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臨時ブログ:鉄塔の話・・鉄塔が危ない。 (震度8の地震は起きていた)

臨時ブログ:鉄塔の話・・鉄塔が危ない。 (震度8の地震は起きていた)
...(真を求めて、皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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  鉄塔の話・・鉄塔が危ない。
  国や地方自治体の公的機関が作ったグランドの鉄塔。
  子供たちが、そして、若者たちが、スポーツに励(は
 げ)むグランドに立つ鉄塔。
  鉄塔は、暗くなると、綺麗(きれい)なカクテル光線
 を、その若者たちへ、子供たちへ投げかけた。
  グランドの芝が美しく映(は)える中を、子供たちは、
 カクテル光線の中を、楽しそうに走り回り、
  そして、若者たち・青年たちは、汗まみれになり体を
 鍛えていた。
  どこの鉄塔だったか? 失念したが・・、
  その鉄塔の根元が、錆び、そして、穴が開いていた。
  断面欠損である。
  構造部の断面が、『欠損している』のである。
  当然、構造耐力は失われている、減退している。
  あの忌(い)まわしい東日本大震災は、悲しくも、多
 くの亡くなられた方々が生まれてしまいました。
  悲しみの日々を、生んでしまいました。
  その大震災は、「千年に一度だった」と言われた。
  千年に一度に起きる規模だと言われた。
  「千年に一度」起きる自然エネルギーの規模だと、大
 きさだと言われた。
  その様な、自然の『破壊エネルギー』が、日本人が、
 営々と築いてきた諸施設へ与えられることとなった。
  気象に関する放送で、「19○○年以来の雨でした」・・
 とか、風でした・・とかという説明を、時々、聞きます
 が・・、
  自然は、その自然の現象の規模は、そして、そこから
 起こる破壊エネルギーは・・、
  そして、その破壊エネルギーで起こされてしまう災害
 は、10年とか、30年とか、50年とか、100年とか、1000年
 とかと、
  年数が長くなれば、当然、そのエネルギーが「より大
 きな自然現象」が起きていることになる。
  その災害規模は、災害を起こす自然の猛威は、だんだ
 ん大きなクラス・猛威の程度となる。
  これ以上の強い猛威はないと言えない気持ちになる。
  いくらでも大きな破壊エネルギーが与えられてしまう
 という気持ちになる。
  阪神・淡路大震災も、大変、忌まわしい出来事でした
 が、
  あの時、建築界に、土木界に、建設に携わる人々を、
 大変、驚かす出来事が起きていた。
  それは、これ以上の大きな大きさの地震は起きないだ
 ろうと言われた以上の地震が、
  「起きていたらしかった?」からだった。
  「らしかった」といった理由は、その大きさを計る地
 震計が無かったからだった。
  これ以上の大きな大きさの地震は起きないと思ってい
 たので、
  誰も、その超巨大な地震規模を計測する計器を設置し
 ていなかった。
  果たして・・?
  阪神・淡路大震災の地震の大きさは?
  その規模は「いくら」だったのか?
  「どのくらい」だったのか?・・という話となった。
  設置されて無いほど大きいスケールの、大きさの規模
 の地震は、
  設置した計器の、計測範囲以上の地震エネルギーだっ
 たので、地震計の針は、みな、振り切っていた。
  だから、地震の規模を・・計測できないでいた。
  その為、その地震は、超巨大な事だとは、その様な規
 模だとは分かるが、
  その地震エネルギーは「測れないくらいに大きかった」
 という事だけは分かったが・・、
  「このような大きさでした」という確定した規模の数
 値はつかめない、不明の状態だった。
  ここで、これを、「不明だった」「不明でした」と済
 ます訳には行きません。
  それは、大切な国民の方々を守るために、是非とも、
 その数値を知る必要があるからです。
  つまり、従来の地震エネルギーは、この数値で設計す
 れば「オーケー」になります・・だった。
  その数値ならば、地震エネルギーの破壊エネルギーに
 対し「クリアーします」というその数値が、否定されて
 いるのです。
  新しい数値を、是非、知る必要が、必要性が、絶対、
 あるのです。
  ならば、「新しい設定し直すべき数値は?」となりま
 す。
  それで、安全な設計をしなければならない・・という
 事になります。
  だから、知りたい「その数値は、いくつなのか?」で
 す。地震計は振り切っているし・・、
  探しました。その数値を知るために・・。
  しかし、驚くなかれ、日本には、その様な方が居られ
 ました。
  まったく、素晴らしい事です。
  皆が言う事に、疑問を持った方が、居られました。
  とてつもなく「ごつい」地震計を作り、設置していた
 方が居られたのです。
  その計器は、その他の計器が、みな振り切って分から
 なかった数値を、しっかり計測していました。
  その事によって、今までの「常識を破る数値」を知る
 事になったのです。
  皆、びっくりしました。
  「あったのかー」という気持ちでした。
  「起きていたのかー」という気持ちです。
  今までの常識が、打ち破られた時でした。
  「今までの数値ではだめ」と確認した一瞬でした。
  (震度8の地震は起きていた)
  この様に、自然界は、この自然エネルギーも含め、そ
 の数値は、その現象は、観測期間を越えて来ます、襲っ
 て来ます。
  ここで、標記の子供たちを照らす、青年たちを照らす
 鉄塔に話を戻しますと・・、
  その様な、自然界の中に住む私たちだからこそ・・、
  その様なこともあって、だから、なおさら・・、
  その様な備えをしてなければならない・・と・・教え
 られて居ります。
  つまり、「断面欠損した鉄塔を、そのまま放置すると
 いう話は・・論外なのです」。
  「放置の話」は論外です。
  申し上げたいことは、この様な類いの鉄塔が多いとい
 う『日本の現状・状態だ』という事です。
  日本の公的機関の社会資本、この鉄塔の様に、建物・
 橋・高速道路・トンネル・・などなどのメンテナンスが、
 まったく不十分です。
  「フォロー」がなっていません、成立していません。
  「社会資本メンテナンス庁」を作って戴きたいのです。
  腰を据えて、しなければなりません。
  今、しなければなりません。
  「社会資本メンテナンス庁」を作らねばなりません。
  国民の皆様のリスクを少なくすることに、邁進しなけ
 ればなりません。
  鉄塔は倒れます。
  倒れてから、そして、気づくという・・日本となって
 います。
  トンネルの壁は剥がれ落ち、そして、天井版も落ちま
 した。
  橋は、アメリカで起きたように、橋の崩壊が起きます。
  などなど・・が、起きます。
  この鉄塔の場合、何故、この部位に穴が開いたか?と
 いうと・・、
  雨の日に、木を見ればわかります。
  雨の水は、枝を伝い流れ落ちます、そして、幹を伝わ
 って下へ落ちて来ます。
  鉄塔も同じです。
  雨の日に、鉄塔に当たった雨粒は、鉄塔の表面を流れ
 落ち、最下部の基礎の所に来ます。
  この基礎の所に、水は溜まります。
  鉄塔の他の部分は、雨が止んで、すぐ乾いても、鉄塔
 の表面を伝い、流れ落ちる水は、少なくなりながらも流
 れ落ち続けて、最下部に供給され、その最下部にその水
 は溜まり、何時までも、水のある状態中に、その鉄塔の
 鉄部は、浸される状態にある・・劣化環境にあるとなり
 ます。
  つまり、この鉄塔の最下部が、この水により、「より
 劣化が進むのです」。
  この鉄塔最下部の塗膜は、早く劣化し、剥がれ、水は
 鉄部に達し、鉄部に錆が発生し、錆による浸食によって、
 鉄塔に穴が開いて行くのです。
  常に、この最下部だけでも、メンテナンスの塗装の補
 強塗りをすれば、永久に鉄は、錆びを発生しない状態に
 保てるのです。
  いつまでも、この鉄塔は使って行けるのです。
  この穴の開いた鉄塔も、壊して、撤去して、新しい鉄
 塔に作り直すことをしてはいけません。
  こんなことをしていたら、税金がいくらあっても足り
 ません。
  丁寧に、溶接で修理しなさい。
  補強の鉄板も溶接しなさい。
  そして、丁寧な塗装をし直しなさい。
  そして、しっかりメンテナンスをして行けば、永久に
 何でも使用して行けます。
  ほっておいたら、何でも壊れます。
  国民の皆様のリスクは増大するし、税金はいくらあっ
 ても足りません。
  この鉄塔の最下部の基礎を、平(たいら)に仕上げる
 のではなく、斜めに、水勾配を付けて、水を溜まりにく
 くするなど、改善すべき方法は、いくらでもあります。
  庇状のものを事前につけて、最弱点部に水が行かない
 様に、溜まらない様にするなど・・など・・、
  工夫はいくらでもあります。 
  税金を大切に。
 (追伸):
  阪神・淡路大震災で、地震規模の大きさが、従来より
 大きいと判明し、知った日本の技術者の方々は、高速道
 路の補強などを行なっていった。
  しかし、設立が望まれている『社会資本メンテナンス
 庁』は、社会資本のメンテナンスだけでなく、
  この阪神・淡路大震災で対応した如くの行為の対応の
 範囲だけでなく、
  他の社会資本にも、そして、その他の事項についても
 必要な箇所はないかの「十分なる点検」をして行って戴
 きたい。
  また、この庁が、イニシアチブを取って、大学研究室
 などの参画を依頼し、しっかり点検・研究なども行って
 行って戴きたい。
  また、この庁は、民間施設の十分なる指導をも、行っ
 ていって戴きたい。
..
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by suba28 | 2016-02-29 04:40 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)303E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年11月~1871年12月)

題:(増補版)303E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年11月~1871年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1871年11月3日(明治4年9月21日)高輪に屠牛場を設置。
  「順立帳 明治4年ノ20,官途必携 巻之3」に、
  1871年11月3日(明治4年9月21日)に、高輪屠牛場設置
 とある。
  仮名垣魯文は、この年に出版した『安愚楽鍋』で・・、
 肉食を賛辞し、以下のように書いている・・、
  「士農工商老若男女、腎愚貧福おしなべて、牛鍋食は
 ねば開化不進奴」・・と、
  文明開化にあこがれる人々は、牛肉食をあたかもその
 象徴のように信じて食べている・・と、
  牛肉は旨かったのだろうが・・、
 こんなところにも、西洋崇拝の、当時の、盲目的追従の
 姿が記されている。
  そして、魯迅は書く・・、
  「一度箸を入るれば、鳴呼、美なる哉、牛肉の味はひ
 と、叫ばざるもの殆ど希なり候」・・と、
  味噌を入れ、葱(ねぎ)を入れ食べたが・・、
 異臭だと感じたらしく・・
 (現代人は涎・よだれが出るのだろうが?)、
  山椒を投ずれば、臭気を消す・・と、記している。
1871年11月13日(10月1日)東京湯島の大成殿にて、最初の
 博覧会開かれた。
  別の説では・・下記の記述がある、
  京都では、日本最初の博覧会が、明治4(1871)年、西本
 願寺で行われた。
  また、別史料では・・、
  近代日本では、新しい文明の成果や他国の文化を人々
 に伝える啓蒙的な役割を果たすことで、
  1871年(明治4年)5月の九段下の西洋医学所薬草園に
 て行われた大学南校主催の物産会(当初、博覧会の名で
 企画されたが、直前に物産会に名称変更)や、
  10月の京都の西本願寺で開催された京都博覧会(京都
 博覧会社主催)が、国内の博覧会、最初期のものである
 ・・と。
1871年11月14日、第1次府県統合が実施される。
  全国で、それまでの3府302県が、3府72県に統合さ
 れた。(75府県になったという説もある)
  因みに、第2次府県統合は、1876年4月18日と8月21日の
 2度に渡って行われ、府県が38までになっている。
  そして、1888年に、8つの県が復活し45府県となった。
  因みに、この時、復活した県は、宮崎県、佐賀県、香
 川県、徳島県、鳥取県、奈良県、福井県、富山県。
  これで、ほぼ現在と同じ姿となった。
  そして、1890年に、府県制の法律が制定・公布され、
  1899年に、法律改正され、
  1900年までに、全府県で府県制が施行された。
1871年11月20日(10月8日)欧米派遣の特命全権大使、決定
  岩倉具視(いわくらともみ、公家、政治家)を右大臣
 に任じ、
  そして、特命全権大使として欧米各国派遣が命じられ
 た。
  また、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚文を、
 副使に任命した。
1871年11月30日(10月18日)伊予国佐田岬に、燈台竣工す。
1871年11月、鍋島閑叟(なべしまかんそう、直正、佐賀藩
 主)逝去(氷川清話)
  藩政を改革し、殖産興業政策を推進した名君。
  佐賀藩は、前代藩主の放漫財政によって、藩財政は、
 破綻寸前で、
  藩財政は窮乏、郷村の疲弊は著しかった。
  閑叟は、改革派の側近を置き、藩政改革に着手、
  郷村の復興と、農商分離の政策を行なった。
  特に、目覚ましいのは、均田制度と称された土地分給
 政策で、
  本百姓の維持政策をとり、農商分離の徹底を目指した。
  また、陶器、櫨蝋(はぜろう)、紙の開発や石炭の増
 産を行ない、財政を潤した。
  また、商人の郷村での、土地保有を徹底的に排除し、
 改革を推進した。
  長崎警備の任についていて、西洋技術の優秀性を良く
 知って、早くから洋式兵備を採用し、大砲などの近代的
 兵器を備え、強力な軍備を整えた。
  そして、西洋文明を積極的に採用し、軍備近代化(大
 量の銃砲を購入し、西洋艦船の製造・購入に努めた)、
  そして、1852年に、我が国、初めての反射炉建設を成
 功させ、
  蘭学奨励・種痘などを行った。
  幕末には、薩長土肥と言われる実力を持つ雄藩となっ
 た。
  戊辰戦争の時は、その強力な軍事力によって官軍の重
 き位置を示した。
  大隈重信、江藤新平らの藩の実力者を、新政府に送り
 込み、そして、
  明治維新後、議定・軍防事務局輔・上局議長・開拓使
 長官などを歴任した。
1871年12月2日(10月20日)伊万里の深川長右衛門、同地
 より佐賀まで、私設電話架設を出願許可される。
  幕末の1867年に、国際博覧会のパリ万博に、幕府の出
 品参加の要請に応じたのは、薩摩藩と佐賀藩だけだった。
  この時、深川長右衛門は、佐賀藩からフランスへ行っ
 ている人間の一人となっている。
1871年12月5日(10月23日)東京で邏卒(らそつ、巡査の旧
 称)3,000人を新採用し、置いた(⇒1874・1・15東京警
 視庁)
  明治という時代になって、東京府の治安維持にあたっ
 た府兵は、諸藩から選抜された藩兵であった。
  しかし、いちじるしく統制に欠け、
  そして、その上、1871年8月の廃藩置県で廃止せざるを
 得なくなった。
  そこで、欧米のポリスを模範に、邏卒をおくこととし
 た。
  取締組を編成し、邏卒総長には、川路利良(かわじと
 しよし)が任じられた。
  この3分の2にあたる2000名が、鹿児島県士族であった。
  そして、帯刀を禁じて、3尺棒を持たせた。
1871年12月8日(10月28日)大阪日報(浪華要報)の創刊、
  この頃、府県庁支援の新聞が、次々と刊行された。
  1872年1月(明治4年12月)に、廃刊となった。
