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(増補版)571E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年12月~1892年12月)

題:(増補版)571E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年12月~1892年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年12月13日、渋沢栄一襲撃事件
  水道鉄管を外国製を主張する渋沢栄一への凶徒襲撃事
 件が起きた。
  結局、国産の鋳鉄会社の納入遅延や不良品の不正納入
 などが発生して、大部分の鉄管は外国製品を輸入し、使
 用するに至った。
1892年12月18日、チャイコフスキーバレエ「くるみ割り人
 形」が初演された。
  チャイコフスキーが作曲した『眠れる森の美女』が、
 1890年に成功し・・
  その次作として、マリンスキー劇場の支配人であった
 イワン・フセヴォロシスキーは、ドイツのE.T.A.ホフマ
 ンの童話 『くるみ割り人形とねずみの王様』 を原作と
 するバレエを構想した。
  そして、再度、チャイコフスキーに作曲を依頼した。
  筋は、ホフマンの童話に基づき、マリウス・プティパ
 が台本を手掛けた。
  そして、振付も担当する予定であった。
  しかし、プティパは、リハーサル直前に病に倒れ、振
 付は、後輩のレフ・イワーノフに委ねられた。
  初演は、この日、サンクトペテルブルクのマリインス
 キー劇場で行われた。
1892年12月20日、伊達宗城(だてむねなり) が逝去した。
  (1818年9月1日~1892年12月20日、75歳)
  伊予宇和島藩8代藩主、伯爵、政治家。
  1818年、江戸に生まれる。
  1827年(9歳)4月、宇和島藩主・伊達宗紀の仮養子と
   なる。
  1828年(10歳)10月、宇和島藩家臣・伊達寿光の養子
   となったが、
  1829年(11歳)4月11日、嗣子となり得る男子に恵まれ
   ない藩主宗紀の養子となる。
   宗紀の五女・貞と婚約して婿養子の形をとったが、
   貞は早世してしまい、婚姻はしなかった。
  1844年(26歳)養父の隠居に伴い藩主に就任する。
   宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、
   木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施した。
   幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、
   更に長州より村田蔵六(大村益次郎)を招き、軍制
   の近代化にも着手した。
   福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩
   主・島津斉彬とも交流を持ち「四賢侯」と謳われた。
   この四賢侯は、幕政に積極的に意見を言い、老中首
   座・阿部正弘に幕政改革を訴えた。
   阿部正弘死去後、1858年(40歳)に大老に就いた井
   伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。
   13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、
   宗城ほか四賢侯や水戸藩主・徳川斉昭らは、次期将
   軍に一橋慶喜を推した。
   一方、直弼は紀州藩主・徳川慶福を推した。
   直弼は大老強権を発動、慶福が14代将軍・家茂とな
   り、一橋派は排除された(安政の大獄)
   これにより宗城は、春嶽・斉昭らとともに隠居謹慎
   を命じられた。
   養父の宗紀は、隠居後に実子の宗徳を儲けており、
   宗城はこの宗徳を養子にして藩主の座を譲ったが、
   藩政に参画した。
   謹慎を解かれて後は、再び、幕政に関与する。
  1862年(44歳)薩摩藩が起こした生麦事件の賠償金を
   幕府が支払うことに反対した。
   その一方で、生麦事件を引き起こした当事者である
   島津久光とは交友関係を持ち、公武合体を推進した。
  1863年(45歳)末には参預会議、
  1867年(49歳)四侯会議に参加し、国政に参与したが、
   短期間に終っている。
  1866年(48歳)イギリス公使ハリー・パークスがプリ
   ンセス・ロイヤルで宇和島を訪れた際、お忍びで同
   艦を訪問した。
    パークス一行上陸時は、閲兵式に続き純和風の宴
   で接待し、宇和島を離れる際には藩の旗印と英国国
   旗を交換し、
    さらに、同年後日、アーネスト・サトウ宇和島訪
   問の際には、日本の将来について、天皇陛下を中心
   とした連邦国家にすべしという意見交換をするなど、
   外国人とも積極的に交流した。
  1867年(49歳)12月、王政復古の後は新政府の議定(
   閣僚)に名を連ねた・・しかし・・
  1868年(50歳)戊辰戦争が始まると、心情的に徳川氏・
   奥羽列藩同盟寄りであったので、薩長の行動に抗議
   して、新政府参謀を辞任した。
  1869年(51歳)民部卿兼大蔵卿となって、鉄道敷設の
