(増補版)566E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年10月~1892年11月)

題:(増補版)566E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年10月~1892年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年10月、神戸工場で、汽車監督リチャード・フランシ
 ス・トレビシックの指導のもとに、1B1形タンク機関車の
 製作を開始した。
  リチャード・フランシス・トレビシック(1845年~1913
 年)は、イギリスの鉄道技術者で、蒸気機関車の発明者
 の一人であるリチャード・トレビシックの孫。
  リチャード・フランシスは、1888年に来日し、お雇い
 外国人として、主に官設鉄道・神戸工場の汽車監察方な
 どを務めた。
  1904年まで、勤務している。
  日本初の国産蒸気機関車となった860形蒸気機関車の製
 作を指導し、その後も、独特な様式を持った機関車を数
 種類製作した。
  弟のフランシス・ヘンリー・トレビシックも、鉄道技
 術者で、兄よりも早く1876年に来日した。
  そして、官設鉄道新橋工場の汽車監察方などを歴任し
 た。
  兄弟ともに、日本の機関車技術の向上と定着に大きな
 役割を果たした。
1892年11月1日、黒岩涙香が新聞「万朝報」を創刊した。
  万朝報(よろずちょうほう)朝報社、社主:黒岩涙香。
  小型4ページの日刊新聞で、「一に簡単、二に明瞭、三
 に痛快」の編集方針のもとに社会正義に根ざした。
  相馬事件や〈蓄妾の実例〉などの上流社会のスキャン
 ダル記事や娯楽記事、社会記事や多様な雑報記事、涙香
 の翻案探偵小説などを載せて発展し、江戸っ子の人気を
 博した。
  1893年に、山田藤吉郎の経営していた再刊の《絵入自
 由新聞》を合併した。
  1900年頃から、内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦らの論客
 を迎え、社会批判を展開し、進歩的色彩の強い言論新聞
 となった。
  日露開戦前には、一時、非戦論を主張したが・・、
  日露戦争を前にして黒岩が主戦論に転じたため、非戦
 論の内村、幸徳らは退社した。
  また、報道体制の確立にもおくれをとったため、新聞
 界の主流から次第に離れ、大正期憲政擁護運動で一時的
 に人気を回復したが、
  1920年、黒岩の死後衰退、
  1940年9月、『東京毎夕新聞』 (1910年:創刊、1941年:
 廃刊) に吸収合併された。
  なお、社会事件を表現する「三面記事」は、この万朝
 報の4ページ立ての3面に記載されたことに由来する。
1892年11月1日、北海道炭礦鉄道会社線の追分駅~夕張駅間
 (42.8km)が開業した。
  沿線の炭鉱から産出される石炭を積出港に運搬する役
 目を担った。
1892年11月1日、旅客運賃を改正し、下等100マイル未満は
 1マイル1銭2厘、100マイル以上220マイル未満は1銭、
  220マイル以上は8厘とし、中等は下等の5割増し、上等
 は下等の2倍半となる。
  また、全線にわたり、小荷物配達扱を開始し、配達作
 業を内国通運に請けおわした。
  (東京では日本橋から2里以内、地方では駅から1里半以
 内が配達区域だった)
1892年11月6日 大井憲太郎が、東洋自由党を結党した(11
 月5日説あり)
  大井憲太郎、樽井藤吉らを中心とする自由民権運動の
 左派が組織したが・・、
  これに先立って、大井は、大阪事件の関係者ら急進勢
 力とともに、院外活動組織である東洋倶楽部を結成して、
 自由党の反動化に抗していたが・・、
  1892年6月に、自由党を脱党、小久保喜七、新井章吾ら
 大阪事件に連座した人々と新党を結成するに至った。
  その政綱は、「皇室の尊栄」「民権の拡張」「国権の
 発揚」を説いたもので、対外強硬策を軸とした反政府活
 動に特徴があった。
  機関紙として『新東洋』を発行、
  さらに、政綱実現のための機関として普通選挙期成同
 盟会、日本労働協会、小作条例調査会をおき、労働者、
 貧民の政治的経済的地位の向上を期した。
  第4、5議会において、4人の代議士を出したが、その過
 激な政策のため議会主義と相いれず、1年あまりの活動の
 のち、翌年・1893年12月に解散した。
  大井らはその後、国民協会、熊本国権党などの国家主
 義政党とともに、大日本協会派として活動を続けた。
1892年11月6日、ホームズ彗星が発見された。
  この年、エドウィン・ホームズが発見した。
  2007年10月24日~25日未明(日本時間)にかけて、ペ
