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(増補版)251D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1860年~1861年6月)

題:(増補版)251D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1860年~1861年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1860年、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう、剣術家、政治家)
 が「武士道」を著した(1836年~1888年)
  鉄舟は、江戸に生まれ、
  千葉周作の門に入り、
  後に、一刀正伝無刀流を開き、
  また後に、明治天皇の侍従を務めた。
  戊辰戦争の際は、
  勝海舟の使者として、西郷隆盛を説き、
  西郷・勝の会談を実現させて、
  江戸城の無血開城を実現させる功績とたてた。
  この功績によって、
  江戸市民は、戦乱の嵐から逃れられた。
  また、火の海となるところを、その戦火から救われた。
  名誉ある、本質の『無血革命』を実現させた。
  イギリスの名誉革命は、作られた名誉革命である。
  鉄舟は・・、
  「武士道は、中世より存在したが、自分が名付けるま
 では『武士道』とは呼ばれていなかった」としている。
  また、衆議院議員、次世代の党の前党首の平沼赳夫(
 ひらぬまたけお)氏の著書『政治武士道』に、
  以下の様な記述がされている。
  世界の人々が幸せに、
  安寧に平和を希求して行く、
  そして、さらなる健全な社会発展を実現する上でも、
  日本人が、長年にわたって培(つちか)い、
  世界的に評価されている武士道の精神が、
  今まさに大切であると実感する。
  人を憐れむ心、自己よりも他を重んずる心、
  死を恐れない精神力、
  恥を知ること、
  やせ我慢の精神、
  長幼の序、
  仁義を重んずること、
  絶対的なものへの畏敬(いけい)、
  孝養の道、
  質実剛健の処世、
  弱い者いじめをしないこと・・など。
  そして・・、
  キリスト教徒の新渡戸稲造が、武士道が、人口の約1割
 の武士のものだと批判した。
  また、武士道論書の葉隠(はがくれ、佐賀藩士の著述)
 にもまったく触れていないという『落ち度』が、新渡戸
 の論理にはある。
  新渡戸は、わずかに、歌舞伎や文楽の事例を言って批
 判をしているが、
  逆に、この歌舞伎や文楽は、数少ない娯楽であって、
  庶民は、これを楽しみにして、この娯楽を、繰り返し、
 繰り返し見て、心に焼き付けている。
  庶民が見る歌舞伎や文楽・・、
  これらを庶民が見て、庶民の間に、隅々まで涵養され
 て行った(かんよう、水が自然に染み込むように、無理
 をしないでゆっくりと養い育てること)武士道だった。
  新渡戸の見方は広く捉えていない、まったく違う武士
 道が、そこにあった。
  庶民にとっては、武士の持つ意識・概念は憧れたのだ
 ったのだ。
  武士道にある一つである意地の概念などは、日本に完
 全に根付いている。
  また、「ガッツ」などと類似した、派生した概念として
 も日本に根付いている。
  また、「骨のあるやつ」などと、この類の派生概念は
 豊富にある。
  「仇討ち」の行為も、また、この行為をしなくても、
 概念として、日本人の心にある。
  また、武士道の根幹に流れる儒教・朱子学を、教養の
 一つのジャンルとして武士を始め、日本人は良く知り、
 また、良く学んだ。
  この様に、まだまだ、日本人には、庶民にも根付き、
 心の底で血肉にもなっているこの事実を、新渡戸は見誤
 っている。
  まったく色眼鏡的な、また、偏見の論理で言っている。
  実態から、事実から、かけ離れた遊離した論理を展開
 しているという事が分かる。
  アメリカに居たことも、その様な論理展開をした理由
 の一つと言え、また、
  彼の持つ「その宗教性からも」公正な考え方・見方が
 出来なかったのだと言える。
1861年(萬延2年)1月22日、「徳川幕府・長崎溶鉄所」を
 「官営長崎製鉄所」と改称した。
  5月4日に、長崎製鉄所工場が完成する。
1861年2月3日、対馬事件(3月14日説あり、4月12日説あり、
 8月説あり)
  ロシアのポサドニック号が、対馬の占領を企てた。
  約半年後に、イギリスなどの詰問により退去した。
  村民の2名が死亡した。
  勝海舟が、イギリスに頼んだのだった。
  このロシア軍艦の対馬占領事件は・・、
  ロシアの南下政策の行動の中で起き、この動きは、後
 の、日露戦争へと繋がって行く。
  露人、対州に上陸、小屋を建て居住(氷川清話)
  文久の昔の話だが、あるとき、ロシアの軍艦が、対馬
 にやって来て、軍艦の修繕がしたいという口実で、
  その実、途方もないことをするではないか。
  海岸を測量したり、地図を作ったり、
  山道を切り開いたり、畑地を作ったり、
  粗末ながらも、とにかく兵舎の様なものを建てたり、
  それは、実に、傍若無人の挙動(ふるまい)をしたの
 だ。
  それが、始めは、対馬の尾崎浦という所へ投錨したの
 であったから、土地の役人は、開港場でない所へ軍艦を
 寄せる事を詰問しようと思って、小舟に乗って、軍艦の
 二町手前まで漕いで行くと、
  軍艦からは、三艘(そう)のボートへ水兵を乗せて、
  この小舟を取り囲んで、水兵はやにわにこっちの舟に
 乗り移って、鎧一りょう、槍九すじ、そのほか鉄砲、脇
 差しなどを強奪して、本艦へ持って行ってしまった。
  この時、土地の役人は、いよいよ彼らの無法を憤って、
 軍艦にこぎつけて、色々談判に及んだが、
  彼らは少しも取り合わなかった。
  そこで仕方ないから、その日は、まず、無事に引き上
 げて、翌日、またまた談判に行くと、
  今度は、艦内で大そう御馳走してからに、紙だの、砂
 糖だの、日本の貨幣などを土産に贈ったが、
  しかし、肝心な談判の方は、少しも要領を得なかった。
  この様に、幾度掛け合いに行っても、いつも確とした
 返事をせずに、ぐずぐず日を送っているそのうちに、
  南の方の要所要所は、すっかりボートで測量してしま
 って、ゆうゆうと錨を上げて、北の方へ去ってしまった
 (氷川清話)
1861年(文久1年)2月19日、「文久」に改元された。
1861年3月、長崎に軍艦打建所が設置された。
  3月,、長崎奉行、服部左衞門佐、浦上村淵立神郷に軍
 艦打建所創設のため、海面12,160坪を埋立て、その基礎
 を作らんとしたが・・
1861年3月28日(旧5月4日)長崎製鉄所工場が完成した(3
 月25日説あり)
  長崎製鉄所開所式、オランダより機械類を取寄せ、製
 鉄、及び、造船を兼ねたる工廠長崎鮑浦に落成。
  総坪数8,226坪、現在の長崎造船所の前身となる。
  キングポストトラス鉄骨造で、鍛冶場、工作場、溶鉄
 場の3工場で編成され、8馬力の蒸気ハンマー、15馬力の
 最新の工作機械蒸気機関が設置された。
  機械代9334両を含めて、工事費は5万8000両を要した。
1861年4月、硝子会社の創業
  現在の川添硝子株式会社の創業者・川添家9代:川添
 甚兵衛により出島の門前、江戸町にガラスを含む洋品雑
 貨の貿易を始め、
  1894年(明治27)2月に至り、板硝子需要の旺盛にとも
 ない、雑貨商を廃止して板硝子専業になった。
1861年4月12日、対馬事件、露船対馬に来り侵す
1861年5月、毛利慶親(もうりたかちか、長州藩13代藩主)
 が、公武合体・航海遠路の議を朝廷に呈した(1819年~
 1871年)
  この長州藩主は、幕末の混乱期に、有能な家臣を登用
 し、活躍させ、
  また、若い才能を持つものを育て、
  窮乏していた長州藩を豊かにし、
  未来ある明治維新の実現に大きく貢献し、明治・日本
 の大躍進の大功労者の一人。
  貧しく、身分の低い吉田松蔭の逸材を見抜いた烱眼(
 けいがん、物事を発揮しと見抜く力、鋭い眼力、慧眼)
 は、すごいの一言に尽きる。
1861年5月23日、長州藩の藩士・長井雅楽(ながいうた、直
 目付)が、公武合体の議を建白した(後に藩論一変)
  長井雅樂、三条実美へ建白書を呈し、大いに時局の批
 政を論難す。
  長井雅楽は、藩主・毛利慶親の小姓、奥番頭で厚い信
 任を受けていた。
  開国論者で、これが藩論となった。
  ただ、尊王攘夷派の門下生を持つ吉田松陰とは対立関
 係にあり、安政の大獄で松蔭が捕縛されても、対策は取
 らなかった。
1861年5月28日、東禅寺事件(1861年と1862年の2回発生)
  外人排撃の水戸浪士等、品川東漸寺の英国公使を襲い、
 彼我共に死傷あり。
  尊王攘夷の志士によるイギリス公使襲撃。
  幕府は、警備上の問題から海路での移動を勧めたが、
 公使側は、条約で定める国内旅行権を強硬に主張し、陸
 路で行ったら、案の定、東禅寺に入ったが、志士たち14
 名に襲撃された。
  幕府の外国奉行配下の公使館警備に就いていた旗本ら
 が応戦し、戦闘となった。
  英国公使のオールコックは危うく難を逃れたが、書記
 官らが負傷した。
  志士らは襲撃の趣意書を携帯していて、それには「尊
 王攘夷の大義のため」実行した旨が記されていた。
1861年5月、大船建造・購入を許可。
  幕府は、すでに1853年に、220年の時を経て「大船建造
 の禁」を解いていた。
1861年5月、グラバーが仕事を始める。
  グラバーの上司のマッケンジーが中国へ去り・・、
  グラバーは、その仕事を引き継ぎ、「グラバー商会」
 を旗揚げした。
  このスコットランドの生まれのグラバーは、誠実な人
 だった。
  グラバーには日本人の妻が居て、この妻との家庭を、
 一生、大切にした。(シーボルトは日本人妻を捨てた)。
  そして、グラバーは、日本の近代化に手を貸してくれ
 た。
  (幕末期は、武器商人となり、「死の商人」を演じて、
 私腹を肥やしたが・・)。
  明治の近代が来る事を希求し、演じていた坂本龍馬と
 いう若者を信じ、手を貸し、相談相手となった。
  そして、薩摩藩とグラバーがからみ、西郷隆盛と坂本
 龍馬がからみ、頭の良い、慧眼の長州藩主がからんで行
 く。
  そして、その先に、勝海舟が居る。慶喜も居る。
  しかし、グラバーの基本は商人であった。儲けが基本
 だった。
  このグラバーに息子に、倉場富三郎という人が居る。
1861年6月、水野筑後守、服部帰一に、小笠原島を巡回さ
 せる(氷川清話)
1861年6月、長州侯、国是を定め開国の業を起こすべきと
 建言す(氷川清話)
1861年6月、日本海測量を米人に許す(氷川清話)
1861年6月、勅して、伊勢、志摩近海英人の測量を禁ず(氷
 川清話)
1861年6月、品川御殿山に外国公使館を建つ(氷川清話)
1861年6月、対州に上陸した露人が、退帆(氷川清話)
1861年6月3日、伊東玄朴、麻酔薬を使って片脚切断の手術
 を行なう。
1861年6月19日、幕府、庶民に令して、旧来の大船製造の禁
 を解き、外国船の購入をも許す。
  百姓、町人の大船の諸事を免許す(氷川清話)
  庶民の大船建造と外国船購入を許可、
  そして、沿海航行商船から外航行軍艦へ、
  西欧列強に対抗できる程の大きな船を建造する事を許
 可した。長崎の造船所などの創業が下地にある。
  また、国内運輸から転じて、外国との貿易への発想の
 広がりがある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2015-11-30 03:56 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)250D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1859年~1860年)

題:(増補版)250D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1859年~1860年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1860年頃、この頃の李氏朝鮮
  いわゆる李朝は、経済的に破産し、軍事力もほとんど
 なく、この頃の政権は、分裂と内紛に明け暮れ、崩壊寸
 前だった。
1860年10月、中国の清が、イギリス・フランスと北京条約
 を結び、九龍などが奪われた。
  また、11月には、ロシアが南下して来て、アムール川
 左岸などがロシア領となり、またさらに、豆満江(とま
 んこう)やハンカ湖からウスリー川以東アムール川以南
 の地域が割譲させられ、ロシア領となった。
  ロシアの南下政策の結果である。
  そして、ロシアの勢いが朝鮮に至って来る。
1860年代、アボリジニーの方々を駆逐する:イギリス人・・、
  オーストラリアに上陸したイギリス人たちキリスト教
 徒は、1860年代になると、北はオーストラリアのクィン
 ズランド南部地域から、南は南オーストラリアまでを開
 発した。
  それは、それは、広い・・広い・・広大な地域を占領
 した。
  2000万頭のヒツジが、放牧された、アボリジニーの方
 々の地へ放たれた。
  当然、先住のアボリジニーの方々の生活圏は、奪われ
 た。
  コミュニティーも破壊した。
  その急速な開拓占領の拡大行動は・・、
  アボリジニーの方々へ、最大の悲劇的出来事を起こし
 たのだった。
  アボリジニーの方々の生活基盤は奪われ、
  経済的基盤は奪われ、
  宗教的基盤は奪われ、
  すべてが、土地も、・・『何もかも』が、奪われた。
  生活する場所が、生活する環境が・・すべて、破壊さ
 れた、、
  『何もかも』が・・変わった・・アボリジニーの方々
 へは、
  まず、食料の、深刻な・・不足の事態が・・襲った。
  キリスト教徒の白人が持ち込んだ膨大な数のヒツジは
 ・・、
  アボリジニーの方々が食料としていた草木を・・食べ
 た・・荒らした。
  アボリジニーの方々が、少ない飲料水を・・調達して
 いた手段も・・その『すべて』も・・奪った。
  水を多く含んだ草木も・・食べられ・・荒らされた。
  水源も・・消費されてしまった。
  そこに・・生存の危機が・・あった。
  アボリジニーの方々は・・やむなく奥地に逃げた、
  そして、その地のアボリジニーの方々から・・食料を
 分けてもらった・・、
  しかし・・、厳しい環境下で、入って来られたアボリ
 ジニーの方々も大変に困った・・、
  部族の対立も・・悲しいかな・・生まれた。
  最後の手段として・・、白人から食料を分けてもらう
 ことも行なった。
  その時は、その場合は、等価交換で・・行われた。
  アボリジニーの方たちからは、等価交換で与えるもの
 はなかった。
  この時、要求された・・女性が交換物として・・要求
 された、
  悲しいかな、これが、等価交換でよく見られる形とな
 った。
  既婚の女性が多かった。
  しかし、死が迫っていた中で・・しかたがなかった・・、
  白人が来る前は・・、
  男たちが捕獲してきた動物性タンパク質と・・、
  女性方が採集してきた・・食用植物を中心にした・・
 多彩で栄養価も豊富なバランスの良い食べ物の・・、
  その様な、かつての食糧は得られなくなった。
  しかも、白人からの手に入れることができたアボリジ
 ニーの方々の口にできる食べ物は・・、
  砂糖、小麦粉、茶、そして、くず肉の類いだった。
  栄養のバランスも・・極端に悪かった。
  アボリジニーの方々の生活も、
  文化も、
  伝統も、
  すべてが・・崩れた。
  健康も失い、
  労働のできる体が・・失われて行った。
  白人は、それを労働意欲のない、怠惰な種族と蔑(さ
 げす)んだ。
  1830年代には、シドニー周辺にも、白人に物乞いしな
 がら生活するアボリジニーの方々が現れ出していた。
  豊富な白人の食糧に手を出したアボリジニーの方々は、
  白人のヒツジや牛を、忍び込んで盗んだアボリジニー
 の方々は・・
  ・・動物のように殺された。
  白人は、『財産権の侵害だ』として・・、
  その法律の、紙に書いた条文の「錦の御旗」を立てて、
 無慈悲にアボリジニーの方々の・・命を奪った。
  そしてまた、そこに徹底的な・・報復処置も取られた。
  財産権を侵害しただろうという『予測の中』で、その
 他のアボリジニーの方々も容赦なく殺された、『だろう
 と思って』殺された。
  有色人種の蔑視からくる命を軽く感じる白人・キリス
 ト教徒の行為だった。
  また、「予防的措置だ」というこじつけ論理も理由づ
 けにされた。
  犯罪的行為を完全にしていない無防備なアボリジニー
 の方々まで、大勢、キリスト教徒の白人たちに殺された。
1859年、アメリカ、奴隷にされた黒人の方々が蜂起する国
 だった。
  ジョン・ブラウン氏の武装蜂起が起きた。
  奴隷解放を唱える黒人の黒人奴隷解放運動家のジョン・
 ブラウン氏が、奴隷解放革命を起こそうと、アメリカ合
 衆国の兵器庫を襲った。
  ブラウン氏は、残念ながら、捕らえられ、絞首刑とな
 った。
  これは、南北戦争の遠因と言われているが、本当の、
 南北戦争の戦争原因は『経済問題であった』。
  国際的な関係が絡む経済の問題だった。
  奴隷の問題なんかは二の次だと言われていた・・のが、
 本当
1860年、400万もの方々が、奴隷にされていた国:アメリカ
  この年に、アメリカの奴隷にされた方々の総数が、400
 万人を越えた。
  奴隷の方々の大半が、綿花生産の労働者だった。
  無残に殺された奴隷の方々も、大勢、居た。
  1831年には、ナット・ターナーの反乱が起きた。
  1859年の、ジョン・ブラウンの武装蜂起などの事件は、
 氷山の一角だった。
  奴隷船から、さも荷物の様に、荷揚げされた奴隷の方々
 は、奴隷商人に売り渡され、
  奴隷市場に連れて行かれ、家畜の様に売りに出された。
  白人・奴隷商人たちは、奴隷にされた黒人の方々を、
 鎖で数珠つなぎにし、町の目抜き通りで競売した、商売
 を行なった。
  奴隷にされた黒人の方たちは、競売台に立たされ、品
 定めされた。
  そして、親子のつながり、兄弟のつながりなど、まっ
 たく関係なく、バラバラで売られて行った。
  白人だけが、上手く行く経済システムだった。
  巨利を稼いだ白人奴隷商人たちが、大勢いた。
  自分の懐が、『肥えればいい』・・だった。
  200年間も、アメリカは、この様な、非人道的行為を行
 った。
1860年、このアメリカで、リンカーンが大統領に当選した
 ・・しかし、
  リンカーンは、奴隷解放の大統領ではなかった。
  リンカーンは、奴隷解放には消極的だった。
  「治安回復に努めるなら奴隷解放をする必要はない」
 と予備宣言までしていた。
  奴隷解放をしたいという『政治信条』がある政治家で
 はなかった。
  軍の将軍の中に、奴隷解放をする事を意思表示した将
 軍がいたが・・、
  リンカーンは、その奴隷解放意見を『取り下げてしま
 った』。
  これが真実だった。
  リンカーンの話は、プロパガンダ(嘘宣伝)されてい
 る。
  黒人の方たちは、この様な、不本意な状況の中に、ア
 フリカからアメリカへ連れて来られた・・、
  人間的な接し方は、まったくなされず、何ら、『法律
 上の権利』も与えられなかった。
  本来、祝福されて、家族に迎えられて、生まれて来る
 子供たちも・・自由な身にされず、解放されず、またま
 た、白人・雇い主のものとされた、奴隷とされた。
  そしてまた、アメリカは、この頃、アメリカの先住民
 であるインディアンの方々も、卑劣にも、奴隷とした。
  リンカーンの政治が行われている時である。
  リンカーンは、おじいさんをインディアンに殺され、
 インディアンの方々に対して、良くない感情(うらみ)
 を持っていた。
  リンカーンは、長距離の「死の居留地移動(ロング・
 ウォーク・オブ・ナバホ)」など色々と苦しい行為をイ
 ンディアンの方々へ強いた。
  ロング・ウォーク・オブ・ナバホは、500キロもの距離
 を歩かせ、移動させた。
  それも厳寒期の1月に行なわせた。
  500キロメートルの距離は、遠すぎた。
  それにまた、厳寒期に、1月に行わせ、幼児もいれば、
 病人も居れば、弱者の方々が居れば、おじいさんやおば
 あさん方も居た。
  多くのインディアンの方々は・・亡くなった。
  第二次世界大戦時に、日本が捕虜を60キロメートル歩
 かせた、そると、捕虜虐待だされ、刑に服させられた日
 本の兵が居たが・・、
  60キロが捕虜虐待だった・・それも、
  兵という体がしっかりした兵士には、「60キロ行軍」
 はなされていた事だった・・しかし、捕虜虐待だとして、
