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(増補版)169D1/3:気になった事柄を集めた年表(1744年~1745年)

題:(増補版)169D1/3:気になった事柄を集めた年表(1744年~1745年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1745年、伊能忠敬(いのうただたか、測量家、商人)が生
 まれた(1745年~1818年)
  蝦夷(えぞ)、後に、日本全国の実地測量を行い、日
 本最初の実測地図を作製した。
  1795年の隠居(50歳)の翌年に、江戸へ出て、幕府天
 文方の高橋至時(たかはしよしとき)に師事した。
  1800年に、至時の推挙で幕府から奥州道中と蝦夷地の
 東南沿岸の測量を任される。
  その後、1816年まで、日本全国の測量を行なった。
  そして、この17年間の実測をもとに「大日本沿海輿地
 (よち)全図」(伊能図)を作成中、1818年4月18日に、
 没した。
  高橋至時は、天文暦学者で、大阪の定番同心(じょう
 ばん、城番ともいい、大阪城に在勤して警備した人の下
 の同心)の家職を継ぎ、1781年~1788年頃に、麻田剛立
 に天文暦学を学んだ。
  1795年に、幕府天文方に登用された。
1745年9月、徳川吉宗が引退し、子(長男)の徳川家重(い
 えしげ)が、9代将軍になった(1712年~1761年、将軍
 期間:1745年~1760年)
  生来虚弱なため吉宗が後見したが、後に、大岡忠光が
 側用人として活躍した。
  幕政は、表面的には安定した時期であった。
  父・吉宗が、紀州家から将軍家を継ぐのに伴い江戸城
 に移り、世嗣(せいし、よつぎ、跡目を相続すること)
 となり、室鳩巣らの教育を受けた。
  大岡忠光(おおおかただみつ)は、1724年に、12歳の
 家重の小姓となり、病弱で言語不明瞭な家重の意思を理
 解する唯一の側近だった。
  性格が恭謙(きょうけん、慎み深く、へりくだること)
 だったので、驕る(おごる、思い上がる)ことはなかっ
 たという。
1745年、江戸大火(六道火事)
  千駄ヶ谷出火、青山・麻布・白金・高輪・品川へ延焼。
  死者数:1323人、焼失:28678軒
1745年、世論:年貢増徴政策への反省
  農民からの年貢の増徴政策への反対が強まった。
  享保の改革は、目安箱を設置したりして、下層民の言
 葉を聞いたりして、貧民・病人の救済策を行なったり(
 小石川養生所)していたが、また、それを諸藩も行うよ
 うに指導したりしていたが、
  そして、私娼や賭け事、心中などの風紀の健全化にも
 努めていたが、また、さつまいもなど飢饉対策にも努め
 てもいたが、また、朝鮮人参などの薬草栽培の奨励、菜
 種油・桃・サクラの商品作物も奨励し、植林もして、収
 入の多面化をしたり、環境整備をしたり、新田も一生懸
 命に開発していたが、そして、治水も一生懸命したりし
 ていたが、また、孝行者や善行者を褒章したり、日本の
 測量をして絵図を作成したり、人口調査して国の実態把
 握に努めたりして、外国からの書の輸入に努め、国民教
 育に努めたりしていたが、そして、倹約をするように指
 導したり、また、農政の安定化をしたいと年貢の強化を
 した。
  この最後の政策に、庶民は不満を持った。
1745年、人事:松平乗邑(のりむら、のりさと)が、家重
 が将軍に就任すると、直後に老中を罷免され、加増され
 た1万石を没収され、蟄居(ちっきょ、家の中に閉じこ
 もって外出しないこと)を命ぜられた。
  将軍に家重以外を推挙したため。
1745年、施策:江戸市中の寺社門前地を町奉行支配下へ組
 み込まれた。
  江戸の市中の治安を、一括して町奉行が統轄するため
 だった。
1745年、事件:加賀騒動
  加賀騒動は、悪役の代表となっている大槻伝蔵が、藩
 主・前田吉徳(六代藩主)の寵を得て、
  1716年に、10俵3人扶持の下っ端(したっぱ)から近習
 に取り立てられた。
  そして、1743年には、3800石の重臣にまで栄達した。
  そこで、前田家譜代の重臣たちの反感を買って、
  藩内は、2派に分かれて対立した
  大槻一派は、家老・前田直躬と対立した。
  吉徳の側室が、大槻一派と結んで、我が子を世継にし
 ようとした・・が、
  やがて1745年に、藩主・吉徳が死しんで・・後に、権
 勢を失って没落した。
  吉徳の前代、前田綱紀(加賀藩五代藩主)の改革でか
 なり豊かであった加賀藩財政も、この騒動ですっかり崩
 れた。その後の回復はなかった。
1745年、イギリスで、ジャコバイトの反乱が起きた。
  翌年の1746年頃まで、乱れた社会は続いた。
  ジャコバイトとは、名誉革命で亡命した国王・ジェー
 ムズ2世と、その子孫を、「正統のイギリス君主だ」とし
 て支持した人々の事を言い、キリスト教カトリックであ
 った(また、保守的性向の強い層のイギリス国教会)。
  そして、アイルランドや、スコットランド地方に根強
 かった。
  ジェームス2世は、悪事も極まっていたので、名誉革命
 の時は、君主側に立つ人もなく、退位を強制されたくら
 いで、味方する者なく、やむなくフランスに亡命した。
  そのくらいの状態で、だから血も流れずに、ジェーム
 ズ2世はイギリスを逃げ出した。
  その無血をもって、無血だから名誉革命だと言うのは
 おかしい(まったく逆の不名誉な話なのに・・)。
  そしてまた、この君主の不名誉なところは、何度も、
 なんだかんだとフランスの応援を得て、恨みを張らす的
 な行動をする。
  この後に、この元君主・ジェームズ2世は、フランスの
 後押しで、イギリスの地の、北の遠い地に、借りた軍を
 上陸させて、汚名を晴らそうとする。
  この様なふがいない君主だった。
  そして、この時もまた、フランス国王のルイ14世の助
 けを、またまた借りて、イギリス国王・ウィリアム3世
 の暗殺計画を立てたり、そして、1745年まで、しばしば
 反乱も起こした。
18世紀~19世紀、オーストラリアの占有(せんゆう、自分
 の所有にすること)
  イギリス人が、オーストラリアを占有(入植)し、
  この地で、原住民のアボリジニの方々へ酷(ひど)い
 ことをする。
  何と、『絶滅するに、何ら躊躇はいらない』という方
 針だった。
  そんな方針のため、アボリジニの方々を、あたかも動
 物の狩りをする様に殺戮した。
  今、アボリジニの方々は、可哀想な事に、絶滅に瀕(
 ひん)している。
  この有色人種を軽んじ、そして、蔑視することは、キ
 リスト教の教義・教えから来ている。
  18世紀末、オーストラリアは、この頃まで、イギリス
 の囚人の捨て場となっていた。
  そして、本国のイギリスの経済的束縛を強いられてい
 た。
  オーストラリア人は、現在でも、テーブルスピーチの
 時に、「自分は1800年以降の移民の子孫だ」と、一々
 断るという。
  「囚人の子孫ではない」という事を言いたいのだ。
  本人たちも、不名誉な、非人道的な、やってはいけな
 い事だと思っている。
..
