(増補版)561E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年7月~1892年8月)

題:(増補版)561E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年7月~1892年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1892年7月22日 徳島県下の大水害(7月23日説あり))
  明治25年(1892)7月23日朝、台風が高知市付近に上陸
 して山陰に抜けた。
  徳島県は暴風雨、洪水、高潮の大災害に見舞われ、そ
 の上山岳の崩壊も数知れなかった。
  県下の被害は8月2日現在で死者311人、負傷者89人、家
 屋の全壊2,635戸、流失644戸、半壊2,559戸、潮入36,242
 戸、船舶478艘、堤防決壊57km、海水浸水6,799町、雨水
 浸水19,653町等に及んだ。
  山岳崩壊では、保瀬の大崩壊が25日10時頃起こり死者
 47人を出し、高磯山の崩壊が25日11時に起こり対岸の集
 落の15戸65人を埋没させるなどした。
1892年7月23日、岡山地方に未曾有の大雨
  盆を覆すが如き大雨で、旭川、吉井川、百間川、砂川
 等増水し、石関町、下出石町堤防2ヶ所の決壊を期に各
 所で破堤し、溢水と混合して市内一円高きは軒に達し低
 きは床上数尺の大洪水となる。
  風 速 直東30m/s(23日08時) 気 圧 737.6㎜Hg(=984mb)
  雨 量 23日06時~18時の12時間166㎜ 23~24両日の降
 雨総量245.4㎜
  出水高点 旭川:岡山1丈7尺、御野2丈3尺 吉井川
 :上道1丈8尺 砂川:上道1丈5尺
1892年7月25日、徳島県保瀬の大崩落
  徳島県下に津波・山崩れ・大洪水が起こり大災害とな
 る。
  明治25年(1892)7月25日、豪雨が海部川上流や那賀川
 上流を襲ったため、保瀬で大崩壊(土量約200万立米)が
 起こり、海部川の水を堰き止めた。
  このため、寒が瀬一帯は濁流に没し、4戸埋没、8戸流
 失、死者47人に被害を出し、上流一里半の樫谷の大杉の
 鞘が水に隠れ、さらに上流の轟神社の扁額が半分水に浸
 かった。(「海部郡誌」による)
  堰き止められた水が一斉に流下して大氾濫を起こすか
 も知れないという情報は上流から下流に伝えられたため、
 下流部では人的被害はなかった。(「海南町史上巻」に
 よる)
  明治25年(1892)7月25日の豪雨時に、保瀬で崩壊が発
 生し(崩壊土量200万立米)、天然ダム(湛水量1,400万
 立米)が形成され29時間後に決壊したが、事前に避難。
  明治25年(1892)7月25日、台風に伴う集中豪雨により、
 海部川中流右岸の保勢(保瀬)で大規模崩壊が起こり、
 4戸が埋没し、住民11人と山稼ぎ人36人が生き埋めとなっ
 た。
  崩壊土砂は河道を閉塞し、巨大な天然ダムを形成した
 ため、湛水によって8戸が流出し、9人が水死した。
  さらに天然ダムの決壊により、下流域で流出2戸、半壊
 11戸の被害が出たが、高潮被害と重なり、天然ダム決壊
 による被害のみを分離することは難しい。
  天然ダム決壊の恐れは事前に下流に知らされ、決壊時
 には鉄砲、大砲、狼煙などで伝達された。
  明治25年(1892)7月25日午前10時頃、川上村大字平井
 の保瀬の右岸山上が大崩壊した。
  山の土砂が海部川を堰き止め、洪水は逆流し、寒ヶ瀬
 一帯は濁流に襲われた。
  この大崩壊のため、埋没4戸、洪水による流失8戸、死
 者47人を出した。
  この災害は、大戸の崩壊とともに徳島県下の山岳崩壊
 中特筆すべきものである。(「海部郡誌」による)
  明治25年(1892)7月25日、長時間の暴風雨と満潮が重
 なって、海部川は至る所で堤防が決壊し大洪水となった。
  16時間にもわたる暴風雨で増水した海部川が河口での
 満潮によって堰き止められ、池内徳蔵「諸経歴概要記」
 によると、25日午前5時に最高水位となり、水嵩は海部川
 堤上3尺内外であった。
1892年7月30日、第1次松方内閣総辞職(8月8日説あり)
  第1次松方内閣は、大蔵大臣の松方正義が第4代内閣総
 理大臣に任命され、1891年5月6日~1892年8月8日まで続
 いた。
  選挙干渉により、6月に入ると、他の閣僚からも辞表提
 出者が相次ぎ、
  7月に、白根・安場らの更迭が決定されると、同月27日
 には処分に消極的であった軍部大臣が揃って辞表を提出、
 これを見た松方は自らも辞表を提出した。
1892年7月、歌舞伎座で「怪談牡丹灯籠」が初演された。
  三遊亭円朝の傑作『怪談 牡丹燈籠』が、この時、三世・
 河竹新七の脚色によって歌舞伎化され、
  五代目・尾上菊五郎主演で歌舞伎座で上演され、空前
 の大当たりとなった。
  そして、この時以来、人気演目として定着した。
1892年8月1日、北海道炭砿鉄道会社線の室蘭駅(現:東室蘭)
 ~岩見沢駅間(134.5km)が開業した。
1892年8月6日、伊沢修二が、小学校教育費の国庫補助を要
 求するため、国立教育期成同盟会の結成を提案した。
  この後、教育費国庫負担の請願書を・・、
  国立教育期成同盟会は、1892年12月に、第1回請願書
 (東京府伊沢修二以下10,162名)、
  翌年・1893年2月に、第2回請願書(宮城県阿部三右衛
 門以下703名)を帝国議会に提出した。
  日本には・・教育の重要性の認識は勿論、公平性、機
 会均等などの思想が根付いていた・・
  この後の台湾・朝鮮などの地においても、
  日本の内地と同等、または、それ以上の教育施設の充
 実などを図って行く。
  伊沢修二(1851年6月30日~1917年5月3日)は、日本の
 教育者、文部官僚で、近代日本の音楽教育、吃音矯正の
 第一人者。
  信濃国高遠城下(現在の長野県伊那市高遠町)の高遠
 藩士の子として生まれる。
  下級武士のため極端な貧乏の暮らしに育った。
  1861年(10歳)より藩校進徳館で学び、
  1867年(16歳)に江戸へ出府。英語を学ぶ。
   その後、京都へも遊学して蘭学などを学ぶ。
  1869年(18歳)には藩の貢進生として大学南校(のち
   の東京大学)に進学した。
  1872年(21歳)には文部省へ出仕し、のちに工部省へ
   移る。
1892年8月8日、第二次・伊藤博文内閣が成立した。
  政局の安定を目指した元勲内閣であったが波乱含みで
 あった。
  この日、第一次・松方正義内閣が総辞職し、第二次・
 伊藤博文内閣が発足した(1892年8月8日~1896年8月31日)
  ふたたび、伊藤博文が内閣を組織し、陸奥宗光とのコ
 ンビで不平等条約の改正を行なった。
  野党の政府批判、外国との条約改正点の折衝などで苦
 労多き国会運営が続いた。
  また、日清戦争も起きた。
  挙国一致体制で動き、勝利によって政権は安定化した。
  しかし、この戦争の後、ロシアが中国・清に変わって
 朝鮮へ進出して来た(日本は、朝鮮から遠ざけられた・・
 これを、野党は、外交の失策と政府批判の題目とした)
  明治天皇陛下の信任が厚く、詔勅によってしばしば政
 局の危機を乗り切った。
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  (今日の言葉)
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  題:紀元1世紀~2世紀、キリスト教聖書ができた。
   そして、この頃、ハワイ諸島が、ポリネシア人に発見された。
   そして、この経緯と同じことを、今、中国がやっている。
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紀元1世紀~2世紀、キリスト教聖書ができた。
  そして、この頃、ハワイ諸島が、ポリネシア人に発見
 された。
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200年~250年頃、ポリネシア系住民が、ハワイ諸島を発見
 し移住した。
  そして、住み付き、ハワイ諸島の所有者となった。
  時を経て(約1700年を経て)・・、
  1881年、ハワイ国王が、日本に来た時、国王からの
 提案があった。
  そして、その後、12年後、その関係もあって・・
  1893年、アメリカが、ハワイの王政を廃止し、ハワイ
 を乗っ取った時・・、
  日本は、東郷平八郎を艦長とする巡洋艦「浪速」と「
 金剛」などの戦艦をハワイに派遣した。
  ハワイにいる日本人の保護を名目としていたが・・、
  「ハワイ王政が、武力で倒されるという非常事態にあ
 って、ハワイの方たちを守ろうとした」。
  東郷平八郎(後の元帥)は、戦艦「浪速」をホノルル
 港に停泊させることで、アメリカ軍ににらみを利かせ、
 アメリカによるハワイ併合を遅らせた。
  実質的には、アメリカへの抗議であった・・アメリカ
 は激怒した。
  アメリカのハワイ王国の奪取は、明らかに一方的な侵
 略であった。
  当時、ハワイには、日本人移民が2万人以上(当時の
 人口の約50%)を占めていた。
  アメリカ人は約7000人で、日本移民の3分の1にすぎ
 なかった。
  この時のことがあるため、「ハワイの方たちは、日本
 や東郷平八郎に対しては、感謝の気持ちを大きくしてい
 る」。
  そして、この年・1893年、アメリカ系移民は、ハワイ
 王国のリリウオカラーニ女王を幽閉し、
  「廃位します」という書面に無理やりサインさせ、ハ
 ワイ女王を廃位させた。
  さらに、卑劣な事に、ハワイ王国第8代の女王であるリ
 リウオカラーニ女王を有罪にして、重労働五年の判決を
 下した。
  この時、女王は「アロハ・オエ(私の愛をあなたに)」
 という悲しい曲を作った。
  (1)雨が誇らしげに尾根を横切り 、
    森の中を通り抜けていく
    未だ開かぬ蕾を探しているかのように
    山あいに咲くレフアの花よ
  (2)あなたにアロハ あなたにアロハ
    木の陰に佇む心優しき人
    去っていく前に
    もう一度あなたを抱きしめよう
    また会えるその時まで
  (3)懐かしく暖かい思い出が胸をよぎる
    ついこの間のことのように
    愛する人よ 我が愛しき人よ
    真心は決して引き裂くことはできない
  (4)私はあなたの素晴らしさをよく知っている
    マウナヴィリに静かに咲くバラの花
    そこにいる啼かない鳥たち
    そして木の陰にいる美しい人
  (5)あなたにアロハ あなたにアロハ
    木の陰に佇む心優しき人
    去っていく前に
    もう一度あなたを抱きしめよう
    また会えるその時まで
  歌詞の内容が、雨を共和制実現を目指す白人勢力、花
 をハワイ王国の国民の暗喩と考えれば、王国の滅亡が目
 前となった当時の状況や、女王の心情に驚くほど見事に
 符合する。
  このことから、1893年の初演には、強引なアメリカに
 よる従属国化・併合に対する女王の反発であった。
  ハワイの歴史・・概歴・・
  250年頃、ポリネシア系住民(今のハワイの原住民の
     方々)が移住し、ハワイ諸島の所有者となる。
  300年頃、イースター島へ、ポリネシア人が到達。
  400年頃、ポリネシア人がハワイ諸島へ、
  900年頃、ポリネシア系住民が、再度、ハワイ諸島へ
     移住。
  12世紀後半、ポリネシア系先住民が、ハワイ諸島を族
     長を立て、支配した。
  1778年、イギリスのジームス・クックが、ハワイ諸島
     を発見した・・と欧米系の歴史は記すが、本当
     の発見者は、ポリネシア人の方々・・、
  1781年、ロシアが南下し、アラスカへ入植した(侵略
     行為)。
  1790年、カメハメハ王が、ハワイ島の王となり統治す
     る。
  1794年、ハワイ島以外の全島統治者のマウイ島大族長
     が死去した。
  1794年、イギリスが、カメハメハ王を統治者と認知し、
     支援する。
  1795年、カメハメハ王が西洋の武器を活用して、マウ
     イ島やオアフ島を攻略する。
      そして、ハワイ全島を支配下に置き、ハワイ
     王朝を樹立し、統治する。
  18世紀後半、イギリス・フランス・スペインなどヨー
     ロッパ植民地帝国が来航する。
  1816年、露米会社が設立された⇒カウアイ島を保護下
     に置く。
  1817年、カメハメハ大王が、シェーファーを追放。
     1816年に座礁したベーリング号奪回の交渉役と
     して派遣された船医シェーファーが、会社に独
     断でカウアイのカウムアリイ王と密約を結び、
     ワイメア河口にロシア砦を建設した。
      その為、カメハメハ大王との仲が険悪になり、
     シェーファーはカウムアリイに追放された。
  1820年~1880年、捕鯨貿易の寄港地となる。
  1820年、アメリカ人が来島(キリスト教宣教師たち・・
     結局、この輩たちが、ハワイ滅亡の悪の結果を
     もたらして行く)、教育、政治、経済に介入、
     影響力を行使する。
  1823年、プロテスタンティズム・西欧化が推進される。
     ⇒1935年、初の製糖会社が設立される。
     ⇒カトリック禁止令を出さざるを得なくなる。
  1835年、製糖産業が操業される(経済的侵略が始まる)
  1840年、ハワイ憲法が公布され、アメリカ・ヨーロッ
     パ諸国の干渉が激しい、産業を育成して独立を
     維持しようとする、立憲君主制へ移行(西欧近
     代化という名目)
  1842年、アメリカの良識国民派が、ハワイの植民地化
     に反対する。
  1844年、アメリカ・ヨーロッパ系白人が、ハワイ政府
     の要職に就任することが可能とされる。
  1850年、外国人が「土地を所有することが出来る」と
     認可される(土地という領土を奪っていく)
  1851年、ハワイ政府が、アメリカの保護領となること
     を宣言する。
  1852年、アメリカ議会で、ハワイ併合案が提出される。
  1862年、外国人土地保有75%に(もう、ほとんど乗っ
     取られた)⇒人口問題。農園労働者不足となる。
  1875年、アメリカとハワイの米布互恵条約が締結され
     た(不平等条約)
      経済のアメリカ市場への依存が開始する。
  1878年、ハワイ王国の女王がアロハ・オエを書く。
  1881年、日本に、ハワイ国王カラカウア1世が来日した。
      明治天皇陛下と赤坂離宮で会談した。
      そして、日本へのハワイ国王の提案内容
     (1)カラカウア王の姪で王位継承者のカイウラ
       ニ王女と、山階宮定麿親王(後の東伏見宮
       依仁親王)との縁組。
     (2)日本・ハワイの合邦(連邦)
     (3)日本・ハワイ間の海底電線(ケーブル)敷
       設。
     (4)日本主導による「アジア連邦」の実現。
  1885年、労働契約移民制度が実施された。
  1887年、ハワイ王国が、本格的に、アメリカの傀儡と
     なるのは、1887年の憲法修正以降で・・、
      この年、米布互恵条約が更新され、アメリカ
     が、真珠湾の独占使用権を獲得した。
      親米派が、改革党を結成した⇒反米派は、国
     家改革党を結成した。
      ベイオネット憲法公布(王権が弱体化される)
      女王が、議会を閉会した⇒親米派が、公安委
     員会を結成した⇒アメリカのハワイ公使が、ア
     メリカ国軍の海兵隊の上陸を要請した⇒公安委
     員会が、暫定政府を樹立した。女王に廃位を勧
     告した⇒女王は強引に廃位を認めさせられた。
  1889年、ウイルコックスが反乱した。
      改革党選挙で大敗⇒女王即位。王権派・国家
      改革党支持、政局混迷、
  1891年、欧米人の登用などをせざるを得ない状況とな
     り(近代化の名目)、その中で女王即位⇒政局
     混迷の状況へ、
  1892年、親米派がハワイ併合クラブを結成した。
  1893年、親米の反王政派により、リリウオカラニ女王
     がイオラニ宮殿に幽閉され、暫定政府の樹立さ
     れ、政権奪取(クーデター?)で王朝滅亡、欧
     米諸国は暫定政府を承認した(当初からのハワ
     イ奪取の茶番劇)
      日本の巡洋艦が、ハワイ諸島へ抗議の意味も
     あって派遣された。アメリカは激怒した。
  1894年、ハワイ共和国ができ、ハワイ王国が滅亡させ
     られた。
  1898年、アメリカが、ハワイを併合した。
  1959年8月21日、アメリカが、ハワイを自国の州とした。
      立派な政府があって、住民も支持をしていた
     その王国が消え・・アメリカとなった。
.
1837年、リンカーンが28歳の時、以下のような発言をした・・、
  「奴隷制度は、不正と悪政にねざすことを信じるが、
  しかし、奴隷廃止論の公布は、その害悪を減ずるより
 はむしろ増大させるものと信ずる」と、奴隷解放の反対
 理由を言っている。
  また、リンカーンの言葉(1858年、49歳)・・
 「これまで、私(リンカーン)は、黒人が投票権をもっ
 たり、陪審員になったりすることに賛成したことは一度
 もない。
  彼らが、代議士になったり白人と結婚できるようにす
 ることにも反対だ。
  皆さんと同じように、白人の優位性を疑ったことはな
 い」・・、
  さらに、リンカーンの言葉(1861年3月4日、52歳)・・、
  「奴隷制度が布かれている州におけるこの制度に、直
 接にも間接にも干渉する意図はない。
  私はそうする法律上の権限がないと思うし、またそう
 したいという意思もない」。
  黒人歴史家のレローヌ・ベネットは、1968年に・・、
  リンカーンを、『白人至上主義者』と呼んだ。
  この時、広く注目を集めた。
  批評家は、リンカーンが、民族的な中傷を用い、黒人
 を冷笑するジョークを話し、社会的平等に反対すると主
 張し、解放奴隷を別の国に送ることを提案したことに、
 苦情を言っている。
  リンカーンの擁護派は、
  彼が大半の政治家ほど悪くはなく、
  政治的に可能な限り奴隷制廃止論の側で巧みに進展さ
 せた「道徳的先見家」だったと弁護している。
  (参考)人道主義:じんどうしゅぎ、人間性を重んじ、
     人間愛を実践し、併せて人類の福祉向上を目指
     す立場。
.
1858年8月21日、リンカーン対ダグラス論争
  リンカーン(49歳)と、黒人のスティブンス・ダグラ
 スとの論争は、この日を第1回として、7回、奴隷制につ
 いて論争をした。
  その時、リンカーンは以下のような言葉を言った・・、
  「私(リンカーン)は、白人種と黒人種の社会的政治
 的平等を如何なる形でも、もたらすことに賛成はしてい
 ないし、これまでもそうではなかった。
  私は、黒人を有権者にすることも、陪審員にすること
 にも、賛成していないし、
  彼等〈黒人)が、役職者になる資格を与えることとか、
 白人と結婚するとかということにも賛成しておらず、こ
 れまでもそうだった。
  さらには・・、
  「白人種と黒人種の間には身体的な違いがあり、
  2つの人種が、社会的政治的平等という条件で共に暮
 らすことを永久に禁じることになると考えている。
  彼等が、そのような生活をできない限り、
  彼等は、上等と下等の地位があるべき状態に留まり、
  他の人と同様に、私は上等の地位が白人種に割り当て
 られていることに賛成する・・」・・
  まったく、黒人の方々の人権を無視した発言をしてい
 る。
.
1860年代、イギリスの経済的なピークは、1860年代であっ
 たと言われている。
  そして、その30年後の1890年代までには、その優位さ
 をほぼ失った。
  そして、1970年代には、イタリアと同程度の経済規模
 まで落ち込んだ。
  その間、約100年である。
  人生100年の時代と言われているが、一人の世代で、
 イギリスについて、この様な事が言われている。
  日本は、1980年代が、飛ぶ鳥を落とす状態だった。
  日経平均株価は、1989年12月29日に、3万8915円87銭の
 市場最高値を記録した。
  そして、2017年10月11日に、2万881円27銭という21年
 ぶりの高値になったと報じられた(戻り率53.7%)
  今、戦後、最長の好景気と言われている。
  今、北朝鮮の事を含め、また経済も含め、日本は、転
 換点に居ると言える。
  足元をしっかりして「次のステップ」へ進まないと、
 イギリスの如くになる。
  日本は、20世紀後半に高度成長した。
  世界は、「日本は、もうすぐ、欧米全部を組み合わせ
 た以上に大きくなる」と予測され、見られていた。
  しかし、そうはならなかった・・、
.
1862年8月17日、ダコタ戦争(リンカーン、53歳)
  アメリカのミネソタ州南西部のミネソタ川沿いで、ア
 メリカインディアンのダコタスー族との戦い。
  居留地の移動を、何度も強いられたインディアンの方々・・
  (白人・アメリカ人は、肥沃な土地が欲しくて、イン
 ディアンの方々の地=アメリカ西部の地をインディアン
 の方々を西へ西へと追いやって行った)
  (また、追いやられた居留地と言ったって、畑作もま
 まならないような地だった)
  その様な状況であるため、インディアンの方々は、食
 料をアメリカ政府に頼っていた・・また、その条件での
 移動でもあった。
  しかし、この時は、飢餓状態にさせられ、戦争という
 より、飢餓から来る反抗であった。
  (また、白人・アメリカ人は、インディアンの全滅を
 狙って、インディアンの方々の食糧であるアメリカ野牛・
 バイソンの絶滅を行なっていた・・
  白人・アメリカ人は、「不要な野牛狩り」をして、野
 牛の頭だけが、西部の原野に山のように積まれている写
 真が残っている・・
  その野牛の山の頂上に、白人・アメリカ人が得意そう
 にして立っている)
  この戦いで、卑劣にもアメリカは、38名のアメリカ・
 インディアンのダコタ族を、一斉絞首刑を行なった。
  そしてまた、ミネソタからの追放という、アメリカが
 よくやる民族浄化を行なった。
  この時のアメリカ大統領が、第16代のエイブラハム・
 リンカーン(在任期間:1861年3月4日~1865年4月15日)
 だった。
  大統領就任後、1年5か月という、リンカーンのおじい
 さんの仇(かたき)を、就任早々に取ったのだった、
  リンカーンのインディアンに対する態度は、常に徹底
 排除の姿勢を崩さず、アメリカ・インディアンの大量虐
 殺の指揮を取り続けた。
  リンカーンについての解説にも・・「黒人奴隷に関し
 ては『奴隷解放の父』と呼ばれているリンカーンだが、
  インディアン民族に対しては、弁護士時代から大統領
 時代にかけて、終始徹底排除の方針を採り続け、大量虐
 殺を指揮している」・・と記されている。
  民族浄化とも言われるロング・ウォーク・オブ・ナバ
 ホ(厳寒期の遠い地への居留地移動)や、ダコタ戦争を
 始めとする多くのインディアン戦争は、リンカーン政権
 下で行われた・・まったく卑劣な行為だった。
  そして、リンカーンのこの『目には目を』の行為は、
 弁護士時代から始まっていて、インディアン方々の居住
 地取り上げに奔走した。
  その一つが、西部方面へのインディアン領土への鉄道
 拡張だった・・卑劣なインディアンの土地権利の抹消処
 理・・その行為を、多数、手がけた。
  リンカーンが「無効(neutralized)だ」としたインデ
 ィアン部族の方々の土地に対する書類は、現在も数多く
 残されている。
  リンカーンは、執念を掛けて、インディアン民族に対
 して、終始徹底排除の方針を採り続け、大量虐殺を指揮
 した。
  当時の保留地は、外に出ることを許されない完全強制
 収容所の状態だった・・食糧を獲ったり、作ったりでき
 る訳がない。
  また、卑劣にもリンカーンは、ミネソタのダコタ族と
 の連邦条約を一方的に破棄した。
  そして、ミネソタ州にあるインディアンの方々の居留
 地を強制没収した。
  そして、無慈悲にもインディアンの方々をノースダコ
 タ等の他のスー族の保留地に強制連行した。
  ミネソタに、それでも残っていたダコタ族に対しては、
 州を挙げての『皆殺し政策』が行われた。
  女性や子供にまで、インディアンであれば誰であろう
 とを問わず「賞金をかけた」。
  その様にして、徹底絶滅が図られた。
  リンカーンのやり方は、この様な虐殺方針だった。
  当然、リンカーンが責任者としてそこに居た。
  そして、1863年の夏、リンカーンは、ジェームズ・カ
 ールトン准将に、南西部のナバホ族インディアンの討伐
 を命じた。
  当然、無理な命令に、ナバホ族は、ダコタ族同様に、
 抵抗した。
  また、カールトンは、ナバホ族の土地に金鉱があると
 睨んでいた。
  指令者のリンカーンは、1864年に、以下の命令をした・・、
  「ナバホ族8500人の、300マイル(483キロメートル、何
 と、東京から大阪近くの距離である)離れた東にあるアパ
 ッチ族の強制収容所「ボスク・レドンド」への徒歩連行
 を命じる(ロング・ウォーク・オブ・ナバホ)」だった。
  この強制連行の途上で、何百人もの死者が出た。
  厳寒期の中、そのほとんどが、子供や老人だった。
  そして、「ボスク・レドンド」で、ナバホ族は、強制
 労働をさせられた。
  女性は、アメリカ軍兵士から強姦された。
  乳幼児のほとんどは、生まれて間もなく、過酷な環境
 下で死んだ。
  結局、リンカーンが死んで和平条約が結ばれたが・・、
  その1868年の和平条約が調印されるまでに、2000人以
 上のナバホ族が死んだ(ナバホ族だけで・・)。
  この様なリンカーンの先住民であるインディアンの方々
 への虐殺事例は多くある。
  この原因の一つが、リンカーンという名前が、インデ
 ィアンに殺害された父方の祖父「エイブラハム・リンカ
 ーン」にちなんで命名されたというところにもある。
  アメリカ北部政権のシンボルになっているが、この様
 な人物である・・
.
1865年4月14日、リンカーン大統領暗殺事件が起きた。
.
1870年3月、リンカーンの黒人奴隷解放で、『めでたし、め
 でたし』という状態ではなかった。
  まだまだ、卑劣な状態のアメリカだった。
  リンカーンの奴隷解放で「すべてが終了した」と思わ
 せたが、それが、アメリカのプロパガンダ(嘘宣伝)で
 もあった・・
  まだまだ、アメリカは、卑劣な事を黒人の方々へ行っ
 ていた。
  そして、やっと、1870年3月に至って、黒人の方々は、
 「選挙権を勝ち取った」。
  「選挙権を与える」という事が、上から目線で認めら
 れた(憲法修正第十五条)
  1863年の奴隷解放宣言から7年2ヶ月の黒人の方々の闘
 いの後だった。
  また、黒人の方々は、闘いの成果として「公民権侵害
 に対する処罰法」を制定させた。
  黒人の方々は、初めて、アメリカという自分たちの国
 で選挙権を行使することが出来る事となった。
  卑劣なアメリカだった。
  政治上の意思表示が出来る状態が、やっと黒人の方々
 の手に入った。
  本当に遅れた国=アメリカで、民主主義もないアメリ
 カだった。
  黒人の方々も、やっと、州議会に選ばれ、自分たちの
 生活について考えを言える立場を得た。
  いくつかの州では、州議会の下院議員の半数近くが黒
 人議員となった・・
.
1870年、この頃までに、アメリカの北部政治は、完全に今
 までとは違ったものとなった。
  何と!! 北部は、『南部を市場として収奪する場』
 として位置づけた。
  奴隷制廃止運動の指導者であるサディウス・スティー
 ブンスは言った、「プランターの大土地を没収して、こ
 れを、黒人や貧しい白人に無償で分配せよ」・・と・・
  そして、「黒人と貧しい白人との同盟」が進んで行っ
 た。
  アメリカ北部の傲慢な資本家に向かって、労働運動も
 盛んになった。
  飛躍的に成長した北部の産業資本家たちは、南部の旧
 奴隷所有者たちへの再建運動が進み過ぎるのを恐れ出し
 た。
  国内市場として南部が開放されると、その南部プラン
 ターと手を結んで、南部を北部資本家の収奪の場にした
 くなった。
  この様な北部産業資本家の思惑が政治を動かして行っ
 た。
  アメリカ北部政治は変質して行った。
  1870年頃までに、完全に変質した。
  ここに、北部政治と黒人の方々との乖離(かいり)が
 あった。
  黒人の方々は、「旧奴隷所有者たちの再建運動」への
 反対活動が始められた。
  対立軸は、黒人の方々の「大土地所有者たちの土地(
 旧奴隷所有者たちの土地でもある)を分配せよ」という
 立場と・・、
  北部資本家は、「今までの南部を、市場として取り込
 もうという、だから、旧奴隷所有者たちを再建しよう」
 という立場があった。
  アメリカ北部政権は、この北部資本家の立場にいた。
  この様な反動的な動きに、黒人の方々は、当然、「旧
 奴隷所有者たちの再建運動反対活動」を開始したが、こ
 の黒人の方々への白人・アメリカ人の攻撃も始まった。
  銃のあるアメリカ社会・・、その銃を持った白人・ア
 メリカ人たちによって襲撃された。
  「KKK(クー・クラックス・クラン、1865年に結社
 されていた)」「黒十字騎士団」「白バラ騎士団」「白
 つばき騎士団」などの秘密結社だった。
  たちまち、アメリカ社会に広がった。
  総帥を「大魔王」などと称した。
  頭からすっぽり三角の覆面を被り、幽霊のような姿で
 顔を隠した。
  そして、黒人の方々を襲撃して、殺戮した。
  深夜、馬にまたがり町や野原を疾走した。
  その白い姿に黒人の方々は、恐れ慄(おのの)いた。
  威圧する奇妙な姿の行動は効果があった。
  黒人の方々の家を襲い、殺戮したりした。
  また、投票行為を妨害したり、黒人の方々に味方する
 白人をも平気で殺害した。
  黒人の方々が、教育や啓蒙活動をすると、その学校や
 教師まで襲った。
  1870年頃が最悪だった。
.
1872年5月、アメリカで、大赦法が制定された。
  反動の法が出来た。
  黒人の方々の必死の努力と血まみれの戦いによって得
 た権利=人権、当然の持って生まれた権利であるべきも
 の=人権、
  その当然の人権を、戦いを経なければ得られないとい
 う遅れた社会・アメリカに生まれた黒人の方々、
  その当たり前の権利がない黒人の方々の「その人権」
 がやっと得られて来たと思われたアメリカに・・、
  反動の嵐が・・吹き荒れて来た。
  事の発端は・・アメリカ北部資本家たちが、アメリカ
 南部を市場として取り込んだら「もっと儲かるだろうと
 考えた」からだった。
  当然の権利を得ようと活動する黒人の方々が、その足
 を引っ張る形になった・・
  奴隷制復活への動きだった。
  それ故、その活動家の黒人の方々へ、当然の権利を得
 ようとする黒人の方々へ、顔に覆面をした白人・アメリ
 カ人が・・結成された秘密結社が・・襲った。
  種々の秘密結社が生まれ、その結社に、黒人の方々は
 襲撃され、意味なく無為に殺された。
  また、白人優越=黒人蔑視のキリスト教観に洗脳され・・
 有色人種蔑視観がを持った者たちの暴力がアメリカに吹
 き荒れた。
  そのような時、1872年5月に、「大赦法」が制定され
 た。
  黒人の方々を虐げていた旧支配階級の者たちへ大赦が
 与えられ、
  また、政治的権利も種々与えられ、全面的に復活した。
  そして、奴隷解放活動をしていた「解放民局」も活動
 を停止した。
  そして、この時、大統領になったユリシーズ・グラン
 トも悪だった。
  (参考)第18代アメリカ大統領:ユリシーズ・グラン
     ト、任期:1869年3月4日~1877年3月4日、
  このグラントは、南北戦争の最終局面で、南部軍のリ
 ー将軍をアポマトックスに降伏させたグラント将軍だっ
 た。
  このグラントは、大統領となって、まったく腐敗と汚
 職の中にいた。
  北部軍の歴史的将軍も「地に落ちた輩」となっていた。
  この大統領のこの時を、「アメリカ政治の最も堕落し
 た時」と言われている。
  また、この時、政党も堕落していた。
  共和党や民主党も堕落にまみれていた。
  そして、この様な堕落の時を経て、次の大統領選がや
 って来た。
  1876年11月、開票して民主党が勝利した。
  しかし、共和党は、サウスカロライナ州などで不正が
 あったと、クレームを付けた。
  民主党の勝利を認めなかった。
  話は決着がつかず年を越した。
  そして、1877年2月、政治的取引がなされた。
  共和党は、「サウスカロライナとルイジアナの両州の
 連邦軍の撤退」を条件にして、共和党の大統領の当選権
 を得た。
  何と! 逆転である。
  共和党は、その2州などの南部を、民主党の支配下に置
 くことを了解した。
  この時、同時に、黒人の方々の今までの努力も、まっ
 たく無に帰した。
  この時、大統領が転がり込んで来た大統領が、第19代
 アメリカ大統領:ラザフォード・ヘイズ、任期:1877年
 3月4日~1881年3月4日・・である。
.
1893年、ハワイ王国の滅亡
  ハワイ王国のリリウオカラニ女王が、アメリカとの不
 平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発し
 たアメリカ系移民であるアメリカ人農場主らが、アメリ
 カ海兵隊160名の介入・侵略をさせて、ハワイ王国を滅
 亡させてしまった。
  ハワイ王政を打倒して「臨時政府」を樹立した。
  完全な元アメリカ人のハワイ移民を使ったアメリカの
 傀儡(かいらい、人の手先となって思いのままに使われ
 る)のハワイへの乗っ取り・侵略であった。
  この時、日本は、あまりにも卑劣な行為の侵略である
 ので、邦人保護を理由に、東郷平八郎の率いる巡洋艦「
 浪速」他2隻をハワイに派遣した。
  そして、ホノルル軍港に停泊させて乗っ取り勢力・偽
 クーデター勢力を威嚇した。
  先住民の正統政府のハワイ王国女王を支持する先住民
 らは、日本の軍艦の来航を涙を流して歓喜した。
  また、ハワイ在留日本人も、先住民の方々の女王支持
 派と同じ気持ちで行動をとった。
  しかし、アメリカによるハワイ併合は、この年・1898
 年に実現されてしまった。
  そして、その66年後の1959年8月21日、アメリカは、ハ
 ワイをアメリカの州とした・・当初の目的を達成した。
  今、中国が、このアメリカと同じことをやっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-10-19 05:00 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)560E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年7月)

題:(増補版)560E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年6月22日、与党中央交渉部を母胎として、中立議員ら
 が国民協会を結成した。
  国民協会は、西郷従道を会頭、品川弥二郎を副会頭と
 する山県有朋系の官僚出身の保守主義者を中心として結
 成された国家主義的政党で、藩閥政府を擁護した。
  中国の軍拡を見て、軍備強化の必要性を主張し、また、
 製鉄所の建設など実業の振興の必要を主張した。
  条約改正問題で、第2次伊藤博文内閣と対立して与党的
 地位を失った。
  日清戦争後に、藩閥政府が、自由党や進歩党などの「
 民党」との提携に至ると、藩閥勢力の中でも最も保守的
 な山県有朋との関係を強めたが・・、
  党勢は、創立当初は70名を擁した議員が、選挙ごとに
 減少し・・衰退の一途をたどり・・、
  1898年8月には、21名となり・・、
  1899年に、品川の枢密院入りで支柱を失い・・、
  1899年7月4日に解党した。
  翌日、帝国党となって再出発した。
1892年6月26日 弁護士総会を、初めて東京で開催した。
  現在の弁護士制度ができる前は、「代言人」と呼ばれ
 ていた。
  1880年5月13日に、代言人規則が全面改正され、代言人
 組合の結成が義務付けられた。
  それを受け、1880年6月27日、横浜代言人組合が設立さ
 れ・・
  1880年6月29日に、東京に・・
  1880年9月30日に、大阪に設立された。そして・・
  1892年に、弁護士法が成立し、代言人は弁護士へ、代
 言人組合は弁護士会へと、法律によって改名した。
  この頃の弁護士は、司法省(検事正)の監督のもとに
 おかれ、その独占業務も、法廷活動に限られていた。
  弁護士は、裁判官や検察官よりも格下とされ、試験制
 度も異なっていた。
1892年6月27日、震災予防調査会が設立された(7月15日説
 あり)
  震災予防調査会は、1892年6月27日~1925年11月14日に
 設置されていた文部省所轄の地震や震災に関する研究機
 関で・・、
  1891年の濃尾地震の被害の大きさに衝撃を受けた関谷
 清景らが・・、
  地震の予防は出来なくても、被害を最小限に食い止め
 る方法を研究することは可能である・・として、
  帝国議会に対して、そのための研究機関の設置を建議
 した。
  明治政府もこれを受けて、この年に、震災予防調査会
 で、「震災予防に関する事項を攻究し其施行方法を審議
 する」ことを目的とし、文部省所轄の研究所として設置
 された。
  (参考)関谷清景(せきや きよかげ、1854年12月11日
    (1855年1月28日)~1896年1月8日)は、日本の地
     震学者。世界初の地震学教授。
1892年6月、東京~大阪間に4重電信機が導入された。
  最初期の電信は、1本の線で1通信しか送信できなかっ
 た。
  取扱量を増やそうとすると、電信線を増設するしかな
 かった。
  1890年代のニューヨーク市の電信柱は、電線だらけと
 なった。
  そこで、通信スピードを上げて短時間で多くの情報を
 送れるようにと、効率化をしようとしたが、結局は、電
 信技手の手送りの時代で、決定的改善策とはならなかっ
 た。
  ここに、「多重通信技術」が生まれた。
  1本の線で2倍、4倍と同時使用できる技術で、コストの
 低減に劇的な効果があった。
  1853年に、オーストリアのギントルが、二重通信法を
 発明した・・そして・・、
  1868年~1872年に、スターンズが、二重通信の実用性
 を上げる発明がなされ、
  1874年に至り、エジソンが、四重通信法を発明した。
  スターンズの方法は、送信と受信が同時に出来るとい
 うもので、この双方向通信で能率を倍加させた。
  エジソンは、振幅パルス変調を取り入れ、1回線を4倍
 にした。
  (参考)パルス振幅変調(パルスしんぷくへんちょう)
     は、情報信号の振幅をパルス信号の系列で符号
     化(エンコード)する、パルス変調の一つ。
1892年6月、スイスで、ブリエンツ・ロートホルン鉄道が開
 通した。
  ブリエンツ・ロートホルン鉄道は、スイスのブリエン
 ツからブリエンツ・ロートホルンの山頂へ登る登山鉄道。
  この登山鉄道は、ラック式鉄道(歯軌条鉄道)で、2本
 のレールの中央に、歯型のレール(歯軌条、ラックレー
 ル)を敷設して、車両の床下に設置された歯車(ピニオ
 ン)とかみ合わせて、急勾配を登り下りする。
  この歯車で、推進力と制動力の補助とする。
  因みに、このラック式鉄道に対して、車輪とレールの
 間の摩擦力(粘着力)によってのみ駆動と支持を行う通
 常の鉄道を『粘着式鉄道』と呼ぶ。
1892年7月1日、九州鉄道会社線の門司・博多・小倉・福岡
 の4駅と、筑豊興業鉄道会社線の直方・若松両駅との相互
 間で連絡乗車券の発売を開始した。
1892年7月3日、大磯海水浴場開き行われた。
  大磯町は、神奈川県の南部に位置する町で、相模湾や
 高麗山、鷹取山などの豊かな自然が暮らしの場に近接し、
  また、長い時間をかけて郷土が培ってきた伝統や文化
 が大切に受け継がれ、
  自然的、歴史的、文化的に魅力のある町として発展し
 てきた。
  1885年(明治18年)、初代・陸軍軍医総監を務めた松
 本順が、西洋医学における先端医療のひとつとして、「
 海水浴」を推奨し・・、
  照ヶ崎海岸に海水浴場が開設された。
  これが、我が国の海水浴場の発祥と言われている。
  また、1887年(明治20年)に、大磯駅が開業した。
  当初は平塚から国府津までの間に駅は必要ない、とい
 う計画だったが、松本順が当時の初代内閣総理大臣・伊
 藤博文に相談し、大磯駅が誕生した。
  この大磯駅開業によって、海水浴客は増え続け、政財
 界の重鎮たちの別荘が数多く建築された。
  また、保養地としての大磯の名が全国に広まった。
  (参考)海水浴発祥の地は他にもある。
      神奈川県だけでも、著名な海水浴場が、本牧、
     富岡、七里ケ浜、片瀬が挙げられるが・・、
      片瀬では、明治初期に、早くも、外国人が海
     水浴を行なっていたことが知られている。
1892年7月4日、山陽鉄道会社社長・松本重太郎が、下等運
 賃を、神戸駅~三原駅間で、最高1円とした遠距離逓減の
 運賃改正(中等は下等の2倍、上等は同3倍)について申請
 した。(7月8日に認可された)
1892年7月6日、鉄道庁に、線路取調委員を置き、委員規則、
 および、処務順序を定めた。
  線路取調委員は、全国の鉄道線路調査や、鉄道敷設法
 に掲げる線路突削、および、比較線の線路調査に従事し
 た。
1892年7月6日、アメリカのホームステッド・ストライキ(
 暴動・・銃撃戦・・死傷者発生)
  長い不況が続くアメリカ・・、
  カーネギー製鋼会社、ホームステッド製鋼工場におい
 て、組合を弾圧したことより、ペンシルバニア州ホーム
 ステッドで争議が起きた。
  労働組合に反感をいだいていた H.フリックは、同社
 の社長に就任すると、労働組合の破壊を決意して、賃金
 の引下げを計画した。
  そして、労働運動に対し、フリックは、工場にフェン
 スを巡らしロックアウトの強硬策を実施した。
  労働者側は工場の周りをガードし、地元警察も排除す
 るという状態。
  フリックは、さらに強硬手段に出て、ピンカートン探
 偵社という名の300人の私設警察=会社防衛隊を雇い、工
 場に配置し・・、
  また、スト破りの新しい労働者を雇って操業を再開し
 た。
  また、探偵社は、深夜に、工場の脇の川からボートで
 工場内に入ろうとした。
  労働者はそれを発見・・ここで、ボートの内外で、銃
 撃戦が始まった・・14時間にわたって行われ・・
  労働者側は、最後に燃え盛る列車をボートに向け突っ
 込ませた。
  また、ダイナマイトをボートに向け放り込み、ボート
 を爆破した・・ここで、探偵社側は降伏した。
  探偵社側3名、労働者側9名が死亡し、70人以上の死傷
 者となった。
  会社は、州知事に民兵の出動を要請し、ペンシルバニ
 ア州知事は、8000人の州兵(民兵)を出動させ・・
  軍の出動によって、労働者側は鎮圧され、労働組合は
 壊滅した。
  この後、フリックは、関連会社の労働組合を周到に解
 体へと追い込んている。
1892年7月7日、鉄道庁分課規程を改正した。
1892年7月13日 海軍造兵廠で、5000名スト。
  1889年、呉鎮守府設置。
   同じくして「造船部」設置、小野浜造船所を管轄す
   る。
  1897年、「仮設呉兵器製造所」は「呉海軍造兵廠」に
   改称、呉で初の軍艦「宮古」進水。
1892年7月20日、山陽鉄道会社線の尾道駅~三原駅(現:糸
 崎駅)間(9.1km)が開通した。
1892年7月21日、鉄道庁が、内務省から逓信省に管轄替えと
 なり逓信省鉄道庁となる。
1892年7月21日、鉄道庁長官に井上勝が就任した。
1892年7月21日、近藤勇の正妻・つね(56歳) が死去した。
  1837年(天保8年)、清水徳川家の家臣・松井八十五郎
 の長女として生まれた。
  1860年(万延元年)3月29日、天然理心流次期4代目で
 ある近藤勇と見合い結婚する。
  近藤は武蔵国多摩郡上石原村(現:東京都調布市)の
 百姓・宮川久次郎の三男で、
  1848年(嘉永元年)に、江戸牛込の天然理心流道場で
 ある試衛場(試衛館)の近藤周助に入門した。
  翌年・1849年(嘉永2年)10月19日に、周助の養子とな
 った。
  1862年(文久2年)に、長女・たまを出産した。
.
  (今日の言葉)
.
 題:アメリカも卑劣なリーマン・ショックを起こしたが、
   安易な方針転換をした中国もそこに居た・・、
.
707年、平城京への遷都の審議が始まった・・
  唐の都・長安をモデルにした平城京は、東西4キロ、南
 北約5キロのほか、東側に「外京」があって・・総面積は
 約2500ヘクタールだった。
  約10万人が暮らし・・、
  シルクロードの終着点として・・人や物が行き交う、
 国際色豊かな大都市として・・栄えた。
  だが、784年に・・、長岡京(京都府)へ遷都した後は、
 田畑や草木に埋もれた・・
  幕末に、調査されるまで・・人々から忘れ去れていた。
  この平城京への藤原京からの遷都は、文武天皇在世中
 の707年(慶雲4年)に審議が始まった・・
  708年(和銅元年)には、元明天皇により遷都の詔が出
 された。
  しかし、710年(和銅3年)3月10日 (旧暦)に遷都され
 た時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程
 度だった。
.
1775年5月26日、ジョージ・ワシントンを司令官とする大陸
 軍(独立を目指すアメリカ軍)が正式に発足し、統一し
 た指揮系統が作られた。
.
1820年、アメリカは、22州であったが、まだ、その半分は
 奴隷州であった。
  この後、アメリカは、何ら根拠のない「西漸説」で西
 部を奪っていくが、逆に奴隷州が増えていく状況となる。
.
1854年、卑劣な奴隷制推進法の「カンザス=ネブラスカ法」
 ができた。
  アメリカは、黒人の方々が、長い間、奴隷にされて来
 た卑劣な遅れた国だが、奴隷解放された後もキリスト教
 に洗脳された「有色人種蔑視観」は消え去ってはいなか
 った。
  今・現在も、アメリカでは、黒人の方々が差別され蔑
 視されているが、その様な差別社会であるが・・、
  ミズーリ協定の付帯条件で、今後、西部に新しく出来
 る州は、北緯36度30分の北側を奴隷禁止にして、その南
 は奴隷制を認めるとした。
  アメリカは、この時にも、今までの様に、まだまだ、
 西の地を奪うのだと卑劣にも今後の予定していた。
  それ故に、アメリカは、この様な法律条文(規則)を
 作った。
  しかし、綿花という利益率の良い美味しい作物・・、
  そして、利益率が、どんどん良くなる作物・・、
  その作物を利用した利益収奪システムには、「黒人の
 方々を奴隷にしておく」という事が『確実に必要』だっ
 た。
  しかしこれは、何も、南部だけが儲かるだけではなく、
 アメリカ北部の木綿工業も儲けていた・・そして、より
 儲けたかった。
  つまり、ミズーリ協定が、目の上のたん瘤状態だった・・
 ミズーリ協定の地理的制限を「止めたくなった」・・「
 止めたくなって来たアメリカだった」・・より儲け続け
 たいのである・・そこで、骨抜きの法律ができた・・そ
 れが・・
  1854年、カンザス=ネブラスカ法が出来た・・そして、
 その結果として、カンザス戦争(闘争)に至る・・
  (参考)カンザス戦争(闘争):南北戦争の前、自由
      州と奴隷州に接するカンザスで、南北両派の
      移民によって土地争いや、新政府の樹立や、
      奴隷問題をめぐって展開された争いで、この
      1854年の「カンザス=ネブラスカ法」以後、
      両派の争いはより激しくなって行った・・
       南北戦争が、奴隷解放か否かが原因と言う
      のは、アメリカ北部政権のプロパガンダ・・
      そして、南部を悪く言うという北部政権の嘘
      宣伝・・
  「新たに連邦に加入する諸州にて、奴隷制度になるか、
 否かは・・採否が決められる」という法律だった。
  つまり、確実に奴隷州を止めなければならないという
 ミズーリ協定の条件部分が「目障りとなった」のであっ
 た。
  黒人の方々を奴隷のままにしておくか否かは、「住民
 が決めるという民主主義」だから良いのだという屁理屈
 であった。
  ミズーリ協定を・・アメリカの連邦最高裁判所が、「
 判決で否定する」と・・、
  アメリカ大統領と伴にアメリカのすべてが「喜んだと
 いうアメリカ」においての法律であった。
  まったくバカげた『結論が分かっている』法律をアメ
 リカは作った。
  「住民の意思を大切にしているから良い法律なのだ」
 という、アメリカらしい「こすからい」、この当時、結
 果が決まっている・・自分勝手な理屈の法律だった。
  黒人の方々は、人権は認められていないし、選挙権も
 剥奪されている中で、「どこに民主主義があるのだ」と
 いう卑劣さもある・・また、差別社会のアメリカの中で
 の法律だった。
  そして、この卑劣な法律の推進者が、アメリカ北部の
 人間だった・・美味しい思いをしたいという北部人だっ
 た。
  アメリカ中で、一緒くたになって、南部も北部も、こ
 の様な事をやっていた。
  これで、事実上、ミズーリ協定が「葬り去られた」。
  『アメリカ北部に奴隷州が生まれる法律』だった。
  アメリカの国権の最高裁判所が、「ミズーリ協定は憲
 法違反だ」と判決したことを受けて、この様な事を、ア
 メリカは仕組んでやった。
  美味しい奴隷制を「なかなか手放さない」、美味しい
 奴隷制は「続けます」というアメリカだった。
.
1861年3月4日、アメリカのリンカーン大統領は、就任演説
 で、奴隷財産の『擁護論』を展開した。
  奴隷解放どころか・・奴隷制を認めるという擁護論理
 であった・・「奴隷という財産を守れ」という擁護論の
 演説をした。
  これを、アメリカは、「奴隷州に配慮した」と弁護し、
 「政治的配慮である」と言い訳をした。
  また、リンカーンは、「奴隷解放ではなく、連邦の統
 一という最高目的があった」などと・・色々な言い訳を
 した。
  それなら、そうだと、リンカーンの口から説明すれば
 よいものを・・?
  この様な、半分、屁理屈の様なリンカーンへの言い訳
 を聞けば聞くほど、リンカーンの心の中には、その様な
 「奴隷解放の意思は無いのだ」ということが明らかにな
 って来る。
  黒人の方々への配慮・思いやりなどまったくなかった。
  南北戦争のことを・・「南部の奴隷制度に耐えかねて
 南北戦争を起こした」と美しくアメリカはプロパガンダ
 し、また、リンカーンを弁護する。
  この当時のリンカーンへの風当たりは厳しかった。
  奴隷制度廃止論者のダグラスとリンカーンの論争・・、
  リンカーンの心の中には、キリスト教に影響された「
 有色人種蔑視観」があった。
  リンカーンは、子供の時に、目の前でアメリカ・イン
 ディアンにおじいさんが殺された。
  その事で、弁護士時代には、インディアンの土地の取
 り上げや、法的闘争に奔走していた。
  また、大統領になれば、死者が莫大に出るという厳寒
 期の長距離のインディアン居留地の移動を命じたり・・
  (インディアンの子供や老人、婦女子の方々に死者が
 大勢出た)
  また、移動しないインディアンに対して、酷い討伐を
 命じた・・殺戮・全滅を是認する「討伐を指示」を出し
 たりするリンカーンだった。
  1862年8月22日、奴隷制反対論者である「ニューヨーク・
 トリビューン」の主幹が、リンカーンへ『公開質問状』
 を出すくらいだった。
  この様な事態から、リンカーンは、「奴隷解放」の布
 告を出さざるを得ない、出す事を余儀なくされて行った。
  その様な心境にさせられて行った。
  アメリカ北部政権が祭り上げ、プロパガンダで、「奴
 隷解放の父」などと言っているが・・その称号は、返上
 すべき大統領だった。
  リンカーンは、南北戦争における軍へ、黒人の方々の
 「参加はまっぴら」という大統領だった。
  そうであるならば・・南北戦争において、白人・アメ
 リカ人の北部軍がしっかりしていたかと言えば、まった
 く腐敗していた。
  北部軍の軍首脳部の腐敗の影響によって、戦争準備が
 できていない状況で・・その準備不足で、南部軍にやら
 れっぱなしだった。
  北部軍は、相次いで、戦いに敗れ・・、
  開戦早々だというのに、「南部軍の旗をワシントンの
 国会議事堂に翻(ひるがえ)してみせる」という言葉が、
 南部軍から出るくらいだった。
.
1861年7月、南北戦争で、アメリカ北部軍が、ブルランで敗
 れ、早くも首都・ワシントンが陥落の危機にさらされた。
  リンカーンをトップとする北部軍の首脳部は、腐敗し
 ていて、戦争準備がなっていなかった。
  本当にアメリカを良くしようという意義が頭にあって
 開戦したのか?・・疑問が生じる状況だった。
.
1862年7月、アメリカのリンカーン大統領は、この時になっ
 て、やっと、南北戦争に、黒人の方々の参戦を認めた。
  それまで、リンカーンは、黒人の方々の軍隊編入をた
 めらっていた。
  リンカーンには、有色人種蔑視観があった。
  しかし、リンカーンのその様な思いとは別に、南北戦
 争は、リンカーン北部軍は、『完全な劣勢』に置かれて
 いた。
  黒人の方々は、リンカーン政府にいくら言っても埒(
 らち)が明かない状況に至って、北部軍の各将軍・・バ
 トラー将軍、シャーマン将軍、フレモンド将軍、ハンタ
 ー将軍などの下へ、直接、多くの黒人奴隷の方々は馳(
 は)せ参じた・・
  そして、戦争遂行のあらゆる部署に挺身した。
  その様な事態になって、やっと、リンカーン政権は、
 遅ればせながら、後追いで・・1862年7月、黒人の方々の
 軍隊編入を認めた。
  本当に、軽蔑すべきリンカーン大統領だった。
  そして、この後、あらゆる反動もあって、この黒人の
 方々の、目ざましい戦いが起きる・・そして、素晴らし
 い功績を残した。
  その1例が、サウスカロライナ州のワグナー要塞の攻撃
 だった。
  第54マサチューセッツ黒人連隊の果敢な働きは凄(す
 さ)まじかった。
  この連隊には、黒人奴隷解放運動家の大御所「フレデ
 リック・ダグラス」の二人の息子も加わっていた。
  黒人の方々は、それまで、白人・アメリカ人の虐(し
 いた)げを受けていた反動もあって、果敢に戦闘をした・・
  その為もあって、可哀想に、黒人の方々が戦死する率
 は、白人兵士より35パーセントも多く、黒人の方々は亡
 くなっっていた。
  戦死者数は4万人にも及んだ。
  この戦争には、18万6000人もの黒人兵士が、正式に北
 部軍の陸軍兵士として参戦していた。
  13万4000人が、奴隷州からの参戦だった。
  アメリカ海軍は、卑劣にも黒人の方々を拒否した。
  炊事係など3万人が参加しただけだった。
  給料面でも差別された。
  白人兵士の半分にもなるか、ならないかという差別状
 態だった。
  1863年7月のゲティスバーグの戦いと、ビックスバーグ
 の戦いが、北部軍勝利の転機となった。
  そして、シャーマン将軍のアトランタからサバナに向
 かうジョージア進撃の成功によって、北部軍の勝利は、
 最終的な、確定的なものとなった。
  1865年4月2日、南部連合の首都・リッチモンドが、北
 部軍の手に落ち・・
  その1週間後の1865年4月9日、南部軍のリー将軍は、ア
 ポマトックスにおいて、北部軍のグラント将軍に降伏し
 た。
  黒人の方々の功績は絶大だった。
  アメリカ北部軍は、黒人の方々の戦いによって救われ
 たのだった。
.
1863年1月1日、アメリカで、やっと、奴隷解放令が公布さ
 れた。
  しかし、リンカーンは、奴隷解放令が公布されようと
 している「この時点」になっても、黒人の方々を、アフ
 リカのどこかに植民させる(棄民する)ことが良いと考
 えていた。
  また、「奴隷のすべてを解放する様な事はしない」と
 考えていた。
  この様に、奴隷解放の足を引っ張るリンカーンの考え
 は、黒人の方々から「猛反発」を受けた。
  これに先立つ3か月前の1862年9月22日、奴隷解放令に
 先立つ「奴隷解放予備宣言」を公布するところまでこぎ
 つけていた。
  しかし、このリンカーンの「奴隷解放予備宣言」は、
 おかしな宣言だった。
  南北戦争が盛んに行われている現状において、リンカ
 ーンが考えていたのは、「反乱している州の奴隷を解放
 する」というものだった。
  つまり、反乱を「止めたっと宣言した州の奴隷は解放
 されない」という宣言だった。
  リンカーンは、「奴隷解放の父」とアメリカ北部の現
 政権がプロパガンダしているが・・「リンカーンは、そ
 の様な人間ではない」。
  リンカーンは、この様な段階になっても、奴隷の「即
 時、無条件、全面解放をしない」という大統領だった。
  即時、全面開放をためらう大統領だった。
  しかし、この様な状況の中で、黒人の方々は、残され
 た「わずかな解放の望み」をひたすら待ち望んだ。
  本当にアメリカは人権抑圧国家だ。
  黒人の方々への同情とともに、人権をもてあそぶ人権
 抑圧者・リンカーンへ怒りが湧く。
.
1865年、アメリカ合衆国憲法の「憲法修正第13条」が制定
 され・・『卑劣な奴隷制度を決めていたアメリカ合衆国
 憲法』が、やっと、修正された。
  アメリカは、1861年1月1日になって、「奴隷解放令」
 が、やっと、出たが・・しかし・・、
  奴隷解放令が出たからと言って、即時に、黒人奴隷の
 方々が、奴隷という卑劣な身分から解放されるという訳
 ではなかった。
  この後、黒人の方々は、血みどろの戦争を2年間もの
 間、耐え抜いて、戦い・・、
  黒人の方々は、自由の獲得闘争をして行って・・、
  やっと、1865年に至って、卑劣なアメリカ合衆国憲法
 の憲法修正第13条が提出され・・修正案を制定させるこ
 とができた。
  卑劣なアメリカは、黒人の方々に、この様な困難な時
 間を必要としなければ、この様な悪辣な経緯を経なけれ
 ば・・黒人の方々を「自由の身にして差し上げる」状況
 にはしなかった。
  そして、やっと、黒人の方々は、自由を得ることが出
 来た(・・いや・・この揺れ戻しが・・あります・・ま
 た、昔の奴隷制に戻る様な・・本当にしつこい、奴隷解
 放の歴史だったのです・・遅れたアメリカだったのです)
  リンカーンが、渋っていた黒人の方々の南北戦争の参
 戦を、リンカーンが、あまりにも卑劣に拒絶するので、
 黒人の方々は、独自に部隊を作って参戦してしまった。
  この様な行為をしなければ、黒人の方々は参戦できな
 かった。
  黒人の方々の戦いは素晴らしかった。
  目ざましい役割を黒人の方々は果たした。
  この働きは、アメリカ北部軍の勝利を、最終的なもの
 に導く原動力となった。
  際立って重要なものが、黒人の方々のこの貢献だった。
  アメリカ北部軍の勝利は、黒人の方々によって「もた
 らされた」と言える状況だった。
  今・現在のアメリカ北部政権は、『黒人の方々によっ
 てもたらされた』と言える。
  リンカーン記念堂に、この黒人の方々の戦功・働きを
 顕彰する記念碑を建立すべき・・、
  そして、毎年、記念行事を開催し、この貢献をした黒
 人の方々の戦士に「感謝の誠を捧げなければならない」。
  この様な黒人の方々の戦功があって、やっと、黒人の
 方々は、自由を獲得することができた。
  アメリカは、卑劣にも、ここまでしなければ、黒人の
 方々を自由の身にして差し上げられなかった。
  黒人の方々は、逃亡して参戦した。
  この様な逃亡奴隷の黒人の方々は、50万人も居た。
  絶大なる人々である。
  リンカーンが、「奴隷解放をしました」そして「黒人
 奴隷の方々が自由になりました」なんていう話では『無
 いのです』。
  黒人の方々は、この南北戦争を、「奴隷解放の戦い」
 と捉(とら)えていた・・自分たちが自由になれる戦い
 と捉えていた。
  リンカーン政権は、あちこちで参戦したいという黒人
 の方々を拒絶していた。
  参戦の準備を黒人の方々は行っていた・・その為の軍
 事訓練や軍事組織を作った。
  しかし、『この様な事まで禁止するリンカーン政権』
 だった。
  黒人の方々は言った・・、
  「私たちは、すでに用意ができています。
  白人の防衛者と同様に、私たちは、私たちの生命と財
 産と名誉をかけて、自由のために良き市民として、私た
 ちの政府を守る覚悟ができています。
  私たちは、同胞の皆さんに、この事を訴えたいのです。
  そして、私たちは、軍籍に身を置くことができるよう
 に、皆さんの法律を改めて戴くようにお願いしたいので
 す。
  私たち黒人の胸の中に燃え上がっている愛国的感情を
 思う存分に発揮できますように」・・この訴えも、リン
 カーンに届かず、無視されていた。
.
1902年2月4日、リンドバーグが生まれた(~1974年8月26日)
  チャールズ・オーガスタス・リンドバーグは、アメリ
 カ合衆国の飛行家で、ハーモン・トロフィー、名誉勲章、
 議会名誉黄金勲章の受賞者である。
  1927年には、「スピリット・オブ・セントルイス」と
 名づけた単葉単発単座のプロペラ機で・・、
  ニューヨーク~パリ間を飛び・・、
  大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した。
  1931年には、北太平洋横断飛行にも成功している。
  1953年に、大西洋単独無着陸飛行について書いた「The
 Spirit of St. Louis"(『翼よ、あれがパリの灯だ』)
 を出版し、
  これにより、1954年のピュリッツァー賞を受賞した。
  同書は、1957年に、ビリー・ワイルダー監督の手で映
 画化されて有名になった(『翼よ! あれが巴里の灯だ』)
  また、リンドバークは・・、
  「日本軍と、アメリカ軍(連合軍)との戦死者・捕虜」
 について言及した。
  特に、アメリカ軍の残虐行為について糾弾した。
  リンドバーグは、日米開戦後、軍の技術顧問となり、
 南太平洋に赴任し、そのアメリカ軍の残虐行為を目撃し
 た。
  そして、日記に、次ぎの事柄を書き記した。
  以下、その一部の抜粋・・、
☆各地の太平洋戦線で、日本人捕虜の数が『欧州戦線に比
 して異常に少ない』のは・・、
  捕虜にしたければいくらでも捕虜に出来るが、
  アメリカ兵が捕虜を取りたがらないから、
  手を上げて降参して日本兵が投降して来ても、皆殺し
 した。
  その為、日本兵の捕虜が少なかった・・、
☆あるところでは、2000人ほど捕虜にしたが、本部に引き
 たてられたのは、たった100人か、200人だった(それは、
 日本人の捕虜のほとんどを殺戮したからだった)
  残りの連中には、ちょっとした出来事があった。
  それを知った戦友は投降したがらないだろう。
☆捕虜を取らないことを自慢する部隊がいた(降参した日
 本兵を、捕虜にする前に殺したから)
☆将校連は、尋問の為、捕虜を欲しがる。
  捕虜1名につき、シドニーへの2週間の休暇を出すと
 お触れが出た途端に、持て余すほどの捕虜が手に入った。
  懸賞を取り消すと一人も手に入らなくなった。
  つかまらなかったと嘯(うそぶ)くだけだった。
☆一旦、捕虜にしても、英語が分かる者は、尋問のために
 連行され、出来ない者は捕虜にされなかった。
  即ち、殺された。
☆捕虜を飛行機で運ぶ途中、機上から山中に突き落とし、
  ジャップは、途中でハラキリをやっちまったと報告し
 た。
☆ある日本軍の野戦病院を、ある部隊が通過したら生存者
 は一人もいなかった。
☆2年以上、実戦に参加した経験がない兵が、帰国前に、
 せめて一人くらい日本兵を殺したいと希望し、
 偵察任務に誘われたが、撃つべき日本兵を見つけられず、
 捕虜一人だけ得た。
  捕虜は、殺せないと嫌がるくだんの兵の面前で、軍曹
 がナイフで首を切り裂く(殺す)手本を示した。
☆ 『爆弾で、出来た穴の中に、皆、四肢バラバラの状態
 の日本兵の死体を投げ込み、その後で、トラック1台分
 の残飯や廃物を投げ込んだ』
☆捕虜にしたがらない理由は、殺す楽しみもさる事ながら、
  お土産を取るのが目的。
  金歯、軍刀はもとより、大腿骨を持ち帰り、それで、
 ペン・ホルダーとか、ペーパーナイフを造る。
  耳や鼻を切り取り、面白半分に見せびらかすか、乾燥
 させて持ちかえる。
  中には、頭蓋骨まで持ちかえる者もいた。
☆日本兵を動物以下に取扱い、それが、大目に見られてい
 る。
  我々は、文明のために戦っているのだと主張している
 が、
  太平洋戦線を見れば見るほど、(アメリカ人が)文明
 人を主張せねばならない理由がなくなるように思える。
  事実、この点に関する成績が、日本人のそれより遥か
 に高いという確信は持てない(日本人の方がよっぽど立
 派だ)・・、
  リンドバーグは、ドイツ降伏後、ナチスによる集団虐
  殺現場を見学した時の日記で・・、
  「どこかで見たような感じ、そう南太平洋だ・・と書
 いた。
  爆撃後の穴に、日本兵の遺体が腐りかけ、その上から
 残飯が投げ捨てられ、
  待機室やテントに、まだ生新しい日本兵の頭蓋骨が、
 飾り付けられているのを見た時だ。
  ドイツは、ユダヤ人の扱いで、人間性を汚したと主張
 する我々アメリカ人に、日本人の扱い方で同じようなこ
 とをしでかしている・・とリンドバーグは言った。
  リンドバーグは、オーストラリア軍が、輸送機から日
 本兵の捕虜を、飛行中に投げ捨てられている・・と書い
 てもいる(目撃した)。
  本:『War Journal of Charles Lindbergh』
  リンドバーグは、戦前、ドイツとも接触したため、ア
 メリカで、大バッシングを受けた。
  彼の名誉が回復するのは、30年後だった・・亡くなる
 直前だった。
  彼は、正義を求めて、真実を書いただけだった。
  これ等の事は、世界記憶遺産に登録し・・
  アメリカとオーストラリアの各地に銅像を立てよ!
.
2008年9月15日、リーマン・ショック
  これは、アメリカが起こした卑劣な世界的経済騒動だ
 った。
  2008年9月15日、アメリカ合衆国の投資銀行であるリー
 マン・ブラザーズ・ホールディングスが破綻した・・
  連邦破産法第11条の適用を、連邦裁判所に申請した。
  このことに端を発して、続発的に世界的金融危機が発
 生した。
  金が借りることが出来ない年収の低い人々にまで住宅
 を買わせ、バブル状態の経済の中で、その住宅が値上が
 りして行くことで担保させようと目論んだ・・
  こんな、裏付けのないタイトロープを渡る様な儲けの
 システムは、いつかは破綻するのは必定であったが、
  これを、アメリカ大統領(ブッシュ・子)が音頭を取
 って、国全体がやるような状況を作って、それで、やっ
 た・・
  案の定、いくら国が大きいと言っても行きつくところ
 の終着点に来た。
  しかし、ここでも、また、卑劣な事をアメリカはした。
  この様な卑劣な債権を「細切れにして」、表面的には
 見えない様にして、状態の悪い債券がある様には見えな
 い様にして(健全債権ばかりの様にして)、良質な債権
 に混ぜて世界中に売りさばいた。
  また、卑劣なのは、アメリカは、「格付け会社」なる
 ものを作った・・そして、その会社にその債券の格付け
 を「良く評価させた」。
  良い債券だというお墨付けを付けた。
  つまり、自分(アメリカ)の都合の悪い借金の肩代わ
 りを世界中にさせるという行為だった。
  この様な悪のシステムが「ばれれば(隠していたこと
 や、嘘などが明るみに出て露見する)」、一気に値崩れ
 するのは当たり前だった・・
  これが、リーマン・ショックだった。
  厖大(ぼうだい、非常に多量)な金、あるように見え
 ていた金が消えてなくなった・・蒸発した。
  あまりにも巨額で、不透明で、損失が拡大していく中
 で・・この対応で、世界中が、シッチャカメッチャカに
 なった。
  あちこちの企業が、金融機関が大損失を出した。
  この様な事が分かっていて、だから、ショックが起き
 ると分かっていた者・・その者だけが、「売り抜けて」
 大もうけした・・
  それは誰か?・・その様な悪も居た・・、
  さらに、この大ショックで、大暴落したその底で買っ
 た奴も大儲けした・・
  当然、事実が判明した時は、そのショックで、株価は、
 世界中で大暴落した。
  経済は冷え込んだ、消費も落ち込んだ、金融不安が蔓
 延した・・
  アメリカ・ドルは急落してドル安が進んだ・・
  アメリカ市場の依存度の高い企業は、大きなダメージ
 を受けた・・
  景気後退が広がって行った・・
  この後遺症は、長く世界を悩ました。
  中国の人民元は、対米ドルとの関係で、米ドル急落で、
 資金が急激に中国に流入し、過剰になるくらいだった。
  中国株価は急騰した・・生産はフル回転となった・・
 総需要が高まり・・世界の工場としての存在の中国は、
 大回転した。
  それまで、失業問題が深刻だった中国は、嘘のような
 状況となった。
  経営が立ち行かない企業が続出していたが、180度、変
 わってしまった。
  サブプライムローンをあまり保有していない中国は、
 影響が、損失が、ほとんど発生しなかった。
  アメリカやEUの景気落ち込みの反動で、中国の経済
 は大伸長した。
  中国政府も、補助金などの支援策を実施し、景気対策
 を行なった。
  中国は、舞い上がった。
  重大産業振興策、医療制度改革などを加速した。
  中国の資金は、やがて、不動産取引へも流れ込んで行
 った。
  中国は流れに乗った・・
  北京の不動産価格も上昇して行った・・急騰と言えた・・
  この様な状況から発した中国経済・・
  中国は、「世界一になるのも近い」と思えるようにな
 った。
  中国が経済力で世界一になるのに「25年かかる」と言
 われていたが、「あと10年しかかからない」と、中国は
 思い込んだ。
  この思い込みが中国の舵を、大きく回転し、向きを変
 えた。
  中国の錯覚は、「経済力と国力の関係を見誤った」。
  小国などに、「金を渡せば、相手は黙る」と中国は思
 った。
  急に、自由になる金を一杯持った中国の悲しさだった。
  金の力で、相手を従わせると安易に考えて、行なった。
  アメリカも卑劣なリーマン・ショックを起こしたが、
 安易な方針転換をした中国もそこに居た。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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# by suba28 | 2017-10-15 04:13 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)559E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年6月)

