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(増補版)142D1/3:気になった事柄を集めた年表(1702年~1704年)

題:(増補版)142D1/3:気になった事柄を集めた年表(1702年~1704年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1702年、飛騨屋久兵衛が松前に渡り、尻別において唐檜(
 エゾマツ)の伐木事業を始めた。
1702年7月18日、事件:浅野家へおあずけ
  浅野長矩の弟の浅野大学(だいがく、浅野長広)が、
 広島藩主:浅野家へおあずけの身となった。
1702年、経済:江戸で地代・店賃が取り調べられた。
1702年閏8月、経済:金銀訴訟の相対済令(あいたいすまし
 れい)、享保の改革で発布された法令の一。
  前年までの金銀訴訟を相対済とした(金銀貸借や売掛
 金などの紛争の訴訟に公権力は関与しない)。
  訴訟事務の停滞を理由に、既往の金銭貸借の訴訟は受
 理せず、当事者間で解決させることとした。
1702年、経済:物価低減令
1702年、出版:新井白石が著した「藩翰譜(はんかんぷ、
 歴史書)」が完成した。
  甲府藩主の徳川綱豊(後の、6代将軍家宣)に、1701年
 に、命じられていた。
  1600年からの80年間における、1万石以上の大名の337
 家について、その始封、襲封(しゅうほう、諸侯が領地
 をうけつぐこと)、廃除などを記したもの(由来と事績・
 業績を集録し、系図を付けた)。全13巻。
  本書は、幕藩体制の鳥瞰図(ちょうかんず)的役割を
 持つことのほか、政治の参考書であり、道徳教訓書でも
 あった。
  内容の優れた文章と、豊かな内容とによって、家宣は
 死ぬまで座右を離さなかったという。
  また、武家一般に広く読まれ、大名家で本書を備えな
 いものはなく、古今いまだその比を見ないと言われた。
  白石は、全精力を傾けて書いたため、「白髪満頭(頭
 が白髪・しらがで真っ白になった・・という意味らしい)」
 になったと告白している。
  実証主義を堅持し、学問的良心の強さがみられる。
  本書は、その後、権威ある著作として、標準的史書と
 として扱われ、よく引き合いにも出された。
1702年、イギリス:アン女王戦争が起きた(英仏植民地戦
 争、~1713年)
  スペイン継承戦争の際に、アメリカ大陸で行われてい
 た戦争。
  この戦争の結果、イギリスは、アメリカへの奴隷貿易
 の特権を得た(卑劣な権利の獲得)。
  また、ニューファンドランド、ノバスコシア、ハドソ
 ン湾沿岸地方の新たな領土を獲得し、獲得領土が拡大し
 た(カナダの東端地域で、ニューヨーク・ボストンの北
 方地域)。
  卑劣な事に、この後も、何度も戦争を繰り返す好戦国。
1702年、イギリスの利益収奪行為の「東インド会社」が、
 植民地の虐げ行為が行き過ぎと感じたのか、2社が合同さ
 れた(イギリスの行為を代行していた)。
  しかし、合同後も、この2社は、懲りずに新旧の2派を
 新たに作って対立した。
1703年1月30日(元禄15年12月14日)、赤穂浪士が、吉良邸
 へ討ち入った(仇討ち)。
  そして、主君の仇である吉良義央を殺し、その首を泉
 岳寺にある主君・浅野長矩(ながのり)の墓前に捧(ささ)
 げた。
  雪は、前日に降り、実際は日陰に残っている程度だっ
 た。
  仇討の中心人物は、家老の大石良雄で、1701年4月21日
 の事件から、1年9ヶ月が経っていた。
  芥川龍之介に「或日の大石蔵之助」がある。
1703年3月20日(元禄16年2月4日)、赤穂浪士切腹
  赤穂浪士46士が切腹した。
  同日、吉良家当主の義周(きらよしちか、)は、幕府
 評定所に呼び出された結果、領地を没収され、家名が断
 絶した。
1703年、演芸:近松門左衛門が、「傾城三の車」を京都で
 上演した(忠臣蔵物のさきがけ)
  1701年の浅野内匠頭の殿中切傷と切腹、
  そして、翌々年の赤穂浪士討ち入りは、江戸の関心を
 集め、これに取材したおびただしい数の作品が、歌舞伎
 や人形浄瑠璃の舞台となった。
  最も早いものは、刃傷が行われたのと同年同月に、小
 栗判官的に脚色されて、江戸の山村座で上演された「東
 山栄華舞台」があり、
  次いで、浪士たちの切腹直後の曽我的に組まれた、江
 戸の中村座で演じられた「曙曽我夜討」と言われている。
  上演が確認できる最初の作品は、歌舞伎では、この時
 の、京都の早雲座二の替りの、近松門左衛門作「傾城三
 の車」である。
  その中の巻に、討入を示唆する場面がある。
1703年4月、事件:曾根崎心中
  醤油屋の手代の徳兵衛と遊女のお初が、大阪の曾根崎
 天神の森で心中した。
1703年5月、演芸:近松、大阪初演
  近松門左衛門が、「曾根崎心中」を、大阪の竹本座で
 初演した。
  この頃、上方で心中が流行した。
1703年、交通政策:借駕篭の数を制限した。
  江戸で、借駕篭の数を600挺に制限した。
  そして後に、さらに300挺にした。
1703年、出版:室鳩巣(むろきゅうそう、儒学者)
  室鳩巣が「赤穂義人録(あこうぎじんろく)」を著し
 た。
  赤穂義士の仇討の一件を、赤穂義士を褒(ほ)め称(
 たた)える立場で、漢文で記した書。
  赤穂浪士の関係書物としては、最も早く流布した。
1703年、世相:打ちこわし
  長崎の町人が、米の買い占めを行なっていた米商を打
 ちこわした。
1703年、ピョートル1世(ロシア)が、ペテルブルグ(後の
 レニングラード)建設を開始した(要塞と港湾都市)。
  そして、1713年に、遷都した。
  ピュートル1世は、西欧技術・文化の輸入を図り、富国
 強兵に努めた。
1704年2月、初代・市川団十郎(いちかわだんじゅうろう、
 歌舞伎役者)が没した(1660年~1704年)
  元禄時代を代表する名優。市川家の宗家。
  俳優の生島半六に舞台で刺殺された。屋号は成田屋。
  祖先は広州の武士で、後に下総国(千葉県成田市)に
 移住して農を営んだ。
1704年、交通政策:助郷の取締り
  宿駅問屋場に役人を置き、無用の助郷を取り締まった。
  助郷(すけごう)は、宿駅常備の人馬が不足する場合、
 その補充のために、宿駅近くの村々に課された夫役(ぶ
 やく)。
  この助郷は、1694年に制度化されたが、助郷負担の見
 返りに出る手当は微々たるものであり、
  河止めにでもなれば、何日も拘束されるなど、
  その間、農作業が出来ないなど負担が重かった。
  その為、助郷の免除願いが出されたり、出勤簿だけ書
 いて逃走したりと、
  負担回避のための行動が行われた。
  また、この制度を悪用して、
  農民から金銭を集めて代役を安く雇い、利益を貪(む
 さぼ)る者も出た。
  雇われた人足は「雲助」と呼ばれた。
  年々、助郷の人数や、召集の回数が、次第に多くなり、
 農民は、農業が出来なくなり、百姓を止める人や、離散
 者が増えた。
  助郷一揆が、発生した例もある。
1704年、政治:綱吉の将軍世子
  甲府城主が徳川綱豊を将軍世子とし、家宣と改名させ
 た。
  綱吉が、継嗣子を得られず、甥の甲府の徳川綱豊(綱
 吉の兄・綱重の子)を将軍職後継者に定めた。
1704年、天災・洪水:利根川に洪水が起きた。
1704年、芸術:尾形光琳(おがたこうりん、画家、工芸家)
 が、江戸に下り、大名や豪商らの支持を得た(1658年~
 1716年)
  光琳は、5年ほど江戸に滞在した後、1709年に、京都へ
 戻っている。
1704年、社会資本整備:大和川
  幕府が、大和川の付替え工事に着手した。
  岸和田・三田・明石・高取・丹羽・柏原藩などの助役
 により付替工事が完成した。
1704年、清で典礼問題が起こり、ローマ法王が、軍隊式に
 組織されていたイエズス会を異端とした。
  このイエズス会は、資金を得るため商業を営んでもい
 た。
  法王の勅書を守らないイエズス会司祭を破門にした。
1704年8月、イギリスが、ジブラルタルを占領した。
  スペイン継承戦争における戦闘の一つ。
  イギリスは、地中海の橋頭堡を得たいと、1703年に、
 まず、ポルトガルのリスボンを海軍の寄港地とし、
  オーストリアを同盟軍に招き入れ、
  イギリス・オランダ艦隊にオーストリア軍も乗せて派
 遣し、紆余曲折の後、スペイン南端の港湾都市ジブラル
 タルを守備するスペイン軍を降伏させ、占領した。
..
