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(増補版)322E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年5月~1874年5月)

題:(増補版)322E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年5月~1874年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1874年5月(明治7年4月)農民の側に立って闘う人
  田中正造が、岩手県令・島惟精(しまいせい)より無
 罪赦免を言渡される。
  5月9日、叔父に伴われ5年ぶりに小中村に帰郷(3月9日、
 母さき(55歳)没)、正造の帰郷を待っていた母は、2ヶ
 月前に亡くなっていた。
  隣村・赤見村造酒家・蛭子屋の番頭となる。
  獄中でスマイルズ著中村敬宇訳「西国立志編」熟読す。
  田中正造は、栃木県の名主の家に生まれ、足尾鉱毒事
 件に対し、身を挺して闘った偉人。
  足尾鉱毒問題について、政府と古河財閥に対抗し、被
 害農民の側に立って闘った。
  天皇陛下に直訴までして闘い抜いた。
  因みに、古河財閥系の現在の企業群は、みずほ銀行、
 富士通、富士電機、横浜ゴム、日本軽金属、損害保険ジ
 ャパン日本興亜、古川電気工業、古河機械金属、ADEKA、
 朝日生命保険、東亜ペイント(トウペ)、ファナック、
 古河電池、など、
1874年5月17日(4月2日)この日の閣議で・・、
  木戸は、「台湾一条への連印・・あい辞せり」と閣議
 決定書面への参議としての押印を断った。
  木戸は、1874年6月2日(4月18日)、「内外緩急の序ま
 すます乱れ」との理由で参議の辞表を提出して、下野し
 た。
  また、5日、伊藤は岩倉に手紙を送り、「木戸不承知・・
 私においても・・おのれを曲げ、心中はなはだ不安」と、
 政府の台湾方針への危惧の念を伝えた。
  日本は、1873年に、特命全権大使として副島外務卿が、
 清国に行き、随員の柳原前光を用いて本件を清国に正し
 たが、
  清政府は、漂流した日本人の54人を殺害した本事件に
 ついて・・、
  「台湾人は、化外の民で清政府の責任範囲でない事件
 だ」とした、
  これは、清政府が、実効支配してない管轄地域外での
 事件なのでと責任回避した。
1874年6月15日(5月2日)台湾出兵
  木戸孝允の台湾出兵への反対行動で、政府も一旦は出
 兵中止を決定したが・・、
  西郷従道は、独断での出兵を強行し、長崎に待機して
 いた征討軍約3,000名を出動させた。
  征討軍は、二個大隊であり、うち鎮台兵は一個大隊で
 残りは「植民兵」として、薩摩など九州各地の士族で占
 領地永住を前提に募集・編成されたものであった。
  1874年6月15日(5月2日)に、西郷の命を受けた谷干城・
 赤松則良が率いる主力軍が、江戸幕府から引き継いだ小
 さな軍艦3隻で長崎を出航した。
  政府は、やむなくこれを追認した。
  但し、国立公文書館にある資料には・・、
  1874年5月19日(4月4日)三条実美により台湾蕃地事務
 局が設置された。
  以後の任命は、当時、太政大臣であった三条実美から
 の奉勅(ほうちょく、勅命を奉じること)となった。
  1874年5月20日(4月5日)台湾蕃地事務都督に西郷従道
 が任命された。
  1874年5月21日(4月6日)谷干城と赤松則良に台湾蕃地
 事務局参軍と、西郷従道を輔翼(ほよく、助けること)
 し成功を奏する事を任命。
  1874年5月22日(4月7日)海軍省から、孟春艦、雲揚艦、
 歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から、熊本鎮台所轄
 歩兵一大隊、砲兵一小隊の出兵命令が命じられる・・と
 いう経緯となっている。
  台湾生蕃を伐つ(氷川清話)
  西郷従道(陸軍大輔)を、陸軍中将に昇格させ、台湾
 蛮地事務都督(遠征軍総司令官)に、
  陸軍少将・谷千城と海軍少将赤松則良を参軍に、
  陸軍中佐・佐久間左馬太・陸軍少佐・福島九成を参謀
 に任命。
  リゼンドル推薦のアメリカ軍人のカッセルやワッソン
 が参画した。
  イギリス汽船やアメリカ汽船も用船として参画した。
  リゼンドルを、外務省准2等出仕から台湾蕃地事務局准
 2等出仕(副長官)に配置した。
  柳原前光(やなぎわらさきみつ、華族、外務大丞)に
 与えられた「内勅」:
  一、出兵は「討蕃」のためであって清国と戦争する意
   図がないことを清側に理解させよ。
  二、「蕃地」と清国領台湾との境界が複雑であるため
   に派生する問題を処理せよ。
  三、琉球藩が日本に服属していることを清側に理解さ
   せよ。
  また、西郷都督に与えられた勅命は、
  「我国人を暴殺せし罪を問うこと」、「被害が再発し
 ないように防制の方法を立てる」などだった。
  これらは、米国人のリゼンドルが献策した通りだった。
  そして、また、「今後の日本政府との間に有益の事業
 を興起せしむるを以て目的となすべし」となっている。
  収拾への交渉・・、
  1874年9月(明治7年8月)全権弁理大臣として、大久保
 利通が、北京に赴いて清国政府と交渉した。
  大久保は、米国人リゼンドルとフランス人法学者ボア
 ソナードを顧問として、台湾問題を交渉し、主たる交渉
 相手は、総理衙門大臣の恭親王だった。
  会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論
 もあって、1874年12月9日(10月31日)「日清両国互換条
 款」が調印された。
  合意内容は、清が、日本軍の出兵を保民の義挙と認め、
 日本は、生蕃に対し法を設ける事を求め、
  1874年12月20日までに、征討軍を撤退させることに合
 意した。
  また、日清両国間互換条款互換憑単によると、清国は、
 遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払
 い、40万両を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い
 出費した。
  また、清国は、日本の行動を承認した。
  琉球民が日本国民という、琉球の日本帰属が国際的に
 確認された確認事例の一つ。
1874年5月20日(4月5日)司法省・佐賀裁判所が開設された。
  佐賀城内。
  裁判長司法権大判事・河野敏鎌(こうのとがま、子爵)。
  この日、参議文部卿兼内務卿・木戸孝允と太政大臣・
 三条実美に、江藤減刑の書簡が来た。
  河野敏鎌が、「将来にわたって不逞のやからが出没横
 行するおそれがある」として府県裁判所の新設を上申し、
  佐賀出張中の大久保利通からも、「いそぎ当県へ裁判
 所を置いて、官員を派遣されたし」と催促。
  この佐賀裁判所は、府県裁判所であって臨時裁判所で
 はない。
  司法省職制章程には、「府県裁判所は、『流刑』以下
 を処断して、『死罪および疑獄』は司法省の裁可を受け
 る」とあり、
  佐賀へ護送される江藤新平が、佐賀裁判所で死刑判決
 を受けても、司法卿・大木喬任の裁可を受け、
  さらに、内務卿・木戸孝允(文部卿兼務)へ取り計ら
 うべきであり、ただちに執行されることはない。
  また、1874年5月5日(3月20日)には、大久保利通が得
 た1874年3月27日(2月10日)に、三条実美からの委任状
 「死刑といえども、臨機に処分のこと」(第1項但書)は
 取り消されている。
1874年5月22日(4月7日)江藤新平を護送した軍艦「猶竜」
 が、佐賀に入った。
  そして、江藤らの9人を収監した。
1874年5月23日(4月8日)江藤は、この日に、急設された佐
 賀裁判所で、司法省時代の部下であった河野敏鎌の最初
 から死刑ありきの裁判によって裁かれた。
  旧暦4月7日に送還され、旧暦4月8日~9日に簡単な二度
 の審問だった。
  1874年5月28日(4月13日)に、河野により除族(じょ
 ぞく華族・士族の者がその身分を除かれて平民とされる
 こと、)の上、梟首の刑を申し渡され、その日の夕方に、
 嘉瀬(かせ)刑場において処刑された(1874年4月13日に
 処刑されたの説あり)。
  判決を受けたとき、「裁判長、私は」と言って反論し
 ようとして立ち上がろうとしたが、それを止めようとし
 た刑吏に縄を引かれ転んだため、この姿に対して「気が
 動転し腰を抜かした」と悪意ある解釈を受けた。
  その後、江藤の首は、嘉瀬川から4km離れた千人塚で梟
 首された。
  辞世は・・、
  「ますらおの 涙を袖にしぼりつつ 
              迷う心はただ君がため」
  1889年(明治22年)に、大日本帝国憲法発布に伴う大
 赦令公布により賊名が解かれた。
  1916年5月12日(大正5年4月11日)贈正4位。
  墓碑銘は、書家としても知られた副島種臣が書いた。
  佐賀市に銅像もある。
  (1834年~1874年、享年40歳)
  民撰議院設立建白書の一人となっていたが、
  その直後、佐賀の不平士族に推されて、乱を起こすに
 至った(佐賀の乱)。
  氷川清話には・・
  「明治7年に佐賀の乱が起こり、政府は、台湾出兵によ
 って征韓論のバランスをとる。他方、土佐には板垣らの
 愛国公党が創立される」。
1874年5月23日(4月8日)設置されたばかり佐賀裁判所の
 裁判長・河野敏鎌(権大判事)と直班検事・岸良兼養(
 大判事)が、江藤梟首の「擬律伺」を大久保に上申した。
  佐賀裁判所審理開始。~9日。
  擬律:ぎりつ、裁判所が判決において法規を具体的な
 事件に適用すること。
  伺:うかがい、目上の人などに指示を仰ぐこと。
  河野敏鎌(元土佐藩士)は、明治5年5月から、司法卿・
 江藤新平の推挙でヨーロッパへ派遣されていた。
  その後、司法大丞(四等官)に昇進し、明治7年1月15
 日付で司法権大判事となった。
  大検事(四等官)岸良兼養も、河野と共にヨーロッパ
 へ派遣されていた。
  共に、江藤のかつての部下だった。
  8日の大久保日記:「河野大検事(ママ)ヨり擬律伺コレ
 アリ評決」とあり、
  結審前に、判決案(擬律)が固まっていたことを示す。
  13日の判決文
  「其ノ方儀、朝憲ヲ憚(ハバカラ)ズ、名ヲ征韓ニ托シ、
 党与ヲ募り、兵器ヲ集メ、官軍ニ抗敵シ、逆意ヲ逞ウス
 ル科ニテ、除族ノ上、梟首申シ付ル」。
  佐賀裁判所は、府県裁判所のため、その権限は、司法
 職務定制第58条により・・、
  「流刑以下ノ刑ヲ裁断スル事ヲ得ベシ、死罪及ビ疑獄
 ハ本省ニ伺イ出テ、其ノ処分ヲ受ケ」と定められていて、
 単独で死刑判決はできなかったが、それをあえて強行し
 た。
  判決:梟首・2、斬首・11、懲役10年・6、懲役7年・17、
 懲役5年・18、懲役3年・62、懲役2年・47、懲役100日・1、
 禁錮100日・2、禁錮70日・3、禁錮40日・2、免罪・11,237。  
  福沢諭吉の江藤裁判に対する批判。
  「佐賀の乱の時には、断じて江藤を殺して之れを疑わ
 ず、加うるに、此の犯罪の巨魁を補えて更に公然裁判も
 なく、其の場所に於て、刑に処したるは、之れを刑と云
 うべからす。
  其の実は、戦場にて討ち取りたるものの如し。
  鄭重なる政府の体裁に於て大なる欠典と云うべし」(
 「丁丑公論」)。
1874年5月24日(4月9日)ボアソナアドが、司法省法学校で
 講義を始めた。
  既にブスケの講義を聴講していた者を中心に15名。
  後に「フランス法派」の中核を形成。
  明治9年入学の第2期生には、原敬、松室致、末弘巌石。
  明治17年の第4期生(最後)には、若槻礼次郎ら。
  また、ボワソナアドは、法学校の講義の他に司法省の
 官吏を対象とするフランス実定法の解説も開始。
  これは、日本民法編纂への準備として行われたもの。  
  ボワソナアドの「開講の辞」:
  「私は(政府に対して)なかんずく、日本政府の立法
 改革事業は、その司法官および行政官の一新と不可分で
 あることを指摘しました。
  ・・したがって、新たな諸法律を準備しているあいだ
 にも、貴重な時間を一刻も無駄に失うことのないように、
 (新たに作られる)法律の条文を理解する学力を備えた
 若い司法官の育成所を作らなければならない、と進言し
 ました」と述べる。
  彼は、自らの講義を「自然法の講義」と名づけた。
  ボアソナアド:フランスの法学者、教育者。
 日本の太政官法制局御用掛、元老院御用掛、外務省事務
 顧問、国際法顧問、法律取調委員会委員等を歴任。
  勲一等旭日大綬章受章。
  明治初期に来日したお雇い外国人の一人で・・、
  幕末に締結された不平等条約による治外法権に代表さ
 れる不平等条項の撤廃のため、日本の国内法の整備に大
 きな貢献を果たし、「日本近代法の父」と呼ばれている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-03-31 02:37 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)321E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年5月~1874年5月)

題:(増補版)321E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年5月~1874年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1874年5月14日(明治7年3月29日)佐賀の乱の主謀者・江
 藤新平が、捕らえられる。
  江藤新平が、部下8人と共に土佐・阿波国境の安芸郡甲
 の浦で逮捕される。
  1874年5月18日(4月3日)護送の軍艦「猶竜」に乗せ
 られる。
1874年5月15日(3月30日)この日の閣議で、木戸は、「台
 湾一条・・着手の密にして蹉跌(さてつ、つまづく)な
 きことをるる陳諭す」と慎重論を述べる(「木戸日記」)。
1874年5月17日(4月2日)明六雑誌の発行(3月説あり)
  森有礼・西周・福沢諭吉らが、明六社機関誌『明六雑
 誌』を創刊する。
  前年(明治6年)7月、アメリカより帰国した森有礼が、
 「万国史略」の著者・西村茂樹を訪ね、
  「我国ノ教育ヲ進メンガ為ニ、有志ノ徒、会同シテ、
 其手段ヲ商議スル」と結社結成を持ちかけた。
  賛同した西村が、福沢諭吉、西周、中村正直、加藤弘
 之、津田真道、神田孝平、箕作麟祥、杉亨二ら8名を誘い、
  明治6年秋、「明六社」を結成。
  「明六雑誌」第1号に西周は、「洋学ヲ以テ国語ヲ書
 スルノ論」を掲載した。
  洋字使用論でローマ字論争が起こる。
  加藤弘之:佐久間象山に学び、幕臣となって幕府の洋
 学教育機関、開成所の教授職竝(なみ)となる。
  維新後、新政府に参加し、天皇陛下の侍講として洋書
 講義をおこなう。明治4年以降、文部大丞。
  幕末の『鄰草(となりぐさ)』(文久元年(1861年)、
 『立憲政体略』(慶応2(1866年)、『真政大意』(明治
 3年)によって、日本に初めて立憲政体、憲法、議事院の
 原理を紹介した。
  「億兆ノ為メニ一君ヲ置キ奉ラセ玉フ訳デ、決シテ一
 君ノ為メニ億兆ガアルト云フ訳デハナイデゴサル。」(
 「真政大意」)
  津田真道は陸軍省、加藤弘之、西村茂樹は文部省、
  森有礼:外務省、神田孝平:兵庫県令、箕作麟祥:司
 法省、中村正直は大蔵省に在職する官吏(中村、箕作、
 西村は翻訳官や編書官)。
  薩摩の森有礼以外は、出身の違いはあるものの、幕末
 の最終局面では、幕府の蕃書調所から開成所にいたる洋
 学教育の中心に身をおき、『尊王攘夷や復古の風潮に染
 まったことのない思想家』。
  雑誌の名は、明治6年に作られた「明六社」の名をとる。
  和紙で20ページ弱。
  各号3千部は売れたと言われ、再版号も多い。
  社員のうち、「議院設立が尚早」との意見を持つのは
 ドイツ系統の思想を持つ加藤弘之で、森有礼・西周は、
 それに加担した。
  西村茂樹・津田真道等は、議院設立の即行論者。
  津田真道(幕末にオランダ、フランス等に学ぶ)は、
 雑誌に3ヶ月連載した「政論」において、代議員選出の範
 囲と手続きについての自説を述べた。
  「士族ハ従来文字アルモノ稍(ヤヤ)多ク、
  平民ハ豪富ニアラザレバ、書ヲ読ム者希ナリ。
  故ニ、今代議士司選ノ人ヲ定メテ悉皆華士族トシ、並
 ニ平民ノ多ク租税ヲ納ムルモノトシ、
  其平民、都会ニ於テハ譬(タト)へバ二百円乃至千円以
 上ノ地券ヲ有スルモノニ限リ、
  村落ニ於テハ五十円乃至百円以上ノ地券ヲ有スルモノ
 ニ限ルベシ。・
 ・・右ノ如ク定メタル選者ヲ初選者卜名ヅク。
  初選者百人ニシテ相当ノ鑑識ヲ具スル一人ヲ選挙シ、
 之ヲ本選者卜名ヅケテ、此本選者ノ更ニ選挙スル所ノ人
 ヲ代議士トシテ議院ニ会集シテ、国民ニ代リテ国事ヲ審
 議スル人トス」
  そして、日本の人口3,000万の中から60名乃至120名を
 代議士として選出すべきと述べる。
  その他、森有礼、西周、加藤弘之、阪谷素(シロシ)、神
 田孝平等が殆ど毎号、議会政治について論じた。
  第1号巻頭の西周、「洋字を以て国語を書するの論」:
 明六社結成を「時宜ヲ制シテ漸次開明ノ域」に入るため
 に「学術文章ノ社ヲ結パント欲」したと位置づけ、
  そのためには、国語国字改良が必要とし、今まで中国
 の漢字をつかってきたならば、今、ヨーロッパをモデル
 にして進もうとするとき、「洋学」を採用して何の不思
 議があろうかという。
  ローマ字採用論。utukusiki hanaと書いて文章として
 は「ウツクシキ花」と読ませ、口語としては「ウツクシ
 イ花」とkをサイレントにすればいいと述べる。
  福澤諭吉 「学問ノススメ」
  福沢諭吉は、前年明治6年の小冊子「文字の教」で、今
 後は漢字をなるべく使わない文章を書くべきと述べる。
  文章の改革思想が、西や福沢によって次第に識者の注
 意を引くようになる。
  第2号は、福沢諭吉が「学問のすゝめ」4篇(明治7年1
 月刊)の主張する「私立」の精神への反論。
  福沢は、「日本には唯政府ありで、未だ国民あらずと
 云ふも可なり。
  我国の文明を進めて其独立を維持するは、独り政府の
 能する所に非ず、又、今の洋学者流も依頼するに足らず。
  既に改革家の名ありて、又其身は中人以上の地位に在
 り、・・私立の地位を占め、……政府の頂門に一釘〔針)
 を加へ、旧弊を除で民権を恢復せんこと方今至急の要務
 なる可し」と云う。
  津田、森、加藤、西は、「私立」に、こだわるだけで
 開化は進展できるかと疑問を呈出。
  「学問のすゝめ」4篇は「此社」(明六社)のために執
 筆されたものなので、理念は理解できる。
  だが、「在官」の人間を排除して、どこに開化の推進
 者を見出せるか、「在官私立ニ拘ラズ」開化の問題をた
 てるべきではないか、と質問する。
  この頃には、慶応義塾出身者も大量に政府内部に進出
 しており、また大久保政権は、イギリスを規範とする殖
 産興業を進めている。
  その大久保政府は、反対派を排除することで、福沢の
 指摘どおり、強大化しすぎており、「未だ国民あらずと
 云ふも可な」る状態である。
