(増補版)526E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)

題:(増補版)526E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1891年(明治24年)、出来事:
・第3代内閣総理大臣:山県有朋・1889年(明治22年)12月
 24日~1891年(明治24年)5月6日
・第4代内閣総理大臣:松方正義(第1次松方正義内閣)1891
 年(明治24年)5月6日~1892年(明治25年)8月8日
・(氷川清話)松方内閣。
・(氷川清話)第二議会解散。
・予算案を巡って政府と民党との対立は激化し、政府は窮
 地に立った。
・釧路港が、特別輸出港に指定された(1890年説あり)
  港湾に出入りする貨物の量と質は、後背地域の生産と
 消費によって規定される。
  そのため、港湾は後背地との関係で論ぜられることが
 多い。
  釧路は、石炭、水産、製紙を三大基幹産業として成長
 してきた都市。
  釧路港で水揚げされた魚は、飼肥料や食用として国内
 外へ移輸出された。
  製紙工場は、アメリカやカナダからチップや木材を輸
 入し、新聞紙や段ボールとして東京や大阪方面に移出し
 た。
  しかし、貨物取扱量の内、輸出量が極端に低かった。
  1886年(明治19年)、安田善次郎は、硫黄山の硫黄採掘
 権を獲得した。
  そして、その硫黄輸送のために、1892年(明治25年)に、
 硫黄山と標茶を結ぶ鉄道(釧路鉄道)を開通させた。
  それまで、硫黄は、標茶から釧路川河口(現在の港町付
 近)まで釧路川を汽船によって運ばれ、一旦、倉庫に保管
 されていた。
  当時の釧路は、港湾荷役設備がまったくないため、硫
 黄は沖合いに停泊している汽船(日本郵船)へ艀(はしけ)
 によって運ばれ、函館へ、さらに、アメリカやオースト
 ラリアへと運ばれた。
  そして、この年・1890年(明治23年)、釧路港が特別輸
 出港に指定された。
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1891年、データ:
・1891年1月1日の日本の総人口が4025万人となり、4000万
 人を突破した。
・1891年9月の東京の電話加入者数500。
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1891年、国際関係:
・露仏同盟が結ばれた(1891年1月4日)
  軍事同盟で、ドイツ・オーストリア・イタリアによっ
 て構成される三国同盟から一方の当事国が攻撃を受けた
 場合、他方の国が軍事的支援を行う。
  1890年、ドイツ帝国の宰相・ビスマルクの辞任にとも
 ない、従来のドイツ外交に変化がもたらされた。
  これまでのドイツ外交は、フランスの孤立化を重視す
 る観点から、対ロシア外交を重視したが(ビスマルク体
 制)、
  この年より親政を行う皇帝・ヴィルヘルム2世は、この
 ことに固執しなかった。
  そして、1887年より継続していた独露再保障条約が更
 新されないことになった。
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1891年、交通:
・日本鉄道の上野~青森間が全線開通した(東北本線鉄道
 全通)
 毎日、1往復の旅客列車。
 下り:26時間25分、上り:26時間40分。
・日本鉄道、甲乙二種の定期乗合割引切符の発売を始めた。
 甲は、1ヶ月2割(通学は4割)、乙は、2ヶ月2割5分(同
 じく5割)の割引。
・ロシアがシベリア鉄道の工事を始めた。
  世界一長い鉄道で、モスクワ(正確にはチェリャビン
 スク)から日本海岸のウラジオストクまでの7416キロメ
 ートル。
  ロシア号は、約7日間をかけて走破する。
  建設計画は、1850年から始まっていた。
  そして、1891年から建設開始し、露仏同盟を結んでい
 たフランス資本からの資金援助を受けながら工事を進め
 た。
  1524mmの広軌を採用したが、これは、欧州と同じの
