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(増補版)286E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年10月~1868年11月)

題:(増補版)286E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年10月~1868年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年10月12日(8月27日)明治天皇陛下、御即位(氷川
 清話)
  明治天皇陛下(17歳)が、紫辰殿において即位の大礼
 を行われた。
  これは、政情の激しい移り変わりによって遅れていた
 即位の礼だった。
1868年10月14日(8月29日)大阪造幣局に貨幣鋳造機舶来。
  明治新政府は、1868年5月16日(慶応4年4月24日)に、
 旧金座および銀座を接収し、
  6月11日(閏4月21日)に、貨幣司を設けて、二分判お
 よび一分銀などの鋳造を引き継いだ。
  そして、1869年3月17日(明治2年2月5日)に、貨幣司
 が廃止されて、太政官に造幣局が設置され、
  8月15日(明治2年7月8日)に、造幣局は造幣寮へ改称
 されて大蔵省所属となった。
  また、1868年(慶応4年)に、参与会計事務官・三岡八
 郎、外国事務局判事・五代才助らが、同年に廃止された
 イギリス帝国・香港造幣局の造幣機械を6万両で購入する
 契約を結び、
  11月1日(明治元年9月17日)に、英国建築技師・トー
 マス・ウォートルスが、雇用され局舎設計、および、機
 器購入などを担当している。
  1870年3月3日(明治3年2月2日)に、旧香港造幣局長・
 キンドルが、造幣寮首長に任命されている。
  大阪本局は、1871年1月17日(明治3年11月27日)に、
 銀貨製造を開始し、
  4月4日(明治4年2月15日)に、大蔵省造幣寮として創
 業式を挙行した。
  また、6月27日(明治4年5月10日)に、新貨条例および
 造幣規則布告がされて近代的貨幣制度が開始された。
1868年、財政困窮の新政府・・、
  勝海舟が語る・・、
  ちょうど維新の始めであったが、万事改革の際とて、
 財政のごときも非常に困難を極めた。
  中にも一番その処置に憂慮したのは、かの旧諸大名が
 藩政の弥縫策(びぼうさく)として贋銀(にせがね)を
 発行したのが、海外にも流れ出ておったものだから、こ
 の際、横浜居留の外国人は、おのおの公使によって、公
 然と引き換えを我が当局者に迫ったことだ。
  さすが英断明識の大久保利通内務卿も、その引き換え
 金額の多寡が分からないのみならず、当時、国庫の準備
 金も僅少であったから、これには少々当惑して、ついに一
 伊地知幸介を立会人として、俺の所へ相談に来た。
  その時、俺は、一棒に擬して「みな引き替えろ」と一
 喝した。
  ところがさすがは大久保だ。
  大いに悟る所があったと見えて。
  断然、引き換えを決行の旨を各国公使に通知したが、
 その額は案外に少なく、わずかに数十万円に過ぎなかっ
 たそうだ。
  ひっきょう、俺は、いかに諸大名が贋銀をしても、た
 いてい高が知れていると考えたから、「みな引き替えろ」
 と言ったのさ。
  なあに、塾考の上で決行すれば、やれない事は天下に
 ないのさ(氷川清話)
1868年10月(9月)勝海舟、家族駿府に移住(氷川清話)
1868年10月21日(9月6日)官軍が、南部兵を破り、大館城
 を復す。
1868年10月23日(明治元年9月8日)明治と改元し、一世一
 元の制を定めた。
  同年1月1日に遡って、新元号・明治を適用。
  明治と改元。自今一世一元の詔出る(氷川清話)
  慶応4年から明治元年になる(氷川清話)
  日本は、明治という時代になって、これから2000年に
 向かって人口を増やして行く国になる。
  そして、2000年を過ぎた頃、ピークを迎えた。
  日本は、この明治以来、人口を何と3倍に増やして来
 ていた。
1868年10月23日(9月8日)大鳥圭介が、会津より函館へ去
 った。
1868年10月24日(9月9日)兵火のため、会津城下が、焦土
 と化した。
1868年10月25日(9月10日)岩代の二本松藩主丹羽長国、羽
 前の天童藩主・織田信敏、共に官軍に降る
1868年10月27日(9月12日)官軍、庄内を破り水澤を略す。
1868年10月27日(9月12日)驛逓司、郵便規則布告。
1868年10月28日(9月13日)大久保利通、京都において岩倉
 具視、木戸孝允と会し、車駕発輦を議す。
1868年10月31日(9月16日)榎本武揚らが、開陽丸など旧
 幕府の艦隊主力を率いて品川沖を脱走した(10月4日説
 あり)。
  ジュール・ブリュネらのフランス軍事顧問団の一部も、
 これに同行した。
  約、半年前の1868年5月3日(4月11日)、新政府軍は、
 江戸開城に伴い、降伏条件の一つである旧幕府艦隊の引
 渡を要求した。
  しかし、榎本は拒否した。
  そして、榎本は、人見勝太郎や伊庭八郎が率いる遊撃
 隊を乗せ、悪天候を口実にして、艦隊8隻で、品川沖から
 安房国館山に脱走をした。
  これは、勝海舟の説得によって、旧暦4月17日に、品
 川沖へ戻り、4隻(富士山丸・朝陽丸・翔鶴丸・観光丸)
 を新政府軍に引渡した。
  しかし、開陽丸等の主力艦の温存に成功した。
  榎本は、なおも抵抗姿勢を示して、6月13日(閏4月23
 日)には、勝に艦隊の箱館行きを相談するが、反対され
 る。
  1868年7月13日(5月24日)に、徳川宗家の駿河・遠江
 70万石への減封が決定。
  榎本は、移封完了を見届けるとしつつも、配下の軍艦
 で、遊撃隊や請西藩主・林忠崇に協力して、館山藩の陣
 屋を砲撃した上、小田原方面へ向かう彼らを館山から真
 鶴へ輸送したほか、
  輪王寺宮や脱走兵を東北地方へ運ぶなど、旧幕府側勢
 力を支援した。
  8月(旧暦7月)には、奥羽越列藩同盟の密使(仙台藩・
 横尾東作、会津藩・雑賀孫六郎、米沢藩・佐藤市之允)
 と会い、
  1868年9月7日(7月21日)、列藩同盟の参謀を務めてい
 た板倉勝静・小笠原長行宛に支援に向かう旨の書状を出
 した。
  9月(旧暦8月)に入ると、密かに脱走準備を進め、
  1868年9月19日(8月4日)、勝に軽挙妄動を慎むよう申
 しわたされるが、
  1868年9月30日(8月15日)に、徳川家達が駿府に移り
 移封が完了すると、
  1868年10月4日(8月19日)、榎本は、抗戦派の旧幕臣
 とともに開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形、神速丸、
 美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦からなる旧幕府艦隊を率
 いて江戸を脱出し、
  奥羽越列藩同盟の支援に向かった。
  この艦隊には、元若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松
 平太郎、彰義隊や遊撃隊の生き残り、
  そして、フランス軍事顧問団の一員だったジュール・
 ブリュネとアンドレ・カズヌーヴなど、総勢2,000余名が
 乗船していた。
  江戸脱出に際し、榎本は「檄文」と「徳川家臣大挙告
 文」という趣意書を勝海舟に託している。
  『檄文
  王政日新は皇国の幸福、我輩も亦希望する所なり。
 然るに当今の政体、其名は公明正大なりと雖も、其実は
 然らず。
  王兵の東下するや、我が老寡君を誣ふるに朝敵の汚名
 を以てす。
  其処置既に甚しきに、遂に其城地を没収し、其倉庫を
 領収し、祖先の墳墓を棄てゝ祭らしめず、旧臣の采邑は
 頓に官有と為し、
  遂に我藩士をして居宅をさへ保つ事能わざらしむ。
  又甚しからずや。
  これ一に強藩の私意に出て、真正の王政に非ず。
  我輩泣いて之を帝閽に訴へんとすれば、言語梗塞して
 情実通ぜず。
  故に此地を去り長く皇国の為に一和の基業を開かんと
 す。
  それ闔国士民の綱常を維持し、数百年怠惰の弊風を一
 洗し、其意気を鼓舞し、皇国をして四海万国と比肩抗行
 せしめん事、唯此一挙に在り。
  之れ我輩敢て自ら任ずる所なり。
  廟堂在位の君子も、水辺林下の隠士も、荀も世道人心
 に志ある者は、此言を聞け。』
  房総沖で暴風雨に襲われ艦隊は離散し、
  咸臨丸・美賀保丸の2隻を失うが、
  8月下旬頃から順次仙台に到着した。
  1868年10月17日(9月2日)、榎本、ブリュネ、カズヌ
 ーブは仙台城で伊達慶邦に謁見する。
  翌日以降、仙台藩の軍議に参加するが、
  その頃には、奥羽越列藩同盟は崩壊しており、
  1868年10月27日(9月12日)に仙台藩も降伏を決定した。
  これを知った榎本と土方歳三は登城し、執政・大條孫
 三郎と遠藤文七郎に面会し、
  翻意させようとするが果たせず、出港準備を始めた。
  旧幕府艦隊は、幕府が仙台藩に貸与していた太江丸、
 鳳凰丸を艦隊に加え、
  桑名藩主・松平定敬、大鳥圭介、土方歳三らと旧幕臣
 の伝習隊、衝鋒隊、仙台藩を脱藩した額兵隊など、計約
 3,000名を収容。
  新政府軍の仙台入城を受けて、1868年11月22日(10月
 9日)に、仙台を出航し石巻へ移動した。
  この時、新政府軍・平潟口総督四条隆謌宛てに旧幕臣
 の救済と、ロシアの侵略に備えるため蝦夷地を開拓する
 という内容の嘆願書を提出している。
  1868年11月24日(10月11日)には、横浜在住のアメリ
 カ人でハワイ王国総領事であったユージン・ヴァン・リ
 ードから、ハワイへの亡命を勧められるが断っている。
  その後、幕府が、仙台藩に貸与したが無頼の徒に奪わ
 れ海賊行為を行っていた千秋丸を気仙沼で拿捕し、宮古
 湾で補給の後、蝦夷地へ向かった。
1868年11月1日(9月17日)江戸を東京とした。
1868年11月4日 (9月20日)明治天皇が、東京行幸のため京
 都を出発された。
  明治天皇、京都発輦、東幸し給う。
  岩倉、議定・中山忠能、外国官知事・伊達宗城らをと
 もない、警護の長州藩、土佐藩、備前藩、大洲藩の4藩の
 兵隊を含め、その総数は3,300人にも及んだ。
1868年11月6日(9月22日)会津若松城落城、官軍に降伏(
 戊辰戦争が終わる)
  会津藩は、若松城に篭城して抵抗し、佐川官兵衛、山
 口二郎(斎藤一)らも城外での遊撃戦を続けたが、9月に
 入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の
 降伏が相次いだ。
  孤立した会津藩は、明治元年9月22日(11月6日)に、
 新政府軍に降伏した。
  同盟諸藩で最後まで抵抗した庄内藩が、降伏したのは
 その2日後であった。
  旧幕府軍の残存兵力は、会津を離れ、仙台で榎本武揚
 と合流し、蝦夷地(北海道)へ向かった(箱館戦争とな
 って行く)。
1868年11月6日(9月22日) 会津藩が降伏して・・、
  非常に大変な戦いを、会津の方々はとことんまで戦っ
 た。激烈な戦いだった。
  人々の、民衆の、一人に至るまで・・、
  そこには、正義があった。
  薩摩藩の軍監・桐野利秋や長州藩の参謀・前原一誠の
 計らいで、松平容保公は、死一等を減じられて謹慎とな
 った。
  そして、養子の喜徳とともに、江戸(東京)に護送さ
 れることになった。
  本来であれば、家老上席にあった西郷頼母、田中玄清、
 神保内蔵助が切腹するところであったが、西郷は行方知
 れず、神保と田中は城下での戦闘において自刃していた
 ため、
  次席の萱野長修が、戦争の責任を一身に負って切腹し
 た。
  江戸に送られることになった松平容保公を、家臣たち
 は断腸の思いで見送った。
  2007年(平成19年)山口県の選挙区選出の安倍晋三内
 閣総理大臣は、会津若松市を訪問されたときに、山口県
 (長州)選出議員として発言された、「先輩がご迷惑を
 かけたことをお詫びしなければならない」と、謝罪され
 た。
  会津藩主・松平容保公は、1862年に京都守護職として
 京へ赴くとき、この様な事も、多くの考え、深い考えの
 中に予想されていた。
  幕府からの命令の遂行との間に立たれて居られた。
  藩の民を巻き込むだろう経過も考えられていた。
  江戸から明治へという新しい時代への転換へ、移行す
 る、そこに生じるエネルギーを、会津藩主と藩の方々、
 この地の方々は、一身に受けて立っていた。
  大変な、大きなエネルギーが、次なる時代の幕を開く
 ために、この地で行われた。
  本来なら、このエネルギーの放散は、江戸で行われる
 べきものだった。
  それを、南部の地で行われ、南部の方々が受けて戴い
 た。
  本来なら、南部で行われるべきものではなかった。
  会津藩やこの地の方々は、それを受けて立って戴いた。
  お蔭様で、江戸の町は、いつもの平穏の時が、過ごさ
 せて戴けた。
  江戸の市民は、また、その後継の人達は、会津の方々
 へ深く感謝しなければならない。
  会津の方々は正義を通し、その正義と、また、正義が
 ぶつかった戦いだった。
  日本の次の幕が、お陰様で開いて行った。
  開いて行くことが出来た。
1868年11月7日(9月23日) 庄内藩降伏、奥羽越列藩同盟
 瓦解して、本州での戦いが終った。
1868年11月8日(9月24日)磐城の各藩主、官軍に降る
1868年11月11日(9月27日)明治天皇陛下、農民の収穫を
 天覧される。
1868年11月12日(9月28日 )スペインと通商条約調印
1868年11月16日、会津世直し一揆(~1869年1月13日)
  1868年11月6日に、会津藩が明治政府に降伏すると、
  藩政崩壊による、権力の空白状態となり、民衆蜂起が
 起きた・・と、説明されているが・・?
  http://www.kkjin.co.jp/boso010_130119.htm を、
 お読み戴きたい。
  ここには、会津の方々の想いが綴られている。
  会津の方々は、総べての方々は、非常に誠実であった。
  その誠実の中に、歴史の流れがあった。
  会津藩主の松平容保公も、深い、色々な考え・想いの
 中で、その行動を選択された。
  その深い奥は、凡人には思いが及ばない。
  会津藩主を始め、会津藩の臣下の方々、そして、会津
 の方々・皆さまが、誠実に、歴史の中で行動された。
  この行動は、光り輝き、素晴らしく、歴史に刻まれて
 いる。
  私の親戚の小学3年生の子は、容保公が好きになった。
 会津に住みたい、住むんだと言っていた。
1868年11月(10月)勝海舟、駿府に下る(氷川清話)
  新政府からの要職をすべて断り、勝海舟は、徳川慶喜
 のいる駿府へ下った。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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by suba28 | 2016-01-30 04:49 | 皆様とともに 幸せになりたい

臨時ブログ:あの手この手で、盛んに行なわれているキリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)

臨時ブログ:あの手この手で、盛んに行なわれているキリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  (読売新聞、2016・1・24)で、キリスト教系の大学の
 月本昭男氏が、若松英輔著の「イエス伝」の書評を書い
 ていた。
  今、まったくキリスト教の論理が崩れている現代に、
 この様な時に、珍しいなと思い読んでみる。
  月本氏は、上智大学教授で、専門は「旧約聖書」であ
 る。
  そして、この本の著者・若松氏は、批評家と紹介され
 ている。
  この書評の半分以上が、過去の、既に済んだこと(関
 係がほとんどない、シュバイツァーはどうだったという
 話に費やされている)。
  やっと、この書評の部分に至っても、キリスト教の「
 文献の貧弱さ」を言わずもがなで、吐露している。
  つまり、この書に関わるのは、短い記述の4つの福音
 書だけだ・・と。
  そして、その「わずかなソース(素)」を字で読んで
 はいけない・・と月本氏は言う。
  「書いてないことを感じ取れ」・・と月本氏は言う。
  つまり、「よし」としている事は想像、まったくの想
 像だと。
  つまり、キリスト教に洗脳された頭で想像しろと言い
 たいらしい。
  こんな書評があるか?
