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(増補版)28B:気になった事柄を集めた年表(1096年~1159年)

 題:(増補版)28B:気になった事柄を集めた年表(1096年~1159年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1098年、源義家が昇殿を許された。
  白河上皇が、院の昇殿を武士として初めて許した。
  義家は、新興の武士勢力の象徴とみなされていた。
  摂関時代が終わり、移り変わって行く時代。
1100年、クメール帝国(カンボジア):12世紀前半、ア
 ンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によってアンコ
 ール・ワットが建設された。
  建設に30年の歳月が費やされたという。
  孫のソター王が、ヒンドゥー寺院から仏教寺院へと改
 修し、仏像を安置した。
  14世紀には、アンコール王朝は衰退した。
  以後、19世紀半ばまで、密林の中で、誰にみられるこ
 ともなくひっそりと眠りについてしまった。
1100年、中国の製紙法がフランスに12世紀に伝わった。
1100年、アイスランド:12世紀~13世紀に、アイスラン
 ド語による薫り高い民族伝承文学「エッダ」や「サガ」
 が残された。
  エッダ詩は、古代ゲルマン民族の神話や、英雄伝説を
 題材にしているのに対し、
  サガは、ノルウェーやアイスランドで起きた出来事を
 題材にしている。
1100年代(12世紀)、進み、優れていたイスラム世界と、
 遅れていたヨーロッパ社会。
  ヨーロッパ社会に、イスラム世界から最先端の科学が、
 そして、ギリシャからは、古代ギリシャの哲学などがも
 たらされた。(12世紀ルネサンスがあったという研究者
 もいる)。
  ヨーロッパ社会は、それらの恩恵に浴して、この時代
 以後(14世紀)に、ルネサンスと呼ばれる知的高揚が
 あった。キリスト教による暗黒世界からの脱出。人間賛
 歌と復興。
1103年、鳥羽上皇が生まれた(1103年~1156年)
1104年、源頼政が生まれた(1104年~1180年)
1106年、源義家が没した(1039年~1106年)
1106年、京都に田楽が流行した。
1107年、鳥羽天皇(在位、1107年~1123年)
1108年、平忠盛が源義親を殺した。
1108年、延暦寺の僧徒が日吉神輿を奉じて入京しようと
 する。源平両氏はこれを防いだ。
1108年、新立荘園の停止を命令した。
1110年、12世紀前半、江戸四郎重継が、武蔵国に進出し、
  「江戸館」を築いた(江戸城の歴史)。
  現在の江戸城本丸の場所に築いたという。
  『吾妻鏡』には1180年8月26日と記されている。
1118年、西行が生まれた(1118年~1190年)
1118年、平清盛が生まれた(1118年~1181年)。
  忠盛の子。幼少の安徳天皇を擁立して権勢を強めたが、
 1180年の源氏の挙兵により、福原遷都を企て失敗した。
  最盛期には一門の公卿16人、殿上人30余人と言われた。
  武士でありながら、貴族化したため反発が強かった。
  それが、反平氏気運の起こる原因と言われている。
1120年、藤原頼長が生まれた(1120年~1156年)
1123年、崇徳天皇(在位、1123年~1141年)
1123年、源義朝が生まれた(1123年~1160年)
1124年、中尊寺金色堂が出来た。地方に文化が広がった。
1126年11月、金(女真族、後の満州族)によって宋(北
 宋)が滅亡した。靖康の変(せいこうのへん)。
  宋は建国した金に、一緒に「遼」を挟撃し、滅亡させ
 ようと持ち掛けたりした。
  金はこれに応じ、大軍を送ったが、宋は誠実な戦い方
 をしなかった。
  宋は、金と遼が弱体化すればよいと考えての消極策だ
 った。
  金は約束違反を責め、宋は歳幣(銀や絹)を上積みし
 てこの場をしのいだ。
  しかし、約束の歳幣を支払わなかった。
  逆に、金の内紛を助長して金の弱体化をしようとした。
  金(北方異民族)は、軍を南下させ、宋へ侵入させた。
  金は、宋の皇帝・皇族・官僚を捕らえ満州へ連行した
 (北宋の滅亡)。
  また、金は、宋室の皇女たちも連行し、金の皇帝・皇
 族たちの妾とした。また、官設妓楼の「洗衣院」に入れ、
 娼婦とした。
  北宋では疲弊した農民の反乱も相次いでいた。
  一方、北宋の皇帝の弟たち・宋の一族は、南に逃げ、
 臨安(杭州)に都を移した。以後を南宋という。
  南宋によって江南地方の開発が進んだ。
  朱子学:宋王朝が文治主義をとったため、知識人の意
 識が高まった。
  南宋の朱子は、それまでの儒学の字句解釈中心の訓詁
 学(くんこがく)を批判し、太極という宇宙の原理を考
 え、そこから生じる気が集まって物質ができ、物質には
 理(ものの本質)が宿るとした。
  その理を探求する事によって、自然や人間の本質に迫
 り、個人、家、国家、天下を治めようとする。
  総合的な思想に発展させたが、そこには仏教や道教の
 影響があった。
  朱子学は、日本や朝鮮にも大きな影響を与えた。
1127年、後白河上皇が生まれた(1127年~1192年)
1128年、藤原清衡(きよひら)が没した(1056年~
 1128年)
1129年、白河上皇が没した(1053年1129年)
1129年、鳥羽上皇(在位、1129年~1156年)
1129年、この頃、院司と朝臣との争いが起きた。
1130年、朱子が生まれた(1130年~1200年)
1132年、平忠盛が内昇殿を許された。
  この当時としては破格の待遇だった。
  「平家物語」には、武士である忠盛が殿上人になった
 ことを憎んだ公卿たちによる闇討ちが企てられるが、忠
 盛は、銀箔の木刀によって公卿たちを脅す機転によって
 防いでいる。
1133年、法然が生まれた(1133年~1212年)、43歳の時、
 浄土宗を開いた。
1137年、平重盛が生まれた(1137年~1179年)
1138年、北条時政が生まれた(1138年~1215年)
1140年、鳥羽僧正が没した(1053年~1140年)
1141年、近衛天皇(在位、1141年~1155年)
1141年、栄西が生まれた(1141年~1215年)、51歳の時、
 臨済宗を開く。
1147年、源頼朝が生まれた(1147年~1199年)
1149年、京都醍醐寺の散所者(大道芸人など)、正月に門
 前に訪れ、千秋万歳(初春の祝福芸で、宮中をはじめ諸
 寺・諸家を回ってことぼぎをして舞い、祝儀をもらう、
 平安期に起こった)を行う。
1150年、この頃、アンコール=ワットが建設された。
1150年、欧州における最初の紙の製造。
  スペインに侵入していたムーア人(アフリカ北西部に
 住み、イスラム教徒でアラビア語を話す人々)が、トレ
 ド、バレンシア地方に製紙工場を建てた。
1151年、運慶が生まれた(1151年頃~1223年)
1153年、平忠盛が没した(1096年~1153年)
1154年、源義仲が生まれた(1154年~1184年)
1154年、日本が初めて表されたイドリースィー(アラブ人
 の地図学者・地理学者でもあり、史上初めて正確な世界
 地図を作製した、1099年?~1165年?)の世界図が作
 られた。
  彼は、「イドリースィー」というクンヤ(出身名)が
 示す事から、マグリブの地方政権であったイドリース朝
 の末裔の一人で、預言者・ムハンマドの子孫という。
1155年、藤原泰衡(やすひら、1155年~1189年)が生まれた。
1155年、後白河天皇(在位、1155年~1158年)
1156年、藤原頼長が没した(1120年~1156年)
1156年、伊賀黒田荘での争論に、シカ・サルなどの獣害
 対策を名目とした人の居住が見える。
1156年、保元の乱が起こった。
  天皇方:平清盛・源義朝(1123年~1160年)、
  院方:源為義(1096年~1156年)・源為朝(1139年
 ~1177年)・平忠正、
  院方が敗れ、源為義・平忠正は斬られ、源為朝は伊豆
 大島に流罪になった。
1156年、新制七条を諸国に下した。
  新制(しんせい)とは、天皇・上皇の勅旨に基づいて
 制定された成文法典のこと。
  保元の乱の処分の結果を諸国へ知らしている。
1157年、北条政子が生まれた(1157年~1225年)
1158年、後白河上皇(院政、1158年~1185年)
1158年、二条天皇(在位、1158年~1165年)
1158年、源頼朝が初めて官職を得る。
  この当時、父・為朝は後白河院の寵臣で、野心家であ
 った藤原信頼の門に出入りが多くなっていた。
1159年、源義経(牛若丸)が生まれた(1159年~1189年)
1159年、平治の乱が起こった。
  藤原信頼・源良義朝が、清盛の熊野詣の挙をついて挙
 兵した。
  院を幽閉し、信西を追って権力を握ろうとした。
  藤原信頼は、信西を倒すと、勝手に除目(じもく、平
 安時代以降の大臣以外の諸官職を任命する朝廷の儀式)
 を行い、自らは近衛大将となり、義朝を播磨守とし、頼
 朝を右兵衛佐(うひょうのすけ)とした。
  信頼は、信西打倒の時の挙兵に同調させた大炊御門経
 宗(おおいみかどつねむね)・藤原惟方(これかた)な
 どには、この臨時除目の恩恵にあずからせなかったから、
 直ぐに寝返って、清盛側に内通した。
  清盛方の勢力は、義朝方に比べて遙かに強大であった。
  事件を知って熊野路から取って返した清盛は、天皇・
 院を救い出し、重盛・頼盛などに内裏(だいり)を攻め
 させ、信頼を六条河原に破って、これを斬った。
  平氏の拠点・六波羅を攻めた義朝も、敗れて、関東に
 走る途中、尾張の国で長田忠致(おさだただむね)に殺
 された。
  13歳の頼朝も初陣をつとめ、敗れて父・義朝とともに
 東走した。
  しかし、途中、関ケ原の雪深い山中で、父達の一行に
 遅れたところを、平清盛の家人・弥平兵衛宗清(やへい
 ひょうえむねきよ)に捕らえられて、京都に護送された。
  当然、殺される運命にあった頼朝は、頼盛の母で継母
 に当たる池禅尼(いけのぜんい)や頼盛の懇請によって
 助命された。
  頼朝の兄・義平は、この戦いに加わったが、東国に脱
 出する事に失敗し、京都に戻って清盛を狙ったが、捕ら
 えられて斬られた。
  また、頼朝の兄・朝長は、父・為朝とともに東走の途
 中、戦傷のため行を共にしえなくなって自決した。
  武士の世が始まった。
..
