大阪、神戸、長崎と、相次いで海員寄宿
 所を設け、主要な港に配置し終えた。
  1886年(明治20年)3月、有栖川宮威仁親王を本会総裁
 に迎え、会名を「日本海員掖済会」と改称した。
  1898年(明治31年)10月20日、民法施行法の規定によ
 り社団法人の認可を受け、法人登記第1号となった(10
 月27日説あり)
  掖済会は、民法施行前からの独立の財産を有する社団
 として、民法施行法の規定により第1号になった。
  後に、海員に対する宿泊、職業紹介や、海員の養成、
 表彰、援護、医療等、海員の福利厚生に関する事業を網
 羅的に行なった。
1880年8月7日、新潟の大火(約5500戸焼失)
  新潟大川前通りで大火。焼失6200戸。
1880年8月8日、柏崎で大火。焼失2700戸。
1880年8月18日、日清両代表が、琉球事件を商議(協議)
 する。
  日本は、「琉球は日本に属し、中国が主張する琉球と
 の朝貢関係は属国関係とは言えない」と説明した。
  また、「琉球が、元来日本に属している」ことを説明
 した。
  江戸時代に朝鮮通信使というものがあった。
  これは、正式名称を「朝鮮聘礼使」と言う。
  聘礼(へいれい)は、結納のような贈り物を意味する。
  「朝貢(ちょうこう)」も「外国の使者などが貢物を
 差し出すこと」の意味で、これを属国関係とは、到底、
 言えない。
  この件は、後に、不幸にして起きた日清戦争で、
  日本と清国は、その条約において、朝鮮は完全な独立
 自主の国であると確認され、
  そして、この朝鮮も含め、また、台湾(日本のものと
 なる)も含めて、すべてが完全決着した。
  そして、台湾の方々を、日本人と見なすことも確認さ
 れ、条約が調印された。
1880年8月24日、三條西季知(さんじょうにしすえとも、公
 卿)が没した(70歳)
  幕末に、尊王攘夷派として活躍し、8月18日の政変で、
 七卿落ちの一人として、三条実美らと長州へ西走した。
  明治天皇陛下の侍従となる。
1880年8月28日、バイオリンの初国産
  東京・深川の楽器職人・松永定次郎が、初の国産バイ
 オリンを制作した。
  お茶の水のニコライ堂の楽士・デミチリーが持つバイ
 オリンを研究した末の作。
  後に、提琴(ていきん)と呼ばれ、上流階級の子女が
 習い、広まった。
1880年8月31日、エジソンの白熱電燈に特許権
1880年8月、東京・京橋に専修学校(現=専修大学)が開校
 (9月16日説あり)
  簿記夜学講習校(京橋区南鍋町)の仮校舎で挙行され
 たこの日を、専修大学の創立記念日とした。
  「明治13年(1880年)9月に、京橋区木挽町にあった明
 治会堂において開学しました」との挨拶の言葉もある。
1880年9月12日、東京・神田に東京法学社(現=法政大学)
 が開校(4月説あり、また、1881年5月説あり)
  また、東京法学校(とうきょうほうがっこう)は、
 1881年(明治14年)5月、東京法学社を母体として、薩埵
 正邦らにより東京府に設立された私立法律学校。
  現在の法政大学の前身である」・・の、説明文もある。
1880年9月15日、最初の美術学校、京都府画学校創立(現在
 の京都市立芸術大学)
  以下の説明文がある・・、
  「美術学部は、1880年(明治13年)に創設の京都府の
 画学校が起源。
  6月に、太政大臣三条実美により「日本最初京都画学校」
 と命名され、
  7月に、京都御苑内の旧准后里御殿仮校舎で開校式が行
 われた」。
1880年9月1日、『信濃毎日新報(しなのまいにちしんぽう
 )』が創刊した。
  「信濃毎日新報は、1880年9月1日~1881年5月25日まで
 刊行されていた地方新聞で、信濃毎日新聞の前身の一つ
 である」との説明文がある。
1880年10月8日、小笠原諸島が、東京府に編入された。
  1880年(明治13年)10月8日、内務省から小笠原諸島を
 引継ぎ、
  同年・1880年10月28日に、出張所を設置した。
1880年10月22日、新聞・雑誌の処分
  政治的取締りのほか、風俗を壊乱(かいらん、秩序・