  その様なキリスト教に洗脳された頭で感じ取れと言い
 たいらしい。
  しかも、よく感じ取れと言いたいらしい。
  「奥の目に見えない真実を感じ取れ」と言う。
  「真実だ」と感じなければいけないという。
  ひどい話だ。
  わずかな4つしかないソース(素)の聖書の「その4つ
 の福音書を読むな」と言い・・、
  その字でなく、目に見えないものがあるから感じ取れ
 という。
  肝心なそこを説明しないで、良く感じろという。
  この書評者は、書評をそっちのけで、キリスト教に洗
 脳され、マインド・コントロールされた頭で、「字を読
 まないで、感じろ」とだけ言う。
  またまた、キリスト教の得意の理論的に行き詰ってい
 ることを露呈して、マインド・コントロール論理を、新
 聞書評で展開する。
  洞察せよ、過ぎた事象を洞察せよ、そこが豊かだ、秘
 められていると、書評そっちのけで、月本氏は、マイン
 ド・コントロールを新聞紙面に書きつける・・書評だと
 称して・・。
  これが諸評か?
  リルケや内村鑑三という・・自分に都合の良い先人を
 持ち出す。
  ごまんと居る、都合の悪い人は出て来ない。
  それらの先人の恩寵があると、よくやる権威の傘を借
 りた言い方をする。
  この様な言葉は、キリスト教は、最後に、調味料をか
 けるようによくやる。
  そして、また、定番の如く、最後に「まじない」の様
 に言う、「2000年の時空を越えて(架橋して)、読者を
 イエスへ誘(いざな)う(邂逅・かいこうする)」と。
  いつもの様な、理屈そっちのけの「天よりのお達し」
 があるの如くのマインド・コントロール文を書く。
  読売新聞は、最近、キリスト教に関係する酷い記事を
 よく掲載する。
  注意を要する。
  少し事例をあげれば、キリスト教作家の、天草の乱の
 考えられない犠牲者数をデッチアゲする事から始まる、
 虚偽を交えた話とか、
  「だから駄目なのだ性善説」などというニュース記事
 など、キリスト教の性悪説が正しいと読売新聞は言いた
 いのだろうが、キリスト教に偏していておかしい。
  杉原千畝の日本を貶(おとし)める映画の後援をした
 りする読売新聞となっている。
  杉原千畝が、キリスト教徒だったからと、キリスト教
 が、さんざん宣伝していた話に乗っかっている。
  「日本を悪者にしている嘘」を言いふらしている。
  日本は、ユダヤの方々を助けていたのが真実なのに、
 まったくその逆を、読売新聞は宣伝している。
  この事を、指摘したらば、途中から訂正をしたけれど
 も、読者に紙面上で謝罪すべきである。
  何か、キリスト教へ「おべっか記事を書かないと、例
 えば、ニュースを得られない」とかの不都合があるから
 やっているとか、
  自分に利があるからやっているという話を聞く。
  その様な点が無いのならば、紙面ではっきり説明すべ
 きである。
  金でタレントを買うという話も聞く。
  また、キリスト教に偏するNHKは、相変わらず放送
 法の法律違反行為をしている。
  その1例が、キリスト教の十字架を付けてNHKに出演
 させている行為である。
  このキリスト教徒のタレントを、NHKは、本当によ
 くNHKに出演させている。
  公平性の無いNHKとなっている。
  このタレントだけが法律違反なのではなく、NHK職
 員のスタイリストが、その様にしてNHKに出している。
  また、NHK職員のディレクターも、承知で出演させ
 ているという・・NHKの法律違反行為となっている。
  そして、このタレントは、このおかげで、民放にも顔
 が利くのか、民放にもよく顔を出している。
  キリスト教を取り巻いて、法律違反まで行ってする破
 廉恥なプロパガンダ(嘘宣伝)が盛んに行なわれている。
(追伸):NHKの息がかかった元NHK職員が、解説を
 している番組(○○○氏)にこの放送法違反者は出てい
 る。
  また、NHKの元職員が司会をする日立製作所提供の
 世界を巡る番組にも出ているという様に、NHK関係が
 総出でやっている行為となっている。
  外資に乗っ取られた日本の放送媒体の機関が、法律や
 常識ではやってはいけないことをしている。
  そして、すべて金で、事を成して行く唾棄すべき世界。
  キリスト教は、金の力を使って伝道している。プロパ
 ガンダ(嘘宣伝)している。
  そしてまた、日本には「世間様」という言葉があって
 この様に世間様を「馬鹿にした」「誤魔化すような」こ
 とはしなかった、NHKへ、AIへ、KMへ、その他へ、
..
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by suba28 | 2016-01-29 03:07 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)285E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年8月~1868年10月)

題:*(増補版)285E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年8月~1868年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1868年8月25日(7月8日)西園寺公望(さいおんじきんも
 ち、公家、政治家、教育者)会津征討越後口総督府大参
 謀が、越後長岡城に入城した。(1849年~1940年)
  福沢諭吉の『西洋事情』を読み影響を受けた。
  そして、世界の情勢にも関心を持つようになる。
  明治元年10月28日(1868年)、新潟府知事に就任し
 た。
  1869年に、御所内・私邸に私塾立命館(現:立命館大
 学)を創設した(学校組織としての連続性はないが、学
 祖とし、この年を以って創始としている)。
  1870年~1880年、ソルボンヌ大学に留学。
  明治14年(1881年)に、明治法律学校(現:明治大学)
 を設立した。
1868年8月30日(7月13日)幕臣・天野八郎(あまのはち
 ろう、彰義隊指揮官)が、本所にて捕わる。
1868年8月31日(7月14日)出羽の庄内兵が、新庄城を陥
 す。
  新庄城は、政府軍側についたため、庄内勢に攻められ、
 焼き払われた。
1868年9月1日(7月15日)大阪が開港した。
  開港と同時に外国人居留地と定められ、諸外国への競
 売が行われた。
  競売は完売し、直ちに、街路樹や街灯、洋館が並ぶ西
 洋の街へと整備された。
  居留地に接する地域も外国人雑居地となった。
  文明開化の発信拠点となった。
  1899年(明治32年)に、居留地制度は廃止された。
1868年9月3日(7月17日)江戸を東京と改称した(7月18
 日説あり)。
  「江戸ヲ称シテ東京ト為ス」の詔書が発せられた。
  1868年5月22日(慶応4年閏4月1日)に、大木喬任(
 軍務官判事)と江藤新平(東征大総督府監軍)が、
  佐賀藩論として「東西両都」の建白書を岩倉に提出し
 ていた。
  1868年11月26日(10月13日)に至って、天皇陛下が、
 東京に入られ、
  明治2年(1869年)には、政府が、京都から東京に移
 された。
1868年9月5日(7月19日)徳川慶喜公が、水戸より駿府に
 退いた。
  徳川慶喜、駿府にて謹慎 (きんしん、言動をひかえめ
 にすること)(氷川清話)
  慶応4年7月19日、江戸から水戸藩で謹慎していた慶喜
 公が、まず駿府藩へ船で移動した。
  9月9日(7月23日)の到着後は、宝台院で謹慎した。
  9月24日(8月9日)、家達ら旧幕臣達が、駿府藩へ移
 封し、9月30日(8月15日)に駿府に着いた。
  勝海舟は、この前後して、政府との交渉役を任され、
 11月24日(10月11日)に、船で江戸を去り、
 翌11月25日(10月12日)に、駿府へ着いてからは、幹事
 役として、大久保利通と駿府藩の折衝を努めた。
  また、勝海舟は、1869年8月25日(明治2年7月18日)
 に、政府から外務大丞に任じられたが、1869年9月18日
 (8月13日)に辞任し、
  また、1869年12月25日(11月23日)の兵部大丞任命
 もすぐに辞表を提出した。
1868年9月11日(7月25日)河井継之助(かわいつぎのす
 け、越後長岡藩牧野家の家臣)が、越後長岡城を奪回し
 た。
  1868年7月8日(5月19日)に、長岡城は、新政府軍に
 奪われていた。
  7月21日(6月2日)に、長岡城を、再度、奪還しよう
 と戦いを開始していた。
  この時の、河井の戦術は、軍事史に残る快挙で、後に、
 研究対象にされるほど優秀だった。
1868年9月15日(7月29日)会津戦争、二本松の戦い
  官軍が、岩代の二本松を攻めた。
  1868年8月12日(慶応4年6月24日)に、棚倉城が落城、
  そして、8月30日(7月13日)に、磐城の戦いで、磐城
 平城が落城した。
  9月2日(7月16日)に、三春藩が、奥羽越列藩同盟を
 脱退し、明治新政府軍は、じりじりと北上した。
  9月15日(7月29日)、藩兵の大半が、白河口の戦いに
 出向いている隙をつき、新政府軍は、二本松城を攻撃し
 た。
  城の落城が目前としても、二本松藩主・丹羽長国は、
 病を患いながらも城に留まろうとした。
  家臣は、無理に駕篭に乗せ、二本松の北15キロメート
 ルにある水原に退去し、後に米沢へ逃れた。
  新政府軍の板垣支隊は、激戦の末、二本松城に砲撃が
 届く大壇陣地へ進み、攻撃拠点を得た。これが落城につ
 ながった。
  二本松藩は、城に軍事総督の家老の富穀が残って、防
 戦に努めた。
  また、防戦に努めるため、老年の予備兵や、少年兵部
 隊も動員されていて、彼らは、後世、二本松少年隊と呼
 ばれた。
  しかし、可哀想な事に、彼らは火器をほとんど持たな
 かった。
  しかし、切り込みをしたり、よく防戦した。
  特に、木村銃太郎率いる20名は、攻城戦の最中にその
 ほとんどが戦死し、会津戦争の悲劇のひとつとして語り
 継がれている。
  家老の富穀は、ここまでという時に、城に自ら火を放
 つと、家老以下7名は次々を自刃し、城と運命を共にした。
  しかし、まだ、城外には少年隊が居た。
  少年隊では、指揮する者が次々と相次いで戦死して行
 った。
  少年隊40名は、指揮をするものが居ない状態で、最前
 線に放置される事態に陥った。
  彼らは、戦場をさ迷った、その中で、一人一人と命を
 落して行った。
  その様な中、13歳の少年兵に遭遇した土佐藩兵が、そ
 の幼さに驚愕し、生け捕りにしようとした。
  しかし、この幼い兵は、戦う姿勢を崩さなかった。
  やむなく戦闘状態となり、この幼い兵も、命を落とす
 事となってしまった。
 (追伸:この少年兵を助けたいと思った優しい土佐藩兵
 が、この少年兵を討ったのでなく、この戦場に飛び交う
 弾にあたって少年兵は亡くなってしまった)
  後の貴族院議員で、第4司令官などを歴任した野津道
 貫(のずみちつら)は、「戊辰戦争中第一の激戦」と賞
 した。
1868年9月15日(7月29日)新政府軍が、越後を平定した。
1868年9月15日(7月29日)江戸を去る旗本家の家財処分
 が相つぎ・・云々。
  甲良家当主は、新政府裁判所に呼び出され「朝臣」で
 ある証書を提出した。
  氷川清話:徳川家臣10日限り東京を退かせる
1868年9月16日(8月1日)相馬藩家老・脇本喜兵衛の壮烈
 な最期。
1868年9月19日(8月4日)東京行幸(氷川清話)
  この日、東幸する旨が布告された。
  しかし、松平慶永、中山忠能(ただやす)、大原重徳
 らの保守派の慎重論者が、天皇陛下の健康が心配だなど
 と理由をつけて反対したために、なかなか東幸の期日が
 定まらなかった。
1868年9月26日(8月11日)大総督参謀・西郷隆盛が、官
 軍を率いて新潟に着す。
1868年9月26日(8月11日)秋田兵が、村上城を奪回した。
1868年9月、開成所学制を改定(氷川清話)
  明治初期の官立機関としての「開成学校」は、明治元
 年(1868年)9月から明治2年12月(1870年1月)まで
 の初期開成学校と、
  明治5年8月(1872年9月)から1877年(明治10年)
 4月までの後期開成学校に大別され、
  前者は、文久3年(1863年)に発足した旧幕府直轄の
 開成所が、
  慶応4年5月(1868年4月)の江戸開城により閉鎖され
 ていたものを明治新政府が接収して、同年・1868年9月
 に「開成学校」として復興した。
  後者は、大学南校が、第一大学区第一番中学として改
 編されたものを、1873年(明治6年)4月に「(第一大学
 区)開成学校」と改称し、
  その後さらに、東京開成学校と改称した。
  また、開成学校・大学南校、および、東京開成学校の
 関係者の多くが、1873年発足の明六社に参加した。
  そして、1877年、東京医学校と統合されて(旧)東京
 大学が発足し、
  同大学の法文理三学部の母体となった。
  このため、現在の東京大学の直接の前身機関の一つと
 見なされている。
  氷川清話:国事多端につき開成所を閉校す。
1868年9月29日(8月14日)東京遷都について・・、
  遷都について、政府内では、大きな認識の変化が起き
 ていた。
  三条実美が、岩倉具視に送った、この日の日付の手紙
 で、「永世の基礎、神州の根拠は、必ずこの地理(東京)
 然るべきと存じ候間、政府は、当地に御移し、東西賓主
 の位を転ぜられ候方、御長策とじ候」とある。
  ここで三条は、政府を東京に移し、来春の再幸の節に
 は、東京を京都の上に置くべきと、東京遷都を主張した。
1868年9月29日(8月14日)終日雨。奥へ向ひし官軍の手
 負千住を通りし、云々(幕臣の日記)
1868年10月1日(8月16日)河井継之助が、戦死した。
1868年10月2日(8月17日)東京府庁が開設された(初代
 府知事に烏丸光徳任命)
1868年10月4日(8月19日)榎本武揚らの幕府の残党が、
 軍艦八隻を率いて、密かに品川湾を脱出し、函館へ向っ
 た。
  1869年1月27日(12月15日)榎本武揚らが、蝦夷地を
 平定。五稜郭を本営とする
  1869年5月18日、五稜郭が開城、榎本武揚らが降伏。
 戊辰戦争が終わる。
  氷川清話:東京旧幕府海軍副総裁榎本武揚が、艦船8隻
 を率い、品川より奥州へ向けて脱走出帆する。
1868年10月5日(8月20日)諸道の官軍が、会津進撃を開
 始する。
1868年10月6日(8月21日)南部兵の進撃に、秋田兵が大
 館に退いた。
1868年10月6日(8月21日)新政府軍が、会津領内に侵攻
 した。
1868年10月8日(8月23日)会津戦争、若松城下への侵攻
  白虎隊が全滅した。
  二本松領を占領した新政府軍では、次の攻撃目標に関
 して意見が分かれた。
  大村益次郎は、仙台・米沢の攻撃を主張し、板垣退助
 と伊地知正治は、会津藩への攻撃を主張した。
  板垣・伊地知の意見が通り、会津藩を攻撃することと
 なった。
  二本松から若松への進撃ルートは何通りか考えられた
 が、
  新政府軍は、脇街道で手薄な母成峠を衝いた。
  慶応4年8月21日(1868年10月6日)に、新政府軍は、
 母成峠の戦いで旧幕府軍を破り、40キロ余りを急進して
 同年8月23日(1868年10月8日)朝に、若松城下に突入
 した。
  新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送
 っていた会津藩は、虚を衝かれ、予備兵力であった白虎
 隊までも投入するが、あえなく敗れた。
  この時、西郷頼母邸では、篭城戦の足手まといとなる
 のを苦にした母や妻子、そして、一族21人が自刃した。
  また、城下町で発生した火災を、若松城の落城と誤認
 した白虎隊士中二番隊の隊士の一部が、飯盛山で自刃す
 るなどの悲話が伝えられている。
  そして・・、
  鳥羽・伏見の戦いにより勃発した戊辰戦争で、会津藩
 等の奥羽越列藩同盟が、官軍と戦闘、白虎隊が実戦に参
 加。
  越後戦争や会津戦争で死闘を繰り広げた。
  飯盛山にいた白虎隊の2番士中隊員が、城下の町に火
 の手が上がったのを会津落が落城したものと思いこむ。
  20人の隊員のうち19人が自刃。
  会津藩は、軍を年齢により白虎、朱雀、青龍、玄武の
 4班に分け、最年少の白虎隊は16歳から17歳までの少年
 で編成されて、白虎隊が実戦に参加。
  越後戦争や会津戦争で死闘を繰り広げた。
1868年10月10日(8月25日)会津攻城戦
  会津若松城攻防の激戦が、官軍と会津勢との間で行わ
 れた時、白河口の戦闘で、土佐藩士・板垣退助指揮の官
 軍が、会津の一帯のこもる雷神山に猛攻を加えた。
  会津は、官軍より武器も人数もはるかに劣っていた。
  雷神山の会津勢も、もはやこれまでと思った時、全軍
 の切込みが命じられた。
  真っ先に山を駆け下った老将と美少年。
  後年の森要蔵と14歳の少年であった。