   ためイギリスからの借款を取り付けた。
  1871年(53歳)欽差全権大臣として清の全権李鴻章と
   の間で日清修好条規に調印し、その後は、主に外国
   貴賓の接待役に任ぜられた。
   しかし、その年に中央政界より引退。
  1881年(63歳)日本に立ち寄ったハワイ国王カラカウ
   アを接待し、それに対する返礼として勲章を授与さ
   れている。
   カラカウアより宗城に授与された勲章は、宇和島伊
   達文化保存会に保存されている。
  1884年(66歳)宇和島伊達家は、華族令によって伯爵
   を授けられた。
  1891年(73歳)養嗣子の宗徳が宗城の維新時の功によ
   って侯爵に陞爵された。
  1892年、東京の今戸屋敷で病没された。享年75歳。
1892年12月20日、大阪紡績工場で火災。
  大阪紡績会社三軒家工場火災
  明治のこの頃、綿製品が日本最大の輸入品だった。
  そこで、明治10年代(1876年~85年)に、政府は、同製
 品の国内生産化を進めるため、紡績業の育成を国策とし
 て取り上げた。
  そして、2000錘の糸を紡ぐ紡績機を輸入し、資金面で
 保護し奨励策を行った。
  しかし、2000錘という規模の小ささや、水車を原動力
 とすることからくる立地条件の制約、国産原料の不適正、
 経営、技術上の未熟などがあり、成功しなかった。
  この時、第一国立銀行頭取の渋沢栄一は、輸入綿糸の
 巨額なことに驚いて、当時の代表的な綿関係商人や貿易
 商に呼びかけて、
  また、旧大名や華族たちの資金を活用し、錘数1万500
 錘という大規模な大阪紡績会社(現・東洋紡)を設立した。
  1882年11月、大阪三軒家工場落成した。
  1883年の翌年7月、操業を開始し、近代紡績産業確立へ
 の基礎を作った。
  しかし、この日、業界のトップを走っていた、同工場
 が大火災を起こした。
  第二号工場2階南端にある第39号ミュール紡績機の運転
 が突然止まり火を噴き、
  こわれたガラス窓から吹き込んだ風によってあたり一
 面が火の海と化し、火元の二号工場を始め一号工場も全
 焼した。
  特に、二号工場3階の綛場(かせば:製品の仕上げ工場)
 で、夜間修業中の多くの女子工員が作業をしていたが、
 火の回りが早く、逃げ場を失い階段で折り重なって倒れ
 た。
  95人が死亡、22人負傷、紡績機3万台が焼損した。
  しかし、同社は、この災害を逆に最新式の紡績機導入
 の機会ととらえて一新し、いっそう業績を上げたという。
  (参考:大阪府編「大阪百年史:近代紡績業の生成」
1892年12月22日、横川~軽井沢間軌条の敷設終了(碓氷峠
 がアプト式)
  着工より1年9ヶ月という驚くべき短工期で、500人あま
 りの尊い人命が捧げられ、その犠牲者の方々お蔭で工事
 は完成した。
  横川~軽井沢間の路線決定までは紆余曲折があった。
  1884年より本格的測量が始まり、ケーブルやループ、
 スイッチバック等、複数のルートが候補にあがり、そし
 て、選定された。
  その後の現地踏査の結果、和美峠・入山峠・中尾線の
 3ルート案に絞られたが、急勾配のため、技術的に、ま
 た、予算的に困難であり、政府は決定に苦労していた。
  1890年、欧州留学中の技師から、ドイツのハルト山鉄
 道のアプト式を碓氷峠に採用してはどいうかという報告
 があった。
  アプト式を前提にして3ルート案を比較研究した結果、
  1891年2月、最短ルートとなる中尾線ルートをアプト式
 で建設することが決定された。
  1891年3月19日に着工。
  パウナルをはじめとする欧州から来た鉄道技師達が設
 計を行い、本間英一郎らの日本人技師と一丸となって建
 設にあたった。
  途中に熊ノ平信号場を設け、随道26ヶ所、橋梁18ヶ所、
 最大勾配66.7パーミル。
  全線距離11.2㎞、このうち約8㎞の最大66.7パーミル急
 勾配区間にラックレールを敷設、途中4箇所の普通軌道と
 の接合点にはエントランス(枕木とラックレールとの間
 にバネを設置し、機関車のピニオンとラックレールがス
 ムーズに噛み合うようにした区間)が設けられた。
  横川から丸山信号場までの約2㎞は25パーミル、熊ノ平
 信号場内は平坦線とし給水・給炭設備(全列車が熊ノ平
 に停車し蒸気機関車に給水を行った)が設けられた。
  当時は、軌道資材の製造技術がまだ無かったため、ア
 プト区間の鋼鉄製枕木などドイツ製が多用された。
  1892年7月には横川機関庫が新設された。
  1892年12月22日、着工よりわずか1年9ヶ月で多くの犠
 牲者の方々のお蔭で工事は完了した。
  この工期は、当時の技術水準としては驚くべき短さで
 あった。
  橋梁などに使用された煉瓦は、埼玉県川口や軽井沢塩
 沢などで製造された。
  その数、約1000万個と言われている。
  当時の技術を結集して作られた建築物のこの遺構は、
 100年以上の風雪を耐え、今なおしっかりと残っている。
  この工事の資材運搬には、碓氷馬車鉄道が活用された
 が、馬車鉄道は碓氷線開業とともに廃業した。
  (参考:碓氷線概史)
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国による外国政界や世論への『工作が活発化』
   していることが相次いで明らかになり、各国が警戒
   を強めている・・
.