  その後、『大阪新聞』が、1872年4月(明治5年3月)創
 刊され、
  1875年5月(明治8年4月)に廃刊した。
  この新聞は、大阪府の援助で出した半官半民の新聞で、
 官衙町村役場等で購読された。
  そして、その後、『浪花新聞』が、1876年1月(明治8
 年12月)に創刊され、
  1877年12月(明治10年11月)に廃刊した。
  この新聞は、大衆層を対象とする、ふり仮名付き口語
 文の称新聞だった。
  街頭で呼び売りを行なって、人気を博した。
  そして、『大坂日報』が、1876年3月(明治9年2月)に
 創刊され、
  1882年3月(明治15年1月)に休刊した。
  この新聞は、大阪裁判所の判事グループが発起、推進
 した政論中心の大新聞で、社説入りでふり仮名はなし。
  この新聞が、紆余曲折を経て、後に、大阪毎日新聞と
 なった。
1871年12月15日(11月4日)最初の停車場の新橋駅が、落成
 した。
  明治5年4月(1872年5月)新橋停車場本屋が落成し、明
 治5年6月(1872年7月)、乗降場落成の説もある。
  開業は、1872年10月14日(明治5年9月12日)、
  初代の新橋駅は、今の汐留駅(しおどめえき)。
  横浜停車場と同型で、
  米国建築技師のリチャード・ブリジンスの設計、
  煉瓦造二層の洋館(木造石張り2階建ての説がある)
1871年12月18日(11月7日)漂流していた琉球漁民のうち、
 54名が、台湾原住民に殺害された。
1871年12月20日(11月9日)大臣・参議が、岩倉邸で、朝鮮
 問題の着手順序について協議した。
1871年、こじれる朝鮮への外交権(日本の国書の受取拒否)
  昔も今も、難しい国・朝鮮・・、
  1867年に、釜山倭館へ行って、対馬藩の家老は、明治
 新政府が、成立したことを、大院君政権へ伝えた。
  しかし、朝鮮側は、日本の新しい主権者が「皇上」と
 名乗っていることを理由に、国書の受け取りを拒否した。
  そして、この年・1871年、江戸時代以来、対馬藩にゆ
 だねていた対朝鮮の外交権を、日本外務省へ移管した。
  この時も、朝鮮は、日本の国書の受け取りを拒否した。
  かたくなな朝鮮だった。
  1872年に、外務丞・花房義質が、釜山へ行き、草梁倭
 館を接収して、大日本公館と改称した。
  これに対して、大院君政権は、強硬に退去を要求した。
  そのため、日朝間の外交問題に発展し、日本で征韓論
 が台頭する一因となった。
  その後、1875年の江華島事件を経て、翌年・1876年、
 日朝修好条規が締結され、
  日本外交使節は、ソウルに駐在となった。
  ここにおいて、釜山の倭館は、200年の歴史を閉じるこ
 とになった。
  因みに、江華島事件(こうかとうじけん、カンファド
 じけん)は、日本と朝鮮の間で起こった武力衝突で、
  朝鮮西岸海域を測量中の日本の軍艦・雲揚号が、江華
 島、永宗島砲台と交戦状態となった。
  明治新政府が成立した日本は・・、
  1868年(明治元年)12月19日に、新政権の樹立の通告
 と、条約に基礎づけられた近代的な国際関係の樹立を求
 める国書を持つ使者を、かねてから日本と国交のあった
 李氏朝鮮政府に送った。
  しかし、大院君のもとで、攘夷を掲げる朝鮮政府は、
 西洋化を進める明治政府を訝(いぶか、不審の目で)し
 み、
  冊封体制下では、中華王朝の皇帝にのみ許される称号
 である「皇」を、
  また、中華皇帝の詔勅を意味する「勅」の文字が入っ
 ている・・などと、理由にして、
  日本からの国書の受け取りを拒否した。
  日本は、その後、何度も国書を送ったが、
  朝鮮側は、その都度、何らかの理由を付けて、受取り
 を拒否した(書契問題)。
  早期の問題解決を望んだ明治政府は、
  対馬藩が間に入らないで、直接、話し合った方が問題
 解決するとして、外交権を政府の元に置いた。
  そして、明治政府の外交官が派遣されたが、まったく
 なすすべがなく、
  この時の外交官の佐田白茅は、帰国ののち、1870年に、
 「30大隊をもって朝鮮を攻撃すべきだ」という征韓の建
 白書を提出したくらいだった。
  この時点で、局面打開をしようとする外務省は、朝鮮、
 および、清国への担当者派遣など、複数の手立てを講じ
 た。
  そして、日清修好条規が、1871年9月13日に、締結され
 るに及んだ(この時は、朝鮮との条約締結に至らなかっ
 た)
  ここに、状況をさらに複雑にする話がある。
  アメリカと朝鮮との関係である。
  1871年4月に、アメリカ艦隊が、江華島を占領した。
  これを、朝鮮は奪還しようとした(辛未洋擾・しんみ
 ようじょう)。
  この発端のところに・・、
  1866年に、アメリカの武装商船のジェネラル・シャー
 マン号が、朝鮮住民を殺害し、略奪行為をした事件があ
 った。
  この時、朝鮮は、報復として焼き討ちをして撃退した
 事件だった。
  アメリカは、通商を求めに行ったのだと言い、朝鮮は、
 難破船なので処理しようとしたと言った。
  また、朝鮮は、慣例によって、薪・水を支給した上で
 退去を命じる方針であったと言った。
  そして、朝鮮は、問題解決のための朝鮮側の使者の乗
 った船を転覆させられたと言い、
  使者を捕縛されたと言った。
  そして、朝鮮領の住民が、砲撃を加えられ、死者が出
 たと言った。
  それ故、これに激怒した住民が、シャーマン号へ攻撃
 を開始したのだと言った。
  数日間の戦闘の後、アメリカのシャーマン号は座礁し
 た。
  ここで、朝鮮は、シャーマン号を襲い、焼き討ちにし、
 乗組員を殺害した。
  アメリカは、1871年に、この事件の謝罪と、通商を求
 めた、そして、
  アメリカのアジア艦隊に命じ、朝鮮を攻撃した。
  こんな辛未洋擾(しんみようじょう)がある中、日本
 は、朝鮮と問題解決の努力をしていた。
  朝鮮が、攘夷の意思を強めていたこともあって、交渉
 は進展しなかった。
  こんな経緯の中、1871年、岩倉使節団が、西欧に派遣
 されることとなり、国政・外交に関する重要な案件は、
 1873年まで、事実上の棚上げとなった。
  しかし、留守の政府は、事態を打開しようと動いた。
  日本は、会見を求めた、
  朝鮮の地方外交官は、倭館を大日本公館と改名したこ
 とに激怒した(書類上の問題)。
  貿易などすべてがストップした。
  この様な事、そして、国書などの拒絶による交渉の行
 き詰まり、その交渉の中にある日本への侮辱行為などな
 ど、
  ものごとはスムース(滑らかに、順調に)に進まなか
 った。
  この国は、昔から難しかった。
  この国は、必ずしも、アメリカとも、うまくは行って
 なかった。
  中国とは、冊封(さくほう)体制の関係から、中国を
 「天子」とし、朝鮮の長と取り結ぶ君臣関係(宗主国と
 朝貢国の関係)で、波風は立ってない様にして経過して
 いた。
1871年12月23日(11月12日)岩倉使節団が、欧米へ。
  近代日本を作るための視察と、実情調査とも言える。
  この行動、直に西洋文明に触れるという体験は、非常
 に貴重な体験を与え、影響は大きかった。
  また、この時に同行した留学生たちも、帰国後、日本
 の構築に大きく貢献した。
  使節団は、この日、アメリカ船「アメリカ号」で横浜
 港を出航し、
  一路、サンフランシスコへ向かった。(~1873年まで)
  その後、アメリカ大陸を横断し、ワシントンD.Cを訪問
 し、
  アメリカに約8ヶ月という長期滞在となった。
  その後、大西洋を渡り、イギリス → フランス →
 ベルギー、オランダ、ドイツ → ロシア → デンマ
 ーク、スエーデン、イタリア、オーストリア(ウィーン
 万国博覧会視察)、スイス・・の12カ国。
  帰途、ヨーロッパ諸国の植民地であるセイロン、シン
 ガポール、サイゴン、香港、上海などの実状も見た。
  そして、出発後の約1年10ヶ月後、1973年11月2日に、
 横浜港に帰着した。
  留守政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論が争われていて、
 使節団の帰国後の明治六年政変へとなった。
  使節団の構成は、使節46名、随員18名、留学生43名の
 計107名だった。
  使節は薩長が中心で、
  書記官などは、旧幕臣から選ばれていた。
  特命全権大使:岩倉具視、副使:木戸孝允(桂小五郎)、
 大久保利通、伊藤博文、山口尚芳をはじめ、明治政府の
 中心人物たちで構成され、
  目的は・・
  1.条約を結んでいる各国を訪問し、元首に国書を提出
   する。
  2.江戸時代後期に、諸外国と結ばれた不平等条約を改
   正する(条約改正)ための予備交渉
  3.西洋文明の調査
  使節団の主目的は友好親善、および、欧米先進国の文
 物視察と調査であったが、
  各国を訪れた際に、条約改正を打診する副次的使命を
 担っていた。
  明治政府は、旧幕府と締約された各種条約を、新政府
 のものとに置き換えるべく、明治初年度から順次交渉を
 続けていたが、
  1872年7月1日(明治5年6月26日)をもって、欧米十五
 カ国との修好条約が改訂の時期をむかえ、以降、1ヵ年
 の通告をもって、条約を改正しうる取り決めであったの
 で、
  明治政府は、この好機を捕えて、不平等条約の改正を
 図ったのだった。
  岩倉大使、欧米に出発(氷川清話)
  対外関係の実務は、幕府の方が経験豊富なため、登用
 されていた。
  江戸から東京になったからといって、過去の価値(幕
 府の経験)が、弊覆(へいり、惜しげもなく棄てる)の
 如く捨て去られた訳ではなかった。その様な日本だった。
..
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(増補版)302E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年9月~1871年11月)

題:(増補版)302E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年9月~1871年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1871年9月18日(8月4日)最初の侍従長が任命された。
  侍従長の徳大寺実則(とくだいじさねつね)は、明治
 天皇陛下の政治関与に強く反対し、
  侍補(じほ、宮内省内に置かれた役職)制度が定めら
 れて、天皇陛下の親政運動が行なわれた時には、その阻
 止に強く動いた。
  また、自らの政治的関与も、強く戒めていて、
  政界に転じた実弟の西園寺公望(さいおんじきんもち、
 公家、政治家、教育者)とは、公の場所以外では会話も
 しなかった。
  天皇親政運動: 明治前期の天皇陛下を政治的君主とし
 て強化しようとした元田永孚(もとだながざね、熊本藩
 士、儒学者、男爵)ら 侍補による政治運動。
1871年9月19日(8月5日)太政大臣・三条実美(さんじょう
 さねとみ、公卿、政治家、公爵)が、鉄道一部竣工につ
 き、横浜に於いて汽車に試乗した。
  翌日の9月20日(8月6日)に、参議・木戸孝允、同大隈
 重信、工部大輔・佐藤象二郎、工部少丞・吉井源らも、
 横浜~金川(神奈川)間を試乗した。
1871年9月23日(8月9日)散髪脱刀令(さんぱつだっとうれ
 い)、政府の開化政策の一つとして、旧風を改め、散髪・
 廃刀の自由を許した。
  明治政府は、太政官布告を以て「散髪脱刀令」を布告。
  士族の断髪、脱刀、服装の自由化。
  平民の羽織袴も無制限に、
  江戸時代末からすでに行われていた。
  「半髪(はんぱつ、野郎頭。男の月代さかやきのある髪
 の結い方)頭をたたいてみれば、因循姑息(いんじゅんこ
 そく、古い習慣に頼って、その場をしのごうとすること)
 の音がする。
  惣髪(そうはつ、月代を剃らず、髪を全体に伸ばし、頭
 頂で束ねたもの)頭をたたいてみれば、王政復古の音がす
 る。
  ジャンギリ頭(髪を散切・ざんぎりにしたもの)をた
 たいてみれば、文明開化の音がする」と流行歌(はやり
 うた)があった。
  民衆は、喜んで受け入れた。
  しかし、熊本で、不満な小学校教師たちが、学校を閉
 校することが行われた。
  また、この布告は、女性の断髪も促した。
  髪を切る婦女が多いため、この風潮を止めようと、
  1872年に、東京府では「婦女子散髪禁止」の告諭(こ
 くゆ、言い聞かせる言葉)を発した。
  脱刀は、強制ではかなった。
  士族の帯刀者が多い状態だった。
  1875年12月に、陸軍卿・山形有朋が、徴兵令によって
 武士の帯刀の必要性はなくなったとし、廃刀を建議し、
  1876年(明治9年)に、帯刀禁止令(廃刀令)が出され、
 軍人や警察官以外は帯刀禁止となった。
1871年9月23日(8月9日)米麦輸出禁令の撤廃。
  安政期に、列強五か国と条約条約を取り交わしたが、
  そこにあらわれた欧米列強諸国の外交意図は、
  日本を、欧米資本主義の大量生産品を売りさばくため
 の、また、その原料を輸入するための、
  半植民地的な市場と位置づけるものだった。
  板垣退助が、会津で見た様な「君国ノ滅亡」の危機は、
 目前に迫っていた。
  この様な状況にあって、新政府には・・、
  日本が国家としての独立を保つため、
 そして、政治・経済・軍事の近代化を、
  最も短い期間内に、なし遂げる必要性が痛感した。
  この様にして、新政府は・・、
  わが国が、大久保利通が「万国ニ御対立」と表現した
 様に、万国と対峙(たいじ)するために、
  統一国家の建設、そしてまた、
  資本主義の発展という歴史的な使命を達成する必要を
 痛感した。
  新政府の政権の足元をおびやかすものは、
  明治元年以来、再び盛り上がってきた農民一揆だった。
  農民大衆の重租に対する不満は、極度に達し、
  政権の基礎に脅威を感じさせるまでになっていた。
  1868年(明治1年)~1870年(明治3年)の間に90件の
 農民一揆が発生し、
  そのうちの20件は、新政府が直轄する県のものだった。
  政府は、日々の莫大な支出に充てるための
  商人からの借入の返済に、
  安定し、まとまった歳入を確保しなければならず、
  その唯一の恒常的な財源は、幕藩体制から引き継いだ
 封建的な貢租である旧地租だった。
  それは、全歳入の6割未満(通常歳入の8割)であり、
  全歳入の2割強は、不換紙幣の発行、および、三井・
 小野・島田を筆頭とする商人からの臨時借入、および、
 外債だった。
  商人からの借入は、政商を生み出した。
  歳出は、その約4割が、家禄賞典禄等の旧封建支配者
 救済の費用であった。
  陸海軍費は、一般行政費の2倍に近く、さらに内乱・
 外征の戦費も多額にのぼるものだった。
  明治政権は、「農民からの封建的搾取に右足を置き、
 政商資本たる商業・高利貸資本家層の援助に左足をのせ
 るもので、
  そして、崩れ行く封建支配収拾の任務と、
  欧米列強に対抗する軍事力創出の強兵富国策実現の任
 務とを、一身に体現(たいげん、身を以って実現するこ
 と)していた。
1871年9月24日(8月10日)江藤新平が、左院副議長に就任。
1871年10月2日(8月18日)明治天皇陛下、馬車を召され浜
 殿へ行幸(馬車にて行幸の始め)
1871年10月2日(8月18日)東京、大阪に鎮台を設けた。
  鎮台(ちんだい)は、 明治初期の常備陸軍のことで、
 1871年(明治4年)に、東京・大阪・鎮西(小倉)・東北
 (石巻)の4鎮台を置き、
  1873年(明治6年)に、東京・仙台・名古屋・大阪・
 広島・熊本の6鎮台となった。
  また、1888年(明治21年)に、師団と改称した。
1871年10月4日(8月20日)この頃、条約改正使節に大隈重
 信をほぼ内定した。
1871年10月5日(8月21日)伊豆の石室埼燈台が竣工す。
1871年10月5日、長崎~ウラジオ間の海底電信線敷設工事が
 完成した。
  11月21日に、長崎~ウラジオストックの通信を開始し
 た。
  また、別史料には・・、
