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(増補版)268D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1866年5月~1866年12月)

題:(増補版)268D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1866年5月~1866年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1866年、大阪・江戸打ちこわし:
  江戸時代中期から、たびたびあったが・・、
  第二次征長のとき、征討令が出されて物価が高騰した。
  そのために起こった。
1866年6月13日、武州一揆(武州世直し一揆)
  武蔵国秩父郡上名栗村で、この日に、蜂起し、19日に
 壊滅した。
  「世直し」を掲げた貧農ら約10万人余により、豪農層
 に対する打ちこわしが行われた。
  打毀しは、450軒余に渡った。
  秩父(ちちぶ)郡・高麗(こま)郡・多摩(たま)郡の山村
 の百姓が、米値など諸物価の高騰に困窮し、在郷商人ら
 に米穀の安値売りを求めたが拒絶され、打毀(うちこわし)
 連中を結成して、同時に蜂起した。
1866年6月14日、国産初の蒸気軍艦・千代田型が就役した。
  石川島造船所で、初めて日本人が設計した蒸気軍艦・
 千代田型が建造された。
1866年6月25日、改税約書(かいぜいやくしょ、江戸協約)
  幕府は、英・米・仏・蘭と、改税約書に調印し、輸入
 関税の引き下げにより、
  以降輸入が急増した。
  列国の圧力のもとに、改訂された関税協定で、江戸協
 約ともいう。
  1865年11月4日、兵庫沖に集結した四国連合艦隊 (英、
 仏、米、蘭) の威嚇により、
  幕府は、兵庫開港延期の代償として、関税率の引下げ
 要求に応じるほかなく、
  1866年6月25日、江戸で、老中・水野忠精 (みずのただ
 きよ) が調印、6日後に発効(はっこう、法律や規則など
 の効力が発生すること)した。
1866年6月15日、信達一揆が起きた。
  江戸時代後期と末期に、陸奥国(むつのくに)信夫(しの
 ぶ)・伊達(だて)両郡(福島市周辺)にまたがり起こった
 大百姓一揆。
  1749年(寛延2)と1866年(慶応2)に起こっている。
  この時の一揆は、物価高騰、助郷(すけごう)加重負担、
 蚕種・生糸の不良品取締りを名目にした荷改め料徴収な
 どに反対し、
  信夫・伊達両郡全域の農民らが、加担した在方商人ら
 に打毀(うちこわし)をかけたもの。
  6月15日から七日八晩にわたり49か村164戸を打毀し、
 要求を実現した。
  金原田(かなはらだ)村(伊達市)の農民思想家・菅野
 八郎(かんのはちろう)が指導者と目され、
  彼は、「世直し大明神」とよばれた。
  また、長州出兵の最中に起こった世直し騒動で、関東
 の武州一揆とともに幕府に大きな打撃を与えた。
1866年6月25日、燈台条約締結
1866年7月10日、勝海舟が、軍艦奉行に復帰した。
  長州藩と幕府の緊張関係が、頂点に達する直前のこの
 日に、
  勝海舟は、軍艦奉行に復帰し、
  老中・板倉勝静の命を受けて大阪へ向かった。
  出兵を拒否した薩摩藩と、会津藩の対立解消、および、
 薩摩藩を出兵させる約束を取り付けるという命だった。
  この任務は、成功したと、後年、海舟は語っているが、
 実際は、「薩摩藩は、拒否したまま」であった。
  また、「会津藩と薩摩藩の対立も続いたまま」だった
 ため、完全に失敗していた。
  しかし、勝海舟は、氷川清話で、次のような事を言っ
 ている。
  慶応2年5月27日(1866年7月9日)に突然、(海舟の所
 に)奉書が来た。
  閣老・水野和泉守から、「明朝、礼服で登城せよ」と
 あった。
  破格に軍艦奉行に任ぜられて、すぐに大坂へ出張を命
 ぜられた。
  両三日たって、俺は大阪へ出発した。
  大坂に着いて、板倉伊賀守の言うには、長州再征の事
 について、薩州から大久保市蔵(利通)とか、岩下佐次
 右衛門とか、内田仲之助とかいう連中が来て、ひどく反
 対するから、お前、京都へ行って彼らを説き伏せてこい
 との事だ。
  そこで、俺は、かねて意見を述べて、長州征伐は決し
 て国家のために利ではない、
  大久保や岩下らの言うところが、かえって道理にかな
 っているという事を明瞭に弁じた。
  ところが、会津藩だけは、容易に俺の説に従わなかっ
 たけれど、
  色々例えなど設けて説明してやったら、後には、とう
 とう俺の意見が耳に入った。
  それで、遂に、長州とは和解するようになったのだ。
  この後も、俺は、時勢に応じて、いろいろ建白したけ
 れど、多くは役人の機嫌を損ずるばかりだった(氷川清
 話)
  勝海舟、軍艦奉行再勤を命ぜられ、且つ、急用につき
 草々上坂申渡される(氷川清話)
  勝安房守義邦、軍艦奉行、慶応2年5月28日~4年1月28
 日。(氷川清話)
1866年7月、勝海舟、京都において板倉閣老に謁して言う。
  幕府は、仏国より金幣軍艦を借入れ、内政の改革をし
 ようとの密議ありと聞く、その非道を痛論す(氷川清話)
  金幣:きんぺい、金の貨幣。
1866年7月16日、家茂が、防長大営を大阪に置く。
1866年7月17日、この日に、開陽丸が竣工し、
  1866年10月25日、榎本武揚(えのもとたけあき)ら留
 学生は、開陽丸とともに、
  オランダ・フリシンゲン港を出発、リオデジャネイロ・
 アンボイナを経由して、
  1867年(慶応3年)3月26日、横浜港に帰着した。
1866年7月18日、幕府の第二次長州征伐、戦端が開く
  幕府軍艦(富士山丸など)が、長州藩領の周防大島郡
 を砲撃して、
  第二次長州征伐の戦闘がはじまった。
  (しかし、薩摩藩は、出兵を拒否)
  1866年9月に至って、幕府・小倉藩が全面敗北し、長州
 征伐が停止する。
  1866年10月10日、慶喜の意を受けた勝海舟と、長州の
 広沢真臣、井上馨が、宮島で会談し、停戦合意が成立す
 る。
  1867年2月、ようやく両藩の和約が成立する
  この戦いは、薩長同盟が成立した中での戦いだった。
  薩長同盟には「干戈を交えても」幕府に決戦を挑もう
 とうたわれていた。
  干戈:かんか、武器。また、武力。戦争。
  西郷と大久保は、反幕から討幕へと脱皮した。
  第二次征長軍は、高杉晋作が指揮する奇兵隊の奇襲攻
 撃にあって惨敗した(1866年7月)
  将軍・家茂が急死(1866年8月29日)したことでようや
 く撤兵の緒を掴む。
  家茂が急死で、慶喜は、朝廷に運動して休戦の詔勅を
 引き出し、
  会津藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で、休戦協定
 の締結に成功した。
  ここで一橋慶喜が、徳川の宗家を継ぎ(1866年9月28日)、
 討幕派の結集を拒んだ。
  この頃になると、幕府の権威も落ち、将軍職に就くに
 は大名会議の推戴が要った。
  大久保は、朝廷を動かして、大名会議を操作しようと
 した。
  将軍空位による幕府弱体化を企図したが、事を荒立て
 ない慶喜が一歩勝り、天性の気品から公卿にも人気があ
 った。
  結局、大名会議は、形だけのものになり、慶喜は、15
 代の将軍宣下を受け、将軍の座に就いた(1867年1月10日)。
1866年7月18日、
  幕府艦隊の周防大島への砲撃が始まった。
  7月24日には、芸州口・小瀬川口、
  7月27日には、石州口、
  7月28日には、小倉口で、それぞれ戦闘が開始された。
  長州側は、山口の藩政府の合議制により作戦が指揮さ
 れた。
  この時、すでに、西郷と桂小五郎(木戸孝允)が一堂
 に会して、薩長同盟の密約を結んでいた(1866年3月7日)
  坂本龍馬の斡旋であったが、西郷の事前のムード作り
 も功を奏した。
  同盟協約は、干戈(かんか、干・タテと戈・ホコの意、
 武力)を交えても、幕府に決戦を挑むとうたっていた。
  西郷と大久保は、反幕から倒幕へと変わった、脱皮し
 た。
  第二次征長軍は、高杉晋作が指揮する奇兵隊の奇襲攻
 撃に会って惨敗した(1866年7月)。
  将軍・家茂が急死〈1866年8月29日)した事で、ようや
 く撤兵の緒を掴(つか)むという状況であった。
  ここで、一橋慶喜が、徳川の宗家を継ぎ、討幕派の結
 集を拒んだ。
  この頃になると、幕府にも民主的ムードが漂って、将
 軍職に就くには大名会議の推戴が要る。
  大久保は、朝廷を動かして大名会議を操作しようとし
 た。
  将軍空位による幕府の弱体化を意図したが、事を荒立
 てない慶喜が一歩勝り、天性の気品から公卿にも人気が
 あった。
  結局、大名会議は、形だけのものになり、慶喜は、15
 代の将軍の座に就いた。
  その後も江戸へ引き上げず、国事多難を理由に二条城
 に留まった。
  巷には、慶喜を東照神君家康公の再来と称える声も溢
 れていた。
  幕府は、立ち直る気配さえ見せ始めた。
  今や、世は、尊王一色であった(参考:プレジデント
 平成10年7月号)
  この様な時、西郷は大久保に言った・・、
  「下々からの世直しじゃ、長州を見てみやんせ」。
  長州は、士農工商の別なく藩民こぞって武器を手に立
 ち上がり、第二次征長軍を、完膚なきまでに破った。
  大久保は、有力諸侯を一つに束ねる事を考えた。
  海舟が示唆した雄藩連合の小手調べにもなる。
  彼は、薩摩の島津久光、越前の松平春嶽〈はるたけ)、
 土佐ノ山内容堂、宇和島の伊達宗城を選んだ(四侯会議)。
  慶喜は、兵庫開港を、天皇の勅許を得られないが、外
 国公使に約束した。
  大久保は、イギリス公使・パークスに、即時、兵庫開
 港を強硬に迫られる一方で、四侯会議には断固反対して
 もらう事にした。
  しかし、慶喜は、反対する公卿たちに時世を説いて勅
 許を得た。
  慶喜は、四か国公使等の喝采を浴びた。
  西郷は、前代藩主・島津斉彬が、一橋家を嗣いだ慶喜
 を14代将軍に擁立しようとしたこともあって、
  西郷は、熱烈に慶喜を敬愛していた。
  しかし、倒幕の意思を固めていた。
  佐幕から反幕、反幕から倒幕へ。
  幕府が消滅しない限り、近代国家は生まれない。
  大久保も同じ結論になっている。
  孝明天皇が崩御されると、公武合体論派は後退した。
  新帝・明治天皇は、まだ14歳(1867年1月30日.即位、
 1852年~1912年)。
  西郷・大久保・桂は、新帝の外祖父・中山忠能を通じ
 て工作し、討幕の密勅を手にした。
  同じ日に、慶喜は、大政奉還の挙に出た(1867年11月
 9日)。
  幕府が消滅したので、密勅は宙に浮いた。
  大政奉還をしても徳川家は残る。
  竜馬が発案して、土佐藩・山内容堂が演出した。
  主導権が土佐藩に奪われる事を、西郷は我慢できない
 と思った。
  禁裏の奥の小御所で、朝議が開かれ、明治天皇は、大
 政奉還に伴う王政復古を宣した(1868年1月3日)。
  西郷は、直ちに、旧幕の親藩・桑名の禁門衛兵を追っ
 て、薩摩の兵を配置に付けた。
  銃剣は、内に向け、朝議に無言の圧力をかけた。
  禁裏では、引き続き王政復古後の、初めての会議が開
 かれていた。
  西郷は、議場の外。
  大久保は、内にいるが、藩士の身分で出席し、宮中で
 は地位が低い。
  玉座近くに島津久光がいる。
  幕府は、消滅しても天皇の下に総理が徳川慶喜で、副
 総理が島津久光と山内容堂あたりが収まると予測された。
  容堂が、前将軍・慶喜を出席させないのは不都合だと
 発言したことから、会議はにわかに紛糾した。
  硬骨の岩倉具視が反駁した。
  「慶喜は、速やかに官を辞し、領地を返上して、忠誠
 の証(あかし)を示すべし」。
  大政奉還を演出した容堂は激昂した。
  「勤王の志により政権を返上した徳川殿を、さらに罰
 するとは不埒(ふらち)千万なり」。
  大久保は、岩倉に同調した。
  「辞官納地の命を拒めば、追討もやむなし」。
  激越な発言も末席からでは効果が無かった。
  休憩の間に、使者が状況を伝えると、西郷は事もなげ
 に言った。
  「短刀一本あれば片付くことでごわす」。
  岩倉の席は容堂に近い。
  岩倉は、本気で容堂を刺す気でいた。
  議場は、殺気に包まれて、倒幕派の主張が容認された。
  二条城の幕臣たちに怒りが渦巻いた。
  慶喜は、暴発寸前の幕臣を鎮めて辞官納地を承諾した。
  (プレジデント平成10年7月号)
1866年7月21日(旧6月10日)、勝海舟、出立(氷川清話)
1866年7月27日、薩摩藩士・村田新八、黒田了介、山口に来
 り、藩主・毛利敬親に謁した。
1866年7月28日、第二次長州征伐(征長幕軍の敗退)
  長州藩軍は、1866年7月23日から、高杉晋作が率いる丙
 寅丸(へいいんまる)を用い、夜陰にまぎれて、幕府艦
 隊に近づき、激しく砲撃して反撃の火蓋を切った。
  1866年7月26日未明からは、長州藩の第二奇兵隊・浩武
 隊の二隊を大島占領のために投入し、
  松山藩軍と激しい戦闘を展開した。
  沖に停泊していた幕府艦隊が、長州藩軍の動きに応戦
 し、砲撃を打ち込み、戦闘は一進一退の攻防が続いた。
  激戦の末、島内の各所で、幕府軍を打ち破った長州藩
 軍の勝利となり、大島奪還に成功した。
1866年7月28日、英国公使パークス、汽船にて、横浜より鹿
 児島港に入り、藩主と会見を請う。
1866年7月、二朱金(天保二朱判)の通用を禁ず(氷川清話)
1866年8月1日、日白修好通商条約調印(ベルギー)
1866年8月2日(旧6月22日)、勝海舟、着阪(氷川清話)
1866年8月3日(旧6月23日)、勝海舟、大阪城に出頭、会
 津・薩摩調停の内命を奉じ上京(氷川清話)
1866年8月4日、桂小五郎、杉孫七郎等、幕府・長州征伐の
 間に立てる外人の調停を固辞(こじ、かたく辞退するこ
 と)す。
1866年8月5日(旧6月25日)、勝海舟、先ず会津を説き、つ
 いで、薩摩・大久保市蔵等の諸氏に面会し、その征長出
 兵辞退の上書を抑え、円滑にその局を結ぶ(氷川清話)
1866年8月12日、長州藩兵、豊前・小倉藩兵と衝突
1866年8月22日、長州藩石見内田に諸藩兵と戦う。
1866年8月25日、幕府、イタリアと通商条約締結。
1866年8月25日、日伊修好通商条約調印
1866年8月28日、薩摩藩主・島津茂久が、幕府に対し、征長
 の非を陳じ、その罪を赦さんことを請う。
1866年8月29日(旧7月20日)、勝海舟、家茂将軍が大阪城
 で病重しときき、号泣し長嘆息す(氷川清話)
1866年8月29日、将軍家茂が、没した(1846年~1866年)
  将軍家茂、大阪城で死去する(昭徳院、21歳)(氷川
 清話)
  勝海舟の大恩ある家茂が、この日に、21歳の若さで脚
 気小心(衝心、心不全のこと)で急逝した。
  海舟はがっかりした。
  せめて、遺骸を軍艦に乗せて江戸までお供するつもり
 でいた所へ、長州征伐の後始末の談判のため、安芸の宮
 島へ出張を命じられ、9月29日(旧8月21日)広島に行っ
 た。
  その出発前、15代将軍として、一橋慶喜を迎える事を
 支持すると表明した。
  しかし、慶喜と海舟はウマが合わなかった(氷川清話)
  将軍・家茂が、幕長戦争のさなかに大阪城で病没する
 までの、計3年4か月余りの間に、将軍・家茂は、22か月
 も京都と大阪に滞在した。
  また、将軍・慶喜も、将軍後見職の時を含めて、その
 ほとんどを京都の政局の中で過ごした。
  この間、諸侯の上洛があいつぎ、志士が競って京都を
 目指した。
  こうして、公権力の所有者(将軍)も京都に移った形
