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(増補版)234D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1845年~1847年)

題:(増補版)234D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1845年~1847年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1845年、シーク(シク)戦争が起きた
  (イギリスの全インド支配の戦争)
  イギリスのインドにおける戦争で2回起きた。
  シク王国は、イギリスのインドに於ける支配が進む中
 でイギリスに対抗していた。
  イギリス軍の領内通過も拒否していた。
  この当時、インドに於ける唯一の独立した地位を保つ
 国だった。
  1845年~1846年と、1848年~1849年と二度に渡って戦
 った。
  イギリスは、この戦いに勝って全インドを支配下に置
 いた。
  東インド会社はイギリスの隠れ蓑。完全なるイギリス
 という国家がインドを駆逐して行った。そして、利益は
 すべて国が吸い上げた。
  「植民地が無くなったらイギリスは三等国になる」と
 言われていた。また、自らもそのように思っていた。
1846年(弘化3)、日本の総人口: 26,708,000人
1846年2月、仁孝天皇崩御(氷川清話)
1846年2月、徳川斉昭(なりあき、水戸藩主)が、幕府に対
 外意見を述べ、江川英竜(えがわひでたつ、幕臣、伊豆韮
 山代官、通称:太郎左衛門)の海防意見を提出した。
  江川太郎左衛門は、高島秋帆に弟子入りして、近代砲
 術を学んでいる。
  幕府に、高島流砲術を取り入れる様に、また、江戸で
 演習を行うように働きかけた。実現した。
  江川太郎左衛門の門下に、佐久間象山、橋本佐内、桂
 小五郎(後の木戸孝允)、大鳥圭介などの幕末の重要な
 人物がいる。
1846年閏5月、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)が生まれ
 た(1846年~1866年)(将軍期間:1858年~1866年)
  和歌山藩主の子として生まれた。
  1849年(3歳)、和歌山藩主となった。
  1858年(13歳)、将軍継嗣問題で、井伊直弼に推され
 て将軍となった。
  1860年の井伊の死後、1862年(16歳)に、皇女・和宮
 (かずのみや)と結婚して、徳川慶喜を将軍後見職に任
 命した。公武合体を推し進めた。
  1863年(17歳)、将軍として、229年ぶりに上洛を果た
 した。
  1864年1月(18歳)、再度の上洛をする。公武合体を図
 り、大阪湾の防備を巡察した。勝海舟が随行。
  1865年5月(19歳)、長州処分のため大阪城に入る。
  1865年10月に、外交交渉に不備があったとして、朝廷
 が老中の阿部正外らの官位を剥奪した。
  幕臣は、これを人事干渉として反発した。これで、家
 茂は、将軍職辞表を提出したが却下された。
  1866年(21歳)、第二次長州征伐の際、大阪城で病死
 した。
  これを理由に休戦の朝命が出された。
1846年閏5月、アメリカ船(海軍司令官ビットル)浦賀に来
 て書(通商を求む)を呈す。幕府拒絶(氷川清話)
  アメリカ東インド艦隊司令官のジェームズ・ビドルが、
 コロンバス号とビンセンス号の2隻の軍艦を率いて、浦賀
 に渡航した。
  通商を求めたが拒否された。
  米軍艦の初の日本寄港であった。
1846年7月、佐久間象山、初めて洋書を学ぶ(氷川清話)
  福沢諭吉も佐久間象山の貴重な洋書を、片っ端から読
 んだという。
1846年7月25日、高島秋帆追放、阿部虎之助へ永預け(氷川
 清話)
1846年8月、孝明天皇より幕府へ、海防を厳にすべしとの勅
 命が下った。
  幕府に宛てた「海防勅書」を京都所司代へ伝えた。
  これは、孝明天皇が、自ら外交問題にかかわり始めた
 最初の行為だった。
  この書を伝えた武家伝奏に・・、
  「近年異国船が時々見えるとの噂を(天皇は)内々に
 お聞きになられた。しかし、文道をよく修め、武事も全
 く整っている今日、殊に海辺の防御も堅固の旨、これま
 た兼がねお聞きになられご安心なされてはいたが、近頃
 この(異国船の)噂をいろいろ心に掛けご心配なされて
 おられる。なおこの上、武門の面々は洋蛮を侮らず、小
 寇を恐れず、大賊にはよく籌策(ちゅうさく=策略)を
 めぐらし、神州の瑕瑾(かきん=恥)とならぬよう十分
 指揮を執り、更に宸襟(しんきん=天皇の心)を安心さ
 せるように、とのお沙汰があった」。
1846年9月、大原幽学(おおはらゆうがく、道学者、農村指
 導者)が『微味幽玄考(びみゆうげんこう)』を著した。
  幽学は、仏教、神道、儒教を学び、下総国香取郡で村
 民を指導して村の立て直しを図った。
  また、各地を巡り農村振興に尽くした。
1846年、藤田東湖(ふじたとうこ)『弘道館記述義(こう
 どうかんきじゅつぎ)』初稿成る。
  水戸藩主の斉昭が、東湖に、水戸藩の藩校の弘道館の
 開校に際して、その教育方針を示すために、起草しなさ
 いと命じられて書かれたもの。
  建学の趣意書で・・、
  敬神崇儒(神を尊んで、孔子の思想を尊びうやまう)、
  尊王攘夷、
  忠孝無二(忠義と孝行を二つと無いと思い)、
  文武不岐(学問の道と武芸の道は一体となっている)、
  学問・事業の一致・・という、
  後期水戸学の主要思想が集約的に提示されている。
1846年9月15日、勝海舟、長女・夢子誕生、後、内田氏に嫁
 す(氷川清話)
1846年10月、幕府が、京都所司代を通じて、外国船来航の
 状況を朝廷に伝えた。
1846年12月、幕府が、藤田東湖の蟄居を免じた。
1846年、仏(フランス)船、長崎に来る(氷川清話)
1846年、勝海舟、本所から赤坂田町に転居す(氷川清話)
1846年、メキシコ戦争が起きた。
  アメリカが、メキシコと戦争をして、テキサス・ネバ
 ダ・アリゾナ・ユタ・ニューメキシコ・コロラドを、
 狡猾なやり方・手段で手に入れた。
1847年(弘化4年)2月、幕府、相模、安房、上総の沿岸警備を
 厳にす(強化)。
1847年3月、蘭船輸入の大砲2門を浦賀におくる。
1847年6月、オランダ人、再び、開国を勧める。
1847年、信州松代藩の佐久間象山が電信機を試作した。
 モールス電信機が発明されてから、わずか10年後のこと。
1847年、アメリカにトーマス・エジソンが生まれた
 (1847年~1931年)
  生涯で取得した特許の数は1093件。
1847年、アフリカのリベリア共和国が独立した。
  この年、ヨーロッパの植民地支配を受けていたアフリ
 カの国々のうち、いち早くリベリア共和国が独立した。
  アフリカで、このリベリアの次に独立する国は、110年後
 の1957年のガーナになり、イギリスから独立した。
  この1957年のガーナの独立が、アフリカの国の初めて
 の独立などともと言われているが、リベリア共和国の独
 立があった。
  そして、その説明として・・、
  リベリアの独立のきっかけは、アメリカで起こった奴
 隷解放に関係している。
  ジョージ・ワシントンの甥を会長とする「アメリカ植
 民協会」が現在の一部を購入し、そこに解放奴隷の町を
 作った。
  その後、同協会が、リベリア援助を縮小する方針を出
 したため、1847年に独立を宣言して、共和国憲法を採択
 した。アフリカ最初の共和国が誕生した。
  ・・と、美しく歴史に書かれているが・・?
  リンカーンも関係したこの件は、実は、アメリカに居
 る黒人の方々の棄民であった。
  本ブログの〈 子供たちの「リンカーンの伝記」は間
 違っています(その1) 〉にも書きました。
  リンカーンは、「黒人奴隷を解放した」と言われてい
 ますが、間違いです。
 彼には、黒人奴隷を解放したいという希望や意志は全く
 有りませんでした。
 リンカーンの黒人奴隷解放の意思は、「事の成り行きか
 ら持った」という状態でした。
 その様に仕向けたのは、黒人の黒人奴隷解放戦士『フレ
 デリック・ダグラス』でした。
 また、その組織の働きかけがあったから、その方向に流
 れただけです。これが真実なのです。
 子供たちの伝記には間違いが書かれて居ります。
 正しい内容に書き換えられなければならないのです。
 キリスト教には「黒人は人ではない」とみる歴史があり
 ます。
 この様な見方に影響された人々がしたことは、黒人の奴
 隷解放に一旦ちょっぴり至っても、直ぐに自分たちの利
 にとらわれて、元に戻ってしまうという事でした。
 悲しいかな、黒人の方たちは、「人間ではない、奴隷と
 いう原罪」があると理由づけられた考え方をされていま
 した。
 特に、アメリカ南部は、現在も「バイブル・ベルト」と
 言われている様にキリスト教徒が多い地帯。
  ここの地に、黒人奴隷の悲しい歴史が刻まれました。
  奴隷制は、疑問なく容認する考え方の地でありました。
 キリスト教聖書に説かれている奴隷制、アメリカ南部の
 人達は、当然のごとく、奴隷制を容認し、黒人の方達を
 奴隷として虐げました。
 そして、この南部の奴隷制寡頭勢力は、(かとう‐せい
 【寡頭制】 少数者が権力を握って行う独裁的な形態)、
 自分たちの利が脅(おびや)かされるに及んで剣を引き
 抜き南北戦争を起こしました。
 自分の意に合わない相手を殺す教義「異教徒は殺せ」の
 教義のままに「考え方の違うものは滅ぼせ」の教義どお
 りの行動となってしまいました。
 その様なアメリカの中でも共和党は、アメリカ全土の奴
 隷制反対勢力が応援し、育て、そして、強固にした党で
 した。
 (ちなみに、民主党は、奴隷制を容認する党です)。
 くすぶりの中にあったアメリカは、1861年に南北戦争が
 起き、リンカーンはこの年に大統領に就任しました。
 後代の歴史家が「南北戦争は奴隷解放戦争」と位置付け
 していますが、、リンカーンの大統領就任演説は、「奴
 隷財産を擁護する論理展開をするという演説」でした。
 何と愚かな演説でしょう。
 奴隷制について、反対するか賛成するかわからない州が
 存在したからと言い訳する人たちもいますが、リンカー
 ンのその後の行動からみても「彼は奴隷解放の大統領」
 とは言えません。
 南北戦争の戦況は、リンカーンの奴隷解放への意思がな
 く、不決断もあって、また、軍の首脳部の腐敗もあって
 北部軍は敗北が続きました。
 北部のシンボルである首都=ワシントンが、陥落する危
 険にさらされる緊急事態にもなりました。
 この状況を救ったのが、黒人の黒人奴隷解放戦士『フレ
 デリック・ダグラス』でした。
 奴隷解放に不決断だったリンカーンは、黒人の軍への参
 加をも容認していませんでした。
 フレデリックは、「黒人奴隷も、自由黒人も、黒人を軍
 務につかせよ」・・と、訴えました。
 「奴隷に対する自由が、今こそ国会議事堂から全戦場の
 砲焔の空高く宣言されなければならない」・・と、叫び
 ました。
 「黒人を軍務につかせよ、そして黒人解放軍を組織せよ。
 かれらは南部に進軍し奴隷たちの間に解放の旗を揚げる
 であろう」・・と、世論に訴えました。
 愚かにも、首都ワシントンが陥落の事態になっても、リ
 ンカーンは、「黒人奴隷は漸進的に解放したい、一気に
 解放という事はしたくない」の意思でした。
 また、リンカーンは、卑劣な事に「解放された黒人はア
 フリカかどこかに植民させたい」と考えていました。
 黒人の方たちを捨てるということです。「棄民」の考え
 です。
 当然、黒人の方たちからは、強い反対の声が沸き起こり
 ました。
..