 ルセウス座の付近にあったホームズ彗星は2日足らずの間
 に17等星から2等星台にまで(約40万倍)明るくなった。
  明るく黄色い“星”として肉眼でも容易に見ることが
 できるようになった。
  この様な急激な増光(アウトバースト)は、彗星から
 大量のガス、または、チリが突然放出されたことによる
 ものと説明されている。
  なお、この彗星は、1892年に、発見された時も同様の
 アウトバーストを起こしていた。
1892年11月8日、米国大統領選挙でグロバー・クリーブラン
 ドが勝利し(返り咲き)第24代大統領となる(在任期間:
 1893年3月4日~1897年3月4日)
  ニューヨーク州のグロバー・クリーブランドが、現職
 の大統領ベンジャミン・ハリソンを破って復帰し、アメ
 リカ史の中で唯一返り咲きを果たした大統領となった。
  クリーブランドは、1888年の大統領選挙では、一般投
 票でハリソンに勝っていたが大統領となれず・・、
  1892年では、一般投票、選挙人投票共に勝利した。
1892年11月10日、東京下谷に市村座が開場した。
  市村座は、江戸三座の一つで、江戸時代中期から後期
 にかけて江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝
 居小屋だった。
  これを、官許三座とか、公許三座と言った。
  市村座は、1663年頃、興行権を村山座から譲り受けた
 名義1世市村羽(宇)左衛門(3世市村羽左衛門)が創
 設したのに始まる。
  そして、この年に、下谷二長町(にちょうまち、現在
 の台東1丁目)に 三階建煉瓦造の新劇場を建てて移転し
 た(開場式:11月12日)
1892年11月11日、国民新聞、「最暗黒の東京」を連載開始。
  国民新聞に、松原岩五郎の貧民街の様子を取材した「
 最暗黒之東京」の連載が始まった。
  今の日本は、夢のような良い社会になったが・・この
 当時は、まだまだ日本は貧しかった・・この様な社会が
 あった。
  この新聞は、1890年2月1日に、徳富蘇峰が創刊した日
 刊紙で・・、
  記者の松原岩五郎は、スラムに入り込んで、残飯屋の
 様子などを『最暗黒の東京』にまとめた。
  松原は1日3回、士官学校に行って、ひとザル(およそ
 15貫目=約56㎏)50銭で残飯を引き取り、これを1貫目
 およそ5〜6銭ほどで販売した。
  ・・以下、その一節・・
  タクアンの切れ端から食パンの屑、魚の骸(あら)や
 焦げ飯など、膨大な量を荷車で運んだ。
  《この残物を買う者如何(いかん)と見渡せば、皆そ
 の界隈貧窟の人々にして、これを珍重する事、実に熊掌
 鳳髄(ゆうしょうほうずい=珍味中の珍味)もただならず
 というべく。
  我らが荷車をひきて往来を通れば、彼らは実に乗輿(
 じょうよ)を拝するが如く、老幼男女の貧人ら皆々手ご
 とに笊(ざる)、面桶(めんつう=1人盛りの食器)、重
 箱、飯櫃(めしびつ)、小桶(こおけ)、あるいは丼、
 岡持(おかもち)などいえる手頃(てごろ)の器什(う
 つわ)を用意しつつ路(みち)の両側に待設けて、今退
 (ひけ)たり、今日は沢山にあるべし、早く往(ゆ)か
 ばやなどと銘々にささやきつつ荷車の後を尾(おい)て
 来るかと思えば、店前(みせさき)には黒山の如く待構
 えて、車の影を見ると等しくサザメキ立ちて、さながら
 福島中佐(シベリア単独横断した英雄)の歓迎とも言う
 べく颯(さっ)と道を拓(ひら)きて通すや否や、我れ
 先(さ)きにと笊、岡持を差し出し、2銭下さい、3銭お
 くれ、これに1貫目、ここへも500目(1目は1匁)と肩越
 に面桶(めんつう)を出し腋下より銭を投ぐる様は何に
 譬(たと)えん、大根河岸、魚河岸の朝市に似て、残物
 屋に似て、その混雑なお一層奇態の光景を呈せり。
  そのお菜(かず)の如き漬物の如き、煮シメ、沢庵等
 は皆手攫(てつか)みにて売り、汁は濁醪(どぶろく)
 の如く桶より汲みて与え、飯は秤量(はかり)に掛くる
 なれど、もし面倒なる時はおのおの目分量と手加減を以
 てす》
  ある日、士官学校からの出物が止まり、「飢饉」状態
 が3日続きました。
  松原は厨房に頼み込んで、豚エサの餡殻、肥料用のジ
 ャガイモ、洗った釜底のご飯などを持って帰ると、人々
 は大喜びで我先にカネを出し始めました。
  松原は、豚のエサに値段をつけて売る自分の姿を見て、
 「世の中で語られる道徳や、行われる慈善は、必ずしも
 本当の道徳や慈善ではない」と痛恨の叫びをあげるので
 した。
.
  (今日の言葉)
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  題:擬制とされた事で、押し通した・・
.
