(増補版)505E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)

題:(増補版)505E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年1月16日、オーストラリアで、最高気温を記録した。
  (摂氏53度、クイーンズランド州クロンカリー)
1889年1月30日、マイヤーリンク事件
  オーストリア皇太子ルドルフ謎の情死。
  ルドルフ・フランツ・カール・ヨーゼフ・フォン・ハ
 プスブルク=ロートリンゲン(1858年8月21日~1889年
1月30日)は、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
 の子で皇太子。
  ハプスブルク=ロートリンゲン家の世継ぎとして周囲
 に期待されたが、父帝との反目や政治的対立などから孤
 立し、男爵令嬢マリー・フォン・ヴェッツェラと謎の死
 を遂げた。
1889年3月4日、清国で、徳宗親政治が始まる
  1889年、光緒帝が結婚に伴い正式に親政を開始した。
  光緒帝(こうしょてい、こうちょてい)は、清の第11
 代皇帝で(在位1875年2月25日~1908年11月14日)
  廟号は徳宗(とくそう)
  満州語族の皇帝。
  在世時の元号の光緒を取って光緒帝と呼ばれる。
  1885年の清仏戦争によるベトナムへの影響力喪失など
 があった。
  そして、光緒帝が16歳になった1887年に、西太后から
 政権を委譲され、
  彼女の指導で政治を行う訓政という形で政治は継続さ
 れた・・が・・、
  末年は西太后と対立した。
1889年4月20日、アドルフ・ヒトラーが生まれた。
  (~1945年4月30日)
1889年11月15日、ブラジル皇帝のペドロ2世が廃位した。
  そして、ブラジルは共和政となった。
  ペドロ2世(1825年12月2日~1891年12月5日)は、ブラ
 ジル帝国の第2代で・・、
  かつ、最後の皇帝だった(在位:1831年~1889年)
  初代ブラジル皇帝ペドロ1世と、オーストリア皇帝フラ
 ンツ1世の次女マリア・レオポルディナ皇后の長男で、
 ポルトガル女王マリア2世の弟。
  ペドロ2世は、学問や芸術を愛好するリベラルな君主で、
  憲法で国教と定められたカトリック教会を抑圧した。
  そして、素晴らしいことに・・新大陸で不可欠とされ
 た黒人奴隷制の廃止にも尽力した。
  しかし、この政策は、王政の支柱たるキリスト教会と、
 地主層の反発・離反を、当然のごとく招くことになった。
  自分の利にさとい(自分の利益にばかりに目が行く)
 キリスト教会や、金持ち地主層だった。
  奴隷制廃止が出来ないキリスト教会と地主層だった。
  ペドロ2世は賢帝であった・・リオデジャネイロの裏山
 が、コーヒー栽培で荒れ果て・・また・・、
  町に水がなくなったときに、コーヒー農園を奥地に再
 配耕し、裏山の再植林を命じた。
  再植林事業は成功し、現在、その地はチジューカ国立
 公園となり、世界最大の都市森林と呼ばれる最良の状態
 となっている。
  また、ブラジル最初の鉄道を引く敷設も命じた。
  また、ブラジルで、最初に、電話とタイプライターも
 使用出来るようにした。
  また、20万のブラジル兵を動員した三国同盟戦争(
 1865年~1870年)では、パラグアイの首都アスンシオン
 を陥落させた。
1889年、第一次エチオピア戦争が始まった(~1896年)
  エチオピア帝国と、その植民地化を図るイタリア王国
 との戦争。
1889年、ブーランジェ将軍事件が収束した(フランス)
  (1886年~1889年)
  第三共和政治下のフランスで起こった、反議会主義的・
 反共和主義的政治運動・・、
  この年・1889年、第三共和政に対する軍部や右派から
 のクーデター未遂事件が起きた。
  陸軍大臣だったブーランジェ将軍は・・、2年前の1887
 年に、当時はドイツ領だったロレーヌ地方で、フランス
 人が国境侵犯の疑いでドイツ側に拉致される事件(シェ
 ネブレ事件)が起きると・・、
  外交交渉による解決をはかる首相・外務省に対して、
 即時、軍事行動による報復を唱えた。
  これは、閣内不一致ということで、将軍は罷免された。
  フランス国内に、一斉に、将軍支持の世論が高まった。
  日頃、「対独復讐」を唱え、軍備拡張を主張している
 王党派(ブルボン王朝の復活を主張)や、
  ナポレオン派(ナポレオンのような強力な国家指導者
 の出現を求める一派)などが・・愛国者同盟を結成して
 共和政府打倒に動き出した。
  また、急進的な労働組合主義、アナーキスト(ブラン
 キの系統)らは・・、
  議会政治を否定する立場から、共和政を倒し、軍事独
 裁政権の樹立を支持した。
  当時は、共和政政府の混乱や腐敗もあって、大衆は、
 ブーランジェ将軍を「救国の英雄」と期待していたので、