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by suba28 | 2015-07-30 15:53 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)168D1/3:気になった事柄を集めた年表(1742年~1744年)

題:(増補版)168D1/3:気になった事柄を集めた年表(1742年~1744年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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18世紀、卑劣な、細菌などによる殲滅
  この頃の、18世紀のカナダでは、イギリスやフランス
 が、先住民のインディアンの方々を、
  先にカナダに来て、既に、住んでいた方々を、
  安上がりに殲滅する方法だとして、細菌などによる殲
 滅行為を行った。
  はしかの患者の衣服を買い集めたり、その他の病気の
 菌が付着したものなどを(毛布など)、
  インディアンの方々へ配った。
  この様な悪行為を行った記録が、残されている。
  その複数の部族の方々は、現在では、完全に絶滅させ
 られて、
  まったく『痕跡すら留めていない状態』となっている。
  エール大学のディビット・オブライエン教授は、
  「人類史上、最大のもっとも忌(い)まわしい大量殺
 戮だ」と言って居られる。
  キリスト教の『有色人種蔑視』に洗脳された者たちの
 行為である。
  キリスト教聖職者が『人間ではない』と言った記録も
 あるが・・、
  この宗教にマインド・コントロールされた者たちが、
 この言葉にならない程の極悪な行為を為させた。
1743年、農政:サツマイモの栽培を、徳川吉宗がすすめた。
1743年、清の貿易船数を減じた。
1743年、貿易:海外貿易による致富を説いた(本多利明)
  本多利明(ほんだとしあき、数学者、経済思想家)(
 1743年~1821年)は、
  「西域物語」「経世秘策」を著して、
  積極的な海外貿易による致富を説いた。
  越後の人。
  江戸に出て、数学・天文学・蘭学を学び、
  23歳の時に算学、天文の私塾を開いた。
  重商主義的立場から、貿易振興による富国策を説いた。
  「経世秘策(けいせいひさく)」は:
  1801年に成り、
  開国交易・属島開発による富国政策を論じた。
  国を経営し、
  そして、富ますのが良いのだ、
  その秘策となる政策は・・を、論じた。
  この書は、著者の思想、政策が体系的に示されていて、
 著者の代表作の一つ。
  富国策の基本には、
  爆薬、国土開発の手段や、金銀銅鉄鉛山の開発や、
  船舶(海外貿易用の大きなもので、官営のものを)や、
  属島(北海道や樺太を主にして、科学的な開発)が急
 務だと説いた。
  「西域物語(せいいきものがたり)」は:
  当時、良く知られていなかった西洋を説き、
  激動していた当時の内外情勢をよく把握して説明して
 おり、
  それを反映した現在起きている事象の記述は、具体的
 であった。
  開国の思想を説いた。
  また、物理学の大切さを説き、
  学問の基本だと強調した。
  そして、天文、地理、渡海の学をもっと極めよとした。
  飢饉救済論にも触れ、
  物価の操作の有害も述べ、
  官営貿易の実施を説いた。
  北方王国の建設なども説いた。
  また、アルファベットの導入なども説き、カムチャッ 
 カ半島への遷都も説いた。
  因みに、ドナルド・キーンの修士論文は、本多利明に
 ついてのもの。
1743年、トルコ・イラン戦争が起きた(~1746年)
  対オスマン・トルコとの戦いを再開するが、目立った
 戦果はあがらなかった。
  ナーディル・シャー(イランのシャー)は、ナジャフ
 (イラク中南部の都市)を割譲させたのみであった。
1744年、日本の総人口、26,153,000人
1744年10月、甘藷の栽培を奨励する。
1744年、科学:天文学
  徳川吉宗が、神田佐久間町に天文台を造った。
  数年後、西川如見の息子・正休が天体観測をする。
  因みに、如見は、1724年に没している。
  正休は、如見の次男で、長崎に生まれ、父に従って家
 学を受け、その学に精通した。
  才長けていて、吉宗に天学の才を認められ、幕府御家
 人に取り立てられ、暦術測量御用を勤めた。
  1747年に、天文方に任ぜられた。
1744年、出版:御触書寛保集成(おふれがきかんぽうしゅ
 うせい)が成った。
  吉宗が、評定所に命じて集成させた法令集。
  1615年~1743年までの御触書を集めたもの。
1744年、ジョージ王戦争(英仏植民地戦争、~1748年)
  オーストリア継承戦争に対する、北アメリカ東部の新
 大陸における植民地争奪戦争。
  ヨーロッパで、マリア・テレジアが、君主の座を継承
 したために起きた戦争が、北米大陸に波及して戦った。
  イギリス側のニューイングランド知事が組織したカナ
 ダ遠征軍が、
  セントローレンス湾の岬にあったフランス側の要塞を
 包囲し、6週間後に陥落させた。
  インディアンの方々も戦争に巻き込まれ、犠牲者の出
 る迷惑な戦争の波及事態だった。
1744年、「続大典」成る。
  「経国大典」を基本として、増補などを行なったもの。
  統治の骨格を形成するものとして、重要な位置を占め
 ている。
  「経国大典」は、朝鮮の李朝の基本法典、1484年に完
 成し、翌年、施行されていた。
1744年、第一次カルナータカ戦争(~1748年)
  カルナータ戦争は、1744年~1763年の間に、イギリス
 とフランスの間で、三次に渡って戦われた戦争。
  戦地は、インドのカルナータカ地方で、迷惑な話だっ
 た。
  イギリスは、フランスから南インドの派遣を奪った。
  フランスは、インドからインドシナへ重点を移した。
  いずれにしても、他人の土地で、好き勝手をやってい
 たイギリスとフランスだった。
  植民地貿易で、えげつない利益を上げて、それをさら
 に増やしたいと、
  今度は武力を行使して、他人の土地で戦争をするとい
 う暴力的な両国だった。
  また、イギリスとフランスのヨーロッパの戦争が、イ
 ンドに飛び火するという形だった。
  スペインの王位継承を端緒にして、イギリスとフラン
 スが戦争をするが、
  1744年以来、インドへ飛び火して、それが、インドの
 欲の争奪戦争へとなって行った。
  貿易の目的で始まった東インド会社から、国と国の欲
 の塊(かたまり)の奪い合い戦争になった。卑劣な事だ。
  1744年、インドにおける、フランスのえげつない植民
 地収奪活動は、
  同じくえげつない収奪活動をしているイギリスとぶつ
 かるようになっていたのだった。
  イギリスとフランスの両国は、スペイン王位相続問題
 でヨーロッパで戦争を始め、
  それが、インドへもおよび、植民地覇権争奪も加わっ
 て、インドも戦争の舞台となってしまった。
  金が欲しい、旨いものが欲しいの餓鬼の争いであった。
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by suba28 | 2015-07-29 16:51 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)167D1/3:気になった事柄を集めた年表(1740年~1742年)

題:(増補版)167D1/3:気になった事柄を集めた年表(1740年~1742年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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18世紀、長年、キリスト教と戦ってきたフランスだった。
  そのフランスの知識人・ギイ・シボン氏の言葉:
  「18世紀の市民たちの革命は、『王権神授説』を支え
 たキリスト教会の権威を倒すための行動だった」・・
 ・・と言った。
  キリスト教は、権威が得たいと、あらゆる手を使った。
  俗の世界のものにまで、手を出した。
  そこで、俗の世界の最高位にある王権が、(キリスト
 教の)神から国王に授けられたものだという破廉恥な考
 えを押し付けた。
  その様な行為でもって、キリスト教は、権威を得て行
 った。また、権力を得て行った。
  智のある人たちは、その不本意な行為と戦った。キリ
 スト教と戦った。
  しかし、キリスト教は、その俗の王を凌(しの)ぐ力
 (ちから)を持った。
  俗の王が、キリスト教権力に、破門の解除を願い、許
 しを乞うた話が、過去にもある、「カノッサの屈辱」と
 いう歴史的事実だ。
  この話は、キリスト教が、強権を使って、俗の王を謝
 らせてしまったという話である・・が、
  この歴史的事実は、キリスト教のプロパガンダ(嘘宣
 伝)で、キリスト教が美しく話を仕立てて話されている、
  が、しかし、話は、まったく逆である、
  キリスト教が、キリスト教の権威で、腕力で、俗の王
 を謝らせた・・という権力闘争に打ち勝ったという話で
 ある。
  王権神授説(おうけんしんじゅせつ):王の統治権は
 人民の委託によらず、(キリスト教の)神の特別な恩寵
 おんちょう)に基づく・・とする。
  人民の総意ではない、人民の意思ではないというから
 恐れ入ってしまう。
  恩寵(おんちょう):(キリスト教の)神から受ける
   恵み。
  この話を、キリスト教に偏するNHKは、学校放送の
 番組として、キリスト教と同じ言い方で高校生たちに説
 明した。
  まったくキリスト教会の手先の様な放送をした。
1741年、ロシアのヴィトゥス・ベーリングが、第二次探検
 でアラスカ沿岸に達した。
  この第2回カムチャッカ探検は、1733年~1743年にかけ
 て行われた。
  ロシアは、1733年に、探検隊を編成した。
  そして、1741年7月4日に、第二次調査隊が、ペトロバ
 ブロフスを、アメリカ大陸を目ざして出発した。
  そして、1741年7月16日に、アラスカの陸影を視認した。
  そして、数日後、アラスカのカヤック島に上陸した(
 7月17日説あり)
  その後、カムチャッカに向かい、発見した陸地を海図
 に記入しながら航海を続けた。
  そして、1741年8月末に、アリューシャン列島の島々を
 発見し、シュマージン諸島の島の一つに上陸した。
  そこで一週間をすごし、土地の住民のアレウト人と初
 めて遭遇した
  (だから、ロシア人が最初の発見者ではない。アレウ
 ト人が最初である)
  その後、病気で死んだ乗組員を葬ったり、大嵐に見舞
 われたりして、1741年11月4日に、コマンドルスキー諸島
 の無人島の海岸線を視認後に漂着した。