紀元1世紀~2世紀、日本で、この時、既に、字が用いられ
 ていたらしいという証拠が発見された。
  (読売新聞、2017・11・15)によると、福岡県筑前町
 の薬師の上遺跡(弥生時代中期~後期)から完全な形の
 硯(すずり)が出土した。
  専門家は、「弥生時代に、日本で文字が書かれていた
 可能性を示す発見」とした。
  硯は、長さ15.3センチ、幅6.3センチ、厚さ0.9センチ。
  薄い墨の痕跡が数か所あることが分かった。
  現代のような墨だまりはない。
  朝鮮半島で出土した硯と同じ砂質頁岩(けつがん、粘
 土で固まってできた水成岩で、板状でやわらかく、薄く
 てはがれやすい)製・・、
  そして、形も似ている事から硯だと判断された。
  一緒に出土した土器から1世紀~2世紀とされた。
  これまで弥生時代の硯は、福岡県糸島市の三雲・井原
 遺跡や松江市の田和山遺跡などで破片が見つかっていた。
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626年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)
 が生まれた。
  中大兄皇子の和歌に次のものがある・・、
  妹(いも)が家も 継ぎて見ましを
  大和(やまと)なる 大島の嶺(ね)に
  家もあらましを
  万葉集(日本最古の和歌集、巻二・九一)
  〔訳〕愛する君よ、君を、いつも身近に目にしていた
    いのにそれができなくてもどかしい。
     君の家が、大和の大島の嶺(みね)の頂(いた
    だき)に在(あ)って欲しいものだ。
     そうすれば、いつも君のことを目にしていられ
     るのに。
  都(みやこ)が飛鳥(あすか)から難波(なにわ)に
 遷(うつ)って大化の改新(たいかのかいしん)と呼ば
 れる新政が行われていた時のこと・・、
  若き皇太子の中大兄(なかのおおえ、後の天智天皇・
 てんじてんのう)には旧都飛鳥(あすか)に残してきた
 恋人がいました。
  鏡王女(かがみのおうきみ)です。
  いつもその人を身近に感じていたいために、家が山の
 頂上に在ればいいのに・・と、恋人たちは思いもよらな
 いことを思っていた。
  そして、この恋歌を受けとった鏡王女の返歌は・・、
  秋山の 木(こ)の下隠り(したがくり)
  行(ゆ)く水の 我こそ増(ま)さめ
  思(おも)ほすよりは
  万葉集(巻二・九二)
  〔訳〕秋の山々の落葉の下を流れ行く水のように、皇
    子(みこ)をお慕い申し上げるわたくしの心は、
    皇子が、わたくしをお思いくださる御心よりも深
    うございましょう。
     お逢いしとうございます、わたくしも。
  秋の山々の落葉を伝い、流れゆく木の下蔭(したかげ)
 の水は、目には見えませんが、実は大量の水を湛(たた)
 えています。
  王女の歌はその水に、中大兄のへの愛を託したもので、
 黄葉(もみじ)した秋の山々を背景に、深い愛情がつつ
 ましく語られています。
  鏡王女については、近年の発掘調査などにより、舒明
 (じょめい)天皇の皇女で、中大兄の異母妹ではないか
 と言われています。
  王女の御陵(ごりょう)を訪ねた時、遅咲きの満開の
 桜に包まれた王女は千年の眠りについていました。
  (国文学者・石丸晶子氏の文があまりにも美しいので
  参考にさせて戴きました)
.
1866年、アメリカのこの年の南北戦争の後、アメリカが奪
 った新領土と植民地・・、
  アメリカは、本当に、侵略国家だった。
  ミッドウェー諸島(1867年)、
  アリューシャン列島(1867年)、
  アラスカ(1867年)、
  フィリピン(1898年)、
  ハワイ諸島(1898年)、
  グアム島(1898年)、
  ジョンストン島(1898年)、
  ウェーク島(1899年)、
  米領サモア(1899年)、
  パルミア島(1912年)、
  そして、中国の利権獲得へ
.