16世紀~18世紀、この間の300年間、ヨーロッパは、戦乱に
 明け暮れた。
  それとともに、驚くほど軍事技術が発達した。
  同じく、この間の250年間、東アジアは、そのヨーロッ
 パとは逆に、対照的に、平和な時代にあった。
  日本も、1600年の関ケ原の戦い以降、267年間の平和な
 江戸時代であった。
.
1770年、インドからイギリスへ輸出された綿織物の輸出額
 は、この年、150万ポンドだった。
  この輸出額は、1800年に、ピークとなり350万ポンドの
 約2.3倍になった。
  以後、1800年頃から始まったイギリスからの綿織物輸
 出は、このインドからの輸出を圧迫し始め、インドの輸
 出量を漸減させた。
  1820年には、イギリスからの輸出に、インドからの輸
 出は追いつかれ、同等額となった。
  そして、1830年には、インドからの輸出はとうとうゼ
 ロとなり、無くなった。
  イギリスに追い付かれてから10年間という急激な衰退
 をさせられたインドだった。
  その後も、イギリスからの輸出は増え続け、1840年に
 は600万ポンドに達した。
  この様な経緯の中で、インドは完全に経済破たんのお
 手上げ状態で、インドの方々は、多数の労働者や職人の
 方々が失業した。
  1857年に至って、イギリスに雇われていたインド兵士
 (セポイ兵)が、イギリスの圧迫に抵抗して反乱を起こ
 した。
  イギリスに好きにやられて、いいようにやられて、不
 満の極致にあった
  インドの手交業者や農民の方々は、このセポイ兵と一
 緒になって反抗した。
  インド全体の、全国的なイギリスに対する不満の爆発
 となった・・インド全体の反乱となった。
  イギリスは、自国が儲かれば良いのだの、自国の利益
 のみに捉われ、「インドは我々の植民地だ」として考え、
 インドへの配慮はまったくなされなかった。
  イギリスの大工場で安く大量生産された製品で、イン
 ドの方々の生活基盤を完全に奪い、破壊した。
  その逆に、インドの植民地で大きな利益を得ていたイ
 ギリスは、贅沢品だった貴族だけの飲み物の紅茶の例の
 様に、イギリスの一般庶民にまで普及するような潤った
 社会となっていた。
  犠牲のインドの収奪の利益を享受した。
  完全にインドの富を吸い上げていた。
  それとともに、また、中国・清から輸入するこの高価
 なぜいたく品の紅茶など、多額の支払いが生じていた。
  イギリスは狡猾に、この支出を何とかしたいと「卑劣
 な事を考える」。
  イギリスは、支払いのための銀の流出が膨大となる事
 に対しての対策は・・、
  このイギリスの卑劣な対策は、「極悪の極致に達して
 いた」。
  安い植民地のインドの労働力を使って「麻薬のアヘン
 を作らせて、それを、中国へ売って、支払いの銀の流出
 を止めようと・・卑劣に考えた」。
  それが実行された・・中国の方々は、当然、「麻薬ア
 ヘンの中毒」となった・・そして・・中国は亡国状態と
 なった。
  中国政府は、何度も何度も、アヘンの禁止令を出した。
  しかし、イギリスは、それに関係なく卑劣に売り続け
 た。
  逆に、それに、言い掛かりをつける。
  イギリスは、「自由貿易を妨げた」と自分勝手な、自
 分に都合の良い屁理屈をつけて、イギリス軍艦を出動さ
 せた・・そして、戦争を仕掛けた。
  国防力の弱い中国・清は、イギリスに勝てる状況では
 なかった。
  それでも、中国・清は、2年間、一生懸命、戦った。
  しかし、圧倒的な力の差のあるイギリスに屈した・・
 そして、不平等な、屈辱的な条約を結ばされた。
  どこまでも卑劣なイギリスだった。
  中国は、イギリスの植民地の様な「半植民地となった」。
  この様な情報は、しっかり、日本の英俊(えいしゅん、
 特に優れている人)な人々は掴んでいた。
  その状況を日本へ伝えた一つが、「オランダ風説書」
 だった。
  それを、しっかり読んでいた。
  またさらに、素晴らしい事は、この書を、教育水準の
 高かった日本の庶民の方々も読んだ。
  そして、日本の庶民の間に広まった。
  汚いやり方をするこのイギリスの行状は、日本の庶民
 に知れ渡った・・、
  「この汚いイギリスめ!ひどい事ばかりしやがって」
 という気持ちにさせた。
.