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by suba28 | 2015-02-24 16:19 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)27B:気になった事柄を集めた年表(1054年~1096年)

 題:(増補版)27B:気になった事柄を集めた年表(1054年~1096年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1055年、セルジュク軍がバクダッドに入城した。
1056年、藤原清衡(きよひら)が生まれた(1056年~
 1128年)
1062年、源頼義(988年~1075年、1051年から安倍氏と
 戦う)・清原武則(不詳~不詳、出羽の豪族)等が、厨
 川柵(くりやがわのさく、盛岡市付近にあった安倍氏が
 築いた柵)に安倍貞任(安倍頼時の第2子、厨川柵主)を
 殺し、弟の安倍宗任(あべむねとう、安倍頼時の子)を
 降ろした(これより源氏の基盤固まる)。
1066年、イングランドが、ノルマン人(ゲルマン人の一種)
 に征服された。
  ノルマンディー公ウィリアム(キヨーム2世、1027年
 ~1087年)が、イングランドに侵入し、(イギリスを)
 征服し(ヘースチングスの戦い)、ノルマン朝を成立さ
 せた。現在のイギリス王室の開祖となった。
  イギリスは、国を開いてから950年弱、1000年にも満
 たない。
  キヨーム2世は、1066年12月、ウェストミンスター寺
 院でイングランド王ウィリアム1世として戴冠した。
1068年、後三条天皇(在位、1068年~1072年)
1068年、藤原教通(関白在位、1068年~1075年)
1069年、再び、寛徳2年以後、新立荘園を停止させた。
1069年、初めて、記録荘園券契所(荘園調査機関)をおい
 た。業務は、不正荘園の調査・摘発、書類不備の荘園の
 没収など。
  この頃になると、摂政関白への寄進地系荘園集中が進
 んだ。1069年の後三条天皇による「記録荘園契約所」の
 設置と荘園整理(延久の荘園整理令)は、藤原頼道の反
 対で目的を十分には達しなかった。
1070年頃、この頃、「大鏡」や「今昔物語集」が書かれた。
1072年、白河天皇(在位、1072年~1086年)
1072年、ノルマン人による南イタリアの征服。
  南イタリアとシチリアが、ノルマン人に征服された。
  ノルマン人(ゲルマン人の一種)が、傭兵として南イ
 タリアで働き始めた11世紀前半から12世紀前半に至る
 100年近い期間に及び、そこには、多くの戦いと、独立し
 た複数のノルマン人勢力による幾多の『領地獲得行為
 (征服)』が含まれていた。
  そして、それらの行き着いた過程の中に、数年の戦い
 の後に達成された1066年のイングランド征服、
  そして、数十年となったが南イタリア征服など。
  ゲルマン人の大移動に始まるこのヨーロッパの大変化
 は、戦いの後の各地の征服となった。
  この姿が、ヨーロッパの基礎である。
  「壁の向こうには異教徒の敵がいる」という世界であ
 る、そして、信仰は、キリスト教の「異教徒は殺せ」の
 教義で、異教徒に決して馴染(なじ)むなと説く教えで
 ある。

1073年、院の蔵人所(くろうどどころ)を置いた。
  蔵人所は、天皇と天皇家に関する私的な要件の処理や、
 宮中の物資の調達や、警備などをつかさどった。
1074年、藤原頼道が没した(990年~1074年)
1075年、藤原師実(関白在位、1075年~1086年)
1077年、疱瘡が流行した。
1077年、ハインリッヒ4世がキリスト教教皇に敗北する。
  キリスト教が強大な力を誇示する世となった。
  世俗の王(ドイツ王で神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世)
 が、宗教のキリスト教の教皇(グレゴリウス7世)に敗北
 し、謝罪せざるを得ないという事件が起きた。
  キリスト教会が破門を行うという行為が絶大な権力誇
 示の行為となっていた。
  叙任権(任命権)を世俗王がキリスト教に奪われた(
 カノッサの屈辱)。
  現在でも、「カノッサの屈辱」の語は、「強制されて
 屈服、謝罪すること」の慣用句として用いられている。
1079年、堀河天皇が生まれた(1079年~1107年)
1083年~1087年、後三年の役が起こった。
  奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦い。
  前9年の役で、陸奥国の安倍氏が滅んだが、この時に、
 参戦し、国司側に付き、国司側勝利の原動力になったの
 が出羽国の清原氏だった。
  こうして奥羽に力を伸ばした清原氏に内紛が勃発。
  そこへ陸奥守として赴任した源義家が介入。
  藤原清衡を助けて反乱者の清原家衡・武衡を滅ぼした。
  源氏は東国に基盤を築いた。
1083年、富士山が噴火した。
  延暦寺の僧が記した「扶桑略記(ふそうりゃっき)」
 に記録されている。
1086年、堀川天皇(在位、1086年~1107年)
1086年、藤原師実(摂政・関白在位、1086年~1094年)
1086年、白河上皇(1086年~1129年)が院政を始めた。
  幼帝の補佐のために院政が出現した。
  引き続いて、摂政関白が置かれていたが、次第に、名
 目上の存在となって行った。
1091年、源義家への荘園寄進を禁止した。
1092年、源義家の荘園設立を禁止した。
1094年、初めて、院の北面の武士を置いた。
  院の親衛隊と言える。
  摂関家が、源氏と結んで武士的な力を高めて来たのに
 対抗した形。
  伊勢平氏を取立て、平正盛を任命した。
  平正盛は、源義親を出雲に追討して武名を高めていた。
  また、源義家は、後三年の役ののち、名声が高まり、
 諸国の百姓らの寄進が義家に集中するようになっていた。
  そして、貴族の様な荘園領主化する動きが出て来るこ
 とが恐れられた。
1095年、堀河天皇による嵯峨野の虫取りが伝えられる。
  鳴く虫の愛玩が宮廷にみられる。
1096年、平忠盛が生まれた(1096年~1153年)
1096年12月、第1回十字軍が各地から出発した。
  十字軍に参加すると、完全に免罪がなされるという「
 完全免罪」が与えられるとされた。
  キリスト教は生まれた時から原罪があるとされるが、
 その原罪どころか、人間は日々の生活で罪を犯している、
 その罪をも完全に免罪されるとされた。
  そして、死後の天国行きが確実だとされた。
  自分の利益だけにとらわれたキリスト教だった。
  当然、これまでの悪行は、すべて帳消しとなると、キ
 リスト教聖職者は説いた。
  また、十字軍に出立するとき、財産のすべてを、キリ
 スト教会に預けさせた。
  出立した兵士が戦死とか、色々な理由で帰って来ない
 とき、その財産をキリスト教会は、自分のものとした。
  そして、ただの烏合の衆にならない様にとの規則があ
 ったが機能しなかった。
  また、出立したら、絶対、帰るなとされたが、途中か
 ら帰る者が居て、キリスト教会は、その者を破門にした。
  また、十字軍は、当時、不満がたまっていた相続権の
 ない次男・三男対策のために計画されたという経緯があ
 る(ガス抜き)。
  1096年から1270年までに7回行われ、結果は失敗であ
 った。
  教皇権が失墜し、イスラム文化の流入などをもたら
 したが、中世社会の崩壊を導く一大契機となった。
  十字軍の異端撲滅のキリスト教世界の教義・考え方は、
 世界の戦争体質を拡大した。
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by suba28 | 2015-02-23 16:40 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)26B:気になった事柄を集めた年表(935年~1054年)

 題:(増補版)26B:気になった事柄を集めた年表(935年~1054年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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935年、811年から新羅が滅亡する935年までの間、度々、
 新羅の賊が日本各地を侵した。
990年5月、藤原道隆(関白在位、990年5月、関白次いで
  摂政となった。993年4月22日再び関白となる。995年
  4月3日、関白を辞し、藤原伊周の関白就任を再度騒擾
 (そうじょう、さわいだ)したがかなわなかった。4月6
 日、出家し、4月10日、没した。
992年、藤原頼道が生まれた(992年?~1074年)
995年、藤原道隆が没した(953年~995年)。
  疫病が流行して藤原道隆・藤原通兼が没し、藤原道長
 が内覧右大臣になり政治の実権を握った。
  内覧(ないらん)とは、天皇陛下に奏上する文書を、
 摂政・関白、または、宣旨を受けた大臣が前もって読ん
 で処置する事、または、その令外官の役職。
10世紀末頃、この頃、清少納言「枕草子」、紫式部「源氏
 物語」が書かれた。
996年、藤原道長(内覧在位、996年~1016年)
996年、藤原教通(のりみち、藤原頼道の弟)が生まれた
 (996年~1075年)
996年、藤原氏の権力争奪。摂関の就任についての藤原氏
 どうしの争いで、道長・伊周(これちか、973年~1010
 年)の叔父甥間で展開された争いは有名で、この結果、
 兼家・道長の家系が、以後、摂関就任の家系として定着
 していった。
997年、長徳の入寇。
  長徳3年(997年)高麗人の賊が、対馬、肥前、壱岐、
 肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う。
  民家が焼かれ、財産を奪われ、男女300人がさらわれ
 た。これは、南蛮の入寇とも言われている。
998年、赤疱瘡(あかもがさ)が流行した。
  症状から「はしか」とされている。
  江戸時代にも、はしかは、度々、大流行を繰り返し、
 天然痘より死亡率が高かった。
  「はしかは命定め」と言われた。
11世紀頃、11世紀頃から(聖徳)太子信仰が大きく広がっ
 た。
11世紀、ヴェネティアが独立国になった。
  東ローマ帝国の初代皇帝のアレクシオス1世コムネノ
 スから金印勅書を獲得して、独立を果たした。
  金印勅書とは、皇帝の命令が記されていて、黄金製の
 印象が付された公文書の事。
  1096年から始まったキリスト教の十字軍がもたらす収
 奪品などの売買で莫大な利益を得て発展した。
1000年代(11世紀)、使徒ヤコブの墓の上に、サンティ
 アゴ・デ・コンポステラが建てられて、巡礼が始まった。
  エルサレムがトルコに占領され、聖地巡礼が危険にな
 ったため。
11世紀頃、バイキング:11世紀頃には北米大陸に達したと
 される。コロンブスより早い。
  最初のアメリカ大陸発見はコロンブスではない。
11世紀頃、ビルマ(ミャンマー):9世紀頃から、中国南部
 より南下した民族か、11世紀に最初のビルマ王朝である
 バガン朝を樹立した。
  その壮大な仏教遺跡は今日もなお残存している。
11世紀頃、イースター島に、約1000体のモアイ像という
 巨大石像がある。
  大きい物は20メートルにもなる。
  これらが作られたのは、紀元1000年頃から数百年間と
 考えられ、
  ポリネシア人は紀元400年~500年頃に渡って来た事が
 ほぼ認められている。
11世紀頃、キリスト教の世界終末思想。ローマの巡礼。
11世紀頃、ローマ法:11世紀(1070年頃、フレンツェ写
 本が再発見された)以後、ボローニャ大学の法学研究で
 復活し、ヨーロッパ諸国の近代法の基礎となった。
11世紀頃、スルタン:11世紀以後、主としてスンナ派イス
 ラム王朝の君主が用いた称号。
  セルジューク朝、マムルーク朝、オスマン朝などが有
 名である。
  多くの場合、スンナ派イスラム世界の精神的な首長で
 あるアッパース朝カリフから、特定地域における世俗的
 な政治権力を委任されるという形式を踏んで、この称号
 が授けられた。
  東南アジアやアフリカでも用いられたが、現代では、
 アラビア半島オマーンの君主が用いている。
11世紀頃、トルコ民族:11世紀のセルジューク朝、次いで、
 オスマン朝など、トルコ民族がイスラム教の主要な担い
 手となった。
  現在、トルコ共和国、トルクメニスタン共和国、ウズ
 ベキスタン共和国、中国の新疆ウイグル自治区などの政
 治体がある。
11世紀頃、北欧の叙事文学「サガ」をひもとくと、11世紀
 に、北欧のバイキングがアメリカ大陸に足を踏み入れて
 いたと記されている。
  バイキング説は19世紀に立証された。
  サガとは、中世の散文物語群の総称で、アイスランド
 で成立し、ノルマン人の植民前後からの史実や英雄伝説
 を年代記風に記している。
1008年、後一条天皇が生まれた(1008年~1036年、68代)