1905年、ベンガル分割令が出された。
  これは、イギリスのカーソン(インド総督)が出した
 命令で、インドの方々の反イギリス闘争の分裂を狙った。
  しかし、逆に、インドの方々の自治要求運動が激化し
 た。
  しかし、イギリスは、さらに強くベンガル分割令反対
 運動を抑えつけた。
  帝国主義の植民地支配が強まる中で、インドの民族運
 動・反イギリス闘争も力による強い抵抗となって行った。
  イギリスのインド総督を狙ったテロ事件などが起こっ
 た。
  第一次世界大戦が始まると、反イギリス闘争を進めて
 いた革命家は、好機と考えて、武装蜂起を計画するグル
 ープも現れた。
  1915年には、ラホール事件の武装蜂起が鎮圧されて。
  逮捕者が4000人、処刑された方が800人・・という犠牲
 者を出してしまった。
  この時の英雄的な行為者の一人ラース=ビハリー=ボ
 ース氏は、日本に助けを求めた、そして、亡命した。
  これらの過激な反イギリス闘争は、「ガダル(反乱の
 意味)」と呼れた。
  (アメリカの黒人の方々の反抗を、「暴動」と呼ばさ
 れて、悪の印象操作をされたプロパガンダ・嘘宣伝を思
 い出す)
  イギリス当局は、1915年に、インド防衛法を制定し、
 インド人の方々の政治活動の自由を制限した。
  そして、危険人物を予防拘束するという卑劣な事を行
 なってまでして取り締まった。
  インドの方々の抵抗運動が功を奏し、イギリスのイン
 ド担当相のモンタギューは、1917年に、第一次世界大戦
 の後に、インドへ自治権を与えることを約束し、宣言し
 た・・しかし・・
  卑劣にも・・その約束を無視して、イギリスは、一転
 してインド支配の強化に乗り出した。
  1918年には、ローラット法を制定し、翌年、施行して
 弾圧を強化した。
  インドの方々は、反イギリス闘争を激化させた。
  第一次世界大戦(1914年~1918年)の後、民族自決の
 気運が、さらに、高まった。
  新たに国民会議派の指導者となったガンジーによって、
 1919年~1922年に、第1次非暴力・不服従運動(サティヤ
 ーグラハ運動)が盛り上がった。
  1919年4月6日、ガンジーの指導の下に、全国的なハル
 タール(同盟休業)が行われた。
  インド最初の組織的な民族運動が展開された。
  イギリスは必死に弾圧した。
  一部のインドの方々は暴徒化し、アムリットサール事
 件が起きた。
  非暴力主義の指導者ガンジーやネルーは、約束されて
 いたインドの自治権の返還をイギリスへ要求した。
.
1908年3月、アメリカの大艦隊が日本に来た。
  日本を威圧する目的だった(脅し行動)
  また、大艦隊の威勢を世界に誇示する目的だった。
  日本の戦艦が7隻しかない時に、このアメリカの艦隊は
 16隻だった。
  戦艦は白く塗られていた。
  幕末の「黒船」に対して、「白船」と呼ばれた。
  日本は、国をあげて歓迎した。
  横浜に入港した日には、日本の人たちは、小旗を振っ
 て歓迎し、万歳を連呼した。
  アメリカ海軍兵たちは、パーティ攻めにあった。
  また、アメリカ兵たちを乗せた列車が駅に着くと、1000
 人もの小学生が、アメリカ国家を歌って迎えた。
.
1914年、全黒人地位改善協会(世界黒人開発協会アフリカ
 社会連合:UNIA-ACL)が設立された。
  黒人解放指導者の黒人のマーカス・ガーベイは、1887
 年にジャマイカで生まれた。
  アメリカの様な卑劣な黒人差別の無いジャマイカで育
 った。
  1912年(25歳)イギリスのロンドンに向かった。
  1914年(27歳)ジャマイカに帰国。
    ガーベイは、アフリカから来た幾人かの黒人から、
   つぶさに白人のアフリカ侵略の話を聞いた。
    その白人の卑劣な植民地主義と、人種的抑圧に強
   い憤(いきどお)りが沸いた。
    このことから全黒人地位改善協会を設立した。
  1916年(29歳)3月23日、アメリカに渡った。
    黒人のための職業訓練校を、ジャマイカに建設す
   る資金を集めるためだった。
  1916年(29歳)5月9日、ニューヨーク市で最初の講演
   を行った。
    全黒人地位改善協会の本部をニューヨークに移転
   させた。
    そして、機関誌を発行した。
    機関誌名は、「黒人世界(ニグロ・ワールド)」
   と言った。
    彼の運動は、たちまち、多くの黒人の方々の支持
   を集めた。
  1919年(32歳)までに、各地に30の支部を持ち、機関
   誌の「黒人世界」は、たちまち有名になった。
  1922年(35歳)会員数は、アメリカだけで200万人、全
   世界で400万人となった。
   (1920年8月、アメリカで400万人の記述もある)
    しかし、ガーベイの最後は悲惨だった。
    アメリカ合衆国の政治的意図があったと言われて
   いる事だが・・、
  1925年(38歳)ガーベイが投獄された・・そして・・、
  1927年(40歳)釈放され、ジャマイカへ強制送還され
   た。
  1929年(42歳)ジャマイカで初の政党を設立した。
  1935年(48歳)イギリス(ロンドン)へ行く。
  1940年(53歳)6月10日、死去した。
  ・・それから24年後・・
  1964年11月、ジャマイカ政府は、ガーベイを、ジャマ
   イカの国民的英雄に選出した。
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1917年7月17日、白鹿丸(はくしかまる、11,000載貨重量ト
 ン)が進水した。
  浅野造船所(後の日本鋼管鶴見)で建造された大型貨
 物船。
  この頃、日本で建造された汽船の中で最大の白鹿丸が、
 この日に進水した。
  この頃、日本の造船業界は、空前の好景気の中にあっ
 た。
  第一次世界大戦という景気刺激があった。
  軍需品の輸出も急増していた。
  重工業も急速に発展した。
  また、三井、三菱、住友などの財閥は、金融や貿易、
 造船などの多角経営で急速に力を伸ばした。
  戦争の形態が、国家を挙げての総力戦で行う形になっ
 ていて、これが、この様に関係する世界となった。
.