  日本最初の海底ケーブルは、1871年8月(明治4年6月)
 に敷設された長崎~上海間、及び、長崎-ウラジオストク
 間のものである。
  現在の長崎市南山手一丁目18番地には、「国際電信発
 祥の地」の碑があるが、
  かつて、ここにあったホテルベルビューの一室を借り
 ていた大北電信会社によって、
  1871年9月26日(8月12日)、一般公衆電報の取り扱い
 が始まった。
  これは、日本における国際電報事業が開始された日で
 あり、翌年・1872年、開通した欧亜陸上電信線と接続さ
 れた。
1871年10月6日(8月22日)坂本龍馬、中岡慎太郎両家共、
 その姪に故人の家督相続を許される。
1871年10月7日(8月23日)華族・士族・平民相互の結婚を
 認めた。
1871年10月7日(8月23日)御所機能が廃され、東京への首
 都機能の移転が行われた。
  京都では京都御所を後に残して、1871年(明治4年)ま
 でに刑部省・大蔵省・兵部省などの京都留守・出張所が
 次々に廃され、中央行政機関が消えていった。
  また、留守官は、1870年6月(明治3年5月)に、京都府
 から宮中に移され、
  1871年2月(明治3年12月)に、京都の宮内省に合併、
  1871年10月7日(明治4年8月23日)には廃され、東京へ
 の首都機能の移転が行われた。
  東京への移転を完了し、この実施により、中央集権体
 制が作り上げられた。
1871年10月(8月)官庁で椅子の使用が始まった。
  この年に、椅子、テーブルの使用が流行し始めた。
1871年10月15日(9月2日)官吏月給制の実施
  官吏の給与を月給制とする
1871年10月15日(9月2日)この頃、条約改正使節が大隈か
 ら岩倉具視に代わった。
1871年10月18日(9月5日)東京の元聖堂大成殿に文部省直
 轄の博物館を開設し、物産所所蔵の物品を移す。
1871年10月20日(9月7日)田畑勝手作の許可
  農民に希望の作物を作らせた。
  大蔵省が「田畑夫食取入ノ余ハ諸物品勝手作ヲ許ス」
 と令した。
  江戸幕府は、石高制と年貢の米納原則を維持するため
 に田畑勝手作禁止令を出した。
  しかし、時代が下って来ると商業作物の生産が広まり、
 形骸化していった。
  明治になって、政府は、輸送手段が発達したことや、
 年貢の石代納(こくだいのう、年貢米で納める代わりに、
 貨幣で納めること)を認めたことを理由に、田畑勝手作
 禁止令を撤廃し、農民がそれぞれの土地に適した農産物
 を生産することを奨励した。
  これは、農民の生産意欲の向上とともに、政府への租
 税収入の安定・増加を図る事になった。
  そしてまた、計画されていた地租改正にともなう租税
 の金納化に備えた措置でもあった。
  これに続いて、翌年の1872年には、田畑永代売買禁止
 令を廃止する地所永代売買解禁が出された。
  田畑勝手作の許可[1871年10月20日(明治4年9月7日)
 大蔵省布告第47号]
 是迄夫食不足ノ訳ヲ以田畑ヘハ米麦雑穀ヲ重モニ作付致
 シ桑楮漆茶藍麻藺菜種其外ノ作物共其土地ニ適当致シ候
 テモ作付不致或ハ元地頭領主ヨリ差留候向モ有之候処追
 々運輸ノ道辨利相成其上是迄米納ノ向モ願次第石代納御
 差許相成候事ニ付村々百姓銘々ノ夫食取入候外ハ何品ニ
 限ラス勝手ニ作付致シ候方下々ノ利潤ニモ可相成候間総
 テ従来其土地ノ貢租辻ヲ以テ年季ヲ究メ検見ノ場所ハ新
 規定免ノ規則ニ照準シ定納相願候上ハ屋敷成並田畑勝手
 作共御差許可相成候条地味ノ善悪作物ノ損得篤ト勘弁イ
 タシ充分仕当ニ可相成見込有之候ハ丶可願出事
 右ノ通管下村々ヘ触達願出候モノ有之ニ於テハ従前ノ貢
 租辻等篤ト相糺不都合無之候ハ丶聞届置追テ可相届事
 但田畑成畑田成共貢租辻増減無之分ハ総テ可為本文之通
 事
1871年10月22日(9月9日)ドン(正午号砲の制)を制定。
  江戸城より初の午砲、正午を知らせた。
  正午、宮城内・旧江戸城本丸の
 庭園にて、近衛師団の砲兵が空砲による最初の報時を行
 なった。
  江戸時代の時の鐘に代わるもの。号砲、午砲。
  その発射音の「ドン」が俗称となる。
  全国の陸軍師団司令部所在地に於いても、各師団砲兵
 にて的確に実施。
  師団所在地の都市を中心に「ドン」という言葉が普及。
1871年10月30日(9月17日)武門の流弊除去(無礼討ちの禁)
 (旧暦8月17日説あり)。
  1862年の生麦事件の時は赦されたが、武士の特権であ
 った「無礼討ち」を禁止した。
  流弊:(りゅうへい)以前からの悪い習慣。
1871年11月1日(9月19日)、政府印刷事業が始まった。
  日本における印刷業の本格的定着は、この年の政府令
 による4種類の郵便切手の印刷によって始まった。
1871年11月4日(9月22日)明治天皇陛下、日比谷操練所に
 て陸軍整列御閲兵(最初の天長節観兵式)
1871年11月5日(9月23日)華士族・平民相互の結婚の許可。
1871年11月5日(9月23日)、新政府が、西郷隆盛(43歳)
 を迎え、筆頭参議に据えた。
  西郷は、1871年4月に提案した御親兵の編成が成り、
  1871年8月、木戸とともに参議になり、
  そして、この日、新政府は、西郷を筆頭参議に据え、
  岩倉使節団が、米欧に派遣された際は、筆頭参議とし
 て留守政府を総理した。
  そして、外遊派は、新規事業と政府首脳部人事の凍結
 を西郷に誓約させたが、
  留守政府では、各省が学制、徴兵制度、地租改正など
 の重要政策実現に邁進した。
  破壊の時代にときめいた者は、必ずしも新時代建設に
 も適任とはならなかった。
1871年11月12日(9月30日)日本の「野球の初め」
  我が国の初めての野球の試合が行われた。
  そして、最初の国際試合は、「一高」対「横浜在留ア
 メリカ人」。
  無敵を誇る一高チームが、アメリカ側に他流試合を申
 し込んだが「まあ、やめておきましょう」という返事で、
 相手になってくれなかった。
  明治29年に、やっとこの試合が出来た。
  因みに、野球という言葉は、明治27年、中馬庚(ちゅ
 うまんかなえ、教育家)が、「Ball in the field」を訳
 して「野球」と命名した。
  また、因みに、「ショート・ストップは、戦列で時期
 を見て待機し、動き回ってあちこちを固める”遊軍”の
 ようだ」と説き、
  「遊撃手(ゆうげきしゅ)」という名称が広まった。
  1970年に、特別表彰で、野球殿堂入りした。
..
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by suba28 | 2016-02-26 02:11 | 皆様とともに 幸せになりたい

臨時ブログ:コンクリート(今日は、固いコンクリートの話です)

臨時ブログ:コンクリート(今日は、固いコンクリートの話です)
...(真を求めて、皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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  コンクリート。
  コンクリートは、砂利と、砂と、セメントに、水を入
 れながら混ぜ、こねて作られます。
  混ぜ、そして、こねると「ドロドロしたもの」になり、
 この水を入れた時点から、セメントと水は反応(化学反
 応)を始める。
  だから、水を入れて混ぜ始め、そして、その混錬が終
 わったら、なるべく早く型に入れる必要がある。
  型に入れるのが遅くなれば、なるほど、コンクリート
 の品質は低下する。
  コンクリートは、ドロドロしているから、どの様な型
 にも、当然、入る。
  だから、好きな形に、ものを作ることが出来る。
  型に入ったコンクリートは、熱を出しながら固まって
 行く。
  だから、建物や、橋や、トンネルなどを作ることが出
 来る。
  気温が低いと固まらない、または、固まりが不十分に
 なる。
  だから、北海道の様な、極寒の地の冬は、特に、大量
 の灯油を燃やし・・温める。
  東京でも、厳しい低温が予想されれば温める。
  この様にして、その化学反応を進め、固まらせて、強
 度を出させる。
  そして、日が経ち、過ぎて行くと強度が出て来る。
  強度が出て来れば、皆さまを支えることが出来る構造
 躯体になることが出来る。
  そこに、家具や机や機器や、好きなものを入れられる。
  楽しい住宅になったり、楽しい買い物ができるショッ
 ピング・センターになったり、好きな所へ早く行くこと
 が出来る高速道路になったり、
  楽しい家族旅行が快適に行けるトンネルや、新幹線を
 走らせられたりする。
  これらの事を実現させてくれている『コンクリート』。
  昔は、この様な、命や暮らしを支えてくれるものに、
 感謝し、祈ったものだ。
  物だけでなく、それを実現させてくれた道具や機械、
 あらゆる、すべてのものに、感謝の気持ちを捧(ささ)
 げた。
  その様な感謝の気持ちの中に、暮らして行くことが大
 事だった、そして、大切だった。
  今は、それがない。
  素晴らしい素材=コンクリート。
  この素晴らしいコンクリートを成り立たせているのが、
 「砂利」「砂」「セメント」「水」。
  この素材が、今、「ピンチ」です。
  良質な素材は、既に、『枯渇』しました。
  この様な意味からも、出来たものは、出来上がったも
 のは、大切にしなければなりません。
  安易に、NHKの様に、「建物は○○年、橋は△△年」
 と放送し、
  また、NHKの近所の「子供の城は壊す事になりまし
 た」などとニュースにならないニュースを放送して、洗
 脳する、マインド・コントロールする事は、「社会悪」
 です。
  使い続けることが出来る建物・社会資本の見本が、上
 野の前川国夫の「文化会館」です、そして、ル・コルビ
 ュジェの国立西洋美術館です。
  国立西洋美術館は、世界遺産に登録して、『永久』に
 使って行こうとしています。
  この姿勢でなければなりません、この姿勢が正しいの
 です。
  武甲山は無くなりました。
  急に、この様に言われても、何の事かが、お分かりに
 ならないと思います。
  ここが、「セメント」の古里なのです。
  武甲山は、無くなりました。
  関東地方のセメントは、この武甲山の山を削って作っ
 ています。
  山野草の図鑑を見ると、武甲山に生えているという記
 述の希少な植物がありますが、
  その消息が、心配なほど武甲山は、そのほとんどを無
 くしました。
  埼玉県秩父にある武甲山。
  登山ガイド・ブックのブルー・ガイドブックスにも掲
 載された登山できる山・武甲山は、今は、ありません。
  皆、東京や、その近県の、建物や橋や、トンネルや高
 速道路などなどに、なってしまいました。
  かつて、山男が、足の下に踏み固めた道はありません、
 山は、今は、ありません。
  この様な状況からも、出来上がったものに感謝し、大
 切にして行かなければなりません。
  武甲山は・・あと、半分です。
  アフリカの川鰻(かわうなぎ)。
  この希少な川鰻まで食べてしまおうという日本人。
  次世代の方々に残せ、飢えているアフリカの方々のた
 めに残せ・・、
  飢えているアフリカの方々が、食べられるくらいの量
 の食べ物を捨てている日本人。
  物は、何でも大切にしなさい。
  ベニヤ板で、熱帯雨林を「はげ山」にしている日本人。
  このベニヤ板で建物の型が作られている。
  そして、コンクリートを作っている砂利の話。
  川の砂利は、角がとがってなく、丸く、コンクリート
 の骨材(こつざい)として使うのに適している。
  しかし、川の砂利の採取をすると川底が下がり、川が
 深くなる。
  その結果、川に設けられた橋の基礎が露出して来た。
  ひどい橋は、その基礎の下の杭まで現れ、出て来てし
 まう状態となった。
  杭は、上からの重い荷重を支えるためで、この上から
 の方向の力には強いが、横からの力には弱い。
  その橋に、電車が走ったり、自動車が走ったり、振動
 が、その横からの振動が杭に加わり、そしてまた、加え
 続けられたりすると劣化し、品質が低下したり、
  また、地震で橋が揺らされて、杭にその横揺れの力が
 加わったりすると、横の力に弱い杭は、折れたりする恐
 れがある、その心配があった。
  それらの悪現象が出るまで、川の砂利が取り続けられ
 た。
  それで、採取禁止になると・・、
  川の岸、川岸を掘って、川砂利を取った。
  深い大きな穴・「砂利穴」が出来た。
  その砂利穴は、浅瀬が無く、急な斜面の穴なので、子
 供たちが落ちやすく、
  岸へ上りずらい、「アリ地獄」のような状態の為、子
 供たちが、よく転げ落ちて溺(おぼ)れ死んだ。
  多くの子供たちが、この罠の様な、コロコロすべる砂
 利の岸から転げ落ちた。
  アリ地獄のような砂利穴に落ちておぼれ死んだ。
  皆が行く、子供もよく行く、川に仕掛けられた、あた
 かも罠のような状況だった。
  川砂利は、この様な、犠牲となってしまう子供たちが
 出る状況において、供給された。
  そして、その子供の命の入った砂利で作ったコンクリ
 ートで、都市の建物などが建設された。
  亡くなった子供たちの事などへ、思いがおよばずに、
 出来上がった、新築なった建物へ入居した。
  そこに、皆の笑顔があった。
  だが、陰で泣いている、亡くなった子供さんと、その
 御両親、兄弟姉妹、親戚、近所の方々、学校の友達など
 など、多くの泣いている方々が居た。
  川砂利は枯渇して、この様な惨事まで生み出して、川
 砂利採取は禁止された。
  川砂。
  コンクリートを作るには砂も必要。
  川の砂は、常に、川の水で洗われていて、洗浄されて
 いて、コンクリートが嫌う不純物などが無く、良質だっ
 た。
  しかし、川砂利と同様の問題を起こした。
  また、その砂や砂利の洗浄水が川を汚染した。
  魚の遡上が問題となったりした。
  川砂採取も禁止で採れなくなった。
  そこで、やむなく、海の砂を使った。
  海砂は、塩分が含まれていた。
  これは、コンクリートに対して大問題だった。
  清浄な水を使って洗った。
  洗ってその塩分を取り去ろうとした。
  しかし、塩分は、そんなに簡単に取り切れるものでは
 ない。
  塩分が含有する、残る、その海砂で、コンクリートが
 作られ、建設に使った。
  砂が無いので、やむを得なかった。
  塩分の入ったコンクリートが、世の中に供給された。
  そのコンクリートは、鉄筋を錆びさせた。
  それ故、海砂は、必死に洗浄された。
  コンクリートの強アルカリ性も鉄筋を錆びさせないよ
 うに働いた・・が、しかし、海砂は、川砂の様な最適な
 骨材ではなかった。
  そして、砂や砂利は、山にそれを求めて行く。
  ここにも問題があった。
  まだまだ言い足りない部分がありますが、この様な背
 景で、あまり関心が無かったでしょうコンクリートに、
 この様な背景があります。
  コンクリートは、非常に『貴重』なものなのです。
  NHKが煽って、世は、すぐ壊して、建て直すという
 風潮になっていますが、反社会的な行為です。
  社会資本は、しっかりメンテナンスして、しっかり大
 切に、使い切って行くのが、社会正義です。
(追伸)
  1936年に建設されて、80年が経過している国会議事堂
 が建て替えをしなくて、長く使っていて、
  その約半分のNHKが、何故、建て替えなければなら
 ないのだ。
  アメリカのエンパイアー・ステートビルなど、しっか
 り長く使っているビルは目白押しにある。
  参議院の予算委員会で、自民党の二之湯さとし議員が、
 NHKに、ゴマをすって「50年、NHKは使ったから」
 と言って、NHKの建て替えを容認しましたが?
  根拠はまったくありません。
  NHKを管轄する総務大臣が、NHKへ、「視聴者の
 方々へ、建て替えについて誠実に説明する義務がありま
 す」と言われたが、NHKは、その説明責任を果たして
 いません。
  NHKは、耐震補強をしてお金をかけているならば、
 まだまだ、しっかり使用が出来ます。
  まだまだ大切に使って行って下さい。
..