1008年~1009年、エルサレムの聖墳墓教会が、エジプト
 のイスラム教徒に破壊された。
1009年、後朱雀天皇が生まれた(1009年~1045年)
1011年、三条天皇(在位、1011年~1016年)
1011年、冷泉天皇が崩御した(950年~1011年)
1011年、一条天皇が崩御した(980年~1011年)
1014年頃、この頃、紫式部が死んだ(45歳?)。
  源氏物語を書き始め、才能と学識を認められた紫式部
 は、権力者の藤原道長の懇望に応じて愛娘の家庭教師に
 なった。
  それが、どんな意味を持つか、彼女は察知していたが、
 案の定、道長が、ある夜、部屋の戸を叩いた。
  紫式部日記には「恐ろしさに戸を開けなかった」とあ
 る。「女性が厭わしさではなく、恐ろしさにというとき
 は、後日、自室に招じ入れたはずだ」と、研究者は言う。
  いずれにせよ、この夜の出来事は、道長が、長和5年
 (1116年)1月29日、摂政になる以前の事という。
1016年、後一条天皇(在位、1016年~1036年)
1016年、鴨の河原に住みついていた河原人が死牛の処理に
 したがっていた。
1016年1月、藤原道長が摂政になった(摂政在位、1016年
 ~1017年)
1017年、三条天皇が崩御した(976年~1017年)
1017年、藤原頼道(摂政在位、1017年~1019年)
1017年、藤原道長が太政大臣となった(1017年~1018年)
1019年、藤原頼道が関白となった(関白在位、1019年~
 1067年)、藤原氏の全盛時代。
1022年、藤原道長が法成寺金堂五大堂を建てた。
1022年、平安時代後期に活躍した仏師の定朝(じょうちょ
 う)が、法成寺金堂の造仏の功績により、仏師として初
 めて、法橋に叙せられた。
1025年、後冷泉天皇が生まれた(1025年~1068年)
1027年、藤原道長が没した(966年~1027年)
1028年、平忠常(たいらのただつね)の乱が起こった。
  房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で起きた。
  忠常は、広大な所領を持っていて、傍若無人に振る舞
 い、国司の命令にも服さなかった。
  また、納税の義務も果たさなかった。
  中央の国と、地方の有力豪族のいざこざは、これ以外
 にもあるという世になって来ていた。
  在地豪族と、国衙(こくが、律令制で、国司が政務を
 執った役所)との対立。
1032年、富士山が噴火した。
1034年、後三条天皇が生まれた(1034年~1073年)
1036年、後朱雀天皇(在位、1036年~1045年)
1036年、後一条天皇が崩御した(1008年~1036年)
1036年、セルジュク=トルコが起こった。(~1308年)
  セルジューク朝は、11世紀から12世紀にかけて、現在
 のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に存在した
 イスラム王朝。
  現在のイスラエル(カナンの地)も含まれる。
1038年、西夏が起こった。(~1227年)
  李元昊が皇帝だと主張した。
  モンゴルとチベットの中間に建国された騎馬民族の国
 家。
  寧夏に首都をおき、東西交易の実権を掌握して栄えた。
  宋や周辺の国々を侵略し、独自の官制を整え、西夏文
 字を作った。
  モンゴル帝国のジンギス・カンによって滅ぼされた。
1039年、源義家が生まれた(1039年~1106年)
1041年、大江匡房(まさふさ)が生まれた(1041年~
 1111年)
1045年、後冷泉天皇(在位、1045年~1068年)
1045年、寛徳の荘園整理(停止)令(前任の国司の以後の
 新立荘園を禁止した)。
  しかし、実効性が乏しかったので、令は何度も発布さ
 れる。
1050年頃、この頃、旅行に握り飯の利用が始まった。
1051年、前九年の役が起こった。
  奥州(東北地方)を舞台とした戦い。
  陸奥の国の有力豪族の安倍氏は、柵(城砦)を築き、
 半独立的な勢力を形成していた。
  11世紀半ば、朝廷への貢租を怠る状態になったため、
 討伐軍が組織され、戦いとなった。
  安倍氏は圧勝した。
  朝廷は、新たな陸奥守を選任し事態収拾を図った。
  しかし、ある事件をきっかけに再び朝廷と阿部氏は、
 戦闘状態に入った。
  一進一退の状況が続く、色々変遷があったが、1062年、
 阿部氏は滅亡した。
1052年、仏陀滅後2000年の年。末法の初年という(末法
 思想)。
1052年、藤原頼道が平等院を建てた。
1053年、白河天皇が生まれた(1053年~1129年)
1053年、鳥羽僧正が生まれた(1053年~1140年)
1053年、藤原頼道が宇治に平等院鳳凰堂を建てた。
1054年、キリスト教の東西教会の分裂。
  ギリシャ正教会(ビザンチン帝国)と、ローマカトリ
 ック教会とが分裂した。
  分裂の遠因として、東西両教会の交流が薄くなり、数
 百年に及ぶと教義の解釈が違ってきた。
  教皇権に対する考え方の違いや、司祭の妻帯が良いの
 かどうかの違い、典礼(奉神礼)の形式の違い、キリス
 ト教としては基本で重要なニカイヤ信条の解釈の違い、
 聖像破壊運動・悪習打破運動の軋轢などなど、色々な問
 題の存在がそこにあった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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by suba28 | 2015-02-23 03:34 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)25A:気になった事柄を集めた年表(938年~990年)

 題:(増補版)25A:気になった事柄を集めた年表(938年~990年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
939年、最初の武士の反乱が、平将門の天慶の乱である。
  この後、武士が、公的な制度として、国家に組み込ま
 れていく。
  源平の両氏の繁栄の起源となった。
939年、この頃、班田は全く行われず、荘園がますます増
 大した。
  口分田の収公(しゅうこう、領地などを官府がとりあ
 げること)が無くなった。
940年、衣服の日本化が進行した。
945年、藤原忠平(関白在位、945年~950年)
945年頃、紀貫之が没した(866年頃~945年頃)
945年頃、天慶の乱以降、武士が公に認められた。
946年、村上天皇(在位 946年~967年)
946年、藤原氏の権力争奪。村上天皇には、多数の女御や
 更衣が侍していた。
  その中で第一皇子・広平親王を産んだのは、藤原南家
 の出身で民部卿・元方(もとかた)の娘の祐姫(すけひ
 め)であった。
  当時は、藤原北家の有力者が祖父でないと天皇になれ
 る事は困難であった。
  この時、南家方は、広平親王が皇太子になることを期
 待し、熱望もしていた。
  しかし950年、北家に皇子が産まれ、誕生の3か月後に
 皇太子になってしまった。
950年、冷泉天皇が生まれた(れいぜいてんのう、950年~
 1011年)
950年、藤原氏の権力争奪。右大臣・藤原師輔(もろすけ、
 908年~960年、北家)の娘・安子(あんし、927年~
 964年)が、村上天皇の第二皇子・憲平親王(のりひら
 しんのう)を産んだ。
  誕生の3か月後に皇太子と定められ、後の冷泉天皇と
 なった。藤原元方(南家)は失意のあまり没した。
950年、この頃(10世紀)、アル・ハゼン(アラビア)が
 薄明の観測からの大気の上限を推測した。
950年、アッパース朝:10世紀半ばには、軍人が政治的・
 経済的・社会的に他の階層を圧倒するに至り、西アジア
 に軍事的支配体制が確立していった。
951年、初めて、和歌所をおいた。
  和歌所とは、勅撰和歌集の撰述(せんじゅつ、書物を
 あらわす事)などを行うために、宮中に設置された役所。
  村上天皇が、梨壺に設置し、藤原伊尹(これただ)を
 別当(長官)に、源順(したごう)など5人を寄人(よ
 りうど)として、万葉集の訓読や後撰和歌集の撰進(せ
 んしん、詩歌・書物を編集して天皇などに奉ること)を
 行った。
953年、藤原道隆が生まれた(953年~995年)
959年、紫宸殿の前庭に橘を植えた(右近橘)
960年、藤原師輔が没した(もろすけ、908年~960年)
960年、この頃、国司の遙任(ようにん、国司が任地へ赴
 任しなかったこと)が盛んになり地方荘園化が進行した。
  荘園の権門への集中が起きた。
960年、中国・宋が建国された。
  趙匡胤が、五代時代最後の後周から禅譲を受けて建国
 し、中国が統一された。960年~1297年。
  唐朝は、黄巣の乱(こうそうのらん)をきっかけにし
 て滅び(907年)、五代十国という混乱期に入っていた。
  この時期は、地方文化が活性化し、次の宋朝統一の準
 備となった。
  宋は、開封に都し、文治主義を進め、文化的中央集権
 的な国を作った。
960年、中国の4大発明;北宋時代、世界に先駆け中国で
 は火薬、羅針盤、活版印刷という3つの画期的発明があ
 った。
  これ等は、イスラム文明経由で、ヨーロッパに伝えら
 れ、以後のヨーロッパの世界的発展に大きな影響を与え
 た。
  後漢時代の蔡倫による紙の発明を含めて、中国の4大
 発明と呼んでいる。
962年2月、神聖ローマ帝国:東フランク王・オットー1世
 (オットー大帝)の戴冠で成立した。
  ドイツ人による西ローマ帝国である。再興である。
  神聖ローマ帝国の基をひらく。
  キリスト教国を異教徒マジャルの禍から救った聖なる
 戦士だとして称(たた)えられている。
  この帝は、キリスト教の布教を口実にして他国を侵略
 するような帝だった。その帝に、962年2月に皇帝の冠
 が授けられた。
10世紀末以降、平安時代の中期以降、「古代都市」が形成
 され、都市としての独自の自立性を見せて行った。
966年、藤原道長が生まれた(966年~1027年)
967年、冷泉天皇(在位 967年~969年)
967年、藤原実頼(さねより、関白在位、967年~969年)
967年、村上天皇に次いで冷泉天皇が即位すると、藤原実
 頼が関白に就任するが、以後、歴代摂政または関白が、
 常に設けられるようになり、摂関政治の時代に入る。
  摂政や関白に就任したものは、藤原氏の氏長者(氏神
 春日神社の祭紀など)も兼ねたから、権勢と富とを一手
 に握ることになり、一族兄弟間に激しい競争が行われた。
968年、ベトナム:968年に丁朝(ていちょう)が、中国
 から独立し、以後、多くのベトナム人の政権が続く。
 968年~980年、
969年、円融天皇(在位、969年~984年)
969年、藤原実頼(摂政在位、969年~970年)
969年、この頃、紫式部が生まれている(1014年に45歳
 で没したらしいという史料から推定)
969年、安和の変が起きた。
  醍醐天皇の皇子である源氏姓を賜った左大臣・源高明
 (たかあきら、914年~982年)が、その娘婿・為平親
 王の擁立の陰謀があるとして、太宰員外師に左遷された
 (~971年まで)。
  左遷させたのは藤原実頼と源満仲である。
  藤原氏における摂政と関白の常置の体制ができ、藤原
 氏の地位が確立した。
  この変の後、円融天皇が即位した。
  摂関政治で藤原北家が政権を独占した。
970年、藤原伊尹(摂政在位、970年~972年)
972年、藤原兼通(関白在位、972年~977年)
972年、藤原氏の権力争奪。摂関就任の家系が、北家の基
 経・忠平の家系の独占に落ち着いてくると、同じ家系の
 中で兄弟あるいは叔父甥間で激烈な争奪が繰り返される
 ようになった。
  中でも兼道(かねみち、925年~977年)・兼家(929
 年~990年)兄弟の間で展開された争いが有名である。
974年、尾張の百姓の訴えにより国司を交替した。
976年、三条天皇が生まれた(976年~1017年)
977年、藤原頼忠(関白在位、977年~986年)
978年、藤原兼家の東三条殿が成った(寝殿造り)。
979年、宋が中国を統一した(集権的君主独裁)。禅譲を
 受けたのが960年。ほぼ統一したのが979年。
980年、一条天皇が生まれた(980年~1011年)
980年、浄土教が広まった(空也、源信)
980年、この頃、枕草子が出来た。
984年、花山天皇(在位、984年~986年)
984年、「一切世俗銭を用いず」の記述あり、世間、銭を
 嫌うこと甚だしい・・とある。
984年、再び荘園整理令を下した。
  荘園整理は、平安時代の政府の眼目で、
  整理令は、902年(延喜の主演整理令)、984年、
 1045年、1055年と、「延久の整理令」までに4回出さ
 れた。
  この令は、不正手段に基づく非合法な荘園を禁止する
 もの。
986年、一条天皇が即位した(在位、986年~1011年)
986年、藤原兼家(摂政在位、986年~990年)