 となり、日本の首都であると意識されるようになった。
1866年9月5日、徳川慶喜、将軍家相続に決定(9月28日説
 あり)
1866年9月7日、朝廷、慶喜の将軍家相続勅許
  将軍慶喜、相続を宣下(氷川清話)
1866年9月9日、豊前小倉落城す(氷川清話)
  小倉藩は、第一次長州征討も、第二次も参加し、第二
 次では、小倉口の先鋒として参戦した。
  戦闘は不利に展開し、長州軍が領内に侵攻して来た。
  九州諸藩は撤兵した。
  孤立した小倉藩は、この日、小倉城に火を放ち(小倉
 城自焼は、一説に、熊本藩の竹崎律次郎の勧めとも言わ
 れる)、田川郡香春(現・香春町)に撤退した。
1866年9月10日、徳川慶喜、仏国公使を通じ軍艦その他の
 兵器購入を依嘱す。
1866年9月(旧8月)、外国へ渡海、修学を許す(氷川清話)
1866年9月10日、小栗忠順が、フランス経済使節ウクレとの
 間に借款契約成立。
1866年9月24日(旧8月16日)、勝海舟、京都において長州
 へ密使を命ぜられる(氷川清話)
1866年9月25日(旧8月17日)、勝海舟、下阪(氷川清話)
1866年9月27日(旧8月19日)、勝海舟、出立(氷川清話)
1866年9月28日、ロッシュの仲介により、小栗忠順(おぐり
 ただまさ、幕臣)が、フランスからの600万ドルの借款契
 約に成功。
  これを元手に、幕府の近代化・軍事力強化を目指した。
1866年9月29日(旧8月21日)、海舟、長州への使者になる。
  大坂に居た時、突然、京都から早打ちがやって来て、
 直ぐ来いと言うので、京都へ上った。
  その頃、慶喜公は、後見職であったから参内中であっ
 た。
  そのうち、慶喜公もご帰還になって、御直で、長州へ
 の使者を仰せつけられた(1866年9月24日)。
  1ヶ月中には必ず始末をつけて帰りますと申し上げ、
 一人の供も召し連れず、単身、芸州(広島)まで行った
 (1866年9月29日)。
  辻将曹が、色々周旋してくれて、宮島において双方会
 談する事になった。
  宮島へ渡ってみると、長州の兵隊が、ここかしこに出
 没して殺気が満ちていた。
  もとより、こんな事だろうと覚悟はしていたから、平
 気で旅館に泊まり込んで、長州の使者が来るのを待って
 いた。
  彼らも国論をまとめた上で、船に乗って来ると言うの
 だから、ずいぶんと手間がいったが、その間、今の長州
 の兵隊や密偵は、始終、俺の旅館の周囲をうろつき、た
 まには、遠方から旅館へ向かって発砲する者などもあっ
 た。
  しかし、俺は、ちっともこんな事に頓着しないで、旅
 館の広間に平然と座り込んで、
  日夜、使者の来るのを待っておったが、
  この頃、この辺りの婦人などは、どこかへ逃げて行っ
 てしまって、俺の旅館にも、老婆がただ一人残っておっ
 たばかりだった。
  かれこれするうちに、長州から広沢兵助など、8人の
 ものが使者としてやって来た。
  こっちは、木綿羽織に小倉はかまの小男の軍艦奉行が、
 たった一人控えているばかりだ。
  いよいよ、今日、会合という日になると、俺は、まず、
 大慈院、これが会合の場所だが、この寺の大広間に端座
 して居ると、後から広沢などがやって来た。
  しかし、さすがに広沢だけあって、少しも傲慢のふう
 が無く、一同、縁側に座ってうやうやしく一礼した。
  そこで、俺は、「いや、そこではお話が出来ませんか
 ら、どうぞこちらへお通りなさい」と挨拶すると、
  広沢は頭をもたげて、「御同席は、いかにも恐れ入る」
 と辞退するので、
  俺は、全体、ひょうきん者だから、「かように隔たっ
 ていてはお話が出来ぬ、貴方がおいやとあれば、拙者が、
 そこへまいりましょう」と言って、
  いきなり向こうが座っている間へ割り込んで行った所
 が、一同、大笑いとなって、
  「それでは御免こうむります」という事で、一同、広
 間に入って、いよいよ談判を始める事になった。
  談判と言っても訳はなく、とっさの間にすんだのだ。
  まず、俺は、よくこちらの赤心(まごころ)を開いて、
 「自分の初めからの意見は、かくかくであった。貴藩に
 おいても、今日の場合、兄弟争いをしておるべきでない
 という事はご承知であろう」という趣旨を述べた。
  すると、広沢も良く合点して、「尊慮のある所はかね
 てより承知していました」などと言った。
  そこで、俺は、断然、「私が帰京したら、直ちに貴藩
 の国境にある幕兵は一人も残らず引き上げるようにする
 から、貴藩においても、その機に乗じて、請願などと唱
 えて多勢で押し上げることなどは決してしない様にせら
 れよ」と言い放ったら、
  広沢も承諾の旨を答えて、談判もこれで決着した。
  さて、帰りには、また、辻の周旋で、えり抜きの船頭
 を雇って出帆したが、
  高砂の沖で、向こうからくる船と衝突して、ほとんど
 沈没しようとしたのを、やっとのことで、明石の浜辺へ
 乗り上げて、そこから陸を通って京都へ帰った(1866年
 10月18日)が、
  これは、出発した日から数えて、ちょうど28日から9日
 目であった。
  帰って見ると、留守のうちに一体の様子はがらりと一
 変しておって、
  わざわざ宮島まで談判に行った俺の苦心も、何の役に
 も立たなかった。
  しかし、もし、この時の始末が、俺の口から世間へ洩
 れようものなら、それこそ幕府の威信は、まったくなく
 なってしまうと思って、俺は、謹んで秘密を守って、辞
 職を願い出た。
  すると、ある老中が、中へ入って周旋してくれたため
 に、軍艦操練専務の役でもって、とうとう江戸へ帰るこ
 とになった。
  しかし、これが為に、幕府の命脈も、ちょうど1年延び
 た勘定になった(氷川清話)
  勝海舟、芸州着、ついで厳島で広沢兵助、井上聞多等
 に面会、休戦及び衆議採用の大趣旨を演達す。彼承服し、
 又その国情を陳述す(氷川清話)
1866年10月(旧9月)、開成所に地理窮理兵学を置く(氷川
 清話)
  窮理(きゅうり):物事の道理・法則をあきらかにす
 ること→西洋流の学問一般、物理学、朱子学
1866年10月、イギリス公使パークスが、英・米・仏・蘭の
 4国への賠償金の代わりに、灯台を8か所に 建てることを
 要求し、幕府が承認する。
1866年10月10日、幕府、長州征伐の目的果たせず、講和成
 立。
  幕府の使節・勝海舟が、宮島の大願寺に長州藩の代表
 と会見し和協す。
  将軍逝去につき、長防出兵停止の勅諭(氷川清話)
  徳川慶喜は、長州藩と休戦した。
1866年10月11日(旧9月3日)、勝海舟、広島に帰着す(海
 舟の自著亡友帖中、広沢真臣翰の後に慶応元年8月奉命、
 長州に使す云々、指名は2年8月で元年と記したのは誤り)
 (氷川清話)
1866年10月18日(旧9月10日)、勝海舟、帰京(氷川清話)
1866年10月20日(旧9月12日)、勝海舟、謁見、復命28日、
 長州の処置は公平至当を要する事を建白す(氷川清話)
1866年10月24日、高杉晋作、姫島の獄にある野村望東尼を
 救出した。
1866年10月27日、幕府が、征長軍の撤兵を命ず。
1866年11月7日(旧10月1日)、勝海舟、用向き相済み帰府
 を命ぜられる(氷川清話)
1866年11月7日、江戸市中と五街道に、荷物輸送用馬車の使
 用が許可される。
1866年11月12日、幕府吹上奉行を新設す。
1866年11月16日(旧10月10日)、勝海舟、次男四郎死亡、
 四男七郎誕生、後に、岡田氏をつぎ義徴と改名す(生母、
 小西かね)(氷川清話)
1866年11月18日、風水害による凶作で、幕府が外国米輸入・
 販売を許可する。
1866年11月21日、薩摩藩士・小松帯刀、西郷吉之助、一挙
 以て王政復古の実を挙げんと鹿児島発。
1866年11月22日、徳川慶喜が、参内して天盃を拝受す。
1866年11月28日(旧10(字数制限の為、中略します。全文は下記のブログを御覧ください)
1866年、香港の人口が11万5000人になった。
1866年、アルミニウム電解精錬法が発明された。
1866年、アメリカ合衆国、ネブラスカ州のオハマの西に、
 初めて、ユニオン・パシフィック鉄道が開通した。
  レールが、平原の真ん中に敷設された。
  この日から、インディアンの方々の地に、
  インディアンの方々に都合の悪いものが、大量に、
  そして、アメリカ合衆国に都合の良いものが・・運ば
 れて来た。
  アメリカ合衆国の白人は、文明を運んだと讃美した。
  鉄道会社に、線路の両側の6キロの土地が与えられた
(インディアンの方々に無断で)、
  そして、その地の開発が許可された(これも、インデ
 ィアンの方々に無断で)。
  新しい農業技術が、この頃、発達していて、
  その技術を持った白人・アメリカ人が、この鉄道に乗
 って、大量に、新たに、入って来た。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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by suba28 | 2015-12-29 06:18 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)267D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1866年1月~1866年5月)

題:(増補版)267D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1866年1月~1866年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1866年(慶応2年)1月1日、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍
 工廠)の建設が開始された。
1866年1月7日、長州藩藩主・毛利敬親(もうりたかちか)
 が、京阪の視察として、桂小五郎を上洛せしむ、品川弥
 二郎これに従う 。
1866年1月7日、膳所藩尊王党の切腹(森祐信以下10名に切
 腹を命じる)
  膳所藩(ぜぜはん):近江国大津周辺(現在の滋賀県
 大津市)に存在した藩。
  尊王攘夷の派が、反対派のために罪を問われた。
  全国の各藩とも、その思想的に帰する所に迷っていた。
  幕府及びその徳川周辺でさえ内紛がひどい状況だった。
  日本中がその様な中に起きた尊王派処分の事件だった。
1866年2月28日、高島秋帆(たかしましゅうはん、砲術家)
 が没した(1798年~1866年)
  高島秋帆没す(氷川清話)
1866年3月7日、薩長同盟(3月6日説あり)
  京都で、西郷隆盛・小松帯刀と桂小五郎が会談し、
  薩摩藩と長州藩の同盟が成立した(政治的、軍事同盟)。
  坂本龍馬(31歳)が立会いのもと、長州の桂小五郎と
 薩摩の西郷隆盛との間で、京都の小松帯刀邸(上京区)
 で締結された。
  明治維新への導因となった同盟だった。
  無私の精神の一脱藩浪人の竜馬と、
  藩意識の捨てきれない西郷と桂小五郎(木戸)の、初
 めから終わりまで、張り合いする中で成立した。
  両藩は、1年半前までは、なにしろ、禁門を挟んで血を
 流しあった仇敵同士だった。
  疑心暗鬼は、根深いものがあり、やむを得ない面もあ
 った。
  その閉塞状態を、竜馬が、風穴を開けたのだった。
  「共に目指す目標は同じ」の言葉を竜馬は言った。
  長州藩は、天保の改革当時から、藩政の実権が、保守
 から急進の間を揺れていた。
  めまぐるしく、その政策が転換するという状況だった。
  公武合体だった薩摩藩の西郷(33歳)も、一転して、
 盟約を結び、倒幕体制を整えて行った。
1866年3月7日、薩長同盟成立の意義・・、
  長州藩にとって、幕府との一戦は必然の中にあり、ま
 た、その様な流れを生んだ歴史の中にあった。
  その為に、大村益次郎の指導の元に軍制改革を進め、
  軍制改革に励む長州藩だった。 
  それ故、長州軍にとって、薩摩藩から供与された西洋
 小銃、及び、弾丸などは貴重だった。
  貿易を禁じられていた長州藩にとって、喉から手が出
 るほど欲しかったものだった。
  この供給は・・長州を救った。
  これまで仇敵の間柄だった薩摩藩と、長州藩は、急接
 近する。
  そして、この関係は、西洋小銃供与の返礼として、長
 州藩から薩摩藩へ、兵糧米が輸出されたのを受け、この
 関係改善は益々高まって行った。
  そして、1866年3月7日のこの日に、薩摩藩の意向を受
 けた坂本竜馬と、
  長州藩の意向を受けた中岡慎太郎(坂本と中岡は共に
 土佐藩の脱藩浪士)を仲立ちにして、薩長同盟は結ばれ
 た。
  この薩長同盟による西洋小銃・弾丸の供給は、大村益
 次郎の軍制改革による、長州軍の小銃隊(歩兵化)は進
 んだ。
  しかし、全長州軍に、西洋小銃(特に、ミニエー銃)
 を装備させるには、先に薩摩藩の斡旋により供与された
 だけでは、まだ不足していた。
  また、近代戦を行うには、膨大な弾丸を消費すると考
 えていた大村にとっては、長州藩内で弾丸の生産工場を
 設けていた。
  しかし、まだ、その生産力は、心もとないものを感じ
 ていた。
  そんな大村にとって、この薩長同盟によりより多くの
 ミニエー銃と、その弾丸・雷管の新たな入手先が生まれ
 た事は、これから、幕府軍と戦かう作戦を立案していた
 大村にとっては、うれしい限りだった。
1866年3月9日、寺田屋騒動(坂本龍馬襲撃事件)
  この日、慶応2年1月23日(1866年3月9日)、京での薩
 長同盟の会談を斡旋した直後に・・、
  薩摩人として宿泊していた坂本龍馬を、伏見奉行の林
 肥後守忠交の捕り方が、捕縛ないしは、暗殺しようとし
 た(寺田屋遭難とも言う)、
  龍馬や、長州の三吉慎蔵らは、深夜の2時、幕府伏見奉
 行の捕り方30人ほどに囲まれた。
  いち早く気付いたお龍は、風呂から裸のまま裏階段を
 2階へ駆け上がり、投宿していた龍馬らに、危機を知らせ
 た。
  捕り方は、「肥後守(奉行)よりの上意」であるとし
 て迫り、
  踏み込まれた龍馬らは、「(奉行の権限の及ばない)
 薩摩藩士である」との嘘を主張したが、簡単に見破られ
 た。
  龍馬は、高杉晋作からもらった拳銃で、
  三吉は、手槍を用いて防戦して、
  捕り方2名を射殺、数名を殺傷させた。
  しかし、捕り方が、拳銃を持つ手を刀で払おうとして、
 龍馬は、手の親指(左右)を負傷した。
  装弾ができなくなったと言うので、三吉が必死に槍で
 応戦する間に、辛くも家屋を脱出し、路地を走り、材木
 屋に隠れた。
  三吉は切腹しようとしたが、龍馬に止められて、伏見・
 薩摩藩邸に救援を求めに行くように依頼された。
  薩摩藩邸にいた留守居役・大山彦八は、藩士3名をつれ
 て、川船を出し、救出に向かった。
  龍馬は、九死に一生を得ることができた。
  すぐに、京都の西郷隆盛のもとに報告が行き、吉井幸
 輔が早馬で伏見に来て、事情を調べ、
  西郷は、軍医を派遣し、治療に当たらせると共に、藩
 邸を警護させた。
  翌日、薩摩藩邸は、龍馬に対する伏見奉行からの引き
 渡し要求を受けたが・・、拒否した。
1866年3月16日、アーネスト・サトウが、ジャパン・タイム
 スに匿名で論文寄稿した。
  将軍を主権者と見なさないとする内容だった。
  後に、翻訳され『英国策論』と題されて出版された。
1866年4月13日、幕府が、長崎・神奈川・箱館に出稼ぎ、自
 由交易と、
  及び、商人の外国船舶の購買を許した。
1866年4月28日、松本良順(蘭学者)が、万国公法6冊を、
 14代将軍・徳川家茂へ贈った。
1866年5月5日、高杉晋作が、伊藤博文を連れて3度目の長