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by suba28 | 2015-10-30 05:19 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)233D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1843年~1845年)

題:(増補版)233D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1843年~1845年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1844年(天保15年)(弘化1年)1月、天保暦(てんぽうれ
 き)を採用した(1843年説あり)
  1842年に改暦が決まり、幕府が、天文方の渋川景佑ら
 に命じて作らせた。
  この暦は、1844年から施行され、1872年(明治5年)の
 太陽暦の採用まで施行された(1873年まで施行されたの
 説あり)
1844年、帆足万里(ほあしばんり、儒者、理学者)の『東
 潜夫論(とうせんぷろん)』が成立した。
  東潜夫論は、経世論で、幕府・諸藩などの社会経済、
 国防の改革を論じ、諸制度を批判し、改革について述べ
 ている。
  例えば、幕府には、西力東漸(西の勢力が東の方へど
 んどん押し寄せて来ること)に備えて、洋式の大艦を建
 造する、
  そして、大砲・鉄砲の充実と訓練、大名城郭の石造、南
 北国境に大名を封じ、防御体制を充実すべき・・、
1844年、間宮林蔵が没した(1775年~1844年)(1845・2月
 説あり)
1844年5月、水戸斉昭謹慎、其臣の藤田東湖らも幽閉される
 (氷川清話)
  徳川(水戸)斉昭(とくがわなりあき、水戸藩主)は、
 徳川慶喜の実父で、
  鉄砲斉射(せいしゃ、一斉に射撃すること)事件や、
 藩内の派閥が絡む原因などで、幕命によって、家督を嫡
 男に譲った上、強制隠居となった。
  そして、藤田東湖も、5月に、斉昭の処分と共に失脚し、
 藩邸に幽閉された。
  斉昭は、1846年に謹慎が解除され(1844年11月説あり)、
  1849年に、藩政関与も許された。
1844年5月、和蘭書をよせて欧州の形成を告ぐ(氷川清話)
1844年5月、江戸城火災(氷川清話)
  江戸城本丸が全焼し、翌年2月に、殿舎再建成る。
1844年6月、印旛沼開墾停止
  1843年に、勘定奉行の鳥居輝蔵を責任者として、沼津
 藩、鳥取藩、庄内藩、秋月藩、上総貝渕藩の5藩が、御手
 伝普請が命じられて、工事は進められたが、
  多大な金銭的負担や、人的に大きな犠牲を払う事で失
 敗になった・・とある。
  水害対策など難しい工事であった。
1844年6月、水野、老中に再任、
  5月に、江戸城本丸が火災となったが、その再建費用を
 老中首座の土井利位は、集められなかったことが発端で、
  また、将軍・家慶の不興も買った、
  そして、外国問題の紛糾などもあり、水野忠邦が老中
 首座に再任された。
1844年7月、オランダ国王の開国勧告
  オランダ国王のウィレム2世から、将軍へあてた手紙を、
 遣日大使になった海軍大佐のコープスが、軍艦のパレム
 バム号で長崎に持って来た。
  開国が勧告されたが、幕府は、国王の親書のみを受理
 し、開国は拒否した。
  使節は、親書と献上品を置いて去った。
1844年12月、天保15年から弘化1年に改元された(氷川清話)
1844年、箱館、国後(くなしり)など11か所に守備兵が配
 備され、15か所に砲台が築かれた。
  弘化の改元から、「弘化台」という。
1844年、フランス船が琉球に来航した。
  フォニエル・デュプラン大佐が率いるフランス海軍の
 遠征隊が、琉球に来航した。
  通商を求めた、
  薩摩藩に限り、琉球対仏貿易を許した(通商拒否の説
 もあり)
1844年、勝海舟、佐久間修理(象山)を訪う、一見旧知の
 如し(氷川清話)
1844年、シーボルトは、1830年に、オランダに帰着した。
  シーボルトが帰国するときに、500種800株の植物を積
 み込んだ。
  そのうち、ヨーロッパに移植が成功したもので、生き
 残っていたのは204品種だった(129種の記述もあり)
 シーボルトが作成した販売カタログには、
  バイカイカリソウ、イカリソウ、トリカブト、ショウ
 ブ、シャクヤク、ヌルデ、サルトリイバラ、チャ、ツバ
 キ、ガガイモ、ツルボ、シキミ、サネカズラ、ネズミモ
 チ、カノコユリ、エビネ、シュンランなど
1845年(弘化2年)1月、新砲台を浦賀に築く(氷川清話)
  浦賀に新砲台が築造された。
1845年2月、米船、漂民を浦賀に送る(氷川清話)
  アメリカ捕鯨船のマンハッタン号が、浦賀に来航した。
  日本人漂流民を送還した(阿波館山に来たの説あり)
1845年2月、江戸城本丸の修築が成った。
1845年3月、高野長英、脱獄(氷川清話)
  伝馬町の獄舎を火災にし、高野長英は、逃走した。
1845年6月、幕府、オランダ国王に返書、開国勧告を拒否。
1845年、幕府が、海防掛を設置した
  この年に、老中の阿部正弘・牧野忠雅らが任じられて
 以降、常置となった。
1845年7月4日、イギリス船、長崎に来る(氷川清話)
  イギリスの測量船が、伊王島(長崎県)沖に来航した。
  測量許可と薪水を求めた。
  薪水を与えて出港を命じ、7月8日に、出帆した。
1845年8月、甲比丹(船長)を召し幕府より蘭国王への書及
 び青貝細工などの贈品を贈与する。開国は拒絶。
1845年9月、勝海舟、幕臣、岡野孫一郎の娘・民子(実は砥
 目氏)を娶る(氷川清話)
1845年9月、水野忠邦ら罰せられる。
1845年 阿部正弘、老中首座となる。
1845年12月、蘭人の外出を厳しく取り締まる。
  蘭人は、月に5~6回は病気保養と称して市街(長崎)
 を遊歩することを許されていた。
  近年は度を越えることがあったことによる。
1845年、杉田成卿、翻訳局員となる(氷川清話)
  杉田成卿(すぎたせいけい、蘭学者)、杉田玄白の孫、
  (1817年~1859年)
  1840年に、幕府の天文台訳員に任じられた。
  1844年に、命を受けて、オランダ図書の翻訳にあたっ
 た。
1845年、勝海舟、専ら泰西の兵学を修む、また、筑前藩・
 永井青崖について蘭書の習読を始む(永井は、溜池黒田
 邸住)、
  手紙に禁足を申付けられたので夜中潜行云々とあり、
 当時、西洋のことをほめ、横文字を学ぶことは、世の中
 から嫌われ、支配頭の処分で禁足されたものだろう(氷
 川清話)
1845年、オランダ船によって、日本に初めてパイナップル
 の種苗がもたらされた。
1845年、アメリカ・インディアンの方々の反撥
  アメリカ合衆国に好き勝手にやられ、繰られていたイ
 ンディアンの方々が反発した。
  テキサスが、アメリカ合衆国の州に入ることに対して、
 コマンチ族は拒否した。
  「これから、10年間、コマンチ族とアパッチ族は、自
 分たちが本当のこの国の持ち主だ」と主張したゲリラ戦
 を開始した。
  彼らの土地が、入植者の手に渡ることを阻止する行動
 をした。しかし・・、
1845年、「マニフェスト・デスティニー」という言葉があ
 る。
  マニフェストと言えば「政権公約」であり、「政策宣
 言」の意味である。
  また、デスティニーは運命の意味であり、宿命の意味
 である。
  そして、「マニフェスト・デスティニー」は、辞書に、
  「1840年代、アメリカの西方への領土拡張を正当化す
 るために使用されたスローガン」・・とある。
  アメリカ人は、「明白なる使命」とか、「明白なる運
 命」とかという言葉で、正当化を洗脳された。
  この洗脳が、歴史の中で消えることなく、アメリカ人
 の頭の中に、さも正しい行動の様に洗脳され、錯覚され
 て入り込んでいる。
  そして、アメリカ西部を手に入れ、先住の方々を駆逐
 し、虐殺し・・
  そして、その後までも、太平洋の島々を次々と手に入
 れ、フィリピンを手に入れ、太平洋の西端の中国に至り、
 日本と衝突した。
  その洗脳のスローガンが、この年に、ジョン・オサリ
 バンが初めて用いた。
  アメリカ人は、洗脳化された頭で、「文明化」とか、
 「天命」とかと、勝手に良い方向へ、拡大解釈し・・、
  インディアンの方々を、悪い意識も、気持ちも起こさ
 ずに、安易に、簡単に・・虐殺の限りをした。
  正当化する筋を見つけ、語って・・悪行為を続けた。
  誰も気づかず・・、気付いた人も居たのだろうが・・、
  「みんながいいのだ」と・・、相手の方々・インディ
 アンの先住の方々を・・誰もが思いやらず、
  自分の富だけを追求した。
  そのように教えるキリスト教の聖書の通りに行動した。
  わが民族が幸せであれ、同民族で、同じ宗教を信じる
 者こそ幸せであれと、悪の行為の限りを尽くした。
  メキシコとの戦争、スペインとの戦争、イギリスとの
 戦争、フランスとの戦争、ハワイの併合、日本との戦争、
  すべてが、このラインに入った悪の論理展開だった。
  アメリカは、今でも、この擦り込みは消えていない。
1845年、アメリカは、1846年~1848年にメキシコと戦争を
 するが、
  1836年に、メキシコから独立したテキサス共和国は、
 1845年に、アメリカに併合された。
  しかし、この地を、メキシコは、自国の領土と見なし
 ていた。
  また、この年の1845年に、アメリカ大統領ポークは、
 メキシコ領カリフォルニアと、ニューメキシコを譲るよ
 うメキシコ政府に要請した。
  アメリカの強引なやり方で、1846年4月に、アメリカと
 メキシコは戦闘状態になった。
  アメリカの連邦議会は、5月13日に宣戦布告し、
  メキシコ政府は、5月23日に宣戦布告した(アメリカが
 強引に戦争状態に持ち込んだ戦争だった)。
  1848年2月に、グアダルーペ・イダルゴ条約を締結し、
 戦争は、アメリカの勝利に終わり、
  アメリカは、カリフォルニア、ニューメキシコなどを
 併合した。
  メキシコは、国土の3分の1を失った。
  日本に来たペリーは、「(アメリカが)メキシコに、
 道徳に背くようなことをやった」と言った(因みに、ペ
 リーはこの戦争で戦っている)。
  アメリカが強盗の様に奪い取ったという感じだった。
  ユネスコの世界記憶遺産に登録申請をすべきだ。
..
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by suba28 | 2015-10-29 01:31 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)232D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1842年~1843年)

題:(増補版)232D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1842年~1843年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1842年(天保13年)10月、米商の忠兵衛らの10人が、困窮
 者へ米405俵を寄付など・・、生活困窮者に、米または銭
 を寄付する町人や米商人が多くなった。
  奉行所では、御救銀会所請払役格に任命し、銀2~3
 枚を褒美として与えた。
  石川県史の「御救米銀」には、
  「凶作の翌年夫食御貸米を給せらるゝも尚食料の不足
 を感じ、百姓以外の者も一般に困窮する場合に在りては、
 米銀・雜穀又は粥を施與せらる。
  之を御救米又は御救銀といふ。
  御救米銀を給すべきや否やは郡奉行・改作奉行の調査
 による。
  山方等の稼業少く、深雪の爲坐食せざるベからざる如
 き地方に在りては、不作ならずとも尚御救米銀を給して
 保護せられしものあり」・・とある。
1842年12月、長崎市中の結髪営業者中20人が、規約を設け、
 賃銭を下げた。
  これを賞して、税金を免除した。
1842年、二宮尊徳(にのみやそんとく、農政家、思想家)
 が、幕府の役人になった。
  通商:金次郎、
  諸藩・諸村の復興に尽力した。
  幕臣になって、日光領の復興をした。
1842年8月29日、南京条約が結ばれた。
  イギリスは、阿片戦争を仕掛け、イギリスは戦争に勝
 った。
  そして、条約が、南京で締結された。
  香港を中国・清から奪うなど、中国にとって屈辱の条
 項が多々ある条約だった。
 ★広州・福州・厦門(アモイ)・寧波(ニンポー)・上
  海の開港、
 ★香港の割譲、
 ★賠償金の支払い・・など、
  この時、中国は、アメリカ、および、ヨーロッパ諸国
 の侵略の最大の対象国だった。
  その背後には、この様な甘い汁が吸える結果があった。
  また、逆に、アメリカや、イギリスなどのヨーロッパ
 諸国には、「世界に膨張する行為」を止めた時、国力が
 低下をすることを恐れていた。
  特に、イギリスは、止めた時に、「三流の国に成り下
 がる」という恐怖観があった。また、この様に、流布さ
 れていた。
  不正は世界の各地で行われていた。
  1813年2月には、南米の極小国・ギアナまでもが紛争の
 対立点となっていて、イギリス船ピーコックが、アメリ
 カ船に撃沈されるなどという事件も起きていた。
  そして、列強の手に落ちる清を日本は見ていて、鳥肌
 の立つほどの恐怖感を感じていた。
1842年、第二次アヘン戦争(1856年~1860年)への道
  清は、悲惨な事に、第二次のアヘン戦争をせざるを得
 ない状況にまでこれからも置かれて行く。
  この年から戦争は始まったと言ってもよい。
  1856年10月のアロー号事件がきっかけで、第二次アヘ
 ン戦争は勃発したが・・、
  この戦争は、イギリスにフランスも加わって、イギリ
 スとフランスの連合軍で、利益を目あてに、戦争が起き
 た。
  清は敗北し、これによってさらに、悲惨な半植民地の
 状態に置かれてしまう。
  1682年以降、既に、
  清国には、『広東十三行』というものがあって、
  清国は富を収奪されていた(清の富を吸うガンのよう
 な存在だった)。
  広東十三行は、許可されて、存続し続けていた。
  アメリカ、イギリス、デンマーク、スペイン、スウェ
 ーデンの「洋行」呼ばれる組織で、巨万の富を手にした。
  広東十三行は、貿易を独占し、徴税行為まで行ない(
 請け負ったと言っているが?)、
  また、貿易を自分たちの統制下に置いて、アメリカ・