1919年(大正8年)1月14日、パリに到着した日本全権団は、
 『人種差別撤廃』提案成立のため、各国と交渉を開始し
 た。
.
1919年1月18日、パリ講和会議が開かれた。
  この会議で、日本は、「国際連盟規約に、人種差別撤
 廃条項を盛り込む決議」を提案した。
  (あまりにも、白人社会に、有色人種の差別が多く、
 卑劣で、レベルの低い社会が現出していたので、日本は、
 その様な行為を無くそうとして提案した)
  この提案に対して、「白人の移民しか許さないという
 白豪主義のオーストラリア」は、強硬に反対した。
  また、アメリカは、自国の西部諸州が、「勤勉で優秀
 な日本人移民を排斥する運動」を起こしたりしていて、
 有色人種差別をしているという社会情勢からも反対した。
  しかし、日本の正義の提案は、世界の有色人種国家か
 ら賛意を集め、また、注目も集めていた。
  そして、当然、投票の結果は11対5で、日本の提案は多
 数意見となった・・賛成多数だった・・そして、議決さ
 れる予定だったが・・
  しかし、議長役のアメリカのウィルソン大統領が、重
 要な議題は「満場一致を要する」と独断で決定し・・、
  そして、「否決だ」と宣言した。
  日本の当然の正義の提案は、世界から多大な共感を得
 ていたが、「世界の意見とはならなかった」。
  公正な『正義の社会を築く』ことに棹(さお)をさす
 アメリカだった。
.
1919年1月18日、パリ講和会議
  第一次世界大戦の戦後処理のため、パリで講和会議が
 開かれ、そして、ベルサイユ条約が結ばれたが・・、
  日本は、戦勝した五大国(アメリカ、イギリス、フラ
 ンス、日本、イタリア)の一国として出席した。
  戦勝国は、アメリカの参戦で勝つことが出来たので、
 アメリカのイニシアティブによって進められ、最後には、
 アメリカの提案を受け入れた。
  アメリカの代表は、アメリカの最高責任者である大統
 領のウィルソンだった。
  ウィルソンは、14カ条の提案をした・・、
  ・保護貿易の廃止。
  ・軍備の縮小。
  ・民族自決に基づく植民地問題の公平な解決。
  ・あらゆる国家の政治的独立と領土保全を目的とした
   連盟の設立・・など。
  そして、1920年、アメリカの提案どおり国際連盟が発
 足した。
  しかし、アメリカは、提案者でありながら、国内の意
 見統一が図れないという理由で、アメリカは、国際連盟
 に参加しなかった。
  また、苛酷な賠償金の返済を、敗戦国のドイツへ課し
 たため、ドイツは卑劣な巨額のその賠償金の返済に喘(
 あえ)いだ。
  結局、この解決を求めた行為が、まったく無駄となっ
 て、逆に、第二次世界大戦の誘発の原因を作った。
  アメリカの「他の国の意見をあまりにも聞かない独裁
 的な、また、独断的な行動」が、何ら解決を与えた事に
 はならななかった。
  第二次世界大戦の悲劇が、また、生まれる事になった。
  また、卑劣にも、アメリカは提案しておきながら、国
 際的な解決の場である国際連盟に参加しないという状況
 に居つづけた。
.
1921年12月~1922年2月、ワシントン会議、
  この会議で、日本は、不利で、不公正な、海軍主力艦
 の保有率に決められた。
  アメリカ・イギリスの4割も少ない艦船しか持てなくさ
 れた。
  (アメリカとイギリスが連合軍を組めば、日本は、そ
 の30%の主力艦しか持てないという状態に、大幅に制限
 された)。
  だが、日本は、まじめに、よくこの約束を守った。
  また、アメリカの差し金(さしがね、陰から人をそそ
 のかして、あやつること)で、日英同盟が、この時に解
 約させられた。
  また、中国の山東半島を返還させられた。
  日本は、条約や、第一次世界大戦の勝利国としての功
 績として、正式に条約によって得ていたが、返還の圧力
 がかけられ、返還するに至った。
  何故だか、日本だけに、不利な条件が押し付けられた。
.