 崎へ行った。
  薩長同盟に加わるためだった。銅座町の薩摩屋敷へ。
  また、グラバーからオテントサン丸を買った。
  そして後に、オテントサン丸は、丙寅(へいいん)丸
 と命名され、幕府を向こうにまわして活躍した。
1866年5月17日、幕府は、長州と談判をして来たが、埒(ら
 ち)は開かず、
  幕府は、この日・5月17日、長州を代表する四家名の名
 代に対して、速やかに帰国して主人に伝え・・、
  1866年6月3日までに、請書を出すように命令を下した。
1866年5月18日、林甚六郎が、幕府の命に依り、三条実美以
 下の五卿に対し、京都へ帰還を迫った。
  薩摩の大山格之助、黒田嘉右衛門等、西郷吉之助に代
 って、頑として五卿を渡さず。
1866年5月19日、毛利敬親が、形勢切迫せるを以て、緒隊の
 軍備を急ぎ、幕府軍対抗に備えた。
1866年5月21日、海外行き許可の認証に関する布告。
  幕府が、学術および商用や留学目的の海外渡航を解禁
 した(海外渡航を許した)。
1866年5月28日、薩摩藩は、正式に、第二次長州征討軍に参
 加しないとした。
  ここに至って、幕府は、長州藩の武力討伐に意を固め、
 その準備を進めて来たが、1866年5月10日に、改めて、長
 州藩主父子、及び、重臣に広島に出頭するよう命じた。
  長州藩は、既に、幕府軍との開戦はやむを得ないとし、
 時間稼ぎの交渉を続ける。
  戦闘準備のための時間が欲しい長州だった。
  1866年5月28日に、薩摩藩が、正式に、第二次長州征伐
 の参加ができないとした事により、薩摩藩に割り当てら
 れていた萩口の攻め口は、消滅する事となった。
  第二次長州征討は、芸州口・石州口・小倉口・大島口
 の4つの戦線で戦われる作戦だった。
  また、幕府は、長州藩の本拠である萩を、海路から、
 直接、攻撃することも考えていた。
  そして、それを、薩摩藩兵を、その主力にするつもり
 だった。
  この作戦予定も立たなくなった。
  この薩摩藩の出兵拒否は、第二次長州征伐に難色を示
 す諸藩にも影響を与えた。
  薩摩藩の様に、出兵を拒否する諸藩が現れる要因とな
 った。
  また、出兵拒否まではいかなくても、参戦しても戦意
 が無い藩が多く生まれる背景となった。
  長州藩としては、萩口からの攻撃が無くなったのは大
 きかった。
  それの戦力を、他の戦線に回すことが出来た。
  強大な幕府軍を迎え撃たなければならない長州軍にと
 って、その作戦を立てる大村にとって、多大なる恩恵を
 与えた。
  でも、まだ、この時に、長州へは、西国の諸藩を中心
 とした17藩が出兵して来ていた。
  この様な状況の中で、1866年7月11日を最終期限として、
 最後通告が長州藩に来た。
  長州藩は、この最後通告も無視した。
  ここに至り、1866年7月18日に、広島を出港した幕府海
 軍の軍艦・富士山丸から、長州藩領の上関に対して艦砲
 射撃が行われた。
  この事が皮切りとして、幕府軍は、山陽道から長州へ
 侵攻した(芸州口)、
  また、山陰道からも、長州へ侵攻する(石州口)、
  そして、九州から関門海峡を渡って長州に侵攻する(
 小倉口)、
  そしてまた、四国から瀬戸内海を渡って、長州へ侵攻
 する(大島口)、
  以上、幕府軍は、計四方面から長州藩への侵攻をした。
  萩口の薩摩藩の予定の侵攻は行なえなかった。
1866年、汎日本的立場に・・薩摩藩の西郷と大久保
  この年に、西郷と大久保は、島津の一家臣の立場から、
 『汎日本的立場に立つ行動』へ向かおうとする。
  西郷と大久保の黙契(もっけい、無言のうちに合意が
 成り立つこと)
  西郷の許(もと)へ赦免(1864年)の船が向けられる
 と、西郷は、京へ駆け上った。
  大久保に迎えられた西郷は、5年に亘る空白の鬱積(
 うっせき)を吐(は)きつけた。
  国の政治の中心は京であった。
  幕府は、尊王攘夷の反幕の嵐に立ち向かうかのように、
 将軍は、自ら、大坂に出て来ていた(1863年)。
  京に天皇、大阪に将軍で、畿内は、にわかに緊迫して
 いた。
  久光の標榜(ひょうぼう)する公武合体論は、革新性
 を失っていた。
  和宮の降嫁(1862年3月11日)によって、徳川家は、天
 皇家の姻戚(いんせき)となり、参台した将軍・家茂に、
 政務委任確認の勅が下されるに至って、幕府の存続・延
 命が助長された。
  西郷と大久保は、島津の家臣である事から脱け出し、
 汎日本的立場で行動しようとした。
  土佐の坂本龍馬の様に脱藩する気はない。
  二人は、薩摩藩という強力な組織を利用した。
  この時、西郷は38歳(1866年)、大久保は35歳。
  二人は、黙契を固めた。
  それは、一切の行動を勅命・勅許によって権威づける
 こと。
  そして、常に主導権を保つであった(参考:プレジデ
 ント平成10年7月号)
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by suba28 | 2015-12-28 02:41 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)266D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1865年9月~1866年1月)

題:(増補版)266D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1865年9月~1866年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1865年(慶応1年)9月10日、長州藩のはっきりしない態度
 に、将軍が江戸を進発するという令を、1865年5月12日
 (旧暦:4月18日)に出した。
  そして、将軍は、江戸を出発し、上洛し、参内した。
  幕府と長州の駆け引きが続く・・、
  そこまで出来る長州へと育っていた、また、幕府の権
 威が凋落していた。
  高杉も長崎に行ったり・・、長州藩は、抗幕態勢を整
 えている。
  長州藩の村田増六(後の大村益次郎)も、近代洋式軍
 隊の創設をした。
  薩摩の西郷と、長州の桂が、会談へと斡旋され・・、
  その様な時の、この日(1865年9月10日)、井上馨と伊
 藤博文が長崎へ入った。
  長州藩は、抗戦武装のため、小銃1万丁を求め、青木郡
 平を長崎に派遣していた。
  坂本竜馬は、薩摩藩の名義で、長州藩がイギリスより
 購入できるように薩摩藩へ運動した。
  薩摩が同意したため、桂は、藩政庁の承諾がないまま
 2人を長崎へ派遣したのであった。
  千屋虎之助、高松太郎、上杉宗次郎、新宮馬之助は、
 協議の上で、小松清廉に、薩摩藩で、伊藤・井上を潜匿
 (せんとく、人知れず隠れること)させるように依頼し
 た。
1865年、第二次長州征伐・長州再征が発令されて・・、
  長州藩は、朝敵の立場であったので、表立って武器は
 調達出来ず・・、
  薩摩藩が調達した武器を、長州藩に融通していた。
  ただ、薩摩藩も、まだ幕府と決定的に対立していたわ
 けではないので、
  まだ、表立って名前を出すことは出来なかった。
  その様な両藩を、仲介する形で、間に立ったのが坂本
 龍馬の率いる亀山社中だった。
  薩摩藩が調達した武器を、亀山社中が長州藩に届け、
 長州藩は、その代金として米などで亀山社中に払い、亀
 山社中が、それを薩摩藩に輸送した。
  薩摩に限らず、多くの西国大藩はこの第二次征長には
 出兵しなかった。
  この時期、洋式兵制が整った藩はほとんどなかった。
  長州藩にしても 洋式兵制で、ある程度、訓練を受けた
 のは、まだ、3000~4000人に過ぎなかった。
  小倉口の敗戦は、家茂死去以降、主力の筑前藩、肥後
 藩が引き上げた後に、小倉藩と、八王子千人隊だけにな
 ってしまったからだった。
  八王子千人隊は、洋式訓練受けている筈だが、活躍し
 たという事例がまったくないので、事実は不明?
  役に立たなかったのかもしれない?
  八王子千人隊は、八王子千人同心(はちおうじせんに
 んどうしん)とも言い、
  徳川家康の江戸入府に伴い、1600年に発足していた。
  そして、『徳川実紀』には・・、
  「(家康公は)江戸で長柄の槍を持つ中間を武州八王
 子で新規に五百人ばかり採用され、甲州の下級武士を首
 領とした。
  その理由は、八王子は、武蔵と甲斐の境界なので、有
 事の際には、小仏峠方面を守備させようとお考えになっ
 たからだった。
  同心どもは、常々、甲斐国の郡内へ往復して、絹や綿
 の類をはじめとして、甲斐の産物の行商を行い、江戸で
 売り歩くことを平常時の仕事にするようになされたのだ
 った」(現代語訳)
  すなわち、千人同心は、甲斐武田家の滅亡後に、徳川
 氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・
 豪農などで組織されていた。
  甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは、武田
 家遺臣を中心に、甲斐方面からの侵攻に備えたためだっ
 た・・、
1865年12月31日、筑前の女傑・野村望東尼が、玄海の孤島
 姫島に流された。
1865年、牛乳の販売
  この年、幕府が、雉子(きじ)橋門内の牧場で牛乳をと
 り、一部を市中にも売り出した。
1865年、津田真道(つだまみち、法律家、法学博士、開成
 所教授貴族院議員)訳『西洋各国盛衰強弱表』
1865年、アメリカの第1期プロパテント時代(特許重視)
1865年、ジオヴァニ・カセリがファクシミリを発明した。
1865年、アメリカ合衆国で、この年まで、200年以上の間
 (1640年代~1865年)、アフリカの方々と、その子孫の
 方々が、合法的に奴隷化されていた。
  その所有者は、圧倒的に白人だった。
  4家族に1軒が奴隷を所有し、
  奴隷にされた方々の労働から富を搾取するという、非
 人道的行為が行なわれていた。
  17世紀から19世紀にかけて、何と、1200万人ものアフ
 リカの方々が、
  アフリカ大陸の地から、奴隷として連れ出されて来て
 いた。
  荒れ地のプランテーションを切り開くという超重労働
 に従事させられて、亡くなるという・・アフリカからの
 奴隷の方たちだった。
  死亡率は凄まじかった。
  労働が、過酷になるほど、奴隷の方たちの反抗も増え、
 白人たちは、暴力に訴えて監督をするという状態だった。
  日の出から日没までの・・過酷な労働だった。
  ニューオーリンズの奴隷売買の市場が最大だった。
  白人の奴隷所有者の言葉が残っている・・、
  「奴隷に説得して働くように仕向ける事は、豚に真珠
 を投げる事に似ている。
   奴隷は、働くように仕向けなければならない、罰を
 受ける事を常に理解させておくべきだ」。
  腕力での管理が目に浮かぶ、
  その腕力を受けるアフリカから来た方々が悲惨だった。
  キリスト教の聖書にも、隣国に攻め入った、キリスト
 教徒の「神の許しを得て非行を行なう、奴隷狩り」のキ
 リスト教の教義が記されている。
  キリスト教の神は、叫ぶ、「○○人は全滅にせよ」「
 △△人は男だけを殺せ」「生娘は生かしておけ」
  そして、「奴隷にせよ、奴隷にせよ」・・と。
  自分たちの利ために、相手の民をしゃぶり尽くす。
  その事をキリスト教の神は叫び、そして、「奴隷にす
 る」。そのことをキリスト教聖書は説き、教える。
  聖書に書かれた事であるため、忘れられる事なく、連
 綿と歴史に、この悪行為は続けられて来た。
  市場で売買される奴隷の方々についての話・・、
  「その奴隷に売られる100人の娘たちは、印のために、
 足に石灰を塗られた。
  売りに出された奴隷だとすぐ分かる様に、その様な非
 人道的な事をされた。
  また、一家単位で取引される奴隷もあるが、その一家
 が、バラバラにされて、売りに出される、白人たちの勝
 手な都合で取引された。
  見捨てられた子供が、哀れだった。
1865年4月9日、アメリカ合衆国の南北戦争が終了した。
  この南北戦争が終了すると、アメリカ政府は、今度は、
 アメリカの先住民のアメリカ・インディアンの方々へ、
 全力投球の戦争でもって、向かって行った。
  その目的は、アメリカ・インディアンの方々を狭い区
 域に入れたい、閉じ込めたい、
  そして、アメリカ・インディアンと白人・アメリカ人
 との間を引き分ける「はっきりした境界線」が引きたい
 のだった。
  そして、それをやるために、あらゆる戦争・軍事上の
 行動をするという方針だった。
  アメリカ・インディアンのスー族が、この勝手なアメ
 リカ政府の方針に、特に、抵抗した。
  それまで虐げられてきたインディアンの方々、スー族
 の方々は、やっと住み慣れたプラット川の谷に広がるブ
 ラックヒルズの領土を守りたいと思った。
  領土防衛のために決死の覚悟で立ち上がった。
  スー族は、アラパホ族やシャイアン族の理解と支持を
 受けた。
  戦いが繰り広げられた。
  戦いは長く続いた。
  被害が大きい『消耗戦』となった。
  悲惨な戦いが続いた。
  アメリカ政府は、インディアンの方々と交渉を持つ方
 針に切り替えた。
  1868年の春に、ララミー砦で結ばれた約束・条約では、
 スー族によるブラックヒルズとプラット川渓谷の統治権
 が認められた。
  アメリカ政府が作らせたアメリカ軍の砦のいくつかも
 撤去する事となった。
  しかし、アメリカ・インディアンの方々が、当然、得
 たいだろう自由に住む権利、生活する権利は奪われたま
 まだった。
  肝心の、この当然の権利は認められなかった。
  狭い居留地に住み続けさせることが、アメリカ政府の
 根本精神だった。
  人権は全く認められていなかった。
  隔離生活が続き、虐げられた。
  ここに、自由や民主主義は全くなかった。
  人権、人道に従う道もまったくなかった。
  アメリカ・インディアンの方々の多くの命を懸け、殺
 戮され、失った命が無駄になってしまっていた。
  この戦いが起こされる前、アメリカ政府は、インディ
 アンの方々へ、インディアンの土地に止まるのではなく、
 さらに西へ行って金を探すためだと嘘を言っていた。
  「我等と同じ人々よ、よく聞け、ワシントンにいる白
 人の長の言う事は、嘘となり(だましとなり)戦争にな
 ってしまう。私は戦うつもりだ」と。
1865年4月14日、第16代アメリカ合衆国大統領のエイブラハ
 ム・リンカーンが狙撃された。
  フォード劇場で「Our American Cousin」(われらのア
 メリカのいとこ)を、
  妻メアリー・トッド、従者フォーブスとラスボーン少
 佐、少佐のフィアンセのクララと観劇中だった。
  北部軍メリーランド州出身のジョン・ウィルクス・ブ
 ースに1.2メートルの至近距離から、拳銃で、後頭部左耳
 後5センチを1発、撃たれた。
  狙撃時刻は、午後10時13分(午後11時17分?)
  4月15日、午前7時21分、向かいの民宿、ピーターセン
 ハウスにて死亡が宣告された(1809年~1865年)
1865年、北部人による南部人へのいやがらせ
  アメリカの南部人は、北部人から、嫌がらせを受けた。
  その市長の席から、町長・村長の席から、郵便局長の
 席から、あらゆる要職の席から、北部人によって追放さ
 れた。
  そして、何と、そこへ黒人の方たちを据えた。
  これは、当てつけだった。
  嫌がらせだった。
  自分たちが、しなかったことを、できなかった事を、
 南部人に対してやった。
  1872年に至って、やっと、この嫌がらせ行為を止めた。
..
