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(増補版)86C2/3:気になった事柄を集めた年表(1582年5月~1582年6月)

題:(増補版)86C2/3:気になった事柄を集めた年表(1582年5月~1582年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1582年6月2日、本能寺の変
  信長の家臣・明智光秀が謀反を起こし、丹波亀山城(
 京都府亀岡市)から引き替えした。
  そして、京都の本能寺に居た信長を襲撃し、信長は自
 刃した。(1534年~1582年)48歳。
  信長から光秀へ与えられていた命は、「備中高松城の
 羽柴秀吉を救援せよ」との命だった。
  信長の後継者と目されていた信忠は、信長と共に、備
 中高松城で戦う羽柴秀吉への援軍に向かうべく行動をし
 ていた。
  秀忠は、京都の妙覚寺に居て、明智の謀叛を知るや、
 本能寺へ信長救援に向かったが、信長自害の知らせを受
 けるや、光秀を討つべく態勢を整えるため、側近など手
 勢と共に二条新御所へ行く。
  信忠は、二条新御所へ着くと誠仁親王を脱出させ、臨
 戦態勢に入った。
  しかし、わずかな手勢であったため、善戦したが、そ
 の戦いもむなしく、明智軍に攻め寄せられ、自害に至っ
 た。介錯は鎌田新介だった。享年26歳。
  信忠には、京都から脱出できる可能性があった。しか
 し、信忠の心情から光秀軍と刃をまみえたのだろう。
  脱出していれば、また、日本の違う歴史が流れたと言
 える。
  信長は、生前から、家督を譲っていた嫡男・信忠で、
 これはと思っていた息子だったのだろう。
  信忠も、忠実に父の教えを受けていた様だが、時には
 抗弁もしていたという。
  流れは、秀吉に来る。
  秀吉は、主の仇である光秀を討つ。
  これをする事がポイントと認識していた。
  この事で、織田勢力の実質的な相続者になって行く。
  多く居た信長の相続者たちの息子たちから、流れが秀
 吉に流れて行く。
  そして、その事を天下に認知させるには、信長の葬儀
 を自ら主宰する事だった。
  秀吉には、信長からもらった信長の子の養子が居た。
  その信長の葬儀の会場として、大徳寺が選ばれた。
  さらに秀吉は、信長の菩提を弔うために、塔頭の総見
 院(信長の法名)をたて、追討大茶会も催した。
1582年6月2日、この時、本能寺の変の時の安土城
  本能寺の変の時には、蒲生賢秀が留守居役として在城
 していた。
  しかし、信長の横死の知らせを受け、
  蒲生賢秀・氏郷父子は、本拠地・日野城(滋賀県蒲生
 郡にある蒲生氏が築いた城)に、信長の妻子などを安土
 城から移動させ、退去した。
  安土城は、山崎の戦の後、明智秀満率いる明智軍が来
 て、退却後に、天守とその周辺建物(主に本丸)を焼失
 している。消失の日は6月15日という。
  消失の原因については
  1、明智秀満軍の敗走の際に放火したという説(「秀
 吉事記」「太閤記」)、しかし、この説を否定する有力
 な説もある。
  2、秀満の残党狩りで、伊勢から入った織田信雄軍が
 城下に火を放っているが、この火による延焼説。(ルイ
 ス・フロイスの記述、フロイスは、信雄を暗愚呼ばわり
 している、信雄の放火だと言っている)
  3、略奪などによる野盗説
  4、落雷説
  本能寺の変以降も、二の丸などが残っていたので、し
 ばらくは織田氏の居城として機能している。
  信長の嫡孫・秀信が、清州会議の後に入城している(
 主に、二の丸を中心に機能していた)。
  しかし、秀吉の養子・豊臣秀次(秀吉の姉の長男)の
 八幡山城築城のため、1585年をもって廃城とされた。
1582年6月2日、徳川家康:本能寺の変のとき、
  信長の後継者とみなされていた一人:徳川家康は、本
 能寺の変の時、堺で近習数名と情報収集中で、帰国の途
 次(とじ、途中)の飯盛山(大阪府東部)でこの報に接
 した。
 近習だけの少数でいたために、光秀討伐のチャンスを
 失し、一歩、出遅れた形となった。
  家康は、秀吉が勝家を討った時(1583年)は、祝の品
 を送っているが、
  秀吉が、信長の三男・信孝を自殺に追い込んだ辺りか
 ら警戒の念を強め、
  信孝の自殺に加担した信雄も、次第に秀吉のやり方に
 疑問を持つようになり、
  ついに、信雄と家康とが連合し、秀吉に敵対する事に
 なった。
  ここに実力と大義名分の戦い、小牧・長久手の戦い(
 1584年)が起きた。
  家康には、盟友・信長の遺児を助けるという大義名分
 があった。
1582年6月3日、安土城立ち退き
  信長の死の翌日(1583年6月3日)午後2時より、安土城
 立ち退きが始まった。
  信長の夫人たちは、金銀財宝を持ち出し、天守に火を
 かけて行くように賢秀に命じた。
  しかし彼は、信長が心を尽くして建てた後、また集め
 た財宝を、自分の勝手には出来ないと、そのままにして
 立ち退いた。
  しかし光秀の接近に、あわただしく安土を捨てて逃げ
 たため、女中衆は履物もなく、裸足の者も多く、足は血
 に染まって哀れだったという。
1582年6月3日、密書
  京都本能寺に織田信長を討った明智光秀の飛脚が、夜
 の闇にまぎれ、毛利の陣営と間違えて、備中・高松城攻
 めの秀吉の陣営に迷い込んだのは、1582年6月3日であっ
 た。
  飛脚は、毛利への密書を持っていた。秀吉は愕然とす
 る。
  この秀吉に、「天下を取る絶好の機会が来たとは思い
 なさらぬか」と黒田官兵衛は言った。
  この時から、秀吉に天下取りの野望が広がった。
  そして、この時、多くの土の俵で長堤を3.1キロメー
 トルに渡って築き、梅雨時の足守川(あしもりかわ)を
 堰き止め、高松城を水攻めにしていた秀吉は、急ぎ、和
 議を成立させた。
  翌日(6月4日)には将兵の救出を条件に、城主・清水
 宗治を自刃させる。
  そして、京都を掌握した光秀を討つべく、中国からの
 大返しを敢行した。
1582年6月4日、本能寺の変の報を入手した秀吉は、近日中
 に、高松城の守将の自刃によって開城される予定だった
 という高松城の状況の中、毛利軍と和議を結んだ。
  そして、この日・6月4日に、蜂須賀正勝・他1名を立会
 人にして高松城の守将の自刃の検分を行い、翌5日から6
 日にかけて撤兵するとした。
1582年6月5日、秀吉の中国大返し開始。
  「川角太閤記」によれば、4日夕方から、まず、宇喜多
 秀家の兵を発ち退かせ、
  翌日、この日の5日未明2時頃から、秀吉自ら、退陣の
 軍を起こした。
  途中、岡山は素通りし、
1582年6月8日、この日・8日、午前10時、姫路城に着陣した
 と記されている。
  4日もかかっていることになる。
  99.6キロメートル。2日の距離である。
  これは、6月7日の様である。
  先に立った宇喜多直家の子・八郎(幼名、秀家)が出
 迎えた。
  父・直家は既に亡く、子の八郎(11歳)が、子供なが
 ら軍勢を率いて、この秀吉の戦いの先陣を務めていた。
  秀吉は、宇喜多直家に1万の軍勢の協力を得て、備中
 (岡山県西部)高松城(讃岐・高松城ではない)攻めに
 成功していた。
1582年6月8日、秀吉接近の報を受けている明智光秀は、キ
 リシタンで有名な娘・ガラシャの夫・細川忠興と、その
 父・細川藤孝に味方になってくれと依頼するが、「信長
 の喪に服す」と剃髪して味方になることを断わられてい
 る。光秀は何度も頼んでいる。
1582年6月9日、秀吉は、姫路城に留守居役を置いただけで、
 全軍を率いて姫路城を進発した。
  この日に明石を経て、兵庫港(神戸市兵庫区)近くに
 野営した。
  また、別働隊を組織し、明智方になる可能性がある洲
 本城を攻撃している。
  洲本城は、その日の9日に落城している。
  また、秀吉は、この日に、砦(岩屋砦)を」構築して
 いる。
  この砦構築は、秀吉の10日の書状によれば、明智光秀
 が久我(京都市伏見区、合戦場の三島から北東20キロく
 らいの所)付近に着陣したと知ったため、光秀が河内へ
 の移動を防ぐため、また、明智軍急襲への防備。
  また、この日の光秀の着陣前に、光秀が上洛し入京し
 た際、公家や町衆が群がって出迎えたという。
  光秀は、朝廷などへ銀子を献上している。
  また、地子銭(地代)免除の特典を発し、新たな天下
 人として振る舞っている。
  しかし、この頃の光秀の書状を見ると、味方してくれ
 れば丹波でも若狭でも差し上げる、そして、50日・100日
 の間に近国を平定し、その後は政務を譲って引退すると
 書いている。
  もう精神的に、秀吉に敗けている。
  それに対し、秀吉の書状は、協力の謝意を表している
 記述で、戦う前から勝敗は決していた。
1582年6月10日、秀吉軍、朝、明石を出発。
  夜、兵庫に着く。
  秀吉及び明智は、色々な風評を流し合って、情報戦も
 している。
  例えば、「大阪滞在中の神戸信孝が、光秀軍に包囲さ
 れて自刃した」とか。
  秀吉の行軍も慎重になっている。
  光秀の伏兵警戒もあり、また、同盟者も募ったのだろ
 う。
  また、最初の猛スピードの中国大返しも、光秀を討つ
 という事より、毛利の追撃を封じたともいえる。
  この日、光秀は、筒井順慶に加勢を求めたが、加勢す
 るものと思われていた順慶の態度がはっきりしないので、
 宇治川を越え、洞ヶ峠(大阪府牧方市)まで出かけ圧力
 を掛けた。
  しかし、効なく、光秀はあきらめ撤収し、洞ヶ峠を降
 り、下鳥羽に陣を敷いた。
1582年6月11日、羽柴軍が兵庫を出立し、夕刻、尼崎に達し
 た。大阪は隣という地である。
  秀吉は、栖賢寺に参り、髻(もとどり)を斬ったとい
 う。決意を新たにしたのであろう。
  秀吉の軍勢がまとまって来て2万を超えた。
1582年6月12日、羽柴軍は、この日に、尼崎から北東30キロ
 の富田(大阪市高槻市)に着陣し、軍議を開いた。
  軍議の結果、山側の軍と川側の軍、そして、その中央
 の軍の三軍に分かれて進撃する事に決した。(富田は13
 日の説あり)。
  この日、池田恒興・高山右近などの諸将が、秀吉陣営
 にはせ参じた。
  高山右近は、光秀から加勢の要請を受けていた。
  秀吉軍は、4万(太閤記)、2万(兼見卿記)とある。
  秀吉軍の活気に対し、光秀軍は陣に動きが無く、心理
 的にも守勢に立った状況の中にいた。
  この場所は、合戦場となる山崎まであと10キロくらい
 の所にある。
  鉄砲の撃ち合いの前哨戦は始まっていた。
1582年6月13日、秀吉は、決戦の地・山崎へと向かった。
  光秀も陣をやっと動かした。下鳥羽から御妨塚(京都
 府大山崎町)へ。戦線を広げる目論見だった。
  秀吉が山崎に着陣したのは、13日昼頃だった。
  梅雨時で雨が降りしきっていた。
  勝敗を決する場として重要な地・天王山は、秀吉陣に
 はせ参じた中川清秀らによって占拠されていた。
1582年6月13日午後4時、山崎の合戦の戦端が開かれた。
  秀吉に加わった中川清秀・高山右近は、この近くに居
 城を構える将で、地の利に明るく、兵力差もあり、秀吉
 軍の有利の展開の内に戦いは推移した。
  有利の展開の中、秀吉が全軍総攻撃を発令した。
  秀吉軍の大軍が殺到して行った。
  兵力・士気共に勝る秀吉軍は、光秀軍を圧倒し、光秀
 軍は、たちまち総崩れした。
  キリシタン宣教師フロイスは、中国から連れて来た秀
 吉軍は疲れ切っていたという。
  それ以上に光秀の兵の士気が落ちていて、主人を討っ
 たという大義名分のなさの重石もあったのだろう。
  光秀は山崎本陣を解き、勝竜寺城に籠る。
  しかし、勝竜寺城は、秀吉軍の数万の軍勢の前には脆
 かった。
  光秀は、近臣を従えて勝竜寺城を脱出。逃亡状態とな
 る。
  光秀が来ると京都市中は混乱を極めた。
  光秀軍は、丹波へ向かう敗走軍と近江へ向かう軍とに
 分かれる。
  この力の分散が、さらに、光秀の再起不可能の分岐点
 だった。
  光秀は、近江で再起を図りたかったのか、居城・坂本
 城を目指して逃亡した。
  そして、1582年6月14日になったか?