  壊れた乗船と、多くの病人を抱え、ベーリング船長自
 身も重い病のなか、その島に上陸した。
  そして、その島に居た巨大なジュゴンを獲って、飢え
 をしのぎながら、越冬した。
  しかし、1741年12月8日に、ベーリング船長は、60歳で
 没した。そして、この島に葬られた。
  ベーリング隊の生き延びた乗組員は、船医で博物学者
 であるステラー博士と、ワクセル中尉に率いられて、カ
 ムチャッカに戻った。
  この途中で、ステラー博士も亡くなった。
  この後、この乗組員たちを救ったジュゴンは、乱獲さ
 れ絶滅したという。
1742年11月、銅の輸出額を制限した。
  幕府は、長崎を天領とし、奉行をおいて、貿易を監督
 した。
  おもな輸入品は、生糸・薬品・書籍だった。
  そして、輸出品は、銀・銅・海産物だった。
  日本の銅は品質が良かった。
  遠い日本の地であっても国際的な競争力があり、大量
 に流出していた。
  また、生糸などの輸入価格が引き上げられ、大量流出
 の原因にもなっていた。
  幕府も貿易統制を行なったり(市法売買)努力した。
  日本の貨幣改鋳による金銀の質の低下が起きると、銅
 の輸出額(量)が急激に増加して行った。
  銅の集荷などを幕府はさせたが、
  また、海産物の輸出の増加をはかって、銅などの流出
 量を減らそうとした・・が、
  銅の需要の急激な増加は、各地の銅山をたちまち枯渇
 させた。
  その様な中、金銀の流出も防止せざるを得なく防止し
 たため、銅へ集中する状況においてコントロールが行わ
 れた。
1742年、経済:幕領年貢
  この頃の幕領年貢は、近世後期最大の180万石となる。
1742年、令:公事方御定書(くじがたおさだめがき)
  御定書百箇条(刑法関係成文法規)を作った。
  この「公事方御定書」は、吉宗の命によって、老中の
 松平乗邑、および、三奉行が中心になって作成した(幕
 府の内規集という形)。
  法律に関心の深かった吉宗自身の意見も、随所に反映
 されているという。
  そして、この作成者ら以外には秘密にされた。
  判例・取り決めなど103条が収めてある。
  1742年に、一応、出来上がったが、奥書(おくがき、
 著作や写本などの巻末の、著者名・書写年月日・来歴な
 どについての書き入れ)も書かれたので、一般に、この
 年を成立時期としているが、
  編集は、続行されていて、実質的に完成したのは、翌
 年の1743年だった。
  そして、その後も1754年まで書き加えが行われている。
1742年、フランソワ・デュプレクス(フランス人)が、ポ
 ンディシェリ(インド南東部の港湾都市、フランス領イ
 ンドの首府)の総督となる。
  この都市は、イギリス領インドの中でフランス領とし
 て存続し続けた。
  この2年後の1744年に始まったオーストリア継承戦争
 では、対抗関係にあるイギリス東インド会社に対して優
 勢の内に戦いを進めた(実質的にはイギリスとフランス
 の植民地における戦争、会社が絡んでいるだけ)。
  インドでは、卑劣な事に、このイギリスとフランスは、
 何度も戦争をしている。
  南インドの東海岸の貿易拠点を巡る戦争や、荷物の集
 散地をめぐる争いや・・
  インドの方たちが迷惑なだけだった・・
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by suba28 | 2015-07-29 02:59 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)166D1/3:気になった事柄を集めた年表(1738年~1740年)

題:(増補版)166D1/3:気になった事柄を集めた年表(1738年~1740年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1739年1月、但馬(たじま、兵庫県の北部)の百姓一揆。
  また、1738年の長雨によって鳥取藩内も凶作となり、
 飢饉も発生した。
  しかし、藩は、救済策を施すどころか増税を課し、年
 貢を厳しく取り立てた。
  この事から、1739年2月には、因幡(いんば、鳥取県東
 部)から始まり、
  後に、伯耆(ほうき、鳥取県の中西部)まで広がると
 いう、鳥取藩政史上最大の惣百姓一揆(元文一揆、勘右
 衛門騒動)が起こった。
  一揆の参加者は、5万人に上ったと言われ、当時の鳥取
 藩の人口は約30万人なので、実に、総人口の6分の1が
 参加した。
1739年6月、ロシア船出没
  陸奥(牡鹿半島)・安房(房総半島)・伊豆下田など
 の沿海に、ロシア船が出没した。
  アメリカの黒船の来航(1853年)に先立つこと114年で
 あった。
  幕府は、ロシア船の去った後、現地住民が船員から入
 手した銀貨・紙札(トランプのカード)を、長崎の出島
 のオランダ商館長に照会し、
  ロシアのものであることを確認した。
  これが、幕府のロシア確認の初の事例となった。
  尚、住民は、銀貨と野菜や魚、煙草などと交換したの
 だった。
  ロシアの日本への艦隊の日誌によると、
  シュパンベルグ船隊の航海日誌
 「1739年7月24日、日本の陸地を発見、
  松前島で多くの日本人に出会うも、乗組員は疲労し、
 病人20人余発生で帰途に着く」とある。
  ワルトン中尉の航海日誌
 「1739年6月19日、18人乗り小舟が接近、カジミロフ航海
 士と、チェルカシェニン給食員と、兵6人で上陸、飲料
 水1樽半分を持ち帰り、酒食で歓待されたと報告、
  150艘以上もの小舟が取巻いたので、出帆して帰路に着
 く」とある。また、
 「1739年6月22日、37度30分で、海岸の沖合に投錨、
  岸から日本人が、小船で来船、物々交換で交流
  10~12人乗りの小船79艘が、船を取巻いたので、上陸
 は中止して帰路に着く」とある。また、
 「1739年6月23日、北緯33度28分付近で、小島に上陸、薬
 学生が薬草を採取」とある。
  ロシア艦隊は、この後、紀伊半島の潮岬付近まで行っ
 ている。
  日本側の資料として、「元文世説雑録」がある。
1739年、人事:青木昆陽を、幕府が登用。
  野呂元丈とともに蘭学研究などにあたる。
1739年、イギリスとスペインとの間で「ジェンキンスの耳
 の戦争」が始まる。
  海上権争覇(そうは、覇権を争うこと)の戦争。
  イギリスの船長のジェンキンスが、耳を切り落とされ
 たのが名の由来。
  オーストリア継承戦争へも拡大して行く、
 そして、卑劣な事に、ヨーロッパ中が関わって、大戦争
 へと発展して行く。
  戦争が複数へと拡大したこれ等の戦争は、1748年のア
 ーヘンの和約まで続く(9年間)、
  そして、それでもおさまらず、1756年からは、七年戦
 争へと続いて行く。
  日本は江戸時代、本当に平和な時代が続いている。戦
 争一つ無し。天候の関係で一揆はあったが・・、
  戦争のデパートと言ってもよいヨーロッパには、「第
 2次百年戦争」という戦争もやっている。
  1689年~1815年の間、ヨーロッパ内の国境紛争や、王
 位継承がからみ、
  主に、北アメリカ大陸を舞台として、アフリカや南ア
 ジアも含む、海外植民地の争奪戦。
  イギリスとフランスの間て繰り広げられた戦争もある。
1739年、ナーディル・シャーが、デリー略奪(ムガル帝国
 衰退へ)
  ナーディル・シャーは、イラン(ペルシャ)のアフシ
 ャール朝の初代シャー(王の称号)。
  在位:1736年~1747年と、きわめて短い期間だが、ア
 ジア大陸最西部のアナトリアから、イラン、中央アジア、
 インドにおよぶ広大な領域を支配下に入れた。
1740年11月、天文学者・西川正休(にしかわまさよし)が
 幕府に召し抱えられた。
  幕府に出仕して寺社奉行配下に属し、後に、江戸城吹
 上御苑において、暦術測量御用をつとめる。
  長崎の文化人として著名な西川如見の子で、西洋天文
 学を、我が国に広めるのに、大いに貢献した。
1740年、一橋家(ひとつばしけ)の創始(1741年説あり)
  政宗の子・宗尹(むねただ、家斉の祖父)、一橋(御
 三卿の一つ)を創始した。
  1735年に、宗尹は徳川の家号を許され、
  そして、1740年に、江戸城一橋門内に、屋敷を与えら
 れた。
  御三家に次いで、田安、清水両家と共に、高い家柄と
 なった。
1740年、科学:クリスタン(フランス)が、氷点0の温度
 目盛りを用いた(現在の℃と同じ)
1740年10月、オーストリア継承戦争始まる(~1748年)
  これも、イギリスが絡(から)んだ戦争。
  1740年に、神聖ローマ帝国の皇帝が死に、イギリスや
 オランダやドイツ諸侯などの承認を得た勅書に従い、皇
 帝の長女マリア・テレジアがハプスブルグ領を継承した。
  そのオーストリア王女マリア・テレジアの即位に反対
 するフランス、スペイン、ザクセンなどが対抗した。
  古い恨みや怨念も噴出するドロドロした戦争ばかりの
 地であった。
  欲と怨念の地獄界の世界。植民地の色々の事も絡んだ。
  苦戦のマリア・テレジアは、イギリスの助けで戦いに
 優位に立つ。
  和平しても、その後に、また、各地で戦争が続くという
 世界だった。
1740年、シレジア戦争が起きた。
  シュレージエン戦争ともいう。
  第一次シュレージエン戦争、第二次とつづき、七年戦
 争(第三次ともいう)と続く・・、
  オーストリア継承戦争と七年戦争の内、オーストリア
 と、プロイセンがシュレージエン地方の帰属を巡って戦
 った戦争をいう。
  講和をしたり、戦ったりというのを繰り返した。
  オーストリアはシュレージエンを取られて、敗北を認
 めたにもかかわらず、また、奪還を目指して戦うという
 領有を巡ってのあくなき戦いが続いているヨーロッパだ
 った。
1740年、清朝の法典の「大清律令」が成る。
1740年、湖南で苗族(ミャオ族)の反乱(1735年~1738年
 の説あり)
  苗族は、三次に渡って反乱を起こしている。
  三度目の反乱(1854年~1873年)は、最後で、大規模
 な反乱で、苗族の人口の3分の2の方々は亡くなったとい
 う。
  生き残ったのは、3分の1だったという。
  漢族の商人が現地に入って、林業などを中心にして商
 業網を確立して、苗族の方々を抑圧したという。
  焼畑を営んで陸稲や畑作物を作って移動を繰り返す人
 々や、棚田を巧妙に作って水稲稲作を行なって定着した
 人々が平和に暮らして居たが・・反乱を起こすに至った。、
  苗族(ミャオ族)は、中国国内に多く居住する民族集
 団で、同系統の言語を話す人々は、タイ、ミャンマー、
 ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に住んでいる。今現在
 の総人口は1100万人となっている。
..