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by suba28 | 2015-12-27 05:06 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)265D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1865年7月~1865年12月)

題:(増補版)265D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1865年7月~1865年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1865年、坂本龍馬が、長崎で活動する亀山社中は・・、
  亀山社中は、貿易結社で、且つ・・、
  物資の輸送とともに、航海訓練を行うなど、
  私的な『海軍』の性格も持っていて、海援隊の前身と
 なった。
  坂本龍馬(28歳)は、八月十八日の政変以後、公武合
 体派の反動化で、神戸海軍操練所が閉鎖され、この時点
 で、幕府への望みを断った。
  勝海舟の紹介で、西郷隆盛を知り、
  薩摩藩へ接近した。
  同藩の援助のもとに、長崎に亀山社中を作り、海運貿
 易にを行ない・・、そして・・、
1865年10月5日、勝海舟、長崎へ下向(幕府対長州藩抗争の
 調停を兼ねて)
1865年10月12日、山内作左衛門(やまのうちさくざえもん、
 幕臣、実業家)の一行6名が命ぜられ長崎を出帆した。
  遣露留学生の目付け役としてロシアに渡った。
  作左衛門は、後に東京・日本橋で資生堂を開く。
1865年10月13日、幕府は、フランスの協力を得て、レオン
 ス・ヴェルニーの指導で、横須賀製鉄所を着工した。
  横浜製鉄所・横須賀造船所が起工した。
1865年11月4日、兵庫開港要求事件(11月7日説あり)
  英・米・仏・蘭の四国の軍艦が兵庫に入港し、各国公
 使が京都に上りて開港を請う(こう、願う、求める)
  (別史料):イギリスの公使のパークスの主導で、英・
 仏・蘭の三ヶ国艦隊が、兵庫沖に来航した。
  (米が抜けている史料もある、これに関して、アメリ
 カ合衆国は、艦隊を派遣しなかったが、公使が同行して
 いるという説明史料もある)。
  条約勅許と兵庫の早期開港を求めた。
  1858年に結ばれた安政条約に明記されながら・・、
  今だに、朝廷の許可が無いために開港がなされていな
 かった兵庫(神戸港)・・7年間も粘った日本・・だった
 が、この問題を巡って・・、
  イギリスの公使のパークスが主導する英・仏・蘭・の
 連合艦隊が、1865年11月4日(慶応元年9月16日)に、兵
 庫沖に迫った。
  攘夷派への配慮から・・わざと幕府が、外交を停滞さ
 せているとみたパークスらは・・薩長が攘夷策を放棄し
 た時点で、障害はのぞかれたはずであるとした。
  兵庫開港か、条約勅許を求めた威圧行動だった。
  譲歩案として、イギリスは、下関戦争の「賠償金の引
 き下げに応じる」という姿勢を見せた。
  幕府は、外交の主導権と、交渉の主導権を握ろうとし
 て、老中の阿部正外・松前崇広らは、この動きに対して
 幕府単独で、開港という方針を決めた。
  しかし、朝廷との連携を重視する徳川慶喜は、この決
 定に驚き、
  朝廷との関係悪化が予想されたため、この決定に難色
 を示した。
  そして、慶喜は、独断で兵庫開港を決めた阿部・松前
 に対し、単独の無断開港決定に抗議すると共に、朝廷を
 介して老中らの罷免の令を出した。
  慶喜としては、幕府の屋台骨がぐらついてるこの時、
 朝廷の支持を失うことが一番恐れている事だった。
  慶喜は、朝廷の支持が無くなれば、雄藩による諸侯連
 合を唱える薩摩藩等の諸勢力に、政権は奪われるだろう
 と判断していた。
  しかし、この老中罷免の令が出るという異常事態に、
  また、朝廷による、幕政介入という事態に、
  慶喜に対する不満と疑念が、幕臣たちの間で深まって
 行った。
  この時、家茂が、将軍辞職の宣言をした(1865年11月
 18日)、
  そして、家茂が、江戸に帰国するという混乱が起きた。
  慶喜は、家茂を説得した(11月24日、正式撤回となっ
 た)
  また、慶喜は、条約勅許、兵庫開港をめぐって、在京
 の諸藩士を集め、
  その討議の上で、1865年11月22日(慶応元年10月5日)、
 朝廷の条約勅許を得た。
  (但し、兵庫の開港は不許可で延期)。
  この時、関税改正の合意も得るというイギリスの要求
 事項も受け入れられた。
  これで了承した四国艦隊は、兵庫沖から去った。
  翌年の1866年6月25日(慶応2年5月13日)に、改税約書
 (かぜいやくしょ)が調印された。
  これによって、欧米の日本市場への進出が決定的なも
 のとなった。
  この条約は、明治政府を困らせ、煩(わずら)わせる
 事となる。
  明治時代における不平等条約の改正(条約改正の主目
 標)となった。
  この条約によって、輸入関税が大幅に引き下げられた。
  日本への輸入量が急増し、日本の産業は壊された。
  大量生産による安価な綿製品に太刀打ち出来ず、日本
 の手工業的綿織物は大打撃を受けた(綿製品の輸入が激
 増)。
1865年、こうした時代の移り変わりの中で、薩摩藩は、徐
 々に、幕府に非協力的な態度を見せ始めた。
  そして、長州藩との提携を模索し始めた。
  薩摩藩の庇護下にあった土佐浪士の坂本龍馬や、
  同じく、土佐浪士で下関に逼塞していた三条実美らに
 従っていた中岡慎太郎らが、周旋し、薩摩と長州の両藩
 の接近が図られて行った。
  逆賊に指名されて、表向きの武器の購入が不可能とな
 っていた長州藩に変わって、薩摩藩が武器を購入する。
  両藩は、経済的な連携を行なっていき、絆がより強く
 なっていった・・そして、その後、
  1866年3月7日(慶応2年1月21日)に、京都薩摩藩邸内
 で、木戸孝允・西郷らが立ち会い、薩長同盟の密約が締
 結された。
  このあとの・・、
  1867年4月29日に、将軍慶喜が、英、仏、蘭の代表と
 大坂城で会見し、兵庫の開港実施を約した。
  1867年6月26日、勅許と決定。
  1867年7月7日、幕府が1868年1月1日より兵庫開港と布
 告した。
1865年11月9日、将軍・徳川家茂参内、兵庫開港と長州再征
 を奏請す、
  開港を許し給わず (再征討の勅許は下りた)
1865年11月13日、幕府の老中阿部正外、松前崇広等、大阪
 城中に会議を開き兵庫開港に決す
1865年11月14日、幕府の代表が兵庫に赴き、英艦にて各国
 公使と会見し、兵庫開港問題の延期を談判
1865年11月17日、朝廷が、幕府の閣老を免職する(松前伊
 豆守崇広、阿部豊後守正外の官位を剥奪)
  阿部・松前の二閣老譴責(けんせき)(氷川清話)
1865年11月18日、徳川家茂が、朝廷に将軍職の辞表を提出
 そして、江戸東帰を発表。(11月24日、正式撤回)
  将軍家茂退隠(たいいん)を奏請(そうせい)す、許
 されず、神戸軍艦操練所を廃す(氷川清話)
1865年、活躍する慶喜は・・四面楚歌だった。
  慶喜への幕臣たちの疑念も深まっていた。
  慶喜は、状況に屈せず、帰国の途につく家茂一向に追
 いついて、説得を行った、そして、将軍辞職を撤回させ
 た上で、大阪城に連れ帰った。
  そして、京都に乗り込み、大久保の政治工作に揺れる
 公家達を説得し、
  十月四日(西暦11月21日)から五日(11月22日)まで
 夜通しで行なわれた御前会議では、大久保派の公家達を
 「反対するなら命は無い」とも取れる恫喝まで行い、
  遂に、条約勅許を勝ち取る。
  勅許を得た慶喜は、大阪の四国艦隊代表達に、勅許を
 得たので、兵庫港開港延期の交渉をした。
  四国艦隊代表も同意。
  孝明天皇へ兵庫港開港の延期を報告した。
  絶望的な状況から・・四面楚歌の状況から・・、その
 状況を打破をして行き・・結局、慶喜を中心に、当時の
 京都政局は回っていた。
  そこに、薩摩藩の大久保利通が居た。
  そして、この間、長州藩は、大村益次郎の軍制改革の
 もとに、日々着実に、近代軍隊となって行っていた。
  この差が、この数年の後に、現実となる。
  大村益次郎:(1824年~1869年)
  長州出身の洋学者、陸軍創立者。
  緒方洪庵に師事、適塾で蘭学を修め医師となり、一時、
 幕府にも出仕するが、のち、長州藩で兵学を講じ、また、
 第二次長州戦争に備えて軍制改革も行なう、そして、参
 謀として優れた戦略を示した。
  戊辰戦争では、官軍の指揮をする。
  兵制の近代化に尽力した。
  襲撃され、命を絶たれるが、遺志は、山形有朋らに継
 承された。
1865年11月22日、開港条約改正の勅許下る
  朝廷が、条約に対する勅許を出す。兵庫開港は認めず。
1865年11月24日、将軍家茂、上奏して辞意を撤回
1865年12月12日、福岡藩(筑前藩)で起こった佐幕派によ
 る勤皇派弾圧事件。
  福岡藩の家老・加藤司書など、勤王の士の数名に切腹
 が命じられ、その他の一味が流罪となった。
  家老の司書は、福岡藩を代表して薩摩の西郷吉之助(
 隆盛)らと、長州藩に寛大な斡旋をして、征長軍を解兵
 させるという偉業があった。
  司書という大藩の家老職ゆえに、この事が成せた。
  明治維新以後、生きていたら、維新政府の大きなポジ
 ションを占めていた様な人と言われている。
  また、司書の偉業としては、幕府から長崎警護を命じ
 られていた筑前藩士として、1853年に、長崎に来たロシ
 アのプチャーチンと、幕府の外国奉行の川路左衛門尉聖
 謨(かわじさえもんのじょうとしあきら)を助け、折衝
 し、藩兵500人を指揮して、艦隊を無事に国外へ立ち去ら
 せていた。
  司書の偉業の第一次長州征伐時の解兵のいきさつは・・、
  蛤御門の戦いで、長州は敗退するが、
  この時の処置として、幕府は、前尾張藩主・徳川慶勝
 (とくがわよしかつ)を総督として、36藩を動員し、長
 州征討をする。
  この時、広島に各藩の藩兵が参集した。
  加藤司書も、福岡藩を代表し、そして、薩摩を代表し
 て西郷吉之助も居た。
  この時、長州藩の毛利敬親・元徳(たかちか・もとの
 り)親子を切腹させて、長州藩を召し上げるという強行
 論まで出ていたが・・、
  福岡藩主・黒田長溥(くろだながひろ)は、外国艦隊
 の脅威がある時に、国内で戦っている場合ではない、国
 防に専念すべきだという考えで、穏便に解決したいと、
 加藤司書に建白書を持たせ、徳川総督に提出した。
  司書と西郷が、参謀会議を止戦へとリードして、元治
 元年の暮(1864年12月9日と10日)に、長藩の三家老らに
 腹を切らせ、恭順を条件に解兵が実現した。
  長州征伐が取り止められた。
  この時に、司書が詠んだ唱が・・、
  皇御国(すめらみくに)の武士(もののふ)は
  いかなる事をか勤むべき
  只(ただ)身にもてる赤心(まごころ)を
  君と親とに尽くすまで
  (今でも、博多の町では、この「祝いめでた」は愛唱
 されているという)
  尚、ここの部分には、次の記述もある・・
  「1864年11月23日、大阪において、西郷は、総督の徳
 川慶勝へ、長州藩降伏へのプロセスの腹案を述べた。
  慶勝は、その場で、西郷へ脇差一刀を与えて、信任の
 証とした。
  西郷は、征討軍の全権を委任された参謀格となった。
  長州藩と西郷の会談後、長州の家老切腹、参謀斬首を
 催促し、受け入れられ、行なわれ終息した」
1865年12月24日、幕府が第二次長州出兵を命じた。
  幕府が、大目付を広島に遣わし、毛利藩主を審問した。
  また一方、彦根以下31藩に、長州征伐出兵を命じ、
  徳川茂承を総督と為す
  幕府は、第二次長州征伐の勅許を得た。
  幕府は、日米修好条約の勅許問題と、兵庫港開港問題
 を切り抜けた。
  そして、幕府は、第二次長州征伐の本格的準備へと入
 った。
  しかし、予想以上に、諸藩の第二次長州征伐への取り
 組みが悪かった。
  諸藩の第二次長州征伐の取り組みが悪かった理由は・・、
  (1)建前として、禁門の変の時の長州藩は、首謀者
    である三家老の自刃をする事により果たされてい
    る。
    それ故、第二次長州征坺の大義は無い。
  (2)諸藩は、第一次征伐の時と違って、幕府への不
    信感が存在した。
  第一次長州征伐は筋が通り、成功した・・、
  そして、成功した幕府は、参勤交代制度の強化した。
  また、幕府は、慶応元年の天狗党に対して、処刑をし
 た。
  この事などから、次は自藩か?と思わせた。
  第二次征伐のあと、自藩になるかもしれないという事
 を思わせた。
  (3)どこの藩も、財政難であった。
  この様な、大儀と財政が・・問題だった。
  準備の進まない状況の中で、幕府は・・、
  慶応二年一月二十二日(1866年3月8日)に、「領土10
 万石の削減、藩主親子の蟄居」等の長州藩への最終処分
 案を朝廷を通して発表した。
  幕府の、長州藩を屈服させたいという意思が、ここに
 あった。
  一会桑も働いて、朝廷を介し、第二次長州討伐を正式
 に発令した。
  世は、薩長同盟が成立している世だった(1866年3月7
 日)。
1865年、長州征伐の時の・・幕府側の兵のこぼれ話
  「井伊の赤備」、敵兵だったのか・・?
  長州征伐の時、彦根は、旗本の旗頭だったから旧例に
 よって先鋒を命ぜられた。
  そして、その大将は、岡本黄石であった。
  彦根は、いまだ泰平300年の夢が覚めない時であったか
 ら、本当の戦争を知らない連中ばかりで、
  300年も昔の様に、やはり赤具足を着込んで、旗差物を
 押し立てて、笛や太鼓でヒュードンヒュードン」とはや
 し立てて進んで行った。
  (注・赤備え:すべての将兵の武具を赤色にした軍勢。
 徳川の臣で関ケ原の戦いで武功をたてた井伊直政の手勢
 など)
  ところが、長州の武士は、すでに開化している。
  尻をはおって身軽ないでたち、紙くず拾いか何ぞの様
 な風で、
  旗、太鼓、堂々たる幕軍とすれ違いに、そばの小道を
 通って、こっちへ進んで来た。
  しかし、風体が風体だから、幕軍の方では、それが敵
 兵であろうとは、少しも気づかなかった。
  長州兵は、そのすきに乗じて、こともなく幕軍の先鋒
 をやり過ごして、さて、不意に本陣の大将を目がけて鉄
 砲を放った。
  そこで、幕軍は、大騒ぎをしているうちに、大将が討
 ち死にをしたという噂が、先方へ聞こえて来た。
  ここのおいてか、さすがの黄石も狼狽して後へ返した
 ということだ。
  後で、黄石が、直接、俺に話してくれた(氷川清話)
  海舟の心:この事を知って、海舟は幕府の死に体を、
 一層、痛感し、見限る方向へ心を動かした。
  この第二次長州戦争で、彦根藩は参戦し、小瀬川の戦
 いで旧軍制と旧装備であったために、長州に敗北した。
  日本の次世代の、新しい体制の軍の萌芽が、その一方
 にあった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2015-12-24 03:39 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)264D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1865年5月~1865年7月)

題:(増補版)264D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1865年5月~1865年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1865年(慶応元年)1865年5月1日、長防処置。世論の沸騰
 倍する(氷川清話)
  禁門の変で、朝敵となった長州藩は、武家官位を剥奪
 され、周防・長門を支配するという正当性を失った。
  しかし、世に、その論理に疑問が呈された。
 「長防処置の一件は、当時容易ならざる御大事と存知奉
 り候。全体幕府の長防再討の妄挙は無名の師を動かし、
 兵威をもって圧倒すべき ・・云々」
  逆に、長州藩は、書を作り、識字率の高い藩内に武士
 だけでなく一般庶民にまで配布した。
  それは、こんなひどい論理で長州は征伐を受けると、
 後世にわたって正しく伝えようという行動だった。
  以下、その説明文・・、
  長州藩は、幕府の討伐軍を迎えるに至り、士族だけで
 なく百姓に至る領内各戸に本を配布した。
  容量は20ページ、製本数は36万部。
  各戸配布に至った背景には、国内第二位の寺子屋数(
 約1,400)を有し識字率が高かったことが挙げられる。
  この合議書には「のちの世の中に志があやまって伝え
 られないように、すべての人がこの文書を懐に入れ戦場
 に立つ」という記述があるように討伐により長州藩が改
 易されようとも、領民に事実を伝え語り継がせようとい
 う思惑が伺える。
1865年、5月19日、幕府が、外国奉行・柴田剛中(しばたた
 けなか。しばたごうちゅう)らに、軍制調査の目的でフラ
 ンス派遣を命令した。
  柴田剛中は、神奈川開港問題の解決や、外国人殺傷問
 題(生麦事件)、そして、通貨問題などで欧米外交団と
 の交渉の窓口となって功績をあげて来た。
  また、1862年には、幕府遣欧使節組頭として、ヨーロ
 ッパに渡り、開港・開市の延期交渉にあたった。
  そして、この年に、製鉄所建設(資材買い付け)、及
 び、軍制調査・軍事教官招聘の正使としてフランス・イ
 ギリスに派遣された。
1865年5月、勅して外国条約を許す。但し、兵庫開港を止む
 (氷川清話)
1865年5月、将軍、京都より大阪城に入る(氷川清話)
1865年5月26日、山城の緒山陵修理竣工す(12月説あり)
  戸田忠恕(とだただゆき、宇都宮藩主)は、1862年に、
 山陵修理を幕府に建議し、
  藩老・間瀬和三郎(のちの戸田忠至)・県信緝らを督し、
 近畿地方の荒廃した山陵100余ヶ所を修理し、
  1865年12月に、山陵修補の完成を告げた。
1865年5月頃、蒸気機関車
  グラバーが、上海展覧会出展中の蒸気機関車「アイア
 ン・デューク号」を輸入した。
  2両の客車を引いて、大浦の海岸通り600メートルの区
 間を走らせた。
  燃料は、長崎港外高島の石炭を使用した。
  機関車の「アイアン・デューク(公爵)号」の由来は、
 1830年9月13日、イギリスのリバプール・マンチェスター
 間の鉄道が開通した時、ウェリントン公が乗車した。
  グラバーは、この公にちなみ「公爵」と名付けた。
  機関車に同乗した小島町の海運業、松島長太郎の談話
 は、
  「機関車というものに初めて乗ってみて、走り出した
 時には、ほんとうにびっくりした。
  短い時間だったが、夢見心地だった。
  試運転が何回か繰り返された。
  毎日、近郊近在から見物人が押しかけて、海岸通りは、
 黒山の人だかりだった。
  みんな“アレヨ、アレヨ”と驚いていた」。
  長崎の古老の吉田義徳の手記には・・、
  「拙者、幼少の時大浦海岸において陸蒸気を運転する
 と聞及び、直ちにその場所に走り行き見物。
  現今の税関前辺り上り松が枝橋辺りの中間を運転し或
 いは停留しおる時、
  間近く立寄り居る際何人(なにびと)か後方より我を
 抱き乗せたる者あり、其時朋友新年なるものも乗り居た
 り」
  ロンドンで発行された「鉄道タイムス」の記事:
  「ジャパン―炭水車付機関車の鉄道が長崎のバンドで