1582年6月14日、日にちが変わった深夜頃?光秀は、小栗栖
 (京都市伏見区)で土地の住民に襲われ死亡した。
  光秀を解釈したのは溝尾茂朝であったという。
1582年6月15日、明智光秀の将・明智秀光は、山崎の戦では
 光秀の後詰めに安土城から出陣するが、
  琵琶湖打出浜(大津駅の近く)で堀秀政と戦い、大敗
 を帰す。
  この時の戦で、羽柴秀吉の将の堀秀政が、明智光秀の
 将・明智秀満(あけちひでみつ、光秀の重臣、光秀の娘
 を妻に迎えている)を坂本城(琵琶湖に面する平城)に
 攻めた。
  この光秀の娘は、信長に叛した荒木村重の嫡男へ嫁い
 でいたが、村重が謀叛を起こしたため離縁されていた。
  坂本城の包囲が完了し、攻撃した。
  激烈な戦闘であった。
  戦闘の帰趨が定まって、落城が明らかになった時、
  明智秀満は、いかんともしがたく、秀満の持つ非常に
 価値ある刀が、城と共に焼けるのがおしく、国行の刀と
 吉光の脇差を布団に包み、そして、目録も添えて、寄せ
 手に呼び掛けた・・、
  「城は炎上、まもなく我が身は果てるとも、ここに生
 涯大切にしたる名刀・・この道具は私ならぬ事、天下の
 道具なれば、是にて滅し候事は、弥平次(秀満は明智光
 秀の娘婿となる前、三宅弥平次といった)傍若無人と思
 召すべく候間、相渡申候」と述べた。
  そして、しばらく攻撃を止めれば、敵方へ刀を送り届
 け、悔いなく命をまっとうする旨を伝えた。
  堀は、これに同意した。
  そして、何と、攻撃を中止したのである。
  そして、その間に、刀は、布団にくるまれて炎上する
 城から降ろされた。
  その後、戦闘は再開となり、翌日に城は焼け落ちた。
  明智秀満は自刃して果てた。
 訂正:83C2/3で「小早川秀秋」であるべきところを、
 「宇喜多秀家」と書いてしまいました。
  訂正いたします。
  関ケ原で様子見をしていたのは「小早川秀秋」です。
  誤記したところは削除させて戴きました。
  宇喜多秀家の関ケ原での働きは、西軍の副大将として
 西軍の主力となっています。
  この関ヶ原の兵力としては、家康の本隊の次の兵力で
 1万7000、西軍最大の兵力です。
  小早川秀秋の裏切りで、西軍は総崩れになりますが、
 この宇喜多軍も壊滅的状況となります。
..
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by suba28 | 2015-04-30 03:06 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)85C2/3:気になった事柄を集めた年表(1581年10月~1582年5月)

題:(増補版)85C2/3:気になった事柄を集めた年表(1581年10月~1582年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1582年2月3日~3月11日、甲州征伐、
  織田信長とその同盟者の徳川家康・北条氏政が、信濃・
 甲斐・駿河・上野に侵攻し、甲斐の武田氏を滅ぼした。
  武田信玄亡き後、長篠の合戦以降、武田勝頼は、勢力
 が衰えていた。
  勝頼の強気・勝気が災いしていた。
  また、鉄砲という新しい技術に疎(うと)かった。
  長篠で、重要家臣の多くを失ったのも大きかった。
  参謀なども欠いて、『作戦立案力』も大きく落ちてい
 た。
  勝頼一人が息巻いていたのだろう。
  今まで通りの父の信玄流に固執したのも悪かった。
  時も見て、また、機も見なければならないのに・・。
  これまで、織田は、畿内や北陸などが忙しく、勝頼の
 東方面を後回しにしていたから良かったが・・、
  家康だけとの小競り合いで良かったが・・、
  この様な時の流れの中で、武田家に居た織田勝長(信
 長の四男)が織田家に戻っていた。
  また、信長との和睦交渉も成立しなかった。
  この様な状況においての、信長・家康・氏政の侵攻だ
 った。
  今まで、周囲の武将へ援軍を送らなかった勝頼に、こ
 の時の援軍は無かった。
  また、逆に、織田方へ寝返る者も出てしまうという武
 田方だった。
  また、戦費が嵩(かさ)む中、勝頼は、税を重くし、
 賦役も課していた。
  人心も、勝頼を離れて行っていた。
  悪いことが重なっていた勝頼だった。
  そして、忠臣・木曽義昌が、勝頼に謀叛したとの知ら
 せに激怒する勝頼だった。
  その義昌へ、怒りのあまりか? 従兄弟の軍5000を出
 陣させた。
  また、自身の大切な軍までも、1万5000もの兵をも出陣
 させるという勝頼だった。
  そして、義昌の一族をすべて殺した勝頼だった(子供
 までも)。
  信長は、勝頼による義昌親族の殺害を知ると勝頼討伐
 を決意した。
  信長の動員令によって、織田軍は伊那から進軍し、信
 長の家臣の金森軍は飛騨から、家康は駿河から、氏政軍
 は相模・伊豆から進軍した。
  信長が、討伐決定した2月3日の当日に、早くも、森長
 可らの先鋒隊が、岐阜城から出陣した。
  出陣していく織田軍に寝返り、戦わずして信濃へと招
 き入れる国もあった。
  織田本隊は、2月12日に、岐阜城と長島城から出陣した。
  翌々日には岩村城へ進み、勝頼に討たれた木曽義昌勢
 が、織田一門らの支援を受けながら、武田勢と鳥居峠で
 戦い、そして、勝利した。
  この様な事で、戦いは進んで行くが・・、
  勝頼の勝の目は・・どこにもなかった。
  勝頼の最後は・・、わずかな手勢で、天目山を目の前
 にした地で、織田の大軍と奮闘し、撃退している・・武
 田軍の将たちは活躍している・・が・・勝頼に最後の時
 が来る。
  勝頼は、まだ元服していない跡継ぎの信勝に「小桜韋
 威鎧兜、大袖付(こざくらかわおどしよろいかぶとおお
 そでつき)」(国宝、武田家代々の家督の証)を着せ、
 父子で自刃したという。
1582年3月11日、教科書に、この日に、織田信長が、武田氏
 を滅ぼす・・と、歴史教科書に書かれているが、
  この時、信長はまだ美濃にいた。
  実際は、信長の長男の信忠が滅ぼした。
  この日、武田勝頼が、追い詰められ、天目山麓の田野
 (山梨県甲州市)で自刃した。
  信長は、長男・信忠を買っていた。
  常に、戦場に連れて行った。
  信忠は、本能寺の変の時に、信長とともに死んだ(二
 条新邸で)。
1582年5月8日、秀吉が、高松城水攻め。
  秀吉が、備中・高松城(城主:清水宗治)を攻めに取
 りに掛かり、
  1582年5月8日に、2万5000の軍勢が、昼夜兼行で築堤工
 事に取り掛かった。
  長さ・約2.8キロメートル、高さ・約7メートルの土手
 をわずか19日の突貫工事で完成した。
1582年5月、四国攻め、
  この月の上旬に、信長は、三男・織田信孝を総大将に
 して、丹羽長秀・蜂屋頼隆らを副将として、四国方面軍
 を編成した。
  そして、四国攻めの指示を下した。
  それまでの四国・長宗我部元親(ちょうそかべもとち
 か、土佐国の戦国大名)と信長の関係はうまく行ってい
 た。
  元親は、1575年に、土佐を統一していた。
  また、元親の子供に、信長の一字を貰うなどしていた。
  信長と元親の間の取次役は、明智光秀だった。
  ここに、秀吉の都合が出てくる。
  秀吉は、毛利攻略に、四国の三好氏の水軍の力を借り
 たいと思っていた。
  そこで、養子縁組的な話も出て秀吉と、阿波の三好氏
 とはうまく行っていた。
  元親には、信長から、「四国は切り取り自由」の朱印
 状を貰っていた。
  四国は自由に切り取って自分の国にしていいよ・・と、
  元親は、武力で四国を切り取っていた。
  この時、秀吉の都合と、元親の行動がバッティングす
 る。
  信長は、元親に、土佐及び阿波南半分を領有のみを許
 し、他の占領地は返還するように命じた。
  しかし、元親は、信長が認めた事だと言い、また、信
 長の力を借りたものではないとも言い・・、
  指図を受けるいわれもないと・・はねつけた。
  光秀が、説得したが、
  1581年頃に、交渉は決裂していたと判断できる。
  毛利なども関係し・・反織田同盟も結ばれた。
1582年5月15日、明智光秀が饗応役となった安土城に、徳川
 家康の接待が行われている。
1582年5月29日、四国攻めの織田信孝の軍が、摂津住吉(大
 阪市)に着陣した。
  また、丹羽・津田勢は大阪に、そして、蜂屋勢は和泉
 岸和田に集結し、総勢1万4000が、四国への渡海に備えて
 いた。
  6月2日が出航する予定だった。
  しかし、この日が、本能寺の変で立ち消えとなった。
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by suba28 | 2015-04-28 15:06 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)84C2/3:気になった事柄を集めた年表(1580年9月~1581年10月)

題:(増補版)84C2/3:気になった事柄を集めた年表(1580年9月~1581年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1580年、スペインが、ポルトガルを併合した。
  スペインのフェリペ2世が両国を統治した。
  スペインとポルトガル、この2国は交易圏の拡大を競
 ってきた。
  16世紀後半に入ると、ポルトガルの富の西ヨーロッパ
 への流出が原因とする国力衰退が目立ってきた。
スペインはその併合を狙うようになり、ポルトガル王系
 の断絶を契機に、この年に、スペインのフェリペ2世が
 軍隊を派遣し、ポルトガル王位を継承し、併合した。
  スペインのこの王朝は、超宗教的なキリスト教カトリ
 ックの王朝で、1492年に、『ユダヤ教徒追放令』を出し、
 卑劣なユダヤ教徒殺戮など迫害・いじめをした。
  多くのユダヤの方々が殺戮された。ユダヤの方々は逃
 げ回った。
  そしてまた、このスペインは、キリスト教プロテスタ
 ントのイギリスと多くの戦争をして来た。
1580年9月26日、織田信長が、大和に検地指出をする。
1580年11月17日、柴田勝家が、加賀一向一揆を討つ。
1580年代、この年代から始めた干拓事業で、倉敷が陸地に
 なった。
1580年、秀吉は、中国地方の征伐を命じられて、播磨(兵
 庫県)を平定すると、姫路付近を検地している。
  これらは、信長の武将としての立場の検地であるが、
 この後、1582年から、秀吉は、独自の立場で次々と各地
 の検地をを行った。
  秀吉が、実施した検地が具体的にみられるのは、信長
 の一武将であった1580年のものが初見である。
1581年4月1日、京都御馬揃え(きょうとおうまぞろえ)