 1435mmの標準機を採用すると、ナポレオンの様な侵略
 者に使われると脅威になると考えた。
  全線開通は、日露戦争の最中の1904年9月だった。
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1891年、衣:
・東京大森の川田父子が、経木真田(きょうぎさなだ)を
 発明した。
  経木真田は、経木を細く切って真田ひものように編ん
 だもの。
  夏帽子などの材料に用いる。
・信玄袋(しんげんぶくろ)が現れた。
  信玄袋は、布製の平底の手提げ袋で、口をひもで締め
 るようにしたもの。
・女持手さげ鞄が現れた。
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1891年、住:
・長崎市水道が竣工した(給水開始:1891年5月16日)
 日本で3番目の近代水道として始まった。
・熊本電燈会社(火力・直流)、北海道電燈、それぞれが
 開業した。
  1888年8月31日に、長崎電灯会社が設立免許を受け、競
 争する様に熊本電灯会社が、1889年12月17日に設立許可
 を受けた。
  1890年が恐慌で、この影響を受けた。
  また、1891年1月20日の漏電による帝国議事堂焼失事件
 により「電灯危険説」が出た。
  これにより、電灯会社は危機に陥った。
  「電灯危険説」は波及し、宮中の電灯は御休止となっ
 た。
  京都電灯会社についても、新聞が、「開業以来の努力
 も大方水泡に帰し、休灯、廃灯するもの続出し」と報じ
 ている。
  そして、次のようにも報じた・・、
  「国会議事堂焼失の原因、横浜共同電灯会社二号活字
 を以て左の通り広告せり、
  電灯より出火せしに非す、電灯は火事の為めに焼かれ
 たり」。
  九州でも、「一旦申込をなした人々の間に於いても電
 灯の危険なるを疑ひ、事業の前途に不安を抱いて約定金
 を棒に振って脱退する者が出来・・此の為に会社の設立
 も一時危まれ」・・云々。
・ガスの白熱マントルが使用されはじめた。
  ガス灯の火口は、「マントル」という丸い発光材で包
 まれ、この発明によって、青白く進化した炎の色が好ま
 れた。
  これによって、室内のあかりとしても、より一層、使
 われるようになった。
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1891年、報道・事件:
・イランで、反イギリス運動であるタバコ=ボイコット運
 動が起きた。
  1891年、カージャール朝のイランで起こった民衆の反
 イギリス運動で、
  イランは、19世紀以降、北方からのロシア、そして、
 インド方面からのイギリスの侵出にさらされていた。
  トルコ系征服王朝であるカージャール朝は、外債に依
 存して民衆生活を抑圧する政策を続けていた。
  1890年、カージャール朝の国王ナーセロッディーン=
 シャーは、イギリス人投機家タルボットに、期限50年の
 イランのタバコに関するすべての権利を与えた。
  その独占供与の見返りで、純益の4分の1をシャーが
 受け取ることになっていた。
  このことが、イスタンブルで発効されていたペルシア
 語新聞で暴露され、イラン国内に激しい反対運動が起こ
 った。
  当時、イスタンブルにいたアフガーニーが指導し、
  国内のシーア派の法学者であるウラマー、タバコ商人
 が、先頭に立って、タバコをボイコットする運動に発展
 した。
  この運動は、カージャール朝に大きな打撃を与えた。
  1892年、国王は、事態を沈静化するためイギリスへの
 利権供与を取り消したが、
  多額の違約金を払ったため、その負担は、財政を強く
 圧迫した。
  因みに、イラン人は、イスラーム教徒であるので、酒
 を飲むことはできなかった。
  しかし、タバコは許されていたので、大衆の最も好む
 嗜好品として普及していた。
  それだけにタバコ=ボイコットは、民衆にとっても厳
 しい戦いだった。  
  イランでは、「トゥートゥーン」という紙巻きや、キ