 日本は責任を取らされた。
  また、悲しいことに、サウスカロライナでは、インデ
 ィアンの方々の15パーセントが奴隷状態にされていた。
  そして、この頃、「黒人の方が維持費が安い」という
 言葉が、白人アメリカ人たちの間でささやかれるという
 非人道的状況にあった。
  また、黒人の方々を、「本来的に奴隷に適する」と、
 人権無視の言葉を言っていた。
  すでに、1619年に、アメリカは、アフリカの黒人の方々
 を、アメリカに連れて来ていて、すでに、卑劣な奴隷に
 する行為を行なっていた。
1860年、リンカーンは、国会対策から・・、
  リンカーンは仕方なく、国会の動きもあって、奴隷解
 放予備宣言を公布する事に踏み切った。
  しかし、1860年に出された予備宣言では、南部諸州が
 治安回復に努めるならば、『奴隷解放をする必要はない』
 とリンカーンは決め、発言していた。
  この宣言には、『奴隷解放の不必要』という事が明記
 されていた。
  リンカーンは、奴隷の即時、無条件、全面解放を行な
 わなかった。
  宣言をしても、布告に縛られない例外地域を作ったり、
 反乱してない地域は含まれない・・などと、例外規定を
 作ったりして、奴隷解放をしない未開放の地域を作った。
  この間も、黒人の方たちは、奴隷解放されたいと、血
 みどろの戦いをしていた。
  1865年の憲法修正第13条が制定されるまで、リンカー
 ンの不決断のままであった・・この影響は大きく続いた。
  また、リンカーンは、黒人の方たちを、軍隊に入れよ
 うとはしなかった。
  白人の軍隊が、リンカーンの軍隊だった。
  黒人の方たちは、解放してもらいためにも訴えた。
  黒人の方々は、集会で宣言した・・、
  「私たちは、すでに用意が出来ています。
   私たちは、私たちの生命と、財産と、名誉をかけて、
   自由のために、良き市民として、私たちの政府を守
 る覚悟が出来ています(一人の人間として認めて下さい)。
   私たちは、みなさんに、このことを訴えたいのです」。
  それでも、リンカーンは、黒人の方たちの軍隊編入を
 拒否し続けた。
  リンカーンは、何ら積極的行動をせずにいた。
  この後、業を煮やした黒人の方々は、どんどん自主的
 に、勝手に、戦いに加わった、軍列に加わった。
  戦いに加わることによって、奴隷の立場から解放され
 る運動をして行った。
  可哀想な立場からの、必死な主張だった。
  「リンカーンが奴隷解放の大統領だ」というのは間違
 い。
1860年、そして、某作家氏の言葉から言える・・ことは、
  アメリカの北部人は、よく南部の黒人問題、黒人偏見・
 蔑視と言うが・・、
  他人事の様に、また、門外漢の様に言うが・・しかし、
  この黒人の問題は、白人の問題でもある・・と、
  つまり、アメリカ南部の黒人対白人の問題・対立は、
 つまり、南部人対北部人の対立でもある・・と、
  南北戦争の事を、北部では、(civil war)「内戦」と
 言うが、
  南部では、(war between the states)「州対州の戦
 い」と言う・・と、
  つまり、南北戦争は、プロパガンダ(嘘宣伝)された
 奴隷解放のための戦争では、当然、なく、
  国権を主張する北部と、州の独立を主張する南部との
 戦いだった・・と、
  北部軍にケンタッキー州や、ミズーリ州や、メリーラ
 ンド州などの奴隷州が入っているし、
  これらの州が、自分の州の方針(奴隷州の方針)に反
 する北部軍に入るわけがない・・
  南北戦争は、「奴隷解放」という「高邁な(こうまい、
 志などがたかく、衆にぬきんでていること)目標」で戦
 われた戦いではない。
  また、逆の(南部軍にも、奴隷州ではない州が、いく
 つもの州が参加している)・・この事からも・・
  奴隷解放とはまったく違う次元で戦われた戦いだった。
  そして、リンカーン大統領は、戦争の末期になって、
 『やっと』、「奴隷解放宣言」をした。
  しかし、これが、あまりにもプロパガンダ(嘘宣伝)
 されて焦点があてられているため、世界中がその様に思
 っている・・のだろうが・・、
  これは、戦略上の必要から出したもので・・、
  リンカーンは、明確に、『黒人差別論者 」だ。
  あまりにも、これを、美しく言う北部(北部がいい子
 になっている)。
  だから、現在なお、アメリカの北部と南部には、なお、
 この『しこり』が存在している。
  その様なアメリカとなっている・・
  その原因の一つが、このあまりにも美しく言う、自分
 だけが良い子になっている『北部に問題』がある。
  こんな事は、多くの人が指摘しているが・・直らない、
 そして、現在もなお、対立したままにいる。
  そして、滑稽なことに、キリスト教会までが、この俗
 世界の感情で、南部独特の別の教派を作り、別派閥に収
 まっている。
  祝日までが違っている・・リンカーンは敵で、南部の
 リー将軍の誕生日などの祝日まである。
  法律だって、考え方だって、まったく違う。
  そして、北部人は、南北戦争後に、まったく屈辱的な
 事を南部人に対してやった。
  南部人を、その市長の席から、町長・村長の席から、
 郵便局長の席から、あらゆる要職の席から、北部人によ
 って追放され、何と、そこへ黒人の方たちを据えた。
  自分たちは、しなかったこと、できなかった事を、南
 部人にはやった。
  1865年の事である(~1872年まで続いた)。
1860年~1870年、そして、無差別掃討をされた「アメリカ
 のインディアンの方々」
  この頃、また、アメリカ合衆国は、アメリカ・インデ
 ィアンの方々に対して無差別の掃討作戦を行なった。
  弁解のできない、卑劣で野蛮な作戦で・・、
  インディアンの方々は、アメリカのあちこちで虐殺さ
 れた。
  この頃の、アメリカ・インディアンの方々の気持ちは・・、
  アパッチ族は、隣のナバホ族と同じく、居留地(収容
 所)に入ることを拒否した。
  居留地(収容所)に入った仲間たちが、死んだ如くに
 生きている姿を見ていたからだった。
  結局は死の姿だった。
  都合よく、アメリカ合衆国が都合の良い状態で生かさ
 れていた。
  居留地(収容所)の人々は、処理されている姿だった。
  土地だけ奪えばよいのアメリカ合衆国だった。
  白人・アメリカ人に、土地が与えられれば良いのアメ
 リカ合衆国だった。
  アメリカ合衆国は、軍の暴力によって従わせようとし
 ていた。
  インディアンの方々は、攻めて来たクルック将軍のア
 メリカ軍に対して厳しい態度で立ち向かった。
  対立と敵意の10年間が過ぎた。
  そして、インディアンの方々は「栄光の敗北」をした。
  アパッチ族の誉れ高い族長のコーチーズは言った、
  「かつて、アパッチ族は偉大な国家だった。
   今はもうわずかな人数を残すばかりとなってしまっ
 た。
   しかし、誇りを失ったまま生きのびるくらいなら、
 アパッチ族は死を選ぶだろう」・・と。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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by suba28 | 2015-11-29 02:05 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)249D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1858年~1858年)

題:(増補版)249D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1858年~1858年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1858年9月24日、インドの方々の美しき愛国的反抗
  反抗行動していたインドの方々だったが、この日に、デ
 リーは陥落した。
  インドの方たちのイギリスへの大反抗は終わった。
  「セポイ兵の反乱」から始まって、「インド民衆の反抗」
 へ移って行ったが、反抗は力で抑え込まれてしまった。
  1857年5月10日に始まったインドの方たちの反乱。
  セポイの反乱兵士たちは、デリーのムガル皇帝の元に
 向かい・・、
  反乱軍の到着の知らせが入ると、デリー市民や、デリ
 ー駐屯のセポイ兵は、城門を開いて、彼らを向かい入れ、
 そして、反乱兵たちは、名ばかりにされていたムガル皇帝
 を擁立し、帝国の復活を宣言し、自分たちの国を建てるこ
 とが出来たのだった。
  戦いは苦しかった、苦行僧や、托鉢僧(たくはつそう)
 は、地方を遊説し、現実を説いて回った、そして、抵抗へ
 の、戦いへの参加を説き、そして、叫んだ。
  その様なこともあって、反乱は、北インドから、燎原(
 りょうげん)の火の如く広がって行き、中部インド一帯に
 まで広がって行った。
  反乱のセポイ兵の戦いの領域から、はるかに超えて、イ
 ンドの民衆の方々の、自由を欲する、自由を要求する広い
 地域における、イギリスへの反抗の戦いとなった。
  いままでのイギリスに与えられて来た非人道的な虐待の
 鬱積(うっせき)が爆発したのだった。
  イギリスは驚愕した、インドの方々の団結とその集まり
 の行動に驚愕した。。
  セポイの反乱は切っ掛けであった、正しくは、実際は、
 「インドの方たちの反抗」となった。
  一部組織のセポイの反乱の様相ではなくなった。
  「セポイ兵の反乱」から「インドの方々の反抗」のうね
 りとなった。
  セポイ兵の方たちが立ち上がり、そして、インドの方々
 が立ち上がり、このうねりに、イギリスは、切羽詰まった
 状況に追い込まれた。
  しかし、イギリスの反撃体制の立て直しも早かった。
  この時、丁度、イギリスの総力をインドへ向けられる
 状態になっていた。
  (それにしても、世界のあちこちで戦争するイギリス
 だった。武力で、弱小の国々を言うことをきかす、弱い者
 いじめのイギリスだった)。
  丁度、この時、イギリスは、ペルシャとの戦いが、前
 年に終わっていた(ペルシャの反乱の鎮圧)。
  そしてまた、中国の太平天国の乱の鎮圧もめどがついて
 来ていた。
  つまり、インドへ、総力を上げて武力行使できるイギリ
 スだった。
  イギリスは、インドへ強力な軍隊を結集した。
  さらに、イギリスは、その他の国の兵まで、このインド
 の方々へ差し向けた。
  勇猛で有名なネパールのグルカ兵や、パンジャーブ州の
 シク族の兵などだった。
  イギリスは、すべてを、総力を、デリーへ向けた。
  デリー奪回に主力・総力を注いだ。
  激しい攻防戦が繰り広げられた。
  4か月の激戦だった。
  インドの方たちは、よく戦った。
  そして、市街戦となっても、インドの方々は、5日間も、
 烈しく抵抗し、戦った。
  決死の戦いだった。
  戦力と兵器にまさるイギリス軍に対して、よく戦った。
  しかし、9月24日、イギリスの武力の下に、暴力のもとに
 下った。
  デリーは、陥落してしまった。
  ムガル皇帝は捕虜となった。
  ムガル帝国は滅亡した。
  この後、イギリス軍は、インド各地の攻略をして行った。
  それでも、各地で血みどろの決戦が繰り広げられた。
  さらに、ゲリラ戦でも、インドの方々は戦いを繰り広げ
 た。
  執拗に、イギリス軍に抵抗し、今までのイギリスの非人
 道的行為に抗議し、卑劣なイギリスの行為への対抗を表現
 していた。受け入れたくないのだと・・言っていた。
  これ等の戦いの中で、美しい話も生まれた。
  ジャーンシーの若き女王のラクシュミー・バーイ女王は、
 自ら馬にまたがり、戦場を駆け巡り、自軍を励まし、大国
 のイギリス軍を悩まし続けた、善戦した。
  しかし、グワーリヤルの戦いで、彼女は、銃弾を受けた、
 戦死した。
  女王の強い愛国心と、英雄的行為は、後の世まで物語と
 して残った。
  また、女王を偲んで歌がうたわれて、「インドのジャン
 ヌ・ダルク」として民衆の心の中に生き続けている。
  本物のジャンヌ・ダルクは、卑劣な、引っ掛けの尋問
 を、キリスト教裁判所の聖職者の卑劣尋問の裁判で、生き
 ているのに、命あるジャンヌ・ダルクを焚刑にして、公衆
 の面前で、卑劣なやり方で焼き殺した。生木を使用した。
  卑劣な事をした。
  インドのイギリスへの反抗も、2年間にわたる抵抗も・・、
 地下に潜った兵を残して、鎮圧された。
  地下に潜った兵の反抗は、1859年の中頃まで続いた。
  その後の仕返し、イギリスの悲惨な、そして、卑劣な仕
 返し、
  無残な、無慈悲な、反抗した兵への報復の殺しが、この
 後に行われる。
  これ等の事は、すべて、ユネスコへ登録されるべきだ。
1859年、セポイの反乱の後の、イギリスの行為、
  セポイの反乱の後に、イギリスは、インドのあちこちに
 記念碑を建てた。
  事実を曲げて、イギリスが正しく立派で、良いことをし
 たと、デッチ上げた記念碑だった。
  今、キリスト教が、日本のあちこちで、同じことをして
 いる。
  イギリスも、この様な行為を行なって、インドの方々の
 心を繰ろうとした。
  しかし、イギリス軍の想像を絶した残虐行為の記憶は、
 インドの方々の心の深くに残り、拭い去ることは出来ない。
  イギリス軍の残虐行為は、規模が大きく、また、演出も
 ずる賢く、巧みだった。
  反乱軍の捕虜は、ほとんど、裁判もなく殺した。
  殺し方は、1つの例は、インドの方々を、数人ずつ束ねて、
 大砲の前に立たせ、大砲を撃ち、、弾丸もろとも吹き飛ば
 した。
  また、マンゴーの木の下に荷車を置き、その上に何人か
 のインドの方々を立たせて、枝から吊るしたロープを首に
 巻き、牛に車を引かせた。車が去れば・・、
  体は吊られる状態になった。
  また、象を使って八つ裂きにしたりした。
  アラーハーバードの街路に沿って、木という木に、死体
 が吊るされた。
  吊るされない木がないほどだった。色々やった。
  それに、イギリスは、宗教的な嫌がらせまで行った。
  ヒンドゥー教のインドの方々にとって、牛は神聖な動物
 だった。
  イギリス人は、その神聖な牛を殺して、インドの方々の
 口の中に、その牛の血を、注(そそ)いだ。
  卑劣に焼き殺す話もあるが、余りにも悲惨なので略す。
  その他いろいろとイギリス人は、インドの方々を、卑劣
 な殺し方をした。
  これ等の事は、すべて、ユネスコへ登録されるべきだ。
1858年、「インド統治法」
  イギリスが、植民地のインドを統治するための大綱を定
 めた。
  これは、イギリスに対抗したインドの方々の民族運動の
 対抗を反映したものであった。
  ますます、イギリス政府の介入が強化されて行った。
  名目は、インド社会の統治を整序する(せいじょ、物事
 を秩序だててととのえる)だった。
  この「インド統治法」ができ、インド統治の大権は、
 イギリス国王が握ることとなった。
  イギリスの主権下に置いた、置かれた。
  インドの人々にあるべき権利を完全に奪った。
  「イギリス紳士」という言葉があるが、イギリスは、
 紳士の様に、紳士ぶって法律・条例を作り、「この法律に
 従うのだ」「この条令が正しいのだ」という言葉によって、
 インドの方々を支配し、蹂躙した。
  「法律があるから正しいのだ」という論理で、事を粛々
 と行い、インドの方々を、絞って行った。
  その行き着くところでは・・インドの方々の『命を奪っ
 た』。
  インドの大反乱(セポイの反乱)後のこの1858年に、
 完全支配体制下に置いた。
  これは、インド在来の、農業制度を、根底から破壊し
 尽した。
  その為、インドの方々の村落共同体は、ばらばらになり、
 荒れ地の社会の様になった。
  結びつきの、『大切な絆』は、跡形なく、無くなって
 しまった。
  農村は、無味乾燥なイギリス資本に都合よく、支配に
 都合よく・・変えられてしまった。
  キリスト教も、このようなやり方をする、表面的には
 良く見えるが、結局は、自分勝手な論理で、結局、相手を
 無視して、殺すことまでに至ることをする。
  自分の気に入らないものは、すぐ、『異端』のレッテル
 を貼って、追放するか、殺した、その歴史だった。
  「異教徒は殺せ」のキリスト教の教義を、そのままを
 実施をした。
  このインド農村社会は、目も当てられない悲惨な状態に
 陥った。
  ハーバート・コンプトンは言う・・、
  「予は誓って言う。
  大英帝国において、印度農民以上に悲惨なるものはない。
  彼らは、一切を絞り取られて、ただ骨のみを残している」
 ・・と。
  そして、また、彼は言う・・、
  「彼らは、腹いっぱいものを食った経験が無くして死ぬ」
 ・・と。
  この様なインドの方々を小銃で殺す。
  「日々、我らは、8人ないし10人を屠った(殺戮した)」
 と、ぬけぬけと言う。
  また、この様な、欧米のアジアの方々への蔑視、
  そして、その蔑視から来る行動を、
  大川周明(東大卒、拓殖大学教授)は、
  第二次世界大戦(大東亜戦争)の開戦直後の1941年12月
 に、NHKラジオで、連続講演した(全12回)。
  そして、その速記録は、この翌月に、「米英東亜侵略史」
 (第一書房)から出版された。
  この大川教授を、東京裁判で、アメリカなど連合国は殺
 そうとした。
  教授は、危うく東京裁判で殺されるかもしれない状況に
 置かれたが、教授は危うく逃れ、生き延びた。
1858年、「インド統治改善法」
  米欧は、帝国主義的行為で、世界を我が物にして行った。
  特に、イギリスは、17世紀以降、インドの方々から好き
 なように利益を奪い確保し、
  また、インド統治法なる法律を作って、自分に都合よく
 インドの統治をした。
  そして、1858年には、「インド統治改善法」なる法律を
 作って、またまた、自分に都合よく利益収奪・搾取をした。
  インド総督のへスティングが・・、
  イギリス本国でさえ、「過酷だ」と、弾劾するほど、
 非人道的な過激さだった。
  自国で、つるし上げられるほどの過激さとは、前代未聞
 の残酷さだった。
  残酷と言われた男だった。
  それを許したイギリスが、甘い汁を吸って、美味(おい)
 しいこととに甘んじた。
1858年、対日接近を控える様になった・・アメリカ。
  この頃、日米修好通商条約の後、アメリカが、対日接近
 を控えるようになるのは、英露強国に遠慮したのではなく、
  アメリカの最大の内乱・南北戦争があったから、その様
 な事を行なう余裕が無かった。
  日本は、中国の様な、餌食の場になっていたかもしれな
 い。
  日本の叡智は、これを見抜いていて、明治維新と共に
 『富国強兵』を、まず、第一とし、邁進した。
  日本の叡智は、世界の何でも知っていた、中国の事も、
 インドの事も、
  故に、逆に、ここをアメリカは突いた。
  日本と条約を結びたいというアメリカは、卑劣にも、
 条約の話を断ったらどうなるかを、清(中国)がどうな
 ったかの話をして、日本を脅(おど)した。
1858年5月28年、アイグン条約
  ロシアと中国・清が、この時に、中国北東部、アムール
 川中流のアイグンで条約を結んだ。
  これは、ロシアの南下政策の一環の行動の中で結ばれた
 条約だった。
  南下するという政策は、ロシアの大方針だった。
  このロシアの侵略体質が、大方針が、日露戦争へつなが
 って行くのだが・・、 
  アムール側左岸を、ロシアは獲得した。
  また、ウスリー川以東の外満州(現在の沿海州)は、
 ロシアと清の共同管理地とされた。
  また、ロシアのアムール川の航行権を、清は、認めさせ
 られた。
  完全なる不平等条約だった。
  アメリカ・イギリスの列強も、清国に対して、同様な事
 をしていた。
  ロシアは、条約に調印をしなければ、ロシア軍艦から大
 砲を撃って、武力で黒竜江左岸の満州人を追い払うと脅迫
 して認めさせた。
  この地は、再び、2004年のロシア・中国の画定完了まで、
 中ソ国境紛争の問題地域となった。
  この様に、ロシアの南下は激しかった。
  アイグン条約で、ロシアと清の共同管理地だとした地域
 は、1860年の北京条約で、ロシアを含むイギリスとフラン
 スも加わって、清は割譲させられ、土地が、国土が奪われ
 た。
  朝鮮や満州は、このロシアの勢いの中で、必ずや、ロシ
 アの支配下のものとなって行く運命の下にあった。
  アメリカとイギリスも、この時期、ロシアと同じく中国
 での権益を得たいと動いていた。
  その意味でアメリカは、日露戦争で、『ロシアの歩みが
 止まって欲しい』・・と思い、考えていた。
  日露戦争の時、日本の有利な状況で、アメリカは仲裁し
 た。
  戦争を終わらせた。
  しかし、この後、アメリカは、日本が驚くほどに、手
 のひらを返したようにして、日本を攻めてくるようにな
 った。
..