 運転中。日本人の関心を大きくそそり、遠近を問わず見
 物にやってくる」
  この後に、機関車は、大阪へ運ばれ、川口の外国人居
 留地付近の松島辺りで、レールを敷いて公開運転を行な
 った。
  また、さらに後に、横浜に送られ、3たび公衆に観覧
 させた。
  そして、アイアン・デューク号は上海に戻った。
1865年6月7日、幕府が、スイスと通商条約締結。
1865年6月23日、土佐藩の坂本龍馬が、薩長両藩の和解を
 周旋し、馬関において、桂小五郎と会見した。
  非常に仲の悪い薩長を結び付けた。
  蛤御門の変で、薩摩は、長州を滅多打ちにしていた。
  また、第一次長州征伐でも、薩摩は、幕府と一緒に長
 州を、やっつけて来ていた。
  「薩賊会奸」(薩摩藩は賊で会津藩は奸物)という字
 を草履の裏に書いて、踏みつけて歩いていたほど憎んで
 いた。
  つまり、竜馬は、中岡慎太郎らと共に、この様に憎み
 合う薩摩・長州を結びつけたのだった。
  この後、桂小五郎の長州と、西郷隆盛の薩摩が会見す
 る事となる。
1865年6月28日、中岡慎太郎が、西郷吉之助と会見のため、
 鹿児島に赴いた(薩長連合の周旋)
1865年7月3日、武市瑞山(半平太)処刑された。
  武市半平太という土佐藩士は、何しろ勤王を目ざした。
  土佐勤王党を結成した。そういう男だった。
  竜馬は、この時、彼の下に加わった。
  そして、藩論も、尊王攘夷に導いて行かれたが・・、
  前藩主の山内容堂は、公武合体の立場から、この勤王
 派を弾圧した。
  半平太は投獄されて、37歳で没した(切腹)。
  贈正四位。
1865年7月8日、将軍・徳川家茂が、江戸を発し、長州征伐
 に向った。後に、京都より大阪城に入った。
  長州征伐、将軍江戸城を進発(氷川清話)
1865年7月13日、土佐藩士・中岡慎太郎が、馬関にて桂小五
 郎、高杉晋作等と、薩長連合を周旋した。
  この様な苦労の結果、薩長連合は、1866年3月7日に、
 小松帯刀邸(京都市上京区)で締結される。
  薩摩藩と長州藩の『政治的、軍事的同盟』である。
1865年7月14日、将軍・家茂が参内し、長州の再征を奏上す
 る。
  奏上:そうじょう、天子に申し上げること。上奏。
1865年7月18日、第二代イギリス公使ハリー・パークスが、
 長崎に、1865年6月25日に到着し、
  7月18日のこの日に、横浜に到着し、着任した(37歳)。
  (1828年~1885年)これより18年間日本に滞在す。
  前年の四国艦隊下関砲撃事件に際しての、前任者の行
 動が、イギリス政府は、意に沿わないとした。
  そして、前任者・オールコックを解任した。
  パークスは、後任公使として任命され、この日、横浜
 に到着したのだった。
   幕府との交渉を開始するが、当時、将軍など幕閣の大
 半が、第一次長州征討で、江戸を留守にしていたため、
  パークスは、仏・蘭とともに、連合艦隊(米国は代理
 公使のみの派遣)を兵庫沖に派遣し、威圧的に、幕府・
 朝廷と交渉した。
1865年、神戸海軍操練所が閉鎖された。
  勝海舟が罷免(ひめん、職務を止めさせること、免職)
  八月十八日の政変で失脚した長州藩が、京都へ進攻し
 た禁門の変の責を問われて、勝海舟は、軍艦奉行を罷免
 された。
  さらに、土佐脱藩浪士や、長州に同情的な意見を持つ
 生徒が多かった神戸海軍操練所は、
  幕府の機関でありながら、反幕府的な色合いが濃いと
 して、翌年の1865年に閉鎖された。
  この時、操練所にいた竜馬は、同志を連れて薩摩藩を
 頼り、
  薩摩藩の資金と船を借りて、亀山社中を創立した。
  勝海舟の指導通りの行動だった。
  氷川清話:勝海舟、この年は閉門、門を出ず。
  もっぱら和・漢・洋の読書に精を出す(氷川清話)
1865年、海舟の方針が、幕府に忌避されたが・・竜馬が・・
  海軍塾が潰されると、竜馬は、同志を連れて薩摩藩を
 頼り、薩摩藩の資金と船を借りて亀山社中を創立した。
  海舟の指導通りの行動であった。
  竜馬は、独創の人ではない、応用の人だった。
  竜馬が実現した亀山社中、海援隊の設立、薩長同盟、
 大政奉還のいずれをとっても、竜馬一人のオリジナルと
 は言えない。
  竜馬にあった人たちは、開明的意見もあり、重訳(じ
 ゅうやく、一度、他に翻訳されて伝わる、直接の翻訳で
 はない)でもあり、優れてもいたが・・、
  組織の反対や自己保身や旧組織への帰属意識を捨てき
 れない、実行できないエリートであった。
  無私の精神の竜馬という一脱藩浪人が、彼らになりか
 わり、巧みに公のものとして実現に移した。
1865年7月、坂本龍馬が、伊良林の亀山に「社中」(軍事的・
 政治的かつ商業的組織)を作った。
  亀山社中のはじまり、
  薩摩藩に、藩所有の汽船を任された坂本龍馬が、同志
 と商社を設立し、通商航海業をはじめた。
  亀山社中…
  1864年5月に発足した幕府の直轄施設の神戸海軍操練所
 の生徒の一部と、坂本龍馬を筆頭とする一団が母体。
  神戸海軍操練所の解散をきっかけに亀山の地で結成。
  1867年7月上旬に、土佐藩は、「亀山社中」を「海援隊」
 (脱藩を許されて隊長を坂本龍馬に)と称し、藩の付属
 とした。
  坂本龍馬の海援隊長としての活躍がはじまった。
  外国を視野に入れた先見的な活動が行われる。
  また、竜馬は、蝦夷地の開発事業を行なう計画を持っ
 ていたとも言われている。
  (この遺志は、竜馬の親族が継いで、北海道の空知に
 入植しているという)。
  だが、龍馬が暗殺されると求心力を失った。
  1868年6月17日、藩命により解散される。
  土佐藩士の後藤象二郎は、海援隊を土佐商会として、
 岩崎弥太郎が九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社
 (後の日本郵船株式会社)・三菱商事などに発展させて
 行く。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
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by suba28 | 2015-12-23 05:01 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)263D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年12月~1865年5月)

題:(増補版)*263D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年12月~1865年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1865年(元治1年)、この頃の幕府・・そして、一会桑・・
  江戸幕府の260年を越えたこの頃、幕府の権威も大きく
 かすれて来た。
  その事を示す一つの事例が、参勤交代制度だった・・、
  参勤交代制度の強化は思うようには進まなかった。
  また、幕府は、『幕府権威』の復権を、目指して、
  年が明けた慶応元年・・1865年の正月に、
  長州藩・藩主父子に処分を言い渡す為、江戸に呼びつ
 けた。
  また、この長州藩は、ここ数年の長州藩の行動が示す
 様に、別の意味でも、幕府にとって目の上のタンコブだ
 った。
  また、朝廷と、一橋慶喜・会津藩・桑名藩の『一会桑
 (政権)』が、幕府の意思に反する様にも見え、
  その工作のためにも・・、
  老中の本荘宗茂と、阿部正外の両名に、幕府歩兵隊4
 個大隊を率いさせて、1865年3月初旬に上洛させた。
  そして、幕府の権威を復活させようと努めたりした。
  一会桑(政権)は、当時、禁裏の御守衛総督だった一
 橋慶喜と、京都守護職だった会津藩と、京都所司代だっ
 た桑名藩による京都における連合勢力なのだが・・、
  一見すると、幕府の京都における出先機関の様に見え
 るが、また、そうだったのだが・・、
  この一会桑は、孝明天皇から絶大な信頼を受けていた。
  その事によって、幕命で動くというより、独自の判断
 で動くようになっていた(幕府の意思から離れた行動の
 様に見えた)。
  幕府の下の組織というより、朝廷と幕府の仲介という
 形になっていたとも言える。
  その仲介・仲立ちという行動は、幕府の意思で動くと
 いうより、
  江戸の意向より、どちらかというと、朝廷の意向を優
 先している様に、幕府には映っていた。
  これは、この頃の幕府から見れば、一会桑の存在は、
 ある意味、半ば、政敵となりつつあった。
1865年1月3日(旧暦:12月6日)勝海舟、三男梅太郎誕生
 (生母、長崎の梶未亡人)(氷川清話)
1865年1月8日、西郷吉之助が、五卿動座の談判のため、単
 身長州に乗込む。
1865年1月10日、高杉晋作が、筑前より長府に帰った。
1865年1月11日、長州藩主・毛利敬親が、老臣・毛利隠岐を
 征長総督府に遣し、伏罪の誓書を呈す。
1865年1月12日、長州藩士・高杉晋作等が、恭順派の藩政に
 反抗して、馬関新地の役所を夜襲した。
  高杉晋作の下関での挙兵(功山寺挙兵)、そして、その
 後、長州藩の藩論が倒幕に統一されて行く。
  苦闘の中の長州藩だった。
  第一次長州征伐の危機を乗り切った長州藩だったが・・、
  しかし、まだ、藩内には不安材料は残っていた。
  藩論が統一されていない事だった。
  同じ藩なのに、相手の派に対して粛正が行われたりす
 る長州藩だった。
  藩論を統一し、主流派になろうとする戦いが、この高
 杉の行動だった。
  蛤御門の変の敗戦で、俗論派が主導権を握り、諸隊に
 は、解散命令が出ていた。
  しかし、藩から解散命令の圧力が加わっても、一向に
 諸隊は解散する気配は見せず・・、
  この様な状況で、各諸隊は、逆に、解散の実力行使を
 恐れて長府に集結した。
  この様な状況で、俗論派の保守派政権は、諸隊の扱い
 に苦慮していた。
  この諸隊が、ここまで出来て来た経緯は、外国艦隊と
 戦った馬関攘夷戦争の際、
  長州藩の士族による正規軍が惨敗し、その醜態を晒し
 たのを見た高杉晋作が、補助戦力として建白し、
  そして、生まれたのが志願兵による奇兵隊だった。
  そして、その奇兵隊を初めとしてできた来た諸隊だっ
 た。
  この諸隊は、志願兵により構成されていた。
  そのため、士族だけではなく、農民や商人、また、他
 藩の浪人等も参加していた。
  そして、保守派政権が、諸隊を解散させようとしてい
 る所へ、
  九州に亡命していた高杉晋作が帰還した。
  高杉は、奇兵隊の隊士達に決起に参加するよう呼び掛
 け、そして、説得した。
  しかし、当時の奇兵隊総督や、軍監だった山形有朋の
 参加が得られず・・高杉の挙兵は成らなかった。
  しかし、高杉は、奇兵隊の協力は得られなかったが、
 決起を諦めず、遊撃隊と力士隊の協力を取り付け、
  1865年1月12日に、長府功山寺で、保守派政権への反乱
 の決起をした。
  高杉のこの決起は、山形有朋の慎重論を乗り越えたと
 され、また、この行動が、英雄的だと語り継がれること
 となった。
  当初、危ういとみられた高杉のこの決起・・、
  遊撃隊・力士隊を合わせて、わずか80名で始まった高
 杉のこの反乱・・無謀の様でもあった、
  その後、あれよあれよという間に要所を占拠した。
  そして、各地の豪農の援助も受けて行った。
  次第に勢力を増しても行く・・、
  この高杉の順調な行動を見ていた諸隊は、高杉のとこ
 ろへ集まるようになった。
  年末に至って・・、高杉は、保守派政権に対して、一
 大反乱軍の首領となっていた。
  ここまで大きくなると、保守派政権も、遂に、討伐軍
 の派遣を決意した。
  総奉行・毛利宣次郎、以下、栗屋帯刀・児玉若狭等が
 率いる藩の正規軍:約1000名を、1965年1月25日に、萩
 から出撃させた。
  山形有朋は、この藩の正規軍と戦った、そして、初戦
 を勝利した。
  各地での戦いを重ねるうちに、藩の正規軍は敗走する。
  志願兵の諸隊が、士族の正規軍に勝ったのだった。
  この様な戦いの進捗の中で、長州藩の保守派政権は、
 諸隊の軍事的侵攻を受けなくても・・崩壊を始めた。
  こうして、保守派政権は瓦解し、桂小五郎・広沢真臣・
 山田宇右衛門等による過激派政権が確立された。
  長州藩の方針は、表面的には幕府に恭順を装いつつ、
  幕府との戦いに備える「武備恭順」路線を取った。
  そして、四国艦隊との戦いにおいて、欧米の軍事の強
 さを実感した長州藩は、攘夷という観念から、対抗する
 幕府の姿が見え、幕府との戦いが見えて来る。
  そして、その幕府との戦いに備えた長州藩の軍制を、
 西洋流に転換して行く。
  この路線を行なうのが・・大村益次郎だった。
1865年1月14日、天狗党の乱(筑波山事件)の終結。
1865年2月2日、長州藩正義派の緒隊兵、萩の鎮撫軍と交戦
 してこれを撃破す。
1865年2月10日、三条実美以下の五卿、勤王家の援護により
 長州より筑前大宰府に動座。
1865年2月10日、幕府が、長州藩主・毛利敬親(たかちか)父
 子の服罪により、長州征伐の中止を布告する。
1865年2月11日、征長総督・徳川慶勝が、大阪城に入る。
1865年2月11日、西郷吉之助が、薩摩に帰藩し、これより各
 藩勤王党連合し国是を一定せんと図る。
1865年2月23日、山口藩士・毛利敬親の藩政改革。
1865年2月23日、西郷吉之助(隆盛)、39歳にて妻を娶る
  (坂本龍馬、大久保利通、小松帯刀等の勧めに依り岩
 山八郎太の長女・糸子を迎う)
1865年2月24日、幕府が、フランスとの横須賀製鉄所建設の
 契約を結ぶ。
1865年2月25日、毛利広封が、兵を率いて緒隊追討のため城
 を出て明倫館に入る。
1865年3月1日、武田耕雲斎の一党処刑(氷川清話)
1865年3月4日、老中の本荘宗茂と阿部正外が、兵を率いて
 京都入り(3月2日に、阿部正外が上洛、3月4日に、本荘
 宗茂が上洛した)。
  権威を回復したい幕府と、攘夷のこともあって勅を出
 し、より世に関わる朝廷と・・、
  幕府が京へ送り込んだ一会桑の面々は、どちらかとい
 うと、幕府よりも朝廷の意向を優先しがちという状況に
 なっていた。
  そこで幕府は、その様な状況の政治工作の為に、
 二老中を京都に送り込んだ。
  京都に入った本荘と阿部の二老中は、一方で、幕府の
 歩兵隊4個大隊によって、無言の恫喝と、三十万両にも
 及ぶ工作資金の「飴と鞭の工作」によって、京の政治・
 政界を牛耳ろうとした。
  この様な幕府の行動に、二老中の行動に、対抗したの
 が、薩摩藩の大久保利通だった。
  この頃の薩摩藩は・・、
  それまでの公武合体路線から転向しつつあった。
  反幕路線へと移行しつつあった。
  (だが、この頃は、まだ、薩摩藩は倒幕には至ってい
 ない)
  この頃、薩摩藩の京都での政治工作の表舞台に居たの
 が大久保だった。
  大久保は、金と武力による恫喝で、京を牛耳ろうとす
 る幕府の行動を見て・・、
  公家に対する工作を、大久保は、行ない始める(大久
 保は、3月4日に上洛していた)。
  そして、1865年3月19日に至り、朝廷は、ニ老中を呼
 びつけ、今回の行動を叱責し、逆に、将軍が上洛する様
 にと言明した。
  本来、朝廷と意思の疎通が出来ていた一橋慶喜が主導
 すべき事態であったが、
  二老中の目的は、「一会桑を、江戸に連れて帰る(一
 橋慶喜と会津藩主と桑名藩主を京都より追い出す)」と
 いう目的もあったため、
  一会桑の協力も得る訳に行かず、この様な事態になっ
 たのだった。
  そして、大久保が、京都の政治の中で大きな地位を占
 めて来る、
  そして、二老中は、江戸に帰ることになる(3月19日に
 老中は、関白の叱責を受け、3月20日に、江戸に帰らされ
 た、将軍上洛の為もあって)。
  しかし、幕府は、この一件で、一会桑の役目の大事さ
 を理解した、
  これ以後、より慶喜の京都での働きを重視する。
  ここに、慶喜と大久保の両氏が、京都で火花を散らす。
1865年3月、高杉晋作(27歳)と伊藤俊輔(博文)が、洋行
 という名目で、2度目の長崎へ行った。
  グラバーと英国領事のラウダに海外渡航を相談、
  グラバーらは、高杉の海外渡航に反対する。
  幕府の第2次長州征伐に備え戦力を蓄えるため、下関
 を開港し、イギリスと貿易を行なうよう強調(グラバー
 は、あくまで商社マン)。
  高杉は、説得を聞き入れ下関に帰った。
  この後、グラバーは、日本がシッチャカメッチャカの
 戦争状態になると思って、大量の武器を仕入れたが、
  理知的な日本は、その様な事態は起こさずに、グラバ
 ーは、買った武器が売れず、破産となる。
  →1866年(慶応2年)、3度目の来崎。目的は薩長同盟
 に加わるため。銅座町の薩摩屋敷へ。
1865年4月4日、幕府へ参勤交代を緩めよと勅諚(ちょくじ
 ょう、朝廷が自ら定めたこと)
1865年4月5日、幕府が、英・米・仏・蘭の4国公使に、下関
 開港が不可能なことを申し入れた。
1865年4月17日、薩摩藩の遣英使節団が密出国した。
1865年4月20日、野村望東尼、三条実美に会見。
1865年(慶応元年)5月1日、慶応と改元
  元治1年から慶応1年になる。
  禁門の変や社会不安などの災異のために慶応に改元。
1865年5月、土佐勤王党が、弾圧される。
1865年5月7日、幕府が、長州再征の部署を定めた。
1865年5月10日、将軍家茂が、長州征討のため江戸を出発
 した。
  一会桑の重要性を理解した幕府、そして、連携が成立
 した幕府。
  幕府は、一会桑からの上洛の勧めを受けたのと、長州
 藩主父子の出頭を命じたのに、いつまで経っても応じな
 い態度を示す長州藩に、再征討の必要性を感じた。
  そして、その再征討の陣頭指揮をする為に、1865年6月
 9日に、将軍・徳川家茂、自らが、幕府歩兵隊を主力とし
 た幕府軍を率いて、征長軍本営となる大阪を目指して、進
 軍を開始した。
 こうして1865年7月8日に、江戸を出発した家茂一向は、
 1865年7月14日に上洛し、参内した、そして、
  7月17日に、征長軍本営と定めた大阪城に到着し、
  8月14日に、再度、長州藩に対し重臣の出頭を命じた。
  しかし、長州側は、病気のため猶予を願うと回答した。
  長州藩は、この出頭命令を無視した。
  10月7日に、病気で無理ならば家来を上坂せよとの命令
 も出されたが、
  10月27日に、長州は、再び、病気を理由として拒否した。
  ここに至り、ついに、
  1865年11月9日に、慶喜を介し、朝廷に対して、長州藩
 への再討伐の勅許を得る為の行動が開始された(この日
 に、再征勅許を巡る朝議が開かれた)(奏請:朝廷に奏
 上して裁可を求めること)。
  これに対して、薩摩藩の大久保は、「長州藩への対処
 は、雄藩による諸侯会議で話し合うべきだ」と言った。
  幕府へ勅許が下りるのを阻止するためだった。
  また、大久保に入説された公家が反対したりした。
  しかし、朝議を牽引した慶喜は・・勅許を得た。
  長州問題への主導権を巡る「慶喜と大久保」の朝廷の
 場での意見対立が争われた。
  「慶喜と大久保」の政治工作に公家方も意見が分かれ
 た。
  政治戦は、公家達も巻き込まれて行なわれ、
  両者の政治工作に、公家方も態度が安定しなかった。
  1865年11月9日に、幕府に対し、長州藩に再討伐の勅許
 が降りた事によって、長州問題を巡る政治工作は、慶喜
 の勝利で終わった。
1865年5月13日、幕府が、長州再征布告。
..