  織田信長が、京都で馬揃えを挙行する。
  信長が行なった大規模な観兵式・軍事パレード。
  これは、丹羽長秀や柴田勝家をはじめ、織田軍団の各
 軍を総動員する大規模なものだった。
  正親天皇が招待された。
  『天下布武(武によって天下を治め平和にする、そし
 て、七徳の武という施政者の徳を持つ)』を標榜する信
 長は、このパレードの実施によって、京都はじめ、周辺
 大名、庶民に至るまでへ、自分の思いを示した。
  信長は、皇居修復をしたりしているが、天皇を立てた
 姿勢の中での施政を目指していた。
1581年9月、信長が、伊賀を平定する。
1581年9月、安土城が内部装飾完成。
  信長が、狩野永徳父子や「奈良の大工や諸職人」の頭
 (かしら)に、小袖(こそで、袖口の小さく縫いつまっ
 ている和服)を与えている。
  安土城の内部装飾が完成したのであろう。その祝の小
 袖だろう。庶民にまでを思を至らす心があった。
1581年10月25日、鳥取城が落城する。
  それでも吉川経家は耐え抜き、4か月も籠城を続けたが、
 10月に至って、遂に降伏した。
  城主である経家と重臣の切腹との引き替えで、兵卒の
 助命なされ、開城とした。
  しかし、開城後、あまりの空腹のところに、食料を得
 て食事したため、兵士が死亡するという事態が起きた。
  多くの兵士が亡くなったという記録が残っている。
  秀吉は、多くの切腹は避けようとした。
  城主の切腹までも避けようとした。
  しかし、経家の意思は固く、信長の許可を得て、城主・
 経家以下、臣下2名、計3名の切腹で決着している。
  吉川経家、享年35歳だった。
1581年、日本最古の海洋の法規集である「廻船式目(かい
 せんしきもく)」が成立した。
  瀬戸内海の海運業者の習慣法を成文化したものと言わ
 れる。
  鎌倉期の成立とあるが、追記が色々あり、実際の成立
 年代は、室町末期とされている。
  海難救助、船荷の損害賠償など多岐にわたる。
  国内の十大港湾などが記されている。
1581年、オランダが独立を宣言した。
  オランダは、キリスト教のカトリック国であるスペイ
 ン領で、その統治下にあった。
  そのスペイン国王・フェリペⅡ世は、キリスト教プロ
 テスタントを弾圧した。
  オランダ(ネーデルランド)はキリスト教プロテスタ
 ントだった。
  人々は、また、カトリック国スペインの重税にも苦し
 んでいた。
  スペインは、統治を一層強化した集権統治とし、弾圧
 統治を強めた。
  キリスト教の司教区制度もキリスト教に都合よく変え
 た。
  キリスト教宗教裁判も厳しく、民からの廃止の声が叫
 ばれた。
  財政的にも、民衆は窮乏していた。
  民衆の反発は、そのキリスト教へ向かった。
  キリスト教会などの聖像の破壊などが勃発した。
  スペインは、強圧的に武力による抑え込みにかかった。
  また、新しい法律を作ったりして、一層、民を苦しめ
 た。政治は恐怖政治となった。
  騒乱罪も新設された。
   ドイツに亡命していた貴族・オラニエ公は、1568年、
 軍をオランダへ侵攻させた。ここに戦争が始まった。
  オランダの北部7州は同盟して戦った。
  そして、この年に、スペインへの臣従の拒否を宣言し、
 イギリス女王やフランス王の弟を主権者として迎えよう
 としたが失敗し、独立の州主権と州議会を持つ独立を宣
 言した。
  因みに、オラニエ公は、1584年に、暗殺された。
  この様な経過の中でスペインとの戦いは続いた。
  休戦条約が、1609年に、結ばれ、12年間の休戦はあっ
 たが、1621年に、戦いは再び起こった。
  ウェストファリア条約によって、1648年に、独立が承
 認された。
  八十年戦争(1568年~1648年)とも呼ばれる粘り強い
 戦いであった。
16世紀後半~17世紀、魔女熱狂。
  ヨーロッパは、魔女熱狂の時代だった。
  キリスト教が、大権力を保持し、民衆へ大迫害を加え
 ていた。聖俗の領権力を保持した。
  弾圧の一つが魔女による弾圧。
  夜、野草を煎じる助産婦が狙われた。
  また、財産を持っている女性が狙われた。
  魔女裁判の最盛期だった。
  焚刑にされた女性を焼く煙で、ヨーロッパの空が曇っ
 たと言われるくらいだった。
  全滅した村も出た。
  キリスト教会へ告げ口することが盛んに行われた。
  助産婦が、キリスト教に狙われたのは、助産婦は、医
 者的な知識が豊富で、庶民の尊敬を集め、に頼られてい
 た。
  その社会的地位が、権威が欲しいというキリスト教に
 は目障りだった。
  キリスト教は、医学と手を結んで権威を得たいとも考
 えていた。
  その意味でも助産婦の女性の方々を無くしたかった。
  医学関係の十字マークはその名残り、何ら、美しい話
 ではない。
..
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by suba28 | 2015-04-27 16:17 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)83C2/3:気になった事柄を集めた年表(1578年6月~1581年6月)

題:(増補版)83C2/3:気になった事柄を集めた年表(1578年6月~1581年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1578年10月、摂津国(大阪府北部)有岡城で荒木村重(あ
 らきむらしげ、元信長・秀吉の家臣)が叛いた。
  三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は、有岡城
 で突如、信長に対して反旗を翻した。
  謀叛の理由は諸説(信長公記、フロイス日本史)ある、
  1、村重は、義昭や本願寺とも親しかったため、その
 両者の要請を受けて反逆した。
  2、村重の家臣が、秘かに本願寺へ兵糧の援助をして
 いたため、それが信長に発覚したのではと恐れた。
  3、信長の側近との軋轢・・など。
1578年11月、織田信長が、池田恒興に摂津・有岡城(兵庫
 県伊丹市)の荒木村重の謀叛に際し、有岡城攻めを命じ
 た。
  (いけだつねおき、尾張犬山城主、摂津兵庫城主、美
 濃大垣城主、1536年~1584年)
  恒興の母は、信長の乳母(めのと)で、故に、信長と
 恒興は、乳兄弟の関係にある。
  恒興は、幼いころから信長に仕えた。
  尾張平定の戦いのほとんどを従軍している。
1578年11月、信長が、毛利水軍を破った。
1578年10月、コサック兵が、シベリアへの進出を始めた。
  シベリアに、最初に進出したのは、ロシア皇帝の軍隊
 ではなかった。
  最初に進出したのは、ストロガノフ家という特権商人
 だった。
  ストロガノフ家は、コサック軍団を雇い、シベリアへ
 進出した。
  ストロガノフ家は、世襲的に領土を持っていて、そこ
 で集めた税を中央へ納めるという封建領主的な特権商人
 であった。
  そこで、その領土を防衛するために、皇帝の了解のも
 とに、やがて、兵を雇い、武器を保持した。
  ストロガノフ家は、イェルマーク(コサックの頭領で
 シベリアの探検家)へ、東進して植民化する許可を与え
 ていた。
  このイェルマークが、この1578年10月に、コサック軍
 を率いて東進した。
  イェルマークの軍は、1581年9月には、シビル=ハン国
 (ジンギス・カンに由来する西シベリアの国)の首都を
 攻略している。
1579年5月、安土城が完成した。
  安土城の天守閣は、着工から3年後にほぼできたらしく、
 信長は、この時に、移り住んでいる。しかし・・、
  ルイス・フロイスは、自著の日本史に、この年に、安
 土城は落雷で本丸が焼失したと記している。
1579年5月2日、2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ、家
 康の3男)が生まれた(1579年~1631年)、将軍期間:
 1605年~1623年、
1579年6月、明智光秀が、信長に謀叛した別所長治に味方す
 る丹波国(京都府中部)の八上城の波多野秀治ら兄弟3人
 を降ろし、丹波国を平定した。
1579年9月、荒木村重が、有岡城を脱出した。
  信長に、1578年10月に、反旗を翻していた村重が、織
 田軍に攻められ籠城していたが、
  この時に、単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城
 の尼崎城へ移った。
  毛利軍の将がここに居たため、その将へ尼崎への援軍
 要請であったという。
  村重は、その後、ここから西へ逃れることなく、この
 城で半年以上も抗戦する。
1579年10月5日、徳川家康の長男・信康(のぶやす、1559年
 ~1579年)が、家康や老臣との軋轢から切腹をさせられ
 た。
  桶狭間の戦いの後、家康が今川氏から自立する動きを
 してからも、信康は、母(家康の正室)築山殿と共に駿
 府に抑留され、今川氏の人質になっていた。
  そして、1562年、人質交換で岡崎に引き取られ、
  織田信長の娘五徳(徳姫)と、1567年に、結婚した。
  家康が浜松城に移った後に、岡崎城主となった。
  家康が徳川姓を称した後も、岡崎信康、あるいは、松
 平信康と呼ばれていた。
  信康の居る岡崎城に残った母・築山殿と、妻・徳姫と
 の折り合いが悪く、また、運悪く、家臣から武田勝頼に
 通牒する者が出るなどして、
  信長が、徳姫からの手紙で、この事を知って、家康に
 信康の処分を命じた。
  信康は、岡崎城を、1579年8月4日に出され、遠江堀川
 城、さらに二俣城へと移され、
  この二俣城で、1579年10月5日に、切腹させられた。
1579年10月、宇喜多直家が、秀吉に応じた。
  (うきたなおいえ、備前国・岡山県東南部の戦国大名、
 主君:浦上宗景→毛利輝元→織田信長、子に秀家)
  下剋上を繰り返ししながら、下剋上の人であり、その
 様な胸中に生きた人。
  この年の1979年、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が、
 中国方面に進軍して来る。
  これに対抗した直家は、1579年5月に、信長に内応した
 として東美作の後藤勝基を滅ぼしている。
  しかし、この年、1579年10月に、毛利家と手を切って
 信長に臣従した。
  以後、毛利と各地で戦うが、1581年に病死した。53歳。
1580年1月17日、秀吉の兵糧攻めにあっていた別所長治が、
 兵庫県播磨の三木城で、城兵の助命と引き替えに、妻子
 兄弟と共に自害した。
1580年3月、信長は、本願寺光佐と和睦する。
1580年4月、柴田勝家が、信長の命により、北陸一揆の最大