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by suba28 | 2015-06-29 00:48 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)141D1/3:気になった事柄を集めた年表(1700年~1701年)

題:(増補版)141D1/3:気になった事柄を集めた年表(1700年~1701年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1700年頃、この頃、東南アジアだけで、世界経済の4分の1
 を生み出していた。
  この経済的恵みと活力が、先進諸国の欲の対象となっ
 てしまった。
1701年1月、契沖(けいちゅう、国学者)が没した(1640年
 ~1701年)
  徳川光圀から託されて万葉集の注釈をし、『万葉代匠
 記』として完成した。
1701年3月、事件:赤穂~吉良、刃傷
  赤穂藩主の浅野長矩(あさのながのり)が、江戸城中
 で吉良義央(よしなか)を傷害し、即日、切腹、領地没
 収となった。
1701年4月、赤穂城の城明け渡し、
  幕府は、脇坂安照と木下公定を赤穂城受渡使に任命し、
 長矩の弟の浅野大学を閉門とした。
1701年、経済政策:アイヌ交易
  根室のアイヌ交易の場所が開かれた。
  因みに、1754年には国後にアイヌ交易所を設置した。
  ロシア人の千島列島の南下はこれ以降である。
  松前藩は、17世紀の初頭から、道東の厚岸(あっけし)
 を中継地として、千島交易を行なっていた。
  飛騨屋久兵衛が請け負っていた。
  ロシア人は、17世紀の末になってカムチャッカを征服し
 てから後に、そこを足場にして南下を開始した。
1701年、経済政策:集荷と流通の管理
  銀座加役として大阪に銀座を設け、集荷・流通を管理
 した。
  幕府は、この年に、輸出銅を確保するために、銀座加役
 として大阪に銅座を設け、産銅の独占をはかった。
  大部分が長崎輸出銅にあてられていた別子銅山の産銅
 は、18世紀に入り次第に減った。
  その為、銅を確保する必要があった。
  日本の銅は、高品質で、この日本産の銅で、イギリスは
 大砲を作った。
  この性能の良い大砲によって、イギリスは、イスパニ
 ア(スペイン)の無敵艦隊を破ることができた。
  イスパニアも、この銅を欲しがったが、イギリスが独
 占し、流出を防いだ。
  この無敵艦隊の敗れたことによって、世界史が大きく
 変わって行った。
1701年、産業:友禅染(ゆうぜんぞめ)
  この頃、宮崎友禅斎が、光琳の画法に学んで友禅染を
 開いた。
1701年6月、イギリスの王位継承法が成立した。
  イギリスでは、17世紀の初めから、どろどろとした王位
 の継承についての争いが、約100年に渡って、国王と議会
 とで争って来た。
  それの終止符を打ちたいと言うのが「権利章典」だった
 ・・が、しかし・・、
  と言う事で、イギリスでは先に「権利章典」(1689年)
 によって王位の継承順位は定められていたが、しかし、
 アン女王に男系相続人が居なかった。
  そのため、王位がローマ・カトリック教徒で、勝手に
 大王位の継承者だと名乗るJ.F.E.スチュアートに王位が
 移る恐れが生じた。
  そこで、急遽、法律を作って補充した。
  ドイツのハノーファー家への王位継承を定めた。
1701年~1714年、スペイン継承戦争(けいしょう)が起き
 た。
  スペイン(イスパニア)の王位継承をめぐり、イギリ
 スとフランスの対抗を主軸として、戦争がなされた。
  スペイン王に世継ぎの子供が無いのが原因だった。
  フランスのルイ14世の孫のアンジュー公フィリップ(
 後のフェリペ5世)を相続者と定めた。
  フランス・スペインに対して、イギリス・オーストリ
 ア・オランダの争い、そして、ユトレヒト条約が締結さ
 れた。
  フランスの強大化が嫌だったイギリスだった。
  1700年に、スペイン王が没すると、遺言によってフラ
 ンス王の孫が、スペイン領の全土を相続した(スペイン
 のハプスブルグ家が断絶し、ブルボン家が王位についた)。
  これを、オーストリアは認めなかった。
  イギリスとオランダは、スペイン領に関心を持ってい
 た。
  また、新大陸貿易を確保したいとの観点から、フラン
 スとスペインの提携に反対した。
  また、王位継承権を主張するオーストリアとも同盟を
 結んだ。
  そして、この3国は、宣戦を布告した。
  最初こそフランス優勢であったが、劣勢となった。
  そこで、ルイ14世は講和を決意した。
  しかし、最初の講和の妥協はならず、決裂し、戦争継
 続となった。
  しかし、一時的には、フランスも持ち直したが、常に、
 守勢だった。
  イギリスの政権が替わり、戦争終結へ機運が熟し、条
 約の締結へと向かった。
  この戦いの結果、フランスとスペインは、多くの領土
 を失った(ユトレヒト条約)。
  この後も、オーストリアは、戦争を継続ししたが、翌
 年に、ラスタット条約で終結した。
  なお、この戦争と並行して、新大陸では、アン女王戦
 争が戦われていた。
1701年、プロセイン王国(ホーエンツォレルン朝)成立。
  プロイセン王国は、首都がベルリンのブランデンブル
 ク選帝候国と、東のプロイセン公国とが合同して形成さ
 れた王国。
  1701年に、プロイセン王国と名前を変えた。
  鴨長明の「方丈記」ではないが・・、
  王位が欲しいと、戦いが頻発するヨーロッパ諸国の「
 かつ消え、かつ結びて・・」の世界だった。
..
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by suba28 | 2015-06-27 03:08 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)140D1/3:気になった事柄を集めた年表(1700年~1700年)

題:(増補版)140D1/3:気になった事柄を集めた年表(1700年~1700年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1700年、人口(18世紀はじめ):
  18世紀初めの江戸の人口は、100万人前後だった。
  因みに、大阪は35万人、京都は40万人だった。
  日本全体では、3000万人前後と推定されている。
1700年、経済政策:両替比率を定めた。
  金銀銭の三貨の比価(金1両=銀60匁=銭4貫文)を定
 めた。
  江戸を中心にしての使用通貨は、金を遣う経済圏で、
 大阪は銀遣い経済圏だった。
  また、九州は銭経済圏だったと言われている。
  この地域の差における違い、また変動もあり、交換比
 率を調整し、定める事は重要だった。
  また、幕藩体制は、石高制によってなされ、市中の経
 済は貨幣経済で、
  その貨幣経済下で、経済成長するため、石高制の伸び
 の反映がなされにくかった。そのため・・、
  幕府の収入の石高価値は減価し、幕府も藩も財政難に
 陥りやすいという傾向と問題があった。
  そこで貨幣の発行権のある幕府は、改鋳して貨幣発行
 益を得たりもした。
  この度重なる改鋳は、特に、銀貨の価値を大きく低下
 させた。
  交換比率改定の必要性はここにもあった。
  海外への大量の金流出も、この問題を引き起こした。
1700年、交通・運搬政策の育成と課税
  江戸三伝馬町助成(育成)のため、大八車・借駕篭に
 焼印し、極印賃(ごくいんちん)を課税した。
  伝馬町(てんまちょう)は、幕府・大名の命ずる交通・
 通信業務を従う伝馬役を負担している町だった。
  江戸には、江戸府内から五街道にかかる人足、伝馬の
 継立てを、幕府の命により行う三つの伝馬町があった。
  また、荷物運送も含め育成する必要もあった。
  大八車(だいはちぐるま)は、当時の画期的な運送手
 段だった(因みに、大阪では大八車は使用されなかった。
 大阪はべか車)。
  大八車による事故が多発したという。
  江戸の大工の八左衛門が発明したので大八車と言う(
 建築資材運搬として発明)。
  大八車が、飼料代不要で、馬を必要としないので急激
 に増え、伝馬町の馬持ちの荷物を奪う事になった。
  その為、大八車に課税して、その金で伝馬町を育成し
 た。
1700年、幕府が、旅人・老人幼児・婦人・病者ら以外の借
 駕篭の使用を禁止した。
  これも伝馬町の育成のためだった。
1700年、出版:鳥居清信(とりいきよのぶ、浮世絵師)
  鳥居清信画の絵本「風流四方屏風(びょうぶ)」が刊
 行した。
  歌舞伎絵の名門で、看板絵で好評を博した。
  菱川師宣(ひしかわもろのぶ)に学んだ。
1700年頃、産業:ひもの(干物)
  この頃、「ひもの作り」が始まった。
1700年、毛利氏のこの頃・・長州藩は・・、、
  関ケ原からおよそ1世紀を過ぎた頃、長州藩は、銀4万
 貫にのぼる膨大な負債に苦しんだ・・が、
  年収の10倍を超える藩債を処理するのに、ただただ『
 倹約』をする事しか知らなかった。
  改革が始まるのは、人材養成組織である「藩校・明倫
 館(めいりんかん)」を創設(1719年)まで待たねばな
 らなかった。
  因みに、水戸藩の弘道館や、岡山藩の閑谷黌(しずた
 にこう)とともに、日本三大藩校という。
  反幕資金・・、
  18世紀の初めころ、長州藩は、瀬戸内海方面を盛んに
 干拓し、
  幕末には、「長州藩の実質は100万石」と言われた。
  ほかに、殖産事業を盛んに行ない、特に、塩の収入は
 桁はずれに大きかった。
  全国600万石ぐらいのうち、長州藩は100万石を生産し
 た。
  製塩すると、すぐ三田尻港から内国貿易の船に積み込
 んだ。
  上方へ行く塩船は、脚のはやい菱垣(ひしがき)廻船
 とか樽(たる)廻船といわれる船種であった。
  北前航路へ向かう船は、その船形からドングリ船とい
 われたように頑丈でずんぐりしており積載量が大きい。
  そのかわり速力は遅かった。
  日本海岸から蝦夷地まで塩を売って行った。
  長州藩の藩庫は、このようにして、農業本位の諸藩と
 は比べ物にならぬほどに豊かになった。
  それが、反幕運動資金として流出していく(街道をゆ
 く1)
1700年、芸術:狩野派
  狩野派の絵が琉球に。また、琉球の絵師が中国に。
18世紀、キリスト教国の『スペイン』と『ポルトガル』の
 蛮行。
  ブラジルとアルゼンチンにはさまれた国・パラグアイ。
  スペインは、このパラグアイから東進して領土を奪っ
 て行った。
  ポルトガルは、ブラジルを南下しながら領土を奪って
 行った。
  この両国が、18世紀に入って、領土を奪い合って衝突
 した。
  この衝突は、『トルデシーリャス条約』を空文化した。
1700年、オランダ貿易船の入港を5隻を許す。清船は8隻、
18世紀、マレーシアへ、18世紀にオランダが侵入した。
1700年、ベルリンで気象観測が開始された。
1700年11月30日、不凍港が欲しいロシア
 ナルワの戦いでスウェーデンが、ロシアを破った。
  北方戦争(または大北方戦争)が勃発した。
  この年、スエーデン王のカール12世が、ナルワ(ナル
 ヴァ)の戦いで、ピョートル1世のロシア軍を破った。
  三十年戦争以来、ヨーロッパ東北部で強勢を誇ってい
 たスエーデン。
  これに対して、ロシアと、ポーランドと、デンマーク
 が戦いを挑んだ戦争だった。
  三十年戦争で、スエーデンは、ウエストファリア条約
 により、バルト海南岸や北部ドイツの大河川の河口域を
 手に入れ、
  また、海峡の制海権をデンマークから得たりと、にわ
 かに強国となっていた。
  それ以後、欧州列強(イギリス・フランス・オランダ)
 は、スエーデンを味方につけようとうごめていた。
  しかし、オランダとスエーデンは、長年のライバルだ
 った。
  三十年戦争でも戦った。
  やはり、領土の取り合いだった。
  ロシアは、河川が多いが、すべて、その河口は、他国
 領だった。
  海へ出ようとしても出られなかった。
  その都度、スエーデンやポーランドに邪魔された。
  そんなロシアに変化が出たのは、1698年に、ピョート
 ル1世が政権の座についてからだった。
  彼の幼少の時のロシアは、悲惨だった。
  彼は、富国のために、交易を盛んにしたい、不凍港が
 欲しいと考えた。
  そこで、オスマントルコが領有する黒海を狙った。
  思う様には行かなかった。
  応援を得たいと、1697年に、西欧諸国へ対トルコ戦の
 援助を求めた。
  しかし、その要請の旅先で、
  また、諸情勢を見たり、技術を学びたいと出掛けた彼
 が見たのは、虚弱な不安定なスペインだけで、
  トルコと戦おうとする国は一つとして無かった。
  トルコと長年の宿敵のオーストリアでさえ、スペイン
 継承戦争に備えて、トルコと和平を結んでいた(カルロ
 ヴィッツ条約)。
  そこで彼は、不凍港の矛先をバルト海へ向けたのだっ
 た。
  北方戦争は、1721年まで続いた。
..