題:(増補版)559E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年6月4日、琵琶湖疎水を利用した日本初の水力発電所
 である京都蹴上発電所(けあげはつでんしょ)が開業し
 た。
  1890年(明治23年)に通水を開始した琵琶湖疏水第1
 疏水に関連し・・、
  翌年・1891年(明治24年)6月に、第一期蹴上発電所が
 運転を開始した。
  営業用としては日本最初の水力発電所で・・、
  総工費は、30万円にて竣工した。
  2016年、米国電気電子学会 (IEEE) より『IEEEマ
 イルストーン』に認定された。
  (参考)IEEEマイルストーン:アイトリプルイー
    マイルストーン)は、IEEEIが、電気・電子技
    術やその関連分野における歴史的偉業に対して認
    定する賞。
     これに認定されるためには、25年以上に渡って
    世の中で高く評価を受けてきたという実績が必要。
1892年6月6日、衆議院が、「鉄道敷設法」案を委員会修正
 案どおり可決し、貴族院に回付した。
1892年6月7日、貴族院が、「鉄道敷設法」案の第1読会を開
 き、同法案を審議した。
  後日、貴族院は、衆議院の修正案どおり「鉄道敷設法」
 案を可決した。
1892年6月7日、野球の代打が初めて行われる(前年に制定)
  因みに、通算代打起用回数のセ・リーグ記録は、宮川
 孝雄の778回、パ・リーグは、高井保弘の559回。
  通算代打打率(起用数300以上)セ・リーグ記録、若松
 勉.349、パ・リーグ記録、五十嵐信一.292、
1892年6月13日、天皇陛下が、予算に対する協賛権は、貴族
 院・衆議院に差はないとの裁定を下された。
  協賛権(きょうさんけん)は、旧憲法下で、帝国議会
 に与えられていた協賛(きょうさん、旧憲法で、議会が
 法律案・予算案を成立させるための意思表示をすること)
 の権限で、法律・予算の制定者であられる天皇陛下に対
 して協力するための権限とされた。
1892年6月13日、停車場内人力車備置規則を制定し(鉄二第
 290号)構内人力車営業を駅長の管理下に統一した。
1892年6月14日、両院協議会が、予算修正につき妥協、両院
 で可決した。
1892年6月16日、小包郵便法を公布した(6月17日説あり)
  経緯・・
  1871年、郵便に関わる太政官布告が交付され、郵便制
     度が施行。最初の郵便切手が発行された。
  1873年、日米郵便交換条約調印。
  1875年、外国郵便の取扱開始、郵便貯金・郵便為替の
     取扱施行。
  1876年、上海と釜山浦に在外郵便局を開設。
  1877年、万国郵便連合(UPU)に加盟。ただし在日局の
     撤退はイギリスが1879年、フランスが1880年。
  1885年、逓信省創設。国際郵便を正式にあつかいはじ
     める。
  1892年、小包郵便の取扱開始。
1892年6月17日、東京の日本赤十字社病院が新築落成した。
  皇后陛下が行啓されて、開院式を行った。
  日本赤十字社の創立者(初代社長)は、佐野常民(さ
 のつねたみ)
  日本赤十字社は、1877年に設立された博愛社が前身。
  1886年、日本政府がジュネーブ条約に加入したことを
 受けて・・、
  翌年・1887年に、名称を日本赤十字社と改称した。
  博愛社は、1877年2月に発生した西南戦争の時、佐野常
 民と、大給恒(おぎゅうゆずる)の両元老院議官によっ
 て設立された。
  救護を目的とする団体で、西南戦争では、明治政府軍
 と薩摩軍の激しい戦闘が繰り広げられ、両軍ともに多数
 の死傷者を出た。
  この時、この悲惨な状況に対し佐野と大給の二人は、
 救護団体による戦争、紛争時の傷病兵の救護の必要性を
 痛感した。
  ヨーロッパにある赤十字と同様の救護団体を作ろうと
 思い立った。
  1877年、佐野と大給を発起人として、政府に救護団体・
 博愛社の設立を願い出た。
  しかし、この願いは認められなかった。
  その理由は・・、
  『このような考えは素晴らしいことではあるが・・、
  (1)現地には救護に必要な医師等は派遣しており、医
    療は足りている。
  (2)今、新しい組織を作って戦地に送れば、混乱をき
    たす。
  (3)欧州で国家間の戦争の際に組織(赤十字)を作っ
    て救護することは知っているが、このたびの内戦
    にまで適用されるものなのかどうかは分からない。
  (4)このような組織の創設は、平和な時に十分時間を
    かけて検討すべき。「明治政府からの回答書」
  しかしながら、戦場ではおびただしい数の負傷兵が手
 当てもされず、放置されていたことは事実で、博愛社の
 設立を急いだ佐野は、征討総督・有栖川宮熾仁親王(あ
 りすがわのみや・たるひとしんのう)に直接、博愛社設
 立の趣意書を差し出すことに意を決し、
  1877年5月、熊本の司令部に願い出た。
  有栖川宮熾仁親王は、英断をもってこの博愛社の活動
 を許可された。
  救護活動の許可を得た博愛社の救護員は、直ちに現地
 に急行し、官薩両軍の傷病者の救護にあたった。
  (日本赤十字社のホームページを参考にした)
1892年6月18日、ハワイ王国に、マカダミアナッツが持ち込
 まれ、商業栽培が開始された。
  原産地はオーストラリアのクイーンズランド州で、先
 住民のアボリジニの方々の間では、ブッシュ・タッカー
 として、好んで食されていた。
  1921年に、ハワイ大学で商業生産を目指した品種改良
 の研究が始まった。
  20年間の研究の努力の結果、商品化に成功した。
  1950年代頃までに、日系アメリカ人のマモル・タキタ
 ニが、マカダミアナッツとチョコレートの相性が良いこ
 とに注目して、
  ナッツをチョコレートで包んだものを製品化すると、
 爆発的な人気を呼んだ。
  これが、マカダミアナッツ製品で最も消費量が多いハ
 ワイアンホースト社製のチョコレートとなった。
1892年6月21日、鉄道敷設法が公布された(法律第4号)
  これは、鉄道建設の基本法で、予定線33路線のうち、
 第1期線は、中央・山陽・北陸など9線・・、
  そして、工事着手順や募集公債金額などを決定するた
 め鉄道会議の設置を規定した。
  また、第1期建設予定線の建設に充当するために、1892
 年(明治25年)から12年間に、6000万円を限って公債を
 募集することとした。
  この法は・・全16条から成る。
  予定の線路を調査し敷設することを明らかにし・・
  第2条で、中央線以下14線33本の予定線を、
  第7条で、そのうち第l矧工事として実測l建設すべきも
 のを列挙した。
  その費用は、公債をもって充て(第4条)、 12年間に第
 1期工事を完成すべきものとした(第8条)。
  また、鉄道会議を設置して工事着手の順序、建設資金
 募集の公債発行額を諮問することを定めた(第15条)。
  買収については、既成私設鉄道のうち第2条に掲げた予
 定線路のため、買収の必袈があると認められるものは、
 政府がその会社と協議して価絡を定め、議会の協賛を求
 むべきものとした(第11条)。
  その他、予定線のうち、私設鉄道から敷設の許可を願
 い出たときは、談会の協賛を経て、許可することがある
 とした(第14条)・・重要な例外規定。
  この敷設法の公布によって、わが国の鉄道は、創設期
 をおわり、確固たる方針のもとに秩序ある発展の第一歩
 を踏み出した。
1892年6月21日、鉄道会議規則が公布された(勅令第51号)
  鉄道会議(てつどうかいぎ)は、1892年6月21日~1949
 年6月1日まで、鉄道敷設法16条に定められた「鉄道会議
 規則」(明治25年勅令第51号)に基づいて、鉄道担当官
 庁(内務省→逓信省→鉄道省→運輸通信省→運輸省)に
 設置された諮問会議。
  鉄道敷設法で定められた「鉄道建設の順序」や「鉄道
 公債の発行」などについて主管大臣に諮問した。
  ただし、実際には、鉄道政策全体について諮問してい
 る。
  定数は議長1名・議員20名(ただし、臨時議員として複
 数名の追加が認められた)・幹事1名で構成された。
1892年6月21日、シベリアを単騎横断した福島安正中佐が、
 ウラジオ~釜山を経て、1年を費やしての長崎への帰着だ
 った。
  駐ドイツ公使館付武官を辞任して、シベリアに向かっ
 ていた。
  長崎市民は、世界的英雄を迎てえ、諏訪公園丸馬場に
 て盛大な歓迎会を開催した。
  福島安正中佐は、1892年6月29日に、新橋駅に降り立っ
 た。
  陸軍軍人・男爵。長野県生(1852年~1919年)
  信濃松本藩士福島安広の長男。
  司法省に入り、1874年、陸軍省に移る。
  語学力に優れ、1882年、朝鮮に派遣され、朝鮮の調査、
 そして、1883年に北京公使館付武官となり、満州、およ
 び、モンゴル方面を踏査した。
  1886年には、インド半島を軍事視察し、
  1887年には、駐独武官となってバルカン半島を視察し
 た。
  この帰国に際して、ロシアのシベリア鉄道建設の状況
 視察のため、1年4か月かけて、シベリア横断となった。
  日清戦争の際は、第一軍参謀、
  1895年3月から約2年間、ヨーロッパ、アジアを探検旅
 行、帰国後は参謀本部第三、次いで第二部長、
  日露戦争時は満州軍参謀、
  日露戦争後、1906年に参謀次長、中将に進み、
  1912年には関東都督となり満州経営に当たる。
  1914年、大将に進む。
  のち退官した。
  1919年(大正8年)逝去、68歳。
  勲三等旭日勲章が授与された・・男爵。
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  (今日の言葉)
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  題:1857年、アメリカ合衆国のすべてが、そして大統領が、卑劣な『奴隷制容認判決』を喜んだ。
    そして、それを、現代になって、アメリカは、必死にプロパガンダして変えようとしている。
    そして、1859年10月、初めの反乱=黒人のジョン・ブラウンの蜂起が起きた・・、
.
紀元前3世紀~2世紀、サルナートは、紀元前3世紀~紀元前
 2世紀、アショカ王の時代と、紀元後5世紀~紀元後6世紀
 のグプタ朝時代に栄えた『仏教教学の聖地』である。
  この地で、釈迦は4ヶ月ほど暮らし、玄奘も中国から
 はるばる訪ねて来て経典を学んだ。
  (参考)サールナートは、インドのウッタル・プラデ
     ーシュ州にある地名。
      ヴァーラーナシー(ベナレス)の北方約10km
     に位置する。仏教の四大聖地のひとつ。
      漢訳仏典では旧訳で「仙人堕処」、新訳では
     「仙人住処」と訳出される。
      釈迦が悟りを開いた後、鹿が多く住む林(旧
     訳「施鹿林」、新訳「鹿野苑」)の中で、初め
     て教えを説いた初転法輪の地とされる。
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196年、董遇(とうぐう)が、郡から孝廉に推挙され、黄門
 侍郎にまで昇進した。
  中国の後漢(25年~220年)の学者の董遇が、「読書百
 篇義自ずから見る」という言葉を残した。
  意味:「どんなに難しい書物であっても、繰り返し読
 むうちに意味が自然と分かる様になるものだ」・・、
  董遇は、字(あざな、成年後、実名のほかにつける別
 名)を季直(きちょく)といい、弘農郡(こうのうぐん、
 河南省に設置された郡) の人。
  生没年は不明。
  関中(かんちゅう、中国の西安を中心とした一帯)が
 乱れると、兄とともに将軍・段珪(だんけい、?~ 189年、
 後漢時代末期の宦官)に身を寄せた。
  生活は苦しかったが、農事や行商の間にも経書(けい
 しょ、儒学の経典。四書・五経など)を手放さなかった。
  196年、郡から孝廉に推挙され、黄門侍郎にまで昇進し
 た。
  董遇は、献帝(けんてい、後漢最後の皇帝)の寵愛と
 信頼を得た。
  218年、吉本らの曹操暗殺計画(毒殺計画)が発覚し、
 董遇は参画していなかったが、なお、取り調べを受け、
 閑職に遷(うつ)された。
  政権奪取とかの話ではなく、恨みつらみのレベル・・。
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1662年、台湾。
  台湾は、台湾原住民の方々だけが住む地であった。
  しかし、現在は、台湾原住民は2.3%である。
  17世紀の大航海時代、オランダ及びスペインが植民し
 た。
  台湾は、ポルトガル語で「フォルモサ=麗(うるわ)
 しの島」と呼ばれた。
  1662年になって、明(みん)寄りの支持者である鄭成
 功(ていせいこう、日本名:福松、母が日本人で、半分、
 日本人の血が流れている)がオランダを追放した。
  これ以降、漢民族が流入した(日本人が流入しても良
 い場面であった)
  台湾原住民とも混血した。
  しかし、現在、DNAの調査によれば、8割が南方アジ
 ア系である。
  鄭成功は、日本の平戸で生まれた、
  父は鄭芝龍で、母は、日本人の田川マツ。
  父・鄭芝龍(福建省生まれ)は、朱印船貿易の関係で
 日本に来た。
  そして、平戸藩主の松浦隆信の寵を受け、平戸に住ん
 だ・・そして、結婚し、鄭成功が生まれた。
  鄭一族は貿易商で、海賊や商売敵との抗争のために武
 力を持っていた。
  そして、明治の時代、この台湾のことを、現在の中国
 政権の前の「中国の清国政権」は、「化外の地」と日本
 政府へ言った。
  (参考)化外:けがい、統治のおよばない地。
  つまり、台湾は、「中国とは、まったく関係のない地
 です」と日本政府へ言った。
  しかし、現在の中国政権は、「台湾は、中国の一部で
 ある」と言い出した。
  だから、中国のこの勝手な解釈のもとに行動を起こし
 ても良いのだと言外(げんがい、直接は言葉にださない
 ところ)に言っている。
  何をやっても、「国内問題」だと・・。
  勝手な言い掛かりから、強引な行為に及ぶことは・・
 この解釈の違いから生じて行う行為は・・卑劣な戦争が
 惹起(じゃっき、事件・問題などを引き起こすこと)さ
 れる恐れがある。
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1820年1月26日、ミズーリ協定
  アメリカのミズーリ州を、奴隷州として州昇格を認め
 る法案を条件付きで成立させた。
  その条件は、イリノイ州選出のジェシー・B・トーマス
 議員から、今後、北緯36度30分線の北にあるミズーリ準
 州から奴隷制を排除するという動議を採択した。
  この条件は、後に、憲法違反との判決が出て、まった
 く無くなる。
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1829年、自由黒人のデイビット・ウォーカーの奴隷解放活
 動・・
  激烈な社会的影響を与えた一冊のパンフレットを、こ
 の年に書いた。
  アメリカ大統領のリンカーンが、「奴隷解放」を行な
 ったというのは、白人・アメリカ人のデッチ上げで・・、
  黒人の方々が、地道に解放へ向かって努力して行った。
  虐げられる黒人の方々は、色々な方法で・・
  そして、活動する黒人の方々は、命を賭して・・
  必死に、「自らの自由を得たい」という活動を行ない・・
  そして、奴隷解放を『成した偉業』なのである。
  白人・アメリカ人は、自らの卑劣な行為=「同じ人間
 を人家畜化し、所有して、使役し、それも、「虐げ行為
 を伴って行なった」という行為を隠そうと、
  白人・アメリカ人のリンカーンが、「奴隷解放をした」
 という話をデッチ上げた・・そして、隠した。
  リンカーンが、「どんな奴隷解放の積極的活動をして
 来たというのか?」
  「奴隷解放宣言」は、その状況になって、やむ無く行
 っただけで、リンカーンは、大統領の就任演説において
 さえ、「奴隷解放」のことを一言も触れなかった。
  『奴隷解放の栄誉』を、白人・アメリカ人は、黒人の
 方々から奪うという「恥の上塗り的行為」を行なってい
 る。
  1829年、自由黒人のデイビット・ウォーカーは、一冊
 のパンフレットを書いた。
  そのパンフレットには、極めて刺激的な事が書かれて
 いた・・、
  「・・反対に、もしも我々(黒人)が、彼ら(白人、
 特に、奴隷所有者)を奴隷にして、残忍な奴隷制度の中
 に縛り付ける様な事をしたとしたら、
  彼ら(白人)は、一体、どんな気がするだろうか?・・
  私は、君たちにたずねたい。
  君たちの母親や妻や幼い子供の生命を奪う暴君の奴隷
 となるくらいなら、君たちは、むしろ殺されることを望
 むのではないか?・・
  信じ給(たま)え、君たちを殺そうとするような、そ
 んな人間を君たちが殺すのは、喉が渇(かわ)いた時に、
 一杯の水を飲むのと同じくらい当然のことではないか」
 ・・と、
  これは、『ウォーカーの訴え』として知られ・・、
  白人・奴隷所有者らに大きな衝撃を与えた。
  黒人の方々も、ただただ、白人・アメリカ人に虐げら
 れるだけでなく、自らの自由を獲得したいとの当然の声
 を上げ始めた。
  また、1831年1月1日には、ウィリアム・ロイド、ガリ
 ソンが、「解放者(リベレーター)」を、ボストンで週
 刊で発刊し始めた。
  ジョージア州政府が、ガリソンの逮捕に5,000ドルの賞
 金を掛ける様なこともあった。
  1833年には、奴隷制反対協会が設立された。
  この組織は、1840年までに、2000の地方支部に拡大し、
 会員総数は20万人を数えた。
  定期刊行物やパンフレットの発行などの広報活動、議
 会への大衆動員をしての請願運動などを行なった。
  因みに、この請願を受ける議会側に、あのでっち上げ
 られたリンカーンも居た。
  この様な奴隷解放活動家は、常に、命の危険にさらさ
 れていた。
  金を持った奴隷制維持権力は、激しい攻撃や弾圧、そ
 して、「卑劣なテロ行為」を加えた。
  その一つが、1837年11月、イリノイ州のオルトンで、
 奴隷制廃止主義者のイライジャー・ラビジョイが殺され
 た。
  この殺害犯人たちは捕らえられたが、罰せられるどこ
 ろか、官憲(かんけん、政府の権力・権限、もしくは、
 官吏の権力・権限)の手で釈放された。
  この様な黒人の方々の自らの解放の努力の例は、まだ
 まだ、沢山ある。
  白人・アメリカ人が、「奴隷解放を成した」、または、
 「奴隷解放を与えた」というのは、「真っ赤な作り話の
 嘘」。
  白人・アメリカ人は、卑劣な非人道的行為者側に居た。
  黒人の方々を、奴隷としての地位に置いて・・、自ら
 の利益を追求する側に居た。
  黒人の方々の「名誉の自由獲得行為」の名誉まで奪う
 行為をしている。
  この事実は、世界記憶遺産に登録すべき項目だ
.
1831年8月21日、ターナーの暴動
  黒人の方々を、奴隷として使う白人・アメリカ人たち
 は、この黒人の方々の反抗を「暴動だ」と表現した。
  それ故に、この年のこの黒人の方々の反抗行動も暴動
 と表現された。
  教科書にも、歴史書にも、「黒人暴動」と記された。
  反抗をした黒人指導者のナット・ターナーは、自分の
 名も付けられず、この「ターナー」という名も持ち主の
 名前だった。
  この人権無視社会=アメリカのバージニア州サザンプ
 トンでこの反抗行動は実行された。
  黒人の方々は、これまで、ただ虐げられていたが、こ
 の時、ただ虐げられていたのではなく、白人アメリカ人
 の不正に、はっきりと抵抗の意思を示した。
  アメリカ国中に大きな影響力を与える「大きな規模の
 反抗」だった。
  結局、白人・アメリカ人の社会は、連邦軍を出動させ、
 強力な武力で鎮圧した。
  100人以上の黒人の方々が殺され、16人の奴隷黒人と、
 3人の自由黒人と、指導者のターナーが処刑された。
  この出来事は、黒人奴隷の方々に、激しい解放への意
 欲をかき立てた。
  これまで、黒人の方々は・・、
  1800年に、ゲイブリエル・プロッサーの反抗(暴動)、
  1822年のデンマーク・ビージーの反抗(暴動)などで
 抵抗して来ていた。
.
1840年、アメリカの奴隷制廃止運動家のジェームズ・バー
 ニーは、自由党(リバティ・パーティ)を結成した。
  リンカーンが、「奴隷解放の父」というアメリカ北部
 政権のプロパガンダ(嘘宣伝)ほど、世界中を惑わし、
 欺(あざむ)く嘘はない。
  黒人の方々が、どれほど自由を得ようと命を張って努
 力されたかである。
  黒人の方々が、奴隷という非人道的地位から脱出する
 過程を、調べれば調べるほど、その血塗られた努力の話
 が満ちている。
  「リンカーンが解放を与えた」的な話ではない。
  このアメリカ北部政権の酷(ひど)い虚言(きょげん、
 他人をあざむく言葉)が、明らかになって行く。
  黒人の方々が、抑圧され、抑え込まれて居る状況から
 目覚め、自由を得たいとあらゆる活動をし始める中にお
 いて、時には、白人・アメリカ人が「暴動だ」と蔑(さ
 げす)んで言うような抵抗・実力行使も行なった。
  この黒人の方々の「自由獲得行動」は、だんだんと、
 アメリカ国内に賛同する人、同調をする人々が増えて行
 った。
  最初は、なかなか理解者は増えなかったが・・、当然
 のごとく勇気を得た黒人の方々も立ち上がって行き、増
 えて行ったが・・労働者、婦人、農民、進歩的知識人な
 どだった。
  そして、その理解者たちの結集が図られて行った。
  1840年、奴隷制廃止運動家のジェームズ・バーニーは、
 自由党(リバティ・パーティ)を結成した。
  そして、この年の大統領選挙に立候補した。
  1843年には、奴隷解放運動家の大御所のダグラスが加
 わった。
  また、多くの黒人奴隷制廃止主義社も自由党に入党し
 た。
  1844年にも、自由党は、バーニーを大統領選挙に立候
 補させた。
  この時、バーニーが主張したことは・・、
  「アメリカの首都・ワシントンの奴隷制を廃止しよう」
 だった。
  また、「奴隷制が、準州へ拡大して行かない様にしよ
 う」だった。
  そして、奴隷制の卑劣さを訴えた・・「奴隷制度は自
 然権に反する」・・と。
  (参考)自然権:しぜんけん、人間が、自然状態(政
     府ができる以前の状態、法律が制定される以前
     の状態)の段階より保持している生命・自由・
     財産・健康に関する不可譲の権利。
      人権は、自然権の代表的なものとされている。
  また、アメリカが、メキシコから「テキサスを奪おう
 としている事」に反対した。
  また、「メキシコとの戦争」にも反対した。
  そして、1846年8月8日には、アメリカが、卑劣な行為
 を行なってメキシコから奪ったテキサスなどの地域に、
 「奴隷制度が広がることに反対し『奴隷制度禁止地域に
 せよ』と主張した(ウィルモット建議が提出された)」。
  このウィルモット建議は、その他の既存政党に大きな
 影響を与えた。
  ホイッグ党は、この影響を受け、その容認を巡って決
 着がつかず分裂した。
  民主党も、党内の統一が図れずに二派になって対立し
 た。
  1848年には、自由党員が、これ等の既存政党の分裂・
 分派した人々の受け皿となり、自由土地党を結成した。
  スローガンは、「自由な土地、自由な言論、自由な労
 働、自由な人間(奴隷という虐げのない社会)」だった。
  この奴隷解放の活動の経緯の中に、「奴隷解放の父だ
 と言われるリンカーン」の「リ」の字も出て来ない。
  そして、アメリカ北部政権は、1850年、「逃亡奴隷取
 締法」という奴隷を虐げる卑劣な法律を制定した。
  そして、南北戦争に至って行く。
.
1856年、ブルックスによるサムナー殴打事件など・・
  ブルックスは、反奴隷制運動の政治家で・・、サムナ
 ーが3時間に及ぶ人格攻撃の、また、卑劣な言葉(売春婦
 などに関係した演説・・具体的に書けない低劣な演説)
 品位のない演説をした・・
  怒りが収まらないブルックスは、この演説の2日後、金
 製の頭が付いた杖で、サムナーの頭を狙って殴ったとい
 う事件。
  1776年7月4日にアメリカが独立して、憲法を作ったが・・、
  その憲法という国の基本においても・・アメリカは、
 非人道的行為である奴隷制度を廃棄できなかった・・
 奴隷条項のある憲法だった。
  そして、その後も、アメリカは、黒人の方々を非人道
 的に虐げるという体たらくな行為を続けた・・
  綿花栽培が盛んになると・・、
  アメリカ南部だけでなく、アメリカ北部も、この綿花
 を扱った木綿工業が急速に発達した。
  そして、安価な労働力としての黒人奴隷の必要性から、
 アメリカ北部の資本家も、その労働力の要求も拡大した。
  そして、アメリカ西部も同様な動きが見られた。
  アメリカ北部とも紐帯(ちゅうたい、二つのものを結
 びつけて、つながりを持たせる)を深めた。
  マルクスは言う・・、
  「奴隷所有者の権力が、アメリカ北部の民主党と手を
 握って、ますます連邦を悪用して来たという事は、いわ
 ば今世紀(19世紀)初め以来のアメリカ合衆国の歴史の
 一般公式である。
  次々にとられた妥協的措置は、連邦をますます奴隷所
 有者の奴隷に転化する、相次ぐ侵蝕作用の度合いを示す
 ものであった}。
  1850年代のアメリカは・・、
  イギリスにとっての最大市場としての後進国的な特性
 と、先進工業国の地位への上昇転化の趨勢とが、相拮抗
 しはじめた状況にあった。
  そして、マルクスは、奴隷の方々の「暴動と言われる
 抵抗・反乱」に注目し、「生産体系全体を破滅させ得る」
 と理解し、見ていた。
  そして、それはただ単に、奴隷制度の制度的な矛盾だ
 けでなく、奴隷制度の方が商品経済機構の中で、工業の
 発展に対応しきれなくなり、自滅するだろうと見ていた。
  他の国の商品の生産性などで『敗れる』と見ていた。
  だから故に、アメリカの奴隷制による生産・商品化は
 行き詰まり、奴隷制は打破され、「奴隷は解放されるで
 あろう」と見ていた。
  つまり、アメリカは、「美しくリンカーンが奴隷を解
 放したと言いたい」のだろうが・・時代の流れの中で、
 奴隷は解放せざるを得ない段階に行き着いていたのだっ
 た。
  黒人の方々をアフリカに棄民したリンカーンは、「奴
 隷を解放するという言葉を宣言しただけ」だった。
.
1857年、アメリカ合衆国の『最高裁判所』が、「奴隷制度」
 について判決を下した(最高裁の最終判決・・アメリカ
 の国としての意思=最終判決)
  ある一人の黒人奴隷の方が、堂々と、アメリカ合衆国
 を相手に、最後まで戦った、法廷闘争をした・・
 『トレッド・スコット判決』が下りた(ドレッド・スコ
 ット対サンフォード事件)
  黒人奴隷の方が敗訴になったが・・、以下が、その判
 決である・・、
  (1)黒人奴隷ならびにその子孫は、所有者の財産であ
   って、合衆国の市民ではない。
    劣等人種である彼らは、白人と同等の権利を持つ
   ことはできない。
    だから、黒人であるスコットには、連邦裁判所に
   提訴する権利は与えられていない。
  (2)スコットは、ミズーリ州の市民ではない。
    したがって、この事件は、異なる州の市民の間の
    訴訟ではないから、連邦裁判所には、この事件に
    ついての管轄権がない。
     スコットがたとえ、一時的に自由州であるイリ
    ノイ州に住んでも、再び、ミズーリ州に帰って来
    た以上、彼は、ミズーリ州の法律に服さねばなら
    ず、イリノイ州の法律によって、自由を要求する
    事は出来ない。
     そのミズーリ州の法律によれば、「彼は、奴隷
    以外のなにものでもない」。
  (3)スコットが、北緯36度30分以北の自由地域に住ん
    だという事実は、決して彼を自由身分にするもの
    ではない。
     ・・というのは、連邦議会は、合衆国の準州に
    奴隷制度を禁止する権限を持っていないからであ
    る。
     したがって、1820年の「ミズーリ協定は憲法違
    反」であり、奴隷財産は、この国のどこででも(
    所有者の財産として)保護されなければならない。
  これは、「アメリカ北部政権の意思」を表わしていた。
  また、卑劣にも、ジェームス・ブカナン大統領は言っ
 た・・、
  「この判決に対し、私は、すべての善良な市民ととも
 に、その内容のいかんに関わらず喜んで従う」と。
  アメリカ合衆国のすべてが、そして、大統領が、卑劣
 な「奴隷制容認判決を喜ぶ」と言った。
  それを、現代になって、アメリカは、必死にプロパガ
 ンダして変えようとする。
.
1859年10月、ジョン・ブラウンの蜂起
  ジョン・ブラウンは、この壮挙が、「奴隷の方々の立
 ち上がる『蜂起の烽火(のろし)』となればと思った。
  結局、圧倒的多数の白人・アメリカ人の軍隊に殲滅さ
 せられてしまった。
  ジョン・ブラウンの二人の息子は戦死した。
  今、戦死と記したが、まさに、白人・アメリカ人の黒
 人奴隷の方々に対する非人道的行為に対する戦争だった。
  暴動と白人・アメリカ人は蔑視して言うが・・違う。
  自由を求めて、黒人の方々は『正義の戦争』を行なっ
 た。
  何人の黒人の方々が、自由を求めて命を落としたこと
 か・・
  白人・アメリカ人のリンカーンの与えた「奴隷解放」
 なんて・・「奴隷解放ではなかった」。
  むしろ、白人・アメリカ人たちが言う「リンカーンの
 奴隷解放」は、「白人・アメリカ人の敗北宣言」だった。
  どれほど、黒人の方々が、自由を欲して活動して来た
 か・・そして、その数々の事実が隠されて来たか・・、
  黒人の方々の歴史が、掘り起こされて来ている。
.
1860年、この年、アメリカは、約400万人もの黒人の方々を
 奴隷にしていた。
  アメリカが、隣国のメキシコを騙(だま)してまでし
 て欲しかった「メキシコ領・テキサス」などは、綿花で
 利益を得たい・・儲けたいからだった。
  この頃、それまでの長繊維の綿花に変わって、新品種
 の短繊維の陸地綿が導入された・・、
  その綿花が効率的に処理できる綿繰機(コットン・ジ
 ン)は、1793年に、イーライ・ホイットニーによって発
 明されていて、能率が150倍となり、
  さらに、水力を利用すればその効率は、1000倍にもな
 った。
  また、栽培技術も容易になる品種のため、生産量も飛
 躍的に増大した。
  当然、その儲けは、莫大に伸びた。
  それと共に、アメリカ西部の地を奪う何ら根拠のない
 「西漸説」、自分たちだけに都合の良い「西漸運動」が
 進められて行った。
  この欲にかられたアメリカは、「騙(だま)し」を、
 隣国のメキシコや、先住の民・アメリカインディアンの
 方々へ行って、その方々の土地を奪って行った。
  そして、綿花畑にして行った・・、
  それまでは、かつての綿花は、狭小な「サウスカロラ
 イナ」や「ジョージア」の海岸沿いの狭小の地で、わず
 かに行なわれていた。
  それが、「テネシー」「アラバマ」「ミシシッピー」
 「アーカンソー」「ルイジアナ」「テキサス」などと、
 広大な地域に広がった。
  その陰で虐げられ、騙され、泣く多くの人々が居た。
  肥沃な黒土に覆われたその黒土地帯は、広々と広がる
 地は・・綿花栽培に適し、奪われて行った。
  そして、そこに、奴隷にされた黒人の方々が連れて来
 られた。
  黒人の方々が、住民の過半数を占めるほどになる「黒
 人奴隷地帯」が生まれた。
  白人・アメリカ人のWASP(W:白人、AS:アン
 グロ・サクソン、P:プロテスタント・キリスト教徒)
 が働かなくても、黒人の方々に働かせて、美味しい汁を
 吸う地だった。
  綿花生産は増大し、黒人奴隷数も増大して行った。
  1860年には、黒人の奴隷にされた方々は、395万人にな
 った。
  アメリカは、南部も北部も、黒人の方々の低廉な労働
 力を奴隷として得たいとして、虐げて得ていた。
  (今、アメリカの政治を牛耳る「北部系の論理」は、
 奴隷制は南部だとしている・・が、
  悪いことは南部だと押し付け、北部は違うと言ってい
 る・・が、しかし、これは真っ赤なウソ・・
  アメリカの総べてが、黒人の方々を虐げて、低廉な労
 働力を求めて、奴隷としていた)
  今・現代においても、アメリカ南部で「嘆(なげ)か
 れている言葉」は・・、
  「黒人たちを教育しても、皆、北部の資本家に吸い取
 られてしまう」・・である。
  北部資本家が、安い黒人の方々の労働力を奪っている
 という嘆きの声である。
.
1860年、アメリカのこの年の綿花生産量は、383万べールで、
 1790年の0.3万べールの1300倍になった。
  その多くが、イギリスへ輸出された。
  アメリカの総輸出額の半分以上だった。
  (参考)ベール:綿花や干し草、羊毛などに用いられ、
    素材を圧縮しビニールや布などで巻いたり、テー
    プなどで帯をかけたりする梱包。似た単位に「袋」
    「樽」「ロール」「束」「ドラム」などがある。
.
1951年4月19日、ワシントンD.C.のアメリカ上下院の合同会
 議におけるマッカーサー離任演説は・・、
  「・・戦後、日本国民は、近代史に記録された中では、
 最も大きな改革を体験して来ました。
  見事な意志と、熱心な学習意欲・・、
  そして、驚くべき理解力によって、
  日本人は、戦後の焼け跡の中から立ち上がって、個人
 の自由と人間の尊厳の優位性に献身する殿堂を日本に打
 ち立てました。
  そして、その後の過程で、政治道徳、経済活動の自由、
 社会正義の推進を誓う、真に国民を代表する政府が作ら
 れました。
  今や日本は、政治的にも、経済的にも、そして、社会
 的にも、地球上の多くの自由な国々と肩を並べています。
  世界の信頼を裏切るようなことは2度とないでしょう。
  最近の戦争、社会不安、混乱などに取り巻かれながら
 も、これに対処し、前進する歩みをほんの少しも緩める
 ことなく、共産主義を国内で食い止めた際の見事な態度
 は、日本が、アジアの趨勢に非常に有益な影響を及ぼす
 ことが期待できることを立証しています。
  私は、占領軍の4個師団を、すべて朝鮮半島の戦場に
 送りましたが、その結果、日本に生じる力の空白の影響
 について、何のためらいもありませんでした。
  結果はまさに、私が確信していた通りでした。
  日本ほど穏やかで秩序正しく、勤勉な国を私は知りま
 せん。
  また、人類の進歩に対して将来、積極的に貢献するこ
 とがこれほど大きく期待できる国もほかに知りません」
  「・・(中略)・・私は、今、52年にわたる軍務を終
 えようとしています。
  今世紀に入る前に、私が陸軍に入隊したとき、それは、
 私の少年時代の希望と夢が成就した瞬間でした。
  私が、ウェストポイント(陸軍士官学校)で兵士にな
 る宣誓をして以来、世界は何度も向きを変え、希望や夢
 はずっと前に消え失せてしまいました。
  しかし、当時、兵営で最も人気が高かったバラードの
 一節を今でも覚えています。
  それは、誇り高く、こう歌い上げています。
  『老兵は死なず。ただ消え去るのみ』と。
  そして、このバラードの老兵のように、私もいま、私
 の軍歴を閉じ、消え去ります。
  神が光で照らしてくれた任務を果たそうとした1人の老
 兵として。さようなら」。
.
1997年2月19日、鄧小平(とうしょうへい)が死んだ。
  鄧小平は、中国(中華人民共和国)の政治家だが、毛
 沢東の死後、中国の最高指導者となった。
  この鄧小平の死んだこの年から遡(さかのぼ)ること
 48年前の1949年に、中華人民共和国が成立した。
  そして、その29年のちの1978年に、毛沢東が死んで、
 ようやく、その29年間も続いた恐怖政治が終わった。
  毛沢東の政権下では、何回も、自国民が1000万人単位
 で虐殺されるような政治だった。
  その後を継いだ鄧小平は、経済を開放した。
  しかし、1989年に、天安門で虐殺事件を引き起こした。
  鄧小平が改革開放を始めた頃は、鄧小平が望んだこと
 は・・、
  「貧しい中国では、豊かになれる者から豊かになり、
 近代化をして、そして、日本の経済規模を越えて行きた
 い・・、
  そしてまた、アメリカをも越えて行きたい」だった。
  また、この時に、世界へ、中国が思わせたことは、中
 国の制度の違いによる恐れとか、警戒感とかは抱かせず、
 中国の台頭は、『完全に平和的なもの』であり、
  また、既存の権力構造を変化させるものでなく、国際
 ルールに従って行くだった。
  GATT(関税、及び、貿易に関する一般協定)にも
 参加して、遵守姿勢を示した。
  国際法にも、遵守姿勢を示した。
  知的財産権や私的財産権、著作権などの「ルールに従
 います」だった。
  いつまで、この「借りてきた猫」状態が続くか?
  この初期段階の中国の様子に、世界は騙された。
  中国にとっては、この段階は、大成功だった。
  しかし、中国は、『国内の一党独裁体制』は維持しな
 がら、それ以外の国際的な事は「受け入れる」としただ
 けだった。
  中国は、経済的に発展することが出来た。
  その発展と共に、「中国軍の規模や編成が発展・拡大」
 した。
  普通、この様な場合、アメリカやロシアや日本は、注
 意を払い、警戒感を抱き、「戦略の論理」が働く訳なの
 だが・・、
  中国の国際的行動方針・平和的な方針に、警戒的な反
 応を示す事はまったくなかった。
  しかし、これは、中国の取った初期の段階だけに通用
 したことだった。
  中国の次の方針には、その様には行かない状態に至っ
 た。
  つまり、規模が大きくなり、経済的に豊かになり、軍
 備を拡張するようになると、他国はその凄い状況・状態
 に刺激された。
  それまで、アメリカの対中政策は、1972年以降、「毛
 沢東が率いる中国を、あらゆる面で助けて、国力をアッ
 プさせ、ソ連に対抗させる」というものであった。
  しかし、2000年代後半になると、アメリカは、中国が
 あまりにも豊かに成り過ぎる事・拡大する事を恐れ始め
 た。
  中国のGDPは爆発的に伸び、国防費は莫大になった。
  しかし、2000年頃までは、「平和的台頭」で、中国は、
 国際的な規範や制度、そして、法律などを良く守り、
  WTOやIMF(国際通貨基金)にも加盟したために、
  どこの国にも脅威を感じさせず、与えなかった。
  しかし・・今は・・違う・・、
.
2000年以降、中国は、この頃までは、平和的な方針をとっ
 ていた。
  この為、日本やアメリカをはじめとする国々から、支
 援や投資を受けることが出来た。
  中国経済は拡大した。
  中国の方針は成功していた。
  中国のリーダーたちも、世界の状況をよく知ろうとし、
 また、その結果から、理知的な方針を取っていた。
  中国のリーダーたちは・・中国の国内の激しい内部闘
 争を生き抜いて来た人物ばかりだった。
  一旦、権力の座から落ちれば、自分だけではなく、家
 族や親族までもが命を失うという中国を生き抜いた人物
 たちだった。
  この頃は、「世界に調和して発展する」という方針を
 とった中国が存在していた。
  しかし、この方針が崩れる・・それが、2000年1月に起
 きた「リーマン・ショック」という、戦後最大の国際金
 融危機の後からだった。
  世界の経済構造が変化し始めた。
  中国も影響を受け、変わって行った。
.
2017年9月15日、午前6時57分、北朝鮮は、平壌近郊の順安
 (すあん)から中距離弾道ミサイル「火星12型」を発
 射した。
  ミサイルは、3700キロを飛翔した。
  アメリカの軍事拠点であるグアムを攻撃可能範囲に収
 めた。
  金正恩(キム・ジョンウン)委員長は以下のことを述
 べた(朝鮮中央通信)、
  ▽今回の訓練で火星12型の「戦力化が実現した」。
  ▽今後は「各種の核弾頭を実戦配備」する。
  ▽「最終目標は、アメリカと実際の力の均衡を確立す
   る事」だ。
  ▽国家核戦力の完成という「終着点にほとんど到達し
   た」ので「全国家的な力を集中」して結束を見る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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# by suba28 | 2017-10-10 04:31 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)559E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年6月)

題:(増補版)559E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年6月4日、琵琶湖疎水を利用した日本初の水力発電所
 である京都蹴上発電所(けあげはつでんしょ)が開業し
 た。
  1890年(明治23年)に通水を開始した琵琶湖疏水第1
 疏水に関連し・・、
  翌年・1891年(明治24年)6月に、第一期蹴上発電所が
 運転を開始した。
  営業用としては日本最初の水力発電所で・・、
  総工費は、30万円にて竣工した。
  2016年、米国電気電子学会 (IEEE) より『IEEEマ
 イルストーン』に認定された。
  (参考)IEEEマイルストーン:アイトリプルイー
    マイルストーン)は、IEEEIが、電気・電子技
    術やその関連分野における歴史的偉業に対して認
    定する賞。
     これに認定されるためには、25年以上に渡って
    世の中で高く評価を受けてきたという実績が必要。
1892年6月6日、衆議院が、「鉄道敷設法」案を委員会修正
 案どおり可決し、貴族院に回付した。
1892年6月7日、貴族院が、「鉄道敷設法」案の第1読会を開
 き、同法案を審議した。
  後日、貴族院は、衆議院の修正案どおり「鉄道敷設法」
 案を可決した。
1892年6月7日、野球の代打が初めて行われる(前年に制定)
  因みに、通算代打起用回数のセ・リーグ記録は、宮川
 孝雄の778回、パ・リーグは、高井保弘の559回。
  通算代打打率(起用数300以上)セ・リーグ記録、若松
 勉.349、パ・リーグ記録、五十嵐信一.292、
1892年6月13日、天皇陛下が、予算に対する協賛権は、貴族
 院・衆議院に差はないとの裁定を下された。
  協賛権(きょうさんけん)は、旧憲法下で、帝国議会
 に与えられていた協賛(きょうさん、旧憲法で、議会が
 法律案・予算案を成立させるための意思表示をすること)
 の権限で、法律・予算の制定者であられる天皇陛下に対
 して協力するための権限とされた。
1892年6月13日、停車場内人力車備置規則を制定し(鉄二第
 290号)構内人力車営業を駅長の管理下に統一した。
1892年6月14日、両院協議会が、予算修正につき妥協、両院
 で可決した。
1892年6月16日、小包郵便法を公布した(6月17日説あり)
  経緯・・
  1871年、郵便に関わる太政官布告が交付され、郵便制
     度が施行。最初の郵便切手が発行された。
  1873年、日米郵便交換条約調印。
  1875年、外国郵便の取扱開始、郵便貯金・郵便為替の
     取扱施行。
  1876年、上海と釜山浦に在外郵便局を開設。
  1877年、万国郵便連合(UPU)に加盟。ただし在日局の
     撤退はイギリスが1879年、フランスが1880年。
  1885年、逓信省創設。国際郵便を正式にあつかいはじ
     める。
  1892年、小包郵便の取扱開始。
1892年6月17日、東京の日本赤十字社病院が新築落成した。
  皇后陛下が行啓されて、開院式を行った。
  日本赤十字社の創立者(初代社長)は、佐野常民(さ
 のつねたみ)
  日本赤十字社は、1877年に設立された博愛社が前身。
  1886年、日本政府がジュネーブ条約に加入したことを
 受けて・・、
  翌年・1887年に、名称を日本赤十字社と改称した。
  博愛社は、1877年2月に発生した西南戦争の時、佐野常
 民と、大給恒(おぎゅうゆずる)の両元老院議官によっ
 て設立された。
  救護を目的とする団体で、西南戦争では、明治政府軍
 と薩摩軍の激しい戦闘が繰り広げられ、両軍ともに多数
 の死傷者を出た。
  この時、この悲惨な状況に対し佐野と大給の二人は、
 救護団体による戦争、紛争時の傷病兵の救護の必要性を
 痛感した。
  ヨーロッパにある赤十字と同様の救護団体を作ろうと
 思い立った。
  1877年、佐野と大給を発起人として、政府に救護団体・
 博愛社の設立を願い出た。
  しかし、この願いは認められなかった。
  その理由は・・、
  『このような考えは素晴らしいことではあるが・・、
  (1)現地には救護に必要な医師等は派遣しており、医
    療は足りている。
  (2)今、新しい組織を作って戦地に送れば、混乱をき
    たす。
  (3)欧州で国家間の戦争の際に組織(赤十字)を作っ
    て救護することは知っているが、このたびの内戦
    にまで適用されるものなのかどうかは分からない。
  (4)このような組織の創設は、平和な時に十分時間を
    かけて検討すべき。「明治政府からの回答書」
  しかしながら、戦場ではおびただしい数の負傷兵が手
 当てもされず、放置されていたことは事実で、博愛社の
 設立を急いだ佐野は、征討総督・有栖川宮熾仁親王(あ
 りすがわのみや・たるひとしんのう)に直接、博愛社設
 立の趣意書を差し出すことに意を決し、
  1877年5月、熊本の司令部に願い出た。
  有栖川宮熾仁親王は、英断をもってこの博愛社の活動
 を許可された。
  救護活動の許可を得た博愛社の救護員は、直ちに現地
 に急行し、官薩両軍の傷病者の救護にあたった。
  (日本赤十字社のホームページを参考にした)
1892年6月18日、ハワイ王国に、マカダミアナッツが持ち込
 まれ、商業栽培が開始された。
  原産地はオーストラリアのクイーンズランド州で、先
 住民のアボリジニの方々の間では、ブッシュ・タッカー
 として、好んで食されていた。
  1921年に、ハワイ大学で商業生産を目指した品種改良
 の研究が始まった。
  20年間の研究の努力の結果、商品化に成功した。
  1950年代頃までに、日系アメリカ人のマモル・タキタ
 ニが、マカダミアナッツとチョコレートの相性が良いこ
 とに注目して、
  ナッツをチョコレートで包んだものを製品化すると、
 爆発的な人気を呼んだ。
  これが、マカダミアナッツ製品で最も消費量が多いハ
 ワイアンホースト社製のチョコレートとなった。
1892年6月21日、鉄道敷設法が公布された(法律第4号)
  これは、鉄道建設の基本法で、予定線33路線のうち、
 第1期線は、中央・山陽・北陸など9線・・、
  そして、工事着手順や募集公債金額などを決定するた
 め鉄道会議の設置を規定した。
  また、第1期建設予定線の建設に充当するために、1892
 年(明治25年)から12年間に、6000万円を限って公債を
 募集することとした。
  この法は・・全16条から成る。
  予定の線路を調査し敷設することを明らかにし・・
  第2条で、中央線以下14線33本の予定線を、
  第7条で、そのうち第l矧工事として実測l建設すべきも
 のを列挙した。
  その費用は、公債をもって充て(第4条)、 12年間に第
 1期工事を完成すべきものとした(第8条)。
  また、鉄道会議を設置して工事着手の順序、建設資金
 募集の公債発行額を諮問することを定めた(第15条)。
  買収については、既成私設鉄道のうち第2条に掲げた予
 定線路のため、買収の必袈があると認められるものは、
 政府がその会社と協議して価絡を定め、議会の協賛を求
 むべきものとした(第11条)。
  その他、予定線のうち、私設鉄道から敷設の許可を願
 い出たときは、談会の協賛を経て、許可することがある
 とした(第14条)・・重要な例外規定。
  この敷設法の公布によって、わが国の鉄道は、創設期
 をおわり、確固たる方針のもとに秩序ある発展の第一歩
 を踏み出した。
1892年6月21日、鉄道会議規則が公布された(勅令第51号)
  鉄道会議(てつどうかいぎ)は、1892年6月21日~1949
 年6月1日まで、鉄道敷設法16条に定められた「鉄道会議
 規則」(明治25年勅令第51号)に基づいて、鉄道担当官
 庁(内務省→逓信省→鉄道省→運輸通信省→運輸省)に
 設置された諮問会議。
  鉄道敷設法で定められた「鉄道建設の順序」や「鉄道
 公債の発行」などについて主管大臣に諮問した。
  ただし、実際には、鉄道政策全体について諮問してい
 る。
  定数は議長1名・議員20名(ただし、臨時議員として複
 数名の追加が認められた)・幹事1名で構成された。
1892年6月21日、シベリアを単騎横断した福島安正中佐が、
 ウラジオ~釜山を経て、1年を費やしての長崎への帰着だ
 った。
  駐ドイツ公使館付武官を辞任して、シベリアに向かっ
 ていた。
  長崎市民は、世界的英雄を迎てえ、諏訪公園丸馬場に
 て盛大な歓迎会を開催した。
  福島安正中佐は、1892年6月29日に、新橋駅に降り立っ
 た。
  陸軍軍人・男爵。長野県生(1852年~1919年)
  信濃松本藩士福島安広の長男。
  司法省に入り、1874年、陸軍省に移る。
  語学力に優れ、1882年、朝鮮に派遣され、朝鮮の調査、
 そして、1883年に北京公使館付武官となり、満州、およ
 び、モンゴル方面を踏査した。
  1886年には、インド半島を軍事視察し、
  1887年には、駐独武官となってバルカン半島を視察し
 た。
  この帰国に際して、ロシアのシベリア鉄道建設の状況
 視察のため、1年4か月かけて、シベリア横断となった。
  日清戦争の際は、第一軍参謀、
  1895年3月から約2年間、ヨーロッパ、アジアを探検旅
 行、帰国後は参謀本部第三、次いで第二部長、
  日露戦争時は満州軍参謀、
  日露戦争後、1906年に参謀次長、中将に進み、
  1912年には関東都督となり満州経営に当たる。
  1914年、大将に進む。
  のち退官した。
  1919年(大正8年)逝去、68歳。
  勲三等旭日勲章が授与された・・男爵。
.
  (今日の言葉)
.
  題:1857年、アメリカ合衆国のすべてが、そして大統領が、卑劣な『奴隷制容認判決』を喜んだ。
    そして、それを、現代になって、アメリカは、必死にプロパガンダして変えようとしている。
    そして、1859年10月、初めの反乱=黒人のジョン・ブラウンの蜂起が起きた・・、
.
紀元前3世紀~2世紀、サルナートは、紀元前3世紀~紀元前
 2世紀、アショカ王の時代と、紀元後5世紀~紀元後6世紀
 のグプタ朝時代に栄えた『仏教教学の聖地』である。
  この地で、釈迦は4ヶ月ほど暮らし、玄奘も中国から
 はるばる訪ねて来て経典を学んだ。
  (参考)サールナートは、インドのウッタル・プラデ
     ーシュ州にある地名。
      ヴァーラーナシー(ベナレス)の北方約10km
     に位置する。仏教の四大聖地のひとつ。
      漢訳仏典では旧訳で「仙人堕処」、新訳では
     「仙人住処」と訳出される。
      釈迦が悟りを開いた後、鹿が多く住む林(旧
     訳「施鹿林」、新訳「鹿野苑」)の中で、初め
     て教えを説いた初転法輪の地とされる。
.
196年、董遇(とうぐう)が、郡から孝廉に推挙され、黄門
 侍郎にまで昇進した。
  中国の後漢(25年~220年)の学者の董遇が、「読書百
 篇義自ずから見る」という言葉を残した。
  意味:「どんなに難しい書物であっても、繰り返し読
 むうちに意味が自然と分かる様になるものだ」・・、
  董遇は、字(あざな、成年後、実名のほかにつける別
 名)を季直(きちょく)といい、弘農郡(こうのうぐん、
 河南省に設置された郡) の人。
  生没年は不明。
  関中(かんちゅう、中国の西安を中心とした一帯)が
 乱れると、兄とともに将軍・段珪(だんけい、?~ 189年、
 後漢時代末期の宦官)に身を寄せた。
  生活は苦しかったが、農事や行商の間にも経書(けい
 しょ、儒学の経典。四書・五経など)を手放さなかった。
  196年、郡から孝廉に推挙され、黄門侍郎にまで昇進し
 た。
  董遇は、献帝(けんてい、後漢最後の皇帝)の寵愛と
 信頼を得た。
  218年、吉本らの曹操暗殺計画(毒殺計画)が発覚し、
 董遇は参画していなかったが、なお、取り調べを受け、
 閑職に遷(うつ)された。
  政権奪取とかの話ではなく、恨みつらみのレベル・・。
.
1662年、台湾。
  台湾は、台湾原住民の方々だけが住む地であった。
  しかし、現在は、台湾原住民は2.3%である。
  17世紀の大航海時代、オランダ及びスペインが植民し
 た。
  台湾は、ポルトガル語で「フォルモサ=麗(うるわ)
 しの島」と呼ばれた。
  1662年になって、明(みん)寄りの支持者である鄭成
 功(ていせいこう、日本名:福松、母が日本人で、半分、
 日本人の血が流れている)がオランダを追放した。
  これ以降、漢民族が流入した(日本人が流入しても良
 い場面であった)
  台湾原住民とも混血した。
  しかし、現在、DNAの調査によれば、8割が南方アジ
 ア系である。
  鄭成功は、日本の平戸で生まれた、
  父は鄭芝龍で、母は、日本人の田川マツ。
  父・鄭芝龍(福建省生まれ)は、朱印船貿易の関係で
 日本に来た。
  そして、平戸藩主の松浦隆信の寵を受け、平戸に住ん
 だ・・そして、結婚し、鄭成功が生まれた。
  鄭一族は貿易商で、海賊や商売敵との抗争のために武
 力を持っていた。
  そして、明治の時代、この台湾のことを、現在の中国
 政権の前の「中国の清国政権」は、「化外の地」と日本
 政府へ言った。
  (参考)化外:けがい、統治のおよばない地。
  つまり、台湾は、「中国とは、まったく関係のない地
 です」と日本政府へ言った。
  しかし、現在の中国政権は、「台湾は、中国の一部で
 ある」と言い出した。
  だから、中国のこの勝手な解釈のもとに行動を起こし
 ても良いのだと言外(げんがい、直接は言葉にださない
 ところ)に言っている。
  何をやっても、「国内問題」だと・・。
  勝手な言い掛かりから、強引な行為に及ぶことは・・
 この解釈の違いから生じて行う行為は・・卑劣な戦争が
 惹起(じゃっき、事件・問題などを引き起こすこと)さ
 れる恐れがある。
.
1820年1月26日、ミズーリ協定
  アメリカのミズーリ州を、奴隷州として州昇格を認め
 る法案を条件付きで成立させた。
  その条件は、イリノイ州選出のジェシー・B・トーマス
 議員から、今後、北緯36度30分線の北にあるミズーリ準
 州から奴隷制を排除するという動議を採択した。
  この条件は、後に、憲法違反との判決が出て、まった
 く無くなる。
.
1829年、自由黒人のデイビット・ウォーカーの奴隷解放活
 動・・
  激烈な社会的影響を与えた一冊のパンフレットを、こ
 の年に書いた。
  アメリカ大統領のリンカーンが、「奴隷解放」を行な
 ったというのは、白人・アメリカ人のデッチ上げで・・、
  黒人の方々が、地道に解放へ向かって努力して行った。
  虐げられる黒人の方々は、色々な方法で・・
  そして、活動する黒人の方々は、命を賭して・・
  必死に、「自らの自由を得たい」という活動を行ない・・
  そして、奴隷解放を『成した偉業』なのである。
  白人・アメリカ人は、自らの卑劣な行為=「同じ人間
 を人家畜化し、所有して、使役し、それも、「虐げ行為
 を伴って行なった」という行為を隠そうと、
  白人・アメリカ人のリンカーンが、「奴隷解放をした」
 という話をデッチ上げた・・そして、隠した。
  リンカーンが、「どんな奴隷解放の積極的活動をして
 来たというのか?」
  「奴隷解放宣言」は、その状況になって、やむ無く行
 っただけで、リンカーンは、大統領の就任演説において
 さえ、「奴隷解放」のことを一言も触れなかった。
  『奴隷解放の栄誉』を、白人・アメリカ人は、黒人の
 方々から奪うという「恥の上塗り的行為」を行なってい
 る。
  1829年、自由黒人のデイビット・ウォーカーは、一冊
 のパンフレットを書いた。
  そのパンフレットには、極めて刺激的な事が書かれて
 いた・・、
  「・・反対に、もしも我々(黒人)が、彼ら(白人、
 特に、奴隷所有者)を奴隷にして、残忍な奴隷制度の中
 に縛り付ける様な事をしたとしたら、
  彼ら(白人)は、一体、どんな気がするだろうか?・・
  私は、君たちにたずねたい。
  君たちの母親や妻や幼い子供の生命を奪う暴君の奴隷
 となるくらいなら、君たちは、むしろ殺されることを望
 むのではないか?・・
  信じ給(たま)え、君たちを殺そうとするような、そ
 んな人間を君たちが殺すのは、喉が渇(かわ)いた時に、
 一杯の水を飲むのと同じくらい当然のことではないか」
 ・・と、
  これは、『ウォーカーの訴え』として知られ・・、
  白人・奴隷所有者らに大きな衝撃を与えた。
  黒人の方々も、ただただ、白人・アメリカ人に虐げら
 れるだけでなく、自らの自由を獲得したいとの当然の声
 を上げ始めた。
  また、1831年1月1日には、ウィリアム・ロイド、ガリ
 ソンが、「解放者(リベレーター)」を、ボストンで週
 刊で発刊し始めた。
  ジョージア州政府が、ガリソンの逮捕に5,000ドルの賞
 金を掛ける様なこともあった。
  1833年には、奴隷制反対協会が設立された。
  この組織は、1840年までに、2000の地方支部に拡大し、
 会員総数は20万人を数えた。
  定期刊行物やパンフレットの発行などの広報活動、議
 会への大衆動員をしての請願運動などを行なった。
  因みに、この請願を受ける議会側に、あのでっち上げ
 られたリンカーンも居た。
  この様な奴隷解放活動家は、常に、命の危険にさらさ
 れていた。
  金を持った奴隷制維持権力は、激しい攻撃や弾圧、そ
 して、「卑劣なテロ行為」を加えた。
  その一つが、1837年11月、イリノイ州のオルトンで、
 奴隷制廃止主義者のイライジャー・ラビジョイが殺され
 た。
  この殺害犯人たちは捕らえられたが、罰せられるどこ
 ろか、官憲(かんけん、政府の権力・権限、もしくは、
 官吏の権力・権限)の手で釈放された。
  この様な黒人の方々の自らの解放の努力の例は、まだ
 まだ、沢山ある。
  白人・アメリカ人が、「奴隷解放を成した」、または、
 「奴隷解放を与えた」というのは、「真っ赤な作り話の
 嘘」。
  白人・アメリカ人は、卑劣な非人道的行為者側に居た。
  黒人の方々を、奴隷としての地位に置いて・・、自ら
 の利益を追求する側に居た。
  黒人の方々の「名誉の自由獲得行為」の名誉まで奪う
 行為をしている。
  この事実は、世界記憶遺産に登録すべき項目だ
.
1831年8月21日、ターナーの暴動
  黒人の方々を、奴隷として使う白人・アメリカ人たち
 は、この黒人の方々の反抗を「暴動だ」と表現した。
  それ故に、この年のこの黒人の方々の反抗行動も暴動
 と表現された。
  教科書にも、歴史書にも、「黒人暴動」と記された。
  反抗をした黒人指導者のナット・ターナーは、自分の
 名も付けられず、この「ターナー」という名も持ち主の
 名前だった。
  この人権無視社会=アメリカのバージニア州サザンプ
 トンでこの反抗行動は実行された。
  黒人の方々は、これまで、ただ虐げられていたが、こ
 の時、ただ虐げられていたのではなく、白人アメリカ人
 の不正に、はっきりと抵抗の意思を示した。
  アメリカ国中に大きな影響力を与える「大きな規模の
 反抗」だった。
  結局、白人・アメリカ人の社会は、連邦軍を出動させ、
 強力な武力で鎮圧した。
  100人以上の黒人の方々が殺され、16人の奴隷黒人と、
 3人の自由黒人と、指導者のターナーが処刑された。
  この出来事は、黒人奴隷の方々に、激しい解放への意
 欲をかき立てた。
  これまで、黒人の方々は・・、
  1800年に、ゲイブリエル・プロッサーの反抗(暴動)、
  1822年のデンマーク・ビージーの反抗(暴動)などで
 抵抗して来ていた。
.
1840年、アメリカの奴隷制廃止運動家のジェームズ・バー
 ニーは、自由党(リバティ・パーティ)を結成した。
  リンカーンが、「奴隷解放の父」というアメリカ北部
 政権のプロパガンダ(嘘宣伝)ほど、世界中を惑わし、
 欺(あざむ)く嘘はない。
  黒人の方々が、どれほど自由を得ようと命を張って努
 力されたかである。
  黒人の方々が、奴隷という非人道的地位から脱出する
 過程を、調べれば調べるほど、その血塗られた努力の話
 が満ちている。
  「リンカーンが解放を与えた」的な話ではない。
  このアメリカ北部政権の酷(ひど)い虚言(きょげん、
 他人をあざむく言葉)が、明らかになって行く。
  黒人の方々が、抑圧され、抑え込まれて居る状況から
 目覚め、自由を得たいとあらゆる活動をし始める中にお
 いて、時には、白人・アメリカ人が「暴動だ」と蔑(さ
 げす)んで言うような抵抗・実力行使も行なった。
  この黒人の方々の「自由獲得行動」は、だんだんと、
 アメリカ国内に賛同する人、同調をする人々が増えて行
 った。
  最初は、なかなか理解者は増えなかったが・・、当然
 のごとく勇気を得た黒人の方々も立ち上がって行き、増
 えて行ったが・・労働者、婦人、農民、進歩的知識人な
 どだった。
  そして、その理解者たちの結集が図られて行った。
  1840年、奴隷制廃止運動家のジェームズ・バーニーは、
 自由党(リバティ・パーティ)を結成した。
  そして、この年の大統領選挙に立候補した。
  1843年には、奴隷解放運動家の大御所のダグラスが加
 わった。
  また、多くの黒人奴隷制廃止主義社も自由党に入党し
 た。
  1844年にも、自由党は、バーニーを大統領選挙に立候
 補させた。
  この時、バーニーが主張したことは・・、
  「アメリカの首都・ワシントンの奴隷制を廃止しよう」
 だった。
  また、「奴隷制が、準州へ拡大して行かない様にしよ
 う」だった。
  そして、奴隷制の卑劣さを訴えた・・「奴隷制度は自
 然権に反する」・・と。
  (参考)自然権:しぜんけん、人間が、自然状態(政
     府ができる以前の状態、法律が制定される以前
     の状態)の段階より保持している生命・自由・
     財産・健康に関する不可譲の権利。
      人権は、自然権の代表的なものとされている。
  また、アメリカが、メキシコから「テキサスを奪おう
 としている事」に反対した。
  また、「メキシコとの戦争」にも反対した。
  そして、1846年8月8日には、アメリカが、卑劣な行為
 を行なってメキシコから奪ったテキサスなどの地域に、
 「奴隷制度が広がることに反対し『奴隷制度禁止地域に
 せよ』と主張した(ウィルモット建議が提出された)」。
  このウィルモット建議は、その他の既存政党に大きな
 影響を与えた。
  ホイッグ党は、この影響を受け、その容認を巡って決
 着がつかず分裂した。
  民主党も、党内の統一が図れずに二派になって対立し
 た。
  1848年には、自由党員が、これ等の既存政党の分裂・
 分派した人々の受け皿となり、自由土地党を結成した。
  スローガンは、「自由な土地、自由な言論、自由な労
 働、自由な人間(奴隷という虐げのない社会)」だった。
  この奴隷解放の活動の経緯の中に、「奴隷解放の父だ
 と言われるリンカーン」の「リ」の字も出て来ない。
  そして、アメリカ北部政権は、1850年、「逃亡奴隷取
 締法」という奴隷を虐げる卑劣な法律を制定した。
  そして、南北戦争に至って行く。
.
1856年、ブルックスによるサムナー殴打事件など・・
  ブルックスは、反奴隷制運動の政治家で・・、サムナ
 ーが3時間に及ぶ人格攻撃の、また、卑劣な言葉(売春婦
 などに関係した演説・・具体的に書けない低劣な演説)
 品位のない演説をした・・
  怒りが収まらないブルックスは、この演説の2日後、金
 製の頭が付いた杖で、サムナーの頭を狙って殴ったとい
 う事件。
  1776年7月4日にアメリカが独立して、憲法を作ったが・・、
  その憲法という国の基本においても・・アメリカは、
 非人道的行為である奴隷制度を廃棄できなかった・・
 奴隷条項のある憲法だった。
  そして、その後も、アメリカは、黒人の方々を非人道
 的に虐げるという体たらくな行為を続けた・・
  綿花栽培が盛んになると・・、
  アメリカ南部だけでなく、アメリカ北部も、この綿花
 を扱った木綿工業が急速に発達した。
  そして、安価な労働力としての黒人奴隷の必要性から、
 アメリカ北部の資本家も、その労働力の要求も拡大した。
  そして、アメリカ西部も同様な動きが見られた。
  アメリカ北部とも紐帯(ちゅうたい、二つのものを結
 びつけて、つながりを持たせる)を深めた。
  マルクスは言う・・、
  「奴隷所有者の権力が、アメリカ北部の民主党と手を
 握って、ますます連邦を悪用して来たという事は、いわ
 ば今世紀(19世紀)初め以来のアメリカ合衆国の歴史の
 一般公式である。
  次々にとられた妥協的措置は、連邦をますます奴隷所
 有者の奴隷に転化する、相次ぐ侵蝕作用の度合いを示す
 ものであった}。
  1850年代のアメリカは・・、
  イギリスにとっての最大市場としての後進国的な特性
 と、先進工業国の地位への上昇転化の趨勢とが、相拮抗
 しはじめた状況にあった。
  そして、マルクスは、奴隷の方々の「暴動と言われる
 抵抗・反乱」に注目し、「生産体系全体を破滅させ得る」
 と理解し、見ていた。
  そして、それはただ単に、奴隷制度の制度的な矛盾だ
 けでなく、奴隷制度の方が商品経済機構の中で、工業の
 発展に対応しきれなくなり、自滅するだろうと見ていた。
  他の国の商品の生産性などで『敗れる』と見ていた。
  だから故に、アメリカの奴隷制による生産・商品化は
 行き詰まり、奴隷制は打破され、「奴隷は解放されるで
 あろう」と見ていた。
  つまり、アメリカは、「美しくリンカーンが奴隷を解
 放したと言いたい」のだろうが・・時代の流れの中で、
 奴隷は解放せざるを得ない段階に行き着いていたのだっ
 た。
  黒人の方々をアフリカに棄民したリンカーンは、「奴
 隷を解放するという言葉を宣言しただけ」だった。
.
1857年、アメリカ合衆国の『最高裁判所』が、「奴隷制度」
 について判決を下した(最高裁の最終判決・・アメリカ
 の国としての意思=最終判決)
  ある一人の黒人奴隷の方が、堂々と、アメリカ合衆国
 を相手に、最後まで戦った、法廷闘争をした・・
 『トレッド・スコット判決』が下りた(ドレッド・スコ
 ット対サンフォード事件)
  黒人奴隷の方が敗訴になったが・・、以下が、その判
 決である・・、
  (1)黒人奴隷ならびにその子孫は、所有者の財産であ
   って、合衆国の市民ではない。
    劣等人種である彼らは、白人と同等の権利を持つ
   ことはできない。
    だから、黒人であるスコットには、連邦裁判所に
   提訴する権利は与えられていない。
  (2)スコットは、ミズーリ州の市民ではない。
    したがって、この事件は、異なる州の市民の間の
    訴訟ではないから、連邦裁判所には、この事件に
    ついての管轄権がない。
     スコットがたとえ、一時的に自由州であるイリ
    ノイ州に住んでも、再び、ミズーリ州に帰って来
    た以上、彼は、ミズーリ州の法律に服さねばなら
    ず、イリノイ州の法律によって、自由を要求する
    事は出来ない。
     そのミズーリ州の法律によれば、「彼は、奴隷
    以外のなにものでもない」。
  (3)スコットが、北緯36度30分以北の自由地域に住ん
    だという事実は、決して彼を自由身分にするもの
    ではない。
     ・・というのは、連邦議会は、合衆国の準州に
    奴隷制度を禁止する権限を持っていないからであ
    る。
     したがって、1820年の「ミズーリ協定は憲法違
    反」であり、奴隷財産は、この国のどこででも(
    所有者の財産として)保護されなければならない。
  これは、「アメリカ北部政権の意思」を表わしていた。
  また、卑劣にも、ジェームス・ブカナン大統領は言っ
 た・・、
  「この判決に対し、私は、すべての善良な市民ととも
 に、その内容のいかんに関わらず喜んで従う」と。
  アメリカ合衆国のすべてが、そして、大統領が、卑劣
 な「奴隷制容認判決を喜ぶ」と言った。
  それを、現代になって、アメリカは、必死にプロパガ
 ンダして変えようとする。
.
1859年10月、ジョン・ブラウンの蜂起
  ジョン・ブラウンは、この壮挙が、「奴隷の方々の立
 ち上がる『蜂起の烽火(のろし)』となればと思った。
  結局、圧倒的多数の白人・アメリカ人の軍隊に殲滅さ
 せられてしまった。
  ジョン・ブラウンの二人の息子は戦死した。
  今、戦死と記したが、まさに、白人・アメリカ人の黒
 人奴隷の方々に対する非人道的行為に対する戦争だった。
  暴動と白人・アメリカ人は蔑視して言うが・・違う。
  自由を求めて、黒人の方々は『正義の戦争』を行なっ
 た。
  何人の黒人の方々が、自由を求めて命を落としたこと
 か・・
  白人・アメリカ人のリンカーンの与えた「奴隷解放」
 なんて・・「奴隷解放ではなかった」。
  むしろ、白人・アメリカ人たちが言う「リンカーンの
 奴隷解放」は、「白人・アメリカ人の敗北宣言」だった。
  どれほど、黒人の方々が、自由を欲して活動して来た
 か・・そして、その数々の事実が隠されて来たか・・、
  黒人の方々の歴史が、掘り起こされて来ている。
.
1860年、この年、アメリカは、約400万人もの黒人の方々を
 奴隷にしていた。
  アメリカが、隣国のメキシコを騙(だま)してまでし
 て欲しかった「メキシコ領・テキサス」などは、綿花で
 利益を得たい・・儲けたいからだった。
  この頃、それまでの長繊維の綿花に変わって、新品種
 の短繊維の陸地綿が導入された・・、
  その綿花が効率的に処理できる綿繰機(コットン・ジ
 ン)は、1793年に、イーライ・ホイットニーによって発
 明されていて、能率が150倍となり、
  さらに、水力を利用すればその効率は、1000倍にもな
 った。
  また、栽培技術も容易になる品種のため、生産量も飛
 躍的に増大した。
  当然、その儲けは、莫大に伸びた。
  それと共に、アメリカ西部の地を奪う何ら根拠のない
 「西漸説」、自分たちだけに都合の良い「西漸運動」が
 進められて行った。
  この欲にかられたアメリカは、「騙(だま)し」を、
 隣国のメキシコや、先住の民・アメリカインディアンの
 方々へ行って、その方々の土地を奪って行った。
  そして、綿花畑にして行った・・、
  それまでは、かつての綿花は、狭小な「サウスカロラ
 イナ」や「ジョージア」の海岸沿いの狭小の地で、わず
 かに行なわれていた。
  それが、「テネシー」「アラバマ」「ミシシッピー」
 「アーカンソー」「ルイジアナ」「テキサス」などと、
 広大な地域に広がった。
  その陰で虐げられ、騙され、泣く多くの人々が居た。
  肥沃な黒土に覆われたその黒土地帯は、広々と広がる
 地は・・綿花栽培に適し、奪われて行った。
  そして、そこに、奴隷にされた黒人の方々が連れて来
 られた。
  黒人の方々が、住民の過半数を占めるほどになる「黒
 人奴隷地帯」が生まれた。
  白人・アメリカ人のWASP(W:白人、AS:アン
 グロ・サクソン、P:プロテスタント・キリスト教徒)
 が働かなくても、黒人の方々に働かせて、美味しい汁を
 吸う地だった。
  綿花生産は増大し、黒人奴隷数も増大して行った。
  1860年には、黒人の奴隷にされた方々は、395万人にな
 った。
  アメリカは、南部も北部も、黒人の方々の低廉な労働
 力を奴隷として得たいとして、虐げて得ていた。
  (今、アメリカの政治を牛耳る「北部系の論理」は、
 奴隷制は南部だとしている・・が、
  悪いことは南部だと押し付け、北部は違うと言ってい
 る・・が、しかし、これは真っ赤なウソ・・
  アメリカの総べてが、黒人の方々を虐げて、低廉な労
 働力を求めて、奴隷としていた)
  今・現代においても、アメリカ南部で「嘆(なげ)か
 れている言葉」は・・、
  「黒人たちを教育しても、皆、北部の資本家に吸い取
 られてしまう」・・である。
  北部資本家が、安い黒人の方々の労働力を奪っている
 という嘆きの声である。
.
1860年、アメリカのこの年の綿花生産量は、383万べールで、
 1790年の0.3万べールの1300倍になった。
  その多くが、イギリスへ輸出された。
  アメリカの総輸出額の半分以上だった。
  (参考)ベール:綿花や干し草、羊毛などに用いられ、
    素材を圧縮しビニールや布などで巻いたり、テー
    プなどで帯をかけたりする梱包。似た単位に「袋」
    「樽」「ロール」「束」「ドラム」などがある。
.
1951年4月19日、ワシントンD.C.のアメリカ上下院の合同会
 議におけるマッカーサー離任演説は・・、
  「・・戦後、日本国民は、近代史に記録された中では、
 最も大きな改革を体験して来ました。
  見事な意志と、熱心な学習意欲・・、
  そして、驚くべき理解力によって、
  日本人は、戦後の焼け跡の中から立ち上がって、個人
 の自由と人間の尊厳の優位性に献身する殿堂を日本に打
 ち立てました。
  そして、その後の過程で、政治道徳、経済活動の自由、
 社会正義の推進を誓う、真に国民を代表する政府が作ら
 れました。
  今や日本は、政治的にも、経済的にも、そして、社会
 的にも、地球上の多くの自由な国々と肩を並べています。
  世界の信頼を裏切るようなことは2度とないでしょう。
  最近の戦争、社会不安、混乱などに取り巻かれながら
 も、これに対処し、前進する歩みをほんの少しも緩める
 ことなく、共産主義を国内で食い止めた際の見事な態度
 は、日本が、アジアの趨勢に非常に有益な影響を及ぼす
 ことが期待できることを立証しています。
  私は、占領軍の4個師団を、すべて朝鮮半島の戦場に
 送りましたが、その結果、日本に生じる力の空白の影響
 について、何のためらいもありませんでした。
  結果はまさに、私が確信していた通りでした。
  日本ほど穏やかで秩序正しく、勤勉な国を私は知りま
 せん。
  また、人類の進歩に対して将来、積極的に貢献するこ
 とがこれほど大きく期待できる国もほかに知りません」
  「・・(中略)・・私は、今、52年にわたる軍務を終
 えようとしています。
  今世紀に入る前に、私が陸軍に入隊したとき、それは、
 私の少年時代の希望と夢が成就した瞬間でした。
  私が、ウェストポイント(陸軍士官学校)で兵士にな
 る宣誓をして以来、世界は何度も向きを変え、希望や夢
 はずっと前に消え失せてしまいました。
  しかし、当時、兵営で最も人気が高かったバラードの
 一節を今でも覚えています。
  それは、誇り高く、こう歌い上げています。
  『老兵は死なず。ただ消え去るのみ』と。
  そして、このバラードの老兵のように、私もいま、私
 の軍歴を閉じ、消え去ります。
  神が光で照らしてくれた任務を果たそうとした1人の老
 兵として。さようなら」。
.
1997年2月19日、鄧小平(とうしょうへい)が死んだ。
  鄧小平は、中国(中華人民共和国)の政治家だが、毛
 沢東の死後、中国の最高指導者となった。
  この鄧小平の死んだこの年から遡(さかのぼ)ること
 48年前の1949年に、中華人民共和国が成立した。
  そして、その29年のちの1978年に、毛沢東が死んで、
 ようやく、その29年間も続いた恐怖政治が終わった。
  毛沢東の政権下では、何回も、自国民が1000万人単位
 で虐殺されるような政治だった。
  その後を継いだ鄧小平は、経済を開放した。
  しかし、1989年に、天安門で虐殺事件を引き起こした。
  鄧小平が改革開放を始めた頃は、鄧小平が望んだこと
 は・・、
  「貧しい中国では、豊かになれる者から豊かになり、
 近代化をして、そして、日本の経済規模を越えて行きた
 い・・、
  そしてまた、アメリカをも越えて行きたい」だった。
  また、この時に、世界へ、中国が思わせたことは、中
 国の制度の違いによる恐れとか、警戒感とかは抱かせず、
 中国の台頭は、『完全に平和的なもの』であり、
  また、既存の権力構造を変化させるものでなく、国際
 ルールに従って行くだった。
  GATT(関税、及び、貿易に関する一般協定)にも
 参加して、遵守姿勢を示した。
  国際法にも、遵守姿勢を示した。
  知的財産権や私的財産権、著作権などの「ルールに従
 います」だった。
  いつまで、この「借りてきた猫」状態が続くか?
  この初期段階の中国の様子に、世界は騙された。
  中国にとっては、この段階は、大成功だった。
  しかし、中国は、『国内の一党独裁体制』は維持しな
 がら、それ以外の国際的な事は「受け入れる」としただ
 けだった。
  中国は、経済的に発展することが出来た。
  その発展と共に、「中国軍の規模や編成が発展・拡大」
 した。
  普通、この様な場合、アメリカやロシアや日本は、注
 意を払い、警戒感を抱き、「戦略の論理」が働く訳なの
 だが・・、
  中国の国際的行動方針・平和的な方針に、警戒的な反
 応を示す事はまったくなかった。
  しかし、これは、中国の取った初期の段階だけに通用
 したことだった。
  中国の次の方針には、その様には行かない状態に至っ
 た。
  つまり、規模が大きくなり、経済的に豊かになり、軍
 備を拡張するようになると、他国はその凄い状況・状態
 に刺激された。
  それまで、アメリカの対中政策は、1972年以降、「毛
 沢東が率いる中国を、あらゆる面で助けて、国力をアッ
 プさせ、ソ連に対抗させる」というものであった。
  しかし、2000年代後半になると、アメリカは、中国が
 あまりにも豊かに成り過ぎる事・拡大する事を恐れ始め
 た。
  中国のGDPは爆発的に伸び、国防費は莫大になった。
  しかし、2000年頃までは、「平和的台頭」で、中国は、
 国際的な規範や制度、そして、法律などを良く守り、
  WTOやIMF(国際通貨基金)にも加盟したために、
  どこの国にも脅威を感じさせず、与えなかった。
  しかし・・今は・・違う・・、
.
2000年以降、中国は、この頃までは、平和的な方針をとっ
 ていた。
  この為、日本やアメリカをはじめとする国々から、支
 援や投資を受けることが出来た。
  中国経済は拡大した。
  中国の方針は成功していた。
  中国のリーダーたちも、世界の状況をよく知ろうとし、
 また、その結果から、理知的な方針を取っていた。
  中国のリーダーたちは・・中国の国内の激しい内部闘
 争を生き抜いて来た人物ばかりだった。
  一旦、権力の座から落ちれば、自分だけではなく、家
 族や親族までもが命を失うという中国を生き抜いた人物
 たちだった。
  この頃は、「世界に調和して発展する」という方針を
 とった中国が存在していた。
  しかし、この方針が崩れる・・それが、2000年1月に起
 きた「リーマン・ショック」という、戦後最大の国際金
 融危機の後からだった。
  世界の経済構造が変化し始めた。
  中国も影響を受け、変わって行った。
.
2017年9月15日、午前6時57分、北朝鮮は、平壌近郊の順安
 (すあん)から中距離弾道ミサイル「火星12型」を発
 射した。
  ミサイルは、3700キロを飛翔した。
  アメリカの軍事拠点であるグアムを攻撃可能範囲に収
 めた。
  金正恩(キム・ジョンウン)委員長は以下のことを述
 べた(朝鮮中央通信)、
  ▽今回の訓練で火星12型の「戦力化が実現した」。
  ▽今後は「各種の核弾頭を実戦配備」する。
  ▽「最終目標は、アメリカと実際の力の均衡を確立す
   る事」だ。
  ▽国家核戦力の完成という「終着点にほとんど到達し
   た」ので「全国家的な力を集中」して結束を見る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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# by suba28 | 2017-10-10 04:31 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)558E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年5月~1892年6月)