987年、諸寺に銭貨の流通を祈った。
  検非違使をして銭貨通用の強制させた。
  検非違使は、初め、京都の犯罪・風俗の取り締まりな
 ど警察業務を担当し、後に訴訟・裁判も扱い、強大な権
 力を持った。
  平安時代の後期には諸国にも置かれた。
988年、尾張の郡司・百姓らが、国守・藤原元命の非政を
 訴えた。
990年、藤原頼道が生まれた(990年~1074年)
990年、藤原道隆(ふじわらのみちたか、摂政・関白在位、
 990年~995年)
10世紀末(914年~1492年)、イスラムのイベリア半島
 の後退。キリスト教徒が、イベリア半島のスペイン北部
 を占領した。
  レコンキスタという国土回復運動の戦いを、イスラム
 教徒に対し行った。
10世紀頃までに、律令制度は崩れ、崩壊の過程をたどった。
  問題は、格差の拡大だった。
  格差の拡大過程が進んだのである。
  家族構成が小さい農民の場合、労働力が小さく、労働
 力不足の農民には、制度が活用できなかった。
  税負担に耐えられない階層が生まれた。
  この様な階層の人たちは、縁者を頼ったり、大家族に
 身を寄せたりした。
  大規模家族は、その労働力を使った墾田開発で、より
 大きくなって行くという過程をたどった。
  その結果、大土地経営者が出現し、家長の権力も強く
 なって行った。
  領主の成長である。
  墾田永世私財法によって、自らの持つ労働力と、権力
 を使って、土地を開墾した。
  ますます、大きな私営田領主となって行った。
  こうして、地方には、広大な所領を拡大する地主が、
 10世紀頃までに数多く出現した。
  だが、11世紀以来、急速に、これらの大土地所有者が、
 没落するという新しい現象が生まれた。
  それは、税負担の軽重だった。
  貴族などの有力権門家は、その社会的地位を利用して、
 自分の所領の「税金免除」を受けていた。
  その様な事の出来ない者は、大土地所有者といえども、
 税負担に耐えていた。
  中央に連なる権門家の荘園では、税や労働の免除が広
 く行われた。
  農民は、大土地所有者に寄生していても、国司への税
 と、領主への税との二重の収奪を受けた。
  当然、税の免れる事が出来る権門家の荘園の方へ逃げ
 出した。
  農民が逃げ出された大土地所有者も、農民を呼び戻さ
 なければやって行けない。
  その為には、二重の税負担を取り除かねばならない。
  そこで、中央から派遣されてきた国司と政治折衝をし
 なければならない。
  この政治折衝が合法的にできるのが、中央の権門家だ
 けだった。
  こうして、11世紀以来、私営田領主が、権利の一部を
 保留して、所領の名義を権門家に寄進する行為が起きた。
  権門家を本所(ほんじょ)と仰(あお)ぐ荘園が数多
 く現れた。これを、寄進地系荘園と言う。
  また、もう一種類の所領を寄進するケースがある。
  中央から地方へ派遣される国司に、任地に赴(おもむ)
 かない者が多かった。
  位の高い者は、自ら出向くことはしない。
  実際に任地に赴く国司は、中央では高い地位に登る見
 込みのない者だった。
  彼らは、受領(ずりょう)と呼ばれた。
  受領たちは、任地で富を蓄え、私腹を肥やすのを常と
 した。
  この受領という官職は、金のなる木のため、売り買い
 がされた。
  受領の役目を買って、売り手の摂関家などの権門へ利
 益をもたらした。
  受領も、任地で利益を自分の家領として所有していた。
  しかし、任期が終われば、手放さなければならない。
  任期を離れれば、地方所領の管理は可能ではない。
  その利益は保持したい。
  中級貴族の立場から、解決方法として、自分のかかわ
 りを持つ摂関家の上層貴族に、土地を寄進し、所有権は
 上級貴族の名義に切り替え、一定年貢を献上するのを条
 件に、荘園の執行権と、そこから得られる利益は、寄進
 した無力な小貴族の手にも残り、これを子々孫々に伝え
 る事が出来た。
  1025年頃、「天下の地、ことごとく一の家(摂関家の
 こと)の領となり、公領は立錐の余地なきか。悲しむべ
 きの世なり」と(小右記・しょうゆうき)にある。
..
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by suba28 | 2015-02-22 01:55 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)24A:気になった事柄を集めた年表(894年~938年)

 題:(増補版)24A:気になった事柄を集めた年表(894年~938年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
894年、この頃、竹取物語が出来た。
  日本風の文化(国風文化)が起こった。
  因みに、紫式部の本名は不明であるが、『御堂関白記』
 の寛弘4年(1007年2月)の条において掌侍になったと
 される記事のあるが、この「藤原香子(かおりこ/たかこ
 /こうし)とする説がある。
  この説が発表されるとセンセーショナルな話題を呼ん
 だ。
897年、醍醐天皇(在位、897年~930年)
899年、菅原道真は、この年、醍醐天皇の時、右大臣にな
 った。この時、藤原時平は左大臣になった。
  学界出身の道真には異例の出世だった。
900年、メッカ:アラビア半島ヒジャーズ地方の都市。
  カーバ神殿のあるイスラムの聖地で、全世界から巡礼
 者を集めている。
  予言者・ムハンマド(マホメット、570年頃~632年)
 生誕の頃は、遠隔地通商によって栄え、クライシュ族(
 ムハンマドの出身部族)の大商人階級が支配する町であ
 った。
  メッカで伝道を始めたマホメットは、迫害を受けて、
 メディナに移住した(622年)。
  しかし後に、メッカはモハメットに降伏し、以後はメ
 ディナとともにイスラム教の2聖都として、イスラム世
 界の宗教と学問の中心となる。
  因みに、メッカの気温は、最高50℃で、平均の最低気
 温でも20℃を下回るのはほとんどない。
  年平均の最高気温記録49.8℃、年の平均気温30.7℃、
 年の平均最低気温24.6℃。
900年、ウマイヤ朝:アッパース朝の歴代カリフに保護さ
 れ、10世紀頃以降は、エジプトを支配した王朝の保護下
 に置かれることが多かった。
  20世紀に入って、メッカはサウジアラビア王国に属し、
 同王国の守護を受けている。
900年、中国の製紙法が、10世紀の初めにエジプトに伝わ
 った。
  そして、フランスに12世紀に伝わり、13世紀にイタリ
 ア、15世紀にイギリスという様にヨーロッパ中に広まっ
 た。
900年、マヤ文明:900年以降、トルテカ=マヤ文明がユ
 カタン半島北部に発展したが、都市間の抗争は絶えなか
 った。カカオ豆や塩などの公益で繁栄したが・・。
901年、菅原道真が左遷される。道真事件。
  藤原氏北家の台頭。醍醐天皇。藤原時平。
  菅原道真は、代々学者の家柄に生まれ、文章(もんじ
 ょう)博士となり、また、道真は学者で政治にも進出し、
 899年、醍醐天皇の時、右大臣にもなった。
  これをねたんだ藤原時平らは、天皇を廃してその娘婿・
 斎世(ときよ)親王を立てようと(陰謀)していると上
 奏(天皇に意見や事情を申し上げる事)した。
  その結果、道真は、大宰府の権師(大宰権師)に左遷
 される。
  九州に下る折り、庭の梅に「東風(こち)吹かば、匂
 ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と詠っ
 た。
  道真は、903年、配所で死んだが、時平も909年病死し、
 皇室にも不幸が多かったため、道真の怨霊を恐れ、天満
 大自在天神として北野社に祀られ、北野天神として崇め
 るようになった。
  この事件は、宇多天皇が基経の死後、道真を抜擢して
 藤原時平に対抗させ、藤原氏の勢力を抑えようとしたこ
 とにある。
902年、初めて荘園整理の令を下した(荘園整理令)。
  諸臣の山川占有を禁止した。
  (未開の山野を不法に占拠する事の禁止)
  この延喜の荘園整理令を最後に、班田は廃絶した。
903年、菅原道真が没した(845年~903年)
905年、古今和歌集を作り始めた。
  紀貫之ら、勅撰集の初め。
905年、全国に荘園が広まった。
907年、唐が滅亡した。
  また、唐と冊封関係にあった渤海や新羅など周辺諸国
 も一斉に滅亡した。
  朱全忠(節度使)によって滅ぼされた。
  朱全忠は、皇帝だと称した(後梁太祖、これより五代)
908年、藤原師輔(もろすけ、908年~960年)が生まれた。
914年、三善清行(きよゆき)が、朝廷の求めに応じて、
 醍醐天皇に意見封事12カ条を上奏(提出)した。
  政治意見書である。
  偽籍が横行していた。
  また、浮浪や逃亡になった持ち主不在の土地が、有力
 者の荘園と化し、中央への租税納付へつながってなかった。
  このため、班田収授も行われなくなった。
918年、両班(やんばん):朝鮮の高麗・李朝時代にお
 ける特権的な官僚支配身分。科挙によりなったが・・。
  本来は文班と武班、すなわち文武の官僚を意味するが、
 次第に血縁的な身分として固定化され、租税の免除など
 特権を与えられた。
  経済的には地主として権力をふるっており、官吏採用
 試験である科挙は常民にも開かれていたが、実際には財
 産と時間に余裕のある彼らにしか受験の機会はなかった。
  日常生活でも一般の常民とは異なる格式を重視した。
  1894年の改革で、制度上は特権廃止された。
918年、高麗:この年に、王建が創始した。936年に、朝鮮
 半島を統一し、1392年まで続いた朝鮮の王朝。
  開城を都とする。
  新羅末期に台頭した各地の豪族を支配下に治め、科挙
 制度を実施して中央集権的な官僚国家を目指した。
  仏教を奨励し、陶磁器や印刷などでも優れた文化を発
 展させた。
  朝鮮半島では、8世紀から9世紀にかけて、王位継承な
 どが原因で戦争が起き、地方の有力な豪族たちは新羅を
 分裂させていた。
  そして、892年には後百済が建国されたり、901年には
 後高句麗(のちに泰封と改称)が建国したりしていた。
920年、渤海使が入貢した。(渤海使の終わり)
927年、延喜格式の撰上(藤原忠平など)。
  (注)撰上は、「書物を編集して天皇に奉(たてまつ)
 ったという意味。
  また、格式というのは、律令の補助法令のこと。
  今までの律令の施行細則を取捨し、集大成したもの。
 50巻。905年に醍醐天皇の勅によって藤原時平や忠平ら
 が編集し、927年に成立した。そして、967年に施行した。
  38か国からの鹿の皮・角・肉などをはじめ、イノシシ・
 鴨・鹿・熊・カワウソ・アシカ・狸などの野獣体、各種
 魚類・鳥類、牧畜品の牛・馬皮などの貢納物を記載され
 ている。
930年、朱雀天皇(在位 930年~945年)
930年、藤原忠平(摂政・関白、在位930年~945年)
930年、アイスランド:930年に全国集会の制度を始めた。
  これは、やがてヨーロッパ各地に成立する議会の先駆
 となった。
931年、宇多天皇が崩御した(867年~931年)
931年、倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)が編纂さ
 れた。これは辞書である。
  醍醐天皇の第5皇女の勤子内親王(きんしないしんのう/
 いそこないしんのう)の求めに応じて源順(みなもとの
 したごう)が編纂(へんさん)した。
  今日の国語辞典のほか、漢和辞典や百科事典の要素が
 含まれている。
  当時の社会・風俗・制度などを知る史料として重要な
 書物とされている。
  例1:動物を羽族・毛族・牛馬・竜魚・亀貝・虫豸の
 6部に分け、350近くの日本語動物名をあげている。
  例2:「屠児」を「餌取(えとり)」と訓じる。
935年、承平・天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)
 が始まった(~941年)。
  関東での平将門の乱(たいらのまさかどのらん)と、
 瀬戸内海での藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)
 の総称。
  平将門の乱は、親族間の争いの勝利して勢力を拡大し
 た平将門は、やがて地方の富豪層間の争いの調停などに
 介入し、これがこじれて争いが拡大し、結果的に、朝廷
 への反乱のような状態に至った。
  平将門は、2か月後に滅ぼされた。
  また、瀬戸内海で海賊の鎮圧をしていた藤原純友は、
 同じ目的で任官してきた勢力と対立し、
  結果的に、藤原純友が蜂起した形に至った。
  平将門の乱を収拾してから、この西国に軍事力を集中
 させた朝廷軍に滅ぼされた。
  武士政権に至る経過の中にある。
935年11月、新羅が滅亡した。
  朝鮮半島では、高麗と後百済との争いが続いていた。
  935年に、後百済の王が、四男に王位を継がせようと
 した。すると、後百済の第2代の王だった長男が、反乱