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by suba28 | 2015-12-21 04:48 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)262D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年10月~1864年12月)

題:(増補版)262D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年10月~1864年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1864年10月 京都・大坂に、物価騰貴・長州征討・外国貿
 易非難の張紙がなされた。
  戦乱で世は乱れて・・、
  大坂やその周辺の物価は・・騰貴し、
  人夫徴発などの負担を、民衆は・・強制され・・、
  諸物価高騰は・・狂乱状態で、
  また、経済的要因だけではなく・・内戦状態にある世
 が、さらに、その状況に拍車をかけた。
  諸藩は、戦争状態のため、兵糧米を備蓄した。これが
 大きな原因だった。
  また、関門海峡封鎖により西廻りの米が入らなくなっ
 たこと、そして・・投機のために、米価は天井知らずに
 高騰した。
  数か月で、米価は2倍になった。
  逆に、日雇や手間賃の実質賃金は、数年前の半額にな
 った。
  特に、下層の庶民への打撃は・・大きかった。
  世直しの大一揆や、打ちこわしは・・起きた。
1864年10月19日、勝海舟が関係する神戸塾中の姓名出所が
 探索された。
  これは、激徒の巣窟に似ているというので、嫌疑を蒙
 ったもの(氷川清話)
1864年11月、勝海舟、小野浜に碑石を建て海軍鴻基の記念
 とする。
  明年、そのこと廃せられ碑石を深く土中に埋める(氷
 川清話)
  (参考)鴻基:こうき、大きな事業の基礎。
  ここまで、行動を追及されるこのグループ・・、
1864年11月15日、☆幕府、筑波の叛(天狗党の乱)の罪を
 問い水戸家家老・鳥居忠順、大久保忠貞など49名を斬る。
1864年11月21日、☆大阪城に於いて、征長軍議評定 。
1864年11月24日、勝海舟、帰府を命ぜられ陸路(氷川清話)
1864年11月30日、高杉晋作、脱藩し福岡に移る。
1864年11月30日、勝海舟、江戸に着く、老中・阿部豊後守
 に謁し形勢を述べ、直ちに家に屏居す(氷川清話)
  勝海舟、役儀を命ぜられ寄合となる。俗吏の猜疑を受
 ける。天下益々多事(氷川清話)
1864年12月8日、勝海舟、軍艦奉行免職。
  勝海舟が罷免(ひめん、職務を止めさせること、免職)
 され、約2年の蟄居生活を送った。
  八月十八日の政変で失脚した長州藩が、京都へ進攻し
 た禁門の変の責を問われて、勝海舟は、軍艦奉行を罷免
 された。
  さらに、土佐脱藩浪士や、長州に同情的な意見を持つ
 生徒が多かった神戸海軍操練所は、幕府の機関でありな
 がら反幕府的な色合いが濃いとして、翌年の1865年に閉
 鎖された。
1864年12月9日、☆長州征討軍の各自が攻め口に着陣した。
  1週間後の12月16日を攻撃開始とすると決定した。
1864年12月9日、着陣と同じこの日に、長州征伐の終戦へ向
 けて、終戦条件として求められていた条件(三家老切腹)
 の内、
  長州藩の国司親相と益田親施の二家老が、徳山藩にお
 いて切腹した。
1864年12月10日、その翌日のこの日に、長州征伐の終戦へ
 向けての長州藩のもう一人の家老・福原元僴が、岩国藩
 において切腹した。
  また、この日に、終戦条件で求められていた四参謀も
 野山獄で斬首された。
1864年12月13日、三条実美らの五卿、長州藩の諸隊士700余
 人に護衛され山口より長府に移った。
1864年12月16日(旧暦:1864年11月18日)、第一次長州
 征伐
  征長軍参謀・西郷隆盛の妥協案に基づき、長州藩、戦
 わずして恭順した。
  1864年11月21日に、大坂城にて征長軍は軍議を開き、
  1864年12月9日までに、各自は攻め口に着陣し、
  1週間後の1864年12月16日に、攻撃を開始すると決定し
 た。
  幕府は、朝敵となった長州の藩邸を没収、藩主父子に
 謹慎を命じた。
  しかし、どのような条件で長州藩へ謝罪をさせるかに
 ついては決めず、幕府や征長軍内においては厳罰的な案
 を含めていくつかの案が出された。
  三家老切腹、四参謀斬首、五卿の追放が降伏条件で開
 戦の開始を猶予する案が出た。
  そして、この日・12月16日に、「藩主父子からの謝罪
 文書の提出、五卿と附属の脱藩浪士の始末、山口城破却」
 の命令が出された。
1864年12月、長州藩の謝罪恭順・・長州藩内はゆれる
  第1次長州征伐直後、長州藩の俗論派は、幕府へ「謝罪
 恭順」論をとなえたが、
  それを排して「武備恭順」の路線を確定させた。
  この時、藩主の敬親(たかちか)が、腰砕けの佐幕に
 傾いていたら、長州藩は解体され、維新を先駆ける原動
 力にはなり得なかったと思われる(プレジデント平成10
 年7月号)
  第1次長州征伐を発令した幕府の大軍を迎えるという危
 機に直面すると、それまで後退していた俗論派が進出し、
  そして、過激分子を粛清して、幕府に謝罪するなどで
 危機を脱した。
  藩主。敬親は寛大だった。
  長州藩は、高杉晋作ら松下門の過激派が暴走しても、
 彼らの行動は黙認され、庇護を与えるまでに寛大であっ
 た。
  しかし、俗論派とは、たびたび入れ替わった。
  武備恭順を確定させた長州藩、武備恭順は、見せかけ
 だけの恭順、
  それは、再起を図るための武備をしているということ、
  長州藩の俗論派は「謝罪恭順」、
  幕府に全面的に恭順したという形の俗論派から見ると、
 武備恭順派は危険分子と写っている。
  故に、長州藩内で、この二派が争った。
  外国艦船の来航を契機に、平和な文化が花咲いていた
 日本は、すっかり戦乱の世となった。
1864年12月18日、小栗忠順(おぐりただまさ、幕臣)が、軍
 艦奉行を命ぜられた。
1864年、デンマーク戦争が起きた。
  ドイツの内乱につけこんで、イギリスとオランダの援
 助の約束を得た上で、北ドイツに侵入した。
  結局は、土地・領土の奪い合いの餓鬼の戦争。
  下記のアメリカ合衆国の場合も同じだが・・、
  ヨーロッパやアメリカのキリスト教国は、こんな戦争
 に明け暮れていた。
  そして、1866年には、懲りない面々は、またまた、領
 土・領有をめぐって、普墺戦争を起こすに至る。
  遅れた国々だった。
1864年11月29日、アメリカ合衆国の先住民の方々=アメリ
 カ・インディアンの方々がアメリカ軍によって虐殺され
 た。
  アメリカのコロラドで・・、
  アメリカ軍が、何と、無抵抗の先住民のインディアン
 の方々を無差別に虐殺して行った
  (シャイアン族とアラパホー族のインディアンの方々)。
  アメリカ合衆国の正規の軍隊が、無抵抗の人たちを、
 殺して行くという行為である・・が、
  また、アメリカの民間人も・・卑劣な方法で、先住民
 のインディアンの方々を追い出し、殺して行った。
  ならず者をのガンマンを雇って、インディアンの方々
 を追い出し、
  また、殺して・・土地を奪って行った。
  アメリカ政府は、居留地・保留地という方法で、
  インディアンの方々を集め、隔離し、インディアンの
 方々の土地を奪った。
  それで、アメリカ白人の入植地を増やしていった。
  入植地は順調に増えた。
  インディアンの方々は、物同然の邪魔者扱いで取り扱
 われ、人道的な視点はまったくなかった。
  キリスト教の有色人種蔑視の洗脳とマインド・コント
 ロールが行なわせた、
  この宗教は、完全にアメリカ人の判断力を鈍らせてい
 た。
  当然、インディアンの方々は、自衛のために・・抵抗
 し、戦いをすることになって行く。
  しかし、南米などでの、1000万人にも及ぶ殺戮と同じ
 く、
  スペインのキリスト教徒とキリスト教聖職者たちのそ
 の蛮行と同じく、
  使用される武器、持っている武器の・・厳然たる差に
 よって、
  このアメリカの地でも・・、先住民のインディアンの
 方々は、その非力さによって・・殺されて行った。
  インディアンの方々が・・悪いのではない・・、
  コロラドでは、戦いの前に、「インディアンの頭の皮
 を買い取る」ということを宣伝する集会を、アメリカ人
 は開くという・・卑劣なひどいことをした。
  どちらが野蛮人か・・と、言いたい。
  「耳まで付いている頭の皮」なら高額だ・・という話
 までするという・・低劣さだった。
  インディアンの方々の土地の奪い取りを煽り立てるア
 メリカ人たちの・・集会だった。
  インディアンの方々の死体の処理は、ここには書けな
 いような野蛮な方法で処理された。
  新聞は、マスコミという立場を利用して・・卑劣にも
 インディアンの方々への憎しみを書きたてた。
  卑劣な報道機関だった。
  「やつら(インディアンの方々)は、この地上から消
 し去るべきだ、
  自堕落で、宿無し同然で、
  残忍で恩知らず・・そんな人種である」・・と、軽蔑
 すべき人種攻撃で、極端な差別報道だった。
  今・現代、インディアンの方々は、絶滅という危機に
 あるが、
  キリスト教に洗脳された人種差別観念によって虐げは
 続いて来た。
  2人の白人兵が殺されると、25人のインディアンの方々
 が殺される・・ということで報復がなされた。
  キリスト教の「目には目を」の報復の教義である、行
 為である。
  それにしても、進んだ武器を持っているからと言って、
 インディアンの方々を簡単に殺すアメリカ人の擦り込ま
 れた、洗脳された考え方が、なさせた行為だった。
  条約を破るのはいつも白人だった。
  そのため、あちこちで小競り合いがあった。
  そのいざこざを理由に、優れた武器で、アメリカ人は
 暴力をふるった。
  白人入植者が殺された時は、狩りをする様に、あたか
 も動物の狩りをする様に、インディアンの方々が居ると
 銃で撃って、インディアンの方々は殺された。
  そうしても良いと州政府は許可を与えた。
  インディアンの方たちは「赤い悪魔」と言われた。
  和平を宣言しているインディアンの部族の方々でさえ
 も、無差別に殺された。
  日本の東京や大阪や各地の都市が、無差別爆撃で、国
 際法違反の行為で、市民の方々が殺された様に・・殺さ
 れた。
  有色人種という事から、安易に殺すという行為が導き
 出されていた。
  インディアンの各種族の酋長の方々は、和平を、種族
 の中で話していた。
  アメリカが、メキシコの地を奪った時のやり方もそう
 だった。
  相手の困ることをやり続け、相手が反撃すると、仕方
 なくファイトバックすると・・、
  この時だとばかりに・・その事でもって、相手が先に
 手を出したのだという因縁(いんねん)の付け方をして、
  お前が先に銃を抜いたのだろ・・という論理で・・、
  キリスト教の教えである、相手が先に抜けば、相手を
 殺して良いというキリスト教の教義で・・、
  また、キリスト教には、戦う前に警告すれば相手と戦
 争しても良いという教義など、戦争論理が色々あるが・・
  何しろ、キリスト教はこの様な戦争になる教義や、「
 異教徒は殺せ」「魔女は生かしておいてはならない」の
 殺人指令の教義があるが・・、
  この宗教観が、この様な行為に大きく影響している。
  アメリカ軍大佐のジョン・M・チヴィントンの言葉:
  「インディアンに同情する奴は糞だ!・・
  私はインディアンを殺さなければならない。
  そして、神の天国のもとでは、どのような方法であっ
 ても、インディアンを殺すことは正しく名誉あることで
 あると信じる」。
  このアメリカ軍大佐は、インディアンの方々をシラミ
 にたとえるのが好きな人間だった。
  子供も無差別に殺した大佐だった。
  また、言った、「ちいさいものもおおきいのも、すべ
 て殺して、頭の皮を剥ぐべきです。卵はシラミになりま
 すから」と言った。
  この大佐が、この日に、何もしてない無実のインディ
 アンの方々を・・虐殺した。
  ほとんどが女性の方たちだった。
  男の人たちは、バッファロー狩りに出掛けていて留守
 だった。
  男は、ほとんどいなくて、居ても老人だった。
  攻められたインディアンの方々は、米国国旗を掲げ、
 米国保護下の場所だと主張し、示した・・が、
  また、白旗も上げて攻撃を止める様にも示した・・が、
  大きな声で攻めない様に、敵対的なインディアンでは
 ないと示した・・が、
  悲しいかな・・攻撃が止むことは無かった。
  大佐は、「殺せ!・・どいつもこいつも頭の皮を剥げ
 ・・、大きいものも小さいものもだ。
  シラミの幼虫は、シラミになるからな!」・・と、兵
 士たちに叫んだ。
  無差別虐殺命令を発していた。
  何と! アメリカ合衆国は、この軍隊へ、「野蛮人殺
 戮者の軍だ」・・と、栄光が与えられた。
  この様なアメリカだった。
  アメリカ合衆国の新聞は、「インディアンの頭の皮は、
 今や、エジプトのヒキガエルと同じくらい厚く重なって
 いる」と、馬鹿にした表現で報じた。
  「インディアンの絶滅がアメリカの悲願だ」と言った。
  大佐や兵士の「無抵抗者への殺戮者」は讃えられた。
  英雄となった。
  当然、インディアンの方々は憤った。
  無抵抗のインディアンの方々を殺したアメリカ軍の行
 為は、何ら、解決を与えるものではなかった。
  戦いを起こすアメリカ軍だった。
  この様な卑劣な行為によって、連鎖する戦いが生まれ、
 何ら関係のないアメリカの白人の方々が殺される原因を
 作った。
  その様な栄光を与えられるべきではない、無差別殺戮
 をしたアメリカ軍だった。
  コロラドのサンド・クリークにおいて、アメリカ軍が
 行った大虐殺行為だった。
  こんな事は、今・現代でもアメリカ軍はやっている。
1864年、ロング・ウォーク・オブ・ナバホ
  アメリカ大統領のエイブラハム・リンカーンによる、
 卑劣な民族浄化と称して行われた行為。
  アメリカ・インディアンの方々に対する悪行為(極寒
 の時にわざと、500キロメートルにもおよぶ、歩いての
 強制収容所への移動命令)。
  特に、インディアンの方々の、弱者の・・赤ん坊、幼
 児、病人、ご老人などの多くの方々が命を落とした。
  すでに、説明させて戴きました。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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by suba28 | 2015-12-20 02:42 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)261D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年9月~1864年10月)

題:(増補版)261D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年9月~1864年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1864年9月、この頃の・・西郷隆盛は・・、変化が?