  同年・1887年に行われた選挙で、多くのブーランジェ
 派(ブーランジェスト)が当選した。
  街頭では、共和政府を打倒し、強い行動がとれる政権
 の樹立を求め、そして叫ぶ、群衆のデモが盛んに行われ
 ていた。
  1889年には、クーデタの決行寸前まで行った・・が、
  政府は、コンスタン内相が、ブーランジェ将軍を国家
 転覆の陰謀の容疑で告発することで対抗した。
  ブーランジェは、突然、ベルギーに亡命した。
  そのため、運動は急速に衰退した。
  この事件を、より深く見れば・・、
  普仏戦争(1870年~1871年、フランスとプロセインの
 戦争、ドイツはプロセインに味方した)に、フランスは、
 敗北した。
  この事によって、フランスは賠償金を課せられた。
  また、一大鉱業地帯であるアルザス=ロレーヌ地方を
 喪失した。
  このために、フランスの国民感情は、ドイツに対する
 敵愾心(てきがいしん)が高まっていた。
  それと、1882年に起こった金融恐慌のため・・、
  それまで上昇傾向であった景気は低迷していた。
  工業生産は低落した・・アメリカ・ドイツに抜かれて、
 世界第4位に転落するという有様だった。
  また、フランス帝国主義による植民地支配は拡大し、
  その外債による対外投資が増大するという問題点があ
 った。
  これに加え、ドイツの時の宰相であるビスマルクが、
 フランスを孤立させる外交方針を展開していた。
  これらのことから、フランスでは、対独対抗意識を高
 揚し、
  また、強い政府を求めようという運動が主張されてい
 た。
  しかしながら、当時の多党連立政権は、明確な対策を
 打ち出すことができなかった。
  与党に対抗すべき社会主義政党も、離合集散を繰り返
 していて、広範な支持を得ることができるという状況で
 はなかった。
  一方、王党派は、ブルボン朝支持派と、オルレアン朝
 支持派の間で対立があった。
  こちらもまとまりを欠いていた。
  この様な1886年1月・・、シャルル・ド・フレシネ内閣
 の陸軍大臣として、ジョルジュ・ブーランジェが登用さ
 れた。
  ブーランジェは、時勢が共和派に有利となっていると
 判断した。
  彼らに迎合するかたちで、兵制の民主的改革をおこな
 った。
  また、王族の軍隊からの排除を行った。
  また、ドゥカズビル炭鉱における争議に対して、軍隊
 の出動を求められた際・・、坑夫に同情的な態度を装い・・、
  また、議会においては、共和制護持の演説を展開し、
 共和主義者・・特に、急進派からの支持を大きく受け、
  「共和的将軍」としての名が高まった。
  1886年12月には、内閣が、ルネ・ゴブレに交代したが、
 ブーランジェは・・陸相に留まった。
  1887年4月20日、ドイツ国境においてフランスの一警察
 官が、スパイ容疑で逮捕されるというシュネブレ事件が
 起きた。
  独仏国境における緊張が高まった。
  ブーランジェは、対独強硬論を主張した。
  ビスマルクをして『独仏の友好にとって最大の危険人
 物』と言わしめた。
  これによりブーランジェは、対独を含めた、排外的国
 民的感情を掌握した。
  「復讐将軍」「ビスマルクを尻込みさせた男」として
 人気を博した。
  右翼側からも広く受け入れられることとなった。
  1888年4月には二つの県で、8月には三つの県で、補欠
 選挙に立候補し、そのいずれにも当選を果たした。
  これは、選挙法の不備につけこんだ行為でもあったが、
 少なくとも、違法ではなかったため、政府はなすすべが
 なかった。
  ブーランジェは、「議会解散、立憲議会、憲法改正」
 の三つのスローガンを掲げた。
  1889年1月27日に、セーヌ県で行われた選挙に出馬し、
 共和各派統一戦線の候補者に8万票の大差で圧勝した。
  この際に、5万の群集が集まった・・そして、彼に、
 「クーデターの実行」を指嗾(しそう、悪事などを行な
 うように仕向けること、指図してそそのかすこと)する
 までになった。
  ブーランジェ派の指導者たちは・・、
  当選が決定した1月22日の夜・・ブーランジェをエリゼ
 宮殿まで行進させ、示威行動とともに・・独裁権を奪取
 する計画を練っていた。
  ・・が、肝心のブーランジェ本人が、実行をためらっ
 た。
  そのため・・計画は瓦解した・・
  大衆の支持は急速に失われた。
  フランス共和制は・・危機を脱した。
  その後、ブーランジェに逮捕状が発せられた。
  また、関係する組織が、起訴されることとなった。
  身の危険を感じたブーランジェは・・ベルギーに亡命
 した・・彼を支持した勢力は・・急激に衰えて行った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:このアメリカの『戦略方針』から始まった・・
    アメリカの知識人たちは・・これを否定した・・
.