 を起こした。
  長男は、四男を捕らえ監禁し、王位を奪った。
  その様な中、935年6月に、四男は後百済から逃げ出し、
 高麗に亡命した。
  高麗の王は、四男を国賓として迎えた。
  また、この様な中、新羅の王が、君臣と共に高麗に帰
 順し、新羅は無くなった(滅亡した)。
  その後、936年に、高麗は、後百済を滅亡させ、朝鮮
 半島は高麗によって統一された。
936年、高麗が朝鮮半島を統一した。
938年、空也が念仏宗を始めた。
10世紀、この平安時代の前半の頃、日本の文化は成熟した。
  いわゆる国風文化である。
  10世紀から11世紀が中心とする文化の時代。詩歌・物
 語・日記・随筆・百科事典など
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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by suba28 | 2015-02-21 02:22 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)23A:気になった事柄を集めた年表(832年~894年)

 題:(増補版)23A:気になった事柄を集めた年表(832年~894年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
835年、空海が没した(774年~835年)
836年、藤原基経が生まれた(836年~891年)
836年、この年、慈覚大師円仁が東国巡教の祈りに清澄寺
 を訪れ、不動の像と12僧坊を造って中興したという。
  このため、この清澄寺は、慈覚大師の流れを汲む天台
 密教(台密)の寺院であった。
  そして、鎌倉時代には北条政子より宝塔や経蔵の寄進
 を受けるなど、隆盛を極めていた。
840年、淳和天皇が崩御した(786年~840年)
842年、嵯峨天皇が崩御した(786年~842年)
842年、承和の変が起きた。
  政争と藤原氏北家の台頭。藤原氏による他氏の排斥事
 件。仁明天皇。藤原良房。
842年、橘逸勢が、承和の変で本姓を剥奪され、「非人」
 の姓を与えられて、伊豆に流される。
842年、京都の内に、人を埋葬することは禁止されていた。
  人々は、京の町以外に埋葬地を求めなければならなか
 った。
  この年、左右京職が、悲田院に命じて鴨河原の人骨を
 焼かせて埋葬したという。埋葬地に困っていた民衆を助
 けた。その数が5500余だったという。
843年8月、ヴェルダン条約によりフランク王国三分割して
 相続された。
  カール1世(カール大帝)には、長男・ロタールと、
 次男・ピピンと三男・ルートヴィッヒの3人の息子がい
 たが、第2妃にカールという男子が生まれた。
  すると、領土分割の問題が起こった。
  この息子たちに領土争奪の争いが起こった。
  当時、領地は分割相続により継承されるとされていた
 (因みに、この分割相続の考え方は、ゲルマン民族から
 引き継いだ相続分割の原理)。
  第2妃の子・カールに渡せば、取り分が減るという問題
 である。
  キリスト教の聖職者たちは、ゴマをすって、3兄弟の
 方に付いた。
  3兄弟が反乱を企てた時も、キリスト教聖職者たちは、
 これを正当だとした。
  完全にキリスト教聖職者の政治への口出しであった。
  政教分離がなされてなかった。
  どろどろした卑劣な争いが続いた。
  後を継いだとされたピピンが死ぬと、余計、争いは激
 化した。
  841年にはフォントノワの戦いなどが起き、この兄弟
 の親族同士の争いで長男・ロタールは敗れた。
  王国のすべてを領有しようとしたロワールの野望は、
 崩れ去った。
  色々な事が起こったが、843年、この条約によって、
 ロタールは中部フランクとイタリア北部を、ルートヴィ
 ッヒは東フランク王国(後にルイ2世を名乗る)、カール
 は西フランク王国となった。
  これが、現在のドイツ・フランス・イタリアの原型。
  この様に、日本より、国の成り立ちの歴史は、全然、
 浅いのである。高々、1100年強の歴史しかないのである。
  因みに、日本は2600年を超えている。
845年、菅原道真が生まれた(845年~903年)
845年、山城国のニ郡で虻(あぶ)の大量発生した。
  牛や馬の被害が大きく、政府は牛の治療方法を民へ配
 り、祈祷した。
845年、ノルマン人が、東西フランクに侵入した、・・と
 歴史書に記されるが・・、
  ノルマン人とは、バイキング(海賊)のことである。
  襲われて、富を奪われる農民は貧しかった。
  ヨーロッパの土地は痩せていた。
  麦の収穫量は、種籾の2倍しか獲(と)れなかった。
  これを収穫倍率というが、現在、日本では50倍を超え
 ている。
  如何にヨーロッパが酷い状態だったかが分かる。
  この様に、能率は非常に悪かった。
  その富が奪われるのである。
  農民は、パンを食べることは出来なかった。
  オートミールの様な、流動食を口にするだけだった。
  中央に権力を持つものは、農民を守らなかった。守れ
 なかった。
  農民を守ったのは、地方で城塞を築いている地方の権
 力者だった。
  農民たちも近くの城主を頼りにした。
  城の周りに住まいを移した。
  地方の群小城主たちは自立して行った。
  反比例的に中央の権力は低下した。
  その様な領土の状態の中で、911年に、東フランク王
 国(だいたいドイツ)が、982年には、西フランク王国
 (だいたいフランス)が滅亡した。
850年、仁明天皇が崩御した(にんみょうてんのう、810年
 ~850年)
850年、文徳天皇(もんとくてんのう、在位850年~858年、
 55代)
850年、アッパース朝:9世紀半ば以降は、次第に軍人の
 勢力が台頭した。
850年、この頃(8世紀前半~9世紀前半)、インドネシア
 のジャワ島に仏教遺跡のボロブドゥールが成った。1814
 年に発見された。
850年、チベット:9世紀半ばに吐蕃が滅んだ。ラマ教の諸
 宗派と結びついた諸侯が並び立つ乱世に入った。
858年、文徳天皇が崩御した(827年~858年)
858年、清和天皇(在位858年~875年)
858年、藤原良房(804年~872年、在位858年~872年)
 が摂政になった。摂関政治。
862年、カール1世のフランク王国のドロドロとした争いの
 後、ヴェルダン条約でやっと事が治まった様に見えたが、
 周りの公国の王や貴族たちには、実は、不満が一杯あっ
 た。
  ここにまた問題が発生した。
  当然の様に戦いが発生した。
  この時は、カール1世の息子たちは団結して、この不満
 分子に対抗した。
  そして、不満分子たちは逃亡して行く。
  フランク側の追撃にその数を減らしながらも、エルフ
 の人たちとも一緒になり、講和して、この年に、東ヨー
 ロッパ平原にノヴゴロド公国の成立を宣言した。
  この後、この公国は、キエフ公国を経て、ロシア王国
 として成立していく。978年にウラジミール1世が即位し
 た。(ロシア最初の公がルーリック、ロシアの起源=伝
 承)
864年、富士山が噴火した。
866年頃、紀貫之が生まれた(866年頃~945年頃)
866年、応天門の変。応天門が放火され、政治事件に発展
 した。
  古代からの名族だった伴氏(大伴氏)は没落した。
  他氏排斥事件。藤原氏北家の台頭。清和天皇。藤原良
 房。
867年、宇多天皇が生まれた(867年~931年)
867年、京都に常平を置いた(穀物価格の調整)
870年、メルセン条約(フランク王国の領土の再画定を定
 めた条約)により、東フランク王国(だいたいドイツ)、
 西フランク王国(だいたいフランス)、イタリア王国、
 法王領の領域がおぼ確定する。
872年、藤原良房が没した(804年~872年)
872年、藤原基経が摂政となる(在位872年~887年)
876年、陽成天皇(在位876年~884年)
880年、アイスランド:9世紀後半、ノルウェーの自由農民
 がバイキングとして植民定住した。
880年、クメール帝国(カンボジア):9世紀末に第1次ア
 ンコール・トムが建設されたのが大建築の序曲。
884年、藤原基経が関白となった(888年?)
884年、光孝天皇(在位884年~887年)
885年、醍醐天皇が生まれた(885年~930年)
887年、宇多天皇(在位887年~897年)
887年、阿衡の変。藤原氏北家の台頭。宇多天皇。藤原基経。
887年、宇多天皇が即位すると、藤原基経が関白となった
 (関白の初め、888年? 在位887年~891年)
891年、藤原基経が没した(836年~891年)
893年、初めて、滝口武士を置いた。
894年、遣唐使廃止。
  遣唐使船が計画され、菅原道真が任命されたが、道真
 は、唐が衰え、また、国内が乱れ、また、航海が困難で、
 途中の賊もあり、身を滅ぼす者もあることを理由に、中
 止を建議した。
  その結果、遣唐使派遣は中止された。
  この後、日本には、豊かな日本独自の国風文化が興隆
 して来る。
  これに対し朝鮮の場合、朝鮮における中国、それはた
 だの隣国という言葉では済ませない状況があった。
  海を隔てたところにある日本と、中国との関係とは違
 っていた。
  例えば、儒教。
  日本では、単なる思想の一つとしてあるが、
  朝鮮においては、思想をも越えて、儀礼を含め、しっ
 かり社会に浸透して行った。
  族外婚制度(同姓同士の間で結婚は許されない制度)
 など日本にない制度が朝鮮社会にはある。
  日本は、中国文化を自由に取捨選択できたが、
  朝鮮は、それが許されなかった。
  これは、今・現代におても、この傾向がある。
  良いにつけ、悪いにつけ、中国と朝鮮は肉薄している
 のである、肉薄せざるを得ないのである。
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by suba28 | 2015-02-19 04:10 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)22A:気になった事柄を集めた年表(800年~832年)

 題:(増補版)22A:気になった事柄を集めた年表(800年~832年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
800年、バイキング:9世紀~11世紀、250年間、西ヨーロ
 ッパ沿海部に侵略したスカンディナヴィア、バルト海沿
 岸地域の海賊。ノルマン人。
  カール1世の侵略と拡大を繰り返す行為に対抗していた。
  また、キリスト教を掲げるカール1世に、宗教的対立だ
 と説く研究者もいる。
  キリスト教徒による不平等な通商・貿易面で苦しんで
 いた深刻な対立点もあった。
  また、土地が貧しく生産性は極めて低かったこと、食
 糧不足が生じたことなど。
  ヴァイキングの航海技術が卓抜だったため、他の民族
 は対抗できなかった
800年、シーア派:預言者モハメッドの従弟で、娘婿でも
 ある第4代正統カリフ=アリーの血統のみに、イスラム
 共同体の最高主権者の地位を認める派。
  今日のイスラム教徒の約1割を占める。
  歴史上、多くの分派を生じたが、現在、シーア派の主
 流をなすのは、イランの国教となっている12イマーム派
 である。
  基本的な宗教儀礼そのものは、多数派のスンニ派と大
 きく違わないが、シーア派独特の祝祭や哀悼の行事があ
 る。
  思想面では、9世紀に姿を消し、現在なお「隠れてい
 る」イマームが、いつの日か救世主として再臨し、地上
 を正義と公正で満たすという「隠れメシア」思想を特徴
 とする。
  このイマームの「隠れ」の間は、イスラム法の法学者
 が、信者を指導する。
  イラン・イスラム革命の指導者・ホメイニ氏が提起し
 た「法学者の統治」もこれを指している。
800年、トルコ民族:ウイグル(744年に統一に成功して
 遊牧国家をつくった部族)の9世紀の西走は、中央アジア
 のトルコ化(トルキスタンの名称)をもたらし、
  イスラム教徒との接触を深めて、トルコ人のイスラー
 ム化をもたらした。
  トルコ人は、各地で傭兵(軍人)となり、やがて政権
 を握るものが出た。
  中国5代王朝の中の3王朝、西アジアのガズニ朝、イン
 ドの奴隷王朝(マムルークを奴隷と訳したのであるが適
 切ではない、イスラム世界では奴隷を解放することは善
 行とされ、それ故、奴隷解放が盛んに行われ、解放され
 た奴隷は忠実な家来となった)。
  エジプトのマムルーク朝はその例である。
801年、坂上田村麻呂が蝦夷の地を平定した。
801年、畿内の班田を12年に1度行うことに改めた。
9世紀初め、桓武天皇が、この頃、徳政相論を行わせた。
  徳政相論(徳政:徳のある政治、相論:互いに論じる
 事)で蝦夷征討と平安京造営が中止になった。
  今・現在の国会で議員の方たちが討議している形。
  民主主義は、西洋ヨーロッパから日本は学んだとマイ
 ンド・コントロールされているが、民主主義は昔から日