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by suba28 | 2015-06-26 16:33 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)139D1/3:気になった事柄を集めた年表(1699年~1699年)

題:(増補版)139D1/3:気になった事柄を集めた年表(1699年~1699年)
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17世紀、キリスト教法王の煽り立てた『魔女旋風』
  この迷信と残虐な魔女旋風が、
  中世前期の暗黒時代において
  また、ルネッサンスの最盛期において、吹きまくった。
  しかも、この旋風の目の中に立って、これを煽り立て
 た人たちが、無知蒙昧な町や地方の一般の方々ではなく、
 歴代のキリスト教の法王だった。
  魔女は、昔からいたにもかかわらず、
  キリスト教会が権威と権力を使って、
  全世界に張り巡らしたこの上なく組織的なキリスト教会
 の魔女裁判によって、魔女狩りをした。
  この様な事は、キリスト教を信仰するキリスト教国以
 外にはなく、
  かつ、この時期、1600年頃をピークとする前後3世紀か
 ら4世紀の長い長い期間、この悪事は行われた。
  17世紀の末には、新大陸のアメリカにまでおよんで可
 哀想な方々が大勢出た。
17世紀、インドネシア:イスラム化が17世紀に完了した。
  それ以後、オランダが進出し、19世紀初めに植民地と
 された。
17世紀、タージ・マハール:
  タージ・マハールはニューデリーの南方250キロメート
 ルのアグラにあり、世界で最も美しい一つとされる。
  アグラは、17世紀初めにムガル帝国の首都となった。
17世紀、ヨーロッパの危機:
  各地に民衆の暴動が勃発した時期であり、
  また、30年戦争というキリスト教を因とする悲惨な長
 い戦争があり、
  ペストの流行で人々が死に、人口が減少した。
  また、穀物生産の不振があり、その背景として小氷河
 期ともいわれる寒冷化現象があった。
17世紀末、アメリカ先住民のインディアンの方々
  アメリカの先住民のインディアンの方々は、
  可哀想な事に、17世紀の末には、アメリカ大西洋岸か
 ら駆逐され、一掃されてしまった。
  それまでの、アメリカ・インディアンの方々の意思は、
 無視され、戦争ばかりとなっていた。
  アメリカの独立の背景には、弱者のアメリカ・インデ
 ィアンの先住民の方々が居ります。
  しかし、強力な武器を持った白人のアメリカ人によっ
 て、17世紀の末には、アメリカ大西洋岸(アメリカの東
 海岸)から駆逐され、そして一掃させられてしまいまし
 た。
  イギリス国王は、『7年戦争後のアパラチア山脈以西へ
 のイギリス人植民者の入植を禁止した宣言』を出してい
 ました。
 先住民のインディアンの方たちは、この宣言が「7年戦
 争の後には、イギリス人の入植がない」ということで、
 「自分たちの土地が守られている」と解釈しました(も
 ともと自分たちの土地なんだから・・)。
  そのため、アメリカのイギリスからの独立を目指す独
 立戦争において、インディアンの方たちはイギリス側に
 ついて戦いました(自分たちの領土が、土地が戻って来
 ると・・)。
  しかし、独立戦争後、アメリカは「アパラチア山脈か
 らミシシッピー川に至る広大な土地をイギリスから得た
 (先住民の方たちに関する話はまったく無し)」。
  この事に対する先住民のインディアンの方たちの落胆
 は大きかった。当然だった。
  インディアンの方たちの意思は、まったく無視され、
 理解されず、
  そして、インディアンの先住民の方々の権利へも、ま
 ったく配慮されない、理解も示されない、これ等・土地
 に関する取り決めでした。
  インディアンの方たちは、この事について抗議の行動
 を起こしました。
  これ等の土地をめぐって、アメリカとインディアン先
 住民の方たちとの戦争が起き、激化して行きました。
  1787年の『北西部条例』で、ミシシッピー川以東の土
 地がアメリカ人に開放されました(インディアンの方た
 ちからの収奪)。
  まったく自分勝手な条例、インディアンの方達への説
 得や相談などの意思の疎通の機会はまったくありません
 でした。
 事は必然的に紛糾しました。
  また、紛争は激増しました。
 アメリカは、卑劣にも、戦い方において残虐さが増し
 た。
  アメリカは、先住民の方々の女性や子供を容赦なく殺
 した、殺戮した。
  多数の犠牲者が出ました。
 無限定戦争でした(白人同士の戦争とは違う戦争の意
 識です。
  白人同士なら「将校は狙わない」とかという事をする
 が、
  キリスト教の考え方・教義による有色人種蔑視から来
 る無限定戦争は、女性や子供も無限定に殺戮する。
  東京大空襲や広島・長崎の原爆投下なども無限定戦争
 です。
  無差別に住民を焼き殺しました。
  当時、国際法でこの様な行為をしてはいけないという
 法規が明確に存在していました。
  この国際法違反です。
  これは裁かれなくてはいけません。
  アメリカは、この法律によって裁かれなくてはいけま
 せん。
  アメリカは無実ではありません)。
 アメリカの白人と先住の民のインディアンの方々との
 戦いも、悲惨さが、より大きいこの無限定戦争が繰り返
 されました。
 イギリス人との白人間の独立戦争では、戦争の自制観
 が見られましたが、インディアンの方たちに対する対先
 住民戦争では『無限定戦争観』による戦闘でした。
  それで、戦争にまったく関係のない方々(女性や子供
 たちなど)への悲惨な多くの犠牲者を生みました。
  (「野蛮」視した異人種に対するという態度です)。
  キリスト教の原住民蔑視の思想・考え方は、南米・中
 米・北米メキシコ及びその離島などでも、非常に多くの
 殺戮が現出し、見られましたが、
  また、アフリカの方々への有色人種の方々へ対して、
 『人間ではない』との発言が、キリスト教聖職者の発言
 として記録されて居りますが、
  アメリカのこの戦いにおいてもその状況でした。
  (異人種や先住民への蔑視)。
  戦争で決着させるキリスト教の持つ宗教観がありまし
 た。
  キリスト教の生まれた地、その錯綜する人種・民族間
 で富の奪い合いの戦争の歴史は繰り返されていました。
  この様なDNA・教義をキリスト教は持っています、「異
 教徒は殺せ」などのキリスト教の教義なのです。
  (参考):限定戦争は、その定義に基づけば敵の殲滅
 によって戦争を終わらせる戦争ではなく、
  より限定的な目標を達成することを勝利とした戦争。
  限定戦争では、その目的を制限することによって、戦
 争に投入する軍事的手段を制限し、
  かつ可能な限り少ない費用で平和を達成するよう努力
 しなければならない。
  戦略理論において、この限定戦争の原理は、目的と手
 段の適合として説明されている。
  リデル・ハートは、戦争状態にある国家の目的とは、
 可能な限り少ない人的、経済的な損失で敵の抵抗する意
 思を屈服させることであると論じている。
  つまり、敵に対する作戦を考える上では敵の意思を打
 ち砕くことと損失を最小化することが重要であり、無闇
 に敵の軍事能力を破壊するために犠牲を増やしてはなら
 ない。
  しかし、インディアンの方々や、東京大空襲や、広島・
 長崎の原爆などには、この原理が働かなかった。卑劣な
 殺戮だけがあった。
..
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by suba28 | 2015-06-25 01:49 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)138D1/3:気になった事柄を集めた年表(1697年~1699年)

題:(増補版)138D1/3:気になった事柄を集めた年表(1697年~1699年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1698年、青木昆陽(あおきこんよう、儒学者、蘭学者)が生
 まれた(1698年~1769年)
  魚屋の一人息子として生まれる。
  8代将軍・徳川吉宗は、飢饉のときの救荒作物として西
 日本では知られていた甘藷(現在のサツマイモ)の栽培
 を混用に命じた。
  昆陽は、小石川薬園(小石川植物園)と下総国と上総
 国において試作した。
  この功績で、享保の大飢饉に役立ち、以降、関東地方
 や離島において、サツマイモ栽培は普及した。
  天明の大飢饉のときには、多くの人々の命を救った。
  昆陽は、幕臣となった。
  千葉県幕張には昆陽神社が建てられ、昆陽は「芋神さ
 ま」として祀られている。
  また、千葉県九十九里町には「関東地方甘藷栽培発祥
 の地」の碑が建てられている。
1698年6月、備後福山藩に百姓一揆が起きた。
  備後国(びんごのくに、広島県東部)、この地は、た
 びたび百姓一揆がおこり、特に、1717年~1718年、1786
 年~1787年に起こった惣百姓一揆(そうびゃくじょうい
 っき)は有名。
  惣百姓一揆は、初期の代表訴訟型一揆と異なり、全村
 民による一揆で、
  村役人層に指導され、大規模で、政治的要求を掲げた
 一揆だった。
  しばしば全藩的規模に及んだ。
1698年12月、木下順庵(きのしたじゅんあん、儒者・朱子
 学者)が没する。
  将軍・綱吉の侍講になった(1682年)、
  新井白石・室鳩巣らの多数の門人がいる。
1698年、経済政策:永小作地
  幕府が、20年以上の小作地を永小作地とし、奉公人の
 年季制限を撤廃した。
  永小作(えいこさく)は、世襲小作ともいい、これは、
 普通小作と比較し、地主に対して小作人の権利が非常に
 強い点に特徴がある。
  耕作権は無期限で、公租公課の負担、農業用水の管理・
 利用、土地改良などの主体も小作人にあった。
1698年、鉱山:試掘(鉱山開発)
  諸国の金銀銅山の試掘を命じた。
  幕府が、各藩に鉱山開発を指示した。
1698年8月、社会資本整備:永代橋の架橋
  隅田川に永代橋が架橋された。
  現在の位置よりも100メートル上流の地点。
  5代将軍・綱吉の50歳を祝したものという。
  また、1702年の赤穂浪士の吉良邸討入では、上野介の
 首を揚げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向かったという。
1698年、出版:戸田茂睡(とだもすい、国学者、歌人)が、
 歌学書「梨本集(なしのもとしゅう)」を著した。
  (1629年~1706年)
1698年、処罰:多賀朝湖(たがちょうこ、画家、芸人、英
 一蝶、はなぶさいっちょう)が、三宅島に配流された。
  色々な名前が一杯ある人。
  生類憐みの令の違反での流罪。
  家族のために画材を要求して送らせ、絵を描いている。
  今でも、その絵が新島・御蔵島に残っている。
  綱吉の死の1709年に、大赦によって許され、12年ぶり
 に江戸へ帰った。
1698年9月6日、江戸で大火(勅額火事・ちょくがくかじ)
  新橋南鍋町から出火し、強い南風のため遠く北方の千
 住まで延焼した。
  大名屋敷83、旗本屋敷225、寺院232、町屋1万8703戸、
 326町を焼いた。
1698年、内藤新宿が設置された。
  現在の新宿区新宿の発祥の地で、高遠藩内藤氏下屋敷
 の近くに新設された。
  甲州街道の道中の第一宿。
  江戸周辺の東海道の品川、日光道中の千住、中山道の
 板橋とともに四宿と呼ばれた。
  江戸浅草阿部川町の名主の喜兵衛ほか4人の出願によっ
 て、この年に置かれた新しい宿駅。
1698年、人事:柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が、老中
 の上に列せられた。
  徳川綱吉の小姓から出世して行った。
1698年、イギリスの卑劣な植民地搾取の会社「東インド会
 社」の儲け過ぎで、本国のイギリス社会は大騒ぎになっ
 ている、・・欲の世界(餓鬼界)である。