 セル用の葉タバコと、「タンバークー」という水キセル
 用の刻みタバコの二種類があったが、
  イラン人は、特に「タンバークー」の方を好んだ。
・(氷川清話)巡査・津田三蔵のロシア皇太子傷害事件。
  1891年5月11日、来日したロシア皇太子ニコライ・アレ
 クサンドロビッチへ、巡査が、突然、抜刀し、皇太子は
 斬られ、負傷した(大津事件)。
  来日が、「日本侵略の準備」という噂を信じたためで
 あった。
・(氷川清話)児島大審院長の司法権の独立問題。
  この大津事件の際、児島氏は大審院長として、司法権
 の政治部門からの独立を守り抜いた。
  被告人である津田は、大逆罪により大津地方裁判所に
 起訴された。
  そして、総理大臣・松方正義ら政府首脳が、大逆罪の
 適用を強く主張していたこともあり、
  大審院は事件を自ら処理することとした。
  これに対し、児島は、津田の行為は、大逆罪の構成要
 件に該当しない(罪刑法定主義)との信念のもと、審理
 を担当する堤正己裁判長以下7名の判事一人ひとりを説得
 した。
  結局、大審院は、津田の行為に謀殺未遂罪を適用し、
 無期徒刑を宣告した。
  司法権の独立の維持に貢献した児島は、「護法の神様」
 と日本の世論から高く評価され、
  また、当時の欧米列強からも、日本の近代化の進展ぶ
 りを示すものという好評価を受けた。
・内村鑑三不敬事件
  第一高等中学校で、内村鑑三の不敬事件が起きた。
  内村は、1890年から、嘱託教員となっていた。
  そして、1890年10月30日に、教育勅語が発布された。
  1891年1月9日に、講堂で挙行された教育勅語奉読式に
 おいて、内村の行動は、軽くおじぎをして降壇する状態
 だった。
  このおじぎの程度が問題となった。
  この「おじぎ」のことが、同僚や生徒などによって非
 難された。
  そして、やがて社会問題化した。
  日本組合基督教会の金森通倫は、皇室崇拝、先祖崇拝
 は『許される』と主張した。
  しかし、日本基督教会の指導者・植村正久は、これを
 『認めなかった』。
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1891年、論・文学・本:
・幸田露伴『五重塔』
  腕は抜群だが、愚鈍なため「のっそり」とあだ名され、
 そして、世渡りの才覚のつたない大工・十兵衛が、
  江戸・谷中の感応寺の五重塔建立の仕事を請ける。
  そして、恩義ある親方の川越の源太と争い、辛苦の末、
 また、さまざまな妨害にも屈せず、ついに、みごとに完
 成するまでの屈曲を描いた。
  主人公の十兵衛は、妥協を知らない偏屈な名人気質で、
 義理人情の世界をこえる非情な主我を、独特の名文で描
 き、明治文学の新生面を開拓した。
・大槻文彦編『言海』完成(6月)
  言海(げんかい)は、国語学者の大槻文彦が、明治期
 に編纂した国語辞典。
  日本初の近代的な普通語の辞典だった。
  第4冊(4月22日)
  6月23日、出版祝賀会を東京・芝紅葉館で開催し、総理
 大臣・伊藤博文、勝海舟らが出席した。
  1875年(明治8年)、当時、文部省報告課に勤務してい
 た大槻文彦が、報告課長の西村茂樹に、国語辞典の編纂
 を命ぜられ、編纂を開始した。
  国の辞書があるということは、その国を近代国家とし
 て認めさせる手段の一つだったため、
  当時のイギリス、アメリカ、フランス、ドイツなどで
 は、国語辞典作りが盛んに行われていた。
  明治政府は、「日本が近代国家の仲間入りをするため
 には、日本語という国語を統一する必要があるから、我
 が国にも国語辞典が必要だ」とした。
・『早稲田文学』創刊(10月)
  前年、新設された早稲田大学の前身・東京専門学校文
 学科の機関誌として創刊された文芸雑誌。
  第一次早稲田文学は、坪内逍遥が主宰し、創刊した。
  日本初の文芸誌だった。
  第一次早稲田文学は、全156冊、1891年10月~1898年
 10月。
  最初は、講義録風なものであった、そして、逍遥と森
 鴎外との間に没理想論争が展開されたりした。