  明六社同人の大部分は、この政府に様々な形で参加し
 つつ、各方面でジレンマに直面している。
  津田真道や中村正直は、政府改革、自由・自主の主張
 に力点をおいている。
  第6号で、津田は、「出板自由ナランコトヲ望ム論」で、
 「文明」と「野蛮」の別は、「唯其民ノ言行自由ヲ得ル
 ト得ザルトニ於テ」はっきりする、政府が治安を保とう
 として言論を抑圧するのは、かえって政府「顚覆(てん
 ぷく)ノ原(ミナモト)」だという。
  「民撰議院設立建白」への評価も分かれている。
  もっとも徹底した賛成論は福沢諭吉。
  民撰議院が早いというなら、廃藩置県も早すぎたのか、
 明治4年が廃藩置県の「好時節」だったように、
  明治8年は「即、民会創立ノ好時節也」((明治8年)
 「五月一日明六社談話筆記」)。
  津田、西村は、議院に賛成だが、
  加藤弘之、森有礼らは時期尚早論。
  西周「百一新論」(上下)出版。
  日本の道徳思想の基幹となっていた儒教思想と対比さ
 せ、近代ヨーロッパの哲学思想を紹介。
  西洋思想の本質はフィロソフィア即ち「哲学」とでも
 訳すべきものである、と彼は言う。
  以前から、ヨーロッパのフィロソフィアなるものがそ
 の文明の中核であると紹介していたが、それを性理学ま
 たは理学と訳していた。
  しかし、哲学と訳すのがよいとこの書で述べている。
  理学は物理化学をも意味しており、この混同はしばら
 く続き、次第に哲学という言葉に落ち着いてゆく。
  西は、主にコントの実証思想の影響を受け、西洋の学
 問の根本を学ぶには、西のこの書を読むことが是非必要
 だと知識階級人に看倣(みな)される。
  しかし、西の論は、福沢に較べると難解で、読者は知
 識階級の中の一部に限られた。
  津田真道と西周は、共に、幕末の洋学の秀才で、蕃書
 調所(幕府の洋学研究所)の教授手伝であった。
  西周:石見国津和野の代々の藩医西時義の子として、
 文政12年(1829年)に生れる。
  20歳の時、藩命により儒学を学ぶため大阪、岡山等に
 遊学。
  25歳の時、藩の学塾塾頭となる。
  翌年、江戸詰となってから洋学に志し、オランダ語を
 学ぶ。
  その後、英語を学び、29歳の時、蕃書調所教授手伝並、
 次に教授手伝となる。
  そこで津田真道と同僚となる。
  34歳の時、西は、津田・榎本武揚(兵学)・赤松則良
 (造艦)らとオランダ遊学を命ぜられる。
  これら幕府留学生は、3年間学んで、慶応元年末に帰国。
  西と津田は、蕃書調所の後身である洋学の大学(開成
 所)教授に任命される。
  西は、幕府のためにオランダ政治学を訳述し、また万
 国公法を訳す。
  この頃の門弟は500人という。
  慶応2年頃、彼は、慶喜にフランス語を教え、幕府の外
 交文書を訳して重く用いられる。
  鳥羽伏見の戦後、慶喜が江戸に逃れると、西も江戸に
 戻る。
  慶応4年、西・津田は、幕府命により立憲政体の調査研
 究を命ぜられる。
  明治3年3月、山県有朋は、徳川家に従って駿河に退き
 沼津の兵学校教授をしている西を兵部省顧問とし、ヨー
 ロッパ式の軍制制定にあたらせた。
  西と山県は、極めて親密で、西は、長く陸軍に関係を
 持つことになる。
  西は、兵部省に勤める傍ら、侍読(明治天皇陛下の教
 師)をも兼ねる。
  また、兵部省に出仕する傍ら、浅草鳥越の自宅で育英
 合という私塾を開き、漢学、英語、数学等の諸学課を統
 一した学問として教えることを始める。
  彼は、明治3年~6年、近代ヨーロッパの文明全体の本
 質を包括的に教育しようとして、18世紀のフランスのア
 ンシクロペジストと同じやり方で「百学連環」という特
 別講義を行い、それを「百一新論」として纏めて出版。
  日本において、最初のこの体系的な近代文化の講義(
 歴史学、地理学、文章学、数学等の基本学課の外、特殊
 学として、神学、哲学、法学、経済学、統計学、物理学、
 化学等に及ぶ)は、次々と刊行されることになった。
  この頃、西周は、神田小川町に住み森林太郎(13)を
 預かっている。
  林太郎は、旧津和野藩典医で、西家の親戚に当る森静
 男という蘭医の息子。
  森静男は西の勧めで、維新後、東京に一家を移し、向
 島曳舟通で病院を開いていた。
  長男林太郎を、東京医学校に入学させる積りで、ドイ
 ツ語学習のために、本郷の壱岐殿坂にある受験学校の進
 文学舎に入れたが、曳舟から渡舟で隅田川を渡り、距離
 があるので、小川町の西家に預けた。
  この春、15歳と願書に書き、東京医学校を受験し合格、
 下谷和泉橋の旧藤堂邸にある医学校に通った。
1874年5月(明治7年3月)華族会議、結成。
  総代:中山忠能(ただやす)。
  岩倉使節団で「貴族」の存在を認識した木戸と三条の
 腹心尾崎三良の工作で「通款社」(明治6年12月設立、
  若手華族の学術研究団体)と「麝香間祗候(じゃこう
 のましこう)会議」(保守的華族長老団体)が合同。
  6月、華族会館に発展。「協同勉励学術を研精」する機
 関と位置づける。
  華族の中には、その地位を返上しようとする人物もい
 た。
  明治7年2月、旧福本藩(播磨)知事・池田徳潤(ノリマス)
 は、「報恩の寸功も之なく、多罪之仕合と存じ奉り侯得
 共、此上歳々時日を過ぎ侯ては猶更恐入候」と、
  位記の返上と家令・家扶の廃止を願い出た。
  明治9年2月、元広島藩主・浅野長勲(ナガコト)は、「身
 を民籍に帰し祖先墳墓の地に拠り、力を開墾に用ひ、聊
 か物産を富殖し、万一も国家に稗益あらんことを冀望(
 キボウ)」すると出願した。
  しかし、政府はこれらの出願を却下。
  華族は、次第に宮内省の強力な管理におかれ、「戸位
 素餐」の振る舞いも市民的自由も制約された。
..
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by suba28 | 2016-03-29 02:55 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)320E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年4月~1874年5月)

題:(増補版)320E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年4月~1874年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1874年4月9日(2月23日)江藤新平が、征韓党へ解散命令を
 出す。
  船で鹿児島に向かう。しかし、実際には佐賀側の抗戦
 は続いて行く。
  寒津川・田手川の戦い
  旧暦2月23日に、政府軍は、第十大隊を前軍とし、第三
 砲隊が続行し、そして、第四大隊を後軍として中原を出
 発した。
  前夜合流した前山隊が、中原の守備に当たった。
  佐賀軍は、寒津村(現:みやき町)に本陣を置き、寒
 津川沿いで迎撃する、
  佐賀軍は、中島鼎蔵の指揮の下、左右から挟撃し、『
 佐賀征討戦記』に「官兵殆ど敗れんとす」と記されるほ
 どまで追い込んだが、
  官軍指揮官の陸軍少将・野津鎮雄が、弾雨の中、抜刀
 して先頭に立ち、兵を励まし戦い、
  また、中原から北山に転戦していた厚東武直少佐の第
 四大隊が反転して背後を突き、佐賀軍は、総崩れとなり
 敗走した。
  しかし、本隊となった第十大隊第二中隊は、中隊長・
 阿部正通大尉が戦死し、代わって指揮を取った児玉源太
 郎大尉も重傷を負うなど被害は大きく、
  中原に到着した第十一大隊は、一個中隊を割いて増援
 として差し出した。
  その頃、朝日山の陥落を聞いて、神埼まで出ていた江
 藤は、寒津でも破れたことを聴くと、馬を田手(現:吉
 野ヶ里町田手)まで走らせ、陣頭指揮を執った。
  江藤は、田手川に防御陣を敷き、一部の精鋭をもって
 背後を突こうとしたが、田手川下流を渡河した青山朗大
 尉率いる第十大隊第四中隊に、逆に背後から攻撃を受け
 敗退した。
  さらに、官軍が追撃したため、佐賀軍は、神埼(現:
 神埼市)を焼き払い、境原(現:神埼市千代田町境原)
 まで退却した。
  この敗退で、勝機を失ったと見た江藤は、征韓党を解
 散し、鹿児島県へ逃れて、下野中の西郷隆盛に、助力を
 求めようと戦場を離脱した。
  なお、この江藤の態度に対し、憂国党の見方は、無断
 で佐賀の戦場を離れており、
  この敵前逃亡ともいえる態度に、副島義高らの憂国党
 の面々は激怒した。
  三瀬方面
  三瀬峠では、佐賀軍一の用兵家とされる朝倉尚武(元
 陸軍少佐)が、三個小隊をもって布陣していた。
  博多には、広島鎮台などからの援軍が向かっていたも
 のの、当初は、小笠原義従の一中隊しか残っておらず、
  守備する山田顕義少将は、間道沿いからの攻撃を考慮
 して斥候を出し、飯場村に佐賀軍を発見したため、
  1874年4月8日(2月22日)に一個分隊を進めたが、佐賀
 軍は、既に退却していた。
  翌日の1874年4月9日(2月23日)に、中隊全軍で三瀬峠
 に出撃した。
  1874年4月10日(2月24日)は、福岡士族による貫族隊
 六個小隊が、飯場村に出撃したが、反撃を受け、小隊長・
 幾島徳(安川敬一郎男爵の兄)が戦死するなどし、金武
 まで後退した。
  しかし、1874年4月12日(2月26日)には、小笠原隊が
 背振口で佐賀軍を破り、
  翌・1874年4月13日(2月27日)には、三瀬も取って、
 佐賀軍を四散させた。
  しかし、地形が険阻な上、思わぬ苦戦を強いられた政
 府軍は、博多に着いた井田譲少将、田中春風中佐、高島
 信茂少佐、古川氏潔少佐らが率いる広島鎮台第十五大隊
 の三個中隊を、1874年4月14日(2月28日)、三瀬に進め
 た。
  この広島鎮台部隊は、戦闘を行うことは無かったが、
 朝倉は、正規軍四個中隊と、現地召集の士族兵の六個小
 隊を三瀬方面にひきつけることに成功した。
  また、1874年4月16日(3月1日)に、福岡に着いた谷重
 喜大佐の率いる大坂鎮台第十八大隊と、第七砲隊一個小
 隊も、三瀬方面に向かおうとしたが、既に、佐賀軍はい
 ないと判断した井田少将は、谷大佐に援軍は不要であり
 本道から進むよう指示をしている。
  境原の戦い
  1874年4月9日(2月23日)以降、官軍も休息をとってお
 り、戦闘は散発的であったが、
  1874年4月13日(2月27日)には、総攻撃を開始し、第
 十大隊、および、第三砲隊が、本隊として姉村に、
  第四大隊を右翼として、城原から川久保に、
  第十一大隊と第十九大隊一個小隊を左翼として蓮池に、
 それぞれ進軍した。
  佐賀軍が、神埼以南の諸橋梁を破壊していたため、架
 橋しながら戦う第十大隊は苦戦したが、
  砲隊の榴散弾が佐賀軍の保塁に命中したのをきっかけ
 に猛進し、
  また、第十一大隊が、後方から攻撃したため、挟撃の
 形となり、佐賀軍を敗走させて、境原を奪取した。
  また、この日の夜には、佐賀軍は、1000人規模の夜襲
 を敢行したが、蓮池を占領しに向かった第十一大隊が戻
 り、側面を突いたことで、佐賀軍は壊走した。
  結果的に、戦闘は、一昼夜行われ、佐賀征討記では、
 この日の戦闘を、今役中の第一の激戦と記している。
1874年4月13日(2月27日)江藤らが、この日に、鹿児島に
 入った。
  そして、1874年4月16日(3月1日)に、鹿児島鰻温泉に
 湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが・・
 断られた。
  西郷に決起の意志はなかったため、土佐へ向かった。
  1874年5月10日(3月25日)、高知の林有造・片岡健吉
 のもとを訪ね、武装蜂起を説いた。
  しかし、いずれも容れられなかった。
  そこで、江藤は、岩倉具視への直接の意見陳述を企図
 (きと、くわだて)し、上京をしようとして、その途上、
 既に、手配書が廻っており、
  1874年5月14日(3月29日)高知県東洋町甲浦で捕縛さ
 れた。
  捕吏長の山本守時は、江藤に脱走を勧めたが、江藤は、
 裁判で闘う決意を固めた後であり、これに応じなかった。
1874年4月14日(2月28日)憂国党が降伏した。
  政府軍、佐賀城入城。
  政府軍が、佐賀県庁を奪回。
  政府軍が、反乱軍から佐賀県庁を奪回し、乱を鎮圧し
 た(1874年4月16日(3月1日)の説がある)
  戦死者は、佐賀・政府側双方とも170~180。
  負傷者は、双方とも200弱。
  佐賀軍捕虜、6,327人。
  29ヶ村1,500戸余が戦火にかかる。
  この日・1874年4月14日(2月28日)政府軍が、佐賀城
 下に迫ると、この頃、東京から戻っていた木原隆忠(島
 義勇の従弟)と副島義高を使者にして、降伏と謝罪を申
 し出た。
  しかし、官軍は、内容が無礼だとして受理せず、木原
 を拘留した。
  島義勇は、佐賀で討ち死にするつもりであったが、実
 弟の副島義高らが、無理矢理、脱出させた。
  憂国党党首・島義勇は、1874年4月16日(3月1日)に、
 島津久光に決起を訴える嘆願書を渡すべく鹿児島へ向か
 った
  しかし、1874年4月22日(3月7日)に捕縛された。
1874年4月16日(3月1日)江藤新平が、宇奈木温泉で、遊猟
 中の西郷隆盛に面会した(4ヶ月ぶりの再会)。
  再挙への協力求めるが、西郷は応じず。
  西郷は、島津久光に会うよう勧めるが、江藤は従わず。
  1874年4月18日(3月3日)、江藤は、宮崎に向かい、日
 向飫肥の小倉処平が用意してくれた船で宇和島に渡った。
  陸路から四万十川を下り、下田港から海路で高知へ潜
 行し、土佐の同志の協力を得て、東京に行き三条・岩倉
 に真意を訴えたいと考えた。
  因みに、鹿児島での江藤新平と西郷隆盛は、2日間にわ
 たって2人だけで話し合った。
  宿の女将は、一度、西郷の大声を聞いたという。
  「私の言うようになさらんと、アテがちがいますぞ!」
  江藤は、太政官へ出頭して、正院において弁明したい
 と西郷に助力を頼んだ。
  しかし、西郷隆盛は、島津久光に会うように勧めた。
  島津は、1874年4月6日(2月20日)の帰国後、西郷を呼
 び出し、「江藤新平の挙を非とするならば、陸軍大将た
 るものが兵をひきいて、これを討伐すべきではないか」
 と迫っていた。
  西郷は、「私は静養中の身であるから、もし必要なら
 陸海軍が乗り出して、討伐にあたるでしょう」と島津久
 光に答え、受け流した。
  島津は、西郷らが、江藤に呼応する事を心配していた。
  その経緯から、西郷の口添えあれば、島津は悪いよう
 はしないと、西郷は読んだのだが・・、
  しかし、江藤は、西郷の勧告に従わず土佐に向った。
1874年4月19日(3月4日)太政官が、「佐賀戦争平定」を布
 告し、江藤の人相書き配布した。
1874年4月22日(3月7日)、憂国党幹部らが、鹿児島で逮捕
 され、佐賀へ護送された。
1874年4月23日(3月8日)東京府を11大区103小区に分けた。
1874年4月27日(3月12日)運動会の初め
  初めて競陣遊戯会(陸上競技運動会、競徒遊戯会)が、
 東京・築地の海軍兵学寮で行われた。
  日本で初めての運動会。 (5月6日説あり)
1874年4月29日(3月14日)釜山の草梁和館に在勤の外務省
 権少録・奥義制より、東京の外務省権大録・森山茂と同
 出仕・広津弘信に宛てて、大院君引退の報告書が届く。
  高宗が親政し、全面的な人事刷新観測を知らせる。
  1874年7月(明治7年6月)、三条太政大臣は、三度、森
 山茂を派遣。
  明治政府は、朝鮮国の内紛を知って、開国を強く迫る
 ことに決した。
1874年5月5日(3月20日)太政大臣・三条実美が、大久保利
 通の全権委任状の「死刑といえども、臨機に処分のこと」
 を取り消し、処刑は内務卿の取り計らいとする旨、大久
 保に電報した。
  この時、内務卿は木戸孝允。
  また、1874年4月9日(2月23日)の佐賀征討令により、
 総督東伏見嘉彰親王、参軍山県有朋・伊東祐麿が任命さ
 れており、既に、大久保は非常時大権を持っていなかっ
 た。
1874年5月9日(3月24日)江藤新平が、土佐の林有造に面会
 した。
  林は、自首を勧め、そして、高知県令・岩崎長武に、
 江藤新平と会った事を伝えた(江藤の行動が分かられた)。
  江藤は、徒歩で阿波に向った。  
1874年5月9日(3月24日)安部川に、初めて木橋の安水橋が
 竣工し、盛大な開通式が挙行された。
1874年5月9日(3月24日)明治期の最初の人口調査(太政官
 令に依って、日本全国の人口調査を布令した)
1874年5月11日(3月26日)板垣退助が、土佐へ帰郷した。
  そして、1874年4月に、立志社が創立された。
  当初は、立志学舎と呼ばれ、
  商局、法律研究所などを併設して社員の子弟教育、士
 族授産、相互扶助などを重視していた。
  しかし、1875年2月に、自由民権結社の全国連合組織で
 ある愛国社の結成に指導的役割を果し、
  以後、自由民権運動の盟主的存在となって行った。
1874年5月13日月(3月28日)、秩禄公債証書発行。
  秩禄公債(ちつろくこうさい)とは、明治6年(1873年)
 12月27日に出された太政官布告第425号に基づき、
  家禄・賞典禄を自主的に奉還した者に対して、起業資
 金を与える目的で起こされた公債のことで・・、
  明治政府は、明治4年(1871年)に、廃藩置県を断行し
 て、長年続いた封建制度を解体したものの、依然として
 旧武士階層(華族・士族・卒)に、家禄・賞典禄などの
 秩禄を払う義務があった。
  何と、当時の政府予算の4割が、秩禄支給に充てられて
 いた。
  その事から一刻も早い秩禄処分が求められていたが、
  その場合、生活の糧を失った旧武士階層が、士族反乱
 などを起こす可能性があった。
  そこで、士族授産を行って、旧武士が自立した生計を
 立てられるようにして、少しずつ秩禄への依存から脱却
 させる政策をとった。
  そこで、同年暮れに、旧武士階層に対して、現在官職
 にある者以外は、自由に農工商業に従事できるものとし
 て自主的な就業を促した。
  だが、薄禄の者は、起業意欲があっても、そのための
 資金がない例もあったために、
  その対策として、秩禄の返上と引換に、秩禄数年分を
 起業資金として渡すこととした。
  明治6年(1873年)、この年に発行された7分利付外国
 公債による収入を元手に、秩禄公債を発行した。
  当初は、家禄・賞典禄を合わせて100石未満の者を対象
 として、秩禄を打ち切る代わりに、永世禄は禄高6年分、
 終身禄は禄高4年分、
  そして、年限禄は、その年限に応じて1年~4年分の禄
 高に換算されて、半分を現金、残りを秩禄公債で支給し
 た。
  なお、禄高の金額換算は、明治6年の所属府県における
 貢納石代相場に基づいて決定された。
  翌年のこの日・1874年5月13日(明治7年3月28日)に、
 秩禄公債の詳細を定めた家禄引換公債証書発行条例が制
 定され、
  これによって、秩禄公債は、額面500円・300円・100円・
 50円・25円の5種類が発行(ただし、500円公債は、実際
 には発行されなかった)されて、
  年利8分、利払いは年1回、2年の据え置き後、7ヵ年で
 償還されるということとなった。
..