題:(増補版)558E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年5月~1892年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年5月11日、貴族院が、政府の選挙干渉に対する反省の
 建議案を可決した。
  1982年5月16日、7日間の停会を命じられる。
  1982年5月31日、衆議院、予算案から海軍予算などを削
   減し可決
   (1982年6月6日、貴族院、復活修正し衆議院へ回付)。
  1982年6月9日、衆議院、貴族院の復活修正は不法と議
   決し、予算修正案を貴族院へ返付。
  1982年6月10日、貴族院、復活修正を合法として衆議院
   へ返付し、
  1982年6月11日、予算審議権に関する勅裁を求める上奏
   案が可決。
  1982年6月13日、天皇陛下、貴族院の上奏を枢密院に諮
   詢、貴族院の復活修正を認め立法協賛権に両院の差
   はないと勅裁。
  1982年6月14日、両院協議会、予算案修正につき妥協し
   両院で可決。
  1982年7月20日、河野敏鎌内相、選挙干渉事件に関して、
   福岡県知事安場保和・内務次官白根専一らを更迭
   (1982年7月27日、高島鞆之助陸相、樺山資紀海相、
   これに反対して辞表提出)。
  1982年7月30日、松方正義首相、閣内不統一のため辞表
   提出。
  1982年8月3日、伊藤博文、各元勲の入閣を条件として
   組閣を承諾。
1892年5月13日、衆議院議員の河島醇・田中源太郎が、鉄道
 拡張法案を提出した。
1892年5月14日、衆議院が、政府選挙干渉問責決議案を可決。
1892年5月21日 保安条例を実施し、壮士143名に対し帝都よ
 り退去を命じる。
1892年5月21日、ルッジェーロ・レオンカヴァッロが作曲し
 た歌劇「道化師」がミラノで初演された(全2幕)
  テアトロ・ダル・ヴェルメ劇場で、指揮はトスカニー
 ニだった。
1892年5月22日、歯磨きチューブが発明された。
  ワシントン・シェフィールド(アメリカ人、歯科医)
  因みに、最初の歯磨剤は、紀元前1550年頃、古代エジ
 プトの医学書の内容が記載されたパピルスであるという。
  また、4世紀頃、エジプトでは、食塩・黒胡椒・ミント
 の葉・アイリスの花を混ぜ合わせた粉末の歯磨剤を使用
 していた。
  古代ローマでは、人間の尿に含まれているアンモニア
 が歯を白くするものと考えられ、尿が歯磨剤として用い
 られていた。
  18世紀(1700年代)、アメリカ合衆国では、焦げたパ
 ンを混ぜた歯磨剤が使われていた。
  また、「ドラゴンの血」と呼ばれる混合樹脂にシナモ
 ンや焦がしたミョウバンを混ぜた歯磨剤もあった。
  19世紀以降になって、やっと、欧米で歯磨剤が広く用
 いられるようになった。
  1800年代初頭には、歯磨きは、主に歯ブラシと水だけ
 で行われていた。
  その後、間もなく、粉末の歯磨剤が大衆に広まって行
 った。
  この頃の歯磨剤の多くは、自家製で、チョークの粉・
 細かく砕いた煉瓦・食塩などがよく混ぜられて使われた。
  1896年、現在の様なチューブに入ったペースト状の歯
 磨剤が、ニューヨークでコルゲート社によって初めて売
 り出された。
1892年5月27日、衆議院特別委員会が、鉄道公債法案・私設
 鉄道買収法案・鉄道拡張法案・鉄道敷設法案等の5法案
 をひとつの法案にまとめ「鉄道敷設法案」とし、6月2日、
 本会議に報告した
1892年5月、帝国通信社が創立された。
  改進党系の通信社。
  通信社は、報道機関や民間企業の需要にこたえて一般
 向けニュース(ゼネラル・ニュース)や経済・金融情報
 (コマーシャル・ニュース)の収集、配信を行う組織で、
  明治憲法発布の前後に生まれた時事通信社(1887年~
 1890年)、新聞用達会社(1890年~1892年)などが、日本の
 通信社の先駆で・・、
  当時は、群小通信社の乱立だった。
  1892年、新聞用達会社の後身として、帝国通信社(帝通)
 が創立され、日清、日露戦争を通じて業務を拡大した。
  1901年、日本電報通信社(電通)が創立され、とともに
 日本の二大通信社として競争した。
  1914年、第1次大戦勃発直前、ロイター通信社と結ぶ国
 際通信社(国際)が生まれ・・、
  1926年、東方通信社を合併して日本新聞聯合(れんご
 う)社(聯合、1928年、新聞聯合社と改称)を組織され、
 帝通の没落とともに、電通と聯合との激しい競争の「電
 聯時代」が生まれた。
1892年6月3日、田中正造が、衆議院で足尾鉱毒事件につい
 て質問をした。
  当時の毎日新聞(1892年6月5日)には・・、
  本会、明治25年(1892年)5月9日、河野広中君、及び、
 工藤幹君は、北海道殖民開拓に関する施政カ針、北海道
 官有物払下、北海道勧業委托金処分、札幌製糖会社及び
 札幌製麻会社、北海道土地貸付、炭鉱鉄道線路変更の件
 に付、
  同月・5月11日、塩田奥造君、新井啓一郎君、及び、箕
 輪勝人君、同鉄道始末に対する件に付、
  同月・5月23日、加藤淳造君、同北海道炭鉱鉄道会社に
 関する件に付き、
  同月同日・5月23日、田中正造君は、足尾銅山鉱毒加害
 の件、及び、北海道幌内郁春別鉄道会社命令書違反、神
 戸造船所、釜石鉱山、阿仁及び院内鉄山、小坂銀山に関
 する件に付き以上の質問書を提出したるに・・政府は、
 未だ何等の答弁をもなさず。
 議院法第49条には、「質問主意書は、議長之を政府に
 転送し、国務大臣は、直ちに答弁を為し、又は、答弁す
 べき期日を定め、若し答弁を為さざる時は、其の理由を
 明示すべし」とあり・・、
  黙るに、政府は上記数件の質問に対し、未だこれが答
 弁をなさず、又答弁すべき期日を定めざる理由如何、若
 し政府に於て答弁能はずとせば、何故にその理由を明示
 せざるや。
 以上、議院法第48条により提出す、国務大臣はその責任
 を負ひ直ちに明答あらんことを望む。
  明治25年6月3日
    質問者 田中正造
    賛成者 塩田奥三 他2名
.
  (今日の言葉)
.
  題:北朝鮮を賛美する日教組と、日本を貶めるNHKと・・、
    プロパガンダに精出す中国と、核を搭載したまま日本に寄港する
.
1785年、第3代アメリカ大統領トーマス・ジェファーソンの
 言葉・・、
  「キリスト教の教えが広まってからというもの、何百
 万という無数の男女や子供が火あぶりにされた。
  そして、拷問にされた。
  そして、罰金を科され、投獄されて来た。
  けれど・・、
  私たちは、1インチたりとも(少しも)統一に向かっ
 て進んではいないではないか・・、
  (キリスト教は、何の役にも立っていないではないか、
  むしろ、無実の人々の命を奪って来た)
  では、一体、圧政は何をもたらしたのか?
  世界の半分の人々が愚者に・・、
  そして、残りの半分が(キリスト教の)偽善者に変わ
 ってしまったではないか、
  そして、世界の人々が過ちや悪業を支持するようにな
 ってしまった」・・と・・、
.
1793年2月12日、「逃亡奴隷取締法」が、アメリカで、卑劣
 にも制定された。
  この法律で、アメリカは、黒人奴隷制度を『強化した』。
  これまでにも、アメリカは、国の基本方針を決める憲
 法にまでも、「奴隷制容認の条項」を卑劣にも書き記し
 ていた。
  この年に制定した「逃亡奴隷取締法」は、非人道的な
 記述に満ちている・・
  どう猛な犬ども追われ、また、銃口に狙われる追跡が、
 「正義の行為だ」と記されていた。
  また、逃亡を失敗して捕らえられた奴隷には、二度と
 同じ逃亡をしない様に、他の奴隷の見せしめに、何十回
 となく激しくむち打たれ、その上、焼き印を押されたり、
 耳をそがれたりした。
  何とか、逃げられたとしても、その奴隷の首には、賞
 金がかけられた。
  生かすも殺すも、これを捕らえた者が勝手に決めてよ
 いと記述した。
  逃亡奴隷取締法は、この様な残虐なアメリカ合衆国の
 法律だった。
  よく、こんな低劣な法律を作れるものだと怒りと共に
 軽蔑し、呆(あき)れる。
  アメリカ北部がイニシアチブをとる政治、および、キ
 リスト教国=アメリカのやることだった。
  アメリカ白人の奴隷所有者にとっては、「儲け」の要
 (かなめ)という事で・・非人道的であろうと必死に非
 人道的なことを行なった。
  また、アメリカの白人の奴隷所有者は、「儲け」のた
 めと、「自己満足」のために、女奴隷に子供を産ませた。
  「キリスト教が、奴隷所有を肯定したがために、この
 様な卑劣な行為に対しても、何ら罪悪感を持たない白人
 の奴隷所有者たちであった。
  しかし、さらに、厳しく、黒人奴隷制度は強化された。
  黒人奴隷の方々は、抑圧が強くなればなるほど、これ
 に対する反発を強めた。
  黒人奴隷の女性たちは、従来の様な「子供を産ませら
 れるような事を拒絶した」。
  また、病気を装(よそお)ったりして、仕事のサボタ
 ージュをした。
  (参考)サボタージュ:労働組合の争議戦術の一つ。
      職場にはつくが、仕事の能率を下げて経営者
     に損をさせる方法。
  逃亡行為も増えた。
  また、その逃亡を助ける非合法組織もできた。
  非常に遅れた唾棄すべきアメリカ社会が現出していた。
  そして、1850年には、前の法より、より一層厳しい逃
 亡奴隷取締法をアメリカは制定した。
  アメリカ北部も完全に、この法律に加担した。
  やむなく黒人奴隷の方々はカナダに逃れた。
  この様なアメリカ北部が、この11年後、南北戦争(1861
 年~1865年)をする。
.
1847年12月3日、黒人の黒人奴隷解放運動家のフレデリック・
 ダグラスが、この日、ニューヨーク州西部のロチェスタ
 ーで、自分の週刊新聞「北極星(ノース・スター)」の
 発行を始めた。
  そして、南北戦争が勃発し、リンカーン大統領は、黒
 人の軍隊編入をためらった・・、
  黒人の方々は、「私たちもアメリカ人だ」の意識から
 軍に加わりたいとした。
  また、奴隷身分の黒人の方は、軍に参加して奴隷の身
 分から脱したいと思っていた。
  リンカーンは、その様な黒人の方々の思いをはねつけ
 た・・無視した。
  フレデリックは言った・・
  「両手が必要な時に、片手で戦ってどうなる。黒人を
 排除すべきではない。
  今、貴方(リンカーン)は、黒人の黒い手を縛ったま
 まにしておいて、あなたの白い手だけで戦う時ではない」
 と・・、
.
1938年2月、日本のユダヤ人救出
  ナチス・ドイツの迫害から逃れた多数のユダヤ人難民
 の第一陣が・・、
  この時、シベリア鉄道に揺られ、満州国の最北端の満
 州里駅に近いソ連側にあるオトポールに到着した。
  このユダヤ人の方々を救ったのが日本だった。
  「東条英機らであった」。
  日露戦争で、ユダヤ人の方々に恩を受けた日本・・そ
 の恩を返す時だった。
  日本は、決してユダヤの方々を見捨てなかった。
  日本のすべてが、ユダヤの方々を亡国の民として、『
 ユダヤの方々を救いたい』と思っていた。
  キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)で、美談にでっ
 ち上げられている『杉原千畝』だけではなかった。
  (因みに、杉原千畝は、ビザ発行の権限を持っていな
 いので、規則を犯して違反でビザ発行を行なっていた)
  関東軍参謀長を務めていた後の首相の東条英機と・・、
  そして、その東条英機の下で、樋口季一郎少将と、安
 江仙弘大佐が、20000人ものユダヤ人の方々を救っていた。
  そして、この後、このユダヤの方々は、神戸で安心す
 る生活を送った。
  この様な功績を無視し、アメリカは、東京裁判で、
 絞首刑にした。
  東条英機の絞首刑は、すでに連合国の密談で決定して
 いた。
  判決が、裁判の最初から決まっていた東京裁判は・・、
 「ただの茶番劇」だった・・当然、国際法違反だった。
.
1949年8月末、吉田茂首相からマッカーサー司令官への手紙
 「在日朝鮮人の全員送還を望む」の書簡・・
  吉田茂は、マッカーサーと往復書簡を交わしていた。
  その中の一つ。
  在日朝鮮人が、戦勝国と錯覚したりして、日本国内で
 の不法行為や犯罪が『あまりに多く』発生していた。
  吉田茂首相は、在日朝鮮人の送還費用は、日本政府が
 負担するとした上で・・、
  将来世代の負債となること、
  日本経済の再建に貢献しないこと、
  犯罪割合が高く、経済法規を破る常習犯であり、
  投獄者が、常に、7,000人を超える・・などから、
  朝鮮人全員の送還を求めた。
  その内容・・、
  連行国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥閣下
  親愛なる閣下
  日本の戦後の諸問題のうち、朝鮮人と台湾人に関する
 ものがありますが、彼らはかつて日本国民であり、現在
 もこの国に依然として滞在しているものです。
  ここで、台湾人については、彼らが比較的少数であり、
 それほど問題を起こしておりませんので、しばしふれな
 い事に致します。
  しかし、総数約100万人、そのほぼ半数は『不法入国者』
 であるところの在日朝鮮人の問題について、我々は、い
 ま、早期の解決を迫られております。
  私は、これらの朝鮮人が、すべて、彼らの生国の半島
 に送り返されることを欲するものです。
  その理由は以下の通りです。
 (1)日本の食糧事情は、現在もまた将来においても、余
   分な人々を維持することを許しません。
    アメリカの厚意によって、我々は大量の食糧を輸
   入していますが、その一部は、在日朝鮮人を食べさ
   せるために用いられています。
    これらの輸入は、将来、何世代にもわたってわが
   民族の負債となることでありましょう。
    もちろん、我々は、そのすべてを返済する覚悟を
   固めておりますが、この対米負債のうち朝鮮人のた
   めに生じた分まで、将来の世代に負わしむるのは、
   公正なこととは思えません。
 (2)これら朝鮮人の大多数は、日本経済の再建に貢献し
   ておりません。
 (3)もっと悪いことには、これら朝鮮人は犯罪を犯す割
   合がかなり高いのです。
    彼らは、我が国の経済法規を破る常習犯です。
    かなりの数が、共産主義者かその同調者であり、
   最も悪質な政治犯的犯罪を犯しがちなのです。
    投獄されているものは、常に7000人を超えていま
   す。
    戦後、今日まで裁判に付せられた、朝鮮人による
   刑事事件は以下の通りです。
  1945年(8月15日以降)事件数5334、
             朝鮮人関係者数8355人、
  1946年、事件数15579、朝鮮人関係者数22965人、
  1947年、事件数32178、朝鮮人関係者数37778人、
  1948年(5月末現在) 事件数17968、
             朝鮮人関係者数22133、
  合計、 事件数71059、朝鮮人関係者数91235、
  さて朝鮮人の送還計画として私が考えるのは次のよう
 なものです。
 (1)原則として、朝鮮人はすべて送還され、その費用は
   日本政府の負担とする。
 (2)日本に在住を希望する者は、日本政府に許可を申請
   すべきものとする。
  在住許可は、日本経済の再建に貢献しうると見なされ
 た者に与えられる。
  以上述べました私の考えが、貴官によって原則的に承
 認を得られた場合は、送還にともなう予算その他の具体
 的措置について、あらためて案を提出いたします。
                  敬 具 吉田茂
  (参考)この書簡は、吉田茂のある事を行なうための
     戦術でもあったと言われている。
  (参考)2010年(平成22年)7月においても、2万7000
     世帯の韓国・朝鮮の国籍保有世帯に、日本は生
     活保護費用を支給している。
      これは、外国人全体のほとんどと言える約70
     %にもなっている。
      他の国々よりだんぜん「ずば抜けて多い」。
      そして、日本は、毎年、外国人の生活保護費
     として1300億円もの膨大な費用を支出している。
  (参考)刑務所収容者の「約90%が韓国・朝鮮人」と
     なっている。
      永住権を持つ外国人に限った犯罪者数でも、
     半数以上の57%が韓国・朝鮮となっている。
      そして、教育関係を繰ろうと日教組に多くの
     韓国・朝鮮が入っている。
      委員長が北朝鮮出身であった・・、
.
1981年(昭和56年)、核を搭載したまま日本に寄港すると
 の発言・・、
  エドウィン・O・ライシャワー氏(1961年~1966年に、
 駐日アメリカ合衆国大使を務めた、ハーバード大学教授、
 東洋史研究)が、1981年に、古森義久(当時、毎日新聞
 記者)に対して・・、
  「日米間の了解の下で、アメリカ海軍の艦船が、核兵
 器を積んだまま、日本の基地に寄港していた」と発言し
 た。
  このことを受け・・、
  「非核三原則」違反を、大使まで務めた外交官が認め
 たとして日本国内で騒動になった。
  発言の詳細内容:
  (1)非核三原則の規定する持ち込みとは、陸揚げを指
    し、核兵器を搭載した艦船の寄港は含まない。
  (2)日米間の了解の下で、アメリカ海軍の艦船が核兵
    器を積んだまま日本の基地に寄港していた。
  (3)これについては、日米安保条約の規定する「事前
    協議」の対象とならないことを日本側も了解して
    いた。
  「国防情報センター」(Center for Defense Information)
 のジーン・ロバート・ラロック所長(元海軍少将)によ
 る「核兵器搭載艦船は、日本寄港の際にわざわざ兵器を
 降ろしたりしない」の「ラロック証言」と並び有名な「
 ライシャワー発言」となった。
  そして、1999年(平成11年)には、日本の大学教授が
 アメリカの外交文書の中に・・、
  「1963年(昭和38年)に、ライシャワーが、当時の大
 平正芳外務大臣との間で、日本国内の基地への核兵器の
 持ち込みを了承した」という内容の国務省と大使館の間
 で取り交わされた通信記録を発見し、この発言を裏付け
 た。
.
2003年1月、日教組の槙枝委員長が、拉致行為をしている北
 朝鮮だが、この北朝鮮を賛美した。
  そして、日教組は「自虐史観教育をしている」が、こ
 の日教組の自虐史観教育を受けた子供の感想は・・、
  「わたしは、日本の国に生まれなければよかった。人
 殺しをした日本の国は大きらい」・・、
  「ぼくたちのおじいちゃんは人殺しをした。日本なん
 て大きらい」・・、
  「中国人はずい分がまんをしたと思う。ほんとうにか
 わいそうと思った」・・、
  そして、教師が、子供たちに向かって・・、
  「おじいさんが戦争に行ったことがあると言う人は手
 を挙げて」・・と言って、手を挙げた子供に向かって、
  「あなたのおじいさんの血は穢(けが)れていますね」
 と侮辱した。
  また、横須賀市の日教組の組合教員が・・、
  「万引きもいわば社会経験だ」と教えた。
  万引きをした子供を叱るのではなかった。
  道徳を教えないどころか、「悪事を推奨していた」。
  道徳反対の日教組の影響が、この様な形で出ている。
  また、日本人を拉致している北朝鮮だが、1998年(平
 成10年)に、日教組の川上委員長が北朝鮮に出向き、
 100万円をカンパし、今後も、日教組と北朝鮮の教育文化
 同盟、および、種々の教育機関との交流を決めた。
  日教組は、何かと北朝鮮を賛美する。
  2003年(平成15年)1月に、日教組の槙枝委員長が、全
 国集会で北朝鮮を賛美するメッセージをした。
  また、北朝鮮から第一級の勲章を貰っている。
  日教組は、連綿と北朝鮮を礼讃して来た。
  そして、報告書より少ない受け持ち時間数の教員が(
 報告書には水増し記入している)、その空いた時間に、
 組合活動をしている。
  改竄(かいざん)を認めた教員の『虚偽行為』を隠す
 校長や教育委員会まで居るという始末・・、
  勝手に授業時間を短縮したり、日教組は、自分たちに
 都合よく決まりを破るのが常套となっている。
  そして、指導する立場の教育委員会は目をつぶってい
 る。
  改善するために「主任制」を作ったが、日教組は、こ
 の主任制に反対し、潰す活動をしている。
  そして、主任手当を組合に拠出している。
  管理者の校長の形骸化(けいがいか、意義や内容が失
 われたりして、形ばかりのものになってしまうこと)も
 して、「職員会議の決定がすべて」として、管理者の校
 長は、お飾りとされている。
  つまり、日教組の組合が、「職員会議以外の校長の言
 うことは聞くな」と指令している。
  だから、日教組の教員は「言うことを聞かない」。
  鎌倉市の場合、すべての主任手当の金が、日教組に入
 っているという・・、
  ある意味、ピンハネ構造になっているという。
  その額は、数十億円という半端な額ではない、美味し
 い話となっている。
.
2009年4月5日、NHKの番組「ジャパン・デビュー」は、
 2009年4月5日~2009年6月にかけて、日本放送協会 (NH
 K) のテレビ番組『NHKスペシャル』で放送された。
  4回分のシリーズを放送した。
  しかし、、まったくひどい偏向番組だった。
  最初から、捏造がある、事実が歪曲されている、やら
 せだ、名誉を傷つけられたなどの抗議が殺到した。
  NHKは、公共放送と言いながら、まったく日本の国
 益に反する放送ばかりをする。
  日本ばかりを貶(おとし)める行為をする。
  台湾の方々の心を傷つけ、日台関係を傷つけた。
  そして、NHKの放送番組「ジャパン・デビュー」は、
 訴訟沙汰(ざた)になった。
  日本と台湾の両国の視聴者や、番組出演者を含めた約
 1万300人(台湾の方々約150人を含む)により集団訴訟が
 起こされた。
  編集権のあるNHKは、それを盾に抗弁した。
  「意図的なつまみ食いだ」と批判された・・その通り
 だった。
  また、シリーズという繰り返し効果を狙った。
  例えば、毎日、人格を傷つける事を言われ続けるとい
 う辛さを理解しないNHKは、それを、逆利用した。
  長い間、NHKは、この番組に限らず、この様な番組
 を、放送し続けている。
  キリスト教に偏するNHKの「道教」を扱った放送も
 偏向していた。
  『台湾の独自性を壊したい』という意図がある放送を
 していた。
  明らかに、中国の現政権に有利にしたいという意図が
 あった。
  また、中国(共産中国)に有利な意図が番組に流れて
 いた。
  編集で、その様な印象が出る様にした。
  NHKは、中国に有利な番組の作り方をよくする。
  また、NHKは、『自局に不利な事』はまったく言わ
 ない、放送しない・・
  特に、NHKが戦争を煽って来た事を・・、
.
2009年、元外務事務次官の村田良平氏が、朝日新聞などに、
  退官後の2009年に、日米核持ち込み問題について、日
 米核密約の存在を暴露し、注目を集めた。
  そしてまた、村田氏は、北朝鮮が核実験を行ったこと
 により日本の核武装をアメリカが拒否できない日が来る
 と予測した。
  それでも、アメリカが、日本の核武装を拒否するなら、
 在日米軍基地の全廃を実行し、かつ、SLBM(潜水艦
 発射弾道ミサイル)を日本は持つことになる・・と主張
 した。
  また、村田氏は、外務省があまりにも対米従属的であ
 ると述べた。
  その村田良平氏の言葉・・、
  「日本が、イギリス、あるいは、フランスと類似の、
 潜水艦による極めて限られた自前の核抑止力を保有する
 のが最も正しい道であり・・、
  アメリカの核の傘への信頼は、北朝鮮問題の処理によ
 ってすでに地に落ちている・・
  もしアメリカがこれをあくまで拒否するのなら、在日
 アメリカ軍基地の全廃を求め、合わせて、まったく日本
 の独力によって通常兵器の抑止力に加え、フランスの如
 く、限定した核戦力を潜水艦を用いて保持するというの
 が論理的な帰結であろう」。
.
2010年3月、政府調査報告書で、佐藤栄作首相が、ニクソン
 と交わした、有事の際に沖縄への核持ち込みについて、
 事前協議が行われた際には、日本側が「遅滞なく必要を
 満たす」ことを明文化した密約の文書が確認された。
  しかし、外務省の中で、引継ぎがされた形跡がないと
 いう理由から、日本政府としてアメリカ政府と密約した
 とは確認できないと結論づけた。
  その一方、内閣は、鈴木宗男からの質問主意書に対し
 て、「発見された佐藤・ニクソン会談議事録は真正文書
 であると考える」旨の答弁書を閣議決定した。
.
2016年12月9日、ワシントンポストが報じる「トランプ氏と
 ロシア」について・・、
  「トランプ氏当選のため、ロシアがサイバー攻撃」と
 CIAが報告した。
  オバマ大統領は、退任までに調査をするようにと指示
 した。
  アメリカ中央情報局(CIA)は・・、
  アメリカ大統領選で、共和党候補ドナルド・トランプ
 氏が勝利するように、ロシアがサイバー攻撃を仕掛けた
 という分析結果をまとめた。
  ワシントンポストが、12月9日に報じた。
  大統領選期間中に、民主党全国委員会(DNC)や、
 民主党候補ヒラリー・クリントン氏の選挙陣営が不利に
 なるような情報がハッキングされ、再三にわたって、内
 部告発サイト「ウィキリークス」を通じてメールが暴露
 された。
  情報筋は、この暴露は、アメリカ人の政府に対する信
 頼を失わせる意図で、ロシア側が仕掛けたものだと指摘
 して来た。
  ワシントンポストに語った情報筋によると・・、
  CIAは、ロシアが明らかにトランプ氏の勝利を狙っ
 て情報操作していたと結論づけているという。
  「ロシアの目的は、2人の候補者のうち1人の候補者が
 有利になること、
  つまり、『トランプ氏当選を助けることだった』と、
 CIAは分析している」と、政府関係者がワシントンポ
 ストに語った。
  「これが一致した見解」
  トランプ陣営は9日、アメリカの情報機関は、その信
 頼性に疑問があるため、報告は信用できないと述べた。
  「今回の報告は、サダム・フセインが大量破壊兵器を
 保有している、と発表したのと同じ情報源からきたもの
 だ」・・と・・、
  トランプ氏の政権移行チームは声明を発表した。
  「選挙は史上最多ともいえる選挙人を獲得し勝利した。
  はるか昔に終わったことだ。
  今は前進し、『アメリカを再び偉大にする』時だ。
  ロシアのウラジミール・プーチン大統領が、トランプ
 氏の大統領就任を望んでいるのは驚く話ではない。
  トランプ氏は、選挙期間中、KGB(旧ソビエト連邦国
 家保安委員会)の後身でロシア連邦保安局(FSB)長
 官だったプーチン大統領を賞賛していた。
  トランプ氏は、プーチン大統領を、「バラク・オバマ
 よりも優れた指導者だ」と発言していた。
  公表された漏えい情報の中で、トランプ氏と共和党に
 関するものはほとんど含まれていなかった。
  しかし、一方で、クリントン氏と民主党による内部機
 密や個人のメール通信は多数暴露されていた。
  (参考記事)
  また・・、
  ニューヨークタイムズによると、ロシアは、共和党全
 国委員会を(RNC)をハッキングしたが、情報を公開
 しない選択肢をとったと、CIAが結論づけているとい
 う。
  さらに、CIA職員は、少なくとも2州の有権者登録
 データベースに、ロシア政府関連のハッカー集団が、不
 法侵入したことを発見していた。
  ハッカー集団とロシア政府との関連性は、2016年前半
 にCIAが把握していた。
  しかし、トランプ氏は、ロシアの関与に関してまとも
 にとりあっていない。
  今回の分析が明らかになる前から、トランプ氏は、C
 IAの調査結果を、政治的に動機付けられたものであり、
 確実な証拠に基づいたものではないとして非難した。
  「私はそんな話は信じません。(ロシアが)干渉して
 いるとは思いません」と、トランプ氏は、タイム誌の『
 パーソン・オブ・ザ・イヤー』に選出された時のインタ
 ビューで語った。
  「そんなことは笑い話にはなっても、真面目に話すこ
 とではない。
  私が何かをするといつでも、彼らは『おお、ロシアが
 干渉した』って言うんですよ」
  ハッキングは・・、
  「ロシアの可能性がある。
  中国の可能性がある。
  そしてこれは、ニュージャージー州出身の人間(クリ
 ントン氏)の可能性がある」と、トランプ氏は語った。
  トランプ氏は、選挙運動中に行った7月27日の会見で、
 ロシアにハッキングを求めるような発言をしている。
  「ハッキングが事実なら、ロシアはおそらくクリント
 ンの3万3000通のメールを持っている。
  私は彼らが持っていることを願っている」と。
  (参考記事)
  また・・、
  ドナルド・トランプ氏が、ロシアにハッキングを促し、
 「クリントン氏のメールを見つけてくれ」と言ったとい
 う・・、
  アメリカのサーバーが、別の国家にハッキングされた
 ことを積極的に支持する発言をし、アメリカの行政機関
 の極めて重要な不文律を破ったこの発言は、激しい論争
 を呼んだ。
  トランプ氏は後になって、「皮肉を言っただけだ」と
 主張していた。
  共和党首脳のミッチ・マコーネル上院院内総務は、9月
 の機密情報に関する説明会で・・、
  ハッキングとロシアの関係についての疑念があると表
 明していた。
  マコーネル氏は、今回のCIAの分析に関して、ワシ
 ントンポストにコメントしなかった。
  ワシントンポストによると、ロシアの目的がトランプ
 氏当選にあったことが「明白だ」とした分析は、先週ア
 メリカ議会の説明会で、主要な上院議員に共有されてい
 る。
  CIA職員は、いくつかの情報筋から、ロシア政府と
 関連のある具体的な個人名を特定している。
  彼らは、ウィキリークスに、ハッキングされた数千件
 のメールを提供したとみられる。
  オバマ大統領は、議会からの要請を受け、ロシアのハ
 ッキングに関して全面的に調査し、2017年1月の退任まで
 に調査報告書をまとめるよう指示したと9日に発表した。
  議会にも報告書に関して概要説明を行う。
  「2008年、そして、この今回の選挙で、悪意あるサイ
 バー攻撃があったことを確認している」と、オバマ政権
 のテロ対策と国土安全保障省顧問を務めるリサ・モナコ
 次席補佐官は会見で述べた。
  「私たちは、新たな分岐点に差し掛かっているようだ。
  詳細に調査し、事後検証を行い、起きたことを理解し、
 そして、学んだ教訓を開示することが、私たちの責務だ」
  某筋の意見:
  大統領選のトランプ氏とクリントン氏の討論を見て、
 聞いていられない様な『低劣な言葉の人格攻撃をして、
 まったく品位を感じられなかった』。
  この様な人たちが、大国を、そして、世界を操作して
 いくことに『恐ろしさと幻滅を感じた』。
  多くの方々の命と財産が関わっているのだ。
.
2016年、この年のアメリカ大統領選に関係して、次のよう
 ことが飛び出して来た。
  CNN(シーエヌエヌ、正式名称:ケーブルニュース
 ネットワーク)は、NHKとも提携のあるアメリカの衛
 星テレビおよびケーブルテレビ向けのニュース専門放送
 局であるが・・クリントンの御用メディアと言われた。
  クリントンから給料もらってるキャスターのリストが
 暴露された。
  NHKの報道も、一時、トランプ大統領の足ばかりを
 引っ張って来た。
  公共放送という公正さの立場は無く、コントロールさ
 れているのではと疑わせた。
  そして、2016年のアメリカ大統領選に絡んで・・、
  ウィキリークス(内部告発サイト)は、ヒラリー・ク
 リントン陣営のメールを公表した。
  サウスカロライナ州で開かれたゴールドマン・サック
 ス社員向けの講演会で、クリントン氏は講演料22万5000
 ドル(約2400万円)を受け取っている。
  (因みに、ゴールドマン・サックスは「たちが悪い」
 の噂が立っている)
  また、クリントン氏は、国務長官を退任後、合計2600
 万ドル(約27億円)以上の講演料を得たとされる。
  そしてまた、漏洩メールによるとクリントン氏は・・、
 もし、北朝鮮の敵対行為を中国が制止できない、あるい
 は、制止するつもりがないなら・・、
  アメリカ政府は、『ミサイル防衛システム』で周辺地
 域を取り囲むしかないと、中国政府関係者に伝えたとい
 う。
  そして、CNNについては、トランプ氏は、「クリン
 トン・ニュース・ネットワークだ」と批判した。
  「メールの扱いが不適切」というレベルではなく、周
 辺のグローバリストたちが、世界中で紛争を作り出して
 来た・・と。
  FBI(連邦捜査局)も、被害が及ぶのを恐れて検挙
 せざるを得ない状況に追い込まれたという。
  この様な裏情報を暴露したのはウィキリークスやロシ
 アではなく・・、
  NSA(アメリカ国家安全保障局)や、CIA(中央
 情報局)などの政府機関のアメリカ国内の良識派からの
 リークだった。
  1%の富裕層のエスタブリッシュメントたちが、これか
 ら、国や地域、政界、財界、学界を問わず追い詰められ
 て行くのではと見られている。
.
2017年、中国の世界へのプロパガンダ戦略。
  (1)中国の巧みな宣伝工作は、まず、金。
    中国の対外広報予算は、年間2兆円。
    この金を、世界の大学や、シンクタンクにばらま
    いている。
    (因みに、日本の外務省は、200億円)
  (2)中国が放送ネットワークを持った。
    中国版CNN(CCTVアメリカ)を作った。
    伝える情報は、中国の視点にかなったものばかり
    となっていて、この放送媒体でプロパガンダして
    いる。
  (3)そして、全世界に孔子学院を創設中。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-10-04 04:25 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)557E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年4月~1892年5月)

題:(増補版)557E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年4月~1892年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年4月、桑島蚕造が、『鉄道論』で鉄道国有の構想を発
 表した。
  政府の手厚い保護を受けていたとはいえ、日本鉄道が
 好調な決算を発表すると、各地で私設鉄道設立ブームが
 起こった。
  1884年の阪堺鉄道や、1887年の伊予鉄道を皮切りに、
 両毛鉄道、山陽鉄道、水戸鉄道(初代)、九州鉄道(初
 代)、大阪鉄道(初代)などが認可された。
  それまでの官設官営の原則が崩れて、日本の幹線鉄道
 は、官設・私設の両方により建設されることとなった。
  しかし、中には無謀な計画や投資を誘発したものもあ
 り、それは、1890年の経済恐慌となってはね返った。
  また、建設工事の停滞や株式払込みの遅滞、既設私設
 鉄道の経営の悪化を招いた。
  状況は間もなく回復したが、このような状況の中で、
 1891年、井上勝(官僚、「日本の鉄道の父」と呼ばれる)
 は、「鉄道政略に関する議」を上申した。
  この上申書で、従来からの鉄道国有論に加え、既設私
 設鉄道の買収を前面に押し出した。
  このためには私設鉄道買収法の制定が必要であると説
 いた。
  この上申書を契機として、政府は、再三、鉄道公債法
 と私設鉄道買収法を帝国議会に提出したが、いずれも可
 決されず・・、
  1892年に、買収法案に大幅な修正を加えた鉄道敷設法
 (1892年6月21日、制定)が制定された。
  しかしそれは、予定線建設のために必要がある場合の
 み、私設鉄道の買収ができ、さらに、議会の協賛を必要
 とする、将来の国有化の可能性をにおわせながら、実際
 は予定線の民間による建設を容認するなど、議会を構成
 する私設鉄道の株主でもある資本家、地主たちによって
 完全に骨抜きにされてしまった。
  これに憤慨した井上は、翌年・1893年、退官した。
  井上の鉄道国有論に対抗して、鉄道民営論を唱えたの
 が、渋沢栄一や田口卯吉、中上川彦次郎、三井や三菱な
 どの財界の有力者たちだった。
  彼らは、資本主義の発展にともなって鉄道経営が大き
 な利益をもたらすとともに、産業支配と鉄道支配との間
 に密接な関連性があると認識していた。
  渋沢らが関わる東京経済学協会が、1891年に発表した
 「鉄道調査報告書」に掲載された佐分利一嗣の論文では、
 鉄道国有化論に対する反証を一々あげて論じ、「将来の
 鉄道は、私設民営たるべし」という結論を導いた。
  続いて渋沢らは、1894年に、官設鉄道払下計画を立案
 し、一挙に理想とする鉄道民営の実現を図った。
  しかし、日清戦争の勃発で頓挫した。
  その後、鉄道国有化が政治課題となったのは、1899年
 で、衆議院に「鉄道国有に関する建議案」が提出され、
 可決された。
  首相直属の鉄道国有調査会が設置された。
  この報告に基いて、翌年・1900年、鉄道国有法案およ
 び私設鉄道買収法案が帝国議会に提出された。
  しかし、これも議決されることはなかった。
1892年4月、鉄道庁参事・官中根重一が、『鉄道問題』で鉄
 道国有の必要性を論じた。
1892年5月2日、第三回帝国特別臨時議会が召集された。
 5月6日に開会された。
  会期は40日間。
  衆議院議長は自由党の星亨、副議長は曾根荒助が就任
 した。
  貴族院の正副議長は留任した。
  5月11日、貴族院は、選挙干渉に関する決議案を可決し、
 政府に反省を求め、5月14日、衆議院は、選挙干渉(問責)
 決議案を可決した。
  5月31日、衆議院は、予算を修正し、軍艦建造費などを
 削減して可決し、6月6日、貴族院は、復活修正して衆議
 院に回付した。
  6月9日、衆議院は、「予算案に関し貴族院が衆議院の
 削除した款項を復活するのは不法である」と議決し、再
 度、予算案を貴族院に返付した。
  6月10日、貴族院は、「復活修正は合法である」と議決
 し、6月11日、予算案に関し、天皇陛下の勅裁を求める上
 奏案を可決した。
1892年5月7日、人糞その他汚穢な肥料の運送について「肥
 料運搬規約及運搬人糞取扱手続」(鉄二調甲第102号)を制
 定した。
  国民の食糧生産に欠かせない肥料・・この当時、人間
 の屎尿(しにょう)が「下肥」と称され、大切に使われ
 ていた。
  都市の発達とともにその屎尿の利用が計画され、生態
 循環が図られた。
  これは、昭和初期から徐々に化学肥料が使われ出して、
 減少して行った。
  また、処理場を経由した廃棄や、船による海洋投棄も
 始まった。
  この1892年5月7日に制定された「肥料運搬規約及人糞
 取扱手続」中で、「人糞運搬取扱心得」として特約書を
 書かせること、専用貨物扱にすること、運搬後は生石灰
 を用いて貨車内を洗浄することなどが定められている。
1892年5月9日、第3回帝国議会に、再び、鉄道公債法案およ
 び私設鉄道買収法案が提出された。
1892年5月9日、衆議院議員・佐藤里治が、鉄道拡張法案を
 提出した。
1892年5月10日、衆議院議員・植木志澄・伊藤大八・塩田奥
 造らが、鉄道敷設法案を提出した。
1892年5月10日 最初の養蚕学校が、長野県小県郡(ちいさ
 がたぐん)に設立された。
  三吉校長一棟の民家にて授業が開始された。
  三吉米熊(みよしよねくま):明治〜昭和期の教育者
 で小県蚕業学校の初代校長で、上田蚕糸専門学校の教授。
  生年は、1860年(万延1年)6月10日
  没年は、1927年(昭和2年)年8月31日(67歳)
  出生地は、長門国(山口県)
  学歴は、勧業局農学校農芸化学専攻科(現・東京農工大
 学)を1881年(明治14年、21歳)に卒業。
  経歴:長州藩士の家に生まれ、廃藩後に、父に伴われ
 て上京し、明治協庠社に入った。
  1878年(明治11年、18歳)勧業局農学校に入学し、農
 芸化学専攻科に進み、1881年(明治14年、21歳)卒業し、
 長野県勧業課農務掛となった。
  西ケ原蚕業講習所で修業後、北信の各地で蚕業技術を
 伝習し、
  1889年(明治22年、29歳)農商務省から蚕業事情調査
 のためイタリア・フランスに派遣され、2年余で帰国、
  1892年(明治25年、32歳)小県蚕業学校(現・上田東高)
 初代校長となり死去するまで生涯を同校の教育に掛けた。
  蚕体病理・生理・土壌・肥料などの学科を担当、生徒
 の実習指導に当たり、学校での事績報告を毎年発行し蚕
 業界から注目されていた。
  また、地方の蚕業家のために養蚕法の標準を示し、天
 気予報を出した。
  この間、1908年(明治41年、48歳)の上田蚕糸専門学
 校(現・信州大学繊維学部)設立に尽力し、同校教授を兼
 任。
  一方、微粒子病研究団体の設立に努めて学会と養蚕家
 に貢献した。
  著書:「伊仏産業事情」「通俗蚕業講話」
.
  (今日の言葉)
.
  題:治乱興亡は、歴史の常態・・むしろ、日本のほうが例外だった・・
    この幸せな状態を自覚し・・甘えるな・・
.
13世紀以来、アフガニスタンの荒廃
  モンゴルによる大虐殺によって、アフガニスタンのカ
 ンダハールなどの都市が、700年間も荒廃したままだった。
  『背筋が凍るような大虐殺』と形容されている。
  ユーラシア大陸を行く、東京経済大学の色川大吉教授
 らは、この地が、砂漠だと思っていたが、「自然にそう
 なったのではなく、『人間が水系を破壊し尽くして』、
 砂漠化してしまった」という。
  「そこまで破壊していた」という。
  そして、大廃墟が、あちこちにある地域だという。
  大虐殺の痕跡・記憶をとどめていると氏は書かれた。
  この・・同じモンゴルが日本を襲った。
  色川氏とその仲間たちは、その日本の元寇の時を思う・・、
  「もし、神風が吹かなかったら」という話をせざるを
 得ない凄まじさだったという。
  この時の話で、以下が、結論的な話だという・・、
  「岡山あたりまでが大虐殺を受けていたかもしれない」
 という・・また・・、
  「日本の武士団は、結局、それを切り抜けただろう」
 という・・そして・・、
  「大阪あたりまでモンゴルの大虐殺に逢い、日本人の
 精神構造も変わっていただろう」などという話が出たと
 いう。
  (参考)カンダハールは、アフガニスタンの都市。
      アルガンダブ川渓谷に位置する同国南部の主
     要都市・・カンダハール州の州都。
      人口は450,300人 (2006年の公式推計)で、カ
     ーブルに次いでアフガニスタン第2の都市。
      標高:海抜1,005 m
      アフガニスタンの最大民族パシュトゥーン人
     の居住地域にあり、パキスタンのペシャーワル
     と並ぶパシュトゥーン人の主要都市。
      アジアハイウェイの路線上にあり、
      北はウルーズガーン州のタリンコート、東は
     ガズニーを経てカーブルに通じ、西はヘラート・
     ファラーを経てイランのホラーサーン地方およ
     び中央アジアに至る。
      南に進めば国境を越えてパキスタン領バロー
     チスタンのクエッタに至り、インダス川下流域
     の大平原からインド亜大陸へと通ずる交通の要
     衝で、国際空港もある。
      日本人医師の西村哲氏は・・、
     2010年、水があれば多くの病気と帰還難民問題
     を解決できるとして、建設していたガンベリー
     砂漠まで総延長25kmを超える用水路が完成し、
     約10万人の農民が暮らしていける基盤を作った。
      また、西村氏と関係するペシャワール会は、
     アフガニスタン北西辺境州の飲料水、および、
     農業用水の問題を改善するために、地元に伝わ
     る昔ながらの工法を用いた井戸の設置や、カナ
     ート(カレーズ、地下水路)の復旧工事を進め
     ている。
.
1370年、ティムール帝国の祖・ティムールが君主となる。
 (~1405年)
  そしてまた、東京経済大学の色川大吉氏は、ヨーロッ
 パからアジアまで車で見聞した事を記している・・、
  その中に、『歴史は後方へ向かう事もある』と言う。
  『歴史の後退』があると・・、
  アフガニスタンのここ2~3世紀の歴史は、かつての「
 ティムール大帝国」の爛熟した中央アジアの文化が栄え、
 詩人、画家、音楽家、建築家、科学者、学僧などが高遠
 な理想を語りつつ遊歩した町が、かつて昔、ここにあっ
 た・・と・・、
  『それを、誰が想像できようか』・・と書く。
  (参考)ティムール朝は、中央アジアのマー・ワラー・
     アンナフル(現在のウズベキスタン中央部)に
     勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつで、
      中央アジアからイランにかけての地域を支配
     したイスラム王朝(1370年~1507年)
      その最盛期に、版図は、北東は東トルキスタ
     ン、南東はインダス川、北西はヴォルガ川、南
     西はシリア・アナトリア方面にまでの広大な版
     図(はんと、一国の領域)に及び、かつてのモ
     ンゴル帝国の西南部地域を制覇した。
      創始者のティムール在位中の国家はティムー
     ル帝国と呼ばれることが多い。
  そしてまた、色川教授は、『国の独立を失った民族は、
 悲惨である』・・と書く・・、
  (日本も、国を失わないようにしなければならない)
  そして、ここユーラシアの陸続きの砂漠と草原では、
 そうした『治乱興亡は、歴史の常態』だったと書く。
  そして、日本のほうが、むしろ例外だったと書かれる。
  この文を読み、今までの日本の国としての存続を、稀
 有な例として・・しみじみ思い、有り難く感謝した。
  (参考)治乱興亡:ちらんこうぼう、世の中が平和で
     繁栄することと、乱れて滅びること。
.
1823年、第5代アメリカ大統領ジェームズ・モンローが・・、
 この年に、議会で、年次教書演説で発表した・・通称「
 モンロー宣言(モンロー教書)」・・
  この教書において・・、
  アメリカ大陸とヨーロッパ大陸の『相互不干渉』とい
 う外交の基本方針を示した。
  この宣言の実態は・・、
  その後、アメリカがしたことは・・、
  まず、ヨーロッパ列強に対する、中南米を含めたアメ
 リカ大陸の『アメリカの縄張り宣言』だった。
  アメリカの縄張りに対して如何なる介入も許さない(
 敵対行為とみなす)という強いもので・・、
  今・2017年の北朝鮮の如く、大国・アメリカに歯向か
 う姿と同様だった・・
  「イギリス艦隊の撤退」をアメリカは要求した。
  ベネズエラ危機 (1896年)、1895年から1896年にかけ
 て、イギリス領ギアナとベネズエラとの間の国境紛争に
 関して、当時のアメリカ大統領グロバー・クリーブラン
 ドは、「武力を使ってでも」イギリスに対抗すべきとい
 う断固たる態度をとった。
  1898年は、アメリカ・スペイン間の「米西戦争」で、
 これに勝利したアメリカは、スペインのカリブ海から太
 平洋における植民地を獲得した(領土狩りをする腕力を
 付けて来たアメリカ)
  そして、フィリピン、グアム、プエルトリコ、独立支
 援の名目のもとキューバを保護国化し、
  ハワイを併合し・・、
  そして、さらに、西太平洋地域(フィリピン独立革命
 への介入し、米比戦争)と勢力圏を拡張して行った・・
 そして、中国が欲しいと行ったところに日本が居た・・
.
1845年、イギリスの軍艦が、この年、朝鮮・済州島付近の
 海域に侵入した・・
  (列強の強さを誇示する「うぬぼれ上がった行為」)、
  また、1846年には、フランス海軍によるキリスト教カ
 トリック弾圧に対する抗議などと理屈を付けて、これも
 また列強の干渉が始まった。
  この朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は・・、
  長い間、清朝中国を中心とした冊封体制に平伏し、そ
 の体制を堅持せざるを得ない状況下にあり、鎖国状態に
 あった。
  そして、長い間、中華支配の下に置かされて来ていた。
  そして、この中国以外にも、朝鮮には、関係する欧米
 列強やロシアの存在があった・・、
  危(あや)うい状態・・独立とは言えないような状況
 だった。
  日本は、列強各国と同様の条約を朝鮮と結びたいとし
 た。
  また、日本は、中国清朝の冊封体制から離脱のできな
 い朝鮮を手助けして離脱させ、「朝鮮は自主の邦」とい
 う理想状態にしたいとした。
  中国による冊封体制下の朝鮮が、すなわち「朝貢国」
 が・・、
  単なる「朝貢をするだけの国」を意味するのか、
  または、即「従属国・保護国」を意味するかについて、
 日本と中国の間に、認識の差があった。
  単に、挨拶に行くだけの外交上の関係国を、中国は、
 過大に、都合良く解釈していた。
.
1858年5月28日、アイグン条約
  南下政策を進めたロシア皇帝のニコライ1世の言葉・・、
  「一度、ロシアの旗が揚がりたる所、そこで、それを
 下ろすべからず」
  この言葉で代表される通り、ロシア帝国も、強引な拡
 張侵略政策を続けていた。
  ロシアの拡張侵略政策は、極東に達した。
  そして、結論を先に書けば・・清国とアイグン条約(
 1858年5月28日)、及び、北京条約(1860年10月24日、10
 月25日、11月24日)によって、ロシアへの外満州の割譲
 (現:ウラジオストックなどの地)が行われた 。
  日本とは、樺太問題やロシア軍艦対馬占領事件によっ
 て、ロシアとの問題が発生していた。
  (参考)アイグン条約:ロシア帝国と中国の清帝国の
     間で結ばれた条約で・・、
      1689年のネルチンスク条約以来、中国の清国
     領とされてきたアムール川左岸をロシアが奪い、
     そして、ウスリー川以東の外満州(現:沿海州)
     は、両国の共同管理地とされた。
      列強各国から締結することを強要された清国
     の不平等条約の一つだった。
      ロシアは、ロシア軍艦の発砲や、黒竜江左岸
     の満州人を追い払いなどの脅迫をしていた。
      後の、中国とロシアの国境紛争につながる。
  (参考)北京条約:中国とイギリス(10月24日)、フ
     ランス(10月25日)、ロシア(11月14日)と締
     結された条約で・・、
      アロー戦争(第二次アヘン戦争)での天津条
     約では、まだ、イギリス・フランスは満足して
     いなかった。
      英仏の欲が深い状態と、清の朝廷内の不平等
     条約に対する不満が原因で、条約の批准が進ま
     なかった。
      イギリス・フランスは、強制的に批准をさせ
     ようと、実力行使をして天津に軍隊を上陸させ
     るという侵略行為をした・・、
      北京までも侵略され、占領されるという事態
     に至った。
      また、美しい事で有名は円明園まで略奪され、
     そして、焼き払われた(世界遺産)
      散々、卑劣な侵略戦争で中国の方々を殺戮し
     た挙句、ロシアの仲介で条約がイギリス・フラ
     ンスと中国は結ばざるを得なかった。
      また、強欲なロシアは、仲介したことを口実
     として、この不平等条約の仲間入りをし、利益
     を享受した・・酷い話である。
.
1910年8月29日、日韓併合・・条約の発効
  日本と大韓帝国が「韓国併合に関する条約」によって
 併合した。
  1910年8月22日、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特
 別市)で、日本の寺内正毅総監と李完用首相の間で調印
 された。
  この条約は、1910年8月29日に、条約の効力が発効した。
  この頃、韓国の文盲率は90パーセント以上だった。
  日本は、韓国の方々への教育に力を入れた。
  日本は、韓国の方々が、かつて持っていて、使われて
 いない表音文字である「ハングル文字」を教育に使うよ
 うにした。
  今・現在、韓国では、この時のハングル文字が大切な
 文字となって使われている。
  この文字のお蔭で、韓国の学術をはじめ、新聞など、
 すべての情報や文化などが、韓国を育んでいる。
  また、近年の研究で、伊藤博文が、日韓併合に反対す
 る立場をとっていたことについて、その裏付けのある史
 料が見つかった。
  京都大学教授の伊藤之雄氏は・・、
  「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力が
 つくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持ってい
 たことを裏付けるものだ」としている(近年発見された
 伊藤博文のメモによる)
  朝鮮半島の安重根のテロにあって殺された伊藤博文は、
 韓国は安重根を英雄としているが、実は、伊藤博文は併
 合反対派であったことが研究の結果わかって来た(テロ
 行為は間違いであった)。
  なにしろ、ロシアの南下が厳しく、日本に併合されな
 くても、韓国は、ロシアの権力下に置かれただろう。
  中国とロシアと国境を接する地続きの小国の悲しさで
 あった。
  また、日本との併合期間中に『人口が3倍になっている』・・
  これが何よりの証拠・・日本の統治で、見違えるほど
 良くなった朝鮮がそこにあった・・人口も増えるし・・
  これは、台湾の方々が、日本に感謝しているように、
 韓国・朝鮮においても、生活などの改善が功を奏した結
 果であることを、この数字は何よりも証明している。
.
1910年8月、日韓併合
  この決定された年に、年間予算が1700万円だった朝鮮
 半島に、日本は、『3000万円の大金』を投じた。
  予算は「職業伝習(でんしゅう)」「盲唖者や精神病
 者の救療(きゅうりょう)基金」「一般貧民救済基金」
 「行路(こうろ)病者救療基金」など、多方面の福祉へ
 の資金として用いられ・・
  また、これらの福祉のほか、日本は、近代化をしたい
 と、人口調査や土地調査をしながら、治山、治水、灌漑
 (かんがい)、農業改良、小作制度の改善、教育の普及、
 公平な司法の導入などを行っていった。
  それまでの朝鮮半島は、小作人が虐(しいた)げられ
 たり、貴族階級が司法を欲しいままにして、乱用してい
 た・・などなど・・、
  今、韓国でハングルが採用されて使われているが、当
 時、貴族階級は漢字を正書とし、ハングルを軽蔑し相手
 にしていなかった。
  まったく実用化していなかった。
  日本は、この15世紀に作られ、当時、使われていたハ
 ングルを、初めて小学校教育に導入したりして、教育改
 善に取り組んで行った。
  また、貴族階級がほしいままにした司法は、「無法な
 逮捕」「笞打ち」「賄賂(わいろ)の横行、量刑判断が
 変わる」などがあった。
  また、日本は、「医療の改善」「鉄道施設」「港湾の
 建設」「各種工場の設営や整備」「工業化社会への前進」
 などの、あらゆる手を打って行った。
  当時、この様な植民地は、世界のどこにも無かった。
  台湾人の黄文雄(こうぶんゆう)氏の言葉・・、
  「今日の台湾、朝鮮の高い教育レベルは、もし日本の
 総督府時代がなかったならば、あと百年経ったとしても
 今日の中国とたいして変わりがないと言い切ることがで
 きる。
  そして、日帝の36年は、悪夢ばかりでないという『正
 しい歴史認識』がなければ、韓国人朝鮮人のアジア史の
 認識は、せいぜい朝鮮半島でしか通用しない、恨みつら
 み史観でしかない。
  いくら『国際化時代』を叫んでみても、韓国人の『国
 際化』は到来しないだろう」・・と。
  (本『歪められた朝鮮総督府』より)
.
1910年、日韓併合
  色々と悪くプロパガンダ(嘘宣伝)される日韓併合だ
 が・・、
  下記のブログが真実を伝える史料・・、
  http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/rekishi02.htm
  言いにくいことですが・・、当時の朝鮮の方々は、ひ
 どい貧困にあえいで居られました。
  当時を語る朝鮮のご老人が・・
  「日本人はとても親切な人たちだった」と言われる。
  『生活者の日本統治時代』(三交社)という本にも、
 写真と共に朝鮮の庶民の方々の言葉が残されている。
  プロパガンダされていない真実の言葉が残されている。
  今、アメリカや、韓国・中国が、盛んにプロパガンダ
 しているが・・、
  結局、結びの言葉には・・
  「朝鮮人と日本人は仲良く生きていた」だった。
  そして・・、
  韓国の加耶大学(かやだいがく)客員教授・崔基鎬(
 チェケイホ)氏の本「日韓併合」によれば・・、
  教授が、1910年の日韓併合に至るまでの経緯を研究し
 て来て、
  色々、おかしな洗脳(プロパガンダ)が韓国で行われ
 ているという・・、
  現在の韓国の教科書が教えている事と、日本の統治時
 代の実態とは、『あまりにもかけ離れている』と言う。
  そして、韓国の歴史観は、歪曲が甚だしいと言う。
  独りよがりで、被害者意識に凝り固まり、事実をとら
 えようとはしていないと言う。
  そして、教授は、また言う、
  「この様な発言をすると・・韓国で、日本の統治時代
 の日本の統治について、肯定的にとらえようとするのは
 相当の覚悟がいる」と言う。
  そしてまた、「極端な話、身の危険も覚悟しなければ
 ならない」と言う。
  そして、教授は、また言う、
  「作家の李光洙氏が言うように・・、
  韓国の民族の最大の欠点は『嘘つきで、人をだますこ
 とだ』と言う。
  そして、この様なことが、「歴史の歪曲、身勝手な解
 釈は、韓民族の宿痾(しゅくあ、長い間治らない病気)
 であり、
  これがもとで、幾度、実態を見誤り、国を滅ぼして来
 たかしれない。
  感情に流される事なく、歴史に何があったかを正しく
 見つめ、
  そこから教訓をすくい取るという事が、この国(韓国)
 にはあまりにも欠けている。
  簡潔に言えば、李氏朝鮮に、500年にわたって支配され
 て来た「併合前の朝鮮半島の実態」を、(韓国を含む朝
 鮮半島の人々は)、余りにも知らなすぎる。
  最も分かりやすい例で言えば、21世紀のこの時代にあ
 って、当時の大多数の国民が飢餓に苦しむ、専制独裁国
 家を思い起こすと良い。
  今の北朝鮮は、李氏朝鮮のまさにクローンである。
  戦後、日本時代の遺産をすべて壊し、元の姿に戻った
 に過ぎない。
  仮に今、日本が、北朝鮮を併合して統治するとなれば、
 金一族を除く北朝鮮国民は、随喜の涙(ずいきのなみだ、
 うれしさのあまり、あふれ出る涙)を流すに違いない。
  その北朝鮮に同情を示し、呼応して、「反日・反米」
 を叫んでいるのが韓国であり、
  近年、その傾向は強まる一方だ。
  何が本当で、何が嘘か、誰が味方で、誰が敵か、
  嘘で固めた歴史観では、正当な判断力が養われる訳が
 ない。
  これは、歴史で何度も繰り返された亡国のパターンで
 あり、
  私は早くから『このままでは韓国はつぶれる』と唱え
 て来たが、
  その危機がいよいよ近づいてきたことを感じずにはお
 られない。
  いかにして、真実を究明するかの理由がここにある・・
 と、崔基鎬教授は言う。
  因みに、加耶大学は、慶尚南道金海市に本部を置く大
 韓民国の私立大学。
.
1946年5月3日 極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷。
  東京裁判が開かれた(~1948年11月12日)
  東京裁判(極東国際軍事裁判)では、戦犯として裁か
 れた戦争中の指導者たち全員に有罪が宣告され、
  東条英機首相以下7人が絞首刑になった。
  この裁判で被告は、「平和に対する罪」を犯したとさ
 れた。
  これは、「自衛戦争ではない戦争を開始する事を罪と
 するもの」だったが・・、
  こうした罪で国家の指導者を罰する事は、それまでの
 国際法の歴史には『無かった』。
  また、日本を貶(おとし)めるため、わざわざ後から
 法律まで新しく作って「日本を罪に落とした」。
  東京裁判で、ただ一人の国際法の専門家だったインド
 のパール判事は、『この裁判は、国際法上の根拠を欠い
 ている』として、『被告全員の無罪』を主張した。
  しかし、アメリカを中心とするGHQは、卑劣にも、
 このパール判事の意見書の「公表を禁じ」、その他、一
 切(いっさい)の裁判への「批判を許さなかった」・・
 公正な言論を封じた。
  東京裁判について、『国際法上の正当性を疑う意見』
 が、今でも多い。
  マッカサーも、後に、アメリカ議会で、「この戦争は、
 『日本の自衛の戦争』だった」と証言している。
  つまり、「平和に対する罪は、発生しない」のである。
  つまり、被告の全員が『無罪である』・・と、
  つまり、パール判事の下した『全員無罪の判決』と同
 じとなる。
.
1963年1月22日、アメリカのホワイトハウスで、国家安全保
 障会議が開かれた。
  この時の議題は、「フランスの核武装」だった。
  (この時、まさに、フランスは、フランス独自の核保
 持の方向に動いていた)
  「如何に、フランスが核兵器を持てないようにするか」
 の議題であった。
  この時、J・F・ケネディ大統領(任期:1961年~1963
 年)は次のように言った・・、
  「フランスやその他のヨーロッパの同盟諸国に核を持
 たせると、彼らが『本当の独立国になってしまう』。
  もし、彼らが独立したら、アメリカは『外からヨーロ
 ッパを眺めているだけの国』になってしまう。
  だから、絶対に、フランスに核を持たせてはならない」
 ・・と。
  これは・・この真意は・・、日本もそうなのだ・・、
  一旦、日本が核武装したら、同盟国としてのアメリカ
 を必要としなくなってしまう。
  今、日本は、「アメリカのキャッシュディスペンサー
 になっている」。
  (参考)キャッシュディスペンサー:現金自動預け払
     い機(げんきんじどうあずけばらいき)、ATM
     (エーティーエム)のことで・・、
      通常、紙幣(及び硬貨)、通帳、磁気カード・
     ICカードの受入口、支払口を備え、金融機関
     や貸金業者、現金出納を行う業者の提供するサ
     ービスが、顧客自身の操作によって取引できる
     機械を指す。
      元々は都市銀行の店舗に設置され、普通預貯
     金の預け払いに用いられ出したが、今日、金融
     機関はもとより、小売店や公共施設などに幅広
     く設置されている。
  これから、経済・金融面で逼迫(ひっぱく)して行く
 アメリカにとって、非常な打撃になる。
  フランスのド・ゴール大統領は、アメリカへ問う・・、
  「ソ連が、フランスに核攻撃を仕掛けて来た時・・、
 アメリカは、いったいどのようにしてソ連と核戦争をす
 るつもりか?
  こういう時、アメリカが、フランス防衛のために、ソ
 連を核攻撃するという、軍事シナリオを『具体的に示し
 て欲しい』」・・と。
  この様に聞かれたアメリカは『絶句した』。
  フランスのド・ゴール大統領は・・、
  「アメリカが、同盟国の為に核戦争を実行しない」と
 いう事を、百も承知していた。
  ド・ゴール大統領は、『同じ質問』をケネディ大統領
 へもしている・・、
  この時、ケネディは、『顔面が蒼白になり、何も答え
 られなかった』・・、
  明らかに、「同盟国のために、ソ連と核ミサイルの撃
 ち合いなどしない」という・・アメリカの態度が、はっ
 きりと読み取れたという。
  『電磁パルス弾』で「日本が蒸発する」かもしれない
 という今・2017年・・いつまでも、「もり・かけ問題」
 で国会を空転させ続けるという事は「ダメな事は明白」
 ・・
.
2011年6月17日、ピサの斜塔の傾きが増大しているので、
  ピサの斜塔がそのうち倒れてしまうと大騒ぎになった。
  この傾きの増大を止めた工事をしたのが日本だった。
  どうしても傾き増大を止められなかったイタリア当局
 は、日本の技術に頼って来た。
  これからもズーット大切に維持し、使って行きたいと
 いう方針だという。
  (2011年6月17日、修復工事が完了し、完了記念イベ
 ントが行われた・・
  最後は、これからも長く使い続けるための大理石の汚
 れも取り除く工事が行なわれたという)
  建造物は、適切にメンテナンスをすれば「半永久的に
 使えるのだ」。
  法隆寺は1000年以上だ。
  鉄骨造は、「錆びさせさえしなければ」、(防錆塗料
 塗布のメンテナンスをしっかり行なえば)永久に構造躯
 体としてあり続ける。
  日本は、壊して作り替えるという考え方・風潮がある。
  これは、間違っている。
  人間の細胞の様に、老いるとか、劣化するとかの捉え
 方をする・・ここが、間違いのスタート・・、
  構造躯体は、無機質で、生きている細胞とは違うのだ。
  適切なメンテナンスさえすれば、永久に使用可能なの
 だ。
  昭和から平成に変わる頃の、「バブル景気の時代」、
  日本人の作り替える思考が盛んに行われた。
  極端な言い方をすれば、「今日、竣工したマンション」
 でも、経済的に成り立てば(儲かれば)、明日から、「
 より大きく儲かるワンルーム・ホテル」に建て替えるた
 めに、その竣工したばかりのマンションの解体工事をす
 るというような・・「異常さのある時代」だった。
  有限な自然の資源や、社会正義のことなど「お構いな
 し」の時代だった。
  NHKが、渋谷の放送センターの建て替えを目論んで
 いる。
  この事を実現しようと、渋谷の近くの建物が、解体さ
 れ建て替えるというニュースを盛んに放送した。
  自前の放送媒体を使って、自分たちに都合の良いニュ
 ースを、自分たちに都合良く脚色して放送した。
  実際は、こんな話題は放送する意味はないのだが・・
 本当に、反社会的行為をした。
  自分本位の行動をするNHKが、また、最近、この様
 な放送をし始めている。
  金が無いと言って、受信料値下げ目標が実行できずに
 いたが・・、収支決算が良くなっても、視聴者・国民へ
 お返ししますと約束した、視聴者への受信料値下げの実
 行をする約束なのだが、値下げをせず、「建て替えだ」
 の内部留保だと、視聴者の金・受信料を返還しないでい
 る。
  受信料値下げをしないでいる。
.
2013年10月26日、脱南者:韓国を逃れてアメリカへ行く人
 が多くなっている。
  脱北者ではなく脱南者。
  韓国の人も理性のある人は、事を正確に理解している。
  また、「もう、慰安婦問題の嘘は言わないこと」とい
 う世界の人たちが増えているという。
  2013年10月26日、韓国は「生き地獄」か『脱南』する
 脱北者たちと、「産経ニュース」が報じている。
  韓国に定住していた脱北者が、再び、第三国や北朝鮮
 に向かう『脱南者』が多発している。
  最近では、北に逆戻りした住民が、韓国での生活を「
 生き地獄」だったと非難した。
  以前ならば、こうした言動は「北朝鮮体制の政治宣伝」
 と切り捨てられてきた。
  だが、一方で、韓国社会の差別や就職・生活難に苦し
 む脱北者が増加し、社会問題化しているのも事実。
  「同胞」であるはずの脱北者すら逃げ出していく現状
 に、韓国政府は頭を抱えている。
  今月・10月15日付の東亜日報社説はこの問題に言及。
  これまで韓国に亡命し、定住を決めた累計2万5560人の
 脱北者のうち、「689人は第三国に滞在している」と把握
 されていると指摘した。
  経済的困難や、韓国生活への不適応で、自殺した脱北
 者も26人に上るという。
  さらに、過去5年間に韓国籍者の難民申請を受け付け
 た国から韓国政府への指紋照会155件のうち、81.3%の
 126件は、韓国に定住していた脱北者だったとも指摘して
 いる。
  韓国政府は、現在、定着準備金や住宅支援金、職業訓
 練費用といった社会福祉から教育支援まで、脱北者に対
 して、1人当たり2000万(約185万円)~4800万ウォン
 (約443万円)を支給している。
  同じ言語圏で言葉の問題は基本的に無く、手厚い支援
 制度も用意している韓国から、こんなにも多くの人々が
 逃げ出している事実に、韓国政府や脱北者の支援活動に
 当たる関係者らはショックを受けている。
  韓国政府にとって、さらに頭の痛い問題が「北へ帰還
 する脱北者の続出」だ。
  北朝鮮は、金正恩(キム・ジョンウン)体制以降、12
 人が戻ったと宣伝している。
  北朝鮮の官製メディア、朝鮮中央通信によると、9月30
 日には平壌で、韓国から北に戻った元脱北者たちの「座
 談会」が開かれたという。
  参加したチャン・グァンチョルという男性(33歳)は
 「韓国では仕事探しが大変だ。
  就職できたとしても、給料は、韓国人の半分以下で、
 悪夢の日々だった」と話した-と同通信は伝えた。
  韓国政府関係者は、「金正恩体制を称賛させて、南へ
 逃れようとする北朝鮮住民の夢を壊すことを狙った宣伝
 工作だ」と指摘する。
  約12年前から韓国に住む50代の男性脱北者は「韓国で
 生活して初めて、韓国人にとっても暮らしにくい社会な
 のだと分かった」と。
  また、「就職、進学や結婚など人生すべてがカネとコ
 ネで決まる」と。
  また、「当の韓国人が、常に、不満を抱えながら暮ら
 しているというのに、われわれのような完全なよそ者の
 脱北者が生きていく余地はない」と打ち明けた。
  この男性によると、韓国での厳しい生活実態は、北朝
 鮮住民の間にも広まっていて、「韓国で支援を受けてカ
 ネをためたら、第三国に再脱出しようと最初から計画す
 る人もいる」という。
  「韓国に不満を持つ人は、アメリカ、カナダ、中国、
 欧州、それに、日本にも移住している」と。
  「韓国で差別などを受け苦労しても、自ら進んで独裁
 の北に戻るということはあり得ず、北への帰還には工作
 員が介在している」と。
  「実生活に入る前に韓国社会への理解を十分に深める
 時間が必要だ」と。
  「特に、北の地方などで抑圧された住民は、資本主義
 が発達した韓国なら奴隷的労働から解放され、楽に高収
 入の生活ができると過剰な夢を抱いている」と。
  「たとえば、職業斡旋で溶接技術を学びながら職を得
 たとしても、初任給が安く想像していた生活などできな
 いと失望し、だまされたと感じてしまう」と。
  「実績を積み、信頼を得て、初めて昇給の機会がある
 という認識がない」。
  「現在は、3ヶ月で定着支援施設を出るが、それでは韓
 国社会になじめない」。
  「60年も分断しているのに10年程度では適応できない。
 40年、50年の長い目で見ることが重要だ」と。
.
2017年、北朝鮮のGDPは、日本のGDPの0.3%・・、
  北朝鮮の核開発や、大陸間弾道弾(ICBM)の開発
 は、中国の応援なくしてできない状況。
.
2017年、日本の自主核の保持について、ある日本の識者が、
 徹底的にアメリカの政策立案局の高官に問うた・・、
  話の中で・・「日本は、自主核を持って、独立国にな
 らなければいけない」と言うと・・
  アメリカの政策立案局の高官は・・「日本が、自主核
 を持って独立国になろうとするならば・・、
  我々・アメリカは、経済制裁をする・・また、軍事制
 裁もする・・それでも、いいか?」・・と、いつもの様
 に恫喝して来たという・・
  しかし・・さらに・・議論をすると・・彼は・・、
 「対日制裁をしない方が、いいかもしれないなぁ・・」
 と言ったという・・。
  日本は、日本の要望を、とことんアメリカに伝えるべ
 きである・・!!
  中国が必死に止めるだろうが・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-09-29 03:59 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)556E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年4月~1892年4月)

題:(増補版)556E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年4月~1892年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年4月16日、新橋駅~神戸駅間の直通旅客列車が3往復
 運転となった。
1892年4月17日 大日本蚕糸会社が創立された。
  産業振興の中心にある蚕糸業の改良進歩をはかること
 を目的として、
  農商務省蚕業試験場出身技術者らが提唱して、この年、
 大日本蚕糸会が設立された。
  業務は、蚕糸業の調査、および、技術指導に貢献する
 だった。
  1905年、社団法人に改組され、不況対策や政策提言に
 も重要な役割を果たした。
  1935年~1936年、全5巻の『日本蚕糸業史』を刊行した。
  1942年、蚕糸科学研究所と合併し、財団法人となった。
  戦前の主な蚕糸業団体としては、他に、蚕糸業同業組
 合中央会、帝国蚕糸組合、日本中央蚕糸会等がある。
1892年4月、児島惟謙らの大審院裁判官の花札賭博が問題化
 した。
  向島の待合「初音屋」などで、花札賭博を行い、司法
 界を揺るがす問題となった。
  児島惟謙は、1891年5月、大津事件で大津に出張した時
 にも花札賭博をしていた。
  大審院の検事の磯部四郎も、色町で同僚や芸者と花合
 わせ(花札賭博)をすることが大変好きで・・、
  院長の児島惟謙は、この磯部四郎に誘われたことが切
 っ掛けだった。
  そして、1892年3月、磯部四郎は、この事を同僚検事に、
 児島惟謙らと花合わせをしていることを話してしまった。
  児島惟謙は・・「賭博と花札遊戯は別問題である。
  私は花札を引いたと明言するが、金銭を賭したとは言
 っていない」と言った・・が、
  金銭を掛けていなくても、この当時の法律では、飲食
 物以外のものを賭ければ、すべて賭博罪となった。
1892年4月、シベリア横断の大旅行を計画(福島安正)
  日本の陸軍軍人・福島安正は、日露戦争前のこの年に、
 ロシアが、シベリア鉄道の工事に着手するという情報を
 得て、単独で冬のシベリアの横断を行なった(~1893年)
  世界初の快挙で、世界が驚嘆した。
  厳寒期のシベリア横断は世界初だった。
  シベリア鉄道が完成すれば、ロシアは、兵を極東へ送
 り込み、必ず、太平洋側で南下政策をとることが火を見
 るより明らかだった。
  我が国の安全を守るためには、詳細な調査が必要と考
 えた。
  福島安正は、大勢だと「スパイ行為だ」と指摘されや
 すいと、一頭の馬で行くというやり方で決行した。
  福島安正は、1852年(嘉永)、長野・松本藩士の家に
 生まれ、大学南校(現:東大)を経て、
  1874年、英語力を買われ、陸軍省に採用されていた。
1892年4月、鉄道郵便物取扱手続を施行した。
  鉄道事業者に郵便車を運行させて、これに職員が乗務
 し、
  鉄道沿線の郵便局から継送される郵便物を輸送すると
 ともに、郵便車内で郵便物をあて先地域別に区分する業
 務を行った。
  鉄道は、近代的な交通・通信インフラの基盤として重
 要な位置付けがなされていて、
  1872年に開通した日本最初の鉄道においても、郵便輸
 送が行われていた。
  また、当初は、郵便物を、単に、輸送するのみであっ
 たが、
  郵便物数の増加に伴い、送達速度の向上のため、1892
 年4月からは、輸送中の鉄道郵便車内での郵便物のあて先
 地域別区分を開始した。
  その後、鉄道郵便取扱業務の増大から、専門組織の確
 立が図られた。
  郵便法令としては、1871年12月に、郵便規則が公布(
 1872年、施行)され、
  年ごとに、改定を加えて公布が続けられた。
  1882年12月、新たに郵便条例が公布され、事業の基本
 法となった(1883年、施行)。
  1892年6月には、小包郵便法を公布し、
  1892年10月から、小包郵便の取扱いを開始した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本人は、今、『美しい村』をどんどん失っている・・
  ・・そして、『核武装したデタント』
.
1947年6月8日、日本教職員組合(日教組)結成
  日本の教師が連帯しようとできた組織が・・日教組(
 日本教職員組合)
  その組織ができると、この組織は、「ある固定したイ
 デオロギーを持つ組織」に乗っ取られた。
  無色透明で、公正な教育は、無くなった。
  日教組を乗っ取った者たちは、「次のように考えた」・・、
  「今、子供たちを洗脳すれば、20年後に、また、30年
 後に、確実に自分たちが洗脳したイデオロギーが社会を
 制覇する」・・と・・、
  この様に・・公言している。
  組合員数:約24万1000人(平成28年6月30日現在)
  支持政党:民進党、社会民主党
  かつては、共産党支持のグループも、日教組に属し、
 社会党右派、同左派、共産党系にほぼ3等分されていたが、
 1989年の労組再編で、共産党支持グループが日教組を離
 脱し、全教を結成した。
.
1967年8月8日、新宿駅構内で、米軍ジェット燃料輸送タン
 ク列車と貨物列車が、接触事故を起こして炎上した。
  これをきっかけに、全学連各派のデモが活発化し、
  1968年10月、新宿駅騒乱事件へと発展した。
.
1971年、東京経済大学・名誉教授の色川大吉氏は・・、
 1台のフォルクスワーゲンのキャンピングカー「どさ号」
 に「リスボン~東京5万キロ」と標語を貼り付け、
 友人ら数人でユーラシア大陸を走破した。
  その色川氏・・「日本人は、今、『美しい村』をどん
 どん失っている」・・と言われる。
  このフォルクスワーゲンの旅・・インドを目ざして車
 で走って、フランスの田園で、その美しさに感動し、そ
 の時の感じた事を記す・・
  日本人は、今、「美しい村」をどんどん失っている。
  東京など、どうなったってかまわないが、国民自身が
 「美しい村」を自分の手で破壊している事には、『日本
 文化の滅亡を感ずるのだ』・・と。
.
1980年代、この頃から続く『アメリカの双子の赤字』
☆1968年3月には、空前の「ゴールド・ラッシュ」が起こり、
 ロンドン自由金市場の金価格の抑制をめざした金プール
 協定が崩れ・・
  金が二重価格制へと移行した。
  これによって・・、
  実質上・・IMF体制は崩壊したといえる・・が・・
  最終的には、1971年8月のニクソン・ショックで、金と
 ドルの交換が停止されたことにより・・、
  名実ともに終焉(しゅうえん)を迎えた。
  一時、金との兌換(だかん)がないままのドルを中心と
 したスミソニアン体制が成立したが・・、
  1973年には、崩壊し、
  以後、主要先進国は、変動為替相場制の時代へ移行す
 ることとなった。
☆1980年代前半に、経済学者のポール・クルーグマンが・・、
  『アメリカの双子の赤字』が、深刻な経済危機をもた
 らす恐れがあると警告し・・、
  当時のアメリカの双子の赤字が、維持可能であるか否
 かという問題提起を行い(サステナビリティ問題、持続可
 能かの問題)・・全世界に衝撃を与えた。
☆1980年代のアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン
 の政権下・・、
  アメリカ合衆国において、莫大な貿易赤字(経常赤字)
 と財政赤字が「並存していた」。
  1998年には、財政収支が黒字となり解消されたが・・、
  2001年に、大統領に就任したジョージ・ウォーカー・
 ブッシュ(子)政権下において、双子の赤字が『再発』
 し(イラク戦争の戦費や、景気刺激策をとるため大幅減
 税をした)・・
  そして、その後、拡大し、アメリカの貿易赤字は史上
 空前の規模に達し・・重大問題化している。
☆巨大な赤字国家、そして、借金だらけ国家・アメリカ。
  巨大な『財政赤字』と『経常赤字』を垂れ流し続ける
 締まりのない国となった。
  困っているからと日本に金をせびり・・、
  短期間に数兆ドルものペーパー・マネーを印刷し、増
 刷し続け、国際通貨市場にぶち込んでいる。
  国際基軸通貨の発行特権を乱用しているアメリカ。
  アメリカの命令に服従してアメリカドルを大量に買わ
 されて来ている日本。
  日本人が額に汗して働いて貯めた資産を、当てにする
 アメリカ。
  SDR(IMFが発行する合成通貨)を世界の共通通
 貨にせよとの声がある・・、
  アメリカ・ドルは、世界通貨の資格はない・・世界通
 貨の座から降りよ・・の声がある。
  アメリカドルには資格が無い・・その座に居るのは正
 義ではない。
  無節操なペーパー・マネーのアメリカドルの増刷は許
 されない。
  「アメリカのペーパー・マネーの夢は終わった」と言
 われている。
.
1996年、日教組がからむ「学校教育の酷い事例」
  鎌倉市のN小学校、小学1年生に、具体的に性器を描い
 た図(絵)を見せ、性行為を教え、ビデオで出産場面を
 見せ教えた。
  そのショックで、ある児童は、家に帰り、母親とトラ
 ブルとなり、児童は、「母親に嫌悪感を持った事を口に
 した」。
  この事例から見ても、行き過ぎた事がなされた事は明
 らかだった。
  年齢に不相応な事を、「教育の名のもとに行った」。
  この教師は、この授業以降、児童たちへ、「父母へ話
 す事を禁じた」。
  児童が秘密にすることを要求した教師は・・、
  「教室空間を、秘密の密室空間としたい」という意図
 を持っていた。
  従来は、中学生や、高校生の妊娠中絶が問題になって
 いたが、近年は、それが低年齢化し、小学5年生、6年生
 の妊娠中絶の増大として大問題となっている。
  日教組は、男女差別を無くす方針を取っている。
  こんなことは日教組が言わなくても、当たり前なのだ
 が・・、
  日教組の教師への指導で「行き過ぎ」が起きている。
  男女の名前を混ぜる名簿「男女混合名簿」から始まっ
 て、身体検査も男女一緒にやっている。
  「ジェンダーフリー」と横文字を使って「正しい事の
 ようにマインド・コントロール」している。
  中学生の身体検査も男女一緒。修学旅行の際も、男女
 一緒に同じ部屋に寝かせている。
  体育も一緒、騎馬戦も男女一緒が良いと洗脳し、マイ
 ンド・コントロールしている。
  そして、生殖器の事を微に入り細に入り教える事が良
 いのだとしている。。
  人間の臓器は、ほかにも大切な臓器が一杯あるのに?
.
1999年8月13日、国旗及び国家に関する法律が公布され、即
 日、施行された。
  国旗・国歌法(こっきこっかほう)と略される。
  鎌倉市教育委員会は、市内の小・中学校25校に、国旗
 と校旗を三脚と共に配布し、卒業式・入学式に国旗掲揚
 を行なうよう指導した。
  君が代についてはテープを配布した。
  しかし、ほとんどの学校が、国歌を歌わなかった。
  教師を指導すべき校長が国歌を歌わない学校すら存在
 した。
  また、学校によっては、「君が代について思想の自由
 があるから歌っても歌わなくても自由です」と呼びかけ
 る学校もあった。
  また、入学式の記念写真撮影の際、三脚にある国旗を
 取り除いて撮影している学校もあった。
  卒業式の「君が代斉唱」の際には、歌わないどころか
 起立もしない教師が多数居るという状況だった。
  また、子供たちのほとんどが、音楽の授業で「君が代」
 を習わない。
  そして、この事を指摘している方は、この様な行為を
 する教師は「日教組の組合員の教師」と言う。
  キリスト教の活動方針もこれと同じである。
  日教組とキリスト教がこの運動を行なっている。
  自分の「依(よ)って立つ基盤」をしっかり体感し認
 識する事は大切なのだ。
  国の恩恵に欲する身でありながら、感謝もしない、感
 じないでは駄目なのだ。
  日教組に反する行為をすると皆から「総スカンを食う
 ことをされる」・・と・・、
  ある音楽教師が、子供に「君が代」を教え、卒業式で
 の「国歌斉唱」をすると、ある日教組の組合員の教師に
 よって、国歌斉唱が取り止めになるという具合。
  そして、「君が代」のテープを流して「国歌斉唱だ」
 としている学校もある。
  受益者が応分の負担の義務行為をしないで、益だけを
 享受することは許されるのか?・・許されない。
  思想・信条に反すると、あくまで拒否し続ける事は出
 来るのか?・・出来ない。
  「個人の思想・信条には無限の許容が与えられている
 のではない」。
  「大局の利益が、個人の利益に優先する」。
  共同して国を守る行為は、個人の利益を守る行為に優
 先する。
  日教組の研修に出た報告には・・、
  日教組の研修の実態は、「組合活動だ」と言われない
 様に、指摘を受けないように『研修が混ぜられている』・・
 実質的に「組合活動となっている」。
  日教組の組合員教師は、研修だと届け出る。
  研修だから公的資金が支払われ、給料も支払われ、公
 的資金で日教組の活動ができるという実態が現出してい
 る。
  「研修という名に隠れた組合活動」が行なわれ、子供
 たちは勉強なしの自習となる。
  堂々と二日間の研修に出て、隠れた組織活動がなされ
 ている。
  子供たちの二日間は・・勉強無し。
  驚いたことに・・「教師が怖い教育委員会」と日教組
 は契約を結んでいる。
  「教員の研修に出席には文句を言わない」という契約
 を手回しよく貰っている。
  (研修なら文句は言わないけど・・組合活動なのだ)
  そしてまた、この契約には、管理者の管理を骨抜きに
 することが契約されている。
  それは、基本的に、管理者の指示は「独善だ」という
 立場から契約されている。
  それは、当然のように書かれていた。
  管理者が決める事より「我々・教師が決める事の方が
 良いのだ」。
  だから、管理者の決定には従わない・・となっている。
  (教師たちの集団での討議決定が優れているという言
 い分)
  管理の存在を無しにして・・、
  その様なことを「もっともの様に」主張している。
  また、教育委員会まで、この論理を認めてしまって契
 約までしている。
  もう、統制が取れない状態となっている。
  何も言っても・・「全教員の意思で決めた事ですから」
 と拒否された。
  そして、「全教員の意思を尊重する」と契約したでし
 ょう・・と言われる。
  「決定権まで勝ち取った」と勘違いした。
  個人であろうが、全教員であろうが・・「他の意思を
 尊重するのは当たり前である」。
  だから故に、「全教員の意思を尊重します」とは契約
 した・・が・・
  だから、すべてが、その通りに・・教師の言う通りに
 行くかと言えば、必ずしも「そうではないですよ」とい
 うことが分からない・・理解できない教師たち・・
  尊重はしますが・・最終判断・・決定権まで渡してな
 いのですよ・・ということ・・、
  こんな当たり前の事で揉めている。
  そして、好き勝手をしている・・社会を見下している。
  すべての人々の意見が一致することは完全にはない。
  もしあったとすれば・・と仮定の話として語られるの
 は、その全員一致の意思は、「非常に危険」という話で
 ある。
  故に、ここには・・絶対に決裁者が必要なのだ。
  会社に例えれば、「社長」。
  こんな当たり前、簡単容易な論理が通らずに、小学校
 は、また、中学校は揉めて、日教組の言いなりになって
 いる。
  シッチャカメッチャカになっている。
  つまり、組合が理知的であれば会社の事を思い、また、
 会社も組合員の事を思う、この様な会社が、大いに発展
 し、結局、組合員も良くなっている。
  しかし、あまりにも組合が強く、会社まで潰すという
 事がある。
  今、日教組は、この後者の状態となっている。
  「自分たちだけ」の目先の利益を追い求める状態にな
 っている。
  また、管理の立場を忘れて教育委員会は、完全に降伏
 し、日教組に、おべっかを使っている。
  完全な崩壊状態となっている。
  だからまた、完全な癒着体制から、腐敗が起きている。
  法律無視、法律違反という状況となっている。
  なんの行動基準も無いことになっている。
  遵法の気も薄い。
  そして、処分もされないで・・常態化し・・大手を振
 ってまかり通っている。
  ピンハネも常態化し、当たり前と化している。
  そして、これが拡大し、もはや、文部省の指導を県が
 無視し、言う事を聞かないという所まで来ている。
  何と30%の教員が、日教組活動で、授業は休みにした
 という。
  1999年(平成11年)10月14日にも起きている。
  教育委員会も、そして、校長も、あきらめか? おべ
 っかか? 違法行為を認めた形ににしている。
  日教組に肩を持つ様な言い訳ばかりをする。
  組合活動だけでは無いと、研修を隠れ蓑にしているが、
 ほとんどが組合活動に時間が割かれ、しかも、研修と言
 ったって、「いじめ・学級崩壊」という本当の議題の部
 分は、ほんの言い訳程度の一部なのだ。
  子供たちとは無縁な話がなされている。
  そして、会場の高校の授業も阻害してまでして、平日
 開催をしている。
.
2017年9月6日、北朝鮮問題、アメリカに勝ち目はない・・
 と、ニューズウィークが報じた。
  筆者:ベンジャミン・ハビブ氏(オーストラリアのラ・
 トローブ大学講師、専門は国際政治。
  北朝鮮は、核兵器保有国の一歩手前まで来ており、ト
 ランプ米政権は何をやっても勝ち目はない。
  北東アジアの盟主は、アメリカから中国へ、われわれ
 は覇権の移行期を目の当たりにしている。
  北朝鮮が、9月3日に実施した6回目の核実験は、米本土
 に届くICBM(大陸間弾道ミサイル)に搭載可能な核
 弾頭が完成間近だということを証明した。
  核実験にともなう地震の規模を示すマグニチュード(M)
 は6.3で、前回・2016年9月の核実験と比べて約10倍以上
 のエネルギーがあった。
  今回の核実験で、アメリカの力は、相対的に弱まりこ
 そすれ強まることはないだろう。
  だからこそ、ドナルド・トランプ米政権の対応がます
 ます重要になる。
  考えられる今後のシナリオを見てみる。
 ■戦争
  もし、アメリカが、北朝鮮との戦争に踏み切れば、周
 辺地域で数百万人の死者が出る恐れがある。
  ジェームズ・マティス米国防長官は3日、アメリカは、
 「大規模な軍事行動で対処する」と語り、北朝鮮を牽制
 した。
  このようなトランプ政権の勇まし過ぎる発言は、北東
 アジア地域でのアメリカの地位を逆に低下させている。
 【参考記事】マティスの「大規模軍事攻撃」発言で信憑
      性増した対北軍事作戦
  ソウルで1000万人が犠牲に
  当然ながら、北朝鮮に対するあらゆる軍事行動は高い
 リスクを伴う。
  北朝鮮を軍事力で抑え込むための良い選択肢など1つも
 ない。
  8月に、ホワイトハウスを去る前に、スティーブ・バノ
 ン元大統領首席戦略官は、北朝鮮問題についてこう言っ
 ていた。
 ・・「(北朝鮮の核開発による威嚇について)軍事的な
 解決はない、忘れるべきだ。
  (軍事作戦開始後)最初の30分間で、韓国の首都ソウ
 ルの市民1000万人が、通常兵器による攻撃で犠牲になら
 ない方法がない限り、軍事的解決策はない。
  してやられたのだ」 ・・
  米軍と韓国軍の兵力を合わせれば、戦争では北朝鮮に
 勝つだろうが、いかなるシナリオでも失うものが大きい
 のはアメリカだ。
 ■目算違い
  トランプ政権が、北朝鮮に対して軍事行動を取るぞと
 威嚇を繰り返すだけで、それらを実行する気がなければ、
 アメリカの同盟国を危険にさらし、中国に北東アジアの
 秩序を作る中心的な役割を渡すことになる。
 【参考記事】中国が切った「中朝軍事同盟カード」を読
      み切れなかった日米の失敗
  北東アジアにおけるアメリカの同盟諸国、とくに韓国
 との関係は、トランプが次にどんな手を打とうとも、緊
 張を強いられることになるだろう。
  北朝鮮が、核弾頭搭載可能なICBMを完成させれば、
 万一戦争が起きた時に、韓国や日本を防衛するアメリカ
 のリスクが増える。
  アメリカの安全保障に依存してきた日韓両政府からア
 メリカに対する信頼も揺らぐ。
  アメリカの軍事行動が戦争にエスカレートすれば、ソ
 ウルは、北朝鮮の迫撃砲による集中攻撃を受け、韓国の
 他の場所や日本、さらに遠く離れた地域もミサイル攻撃
 の標的になりうる。
 【参考記事】日本、北朝鮮に打つ手なし?
  もし、北朝鮮が窮地に追い込まれ、金正恩体制の存続
 が直接的な脅威にさらされれば、北朝鮮は核兵器を使用
 する可能性が高い。
  もし、日本や韓国が核攻撃を受ければ、アメリカとの
 同盟は本来の役割が果たせなかったことになり、日韓と
 アメリカの関係はさらに大きな圧力にさらされる。
 ■制裁
  もし、今後も制裁の効果が上がらなければ、北朝鮮は
 核兵器保有という目標を遂に達成するだろう。
  そうなれば、NTP(核拡散防止条約)体制は崩壊の
 危機に瀕する。
  北朝鮮が、核兵器の開発に成功すれば、核開発を目指
 す他の国々にとって、効果のない経済制裁を科せられる
 以外に何ら罰を受けることなく核開発が行えるという悪
 しき前例になり、結果的にNPT体制は形骸化する。
  また、アメリカの核抑止力も著しく衰える。
  北朝鮮のように、核兵器保有に執念を燃やす国を止め
 られないことがはっきりするからだ。
 「核独占」の終わり
  核兵器を保有できる国を米ロ英仏中の5カ国に限定する
 NPTの「核独占」という考え方は、アメリカの覇権を
 支える柱の1つだ。
  だが、NPTに加盟していない核兵器保有国は、「核
 の影」をちらつかせることで、アメリカと取引でき、力
 の行使の選択肢も狭めることができる。
 ■米中貿易戦争
  もし、アメリカが、北朝鮮の核・ミサイル開発の資金
 源を断つために、中国に圧力をかければ、アメリカには
 勝ち目のない米中貿易戦争に発展する恐れがある。
  トランプは3日にツイッターで、アメリカは「北朝鮮と
 ビジネスをするすべての国と貿易を停止することも検討
 中だ」と述べた。
  これが、北朝鮮の最大の貿易相手国である中国に対す
 る圧力であることは明らかだ。
  トランプの主張よりもさらに踏み込んだのは、スティ
 ーブン・ムニューシン米財務長官だ。
  彼は、財務省は北朝鮮との「すべての貿易やビジネス」
 を停止させる新たな経済制裁を策定中だと明らかにした。
  北朝鮮が、中国に頼っている石油の禁輸を求める声も
 上がっている。
  だが、2016年に、アメリカの中国からの輸入は4630億
 ドル。
  バラク・オバマ前米政権下で、国務長官を務めていた
 ときのヒラリー・クリントンが指摘したように、アメリ
 カ最大の輸入相手国である中国は、アメリカに多大な影
 響力を持っている。
  愚かな保護主義から米中貿易戦争に発展し、怒った中
 国が、保有する莫大なドル建て債権を売り払う「ドル爆
 弾」を投下させれば、ドルは暴落し、世界は大不況にな
 る。
  北朝鮮問題で中国の助けを求めたいなら、あり得ない
 戦略だ。
 ■核開発の凍結
  可能性は低いが、もし、アメリカが北朝鮮に核開発の
 凍結を求めるなら、問題を先延ばしにするだけだ。
  北朝鮮が、挑発行為に出るたびに、関係国がお決まり
 の声明を出し、「融和」外交を繰り返すぐらいなら、北
 朝鮮との対話は、問題解決に向けた悪い選択肢の中では
 最もまし、という程度に過ぎない。
  金政権は、核兵器の開発と製造の凍結に合意するかも
 しれないし、核開発に費やす時間稼ぎのために、ミサイ
 ル発射実験の一時停止を受け入れるかもしれない。
 和平でアメリカは用済みに
  だが、金が国家戦略に掲げる「並進路線」(核開発と
 経済開発を同時に進める)では、核兵器が重要な位置を
 占めている。
  しかも、北朝鮮は、長年にわたり巧みに危機を作り出
 し、核開発を、一時、縮小する見返りにアメリカなどの
 交渉相手から譲歩を引き出す駆け引きを行ってきた。
  そう考えれば、核開発の凍結は、北朝鮮が核保有国に
 なる日を先延ばしにできても、止めることは不可能だ。
  北朝鮮との対話の問題点は、そもそも対話をする双方
 に同じ出発点がないことだ。
  金政権が、核開発に巨額の資金を注ぎ込むのは、国家
 安全保障や経済開発、国内の政治的正当性を保つ基盤と
 核開発を位置付けているからだ。
  そんな金政権が、進んで核開発を止めるはずはない。
 ■和平協定
  もし、アメリカが、和平協定を結ぶために北朝鮮と同
 じテーブルに着けば、北東アジア地域におけるアメリカ
 の威信は地に落ち、永遠に回復できないだろう。
  韓国の米軍基地の存在意義も消失する。
  今一度、交渉の可能性が出てくるのは、北朝鮮が、核
 弾頭の小型化とミサイルへの装着技術を完成させたとき
 だ。
  この時点で、北朝鮮は、アメリカに体制保障と朝鮮戦
 争の正式な終わりについて交渉を呼びかけるかもしれな
 い(朝鮮戦争は、1953年以降停戦状態で、両国はまだ戦
 争状態にある)
  北朝鮮が、なぜそんな交渉をしたがるか? 
  それは、核兵器の裏付けがあれば、強気で交渉を進め
 られるからだ。
  和平協定は、トランプ政権がもつ選択肢のなかで最も
 憂いの少ないものだ。
  他の選択肢はもっと受け入れがたい。
  最後は、北東アジア地域の各国が自ら核武装した北朝
 鮮を抑止する方法を見つけることになるだろう。
 ■ヘゲモニー(主導的地位。指導権)が移行する
  トランプ政権にとって、最終的にその限界をさらして
 しまわずに強さと決意を表す手段はない。
  現在の朝鮮半島情勢は、アメリカにとっての「スエズ
 危機」なのだろうか。
  エジプトが、スエズ運河を国有化したのに対抗し、イ
 ギリスなどが軍事侵攻したが失敗。
  大英帝国の衰えと第二次大戦後の国家間の力関係の変
 化をさらしてしまった。
  北朝鮮危機は、まさに、覇権移行期の顔をしている。
  トランプのアメリカは、「ウィン=ウィン」ならぬ「
 ルーズ=ルーズ」の危機に直面している。
  それらは、アメリカ衰退の現実と北東アジアで戦略を
 形作る上での限界を見せつけている。
.
2017年、中国の軍拡を止めるために・・
  アメリカは、世界をアメリカのコントロール下に置き
 たいとして来た。
  安全保障の重要な要素「武器体系」も、世界がアメリ
 カの武器システムの中に入る事を「良(よし)」として
 来た。
  勿論、アメリカの友好国との関係のみにおいて(当然、
 敵対国とはそのようにはしない)・・、
  そうすれば・・アメリカの意思が働く下で、同じ武器
 体系を持った国々が動くからである。
  ある面・・アメリカに都合よく動くからである・・、
  しかし、ヨーロッパ諸国は、『これを嫌った』。
  何でもかんでも、アメリカの意思が働くことは「御免
 だ」の意思表示だった。
  ヨーロッパは、アメリカとは別の武器体系を持った。
  アメリカは、ヨーロッパの「軍事産業の兵器開発」や
 「輸出」に、傲慢な態度で一方的に干渉した、そして、
 妨害した。
  日本は、一時的に、過去、ヨーロッパの兵器を購入し
 た事があるが、今・現在は、アメリカ一辺倒である・・
 完全なアメリカのコントロール下である。
  この様な状態なのは、アメリカだけに頼るのは、リス
 クがあり、そのリスクは高い。
  また、不確実性も高すぎる。
  それに加え、アメリカの大統領制は、非常に幅広く、
 違いの大きい人物が選出され、大統領となる。
  これが、また、大きなリスクとして存在している。
  F・ルーズベルトの様に、「完全な破綻へ至った過去
 の大統領」の様な人物が、「大統領に選出された場合、
 アメリカだけの兵器体系に守られた日本の武器体系は、
 どうなるのか?」・・という問題である。
  日本は、アメリカからの武器購入に一方的に頼るのは、
 日本にとって賢い国策だとは言えない。
  日本は、その意味から、もっと、ヨーロッパ諸国と連
 携を取るべきである。
  ヨーロッパの軍事産業も、優秀な技術を持つ日本と提
 携したがっている。
  最近(2017年)も、オーストラリアは、アメリカの兵
 器体系ではない「フランスの潜水艦技術の導入を決定し
 た」。
  また、フランスのド・ゴール大統領は、また、ポンピ
 ドー大統領は、知恵のある大統領だった。
  ド・ゴールは、フランスを核武装した、そして、ソ連
 とデタントを進めた。
  これを、「核武装したデタント」と呼んだ。
  ド・ゴールは言った・・、
  「私(ド・ゴール)は、ソ連とデタントがしたかった
 のだ。
  しかし、フランスが核を持っていなかったら、ソ連は、
 フランスの事を『アメリカの保護領』と見なして、フラ
 ンスを相手にしなかっただろう。
  ソ連とまともに交渉したいのなら、独立した核戦力が
 必要だ」・・と。
  日本も、このフランスにならい、核武装して、「中国
 とデタントをする」べきである。
  それで、中国の軍拡を止めるべきである。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-09-25 15:59 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)555E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年3月~1892年4月)