  そして、この年、この騒ぎをおさめようと、第2の会社
 の設立が許可された(搾取側のイギリスが、勝手に許可
 したのであって、搾取される側のインドの方々は大きな
 迷惑だった)。
  文句を言っている者たちへも許可したのである。
  安易なイギリスの解決策だった。
  たまらないのは搾取される弱者の植民地国のインドの
 方々だった。
  卑劣にもイギリスの搾取会社の2社により富の収奪の
 上の、さらに強欲な奪われ行為がなされて行く。
  これでも、イギリスは『正義だ』と言ったのだろう、
 今・現代のTPPの様に・・。
  当然、強者のイギリスの2社は、激しい強奪競争の利益
 のむしり取りを始めた。
  当然の卑劣のむしり取り競争であった。
1699年、世相:米不足
  江戸の米穀不足で、諸代官へ江戸廻米を命じた。
1699年、世相:生活苦の旗本
  生活苦の旗本と御家人に賑救金(しんきゅう、施し物
 をして貧民などを救うこと)を賦与し、救済した。
1699年、令:酒造制限令が出された。
1699年、芸術と作陶:乾山焼(けんざんやき)
  仁清の陶法を伝授された尾形乾山が、京都鳴滝(なる
 たき)で楽焼き風の陶器・乾山焼を始めた。
  兄の尾形光琳の絵付や意匠になる雅陶を製作し、洛中
 の人気を集めた。
1699年、イギリスに広東貿易(かんとんぼうえき)を許可。
  中国の清代における広州の海外貿易。
  1685年に、清朝の海禁(かいきん、海外渡航と貿易の
 禁止)が解かれ、海外貿易が許されていた。
  広東1港のみに限定し、独占的商人のみによって行わ
 れた貿易体制だった。
1699年、カルロヴィッツ条約が締結された。
  オスマン帝国とヨーロッパ諸国との間に結ばれた講和
 条約。
  オスマン帝国は、17世紀後半に、オーストリア・ベネ
 チア・ポーランド・ロシアと戦い、大きな版図を築いて
 いたが、大トルコ戦争など種々の戦いを経て、ヨーロッ
 パにおける勢力の大幅な後退を余儀なくされる状況に至
 った。
  戦争の後期には、戦線が膠着し、末期には、ゼンタの
 戦いなどの戦闘はあったが、
  ほとんど戦闘が行われないまま講和の交渉となった。
  そして、この年に、オスマン・トルコは領土を割譲し、
 ヨーロッパからの退却となった。
17世紀、有色人種蔑視:見世物
  キリスト教で有色人種蔑視に洗脳されたヨーロッパで、
 アフリカの黒人の方たちやアメリカ大陸のインディオの
 方たちが、見世物として、猿やヒヒと一緒に、陳列させ
 られていた。
  非人道的諸国=キリスト教の諸国家だった。
17世紀~18世紀、奴隷貿易。
  広くは15世紀から19世紀の前半まで、
  ヨーロッパとアメリカのキリスト教諸国によってなさ
 れていた非人道的に極まった極悪行為・人身売買。
  欧米のキリスト教諸国は、安い労働力を得たいと、人
 を物同然に、金にものを言わせて買いに行った。
  現地も、その要求に応じた。
  そこには、確実に、キリスト教の考え方・教義によっ
 て洗脳された、正しい判断が阻害され、正しく判断が出
 来ない状況下で、極悪行為は行われていた。
  黒人の方々を、人と見ない見方は、キリスト教には、
 古代の古い昔からあったことが、記録にあるが、
  この奴隷貿易が行われるはるか以前の1452年に、キリ
 スト教のローマ法王が、
  『異教徒を永遠の奴隷とすることは正当である』と、
 奴隷を良しとする許可を与えていた。
  また、卑劣な事に、『非キリスト教圏の国を侵略する
 事を正当だ』ともした。
  この卑劣極まりない許可によって、最悪行為はなされ
 ていた。
  当然、日本においても行なわれた。
  アメリカの綿花栽培、ポルトガルの砂糖のプランテー
 ション経営、フランスが行なった「銃器を渡して、奴隷
 を連れて来る行為」(武器と人との卑劣な交換行為)、
  イギリスの奴隷狩り商人の跋扈(ばっこ)、イギリス
 のマンチェスター綿工業の資本家の黒人の方々の安い労
 働力を使おうという悪知恵・悪巧み、奴隷貿易の主導権
 者・アメリカ・イギリス・オランダ・フランス、
  アフリカの1200万人~1500万人の方々が奴隷にされ、
 犠牲になった。
  キリスト教の洗脳により、人権がまったく考えられな
 かったため、大西洋を渡る奴隷船の中の、最悪な環境、
 過酷な状況の中に置かされた多くの黒人の方々は、亡く
 なった、
  日本人も、ザビエルなどのキリスト教宣教師と共に行
 われた南蛮貿易において、特に、日本人女性が、奴隷と
 して、多数が連れ出された(目撃されている)。
  豊臣秀吉も、秀吉の臣下も確認して、その状況を知っ
 ており、激怒し、即刻、キリスト教の禁教令を出した。
  秀吉が、キリスト教宣教師のガスパール・コエリョへ、
 人身売買を詰問したのは有名、
  そして、その結果を受けて、秀吉は、即日、奴隷の売
 買を含む南蛮貿易の禁止と、キリスト教の布教を禁じた。
..
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by suba28 | 2015-06-24 02:48 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)137D1/3:気になった事柄を集めた年表(1696年~1697年)

題:(増補版)137D1/3:気になった事柄を集めた年表(1696年~1697年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1697年7月、元禄地方直(げんろくじかたなおし)
  幕府が、御蔵米地方直令を出し、
  500俵以上の蔵米取の旗本を、知行取へと変更する地方
 直の方針を打ち出した。
  勘定頭(勘定奉行)だった荻原重秀の主動で実施され
 た。
  天領から米を運搬する費用が掛かる蔵米給付の方が幕
 府にとっての財政負担は大きい・・そして、一方、
  当時の武士は、蔵米取よりも、知行取の方を格上と考
 えており、
  蔵米支給から知行取に変わることを、旗本たちは出世
 ととらえ、
  幕府も、知行取への変更を褒章の一環としていた。
1697年10月、酒運上(酒屋運上)を令した。
  酒運上(さけうんじょう)は酒造税。
  幕府は、売価の3分の1を酒運上を課すことを全国に布
 達した。
  これは、飲酒の制限の意味もあった。
  1709年に廃止された。
1697年、経済政策:新貨との交換を命ず
  幕府が、古金銀の通用期間を限り、新貨との交換を命
 じた。
  1698年限りで、運用停止すると触書を出したが、引き
 換えが進捗せず、退蔵する者が多かった。
  これは、今までの貨幣の方が、金の含有量が多く、品
 位の高い小判であることが、誰が見ても明らかだった。
  結局、割増通用(現行の小判より何割か価値が高いも
 のとして通用させる)という形で、幕末まで流通してい
 た。
  しかし、この割増も退蔵する方が得だったため、交換
 は思うように進捗しなかった。
  元禄金は、量目(質量)こそ、慶長金に等しかったが、
 金に対し密度の低い銀を、多く含むため、分厚く白っぽ
 いものとなった。
  そのため、品位が低下したことは、誰の目にも明らか
 だった。
  また、脆(もろ)く折れやすいものであったため、評
 判は悪かった。
1697年、政策:大名管理
  幕府が、諸国の有力大名に、郷帳と国絵図の提出を命
 じた(居城の絵図、国絵図、海陸の道筋など)。
  また、旗本・寺社へも国絵図の改訂と郷帳面の提出を
 命じた。
1697年、大名管理・吉宗
  徳川吉宗が14歳の時、第5代将軍の綱吉に江戸城内で拝
 謁(お目見え)し、越前国丹生郡所領3万石を与えられ、
 葛野藩主となった(立藩した)。
1697年4月、ガルダン汗自殺、
  外モンゴルが、清の支配下にはいる。
  しかし、この服毒自殺は、清朝で編纂された漢文資料
 に記されているが、史実ではないという指摘もある。
  病死の説である。
  翌年(1698年)清の版図となった。
1697年、ロシア人が、カムチャッカまで到達した。
  コサックの探検隊が、この年に、カムチャッカに、初
 めて到達した。
  日本人の大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)が行
 く85年前だった。
  大黒屋光太夫(1751年~1828年)は、伊勢国の廻船の
 船頭で、
  嵐のため、1782年に、江戸へ向かう廻船が漂流し、7ヶ
 月の漂流ののち、アリューシャン列島に漂着した。
 (当時は、ロシア領のアラスカ)。
  先住民のアレウト人や、毛皮収穫のための滞在してい
 たロシア人に遭遇し、彼らと共に暮らし、ロシア語を習
 得した。
  4年後の1787年に、ありあわせの材料で船を造り、ロシ
 ア人らと島を脱出する。
  カムチャッカ・オホーツク・ヤクーツクを経由して、
 イルクーツクに、1789年に、至る。
  ここで、日本に来るラクスマンらに会う。
  サンクトペテルブルグへ、1791年に、向い、ロシア帝
 国の帝都で、女帝のエカチェリーナ2世に謁見した。
  帰国を願い出て、漂流から9年半後、磯吉と小吉との3
 名は、根室に帰国した。
  帰国後、将軍・家斉の御前で、聞き取りを受け、幕府
 は、光太夫を活用して、ロシアとの交渉を計画したが、
 うまく行かなかった。
  江戸屋敷を与えられ、異国の見聞を伝えた。
  蘭学者の桂川甫周による聞き取りの「北槎聞略」が史
 料として残された。
  光太夫は、妻も江戸でもらい、帰国も許され、帰国し
 ている。
  また、故郷から光太夫らの親族も江戸に訪ねて来てい
 る。広く知識人らと交際を持った。
  北槎聞略(ほくさぶんりゃく、江戸時代の漂流記録書)
 (宮永孝訳)に、
  「ロシア人に助けられた光太夫達は、住み家もあてが
 われ食事も与えられたが、
  この年の冬はまれにみる飢饉が訪れ、魚しか口に入れ
 ないため、面倒を見てくれている郡官を困らせる。
 この年、先述にあるように世界中が大飢饉となっている
 ことを当人達は知るよしもなかった・・。
 ビタミンCの不足(壊血病)で与惣松・勘太郎・藤蔵が
 死に、オルレアンコフ長官(郡官)に諭されるのである。
「あなた方はみな、伊勢の生まれとか称して、つね日頃、
 獣の肉を口に入れなかったが、このような飢饉の時に至
 ってまで、そんな禁忌を守っていては飢え死にするより
 外はありません。
  先ずこの牛肉を食べて一命をつなぎ、食料が十分に手
 に入ったなら、肉を食べないでもいいではありませんか」
1697年、ライスワイク条約(ファルツ承継戦争終結)
  ファルツ選帝侯領の相続をめぐり、
  フランスのルイ14世と、ドイツ・イギリス・オラン
 ダ・スペイン・サボイア(フランスの一部)との間に、
 1689年から戦争が続いていた。
  この戦争の講和がなされた。
  フランスは、イギリスに対し、ウィリアム3世の王位を
 認め、
  また、その相続者のアンに王位継承権を認めた。
  そして、ドイツは、ストラスブール以外の占領地を返
 して、ライン川の右岸から撤兵するとなった。
  勝利者はいない。
  ただただ、戦争で殺し合っただけ、
  そして、厭戦気分が出て、戦争を止めただけ。
  戦争ばかりのヨーロッパだった。
1697年、イギリス・本国の「東インド会社」が、市民の襲
 撃を受けた。
  「貨物を掠奪せんと騒ぐ」・・とある。
  あまりにも、イギリスの一部だけが、
  市民もびっくりするほど莫大な金を、
  インドの方々から巻き上げて、得ているため、
  インドの方々のために、怒ったという訳ではなく、
  そのイギリスの莫大な富を得ている一部の悪漢たちに
 対し、その独り占めしている事に対して、怒ったのであ
 った。
  市民がだまっていられないほどの搾取だった。
  分け前を寄越せの欲得の、餓鬼の騒ぎだった。
..
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(増補版)136D1/3:気になった事柄を集めた年表(1694年~1696年)

題:(増補版)136D1/3:気になった事柄を集めた年表(1694年~1696年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.