1927年4月18日、南京国民政府が樹立された。
  1927年4月、上海クーデターを起こした共産党勢力や
 労働組合を、蒋介石は粛正を行なった・・そして・・、
  1927年4月18日、南京に南京国民政府を樹立した。
  (参考)上海クーデター:1927年4月12日、中国におい
     て、北伐に呼応して第三次上海暴動を引き起こ
     していた労働者を、右派国民革命軍(司令官:
     蒋介石)が、武装解除の命令に応じないで抵抗
     したため、デモを行っていた労働者・市民に対
     して発砲し、虐殺した。
  アメリカやイギリスは、この蒋介石が、南京を首都と
 して「南京政府を樹立する」と、これが、中国の中央政
 府だとして承認した。
  この蒋介石の様な軍閥は、中国のあちこちに居たのに
 である。
  何ら蒋介石が中央政府とされる理由も無いのに、アメ
 リカ・イギリスは、南京政府を中央政府だとした。
  まったくのお好み決定だった。
  リットン調査報告でさえ、「中華民国」を「中央政府
 だ」という考え方は、「法的擬制(ほうてきぎせい)」
 に過ぎないとしていた。
  (参考)擬制:ぎせい、実質は異なっているものを、
     法的取扱いにおいては同一のものとみなす。
      そして、同一の効果を与える。
      そして、この擬制は反対の事実の主張を許さ
     ない。
      つまり、この事例では、蒋介石の政府は、実
     質的にも中央政府ではないが・・、
      法的取扱いに於いて、中央政府だとみなし、
     反論は許さない。
  だから、南京政府は、たまたま、外国勢力から中央政
 府だとみなしてもらって、認められているだけだった。
  ならば、満州に居た人たちが、満州国を建国したこと
 と「どこが違うのだ・・?」
  アメリカは、後から、違うと言い出したが・・?
.
1932年3月1日、満州国が建国された(建国宣言)
  中国は、今現在(2017年)、漢民族が政権を取ってい
 る・・毛沢東も漢民族である。
  過去の中国の歴史には、色々な民族が、中国の政権を
 取って来た。
  この中国の地・領域には、種々の民族が政権を形成し
 て来た歴史にあった。
  そして、中国の領域には、昔から今でも、色々な民族
 の方々が居る・・生活している。
  そして、問題は、アメリカ・イギリスが、漢民族の蒋
 介石政権を「中央政府だ」と承認したところから始まっ
 た・・
  (1928年11月に、アメリカが、そして、1928年12月に
 は、イギリスとフランスが・・漢民族の蒋介石を、中央
 政府だとすると都合が良いとして決めた・・漢民族に、
 この領域を与えたこととなった)
  そして、さらに、問題を深刻化しているのは・・この
 アメリカなどの決定に端を発している事なのだが・・
  今・現在の中国の政権の中華人民共和国(中共)の漢
 民族の政治指導者は・・その地に生活し生存している種々
 の方々・民族の独立権を奪っているところにある。
  中国領とされた新疆ウイグル自治区は、この先、ウイ
 グルの「ウ」の字も無くなって中華人民共和国(中共)
 の領土そのものだと主張されるだろう。
  「チベット自治区」もそうだ・・このチベットの「チ」
 の字も無くなるだろう。
  このチベットの地に・・どんどん漢民族が流入してい
 る・・させている。
  人口比が逆転して来ている・・チベット人は排除され
 ている・・殺されてもいる・・どこもかしこも、こんな
 調子である。
  内モンゴル自治区は影が薄くなっている。
  この地域は、大幅な行政区画の変更が行われて中国名
 の省の名が付けられてしまった。
  内モンゴル人民共和国は、一時、可哀想な事に、歴史
 に名を止(とど)めるだけの地位に落され、置かれた。
  かつて、立派な独立国を形成したことがあるこの民族
 の地であるのにである(今は中共に組み込まれてしまっ
 ている)。
  南シナ海も、急に、我が領域だと中共は主張し、国連
 の主要機関である国際司法裁判所が中共の領域ではあり
 ませんよと言ったって、「関係ない」の態度をとってい
 る・・中共とは、このような国なのだ。
  かつて、中国は、万里の長城を築いたが・・その万里
 の長城の先は、「化外の地」で「関係ない地」で、我々・
 中国とは関係ありませんよとした。
  その様な地の・・万里の長城のはるか北の「中国が化
 外の地とした満州」に、「満州人の居住する地」に、日
 本は、手助けをして「満州国を建国した」。
  今・現代、中共は、この歴史に懲(こ)りたのか?