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by suba28 | 2015-11-26 16:14 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)248D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1859年8月~1860年12月)

題:(増補版)248D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1859年8月~1860年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1859年(安政6)9月6日、幕府、銅の海外密輸を厳禁す。
1859年9月6日、パリ外国宣教師会のジラール神父が、滞在
 中の那覇から江戸に入った。
  また、日本教区長に任命されていたジラール神父は、
 長崎を布教した。
1859年9月、安政の大獄で吉田松陰らが死んだ(29歳)
  吉田松陰は刑死だが、梅田雲浜獄死。
1859年9月27日、幕府が、会津、秋田、荘内、盛岡、弘前
 の5藩に命じ蝦夷地の開墾を命じた。
1859年10月4日、石見で地震(1月もあったが・・)。
1859年11月、勝海舟、米国へ軍艦差遣するにつき乗組を命
 ぜられる(氷川清話)
1859年11月1日、橋本左内、頼三樹三郎ら処刑。
1859年11月21日、吉田松陰処刑(10月27日説あり)
  江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される(満29歳)
  松蔭は、尋問で老中の暗殺計画の詳細を自供し、自身
 で「死罪」にするのが妥当だと主張。井伊の逆鱗に触れ
 た。
1859年12月、勝海舟、賜暇謁見。金二枚時服二を賜う(氷
 川清話)
1859年12月、勝海舟、長崎伝習中、格別の骨折があった為、
 金三枚時服二を賜う(氷川清話)
1859年12月、勝海舟、米国航海中、両番上席を命ぜられる
 (氷川清話)
1859年、福沢諭吉が、英学に転向する。
  横浜に行ったとき、今まで一生懸命勉強した和蘭では、
 横浜の商売人の看板を読むことが出来なかった。
  そこで、これからは、英語が必要になるに違いないと
 思う。
  そして、英語を勉強し出す。
  横浜に行ったとき蘭英会話集を2冊買っている。
  しかし、辞書がないので、蕃書調所に通いだす。
  この時、箕作阮甫(みつくりげんぽ)という人が調所
 の頭取で、早速、入門を許してくれた。
  当時、英蘭対訳発音付の辞書1部1冊ものが価5両(福
 翁自伝)
1859年、大蔵永常(おおくらながつね、農学者)著の『広
 益国産考(こうえきこくさんこう)』刊。
  1842年から1859年の17年の著作物。
  天明の大飢饉を目撃し、志を立てる。
  この著は、江戸後期の商品経済の発展に対応するため
 に農業経営の改良を説いた。
  また、農業技術を集大成した。
1859年、この頃、寺子屋の開設が隆盛。
1859年11月、種の起源(ダーウィン)が発表された。
  ダーウィンは大論争を巻き起こした。
  猿から人へのこの道筋を彼も示す事が出来なかった。
  猿から人間が生まれたという。
1859年、イタリア独立戦争が起こった。
  イタリアが、独立と統一をしたいと、3次にわたって
 オーストリアと戦った。
  第1次(1848年~1849年)から始まった。。
  第2次(1858年~
  1859年は、ハプスブルク家の排除の戦いと言える
  第3次(1866年6月~
  1866年10月、ウィーン条約
  1870年9月、イタリア軍がローマを占領。10月、イタ
 リア王国が、住民投票によりローマを併合。
  1871年7月、イタリア王国が、ローマに遷都。
1860年(安政7年)、推定世界人口:12億5000万人
1860年1月1日、日米修好通商条約によって、新潟が開港す
 る。
1860年1月4日、日米修好通商条約によって、日米和親条約
 で開港した下田が閉鎖された。
1860年1月13日、咸臨丸がアメリカに向けて品川を出港した。
  乗組員96名、木造蒸気船、長さ50メートル、幅7.3メー
 トル、砲:12門、250トン、100馬力、3本マスト、
  咸臨丸は、オランダから、10万ドル(2万5000両)で、
 物と交換で買い取った。
  幕使:新見正興、通弁官:中浜万次郎。
  江戸(東京)湾を出ると、小型艦である咸臨丸は、た
 ちまち暴風雨に遭い、酷い目にあった。
  提督の木村摂津守が、交際費として、私費10万ドルを
 持って行ったその小判が、箱から転がり出すほどの、揺
 れ方であった。
  毎日毎日の大嵐、なかなか茶碗に飯を盛って本式に食
 べるなんという事は容易なことではない・・とある。
  また、はしけ船が4隻あったが、激浪の為に、2隻も取
 られた。
  日本人が、初めて、オランダ人から航海術を伝習して、
 わずか5年で、
  「少しも他人の手を借りずに、出かけて行こうと決断
 したその勇気と言い、
  その技量と言い、これだけは、日本国の名誉として、
 世界に誇るべき事実だろうと思う」・・と、福沢諭吉が
 言っている。
  しかし、咸臨丸の場合、実際には、アメリカ海軍将兵
 11名が同乗していた。
  それは、日本近海測量に来ていたJ・M・ブルック大
 尉、他10名で、
  その乗船が、難破したため、咸臨丸に同乗させて送り
 返すという事で、艦の運航には、口出ししないという建
 前にはなっていた。
  だが、実際に、暴風雨の中に船を出してみると、日本
 人乗組員の技量では、危なっかしく見ていられず、
  アメリカ人将校が、手を貸さない訳には行かない。
  ブルックは、その「航海日記」に書いている。
  「私は、時々癇癪を起こす。日本人たちはまったくノ
 ロマだ。
  彼らは、荒天に対してまったく無経験で、しかも、部
 署を割り当てられない」。
  「我々の乗組員が、操舵や見張りなど、当直仕官のな
 すべきことを皆やっている」。
  「船の中で、秩序とか規律とかいうものは、まったく
 見られない
  ・・・飲酒はそう厳しく取り締まられていない」。
  また、ブルックの観察では、
  木村摂津守は、「地位や、習慣などを頑固に守る人」
 として映り、
  勝は、「大変小柄であるが、良く均整が取れ、たくま
 しく身軽である。
  鋭い見透すような目、筋の通った鼻、やや小さいあご。
 歯を合わせたまま話す。
  彼は、なかなか活動的である。
  手すりの上に飛び上ったり、索具にのぼったりする。
  感じの良い顔立ちで、決して、機嫌が悪いという事が
 ない。
  彼は、航海中ほとんど船酔いしていた」と見られてい
 た。
  福沢は、「勝麟太郎という人は、艦長木村の次にいて
 指揮官であるが、至極船に弱い人で、
  航海中は、病人同様、自分の部屋の外に出ることは出
 来なかった」と述べているが、
  木村摂津守の想い出話では、「福沢の伝にある様に、
 ただ船に酔ったというのではない、
  つまり、不平だったのです」とある。
  勝が、何に不平だったかと言えば、
  身分とか、待遇とか、役割が、その人の能力相応でな
 い事に対する不平である。
  上役の無能ぶりと、船内無統制に、カンシャクを起こ
 して、
  船酔いを口実に、部屋から出ようとしなかった。
  勝は、アメリカで把んで来たものは「能力主義」とい
 う人事管理の方式にあった。
  咸臨丸の船内の人事組織からして、近代的な能力主義
 でやってみたかったのだ(氷川清話)
  正月、正使新見豊前守、副使村垣淡路守、目付小栗豊
 後守、米艦「ポーハタン」で米国に向けて出発(氷川清
 話)
  300トンの小さな艦で40日の航海。
  勝は艦長、福沢は総督である木村摂津守の従者。
  咸臨丸に乗船中の勝は、終始不機嫌でかんしゃくを起
 こしてばかりだった様だ。
  体調も悪かったのだろうが、実力に比して不当に低い
 身分に対する不満もあったのだろう。
  勝は、7歳年下でも身分の上の木村に反抗する態度も
 とった様だ。
  木村の従者の福沢にとって、これが不愉快でないこと
 はなく、二人の不仲の原因はここにあったのだろう。
1860年1月、河竹黙阿弥『三人吉三廓初買』初演。
  横井小楠『国是三論』。
  この頃、かっぽれ、すちゃらか節流行。
1860年2月27日、咸臨丸が、サンフランシスコに入港した。
 (2月26日説あり)
  海舟は、熱病を患っていたが、サンフランシスコに着
 く頃には自然に全快していた。
  サンフランシスコへ着くと、日本人が独りで軍艦に乗
 ってここへ来たのはこれが初めだ・・といって、アメリ
 カの貴紳(きしん、身分と名声のある男子)らも、たい
 そう誉めて、船底の掃除や、ペンキの塗り替えなども、
 すっかり世話をしてくれた(氷川清話)
  ・・・着くやいなや、土地の主だった人々は、船まで
 来て、祝意を表わし、
  歓迎の始めとして、陸上の見物人は黒山の如し。
  次で、陸から祝砲を撃つということになって、あちら
 から撃てば、咸臨丸から応砲せねばならぬとなった、
  ・・が、勝の説に、なまじ、応砲などして遣り損なう
 よりも、こちらは撃たぬ方が良いと言う。
  そうすると、運用方の佐々倉桐太郎は、いや撃てない
 ことはない。
  乃公(だいこう、男性が、目下の人に対して、または
 尊大に、自分をさしていう語、我が輩)が撃て見せる。
  「馬鹿言え、貴様達に出来たら乃公の首を遣ると冷や
 かされて、佐々倉は、いよいよ承知しない。
  何でも応砲して見せるというので、それから、水夫共
 を指図して大砲の掃除、火薬の用意して、
  砂時計を以って時を図り、物の見事に応砲が出来た。
  さあ、佐々倉が威張り出した。
  首尾よく出来たから、勝の首は乃公の物だ。
  しかし、航海中、用も多いから、しばらくあの首を当
 人に預けておくと言って、大いに、船中を笑わした事が
 ある。
  さあ、どうも彼方の人の歓迎というものは、それはそ
 れは、実に至れりつくせり、
  この上の仕様がないと言う程の歓迎。
  サンフランシスコに上陸するや、馬車を以って、迎い
 に来て、
  取り敢えず、市中のホテルには、市中の役人か、何か
 は知りませんが、
  市中の主だった人が、雲霞(うんか、大勢の人が群が
 り集まるたとえ)の如く出掛けて来た。
  さまざまの接待饗応。
  それからサンフランシスコの近傍に、メールアイラン
 ドという所に海軍港がある。
  その海軍港付属の官舎を、咸臨丸一行の止宿所に貸し
 てくれ、
  船は、航海中なかなか損所が出来たからとて、ドック
 に入れて修復をしてくれる。
  逗留中は、勿論(もちろん)あっちでも何もかも、そ
 っくりやってくれる筈(はず)であるが、
  水夫をはじめ日本人が、洋食に慣(な)れない、
  やはり、日本の飯ででなければ食えないというので、
  自分で賄うという事にしたところが、
  アメリカの人は、兼(か)ねて、日本人の魚類を好む
 という事を良く知っているので、
  毎日毎日、魚を持って来てくれたり、
  或(ある)いは、日本人は、風呂に入ることが好きだ
 というので、毎日、風呂を立ててくれるというようなわ
 け。
  ところで、メールアイランドという所は、町でないも
 のですから、折節(おりふし、その場合場合)、今日は
 サンフランシスコに来いと言って誘う。
  そこから船に乗って行くと、ホテルに案内して饗応す
 るという様な事が毎度ある。
  ところが、こっちは、一切、万事不慣れで、
  例えば、馬車を見ても、初めてだから実に驚いた。
  そこに車があって、馬が付いていれば、乗物だという
 事は分かりそうなものだが、
  一見したばかりでは、ちょいと考えが付かぬ。
  ところで、戸を開けて入ると馬が駆け出す。
  成程(なるほど)これは馬の引く車だと、初めて発明
 するようなわけ。
  いづれも、日本人は、大小を差して、履物は麻裏草履
 (あさうらぞうり)を履(は)いている。
  それで、ホテルに案内されて行ってみると、毛氈が敷
 き詰めてある、その毛氈は、どんなものかというと、ま
 ず、日本で言えば余程(よほど)の贅沢者が、一寸四方、
 いくらという金を出して、買って紙入れにするとか、煙
 草入れにするとか、云うようなそんな珍しい品物を、8畳
 も、10畳も、恐ろしい広い所に敷き詰めてあって、
  その上を靴で歩くとは、甚(はなは)だ途方もない事
 だと、実に驚いた。
  けれども、アメリカ人が、往来を歩いた靴のままで、
 ひょうひょうと上がるから、こっちも麻裏草履で、その
 上に上がった。
  上がるといきなり酒が出る。
  徳利の口を開けると、恐ろしい音がして、先(ま)ず
 変な事だと思ったのはシャンパンだ。
  そのコップの中に何か浮いているのも分からない。
  3、4月、暖気の時節に、氷があろうとは思いも寄らぬ
 話で、
  ずーっと銘々の前にコップが並んで、
  その酒を飲む時の有様(ありさま)を申せば、
  列座の日本人の中で、先ずコップに浮いている物を、
 口の中に入れて、肝を潰(つぶ)して噴き出す者もあれ
 ば、
  口から出さずにがりがり噛む者もあると云うような訳
 けで、しばらく氷が入っていると云う事が分かった。
  そこでまた、煙草を一服と思ったところで、煙草盆が
 ない、
  灰吹きがないから、その時、私はストーブの火でちょ
 いとつけた(福翁自伝)
1860年3月18日(万延1年)、「万延」に改元された。
1860年3月24日、桜田門外の変(18烈士)
  水戸藩、薩摩藩の浪士が、彦根藩の行列を襲撃し、大
 老の井伊直弼を暗殺した(45歳)。
  水戸人17名、薩摩人1名、
  勝は、この変で、幕府の行く末を感じ、また、見た。
  幕府の、体制のその内実を表していることを悟った。
  幕府の今までの経過と、これからの時を知り、実感し
 た。
1860年3月、その時、井伊の家中は・・、
  井伊の家中で、血気にはやる連中は、直ぐに、水戸の
 屋敷へ暴れ込むと言って大騒ぎをしたのを、
  岡本黄石、は色々になだめて、幕府へは、ただ、自分
 の主人が、登城の途中、暴漢のために傷つけられたこと
 を届け出て、
  事を穏便に済ませた。
  この時、黄石が、思慮のない男で、一時の感情から壮
 士どもの尻押しでもしたのなら、それこそ大変だった(
 氷川清話)
1860年3月、徳川慶喜が、隠居謹慎を許され、家茂の後見人
 となる。
  徳川慶喜が、条約締結問題につき、井伊を詰問した事
 から、隠居謹慎させられたが、
  井伊の横死後、幕府が、公武合体に転換したのに伴い、
 許されて、家茂の後見人となり、松平慶永(よしなが)
 とともに幕政改革に務めた。
  1861年10月東下、1862年2月婚礼。
1860年3月、公武合体を策し、和宮降嫁を奏請した。
  老中の安藤信正らが、公武合体を策し、皇女・和宮降
 嫁を奏請した。
1860年3月、外国人に酒を飲ませることを禁じた。
1860年閏3月19日、咸臨丸がサンフランシスコを出港した。
 (3月18日説あり)、5月5日に品川に入港する。
1860年閏3月、外国人を宿泊させることを禁じた。
1860年4月、外国人へ食用のほか牛馬を売ることを禁じた。
1860年5月5日、咸臨丸が、浦賀に到着した。
  5月6日に、品川に入港する。
  5月7日に、勝海舟、帰府(氷川清話)
  帰りにはハワイに立ち寄って、それから浦賀へ帰った。
  そして、桜田の変があったことを始めて知って、これ
 で幕府はとてもだめだと思った。
  これから品川へ船を廻して一同上陸した(氷川清話)
1860年、帰国後の勝海舟と福沢諭吉
  アメリカから帰国後、福沢は、世襲でない社会、デモ
 クラシーを感じ、
  この世襲が、政治のバイタリティーを無くしていると
 見抜いた。
  福沢は言った、「封建制度は親の仇でござる」と、近
 代社会の形を体感していた。
  勝は、老中から、「そのほうは、眼光を見えているか
 ら、何か眼を付けた事があろう」と言われ、
  「人間のする事は、古今東西同じで、アメリカとて別
 に変わったところはありません」と答えた。
  老中が、なおも、「左様ではあるまい、何か変わった
 ところがあろう」と聞く。
  再三再四、聞かれた勝は、「さよう、少し眼につきま
 したのは、アメリカでは、政府も民間も、人の上に立つ
 人は、皆、その地位相応に怜り(かしこい、利口な)で
 す。
  この点ばかりは、まったく我が国と反対の様に思いま
 する」と答えた。
  老中は、目を丸くして、「この無礼者控えおろう」と
 叱った。
  この胆力と、一言の多さが・・勝だった。
  尚、福沢諭吉は、この1860年の幕府使節の随行のほか、
 1861年、1867年の計3回の幕府使節随行で、洋行し、近代
 文明をつぶさに観察している。
  この辺からも、上野の山の攻略の大砲の音を聞きなが
 らも、かかわりのない事の態度で、次世代の俊英を育て
 るための講義を、粛々と続けたのだろう。
1860年4月、外国人へ食用のほか牛馬を売ることを禁じた。
1860年、緒方洪庵が、この年から天然痘に尽力した。
  その拠点が、「除痘館」。
  洪庵は、自らが開いた私塾「適塾」で、医学を教える
 かたわら、その南方約100メートルの地で種痘事業をした。
  孫が、その跡地に、産婦人科医院を開設した。
  因みに、日本では天然痘は、1980年に根絶された。
1860年6月、ポルトガルと仮条約。
1860年9月29日、水戸斉昭(徳川斉昭、なりあき)が没した。
1860年10月、種痘館を種痘所と改称した。
  大槻俊斎が頭取となる(氷川清話)
1860年10月、プロシアと仮条約。
1860年11月、福沢諭吉、外国方役員となる(氷川清話)
  福沢諭吉が、1860年~1867年の間、幕府の翻訳方に勤
 める。
1860年12月、勝海舟が、アメリカに行った功績で、金5枚
 時服2を賜い、且つ、軍艦派遣は、我国はじめての新事業、
 無事航海をまっとうした功労によって、終身(?)米を
 賜う(氷川清話)
1860年12月5日、麻布で、アメリカ公使官員が浪士に殺害さ
 れた。
1860年、井伊直弼の暗殺後、尊王攘夷および倒幕運動が盛
 んになって行った。
1860年、米価暴騰による農民一揆が頻発した(~1865年)。
1860年11月6日、エイブラハム・リンカーンが、アメリカの
 第16代大統領に選出された。
1860年、清国、涙の北京条約。
  イギリス・フランスは、思惑通り、徹底的に清国を痛
 めつけ、思い通りのうまい汁を吸う条約を締結させた。
  香港の九龍半島の一部を割譲させる・・ほか。
..