 本に根付いていた。
  また、坂本龍馬の生まれ育った高知の地には、商人の
 方たちの組織に、民主主義の形態が、既に、あったこと
 は有名。
802年、クメール帝国(カンボジア):8世紀まで、他国に
 征服されたりして、勢いがなかった。
  802年に、ジャバルマン2世が即位し、国の中心がアン
 コール地域に移って後、クメール帝国が栄える様になり、
 その繁栄が13世紀初頭まで続いた。
804年、藤原良房(よしふさ、804年~872年)が生まれた。
804年、牛の屠殺を禁止した。
804年11月3日、空海と最澄が、遣唐使として中国へ派遣さ
 れた。
  この後の遣唐使派遣は間遠になるが、
  この時の大使は、藤原葛野麻呂(かどのまろ)だった。
  この時、4200キロの行程を強行軍で行き、12月21日
 に長安に到着した。
  驚異的な速度で走破した。
  その理由は、正月元旦に開かれる元会議礼に参加する
 ためだった。
  日本国朝貢使が、この唐の元会議礼に参加する事の意
 味は極めて大きかった。
  元旦に先立つ12月24日に、藤原大使は供物を託して皇
 帝に進上し、皇帝からの懇(ねんご)ろな挨拶を伝達さ
 れた。
  大使一行は、内殿で目通りを果たした。
  日本国の朝貢使に対する唐王朝の待遇は、かなりのも
 のだった。
  こうして正月元旦、大使一行は、元会議礼に首尾よく
 参加した。
  含元殿は、高さ数十メートルの龍首原上に位置し、数
 千人の参列者が居並ぶ殿庭へは、長さ95メートルにおよ
 ぶ龍尾道が通じていた。
  元会の参列者が、玉座を仰(あお)ぎ見るに、天空の
 彼方(かなた)にあった。
  大使一行が、玉座にある皇帝の姿を確かめ得たかは、
 心もとない。
  「春秋左氏伝」という本にも、小国が大国からの侵略
 を免(まぬが)れるのは、使者を遣(つか)わせて礼物
 を献上するからであり、小国の君主が、大国に出向いて
 報告を行うからである。
  大国の方も、威儀を正し美辞によってこれをほめたた
 え、礼物の加増を行う。
  誅伐されて後、礼物を進上したとて取り返しはつかな
 い、と記述されている。
  中華秩序の中の朝貢外交のありさまである。
  この後、日本は、遣唐使の無益を説いた菅原道真の意
 見を入れて、『遣唐使派遣』を中止としている。
805年、参議・藤原緒嗣(おつぐ)の建議もあって、蝦夷
 征討が中止された。
805年、最澄が、唐から帰国し、天台宗を開いた(伝える)。
806年、桓武天皇が崩御した(737年~806年)
806年、平城天皇(へいぜいてんのう、在位806年~808年)
806年、畿内および諸道に観察使を設置し、地方行政の実態
 を調べさせた。
806年、空海(弘法大師)が唐から帰国し、真言宗を開い
 た(伝える)。
809年、嵯峨天皇(在位809年~823年、52代)
810年、平安時代は、死刑の無かった時代だった。
  嵯峨天皇(810年~823年)以来、死刑が、実際には
 廃止状態だった。
  後白河天皇の時代の保元の乱(1156年)の源為義など
 に対する処刑まで、346年間、実際上、死刑が執行され
 ることはなかった。
  仏教の影響である。
810年、仁明天皇が生まれた(にんみょうてんのう、810年
 ~850年)
810年、初めて、宮中に蔵人所(くろうどどころ)を置いた。
810年、薬子(くすこ)の乱が起きた。
  政争と藤原氏北家の台頭。嵯峨天皇。藤原冬嗣。
  この乱は、藤原薬子とその兄・藤原仲成(なかなり)
 が平城上皇の病を図って失敗した反乱で、この乱をきっ
 かけに藤原式家が衰えた。
  この乱の際、天皇側が機密保持のために蔵人所を設け
 た。
  初代蔵人頭に藤原冬嗣が任命された。
  冬嗣は藤原北家である。
814年、大和田泊(神戸港)を修築した。江戸時代以前の主な
 社会資本整備に数えられる。
814年、防鴨河使、防葛野河使が任命され、京都の治水が
 行われた。
816年、空海が高野山に金剛峯寺(こんごうぷじ)を建てた。
816年頃、この頃、検非違使を置いた。
818年、この頃、鷹狩が盛んで、「私の立場の鷹狩」の禁
 令がしばしば出された。
822年、最澄が没した(767年~822年)
822年、比叡山延暦寺は、伝教大師入寂後7日目の822年6
 月11日に、伝教大師出世の本懐たる戒壇建立の勅許が下
 りた。
823年、淳和天皇(じゅんなてんのう、在位823年~833年、
 53代)
823年2月、初授戒が行われ、勅号を得て、「比叡山延暦寺」
 と名を改めた。
824年、平城天皇が崩御した(へいぜいてんのう、774年~
 824年)
826年、藤原冬嗣が没した(775年~826年)
827年、文徳天皇が生まれた(もんとくてんのう、827年~
 858年)
828年、畿内に班田を行った(以後、50年間、班田が行わ
 れず)。
829年、9世紀の初頭に使徒のヤコブの遺骨が発見され、教
 皇のアルフォンソ2世が、この年に、ヤコブの墓の上に教
 会と修道院を建てた。
  これが聖地とされているサンティアゴ・デ・コンポス
 テラの始まり。
  そして、1478年に、教皇のシクストゥス4世が、サン
 ティアゴ・デ・コンポステラの巡礼は、エルサレムへの
 巡礼と同等の価値があると言ってから、この地への巡礼
 が増えた。
  因みに、ヤコブは「雷の子」と言われるほど気性の激
 しい人だった。
  イスラムの勢力が大きく、危険なイスラムの地を通っ
 てイスラエルの聖地巡礼が出来なかったからである。
832年、バイト・アルヒクマ(知恵の館):アッパース朝
 7代カリフ、アル・マームーンが832年にバクダッドに設
 けた研究機関。
  古代ギリシャ文明の遺産である哲学・自然科学の大量
 の文献を組織的にアラビア語に翻訳する事業により、イ
 スラム学術の発展に寄与した。
  ササン朝時代のジュンディーシャーブールにおけるギ
 リシャ語文献のシリア語への翻訳事業を引き継づもので
 あった。
  アラビア語に翻訳されたギリシャ語文献は、さらにラ
 テン語に訳され、中世後期以後、ヨーロッパ思想の発展
 に著しく貢献した。
  この恩義あるイスラム世界を、キリスト教世界は蔑(
 さげ)んだ。
  医学などを教えてもらって、どれほどの人々の命が救
 われたというのか。
  「イスラムは文明の遅れた国だ」と嘘や間違った情報
 によるマインド・コントロールをキリスト教は盛んにした。
  キリスト教には、この嘘つき体質が今・現代でもある。
..
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by suba28 | 2015-02-18 15:42 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)21A:気になった事柄を集めた年表(770年~800年)

 題:(増補版)21A:気になった事柄を集めた年表(770年~800年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
771年、カール1世(カール大帝、シャルルマーニュ)が、
 全フランクを統一した。
  このカール帝をヨーロッパ、特に、ドイツとフランス
 は、大きく評価している。自賛している。
  カール1世は、翌年の772年に、ゲルマン人を降伏させ
 ようと、服属させようと、遠征を行っているが、この様
 に、彼は遠征ばかりをする、遠征を10回以上行った帝だ
 った。
  カールは、抵抗する指導者を、死刑や追放に処したり、
 まったく、愛など感じさせない領土拡大主義だった。
  彼は、キリスト教を信奉しているようだが、「異教徒
 は殺せ」のキリスト教の教義の通り、「ザクセン族」征
 服、「バイエルン族」征服、「スラブ人」討伐、「アヴ
 ァール:アジア系遊牧民」討伐などなど、討伐行為を繰
 り返した。
  自分たちさえ、自民族さえ、良ければ良いのだの行為
 だった。
  また、カールは、キリスト教の教義の「十分の一税」
 と言って、「収入の10分の1を教会へ納めよ」というキ
 リスト教の教義の支払いを徹底させた。
  カールは、王国維持にキリスト教を利用した。
  その為、キリスト教聖職者を養成した。
  その為、宮廷に、キリスト教聖職者を招き、「カロリ
 ング・ルネサンス」と称したラテン語勉強をした。
  到底、ルネサンスなどと言えるものではなかった。
  祭政一致政治であった。
772年、下野の民衆が課役を免れるため陸奥に逃れた。
772年、渤海使が入朝した。
772年、再び墾田の私有を許可した。
  開墾制限を止めた。
  農民を苦しませない様にという旨の太政官符が発布さ
 れた。光仁天皇の時。
772年、唐代の詩人の白居易(白楽天)が生まれた(772年
 ~846年)
773年、穀物騰貴のため常平法を定めた。
773年、渤海使を放還した。
774年、空海が生まれた(774年~835年)
774年、平城天皇が生まれた(774年~824年)
774年5月、河内国が飢饉となり、救済される。
774年9月、諸国に溝池の修造をさせ、五畿内の陂池(つつ
 みいけ)を修造した。
774年、大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ、公卿)が
 蝦夷を討った。陸奥国遠山村まで行った。
774年、新羅使の無礼を責め放還した。
775年、藤原冬嗣(ふゆつぐ、775年~824年)が、生ま
 れた。
775年、天長節(天皇誕生日)が始まった。光仁天皇の時。
776年1月、税の調査の為、検税使を諸国に派遣した。
  1月は東海道、これは、すべての地域が、等しく実施
 されているかが命じられ、行われた。
777年、遣唐使の副使・小野石根が出発した(帰途、難船
 し石根ら死亡)
777年、渤海使が入貢した。
779年、唐使が来朝した。
7世紀後半頃~8世紀後半頃、この頃に編まれた「万葉集」
 が出来た。日本最古の和歌集。
780年、新羅使の朝貢を受けた。
780年、百姓より徴兵し、練達の者に武を習わしむ。
781年、光仁天皇が崩御した(709年~781年)
781年、桓武天皇が即位した(在位781年~805年)
783年6月、諸寺の田畑の買収を禁止した。
784年、桓武天皇が、長岡京(京都の南西・山背国)に都を
 移した。
  政治の立て直しがその意図。ただ、反対意見が強かっ
 たため、当時、副都として存在していた難波宮(なにわ
 のみや)に移転するという事で新都造営を進めて行き、
 穏やかな方法で長岡京遷都に至った。
785年、国司の正税の私有を禁止した。
  また、私的な林野の選挙や不当悔恨も禁止した。
785年、長岡京造宮使(造宮推進者)となった藤原種継が
 暗殺され、皇太弟の早良(さわら)親王が廃位された。
  長岡に都があった期間はわずか10年。
  長岡京遷都は、六国史の「日本後記」に記されている。
785年、最澄(弘法大師)が、19歳のこの年、はじめて比
 叡山に登り、一宇の草案を結んで修業を始めた時から起
 こったと伝えられる。
785年、大伴家持が没した(718年頃~785年)
786年、嵯峨天皇が生まれた(786年~842年)
785年、淳和天皇が生まれた(786年~840年)
789年、大きな軍勢を組織し、蝦夷討伐に向かったが、軍
 は多数の損害を出し、敗れて帰った。
8世紀末以前、万葉集が、この頃までに(8世紀末以前)成
 ったと言われている。
  「万葉集」に収録する歌には、鳥類17、獣類20、魚類
 14など、115種の動物が見える。
  ちなみに、ウマの声はイ、カラスの声はコロクなどと
 表現された。
790年、「三世一身の法」や「墾田永年私財法」と土地公
 有制の原則が、8世紀後半から9世紀にかけて大きく揺ら
 いだが、人々は、山林原野の開墾に励むようになり土地
 の私有地化が進み、自墾地系荘園が生まれた。
792年、辺要(へんよう、辺境の要害。国境の要地)以外の
 軍団を廃止し、郡司(ぐんじ、国司の下で郡を治めた地
 方官)の指定による「健児(こんでい、地方の軍事力とし
 て整備された軍団)の制」が創設された。
792年、渤海使の入貢年次を定めた。
794年~1185年、平安京へ遷都した。
  桓武天皇が平安京に都を定めた。平安時代の始まり。
  和気清麻呂の建議によって長岡京より遷都された。
  遷都により山背国は山城国にあらためられた。
  平安時代であるが、この時に築かれた出雲大社は、その
 高さが16丈(48メートル)もあった。
  倒壊した記録もあるが、木造で、当時の日本の技術は、
 世界に誇るものであったことを伝えている。
  中国にもない世界最高水準の業績の一つである。
794年頃、平安時代に入ると儒学は、宮廷貴族の特定の家の
 学問、すなわち家学として固定し、世襲された。
796年、東海道が開かれた。
796年、諸国に地図を作らせた。
797年、京中の凶穢を避けるため、山城国住民の住居のそば
 に死者を葬る習慣を止めさせる。
797年11月、坂上田村麻呂が征夷大将軍に就任した。
797年、勘解由使(かげゆし、国司などの官吏が交代すると
 き、新任者が無事に事務を引き継いだことを証明する解由