題:(増補版)555E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年3月~1892年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年4月1日、改正小学校令の実施
  因みに、1900年(明治33年)の小学校令改正と施行規
 則で、小学校は「年度の初め」を、「4月」に入学する
 と規程した。
  また、「(4月始まりを)文部省が省令によって明確
 に定めたのは、小学校についてはこれが最初」との文言
 がある。
1892年4月1日、鉄道庁が第二部雇員以下採用内規を制定
 (鉄二第161号)
  鉄道の建設に従事する人に、鉄道が開通する府県の出
 身者が多数をしめた・・その理由は・・、
  文明の利器・・その進んだ鉄道の開通が、都市地域や
 街道筋の前近代的交通業者の営業を阻害し、その分解を
 促進した。
  そのため、優しい日本は、その救済策を作った・・、
 その人たちのために、働く場・労働力基盤を創出した。
  官営鉄道の例ではないが・・、
  1880年に、設立され営業開始した東京馬車鉄道会社は、
 東京府知事にあてた『建築願』で次の様に記した・・、
  「今ヤ我同胞ノ人衆二於テ牛馬二代リ車業ヲナス者殆
 ント幾千百ナルヲ知ラス、実二我良民ヲ塗炭二陥ラシム
 ルノ醜体視ルニ忍ヒザルノミナラズ又其健康ヲ害スルヤ
 最モ甚シ、而シテ今此車業ヲ為ス者游手無頼ノ徒ノミニ
 非ス士農工商ノ徒或ハ……不測ノ災害ヲ蒙リ已ムヲ得ス
 此業ヲナスモノ亦多シ……今之ヲ救フノ道他ナシ又馬車
 鉄路ヲ設クルニアルノミ、若シ此鉄路ノ各所二開クルニ
 至ラハ随テ人車ノ業衰滅二帰シ此賎業ヲナス者或ハ本業
 二復スルヲ得ン、此此レ馬車鉄路ヲ設ケ以テ人車ノ賎業
 ヲ漸次消滅救済スルノ便益ナリ」・・、
  「賎業」(人車ノ業)を駆逐することによって、「本
 業」(士農工商)への復帰をはかるという「民衆救済」
 観念がある。
  願状には、鉄道敷設による「賎業」=人力車夫の分解
 が客観的に表現され、救済されている。
  官営鉄道の敷設も、ほぼこれと同様の社会的分解を引
 き起こした。
  日本人の優しさから、圧迫される人車の業の者の救済
 が配慮されていた。
  (日本近代化と労使関係・官営鉄道労資関係の史的構
 造、西成田豊氏の論文を参考にした)
1892年4月1日、日本鉄道会社が、営業・運転・線路の保守
 等業務の自営を開始した。
  岩倉具視らが中心になって作った、1881年の我が国初
 の鉄道会社の日本鉄道会社が、最初は、全国的な規模で
 の鉄道建設を計画したが、実際は、高崎線、東北本線、
 常磐線などだった。
  営業方針には・・、公用軍人・警官の乗車賃は半額と
 されていて、
  また、囚人は無料とし、政府で特別の車両を準備する
 となっている(第21~23条)
  また、凶作の場合、穀物の運賃は半額とした(第24~
 25条)
  また、1885年6月、運転・保線は自社で、
  そして、建設・工作業務だけを鉄道局に委託すること
 にした・・と記述がある。
1892年4月1日、筑豊興業鉄道会社が、旅客運賃を値上げ。
1892年4月1日、日本鉄道会社線の上野駅~大宮駅間の複線
 工事に着手した。
  路盤は、すでに完成していたので、荒川橋梁の複線化
 が大工事であった。
  結局、複線形ワーレン構桁(トラス構造の橋の一種)
 に取替えて、従来のものは、久慈川に転用されることに
 なった。
  小川勝五郎(明治期の鉄道建設に於いて「鉄橋小川」
 と称された橋梁技術者にして功労者の請負業者)に見積
 らせると、予算の2倍もかかるので、直営にした。
  また、この頃、小川も賭博で財産を失い、昔の繁栄は
 なく、やがて引退した。
  1895年4月1日から、複線の使用を開始した。
  1904年1月、山手線と上野駅~田端駅間の複線建設に
 着手した。
  国有までに、上野駅~日暮里駅間の常磐線複線、日暮
 里駅~田端駅間1線を完成したが、
  山手線は大崎駅~池袋駅間を複線とし、水戸駅~友部
 駅間も複線となった。
1892年4月4日、北海道炭砿鉄道会社の社長に高島嘉右衛門
 を任命した。
  高島嘉右衛門(たかしまかえもん)は、横浜の実業家
 で、
  横浜港の埋め立て事業を手掛け、横浜の発展に寄与し、
 「横浜の父」を言われた。
  その業績を讃え、「高島町」という地名が残っている。
1892年4月10日、関西鉄道会社が、旅客運賃を値上げ。
  関西鉄道会社は、大阪府中東部・三重県・奈良県・和
 歌山県を中心に路線を展開した私鉄であるが、
  鉄道の建設には、巨額の資金が必要で、経済が未発達
 であった明治初年(1870年代) には、外国からの資金導
 入が図られた。
  イギリスで発行された9分利付き100万ポンドの公債の
 収入から30 万ポンドが、1870年~1872年までに、東京駅
 ~横浜駅間、大阪駅~神戸駅間の鉄道建設費の一部に当
 てられた。
  そして、不足する分については,政府資金が投入され
 た。
  鉄道建設に必要な資材も、イギリスから輸入された。
  利子は、1871年から12年間、元金は1873年から10年間、
 政府によって返済された。
  その後、1878年に、起業公債が国内で発行されて、鉄
 道建設・その他の投資に当てられた。
  公債の発行価格は、額面100円につき80円で、総額
 1,250万円に対し、実収入は1,000万円、利子は年6分で、
 元金2年間据え置き、以後、23年間で償還するという条件
 だった。
  政府は、この公債収入から248万310円を鉄道建設に投
 入した。
  その後も、鉄道建設のための公債は発行された。
  1892年のこの年に、鉄道敷設法が公布され、日本の幹
 線鉄道建設計画が定まったが・・、
  これに基づく鉄道建設においても、資金調達の公債依
 存の方針がとられた。
  鉄道当局者(井上勝鉄道頭、のち鉄道局長)からは、
 鉄道益金を鉄道建設費に充当することが提議されたが、
 政府は、益金の国庫納付と建設費の政府支給(公債依存)
 の方針を変えなかった。
  このことと旺盛な鉄道建設のために、公債発行は増加
 した。
  さらに、巨額の公債が、民営鉄道17社の買収に際して、
 交付公債として発行された。
  その総額は、4億5619万5000円にのぼった。
  19世紀~20世紀の1930年代前半において、鉄道は、独
 占的輸送機関であり、また、日本の産業発展とともに旅
 客、貨物の輸送も増加したため、国鉄は、営業利益を確
 保することができた。
  しかし、営業益金の多くが、利子支払に充当されざる
 をえなかった。
  (日本における鉄道投資と資金調達、廣岡治哉氏の論
 文を参考にした)
1892年4月10日 東京神田の大火(東京神田明治25年猿楽町
 の大火、約4620戸焼失、死者24名
  大火が起きた前日の午後9時頃より、東京では激しい北
 西の風が吹き始めていた。
  夜中の10日午前0時半頃、神田区(現:千代田区)猿楽町
 一番地の飲食店・宮本周蔵方の物置から出火・・、
  母屋をひとなめにした炎は、一つは小川町通りを、一
 つは表神保町通りを、一つは錦町通りをと、たちまち三
 方に分かれて、急速に東南へ向けて燃え広がった。
  火元の猿楽町をはじめ、同一丁目、裏神保町、小川町、
 表神保町、錦町一、二、三丁目は、あっという間もなく
 全焼。
  炎は、さらに錦町一丁目から美土代町一、二、三丁目
 へ、また、三河町一、二、三丁目へと進んだ。
  神田を灰にした炎は、鎌倉河岸を飛んで堀割沿いに本
 石町通りを東へ進み、鎌倉町、松下町を灰とし、
  朝の午前8時には、今川橋先の堀割も超えて、ついに
 日本橋区(現:中央区)本銀町へ飛び、本石町二丁目の大
 半を焼失した。
  午前9時半になり、残り火が烈風にあおられてふたたび
 襲いかかる。
  皆川町、旭町、ろうそく町、関口町も猛火の中で灰と
 なった。
  その後も、炎は、東へ進み永富町、新石町、竪大工町、
 上白壁町と次々と進んだが、
  一つは、今川町の堀割で止まり、一つは鍛冶町の大通
 りで止まった。
  神田区と日本橋区の一部、約33か町4620戸焼失。
 小川町警察署、神田区役所をはじめ万世橋直間税分署、
 東京法学院(現:中央大学)、東京英語学校(現:日本学園
 中、高等学校)、錦城学校(現:錦城学園高等学校)、松茂
 小学校、三省堂、熊田活版所、東京電灯会社第四電灯局、
 パノラマ館など主要な建物が全焼した。
  中でも、死亡者24人の内その大半を出した小川町勧工
 場(ショッピングセンター)洽集館(こうしゅうかん)では、
 出火と聞いて店の商品を持ち出そうとしたが、出口が表
 と裏の2か所しかなく18人が逃げ遅れて死亡している。
  (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の
 消防百年の歩み」)
1892年4月15日、ゼネラル・エレクトリック社が設立された。
 (エジソン総合電気とトムソン・ヒューストンが合併)
  ゼネラル・エレクトリック(略称:GE)は、アメリカ
 合衆国コネチカット州に本社を置く、多国籍コングロマ
 リット企業で・・、
  ダウ平均株価の構成銘柄のうち、1896年5月26日の算出
 開始以来唯一残存している企業。
  欧米と中国での特許取得数では世界一。
  沿革・・、
  1878年、トーマス・エジソンがアメリカで新しい実験
   室を開く。
  1878年、トーマス・エジソンがエジソン電気照明会社
   を設立。
  1889年、電流戦争。上記会社を吸収し、エジソン・ゼ
   ネラル・エレクトリック・カンパニーを設立。
  1892年、ドレクセル・モルガン&カンパニーの助けで、
   トムソン・ヒューストン・カンパニーと合併し、エ
   ジソンの名前を外した「ゼネラル・エレクトリック」
   が誕生した。
1892年4月16日、日本火災保険会社が設立された。
  沿革・・、
  1889年、大阪に日本生命が設立され、大阪財界人は損
   害保険事業にも着目。
  1892年、田中市兵衛らの発起人は日本火災保険(株)を
   設立。
  1896年、日本酒造火災保険を合併。
  1912年、根津嘉一郎らにより東京に設立された帝国火
   災保険(株)と1944年合併。
   一方海上保険業界では1896年大阪に浅野総一郎らを
   創立委員に日本海上保険(株)が設立。
  1944年、経済統制下の業界整理統合により日本火災保
   険と合併し、日本火災海上保険(株)が誕生。
  2001年4月1日に、日本火災海上保険株式会社と興亜火
   災海上保険株式会社が合併して日本興亜損害保険が
   発足。さらに・・
  2002年4月1日に、太陽火災海上保険株式会社と合併。
  特定の金融グループに属さない独立系の保険会社であ
 ったが、UFJグループ(旧三和銀行 現・三菱UFJフィナン
 シャルグループ(MUFG))と親密であったことに加え、
 フィナンシャルワンに発足当初から参加していることな
 どから、現在はMUFG系とみなされることが多い(ただし、
 日本興亜損保では現在でも自らを独立系としている)。
  近年、明治安田生命保険とも親密となっている。
  (太陽生命とも以前から親密)
  筆頭株主のサウスイースタン・アセット・マネジメン
 トは損害保険ジャパンとの経営統合を要求しているとさ
 れ、統合によって草刈場とされることを懸念した兵頭誠
 社長の留任に反対を表明した。
  このため自主独立路線を貫けるか、業界再々編の中で
 行方が注目されていた。
  世界的な金融危機による自動車保険の急激な契約減少
 と、三井住友海上火災保険などが経営統合し、大手同業
 他社と経営規模が離されることを受けて、
  2009年3月13日、株式会社損害保険ジャパンとの間で経
 営統合について合意し、
  2010年4月1日に、共同株式移転で共同持株会社NKSJホ
 ールディングス(現・SOMPOホールディングス)が設立さ
 れた。
  経営統合後も、暫くは独自ブランドで展開していた。
 しかし、
  2012年3月23日に、株式会社損害保険ジャパンと2014年
 上半期を目途に合併し「損害保険ジャパン日本興亜株式
 会社」となることを取締役会で決議し、正式発表した。
  これは・・
  2014年8月27日に、金融庁から認可され、9月1日に実施
 される。
  合併により当社は解散し、持株会社は「損保ジャパン
 日本興亜ホールディングス株式会社」に、グループは「
 損保ジャパン日本興亜グループ」に、それぞれ改称され
 る。
.
  (今日の言葉)
.
  題:糾弾されるNHK・・また、糾弾されるべきNHK・・
.
紀元前2700年~紀元前1600年、エジプトでピラミッドが作
 られた。
  ピラミッドは、現在も、約80基ある。
  エジプト文明の成立に大きくかかわる『ナイル川』
  ナイル川は、豊かな実りをもたらした。
  エジプトはその96%が砂漠で、ナイル川は、その砂漠
 の地の4%を緑の地に変えた。
  しかし、その緑の地の、わずか2.6%の土地にしか畑は
 ない。
  しかし、豊かな実りを、この地に、国にもたらした。
  ナイル川は、定期的に、この畑地に肥えた土をもたら
 した。
  ナイル川の定期的な氾濫は、肥えた土を運んで来た。
  エジプト人は、このナイル川の氾濫の時期を正確に知
 る必要があった。
  ナイル川上流のエチオピア高原に、6月中旬~10月下旬
 に雨が降り、1ヶ月かけて地中海へ流れて行った。
  エジプトの人たちは、正確な暦を持った。
  それによって、ナイル川を知り、うまく利用した。
  周囲の畑を潤す『壮大な規模の灌漑』が施された。
  この知恵が、『大文明を築いた』。
  万事が上手く行った。
  ナイル川流域の幅8キロ~16キロの地が緑の畑地となっ
 た。
  エジプト人は、この豊かな地に42の「ノモス(部族の
 始まりから発展した社会単位)」を作り、紀元前3000年
 頃に、それが統一された。
  王は、神と見なされた。
  そして、「大きな家」に住む人の意味で「ファラオ」
 と呼ばれた。
  エジプトでは、ファラオによる統治が約2900年間も続
 いた。
  26の王朝が生まれた。
  豊かな、穏やかなナイル川の流れは、帆船による物流
 を可能にした。
  緑の幸は、帆船で、ナイル川の三角州の頂点に位置す
 る「メンフィス」に運ばれた。
  この地に、世界中の富も集まり、栄えた。
  大量の物質の管理や分配のために、必要な記録のため
 にパピルスの紙が発明され、文化は、また、豊かに更な
 る発展をして行った。
  『象形文字』も発明された。
  紀元前2700年~紀元前1600年には、ピラミッドが作ら
 れた。
  エジプト人の作った「太陽暦」は、紀元前45年に、将
 軍・カエサルが、ローマに伝えた。
  そして、「ユリウス暦」となり、現在の「太陽暦」と
 なった。
  このエジプト人の冷静な知恵の発展が、豊かな文明を
 作り、幸福をもたらした。
  しかし、この隣地のイスラエルの民は、砂漠の地で、
 自然の恵みに恵まれず、また、他民族がひしめく地だっ
 た。
  そのため、わずかな恵まれた地の『奪い取り』が現出
 した。
  「隣国の富を奪い取ることを是とする宗教=キリスト
 教」が生まれた。
  恵まれない環境から、可哀想に、「奪い取りの殺戮の
 行為に明け暮れる地と、それを是認する宗教となった」。
.
紀元前1830年、アルム人が、ユーフラテス川中流の都市「
 バビロン(バクダード南方90キロ)」を中心に覇を唱え
 た(古代バビロニア)
  バビロンでは、ハンムラビ法典が制定された。
.
紀元前1530年、古バビロニア滅亡
  紀元前2000年~紀元前1000年頃、馬にひかせる戦車を
 武器とするインド・ヨーロッパ系遊牧民の侵入を受けた
 メソポタミアは、大変動期に入った。
  そうした中で、アナトリア高原のハットゥサを拠点と
 するヒッタイト人が、人類初の鉄製武器を使い、紀元前
 1530年頃に、古バビロニアを滅ぼした。
.
紀元前9世紀、北メソポタミアの商業の民・アッシリア人は、
 容赦のない戦争を繰り返し、
  紀元前7世紀には、メソポタミアからエジプトに至る広
 大な領土を持つ国を作った。
  「軽戦車」という馬が引く戦車を用いた。
.
紀元前612年、ペルシャ人が、アッシリア人を滅亡させて、
 アケメネスを始祖とするアケメネス帝国を樹立した。
  約200年間、続いた。
.
紀元前522年、アケメネス帝国の樹立
  アケメネス帝国は、エジプトからインダス川流域に至
 る地域を征服し、大帝国を樹立した。
  最盛期のダレイオス1世は、バビロン、エクバタナ、ス
 サの三大都市を季節ごとに移動し、王の居住地を循環し
 て、複雑な地域を支配した。
  首都・スサから延びる「王の道」は2400キロあった。
  この道は、商人は3ヶ月かけて行き来したが、王の使者
 は1週間で走破した。
  因みに、「ペルシャ人」という名は、「イラン人」に
 対するヨーロッパ人の蔑視を含む習慣的な呼び名である。
  故に、現在の『イラン』という国号は、ヨーロッパの
 蔑視を含んだ、圧迫的な言い方から脱却したいという民
 族の誇りから、1935年に採用した「イラン」の国号だっ
 た。
  ほとんどが砂漠と荒れ地が半分以上、畑は1割に過ぎな
 い。
.
紀元前6世紀、アケメネス朝ペルシャのダリウス大王が、西
 エジプト、トルコから、東はインド国境におよぶ史上最
 初の大帝国を建設した。
  そのダリウスが、自分の宮殿として作らせたのがペル
 セポリス。
  ダリウスは、「他民族の征服者」「掠奪者」「自己の
 民衆を臣従させた絶対君主」と言われた。
.
紀元前6世紀、バビロンが、周囲13キロの城壁で囲まれる都
 市に成長し、「バベルの塔」という巨塔をはじめ、大小
 1000以上の神殿、「空中庭園」を作った。
.
紀元前5世紀、ペルシャ戦役
  ペルシャのダリウスとその子・クセルクセス王は、三
 度に渡ってギリシャの奥深く侵入し、自由なギリシャ連
 合軍と戦って、敗退した。
  ペルシャ戦役である。
  もし、この時、ギリシャが敗れていたら、人類は、ア
 テネを中心とした民主制の伝統と、全盛期ギリシャの偉
 大な文化遺産を受け取ることが出来なかったであろう。
  勿論、アテネのアクロポリスは作られなかっただろう。
.
200年頃、キリスト教を嫌悪するローマ人
  ローマ人は、キリスト教を根っから嫌っていた。
  ローマ皇帝は、弱体化した帝国に対して、民をしっか
 り服従させたいと四苦八苦していた・・
  また、民への政治権力を強めたいと思っていた。
  ここで、ローマ皇帝は、キリスト教を利用しようと思
 い立った。
  ローマ皇帝は、キリスト教へ特権を与えた。
  しかし、ローマ人は、キリスト教に対する気持ちは変
 わらず・・、今までと同じで、急に変わるわけではなく、
 キリスト教に対する悪感情はそのままだった。
  当時の文書には・・、
  「・・彼ら(キリスト教徒)は、『堕落しきった連中』
 であり、『無知な男とだまされやすい女』の集団である。「
  『夜に集会を開いたり、断食の儀式を行なったり、人
 間らしからぬものを食べたり』するのだ。
  彼らは、『陰でこそこそするのを好み』『人前では無
 口だが陰で良くしゃべり』『神々に唾を吐き、聖なるも
 のをあざけり・・』・・と。
.
239年、三角縁神獣鏡に、卑弥呼が中国・魏に使者を送った
 「景初三年(239年)」の記号を持つものがある。
.
1945年9月14日、GHQが、占領軍の動静を海外に発信して
 いたとして、同盟通信社へ、業務停止命令を出した(事
 前検閲に移行する)
.
1945年9月15日、GHQの民間検閲支隊のフーバー大佐が、
 「連合国に対する批判を禁止させた」、
  また、「100%の検閲の実施」をすることを表明した。
.
1945年9月19日、GHQが、ニッポンタイムズに、発行停
 止命令をだした。
.
2016年8月5日~8月21日、リオデジャネイロ・オリンピック
 の時、NHKは、まったく、日本無視の姿勢であった。
  日本の国歌が演奏される、日本の国旗が掲揚されると
 いう「表彰場面」は、すべて、カットした、放送はしな
 かった。
  この基本の放送ポイントを、NHKは、その勝手なN
 HKイデオロギーで踏みにじった。
  卑劣なNHKだけの考え方であり、NHKイデオロギ
 ーの考え方で、NHKは日本の国歌と国旗を否定した。
  キリスト教に偏するNHKは、キリスト教の行動方針
 にここでも同調した。
  理屈にならない理屈で、NHKイデオロギーで、NH
 Kは動いている。
  また、キリスト教に偏するNHKは、日本を貶(おと
 し)めてばかりいる。
  キリスト教に同調するNHKは、日本の国歌・君が代
 を放送しない・・オリンピックの表彰場面の、日本の国
 歌が演奏される場面をカットした。
  NHKへ抗議をしたら、アメリカが表彰される場面を
 NHKは放送した。
  それも、完全・完璧な放送で、他の場面に、一切、切
 り替えず、長時間・長い時間、最初から最後まで、完全
 な形で・・「フルのシーン」で、完全に中継し、放送し
 た。
  NHKに、「君は、どこの放送局なのだ」と聞きたい
 状況だった。
  どこの国の国民も、自国の選手の努力の結晶である表
 彰される場面を、共に喜びたいと思っているものだ。
.
2016年、糾弾される腐りきったNHK
  雑誌「選択」2016、no491で、NHKの事を・・、
  「上は、会長が『不正な土地取引』で大損する実態を
 演じ・・、
  下は、職員が『億単位の横領』三昧のNHK、
  局全体で、受信料を私物化してはばからぬ腐ったNH
 K体質、
  これが治らない。
  官邸も、ついに現会長を見限ったようで、「後任は用
 意できた」・・と・・、
  NHKは、まったく甘い環境の中で、1800万円の平均
 給与という『超高給』であるのに、まだまだ腐る行為を
 している。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-09-24 01:47 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)554E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年3月~1892年3月)

題:(増補版)554E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年3月~1892年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年3月1日、日本鉄道会社が、水戸鉄道会社を買収した
 (1891年説あり)
  1891年、水戸鉄道(現:水戸線小山駅~水戸駅間)を
 買収、途中駅である友部を分岐点として1895年11月4日に
 友部駅~土浦駅間の土浦線(現常磐線)北部区間、また、
 1896年12月25日に、土浦駅~田端駅間の同南部区間を開
 業した。
1892年3月4日 帝国大学教授・久米邦武が、「神道は祭天の
 古俗」の論文により休職。
  久米邦武が、「史海」に転載され発表した論文「神道
 は祭天の古俗」で反発を買い、東京帝国大学教授の地位
 を免官された。
  「神道は祭天の古俗」は、「神道は天(自然)を祭る
 古い習俗」という意味で・・、
  久米は、「神道は宗教に非ず」と言った。
  1891年1月に「神道ハ祭天ノ古俗」を『史学雑誌』に発
 表していた。
  そして、1892年に、転載されて、この時、初めて問題
 になったのは、「史海」の主宰者の田口卯吉が、以下の
 文を記し、神道家を徴発したからだった・・、
  「余ハ此篇ヲ読ミ、私ニ我邦現今ノアル神道熱心家ハ
 決シテ緘黙スベキ場合ニアラザルヲ思フ、若シ彼等ニシ
 テ尚ホ緘黙セバ余ハ彼等ハ全ク閉口シタルモノト見做サ
 ザルベカラズ」
1892年3月5日、(氷川清話)勝海舟、70歳の高齢につき御
 盃及び酒肴料下賜。
1892年3月11日、品川弥二郎内相が引責辞任した。
  第2回臨時衆議院議員選挙の干渉を指示した内務大臣・
 品川弥二郎が責任を取り辞職した。
1892年3月14日、服制を改正し、駅長・助役の帽子、小判形
 を大黒形に改める
1892年3月16日、読売新聞が、活躍する女性「16名媛」を
 読者に投票させた結果を発表した。 (3月18日説あり)
1892年3月19日、東京府が、各学校に御真影および教育勅語
 を校内一室の場所に奉置を通達した。
  「忠愛志操ヲ養成」で近代国家の建設がしたいが、そ
 の根幹であった。
  初め、十数校の官立学校に限る予定が、下付の申請が
 拡大し、約百校の府県立学校へと拡大した。
  よくNHKなどが偏見をもって言う「軍国主義」をつ
 くるためという目的ではなかった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカは、儲かるとなれば、昨日まで、言っていたことでも・・「コロリと変える」・・
.
紀元前2600万年、アフリカ大地溝帯の形成
  化石人骨が多数発見される「グレートリフト・バレー」
 と呼ばれる幅30㎞~60㎞の細長い窪地の列を「アフリカ
 大地溝帯」呼び・・、
  この「アフリカ大地溝帯」は、亀裂の縁と底の高低差
 が1000メートルにも達し・・、
  この大陥没滞は、南北6400㎞にも達している。
  アフリカの約60%は、標高500メートル以上の大地で、
 「アフリカ・プレート」と呼ばれる。
  この大地溝帯のアフリカ東部の台地の「裂け目」は、
 紀元前2600万年前からその形成が始まった。
.
紀元前500万年、アウストラロピテクス発見
  化石人骨の発掘によって最古の人類の祖先が、アフリ
 カのエチオピアのタンザニアで発見された。
  「アウストラロピテクス(ラテン語で南の猿の意味)」
 で背骨、骨盤、下肢などの形態から、直立二足歩行をし
 ていたことが明らかで・・、
  人類最古の祖先と見なされている。
.
紀元前1万年、最後の氷河期が去った。
  人類の出現は、約500万年前であるが・・、
  人類は、今まで、4回の氷河期などの気候激変期を生き
 抜いて来た。
  約1万年前に、最後の氷河期が去った。
  その後、地球が温暖化をして行くと、砂漠化・乾燥化
 が起きた。
  対流圏と呼ぶ地球規模の空気の循環で、広大な砂漠地
 帯が生み出された。
  赤道付近で上昇気流を起こした大気は、上空から南北
 の回帰線付近で下降し、乾燥空気となって下りて来た。
  その地域は、年間降雨量が250ミリ以下で、降雨量より
 も蒸発量が多く、乾燥化した。
  この地域は、人類が生活するするには極めて厳しく、
 人類は、約1万年前、この砂漠化地域から移住した。
  砂漠周辺の耐乾性の草が育つ「ステップ」に移住した。
  この地域は、年間降水量が、350~600ミリで、長さが
 50センチ以下の草でおおわれた草原。
  この頃の地球の人口は、約500万人。
  ステップで畑を作り、野生の麦など、イネ科の穀物を
 栽培し・・社会が形成され現れた。
  焼き畑農業を始めた。
  穀物を収穫するための道具(新石器)、新しい社会の
 仕組みも必要とした。
.
391年、キリスト教の愚行・・知的財産の焼却行為
  キリスト教は、愚かにも70万巻の蔵書を誇る世界有数
 のアレクサンドリア図書館を焼き払った。
  さらに、キリスト教の意に合わないと、グノーシス主
 義者・バシレイデスの全著書、哲学者・ポルフュリオス
 の著書36巻、神秘主義27派のパピルスの巻物、エジブト
 王プトレマイオス・フィラデルフォスが集めた27万巻に
 上る古代の文書もすぺて灰と化した。
  キリスト教徒が、長い時をかけて本や図書館を焼き尽
 くした後・・、
  ギリシア正教会の名高い教父・聖ヨハンネス・クリュ
 ソストモスは誇らしげにこう言った・・、
  「古代世界の古典哲学や文学は、この地上から跡形も
 なく消え失せた」
.
1930年、無私の奉仕行為:台湾国の開発と八田与一
  日本の統治下にあった台湾の嘉南(かなん)平野は、
 台湾の全耕地面積の6分の1を占めるほどの広さだが、悲
 惨な状態にあった。
  雨期の洪水と乾期の水不足に悩まされる不毛の土地に
 等しかった。
  日本の石川県に生まれて、東京帝国大学で土木技術を
 学んだのち、台湾総督府に赴任した八田与一(1886年~
 1942年)は、現地を調査して工事計画書を提出した。
  それは、嘉南平野の上流の川をせき止めてダムを作り、
 安定して水を供給する灌漑施設を作るというものだった。
  工事は困難をきわめた。
  ある日のこと、石油ガスの爆発がおこり、50人余りが
 死亡する大惨事となった。
  八田は、「もう私の言う事を聞いてくれる人は居ない
 だろう」と嘆いたが・・、
  台湾の人たちは、「事故は、あなたのせいじゃない。
  貴方は、私たちの為に、台湾の為に、命がけで働いて
 いる貴方なのです」・・と、逆に八田が励まされた。
  1930年、10年がかりの世紀の大事業は完成した。
  嘉南平野は、緑の大地に生まれ変わった・・耕作地が
 膨大に増えた。。
  アメリカの土木学会は、「八田ダム」と名付け、世界
 にその功績・偉業を紹介した。
  日本は、内地の日本と同様に、差別なく台湾や朝鮮の
 国づくりをしていた。
.
1937年12月7日、アメリカが参戦し、中国を支援する戦い
  アメリカ支援の中国との戦い・南京の戦いの大詰めの
 頃・・、
  この日、中国・国民政府支援のアメリカは、南京陥落
 直前の中国・国民政府の首都・南京から、中国トップの
 蒋介石夫妻を脱出させた。
  アメリカ兵の操縦する2機のアメリカ大型機による脱出
 だった。
  日本の攻撃の始まる前に脱出しようと、夜明け直前に
 決行された。
  側近も同乗した。
  アメリカは、どっぷり中国側へ浸かって、中国と共に、
 日本と戦っていた。
  しかし、卑劣にも、アメリカは、この事を秘密にして
 いた。
  第二次世界大戦へつながるこの戦いに、アメリカは、
 すでにどっぷり浸かって、日本と戦い、参戦していた。
  秘密にするぐらいなので、当然、アメリカは、日本に
 対して、「宣戦布告はしていない」。
.
1942年6月、日本軍が、フィリピンを激戦の末、制圧した。
  日本は、アメリカへ宣戦布告して、アメリカの植民地
 であり、また、アメリカ軍の居るフィリピンへ攻撃を加
 えた。
  そして、アメリカ軍との激戦の末、日本は、1942年6月
 までに、アメリカ軍を制圧し、アメリカ軍をフィリピン
 から撤退させた。
  日本は、アメリカ軍と戦ったのである。
  フィリピン軍と戦うという意思もなく、また、目的も
 皆無だった
  アメリカ軍のマッカーサー将軍は、「アイ、シャル、
 リターン(私は戻って来る)」という有名な言葉を残し
 て撤退した。
  そして、この2年4か月後の1944年10月、アメリカ軍の
 反抗で・・『レイテ沖海戦(1944年10月23日~1944年10
 月25日)』での日本の大敗など、フィリピンの地での激
 戦が、また、始められた。
  アメリカ軍は、卑劣にもフィリピンの方々へ「武器を
 渡した」。
  (日本は、この様に現地の人を、自国軍の兵隊などに
 して、自国軍と一緒に戦わさせていない・・
  自国軍の応援など一切させていない・・
  逆に、雇用していた現地の方々などを、戦争が始まり
 そうになると村へ返していた)
  アメリカは、自国軍へ味方するようにした。
  そして、フィリピンの方々を、軍人ではないフィリピ
 ンの方々を、巻き添えにした。
  この様な卑劣な手段をし講じて、巻き込んだ戦いをし
 た。
  日本は、戦いに巻き込まれたフィリピンの方々とアメ
 リカ軍に苦戦した。
  戦争に巻き込まれたフィリピンの方々の戦没者は、111
 万人となった。
  アメリカ軍の取り込みさえなければ死なないで済んだ
 方々だった。
  また、日本人の戦没者は51万8000人となった。
  戦争が終わって、戦後、日本は、フィリピンの方々へ
 謝罪し、サンフランシスコ講和条約を経て、1956年、日
 本とフィリッピンの「日比賠償協定が結ばれ」、
  1956年7月23日に発効し、
  日本は、フィリピンの方々へ、はっきり謝罪し、賠償
 して、国交が開かれ、正常化した。
  しかし、フィリピンの方々へ武器を渡す行為までして、
 戦争に巻き込んだアメリカの「フィリピンの方々への謝
 罪」の話は、また、賠償の話は、今まで、聞いたことが
 無い・・その様なことを一切しないアメリカである。
  ホッカムリしているアメリカである。
  日本の真珠湾攻撃の時、日本は、アメリカの「軍に対
 してしか攻撃をしなかった・・当然である」。
  まったく、アメリカの一般市民の方々への攻撃はして
 いない。
  無実の一般市民の方々への殺戮は「行っていない」。
  アメリカの一般市民の方々の死者が出ているのである
 が、これを調べると、アメリカ軍が、自国民を誤射して
 いるのである。
  サッカーで言えば「オウン・ゴール」である。
  戦争とはこの様なものであり、アメリカが、卑劣にも
 フィリピンの方々へ武器を渡して戦わせたのなら、それ
 でなくてもフィリピンの方々の死者が出るものを、戦争
 に巻き込んだら、多くの戦没者・犠牲者の方々が出るの
 は火を見るのも明らかである。
  アメリカは、自分たちのこの様な行為に関してまった
 く謝罪する意思はない。
  日本は、誠実に謝罪をし続けている。
  アメリカは、アン・フェアなアメリカとなっている。
  『マニラ裁判』をして、これを裁くべきである。
.
1945年9月12日、GHQのマッカーサー元帥が、記者会見で
 「日本は四等国に転落」と発言した。
  そして、「再び、世界の強国に復活することは不可能
 である」と発表。
  また、マッカーサーには、スイス公使に力説した次の
 言葉がある・・、
  「戦後日本は、国際社会で憐(あわ)れな地位を占め
 ることとなろう」・・、
.
1945年9月19日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、
 プレスコード(新聞編集綱領)を出した。
  (参考)プレスコード:占領軍総司令部が、日本の新
     聞に対して発令した規則で、卑劣な口封じ策だ
     った。
      占領政策への批判の取締りが目的だった。
      多くの強姦や殺人の報道が規制され、新聞報
     道ができなかった・・事実が隠された。
      1952年まで続き、講和条約発効によって失効。
  日本新聞遵則 (Press Code for Japan) を発令(発表
 は21日)
  このプレスコードによる卑劣な報道規制によって、ア
 メリカ軍などの占領軍の犯罪行為の報道が、日本のメデ
 ィアから消えた。
  あまりにも強姦・殺人などの犯罪が多かったために、
 報道するなとされた。
  卑劣にも、この検閲の存在そのものにも緘口令(かん
 こうれい、他の人にいう事を禁止すること)が敷かれた。
  またさらに、卑劣な事に、連合国軍兵士の凶悪犯罪は
 「大男」と記すことによって検閲を免れていたことが、
 暗黙の了解となっていた。
  GHQの資料・記録には、まったく少ない数(一桁)
 が書かれ、一目で「嘘つき資料」「誤魔化し記録」と分
 かる・・、
  日本の調達庁の資料では、7年の占領期間中にアメリカ
 軍兵士に殺された者が2536人、傷害を負った者が3012人
 とある。
  また、警察の資料では、アメリカ軍兵士が日本人女性
 を襲った事件は2万件と記録されている。
  世界記憶遺産に登録申請せよ!
.
1945年12月24日、生田警察署襲撃事件
  現在の兵庫県神戸市中央区にある生田警察署が襲撃さ
 れた。
  在日朝鮮人(当時は法的には朝鮮半島は日本の領土)
 からなる暴徒によって、1945年12月24日、および、翌年
 の1946年1月9日の2回続けて発生した。
  1945年12月24日午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒
 が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入した。
  署員を拳銃や日本刀・匕首(短刀)を突きつけて軟禁
 した。
  1946年1月9日の事件は、三宮ガード下で、賭博団が検
 挙されたことを怒り、30人~40人の朝鮮人が、犯人の奪
 還を目的に署内に侵入した。
  この当時、この様な朝鮮半島人による事件が多発して
 いた。
  日本の敗戦を受けて、日本の領土であった朝鮮半島人
 等の中には「戦勝国民」を自称する者が多く現れた。
  そして、出稼ぎ先の日本国内において数々の犯罪を犯
 した。
  組織的かつ広範囲に、警察を襲撃し、土地家屋や鉄道
 などの公共施設を強奪し、市民に暴行をふるい、闇市に
 関与した。
  市民社会でも、恒常的に、殺人、強盗、強姦事件が多
 発した。
  しかし、朝鮮人や中国人の犯罪の事実は、連合国軍最
 高司令官(マッカーサー)の検閲によって、削除される
 か、控え目な報道をするように命じられた。
  連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の資料による
 と・・、
  日本国内だけで、最低4000人の日本人市民が朝鮮人の
 犠牲となり殺害されたとある。
  これは、まったく少ない数字で、氷山の一角に過ぎな
 いという。
  あまりの酷さに・・吉田首相は、朝鮮人の犯罪傾向に
 ついて言及しつつ・・、
  「朝鮮人は、日本の再建に利さないため帰国させるべ
 き」とマッカーサーに書簡で訴え・・大半の朝鮮人を帰
 還させた。
  日本が去った朝鮮半島南部に建国されたばかりの大韓
 民国の李承晩は、「李承晩ライン」を引いて竹島を占拠
 した上で・・日本人漁民を殺害・抑留し、抑留者の返還
 と引き換えに重大犯罪を犯した朝鮮人472人を放免し、
  さらに、日本にとどまった朝鮮人に日本在留特別許可
 を与えるようにと要求した。
  日本を貶めてばかりいるNHKは、この様な事を放送
 しない。
  中国や朝鮮に味方ばかりするNHKは、この様な事を
 放送しない。
.
1952年2月10日、トカラ列島(下七島)が日本に復帰した。
  トカラ列島は、南西諸島のうち、鹿児島県側の薩南諸
 島に属する島嶼群。
  行政区域は、全島が鹿児島県鹿児島郡十島村。
  天気予報区分では、奄美地方の一部。
  地名の由来は諸説あるが、「沖の海原」を指す「トハ
 ラ」から転訛したという説が有力。
  今から1300年以上も前・・『続日本紀』に、699年8月
 19日(文武天皇3年七月辛未)に・・、多褹、夜久、菴美、
 度感の人が物を貢いだと記されていて、
  これらの地名はそれぞれ種子島・屋久島・奄美大島・
 トカラ(吐噶喇)にあたる。
  1946年2月2日に、GHQ(連合国総司令部)の宣言に
 より、北緯30度(トカラ列島)以南がアメリカ軍の軍政
 下に置かれ、
  そして、1952年のこの日、日本へ復帰した。
  おもな島は、口之島、中之島、臥蛇島(無人島)、小
 臥蛇島(無人島)、平島、諏訪之瀬島、悪石島、小島(
 無人島)、小宝島、宝島、上ノ根島(無人島)、横当島
 (無人島)
.
1960年2月、フランスが核保有国になった。
  ド・ゴール大統領が、「フランスの安全保障を、アメ
 リカの核の傘に依存せずに済むようにする」との信念で、
 通常兵力削減の代わりに、フランス独自の核兵器の開発
 を推進した。
  1960年2月には、サハラ砂漠のレガーヌ実験場で原爆実
 験に成功し、アメリカ、ソ連、イギリスに次ぐ核保有国
 となった。
  1963年の部分的核実験禁止条約には加盟せず、以降も、
 アルジェリアなどで核実験を繰り返した。
  このフランスのド・ゴール大統領(任期:1959年~1969
 年)は言った・・、
  「自分で自分の国を守ろうとしない国は、国家として
 のレジティマシー(正統性)は無い」・・と・・、
  それは、国民国家(ネーション・ステート)の最初の
 要件は『安全保障』である・・と・・
  16世紀~18世紀にかけて、世界の諸民族は、「自らを
 守る必要性のため」に、国民国家を作った。
  逆に言えば、自らの安全保障の義務を果たそうとしな
 い国家には、最初から、「レジティマシーが欠けている」。
  ホップスやモーゲンソーが指摘している・・、
  「人間の自然状態は、万人の万人に対する闘争」であ
 る。
  その中で、最終的に我々を「自然状態(=永続的な闘
 争)」から守ってくれるものは、国家である。
  もし国家が国民を守らないのなら、そんな国家に対し
 て国民は忠誠心を感じない。
  国家が、「国民を守る意思と能力」を示すからこそ、
 国民は、国家に対して忠誠心を持つ。
  はっきりと国民を守ろうとする意思を示さない国家は、
 無責任な国家だと言える。
  また、世界からも、当然、自国民からも尊敬はされな
 いし、信頼もされない。
  そういう意味で、北朝鮮は、必死に「自国民を守ろう
 としている」。
  ド・ゴールの言葉の主旨・・、
  「国は、国民を保護しなければならない。そうしなく
 なれば国家とは言えないし、国民に忠誠を求める事も出
 来ない」。
  「日本は、自国の独立を維持するために必要な『自主
 的な抑止力』が必要。
  『ミニマム・ディテランス』と呼ばれるごく少量の核
 兵器が必要。
  現状を維持するための核兵器が必要。
  攻撃のための核兵器ではなく、「殺されないための核
 兵器」。
  因みに、「核の持ち込み」では、真の核抑止力とはな
 らない。
  石破氏は、こんな事を言って国を惑わせているが「間
 違いだ」。
  因みに、「核の持ち込み」は、日本ですでになされて
 いる。
  北朝鮮も、中国も、ロシアも、そんなことは計算済み。
  見え見えの『非核三原則』はなされていない。
  『非核三原則』は、遠い過去の話・・、
.
1960年代、アメリカ国内における人権意識、公民権運動の
 高まりの中で、日系人はにわかに「模範的マイノリティ」
 として賞賛されるようになった。
  日本人の誠実さ、勤勉さ、努力家などが理解された。
.
1968年、核拡散防止条約(NPT)が締結された。
  この条約は、表面上は美しく見えるが、まったく欺瞞
 (ぎまん、人の目をごまかし、だますこと)に満ちた条
 約だ。
  一寸見(ちょっとみ、ちょっと見た様子)は美しく、
 且つ、良さそうに見えるが、
  そして、「世界の人々は、どこかで美しい事がなされ
 ているのだろうと期待して見ているが・・実態は、誤魔
 化されている・・実態はまるっきり違う」。
  アメリカのマクナマラ国防長官は・・引退をしたら、
 この「欺瞞の点」について口を開いた。
  さすが、現役で、仕事を盛んに携(たずさ)わってい
 る時には言えなかったことを、その職を退いた後には、
 良心の呵責からか、この条約の欺瞞性について、本当の
 心の内を語った・・、
  「アメリカの態度は不道徳だ」・・と、
  「アメリカの核拡散防止条約・NPTに対する態度は、
 単に、条約違反であるというだけではなく(その条約違
 反行為だけでも、不誠実この上ないが)、アメリカは不
 道徳そのものだ」・・と。
  (参考)良心(りょうしん)とは、自身に内在する社
     会一般的な価値観(規範意識)に照らして、こ
     との可否ないし善悪を測る心の働きのこと。
      英語ではconscienceと表記され、その語源に
     は日本語のような「良」を意味する部分はない 。
      ... 罪悪感が入り混じった複雑な感情の動きを
     良心の呵責と称される。
  日本は、この様な条約から脱退をするべきだ。
  第6条なんて「完全に履行されていない」。
  第6条は、「核保有国は、核兵器の廃絶をする」と約束
 されているが、完全に無視されている・・馬鹿々々しい
 状況である。
  アメリカは、依然として8000発~10000発の核弾頭を持
 っていて、そして、核の増産までしている。
  ロシアも、12000発~16000発の核弾頭を持っていて、
 ロシアも増産をしている。
  そして、卑劣な事に・・アメリカも、ロシアも、その
 増産は大規模に行われ続けている。
  まったく、条約なんてあったもんじゃない。
  さらに、数万発の核弾頭を生産しようと、その原料の
 プルトニウムや濃縮ウラニウムを、秘密裏に数か所の施
 設に隠し持っている。
  第6条を守ろうという「意思は、まったくない」。
  こんな裏切りを、「アメリカ」も、「ロシア」も、や
 っている。
  欺瞞だらけの裏切り行為の中にある条約なのだ。
  非核保有国の核武装の禁止にだけは、傲慢(ごうまん、
 高ぶって人をあなどり見下す態度であること)に、高飛
 車に、高圧的に、日本に押し付けてくる。
  君たちは何をしているのだと、アメリカに聞きたい。
  日本をターゲットにしている。
  アメリカは、新型核弾頭を「これから作って行こう」
 とさえしている。
  その為の生産施設や研究所を作っている。
  一向(いっこう)に止めようとはしていない。
  そんな気は、「爪の垢(あか)ほどもないアメリカ」
 である。
  馬鹿々々しいにも程(ほど)がある(「・・にも程が
 ある」の形で、程度・限度を超えている状態に対して、
 非難の意を込めて言っている)
.
1978年、デイビッド・ロックフェラーが、日本文化を伝え
 る非営利団体「ジャパン・ソサエティー」の名誉会長に
 就任した。
  来日した際、その時に、スピーチで嘆いた・・、
  「反日のアメリカ国会議員の、その反日姿勢を和(や
 わ)らげるため、また、緩和するために・・、
  日本の通産省は、そのアメリカ議員の応援を始める」
 ・・と、
  そして、「そのアメリカの反日議員に対してプレゼン
 トを与える」・・、
  それは、日本の企業(工場)を、そのアメリカの反日
 国会議員の選挙区に誘致する」
  「そのアメリカの反日国会議員は、息を吹き返し、落
 選が目の前であったのが当選し、元気になって、日本た
 たきに走り回っている」と・・そして・・、
  親日派のロックフェラー氏は、落選寸前だ・・と。
.
1997年、中国の環境汚染がひどい。
  中国は急速な経済発展をしているが、その陰の部分が
 ある・・公害問題である。
  中国の意識が環境対策に対して認識不足であることも
 問題を大きくしている。
  公害対策に当てている予算も日本の4分の1以下と少な
 い。
  環境汚染に対する紛争も激増している(1997年頃から
 出始め、2008年には約7倍となっている)
  中国の水銀汚染は、すごくて、怖い状況。
  黄河の水は汚染されていて「劣5クラス」で、「いか
 なる用途にも使えない」とされている。
  この水銀が、P2.5の様に日本に飛来して、日本を汚染
 しているという。
  琵琶湖のナマズから水銀が検出されたという。
  中国では、唐辛子、トウモロコシ、米などの作物の含
 有水銀量が高いと問題となっている。
  また、河川や土壌の含有水銀量も高い。
  1949年~1973年の「大躍進」「文化大革命」での盲目
 的な生産・増産が環境破壊的な生産だった。
  食品中の水銀含有が心配になっている。
  汚染物の垂れ流しで、排出抑制を必要としている。
  水銀含有の廃棄物の処理も問題になっている。
  中国政府も水銀、カドミウム、鉛、クロムなどの重金
 属汚染を2007年比で15%低減したいとしている。
  因みに、滋賀県立大学環境科学部は、2010年から、中
 国から偏西風によって飛んできた水銀が日本の内陸水域
 の魚類にどう影響するかを調べている。
  そこで発見されたのが、前記した琵琶湖のナマズから
 恐れていた様に水銀が検出された。
  この時、ショッキングな数値が出た。
  日本の国の魚介類に含まれる総水銀の暫定規制値を0.4
 PPMと定めているが、この琵琶湖のナマズはこの数値の約
 2倍の0.856PPMであった。
  規制値を2倍も超えるというショッキングな汚染度だっ
 た。
.
1999年、韓国が、世界の歴史学会で、「日本による日韓併
 合は侵略である」という主張を持ち出した。
  世界の歴史学者たちが議論をし、また、戦わせた。
  その結果、韓国側の主張は退(しりぞ))けられ、「
 日韓併合は、条約による併合であり、侵略ではない」と
 いう結論が出た。
  しかし、卑劣にも、韓国は、その後、同じ主張を繰り
 返し続けている。
  卑劣にも、アメリカ・メディアは、「日本による苛酷
 な植民地支配」という言葉が、枕詞的(まくらことばて
 き)に、韓国と一緒になって使っている。
.
2004年、盧武鉉(ノ・ムヒョン)韓国大統領が、「反民族
 行為者財産の国家帰属に関する特別法」、別名「親日派
 糾弾法」を出した。
  在米韓国人が、アメリカでも黒人の方々や、ヒスパニ
 ックの方々に対して差別を行なって、アメリカ国内で問
 題となっているが・・、
  韓国国内でも、親日家だった李完用を、売国奴として
 扱い。
  また、朝鮮戦争の英雄の白善燁(ペク・ソニョプ)将
 軍までも親日だとつるし上げた。
  嫌日から発する人権弾圧行為である。
  韓国は、遠い昔から、豊かな日本、文化の花咲く日本
 を逆恨みして、この様な態度を示して来た。
  恩を受けても、恩とせず、結局、その恩を仇で返す様
 なことを、歴史的にズーットして来た。
.
2006年3月、アメリカは、インドにゴマを摺(す)った。
  アメリカは、儲けの為にインドを無視できないと・・、
  2006年3月、核拡散防止条約(NPT)に加盟もしてい
 ないインドへ、「核開発に協力する」と言った。
  そして、ブッシュ大統領(子)が、インドを訪問した。
  インドのマンモハン・シン首相と会談し、「米印(ア
 メリカ・インド)平和原子力協力法」を締結した。
  アメリカ国内から、「核不拡散政策を転換するのか?」
 の批判の声が上がった・・が、しかし・・
  ブッシュ大統領(子)は、「時代は変わっているのだ」
 と答えた。
  そして、「過去に縛られるな。インドの原子力産業の
 発展は、我が国(アメリカ)の経済に資するのだ」と言
 い、
  また、「世界のエネルギー問題にも資するのだ」と言
 った。
  アメリカは、儲かるとなれば、昨日まで、言っていた
 ことでも「コロリと変える」・・
.
2012年8月10日、韓国の李明博大統領は、日本領の竹島に上
 陸した。
  韓国領だと主張したかった。
  韓国の現役大統領の竹島上陸は、今までの韓国大統領
 がやっていなかった愚挙を行なった。
.
2012年8月14日、天皇陛下への侮辱発言。
  韓国の李明博大統領が、日本の天皇陛下への侮辱発言
 をした。
  「天皇が足を縛って跪(ひざまづ)いて土下座するな
 ら、訪問してもいい」。
  この発言を日本メディアは報道しなかった。
  ただ「謝罪すれば」にした。
.
2016年7月24日、企業経営者で作家の河添恵子氏は、イギリ
 スの経済が復活するのか?と経済復活が難しいイギリス
 の事情を説明している。
  https://www.youtube.com/watch?v=-Bg24EOmQzk
  かつてのイギリスの栄光は、霧のかなたに消え去り、
 そして、埋没してしまった沈んだイギリスが今である・・
 と・・
.
2016年9月、アメリカのパイプライン建設工事に対して、裁
 判所が、「一時的な建設中止命令」を出した。
  NBCテレビ(長崎放送)が、「日本の実業家が、ク
 リントンの献金パーティーに出席していたことに対し、
 これは、選挙資金違反行為ではないか」と報道していた
 ・・しかし・・、
  ここに絡んで来るのが、中国の金をふんだんに使った
 プロパガンダ行為・・、
  中国は、アメリカで盛んに日本を貶(おとし)めるプ
 ロパガンダ行為を行なっているが・・、
  アメリカでは、前記の様な、日本を貶める行為がよく
 取り沙汰される。
  日本より中国の方が、日本より多くこの類の事をして
 いる・・しかし、日本は上記の様な事をアメリカでよく
 取り沙汰される。
  また、その一つ・・
  アメリカで、「ダコタの環境を破壊する開発」に、日
 本企業が出資していると、アメリカで取り沙汰された話・・、
  その「ダコタの環境を破壊する開発」とは・・、
  アメリカのノースダコタ州とイリノイ州を結ぶ約1,800
 kmの「ダコタ・アクセス・パイプライン」の建設のこと。
  ノースダコタ州のバッケン油田から、サウスダコタ州、
 アイオワ州を通過して、イリノイ州まで・・、
  バッケン地域に眠る74億バレルもあるともいわれてい
 る未採掘の原油を、1日あたり47万バレル輸送するという
 計画。
  建設ルートは、アメリカ・インディアンの方々の居留
 区は避けているが、近くに居留区があり、
  地元先住民の「スタンディングロック・スー族」の方々
 が、数週間にわたってキャンプを張って、抗議の座り込
 みを行った。
  (命の水である川の水の汚染に対する抗議)
  許認可権限を持つ米国陸軍工兵隊は・・、
  「居留区への影響は与えない」「環境汚染の心配もな
 い」と却下し・・パイプライン建設を認可した。
  このスタンディングロック・スー族の方々の貧困率は、
 全米平均の3倍以上の41%と、非常に高い状態となってい
 て、
  この様な生活状況に・・「聖なる水」の汚染問題が加
 わってもらいたくない・・という気持ちが存在する。
  良い生活環境下に居られない先住民の方々、それを改
 善できないというアメリカ行政の問題が・・その根っこ
 にある。
  また、アメリカの石油・ガスの掘削やパイプラインの
 漏出事故が「日常茶飯である」という現状が、この抗議
 の根本にもある。
  因みに、2006年~2015年の10年間に、事故が16万7000
 件も起きている(アメリカ運輸省パイプライン・有害物
 質安全庁の統計資料による)
  そして、この問題は、裁判問題にも発展し、
  また、国連も「先住民に対するこれ以上の人権侵害を
 避けるべき」と懸念を表明している。
  2016年9月に、連邦裁判所の判決が出て、「一時的な建
 設の中止命令」が出された。
.
2017年、キリスト教は、日本の国旗掲揚と国歌斉唱に反対
 しているが、この様に、あらゆる面で、日本を貶める行
 為をしている。
  杉原千畝の事例もそうである。
  杉原千畝はキリスト教徒であるので、キリスト教は、
 この杉原千畝を「広告塔に祭り上げた」。
  その祭り上げの論理の中で、日本は、貶められた。
  日本は、ナチス・ドイツと三国同盟をしていて、ナチ
 スはユダヤ人の方々を迫害していたが、その同盟関係に
 あった日本もまた、ユダヤ人を迫害していた・・という
 言い方で、キリスト教は日本を貶めた・・、
  キリスト教徒の杉原千畝は、ユダヤ人を救うビザを発
 給したと・・嘘の中でこの話をした。
  日本の反対を押し切って行った・・と、キリスト教は、
 嘘の美化をした。
  これは、まったく事実と反する。
  日本は、ユダヤ人の方々を「亡国の民」として「救う
 事を国是としていた」。
  キリスト教の言う事とまったく逆なのである。
  ナチスから共同行動をとってくれと言われても、「拒
 否していたのである」。
  キリスト教の言う事と、まったく逆なのである。
  杉原千畝は、ビザを発給できない立場の人間だった。
  それ故、「君は資格が無く、やれば、規則違反になる
 からできないよ」を問うていたのを・・、
  キリスト教は、杉原の足を引っ張っていたと嘘を言っ
 た。
  杉原は、外交官ではない、ただの外務省職員である。
  ビザの発給をしてはいけない立場なのである。
  日本は、上海や、満州などで逃れて来たユダヤ人の方々
 を受け入れ、保護し、また、日本への渡航も許し、日本
 の神戸などで受け入れ、しっかり手を差し伸べている。
  今・現在においても、キリスト教組織は、日本を貶め
 る行為をしている。
  また、このキリスト教組織と共同歩調をとる読売新聞
 や、NHKも、言い方も、まったくキリスト教と同じに、
 日本を貶める行為をするメディアとなっている。
.
2017年、多数の人たちが、心底から嫌悪を催すような特権
 者の振る舞いには、正統性は無い。
  その意味で、ほんの一握りの者たちが、アメリカで、
 富を独り占めしているが、
  そして、巨大な資本家となり、また、世界的な独り占
 めとなっているが、
  アメリカにおいては、その金の勢いで、政治を我が物
 として牛耳っている。
  そして、その超巨大国家・アメリカを動かし、また、
 世界での金儲けに、その超巨大国家・アメリカを動かし
 ている。
  そして、その富は、益々、その一握りの者たちに集中
 し、社会構造の最先端に上り詰め、格差は広がる一方と
 なっている。
  この様な状況を作り出すのがグローバリズムである。
  これは間違っている。
  金にまみれた巨大資本の多国籍企業が、地球大の規模
 で、戦略的な金儲け行動をする。
  その時、他国の規則を踏みにじり、自分のやりやすい
 様に替えて行く。
  それが正義なのだと押し付けて行く。
  資本調達、人員の雇用、生産、マーケティングなどを、
 一国経済を無視して、国を無視し超えて、自分の尺度で
 世界的規模で展開して行く。
.
2017年、アメリカの財政赤字を救ってあげているのが日本。
  「アメリカよ! もっと日本に感謝してくれ」と言い
 たい。
  少なくとも、「日本が引き受けている、アメリカの財
 政赤字を救っている米国債は、『円建て』にしてくれ」
  近い将来、暴落の危険があるという「米ドルのリスク」
 まで日本に取らせないでくれ!
  そんなところまで、日本におんぶにだっこの肩代わり
 をさせないでくれ!
  また、当然だが、『担保も付けてくれ』。
  「借りた金は絶対に返す・・という意気込みを見せて
 くれ」
  「万が一、金が返せなくなったなら、日本に、アメリ
 カの一州ぐらいは、担保として付けるから、その万が一
 の時は差し上げるから・・くらいの事は、言ってくれ」
  アメリカよ! 日本が、「アメリカ政府を支えている
 事と、国連分担金を支えている事・・この二つの重責を
 誠実に履行していることを、「重く理解してくれ」・・!!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive



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# by suba28 | 2017-09-19 16:38 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)553E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年2月~1892年3月)

題:(増補版)553E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年2月~1892年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年2月、筑豊興業鉄道会社線が、直方駅~飯塚駅間、お
 よび、直方駅~金田駅間を着工した。
  筑豊興業鉄道会社が建設した筑豊本線の若松駅~飯塚
 駅間は、1893年7月3日に、全線開通した。
  若松は、筑豊炭田の石炭の積出し港があった。
  1907年に、国有化された。
  筑豊興業鉄道は、筑豊の炭坑主たちが発起した会社だ
 った。
  免許は、1889年7月21日に、交付された。
  麻生グループの麻生太吉は、6番目の株主だった。
  麻生太吉は、取締役として経営に参画し、筑豊炭田の
 発展に尽力した。
  また、筑豊の鉄道網の充実を図って行った。
1892年2月、田口卯吉・佐分利一嗣らが、渋沢栄一・益田孝
 らとともに、東京経済学協会を組織して、
  『東京経済雑誌』に、3283. 1kmにのぼる路線計画を発
 表した。
  明治政府の偉かったのは、明治早々の1869年10月に、
 鉄道施設の計画を立てたことだった。
  1874年には、工部省鉄道寮が外人・ボイルなどを雇っ
 て、東京~高崎~新潟の路線を詳しく調べた。
  1881年、日本初の私設鉄道、日本鉄道が設立され、日
 本鉄道株式会社が、上野駅~前橋駅間の鉄道を計画した。
  1882年5月、鉄道許可を申請した。
  1883年、井上勝は、工部卿宛てに意見書「私設鉄道に
 関する論旨」を提出した。
  この中で、鉄道の用途は国道と同様であって、これを
 民営に委ねるべきでないと原則論を主張した。
  日本鉄道が、政府の手厚い保護を受けていたこともあ
 り、好調な決算を発表した。
  すると、日本各地で私設鉄道設立ブームが起こった。
  1884年の阪堺鉄道、1887年の伊予鉄道を皮切りに、
 両毛鉄道、山陽鉄道、水戸鉄道(初代)、九州鉄道(初
 代)、大阪鉄道(初代)などが認可され、それまでの官
 設官営の原則が崩れた。
  1891年、井上勝は「鉄道政略に関する議」を上申した。
 この上申書では、従来からの鉄道国有論に加えて既設私
 設鉄道の買収を前面に押し出し、そのため、私設鉄道買
 収法の制定が必要であるとした。
  1892年、第三回帝国議会に、買収法案に大幅な修正を
 加えた鉄道敷設法が提出され、可決された。
  井上勝の鉄道国有論に対抗して、鉄道民営論を唱えた
 のは、渋沢栄一や田口卯吉、中上川彦次郎、三井や三菱
 などの財界の有力者たちであった。
  彼らは、資本主義の発展にともなって、鉄道経営が大
 きな利益をもたらすとともに、産業支配と鉄道支配との
 間に密接な関連性があることをよく認識していた。
  渋沢らが関わる東京経済学協会が、1891年に、発表し
 た「鉄道調査報告書」に掲載された佐分利一嗣の論文で
 は、鉄道国有化論に対する反証を一々あげて論じ、
  「将来の鉄道は、私設民営たるべし」という結論を導
 いている。
  (参考)井上勝:日本の鉄道の父と呼ばれる人。長州
     藩士。鉄道官僚、技術者。
      1863年、伊藤博文、井上馨らと密航してイギ
     リスへ渡り、ロンドン大学で学ぶ。化学・鉄道・
     鉱山関係の技術を学んだ。帰国して工部省に出
     仕。
1892年2月、東京・牛込東五軒町に、東京慈愛病院が設立さ
 れた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:ゴースト・ダンスを踊る日本・・核兵器に追い立てられる日本・・になる。