  親子は、官軍の真っただ中に切り込むと、まるで舞踊
 のように美しい剣技を見せたという。
  父が危うくなると、少年が駆け寄り、少年が危うくな
 ると、父が救った。
  その姿に官軍の指揮官・板垣退助は、しばらく射撃を
 止めさせたぐらいだったという。
  やがて、子が倒れ、父がその上に折り重なって倒れた
 時、戦鼓が鳴りり、官軍が怒涛の様に屍(かばね)を越
 え、雷神山を占領した。
  この話は、この様子を遠望していた白虎隊生き残りの
 山川健次郎男爵が、明治後に語り伝え、語るたびに涙で
 声が詰まり、時には号泣したという(竜馬がゆく・1)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-01-28 04:30 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)284E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年7月~1868年8月)

題:(増補版)284E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年7月~1868年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年7月4日(5月15日)上野にたてこもった彰義隊が、
新政府軍の攻撃で敗退した。
  戦火で、1,200戸が焼失(上野戦争)。
1868年7月4日(5月15日)新紙幣の太政官札(金札)が発行
 された。
  明治政府によって、慶応4年5月から明治2年5月まで、
 太政官札(だじょうかんさつ、不換の政府紙幣)5種(
 10両・5両・1両・1朱・1分)が発行された。
1868年7月5日(5月16日)中外新聞が、別段中外新聞を発行
 した。
  彰義隊攻撃の戦況を報道した。
  これは、新聞号外の初めとなっている。
  幕臣の柳河春三(やながわしゅんさん)は、1863年3月
 (慶応4年2月)に、この新聞を創刊した。
  そして、これが、日本最初の邦字新聞となった(日本
 人による本格的な新聞)。
  この頃としては珍しく全国に普及した。
  創刊後わずか1ヶ月で、部数が1500となった。
  外国新聞を翻訳して、外国事情を紹介しながら、国内
 の事を報じた。
  1868年7月27日(旧暦6月8日)45号で発禁になったが、
 1869年(明治2年)に再刊された。
1868年7月6日(5月17日)パリ万国博の将軍の名代が帰国し
 た。
  パリ万国博に将軍の名代として赴いた人たちが、4月に
 入ると、8日ブローニュの森、11日ヴェルサイユ、12日サ
 ンクルーの大演習・・と立て続けに外出した。
  ヴェルサイユでは、ルイ王朝の残影に、幕府の衰運を
 見る思いだっただろう。
  4月26日、栗木鋤雲(くりもとじょうん、幕臣、思想家、
 ジャーナリスト)は、渋沢栄一(しぶさわえいいち、幕
 臣、実業家など、後述参照)らに見送られてパリのリヨ
 ン駅を立ち、帰国の途に・・、
  翌日、マルセイユを発って航海へ、
  往路と同じ上海経由で、旧暦5月17日横浜着(フランス
 郵船ファーズ号の入港は、その前日・西暦7月5日だった)。
  2日前に、彰義隊は壊滅していた。
  そして、幕府・フランスの提携の盟友・小栗上野介(
 こうずけのすけ)は官軍に斬殺されていた。
  また、江戸城が明け渡されたのは、すでに2ヶ月前の事
 だった。
  渋沢栄一の事を以下に記す・・、
  渋沢氏は、幕臣であり、実業家であり、また、第一国
 立銀行や東京証券取引所など
  日本を形成する背骨を設立し、
  また、多種多様な企業の設立・経営に関わっており、
  日本の資本主義の父という人・・大偉人である。
  また、理化学研究所の創設者でもあり、教育者でもあ
 る。
  渋沢氏は・・1840年3月16日に、武蔵国榛沢郡血洗島村
 (現:埼玉県深谷市血洗島)に、農家の長男として生ま
 れた。
  北辰一刀流の千葉道場にも入門している。
  一橋慶喜にも仕えた。
  この幕臣時代、パリ万博へ行って、見て、そして、ヨ
 ーロッパ各地も見て・・大いにこれからの・・人生の糧
 を得た。
  またこの時、開成所奉行支配調役にも任命され、勤め
 た。
  帰国後、時代は変わっていた・・幕府は無くなってい
 た。
  渋沢氏は、慶喜のいる静岡へ向かった、そして、慶喜
 から、「これからお前の道を行くように」との言葉を与
 えられる。
  大隈重信の勧め・推薦から・・大蔵省に入省する。
  そして、明治維新は、明治政府に仕えることになった。
  ここで、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。
  日本赤十字社社の設立にも携わる。
  明治6年退官し、第一国立銀行(現:みずほ銀行)の頭
 取に就任、以後、実業界に身を置く。
  そして、七十七国立銀行など多くの地方銀行の設立を
 指導し、
  また、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、田園
 都市(現:東京急行電鉄)、秩父セメント、帝国ホテル、
 秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビー
 ル、サッポロビール、東洋紡績、大日本製糖、明治製糖
 などなどなど・・、
  多種多様の企業の設立に関わった。
  その数は・・500以上・・、
  そして、アメリカの卑劣な排日行動に心を痛め、日本
 を知ってもらうために通信社を立案した。
  これが、現在の時事通信社と共同通信社の起源となっ
 ている。
  渋沢栄一の偉い所は、考え方の基本に・・
  「私利を追わず、公益を図る」・・があった。
  この考え方を・・生涯に渡って貫き通した偉人だった。
  渋沢栄一の薫陶を受けた後継者も・・この考え方を持
 って身を処した・・自己を戒めた。
  渋沢栄一の良かったことは、当時の日本が、氏の公共
 への奉仕の姿を・・高く評価していた事だった。
  対印貿易の重要性をも認識もされていて、
  大島重信らと共に日印協会の設立にも携わった・・会
 長も務められた。
  また、一橋大学、日本経済大学、二松学舎大学、学校
 法人国士館などの前身の学校の設立にも携わった。
  また、勝海舟・伊藤博文らと共に、女子の教育の改善
 に尽くされた。
  その為の女子教育奨励会を設立した、そして、日本女
 子大学校、日本女学館などの設立にも携われた。
  当然、1926年と1927年に、ノーベル平和賞の候補にも
 なった。
  1890年に、貴族院議員に勅選(天皇陛下が自ら選ばれ
 ること)され、帝国議会貴族院本会議に出席したが、政
 治活動には深入りしなかった。
  大蔵大臣の入閣を求められたりしたが、辞退している。
  道徳教育には力を入れられた。
  幼少期に学んだ「論語」を大切にした。
  経済が発展して、利益が得れたならば、独占するので
 はなく、国全体を豊かにする。
  そのために、富は、全体で共有するもの、社会へ還元
 すべきもの・・と説いておられた。
  欺瞞の中の、不道徳な商行為を、強く戒められた。
  まだまだ、多くの書かねばらないことが多い、大偉人
 で、
  日本は、この様な大偉人を擁(よう)している。
  この事を、誇りに思わなければならない。
1868年7月7日(5月18日)戦火はおさまったが、「勝安房方
 大砲打込み近所大久保一翁へも同様の沙汰あり」。
  勝海舟日記には記述がないが、発砲があったとすれば
 官軍の嫌がらせか。
  被害はなかったということだろう(幕臣の日記)
1868年7月7日(5月18日)福地源一郎が、江湖新聞に載せた
 「強弱論」で、新政府軍に逮捕され、同紙は発行禁止と
 なる(薩長討幕軍を非難し逮捕された)。
  福地源一郎は、幕府外国方通訳として渡欧して後に、
 この新聞を発刊している。
1868年7月8日(5月19日)仮に江戸に鎮台を置く(寺社、勘
 定、町の三奉行を廃し、南北市政、社寺、民法の三裁判
 所を置いた)
1868年7月8日(5月19日)越後・長岡城陥る(北越戦争)。
1868年7月10日(5月21日)鍋島藩兵多数が、奥羽へ向けて
 行き、当宿(千住)にて昼休みをとった(幕臣の日記)
  鍋島藩は、肥前佐賀郡にあり、佐賀藩ともいう。
  佐賀藩は、アームストロング砲を自力で造ったという
 近代工業化された藩だった。
  また、新政府軍として北陸道の先鋒に任命されている。
  また、江戸において上野戦争なども戦い、新政府への
 貢献度は高かった。
  その結果、明治政府には、多数の人物が登用された。
  人物としては、大隈重信、江藤新平、副島種臣、大木
 喬任、佐野常民、田中久重など、
1868年7月13日(5月24日)徳川家達を、駿府70万石に封ず。
  (5月26日説あり)
  徳川氏が、江戸から駿府70万石に移されることが決ま
 った。
  「晴。駿河国府中城の仰せられて7拾万石駿河国」と
 徳川家への処遇。(幕臣の日記)
1868年7月16日(5月27日)広瀬武夫(ひろせたけお)が誕
 生した。
  1904年の日露戦争の初期に、旅順港閉塞作戦を行うこ
 とになり,自沈船『福井丸』の指揮官として砲火をおか
 して目的位置に達した。
1868年7月18日(5月29日)官軍大挙して、白河城を総攻撃
 した。
1868年7月19日(5月30日)新撰組の幹部、沖田総司が死す。
1868年7月20日(6月1日)6月になると江戸も表向きは平穏
 を取り戻す。
  日記の元幕臣の筆者も無禄となったよるべなさをその
 ばせる記述をしている。
1868年7月21日(6月2日)江戸城内で戦没者慰霊祭が行われ
 た(現在の招魂祭)
18687年7月31日(6月12日)奥羽連合軍が、白河城の再攻撃
 した。
1868年8月5日(6月17日)横浜裁判所を改めて神奈川府と称
 し、東久世通禧を初代知事に任命した。
1868年8月7日(6月19日)江戸の地名改称の議が起る。
  政府は、この日・8月7日に、参与・木戸孝允と大木に
 江戸が帝都として適しているかの調査にあたらせた。
  2人は、有栖川宮・三条・大久保・江藤らと協議の上、
 同年8月22日(7月7日)に、京都へ戻り、奠都が可能であ
 ることを報告した。
  遷都すべき必要性・・、
  京都は、すこぶるやりにくいやっかいな土地柄であっ
 た。
  ここ東京に、新天地を求める理由があった。
  だが、遷都は、そんなに容易には実現しない。
  公卿では久我(こが)建通が、諸侯では松平慶永と山
 内容堂が強く反対した。
  久我は、薩摩の陰謀であると言い、慶永と容堂は、い
 ま急ぐべき事では無いというものであった。
  急ぐべきかどうかは別として、久我も容堂も慶永も、
 大久保の改革の意図を理解しえなかった事は事実である。
  朝議は、大阪遷都を否決した。
  しかし、代わりに大阪親政行幸が実現する。
  大阪行幸は、明治1年3月21日に京都を出発し、閏4月8
 日に還幸(かんこう、天皇陛下が出先から帰ること)し
 た。
  この時の、大阪行幸は、約1ヶ月半滞在して、閏4月8日
 に還幸して、この間、太政官代(臨時の太政官)も大阪
 に移していたので、たんなる天皇陛下の行幸・旅行の類
 ではなかった。
1868年8月14日(6月26日)木戸孝允が、大木喬任と共に、
 三条実美に会し、車駕東幸並びに諸要件を議決する。
1868年8月15日(6月27日)大久保利通、木戸孝允、大村益
 次郎、江藤新平宅に会し、近く京都より江戸城へ鳳輦を
 迎え奉ると祝杯を挙げる。
  ここで、勝海舟の感慨(かんがい、心に深く感じて、
 しみじみとした気持ちになること)深げに言った言葉・・、
  冷静に日本を作ったのは勝と大久保と言える。
  誕生したばかりの日本を、大久保は一人、渾身(こん
 しん、からだ全体)の力を込めて作ったと言ってよい。
  勝は、晩年、次のように言った、「忠義という士とい
 うものがあって、国を潰すのだ。己のような。大不忠、
 大不義の者がなければならぬ」・・と。
  また、参考として・・、
  国を作った長州藩の軍事費は・・、
  幕府との対決に使った長州藩の軍事費(撫育金と呼ん
 だ)明治1年の残高は100万両を越えた。
  関ケ原の役の頃はどん底であった・・が、
1868年8月17日(6月29日)昌平黌を復興し、昌平学校と改
 称した。
1868年8月(6月末)6月下旬には、三条実美、岩倉具視、木
 戸孝允、大久保利通ら政府要人の間で、江戸を東京とし、
 天皇陛下が東京に行幸する事が合意事項となった。
1868年8月(6月)、貨幣司・・、
  貨幣司が設置され、太政官札が発行された。
  慶応4年(1868年)、明治政府は、旧幕府の時代の金座、
 銀座を接収し、
  6月より貨幣司を設けて、貨幣の鋳造を引き継いだ。
  この貨幣司は、翌年の明治2年(1869年)に廃止されて、
 2月5日に、太政官に造幣局が置かれた。
  大阪の天満に設置された造幣局は、その後、すぐに、
 大蔵省所属となり、
  明治3年11月より、貨幣の製造を開始した。
  イギリスより輸入した造幣機を使っての貨幣の製造で
 あった。
  明治4年4月4日に創業式が挙行され、6月27日には、新
 貨条例、及び、造幣規則布告が発布されて、我が国の近
 代的な貨幣制度がスタートした。
1868年8月(7月)慶喜、駿府に転住す
  勝海舟、前将軍、水戸より駿府へ引き移りが済んだに
 付いて格別の厚旨を以て金百両を恵与せられる(氷川清
 話)
1868年8月23日、会津戦争、白虎隊が飯盛山へと落ち延びた。
  白虎隊(びゃっこたい)は、会津戦争に際して、会津
 藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成
 された部隊で、
  中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もい
 たほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。
  幕末の会津藩が組織した部隊には、他に玄武隊、朱雀
 隊、青龍隊、幼少隊などがあった。
  残念ながら、この少年たちが持っていた武器は、新政
 府軍より劣っていた(ヤーゲル銃、ゲーベル銃の短銃身
 化)。
  会津藩は、若松城(鶴ヶ城)を死守すべく、若松に至
 る街道口には主力部隊を展開させて、防備に努めた。
  しかし、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対して、劣勢
 は否めなかった。
  本来は、城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊
 だったが、これを支援する形で、前線へと進軍した。
  若年兵の投入も、焼け石に水なのは誰もが承知のこと
 だったが、合津の方々は、老若男女のすべてが、玉砕を
 覚悟の上で臨む戦局にあった。
  白虎隊は、各防衛拠点へと進んで行き、投入された。
  しかし、会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各
 所で苦戦を強いられた。
  最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくさ
 れた、
  このうち一番隊は、藩主・松平容保公の護衛の任にあ
 たったが、
  二番隊は、戸ノ口原で決定的打撃を受けて潰走した。
  8月23日には、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落
 ち延びた。
  そして、地域の農家の方々に草鞋を貰い受けたりして、
 助けられながらも来た飯盛山だった、
  ここから眺めた戦闘による市中火災の模様。
  そして、落城などを感じ、これまでと結果総勢20名が
 自刃を決行した。
  唯一、喉を突いた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)のみが
 一命を取り留めた。
  若松城の落城の原因説について、
  飯沼が、生前に伝え残した手記『白虎隊顛末略記』に
 よると、
  当時、隊員らは、鶴ヶ城(地元の呼び名)に戻って敵
 と戦うことを望む者と、
  敵陣に斬り込んで、玉砕を望む者の二論があった。
  激論を交わして、いずれにせよ負け戦覚悟で行動した
 ところで敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった
 隊員らは、城が焼け落ちていないことを知りながらも、
 武士の本分を明らかにするために、飯盛山で自刃を決行
 したという。
  また、途中から別行動となった庄田保鉄らは、その後、
 鶴ヶ城に入城し、士中一番隊の生存者と共に、白虎士中
 合同隊となって西本丸を守った。
  籠城戦は、1か月続いたが、奮闘むなしく、最終的に
 会津藩は降伏となった。
..