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by suba28 | 2015-11-25 17:27 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)247D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1858年12月~1859年8月)

題:(増補版)247D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1858年12月~1859年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1859年(安政6年)1月、勝海舟が、正月、汽船・朝陽丸で
 帰府、暴風雨に会い、体をマストに縛り指揮、綱が切れ
 波に捲かれようとする航海中の難、危険を瀕す(氷川清
 話)
1859年1月、勝海舟、軍艦操練所教師頭取を命ぜられる(氷
 川清話)
1859年1月、勝海舟、長崎伝習中止の命あり(氷川清話)
1859年1月5日、石見で地震。
1859年1月7日、秋山好古(あきやまよしふる)誕生(逸話)
  伊予松山城下(現・愛媛県松山市)に松山藩士の三男
 として生まれる。
  秋山家は足軽よりも一階級上の位で家禄10石ほどの下
 級だった。
  藩校・明教館へ入学し、家計を支えつつ学ぶ。
  大阪師範学校を経て、1877年に、陸軍士官学校へ入学。
  日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を撃滅した秋山
 真之は実弟にあたる。
   陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古
 の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破る
 というただ一点に尽きている」と賞されているとおり、
 日本騎兵の父と云われた。
1859年1月13日、幕府が、長崎、神奈川、箱館3港の開港に
 あたり、同地への出稼ぎ、移住、自由売買の許可を布告
 した。
1859年2月7日、勝海舟が、長崎での海軍伝習が終了するこ
 とにあわせ、長崎を出発、江戸へ帰る。
  日米通商航海条約の批准のため、使節を米国に派遣す
 る噂を聴いて、勝海舟は直ちに帰府を願い出た。
  何としても、近代国家の実情をこの目で見たい、それ
 にはこの機会に、使節について米国へ渡航したい、
  太平洋を自力で軍艦を操縦して渡ってみたい、という
 冒険心やら勇猛心やら好奇心が、いっぺんに噴出してき
 た。
  正月、紀州沖の暴風雨の中を、朝陽丸を指揮して彼は、
 江戸に帰った(氷川清話)
1859年2月9日、遠隔地長崎では、経費がかかり、西役所の
 海軍伝習所を閉鎖した。
  ポンペの医学伝習所は続行。
1859年2月22日、江戸の大火(青山より音羽へ延焼)
1859年2月26日、山内豊信(やまうちとよしげ、容堂)が、
 隠居を命ぜられる。
  1862年に、許されて、公武合体に尽力する。
1859年5月2日《03/30》開港後、最初のキリスト教の伝道者
 が、中国在留の米国監督教会宣教師・リギンスが来航し
 た。
  米国領事・ワルシの斡旋(あっせん)で、上陸が許可
 された。
  長崎奉行の依頼で、通訳官8人に英語を教授した。
 居住地は、崇福寺後山の広徳院とした。
  1860年2月に、病のため帰国。
1859年5月25日、吉田松陰が、萩獄より江戸に送られる。
1859年5月26日、イギリス総領事(のち公使)オールコックが、
 来日した。
  高輪東禅寺を居館とした。(6月9日説あり)
1859年5月27日、米国総領事・ハリスが、幕府に弁理公使昇
 格を通告した。
  麻布の善福寺を居館とする。(6月4日説あり)
  弁理公使は、外交使節の第3の階級で、公使に次ぎ、代
 理公使の上位のくらい。
1859年5月、米英公使と居留地造成の交渉で、わが国の腹案
 は遂次つぶされた。
  9月に、計画案をたて実施されることになった。
  大浦湾入の大半を梅香崎側に埋立てるもの(現・長崎
 県庁近く)。
  居留地の核体となる第1次の造成。
  1861年4月になって、第1次居留地の完成に伴い、仮泊
 地協定により4月をもって居留地への移動を決めた。
  大浦海岸通りの造成により、仮泊地で待機していた山
 手地区一帯の貿易商人や商社が移動を開始。
  ほとんどが英米系で、なかでも英国人は海岸に面する
 上等地を占領して活躍した。
1859年5月、長崎奉行所よりの達しで、「たとえ、外国人が
 買い揚げている遊女であっても、見物のために外国船へ
 行くことは罷りならぬ」と禁止した。
1859年5月、イギリスが、大浦郷の妙行寺内にて外交事務・
 英国領事館を開始した。
1859年6月2日、下田、横浜、長崎、函館の4港を開き、英・
 米・仏・蘭・露の5国と交易す(5月28日説あり)
  自由貿易を許可する旨布告。
1859年6月2日、幕府が、貿易許可の3開港場で、江戸図面、
 官服、法制書籍、武艦類、兵学書類、甲冑、刀剣などを
 外人に売ることを禁止した。
1859年6月20日、幕府が、外国より武器輸入を許した。
  幕府が、3開港場における武器購入を大名、旗本、藩
 士に許可した。
1859年6月22日、幕府が、外国との貿易を許す(当時生糸1
 斤の価1両1分、生糸輸出始まる)
1859年6月25日、幕末の通貨問題。
  日米和親条約の締結後に決められた日本の貨幣と海外
 貨幣の交換比率に関する問題で、
  日本と諸外国の金銀交換比率が異なったため、日本か
 ら大量の金が流出した。
  この日に出された幕府の触書で、当時、小判として最
 も多く流通していた天保小判は、一分銀5枚の増歩通用と
 されたが、
  実際の流通の場の市場では、さらに上がり一分銀6枚を
 要求される状況で、
  これが、9月になると8枚とか、9枚とかと上昇した。
  国際価格から見て、日本の金が安い状況であるため、
 この様な事態が生じたのだが、安い日本の金は、海外へ
 大量に流出した。
  これは、開国に伴う日米間での日本貨幣と西洋貨幣と
 の交換比率の交渉において、1856年に、ハリスの論理に
 押し切られた結果であった。
  この時、1ドル=3分との交換比率を飲まされた。
  米国総領事のハリスは、これでたいぶ私腹を肥やした。
  儲けのカラクリは、1ドル銀貨をまず一分銀3枚に交換
 し、両替商で4枚を小判(金)にし、国外で地金にして売
 却するという手順で大儲けした。
  1両が4ドルになった。
  つまり、1ドル銀貨の1枚と1/3枚が、4ドルになった。
1859年7月、新たに外国奉行を置く(氷川清話)
1859年7月、勝海舟、赤阪元氷川下に転居(氷川清話)
1859年7月1日、横浜港・函館港・長崎港開港。
  イギリス、ロシアに開港。
1859年7月4日《06/05》日米修好通商条約により、神奈川と
 長崎が開港した。
1859年7月9日、吉田松陰が、江戸伝馬町の獄に投じられた。
1859年7月16日、幕府が、外国人擁護を令す。
1859年7月、コレラが流行し、青魚、タコ、生野菜、果物、
 鶏肉など禁食リストを公表した。
1859年8月、蝦夷地を割き、奥羽諸藩に賜う(氷川清話)
  奥羽6藩に蝦夷地を分割す。
1859年8月、運用銀、吹直し(氷川清話)
1859年8月、洋銀、運用を許す(氷川清話)
1859年8月、勅書水戸家に下る(氷川清話)
1859年8月、松木弘安、箕作秋坪、原田敬作、高畑五郎、外
 国方訳員となる(氷川清話)
1859年8月、水戸斉昭、一橋慶喜、松平慶永、引責、蟄居を
 命ぜられる(氷川清話)
1859年8月、江戸城本丸火事(氷川清話)
  江戸城本丸全焼、翌年11月、殿舎再建成る。
1859年8月、横浜、凾館、長崎を開港す(氷川清話)
1859年8月、横浜の風聞:
  五国条約というものが発布になったので、横浜は正し
 く開けたばかりのところ、
  そこで、私は横浜に見物に行った。
  その時の横浜というものは、外国人が、そこに住って
 店を出している(福翁自伝)
1859年8月4日《7/6》シーボルトが、日本追放後30年ぶりに
 ドイツ人の妻と、5人の子女を連れて、再来日した(7月
 6日説あり)
  日本にいた時に、妻と子としていた母娘に再会した。
  再会後シーボルトは、「たき」と疎遠となり同居を拒
 んだ。
  「たき」は、シーボルト帰国の1年後に再婚した。
  その後、寡婦(その夫を失い未亡人)となった。
1859年8月10日、フランス総領事(のち公使)ド・ベルクール
 着任、三田済海寺を居館とする。
1859年8月13日、ポンペが、幕府の許しを得て、早朝から夕
 暮まで3日間にわたり、
  西坂刑場で死刑囚の死体解剖実習を行なった。
  日本初の死体解剖実習に、受講生46人、シーボルトの
 娘イネも参加した。
  許可が下りるまでは、パリから取り寄せたキュンスト
 レーキによって説明されていた。
  キュンストレーキとは、紙製の人体解剖模型で、フラ
 ンス人の解剖学者オズーによって作られたもの。
1859年8月15日、フランスに開港した。
1859年8月27日、徳川斉昭を国許永蟄居、徳川慶篤を差控、徳
 川慶喜を隠居謹慎に付する。
1859年、第二次アヘン戦争(アロー戦争、アロー号事件)
  1856年10月に、イギリス船籍のアロー号が、広東の下
 流域に停泊していた時、
  この船が、禁制品のアヘンを積んでいたので、中国の
 清国兵が、乗組員12名を清国軍艦に引致した(いんち、
 引っ張っていくこと)。
  イギリスは、清国と戦争する口実が欲しかった。
  この事件は、難癖をつける、言いがかりをつけるに絶
 好だった。
  イギリスは、フランスと連合し、
  1857年暮れに、英仏連合軍は、広東を攻め、陥落させ
 た。
  そして、その時、捕らえた清国の総督を、インドのカ
 ルカッタへ連れ去った。
  1年後、この総督を幽死させた。
  イギリスは、強圧的に、「清国全権が香港に来て和を
 講ぜよ」と敗北を認めよと言ったが、清国は応じなかっ
 た。
  そこで、英仏連合軍は、白河河口の太沽砲台を陥(お
 としい)れた。
  そして、河をさかのぼって天津に入った。
  清国は、やむなく、敗北を認め、英仏と和議を結んだ
 (天津条約)。
  しかし、事は、これで終わらなかった。
  清国の利益を、とことん得たいイギリスとフランスは、
 この条約の批准交換をする地に難癖をつけた。
  すぐれたる武器を持つ英仏は、再度、清国に対して武
 力をふるった。
  条約の批准地と言ったって「北京」にするか?「上海」
 にするか?の違いだけだった。
  結局、イギリスとフランスは、とことん清国を攻めて
 利益の収奪(より有利な講和条約を締結する)をしたい
 だけだった。
  イギリス艦隊は、1859年に、天津に侵攻しようとした
 が、太沽砲台の砲撃を受け、いったん退いた。
  そして、今度は、イギリスは、仏と連合し、英仏連合
 軍として宣戦布告をした。
  そして、英仏連合軍は、陸海から北京へと進撃した。
  清国皇帝は、熱河に蒙塵(もうじん、余裕なく都落ち
 する事)した。
  熱河は、中国河北省の都市。
  この時のイギリス兵の主力は、インド兵の1万だった。
  インドは、可哀想な事に、イギリスに国を奪われた上
 に、先兵として戦わせられたりもしていた。
  清国は、1860年10月に、英仏と北京条約を結び、九龍
 を奪われた。
  イギリスの新聞のデイリーテレグラフは、1859年に、
 次の社説を書いている・・
  「大英帝国は、支那の全海岸を襲撃し、首府を占領し、
 清帝をその宮廷より放逐し、将来起こり得る攻撃に対し
 て実質的保障を得ねばならぬ。
  我が国家的象徴に侮辱を加えんとする支那官吏を鞭(
 むち)にて打て。
  すべての支那将校を海賊や人殺しと同じく、英国軍艦
 の帆桁にかけよ。
  人殺しのごとき人相して、奇怪な服装をなせるこれら
 多数の悪党の姿は、笑うに堪えざるものである。
  支那に向かっては、イギリスが彼等より優秀であり、
 彼らの支配者たるべきものたることを知らせねばならぬ」。
  因みに、帆桁にかけるは絞首刑を意味している。
  キリスト教の有色人種蔑視の観念が現れている。
..