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by suba28 | 2016-03-28 01:46 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)319E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年3月~1874年4月)

題:(増補版)319E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年3月~1874年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1874年3月23日(明治7年2月6日)大久保利通・大隈重信が、
 台湾出兵を決定した。
  台湾征討を閣議で決定。  
  原因となった台湾事件(1871年):開国後最初の海外
 派兵。
  1871年に、日本の宮古島と八重山島の漁民が、嵐で漂
 流し、台湾に漂着した。
  その乗組員の多数は殺されてしまった(原住民に殺害
 された)。
  さらに、1873年には、岡山県の船員が略奪されるとい
 う事件が重なって起こった。
  国の使命。
  「北朝鮮の拉致」。
  アメリカ合衆国の某高官に、「北朝鮮にアメリカ国民
 が拉致されたらどうしますか?」と問うた・・
  即座に・・、
  「その時は、アメリカ合衆国の海兵隊が行ってますよ」
 と答えた。
  即座に、「救出にアメリカ合衆国の海兵隊が行ってい
 る」と答えたこの高官。
  国とはそういうものだ。
  この様な意味からも、他国の人は尊重しなければなら
 ない。
  国・・国家・・国家とは、そのようなものだ・・、
  「自国の国民を守る」「自国の国民の幸せを守る」
  それが第一の、また、唯一の・・国の使命・・、
  「大切な国民の生命を守る」「自国の国民の生命と財
 産を守る」・・それが第一の、また、唯一の、崇高な国
 の使命、国家の使命。
  これ無くして国家の存在意義は無い。
  『国民を守る』という『崇高な使命』が国家には存在
 する。
1874年3月26日(2月9日)江藤新平が、長崎にて土佐の林有
 造と会談した。
  林は、西郷に民撰議院設立への同意を取り付ける為に
 鹿児島に行った帰途。
  肥前が決起しても、薩摩は呼応しないとの観測を示し
 た。
1874年3月27日(2月10日)危機感は深刻・・各地の士族が、
 呼応して決起する事を恐れた新政府。
  太政大臣・三条実美は、参議兼内務卿・大久保利通に、
 佐賀鎮定、軍事・裁判、全権委任させた。
  1874年3月31日(2月14日)、三条が、参議文部卿・木
 戸孝允に内務卿を兼任させる。
  政府軍の出動が遅れれば、熊本や鹿児島の士族も呼応
 し、九州全体の騒乱となり、
  更に、高知、岡山、鳥取、鶴岡などに飛び火する可能
 性もある。
  警察機構は、十分に整備されていないうえ、軍隊にも
 征韓論政変の余燼がくすぶっていたので、政府側の危機
 感は深刻だった。
  大久保内務卿は、ただちに、軍事と裁判の権限を随時
 に委任されて九州に向かった。
  江藤らが、鹿児島など他県の士族が加勢するのを待っ
 ている間に、
  政府側は、電信線で情報を正確に把握し、蒸気船で鎮
 圧部隊を送り込んだ。
  さらに、佐賀の中立派士族を味方につけ、熊本など近
 隣への波及を抑えた。
  この日に、即座に、1874年3月27日(2月10日)、熊本・
 広島・大阪の鎮台兵が、出兵した。
1874年3月28日(2月11日)島義勇が、長崎で憂国党幹部と
 会談した。
  この後、深堀に江藤新平と会談。
  岩村高俊の暴挙(鎮台兵を率いて佐賀県庁に赴任、鎮
 圧)阻止で意見が一致した。
  翌・旧暦2月12日、江藤新平は、佐賀に戻り正式に征韓
 党党首となる。
  旧暦2月13日、征韓党幹部が、旧藩校の弘道館に集合。
  江藤の「決戦之議」を配布する。
  本部を佐賀城北方にある実相院に移す。  
  決戦之議:
  「夫れ国権行はるれば、則ち、民権随(シタガツ)て全し。
  之を以て交戦講和の事を定め、通商航海の約を立つ、
 一日も権利を失へば、国、其の国に非ず。
  今茲に人あり。
  之を唾して而して憤らず、之を撻て而して怒らずんば、
 爾後、婦人小児とと雖も、之を軽侮するや必せり。
  是れ、人にして其権利を失ふものなり。
  嚮に朝鮮、我国書を擯け、我国使を辱むる、其の暴慢
 無礼、実に言ふに忍びず。
  上は聖上を初め、下は億兆に至るまで、無前の大恥を
 受く。
  因て客歳十月、廟議尽く征韓に決す。
  天下之を聞て、奮起せざるものなし。
  已にして而して二三の大臣、偸安の説を主張し、聖明
 を壅閉し奉り、遂に其議を沮息せり。
  鳴呼国権を失ふこと、実に此極に至る。
  是れ所謂、之を唾撻して、而して憤怒せざるものと相
 等し。
  苟くも国として斯の如く失体を極めば、是れよりして、
 海外各国の軽侮を招く、其の底止する所を知らず。
  必ず、交際、裁判、通商、凡そ百事、皆な彼が限制す
 る所と為り、数年ならずして、全国の生霊、卑屈狡獪、
 遂に貧困流離の極に至る、鏡に掛けて見るが如し。
  是れ有志の士の以て切歯扼腕する所なり。
  是れを以て同志に謀り、上は聖上の為め、下は億兆の
 為め、敢て万死を顧みず、誓て此の大辱を雪(ソソ)がん
 と欲す。
  是れ蓋し人民の義務にして、国家の大義、而して人々
 自ら以て奮起する所なり。
  然るに、大臣、其の己れに便ならざるを以て、我に兵
 を加ふ。
  其の勢状、此に至る。
  依て止むを得ず、先年長州大義を挙ぐるの例に依り、
 其の処置を為すなり(幕長戦争に依拠して自衛行動に立
 ちあがる、という意)。
  古人日く、精神一到何事か成らざらん。
  我輩の一念、遂に此の雲霧を披き、以て錦旗を奉じ、
 朝鮮の無礼を問んとす。
  是れ誠に区々の微衷、死を以て国に報ゆる所以なり」
 (「江藤南白」)
1874年3月30日(2月13日)島津久光(内閣顧問、佐賀憂国
 党は盟主として担ぐ)、東京発。旧暦2月20日、鹿児島
 到着。
  元藩士に佐賀に呼応しないよう睨みをきかせる。
  また、西郷を呼出し自重を命じる。
1874年3月31日(2月14日)熊本鎮台より1個大隊650、出動。
 県権令・岩村高俊と共に有明海北上。
1874年3月31日(2月14日)大久保内務卿が、天皇陛下から
 「佐賀鎮定」を委任され、九州へ出発。
  途中、大阪で陸海軍首脳と軍議。
  旧暦2月17日、大阪より黒田清隆に宛てて台湾「要略」
 について念押し。
  旧暦3月17日付け大久保の黒田清隆宛て手紙・・、
  「台湾のこと既に決定せり・・いずくまでも御貫徹、
 実効お挙げこれなく候てほ天下の信義もあい立たず」と
 念押し。
  「この事は廟議決定の事にて懸念はこれなくと信用つ
 かまつり候えども、憂情のあまりに候」と、「要略」の
 閣議決定が引っくり返るかも知れないとの憂情(不安)
 を拭いきれない心情を語る。
  尚・・、
  政府からの鎮圧命令を受けた熊本鎮台だが、兵の中に
 も佐賀出身が多く動揺が広がっていた。
  司令官・谷干城も援軍を待っての進軍を主張していた
 が、新県令・岩村高俊の命もあり、
  1874年3月31日(2月14日)には、駐屯する1個半大隊の
 中から、第十一大隊(大隊長:中村重遠中佐は出張中で
 不在)を二分し、
  左半大隊は、参謀・山川浩少佐と隊長・和田勇馬大尉
 が率い、海路から、
  右半大隊は、参謀・佐久間左馬太少佐と隊長・山代清
 三大尉が率いて、陸路から佐賀に向かった。
  翌・1874年4月1日(2月15日)に、海路軍に護衛された
 岩村高俊らが、佐賀に入城すると、
  江藤らは、政府の真意を確かめるため山中一郎を代表
 として派遣した。
  しかし、岩村の「答える必要はない」との返答を受け、
 同日夜、県庁が置かれた佐賀城(佐賀県佐賀市)に籠も
 る鎮台部隊と交戦して、大損害(3分の1が死亡)を与え、
 敗走させた。
  佐賀の乱における政府軍の死者は、大部分がこの戦闘
 におけるもので、
  佐賀県大属・小出光照、中隊長・大池蠖二大尉(佐賀
 の乱での官軍戦死者で最高位)、沢田正武中尉が戦死、
 敗走中に包囲された津井城郷吉中尉が自刃したほか、山
 川浩少佐、奥保鞏大尉が重傷、西島助義少尉が捕虜とな
 った。
  また、この時、憂国党の副島義高は、捕虜を殺害しな
 いよう通達を出したが、
  佐賀城からの脱出時に、岩村の命で公金2,000円を携行
 していた佐賀県権中属の中島脩平に対しては、これを公
 金横領と看做して処刑を行っている。
  なお、この敗走中、後の西南戦争で薩軍に包囲された
 熊本城から脱出に成功し援軍要請を果たした谷村計介が、
  単身先行し渡船を調達して、部隊を窮地から救う功を
 あげている。
1874年4月1日(2月15日)国産石鹸の販売広告、初めて新聞
 に表れる(東京木挽町の某商店)
1874年4月1日(2月15日)佐賀ノ乱
  江藤新平、佐賀に乱す(氷川清話)(2月16日説あり)
  この日・1874年4月1日(2月15日)、佐賀県権令・岩村
 高俊と熊本鎮台兵半隊650、筑後川河口より佐賀城(県庁)
 入城した。
  佐賀県庁に征韓党、憂国党あわせて2500人が包囲(佐
 賀の乱)
  新政府の施策にあきたらず、公然と藩制復帰をとなえ
 る保守派の憂国党、首領は、元秋田県令の島義勇(しま
 よしたけ、佐賀藩士だった)。
  江藤新平は、爆発寸前の不平士族や農民の騒ぎを鎮め
 ることができず、逆に、征韓党党首にかつがれる。
  旧武士階級に与えた影響は大きく、禄を失って生活に
 苦しんだ士族たちの不平不満が政府への反抗となった結
 果のこと。
  後に・・唐津、小城、蓮池の士族たちも続々と反乱軍
 に身を投じる
  1874年4月4日(2月18日)、佐賀県庁を占領
  征討軍を迎え撃つべく兵力を強化するため反乱軍は、
 各地に同志の参加を呼びかける密使を飛ばす。
  この日・旧暦2月28日、新式装備を誇る官軍の総攻撃に
 より反乱軍はくずれる。
  多くの降伏者をだし鎮定。
  反乱軍の幹部は処刑。
  江藤新平と島義勇は姿を消す。
  後に・・長崎深堀に逃げていた後藤新平は、民船で西
 郷隆盛をたより、鹿児島へ向かうが保護を断られる。
  日向から伊予に渡り土佐に入る。
  頼(たよ)る林有造に保護を拒まれ阿波へ逃れる途中
  1874年5月14日(3月29日)、土佐の甲の浦で、江藤新
 平は逮捕される。
  1874年5月28日(4月13日)、鹿児島で捕らえられた島
 義勇とともに、江藤新平は死刑となる。
1874年4月2日(2月16日)征韓党2000、憂国党4000連合軍、
 佐賀城の熊本鎮台兵と交戦。
1874年4月2日(2月16日)小島為政の断髪の強制を批判した
 投書「断髪苦情一家言」、「横浜毎日新聞」に載る。
1874年4月4日(2月18日)江藤新平ら、佐賀県庁(佐賀城)
 を占領。
  早朝、県庁側、多数の犠牲を出して包囲を突破、岩村
 権令は県外へ避難。
  佐賀県庁(佐賀城)攻略・占拠。
1874年4月5日(2月19日)佐賀県賊徒征討仰出
  佐賀の乱の勃発により、長崎市中がハチの巣をつつい
 たような騒ぎに
  「神代の士族の男子は、ひとり残らず船を立てて、佐
 賀に出発したそうな」
  「深堀士族も賊軍に加わるそうだ」
  「佐賀兵が諫早に上陸した。諫早市民はたきだしをし
 て歓迎をしているそうだ」
  「佐賀軍が長崎に来襲すれば市街は兵火に焼かれるぞ
  流言が乱れ飛び市民は戦々恐々、仕事は手につかず、
 身のまわりのものを持ち市外に避難するものが続出。
1874年4月5日(2月19日)大久保内務卿乗船のアメリカ船、
 東京・大阪鎮台兵船団、博多上陸。
  ここに本営を置く。
  同日、政府、佐賀県下の暴徒征討の太政官布告。
1874年4月6日(2月20日)陸軍少将・野津鎮雄、政府軍率い
 佐賀城下に進撃。
1874年4月6日(2月20日)元薩摩藩主の島津久光は、1874年
 3月30日(2月13日)に東京を発って、1874年4月6日(2月
 20日)に鹿児島に戻り、佐賀に呼応することのないよう
 元藩士に睨みをきかせていた。
  憂国党の幹部は、鎮台兵が佐賀を蹂躙し、士族のブラ
 イドを傷つけられたことを訴え、島津久光に謝罪・帰順
 しようとした。
  久光は、これに理解を示し、佐賀の大久保に使者を送
 るが、大久保は一切取り合わず。
1874年4月8日(2月22日)陸軍省第6局を廃し、参謀局を置
 く。
  参謀局設置。局長は山県有朋。
1874年4月8日(2月22日)佐賀軍が、福岡県境の朝日山で迎
 撃準備。
  政府軍(野津少将)と本格的戦闘。
  政府軍が、佐賀軍の防衛線突破。
  一時的に佐賀城を失った政府軍だが、すでに東京鎮台
 などを率いて福岡入りしていた大久保利通は、
  本隊として第四大隊(厚東武直少佐)・第十大隊(茨
 木惟昭少佐)、及び、第三砲隊(山崎成高大尉)を
  福岡との県境にある要衝「朝日山」(現:鳥栖市)に
 進撃させると共に、
  佐賀軍の別働隊を「三瀬峠」、椎原口などに認めたこ
 とから、
  第十大隊第三中隊(小笠原義従大尉)を、本陣警護と
 して博多に残した。
  また、「府中」(久留米市御井町)まで退却した第十
 一大隊は、
  筑後川から「千栗」「豆津」(現・みやき町)周辺の
 佐賀軍を撃ち、朝日山で本隊と合流することにした。
  さらに、これ以外にも、長崎に上陸した外務少輔・山
 口尚芳が、
  遠武秀行海軍秘書官ほか、現地海兵隊を護衛に、大村
 から武雄に向かい、
  乱への参加に消極的だった佐賀藩・武雄領の説得を行
 わせている。
  これに対し、佐賀軍は、長崎街道沿いを征韓党が、
  筑後川沿いを憂国党が、
  それぞれ受け持つことに決め、
  征韓党は、朝日山に田尻種博(戊辰戦争時の大隊長)
 と、井上考継を先鋒に西義質らを向かわせ、
  この日・1874年4月8日(2月22日)には、この政府軍部
 隊を迎撃した。
  憂国党の指揮は、村山長栄が取り、本隊との合流を目
 指す熊本鎮台部隊を迎撃した。
  朝日山の戦い
  二日市から原田を経て、田代に入った本隊は、
  この日・旧暦2月22日、朝日山に向かい、
  第四大隊と第三砲隊は、轟木道から正面へ、
  第十大隊の半数が、山浦から側面に、