 イギリスを筆頭に、甘い汁を吸っていた。
  この悪徳行為は続き、1842年の南京条約以降は、イギ
 リスへ移った。
  さらに、イギリスは、不公正な関税率の設定をした。
  また、裁判権も握った(司法権を自分のものとした)。
  また、最恵国条項も認めさせた(自分だけに、特別に
 利益を得る条項)。
  そして、開港させた港には、軍艦の停泊する権利も認
 めさせ(武力で威圧した)。
  清国政府にやりたい放題の事をしていた。
  そして、卑劣な事に、最初のアヘン戦争の原因だった
 アヘンの中国への売り付けは、相変わらず続けた。
  アヘン(麻薬)を、強権で黙認させた。
  この様な力での、圧力を掛けて、問題が起きれば、武
 力行使で決着をつけようとするイギリスがあった。
  アロー事件は起こるべくして起こった。
1843(天保14)4月、将軍・家慶が、日光廟に詣ず(氷川
 清話)
  将軍の最後の日光社参だった。
1843年4月、水野越前守免職、阿部伊勢守これに代わる(氷
 川清話)(閏9月の説あり)
  上知令(じょうちれい、土地の没収の令)、老中首座
 の水野忠邦は、アヘン戦争の清国の状況を見ていて、イ
 ギリスは、日本に攻めてくるという状況を予測していた。
  そのため、江戸と大阪の十里四方を上げ地して、幕府
 が監理し、対策(防備)を固めようとした。
  大名や旗本の反対に遭った。
  そして、水野の腹心の部下の鳥居が、上知令反対派の
 老中・土井利位に寝返り、機密文書を渡したりした。
  そのため、水野忠邦は、老中を罷免された。
1843年4月、新潟奉行を置く(氷川清話)
  長岡藩に上知を命じ、幕府に上知され天領となった。
  そして、新潟周辺地域を支配するために新設した。
  目的は、日本海の要港としての新潟の防備の充実や、
 当時、多くなった外国船の応接、そして、当時、横行し
 ていた唐物抜荷の取締り、運上の幕府財政への組み入れ
 などがあった。
  1835年に起きた抜荷事件と、天保の改革の上知令が発
 端で、遠国奉行の一つで、老中の下にあった。
1843年、中台芳昌(なかだいよしまさ)の『老農夜話(ろ
 うのうやわ、農業書)』が出来た。
  稲作農業絵巻で、種子の準備、種子浸しの準備、苗代
 作り・・など、
1843年6月、アーネスト・サトウ(イギリスの外交官)が、
 生まれた(1843年~1929年)
  イギリス公使館の通訳、駐日公使。
  イギリスにおける日本学の基礎を築いた。
  日本名は、佐藤愛之助、
  日本滞在:1862年~1883年、1895年~1900年、25年間
  学生時代の本で日本に憧れ、通訳として横浜に着任し
 た。
  日本で日本人女性と家庭を持った。
  生麦事件で幕府との交渉に立ち会い、また、薩摩藩と
 の交渉にも立ち会うが、交渉決裂して薩英戦争となった。
  また、伊藤博文や井上馨がヨーロッパから、急遽、帰
 国した時は、長州まで送り届けたりしている。
  しかし、この時も、下関戦争が始まる。
  長州藩との講和交渉の時も、高杉晋作を相手に通訳を
 務めている。
  パークスが将軍の慶喜に謁見したときも通訳を務めた。
  など、日本の事件の折々に関係している。
1843年6月、印旛沼の開削を命ず
  洪水氾濫の防止対策を目的の一つとしたが、主たる目
 的は、水運(船運)の整備に重点を置いたとある。
  外国軍艦による、万一の江戸湾封鎖に備えた国防があ
 った(この水路を活用した物資運送)。
  掘削工事を5人の大名に命じたとある。
  工事着手はすぐ行われた。
1843年6月、上知令(じょうちれい)が発布された(9月説
 あり)
  幕府が、江戸・大坂10里四方を直轄地とする。
  大名・旗本の反対が強く、同年撤回した。
  改革挫折の直接的原因。
1843年閏9月、平田篤胤(ひらたあつたね)が没した。
1843年閏9月、老中・水野忠邦が免官された。
1843年、勝海舟、剣術の免許を受く。
  「之より先、師の代稽古として諸藩邸そのほか巡回し
 たが、近年、洋学を始めたとの評判から嫌悪され代稽古
 の受けがよくないので次第に巡回を少なくする」(氷川
 清話)
1843年、ルシアン・バイディ(フランス)が、アネロイド
 気圧計を発明した。
  アネロイドは、水銀を使っていないというギリシャ語。
  薄い金属製の容器の内部を真空にして測定した。
1843年、マオリ戦争が起きた。(1860年~1872年説あり)
  ニュージーランドのマオリ族とイギリス人の植民者と
 の間に起きた戦争。
  土地を奪われたことによって武力衝突した。
  1840年に締結されたワイタンギ条約によってニュージ
 ーランドはイギリスの植民地になった。しかし、・・
  ワイタンギ条約は・・(1)マリオ族はイギリス国王
 に主権を渡す(譲渡する)
  (2)イギリス国王はマオリ族の権利を保護する。
  (3)土地の売買はイギリス国王との間でのみ認めら
    れる。
  (4)マオリ族は、イギリス国民と同等のすべての権
    利を持つ・・だった・・、
  1850年代に入ると、イギリスは大量に移民した。
  イギリスからの移住民は、土地が不足した。
  そのため、土地を必要としたので、マリオ族の土地を
 買おうとした。
  あまりの土地買収に歯止めを掛けたいとした。
  そして、1858年に、代表者(マオリ王)を選出し、各
 部族も連合し、マオリ族の方々の土地が無くならない、
 歯止めを意図した。
  そして、先住民のマリオ族の方々は、土地を売らない
 ことを決定した。
  イギリスが安く買おうとする価格の低さにも問題はあ
 った。
  そして、農業振興などもするが、強引な行動をとり始
 める。
  そして、強引な土地測量等を巡って紛争が起き、小競
 り合いが繰り返され、殺戮も繰り返し起きた。
  1860年に、首長・キンギ以下のマオリ戦士1500名と、
 イギリス軍・ニュージーランド植民地軍の3000名が衝突
 した。
  イギリスが約束した、イギリス人と同等のすべての権
 利など、マオリ族の方々になかった。
1843年3月、ある広告がなされた。
  アメリカ合衆国の西部地域に、「入植者を募る広告」
 だった。
  「オレゴンへ向かう移住隊に参加を希望する者は、ス
 レイピング・グロウブに、馬車を引いてきたれ!」と。
  こうした広告が、ミズーリーの新聞に、繰り返し繰り
 返し出されていた。
  広告を見て集まった人々は、年々、増えて行った。
  1869年に、大陸横断鉄道が開通するまで、数十万の人
 々がオレゴンへの道をひたすら西部へ辿って行った。
  その街道が、「オレゴン街道」「サンタフェ街道」だ
 った。
  スー族や、アラパホ族や、シャイアン族の領土を横切
 って行った。
  アメリカ人たちは、途中でも留まり、家畜を飼い、ま
 た、土地を耕したりもした。そこは、インディアンの方
 々の土地だった。
  インディアンの方々の意思表示である攻撃は、映画に
 ある様な形は全くのプロパガンダ(嘘宣伝)。
  インディアンの方々が、怖くて、荒っぽく描かれてい
 るが・・嘘である。
  インディアンの方々は、映画の様に、正面から襲撃す
 る事はほとんどなかった。
  隊列から離れた馬車を襲ったり、
  進行してくる馬車を、先回りして待ち伏せしたり、
  馬車と一緒に移動して、家畜を驚かせて、鳴き声を上
 げさせ、馬を挑発して暴れさせる方法だった。
  そして、幌馬車隊をパニックにさせた。
  アメリカの先住民の方々・アメリカインディアンの方
 々を、野蛮で、獰猛(どうもう)に感じさせるプロパガ
 ンダ(嘘宣伝)だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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by suba28 | 2015-10-27 05:08 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)231D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1841年~1842年)

題:(増補版)231D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1841年~1842年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1841年(天保12年)10月、伊藤博文(いとうひろぶみ、明治
 の政治家、初代の内閣総理大臣、公爵)が生まれた。
  (1841年~1909年)
  周防国(すおうのくに、山口県東南部)の農民の子に
 生まれ、父が長州藩士の養子となって下級の武士の身分
 を得た。
  吉田松陰の松下村塾に学び、京都の志士と交わり、
  1862年(21歳)、高杉晋作が上海視察から帰国した頃、
 長州藩の方針は、「公武合体」から「即今攘夷(そっこ
 んじょうい)」に転換していた。
  晋作は、直ちに行動を起こすべきとし、他藩の藩士た
 ちと外国人暗殺を計画するが、藩に漏れ、計画を押し止
 められた。
  晋作は、その後、、長州藩だけの尊王攘夷運動組織を
 立ち上げ、この時・1862年に、品川に建設中のイギリス
 公使館焼き討ちをする。博文は、これに、ともに参加す
 るなど尊王攘夷運動に従った。
  1863年(22歳)、藩の留学生として井上馨とともにイ
 ギリスへ行く(秘かに行ったという説もある)、
  博文がイギリスに行っている間の1863年と、帰国後の
 1864年の2回にわたって、攘夷思想に基づく武力衝突の
 下関戦争(馬関戦争、四国連合艦隊への砲撃)が起きる。
  1864年3月(23歳)、米英仏蘭の四国連合艦隊による
 長州藩攻撃が近いことを知ると、急ぎ帰国した、
  1864年6月(23歳)、横浜に帰着し、すぐ長州藩へ戻り
 博文は、戦争回避に奔走した。
  1864年8月(23歳)、英国公使などと会見などをし、交
 渉をしたが、効なく、この月に、四国連合艦隊の砲撃に
 よる下関事件が勃発した、
  長州藩の砲台は徹底的に破壊された。
  博文は、高杉晋作の通訳として、和平交渉にあたる。
  この時、攘夷派の暗殺計画を知り行方をくらます。
  1865年(24歳)、幕府の長州征伐には、高杉晋作の元
 へ一番に駆け付け、挙兵し、藩の主導権を握った。
  1865年(24歳)、藩の実権を握った桂(木戸孝允)に
 従い尊王攘夷運動をするが、この頃から、おとなしい博
 文となる。
  1868年(27歳)、世は明治となり、外国事務総督・東
 久世通禧(ひがしくぜみちとみ)に見いだされる。
  そして、神戸事件と堺事件の解決に奔走し、これが、
 博文の出世の足掛かりとなった。
  維新後の博文はこの名に改名し、長州閥の有力者とし
 て要職を得る。
  1871年(30歳)、岩倉遣欧使節団の全権副使となり欧
 米諸国を視察。
  帰国後、大久保利通らと共に内治優先を説き、西郷隆
 盛の朝鮮派遣(征韓論)に反対する。
  1873年10月(33歳)、西郷らが政府を退いた後、参議
 兼工部卿となり、大久保の片腕として国政の中枢に加わ
 った。
  木戸孝允と大久保利通に信頼されて外交、財政、民政
 に才腕をふるった。
  1878年(37歳)、大久保利通が暗殺され、その死後、
 後を継いで内務卿となり、
  明治政府の開明派として改革を進めた。
  博文は、漸進的(ゆっくり少しづつ)な国会開設論を
 唱え、早期国会開設の大隈重信と意見対立した(明治14
 年の政変の原因)
  1881年(40歳)、明治14年の政変で政府の実権を握り、
 内閣制度を創設し、
  1882年(41歳)~1883年、欧州(ドイツ、オーストリ
 ア、イギリス)に渡ってプロセインの憲法を研究し、
  1884年(43歳)、帰国後には宮内卿を兼任し、保守派
 の抵抗を排して宮中改革を推進、爵位制度を設け
  1885年(44歳)、近代的内閣制度を作って、初代の総
 理大臣となり(第一次伊藤内閣)、
  1886年(45歳)、憲法草案起草に着手する。
  1888年(47歳)、枢密院を置いて初代議長となり、大
 日本帝国憲法の草案の審議を司会し、
  1889年2月11日(48歳)、大日本帝国憲法を発布した。
  1890年(49歳)、議会開設後、初代貴族院議長をつと
 めたのち、
  1892年(51歳)、ふたたび内閣を組織し(第二次内閣)、
 陸奥宗光とのコンビで条約改正、日清戦争を遂行した。
  明治天皇の信任が厚く、詔勅によってしばしば政局の
 危機を乗り切ったが、やがて政党樹立の必要をさとり、
  1900年(59歳)、立憲政友会を組織し、創立し、総裁
 となった。
  1905年(64歳)、日露戦争後、韓国統監府の初代統監
 として日韓併合を推進したため、
  1909年10月(69歳)、韓国青年・安重根によってハル
 ピン駅頭で暗殺された。
  内閣を組織すること4度、従一位大勲位公爵となり、明
 治国家のもつ大きな政治家だった。
1841年12月、株仲間解散令(かぶなかまかいさんれい)
  幕府は、天保の改革の一環として、株仲間解散令を発
 した。
  江戸菱垣廻船積問屋をはじめとし、すべて問屋、仲間、
 組合などと唱える事をいっさい禁止した。
  天保の飢饉以来、物価が騰貴していた。
  天保の改革は、この物価騰貴を押え、引き下げること
 が重要課題の一つだった。
  幕府は、株仲間などの流通独占にあるとみて、この時
 に、令を発した。
  そして、自由な競争原理が働く商取引とした。
  そして、商品流通量も上がり、景気も刺激すると考え
 た。
  しかし、実際は、従来の流通機構が解体した結果、商
 品が江戸・大阪に集中しなくなり、意図した効果をあげ
 ることはできなかった。
1841年、この年から、翌々年にかけて、江戸歌舞伎三座を
 浅草に移転させた。
  中村、市村両座が火災になったのを機に、水野忠邦の
 緊縮政策により、翌年から翌々年にかけて、三座は、浅
 草猿若町に移転した。
1841年、勝海舟、去年より牛島弘福寺にゆき座禅を修める。
 (氷川清話)
1841年、渡辺崋山(わたなべかざん、蘭学者、画家、思想
 家)が没した(1793年~1841年)(48歳)
  三河田原藩士の子として生まれ、
  8歳で出仕、貧困とたたかいながら儒学や絵画を学んだ。
  高野長英らの蘭学者と交わり、西洋事情を研究し、古
 河藩家老の鷹見泉石(たかみせんせき)をはじめ広く交
 際をもって、開明的政策を行なった。
  幕政批判のため、蛮社の獄に連座し、国元の田原に蟄
 居を命じられた。