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by suba28 | 2015-07-28 05:05 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)165D1/3:気になった事柄を集めた年表(1736年~1738年)

題:(増補版)165D1/3:気になった事柄を集めた年表(1736年~1738年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1737年、人事:松平乗邑(まつだいらのりむら)が、勝手
 掛老中に就任した。
  農財政の最高責任者である(詳細は既述)。
1737年8月、オスマン・トルコが、オーストリアと戦う(
 ~1739年にベオグラード条約が結ばれた)。
  オスマン帝国は、パッサロヴィッツの和約(1718年)
 でオーストリアに割譲されたセルビア地方を回復し、失
 地回復した。
1738年、林子平(はやししへい、経世家)が生まれた
 (1738年~1793年)
  幕臣の子として生まれ、陸奥(むつ)仙台藩士となる。
  藩に富国策の大切さを説き、提出した。
  1767年に、江戸に遊学し、大槻玄沢らの蘭学者と交わ
 り、
  また、1778年に、長崎遊学し、オランダ商館長アーレ
 ント・フェイトと交わり、海外事情の収集に努めた。
  その詳しい海外事情から、著作「三国通覧図説」を、
 1785年に書き、
  その著に、ロシアへの防備策、および、その為の蝦夷
 地開発の必要性などを説いた。
  その他・著書に、「海国兵談」がある(1786年)。
  この著では、江戸湾の防備が、特に大切と説いた。
  ただ、これらの著は、幕府の痛いところに触れたため、
 板木は没収され(1792年)、蟄居(ちっきょ、自宅謹慎)
 となった。
  その時の句:「親も無し 妻無し子無し 板木無し、
 金も無ければ死にたくも無し」
  この子平の蟄居の時に、ロシアのラクスマンが根室に
 来航した。
  そして、幕府に通商を求めた。
1738年4月、経済:幕府が、長崎への廻銅が減少したため、
 大坂に銅座を再置して、
  諸国の産銅を管理させた(銅の統制機関とした)。
  翌年の1739年に、銅輸出の制限をした。
1738年10月、生野銀山元文一揆(いくのぎんざんげんぶん
 いっき)(12月説あり)
  但馬(たじま)国(兵庫県)の生野銀山の鉱夫が、扶
 持米増加などを要求して、町役人の赤井治左衛門宅を打
 毀し、
  代官所へ強訴(ごうそ、強硬な態度で相手に訴える行
 動)した。
  参加人員は700~800人。
  一揆の直接の原因は、銅仲買いでもある赤井の安値買
 上げ計画にあるが、
  遠因(えんいん、遠い原因)には、幕府の政策がある。
  この年の4月の、幕府の長崎への廻銅確保のための、大
 阪の銅座設置は、
  全国の銅の廻送を命じたので、銅値段が急激に下落し
 た、そのためだった。
  この一揆は、銀や米の救済のための支給を行なうこと
 を約束をし、鎮まった。
  また、周辺の幕領農民も一揆を起こした。
  これは、生野銀山の鉱夫たちの一揆の成功に刺激され、
 12月に起きた。
  村々からの1万人が、年貢減免などを求めて強訴する
 という行動を起こした。
1738年、産業:絹織物生産技術を導入
  桐生が、京都西陣の高級絹織物生産技術を導入した。
  養蚕地帯を背景として発展した。
  職工(西陣の織物師・弥兵衛と吉兵衛)を招き、雇い
 入れ、また、西陣の技術である「高機(たかはた)」を
 導入し、
  本格的な大量生産による高級絹織物の生産が始めた。
  生産量は、それまでの何倍にも膨れ上がり、
  技術面も向上し、
  流通面も西陣の機構から脱し、独自の市場を開拓した。
  また、流行も先取りする新しい織物(桐生織)を作っ
 た。
  市(いち)も賑わい、莫大な利益向上となり潤った。
1738年、産業:新たな機業地発達
  丹後・近江などにも新たな機業地発達し、西陣の地位
 が低下した。
  丹後は、丹後縮緬(ちりめん)として有名であるが、
 18世紀前半に、西陣から技法を導入した。
  そして、盛んにちりめん生産がなされた。
  (1説では、丹後地方では、1719年と1722年に、西陣
 の縮緬製織の技術を習得した者たちが、丹後縮緬を作り
 始めたとある。
  そして、この技術が、1752年に、近江長浜へ伝えられ
 長浜縮緬の生産が開始された・・とある)。
  ちりめんは、株仲間を組織する京問屋へ飛脚によって
 送られ、染色・加工のうえ委託販売された。
  18世紀に入ると、西陣技術は各地へ伝えられ、地方の
 機業が発展した。
1738年、産業・経済圏の形成、(関東を中心とした市場圏
 の形成)
  関東各地に、手工業地が現れ、江戸地廻り経済圏(え
 どじまわりけいざいけん)の形成が始まった。
  江戸に入荷する商品は、京都・大坂方面からの下り荷
 と、江戸に近い近国から送られてくる地廻り荷に2大別
 でき、
  江戸地廻り経済圏は、この地廻り荷のもの。
  幕府は、初め、比較的高い技術を持つ京・大阪圏の生
 産品に対する市場政策を取り、
  また、依存する度合いが強かった・・が、
  江戸の中期になると、大阪と結合して、江戸の市場を
 統制することが試みられて来た。
  江戸中期になると、関東やその周辺地域の、江戸を市
 場とし、目あてとする生産も高まった。
  幕府も、商品生産を奨(すす)め、江戸市場への流入
 を図る政策をとった。
  江戸後期になると、ますます、江戸地廻り経済圏は発
 展して行く。
1738年、伊勢(三重県)万古焼(ばんこやき)が始まる。
  三重郡朝日村小向(おぶけ)に開窯して、
  オランダ風の赤絵付けを施した陶器を焼いたことに始
 まった。
  元文年間(げんぶん、1736年~1741年)に開窯との記
 述もある。
1738年、出版:林子平(1738年~1793年)は、「海国兵談」
 「三国通覧図説」を著して、外国の脅威を説いた。
1738年、ダニエル・ベルヌーイ(スイス)が、ベルヌーイ
 の定理を発見した。
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by suba28 | 2015-07-27 05:25 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)164D1/3:気になった事柄を集めた年表(1735年~1736年)

題:(増補版)164D1/3:気になった事柄を集めた年表(1735年~1736年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1736年5月、貨幣の改鋳:元文(げんぶん)の改鋳
  吉宗は、米価の引き上げ策を講じて、財政に困窮する
 武士、および、農民を救済したいとした。
  しかし、種々の策を講じるが、思うような効果を挙げ
 ることはできなかった。
  そこで、取られたのが、この貨幣改鋳策だった。
  1736年5月12日に、金銀改鋳の町触(惣触)が発せら
 れた。
 (1)世情金銀不足の為通用不自由と聞こえるので改鋳を
 行う。
 (2)吹改金銀の交換比率は、慶長金、正徳享保の新金は
 100両に付き100両、乾字金200両に付き100両、慶長銀・
 正徳銀新銀10貫目につき10貫目とし、この比率で差別無
 く通用させる事。
 (3)但し、引替金100両に付き65両、銀10貫目に付き5貫
 目の「増歩」を附けて従来の金銀と交換する。
 (4)引き替えは町人に委任して行うから、武家を始めと
 し、各人相対にて交換する事。
 (5)従来の金銀の数量は判明しているから、貯蔵せずに
 引替える事、退蔵者は処罰され、退蔵銀は従来通り潰銀
 として扱う事。
  これまで、経済が発展している状況下において、貨幣
 の増鋳(貨幣を多く流通させる)が必要とされていた。
  そして、そのために、ある程度の貨幣の質の低下は不
 可避なのであった。
  しかし、とられた政策は、あえての貨幣良鋳の経済収
 縮政策が取られていた。
  そして、良貨による貨幣流通量の減少となり、景気は
 停滞する傾向となった。
  この吉宗のとった貨幣の悪鋳策、より質を落とした元
 文金銀の発行によって、インフレにし、米価を引き上げ
 ようと図ったのだった。
  結果的に、物価調整は行なわれ、景気は持ち直した。