  残る半数が、宿村から背後に出て、包囲攻撃を行った。
  佐賀軍も、猛烈に反撃したが、すぐに弾薬が枯渇した
 ため支えることが出来ず、中原に敗走し、
  ここでも敗れて、隘路である切通で反撃に出た。
  この時、追撃を担当した第四大隊は、分散しており、
 1中隊のみで相対したため苦戦したが、
  最後には、これも退け、苔野まで前進したのち、中原
 まで退き、笛吹山から原古賀の佐賀兵を掃討した第十大
 隊と合流して宿営した。
  また、夜半には、佐賀兵の夜襲も撃退した。
  これに対し、第十一大隊は、朝日山の本隊に合流しよ
 うと筑後川を渡り、千栗・豆津・江見などで佐賀軍を破
 ったものの、
  六田で奇襲を受け、永山貞応中尉が戦死するなど、大
 損害を出し、筑後川を渡り、住吉(久留米市安武町)ま
 で退却した。
  その後、夜間、再度、渡河して、千栗に宿営したため、
 この日の戦力の結集には失敗した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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by suba28 | 2016-03-25 16:38 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)318E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年3月~1874年3月)

題:(増補版)318E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年3月~1874年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1874年3月5日(明治7年1月17日)三条実美太政大臣が、大
 隈重信参議兼大蔵卿に、
  台湾問題に関する副島種臣大使の交渉結果の検討を依
 頼した。
  1874年3月6日(1月18日)大久保が、副島種臣を訪問す
 る。
  1874年3月7日(1月19日)福島九成(ふくしまきゅうせ
 い、佐賀藩士、陸軍軍人、外交官、官僚)が、再び、台
 湾出張を命じられた。
  1874年3月14日(1月26日)三条太政大臣が、大久保・
 大隈に台湾・朝鮮問題の取調べを命じる。
  大久保と大隈は、副島、リゼンドル(アメリカの外交
 官だが、副島外務卿の要請で外務省顧問になっていた)、
 柳原前光(やなぎはらさきみつ、外交官、駐清(しん、
 中国公使)、鄭永寧(ていえいねい、外務省に入り、日
 清修好条規締結につくす)らと相談して、
  1874年3月23日(2月6日)大久保・大隈連名で「台湾蕃
 地処分要略」全9ヶ条を答申して、閣議で決定した。
  さかのぼること1872年9月23日に、駐日米国公使・デー
 ロングが副島を訪問して、台湾の件を話し合っている。
  また、その翌日・1872年9月24日と9月26日の二回に渡
 って、元駐アモイ領事・アメリカ国籍のリゼンドルが副
 島と会談を行なっている。
  リゼンドルは、「台湾島の重要性を唱え(となえ、声
 に出して言うこと)、そこに砲台を建設すべき」と建言
 した。
  デーロング米国公使とリゼンドルは、共に、日本の台
 湾占領を支持する事により、日本を米国の友邦に仕立て、
 この日本を核として、極東における市場の拡大を目指し
 た。
  また、3月13日付けで、リゼンドルは、日本政府へ覚書
 を提出していた、
  ・・その覚書には・・、
  「もし支那政府にて此地を有ずるを好まずば、西人の
 手に落さんよりは、むしろ我国より此地を領すべし」と。
1874年3月8日(1月20日)江藤新平が、伊万里に上陸。
  嬉野温泉に滞在。
  旧暦1月25日に、佐賀入り。
  旧暦2月2日に、義弟(妻の実家)のいる長崎郊外深堀
 に移り静養、舟遊びなど楽しんでいる。
1874年3月9日(1月21日)樺太境界問題を交渉
  樺太と千島列島の一部との交換を提案する。
  1874年3月に、樺太全島をロシア領とし、その代わりに
 得撫島(うるっぷとう)以北の諸島を日本が領有するこ
 となど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大
 使・榎本武揚は、サンクトペテルブルクに赴いた。
  榎本とスツレモーホフ(Stremoukhov)ロシア外務省ア
 ジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相と
 の間で交渉が進められ、
  その結果、樺太での日本の権益を放棄する代わりに、
 得撫島以北の千島18島を、ロシアが日本に譲渡すること、
  および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決め
 た樺太・千島交換条約の締結に至る交渉・・、
  1875年5月7日に、樺太・千島交換条約が、日本とロシ
 アとの間で締結された。
1874年3月11日(1月23日)近衛歩兵第1連隊、および、第
 2連隊の編成が成り、天皇陛下が、軍旗を授けられた。
1874年3月16日(1月28日)東京青山御所が開かれた。
1874年3月16日(1月28日)大久保利通が、佐賀県権令・岩
 村通俊を更迭し、弟の高俊(神奈川県権参事)が就任し
 た。
  佐賀の治安回復を指令。
  通俊は、就任半年で転任申し出て、弟を推挙す。
  弟の岩村高俊は、1874年3月(明治7年2月)に、佐賀県
 権令となり、
  内務卿・大久保利通の内意を受けて、江藤新平を盟主
 とする征韓党の挙兵(佐賀の乱)の鎮圧に努めた。
  乱の後は、内務省に移り、大久保の随員として井上毅
 らとともに清国を訪れている。
1874年(明治7年1月31日)女工採用の始(大蔵省の紙幣寮
 にて初めて女工を採用)
1874年3月18日(2月1日)佐賀の乱:その開戦前の騒動
  佐賀の憂国党が、県の公金を扱う小野組支店襲撃、20
 万円余奪う。
  征韓論をめぐる「明治6年の政変」で、中央を追われた
 江藤新平は、
  板垣退助や副島種臣、後藤象二郎からの説得や警告を
 受け流し、
  太政官より発せられた、「前参議は東京に滞在すべし」
 との御用滞在の命令をも無視する形で・・佐賀に戻った。
  なお、江藤と同郷の大木喬任は、高木秀臣から江藤出
 発の報を聞くや、即座に、佐賀出身の官吏を3人派遣して
 強引に江藤を連れ戻そうとしたが、彼らが横浜に着いた
 時には、すでに江藤が乗船した船は出航した後だった。
  この頃の佐賀は、征韓論を奉じる反政府的な「征韓党」
 と、
  封建主事への回帰を目指す保守反動的な「憂国党」が
 結成されるなど、
  佐賀の政情は不安定で、政府からもマークされていた。
  その様な情勢下の1874年3月18日(明治7年2月1日)に、
 憂国党に属する武士が、官金預かり業者である小野組に
 押しかけ・・、店員らが逃亡するという事件が起こった。
  これは即、内務省に電報で通知され、1874年3月21日
 (2月4日)に、政府は、熊本鎮台司令長官・谷干城に、
 佐賀士族の鎮圧を命令した。
  その中、島義勇は、三条実美の依頼により、沸騰する
 佐賀県士族を鎮撫するため佐賀に向かったが、
  たまたま同船した岩村高俊の佐賀士族を見下した傲岸
 不遜な態度に憤慨し、
  さらに、岩村に同行していた権中判事の中島錫胤から
 岩村が兵を率いて佐賀城に入る予定と聞き、
  父祖の地を守るためには、官兵を打ち払わなければな
 らないと決意。
  それまで不仲だった江藤と会談し、共に発つ決意を固
 めた。
1874年3月18日(2月1日)慶應義塾出版社から「民間雑誌」
 (主宰:福澤諭吉)が創刊された。
1874年3月19日(2月2日)新橋~京橋間に鉄道設置
  1872年10月2日(明治5年8月30日)新橋駅構内に西洋食
 物飲茶店が開業。初の駅売店。
  1872年10月14日(9月12日)日本初の鉄道が仮営業を開
 始:新橋~横浜
  1872年11月14日(10月14日)日本初の鉄道が正式開業:
 新橋~横浜
  1872年10月14日から仮営業という形でテスト走行を繰
 り返してきた日本初の鉄道が、1872年11月14日に正式に
 開業した。
  明治天皇陛下もこの開業式典に御臨席された。
  区間は、新橋~横浜まで:片道53分で一日9往復。
  この日を記念して1922年に国鉄が10月14日を「鉄道記
 念日」を制定した。
  1874年2月21日(明治7年1月5日)東京・京橋~新橋に
 馬車・人力車専用の道路が完成。
  1874年3月19日(2月2日)新橋~京橋間に鉄道設置
  1874年11月19日(10月11日)新橋駅近くで列車が脱線、
 鉄道開業以来はじめての事故
  1879年6月3日(明治12年4月14日)新橋~横浜間の汽車
 に始めて日本人機関士が搭乗。
1874年3月20日(2月3日)福岡県庁が、参議内務卿・大久保
 利通に、佐賀県士族動静不穏と電報を打つ。
1874年3月21日(2月4日)佐賀の乱、起こる。
  江藤新平による佐賀の乱起こる(鎮圧のため鎮台兵が
 出動した)
  同日、内務卿・大久保利通内示。
   陸軍大輔・西郷従道、熊本鎮台(司令官・谷干城陸軍
 少将)に派兵命令。
  谷は、まず、佐賀県庁に使者を送る。
  また、同日、島義男(ヨシタケ)が、太政大臣・三条実美
 に面会し、三条の依頼により鎮撫のため佐賀に向う。
  佐賀に赴任する岩村高俊と同船、不法分子を一網打尽
 にするとの岩村の傍若無人な広言に不快を感じ、岩村が
 鎮台兵出動打ち合わせのため下関で下船したのを知り、
 文官が兵を率いて赴任するとは何事だと怒る(岩村は、
 意識的に島を挑発したか?)。
  1874年3月26日(2月9日)、長崎着。
  島義男(ヨシタケ):大学少監ー侍従ー秋田権令、明治5年
 6月、開化政策に反対し辞職。憂国党党首に祭り上げられ
 ている)
  1874年3月26日(明治7年2月9日)佐賀に於ける軍事・
 行政・司法の三権全権の委任を受けていた大久保利通内
 務卿は、文官でありながら兵権を握る権限を得ており、
 嘉彰親王(後の小松宮彰仁親王)が征討総督として現地
 に着任するまで、すべての事項を決裁した。
  大久保は、東京から引き連れた部隊に加えて、大阪の
 鎮台部隊等を直ちに動員し、博多に向かい、20日に到着
 すると現地で貫属隊の名目で兵を集める一方、本隊を指
 揮する野津鎮雄を朝日山へ向かわせ、
  博多の本陣には山田顕義を残した。
  後に、三瀬峠に、佐賀軍の別働隊を発見し、山田顕義
 麾下の部隊を派遣した。
1874年3月22日(2月5日)邏卒〔らそつ〕を巡査と改称。
  警視庁が、羅卒を巡査の呼称に改めた。
1874年3月22日(2月5日)佐賀県権令・岩村高俊(1月28日、
 兄の通俊に代って佐賀県権令に任命され、赴任前で在東
 京)、兵力による鎮圧を大久保内務卿に建白。
1874年3月23日(2月6日)最初の海外への武力行使方針決定。
  大久保・大隈連名、琉球民殺害事件に関して閣議に「
 台湾蛮地処分要略」全9ヶ条提出。
  台湾遠征軍派遣、閣議決定。
  大久保・大隈・リゼンドル・柳原前光・鄭永寧ら協議。
  リゼンドルの第3覚書をそのまま踏襲。
  「要略」:
  「無主の地」として清国領土外とみなす台湾先住民地
 域(著地)に対し、琉球民遭難への「報復」の「役」(
 軍事行動)を発動することが基本方針。
  「討蕃」と「撫民」を目的とするが、「生蕃」討伐と
 「土蕃・塾蕃」撫育とを区別して併用せよとする福島九
 成の見解が採用されている。
  「撫民」の目的は、「土人を懐柔綏撫(スイブ)せしめ、
 他日、生蕃を処分するの時の諸事に便ならしむ」(第八
 条)ためである(「討蕃」の為の手段とする)。
  何故なら、「熱蕃の地、琅嬌・社寮の港より兵を上陸
 せしむる」(第九条)計画だったから。
  台湾「蕃地」への軍事力行使に対して清国から抗議さ
 れた場合は、「ただ推託して時日遷延の間に即ち事を成
 し」(第四条)とし、「討蕃撫民」の既成事実を作ると
 した。
  また、清が、琉球の日清両属問題を提起してきた場合
 は、「さらに顧て関係せず、その議に応ぜざるをよしと
 す」(第三条)とし、交渉に応じないことにした。
  外交による解決をとらない、軍事力優先の路線を採用。
  但し、柳原外務大丞と鄭外務少丞が起草した「要略」
 原案弟一条は、「琉球人民の殺害せられしを報復し、そ
 の地を拠有すべきは・・」となっていたが、成文では「
 その地を拠有」が削除された。
  6日閣議後、岩倉は、「台湾処分御決定、先ずもって安
 心候」と大久保に書き送り、
  大久保も、同日の日記に、台湾一条が決定し「安心い
 たし候」と書く。
  また、大久保宛て書簡で、岩倉は、「吾属地」とする
 かどうかは「再び御評議のはず」と領有論再開を期待。
  岩倉は、「なにとぞ吾れに得べきの目的立てたきもの
 と存じ候」と、「蕃地」領有を望み、大久保の同意を求
 めるような書きぶりからみて、大久保も領有論傾向であ
 った。
  岩倉は、「要略」が決定したからには「問罪使命の人
 体お取り極めの義急務」(遠征軍最高指揮者の人選を急
 がねばならない)であるが、「鹿児島県の人にて誰かこ
 れなくや」と大久保に推薦を促す。
  しかし、大久保は、台湾遠征という国家的大事業を薩
 摩閥だけのものとみられるのを避けたかったらしく、土
 佐出身の熊本鎮台司令長官谷千城に白羽の矢をたてる。
  但し、木戸孝允ら長州系は「要略」決議に抵抗。
  6日付け木戸日記に、「今日岩倉(邸)にて会議あり、
 台湾-条なり、廻しの暮面に同意せり、よって今日出会
 を断れり」とある。
  木戸は、事前に見せられた書面(「要略」案)に同意
 したので閣議は欠席した。
  「同意」したとはいえ閣議には出たくなかったという
 わけで、この一件にたいする木戸の消極的態度が表れて
 いる。
  しかも、木戸が同意した案と閣議にかけられた案では
 内容が異なっていた。
  翌7日、伊藤博文が、木戸に閣議の模様を報告する手紙
 を送り、
  「台湾一条会議ござ候ところ、かねてお目にかけおき
 候書面の趣意とも少々相違」していたと云い、
  「急に一大隊の兵を発し、・・議かくのごとく火急・
 ・卒然に事を処する見込み」と、「要略」決定までが性
 急で慎重さに欠けることへの不安を伝える。
..