 風俗などを乱すこと)の新聞・雑誌も、発行禁止・停止
 の行政処分を行う事が決められた。
1880年10月25日、「君が代」が完成。
  「君が代」に曲がつけられる。
  司馬遼太郎の本「坂の上の雲(鎮海湾)」に・・、
  「三笠の乗組を構成しているなかで、軍楽隊というグ
 ループがある。(中略)
  航海中、軍楽隊としての日常的な任務が毎日二度あっ
 た。
  軍艦旗が午前八時にあげられ、日没時におろされる。
  そのつど軍楽隊は「君が代」を演奏するのである。
  あとは水兵と一緒に甲板をかけまわって訓練をうけた」
 ・・と。
  「君が代」は、英国人フェントンが、国歌の必要を説
 いた。
  そして、薩摩琵琶歌『蓬莱山』中から歌詞が採用され、
 作曲を試みたが、
  海軍から、相応しい楽曲でないとされた。
  そして、11月に至って、宮内省による曲が演奏された。
1880年11月3日、天長節御宴会において、海軍省から「君が
 代」作曲の委嘱をうけていた宮内省は、雅楽課の林広守
 の旋律を採用し、初演奏を行った。
  そして、この旋律は、ドイツ人音楽教師・エッケルト
 が和声を付し編曲して、海軍省軍楽稽古場で初めて試演
 されていた。
  1885年に制定され、「陸海軍喇叭(ラッパ)吹奏歌」
 の第一号に定められた。
  1888年には、吹奏楽譜が、海軍省から諸外国へ「大日
 本礼式」として送付した。
  1893年8月、文部省も、小学校の祝日大祭日唱歌の一つ
 として定めた。
  1890年代は、「君が代」を国歌と見なし、
  昭和の初期に至って、国歌となった。
  天長節前の10月30日に、宮内省雅楽課の林広守が編曲
 した「君が代」が採用されていた。
  君が代の歌詞が採用された『薩摩琵琶歌大全』には・・、
  めでたやな、君が恵みは久方の、光り長閑き春の日に、
 不老門を立出で、四方の景色を詠むれば、
 峰の小松に雛鶴(ひなづる)棲みて、谷の小川に亀遊ぶ、
  君が代は、千代に八千代にさざれ石の、巌となりて苔
 のむすまで、
 命長らへて、雨塊を破らず、風枝を鳴らさじと、いへば
 また、
  尭舜(ぎょうしゅん、徳をもって理想的な仁政を行な
 い、後世の帝王の模範とされた中国古代の伝説上の王)
 の御代も斯あらむ、
  かほと治まる御代なれば、千草萬木花咲き実のり、
 五穀は國にみちみちて上には金殿桜閣甍(いらか、家の
 上棟)をならべ、
  下には民の竈(かま、煮炊きをするところ)賑ひて賑
 ひて、仁義正しき御代の春、
  蓬莱山(ほうらいさん、中国、古代における想像上の
 神山、仙人が住み、不死の薬をつくっており、宮殿は金
 玉、白色の鳥獣がおり、玉の木が生えているという)と
 は是とかや、君が代の、千とせの松も常盤色、
  かはらぬ御代のためしには、天長地久(てんちょうち
 きゅう、天地が永久に不変であるように、物事がいつま
 でも変わらずに続くこと)と、
  国も豊に治まりて、弓は袋に、剣は箱に蔵め置く(戦
 争もまったくなく)、
  諌鼓苔深ふして(君主の善政により諌鼓を鳴らす必要
 がなくて苔が生えるほど、世の中がよく治まっているた
 とえ)、鳥もなかなか驚くやうぞ無かりける
1880年11月5日、「工場払下概則(こうじょうはらいさげ
 がいそく)」が制定される。
  官営工場払下概則:官営模範工場の払い下げ。
  この日に、布達された太政官(だじょうかん)布告(第
 48号)で、当時、政府が官営の鉱山、工場を民間に払い
 下げる契機となった法令。
  1870年代なかば以降、資本主義育成のための殖産興業
 政策が展開される過程で、
  財政節減と、民間産業奨励のため、政府は、それまで
 官営であった諸施設を、民間へ払い下げることを決定し
 た。
  しかし、営業資本の即時納入を前提とするなど、その
 条件が厳しかったため、払受け希望者がきわめて少なか
 った。
  その結果、同法令は、4年後に廃止され、
  以後、官営事業の民間払下げは、個別の事例ごとに承
 認される形をとった。
  また、西南戦争の戦費がかさんだため、その戦費をま
 かなうため、余儀なくされた予備紙幣の繰替発行(2700万