  そして、次第に、逍遙、島村抱月、綱島梁川らの論文
 がふえ行く。
  文学科卒業生の金子筑水(ちくすい)、水谷不倒(ふとう)
 (1858年~1943年)、島村抱月(ほうげつ)、後藤宙外(ち
 ゅうがい)、五十嵐力(ちから)らが、誌面で活躍しはじめ、
 文芸誌としての色彩を強めた。
  ほかに、高山樗牛(ちょぎゅう)、綱島梁川(つなじまり
 ょうせん)などが執筆した。
  明治文学の嚮導者(きょうどう、先に立って導くこと)
 として果たした役割は大きい。
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1891年、流行・世相・歌:
・木挽町郵便局が、郵便配達に自転車を使用した。
・川上音二郎の「オッペケぺ-節」が大流行する。
  川上音二郎は、民権思想の新聞記者として「自由童子」
 と名乗った、入獄10数回を数える。
  政治的意見が表明しにくく、言いたいことをオッペケ
 ペーの歌詞の中でズバズバ言った。
  そのため、不満を感じていた民衆に受け、爆発的な人
 気となった。
  権利(けんり)幸福(こうふく)きらいな人に。
  自由湯をば飲(の)ましたい。オツペケペ。オツペケ
 ペツポー。ペツポーポー。
  堅(かた)い上下角(かど)とれて「マンテル」「ヅ
 ボン」に人力車、意気な束髪(そくはつ)ポン子ツト。
  貴女(きぢよ)に伸士(しんし)のいでたちで。外部
 (うはべ)の飾(かざり)はよいけれど、政治の思想(
 しそう)が欠乏だ。
  天地の真理(しんり)が解(わか)らない。心に自由
 の種(たね)を蒔(ま)け。オツペケペ。オツペケペツ
 ポペッポーポー
  米價(べいか)騰貴(とうき)の今日に。細民(さい
 みん)困窮(こんきう)省(みかへ)らす、目深(まぶ
 か)に被(あ)ふた高帽子(たかほうし)。金の指輪(
 ゆびわ)に金時計。権門(けんもん)貴顕(きけん)に
 膝(ひざ)を曲け。藝者(げいしや)たいこに金を蒔(
 ま)き。内には米を倉(くら)に積(つ)み。同胞(ど
 うほう)兄弟見殺(みごろし)か。
  幾等(いくら)慈悲(じひ)なき慾心(よくしん)も。
  餘り非道(ひどう)な薄情(はくじやう)な、但し冥
 土(めいと)の御土産か。地獄(ぢごく)でゑんまに面
 會し。わいろ遣ふて極楽へ。行けるかへゆけないよ。オ
 ツペケペ。オツペケペツポーペツポーポー
  亭主の職業は知らないが。おつむは当世のそくはつで。
 ことばは開化のかんごで。みそかのことわりカメだいて。
 不似合だ。およしなさい。なんにも知らずに知た顔。む
 やみに西洋を鼻にかけ。日本酒なんぞはのまれない。ビ
 ールに。ブランデー。ベルモツト。腹にもなれない洋食
 を。やたらに喰ふのもまけおしみ。ないしよでこうかで
 へどついて。ましめな顔してコーヒ飲む。おかしいね。
 ヱラペケペツポ。ペツポーポー。・・(後略)・・
・明治美術会で「裸体画と風紀問題」について議論に。
  その二枚の絵は、いずれも幼い男の子の草刈りと、牛
 にまたがった姿(東京日日新聞)
  黒田清隆の生涯は、裸体画問題と格闘し続けたと言え
 る。
  裸体画を盛んに制作した黒田清輝や、彼が属していた
 白馬会が、論争において裸体画を強く支持した。
  日本における裸体画の嚆矢(かぶらや)は、黒田清輝
 による『朝妝(ちょうしょう)』(明治26年・焼失のた
 め現存せず)だった。
  この作品は、黒田が、ヨーロッパから帰国した後の明
 治27年(1894年)、明治美術会第六回展に出品された。
  この時は、何も問題にはならなかったが・・、
  翌・明治28年(1895年)、京都の岡崎公園で開催され
 た第四回内国勧業博覧会に出品された際、その出展可否
 をめぐって論争が巻き起こった。
  黒田にとって裸体画は、自らが滞欧中に学んだ西洋美
 術の普遍的な美を体現したものだった。
  実際、紀元前5世紀頃、ギリシア人によって描かれて以
 来、裸体画は、肉体と精神を統一した人間の全体性を表
 したものとして、西洋美術の規範に組み込まれて来た。
  (イギリスの美術史家、ケネス・クラークは、その美