1940年7月末〜9月初、杉原千畝がビザ発行をする。
  杉原千畝の謎の幾つかに、新しい視点を加えて考察し
 た研究者に・・「満州国外交官をなぜ辞めたのか?」と
 いう疑問があった。
  杉原千畝にはキャリアが無かった・・
  ノンキャリア(普通の職員)だった杉原が・・ソビエ
 トとの北満鉄道の譲渡交渉に成功して脚光を浴びた。
  それで、満州国で仕事を与えられた・・活動する場を
 持った。
  しかし、何故か? 満州を棄てた。
  人間関係がうまくできなかったと言われている。
  橋本欣五郎大佐との関係が考えられている。
  陸軍は、杉原に多額の報奨金を用意した・・そして、
 陸軍のスパイ・謀略の要として活躍してもらいたいと思
 った。
  杉原は、外交関係職員としての情報関係に関わってい
 た。
  ソ連は、杉原を国外退去処分にしたように、結果的に、
 その活動は見破られていた。
  杉原は、情報を得るためにロシア人(ソ連人)を妻と
 したが、逆に、スパイをされていたとも言われている。
  日本は、その様な杉原を、リトアニアに派遣した。
  やはり、外交職員としての情報を得る仕事としてだっ
 た。
  リトアニアのカウナスにおける「六千人の命のビザ」
 といわれる行為も、立場上、ビザ発行の立場にない杉原
 の権限外の行為だった。
  故に、日本に帰国後、日本の外務省から処分を受けた。
  杉原を、差別したり、虐(いじ)めたりする意味では
 ない・・当然の処分だった。
  キリスト教は、ここを嘘を言って杉原を美化した。
  立場にない杉原は外交電報の分析から、杉原が確信犯
 的に外務省本省と駆け引きを行った。
  権限のあるビザ発行ではなかった。
  当然、「権限外の事はするな」と外務省に言われてい
 た・・ここを、キリスト教は、「ドイツと同盟をしてい
 た日本は、ユダヤの方々を差別して、ビザ発行はするな
 と日本は杉原に言った」と、またまた、日本を貶める「
 嘘八百」を言った。
  日本はユダヤの方々を差別していない。
  ビザの発行をしていた。
  日本は、ドイツへ、逆に、「ドイツの様にはしない」
 とはっきりと言っていた。
  この様な経緯の中で、無効の私文書である「ビザらし
 きもの」を杉原は発行した。
  ユダヤの方々は、日本が差別していないことをすでに
 知っていて。
  日本と関係している満州へ逃れて来た。
  満州は、「ビザがあろうが、なかろうが」、ユダヤの
 方々を受け入れた。
  杉原の様なびザが無くても、受け入れた。
  そして、日本の神戸で受け入れた。
  ユダヤの方々を乗せた船が、日本に到着するとき、日
 本政府の船が出迎えたくらいだった。
  杉原のビザの行為は、無くても良い話だった。
  ビザ発行の行為を、「本省(外務省)の指導を無視し
 たのではない」と、「人道的行為だ」と、妻の幸子と共
 に一緒に「ビザ発行の行為」をして、妻を証人にしたい
 と考えていた。
  研究者は、ポーランドからやって来たユダヤ難民の方々
 は、「必ずしもナチスの迫害だけではなく、ソビエトの
 脅威にもさらされていた」と言う。
  杉原が、ユダヤ難民にビザを発行したのは、1940年7月
 末〜9月初めである。
  この時は、1939年9月、独ソのポーランド分割が起き、
  そして、1941年6月の、独ソ戦争勃発の直前の期間とな
 る。
  1939年11月には、ソビエトのフィンランド侵略(冬戦争)
 があり、1940年には、バルト三国併合が進められた。
  ドイツの脅威だけではなく、ユダヤの難民の方々は、
 ソビエトの脅威にも囲まれていた。
  ナチスのユダヤ人迫害は、戦時中から連合国側には知
 られていたが、日本人は知らなかった。
  一般の日本人が知ったのは、戦後10年もしてからだっ
 た・・
  戦後に、ソビエトが管理していたアウシュヴィッツ収
 容所が、ソビエトの誇張した情報操作(400万人の死者数
 など)を経て・・白日の下になった。
  また、隠された史実が明らかになった・・ユダヤの方々、
 難民の方々に冷酷な態度を、イギリスやアメリカ、フラ
 ンスはとり続けていた。
  このことは、日本では、ほとんど知らされていない。
  フランスのヴィシー政権などは、ナチスに言われなく
 ても、『独自に』、一万数千人のユダヤの方々が殺され
 ることを知っていても、その前提で、収容所への移送行
 為をしていた。
  1939年、ユダヤ難民を乗せてパレスティナに寄港した
 「タイガーヒル号」を委任統治国イギリスは、不法難民
 として銃撃し、「撃退」した。
  イギリスは、アラブの石油利権に拘(こだわ)り、戦
 後もユダヤ人の移民を妨害し続けた。
  ハンブルクを出てアメリカ保護領だったキューバまで
 行きながら、アメリカは、「移民法の定員」を理由に拒
 否した。
  結局、引き返し、難民の大半がアウシュヴィッツに送
 られた(セントルイス号事件)。
  これらの事件に前後して、ポーランド人やリトアニア
 人によるユダヤ人襲撃(ポグロム)も各地で頻発し、多数
 のユダヤ人の方々が殺されていた。
  国外脱出を試みても成功するとは限らない。
  ドイツ、チェコ、ルーマニア、至る所でユダヤ人の方々
 の財産は没収されていた。
  国外に逃れても、一定の金額を持たない人は入国を拒
 否され、引き返せば収容所行きが待っていた。
  アメリカやヨーロッパの態度が、この時のユダヤの方々
 に置かれていた状況だったのだ。
  また、因みに、東条英機も、ユダヤ人の方々を保護し、
 同時代の満州国、上海、神戸のユダヤ人の方々を、日本
 が保護した事例は多い・・
  杉原の行為以前に、この様な行為を、日本は、既に、
 行なって、ユダヤの方々を救っていた。
.