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by suba28 | 2016-03-24 17:37 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)317E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年1月~1874年3月)

題:*(増補版)317E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年1月~1874年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1874年1月26日(明治6年12月9日)東京小網町の大火(約
 5000戸焼失)
1874年1月(12月)自動織機・ジャカード織機
  佐倉常七 ・井上伊兵衛 ・吉田忠七らが仏、リヨンよ
 り、ジャカード織機などを携えて帰国した。
  ジャカード織機は、1801年に、フランス人のジョゼフ・
 マリー・ジャカールが発明した自動織機のこと。
  1872年(明治5年)に、京都府が、西陣機業関係者3名
 をリヨンに送って学ばせ、帰国時に機械を持ち帰った。
1874年2月11日(12月25日)島津久光を、内閣顧問(ない
 かくこもん、内閣総理大臣の諮問機関)に任命した(
 1873年説あり)
  1871年11月14日に、都城県(みやこのじょうけん、
 日向国南部と大隅国東部を管轄する県、現在の宮崎県南
 部と鹿児島県東部)が設置され、
  旧藩領が、鹿児島県と都城県とに大きく分断されると、
 島津久光は、「薩隅分県」は長州の陰謀だと疑い、また、
 自身の鹿児島県令への就任を希望した。
  1872年7月27日(明治5年6月22日)~8月5日(7月2
 日)にかけて、明治天皇陛下が、西国巡幸の一環として
 鹿児島に滞在されたことを受けて、
  1872年8月2日(6月28日)に、政府の改革方針に反す
 る守旧的内容を含んだ14カ条の意見書を、久光は奉呈し
 た。
  1873年4月(明治6年3月)に、勅使・勝安芳(海舟)、
 および、西四辻公業(にしよつつじきみなり、公家、政
 治家)が鹿児島に下向、・・その要請に応じて、
 久光は上京する(4月17日鹿児島発、23日東京着)。
  そして、この日・1874年2月11日(明治6年12月25日)
 に、内閣顧問に任じられた。
  1874年2月1日~1874年3月1日の佐賀の乱の勃発を受
 けて、明治六年政変により下野した西郷を慰撫するため、
 久光は、鹿児島に帰郷する(1874年3月31日・明治7年
 2月14日東京発、1874年4月6日・明治7年2月20日鹿児
 島着)。
  1874年5月(明治7年4月)に、勅使・万里小路博房(
 までのこうじひろふさ)、および、山岡鉄太郎(鉄舟)
 が鹿児島に派遣され、
  その命に従って帰京する(1874年5月30日・明治7年
 4月15日鹿児島発、1874年6月5日・明治7年4月21日東
 京着)。
  1874年6月11日(明治7年4月27日)に、久光は左大臣
 となり、
  1874年7月6日(明治7年5月23日)には、旧習復帰の
 建白を行うが、
  政府の意思決定からは実質的に排除されていた。
1874年、屯田兵(とんでんへい)の設置許可
  屯田制を北海道に実施するという考えは、明治初年か
 ら様々な方面に生まれていた。
  政府内の提案としては、明治3年11月(1870年12月
 ~1871年1月)に開拓使が行なったのが初めて。
  ついで、西郷隆盛が、1871年(明治4年)~1873年
 (明治6年)にかけて、士族による北方警備と開拓を主唱
 した。
  西郷は、計画の実現をみることなく下野したが、彼の
 影響で開拓次官の黒田清隆が、1873年11月に太政官に屯
 田制を建議した。
  樺太と北海道の兵備の必要と、そのための費用を憂え、
 「今略屯田の制に倣い、民を移して之に充て、且耕し且
 守るときは、開拓の業封疆の守り両ながら其便を得ん」
 というものであった。
  黒田が考えたのも士族の活用であったが、彼の場合、
 旧松前藩と東北諸藩の貧窮士族を想定していた。
  太政官は、黒田の提案に賛成し、1874年(明治7年)
 に、屯田兵例則を定めた。
  1875年(明治8年)5月、札幌郊外の琴似兵村への入地
 で、屯田が開始された。
1874年2月16日(12月31日)徳川慶喜が、大臣を辞す(
 1873年説あり)
1874年2月17日(明治7年1月1日)慶應義塾内に、私立小
 学校和田塾(のちの慶應義塾幼稚舎)が開塾した。
1874年2月20日(明治7年1月4日)榎本武揚が、最初の海
 軍中将に任命された。
  (榎本武揚→海軍中将兼駐露特命全権公使 )
  (最初の海軍大将は、明治27年の西郷従道)
1874年2月25日(1月9日)西郷の考え
  旧庄内藩士・酒井玄蕃(さかいげんば、戊辰戦争で活
 躍)の西郷との談話筆記。
  ロシアとの対決は必死だが、北海道防衛だけでは不備。
  朝鮮問題を解決し、沿海州に進出し「北辺」を防備す
 る必要がある。
  イギリス・ロシア対立を利用し、イギリスと提携して
 ロシアにあたれば、「魯国恐るに足らず」との世界戦略
 を示す。
  「今日の御国情に相成り候ては、所詮無事に相済むべ
 き事もこれなく、畢竟は魯と戦争に相成り候外これなく、
 既に戦争と御決着に相成り候日には、直ちに軍略にて取
 り運び申さずば相成らず、只今北海道を保護し、夫にて
 魯国に対峙相成るべきか、左すれば弥以て朝鮮の事御取
 り運びに相成り、ホッセットの方よりニコライ迄も張り
 出し、此方より屹度一歩彼の地に踏み込んで北地は護衛
 し、
  ・・兼ねて掎角の勢いにて、英、魯の際に近く事起こ
 り申すべきと
  ・・能々英国と申し合わせ事を挙げ候日には、魯国恐
 るに足らずと存じ奉り候」
  ロシアとの対決は必至であるが、北海道防衛だけでは
 ロシアと対抗できない。
  朝鮮問題を解決して、日本が積極的に沿海州方面に進
 出し、「北地」を防衛するのが上策であり、
  さらに、英魯対立を念頭において、英と連携してロシ
 アに当たれば「魯国恐るに足らず」という。
  朝鮮と事を構えるよりは、ロシアを警戒すべしという
 のが当時の西郷の考え。
1874年2月25日(1月9日)司法省・警保寮を、内務省に移
 管した。
  1等寮となり官員4000が転属。
  14日、内務卿・大久保利通が、幹部に訓示。
  「警保寮奏任官一同」の訴えにより、前年12月23日に
 臨時裁判所が無罪とした槇村正直(まきむらまさなお、
 官僚、政治家、小野組転籍事件を起こした)を、
  同31日に、参座を解散させた上で槇村を逆転有罪にし、
 長州派・木戸らに煮え湯を飲ませた蔭に、大久保がいる
 事は知れ渡っていた。
  警保寮とは:明治5年8月、司法卿・江藤新平が、軍事
 と警察を分離することにして、約4000人の東京府邏卒を、
 司法省管轄下に入れ、政府警察として機能させたもの。
  近衛兵(約5千500人)に括坑する勢力で、これを背景
 に、司法省は、軍部の綱紀粛正、藩閥の腐敗摘発ができ
 た。
1874年2月26日(1月10日)参議司法卿・大木喬任(元佐
 賀藩士、江藤の2歳上)が、江藤新平を呼出し、佐賀への
 帰郷を止めるよう勧告した。
1874年2月26日(1月10日)閣議が、開拓中判官・榎本武
 揚を海軍中将とし、特命全権大使で、ロシア派遣を決定
 した。
1874年2月(1月)内務省に勧業寮を設置し、殖産興業を推
  進した。
  それまでの勧業課の業務は、内務省所管となり、内務
 省勧業寮(一等寮)として復活する。
  勧業寮には、農務・工務・商務・編纂の4課を置いた。
  「国家富強の根本を奨励し、不急の費を省くべき意見
 書」、
  日本は、今まで、農業に力を入れて来たので、農業に
 は地力を尽くさしめる事に務め、
  工業をして精巧を極めさせ、
  商業で財貨の流通を促進させなければならない。
  希少資源を有効に活用して無駄を省き、
  政府の誘導奨励により、物産を増殖する事の急務があ
 る。
  養蚕農業、山林畜産が重要である。
1874年3月1日(1月13日)江藤新平が、新橋発、横浜港よ
 り佐賀に戻る。後藤は横浜まで見送る。
  3月3日(1月15日)、神戸に寄港。
  前日の1月14日に、岩倉襲撃が起きたことを知る。
  同船に乗り合わせた林有造(はやしゆうぞう、武士、
 政治家、自由民権運動家)は、誤解を避けるため神戸で
 下船した。
  林有造は、元土佐藩士で、前外務省6等出仕、愛国公党
 に参加した。岩村通俊の弟・高俊の兄。
  副島の指示により、西郷から民撰議院設立建白書への
 賛意を得る為に、鹿児島に行く途上であった。
1874年3月2日(1月14日)岩倉具視が、凶漢に襲われ負傷。
  喰違門事變(右大臣:岩倉具視襲撃事件)
  岩倉具視襲撃は・・、
  東京・赤坂の仮皇居(現=迎賓館)から表霞が関の自
 宅まで、馬車で帰ろうとした右大臣・岩倉具視が、
  喰違見附で、旧土佐藩士の一党に襲われ、軽症を負っ
 たが、濠に滑り落ちたため、刺客に発見されず、危地を
 脱した。
  喰違の変(くいちがいのへん):午後8時、武市熊吉
 (高知県士族、前近衛局陸軍少佐)ら土佐征韓派士族・
 元近衛将校下士官らが、右大臣・岩倉具視を襲撃。
  1874年3月5日(1月17日)に、東京警視庁が、首謀者・
 武市熊吉を逮捕した。
  共犯者(元土佐藩士、陸軍少尉・曹長など)8人も逮捕。
 翌・3月6日(1月18日)より司法省臨時裁判所で裁判。
  1874年8月20日(7月9日)に、9名すべて斬罪。
1874年3月4日(1月16日)高島炭坑が官営(工部省所管)
 化した。
  19世紀後半以降、欧米列強のアジア進出による浸食の
 中で、
  日本は、早期に富国強兵し、独立を確保するために、
 その道を、資本主義の確立に求めた。
  明治政府が、国家主導の「上から」の資本主義化を図
 るために進めた殖産興業政策。
  それは、旧幕府や諸藩が進めた洋式工場や鉱山を接収
 し、官営事業とすることから着手された。
  1870年(明治3年)に、発足した工部省は、初期の官
 営事業を統括した。
  そして、「御雇外国人」を招聘(しょうへい)し、多
 くの日本の技術者の指導・育成に当たらせた。
  特に、幕末にフランスの支援で、創設された横須賀造
 船所は、当時、国内最大の総合工場だった。
  そして、機械製作や技術者養成の面で、他産業の発達
 にも貢献した。
  これらの官営工場において、日本人の職工・工女らに
 よる技術の習得が図られた。
  そして、技術習得をした彼らの流動によって、民間へ
 の技術移転が図られた。
  また、官営事業自体の払下げによって、日本における
 産業資本主義の発展の基礎がなされた。
1874年3月7日(1月19日)オランダ人医師・ボードウィン
 に償却金40万ドルを支払う。
  1869年2月(明治2年1月)大阪に、ボードウィンが、
 上海から着任した。
  1869年11月30日(明治2年10月27日)ボードイン執
 刀で、大村益次郎の右大腿部切断手術が行われた。
  しかし、益次郎は、1869年12月7日(11月5日)没。
  1870年3月(明治3年2月)軍事病院・陸軍軍医学校が
 正式発足 ボードインは雇用契約を延長して、診察と軍
 医教育を行う。
  1870年3月(明治3年2月)ボードインの設計による大
 阪軍事病院が大阪城内に出来た(ボードウィンが帰国延
 期)。
  1870年7月(明治3年6月)大坂軍事病院を辞し、帰国
 のため、横浜に滞在。
  その後、7月頃~10月頃まで、大学東校(現:東京大学
 医学部)で、講義を行い、帰国。 
  1870年12月7日(明治3年閏10月15日)是より先「十
 月」前大坂軍事病院附蘭医ボードウイン、大学東校に雇
 庸さる。是日、満期帰国せんとするを以て、 之に謁を賜
 ひ、勅して其功績を褒ず。尋で「二十八日」金三千両を
 賜ひ、功碑に代へ、賞典文を授く。
1874年3月5日(1月17日)「民選議員設立建白書」を提出
 した。
  板垣・江藤・副島・後藤・由利公正(前東京府知事)・
 岡本健三郎(前大蔵大丞、海援隊士)・古沢滋・小室信
 夫らが、民撰議院設立建白書を、左院に提出した。
  1874年2月28日(明治7年1月12日)に古沢滋(27歳、
 旧土佐藩士)が起草し、副島が筆をいれて完成した。
  1874年3月6日(明治7年1月18日)付の「日新新事誌」
 に掲載され、全国的に反響を呼び、民選議院論争が起こ
 った。
  「・・政権の帰する所を察するに、上帝室に在らず、
 下人民に在らず、しかも独り有司に帰す」。
  民選議院を設立して、「天下の公議」を政治に反映さ
 せ、有司専制を制限した。
  岩倉太政大臣代理の「違法かつ専断越権な行為」によ
 って、適法かつ正当な手続きによってなされた閣議決定
 が、一方的に覆され、
  それが、既成事実となって罷り通っている現実に対す
 る、下野した参議の痛切な批判が込められていた。
  有司専制批判・租税共議権主張・微温的立憲制の要求
 を盛ったこの建白書は、
  民選議院論争で国政参加権を、さしあたり「維新の功
 臣」を出した「士族および豪家の農商」に限定し、本質
 的には政府部内反対派の要求であった。
  しかし、この行動は、愛国公党の組織的行為であり、
 「日新真事誌」への掲載により、広くアピールしたとい
 う点で従来のものとは異なり、
  当事者の主観的意図を越えて、国民に迎えられ、民主
 主義を求める国民的運動が形成される政治的契機になっ
 た。
  「臣等伏して方今政権の帰する所を察するに、上(カミ)
 帝室に在らず、下(シモ)人民に在らず、而独有司(而も
 独り官吏)に帰す。
  夫(ソレ)有司、上帝室を尊ぶと曰(イ)はざるには非ず。
  而(シカモ)帝室漸く其尊栄を失ふ。
  下人民を保つと云はざるには非ず。
  而政令百端朝出暮改、政刑情実に成り、賞罰愛憎に出
 ず、言路壅弊(ヨウヘイ)困苦告るなし。
  夫如是にして天下の治安ならん事を欲す、三尺の童子
 も猶其不可なるを知る。
  因循改めずば、恐くは国家土崩の勢を致さん。
  臣等愛国の情自ら已む能はず。
  即ち、之を賑救(シンキフ)するの道を講求するに、唯天
 下の公議を張るに在る而已(ノミ)。
  天下の公議を張るは、民撰議院を立るに在る而已。
  則有司の権限る所あって、而して上下其安全幸福を受
 くる者あらん。
  請遂に之を陳ぜん。
  夫れ人民政府に対して租税を払ふの義務ある者は、乃
 (スナワチ)其政府の事を与知可否(ヨチカヒ)するの権利を有
 す。
  是れ天下の通論にして復喋々臣等の之を贅言するを待
 たざる者なり。
  故に、臣等窃に願ふ、有司亦是大理に抵抗せざらん事
 を。
  今、民撰議院を立るの議を拒む者日く、我民不学無知
 未だ開明の域に進まず。
  故に、今日、民撰議院を立る尚応に早かる可しと。
  臣等以為らく、若し果して真に其謂ふ所の如き歟、則
 之をして学且智、而急に開明の域に進ましむるの道、即
 民撰議院を立るに在り。
  何となれば、則ち、今日我人民をして学且智に開明の
 域に進ましめんとす、先ず其通義権理を保護せしめ、之
 をして自重自重、天下と憂楽を共にするの気象を起さし
 めんとするは、之をして天下の事に与らしむるに在り」
 (「日新真事誌」18日付)
  ブラックが主宰する「日新真事誌」が、建白書全文を
 スクープ。
  ブラックは、英字新聞「ジャパン・ヘラルド」「ジャ
 パン・ガゼット」の主筆兼経営者として、客観的報道の
 意義と影響力を理解している。
  建白書は、事前に板垣から参議・木戸に渡されること
 になっていたが、木戸への使者である自由民権運動家(
 愛国公党員、小室信介の養父)小室信夫が、「日新真事
 誌」に建白書を持ち込み、全文を公表する。
  木戸は、すこぶる感情を害したと云われる。
  「日新真事誌」は、民撰議院開設賛否両論に公平に紙
 面を提供、キャンペーンを展開し、国会開設の世論が、
 全国各地に湧き起った。  
  前年12月、この草案が出来ると、板垣・後藤等は、土
 佐人の林有造を使者として、佐賀の江藤新平と鹿児島の
 西郷隆盛に、これを送り賛成の署名を求める。
  江藤は、賛成して署名するが、西郷は反対して「御建
 白の趣は、至極当然の儀と存候、然れども天下の事は独
 り議論のみにては行はるべからざるものと存候へば、
  僕等は、先づ腕力を用ゐて然る後此事成るべしと存候」
 という返書を寄こす。  
  「建白書」及び愛国公党の意義:
  ①、日本近代化に関する体系的理念、構想、ノウハウ
   を独占していた政府に対抗できる国政理念を提示。
    これまで政府の攻勢に追われ受動的抵抗をするだ
   けであった反政府派に権威と理論が付与され、運動
   の全国的結集の核が生まれる。
  ②、政治組織(「党」)の考え方を生み出す。
    のちの運動の中で定着してゆく。
  ③、「天賦人権論」を公然と主張。  
  政府(大久保の独裁)の対応:
  翌1875年5月(明治8年4月)、漸次に立憲制を施くべ
 しとの詔(ミコトノリ)を出し、木戸・板垣らを入閣させる。
  同1875年6月、民選議院に代わる地方官会議を開いて
 不平士族や豪農を宥(なだ)める。
  政府の約束は、讒謗律、新聞紙条例などの言論弾圧、
 また、江藤らの相次ぐ士族反乱で棚上げにする。
 (注)讒謗律(ざんぼうりつ、明治8年6月28太政官布告
   第110号)とは、明治初期の日本における、名誉毀
   損に対する処罰を定めた太政官布告。
   主な内容:著作物を通じての名誉毀損に対する処罰 。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-03-22 16:33 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)316E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年12月~1874年1月)

題:*(増補版)316E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年12月~1874年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1873年12月8日(10月19日)公園の設置
  東京に、初めての公園を設置した。
  (浅草、増上寺、上野台地、富岡八幡、飛鳥山の五地)
1873年12月22日(11月3日)国旗の掲揚
  祭日に、国旗掲揚の制を定める。
  天長節から国旗を立てることにした。
  自国旗を掲揚するという当然の行為を、日教組は、戦
 争につながるという理由で、日本の国旗である日の丸の
 掲揚に反対している。
  子供たちに大きな影響を与えている。
  国旗であるから色々な場面に関わってくるのであるが、
 日教組はひたすら戦争を持ち出す。
  良い状況にも日の丸はいっぱい関わっているのだが、
 日教組は、そのことは言わない。
  まったく駄々っ子の様に理屈の通らない言で、拗(す)
 ねている。
  2カ国の国旗の掲揚の場合、当然、国旗を掲揚して、外
 国に敬意を表するという大事な意味合いがある。
  その場合は、外国の国旗をポール、または、壁に向か
 って左側の上位席に掲揚し、日本の「日の丸」は右側に
 掲揚するという国際的な儀礼がある。
  日教組は、この様な国際的な慣例などもまったく無視
 している(外国に対して非礼になっていることもお構い
 なしである)。
  因みに、3ヶ国の場合は、通常、日本の国旗を中央にし
 て、アルファベット順に左側、そして、右側の順に掲揚
 する。
  ちなみに、これは国連でもこの様にしている。
  日教組の筋の通らないわがままな主張は、この様な
 国連でもやっていることにお構いなしである。
1873年12月23日(11月4日)外国語学校を、東京に設立
 する。
  既設の官立外国語教育機関を統合し、この年に、設立
 された。
  翌年の1874年までに、東京を含めて、全国で計8校の
 設立をみた。
  この東京の外国語学校は、官立外国語学校のなかでは
 最初のものであった。
  略して、「語学校」とも称した。
  当初は、英・仏・独・清(中国)・魯(ロシア)の5語
 科が設置された。
  後に、英語科が分離して朝鮮語科が増設された。
  高等教育の基礎としての外国語教育と、通訳養成のた
 めの教育という二重の役割を持っていた。
1873年12月29日(11月10日)内務省を設置(1873年11
 月10日説あり)。
  内務省が設置され、行政・警察権の中心となった。
  初代内務卿は大久保利通。
  地方行財政・警察・土木・衛生・国家神道などの国内
 行政を担った。
  初代内務卿の大久保利通の思想を反映して、設立当初
 から国民生活全般への監視の課題もあった。
1873年12月29日(明治6年11月10日)、下野した西郷が、
 この日に、鹿児島に帰着した。
  以来、大半を、西郷は武村の自宅で過ごした。
  猟に行き、山川の鰻温泉で休養していた。
  1874年4月16日(明治7年3月1日)に、佐賀の乱で敗
 れた江藤新平が来訪し、
  翌日の4月17日、西郷は、江藤を指宿まで見送った。
  そして、江藤は、土佐で捕まった。
  これ以前の1874年3月(明治7年2月)に、閣議で台湾
 征討が決定した。
  この征討には、1874年6月(明治7年5月)木戸が反対
 して参議を辞めたが、西郷も反対していた。
  しかし、1874年6月17日(明治7年5月4日)、台湾征
 討軍の都督となった西郷隆盛の弟の三弟・西郷従道の要
 請を入れ、やむなく鹿児島から徴募して、兵約800名を
 長崎に送った。
  西郷の下野に同調した軍人・警吏が相次いで帰県した
 明治6年末以来、
  鹿児島県下は、無職の血気多き壮年者がのさばり、そ
 れに影響された若者に溢れる状態になった。
  そこで、これを指導し、統御しなければ、壮年・若者
 の方向を誤るとの考えから、有志者が西郷にはかり、県
 令・大山綱良の協力を得て、1874年7月(明治7年6月)
 頃に、旧厩跡に私学校がつくられた。
  私学校は、篠原国幹が監督する銃隊学校、
  村田新八が監督する砲隊学校、
  村田が監督を兼任した幼年学校(章典学校)があり、
 県下の各郷ごとに分校が設けられた。
  この他に、1875年5月(明治8年4月)には、西郷と大
 山県令との交渉で確保した荒蕪地に、
  桐野利秋が指導し、永山休二・平野正介らが監督する
 吉野開墾社(旧陸軍教導団生徒を収容)もつくられた。
  (街道をゆく8)には、下記の記載がある・・、
  「西郷と彼が、鹿児島士族の二才衆(にせしゅう)を
 組織して在校10000万人という私学校を起こすが、