 の理想像としての裸体を「nude(ヌード)」として、裸
 の肉体そのものを指す「naked(ネーキッド)」と概念的
 に区別した)。
  それゆえ、「美術」を日本社会に輸入し、定着させる
 ことを目指した黒田にとって、裸体画は、「美術」を社
 会に公認させるための重要な手段だった。
  ところが、近代日本において、裸体画は、風俗を紊乱
 (ぶんらん、乱すこと)する春画の一種とみなされがち
 だった。
  西洋列強に追いつくことに必死だった明治政府にとっ
 て、そもそも裸体は、先進国にふさわしからぬ野蛮な習
 俗であり、
  事実、明治4年(1871年)、東京府知事により「裸体禁
 止令」が発令されると、公の場で裸体になることが処罰
 の対象となった。
  これを徹底させるためにも、裸体画を公共空間で堂々
 と展示されては都合が悪かった。
  結局、同博覧会審査総長の九鬼隆一の判断により『朝
 妝』の展示は継続された。
  続く1897年(明治30年)、黒田は、日本人をモデルに
 した初の裸体画とされる『智・感・情』を、白馬会第二
 回展に出品するが、新聞紙上で論争が起こったものの、
 官憲による取り締まりは、とくに見られなかった。
  だが、明治34年の白馬会第六回展において、警察は本
 格的な取り締まりを実行した。
  黒田が、フランス滞在中、フランス人のモデルを使っ
 て描いた黒田による『裸体婦人像』をはじめ、
  黒田が、フランスから持ち帰ったラファエル・コラン
 の『オデオン座天井画下絵』、湯浅一郎の『画室』など
 が、著しく風紀を紊乱するとして、警察は特別室での鑑
 賞という制限を求めた。
  これに対し、黒田と白馬会は、あくまでも一般観衆へ
 の公開にこだわった。
  その妥協案が、当該作品を額縁ごと布で覆って展示す
 る方法だった。
  これが後に「腰巻き事件」と言われた事件で、
  この作品は、膝を横に折り曲げ、床に腰を下ろした白
 人女性が描かれているが、警察によって「わいせつ」と
 され、女性の胸から下半身までを、額縁ごと布で覆い隠
 された。
  裸体画は、エロティシズムが含まれている点は否めな
 いが、美術作品を鑑賞するという視線を『自立的に確立
 することができる』のではないか・・という・・
  近代日本における裸体画論争の根底には、そのような
 美術の専門的な鑑賞者を育成する意図もあった。
.
1891年、科学:
・ベルンの国際地理会議で、「統一された国際図」の作成
 が提案された。
  今まで、各国政府が独自のルールを設けて、ばらばら
 に地図作りを行なっていたために、いくつもの国にまた
 がる問題を検討しようとするとき、ひどく不便な状態に
 あった。
  1891年、ベルンで開催された第5回国際地理学会議に
 おいて、ドイツの地理学者、アルブレヒト・ペンク(1858
 年~1945年)は、統一された国際図の作成を提案した。
  1913年のパリ国際地理学会議で決められた規格は、『
 国際100万分の1世界図』とよばれ、
  縮尺は1/100万、図法は変更多円錐図法、図幅は経度
 が6度で、緯度が4度として国境線で図葉を区切らない、
 長さの単位はメートル法、地形は等高線による段彩など
 の内容だった。
・三重県の真珠を、広島に移植試験を行なう。
  1893年7月11日に、御木本幸吉夫妻が、初めて真珠の養
 殖に成功したが・・、
  1891年10月、三重県英虞湾(あごわん)の阿古屋貝(
 アコヤがい)を、広島県厳島の海岸に移植した。
・インドネシアのジャワ島のトリニール付近で、ジャワ原
 人(化石人類)の頭蓋骨と大腿骨が発見された。
  オーストラリア先住民などに進化したとする研究者も
 いるが、
  現生人類の直接の祖先は、アフリカのホモ・エレクト
 ス(ホモ・エルガステル)であって、アジアにいた北京
 原人やジャワ原人は、直接の祖先ではないとする意見が
 支配的。
  脳頭骨は小さく、脳容量も900cc程度と推定され、対照
 的に眼窩上隆起は大きく、額は現代人のように丸く膨ら
 まないで低く倒れたように傾斜するなど、原始的な特徴
 が多い。
.