  西郷隆盛は、幕府との協調路線を歩んでいた。
  禁門の変の責任を問う征長軍の編成がなされると、
  蜜月であった会津藩と薩摩藩は主力となり、西郷は、
 その参謀長となった。
  この時も、いち早く勅許を仰いで、長州を劣位に落と
 し、主導権を握った。
  折りから、9隻の外国軍艦が、大阪湾に来ていて、兵庫
 の開港を迫っていた。
  幕府の本音は、征長どころではなかった。
  征長軍が動き出し、西郷も加わった幕府側の軍勢が、
 圧倒的な兵力を誇って、国境線まで進出した。
  長州藩も・・これまでか・・と思われた・・が・・
  この時に、西郷の行動に・・変化が表れた。
  征長総督の徳川慶勝が到着する前に・・、
  西郷は、和平交渉を進め、長州が自ら事の決着をつけ
 るという事にしてしまった。
  そして、征長軍の解体を行なってしまった。
  ???・・・西郷に・何があったのか?
  この時、西郷の中に、反幕へ、反対への方向の心があ
 った。
  西郷は下関を訪れた。
  この西郷の奇策によって、長州藩は難を逃れ、活力を
 取り戻した。
  しかし、第二次長州征討が起きる。
  幕府は、約2年後に又、第二次長州軍を起こす。
  そして、1866年5月17日に長州に命令が下され、
  1866年7月18日に、幕府軍艦が砲撃する事により始ま
 った。
  この時、薩摩は出兵を拒否した。
  この第一次長州征討経緯については、歴史教科書には、
 「西郷隆盛(36歳)が許されて、第一次長州征伐の総参
 謀となり、
  総参謀として長州藩を降伏させた」とある。
1864年9月14日、勝海舟、姫島に到着す。既に砲撃あり(氷
 川清話)
1864年9月15日、勝海舟、姫島を去り帰阪(氷川清話)
1864年9月18日、長州藩と和議成立(9/14?)。
1864年9月18日、結局、馬関戦争(下関戦争)は、圧倒的
 な近代兵器(艦砲)の火力を持つ四国連合艦隊の勝利に
 終わった。
  1864年9月8日に、馬関戦争の講和は、高杉晋作が使者
 として赴き、アーネスト・サトウの通訳で、総司令官・
 クーパーと交渉を行った。
  1864年9月18日に、講和条約はまとまった。
  長州藩は、
  ・下関海峡の外国船の通行の自由、
  ・石炭(燃料)・食物・水など外国船の必要品の売買
   の認可、
  ・悪天候時・遭難時の船員の下関上陸、
  ・下関砲台の撤去、
  ・賠償金300万ドルの支払い
    ・・の、5条件を受け入れた。
  賠償金300万ドルは、長州藩が、幕府の命令(幕府が朝
 廷に約束した攘夷)を受けて、不本意に攘夷を実行した
 という事情があったので、
  幕府に対して請求されることになった。
  この賠償金は、幕府が、大政奉還をして崩壊すると、
 新政府へと引き継がれた。
  1874年(明治7年)まで、支払いは続いた。
  フランス軍は、馬関戦争の戦利品として青銅製の砲門
 をパリに持ち帰っており、アンバリッドという軍事博物
 館に陳列している。
  そして、明治新政府は、この江戸幕府の借金は関係な
 いと言うべきだった・・ロシアの様に・・、正直な日本、
 誠実な日本である。
  ロシアは、この様な時に、前政権の借金は関係ありま
 せんと言ったという。
1864年9月18日、英・米・仏・露四国公使と下関海峡砲撃
 事件の償金300万ドルを約したが、
  長州藩との講和談判によって、約された300万ドルもの
 巨額の賠償金は、幕府に請求されて行く。
  イギリスは、逆に、これを自分の有利に使う。
  これを交渉材料にして、フランス・オランダと共に、
 将軍・徳川家茂の滞在する大坂に艦隊を派遣し(群れを
 なして脅しにかかる)、
  幕府に、安政五カ国条約(1858年の条約)の勅許と、
 賠償金の減額と引換に、兵庫の早期開港を迫る(1865年
 11月の兵庫開港要求事件)。
  しかし、兵庫は、京都の至近であり、
  朝廷を刺激することを嫌った幕府首脳部は、やむを得
 ず300万ドルの賠償金の支払いを受け入れた。
  幕府は、150万ドルを支払い、
  明治維新後は、新政府が残額を明治7年(1874年)まで
 に分割で支払った。
  明治16年(1883年)2月23日、チェスター・アーサー米
 国大統領は、不当に受領した下関賠償金(78万5000ドル
 87セント)の日本への返還を決裁した(当然だ、イギリ
 スは懐・フトコロへ入れた)。
  300万ドルの賠償金の分配は、アメリカ、フランス、オ
 ランダの3ヶ国の船艦が、42万ドルを分け、残額258万ド
 ルは連合艦隊の4ヶ国に分けたため、米国は合計で78万
 5000ドルを得ていた。
  実際の米国の損失は、
  1.米国船ペングローブ号の日時を要した費用5日分1500
   ドル
  2.長崎に寄港出来なかった為の損害6500ドル
  3.水夫への危険手当2000ドルだった。
   なお、ワイオミング号の損害は、日本への威圧の為
 に起った事で、日本ではそれ以上の損害が発生しており、
 連合艦隊への参加は、商船タキアン号1艘のみの参加で
 64万5千ドルを得た事になっていた。
  結果、米国の損害は、合計1万ドルに過ぎなかった。
  この賠償金は、弱小日本に対する威圧によって得た、
 いわば不当なものだった。
  しかし、何と、アメリカ合衆国の国務省は、日本から
 分割金を受領するたびに国庫に納めず、国債として保管
 していた。
  その実情を明治5年(1872年)、フィッシュ国務長官が
 森有礼公使に伝えた事から、日本側では機会をとらえて
 は返還の要請をしていた。
  日本では、明治22年(1889年)、返還金の元利金約
 140万円を横浜港の築港整備費用(総額234万円)に充当
 する事を決定し、明治29年(1896年)5月に完成した。
1864年10月1日、幕府、参勤交代を復活。
  第一次長州征伐の戦果において、不満が残る幕府だっ
 たが、まあ、諸藩が・・、
  幕府の命令に従い・・征長軍に参加した事と、
  とにかく・・政敵である長州藩を屈服させた事によっ
 て、幕府の上層部は・・
  『今こそ幕府の権威が回復させる機会だ』・・と、判
 断した。
  その行動の始めが、参勤交代の緩和があったのを、こ
 の時に、元に戻した。
  1862年の当時、将軍後見職だった一橋慶喜と、政治総
 裁・松平春嶽の主導で行なわれた参勤交代の緩和(参勤
 の間隔を三年に1回にする、藩主の妻子の帰国を自由に
 する、幕府上層部への賄賂の廃止)をしたが・・、
  その撤回を発表した。
  参勤交代の制度を昔に戻し、幕府の権威の回復を目論
 んだ。
  しかし、予想に反し、征長軍の参加には賛成した諸大
 名だったが、この参勤交代制度の強化については、態度
 を保留した。
1864年10月11日、幕府が、将軍上洛の無事終了を祝い、市中
 の13万3,541世帯に金6万3,000両を分配する。
1864年10月11日、西郷吉之助と勝海舟、初の会見
  二人は、大阪で会見した、そして、一大共有を悟る。
  海軍操練所の解散の直前の、この日、西郷隆盛と勝海
 舟が・・、初めての会談だった。
  これは、4年後の江戸城の無血開城の伏線となる。
  『歴史の巡り合わせの妙』というべき出来事だった。
  この会見について、西郷が、大久保利通に知らせた手
 紙が、明治30年に近くになってから発見され、残ってい
 る。
  「勝氏へ初めて面会仕り候ところ、実に驚き入り候ふ
 人物にて、
  最初うち明け話にて、差し越し候ところ、トンと頭を
 下げ申し候。
  どれだけ知略これあるやら知らぬ塩梅に見受け申し候。
  まづ、英雄肌合いの人にて、佐久間(象山)より事の
 出来候ふ儀は、一層も越え候はん。
  学問と見識においては、佐久間抜群のことに御座候へ
 ども、現事に候ふては、この勝先生とひどく惚れ申し候
 ・・」。
  西郷が勝のどこに惚れたかというと・・、
  この時、海舟は三つの事を打ち明けた。
  一つは、幕府には人材が居ないから、もう駄目だ、
 幕府など相手にするな、という事である。
  第二は、それより「賢明の諸侯4、5人、会盟して」
 外艦を破るべき兵力を備え、
  横浜・長崎の港を開き、堂々筋道をたてて談判すれば、
 屈辱的条約でない外交交渉もできるであろう事。
  第三は、以上の方針を実行するため、雄藩諸侯が出京
 するなら、それまで自分の力で、外国人は引留めておい
 てみせるという事、であった。
  西郷は、これで目を開かれ、長州を敵として叩くこと
 は不利である事、
  むしろ、長州と手を握り、倒幕の方向に進むべき事を
 悟った。
  「一大共有」の路線に気が付けば、海舟の言う挙国一
 致策が、問題解決の鍵だと分かるわけである。
  そして、海舟の思想・政略を一番よく受け継いでいた
 のは、海軍塾の塾頭の坂本龍馬である。
  免職されて江戸へ帰る前、海舟はこの坂本の事と、海
 軍塾の事を、西郷及び薩摩藩に面倒を見てくれるよう依
 頼した。
  (海軍塾を止めるという切っ掛けであったこの会談が、
 幕府の命運の分かれる切っ掛けともなった・・)
  海軍塾は、長崎へ移って亀山社中となり、薩摩藩・そ
 の他をスポンサーとして活動する。
  この竜馬の亀山社中が、長州へ銃を運び、長州はこの
 銃で第二次長州征伐を戦い、そして、薩摩へ米を運んだ
 (参考:氷川清話)
1864年10月11日、勝海舟が書く「西郷/海舟、初会談」
  俺が初めて西郷に会ったのは、元治1年9月11日、兵庫
 開港延期の談判委員を仰せつけられるために、おれが召
 されて京都に入る途中に、大阪の旅館であった。
  西郷は、兵庫開港延期の事を、よほど重大の問題だと
 思って、ずいぶん心配していたようだったが、・・。
  彼が言うには、「とかく幕府は薩摩を憎んで、みだり
 に疑いの目をもって、禍心を包蔵するように思うには困
 る」というから、俺は「幕府のつまらない小役人どもの
 事だ。
  幕府にも人物があろうから、そんなことは打っちゃっ
 ておきたまえ。
  かようの事に懸念したり、憤激したりするのは、貴藩
 の為には決して良くない」と言ったら、彼も承知したと
 言ったっけ(氷川清話)
1864年10月11日、幕府は、長州を滅ぼさないのか?・・と、
  また、西郷が、勝海舟に「どうして幕府は、本気で長
 州を滅ぼさないのか」と迫った時にも、
  もう幕府は、空洞化しているのだから、長州一藩を云
 々(うんぬん)するのでなく、諸藩連合で、新しい日本
 を考えて行かねばならないと説いた。
  またに、倒幕の勧めで、その結果、薩長同盟も成立し
 ている。
  勝が、最後の幕臣として主張した事は・・、
  「徳川家を守る」、
  「徳川家臣団に俸禄を保証してやる」、
  「江戸は、徳川の官僚が守る」・・という3点だった。
  勝海舟、薩摩の大島吉之助(西郷隆盛)、吉井幸助(
 友実)等来り国事を談す(氷川清話)
  この時、坂本龍馬も西郷と初対面した様だ。
  西郷は、大阪湾に来航し、神戸の開港を迫る外国軍艦
 に、うろたえる幕府に、渇を入れてやろうぐらいに思っ
 て、勝と会談した様だが、
  逆に、渇を入れられたのは西郷の方だった。
..