1945年6月4日、沖縄戦において、アメリカ軍が、日本人の
 捕虜を連行しないことは、一般的に知られていたが、「
 黙認されていた」。
  みんなが知っていて、日本兵を連行しないで殺戮して
 いた。
  太平洋の戦場における連合軍将兵は、『しばしば故意
 に』、降伏した日本軍将兵を殺害していた。
  アメリカ合衆国の、オーストラリア将兵の書いた日記
 についての研究論文を発表したリチャード・オールドリ
 ッチによれば、連合軍将兵は、捕虜を処刑したと、
  ダワーは、「多くの例がそれを告げている・・(中略)
 ・・捕虜となった日本軍将兵は、即座、もしくは、収容
 所への連行途中に死亡した」とされていると・・、
  また、オールドリッチによれば、アメリカ軍が捕虜を
 連れて行かなかったことは『よくあることだ』としてい
 る。
  この分析は、イギリスの歴史家ニール・ファーガソン
 も認めていて、支持している・・、
  1943年、「(アメリカによる)秘密諜報報告によれば、
 アイスクリームと3日間の休暇だけが約束されており・・
 (中略)・・アメリカ軍将兵に降伏した日本将兵を殺害し
 ないよう説得すること」としていると述べている 。
  それほど、捕虜の日本の将兵が殺されていた・・、
  ファーガソンは、これらが、1944年後半、日本軍将兵
 捕虜が1:100の割合で処刑されたと述べている。
  (1%の捕虜しか・・捕虜として生き延びられなかった・・
 99%の日本兵は、捕虜となっても、故意に、わざと殺さ
 れていた)
  その同じ年に、連合軍最高司令部により、捕虜を捕ら
 ないことにより情報収集に影響を及ぼしていたため、「
 捕虜を捕らない」方針を抑える努力するよう勧告・・、
  (酷い状況なので回りくどい言い方をしているが・・
 早く言えば、あからさまに言えば、途中で殺すなという
 勧告)、情報を取るための日本将兵を降伏させ捕虜とす
 ることを奨励させた。
  また、ファーガソンは、連合軍司令部が、戦死者と日
 本軍捕虜の比率を改善改善する処置をとり、1945年中頃
 までには1:7に改善されたと付け加えている。
  (今まで100分の1しか生き延びれなかったが、7分の1
 が生き延びられるようになったという話で・・、
 しかし、まだ、85%の捕虜の日本兵が・・殺されていた)
  とくに有名な話が・・1945年6月4日に始まった沖縄戦
 において、アメリカ軍が日本人の捕虜を連行しないこと
 は、一般的に知られていて、黙認されていた。
  シュトラウスは、卑劣にも、「捕虜の連行が危険だか
 ら」と言い訳した。
  だから、「部隊を危険にさらすという理由から、上官
 が捕虜を連行することに反対していた・・」と言う。
  (バターン行進なんかで、日本は、捕虜を殺しもしな
 いで、何万という捕虜を丁寧にしていたのにである)
  アメリカは、捕虜を連行する場合、しばしば、「彼ら
 を連行するには、あまりにも面倒があったため」という
 理由で、輸送途中で射殺した。
  ファーガソンは、「日本軍将兵や、ドイツ将兵が、降
 伏することによる不名誉や懲戒処分などを恐れたわけで
 なく・・、
  むしろ、捕虜となっても殺されるかどうかということ
 が兵士にとって重要であり・・、
  殺される場合ならば(殺されると分かっているならば)
 当然、戦うほうを選択した」・・と・・、
  捕虜という生き延びる方策を示して、そして、捕虜に
 して殺すという卑劣さを批判している。
  この様に、アメリカ軍などの連合軍による戦争犯罪は
 多い(第二次世界大戦)・・卑劣なアメリカ軍だった。
.