1694年、人事:柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が老中に就
 任した。
  側用人の柳沢吉保を老中に準じる。
1694年、物流:問屋仲間成立
  大阪から江戸への物資輸送を円滑にするため、荷受け
 問屋を糾合して江戸十組問屋仲間を成立(結成)する。
  十組問屋(とくみどんや)は、江戸で組織された各種
 の荷受け問屋組合のこと。
  江戸と大坂間の海上輸送の不正や、遭難による損害を
 防ぐために組織された。
1694年、大坂に24組問屋(にじゅうよくみどんや)が成立
 した。
  大阪菱垣廻船積問屋二十四組ともいう。
  江戸の十組問屋と結んで、大阪から江戸へ積み出す荷
 物を独占的に取り扱った。
1694年、物流:荷物運送を容認
  信州中馬の荷物運送を容認した。
  中馬(ちゅうま)は、信州の農民が行なった馬背を利
 用した輸送業。
  伊那地方の農民が農閑期の余業として2~3頭の手馬で
 物資を目的地まで運送したのに始まる。
  信州以外に、尾張・三河・駿河・相模・江戸にまでと
 活動範囲は広がった。
  重要な運送手段となった。
1694年7月27日、イングランド銀行が設立された。
  W・パターソンが、イギリス王のウィリアム3世の財政
 難を助けるため設立した。
  名誉革命の直後は、国家の財政は赤字ばかりだった(
 戦争ばかりしているからだ、結局、これも、対仏戦の戦
 費調達となった)
  代償に銀行券の発行権を得て、120万ポンドの資金を公
 募し、銀行としての株式会社として設立された。
1695年2月、政策:関東の幕領の検地が行われた。
  関東郡代の伊奈忠篤の支配地で、1696年2月21日付けで
 実施された検地は、総石高が40万石び、これは、天領の
 10%に及んだ。
  やり方は、支配地の代官ではなく、近隣の大名、また
 は、別の代官が実施した。
  田畑の位付けを細分化し、名請人は小農や小作百姓も
 検地帳に登録し、隠田を摘発した。
  また、開墾可能な土地は、山林や原野、荒地や湖沼地
 帯も検地し、台帳に記載した。
  そのようにして石盛(こくもり、見積生産高のこと)
 を高めるという方法で行われた。
  武蔵国世田谷の村々では、石盛が2倍や3倍になるなど、
 検地は厳しいものであったが、
  生産技術が進歩したことによる生産量の増加が、石高
 の大幅な上昇をもたらしていた。
1695年8月、諸国の鉱山の採掘を奨励した。
1695年8月、経済:貨幣の改鋳(初めての改鋳)
  5代将軍・徳川綱吉の臣下・勘定吟味役・荻原重秀の建
 策で、財政赤字解消のため、金貨・銀貨を改鋳した(元
 禄金銀・げんろくきんぎん)、
  以後も、改鋳で年平均50万両の収入をあげる。
  元字金銀(げんじきんぎん)ともいう。
  この頃、米が値下がりし、米を売って生計を立ててい
 た武士や農民の収入が減り、デフレ経済に陥っていた。
  荻原は、それまでの「慶長小判」を回収して溶かし、
 「元禄小判」に作り替えた。
  大きさは同じだが、含まれる金の割合を約3分の2にし
 た。
  慶長小判2枚を元禄小判3枚にした。
  1枚あたりの価値が下がった元禄小判は、借りやすくな
 って活発に使われ(流通の活発化)、元禄の太平の世を
 作り出した。
1695年10月17日、凶作:奥羽地方が大冷害で、奥羽と北陸
 が凶作となり、餓死者が多数出た。
  幕府は、10月17日に、凶作の救済のため、津軽藩主・
 津軽信寿(のぶひさ)に米3万俵を貸与した。
1695年11月、江戸の犬を中野犬小屋に収容し、養った。
1695年、旧金銀貨幣との混用を布令した。
1695年、出版:西川如見(にしかわじょけん、天文暦学者)
 が「華夷通商考(かいつうしょうこう)」を著した。
  中国はじめ諸外国の位置・風土・人口・産物・風俗な
 どを記した海外一般の地誌。
  著者が、オランダ人との接触を通じて得た海外事情を、
 通商の立場から書いている。
  1708年には、アメリカの記事を「職方外記」から邦訳
 して補充している。
1695年、イギリスの悪行が露見
  イギリスの卑劣な行為が、この年に、白日の下に、一
 般大衆の知るところとなった。
  イギリス王室が讃美して始められた「東インド会社」。
  この実質的にはイギリスという国そのものであるこの
 会社は、人を殺し、騙(だま)し、そして、この賄賂と、
 悪い事ばかりしている。
  インドを含めて、弱い植民地の諸国を虐げている行為
 も軽蔑するが、
  この年に、非人間的な行為でもって、稼ぎに稼いだ金
 でもって、その悪貨を賄賂に使って、自分たちに有利に
 事を運んでいた事が暴露された。
  イギリスを正しい方向へ導くべき人たちに対し、賄賂
 が贈られていて、黙らせていた。
  臆面なく、賄賂を受け取った者たちも大悪漢である。
  その収賄していた者たちが、政治家を含む者たちが牢
 屋に入れられた。
  6年間だけで107万ポンドもの大金が賄賂に使われてい
 た。
1696年、経済政策:値段書付を提出させる
  江戸で町屋敷値段書付を提出させた。
1696年、交通:大井川渡渉制度ができた。
  この年に、川越制度ができ、川庄屋が置かれた。
  川会所は、この制度に基づき、川越賃銭の決定、渡渉
 順次の割り振りなど、川越業務の管理運営を行った所。
  大井川の管理や渡渉制度に、関わる運営を現地で行う
 川庄屋が任命された。
1696年、鉱山:阿仁銅山(あにどうざん)
  佐竹藩(秋田県北秋田郡)が、阿仁銅山を開いた。
  古くは金銀を算出、後に、銅山として栄えた。
1696年、農業:農書
  近畿地方の先進的な農業事情を記す江戸前期の代表的
 農書、宮崎安貞(みやざきやすさだ、安芸広島藩士)の
 「農業全書」がなる(翌1697年に刊行)
1696年4月、農業:塵芥利用の埋立て新田の許可
  幕府が、江戸町中の塵芥を利用して埋立新田を作るこ
 とを許した。
  幕府は、1649年に「ゴミを会所地へ捨てる事を厳禁」
 しているが、
  家綱の時の1655年に、江戸市中のごミ処理令を出した。
  これは、江戸市中のごみを、江戸城下から離れた隅田
 川左岸河口の永代島まで船で運び、投棄することを義務
 付けた。
  それまでは、市中のごみは、屋敷内、空き地、川等へ
 廃棄していた。
  しかし、江戸の人口の急激な増加に伴って、この様な
 ごみ処理は、江戸市中の衛生状態を極度に悪化させた。
  また、1681年の綱吉の時に、江戸市中のごみ捨て場と
 して、永代島新田と砂村新田(現、江東区北砂付近)を
 定めた。
  そして、1696年4月30日に、ゴミ船で江戸市中の塵芥(
 じんかい)収集にあたる町人2人に、永代島~上総(かずさ
 )間の海路浚渫(しゅんせつ)を許可した。
  そして、その土砂と塵芥による永代島附近の埋め立て
 を命じ、そして、土地造成を更に進めた。
1696年4月11日、人事:荻原重秀(おぎわらしげひで)が、
 勘定奉行となった。
  そして、この日、250石を加増され(2000石)となった。 
1696年、人事:荻生徂徠(おぎゅうそらい、儒者)
  古文辞学派の祖・荻生徂徠が、柳沢吉保に召し抱えら
 れ、将軍・綱吉の学問相手を勤めた。
  徳川吉宗の時に、吉宗に「政談」を提出している。
1696年、ブラジルでゴールド・ラッシュ
  ブラジルのミナスジェライスで金鉱が発見されて、ゴ
 ールドラッシュが起きた。
  インディオの方々やアフリカの方々を奴隷として酷使
 し、大量の金をポルトガル本国へ送った。
  金は、王や貴族の宮殿の装飾などに使われ、飾った。
1696年、露土戦争(1686年~1700年)で、ロシアのピョー
 トル1世が、トルコと戦い、この年、アゾフ占領(黒海北
 部)に成功した。
  露土戦争は、ロシア・オーストリア・ベネチア・ポー
 ランドのヨーロッパのキリスト教諸国の神聖同盟軍と、
 オスマン帝国との大トルコ戦争(1683年~1699年)の一
 部をなし、
  1700年に、コンスタンティノーブル条約が締結されて
 終戦した。
..