 拠点の加賀一向一揆を討った。
1580年5月、秀吉が、第一回の鳥取城攻め。(6月説あり)
  秀吉は、三木城を陥落させたのち、因幡に入った。
  第一回の鳥取城攻めである。
  この時期、秀吉は忙しく活躍している。
  この城には、因幡国守護職(いなばのくに、鳥取県東
 部)である山名豊国が籠もっている。
1580年8月、本願寺光寿降伏、本願寺消失。佐久間信盛・林
 通勝・安藤範俊ら追放。大和諸城破却。
1580年9月、山名豊国は、秀吉の鳥取城の包囲の3か月後の
 9月に降伏する。
  山名豊国は、信長に臣従した。
1580年9月、しかし、鳥取城へ毛利輝元が攻めよせて来た。
  今度は、豊国は毛利に対して降伏した。
  鳥取城の家臣団は、毛利家への従属を主張して豊国と
 対立する。
  この時、豊国が、信長と内通していることが発覚した。
  家臣団は、城主である豊国を追放して、新たな城主を
 迎え入れる決定をした。
1581年3月18日、鳥取城の城主として、豊国の代わりとして、
 吉川経家が入城した。
1581年6月25日、秀吉が、鳥取城へ再度、派兵する事を決断
 し、この日、2万の兵を率いて出陣した。
1581年6月29日、秀吉が、因幡国(2度目の鳥取城攻め)に
 侵攻した。
  秀吉は、帝釈山に本陣を構えた。
  そして、砦を14~15をまたたく間に築き、4万の兵によ
 る鳥取城の包囲陣を完成させた(秀吉は。この包囲網を
 7月12日に完成させている)。
  そして、毛利輝元の将・吉川経家と睨み合った。
  秀吉は、また、兵糧攻めにする。
  吉川経家は、11月まで持ちこたえれば、鳥取は雪に埋
 もれるため、秀吉の大軍は包囲を続けることは出来なく
 なるだろうと読んでいた。
  この時、鳥取では米の不作による高騰に、鳥取城は、
 これに流されて兵糧米の備蓄を鉄砲や弾薬と交換してお
 り、米の備蓄が乏しかった。
  また、秀吉は、事前に、この地域の食糧を買い占めて
 いた。これもあって米価は高騰していた。
  前年の豊国の籠城の時は十分にあったが、経家の赴任
 するまでの間、前城主の追放の間の城主不在の時に、兵
 糧の多くが流出していた。
  また、秀吉は、毛利の鳥取城への兵糧送り込みを徹底
 的に阻止した。
  また、秀吉は、鳥取城を応援する支城を攻撃し、敵の
 兵站線を遮断して、城への補給の手を完全に絶つ作戦を
 講じた。
  また、村人が鳥取城へ逃げ込むように仕向けた(鳥取
 城は、尾根伝いに雁金山城、丸山城と二つの支城を持っ
 ていたが、鳥取城と丸山城を連絡する雁金山城を強硬に
 攻めて落城させたため、鳥取城には雁金山城の敗残兵や
 周囲の村人が入る形となっていた)。
  鳥取城の兵糧は、6月の進軍からわずか1ヶ月後の7月に
 は尽きて来た。
  9月頃から兵糧が底をついた。城内は、草の根や木の皮
 などで飢えをしのぐ様となったという。
  それを、食べつくすと馬を食べ、この頃から餓死する
 者が出る様になったという。
  餓死する者4000と伝えられている。
  「甫庵太平記」に、「真黒にやせ衰えた男女が多数よ
 ろめき来たりて・・」とある。
  攻め手の秀吉側には人的損害はなかった。
  秀吉の道案内した豊国は、このあまりにも悲惨な状況
 を目にした事から、俗世を絶って武人から文人となった。
  この時期の秀吉の作戦には、キリスト教に感化された
 黒田官兵衛に作戦を関わらせた。これ以後、ヨーロッパ
 によくあるキリスト教的な悲惨な酷(むご)い作戦が多
 くなっている。
  この黒田官兵衛が、NHKの大河ドラマになったが、
 キリスト教に偏するNHKは、史実無視的に、一切、放
 送しなかった。
  ただただ、キリスト教を巧妙に美化して放送する放送
 局だった。
  黒田官兵衛が、キリスト教を捨てていることも放送し
 なかった。
  そして、因みに、この山名豊国は、秀吉亡き後、徳川
 幕府に入り、家康と秀忠のお伽衆を務め、1601年には、
 家康より但馬国に6700石を貰っている。
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by suba28 | 2015-04-27 02:40 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)82C2/3:気になった事柄を集めた年表(1577年12月~1578年6月)

題:(増補版)82C2/3:気になった事柄を集めた年表(1577年12月~1578年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1578年頃、別の説:秀吉が、信長の4男・於次丸(於継丸で
 はない)を養子にもらう。
  この頃、秀吉は、信長に願い出て、信長の4男の於次丸
 (おつぎまる)を養子に貰い受けた。
  於次秀勝と言われる。
1578年1月、信長が、正二位に昇叙した。
1578年2月、播磨国(兵庫県南西部)三木城の別所長治が
 叛いた。
  別所長治は、東播磨8郡を治めるこの地域の最大の勢
 力であった。
  隣接する摂津(大阪)の三好家に対抗するため、いち
 早く信長に属した。
  信長の中国征伐でも先手を務めて、播磨一国を賜る心
 づもりでだった。
  しかし、この長治の思惑とは裏腹に、秀吉が、中国征
 伐の責任者として播磨に乗り込んで来た。
  このままでは、思っていた望みはかなうまいと思った。
  一方、毛利輝元に庇護されていた足利義明は、幕府崩
 壊後も地方の大名への依然として権力を保持しており、
 各地に檄を飛ばし、第三次信長包囲網を形成していた。
  長治は、その様な義昭の調略を受け、突然、毛利方へ
 寝返った。
  すると、長治が影響力を持っていた東播磨周辺の豪族
 も長治に同調し、東播磨の豪族が一斉に信長に叛旗を翻
 した。
1578年3月、信長の別所長治討伐命を受けた秀吉は、勝家と
 の意見が合わず、無断で戦線離脱した汚名を返上すべく、
 この命に取り組んだ。
  まず、長治の叔父・別所重棟を呼び、長治説得を命じ
 た。
  しかし、その説得も効が無く、秀吉は、三木譲攻撃を
 決定した。
  秀吉は、黒田官兵衛の進言を入れ、姫路城から書写山
 に本陣を写し、3月29日に、三木城を包囲し、攻撃を開始
 する。
  一方、毛利輝元も、長治寝返りを好機として、一気に
 播磨制圧をしようと、陸路と海路の両面から、播磨へと
 侵攻を開始した。
  そして、4月中旬から本格参戦した。そして、上月城を
 包囲した。
1578年3月13日、上杉謙信が没す(1530年~1578年)
  毛利の下に居る義昭は、1576年に、反信長勢力を糾合
 した。
  義昭の仲介で、1576年5月には、甲州・相模・越後の
 「甲相越一和」が試みられており、
  謙信は、信長との戦いで苦境に立たされていた本願寺
 と和睦した。
  これによって信長と謙信の和睦は、破綻した。
  謙信が七尾城(石川県七尾市)を攻めていた1577年、
 援軍要請を受けていた信長は、七尾城を救援する軍勢の
 派遣を決定し、謙信との戦いに踏み切った。
  信長の大軍が動いた。
  この軍は、途中、秀吉と、総大将の勝家との意見が合
 わないで、秀吉が引き上げるなどの足並みの乱れも生じ
 たりしていたが、謙信の大軍とのし烈な戦いも発生した
 りした。
  色々な城を巡っての戦いがあり、戦上手の謙信に、柴
 田勝家は撤退した。
  謙信軍は、撤退する勝家軍を追撃し、1577年11月3日に、
 織田軍を撃破した(手取川の戦い・石川県白山市の川)。
  そして、謙信は、約1ヶ月後の1577年12月18日に、春日
 山城(新潟県上越市)に帰還した。
  年が明けた頃の予定では、1578年3月15日に、遠征を開
 始する予定だったらしい。
  しかし、その出陣予定の6日前の3月9日に、謙信は、遠
 征準備中の春日山城で倒れた。
  そして、その4日後の3月13日、この日の未の刻(午後
 2時)に、急死した。49歳だった。
  遺骸は、鎧を着せ、太刀を帯びさせて、甕(かめ)の
 中へ納め、漆で密封した。
  この甕は、上杉家が、米沢に移った(1601年8月)後も、
 米沢城の本丸の一角に安置されたという。
  明治になって、歴代の藩主が、上杉家の御廟へ移され
 たという。
1578年4月、信長が、右大臣を辞した。
  信長が、右大臣と右近衛大将の両官を辞した。
  この様な官位は、もはや必要なしと見たのだろう。
  また、性格として貴族風にはなじめないとも感じたの
 だろう。
  また、官位に伴う煩わしい儀式や交際をつとめて避け
 ようとしたのだろう。
1578年6月21日、救援の秀吉が退陣し、信長方の上月城(兵
 庫県佐用郡作用町)が落城した(尼子氏が滅ぶ)。
  上月城を攻める毛利勢と、上月城を救援に駆け付けた
 秀吉勢が、上月城下で戦った。
  秀吉は敗れ、書写山(兵庫県姫路市)に陣を移すこと
 になった。
  後詰めの援軍によって助けられる見込みがなくなった
 上月城は、毛利氏に攻められ、簡単に攻め落とされてし
 まった。
  尼子勝久は自殺し、山中幸盛も捕らえられ、移送の途
 中に殺された。
  秀吉軍は、信長の命令によって三木城攻めに向かうた
 め撤退したのだという。
1578年6月29日、秀吉が、播州・三木城(兵庫県三木市)を
 攻めた。
  この年の初め、信長に味方していた三木城の別所長治
 が、毛利輝元と通じて、信長に反旗を翻(ひるがえ)し
 た。
  この日、秀吉は、三木城攻めを始めた。
  この戦いは予想以上に長引いた。
  1580年1月までかかった。
  別所長治以下、主だったものの切腹と引き換えに、城
 兵の命は助けるという条件で開城する事になった。
  城主・別所長治が、1580年2月2日に、切腹し、長かっ
 た三木城攻めの幕は閉じた。享年23歳。
  辞世は、
  「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかは
 る 我が身とおもへば」
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by suba28 | 2015-04-25 02:02 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)81C2/3:気になった事柄を集めた年表(1575年11月~1577年12月)

題:(増補版)81C2/3:気になった事柄を集めた年表(1575年11月~1577年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1575年11月28日、織田信長の長男・信忠が、信長から家督
 を譲られた。
  信長は、形式上は隠居の身となった。
  信長は42歳。「人生五十年」を意識していたのか?