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by suba28 | 2015-11-24 02:49 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)246D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1857年12月~1858年12月)

題:(増補版)246D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1857年12月~1858年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1858年(安政5年)1月5日、老中・堀田正睦が、通商条約の
 調印の2ヶ月延期をハリスに要請した。
  (幕府、日米条約締結を決意)の説もあり。
1858年1月8日、幕府が、老中・堀田正睦に上洛を命じ、日
 米条約調印の勅許を請わしむ。
1858年1月12日、日米通商条約の交渉妥結。
  幕府とアメリカ人・ハリスとの通商条約の逐条協議の
 議定のすべてが終わった。
1858年1月21日、老中・堀田正睦が、上京の途につく。
  ハリスが、江戸会見を終え下田に帰参した。
1858年2月20日、幕府が、諸国に令して、楮(こうぞ)、茶
 などを植え、蝋、漆、紙、茶業の興産を計る。
1858年3月、朝廷が、勅許を許さず。
1858年3月24日~25日、江戸日本橋安政5年の大火 (約12万
 戸焼失)
1858年4月5日、堀田正睦が、上洛して、米国との条約締結
 勅許を仰ぎて成らず、空しく還る。
1858年4月9日、飛越地震。
1858年4月23日、彦根藩主・井伊直弼が、大老を命じられる。
  井伊直弼が、保守派におされて大老に就任すると、
  慶福(よしとみ、家茂)を、14代将軍と定め、
  勅許のないまま、安政条約を締結し、
  また、反対派を、徹底的に弾圧した(安政の大獄)、
  このため、水戸、薩摩両藩の志士らによって、1860年
 3月に、桜田門外の変が起き、直弼は暗殺された。
1858年4月24日、老中・堀田正睦が、ハリスを私邸に招き、
 日米条約調印の延期を要請した。
1858年4月27日、日米通商条約の調印が、3ヶ月間再延期に決
 定した。
1858年5月3日、オランダへ注文した軍艦エド号(後の朝陽
 艦、300トン、砲18門)が、長崎へ入港した。
1858年、勝海舟が、長崎に滞在。
  軍艦で九州を巡航、鹿児島に行く、島津斉彬に謁す。
 (氷川清話)
1858年5月7日、江戸に、種痘所が開設された、
  江戸の蘭学者の有志たちが、神田・お玉が池に種痘所
 を開設し、種痘をした。
  また、蘭方医学の研究拠点とした。
  伊藤玄朴等、医官となる。(氷川清話)
  内科に、はじめて蘭医を用う。(氷川清話)
  当時、府下の蘭家医80余名。(氷川清話)
1858年5月、長崎で、中国経由で入港していたアメリカ軍艦
 の乗組員にコレラ患者が発生し、
  長崎に上陸したため、長崎市民に感染した。
  767人の死者が出た。
  後に、猛威が、九州各地から広がり、
  大坂、京都へ行き、
  7月には、江戸が流行、西日本一帯に蔓延して行った。
  50日間で、4万人以上の死者数となった。
  薩摩藩の島津斉彬もコレラで没した。
1858年5月23日、幕府が、初めて、陪臣の蕃書調所への入学
 を許した。
1858年6月4日、三条実萬が、大老・井伊直弼へ意見書を送
 り、大いに時事を論ず。
1858年6月17日、米国使節・ハリスが、軍艦ポーハタンにて
 神奈川に来航し、日米通商条約を迫る。
  国内は、このハリスとの安政の仮条約締結問題と、14
 代将軍継嗣問題も絡んで、保守派と改革派は、深刻な対
 立関係になって行った。
1858年6月19日、幕府は、勅許を得ないまま、日米修好通商
 条約を調印した。
  江戸小柴沖停泊中の米艦上で、日米修好通商条約調印。
1858年6月23日、老中・堀田正睦、罷免。
1858年6月24日、前水戸藩主・徳川斉昭と、尾張藩主・徳川
 慶恕が、不時登城し、日米修好通商条約調印を巡って、
 伊井大老を面詰した。
1858年6月24日、松平春嶽が、日米通商条約を独断で調印し
 た井伊直弼を詰問した。
1858年6月25日、紀州藩主・徳川慶福(家茂)の将軍継嗣が、
 決定したことを発表した。
1858年、徳川慶喜が、条約締結問題について、井伊を詰問
 したことから、隠居謹慎させられた・・
  が、しかし、井伊の横死(1860年3月)後、幕府が、公
 武合体に転換したのに伴い、許されて、慶喜は、家茂の
 後見人となった。
  そして、松平慶永(よしなが)とともに、幕政改革を
 務めた。
1858年7月5日、徳川斉昭は謹慎に、また、徳川慶恕と松平慶
 永は隠居謹慎を命ぜられた。
1858年7月6日、将軍・家定が没した(35歳)。
  将軍家定逝去(温恭院)、(氷川清話)
1858年7月8日、八戸沖で地震。
1858年7月8日、海防掛に代わり外国奉行を置く。
  この日、イギリス使節エルギン、江戸湾に来航。
  イギリスの軍艦4隻が、日本との開港条約を迫って品川
 に来航した(7月5日説あり)
1858年7月、露英蘭の仮条約成る(氷川清話)、
  朝廷、調印に反対す。
1858年7月、江戸に出ていた松下村塾の門下生の中谷正亮
 (しょうすけ)から、松蔭にあてて、
  「幕府は、天皇を、井伊直弼の本拠地・彦根に、遷座
 幽閉しようとしているとの噂がある」と知らせて来た→
 噂に終わった。
1858年7月10日、日蘭修好通商条約調印(オランダ)。
1858年7月11日、日露修好通商条約調印(ロシア)。
1858年7月16日、薩摩藩主・島津斉彬没(コレラ)(1809年
 ~1858年)(49歳)。
  松平斉彬逝去(氷川清話)
1858年7月18日、日英修好通商条約調印(イギリス)。
1858年7月21日、徳川慶福、名を家茂と改む。
1858年7月29日、日米修好条約が締結された(アメリカ)。
  続いて仏(8月13日)、蘭(8月17日)、露(8月18日)、
 英(8月26日)、と五カ国条約。
  この日米修好通商条約が、神奈川で結ばれて、
  日本は、アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、オ
 ランダと自由貿易をすることになった。
  この条約は、問題のある条約だった。
  不平等条約だった。
  治外法権(特定外国人に日本の法律が適用できない)、
  つまり、外国人が、日本で悪いことをしても、捕まえ
 る事が出来ないし、
  裁くこともできないという不平等を、日本は認めさせ
 られた(酷いことに、今・現在も存在している、独立国
 の立場なし)。
  また、関税自主権がなく、不平等を強いられた。
  これは、独立国が、その主権に基づいて、自主的に関
 税制度を定め、運営する権利が認められなかったという
 こと。
  これは、日本がどうなろうと、儲かればどんどん好き
 な貿易取引ができて、
  関税によって、その問題の動きに対し、国は調整する
 ことが、したくても出来ない・・という状態に置かれた。
  (これも、今のTPPがこれで、自分が強いのを良い
 ことに、関税は0(ゼロ)が良いのだと、関税によって
 自国産業を保護する手立てを奪う事が行われている。一
 方的な論理の下に・・、
  また、自分の弱点に対しては、35年という超長期のあ
 るか?なしか?・・の、条件にさせられている)。
  午後3時、横浜沖のアメリカ軍艦・ポーハタン号上で、
 井伊直弼大老の幕府と、アメリカ総領事のハリスとの間
 で、日米修好通商条約が調印された。
  21発の祝砲が、江戸湾に轟き渡った。
  大老に従った幕府側の有能な武士は、岩瀬忠震(ただ
 なり)、水野忠徳だった。
1858年7月29日、日米修好通商条約を結ぶにあたって、幕府
 が、天皇の勅許を求めた。
  そして、この事を、直接のきっかけとして、この天皇
 =朝廷が、一挙に政治の舞台に登場した。
  この天皇=朝廷の政治化とともに、政治の舞台の中心
 が京都に移った。
  また、孝明天皇は、特に、外国に対しての敏感な感覚
 (嫌悪感覚)を持っていた。
1858年7月、幕府は、アヘンの輸入禁止を、イギリス・アメ
 リカ・オランダ・ロシアと締結した。
  節操のない国もあるので重要な事だった。
1858年7月以降、長崎に端を発したコレラが、江戸に蔓延、
 死者3万余人を数えた。
1858年7月29日、アメリカとイギリス間の電信用の海底ケー
 ブルが敷設された(大西洋横断ケーブル)。
1858年8月8日、条約調印、及び、徳川斉昭らの処分に関す
 る勅諚(ちょくじょう、勅命)が、幕府と、水戸藩に下る。
  これは、処分の勅諚ではないという説がある。
  朝廷は、幕府よりもむしろ、御三家の一つの水戸家を
 信頼していて、
  この日に、密勅降下があったという。
  それは、事実上の井伊直弼の大老排斥の趣旨を含んだ
 もので、
  この密勅事件が、今後、起きる大獄の直接の原因・発
 火点だったという。
  そして、その井伊の強引な検察的態度に、京都も震え
 上がり、そして、水戸家も戦慄していた。
1858年8月17日、江戸でコレラ大流行(病死者681名)
  死者3万の説あり、
1858年、佐久間象山が、電磁石・ダニエル電池を制作した。
1858年9月3日、日仏修好通商条約調印(フランス)。
1858年9月5日、安政の大獄(10月11日説あり))
  岩瀬忠震、作事奉行へ左遷もあったが・・、
  この日、井伊大老が断を下した京都論壇と、水戸論壇
 に対する大検挙は、既に、浪人、儒者、藩士に始まって、
 公卿の家臣、そして、公卿に及んで行き、そして、大名
 にまで及ぼうとしていた。
  井伊大老の頭の中には、条約勅許問題と、将軍継嗣問
 題について、江戸と京都で暗躍した反井伊派の逮捕であ
 った。
  井伊はこれを命じた。
  これは、一斉検挙の形をとらず、この日から、翌年末
 まで続いた。
  大名・公卿に対しては、蟄居(ちっきょ、自宅謹慎)、
 差控(さしひかえ、出仕の禁止、自邸謹慎)、隠居(い
 んきょ、退職処分)だった。
  これ以下の、いわゆる志士に対しては、逮捕江戸送り、
 そして、投獄、死罪という厳しいものだった。
  藩主・山内豊信は、越前侯、宇和島侯などとともに井
 伊の大嫌いな水戸系の尖鋭大名ゆえに、この大獄では、
 とうてい無事では済まされそうになかった。
  山内家では、取り潰しになるかもしれないと思ってい
 たと「竜馬がゆく・2」には記されている。
  また、同誌には、京都西町奉行所の与力・渡辺金三郎
 は、「安政の大獄」で、志士の逮捕に活躍した鬼与力で、
  どれだけの志士が、この与力のために六角獄(ろっか
 くごく)に放り込まれ、死地へ送られたか。
  この与力・渡辺は、数年後、武市半平太の指揮による
 尊王攘夷派の剣客団のために、江州水口宿の近くの石部
 で暗殺された。 
  安政の大獄で六角獄舎につながれたものは、鷹司家で
 6人、青蓮院宮家(しょうれんいんみやけ)で2人、有栖
 川宮家(ありすがわみやけ)で1人、一条家で2人、久我
 家で1人、西園寺家(さいおんじけ)で1人、三条家で4人、
 梅田雲浜、橋本左内、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、
 他・・、
1858年9月7日、小浜藩浪士・梅田雲浜、京都で逮捕される
  (これより京都・江戸で尊皇攘夷派の逮捕しきり、安
 政の大獄始まる)
1858年9月10日、幕府の弾圧急となり西郷吉之助、有村新七
 等僧月照を伴い京都に逃る。
1858年9月15日、竜馬、江戸留学の期限が切れ、国元へ戻る
 べく江戸を出発。24歳。
1858年10月5日、若狭小浜安政5年の大火
1858年10月23日、橋本左内、江戸で逮捕。
1858年10月25日、徳川家茂、14代将軍となる(将軍在任:
 1858年~1866年))(生没年:1846年~1866年)
  家茂が上洛し・・、徳川家茂(紀州慶福・よしとみ)、
 征夷大将軍・内大臣に任ぜられた。
  これに対抗した、一橋慶喜を推す一派は、安政の大獄
 に連座した。
  勝海舟は、この家茂によって引き立てられた。
  咸臨丸渡航の功によって、天主番頭格(400石)になり、
 さらに、1862年の40歳の時に、軍艦奉行並(1000石)に
 昇進し、
  翌年の1863年4月に、将軍を順動丸に乗せて大阪湾を視
 察させ、いろいろ説明したり進言して将軍と近い関係に
 なった。
  そうして、将軍直々に神戸操練所を建設する許可を受
 ける。
  そして、同じ年の1863年12月に、江戸から大阪まで、
 翔鶴丸で将軍のお供をして、甲板上で地勢を説明したり、
 夜は将軍お手ずから目貫(めぬき)や小柄(こづか)を
 海舟に賜ったが、下田沖を通過するときは西風強く、側
 近達は将軍を陸路上坂させるべきを主張して船内は大い
 にもめた。
  ところが将軍は、「今さら陸で行く必要はない。海の
 事は軍艦奉行に任せてあるのだから」と言って海舟を庇
 (かば)った。
  「小臣涕泣して、上意の忝きに感激す」と海舟日記に
 書いている。
  涕泣(ていきゅう、涙を流して泣くこと。)
  忝き(かたじけなき、もったいない、恐れ多い、感謝
 の念でいっぱいであるさま)
  紀州沖では、夜の航海をすべきか否かで迷ったが、朝
 を待って出帆。
  その間、将軍よりお酒を賜わったり、酒がなくなって
 銀貨を賜わったり、海舟はすっかり家茂のお気に入りと
 なった。(氷川清話)
1858年11月8日、福沢諭吉(23歳)が、豊前中津藩の命によ
 って出府した。
  蘭学・洋学塾(慶応義塾)を開いた。
1858年11月16日、西郷吉之助(30歳)が、同志の僧月照と
 ともに薩摩潟(鹿児島湾)に投身したが一人助かって、
 奄美大島に流された。
  西郷は、二度に亘って島流しにあっている。
  島津斉彬の後の、島津久光は西郷を嫌った。
1858年11月17日、老中・間部詮勝が、米国との条約締結は、
 之を取消すこと不可能の旨奏上す。
1858年11月23日、伊達宗城が、隠居を命ぜられる。
1858年、仏人シャロン男爵、北斎漫画など美術・工芸品を
 購入して帰国。
  ウィーンのジャポニズムの動きなど日本美術の影響が
 ヨーロッパを刺激していく。
  浮世絵のマネや印象派への影響が有名。
  日本紹介の書物によって、この頃までに、日本への関
 心は高まっていたが、この関心が、芸術の面に反映して
 行った。
  開国して、外交官が日本を訪れる様になると、
  随行員として来た、このシャロンの様な美術好きな人
 が、購入して持ち帰った日本の美術品が、フランスへ日
 本芸術を伝えた。
  そして、後期印象派への影響も与え、版画、彫刻、工
 芸、建築、そして、写真などへも大きな影響を与えた。
  多岐に渡る日本芸術の影響が表れた。
  それは、単なる異国趣味のものではなく、正当な高い
 芸術性理解をもって、きわめて画期的な芸術現象として
 表れた。
1858年12月19日、江戸神田安政5年相生町の大火
  神田相生町から出火し、神田一帯を灰塵に帰した。
1858年12月26日、吉田松陰、再び、野山の獄に下さる。
  吉田松陰(28歳)が、幕府の安政の仮条約調印を怒り、
 攘夷倒幕を企てて、再び、下獄した。
  そして、江戸に送られ、安政の大獄で、1859年に、死
 刑に処せられた(29歳)。
1858年12月30日、西郷隆盛、奄美大島に流される。
1858年、外国奉行を置く。(氷川清話)
1858年、御木本幸吉が生まれた。
1858年、安藤広重が没した(1797年~1858年)
1858年、活字判摺立所で「日蘭条約書」、ポンペ著「種痘
 書」(蘭語)など出版
1858年、緒方洪庵著、『虎狼痢治準』が出版された。
  洪庵が、長崎から流行し始めたコレラが、江戸や洪庵
 の住む大阪で、大流行したため、
  こうした状況を打開しようと、急遽、対策書として世
 に出した。
  コレラについて、オランダ軍医ボンベが口授した内容
 を筆記し、
  更に、モスト、カンスタット、コンラジという3人の医
 師が書いたコレラについての書物を、訳して、まとめた
 もので、
  洪庵の今までの経験も交えながら、症状や治療法を、
 詳しく解説した。
  コレラの流行を、大きな社会問題として、いち早くと
 らえた洪庵だった。
  洪庵は、無料で、多くの医師に配布した。
  日本の医学の近代化に貢献した。
  まだ、コレラ菌が発見される以前の、日本だった。
  長崎出島のオランダ人医師のポンぺは、「コレラ患者
 にキニーネとアヘンを服用させ、温浴させる」という治
 療方法を行なったが、
  適塾の洪庵は、キニーネの使用については賛成ではな
 く、
  モストらのオランダ医学書からのコレラ対策を、この
 書に記し、対策方法を示した。
  因みに、キニーネは、キナの樹皮に含まれる主要なア
 ルカロイド。
  マラリア治療の特効薬として知られている・・とある。
1858年、ペリーが没した。
1858年、仏越戦争が起きた。
1858年、イギリスが、インドを併合した。
  イギリスが、ムガール帝国を滅亡させた。
  セポイの反乱を機に、東インド会社を解体し、イギリ
 ス女王が帝位について、イギリスの直轄とした。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2015-11-20 04:58 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)245D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1857年5月10日~1859年)

題:(増補版)245D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1857年5月10日~1859年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1857年5月10日、セポイの反乱(~1859年)。
  イギリス人の虐政に対する抑え難き憤懣がインド兵の
 叛乱となって起きた。
  インドに「メーラトの反乱」が起きた。
  (注)メーラト:インド北部のウッタル・プラデーシ
 ュ州の都市で、首都のデリーの北東約60キロメートルに
 ある。
  この地のインドの大反乱「セポイの反乱」が発火点と
 なった。
  (注)セポイ:ウルドゥー語で「軍隊」「兵士」を意
 味したが、「インド亜大陸において、ヨーロッパ士官に
 訓練、指揮されたヨーロッパ風のインド人軍隊(傭兵)
 のこと。
  この日・5月10日に、メーラトの部隊が蜂起した、そし
 て、兵器庫を襲って武器・弾薬を奪い、民衆と共に兵営・
 住宅・キリスト教会などを襲った。
  イギリスの非人道的な行為に憤怒するインドの方々の
 行動だった。
  また、監獄も襲って、捕らえられていた人々を解放し
 た。
  そして、首都のデリーに向けて進撃した。
  19世紀の半ばまでは、インドの方々は、我慢に我慢を
 重ね堪えていた。
  しかし、インドの方々のあらゆる層に、イギリにの対
 する根深い反感と憎悪は広がっていた。
  この頃から、インドの方々に鬱積(うっせき)した怒
 りは、各地で、自然発生的に反乱や暴動となって現れた。