  米価は、1736年~1818年の間、横ばいないし若干の低
 落気味におさまった。
  ある程度の効果があったため、この後、元文金銀は80
 年以上に渡って通用した。
  また、3年後の1739年には、鉄銭の寛永通宝も発行され
 た(銅貨の交換レート跳ね上がり防止策)。
  今までの社会は、正徳金銀や享保金銀などの良質貨幣
 の流通によって通用金銀が不足し、米価および諸物価が
 暴落していた。
  通用金銀の不足改善のため、改鋳して質を落し、その
 流通量を増やし、経済の安定をしたいとした。
  この改鋳金銀には、裏面に「文」の字の極印があり、
 文字(ぶんじ)金銀ともいう。
  また、真文字(しんもじ)金銀とも、古文字金銀とも
 いう。
  また、元文小判、同一分金、同丁銀、同豆板銀をいう。
1736年5月、経済:米価最低価格制を廃止(6月説あり)。
  米価下落防止のため、1735年に、最低価格を公定(こ
 うてい、政府や公共団体などが公式に定めること、この
 場合、幕府)とした(米価の統制価格とした)・・が、
 この制度を吉宗は、改鋳による効果があったとして(米
 価は倍に跳ね上がった)、制度廃止とした。
  武家は大いに潤ったという記録がある。
  しかし、改鋳によって、新旧の金銀がオーバーラップ
 して流通したり、相場の変動などで、町民の生活に混乱
 が生じた。
1736年7月、荷田春満(かだのあずままろ、国学者、歌人)
 が没した(1669年~1736年)(没年に8月説あり)
  国学の四大人と言われる。
  吉宗から書物奉行の命を受け、幕府所蔵の和書の鑑定
 に従事し、吉宗の下問に答えた。
  弟子に賀茂真淵(かものまぶち)らがいる。
  赤穂浪士の大高源吾と交友があり、春満は、吉良邸に
 出入りする便宜があったため、邸の図を大高に与えたと
 いう。
1736年7月、伊藤東涯(いとうとうがい、儒学者)が没した
 (1670年~1736年)(没年に8月説あり)
  父の家塾・古義堂をまもり、青木昆陽らの多数の人材・
 門人らを教え、輩出した。
  紀伊候の招きを辞して幼弟の養育にあたり、父同様、
 生涯、町(まち)学者として、父・仁斎の学問を忠実に
 守った。
  湯浅常山は、「東涯の学問は仁斎に倍せり」と評した。
1736年、令:江戸城中での落書・浮説などの政治批判の禁
 止。
1736年、人事:大岡忠相(おおおかただすけ)が、町奉行
 から寺社奉行に転じた。
  大岡一族は、徳川氏三河以来の譜代。
  忠相は、旗本・大岡忠高の4男で、1700年に1920石を継
 ぎ、1712年に伊勢国に置かれた幕府の遠国奉行のひとつ
 の山田奉行になった。
  1716年に普請奉行。
  1717年に吉宗により町奉行に登用され越前守となり、
 様々な施策を行なった。
  1722年に関東地方御用掛を兼務し、治水事業までした。
 また、武蔵野新田の農政も展開した。
  そして、1736年に寺社奉行となった。
  たびたびの加増で1万石の大名にもなった。
1736年、イランのナーディル・シャー(在位:1736年~
 1747年)がアフシャール朝(1736年~1796年)を創建
 した。
  アフガン人を、イラン全土から駆逐し支配した。
  また、アフガニスタンを支配した。
  インドに侵攻して、ムガル帝国の首都のデリーを占領
 した。
  また、中央アジア、メソポタミア、トルコなどに侵入
 した。
  1747年に、部下に暗殺された。
1736年、オスマン・トルコが、ロシアと戦う(1739年、ア
 ゾフを喪失)
  ロシア・トルコ戦争は、16世紀後半から19世紀にかけ
 て、ロシア、オスマン・トルコ帝国間で、黒海およびそ
 の沿岸地方の支配をめぐって、11回争われた・・が、
  ロシアのアンナ・イワーノブナ女帝が、オーストリア
 の支援を受けて、オスマン・トルコと戦端を開いた。
  そして、アゾフを領有してようなく黒海への進出の橋
 頭保(きょうとうほ)を得た。
  この後、まだ、この両国は、6回、戦争をする、1878年
 まで。
  1878年に、サン・ステファノ条約で講和する。
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by suba28 | 2015-07-26 03:00 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)163D1/3:気になった事柄を集めた年表(1733年~1735年)

題:(増補版)163D1/3:気になった事柄を集めた年表(1733年~1735年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1733年、北米植民地に関する糖蜜法(とうみつほう)が、
 イギリス議会で成立した。
  糖蜜や砂糖に関し、フランス領の西インドの商品に、
 イギリス領の植民地の西インドの商品が敗れた。
  この為、イギリスは、フランス領の商品に高率の関税
 をかけた。
  糖蜜法は、イギリス議会が北アメリカ植民地に対して
 外国領産糖蜜・砂糖の輸入に課した高率な関税法。
  奴隷主プランターの言いなりに禁止的な高い関税の法
 律を作った。
1733年、ポーランド継承戦争(けいしょうせんそう)が起
 きた(~1735年)
  元はポーランド王位の継承をめぐる内戦だが、
  それに呼応したフランスとスペインの連合と、そして、
 それに対する、オーストリアとロシア諸国との戦争。
  お互いが推す王を巡っての争いだが、卑劣な事に、こ
 の問題によって、ヨーロッパ中が戦争になった。
  ヨーロッパの国々が、恨み・つらみなどの一物を抱え
 る(いちもつをかかえる、表面上は平静を装っているが、
 実は隠れたところに不満などが溜まっている)状態の
 国々だった。
  王位と領土を巡って争っていた。
1733年、大清会典(だいしんかいてん):基本法典の一つ
  中国、清代に編纂された行政上の大綱の総合法典。
1733年、ジョン・ケイ、飛杼を発明、高速織機の発明。
  ジョン・ケイは、イギリスの機械工で、自動織機発明
 への重要な一歩となる飛杼(とびひ)を発明した。
  素晴らしい発明だったので、この高能率のこの装置の
 普及につれて、失業を恐れた職工が暴動を起こした。
  この様な素晴らしい発明をしたケイは、特許を申請し
 たが、
  資本家が、特許使用料を払わなったこともあり、フラ
 ンスに渡り、不遇のうちに死んだ。
1734年4月、紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)
 が没する(1669年?~1734年)
  一代で巨万の富を築いた。
  そして、一代で使い果たした豪商。
  紀州のミカンを江戸に運び、そして、江戸から塩鮭を
 上方へもたらすという商売で巨利を得た。
  後に、材木商として、江戸に進出し、
  江戸・京橋本八丁堀に居を構え、
  一町(約109メートル)四方の屋敷に材木問屋を開き、
  また、材木置き場を、深川木場に置いて、木材の買占
 めでも巨富を築いたという。
  江戸は火事が多く、その都度、繁盛を極めた。
  老中の柳沢吉保に取り入り、幕府の御用達商人となっ
 て全盛を極め、紀文大尽と呼ばれた。
  吉原で大尽遊びを競った。
  柳沢吉保が失脚すると廃業となり、失望・落胆の生活
 を深川で送ったという。
  柳沢吉保らと結託し、御用達商人として利権を得て、
 巨利を得たという。
  また、御用達商人として、長崎貿易にも関係し、亜鉛
 を原価で仕入れ、
  亜鉛はリスクが多かったが、材木と共に利益の大きな
 商品だったという。
  取り巻きに、俳人の榎本其角らの一流の文化人がつい
 ていたという。
  しかし、不明な点が多い。
1734年8月、室鳩巣(むろみゅうそう、儒学者)が没する
 (1658年~1734年、77歳)
  新井白石の失脚後も、将軍・徳川吉宗の信任が厚く、
 1722年に侍講(じこう)となった。
  しばしば諮問を受けて、幕政にも関与していた。
  没するまで、西丸(にしのまる)奥儒者の地位に居た。
1734年、農業:諸国産物の調査
  幕府が、「庶物類纂(しょぶつるいさん)」の増訂を
 企て、諸国産物を調べた。
  庶物類纂は、本草学者で加賀金沢藩の儒医であった稲
 生若水、および、その弟子であった丹羽正伯らが編纂し
 た博物書。
  古今の漢籍などから、植物・動物・鉱物・薬物などの