.
1945年3月10日、東京大空襲
  アメリカが、東京を焼夷弾で空襲し、この日だけで、
 10万人以上を焼き殺し、100万人以上が罹災した。
  アメリカは、最初から、東京の無実の一般市民を狙っ
 て殺戮しようとして行なった。
  そして、この東京だけではなく、日本のすべての都市
 をこの様にしようとした。
  アメリカは、最初は、精密爆撃を行なって軍需工場を
 爆撃していたが、とうとう本性が表れて、無実の人々を
 殺戮し始めた。
  1945年3月13日~14日には、大阪が、この卑劣な無差別
 爆撃をされた。
  この第二次世界大戦では、日本中の都市という都市が、
 卑劣な無差別爆撃で、市民が虐殺された。
  卑劣にも、ディズニーが、『この無差別爆撃をしろ』
 とけしかけていた。
  ディズニーは、この悲惨な無差別爆撃の肯定派で、「
 無差別爆撃をするべきだ」との考えで、1943年には、映
 画までを作って、アメリカ全土で上映し、アメリカの方々
 を洗脳し、無差別爆撃を推進していた。
  このディズニーの考え方は・・、
  「日本を占領することではなく、消滅させることだ」
 という考え方で、
  その為に、「日本の都市を、徹底的に空爆すべきであ
 る」という考え方だった。
  この考え方には、日本人に対する「強い人種差別意識」
 があった。
  このディズニーの映画のクライマックスには、無数の
 巨大なアメリカ軍の爆撃機が、無数に、日本上空に現れ
 るや、突然、それらは、鷲に変わり、(アメリカは、よ
 く、鷲に例えられる)
  一方、日本は、タコの様な奇妙なものに変わり、鷲の
 その鋭い爪で引き裂かれ、殺されるシーンとなっている。
  醜い姿の日本として描き・・そして、「美しいアメリ
 カ」という字幕と、
  「航空機の力で勝利する」という字幕が流れた・・
  これは、「ヒットラーの様な卑劣な残虐殺戮はするな」
 のアメリカの人々の声を消す役目をした。
  (因みに、ディズニーには、ベトナム戦争に於いても、
 同様な行為をしている・・アメリカ兵のベトナム侵攻を
 肯定し、描いた映画を作って、アメリカを煽っている)
  ディズニーランドは、よく、キリスト教の行事をやっ
 ているが・・、有色人種の蔑視観を持っている・・
  企業という公正であるべき立場なのに、「キリスト教
 という特定宗教の『巧妙なる伝道行為』をしている」。
  ディズニーの人種差別意識などともつながっている。
  因みに、ディズニーランドの様な、公正であるべき企
 業が、特定宗教・キリスト教の巧妙なる伝道行為は、
 ISO26000の違反行為となっている・・国際規約違反。
  そしてまた、アメリカには、驚くべき卑劣な計画があ
 った(日本人大虐殺計画である)
  1944年、東京・大阪・名古屋など、人口密集都市部に、
 毒ガスによる無差別空爆を行う計画があった。
  これで、1500万人という途方もない多くの日本人を虐
 殺しよう・・殺戮しようという計画があった。
  この様な事を考えるアメリカだった。
  使う毒ガスは「マスタード・ガス」と「ホスゲン」だ
 った。
  (参考)マスタードガス:化学兵器のひとつ。2,2'-硫
     化ジクロロジエチルという化合物を主成分とし、
     糜爛剤(皮膚をただれさせる)。
      常温で無色・無臭であり、粘着性の液体。
      実戦での特徴的な点として、残留性、および、
     浸透性が高い(特に、ゴムでも浸透することが
     特徴)。防御が不可能。
      曝露後すぐには被曝したことには気付かない。
      皮膚以外にも消化管や造血器に障害を起こす。
  (参考)ホスゲン:炭素と酸素と塩素の化合物。二塩
     化カルボニルなどとも呼ばれ、毒性の高い気体
     (窒息剤)。希薄なものは木材や藁の腐敗臭。
      早期に眼、鼻、気道などの粘膜で加水分解に
     よって生じた塩酸によって刺激症状が生じる。
      無症状の潜伏期を経て肺水腫を起こす。
      潜伏期は数時間から、場合によっては24時間
     以上。
      肺水腫が進んで潜伏期が過ぎると咳、息切れ、
     呼吸困難、胸部絞扼感、胸痛などの自覚症状が
     出て、低酸素症を引き起こす。
      また、体液が肺胞に流出することによって血
     液濃縮を起こし、心不全に進行する。
.
1994年(平成6年)、今(2017年)から23年前、アメリカと
 北朝鮮が、かなり危機的な状態となった。
  ビル・クリントン第42代アメリカ大統領の時・・、
  アメリカに、「(戦争を)やる」という話が出た。
  アメリカ海軍は、「トマホーク」を使えば、北朝鮮の
 原子燃料施設を破壊できる・・とした。
  トマホーク攻撃なら、アメリカ兵の犠牲も出ないと・・、
  そして、金もかからないと・・、
  「やる寸前」まで行った。
  しかし、北朝鮮が、アメリカを脅した・・、
  「もし、アメリカ軍が、トマホーク攻撃を仕掛けて来
 たら、地上戦で、ソウルを火の海にしてやる」と言った。
  作戦実行に、アメリカ陸軍が反対した。
  韓国に、アメリカ軍3万人が居る、それに加えて、その
 家族が3万5千人居る。
  将兵家族の引き上げの問題だった。
  そして、クリントン政権のペリー国防長官が、クリン
 トン大統領へ・・、
  「全面戦争になったら、100万人の死者が出る」と言っ
 た。
  また、「アメリカ人も、8万人~10万人が死亡する」。
  そして、「我が国が負担する軍事費用は、1000億ドル
 (11兆円)に上る」・・と報告した。
  クリントン大統領は・・屈した。
  この時が、北朝鮮の核施設を無くすチャンスだったと
 言われている。
  この時、「日本は何をするべきか?」の考え方がまと
 まってなかったと指摘されている。
  この時、日米で共同作戦を取っていれば、「日米安保
 体制は、ゆるぎないものになっていた」という意見があ
 る。
  「日本に、日本の安全保障には何を為すべきか?」の
 一本筋の通ったものが無かったという・・、
  「アメリカに、依存しすぎる日本があった」という・・、
  日本の安全保障であるのに、上から下まで「甘え構造
 の日本だった」という・・、
  これで・・日本は、生き残れるのか?
  北朝鮮は、北朝鮮なりに、必死に生き残りを求め、生
 き残りをかけている。
  (核のない北朝鮮で、アメリカと付き合って行くとい
 う路線を・・否定している)。
  日本も、必死に、この様に生き残りを問い、そして、
 努力する必要がある・・
  日本は、消え去る事になるかもしれない。
  アメリカは、最後まで、責任を取るのだろうか・・??
  ある程度まで・・??
.
2003年3月20日、イラク戦争が始まった(~2011年12月15日)
  正規軍同士の戦闘は、2003年中に終了したが、イラク
 を統合していたタガが外れて、イラク社会は不安定とな
 り、治安悪化となり、乱れに乱れた。
  そして、イラク国内の戦闘は続き・・、
  泥沼の戦いだった。
  軽はずみのアメリカの判断から始められたこの戦争、
 まったく、アメリカの思惑通りに進まない武力行使だっ
 た。
  アメリカは、イラクのトップのフセインさえいなくな
 れば、イラクの民衆は、民主主義を欲しているから、社
 会は安定するだろうと予測していた・・しかし・・
  それは、フセインを殺しただけだった・・そして、
  社会を不安定化させただけだった・・、
  アメリカの青年と、戦争にまったく関係のないイラク
 の方々が、ただただ、大勢、死ぬという結果だけだった。
  最初・・、
  アメリカのブッシュ大統領(子)のイラク戦を始めた
 理由は・・、
  「イスラム教原理主義者によるテロを阻止するために、
 イラクの核兵器製造を止めなければならない」だった。
  しかし、これは大間違いだった。
  イラクには・・核兵器のかけらもなかった。
  巨大な武力を持つアメリカ大統領の意思で、この巨大
 な武力が動き出すという怖さが『如実に見せられた』。
  無実の人々のイラクが、この一人の巨大な武力を持っ
 ている男によって殺戮させられ、消滅させられた。
  知識が無く、故にだから、間違いの判断をするこの様
 な男の悲惨な武力行使だった。
  誰も、この事を正す人が居ないというアメリカだった。
  正義が機能していないアメリカだった。
  法も何も機能していない、法もあったもんじゃ無いと
 いうアメリカだった。
  まったく感情に押し流された国際法違反の行動がなさ
 れた。
  明日(あした)また、この様な男が出るという恐ろし
 さを持つアメリカが・・、
  今度は、いったい何をやるのかの「無謀さと怖さ」を、
 まざまざと見せつけられた。
  アメリカ帝国主義は・・「明日、一体何をするのだ?」
.
2006年10月、北朝鮮の初めての核実験が行われた。
  ブッシュ大統領(子)(任期:2001年1月20日~2009年
 1月20日)が裏切った。
  アメリカ大統領は、よく日本を裏切るが・・、
  このブッシュ大統領(子)は、北朝鮮が、核実験を行
 なうと・・、
  何と! 国交樹立を議題に含めた『交渉を始めた』。
  今までは、「テロ支援国家」と、強硬に対立していた
 のが、馬鹿々々しくも、180度の転換をした。
  それも、『経済援助まで与えた』。
  また、北朝鮮の核兵器製造施設のアメリカの『査察を
 しない』こととし、
  また、北朝鮮の濃縮ウラニウムの製造施設の査察もし
 ないとし、
  そして、濃縮ウラニウムの生産施設を、北朝鮮は、新
 たに建設したが、『ここも査察しない』とした。
  そして、2008年には、テロ支援国家の指定から外して
 しまった。
  今の北朝鮮の状態は・・この時を遠因として・・出来
 てしまった。
.
2016年11月9日、アメリカ大統領選の一般投票が8日行われ、
 9日未明に、共和党候補のドナルド・トランプ氏が、第45
 代アメリカ大統領に当選確実となった。
  そして、勝敗が最後まで決まっていなかったミシガン
 州が、11月28日になって、州務長官がトランプ氏の勝利
 が『確定した』と発表した。
  トランプ氏は、合計306人の選挙人を獲得して、選挙人
 の過半数を得て勝利が確定した。
  各州の選挙人は12月19日、11月8日の一般投票の結果を
 踏まえて投票される。
  このアメリカ大統領選挙の・・、
  アメリカ大統領候補だったヒラリー・クリントンは、
 「中国との金の関係で怪(あや)しい人物だ」と・・非
 常に疑われている・・、
  それも、元大統領だった夫のクリントン氏と共に疑わ
 れている。
  この時から、繋(つな)がっているという。
  その様な中で、アメリカ・メディアは、こぞってトラ
 ンプ大統領候補の足ばかりを引っ張っていた。
  アーカンソー州知事だった夫のビル・クリントン・・、
 (この時、妻のヒラリー・クリントンは弁護士だったの
 だが・・)、この妻の方へ・・金が流れていた・・、
  この金は、中国の華僑の金だった(企業名:R社)
  「R社」は、鄧小平の息がかかっている企業だった。
  顧問料という形で、ヒラリー弁護士へ、金が支払われ
 るというところから始まった。
  ここに人民解放軍の工作員(スパイ)の人物がからn
 だ(ジョン・ホアン)、
  この「ジョン・ホアン」は、後に、ビル・クリントン
 政権の時に、政権の要職(商務省国際経済政策担当・次
 官補代理)に就いた。
  このジョン・ホアンの地位は、「CIAの機密文書」
 に接することが出来た。
  ジョン・ホアンは、1994年~1995年の2年間、たっぷ
 りとアメリカの機密文書に接した。
  当然、中国中枢へ報告された。
  このジョン・ホアン・・1983年に、クリントン夫妻と
 知己(ちき、知り合い)となり、ヒラリー・クリントン
 に気に入られる様になった。
  この様な・・中国がからむ話が・・クリントンの周り
 には一杯ある・・という状態で・・一つや二つという話
 ではなく・・
  この様に、中国は、アメリカ政権のまわりを「十重二
 十重(とえはたえ)と囲んで」・・工作している。
  この事を、アメリカ・メディアは知っていても、一切、
 報じない(何故なのか??)。
  このクリントンの金は、中国・江沢民系の金であると
 いう事まで分かっている。
  この江沢民を継いだのが鄧小平で・・、
  この鄧小平が、1990年代から、アメリカと非常に強い
 つながりを持って行った。
  1998年になると、ビル・クリントンは、アメリカの資
 本家(企業家)たちを連れて、中国を訪問した。
  9日間という長期間で、1200人のアメリカ企業人に対し
 て、中国は、金を儲けさせる仕掛けをした。
  アメリカも中国へ、利権を見返りに渡した。
  両方で、うまい話をやり合った。
  江沢民派は、アメリカへ、中国の利権をどんどん渡し
 た。
  中国の美味しい金が、アメリカへ流れ込む仕掛けがで
 きた。
  アメリカには、外国人が、政治献金をしてはいけない
 法律があるが・・がしかし・・その抜け穴として、中国
 は「帰化人を使った。
  中国系の金が、クリントン財団に流れ込んだ・・
  これが、1990年代に始まって、今・現代まで続いてい
 る。
  また、この江沢民派の集団は、アメリカのウォール・
 ストリートのアメリカのエスタブリッシュメントと言わ
 れる者たちとも繋がった。
  その一つ、アメリカを動かしているその一つのゴール
 ドマン・サックス財閥と強くつながった。
  中国系企業・アリババなどの上場もこの恩恵を受けた。
  中国は、この様に、アメリカの『政界』や『財界』に、
 根深く繋がり・・構築している・・
  そして、アメリカを繰っている。
  アメリカを動かしているウォール・ストリートにでさ
 え、中国は、金を流し続けていて・・『中国の意向が効
 く』状況となっている。
.
2017年8月27日、電磁パルス攻撃
  「電磁パルス攻撃」の脅威 上空の核爆発で日本全土
 が機能不全に・・(参考:産経新聞)
  北朝鮮が、核兵器や弾道ミサイルで挑発を続けるなか、
 もう一つの深刻な脅威として「電磁パルス攻撃」の可能
 性が指摘されている。
  上空で核爆発を起こし、広範囲で都市機能を破壊する
 もの・・、
  北朝鮮は、既に、攻撃能力を持つとみられるが、日本
 の対策はほぼ手つかずで、専門家からは懸念の声が上が
 っている。
  電磁パルス攻撃は、地上への核攻撃と違い、ミサイル
 の弾頭部分を大気圏再突入時の高熱から守る技術は『必
 要ない』。
  小型の核弾頭を搭載したミサイルを発射し、目標上空
 で起爆するだけ・・、
  (以上、産経新聞、2017/08/27を参考にした)
  電磁パルス(EMP)攻撃について・・、
  1958年に、高高度核爆発(こうこうどかくばくはつ)、
 高層大気圏における核爆発の実験が行われた。
  強力な電磁パルス(EMP)を攻撃手段として利用し、
 広範囲での電力インフラストラクチャーや通信、情報機
 器の機能停止をさせる事を目的とした爆発実験だった。
  爆発高度によって分類され、核兵器の種類や爆発規模
 などは問わない。
  1958年に、ジョンストン島上空で、ハードタックI作戦
 の核実験が行われた(3.8メガトン)
  高度100km~数100kmの高層大気圏における核爆発にお
 いて、大気が非常に希薄であるので、核爆発の効果にお
 いて、爆風はほとんど発生しない。
  核爆発のエネルギーは、電離放射線が多くを占める状
 態になる。
  核爆発によって、核分裂後10ps(10秒~11秒)以内に
 発生したガンマ線(X線)が、大気層の20㎞~40km付近の
 希薄な空気分子に衝突し、電子を叩き出し(コンプトン
 効果)、叩き出された電子が、地球磁場の磁力線に沿っ
 て螺旋状に跳び、10nsほどの急峻な立ち上がりで強力な
 電磁パルス(EMP)を発生させる。
  大気が希薄であることから、ガンマ線は、遠方まで届
 き、
  発生した電磁パルスの影響範囲は、水平距離で100km~
 1,000km程度にまで達する。
  この核爆発の影響は、電磁パルスによる電子機器障害
 がほとんどのため、大量破壊兵器の使用であると同時に、
 非致死性の性格もある。
  高高度核爆発の実験を行ったことが確認されている国
 は、アメリカ合衆国(ジョンストン島とアーガス作戦)、
 ソビエト連邦(カプースチン・ヤール)の2か国。
  これらの実験で、周辺での停電などの被害が発生した。
  攻撃目標までの精密誘導が必要な核ミサイル攻撃に対
 し、電磁パルス攻撃は、ミサイルを敵国の上空高高度で
 小規模の核爆発を起こして発生させるため、技術的にも
 比較的容易とされている。
  2017年9月3日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の
 朝鮮中央通信は・・、
  6回目の核実験を行った、この日、「高空で爆発させ、
 広大な地域への超強力な電磁パルス攻撃まで加えられる
 多機能化された熱核弾頭」を保有している・・と発表し
 た。
  核兵器の高高度への実用的な運搬手段は、ロケット(
 ミサイル)で、
  高高度核爆発(HANE)は、敵国の上空やその近辺
 高空で爆発させる核兵器といえ、
  冷戦下の米ソは、互いに大陸間弾道ミサイル(ICB
 M)などを向け合い、ミサイル攻撃やミサイル防衛の開
 発競争の過程で、複数の核弾頭を高高度で爆発させ、こ
 の2国では、高高度核爆発に関するデータが得られてい
 た。
  例えば、アメリカが行った最初の高高度核爆発である
 1958年のネバダ州ユッカ(Yucca)での実験は、気球によ
 って高度26.2kmで爆発させた。
  ジョンストン島における(Teak実験)は、レッドスト
 ーンロケットで打ち上げられた核弾頭を高度76.8kmで爆
 発させた。
  その後、ソーミサイルやX-17ロケットが使われた。
  現在は、部分的核実験禁止条約(PTBT)により高
 層大気圏核実験が禁止されている。
  高高度核爆発用の運搬ミサイルは、数100km以上に及ぶ
 影響範囲の広さから、都市や軍事基地を物理的に破壊す
 るための地上攻撃ミサイルに求められる高い命中精度は
 必要ない。
  電磁パルスは、様々な周波数の強力な電磁波であり、
 波長の適合するあらゆる導体に誘導電流が瞬間的に引き
 起こされ・・、
  このため、必ず、すべて電子機器が障害されるとは限
 らないが、外部にアンテナ用の電線を持つものや、電磁
 シールドの無いもので、誘導されたパルス電流への耐圧・
 耐電流が不十分なものは損害・損傷・打撃を受ける。
  長さのある金属物すべてに、瞬間だけ雷が落ちたよう
 な状況や、電子レンジ内に入れた金属箔のような状況に
 なる。
  光ケーブルを除く有線・無線の通信回路、外部から商
 用電源を受け取っている電源回路、それらの周辺にある
 電流の抜けていく経路となる回路が、過電流や過電圧で
 破壊される。
  電磁パルスは、立ち上がりが急峻なので多くの避雷器
 は機能しない可能性が高い。
  高高度核爆発による電磁パルスのエネルギー密度は、
 約1ジュール/m2と大きく、半導体素子の損傷に必要な
 10μジュールから計算すれば数10dBの遮蔽が必要である。
  マクロな視点で被害を考えれば、あらゆる放送・通信
 は、長期に亘り機能を失い、
  工場での生産、交通・運輸・流通システム、送電、金
 融も大半が機能を失う。
  そして、すぐには回復できない状態になる。
  放射能とは違い、人間を含む生物への長期に亘る影響
 はほとんど無いが・・、
  核爆発が起きた瞬間の閃光を直視してしまうと、地上
 や低空での爆発と同様に網膜を焼く。
  人体も瞬間だけ電磁パルスによって電子レンジ内のよ
 うに少しは加熱されると考えられるが、詳しい予測は現
 状では出来ない。
.
2017年9月3日、アメリカのドナルド・トランプ大統領は、
 2017年8月29日の北朝鮮の中距離弾道ミサイル「火星12
 型」発射に対し、「全ての選択肢を検討中」と軍事行動
 を示唆した。
  北朝鮮が、大陸間弾道ミサイル(ICBM)搭載用水
 素爆弾の6回目実験を、2017年9月3日午後に行うと、
  国家安全保障会議の席上、ジェームズ・マティス国防
 長官に、軍事的選択肢につき、「一つひとつ」説明を求
 め、
  この「一つ」に、「電磁パルス(EMP)攻撃」や、
 「地中貫通核爆弾」を用いた戦法が含まれていたとする
 情報が、日韓の安全保障関係者の間で観測されている。
  電磁パルス攻撃は、もっぱら北朝鮮が日本を筆頭に、
 米韓に仕掛けるというパターンだった。
  現に、北朝鮮が、ICBM搭載用水素爆弾の6回目実
 験を行った3日、北の朝鮮労働党機関紙・労働新聞が、
 電磁パルス攻撃を完遂できると強調した。
  韓国の公共放送KBSは、3日夜のニュースで、韓国
 が電磁パルス攻撃に遭えば、「自動車などの交通手段や
 金融機関や病院、通信施設など、全基幹施設が停止した
 り、誤作動を起こしたりして、事実上『石器時代に戻る』」
 という専門家の声を紹介した。
  インフラ全滅の闇世界が創り出される。
  『石器時代に戻る』ような凄まじい被害が出るのは間
 違いない。
  (産経新聞、2017・9・11を参考にした)
.
2017年9月11日、政府が、『電磁パルス対策』で8日に関係
 省庁会議を開催した。
  菅義偉官房長官は、11日午前の記者会見で、北朝鮮
 が大陸間弾道ミサイル(ICBM)搭載用の「水爆」に
 よって可能だと主張している電磁パルス(EMP)攻撃
 について、政府が対策を検討する関係省庁会議を8日に
 開いていたことを明らかにした。
  内閣官房と防衛、国土交通、経済産業の3省の関係者
 が出席したという。
  菅氏は、「万一の事態に備えて、国民生活への影響を
 最小限にするのは当然のことだ」と述べた。
  (産経新聞、2017年9月11日を参考にした)
.
2017年、トランプ大統領の偉いところは・・、
  今までのアメリカ大統領が、「中国の『大軍拡』を止
 めようともしなかった」、
  また、「北朝鮮の『核弾頭の増産』を止めようともし
 なかった」・・または、「止めようとしたが、ポーズだ
 けだった」・・、
  それは、アメリカが、「止める能力を失ってしまって
 いた」と思っていたからか・・?
  トランプ大統領の偉いところは・・、
  今・現在(2017年)、「北朝鮮の核とミサイルを無く
 そうと、真剣にチャレンジしているところだ」。
  トランプ大統領の前のアメリカ大統領(オバマ民主党
 大統領)は、「リーダーシップが無く」「決断力が無く」
 「すぐ、中途半端な妥協をして誤魔化していて』、政治
 家ではなかった。
  こんな中で、日本国民のすべての民の命を委(ゆだ)
 ねていた。
  こんな状態ではダメだった。
  ウォルツ、キッシンジャー、ミアシャイマー、レイン、
 ウォルト・・などなど、
  優秀な国際政治学者たちが、分析し、そして、言って
 いるように・・、
  「国際政治は、多極へと向かう(主導するアメリカは、
 その座から降りる)・・、その中で、日本の防衛は、自
 主防衛せざるを得なくなる・・、
  その自主防衛には、核の保持を・・いずれしなくては
 ならなくなる」・・と。
  賢人たちの分析、見通しで・・この道を進まない日本
 の存在はありえない・・そうでなければ、その存在は危
 うい・・と見ている。
  日本は、核保持をして存続を図らねば、消滅の道とな
 る・・と見ている。
  アメリカの方針と真逆の賢人の見通し、これが日本の
 取るべき道・・と見ている。
  アメリカが、理解を示すまで、説明するのが、「日本
 の外交の本筋」。
  逃げることはできない。
  ゴースト・ダンスを踊ったアメリカ・インディアンの
 方たちの可哀想な姿・・この様には『なりたくない』。
  アメリカ・インディアンの方たちの・・「二の前には
 なりたくない」
  バッファローは、無用に殺戮された・・、
  食糧を無くなされた・・アメリカ・インディアンの方
 たち、
  そして、居留地の移動ばかりを・・させられ・・、
  生きる地を失って行ったアメリカ・インディアンの方
 たち・・
  アメリカ・インディアンの方たちが・・進んだ兵器で
 追い立てられた・・その様に・・
  核兵器に追い立てられる日本人・・、
  バラバラになり、散り散りになり・・
  可哀想に、そのアメリカ・インディアンの方たちの地
 では、その「アイデンティティのゴースト・ダンス」を
 も消え・・そして捨てられて行った・・、
  踊らなくなった・・その様な日が・・やって来た・・
  日本もそうなるのか・・??
  真剣に考え・・対応しなければ、そうなるのだ・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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# by suba28 | 2017-09-16 04:55 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)552E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年2月~1892年2月)

題:(増補版)552E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年2月~1892年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年2月8日、(氷川清話)勝海舟、予備海軍少佐・長男・
 小鹿(ころく)死亡、青山共同墓地に葬る。
  徳川精(くわし、徳川慶喜の十男)相続者と内定す。
  1892年2月8日、勝海舟は、嫡子小鹿が早世したため、
 徳川慶喜・家達に、精との養子縁組を申し入れる。
  同年・1892年2月14日、徳川慶喜は、精の養子入りを承
 諾した。
  1897年9月、兄・誠とともに、精(9歳)は、静岡から
 東京に移り、学習院初等学科に入学した。
  1899年1月20日、精(11歳)は、勝小鹿の娘である伊代
 子(11歳)の婿として、勝家に入った。
  養父・海舟の死去に伴い、同年・1899年2月8日に家督
 を相続し、伯爵を授爵する。
  1902年7月(14歳)、学習院初等学科を卒業し、慶應義
 塾に転校する。
  慶應義塾大学を卒業後、オリエンタル写真工業、浅野
 セメントなどの重役を歴任した。
  精は、家庭的には一男五女をもうけたが、妻の伊代子
 が1922年5月7日に他界した(34歳)
1892年2月11日、福島安正陸軍少佐が、ロシア調査を兼ねて
 ドイツ・ベルリンを出発(シベリア単独横断への発途)
  語学力に優れ、情報収集と外交に手腕を発揮し、
  1882年に、朝鮮に派遣され、対韓作戦計画の調査。
  翌年・1883年、北京公使館付武官となり、満州(中国東
 北部)およびモンゴル方面を踏査した。
  1886年には、インド半島を軍事視察。
  1887年に、ドイツ公使館付武官となり、バルカン半島
 を視察。
  1892年のこの騎馬でのシベリア横断行は、1年を費やし
 てウラジオストクへ、そして、帰国した。
  1895年3月から、約2年間、ヨーロッパ・アジアを探検
 旅行した。
  帰国後は、参謀本部第3、次いで、第2部長、
  1904年~1905年、日露戦争の時は、満州軍参謀。
  1906年、参謀本部次長、中将に進み、
  1912年、関東都督となり満州を管理した。
  1914年、大将となる。
  陸軍随一の情報将校だった。
  著作に「伯林(ベルリン)より東京へ単騎遠征」。
1892年2月15日、第二回衆議院議員、臨時総選挙
  選挙運動中に、政府と民党支持者の間で紛争が多発し
 た。
  品川弥二郎内相の選挙干渉が問題化したが、選挙干渉
 を指示したという命令書は発見されていない。
  逆に、複数の知事から、政府に対して、民党進出を阻
 止するために、警察力の行使を求める意見が寄せられた。
  25人が死亡し、388人が負した。
  結果は、民党の大勝利だった。
1892年2月22日、オスカー・ワイルドが書いた「ウィンダミ
 ア卿夫人の扇」が初演された(2月20日説あり)
  これは、四幕構成の喜劇で、ロンドンのセントジェー
 ムズ劇場にて初演された。
  この物語は、夫が、他の女性と不倫をしているのでは
 ないかと疑っているレディ・ウィンダミアを中心にして
 いて・・、
  レディ・ウィンダミアは、このことについて夫と対決
 し、夫は否定するが、妻の誕生日の舞踏会に不倫相手だ
 と疑われている女性・アーリン夫人を招待しようとする。
  夫が不実だと考え怒った。
  レディ・ウィンダミアは、他の恋人を作って夫のもと
 を去ることに決める。
  何が起こったか知ったアーリン夫人は、レディ・ウィ
 ンダミアを追いかけて夫のもとに戻るよう説得するが、
  このせいで、アーリン夫人は自分の名誉に関わるよう
 な状況に追い込まれてしまう。
  実は、アーリン夫人は、芝居開始時点より20年前に家
 族を捨てたレディ・ウィンダミアの母であった。
  アーリン夫人は、自分の身と評判を犠牲にして娘の結
 婚を救った。
  作者のワイルドは、公演の最初の年だけで7000ポンド
 (21世紀はじめの価値に換算して686500ポンド程度)を稼
 ぎ出すことになった。
  1ポンド=141円であるので、96,796,500円、約1億円。
1892年2月23日 伊藤博文が、選挙干渉の責任者の処分を主
 張して、枢密院議長の辞表提出し、辞任した(2月24日説
 あり)
  1892年2月15日に行われた総選挙、品川弥次郎内相が
 「選挙干渉」した。
  暴力沙汰も起き、流血、買収が横行した。
  松方は、警察を管轄している品川内相に選挙活動に対
 する取り締まりの一切を任せた。
  品川は、正直に、事を一生懸命行なう性分だったため、
 いかなる手段を使ってでも反対党に圧力をかけ、与党を
 勝利に導きたかった。
  それを自分の義務と考えた。
  そのため民党の選挙活動を妨害するため警察力を使っ
 た。
  民党側も、これに対抗して力で対抗した。
  それでも、与党は137名、野党は163名と、政府は民衆
 の信頼を失った。
  苦境に立った松方は、元老の助力を仰いだ。
  7人の元老は、2月23日に元老会議を開いたがなかなか
 意見の相違が埋まらなかった。
  伊藤は、選挙干渉に関係した官僚たち、特に、品川の
 処分を要求した。
  伊藤の要求に対し、「処分が厳しすぎる」と反対が出
 る、伊藤は、枢密院議長辞任の話までした。
  責任を感じた品川は、辞職を決意したが、松方は許さ
 なかった。
  すると、今度は陸奥と後藤が、品川が辞職しないのな
 ら自分たちが辞職すると迫り・・、
  結局、陸奥は農商務相を、品川は内務相を、そして、
 伊藤は枢密院議長の地位をそれぞれ辞職する事で、紛糾
 は治まった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:「ビンのフタ論」は・・今でもある・・
.
1890年、アメリカ・インディアンの方々のゴースト・ダン
 スが衰退した。
  この話ほど悲惨な話はない・・、
  この話を聞くと本当に可哀想だと、いつも思う・・、
  圧倒的な強力な武器を持つアメリカは・・、
  弱者の方たちである先住民のアメリカ・インディアン
 の方々の殺戮をし続け・・全滅を狙って殺戮して回った。
  アメリカの正当性は、まったく・・ない。
  アメリカには、自分に都合の良い、また、自分勝手な
 権利を唱えた・・マニフェスト=デスティニーがある。
  (参考)マニフェスト=デスティニー:自由と自治政
     府とからなる連邦という偉大な実験を進展させ
     るために、(キリスト教の)神が与え給うたこ
     の大陸全体を、覆いつくし、所有するのは、わ
     れわれの明白な運命(マニフェスト=デスティ
     ニー)がさだめる権利なのである。
      そして、アングロ・サクソン民族は、最も植
     民地経営に適した民族である・・
      この様に、豪語し・・
      そして、何ら根拠のない「文明の西漸説」を
     打ち立て・・盲信し・・アメリカ西部へと・・
     太平洋にぶち当たれば・・太平洋の島々・・そ
     して、アジア諸国へと・・植民地化して行った。
  その最初の犠牲者=アメリカ・インディアンの方々へ
 の殺戮による民族の急激な減少に、悲嘆にくれたアメリ
 カ・インディアンの方々の間に、ゴースト・ダンスが・・
 流行(はや)った。
  その原因は、圧倒的な強力な武器を持ったアメリカ人
 による先住民のアメリカ・インディアンの方々への無慈
 悲な、そして、強力な殺戮行為だった・・殺戮し回った・・
  民族の消滅を予感したアメリカ・インディアンの方々
 は、民族のアイデンティティを示す踊り(ゴースト・ダ
 ンス)を踊った。
  しかし、白人・アメリカ人たちはその踊りを忌避した。
  『また、ゴースト・ダンスを踊っている』と、白人開
 拓民は騎兵隊へ通報した。
  そこで、騎兵隊が出動し・・殺戮が行われた・・こん
 な理由で・・。
  キリスト教に洗脳された「異」に対する不寛容が、そ
 の素地にあった。
  最新式の武器で武装した、また、訓練された兵士たち
 が隊を構成し・・この武力集団・暴力集団は、先住民の
 方たちを殺戮し、排除した。
  まったく、勝手な振る舞いの白人アメリカ人の思い上
 がりと倫理観とその行動だった。
  しかし、その様なアメリカ・インディアンの方々の『
 希望にすがるゴースト・ダンス』が衰退した。
  (参考)アイデンティティー(identity)は、広義に
     は、「同一性」「個性」「国・民族・組織など
     ある特定集団への帰属意識」「特定のある人・
     ものであること」などの意味で用いられる。
  (参考)ゴースト・ダンスは、「ゴーストダンス(幽
     霊踊り)を踊ることで、再び、インディアンた
     ちの自由な世界とともに、バッファローたちが
     草原に還ってくるという希望を与える終末的ダ
     ンスだった・・そして、信仰であって・・、
      スー族のもとで、呪術師マト・ワナタケ(キ
     ッキング・ベア)によって、「これを信じるも
     のに与えられる『ゴースト・シャツ』を着れば、
     白人の銃弾を受けても、弾が通らず死なないで
     平気にしていられるなど・・、
.
1909年、アメリカ大統領にウィリアム・タフトが就任した。
  アメリカと日本との戦争に、結局は至ってしまうとい
 う、「アメリカの日本に対する敵意」は、この大統領か
 ら始まった。
  アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルト大統領(大
 統領任期:1901年~1909年)は、日露戦争の調停を公平
 な形でしてくれた。
  この大統領は、日本に対して敵意を抱いているような
 大統領ではなかった。
  しかし、その次のウィリアム・タフト(大統領任期:
 1909年~1913年)は、日本の行動に対し露骨に足を引っ
 張った、その様な政策を始めた。
  そして、その後のウッドロウ・ウィルソン(大統領任
 期:1913年~1921年)も・・強い日本への対決姿勢を取
 った。
  そして、その次の次のカルビン・クーリッジ(大統領
 任期:1923年~1929年)も、今までは州法で「日本の排
 斥を色々していたアメリカ」だったが・・、
  この大統領は、連邦法で排日を行なった(絶対的排日
 移民法・1924年)
  しかし、この大統領は、『遺憾に思う』という反省の
 弁の言葉を、後に、残して居る・・が、そう思うのが遅
 った。
  昭和天皇陛下も、「アメリカへの失望は、この排日移
 民法の時に始まった」と言われている。
  アメリカには、弱肉強食的・帝国主義的・軍国主義的
 略奪の考え方があり、そして、それを正義と見誤る「ア
 メリカ文明の西漸説」があり、障害物としての日本があ
 った。
  その基本には、利権を得たい、利益を得たいというア
 メリカがあった。
.
1940年11月5日、フランクリン・ルーズベルトが、大統領再
 選(三選)した。
  この大統領は、はっきり、日本との戦争を起こしたい
 という意思のある大統領で・・、
  F・ルーズベルトは、本当に多くの工作員(スパイ)
 を日本に送り込んで・・工作していた・・
  日本を工作する外交官や、キリスト教宣教師の工作員
 などと・・日本を暗躍した・・そして、とうとう戦争に
 至ってしまった。
.
1945年8月14日 日本政府が、ポツダム宣言を受諾する旨、
 中立国スイスを通じて通告した・・、
  そして、勅語を発布した。
  しかし、この日から、4日も経て、日本が降伏をして
 いることを十分承知をしているソ連が、8月18日に・・、
 卑劣にも、ソ連軍が、千島列島へ侵略を開始した。
  占守島で、日本軍と交戦(21日、停戦令が出る)
  満州国は消滅。
  これ等の行為は、総て不法行為で、成立していない。
  完全な戦争終結後、終戦の後の行為である。
.
1945年8月30日、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカー
 サー元帥が、神奈川県厚木飛行場に降り立った。
  そして、マッカーサーは言った・・、
  「メルボルンから東京までは長い道のりだった。
  長い長いそして困難な道だった。
  しかし、これで、万事終わったようだ。
  各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、
  外郭地区においても戦闘はほとんど終息し、
  日本軍は続々降伏している。
  この地区(東京地区)においても、日本兵多数が武装
 を解かれ、それぞれ復員をみた。
  日本側は、『非常に誠意を以てことに当たっている』
 ようで、報復や不必要な流血の惨を見ることなく無事完
 了するであろうことを期待する」と。
  つまり、日本は連合国へ『8月14日に降伏の通達をすで
 にしている』・・そして、マッカーサーが言うように「
 その降伏状態も日本側の誠意をもって進んでいる」・・
  つまり、8月14日の降伏宣言を「降伏時点として」事は
 進んでいると言っている。
  それであるのに、この時点でも、ソ連の不法行為によ
 る日本の領土「南樺太」「千島列島」「北方四島」の略
 奪行為が行われていた。
  マッカーサーは、この厚木飛行場に降り立った後・・、
  車両で、当初の予定地である葉山御用邸を変更し、長
 後街道、国道1号経由で横浜に入った。
  そして、これから・・日本で・・、マッカーサーは、
 日本を武装解除し、二度とアメリカにチャレンジできな
 い国にするという「初期対日方針」を出した。
  この原型は、1942年、すでに出来ていた。
  メルヴィン・レフラー(外交史家、ヴァージニア大学
 教授〉は、この事を、1947年に、国務省の内部資料を明
 らかにした・・、
  (1)日本が独立国としての運命を歩む事を許さない。
  (2)日本は、ソ連の衛星国となるか、アメリカの衛星
    国となるか、どちらかを選ぶしかない・・と・・、 
  そして、1947年、アメリカの衛星国状態にとどめてお
 くと決めた。
  そして、この同じ年・1947年、国務省の政策立案局長
 ジョージ・ケナンが来日して・・、
  占領政策をしていたGHQに、「そんなに復讐的に意
 地悪しなくてもいいじゃないか」・・と、マッカーサー
 に言った・・、
  「あまり日本を弱体化しすぎると、アメリカの国益に
 ならない」・・と言った。
  ソ連に対するカウンター・バランス(牽制勢力)とし
 て日本を利用する事を言った。
  ケナンは、長期間、モスクワのアメリカ大使館に勤め
 ていたため、共産主義の危険性を熟知していた。
  このアメリカ国務省の政策企画本部長のジョージ・F・
 ケナン・・
  彼は、この年のフォーリン・アフェアーズ誌(1947年
 7月号)に、「ソヴィエトの行動の源泉(通称:X論文)」
 「封じ込め政策」の理論的根拠をなす論考・・を書いた。
  この論文発表後・・、
  論文は、著者不明(X)として書いたが・・筆者がケ
 ナンであると分かると、「冷戦政策の立案者だ」と世界
 に広く知れ渡り、論文の「封じ込め政策」の概念が独り
 歩きし始めた。
  それは、ケナンが書いた「ソ連が平和で安定した世界
 の利益を・・侵食しようとしたならば、どこであろうと
 対抗力を行使する事が重要である」・・と主張した・・
  この「対抗力」が・・「軍事力」に置き換えられてし
 まった。
  「軍事力による対抗力の行使が重要」ととられる・・
 解釈される様になってしまった。
  ケナンの「政治的な対抗手段の行使」の趣旨が間違っ
 た方向へ動き出した。
  ケナンの言う「封じ込め」は、「抑制」という程度で、
 「封じ込め」にある強圧的な意味合いはない(訳語の不
 適)・・
  訳語の不適で・・世界が大きく影響された。
  いま、「封じ込め」の説明として以下のように書かれ
 ている・・
  封じ込め(ふうじこめ、Containment)とは、アメリカ
 合衆国の政策であり、海外の共産主義の拡大を阻止すべ
 く、多くの戦略が用いられた。
  冷戦の構成要素たるこの政策は、東欧や中国、朝鮮、
 ベトナムにおける共産主義の影響拡大を図るソビエト連
 邦による一連の動きへの反応であり、デタントと巻き返
 しの中間的立場を代表していた。
  ドクトリンの基礎は、米国の外交官ジョージ・ケナン
 による1946年の電報で明示された。
  米国の外交政策用語としてのこの単語の起源は、ジェ
 ームズ・フォレスタル国防長官にケナンが提出した1947
 年の報告(のちに雑誌記事に使用)に遡る。
  この語は、1920年代のソ連に対する西側の政策を記述
 するのに用いられたフランス語「cordon sanitaire(防
 疫線)」の訳語である。
  「封じ込め」の語は、アメリカと西ヨーロッパ諸国に
 よる北大西洋条約の締結・北大西洋条約機構(NATO)
 の設立や相互防衛協定など、ハリー・S・トルーマン、及
 び、共和党の政策と最も関連している。
  ドワイト・D・アイゼンハウアーは、これと対立するド
 クトリンである巻き返し政策を弄(ろう)したが、1956
 年のハンガリー動乱への介入については拒絶した。
  リンドン・ジョンソンは、べトナム政策正当化のため
 に「封じ込め」の語を用いた。
  リチャード・ニクソンは、ヘンリー・キッシンジャー
 最高顧問と共に、ソ連、及び、中国との友好関係に賛同
 し、封じ込めを拒絶した。
  こうしたデタント(または緊張緩和)の例としては、
 貿易や文化交流の拡大などがあった。
  ジミー・カーターは、反共よりも人権を強調したが、
 1979年に、ソ連がアフガニスタンに侵攻すると、デタン
 トをやめて封じ込めに回帰した。
  ロナルド・レーガンは、ソ連を「悪の帝国」と非難し
 て冷戦を拡大し、ニカラグアやアフガニスタンで巻き返
 しを推し進めた。
  封じ込め政策下で始まった中心的計画(NATOや核
 抑止力など)は、冷戦終結後も効力を保った。
.
1945年9月5日、ソ連の不法行為が続く・・ソ連軍が、歯舞
 群島までを不当に占領した(後に、北方領土問題となる)
  さらに、ソ連の不当行為である瀬島龍三など関東軍首
 脳部が、ハバロフスクへ送られ、将兵、および、一般市
 民の57万人がシベリア抑留となる(何ら根拠のない拉致
 行為)
  日本は、この日に、第88回帝国議会臨時会議を召集し
 ている。
.
1951年9月8日、サンフランシスコで、日本国との平和条約
 (サンフランシスコ講和条約)が調印された。
  続いて、日米安全保障条約が調印された。
  サンフランシスコ講和条約で、日本は独立したと言わ
 れているが・・??、
  しかし、これは表向きである。
  アメリカは、心の底から「日本を独立させたと思って
 いない」。
  この時、アメリカのダレス国務長官が、イギリスへ伝
 えた内容は・・(言葉と文書で伝えたその内容)、
  (1)アメリカは、日本の真の独立を認めるつもりはな
    い。
  (2)日本には、アメリカに逆らえるような能力を一切
    持たせない。
  (3)今回、講和条約をしたが、真の意味は、「アメリ
    カの実質的な対日占領が続く」ということ。
  イギリスは、さすが、このアメリカの異常さについて、
 1956年に、イギリスのエスラー・デイング駐日大使は、
 本国の外務大臣ハロルド・マクミランへ、次のような文
 書を送った・・、
  「アメリカの日本に対する扱い方は、まるで、第二次
 世界大戦の我々・イギリスのエジプトに対する扱いの様
 だ」・・と。
  この意味は、「日本は、今だに植民地扱いされている」
 という意味だった。
  まったく、日本は、バカにされている状態。
  1963年になっても、イギリスの応援は続いた。
  イギリスのオスカー・モーランド駐日大使が、本国の
 外務省へ次の報告書を送っている・・、
  「アメリカ政府の日本に対する態度を見ていると、と
 ても、独立国に対する扱いとは言えない。
  こんな扱いを受けている日本人が、本当にアメリカを
 好きになることはないだろう」・・と。
  この事を、メルヴィン・レフラー教授は、「ダブル・
 コンテインメント・ストラテジー(二重封じ込め戦術)』
 と言った。
  (1)日本を封じ込めておき、日本人が二度と独立した
    外交能力と、国防能力が持てない状態にしておく。
  (2)同時に、アメリカは、ソ連を封じ込めておく。
    その為に、日本を利用する。
    「ソ連への封じ込め戦略」の駒として利用するた
   め、日本には限られた軍事力・・アメリカ軍にとっ
   て都合の良い軍事力しか持たせない。
    日本には、自主防衛力を持たせるようなことはし
   ない。
.
1964年4月5日、GHQ司令官だったダグラス・マッカーサ
 ーが死んだ。老衰による肝臓・腎臓の機能不全で入院し
 ていた。84歳。
  晩年のマッカーサーは・・、
  「憲法9条を加えたのは、失策だった」
  「旧軍を部分的に存続させるべきだった」・・と後悔
 していたと伝えられている。
.
1990年(平成2年)3月27日、ビンのフタ論
  この日のワシントンポスト紙に「ビンのフタ論」が掲
 載された。
  在日米海兵隊ヘンリー・C・スタックポール司令官
 (少将)が・・
  「もしアメリカ軍が撤退したら、日本はすでに相当な
 能力を持つ軍事力を、さらに強化するだろう。
  だれも日本の再軍備を望んでいない。
  だからわれわれ(アメリカ軍)は(軍国主義化を防ぐ)
 瓶のフタなのだ」・・と書いた。
  日本を封じ込める。
  それも、アメリカと中国とで日本を封じ込める。
  その卑劣な、そして、理不尽な米中による「共同封じ
 込め戦略」をしたアメリカ大統領は・・、
  ブッシュ(父)、クリントン、ブッシュ(子)などだ
 った。
  そして、1989年1月20日に、第41代アメリカ大統領とな
 ったジョージ・H・W・ブッシュ(父)(大統領任期:
 1989年1月20日~1993年1月20日)政権の・・安全保障政
 策補佐官だったブレント・スコウクロフト中将は・・、
  米中両国による「対日共同封じ込め」を熱心に支持し
 た。
  そして、彼は、日米同盟の事を・・、
  「アーティフィシャル・アライアンス」とか・・
  「人為的な同盟」とか、「嘘くさい同盟」とか、「わ
 ざとらしい同盟」とかと言った。
  (注〉アーティフィシャル(artificial)の意は、
    「本物でない」「作りごとの」「不誠実な」「わ
    ざとらしい」という意味。
  スコウクロフト中将が、日米同盟を「アーティフィシ
 ャルだ」という真意は・・、
  「日本を『潜在的な敵性国』と見なすアメリカが、日
 本を押さえつけておくために維持している同盟関係」と
 いう気持ちが込められている。
  (参考)1990年、ブッシュ政権のホワイトハウス国家
    安全保障会議が・・、
     「冷戦後の日本を、国際政治におけるアメリカ
    の潜在的な敵性国と定義し・・、
     今後、日本に対して封じ込めを実施する」とい
    う政策を決定している。
  また、アメリカは・・キッシンジャーの様に、裏表の
 ある・・それも・・この表裏の落差が非常に大きい・・
 注意を要する・・今までの逆のことも平気で言う・・
  アメリカのポール・ゴドウィン博士(ペンタゴン付属
 の教育機関であるナショナル・ウォー・カレッジ副学長)
 の言葉・・、
  「日米は、『価値観を共有する同盟関係』より優先さ
 れる『対日封じ込め政策』・・これは当たり前だ」と言
 った。
  (参考)1992年2月18日、この日に作成された「1994年
     ~1999年のための国防プラン・ガイダンス」
     (DPG)というペンタゴンの機密文書には、
     「アメリカのアジア同盟国(特に、日本)が、
     より大きな地域的役割を担うことは、潜在的に
     この地域を不安定化させる」と記されている・・
  アメリカに、この様な言葉がある原因の一つとして・・
  日本に・・「自分の国は、自分で守る」という事を真
 剣に考えてない・・、
  この当たり前の「道徳的義務すら果たそうとしない」・・、
  「エスケーピスト(逃避主義国家)」として蔑(さげ
 す)まれている・・、
  その様な日本だと・・受け取られている・・、
  びっくりする様な大金を出して、「これで良いのだ。
 大金も出したし・・」・・の・・日本のセンスが・・、
 「軽蔑され、蔑まれた・・」・・、
  この様な今・現代の日本のセンスは・・世界に通用し
 ない・・また・・、
  「日本も、血を流そうとしないと、アメリカの青年は、
 日本を助けようとは、しないよ!」・・と・・、
  尖閣諸島の問題の時に、アメリカから言われた・・
  このことも、しっかり覚えて置かなければならない!
.
1993年1月20日、ビル・クリントンが、第42代アメリカ大統
 領になった。
  クリントン大統領は「反日親中」だった。
  そして、クリントン政権の上層部は「親中嫌日」だっ
 た。
  ウィリアム・ペリー国防長官は、全体主義国家である
 中国と北朝鮮の核兵器生産には「融和的態度」をとるが、
  (今、北朝鮮に核がある遠因の一つ・・)
  民主主義・自由主義を実行してきた日本が、核兵器の
 材料を持つことは耐えられなかった。
  ペリー国防長官の言葉・・、
  「東アジア地域において米中両国は、日本だけには・・
 核を持たせてはならない」
  サミュエル・バーガー安全保障政策補佐官の言葉・・、
  「アジア・太平洋地域は、アメリカと中国が協力して
 共同支配する地域だ」
  このバーガーは、核武装した北朝鮮よりも、「日本が、
 それを口実として自主防衛しようとするかもしれない」
 ということを心配していた・・嫌日の輩だった。
  ロバート・ルービン財務長官の言葉・・、
  「アジア地域は、米中両覇権の戦略的パートナーシッ
 プにより共同支配する地域だ」
  この様に、アメリカ政権の「反日親中」の言葉の数々
 を聞くと暗澹(あんたん、見通しが立たず、希望が持て
 ないさま)たる気持ちになるが・・、
  ここで出て来るのが「ビンのフタ論」である。
  この「ビンのフタ論」は、前記したように、1990年3月
 27日に、在日アメリカ海兵隊のヘンリー・C・スタック
 ポール司令官が、ワシントンポスト紙に発言した言葉で
 ・・、
  「もしアメリカ軍が撤退したら、日本は、すでに、相
 当な能力の軍事力を持っているが・・、その持っている
 軍事力を、さらに強化するだろう。
  だれも、日本の再軍備を望んでいない。
  だからわれわれ(アメリカ軍)は(軍国主義化を防ぐ)
 瓶のフタの様に日本に駐留しているのだ」・・
  かつて、在日米軍の撤退を厳しく要求した中国も、 キ
 ッシンジャーが北京を訪問して、上記の様な説明を受け
 ると、 周恩来は大きくうなずいて、日本からのアメリカ
 軍撤退要求を取り下げたのだった。
  米中両国は、日本の単独防衛・核武装阻止という点で、
 利害が一致していた。
  以上のことは・・、
  ハリー・トルーマン、ジョン・フォスター・ダレス、
 ヘンリー・キッシンジャー、 ヘンリー・スタックポール、
 クリスティン・ウォーマスなどのアメリカの政府や軍の
 高官がその様に証言している。
  孫崎享(まごさきうける、日本の外交官、評論家、ハ
 ーバード大学国際問題研究所研究員、外務省国際情報局
 局長、イラン駐箚特命全権大使など)も、著書「日米同
 盟の正体 迷走する安全保障」の中で・・、
  日米同盟の目的は、日本の核武装・軍事大国化を阻止
 して、日本から力を奪うためであり、
  その考え方は、大戦直後も、今も、一貫して変わらな
 い・・と述べている。
  クリストファー・レイン(UCLA、海軍大学校大学
 院)は・・、
   日本の自衛隊を、自主防衛できない組織(属国の軍隊)
 にしておくのがアメリカの目的で、アメリカの対ソ政策、
 対中政策に都合の良い武器は持たしてもらえるが、
  『本当に自主防衛するための武器』は持たしてもらえ
 ない。
  また、アメリカ軍が出動しないと、自衛隊は、他国の
 軍隊に手も足も出ない軍隊となっている。
  『戦後、長い年月が流れたので、そろそろ、日米安全
 保障条約を廃棄し、日本単独防衛を検討してもいいので
 はないか』・・という意見もある・・ 、
  また、ロバート・アート(ブランダイス大学)は、日
 米同盟の『真の現実』というものは、地域的なアメリカ
 の帝国主義的支配権に組み込まれたものとなっている。
  また、マイク・マスタンドゥーノ:(ダートマス大学、
 国際政治学)は・・、
  「アメリカ政府高官は、東アジアにおける米国の圧倒
 的ドミナンス(優越、権勢、支配、優勢)を保つために、
 日本を、パーシャル(不完全な)な(バランスのとれて
 ない、独立していない)国家にとどめておく・・その為
 に、日本を必死に説得して来た」。
  また、カート・キャンベル(クリントン政権 国防省ア
 ジア政策担当次官補)は・・、
  日米同盟を維持しなければならない根拠は・・、
  「日本にこれ以上軍事費を使わせるない」「日本が、
 他のアジア諸国と軍事的な、また、外交関係を作るのを
 阻止する」「日本には自主防衛させない」・・、
  スコウクロフト(国家安全保障補佐官)は・・、
  「日本は、アメリカの仮想敵国であり、 封じ込めが
 アメリカの政府の対日外交政策方針である」
  (上記は、伊藤貫氏の証言で、1991年、伊藤貫氏が連
 邦議会外交政策委員の主要メンバーから聞いた)
  また、国防大学・National Defence Univ.(National
 War College)のゴッドウイン副学長の発言・・
  「封じ込めが対日政策である」
  また、1992年、ペンタゴンの防衛計画の手引き(
 Defence Planning Guidance)で、主要仮想敵国を、
 Other Advanced Industrial Nation(ドイツと日本)と
 位置づけ、地域のリーダーシップ(Regional Leadership)
 を 取れないようにするという方針となった。
  また、ペンタゴン日本部長 ポール・ジュアートは、
 1994年に、「アメリカは、日本を独立国として認めない」
 と発言した。
  そして、1972年、ニクソン&キッシンジャー&周恩来
 との密約は、現在の米国政府(国防省・CIA)におい
 ても有効で、「東アジア地域において、日本に核を持た
 せない」「アメリカが日本に駐留し続ける、それは、日
 本が独立国になるのを阻止する」「日本政府が台湾や朝
 鮮の問題で発言権を持つことを米中は阻止する」
.
1997年、明確な「反日親中だったアメリカ大統領カーター」
 の政権に居たズビグネフ・ブレジンスキー安全保障政策
 補佐官は、1997年、日本を「アメリカ保護領」と呼んで
 いて・・、
  自衛隊についても、「日本政府が自由に使える道具で
 はない。
  あれは単に、東アジア地域のアメリカ軍の延長として
 の道具に過ぎない」と言っていた。
  アメリカは、表面は『パートナーだ』と言っているが、
 本音は、ブレジンスキーのこの様な気持ちの人が多い状
 況。
 (参考)反日親中:日本に不利に、そして、敵対する
    政策を採り・・、
     そして、その逆に、中国に対しては有利に処し、
    そして、融和的な政策を採ること。
 (参考)ズビグネフ・ブレジンスキー、1928年3月28日~
    2017年5月26日)は、アメリカ在住の政治学者。
     1966年~1968年、リンドン・ジョンソン大統領
    の大統領顧問を務め、
     1977年~1981年、カーター政権時の第10代国家
    安全保障問題担当大統領補佐官を務めた。
     ポーランド出身、カナダ育ち。
     1971年には、日本に半年間在住した後に、急速
    な経済発展を遂げた日本が、政治外交領域ではい
    まだに独立した行動をとる力を持っていない「ひ
    よわな花」であると論じ、日本で大きな注目を浴
    びた。
     ヘンリー・キッシンジャー元国務長官と並ぶ戦
    略思想家だったとする評価もされている。
     2016年に、民間人としては最高栄誉の、アメリ
    カ国防総省公共サービス栄誉賞を受賞した。
.
2002年10月、江沢民・中国国家主席が訪米し、アメリカの
 ブッシュ大統領(子)をテキサスの牧場に訪ね、密約の
 確認をした・・?
  当時(1972年2月)のニクソン米大統領とキッシンジャ
 ー補佐官が北京を訪問し、周恩来首相との間で対日政策
 に関する密約を交わしている。
  この事は、日本人は、きちんと覚えておく必要がある。
  この時の密約の要点を書きとめたニクソンの手書きメ
 モも残っているが・・、
  密約の一つは、「東アジア地域において日本だけは核
 武装させない」というもので、
  このことを、2002年10月、江沢民・中国国家主席は訪
 米し、テキサスの牧場にブッシュ大統領を訪ね・・そし
 て、このときにも『再確認』したとされている。
.
2006年秋、ブレジンスキー元安全保障補佐官が、ワシント
 ンの公開シンポジウムで公言した・・、
  「アメリカと中国との間には、日本にだけは核を持た
 せないという密約がある」・・と・・、
  「リアシュアランス戦略」
  アメリカには、「リアシュアランス戦略」がある。
  「リアシュア」は「安心させる」という意味。
  アメリカが、「日本は安全だ」と言い・・、
  また、「日本人は、アメリカによって保護されている
 から心配しなくていい」と言う。
  日本は、「よかった、よかった、アメリカに保護され
 ているから日本は安全だ」・・と思う。
  アメリカの、この「日本人をリアシュアしておく」と
 いう戦略をとったのは・・、
  「敗戦国・日本から、永遠に自主防衛能力を剥奪して
 おきたい」という戦略から来ている。
  2006年秋、ブレジンスキー元安全保障補佐官が、ワシ
 ントンの公開シンポジウムで公言した・・、
  「アメリカと中国との間には、日本にだけは核を持た
 せないという密約がある」・・と。
  この密約は、ワシントンでは、すでに、「公然の秘密」
 となっていた。
  「アメリカと中国の政府間に、日本から、自主防衛力
 を剥奪しておくため、アメリカ軍は、日本の駐留を続け
 る。
  例え、「日本の周辺国が、すべて、核武装しても」、
 「日本にだけは、核は持たせない」・・と。
  1971年秋、アメリカのキッシンジャーと、中国の周恩
 来の間で、「対日共同封じ込め」が話し合われ、
  翌年の1972年2月、アメリカ大統領ニクソンが、北京を
 訪れ、米中首脳間で合意された。
  この米中首脳合意は、アメリカ政府の外交資料に公開
 されている。
  また、中国の公開論文などでも公開されている。
  日本が、真に独立できな根源が、ここから来ている。
  この後も、この日本の立ち位置は、その都度、アメリ
 カと中国間で確認されている。
  ニクソンの後の「フォード」「カーター」もアメリカ・
 中国による「対日共同封じ込め戦略」は続けられた。
  中国は、表では「アメリカの覇権に抗議する姿」を見
 せているが?
  『対日共同封じ込め戦略』の基本路線で、アメリカと
 つながっている・・この事は、ブランダイス大学のロバ
 ート・アート氏が指摘する。
  (参考)ロバート・アートは、アメリカ合衆国の国際
    政治学者。ブランダイス大学教授。MIT国際関
    係研究所フェロー。
     専門は、国際関係論、安全保障論。
     1964年に、コロンビア大学卒業後、1968年に、
    ハーバード大学で博士号取得。
     米国陸軍士官学校や米国空軍士官学校、中国人
    民解放軍国防大学、ベルリン自由大学などで講義
    をしてきた。
.
2010年1月21日、アメリカの連邦最高裁は、選挙資金の支出
 制限を違憲とした。
  『献金の上限撤廃』の判決が出た。
  また、2016年6月10日には、チャイナマネー疑惑が、ヒ
 ラリー・クリントン氏(民主党)を、突如、襲った。
  新たな火種が浮上し、連邦捜査局(FBI)が捜査し
 ていると報じている。
  大統領選や、知事選の候補者は、外国人から選挙資金
 を受け取ってはならないとなっている。
  しかし、中国は・・、
  アメリカの民主党に献金し、チャイナロビーを形成し
 て、アメリカを通じて日本に圧力を掛けていると言われ
 ている。
.
2017年9月3日、日本が、レーザーで、ミサイルを迎撃する
 「新システムの検討」をしていることが分かった。
  北朝鮮の核・ミサイル開発など、世情は不穏さを増し
 ているが・・、
  この新システムは、高出力レーザーを、発射直後の弾
 道ミサイルに照射し、無力化し、破壊する方法。
  防衛庁は、すでに、2010年度から研究を始めていて、
 高出力レーザーの研究を実施するなどしていた。
  また、アメリカの研究成果についての情報提供も受け
 ていた。
  2018年度から5年間で、装備化に向けた研究に入る。
  レーザー兵器は、アメリカや中国などでも開発が進め
 られていて、アメリカは、実戦配備を始めている。
  アメリカは、ミサイル防衛への活用も検討している。
  また、防衛省は、2018年度概算要求に、迫撃砲弾や小
 型無人機などを迎撃対象とする、高出力レーザーシステ
 ムの研究費として、87億円を計上した。
  北朝鮮が、「ロフテッド軌道」での発射を繰り返して
 いるため、新しい技術で対応する方針・・、
  開発を目指すのは、弾道ミサイルが発射された直後の
 「ブースト段階」の時点で、
  航空機や艦船などから高出力レーザーを照射し、熱に
 よってミサイルを変形させる技術。
  これによって、ミサイルが、空気の摩擦抵抗を受ける
 大気圏内への再突入などの際に、無力化・破壊する方法。
  この方法は、多数の弾道ミサイルの発射にも対処が可
 能。
  因みに、ブースト段階とは、弾道ミサイルが、発射直
 後に、ロケットエンジンの燃焼で加速する段階のことで、
  燃焼が終了して、慣性で大気圏外を飛行する「ミッド
 コース段階」や、
  弾頭が、大気圏に再突入してから地上に向かう「ター
 ミナル段階」とは違う・・
  ロフテッド軌道の場合、ターミナル段階の弾頭は、落
 下速度が速く、迎撃性が落ちる。
  この新システムの方法で、ロフテッド軌道に入る前の
 低速度の発射直後の段階で対処ができる。
  (読売新聞、2017年9月3日を参考にした)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive



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# by suba28 | 2017-09-11 05:35 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)551E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年2月)

題:(増補版)551E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年1月1日、山陽鉄道会社が、旅客運賃を改定した。
1892年1月5日、世界で初めて、オーロラの写真撮影に成功
 した。
1892年1月16日、明治美術会が、洋風美術指導の教場を開く。
  明治美術会は、日本最初の洋画団体で・・、
  明治10年代には、維新以来の急進的な欧化政策に対す
 る反省、反動の機運が高まり、日本の伝統美術の復興を
 旗じるしに、洋画排斥の世論が強まって行った。
  こうした当時の国粋主義的風潮に抗して、1889年に、
 浅井忠、小山正太郎、原田直次郎、松岡寿、山本芳翠、
 長沼守敬らが、東大総長の渡辺洪基を会頭として組織し
 た。
  また、後援者として行政家や知識人らの多数が名を連
 ねた。
  そして、さらに、黒田清輝、久米桂一郎らの新帰朝者
 も参加した。
  毎年、展覧会を開き、多くの名作を発表した。
  また、外国作品の参考陳列、研究所の設置、講演会、
 討論会なども行い、洋画発展・啓蒙のために尽した。
  後に、黒田清輝らが、白馬会を起こしたため、白馬会
 と対立した。
  旧派、または、脂派 (やには) と呼ばれて衰退し、
  1901年に解散した。
  翌年の1902年に、若手を中心にした旧会員らが、太平
 洋画会を結成し、
  白馬会とともに二大洋画団体となった。
1892年1月23日、植木枝盛(うえきえもり)が死去した。
  (1857年1月20日~1892年1月23日、36歳)
  土佐国(高知県)高知城下井口村の生まれで、
  土佐高知藩下級士族・植木直枝の独子、
  板垣退助の演説を聞いて感銘を受け、また、明六社の
 影響を受け、自由民権運動に加わり、自由民権運動の指
 導者・政治家となる。
  国会開設に尽力。
  廃藩に至るまで藩校致道館に学ぶ。
  1873年(16歳)旧藩主・山内氏が東京に開設した海南
   私塾に学んだが、陸軍士官予備門的同校の方針が不
   満となり、高知へ帰る。
   時は、あたかも、征韓論政変で下野した板垣退助、
   林有造、片岡健吉らは帰郷して、高知に立志社を設
   立し、自由民権運動を開始した。
   枝盛は、立志社の演説会で、板垣らの演説に発奮し、
   運動への関心を高めた。
  1876年(19歳)再度、上京し、板垣邸に書生として寄
   宿した。
   そして、明六社や、慶応義塾主催の演説会を聴取し
   たり、読書に耽り、独学で西洋近代思想を学び、民
   権思想を吸収した。
   東京の諸新聞に政論を投書するなど、言論活動を始
   めた。
   1876年2月、『郵便報知新聞』に掲載された専制政府
   攻撃の『猿人政府(猿人君主)』が讒謗律、新聞紙
   条例違反に問われ禁獄(きんごく、牢獄に閉じ込め
   ておくこと)2ヶ月となる。
  1877年(20歳)帰郷して、立志社に入社し参加した。
   そして、板垣退助のブレーン(頭脳)として、片腕
   的存在として活躍。
   この年は、西南戦争の最中で、いわゆる立志社建白
   を起草した。
   同年・1877年、立志社は、機関誌『海南新誌』『土
   陽雑誌』を創刊した。
   枝盛は、その編集・執筆に当たり、また、演説会で
   活発な言論活動を展開。
   愛国社、国会期成同盟、自由党に板垣の片腕的存在
   として活躍した。
   (国会開設運動や民権思想の普及につくす)
  1881年(24歳)急進的な私擬憲法「日本国国憲案(東
   洋大日本国憲法)」を起草した。
   のち再興愛国社、国会期成同盟、自由党などの運動
   に板垣の片腕となって活躍する。
   一方、民権派ジャーナリストとして『民権自由論』
   (1879年・22歳) などの出版により民衆啓蒙を行う。
   のち、急進的自由民権運動から離れ、婦人解放運動
   に尽力した。
  1884年(27歳)自由党解党以後、高知に戻り、県会議
   員として運動を持続した。
    また、『土陽新聞』に拠って健筆を振るい、自由
   民権思想の普及、運動の拡大に努めた。
  1890年(33歳)第1回総選挙で、高知3区から衆議院議
   員に当選し、自由党土佐派の有力者として活躍した。
   しかし・・
  1892年1月23日、36歳の若さで急死した。
  彼の思想の特徴は、天賦人権論、主権在民、抵抗権な
 どにあった。
  その他の著書に『天賦人権弁』『開明新論』『言論自
 由論』『一局議院論』など。
1892年1月28日、予戒令(よかいれい)が公布された(1月
 25日説あり)
  集会の妨害行為、他人の業務に干渉する者の取締を目
 的に制定され、即日、施行された。
  1892年2月15日に、第2回衆議院議員総選挙が行われる
 予定であったため、選挙取締りを目的とするとされた。
  政治集会で社会が騒然とし、また、騒動が多発するた
 めもあった。
  「政談集会ヲ妨害シ議会議員ヲ脅迫スル…人民ニ対シ
 警察上ノ監督」と記されている。
  内閣顧問として活躍したドイツ人のヘルマン・ロエス
 レルは、予戒令の審議における参考意見として・・
  「公共並ニ国家ノ利益の為ニ…禁遏(きんあつ、禁じ
 て止めさせること)スルヲ得ヘシ」と判断し、制定の正
 当性を挙げた(1914年1月21日まで存続した)
1892年1月、大阪鉄道会社線の亀ノ瀬トンネルが完成した。
  1889年3月に着工していた(工期:2年10ヶ月)
  全長:下り線699m、上り線703.5mの鉄道トンネル。
  堅上村(現在の大阪府柏原市大字峠)から大阪府・奈
 良県境までにかけての区間には、生駒山地と金剛山地の
 末端に挟まれた難所かつ隘路があり・・
  この難所「亀ノ瀬越え」があった。
  この一帯は、地すべりがたびたび発生した。
  1889年に着工された亀ノ瀬トンネル(全長413m)・芝
 山トンネル(全長216m)も、異常な土圧力を受け、工事
 が完成しても、煉瓦に亀裂ができ、崩壊するという危険
 性に見舞われていた。
1892年2月1日、九州鉄道会社が、下等旅客運賃を値上げし
 た。
1892年2月1日、北海道炭砿鉄道会社が、砂川駅~空知太駅
 間の4.6kmを開業した。
1892年2月2日、大阪鉄道会社が、亀瀬駅~稲葉山駅間の1.3
 kmを開通して、湊町駅~奈良駅間の41.2kmを全通させた。
1892年2月3日 出口なを、京都綾部で大本教を開いた。
  神道系の新宗教で、教祖の出口なおにより 1892年に
 創唱され、その予言は、御筆先 として記された。
  (おふでさき。大本神諭、なをの「筆先」による艮(う
 しとら)の金神(こんじん)の世直しを唱えて、「みろくの
 世」(神の国)の到来を説いた)
  大本皇大御神を祀り、なおの出生地たる丹波国綾部を
 地上の高天原とし、神人合感を唱え、世を立直して、神
 の国を開くと説いた。
  なおの死後、教理を体系化し、組織を構築した出口王
 仁三郎(でぐちおにさぶろう)、すみの両人により、鎮
 魂帰神法が唱えられ、綾部に本部、亀岡に道場がおかれ、
 大きく発展したが、1921年と1935年の2回の不敬罪で解散
 に至った。
  第2次世界大戦後、愛善苑として再建された。
  1952年、大本教に復し、京都府亀岡市に本部を置く。
  尚、開祖の出口(でぐち)なお(1836年~1918年、82歳
 没)は、
  1836年、丹波国(京都府)福知山城下に大工の長女と
   して出生した。
  1853年(17歳)の時、丹波綾部郷(現京都府綾部市)
   の叔母・出口ゆりの養女となる。
  1855年(19歳)大工の夫を婿養子として迎え、出口家
   を継いだ。
    しかし、夫の放蕩で家財いっさいを失うこととな
   った。
   つらく、ひどい生活苦を体験した。
  1892年(56歳)、貧しい大工の未亡人である出口なを
   が創唱した。
    「三千世界一度に開く梅の花、艮(うしとら)の
   金神の世になりたぞよ」と、突然、神がかりして口
   走り・・、
    理想世界「みろくの世」の実現を説く世界の平和
   と・・世の中の立直しを叫んだ。
1892年2月5日、大村益次郎の銅像が除幕された(除幕式)
  大村益次郎の銅像は、初代司法大臣として活躍した山
 田顕義の発案で、靖国神社に建立された。
  大村益次郎(おおむらますじろう、1824年3月10日~
 1869年11月5日)は、幕末の洋学者で、日本の近代的軍制
 の創始者。
  旧名は村田良庵、のち、村田蔵六と名乗った。
  1824年(文政7年)3月10日、周防国吉敷郡鋳銭司村字
   大村に長州藩の医者・村田孝益の長男として生れた。
  1843年(19歳)蘭医・梅田幽斎に学ぶ。
  1844年(20歳)豊後(大分県)の広瀬淡窓に漢籍を学ぶ。
  1847年(23歳)大阪の緒方洪庵の適塾の門で、蘭学と
   医学を学び、塾長を務めた。
    この間、長崎を訪れ名医奥山静叔に学ぶ。
    そして、P・シーボルトについてオランダ医学を学
   んだ。
    また、兵学を修めた。
  1851年(27歳)父母を養うために帰郷した。
   そして、医を開業したが振るわず・・宇和島藩に迎
   えられ、伊予(いよ)(愛媛県)宇和島藩御雇となった・・
   そして、西洋兵書を翻訳し、軍艦製造などを指導し
   た・・、
  1856年(32歳)江戸に出て鳩居堂を開塾した・・
   宇和島藩主・伊達宗城の推挙で、幕府の蕃書調所に
   仕え、教授手伝い、さらに、講武所で教授を歴任し
   た。
    この間、ヘボンに英語を学んだ。
    名声を聞いた長州藩は出仕を命じた・・
  1860年(36歳)万延元年、長州藩に呼び戻され、帰藩
   し、同藩(長門・ながと・山口県、萩・はぎ藩)で
   兵学を教え、兵制改革に力量を発揮した。
  1866年(42歳)長州戦争には、石見口の総参謀として
   幕府軍を壊滅させた。
  1868年(44歳)1月3日、戊辰戦争が起きると、討幕軍
   として上洛した。
    維新政府の軍防事務局判事加勢を命ぜられ、軍政
   事務を担当した。
  1868年(44歳)閏4月、江戸に出て、上野彰義隊討伐、
   奥羽・北越の平定作戦に携わった。
    総合的な視点で戦局を捉え、軍略は戦う前から必
   勝の成算をうかがわせるものがあった。
    西郷隆盛は、大村の軍が進まないのをみて、部下
   将士のすすめるままに兵を率いて東上し戦地平定を
   申し出た。
    大村は、西郷を諫め、西郷の青森到着前に五稜郭
   が陥落した。
    西郷は、大村の卓見に感服し、「我誤てり面を合
   はすに恥づ」とそのまま帰郷した。
  1868年(44歳)10月、軍務官副知事となり箱館(函館)
   を鎮定した。
    ここに戊辰戦争は終結した。
    その戦の功により永世禄1500石を受けた。
    この様に、戊辰戦争に優れた軍事指揮を執った。
  1869年(明治2年)(45歳)兵部大輔となり、軍制を徹
   底的に改革するため、それまでの諸藩混成の士族的
   御親兵を、国民的な近代軍隊へ改組したいと・・、
    陸軍はフランス陸軍へ、海軍はイギリス海軍を模
   範としてならうと・・藩兵解体、帯刀禁止、徴兵制
   度の採用などを建白し、一連の兵制改革を行ない、
   日本の兵制の近代化に尽力した。
   ・・が、旧士族の反感を買い、
  1869年9月4日(45歳)、京阪地方を旅行中の京都の止
   宿先で、神代(こうじろ)直人ら反対派士族の8人に襲
   われ、刺された傷がもとで大阪の病院で・・
  1869年12月7日、死去した、46歳だった。
  最後の言葉は、「安価で軽便な四斤砲をたくさんつく
 ってくれ」。
.
  (今日の言葉)
.
  題:枕を高くして寝ていられる日本ではなくなっている。
    国防をもっと真剣に考えなければいけない!
    緊急事態なのである!
.
1910年8月29日、日韓併合(~1945年9月9日)
  日本は、「韓国併合に関する条約(日韓併合条約)」
 によって大韓帝国と併合した。
  標語は、「内鮮一体」で・・、
  日本と朝鮮は一体となって国づくりをして行こうと、
 そこには、完全に朝鮮を差別待遇するなどという意味は
 まったく無く、平等に内地(日本本土)と一体となって
 国づくりをしようとした。
  差別なく、日本と同等な皇国の民として平等だという
 意識で・・、
  「半島人ヲシテ忠良ナル皇国臣民タラシメル」ことを
 目的とするとした。
  今・現代、その当時を生きた韓国の方々は、そのこと
 を裏付ける様にネットに以下の様に記述する。
  「韓国政府が、ひたすら酷かったとして、恩を仇で返
 すような行動をしている」が、
  また、「教科書で、ひたすら日本を蔑むことを記述し
 て韓国の小学生たちを洗脳しているが、真実は消せない」
 と・・、
  以下の翻訳したネットのスレッド(投稿)の韓国の
 庶民の方々の真実の声も聞いて戴きたい・・
  翻訳ー1:おじいさんは笑いながら「日帝時代は、李氏
     朝鮮などの朝鮮王朝が統治した時よりはるかに
     幸せだった」と言いました。
      その例として、まず、医療技術が発達し、人々
     が病気の苦痛から開放され、長生きすることが
     できるようになったこと、
      さらに、教育の機会が与えられ、多くの人た
     ちが勉強できるようになったことなど・・
  翻訳ー2:韓国人強制徴用については知らされているこ
     とと違うと言いました。
      善良な人を強制的に徴用したのではく、死刑
     囚や犯罪者などを徴用していたのです。
  翻訳ー3:慰安婦問題については正確には知らないとし・・
  翻訳ー4:親日派と売国奴は別物だ。
      親日が悪いことではないと言いました。
      当時、韓国民族が生きる最良の道は、現実問
     題としての自分の立ち位置をよく認識し、日本
     人から先進文物を学び、自分のものにするとい
     うものでした。
      また、社会のほとんどが親日であり、現在の
     テレビ放送(TV)が示すような、大多数の人が
     独立万歳をしていなかった・・と言います。
  翻訳ー5:教科書を見れば、老人たちにとって日帝時代
     は地獄であり、日本は悪魔だとしています。
      しかし、老人ホームのようなところに行って
     奉仕活動をしながら尋ねると、意外にも日帝時
     代に対する感情がないということに驚きます(
     日本は悪いことをしていないので、悪感情が出
     て来ない)
  翻訳ー6:朝鮮時代末期には、平均寿命が30歳を超えて
     いなかったとしています。
  翻訳ー7:平均寿命と人口が約2倍に増えたという客観
     的な統計が存在し、飢えて死ぬ人々の数が目に
     見えて減りました。
      以前には、娯楽すら知らなかった人たちは、
     少しふんぱつをすれば、豪華な洋館でコーヒー
     を飲むことができたました。
      文学などの芸術も、この時から発達していま
     す。
      日帝時代は、大多数の朝鮮人が親日派であっ
     た。
      いや、親日派という言葉すら成立しないかも
     しれない。
      当時、絶対多数の朝鮮人は、日本人として幸
     せに暮らしていた。
      現在、韓国の教科書が教えるのは捏造、歪曲、
     操作であり、独立運動の朝鮮人は、全体の1%に
     もならなかった。
      絶対多数99%の朝鮮人は親日派であった。
  (日本も同じだったのだろう・・と、日本を、アメリ
 カやヨーロッパ諸国と同じ様な『搾取するだけの植民地
 政策だ』と同じに見ないでください)
  第二次世界大戦当時、大東亜戦争に自ら進んで参加し
 た朝鮮人兵士は・・何と! 22万人を超えた。
  また、平均寿命が24歳という地獄ような朝鮮の状況を・・
 一変させ・・
  朝鮮の方々の平均寿命を倍以上に増やすという『改善
 がなされた』。
  それは、一朝一夕で出来るものではなく・・
  住みやすい国づくりをし、また、人間らしく生きられ
 る国を作った日本だった。
  この様な功績を、まったく伝えない韓国・・
  偽りと捏造(ねつぞう)の歴史で、いつまでも被害者
 であるとプロパガンダし、洗脳する。
  恩を仇で返している韓国なのである。
  韓国の安東地方に建設された図書館の利用者記録を見
 るだけでも分かります・・、
  この資料だけでも、日本が、どれほど朝鮮のあらゆる
 ものに貢献したかが・・
  朝鮮人の方々、支那人の方々、共に、この知的な場所
 を、多くの人が、公平に閲覧しています。
  公平な社会だった。
  公平な統治が行われていたという証拠の一つです。
http://blog.livedoor.jp/kaikaihanno/archives/26941311.html
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983250/10?viewMode=
http://livedoor.blogimg.jp/kaikaihanno/imgs/4/3/437ea3cc-s.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/kaikaihanno/imgs/9/2/923f2cbc-s.jpg
.
1937年11月15日、日本軍の第10軍は、「一挙追撃を敢行し、
 南京を占領すべき」と積極案を出した。
  それは、マス・メディアの論調に影響を受けていた。
  南京への進軍のきっかけを作ったNHKはじめマス・
 メディアは、
  その後の、南京へ向かう日本軍の進軍を、逐一、報道
 した。
  この報道も、煽りだった。
  それまでの上海事変で、日本軍は疲弊していた。
  上海の日本軍を攻めて来た中国国民政府軍は、上海事
 変での戦いは強烈だった。
  アメリカに支援された中国国民政府軍は、そのアメリ
 カに支援された大量の武器と物量で頑強で、日本を苦し
 めた。
  日本軍は疲弊していた。
  本来は、上海事変が集結した後、日本に帰還するわけ
 だった。
  しかし、NHKはじめマス・メディアに煽られた軍は、
 戦争拡大の意見が通り、また、上海事変で戦った兵士が、
 そのまま南京へ向かうことになった。
  そしてまた、南京へ向かうその日本軍を、NHKはじ
 めマス・メディアは、逐一、報道し、当然、煽られた状
 況になって、南京へと向かって行った。
  国民はその報道をかたずをのんで見守り、声援した。
  NHKは、この様に戦争を煽った罪を『まったく報道
 しない』、
  日本を貶(おとし)める放送ばかりをしてる。
.
1946年3月5日、イギリスのチャーチル前首相が「鉄のカー
 テン」演説を行う。
  この「鉄のカーテン」は、イギリスのチャーチルが、
 首相を退任後、アメリカのトルーマン大統領に招かれ訪
 米し、ミズーリ州の大学で演説した中で言った。
  この「鉄のカーテン」と言われた頃と、今(2017年)
 との違いは・・、
  ソ連が崩壊して、ロシアが誕生したという経過がある
 が・・
  今・現代の2017年は、中国が世界一としての存在感を
 増している。
  米中関係と言われていた言葉は、今は、中米関係と逆
 転して言うべきだろう。
  米ソの冷戦時は、明確な立ち位置の違いがあった。
 冷戦だと言われる様に、米ソは、その「冷戦の戦争的な
 対決状態」だった。
  そして、「鉄のカーテン」と言われた様に、「カーテ
 ンの向こう側」と「カーテンのこちら側」という明確な
 体制の違いがあった。
  しかし、今・現代の状態は、同じ様な経済状況・経済
 体制の中で、「明らかに中国は、世界の覇権を手に入れ
 たい」と意思表示をしていながら、現状の様な雌伏の様
 な形で、現位置を構築してきた。
  しかし、「中国の明確な覇権を得たい」という言葉の
 裏には、今の派遣者であるアメリカには退場して戴きた
 いという中国の意思もある。
  そこを、隠密に、静かに、なされたため、米ソ冷戦時
 のはっきりした「彼我の陣営の違い」が見えにくくなっ
 ている。
  北朝鮮を明らかに繰って、自らの覇権構築に利用して
 いても・・その様な北朝鮮を繰る姿は見えにくくなって
 いる。
  その見えにくい中国に、米ソ冷戦の時には、米側であ
 った諸国も、今・現代は、中国側に取り込まれている。
  IMF体制を変えたいという意思のある中国。
  中国主導のそのAIIB(アジアインフラ投資銀行)
 にも、だから、イギリスはじめ、米ソ冷戦時は、アメリ
 カ側であった諸国が加わっている。
  その諸国の中には、「AIIBに加わって、その様子
 をはっきり見るのだ」という声も聞こえるが・・?
  何か、アメリカ離れをして行こうという様にも見える。
  そこを、日本だけが・・律儀に・・アメリカとともに
 いる感じとなっている・・、
  ドイツは、明確に中国側の行動を行なっている。
  アメリカが、アメリカの一部の知識人が言うように、
 「中国の覇権を認め」、そして、中国の軍門に下るのか?
  それとも、読売新聞の論説文の様に、「より日米関係
 を強固にせよ」という論説の如く、日米関係を強固にし
 て・・、
  この先は、中国の構築したグループと、対決姿勢を形
 作って行くのか?
  中国には、孫子という人が居た。
  中国の指導層も、この孫子の言葉を教訓にしている・・
 モットーにしているというが・・眉(まゆ)つばものだ・・
  この孫子の言葉に・・、
  「兵は詐(さ)なり。(この詐は、つくりごとをいう。
 嘘を言ってだます・・という意味)・・、
  そして、「彼を知りて己を知れば、百戦して殆(あや)
 うからず」・・とある。
  この有名な文の前文・・孫子の言葉には、「兵は詐を
 以って立つ・・」という言葉がある。
  つまり、「戦いは敵を欺き、裏をかくことだ」と言っ
 ている。
  中国は、「勝てば何をやっても良いのだ」と考える国
 だということ。
  中国の本を読んでも、欺いて勝った者が褒められ、讃
 えられている。
  節操なく人をだまし、騙し合いの汚い話の連続だ。
  延々とこんな事ばかりをしている。
  キリスト教聖書も、この様な事が書かれていて、唾棄
 すべき記述に満ちているが、中国は聖書以上だ。
  アメリカも、原爆を落とし、一般市民をターゲットと
 した無差別爆撃をし、そして、じゅうたん爆撃を、日本
 の都市という都市に行って、本当に多くの市民を殺戮・
 虐殺したが・・、中国の悲惨さはアメリカ以上だ。
  自国民を1000万人単位で何回も殺している国・・、
  中国の悲惨さ、冷酷さは、反対意見の持ち主が、皆無
 に近い所だ・・皆、殺してしまう。
  ロシアの学者が明かす・・
  中国政府は、最近の20年間、大量の工作員をロシアに
 送り込み、
  ロシアの内政と外交を親中に誘導している・・と、
  チャイナ・ロビーの威力はすごい影響力がある・・と、
  アメリカもこれをやられている・・
  そして、日本もやられている・・
  官僚がやられ・・NHKなどは、『親中の放送だ』と
 はっきり分かるものがあるという酷さ・・、
.
1948年2月6日、GHQの内部文書「戦争についての罪悪感
 を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」が明らかに
 なった。
  ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(
 War Guilt Information Program、略称:WGIP)を、文芸
 評論家の江藤淳氏が、その存在を明らかにした。
  この文書は、第二次世界大戦(大東亜戦争)終結後、
 アメリカを主力とする連合国軍最高司令官総司令部(G
 HQ)が行なった日本占領政策の一環としてやった日本
 人洗脳計画・・
  「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるた
 めの宣伝計画」である。
  1979年より、ウィルソン・センターで、アメリカ軍占
 領下の検閲事情を調査していた江藤氏は、
  アマースト大学の史学教授レイ・ムーア氏より「Draft
 of c/n, Subject : War Guilt Information Program,
 From : CIE, To : G-2 (CIS), : Date : 6 February
 1948」と、表題された文書のコピーを提供された。
  江藤氏は、この文書について・・、
  1948年(昭和23年)2月6日付で、CI&E(民間情報
 教育局)からG-2(CIS・参謀第2部民間諜報局)宛
 てに発せられたGHQの内部文書であると明らかにした。
.
1960年1月19日、新日米安保条約が発効した。
  日米安保条約は、1951年9月8日の日本との平和条約と
 同日にアメリカと署名された。
  そして、1960年1月19日に、日本とアメリカとの間の相
 互協力及び安全保障条約(新日米安保条約)が発効した。
  これによって、先の日米安保条約は失効した。
  ハンス・モーゲンソーの言葉・・、
  「同盟は、両国が共に強くなければ維持されない」。
  (参考)ハンス・モーゲンソー:1904年~1980年、ド
     イツ出身の国際政治学者。シカゴ大学教授。
  日米は、白昼夢(はくちゅうむ。真昼に夢を見ている
 ような、非現実的な空想)の様な同盟関係なのである。
  日本は、モーゲンソーの言う通り、今以上のしっかり
 した防衛力を構築しなければならない。
  そして・・、日米安保条約には・・、
  「日本が攻撃にさらされた場合、自国(アメリカ)を
 犠牲にしてまで、日本を守らなければならない」といっ
 た具体的な取り決めは無い・・、
  マクジョージ・バンディは・・、
  「アメリカの大統領は、たった一発の核弾頭が、アメ
 リカのどこかの都市に撃ち込まれる可能性を想像するだ
 けで、足がすくんで核戦争から逃げ出す」と言っている。
  (参考)マクジョージ・バンディ:1919年~1996年、
     アメリカの政治学者。ハーバード大学教授。
      ケネディ政権、ジョンソン政権の国家安全保
     障担当大統領補佐官。
  ハンティントンや、キッシンジャーや、マクジョージ・
 バンディは・・、
  「アメリカの政治家が、同盟国に対する核攻撃(核恫
 喝)に報復するため、核戦争を実行することなどあり得
 ない」・・と言っている。
.
1970年代、ソ連のモスクワの日本大使館に勤務していた日
 本の外交官が、ハニー・トラップに引っ掛かった。
  日本の重大な情報がソ連に盗まれた。
  これと付随して外国の情報も盗まれた。
  日本の大使館の電信官が狙われた。
  ソ連の秘密情報機関のKGBの仕業だった。
  この様に、日本の大使館の電信官が狙われる事件は、
 上海でも起きていて、
  この時は、この情報流出していた外交官は自殺した。
  このモスクワの場合は、この外交官が、東京の本省勤
 務になっても続いた。
  「ミーシャ」というコード・ネームが付けられた。
  本省勤務になった故、より重要ポストにつけられ、よ
 り重要な情報を扱った。
  ソ連のKGBは、KGB東京支局に、東京駐在のKG
 Bに、この「ミーシャ」専従として情報を奪う担当官を
 何人も付けた。
  この頃は、「ミーシャ」の名も「ナザール」に変えら
 れた。
  「ナザール」は、ソ連の最高級の監視と、運用体制が
 築かれ、おいしい情報が、長い期間、奪われ続けた。
  「ナザール」と名付けられた日本の外交官は、甘い「
 ハニー・トラップ」の他に、「大金」も報酬として与え
 られた。
  東京本省から、全世界の在外公館に出される情報、そ
 して、日本へ世界中から集まってくる情報の「ほとんど
 すべて」が、ソ連は奪う事が出来た。
  日本の暗号システムの情報もソ連へ奪われていた。
  「ナザール」の情報は、最も美味しい情報で、常に、
 ソ連・クレムリンのトップにまで伝えられ、報告された。
  この日本の外務省の大汚点は、ソ連KGBの歴史でも、
 最上級の成功事例とされている。
  特に、ソ連が美味しかった情報は、日米間に行き来す
 る極秘情報だった。
  ワシントンの日本大使館から、東京の本省へ送られる
 情報などだった。
  アメリカ高官の情報や米ソ関係情報、NATO関係の
 情報などが、ソ連へ奪われた。
  この大切な情報流出が止まったのは、お粗末な事に、
 偶然のことだった。
  日本は、それまで全く気付いていなかった。
  1982年に、ソ連KGB所属員が亡命したから、この事
 が分かったのだった。
  この1982年に、ソ連KGBの元少佐が、アメリカへ亡
 命して起きた「レフチェンコ事件」が起きた。
  アメリカ議会で証言し、多数の日本人エージェント(
 国家の秘密業務で働く者。スパイ)を使って政治工作を
 している実態を暴露した。
  この男は、レフチェンコは、1979年に、アメリカに亡
 命した。
  日本の被害も甚大だったが、世界各国へ及ぼした被害
 も甚大だった。
  世界は、「日本に対しては機密情報は流せない」とな
 った。
  日本外交が、「つんぼ桟敷」に置かれることになった。
  そしてまた、ソ連KGBの対外情報局文書課長が、イ
 ギリスへ亡命した。
  名は「ミトローヒン」。
  彼は、ソ連の抑圧体制に怒りを持った。
  また、共産主義の根源的な不道徳性に怒りを持った。
  彼は、、KGB本部の機密文書を少しづつ持ち出し、
 自宅に蓄積し、その文書とともに、亡命した。
  文書の量は、トラック1台分あったという。
  このミトローヒン文書が、1999年に出版された。
  この「ミトローヒン文書、第一巻」で、アメリカと西
 ヨーロッパをターゲットとしたソ連の工作活動が明るみ
 に出た。
  西側世界は、大騒ぎになった。
  そして、2005年9月に、「ミトローヒン文書、第二巻」
 が出版された。
  ここに、日本を扱った章に、KGBの対日工作の事例
 の数々が具体的に書かれていた。
  ここに「ミーシャ」の事が、事例として描かれていた。
  ミトローヒンは、2004年に死去した。
.
1985年、スパイ防止法が廃案となる。
  この年に、「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関
 する法律案」が・・廃案となった。
  中国は、「スリーパーの達人」だから注意を要する。
  スリーパーとは「ヒューミント」とも言い、潜伏スパ
 イのこと。
  軍人や官僚などが狙われる。
  息子にも引き継ぐという「超・長期間」に渡って任務
 に就く。
  日本は、まったくと言ってよいほど、このジャンルが
 弱い。
  相手の国、ターゲットの国民を「スリーパー」とする
 が、杉原千畝の様に、日本人を送り込むこともする。
  杉原千畝は、ロシア人女性を妻に迎え、情報収集に努
 めたが、
  そして、ロシアから入国禁止処置を取られたが、
  杉原千畝の結婚した「ロシア人女性」は「二重スパイ」
 だったという話がある。
  逆に、杉原千畝が、スパイされていたという。
  今の日本には、強力な「スパイ防止法」が必要。
  (参考)国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する
     法律案(こっかひみつにかかるスパイこういと
     うのぼうしにかんするほうりつあん)は、
      1985年の第102回国会で、自由民主党所属議員
     により、衆議院に議員立法として提出されたが、
      第103回国会で審議未了廃案となった法律案。
      通称「スパイ防止法案」。
  現在、日本では、スパイ防止法のような、スパイ活動
 そのものを取り締まる法律が存在しない。
  そのため、ボガチョンコフ事件のような、スパイ活動
 事件を取り締まることができない状況にある。
  (参考)ボガチョンコフ事件は・・、
      ロシア連邦の情報機関であるロシア連邦軍参
     謀本部情報部(GRU)の工作官が、日本の海
     上自衛隊三佐に対してスパイ活動を行った事件
     で・・、
      ロシア情報の専門家であったH三佐は「とわ
     だ」の船務長等を務めてきたが、息子の看病の
     為に陸上勤務を希望し、呉第一潜水艦群司令部
     に移った後、1997年から防衛大学校の総合安全
     保障研究科(大学院)に所属し、ソ連海軍に関
     する研究を行っていた。
      そのような中、1999年1月に、防衛研究所が
     開いた「安全保障国際シンポジウム」の場でロ
     シア海軍大佐のビクトル・ボガチョンコフ武官
     は、H三佐に接触を図った。
      ボガチョンコフは、Hに寄り添うことから始
     めた。
      Hが、宗教へ入信すると共に祈ったり、家族
     旅行を支援したりして親密な関係を築いていっ
     た。
      更に、息子の葬儀には不祝儀を送り、共に涙
     を流した。
      打ちひしがれたHは、次第にボガチョンコフ
     と過ごす時間に安らぎを覚えるようになってい
     ったという。
      こうしてHは、段々とボガチョンコフに頼み
     に応じて自衛隊の書類や教本を渡すようになっ
     ていった。
  日本のスパイ防止法の制定賛成派は、この現状を、「
 スパイ天国」と揶揄する。
  スパイの黒幕は、ほとんどの場合、大使館の書記官や、
 駐在武官、つまり、外交特権保持者なので、逮捕はでき
 ず、可能なのはペルソナ・ノン・グラータ通告で「退去」
 「帰国お願い」をすることだけ・・、
  さらに、対象は、ロシア・中国などの「仮想敵国」の
 みで、中央情報局やアメリカ軍の情報部、イギリス秘密
 情報部など友好国の活動は一切咎められない。
  (一部、ウィキペディアを参考にした)
.
2001年1月20日、反日親中の大統領であるジョージ・W・
 ブッシュ(子)が大統領になった。
  アメリカ大統領には、明確に、反日親中である大統領
 が、実に、多い。
  以下の、7氏は、確実に、反日親中・・、
  第28代、ウッドロウ・ウィルソン、
      民主党(1913年~1921年)
  第32代、フランクリン・ルーズベルト、
      民主党(1933年~1945年)
  第37代、リチャード・ニクソン、
      共和党(1969年~1974年)
  第39代、ジミー・カーター、
      民主党(1977年~1981年)
  第41代、ジョージ・H・W・ブッシュ(父)
      共和党(1989年~1993年)
  第42代、ビル・クリントン、
      民主党(1993年~2001年)
  第43代、ジョージ・W・ブッシュ(子)
      共和党(2001年~2009年)
  以上の大統領は、明確な反日親中の大統領だった。
  中国が、ここまで経済的に大きくなったのも、また、
 軍事的にも大きくなったのも、これ等の大統領の政策が
 大きく影響している。
  アメリカは、まずいと見れば、ハンティントンの言葉、
 「さっさと西半球に引き上げてしまえばよい」の様に、
  西半球へと引き上げるだろう・・、
  日本は、当然、引き上げる訳にいかないから・・アメ
 リカの去ったあとの東アジアに取り残されるだろう。
  国を守ることを疎(おろそ)かにしていると・・日本
 は消滅するだろう・・バンドワゴンは長続きしないだろ
 う・・、
  (参考)反日親中:日本に不利に、そして、敵対する
     政策を採り・・、
      そして、その逆に、中国に対しては有利に処
     し、そして、融和的な政策を採ること。
.
2010年、黒孩子(黑孩子、ヘイハイツ、ヘイハイズ)、ま
 たは、黒戸(黑户、ヘイフー)とは・・、
  中華人民共和国において、一人っ子政策に反して生ま
 れたために、戸籍を持つことができない子供のこと。
  この様な子供が、『億の人数(数千万から数億人)』
 が居るという。
  2010年に、中国国家統計局が行った人口調査では、戸
 籍を持たない人の数が総人口のおよそ1%にあたる約1300
 万人に及び、その大半が黒孩子だとみられている。
  俗称として闇っ子(やみっこ)という表現があり、一
 部報道では、この表現が用いられることもある。
  この言葉における黒は「闇」という意味で、これは政
 府の視点による言葉。
.
2017年9月3日、今まで、中国は、パキスタンを経由して、
 核技術とミサイル技術を、北朝鮮に譲渡して来た。
  そして、今日、2017年9月3日、北朝鮮は、核実験を行
 い、ICBM(大陸間弾道弾)へ核の搭載技術を完全に
 獲得したと発表した。
  技術を買うお客さんの北朝鮮の核開発を、開発しない
 ようにと、中国がする訳はなかった。
  中国自身が、北朝鮮へ核技術を渡しているのだから・・、
  中国が、恐れているのは、北朝鮮が、アメリカの勢力
 圏に入ること・・
  だから、中国は、北朝鮮に核を持たせた。
  「統一された朝鮮半島が、アメリカの勢力圏に組み入
 れられる事」・・これが、中国は怖いことで・・、
  そうであるから、
  「北朝鮮に核を持たせて、独立性を高めて、独立を維
 持させておきたい」と考えた。
  北朝鮮が、アメリカの勢力圏に入ったら、北朝鮮と中
 国の国境で、アメリカ勢力圏と接する事になってしまう
 という中国。
  日本が、韓国が、北朝鮮に飲み込まれて、38度線が、
 対馬海峡になることを恐れているのと同じである。
  中国にとっての理想は・・
  北朝鮮の独立性が保たれて居てくれれば、中国は、地
 政学的に有利になり、また、安全となる・・である。
  北朝鮮は、すでに、日本を直撃する弾道ミサイルを約
 300基所有している。
  核弾道のミサイル搭載技術は、2017年時点で、持って
 いるだろうと予測されていた(2017年9月3日、核実験が
 成功した模様)。
  枕を高くして寝ていられる日本ではなくなっている。
  国防をもっと真剣に考えなければいけない!
  緊急事態なのである!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-09-05 05:36 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)550E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)