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by suba28 | 2015-06-21 03:01 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)135D1/3:気になった事柄を集めた年表(1690年~1694年)

題:(増補版)135D1/3:気になった事柄を集めた年表(1690年~1694年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1690年、イギリスは、ムガール帝国に17万ポンドの賠償を
 した。
  イギリス(東インド会社にしている)は、ムガール帝
 国に17万ポンドの償金(損害の償い金)を支払い・・、
  さらに、「将来この様な恥ずべき行為を繰り返しませ
 ん」という約束をされられ、再び、通商が許された。
  (イギリスは、1686年に、最初のインド遠征軍を派遣
 し、ムガール帝国軍と衝突、1690年に敗退した。ムガー
 ル帝国に賠償金17万ポンドを賠償した)(注:裏付けが
 薄い項目です)
1691年9月、熊沢蕃山(くまざわばんざん、陽明学者)が
 没した(1619年~1691年)
  中江藤樹に学んだ人。
1691年9月、土佐光起(とさみつおき、画家)が没する。
  (1617年~1691年)
1691年、教育:私塾・昌平坂学問所(しょうへいざかがく
 もんじょ)が移された。
  林羅山が設立した私塾に始まり、
  幕府が、この年に、上野忍岡の林家の邸を湯島へ移し、
 孔子廟を新築し、その地を昌平坂と名付けた。
  寛政の改革(1787年~1793年)の時、幕府直轄の学問
 所となった。
  朱子学を正学として幕臣・藩士などの教育にあたった。
1691年、教育:大学頭(だいがくのかみ)
  林鳳岡(はやしぼうこう、林鵞峰の次男)が、大学頭
 に任じられた。
  昌平坂学問所の長官、以後、林家が世襲した。
1691年、経済:為替
  三井高利が、御為替御用達になった。
  御用達(ごようたし、ごようたつ):幕府・大名・旗
 本・公家などに立入あるいは出入りする特権的な御用商
 人の格式。
1691年、交通:六郷
  多摩川の六郷橋が、1688年の大洪水で流失し、後に、
 渡船場となった、
  六郷渡船場が、1691年に、有料化され、一人6文、軽
 尻(からじり、旅人を載せるのに使われた馬)10文、
 乗掛(のりかけ)15文だった、
  乗掛とは、道中馬の両側に明荷(あけに)という葛籠(
 つづら)を2個わたし、さらに旅客を乗せて運ぶ、
1691年、鉱山開発:別子銅山(べっしどうざん、愛媛県新
 居浜市の山麓部にあった銅山、日本の貿易や近代化に寄
 与した、住友家が巨大財閥になる礎となる)
  住友友芳(すみともともよし、住友家4代)に伊予の
 別子銅山の開発を許可した。
1691年9月、社会資本整備:干拓(日本の各地に、優秀な
 人材が居た)
  岡山藩の藩主・池田剛政が、この年に、藩士の津田永
 忠へ、沖新田の干拓を命じた。
  現在の岡山平野の耕地は、約25000ヘクタールだが、そ
 の内の約20000ヘクタールの80%がは、干拓によって得ら
 れていた。
  津田永忠(1640年~1707年)は、優秀な藩士だった。
  この沖新田の干拓のほか、倉田新田、幸島新田の干拓
 を行ない、
  また、百間川の開削をし、後楽園の造営をし、閑谷学
 校の建築などをした。
  土木・建築に才のある天才を発揮した。
  また、その才能は、藩政の改革、財政の再建と、めざ
 ましい業績を遺した。
1691年、駄賃増加の立札
  箱根に駄賃増加の立札が立てられた。
1691年、生物保護:諸鳥殺の防止
  幕府が、トビ・カラスが諸鳥を殺すことを防ぐため、
 これを捕らえて新島に放った。
1691年、人物:新井白石
  新井白石は、仕えていた堀田家が、大老の正俊の死後、
 財政が緊迫し、その影響で彼の家も暮らしが成り立たな
 くなったとて、1691年に、堀田家を辞任し、
 隅田川のほとりに塾を開いた。
1691年、文学:芭蕉一門
  芭蕉一門が「猿箕(さるみの、俳書)」を刊行した。
  芭蕉の「俳諧七部集」の第5集で、蕉風俳諧の円熟期
 の代表するもの。
1691年、オランダ東インド会社の医師のケンペルが、長崎
 から江戸を往復し、「江戸参府旅行日記」を記した。
  その記述の一部・・、
  1691年2月15日
  佐賀に着く。
  運河や川が流れ、それを利用して人々は有馬湾まで行
 くことができる。
  民家は小さく粗末で、大通りには物を作る仕事場や小
 売店が立ち並んでいる。
  住民は、均整がとれていて小柄である。
  この土地の女性は美しい。
  ただ、こってりと白粉を塗っているので、楽しげで朗
 らかな顔つきで、生気を示さないなら、操り人形だと思
 っただろう。
1692年、大仏の修復が完了
  東大寺の大仏修復が完了し、開眼供養が行われた。
  公慶の勧進が、公慶の思いが、民の心をやがて動かし、
 小さな寄進が積み重なって、この年に、大仏の修復は完
 了したのだった。
  そして、公慶は、次は大仏殿の再建だと、休む間もな
 く、江戸へ向かった。
1692年、間数絵図
  江戸町で間数絵図作成を命じた(元禄間数絵図)
1692年、工業:友禅染
  京都で友禅染が始まった。
  この頃、元禄模様が流行した。
1692年、文学:井原西鶴が「世間胸算用」を刊行した。
1693年9月、井原西鶴(いはらさいかく、浮世草子作者、人
 形浄瑠璃作者、俳諧師)が没した(1642年~1693年)。
  「長持ちに 春かくれゆく 衣がへ」
1693年、政策:人別(戸籍)
  幕府が、流言者取締りのため、住民を人別に書上げさ
 せた。
1693年、生物保護:鷹場制度の廃止
  幕府が、鷹場制度を廃止し、鷹を野に放った。
1693年、新井白石が、徳川綱豊(後に家宣)の侍講となっ
 た。
1694年、三井高利(みついたかとし、三井財閥の基礎を築い
 た)が没した(1622年~1694年)
  伊勢松坂で米の売買や大名貸、郷貸で財をなし、スタ
 ートを切った。
1694年4月年、将軍が水戸光圀をして経書(けいしょ)を講
 ぜしめる。
  経書は、中国古代の聖賢の教えを述べた書物で、儒教
 の経典。四書・五経・十三経の類いを言う。
1694年11月28日、松尾芭蕉(まつおばしょう)が没した(
 1644年~1694年)
  病没だった。世界的に知られる俳諧師。
  51歳の秋、故郷の伊賀にしばし滞在したのち、9月に大
 阪へ向かう、門人のトラブルの仲裁の為とされる。
  その為か病を発し、弟子の家で療養。
  9月10日の夜に発熱と頭痛を訴え、伏す。一時回復。
  9月20日には俳席にも現れられるまで回復したが、29日
 夜に再び伏す。
  以後容態は悪化の一途をたどった。
  「いまだ気分もすぐれず、・・・発句もしかじか得つ
 かまつらず候」の状態が続いた。
  10月5日に、御堂筋の貸座敷に移り、門人たちの看病を
 受けた。
  しかし、10月8日に、最後を悟ったのか「病中吟」と称
 し、「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る」と
 詠んだ。
  10月12日(旧暦)、申の刻(午前4時頃)に没した。
1694年、教育:学問と武芸奨励
  幕府が、旗本と御家人に学問と武芸を奨励した。
1694年、交通:助人馬提供
  東海道と中仙道の各宿に助人馬提供の村を割り当てた
 (助郷の始まり)
  助郷(すけごう)とは、宿駅常備の人馬が不足した時、
 その補充のために宿駅の近隣の村々に課された夫役(ぶ
 やく)として馬を差し出す。
1694年、祭り:賀茂葵祭
  京都の賀茂葵祭が再興され、内裏寝殿の御簾をはじめ、
 牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるま
 で、すべて葵の葉で飾るようになって、この名がある。
..
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by suba28 | 2015-06-20 02:54 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)134D1/3:気になった事柄を集めた年表(1688年~1690年)

題:(増補版)134D1/3:気になった事柄を集めた年表(1688年~1690年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1688年~1815年、イギリスは、この126年間のうち、実に64
 年間もの間、戦争をしている。
  50%以上が戦争をしている年(卑劣な好戦国家だ))
  この期間は、イギリスとフランスとの植民地の争奪戦
 だった。迷惑するのは戦場にされる植民地。
  イギリスはこんな事ばかりしている。
  そして、イギリスは、次に、ドイツをターゲットにし
 て、ドイツ叩きの戦争をして行く。
  そして、世界のあちこちで、
  武力で以って、
  先住の方々が、既に、居住して、生活しているのに関
 わらず、
  有色の人間は、人間と映らないキリスト教の教義・考
 え方に洗脳された見方で、
  まるで、その地が、無人島の如くの振舞いで、
  その先住の方々が生活する国々を奪い取って行った。
1689年、令:町屋建築禁止、
  江戸で、武家屋敷地内に町屋を建てることが禁止され
 た。
1689年、人事:北村季吟(きたむらきぎん、歌人)
  幕府が、北村季吟父子を招聘した(歌学方の初め)
  歌学方(かがくかた):歌書の研修・詠歌に関し、和
 歌に関する学問をつかさどった。
  北村家が世襲した。
1689年、文化:松尾芭蕉が、春に、「奥の細道」の旅に出
 た。
  「奥の細道」は俳諧紀行。
  門人の曽良を伴って、江戸深川から関東・奥羽・北陸
 の諸地を巡って、美濃の大垣まで至り、さらに伊勢神宮
 の参詣をしようと、9月6日に立つまでの紀行。
  著者の芭蕉の没後、だいぶ経って、1702年に刊行され
 た。
1689年、清とロシアとのネルチンスク条約(極東の露清の
 国境画定)
  16世紀末から、ロシアは、コサック兵によってシベリ
 ア征服をして行くが、
  17世紀中頃より、アムール川流域に進出し、その地を
 征服した。・・が、
  そこの先住民より貢租を徴収していた清国の勢力と衝
 突するようになった。
  1685年と1686年に、ロシアの前進基地のアルパジン城
 塞をめぐって、大規模な攻防戦が繰り返された。
  これをきっかけに、和平の気運が高まり、国境画定へ
 と向かった。
1689年12月、イギリスで権利章典が発布された(臣民の権
 利および自由を宣言し、王位継承を定める法律)
  これは、人間として、当然に有するべき『人権』を宣
 言するものではなかった。
  そして、これをもって議会の承認なく平時に常備軍を
 徴集するなと禁止された。
  また、軍の予算や軍の制度は、議会のチェックや承認
 を得ること・・とした。
  また、武器の携帯は合法だとした。
  そして、国教会を「体制の教会」だとした。
1689年~1697年、ウィリアム王戦争(卑劣な植民地戦争)
  英仏の植民地戦争が、アメリカ新大陸で起きた。
  まったく関係のない、他人の地で、英仏は戦った。
  カナダ東部のケベック州で戦われた。
  イギリスは、ケベック攻略に失敗した。
  フランスはインディアンの方々を利用する卑劣な戦い
 方をした。
  インディアンの方々は命は奪われたが、何ら、見返り
 は無かった。
1689年、モンテスキューが生まれた(1689年~1755年)
  フランスの哲学者(フランス絶対王政を批判した)。
  「法の精神」を著した(政治理論書)、
1689年~1697年、ファルツ継承戦争
  卑劣な戦争ばかりのヨーロッパ、
  フランスのルイ14世は、領土拡張の野心が一杯だった。
  イギリスの名誉革命で、フランスに亡命した元イギリ
 ス王のジェームス2世は、フランスのルイ14世の応援を受