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by suba28 | 2016-01-27 02:03 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)283E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年5月~1868年7月)

題:(増補版)283E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年5月~1868年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年5月(閏4月)一橋・田安両家を藩に列す(氷川清話)
  江戸時代の徳川氏の一族の内、田安家と一橋家は御三
 卿だった。
  (あと、清水家がある)。
  清水家の最後の当主となったのは、将軍・徳川慶喜の
 弟の徳川昭武(とくがわあきたけ)だった。
  しかし、昭武は、パリ万博から帰国後、水戸家の家督
 を継いだ。
  そのため、清水家は、当主不在となった。
  この時に、この事もあって清水藩は立藩していない。
  しかし、1870年2月に、昭武の甥・徳川篤守(とくがわ
 あつもり)が、新たに清水家の第7代当主となって、
  家禄2500石を賜り、華族に列した。
1868年5月(閏4月)徳川家臣の官位を止む(氷川清話)
  徳川家臣の官位剥奪・・、
1868年5月(閏4月)還幸(氷川清話)
1868年5月(閏4月)徳川家裁許五箇条の勅(氷川清話)
1868年5月(5月末)勝海舟、狙撃される
  慶応4年4月の末(1868年5月)に、官兵3、4人が小銃
 を持って俺を狙撃した。
  しかし、幸いに体には当たらないで、頭の上を通り過
 ぎたけれど、その響きに馬が驚き・・云々
1868年6月10日~8月31日(閏4月20日~7月14日)白川口の
 戦い
  戊辰戦争の戦局に大きな影響を与えた戦い。
  仙台藩・米沢藩などを主力とした列藩同盟軍は、会津
 藩・庄内藩と提携した。
  そして、新政府と敵対する軍事同盟成立に際し、政府
 軍側の白河城を攻撃し、新政府軍から白河城を奪い取っ
 た。
  しかし、この城は取り返される。
  新政府軍は、約700名程度でもって、列藩同盟側約2500
 名の駐屯していた白河城を奪還した。
  同盟軍は、白河を経由して、関東への進軍を意図して
 いて、再度の奪還を期し、約4500名まで増援を行い7回に
 わたって攻撃をした。
  しかし、新政府軍は、劣勢な兵数で白河城を守りきっ
 た。
  以上の、最初の戦いである旧暦・閏4月20日の白河への
 攻撃の開始で、会津戦争が始まった。
  白河藩は、当時、国替えにより藩主不在となり、幕府
 直轄領であった。
  旧幕府軍は、会津藩家老の西郷頼母を総督として、慶
 応4年閏4月20日 (1868年6月10日)に、白河城を占領し
 た。
  これに対し、新政府軍は、薩摩藩参謀・伊地知正治の
 指揮のもと、閏4月25日 (旧暦)(6月15日)に、白河への
 攻撃を開始し、
  旧暦5月1日(6月20日)に、白河城を落城させた。
  旧幕府軍は、7月までの約3か月間、白河奪回を試みて
 戦闘を繰り返したが、奪回はならなかった。
  この白川口の戦闘で美しい話が残っている。
  土佐藩士・板垣退助が指揮する官軍が、会津の一隊が
 拠る雷神山に猛攻を加えた。
  会津は、官軍より武器も人数もはるかに劣っていた。
  雷神山の会津勢も、もはやこれまでと思ったとき、「
 全軍、切り込み」が命じられた。
  その時、真っ先に山を掛け下った老将と少年があった。
  後年の森要蔵とその息子だった。
  親子は、官軍の真っただ中に切り込むと、まるで舞踊
 の様に美しい剣技を見せた。
  そして、父が危うくなると、少年が駆け寄り、少年が
 危うくなると、父が救った。
  その姿に、官軍の指揮官の板垣退助が、しばらく射撃
 を止めさせたぐらいだった。
  やがて、子が倒れ、父がその上に折り重なって倒れた。
  そして、戦鼓(戦場で、合図などの用いる太鼓)が鳴
 った。
  その合図で、官軍は、怒涛の様に押し寄せ、その二人
 を越えて行った。
  雷神山は占領された。
  この話は、この二人を遠望していた、この様子を見て
 いた白虎隊、生き残りの山川健次郎男爵が、明治の時代
 に入って披露し、語り伝えられている。
  氏は、語るたびに涙で声が詰まり、時には号泣したと
 いう。
  因みに、森要蔵(もりようぞう)は、熊本藩士・森喜
 右衛門の六男で、
  熊本藩江戸屋敷に生まれ、北辰一刀流開祖・千葉周作
 の道場・玄武館に入門し、「玄武館四天王」と言われた。
  江戸・麻生に道場を開き、多くの門弟を抱え、名声を
 轟かせた。
  要蔵の稽古は厳しく、指導する姿は、「雷をまとった
 龍の如し」と言われた。
  上総飯野藩に登用された時、「過ぎたるもの」とまで
 言われた。
  その縁戚で、会津藩に戊辰戦争の時に味方した。
  この時、次男の虎雄、高弟の勝俣乙吉郎と共に、会津
 で戦った。
  「官軍と激突、奮戦したが、銃撃を浴び共に戦死」と
 説明され、享年59歳、虎雄は16歳であった。
  官軍は、「祖父と孫だ」と思っていたという。
  二人は共に大龍寺に葬られている。
1868年6月18日(閏4月28日)勝海舟、西郷参謀に一書をよ
 せ時事五カ条を陳述す(氷川清話)
1868年6月19日(閏4月29日)70万石が徳川家へ
  徳川家相続を田安亀之助(たやすかめのすけ、徳川家
 達)に仰せつけられる(氷川清話)
  1868年、徳川慶喜の跡をついで徳川宗家16代となり、
 駿河府中藩主、70万石となった。
1868年6月19日、長崎造船局
  明治政府に収められ、長崎府判事の総轄のもと、経営
 官営長崎製鉄所となり、工部省所管長崎造船局と改称さ
 れた。
1868年6月20日(5月1日)江戸の警察権
  江戸市中の警察権が、官軍に収められた。
  旧暦5月に入ると、江戸市中は物上騒然となった。
  大村益次郎(おおむらますじろう)が、戊辰戦争で彰
 義隊攻撃の指揮者を務めた。
  大村益次郎は、江戸に入って、大久保一翁、勝安房ら
 に、彰義隊の江戸市中取締り役を解くように命じた。
  これで、彰義隊の存在の大義名分はほとんどなくなっ
 た。
1868年6月21日(5月2日)大阪府庁が設置された(醍醐忠順
 を知事に任命)
1868年6月21日(5月2日)北越戦争(ほくえつせんそう)
  新政府が、長岡藩(現:新潟県長岡市)の中立要請を
 拒否した。
  北越戦争が始まる。
  鳥羽・伏見の戦いの後、官軍は、東海道・東山道・北
 陸道に分かれ進軍した。
  一方、長岡藩は、大政奉還以後も徳川家を支持してい
 た。
  そして、長岡藩主・牧野忠訓や、家老上席の軍事総督・
 河井継之助は、イギリス人の武器商人のウォーター、フ
 ァブルブラント商会、スネル兄弟などから
  アームストロング砲やガトリング砲など、また、イギ
 リス製の2,000挺のエンフィールド銃・スナイドル銃など、
  しっかりと、最新兵器を購入していた。
  万全の武器を備えていた。
  因みに、この当時、ガトリング砲は、日本に3つしかな
 という最新の兵器だった。
  また一方、 会津藩は、使者を長岡藩へ送り、奥羽列藩
 同盟への参加を申し入れていた、しかし、長岡藩は、同
 盟への参加を拒んでいた。
  この様な状況の中で、北陸道を進んできた新政府軍と、
 この日・6月21日、小千谷会談と言われる会談が持たれた。
  長岡藩は、「長岡への侵攻の中止」と、「長岡の独立
 特行」を要望した。
  しかし、新政府側は、長岡藩の嘆願を一蹴し、談判は
 決裂した。
  長岡藩は、2日後の6月23日(5月4日)に、奥羽列藩同
 盟に参加した。
  新発田藩など、他の越後5藩も、これに続いて同盟に加
 わった。
  そして、戦端は開かれた。
  新潟港が重要拠点であった。
  また、新政府軍が占領していた榎峠が戦場となった。
  そして、榎峠を奪われた新政府軍は、榎峠を奪還する
 ため、朝日山へと兵を進めた。
  この様な戦いが繰り広げられて行った。
  戦いは膠着状態に入った。
  最新兵器で武備しただけあって、長岡藩は手ごわかっ
 た。
  寺泊沖海戦も行なわれた。
  7月24日(9月10日)には、同盟軍は、長岡城を奪還し、
 新政府軍は敗走した。
  一度、落城した城が奪還されるのは異例な事だった。
  新政府軍の指揮が混乱し、迷走するほど、長岡藩は、
 打撃を与えていた。
  新政府軍は、山田顕義(やまだあきよし、伊藤内閣の
 司法相など歴任)を指揮官とする長州藩・広島藩・柳河
 藩・筑前藩・加賀藩などの軍艦で構成される艦隊を投じ
 た。
  7月25日(9月11日)上陸作戦を敢行した。
  また、黒田清隆(くろだきよたか、枢密院議長)を指
 揮官とする部隊も上陸作戦をし、
  7月29日(9月15日)には新潟港を制圧した。
  新政府軍は、長岡城へ再攻勢をして、この日・7月29日
 に再占領した。
  この経緯の中で、同盟軍だった新發田藩は寝返ってい
 た。
  同盟軍は、会津藩領へと撤退した。
  新政府軍は、出羽国(米沢藩領)まで追撃した。
  旧暦8月中旬(1868年6月末)には、越後全域が、新政
 府軍の軍門に降った(ぐんもんにくだる、戦争に負け、
 降参する)。
  さすが、長岡藩の最新兵器であった。
  この戦いは、戊辰戦争の最大の激戦の内の一つとなっ
 ている。
1868年6月25日(5月6日)奥羽越列藩同盟の報が入る
  旧暦5月6日、奥羽17藩の重臣らが白石で会合、いわゆ
 る「奥羽越列藩同盟」を結んだとの報が入る。
  こんな東北の入り口、上野の山で手こずるわけには行
 かぬ、一挙に討伐しようという事になった。
  白昼堂々と、限定戦を挑む、大村益次郎はそう決めた。
  輪王寺宮に退去を懇願し、
  また、付近の住民にも避難の勧告を出した。
1868年6月26日(5月7日)勝海舟、幹事役を申付られる。
  彰義隊の軽挙甚だし、書を法親王に棒呈す(氷川清話)
1868年7月3日(5月14日)戦端を開く前日の5月14日、大村
 は、上野包囲の作戦を立てる。
  勿論、上野にも、15日の総攻撃の報は伝わっていた。
1868年7月4日(5月15日)彰義隊討伐戦が始まる
  大総督府が、諸軍に令して、彰義隊を上野に討つ 。
  海舟は・・
  ちょうど彰義隊の戦争の日だったが、官軍200人ばかり
 で、俺の家を取り囲んで、武器など一切を奪い去ってし
 まった。
  しかし、この時、俺が幸い、他行(たぎょう)してい
 たために、殺される事だけは、まず逃れた(氷川清話)
  大村益次郎を指揮官とする上野の彰義隊討伐戦が開始
 された。
  徳川幕府の庇護の下で造られ、荘厳な伽藍を持つ寛永
 寺の大半は焼失してしまった。
  アームストロング砲の威力があった。  
  勝海舟、官兵、元氷川の家に乱入、刀、槍、雑具を掠
 め去る。不在の為、幸いにも難を免れる(氷川清話)
1868年7月4日(5月15日)雨、夜中も大砲の声聞ゆ
  今朝大小砲聞ゆ。上野にて戦争始まりしと云。
  小塚原に詰居し土佐の人数は大橋の板2・3枚はなし
 大小砲空発す。
  奥羽兵固のよし上野にて始まりしに(奥羽戦に行かせ
 る兵であったが上野戦のため引き戻された)付き其方へ
 引き上げる。
  上野へは会津と仙台の兵昨夕谷中の方より入りし沙汰
 あり。
  夕7時過ぎにも大砲聞こえ坂本の方へ火勢盛りに焼る。
  千住の方風下なり。
  8時頃甲良石丸家内子供(甲良一族と同じ身内の石丸
 家の者たち)残らず来る。(幕臣の日記)
  「千住大橋東橋両国橋皆」いっさい船が通れなくなっ
 た(幕臣の日記)
1868年7月4日(5月15日)上野戦争。彰義隊、奮戦す・・、
  朝四ツ半、18番隊、西村賢八郎が山の東側、風坂の近
 くに行くと、隊士・高山林之助が官軍に囲まれていた。
  西村は二名を殺して帰山した。
  伝令役は「砲撃が起こったら速やかに信号の御旗を揚
 ぐべし」と伝えた。
  各屯所では大杯に決死の酒を汲む者もあった。
  朝六ツ半、天野八郎は、同僚二人を連れ、広小路から
 根岸方面を見回ると、本郷とおぼしき方角から砲声が聞
 こえ、急いで山に戻る。
  谷中から池之端に出ると穴稲荷門では神木隊が二百匁
 の戦砲と小銃を持って戦っていた。
  旧暦5月15日、雨は津々と降っている。
  丸毛がズボンに長靴のいでたちで馬で谷中門(上野の
 山は全てで八門あった)へ回ると、5番隊、他の各隊が
 奮戦していた。
  三崎坂の寺々の陰に彰義隊が隠れて官軍を撃ち、谷中
 口は午前中敵を寄せ付けなかった。
  天野八郎は山内に入ると、池田大隅守に神祖の御影を
 記し輪王寺宮へ向かわせ、自ら8番隊を引率して黒門口
 へ向かう。
  何といっても山の入口・黒門が大手、最激戦地である。
  長州出身の大村は、薩摩兵をここへ向け、援軍を乞う
 ても聞かない。
  「貴公は薩人をすべて死なすおつもりか」と詰め寄る
 と、大村は「もとよりそのつもりだ」と応じ、薩摩軍は
 むしろ奮起したという。
  彰義隊側で黒門の指揮をとったのは酒井宰輔、山王台
 では大砲の使い手・近藤武雄がこれを援護する。
  官軍は、松坂屋前に陣を敷き、山入口の西側、料亭・
 松源、雁鍋の二階より大砲を撃った。
  不忍池に面した穴稲荷門では神木隊と浩気隊が奮戦。
  本郷高台に陣取った備前、柳川、佐土原、尾州の軍は、
 池を隔てて大砲を繰り出す。
  一方、池には橋もないので、官軍は小舟をしたて池を
 渡り、穴稲荷門から侵入をはじめる。
  山の東側の下寺は、遊撃などの諸隊が分屯して門を守
 った。
  官軍は、黒門口より右手に回ってこれら下寺(したて
 ら)方面も攻めたが、彰義隊はこれをよく撃退する。
  こうして午前中、彰義隊は善戦したが、昼過ぎ、官軍
 は援軍を差し向け巻き返しをはかる。
  昼どき、いったん本営に帰った天野八郎は、また、山
 王台に引き返し、清水堂脇で純忠隊に会い、「黒門口が
 危ない、いざ」と走り出したが、誰も着いてこなかった
 という。
  この時点で、かなり士気が落ちていた。
  そのうち「黒門が破れたぞ」との声も上がり、山内は
 どよめきたつ。
  隊長らは「ひるむな」と叱咤するが酒井宰輔は戦死、
 近藤武雄や大谷内龍五郎ら奮戦の勇士は多く手傷を負う。
  撤退する彰義隊を官軍は追い、山内に突入して根本中
 堂まで迫った。
  この時、行く手に東照宮の神旗をもって立ちはだかっ
 たのは大監察も勤めた幕臣・大久保紀伊守、その姿に励
 まされ、中堂前で最後の死闘が行われたが、砲弾は紀伊
 守の額に命中した。
  彰義隊は四散し、敗走する。
  本郷台のアームストロング砲は吉祥閣に命中し燃え上
 がる。
  火は次々と諸堂に移り、頭並伴門五郎は火中に身を投
 じた。
  吉祥閣に火の手が上がったのを双眼鏡で見て「これで
 勝ったな」と大村益次郎はつぶやいたという。
  死者の数はまちまちである。
  官軍側の死体は、すみやかに片付けられた。
  その数40という。
  一方、彰義隊士の死体は放置された。
  夕刻、雨の中に焼けた諸堂がくすぶるばかりで人影は
 ない。
  ただ点々と死体が転がっていた。
  大村益次郎は、退却路に根岸芋坂辺をわざと開けてお
 いたという説がある。
  たしかに芋坂を降りた根岸、金杉、尾久、三河島辺り
 は、旧寛永寺領であったこともあり、彰義隊をかくまっ