  この信忠、信長の後継者としてしっかりやっていた。
  この家督を譲られてからの7年後の1582年6月2日に、本
 能寺の変に会う。
  信長と共に、備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍
 に向かうべく、この日、京都の妙覚寺に滞在しており、
  光秀が、信長を強襲したと知るや救援に向かうが、信
 長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく諸将らと二
 条新御所に移動した。
  そして、わずかな軍兵と共に籠城し、善戦したが、そ
 の効なく、明智軍に攻め寄せられ、自害した。
1576年、大砲が伝来した。
  キリスト教宣教師から火縄銃や硝石などと共にフラン
 キ砲を輸入したのが、日本での最初の大砲と言われてい
 る。
  キリスト教宣教師は、武器の供給役だった(死の商人)。
  この時、買ったのはキリシタン大名と言われる大友宗
 麟。
  宗麟は、この武器頼みでキリシタン宣教師に近づいた。
1576年、織田信長が、租税を軽くし、民力を養った。
1576年、信長が、1569年以来続けてきた皇室領・廷臣量の
 調査を終えて領有を確認した。
  これにて皇室の財政は一応安定した。
  また、1571年以来続けてきた京都市民からの利米で、
 皇室財政を賄(まかな)う事は止めた。
1576年1月、この頃から丹波長秀を総普請奉行にして、安土
 築造工事が始められた。
  3年かかった(1579年5月、完成)。
1576年2月23日、信長が、安土城の築城のため、岐阜から移
 る。
  織田信長は、安土城を築くにあたって、西洋の法を参
 考にし、摂取した。
  そこで、諸国が模倣し、城制が大いに変わった。
  西洋諸国は専ら鉄砲で攻守する。
  それで、築城法が大変革した。
  吉田松陰は、信長を西洋式の軍事技術、特に、築城術
 の先駆的な採用者とみなしていた
  松陰は、信長を高く評価していた。
1576年~1579年、織田信長は、「天下布武(てんかふぶ)」
 を掲げた。
  そして、安土山(標高199メートル)に、安土城を天下
 取りの布石として築いた。
  しかし、本能寺の変(1582年)の後に焼け落ちた。
  昭和の干拓事業で、安土山から湖岸まで6キロほど離れ
 たが、当時は、周辺が湖に囲まれ、東山道などを押さえ
 る水陸の要衝だった。
  天守は、5層6階地下1階で、宣教師のルイス・フロイス
 は、「難攻不落の城をもった新市街を築き、自らのあら
 ゆる栄光を発揮せんとした」とある。
  税の免除や、自由交易を促す楽市楽座などの施策で、
 町は急速に発展した。
  また、フロイスは、「住民は気高く、その気高さは、
 他のあらゆる市(まち)を凌駕(りょうが)していた」
 と讃えた。
1576年2月、義昭が、備後へ移り、毛利へ呼び掛けた。
1576年4月、信長が、石山本願寺を攻撃(本願寺が再起)。
  信長が、明智光秀らに石山本願寺を攻撃させたところ、
 本願寺は、毛利氏からの兵糧などの支援を受け、木津川
 河口の戦いでは、織田水軍が毛利水軍に敗れた。
  ここでの戦いは、本願寺との戦いと言うより、対毛利
 に拡大され、秀吉は、信長から中国経略という大役を仰
 せつかり、「中国方面軍司令官」というポストに付けら
 れた。
1576年4月、安土の城壁と天守閣の造営。
  この月から安土の城壁と天守閣の造営が始められた。
  尾張・美濃・三河・越前・若狭・畿内諸国の侍、京都・
 奈良・堺の大工・職人が召し寄せられ、莫大な石材が集
 められた。
  近郷の村々は、家ごとに土木用具や塀のすさの材料ま
 で持って徴発使役された。
  こうして、「昼夜、山も谷も動くばかり」の大動員で
 あった。
1576年5月、信長が、謙信と和睦。
  信長と謙信の間を見抜いたからか、本願寺は、1575年
 半ば頃から、次第に謙信に近づき、1576年5月に、加賀一
 向一揆と共に謙信と和睦した。そして、出馬しての西上
 を求めた。
  加賀門徒との和解は、越中門徒との和解となり、年末、
 謙信は能登に入った。
1576年5月、信長が、毛利と絶縁。謙信は本願寺と結ぶ。
1576年7月、信長が、毛利水軍に破られた。
1576年7月15日、秀吉が、京に入る。
  この日に、秀吉は、長浜を出発して京に入っている。
  そして、得意の調略で姫路城の小寺孝高を寝返らせて
 いる。
  小寺孝高は、赤松氏の一族で、当時、播磨御着城(ご
 ちゃくじょう)の城主・小寺則職(のりもと)の重臣で、
 後の秀吉の懐刀と呼ばれた軍師・黒田官兵衛孝高(如水
 と号す)である。
1576年10月14日。秀吉の子・秀勝が死ぬ。
  秀吉の子・秀勝の死は、秀吉を大いに悲しがらせた。
  秀吉は、秀勝の死んだ日に、城下の徳勝寺と知善院に
 寺領30石を与えて、その菩提を弔(とむら)わせた。
  また、秀勝の墓のある妙法寺にも秀吉の朱印状が残る。
  秀勝という名が多いので、この子は、石松丸秀勝とい
 う。
1576年10月14日、信長からもらった養子・於継丸。
  秀吉は、我が子・秀勝の死での落胆が大きく、信長は、
 秀吉へ10歳の於継丸を養子としてあげる。
  秀吉は、この子に秀勝の名を付けさせた。
  秀吉は、この於継丸秀勝を、自らの後継者としようと
 した。
1576年11月、信長が、右近衛大将のまま正三位内大臣にな
 った。
  信長は、この月にはさらに、廷臣・門跡の所領を増し、
 また、山城・大和にある興福寺領を安堵した。
  こうして、信長は、単に、朝廷に取り入ったのではな
 く、朝廷や貴族・社寺の保護者になっていった。
1577年、南蛮寺が京都に建った。
1577年2月、信長が、紀伊雑賀一揆を討った。
1577年8月、秀吉の加賀攻め。
  秀吉は中国征討から呼び戻され、加賀攻めに加えられ
 た。
  この時、柴田勝家と意見が合わず、秀吉が戦線を離れ
 るという様な事もあった。
1577年8月、松永久秀が叛く。
1577年9月、上杉謙信が、加賀に柴田勝家を破る。
1577年9月、上杉謙信が、能登に凱旋。
  この月に、上杉謙信は、織田派と上杉派に分かれて内
 紛を続けていた七尾城を攻め落として、ほぼ能登を平定
 した。
  ついで、加賀に進んで、柴田勝家軍に相当な打撃を与
 えて能登に凱旋した。
  「(信長は)案外に手弱の様体(ようてい)」などと
 勝ち誇った。
  織田軍と最初の、そして、最後の衝突であった。
1577年10月、秀吉が、松永久秀攻め。
  秀吉は、信長の命を受けて大和信貴山城の松永久秀攻
 めに行く。
  この頃、信長は、四方に敵をかかえていた。
1577年10月、秀吉が播磨、明智光秀が丹波に入り、本格的
 に中国経略を始めた。
1577年11月、信長が、右近衛大将のまま従二位右大臣にな
 った。
  また、10月には、信長の長男・信忠もまた、従三位右
 近衛中将に叙任されて公卿に列した。
1577年12月3日、秀吉が、西播磨を平定した。
  秀吉は、松永久秀を滅ぼしたその足で、中国経略の拠
 点である姫路城に戻り、またたく間に、西播磨を平定す
 る事に成功した。
  ただ、上月城だけは容易に落ちなかった。
  そこで、自ら兵を率いて城を囲み、ついに、この日に
 落城させた。
  そして、ここに尼子勝久・山中鹿之介幸盛を入れた。
1577年、イギリスは、辺境は地の小国だった。
  その国が、海賊王フランシス・ドレークの掠奪した儲
 けから芽が出て来る。
  例えば、1577年に、海賊・フランシスは、イギリスを
 出航し、行く先々で強盗を働く、
  イギリスに、1580年に帰ってきた。
  その時、世界中から略奪して来た貨物の価は2億フラン
 に達した。
  エリザベス女王も分け前を貰って、大いに喜んだ。
  フランシス・ドレークに爵位を与えた。
  イギリス以前には、この様な同じやり方で稼いでいた
 ポルトガルやスペインだった。
  そして、この不埒(ふらち)な金を、さらに、キリス
 ト教が巻き上げていた。
  キリスト教会は、「来世は幸せになります」と来世の
 幸福を約束したり、「先祖が天国に行くことが出来ます
 ようにとりはからいます」と、先祖の天国行きの切符を
 売り言葉にして、この金を巻き上げた。
..