1946年5月、このとき開かれた極東国際軍事裁判(東京裁判)
 に、インド代表判事としてラダ・ピノード・パール判事
 が派遣された。
  この東京裁判で、インドのパール判事だけが「全員無
 罪」を判決し、主張した・・しかも、アメリカを批判し
 た。
  インドの法学者で、ヒンドゥー法を専攻し、コルタカ
 大学教授で、国際連合国際法委員長だった。
  パール判事は、判事全員一致の有罪判決を目指す動き
 に反対した。
  また、平和に対する罪と人道に対する罪は戦勝国によ
 り作られた『事後法』であり、事後法をもって裁くこと
 は『国際法に反する』などの理由で、「被告人全員の無
 罪」を主張した(「パール判決書」)
  このパール判事の考え方は、「当然の正義」となって
 いる。
  この東京裁判の「落とし穴を後から作って、その穴に
 落とすという卑劣なリンチ(私刑)」は、今後、永久に
 批判されることとなる。
.
1981年1月4日、ミャンマー第33回独立記念日に・・、
  自国民であるミャンマー人でも授与されていない 「ア
 ウンサン勲章 (ビルマ独立運動闘士)」 を7人の日本
 人に対して授与するとミャンマー政府が発表した。
  両国の関係者を驚かせたが・・、
  受賞者7人全員は、鈴木敬司大佐を含む元「南機関」
 (大日本帝国陸軍所属)メンバーであった。
  このことを、「 恩を忘れない・・ ミャンマー」とア
 ジアの人々へ賞賛と感動を与えた。
  ミャンマーの建国記念日には行進が行われるが、今で
 も最初に演奏する曲は 『軍艦マーチ』となっている 。
  他にも、日本の軍歌 『日本陸軍の歩兵の歌』 『愛馬
 進軍歌』などをそのまま使われている。  
  日本以外のアジアの国でも、130年前に作られた大日本
 帝国の曲『軍艦マーチ』を大切にして戴いている。
.
1989年4月15日、天安門事件(大量虐殺事件)
  4月15日の総書記の死の追悼行動から始まり、6月3日深
 夜から6月4日未明にかけて起きた虐殺で終わった。
  政治改革に積極的だった胡耀邦元総書記の死がきっか
 けだった。
  胡耀邦の葬儀までに、政治改革を求める学生を中心に
 10万人の人々が天安門広場に集まった。
  抗議運動自体は、胡耀邦が死去した1989年4月15日から
 自然発生的に始まった。
  統制がなされておらず、指導者もいなかった。
  抗議の参加者の中には、中国共産党の党員、トロツキ
 スト、通常は政府の構造内部の権威主義と経済の変革を
 要求する声に反対していた改革派の自由主義者も含まれ
 ていた。
  デモは、最初は、天安門広場で、そして、広場周辺に
 集中していたが、のちに、上海市を含めた国中の都市に
 波及していった。
  鄧小平の決定により、5月19日に、北京市に戒厳令が布
 告された。
  武力介入の可能性が高まったため、趙紫陽総書記や知
 識人たちは、学生たちに対し、デモの平和的解散を促し
 た。
  しかし、学生たちの投票で強硬派が多数を占め、デモ
 継続が強行されたため・・首都機能は麻痺に陥った。
  1989年6月4日未明、中国人民解放軍は、軍隊と戦車で
 北京の通りに移動した・・そして、民主化を求めて集結
 していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し、無
 差別に実弾を乱射した・・武力弾圧と大量殺戮を行なっ
 た。
  (市民に向けて、無差別発砲や装甲車で轢き殺し、多
 数の死傷者となった)
  1989年6月5日付の文書に、中国軍が、重武装部隊を早
 い段階から投入し、殺傷能力が高すぎるため国際条約で
 使用が禁止されている銃弾を使用するなどしていたとの
 記載もある。
  衝突のあと、中国共産党当局は、広範囲に亘って抗議
 者とその支持者の逮捕を実行した・・
  外国の報道機関を国から締め出した。
  自国の報道機関に対しては、事件の報道を厳格に統制
 した。
  戒厳令布告に反対した趙紫陽(当時)は、総書記ほか
 全役職を解任された。
  そして、2005年に死去するまで、自宅での軟禁下に置
 かれた。
  中国の隠ぺいによって、犠牲者数がまちまちであった
 が・・、
  事件後29年を経た2017年12月25日の読売新聞に、イギ
 リス外務省の機密公文書を、イギリス公文書館が開示し
 た事でわかった。
  以下、その記事の抜粋・・
  天安門事件・・「最低死者数:1万人」推計・・
  発生直後に、中国政府関係者が「1万人」と推計してい
 たと、イギリスの駐中国大使が、イギリス本国に伝えて
 いた機密公文書が開示された。
  中国当局が公式発表している死者数は319人。
  中国当局が当初から、相当数の犠牲者が出ているとの
 認識を持っていた可能性が出て来た。
  文書は、武力鎮圧の翌日の1989年6月5日に、アラン・
 ドナルド駐英大使が、イギリス外務省に送ったもの。
  「信頼できる情報源」で、中国の中央政府に当る国務
 院関係者から得たという情報に基づき、武力鎮圧の状況
 を詳述している。
  文書では、「民間人死者の推計は最低1万人」と記載し
 ている。
.