  北ベンガル一帯を襲った大飢饉を背景に、苦行僧の方
 々が立ち上がった。
  この動きに、多くの農民の方々も加わった。
  そして、この愛国運動は、後に、小説にもなり、作中
 の詩「母なる大地に敬礼」は、愛国歌にもなって、広く
 インドの方々が唄っている。
  19世紀の初めの『バレイリ・サハラーンプル・メラー
 ト』などの農民決起もある、
  1831年のベンガル地方に、たびたび、イギリス経営の
 藍耕作労働者に発生したストライキもある、
  1847年のケララの農民一揆も、
  1855年のサンタール族の壮烈な反乱などなど、いっぱ
 いある、それは切がないほどだった。
  しかし、悲しいかな、そのすべては、力で抑え込まれ
 て来た。
  しかし、この時、大きな反乱が起きた、この反イギリ
 ス感情は、インド人傭兵(セポイ)にもおよんだ。
  これまでも、各地の駐屯地でしばしば集団反抗が発生
 していた。
  1806年に、南インドのヴェッロールの連隊でも発生し
 ていた。
  また、宗教者のキリスト教の行なう差別が酷(ひど)
 く、虐げられ問題となった。
  これが、軍隊内にもおよび、キリスト教への改宗者へ
 の依怙贔屓(えこひいき)もひどく、特に、抜擢が露骨
 に行われ、差別された。
  そしてまた、日常でも、宗教的差別は酷く、セポイの
 方たちも、宗教的に過敏になっていた。
  宗教政策でも、差別的で、排他的な行為が露骨に行わ
 れた。
  また、ヒンドゥーへの配慮もなく無視された。
  イギリスは、無慈悲にも反乱行為の首謀者たちを絞首
 刑にしていた。
  また、参加兵士には、全員に、14年の重労働の判決な
 れた。
  しかし、イギリスは、この様な抵抗に対して、何ら配
 慮せず、自分たちだけに都合の良い法律を制定して対抗
 した(イギリスのいつものやり方)。
  5月10日は、インドの方々の大反抗の日となった。
  イギリスに、歯向かって行った。
  インドの地のほとんどを、奪い取ったイギリスへ。
  インドのその地だけでなく、インドの法までもが、イ
 ギリスに有利にされ〈立法権を奪取され)、
  また、検事の首を据え替たりして、裁判を繰られ(司
 法権を奪取され)、
  そして、イギリスに指示されて動く、出先のイギリス
 人総督の政治(行政権を奪取され)、
  そして、閉鎖的なイギリス人だけのコミュニケーショ
 ンを作って、インドの方々を蔑(さげす)み、インドの
 方々と溶け合おうとしないイギリス人たちだった。
  強力な軍隊を持って武力で従わせて、インドの方々を
 顧(かえり)みなかった。
  キリスト教の有色人種蔑視の考え方に洗脳され、また、
 キリスト教の教義の「異教徒は殺せ」に洗脳され、マイ
 ンドコントロールされたイギリス人の心によって、有色
 人種であり異教徒であるインドの方々は、安易に処理さ
 れた。
  ここに来て、インドの方々の耐え忍ぶ心も限界に達し
 た。
  インドの方々に、新しく開発された銃が手に入るよう
 になったのも要因だった。
  ベンガル軍に、エンフィールド銃が手に入るようにな
 った。
  エンフィールド銃は、ライフル式だった。
  射程距離は長く、命中率も高かった。
  また、インドの方々の正義の主張・蜂起・反逆・自主
 独立への希求の行動は、イギリスの卑劣な収奪・侵略・
 蔑み蔑視などにその起因はあったが、
  それと、大きな要因の一つとして、宗教的な要因があ
 った。
  インドの方々の宗教的尊重が損なわれる行為を、イギ
 リスは安易に行った。
  宗教的に、インドの方々をなぶった(弱い立場の者を、
 面白半分に苦しめたり、もてあそんだりした)。
  そして、インドの方々は言った、「イギリス人たちは、
 この国の宗教を滅ぼし、インドをキリスト教化するつも
 りだ」と。
  独立闘争の先頭に立ったアンニ・べザント夫人は言っ
 た、「インドにおける運動は、宗教的基盤に基づいて強
 いものとなる」と。
  「セポイ(インド人傭兵)の反乱・蜂起」が起きた。
  この蜂起は、偶発的に起きたものではなく、用意周到
 なる計画のもとに蜂起された。
  宗教のために立ち上がれと、仲間に叫ぶ者もあった。
  イギリス兵は、このセポイ(インド人傭兵)を捕らえ、
 処刑した。
  しかし、ある一人のこのインド兵士の英雄的行動は、
 ベンガル管区の全連隊に伝わり、セポイの兵士の方々の
 血を沸かせた。
  4月20日に、イギリス基地内で、セポイ兵に弾薬が手渡
 されたが、イギリスは、セポイ兵のインドの方々の宗教
 的意識を変革しようとしたのか、その弾薬には、インド
 の方々が宗教的に忌避する事がなされていた。
  少なくとも、その行為がなされていたと、セポイ兵の
 すべては知っていた。
  その弾薬が、手渡された時、セポイ兵のほとんどが、
 受け取り拒否の行動を起こした。
  その拒否したインド兵士は、軍法会議に掛けられた。
  そして、有罪とされ、イギリス人によって、10年の自
 由の拘束の刑とされた。
  足枷(あしかせ)がはめられるなどの、非人道的行為
 もなされ、屈辱も受けた。
  この様な、長い物心両面の様々な屈辱が、5月10日に至
 り、とうとう爆発した。
  インドの方々の一斉蜂起となった。「セポイたちの反
 乱」である。
  反乱した兵士たちは、真っ先に、監獄に駆け付けて、
 イギリスに捕らわれた仲間を救出した。
  それから、武器庫へ押し入って武器・弾薬を奪った。
  そして、キリスト教徒の如く「マロー・フイリンギー
 (異教徒を殺せ)」と叫び、イギリス兵に対峙して行っ
 た。
  セポイ兵士の蜂起が、インドの方々・市民に伝わると、
 インドの方々も歓声をあげて、手に手にこん棒や刃物を
 持って立ち上がった。
  たちまちにして群衆となったインドの方々は、イギリ
 ス人居住区へ向かった。
  蜂起の鎮圧に向かった警察官までもが、その群衆の行
 動に加わった。
  近くの村々からも、農民たちが駆け付けた。
  そして、日頃からインドの方々を差別していた、イギ
 リス兵舎を含め、徴税所・キリスト教会・郵便局を襲い、
 日頃の抑圧された鬱憤(うっぷん)もあって火が放たれ
 た。
1857年5月11日の、その翌日になると、立ち上がった人々は、
 デリーへと向かった。
  そして、到着するとデリーの方々も加わって、人々は
 たちまちにして、この町を占領した。
  そして、ムガル皇帝・バハードゥル=シャー2世(在位
 1837年~1858年)を擁立した。
  そして、有名無実にされていたムガル皇帝の統治の復
 活を宣言した。
  ムガル皇帝の名で、インド各地へ向けて、『抵抗のた
 めに立ち上がれ』との檄文が送られた。
  すると、たちまちインドの各地で、イギリスの過酷な
 圧迫に耐えていたインドの方々が立ち上がった。
  北インド全域におよぶ、大きな反駁の人々となった。
  イギリスのインド支配の終焉が起きてインドの方々の
 希望がかなうかに見えた。
  しかし、この方々には、統一された組織が無かった。
  イギリスは態勢を立て直し、また、多くの藩王(各地
 の王侯)を味方につけて反撃にうつった。
  事は鎮圧の方向へ向かっていった。
1857年9月の、その4か月後には、インドのメーラトの反抗
 は、イギリスの力で抑え付けられ、この月に、デリーは、
 イギリスの手に落ちた。
  ムガル皇帝は、イギリスの捕虜となった。
  ムガル皇帝の王子たちを、イギリスは処刑した。
  翌年(1858年3月)に、インドの方々の反抗のもう一つ
 の拠点だったラクナウも、イギリスの手に落ちた。
  その5か月後(1858年8月)には、イギリスはムガル皇
 帝を廃位とした。そして、イギリスは、ムガル皇帝をビ
 ルマに追放した。
  300年以上続いたムガル帝国(1526年~1858年)は、滅
 亡させられた。
  その翌年(1859年4月)に、インドの方々のイギリスの
 圧迫に抵抗した戦いも、そのほとんどが敗北で終わった。
  しかし、インドの方々は、デリーやラクナウの拠点を
 失った後でも、各地でゲリラで戦いを続けた。
  しかし、この年に、頑強に抵抗して来たアウドラの方々
 の反乱軍も鎮圧され、3年に及んだインドの方々の大反乱
 は、ほぼ完全に鎮圧されてしまった。
  インドの1857年~1859年のセポイの大反乱は、イギリ
 スに力で抑え付けられた。
  しかし、戦いが終わった後なのに、イギリスの酷い仕
 返しが始まる。
  (注)セポイは、イギリスの東インド会社のインド人
 傭兵のこと。
  [まとめ]:1857年、イギリスのあまりにも過酷な圧迫に
 耐えかねたインドの方々が反乱を起こした。
  良く、長い期間、我慢を重ねてきた。
  反乱は、インドのガンジス河の全流域に波及していっ
 た。
  しかし、イギリスの東インド会社から金を貰っていた
 インドの王侯貴族や上層階級は、これに関わらなかった
 ため、半年後には徹底的に鎮圧されてしまった。
  この翌年(1858年)、「インド統治法」ができ、イン
 ド統治の大権はイギリス国王が握った。
  インドの人々にあるべき権利が完全に奪われた。
  そして、イギリス女王ビクトリアが、1876年に、イン
 ド皇帝の座についた。
  ビクトリア女王が、インド皇帝の地位があるという状
 態はそのままにして、1877年に、インド帝国の成立が宣
 言された(1877年~1947年)
  [イギリスがインドの方々へ与えた恐怖の数々]:
  イギリスが送った東インド会社が行なった悪行為は、
 罪人から収賄することまでした。そして、無罪放免にす
 ることもできた。
  そして、その様な事を告訴(犯人の訴追を求める事)
 をしたインドの高僧を、公衆の面前で絞首刑にした。
  インドの方たちは、まさか絞首刑にはならないだろう
 と思っていた。
  そう思われた高僧さえ殺した。
  また、ジャット人とラージプト人を戦わせたり。
  そのジャット・ラージプト人をマラーター人と戦わせ
 たり、
  ロヒラ人をブンデラ人と戦わせたりした。
  イギリス人は、あらゆる策で、インドの方々が無益な
 闘争に疲れ果てるようにし、漁夫の利を占めた。
  また、条約を、藩王と結んでは、勝手にこれを破棄し、
 藩王を酒と女に溺れさせ、苛斂誅求(かれんちゅうきゅ
 う、情け容赦なく、税金などを取立てる事)をしないと
 財政が立ち行かぬように仕向け、人民と反目させた。
  そうして、一歩一歩、イギリス勢力をインドに確立し
 た。
  このイギリス人の虐政に対する抑えがたい憤懣(ふん
 まん)が1858年の反乱だった。
  この反乱中、並びに反乱鎮圧後のイギリス人の残忍酷
 薄も酷い。
  ケー・A・マレンソノの「印度反乱史」に書かれてい
 るが・・、
  「戒厳令は布(し)かれた。
  5月及び6月の立法会議によって制定された恐怖すべき
 条例が盛んに適用された。
  文官武官が等しく血なまぐさい巡回裁判を開き、
  あるいは、巡回裁判なしに土民(インドの方々)の老
 若男女を屠った(はふった、体などを切り裂く)。
  すでにして血に渇(かわ)ける欲はさらに強くなった。
  反乱に荷担した者のみならず、老人、女子、小児など
 も血祭りに上げられた。
  この事は、インド総督が本国に送れる書類の中の、イ
 ギリス議会の記録に収められている。
  彼らは、絞刑には処せられず、村々において焼殺され、
 または、銃殺された。
  イギリス人は、臆面もなくこれらの残忍を誇って、あ
 るいは一人の生者を余さずと言い、あるいは、黒ん坊ど
 もを方端から殴り飛ばすのは実に面白い遊戯だと言い、
 あるいは実に面白かったと言い、または書いている。
  権威ある学者の承認せる一著書には、三ヶ月の間、八
 輌の車が十字街または市場で殺された屍骸を運び去るた
 め、朝から晩まで往来したとあり、
  またこのようにして六千の生霊が屠られたとある・・
 以下、略す・・。
  キリスト教の魔女裁判所も、また、南米などもこの様
 に酷かった。
1857年、当時を見た報告書:「我が軍(イギリス軍)の将
 校は既に各種の罪人を捕らえ、あたかも獣を屠るがごと
 くこれを処刑に処していた。
  絞首台は列をなして建てられ、老者・壮者は言語に絶
 する残酷なる方法をもって絞首された。
  ある時のごときは、児童らがむじゃきに叛兵の用いし
 旗を押し立て、太鼓を打ちながら遊んでいるのを捕らえ
 て、ことごとくこれに死刑の宣告を与えた。
  裁判官の一人なりし将校は、これを見て長官の許(も
 と)に赴き、涙流してこれらの罪なき児童に加えられる
 極刑を軽減せられんことを嘆願したが、遂に聴かれなか
 った」。
  そして、反乱が収まっても・・
  反乱後の、イギリスの、インドの方たちへの蛮行。
  反乱がおさまっても、イギリス人は卑劣な鬱憤(うっ
 ぷん)ばらしをした。
  面白がってインドの方々を殺すイギリス人の蛮行の姿
 が白日の下になっている。
  「予(イギリス人)は面白い旅をした。
  我らは一門の大砲を乗せたる汽船に乗り込み、左右両
 岸に発砲しつつ航行した。
  反乱のあったところに着くと、船から上陸して盛んに
 小銃を発射した。
  予の二連銃はたちまち数人の黒ん坊(インドの方々)
 を殺した。
  予は実に復仇(ふっきゅう、かたきを討つこと)に渇
 していた。
  我らは右に左に小銃を発射した。
  天に向かって発射せる銃火は、微風に揺られて反逆者
 の上に復仇の日が来たことを示した。
  毎日我らは騒動の起こった村々を破壊し焼き打ちする
 ために出て歩いた。
  予は政府並びにイギリス人に抵抗する一切の土民を裁
 判する委員の主席に推された。
  日々我れらは八人乃至十人を屠った。
  生殺の権は我等の掌中にあった。
  そして、自分はこの権利を行うにいささかの容赦もな
 かったことを断言する。
  死刑を宣告された犯人は、首に縄をまいて、大木の下
 に置かれた馬車の上に立たされ、馬車が動けば犯人は吊
 り下がって息絶えるのである」。
  可哀想なインドの方々だった。
  怒りが心頭に達する。
  そして、最後に、イギリス人は言う、「インドはこの
 様にしてイギリスのものとなったのであります」と。
  イギリスは、有無を言わさず「イギリスに都合のよい
 法律を成立させた」。
  そして、言う。法律があるじゃないか・・と。
  私たちは不法な事はしていません・・と、
  インドの在来の農業制度も根底から潰された。
  インドの人々のつながりも破壊され、村々の社会、共
 同体も滅び去った。
  イギリスに都合よく作り直されていった。
  インド農村は、イギリス資本の支配の都合のよいもの
 になって行った。
  このイギリスの事を言う某知識人は、「予は誓って言
 う。大英帝国において、インド農民以上に悲惨なるもの
 はない・・と。
  彼は一切を絞り取られて、ただ骨のみを残している」
 と言った。
  インドの方々は、腹いっぱい食べる経験なしに死ぬの
 だと言われた。
  常に、精根を使い尽くしているので、病にかかればす
 ぐ倒れると言われていた。
  衣服をまとう余裕もないと・・言われていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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by suba28 | 2015-11-17 03:53 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)244D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1856年12月~1857年12月)

題:(増補版)244D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1856年12月~1857年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1857年(安政4年)2月1日、甲比丹(長崎のオランダ商館の
 館長)クルチウスが、前年10月のアロー号事件を、長崎
 奉行に知らせて、幕府の通商拒否の方針に警告をした。
  イギリスは、フランスと連合して、アロー号事件にお
 いて、清国を卑劣なやり方で破壊し、略奪し、殺戮した。
  これを、幕府は知った。
1857年4月11日、軍艦教授所を講武所中に置く(氷川清話)
  幕府は、長崎海軍伝習所の学生の一部を、蒸気船の「観
 光丸」で江戸に移動し、講武所内に軍艦教授所(軍艦操練
 所)を設置した。
  幕府は、江戸築地に海軍教授所を開設することにした
 (氷川清話)
  海軍伝習が軌道にり、永井岩之丞は、矢田堀景蔵らと
 観光丸で江戸に帰る。
  長崎の方は岡部駿河守が伝習を監督。勝ら数人は残留
 した。
1857年5月7日、下田奉行、ハリスと応接す。
1857年5月26日、下田協約
  ハリスと下田で条約調印がなされた(日米和親条約修
 補の条約)
  外国人の居住権・領事裁判権などの規定。
  これは、領事や専門の裁判官が駐在国で自国民の裁判
 が行なえるという制度で、治外法権である。
  つまり、幕府(日本)は、アメリカ人を裁けないとい
 う権利を認めた。
1857年6月、勝海舟、海軍伝習の勤労に付、金二枚時服二を
 賜う(氷川清話)
1857年6月17日、阿部伊勢守、卒す(氷川清話)
  老中・阿部正弘が、没すると、堀田正睦は直ちに松平忠
 固を老中に再任し、幕政は溜詰の意向を反映した堀田・
 松平の連立幕閣を形成した。
  さらに直弼は、第13代将軍・徳川家定の継嗣問題で紀
 伊藩主の徳川慶福を推挙し、一橋慶喜を推す一橋派の徳
 川斉昭との対立を深めた。
1857年6月、堀田閣老、貿易取調の命を受く(氷川清話)
1857年7月、堀田正睦が労流になり、開国を説く(氷川清話)
1857年7月、米使ハリス下田に来る。後柳営に引見す(氷川
 清話)
1857年7月8日、米国使節・ハリスが、下田奉行と下田に会
 見し、国書の要旨を求めて許されず
1857年7月、水戸斉昭、海防並びに軍制等のことを建言(氷
 川清話)
1857年7月、外交を許し、制度を変ずるを命ず(氷川清話)
1857年7月、蕃書調所に幕臣及び諸藩士の入学を許す(氷川
 清話)
1857年7月、伊東玄朴、戸塚静海、種痘館を建つ(氷川清話)
1857年7月、北海道の函館の五稜郭が起工された。
  1864年に、箱館奉行・小出秀実が旧奉行所から郭内の
 箱館御役所に移転し、業務を開始した。
  1866年に至って、すべての工事が終了した。
  幕末に、榎本武揚(えのもとたけあき)の幕府軍が立
 てこもった。
  このフランス式の築城技術で建設された城郭で戦った。
  因みに、榎本武揚は、「蝦夷共和国」を設立し、この
 五稜郭は行政府としても機能した。
1857年7月14日、駿河で地震(安政静岡地震)。
 マグニチュード6.0
1857年7月、長崎に製鉄所を設く(氷川清話)
  長崎奉行川村対馬守が、幕府に長崎港付州の埋立てと
 飽の浦に溶鉄所建設を上申した。
  11月に建設着工する、そして、自前の船が欲しい幕府
 は、船の建造へと向かう、
  何しろ、上申から着工が早い。
  これが、後の三菱重工業長崎造船所となる。
1857年7月、幕府が、長崎奉行を通じて、空地にハゼノキを
 植えよと命じた。
  これは、これと言った産業のなかった長崎に、積極的
 な灯油の資源の生産が生じるのを狙った。
  上杉鷹山の地・米沢藩の成功例などを伝えたのだろう。