  私学校組織は巨細に見ると、もとの郷中(ごじゅう)
 組織であるにすぎない」・・と。
  郷中(ごじゅう)は、薩摩藩の武士階級子弟の教育法。
1873年12月、星亨(23歳、ほしとおる)が、横浜税関次
 官から横浜税関長になった(長官・中島信行が、神奈川
 県令に転出したため)
  在任期間:1873年12月(明治7年1月)~1874年8月
 (明治7年7月)
  翌年・1874年3月(2月)従六位に叙任。
  イギリス公使パークスとの紛争により、半年で税関長
 を免職した。
  しかし、その後まもなく、租税本案外事課長、また、
 条約改正委員にも任命され、
  1874年10月(明治7年9月)には、イギリス留学を命
 ぜられる。
  星が、「ハー・マジェスティー」を「女王陛下」と訳
 したところ、
  イギリス公使ハリー・パークスが、日本での女王は、
 皇族の内でも最下級で、このような呼び名を用いる事は、
 大英帝国君主の尊厳の冒瀆である、と激怒し、星の処罰
 を求めた。
  星は、英語の「クイーン」は、女の王、又は、王の后
 を意味する言葉で、「女王」と訳す事に差しつかえない、
  イギリスが、「皇帝」と訳して欲しければ「エムペラ
 ー」、又は、「エムプレス」の称号を用いるべき、と回
 答した。
  事件は、外務卿・寺島宗則が、イギリス公使の威圧に
 屈し、太政官布告によって外国君主には、全て皇帝の称
 号を用いることとし、星を免職にして解決した。
1873年、宇喜多氏の大赦
  宇喜多から浮田と、途中から姓を改めた秀家・豪姫に
 始まる八丈島の一族は、
  明治の御一新で、やっと大赦となり、
  明治天皇陛下は、明治6年に、東京板橋に宅地19900坪
 を与え、
  前田家も、金1000両を贈って、苦闘の一族(当時、8家
 に分裂)の労をねぎらった。
  それは、豪姫が、八丈島の夫や子供たちに思いを馳(
 は)せ金沢で死んでから、実に239年も後の事であった。
1873年、チェンバレンが来日し、東京大学で言語学を教え
 た。
  日本における国語学を確立した。(街道をゆく1)
1873年、横浜生糸改会社の社長に原善三郎 (横浜生糸商、
 1827年~1899年) が就任した。
1873年、抄紙会社が創立された(王子製紙)
1873年(明治6年)長崎造船局と改称した。
  後に、三菱社が、自家造船所経営の必要に迫られた。
  また、後になって、ちょうど政府が、工部省所管長崎
 造船局を民間に経営を委ねる方針を出した。
  その後、三菱社は、機を逸せず長崎造船局の貸与を願
 い出た。
1873年、ナポレオン3世が没した(1808年~1873年)
1874年(明治5年~明治6年)、出来事:
 ・北海道屯田兵制度が創設された。
 ・板垣退助、後藤象二郎らが民撰議院設立建白書を政府
  に提出した。
 ・【関八州大三角測量】 工部省の測量事業を内務省地
  理寮が引き継ぎ、「関八州大三角測量」と称して本格
  的な三角測量を開始した。
 ・板垣退助が土佐に立志社を創立した。
 ・郵便脚夫、
 ・ピストル取扱規則公布
1874年、スポーツ、
 ・工学寮にソフトボール競技の初め。
1874年、科学
 ・大坂~神戸の鉄道が開通した。
 ・釜石製鉄所が設置され発展した。
1874年、文化
 ・東京銀座にガス灯が灯った。
 ・二階建四頭立の乗合馬車、東京市内を通る。
 ・東京府、大通りの人道車道の区別を定める。
 ・新橋駅構内人力車夫数を制限する。
 ・東京市内街路樹を植える。
 ・読売新聞が発刊された。
 ・東京府、新墓地設定。
 ・浅草 伊勢屋弥兵衛、浜町(芳町)の美人芸者と結婚、
  お二人洋装、ワインで乾杯。
1874年、衣
 ・巡査の制服制帽公布。
 ・マント流行始まる。
 ・陸海軍人服制改定。
 ・長襟巻の流行。
 ・外国錦の輸入盛んになる。
 ・京都府石鹸使用を奨励する。
1874年、食
 ・津校正信、大阪市内で搾乳を始める。
 ・弘前のアメリカ人教師、アメリカよりリンゴの苗を移
  植した。
 ・政府『紅茶製法書』を刊行。
 ・浅草に紙巻タバコつくるものあり。
 ・千葉の山田箕之助、野菜の缶詰をつくる。
1874年、住
 ・竹橋陣営、煉瓦造三階建の工事完了。
 ・東京ガス会社、ガス灯の点火を開始する。
 ・工部大学校生徒館(煉瓦造二階建)できる。
 ・舶来ランプだけでなく、和製も出まわり、東京市中に
  ランプ普及する。
 ・各家庭に石油ランプが普及。
 ・駿河町三井組三階煉瓦建築成る。
1874年1月7日(明治6年11月19日)初めて郵便はがきが、
 発行された。
1874年1月12日(11月24日)山田顕義少将を清国公使に
 任命した。
1874年1月12日(11月24日)日本の最初の政党・愛国公党
 が結成された。
  政府を去った西郷隆盛が、1873年12月12日に、鹿児
 島へ帰郷し、
  この日・1874年1月12日に、板垣退助、副島種臣、後
 藤象二郎、江藤新平、由利公正、小室信夫、岡本健三郎、
 古沢滋、奥宮正由の9人が、愛国公党を結成した。
  愛国公党綱領署名式。
  副島種臣屋敷にて、
  天賦人権論に立脚して、人民の基本的人権(通義権理)
 を保護主張し人民の自立を図ること。
  「天の斯民(シミン)を生ずるや、必ず之に附するに道義
 権理を以てす。
  ・・我党の目的は、唯(タダ)斯人民の道義権理を保護
 主張し、以て斯人民をして自主自由、独立不羈の人民た
 ることを得せしむるに在る而巳(ノミ)」。
  この党は、後に、自然消滅した。
  また、「自由党史」によると・・、
  板垣退助が、土佐出身の英国帰りの2人(前海軍中佐・
 片岡健吉・前外務省6等出仕・林有造)に、国会開設建
 白を勧める。
  2人は、板垣が先頭にたつべきとしたため、板垣は、後
 藤に相談。
  後藤は、同意し、英国帰りの前左院3等議官小室信夫・
 古沢滋の意見を聞くことになる。
  次に、板垣は江藤・副島を誘う。
  「政体書」の起草者・副島は、立法権独立に理解があ
 り、板垣に賛同。
  江藤は、明治元年に議会論を唱導し、佐賀藩政改革で
 も「下之議院」を構想し、明治3年の諸官制改革案におい
 て上下議院の導入を図り、左院の議会化にも工夫をめぐ
 らすなど、筋金入りの議会論者であったから、
  これも大賛成。
  さらに、五箇条誓文の原案起草者で前東京府知事の由
 利公正や大蔵大丞岡本健三郎らも仲間に加わった。
1874年1月15日、東京警視庁の創設
  鍛冶橋内旧津山藩江戸藩邸に設置され、旧薩摩藩士の
 川路利良が、初代大警視(後の警視総監)に任じられた。
  警視庁発足時から各地で士族反乱が発生し、地方の警
 察力では対処できなかった。
  政府は、全国の警察を一元化するため、1877年(明治
 10年)1月11日に警視庁を廃止し、内務省直轄の東京警
 視本署へと改編した。(庁舎はそのまま使用された)
  沿革
  1874年(明治7年)1月15日 東京警視庁を設置(太政
    官達6号)。
  1877年(明治10年)1月11日 東京警視庁が廃止され、
    内務省に警視局を設置(太政官布告4号、太政官達
    15号、内務省達)。27日 東京警視本署を設置(警
    視局布達甲3号)。
  1877年(明治10年)3月 警視隊抜刀隊を編成、西南戦
    争に従軍。
1874年1月17日、民撰議院設立建白書を提出
  愛国公党を結成した5日後、板垣らは、この日・1月17
 日に、古沢滋(迂郎)と小室信夫が起草し、
  由利公正(前東京府知事)、岡本健三郎(前大蔵大丞)
 も加えた合計8名で、民撰議院設立建白書を政府に提出
 した。
  これは、「政治権力が、上である天皇陛下(帝室)に
 もなく、また、下である人民にもない。
  ただ、一部の官僚に集中してあるという状態、
  だから、民撰議院を設立して行く事が、国民の幸福に
 なる」、、という趣旨のもので、
  故に、議会を開くべし・・というものだった。
  しかし、政府に却下されてしまう。
  だが、翌日の新聞「日新真事誌」に全文が掲載される
 と、大きな反響を呼んだ。
  ここから、次第に自由民権運動が盛んになって行った。
1874年1月18日、勝海舟、叙正四位(氷川清話)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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by suba28 | 2016-03-21 01:42 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)315E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年10月~1873年12月)

題:*(増補版)315E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年10月~1873年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1873年11月2日(明治6年9月13日)特命全権大使・岩倉
 具視の一行が、欧州より帰朝する(翌日参内復命)
  岩倉具視を全権大使とする使節団が、全12か国をまわ
 り帰国した(横浜に帰港)。
1873年11月2日(9月13日)ストーブの広告が出る。
  因みに、ストーブは・・、幕末以後は、石炭ストーブ
 が輸入されるようになり、
  この年・1873年(明治6年)に、東京神田の増田という
 人が、国産ストーブを発売した。
  明治30年(1897年)代に入るとガスストーブも国産
 され、
  1914年には、京都電灯が電気ストーブを製造発売した。
  石油ストーブも、明治時代から使われ、国内でも生産
 されたが、ぜいたく品だった。
1873年11月4日(9月15日)新橋~横浜間の鉄道に、初め
 て、貨車が運転開始された(従来は客車のみであった)
1873年11月4日(9月15日)、三条実美と岩倉具視が、大
 久保参議の起用を協議する。
  さかのぼること5ヶ月前、1873年6月20日(明治6年5
 月26日)に、特命全権副使・大久保利通は帰国していた
 が、大久保は、岩倉使節団の外交上の失敗の責任を痛感
 していた。
  また、中途で早めに帰国させられたが、既に、国内の
 改革はすんでしまっていて、何もすることがないと感じ
 ていた。
  大きな外国の壁に悩んいた大久保は、この時、朝鮮問
 題にも無関心の様子で、政務に復帰していなかった。
  使節団は、対米条約改正交渉に乗り出し、努力してい
 たが失敗し、また、度重なる誤算もあった。
  当初は、10ヶ月半の予定だったが、20ヶ月半を要する
 結果となった。
  しかし、長期間とはなったが成果は目に見えず、使節
 団の威信は大いに低下した。
  世間には、下記の様な歌が流行った・・、
  「条約は結び損ない、金は捨て、世間へ大使(対し)
 なんと岩倉」
  そして、木戸孝允(きどたかよし)が、大久保に遅れ
 て約3ヶ月後の1873年9月14日(明治6年7月23日)に、
 帰国した。
  木戸は、帰国早々、同じ長州閥の井上馨、槇村正直ら
 の不始末(尾去沢銅山事件、小野組転籍事件)の処理に
 奔走し、また奔走せざるを得なかった。
  木戸は、朝鮮問題に相当の関心を寄せ、征台征韓の正
 当性を原則的に認めた。
  しかしながら、木戸は、財政上の見地から征台征韓を、
 「時期尚早だ」として反対した。
  しかし、外遊中の複雑な事情もあって、消極的となり、
 三条実美に参議辞任を申し出た。
  三条実美は、岩倉の帰国まで待つようにと慰留した。
  そして、岩倉具視、伊藤博文らの使節団が、1873年11
 月2日(明治6年9月13日)に帰国する・・、
  三条と岩倉の直近の最重要課題は、体制を立て直す「
 体制固め」だった。
  その意味もあって、大久保と木戸を政府に参加させ、
 復帰させることだった。
  しかし、大久保は消極的だった。
  そして、木戸の方の関心は、不始末をした子分の救済
 (小野組転籍事件)にあった。
  そして、木戸の関心のもう一つが、不正を容赦しない
 裁判所・司法省をつくった江藤に対処することだった。
  西郷は、既に、1873年10月8日(8月17日)に、朝鮮
 への派遣使節に内定していたが、
  岩倉の帰国後は、三条および岩倉とも、大久保参議の
 起用問題を目下の処理事項とし、西郷の朝鮮派遣問題は
 取り上げられず、閣議も開かれなかった。
  決定のない状況に、西郷は強く抗議し、三条らを慌て
 させた。
  因みに、小野組転籍事件とは、1870年(明治3年)、
 小野屋が、本社機能を京都から江戸へ移そうとしたとこ
 ろ、長州藩出身で京都府権大参事の槇村正直によって為
 替業務に制限がかけられ、これによって小野屋の業務は
 支障をきたした・・、
1873年11月19日(9月30日)オランダに公使館が開設さ
 れた。
  因みに、ベルギーの事であるが・・、
  日本とベルギーとの国交は、1866年の修好通商航海条
 約の締結によって始まり、
  ベルギーは、1870年に、東京に公使館を設置した。
  また、日本は、この年の1873年に、ブリュッセルに
 公使館を開設した。
  第1次大戦後の1921年に、大使館に昇格した。
1873年11月28日(10月9日)東京の開成学校(東京大学
 の前身)の開校式場に、明治天皇陛下が臨御(りんぎょ)
 し給う。
  江戸時代の蕃書調所から、変遷を経て、1868年に、新
 政府に接収されて・・改称し、
  1873年に、専門学校として開成学校が官立学校として
 設置された。
  1877年に、東京大学の一部となる。
1873年11月(9月)横浜グランドホテルが開業した。 
  本格的なホテルとして、横浜の居留地二十番にオープ
 ンした。
  グランドホテルは、横浜だけでなく、日本を代表する
 ホテルとなって行く。
  食事や各施設の充実ぶりに、各国の要人なども賛辞の
 声をあげた。
  食事をかなり詳しく記録した外国人宿泊者が、「パリ
 のグランドホテルにいるようだ」と記した。
  しかし、西洋の石造りのホテルに慣れている外国人宿
 泊者は、木造で石造り風に施工したホテルには慣れなか
 った様だ。
  石だと思った壁が石の板で穴が開いていた・・と感想
 を述べている。
  現在、写真が残っているが、かなりしっかりした良い
 建物を、デザイン良く設計し建てていたと、明治の方々
 を褒めて差し上げたい。
1873年11月(9月)横浜でガス灯が点火した。 
  横浜の外人居留地では、既に、1871年に点灯していた。
  これは、日本の初めての点灯と言われている(1872年
 説あり)。
  1872年に、横浜の馬車道本通り~大江橋間が点灯し、
  1874年には、銀座煉瓦街の街路灯が、点灯夫によって
 点灯され、街を照らし人々を驚かせた。
1873年11月(9月)飛脚業の禁止(1873年5月説あり)。
  飛脚問屋による信書の逓送が禁止され、信書逓送は、
 政府事業となった。
  1872年4月に、陸運元会社が創立され、
  1872年8月に、各駅の伝馬所と助郷制は全廃され、
  宿駅の問屋は、陸運会社として、陸運元会社のもとに
 組織化された。
  そして、官営郵便事業の輸送業務は、陸運元会社へ一
 本化された。
  1873年3月に、陸運元会社は、金子入書状の取扱いも
 委任され、
  1873年6月には、再度組織改編を行なって、新たに同
 業者と同盟をむすび、全国各地に3480余の出張所や取次
 所を設け、公用私用の貨物輸送業務を行なう様になった。
  前島密の関心は、もっぱら郵便事業に向けられ、
  1873年5月には、飛脚問屋による信書の逓送が禁止さ
 れ、信書逓送は政府事業となった。
  逓送業務は、郵便取扱人をふくむ駅逓寮職員に限定さ
 れ、
  違反者には、郵便犯罪罰則により200円以内の罰金が
 課された。
  したがって、この1871年4月の郵便の開始から、1873
 年5月の民間業者による信書逓送の禁止までの2年余の期
 間は、飛脚便と郵便との競争・併存の時代であった。
1873年12月3日(10月14日)祝祭日を官庁の休日となす制
 度が定められ、太政官より布告された。
  祝祭日制定される(神武紀元祝日を2月11日に変更)
1873年12月3日(10月14日)岩倉具視が、西郷隆盛らと
 征韓論で意見が衝突(旧暦10月22日説あり)。
  清国と朝鮮との関係の様な「公平な国交」を、日本も
 朝鮮半島の李朝との間で開きたいとしていた。
  清国の従属国化しているため、日本を重要視しない(
 重要視できない)李朝政府は、日本との交渉をいたずら
 に長引かせ、侮辱もした。
  日本国内に征韓論も生まれた。
  その征韓論の中で、西郷の征韓論は、征韓論と言うよ
 り、不誠実な態度、侮辱的な態度に終始する朝鮮・李朝
 に対し、西郷が自ら交渉に赴くという「遣韓使節論」で
 あって、
  その赴くにおいて、不誠実な侮辱的な態度が相変わら
 ず続く様であったなら、征韓も持さないという征韓論で
 あった・・、
  故に、西郷は、「派兵反対論」であった。
  この年・1873年(明治6年)になってからは、朝鮮の
 排日の風は、ますます強まっていた。
  1873年5月~6月(明治6年4月~5月)には、釜山にお
 いて官憲の先導によるボイコット(組織的、集団的に日
 本人を排斥したり、取引拒絶などをする)も行なわれて
 いた。
  また、政権を握った大院君(だいいんくん、李氏朝鮮
 において王位を直系継承された王)は・・、
  「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にし
 て日本人に交わるものは死刑に処せん」という過激な布
 告を出した。
  1873年7月(明治6年6月)、日本に帰国した在朝鮮の
 外交官が、帰国報告し、この様な状況が閣議で、改めて
 対朝鮮外交問題として取り上げられた。
  その様なところへ、1873年11月2日(明治6年9月13日)
 に、岩倉具視が帰国した。
  帰国した岩倉使節団の岩倉具視・木戸孝允・大久保利
 通らは、時期尚早だとして、反対した。
  1873年12月(明治6年10月)に、収拾に窮した太政大
 臣・三条実美は病に倒れた。
  最終的には、太政大臣代理となった岩倉の意見が、明
 治天皇陛下に容れられ、遣韓中止が決定された。
  その結果、西郷や板垣らの征韓派は、一斉に下野した
 (征韓論政変、または、明治六年政変)。
  別史料には・・、
  大久保は、説得に大院君が耳を貸すとは思えず、西郷
 が、朝鮮に行った場合必ず殺される。
  (殺されずとも、大院君が使節を拒否した場合は、開
 戦の大義名分になってしまう)、
  そうなった場合、結果的に朝鮮と開戦してしまうので
 はないかという危機感、
  当時の日本には、朝鮮や清、ひいてはロシアとの関係
 が険悪になる(その帰結として戦争を遂行する)だけの
 国力が備わっていないという戦略的判断と、
  外遊組との約束を無視し、危険な外交的博打に手を染
 めようとしている残留組に対する感情的反発、
  そしてまた、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外
 交案件が存在するという日本の国際的立場(清との琉球
 帰属問題(台湾出兵)、ロシアとの樺太、千島列島の領
 有権問題、イギリスとの小笠原諸島領有権問題、不平等
 条約改正)などがあった。
  それらの理由から強い反対意見が出た。
  費用の問題なども絡め、征韓の不利を説き、延期を訴
 えた。
  1873年12月3日~4日(10月14日~15日)に開かれた
 閣議には、太政大臣・三条実美、右大臣・岩倉具視、
  以下参議の・・西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤
 象二郎、副島種臣、大久保利通、大隈重信、大木喬任が
 出席した。
  この際、大隈・大木が、反対派に回り、採決は同数に
 なった。
  しかし、この意見が通らないなら辞任する(西郷が辞
 任した場合、薩摩出身の官僚、軍人の多数が中央政府か
 ら抜けてしまう恐れがある)とした西郷の言に恐怖した
 議長の三条実美が、即時派遣を決定した。
  これに対し大久保、木戸、大隈、大木は、辞表を提出、
 岩倉も辞意を伝えた。
1873年12月(明治6年10月)征韓論は破れた。
  征韓論分裂、西郷、板倉、江藤ら辞職(氷川清話)
   1873年(明治6年)には早くも征韓論の対立で、政治
勢力は大きく分裂した(氷川清話)
  征韓論に敗れ、西郷隆盛・板垣退助らが下野した。
  江藤新平も、1873年に参議になったが、征韓論を唱え
 ていられず辞職した。
  大久保が、西郷(かつての盟友)を追放。
  破壊の時代にときめいていた者(西郷)は、必ずしも
 新時代建設にも適任とはならない、新時代プランナーと
 しての精彩は欠いた。
  しかし、その令名は却って輝きが増した。
  価値観の混乱から、新政府に不満を持った者が、巷に
 溢れ、彼らは西郷を慕った。
  大久保は、西郷の存在に危機感を感じ、征韓論を政争
の問題とし、かつての盟友を追放した。
  そして、西郷隆盛(45歳)は、征韓論を主唱し敗れ、
辞職した。
  帰郷して私学校を開き、そこに不平士族が集まった。
  また、別史料に・・下記がある、
  ・1873年12月11日(10月22日)西郷隆盛、板垣退助、
    副島種臣、桐野利秋ら、岩倉具視邸にて征韓論の
    正面衝突。
  ・1873年12月12日(10月23日)岩倉具視参内して、三
    条実美、西郷隆盛らの「征韓論」を奏陳し意見書
    を上げる。
  ・1873年12月13日(10月24日)明治天皇陛下、征韓論
    を退ける(西郷隆盛、参議・近衛都督を辞職)
  ・1873年12月14日(10月25日)征韓論敗れ、副島種臣・
    板垣退助・江藤新平ら参議を辞職(後を追って辞
    職するもの100余名に及ぶ)
  ・1873年12月17日(10月28日)西郷隆盛、官を辞し鹿
    児島帰郷
1873年12月8日(10月19日)新聞紙発行規則が定められ
 る。
  新聞紙条目を公布(発行許可制、国体誹謗・政法批評
 禁止)など規定。
  讒謗律(ざんぼうりつ)を制定して、急進的な反政府
 の言論活動を取り締まった。
  征韓論をめぐって、西郷隆盛らが下野すると、世論鎮
 圧のため新聞紙発行条目を公布した。
  「人ヲ教唆シテ罪ヲ犯サシメタル者」(12条)、
  「政府ヲ変壊シ国家ヲ顛覆(てんぷく)スルノ論ヲ載セ
 騒乱ヲ煽起(せんき)セントスル者」(13条)、
  「成法ヲ誹毀(ひき)シ国民法ニ遵(したが)フノ義ヲ乱
 (みだ)リ及顕(およびあら)ハニ刑律ニ触レタルノ罪犯ヲ
 曲庇(きょくひ)スルノ論ヲ為(な)ス者」(14条)
  この令には、初めて厳しい刑罰規定が設けられた。
  征韓論で乱れた国内の状況に応じた令だった。
..