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by suba28 | 2015-04-23 03:14 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)80C2/3:気になった事柄を集めた年表(1573年9月~1575年11月)

題:(増補版)80C2/3:気になった事柄を集めた年表(1573年9月~1575年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1573年、小谷城の後日談。
  信長は、小谷城へ、何度も和睦の使者を出していた。
  そして、信長は、自身では小谷城を攻めることは出来
 なかったのか?小谷城攻めはいつも秀吉にさせていた。
  長政は、妻や子供のために和睦しても良いと考えてい
 たようだった。
  だが、父・久政は頑として聞き入れなかった。
  家の筋を通す父だった。
  義景の自刃を知った長政は、悟ったのか?「我らの3人
 の娘と共に生きてくれまいか。そして、我ら亡き後の浅
 井家の菩提を弔って欲しい」とお市を諭した。
  そして、長政自刃まであと1週間という8月25日に、長
 政は、お市の方へ「そなたは城を出て兄・信長の元に戻
 られよ」と妻の命の助かる道を思って言葉にした。
  和睦の勧めにも応じなかった小谷城、お市の方と子供
 たちが去った小谷城に、秀吉による熾烈な攻撃が始まっ
 た。
  秀吉軍は、険しい山を登り、あっという間に京極丸を
 占拠し、久政の居る小丸と、長政の居る本丸を分断した。
  お互いが連絡が取れず、孤立する中で、小谷城は落城
 した。
  また、秀吉の働きが目立った。
  この後、秀吉は城持ちの大名となる。
  秀吉は、山間地の城を嫌った。
  平地に城地を求め、琵琶湖畔の今浜に城を築いた。
  長浜城(別名:今浜城)、長浜と名付けたのは秀吉で
 あった。
  お市の方は、3人の娘と共に兄の信包(のぶかね)に預
 けられ。清州に住んだ。
1573年、秀吉が、信長から長浜をもらう。
  この地は、浅井氏の旧領である。
  お市の方は、秀吉を嫌ったという。仕方ない事である。
  当時、城下町は、敵の侵入を阻むため、カギの手や袋
 小路があったりして、道が入り組んで、分かりづらかっ
 たが、秀吉の長浜の城下町にはそんな複雑な道路はない。
  商業重視の街づくりをした。
  秀吉は、町の賑わいに主眼を置いていた。
  信長にとって、秀吉は良く働く武将であった。
  論功行賞として秀吉が貰った地は、すべて長政の旧領
 で、北近江の3郡を貰った。一国一城の主となった。
1573年、信長が、大船をつくる。(7月3日か?)
  信長が、鍛冶・大工・きこりを集め、長さ33間(約60
 メートル)、幅7間(約13メートル)、ろ100挺、ともに
 矢蔵を備えた大船を造り上げた。
  これは、湖上交通を確保するためのものだった。
1573年7月20日、羽柴藤吉郎と署名した文書の初見。
  この日の日付の、羽柴藤吉郎の初見文書のがある。
  柴田勝家の柴と、丹羽長秀の羽を貰った。
1573年7月23日、信長の望み通り「天正」と改元された。
  (20日説と28日説あり)
1573年9月、秀吉は、小谷城に一旦入ったが、今浜を長浜と
 改め、新しい城作りに着手した。
  その理由は、
  1、小谷城は、軍事的には良いが、領国経営の中心と
 しては好適ではない。
  2、長浜は、商品流通の面を重視していた土地だった。
  3、一向一揆対策のために良い地だった。
  4、国友の鉄砲鍛冶集団を直接傘下に治められた。
1573年9月、信長が、長島の一向一揆に破られた。
1573年12月、信長に、松永久秀が降りた。
1573年12月1日、沢庵が生まれた(1573年~1645年)
  吉田兼好ではないが、うたかたの様に江戸時代の初期
 に活躍する沢庵が生まれた。
1574年、書院造り:玄関・床の間・付け書院・違い棚・唐
 紙障子・欄間(らんま)・縁側などを備えた座敷などは、
 禅宗建築に伴って入ってきた書院造であるが、近世初頭、
 安土桃山時代に宮殿建築に取り入れられた。
1574年、秀吉が、近江長浜の大名になった。
1574年、豪姫が、生まれる。
  前田利家とまつ夫妻の3番目の子だが、子供の出来ない
 秀吉・おね夫妻は、生まれる前から性別を問わず、貰い
 受ける約束をしていた。
  産声を聞くと、秀吉はそのまま懐に抱きかかえて走り
 帰った。
  それだけに、豪姫に抱く秀吉の愛は、誠に真実の親の
 愛情であった。
  秀吉はこの豪姫を、あの岡山城の美しき人、おふくの
 子、宇喜多秀家の妻にした。
1574年1月、信長が、「洛中洛外図」を謙信に贈った。
  この時に、上杉謙信は、武田勢を討つため、上野に出
 陣したが、いくら催促しても信長・家康が、信濃・甲斐
 に進んで、武田を攻めるとの約束を守らないので、わざ
 わざ使いを出して、違約を責めた。
  信長は、それに答え、畿内・近江・越前の情勢が急で、
 約束を守れなかったが、来秋は必ず出兵しよう、本願寺
 には畿内の兵で当たり、東国へは近江・尾張・伊勢・三
 河・遠江の軍勢を差し向けようと言った。
  これは、弁解というようなものではない、謙信を馬鹿
 にしたというより言いようのないものであった。
  信長が、謙信に狩野永徳筆の「洛中洛外図」(上杉家
 に現存)と「源氏物語」の屏風を送ったのは、この間の
 折衝中の事だが、どういうつもりであったのだろうか?
 「洛中洛外」を掌握しているのを誇示したのであろうか?
1574年2月、越前が、一向一揆の領国となった。
1574年3月18日、信長が、公家に列した。
  この日に、信長が、従三位参議に叙任されて公卿に列
 した。
  この後、廷臣との往来がしきりとなる。
1574年4月、本願寺が挙兵した。
1574年7月12日、信長は、慎重に準備を整え、この日、長男・
 信忠、弟・信包以下諸将を率いて岐阜をたち、尾張津島
 に入った。
1574年9月29日、信長が、長島一向一揆を平定。
  追い詰められた門徒は、長島・屋長島・中江の3か所に
 立てこもったが、厳しい包囲と兵糧攻めに餓死する者も
 多く出て、この日、ついに長島の門徒は降伏した。
1574年12月、信長が、領国内の道路修築を始めた。
  信長が、分国中に道普請を指令した。
  川には舟橋をかけ、悪い道は平かに、石を取り除き、
 道幅3間(約6メートル)、両側に松・柳を植え、沿道の
 村民に水撒き掃除をさせた。
1575年、信長が、4人の奉行を使い、諸国の道路を改善した。
  江戸時代以前の主な社会資本整備とされている。
1575年、信長が、堤防の毎年修理を指示した。
  信長は、かねて築造を命じていた中島郡「道根・横野
 堤」の完成を厳命し、各所の堤防を毎年修理する様に指
 示した。
  農業の進歩は、平野のような地形では、特に、治水の
 技術に関わっていた。
1575年、信長と毛利との対立が次第に目立つようになる。
  謙信は、本願寺に接近した。
1575年3月、信長が、今川氏真に会う。
  信長が、上洛して相国寺に泊まった。
  すると、今川氏真が訪ねて来て、信長に香炉などを送
 り、公卿たちと蹴鞠(けまり)をして見せた。
  かつて、信長は、尾張桶狭間で塗り輿(ぬりごし、表
 面を漆塗りにした輿、公方・長老などの乗り物)で逃げ
 る今川義元を討ち果たしたが、その子・氏真が、京都に
 流れ着き、父の敵(かたき)の自分にこんな風にするの
 を、信長はどんな気持ちで眺めたのであろうか?(馬に
 乗り換えて逃げたという話もある)
1575年5月21日、長篠の戦い。
  信長包囲網を打ち破った後、信長や家康は、甲斐の武
 田氏に対しても反抗を強めており、また、武田方からも
 織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。
  4月に、勝頼より離反し、徳川氏の家臣となった奥平貞
 昌を討つため、1万5000の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠
 城に攻め寄せた。
  しかし、奥平勢の善戦により、武田軍は長篠城の攻略
 に手間取った。
  5月12日に至って、信長は、3万の大軍を率いて岐阜か
 ら出陣した。
  そして、5月17日に、徳川軍8000と三河国の野田で合流
 した。
  3万8000に増大した織田・徳川連合軍は、5月18日に、
 設楽原に陣を敷いた。
  そして5月21日に、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが
 始まった(長篠の戦い)
  信長は、5人の奉行に1000挺余りの鉄砲隊による射撃を
 行わせた。武田軍に圧勝した。
1575年8月12日、信長が、越前の一向一揆を平定した。
  信長は、越前を目指して岐阜を発った。
  若狭・丹後の水軍までも加えた大軍は、越前に入って
 敦賀に陣した。
  一揆平定後、越前八郡を柴田勝家に与えた。
1575年10月、信長に、本願寺が降りた。
1575年11月4日、信長が、権大納言兼右近衛大将(征夷大将
 軍に匹敵する官職)となり、その拝賀式で天皇から盃を
 与えられ、信長からも献上物が出され、廷臣にも分けら
 れた。
  これで、朝廷より「天下人」であることを、事実上、
 公認された。
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by suba28 | 2015-04-22 01:54 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)79C2/3:気になった事柄を集めた年表(1572年11月~1573年9月)

題:(増補版)79C2/3:気になった事柄を集めた年表(1572年11月~1573年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1572年12月、信長が、小谷城の『水攻め』の準備をする。
  信長が、小谷城の水攻め準備をするが、これは必要だ
 ったのか? 信長の本心は・・?
  信長は、小谷城の周りを少しづつ攻略し、そして、各
 地の諸将を、信長側に降ろして来た。
  そして、あちこちに砦を築き、小谷城の『必敗の姿』
 を見せてきた。
  ここに、「小谷城よ!降りよ!」の本心があったと感
 じられる。
  あの比叡山を、一気に駆け上がり、すべてを焼き払っ
 たのは・・、
  小谷城に、この様な姿に、やればできるのだと、見せ
 ていた、知らせていたのだろう。
  妹がいる、そして、甥や姪もいる、幸せな生活をして
 いる小谷城なのだがあった・・、
  信長は、この様に小谷城を見ていたのだろう、感じて
 いたのだろう。
  小谷城・城主・浅井長政の頼りとしている朝倉義景は、
 義景の着陣後、義景の重臣の前波吉継(まえばよしつぐ)
 父子が、そして、その他の将が、次々と信長に降りていた。
  その様な状況から、朝倉義景は、この12月、越前へ引
 き上げてしまった。
  義景に、「信長は一揆で疲弊している、討つなら今だ」
 と書状を送っていた強気の浅井長政、降りればいいのだ
 が・・、
  それでもなお、信長は、なおゆっくりと、慎重に、横
 山と虎姫山の間の八相山・宮部に要害を構え、
  そして、虎姫山と宮部間に、幅三間の道を高く作り、
 それにそって小谷城側に高さ1丈(3メートル強)、延長
 50町(1町が1200メートル、故に、60キロメートル)と
 いう超長い築地(ついじ、土だけを突き固めた土手や土塀)
 を作り、水攻めの準備をした。
  何故?信長が、こんな大変な事をしているのか? 