 状・げゆじょうの審査に当たった職)を置いた(806年、
 廃止)
797年、続日本紀が出来た(菅原道真?????など)
799年、和気清麻呂が没した(733年~799年)
800年、富士山が噴火した。
800年、カロリング朝フランク王国による西ローマ帝国の再建。
  カール大帝(カール1世、シャルルマーニュ・フランス
 語、チャールズ・ザ・グレート・英語)が、この年、西ロ
 ーマ皇帝として戴冠した。ピピン3世を継いだ。
  西ローマ皇帝を号したが、東ローマ帝国は認めなかった。
  そして、ヨーロッパの誕生、とは言うが・・。
  帝国と言っても、スペインや北アフリカは、イスラムの
 治世になっていた。
  また、南イタリアやベニスは、東ローマに制圧されてい
 た。
  そして、彼は、「リベリ」と称する自由民を創設し、
 軍役の義務を負わせようとするのだが、ほとんどが、失
 敗した。
  また、地方統治のために任命した臣下の公や伯たちは、
 たちまち、土着化した。
  そして、地方の諸侯として君臨し始めた。
  当然、彼の配下の官僚的な目的の性格は、まったく失
 って行った。
  彼が目指した中央集権の統治体制どころか、ローマの
 様な一定の首都をも持てないという状況だった。
  彼は、名ばかりの大帝で、帝国の統一はガタガタだった。
  カール帝は、とても腰を据えていられる状況ではなく、
 絶えずあちこちを巡遊して、各地で皇帝の威容を、直接、
 見せつけなければならないという状態だった。
  彼の帝国は、個人的努力で維持されるという、見せか
 けの組織体だった。
  しかし、彼は、わずか、その14年後の814年に死亡した。
  その後、ローマ系人種とゲルマン系人種の混じり合いの
 度合いに応じて、ドイツ人、フランス人、イタリア人とい
 った、一種の民族分化が進み、それが少しずつ固定化して、
 分割されていった。
  ある意味、中央の強圧によってのまとまりの崩壊は、
 地方に描かれ持たれているエネルギーに拠ったという事
 である。
..
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by suba28 | 2015-02-17 16:12 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)19A:気になった事柄を集めた年表(732年~755年)

 題:(増補版)19A:気になった事柄を集めた年表(732年~755年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
733年、山上憶良が没した(660年~733年、73歳)
733年、和気清麻呂が生まれた(733年~799年)
733年、淳仁天皇が生まれた(733年~765年)
733年、出羽柵(でわのき、いではのき、でわのさく、古
 代城柵)が秋田高清水岡に移された。
  はじめ庄内地方(山形県)付近に設置されていた。
  蝦夷政策の一環だった。
  民の出羽柵へ、全国各地からの移住なども行われたり
 した。
  尾張・上野・信濃・越後・越前・東海道・東山道・北
 陸道などの全国各地からの移住。
  総勢1300戸におよんだ。
  柵戸は公民の身分だった。
  蝦夷の教化もし、出羽国の開発・開拓を促進もした。
  城柵の兵士への供給も分担した。
  国府が、秋田へ移されたためと考えられている。
737年、桓武天皇が生まれた(737年~806年)
737年、藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去
 した。
  代わって政治を担ったのは橘諸兄(たちばなのもろえ)。
  そして、唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用される
 ようになり、藤原氏の勢力は大きく後退した。
740年、九州(西海道・さいかいどう)で藤原広嗣(ひろ
 つぐ)の乱が勃発した。
  この乱は、吉備真備、玄昉(げんぼう)の追放を求めて
 の反乱であった。
  藤原広嗣は、式家の藤原宇合の子であるが、太宰少弐
 に任じられ、九州に遠ざけられていた。
  乱は、大野東人(あずまひと)を大将軍にする征討軍
 により鎮圧された。
  聖武天皇は、乱の平城京への波及を恐れ山城国の恭仁
 京に遷都した。
  また、近江国紫香楽宮(しがらき)・難波宮(なにわ)
 など都を転々とした。
741年2月、民の牛馬の屠殺を禁じた。
  農耕に役立つ牛馬は塗擦するなの意味。
741年、国分寺、国分尼寺の建立の詔が出た。
  諸国に七重塔を建て、金光経と法華経を写経する事と
 ある。
  国分寺の建設が始まった。
743年、盧舎那仏(るしゃなぶつ、大仏)造立の詔が出た。
743年6月、墾田永久私有令(墾田永年私財法、こんでん
 えいねんしざいほう)が制定された。
  自分で新しく開墾した耕地の永年私財化を認める法令
 である。
  これによって荘園の発生の基礎となった。
  この時の政権担当者は橘諸兄で、大仏造立の詔と共に
 紫香楽(しがらき)宮で出された。
745年、東大寺盧舎那仏像(大仏)が、聖武天皇の発願で
 制作が開始された。
8世紀、この頃のローマ法王は、東ローマ帝国の皇帝から
 いかにして独立するかに腐心していた。
  また、イスラムの圧力から逃れる事に腐心し、脅威を
 感じ恐れていた。
749年、僧・行基が没した(668年~749年)
749年、孝謙天皇が即位した(在位749年~757年)
749年、陸奥国から金が献上された。
  この黄金算出を契機に年号を天平感宝に改元された。
750年、この年の遣唐使では藤原清河が大使だった。
8世紀半ば、唐朝:この頃、均田制が行き詰まり、広大な
 領土の維持は困難となり、辺境警備の節度使の反乱(安
 吏の乱)を契機に衰退した。
750年、アッパース朝:750年~1258年。
  イスラム教の開祖・ムハンマドの叔父・アッバースの
 子孫をカリフとしている。
  イラクを中心に、西アジアから北アフリカにかけて支
 配した王朝。
  首都は、一時期を除いて、バクダッド。
  アラビア・ペルシャ・ギリシャ・インド・中国などの
 諸文明の融合がなされ、学問が著しく発展した。
  近代科学にも多大な影響を与えている。
  イスラム文明は、ヨーロッパ文明の知識の源(みなも
 と)であり、母胎だった。
  キリスト教は、イスラム教の世界は遅れた国だとプロ
 パガンダ(嘘宣伝)した。
  実際は、医学でも何でもイスラム世界に学んだのに・・。
  支配領域は、時代が下がるにしたがって縮小し、アッ
 パース家のカリフに実権があったのも初めの2世紀間だ
 けだった。
  この王朝成立以前のイスラム世界の大勢は、事実上、
 アラブによる異民族統治であったため「アラブ帝国」と
 規定される。
  しかし、アッパース朝体制は、従来のアラブ至上主義
 を払拭(ふっしょく)し、国家と社会にイスラムの原理
 を確立したので、イスラム帝国と呼ばれる。
  中央集権的行政機構が発達し、経済的にも繁栄、東西
 通商や手工業も盛んであった。
  ハールーン・アッ=ラシード治世(786年~809年)が、
 アッパースの全盛期だった。
751年、カロリング朝成立。
  宮宰のピピン3世が、仕えていたメロヴィング朝を廃し
 て(倒して)成立させた。
  751年から987年まで続いた。
  因みに、ルイ3世(879年~884年)が居る。
  カロリング朝フランク王国は、キリスト教会としての
 フランク帝国とさえ言われた。
  それは、国家という観念が希薄で、キリスト教会その
 ものだった。
  アウグスチヌスの「神の国」そのものだった。
751年5月~751年9月、タラスの戦いが起きた。
  中央アジアのタラス地方(現在のキルギス領)で、唐
 とアッバース朝との間で、中央アジアの覇権をめぐって
 戦われた。天下分け目の戦闘だった。
  唐側は、被害が甚大で、
  この戦い以降、中央アジアに、イスラム勢力の安定し
 た支配が確立した。
  そして、イスラム教が広まって行った。
  唐の中央アジア支配は、後退していった。
  中国人捕虜の中に、製紙職人が居て、製紙法が、イス
 ラム世界、そして、ヨーロッパ西方域に伝播した。
752年、奈良の大仏が開眼供養会(かいげんくようえ、魂
 入れの儀式)が行われた。国宝。
  天平文化が栄えた。
  東大寺は、当時の世界最大の木造建築物だった。
  また、大仏も、金や銅を使ったこの様な彫像は、世界
 のどこにも存在しなかった。
  当時の世界最高水準のものだった。
  大仏鋳造に使った材料:銅444屯、錫7.6屯、水銀2.2
 屯、金390キログラム、炭1194立方メートル、働いた
 人の数:延217万9973人、かかった年数:9年。
753年、日本は、以前、遣隋使において、「天子の国書」
 を送った、その書において、「日本は、天子の国だ」と
 名乗った。唐の煬帝は怒った。
  また、年号に、日本の天皇号を使って、中国の皇帝と
 対等という事を示した。
  しかし、この様な事があったが、唐側の記録において、
 だから、日本を対等の国家として扱ったという記録は存
 在しない。
  むしろ、753年の朝賀において、日本が新羅より『席
 次が下だ』とされる事件があった。
  かつて昔、卑弥呼の時代などでは、日本は冊封を受け
 ていたが、
  遣唐使の時代には、日本の天皇は、唐王朝からの冊封
 (さくほう、爵位などを授けてもらう)を受けたりして
 いない。
754年、唐の僧・鑑真(がんじん)が、懇請されて日本に
 来た。
  鑑真は、日本への渡海の際に暴風雨に会うなど、渡海
 を5回も行うという、苦難の末の来日だった。
  鑑真は薬草の造詣も深く、日本にこの知識も伝えた。
  また、砂糖をもたらしたとの記録もある。
755年11月~763年、安禄山・史思明の乱(安禄山の乱・あんろ
 くざんのらん、安史の乱・あんしのらん)
  唐の節度使(当の軍職)の安禄山と部下の史思明によっ
 て引き起こされた大規模な反乱。
  安禄山は唐王朝に仕え、宰相の李林甫に近づき、唐の
 玄宗に信任されるようになった。
  そして、その信任も厚くなり、三つの節度使を兼任する
 くらいになった。
  しかし、李林甫が死ぬと、玄宗が寵愛していた楊貴妃の
 従兄弟の楊国忠との対立が激化した。
  安禄山は、危険がその身に迫ったため、755年11月、
 ついに挙兵した。
  安禄山は、唐の国軍のかなりの割合の兵力を玄宗から
 任されていた。
  安禄山の兵力は、親衛隊8000騎、兵10万~15万。
  安禄山は、1か月後、洛陽を陥落し、756年1月に聖武
 皇帝(大燕聖武皇帝)を名乗り、燕国の建国を宣言した。
  756年6月は、安禄山の軍に追われた唐の皇帝・玄宗は、
 蜀(現在の四川省)へ敗走する。
  その様な中、楊国忠は、安禄山の挙兵を招いたとして
 殺害された。
  そしてまた、皇帝を惑わせたとして楊貴妃も同罪だと
 絞殺された。
  この様な中、玄宗は失意の中に退位し、皇太子が粛宗
 として即位し、反乱鎮圧の指揮を執ることになる。
  756年9月に、粛宗は、ウイグル帝国に援軍を求めた。
  10月、ウイグルは要請に応じた。
  756年11月~12月、安禄山軍は粛宗を襲撃したりする。
  ウイグル軍と東軍は合流し、安禄山軍を撃破する。
  この頃、長安を奪った安禄山だったが、病に倒れ失明
 し、次第に狂暴化した。
  さらに、安禄山は、皇太子として立てた息子にまで廃
 嫡だと公然と口にするようになった。
  757年1月、安禄山は側近たちの反発を買って、暗殺さ
 れた。安慶緒が父の後を継いで皇帝となった。
  しかし、安禄山の盟友も、これに藩閥して離反してしま
 った。
  粛宗軍は、757年2月に、中国の現在の陝西省(せんせ
 いしょう)まで南下する。
  757年9月、唐・ウイグル帝国連合軍の15万は長安に
 迫った。この後、延々と戦いは続く(中略)・・、
  762年4月、玄宗が逝去。その直後に粛宗も逝去。しか
 し、戦乱は収まらず・・、
  唐王朝の国威は大きく傷つき、唐王朝は反乱軍の内部
 分裂をさせるために、反乱軍の有力将軍に節度使の職を
 濫発するなどした。
  しかし、これが、群雄割拠の原因を作った。
  以後、唐は、地方に割拠している節度使たちとの間で
 妥協と対立を繰り返しながら、衰退の道をたどった。
  その唐の弱体化とともに、ウイグル帝国とチベット(
 吐蕃)が台頭して行った。
  778年、ウイグル軍が唐に侵攻し、779年、吐蕃(チベ
 ット)軍は20万の大軍を持って、唐の成都(今の四川省
 の省都)を占領しようとした、が、これは撃退されたが
 786年は敦煌を占領した。まだまだ、戦いの時は続き(
 中略)、821年、ウイグル・チベット・唐の間で三国会
 盟(盟約)が締結された。まだまだ、きな臭い事態が続
 き(中略)、907年に唐が滅亡し、五代十国(唐の滅亡
 から北宋の成立までの53年間に黄河流域を中心とした華
 北の5つの王朝・五代と、華中・華南を支配した地方政
 権・十国が興亡した時代)の分裂時代になる。
..