 た町人の話は多く伝わっている。
  官軍は、谷中あたりの家はしらみつぶしに調べた。
  官軍に捕まる者も多く、うまく逃げおおせた隊士は、
 奥羽に転戦し、春日左衛門をはじめ罪を許されると、慶
 喜のいる静岡に向かった。
  明治政府は、彰義隊についての報道を規制し、明治30
 年代に至って規制も緩み、膨大な「彰義隊戦史」が書か
 れたりした。
  上野から逃げた彰義隊は、谷中、根津、日暮里と広範
 囲で戦ってもいた。
  彰義隊士は言う、「我々は逆臣にあらず、主家に対し
 て義を尽くせるのみ」と。
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by suba28 | 2016-01-26 02:45 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)282E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年5月~1868年5月)

題:(増補版)282E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年5月~1868年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1868年5月3日(4月11日)江戸城受渡し
  江戸城受渡しの時、
  官軍の方からは、予想通り、西郷が来ると言うものだ
 から俺は安心して寝ていたよ。
  そうすると皆のものは、この国事多難の際に、勝の気
 楽には困ると言って、つぶやいていた様子だったが、
  なに、相手が西郷だから、むちゃな事をする気づかい
 はないと思って、談判の時にも、俺は欲は言わなかった。
  「ただ、幕臣が飢えるのも気の毒だから、それだけは
 頼むぜ」と言ったばかりだった。
  それに西郷は、70万石くれると向こうから言ったよ(
 氷川清話)
1868年5月3日(4月11日)勝海舟、城地・武器等引き渡し済
 む。
  8日より11日まで、昼夜四方を巡行し、その動静を伺う。
  是日、海軍局の屋上より砲撃を望ませる。
  若し、一度不測の変が起これば、官軍に駆入り、その
 誤りを一身に受けようと決心したのに、無事だったのは
 天与云々(氷川清話)
  徳川慶喜が、水戸へ向け出発した日。「御城、武器等、
 引渡済む〈勝海舟日記)」の日であった。
1868年5月3日(4月11日)徳川慶喜、水戸へ
  江戸城が無血開城され、同じ日、徳川慶喜は、上野寛
 永寺を出て水戸へ向かう。
  彰義隊は、護衛を申し出たが許されず、わずかに天野
 八郎ら彰義隊の幹部が、千住大橋まで見送った。
  春も未だ あはれと思へ 大方の、春を春とも 知ら
 ぬ我が身を、
  旧暦2月13日から4月11まで、慶喜は、春の上野に過ご
 した。
  全山桜の山である。
  普通なら、心浮き立つ春の美しい桜も、心痛で・・、
 慶喜には、よその世界のように映ったであろう。
  有栖川宮大総督が、江戸に到着する。
  官軍が進駐し、江戸近郊では、小規模な戦争が展開し
 た。
  幕臣の日記:薄曇り。上様(慶喜)今朝、千住御通に
 候ふ由。
  御鑓一節御鉄砲一挺も無き、御馬うえに候ふよし。
1868年5月3日(4月11日)榎本武楊が軍艦に立てこもり
  館山に去り、撤兵頭・福田八郎右衛門は、部下を引き
 連れ上総下総に脱走と、多くの幕臣は「無血開城」を潔
 しとしなかった。
  江戸周辺では、官軍とのごぜりあいが続発した。
  そして、砲火を浴びる危険が増し、官軍の検問も厳し
 くなった。
  氷川清話:勝海舟、総督より軍艦取扱御委任あり、つ
 いで房州に行き、開陽丸に入り説諭し、品海に乗戻させ、
 4隻引渡、事務完了。
1868年5月3日(4月11日)西郷・・去る、
  官軍が江戸城に入ってから、市中の取締りが甚だ面倒
 になってきた。
  これは幕府は倒れたが、新政府が未だ敷れないから、
 ちょうど無政府の姿になっていたのさ。
  しかるに、大量なる西郷は、意外にも、実に意外にも、
 この難局を、俺の肩に投げかけておいて、行ってしまっ
 た。
  「どうかよろしくお頼み申します、後の処置は、勝さ
 んが何とかなさるだろう」と言って、江戸を去ってしま
 った(氷川清話)
1868年5月3日(4月11日)彰義隊と官軍のこぜり合い
  慶喜が去った後、
  残された彰義隊に「慶喜守護」の名目はなくなり、「
 輪王寺宮と徳川霊廟の守護」がその名目となる。
  官軍の江戸占拠を面白くなく思う者たちは、彰義隊に
 投じ、各藩脱藩の者も加わった。
  最初は、一橋家随従の士を中心にした思想集団であっ
 た彰義隊は、2~3ヶ月の内に水膨れした。
  その数3000ともいう。
  かなり整然とした組織と、守備の部署を持っていた。
  江戸の市民の中には、彰義隊を頼もしく思い、占領軍
 である官軍を快く思わない者が多かった。
  吉原では「情夫(いろ)に持つなら彰義隊」と言って
 大いにもて、一方、薩摩などは「田舎侍」として軽くあ
 しらわれた・・らしい。
  会津も人気があった。
  下谷坂本あたりで遊んでいた子供が、官軍の錦ぎれを
 見て、坊は会津だから坊にお従い、と言い、官軍は色を
 なして親に、お前たちがもの弁えもなく、常に、官軍を
 そしり、会津を誉めているから、子供までそういうのだ、
 と腰の刀を揺らめかした、と閏4月の「此花新書」に出て
 いる。
  そのうち、官軍と彰義隊の前哨戦がいたる所である。
  官軍の酔っ払い3~4人が、谷中三崎町で、18番隊の使
 い手・関規矩守(きくもり)とすれ違った。
  いきなり関に向かって「馬鹿」と罵った官軍を、関は
 一太刀でやり、そこへ17番隊の者が通りかかって、あと
 二人を追いかける。
  一人は、本郷坂まで追われて地蔵塚前でズタズタにさ
 れ、もう一人は、団子坂上千駄木町大観音町で、左右の
 腕を斬り落とされて死んだ。
  「これがたいした評判で、3人とも薩摩の侍だという噂
 であった」と「戊辰物語」は伝えている。
  この三人の死者の墓は、三崎町大円寺にあり、本名も
 分かっている。
  その他にも、彰義隊との斬り合いがあり、まさに一触
 即発、おさまらない官軍は、西郷の手ぬるさを責める。
  勝安房は、4月末の日記に書いた。
  「此頃、彰義隊之者等、頻(しきり)に遊説し、其等
 倍(ますます)多く、一時之ふそう軽挙を快とし、官兵
 を殺害し、東台地屯集、ほとんど4000人に及ぶ」と。
1868年5月3日(4月11日)岸田吟香(きしだぎんこう、画
 家の岸田劉生の父、新聞事業の先駆者)が編集する新聞
 「横浜新報もしほ草」が発刊した。
  官軍が、江戸占領後、一時、江戸の新聞は、すべて発
 行を中止されたが、この新聞は、横浜居留地での発行で
 あり、また、外人所有のため明治政府の干渉を受けなか
 った。
  内外のニュースを平易な文章で紹介した貴重な新聞で
 あった。
  また、この新聞が有意義だったのは、幕府を支持する
 フランス、そして、薩摩(さつま)・長州の両藩を後援す
 るイギリスなどを、内乱の虚に乗ぜんとする外国勢力の
 恐るべきことを繰り返し警告した。
  1870年3月に、第42編で発行を中止した。
1868年5月12日(4月20日)官軍が、会津に向ふ
  幕臣の日記:晴夕風立。官軍会津に向ふ。
  この頃の武士の母の気持ち・・、
  大村藩の北伐軍二番隊の鼓手の浜田勤吾(鼓手は、兵
 隊が進軍するときに列が乱れないようにするためや、兵
 士を勇気づけるために太鼓を叩く人)は、
  秋田の角館の郊外・刈羽野での激しい戦いで戦死して
 しまった。
  大村兵や角館の人達は、死を悲しみ、手厚く葬った。
  その時、勤吾の衣類の襟に縫い付けてあった勤吾の母
 の歌が見つかった。
  「二葉より 手くれ水くれ 待つ花の 君がみために
 咲けやこの時」
  母は、二葉の様な幼少の頃より、あなたに手くれ水く
 れて、花になるのを待っていました、今がこの時です、
 君がみために、今、大いに咲きなさい(公・おおやけの
 のために大いに働きなさい・・殉じても良いという気持
 ちで・・)。
  この歌に心を強く打たれた角館の方達は、勤吾の母の
 気持ちを思い、涙を流した。
  今でも角館では、大村兵や勤吾少年の事が語り継がれ
 ているという。
  また、この縁で、昭和54年(1979年)、大村市と角館
 町(現:仙北市)は姉妹都市になった。
  そして、勤吾少年の記念碑が大村公園と、角館の神明
 社に建てられている。
1868年5月、戦いは、会津へと移って行く・・、
  場所をかえて続く戦いによって・・和は、抜きがたい
 ものとなっていく。
  海舟は、だからこそ、いよいよの場合は、慶喜を船で
 逃がし、海外に亡命させる手も考えたという。
  日清戦争までの明治の28年間だけでも、事件は絶えず、
 平穏な時とてなかった。
  その間にあって、不平士族というものがいつも問題の
 中核にあった。
  徳川家臣団の存在、すなわち、静岡県士族の不平とい
 うものも決して見過ごす事の出来ない問題であった。
  これを慰撫して、さまざまな機会、特に、明治10年の
 西南戦争にも動揺させないために、海舟は、目に見え
 ない所で苦心していた。
  それには、慶喜、家達(いえさと)はじめ徳川一門の
 動きにも厳重な注意と配慮が必要であった。
  旧徳川家臣団の中から反乱が起こっては、あの江戸城
 無血引渡しの意味がなくなってしまう、と海舟は考えて
 いた。
1868年5月13日(4月21日)神戸に湊川神社(みなとがわじ
 んじゃ)を創建した。
  楠木正成を主神とし、楠木正行・楠木正孝ら一族将士
 を配祀する。
  正成は、九州から攻め上る足利尊氏を迎え撃ち、ここ
 で敗死した。
1868年5月14日(4月22日)伊藤博文(兵庫県知事)が、木
 戸孝允を招き、国内で初めて馬車に試乗す(湊川神社の
 参拝の折)
1868年5月15日(4月23日)東山道の官軍が、下野宇都宮を
 復す(大鳥圭介逃れて日光山に入る)
1868年5月16日(4月24日)奥羽の官軍が、白河城に迫る。
1868年5月16日(4月24日)最初のハワイ移民
  ハワイへの移民は、急増するサトウキビ畑や、製糖工
 場で働く労働者を確保するため、1830年頃より始められ、
  また、関税が撤廃された1876年以降に、その数が増え
 始めた。
  中国、ポルトガル、ドイツ、ノルウェー、スコットラ
 ンド、プエルトリコなど、様々な国から移民がハワイ島
 行ったが、日本から行った移民が最も多かった。
  日本からの移民は、1868年から開始され、
  1902年には、サトウキビ労働者の70%が日本人移民で
 占めらた。
  1924年の排日移民法(1924年移民法)成立まで、約22
 万人がハワイへ渡った。
  この移民法は、アジア出身者について全面的に移民を
 禁止する条項があった。
  そして、アジアからの移民の大半を占めていた日本人
 が排除されることとなった。
  アメリカ合衆国政府に対して、日系人移民への排斥を
 行わないよう求めていた日本政府は衝撃を受けた。
  白人以外は、すべての人間は移民禁止とされ、露骨に
 肌の色で差別する、日本人を標的にし、人種差別を行な
 った。
  卑劣な事に、日本人漁業禁止令や、日本人児童の修学
 拒否など、数々の排日行為が行われた。
  しかし、移民した日系人たちは勤勉で粘り強く仕事を
 こなし、ある程度の成功を掴む者も現れた。
  そして、日本からの移民の多くは、契約期間満了後も
 ハワイに定着し、日系アメリカ人として、ハワイの社会
 の基礎を作り上げて行った。
1868年5月17日(4月25日)京都裁判所を京都府と改め、最
 初の府知事に長谷信篤を任命した。
1868年5月19日(4月27日)大村益次郎が、新政府の軍防事
 務局判事に任命された。
1868年5月19日(4月27日)坂本龍馬が率いていた海援隊が
 解散した。
  同時に「土佐商会」も閉鎖となった。
1868年5月20日(4月28日)官許を得ざる出版刊行物の領布
 売買を禁じ、出版物の取締を厳にす。
1868年5月(4月)福沢諭吉が、芝新銭座に英学塾を移転し、
  慶応義塾と改称した(1871.3-芝三田に再移転)。
1868年5月(4月)神田に西洋洗濯店が開業する。
1868年5月22日(閏4月1日)慶喜の移封などを建白
  肥前佐賀藩・大木喬任と江藤新平は、岩倉具視に建白
 書を提出した。
  今だに関東以北がくすぶるなか、速やかな慶喜の移封
 と天皇陛下の東幸、「天子東方御経営の御基礎の場」江
 戸城をもって東京と定め、東西の両京の設置を唱えた。
  両者の提出した意見書に、「江戸城を以って東京と」
 定め、行く行くは「東西両京」の間に鉄道を開設するが、
 まず、天皇陛下が、関東と東北の平定と鎮圧のために、
 東京に行幸すべきと述べた。
  これは二都論だった。
  この新鮮さは、江戸を東の京とし、そこに天皇陛下が
 乗り込んでゆくという発想だった。
  これ以後、政府内では「東京の説(=江戸を東京とす
 る説)」が一躍大きな課題となった。
1868年5月22日(閏4月1日)パークスが、大坂城にて、ビク
 トリア女王の信任状を、明治天皇に提出した(外国によ
 る最初の明治政府正式承認)
1868年5月23日(閏4月2日)勝海舟、総督府より昨今の時勢
 につき苦慮尽力を深く感心され、尚、この上の見込み忌
 なく申し出る旨、及び、江府鎮撫万端取扱御委任の旨御
 沙汰あり(氷川清話)
1868年5月24日(閏4月3日)明治新政府の初の言論弾圧、
  福地源一郎(政治評論家)が、江戸で、「江湖新聞(
 佐幕派の新聞)」を創刊した(主筆・福地源一郎)。
  旧暦5月の彰義隊が上野で敗れた後、掲載した記事・・、
  「ええじゃないか、とか明治維新というが、ただ政権
 が徳川から薩長に変わっただけではないか。
  ただ、徳川幕府が倒れて、薩長を中心とした幕府が生
 まれただけだ」と厳しく述べた。
  後に、新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分となった。
  そして、第16号に載った「強弱論」のため福地は逮捕
 された。
  木戸孝允が取り成して無罪放免になったが、明治政府
 初の言論弾圧行為になった。
1868年5月26日(閏4月5日)近藤勇が処刑される。34歳(旧
 暦4月25日説あり)
  閏4月5日。晴れ、午後曇り。
  近藤勇は、流山にて彦根の人数に生け捕られ、王子辺
 り首を切られ其首はすぐにいづれへか持ち行き候由(幕
 臣の日記)
  近藤勇は、鳥羽伏見の戦いを経て関東に下り、甲州勝
 沼、下総流山で官軍と戦ったが破れて降伏し、板橋庚申
 (こうしん)塚で死刑になった。
1868年5月26日(閏4月5日)小栗上野介忠順が、斬首された。
  知恵袋と言われた小栗(旧暦4月6日、1868年4月28日説
 あり)、
  最後の将軍・慶喜に信頼され、外国奉行や勘定奉行の
 要職を歴任し、財政の立て直しをした小栗。
  また、横須賀製鉄所の建設や、日本初のフランス語学
 校を設立したり、貢献度の大きい小栗。
  確かに主戦論者で強硬論派であったが、この様な主張
 は彼だけではない。
  そして、罷免された後、静かに領地の上野の権田村(
 現在の群馬県)で暮らしていたところを、急に捕縛され、
 ろくに取り調べもなされず、斬首されてしまった。
  榎本武揚らは、凾館まで行って抵抗したのに死罪とな
 らず、新政府にまで用いられている。
  小栗は、何が違ったのか?