 けて、アイルランドに上陸した(名誉革命の復讐的だっ
 た、こんな形でしか軍を動かせない王だった)。イギリ
 スの背後を突く作戦だった。
  フランス軍は、ネーデルランド・ドイツ・アルプス地
 方を、次々と攻撃して行った。
  スペインにも入った。
  フランスは手を広げすぎていた。
  アルプス地方のサヴォイを脱落させたところで、和平
 の機運が盛り上がった。
  1697年9月に、ライスワイク条約を締結して、戦争は終
 わった。
1689年、寛容法(イギリス)
  イギリス議会は、カトリック以外の宗教を認めた。
  イングランド国教で国家統制をしているのだが、
 このイングランド国教以外の非国教徒(しかし、プロテ
 スタントに限るとした・・)にも、当然の事なのだが、
 信教の自由を認めた(だから、寛容だと言った)。
  これを、議会は採択した。カトリックと、えげつなく
 宗教対立をしているのに「寛容法」と名付けた。
  この後、ピューリタン(清教徒)の方々が迫害される
 (アメリカへ逃げる、非寛容なイギリスだった)。
  宗教的に寛容でも何でもないイギリスだった、名前だ
 けの「寛容法」だった。
  国王を統括者としていて、自由なんてない状態だった(
 国教支配体制下に置かれていた)。
  キリスト教の教義の「異教徒は殺せ」「魔女は生かし
 ておいてはならない」などの卑劣な教義は、依然として
 残っている。
1690年、米の取れ高
  この頃の日本の米の取れ高は、2577万石。
1690年、教育:寺子屋の隆盛
  私塾・寺子屋の隆盛した。
  17世紀の末ごろ、いわゆる元禄時代がその高揚の発端
 となっていて、上からの庶民教化重視の時期とほぼ一致
 した。
1690年、教育:湯島の聖堂
  上野忍岡の聖堂を湯島に移した、これが、昌平坂学問
 所のおこりとなった。
1690年、建築:この頃、寺社の造営・修復が盛ん。
1690年、工業:高級織物・友禅染
  錦・絹織物の国内生産の発達は、17世紀末以降の経済
 的発展の中で進み、加速された。
  その質も、だんだん高級化し、幕府の倹約令にもかか
 わらず、羽二重・紗綾(さや、卍模様などの光沢ある絹
 織物)・繻子織(しゅす)などの高級織物の生産技術が
 発達した。
  それと並行して、友禅染などの染色技術も進歩した。
  また、歌舞伎の影響もあって、大都市の風俗を形成し
 て行った。
1690年、人物:新井白石・貿易無用論
  白石の著書の「折りたく柴の記(おりたくしばのき)」
 は、白石の自叙伝であるが、これは、1716年に、幕政中
 枢から失脚した白石が、家宣の厚い恩恵に浴しつつ、幕
 政に尽力した自分の立場を、子孫に語り残すことを目的
 に綴った。
  この中で、新井白石は、貿易無用論を説いた。
  この影響から、識者の間で貿易無用が唱えられるよう
 になった。
  新井白石は、6代将軍・家宣と個人的に結びついていた
 存在で、幕府で役職は無かったから行政官僚とは言えな
 い。
  しかし、白石は、門閥格式を破って、一介の浪人から
 旗本に登用された一人だった。
  白石と親交を持ちつつ、正徳期の政局に重きをなした
 間部詮房(まなべあきふさ)は、猿楽師の弟子から、将
 軍・家宣の引き立てを得て、幕臣に登用され、側用人に
 まで上った人だった。
  ただ、家宣が死去して、幼少の7代将軍を擁した頃は、
 詮房・白石らの抜擢者に対する譜代門閥の風当たりは強
 まった。
1690年、税:川船から運上銀を徴収した(大阪)
1690年、文化:浮世絵
  17世紀の後半、菱川師宣(ひしかわもろのぶ、浮世絵
 師、1618年~1694年)が、浮世絵を民衆芸術として大成
 し、これを木版の絵本、あるいは一枚刷りとして大量に
 印刷し、廉価に販売して、民衆に大いに普及させた。
  その後、印刷技術の進歩に伴い、錦絵の出現を見て、
 また、優れた作者を生んだ。
  この年に、「東海道分間絵図(とうかいどうぶんげん
 えず、東海道の状況を把握するための絵地図)」が刊行
 した(遠近道印と共著、おちこどういん)。
1690年、康熙帝(こうきてい、清の第4代皇帝、中国歴代最
 高の名君と言われる)が、ガルダン汗征討(1696年や、
 1697年にも)、
  ガルダン・ハーン(モンゴルの部族長)が2万の兵を率
 いて清の軍と戦った。激しい射撃戦だった。
 「康熙会典(こうきかいてん、基本法の総合的法典)」
 が、この年に、成った。
1690年5月、ドイツ人のケンペル(博物学者)が来日した。
 (~1692年まで)。
  ケンペルは、日本記事を書いた。
  エンゲルベルト・ケンペルは、オランダ東インド会社
 の医師として来日していた。
  日本の歴史・政治・社会・宗教・地理・動植物などを
 「日本誌」「江戸参府紀行」などを記した。
1690年、ジョン・ロック(イギリス)が、「市民政府二論
 (政治哲学の書、抵抗権など)」「人間悟性論(近世認
 識論の発端となった書)」を刊行した。
1690年、イギリスが、インドのカルカッタに商館を置いた。
  ここを基点にして貿易を本格化させて行く。
  イギリスは、この時、軍事基地も造っており、インド
 支配を強めていく。
  フランスと抗争が起こして行く(人の家に入って来て、
 戦争するなの感じ)
1690年代、この頃、ブラジル北東部に金が発見された。
  これは、良い話ではなかった。
  先住民の方たちは、インディオの方たちは、この鉱山
 で奴隷として働かされた。
  奴隷狩りが行われ、被害者となった。
  この残虐な行為者は、キリスト教徒のスペイン人とポ
 ルトガル人だった。
  何と、キリスト教聖職者も、奴隷狩りをするという破
 廉恥な状況をした。
  それまでは、平穏な、平和な土地だった。
  平和な時を過ごす先住民のインディオの方たちの生活
 があった。
  ブラジルのサンパウロ州などの海岸部の土地には、ポ
 ルトガル人がやってくる前には、数十万人のインディオ
 の方たちが幸せに暮らして居た。
  16世紀半ばの時点で、9000人程度にまで激減してしま
 った(50万人居たとしたって98%の方々が殺戮された)。
  インディオの方たちは殺戮から逃れ、内陸へ逃げた。
  ポルトガルは、その奪い取った地域を植民地とし、植
 民地政府を作った。
  一部のインディオの方たちは反抗した。
  反抗したトゥピ族の戦いは、反乱と報告された。
  これが、ポルトガルの植民地政府に絶好の口実を与え
 た。
  ポルトガル人たちは、進んだ兵器を使ってインディオ
 の方たちを殲滅した。
  そしてまた、インディオの方たちを捕虜にした。
  このキリスト教徒とキリスト教宣教師たちに、何の権
 利があるというのか?
  このポルトガル人たちは、インディオの方たちを奴隷
 とし、キリスト教の聖書が教えている教義と同じ行為を
 した。
  本国のポルトガルは、これは出先の組織がやったこと
 と、何ら責任をとる行為を行っていない。
  1558年に、3代目の総督メン・デ・サーは、インディオ
 に戦争を仕掛けた。
  そして、多くのインディオの方たちを捕虜にして獲得
 した。
  進んだ兵器を持っているポルトガルが、奴隷が欲しく
 なったので、戦争を仕掛けたのだった。「奴隷狩り」を
 したい、奴隷が欲しいという図だった。
  歴史には、『戦争』と書かれるだろうが?
  優れた兵器のマスケット銃と、剣で武装したポルトガ
 ル軍を前に、インディオの方たちは抵抗する術(すべ)
 は無かった。武器が違い過ぎた。
  また、ポルトガルは卑怯な事をした。
  捕らえたインディオの方たちに、武器を与え、別な種
 族を襲わせた。
  捕らえ捕虜を自分の兵にして、同じ民族のインディオ
 の方たちを襲わせて捕虜にし、捕虜を増やして行った。
  奴隷狩りで得た奴隷にした人たちに戦わせて、同じイ
 ンディオの方たちを奴隷にした。
  優れた武器を与えてやらせた。
  キリスト教の有色人種蔑視の考え方・教義に洗脳され
 たポルトガル人やスペイン人は、インディオの方たちを、
 家畜の様に好きなだけ酷使してかまわない、動物のよう
 な存在だと錯覚し、マインド・コントロールされていた。
  ポルトガル人やスペイン人は、自分では働こうとはぜ
 ず、家畜のようにインディオの方たちを働かせた。
  このポルトガル人の書いた記録が残っている、
  「ポルトガル人の入植者は、まず、農場を運営するた
 めの奴隷を確保しようとした。
  5人前後の奴隷を手に入れれば、無一物でも(裕福に悠
 々とやれたと記す)。
  奴隷の一人に魚を取らせ、一人に狩りをさせ、残りに
 開墾と畑仕事をさせる事で、家族が悠々と生活する事が
 出来た」と書いた。
  17世紀に入ると、ブラジルの東海岸は、ほとんどポル
 トガルの支配下に入った。
  ここのインディオの方たちが、奴隷として作った砂糖
 が、全ヨーロッパの砂糖の大部分を占めた。
  旨い汁を吸って、味を覚えたポルトガルは、この卑劣
 な方式の奴隷農園を拡大した。
  そして、止まることを知らないポルトガルの欲は、「
 鉱山」へ手を出して行った。
  奴隷の需要は、ますます増大した。
  このブラジルの、海岸地域での、奴隷供給は出来ない
 状態になっていた(取り尽くしたのだ)。
  ポルトガルは、サンパウロなどの町の「食い詰めた者
 たち」を雇って、より奥地でインディオ狩りをやらせた。
  食い詰め者たちは、インディオ狩りのため、奥地に入
 って行った。
  食い詰め者たちに、武器を持たせた。
  名目上は傭兵だった。
  続々と、インディオを求めて奥地へ入って行った。
  そして、村という村を襲って行った。
  そして、村人そっくりを奴隷とした。
  この奴隷狩りの舞台には、キリスト教宣教師も共に行
 動した。
  抵抗する男は容赦なく殺された(抵抗する者は無慈悲
 に殺すだった)。
  てんでんばらばらの家族が続出した。
  奴隷にされたインディオの方たちは、鎖につながれ、
 舟に乗せられ川を下って行った。
  まるで、ベルトコンベアに乗った如くに、農場や鉱山
 に売られ、供給された。
  もう、物と同然の扱いだった。
  人道的な面は、どこにも無かった。
  この様な行為を、今・現在、スペインやポルトガルで
 は、正当な行為として、お祭りをしている。
  この卑劣な、反省のない行為を糾弾する。
  また、恥の上塗りのお祭り行為は止めよ。
  また、この様な卑劣な行為を、止めるのではなく、一
 緒にやったキリスト教聖職者は書く、
  「乾いたヤシの葉で出来ていた(インディオの)村全
 体を完全に破壊し、放火して・・、奴隷になる事を拒ん
 だ者を、生きたまま、その中で、焼き殺した。
  武力を使わなくとも、圧倒され服従するインディオも
 あったが、
  それは、言語道断の欺瞞手段によってなされた。
  ポルトガル人は、まず、国王の名と誠意において、同
 盟と友好をインディオに約束するのだが、
  インディオが、警戒心を解いて、武器を捨てるや否や、
 インディオを取り押さえ、縛り上げて、ポルトガル人の
 間で奴隷として分配するか、この上ない残酷さで奴隷と
 して売りとばした」。
  白人入植者は、内陸の乾燥地へと侵入を繰り返し、次
 々と大きな牧場を作って行った。
  もとはインディオの方々の土地を、そこに住んでいた
 インディオの方たちを捕らえ、奴隷にするか殺して、そ
 の地を勝手に自分たちの土地とした。
  金が発見されると、奴隷狩りは、さらに悲惨さを増し
 た。
  1690年代に、ブラジル北東部に金が発見された。
  キリスト教宣教師も、奴隷獲得に狂奔した。
  キリスト教の宣教師の実態は、大農園主や牧場主と同
 じだった。
  キリスト教は、インディオの方たちの支配権を主張し
 た。
  キリスト教聖職者も、欲の塊の農園主などと何ら変わ
 りは無かった。
  キリスト教聖職者と入植者の争いがよく起こり、キリ
 スト教聖職者たちも奴隷狩りの遠征をした。
  キリスト教聖職者たちは、捕らえたインディオの方た
 ちに、自分の奴隷だと焼き印を押した。
  そして、自分たちの村で働かせた。
  こんな事をして、天のキリスト教の神も喜んだのか?