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by suba28 | 2016-03-18 16:19 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)314E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年8月~1873年10月)

題:*(増補版)314E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年8月~1873年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
19世紀後半、朝鮮・韓国の文字であるハングルで書かれた
 最古の小説「洪吉童伝」が、この頃に成立した。
  ハングル。
  ハングルは、朝鮮語を表記するための表音文字であり、
 1446年に、李氏朝鮮・第4代国王の世宗が、「訓民正音」
 の名で公布した。
  しかし、この文字は、長い間、朝鮮・韓国の社会から
 消えていた、埋もれていた。
  日本が、朝鮮・韓国の教育を熱心に改善して行ったが、
 その過程の中で、この埋もれていた文字が復活された。
  今・現在、この文字によって、どれほど朝鮮・韓国が
 文化的に、教育的に利便を得ているかは計り知れない。
  朝鮮・韓国で、ハングルが軽視されていた理由は、
  李氏朝鮮の国であった朝鮮・韓国は、清国に従属化さ
 れていて、その状況下にあって、清の文字の漢字が重視
 されるという状況のもとに、朝鮮・韓国の古来のハング
 ルは消え、そして、軽視されていた。
  公文書にも使われず、まったく見向きもされていなか
 った。
  日本との関係が深まって来て、やっと、1886年に、日
 本人が協力し、初のハングルの新聞や官報が発行された。
  朝鮮・韓国の方々は、教育機関がほとんど皆無と言っ
 いい状況の中で、大多数の朝鮮・韓国の方々は、読み
 書きができない状況だった。
  そして、日本との合邦時代になって、日本と同様の教
 育を進めたいという理念のもとに、朝鮮・韓国の学校教
 育にハングルによる朝鮮語が導入された、また、学校数
 も増やして行った。
  朝鮮・韓国の方々に、字の読める人口が、格段に改善
 された。
  1911年に、朝鮮総督府は、第一次教育令を公布し、ハ
 ングルを正式に必須科目とした。
  加耶大学の崔基鎬(チェケイホ)教授は、自著に書く、
  「李朝518年間、政治も経済も国家も、まったく存在し
 ないに等しかった。
  あったのは、ごく少数の支配階級と、大多数の奴隷(
 常民・サンミンと賤民・センミン)だけだった。
  朝鮮で最初のハングル小説「洪吉童伝・ホンキルトン
 ジオン」を著わした作家は、刑死させられたくらいだ。
  そして、その作家の家族は、奴婢・ヌヒの身分に転落
 させられた。
  朝鮮民族は、この様な体質だった。
  李朝は、讒言(ざんげん、事実を曲げたり、ありもし
 ない事柄を作り上げたりして、そのことを目上の人や、
 社会に言いふらし、悪く言うこと)と嘘(うそ)で固め
 られた残酷史の連続だった・・、
  他力本願ながら、そうした李朝の歴史に終止符を打っ
 た日韓併合は、この民族(朝鮮・韓国)にとって千載一
 隅の好機であった。
  これを否定する事は、歴史の歪曲である」と。
  千載一隅の意味は、《袁宏「三国名臣序賛」から》千
 年に一度しかめぐりあえないほどまれな機会。例:千載
 一隅の好機。
1873年8月24日(7月2日)靴製造販売広告が、初めて新聞
 紙上に現われた。
  (東京築地、伊勢勝の広告、郵便報知紙上に見える)
1873年9月2日、黒田清隆開拓次官が、樺太出兵を建議した。
  1869年12月24日(明治2年11月22日)に、黒田は、
 樺太でのロシアの圧力が増したため、
  1870年6月(明治3年5月)に、樺太専任の開拓次官と
 なった。
  1870年8月(明治3年7月)から樺太に赴き、現地のロ
 シア官吏との関係を調整し、北海道を視察して、帰京し
 た。
  1870年11月13日(10月20日)に建議して、樺太は3
 年も保たないとし、北海道の開拓に本腰を入れなければ
 ならないと論じていた。
  1871年11月27日(明治4年10月15日)に、開拓使長
 官・東久世通禧が辞任した後は、次官のまま開拓使の頂
 点に立った。
  1873年11月14日(明治6年)に、開拓使官吏の永山武
 四郎、永山盛弘ら4人は、連名で右大臣岩倉具視宛てに
 「屯田兵備設置」の建議を提出した。
  その要旨は・・、
  兵備は国家を守り、国民を保護するものだ。
  徴兵制度が定められ、各地に鎮台(軍隊)が設けられ
 たが、北海道だけはない。
  樺太の情勢は切迫している。
  開拓次官・黒田清隆に兵務も兼ねさせ、開拓使の中か
 ら兵を募り、隊を編成してほしい。
  樺太南部は、日露雑居の地で、ロシア人の犯罪が相次
 いでいた。
  樺太担当次官だった黒田は、出兵を計画したが、現地
 でロシアの圧倒的な軍事力を見て樺太放棄へ傾いた。
  政府は、1870年3月14日(明治3年2月13日)に、樺
 太開拓使を、樺太開拓のための官庁として設けたが、1年
 余りの僅かな年を経て、1871年8月、樺太開拓使を廃止
 し、北海道開拓使に併合していた。
  樺太は、江戸幕府がロシア政府と結んだ日露和親条約
 で日露混住の地とされ、
  王政復古の後は、箱館裁判所と箱館府の支配を経て、
 開拓使の管轄となった。
  裁判所時代から、現地の行政は岡本監輔(けんすけ)
 が執り、
  1868年(明治1年)と、1869年(明治2年)から移住
 した日本人入植者の約500人を指導していた。
  岡本は、樺太移住者に無税の条件と、当面の食糧供給
 などの厚遇を用意したが、定住は容易に進まなかった。
  この間、ロシア側の移住と開発の速度は、日本側を上
 回り、さらに日本人との紛争が頻発した。
  これには、現地の岡本が、日露和親条約の効力を否定
 し、樺太を日本固有の領土とみなして、ロシア側の開発
 を原則拒否する態度を取っていたことにも原因があった。
  岡本の考えは、日露和親条約は、条約締結権のない徳
 川家の家臣が結んだものだから、天皇親政の時代には改
 めて国境を決定しなければならないというものだった。
  この見解は、幕府時代の条約を引き継いだという認識
 に立つ日本政府と異なるものであった。
  岡本は、事態の緊急性を告げるべく上京した。
  政府は、報告に危機感を抱き、1870年3月14日(明治
 3年2月13日)に、樺太の所管を開拓使から分離して樺太
 開拓使を設置した。
  独立した予算を立て、久春古丹にあった公議所を樺太
 開拓使庁と改称した他は、実質的変化はなかった。
  次いで、1870年6月7日(明治3年5月9日)に、黒田清
 隆を開拓使の次官(樺太開拓使の次官ではない)に任命
 し、樺太専務とした。
  黒田は、樺太視察に赴き、1870年9月(明治3年8月)
 に、現地に到着した。
  黒田は、日露雑居の原則に沿う形で現地のロシア当局
 と折衝し、当面の紛争を解決してから東京に帰った。
  岡本はこの年・1870年12月(明治3年閏10月)に、辞
 職した。
  東京に戻った黒田は、樺太の状況がこのまま推移すれ
 ば3年しか持たないという建議を出し、北方開拓を本格化
 する必要を説いた。
  これが、「開拓使十年計画」という予算計画を生むこ
 とになった。
  十年計画の予算で、北海道の開発は加速したが、樺太
 の状況は基本的に変わらなかった。
  樺太には、これ以後、高官が派遣されることも任命さ
 れることもなく、
  樺太開拓使は、1871年9月21日(明治4年8月7日)に、
 廃止された。
  1873年(明治6年)には、黒田は、樺太放棄論を建議
 して、千島樺太交換条約締結への路線をつくった。
  1874年8月5日(明治7年6月23日)、陸軍中将となり、
 北海道屯田憲兵事務総理を命じられた。
  1874年9月12日(明治7年8月2日)、参議兼開拓長官
 となった。
  黒田は、榎本ら箱館で降った旧幕臣を開拓使に登用し
 た。
  1888年(明治21年)、内閣総理大臣となり、大隈外相
 とともに条約改正にあたった。
1873年9月9日(7月18日)従来混同する「布告」と「布達」
  の区別を初めて整然と定めた。
  1873年(明治6年)に、布告・布達の書式・手続を定
 めた規定が相次いで出されたことで、
  国民一般に対して出される太政官の「布告」と、
  各省の「布達」、
  更に、上級官省から下級機関に対して出される「達」
 の区別が定着した。
1873年9月9日(7月18日)仏教への弾圧(廃仏稀釈)
  太政官布告によって、火葬禁止令が出された。
  明治政府が、仏教での葬法としての火葬に反対した神
 道派の主張を受け入れた。
  2年後の1875年5月23日に、この火葬禁止令は解除さ
 れる。
  火葬を禁止したことで仏教徒の反発が強く、
  また、衛生面から、火葬が好ましいとの意見があり、
 都市部での土葬スペース不足という問題もあった。
1873年9月10日(7月19日)鎮台条例改正
  東京、佐倉、新潟、仙台、青森、名古屋、金沢、大阪、
 大津、姫路、広島、丸亀、熊本、小倉の14師管を置き、
  これを6軍管に隷す。
1873年9月11日(7月20日)鉱業制度確立の為、日本坑法(
 にほんこうほう)が布告された。
  1872年の鉱山心得によって、鉱物が定義され、
  鉱業の国家独占主義と、外国人の排斥の原則が確立さ
 れた。
  1873年の日本最初の体系的鉱業法である『日本坑法』
 は、鉱物はすべて政府の所有にして、ひとり政府のみが
 これを採掘する権利を有し、
  私人は、借区によって、15年間の期間で鉱物の採掘を
 なし得ると定め、
  鉱物の国家独占主義を継承した。
  しかし、当時すでに、欧米の各国は、鉱業の国家独占
 主義をとっておらず、これはむしろ鉱業の発展を阻害す
 るとされたため、
  1890年に、新たに主としてプロイセンの制度にならっ
 た鉱業条例が制定され、
  国家独占主義を廃し、鉱業を特許を要する自由主義の
 下に置き、借区に代えて永久の権利としての採掘権が設
 けられた。
1873年9月17日(7月26日)東京両国の花火大会が復興す
 る(1868年7月27日の明治1年6月8日説あり)
  両国川開き当夜、横浜在住の遊客の便宜のため、初め
 て汽車の臨時列車運転の旨、外字新聞に広告が出た。
  上下あわせて3本だった。
  江戸時代、享保年間(1730年代)に始められた両国の
 花火大会も、幕末の動乱期には、江戸っ子も花火どころ
 ではなく、両国の花火は、1863年(文久3年)以降中断
 されていた。
  幕末の動乱期を経て、新しい時代の到来を告げる祝砲
 の如く、両国花火は再開された。
  久しぶりの花火で、多くの見物人や、涼み船が出た。
  屋形船4隻、屋根船400隻、小舟その他150隻が、川面
 を埋めた。
  この年、東京日本橋の瑞穂屋卯三郎が、横浜の商会を
 介し、初めて西洋花火を輸入したという記録がある。
  両国水神祭夕涼之図(りょうこくすいじんさいゆうす
 ずみのず)がある。
  この当時の花火人気は、今以上であり、1873年(明治
 6年)には、前年・1872年10月(明治5年9月)開通した
 ばかりの鉄道が、横浜~新橋間に汽車を「別格」運転し
 (臨時列車のこと)、横浜の外国人も花火大会に運ぶと
 いう状況だった。
  明治初年の頃の花火大会を見たE・Sモースは、次の様
 に記す・・、
  「・・広い川は、提灯で照らされた舟で完全におおわ
 れ、川の向こう岸では、橋に近く光輝燦(さん)たる花火
 が打ち上げられていた。
  ・・近くに寄ってみると、10人ばかりの男が、大きな
 舟に乗って羅馬蝋燭(ローマろうそく)を発射したり、
 複雑な性質の花火を仕掛けたりしている。
  光に輝く男たちの身体には花火が雨と降り注ぎ、ふり
 かえると、花火の光輝に照らされた舟の群れが、水に浮
 かんで上下し、
  新月は徐々に沈み、星は稀に見る光を放って輝き、
  川は、すべての大きさと色彩との、何万という提灯の
 光を反射しながらも、なお暗く、
  舟の動揺によって幾条もの小川に別たれている」と。
  また、同年7月17日付の読売新開の記事は・・、
  「両岸の提灯は、何万という数が知れず、両国橋大橋
 は、勿論、西側は爪も立たないくらい。
  見物にて押倒されるものあり、転ぶものあり、家々に
 は人が充満し・・」と、その盛況振りを報じた。
1873年9月19日(7月28日)新しい地租改正条令が布告さ
 れた(地租改正条例公布)。
  新政府は、幕藩時代にバラバラだった貢租基準を改め
 た。
  そして、中央集権国家を築くために、まず統一された
 税制を確立して、税収の安定を図ろうとした。
  その為に、従来の農民からの年貢に依存する方法では、
 米の保管・輸送・換金、そして、気象など外的要因によ
 って米価の変動や、歳入の不安定が起きた。
  それ故、これを早急に解決しなければならず、1873年
 9月19日(明治6年7月28日)に、新しい地租改正条例を
 布告した。
  これは、従来の貢租(こうそ・年貢)が、収穫高を基準
 とした現物年貢納であったことに対して、
  新地祖は、土地の価格(地価)を課税基準とし、地券を
 発行し、豊凶に関わらず、一定とした。
  そして、土地所有者(地主・自作農)が金納することと
 した。
  そして、5年間の暫定値とし地価の3%、さらに、地方
 税に相当する郡村入費を1%、5年後に見直す・・とした。
  しかし、これは、農民にとって従来の年貢制に比べて、
 大幅増加となった。
  新政府による、新しい世の中を期待した農民にとって、
 期待を裏切るものとなり、
  真壁騒動、伊勢暴動らが、各地での一揆が引き起こさ
 れた。
  (真壁騒動、伊勢暴動など、死者を伴う一揆が、各地で
 起こり、
  政府は、暫定地価の3%を2.5%に減額した。
  これを「竹槍でどんと突き出す二分五厘」と人々は揶
 揄(やゆ)した。
1873年9月22日(8月1日)官吏に初めて暑中休暇を与えた。
1873年9月24日(8月3日)西郷隆盛を遣韓大使となすの廟
 議が決す(ただし、岩倉具視の帰朝を待てとの御沙汰)
1873年9月30日(8月9日)停車場の雑品販売を許した。
1873年9月(7月)証書の認めに、瓜印花押を禁じ、実印
 を使用する事に。
1873年10月8日(8月17日)朝議が、西郷隆盛を朝鮮派遣
 に内定する。
1873年10月23日(9月3日)木戸孝允が、朝鮮及び台湾征
 討に反対し、内治の急を説く。
1873年10月25日、勝海舟、任参議兼海軍職(氷川清話)
  この年、勝海舟が、明治政府の参議兼海軍卿になった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-03-17 04:50 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)313E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年4月~1873年8月)

題:(増補版)313E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年4月~1873年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1873年4月30日(明治6年4月4日)日清修好条規(にっしん
 しゅうこうじょうき)が、この日に、批准書交換がされ
 て発効した。
  特命全権大使・副島種臣、天津において李鴻章と日清
 修好条規を締結調印する。
  日清修好条規は、1871年9月13日(明治4年7月29日)に、
 天津で、日本と清の間で初めて結ばれた対等条約。
  李氏朝鮮との国交問題が暗礁に乗り上げている中、
  朝鮮の宗主国である清との国交締結を優先にすべきと
 の考えから1870年7月27日(明治3年6月29日)に、
  柳原前光・花房義質を派遣して予備交渉を行い、
  次いで、正規の大使として伊達が送られ、副使となっ
 た柳原とともに詰めの交渉を行った。
  平等条約ではあったが、その内容は、両国がともに欧