題:(増補版)550E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年、その他:つづき
・11月24日、民法・商法施行延期に関する法律が公布され
 た。
  1889年(明治22年)から1892年(明治25年)の日本に
 おいて、
  旧民法(明治23年法律第28号、第98号)の施行を延期
 するか、または、断行するかを巡り、論争が展開された
 (民法典論争)。
  延期派は、1890年の旧民法・商法は、不平等条約改正
 を急ぐあまり、帝国議会開設前に編纂を完了してしまい、
 十分な審議が尽くされなかったとした。
  そして、延期派は、様々な批判をした。
  1889年(明治22年)5月の公布前に、イギリス法系の
 (旧)東京大学法学部出身者で組織される法学士会は、
 春季総会において、『法典編纂ニ関スル意見書』を発表
 した。
  そして、「拙速な法典編纂を改めよ」とした。
  また、さしあたりの緊急に必要のある事項に限って単
 行法として施行するにとどめ、そして、後日に、十分な
 審議を経た上で包括的な法典を完成させるべきだとした。
  そして、これを、内閣や枢密院に働きかけることを議
 決した。
  この意見書や議決の影響で、民法や商法の施行をめぐ
 って議論が活発化した。
  これが、民法典論争(商法も含む)のきっかけとなっ
 た。
  これに対する施行断行派の旧民法の編纂者の磯部四郎
 は、論文『法理精華ヲ読ム』を発表し、施行断行を訴え
 た。
  また、施行断行派のものとして井上操の『法律編纂ノ
 可否』があり、
  施行延期派のものとして、増島六一郎の『法学士会ノ
 意見ヲ論ズ』、江木衷の『民法草案財産編批評』などが
 ある。
  井上操は、関西法律学校の創設者であり、磯部と同じ
 くフランス法系の司法省法学校の出身であった。
  一方、開成学校の増島と、英吉利法律学校の創設者で
 ある江木は、(旧)東大法学部の出身であり、いずれも、
 イギリス法系の学校であった。
  1890年(明治23年)11月、第1回帝国議会が開かれ、産
 業界から商法の施行が早すぎ、対応がとれないとの理由
 で「商法実施延期請願書」が出された。
  すると、帝国議会は、1891年(明治24年)1月1日に施
 行予定の商法を、民法と同じ1893年(明治26年)1月1日
 施行に延期することを決定した。
  商法の施行延期が決定されたことで、論争はさらに勢
 いを増した。
  施行延期派からは、旧民法が自然法思想に立脚してい
 たことに対して、
  法の歴史性・民族性を強調した歴史法学からの批判、
  憲法や税法と矛盾抵触するという批判、
  旧民法の条文が冗長で、無用の条文が多すぎ首尾一貫
 しないとの立法技術上の批判、
  欧米の最先端の理論を研究して民法を制定すべきなの
 に、最新のドイツ民法草案が全く検討されていないとい
 う批判、
  賃借権を債権ではなく物権と構成するのは学理・慣習
 に反するという批判、
  日本古来の家族制度を始めとする日本の伝統・習慣に
 そぐわないという内容に関する批判・・などがなされた。
  日本の慣習・風俗に合わないということから、特に、
 激しく攻撃されたのは、親族法における非嫡出子の準正、
 相続法における限定承認の他、財産法における消滅時効
 等であった。
  (但し、いずれも大きな修正を受けることなく明治民
 法に継承された)。
  同年・1890年、帝国大学の憲法学者・穂積八束が、ド
 イツ留学から帰国すると、論文『民法出デテ忠孝亡ブ』
 を発表し・・、
  「我国ハ祖先教ノ国ナリ。家制ノ郷ナリ。権力ト法ト
 ハ家ニ生マレタリ」
  「家長権ノ神聖ニシテ犯スベカラザルハ祖先ノ霊ノ神
 聖ニシテ犯スベカラザルヲ以ッテナリ」・・と説き、
  法による権利義務関係を否定し、日本伝統の家父長制
 度を否定する婚姻を基調とした家族法を批判した。
  この論文は、そのタイトルのため、最も注目を集め、
 民法典論争の象徴ともいえる論文となった。
  施行を翌年に控えた1892年(明治25年)、法典論争は
 ピークに達した。
  論争は、法律論にとどまらず、資本主義経済の矛盾の
 問題、国家思想や国体の位置づけなどにも及び、商法典
 論争と相まって一種の政治対立の様相さえ呈するように
 なった。
  そして、同年・1892年5月、第3回帝国議会において、
 民法典論争は、政治的な決着がはかられた。
  貴族院議員・村田保によって、民法商法施行延期法案
 が貴族院に出された。
  断行派議員と延期派議員との間でも激しい論戦が繰り
 広げられた。
  第二読会において、延期派の発議により、原案に「但
 し、修正を終りたるものは本文期限内と雖(いえど)も
 之を断行することを得」とする但書を加えた上で、圧倒
 的賛成多数で、貴族院を通過させた。
  むしろ、財産法こそ問題であると説く富井政章の演説
 が大きく寄与したとも伝えられている。
  衆議院では、妥協案として、断行派から家族法部分の
 みを施行停止とし、財産法については断行するという修
 正案が出されたが、原案通りの延期論が賛成多数で可決
 するに至り、ここに民法典論争は決着した。
  その後、施行延期派から、富井に加え穂積陳重(穂積
 八束の兄)、施行断行派から梅謙次郎という3人の帝国大
 学教授が、法典調査会の委員に選任され、
  第一編から第三編の財産法については、旧民法の根本
 的修正を基本方針として、ドイツ民法の草案や、他にも
 「30か国に及ぶ他の国の民法をも参照して」、現行の民
 法(明治29年(1896年)法律第89号)が起草され、
  1898年(明治31年)になって施行された。
  なお、第四編・第五編の親族法・相続法については、
 外国人に対しては適用が無い為、不平等条約の交渉に支
 障が少ないということで、後日、別個に議会に提出して
 成立するという形を採った(明治31年法律第9号)。
・11月25日、千島艦事件(ちしまかんじけん)がおきた(
 11月30日説あり)
  これは、日本軍艦の沈没の補償をめぐり日英間で紛争
 した事件だった。
  1892年11月25日、水雷砲艦・千島(750トン)が、フラン
 スで建造され、フランスから神戸へ回航中、瀬戸内海(
 愛媛・松山沖)で、イギリス汽船ラベンナ号と衝突して
 沈没した。
  乗員74名が殉職した。
  日本政府は、イギリス船に不当航海の過失があったと
 して、翌年・1893年5月、その所属会社のP&O汽船会社
 を相手どって、85万円の損害賠償を要求して、横浜のイ
 ギリス領事法廷に出訴した。
  それに対して、イギリスの会社側は、逆に、10万円の
 損害賠償を求めて反訴した。
  第一審は、会社側の要求を不当として、反訴を却下し
 た。
  そのため、会社側は、上海の領事法廷に控訴した。
  1893年10月、裁判長は、第一審判決を破棄し、会社側
 を支持した。
  日本の世論は、その不当性と、日本政府の処置を非難
 して湧いた。
  反政府の諸派は、議会内外でこれを利用し、第二次伊
 藤博文内閣が推進する条約改正交渉に反対し、対外硬運
 動を展開した。
  1893年12月、衆議院は解散となった。
  日本政府は、さらに、ロンドンのイギリス枢密院に上
 告した。
  1895年(明治28年)7月、イギリス枢密院が、上海領事
 法廷の判決を破棄し、横浜の領事判決を復活した。
  本訴は、再び、横浜領事庁で開かれることになった。
  そして、ようやく、3年後の1895年9月に至り、和解が
 成立した。
  会社が、訴訟費用を持つほか、英貨1万ポンド(邦貨9
 万円余円)を支払って・・事件は決着した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:NHKなどのマス・メディアは偏向している。
    国を危うくしている。
.
1937年8月、上海での戦いが拡大して行った。
  7月末に日本の将兵が殺害される「大山事件」が発生す
 るなど、不穏な状況が拡大していた。
  卑劣な事に、この様な事件が相次いでいた。
  8月13日には、中国軍が攻撃を開始した。
  第二次上海事変と言われるこの戦いも、中国軍の攻撃
 から始まった。
  そしてまた、8月14日には、中国空軍は、上海の爆撃も
 実施した。
  日本軍基地だけではなく、一般市民の居住している租
 界地も爆撃され、一般市民が死んだ・・
  また、歓楽街も爆撃された。
  日本軍は、対応せざるを得ないとし、膺懲(ようちょ
 う、こらしめること)するとした。
  「もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲」
  この日・1937年8月15日、中国軍の国民政府軍の蒋介石
 は、全面戦争の対日抗戦総動員令を発令した。
  この中国の国民政府軍は、『アメリカの支援』を受け
 て、非常に攻撃的となっていた、好戦的になっていた。
  大軍で上海を包囲した・・、
  また、支援された豊富な軍需物資を持った上海包囲軍
 だった。
  (大量の物資で支援するから日本と戦いなさいという
 様な状況だった)
  天皇陛下は、この時に限らず、常に、「避戦」の考え
 であられた。
  常に、「戦争の不拡大」を口にして居られた。
  この時もそうで、戦局の早期解決を口にして居られた。
  しかし、状況は、天皇陛下の御心の様には進展しなか
 った。
  日本の軍部には「戦争不拡大派」と、「拡大派」があ
 った。
  天皇陛下の御心を受けた「不拡大派」の者たちも居た
 が・・、
  この中国の挑発行動を受け、南京への進軍を是とする、
 支那軍を懲らしめるとする派(進軍派)が居た。
  ここで、大きく判断を誤らせたのがNHKはじめ新聞
 などのマス・メディアの存在と、その論調だった。
  マス・メディアは膺懲論で世論を構成し国民を煽った。
  マス・メディアに煽られた世論は熱狂し、進軍派を勢
 いづかせた。
  軍部の戦争不拡大方針の不拡大派の意見は、小さく聞
 こえる状況となった。
  NHKはじめ新聞などのマス・メディアや国民は熱狂して
 南京進軍を支持した。
  さも、今・現代(2017年)のテレビの昼のニュース・
 バラエティ番組のごとく世論を煽った。
  毎日、毎日、洗脳的に政権批判をやって・・視聴率が
 取れるんだからと・・自分の懐具合しか考えない輩たち
 の放送が続くという2017年の煽りの様だった・・
  国民は、そのマス・メディアの影響下にさらされて、
 進軍に興奮した。
  軍部の不拡大派の声は、もはや、届かなくなっていた。
  攻撃的な、そして、好戦的な中国があったとはいえ、
 この様に、国の方針が冷静に考えられない状況の中で、
 天皇陛下のお声も耳に入らなくなっていた。
  1937年12月には、日本軍は中国軍を追撃し、中国・国
 民政府軍の首都・南京を目指した。
  これは、中国軍の誘いの作戦だったのかもしれない。
  中国軍は、中国奥地へ逃げる(撤退)する手をよく使
 う。
.
2013年4月9日、反日放送ばかりをするNHK。
  今・現代、中国が、膨大な金を使って世界中にプロパ
 ガンダをしていると言うのに、日本の公共放送のNHK
 は、その逆で、「日本を売ってばかりいる」。
  反日行動をとっているNHKとなっている。
  NHKのインターネットサイト「NHK映像サイトみ
 ちしる」で・・、
  NHKは、「日本海」の表記に、日本政府や日本国民
 の見解と異なる「東海」を併記した。
  NHKは、日本の政府や国民の意識と反する、韓国が、
 急に主張し始めた表記を・・、
  「NHKよ! 韓国のメディアですか?」と言いたく
 なる様な、また、疑いたくなる様な行為を行なった。
  常識があるなら、『やってはいけない』この様な事を、
 NHKはよくやる。
  NHKは、言い訳を言っているが・・、放送でも「やっ
 てしまえば得」という『やり得的な事』を、よくやるN
 HK」となっている。
  時間は戻せない、放送してしまった放送は消せないと
 いう・・放送してしまえば、こっちのものだ的なことを、
 繰り返すNHKとなっている(無反省の確信犯)
  NHKは、トンチンカンな釈明をした。
  「グーグルから提供されたので(良いと思った)、悪
 意は無い」・・だった。
  しかし、しかし、その「グーグルには、その様な表記
 はなかった」。
  また、NHKは、「竹島」や「尖閣諸島」の『日本の
 表記を消す』という事も、やっている。
  『日本の主張点を消す行為』をしている。
  ここまでやるNHKとなっている。
  悪意あるNHKとなっている。
  この件は、既に、1年前の2012年4月に、国際水路機関
 (IHO)は、「日本海」の単独での呼称と決めている
 のだ。
  この事は、NHKも知っている訳だ。
  「従来の日本海のままにする」ことを決めている。
  もう一度言うが・・NHKも知っている訳だ。
  国際水路機関は、世界の海図や海、海峡の名称などを
 調整する重要な機関である。
  放送の機関として、「重要な名称」のうちでも最重要
 なこと・・真っ先にマークしなければならないのに・・
 NHKは、こんな事ばかりしている。
  NHKは、インターネットの場で金を取らないこと!
  NHKは、反日報道機関である・・尖閣諸島の時もそ
 うであるが、「日本の領土である竹島」を表現するのに、
 「日本と韓国が領土権を主張する竹島」と、わざわざ、
 竹島の言葉の前に、変な言葉を付けて言っている。
  ならば、NHKを、「反日的表現をするNHK」と言
 ってもらいたい。
  韓国は、小学生の教科書に、韓国のものだと書き、洗
 脳教育をし、刷り込みしているのにである。
  歌まで作って歌い、クラブ活動までさせている。
  この件について、日本の国民の方々は、NHKへクレ
 ームを殺到させた。
  NHKは、やっと、この抗議の嵐に・・「日本の島根
 県の竹島」と言い換えた。
  この様な体質のNHKなのだ。
  だが、NHKという体質は、ほとぼりが冷めると元に
 戻すから、注意を要する。
.
2017年7月28日、NHKのネット配信について・・
  NHKに、高市早苗総務相が、クギをさした・・
 「ネットは補完業務である」と。
  (以下、産経ニュースを参考にした)
  高市早苗総務相は28日の閣議後の記者会見で、テレ
 ビ番組のインターネット常時同時配信を計画するNHK
 の上田良一会長に宛て、
  「放送の補完的な位置づけとすること」などを要望し
 た文書を送ったと明らかにした。
  ネット配信を「本来業務」として扱おうとする動きを
 牽制(けんせい)した。
  高市総務相は、上田会長の諮問機関が出した受信料に
 関する答申案について・・
  「(視聴者に)利益を還元するという観点がない」な
 どと批判した(まったく、その通り)。
  総務省は、NHKへの不信感を強めており、NHKが
 目指す平成31年からのネット常時同時配信は不透明さ
 を増している。
  要望は・・、
  (1)ネット配信を補完的な位置づけとし、具体的な
     ニーズを明確化しなさい。
  (2)既存の業務全体について公共放送として適当か
     検討しなさい。
  (3)子会社のあり方についての抜本的な改革をしな
     さい・・以上の3点。
  高市総務相は「3要件を満たすことで、議論の環境が
 整う」と述べた。
  NHK幹部は、今月の総務省での会合で、「(ネット
 配信は)将来的には本来業務」と発言した。
  民放各社が猛反発したため、上田会長は産経新聞など
 とのインタビューで「あくまで幹は放送だ」と述べるな
 ど「火消し」に動いていた。
  一方、上田会長の(お手盛りの)諮問機関は、ネット
 視聴者からの受信料徴収が適当としたが、3要件を満た
 せなければ、常時同時配信実現への道筋がさらに険しく
 なるのは必至。
  高市総務相は、ネット常時同時配信を可能にする放送
 法改正について、「現段階では議論が煮詰まっていない」
 と強調した(永久に煮詰まるな!)。
  ・・ここで・・
  「庶民の声」
  ・NHKの受信料は廃止にしてもらいたい。
  ・NHKは、公共放送としての資質を欠く点が多い。
  ・NHKの公共放送としての立場は適当でなく、公共
   放送としての立場を取り消してもらいたい。
  ・NHKは、高給取りで、自分たちばかり良い思いを
   していて、まったく視聴者還元をしていない。
  ・NHKは、自分たちの事ばかり考えている放送局だ。
  ・ネットにまでNHKが進出すると、NHKアレルギ
   ーの人たちの逃げ場が無くなる。
   NHKの居ないネット社会で安心して居たい。
  ・NHKは、膨大な小会社を持っていて、利益を配っ
   ている・・そして、支配力を誇示している。
   小会社は甘い汁に群がっている(孫会社・ひ孫会社
   まで群がる)
  ・NHKは、働かない職員が多い・・1年に何日働いて
   いるのと聞きたいくらいだ。
  ・NHKに都合の良い諮問をする機関を作って「お手
   盛りをしている」。
  ・NHKは解体してもらいたい。
  ・NHKは、民間放送局にNHKの映像などを提供し
   て、便宜を図って恩を売っている、そして、支配力
   を構築しようとしている。
   だから、民間放送局はNHKにゴマすりしている。
   NHKを批判する民間放送局はない。
   民間の本音は、NHKの見方はしたくない。
  ・NHKは、公共放送の枠を吐き出し過ぎだ。
  ・NHKの民営化で出来る部分を探れ。
  ・NHKの巨大な権力を二分せよ。「NHK東京」と
   「NHK大阪」の様な二極体制にせよ。
  ・NHK受信料は1/3にせよ。それでできる訳だ。
  ・NHKは、分割民営化せよ。
  ・NHKは、公益部分とそれ以外で割れ。
  ・NHKは、最近、特に、偏向報道が酷い。
  ・NHKの酷い報道は、「障害者殺害犯が、犯行前に
   トランプのスピーチを聞いて影響された」とNHK
   が報道するように、トランプ下ろしをするNHKで、
   酷い反トランプの報道をした。
  ・NHKは暴走している。
  ・NHKは、でかいビル建てて、身内還元に精を出し
   ている。
  ・NHKは、電波を独占している割に、くそな番組を
   流して強制的に受信料を取っている。
  ・NHKはスクランブルをせよ!
  ・NHKはマスゴミ化している。
  ・NHKの高給を貰っているアナウンサーが物価の事
   を言うな。高くて買えないとか・・。
  ・傲慢なNHKの金城湯地(きんじょうとうち、非常
   に守備がかたい城)を何とかしてくれ!
  ・NHKが過去に制作した全作品は国民の所有権と決
   めよ。
   NHK職員が勝手に処分するな。
   また、都合の悪いものを処分している。
  ・NHKの最上階は個人宅はおかしい。
  ・NHKの金が入っているNHKの小会社が電通に乗
   っ取られている。
  ・NHKは、北朝鮮からニュースを購入して金を払っ
   ている。そして、それがミサイル資金になっている。
  ・NHKの作り直しをせよ!
  ・NHKは、中国をよいしょする番組制作姿勢を取っ
   ている。
  ・NHKは間接的に電通に支配されている。
  ・NHKの番組制作の委託を受けている「NHKエ
   ンタープライズ」は「総合ビジョン」に番組制作を
   丸投げしている。孫請けをしている。
   「総合ビジョン」の株主は電通とNHKという関係。
  ・NHKは、電通の利益供給団体となっている。
  ・電通の利益の一部がNHK役員の報酬となっている。
  ・NHKは中立であるどころか左寄りである。これで
   は、公共放送ではない。
  ・NHK職員は、受信料でボロ儲け、平均年収1800万
   円。
  ・NHKの報道は片寄った偏向のし過ぎだ。
  ・NHKを初め、テレビの作られた報道などで、テレ
   ビを見る人がなくなっている。
  ・なぜ、NHKは、倒閣運動をするのだ。
  ・NHKは、権力に溺れている、調子に乗っている。
   国の為にならないNHK。勝手な判断で偏向報道し
   ている。そして、反日になっている。
  ・NHKスペシャルの反日姿勢はひどい。
  ・NHKは、はやぶさが帰って来た時に放送しなかっ
   た。日本の技術の大成功を放送しなかった。完全に
   無視した。
  ・NHKは、偏った考え方で取材し、放送するから、
   日本兵の悲惨さだけが出て、8月になると、日本を結
   果的に貶めている。「悪かった」と言う兵士の話だ
   けの話で編集して放送する。
  ・なぜ!NHKは、シナ人による日本人虐殺の非道や、
   ロシア人による日本人に対する悪逆非道を放送しな
   いのか?
  ・NHKは、731部隊が犯罪を行ったが如き番組を
   流したが、NHKは、どうしてシナ人らの悪行三昧
   を番組化しないのか?
   そんなに日本を貶めたいのですか?
   貶めて、一体何がしたいのですか?
  ・NHK好みの目的の証言だけで編集する。だから反
   日的に作られる。それ以外はカットする。
  ・NHKは、「日本は正しい事をしようとした」とい
   う証言なんかはまったく放送しない。すべてカット
   している。「アジアの独立を日本が助けた」なども
   カットする。担当者・当事者が漏らしている。
  ・NHKは、戦争を煽ったことに口をつぐんでいる。
  ・NHKは、中国や韓国の言い分だけをズーット繰り
   返して放送を行っている、慰安婦、南京は中国・韓
   国の言い分ばかり、だから公共放送ではない。
  ・NHKは無駄遣いが多すぎる。
  ・NHKの大リーグ放送は、アメリカに金を恵んでい
   る行為だ。
  ・NHKはWOWOW方式のスクランブルにせよ。
  ・NHKの見られないテレビも売るシステムにせよ。
   NHKなんか見たくない人の選択肢も作れ。
  ・NHKの公平性を考える議員の会ができて50名くら
   いが集まった。代理を入れたら100名近くになった。
   この様に問題になるくらい公平性が無い放送局とな
   っている。
  ・NHKスペシャル、ジャパンデビューはひどい番組、
   偏向番組、日本を貶める番組。
  ・NHKは、台湾の方々を反日にしようとした。取材
   も偏向している。公平性が無い。それが事実のよう
   に錯覚させている。
  ・NHKの偏向番組によって損害を受けた国民のその
   損害を、NHKはその損害をカバーし補償するよう
   にせよ。
   NHKを訴えられるようなシステムを構築せよ。
  ・NHKが、反日的という事はズーット続いている。
   その改善策の・・
  (1)権力が巨大すぎるからだ。分割せよ。
  (2)NHKへのクレームを受ける専用窓口を行政機
    関に設ける。NHKは、クレームの取り扱いを軽
    視し、捨てている、廃棄している。
.
2017年、国民が、NHKを訴える権利を行使できるような
 社会体制の構築を望む。
  NHKへ、いくら悪い所を指摘しても直らない。
  そこで、思い至ったのが「司法へ訴えたい」という気
 持ちである。
  司法へ訴える方策を取りたいのだが、ここでネックに
 なるのが、「原告の立証責任」。
  NHKの放送を見た結果において、「酷いNHKの番
 組だった」と思う訳で、NHKを見た後の結果論だけと
 なってしまう。
  前もって録画などしていない。
  そして、投書欄にいくら抗議しても直らないNHKに
 対して、司法に訴えるにしても、前記した原告の立証責
 任がある。
  そこで、考え至ったのが、図書館施設が、NHKの放
 送内容の記録を保存するようにする。
  図書館が、書籍の保存・保管をする様に、放送映像な
 ども保存・保管するようにする。
  図書館が建てられているその位置で、その位置での受
 信記録を残すようにする。
  今は、非常にコンパクトに記録を保存できる機器があ
 るので出来ると考えている。
  そして、国民が閲覧もできるようにし、
  また、前記した国民の訴える権利を行使するときにも、
 その立証責任の資料提供もできる図書館としたい。
  図書館の証明付きでその資料が得られるようにしたい。
  国民が費用負担して、図書館の発行した立証責任資料
 でもって提訴できるようにする。
  NHKへ、抗議を重ねたが、まったく改まらないので、
 NHKの放送を見ることが出来なくなるというNHKに
 対して「忌避アレルギー」が出るようになった。
  NHKの放送が普通の状態で見られなくなった。
  この様にひどいNHKなのである。
  大きく番組全体で日本を貶める場合もあるが、ジャブ
 の様にあちこちでちょこちょこと日本を貶めることをよ
 くやる。
  今、前記した様に、NHKへの抗議のシステムは機能
 してない。
  どうでもよいことは「NHKは、直すかもしれないが」、、
 「NHKイデオロギー」と言うべき核心部分は、絶対に
 NHKは直さない。
  この部分こそが、NHKを直して行かなければならな
 い所であって、その1つが「NHKは、よく日本を貶める」。
  この様な番組が非常に多いNHKとなっている、しか
 し、いくら抗議をしても直らない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-09-02 05:01 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)549E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)

題:(増補版)549E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年、その他:つづき
・清国の不穏な動きと軍拡に、日清戦争に備え軍備を進め
 た。
 「眠れる獅子」と言われた清国が、着々と軍拡をしてい
 た(今・現代も・・そうだが・・)。
 日本は、長崎で、その軍備の威容を見せつけられ、街に
 出た中国兵は、横柄な態度を見せ、また、横暴な行為を
 した。
 それは、まさに、日本を見下した行為だった。
 しかし、悲しいかな・・弱小の日本は、強い行動にも出
 られなかった。
 議会の野党は、軍事力への予算配分に反対し、また、厳
 しい緊縮財政下にも置かれていた。
※1873年(明治6年)に、日本は、徴兵制となった、しかし、
 まだ、海軍は沿岸警備程度だった・・
 しかし、国策としては国を富ませて、国を守ろうという
 意気に燃えた「富国強兵」策だった。
※1876年(明治9年)~1879年(明治12年)、清国は、日本
 を意識し、300~400トンの砲艦8隻という大量の艦船を
 イギリスから輸入した。
※1878年(明治11年)、日本は、「扶桑」「金剛」「比叡」
 の3艦の甲鉄艦(2284~3777トン)が就役し、艦隊も作っ
 て行った・・が・・、
 排水量は、清国と、ほぼ同等ではあったが、しかし・・
 日本は、旧式艦や木造艦が大半であった。
 この点で、日本は、清国に、大きく劣位にあった。
 日本は、軍艦建造において、失敗艦も作ったりして、財
 政のない中、苦しくも無駄もしていた。
 1881年(明治14年)~1882年(明治15年)に、清国は、
 ドイツに、装甲艦2隻を発注し、
 1885年(明治18年)に、この大艦は到着した、「定遠」
 と「鎮遠」で、どちらも7335トン、30.5センチ砲4門とい
 う立派さで、
 主砲は、艦首方向へ向くという最新技術を持って、射撃
 性能も重視していた。
 また、この後、清国は、急速に艦数を増やした。
 装甲巡洋艦2隻(「来遠」「経遠」)、巡洋艦4隻(「致
 遠」「靖遠」「超勇」「揚威」)を、イギリス・ドイツ
 に発注し、1887年(明治20年)までに就役した・・、
 1888年(明治21年)には、堂々とした北洋艦隊を作り上
 げた。
※1887年(明治20年)から、日本は、砲台建設を本格化し、
 防衛力を高める構築をした。
※1888年(明治21年)に、日本は、イギリスの技術を本格
 的に入れようと決定した・・これが、日清戦争に間に合
 った。
※1891年(明治24年)7月に、清国の北洋艦隊の主力艦6隻
 が、日本の品川港に入港し、その大きな格差を見せつけ・・
 そして、威嚇した。
※1893年(明治26年)4月~7月に、日本の参謀次長の川上
 次長が、清国の軍事状況を偵察した(思ったほどではな
 いという感触を得て帰国した)
 「畏るるに足らざることを確信」・・と、
 しかし、日本の軍関係者に、勝利を確信できるものは居
 なかったようだ・・しかし、日本の偉かったのは、この
 時の日本には、自国軍の力(相手の力と比較して)を冷
 静に見る姿勢・合理的判断があった。
※1894年(明治27年)6月に、山陽鉄道が、広島まで営業運
 転開始し、順次、輸送(出師・すいし)体制が整って行
 った。
※1894年(明治27年)、まだ、軍需生産が不十分な状態で、
 また、海外派兵をして戦えるかという問題があった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国の「天動説」を修正できるのは『強固な日米関係だけ』である。
.
紀元前12世紀、この頃まで、レバノンのピブロスは、地中
 海の東岸で、最も栄えていた。
  この時、エジプトから「パピルス」が、地中海各地に
 輸出され、ギリシャ人は、これを得て文明が栄えた。
.
紀元前814年、カルタゴが築かれた。
  フェニキア人は、シチリア島の対岸に位置するチュニ
 ジア北部に、植民市・カルタゴを築いた。
.
紀元前27年、最初のピラミッドが建てられた。
  レバノンの特産品は「レバノン杉」。
  乾燥地のエジプト、メソポタミアは、森林資源に乏し
 く、神殿や宮殿の建築用材として、このレバノン杉が使
 われ、レバノンから大量に輸入された。
  この意味から、レバノンは、交通の要衝となった。
  紀元前27年に、最初のピラミッドが建てられたが、エ
 ジプトは、この時から、レバノンから木材を買った。
.
354年11月13日、アウグスティヌス(キリスト教神学者)が
 生まれた。
  アウグスティヌスは、教父と呼ばれ、キリスト教徒が
 尊敬するなの人だが、
  「ローマ没落は、異教徒たちの罪だ」と、異教徒のせ
 いにして、罪に落とした。
  このアウグスティヌスが意識した異教徒の『異』につ
 いて・・、
  思考の成熟してない未成熟集団に於いて・・、
  年端(としは)の行かない子たちの様な学級に於いて、
  または、未熟な宗教に於いて、その洗脳の中にいる集
 団に於いて、
  殊更(ことさら)に、「目の前の現存する違いを指摘
 する」、またそして、無用に「指摘される」。
  それは、「いじめともなり」、また、「内政干渉」と
 も言われて・・世に存在する。
  言う方は、「その違いが気になるから、言うのだろう
 が」・・「指摘するのだろうが」・・、
  言われて、指摘された方だって、悪いと思ってやって
 いる訳ではない・・また、持って生まれたものでもある。
  悪い様なことを、ことさら、自らする訳はない。
  しかし、適度に指摘する程度で、その話が、行為が、
 終わるのなら良いが・・また、善き忠告ともなるのだろ
 うが・・、
  程度の悪い虐(いじ)めとなると、その行為は世の害
 となる・・
  それは、しつこい虐(いじ)めになり、
  宗教の違う者たち「異」へ・・「異教徒は殺せ」と、
 キリスト教は教義として決めて、異教徒を殺した。
  このキリスト教の教義の様に、「命まで取れ」と神の
 指示となる。
  洗脳して、されて、悲惨な状況が現出する・・ここに
 至れば事は重大となる。
  「いじめ自殺」や「殺戮行為に対する混乱」へ、そし
 て、「戦争へ至る」・・
  発端は、単なる『違い』・・それを、「容認するか?」
 「口に出すか?」から始まる。
  人類の歴史で、悲しく悲惨な、一番の汚点は・・キリ
 スト教が「肌の色の違い」を気にしたこと・・、
  キリスト教は、「肌に色を持つ人種」を蔑視した・・
  卑劣な「有色人種へのキリスト教の蔑視感の植え付け」
 は、南米での大虐殺を発生させた・・現地からの問い合
 わせに、バチカンは「人ではない」と言った。
  アウグスティヌスも、アフリカのエチオピアの方たち
 へこれをやった。
  このあたりの発端から大虐殺、戦争などなどが、人類
 の歴史に、累々と存在している。
  「個性的だと、おおらかに容認することが出来ない宗
 教・・キリスト教」・・この卑劣な行為で、大きな罪を
 背負った・・多くの方々が抹殺された・・
  「異教徒は殺せ」「魔女は、生かしておいてはならな
 い」・・このキリスト教の教義が、人類を悲しみの歴史
 中に置いて来た・・長く続いた異端審問・魔女裁判・・
  そして、キリスト教裁判所で行われる卑劣な拷問の数々・・、
  今・・一神教のように・・一つにするのだと・・グロ
 ーバリゼーションを洗脳し、ある特定の金持ち組織が儲
 かるシステムを展開し・・世界に定着させようとしてい
 る・・そのシステムで儲けた金をふんだんに使って、世
 界展開をしている・・、
  多様性の良さを理解できなくて、排除している宗教・・
  自然において、多様性が存在し、その調和の中に、豊
 かさが成り立って、人類へ、幸を、幸福を、与えている。
  このことが理解できない宗教・・また、その信仰者た
 ち・・
  違いを認め合い、尊重し合う所から・・人類の豊かさ
 と幸せが始まるという事が・・理解できない・・
  あちこちに生まれ出(いずる)違いある生物・・その
 万物が・・人類の幸せを作っている・・
  キリスト教は、以下の様に教える・・
  聖書のあちこちで、繰り返し説かれ、洗脳的に記述さ
 れている『1例』・・(申命記7章1~2節)
  あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを
 導き入れ、
  多くの国々の民、ヘテびと、ギルガびと、アモリびと、
 カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、および、エブスび
 と、
  すなわち、あなたよりも数多く、また、力のある七つ
 の民を、あなたの前から追い払われる時、
  すなわち、あなたの神、主が、彼らをあなたに渡して、
  これを撃たせられる時は、あなたは、彼らを全く滅ぼ
 さなければならない。
  彼らと何の契約もしてはならない。
  彼らに何のあわれみも示してはならない。
.
1065年、中国で「資治通鑑(しじつがん)」が編纂された。
  「資治通鑑」は、中国北宋の司馬光が、1065年の英宗
 の詔により編纂した。
  編年体の歴史書で、『温公通鑑』『涑水通鑑』ともい
 われ、1084年に成立した(全294巻)
  もとは『通志』といったが、神宗により『資治通鑑』
 と改名され、
  収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・
 趙の自立による戦国時代の始まりから・・、
  959年(後周世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至る
 までの1362年間。
  この書は、王朝時代には、司馬光の名と相まって、高
 い評価が与えられて来て、また、実際の政治を行う上で
 の参考に供すべき書として作られた。
  「貞観政要」などともに、帝王学の書とされて来た。
  また、司馬光当時の史料が散逸したものが少なくない
 ため、貴重な史料とされている。
  この「資治通鑑」を17回も読んだとされる毛沢東は、
 大躍進政策を行ない、約2000万人の農民を餓死させ・・、
  文化大革命で、3000万人以上の知識人や富裕層を死に
 追いやった。
 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150404-00000016-pseven-cn&pos=1
  中国が言っている「南京虐殺」とは、日本人を虐殺し
 た「通州事件」のことではないのか?
.
1535年、敵を殺さない荒木村重が生まれた(~1586、51歳)
  居城は、有岡城で兵庫県伊丹市にある。
  東西0.8キロ、南北1.7キロ。
  織田信長に反旗を翻した武将、黒田官兵衛が、この城
 に幽閉された。
  信長の包囲攻撃に、10ヶ月耐えて落城する。
  その前に、村重は、脱出。
  残された一族らは捉えられ命を絶たれた。
  信長の死後、村重は、豊臣秀吉に茶人として使え、天
 寿をまっとうした。
  一人生き延びた村重の評判は良くない。
  「脱出したのは援軍を求めるための行動」と弁護の声
 もある。
  「降伏した敵を殺さず、命を大事にした稀有な戦国武
 将で、文人としての素養も高かった」と弁護する声も。
.
1920年3月~1920年5月、尼港事件(にこうじけん)で日本
 人が虐殺された。
  ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月~5月にかけて、
 アムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在の
 ニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した。
  赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件で・・、
  ロシア・中国・朝鮮などのパルチザン部隊が、ニコラ
 エフスク住民に対し、略奪・処刑を行うとともに、
  日本軍守備隊に、武器を捨てよと、武器引渡を要求し
 た。
  これに対し、決起した日本軍守備隊を、中国海軍と共
 同で殲滅した。
  そして、さらに、老若男女の別なく数千人の市民をも
 虐殺した。
  殺された住人は、総人口の半分に達し、6,000名を超え、
 日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含ん
 でいた。
  この卑劣な虐殺行為は、国際的な批判を浴びた。
  日本人犠牲者の総数は、判明しているだけで731名に
 のぼり、ほぼ皆殺しにされた。
  また、建築物は、ことごとく破壊され、ニコラエフス
 クは廃墟と化した。
  札幌護国神社などに殉難碑がある。
.
1937年7月29日、日本人が虐殺された通州事件(つうしゅう
 じけん)
  通州(現:北京市通州区)において、中国人部隊が、
 日本軍と日本人居留民を襲撃し、殺害した。
  日本の通州守備隊は、包囲下に置かれ、日本の通州特
 務機関は壊滅した。
  街の中は修羅場で、女性は、子供と言えども、ほとん
 どが強姦されて殺害され、また、朝鮮人慰安婦も殺され
 た。(町で商売していた朝鮮人慰安婦で・・従軍慰安婦
 ではない、朝鮮人の女衒が国の朝鮮に帰って、狩り集め
 て来た女性たち・・)
  (注)女衒(ぜげん)は、若い女性を買い付けて、遊
    郭などで性風俗関係の仕事を強制的にさせる人身
    売買の仲介業で、人買いの一種、多くの朝鮮人・
    女衒が中国などあちこちで商売をしていた。
  そして、この事件の殺され方に於いて、200人以上にお
 よぶ猟奇的な殺害(書くことも躊躇し気後れするが、陰
 部などがえぐり取られるなど陰湿な殺害)が、中国人部
 隊により行われた。
  池は血で赤く染まった。
  通州虐殺事件とも言う。
  また、東京裁判に於いて、弁護団が、この事件の証拠
 を提出して、日本だけを悪いことにしようとする裁判は
 おかしいと、弁護しようとする方針を打ち出し、行動し
 たが、東京裁判の裁判長は不公正にも却下した。
  東京裁判は、明らかな予断(よだん、前もって判決を
 予想し判断すること)のもとに行われた裁判で、不公正
 きわまりない裁判だった。
.
1945年、韓国が、日本を、歴史問題で『嘘をでっち上げ』
 て、日本を貶(おとし)めようとしている・・、
  また、新たに・・、
  日本が、戦争中に、朝鮮人労働者を虐待し、虐殺し、
 奴隷労働をさせたと言い出した(2017年)
  この話が、デッチアゲ話と分かる事実は・・、
  戦争が終わった1945年(昭和20年)に、朝鮮人労働者
 は朝鮮に帰った・・が・・、
  しかし、日本での労働が『非常に恵まれていた』ので、
 大勢の朝鮮人労働者が・・『万単位の大勢の朝鮮人労働
 者が、再び、日本に密入国までしようとした(もう一度、
 その職業に就きたいと・・)』。
  日本の好条件の労働に就きたいと密入国をした。
  この様に、『日本での労働が好待遇であるからこそ、
 再び、日本に密入国しようとしたのであって・・、
  韓国の言い出している話は、『日本を貶めようとする
 だけの作り話』である。
  日本は、韓国人労働者を虐待などしていないし、また、
 虐殺などしていないし、奴隷的な労働もさせていない。
  韓国のやることは、皆、この様に『嘘の話を作り上げ
 ているのであって』、慰安婦の場合も、この様な作り話
 なのである。
  この事について・・
  九州大学の三輪宗弘教授は、朝鮮人労働者の虐待、虐
 殺、奴隷労働が、現代韓国人の作り話であることは、
  1945年(昭和20年)の段階で、一旦朝鮮に帰った労働
 者が、再び、日本に戻ろうとした事実を見れば明らかだ
 と述べた。
  三輪教授は、アメリカ国立公文書館の「Illegal
 Entry of Koreans」という統計データから、1945年(昭
 和20年)段階で、1万人近くの朝鮮人が、日本に密入国し
 ようとして捕まり、送り返されていたことが分かると指
 摘した。
  そして、「奴隷労働や虐殺が行われていたとしたら、
 なぜ、再び、日本に密入国してまで戻ろうとするのか?」
 「説明できない」・・と語る。
  どこの国の方々もそうであるだろうが、厳しい環境か
 ら抜け出せたのなら、もう再び、元の状態に戻ろうとす
 る訳がない。
  そこが、好待遇で、居心地が良かったからこそ、元の
 日本へ密入国しようとした。
  日本の歴史においても、ソ連に、不法に抑留された日
 本人が、帰国したあと、再び、密入国してまでソ連に戻
 ろうとしたであろうか・・絶対にあり得なかった。
  万単位の朝鮮人が、帰国後、再び、日本に戻ろうとし
 たのは、日本での方が豊かに、そして、より平和に暮ら
 せると考えたからで・・、
  奴隷労働や虐殺とは無縁の世界が日本だったというこ
 とだ。
  にも拘らず、なぜ外務省は、日本が朝鮮人労働者を虐
 待したとして、そのことを発信する情報センターを作る
 などと約束したのか?
  なぜ、日本の外務省は、自ら敗北へと転んでいくのか?
  歴史問題で、日本を追及しようとする韓国や中国の悪
 意を日本外務省は認識すべきだ。
  韓国が求める情報センターを設置して強制連行があっ
 たとすることは、慰安婦問題と同じ失政を繰り返すこと
 になる。
  (櫻井よしこ氏のブログを参考にした)
.
2016年8月19日、ケント・ギルバート氏の発言 ‎@KentGilbert01
  インドネシア女性大臣 中国の違法船をだ捕し150隻を
 爆破「遊びでやってる訳じゃない」
   http://temita.jp/twitter/34900  
  やるべきことをやらない日本は、国際法を軽視してい
 るとも言える。
  (説明)2014年に就任したインドネシアの女性大臣・
     スシ・プジアストゥティ海洋水産大臣が、拿捕
     した違法中国船を、次々と爆破し、就任以来150
     隻以上となった。
.
2016年、アメリカ経済は、今後、長期的な低成長モードに
 入り、2016年~2025年頃に、財政危機、通貨危機を引き
 起こす可能性が高い。
  凋落するアメリカに、日本を守る「パワー」は無くな
 り、余力は無くなり、
  反対に、中国が、世界第一位の経済力と軍事力で・・、
 その前の素手(すで、何も持ってない)の日本は、中国
 に手も足も出ず、なすすべなくしているしかない。
  尖閣諸島だけでなく、沖縄も危ない・・そして・・
 (北海道?)・・
.
2017年8月20日、中国の世界戦略・・「北朝鮮の核」の背後
 で勢力拡大・・
  この様な表題の論説が、この日の読売新聞に記載され
 ていた・・以下は、その抜粋・・、
  世界は、今、21世紀の新しい勢力均衡に向けて、最終
 局面に入ったかに見える。
  現状変更を仕掛けるのは、世界第二の経済力をエンジ
 ンに軍事力を強化している中国である。
  (注:中国は、世界一の座にあることを、この論説の
 筆者は見落としている)
  西に巨大経済圏構想「一帯一路」、東に「太平洋を米
 中で二分割」という二正面での世界戦略を掲げている。
  中国は、すでに、チベット、新疆ウイグルを抑え込み、
 南沙・西沙諸島、尖閣諸島など、多くの地域で、各地各
 様の緊張や争いを起こしている。
  いずれも、二正面戦略の一環と見られよう。(中略)
  中国をハートランドとして、ユーラシア大陸、アフリ
 カ大陸に広がる「中華共栄圏」を建設する構想だ。
  その特徴は、民主主義、自由主義、法治主義、人権尊
 重といった価値観を標榜(ひょうぼう)することなく、
  (注:その通り、共産中国の最大のいかがわしく、信
 用できない所である)
  巨大な経済力と軍事力により、支配権拡大を志向する
 点にある。
  一帯一路の「後詰め(ごづめ、後方に待機している軍
 勢)」とも言えるのが・・海洋進出である。
  中国は、久しく米国に対抗すべく海・空戦力の増強、
 近代化を進めて来た。
  今や、空母複数隻の建造や、潜水艦隊の増強などが注
 目されているが、
  太平洋・インド洋への進出の意思表示だろう。
  (最終目標は、中国と米国で太平洋を二分する)
  これと表裏一体の関係にあるのが、北朝鮮の核兵器・
 ミサイル開発である。
  中国は、それが北朝鮮の独走だとしつつも、実効的な
 制裁には『常に反対して来た』。
  平仄をあわせる(ひょうそくをあわせる=つじつまを
 合わせる)ように、核兵器・ミサイルの狙いは、日本・
 在日米軍基地、および、米国本土であり・・、
  韓国は、いつでも火の海にできると北朝鮮は宣伝する。
  それが米韓、日韓、日米の分断に一定の効果をもたら
 す。
  すなわち、北の核兵器・ミサイル開発は、中国の太平
 洋戦略のための『地ならしの役割』を果たしている。
  中国は、軍事力の強化と一帯一路構想の巨大さで、世
 界を驚かせているが、
  中国の実力と自信の発露なのか、
  それとも、国内の矛盾から目をそらすための爪先立ち
 なのか。
  日本としては、今こそ、冷静に現実を直視し、浮足立
 つことなく日米同盟にしっかりと腰を据えて成り行きを
 見極める必要があろう。(中略)
  (中国は、急速な経済成長を遂げて来た、しかし)、
  貧富の差が拡大し、失業者や無戸籍者も多数発生した。
  これらの人々の不満を吸収するためには、高い経済成
 長率を維持する必要がある。
  国営企業が、その担い手となったが、世界経済のデフ
 レ傾向と、中国自身の賃金上昇により・・成長は、大幅
 に鈍化するに至った。
  政府の計画に従って国営企業が増産すると、不良在庫
 が累増し、企業内余剰人員がますます増大するという悪
 循環にも陥っている。
  一帯一路は、経済的には、インフラ建設に名を借りて
 失業者と不良在庫を、国境外に排出すること、
  戦略的には、対象地域内の要衝を中華支配体制に組み
 込むことを目的に、構想されたものと考えられる。
  インフラ建設の支援という名分で、失業者を国境外に
 送り込むやり方は、
  国内問題を国外に転嫁する際の常套(じょうとう)手
 段である。
  また、鉄道、道路、港湾などの投資効果のうち利用者
 負担で回収できるのは一部に過ぎない。
  大部分は、保有国の財政負担となる。
  中国は、借款(注:中国が貸すかたち)と、
  自らが主導する国際金融機関「アジアインフラ投資銀
 行(AIIB)」による融資を組み合わせて、海外に資
 金提供する方針だ。
  しかし、返済が困難になったり、滞ったりする場合に
 は、担保として、戦略的に重要な港湾などを、中国の支
 配下に置くことを視野に入れているとされる。
  この意味で、一帯一路は、形を変えた『植民地主義』
 とも言える。
  いずれの場合でも、受け入れ側の政府、住民との間に
 軋轢(あつれき、人の仲が悪く、あい争うこと)を生み、
 国際問題に発展するだろう。
  結局のところ、一帯一路は、国内の社会問題を転嫁す
 るために、中国側が打ち出した窮余の一策であり、
  あり余る力の発露とは見られない。(中略)
  一方、北朝鮮は、今や、相当数の核兵器を保有し、
  米国に届く大陸間弾道ミサイル(ICBM)を完成す
 るに至ったと見る専門家も少なくない。
  かくして、米国の核抑止力によってもたらされるアジ
 ア太平洋の安定的均衡は、破綻の瀬戸際にある。
  北朝鮮は、中国からの食糧や燃料供給なしには生存で
 きず、
  中国の経済援助なしには核兵器・ミサイル技術も獲得
 できない。
  中国は、その気になれば、いつでも北朝鮮を抑えられ
 る立場にあったが、これまで力を行使しなかった。
  自らの太平洋進出に有用と考えて、北朝鮮に食糧・燃
 料を供給し、
  核兵器とミサイルの開発を財政的に支援し続けて来た
 のだろう。
  国際社会には、核を放棄するように北を説得するポー
 ズを見せる事で、『時間稼ぎ』をしたのだとも考えられ
 る。
  悪役は北朝鮮に背負わせて、日韓両国を揺さぶり、日
 米韓を分断するという詭計(きけい、人をだます計略)
 は、これまで、一定の戦略的な成果を上げてきたとみる
 ことができる。
  ここに至る経緯は、中国が、北朝鮮の核兵器・ミサイ
 ルを自国にとっての脅威ではないと考えていることをう
 かがわせる。
  すなわち、いつでも、北朝鮮を説得し、核開発を放棄
 させられることを、中国は自覚しているのではないだろ
 うか。
  つまり、国際社会は、これからは、中国を正面の交渉
 相手とし、
  中国が、自らの問題として、自らの影響力で、北朝鮮
 に核兵器を放棄させるように、中国への直接の圧力も辞
 さない覚悟で迫って行くことが肝要だ。(中略)
  これまで、習氏を信頼して、中国の北朝鮮説得に期待
 をかけて来た米国も、ようやく両者が共生の構図だと気
 づいたように見える。
  中国の「天動説」を修正できるのは『強固な日米関係
 だけ』である。・・完・・
  (参考)天動説:キリスト教が憐れにも説き、そして、
     信じた説で、
      地球が、すべての中心で、太陽などのすべて
     の宇宙が、地球の周りを回っていると説いた。
      この間違いを科学的に説明したガリレオを、
     逆に、キリスト教は虐げた。
      キリスト教裁判は最悪だった。
      ガリレオは「それでも地球は回っている」と
     言った。
      この事例の様に、中国は、実現できない絵空
     事である「地球上のすべてが、中国の周りを回
     っている」と考えているという譬(たとえ、引
     き合いに出すこと)
  (参考)ハートランド:地政学の用語で、ハルフォー
    ド・マッキンダーが、『デモクラシーの理想と現
    実』の中で、ユーラシア大陸の中核地域を中軸地
    帯と呼んだことに始まり、後に、ハートランドと
    改めた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-08-29 01:43 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)548E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)

題:(増補版)548E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年、災害・防災:
・4月10日:東京・神田で大火、1万5000戸が焼失した。
(4000戸の焼失・・説あり)
 4月9日(大火が起きた前日)午後9時頃から、東京に激し
 い北西風が吹き始める。
  夜中(4月10日、午前0時半頃)、神田区(現・千代田区)
 猿楽町一番地の飲食店・宮本周蔵の物置から出火、母屋
 をひとなめにした。
  その炎は消えず・・一つは小川町通りを、一つは表神
 保町通りを、一つは錦町通りを、
  たちまち、三方に分かれ急速に東南へ向け燃え広がる。
  火元の猿楽町をはじめ、同一丁目、裏神保町、小川町、
 表神保町、錦町一、二、三丁目が、あっという間もなく
 全焼した。
  炎は、さらに、錦町一丁目から美土代町一、二、三丁
 目へ、また、三河町一、二、三丁目へと・・、
  神田を灰にした炎は、鎌倉河岸を飛び、堀割沿いに本
 石町通りを東へ進み、鎌倉町、松下町と灰にした。
  朝の午前8時には、今川橋先の堀割も超え、ついに、日
 本橋区(現・中央区)本銀町へ飛んで、本石町二丁目の大
 半を焼失。
  午前9時半になって、また、残り火が烈風にあおられた。
  そして、ふたたび襲いかかり、皆川町、旭町、ろうそ
 く町、関口町も猛火の中で灰と・・、
  その後も、炎は、東へ進み、永富町、新石町、竪大工
 町、上白壁町と、次々と進んだが、一つは、今川町の堀
 割で止まった。
  そして、一つは、鍛冶町の大通りで止まった。
  神田区と日本橋区の一部、約33か町4620戸が焼失。
  小川町警察署、神田区役所をはじめ、
  万世橋直間税分署、東京法学院(現・中央大学)、東京
 英語学校(現・日本学園中、高等学校)、錦城学校(現・錦
 城学園高等学校)、松茂小学校、三省堂、熊田活版所、東
 京電灯会社第四電灯局、パノラマ館・・などの主要な建
 物が全焼した。
  中でも、死亡者24人の内、その大半を出した小川町勧
 工場(ショッピングセンター)洽集館(こうしゅうかん)で
 は、出火と聞いて店の商品を持ち出そうとしたが、
  出口が表と裏の2か所しかなく、18人が逃げ遅れて死亡
 した。
  (参考:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の
 消防百年の歩み」)
・足尾鉱毒事件について、田中正造が、衆議院に質問書を
 出した(栃木)
  田中正造は、1890年、第1回衆議院議員総選挙に栃木3
 区から出馬し、初当選した・・そして・・
  1891年、鉱毒の害を視察し、
  1892年6月3日、第2回帝国議会で、鉱毒問題に関して質
 問を行った。
  毎日新聞(6月5日)によると・・、
  本会明治25年5月9日河野広中君、及び工藤行幹君は、
 北海道殖民開拓に関する施政方針、北海道官有物払下、
 北海道勧業委托金処分、札幌製糖会社及び札幌製麻会社、
 北海道土地貸付、炭鉱鉄道線路変更の件に付、
  同月11日塩田奥造君、新井啓一郎君及び箕輪勝人君、
 同鉄道始末に対する件に付、
  同月23日加藤淳造君、同北海道炭鉱鉄道会社に関する
 件に付き、
  同月同日、田中正造君は、足尾銅山鉱毒加害の件、及
 び、北海道幌内郁春別鉄道会社命令書違反、神戸造船所、
 釜石鉱山、阿仁及び院内鉄山、小坂銀山に関する件に付
 き以上の質問書を提出したるに、
  政府は、未だ何等の答弁をもなさず。
 議院法第49条には、
  「質問主意書は議長之を政府に転送し、国務大臣は直
 ちに答弁を為し、又は、答弁すべき期日を定め、若し答
 弁を為さざる時は、其の理由を明示すべし」・・とあり、
  黙るに政府は上記数件の質問に対し、未だこれが答弁
 をなさず、
  又答弁すべき期日を定めざる理由如何、若し政府に於
 て答弁能はずとせば、何故にその理由を明示せざるや。
  以上、議院法第48条により提出す、国務大臣はその責
 任を負ひ直ちに明答あらんことを望む。
  明治25年6月3日 質問者 田中正造
          賛成者 塩田奥三 他2名
・7月25日:徳島県下に津波・山崩れ・大洪水が起こり大災
 害となる。
  (1)、1892年7月25日午後2時頃、保勢山の中腹が幅
 300m、長さ800mにわたり崩壊して、海部川を堰き止め
 た。
  崩壊により北岸の山麓にあった3家族11人、及び、山稼
 ぎ36人は、家屋とともに生き埋めになった。
  田畑4町歩も埋没した。
  海部川を堰き止めていた土砂は26日午後7時頃に崩れ、
 下流は大災害となった。
  平井には保瀬大崩壊の碑が建っている。
  (2)、1892年7月25日、台風に伴う集中豪雨により、
 海部川中流右岸の保勢(保瀬)で大規模崩壊が起こり、
 4戸が埋没し、住民11人と山稼ぎ人36人が生き埋めとな
 った。
  崩壊土砂は河道を閉塞し、巨大な天然ダムを形成した
 ため、湛水によって8戸が流出し、9人が水死した。
  さらに天然ダムの決壊により、下流域で流出2戸、半壊
 11戸の被害が出たが、高潮被害と重なり、天然ダム決壊
 による被害のみを分離することは難しい。
  天然ダム決壊の恐れは事前に下流に知らされ、決壊時
 には鉄砲、大砲、狼煙などで伝達された。
  (3)、1892年7月25日、豪雨が海部川上流や那賀川上
 流を襲ったため、保瀬で大崩壊(土量約200万立米)が起
 こり、海部川の水を堰き止めた。
  このため、寒が瀬一帯は濁流に没し、4戸埋没、8戸流
 失、死者47人に被害を出し、上流一里半の樫谷の大杉の
 鞘が水に隠れ、さらに上流の轟神社の扁額が半分水に浸
 かった。(「海部郡誌」による)
  堰き止められた水が一斉に流下して大氾濫を起こすか
 も知れないという情報は上流から下流に伝えられたため、
 下流部では人的被害はなかった。(「海南町史上巻」に
 よる)
  (4)、1892年7月25日の豪雨時に、保瀬で崩壊が発生
 し(崩壊土量200万立米)、天然ダム(湛水量1,400万立
 米)が形成され29時間後に決壊したが、事前に避難。
  (四国災害アーカイブスより)
.
1892年、その他:
・久六島鮑(あわび)岩の帰属問題で青森・秋田の漁民が
 争った。
  青森県西部、艫作(へなし)崎の西方約30キロメートル
 の日本海上にある無人島で、上の島、下の島、ジブの島
 と呼ばれる三つの岩礁からなる(青森県西津軽郡深浦町)
  島名は、難破船から救助された水夫の名によるとか、
 漁夫の名によるとかいう。
  付近は、ホッケ・アワビ、海藻などの漁場。
  16世紀末より、アワビ・サザエ・イカなどの漁場とし
 てきていて、1786年に、船問屋が発見したとも伝えられ
 る。
  好漁場であるため、青森・秋田両県で、50年にわたり
 帰属をめぐり争っていたが、
  1953年、青森県深浦町に帰属、秋田県に入会(いりあい)
 権が認められた。
  津軽国定公園に含まれ、1959年に、光達距離12.5カイ
 リの無人灯台が建てられた。
  (伝説)明治時代、久六島に、島を発見した九六が、
 この島に漁に出かけようとして遭難したという伝説が残
 っていて、
  西津軽郡の人々で、探検を企てようとする人はいなか
 った。
  ただ、男鹿半島の漁民が、時々、偶然に風の都合で久
 六島に流され、そこで、たまたま多くの漁獲を得る程度
 であった。
  1890年、福島県から新しい漁具(潜水具など)と漁夫を
 率いて能代で水産業を営んでいた新妻助左衛門は、久六
 島探検を決意し、7月22日、能代を出航した。
  23日、西風に流されて艫作に上陸、そこで、新妻は、
 久六島の伝説と方向や位置を漁民から聞き、
  午後6時に、艫作を再出航して、久六島に到着し、27日
 にわたって大いに漁獲を得た。
  新妻は、午後6時に、能代に向けて出航したものの、風
 に流されて深浦村に上陸、そこで、久六島の魚影の豊富
 さを村人に話した。
  以後、村人たちも因習を改め、以後、秋田や青森の漁
 民が久六島を訪れるようになった。
  一旦、明治時代に、青森県が、単独で久六島の漁業権
 を得るものの、抗議を受けてそれが取り消される事件も
 あった。
  明治以来、秋田、青森両県の間でその帰属に関して紛
 争が続いたが、
  1953年、自治省の告示で青森県深浦町への地籍編入が
 決定した。
・衆議院議員総選挙で、高岡郡斗賀野で国民派と破壊派壮
 士500名が乱闘をおこした(高知)
  高知県下に保安条例が施行された。
・7月6日:アメリカでホームステッド・ストライキ(暴動)
  カーネギーの製鋼所で暴動が起きた。
  アメリカのカーネギー製鋼会社、ホームステッド製鋼
 工場における組合弾圧により、ペンシルバニア州ホーム
 ステッドで争議が起った。
  労働組合に反感をいだいていた H.フリックは、同社の
 社長に就任するとともに労働組合の破壊を決意し、賃金
 の引下げを計画した。
  300人の会社防衛隊が雇われ、ホームステッドで労使は
 対決し、70人以上の死傷者が出た。
  会社は、8000人の民兵の出動を州知事に要請、
  軍隊の出動によって、労働組合は壊滅し、他の製鋼会
 社もその労働協約を破棄するにいたった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国の長期的な戦略目標は・・、
   「東アジア地域から、アメリカ軍を追い出し・・」、
   「台湾、日本、朝鮮半島を中国の勢力圏にする・・」
.
1894年、懐中時計の製作に成功(服部時計店)
  服部金太郎は、1884以降、横浜の外国人商館から洋時
 計を仕入れるようになり、品揃えを豊富にしたことが斬
 新な品揃えとして、評判が立つようになった。
  当初は、輸入に頼り、仕入れた時計は飛ぶように売れ
 た。
  国産時計は、1892年に、服部金太郎が作った精工舎で
 始められ、3年後には、輸出も行われるようになった。
  「服部時計店社長・服部金太郎氏の創立に係る、同氏
 は、夙(しゅく、早い時期から)に、時計製造の如き精
 密工業が、最も我国民に適し、他日、必ず、日本の重要
 工業の 一として成功すべきことを確信し、其の創立を
 決意すると共に、現顧問・吉川鶴彦氏を技師長として招
 聘し、
  明治二十五年(1892年)五月、東京市本所区石原町に
 仮工場を設け、始めて掛時計の製造に着手せり・・」
  1894年、精工舎は、創業二年半にして、最初の懐中時
 計である22型タイムキーパー製造にも成功させ、
  清国(中国)に少量ながら輸入も始めた。
  「明治二十九年(1896年)には、懐中時計機械の製作
 を創む、當時の懐中時計は、二十二型 シリン式にして
 之を現時流行品たる八形九形の如き小型の時計と比すれ
 ば全く隔世の感なくんはあらす」
.
1945年8月9日、対ソ防衛戦
  アメリカと戦っている日本に、ソ連が突如として攻め
 て来た。
  満州国において、1945年(昭和20年)8月9日未明に開
 始された日本の関東軍と極東ソビエト連邦軍との間で行
 われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と・・、
  日本の第五方面軍と、ソ連の極東ソビエト連邦軍との
 間で行われた南樺太・千島列島における一連の作戦・戦
 闘。
  この戦闘の勃発により、日本の降伏を決定付ける事と
 なった。
  日本の防衛省防衛研究所戦史部では、この一連の戦闘
 を「対ソ防衛戦」と呼んでいる。
  このソ連の終戦間際に行った行為は、結論から言えば、
 論理的に『正当性は成立しない』。
  日ソ間には、「日ソ中立条約」が結ばれている状態で
 ある。
  そして、「日本は、事実上、敗戦が決定していて、戦
 争は終結している状態」である。
  例えば、イラク戦争で、アメリカとイラクが戦争をし
 て、イラクが負けたが、
  そのイラク戦争で、イラクが負ける直前に、第三国が、
 イラクに宣戦布告をして、イラクの首都のバクダッドを
 占領したら・・、
  バクダッドは、その第三国の占領物・占領した領域と
 なるのか?
  なる訳はない。
  それは、強盗行為である。
  犯罪である。
  また、隣の家に強盗が入って、その家の人が、強盗と
 やり合っている時に、第三者が入って行って、その家の
 物を盗る・・その行為を正統化できるか?
  出来る訳がない。
  盗みの行為である。
  犯罪である。
  だから故に、先に記したソ連の「南樺太、千島列島、
 北方四島」の日本の領土へのソ連の侵略は成立しない。
  強盗行為なのである。
  今・現在の現状は、不法行為の結果なのである・・不
 法占拠なのである。
.
1953年、アメリカが、民主主義を実行していたイランで、
 CIAの工作によるクーデターを起こして、独裁制を押
 し付けた。
  これは、アメリカによる、イスラム教徒の不必要な迫
 害・抑圧であり、イスラム教世界と「文明の衝突」現象
 を作り出してしまった。
  アメリカは、この様な行為を色々している。
.
2003年3月20日、イラク戦争
  アメリカが、レバノン侵略(1982年)を盲目的に支援
 し、虚偽の口実を捏造して、イラクを侵略・占領した。
  アメリカは、この様な、イスラム教諸国と数々の紛争
 を起こし、「文明の衝突」現象を作り出した。
  アメリカは、この様な行為を色々している。
.
2010年、中国の実質経済規模が・・世界一となった。
  アメリカは、2位に転落した。
  米ソ冷戦(東西冷戦)は、日本の貢献度大で、アメリ
 カが勝利し、1991年に、ソ連は崩壊した。
  ソ連の統制経済の社会主義体制と社会主義経済圏が崩
 壊した。
  そして、ロシアが誕生したが・・一極体制とはいうも
 のの・・「借金だらけのアメリカ」という『あだ花』が
 咲いた・・
  そして、資本主義経済・市場経済のグロバリゼーショ
 ンの進行を見たが・・が、しかし・・、
  結局、経済競争は、2010年頃には、日本が『中国』に
 抜かれ、そして、『アメリカも』、中国に抜かれた。
  ただ、「抜かれた、ああ、そうか」では、この話は終
 わらない。
  1996年~1997年に、アジア諸国とロシアは経済危機に
 おちいった。
  この時、IMFを支配するアメリカは、これら諸国に
 対して強大な権力を行使する事が出来た。
  (アメリカの御機嫌を損なったら、IMFから融資を
 受けられない・・というシステム)
  しかし、IMFの投票権は、参加国の実質経済規模に
 比例して割り当てられている。
  故に、アメリカの実質経済規模が、世界一の座を下落
 したアメリカは、IMFの拒否権行使の権利を喪失した
 ことになった。
  中国の世界一は、堂々としている。
  「食料と鉱物資源とエネルギーの消費量」が世界一、
  そして、中国は、「金属産業」の規模も世界一である。
  同様に、「化学産業」の規模も世界一で、「住宅産業」
 も世界一、
  そして、「家電産業」も世界一、「運輸産業」も、「
 造船業」も、
  そして、「流通業」も、そして、「自動車市場規模」
 も世界一。
  そして、世界の「鉄生産」の48%を、中国一国で消費
 している。
  そして、「外貨保有量」と、毎年の国内の「純貯蓄額」
 (資本蓄積量)も世界一・・、
  アメリカ政府の国際通商委員会のチーフ・エコノミス
 トであったピーター・モリシ(メリーランド大学教授)
 は・・、
  「(世界一の借金国)アメリカは、中国に国債(米財
 務省証券)を買ってもらわないと財政破綻(はたん、物
 事が、ほころびて、つくろえないというように、立て直
 しも手詰まりになること)してしまう」・・と言った。
  そして、また、「アメリカ大統領は、中国の前で、(
 国債を買ってください)と頭を下げないと、経済運営が
 できない」・・と言った。
  中国の発言権を、アメリカは無視できない立場にいる。
  そして、この格差は・・広がるばかりなのである。
  そして、世界の叡智は予測する・・
  『アメリカは、今後、破綻(はたん、物事が修復しよ
 うがないほどうまく行かなくなること)する。
  2016年~2025年頃に、財務危機、通貨危機を引き起こ
 す可能性が高い』・・と・・、
.
2017年、アメリカを抜いて、世界一の経済大国になった中
 国は、北朝鮮を支援して、核ミサイルを持たせた。
  今まで、世界一だったアメリカは、「日本には、絶対、
 核は持たせない」とやって来た。
  そして、今・現在、『核とミサイルを持った北朝鮮』
 は、アメリカ領グァム島の周辺海域に、ミサイルを飛ば
 す計画だと言った。
  中国と北朝鮮の両国は、「核とミサイル」を持ってい
 る。
  日本は、「刀狩り」と言って、すでに、400年以上も昔
 に庶民から武器を取り上げた。
  アメリカは、今・現在でも、銃を取り上げられないで
 いる・・銃を無くせないでいる。
  アメリカの社会の中には、銃があふれている。
  銃を無くそうと言っているが、どうしても、社会から
 銃を無くせないでいる。
  そして、今、地球は、どうやら、核だらけの地球にな
 る気配・・、
  アメリカで、銃が無くせない様に、地球から核兵器が
 無くせない・・様だ・・、
  アメリカでは、時々、忌(い)まわしい銃の乱射事件
 が起きて、殺される人、亡くなられる方々が出るが・・、
  今後、地球上に・・この様に増えた核ででも、その銃
 の事件の様な、突然の『忌まわしい出来事』が起きるだ
 ろう。
  銃の場合の様な、一人とか二人とか、10人とかという
 話ではなく・・核の場合は・・、
.
2017年、中国は、完全に・・『経済的にも』、アメリカを
 凌駕(りょうが、他のものを越えてそれ以上になること)
 した。
  あらゆる面で、中国は、アメリカの真似をして来た。
  その真似をして来た中国が、アメリカを追い抜いた。
  また、中国は、軍事的にもアメリカを越した。
  今までアメリカは、自国の主張をして来る国だった。
  中国も、この点まで、アメリカの真似をするだろう。
  アメリカは、「守ってやるよ」「はい、お願いします」
 と、世界に自国の軍を展開して来たが、これも、中国は
 真似するだろう。
  すでに、中国は、世界のあちこちに軍事拠点を作って
 いる。
  アメリカと中国の「二重の軍事カバー領域」が重なる
 地球・世界となる。
  かつてのソ連とアメリカは、領域は接しても、重なる
 ことはなかったが・・ ・・、
.
2017年、「異教徒は殺せ」というキリスト教の考え方が、
 今の、現時点の、状況を作っている。
  「相手の生存を認めない」というキリスト教のこの教
 義。
  この考え方は、完全に間違っている。
  だが、キリスト教徒は、マインド・コントロールされ
 て、洗脳されて、その間違いに気づかない。
  逆に、正しい行為と思う所が『恐ろしい』。
  キリスト教に強く洗脳させられたブッシュは、この考
 え方で、イラクを滅亡させ、トップのフセインを殺した。
  アメリカのブッシュ大統領は、「現代の十字軍だ」と、
 言ってイラクを攻めた・・キリスト教に洗脳されて、そ
 の様に行動をしているという事を示した。
  そして、このキリスト教に洗脳されたアメリカのブッ
 シュ大統領は、北朝鮮も、この滅んだイラクとフセイン
 と同じ「テロ国家だ」と言った。
  次に、イラクのように、北朝鮮を攻める意味を示した。
  北朝鮮は震え上がった。
  異教徒の生存を認めないその考え方・言葉に震え上が
 った。
  生き残る道を考えた。
  相手は、キリスト教に染まった「異教徒の生きる道を
 認めない考え方の者たち」、
  生き残るにはどうすればよいか?・・と・・、
  ミサイルが成功し、核実験が成功し、その時に喜びの
 放送が流れた。
  「将軍様、ありがとう」という言葉だった。
  それは、「助かった」という安堵(あんど、物事がう
 まく行って安心すること)の言葉だった・・のだろう。
.
2017年、アメリカは、養われている国である。
  アメリカ国債を買ってもらって帳尻を合わせている国
 である。
  普通なら自己破産で、存在しえない状況なのだが・・
  その様な国が、何故、出来てしまったのか?
  それは、心底での国を思う気持ちが希薄だからである。
  グローバリズムだなんて言って筋を通しているようだ
 が、結局は、グローバリズム優先で、国を疎(おろそ)
 かにしている。
  その様な国が、何故、存在していられるのか?
.
2020年、今から3年後・・アメリカ経済の実質規模が、『
 17兆ドル』程度と予想されている。
  これに対し、この時の・・中国の実質経済は、2020年
 には『30兆ドル』以上と・・、
  アメリカの1.7倍という『2倍』に手が届くぐらいに、
 拡大していると予測されている。
  『圧倒的な中国優位』の状況となっていると・・、
  アメリカの成長が見込まれない理由・問題点は・・、
   1、戦後生まれのベビーブーマの大量引退。
   2、医療費の重荷・・医療費の過大化。
   3、人口のヒスパニック化。
   4、アメリカ国民の6割が貯蓄をしない無貯金状態。
  アメリカは、軍事費に予算を廻せない状況となる。
  中国との競争が出来ないアメリカとなる。
  今、トランプ下ろしをやっている時ではないのである。
  そして、アメリカのトランプ下ろしの陰には、この「
 中国のマネー」がある・・??
  そして、中国の長期的な戦略目標は・・、
  「東アジア地域から、アメリカ軍を追い出し・・」、
  「台湾、日本、朝鮮半島を中国の勢力圏にする・・」
  実際、「アメリカが、東アジアから撤退する」ことを
 予測するアメリカの学者は・・大勢いる・・
  ハンティントン、ミアシャイマー、フリードバーグ(
 プリンストン大学)、レイン(テキサスA&M大学)、
 ペイプ、マンデルバウム(ジョンズ・ホプキンス大学)、
 カプチャン(ジョージタウン大学)・・などは・・
  「アメリカは、いずれ、東アジア地域の支配権をあき
 らめ、ギブ・アップせざるを得なくなるだろう」・・と・・
  キッシンジャーやブレジンスキー・・も・・
  「中国が、アジアの覇権国となることは、もう避けら
 れない」。
  「アメリカ政府は、中国の覇権を認めて、対中国融和
 政策を採るべきだ」と言っている。
  日本は、加計学園問題なんかに、いつまでも関わって
 なんかいないで・・、
  「日本の立ち位置の検討」・・、
  「自分の国は自分で守る」ことに・・
  真剣に 討議せよ!
  イギリスの様に・・原潜と核は必要!!
.
2025年、中国の経済規模が、世界の『30%』を占める・・
 また、インドの経済規模も、『15%』を占める。
  アメリカ政府の情報機関が、2008年末に公開した「国
 際政治の予測レポート『グローバル・トレンド2025』」
 に・・、
  そして、国際構造は「多極化」していく。
  今後、20年間の国際関係に最大の影響を及ぼす国は、
 中国であろう。
  今から200年前、中国の中国の経済規模は世界経済の30
 %、インドの経済規模は15%だった。
  中国とインドは、以前の経済的な地位を回復する過程
 にある・・と・・、
  因みに、600年代~1830年までの1200年間、中国の経済
 規模は世界最大だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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# by suba28 | 2017-08-25 04:14 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)547E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)