1891年、災害・防災・公害:
・濃尾地方に大地震がおこり、7273人が亡くなった(1891
 年10月28日6時38分50秒)
  マグニチュードは M = 8.4、
  家屋全壊:142,177、半壊:80,324
  震央近くでは、揺れにより山の木が全て崩れ落ち、は
 げ山になったなどと伝えられる。
  また、岐阜市と周辺では、火災が発生し、被害を大き
 くした。
  名古屋城の城壁や、宿場町の江戸時代からの建物の被
 害は言うまでもなく、
  長良川鉄橋の落下をはじめ、耐震構造になっていなか
 った橋梁や煉瓦の建築物などが破壊された。
  この地震によって耐震構造への関心が強まり、研究が
 進展する契機となった。
・足尾銅山鉱毒事件
 (氷川清話)田中正造の足尾公害問題
  足尾銅山の廃液が原因となって起きた公害問題で、
  田中正造が、議会で鉱毒問題を取り上げ、追及した。
  栃木県足尾銅山は、1877年、古河市兵衛(ふるかわいち
 べえ)の経営に移ってから、急速に近代化された。
  1884年に、住友の愛媛県別子(べっし)銅山を抜いて全
 国一の銅山となった。
  反面、古河の生産第一主義的な経営は、煙害と製錬用
 薪炭材の乱伐による足尾山林の荒廃を招いた。
  また、その山が荒れたことによる大洪水を頻発させた。
  大量の廃石や鉱滓(こうさい)、有毒重金属を含む酸性
 廃水を垂れ流した。
  そのため、1885年ごろから、鮎(あゆ)の大量死や鮭(さ
 け)の漁獲量の激減など、
  渡良瀬(わたらせ)川の漁業被害が顕在化するとともに、
 流域の広大な農地と、農作物に鉱毒被害が発生した。
  特に、1890年の洪水による鉱毒被害の激化は、農民を
 鉱毒反対運動へと駆り立てた。
  1891年、第2議会において、田中正造(しょうぞう)は、
 政府の鉱山監督行政の怠慢を批判した。
  汚染された渡良瀬川流域の被害農民らの、再三の請願
 や、田中正造の天皇陛下への直訴で、政治・社会問題と
 なったが、政府は弾圧した。
・帝国議事堂火災
  開期中の1891年1月20日未明、衆議院政府委員室から
 出火。
  貴族院にも延焼し、議事堂が全焼した。
  出火原因について、衆議院書記官長が、「衆議院政府
 委員室の電灯管の熱度暴騰し、為めに発火し他の電管に
 移って竟に防火の手段なきに及べり」と、漏電による旨
 を議会に報告し、また、官報号外をもって公示した。
  この頃は、電灯が文明開化の波に乗って、華々しくデ
 ビューした時期だった。
  直流方式の東京電燈会社と、交流方式の大阪電燈会社
 が優劣論争を戦わせながら、市場獲得に躍起になってい
 た矢先でもあった。
 電灯に対する一般人の理解も、ガラス球の中に火を閉じ
 こめた程度のものだった。
  そのため、議事堂が漏電から全焼したと聞くと、たち
 まち点灯休止の申し入れが殺到した。
 この機に、灯油の販売量減少を恐れていた石油販売会社
 は、電灯の罪業を宣伝した。
  当時の新聞に・・、
  「流行物たる電気灯は、実に恐るべき功能を世人に識
 らしめたり、昨年は大阪に於ては人命を奪い、東京にて
 は、当市の飾物たる鹿鳴館を焼かんとし、遂には、今回
 は我神聖なる帝国議事堂を烏有に帰せしめしのみならず、
 緊急欠くべからざる議事をも妨げたり、嗚呼悲しむべし」
 と痛烈な広告を出した。
 せっかく軌道に乗りかけた需要が、一時にドッと減った
 東京電燈会社は、漏電にあらずと主張し、公示の訂正方
 を求めて、衆議院書記官長を告訴した。
  が・・しかし、敗訴するに至り、矢島作郎社長以下の
 全役員が引責辞職する結果となった。
  窮地に追い込まれた電灯会社は、東京、大阪が共同防
 衛体制を整えねばならず、日本電燈協会(現:日本電気
 協会の前身)を明治25年(1892年)5月に設立させた。
 ところが、この協会設立準備中に、再び、帝国議事堂衆
 議院談話室から出火する事件が起こった。
  電灯会社は、大変びっくりしたが、電灯会社には幸い
 な「だんろの火の不始末」が出火原因と分かり、胸をな
 でおろした。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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