  近藤勇は、捕縛された後、ちゃんと取り調べや尋問を
 受けた、斬首になったが・・、それなのに、小栗は?
  そのカギを解く言葉が、大隈重信にある・・、
  「小栗は、謀殺される運命にあった。
  何故なら明治政府の近代化は、そっくり小栗のそれを
 模倣したものだから・・」と、
  また、薩摩藩邸焼き討ち事件などで、小栗を恨む勤皇
 の志士たちが居たという説もある・・、
  この、時機を逸した新政府の小栗処刑には、色々な説
 があった・・後ろめたさが、新政府にあったのも確かだ
 った。
  榎本武揚のように、優秀な人材ゆえに、用いればよい
 ものを、腹を割って用いることのできなかった新政府側
 に問題があったと言える。
1868年5月27日(閏4月6日)小栗忠順、無念の死、勝は、
 言った・・、
  明治となる1868年の正月には、早くも伏見鳥羽の戦い
 が開かれ、300年の徳川幕府も瓦解した。
  小栗も、今は仕方がないものだから、上州の領地へ隠
 居した。
  それを、かねて、小栗を憎んでいた土地の博徒(ばく
 ちうち)や、また、小栗の財産を奪おうという考えの者
 どもが、官軍へ讒訴(ざんそ)したによって、小栗は、
 ついに痛ましい最後を遂げた。
  しかし、あの男は、案外清貧であったということだよ
 (氷川清話)
(付録)・・識者の言葉・・、
  宗教と道徳と歴史を学ばずして、君たちはどうして精
 神を立てるのだ。
 (志を教える 上甲晃 P80 会田雄次(京都大学教授)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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by suba28 | 2016-01-25 03:32 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)281E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年5月)

題:(増補版)281E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年4月27日(4月5日)官報の始まりといえる太政官日誌
 が、発行された(毎月6回) (旧暦2月23日、1868年3月16
 日説あり)
  明治新政府が、太政官総裁局日誌司に編集させ,京都
 の御用書物師・村上勘兵衛に命じて発行(創刊)させた。
  明治10年1月22日(1877年3月6日)の1177号まで発行さ
 れた(1877年1月までの説あり)。
  日誌の内容は、新政府の法令,人事,伺書への回答な
 どであった。
1868年4月28日(4月6日)明治天皇陛下が、大阪城中におい
 て、諸藩兵(陸軍)の操練を観給う。
  明治天皇は、明治元年3月21日(1868年4月13日)には
 大阪行幸をなされて、
  3月26日(1868年4月18日)には、天保山(てんぽうざ
 ん)沖の海軍をご親閲になられていた。
1868年4月28日、西郷とイギリス公使との接触・・、
  勝海舟が進んで接触し、その力を利用しようとしたの
 はイギリスの公使パークスと、その書記官のアーネスト・
 サトウであった。
  アーネスト・サトウの書いた『一外交官の見た明治維
 新』にその事が出ている。
  「4月1日(1868年)には、江戸へ出て、同地の情勢を
 探ったのである。
  ・・私の入手した情報の主な出所は、従来、徳川海軍
 の首領株であった勝安房守であった。
  私は、人目を避けるため、ことさら暗くなってから、
 勝を訪問する事にしていた。
  勝は、慶喜の一命を擁護するためには戦争も辞せずと
 言い、
  (戦争は)天皇の不名誉となるばかりでなく、内乱を
 長引かせるような過酷な要求は、必ずや、西郷の手紙で
 阻止されるものと信じると述べた。
  勝は、また、ハリー・パークス卿に、天皇の政府に対
 する卿の勢力を利用して、こうした災いを未然に防いで
 貰いたいと頼み、長官も、再三、この件で尽力した。
  特に、西郷が、4月28日に、パークス卿を横浜に訪ねた
 時には、
  卿は、西郷に向かって、慶喜とその一派に対して、苛
 酷な処分、特に体刑をもって臨むならば、ヨーロッパ諸
 国の世論は、その非を鳴らして、新政府の評判を傷つけ
 る事になろうと警告した。
  西郷は、前将軍の一命を要求するようなことはあるま
 いし、
  慶喜をそそのかして、京都へ軍を進めさせた連中にも、
 同様に寛大な処置が取られると思うと語った」。(氷川
 清話)
1868年4月28日、海舟の趣旨は・・、
  幕末の討幕運動の過程で、「徳川に代わるものは、薩
 摩か、長州か」といった、関ケ原の合戦の仇討的な私闘
 に終わらせず、
  できるだけ「公的」なものに高めようとしたのが、竜
 馬・海舟・南州らの悲願であった。
  慶応4年4月28日付で「西郷参謀之与へて方今人心離散
 之基源を論ずるの建言」という海舟の文章の中に、「第
 4、一家不和を生ずれば一家滅亡す。一国不和を生ずれば
 其国滅亡すべし」とあるが、
  海舟の頭脳には、あの長崎伝習所いらい夢寐(むび、
 眠って夢を見ること。また、その間)にも忘れない「近
 代国家」のイメージがあった。
  その国家観念は、「私」でなく「公」であり、「不正」
 でなく「正」「一正」「大正」でなければならなかった。
 ・・と同時に、この建言にあるように「和」(連帯感)
 が無くてはならない。
  平和裏に江戸城を引き渡した海舟の「趣旨」は、日本
 を近代国家に作りかえるためには、泥沼の闘争に陥って、
 救いがたい分裂と憎悪とを国民に残してはならない、と
 いう点にあった。
  幕府は、日本政府として「公」であり、これは政権返
 上の際に既に譲渡して今はない。
  残るのは徳川家とその家臣団であり、生活権は主張で
 きるが、それ以上は「私」に過ぎない。
  その「私」のために戦うとすれば、私闘になって、大
 義名分は失われる。
  しかし、実際問題として、徳川慶喜を死罪にすれば、
 徳川家臣団の恨みは残り、国家の不安定な状態に陥る。
1868年4月30日(4月8日)大総督の有栖川宮熾仁親王が、本
 営駿府を発った。
1868年4月、学習院・・再興・・、
  京都に学習院が再興された。
  この年の4月、京都学習院を大学寮代と改称した。
  学習院の起源は、幕末の京都に設けられた公家の教育
 機関にあった。
  19世紀の初め、光格天皇は、朝廷の権威の復活を強く
 意識し、平安時代におかれた大学寮以来の教育機関を構
 想した。
  続く、仁孝天皇の時代に、公家のための学問所を作る
 計画が決まり、
  孝明天皇に代わった1847年(弘化4年)3月、京都御所
 の東側に学問所の設置が実現し、講義が開始された。
  翌々年の1849年(嘉永2年)に、「学習院」の額(=勅
 額)が下賜され、学習院の名称が定まった。
  勅学 当初の学則には、「漢学」とともに「和学」を重
 視する教育方針が示されていた。
  1853年(嘉永6年)、ペリー来航という大きな転機を迎
 えて、幕末の動乱が始まり、尊王攘夷運動が拡がり、長
 州藩士をはじめとする尊攘派の志士は、京都に参集した。
  そして、同派の公家と結んで朝廷を動かそうとした。
  京都の学習院は、一時期、尊王攘夷派の公家と志士た
 ちの集会所として利用されたりした。
  だが、1863年(文久3年)に公武合体派による朝廷内で
 のクーデター(八月十八日の政変)がおこり、尊攘派と
 長州藩の勢力は京都を追われた。
  ここで、学習院は、本来の教育機関の姿に戻った。
  そして、1867年(慶応3年)の大政奉還直後まで講義が
 行われた。
  系譜を引く京都大学校は、1870年(明治3年)に廃止さ
 れた。
1868年5月1日(4月9日)大久保利通が、初めて、明治天皇
 に参謁した。
   無上の光栄に浴して、感涙に咽ると・・、
1868年5月2日(4月10日)会津戦争へ
  藩論が分かれた美濃・郡上藩は藩士47名を秘かに脱藩さ
 せ、幕府軍側の一隊として凌霜隊(りょうそうたい)を
 結成させた。
  会津を救いたいという意見と・・二論があった。
  そして、この日、江戸の本所中の橋菊屋に集合し、江
 戸湾を船で出発した。
  海路北上し、会津へ向かった。
  出身藩の郡上八幡城郭にその功績を標す碑がある。
  この碑には隊長・朝比奈茂吉以下35人の名が刻まれて
 いる。
  4万8千石の藩の存亡がかかる故に藩論が分かれのだろ
 うが・・、
  会津へ向かった隊士たちは懸命に戦った。
  また、籠城戦を白虎隊らと共に必死に戦うが・・、
  生き残った隊士たちは、郡上へと護送された。
  藩は、新政府の目を気にして隊士たちを入牢させ、
  一時は処刑となったが、城下の寺の住職たちの嘆願に
 よって中止された。
  慰霊碑は、官軍・新政府側についたであろう藩士の子
 孫の方たちによって建立されたという。
  官軍側につくか、会津側につくか・・は、紙一重で・・
 同じ藩の隊士だったという優しさが建立の行為となった。
  また、この日に、伊予松山藩・水戸藩の脱走者から成る
 草風隊(そうふうたい)が、会津を救いたいと、会津へ
 向けて出発している。
  草風隊は、元幕府陸軍奉行・大鳥圭介の脱走に呼応し
 て、市川の鴻ノ巣台に屯集して一隊を組織したとも・・、
  隊長の天野花陰と村上求馬で、隊士はフランス式伝習
 をうけた旧幕歩兵の精鋭で、総勢100人とも・・、
  大鳥のすすめで、他の脱走部隊と共に日光へ・・、
  その途中、結城街道の武井村で官軍と遭遇し、撃退。
  この後、小山→壬生→宇都宮と転戦、そして、会津へ、
 藤原の戦いで激戦をしたことが有名。
  この隊は、凾館での戦いでも勇名を馳せた。
  隊長の村上求馬は鬼怒川の戦いで戦死した。
  明治2年5月18日(1869年6月27日)箱館の五稜郭の陥落
 で降伏し、解散となった。
1868年5月2日(4月10日)江戸城開城前日の勝海舟と将軍・
 慶喜
  西郷との談判が成立して、江戸城の無血開城が、4月
 11日と決まった。
  その同じ日に、前将軍・慶喜は、上野の大慈院を出て、
 水戸へ隠棲すべく出発した。
  精鋭200名がお供をし、見守る者は、ただ涙雨の如くで
 あった。
  「前日の夕べ、明日引き渡しの式はかくの如しと述べ、
  主公大いに苦慮したまひ、汝が処置はなはだ果断(か
 だん、物事を思い切って行うこと)にすぐ。
  宜しく沈思熟考して、次いで後事(こうじ、将来のこ
 と)に虜(おもんばか、思いめぐらす)るべしと・・、
  此際にいたって、あに他に道あらんや。
  汝にその前、臣が大任にたへずと思ひ、固辞再三つい
 に御許容これなし。
  今にして別に深慮あられんや、ただ臣一片の心あり。
  この百万の民をして、生殺二途に出でず。
  義のあるところ殺すべき共に死し、活かすべき道あら
 ば共に生きんか。
  人事を尽くして成否を天に任す。
  臣此際にあたり終に一点の疑念なく、また、一点の恐
 懼(きょうく、おそれかしこまること)なし。
  ただ希(ねが)ふ、疑念一片その胸中に出せば、冥々
 (めいめい、暗いさま。暗くて見分けがつかないさま)
 中大いに感触生じ、迷想百出、ついに初心貫徹せず。
  若し自ら信じて疑いはざる時は、終に貫徹せざるなか
 らんか。
  歳月は過ぎ易く、心中 し易く、危うきを忘れ、難を
 いとふは人情の常なり。
  臣ここに思ふところあり。
  今後十数年間、臣が肝識(知識、見識が習慣化し、本
 人の特性、徳性までになった段階)衰へざるを了悉(り
 ょうしつ、ことごとく理解すること)す。
  もし命の存するあらば、必ず我が趣旨をして貫徹せし
 むべきなり」。
  慶喜と勝。ここに人間の資質の差がある。
  慶喜は利口そうに見えても所詮殿様育ちである。
  有能な事は、かつて蛤御門の変で、桂小五郎をして「
 東照神君の再来か」と驚かしめたほどの勇気もあり知略
 もあるが、大変に処して節を全うするにはなお弱い所が
 ある。
  「将軍江戸を去る」の日にあたっても、まだ勝に向か
 泣き言を言っている。
  万事一任した筈の勝に向かってまだ文句をつけずにい
 られない。
  勝が何を考えているか、その深謀遠慮、その古井戸の
 様な心の深さは、慶喜には届かない。
  今後十数年間、命のある限り、勝は「必ず我が趣旨を
 して貫徹せしむべきなり」と誓う。
  その「趣旨」とは何か。
  何を貫徹するつもりなのか。
  幕臣からは「腰抜け」「意気地なし」「大逆賊」「薩
 長のイヌ」と罵(のの)られ、
  「徳川を売るもの」といわれ、
  今また、慶喜からさえも、「汝が処置ははなはだ果断
 にすぐ」と文句をつけられている。
  しかし、勝は、衷心深くこの政治的解決は正しかった
 と自分に言い聞かせている。
  その正しさを今後十何年かかっても歴史において証明
 すると心に思っていた。
  江戸城無血引き渡しは、歴史の終末、結論ではなくて、
 このままでは未完成で、これからまた、舞台が始まる。
  これは、一緒に仕事をした大久保一翁にさえ分かって
 もらえてない。
  維新の頃には、妻子までもおれに不平だったよ。
  広い天下に、おれに賛成する者は一人もなかったけれ
 ども(山岡や一翁には、後から少し分かったようであっ
 たが)、俺は、常に、世の中には、道というものがある
 と思って、楽しんでいた・・と、
  海舟は、孤独であった。
  「この道や 行く人なしに 秋の暮れ」(芭蕉)
  江戸の戦争を回避し、慶喜の命を守り、徳川70万石を
 確保してみても、
  海舟の心は、寂たるものであったろう(氷川清話)
1868年5月2日(4月10日)勝海舟、前日と同じく池上へ行く
 (氷川清話)
1868年5月3日(4月11日)江戸城開城。
  江戸城が無血開城した。
  氷川清話:江戸開城。江戸城を朝廷に差し出す。慶喜、
 水戸に下る。
  受渡式の官軍代表・西郷隆盛、徳川方代表・大久保忠
 寛。
  政体書を公布し、新官制を定めた(三権分立、官吏公
 選)
  徳川慶喜が、水戸へ退去したこの日に、榎本武揚や大
 鳥圭介らの幕臣が、海陸両軍を率いて江戸を脱走した。
..