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by suba28 | 2016-02-25 02:10 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)301E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年9月~1871年9月)

題:(増補版)301E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年9月~1871年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1871年9月2日(明治4年7月18日)文部省が設置された。
  文部省が創設され、江藤新平が、初代文部卿(文部大
 輔)になり、学制の改革が急速に行なわれた。
  維新直後は、江戸時代以来の諸藩がなお存続しており、
 個別に藩内の教育を統轄し、また、独自の教育改革を行
 なっていた。
  したがって、新政府の教育政策の直接の対象は、府県
 の教育に限られ、
  それは、全国的に見れば一部の地域に過ぎず、
  全国の大部分を占める諸藩の教育は、新政府の直接統
 轄するところではなかった。
  明治四年七月に廃藩置県が行なわれ、
  その後、新政府は、初めて全国に統一した行政を実施
 できる体制となり、
  これに伴って、全国の教育行政を総括する機関として
 文部省が設置された。
  文部省の設置は、廃藩置県後まもない、この日・明治
 四年七月十八日であり、
  「大学ヲ廃シ文部省ヲ被レ 置候事」という太政官布
 告が発せられた。
  この大学を廃止して文部省を置くということは、この
 時まで、大学が、教育行政の機能をもっていたためで、
  明治二年七月の官制改革によって、教育行政官庁とし
 て「大学校」が設置されていて、
  同年の明治二年十二月に、これを「大学」と改称した。
  当時の大学は、最高学府であるとともに、教育行政官
 庁でもあった。
  明治三年七月に大学本校は閉鎖され、その教育・研究
 の機能を失ったが、行政官庁としての大学は存続してい
 た。
  そして、その大学が廃止されて、新しくもっぱら教育
 行政を担当する機関として文部省が設置されることとな
 った。
1871年9月6日(7月22日)寄留・旅行者の鑑札制の廃止
  旅行の自由が許可される。
  現代においては、「旅行の自由」は当たり前の様に思
 えるが、これは戸籍にからんで、様子が少し違った。
  1871年5月22日(4月4日)、新政府はかねてより準備を
 進めていた 全国的統一戸籍の編製を命じた。
  明治四年戸籍法の公布(壬申戸籍)で、
  制定の動機は、その前文に・・
  『戸数人員ヲ詳ニシテ猥ナラサラシムルハ政務ノ最(
 モ脱か) 先シ重スル所ナリ』とある。
  脱籍浮浪の徒の取締と復籍 (本籍返し)や、
  人民の居住、交通に関する制限監視の統一化という点
 があった。
  そして、短期の移動(旅)について、
  「出生死去出入等ハ必其時々戸長ニ届ケ、戸長之ヲ其
 庁ニ届ケ出」るとある。
  また、「凡ソ旅行スルモノ、官員ハ其官省等ノ鑑札ヲ
 所持シ、 自余ハ臣民一般其管轄庁ノ鑑札ヲ所持スヘシ
 (略)鑑札ニハ当人名住所ト職分ヲ 記スヘシ」とある。
  つまり、管轄外に旅行する者は、戸長に届け出て、鑑
 札の交付を 受けて携行するようにと義務付けられていた。
  しかし、この時から4か月もたたないこの日・7月22日
 に 鑑札は廃止となった。
  しかし、旅行届の方は、これまでの「規則ノ通可相心
 得事」、つまり、「継続する様に」とが命じられた。
  中央法令たる戸籍法に基づいて、 実際に戸籍事務を扱
 う地方の行政体が、管轄下の住民に、旅行時の届出を命
 じる仕組みとなった。
  山口県の令を見ると、1872年7月(明治5年6月)に、
 「是迄之通」「届出を命じる布達が出され」、「戸籍法
 が改正される明治十九年まで旅行届 が提出され続けてい
 た」ことが確認できる。
  しかし、中央政府の法令であったので全国で実施は、
 されたはずであるが、実態としては「旅行は自由化」だ
 ったという。
1871年9月11日(7月27日)紙幣司
  大蔵省内に紙幣司として現在の国立印刷局が創設され
 た。
  そして、1871年10月(8月)に紙幣寮と改称した。
  創設当初の業務は、紙幣の発行、交換、国立銀行(民
 間銀行)の認可・育成など紙幣政策の全般がなされた。
  しかし、当時、国内では、印刷技術が未熟であったこ
 とから、
  明治政府は、近代的な紙幣の製造を、ドイツやアメリ
 カに依頼していた。
  しかし、紙幣は、国内で製造すべきであるとの声が強
 まったため、紙幣寮において、紙幣国産化の取組が行わ
 れることとなり、
  併せて、証券類、郵便切手が、1872年2月(明治5年1月)
 に、製造開始され、活版印刷等の印刷・製紙業務を行う
 こととなった。
1871年9月13日(7月29日)太政官に、正院・左院・右院を
 置いた。
  太政官官制改定、新たに正院、左院、右院を置く。
  正院(せいいん)は、明治維新政府の太政官職制発布
 後の最高政治機関で、
  他の二院に優越して、立法・行政・司法の三権の事務
 に対する最終決定権を持った。
  廃藩置県が断行された結果、9月13日に、太政官制が根
 本的に改革され、太政官に正院・左院・右院の三院が設
 けられた。
  太政大臣・左大臣・右大臣・参議などで構成された。
  3院のなかで、正院が中枢的地位を占めたので、正院の
 ことを太政官と呼んだ。
  1873年5月2日の改革で、正院の権限はさらに強化され、
 拡大された。
1871年9月13日(7月29日)日清修好条規(にっしんしゅう
 こうじょうき)
  日清修好通商条約成る(氷川清話)
  天津で、日本と清の間で初めて結ばれた最初の対等条
 約だった。
  特異性があると言われ、ヨーロッパ諸国や、アメリカ
 の列強諸国から、軍事的な密約があるのではないかとい
 らぬ疑惑をもたれた。
  これらの列強は、日本と中国が手を結ぶこと、同盟が
 怖かった。
  アメリカは、特に、日本が中国と手を結ぶ事を恐れた。
  また、この条約に対する列強各国の反対論には、この
 条約の条項に、日本と中国が、不平等条約を打ち破る条
 項があったためだった(儲け・利益の要だったから)。
  その様な状況から、批准は遅れた。
  1873年(明治6年)4月30日に、批准書交換がされて発
 効した。
1871年9月18日(8月4日)江藤新平(えとうしんぺい)が、
 左院1等議員に転ず。
  江藤新平は、佐賀県の下級武士の家に生まれ、(1834
 年~1874年)、領内の国学者に学ぶ、肥前佐賀藩士、
  藩の目付、代官を経て、貿易方を務める。しだいに、
 尊攘運動に参加し・・、
  1862年(文久2年)の28歳で、佐賀藩を脱藩し上京、尊
 王攘夷運動に参加(攘夷派の公卿と提携した)、
  帰藩を命ぜられ、帰藩後、藩庁より永蟄居に処せられ
 る。
  1867年(慶応3年)の33歳のとき、許されて群目付(こ
 おりめつけ、監察)となる。
  明治政府の成立とともに、明治政府に登用され、
  1868年(明治1年)の34歳の時、東征大総督府軍監とな
 り、江戸遷都を主張した。
  ついで江戸鎮台判事として、江戸開城直後の施政を担
 当した(民政兼会計営繕の任にあたる)。
  会計官判事、東京府判事、佐賀藩権大参事、制度局御
 用掛を歴任し、法制関係の官職を歩む、
  1871年(明治4年)の37歳で文部大輔、ついで左院副議
 長をつとめ、フランス流の民法典編纂(へんさん)に従
 事、
  1872年(明治5年)の38歳に司法卿となり、司法制度の
 確立・近代化に尽力した。
  司法権の独立・警察制度の統一をはかり、改定律例(
 かいていりつれい)の制定をした。
  後に、1873年(明治6年)の39歳に参議となり、征韓論
 を主張、西郷隆盛・板垣退助らに同調する。
  征韓論が受け入れられず辞職、1873年10月に下野した。
  1874年1月に、明撰議院設立建白書に、板垣退助・副島
 種臣(そえじまたねおみ)らと署名。
  1874年2月(明治7年)の40歳に、佐賀征韓党に推され
 て首領となり、憂国党(秋田県権令をやめた島義勇が結
 成した党)と結んで、不平士族に推されて、佐賀の乱を
 挙兵し、県庁を襲った(司法卿の時に、長州系の疑獄事
 件に腕を振るっていたのが関係したのか?)。
  しかし・・、政府軍に鎮圧され、薩摩・土佐に逃れた
 が、政府に逮捕され、
  1874年4月13日、処刑(斬罪のうえ梟首・きょうしゅ、
 さらし首)により没す(41歳)、
  のちに、大赦令(しゃれい、赦免、または特赦・大赦
 の命令)によって罪名消滅した。
  地代、家賃の値下げ、問屋仲買の独占の廃止など、民
 衆の要求を反映した近代化政策を行いながらも、
  大久保利通(おおくぼとしみち)や、岩倉具視(いわくら
 ともみ)らが政権を牛耳(ぎゅうじ)る有司(ゆうし、役人、
 官吏)専制体制を克服する道を誤り、士族の反乱にそれを
 求めることとなった。
..
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by suba28 | 2016-02-24 04:54 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)300E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年5月~1871年8月)

題:(増補版)300E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年5月~1871年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1871年6月5日(4月18日)平民の乗馬を許した。
  中近世の日本では、馬術は、長く武芸の一つとして位
 置づけがなされていた。
  それ故、乗馬は、基本的に武士のみに許されていた。
  それ以外は、馬子など別の者に馬を引かせる場合に限
 って騎乗が許された。
  たとえ、自分の馬でも自ら手綱を握ることはできなか
 った。
  1871年になって、平民の乗馬が許可された。
1871年6月8日(4月21日)西郷隆盛が、島津忠義(薩摩藩主
 →鹿児島藩知事、華族)に従い、廃藩置県に備えて、常
 備兵四大隊を率いて京都に入った。
1871年6月10日(4月23日)初めて鎮台(ちんだい、軍政機
 関、鎮守府)を設置する(明治初期の常備陸軍)。
  東山道本営を、陸前石巻(分営:福島・盛岡)、
  西海道本営を、豊前小倉(分営:博多・日田)に設け、
 地方の警護にあたった。
  1888年に、師団と改称した。
1871年6月11日(4月24日)戸口調査のため民家各戸に番号
 を記入せしむ。
  1871年戸籍法に基づいて、1872年に実施。
1871年6月(4月)「安愚楽鍋(あぐらなべ)」(著者:仮
 名垣魯文、かながきろぶん)が出版された。
  牛鍋を囲む庶民の雑談の形で,文明開化の世相を滑稽
 に描いた。
  田舎(いなか)武士、職人、生(なま)文人、芸者、商人
 などの登場人物の会話のなかには、蒸気車、伝信機(てれ
 がらふ)、こうもり傘など、開化の文物が縦横に取り上げ
 られている。
  すでに牛なべは、文明開化を象徴する食べものになっ
 ていた。
  この6年後の1877年頃には、牛鍋屋は急増する。
1871年6月(4月)お雇い外人
  お雇い(御雇)外国人(おやといがいこくじん)は、
 幕末から明治にかけて、「殖産興業」などを目的として、
 欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用され
 た外国人のことで、欧米人を指すことが多い。
  そして、その国籍や技能は多岐に亘り、
  1868年(慶応4年/明治元年)から1889年(明治22年)
 までに、
  日本の公的機関・私的機関・個人が雇用した外国籍の
 者の資料として、『資料 御雇外国人』や『近代日本産業
 技術の西欧化』がある。
  この資料から、2,690人のお雇い外国人の国籍が確認
 できる。
  内訳は、イギリス人 1,127人、
      アメリカ人  414人、
      フランス人  333人、
      中国人    250人、
      ドイツ人   215人、
      オランダ人   99人、
      その他    252人 である。
  また、期間を1900年までとすると、
      イギリス人 4,353人、
      フランス人 1,578人、
      ドイツ人  1,223人、
      アメリカ人 1,213人 とされている。
  1871年(明治3~4年)の時点で、太政大臣・三条実美
 の月俸が800円、右大臣・岩倉具視が600円であったのに
 対し、
  外国人の最高月俸は、造幣寮支配人ウィリアム・キン
 ダーの1,045円であった。
  日本人の大臣の1.7~1.3倍という超高給だった。
  その他、グイド・フルベッキやアルベール・シャルル・
 デュ・ブスケが600円で雇用されている。
1871年6月18日(5月1日)大井川の輦台渡、廃止となる。
1871年6月26日(5月9日)車馬道、人道の制、初めて東京
 市街主要大通りに開く。
1871年6月27日(5月10日)新貨条例
  新貨条例定めて、一円を単位とする。
  新貨条例を制定、「円」 と「金本位制」。
1871年6月30日(5月13日)参議・副島種臣(そえじまたね
 おみ)が、樺太の境界問題の解決のため、ロシアへ派遣
 を命ぜられた。
1871年7月1日(5月14日)種痘苗を各府県に頒ち、種痘を
 奨励する。
1871年7月15日(5月28日)洋服屋開店広告初めて現われる。
  洋服の普及の初め、洋服店が出現した。
  横浜の五十二番街、及び、東京茅場町に各一軒の洋服
 屋が開店した。
1871年7月(5月)木戸孝允が、『新聞雑誌』を創刊した。
  「新聞雑誌(しんぶんざっし)」は、参議となる木戸
 孝允が出資して、出身藩の長州藩の山県篤蔵(やまがた
 とくぞう)に、東京で創刊し、発行させた新聞だが、
  紙名は、ニュースの他に世間の雑事も掲載するという
 意味(政治・経済・教育・人事のほか、海外事情の紹介)。
  そして、新政府の文明開化や廃藩置県などの政策を、
 国民に周知徹底させることを意図していた。
1871年7月、食肉が広まり、販売権をめぐって商人・南屋喜
 重に屠牛場免札が許された。
  そして、8月に、屠牛場の開設が鑑札制となった。
1871年8月4日(6月18日)陸奥の尻屋岬燈台が竣工する。
1871年8月11日(6月25日)西郷隆盛と木戸孝允が、参議と
 なる 。
  この後に断行される廃藩置県によって、公卿と諸侯の
 大半が一掃される。
  そして、維新の功臣が政府の中核となる。
  この直前、郡県制への移行の実現のため、兵士を引き
 連れて上京した薩摩藩出身の西郷隆盛は、木戸孝允一人
 を参議とすべしとした。
  そして、他の者は省庁に下ることを提案し、大久保ら
 の賛同を得たが、木戸本人が固辞したため、
  西郷自身も参議に就任するという妥協に応じて、共に、
 参議に就任した
1871年8月12日(6月26日)民部省が長崎~上海の通信を開
 始した。
1871年8月23日、ドイツ医学の輸入の初め、
  ドイツ人教師が到着した。
  大学東校(東京大学医学部の前身、以下、東京大学と
 いう)で、ドイツ式医学教育を本格的に始めた。
  明治政府は、1870年(明治3年)、東京大学(医学校:
 大学東校)兼病院において、3年契約で、2名の医師を招聘
 したい旨をドイツ連邦公使に依頼した。
 先方の条件には、医学校の長たるべきこと、天皇陛下の
 侍医たること・・などが盛り込まれていた。
  契約は成立したが、肝心の教師たちは、なかなか来な
 かった。
  この時、プロシャ(ドイツ)は、普仏戦争のまっ最中
 だった。
  来る予定の二人の教師は、現役の軍医だったので、来
 日がなかなかできなかった。
  肝心の教師が来ないとなって政府は苦慮した。
  そこで、ボードイン(オランダ出身の軍医、長崎養生
 所のポンぺの後任)に頭を下げて、1870年8月(明治3年
 7月)に、帰国するまで講義してくれるよう頼むという始
 末だった。
  それでも、まだ、約束の教師は来なかった。