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by suba28 | 2015-02-15 03:13 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)18A:気になった事柄を集めた年表(712年~732年)

 題:(増補版)18A:気になった事柄を集めた年表(712年~732年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
712年、古事記が作られた。
  日本最古の歴史書である。
  太安万侶(おおのやすまろ、太朝臣安萬侶・おほのあ
 そみやすまろ)が編纂し、元明天皇に献上された。
  まずは、稗田阿礼(ひえだのあれ)が記憶し暗唱して
 いた事柄を元にして編纂されている。
717年~741年、イコノクムス(聖像破壊運動)。
  この年に在位するレオ3世は、コンスタンティノーブ
 ルにあったものに聖像破壊運動(イコノクラムス)を始
 めた。
  首都にあった聖像のほとんどを消滅させてしまった。
  多くの教会の装飾や美術品は、オスマン=トルコ時代
 のイスラム教の偶像拒否によって徹底的に破壊された。
  ギリシャ正教の総本山であったアヤソフィア教会にお
 いては、イスラム教徒によってモザイクやフレスコ画す
 べてが漆喰で塗り固められてしまった。
  レオ3世は、799年に襲われて危うかったところをかろ
 うじて逃げ出し、アルプスを越え、フランク王国のカー
 ル1世のところへ逃げ込んだ。
  レオ3世のローマ教皇在位は、795年~816年である。
  816年死去。66歳?(生年不明のため)。
718年、孝謙天皇が生まれた。(718年~770年)
718年頃、大伴家持が生まれた。(718年頃~785年)
718年、養老律令が成った。
  藤原不比等(ふひと)が、養老律令の撰修(せんしゅ
 う、書物を著すこと、または、編集すること)した。
  ここで、大切な事は、日本の律令を作ろうという自覚
 的姿勢があったこと。
  この頃の朝鮮の新羅は、唐の冊封(さくほう、中国か
 ら位を授けられること)を受け、中国の属国になること
 に甘んじていた。
  それに対し、日本は、その様な行動に出ず、日本独自
 の政治体制を敷こうとしていた。
  また、この頃、我が国の国号を「日本」と明確に宣言
 している。
  この事も、素晴らしい先進的意識である。
  この様な事例において、ヨーロッパの場合、現在のイ
 ギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどの国の意識が、
 おぼろげでも登場する時期は、10世紀より以前に遡るこ
 とが出来ない。
  13世紀の説もあるくらいである。
  10世紀としても、日本は、ヨーロッパより300年も早
 く、国、国体の意識が確立していた。
  中国からの国家体制を、モデルとしながらも、日本は、
 独立自尊の意識がある国であった。
  この様な独自の道を進む国は、東アジアでも日本だけ
 だった。
  唐の滅亡後も、特に、中国からの決定的影響を受ける
 ようなことがない日本だった。
  因みに、この頃の日本の推定人口は560万人だった(
 国民総人口)。
720年、日本書紀が完成。
  日本に伝存する最古の正史(帝紀・・天皇の系譜)で
 ある。
  神代から持統天皇の時代が記述されている。
  舎人親王らの撰で完成した。全30巻。
720年、藤原不比等が没した(659年~720年、61歳)
  死後、長屋王(ながやのおおきみ、皇族)が政治の実
 権を握った。
720年、垂仁天皇が、殉死を悼み埴輪を立てた。
720年3月、隼人の反乱。
  九州南部の支持が完全に得られていなかった。
  中国との交流も活発な地域でもあった。
  朝廷は、大宰府を拠点にして体制強化もしていた。
  713年に大隅国を設置し、また、豊前国(ぶぜんのく
 に、福岡県頭部)から5000人を移住させ充実させたりし
 て来た、その中で、朝廷は、律令制、特に班田収授法を
 進めようとした。
  ここに軋轢(あつれき)が生まれた。
  この様な時、720年2月29日に大宰府から朝廷へ『大
 隅国の国司の陽侯史麻呂が殺害された」との報告が伝え
 られた。
  朝廷は、3月4日に、大伴旅人(おおとものたびと)を
 征隼人持節大将軍に、笠御室と巨勢真人を副将軍に任命
 し征討が行われた。
721年、元明天皇が崩御した(661年~721年)
722年、百万町歩開墾計画。
  この計画は、良田百万町歩計画とも呼ばれ、この年、
 この計画が出された。
  この朝廷から出された計画の『壮大な夢の考え方』に、
 国を、大きな心で、豊かにしたいとの心を感じる。
  古い時代にも、日本には、この様な心があった、また、
 この計画に、日本人のスケールの大きさを感じる。
  この計画には、政情が不安定で民が定住できにくいと
 いう事情もあった。特に、陸奥の地がそうだった。
  朝廷は、税である庸調を免じようともしていた。
  また、政情不安定で、都へ逃げて来ている民を、国へ
 帰れるようにしようとしていた。
  今・現在行われている「地方創生」である。
  そして、みんなで良田を開墾しようとしている。
  収穫をあげた人への報償も用意していた(勲位六階)、
 当然、罰もあったが・・。
  1000石以上の功績者には、終身に渡って庸を免除する
 という方針もあった。
  また、辺境の地の開墾や鎮守は大変で重要であるから、
 その貯えを貢進する人には叙位するという事も決められ
 ていた。
  しかし、計画通りにはいかなかった様である。
  この頃、世情が、公地公民の制が崩れ、浮浪・逃亡が
 多くなっていたことも関係している様である。
723年5月、三世一身の法が定まった。
  墾田の奨励のための法律。
  3世代、または、本人一代まで、墾田した田の私有を認
 めた。
  新しい灌漑施設を造って墾田をした場合は3世代で、
  既設の灌漑施設を改修して灌漑・墾田した場合は、本
 人一代の私有を許すというものだった。
  この背景は、食糧増産の政策があった。
  人口が増加していた。
  この事により、墾田開発は進んでいたことは確実。
  この頃、元正天皇のもとで、天武天皇の孫である長屋
 王が政治上の実権を握っていた事も関係している。
  そしてまた、平安時代以降、この班田収授法の実施が
 なされなくなった、公地公民制が崩壊して行ったという
 事と比較して考えると、この時代の政策に輝くものが見
 い出される。
723年、この頃、僧・行基が活躍。民を助け、また、施薬
 院・悲田院を建てた。
724年、陸奥の国に、多賀城が設置された。宮城県多賀城
 市。陸奥国府や鎮守府として機能した。
724年、聖武天皇が即位した。
  聖武天皇の皇后の父は藤原不比等。
  聖武天皇の即位とともに、藤原不比等の子の藤原四子
 (藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂)が政
 界に進出した。
727年、中国の東北部に、渤海(ぼっかい)という国があ
 った。この年以来、日本との外交関係を持った。
  渤海使は、日本海を渡って、まず、出羽に来た。
  そして、京に入った。
729年、藤原四子は、長屋王と政権の座を争ったが、この
 年、長屋王の変で、左大臣の長屋王を謀反の疑いをかけ
 て自殺させた。
  藤原四子は参議となり、9人の参議の大勢を占め、729
 年から737年までの間、朝廷政治を握った(藤原四子政
 権)。
  四兄弟は、737年の天然痘の流行によって相次いで病
 死し、この政権の終焉を迎えた。
  この後、橘諸兄(たちばなのもろえ、葛城王)が、右
 大臣として政権を担った。
  そして、唐から戻った吉備真備や僧・玄昉(げんぼう)
 を登用した。
732年、トゥール・ポワティエ間の戦いが起きた。
  トゥールとポワティエの間で、フランク王国(5世紀
 から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン系
 の王国)と、ウマイヤ朝(イスラム史上最初の世襲イス
 ラム王朝、661年~750年)の間で起こった戦い。
  フランク王国は、伝統的に均等分割相続の制度があっ
 た。
  そのため、王位継承の度に国土が分割され、王権は弱
 体化した。
  逆に、王に仕える宮宰は力を強くした。
  7世紀の後半、フランク王国は2国に分かれており、
 それぞれの宮宰どうしが争っていた。
  この争いに勝利したのがピピン2世で、実権を掌握した。
  この内紛に乗じ、イベリア半島の西ゴート王国を征服
 したウマイア朝のイスラム政権が、ピレネー山脈を越え
 て、フランク王国内に侵入を始めた(720年から、大規
 模な侵入を始めていた)。
  イスラム軍の侵入の報を受けたカール・マルテル(ピ
 ピン2世の子)は、トゥールへ軍を進めた。
  トゥールにはイスラム軍が来ていなかったため、南の
 ポワティエに向かった。
  ここでイスラム軍との戦いが開始された。
  この戦いに勝ったカール・マルテルは声望が上がった。
  彼は、この戦いで兵を強くする必要性を痛感した。
  そこで、領土の3分の1を占有していたキリスト教会
 の領を、騎士に貸与し、強化しようと教会領を没収した。
  ピピン3世(在位751年~768年、カール・マルテルの
 子)の代になり、メロヴィング家の王を廃し、自ら王位
 についた。カロリング朝が始まった。
  この頃、東地中海の一部が、わずかにビザンチンの手
 に残ったが、西地中海はほぼ完全にイスラムに制圧され
 ていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
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by suba28 | 2015-02-13 03:37 | 皆様とともに 幸せになりたい


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