  この地から満州人の方々を追い出した。
  今・現代、チベットで、中共が、チベットの方々を追
 い出し、どんどんと漢民族を送り込んでいるように。
  結局、今・現代、かつての満州国があった地は、今・
 現代、漢民族が多く住む漢民族の中共という国になって
 いる・・ほとんど満州人は居ないという。
  中共は、沖縄も、「俺のものだという声」を発してい
 る声が聞こえるが、時の経過とともに、この様なやり方
 で、今・現代の沖縄の方々は追い出され、漢民族が住む
 沖縄となる可能性は・・否定できない。
  日本の「満州人の方々の満州国を建国した行動」は・・、
  日本は、当時、一番多かった満州人の方たちの国とし
 て独立の手助けをしたが・・「満州人の方たちだけの国
 では無いという理念」を掲(かか)げた。
  「満州人の方たちと共に五族協和の理念」を掲げた。
  「満・蒙・漢・韓・和の五民族が協調して暮らせる国」
 を目指した。
  この理念ゆえに、ユダヤの方々が逃れて来た時も大き
 く手を広げて受け入れた。
  この満州の中に漢民族も入っていて、排除は、当然、
 していない。
  その建国の手続きにおいても、それまで、アメリカや
 イギリスなどの米欧列強の国がやって来た事と同じにや
 り、また、「法と秩序に最大限配慮」してやった。
  アメリカも国連も、最初、何も問題にしなかったごと
 くである。
  日本は、アメリカなどの米欧列強に学んだ様にして手
 助けした・・法を守る努力をした。
  終始、アメリカや米欧列強の様にやった。
  日本は、アメリカなどの米欧列強に対する責務である
 とさえしていた。
  日本は、漢民族を追い出してはいない。
  しかし、群雄割拠して、あちこちに出来ていた中国の
 一つである軍閥(張学良)に対してだけは、秩序を保つ
 警察行動を行なった・・責任を果たした。
  中国の蒋介石の国民政府が、国連に提訴し、問題とな
 ったが、この中国の一地方の軍閥の蒋介石が、国連に提
 訴して、問題となった(アメリカ・イギリスが提訴した
 のではない)
  そして、アメリカや国連は、当初の態度と違えて、こ
 の段階から、一方的に自分たちが根拠なく承認していた
 国民政府(蒋介石)側に立った。
  問題は、まったくないのにである。
  問題は、国際事件となった・・仕立てられた。
  満州人の居るこの領域が、歴史的に、漢民族の統治す
 る地となったことが無いという「化外の地としている地」
 を、アメリカなどの米欧列強は、その状況を変えようと
 した。
  しかし、アメリカなどの米欧列強は、中共の前政権の
 清国と条約を結んだ・・そして、その清国は、満州人の
 政権だから、満州王朝だから、満州の領域まで、外国に
 付与された特権が及ぶのだと言った。
  だからと・・ここからアメリカなどの米欧列強の屁理
 屈が始まった・・、
  「だから、(漢民族の)国民政府に、満州まで主権を
 及ばせる権利がある」・・と。
  前記の()部分を、アメリカなどの米欧列強は擬制(
 ぎせい)している。
  (参考)擬制:ぎせい、実質は違うのに、そう見なす
     (見せかける)こと。法律で、異なるものを法
     律上同じと見なして、同じ効果を与えること。
  結局、アメリカなどの米欧列強は、この擬制で押し切
 った・・筋が通らぬ無理を通した。
  自分たちの利益のために。
  中国(国民政府)は、筋が通らない事が分かっていた
 ので、この主権を主張する事は出来なかった。
  アメリカなどの米欧列強の世界史なんて、どこを見て
 も、その底を掘り下げて行くとどこもかしこも、皆、こ
 んなもの・・無理を押し通す・・
  その基本には、キリスト教の「有色人種への蔑視観」
 と、その裏返しの「白人の優越観」がある(見下し観)。
  これが、すべてを狂わせている・・素直な正義が通ら
 ない世界となっている。
.
1947年7月21日、オランダが、再び、インドネシアを植民地
 にしようと、インドネシアに侵略した。
  このオランダを含む連合国が、第二次世界大戦後の東
 京裁判で、日本を「侵略の罪」で裁いている最中に・・、
  その日本を侵略したと裁く・原告側に立っていたオラ
 ンダは、インドネシアに「露骨な侵略」をしていた、そ
 して、インドネシアの方々を殺戮していた。
.
1965年9月30日、9月30日事件が起きた。
  インドネシアの方々の、その近代の歴史は、オランダ
 の植民地支配の苦痛の歴史だった。
  その苦痛から逃れ出られたのは、インドネシアの初代
 大統領になった国民的英雄・スカルノ氏らの功績だった。
  旧日本軍は、このインドネシアに残り、この推移に大
 いに貢献し、アジア解放の目的の一つを果たした。 
  1000人の日本兵は、日本に帰らず、インドネシアの独
 立戦争を助けた・・、
  国の代表となったスカルノ氏は、当然のこととして、
 オランダの植民地体制を壊した。
  また、アメリカなどの外国企業の資産を接収し、外資
 の排除も図った。
  また、オランダの手先になっていた華人の影響も排除
 し、地場産業の振興を図った。
  自立経済の樹立を目指した。
  アメリカとスカルノ政権は険悪となった。
  アメリカのCIAが、スカルノ政権の転覆をはかって
 いるという「うわさ」も流れた。
  この様な状況の中、イギリスの肝いりでマレーシアが
 建国されると、この国との関係も厳しくなり・・、
  インドネシアは、国連も脱退をせざるを得ない状態に
 なった(国際的孤立化)。
  そして、インドネシア国内の一体化も崩れて行った・・
 アメリカの工作か??