 円)と、第十五国立銀行からの借入れ(1500万円)は、流通
 紙幣量を一挙に増加させた。
  そして、その為、インフレーションが促進させた。
  そのため政府は、1880年秋から、政府紙幣の整理に本
 格的に取り組み、
  増税や、一部経費の府県への振替えなどによって、歳
 出余剰の捻出に努めるとともに、
  別に「工場払下概則」を定め(11月5日)、「工業勧誘ノ
 為メ政府ニ於テ設置シタル工場」を、漸次、民間に払い
 下げることになった。
  これにともなって、1881年4月、農商管理事務の統一の
 ため農商務省が設置され、内務省所管の直営事業所をす
 べて引き継いだ。
1880年11月10日 東京馬車鉄道(とうきょうばしゃてつどう)
 の設立が認可された。
  東京馬車鉄道は、日本初の馬車鉄道であるとともに、
 日本初の私鉄でもある。
  1880年2月13日に、発起人:種田誠一他3人が、松田道
 之東京府知事に敷設願を提出し、そして、設立された。
  予定する馬180頭と、馬車30両を、収容可能な車庫兼厩
 舎を設備する土地を用立てるのが容易ではなかった。
  出願した路線は三路線で、
  (1)新橋停車場(後の汐留駅)~新橋、京橋、日本橋、
 昌平橋、御成り通り~上野公園(後の上野恩賜公園)、
 下谷広徳寺前を抜け、浅草広小路(現:雷門通り)へ達
 する甲路線と、
  (2)甲路線と並行区間(新橋停車場~本町三丁目)か
 ら分岐し大伝馬町通り、浅草橋を経て、御蔵前通りを右
 折、浅草橋に至り蔵前、浅草広小路の乙路線と、
  (3)新橋停車場~新橋、乙路線と並行区間から右折し
 京橋~炭屋橋を越え、日本橋東仲通り出て、江戸橋~伊
 勢町河岸通り~馬喰町通りを右折、浅草橋に至り乙路線
 と並行・合流する丙路線・・の三つの路線が開業路線だ
 った。
  営業開始は、1882年(明治15年)6月25日に、新橋と日
 本橋の間を結んで営業が開始された。
1880年11月10日 国会期成同盟・第ニ回大会開かれる。
  國會期成同盟 第2回大会が、東京の元愛国社支社で開
 かれた。
  2府22県から各地の政治結社を代表する64人が参加し、
 国会開設請願を求める約13万人の署名が集まった。
  この大会で、議長に河野広中が選ばれ、
  そして、
  (1)運動で弾圧を受けた者や、その家族を扶助する
 ことを規定した「遭変者扶助法」が定められた。
  (2)合議書が制定されて、国会期成同盟の名称を「大
 日本国会期成有志公会」と改称する事、
  (3)本部を東京西紺屋町に置く事、
  (4)次回大会までに、各々の政治結社が、憲法私案
 (私擬憲法)を作成して持ち寄る事、
  (5)国会開設が実現するまで会を解散しない事・・な
 どが決まった。
1880年11月28日、幌内鉄道・手宮~札幌間が開通した。
  北海道鉄道の始まり。
  北海道最初の鉄道開通(小樽手宮駅より起工し、札幌
 間までが開通した)
1880年11月、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)が創設
 された。
  五代友厚らによって、大阪府に開設された商業教育機
 関で、
  この商業講習所の開設のきっかけとなったのは、福沢
 諭吉門下で、慶應義塾に学んだ加藤政之助による新聞論
 説であった。
  彼は、1879年8月、編集主幹を務める『大坂新報』紙上
 に社説を掲載し、
  全国の商業の中心として栄える大阪に、なぜ商法学校
 がないのか・・という問題提起を行った。
  同紙の経営者であり、大阪商法会議所(現・大阪商工
 会議所)の初代会頭でもあった五代友厚は、
  加藤の提起に応え、加藤および門田三郎兵衛(豪商)・
 桐原捨三(福沢門下のジャーナリスト)の3名を、仮創立
 事務委員とし、自らは創立員代表として、商業講習所の
 開設準備を進めていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-06-08 03:50 | 皆様とともに 幸せになりたい


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