  今度は、フランス人のE. マッセを12月まで雇用した。
  そして、翌年の1871年になっても、まだ来なかった。
  急場しのぎで、アメリカからデンマーク人 O.シモンズ
 を招いた。
   1871年8月23日に、ようやく、ドイツ人教師たちは、
 夫人同伴で横浜港に着いた。
  1871年8月25日の朝、一小隊の儀伎騎兵に護られた陸軍
 一等軍医正(中佐)のミュルレル(1824年生まれ、47歳)は、
 華々しく東京大学(東校)玄関に到着した。
  彼は、ただちに、ドイツ語で演説を始めた。
  この急場を、松本良順の弟子で語学に秀でていた司馬
 凌海(しばりょうかい)が通訳した。
1871年8月29日(明治4年7月14日)廃藩置県
  廃藩置県の詔書が出る。
  この日・明治4年7月14日、午後2時、東京にいた各藩の
 知藩事56人が皇居大広間に呼び出され、
  そして、明治天皇陛下によって廃藩置県の詔(みこと
 のり)が発布された(以下、その詔)。
  朕惟フニ更始ノ時ニ際シ内以テ億兆ヲ保安シ外以テ万
 国ト対峙セント欲セハ宜ク名実相副ヒ政令一ニ帰セシム
 ヘシ朕曩ニ諸藩版籍奉還ノ議ヲ聴納シ新ニ知藩事ヲ命シ
 各其職ヲ奉セシム然ルニ数百年因襲ノ久シキ或ハ其名ア
 リテ其実挙ラサル者アリ何ヲ以テ億兆ヲ保安シ万国ト対
 峙スルヲ得ンヤ朕深ク之ヲ慨ス仍テ今更ニ藩ヲ廃シ県ト
 為ス是レ務テ冗ヲ去リ簡ニ就キ有名無実ノ弊ヲ除キ政令
 多岐ノ憂無ラシメントス汝群臣其レ朕カ意ヲ体セヨ
  (数百年因襲いんしゅうの久ひさしき
  或あるいは其その名ありて其実そのじつ挙あがらざる
 者あり
  何を以もって億兆を保安し
  万国と対峙たいじするを得んや
  仍よって今 更に 藩を廃し県と為なす)
  ・・
  藩は、県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京へ
 の移住が命じられた。
  各県には、知藩事に代わって新たに中央政府から県令
 が派遣された。
  なお同日、各藩の藩札は、当日の相場で政府発行の紙
 幣と交換されることが宣された。
  当初は、藩をそのまま県に置き換えたため現在の都道
 府県よりも細かく分かれており、3府302県あった。
  また、飛地が多く、地域としてのまとまりも後の県と
 比べると弱かった。
  そこで、明治4年(1871年)10〜11月には3府72県に統
 合された。
  その後、県の数は、明治5年(1872年)69県、明治6年
 (1873年)60県、明治8年(1875年)59県、明治9年(1876
 年)35県と合併が進み(府の数は3のままである)、明治
 14年(1881年)の堺県の大阪府への合併をもって完了し
 た。
  だが、今度は、逆に、面積が大き過ぎるために地域間
 対立が噴出したり事務量が増加するなどの問題点が出て
 来た。
  そのため、次は分割が進められて、明治22年(1889年)
 には3府43県(北海道を除く)となって最終的に落ち着い
 た。
  江戸城明け渡しという形で、流血を見ずに 中央政権の
 交代が実現した 翌年の1868年6月11日に、新政府の統治
 機構である政体書が発表された。
  これが、現在の都道府県の前身と言え、府県 が、最初
 に設けられたのが、この政体書だった。
  薩長土肥がリードした「版籍奉還」は1869年7月25日に
 行われ、諸侯は 新政府から任命されたという形になり、
 「知藩事」となった。
  藩に対しては、「藩制」などによる統制が加えられた
 ものの、基本的に、まだ、地方は、殿様の支配が続く分
 立体制だった。
  財政問題と余剰人員化した士族とを抱えて 苦しい諸藩
 だった。
  脱落する藩も出てきた。
  軍事・教育・司法・財政を、「全国一致之政体」にし、
 近代国家に脱皮したい政府にとっても、中央政府の強化
 は大きな問題だった。
  これを解決したいために行われたのが、この廃藩置県
 だった。
1871年8月29日(7月14日)外国はびっくり:廃藩置県の「
 外国新聞報道」
  この廃藩置県が行われた時、外国の新聞記者は、これ
 は凄(すご)いと、各社が外電を打った。
  一つの体制が滅びていく時には、ヨーロッパであれば、
 間違いなくギロチンになる様な世界的革命である廃藩置
 県を、日本は、血の一滴も流さずにやった・・と、
  「武士階級の最終的な自己否定」であった廃藩置県で
 あったからだった。
  廃藩置県の断行は・・、
  廃藩置県案は、西郷隆盛、大久保利通・木戸孝允ら薩
 長の要人間で密かに練られた。
  そして、三条実美・岩倉具視・板垣退助・大隈重信ら
 の賛成を得て成案となった。
  そして、この日、新政府は、在京の知藩事を皇居に集
 めて廃藩置県を出した。
  そして、藩は府県となった、知藩事は免職された。
  そして、中央政府から府知事・県令が派遣された
  旧来の藩制を廃して郡県制度を敷き、中央集権をはか
 った。
  そのままに、県に置き換えたため、細かく分かれ、全
 国で3府302県になった。
  飛地も多く、地域としてのまとまりも弱いというとこ
 ろもあった。
  これは後に、11月14日に、統合され、3府72県になっ
 た。
1871年頃、裏側の諸要素が見えない明治
  明治以来の日本人が、久しくヨーロッパの明るい側面、
 近代的なシンボル、自由や平等や進歩だけを受け入れよ
 うとし、
  その背後にある、これとは正反対の方向へヨーロッパ
 を引っ張っている裏側の諸要素が、
  如何に根強いかを見ないで、
  極めて表面的で空疎な理想主義に走っていた。
1871年~1872年、何でも西洋が良いの風潮
  この頃、何でも、かんでも、「西洋に学べ、西洋に遅
 れを取るな」の風潮が世を風靡した。
  この叫びが、日本全土を駆け巡り、野火の様に広がっ
 て行った。
  西洋の何も分からない時代、ただただ、西洋は進んで
 いる、西洋から学べとなっていた。
  こんな時、キリスト教が何たるかを知らず、キリスト
 教を良きものと盲信した。
.
  そして、今日の言葉・・、
.
  かつては「建設省」という「省」があった。
  その頃の日本は、何もない時代だった。
  日本は、一生懸命に建設した。
  その努力のかいもあって、幸いにも目的は達して、そ
 の省の名前は、国の形に不相応になった。
  そこで、その省の名前は変わり、建設省の名前は無く
 なった。
  マンションでも何でも、竣工すれば、出来あがれば、
 建設されれば、その次に、「その維持」に意を配るのが、
 当然の行動となる。
  維持費の積み立てもする。
  その維持の実施を考える「組織も作られる」。
  何もしないで、放っておけば、「何でも壊れる」ので、
 当然の行為だ。
  国は今、「社会資本」に「維持メンテナンス」が「必
 要」で「大切な時」なのである。
  国には今、「社会資本」の「維持メンテナンス」の「
 組織が必要な時」なのである。
  「社会資本メンテナンス省」、もしくは、「社会資本
 メンテナンス庁」が必要な時なのである。
  NHKのような組織などが、間違い観念を煽り、有り
 もしない「2016年問題」が煽られる状況となっている。
  その様なインチキに煽られ、公的機関は、まだ、使え
 る多くの社会資本を壊して、作り直そうとしている。
  もう地球資源の多消費型社会は終焉しているのにだ。
  その様な状況の、地球の状況の中を、多くの公的機関
 の建物・社会資本が壊される事になっている。
  NHKのインチキ放送が、「2016年問題」が持ち上
 がって乗っかり煽っている。
  また何と、この多くの社会資本は、「壊すという方針」
 になっている。
  「そう簡単に壊すなよ」と言いたい。
  「リユースする道を考えよ」と言いたい。
  デザイン良く耐震補強すれば良いだろうに・・。
  建物内部だってセンスの良い設計事務所に依頼すれば、
 びっくりするくらい、見違えるほどになる。
  まだまだ、社会資本は使えるのだ、大切に使って行き
 なさい。
  リユースならば、費用は半分で済む。
  その残った半分の費用は、そのお金は、国民へ還元せ
 よ。
  そうすれば、社会が潤(うるお)い、景気を刺激する。
  金のない時に無駄遣いはしないこと。
  このNHKのインチキ放送で、損害賠償を請求される
 リスクまで、国民は負う羽目になっている、その可能性
 は否定出来ない。
..
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by suba28 | 2016-02-22 00:44 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)299E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年2月~1871年5月)

題:(増補版)299E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年2月~1871年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1871年2月27日(明治4年1月9日)1月、賊広沢真臣を殺す(
 氷川清話)
  横井小楠、大村益次郎に続いて広沢真臣(ひろさわさ
 ねおみ)も暗殺される。39歳、
  広沢真臣は、長州藩士で、藩の財政改革(安政の改革)
 に参画し、また、倒幕運動(尊王攘夷派)に尽力した。
  幕長戦争(長州征討)の際には、長州藩を代表して広島
 に出張し、厳島で幕府方の勝海舟と休戦協定を結んだ。
  明治になり、維新政府に参画し、海陸軍務掛、内国事
 務係、同判事などを歴任し、政府最高位の参議となった。
  何故、暗殺されたのか?
  理由不明の中に、必死の捜査が行われた。しかし、迷
 宮入りとなった。
  (因みに、この2年前に襲撃されて死亡した同じく長州
 藩出身の大村益次郎の場合は、薩摩や長州の不平分子の
 関与だという)。
  1879年(明治12年)に、広沢家は、維新の功を賞せら
 れ、華族に列せられた。
  広沢家の様に、士族から華族になる例は稀だった。
1871年3月6日(1月16日)西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通
 らが、治政改革のため土佐の山内容堂訪問した。
  何で、西郷らは、44歳の土佐藩主の容堂でなければな
 らなかったのか?
  徳川末期には、徳川慶喜を支えた容堂だった。
  辞官納地が徳川慶喜が押し付けられたとき、薩摩・土
 佐・尾州・芸州が土地をそのまま保有しておきながら、
 何故?徳川宗家に対してだけなのか?と擁護した。
  これは、正論であった。
  種々、容堂は、徳川側に立った。
  その時、最後は、容堂は酒に酔っていると無視された。
  鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、土佐藩兵に対し、『
 この戦いに加わるな』と厳命した容堂だった。
  (土佐藩兵は、藩主の命を無視して官軍に参加した)
  明治となれば、反主流派である。
  維新になって、内国事務総裁という役職に就任したが、
 容堂は、すぐに、2年足らずの1869年に辞職した。
  そして、隠居になって、酒楼通いの、この様な容堂に、
 西郷らのそうそうたる人たちが訪問した(容堂は、この
 翌年・1872年、脳溢血に倒れ、46歳で没する・・が?)。
  因みに、西郷隆盛は、この4年前の1867年3月22日に、
 薩摩藩主の命によって、容堂に面会している。
  そして、その時、時局の重大性を話し合い、容堂の上
 洛をしきりに頼んでいる(意気投合している)。
  この時、西郷らの頭にあったのは「政府改革案」だっ
 た。
  この後、世は、廃藩置県へと流れて行く。
  すべての大名(旧藩主)の失職である、そして、東京
 へ移住せよと命じられるのである。
  代わって中央政府が権利を持つという改革(クーデタ
 -)である。
  各藩主の反抗に対する相談だったのか?
  いきなりの廃藩置県の断行もできないという事で・・、
1871年3月14日(1月24日)郵便に関する布告がなされた。
  東京・京都・大阪間に郵便開設のため同規則を領布
 (りょうふ、有料で提供する)し、4月20日(3月1日)
 より実施するとした。
  そして、この日の3月14日(1月24日)に、「書状ヲ出
 ス人ノ心得」、及び、「郵便賃銭切手高並代銭表」、
 「郵便規則表」等、郵便に関する一連の太政官布告が公
 布された。
1871年3月22日(2月2日)西郷隆盛、山内容堂、板垣退助、
 山県有朋ら上京す。
  行動したのは、万一の反乱に対処するための軍組織を
 しっかり作ることだった。
  東京に着いた一行は、1871年3月28日(2月8日)に会談
 し、御親兵の創設を決めた。
  そして、明治維新政府の大変革が本格化して行く。
1871年3月24日(2月4日)二卿事件(にきょうじけん、政府
 転覆未遂事件)の首謀者が東京に入る。
  案の定と言っていいのか?・・この様な事件が起きる。
  攘夷派の公卿、愛宕通旭と、外山光輔が、明治政府の
 転覆を謀ったクーデター未遂事件。
  尊皇攘夷の中心的な役割を果たしてきた薩摩藩と長州
 藩。
  その両藩を中心とした明治政府が、成立したことによ
 って、攘夷が断行されると信じていた全国の攘夷派は、
 明治政府が、戊辰戦争が終わると、直ちに、「開国和親」
 を国是とする方針を打ち出したことに強い失意と憤慨を
 抱いた。
  これは、倒幕に参加していた薩摩藩・長州藩・土佐藩・
 肥前藩の薩長土肥の志士や、公家の一部にも及んでいた。
  彼らは、明治政府を倒して、新しい政府を作り直して
 攘夷を行って、外国と戦うべきであると唱えていた。
  その先駆けとなったのが、1870年1月2日(明治2年12月
 1日)に、長州藩で発生した大楽源太郎に率いられた奇兵
 隊などによる「脱隊騒動」であった。
  この反乱は、木戸孝允らによって間もなく鎮圧された
  ものの、
  大楽は、九州に逃亡し、攘夷派が藩政を掌握していた
 久留米藩や、熊本藩の河上彦斎らの支援を受けて再起を
 伺っていた。
  一方、大楽の救援に駆けつけていた土佐藩の堀内誠之
 進は、京都に逃れて、同地の攘夷派志士の糾合を画策し
 ていた。
  そして・・、
  かつて、廷臣二十二卿列参事件(1866年10月8日に発生
 した公家による事件・騒動)にも加わったことのある愛
 宕通旭(おたぎみちてる、幕末の公卿→官僚)は、
  この頃、明治政府の参与を免ぜられて京都に引き籠っ
 ていた。
  愛宕は、新政府の実権を握った薩・長の下級武士らに
 よって、「天皇の藩屏(防備の囲い)」であった公卿が、
 政治の中枢から切り離されていくことに、苛立ちを感じ
 ていた。
  家臣の比喜多源二・安木劉太郎らは、これに同情し、
 新政府を倒して、明治天皇陛下を京都へ連れ帰り、攘夷
 を断行するべきであると進言した。
  弾正台(だんじょうだい、警察機関)で、横井小楠暗
 殺事件の捜査を担当しながら、
  逆に、横井を糾弾しようとしたことで知られる古賀十
 郎と、その友人である秋田藩の中村恕助は、
 比喜多によって、仲間に招き入れられると、天皇陛下と
 主だった公卿が東京にいる以上、まず、東京で事を起こ
 さなければ意味がないと説いた。
  これに同意した愛宕は、1871年3月18日(明治4年1月28
 日)に、比喜多・安木らを連れて京都を発ち、
  この日・1871年3月24日(2月4日)に、東京に入った。
  愛宕主従は、古賀・中村に誘われた秋田・久留米藩士
 や、土佐の堀内誠之進らと謀議を重ね、秋田藩内の同志
 に呼びかけて日光を占領し、東京に火を放って天皇陛下
 を京都に連れ出す作戦を練った。
  この様に、新政府がその基盤を置いた薩長でさえも、
 洋式装備に統一され実戦的訓練を受けた軍隊を擁してい
 て、
  成立間もない新政府にとって不気味な存在であった。
  そして、静岡藩を初めとする旧組織の親藩・譜代の諸
 藩の動静には過敏にならざるを得なかった。
  小規模な蜂起反乱が勃発した。
  そして、事態は、新政府は、横井小楠・大村益次郎を
 早々に失い、
  そしてまた、雲井龍雄処刑の責任者・広沢真臣が、1871
 年(明治4年)に暗殺されるなど、不安定な中に、政府は
 あった。
1871年3月28日(2月8日)浅草の大火に・・消防ポンプ
  東京(浅草)の火事に、初めて消防ポンプが使用され
 た。
  『続武江年表』には・・、
  明治四年二月八日戌下刻(午後9時頃)浅草本願寺後
 田島町火事、田原町迄焼る。消防器械ポンプ始て用い、