  「鷹見泉石像」国宝、
1841年、田中正造(たなかしょうぞう、第一回衆議院議員、
 足尾鉱毒事件の指導者)が生まれた(1841年~1913年)
  足尾銅山鉱毒問題において、政府と古河財閥を相手に
 し、被害者の農民・国民の側に立って、半生をかけて闘
 った。
  古河の生産第一主義的な経営は、煙害と製錬用薪炭材
 の乱伐によって、足尾の山林は、はげ山と化し荒廃した。
  また、その為に、山林の保水力はなくなり、大洪水を
 頻発させた。
  それとともに、大量の廃石排出や、鉱滓(こうさい)
 排出の問題もあった。
  それに含む有毒の重金属排出があり、さらに、酸性の
 排水であった。
  それらを無処理のまま垂れ流した。
  この様に、煙害による山林荒廃だけではなく、水系へ
 も多大な被害・害毒を与えた。
  流域河川は、その毒によって川魚が死滅するという、
 川魚大量死の問題が発生し、
  また、鮭の遡上も激減し、漁獲高激減という壊滅的な
 打撃となった。
  その鉱毒と酸性を帯びた排水を含む水は、それだけで
 はなく、流域の広大な農地と農作物へも鉱毒被害を与え、
 その被害は甚大で、しかも激化して行く一方だった。
  その様な、生産と、経営の感覚だった。
  この大問題に対峙した正造の活動は、日本の公害運動
 の原点となっている。
  1890年(明治23年)、洪水によって、鉱毒がさらに広
 範囲に撒かれ、被害は拡散、
  被害を受けた農家が激増し、反対運動が激化した。
  1891年(明治24年)、正造は、政府を含め、公的機関
 の無策を批判した。
  1896年(明治29年)、大洪水で被害が拡大、反対運動
 の組織の再組織化がなされた。
  1897年(明治30年)、被害農民の数千人が、大挙して
 上京、やっと、大きな社会問題化となった。
  政府は、鉱毒調査会を設置し、古河へ予防処置の命令
 を下した。
  被害農民への課税免除がなされていることになった。
  しかし、この後、正造と被害農民の苦労の闘いとなる。
  1901年(明治34年)12月、正造は代議士を辞し、天皇
 に直訴した。世論は沸騰した。
  政府は、第二次の調査会を設置。
  その後、正造は、栃木県南部の渡良瀬川沿いにあった
 谷中村の遊水地化にも反対した。
  1907年(明治40年)、谷中村を廃村として遊水地化を
 強行した。
  外貨獲得の産業としての存在を、政府は重視した。
  正造の晩年は治水事業に尽力した。
  この問題は現在でも尾を引いている。
  広大な遊水地は現存し、また、、1958年(昭和33年)
 には堆積場が決壊して、鉱毒被害が発生している。
  また、広大なはげ山と、鉱毒をふくんだ33平方キロメ
 ートルの渡良瀬遊水地の今後がある。
1842年(天保13年)4月、パンが全国的に広まって行く。
  伊豆韮山の代官で、軍学者の江川太郎左衛門英龍が、
 軍用携帯食糧として、日本人で初めてパン製造を行なっ
 た。
  江川太郎左衛門の師・高島秋帆の従者、作太郎を、伊
 豆韮山の江川宅に呼び寄せ、パン焼き窯を作った。
  作太郎は、長崎のオランダ屋敷に料理方として勤め、
 製パン技術を教えた、そして、記念すべき「兵糧パン」
 第1号を焼き上げた。
  その兵糧パンは、まあまあの評判を得た。
  後に、大規模な製パン所で、大量のパンが作られるよ
 うになった。
  パンは、保存食として、また、携帯食として重宝し、
 韮山塾の門人を通じて、全国に広まった。
1842年5月、幕府が、倹約令が出した。
  また、5月に、長崎奉行も倹約令を出した。
  長崎奉行・柳生伊勢守の質素倹約令
  1)市中の料理屋で宴会することを禁じる。
  2)町芸者を廃止する。
  3)遊女の外、女子が髪結いを雇うことを禁じる。
  4)衣服はもっぱら質素なものを用いること。
  5)婦女の髪飾りにちりめん類を用いることを禁じる。
  6)ひな人形、五月のぼりに大形のものを用いるのを
    禁じる。
  7)銀製の諸具を使用することを禁じる、など
  また、6月に、
  1)冠婚葬祭に見栄をはり過分のことをしないよう戒
    める
  2)市民がなまこ、あわびを食することを重ねて禁止
    する(唐貿易重要な輸出品のため)
  また、7月に至って、
  市中の取締り方の木下勇之助が、丸山の遣手(やりて、
 遊女などを監督するもの)15人が、絹地の帯を用いてい
 ることが発覚し、
  7月13日に、押込みを命じるが、時期が盆の掛銀集めの
 ため出向かねばならず、遊女屋から嘆願書をだされ、
  7月15日に、押込みを許された。
1842年6月、絵草紙などの出版を統制した(~1852年)
  一般的な「出版統制だった」が、特に、錦絵と合巻絵
 草紙を規制した。
1842年6月、高島秋帆が、砲術教授を許可された。
1842年7月、天保の異国船薪水給与令(いこくせんしんすい
 きゅうよれい)が出された(天保の緩和令)
  幕府が、「異国船打払い令」をやめ、「薪水給与令」
 を発し、薪水食料の給与を許した。
  1840年に開戦されたアヘン戦争の情報、および、同戦
 争の終結の後、イギリスが、日本へ艦隊を派遣するとの
 情報があり、危険性がさらに高まっていた。
  幕府は、対外紛争の回避のため、方針を変更した。
1842年7月、為永春水(ためながしゅんすい、人情本作者)
 が獄死した。
  風紀を乱したとして刑を受け、病没した。
1842年9月、幕府が、百姓が農業以外に従事する事を禁じた。
1842年10月、幕府は、諸大名の物産専売を禁止した。
1842年、この頃、マニュファクチュア(工場制手工業)が
  起こった。
..
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by suba28 | 2015-10-24 02:44 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)230D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1840年~1841年)

題:(増補版)230D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1840年~1841年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1840年、中国・清は、鎖国していた時は、国内で総てが充
 足し、国の安定を得ていた。
  知的な発展もあった。
  文化も花開いていた。
  それはそれで、幸せを享受する時代だった。
  この様な中国に、イギリスが接近して来た。
  イギリスは、最初は、節度を持って中国茶や絹織物・
 陶磁器を交易し、エンジョイして居た。
  中国茶は、イギリスでは、上流の階級の人しか、飲む
 事が出来なかった。
  しかし、イギリスは、より多くを要望した。そして、
 要求した。
  貿易量は・・増えて行った。
  欲望におもむくイギリスの購入増大だった。
  その欲望の結果、増大した購入の支払いも、当然、増
 大した。
  イギリスには、これと言った輸出品は無かった。
  イギリスは、銀での支払するしかなく、その支払額は
 増大した。
  イギリスは狡猾だった、これを麻薬のアヘンで支払お
 うとした。
  麻薬を中国に運んだ(中東にあった麻薬を、植民地の
 インドで、安価に作らせ、中国へ運んだ)。
  中国の方々は、麻薬に中毒し、常習となり、廃人とな
 った。
  イギリスのやる麻薬密売行為は、年々、増大した。
  中国の富を収奪した。
  中国の事など、これっぽっちも思わないイギリス。
  戦争へ、当然のごとく至った、アヘン戦争に至らせた。
  イギリスが勝つと分かっている戦争・・だった。
  戦いになると、これ幸いと戦争をやり・・、戦争が起
 きない様にというアクションは、どこ吹く風だった。
  当然、イギリスが勝って、1842年に南京条約が結ばれ
 る。
  また、戦勝国・イギリスは、自分に有利な条約を取り
 決めさせた。
  敗戦国に不利な条約を、承知で押し付けた。
  どこが紳士の国だというのだ。
  イギリスは治外法権も認めさせた。
  中国の従属状態が始まる。
  今、日本も、敗戦国の延長として、相変わらずアメリ
 カに不公正な事を認めさせられている、独立国としての
 資質を損なわされている。
  強い立場を利用して、弱い国から利を得ようという考
 え自体が間違いだ。
  キリスト教の聖書の記述、「隣国の富を奪いに行って」
 「そこに神の義がある」は間違っている。
  強いからこそ、弱者を救済せねばならない。
  この時も、力で中国の鎖国をこじ開け、利を奪うイギ
 リスだった。
1840年、イギリスは、武力を背景に、アヘンを売り続けた。
  年々、アヘンが多く流入してくる中国、売るのはイギ
 リス。
  その中毒性の為に、「なけなしの金を払ってでも買う」
 という、地獄に落とされた中国だった。
  中国の銀は流出した、イギリスに吸い取られた。
  中国は、経済的破綻状態となった。
  国の破綻も酷かったが、大切な国民も破壊されていた。
  中国の軍隊までもが、アヘンの中毒患者が急増した。
  国の存続が危うくなった。
  中国は、何度も禁止令を出したが、効き目がなかった。
  買う中国側が悪いのか? 売るイギリス側が悪いのか?
  年々、日に日に、破壊されていく姿がそこにあった。
  何度も出すが禁止令は効果はない。
  売る側へ手を付けなければ解決しないと、売る側へ手
 を付けた。
  イギリスの公(おおやけ)の組織も、議会も、武力行
 使を容認した。
  儲かりたい・・だった。
  困る中国を知っていても、銀のイギリスへの流入の欲
 に敗けるイギリスだった。
  「武力では勝つ」というイギリスは、勝つことが当た
 り前の戦争を・・議会のお墨付きをもらって・・始めた。
  行為は・・卑劣の一語・・である。
  当然、この史実は、人類の歴史から『永久に』消え去
 らない。
1841年(天保12)閏1月、『御触書天保集成(おふれがき
 てんぽうしゅうせい)』。
  これは、幕府が出した御触書をまとめた法令集のこと
 で、評定所(ひょうじょうしょ)で編集したもの、
  この年に、天明8年(1788年)から天保8年(1837年)
 までの50年間6607通が追加された。
1841年閏1月、11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)が
 没した(1773年~1841年)(68歳)
  松平定信を老中首座に任命して、寛政の改革を行なっ
 た。
  定信は、白河藩主の体験を生かし、また、深い学殖(
 がくしょく、深い学識)によって改革を推進した。
  倹約や、備荒貯蓄を奨励し、農業の復興、人足寄場の
 設置、異学の禁などを行なった。
  しかし、運悪く天明の飢饉の打撃によって農村の疲弊
 は進み、景気は沈滞し、町人らの不満を買った。
  家斉は、隠居後、大御所として政治の実権は握った。
  この時代には、華麗な文化・文政時代の町人文化が花
 開いた。
  江戸文化は爛熟して行った。
1841年閏1月、天保の改革が始まる(5月説あり)
  勝海舟は、氷川清話で、「水野越前守幕政を革新す」
 と書いた。(氷川清話)
  老中・水野忠邦を中心に「天保の改革」が始まる
 (1841年~1843年)
  この改革は、「享保・寛政の制にならうべきことを令
 す」とあるが・・、
  この改革でめぼしい所は、諸藩においても、藩債整理
 などによる財政改革や専売制などが行われた。
1841年閏1月、高島秋帆、西洋兵式を演ず。(氷川清話)
  別資料によると・・
  高島秋帆(44)が、異国筒の大砲4門、小銃50挺を携
 え、
  長男・浅五郎と門人ら25人を引き連れ、長崎を出発・・
 閣老の水野越前守は、秋帆の「西洋砲術意見書」につ
 いて、目付の鳥居耀蔵に諮問・・、
 鳥居は、はじめ秋帆の意見をけなし、火器を取り寄せ
 てみる方がよろしいと答申する、
  かくして、武州徳丸原洋式調練に向かう、晴れの出立
 になる、
  2月7日、江戸表に到着。
  御用の御筒類は、御在府御奉行所に納められる、
  5月9日、高島秋帆が、浅五郎以下の門人たちと、武州
 の徳丸が原にて、洋式銃隊の演練を行なう、
  大砲発射、騎兵の馬上銃射撃、銃隊及び野戦砲の発射。
  次に、部隊教練を実施、
 幕府は、訓練を賞して白銀200枚を下賜し、秋帆持参の
 銃は500両で買い上げる、
  幕命で、下曽根金三郎と、江川太郎左衛門(伊豆韮山
 の代官)の2人に、高島流の奥義を伝授、
  7月12日、江戸を出立、
  8月22日、長崎に帰着
  翌年、3月、高島秋帆が、江戸において諸組与力格とな
 り、長崎会所調役頭取に命ぜられる、
  その3月、徳川斉昭が大砲を鋳造させる、
  因みに、徳丸ヶ原(とくまるがはら)は、現在の東京
 都板橋区高島平及び三園、新河岸の幕府天領という。
  この地に、1956年に、日本住宅公団が、大規模団地・
 徳丸ヶ原ニュ-タウンを造り、
  後に、名を高島平団地を改称したが、
  また、この一帯を高島平とも改称しているが、この高
 島は、高島秋帆にちなんで改称された。
1841年6月、上野俊之丞(うえのしゅんのじょう、写真家)
 が、蘭船から入手した写真機で薩摩藩主の島津斉彬を撮
 影した。
  日本人が日本人を写した最初(1848年説あり)
  オランダ人から銀板写真のカメラを手に入れて、撮影
 法を研究し、そして、島津藩主の撮影に臨み、成功した。
1841年6月4日、中浜万次郎が漂流後、6ヶ月後のこの日、
 通りかかったアメリカ捕鯨船のジョン・ハウランド号に
 救助されハワイに連れて行ってもらった。
1841年7月、高島の火術を江川太郎左衛門、大曽根金三郎に
 伝授すべきを命ず。(氷川清話)
1841年、秋:豊作であったが米は安くならず。
  1升銭108文~112文
1841年10月、幕府直轄の昌平坂学問所(しゅへいざかがく
 もんじょ、昌平黌・しょうへいこう)が、庶民の聴講を
 許可した。
  「寛政異学の禁」の後、学舎が増設されて、御家人や
 旗本だけではなく、藩士・郷士・浪人らも聴講できるよ
 うになっていたが、庶民も聴講できるようになった。
  武士や庶民などの聴講者は、座り切れないほどであっ
 たという。
  また、各藩でも、昌平黌をモデルにして、庶民の聴講
 も許可されていた。
  藩から運営資金が出ていたため、学費の徴収もなかっ
 たという。
  医学院でも入学を希望すれば城下士(城下に住む城下
 士と、地方に住む郷士)のほかに、町人も許された。
..