題:(増補版)547E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年、発明:
・5月22日:歯磨きチューブが発明された。
  ワシントン・シェフィールド(アメリカ人、歯科医)
・9月:下瀬火薬が発明された。
 大日本帝国海軍技師・下瀬雅允が実用化した爆薬(炸薬
 として砲弾、魚雷、機雷、爆雷に用いた)で、日露戦争
 当時の日本海軍にも採用され、日露戦争(日清戦争には
 間に合わなかった)には大いに活躍し、大戦果の一因と
 なった。
 1905年5月27日の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を
 粉砕した一因は。この火薬の成果。
 因みに、フランスに派遣された富岡定恭は、「フランス
 で新型火薬と言われる火薬」のサンプルの微量を、爪の
 中にすり込んで日本に持ち帰った。
 この微量のサンプルを分析した結果、この下瀬火薬と同
 様のピクリン酸であると判明した・・下瀬火薬の発明が
 先んじていた。
・10月4日:乾電池の発明
 屋井先蔵(やいさきぞう)が、世界で初めて、完全な乾
 電池を完成させ、特許を出願した。
 発明時期は不明。
 屋井乾電池は、乾電池を用いる製品そのものが普及して
 いなかったこともあって、しばらくは売れなかった。
 1894年に日清戦争が勃発し、満州で使用されていた軍用
 の乾電池の大成功に関する号外記事が掲載された。
 従来の湿電池では、液が凍結したため、満州では使用で
 きなかったが、屋井の乾電池だけは使用できた。
 1910年に、合資会社・屋井乾電池を設立した。
 神田区錦町に販売部を新築し、浅草神吉町に、乾電池の
 製造工場を設けた。
 そして、乾電池の本格量産にとりかかった。
 筒型の金属ケースを用い、現在の乾電池のスタイルを確
 立した。
 屋井乾電池は、海外品との競争にも勝ち、日本国内乾電
 池界のシェアを掌握し、屋井は「乾電池王」と言われた。
.
1892年、医・衛生:
・2月:東京・牛込東五軒町に、東京慈愛病院が設立された。
・6月17日:東京・下渋谷(広尾)に、日本赤十字病院(本
 社病院)が新築され、開院した。
・天然痘が流行し、全国で1万人近くが死亡した。
・福沢諭吉の援助で伝染病研究所が出来、北里柴三郎がそ
 の所長となった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:その重大な転機における課題に取り組んでいるトランプ大統領・・
    そのトランプ下ろしをやるアメリカは、現時点は・・、
    その様な時ではないという『深刻な事情』に目を向けるべきだ。
.
1895年4月23日、三国干渉
  急速に力を付けた日本・・明治28年の時である・・
  日清戦争の、まさかの日本の勝利だと世界は思った・・、
  そこで起きたのが・・
  列強各国の、弱小日本への三国干渉・・、
  三国干渉(さんごくかんしょう)は、1895年4月23日に、
 フランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国が、日本に対
 して行った。
  自分たちがおいしい汁を吸っている中国の領分に入っ
 て来た新参者にいちゃもんを付けた。
  日本の勝利で終わった日清戦争。
  その、日本と清の間で結ばれ、合意された下関条約・・、
  その条約に基いて・・約定(やくじょう、約束して定
 めること)して・・日本に割譲された遼東半島を・・
 おい!それはよせよと・・くちばしを入れたのである。
  日本は、遼東半島を取らないで、取り上げないで、「
 清国へ返せよ」「返還しろよ」と言った・・そういう内
 容だった。
  そこには、ロシアの思惑があった・・ロシアは大きな
 欲をかいていた。
  ロシアは、満洲と中国北部の支配権を拡張したいと目
 論んでいた。
  また、それと並行して、欲張りに欲張って、朝鮮へも
 影響力を拡大したいと思って行動していた。
  ロシアとしての言い分は・・朝鮮は、ロシアのウラジ
 オストクに近いため、ここを他の列強に抑えられると、
 ロシアが圧迫されて怖いのだ・・という理屈・・そして、
 その可能性を防ぎたいと・・
  また、それは、逆に、今時点に例えれば、日本にとっ
 て、38度線が対馬海峡になる様なもの・・
  ロシアは・・日本という国が、朝鮮と対馬の両岸を抑
 える事態になれば、中国の旅順港とロシアのウラジオス
 トク港を結ぶシーレーンが危機に晒されるというロシア
 の論理が・・理屈があった。
  中国のおいしい汁を安心して運べないのだよ・・と・・
  だが、前記した様に、朝鮮半島をロシアが占領すれば、
 圧迫されるのは日本も同じだった。
  今の現時点で、「緊迫した38度線が、対馬海峡になる」
 と想像すれば・・その不安・・危険度・・それと話は同
 じだった。
  そして、この1895年の三国干渉の影響から、朝鮮政府
 は、『反日となり』また『親露となった』・・その様な
 勢力が台頭して行った。
  そして、また同様に、朝鮮国王の高宗が、ロシア軍の
 朝鮮進駐を希望するようになった・・そして、1896年2月
 には、ロシア大使館へ駆け込んだ。
  この様な中で、この状況を解決するために努力がなさ
 れた。
  そして、日本とロシアの間で、『山縣・ロバノフ協定』
 が締結された。
  日本とロシアは、対等の関係で朝鮮に接して行こうと
 いう旨が合意された。
  しかし、ロシアは強硬策に出た・・
  1897年、ロシアは、旅順・大連を占領した。
  当然、日本は、強硬行動をとるロシアが、この様な行
 道・・同様の行為を、朝鮮半島でも行なうだろうと恐れ
 た。
  実際、ロシアには、朝鮮半島への進出を本格化する恐
 れがあった。
  日本は提案した・・「朝鮮半島を日本が管轄し、満洲
 をロシアが管轄する」・・と・・
  しかし、ロシアからは相手にされなかった(満州はロ
 シア軍だらけだった)
  この頃、朝鮮半島に接する鴨緑江沿岸(朝鮮と中国東
 北部・満州の境を流れる川)では、アレクサンドル・ベ
 ゾブラーゾフらのロシア貴族が、
  朝鮮半島北部にロシアの橋頭保を築く目的で、伐採事
 業を開始していた。
  (朝鮮戦争の時も、共産中国軍は、朝鮮半島に流れ込
 もうとこの地域・鴨緑江沿岸に大部隊を集結した)
  ベゾブラーゾフは、ロシアは偉大な大国であるので強
 硬姿勢をとって当たり前であり、東洋人ごときに生意気
 を言われる筋合いはないという信念を持っており・・、
  蔵相ヴィッテの対日融和政策を毛嫌いし、
  「大臣たちは、皇帝陛下に正しい情報を提供せず、陛
 下に自分たちの考えを押し付けている」と批判した。
  これは、ニコライ2世にとっても耳に心地よい意見だっ
 た。
  ニコライ2世は、このベゾブラーゾフを強く信頼するよ
 うになり、対日強硬姿勢を強めて行った。
  因みに、ベラーゾフは、この翌年の1896年に、日本と
 の開戦の必要性を唱える嘆願書を、ロシア皇帝ニコライ
 2世へ提出している・・この様な人だった・・、
  また、ニコライ2世は、「黄色い猿」と日本を侮蔑する
 ような皇帝で、ロシアがどんなに強硬路線を取ろうと、
 「日本に、ロシアと戦争する勇気などあるばずがない」
 としていた。
  また、「ロシアが、自分が望まない限り、日露の戦争
 にはならない」と考えていた。
  また、「ロシアの強硬な圧力を受けて、日本が旅順か
 ら撤退した1895年を思い出す」などとも言ったり、
  「どっちにしても日本は野蛮な国だ」などとも言った。
  ベラーゾフは、強硬派で、イギリスの東インド会社の
 ような組織を設立して、『朝鮮半島と満州における権益』
 を確保して、それらを強制的に征服すべしとした。
.
1899年(明治32年)、義和団の乱
  宗教的秘密結社である義和団が、「扶清滅洋(清国を
 助け、西洋を滅ぼす)」というスローガンを掲げて、山
 東省で蜂起した。
  (1900年6月20日~1901年9月7日説あり)
  義和団とは、義和拳という武術をマスターすれば『鉄
 砲も刀も怖くない』という迷信を持った人々の集団で、
 山東省に始まった暴動は、清国全体に広まった。
  外国勢力に美味しい汁を吸われる民衆の鬱積(うっせ
 き)した不満が下地にあった。
  特に、この外国の武力を後ろ盾にしたキリスト教勢力
 (傲慢な宣教師など)の行動は反感を買い、排外的な機
 運が高まった。
  トラブルの解決に「武力による威嚇」が用いられる事
 が多く、キリスト教会側に有利に妥協させられ、処理さ
 れることが多かった。
  そのため義和団は、キリスト教会を焼き、キリスト教
 徒を殺すという『反キリスト教運動』を行なった。
  民衆の間には、外国人は、官僚より三等上という認識
 が広がっていた。
  民衆は、外国人に、ぺこぺこと平身低頭せざるを得な
 い自国の官僚への失望感が拡大していた。
  そして、義和団は、破産させられた農民と結び付き、
 急速に発展して行った。
  (「義和団事変」「拳匪の乱」「ボクサー・レベリオ
 ン」ともいう)
  1900年になると、反乱集団は、キリスト教徒を殺害し、
 キリスト教会、鉄道、電線など西洋伝来のものを破壊し、
 北京にまで至った。
  乱が、たちまちの内に全土に広がって、外国人にとっ
 て、さながら地獄図のような光景が眼前で繰り広げられ
 た。
  また、この列強の侵略は、中国支配層の中にも対立す
 る集団を作り出した。
  この対立は、守旧派と洋務派という構図で・・、
  守旧派は、従来からの支配者である西太后(せいたい
 こう)らの満州人貴族層が中心で、
  洋務派は、列強が懐柔して、力を伸ばした李鴻章らの
 漢人の大官僚たちであった。
  守旧派の清国政府は、乱の鎮圧がしきれないのを知り、
 逆に利用し、彼らを応援し、列強諸国や洋務派に対抗し
 た。
  義和団の勢いが良いと見るや、清国政府の実権を握っ
 ていた西大后は、義和団の味方をして、清国軍を派遣し、
 北京の公使館や天津の租界を攻撃した。
  また、農村の自衛組織を義和団に組み込んだ。
  短期間に河北全省、満州、蒙古(もうこ)に拡大し、
 キリスト教会を襲い、鉄道、電信を壊し、石油ランプ、
 マッチなどあらゆる外国製品を焼き払った。
  そして、清国は、北京に公使館を置く列強諸国に、1900
 年6月、宣戦布告を行なった。
  これにより、北京では、公使館のある区域が義和団に
 包囲され、そこにいた8ヶ国の人たちが皆殺しにされる危
 険が生じ、その危険が迫った。
  そこで、8ヶ国は団結して連合軍を作り、義和団の大軍
 に合同で立ち向かうことになった。
  8か国は、日本、アメリカ、イギリス、フランス、ドイ
 ツ、ロシア、イタリア、オーストリア・・、
  総司令官には、ドイツ人のガスリーが就任した。
  約2ヵ月後、8ヵ国の連合軍は、首都北京及び紫禁城
 を制圧し、乱を鎮圧した。
  西太后と光緒帝(こうしょてい)は西安に逃れ、失脚
 した。
  守旧派に代わって実権を握った洋務派は、8か国連合軍
 に協力姿勢を取った・・そして、義和団の残部を虐殺し
 た。
  日本は、たった25人の軍人しかいなかったが、柴五郎
 中佐が率いた軍は、規律正しい精悍な精鋭で、抜群の働
 きをした。
  他の国の兵士は怖がってなかなか戦わない状況でもあ
 った。
  日本は、各国から地理的に最も近いという理由で、本
 国から応援部隊を出すよう要請されたが、野心があると
 思われるのを避けるため、なかなか応じなかった。
  しかし、再三、イギリスなどから要請され、福島安正
 少将が、混成三個大隊を率いて天津に来た。
  そして、日本軍の活躍で、連合軍は天津を占領するこ
 とができた。
  その後、連合軍は、日本軍を主力として北京に進軍、
 8月14日に、北京の公使館を包囲していた義和団と清国兵
 を駆逐し、公使館区域の外交官や居留民を救出すること
 に成功した。
  その後、連合軍は、国ごとに分かれて北京を占領した。
  そして、ロシアは、義和団の乱が支那から満州にまで
 及んだときに、増派して、ついには、全満州を占領して
 しまった。
  この乱につけ込んで、ロシアは満州をロシア領にして
 しまった。
  しかし、清国は、ロシアを満州から取り返そう、追い
 払うという努力は一切しなかった。
 (満州からロシアの勢力を追い払ったのは、その後の日
 露戦争に勝利する日本だった)
  (このロシアが占領した満州を、日本は日露戦争でロ
 シアを駆逐し、満州の所有権の移譲を受けた。日本は満
 州を占領したのではない)
  もし、日本が日露戦争で勝利しなかったら・・、
  宣統帝溥儀の家庭教師だったレジナルド・ジョンスト
 ン(イギリスの中国学者)が言うように・・、
  遼東半島のみならず、満州全土も、その名前までも、
 ロシアの一部となっていたことは「まったく疑う余地は
 ない」。
  ※:ちなみに、北京を占領した連合軍は、各所で略奪
   を開始し、美しく綺麗な事で有名だった頤和園(い
   わえん)も略奪と破壊の対象とした。
    しかし、この卑劣な行動に、日本軍だけは、略奪
   に参加しなかった・・(この話は有名)・・、
    当時の戦争では軍隊が市民から略奪、強姦すると
   いう行為は普通に行われていた・・この時も・・
    当たり前の様に北京や上海でも列強各国による略
   奪が頻発していた。
    白人で一番まともなイギリス兵ですら、支那人か
   ら貴重品を取り上げ、かっぱらった。
    ロシアの占領地区では、ロシア兵が虐殺や放火、
   強姦をやり、日本の占領地区に逃げて来る支那人が
   大勢いた。
    北京から遠く離れた所でも、ロシアは大虐殺を行
   なっていた。
    しかし、日本軍だけは、その様な行為はしなかっ
   た。
    日本の占領地域だけは軍規厳正で、治安維持が特
   に優れていた。
    これを見たイギリスが、素晴らしい日本と同盟を
   結びたいと、この後に、日本に日英同盟を求めて来
   たくらいだった。
    日本には天皇陛下の兵隊という、「皇軍」という
   意識があって、卑劣な行為はしなかった。
    南京事件もでっち上げなのだ・・、
.
1963年11月22日、アメリカの第35代大統領ケネディが暗殺
 された。
  アメリカ合衆国テキサス州ダラスで暗殺された。
  ケネディ(1917年5月29日生、46歳)は、軍産複合体を
 追求したから暗殺された・・という話がある。
  1963年11月22日、翌年の大統領選挙キャンペーンとし
 てテキサス州を訪れ、
  この日、フォートワースからダラスに到着し、市内を
 オープンカーでパレード中に、多くの市民が見ている前
 で、何者かに狙撃され死亡した。
  43歳で大統領に就任してから、わずか2年10か月と2日
 の在任期間であった。
  ケネディとジャクリーン夫人は、この日、午前11時40
 分にテキサス州ダラス郊外のラブフィールド空港に到着
 し、
  その後、大統領専用車に乗ってコナリー州知事夫妻と
 ともに市内をパレードした。
  ヒューストン通りからエルム通りに左折して、デイリ
 ープラザに入った12時30分に、後方のテキサス教科書倉
 庫ビルから3発の銃弾が発射され、
  その内の2発がケネディに命中した。
  後の1発が、ケネディの後頭部に当たり、これが致命傷
 となった。
  急ぎパークランド病院に担ぎ込まれたものの瀕死の状
 態で、手当ての甲斐なく、午後1時に、死亡が確認された。
.
1968年、今(2017年)からは想像できないだろうが、この
 頃の若者人口は、非常と言ってよいくらい「非常に多か
 った」。
  この団塊の世代は、若者人口が多いため、小中高と進
 学するごとに、学校の教室が足りないなど社会問題にな
 った。
  大学進学でも激しい競争があり、その実感を「高石と
 もや」がコミカルに歌った「受験生ブルース」が、この
 年(1968年)にヒットした。
.
1977年、横田めぐみさんが、北朝鮮に拉致された。
  日本政府が、北朝鮮による日本人拉致の『容疑』を公
 式に発表したのは、それから20年以上も後の、1997年5月
 であった。
  また、日本政府が、拉致されている日本人の人数を17
 人としているが、警察は866人以上としている。
  残念な事に、日本政府は、長らく「日本人の拉致は存
 在しない」「起きていない」という態度をとってきた。
  そのことに触れることを「タブー」としてきた、情け
 ない事だが・・、
  今でも、拉致された日本人が北朝鮮に居て、日本へ帰
 る事ができていない。
  日本政府は、アメリカから北朝鮮の拉致行為を知らさ
 れていたのに、無視して、何もしなかった。
  国会で、拉致問題が取り上げられたのも、1988年と、
 国会も大変に遅く、国会の与党も野党も、国会のすべて
 が目をつぶった。
  国会議員のすべてが腐っていた。
  これは、日本の何かが壊れている?
  この問題に早期から携わり、真剣に取り組んで来られ
 たのが安倍晋三議員(現:首相)だった。
  横田夫妻から早期に相談を受けた安倍議員は、この問
 題に取り組まれた。
  小泉首相の時には、一緒になって拉致された方々のう
 ち、6名の方々の帰国・奪還を実現された。
  警察は、拉致被害者の数を866人としているが、他の情
 報では1000人を上回るとも言われている。
  日本の海上保安庁は、北朝鮮の工作船に対し、毅然た
 る態度を示して、領海侵犯した国籍不明船(後の調査で、
 予想通りの北朝鮮工作船だった)に、指示に従わず領海
 侵犯行為を続けたため、機銃掃射を行なった。
  工作船側は、証拠隠滅を図って自爆し、沈没した。
  後に、日本は、これを引き上げ、捜査し、北朝鮮工作
 船の証拠を得た。
  北朝鮮が、日本工作をするこの北朝鮮の工作船が・・
 何故か・・この北朝鮮工作船が、直接に、また、当然に、
 北朝鮮へ帰るわけだが・・何故か?・・この北朝鮮工作
 船が、中国に帰ることもあることを確認している(中国
 の工作船か?)
.
2011年2月14日、日本が3位に・・
  日本の内閣府が、14日発表した2010年の国内総生産
 (GDP)速報値で「中国に抜かれ、世界3位に」とある・・、
  今、『重大情報データが、捻じ曲げられている』。
  世界の人々が繰られている。
  上記した様に、2011年2月に発表されて、日本は・・
 GDPが世界3位に転落した・・その事が分かったと言う
 が・・?
  別のデーターもある。
  実は、『中国は、アメリカも抜いている』というので
 ある。
  「2010年のアメリカの実質経済規模は『約14兆ドル』
 であり、中国は『約15兆ドル』」というのである。
  中国が、アメリカを抜いているというのである。
  (参考)実質経済規模:名目的な為替レートではなく
     実際の購買力で計った経済規模のこと。
      つまり、実際に生産し消費している財とサー
     ビスの総量のこと。
  1990年代に、すでに、世界銀行は、中国の実質経済規
 模を為替レートで計った名目経済規模の『5倍~6倍』と
 計算していた。
  IMF(国際通貨基金)と、CIA(中央情報局)は
 『約4倍』と計算していた。
  そして、その後、2007年秋まで、世界銀行、IMF、
 CIAは「中国に実質経済規模は名目GDPの約3倍」
 と計算した(これが妥当と判断されていた)
  しかし、2007年12月に、新たに世界銀行の総裁になっ
 たロバート・ゼリックは、世界銀行とIMFに、「中国
 の実質経済規模を、名目GDPの『2倍』と計算せよ」と
 要求した。
  それは、それまでの『3倍』という計算方法を使ってい
 ると、3年後の2010年には、「中国の経済の実質規模が、
 アメリカ経済の実質規模を凌駕(りょうが、他のものを
 越えてそれ以上になること)してしまう」という理屈だ
 った。
  そうなると・・アメリカ外交の威信の低下と、影響力
 の低下と、そして、恫喝力の低下を恐れてのことだった。
  それ故に、実際の「実態が隠された」。
  相変わらず、世界の認識は、「アメリカが世界一」の
 経済大国であった。
  だから、世界一の軍事大国でもあるというイメージが
 世界中に維持された。
  しかし、この隠し事は、薄々、世界が分かる所となっ
 て来た。
  世界の中には、表立っては言わないけれど・・、
  「21世紀は、中国の世紀だ」と考えて、アメリカを今
 までよりも軽視し、中国になびくという国も・・という
 状況にある。
  そして、その現実が、実態が・・起こすこと、波及す
 る事は・・、
 「アメリカによるIMF支配体制が崩れる」ということ。
  アメリカのIMF体制は・・、
  「世界一の実質経済規模だからアメリカだけがIMF
 の拒否権を持つ」という何だか分からないシステムがあ
 る。
  アメリカは、これによって、だいぶ、得をした。
  外交的にも、脅迫的に使えるという道具ともして来た。
  中国には、「シルクロード経済ベルト」として活性化
 する事を目指す「一帯一路」構想(2014年11月、習近平
 総書記が提唱)があり、
  その前年の2013年に、中国が提唱し、主導する形で、
 アジアインフラ投資銀行(AIIB)が発足していた。
  そして、2015年に、国際機関として創設された。
  2016年1月16日に開業式典を行い、57ヶ国の創設メンバ
 ーとして発足した。
  そして、2017年3月には、日米が主導するアジア開発銀
 行の67ヶ国を上回る・・70ヶ国となった。
  そして、さらに85ヶ国~90ヶ国へ拡大が見込まれてい
 る。
  日本とアメリカは、参加を見送っている。
  創設時の資本金は1000億ドル。
  本部は、中国の北京市にある。
  イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、韓国、ロシ
 ア、ブラジル、エジプト、スエーデン、フィリピン、デ
 ンマーク、クウェート、マレーシア、ポーランド、南ア
 フリカ、タイ、カナダ、ベルギー、香港、エチオピア、
 ペルー、ベネズエラ、バーレーン、ギリシャ、チリ、ボ
 リビア、ルーマニア、アルゼンチン、トンガ、マダガス
 カル・・などが加盟している。
  参加申請が拒絶された国:北朝鮮・中華民国(台湾)
  中国には、この他にも、2014年末に創設した「シルク
 ロード基金」というものがあり・・、
  これによって・・中国のアジアにおける影響力の強い
 経済圏を構築しようと目指している。
  2015年4月に決定された「パキスタンの水力発電所の建
 設事業」が第1号案件となった。
  ここから、中国の台頭と、アメリカ時代の終焉が見え
 る・・・・が・・
  2017年8月16日の読売新聞には・・
  アメリカは、「通商法301条」という法律の伝家の宝刀
 を、中国に対して抜こうとしている。
  この法律は、「貿易相手国の不公正な取引慣行に対し
 て当該国と協議することを義務づけ、問題が解決しない
 場合の制裁について定めた条項の強化版」で・・、
  この法律をちらつかされて、色々と、日本も、嫌とい
 うほど痛み付けられた。
  アメリカの対中国貿易赤字の削減は、トランプ大統領
 の公約の一つでもあるが、
  北朝鮮の貿易の9割を行なっている中国の、北朝鮮への
 対応が効いていないため、相変わらずの北朝鮮となって
 いることも、これに絡んでいる。
  中国からは「明らかに嫌がらせだ」との声や、「強硬
 対決だ」の声も出ている。
  何しろ、米中貿易総額は、57兆円規模である。
  今、中国は、6年連続して成長速度が減速し続けている。
  アメリカのかつての立場は明らかに変わっている・・
  その重大な転機における課題に取り組んでいるトラン
 プ大統領・・
  そのトランプ下ろしをやるアメリカは・・、
  現時点が・・その様な時ではないという『深刻な事情』
 に目を向けるべきだ。
.
2015年、存立危機事態:(そんりつきき‐じたい)
  日本が、集団的自衛権を行使する際の要件の一つで、
  「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が
 発生し、
  これにより、我が国の存立が脅かされ、
  国民の生命、自由、及び、幸福追求の権利が根底から
 覆される明白な危険がある事態」・・をいう。
  平成27年(2015年)に成立した平和安全法制で事態対
 処法に規定した。
.
2017年、かつて、世界の工場だったイギリスが、働かなく
 なって・・、
  「イギリス病」と世界から揶揄(やゆ、なぶる、嘲弄・
 ちょうろう)され、批難され、蔑(さげす)まれた。
  世界の工場の座を降り、金融という座わっているだけ
 で稼げる仕事をする国になった。
  今、アメリカが、その様な道にある。
  情報を操作して、世界のトップの様な顔をしているが、
 実際は、とうの昔に、中国に抜かれている。
  この基本中の基本のデータが繰られ、真実が伝わって
 いない。
  アメリカの時代はとうの昔に去っている。
  中国は、この陰の存在にいつまでも居ないだろう。
  アメリカも、キリスト教の様に、すでに終わった状態
 になっている。
.
2017年、中国の超急速な軍拡。
  2020年頃、アメリカは、中国に抜かれ、「米中逆転」
 が起きる事が確実視されている。
  中国の軍事予算は、何と、この20年間に二ケタの『超
 ハイ・ペース』で拡大して来た。
  その結果、米中逆転が確実視されているのである。
  2000年17%、2001年16%、2002年21%、2003年17%、
  2004年12.5%、2005年15%、2006年13.5%、
  2007年18.5%、2008年17%・・・、
  中国の実際の国防予算は、この公開されている数字の
 何と! 『2倍~3倍』と言われている。
  このパワー・バランスが逆転するという事は・・、
  米中が逆転するという事は・・、
  日本にとって「生きるか、死ぬか」という重大な問題
 なのである。
  軽く考えていてはいけないのである。
  加計学園問題などなんかに関わっていられない状態な
 のである。
  生き残る道を・・講じよ!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive



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# by suba28 | 2017-08-22 03:30 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)546E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)

題:(増補版)546E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年、出来事:
・内閣総理大臣:松方正義(第一次松方内閣)
  1891年5月6日~1892年8月8日
・(氷川清話)松方内閣第三会議
・内閣総理大臣:伊藤博文(第二次伊藤内閣)
  1892年8月8日~1896年8月31日
  伊藤博文が、再び、内閣を組織し、陸奥宗光とのコン
 ビで条約改正、日清戦争の遂行をした。
  明治天皇陛下の信任が厚く、詔勅によってしばしば政
 局の危機を乗り切った。
・(氷川清話)伊藤内閣第四会議。
・(氷川清話)品川内相、選挙干渉事件
・(氷川清話)予戒令
・陸軍省陸地測量部(日本陸軍参謀本部の外局)が、5万
 分の1地図の作成を開始した。
 この部は、1888年(明治21年)5月14日に、陸地測量部條
 例(明治21年5月勅令第25号)の公布とともに、参謀本部
 の一局であった位置付けから本部長直属の独立官庁とし
 て設置された(存続:1891年~1898年)
 5万分の1地形図は、1890年(明治23年)から整備が始ま
 り、1916年(大正5年)に全国整備が完了した。
.
1892年、データ:
・日本の総人口:40,508,000人
・紡績工場の数:39
・天然痘の死者:8409人
.
1892年、物価:
・氷1貫目:9銭~14銭
.
1892年、経済・金融・産業・貿易:
・上野不忍池畔で行なわれていた共同競馬会社が経営難の
 ため解散した。
 共同競馬会社主催で、不忍池を周回するコースで行われ
 ていた。
 馬券は発売されず、ギャンブルとしての開催ではなく、
 屋外の鹿鳴館ともいうべき祭典で明治天皇をはじめ華族、
 政府高官や財界人を含む多くの観衆を集め華やかに開催
 された。
 イギリスで競馬は貴族の社交の場であったことをそのま
 ま取り入れた。
 収入は、会費、入場料、天皇陛下からの下賜金、宮内省・
 農商務省・陸軍省からの支援に頼っていた。
 しかし、赤字で、1886年(明治19年)からは一場所二日の
 開催となり、賞金額も減っていった。
 経営難のため1892年の秋場所を最後に終了した。
・長崎半島の西沖合に位置する高島炭坑の南洋井坑が終掘
 した。
 1986年(昭和61年)11月27日、105年にわたる高島炭坑が
 幕を閉じた。
 日本の明治の産業革命の立役者だった。
 日本に、最初に、外国資本と蒸気機関を利用する外国技
 術が導入された最先端の海底炭田を掘る炭坑だった。
 欧米諸国の蒸気船にも石炭補給する拠点だった。
.
1892年、交通:
・碓氷峠でアプト式機関車の試運転をおこなう(群馬)
 横川駅~軽井沢駅間アプト式鉄道に使用するためドイツ
 からエスリンゲン社製C形ワルシャート弁装置付アプト式
 蒸気機関車4両を輸入した。
 東京~新潟間の全線開通を強く望まれる中、急こう配の
 峠越えの方法に難関があった。
 種々の方法が検討される中、視察したドイツのハルツ山
 鉄道を参考にしてアプト式を用いることが提案され、
 1891年2月、最短ルートの中尾線ルートをアプト式で建設
 することが決定された・・そして・・
 1891年3月24日に起工された。
 1892年12月22日、着工より1年9ヶ月という驚くべき短工
 期で、500人あまりの尊い人命が捧げられ、その犠牲者の
 お蔭で工事は完成した。
・日本郵船が、根室国花咲より択捉島への試航に成功した。
 千島航路は、天候の厳しい冬季間、航海途絶し、千島諸
 島の食糧欠乏するため、北海道庁は補助金を出し、試航
 者を募っていた。
 しかし、応募者は無かった・・そこで、日本郵船の創業
 時の会社・三菱会社に対し花咲港~択捉島単冠湾(ヒト
 カツプ)の冬季航海が交渉された。
 そこで、三菱会社は、損益にかかわらず就航したいとし、
 補助金1300円をもって、1892年(明治25年)2月、播磨丸
 (677トン)にて試航し、成功した。
 そして、引継き就航した。
 根室は、日本の領土のオホーツク沿岸地区、並びに、千
 島諸島の中心基地となり、海産物の一大集散地として大
 正末期頃まで釧路を凌いだ。
 また、日本郵船は、北海道より日本領土の樺太に渡る航
 路を開始した。
・大垣停車場構内に、機関車庫が設置された。
・横浜駅に貨物ホームが新設された。
.
1892年、衣:
・雪駄が芸人、洒落者の間に大流行し、また、女物のしゃ
 れた下駄も流行る。
・襟巻に毛糸製品が多くなる(年末から)
・ゴム細工の花かんざしが現る。
・大坂の森田利兵衛がカバン類の口金製造を始めた。
・アメリカからワニ革製品が輸入された。
.
1892年、食:
・アサヒビールが発売された(大阪麦酒会社)
 アサヒビールの創業は1889年。
 鳥井駒吉が大阪府大阪市で「大阪麦酒会社」設立。
 1891年、大阪府島下郡吹田村(現・吹田市)に「吹田村
 醸造所」竣工。
 そして、1892年、「アサヒビール」発売。
 設立当初は「朝日麦酒」ではなく「旭麦酒」と表記され
 ていた。
 1884年(明治17年)からビールを製造していた、小西儀
 助商店からブランド名を譲ってもらったとの説がある。
 大阪麦酒のブランド名「旭」は、1884年(明治17年)から
 大阪で朝日ビールを発売していた薬種問屋の小西儀助が、
 1888年(明治21年)に、鳥井駒吉らの計画を知ると、自
 らビール事業から手を引くことを決め、そのブランド「
 朝日」を設立予定の大阪麦酒に譲り、同社はこれを「旭」
 として引き継いだ、ともいわれている。
 また、小西儀助が大阪麦酒の役人に「もし御入用やった
 らうちの商標を使うておくれやす」と言ったという、大
 日本麦酒大阪支店の大森寅之進の聞書による記録もある。
・安価な支那卵の輸入が始り、内地養鶏は大打撃を受ける。
 支那(当時の中国)からの卵の輸入量は、1921年には、
 日本の国内消費量の32パーセントを占めるまでになった。
 日本政府は、「鶏卵自給増産計画」を立て、官民一体と
 なって取り組んだ。
 その結果、輸入はゼロとなり、国産卵の輸出ができるま
 でになった。
 今・現在は、液卵・粉卵の形で、アメリカ・オランダか
 ら輸入され、殻付き卵の換算で5%前後となっている。
 輸入関税は20%前後。
 (日本の鶏卵業者は善戦している・・しかし、関税がな
 くなれば??となる・・TPPは消えたようだが?)
.
1892年、住:
・東京浅草に陶器製の標札を考案、専売特許をとるものあ
 り、この年、陶器製標札発売。
・箱根電燈所が開業した。
 この年、関東地方初の水力発電所である湯本湯端発電所
 で運転を開始した。
 発電機は三吉電機製で、この発電所は、一時、三吉正一
 の個人所有であった。
 三吉 正一(みよし しょういち、 1853年12月(嘉永6年
 11月)~1906年(明治39年)3月24日)は、明治中期の日
 本の技術者で、日本初の電気機器製造会社である三吉電
 機工場を経営し、電気機器の国産化を図った。
.
1892年、報道:
・新聞創刊、萬朝報(11月1日)を黒岩涙香が創刊した。
 萬朝報(よろずちょうほう)は、明治・大正期の有力新
 聞で・・、
 紙名は「よろず重宝」のシャレから来ている。
 1892年(明治25年)11月1日、都新聞(後の東京新聞)を
 辞した黒岩涙香(るいこう)が東京で創刊した日刊紙。
 「簡単、明瞭(めいりょう)、痛快」をモットーに、黒岩
 の翻案小説、名士の私行摘発(蓄妾(ちくしょう、妾を囲
 っておくこと)実例暴露など)と、キャンペーン(相馬家
 の御家騒動、蓮門教攻撃など)で大衆の関心を集める、
 日本におけるゴシップ報道の先駆者・・、
 権力者のスキャンダルは執拗なまでに追及し、醜聞記事
 でも売り出した。
 「畜妾実例」では、権力者であろうと官吏であろうと妾
 を暴露し、実名年齢や妾の父親の実名職業まで記載した。
 第三面に煽情的な社会記事を取り上げたので「三面記事」
 という語を生んだ。
 低価格政策と相まって、東京第一の発行部数を獲得した。
 日露開戦の気運が高まると、内村鑑三、幸徳秋水、堺利
 彦らが非戦論を展開、注目を集めたが・・、
 1903年(明治36)秋になって、開戦気運が濃くなると「
 萬朝報」も開戦論に転向した、
 内村、幸徳、堺は10月9日社を去った(12日掲載の3名の
 「退社の辞」は有名)
 この頃から、黒岩は、「英文欄」を新設、趣味、文芸、
 科学、思想記事など豊富に掲載したため、学生間に人気
 を集め、読者を増やした。
 大正に入り、憲政擁護運動、シーメンス事件などで反藩
 閥の鋭い論調を張るが・・、
 1920年(大正9)10月、黒岩が亡くなり凋落の道へ、
 1923年9月の関東大震災で被災してから急速に勢威を失い、
 昭和に入ると経営者の交替、社内の分裂相次ぎ、
 1940年(昭和15年)10月、戦時新聞整備計画もあって廃
 刊された。
・議員たち、大臣や役所の悪口は言いたいほうだい。自分
 が言われると告訴とは、なんだ(東京日日)
・衆議院、侮辱する記事を掲載したと、東京日日新聞の告
 訴を決議する。
・政府、予戒令を公布。粗暴の言論、集会の妨害などを禁
 ず(官報)
・民党は、「民力休養・経費節減」を唱え、軍艦建造費な
 どを削除しようとした。
 政府は解散を命じた。
 しかし、この年・2月15日の第2回総選挙で、民党が過半
 数を占める結果となった。
 8月8日、第2次伊藤内閣が成立した。
.
1892年、歌・流行・世相:
・演劇:市村座が新築開場した。
 下谷二長町(にちょうまち)に移転した。
 1932年(昭和7年)5月、焼失して廃座となった。
 1634年(寛永11年)に、村山座として日本橋葺屋(ふき
 や)町に創立された歌舞伎劇場で江戸三座の一つ。
 この座が大道具や絵看板などを始めたと言われている。
 6世尾上菊五郎・初世中村吉右衛門らの若手が時代を掴ん
 だ。
・演劇:三遊亭円朝、「塩原多助一代記」初演
・演劇:三遊亭円朝、「怪談・牡丹灯籠」初演
 (さんゆうていえんちょう、1839年~1900年・明治33年)
 落語家。江戸生まれの江戸人。
 近代落語の祖と言われる。父は落語家の橘屋円太郎。
 師の円生の厳しいいじめが刺激となり、創作を志し、第
 1作「累ケ淵後日の怪談」を高座にかけた。
 1884年(明治17年)、速記術普及のため「怪談牡丹灯籠」
 を速記本として刊行し、以後、次々と円朝の口演したも
 のが活字となって普及し、多くの家庭で読まれ、言文一
 致体小説へ影響を与えた。
 最後は、芸境も高みに達したが、1891年(明治24年)、
 席亭の横暴に抗議して寄席より退いた。
 一時、復帰したが進行性麻痺と続発性脳髄炎のため・・
 61歳で明治33年・1900年に没す。
・帝國通信社が創立された。
 1892年5月に創立された、改進党系の通信社。
 この頃、群小通信社が乱立し、厳しい競争に晒された。
 1929年3月に破産宣告を受けた。
・読売新聞の美人読者投票(十六名媛)
 1892年3月18日、読者投票による「十六名媛」を発表した。
 村松志保子女史は選ばれた一人・・トップ当選だった。
 現在も誇るべき明治の自立した助産師だった。
 女学校・産婆学校を設立した。
 1856年(安政3年)沼田藩御殿医の長女として生まれ、
 男兄弟三人は幼くして亡くなり、女医になる決心をした。
 沼田藩別邸(墨田区)で、父に東洋医学を学び、針術を
 修め、医術の研鑽を深めた。
 安生堂産婆学校を設立し、豊かな教養を身につけた産婆
 育成に尽力し、
 また、安生堂医院では、貧困者に無料施療入院を実施し、
 母子のために保健福祉的な慈善活動を展開した。
・正岡子規、「獺祭書屋俳話」
 獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)は、子規の俳句
 論で士気の俳句革新運動の端緒となった俳論・・先日、
 38年ぶりに対馬で日本カワウソが発見されたが、
 獺祭は、カワウソ(獺)が、捕らえた魚を供物に並べ先
 祖を祭る様を指し、カワウソは捕らえた魚を川岸に並べ
 る習性があり、これを祭儀になぞらえた。
  転じて多くの書物を調べ、引用する人の様を指し、子規
 の命日である9月19日を獺祭忌と呼ぶ。
・森鴎外・小金井喜美子、「美奈和集」
 森鴎外の作品集(森鷗外作・訳)。1892年刊。
 小説「うたかたの記」「舞姫」「文づかひ」の三部作の
 ほか、初期翻訳作品、付録に新声社訳「於母影」を収録
 している。
 後に改定して改訂版は「水沫(みなわ)集」と改題した。
 小金井喜美子(1870年~1956年)は、翻訳家・小説家で
 随筆家・歌人。
 島根県津和野の生まれ、本名はキミ。
 森鴎外の妹で、1881年、東京女子師範付属女学校卒業後、
 東大人類学教授・小金井良精(よしきよ)と結婚。
 翌年、鴎外らとともに訳詩集「於面影」を発表した。
 レールモントフの「浴泉記」の翻訳で知られ、著「森鴎
 外の系族」「鴎外の思ひ出」などがある。
・中江兆民、「四民の目ざまし」
 中江兆民(1847年~1901年)は、明治期の思想家で民権
 運動家だった。土佐藩の足軽の子として生まれ・・年少
 より学に親しみ・・、
 1865年(18歳)、藩給費生として長崎に留学した。ここ
 でフランス学に接し、土佐藩の坂本龍馬に私淑(ししゅ
 く、尊敬する人に直接には教えが受けられないが、その
 人を模範として慕い、学ぶこと)した。
 1867年(20歳)、江戸に遊学し、フランス学を習得した。
 1868年(21歳)、箕作麟祥の塾に学び、大学南校(東京大
 学)でフランス学を講義した。
 1871年(24歳)で、岩倉遣外使節団同行の司法省派遣留
 学生になり、岩倉使節団とともに渡欧し、フランス留学
 で哲学、文学、史学を学んだ。
 1874年(27歳)帰国し、東京番町に仏学塾を開く。
 1875年(28歳)東京外国語学校校長、まもなく辞職し、
 元老院権少(ごんのしょう)書記官をつとめるが、
 1877年(30歳)、元老院を辞した。
 以後、在野で活躍。
 1881年(34歳)、西園寺公望(きんもち)主宰の「東洋自
 由新聞」を創刊し、主筆となった(政府の干渉で廃刊)。
 1882年(35歳)、仏学塾より雑誌『政理叢談』を刊行し、
 西欧近代思想を紹介した。
 ルソー著『社会契約論』の翻訳し、また、注解した「民
 約訳解」の連載は政治青年層に大きな影響を与え、「東
 洋のルソー」と渾名(あだな)された。
 1886年(39歳)、大同団結運動に参加した。
 1887年(40歳)、『三酔人経綸問答』で鋭い政治分析、
 展望を試みた。
 三大事件建白運動に関与、封事を執筆、
 1887年12月(40歳)、保安条例で東京を追放され、大阪
 で『東雲(しののめ)新聞』を創刊して主筆。反政府、
 自由民権の論陣をはる。
 1890年7月(43歳)、第1回衆議院議員総選挙で当選し、
 衆議院議員となり、立憲自由党に加盟、『立憲自由党新
 聞』の主筆となる。
 第一議会の予算問題で、自由党土佐派が妥協したのを憤
 慨し議員を辞職(1891年・44歳)、雑誌『自由平等経綸』
 を創刊する。
 1891年7月(44歳)、小樽の『北門新報』に招かれ、北海
 道の小樽へ移り、小樽初の新聞である『北門新報』を創
 刊して主筆を務める。
 『北門新報』の社主は金子元三郎で、金子は日本へ亡命
 していた朝鮮人革命家・金玉均を介して兆民を紹介され
 たとする説もある。
 1892年(45歳)、『北門新報』は札幌へ進出しているが、
 兆民は『北門新報』を退社すると高知へ赴く。
 1892年1月17日(45歳)、母の柳が死去している。
 1892年2月15日(45歳)、衆議院が解散され、第2回衆議
 院議員総選挙となり、兆民は東京へ向かうと、仏学塾出
 身で長野県五区から立候補した小山久之助・長野県三区
 から立候補した堀内賢郎を応援するため長野県まで赴い
 ている。
 なお、第二回総選挙では小山・堀内両人とも落選した。
 1893年(46歳)、兆民は札幌で「高知屋」を開業する。
 1893年(46歳)大阪に戻り、実業に手を出すが・・結果
 的に実業は失敗した。
 1897年(50歳)、国民党を結成したが不調。
 1900年(53歳)、国民同盟会に参加。
 1901年(54歳)、食道がんを発病、病床で合理主義・唯
 物論の中江哲学の骨格を記した随想集『一年有半』『続
 一年有半』を執筆し、遺稿となった。
 1901年12月13日死去。55歳。
 <著作>『中江兆民全集』全18巻
 <参考文献>桑原武夫編『中江兆民の研究』
・竹越与三郎、「新日本史」
 (たかごしよさぶろう、1865年~1950年、85歳)政治家、
 歴史家。
 「国民新聞」などの記者として活躍。
 西園寺公望らに知られ、雑誌「世界之日本」主筆。
 1902年(37歳)以後、衆議院議員
 1923年(58歳)、貴族院議員
 1940年(75歳)、枢密顧問官と、政友会代議士・枢密顧
 問官などを歴任した。
 著「新日本史」「日本経済史」「二千五百年史」など。
・ 「即興詩人」(作:アンデルセン/訳:森鴎外)
 デンマークの作家・アンデルセンの長編小説。
 アンデルセンが、1833年~1834年のイタリア旅行中、そ
 の芸術と風景に触れ、情熱と市場を掻き立てられ、帰国
 してから書き上げられた(1835年刊)
 自伝的要素を多く持ち、ローマで生まれた主人公アント
 ニオが苦しい修業時代を経て詩人となる。
 即興詩を得意の芸として諸国を放浪する詩人の恋愛と友
 情と成功の物語。
 森鴎外による翻訳が《しからみ草紙》《めさまし草》に
 連載され(1892年~1901年)、その訳文自体が明治浪漫
 主義の代表作とされている。
・指原安三、「明治政史」
 (さしはら やすぞう、1850年~1903年、53歳)、新聞記者、
 評論家、漢学者。
 豊後国臼杵藩(大分県)藩士の子に生まれる。
 幼少時に父を失い、苦学する。
 大阪府巡査を経て上京し、二松学舎、同人社に学び、共
 立学舎幹事となり、漢文を教授。
 機関誌『保守新論』の編集長を務め、国権論を唱えた。
 「明治政史」を刊行した後には、陸軍幼年学校、陸軍学
 校教官を務めた。
・古在由直、「足尾銅山鉱毒研究」
 (こざいよしなお、1864年~1934年、70歳)農芸化学者
 京都出身の東京帝国大学農科大学教授で、後に、東京帝
 国大学総長となった。
 農芸化学的研究のほか、足尾鉱毒事件の学術的調査を行
 い、銅山の銅が土壌を侵していることを証明した。
 助教授時代からの足尾銅山の鉱毒の調査によって、被害
 の原因が銅山にあることを追及し続けた。
 足尾鉱毒事件の発生初期から、鉱毒被害農民の救済の懇
 願と依頼により、同僚の長岡宗好とともに、1890年(26
 歳)初めて、被害原因を科学的に分析し、河水中から銅
 の化合物を検出した。
 (結果は1892年・28歳「足尾銅山鉱毒研究」として「農学
 会会報」16号に発表した)
 1895年(31歳)、ドイツに留学し、牛乳腐敗菌の研究で
 ドイツ学界に名声を得た。
 1899年(35歳)、農学博士
 1900年(36歳)、帰国し、東京帝国大学農科大学教授と
 なる。
 発酵化学の研究で目ざましい業績を残した。
・流行歌:「敵は幾万ありとても」
 敵(てき)は幾万(いくまん)ありとても
 すべて烏合(うごう)の勢(せい)なるぞ
 烏合の勢にあらずとも
 味方(みかた)に正しき道理(どうり)あり
 邪(じゃ)はそれ正(せい)に勝(か)ちがたく
 直(ちょく)は曲(きょく)にぞ勝栗(かちぐり)の
 堅き心(こころ)の一徹(いってつ)は
 石(いし)に矢(や)の立(た)つためしあり
 石に立つ矢のためしあり
 などて恐(おそ)るる事(こと)やある
 などてたゆとう事やある
 小山作之助作曲、
 小山作之助は、1864年に、新潟県(越後潟町村)生まれ、
 1887年(明治20年、23歳)、音楽取調掛(東京芸大音楽学
 部)全科卒業。
 東京府伝習所、東京師範学校、東京盲唖学校などを歴任
 して
 1892年(明治25年、28歳)東京音楽学校助教授
 1897年(明治30年、33歳)から1905年(明治38年、41歳)
 同校教授。
 後、同声会理事長、日本音楽協会初代会長、日本楽器会
 社顧問、文部省検定図書調査委員を務め、後進への面倒
 見がよい先生だった。
 「夏は来ぬ」の作曲家でもある。
・流行歌:「元寇」
 一、(修猷健児)
 四百余州(しひゃくよしゅう)を挙(こぞ)る
 十万余騎の敵
 国難ここに見る
 弘安四年夏の頃
 なんぞ怖れんわれに
 修猷健児あり
 正義武断の名
 一喝して世に示す
 二、(多々良浜)
 多々良浜辺の戎夷(えみし)
 そは何 蒙古勢
 傲慢無礼もの
 倶(とも)に天を戴かず
 いでや進みて忠義に
 鍛えし我が腕(かいな)
 ここぞ国のため
 日本刀を試しみん
 ・・三番、四番は略す・・
 (参考)作詞者と作曲者:永井建子
     永井建子は、日本陸軍軍楽隊士官(男性)
・流行歌:「法界節」
 春風に、庭に綻ぶ梅の花。
 鶯、止まれや。
 あの枝に。
 ささ、ホーカイ。
 そちが囀りゃ、梅が物言う心地する。
 ホーカイ、ホーカイ
 (参考)法界節(ほうかいぶし)は、明治から昭和初期
   にかけて法界屋が門付で、月琴などを演奏しつつ歌
   った曲。
   明治20年代を代表する流行歌だった。
   「ホーカイ」の意味は不明。
   原曲「九連環」の歌詞(中国語)の「不開」という字
   句をふまえるという説もある。
   「法界」は当て字。
・流行歌:「チャクライ節」
 儘になるなら チャンカンポン
 儘になるなら チャンカンポン
 桜の花に レンポンポン
 松の操が チュクライシュ
 松の操が チュクライシュ
 ちょいと持たせたい バラバラボン・・以下、略・・
 (参考)添田唖蝉坊・チャクライ武士/ 土取利行(唄・
    演奏)YouTube
・流行・趣味:メジロ、チャボの飼育
・流行:芸人の雪駄 
 (参考)雪駄:せった、底に皮をはったぞうり。
   後部に鉄片を打ったものもある。席駄(せきだ)。
・流行:パナマ帽子が流行
 (参考)パナマ帽(ぱなまぼう)は、パナマソウの葉を
   細く裂いた紐で作られる、夏用のつば付の帽子。
   日本では戦前、紳士用の正装としてカンカン帽と共
   に夏に愛用されていた。
・流行・生活:美白化粧水、石鹸がバカ売れ
・流行語:菊五郎の「…でガンス」という言い回しが流行
・流行:女義太夫綾之助が人気
 「おんなぎだゆう」の太夫の竹本綾之助は、大阪生まれ
 で、本名石井園(その)。
 10歳で東京・文楽(ぶんらく)座に玉之助(たまのすけ)の
 名で出演。
 稚児髷(ちごまげ)に振袖(ふりそで)姿の愛くるしい容姿
 と達者な語り口で満都の人気を集めた。
 初世竹本綾瀬太夫に師事すると同時に綾之助と改名、女
 義太夫全盛時代のスターであった。
 1898年(明治31年)貿易商の石井健太と結婚、いったん
 引退したが、1908年(明治41年)にカムバック。
 1910年、女義太夫再検討を図って藤菱(ふじびし)会を組
 織したが、
 1927年(昭和2年)秋をもって演奏活動を中止した。
.
  (今日の言葉)
.
 題:池上彰は、巧妙な嘘を言うから、注意を要する・・
.
2世紀、キリスト教で、神が以前より意識され出した。
  そして、神との契約ということが意識され出した。
  そして、最近、キリスト教は、『旧約聖書』をユダヤ
 教の聖書だと言い出した。
  そこには、旧約聖書を積極的にキリスト教の聖書とい
 う言い方をしない・・という意識がある。
  あまりにも、キリスト教の旧約聖書が、近代の進んだ
 社会の理解に当てはまらない・・そぐわないからで・・
  そこで・・
  キリスト教の聖書は、『旧約聖書と新約聖書だ』と、
 かつて言っていた様に言わなくなった。
  旧約聖書が、「都合が悪い聖書」なので捨てようとし
 ている。
  そのうち、「新約聖書も都合が悪くなって捨てるだろ
 う」・・が・・、
  どっちみち、キリスト教は、どうあろうと、論理的に
 成立しない宗教なのだ・・、
  その根幹の宗教論理も、その様な類いなのだ。
  種々の解説書には、また、種々の解説欄には・・、
 「キリスト教の聖書は、旧約聖書と新約聖書からなる」
 と書かれているが、そのうち、この説明は変わることに
 なるだろう。 
  「『旧約』『新約』の『約』とは、神との契約のこと
 で、2世紀頃からキリスト教徒の間で呼ばれ始めた」と
 説明されているが、『旧約』は無くなるだろう。
.
1924年、杉原千畝が、ロシア人と結婚した。
  杉原千畝は、ユダヤ人の方々へビザを発給したと美化
 されているが、
  しかし、杉原千畝には、「ビザを発給する資格が無か
 った」。
  それと、日本は、杉原だけでなく、どこの国の日本大
 使館でも、「ユダヤ人の方々へ、ビザの発給をしていた」。
  何も、杉原千畝だけが、讃美される由縁はない。
  日本のすべてが、「亡国の民」としてユダヤ人の方々
 を強く保護した。
  また、日露戦争で恩義あるユダヤ人の方々へその恩返
 しをした。
  しかし、池上彰は、「日本は、杉原千畝にビザ発給す
 るなと言った」と、テレビで解説だと称して発言した。
  国が、「ビザ発給の資格のない杉原千畝」へ、その様
 な行為は、君には出来ない行為だと言うのは当たり前な
 のである。
  これをキリスト教も利用した。
  キリスト教は卑劣だった、「日本は、三国同盟をドイ
 ツとしていたから、日本は、ドイツと同様に、ビザ発給
 をしなかった」と『二重の嘘』を言った。
 (キリスト教は、杉原千畝がキリスト教徒だとして、嘘
 をついてまでして美化をしたかった)。
  日本は、ドイツのナチスから共同行動をとってくれと
 言われたが、「きっぱりと断り、否定して」、ユダヤ人
 の方々へ、ビザを発給して助けていた。
  池上彰は卑劣である、この様な状況をしっかり説明し
 ないで、日本を貶める言い方をした。
  資格のない杉原千畝の「個人的問題」なのである。
  また、杉原千畝は、ロシア女性と結婚して、このロシ
 ア女性の父親が、ロシア政府の要職に居たことから、情
 報を得ようとした、つまり、杉原千畝は日本のスパイで
 あった。
  杉原千畝は外交官ではない、スパイの職務を持った『
 外務省職員』だった。
  外務省職員で、外交官ではないからビザの発給は出来
 ない立場だった。
  ロシアは、後に、この杉原千畝の本性(スパイ)を知
 って、杉原千畝のロシア入国を拒否するようになった。
  そこで、任務地がリトアニアに代わったのである。
  池上彰は、国民の視聴者の方々へ、間違った発言をし、
 嘘の発言をして、誤解を与えた・・その発言は、テレビ
 で謝罪し、訂正せよ!
  因みに、杉原千畝のロシアでの妻は、杉原千畝にスパ
 イされていた立場ではなく・・、逆に、杉原千畝が、ス
 パイされていた・・という、二重スパイだと言われてい
 る。
.
1945年10月9日、朝日、毎日、読売、東京、日本産業新聞へ
 の事前検閲が開始された。
  これらのGHQによる卑劣な行為は、個人の手紙や電
 信電話にまでおよび・・、
  また、検閲は、隠匿され、日本国憲法施行下にあって
 も強力に実行された。
  卑劣なGHQで・・山本武利は、手紙に進駐軍に残虐
 行為を受けたと書いた人物が、密かにGHQに逮捕され、
 軍事裁判にかけられたという事実を明らかにしている。
 (ただし、検閲に協力した人々の証言がほとんどないた
 めその実態には未解明な部分も多い)
  郵政歴史年表の昭和27年(サンフランシスコ条約の発
 効に伴い日本が主権を回復した年)に、「連合軍による
 郵便物等の検閲廃止」という記載が残されている事から、
 卑劣にも、郵便物にまで検閲を受けていた事がわかる。
  また、江藤淳は、『閉された言語空間、占領軍の検閲
 と戦後日本』という本において、GHQの政策として、
 検閲とプロパガンダ(嘘宣伝)が並立されており、プロ
 パガンダの役割を民間情報教育局が担ったと指摘してい
 る。
.
2009年真夏、民主党は、衆議院議員選挙で地滑り的な勝利
 を収めた。
  そして、「コンクリートから人へ」という・・何か聞
 こえの良い、人当たりの良い、優しそうな・・、
  そして、何か心地のよさそうな「ワンフレーズ表題」
 を掲げて・・政権交代した・・ムードに酔わされた国民
 が居た。
  しかし、その結果を先に記せば、「民主党政権の3年間
 は苦痛の極みだった」・・、
  1年ごとに首相が変わり、わずか3年という短期に合計
 3人の首相の顔が登場した。
  苦しい長い3年間だった・・民主党政治は失敗だった。
  鳩山首相が訪米した時のことが思い出されるが、世界
 が注視するオバマ大統領との記者会見で・・、
  鳩山首相が、「トラスト・ミー Trust me(私を信じて
 くれ)」と言ったとき、オバマ大統領は、一瞬、凍りつ
 き、嫌な顔をし、きまづい雰囲気の両首脳の記者会見が、
 なお一層、程度の低い暗い状況にさらされた。
  世界の記者たちが居並ぶ、眼の前の壇上で、オバマ大
 統領と並ぶ日本の鳩山首相が、何か言いたそうに、もじ
 もじしたから、オバマ大統領も何か言いたいのだろうな
 と、身体を傾け、耳を鳩山首相に近づけた・・その時に
 出た鳩山首相の言葉だった・・「私を信じてくれ」・・。
  その時のオバマ大統領の呆(あき)れた顔が、世界の
 記者たちの目にする所となった・・人間的に完全に「ア
 ウト」の瞬間だった。
  民主党政権がやったことは、結局、財源もないのに無
 理に、「高校を無償化にする」とか、「就学支援金支給」
 とか、甘言の目白押しだった。
  しかし、この民主党の政権になる前の麻生政権は・・、
 2009年度の補正予算で、全国5000棟の小中学校の耐震化
 を目的に2800億円を計上していた。
  しかし、民主党政権に代わり・・この民主党政権は、
 「事業仕分け」なる名の下に、この麻生政権の政策を台
 無しにした、有名無実と化した。
  「コンクリートから人へ」のとばっちりを受けた。
  その結果は悲惨だった。
  それを表わす証拠が、つい先日の2017年8月6日の読売
 新聞が報じていた。
  「小中学校の6割が、避難所に使えない」と報じている。
  つまり、それは、『老朽化対策を実施するのが遅れた
 から』と指摘していた。
  民主党政権が、止めて・・やらなかったからである。
  記事は・・、
  「全国の公立小中学校の校舎や体育館の約6割が、今後
 15年間で、災害時の避難所としては使用できなくなる可
 能性があることが分かった。
  老朽化への対応が遅れているためだが、このところの
 地震や豪雨災害などで避難所の使用頻度は上がっており、
 政府や自治体の対応が急務になっている」・・と報じて
 いる。
  しかし、この民主党政権より強い緊縮政策をとるとい
 う石破氏・・
  景気は縮(ちぢ)んで・・景気が後退し・・不景気が
 来るだろう・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-08-20 03:10 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)545E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年12月~1891年12月)

題:(増補版)545E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年12月~1891年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年12月24日、議会本会議で、私設鉄道買収法案が否決
 された。
  欧米列強に追い付きたいという日本には必要だとして
 建議された私設鉄道買収法案が否決された。
  将来の日本の幹線鉄道路線を決定するため・・、
  政府は、そのための長期計画を立案し、着実に建設を
 行なうための法律、および、資金を得るための公債発行
 の法律が必要・・、
  そして、その幹線鉄道網の一環となる私設鉄道を、政
 府が買収することとした構想の一つが否決された。
1891年12月25日、日本初の衆議院解散。
  民党主張の予算案削減案が可決され、松方内閣は、衆
 議院を解散した(最初の議会解散が断行された)
1891年12月25日、衆議院が解散となったため、鉄道公債法
 案が廃案となった。
1891年12月28日、大隈重信が、立憲改進党に再入党し、代
 議士総会長に就いた。
1891年12月29日、エジソンが、電気的な信号伝送(ラジオ)
 に関する米国特許を取得した。
  因みに、現在、放送されているラジオ方式は、この後、
 また別な発明家が発明したもの。
1891年12月30日、鳥取県淀江町大火(2600戸焼失)
1891年12月30日、文武判任官等級表公布(勅令第249号)
  判任官(はんにんかん)は、明治時代から第二次世界
 大戦敗戦までの官吏の身分上の等級をいい、属官ともい
 う。
  1869年(明治2年)官吏を勅任官、奏任官、判任官に区
 分し、ついで、
  1871年、官等一五の制を定め、三等以上を勅任、七等
 以上を奏任、以下を判任とした。
  判任官については、1886年、および、1911年(明治44
 年)の判任官官等俸給令によって詳細な規定がたてられ
 た。
  判任官は、天皇陛下が官庁に任免を委任するもので、
 高等官(勅任官、奏任官の総称)の下に置かれ、一等か
 ら四等に分けられ、各省大臣、府県知事の権限により任
 免された。
  第二次大戦敗戦後、1946年(昭和21年)公布の官吏任
 用叙級令によって三級官と改称されたが、
  1949年の人事院規則によって廃止された。
1891年12月、法制局長官・尾崎三良『鉄道国有論』刊行
  尾崎三良(おざきさぶろう、1842年3月3日~1918年10
 月13日)は、幕末~明治時代の官僚で、政治家。
  1842年(天保13年)1月22日、山城国(京都市西院)に
 尾崎盛之の第4子として生まれ、
  1862年(文久2年)三条家家臣・戸田造酒の養孫とな
 り、以後、三条実美(さねとみ)の側近としてにつかえ、
 幕末の国事に奔走する。
  特に、三条ら七卿の都落ちに従って、長州から大宰府
 まで同行したが、この時の人脈が、尾崎の官界、政界で
 の同志を形成した。
  1868年(慶応4年)、三条実美の子・公恭(きみやす)に
 したがい、イギリスに留学し、法律を中心に勉学に励ん
 だ。
  これは、後の、法制官僚としてのキャリアにつながっ
 た。
  1873年に、帰国してからは、太政官左院、法制局、参
 事院など、法令実務に携わり、井上毅と並び称された。
  一時、元老院議官に転じたが、再び、政府に入って、
  1890年、参議院議員・・、
  1891年(明治24年)、第一次松方内閣で法制局長官を
 務めた。
  1896年に、男爵を授けられたころから、実業界で尽力
 した。
  しかし、中心となって活動した京釜鉄道建設事業が政
 府主導となる1903年には、自然引退の形となった。
  1918年(大正7年)10月13日、逝去した(77歳)
 ☆:鉄道国有化に関する・・これまでの動き・・、
  日本の鉄道は、創業以来、官設官営を基本方針とした。
  これは、草創期の日本の鉄道行政を頂点に立って牽引
 した井上勝が、熱心な鉄道国有論者であったことが大き
 かった。
  しかし、政府は、財政窮乏により、鉄道をすべてを官
 設官営で建設運営することは不可能で、やむなく、民営
 鉄道に幹線鉄道建設の一部を委ねざるを得ないことにな
 ってしまった。
  そのため、井上は、機会あるごとに、自説の鉄道国有
 論と私設鉄道買収を説き、鉄道国有化法案も、再三、国
 会に提出されたが、井上が退官する1893年(明治26年)
 までにそれが可決されることはなかった。
  政府の財政を窮乏させる原因となったのは、西南戦争
 による過大な戦費支出とともに、清国の軍事費投入の過
 大化に対処する必要性があった。
  これにより、鉄道建設のための予算がなくなり、それ
 までに完成していた京浜間、京阪神間鉄道を民間に売却
 して、その代金により新線建設を行なおうという案まで
 出るほどだった。
  鉄道網速成の方針と、財政窮乏のジレンマが、幹線鉄
 道建設の一部を民間に委ねるという方針転換をさせるこ
 とになった。
  こうして、1881年(明治14年)、日本初の私設鉄道、
 日本鉄道が設立された。
  1883年(明治16年)、井上は、工部卿宛てに意見書「
 私設鉄道に関する論旨」を提出し、この中で、鉄道の用
 途は国道と同様であって、これを民営に委ねるべきでな
 いことを原則とし、民営に委ねた場合に発生する、無用
 の競争や改良努力の怠慢など8項目の弊害を挙げた。
  一方、政府の手厚い保護を受けていた日本鉄道が、当
 然の好調な決算を発表すると、各地で、私設鉄道設立ブ
 ームが起きた。
  1884年(明治17年)阪堺鉄道や、
  1887年(明治20年)の伊予鉄道を皮切りに、
  両毛鉄道、山陽鉄道、水戸鉄道(初代)、九州鉄道(
 初代)、大阪鉄道(初代)などが認可され、
  それまでの官設官営の原則が崩れて、日本の幹線鉄道
 は、官設・私設の両方により建設されることとなった。
  しかし、中には無謀な計画や投資を誘発したものもあ
 った。
  これは、1890年(明治23年)の経済恐慌となってはね
 返り、建設工事の停滞や株式払込みの遅滞、既設私設鉄
 道の経営の悪化を招いた。
  この状況は間もなく回復したが、このような状況の中
 で、1891年(明治24年)、井上は、「鉄道政略に関する
 議」を上申した。
  この上申書で、従来からの鉄道国有論に加えて、既設
 私設鉄道の買収を前面に押し出した。
  そのための私設鉄道買収法の制定が必要であると説い
 た。
  この上申書を契機として、政府は、再三、鉄道公債法
 と私設鉄道買収法を帝国議会に提出したが、いずれも可
 決されず。
  1892年(明治25年)に、買収法案に大幅な修正を加え
 た鉄道敷設法が制定された。
  しかし、これは、予定線建設のために必要がある場合
 のみ、私設鉄道の買収ができ、さらに、議会の協賛を必
 要とする、将来の国有化の可能性をにおわせながらも、
 実際は、予定線の民間による建設を容認するなど、議会
 を構成する私設鉄道の株主でもある華族や資本家、地主
 たちによって骨抜きになった。
  これに憤慨した井上は、翌年・1893年、退官した。
  井上の鉄道国有論に対抗して鉄道民営論を唱えたのは、
 渋沢栄一や田口卯吉、中上川彦次郎、三井や三菱などの
 財界の有力者たちであった。
  資本主義の発展にともなって、鉄道経営が大きな利益
 をもたらすとともに、産業と鉄道との間に密接な関連性
 があることをよく認識された。
  渋沢らが関わる東京経済学協会が1891年に発表した「
 鉄道調査報告書」に掲載された佐分利一嗣の論文では、
 鉄道国有化論に対する反証を一々あげて論じ、「将来の
 鉄道は、私設民営たるべし」という結論を導いた。
  続いて、渋沢らは、1894年(明治27年)に、官設鉄道
 払下計画を立案し、一挙に、理想とする鉄道民営を実現
 させたいとしたが、日清戦争の勃発にともない、計画は
 頓挫した。
  その後、鉄道国有化が政治課題となるのは、1899年(
 明治32年)だった。
  衆議院に「鉄道国有に関する建議案」が提出され、可
 決された。
  調査期間として、首相直属の鉄道国有調査会が設置さ
 れた。
  そして、その報告に基づき、翌年・1900年、鉄道国有
 法案、および、私設鉄道買収法案が帝国議会に提出され
 たが、これも議決されることはなかった。
1891年12月、春木座の新築落成して、四日より開場。
 八百蔵、猿之助、勘五郎、芝鶴らが出演。
  東京都文京区本郷3-14 に本郷座跡というのがある。
  本郷座(ほんごうざ)は、明治初期から戦前昭和まで
 あった劇場で、はじめ奥田座(おくだざ)と言い、次い
 で、春木座(はるきざ)といった。
  本郷座は、1873年(明治6年)7月11日、本郷の地主・
 奥田某が開場させた。
  そして、1876年(明治9年)に、所在地の名を取って
 春木座と改名し、主に歌舞伎を上演し、
  1884年(明治17年)頃には、九代目市川團十郎や五代
 目尾上菊五郎らが出演して活況を呈した。
  1885年(明治18年)から1886年(明治19年)にかけて、
 三田村熊吉の鳥熊芝居を上演した。
  1890年(明治23年)に、本郷大火で類焼した。
  1891年の翌年に、新築開場したが、
  1898年(明治31年)に、また類焼してしまった。
  そして、1899年のその翌年に、再築開場している。
  回り舞台や花道のある大劇場であり、様々な芸能の画
 期となる公演を開いた。
  この明治、大正時代の演劇の拠点になった所は、1902
 年以降は、区名を採って本郷座と改称し、これ以後は、
 新派の川上音二郎一座がハムレットを演じ、盛況を極め
 た。
  新派全盛の原動力となった。
  下町と山の手を結ぶ立地の良さから、東京の六大劇場
 の一つに数えられ、繁栄した。
  しかし、第二次世界大戦の戦災で、跡形もなくなって
 しまった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国・日本・世界で利権を求める輩たち・・イギリス・アメリカ・・
.
1851年1月、太平天国の乱(たいへいてんごく、~1864年8
 月)
  清朝の中国で起こった大規模な反乱。
  洪秀全を天王とし、キリスト教的組織の太平天国によ
 って起きた乱で、卑劣なことに、2000万人も死んだ。
  この死者のほとんどが民間人という悲惨さだった。
  『長髪賊の乱』とも言われる。
  清朝軍は、イギリスの、卑劣なアヘン(麻薬)売つけ
 で、国や人民が劣化するという非人道的なアヘン戦争で
 消耗していた。
  太平天国軍を平定する力はなかった。
  太平天国軍は、膨れ上がって行った。
  いつもの様に卑劣なイギリスは、裏で絡んだ。
  イギリスは中国の銀を吸収し、手に入れていた。
  1796年~1804年の白蓮教徒(仏教・浄土教の結社)も
 関係した。
  この様な様々な流れの中から生まれた賊軍により構成
 された反乱軍だった。
  匪賊(ひぞく、集団で掠奪や暴行などを行なっていた
 山賊的な賊)も吸収されていた。
  「太平天国」は、「滅満興漢(満州族による政権・清
 朝を滅ぼし、漢民族の世にしよう、復興させよう)」を
 スローガンに掲げる反清朝の民族主義の運動であると共
 に・・、
  「天朝田畝制度」などで、平等社会の実現をめざし、
 満州族の支配と、外国貿易の開始による物価騰貴などに
 苦しむ農民・貧民の心を捉え、大勢力に成長した。
  また、太平天国内では、アヘンの吸引は禁止され、満
 州人の習俗である辮髪も否定され、封建的な纏足の風習
 などもやめることが奨励された。
  また、清朝側は、彼らを長髪族と呼んだ。
  当時は、侮蔑的な長髪族という呼称のほうが一般的で、
 太平天国という呼称が一般化したのは1930年代以降。
  キリスト教に感化していたと言われるリーダーの洪秀
 全は、王宮で女官に囲まれてすごし、次第に統治力を失
 い、若い李秀成などが、軍事面で活躍し、台頭した。
  そして、洪秀全に、かつての様な求心力がなくなり、
 翼王の石達開(せきたつかい、太平天国の指導者の一人)
 も離脱し、太平天国軍は急速に衰退して行った。
  1856年6月、アロー戦争・・、卑劣な事にイギリス・ア
 メリカ・フランス・ロシアは、甘い汁を吸いたいと、衰
 退した清国に戦争を起こした。
  そして、1860年に、清朝政府を屈服させた。
  イギリス・アメリカなどの列強は、清朝を利用し、中
 国での利権を拡大した。
  しかし、民族主義的な太平天国は、この利権獲得に対
 して危険だとするようになり、逆に、その弾圧をするよ
 うになった。
  この外国勢力の欲による離反も、太平天国を弱め、滅
 ぼした。
  アメリカ人のウォードや、イギリス人ゴードンの指導
 した常勝軍や、左宗棠の湘軍(湘勇)や李鴻章の淮軍(
 淮勇)(ともに曽国藩の部下)という郷勇の軍事力が、
 共同して、太平天国軍を攻撃するまでした。
  1864年、洪秀全が病死し、天京が陥落し、鎮圧された。
  この後に、さらに、イギリスなどは、中国を植民地化し、
 侵略した。
  アメリカも、同時に、中国の利権を求めた。
  イギリス・アメリカが植民地化した地域は、中国の大
 都市で、中国市民のの利権を排除して奪って行った。
  ユダヤ系のサッスーン財閥は、中国の利権獲得に功績
 があったと、イギリス政府からイギリス貴族に列せられ
 るほどだった。
.
1938年、中国を支援する輩たち、ソ連から毎年1300万元の
 抗日資金を供与されていた中国共産党。
  しかし、この裏には、狡猾なアメリカが居た。
  アメリカ・イギリスは、ロシア革命を援助したが(ア
 メリカ・イギリスのユダヤ財閥)、
  特に、アメリカの財閥は、ソ連から流出させた金をア
 メリカに持ち帰り、代わりに、アメリカで印刷したルー
 ブル紙幣という紙切れを、ソ連政府と人民に与えた。
  そのアメリカで印刷された紙きれの金(カネ)が、毎
 年の抗日工作費として、中国共産党に供与された。
  この事から、中国共産党は、イギリスが、中国をじゃ
 んじゃん開発して、植民地化しても、何も言わなかった。
  (今・現在は、中国が、国際通貨となった元をどんど
 ん刷って、世界中で配っている・・使っている・・工作
 している)
.
1944年11月、イギリスの植民地担当大臣モイン卿が暗殺さ
 れた・・仇(かたき)を取られた。
  イギリスの厳しい臨検で、第二次世界大戦中に、ボー
 トピープルとして海上をさ迷ったユダヤ人の方々の悲惨
 な話は、非常に多く、ごまんと溢れていた。
  その数々の卑劣な行為の中でも、「ストルマ号事件」
 は、ユダヤ人の方々の、イギリスに対する「恨みと憤り」
 を一層大きく形作った。
  1941年12月、769人のユダヤ難民を乗せ、ルーマニアを
 出港した「ストルマ号」は、イギリスによって上陸を禁
 止された。
  そして、2ヶ月以上も海上をさ迷う運命にされ・・、
 最後には、船は、沈没してしまった。
  ユダヤ人の方たちにとって、この「ストルマ号事件」
 は、イギリスの本性を如実に示す事例として、いつまで
 も忘れることの出来ない事件となった。
  ユダヤの方たちは、この復讐を誓った・・
  「目には目を」・・である。
  1944年11月、当時、カイロに来ていたイギリスの植民
 地担当大臣モイン卿は暗殺された。
  (参考)ナタン・イェリン=モル(シオニズム活動家、
     イスラエルの政治家)は、ウォルター・モイン
     (モイン卿)殺害計画をした1人だった。
      レヒ(イギリス統治領時代のパレスチナのユ
     ダヤ人地下武装組織)は、イギリスからテロリ
     スト集団とされていた。
      レヒは、1944年のカイロにおけるウォルター・
     モイン(駐カイロ英公使)の暗殺をはじめ、
      パレスチナのアラブ人やイギリス人を狙った
     攻撃を行った。
  「ストルマ号」沈没の知らせが入った時、イギリス上
 院のディヴィス卿は、怒って、「イギリス政府は、ヒト
 ラーの政策を助けているのか?」と言った。
  これに対し、クランボーン卿は、イギリス政府の名に
 おいて、次のように答えた・・、
  「この問題は、今日取り挙げない方が賢明というもの
 でしょう・・」・・と・・、
.
1945年8月、戦争が終わった時、日本の供給能力は、戦前の
 2割になっていた。
  8割が失われるという凄(すさ)まじさだった。
  日本経済は、その様な状況から這い上がった。
  しかし、その様な日本に対して・・、
  アメリカ主導のGHQは、なかなか発電所の新設をさ
 せなかった。
  日本の復興・復旧のためには、何より電力回復が必要
 だったのにである。
  アメリカは、日本の復興の足を引っ張った。
.
1945年9月4日、アメリカ軍の進駐によって、神奈川県では
 女学校を休校にすることを指示した。
  (破廉恥な強姦行為を恐れた)
  そして、アメリカの戦後占領政策が始まって行くが・・、
  このアメリカの戦後政策の目指したものは、日本を属
 国(衛星国)とし・・、
  日本を、アメリカの世界支配システムに組み込むこと
 だった。
  そして、半永久的に、日本列島に、アメリカの占領軍
 を配置したいということだった。
  日本を、軍事基地として、半永久的に使用することだ
 った。
  この時から約40年後の・・1983年(昭和58年)11月11
 日のことだが・・、
  日本の中曽根康弘首相は、アメリカのレーガン大統領
 夫妻を、東京の最奥の山の中、日の出村の別荘に招いた。
  何も接待するものさえない様なところで・・、
  囲炉裏の前に、イスもない所に、ただ、笑顔で座って
 いるレーガン夫妻の写真が・・印象に残る。
  その場に似つかわしくない正装姿の夫妻の姿が・・そ
 こにあった。
  その様な時、中曽根首相は、「日本は、不沈空母だ」
 と言った。
  「ゴマすり」なのだろうが・・日本は、敵からいくら
 攻撃されても「沈まない基地だ」という意味だった。
  そして、だから、その沈まない滑走路から、アメリカ
 の為に反撃する戦闘機が発進する・・その沈まない空母
 のようなものです・・と、日本のぎりぎりの貢献の姿を、
 卑屈なまでの表現の仕方で表現した・・そして、日米同
 盟の強固さを、その様な卑屈な言い方で、言った。
  敵から、叩かれても、叩かれても、沈まないという悲
 しいまでの表現で、日米同盟の存立の意義を表現した。
  その心は、卑屈な「アメリカの思う様に、思惑に沿っ
 て行きます」だった。
  日本の求める所は・・本当は・・日米の同盟関係があ
 ろうとなかろうと、日本は、最強の、最新兵器で、強固
 に守られていなければならない。
  国民の『生命』と『財産』が守られていなければなら
 ない。
  強固にヤマアラシという動物が、全身くまなくとげの
 針を出して守っている様に、日本も自力で守られておら
 ねばならない。
  最強・最新の効果ある防衛兵器によって・・、
  『この時のレーガン大統領の礼状』・・・
  1983年12月16日、親愛なる宮岡町長様
  ナンシーと私は、大変短い日本滞在に中に、日の出町
 を訪れる事が出来て大変よろこんでいます。
  私達は、暖かい歓迎を深く感謝します。
  そして、景色のよい町のすばらしい人々の思い出を長
 く忘れないでしょう。
  私達へのステキなプレゼントは、日の出の人々と私達
 が分かち合った友情の思い出となる事でしょう。
  あなたがたの町のハナミズキの木が、私達2ケ国の人々
 の間の歴史的きずなの象徴となることを祈ります。
  あなたがたの心からの好意を大変感謝します。
  ナンシーと私は、あなたとあなたのすべての町の人々
 の永遠の幸福をお祈りいたします。
            ロナルド・レーガン
  そして、『中曽根首相の手紙』・・、
  日の出町皆さん、その後お変わりございませんか。
  先日、日の出山荘で行われました私とレーガン米大統
 領との日米両国首脳会議に際しましては、町をあげての
 心からの御歓迎と御協力をいただき、本当にありがとう
 ございました。
  世界の平和・軍縮・景気浮揚など、広い範囲にわたる
 重要な会談の合間に開かれた日の出会談は、私と妻が主
 催して開いたものですが、レーガン大統領、ナンシー夫
 人ともどもたいへん喜んでくださいました。
  勿論、私とレーガン大統領の二者会談では、日米、及
 び、世界に関する重要な話し合いをいたしました。
  また、大統領ご夫妻は、日本の伝統ある美しい農家の
 たたずまいと、東京近郊外の静かな風情の中での会談は、
 日本の思い出の中でも、とりわけ印象深かったと話し、
 丁重な礼状をいただきました。
  私たちは、囲炉裏の端で、茶の湯や日本酒やお刺身の
 おもてなしをし、ちゃんちゃんこで、ご夫妻にくつろい
 でいただきました。
  私たち日本人の、ふつうの生活のありさまを知ってい
 ただきたかったからであります。
  レーガン大統領は、アメリカ人の健康の面からも日本
 食の普及に強い関心を持っておられました。
  これも、町長様はじめ、町民の皆さんの御理解とご協
 力のたまものと、改めて感謝を申し上げるものでありま
 す。
  日の出町が、この会談を機会に、日本とアメリカの友
 好の象徴の地となり、今後、益々発展されますこと、ま
 た、皆さんの末永い御多幸を心からお祈り申し上げまし
 て御礼の言葉と致します。
  昭和58年12月 内閣総理大臣 中曽根 康弘
.
1989年~1990年、日米構造協議
  アメリカと日本の間で、日米貿易不均衡の是正の名の
 下に・・これを目的として・・1989年から1990年までの
 間、計5次開催された2国間協議。
  1993年に「日米包括経済協議」と名を変え、1994年か
 らはじまる、「年次改革要望書」「日米経済調和対話」
 への流れを形成した。
  この会議に於いて、日本の担当官僚の協議者は、アメ
 リカ官僚に、上から目線で、怒鳴られたり、脅されたり
 しての協議だった。
  結局、アメリカがやりやすい様に日本を改造するとい
 う協議だった。
  そして、「年次改革要望書」「日米経済調和対話」と、
 毎年、毎年、この様なコントロールの状態が続き、アメ
 リカの属州の如くの日本にされて行った。
  アメリカという大きな国の前の日本が「そこにあった」。
  本当は・・日本は・・すべてが自前で揃(そろ)えら
 れる優秀な国なのである・・、
  その揃っているところが「貴重」であり、「優秀」な
 のだ。
  長い歴史の中で・・工夫して、また、苦労して・・で
 きるようになったからだ。
  しかし、このアメリカの圧力の様な外因も一因で、時
 代の経過の中で「匠」と称される人々が居なくなる。
  それと同時に、その匠の方たちの作る物品も無くなっ
 て・・生活の豊かさが失われて来ている。
  歴史のなかで、育まれた「貴重な日本の宝」がなくな
 っている。
  また、外国との経済協定において、外国の低廉品に駆
 逐される・・安いだけの品物に・・、
  「安いのが良いのだ」「安いものが善なのだ」という
 判断スケールを押し付けられる・・、
  長い歴史の中で、育まれ・・やっとできて来た「貴重
 な日本の伝統の技」と「その物品」が失われていく。
  この事例の様に・・自分勝手な判断規準を、押し付け
 て来る国「アメリカ」。
  すべてに供給能力のある日本が・・その揃(そろ)っ
 ているところが優秀なのにだ。
  しかし、その日本の中にあるアメリカの判断基準に合
 わないものが狙われて・・壊されていく・・潰されてい
 く・・(アメリカに合わせろ!と)、
  「日本は規制している」とか、日本の保護策を「アン・
 フェアだ」と言いつのって来る。
  日本のおいしい牛の遺伝子が盗まれたが・・、
  また、酪農に「未来の夢が見いだせなくなった」と言
 う酪農家が自殺したが・・、
  安いだけの物品が・・善であるわけが無い・・
  善の判断基準を・・「自分の好みに作って」「正義だ」
 と押し付ける・・それは間違っている・・正義では無い。
  安いだけで・・強いからと・・その強い物品だけが、
 市場を席巻し、「ある一品だけ」になるという「市場の
 寡占化」が正しい訳が無い・・
  国民の選択肢が限られる・・少ない状況が・・その様
 な姿が・・善であるわけがない・・正しい訳が無い。
  かつては・・干し肉だけを食っているカウボーイのア
 メリカの時代は・・食は・・遠い昔だけにしたい。
  無味乾燥のアメリカ文化を、金科玉条(きんかぎょく
 じょう)にするは・・背筋が寒い・・
  逆に、アメリカは・・豊かさのある日本に学べ!
.
2014年12月17日、日本政府は、アメリカのホロコーストセ
 ンターの行なっている「慰安婦プログラム」に抗議した。
  韓国・聯合ニュースは17日(2014年12月17日)、米・
 ニューヨークのホロコーストセンターが行っている慰安
 婦などに関する講義に、日本政府が「内容が歴史的事実
 と違う」などと抗議したことを伝えた。
  ニューヨークの韓国人団体関係者が明らかにした。
  ホロコーストセンターは、ニューヨーク市立大学クイ
 ーンズボロ・コミュニティ・カレッジの傘下にある。
  問題の講義は、「東アジアの歴史の定義インターンシ
 ップ」というプログラムで、学生に慰安婦や強制労働、
 民間人虐殺といった日本の戦争犯罪を伝えるほか、被害
 者へのインタビューを行い、記録として残す活動もして
 いるという。
  日本側は、先週、同記念館を訪れ、所長から講義の内
 容を聞いたうえで、「歴史的事実と違う」などと主張し
 た。
  また、ホロコーストを後世に伝える目的のセンターが、
 慰安婦問題を取り扱うようになったことにも疑問を呈し
 たという。
  記事は、在米韓国人団体関係者の「日本が米国の地方
 政府関係者と個別に接触しながら慰安婦問題を否定する
 ロビー活動を活発化している」というコメントを紹介し
 たうえで、今回の抗議を「日本が最近、米国政界を相手
 に『慰安婦ロビー』を強化していることの一環」と分析
 した。
  (参考:事実)話は、まったくこの逆なのである。
     元々、韓国・中国が、日本を貶(おとし)める
     活動を行なって来ている事に、今まで、日本は、
     沈黙を守って来た・・しかし、その韓国・中国
     の発言のあまりの酷さに、日本は、正しい発言
     をするべきだと、この様な行動となっている。
.
2017年8月9日、日本の海上自衛隊は、世界最先端で最強。
  ロシアの軍事専門家が、その様に分析した。
  日本国民の『大切な生命と財産』を守っていただいて
 いる自衛隊が、その様な優秀さだと評価されたことは喜
 ばしいが・・しかし、弱点もあると・・
  以下・・その報道・・、
  東シナ海と南シナ海に浮かぶ島の領有権を主張して、
 周辺海域における動きを活発化させている中国は、急速
 に海軍の軍備を増強している。
  中国メディア・今日頭条は8日、「ロシアの軍事専門
 家は、日本の海上自衛隊が、アジアナンバー1だと言っ
 ているが、それは本当なのか」とする記事を掲載した。
  (参考)今日頭条:Toutiao、中国で驚異的な成長をし
     ているニュースのアプリケーション。
      北京字節跳動科技(バイトダンス・テクノロ
     ジー)が運営し、このアプリの名前は、「本日
     のヘッドライン」を意味する。
      会社として記者や編集スタッフを全く抱えて
     いない。
      Toutiaoは、人工知能を活用し他のニュースサ
     イトの記事をキュレーション(インターネット
     上の情報を収集しまとめる)して、配信してい
     る。
  記事は、ロシアの軍事専門家の見立てとして・・
  「日本の海上自衛隊は、世界最先端の海上軍備を持つ
 集団の1つであり、艦船のトン数規模も世界トップレベ
 ルだ」とした。
  また、第2次世界大戦終戦後に、敗戦国として軍備開
 発が制限されるなかで、海上自衛隊は、静かに排水量2
 万トン前後のヘリ空母や、世界最先端の「こんごう」型
 護衛艦、「あたご」型護衛艦、潜水艦、ミサイル艇、揚
 陸艦、掃海艦艇など、各種の艦艇100隻あまりに加え、
 各種固定翼機、ヘリコプターなど160機あまりを有し、
 総兵力は約5万人という軍備を整えていったと伝えてい
 る。
  さらに、海上自衛隊は、対潜能力や掃海能力を非常に
 重視しており、これらが長所となっていると説明。
  日本で生産される通常動力潜水艦は、対艦、対潜能力
 が非常に際立っているとし、その筆頭格として「そうり
 ゅう」型潜水艇のスペック(仕様)について紹介した。
  記事は、そのうえで「ロシアの軍事専門家が、日本の
 海上自衛隊をアジア最強と称するのは、総合的な性能や
 戦力から見れば一理ある。
  しかし、海上自衛隊には、戦略型原子力潜水艦を持た
 ないという欠点がある。
  アジアの中で強くなるためには、大きな不足だ」と評
 した。
.
2017年8月13日、北朝鮮のミサイルは落とせないと、韓国が
 発表した。
  産経新聞、【ソウル=名村隆寛】北朝鮮が、アメリカ
 領のグアム沖に向けた中距離弾道ミサイル「火星12」
 の発射を検討する中、日米韓の3カ国が着々と迎撃態勢
 を整えている。
  韓国軍は、ミサイル防衛(MD)システムによる発射
 の探知や追跡で重大事態に対処する構え。
  韓国軍は自衛隊同様、地対空誘導弾パトリオット(P
 AC3)を保有している。
  ただ、これは、北朝鮮からの短距離ミサイル迎撃を目
 的としたものとされ、グアムを狙った弾道ミサイルの迎
 撃は困難。
  弾道ミサイルを迎撃できるのは、イージス駆逐艦が搭
 載する海上配備型迎撃ミサイル(SM3)だが、韓国海
 軍の駆逐艦にはSM3が搭載されていない。
  このため、朝鮮半島近海での迎撃は、米軍のSM3に
 頼ることになる。
  独自の衛星を保有していない韓国軍が、今回、可能な
 のは、発射直後のミサイル探知と追跡になりそうだ。
  イージス駆逐艦や早期警戒管制機E737、弾道ミサ
 イル早期警報レーダーなどを総動員してミサイルの探知
 に専念し、情報を日米に伝えるとみられる。
  韓国では、北朝鮮の弾道ミサイルに対処する米軍の最
 新鋭迎撃システム「高高度防衛ミサイル(THAAD)」
 の配備が進められている。
  配備済みは2基で、残る4基も追加配備の予定だが、
 在韓米軍に保管中。
  THAAD配備地では、市民団体の反対で中止が続い
 ていた環境影響評価のための測定が12日、行われ、
  韓国国防省は、電磁波や騒音には問題がないと明らか
 にした。
  文在寅(ムン・ジェイン)大統領の指示を受け、韓国
 軍は、4基の追加配備を発表済みだが、反対世論を前に
 足踏み状態が続いている。
.
2017年8月13日、池上彰が日本を貶(おとし)める番組(テ
 レビ東京)や、安倍首相への「悪い印象操作」をするテ
 レビ東京の「たちの悪い行為」をした・・、
  テレビ東京、午後7時54分~午後9時54分、番組名「池
 上彰の戦争を考えるSP、「特攻」とは何だったのか」
  日本だけを悪く言い過ぎる番組・・自虐番組・・、
  キリスト教に偏するNHK出身の池上彰が日本を貶め
 た。
  天皇陛下は、基本的に戦争に対して『避戦』であった。
  しかし、池上彰は、この様なことを少しも説明をしな
 いで、戦争を止めようという話に同意しなかった事例を、
 ことさら、それが、天皇陛下のお考えのすべてである様
 に印象操作し、思わせる発言をした。
  まったく、天皇陛下を貶める印象操作を行なった。
  日本国民に対して、天皇陛下の悪印象を持たせようと
 いう悪意ある発言となっている。
  この番組は、この事例の様な様々な事例を、色々取り
 上げて、日本を貶めた。
  そして、日本の悪い所だけをあげつらって、ああだ、
 こうだと、悪印象を持つように言いつのった。
  制作させたテレビ東京もそうだが、この様な番組を、
 金を出して提供する企業の『番組提供の責任』が問われ
 る番組だった。
  日本が、その様に至るアメリカについては全く触れず、
 説明せず、アメリカの非人道的な一般の民間人を、日本
 人を、大量虐殺した大都市や田舎の都市まで含めた、焼
 夷弾の無差別爆撃の悪行為などの事例は、まったく一言
 も触れなかった。
  その行動が起こされる背景のアメリカ側は、まったく
 隠すという偏した番組で、日本を貶めるだけの印象操作
 をした・・公平性の全く無い、公正さの全く無い放送。
  また、テレビ東京は、その後の番組でも、貶める印象
 操作の番組を放送をした。
  番組名「しくじり先生」は、安倍首相の一議員の時の
 事をひたすら取り上げて、安倍首相を悪く印象操作する
 番組だった。
  安倍首相の「首相の時でない一議員の写真」が出る必
 然性は、まったく無いのに、ひたすら安倍首相の顔写真
 を何度も出して、印象付けて放送した。
  この悪い行為を、安倍首相があたかもしたかの様な印
 象操作だった。
  自民党がまったく知識もない劣悪人間を国会議員選挙
 の立候補者にしたという「失敗の連続のお粗末な話」で、
 安倍首相や自民党の悪印象への印象操作した。
  この様に、次から次へとテレビ東京は、日本を貶めた
 り、安倍首相への悪の印象を持たせたりと、貶める番組
 ばかりを放送した。
  提供企業・・
  明治安田生命、ハミング(花王石鹸)、りらくる(株
 式会社りらく)、au(KDDI株式会社)、小林製薬、
 シャドーバーズ(株式会社DMM.comラボ)、朝日新聞、サ
 ントリー、千寿製薬、docomo(NTTドコモ)、ボラギノ
 ール(天藤製薬)、コカ・コーラ(日本コカ・コーラ株式
 会社)
  こんな番組を提供し、後援して、宣伝の目的が果たせ
 るのか・・??
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive



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# by suba28 | 2017-08-17 04:19 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)544E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年12月~1891年12月)

題:(増補版)544E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年12月~1891年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年12月15日、ジェームズ・ネイスミス(カナダ、体育
 教育者)が、バスケットボールを考案した。
  この年、ルーサー・ギューリック体育学部長は、授業
 で学生たちに屋内競技の考案を課題として与えた。
  これは、冬季のニューイングランドで、学生たちが体
 を動かせるようにと意図したものだった。
  学生らが提出した様々な案は、ラグビーやサッカーの
 ように身体接触を含み、屋内には不向きのものが多かっ
 た。
  一方で、ギューリックは、ネイスミスが考案した競技
 に興味を持っていて、2週間の期間を与えて、さらに詳細
 を詰めるように指示をした。
  ネイスミスが考え出した競技は、ボールを持ったまま
 走ってはならない、身体接触・衝突をしてはならない、
 競技者の頭上に水平のゴールを置く、競技者はいつでも
 ボールを奪い、得点することができる・・という基本的
 なルールを持った。
  高い位置に水平のゴールを置くことで、得点するには
 力よりも正確さが必要となり、怪我の機会が少なくでき
 ると考えていた。
  この新しい競技は、ラグビー、サッカー、ラクロスが
 ヒントになっていて、
  また、ネイスミスが、少年時代に近所の子供たちとし
 た遊びの要素も入っていた。
  この遊びは、物を置いて、それに石をぶつけるという
 ものだった。
  1891年12月21日、授業で、この競技を初めて行う時、
 たまたま手に入れた桃の籠を、体育館内のバルコニーの
 下に据え付けてゴールとし、サッカーボールを使って1
 チーム9人で行われた。
  競技は、学生の案で「バスケットボール」と名づけら
 れた。
1891年12月17日、鉄道公債法案・私設鉄道買収法案を衆議
 院で審議した(特別委員会に付託)
  1891年11月に提出された内務大臣・品川弥二郎の「鉄
 道政略ニ関スル件」について、
  閣議は、これを修正して、12月14日、第2回帝国議会に
 鉄道公債法案・私設鉄道買収法案として提出した。
  1887年頃~1907年頃は、幹線鉄道の建設を盛んにした。
  地域社会は、みずから資本を調達して、私設鉄道を建
 設する意図をもつ例も少なくなかった・・が・・
  しかし、計画に対して開業にいたる比率ははなはだ少
 なかった。
  この理由は、地域社会における資本蓄積が、まだ、十
 分でないためだった。
  軽便鉄道や馬車・人車鉄道を除いて、その他の鉄道建
 設投資は、巨額な資本投下を必要とし、鉄道建設を行な
 うには、無理があった。
  しかし、その必要性は十分理解されていたため、多く
 の地域社会は、幹線鉄道のルート決定に際し、みずから
 の地域に有利なルートを採択させたいと努力した。
  翌年・1892年に、鉄道敷設法が公布され・・、
  わが国における幹線鉄道網の将来像が画かれ、かつ、
 帝国議会を通じて、地域社会の意志が鉄道建設に反映し
 て行った。
  この動きは活発化して行った。
  1891年11月に提出された「鉄道政略ニ関スル議」は、
 長文の文書で要点は2つあった・・、
  第1:将来の日本の幹線鉄道路線の決定
  政府は、そのための長期計画を立案し、着実に建設を
 行なうための法律、および、資金を得るための公債発行
 の法律が必要。
  第2:幹線鉄道網の一環となる私設鉄道を、政府が買収
 すること。
  政府は、井上勝(いのうえまさる)の建議に基づいて、
 鉄道公債法案と私設鉄道買収法案を、1891年12月、衆議
 院に提案した。
  しかし、「政府の私設鉄道の買収案」は否決され、「
 幹線鉄道路線計画案」は、議決に至らないうちに、衆議
 院は解散されてしまった。
  そして、翌年の1892年5月に、改選された帝国議会で、
 政府は、上記の2法案を、再び、提案した。
  衆議院議員の中からも、「鉄道拡張法案」、あるいは、
 「鉄道敷設法案」の名称で、各地の鉄道建設を促進する
 法案が独自に提案されたりした。
  政府の提案は、これらと折衷され、1892年6月21日、
 「鉄道敷設法」(明治25年法律第4号)として公布され、
 日本の大発展の礎となった。
  政府のしっかりした意思と計画(ビジョン)が示され
 た。
1891年12月18日、田中正造代議士が、足尾銅山の鉱毒問題
 に関する質問書を、衆議院に提出し、政府に対策をせま
 った。
  これは、銅山の開発により、排煙、鉱毒ガス、鉱毒水
 などの有害物質が、周辺環境に著しく影響をもたらすと
 いう日本で初めての公害事件だった。
  田中正造が中心となって、国へ問題提起するものの、
 加害者の決定がなされなかった。
  足尾地区では、江戸時代から銅は採掘されていたが、
 江戸時代前期をピークとして、産出量は低下し、幕末に
 は、ほとんど廃山の状態となっていた。
  明治になり、民間払い下げで、1877年(明治10年)に、
 古河市兵衛の経営となった。
  採鉱事業の近代化を進め、1885年までに、大鉱脈が発
 見され、足尾銅山は日本最大(東アジア一)の鉱山とな
 った。
  そして、銅は、日本の主要輸出品の一つとなった。
  (足尾銅山は、日本の産出量の1/4を占めた)
  それとともに、鉱毒ガスや、それによる酸性雨により
 足尾銅山近辺の山は禿山となり、
  山林の無くなった山地は崩れやすく、崩落・崩壊し、
 山崩れとなった。
  鉱毒を含んだ土砂は、渡良瀬川を流れ、下流で堆積し
 た。
  また、流出する土砂は、天井川となって洪水を起こし、
  流出する鉱毒は、鮎などの川魚を大量死させた。
  周囲一帯には、鉱毒ガスに満ちた。
  農産物は枯死し、廃村となる村も出た。
  対策工事は行われて、一定の効果はあるものの、
  技術のまだ未発達の当時は、その原因の根本である鉱
 毒ガスの無害化は出来ず、根本解決には至らなかった。
  1973年(昭和48年)に至り、足尾の銅は掘り尽され、
 閉山となり、公害は減少した。
  (精錬所は、1980年代まで操業し、鉱毒は流出した)
  鉱毒への闘い:
  鉱毒被害地の農民は、明治30年の1897年、大挙して東
 京へ陳情した(当時は「押出し」と言った)
  世論が高まると、政府は、同年・1897年3月、足尾銅山
 鉱毒調査委員会を設置した。
  そして、数度の「鉱毒予防令」を出した。
  特に、政府の行なった大規模なものは、1897年5月の第
 3回の予防令で・・、
  古河側に、排水の濾過池・沈殿池と堆積場の設置、煙
 突への脱硫装置の設置を命令した。
  これらは、どれもが、数十日の期限付きで、一つでも
 遅れた場合には『閉山する』という厳しいものだった。
  古河側は、当時、珍しかった電灯などを活用して、24
 時間体制で工事を行ない、すべての工事が期限内に完成
 することができた・・が・・
  すべての鉱毒(二酸化硫黄=亜硫酸ガス、銅イオンな
 どの金属イオン、鉛、カドミウム・・)の除去には至ら
 なかった。
1891年12月21日、鉄道買収法案審査特別委員会が開かれ、
 自由党の石田貫之助が、国有反対の意見を述べた。
  また、この日、九州鉄道会社は、下等旅客運賃の値上
 げを申請して(認可された)
1891年12月21日、日本鉄道会社が、23日までの3日間、東京
 帝国ホテルにて、『東京~青森間全通式』を挙行した。
1891年12月21日、ジェームズ・ネイスミスが考案したバス
 ケットボールの試合が、初めて行われた。
1891年12月22日、東京商業会議所が、私設鉄道買収に関す
 る請願書を提出した。
1891年12月22日、海軍大臣の樺山資紀が、海軍省経費削減
 反対の蛮勇演説を行なった。
  衆議院にて、薩長藩閥政府の正当性と功績を力説・
 高揚し、また、民党批判を行ない、反感を買い、議場は
 混乱した。
  1891年11月、第1次松方内閣が、翌年(1892年)の予算
 案を帝国議会へ提出したが・・、
  これは、海軍艦艇建造費275万円・製鋼所設立費225万
 円を含む、前年度比約650万円増となっていた。
  この予算案に対し、民党は、前の第1次山縣内閣時から
 の主張である「民力休養・政費節減」を継続した。
  そして、海軍内の綱紀粛正がなされなければ、予算は
 認められないなどとした。
  そして、海軍艦艇建造費・製鋼所設立費を含む約800万
 を削減した予算改定案が提出された。
  海軍要求を無視するこの改定案に、樺山海相が反論し
 た。
  民党側議員は猛反発し、議場は大混乱した。
  この後、民党は、政府への反発を強め、衆議院で改定
 案を原案とする予算案が可決された。
  このため、松方正義首相は、12月25日に、初めて衆議
 院解散を行なった。
1891年12月22日、東京・京橋の広告社が、探偵業務の広告
 を出した(5月21日説あり)
  1891年5月21日付けの当時の『朝日新聞』に、帝國探明
 會という企業が・・、
  「詐欺師や盗人の所在を調べる。他人の行動調査を実
 施する」との広告を出した(国立国会図書館の蔵書にて
 確認)
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国は、世界を繰る、海外を広報戦略するために、
   膨大な金を使っている・・膨大な予算を投資している。
.
1773年12月16日、ボストン・ティーパーティ事件(ボスト
 ン茶会事件)
  アメリカのマサチューセッツ植民地のボストンで・・、
  イギリス本国議会の植民地政策に憤慨した植民地人の
 急進派人々が、
  港に停泊中の貨物輸送船に侵入し、イギリス東インド
 会社の船荷である紅茶箱を海に投棄し、抵抗した。
.
1774年3月、ボストン港閉鎖を含む「耐えがたい諸法」と呼
 ばれる『弾圧法』をイギリスは出した。
  イギリスは、ボストン茶会事件の報復で・・
  ボストン港を封鎖し、
  さらに、強圧的諸条例を制定し、
  植民地のアメリカ側を屈服させようとした。
  「ボストン茶会事件の報復として、イギリスは・・、
 1774年3月、茶会事件の損害1万5000ポンドを弁償するま
 で、ボストン港を閉鎖する」とした。
  ボストン市民は、これを拒否し、
  マサチューセッツ住民やほかの植民地住民もこれに同
 調し・・大陸会議を結成して抵抗した。
.
1785年5月20日、アメリカで「交有地条例」ができた。
  アメリカが独立した当時・・、
  アメリカの領土は、アパラチア山脈の東側、大西洋岸
 一帯の約40万平方マイルに過ぎなかった。
  しかし、これが、1783年のパリ条約で、北はカナダ、
 南はフロリダ、西はミシシッピ川に至る・・88万9000平
 方マイル以上の、二倍となった。
  そして、自分たちに都合の良い「土地法」を制定した。
  1785年の『交有地条例』と、1787年の『北西部領地条
 例』。
  この交有地条例は、1785年5月20日にできた法律で、ア
 メリカ合衆国の連合会議で採択され、連合規約で規定さ
 れた。
  1781年に発足した連合会議は、合衆国の住民に直接課
 税して歳入を上げる権限を持たなかった・・
  そのため、この条例の目的は、アメリカ独立戦争でイ
 ギリスから得たと決めた(勝手な決定)、
   まだ、地図も出来ていない西方の広大な領土を売却
 して、現金を得ることにあった。
  また、北西部領地条例は、1787年に、アメリカの大陸
 会議によって制定された西部の政府組織法で・・、
  この年(1787年)、フィラデルフィアの合衆国憲法制
 定会議で起草された連邦憲法とあわせて、アメリカの基
 本法となった。
  独立戦争の結果、アメリカ領土となったオハイオ川以
 北の(いわゆる旧北西部地方)を、いくつかの地域に分
 け、
  まず、大陸会議の任命した総督による統治、
  次に、自由成人男子人口が 5000人に達したとき議会を
 設けて准邦 (州) となり、
  さらに、自由住民が6万人に達し、共和制に基づく憲法
 を制定することにより、独立 13邦 (州) と対等な邦 (州)
 として連邦への加入が認められる、という連邦への段階
 的加入を規定した。
  なお、3年後、南西部領地条例が制定され、「北西部領
 地条例が全西方領土に適用される」ことになった。
  勝手な法律を勝手に決めて、領土は自分のものとした。
.
1787年9月17日、アメリカ合衆国憲法は、1787年9月17日に
 作成され、1788年に発行され・・
  現在、機能している世界最古の成文憲法だと言って、
 自慢げに説明されているが・・、
  奴隷については、『容認していた』。
  (人権無視の遅れているアメリカ)。
  1865年に、やっと、修正された・・、
  「修正13条(1865年)第1節:奴隷、または、その意に
 反する苦役は、当事者が適法に有罪判決を受けた犯罪に
 対する処罰の場合を除いては、合衆国、または、その権
 限の及ぶいかなる場所においても存在してはならない」
 となったが・・しかし・・まだ・・
  奴隷の存在は認められ・・、
  そして、逃亡した奴隷が自由になれるどころか、元の
 所に戻さねばならないとした・・、
  (奴隷状態に戻さねばならないとして)・・、
  (奴隷状態のままにしなければならない)とした。
  卑劣である・・奴隷制度を容認している。
  キリスト教聖書が、奴隷制度を容認しているが、
  アメリカ憲法も、奴隷制に対して違和感が無く、容認
 した。
  アメリカの北部政権は、リンカーンを記念堂に祀り(
 祭り上げ)、さも、リンカーンが、奴隷解放宣言をした
 から、黒人奴隷が解放されたというロジックで、『嘘の
 プロパガンダ』をしている。
  そしてまた、悪いのは、アメリカ南部のプランターの
 経営者たちだと、罪を擦り付けているが・・これは真っ
 赤な嘘。
  北部・資産家たちも、安価な労働力を得たいと、黒人
 の方々の奴隷労働力を利用していた。
  アメリカは、国全体で黒人の方々を虐(しいた)げて
 いた。
  今・現在でも、北部も南部も黒人の方々を差別し、虐
 げている。
  「北部は、黒人の方々を差別していない」なんて言え
 る状態ではない。
  アメリカは、皆、一緒くたに黒人の方々を虐げ、そし
 て、差別している。
.
1791年~1810年、アメリカにおいて、白人による、黒人の
 方々への差別行為に対しての「抵抗行動」が、この頃、
 ピークに達した。
  アメリカで、地歩を固めて来た黒人の方々は・・、
 特に、自由黒人の方々は・・、
  黒人のための独立の教会を作ったり、黒人のための学
 校を建てたりした。
  キリスト教会は、卑劣にも、白人の為のキリスト教会
 の立場で、黒人の方々を排除していた。
  黒人の方々は、このキリスト教会や、映画館、レスト
 ラン、学校、ホテル、喫茶店など、あらゆるところで差
 別され・・、
  ホテルなど入ることを拒否され、拒(こば)まれてい
 た。
  海水浴場でさえ差別され、「白人専用海水浴場」とい
 う低劣な差別の状況だった。
  これらの改善を求め、黒人の方々は行動した。
  そして、差別行為に抵抗し、白人の力に対抗した力に
 よる対立にも発展した。
  しかし、この力による抵抗行動を、アメリカの白人た
 ちは、「黒人暴動」と表現した。
  そして、歴史書に「黒人暴動起きる」と差別的に記し
 た。
  この白人たちが記す「黒人暴動だ」とされる黒人の方々
 の抵抗行動のピークは、1791年~1810年だった。
  1800年8月の「ゲイブリエル・ブロッサーの蜂起」は、
 大規模な抵抗行動だった。
  この蜂起は、1000人とも、10000人とも言われ・・、
  武装した黒人の方々も居て、また、奴隷の身分の黒人
 の方々も居た。
  しかし、アメリカ軍によって鎮圧されてしまった。
  この黒人の方々の勇気ある栄光の行動が影響を与えた。
  アメリカの隣国のハイチにおいて、1803年に、奴隷の
 方々の抵抗行動が起き、その抵抗行動が成功し、黒人の
 方々による共和国が誕生した。
  そして、このハイチの成功は、この後、ラテン・アメ
 リカの方々へも勇気を与え・・、
  ラテン・アメリカ諸国を席巻する植民地解放闘争へと
 発展した。
  奴隷の方々の解放への戦いは、国際的な広がりの時代
 をもって行った。
  アメリカの黒人の方々の解放要求は、この様な国際的
 にも奴隷解放行動へ『良い影響を与えた』。
.
1865年4月15日、リンカーンが暗殺された。
  リンカーンには、殺される理由があった。
  アメリカは、その理由をはっきり言わない。
  リンカーンの名声を形成している「奴隷解放」は、リ
 ンカーンは行なっていない。
  アメリカは、本音を、真実を隠している。
  真実は、黒人の方々が、自らを解放をして行った。
  そこには、黒人の方々を導びく黒人のリーダーが居た。
  アメリカ白人社会は、卑劣な事に、黒人の方々のこの
 栄光の行動=この事をひたすら隠した。
  しかし、隠しきれずに、黒人の方々のこの部分の歴史
 が、少しづつ、白日の下になって来ている。
  黒人の方々は、白人キリスト教徒に、劣悪な状態の元
 に置かれた・・そして、自らの歴史を残すことが、でき
 にくくされた。
  しかし、その歴史が掘り起こされて来ている。
  黒人の方々は、解放されたいと努力して来た。
  それは、黒人の方々が皆が望む事だった。
  みんなが努力して来た。
  それが、長い虐げの後に、解放へと動き出してきた。
  黒人の方々を解放させようとする黒人のリーダーの方々
 もいた。
  可哀想にも、殺された黒人のリーダーの方々も居た。
  その様な歴史は、アメリカ白人社会はすべて闇の中へ
 と隠した。
  歴史が変遷し、黒人の方々が解放される、解放されね
 ばならない段階へと来た・・その時、たまたま、リンカ
 ーンが黒人解放の宣言をした。
  しかし、このところだけにスポットライトを当てて、
 脚光を浴びせさせた。
  そこだけを明るくしたので、さもリンカーンが黒人解
 放をしたように見えた・・その様にしたのだから当然な
 のだが・・、
  黒人の方々は、地道に、自らの解放をする努力を積み
 重ねて来ていた。
  その最後に、リンカーンが、「すごろく」の「あがり
 者」のごとく、そこに居て、奴隷解放をしたように見え
 た・・見させた・・
.
1938年秋、中国の上海に、ドイツ・オーストリア系ユダヤ
 人が流入した・・、
  ナチスが、オーストリアを合併した1938年秋、イタリ
 ア商船コンテ・ビオレ号から上海に逃れて来たユダヤ人
 の方々だった・・最初の方々だった。
  この上海に避難して来たユダヤ人の難民の方々を保護
 したのが日本軍であって、ファシスト中国=国民党では
 ない。
  ましてや、中国共産党では、まったくない。
  日本は、ユダヤの方々を「亡国の民」として大切に保
 護した・・日露戦争の恩人でもあった。
  (日本人は、受けた恩を忘れない)
  故に、上海の日本租界にあるユダヤ人避難民の方々の
 歴史的記憶遺産は、日本軍が、人道的な貢献をしていた
 記念すべき遺構で、世界的な大切な遺産である。
  この様な理由から、中国の上海にあるというだけであ
 って、中国共産党とは、まったく無関係・・、
  デッチアゲタ南京事件の記念館を作るより、史実のこ
 のユダヤ人難民ゆかりの歴史的記憶遺産を、日本軍の人
 道的貢献を讃えて、後世に残すべきである。
  世界遺産として讃えるべき人物は、、まず、人道的に
 接した日本軍兵士の方々、そして、その様に指導された
 昭和天皇陛下・・、
.
1947年7月11日、ユダヤ人を乗せたエクソダス号が出航した。
  しかし、ユダヤ人の難民の方々・4530人を乗せたこの
 満載の秘密移民船『エクソダス1947号」は、イギリス軍
 によって拿捕(だほ、とらえること)された。
  そして、強制的にフランスのマルセイユに返され・・、
  そして、マルセイユで下船を拒否したユダヤ人の難民
 の方々は、ドイツのハンブルグへ輸送され、
  ドイツのイギリス隔離地区の収容所に入れられてしま
 った。
  しかし、この模様が、逐一、ラジオで全世界に伝えら
 れ、ユダヤ人の方々へ、熱い同情が集まった。
  イギリスは、当然、世界中から、また、西欧諸国の大
 非難を浴びた。
  イギリス国内からでさえも、この難民船強制送還行為
 に多くの反対意見が起きた。
  この後の、国連パレスチナ分割決議への心情的な推進
 力となった。
  このイギリスの破廉恥な行為・エクソダス号事件は、
 映画「栄光への脱出」のモチーフとなった。
  この経緯は・・、
  ベン・グリオンは、パレスチナに到着すればそれでよ
 し、
  失敗してもキプロスの収容所に行けるという両面作戦
 で、大型船を使った数千人単位の移民を計画した。
  (参考)ダヴィド・ベン=グリオン(1886年10月16日
     ~1973年12月1日)は、イスラエルの政治家。
      首相(初代・第3代)を務めた。
       ポーランドのプロニスクで生まれ、
       パレスチナ移住後は、ユダヤ系住民のイギ
      リス軍への参加を呼びかけた。
       また、ナチスの弾圧によって多くのユダヤ
      系難民が、パレスチナへ押し寄せる様になる
      と、これを阻止しようとするイギリス当局と
      折衝した(難民の受け入れをする様にと行動)
       1947年に、国際連合が、パレスチナ分割を
      決議すると、メナヘム・ベギンらが率いるイ
      ルグンなど過激強硬派のテロや反発を抑えな
      がら、独立への準備を進めた。
       1948年5月14日、イスラエルは独立宣言した。
  このベン・グリオンの計画に基づいて、5000人収容可
 能な老朽客船・ウォーフィールド号が用意され、マルセ
 イユに入港した。
  ここでウォーフィールド号は、「エクソダス号」と名
 を改めて、
  4515人の難民(ほとんどが、ナチの強制収容所の生き残
 りの方々であるドイツ系ユダヤ人)を乗せると、
  1947年7月11日、フランスの出港禁止命令(卑劣にもイ
 ギリスが圧力をかけていた)を無視して、パレスチナへ向
 かって出港した。
  しかし、港を出たとたんに座礁した上に、出港翌日に
 は、巡洋艦1隻、駆逐艦6隻からなるイギリスの艦隊(第
 二次世界大戦後では最大の艦隊行動)に捕捉された。
  そして、一週間後、パレスチナ沖22マイルの公海上で、
 イギリス駆逐艦が、エクソダス号に体当たり攻撃をかけ、
 臨検を強行(国際法の違法行為)した。
  イギリス兵は銃撃までした。
  これに対し、難民の方たちは、空き缶や腐った野菜を
 投げつけて応戦した。
  三時間の戦闘で、アメリカ人の船長を含め、三人の犠
 牲者を出したが、難民の方々の抵抗は、臨検隊を海に叩
 き込んだ。
  しかし、体当たり攻撃で、浸水していたエクソダス号
 は、やむなく降伏した。
  難民の方たちは、三隻の船に分けられた後、パレスチ
 ナを離れた。
  三隻は、キプロスの収容所には寄らず、まっすぐマル
 セイユへ向かった。
  フランス政府は難民受け入れを表明した。
  しかし、病気の数人を除き、難民の方たちは、「船を
 下りる場所はパレスチナのみである」と、下船を拒否し
 た。
  マルセイユで、24日間、頑張った。
  しかし、あきらめた三隻は、難民を乗せたまま出港し
 た。
  しかし、イギリスは、ハンブルグに誘導した。
  ここで、難民達は強制的に下船させられた。
  そして、リューベックの収容所に入れられた。
  ナチの手から逃れてきたユダヤ人の方々を、再び、ド
 イツの収容所に入れた。
  ここで、ユダヤの方々へ理解を示していなかったアメ
 リカやヨーロッパ諸国は、イギリスを非難し、ユダヤ人
 の方々へ理解を示すようになった。
  しかし、この後も、イギリスは、ユダヤ人の方々へ、
 厳しい対応を続けた。
.
1952年1月18日、この日、突如、韓国の李承晩大統領が、何
 ら根拠のない、海洋主権宣言なるものを行なった。
  そして、漁船立入禁止線(いわゆる李承晩ライン)を
 主張しはじめた。
  この結果、日本の領土の竹島が、韓国の支配下にある
 とされ、一方的に宣言された。
  1952年のこの宣言から1965年(昭和40年)の日韓基本
 条約の締結までに・・、
  韓国軍は、ラインを越境したという理由で、日本漁船
 を328隻も拿捕した。
  そして、日本人44人を死傷させた(死亡者数は不明)
  また、3,929人を拉致し、抑留した。
  韓国側からの、日本の海上保安庁巡視船への無謀な銃
 撃等の行為は、15件にもおよんでおり、16隻が攻撃され
 た。
.
1953年(昭和28年)1月12日、韓国政府が、急に、主張し始
 めた「李承晩ライン」・・このライン内に出漁したとし
 て、この日、日本漁船を徹底拿捕をはじめた。
  これ以後、日本漁船の拿捕や、卑劣な銃撃行為が相次
 ぐ様になり
  日本の漁業従事者に、死傷者が、多数、出る事態とな
 った。
  同年・1953年2月4日には、第一大邦丸事件が発生した。
 済州島付近で、同船の漁労長が韓国側に銃撃を受け死亡
 した。
  また、日本人漁師の瀬戸重次郎氏が殺害されたりした。
  同年・1953年4月20日には、韓国の独島義勇守備隊(
 日本領の竹島を、韓国は独島と名付けた)が、竹島に、
 初めて駐屯した。
  1953年6月24日、日本の水産高校の船舶が、違法占拠す
 る韓国の独島義勇軍守備隊に拿捕された。
  1953年6月27日、日本の海上保安庁と島根県が、日本の
 領土の竹島の調査を行った。
  そして、「日本島根県隠岐郡五箇村」の領土標識を建
 てた。
  そして、竹島に、勝手に住み着いていた韓国の漁民6名
 を退去させた。
  すると、1953年7月12日に、竹島に上陸して違法占拠し
 ていた韓国の獨島守備隊が、日本の海上保安庁巡視船「
 へくら」に、90mの距離から機関銃弾200発を撃ち込むと
 いう蛮行がなされた。
  以後、領土欲しさの韓国は、事実を捻じ曲げて、鬱陵
 島の警察官約40名を、日本領・竹島に常駐させた。
  そして、日本の艦船の排除をはじめ、日本の艦船の接
 近に対し武力行使している。
  また、竹島の西島に、韓国人夫婦を定住させた。
  そして、韓国軍は、毎年、竹島(独島?)防衛訓練を
 行って、事実作りをしている。
  当然、日本政府は、この韓国による竹島の実効支配に
 抗議をしている。
  しかし、韓国側は、「竹島(独島?)は、韓国固有の
 領土である」と言い出し、「内政干渉だ」と言い出した。
.
1953年2月4日、第一大邦丸事件(だいいちだいほうまるじ
 けん)
  この日、公海上(済州島沖20マイルの農林漁区第284漁
 区の海域)で操業中であった福岡の漁船『第一大邦丸(
 57トン)』、及び、『第二大邦丸(57トン)』が、
  韓国の漁船『第一昌運号』、及び、『第二昌運号』(
 各約55トン)を利用した韓国海軍によって銃撃された。
  そして、拿捕された。
  この際、第一大邦丸漁撈長であった瀬戸重次郎氏(34歳)
 が被弾し、殺害された。
  この時、日本には、対応する軍事力が無く、
  その為、不利な状況で、屈辱的な交渉をするしかなか
 った 。
.
2013年3月8日、中国は、海外を広報戦略するために、膨大
 な金を使っている・・膨大な予算を投資している。
  世界中に、膨大な金で、中国の刷り込み、洗脳、プロ
 パガンダをしている。
  櫻井よしこ氏は、2013年3月8日の産経新聞で、次の様
 に記した・・、
  「中国の対外広報予算は、年間1兆円。
  日本外務省は、200億円にも満たない(中国の100分の
 2以下)」。
  中国は、この膨大な予算を使って、アメリカやヨーロ
 ッパの大学やシンクタンクに金を配る。
  その結果、中国研究者が増える。
  中国への親しみと中国の歴史観の受容と理解が深まる。
  日本研究者の数が先細りし、日本の価値観や考え方へ
 の理解者が減り続けているのと対照的となっている。
  中国は、全世界に孔子学院を創設中。
  また、2012年鋳、中国版CNN「CCTVアメリカ」を開
 いた。
  本拠地をワシントンに、スタジオはニューヨークに置
 いて、中国人は極力表に出ず、キャスターは、アメリカ
 人にして、だが伝える情報は中国の視点に基づくもの。
 (後略)
.
2015年12月、日米開戦から七十数年、一冊の回想録が刊行
 された。
  ジョージ・ナッシュ氏が編集した・・フーバー大統領
 の回想録『Freedom Betrayed(裏切られた自由)』
  ここには、大東亜戦争の歴史の書き換えを迫る重大な
 記録が含まれていた。
  1000頁近くにも及ぶこの大著を、いち早く読破し、そ
 の重要性を指摘されている中央大学客員教授の稲村公望
 氏。
  まず、アメリカ大統領のルーズベルトが、日本を戦争
 に引きずり込んだ事が、明確に裏付けられていると・・、
  フーバー大統領死去から、47年の歳月を経て刊行され
 た同書は、
  フランクリン・ルーズベルト大統領を厳しく批判して
 いて、同書の刊行は、いわゆる「東京裁判史観」の間違
 い、そして、清算のきっかけになるほど重大な意味を持
 つと・・、
  フーバーは、回想録の中で書く・・、
  「私は、ダグラス・マッカーサー大将と、1946年5月4
 日の夕方に三時間、5日の夕方に一時間、そして、6日の
 朝に一時間、二人だけでで話をした。
  私が、日本との戦争のすべてが、戦争に入りたいとい
 うルーズベルト(狂人と称している)の欲望であったと
 述べたところ、
  マッカーサー司令官も同意し、
  また、1941年7月の金融制裁は、挑発的であったばかり
 ではなく、その制裁が解除されなければ、自殺行為にな
 ったとしても戦争をせざるを得ない状態に日本を追い込
 んだ。
  ルーズベルトのやった制裁は、殺戮と破壊以外のすべ
 ての戦争行為を実行するものであり、
  いかなる国と雖(いえど)も、品格を重んじる国であ
 れば、我慢できることではなかったと述べた」・・と・・、
  これまでも、チャールス・A・ビアード博士らが、第
 二次世界大戦の責任は、ルーズベルトにあると主張して
 来ていた。
  また、ルーズベルトは、はっきり戦争になるとも言わ
 れ、忠告されていた・・、
  対日石油禁輸において、ルーズベルト大統領から意見
 を求められたスターク海軍作戦部長は、
  「禁輸は、日本のマレー、蘭印、フィリピンに対する
 攻撃を誘発します。
  そして、直ちに、アメリカを戦争に巻き込む結果にな
 るだろう」と述べられていた。
  しかし、ビアードらの主張は、「修正主義者だ」とし
 て、無視された。
  これ等の事により、ルーズベルトの責任は、明確に示
 され・・、
  そして、フーバーは、明確に書いた・・、
  「ルーズベルトが犯した壮大な誤りは、1941年7月、
 つまり、スターリンとの隠然たる同盟関係となったその
 一カ月後に、日本に対して全面的な経済制裁を行ったこ
 とである」と・・、
  そして、また、書いた・・、
  「その経済制裁は、弾こそ撃っていなかったが本質的
 には戦争であった(アメリカの宣戦布告であった)。
  ルーズベルトは、自分の腹心の部下からも、再三にわ
 たって、そんな挑発をすれば、遅かれ早かれ(日本が)
 戦争を始めざるを得ないことになる・・と警告を受けて
 いた」
.
2017年7月25日、産経ニュース<速報>加戸守行前愛媛県
 知事がスバリ指摘 「前川喜平氏は想像を全部事実のよ
 うに発言している。精神構造を疑う」
  「メディアは報道しない自由、印象操作は有力な手段」
  参院予算委員会で(7月)25日、加戸守行前愛媛県知事
 が、自身の発言を報道しないメディアや「行政がゆがめ
 られた」と主張する前川喜平前文部科学次官に矛先を向
 けた。
  文部官僚として官房長まで務めた加戸氏は、前川氏の
 先輩に当たる。
  自民党の青山繁晴氏は、学校法人「加計学園」(岡山
 市)の獣医学部新設計画を審議した10日の閉会中審査
 について、朝日新聞や毎日新聞などが「ゆがめられた行
 政が正された」などの加戸氏の発言をほとんど報じなか
 った経緯を踏まえ「加戸さんがいなかったがごとく扱わ
 れた。
  メディアや社会の様子をどう考えるか」と加戸氏にた
 だした。
  加戸氏は「メディア批判をして勝った官僚、政治家は
 誰一人いない。せんないことだ」としたうえで「報道し
 ない自由があるのも有力な手段、印象操作も有力な手段。
  マスコミ自体が謙虚に受け止めていただくしかない」
 と皮肉った。
  さらに加戸氏は「あえて申し上げなければならない」
 と、問わず語りでテレビ取材を受けた際の出来事を披露
 した。
  加戸氏の説明によると、取材は、事前に前川氏を取材
 した映像を見せながら加戸氏に見解を問う形式で行われ
 た。
.
2017年、アメリカのキッシンジャーは言う、「戦争に敗け
 た国の取る道は二つある・・と・・
  一つの道は・・目先の利益と安全保障を、安易に、ま
 た、楽に得たいと、占領軍に服従するコラボレーショニ
 スト(利敵協力者)となること」と・・、
  (戦争に敗けて、バンドワゴン方針をとった日本は・・
 これだ・・と・・間接的に示唆する)
  (参考)バンドワゴン:Band wagon、行列の先頭の楽
     隊車のことで、「バンドワゴンに乗る」は、時
     流に乗る・多勢に与する・勝ち馬に乗るの意味。
  (参考)collaborationism:利敵協力(りてききょう
     りょく、英: collaborationism)とは、占領下
     にある地域において行われる、被占領者による
     占領者への協力行為のこと。
  因みに、、キッシンジャーが言うもう一つの道は、「
 ゲリラになってでも、戦い続ける道」・・
  前記の道は、せっせと服従し、恭順の意を示していな
 ければならない・・日本もその様に・・なった。
  しかし、この道は、国家の最も大切なレジティマシー
 (正統性)を失う。
  (参考)レジティマシー(legitimacy)
     1.(法律的な)正当性。
      法的な根拠を持っていること。
     2.(政治的な)正統性。
      統一的な根拠を持っていること。
  敵国だった占領軍が押し付けてきた憲法や法律、行政
 制度、教育制度、歴史解釈などを・・敗北した国は、「
 道徳的に劣等な国」なのだから、またそして、戦勝国は、
 「道徳的に優越した正義の国なのだから」・・という尺
 度を、解釈を、使わせられ・・(結局、最後は、その様
 に思い込まされてしまった日本人・・NHKも、せっせ
 とこの道の洗脳に手を貸した)、
  そして、この様な屈辱的な状況に置かれた国民は、「
 占領軍の言いなりになっているだけの似非(えせ)国家」
 と思うようになる・・
  この様な事を、思いもつかない国民も・・多く居るが・・、
  外見は、「立派な独立国」「経済大国」に見えても・・?
  国民は、属国に過ぎないと・・まともな国民は思い・・
  そして、モラール(士気・気概・競争心)を失い、士
 気を失い、国への忠誠心をも失って行く・・
  そして、キリスト教は国歌斉唱に反対し、国旗掲揚に
 も反対する・・、
  そして、利己的な自分さえ良ければ良いになって行く。
  国防意識も失う。
  敗戦後の日本のコラボレーショニスト・レジーム(隷
 属体制)意識は、この様な経緯で作られて行った・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-08-09 16:33 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)543E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年11月~1891年12月)

題:(増補版)543E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年11月~1891年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年11月21日、第二通常議会が召集された。
  帝国議会(ていこくぎかい、「議会」もしくは「国会」
 と略称される)は・・、
  明治天皇陛下による詔勅「国会開設の詔」(1881年10
 月12日)を経て・・、
  1889年(明治22年)2月11日の大日本帝国憲法(明治憲
 法)発布によって、議会は開かれた。
  議会は、公選の衆議院と非公選の貴族院から成ってい
 た・・そして・・、
  1890年11月29日、第一回議会が開会され・・、
  1891年5月6日、第一次松方正義内閣が成立した。
  松方内閣は、積極財政方針を掲げて、精力的な働きを
 したが・・、
  成立の時から、野党から「二流内閣」と言われた。
  内閣の成立直後に、大津事件などの不幸な事件もあっ
 た。
  そして、そのことによる、主要閣僚が辞意を表明する
 などの・・事態が起きた。
  重要閣僚を欠く内閣ともなり、また、清国の不穏な動
 きの中にもあった。
  その対策の重要案件、日本の防衛問題という重要な討
 議の必要性もあった。
  1891年11月26日に開会した第二議会に、軍艦建造費の
 案件が提出され・・また・・
  製鋼所設立費を含む予算案、鉄道敷設法案などが提出
 された。
  (2017年の今・現在、不穏な動きをする北朝鮮動向に
 対する重要な討議の必要性があるが、野党の架空政治家
 たちは、加計学園問題にかこつけて、まったくこの重要
 案件から逃避している)
  これに対して、自由党・立憲改進党などの民党は、民
 力休養を主張した。
  そして、新規事業の多くを否決、予算の約1割削減を要
 求した。
  この間、軍艦建造費をめぐり樺山資紀海相が、厳しく
 必要性を説く「蛮勇演説」を行った。
  このこともあって、政府と民党の対立は激化し、衆議
 院は空転した。
  松方は、やむなく12月25日に、初めての衆議院解散を
 決断した。
  そして、翌年・1892年2月15日に、第2回衆議院議員総
 選挙が行われた。
  この第2回衆議院議員総選挙では、内務省(品川弥二郎
 内相、白根専一次官)による選挙干渉が行われた。
  これは、死者まで出る事態となった。
  (参考)この選挙干渉について、実際は、複雑な経過
    を辿っている・・が・・、
     解散の2日後に、松方正義首相と品川内相が、相
    次いで府県知事に内諭(ないゆ、表沙汰にしない・・
    さとし)を出して、暗に、政府系の候補者に対し
    て便宜と票の取り纏めを依頼した。
    (戦前には、後の政党内閣期も含め、こうした要
    請が、しばしば行われた)
     この直後に、松方・品川・白根に加え、平山成
    信書記官長・小松原英太郎警保局長・大浦兼武警
    保局主事らによる選対本部が、極秘に組織され、
    政府系候補への選挙支援策が協議された。
     だが、実力行使を含めた選挙干渉を指示した命
    令類はない・・発見されていない。
     逆に、複数の知事から政府に対し、民党進出を
    阻止するために、警察力の行使を求める意見が寄
    せられている。
     このことから、選挙干渉の発案が、内務省側な
    のか、府県知事側の突き上げなのかについては明
    らかとなってはいない。
     ただ、選挙初期から各地で支持者同士の揉め事
    が起きていて、そこに実力による介入の余地はあ
    る。
     各地で、民党候補、及び、支持者と警察との衝
    突が発生し、自由党が強い高知県で政府公式発表
    で死者10名・負傷者66名という流血の惨事が発生
    した。
     この他、全国で25名の死者が出た。
  この様な事態に、伊藤博文や、陸奥宗光農相らから強
 い批判が出された。
  1892年3月、品川内相が辞任した・・さらに・・、
  1892年5月、召集の第3特別議会では、選挙干渉に関し
 内閣弾劾決議が採択された。
  1892年7月、元改進党副総理の河野敏鎌法相が、内相を
 兼任、選挙干渉に関与した内務次官、知事らを免官した。
  このことから、首相の指導力の欠如もあって、閣内対
 立が表面化し・・、
  1892年7月30日、総辞職され・・、
  1892年8月8日、この日に成立した第二次伊藤内閣に引
 き継がれた。
1891年11月26日、第二回帝国議会の開院式が挙行された。
1891年11月27日、山陽鉄道会社が、旅客運賃改訂を申請し
 た(12月2日認可)
1891年11月、歌舞伎座にて、新作「太閤軍記朝鮮巻」が上
 演された。
  第四幕の朝鮮王子らが捕らえられるくだりは、朝鮮公
 使の抗議を受け入れ、その一幕が削られた。
  そして、「義経腰越状」が加えられた。
  この逆のパターンについて、元寇の時、朝鮮は日本を
 攻め、日本の対馬の女性を強姦したり、拉致したりした。
  しかし、この様な逆の場合の配慮はなされたのだろう
 か?
  要求することばかりの国のように感じるが・・?
1891年11月、伊井蓉峰・水野好美らが、済美団を起し、浅
 草公園の吾妻座にて開演した。
  女優として千歳米坡も出演した。
  1888年12月、自由党壮士・角藤定憲が、中江兆民の勧
 めにより、「大日本壮士改良演劇会」と銘打ち、大阪の
 新町座で、自作の小説の脚色『耐忍之書生貞操佳人』と、
 大井憲太郎の大阪事件を脚色した『勤王美談上野曙』を
 上演した・・新派劇の最初。
  ・・ついで・・、
  1891年2月、川上音二郎が、藤沢浅二郎らと、堺の卯の
 日座で、矢野龍渓原作『経国美談』と、板垣退助の遭難
 事件の劇化『板垣君遭難実記』を上演。
  川上も、自由党の壮士で、初め自由童子の名で政治演
 説をしたり、時事風刺のオッペケペー節を歌ったりして
 いたが、やがて同志を集めて一座を結成した。
  技芸未熟なうえに、脚本、演技、演出なども歌舞伎模
 倣の域を出なかった。
  しかし、粗野生硬ながら、青年らしい熱気にあふれた
 動作やせりふ回しが、観客にはかえって新鮮なものとし
 て映り、「壮士芝居」「書生芝居」とよばれ、人気を集
 めた。
  川上一座は、同年・1891年6月に、東京・中村座に進出
 し、成功を収め、東京に地歩を築いた。
  この川上に刺激されて、新演劇を企てる者が多く現れ
 た。
  同年・1891年11月、伊井蓉峰は、演劇改良論者・依田
 学海の後援を得て、「済美館(せいびかん)」を結成し、
 政治色の薄い純粋の演劇運動として「男女合同改良演劇」
 の名のもとに、学海作『政党美談淑女之操』ほかを東京・
 浅草の吾妻座で上演した。
  この時、もと葭町の芸妓・千歳米坡(ちとせべいは、
 1855年~1913年)を出演させて、近代女優の嚆矢(こうし、
 物事のはじめ)とした。
1891年12月7日、朝鮮へ、日本公使が、防穀令の損害賠償を
 求めた。
  朝鮮咸鏡道で防穀令が出され、この事で損害が発生し
 たが、このことに対し、在朝鮮の日本公使が、損害賠償
 を要求した。
  朝鮮王朝 (李朝) の穀物輸出禁止をめぐる日朝対立事
 件 (1889年~1893年) が起きた。
  1879年に百万円、1895年に1千万円、1904年には3千万
 円を超えるという日朝貿易の規模と拡大だった・・、
  この「日朝貿易」という利便性が働いているときは、
 両者にとって良いが、この時、朝鮮には、凶作という事
 情があった。
  また、日本は、国内産業が成長して、欧米製品輸出か
 ら、日本製品の輸出に、徐々に切り替わって行ったが、
  朝鮮産業は未熟で、朝鮮からの輸出品は、日本向けの
 米と、大豆ぐらいで、あとは、金での決済が中心だった。
  (貿易収支の改善策が取れなかった朝鮮側の事情もあ
 った)
  そして、この時、朝鮮は、食料的に行き詰ったため、
 咸鏡道(かんきょうどう)観察使(地方行政監察のため
 の官職)の趙秉式は、1236年(高宗 20 (83) 年)の日韓
 通商章程第 37款に基づいて、古い時代の条例で輸出禁止
 令を発布した。
  しかし、担当地方官の手落ちで、予告期間も不足し、
 これらが原因で紛糾した。
  これらの為、日本商人に14万7000円の損害が発生した
 ため、損害賠償要求が出された。
  この問題は、両国間の外交問題に発展して行った。
  交渉は、当初から難航した・・、
  伊藤博文が、清の李鴻章に斡旋を依頼し、これにより、
 1893年4月、11万円の賠償と大石公使の召還で妥結された。
1891年12月13日、近衛司令部条例が改正された。
  近衛都督を近衛師団長とした。
  1872年(明治5年)4月16日に、「近衛条例」を制定し、
 御親兵掛を廃止し、「近衛局」を置いた。
  そして、8日後の1872年4月24日に、天皇陛下に直隷す
 る近衛都督の下、御親兵を改称した壮兵からなる「近衛
 兵」が創設された。
  宮城警備とともに、鎮台に設置された鎮台兵をも指導・
 訓練する役目も担った。
  (参考)近衛都督(このえととく):1872年に近衛条
    例が制定され、親兵が近衛と改称され、
     各地の鎮台が、陸軍卿の権内におかれた政府軍
    であるのとちがい、新設の近衛の総指揮官である
    近衛都督(初代山県有朋、2代西郷隆盛)が、天皇陛
    下に直隷された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:金にものを言わせた印象操作が、盛んに行われている・・
.
1587年6月7日、豊臣秀吉が、島津を攻略し、箱崎(博多)
 に凱旋した。
  日本の施政者としての豊臣秀吉は、初め、キリスト教
 の布教活動に対して寛大さを示した・・しかし・・
  しかし、キリスト教宣教師たちの不穏な動きを知り、
 部下に確認させたところ、種々の不埒(ふらち、道理に
 はずれ不届きなこと)な行動が確認され、しっかり認知
 されるに至った。
  また、鹿児島の島津征伐に九州を転戦するうちにも、
 そのキリシタンたちの不埒な、また、不穏な行動の実態
 をしっかり確認もした。
  (日本の女性・娘たちの人身売買までしていた)
  (参考)島津は、1587年(天正15年)5月8日に降伏し、
     秀吉は、6月7日に、箱崎(博多)に凱旋した。
  秀吉は、キリスト教宣教師たちに質問した・・、
  「なぜ伴天連たちは、地方から地方を巡回して、人々
 を熱心に煽動し、強制して宗徒とするのか?」
  「今後そのような布教をすれば、全員を支那に帰還さ
 せ、京・大阪・堺の修道院や教会を接収し、あらゆる家
 財を没収する」と・・、
  また、更に、秀吉は・・、
  「なぜ伴天連たちは、神杜仏閣を破壊し、神官・僧侶
 らを迫害し、彼らと融和しようとしないのか?」と詰問
 した。
  神杜仏閣の破壊、焼却は、高山右近や、大友宗瞬など
 のキリシタン大名の領地で、大々的に行なわれていた。
  秀吉の質問に対し、キリスト教宣教師たちは答えるこ
 とが出来ず、また、誠実な対応も見えなかった。
  秀吉からの詰問に対し、コエリヨの反応は、極めて傲
 慢で、狡猪な、高をくくった返答だった。
  高山右近を初め、多くのキリシタン大名たちは、コエ
 リヨを牽制(けんせい、ある行動によって相手の注意を
 引きつけるなどして、相手の自由な行動をおさえ妨げる
 こと)をした・・、
  しかし、そのキリシタン大名らの制止を聞き入れず・・、
  宣教師らは、反って、長崎と茂木(現:茂木町)の要
 塞を強化した。
  (キリスト教宣教師たちは、日本の植民地化の一面の
 使命を持っていて・・軍事基地を保持し、強化した)
  それで、長崎などを要塞化し、武器・弾薬を増強し、
 フイリピンのスペイン総督に援軍を要請した。
.
1775年4月19日、レキシントン・コンコードの戦い
  アメリカ独立戦争が始まる契機となったこの戦い・・
  アメリカとイギリスとの間に、戦いが起きた。
  イギリス軍が、ボストン北西に位置するコンコードに
 あった「アメリカ植民地民兵部隊の武器庫」の接収作戦
 を実施した。
  これに反発すべく動いた植民地(アメリカ)民兵隊と
 武力衝突が起きた。
  レキシントンとコンコードで、イギリス軍と民兵隊の
 あいだで、激しい戦闘が行われ、植民地軍は、イギリス
 軍を撃破した。
  規模は小さいながら、アメリカの独立戦争の緒戦を飾
 るものだった。
  アメリカの黒人の方々は、「奴隷状態を解放されて、
 自由が得たい」と、個人で、また、集団で、逃亡行為を
 行なった。
  そして、逃亡して軍隊に加わり、独立戦争の戦闘に参
 加した。
  この独立戦争における大きな戦闘で、黒人の方々が参
 加してない戦闘は一つもないほどに活躍がなされた。
  コンコード、バンカーヒル、タイコンデローガ、ブー
 ンズボロ、サラトガ、ヨークタウン・・などなどの戦闘
 で、黒人兵士は、白人兵士もおよばないほどの勇敢さで
 戦った。
  (参考)1775年6月17日、バンカーヒルの戦い:
     アメリカ独立戦争初期ボストン包囲戦中に起こ
    った大陸軍(アメリカ軍)とイギリス軍の戦闘。
     大陸軍はイズラエル・パットナム将軍が、イギ
    リス軍はウィリアム・ハウ将軍が指揮した。
     この戦いは、独立戦争で2番目の戦闘だった。
     1775年6月13日、ボストンを包囲していた大陸軍
    の指導者達は、イギリス軍の将軍たちがボストン
    市内から部隊を出して、市を取り囲む丘を占領す
    る作戦を立てていることを知った。
     この情報に反応し、ウィリアム・プレスコット
    の指揮する1200名の部隊が、密かにバンカーヒル
    とブリーズヒルを占領し、
     ブリーズヒルには、土盛りの堡塁を造り、チャ
    ールズタウン半島の大半にわたる防御を施した前
    線を築き上げた。
     この後に、戦いは激しく行われた。
     この様な戦いで、黒人の方々が必死で戦ったが、
    白人は、この黒人の方々の功績を過小評価し、
     また、この様な歴史を検証することなく隠した。
     黒人の方々の歴史は隠されて行った。
     近年、この様な黒人の方々の功績の歴史が明ら
    かにされて来ている。
     そして、この様な白人の卑劣な歴史が、明らか
    にされて来ている。
.
1937年6月27日、戦争回避の御前会議
  盧溝橋事件(1937年7月7日)の10日前、天皇陛下は、
 日中の極度に高まっている緊張状態を憂慮され、この
 一触即発の日中関係を緩和しようと、前例のない御前会
 議を開かれた。
  天皇陛下は、首相に就任したばかりの近衛秀麿と、華
 北工作の中止を唱えていた外相の広田弘毅と、参謀本部
 作戦部長の石原莞爾(かんじ)らを集められた。
  天皇陛下は、メンバーの知略をまとめ、避戦をしたい、
 戦争を避けたい、それができると、この会議を開かれた。
  しかし、内大臣の湯浅倉平や、元老の西園寺公望らへ
 伝えた段階で、中国側の発砲という事態で、盧溝橋事件
 が発生してしまった。
  日中戦争の回避の大きなチャンスが逸(いっ)せられ
 てしまった。
  (盧溝橋事件は、日本側の発砲とされていたが、日本
 は濡れ衣を着せられていたが、近年、中国側の発砲とい
 う真実が判明なされた)
  不拡大論の石原は、突き上げられ立場は悪くなってし
 まった。
  やむなく、3個師団の出兵を承知せざるを得なくなっ
 た。
  中国の蒋介石も、「ドイツの和平仲介を断わる」とい
 う強硬論であった。
  日本にあった「全面戦争などしたくない」という状況
 が、この様な状態から、ずるずると引きずり込まれて行
 く状態であった。
  この陰に、アメリカの中国への支援があった。
  戦後、毛沢東主席は、訪中した日本の政治家や元軍人
 に対し、「日本軍が、国民政府軍(蒋介石軍)と戦って
 撃破してくれたお蔭です。感謝したい」と言った。
  日本側メンバーに、その様に発言した毛沢東だった。
  毛沢東の共産党軍にとって、国民政府(蒋介石)打倒
 が最優先だった。
  日本は、中国の現政府の共産党軍とは戦っていない。
  現政権の中国・共産党軍は、戦勝国でも何でもない。
.
1937年7月7日、盧溝橋で軍事衝突(日華事変)
  盧溝橋事件の日本の汚名が晴れた・・
  中国の金振中が盧溝橋事件の真実を吐露した・・白状
 した。
  金振中は、中国軍の大隊長で、「日本軍の計画的犯行
 だ」と中国側が主張していた盧溝橋事件が・・『そうで
 はない』と白状した。
  『中国軍の発砲により始まったのだ』と言った。
  局地的な小さな紛争をデッチアゲて、大きな全面戦争
 へと拡大してしまった。
  この様な事実が知れると、中国(共産党政権)は、そ
 れまでの言い方を変えて来た。
  中国の国定教科書の嘘記述も書き換える必要がある。
  南京事件も慰安婦問題も、この様にでっち上げられて
 いる。
.
2010年3月、TBSテレビの東京放送ホールディングスが、
 2010年3月期連結決算で赤字に転落した。
  原因は視聴率の下落・・
  この金に行き詰まった以降、TBSには外資が入り、
 その時から、偏向放送が多くなって行った。
  外資(外国資本)に繰られ易い放送局になっている・・
  今・現在(2017年)、種々、『印象操作的な政局番組』
 を行なって、あまりの酷さに、世間の批判を受けている
 が、この様な番組が、視聴率を稼げると言っている不埒
 な放送局となっている。
  自分の懐具合(ふところぐあい、所持金の額や金回り
 の状態)を優先する放送局となっていて、国を売る放送
 局となっている。
  公(おおやけ)では、TBSの外国株主は11.3%とな
 っているが・・しかし・・、
  大株主は、日本マスタートラスト信託銀行株式会社、
 日本トラスティ・サービス信託銀行株式会社で、1位と2
 位の大株主となっているが・・、
  実際は、この2社は、信託業務の一環として株を保有し
 ているだけで、実際の株主は「外国株主となっている」。
  また、議決権のない株の外国株主もいる放送局。
  種々の形をとっている「これ等の外国株主」を入れる
 と、完全な違法状態となっている。
.
2017年7月28日、青山繁晴、倒閣運動に絡めた八つ当たりへ
 の反論・・、偏向報道が横行する組織構造
  https://www.youtube.com/watch?v=Cf5CJAjWc2w
  某銀行の現役銀行員の意見:
  (安倍政権以前の)バブル崩壊以降、日銀の腐った金
 融政策、歴代政権の、的外れな景気対策の乱用などによ
 り、20年以上、デフレから脱却できず、日本経済は低空
 飛行を続けて来ましたが、
  安倍政権の政策と、日銀の、連携した金融政策の改善
 などによって、企業収益や雇用などが回復し、ようやく
 日本経済に光が見えてきたところです。
  このまま安倍政権を支え続けて行くことが、日本にと
 って、何よりも国益であると判断する事が合理的であり、
 妥当でしょう。
  ところが、森友や加計などの、くだらない「でっち上
 げ報道」で、安倍政権は深刻なダメージを食らってしま
 いました。
  さっそく、ポスト安倍が話題になっておりますが、
  石破氏は、緊縮と増税派で、民主党政権より悪いです
 し、現行の政策を継承できそうな国会議員も見当たりま
 せん。
  従って、今、安倍政権を失えば、金融市場参加者は、
 日本に失望して、全面的に「失望売り」です。
  せっかく回復しかけた日本経済が、再び、失速してし
 まうでしょう。
  つまり、今の日本は、安倍政権の維持こそが、国益で
 あり、国民の命と財産を守るための、現実的で妥当な手
 段となる構造になっていると思います。
  国会議員は、国民の命と財産を守ることが責務です。
  すべての国会議員に、この状況を認識してもらいたい
 ですし、国民にしっかり知らしめて戴きたいものです。
.
2017年7月、TBSテレビ「ひるおび!」は、偏向した番組
 だ。
  報道の自由と言いながら、政府批判ばかりしている。
  連日の報道で、世論操作を狙っている酷い番組。
  また、同じことを繰り返し、洗脳的に世論操作ばかり
 している。
  重箱の隅を楊枝で突っつく様な「いやらしさのある番
 組」。
  また、伊藤惇夫コメンテーターは、稲田防衛大臣(女
 性)の「つけまつげが大き過ぎる」と、程度の低い人格
 攻撃までする。
  提供企業は・・、
  ミキプルーン(三基商事株式会社)、
  バズキルーペ(プリヴェAG株式会社)、
  セコム(セコム株式会社)、
  (チューリッヒ生命)、
  ポリデント(グラクソ・スミスクライン・コンシュー
   マー・ヘルスケア・ジャパン株式会社)、
  積水ハウス株式会社、
  タケダ(武田薬品工業株式会社)、
  au(KDDI株式会社)、
  dポイント(株式会社NTTドコモ)、
  BIGMOTER(株式会社ビッグモーター)、
  LOTTE(株式会社ロッテ)、
  ソフラン(ライオン株式会社)
  大正製薬株式会社、
  株式会社サカイ引越センター、
  ウナクール(興和株式会社)、
  オートバックス(株式会社オートバックスセブン)、
  味の素株式会社、
  チョコラ(エーザイ株式会社)、
  株式会社バンダイナムコエンターテインメント、
  GODA(高砂熱学工業株式会社)、
  小林製薬株式会社、
  バイクオー(株式会社バイク王&カンパニー)、
  東海銀行(三菱東京UFJ銀行)
  ロート製薬株式会社、
 こんな番組を提供して、逆宣伝になっている。
  (参考)次の様な声もある。 [桜H29/7/14]
  https://www.youtube.com/watch?v=pIgpdwubRVw
  負けるな安倍政権!
  メディアと反日勢力による倒閣運動を許すな!
.
2017年、(庶民の声ー1):最近、朝日・毎日・TBSあ
 たりの捏造報道が露骨になってきた気がする。
  それを批判されると外国人特派員協会に焚き付けて海
 外メディアにも放火を始める。
  青山議員と愛媛元知事のやり取りは、ついに報道しな
 かった。
  もはやジャーナリズムの体をなしていない。
  (庶民の声ー2):愛媛県の元知事の国会証言や青山
 議員の糾弾は立派で正論です。
  多くの国民は同意と思います。
  よって、四国の鳥インフルエンザや狂牛病などに対処
 できる獣医師の増加に反対する朝日、毎日新聞に対し、
 四国の草莽、畜産、水産、農業従事者は、組織的に、今
 こそ購読拒否運動をすればいいと思います。
  (庶民の声ー3):日本の中に北京派と台湾派があり
 マスコミは、内外の北京派に圧力をかけられていると認
 識して良いですね。
  そして、世論調査はいかさまですよね!
  トランプと阿部さんが親密であったことも、アメリカ
 民主党を刺激している。
  (庶民の声ー4):閉会中審査の加戸前愛媛県知事の
 証言は地上波ではカットされています。
  一番ひどいのはTBSとテレビ朝日です。
  (庶民の声ー5):G20での会談で習中国主席が、
 安倍首相に歴史問題と台湾問題で圧力かけてきたことを
 日本は全く報道しませんね。
  台湾の方の話で知りました。
  マスコミは、中国に屈しない安倍首相の姿勢・必要性
 が国民に知られるのが嫌なのでしょうか。
  (庶民の声ー6):恐ろしいほどマスコミの作為を感
 じます。
  TBS「ひるおび」とフジTVバイキング坂上忍や東
 国原、グッディの安藤裕子や高橋克実の印象操作は酷い
 です。
  これらの番組は、元々、目立つ様な安倍政権叩きして
 なかったのに、今年になって急に森友加計学園から容赦
 ない安倍叩き始まりました。
  泉企画含め明らかに計画性を感じます。
  そして、主婦やネット使わない高齢世代がマンマと乗
 せられて選挙に反映。
  昼のワイドショーは危険です!
  (庶民の声ー7):外国勢力とつながる日本の勢力が、
 外国勢力の金で世論を操作する。
  この様な動きで、国が動いてしまうから恐ろしい。
  民主主義の制度が逆利用されて、外国勢力の金で動か
 された声の大きい日本の組織が動き、庶民が洗脳されて、
 動かされてしまう。
  毎日、毎日、聞かされているうちに、その様に思わさ
 れ、その外国勢力の思惑の中に入って行ってしまう。
  イギリスの場合もそうだった。
  繰られ、煽(あお)られたイギリスの国民の方々が、
 EU離脱を決定してしまう。
  事が決した後に、我に返ったイギリスの国民の方々、
 その時は、仕掛けた者たちの姿は消え、急に見えなくな
 ってしまった。
  イギリスの「EU離脱の決定だけが残った」。
  しかし、決してしまったことは、変えることはできな
 いと、その決定に従って行くイギリス・・今までの努力
 は水泡と化した。
.
2017年、TBSテレビの「サンデーモーニング」が、偏向
 番組だと盛んに指摘されているが・・、
  この番組の進行をしている関口宏は、キリスト教系の
 立教大学の出身。
  関口宏は、立教小学校~立教中学校~立教高校とズー
 ット立教のキリスト教育を受けて来た「生粋(きっすい、
 まじりけの全く無いこと)の立教人」。
  立教大学の方針は、「キリスト教で教育された人間で
 日本のメディアを制する」という目的を持っていて・・、
 立教大学出身者を日本のメディアに送り込んでいる。
  それ故、日本のメディアには、立教出身者が多い状態
 となっている。
  偏った人間構成となっている。
  マッカーサー司令官が、日本をキリスト教化したいと
 して国際基督教大学を作ったが・・、この立教大学も、
 このイデオロギーに沿った行動をとっている。
  そして、今・現在も、このサンデーモーニングの事例
 の様な偏向した行動が行なわれ、その異常さが指摘され
 ている。
.
2017年、日本のマスコミが、トランプ大統領を、「トラン
 プ」「トランプ」と呼び捨てにしているが・・、
  なかなか、「トランプ大統領」と言わないが・・、
  こんな形でのトランプ下ろしも行われている・・、
  庶民の方々は、こんな形からも・・印象操作されてい
 る。
  テレビのどのチャンネルに於いても・・その様に「呼
 び捨て」にしている・・が・・
  これは、その様に仕向けられている・・
  アメリカにおいて、まさかのトランプ大統領の誕生の
 時、トランプ降ろしのデモが起きた・・が・・、
  そして、このデモが・・資金によって・・金によって
 仕組まれていると・・指摘われたが・・、
  これらは、ほんの1例で・・、
  この様なやり方・・などなどで、「トランプ降ろし」
 が・・なされている。
  日本のマスコミは、これに、特に、追従している。
  根の深い関係で・・指令で・・アメリカや外資のある
 グループと関係を持っている。
  一体となってやっている。
  このグループは、アメリカ大統領選挙で、クリントン
 を大統領にしたかったグループ・その他で、
  べらぼうな資金力を持っている。
  今まで通りのクリントンの路線で行けると思ったが、
 今回、その思惑通りに行かなかった。
  今まで通り、政治と一体となって稼ぎたいとしていた
 ・・が・・その通りにならなかったグループ。
  その資金力にものを言わせて・・、日本に働きかけて、
 日本で自分好みに洗脳をしたいと・・やっている。
  日本の安倍首相が、トランプ大統領が大統領になった
 初期に訪米し、トランプ大統領と一体となって、行動し
 たことを・・苦々しく思っているグループ。
  「安倍おろし(降ろし)」にもつながって来る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-08-03 05:24 | 皆様とともに 幸せになりたい


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