  手間もかかり、時間もかかることをしているのか?
  待っていたのだろう。
  妹婿・・降りろと、降りてくれと、
1572年12月22日、三方ヶ原の戦い。
  武田信玄は、この時、遠江・三方ヶ原に徳川・織田軍
 を破った。
  徳川・織田軍の敗け方はひどかった。
  武田軍2万7000~4万3000、徳川・織田軍1万1000~2万
 8000、武田軍は1.5倍~2.5倍の軍勢だった。
  信玄の西上作戦の途上の(スタートの)戦い。
  (西上作戦は、1572年9月に、信玄の重臣に三河へ先攻
 させ、信玄は10月に出陣したのがスタートだった。最初は
 出城などを落としていた。そして、三方ヶ原に至った)。
  将軍・義昭は、1571年に、信長討伐令を出し、第二次
 信長包囲網を敷いた。
  信玄は、この翌年の1572年に、この将軍の令に応える形
 で信長側の徳川領国である遠江国・三河国の侵攻を行った
 のであった。
1573年4月12日、武田信玄が没する(1521年~1573年)。
  三方ヶ原の戦いの首実検の時に喀血。
  当然、進撃は、突然、停止する。
  軍が甲斐へ引き返す途上、4月12日に、没した。53歳。
  歴史は、信長に流れていた。
1573年7月18日、義昭、降伏。
  義昭軍が、この日に、信長軍に降伏した。
  そして、この後、信長は、将軍・義昭を追放した。
  信長包囲網を築くこともしたが、追い詰めもしたが、
 この時、京都から追われ、備後の国に逃れた。室町幕府は
 滅んだ。
  晩年、義昭は、豊臣秀吉の時代になって、山城填島1万
 石を与えられ大名として過ごしている。
  この年・1573年に何があったかというと・・、
  この年の正月、信長は、義昭に折れている。
  あの信長が、義昭を将軍として立てた。
  この正月、信長は、自分の子供を人質として義昭に入
 れ、和睦を申し入れている。
  しかし、義昭は、これが信じられなかったのか、この話
 を一蹴した。
  そして、義昭は、近江の今堅田城と石山城に、幕府の軍
 勢を入れ、はっきりと『反信長の旗』を示した。
  義昭は、武田軍が来ることを頼りにしていた。
  しかし、信長軍の攻撃を受けると、この義昭の両城は、
 あっけなく陥落した。
  京に陣を張っていた信長には降りる武将(細川藤孝や
 荒木村重)らがいた。
  状況判断が出来ている武将たちだった。
  しかし、それが出来ず、また、義昭は、信玄の死を知
 らないため抵抗を続けた。
  将軍を立てる信長は、再度の和睦を要請した。
  しかし、義昭は拒否。
  信長は、威嚇の行動をして、義昭に圧力を掛けた。
  そこに、優しさがにじむ信長が居た。
  そして、朝廷に和睦の工作を奏上した。
  天皇の勅命によって、4月5日に、講和は成立した。
  しかし、それから3ヶ月ののちに・・、
  義昭は、7月3日に至って、一方的に講和を破棄した。
  そして、南山城の要害・填島城(山城国)に移って、
 挙兵した。
  この城は、信長軍・7万の軍勢によって包囲され、7月
 18日に信長軍に攻撃を開始されると崩れ、義昭は家臣に
 促(うなが)されて、しぶしぶ降伏した。
  そして、填島城を、義昭は出た。
 この戦いにしたって、温かい信長だった。ヨーロッパ
 の様な卑劣な殺戮はしていない。
  信長は、この戦いの後、足利将軍の後継者として立て
 ると義昭に約束し、足利義尋を手元に置いている。
1573年8月8日、信長と朝倉義景の戦い。
  信長が、3万の兵を率いて近江に侵攻した。
  これに対し、義景も朝倉軍を率いて出陣しようとするが、
 それまで色々な失態をしてきた義景は家臣の信頼を失い
 つつあった。
  出陣命令を拒否する重臣・朝倉景鏡や魚住景固らが出る
 という始末だった。
  それでも、義景は、2万の軍を率いて出陣した。
  激突した結果は、朝倉軍の大敗だった。
  信長軍の追撃は、厳しかった。
  その結果、朝倉軍は壊滅的な状態となった。
  義景は、有力な武将の多くを失った。
  最後は、10人程度の側近が義景を守るという状態とな
 った。
  それでも、義景は、一乗谷に留守を守る兵の所へ帰還
 した。
  ところが、悲しいかな、義景の壊滅を知った留守を守る
 将兵の大半が逃走した後だった。
  総てを失ったと悟った義景は、自害をしようとしたが、
 近臣に止められた。
  8月16日から、義景は逃れる行軍が始まる。
  その道々、援軍の要請をするが応じてくれるものはなか
 った。
  防備に不安ありという事でまた逃れるという状態であ
 った。
  そして、8月18日、織田軍の柴田勝家の先鋒が一乗谷に
 攻め込み、これによって、朝倉家100年の栄華は終わった。
1573年8月20日、そして、8月20日の早朝、朝倉の家臣が、織
 田軍に通じて裏切り、この家臣の襲撃によって、ここに至
 って義景は自害した。41歳だった。
1573年9月1日、小谷城の戦い・・浅井長政が滅びる。
  小谷城の戦いは、8月8日に始まり、この日・9月1日に、
 終結している。信長の辛い決着をつける日だった。
  この8月8日、浅井長政の重臣の山本山城の城主・阿閉
 貞征が織田方へ寝返った。
  これを機に、織田軍の侵攻は開始された。
  朝倉軍は、小谷城の北方近くまで進出して来た。
  しかし、朝倉軍は前哨戦で敗北し、織田軍に追撃され、
 壊滅的敗北を被(こうむ)った。そして、義景自害へ至る。
  こうして越前を制圧した信長は、小谷城へ引き返し、8
 月26日に、虎御前山の本陣に帰還した、そして、時を移
 さず、全軍に小谷城の総攻撃の命令が下した。
  水攻めはなされなかった。
  織田軍の厳しい攻撃が加えられた。
  長政は、嫡男万福丸を家臣を付けて城外に逃がした。
  さらに、お市の方と3人の娘と共に、織田軍に引き渡し
 た。
  そして、9月1日、長政は自害し、小谷城は落城した。
 浅井氏は3代で滅亡した。
  桶狭間の戦いの1560年、この奇襲戦に今川義元を討っ
 た後、天下を治める夢を見た信長は、上洛への道筋にある
 北近江の雄・朝倉氏の懐柔に乗り出した。
  そして、浅井長政とお市の婚約が整ったのだった。
  そして、永禄10年、お市21歳は、2つ年長の長政に岐阜
 から嫁いだ。
  織田家は、美男美女の血筋で、お市も目鼻立ちがきり
 りとしていて美しかった。 
  浅井氏は、南に接する六角氏との戦いでは常に敗れ、
 越前の朝倉氏の援助を受け続けて来た。
  家臣は、六角氏の傘下に甘んじ、軍事的手腕に欠ける
 父・久政を嫌って引退を強要し、長政は、16歳で浅井氏の
 跡目を継いだ。
  この長政とお市の結婚には、父・久政は賛成ではなか
 った。しかし、長政は信長との同盟を選んだ。
  六角氏を共に攻め、希望ならば美濃の国もやろう、また、
 朝倉・浅井両氏は、昔からの深いかかわりもあるから、
 無断で朝倉氏を攻めたりはしないとの誓紙まで信長が入れ
 て来た。
  信長の誠実さを感じた長政は、それで、お市を城に迎
 えたのであった。
  長政とお市の結婚生活は6年間に過ぎない。
  お市には、3人の娘と2人の息子が居る(嫡男の万福丸は
 お市の子ではないという・信長公記)。
  しかし、信長が、悪かった。
  信長と長政の仲がおかしくなったのは、誓紙に背いて
 信長が、浅井の領内を通って、越前の朝倉を攻めに向か
 ったことに始まる。
  お市が嫁いで、3年目の事だった。
  長政は、信長に理解を示していた。信長がこれに甘えた
 のか?
  朝倉氏との同盟を重視する父・久政との間に立った長政。
  長政も、筋の通らない信長をかばい切れなくなったのだ
 ろう。
  次第に、小谷城は、信長との対立を深めて行った。
  そして、浅井氏は、信長が命からがら逃げる様な戦さ
 を信長に行った。
  これは決定的だった。
  この後から、信長の厳しい振る舞いの話が出て来るよう
 になる。
  浅井長政が没した(1545年~1573年)28歳だった。
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by suba28 | 2015-04-21 03:05 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)78C2/3:気になった事柄を集めた年表(1571年5月~1572年11月)

題:(増補版)78C2/3:気になった事柄を集めた年表(1571年5月~1572年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1571年8月18日、織田信長の、再度の小谷城(おたにじょ
 う、浅井氏の城)進攻への布石。
  妹の嫁いでいる小谷城。
  何故、信長はゆっくりと攻めているのか? 
  妹の存在が・・そこにあったのだろう。
  信長は、小谷城の周りの村々に手を付けた。
  そして、それだけで、横山城に引き上げた。
  そして、小谷城は置いといて、そこから延暦寺を目指
 し、中山道を進んだ。
1571年9月1日、信長は、この日、新崎郡の新村城と小川城
 を降ろした。
  この方面の一揆を掃討した。
  ついで、野洲郡の金ヶ森(一向一揆の中心地)を攻め
 落とした。
  信長が目指すのは、あくまでも延暦寺で、
  一向一揆を攻めたのは坂本への通路を確保したいため
 だった。
1571年9月12日、比叡山の焼き打ち。
  信長は、一挙に坂本へ進み、比叡山に攻め上った。
  延暦寺と、坂本の日吉社を、一屋あまさず焼き払った。
  徹底的さがこの時にはあった。
  1569年10月の寺領還付要求の時や、1570年12月の朝倉
 との和睦の時の信長とは、まったく違っていた。
  何が、信長をこの様にしたのか?