2014年4月8日、日本の新潟県佐渡の「道の駅」の土地が1円
 で・・中国に買われた。
  「中国人の旅行者を呼ぶから」と言われ、そして、売
 ったという。
  今、日本の土地を爆買する中国であるが、この日の日
 付で産経新聞に以下の記事がある・・、
  道の駅、研修施設に「1円売却」、深まる中国依存
  佐渡島の表玄関・両津港から約3キロ。
  県道65号を車で10分ほど走ると、道の駅「芸能とトキ
 の里」(佐渡市吾潟)に着く。
  ところが、目立つ場所に「学校法人・新潟国際芸術学
 院佐渡研究院」の看板が掲げられ、レストランも土産店
 もない。
  この施設はもともと、JA佐渡と佐渡汽船グループが
 設立した「佐渡能楽の里」が運営していたが、観光客の
 減少で経営不振となり解散。
  絵画教室などを運営する学校法人・新潟国際芸術学院
 (東富有理事長、新潟市中央区)が、建物部分(延べ床
 面積約3600平方メートル)を1円で購入した。
  同学院は、土地もJA佐渡から無償で借り受け、1923
 年6月から研修施設として利用している。
  「持っていても税金がかかるだけ。二束三文でも手放
 したかった」。
  地元のベテラン市議は、「1円売却」の経緯をこの様
 に話した・・後略・・
.
2017年8月28日、中国の資本力が・・世界中でうごめく
  アメリカの超金持ちのエスタブリッシュメントの1%の
 人々は、アメリカの政治を動かしている。
  所得格差は、さらに広がっている。
  現時点の資本主義のメカニズムが、彼らに金が集まる
 ようになっている。
  かつて、日本に、バブルと呼ばれた時代、日本の東京
 の土地代でアメリカ全土が買えると言われた。
  資本主義システムがその様な流れにさせた・・
  日本の「東京の土地の価値」が、「アメリカ全土の土
 地の価値」以上であるから、購入可能となったという。
  そんなことが出来るからと言ったって「やる様な日本
 ではない」が、資本主義システムの流れの中で、その時
 代は・・その様な状況になっていた。
  アメリカのエスタブリッシュメントの方々が持つ資本
 力で、『世界の土地を買おうとすれば、バブルの日本が
 アメリカ全土を買えたように、やろうと思いさえすれば、
 それは、かなりの事が可能だろう」。
  今、中国の銀行が、かつての日本の銀行の様に、世界
 のトップを占めている。
  中国の4大銀行の勢いは凄い。
  今、ドイツが、中国へすり寄っているが、その様な勢
 いのある中国なのだ。
  中国資本が、オーストラリアの農場を買い占めている
 という。
  その中国農場主の下で働く人が、オーストラリアの人
 なのだという。
  中国は、この資本力で世界を牛耳ろうとしている。
  AIIB(アジアインフラ投資銀行)で、また、一帯
 一路構想で、巨大な資本力を背景に、世界を牛耳ろうと
 している。
  その中に、日本の土地の買い漁(あさ)りがある。
  北海道の山が買われ、町が買われて、今、北海道が凄
 いというが・・東京の不動産も、「中国が、良いお得意
 さんだ」という。
  参考:2017年8月28日・・産経ニュース
  中国資本の買収「とんでもない事態が進行」
  特別ツアー参加者が報告書 
  2017年7月に、産経新聞社が実施した北海道をめぐる特
 別ツアーの参加者が、訪問先の様子などをまとめた報告
 書を作成した。
  特別ツアーは、産経新聞連載「異聞 北の大地」(産
 経ニュースでは「北海道が危ない」で掲載)の筆者、宮
 本雅史編集委員が案内役として同行し、外国資本に買収
 された北海道の森林や水源地などをめぐるという内容だ。
  7月23、24の両日に開催され、本紙読者ら20人が参加し
 た。
  報告書を作成したのは「新しい歴史教科書をつくる会」
 (東京都文京区)の越後俊太郎事務局長で、写真をふん
 だんに使ったリポートに仕上がっている。
  例えば、航空自衛隊千歳基地や千歳空港を見渡せる千
 歳市内の中国人別荘地に関しては「空港を監視できる位
 置にやすやすとつくられてしまっている。
  安全保障上、相当に問題あり」と指摘し、中国資本が
 買収した伊達市内の山林内にあるゴルフ場跡地について
 は「買収されて6年以上にもなるが、商売なら「なぜ放置
 されているのか?」理解に苦しむ。
  造成された土地などを手っ取り早く手に入れ、「中国
 人流入の受け入れ先」として活用しているのではと勘ぐ
 りたくなる」と分析している。
  喜茂別町にある中国人専用のプライベートゴルフ場に
 ついても「関係者以外立ち入り禁止」の看板があること
 を踏まえ、「『私有地につき、立ち入り禁止』となれば、
 中をみることができない。
  ここに多くの中国人が入り込んでしまえば、その調査
 は事実上かなり難しくなる」との見方を示し、「つまり
 日本にいながら『治外法権』の場所ができあがってしま
 う。
  これもまた、安全保障上、極めて危険と言わざるを得
 ない」と警鐘を鳴らした。
  表紙を含めた全13ページの報告書の「まとめ」では、
 「(北海道の土地が)中国資本に買われている問題につ
 いては、一応の認識はあったが、実際に現地を訪れ、本
 当にとんでもない事態が進行していることを肌で感じる
 ことになった」と率直な感想を記している。
  さらに、越後氏は「中国資本は決してもうけるために
 土地を買ってなどいない。
  飛行場の近くの高台、港の苫小牧市(中略)、多くの
 中国人が外部と接触を断っても自給自足できるよう、山
 奥の広大な土地を確保して、宅地・水源・電力を準備す
 る。
  これは中国が『きたるべき時』のために備えを着々と
 進めているとしか考えられない。
  非常に背筋の凍るような思いがした」とし、法規制の
 必要性などに触れた上で「この問題に気づいた人間が、
 できる範囲で声をあげ、取り組むほかない」と締めくく
 っている。・・以上
  また、【世界ミニナビ】中国資本の旺盛な土地買収は
 極北にまで・・の記事もある。
.