  その様な国内状況から、今でも不明部分が多いが9・30
 事件が起きた。
  この日、大統領親衛隊第一大隊長の率いる部隊が、軍
 事行動を開始した。
  翌日までに、陸軍の高級将校6名を殺害し、国営ラジオ
 局を占拠し、「9月30日運動司令部」と名乗って、「イン
 ドネシア革命評議会」の設置を宣言した。
  この様な経緯の中で、スカルノ氏からスハルト氏への
 権限移譲が行なわれた。
  そして、この9月30日事件の翌年・1966年2月、インド
 ネシア軍の指導的立場となったアリ・ムルトポ准将が来
 日した。
  そして、佐藤栄作首相、福田赳夫外相と会談した。
  ムルトポ氏は、次のように訴えた・・、
  「東南アジアは、これまで、アメリカ・ソ連・中国の
 代理戦争をして来ました。
  このアメリカ・ソ連・中国を入れないようにASEA
 N(東南アジア諸国連合)という垣根を作ります。
  1967年に、その構想を発表します。
  中国、ソ連、ベトナムに対抗する政治連合です。
  共産国の出方次第では、軍事連合にするかもしれませ
 ん。
  しかし、我々が、政治団体とか軍事団体を結成すると
 言えば、アメリカに壊されてしまうので、当分の間は、
 文化、観光、経済の団体という形の覆面をするつもりで
 す。
  日本にぜひ協力して戴きたい」・・と。
  日本の気付かない新たな動き・・9月30日事件以降の
 インドネシアやマレーシア、シンガポールなど東南アジ
 アのリーダーたちの思いは・・、
  「もうこれ以上、巨大な諸国・・象の様に(アメリカ、
 ソ連、中国)に、我々の士地を荒らされてはかなわない」
 と考え、ピースゾーン(平和地域)としてのASEAN
 建設に一致して動いていた。
  日本は、スハルト大統領体制が発足すると、直ちに、
 大規模なODA(政府開発援助)を供与して、インドネ
 シア政府を支援した。
  1967年、ムルトポ准将の言葉通り、タイ、フィリピン、
 マレーシア、インドネシア、シンガポールと反共を国是
 とする5カ国でASEANが誕生した。
  1976年、総理大臣に就任した福田赳夫は、
 翌年・1977年、東南アジア諸国を歴訪し、マニラで、A
 SEANを全面的に支援する事を約束した。
  この演説は、「福田ドクトリン」として、ASEAN
 諸国から、今でも高く評価されている。
.
1981年1月20日、アメリカと中国は、一体的な軍事関係が
 樹立されている。
  この時に、ロナルド・レーガンが、第40代アメリカ大
 統領になった(~1989年1月20日)・・が・・、
  このレーガン政権時代、マイケル・ビルズベリーは、
 政策計画のための防衛補佐官を務め、「レーガン・ドク
 トリン」と呼ばれる秘密援助プログラムの実施を担当し
 た。
  1975年~1976年に、アメリカが、中国との情報と軍事
 関係を樹立することを勧告する外交政策と国際安全保障
 に関する記事を発表されたが・・、
  このロナルド・レーガンや 、 ヘンリー・キッシンジ
 ャー 、 ジェームズ・シュレシンガーが公式に推薦した
 この提案は・・、
  カーター・レーガン政権時代のアメリカの政策となっ
 た。
  そして、このマイケル・ピルズベリー(米国防総省顧
 問)の言葉・・、
  「かつてアメリカは、日本に黙って中国軍を支援して
 来た」・・と語った。
  (参考)マイケル・ピルズベリー:
  1945年、米カリフォルニア生まれ。
    米スタンフォード大学卒業(専攻は歴史学)後、
   米コロンビア大学にて博士課程を修了。
  1969年~1970年、国連本部勤務を経て、
  1973年~1977年、ランド研究所社会科学部門アナリス
   ト、
  1978年、ハーバード大学科学・国際問題センターのリ
   サーチフェロー、
  1981年、国務省軍備管理軍縮庁のディレクター代行、
  1984年、国防総省政策企画局長補佐、
  1986年~1990年、議会上院アフガン問題タスクフォー
   ス・コーディネーター、
  1992年~1993年、国防総省総合評価局特別補佐官、
  1998年~2000年、国防総省特別公務員(米国国防科学
   委員会)、
  1997年~2000年、米国防大学客員研究フェロー、
  2001年~2003年、国防総省政策諮問グループメンバー、
  2003年~2004年、米中経済・安全保障検討委員会シニ
   ア調査アドバイザー、
  2004年以降、現在も国防総省顧問を続けながら、ハド
   ソン研究所中国戦略センター所長を務める。
     米外交問題評議会と米シンクタンクの国際戦略
   研究所(CSIS)のメンバーでもある。
   著書:『Chinese Views of Future Warfare』『China
 Debates the Future Security Environment』などがある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2017-11-22 06:21 | 皆様とともに 幸せになりたい


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