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by suba28 | 2016-01-24 02:58 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)280E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)

題:(増補版)280E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年4月5日(3月13日)神仏分離(神仏判然令)(~1868
 年12月1日)
  新政府が、太政官布告で「神仏判然令」を出す。
  政府の政策的意図による神仏分離令・排仏毀釈により
 神仏混淆がなくなる。
  神道振興で、諸社が格式をそなえ、神社と仏寺の習合
 が禁じられる。
  多くの仏寺が、神社として存続するが、廃滅を余儀な
 くされた寺もある。
  廃寺改称が30か寺にのぼる。順次移り変わる。
  ローマ法王が、日本の神道は良いが、仏教は駄目と言
 った。
  キリスト教の偏するNHKはその為、この明治の神仏
 分離令的な行為を現代でもしている。
  仏教を蔑視し、無視するNHKとなっている。
  明治の廃仏毀釈も酷かったが、今のNHKもひどい。
  神道の国教化の方針を採用し、神仏習合を排した。
  神道の神に仏具を供えること、また、「御神体」を仏
 像にする事を禁止し、
  神社に奉仕していた僧侶に還俗を命じた。
  これをきっかけに、全国各地で廃仏毀釈の運動が起き
 た。
  各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。
  神官や国学者が煽動した。
  西洋は、良いのだとか、西洋に追い付けの盲目の意思
 も働いた。
  尚、この様な破壊の例は、キリスト教宣教師が、民衆
 を扇動して行なった例がある。
  この時は、神社や仏閣のみさかいが無かった。
  豊臣秀吉から「何故、穏便にできないのか」とたしな
 められた位だった。
1868年4月7日(3月15日)川路聖謨(かわじとしあきら、幕
 臣)が没。
  川路聖謨が、この日、江戸城開城を悲観し、自邸でピ
 ストル自殺をした。
  河村修就と同様に幕府の外交官として、開国に向けて
 力を惜しまなかった人物の自害であった。
  徳川将軍家への忠誠を精神の背骨におき、海外事情に
 通じ開明性をもち続けた人だった。
  「天つ神に 背くもよかり 蕨摘み 飢えし昔の 人
 をおもへば」。
1868年4月7日(3月15日)有栖川宮熾仁親王が、筑前、津和
 野両藩の兵を率いて京都を出発した。
1868年4月、勝海舟、江戸城地引渡しを談ず
  勝海舟、池上に行き、先鋒総督府に江戸城地引渡しの
 ことを談ず(氷川清話)
1868年4月、陛下に御拝謁・・、
  大久保は、行幸の行在所の大阪本願寺別院で天皇陛下
 に拝謁した。
1868年4月12日(3月20日)徳川家処分に関し、三職会議(
 三条実美、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、
 広沢正臣ら)
1868年4月12日、秋山真之(あきやまさねゆき、海軍中将)
 が愛媛県に誕生(1868年~1918年)
  日露戦争(1904年)で東郷司令長官の参謀。
  戦略家として知られた。
  「天気晴朗なれども波高し」などの戦報の文章は有名。
  1897年にアメリカに留学し、翌年・1898年にアメリカ
 =スペイン戦争観戦のためアメリカ運送船『セグランサ』
 号に乗組んでいる。
1868年4月(3月)徳川家事務を田安邸に移す(氷川清話)
1868年4月(3月)各藩に貢使を命ず(氷川清話)
1868年4月13日(3月21日)明治天皇が、親征と大坂行幸の
 ため、京都を出発。閏4月8日京都に還幸。
  天皇大阪に行幸(氷川清話)
1868年4月13日(3月21日)英軍艦で将軍を亡命・・、
  1968年3月21日と27日の両日の「海舟日記」には、
  「英吉利人来訪、我が心理を話す、彼、善(よし)と
 称す」とか、「英公使パークス氏並海軍総督キップル氏
 を訪ふ、
  此程之趣意を内話す、英人大に感ず」と書き留めてあ
 る。
  これは、パークスが、海舟の立場に同情して、海舟に
 協力することを約束したのであり、
  横浜にある英軍艦アイロンヂック号の艦長キップルに
 紹介し、その艦の出発を一か月延期して、品川に留めて
 おこうと言ったのであった。
  その意味は、もし西郷との談判が不調に終わって、戦
 争となったら、慶喜を坊主にして法衣を着せて、浜御殿
 から小舟に乗せてアイロンヂック号に運んで、そのまま
 イギリスに亡命させようという計画であった(氷川清話)
  そして、また・・、氷川清話
  勝海舟、英公使パークス氏を訪い、英軍艦の艦長キッ
 プル氏を招き、厚意を謝し、密事を談じ此の艦を1ヶ月
 滞船させることを約束。これは海舟の深思遠慮の所であ
 る(氷川清話)
1868年4月、軍艦4隻朝廷に納む。その余4隻徳川に賜る
 (氷川清話)
1868年4月、勝海舟、狙撃される・・、
  勝海舟、半蔵門外で官兵に狙撃され落馬し死を免れる
 (氷川清話)
  慶応4年4月末に、官兵3、4人が小銃を以って俺を
 狙撃した。
  しかし、幸いに体には当たらないで、頭の上を通り過
 ぎたけれど、その響きに馬が驚いて、後ろ足で立ち上が
 ったものだから、俺はたまらず、あおむけざまに落馬し
 て、路上の石に後脳を強く打って、一時気絶した。
  けれども暫くすると、自然に生き返って、辺りを見回
 したら、誰も人はおらず、馬は平気で道端の草を食って
 いた。
  官兵は、銃丸が当たったものと心得て立ち去ったので
 あろう(氷川清話)
1868年4月16日(3月24日)パリにて、初めて邦字新聞が、
 発行された(石版刷「世の噂」)
1868年4月16日(3月24日)「九州鎮撫長崎総督府」が、九
 州の34藩の全てを管轄することになった。
1868年4月18日(3月26日)天皇陛下が、軍艦を観閲された。
  日本最初の観艦式が行われた。
  朝廷は、2月6日に、海陸軍務総督の名で7藩(鹿児島、
 山口、土佐、佐賀、久留米、福岡、広島)から各軍艦と
 汽船1~3隻を徴発して集め、この機に在大阪の軍艦を一
 同に会わせて、3月26日に、天保山沖で天皇の親閲を行な
 う事を決めた。
1868年4月24日(4月2日)勝海舟らに、江戸の取締りを命ず。
 (4月29日説あり)
1868年4月24日(4月2日)ストーンウォール号(甲鉄艦)が、
 横浜に入港した。
  (官軍の海軍先鋒の大原俊実が、これを抑留した)
  ストーンウオール号(甲鉄艦)は旧名で、東艦(あず
 まかん、1872年12月7日に改名)と言った。
  この艦の艦歴は、1867年に幕府がアメリカに買取を約
 束したが、1868年に戊辰戦争が勃発し、幕府が崩壊する
 と、新政府側で買い取りたいと言い出した。
  旧幕府は、これに反発。
  横浜に至ったアメリカは、戦いの決着がつくまで売ら
 ないとした。
1868年4月、大原侍従・・、
  勝海舟が、横浜に出張し、大原侍従の旅館へ参謁(さ
 んえつ、参上して目上の人や尊貴な人に会うこと)、公
 の厚意を謝し、
  且つ、主家の至誠、又、臣節(しんせつ、臣下として
 守るべき節操)の重きを述ぶ(氷川清話)
  大原侍従は大原俊実のことで・・、
  佐賀藩の海軍奉行の島義勇は、この年3月(1868年4月)
 に、官軍の海軍編成を命じられている。
  そして、この月末に、彼(島義勇)は、勝海舟に面会
 し、勝を新政府側に帰順させようとした。
  海舟日誌に、以下の記述がある・・、
  「海軍先鋒・大原俊実、佐賀藩士・島団右衛門義勇を
 して旧幕府陸軍総裁・勝義邦に説き、旧幕府の軍艦を納
 れて帰順せしむ、義邦、之を辞す」と。
  官軍、もしくは、佐賀藩主は、、徳川海軍をどうにか
 せよと命じたのだろう、そして、官軍の大原俊実と佐賀
 藩士・島団右衛門義勇が動いた。
1868年4月25日(4月3日)近藤勇・・、
  近藤勇が、下総流山にて、官軍に抗して虜となった。
1868年4月25日(4月3日)新聞の発刊・・、
  福地源一郎が、江潮新聞を発刊した。
1868年4月25日(4月3日)慶応義塾・・、
  福沢諭吉が、運営する英学塾を芝新銭座に移し、「慶
 應義塾」と改称した。(閏4月説あり)
  尚、1871年に、三田へ移転している。
  慶応大学のホームページには・・、
  「4月 鉄砲洲から新銭座に移り、時の年号(9月改元)
 に因んで慶應義塾と名づける。
   同月 長女里が生まれる。
  5月15日 上野彰義隊の戦の砲声を耳にしながらウェー
 ランド経済書の講義をする。
  8月ごろ、幕臣をやめて帰農。
  この年、明治新政府よりたびたび出仕を命ぜられたが、
 固辞する」・・とある。
  新銭座移転後は、もっぱら民間で活発な著作活動を行
 なった・・ともある。
  「西洋事情」「学問のすすめ」「文明論之概略」など
 は、その代表作であり、
  その中で、近代文明を紹介するとともに、門閥制度に
 対する徹底的な憎悪を吐露し、官尊民卑を激しく攻撃し、
 儒教に関わる実学を主張した。
  「独立自尊」の4字に集約される国民の創出に努め、
 政府及び民衆に比類ない影響と勇気を与えた。
  一方、「演説」を創始し、明六社に参加し、さらに、
 家族道徳の革新には終生関心を持ち続けた。
  しかし、自由民権運動が起こると批判的となり、国民
 主義に移行した。
  日本の偉大な教育家であり、思想家。
  福沢諭吉は、その著「文明論の概略」で説いたものは、
 西洋文明を見習えとは言ったが、福沢諭吉の主張すると
 ころ、説くところを突き詰めれば、西欧起源の近代科学
 技術であった。
  その思想や宗教とは違う。
  西洋文明を無批判に取り入れる、まだ、何も知らなか
 った明治初期において、福沢は、冷静にものを見分けて
 いた。
  しかし、この明治初期に、福沢の様に、ものがよく見
 分けられないでキリスト教に入って行った日本人が多く
 居た。
1868年4月26日(4月4日)江戸開城の勅使が参向した。
  勅使(ちょくし、勅旨を伝える使者)が下向。
 西郷は、勝・大久保らとの間で最終的な条件を詰め、
 旧暦4月4日には、大総督府と徳川宗家との間で最終合意
 に達し、
  東海道先鋒総督・橋本実梁、副総督・柳原前光、参謀・
 西郷らが、兵を率いて江戸城へ入城した。
  橋本らは、大広間上段に導かれ、下段に列した徳川慶
 頼・大久保一翁・浅野氏祐らに対し、徳川慶喜の死一等
 を減じ、水戸での謹慎を許可する勅旨を下した。
  そして、旧暦4月9日(1968年5月1日)には、静寛院宮
 が清水邸に、
  旧暦4月10日(5月2日)には天璋院が一橋邸に退去した。
  旧暦4月11日(5月3日)には、慶喜は、謹慎所の寛永寺
 から水戸へ出発し、同日をもって江戸城は無血開城、大
 総督府が接収した。
  それより前、旧暦4月8日(4月30日)に東征大総督熾仁
 親王は駿府を発し、旧暦4月21日(5月13日)に、江戸城
 へ入城した。
  ここに、江戸城は、正式に大総督府の管下に入り、江
 戸城明け渡しが完了した。
  また京都では、旧暦4月9日(5月1日)に、明治天皇が、
 紫宸殿において軍神を祀り、徳川慶喜が謝罪し、江戸を
 平定したことを報告された。
..