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by suba28 | 2015-10-21 04:37 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)229D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1840年~1840年)

題:(増補版)229D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1840年~1840年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1840年(天保11年)5月、売薬の看板に、オランダ文字の使
 用を禁止した。
1840年、幕府が、平田篤胤(ひらたあつたね、国学者)へ、
 著述禁止と、江戸退去を命じた(1841年説あり)。
  1776年、篤胤は、出羽(でわ)久保田藩(秋田県)藩
 士に生まれ、
  1795年(19歳)で、脱藩し、江戸に出た。
  1800年(24歳)備中(びっちゅう、岡山県)松山藩士
 へ養子となる。
  儒教を批判し、尊王思想をとなえた。
  篤胤の思想は、幕末の尊王攘夷運動や、思想界に大き
 な影響を与えた。
1840年9月、高島秋帆が、長崎奉行の田口加賀守を通じて、
 幕府へ「西洋砲術意見書」を提出した。
  阿片戦争を例にひいて、火砲の近代化や、わが国の兵
 制改革を進言した。
  長崎で、西洋砲術などを学んでいた高島秋帆は、幕府
 へ、西洋砲術を採用するよう意見書を提出した。
  幕府は、これを受けて、江戸に招いて西洋砲術の演習
 を実行させた。
1840年、長崎奉行・田口加賀守が、高島秋帆(たかしまし
 ゅうはん)とともに、オランダ船のバッテーラに乗り、
 帆を張って長崎港内を巡視した。
1840年、長州藩の村田清風の改革が始まった。
  長州藩が、藩政改革についての大会議を開催した。
  村田清風らが改革構想を提出した。
1840年、加賀の農民が、九州地方に出張して害虫の実態と
 対策を調査した。
1840年、日本に、この年に書れた道中日記帳がある。
  これは、甲斐国の豪農が、静岡の久能山東照宮の参詣
 したり、安倍川餅を食べたり、
  愛知の桶狭間の古戦場を見物して、今川義元公の墓参
 りをしたり、
  大津では、木曽義仲の墓などを見て、
  大阪では、人形浄瑠璃の芝居見物したり、
  岡山に周ったり・・と、
  地方の富裕層が、文化的な旅行を楽しんで、全国のあ
 ちこちを周り、
  四国の金毘羅さんにお参りをするのだが、
  江戸時代の後期のこの時期に、豪農豪商が、豪華旅行
 を始めていた。
1840年、アームストロング(イギリス)が、水力発電機を
 発明した。(1878年説があり)
1840年、ケラー(ドイツ)が、木材を砕いて、すりつぶし
 て、パルプ(紙の原料)を機械的に作る方法(砕木パル
 プ)を発明し、パルプ工業と製紙工業が盛んになった。
  19世紀後半に、化学パルプが発明される。
1840年代、アメリカによる捕鯨が盛んに行われる。
  この頃、アメリカの捕鯨船は、1200隻に及んだ。
  アメリカは、すでに、1711年に、マッコウクジラ漁を
 はじめ、クジラ漁をしているが、
  それが、19世紀に至ると、大西洋のクジラを捕り尽く
 した。
  それで、日本近海のクジラを取り出していた。
  ランプの油だけに使い、クジラのほとんどを捨てると
 いう、まったく可哀想な捕り方だった。
  これも、ヨーロッパが、植民地から奪い取った利益で
 潤い、生活が贅沢になり、
  また、夜、遅くまで起きているため、照明用のクジラ
 の油が大量に必要としたからだった。
1840年代、オーストラリアは、この年代に、先住民のアボ
 リジニーの方々を、大勢、殺した。
  以下は、この1840年代の、あるアボリジニーの方の回
 想。
  「わしらは、自分たちの土地から追っ払われ、弾に撃
 たれ、毒をもられた。
  娘たちや姉妹たち、それに妻たちは、白人が奪って行
 った。
  一体、何人の仲間が、キルコイ〈クィンズランド州、
 州都ブリスベンの近くの集落)で殺されたことか。
  白人たちは、わしらが生活していた土地を奪った。
  わしらが、腹のへったはずみで、小麦を少しばかり失
 敬したり、牛を殺したら、鉄砲の弾と毒がお返しに見舞
 ってきた。
  今じゃあ、わしらの奪われた土地の代わりに、白人が
 くれる物といやあ、1年に1枚の毛布ぐらいのものさ」。
  キリスト教徒のオーストラリア人の先住民の方々への
 弾圧は、まったく酷(ひど)い。
  また、1840年代末には、オーストラリアの先住のアボ
 リジニーの方々は、無菌状態の自然の中で自由に生活を
 していた。
  そこへ、イギリス人の占領者が入って来て、あらゆる
 病気をもたらした。
  その病気は、急速に蔓延した。
  その病気に対して、アボリジニーの方々には、一切、
 免疫はなかった。
  天然痘、結核、しょう紅熱、インフルエンザ、風邪、
 水疱瘡、気管支炎、ハシカ、性病など、あらゆる病気を、
 イギリス人の占領者たちは持って来た。
  その打撃は想像以上だった。
  ある一地域の例で、1840年代末には、梅毒患者は、170
 名のアボリジニーの方々の内、5名に過ぎなかったが、
  わずか10か月後には、成人の50パーセント以上になっ
 た。
  さらに、20か月後には、90パーセントとなった。
  白人のイギリス人入植者が、極端に男性に偏っていた
 ために、アボリジニーの女性が、頻繁に、性的な搾取の
 対象となった。
  食料を与えることとの交換として要求されたのが、ア
 ボリジニーの方々の間に、性病が蔓延した原因だった。
  また、承諾のない強姦も多くなされた。
  白人・キリスト教徒の小屋に、鎖でつながれ、閉じ込
 められている例も、多く見られた。
  また、イギリス人の間には、性病を若い女性に感染さ
 せれば治るという卑劣な迷信があった。
  このイギリス人の悪行為によっても、アボリジニーの
 方々の人口減少の大きな要因となった。
  また、白人との混血も多く生まれた。
  白人の占領地拡大と反比例に、アボリジニーの方々の
 人口の減少が起きて行った。
1840年、アヘン戦争。
  中国で、中国とイギリスの間で、アヘン戦争が起こっ
 た(~1842年)
  イギリスは、貿易の不均衡を解消するため、中国にア
 ヘン(麻薬)を輸出した。
  そのため、中国国内でアヘン中毒者が急増するにつれ
 て、中国の輸出超過が生じた。
  いたたまれず、欽差大臣の林則徐は、広州でアヘン禁
 止を断行した。
  これに対し、イギリスは、強権出動の手段を取り、イ
 ギリス艦隊を出動させた。
  清は、この戦争に屈した。
  そして、香港をイギリスに割譲し、また、五港を開港
 する南京条約(1842年8月)を結んだ。
  以後、中国は、列強によって半植民地化されて行った。
  1997年に、香港は、中国に返還された。
  アヘン戦争:詳述、
  1840年6月28日~1842年8月29日、
  イギリスと、中国・清国との間の戦争。
  アヘン(麻薬)の密輸が原因となった戦争。
  イギリスは、清国から茶や陶磁器、および、絹など大
 量に輸入していた。
  一方、イギリスからは、清国へ輸出するものが少なか
 った。
  わずかに、時計や望遠鏡などの金持ちしか買わないよ
 うなものしか輸出するものはなかった。
  当然、イギリスの大幅な輸入超過となった。
  イギリスの銀が流出した。
  イギリスは、アメリカとの戦争などの戦費の必要が迫
 られていて、銀などの国外流出を抑えたかった。
  そこで、卑劣にも、イギリスが考えたことは、インド
 の植民地で栽培したアヘンを、中国・清国へ密輸する事
 だった。
  それで、輸入超過分の赤字を埋めようとした。
  中国・清国は、1796年にアヘンの輸入を禁止していた。
  当然だった。
  しかし、アヘンの密輸入は止まらず、清国内に、アヘ
 ンの中毒患者が広まって行った(吸飲者急増)。
  また、そのアヘン購入のための清国の銀も多量に流出
 し、銀保有量が激減した。
  アヘンの吸飲を取り締まる清国に対し、イギリスは、
 イギリス人の保護という名目で、清国貿易監察官を派遣
 した(まったくの言いがかり)。
  そしてまた、東インド艦隊を、監察官協力の名目で、
 清国へ出動をさせた。
  この様な事態を招来させたら、当然、つばぜり合いは
 起きる。
  清国の取り締まり、そして、アヘン引き渡し要求に強
 権で対峙したイギリス。
  清国側にも、イギリス人側にも、傷付き、そして、殺
 害されるものが出た。
  この様ないざこざでの被害を口実に、イギリスは、
 1839年9月4日に、九竜沖砲撃戦を行なった。
  そして、11月3日に、川鼻海戦で、清国船団が壊滅した。
  本国のイギリスでは、「アヘンの密輸」という「不義
 (不正義)の戦争」という批判はあったが、
  清国への出兵予算案は、議会で可決され承認された。
  この議決を受けて、イギリス海軍は、正式にイギリス
 東洋艦隊を編成し、清国へ派遣した。
  1840年8月に、清国到着後、清国沿岸地域を占領し始め
 た。
  そして、砲台を陥落させたりして、北京へ迫った。
  イギリスは、インドのセポイ兵や、軍艦の増強をした
 りして、清国侵略を奥深くまで進めて行った。
  そして、1842年8月29日の南京条約調印に至った。
  イギリスは、卑劣な事に、第二次アヘン戦争と言われ
 るアロー戦争も、清国としている。
  骨の髄まで吸いつくされる清国だった。
  武力が進んでいるからと、弱い者いじめを、いやと言
 うほどするキリスト教国のイギリスだった。
  再度、検証:
  1840年6月28日、アヘン戦争が始まる。
  この前年に、支那は、国が滅びる状態を打開しようと、
 林則徐(愛国的官僚、民衆からも慕われていた)を広東
 へ派遣した。
  林則徐は、イギリス商人の持つ禁制品のアヘンを押収
 し、焼却処分にした。
  この時、イギリス人水夫に、清国人が殺される事件が
 起きた。
  林則徐は、イギリスへ犯人引き渡しを要求した。
  イギリスは拒絶した。
  林則徐は、最後通牒を発した。
  広東のイギリス人区域を攻撃すると・・。
  居留地域にいた外国人はマカオに避難した。
  しかし、イギリスは、これを「これ、幸い」とした。
  イギリスは、イギリスと清国との軍事力の差を良く知
 っていた。
  イギリスは、清国より遙かに優越していると・・。
  まったくの弱い者いじめだった。
  戦争は、イギリスから先に始めた。
  清国の軍艦へ、イギリスは砲撃を開始して、戦争は始
 まった。
  イギリスは、やすやすと支那軍を破って行った。
  イギリス軍は香港を奪い、舟山列島を奪い、そして、
 上海・寧波・鎮江などを占領して行った。
  揚子江も侵入され、1842年8月29日、南京で清国は、
 イギリスと講和条約を結ばざるを得なかった。
  極めて不平等なる条約が、全敗の清国に押し付けられ、
 清国は、そのイギリスの要求を飲まざるを得なかった。
  そして、アヘン貿易は、さらに盛んとなり、社会はシ
 ッチャカ、メッチャカに混乱した。
  この報を受け、これを知った江戸幕府は動揺した。
  幕府は、それまでの強硬な「異国船打払い令」を和ら
 げ、この年の1842年に「薪水給与令」を発した。
  1840年~1842年、この年のアヘン戦争に日本は、いち
 早く反応した。
  日本は「阿片(あへん)風説書」をいち早く出し、警
 戒心を強めた。
  しかし、朝鮮は、9ヶ月も経って、使節が、李王に報
 告書を出したが、内容が簡単で、その貧弱な内容の為、
 事態が急変している事に気が付かないという状態だった。
..