  16世紀に描かれた絵に、スペインが、インディオの方
 々を襲撃し、虐殺している絵が記録に残っている。
  ブラジルのサンターナ大聖堂は、奴隷狩りの収益で再
 建された。
  可哀想な事に、奴隷にされたインディオの方たちは、
 その生活の変わり方が酷(ひど)かったため、死亡率が
 高かった、自殺も多かった(悲観して)。
  スペイン・ポルトガル人は、インディオの方々を消耗
 品の如くに使った。
  そして、非人道的なスペイン・ポルトガル人は、イン
 ディオの方たちを消耗し尽くすと、
  今度は、アフリカから、アフリカの方々を奴隷として
 連れて来た。
  16世紀半ばから、またまた、非人道的な事を始めた。
  この悪行為は、1850年に、奴隷売買禁止までの300年
 もの長い期間、この悪行を続けた。
  この為に、数百万人ものアフリカの方々が犠牲になっ
 た。
  日本にも来たザビエル達のキリスト教宣教師たちは、
 曲者だった(特に、イエズス会がくせ者)。
  世界のあちこちで悪い事ばかりしていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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by suba28 | 2015-06-18 00:37 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)133D1/3:気になった事柄を集めた年表(1686年~1688年)

題:(増補版)133D1/3:気になった事柄を集めた年表(1686年~1688年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1687年2月、生類憐みの令:
  幕府(5代将軍・徳川綱吉)が、初めて、生類憐みの令
 を出した(生類保護政策)
  この2月の令を初めとして、1709年までに、この令に関
 連する生類保護政策の令は、100通を越える令が出た。
  幕府が、病人、病牛馬の遺棄を禁じ、ついで、捨馬す
 る者への処罰例をあげて、諸国に高札で捨馬禁令を徹底
 させた。
  また、犬の愛護を命じ、江戸町などで犬の登録帳を作
 成させた。
  虫鳥の飼育を禁じ、野鳥獣をも哀れむべきこととした。
  ついで、全国の鉄砲改めを命じ、鳥獣害に対し空砲で
 のおどし以外の鉄砲利用を原則として禁止した。
1687年4月、田畑永代売買禁止
  今まで全国令ではなかったのが、この年に、土地の売
 買を禁止する全国令となった。
  この田畑永代売買禁止とともに、質にとった田畑の年
 貢納入の規定も出した。
1687年、浅草・品川両溜を設置した。
  溜(ため)とは病気になった囚人などを保護する施設。
  江戸の浅草と品川のほか、京都の悲田院村(悲田院・
 ひでんいん、と言えば仏教の慈悲思想に基づいて、貧し
 い人や孤児を救うために作られた施設)
  悲田院村は、悲田院が経営困難から泉涌寺(せんにゅ
 うじ)の寺地に移転し(1645年)悲田院村と称した。
1687年、熊沢蕃山(くまざわはんざん、陽明学者)の「大
 学或問(だいがくわくもん)」が、幕府の忌事に触れ、
 下総古河城内に蟄居された。
  熊沢蕃山は、中江藤樹の門下に入って陽明学を学んだ。
  岡山藩に出仕し、重用された。
  飢饉の折には救済に尽力する。
  また、藩政確立に尽力し、零細農民を救済した。
  治山治水を行い、農業政策も充実させた。
  しかし、陽明学者の点を批判を受け、そして、その著
 の「大学或門」で彼独自の経世論を展開し、幕政を批判
 したのだった。
1687年、令:一人旅の宿泊許可、
  一人旅でも不審がなければ、宿泊を許すように命じた。
1687年、文化:この頃、元禄文化が盛ん。
  元禄文化(げんろくぶんか):特に上方(京都、大阪)
 を中心に展開した町人文化。
  貨幣経済下で、町人の経済力が高められ、経済的実力
 を背景に開花し、華美な生活と遊興娯楽の余裕が町人に
 出た。
  文芸・演劇など、歌舞伎が盛行した。
1687年、文学:石川流宣(いしかわとものぶ、浮世絵師)
 の「本朝図鑑綱目(ほんちょうずかんこうもく)」が刊
 行された。
  本朝図鑑綱目は、浮世草子(小説の一種)で、道中図
 と武鑑(大名や江戸幕府の役人などの名前や石高や俸給
 や家紋など)を記している。
1687年、ダンビア(イギリス)が台風が猛烈な旋回暴風で
 ある事を知った。
1687年、ニュートン(イギリス)が、「自然哲学の数学的
 原理(プリンキピア)を刊行した。
  ニュートンの力学体系を解説した書。
1687年、ニュートンが運動の法則、「万有引力」を発見す
 る。
1687年、オスマン・トルコが、ハンガリーをオーストリア
 に奪回され、没落し始める。
1688年11月、人事:柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が、
 綱吉の側用人になる。
  誠実な人と言われている。
  書に、「信アレバ徳アル故二、上意ニモ叶ヒ、家繁昌
 スト見ヘタリ」と記載している。
  南部直政(なんぶなおまさ)も側用人となる。
1688年、演芸:名女形
  この頃、初代の芳沢あやめ(よしざわ)が、上方で名
 女形の評判をとる。
1688年、和算:関孝和(せきたかかず)
  日本独特の発展を遂げた数学の和算は、ことに元禄時
 代の関孝和(1640年頃~1708年)が現れて、かなり高度
 の域にまで到達した。
  少年の頃、吉田光由(よしだみつよし)の「塵劫記(
 じんこうき)」で自習し大成したらしい。
  吉田光由は、「ねずみ算」など遊戯的問題や実用問題
 などを加える工夫を凝らした和算書を出した。
  塵劫記は、掛け算の九九などの基礎的知識や面積の求
 め方など身近な話題で解説し、この一冊で日常生活に必
 要な算術全般がほぼ網羅できた。
1688年、交通:旅人保護政策を発令
  幕府が、旅行中の発病者や死者の埋葬など旅人の保護
 政策を発令した。
1688年、肥料も自給肥料ばかりでなく、効果の高い金肥(
 かねごえ、きんぴ)、すなわち、購入肥料(油粕や魚肥)
 が用いられるようになった。
  しかし、金を出して肥料を買っても、増収分は年貢に
 もって行かれるような原則の働く米の生産にはあまり用
 いられない。
  生産者のもとに利益が残るような商品作物に向けられ
 た。
1688年、唐人屋敷:長崎に唐人屋敷を設けた(1689年説あり)。
  中国人の長崎市内雑居を認めていたが、密貿易の禁止、
 風紀取り締まり、キリスト教伝播防止などで居住を制限
 した。
1688年、中国船来航の制限された(密輸取り締まり)。
  密貿易を阻止するための施策。
1688年、新地開発:大阪堂島に新地(しんち)が開発され
 た。
  河川改修や海辺の埋め立てなどで、新たに造成され開
 けた土地(新地)によって、大阪の町は発展した。
  また、新地が繁栄するため、茶屋、煮売屋、風呂屋、
 芝居小屋などの営業を許可したため、難波(なんば)新
 地、曾根崎(そねざき)新地などが、大阪でも有数の繁
 華街となった。
1688年、出版界の隆盛は貸本屋
  儒書・仏書・神書・医書・往来物など、庶民生活にお
 ける教養・実用・娯楽など、多方面にわたる書籍が刊行
 された。
  この傾向は、元禄へ向かって一層盛んとなり、出版点
 数も元禄初年には、寛文末年の2倍に達した。
  その内容も、好色本を初めとして、俳諧書、物語、名
 所記や、
  役者・遊女の評判記など、庶民の好みに応じた本が増
 加した。
  出版事業を隆盛ならしめた。
  この出版界の隆盛は、貸本屋に依存するところが大き
 かった。
1688年、かぶき者が処刑された。
  大小神祇組(だいしょうじんぎぐみ)の200余人が捕ら
 えられ11人が処刑された。
  これが「かぶき者」の最後であった。
  大小神祇組は、旗本の水野成之が組織し、家臣4人を四
 天王に見立て、綱・金時・定光・季武と名乗らせ、用心
 頭(家老)を保昌独武者と名付け、江戸市中を異装で闊
 歩し、悪行・粗暴の限りを尽くしていた。
1688年、農業:技術の改良
  元禄期の農業技術の改良は、生産力の発達に連なった。
  ただ、改良に関係ある作物は、麦や綿であって、米で
 はなかった。
  つまり、技術の改良が年貢の対象となる米の生産に向
 けられず、商品作物に向けられていたことが重要な問題。
  勿論、米の生産技術も向上している・・が、
  しかし、生産力の発達は、年貢対象外の作物に著しく
 現れている。
  木綿・アブラナ・煙草などの商品作物の栽培は、石高
 制の盲点だった。
  石高制は、米の生産を前提としているため、商品作物
 は十分に把握できていなかった。
1688年、祭り:神田祭、初めて江戸城に入る。
  江戸城内で将軍の上覧を許された。
1688年、令:酒造制限令(しゅぞうせいげんれい)が出さ
 れた。
  幕府は、米価を調整する必要から、大口需要者である
 酒造業に対して制限をした。
  幕末まで、約60回、出された。
1688年、この頃、生類憐みの令で処罰される者が多い(~
 1690年まで)。
1688年、文化:和服の起源、現在のような形の和服の起源
 は元禄期に求められる。
  帯の幅が現在の様に広くなったのも元禄前後である。
1688年、文学:井原西鶴の「一目玉鉾(ひとめたまぼこ)」
 「日本永代蔵」が刊行された。
  「一目玉鉾」は、絵入りの地誌であり、第一巻は北海
 道に、はじまり奥州街道を江戸まで。第二卷は江戸より
 東海道を進んで大井川まで。第三卷は、同じく東海道を
 金谷から大坂「天満豊崎」まで。第四は大阪より瀬戸内
 海を通って長崎・壱岐・対馬・・・
1688年、文学:契沖(けいちゅう、国学者)の「万葉代匠
 記(まんようだいしょうき)」の初稿がなった。
  万葉代匠記は、万葉集の注釈書(徳川光圀の命によっ
 て1683年に着手された)。
  詳細で密な注が加えられており、以後の万葉集研究の
 基礎となった。
1688年、イギリスで名誉革命が起きた。
  実態は名誉でも何でもない。
  酷過ぎる王のため、まったく王側の軍の行動がなかっ
 たため、無血になっただけ。
1688年、フランスが、インドのシャンデルナゴルを占領し
 た。そして、商館を建てた。
  シャンデルナゴルは、インドの東方(ベンガル地方)
 のカルカッタの近くにある。経済的豊かな地。
  このフランスとイギリスはこの地を取り合う。
  悲惨な目に合うのはインドの方々だった。
  1757年のプラッシーの戦いでは、イギリス軍がフラン
 ス・ベンガル連合軍を破る。そして、イギリスが占領。
  イギリスとフランスは、インドの方々からうまい汁を
 吸い続ける。
1688年~1707年、せっせと海外の情報を輸入する元禄期
  元禄文化は、17世紀の終わり頃から18世紀初頭にかけ
 て、元禄時代(1688~1707)に、
  主に京都・大阪の上方中心に発展した文化。
  そして、この文化は、金銀で買い取ったと言っていい。
  日本は鎖国でも何でもない。
  昭和の一時期に、「鎖国と言った知識人(和辻哲郎)」
 のために、鎖国があったように、日本人は誤解し始める
 ・・が、これは間違い。
  盛んに、海外と交易をする国・日本だった。
  日本の金、銀、銅の流出は、当時の世界一の量だった。
  日本の品質も最高に良かった。
  別子銅山を持つ住友本家が、オランダの繁栄を支えた
 言われるくらいだった。
  日本は、『情報』の輸入を重視した。
  西洋事情に関する書物の輸入、
  そして、それを嚥下咀嚼(えんげそしゃく)して、日
 本の知識として、日本版を出版する点数は急増して行っ
 た。
  その嚥下咀嚼する高い知識を、当時の日本人も持って
 いた。
  輸入の1位は絹織物、
  2位が漢籍(かんぜき)などの知識書だった。
  学問も隆盛した。
  その他の輸入品は、木綿、砂糖、茶、香辛料、陶磁器
 などだった。
  「キリシタン禁止令(日本領土獲得の尖兵だったこと
 を、幕府は知っていた)」
  「貿易を一手に幕府に集め、統制下に置いた」
  「日本人の海外渡航を禁止」でもって鎖国と断じるの
 は間違い。
  キリスト教宣教師は、本国へ、「日本より先に中国の
 領土獲得行動をする方がよい」と報告している。
  また、幕府は、言論の自由を封殺するようなことを行
 っていない。
  そして、当時の日本は、中国や朝鮮に比べて、交易と
 情報交換を享受する自由を、相当程度、手にしていた。
..
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by suba28 | 2015-06-16 02:33 | 皆様とともに 幸せになりたい


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