1857年7月22日、一橋慶喜を将軍家の後継に推す。
1857年7月23日、徳川斉昭の幕政参事を免ず。
1857年、勝海舟、長崎滞在。(氷川清話)
  勝海舟、この年、教師および生徒新旧交代あり、万事
 を斡旋する。
  秋、ゴットル船航海を試み暴風雨にあう。九死に一生
 を得る。(氷川清話)
  勝海舟、咸臨丸で五島を航海し、対馬、釜山を巡視す
 る。(氷川清話)
1857年、吉田松陰(27歳)が、萩の自宅に松下村塾を開い
 た。
  多くの門下生あり。久坂玄瑞、高杉晋作、前原一誠、
 山形有朋、伊藤博文など。
1857年8月29日、日蘭追加条約調印。
  日本の開港した場所にて、オランダ人の妻子を居住さ
 せても差しつかえなしとなった。
1857年9月17日、薩摩藩の島津斉彬が、藩士に自分を写真を
 撮影をさせた。
  日本人による、日本人撮影の最初の成功例(銀板写真)
  この写真機は、上野俊之丞が、オランダ船から購入し
 たもので、
  その後、カメラは、薩摩藩の手に渡っていた。
  また、軍艦を作った斉彬は、外国の軍隊が攻めて来て
 も打ち払えるようにと、
  大きな大砲をつくるための設備を、島津家の別荘の裏
 の竹やぶに作った。
  そしてまた、島津家の別邸「仙巌園」の庭の石灯籠に
 ガス灯をひき、
  これを町中にまで普及させようと考えた。
  横浜の町にガス灯がついたのは、この15年後。
  そして、チャレンジャーの斉彬は、工場で製造された
 という糸を見て、これでは手工業の日本は負けると、
  水車を動力にした糸を紡ぐ機械(紡織機)を作った。
  斉彬は、色々な開発をし、工場も作ったが、その工場
 で働く人は1200人も居た。
  その集成館には、大砲を造る反射炉や、ガラス製造所
 などがあった。
  薩英戦争で自分の力を試すが、その差は大きかった。
  力の差を悟った斉彬は、イギリスへ留学生を送った。
1857年9月21日《08/04》幕府がオランダに発注した新建造
 軍艦ヤッパン号が長崎に入港。のちの咸臨丸
  艦長カッテンディケ海軍大尉を隊長とする第2次海軍
 伝習所教官隊一行の37人が乗船した。
 オランダ海軍2等軍医のポンペ・ファン・メーデルフ
 ォールト(28)や、オランダ海軍機関将校のヘンドリッ
 ク・ハルデスの姿もあった。
  そして、新たに伝習生として松本良順らが入所し、第
 2次の伝習が始まった。
  第1次の教官隊と交替した。
   陸上や海上での教育のほか、ポンペにより西洋医学
 の講義もなされた。
1857年9月21日《08/04》露使節プチャーチンが来航した。
   9月25日《08/08》退去した。
  10月11日《08/24》再来した。
  10月24日《09/07》日露追加条約を長崎で調印。長崎、
 箱館で通商許可
  10月27日《09/10》プチャーチンが退去した。
1857年9月26日、西役所で、ボンベによる西洋医学の講義が
 始まった。
  後に、伝習生が増えて、高島秋帆の邸内に移った(11
 月12日、大村町医学伝習所と呼ばれた)
  講義内容は、物理学、化学、包帯学、解剖学、組織学、
 生理学、治療学、調剤学、内科学、外科学、 眼科学
  いつの時代も、優秀な者が、頑張って世の中を支えな
 ければならない。
  「頑張るな」と叫ぶ、キリスト教の運動は間違ってい
 る。
  優秀な方たちの頑張りの中に、その努力の結果の恩恵
 を受けている事に感謝しなければならない。
  特に、ノーベル賞受賞者をはじめとする、尖端を切り
 開いている方々の努力・頑張りに感謝しなければならな
 い。
1857年10月7日、ハリス、江戸出府の為め下田発
1857年10月、ハリス、幕府に通商開始の必要を説く。
1857年、この頃、竜馬、北辰一刀流の最高位である大目録
 皆伝を得、千葉貞吉道場の塾頭になる。
1857年10月3日、江戸鍛冶橋の土佐藩邸に、諸流選り抜きの
 剣客104名が集まり、覇を競った。
  これは、寛永御前試合いらい200年このかた、江戸では
 諸流の剣術試合は絶えて無かった。
  土佐藩主・山内容堂の肝いりで行なわれた安政諸流試
 合だった。
  竜馬は、斉藤道場の島田逸作を破った。
1857年10月12日、伊予・安芸で地震(芸予地震)
1857年10月16日《8/29》日蘭追加条約を、長崎で調印した。
  事実上、初の通商条約となった。
  これ以後の列強の要求に対する基本の条約となった。
1857年10月頃、この頃の出島には、オランダ人のために、
  色々な家が建ってにぎやかになる。
  また、庭もなくなり、日本人の出入りも自由になった。
1857年10月14日、ハリス、将軍との会見が叶い、江戸に入
 った。
1857年10月21日、米国総領事・タウンセンド・ハリスが、江
 戸城に入り、将軍・徳川家定に謁見し、国書を呈した。
1857年10月26日、ハリスが、老中の堀田正睦を訪ね、会見し、
 日米通商の急務を論じた。
1857年10月25日、第14代将軍が就任し、名を「家茂」に改
 めた。
  徳川慶喜(20歳)は将軍になれず。
  慶喜は、将軍・家定の継嗣候補に推されたが、井伊直
 弼の大老就任で、井伊の推す紀州藩主・慶福(よしとみ)
 が14代将軍(家茂)に決定した。
1857年11月、幕府は、アメリカ人・ハリスの強談に屈し、
  この時から、通商条約の逐条協議を開始し、遂に、こ
 の正月12日、全部議定を終わった。
1857年11月12日、長崎に天然痘が蔓延し始めた。
  大村町医学伝習所で、ボンベが公開の種痘を行なった。
  また、後に、ボンベは、バタビア政庁を通じて痘苗を
 入手した。
  以後、日本人に種痘を行なって行き、天然痘の惨禍か
 ら救った。
1857年11月26日《10/10》幕府が、浦上村淵字飽の浦の9040
 坪の地に、
  「徳川幕府 長崎溶鉄所」の建設に着手し、起工した。
  この製鉄所の建設は、世界と肩を並べる行動だった。
  いずれ自前の船を建造するのが目標だった。
  総指揮は、9月21日《08/04》に来日した海軍伝習所教
 官の機関将校・ハルデスだった。
  煉瓦焼職人がいなかったために、この工場建設用の赤
 煉瓦を、長崎の瓦屋に焼かせた。
  また、ドンケルスクロクという潜水器(ケーソン、重
 さ4.5トン)で、台船に吊下げられ、その中にダイバーが
 入り、上部の通気孔からポンプで空気を送り、上部のガ
 ラス製円窓から採光し、
  ダイバーが膝のあたりまで水に浸かりながら海底の様
 子を調査したりして建設した(しっかり基礎を着底させ
 たかったのだろう)。
  竣工は、文久元年3月25日、落成28日。
1857年11月28日、毛利慶親、外交意見を呈す
1857年12月2日、老中・堀田正睦が、米国領事ハリスを招き
 両国の交易及び公使の江戸駐在を許した。
1857年12月3日、井上清直・岩瀬忠震の両人が、対米交渉の全
 権委員に任命された。
1857年12月12日、幕府が、米国総領事のタウセンド・ハリ
 スの意見書を各大名に示し評議した。
1857年12月20日、吉田松陰が、松下村塾を引き継いだ。
1857年12月25日、薩摩藩主・島津斉彬が、通商条約と将軍継
 嗣問題について、幕府に上書した。
1857年12月25日、日米通商条約の草案成る。
1857年、長崎奉行所が、横文諸書を蘭製鉛活字で印刷した。
1857年、凶作、米価騰貴。農民騒動頻発。
1857年、日本で初めて電信機の試作に成功した。
1857年、大奥の女性方の倹約(勝海舟の述懐)
  倹約、倹約とやかましくいう事は俺は大嫌いだ。
  幕府の末でも、あまり倹約・倹約というものだから、
 大奥では、毎日、箒(ほうき)が折れる、茶碗が割れる、
 布団が破れる、それは実に乱暴ばかりして係の役人に当
 たった。
  いつか細工物をなさると言うので、役人に布の注文が
 あったら、役人が寄せ切れか、何かを買ってあげたそう
 だ。
  すると皆が怒って、「こんな粗末な物を持ってくると
 は人を馬鹿にしている。こんなものが何になるか」と言
 って、大騒ぎになった。
  そこで役人は真っ青な顔をして、俺のところへ相談に
 来たから、俺はひどく叱って、直ぐ呉服屋に紅白の縮緬
 (ちりめん)十疋(ひき)ほど持って来させて、俺が自
 分でこれを抱えて大奥へ行って、「あなた方には実にお
 気の毒です。小役人という者は仕方がありません。あれ
 は今日限り免職に致しますから、どうぞご勘弁なさって、
 これをお用い下さい。お倉にはまだ何反でもありますか
 ら、御入用の時は何時でもそう仰せて下さい。あなた方
 のお世話は、今日から私が致します」と言った。
  ところがみんな顔を見合わせて、「こんな結構なもの
 はもったいない。またこんなにたくさん入りませぬ。役
 人を免職にするのもどうかよして下さい」と、今度は向
 こうから頼んで出た。
  それからというものは、乱暴がふっとやんで、大そう
 倹約になったよ。
  それで俺はたびたび大奥へ行って、「あなた方はなぜ
 そんなケチな事をなさいますか。私は御馳走が戴きとう
 ございます」という風に俺の方から催促するのだ。
  天璋院(てんしょういん)様(13代将軍・家定夫人)
 も一つ飯台(はんだい)で大勢の女中と一緒におあがん
 なさっていたが、後におれなども同じ部屋で御馳走にな
 ることもあった。
  すると酒でも三升徳利か何かに入れて、ああいうふう
 な処へ置いて、少しずつ出してお飲みになるから、「そ
 れは何というけち臭いことです。
  三つ割でもお取り寄せなさるが宜しい」と言って、俺
 が自分で立って行って注文するのさ。
  そうすると、お付きのものは、「勝様は気が大きい、
 気が大きい」と言って驚くし、天璋院様でも、やはり三
 升徳利の方がうまいと仰せられたそうだ。
  それからは、お菓子などでも箱を一々開けて紙に包ん
 で天井へ吊しておくと良いというような風に、万事倹約
 主義になって、大奥がむつかしいなどという事は決して
 なくなったよ。(氷川清話)
1857年、イギリスが、インドを直轄植民地化した。
  インド大反乱、セポイの反乱(1857年~1859年)に起
 こった。
  イギリス支配に対する反乱。
  1757年の小プラッシーの戦い以後1世紀間のイギリス支
 配に対する不満の大規模な爆発であると同時に、
  その後の民族運動の起点ともなった。
  反乱に、最初に立ち上がったのが東インド会社の傭兵
 だった。
  この傭兵によってセポイの反乱と言われた。
  反乱を鎮圧したイギリスは、反乱軍に擁立されたムガ
 ル皇帝を廃し、インドを東インド会社の植民地から直轄
 植民地に改めた。
19世紀後半、セポイのインド兵の反乱に至るまでのイギリ
 ス人社会は傲慢(ごうまん)だった。
  その、イギリスの傲慢な思い上がりのインド統治の組
 織、官僚機構は「鋼鉄の枠」と呼ばれた。
  イギリス人の総督ウェルズは、「インドの人々に対し
 て嫌悪感しか持たなかった」。
  また、人種的優越感を一つの支柱とする帝国主義政策
 を行なった。
  イギリス人官吏や軍人は、世界に比類ない高給を得た。
  各地に自分たちだけの特別住区や要塞を築いて、家族
 を隔離して守った。
  勤務後は、自分たちの「文明社会」に戻り、インド人
 の家族と往来するなど、およびもつかなかった。
  家族も、インドの方々を蔑(さげす)み毛嫌いした。
  また、キリスト教宣教師たちは、烈しくヒンドゥー教
 を批判し、攻撃した。
  宣教師は、インドの習慣などを封建的因習と蔑み、ヒ
 ンドゥー教の教義を迷信と蔑み、キリスト教の宗教的・
 道徳的優越性をひたすら声高に一方的に説き、ヒンドゥ
 ー教を露骨になじった。
  「あなたたちの神は、悪魔です」と、また、「悪魔以
 外の何者でもなく、偶像崇拝の極悪を証(あか)される
 ために、永遠の炎に焼かれ、地獄に落ちてゆくのです」
 となじった。
..
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by suba28 | 2015-11-16 05:04 | 皆様とともに 幸せになりたい

臨時ブログ:杭打ちの問題:その後の話(報道機関のすり替え報道)

臨時ブログ:杭打ちの問題:その後の話(報道機関のすり替え報道)
 例えば、読売新聞の読者に誤認混同を起こさせる記事について
  (真を求めて、皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑記)
.
  報道機関の「すり替えの報道」がおかしいと感じてい
 る。
  何故、その様に感じているかと言うと・・、
  そもそも、この問題は、「マンションが、傾いている」
 という大問題から・・騒がれ始めた。
  これが、重要な大問題で、当たり前な事なのだが・・、
  しかし、報道機関の報道が、故意か、作為かは不明だ
 が、すり替え報道になっている・・と感じる。
  この問題の流れを左右している報道機関・・
  その報道機関が、今では、最初の問題点である、マン
 ションの傾きの一番重要な問題の解明についての報道を、
 『何ら』行なっていない。
  目下、報道機関が報道しているのは「杭データの流用」
 である。
  「杭データが、何故、流用だった」かは、杭の支持層
 への未到達を隠すためだったという事が最初に発覚した。
  しかし、旭化成建材は、「杭は支持層に到達している
 かもしれない」と発言している。
  これは、あり得る事なのである。
  だから、旭化成建材が、「杭データの流用した杭のボ
 ーリング調査をして、本当に、杭が支持層に未到達なの
 かを調査したい」と発言したら、
  三井住友建設は、「やりたければ、自分たちだけでや
 ればいい」と答えた。
  三井住友建設は、どんな検討をして、やらなくてよい
 と判断したかを、公(おおやけ)に明らかにしない。
  それなのに、旭化成建材が、「やりたければ、やれば
 いい」と言うのは、問題の解決に向けての前向きな答え・
 姿勢だとは思えない。
  ・・と、いうのは、杭のデータは、測定器の調子によ
 っては紙が詰まったりが起きて、データが得られなかっ
 たとか、
  電流系のスイッチの入れ忘れで、記録を得られなかっ
 たとか、
  降雨のため記録計の作動がうまく行かず、記録を得ら
 れなかったとかという事もあり得ることなのであり、
  実際の杭は、支持層に到達しているという事も考えら
 れる。
  それ故に、杭のデータ流用が判明した杭は、ボーリン
 グ調査をして、杭が支持層に到達して、機能しているか、
 どうかを調べようという、旭化成建材の主張は正しいの
 である。
  それを、三井住友建設は、その旭化成建材の話を語気
 鋭く否定した。
  この辺の報道機関の報道を見ると・・、読売新聞を例
 にすると・・例えば、読売新聞、2015年11月14日の1面
 には、
  表題に「旭化成建材、杭データ流用266件」とある。
  そして、今回の旭化成建材の首脳陣の謝罪している写
 真を掲載している。
  まさか、大分以前の旭化成建材の頭を下げる古い写真
 を掲載しているのではないと思うが・・?
  この下請けだけの謝罪の写真を見ると・・、最近にな
 って、やっと公式に謝罪した三井住友建設(11月11日に
 謝罪)についての記載は、『皆無』となっている。
  また、三井住友建設の謝罪写真も未掲載の様に感じる。
  報道に差を感じる。下請けいじめに感じる。
  元請けを隠し、下請けいじめになっている。
  この問題の発生は、三井住友建設が請け負って建設し
 たマンションが、異常に傾いた事だった。
  三井住友建設が、施工主から建設を請け負ったのであ
 る。
  本来なら、三井住友建設が、下請けに発注しなくて、
 三井住友建設が工事をしなくてはいけないのである。
  たまたま、その杭工事のジャンルに、杭工事の業者が
 居たので、三井住友建設のするべき仕事を、その下請け
 が代わりに行っただけなのである。
  だから、自分がやるのと同じように監理をしなければ
 ならない責任があるのである。
  その様な、代わりに工事をする様にと発注した工事が
 原因で、マンションが傾く結果となった。
  そして、今、その原因は、何だったのかが判明した。
  それは、11月11日に三井住友建設が公式謝罪したとき
 に判明した。
  それは、杭の支持層到達などの監理は「やって無かっ
 た」という事である。
  代行業者の下請けにやらせっぱなしになっていたとい
 う事である。
  その監理行為をしてないので、三井住友建設は、「ま
 ったく状況把握ができず」という状況の中で、旭化成建
 材が杭の工事をして、支持層へ到達してない杭を施工し
 ていた・・という事である。
  ここまでの話の中で、杭のデータの話は、まったく、
 出て来ないのである。
  つまり、読売新聞の報道は、読者に誤認混同を起こさ
 せていると言える。
  データ流用した旭化成建材が原因になっている・・と
 誤認混同を惹起している。
  これでは、読者に、正確な問題把握をさせていない。
  肝心な問題である、「問題を発生させた会社」を素通
 りしている。
  極端な言い方をすれば、「データがどの様に描かれ様
 が、杭が、しっかり支持層に到達して、杭の機能を発揮
 していれば、建物には問題が無いのである」。
  つまり、杭の支持層を施工主から請け負った(元請け)
 が、施工主への監理責任を果たして、杭の支持層確認を
 していれば、何も問題は、発生していなかったのである。
  非常識なほどに、三井住友建設の、非常に遅くなった
 公式謝罪の席で、「記者のこの点の質問」に対し、
  三井住友建設は、「(杭の支持層確認を当社の社員が
 確認したかを)調査しています」と言った。
  つまり、「調査する必要があること」と認識している
 と発言はした。
  三井住友建設は、「(杭の支持層到達を確認すべきだ
 った、だから、しっかりそこを自社の社員が監理してい
 たかを調査した。しかし、結果が、まだ、出ていな
 い)、調査中だ」と答えた。
  この答弁は、同じ三井住友建設が発言している「旭化
 成建材が、杭の支持層を確認すべきだ」の発言と明らか
 に食い違う。
  何故ならば、三井住友建設が、その杭の支持層到達の
 確認の行為を、「自分はするものではない」としている
 ならば、「その調査の必要は、当方にはない」と答え
 る訳だ。
  しかし、本当は、「三井住友建設が、杭の支持層到達
 の良否を確認するべきだった」と感じているから、
  「三井住友建設の自社の社員がその監理業務を、やっ
 ていたかを調査しています」と答え、
  「結果は、まだ調査中」と回答したのだ。
  この点について、反論があれば、公式の場で答えるべ
 きだ。
  故に、その報道をしている読売新聞は、その本質を、
 まったく報道せず、
  本来のマンションの傾く問題について、その問題に答
 える報道となっていない。
  杭のデータを流用していたって、マンションの傾き問
 題との間に必要十分条件とはなっていないのだ。
  ひたすら問題の本質から離れる方向へ捻じ曲げ、その
 本質の所に居るものを隠し、庇(かば)っている報道の
 様に感じる。
  つまり、再度言うが、データというものは、1例として、
  データー記録用紙が無くて、うまく記録できなかった等
 という問題でも発生し、
  また、記録紙が風で飛ばされて紛失したのでデーターが
 得られなかったとかがある。
  測定機械から出てくるその紙が重要なのではないのだ。
  その前に、肝心の杭が支持層に到達しているのか? 