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by suba28 | 2015-10-20 04:15 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)228D2/3:気になった事柄を集めた年表(1838年~1839年)

題:(増補版)228D2/3:気になった事柄を集めた年表(1838年~1839年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1839年(天保10年)1月、幕府が、国絵図作成功労者を褒章
 した。
1839年3月、江戸城西丸が修築され落成した。
1839年、4月10日、長崎で、密商の没収品を唐館前で焼き捨
 てた。
1839年5月、蛮社の獄で、渡辺崋山、高野長英らが捕えられ
 た。
  蘭学者への弾圧が始まった。
1839年8月、高杉晋作(たかすぎしんさく、長門(ながと)
 (山口県)萩(はぎ)藩の志士、尊王攘夷派)が生まれ
 た(1839年~1867年)
  吉田松陰の松下村塾に学び、久坂玄瑞と共に双璧と称
 されている。
  後に、江戸の昌平黌に学んだ。
  1857年(18歳)、藩校の明倫館に入学し、次いで、松
 下村塾に入る。
  1858年(19歳)、江戸に赴き昌平額に入学し、獄中の
 松蔭に金品を送った。
  1862年5月(23歳)に、藩命により幕府船千歳丸に乗船
 し、上海に渡航し、イギリスに虐(しいた)げられる植
 民地の状況をつぶさに観察して帰国し、後に尊王攘夷運
 動に参 加した。
  そして、この年・1862年11月に、江戸品川の御殿山に
 新築中ののイギリス公使館を焼き打ちにした(上海の悲
 惨な状況が頭に来ていたのだろう)
  1863年3月(24歳)、上洛、尊攘運動をいとい、いやだ
 と感じ、10年間の暇を乞うた(休暇願というところ)。
  「西へ行く人を慕ふて東行く 心の底ぞ神や知るらん」
 と、僧となり東行と号して萩に隠棲した。
  そして、長州藩は、外国船へ砲撃を断行し、報復攻撃
 にあって敗北していた。その直後の・・
  1863年6月(24歳)に、藩命によって下関防御の任に当
 たり奇兵隊を組織した。そして、その総監となった。
  「奇」は、正規軍の「正」に対する意味で、庶民も入
 隊ができるとした。
  8月18日の政変で、京を追われ、武力上洛論に反対し、
  1864年1月(25歳)、脱藩して上京、帰国して獄に入れ
 られる。
  出獄後、1864年8月(25歳)、四国連合艦隊の下関砲撃
 事件の前後処理を命じられ、正使として講和にあたった。
  第一次長州征伐にが進行すると、佐幕派の藩政府とな
 った。
  危機が迫ったので、九州に亡命して潜伏。
  そして、下関に帰り、1864年12月に、挙兵し、佐幕派
 藩政府を相手に勝利を収めたのちイギリス留学を希望す
 る。
  次いで脱藩し、讃岐の日柳燕石の元へ赴く。
  帰藩後、役を得て藩政を指導を担当。
  1866年6月(27歳)に、海軍総督となり、幕府との開戦
 直後、小倉方面の戦闘を指揮した。
  1866年10月、肺結核を重くして退職。
  1867年(慶応3年)4月に、下関で病歿した、29歳
1839年8月、長崎の諫早の本明川に掛けた眼鏡橋が完成した。
  諫早と北諫早をむすぶ唯一の橋として利用度も高く、
 毎年の洪水にも崩壊することなく耐えた。
1839年12月、水野忠邦が、老中首座となり、天保の改革が
 開始された。
1839年、蘭館医のリシュールが牛痘苗を移入した。
  シーボルトの門人の楢林宋建が実地に試みるが、腐敗
 していて、失敗に終わった。
1839年、三遊亭円朝(初代)(さんゆうていえんちょう、
 落語家)が、江戸に生まれた(1839年~1900年(明治33
 年)、名作と言われる落語を次々と創作した。
  二葉亭使命に影響を与えたという。
1839年、フランスが、アルジェリアで戦闘再開し、
  1842年に至って、征服した(1839年~1842年)
  復古王政下のフランスが、オスマン帝国領のアルジェ
 リアに侵略した。
  1830年6月、フランス軍のアルジェリア上陸を成功させ
 たフランス国王のシャルル10世の意図は、揺らぎ始めて
 いた王政の威信を外征の断行によって回復し、国民の不
 満を解決しようとした。
  しかし、1830年7月の7月革命で、シャルル10世は退位
 する。
  次の政権にも引き継がれて、アルジェリアへ、フラン
 スからの移民が送り込まれ行き、
  1834年、アルジェリアは、フランスに併合された。
  フランスは、軍を増派し、占領統治を強固にして行っ
 た。地方の有力部族と協定を締結して行った。
  しかし、その後、破棄する部族もあったりした。
  そして、1832年から、アルジェリア民族運動家(アブ
 ド・アルカーディル)の武装抵抗が始まった。
  1837年、フランスは、タフナ条約を結び、アブド・ア
 ルカーディルの支配する土地の主権を認めた。
  1839年、入植地の建設が進んで、ヨーロッパ系移民2万
 5000人が入植したが、フランスは、時間かせぎだった条
 約を破って、軍事行動を開始した、1839年から再び戦闘
 が始まり、1842年に至り、アルカーディルはその根拠地
 を失って行った。
  フランスは、焦土作戦など卑劣な作戦を使い、1842年
 に、降伏させた。
1839年、オスマン帝国が、タンジマート時代に入った。
  オスマン帝国が、「近代化」「西欧化」の改革政策の
 時代に入った(~1876年)。
  オスマン帝国は、15世紀~16世紀には、アジア・アフ
 リカ・ヨーロッパの三つの大陸に渡る広い大帝国を築い
 たが、
  18世紀に入ると、東西通商路の転換に伴って、経済力
 が衰退して来た。
  それに伴って、中央集権的政治機構も弱くなり、また、
 軍事力の衰微も著しかった。
  1768年や1787年の露土戦争に大敗したのが痛かった。
  それによって、地方勢力の伸長もあり、また、被支配
 諸民族の独立運動があり、ヨーロッパ諸国の軍事的・政
 治的侵略などが起き、
  国家は滅亡の危機に直面した。
1839年、イギリスは、紅海の入り口の国・アデン(南イエ
 メンの首都)を占領し、自分のものにした。
  南イエメンを保護領にした。
  保護と名付けたのは名分(めいぶん、表向きの理由)、
 実際は、条約によって干渉し、特に、外交などはイギリ
 スが代わって行った。
  結局、帝国主義国家・イギリスが、植民地・イエメン
 を支配した。
1839年、中国の清の官吏・林則徐が、イギリス船の広東入
 港を禁止した。
  林則徐は欽差大臣として、1838年から麻薬のアヘンに
 蝕(むしば)まれる国内の惨状から、アヘン没収や輸入
 禁止処置をとっていた。
  イギリス商人などから、何と、237万余斤(約1500トン)
 のアヘンを取り上げ、海岸で焼却していた・・など、
  しかし、イギリス船は、止めずに、密貿易でアヘンを
 運んで来ていた。
  イギリスは、自国の戦力が強いのをいいことに、好き
 に振る舞い、アヘン戦争へ至って行く。
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by suba28 | 2015-10-19 04:18 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)227D2/3:気になった事柄を集めた年表(1837年~1838年)

題:(増補版)227D2/3:気になった事柄を集めた年表(1837年~1838年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1838年(天保9年)2月、大隈重信(おおくましげのぶ、明
 治の政治家)が生まれた(1838年~1922年)
  肥前国(佐賀藩)藩士の生まれ。初名は八太郎。
  1869年(明治2年)31歳、大蔵大輔として財政面に尽力。
  1877年(明治10年)39歳、この年に起きた西南戦争で、
 軍事輸送にあたった三菱と密接な関係を持つ。
  1881年(明治14年)43歳、政変で下野し、
  1882年(明治15年)44歳、立憲改進党を創立し、総理
 となり、自由民権運動の一翼を担った。
  また、この年、東京専門学校(現:早稲田大学)を創
 立し(早稲田大学創立者、早稲田大学総長)
  1888年(明治21年)50歳、第1次伊藤内閣、ついで黒田
 内閣の外相となり、条約改正にあたるが、反対派に爆弾
 を投げつけられ右足を失う。
  1898年(明治31年)60歳、伊藤内閣・松方内閣の外相
 となった後、板垣退助と共に憲政党を結成し、日本初の
 政党内閣を組織する。
  1914年(大正3年)76歳、再び首相となり、第一次世界
 大戦への参戦を決定。
  1915年(大正4年)77歳、対華21ヶ条要求を提出した。
  1922年(大正11年)歿した、84歳
1838年2月、薩摩藩が、萩野流砲術師範役の鳥井平八と平七
 兄弟を長崎に派遣し、高島秋帆に入門させた。
1838年3月、江戸城の西の丸が炎上し、焼失した。
1838年閏4月、この年から5年間の倹約令が下った。
  この初年度以外は、まったく効果が表れず、財政難は
 一層、深刻になった。
1838年、春、京都で「豊年踊り」が大流行した。
  庶民の豊年への希望・期待が流行となったのだろう。
1838年5月、一橋慶昌(ひとつばしよしまさ、初之丞君〉卒。
  (氷川清話)
  12代将軍・徳川家慶の5男、14歳で没、
1838年、勝海舟、この頃、男谷下総守の門に撃剣を始めた
 のは13・4歳の頃なり。
  また柔術の同門・島田虎之助(見山と号す中津藩士)
 が、当時、浅草新堀に剣術道場を開き生徒を教える、
  麟太郎、其塾に薪水の労をとり修行す。
  その時、見山が言うには「剣道は形を学ぶのみで真に
 この術を修めるには心肝の錬磨である」と。
  それから、寒中に木剣を持って王子現社内に行き、社
 前の礎石に座り、時々、木剣をふって全身に精気充ち、
  また、静座す。
  こうして、天明に至り、帰塾し、日課についたという。
  また、見山の忠告で、西洋兵法を学ぶ。
  或時、城中で、和蘭献納の大砲を見て、砲身に横文字
 あり、これが文字なら読めないわけはないと、大砲を使
 用するため、蘭書を学ぶ必要を感ずるという(氷川清話)
1838年5月、長崎の諫早(いさはや)の眼鏡橋が起工された。
  それまで、本明川には橋はひとつもなかった。
  利用頻度も高く、毎年の洪水にも崩壊することなかっ
 た。
  永久に流されない橋を作ろうとの願いから作られた。
  1839年(天保10年)8月に完成した。
1838年6月、大判改鋳。
  この年に天保大判が鋳造された。
1838年7月27日、勝海舟、家督す、父惟寅隠居し夢酔と号す。
 (氷川清話)
1838年10月、渡辺崋山(わたなべかざん)が「慎機論(し
 んきろん)」を、高野長英(たかのちょうえい)が「夢
 物語(ゆめものがたり)」を著した。
  幕府の批判をした。
1838年、緒方洪庵(おがたこうあん、蘭学者、蘭医、教育
 者)が、大阪・瓦(かわら)町に、適々斎塾(てきてき
 さいじゅく)を開いて、蘭学を教えた(元来は医家の塾)。
  「蘭書解説の研究所だ」と本人は言う。
  だから、医師に限らず、蘭学を志す者、技術・知識の
 学を求める者が集まった・・と。
  1843年に、船場過書(せんばかしょ)町に移転、大い
 に発展して、全国から多数の門人が参集した。
  その数は3000人を超えたという。
  大村益次郎・橋本佐内・大鳥圭介・福沢諭吉などの人
 材を輩出した。
1838年、蘭書翻訳は暦天文究理書のほか、みだりに流布す
 べからざる布告。(氷川清話)
 (1839年・天保10年の説あり)、幕府は公儀関係者以外
 の翻訳書流布を制限しようとしたが、事実上、無視され
 た・・と。
1838年、奥羽地方が飢饉になる。
  最も被害の激しかったのは奥羽地方とあり、また、盛
 岡藩(南部藩)が凶作とあり、「霖雨・早冷・霜害、収
 穫皆無の所多し」とある。
1838年、都都逸(どどいつ)が流行。
  俗曲の演奏家の都都逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)
 が、この年に、牛込藁店(わらだな)の寄席で、「どど
 いつどどいつ」の囃子詞(はやしことば)をもつ「都都
 逸節」を流行させた。
1838年、大原幽学(おおはらゆうがく、農民指導者、農政
 学者)が、先祖株組合(せんぞかぶくみあい)を結成し
 た(1797年~1858年)
  これは、「子孫永永相続」という共有財産をつくって、
 農民の相互扶助を基とした。
  下総香取郡長部(ながべ)村に定着し、組合を4ヵ村
 に結成した。
  農業協同組合を世界で初めて創設し、先駆と言われて
 いる。
  幽学は、若いとき苦労し、仏教・儒教・神道を一体と
 とする独自の実践哲学を開いたという。
  そして、各地を訪れ、門人を増やし、1835年に、干拓
 地であった長部村に招かれ、農村振興に努力した。
  農業技術の指導や、耕地整理のほかに、質素倹約や道
 徳面、そして、子供の教育論などを指導・奨励した。
  教導所も設け、組織的にも行動した。
  長部村の領主・清水氏は、長部村の復興を称賛し、領
 内の他の村々にも模範とせよと触れている。
  しかし、反感を持つ勢力も出て、1852年に至り、勘定
 奉行に怪しまれ、取り調べられたのを切っ掛けに、解散
 を言い渡され、不成功に終わる。
  幽学の最後は切腹となっている。
1838年、アフガン戦争が起きた(~1919年)
  イギリスとアフガニスタンとの戦争。
  3回に渡って、戦われている。
  1919年に、ラワルピンディ条約で、アフガニスタンは、
 やっと独立ができた。
  イギリスは、ロシアに奪われる前に、奪ってしまおう
 と、1838年に、軍事行動を起こした。
  1878年に始められた第二次アフガン戦争によって、イ
 ギリスは、アフガニスタンを保護国とした。
  第三次アフガン戦争は、1919年の第一次世界大戦の直
 後に行われた戦争で、アフガニスタンは独立できた。
1838年、チャーチスト運動(労働者の普通選挙要求運動)
  イギリスの労働者は不満を抱えていた。その不満が、
 普通選挙の選挙権を得たいだった。
  しかし、その活動は、弾圧に会い、また、内部の対立
 もあり、1848年以後は衰え、1850年代に消滅した。
  特に、飢餓と貧困にいた貧しい労働者の方々が、政治
 的な民主主義を求めて、署名し、請願し、ストライキ活
 動などを行なった、しかし、弾圧で、目的は達成できな
 かった。
..