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by suba28 | 2015-12-19 02:18 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)260D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年8月~1864年9月)

題:(増補版)260D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年8月~1864年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1864年(元治1年)8月19日、長州藩、御所に迫る(氷川清
 話)
1864年8月19日、長州屋敷を没収
  9月19日に至り、家屋をこわす
1864年8月20日、禁門の変(蛤御門の変・はまぐりごもんの
 へんが起きる)
  長州藩の行動と・・攘夷勢力・・、
  長州藩をはじめとする、攘夷派の京都での勢力は後退
 した。
  志士たちは潜伏を余儀なくされた。
  1864年7月8日の池田屋事件で、攘夷派の志士たちが、
 多数の志士が・・殺害され、捕縛された。
  8月に、孤立を深め、追い詰められた長州藩は、「藩主
 の冤罪(えんざい、無実の罪、濡れ衣)を帝に訴える」
 と称して、兵を京都へ進軍させ、局面を一挙に打開しよ
 うとした。
  長州軍は、京都に会津藩と桑名藩が居るのを承知で、
 強引に入京した。
  当然の結果、その行為が原因となって、会津、桑名を
 主力とする幕府側と交戦状態となった。
  長州藩は、御所にまで侵入したが、御所の守りについ
 ていた薩摩藩兵が援軍として駆けつけ、撃退された。
  長州藩は惨敗した。
  (禁門の変:メモ)
  薩摩藩・会津藩が、長州藩を京都から駆逐。
  御所に発砲した長州藩が朝敵とされた。
  長州兵が京都で幕府軍に敗れる。
  禁門の変、蛤御門の変、元治の変、元治甲子の変とも
 言われる。
1864年8月20日、勝海舟が、蛤御門の変を語る・・、
  長州の兵隊が、京都御所を犯したのは、元治元年7月18
 日であった。
  俺(勝海舟)は、神戸の海軍仮局に居た。
  夜になると、京都の方の空が、真っ赤に見えた。
  これは、何か変わったことがあるに違いないと思い、
 観光艦に出帆の準備をさせておいたら、
  果たして、翌日、大坂から飛脚が来て、長州藩が、順
 逆を過ったったために、
  昨夜、蛤御門や、竹田街道や、伏見表で戦争があった
 という事を知らせてきた。
  そこで、俺は、すぐに船に乗って、大坂へ行ったが、
 ちょうどこの時、毛利家の嫡子・長門守が上京のため、
 13日に国元をたち、今夜か明日か、兵庫に着くという事
 であったから、
  かねて、俺の家へ隠れていた長州の竹田庸二郎と、他
 にもう一人を、神戸に残しておいて「もし長門守が着か
 れたら、昨夜の事は、ただ無謀の徒が、一時の快をとる
 ために起こしたので、決して、深い考えなどあるのでは
 ない。
  長州侯のご意見はもとより、彼らと共に、事をなさる
 というのではあるまいと、勝が申したと伝えてくれよ」
 と頼んでおいた。
  さて、21日には、大阪城で議論が沸騰し、少しも決し
 なかった。
  そこで、俺が発議して、斥候(せっこう、敵の状況や
 地形などを探ること、また、その兵士)を放って、京都
 の形勢を伺わせようとしたが、
  皆、恐れて誰も深入りしないから、
  仕方なく、俺が、自ら斥候になって、淀川に沿うて進
 んで行くと、
  上の方から、一そうの舟が三人の壮士(そうし)を乗
 せて下って来て、俺の立っている前まで来ると、三人と
 も舟を捨てて上陸した。
  俺は、どうしようかと少し狼狽したけれど、ともかく
 も、彼らのなすところを見ようと、じっと立って居たら、
 そのうちの二人は、突然刺し違えて死ぬるし、
  もう一人も、のどを突いて死んでしまった。
  俺も一時は驚いたが、「ははあ、これで長州は、既に、
 敗れたのだな」と悟った。
  さてその夜、長州の敗兵が50人ばかり、大坂へ逃げて
 来て、藩の蔵屋敷へ隠れたので、
  また城内では評議があって、諸藩の武士に命じて、焼
 き討ちさせると言う事であったのを、
  これが為に、大阪の町が灰になってはならないと思っ
 て、俺が、堅く反対したので、とうとう、屋敷を明け渡
 させるだけですんだ(氷川清話)
1864年8月20日(禁門の変:メモⅡ)
  1863年の「八月十八日の政変」によって、京都を追放
 された長州藩が、
  会津藩主・京都守護職・松平容保らの排除を目指して
 挙兵した。
 (日本の主導権を武力行使によって握りたいとの行動)
  京都市中において、市街戦が繰り広げられた。
  大坂夏の陣(1615年)以来の戦いだった。
  京都市中は、戦火によって約3万戸が焼失した。
  大砲も投入された。
  激しい戦闘が行われたが、長州藩は敗北した。
  この戦いによって、尊王攘夷派の真木保臣ら、急進的
 指導者の大半を失った。
  勢力を大きく後退させた。
  反対に、長州掃討の主力を担った一橋慶喜や、会津藩・
 桑名藩の勢力は、協調し、その後の京都政局を主導した。
  この禁門の変後、長州藩は「朝敵」となった。
  第一次長州征討が計画され、行われて行く。
  そして、その後・・、長州藩は、政治的復権をねらっ
 て薩長同盟(1866年)が結び、
  四侯会議(1867年)においても、長州藩処分問題が主
 要な議題とされるなど、
  長州藩は、幕末の政争の中心的な位置にいた、そして、
 問題ともなった。
1864年8月のち、蛤御門の変の後の事について、勝は・・、
  物騒なことといったら・・、
  ちょっと途中で会っても、壮士が、すぐに、刀の柄(
 つか)に手をかけるという風で・・、
  斬り合いなどは、日に幾たびとなくあった(氷川清話)
1864年8月23日、☆幕府第2回の遣欧使節が帰朝した。
1864年8月24日、☆朝廷は、幕府に対し、長州追討の勅命を
 発した。
  朝廷は、禁門の変で、京都御所へ向かっての発砲を理
 由として、長州藩を朝敵とした。
  そして、幕府に対して、長州征討の勅命を下した(第
 1次長州征伐へ)
  そして、この長州征伐の流れは、1866年6月7日に、幕
 府軍艦が、長州藩領の周防大島郡を砲撃し、第2次長州
 征伐の戦闘が始まる。
  そしてまた、1866年8月に、幕府・小倉藩が、全面敗北
 し、長州征伐が停止する。
  そして、1866年9月2日に、慶喜の意を受けた勝海舟と
 長州の広沢真臣、井上馨が宮島で会談し、停戦合意が成
 立した。
  そして、1867年1月に、ようやく長州藩と小倉藩の和約
 が成立する。
1864年8月25日、☆幕府が、長州追討の勅命を受けて西国
 21藩に出兵を命じた(第1次長州征伐)。
1864年8月25日、☆幕府が、英・仏・米・蘭に、パリ約定の
 破棄を宣告した。
  この破棄が、下関戦争の契機を与えたと言われている。
1864年8月、横須賀に造船所創設(氷川清話)
1864年8月末、勝海舟、大阪の淀川岸上で狙撃にあう、一丸
 は笠を貫く(氷川清話)
1864年9月1日、☆将軍・徳川家茂、長州親征を布告。
  多事多難な幕府は、戦費もないし、したくなかっただ
 ろう。
1864年9月4日、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ
 の四国艦隊17隻が、戦闘隊形を整えて関門海峡に入って
 来た。
  (日本のただ一つの藩を・・報復するため・・やろう
 と呼び掛け・・群れを作って・・目には目をだ・・)
  生物学的に、弱い、草食動物が、群れを作るとある。
  列強諸国は、強がりを言っているが、心根は草食動物
 なのだ。
  だから、インドの方々や、中国の方々へ、また、アジ
 アの方々へ、弱いと見れば、ハイエナの様に群れて、む
 しゃぶりつく・・一面・・卑怯・・武士が一番、嫌う事、
  『日本の様な武士道精神』が無い国なのだ・・、
1864年9月5日、☆奥村五百子(おくむらいおこ)男装し、
 危険を賭して、馬関の奇兵隊本陣へ使者として到着。
  奥村五百子:(1845年~1907年)社会事業家、愛国婦
 人会の設立者。
  肥前唐津の仏教僧の娘(東本願寺)。
  北清事変の戦場の悲惨さを見て、傷病兵の看護を志し、
 そして、行う。
  また、遺族の方々へも保護をし、心を配る。
  高杉晋作との交友もある。
1864年9月5日、下関戦争(馬関戦争)(~7日)
  長州藩とアメリカ・イギリス・フランス・オランダの
 間に起きた攘夷による大砲を使った戦争。
  これは、1863年と1864年の二度ある。
  その呼び方は色々あるが
  1863年:原因となった事件、下関事件、
  1864年:馬関戦争、四国艦隊下関砲撃事件、、下関戦
 争と言われている。
  この、2回目の後段の戦い(米英仏蘭と長州藩との戦い)
 は、前年からの海峡封鎖を受けていたイギリスが、
  長州藩に対して、報復しようと決定した事から始まっ
 た。
  イギリスは、アメリカ・フランス・オランダの三国へ
 一緒にやろうと、参加を呼びかけた。
  そして、都合、艦船が17隻で、連合艦隊を編成してや
 って来た。
  同艦隊は、1864年9月5日から8月7日にかけ、馬関(現
 下関市中心部)と、彦島の砲台を砲撃した。
  そして、各国の陸戦隊が、これらを占拠し、破壊した。
  戦力:連合軍・軍艦17隻、5000人、死傷者62人?
     長州藩・軍艦4隻、2000人、死傷者47人?
  このイギリス海軍中将・クーパーを総司令官とする四
 国連合艦隊の目的は、
  『長州藩に報復(目には目を)』すること。
  そして、『開国』させること・・であった。
  長州藩を、見せしめ的に攻撃するという大きな目的が
 あった。
  この時の長州藩は、この「四国連合艦隊の攻撃」と、
 「幕府による長州征伐」という二つの戦いの、内憂外患
 状態だった。
  長州藩としては、何とかして外国との戦争は回避した
 かった。
  豊後水道の姫島に集まっている四国連合艦隊(旗艦は
 ユーリアラス号)に、伊藤俊輔(伊藤博文)と松島剛蔵
 を送って、和平交渉を行おうと努力した。
  しかし、既に、艦隊は出航し、交渉はならなかった。
  そして、その後にも、前田孫右衛門、井上聞多(井上
 馨)を送ったりしたが、事すでに遅しの状況だった。
  1864年9月4日に、四国連合艦隊の来襲が近いことを知
 った藩は、海峡通航を保障する止戦方針を決め、
  再度、伊藤を漁船に乗せ、交渉のため艦隊に向かわせ
 た。
  しかし、この時も、艦隊は、既に戦闘態勢に入ってお
 り手遅れとなった。
  この戦いにおいて、陸上戦では、長州藩の諸隊(特に
 奇兵隊・膺懲隊)が奮戦し、
  西欧諸国の軍隊と対等に戦った。
  1864年9月5日午後に至り・・、
  四国連合艦隊は、長府城山から前田・壇ノ浦にかけて
 の長州砲台群へ、猛砲撃を開始した。
  長州藩兵も必死に応戦した。
  前田砲台・州岬砲台・壇ノ浦砲台などが善戦した。
  だが、火力の差は圧倒的であった。
  砲台は、次々に粉砕され、沈黙させられて行った。
  艦隊は、前田浜で、砲撃支援の下で、陸戦隊を降ろし、
 砲台を占拠した。そして、砲を破壊した。
  1864年9月6日になって、
  壇ノ浦砲台を守備していた奇兵隊軍監・山縣狂介は、
 至近に投錨していた敵艦に、砲撃し、一時、混乱に陥れ
 た。
  だが、艦隊は、すぐに態勢を立て直し、砲撃をしかけ、
 そして、陸戦隊を降ろし、砲台を占拠し、砲を破壊する
 とともに、
  一部は、下関市街を目指して、内陸部へと進軍して行
 った。
  長州藩兵と交戦状態となった。
  1864年9月7日になり、
  艦隊は、彦島の砲台群を集中攻撃し、
  陸戦隊を上陸させ、砲60門を鹵獲(ろかく、敵の軍用
 品・兵器などを奪い取ること)した。
  1864年9月8日までに、
  下関の長州藩の砲台は、ことごとく破壊された。
  陸戦でも、長州藩兵は、旧式銃や槍弓矢しか持たず、
 新式のライフル銃を持つ連合軍を相手に敗退した。
  長州藩死者:18人・負傷者29人、計47人
  連合軍は、死者12人・負傷者50人、計62人だった。
  下関事件(下関戦争、馬関戦争、4国艦隊下関砲撃事
 件)
  連合軍兵士約2千人、軍艦17隻対して、
  長州藩士約1500人、軍艦6隻。
  損害(別資料)は、死傷者:連合軍62人に対して、長
 州藩47人
  1864年9月14日、長州藩が、4国艦隊と講和5条件を結
 んだ(9/18?)
  1、下関海峡の外国船の通航の自由
  2、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し
  3、悪天候時の船員の下関上陸の許可
  4、下関砲台の撤去
  5、賠償金300万ドルの支払い
1864年9月8日、☆長州藩・高杉晋作、杉孫七郎、井上聞多、
 伊藤俊輔等、英国水師提督と講和会議。
1864年9月12日、勝海舟、英・仏・蘭の軍艦が数隻、豊後姫
 島に滞泊し長州と事を起こしそうないなるので行って止
 めよとの命を受ける(氷川清話)
1864年9月13日、長州征伐
  長州征伐の諸藩の攻め口が定められた。
  幕府は、長州藩主・毛利敬親と養嗣子の定広(後の元
 徳)に、
  禁門の変を起こした責任を問い、
  そして、伏罪をさせるため、
  尾張藩・越前藩および西国諸藩より征長軍を編成した。
  動員された藩の数は、最終的に35藩、総勢15万人。
  1864年9月13日、諸藩の攻め口が定められ五道(芸州口、
 石州口、大島口、小倉口、萩口)より、萩城のある萩で
 はなく、藩主父子のいる山口へ向かうと決定した。
  征長総督は、尾張藩の前々藩主である徳川慶勝(7日に
 紀州藩主徳川茂承より変更)。
  副総督は、越前藩主・松平茂昭が任命された。
  総督は、征長について将軍より全権委任をうけ、征長
 軍に対する軍事指揮権を掌握した。
..
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by suba28 | 2015-12-17 17:03 | 皆様とともに 幸せになりたい

臨時ブログ:杉原千畝の映画の話・・嘘つき行為をするキリスト教と読売新聞

臨時ブログ:杉原千畝の映画の話・・嘘つき行為をするキリスト教と読売新聞
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 第二次世界大戦のとき、杉原千畝という外交官が居た。
 その当時、この杉原千畝が、ユダヤ人の方々に、日本に
行くビザを発給したという。
 この当時、日本は、ユダヤ人のビザの発給をしてはいけ
ないとしていたという(これが、真っ赤な嘘、悪意ある嘘
話のデッチアゲなのです)
 だから、杉原千畝は、この日本政府に背いて、ユダヤ人
を救うためにビザを発給したのだという話をデッチアゲた。
 何故、この様な、嘘の話がでっち上げられたのか?
 それは、杉原千畝が、キリスト教徒だったから、
 そのキリスト教徒が、人命救助の精神でユダヤの方々を
救ったのだという美談が、キリスト教は欲しかった。
 それ故に、だいぶ以前から、この話をデッチアゲて、
テレビでも、この筋書きで、何度も放送した。
 キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)です。
 色々と歴史的資料を調べても、日本は「ユダヤの方々を
人種差別していません」し・・、また、
 それ故に「日本への入国も、拒否していません」。
 何ら、他の外国人と同じような状況でした。
 逆に、満州に逃れて来たユダヤ人の方々(白系ロシア人
の方々)を、差別なく、「どうぞ」と入国してもらってい
ました。
 日本は、その様な国だったのです、その様なの方針だっ
たのです。
 それを、日本はユダヤの方々を差別していたと、キリス
ト教はでっち上げ、杉原千畝の話をでっち上げました。
 そして、その話を、この度、映画にしました。
 杉原千畝がキリスト教徒なので、最適な広告塔だと、だ
いぶ以前から、杉原千畝の嘘を交えた「美談」をでっち上
げて来ました、ひどい話です。
 何度も、何度も、キリスト教は嘘を言った。
 「日本が、ユダヤ人にビザを発給してはいけないとして
いた」と真っ赤な嘘を言った。
 これは、はっきりしたキリスト教のまったくひどい「デ
ッチアゲの嘘話」です。
 しかし、臆面もなく、キリスト教は言い続けた。
 朝日新聞の慰安婦の嘘と同じで、日本の国や、日本の国
民の方々を貶(おとし)める大罪を行ない続けました。
 この度、この杉原千畝の映画を作ることになって、読売
新聞が、後押しする事になった。
 この映画の宣伝も、今まで通りのキリスト教がデッチア
ゲた嘘の話で、その宣伝をした。
 「杉浦千畝は日本に背いて、ユダヤ人にビザを発給した」
と。
 当時、日本は、ユダヤ人の方々にビザを発給してはいけ
ないという方針は、まったくなかった。
 そのことは、当時、千畝と同じ大使をされていた馬淵睦
夫氏も言われている(ユーチューブを御覧ください)。
 「杉原千畝の様な事は、当時の大使は、皆、行なってい
ました」と言われている。
 「杉原千畝が、特別という事ではない」と言われている。
 また、馬淵睦夫氏は言う、「ビザ発給は、一個人の行為
では成立しない」・・と。
 キリスト教が筋書きした嘘話は、まったく素人話だとい
う。
 「そんなことでは、ビザの発給業務は成立しない」と、
笑って言われている。
 それを、まったく杉原千畝の個人の行為によって、ユダ
ヤ人が救われたと、でっち上げた。
 この嘘の事を、私も指摘しましたが、皆様も指摘された
のでしょう。
 この映画の(読売新聞、2015・12・6)の新聞広告の書き
方(記述)が変わった。
 一言も「日本に背いた」の記述が無い、無くなっている。
 そして、宣伝の記述は、「杉原千畝の居た領事館の閉鎖
が決まり、日本政府の了承の取れないまま、杉浦千畝は、
難民(押し寄せたユダヤの方々など)にビザを発給する決
断をする」と記述した。
 日本の「ユダヤの方々にビザを発給してはいけない」と
いう指示があったという嘘を書くことは止めている。
 日本は、当時、「ユダヤの方々にビザを発給して良い」
としていたので、当然です。
 それも、書くべきだが、その事は、この読売新聞の広告
欄には書いてない。
 そして、「杉原千畝が、領事館の閉鎖が決まり、日本政
府の了承の取れないまま千畝はビザを発給した」と書き変
えて、宣伝している。
 が、しかし、これは、「杉原千畝の落ち度だ」。
 つまり、「日本はビザの発給をしてよい」としているの
で、杉原千畝に落ち度が無ければ、馬淵睦夫氏も言ってい
る様に、当然、「日本のどこの大使館も、ビザの発給をし
ていました」と言われるように、「杉原千畝も、ビザ発給
ができた」はずなのだ。
 何も問題なく、杉原千畝も、ビザ発給が出来たのだ。
 つまり、美談でも何でもないのだ。
 日本は、人種差別のない国なので、当時、ユダヤの方々
も差別なくビザの発給を受けていた。
 ただ、杉原千畝は、何か自分のやるべきことをするのが、
遅くなったのか?
 または、やり忘れていたことがあったのか?
 杉原千畝が、「確認し、了承を取るべきことがあった」
のに、それを、杉原千畝は、やらないで、ビザの発給をや
ってしまった・・という話なのだ。
 何しろ、当時、日本の大使館のどこでも、ユダヤの方々
に、ビザ発給はしていました。
 この日本の差別のない行為を、キリスト教が横取りした
ということだ。
 その為に、日本はしてなかったという日本を貶(おとし)
める話をキリスト教はデッチアゲタのだ。
 当然、人種差別のない日本に来たユダヤの方々は、全員、
日本は受け入れ、そして、日本に上陸できた。
 逆に、キリスト教国のアメリカは、大勢のユダヤの方々
が乗った船が、やっと、アメリカに到着したのに、アメリ
カは、上陸することを許さず、拒否をし、そして、元の場
所の追い返してしまった。
 酷いことをするアメリカなのだ。
 キリスト教と読売新聞は、それこそ、これを映画にする
べきだったのだ。
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by suba28 | 2015-12-17 02:41 | 皆様とともに 幸せになりたい


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