 していないのか?・・なのである。
  その肝心の確認行為を行なわず、三井住友建設は、「
 旭化成建材がやるべきだ」と言い、
  自らの監理責任を放棄するのを正当化している・・報
 道機関は、この事を、明らかにすべきなのだ、これが、
 報道機関の役目なのだ。
  また、三井住友建設は、「自らの、監理責任の存在を
 認識しているから、その管理業務を怠ったかは、調査中」
 と答えたのだが、報道機関は、この点も明らかにすべき
 だ。
  この三井住友建設の社内調査の結果はどうだったかを、
 今後、追求すべきである。
  しかし、現時点では、この重要点を、報道機関は「報
 道放棄」している。
  データーを得られない理由は色々ある。
  それらの理由で、データを得られない時もある。
  そんなデータを、後に見て何ができると言うのだ、三
 井住友建設は、それを問題にするが・・、そして、報道
 機関は、三井住友建設の謝罪後に、まだ、データ云々を
 言っているが・・? クエスチョンだ。
  また、杭データ流用は、共謀ではないと公式に否定して
 いない三井住友建設である。
  こんなことも考えてしまう。
  何しろ、社会に対して、公(おおやけ)に対して、誠
 実でいてもらいたい。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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by suba28 | 2015-11-15 03:46 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)243D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1855年12月~1856年12月)

題:(増補版)243D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1855年12月~1856年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1856年(安政3年)2月13日、蕃書調所(ばんしょしらべし
 ょ)が設置された。
  1855年の洋学所設置の決定に基づいた。
  ペリー艦隊の威力に屈服した幕府は、外交事務も多忙
 になったが、専任の外交担当官や、翻訳官の養成の必要
 性を感じたための処置だった。
  また、これと並んで軍備の充実が課題となったため、
 洋学校の設立をした。
  1856年2月に、蕃書調所と改称して、江戸九段坂下の旗
 本屋敷を改修して校舎にし、開設した。
  教授に、箕作阮甫(みつくりげんぽ)、杉田成卿(す
 ぎたせいけい)をおいた。
  生徒は、初め幕臣に限ったが、のち諸藩の士も入った。
  1856年7月に、開所した。
  1857年1月から、開講(開校)した。
  1862年に、洋書調所となり、
  1863年に、開成所と改称し、
  明治維新後は、大学南校→開成学校→東京開成学校→
 東京大学へとなった。
1856年3月、勝海舟、講武所の砲術師範役を命ぜられ、伝習
 (氷川清話)
1856年3月12日、駒場にて西洋流の訓練を行う。
  幕府が、駒場野での大規模な初めての洋式訓練をした、
 58名が参加した。
  老中・若年寄が状況視察した。
1856年3月、踏絵の儀、見合わせ(氷川清話)
1856年3月、老中・堀田備中守、外国事務及び貿易取調を命
 ぜられる(氷川清話)
1856年3月、諸城門の兵備を西洋銃に改める(氷川清話)
1856年4月20日、長崎の合戦場で砲術演習が行なわれた。
  この砲術演習は、4日間にわたり行われた。
1856年4月22日、伊豆国戸田浦にて造船の洋式軍艦に対し、
 「君沢形(きみさわがた、くんたくがた)」と称呼すべ
 しと幕府令あり。
  この原型は、難破したロシア船員帰国用に建造された
 「ヘダ号」で、この型の船を10隻、日本で使用するため
 に量産した。
  ロシア政府は、日本の対応に感謝の意を込めて、戸田
 号に52門の大砲を載せて返還して来た。
  そして、戸田号建造に当たった技術者たちは、その後
 も同型の西洋式帆船(スクーナー型帆船))を建造し続
 けた。そして、この名を幕府は付けた。
1856年4月25日、江戸築地に講武所が開設された。
  講武所では、古来の剣術などだけでなく、西洋式の砲
 術や戦術学の研究も行われた。

1856年4月、イギリス軍艦が長崎に寄港した。
  9月には、ロシアと、再び、イギリス軍艦が来港した。
  いずれも奉行役宅にて応接し、談判を行なうという外
 交任務を遂行した。その手腕を内外ともに認めさす結果
 を得た。
  勝(海舟)は、それらを細やかに見ていたことで、の
 ちに「幕府には、三河武士の美風を受けた正直なよい侍
 があったよ。
  岩瀬肥後、小栗上野(こうずけ)、河村対馬、戸川播
 磨などは良い人物だったが、惜しい事には、みな死んで
 しまった」と昔を懐かしんで語った。
1856年5月、蝦夷人に日本語の習熟、内地人との同化を奨励。
1856年6月、勝海舟、昨年より伝習に格別の功があったとい
 う事で、大番へ番替え命ぜられる(氷川清話)
  大番(おおばん、大御番)は、常備兵力として、旗本
 を編成した部隊。
  親衛隊的側面もあった。
  そして、幕府の直轄軍事力となってゆく。
  戦時には、旗本部隊の一番先手として備(そなえ)の
 騎馬隊として働いた。
  平時は、江戸城および要地の警護を担当した。
1856年、勝海舟、海軍伝習所に関係して、長崎に在住5ヵ年
 (33歳~37歳)の間、海舟は、壮年のエネルギーを海軍
 将校としての技術・経験の習得に注ぎ込んだ。
  そうして、日本海軍の草分け的存在となった。
  また同時に、外国人、しかも、要職にある高官と、頻
 繁に接触し、友人づきあいをするうちに、外交感覚を身
 に着けて行った。
  また、語学力も役立って、オランダ人同士の会話を盗
 み聴きして、その情報をいち早く、江戸の幕閣に急便で
 知らせたりして、自己の存在を印象付けたりもする。
  あるいは、軍艦で鹿児島に行って、薩摩の島津斉彬(
 なりあきら)侯と、ほとんど対等のつきあいをして、勝
 の名を薩摩に売り込んでもいる。
  彼は、江戸を遠く離れる事によって、かえって中央政
 界に徐々ではあるが注目されつつあった(氷川清話)
1856年7月、旗本の子弟を蕃書調所で学ばしむ(6月30日説
 あり)。
  幕府令して旗本の子弟中経書に通ずる者に限り蕃書調
 所に通学を許す。
1856年7月12日、水戸藩主・徳川斉昭の軍船、旭日丸竣工す。
  水戸藩主・水戸斉昭は、江戸石川島(後の石川島造船
 所)で、1856年のこの年、「旭日丸」という軍艦を建造
 して幕府に献じている。
  水戸家は、尊王派の本山の様な家だった。
  水戸斉昭は、強引な酷烈性格で、幕閣に対して厳しか
 った。(竜馬がゆく・2)
1856年7月21日、アメリカ合衆国の初代駐日総領事・タウン
 ゼント・ハリスが、伊豆国下田に来航。
  通訳官ヒュースケン。
  後に、ハリスが伊豆国下田の玉泉寺に駐剳(ちゅうさ
 つ、駐在のこと)した。
  8月24日になって、幕府が、ハリスの駐在を許可した(
 ハリス着任)。
  ハリスは、下田奉行に、「自分は合衆国大統領の代官
 である」と言った。
  そして、「大統領は、日本と通商条約を結びたい。
  その旨の国書を持ってきた。
  ぜひ、江戸の将軍(たいくん)に謁見して直接それを
 渡したい。
  将軍以外の者には渡さない」・・と、強硬な態度を示
 した。
  幕府は、大騒ぎとなった。
  幕府としては、外国人を江戸に入れる訳には行かなか
 った。
  まして、将軍にあわせるなどは論外であった。
  八方手を尽くしてハリスをなだめたが、この貿易商人
 あがりの外交官は頑として聞かず、
  「もし、日本人が我が政府の要求を入れない場合、大
 統領は非常手段をもってその趣旨を貫く用意(砲火の用
 意)がある」と言った。
  去年・1855年の9月に、イギリスが清国を攻めて広東を
 焼いていた。
  幕府は、これを知っていた。
  そのため、ハリスに、幕府は屈した。
  国内では、攘夷が盛んに叫ばれていたが、下田条約を
 結んだ。
  そして、江戸の出府も認めた。
  そして、将軍謁見も認めた。
  しかし、幕府は、攘夷の世論のために開国(通商条約
 締結)には踏み切れなかった。
  ハリスは強硬に迫った、幕府は屈し、1857年11月から、
 通商条約の逐条(ちくじょう)協議を開始した。
  (注)逐条:法律・規約などの箇条を一つ一つ順に取
 り上げること。
  そして、1858年1月12日に、すべての議定を終わった。
  しかし、京都は攘夷の嵐の中にあった。
  幕府も、ハリスに強行突破された立場であって、やむ
 を得ない経過の中で、京都との意見の相違という状況に
 置かれた。
  この違いが、幕末の風雲を生む元にあった。
  幕末の火種を作ったアメリカだった。
1856年7月22日、佐久間象山が、蟄居謹慎中海防意見書を幕
 府に呈して国防を促した。
1856年8月4日、老中・阿部正弘が、貿易開始の積極的方針を
 発表した(貿易開始の基本方針を宣言した)。
1856年8月21日、ハリスが、下田に総領事として着任した
 (24日説あり、24日に駐在許可)。
1856年8月24日、露使プチャーチン、長崎に来航す。
1856年8月23日、安政八戸沖地震(巨大地震)
1856年8月25日、秋、関東大風(氷川清話)
1856年8月26日、北海道駒ヶ嶽の大爆発、
1856年月9~10月、坂本竜馬、江戸到着。
1856年9月3日、福沢諭吉が中津へ帰郷した。
  諭吉は、大阪の緒方塾で勉強を始めていた。
  この年の9月3日に、兄急逝の報に中津へ帰郷した。
  そして、家を継がされた。
  諭吉は、封建体制の世に希望を見いだせなかった。
  そして、脱出の行動だけはしたいと思っていた。
  諭吉は母へ、「私は中津で朽ち果てようとは思ってい
 ません」と言う。
  母は、諭吉へ、思い切りよく、「どうぞ手放して下さ
 らぬ」かと言った。
  そしてまた、言った、「兄の死は仕方ない。あなたも
 また、よそに出て死ぬかもしれぬが、死生の事は一切言
 うことなし。どこへでも出て行きなさい」と。
  子供の可能性を尊重した母だった。
1856年9月18日、浦上三番崩れ、切支丹15人を捕らえる。
  幕府の取締りも緩かったので、このレベル。
  キリスト教は針小棒大に言うが・・、
  ヨーロッパの魔女狩りの様に、隣村でも魔女を焼く煙
 がもうもうと上り、ヨーロッパ中の空は曇ったと言われ
 る状況とはまったく違う。
1856年10月7日、下田御用所にて,ハリスと幕府との通貨交
 換率の交渉。
1856年10月17日,老中堀田正睦、外国事務取扱を命ぜられる。
  幕府、堀田正睦に外国事務を担任せしめ、これより外
 交的局面一変せんとす。
1856年10月、外国御用掛設置。
1856年10月20日、二宮尊徳が没した(病死)(1787年~
 1856年)(69歳)
1856年、村田蔵六(大村益次郎)、麹町新道一番町で私塾・鳩
 居堂を開く。
  蛮書調所教授方手伝、講武所教授方になる。
1856年11月4日、江戸で地震。
1856年11月、勝海舟、鼠山で門人の銃陣調練、老中、若干
 の見分けがあり、土岐頼旨が代わって全隊を指揮する。
  この春頃から、洋行の志願をする。又、築城学を兼修
 する(氷川清話)
1856年11月10日、下田にて日露条約交換式、露艦ヂヤナ号
 より大砲52門を送られた。
1856年11月、将軍、松平斉彬の娘を納る(氷川清話)
  天璋院(てんしょういん)篤姫(あつひめ)は、薩摩
 藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、
  1856年のこの年に、右大臣・近衛忠煕の養女となり、
  この年の11月に、第13代将軍・徳川家定の正室となっ
 た。
  年寄の幾島を伴って大奥に入った。
  なお、家定に嫁いで以降、生涯を通して故郷・鹿児島
 に戻ることは無かった。
1856年12月、オランダ人に、長崎市中で物品を購入するこ
 とを許した。
1856年12月4日、竜馬の父・八平(名は直足・なおたる)が
 没した。
  死の直前まで昏睡していた八平は、にわかに眼を開い
 て「竜馬」と言った。
  竜馬、竜馬と呼び、声が終わると息が絶えた。
  二男三女の父で、性格は穏やかだった。
  この報に接した竜馬は、感涙とどめえず、遙かに江戸
 の地より故郷を排し、竜馬かならずこの恩に報ゆべし、
 と天地神明に誓ったという。
  竜馬にとって、よほどの痛恨事であった。
  この日から、翌年にかけての竜馬の逸話がほとんどな
 い。千葉道場にこもりっきりで、必死の剣術修行をした。
  ほどなく、北辰一刀流の最高位である大目録皆伝を得
 た。そして、桶町千葉の塾頭になった。
  千葉の塾頭と言えば、江戸の剣客の花と言ってよかっ
 た。(竜馬がゆく・1)
  この時の竜馬の免状が、本物と鑑定された記事が(読
 売新聞、2015・11・8)に載った。
  以下その概略・・、
  竜馬の免許状が、実物〈本物〉と鑑定された。
  鑑定は、京都国立博物館。
  幕末の志士・坂本龍馬に伝授されたと伝わる北辰一刀
 流の長刀(なぎなた)の免状「長刀兵法目録」、
  全長約2.7メートルの巻物。
  ゆかりの指導者名が連ねられ、創始者の千葉周作や、
 竜馬と恋に落ちたとされる周作のめい・佐那の名もある。
  日付は「安政5年(1858年)」、
  最後に、「坂本龍馬殿」と結ばれている。
  北辰一刀流は、、3000人以上の門下生をかかえた。
  竜馬は、1853年~1854年、1856年~1858年に、周作の
 弟・定吉の道場で修業し、
  剣術と長刀術の免状を得たとされる。
  鑑定した博物館の宮川氏は、「竜馬がまぎれもなく剣
 豪だったことを伝える資料」としている。
1856年12月12日、幕府、松平容保の海防の功を賞す。
1856年12月18日、吉田松陰、梅田雲浜と会見。
1856年5月6日、フロイト(オーストリア、精神分析学者)
 が生まれた(1856年~1939年)
  白人系ユダヤ教徒アシュケナジムの家庭に生まれた。
  アシュケナジムは、ユダヤ系のディアスポラのうち、
 ドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々、および、そ
 の子孫を指す。
  アシュケナジムとセファルディムは、今日のユダヤ社
 会の二大勢力である。
  大雑把に、前者がヨーロッパ系ユダヤ人で、後者が中
 東系ユダヤ人を指す語としてイスラエルでは使われる。
  種々な説もある。
1856年、フェレル(アメリカ、気象学者)が大気還流論を
 発表した。
1856年7月、ネアンデルタール人が発見された。
  ドイツのデュッセルドルフ郊外のネアンデル谷にある
 フェルトホッファー洞穴で、男性化石人骨が発見された。
  石灰岩の採掘作業中、谷にあったフェルトホッファー
 洞窟から採掘作業員によって採取された。
  遺骨は、顔面の一部や、四肢の一部は欠けていたが、
 状態は良好だった。
  高さの低い脳頭骨や、発達した眼窩上隆起などが特徴
 だった。
 発掘地からネアンデルタール人と名づけられた。
1856年、アロー号事件が起こった(第二次アヘン戦争)
  イギリス船のアロー号の船員を、中国・清朝の兵が逮
 捕したことに端を発した(広東港に停泊中だった)。
  アロー号事件を口実にして、フランスと連合してイギ
 リスは清国たたきの戦争した(1860年まで)。
  イギリスは、アヘン貿易の合法化が戦争目的で、もく
 ろみだった。
  清国は、戦争に屈服して、1858年に、不平等な条約を
 結ばされた(天津条約)、
  しかし、あまりにも不平等なるが故に、収まらず、北
 京での条約批准の強行行為に清国が反撃して、戦いは続
 いた。
  イギリスは、北京を占領し、清代の素晴らしい離宮で
 ある円明園を破壊し、略奪し尽くして、清朝を屈服させ
 た。
  そして、北京条約を調印させた。
  イギリスの蛮行のやりたい放題だった。
  この事を知っていた日本の江戸幕府は、1858年の日米
 修好通商条約に調印した。
..
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by suba28 | 2015-11-14 03:25 | 皆様とともに 幸せになりたい


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