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by suba28 | 2015-10-18 04:02 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)226D2/3:気になった事柄を集めた年表(1836年~1837年)

題:(増補版)226D2/3:気になった事柄を集めた年表(1836年~1837年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1837年3月(天保8年2月19日)、大塩平八郎の乱(おおしお
 へいはちろうのらん)、
  世の中は、1833年から始まった「天保の大飢饉」の真
 っ只中だった。
  その飢饉は、1835年からさらに極まって、2年が過ぎ、
 この年・1837年は、社会の疲弊も極度に達していた。そ
 の時・・、
  大阪町奉行所の元与力の大塩平八郎が、大阪で乱を起
 こした。
  民の疲弊に対する憤怒(ふんど、ふんぬ、酷く怒るこ
 と)と、公儀(江戸幕府)に対する抗議・反乱だった。
  各地で多発する百姓一揆、大阪でも米不足で、飢饉に
 よる死者が続出していた。
  平八郎は、奉行所へ民衆の救済を何度も提言したが拒
 否された。
  奉行所は上(幕府)ばかりを見ていた。
  そこで、平八郎は、自らの蔵書・5万冊のすべてを売却
 し、得た金で、民を救済した。
  しかし、その行為までもが、奉行所はまったく理解を
 示さず、売名行為ぐらいにしか見なかった。
  日頃から依頼していた民への救済の事は、まったく顧
 みもしかった。
  そして、この様な時に、民の窮状の最中に、逆に、豪
 商が利を求めていた。
  平八郎の怒りも募り頂点に達した、そして、武装蜂起
 を決断する。
  武装蜂起に備え、家財を売り、家族を離縁した。
  そして、大砲など火器・爆薬なども整えた。
  そして、自らの門下生と近郷の農民へ檄文を回し、参
 加を呼びかけた。当然、公儀も知った。
  また、平八郎は、大坂町奉行所の不正や、役人の汚職
 を江戸・幕閣へ送付する、通達した。
  平八郎にとって、これが、宣戦布告であった。
  それを行ない平八郎は、門弟の武士や、農民ら約300人
 を率い、「救民天誅」の旗を立て決起した。
  民を救い、天の下す罰だ・・、
  鎮圧に出た幕府勢と市街戦を繰り返した。
  平八郎には、当然、勝敗の結果は分かっていたと思う。
  急に、私費だけで、立ち上がったのだから、頭の良か
 った平八郎はその結果は分かっていた。だが、行動を起
 こした。起こすべきだったから・・、
  可哀想だが、大阪市中の5分の1は焼かれたという。
  しかし、「大丸屋は義商なり、犯すなかれ」と焼き打
 ちはまぬがれたとある。
  しかし、戦いは1日も持ちこたえなかった、そして、四
 散した。
  平八郎は、約40日後に、大坂市中の隠れ家で見つかり、
 隠れ家に放火し、自刃・自害した。
  この決起は、全国へ影響した。同じ気持ちの同志は多
 かった。
  「平八郎の乱」のような乱が、越後柏崎・生田万の乱、
 備後三原、摂津能勢などの乱や騒動が、この後、日本の
 各地で起きた。
1837年(天保8年3月27日)、大塩平八郎が没した(1793年
 ~1837年、44歳)とあるが・・、
  大塩平八郎を、民は支持していた。火の中で死んだ平
 八郎は、死体が確認できなかった、死んでないという希
 望が語られ、そして、持たれた・・らしい・・
  また、仕置きが翌年に言い渡されたともあり、
  また、まだ生存している・・という説もある。
1837年(天保8年4月)、板垣退助(いたがきたいすけ、土
 佐高知藩士、政治家)が生まれた。
  土佐の生まれ、
  幕末期に討幕派に投じ、
  1868年、31歳、戊辰戦争に参加し、
 総督府参謀を務めた。
  1871年(明治4年)34歳、明治維新政府の参議になる。
  1873年(明治6年)36歳、征韓論で大久保利通らと対立
 し、西郷隆盛らとともに辞職した。
  1874年(明治7年)37歳、民撰議院設立建白書を提出し
 た。帰郷して立志社を起こし、自由民権運動を指導した。
  政治は民のものだの精神である。
  1881年(明治14年)44歳、自由党を結成して総理とな
 り、
  1891年(明治24年)54歳、再結成された自由党総理を
 務めた。
  1896年(明治29年)59歳、第二次伊藤内閣の内相。
  1898年(明治31年)61歳、大隈重信と日本最初の政党
 内閣を組織し、内相となった、また、伯爵となった。
1837年(天保8年9月)、12代将軍・徳川家慶(とくがわい
 えよし)が将軍になった。
  生没年 :1793年~1853年
  将軍期間:1837年~1853年
  11代将軍・家斉(いえなり)の次男。
  11代将軍の家斉の没後、家斉の側近を排し、老中首座
 に任じた水野忠邦を重用して、天保の改革を断行した。
  忠邦の後は、阿部正弘を起用した。
  11代将軍・家斉は大御所政治であった。家慶は、1837
 年に将軍職に就いたが、
  大御所となった家斉と、その側近に幕政を牛耳られ、
 実権を握れなかった。
  それ故、家斉の死後は、その家斉の側近を排したのだ
 った。
  寛政の政治を手本にして、幕政の立て直しを図ったが、
 急激すぎ、また、厳格すぎて人心を失い、失敗したとさ
 れている。
1837年10月28日(天保8年9月)、15代将軍・徳川慶喜(と
 くがわよしのぶ)が生まれた。江戸幕府の最後の将軍。
  生没年:(1837年~1913年)
  将軍期間:1866年~1867年、
  水戸藩の徳川家は、後楽園小石川に藩邸があり、ここ
 で生まれた。
  徳川斉昭の第7子。一橋家を相続した。
  1857年(20歳)、将軍・家定の継嗣候補に推されたが、
 井伊直弼の大老就任で、井伊の推す紀州藩・慶福(よし
 とみ)が14代将軍(家茂)に決定した。
  1858年(21歳)、条約締結問題につき、井伊を詰問し
 たことから、隠居謹慎させられたが、
  井伊の横死後、幕府が公武合体に転換したのに伴い、
 許されて、
  1862年(25歳)、朝廷と島津久光の要請により、幕命
 により一橋家を再相続し、将軍・家茂の後見人となり、
 松平慶永(よしなが)とともに幕政改革に務め、
  1863年(26歳)、上京して尊王攘夷勢力と対抗し、
  1864年(27歳)からの長州征伐を指揮したが
  1866年(29歳)、家茂が死ぬと、長州藩と休戦し、
  1866年12月、将軍となった。
  就任後、フランス公使ロッシュの援助で、幕政の改新
 をはかったが、大勢には抗しえず、
  1867年(30歳)、薩長両藩に討幕の密勅が下ると、
  山内豊信の意見を入れ、ただちに将軍職を辞した(大
 政奉還)。
  しかし、倒幕派の慶喜に対する辞官納地要求で、
  1868年(31歳)、鳥羽伏見の戦いとなり、
  慶喜は江戸に帰り謹慎し、江戸開城の日、水戸に移っ
 たが、
  1869年(32歳)、罪は許された。
  1902年(65歳)、公爵に列せられた。
1837年4月、民主主義的精神の『天保庄屋同盟』
  「街道をゆく、8」によれば・・、
  天保8年に、「吾党の外へは、口外を制すべき最大の密
 事」として、52ヶ条の盟約書を作ったとされる。
  天保庄屋同盟は、主として土佐郡、吾川(あがわ)郡、
 長岡郡の三郡の庄屋のあいだで、極秘に結ばれたもので、
 結盟の動機そのものは他愛ないと言えば他愛ない。
  在来、かれら農村地帯の庄屋の方が、町方の町役(ま
 ちやく)より上座だったのが、
  江戸中期以後の商品経済の盛行で、
  町が実力を持ち始め、祭礼などのときに町役の方が郷
 庄屋より上座につきたがる傾向があった。
  郷庄屋どもがこれに憤慨したのが、直接の動機であっ
 たらしい。
  しかし、談合してみると、身分社会とは何かという事
 をはっきりさせるだけの思想が必要になり、
  しかも、彼らはその思想を十分持ち合わせていた。
  庄屋たちのほとんどが南学(土佐に根付いた一種の特
 徴を持つ朱子学)の教養人であるか、そうでなければ土
 佐国学の祖である鹿持雅澄(かもちまさずみ)の学徒で
 あったりした。
  天保庄屋同盟の基調になっている精神は、平等思想。
  彼らの上部の構造である将軍も大名も武士というもの
 が、一挙に霞み、封建的身分制が仮の姿に見えてくる。
  「およそ一天四海のうち棟梁は唯一にして」ここで棟
 梁とは朝廷の意味。
  「根本、朝廷より国々へ預けたまふ皇民の身体につき」
 と盟約では表現している。
  この思想が、龍馬につながって行く。
  龍馬を尊敬した同郷の中江兆民がルソーの徒になり、
 その兆民の弟子だった、同じく土佐中村の人・幸徳秋水
 も、そういう系列の中の人といっていい。
  龍馬の語録:「本朝の国風、天子を除くほか、其の世
 の名目なり」。
  また、土佐を特徴づけた自由民権運動も天保庄屋同盟
 と照応するであろう。
  思想の土俗体質といえる。
  (注)名目:みょうもく、表向きのただの名称、
1837年6月、生田万の乱(いくたよろずのらん)
  越後柏崎の一揆(柏崎陣屋襲撃)
  大塩平八郎の乱と並び称される乱。
  越後柏崎で本陣を襲撃した一揆。
  国学者の生田万が門弟や農民たちと決起した。
  前年も凶作で、その中で代官と米商人が結託して、米
 の買占めを行ない、農民の貧窮が甚だしかった。
  大塩平八郎と同じく、また、平八郎の義挙(ぎきょ、
 正義のために起こす行動)に影響された生田万も、下記
 の文の様に、農民の方々の窮状を見るに忍びなく決起し
 たのだった(この様な事が昭和にも起きた)。
  「此節(このせつ)は四斗四升入にて一両二朱に御座候、
 五十六里はなれし山方(やまがた)にては葛(くず)之根な
 どを喰(く)ひ、小児をば川へ流し申候、(中略)扨(さて)
 大塩平八郎の事御写し被下辱(くだされかたじけなく)、
 当方にても諸所の届書並(ならびに)大塩の四ヶ国への捨
 文等、逐一に写し御座候(下略)」
1837年7月、江戸品川などに救小屋を設けた(品川・板橋・
 千住・内藤新宿)。
1837年、モリソン号事件(もりそんごうじけん)
  6月という記述もあり、7月にマカオを出帆して来たと
 いう記述もある。
  アメリカ商船のモリソン号が、漂民7名を伴い浦賀に
 入港した。
  しかし、異国船打払い令(1825年発令)に基づいて浦
 賀奉行が砲撃した。
  そして、薩摩へ向かい、7月に、モリソン号は薩摩の山
 川港に入港したが、再び、薩摩藩主が砲撃した。
  このことについて、崋山らがこれを批判したため、幕
 府に弾圧された(蛮社の獄、1839年)、
1837年~1843年、天保金銀(てんぽうきんぎん)
  幕府が、1837年に、金銀貨を改鋳した。
  天保の大飢饉後の物価高騰や、幕府財政の破綻状況の
 ため、その財政補強のための改鋳。
  五両判・小判・一分金・丁銀・豆板銀・一分銀など
  文政の金銀より品質を改悪して、莫大な改鋳益金を出
 し、非常用に備蓄した。
  今は、ただの紙のお札。日本もそうだが、アメリカな
 どは、特に、世界の基軸通貨だと言って、どんどん刷っ
 て、世界にばらまいている。
1837年、「ノブレス・オブリージュ」という言葉があるが、
  この言葉は、19世紀のイギリスの女優であり著作家の
 ファニー・ケンブルという人が、この年に、手紙に使っ
 たのが最初と言われている。
  この言葉は、フランス語で、直訳すると「高貴さは強
 制する」と訳せる。
  つまり、「高貴なる者にともなう義務」と訳したりし
 ている。
  これは、キリスト教社会の完全なプロパガンダ(嘘宣
 伝)。
  欧米はキリスト教社会だからなどと説明している。
  この「施し」をする義務を負うというのはそういう状
 況ではない、
  事実は、「貴族が領土の民を豊かにしておかないと、
 動乱を起こされて、ひっくり返されてしまうから、適度
 に施しを与えておかなければいけない」という所から、
 発想から生まれていた。
  決して単純な善意でやっているのではない。
  そして、キリスト教の理解がない日本人は誤解して、
 「貧しい人には、見返りを求めずに助けてあげなければ」
 と言うが・・この意味ではない。
..