 記事を調査し、
  その3590種の記事を、それぞれの種類・分類を精査し、
 分類検討を加え、また、再編集を加え、登載した書。
  1734年より、未完成的であったものを、編纂開始し、
 4年後の1738年に、未完部分であった638巻を完成させ、
  後援していた加賀藩に提出し、
  加賀藩は、それを幕府に提出した。
1734年、農業:甘藷の栽培、
  この頃、甘藷を小石川薬園、江戸城吹上苑に試植、諸
 国に栽培を奨励した。
1735年10月、経済:最低価格を公定
  米価の下落を防止し、更に、米価引き上げのため、最
 低価格を公定した。
1735年、アイヌ交易:松前藩、
  この頃、アイヌ交易を内地商人に委託する。
  「場所請負(ばしょうけおいせい)」制を採用した。
  場所請負制は、松前藩特有の、蝦夷地特有の流通制度
 であるが、
  この藩は、米の収穫が望めないため、藩主が家臣に与
 える俸禄は、石高に基づく地方知行ではなく、
  給地に相当するものとして、漁場、および、アイヌと
 の交易地域である商場を設け、
  そこでの交易権を知行として家臣に分与した。
1735年、出版:蕃薯考(ばんしょこう)
  青木昆陽の「蕃薯考」が出版された。
  農書である。救荒作物として有用な甘藷(かんしょ)
 の性質、栽培法などが記してある。
1735年、発明:コークス高炉法が発明され、実用化された。
  木炭による高炉製鉄の方法は、15世紀頃に、ドイツの
 ライン川流域で生まれ、イギリスなど西ヨーロッパ全域
 に広がっていた。
  しかし、木炭が枯渇し始めていた(山がはげ山になる)
  コークスが、1709年に、イギリスで熱源としての試み
 に使用して成功した。
  1735年に至って、ダービー二世(イギリス)が、燃料
 のコークスを用いる高炉で、鍛鉄用銑鉄生産をした。
  硫黄の少ない銑鉄が製造可能となり、銑鉄の生産量が
 急速に増大した。
1735年、ハドレー(イギリス)が貿易風の原因を論じた。
  この年に書いた「一般貿易風の原因について」は、大
 気大循環論のはしりというべき論文だった。
  大循環の原因を、「赤道地方と極地方の気温差」「地
 球自転の影響」の2点であるとしている。
  現代でも通用する論理である。
1735年、清朝六代皇帝の乾隆帝(けんりゅうてい)が即位
 した(生没:1711年~1799年)
  (在位:1735年~1796年)廟号:高宗、
  清帝国の版図とともに、政治・文化・芸術が最高潮に
 達した。
  幼少時から帝王学を授けられ、生まれながらの皇帝と
 して存在した。
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by suba28 | 2015-07-25 03:18 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)162D1/3:気になった事柄を集めた年表(1732年~1733年)

題:(増補版)162D1/3:気になった事柄を集めた年表(1732年~1733年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1732年、イギリスのアメリカのジョージア植民地が成立し、
 北米のイギリス植民地が13州(最初は「邦」と言ってい
 た)となった。
  北米におけるイギリスの植民地は、1607年のヴァージ
 ニアに始まり、
  この1732年のジョージアに至って、北アメリカ大陸の
 東海岸に13の植民地が形成された。
  このイギリスからの移住者(植民地人)は、フランス
 からの移住者と違い、先住民のインディアンの方々の土
 地を奪って、定住して行ったため、
  インディアンの方々と衝突することも多く、殺戮し、
 土地を奪って行った。
  ニューイングランド植民地(北部植民地)は、ピュー
 リタン(キリスト教清教徒、イギリスの新興宗教のキリ
 スト教でイギリスで迫害を受けたため、アメリカの新天
 地を求めて移住して来た)が多かった。
  後に、奴隷貿易を始めて、アフリカから非人道的行為
 である黒人の方々を連れて来る(輸入すると称した)。
  この黒人の方々を使ったプランテーション経営層は、
 キリスト教のカトリックが多かった。
1732年、中国、清朝、雍正帝が、軍機処(ぐんきしょ)を設
 置した。
  軍事機密を保持するため。
  軍事・行政上の最高機関。
  1929年に、紫禁城内に臨時に設けられ、1732年に独立
 し、正式に軍機処と呼ばれることになった。
  雍正帝の時は、北方遊牧民族に対する軍事力行使のた
 めに臨時に設けられたが・・、
  乾隆朝になると、内閣の実権を奪って、重要政務全般
 をつかさどる最高機関になった。
1733年、杉田玄白(すぎたげんぱく、蘭方医、蘭学者)が、
 江戸で生まれた(1733年~1817年)
  前野良沢らと「ターヘル・アナトミア」を訳出し「解
 体新書」として刊行した。
  西洋医学を広く紹介した。
  著書に「蘭学事始」などがある。
1733年、円山応挙(まるやまおうきょ、絵師)が生まれた
 (1733年~1795年)
  「雪松図屏風」(国宝)
1733年1月、米価騰貴し、初めて江戸で打ち壊し(打毀・う
 ちこわし)起こる。
  また、各地で米価高騰のため、打ち壊しが相次いだ。
  前年の1732年に、享保の大飢饉が起きている。
  打毀は、百姓一揆と違い、おもに都市において見られ
 た暴動で、暴動の主体勢力が都市の下民層で、原因が、
 米価高騰にあった。
  打毀の対象となったのは、米屋、酒屋、質屋、問屋な
 どの富裕な商人たちだった。
  この人々の意識に、米価の吊上げを謀った(はかった、
 計略に掛ける)ことから、その影響を受けたという意識
 があった。
  打潰(うちつぶし)とも言い、打壊とも書き、
  百姓の場合は、大庄屋・庄屋層、地主・在方商人(ざ
 いかたしょうにん、農民身分のまま商業活動を手広く営
 むようになった商人層)・都市富商などの豪農・豪商の
 家屋・家財・生産用具類を破壊し、被害を与えた。
1733年、江戸日本橋で高間騒動。
  この江戸での打ち壊しに、高間騒動というのがある。
  高間伝兵衛は、豊かな米商人だった。
  幕府は、1730年9月12日に、この打ち壊しから3年前に、
 豊年が続いて米価が下落し、武士などの財政が困窮して
 いたのを救うため、
  幕府は、伝兵衛など8人の米穀商に、上方の米(かみが
 たまい)の独占取引権を与え、買い入れさせていた。
  1731年には、幕府は、米穀商へ安売りを禁じた。
  そしてまた、1731年7月には、米方役の伝兵衛を、大阪
 に派遣して買米(かいまい、幕府の買い上げ)をさせた。
  1732年に、享保の大飢饉が起きる。
  1733年まで餓死者が相次いだ酷い飢饉だった。
  幕府は、この飢饉の時、昨年に買入れた米や、東国の
 米までもを加えて、西国に送り出し、救援した。
  その為、江戸でも、米不足が起きて来て、米価が上が
 った。
  そして、庶民は困窮した。
  1733年1月23日に、伝兵衛は、高騰した米価を下げるた
 め、幕府に安価で、備蓄していた米の2万石を売りに出す
 ことを願い出た。
  幕府は許可した。
  しかし、江戸の町民は、「米価が高騰したのは、幕府
 と癒着した米商人の、この高間伝兵衛が、米を大量に買
 い占めて、貯えているせいだ」と噂を立てた。
  その時、流行った狂歌が・・、
  「米高間 壱升弐合で粥にたき 大岡食はぬ たった
 越前」・・と詠った。
  これは、米が高く(高間)て、銭百文では一升二合し
 か買えないので、お粥にしたが、多く(大岡)食べられ
 ず、たった一膳(越前)だけだ。
  実際は、伝兵衛の備蓄は、米価調整の為であり、私欲
 で貯め込んでいた訳ではなかったが、
  米方役として米価を左右し、江戸吉原を3日間貸切ると
 いう豪遊も伝わる富んだ伝兵衛に対し、
  庶民は「私欲で、米穀を買占め、高値で売っている」
 と疑った。
  そして、26日の夜、町民たちが1700人余り(4000人と
 もあり)が集まり、
  伝兵衛の本船町の店(たな)の打ち壊しを決行した。
  家財は砕かれ、前の川に捨てられた。
  町奉行は、捕り手を出動させ、騒動を収めた。
  そして、打ち壊しを扇動した首謀者を捕らえた。
  首謀者4人の内、1人を重遠島、3人を重追放とした。
  伝兵衛は、打ち壊しは会ったが、翌月には、米2万石を