 便利を知る。
1871年4月2日(2月13日)帝都に、親兵(しんぺい)設置。
  明治政府の最初の直属軍隊。
  「御親兵」と呼ばれた。
  明治新政府は、1868年3月13日(明治1年2月)に、はじ
 めて政府直属軍としての親兵を設置した。
  この設置は、必ずしも安定してなかった国内事情に由
 った。
  富国強兵策の対外的な面だけではなかった。
  内国的な面もあった。
  1868年閏4月に、各藩の献兵による京都警衛隊の制が
 定められたが、この制は翌年の1869年2月に廃止され、
  十津川郷士などの約400人の親兵を有したにすぎなか
 った。
  東京遷都後の皇居警衛には、長州藩兵があたっていた
 が、
  1870年12月に、山県有朋は、鹿児島にいた西郷隆盛に
 薩・長・土3藩の献兵による親兵創設を説き、
  翌年・1871年2月に、薩摩藩歩兵4大隊・砲隊4隊、長州
 藩歩兵3大隊、土佐藩歩兵2大隊・騎兵2小隊・砲隊2隊の献
 兵による親兵設置が令せられた。
1871年4月4日(2月15日)大蔵省造幣寮の創業
  今まで、藩札のほかに、民間紙幣の私札が、近世初期
 から各地において発行されていた。
  1871年4月4日(2月15日)に、政府は、造幣寮(現在の
 大蔵省造幣局)の開業に踏み切り、
  そして、新貨の鋳造にのり出した。
  1871年6月27日(5月10日)には、新貨条例を制定し、
 公布し、
  「円」という貨幣単位を採用した。
  (金貨を本位貨幣、銀貨を補助貨幣とする新貨制度を
 実施し、
  これまでの両にかわって、円が通貨となり円、銭、厘
 の十進一位の単位が決定した)
  そして、これによって、江戸時代の両・匁・文の体制か
 ら切り替えた。
  新しい金貨・銀貨・銅貨は、円形の貨幣となり、江戸時
 代の楕円形の大判・小判、なまこ形の丁銀、不定形の小粒
 であった豆板銀などが、円形に統一された形状をもつこ
 とになった
1871年4月11日(2月22日)兵の配属・配置
  鹿児島藩:歩兵四大隊、砲兵四隊、
  山口藩:歩兵三大隊、
  高知藩:歩兵二大隊、騎兵二小隊、砲兵二隊を、
 御親兵として招徴し、兵部省の隷下に置いた。
1871年4月20日(3月1日)郵便制度がスタート
  官営郵便事業の開始(前島密)
  日本で、最初の郵便切手の発行(この時に発売された
 切手は、銭48文、銭100文、銭200文、銭500文、半銭、壱
 銭、弐銭、五銭など)
  郵便ポストもこの時に始まった。
  この日の4月20日(3月1日)に、東京〜京都〜大阪間
 に、現行の制度の礎となる郵便制度が確立され、
  東京・京都・大阪に、最初の郵便役所が創設された。
  布告に用いられた「郵便」の名称は、前島の案に準じ
 た。
1871年4月24日(3月5日)江藤新平が、対外策を岩倉具視へ
 呈す。
  江藤新平は、1870年2月(明治3年1月)には、佐賀に帰
 郷して準家老に就任し、藩政改革を行うが、
  後に、中央に呼び戻され、1871年1月(明治3年11月)
 に太政官中弁となる。
  1871年2月(明治3年12月)、虎ノ門で佐賀藩の卒族に
 襲撃されて負傷する。
  1871年4月(明治4年2月)には、制度取調専務として国
 家機構の整備に従事し、
  そして、大納言・岩倉具視に対して30項目の答申書を
 提出する。
  近代的な集権国家と、四民平等を説き、国法会議や民
 法会議を主催して、箕作麟祥らとともに民法典編纂に取
 り組んだ。
  江藤は、「フランス民法と書いてあるのを日本民法と
 書き直せばよい」「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」とい
 うほどフランスの法制度を高く評価ていた。
1871年4月30日(3月11日)神武天皇祭(じんむてんのうさ
 い)の始まり(後に、4月3日に改める)
  初代の天皇陛下である神武天皇の崩御日にあたる4月3
 日に毎年行なわれ、神武天皇の天皇霊を祭る。
  崩御日は、『日本書紀』によれば紀元前586年(神武
 天皇76年)3月11日であるが、これを太陽暦に換算し、
 4月3日とした。
  宮中の皇霊殿と、神武天皇陵に治定される奈良県橿原
 市の畝傍山東北陵で儀式が行われる。
  神武天皇祭は、幕末の孝明天皇の時代、1860年(万延
 元年)3月11日に、神武天皇の御陵祭として始まり、
  1871年(明治4年)9月に定められた「四時祭典定則」
 で規則化された。
1871年5月22日(4月4日)壬申(じんしん)戸籍(旧暦4月
 5日説あり)
  戸籍法が制定された(太政官布告によって制定)。
  国民を華族・士族・卒・神官・僧侶・平民に区分した。
  (1945年に、身分制度が廃止された)
  戸主中心の戸籍で、やがて、旧民法が出来ると「家」
 制度の根幹を成した。
  1872年(明治5年)2月1日に、施行した。
  この戸籍法は、不備が多く、多くの機能(印鑑証明、
 地権等)を持たせたことにより、複雑となった。
  また、必要限度の要件さえ整っていれば、記載様式も
 特に設けられなかったことから、
  地方によって書式の詳細に格差が生まれた。
  また、以後、6年に一度改編するという規定も、大区
 小区制施行と併せて行われた1回程度で、多くの問題点が
 あった。
1871年5月22日(4月4日)旧藩札発行の禁令。
1871年5月25日(4月7日)専売特許条例が制定された。
  我が国で初めての特許法と言える『専売略規則』が公
 布された。
  しかし、技術の未発達により、特許を得られる発明品
 が少なかったことや、審査員の不足などがあり、
  翌年・1872年に、施行が中止された。
  しかし、人力車やガラ紡のように、特許制度が整備さ
 れていないことで様々な問題が生じると、再び、制度の
 必要性が確認され、復活が求められるようになった。
  これを受けて、新たに、1884年(明治17年)に、「商
 標条例」が、1885年(明治18年)に、「専売特許条例」
 (明治21年に特許条例に改正)が、
  1888年(明治21年)に「意匠条例」が公布され、本格
 的な特許制度が開始された。
1871年5月27日(明治4年4月9日)長崎製鉄所を長崎造船所
 と改称した。
  1872年(明治5年)に、長崎製作所と改称する。
1871年5月30日(4月12日)皇城(皇居)に電信開設す。
1871年5月、売春業者の新規開業禁止。
1871年5月、兵部省に軍楽隊が設置された。
  軍楽隊の初めの、薩摩藩の軍楽伝習隊に、ダブルリー
 ド系の楽器が入っていないのは、楽器が高価であったり、
 習得するのが困難な楽器だったらしいが・・、
  この当時、アメリカやフランス、ロシアの軍楽隊には、
 サキソフォーンが既に採用されていた。
  しかし、イギリスやドイツ、イタリアにおいては、ま
 だ採用されていなかった。
  この事と、規模こそ違うものの、編成上のバランスな
 どを考えると、
  やはり、フェントンは、薩摩藩軍楽伝習隊に、イギリ
 スの軍楽隊のスタイルをそのまま移そうとした。
  1870年6月に、薩摩藩軍楽伝習隊に、楽器が到着した。
  しかし、彼等に、帰藩命令が出されたのが、1870年9月
 だった。
  つまり、彼等は、楽器を手にしてわずか三ヶ月で、伝
 習が打ち切られた。
  この様な、短期間では、楽器から一通り音を出せるよ
 うになるだけでも難しいが、
  彼等は、「イギリス国家」などの楽曲を数曲、演奏で
 きるほどに上達していた。
  また、フェントン作曲の初代『君が代』、および、現
 行『君が代(国歌)』を初演した。
  さらに、彼等は、郷里の薩摩に戻って、そこの土地で、
 指導者としても活動した。
  1871年(明治4年)に、150人を超える人数の軍楽隊と
 なって再上京し、明治政府兵部省の軍楽隊の基礎となっ
 た。
 なお、フェントンは、1876年(明治9年)に、雅楽局式
 部寮に赴任した。
  そして、初期の軍楽隊は・・、
  1871年5月に、明治政府は、兵部省に、前記の薩摩藩軍
 楽隊を基礎とした軍楽隊を設置した。
  1871年7月に、兵部省は、陸軍部と海軍部に分かれ、
  1871年9月には、軍楽隊も、陸軍軍楽隊と海軍軍楽隊に
 分かれた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-02-21 00:59 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)298E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年12月~1871年2月)

題:(増補版)298E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年12月~1871年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1871年1月3日(明治3年11月13日)徴兵規則領布
  領布:りょうふ、有料で提供するの意、
  因みに、配布は無料で配るという意味で使われること
 が多いのに対してこの言葉がある。
  また、頒布(はんぷ)は、品物や資料などを広く配る
 という意。
  府藩県一万石毎に士族平民を問わず5名宛徴募の制。
  山縣有朋の構想のもと、徴兵規則(ちょうへいきそく)
 が制定され、
  各府藩県より士族・卒族・庶人にかかわらず1万石に
 つき5人を徴兵することを定めた。
  続いて、1871年4月2日(明治4年2月13日)には、
 西郷の構想の一部をも取り込む形で、三藩(薩摩・長州・
 土佐)の軍が親兵として編成され、
  この兵力を背景に、1871年8月29日(明治4年7月14日)
 に、廃藩置県(各藩の武装解除)が断行された。
1871年1月15日(明治3年11月25日)松代藩の一揆:松代騒
 動 (午札騒動)
  松代藩(まつしろはん、信濃国、現在の長野県)で、
 7万人の農民蜂起(~明治3年11月27日)、
  各地で「世直し」の騒乱が続いた。
  碑文から分かることは・・、
  幕末から明治維新にかけて、松代藩は、約100万両とい
 う多額の藩債(借金)があった。
  そして、財政難に陥っており、また、当時、「チャラ金」
 という贋金が大量に流通するようになっていて、財政難
 をさらに窮地に追い込んでいた、そして、流通の混乱を
 招いていた。
  困った松代藩は、1869年(明治2年)、贋金引き換え(と
 いう口実)で、許可をもらい、信濃全域で使用できる済急
 手形(藩札または午札、藩計政局発行の藩札)という商法
 社手形を大量に印刷し、流通させた。
  ところが、新政府は、贋金回収のために藩札の発行を
 許可したのに、まったく成果があがらない状況であるた
 め、政府発行の新紙幣に変わったのを機会として藩札の
 発行を禁止した。
  そして、藩札と新紙幣を交換する方針をとった。
  しかし、その交換率が、新紙幣の2割5分から3割5分と
 いう藩札にとって大変不利な交換率であったため、藩札
 を大量に抱えていた松代藩は、大きな打撃を受けること
 となった。
  打撃を受けたのは藩だけでなく、年貢の相場の高騰に
 よる農民への打撃も大きかった。
  流通貨幣改定による相場の高騰に農民が騒ぎ出し、暴
 動化して行った。
  その中心となったのが小平甚右衛門の動きで、藩の改
 定布告後、悪租法反対の一揆を起こした。
  これが、午札騒動の引き金となった。
  上山田村で起こった一揆は、周辺の村人を巻き込みな
 がら、約3万人もの村人が、松代城下を襲撃し、甚大な被
 害が出た。
  松代大英寺で、藩知事・真田幸民(ゆきもと)と、一
 揆代表者が会見し、結局、藩が折れ、相場を元どおりに
 し、紙幣藩札交換に割引をしないことで折り合いがつき、
 一揆は終息した。
  小平甚右衛門が一揆の首謀者ということで、一人だけ
 斬首の刑に処された。
  その碑である「小平甚右衛門之碑」がある。
1871年1月17日(明治3年11月27日)大蔵省造幣寮
  大坂本局が、銀貨製造を開始し、
  4月4日(明治4年2月15日)に、大蔵省造幣寮として創
 業式を挙行した。
  そして、最新式の鋳造機を、香港から購入し、贋造が
 難しい近代的な貨幣鋳造が開始された。
  本位貨幣として、金貨5種(20円、10円、5円、2円、1
 円)、
  銀貨1種(1円)、
  補助貨幣として、銀貨4種(50銭、20銭、10銭、5銭)、
 銅貨4種(2銭、1銭、半銭、1厘)が発行された。
  また、6月27日(明治4年5月10日)に、新貨条例、およ
 び、造幣規則布告がされて、近代的貨幣制度が開始され
 た。
1871年1月24日(12月4日)群馬県の富岡製糸場の設立が布
 告された。
  2014年6月21日に、世界遺産として正式登録されたが、
 本建物群の初期のものは、国宝、および、重要文化財と
 なっている。
  開国した日本は、有力な輸出品を求めていた。
  そこへ、生糸という輸出品としてのチャンスが恵まれ
 た。
  明治政府の賢人たちは、「外国資本を入れず」という
 方針をとった。
  そして、国策として進められた。
  最先端機器が導入され、さらに、日本人の知恵が加え
 られた。
  そして、お雇い外国人(外国のノウハウ)も導入した。
  そして、政府は、ここの成果を、日本中に奨励した。
  お雇い外国人と共に、日本という大きな視点で、各地
 を視察し、各地の産業の導入・育成・改善を図って行っ
 た。
  そして、働く方々・女性(工女)には、重要な立場で
 働くのだという意義と名誉を説き、与えた。
1871年1月28日、横浜毎日新聞が創刊された(1870年説あり))。
  横浜で、子安峻ら、日本最初の日刊新聞の『横浜毎日
 新聞』を創刊された。
  子安峻(こやすたかし)、新聞・出版経営者。大村益
 次郎に蘭学を,佐久間象山に砲術を学んだ。
  明治維新後は新政府に仕え,神奈川裁判所に通訳翻訳
 方として勤めるかたわら、
  明治3 (1870) 年の『横浜毎日新聞』の創刊にも一役買
 った。
  明治7年11月日就社より『読売新聞』を創刊。
  明治22年『読売新聞』から離れ,
  明治26年に『いさみ新聞』を創刊した。
1871年1月29日(12月9日)近代日本の官制:三職制
  新たに総裁、議定、参与を置いた。
1871年2月1日(12月12日)最初の日刊紙「横浜毎日新聞」
 発刊。
  本木昌造が、横浜に移り、1枚摺りの日本最初の日刊
 新聞「横浜毎日新聞」を創刊した(旧暦12月8日説あり)
  神奈川県の今井関盛良が、長崎の本木昌造に依頼して
 活字と印刷機とを取り寄せ、
  昌造が派遣した長崎製鉄所付属活版伝習所の社員の陽
 其二を編集長に、横浜本町6丁目に本社を構えた。
  1873年に、東京に長崎の出張活版製造所(のち東京築
 地活版製作所)を開設した。
1871年2月8日(明治3年12月19日)中野騒動→長野県成立
  中野騒動は、旧信濃国北部の幕府領・旗本領を管轄す
 る中野県で発生した世直し一揆。
  主張は、年貢削減、特権的豪商の告発、新税廃止など。
  そして、中野騒動は、この前年から発生していた。
  1870年10月11日(明治3年9月17日)に、伊那県から分
 立して中野県が成立した。
  高石和道大参事は、民部省の意向を受け、増税策を次
 々と打ち出したが、
  兼ねてより贋金の流入による経済の混乱や、米価の上
 昇によって困窮する農民の不満は増大していた。
  近隣の松代藩や、須坂藩で発生した一揆勢の要求項目
 の一部が藩当局に聞き入れられると、中野県にも波及す
 ることとなった。
  そして、この日・1871年2月8日(明治3年12月19日)、
 高井郡高井野村(現上高井郡高山村)から発生した一揆
 勢・約2000人が、
  羽場村(現同郡小布施町)に集結して、中野町(現中
 野市)に向かい、
  特権的豪農や、商家を打ち壊して、また、中野県庁を
 焼き討ちし、県吏を殺害した。
  高石大参事は逃亡し、松代藩に匿(かくま)われ謹慎
 となった。
  これを受けて、松代藩ほか各藩兵が、鎮圧に向かい、
 旧暦12月21日になって一揆勢は退散した。
  1871年2月24日(明治4年1月6日)から、明治政府軍(
 佐賀藩兵を主力とする)によって、一揆の参加者の探索
 が進められ、約600名が逮捕された。
  1871年4月16日(明治4年2月27日)には、斬首刑6名、
 絞首刑22名、徒刑十年124名、その他・処罰数百名などが
 刑に処された。
  後任の立木兼善権知事は、中野での県庁再建を断念し、