2017年12月25日、TOKYO・MXの番組名「ニュース女
 子」で、以下の様な発言があった・・、
  「対馬が、韓国にどんどん買われている」
  「対馬は韓国の看板ばかりで、また、韓国語ばかり」
 ・・と・・、
  そして、対馬の現状について・・
 「土地、ホテル、料理店、釣り宿などが韓国資本家に
 よって買収が対馬の至る所で行われている」・・と・・、
  そして、これ以上に・・「日本人の名義が借りられて、
 買占めが行われている」・・と・・、
  しかし、日本人の名義であるため、その実態は掴(つ
 か)めないという。
  地方自治体が掴む数字以上に、土地や建物の買収は進
 んでいるものと見られている。
  廃業した民宿が、民宿のお手伝いさんの名義で買収さ
 レたりしているという。
  また、「大亜ホテル」というホテルが韓国資本によっ
 て建てられた。
  税制優遇がなされたという話があるが、韓国資本によ
 る対馬での観光業で、利益金は韓国に還元される(日本
 の利益にはならない)。
  厳原町の中心街は、「アリラン通り」と呼ばれる様に、
 また、地元向け薬局が、韓国人に買収されて韓国料理店
 に変わった様に、韓国人向けの看板、居酒屋、レストラ
 ン、免税店などハングル語に溢れている。
  アメリカには、安全保障上の問題があれば、外国企業
 の買収を止められる「エクソン・フロリオ条約」がある。
  アメリカは、事後法を作って買い戻したり、中国資本
 の買収が酷い時に、オバマ大統領が「NО」と言ったこ
 ともある。
.
2017年12月25日、中国による外国政界や世論への『工作が
 活発化』していることが相次いで明らかになり、各国が
 警戒を強めている・・
  こんな記事が読売新聞に記されている・・
  金のある中国は、その金に物を言わせて、何でもやり
 始めている・・
  以下は、その内容の概要・・
  習近平(シージンピン)政権は、世界第2の経済力を背
 景に、自国に有利な政治行動を取る国を増やし、中国主
 導の国際秩序を浸透させようとしており、そうした活動
 の一環とみられる。
  「外国勢力が、(オーストラリアの)政治プロセスに
 影響を与えるため、前例がなく、ますます巧妙な工作を
 している」
  豪ABC放送(電子版)によると、オーストラリアの
 ターンブル首相は5日、海外からの献金を禁止する法案
 を議会に提出し、背景をこう説明した。
  同国では、野党・労働党のサム・ダスチャリ上院議員
 (当時)が、中国人企業家から多額の献金を受け取り、
 南シナ海問題で、党の方針に反して中国の領有権主張を
 支持したことが政治問題になっていた。
  (日本にも、この様な政党や議員が居るのか??)
  ターンブル氏は、中国を標的にした法案ではないと強
 調しつつ、「ダスチャリ氏は、オーストラリアを売り渡
 した」とも述べた。
  中国外務省の耿爽(グォンシュアン)副報道局長は、
 定例記者会見で、法案について「中国に対する偏見に満
 ちている」と反発した。
  工作活動の一端は、ほかでも明るみに出ている。
  ニュージーランドでは9月、中国出身の国会議員を巡る
 「中国のスパイ」疑惑が取りざたされた。
  議員は、「スパイではない」と否定した。
  シンガポールでも8月、政府が、リー・クアンユー公共
 政策大学院の中国系の教授(現在は米国籍)が「外国の
 情報機関と連携してシンガポールの外交政策や世論に影
 響を与えた」として、妻とともに国外追放したと発表し
 た。
  地元メディアなどは、この情報機関を中国とみている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

by suba28 | 2018-01-04 06:03 | 皆様とともに 幸せになりたい


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