  これで、近江経略(攻めて、支配する事)は一段と進
 んだ。
  滋賀・高島の両郡が、新たに信長の下に降った。
  近江国人の降りるものが、一段と多くなった。
  この頃、浅井の武将で、姉川の北岸の宮部城を守って
 いた宮部継潤(けいじゅん)が秀吉に降っている。
1572年3月、将軍・義昭が、信長の執奏(しっそう、取り次
 いで奏上する事)する改元を妨げた。
  朝廷から、幕府と信長へ改元の命があったが、幕府が
 改元の費用を出さない行為をした。
  改元は、本来、天皇の大権だが、実際上の責任は幕府
 にあった。義昭は、そこをすんなり事を運ばなかった。
  信長への抵抗であった。
1572年4月、信長が、大徳寺に、あらためて徳政で免除した。
1572年7月1日、信長が、近江に攻め入った。
  織田信長が、今度は直接小谷城を攻めるべく、近江(
 滋賀県)へ進み、浅井長政との戦いが起きた(前哨戦)。
  信長は、意を決した。
  しかし、本格討伐はこの後に来る、この時は前哨戦。
  松永久秀と南近江の「国衆中(くにしゅう、領民のこ
 と)」にあて、7月1日に、小谷を攻撃するにつき、老若
 を問わず鋤(すき)や鍬(くわ)を持って砦を作れと言
 った。
  そして、小谷の城下町を攻めた。
  そしてさらに、北近江の各地へ、前も増して徹底した
 攻撃を仕掛けた。本格城攻めはしていない。
  苦しい信長が居たのだろう。
1572年7月29日、信長は、小谷城攻撃の用意を、一層進める
 ため、7月末、虎姫山砦の築造に取り掛かった。
  浅井長政は、朝倉義景に対し、「信長は、尾張・伊勢
 の一揆に弱っている」との書状を出している。
  そして、「今が、信長打倒の時だ」と言っていた。
1572年9月、信長が、将軍・義昭に意見書を呈した。
  信長は、義昭に出した「意見17ヶ条」で、この年の3月
 の事を取り上げて、「天下」の希望と、「禁中(きんち
 ゅう、宮中)」の命令に反するものだとして非難した。
  反信長勢力と結託して、信長に敵対行動をとる将軍・
 足利義昭に対しての信長の耳の痛い話の具申(意見を申
 し述べる)。
  その内容の1部は・・、
  ・「宮中への参内を怠らない様に申し上げたのに近年
 怠っているのは遺憾である」
  ・「幕府へよく奉公し、怠りなく忠節を尽くす者に相
 応の恩賞を与えず、新参者でそれほどの事をしていない
 ものを厚遇するのはよくない」
  ・「信長に友好的な者に対し、女性方(女房衆)にま
 で不当な扱いをしているが、どういうことなのか」
  ・「よく奉公して、何の落ち度もない者たちが昇給(
 扶持の加給)がないと、信長に泣きついて来たので、将
 軍に取り次いだにもかかわらず、何も聞き入れらないの
 はどういうことか?」・・など
1572年9月~1573年4月、武田信玄が、西上する(甲斐武田
 氏の遠征)
  北条氏政は、1571年末に、上杉謙信の態度がはっきり
 しないのに業を煮やし、武田信玄と和睦した。
  そこで、信玄は、いよいよ本腰を入れた西上を考えた。
  各地の信長に対抗していた派は、この信玄に期待し、
 活気づいた。
  信玄をはじめ、将軍・義昭、石山本願寺、各地の組織
 された一向宗徒、朝倉義景、浅井長政、三好一党、松永
 久秀から六角承禎、
  そして、久秀のもとに居候をしていた土岐頼芸に至る
 までが、互いに呼びかけ会い、直接的に、また、間接的
 に結んだ。
1572年10月3日、信長が、遠江(静岡県西部)に進撃した。
  信長が、本格的に遠江に進撃を開始した。
  ここで、信長は、信玄と絶縁し、謙信との同盟に踏み
 切らざるを得なくなった。
  謙信は、信長に誓紙を送り、また、信長の子を養子(
 実は人質であろう)にしたいと申し入れ、信長も承諾し
 た。
1572年11月20日、信長が、謙信と結ぶ。
  信長が、謙信に長い手紙を書いた。ここで、はっきり
 と信玄と戦うという決意を表明している。
..
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by suba28 | 2015-04-20 03:10 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)77C2/3:気になった事柄を集めた年表(1570年11月~1571年5月)

題:(増補版)77C2/3:気になった事柄を集めた年表(1570年11月~1571年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1570年、スペインがマニラ(ルソン)を占領した。
  マニラは、既に、国際都市だった。
  中国は誠実な貿易をしていた。
  生糸や絹織物、そして陶磁器などの商品をもたらして
 いた。(イギリスはアヘン・麻薬を運んだ)。
  マニラには中国人居留区もあった。日本人もいた。
  豊かに交易でにぎわう都市・マニラ、この都市にスペ
 イン人は目を付けた。やはり、欲しいという欲からの行
 為だった。
  そして、この年に、スペインは、マルティン・デ・ゴ
 イティ率いる遠征隊を送り込んだ。
  そして、武力で占領し、植民地とした。
  やはり、キリスト教国・スペインは武力で奪い取った。
  スペインは、同じく、武力で奪い取ったメキシコの地
 の銀(レアル銀貨)を使って、この交易の利益を享受し
 た。
  マニラは、中国の利益を得る拠点として絶好だった。
  この時代の後になって、やはり、中国の利益を得たい
 利権を得たいというアメリカは、スペインからこの中国
 への拠点・フィリピンをまったく卑劣な戦争(米西戦争)
 で、勝と分かっている戦争で奪い取っている。
1570年、多くの地図を集めて編集されたオルテリウス(現・
 ベルギーの人))の「地球の舞台」が作られた。
  日本地図が、1595年に追加され、この地図がヨーロッ
 パにおける最初の日本地図とされている。
1571年、レパントの海戦。
  オスマン帝国と、教皇・スペイン・ヴェネツィア連合
 国との戦い。
  戦力:オスマン帝国300隻強、連合国300隻強、ほぼ同
 数。
  双方のガレー船の櫂手は奴隷によって漕がされていた
  (キリスト教の教皇だって奴隷を使った)
  オスマン帝国(テュルク系・・後のトルコ人のオスマ
 ン家出身の皇帝をいただく多民族帝国)の海軍を、
  この年のこの海戦で、スペイン連合艦隊が破り、世界
 最強を誇るに至った。
  この戦いで、スペイン王国は、支配下のジェノバや、
 イタリアの諸都市、教皇(領)、マルタ騎士団などから
 最大限の戦力を集めた。
  この時期、キリスト教は、世俗の王を廃したり、世俗
 の欲に関与する事しきりだった(世俗の欲を貪り、そし
 て紛れるキリスト教だった)。何度も、戦争までしてい
 る。
1571年、有馬晴信が、兄の義純が早世したため、家督を継
 承した(4歳)。肥前日野江藩の初代藩主。
  この頃の有馬氏は、龍造寺隆信や、龍造寺の支援を受けた
 西郷純堯・深堀純賢兄弟の圧迫を受け、大変な状態だっ
 た。
  晴信は、最初はキリシタンと対抗していたが、キリス
 ト教宣教師から武器・弾薬の支援を受け(劣勢だっだの
 で受けざるを得なかった)、また、食糧までも支援を受
 けて、かろうじて国を保っている状態だった。
  そこまでして、龍造寺隆信から必死の防戦をするとい
 う状態だった。
  キリスト教宣教師からの物資が頼みの晴信だった。
  1580年、晴信は、この年に洗礼を受けている(13歳)
 が、晴信にとって、強力な敵対関係にある龍造寺氏から
 の攻撃を防ぐため、キリシタン宣教師からの武器・弾薬
 に頼った。
  また、宣教師の要請で、領内の多数の神社仏閣の破壊
 をさせているが、晴信は、1600年の関ヶ原の戦いの時、
 キリシタン大名の小西行長に攻め込んでいる。
  晴信にとってキリスト教よりお家がすべてだった。
  晴信は、マカオで晴信の貿易船がポルトガル船とトラ
 ブルを起こした事件の復讐している。
  ポルトガル船が長崎に来た時に爆沈させている。
  「目には目を」という事でやったのだろうが、この件
 で、晴信は甲斐に追放され、死罪となっている(まった
 く日本的な形で、切腹した後、首を切り落とされた)。
  晴信もそうだが、キリシタン大名の子や孫の代は、キ
 リシタン大名を止めている。
  また、晴信の貿易において、宣教師が絡んだ南蛮貿易
 で、日本人を奴隷にして拉致して行ったが(特に、女性
 方))、晴信の貿易もこれに手を汚している。
1571年、北条氏康が没した(1515年~1571年)
1571年、毛利元就が没した(1497年~1571年)
1571年、信長が、目標を延暦寺に置いた。
  講和の後、信長は、作戦の目標を延暦寺に置いた。
  その為、まず、浅井氏を押さえておきたいと動き出し
 た。
  湖東の交通路を確保すべく、浅井被官の国人を個々に
 誘降し、浅井を孤立させる方策に出た。
  この年、早々に、まず、佐和山城の磯野員昌を狙った。
  それは、先に員昌がもっとも頑強に抵抗したからでな
 く、佐和山が中山道と北陸道の分岐点に位置する要衝だ
 ったからだった。
  また、秀吉に命じて、越前と大阪間を往来する商人(
 朝倉や一向宗徒と本願寺の連絡に当たっていたのだろう)
 を、姉川と朝妻の間で押えさせた(連絡遮断)。
1571年2月、信長が、浅井の将・磯野員昌を誘降した。
  磯野員昌が降りた。その後に、丹波長秀を入れた。
  ついで、朝妻城の新庄直頼を降伏させ、太尾城を開城
 させた。
  こうして、岐阜路は格段に安全になった。
1571年5月12日、浅井の将・磯野員昌が降り、佐和山城が開
 城して後、信長は岐阜に引き上げた。
  浅井への戦いは急がない信長だった。
  浅井の事は、一応、横山城に居る秀吉に任せた。
  そして、この日(5月12日)、伊勢長島の一揆を討つべ
 く、信長は自ら出陣した。
  しかし、しかし、戦況は思わしくなく退却となった。
 信長が敗れたのである。
  木曽川・長良川と西の丘陵にはさまれた低湿地帯で、
 信長軍の大集団の行動には不利だった。
  作戦行動がままならず、この様な状況に慣れている門
 徒のゲリラに追撃される始末だった。
  柴田勝家が負傷し、氏家卜全は戦死するという始末だ
 った。
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by suba28 | 2015-04-19 04:22 | 皆様とともに 幸せになりたい


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