 長野への移庁を政府に上申し、太政官布告によって、
  1871年9月9日(明治4年7月25日)に、長野県が成立し
 た。
1871年2月9日(明治3年12月20日)新律綱領(しんりつこう
 りょう)を領布した。
  新律綱領頒布(氷川清話)
  新律綱領は、仮刑律にかわり、明治政府により1871年
 2月9日(明治3年12月20日)に制定頒布された刑法典。
  全6巻8図 14律 192ヵ条項から成るが、逐条主義はとっ
 ていない。
1871年2月11日(12月22日)陸海軍の洋式服制定められた。
1871年2月13日(12月24日)士族といえども特定以外の帯刀
 を禁ず。
1871年2月17日(明治3年12月28日)、米沢藩の雲井龍雄(
 くもいたつお)が処刑された。
  米沢藩雲井龍雄処刑(氷川清話)
  龍雄は正義の人と言える人で、幕末の争乱期に正しい
 行動をした。
  頭の切れる人で、王政復古の大号令が発せられると貢
 士(こうし、藩から推挙された議政官)に挙げられたり
 した。
  これは、龍雄が、藩を越えてその才幹(さいかん、物
 事を成し遂げる知恵や能力)が広く知られていたことを
 示している。
  明治になって、興譲館(こうじょうかん、米沢藩の藩
 校)の助教になったりした。
  また、新政府は、集議院議員に任じた。
  しかし、新政府は、薩長出身の政府要人と、またその
 繋がりがある議員が多くある中で、
  龍雄は、龍雄の経験した幕末期でのことで「薩摩批判」
 をした。
  そして、その一たび議論に及べば、徹底的に議論を闘
 わせた振る舞いが災いして、周囲の忌避に遭った。
  そして、わずかひと月足らずで、議員を追われた。
  この様な龍雄の元に、没落したり、削封された主家か
 ら見離された敗残の人々が、龍雄の許に集まるようにな
 り、
  龍雄は、明治3年(1870年)2月、東京・芝の上行、円
 真両寺門前に「帰順部曲点検所」なる看板を掲げ、
  特に、「脱藩者や、旧幕臣に、帰順の道を与えよ」と
 4回にもわたり嘆願書を政府に提出した。
  これは、参議・佐々木高行や広沢真臣らの許可を得た
 ものであった・・が、
  しかし、龍雄の元に集まった人たちは、実は、新政府
 に不満を持つ旧幕府方諸藩の藩士が集まっていた。
  これが、政府転覆の陰謀とみなされた。
  翌年4月、謹慎を命ぜられる。
  米沢藩に幽閉ののち、東京に送られ、深く取り調べも
 行われず、罪名の根拠は政府部内の準則にすぎない「仮
 刑律」が適用され、
  同年12月26日(1871年2月15日)に判決が下り、龍雄は、
 判決2日後に、小伝馬町の獄にて斬首された。
1871年2月22日(明治4年1月4日)御親兵(ごしんぺい)
  明治の時代になる前から・・、
  明治の政府を動かす人たちは・・、
  欧米列強の各国が・・、
  中国やインドの方々をはじめ、アジアの各国の方々から・・、
  好き勝手に、そして、悪辣に、自国へ利益をもたらす
 行為・行動をする姿を憤りながらも見て来ていた。
  その様な卑劣な行為を、日本が受けないため、そして、
 日本の国民を守るためには、日本の国を富ませ、
  そして、その強い経済力・産業力で、強い兵力を持た
 なければならないと、つくづく思い、肝に銘じていた(
 富国強兵策)
  1870年2月13日(明治3年12月24日)、山縣有朋は、当
 時、鹿児島藩(薩摩藩)の政務にあたっていた西郷隆盛
 に対して、天皇陛下と中央政府を守るために、薩摩藩・
 長州藩・土佐藩の献兵からなる親兵を組織することを提
 案した。
  これは、当時、中央政府に属していなかった西郷を、
 薩摩藩の親兵入京を口実に、政府内に入れることで、政
 府の強化を図る側面もあった。
  木戸孝允は、この御親兵の力を背景に、廃藩置県や、
 それを支える官僚・租税制度の整備などの中央集権化政
 策を一気に実施しようとした。
  だが、大久保利通は、木戸や大隈重信が進める急進的
 な政策には批判的で、
  自己の出身基盤である薩摩藩の親兵入京と、西郷の入
 閣は、この流れを変える足がかりになると考えた。
  これを受けて、西郷は、この日・1871年2月22日(明治
 4年1月4日)に、鹿児島を出発し、東京に向かった。
  しかし、その際に出された「西郷吉之助意見書」には、
 冗官(じょうかん、むだな官職)の整理や、府藩県三治
 制の維持、鉄道建設などへの批判など、
  木戸・大隈路線への批判、大久保路線の支持とも受け
 取れる言辞もあった。
  だが、途中で、大久保・木戸と合流して、両者の意見
 を聞き、
  更に、東京では、大隈らが、西郷が中央集権化に反対
 して薩摩藩の独立や、クーデターを起こすのを危惧して
 いる(『世外侯事歴 維新財政談』)ことを知った西郷は、
 政争の深刻化を危惧し、
  政治的な問題については、新政府官僚への薩摩藩など
 の倒幕功労者の起用の提言に留め、
  自らは、専ら、新制軍隊の編成に力を注ぐこととして
 一旦鹿児島に戻って準備を開始した。
  2月13日、入京した西郷を中心として正式に「御親兵」
 として発足した。
  そして、政府は、諸藩兵を廃し、天皇陛下の統率する
 国軍の創設のため、(2/22)親兵を設置し、
  引き続き鎮台を設置、団隊を統括した。
  鎮台は、東京、大阪、鎮西(熊本)、東北(仙台)に
 置かれ、元藩兵を召集、常備兵とした。
  御親兵は、1872年に、近衛兵と改称され、
  明治24年(1891年)には、陸軍の近衛師団となった。
  また、別史料では・・
  幕府により行われた西洋式軍隊創設は、明治新政府に
 引き継がれ、
  新政府は、富国強兵を国策に掲げ、
  明治4年(1871年)2月には、長州藩出身の大村益次郎
 の指揮で、天皇陛下の親衛を名目に薩摩、長州、土佐藩
 の兵からなるフランス式兵制の御親兵10,000人を創設し、
 常備軍として、廃藩置県を行うための軍事的実力を確保
 した。
  明治4年(1871年)4月の設立当初は、鎮台制と呼ばれ
 る組織体系の下、士族反乱である佐賀の乱や西南戦争な
 ど内乱鎮圧を主たる任務とした。
  そして、徴兵制度の施行に伴い、国民軍としての体裁
 を整えていった。
  その後、陸軍は、鎮台を廃止し、師団制に移行した。
  設立の基礎が、明治維新時の薩長軍であったために、
 永らく藩閥支配が払拭できず、
  陸軍では長州藩、海軍では薩摩藩の出身者が要職を固
 めた。
  明治5年(1872年)に、陸軍省が兵部省から分離し、
  明治11年(1878年)には、参謀本部が独立する。
  新政府は、廃藩置県や廃刀令で、武士階級を事実上消
 滅させた後、明治6年(1873年)に徴兵令を施行する。
  陸軍卿には、奇兵隊出身の山縣有朋、海軍卿には勝海
 舟が就任した。
  山県は、普仏戦争(1870年)でプロイセンが勝利した
 事をうけ、フランス式の軍制からドイツ式への転換を行
 った。
  海軍は、当初からイギリス式の軍制に倣って編成され
 た。
1871年、海外(オーストラリア)へ向かった日本人
  オーストラリアの西海岸のブルームの地は、良質な真
 珠貝が採れる。
  その事が、この頃に分かる。
  日本人の真珠貝採取潜水夫が、1871年のこの頃に、こ
 こに来た。
  初めは、日本に灯台建設に招聘されていたイギリス人
 技師に付いて来た日本人漁民が、試みに潜水をしてみた。
  そうしたら、その働きぶりが素晴らしく、注目され、
 人手不足のオーストラリアの採取業者が、日本へ契約移
 民として誘致をしたく、そして、誘致した。
  やがて、伊藤内閣の外務大臣・陸奥宗光が、移民奨励
 策を打ち出し、横浜にオーストラリア採貝移民取扱いの
 出先会社まで設立された。
  ボタン材料や装飾品としての真珠貝の景気がピークを
 迎えるのは1925年で、
  ブルームの町の人口は5000人、その8割が日本人で、
 4000人に達した。
  町には、採貝業者のみならず、様々な職種の人々が流
 れ込み、
  また、日本からの日本人を迎える下宿屋ができ、
  食堂ができ、雑貨屋、うどん屋、風呂屋、
  そして、映画館、赤ちょうちん、
  はては、売春宿に至るまで軒を並べ、
  乗り合いの蒸気機関車が走り、オーストラリア南部の
 都市繁華街以上の人混みとなり、まさにリトル・ジャパ
 ンが出現した。
  この頃の採貝船の数は、400隻を越えた。
  輸出先は、イギリスだった。
  しかし、プラスチック装飾品の発達普及で、高価な真
 珠貝の需要は、次第に減り、
  そして、第二次世界大戦による日本人の収監(卑劣な
 事に、アメリカと同じように日本人の自由を拘束した)、
  そして、終戦後の日本への送還で、主役を失った真珠
 貝採取産業は、ほとんど消滅した。
  また、この非人道的なオーストラリア政府による日本
 人収監行為は、今だに、オーストラリア政府の謝罪はな
 い。
  今、ブルームの町には、古びた雑貨屋はあるが、廃屋
 のある町となって往時の反映の面影はない。
  しかし、この日本人と交流したアボリジニーの方々に、
 有形無形の日本の文化が残って居た。
  日本人から教えてもらったのであろう『日本食』、『
 冷えたなます』『みそ漬け』『うどん』。
  そして、歌、『炭坑節』。
  そして、『祭り』、お盆〈盆踊り〉が『真珠祭り・フ
 ェスティバル』となっている、
  オーストラリアのウェスタン・オーストラリア州の最
 大の祭りとして人気の祭りとなっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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by suba28 | 2016-02-18 02:56 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)297E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年11月~1870年12月)

題:(増補版)297E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年11月~1870年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1870年11月15日(明治3年10月22日)東京濱殿の海軍所を、
 築地に移した(明治2年10月説あり)
  海軍所のあった東京濱殿は、浴恩園(よくおんえん)
 のことで、
  浴恩園をまた調べると、現在の東京築地の東京卸売市
 場の場所で、松平定信の下屋敷だったと分かった。
  白川の城主でもあった定信は、隠居後、ここに住所を
 移し、文人として随筆・詩歌・絵画などの創作活動の日
 々だったという。
  無類の庭好きで、この約2万坪の風光明媚な地を散歩
 し、自ら庭の手入れも行ったという。
  定信は、この浴恩園を、1792年に造園したという。
  そして、明治となり、この地の一帯は海軍の中心地と
 なった。
  故に、海軍発祥の地が、築地5丁目となっている。
  そして、海軍所は、1866年(慶応2年)に、幕府軍艦操
 練所であったここを、海軍所と改めた。
  1869年11月(明治2年10月)、兵部省は、この一帯を
 海軍用地に買収し、艦船建造とともに、士官養成の地と
 した。
1870年11月17日(10月24日)最初の鉄道トンネル工事。
  日本で最初の「鉄道トンネル」としての碑がある。
  名称は、旧石屋川隧道。
  場所は、大阪~神戸間。
  その碑には、着工が明治3年10月22日と書かれている。
  完成は、明治4年7月(1871年9月)とある。
  碑文には・・、
  旧石屋川隧道は,、日本で最初の鉄道トンネルとして
  建設されました。
  その当時から石屋川が、天井川を形成 いていたため、
 困難な川底トンネルを掘らなければ なりませんでしたが,、
 イギリス人技術者の設計・監督により、明治4年7月に完成
 しました。
 この隧道は、石屋川の下を横断し、延長が200フィート
 (64m)ありました。
 工事方法は、川の流れを木製の仮水路に変え、川底を掘
 り下げ、レンガを積み重ねてトンネルを作りながら 川を
 元に戻す方法が採られました・・とある。
  因みに、隧道幅は、14フィート(4.1メートル)
1870年11月20日(10月27日)初めて医学校(後の東京大学
 医学部)にて人体を解剖し実習を行う。
1870年12月10日(明治3年閏10月18日)岩崎弥太郎が、九十
 九商会を設立し、そして、土佐開成商社を創始した (日
 本郵船、三菱商事の前身)。
  九十九商会(つくもしょうかい)は、三菱(みつびし)
 創業期の名称で、
  1870年12月(明治3年閏10月)、上京した岩崎弥太郎(
 やたろう)は、土佐藩の財政難を救うため、私商社・土佐
 開成商社を創始した。
  この商社は、名前のみで、同年の1870年12月10日(閏
 10月18日)改めて九十九商会として、通商司から廻漕(か
 いそう)業の仮免許を受け、
  藩船の夕顔、鶴、紅葉賀の三隻を用い、
  東京―大阪、神戸―高知間の海運を開始した。
  翌年の1871年7月、廃藩置県で高知県が誕生すると、弥
 太郎は、旧藩船の夕顔、鶴二隻を4万両で払下げを受け、
 私企業とした。
  経営の第一線にいた川田小一郎(かわたこいちろう)、
 石川七財(しちざい)、中川亀之助(かめのすけ)に共通し
 た「川」にちなんで、1872年1月、三川(みつかわ)商会に、
 翌年・1873年3月に、三菱商会と改称した。
1870年12月12日(閏10月20日)工部省(こうぶしょう)が、
 設立された(民部省より分離)
  明治維新政府が、工学の知識をひろめ、各種の工業を
 勧奨し、発展させることを目的に、1870年12月(明治3年)
 設置した官庁。
  富国殖産のために設置された省で、文明開化省とでも
 いうべき性格をもっていた。
  また、伊藤博文が、最も熱心で、みずから工部大輔、
 工部卿に就任した。
  1871年8月の官制で、省中に工学、勧工、鉱山、鉄道、
 土木、灯台、造船、電信、製鉄、製作の10寮と測量司が
 おかれた。
  その後、ひんぱんに寮の改廃や統合が行なわれたが、
  1877年1月に、それらが全廃され、新たに、書記、会計、
 倉庫、検査、鉱山、鉄道、灯台、電信、工作、営繕の10
 局が設置された。
1870年12月25日(11月4日)東京海軍所を海軍兵学寮、大坂
 兵学寮を陸軍兵学寮と改称した。
1870年12月25日、勝海舟、東京滞在を免ぜられる旨御達し
 あり。(氷川清話)
1870年12月28日、仮名垣魯文の著「萬國航海 西洋道中膝
 栗毛・初編」刊行開始。
  十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にならって、弥次郎
 兵衛、北八の3代目の孫ふたりを、イギリスのロンドン
 万国博覧会見物に出立させ、その道中の滑稽を記した。
  この頃、評判だった福澤諭吉の『西洋旅案内』にあて
 こんでいる。
  魯文は洋行体験がないが、英文の読書は出来たので、
 知識はそこから得ている。
1870年、農民一揆頻発(高松、浜田、仙台、松代、宇和島、
 新潟、柏崎、名護屋、若松、伊那など各藩)(氷川清話)
  物価高騰から年貢減免を求めた。
1870年、半蔵門など5門の渡り櫓を撤去した。
  以降、明治6年ころまでに、城郭外周の諸門が撤去さ
 れた。
1870年、本陣、脇本陣を廃止した。
  参勤交代が行われなくなり本陣は有名無実となり、明
 治政府の通達によって廃止された。
1870年、この年、コウモリ傘が流行し、また、手編みのメ
 リヤス下着も流行った。
  因みに、1868年の『新聞街談』には、洋傘(コウモリ
 傘)をさしていた武士が、「異国傘をさした異人がとお
 る」とはやされて喧嘩になり、結果、首をはねられてさ
 らし首になった事件が掲載されている。
  また、福沢諭吉も『福翁自伝』に、「蝙蝠傘などさし
 て江戸の街を歩いたら、いくつ命があっても攘夷論者に
 狙われる」と、仲間内で話したエピソードを載せている。
 (「洋傘タイムズ」)
1870年、この年に、背広着用・靴の製造・こうもり傘の使
 用をし始める。 英、ジェントルマンスタイル。
1870年7月18日、不可謬説の宣言
  パストル・エテルヌス(教皇勅書):
  教皇が、全司教の第1位にあること、至上の権威を持つ
 とされ、最高権をもつという教皇の首位権・・、
  この時に、ローマ法王(教皇)ピウス9世が、ローマ法
 王(教皇)不可謬説を宣言した(あるのなら、別にこん