 安価に売却する事を、幕府に願い出て、上申した。
  歌舞伎・講談などでは、町人の受けを狙って伝兵衛を
 悪徳商人として描いていることが多い。
  伝兵衛は、1735年7月に、病死した。
  そして、次の代の同じ名の伝兵衛が引継ぎ、11月に、
 米方役に任命された。
1733年、狂犬病の流行(日本における最初の流行)
  西日本に狂犬病が流行し、以後、東日本にも波及した。
  この狂犬病の発端は長崎だった(外国からの流入)。
  この年に、長崎から狂犬病の大流行が始まった。
  「両郡古談」に、
  「(1733年の享保)18年5、 6月頃より犬夥しく麻疹
 に而多くくるい人に喰付く、 はれ候者は疵口甚痛、 病
 犬の熱毒皮肉臓腑に通り多く死す。 尤去子年、 長崎辺
 りより流行、 牛馬等へも喰付候段、 打殺川にも入る也」
 とある。
  翌年の1734年には、長崎から大分へ伝播した。
  また、別の史料によると、
  「享保17(1732年) 壬子年、今年西国筋は不気候に之
 あり、備前、備中、広島、備後辺之犬迄も病につき、人
 民に噛付き、多く人損しも有之、播州辺迄も同様之由也」
 という記載がある。
  長崎での発生と同時に、中国地方を山陽道に沿って一
 気に東走して、4年後の1736年に、東海道を経由し、江
 戸まで到達したという。
1733年、農業:藍専売制、阿波藩(徳島藩)が、藍の専売
 制を開始した。
  吉野川流域に産する阿波藍(あい)は、藩最大の国産
 品で全国に市場を持っていた。
  1804年のピーク時には27万俵を算出し、藩の経済を大
 きく支えていた。
  しかし、順調に来たわけではなかった。
  藍作人は、藍作の展開に伴って、逆に、商品経済の好
 餌となり、経営が破綻し、困窮化の様相を強めた。
  藩は、阿波藍の利潤に着目して、1733年に、藍方御用
 場を新設し、葉藍取引税など葉藍専売制の政策に着手し
 た。
..
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by suba28 | 2015-07-24 03:24 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)161D1/3:気になった事柄を集めた年表(1730年~1732年)

題:(増補版)161D1/3:気になった事柄を集めた年表(1730年~1732年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1730年6月、再度、藩札発行を許した。
  領国の石高が、20万石以上であれば、通用期間25年、
 20万石以下であれば通用期間15年・・などの条件付きで、
 藩札の発行が再解禁された。
  この背景には、 下落した米の価格があり、諸藩の財政
 窮乏救済の目的があった。
  発行は、幕府の許可を必要とし、領国内のみの流通と
 し、また、幕府の貨幣と兌換(だかん、幕府の正貨と引
 き換えること)ができる事を原則とした。
1730年、経済:相場公認される
  大阪堂島の米市場が設立され、米仲買人の相場が公認
 された。
1730年、人事:水野忠之が、老中を罷免される。
  享保の改革の大きな転換点を迎えた。
  忠之のこの辞任の後、松平乗邑(まつだいらのりさと)
 が老中首座となり、後期の享保の改革をリードして行く
 こととなった。
  松平乗邑は、1737年に、勝手掛老中となる。
  幕府にとって痛かったことは、米の増産が収入増に、
 当初はなっていたが、
  その増産が、米価下落を起こすようになると、肝心の
 収入増につながらなくなって来た事だった。
  当初の「米の増産と倹約」の政策の見直しが必要とな
 った。
  乗邑のとった政策は、何と言っても「米価安諸色高」
 をどうするかだった。
  災害対策や、災害からの復旧も一生懸命やって、功を
 奏してもいた。
  そして、米の収穫量の増大で、幕府財政も好転したが、
 物価の不安定は収まっていなかった。
  1733年には、突然、米価が高騰した。
  これは、前年の1732年に、西国全域を襲った未曾有の
 蝗害(こうがい、イナゴが稲などを食う害)が原因だっ
 た。
  この蝗害は、199万人余りといわれる被害者を生み出す
 大飢饉となった。
  米は、不足した上に、商人の買占めもあって、一時的
 に米価は急騰した。
  この様な、時の流れの中で、結局、乗邑の取った政策
 は、年貢の引き上げによる年貢増徴策だった。
  その策によって、毎年、黒字が計上され、
  乗邑は、町奉行の大岡忠相が「その才知は舌を巻くば
 かり」と評したほどだった。
  乗邑は、1745年に、その功績を認められて1万石が加
 増された。
  一方、当然、乗邑の強引な増徴策は、百姓らの不満を
 募らせた。
  幕府への不信感も醸成され、社会全体にひびが入った
 状況となった。
  また、厳格すぎる緊縮策は、幕臣や大奥までもの不興
 を買った。
  1745年、吉宗は、約30年の将軍職を、嫡男の家重に譲
 位し、人心刷新をはかった。
  1745年に、乗邑は、家重が9代将軍に就任すると直後に
 老中を解任された。
  加増された1万石も没収され、隠居を命じられた。
1730年、吉宗の次男の徳川宗武(とくがわむねたけ、松平
 定信の実父)が、田安家(御三卿の初め)を創始した。
  兄が、第9代将軍の家重。
  聡明であったため、身体的な障害のあった兄・家重に
 代わり将軍後継者に推す者もあった。
  しかし、吉宗は長幼の序を重視した。
  しかし、この将軍後継者問題は、その後も尾を引き、
 家重が将軍となった後、宗武の登城は、3年間の停止処分
 を受けた。
  乗邑は、宗武を推したので罷免された。
1730年、江戸町火消しの規則を改め、47組を10組に再編成
 された。
1730年9月28日、パトロナ・ハリルの反乱
  オスマン帝国の首都イスタンブールで、パトロナ・ハ
 リルに率いられた下層市民、下級軍人が民衆蜂起した。
  トルコ・イスラム文化の爛熟期を謳歌する「チューリ
 ップ時代」の上流支配層の政治的腐敗と、奢侈(しゃし、
 度を過ぎてぜいたくなこと)、
  そして、インフレによる生活不安に対する人々の不満
 が爆発した。
  反乱は、大宰相を処刑し、スルタン(君主)を退位さ
 せて、イスタンブールを支配して、一時期、反乱は成功
 したが、
  改革のための具体的プランを持たなかったため、
  ハリルが、宮廷のはかりごとによって殺害されると、
 反乱は、短期間で鎮圧された。
1731年、米価低迷のため、米を買い占める(幕府は、懸命
 なる策を講ずる)。
  幕府が、市場の米を買い上げ貯蔵し、米価の引き上げ
 を図った。
  米価下落によって、年貢収入の換金に支障をきたした
 旗本・御家人の武士階級を救済した。
  1722年に、米の取引を活発化させるため、それまで禁
 止していた米の空米取引(名目的な先物買い取引)を一
 部解禁し、
  1728年には、これを全面的に公認とした。
  そして、1725には、江戸の富商3人に、買米を命じた。
  また、1729年から1731年にかけては、幕府自身が、毎
 年、買米を行った。
  さらに、諸藩に対しても、米の貯蔵を命じ、
  江戸と大坂への廻米を制限し、
  こうして、米の供給量を減らして、取引を活発にし、
 米価を引き上げようとした。
  しかし、市場経済に、幕府が介入しようとしても、効
 果は少なかった。
  米価は、傾向として下がり続けた。
  1730年・1731年には、通常の半額にまで下がった。
  武士の収入は半減してしまった。
  しかたなく幕府は、1735年に、公定価格を設けた。
  江戸では金1両で米1石4斗以下に、大坂では米1石
 について銀42匁以下という公定価格だった。
  この布告の徹底を、米商人・蔵宿・札差を残らず奉行
 所に集め、命じた。
  だが、これでも米価は傾向として下がり続けた。
1731年、米価調整のため、米会所を認めた。
1731年、幕府が、三ヵ年の倹約令を出した。
  米価下落のために出した(出・いずるを制した)。
1731年、中国、清代の画家・沈南蘋(しんなんぴん)が、
 来朝して画法を伝えた。
  日本の花鳥画に影響を与えた。南蘋派。
1732年、日本の総人口:26,922,000人
1732年、享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)