 米から押し付けられていた不平等条約の内容を、相互に
 認め合うという極めて特異な内容であった。
  この条約の特異性から、当時、東洋に進出していた主
 要な欧米列強から横やりが入った。
  軍事同盟の密約の疑惑を持たれるなどした。
  また、領事裁判権の存在などに対する反対論があった
 りして、批准が遅れた。
  しかし、マリア・ルス号事件や、琉球御用船台湾漂着
 事件の影響などから、批准の必要性が高まった。
  そこで、これらの事件の決着を付ける必要性もあった
 ために、清を訪れた外務卿・副島種臣によって、1873年
 (明治6年)4月30日に批准書交換がされて発効した。
1873年5月25日(明治6年4月29日)明治天皇陛下が、習志野
 原に行幸(近衛兵の演習を観覧される)
  大和田原(現・陸上自衛隊習志野演習場近辺から成田
 街道を挟み、高根台周辺までの地域)で、
  陸軍トップの西郷隆盛の指揮の下で行われた近衛兵の
 大演習を御観閲された明治天皇陛下によって、
  同年・1873年5月13日に、勅令が発せられ、習志野原と
 命名された。
  この事を記念して、同地に、「明治天皇陛下駐蹕之処
 の碑」という紀念碑が建てられた。
  その後、周辺にある軍郷を総称した広い地域が、習志
 野と呼ばれるようになった。
1873年5月(明治6年4月)天皇陛下の御名を使用許可した。
  因みに、現在の御璽は、金印(18金)で、大きさは3寸
 (約9.09cm)四方の角印、重量は約3.55kgある。
  印文は、「天皇御璽」(2行縦書で右側が「天皇」、左
 側が「御璽」)と篆刻されている。
1873年5月26日(5月1日)日本が、万国博覧会に初めて参加
 した。
  ウィーン万国博覧会 (1873年5月1日~10月31日)に、
 日本政府が、初めて公式参加し、日本館が建設された。
  新しい日本を、全世界にアピールしなければならない
 という使命感からだった。
  1,300坪(4300平方メートル)ほどの敷地に、神社と
 日本庭園を造り、
  白木の鳥居、奥に神殿、神楽堂や反り橋を配置した。
  産業館にも、浮世絵や工芸品を展示し、
  名古屋城の金鯱、鎌倉大仏の模型、高さ4メートルほど
 の東京谷中天王寺五重塔模型や、
  直径2メートルの大太鼓、直径4メートルの浪に竜を描
 いた提灯などが人目を引いた。
  これらの選定は、ドイツ人のお雇い外国人ワグネルの
 アイデアによった。
  ワグネルは、日本が、まだ近代工業が未発達であるた
 め、西洋の模倣状態の機械製品よりも、日本的で精巧な
 美術工芸品を中心に出展したほうがよいと判断した。
  日本全国から優れた工芸品を買い上げ、東洋のエキゾ
 チシズムをアピールした。
  そして、人目を引く様に大きなものとした。
  目論見どおりに、神社や日本庭園は大いに評判となり、
 展示物も飛ぶように売れた。
  「うちわ」は、1週間に数千本を売りつくした。
  皇帝フランツ・ヨゼフ一世と皇后エリーザベトも来場
 し、建設中の反り橋の渡り初めをした。
  皇帝一行は、カンナの削りくずに興味を持ち、女官に
 丁寧に折りたたんで持って帰らせたと言われる。
  万博終了時には、イギリスのアレキサンドル・パーク
 商社が、日本庭園の建物のみならず、木や石のすべてを
 買いあげるほどだった。
  ウィーンでのジャポニスムは、その後、1890年代の分
 離派・クリムトの日本文様を意識した絵画などに受け継
 がれた。
  因みに、アレキサンドル・パーク商社と契約した起立
 工商会社は、ウィーン万博を契機に、日本政府が作らせ
 た会社で、
  日本の工芸品を売ることで外貨獲得に貢献した。
  1878年の第3回パリ万博では、日本の田舎屋を再現し、
 好評を得た。
  この万博で起立工商会社の通訳を務めた林忠正は、後
 に美術商としてパリのジャポニスムの立役者となった。
1873年5月30日(5月5日)深夜1時過ぎ、皇居(旧江戸城)
 に発生した火災により、「皇居、太政官とも残らず焼失」
 し、午前4時30分、ようやく鎮火した。
  皇城炎上(氷川清話)
  明治天皇・皇后両陛下は、赤坂離宮(旧紀伊藩邸)に
 避難なされ、皇居が再建されるまで、ここを仮皇居とさ
 れた。
  太政官の諸記録は、「大使事務書類、往復文書、応接
 書とも」ことごとく焼けてしまったとある。
  使節の手もとにある書類をまとめて持ち帰ってもらい
 たいと、三条太政大臣以下、西郷、後藤らの参議が連名
 で希望している。
  因みに、明治5年5月5日未明、皇居女官部屋から出火し、
 西丸の大半を 焼き、江戸以来の主要な建物をほとんど焼
 失したの記述もある。
1873年5月(4月)東京の京橋に西洋料理店、精養軒が開業。
  街には、「西洋散髪」 「西洋牛肉」の看板。
1873年6月4日(5月10日)最初の陸軍大将に、西郷隆盛が任
 命された(現制の陸軍階位ではない)
  官制改正で、元帥の階級が廃止されたため、西郷隆盛
 はその時点で陸軍大将となった。
  階級としての元帥制度の運用は極めて短期間で終了し
 た。
1873年6月9日(5月15日)図書縦覧所「集書院(しゅうしょ
 いん)」が開設された。
  京都の集書院は、1872年に創設された。
  集書院は、一般開放をした図書館としては、文部省が
 明治5年(1872)に開設した東京の 書籍館につぐもの。
  また、公立の公開図書閲覧施設としては最初。
  集書院は、日本で最初の公立図書館。1873(明治6)年、
  京都府が現在の中京郵便局の場所に設置。
  以上の様に、記述に食い違いが見られる。
1873年6月20日(5月26日)特命全権副使・大久保利通が、
 帰朝した。
  1873年4月24日(3月28日)マルセーユ経由で、この日、
 横浜に着いた。
1873年6月28日(6月4日)各府県へ御真影下賜。
  最初、奈良県に天皇陛下の写真が下賜され、以降「御
 真影」が各府県に相次いで下賜された。
1873年6月29日、清国派遣全権大使が清国皇帝に謁見した。
1873年6月(明治6年5月)井上馨が、大蔵大輔を辞職した。
  明治6年(1873年)、江藤らに予算問題や尾去沢銅山汚
 職事件を追及され、5月に辞職した。
  尾去沢銅山事件は・・、
  江戸末期、財政危機にあった南部藩は、御用商人・鍵
 屋村井茂兵衛から多額の借財をなしたが、
  身分制度からくる当時の慣習から、その証文は、藩か
 ら商人たる鍵屋茂兵衛に貸し付けた文面に形式上はなっ
 ていた。
  1869年(明治元年)、採掘権は、南部藩から鍵屋茂兵
 衛に移されたが、
  諸藩の外債返済の処理を行っていた明治新政府で、大
 蔵大輔の職にあった長州藩出身の井上馨は、1871年(明
 治4年)に、この証文を元に返済を求め、
  その不能をもって、大蔵省は、尾去沢鉱山を差し押さ
 え、鍵屋茂兵衛は破産に至った。
  井上は、さらに、尾去沢鉱山を競売に付し、同郷人で
 ある岡田平蔵にこれを買い取らせた上で、「井上馨所有」
 という高札を掲げさせ、私物化を図った。
  鍵屋茂兵衛は、司法省に一件を訴え出て、司法卿であ
 った佐賀藩出身の江藤新平が、これを追及し、井上の逮
 捕を求めるが、長州閥の抵抗でかなわず、
  井上の大蔵大輔辞職のみに終わった。
  これが尾去沢銅山事件。
1873年6月(5月)妻の離婚請求が許可される。
1873年7月5日(6月11日)第一国立銀行が設立(創設)され
 た(日本初の銀行)
  紙幣頭&大蔵大丞だった渋沢栄一が立案した民間経営
 の商業銀行第1号店
  江戸時代から両替商をしていた三井組と小野組を中核
 にして設立され、
  資本金は、双方100円に、一般応募44円をあわせた244
 円、
  紙幣の発行も認められる。
  ただし、兌換紙幣で、金との交換が条件だった。
  8月1日に、営業を開始した。
1873年7月7日(6月13日)外国人訴訟規則を定め、改定律令
 領布される(磔の刑、晒首などの旧制を廃した)
1873年7月9日(6月15日)伊予灘釣島の燈台竣工する
1873年7月9日(6月15日)宮古島の人々が、ドイツ船を必死
 に救出し、ドイツ皇帝も感謝した。
  ハンブルグ出帆のドイツ商船・ロベルトソン号が、沖
 縄県宮古島沖で台風に遭難した。
  この日からさかのぼること1か月前の5月14日:
  ドイツのハンブルグ港を出港した紅茶などの交易を行
 なうスクーナー型の帆船 R.J.ロベルトソン号
 (長さ約40メートル、幅12メートル、総トン数216トン)
 は、中国の広東に、この日、入港した。
  この船の所有者は、船長で、かつ、貿易会社を経営す
 るドイツ人のエドュアルド・ヘルンツハイム。
  福州(ふっちゅん)港に向けて出港する時に、2人の
 中国人を乗船させた。
  6月8日:福建省の福州港に入港し、紅茶の積み込み作
 業などを行った。
  7月2日:福州港から、オーストラリア南部のアデレー
 ド港に向け出港した。
  出港後、船長は、天候が悪化しはじめたので東シナ海
 から太平洋に抜けるコースを予定より北側に変更した。
  運命の7月9日:先島の南を航行中に台風に巻き込まれ
 る。
  暴風の中で、必死の操船作業中、ロベルトソン号のマ
 スト2本が折れた。
  この時、乗組員2人が、マストの下敷きになり負傷し、
 その後、死亡。
  また、嵐にもまれる甲板で、他のドイツ人2人と中国
 人1人も負傷。
  この日、帆船が積んでいた3艘のボートのうち、2艘が
 流されてしまう。
  この時、すでに、船は、航行不能となり高波にもまれ
 ながら漂流をはじめた。
  7月11日:この日の夕方、3日間漂流していたロベルト
 ソン号は、宮古島の宮国地区で、当時は浦穴川といわれ
 ていた海岸から約1,100メートル沖にあるサンゴ礁に座
 礁した。
  遠見台で見張りをしていた宮古島の番人が、すぐに外
 国船が座礁したことに気づき、役人に伝えるとともに、
 村人に呼びかけ、救助に向かう準備を始めた。
  村にあった長さ4メートルの小型舟で、救助に向かお
 うとしたが、この時には、まだ波が高く、とても沖まで
 救助に行くことが出来なかった。
  そのうちに夜も更け、その日の救助は止む無くあきら
 めた。
  しかし、村人は、船の乗組員を励ますために、海岸で
 夜通し、かがり火を焚(た)き続けた。
  7月12日:朝早くから、村人は、役人と共に舟の操作が
 上手な漁師を選び、2艘の船でロベルトソン号に救助に
 向かうことにした。
  沖のロベルトソン号を見ると、乗組員が長い白布を振
 って必死に救助を求めているのが見えた。
  波はまだ高く、とても船を出せるような状態ではなか
 ったが、この様子を見ていた漁師たちは、勇敢にも危険
 な海に船を漕ぎだした。
  高波のために漁師たちの漕ぐ船は、何度も転覆しそう
 になった・・が、
  日ごろから荒れる海で漁をしている漁師たちの巧みな
 操船でなんとかロベルトソン号に着いた。
  ロベルトソン号には、負傷者3人と女性1人を含む8人い
 ることが分かった。
  早速、ロベルトソン号に1艘だけ残っていたボートを
 海に降ろし、
  彼らの大切な手荷物もできるだけボートに積み込んで
 3艘は海岸へと戻った。
  一方、救助活動にあわせ、村の在番所は急ごしらえの
 救助センターとなった。
  病人や負傷者のために医師も2名が呼ばれ、手当てを始
 めた。
  この後、村人たちは献身的な看護をし、食事も十分に
 元気づけをした。
  村人の献身的行動に、大過なく日にちが過ぎ、27日後、
 宮古在番所が、自らの責任で船を与え、帰国させる道を
 開いた。
  8月9日:平良港に停泊していた官船の試運転が、ヘル
 ンツハイム船長と乗組員によって行われた。
  8月11日:村人が多数動員され、官船に必要物資の積み
 込みが始まった。
  8月16日:ヘルンツハイム船長と乗組員のために、在番
 所で盛大な送迎会が行われた。
  8月17日:出港の日、宮古島よりヘルンツハイム船長と
 乗組員のために大量の贈り物が船に積まれた。
  その目録があるが、1.羅針盤(らしんばん)、2.薪
 と木炭、3.飲料水、4.食料・・など、
  こうして、ヘルンツハイム船長と乗組員は、感謝と帰
 国できる喜びにあふれ、宮古島の多くの人の見送りを受
 け出港した。
  船がサンゴ礁の間を無事に通過し、安全な外洋に出る
 ことができるようにと、池間島の船大工が所有する船な
 ど2隻のくり船が、水先案内を務め、伊良部島の沖合12km
 まで見送った。
  そして、その後、1876年1月、手記で、宮古島の話を
 知った皇帝・ヴィルヘルム 1世は、すぐさま謝意を伝え
 る使節として艦船・チクローブを日本に派遣することを
 決め、
  そして、博愛記念碑を宮古島に立てることにした。
  1876年3月16日、ドイツ皇帝の勅命による艦船・チクロ
 ーブ号が、宮古島に到着した。
  1876年3月22日、チクローブ号の使節団、日本政府、沖
 縄県、宮古島の代表が出席して、博愛記念碑の建碑式が
 行われた。
  皇帝ヴィルヘルム 1世が、宮古島でドイツ人が救助さ
 れたことを知ったのは、新聞記事だった。
  記事には、「宮古島の人々は、他の国では考えられな
 いくらい親切で、代償を求めることなく必要なものを分
 け与えてくれた」・・と、
  救助された後の待遇も、どれほど当時の世界常識では
 「到底考えられないほどの心温まる日本人のおもてなし」
 であったかが綴られていた。
  この記事が、ドイツ皇帝による博愛記念碑の贈呈へと
 つながった。
1873年7月18日(6月24日)皇后宮、英照皇太后宮が富岡製
 糸場を行啓された。
1873年7月18日(6月24日)明治2年以来の衆議院の制を廃し、
 左院に属す。
1873年7月22日(6月28日)地方の農民、徴兵令に「血税」
 の文字があるのを誤解して動揺する。
1873年7月27日、副島が、清国から帰国。
1873年7月29日、西郷が、使節暴殺論書簡を板垣に送る。
1873年8月17日、西郷を、朝鮮へ派遣するを閣議内定。
  朝鮮は鎖国の真っただ中、通商を求めたアメリカと交
 戦もした。
  通商を求めても拒絶されたり、日本との関係も色々と
 こじれていた。
  この年、留守政府は、事態を打開するため、使節の派
 遣をすることとし、第一弾として、西郷隆盛を正使とし
 て朝鮮に派遣することが決定した。
  そして、居留民保護を目的とした派兵を含んでいた(
 征韓論)。
  そこに、欧米から帰国していた岩倉具視、大久保利通
 らは「内政の充実が優先で、征韓論などもってのほか」
 と反対した。
  激しい政治的な攻防が行われた。
  反対派だった岩倉具視は、天皇の裁可を戴いて、
  「西郷の朝鮮派遣は行わない」と、先の決定を覆した。
  そして、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助、副島種臣、
 後藤象二郎ら征韓派の参議は辞職し、政府を去った(明
 治六年の政変)
  ここに、大久保利通政権が樹立される。
  主な顔ぶれは・・、
  参議兼内務卿 大久保利通(薩摩)
  参議     木戸孝允(長州)         
  参議兼外務卿 寺島宗則(薩摩)
  参議兼大蔵卿 大隈重信(肥前)    
  司法卿    大木喬任(肥前)
  参議兼工部卿 伊藤博文(長州)   
  陸軍卿    山縣有朋(長州)
  参議兼海軍卿 勝安芳(幕府/勝海舟のこと) 
  開拓次官   黒田清隆(薩摩)
  大久保利通が就任した内務卿は、この政変を機に、大
 久保が、設立した内務省を所管する役職。
  内務省は、大蔵省・司法省・工部省から、勧業、戸籍、
 駅逓(えきてい)、土木、警察などの業務を移管し、
  後には地方行政、治安維持なども担当し、内政につい
 て、非常に強大な権力を握ることになる。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
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または
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by suba28 | 2016-03-16 04:19 | 皆様とともに 幸せになりたい


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