 な時に、宣言なんかしなくてもいいのだが・・?)。
  これは、ローマ法王の言う事や決定は、誤りは決して
 ありませんという説(ガリレオの天動説など、あちこち
 で、誤りでしたと謝罪しているけれども・・?)。
  キリスト教は、この様な説によって、間違いを正しい
 として、有色人種の殺戮の歴史、戦争の歴史を作って来
 た。
  キリスト教のこの様な思考形態がいけないのだ、そし
 て、その思考形態をキリスト教徒たちへ与え、悪い連鎖
 が続く人類の歴史を作って来た。
  これは、他からの批判は、まったく受け付けないとい
 う、自己洗浄力のまったく欠落した説であり、
  ただただ、信じるだけ、そして、信じろという盲信の
 民を強要(きょうよう、無理に要求すること)した。
  私の言う事は正しいのだ・・だけの説、また、幅も、
 深みもまったくない説・・結局、酷(ひど)いことを起
 こす結果となっている。
1870年7月19日、普仏戦争:フランスがプロイセン王国に宣
 戦布告(プロイセン・フランス戦争)
1870年9月1日、普仏戦争: セダンの戦い
1870年9月4日、ナポレオン3世を廃位して、フランス第三
 共和政が成立した。
1870年9月19日、普仏戦争: パリの包囲が始まる(~1871年)
1870年9月20日、イタリア王国軍が、ローマに進軍し、教皇
 国家滅亡、教皇領が完全に消滅した。(イタリアの領土
 が現在とほぼ同様に)
1870年、イタリアの統一が完成した。
1870年10月6日、ローマがイタリア王国の首都となった。
1870年10月20日、第1バチカン公会議が無期限延期となる。
1870年11月16日、アマデオ1世がスペイン王となる。
1870年11月29日、英国で義務教育導入。
1870年12月26日、フレジュス鉄道トンネル開通(最初のア
 ルプス貫通トンネル)
1870年12月28日、元スペイン首相フアン・プリム暗殺(12
 月30日死亡)
1870年、レーニンが生まれた(1870年~1924年)
  イギリスのディズレーリの政策にはじまり、フランス・
 ドイツが追随して、第一次大戦が起こった。
  レーニンは、帝国主義を「資本主義の最高段階」とし
 た。
1870年代、アメリカ合衆国、先住民の方々の殺戮が盛ん。
  この年代の北米大陸は、先住民の方々が殺戮される年
 代となっている。
  進んだ兵器を持った、銃による殺戮を行なうアメリカ
 軍、
  殺戮されるアメリカの大平原の諸部族・アメリカ・イ
 ンディアンの方々・・、
  インディアンの方々は忍従を重ねてきた・・、
  しかし、体制が整った、最新鋭武器を持ったアメリカ
 軍は、インディアン方々を、特に、この年代から、殺戮
 行為を激しくして行った。
  本当に恩になっていた、恩あるアメリカ・インディア
 ンの方々を・・、
  ヴァージニアでは、1607年に、約260年前に、アメリカ
 に渡って来たイギリスス人とアメリカ・インディアンの
 方々とが、初めて、ジェームスタウンで出会い、
  アメリカの新天地で、極寒の越冬を越えられず、餓死
 する人々が次々と出る中を、
  自民族の若い女性を食べるほどひどい中を・・、
  生きる術(すべ)を教えてもらった恩も、何も感じな
 い様に、アメリカ・インディアンの方々を、アメリカは、
 自分たちの土地が欲しいと、領土が欲しいと、欲しいと
 いう欲と、「(キリスト教の)神の義があれば、人を誅
 しても良い」という自分たちの行為は正義だとの教えに
 洗脳され・・
  その洗脳と、マインド・コントロールされたアメリカ
 人は、恩あるインディアンの方々を、自分たちだけに都
 合のよい教義・考え方で、自分たちさえが、自分たちだ
 けが良ければ良いと、殺戮し始めた・・最新式兵器でも
 って・・、。
  1870年代は、殺戮の年代となっていた。
  進んだ兵器を持った、銃による殺戮を行なうアメリカ
 軍、殺戮されるアメリカの大平原の諸部族・アメリカ・
 インディアンの方々・・、
  そしてまた、さらに卑劣な事をした・・
  この頃から、アメリカは卑劣な事に、アメリカ・イン
 ディアンの方々の食糧であるバッファローを殺した。
  バッファローは、絶滅するところまで激減した。
  アメリカ人は、何ら自分たちでバッファローを食べた
 りするわけではなく、
  殺したバッファローは、ただ、平原に野積みにした。
  高い高いバッファローの山が築かれた。
  バッファローの群れが平原から消滅する事は、インデ
 ィアンの方々の消滅が、全滅が・・あった。
  インディアンの方々を絶滅する目的だった。
  この様な事から、アメリカ・インディアンの方々は、
 白人・アメリカ人を憎むようになって行った、当然であ
 る。
..
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by suba28 | 2016-02-16 17:04 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)296E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年8月~1870年11月)

題:(増補版)296E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年8月~1870年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1870年8月(7月)大阪に、聴訴掛・断獄掛(のちの大阪府
 警察)を設置した。
  この当時、民事裁判を聴訟と言い、刑事裁判を断獄と
 言った。
  また、刑事裁判に関して、フランス法に範をとった治
 罪法が、1870年に公布された(1872施行)。
  治罪法は、刑事訴訟および裁判所の構成などについて
 定めた法律と説明されている。
1870年8月25日、日本政府が、デンマークの大北(グレート・
 ノーザン)電信会社の要求を受け入れた。
  「長崎~ウラジオ間、および、長崎~上海間に、海底
 線を敷設して、長崎に陸揚げさせ」、
  また、「長崎~横浜間に、九州、四国の南端を経由す
 る海底線を敷設させる」
  外務卿・沢宣嘉らは、国内通信まで外国資本に握られ
 かねないと条件をつけた。
  「ただし長崎~横浜間は、日本政府の電信線(陸線)
 が完成した場合は、海底線敷設を見合わせること」
  1870年10月に、デンマークの軍艦・キヨルト号が、長
 崎に入港した。
 大北電信会社のシュエンシン総代をはじめ技師たちが、
 乗船していた。
 大北電信会社は、前年に、ロシア領から大阪、横浜、長
 崎、上海、福州、香港への海底電線敷設権を獲得してい
 た。
  1871年4月14日に、大北電信会社長崎支局を、下り松に
 あるベルビューホテルの一室に開設した。
1870年8月、長崎伝信局が開設された。
  長崎~横浜の電信線(陸線)の架設工事に着手した。
  伝信局は、のちの電信局。
  電信線のない当時、電報は、早飛脚で、長崎~横浜を
 7~9日間を要した。
  1871年7月29日、長崎伝信局が、長崎~東京(1368キロ
 メートル)に電信線架設した。
  沿道の各県に4キロメートルあたり、70本の電信柱の
 設置を割りあてた。
  1873年2月17日に、長崎~東京の架設電信回線が完成し
 た。
  あわせて、九州初の長崎電信局が開設した。
1870年9月8日(8月13日)相模(現:神奈川県)城ヶ島の燈
 台が、竣工し点火された。
1870年9月9日(8月14日)工部大学の前身たる工学寮(こう
 がくりょう)、及び、測量司を設置した(1871年説あり)。
  明治新政府は、産業育成に力を入れて、工部省を置い
 た。
  日本の近代工学の理念の移植と定着を図った。
  これから建国していく日本が欲している高級技術者の
 養成機関でもあった。
  工学寮は、工部省に設けられた工業教育機関で、1873
 年、イギリス人教師9名の来日を待って開校した。
  大学と小学に分かれ、大学は土木・機械・電信・造家・
 採鉱・実用化学の6科があった。
  修業年限は、予備・専門・実地教育の各2年の6ヵ年。
  全寮制で、卒業後7年間の工部省奉職を義務とした。
  また、国を創るのに正確な地図が必須だった。
  この広範囲の地図測量を担当したのも、1870年に、民
 部省から独立した工部省が担当した。
  1871年になって、工部省に測量司が設けられた。
  そしてまず、東京府をはじめ、都市の測量から、お雇
 いイギリス人の6名の指導で実施した。
  俸給(月)は、師長400円、助師350円を金貨にて支払
 い、支払日には銀行が出張して来て支払った(そのくら
 い高給だった)。
  そして、生徒も募集され、学校は赤阪溜池に、5棟、
 新築された。
  お雇い外国人の下で仕事をスムースに進めるため、通
 訳と監督役の督役掛を付け、外人の命を伝達して人夫を
 使役し、昼食の世話もさせた。
  2年後には、さらに6名の指導外人を追加した。
  作業は、すべてが順調であったという訳ではなく、意
 見がぶつかった。
  京都の場合、お雇い外人の技量が不足していて、作業
 が遅々として進まなかったことに由った。
  数年後には、優秀な日本人教授が育ち、指導する様に
 なった。
  測量は、伊能忠敬の素晴らしい先人が居た日本で、こ
 の忠敬の曽孫の伊能源六とも関係を持った。
1870年9月9日(8月14日)天文暦道局を星学局と改称した。
  江戸時代に天文方(てんもんかた)という天体運行や
 暦の研究機関があったが、
  この年・1870年に、天文暦道の権限は、文部省の天文
 暦道局に移された。
  さらに、この年の1870年、天文暦道局は東京に移され、
 星学局と改称された。
  星学局には、旧天文方の渋川敬典(しぶかわよしのり、
 江戸幕府の最後の天文方)も任用された。
  敬典は、東京天文台職員にもなった(1838年~1904年)
1870年9月15日(8月20日)大坂~神戸間に電信が開通した。
1870年9月16日、グラバーが、日本の政情不安定で、武器弾
 薬の需要を見込み、大量買付け・・、しかし、
  1870年9月16日に、イギリスの本国政府が、グラバー商
 会に対し、破産を宣告をした。
  日本の騒乱を大きくなると想定したが、予想外の早期
 安定で、武器弾薬が売却できず、負債が数10万弗となっ
 た。
  日本の国情安定が、グラバーを破滅させたことになっ
 た。
  1871年8月に、グラバーは、商会を廃社にした。
  倒産後は、三菱が顧問として、面倒を見た。
  新しい事務所を、神戸につくった。
1870年9月17日(8月22日)東京府下に中学校を開設す。
  華族以下、一般の入学を許す。
  洋書教科書を使用。
1870年10月2日(9月8日)「君が代」が初めて演奏された。
  この日、明治天皇陛下が、東京の越中島で、薩摩・長
 州・土佐・肥前という明治政府を支える4藩の兵を閲兵さ
 れた。
  この日は、あいにく雨で、天皇陛下のお立ち台の近く
 までが水浸しという状態で、式は途中から中止となった
 が、
  この日、天皇陛下をお迎えするのに「君が代」が演奏
 された。
1870年10月13日(9月19日)苗字許可令(庶民苗字差許)
  平民の氏姓を許す(氷川清話)
  平民に苗字使用を許可(四民平等)
  平民苗字許可令が布告。
  一般の「平民」も苗字を持つことが認められる。
  国民(平民)は、政府を信用せず、付けることで余計
 課税されるのではないかと警戒し、あえて苗字を名乗ろ
 うとはせず・・
  そこで、5年後に・・、
  1875年2月13日、太政官布告、「平民苗字必称義務令」
 が布告される。
  国民は、みな公的に苗字を持つことが義務づけられた。
1870年10月19日(9月25日)囚人に、刺青することを廃止
1870年10月19日(9月25日)生糸、輸出品として技術改良
  ヨーロッパ式機械製糸法がはじまる。
  日本は、開国直後、生糸・蚕種・茶などの輸出が、急
 速に伸びた。
  この生糸の輸出拡大の背景に、ヨーロッパにおける生
 糸の生産地であるフランス・イタリアで、微粒子病とい
 う蚕の病気が大流行した。
  しかし、急激な需要の増大は、粗製濫造を招いた。
  そして、日本の生糸の国際的評価は低落した。
  日本製の生糸の価格も下落した。
  この様な頃、外国商人から器械製糸場建設の要望が、
 日本政府に出されていて、資金提供まで申し出されてい
 た。
  この様な背景から、国策として器械製糸工場を建設す
 べきという意見が持ち上がった(インドなどで、欧米な
 どの外国資本が横暴だったことを学んでいる)。
  そして、この年、1870年2月に、外国資本を入れずに、
 器械製糸の官営模範工場建設が決定した。
  富岡製糸場(とみおかせいしじょう)が、群馬県富岡
 に日本初の本格的機械製糸の工場として、1871年3月に、
 着工し、1872年7月に、竣工し、開業した。
1870年10月26日(10月2日)兵制統一布告
  陸海軍の制式が決まる
  陸軍はフランス式、海軍をイギリス式と決定。
  兵制統一、海軍は英式、陸軍は仏式(氷川清話)
  1870年11月5日(10月12日)説もある。
1870年10月27日(10月3日)皇族旗、将旗などの旗章が制定
 される。
1870年10月(9月)官吏の出勤時刻を午前9時と決める
1870年11月11日(10月18日)外国人に東京府下の遊覧を許
 した。
1870年、この年に、牛乳屋が開業した。
  長崎大学医学部の創設者の松本良順(1832年~1907年)
 は、種々の業績を遺しているが、
  番外編となるが、牛乳の滋養効能の良いことから、牛
 乳を飲むことを広く薦めた。
  その啓蒙の仕方も半端ではなかった。
  当時の人気のあった名優の紀伊国屋澤村田之助や、芸
 妓を呼び集めたりして、牛乳を飲ませて話題となった。
  そして、この年の1870年に、良順は、義理の叔父で、
 旧旗本の阪川當晴と、赤坂に「阪川牛乳店」を開いた。
  時代が変わって、元武士が、職が無くて溢れていたこ
 の時、その救済策として、良順は、牛乳屋になることの
 手本を見せた。
  因みに、良順は、海水浴も奨励した。
  大磯の照ヶ崎には、良順によって開かれた日本最初の
 海水浴場がある。記念碑が設置されている。
.
  そして、今日の言葉・・、
  「ピサの斜塔」は、地盤の弱い所に立っているので、
 少しづつ傾きが大きくなっていて、
  対策を講じているが、傾き増大が止まらないので、日
 本の技術に頼ろうと、日本に依頼して来た。
  まだまだ、使って行きたいという意思の表れで、
  日本の技術はその依頼に応えた。
  このピサの斜塔の完成は、1372年。
  644年も使っている。
  ピタゴラスが振り子の実験をしたのが有名。
  こんな昔から使っている。
  「もの」は、大切に使えば、使えるのです。
  それを、NHKは、間違った放送をし続けている。
  耐用年数の洗脳です、マインド・コントロールです。
  NHKの根幹に、渋谷の放送センターを建て替えたい
 があるだけです。
  自分に利があるからと、たった、この事だけで、「大
 嘘を放送し続けているのです」。
  放送センターの耐震が心配なら、耐震診断を受けて、
 耐震補強をしなさい。
  そして、放送センターは大切に使いなさい。
  そして、放送センターを建て替えるからと貯め込んだ
 国民・視聴者の受信料は「返還しなさい」。
  そしてまた、NHKは、自分に都合の良いニュースは
 放送しないこと。
  「○○ビルは、耐用年数が来たから、建て替える様に
 なりました」などと・・、
  都合の良いニュースだけを放送しないこと。
  例えば、渋谷の・・NHKの御近所の話を仕入れて来
 たのか?
  「渋谷の『子供の城』が耐用年数が来たので建て替え
 に決まりました」などと・・、
  自分に都合の良い話を、自前の放送媒体で、全国へ放
 送するのは止めなさい。
  都合の良い、こんな類いの放送ばかりしている。
 マインド・コントロールのニュースばかりしている。
  因みに、法隆寺は1000年以上です。
  しっかりメンテナンスをして、大切に社会資本は使い
 ましょうという放送をしなさい。
  そして、税金を大切に使いましょうと放送しなさい。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-02-13 02:14 | 皆様とともに 幸せになりたい


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