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(増補版)225D2/3:気になった事柄を集めた年表(1835年~1836年)

題:(増補版)225D2/3:気になった事柄を集めた年表(1835年~1836年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1836年1月、坂本龍馬(さかもとりょうま、志士、土佐藩
 郷士)が生まれる。
  (生没年:1836年1月3日~1867年12月10日)
  訂正:224D2/3で「1835年、坂本龍馬が生まれる」
 と記述したのは誤りです。
  薩長同盟など活躍する。
  この龍馬の生まれ育った地・土佐の商家(龍馬の家も
 才谷屋という裕福な商家だった)は、民主主義の考え方
 が根付いていた。
  この様な環境が、龍馬を育てたのだろう。
  日本人の気質・心根は、心優しいが故に民主主義が根
 付いている。
  明治維新になって西洋から学んだと言うのは日本を見
 誤っている。
  西洋を美化する人達の言うこと。
  また、日本は、古代から女性蔑視感もなく、平等の意
 識も古くからあった。
  そして、龍馬と同じ、この地の土佐出身の板垣退助が
 自由民権運動をして日本を導いたのも頷(うなづ)ける。
1836年(天保7年)、天保の大飢饉
  1835年から1837年にかけて起きていた大飢饉。
  全国的な飢饉で、神田にも御救い小屋が設置された。
  江戸・大坂では打ち壊しが起き、各地に百姓一揆が起
 こった(甲斐・三河・陸奥)
1836年7月、米価騰貴のため江戸への廻米は自由とした。
1837年7月、「江戸名所図絵(えどめいしょずえ)」が刊行し
 た。
  絵入りの江戸地誌で、「1834年~1836年に刊」との記
 述もある。
  江戸とその近郊の神社・仏閣・名所・旧跡の由来や故
 事が記されている。
  7巻20冊で、1834年に前半の10冊、1836年に後半の10冊
 を刊行したともある。
  実地調査によって記されていて、史料的価値は高いと
 いう。
  特に、風俗、行事、景観は実地の写生で精緻で、江戸
 生活資料として良いとある。
1836年、この頃、滑稽本・人情本が盛ん。
  文化文政の(1804年~1830年)を「化政文化(かせい
 ぶんか)」と言い、
  元禄文化が上方を中心に花開いたが、
  この化政文化は、江戸を中心とした町人文化で、上方
 落語が江戸に移植されたり、歌舞伎が盛んとなったり、
 俳諧・川柳、狂歌なども庶民層に盛んになった。
  読本として滝沢馬琴・山東京伝、滑稽本として十辺舎
 一九・式亭三馬、人情本として柳亭種彦・為永春水が盛
 んとなった。
1836年7月、ロシア船が、択捉(えとろふ)に渡来した(天
 保雑記)。
  このロシア船は、太平洋で遭難して、ハワイ・アラス
 カを経由してオホーツクに送られていた日本人漂流民を
 乗せていた。
  警備していた日本の兵(番所の守備兵)の砲撃の間隙
 をついて、その漂流民3名を上陸させたとある。
  この漂流船は、越後の五社丸だという。
1836年8月、甲斐の郡内騒動(ぐんないそうどう甲州一揆)
  甲斐国郡内地方:都留(つる)郡一帯で始まり、甲斐
 一国の全域に波及した百姓一揆。
  甲州天保騒動ともいう。
  1833年以来の凶作と米価高騰や、特産品の絹織物の価
 格の暴落が直接の原因。
  夜、都留郡の甲州道中の村々の農民たちが決起し、
  笹子峠を越え、甲府盆地の東部の米穀商や豪農を襲撃
 して始まった。
  甲府町方のほか国中地方の106ヵ村にわたる豪農・富商
 305軒を打毀し、甲斐国内が無政府状態と化した。
1836年3月6日、メキシコの領土だったアメリカ合衆国のニ
 ュー・メキシコ州やカリフォルニア州など・・、
  メキシコとの領土において、アメリカは、ここで、第
 二次世界大戦の時に日本へやった事と同じことをやった。
  アメリカは、メキシコに色々と悪いことをしていた。
  怒ったメキシコが、アメリカに攻め込んだら、正義は
 こちらにあるとメキシコを攻めた。
  西部劇でよくある「銃を抜いたのはあいつだと言って、
 早打ちのガンマンが、良心的な開拓者の農夫を撃ち殺す」
 という図だ。
  キリスト教にもこの教えがある。
  相手に警告さえすれば攻め殺して良いという教え・教
 義だ。
  このメキシコとの戦争もその図だった。
  アラモ砦の人々が玉砕したが、この玉砕が、あたかも
 キリスト教の生贄(いけにえ)の儀式の如くの役をした。
  アメリカ人は正義を掲げて怒り立ったというが?(ど
 っちが正義だったのか?)
  アメリカは、強大な力でメキシコに襲い掛かって、暴
 虐(ぼうぎゃく)な行為を用いた。
  この後(1853年)に、日本に来たペリーも、このアメ
 リカのメキシコ侵攻について、自己批判的な評価をして
 いる(アメリカは悪かったと、ペリーは正直だった)。
  アメリカが良くやる手で、ちょっかいを出して、テキ
 サスをメキシコから独立する動きをさせた。
  アメリカは、パナマ運河を手に入れる時も、このパナ
 マにちょっかいを出して独立の動きをさせている。
  結局、パナマは独立してアメリカのもの同然となった。
  それと同じだった。
  メキシコは、自分の領土のテキサスの独立を押さえよ
 うと軍隊を派遣した。
  その時、独立を叫ぶ市民189人と武装集団(義勇兵?)
 がアラモ教会(先住民のインディアンの方々をキリスト
 教に改宗させようとした教会)を砦として立てこもった。
  戦闘は1836年2月23日に始まった。
  3月6日に至り、最後の兵が倒れ戦闘は終結した。
  このアラモの教会(アラモ砦)の189名の市民と武装集
 団は全滅した。
  しかし、メキシコ軍も1500人の戦死者を出していた。
  この様な動きが、また、別の場所で、この46日後の4月
 21日に起きた。
  この時は、メキシコ軍は630人の戦死者と730人の捕虜
 を出すという大きな打撃を受け、メキシコ軍は崩壊した。
  そして、テキサスの独立に至った。
  そして、1845年に、テキサス共和国は、アメリカ合衆
 国に加盟した(アメリカの思惑通り)。
  デビッド・クロケットが活躍したという。
  また、アラモ砦の指揮官ウィリアム・バレット・トラ
 ビスと副指揮官ジェームズ・ボウの武勇伝は伝説となっ
 て美化されている。
  このメキシコが取られた失敗は、東部のアメリカ人に
 テキサスやカリフォルニアへの入植を許したことにあっ
 た。
  メキシコが出した入植条件がまずかった。
  それ故、このアメリカ合衆国東部からのアメリカ人(
 アングロサクソン系の白人のテキサス人で、元アメリカ
 人である)が独立を画策し、サンアントニオ市を占領し
 たりした。
  元アメリカ人の移入の地域に、当然のごとく、アメリ
 カの援助が来た。
  ディヴィド・クロケットも参加した。
  ニューオリンズからも来た。
  この順番で、メキシコは、自国領をアメリカに奪われ
 て行った。
  メキシコ軍が敗れたのも、独立を求めた地元の独立派
 の力ではなく、アメリカ南部から来たアメリカ軍に敗れ
 たのだった。
  完全にアメリカ軍が侵略戦争をしたのだった。
  それが、10年後に始まる。
  アメリカへ併合となる。
  日韓併合ではないが・・併合はもともといた国(アメ
 リカ)であるから抵抗なしで行われた。
  しかし、テキサス独立はやむを得ないが、併合となる
 とアメリカに取られた形になるので、メキシコは猛反対
 した。
  当然である。
  ここに1846年に、アメリカとメキシコの戦争が始まっ
 た(米墨戦争)。
  メキシコはアメリカの敵ではなかった。
  日本との差と同じ。
  メキシコは敗けた。
  アメリカは、メキシコ領を戦争に勝って奪い取った。
1836年、イギリスのオーストラリアの不法占拠が始まって
 約50年が経たこの年・1836年に、
  オーストラリアのニューサウズウェールズ州の裁判所
 で、
  先住民のアボリジニーの方々の土地所有について、次
 の判決が下された。
  「人口の少なさと、
   政治組織の欠如ゆえに、
   アボリジニーは、自分たちの占有していた土地地域
 の所有を主張する自由で独立した部族集団の一員とは認
 めることは出来ない」・・と。
  だから、我々・イギリス人のものだと言う・・
  オーストラリアの土地は、イギリス人のものだと言う
 ・・?
  おかしいではないか・・?
  例えば、あなたの家に、全く見ず知らずの人が入って
 来て、
  この家に一人しか住んでいないので、
  この一人の人間は、この家の持ち主とは認める事が出
 来ない・・と言われたら、あなたはどうですか?
  ヨーロッパ人、特に、イギリス人やアメリカ人はよく
 このような事をする。
  自分に都合のよい法律を作って、
  法律に従ってやったまでだ、だから正しい行動なのだ、
 正義なのだ・・という主張をよくする。
  政治組織が無いから欠如状態だ、だから権利はない・・
 は、おかしい?
  所有権を主張できない子供が、その欠如状態を「不十
 分だから」として、その子供の所有しているものを奪っ
 て良いのか?
  このイギリスの行為はその様な行為だ、強盗行為だ。
  盗みをしておきながら平気でいたり、こちらが正しい 
 正義だと、相手の不備でない不備をあげつらうイギリス
 の行為は、歴史にあまりにも多い。
  キリスト教の教義的思考である。
  そして、イギリス人たちは、こんな形で、自分たちの
 正当性を確認すると、
  また、相手は劣っている、自分たちには優越性がある
 と確認すると、
  アボリジニーの方々との衝突や対立は何度も繰り返し
 ていたが、
  着実に、イギリス人たちは、奥地へと開拓地を拡大し
 て行った。
  そして、羊牧地の確保が行われて行った。
  そして、オーストラリア産のメリノ品種の羊毛が、品
 質・価格において、スペインやドイツ産の羊毛に劣らな
 いことが判明して、またまた、大きく進展した。
  そうして、オーストラリアが、イギリス産業の原料供
 給国になって行った。
  単なる流刑地と位置づけられていた地が、
  イギリス本国の経済利益と合致する存在となって行っ
 た。
  その様な、オーストラリアの土地の有効性が判明する
 と、その後の動きは、早く、そして、大きく展開した。
  この頃から、都市部では人口過密が問題となって来た。
  大量の入植者(侵略者)が、イギリス本国から移住し
 て来た。
  占領地は、オーストラリア南東部へと広がって行った。
  1860年代までには、北はクィンズランドの南部地域か
 ら、南は南オーストラリアまで開発された。
  羊は2000万頭となった。
  こうした急激な開拓地の拡大に、アボリジニーの方々
 の社会に幾多の大きな打撃が与えられた。
  アボリジニーの方々の生きるための土地が奪われた事
 は明白だった。
  アボリジニーの方々は食糧不足に直面した。
  また、貴重な水源をも奪われていた。
  アボリジニーの方々は、水を多く含む植物などの知恵
 でも水分供給をしていたが、
  この様な植物が、羊に食われて無くなるという、深刻
 な問題も生じた。
  羊たちは、飲料水も消費してしまった。
  アボリジニーの方々に食糧と水のない危機が起きた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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by suba28 | 2015-10-15 05:08 | 皆様とともに 幸せになりたい


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