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by suba28 | 2016-01-23 04:21 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)279E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)

題:(増補版)279E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年4月6日(3月14日)翌日の会談・・江戸開城談判
  再度、翌日に、西郷隆盛と勝海舟との会談が行われた。
  幕府全権の陸軍総裁の勝安房(海舟)と、新政府軍参
 謀の西郷隆盛の和平交渉が行なわれた。
  幕府側は、大久保一翁(利通)や山岡鉄太郎(鉄舟)
 、東征軍側は、村田新八、桐野利秋らが同席した。
  交渉は、江戸高輪の薩摩藩・江戸藩邸だった。
  前日に続いての、この会談で、江戸城を開城し、新政
 府軍に明け渡されることになった。
  新政府軍による江戸城総攻撃は、4月7日(旧暦3月15日)
 と、この会談の日の翌日と予定されていたが、勝の説得
 に西郷が応じた。
  江戸が戦火に巻き込まれずに済んだ。
  この後、5月3日(旧暦4月11日)に、江戸城が無血開城
 された。
  真の「名誉革命」だった(イギリスの名誉革命は偽り)。
  城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれた。
  徳川慶喜は、謹慎所の上野寛永寺から、水戸へ。
1868年4月6日(3月14日)品川談判2、
  勝海舟は、この日の事を書いた・・、
  「翌日、すなわち14日に、また、品川へ行って、西郷
 と談判したところが、
  西郷が言うには、「委細承知した。しかし乍ら、これ
 は拙者の一存にも計らい難いから、今より総督府へ出掛
 けて相談した上で、なにぶんのご返答をいたそう。
  ・・が、それまでのところ、ともかくも、明日の進撃
 だけは、中止させておきましょう」と言って、
  そばにいた桐野や村田に、進撃中止の命令を伝えたま
 ま、後は、この事について何も言わず、
  昔話などして、従容(しょうよう、ゆったりと落ち着
 いているさま)として、大事の前に横たわるを知らない
 ありさまには、俺もほとほと感心した。
  この時の、談判の詳しい事は、いつか話した通りだが、
 それから、西郷に別れて、帰りかけたのに、この頃、江
 戸の物騒なことといったら、なかなか話にもならないほ
 どで、
  どこからともなく、鉄砲玉が、始終、頭の上をかすめ
 て通るので、俺も、こんな中を、馬に乗って行くのは険
 呑(けんのん、危険な感じがするさま)だと思ったから、
 馬をば別当に引かせて、俺は、後からとぼとぼ歩いて行
 った。
  そして、ようやく城門まで帰ると、大久保一翁をはじ
 めとして、皆々が、俺のことを気遣って、そこまで迎え
 に出ておったが、
  俺の顔を見るとすぐに、「まずまず無事に帰ったのは
 めでたいが、談判の模様はどうであったか」と尋ねるか
 ら、
  その顛末(てんまつ)を話して聞かせたところが、
  皆も大そう喜んで、
  「今し方まで、城中から四方の模様を眺望していたの
 に、初めは、官軍が緒方から繰り込んでくるから、これ
 は、必定、明日、進撃するつもりだろうと気遣っていた
 が、
  先刻からは、また、反対にどんどん繰り出して行くよ
 うなので、どうしたのかと不審に思っていたのに、
  君のお話によれば、西郷が進撃中止の命令を発した訳
 と知れた」と言うので、
  俺は、この瞬間の西郷の働きが行き渡っているのに、
 実際、感服した。
  談判が済んでから、例え、歩いてとは言うものの、城
 まで帰るには、時間は幾らもかからないが、
  その短い間に、号令が、ちゃんと諸方へ行き渡って、
 一度、繰り込んだ兵隊を。また、後ろへ引き戻すという
 働きを見ては、西郷はなかなか凡の男でない、といよい
 よ感心した。
  ひっきょう、江戸百万の人民が命も助かり、家も焼か
 れないで、今日の様に繁昌しているのは、みんな、西郷
 が「諾(よし)」と言ってくれたおかげだ。
  俺は、始終、この事を思っている(氷川清話)
  勝海舟、再度、同所で西郷と会談、徳川恭順の旨を伝
 える。
  彼、よく情実を察し、明日の進撃を中止す(氷川清話)
  14・15の両日、薩摩屋敷で大総督府参謀・西郷隆盛と、旧
 幕府陸軍総裁・勝海舟の会談が行なわれた。(無血開城
 で交渉成立)。
1868年4月、海舟の後日談・・、
  海舟の「江戸城無血開城」の策が受け入れられなかっ
 た場合の・・次なる策の「江戸の町の焦土作戦」・・、
  そして、そのために用意した品々が・・、
  無血開城策が受け入れられたので、無用の長物となっ
 て・・品川の沖に捨てる事になり、
  その事を行なったが・・、余りに怪しい行為だったの
 で、大いに疑われた・・という、幸い、笑い話になった
 が、
  そこまで考えていた海舟を、結果として、この用意が
 無駄に終わって良かったのだが・・、
  人は、その愚を、海舟に感謝しつつ苦笑し、笑った。
  しかし、海舟に言わせれば・・、
  「予も亦甚だ愚拙(ぐせつ、愚かでつたない者、男性
 が自分をへりくだっていう語)を知る。
  然りといへども、若しかくの如くならざりせば、14、
 15両日の談、予が精神をして活発ならしめず、又、貫徹
 せざるものあり」。
  つまり、外交談判というものは、「気迫」である。
  いくら正理正論を述べても、人はその論に聞かず、そ
 の人に聞くものである。
  その気迫の充実、その気合いの鋭さによって、同じこ
 とを言っていても、通る時と通らない時とある。
  背景に力があり、自信がなければ、どんな立派なこと
 を言ってみても、それは「口舌の徒(こうぜつのと、言
 葉は達者であるが実行力の伴わない人を軽蔑していう言
 葉)」にすぎない。
  相手に見透かされてしまう。
  だから一見無駄なようであるが、それだけの用意、手
 配というものは無駄でないのである。
  西郷を押し切るだけの迫力があるかないのかが問題だ
 ったのである(氷川清話)
1868年4月6日(3月14日)五箇条の御誓文
  (民主主義は、日本自らのもの、既に持っていたもの、
 欧米から得たものではない)
  氷川清話:五箇条の御誓文が発す。
  明治天皇が、南殿に渡御し、公卿諸卿を率いて、天地
 神祇を祭り、五箇条の御誓文を下す。
  明治新政府は、大政奉還後の発足当初から「公議」を
 標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。
  慶応4年1月、福井藩出身の参与・由利公正が、「議事
 之体大意」五箇条を起案し、
  次いで、土佐藩出身の制度取調参与・福岡孝弟が、修
 正し、そのまま放置されていた。
  それを、同年3月に入って、長州藩出身の参与・木戸孝
 允が加筆し、同じく、参与の東久世通禧を通じて、議定
 兼副総裁の岩倉具視に提出した。
  昭和21年の天皇陛下の人間宣言において、御誓文が引
 用されているが、
  天皇陛下が示されたお考えは、「これまでも皇室が決
 して独裁的なものでなかったこと示すために・・」と、
 明治天皇の五箇条の御誓文を加えられた。
  また、「民主主義を採用したのは、明治大帝の思召し
 である・・そうして、五箇条御誓文を発して、それが、
 基となって明治憲法が出来たので、民主主義というもの
 は決して輸入物ではないということを示す必要が大いに
 あったと思います」と。(1977年8月23日、記者会見)
  「五箇条の御誓文」の、まず、最初に・・
  一、広く会議を興し万機公論に決すべし・・とある、
  これこそ・・民主主義である。
  第二次世界大戦のとき、日本は、民主主義を欠いてい
 たから侵略戦争を起こすに至ったと、アメリカは繰り返
 し、繰り返し・・言ったが、・・
  言いがかりだ。
  アメリカは、五箇条の御誓文などの日本の歴史の史実
 などを知っているのだろうか?
  「我々(アメリカ)は、知っている」が、日本は、民
 主主義を知らないと言うのは・・蔑視だろう。
  アメリカにある蔑視意識・・キリスト教国にある有色
 人種に対する蔑視意識である。
  欧米の民主主義に匹敵するものは、既に、日本にもあ
 った。
  また、平等の考えについても、とうの昔からある日本
 なのだ。
  平等院に見学に来る外国人たちに、欧米列国より、と
 うの昔からあるという話にびっくりするが、佛教にある
 平等の理念が、既に、日本にあった。
  西欧の市民革命より600年以上も前に、日本には平等の
 教えがあり、根付いていた。
  平等院という建物さえある。
  この1例の様に、日本には、その様な教えの数々がある。
  逆に、欧米にある唾棄すべき奴隷という意識・観念は、
 日本には、まったくない。
  キリスト教の聖書には、キリスト教の神が率先して「
 奴隷にせよ、奴隷にせよ」と叫び、隣国の民を自国のた
 めにだけに利用しようと奴隷観念を教え、そして、説く。
  その様な教え・教義に感化された社会とは違う日本な
 のだ。
  アメリカの独立宣言の文を書いたジェファーソン(第
 3代大統領))は、奴隷を多く使った大きな牧場を経営す
 る牧場主で、人種差別の悪の行為をしている。
..
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by suba28 | 2016-01-21 02:12 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)278E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)

題:(増補版)278E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年4月1日(3月9日)山岡鉄舟が、駿府城にて、西郷隆
 盛と会見した。
  (勝海舟の和平解決の書面を提示した)
  山岡、駿府で西郷に面会、総督府の御内意を齋し帰府
 す(氷川清話)
  勝安房は、慶喜の助命嘆願の下工作のため、山岡鉄太
 郎を駿府の大総督府に派遣した。
  薩人・益満(ますみつ)、休之助を連れ、勝の書状を
 携えた山岡は、するすると敵中を抜けて、3月9日、駿府
 へ到着した。
  西郷と会談し、
  (1)城の明け渡し、
  (2)城中の家臣を向島へ移す、
  (3)兵器・軍艦を渡す、
  (4)慶喜の妄動を助けた者に謝罪させる、
  (5)幕府で鎮撫できず、暴挙する者は、官軍が鎮定
    する、
 ・・と言った朝命7ヶ条が示された。
  「慶喜の備前藩のお預け」だけは君臣の情として忍び
 難いと、山岡が言うと
  西郷は「慶喜殿の事、吉之助一身が引き受け申した」
 と確約した。
1868年4月、両雄の会談のまえ・・、
  西郷は、東征軍の総参謀長となった。
  最上位の地位である。
  西郷の謀略は凄かった。
  江戸かく乱工作に功のあった相楽総三は、東征軍の先
 鋒として中山道を進んでいたが、偽官軍の汚名をかぶせ
 られた。
  そして、諏訪湖畔で処刑されてしまった。
  歴史のダーティな部分を知るために消されたのだった。
  処刑を命じたのは西郷だった。
  江戸に帰った慶喜は、抗戦を説く幕臣には耳を籍さず、
 ひたすら恭順の意を示そうとした。
  そうとは知らぬ西郷は、江戸開城に猛りつつ、駿府ま
 で攻め上っていた。
  その時、幕臣・山岡鉄舟が、陸軍総裁・勝海舟の手紙
 を持参し、自らも訴えた。
  「戦に逸る(はやる、あせる、勇みたつ)だけでは王
 師(おうし、王の軍勢、官軍)とは申せますまい。徳川
 もまた帝(みかど)の民でございます」。
  西郷は、臆する事のない山岡の度胸と誠意に動かされ、
 「慶喜公は、この西郷が身命に代えてお守り致す」と言
 った。
1868年4月2日(3月10日)官軍、来る
  東海道の官軍、神奈川から六郷辺りに到る。
  府下の殺気充満、
  中山道東下の土州兵、尾州邸に入る、
  駿府より上野法親王、御東帰(氷川清話)
1868年4月5日(3月13日)両雄の会談(江戸の薩摩屋敷)
  西郷隆盛と勝海舟の両雄が、江戸の薩摩屋敷で会見し
 た。
  旧暦3月9日の山岡と西郷の話し合いの結果が、勝安房
 に伝えられ、
  勝は、腹を決めて、旧暦3月13日に、芝高輪の薩摩邸で
 西郷と会見し、
  旧暦4月11日に、江戸城は、無血開城されることとなっ
 た。
  氷川清話・・では・・、
  西郷におよぶことが出来ないのは、その大胆識と大誠
 意にあるのだ。
  俺の一言を信じて、たった一人で、江戸城に乗り込む。
  俺だってここに処して、多少の権謀を用いないことも
 ないが、ただ、この西郷の至誠(しせい、きわめて誠実
 なこと)は、俺をしてあい欺くことが出来なかった(氷
 川清話)
1868年4月5日(3月13日)勝・西郷会談
  江戸城総攻撃の時が迫る中で西郷(39歳)は、芝・田
 町の薩摩屋敷に勝海舟(45歳)を迎えた。
  4年前に初めて会った時、西郷は、勝の偉才に惚れた。
  しかし、総参謀長として、西郷は最後の質問を放った。
  返事次第では、会談は決裂するだろう。
  勝も、江戸を自らの手で焼く手はずをすでに整えてい
 る。
  勝は言った「江戸を焼けば、この国も支那やインドの
 轍を踏むことになる」・・と。
  大きく首肯(しゅこう、うなずくこと)した西郷は、
 隣室の側近を呼ぶと告げた。
  「江戸城総攻撃は取り止め」。
  江戸の無血開城によって幕藩体制は終焉した。
  列強の植民地化の危険も去った。
  西郷は、我が事なれりと野に下ったが、新政府は、西
 郷を迎えて、筆頭の参議に据えた。
1868年4月5日(3月13日)官軍との談判で・・、
  勝海舟は、慶応4年に、西郷との会見に臨む。
  勝は、「氷川清話」に書く。
  「当日、俺は、羽織袴で馬に騎って、従者を一人連れ
 たばかりで、薩摩邸へ出掛けた。
  まづ、一室へ案内せられて、しばらく待って居ると、
 西郷は、庭の方から、古洋服に薩摩風の引っきり下駄(
 のこぎりで引いて切った下駄)をはひて、
  例の熊次郎という忠僕を従へ、
  平気な顔で出て来て、これは実に遅刻しまして失礼、
 と挨拶しながら座敷に通った。
  その様子は、少しも一大事を前に控えたものとは思わ
 れなかった。
  さて、いよいよ談判になると、
  西郷は、俺のいふ事を一々信用してくれ、その間、一
 点の疑問も挟まなかった。
  「色々、むつかしい議論もありませうが、私が一身に
 かけて御引受けします」、
  西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財
 産とを保つ事ができ、
  また、徳川氏も、その滅亡を免れたのだ」。
  この会談は、きわめてスムーズに進行したような印象
 を受けるが、
  真実そうでない。
  勝は、破談になった時の事を考えて、謀略を巡らせて
 いる。
  それは、第一に、西郷に対し、ナポレオンの教訓を教
 えている。
  ナポレオンが、ロシアに攻め入った時に、ロシア軍は、
 自らモスクワに火を放ち、それによって、ナポレオンも
 敗退させたという事で、
  いざとなれば、江戸でも、それと同じ焦土作戦をやる
 と言って西郷を脅した。
  その手は、実際、打ってあった。
  一方、イギリス公使館通訳官、アーネスト・サトウを
 通じて、イギリス公使のハリー・パークスも動かしてい
 る。
  勝が、西郷と最初の会談を行ったまったく同じ日に、
 パークスは、東海道先鋒総督府・参謀の長州藩士・木梨
 精一郎と会談をしているが、
  パークスは、この時、
  「横浜が混乱して、貿易に支障を来すと、日本のため
 にも、不利益を生ずる事になる。
  従って、とりあえず、英仏両国の軍隊で警備を当たっ
 ているから、左様ご承知おき戴きたい」・・と発言して
 いる。
  これは、官軍が、江戸に攻め入るようなら、英仏両軍
 を敵に回す事になるという脅しに他ならなかった。
  勝との2回目の会談を始める前に、当然、西郷に、この
 情報はもたらされていた。
  鳥羽伏見の戦いでは、官軍の近代兵器や、整然とした
 軍律から見ても、幕府軍に、到底、勝ち目は無かった。
  勝は、西郷との駆け引きで、江戸の治安は自分が守り、
 彰義隊も自分の手の上にある・・と、
  そして、慶喜公の安全を得たいと考えていた。
1868年4月5日(3月13日)勝海舟、高輪の薩摩藩邸で参謀・
 西郷吉之助に面会、静寛院宮進退の事を述べる(氷川清
 話)
  勝海舟は、江戸開城前の西郷隆盛との会談の際に、幕
 府に居る静寛院宮(和宮)や天璋院の存在について話を
 している。
1868年4月5日(3月13日)品川の談判、様子を伺う兵たち
  この時の談判が、まだ始まらない前から、桐野利秋な
 どという豪傑連中が、大勢で次の間へ来て、秘かに様子
 を伺っている。
  薩摩邸の近傍へは、官軍の兵隊がひしひしと詰めかけ
 ている。
  その有様は、実に殺気陰々として、ものすごいほどだ
 った。
  しかるに、西郷は、泰然として、辺りの光景も眼に入
 らないものの様に、談判をし終えてから、俺を門の外ま
 で見送った。
  俺が、門を出ると、近傍の街々に屯集していた兵隊は、
 どっと一時に押し寄せて来たが、
  俺が、西郷に送られて立って居るのを見て、一同、う
 やうやしく捧げ銃(つつ)の敬礼を行なった。
  俺は、自分の胸をさして兵隊に向かい、「いずれ今、
 明日中には何とか決着いたすべし。
  決定しだいにて、あるいは足下らの銃先にかかって死
 ぬることもあろうから、よくよくこの胸を見おぼえてお
 かレよ」と、言い捨てて、西郷にいとまごいをして帰っ
 た。
  この時、俺が、ことに感心したのは、西郷が、俺に対
 して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、
  談判の時にも、始終、坐を正して、手を膝の上に乗せ、
 少しも戦勝の威光でもって、敗軍の将を軽蔑するという
 ような風が見えなかったことだ。
  その胆量の大きいことは、いわゆる天空海闊(かいか
 つ)で、見識ぶるなどという事はもとより、少しもなか
 った(氷川清話)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-01-20 03:56 | 皆様とともに 幸せになりたい


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