  西日本(近畿・中国・四国および九州地方一帯)を襲
 った大飢饉(江戸時代の三大飢饉の一つ)、死者多数。
  近畿以西の山陽・南海・西海・畿内に、暖冬に次ぐ冷
 夏で、虫害を伴い、米の大凶作が起こった。
  蝗虫(こうちゅう)(イナゴ説もあるが、ウンカ説が
 有力)の大量発生であった。
  草間伊助筆記に、
  「七八月ニ到り、西国・九州・四国・中国筋都テ稲虫一チ
 時ニ生シ、次第次第ニ五畿内マデも移り、此虫後ニハ大
 キニ相成りこがね虫之如クニテ悉ク稲ヲ喰ヒ枯シ申候、
  (中略)、其虫形チ甲冑ヲ帯シたるやうニありて、一夜
 之内ニ数万石之稲ヲ喰ヒ、田畑夥敷損毛有之、土民飢渇
 ニ及ヒ、西国筋、五畿内大坂辺マデ道路ニ倒レ候もの数
 しれす、米価古銀ニテ五六月頃、七月中旬マデハ壱石六
 拾四五匁、追々高直ニ相成り、九十月之頃百弐三十匁ニ
 成候」
1732年、農業:甘藷の栽培が広まる。
1732年、吉宗が、尾張・徳川宗春の言動を糺す(ただす、
 物事の理非を明らかにする)。
  徳川宗春は、1730年に、死亡した兄に代わり、第七代
 尾張藩主となった。
  江戸では、将軍・吉宗が、享保の改革で倹約政策を実
 施していた。
  宗春の著書「温知政要(おんちせいよう、1731年に脱
 稿、1732年に刷られた)」には、
  「倹約は大事だけれども、度が過ぎると民の不自由に
 なる」と書かれていた。
  そして、宗春は、初代藩主の墓参りの際には,真っ赤
 な着物に亀の甲の笠をかぶり、白い牛に乗って出かけた。
  また、宗春は、尾張(名古屋)に無かった遊郭を3ヶ
 所作った。
  また、当時、倹約のために禁止されていた武士の芝居
 見物を許した。
  倹約ムードの日本の中で、名古屋だけは江戸の令を無
 視した行動が行われていた。
  しかし、活気は満ちていた。
  この状況について、吉宗は、宗春の言動を糺しても変
 わらなかった。
  将軍・吉宗は、1739年に、宗春に蟄居謹慎を命じた。
  宗春は、これ以外でも、江戸の幕府が改鋳で金融緩和
 をしている時に、尾張藩では、逆に引き締め政策を行な
 ったりしていた。
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by suba28 | 2015-07-23 04:07 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)160*D1/3:気になった事柄を集めた年表(1728年~1930年)

題:(増補版)160*D1/3:気になった事柄を集めた年表(1728年~1930年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1728年、関東一円が飢饉に見舞われた。
  三河などの中部地域は大日照りで雨乞いが行われた。
1728年3月、朝鮮で、戊申(李麟佐)の乱が湖西(忠清道)
 で起きた。
  全国的な規模の反乱だった。
  反乱組織は広く結成され、準備されていた。
  各地の反乱指導部は、連携をとり大きな組織を作るのに
 成功した。
  中心に居たのが李麟佐だった。
  景宗が毒殺された事への復讐戦でもあった。
  兵力は7万に膨れ上がった。
  王権交代を掲げての反乱であったが、結局、失敗に終
 わった。
1728年、ジェームズ・クック(イギリス、探検家)が、生
 まれた(1728年~1779年)
1729年、平賀源内(ひらがげんない、本草学者、地質学者、
 蘭学者、医者、殖産事業家、偽作者、浄瑠璃作者、俳人、
 蘭画家、発明家)が生まれた(1729年~1779年)
  「平賀源内のエレキテル」という言葉が有名。
  1776年に、長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生
 機)を修理して復元したという天才である。
1729年、石田梅岩(いしだばいがん、思想家、倫理学者)
 が、京都で心学の講義を始める。
  松下幸之助は、この人の心学の教えを引き継いだと言
 われている。
  梅岩は、既に、この時代に、企業の社会的責任を説いて
 おり、現在、脚光を浴びている。
  その思想は、企業の営利活動を否定せず、倫理という
 よりむしろ「ビジネスの持続的発展」の観点から、本業
 の中で社会的責任を果たして行くという事を説いている。
  欧米にない、梅岩の視点、特徴が見直されている。
1729年8月、農業:ナタネ栽培を奨励
  幕府が、関八州(関東地方)の諸代官に命じて、農民
 のナタネ栽培を奨励した。
  幕府は、飢饉対策のサツマイモもそうだが、朝鮮人参
 などの薬草栽培も奨励し、
  菜種油は、食用以外に灯火などにも使い道の広い作物
 だった。
  幕府は、この他にも、桜や桃の植林も奨励した。
1729年3月、陸奥の信夫(しのぶ、福島県陸奥のしのぶ地
 方)と伊達の両郡の幕府領の農民が、夫食米(ふじきまい
 )などを要求して一揆した。
  夫食とは、農民の食糧一般をさす。
  夫食は、米以外の雑穀が中心で、芋やこんにゃくを主
 食とした地方もある。
  幕府や諸藩は、凶作に供えて貯穀を奨励し、
  凶作や飢饉の時には、救済のために貸付(夫食貸)も
 行った。
  しかし、貸付けや返済を巡って、農民の闘争原因にな
 る事が多かった。
1729年4月、源氏坊改行事件
  大岡政談で有名な「天一坊事件」の首謀者・天一坊の
 モデルもなった、修験者・源氏坊改行が鈴ヶ森刑場で処
 刑された(天一坊事件のモデル)
1729年、天一坊事件
  天一坊改行(てんいちぼうかいぎょう、山伏)が、
 「吉宗の落胤」と主張して処刑された。
  1728年に南品川宿で、「近々、大名に取り立てになる」
 と称して浪人を集めたりした。
  不審に思った関東郡代が引き立てて取り調べ、翌1729
 年に、捕らえられ死罪となった。
1729年、出版:太宰春台の「経済録」
  荻生徂徠の門人・太宰春台の「経済録」なる。
  経済録は10巻からなる。
  経済すなわち経世済民という広義の政治・経済・社会・
 制度・法令などについて論じている。
  経済総論をはじめとして、地理、天文、食貨、礼楽、
 官職など、経済のみではなく広く政治論も含んだ経済書
 となっていて、広く読まれた。
  「天下国家ヲ治ルヲ経済ト云。
      世ヲ経シテ民ヲ済(すく)フト云義也」
1729年、朝鮮の英祖が、蕩平策(とうへいさく)をとり、
 党争融和を図る。
  朝鮮王朝(李朝)第21代の王・英祖が党争をなくすた
 め、党派間の政治勢力の均衡をはかった政策をとった。
  即位当初から、臣下間の党争がひどく、その調停に心
 をくだいていた。
  老論派と少論派に分裂していた。
  1721年に、少論派が権力を握った。一時期だった。
  その後は、老論派が長く支配していた。
1730年3月、本居宣長(もとおりのりなが、国学者、文献
 学者、医師)が、松坂に生まれた(1730年~1801年)
1730年4月、初代・松本幸四郎(まつもとこうしろう、歌舞
 伎役者)が没した。
1730年4月、経済:上米の制(あげまいのせい)を廃止し、
 参勤交代制を復旧する。
  幕府は、財政破綻(はたん)するほどだったが、一生懸
 命、社会資本整備はやっていた。
  1例では、初期は「川通奉行」、後には「四川奉行」が
 任命され、四川は、関東地方の幕府直轄領を貫流している
 江戸川、鬼怒川、小貝川、下利根川の4つの河川の土木
 工事をしている。
  吉宗は、紀州藩から、技術を持った者を、何人も引き
 抜いて工事を進捗した。
  紀州は、地形から険しい河川が多かったので、有能な
 技術を持った者が多く育っていた。
  そして、この様な工事金が必要な時に、幕府は、上米
 の制を廃止した。
  何故、廃止したのかは、幕府の体制維持があったと考
 えられる。
  幕府としては、藩から、米が得られるというところだ
 ったが・・。
  文献に、「御恥辱を顧みられず仰せ出され候」とあり、
 幕府には、御金蔵の金も底をついてやったことという気
 持ちの重さがあった。
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by suba28 | 2015-07-21 15:41 | 皆様とともに 幸せになりたい


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