20世紀初頭、この頃、アメリカの『戦略的方針』が決まっ
 た。
  新興の帝国主義国として目覚めたアメリカは・・、
 『アメリカに挑戦できる勢力を持つ覇権国の出現は、許
 さない』・・という・・グランド・ストラテジー(grand
  strategy、国策、雄大な戦略)を設定した。
  アメリカが、第一次世界大戦に参戦したのも、
  当時、イギリスよりも強い工業力と陸軍力を持つよう
 になったドイツが、ヨーロッパの覇権国になろうとして
 いたことを阻止するためだった。
.
1937年10月5日、ルーズベルトが「隔離演説」をした。
  この演説に対して・・ウォールストリート・ジャーナ
 ルは「アメリカは平和を欲する」と批判した。
  また、国務長官のハルでさえ・・、
  「隔離」や「伝染病」というものに例えたレトリック
 は無用な反対をもたらした・・と批判した。
  『挑発的なこのルーズベルトの演説』は、「ただ、ロ
 シアの勝利に終わるだけだ」・・と批判された。
  また、アメリカ国民の方々も非難して・・、
  「ルーズベルトは、アメリカ国民を、世界大戦の道に
 連れて行こうとしている」・・と声明を出した。
  また、「アメリカを参戦させないための請願」に2500
 万人の署名を集める運動も・・開始された。
  アメリカ大統領のルーズベルト政権には・・側近たち
 には・・、
  ソ連の息のかかった者たちが・・多く居た。
  このことも関係して、ルーズベルトの政策は、社会主
 義的になって行った。
  そして、議会の権限を無視して、行政府を大きくした。
  また、当然の様に・・大統領権限をドンドン大きくし
 て行った。
  アメリカは・・独裁者的になって行った。
  これは、アメリカ合衆国憲法の違反行為でもあった。
  『アメリカの国体を破壊している』・・と、前任の大
 統領だったフーバー元大統領は言った。
  ルーズベルトは、その権限拡大で、外国政府の干渉を
 受けないのはもちろんのこと、自国のアメリカ政府にも
 『干渉されないという状態』を作った。
.
1945年4月28日、イタリア、ムッソリーニ銃殺
.
1945年4月30日、ドイツ、ヒトラー自殺
  独総統ヒトラーと妻エヴァ・ブラウンが自殺、
  遺言によりカール・デーニッツが大統領、ヨーゼフ・
 ゲッベルスが首相に就任。
.
1945年6月23日、沖縄守備軍の牛島満司令官が、摩文仁司令
 部で自決した。
  沖縄戦の組織的抵抗が終結。
  後に、この日が沖縄県の慰霊の日と定められた。
.
1945年7月15日、ポツダム会談(~8月2日)
.
1945年7月16日、アメリカが、原爆実験に成功した。
  アメリカ、ニューメキシコ州アラモゴードの実験場で
 史上初の原子爆弾の爆発実験に成功した(トリニティ実
 験)
.
1945年7月17日、ポツダム会談開始。
  アメリカ大統領トルーマン、イギリス首相ウィンスト
 ン・チャーチル、ソ連首相ヨシフ・スターリンらが参加。
.
1945年7月21日、アメリカ大統領トルーマンが、原子爆弾の
 使用を承認した。
.
1945年7月26日、ポツダム宣言発表。
  連合国が日本の降伏を要求した。
.
1945年8月2日、ポツダム会談終了。
.
1945年8月6日、アメリカが、広島市へ原子爆弾を投下した
  (午前8時15分)
.
1945年8月7日、日本海軍が初の国産ジェット機「橘花」の
 試験飛行を実施した。
.
1945年8月9日、未明に、ソ連軍が満州へ侵攻した。
  対日参戦開始。
.
1945年8月9日、午前、ポツダム宣言の受諾の可否について
 最高戦争指導会議が開かれた。
  日本は、ポツダム宣言を受諾に関し・・ソ連に仲介を
 依頼していた。
  ソ連は、日本を欺いて、ルーズベルトからそそのかさ
 れた対日参戦を決定しており、仲介をする訳はなかった。
  しかし、日本は、そのソ連の返事を待っていた。
  故に、ポツダム宣言を日本が黙殺していた訳ではなか
 った。
  結果的には、後に、日本は、国体護持の約束を得られ
 『有条件』でのポツダム宣言受諾へとなって行った。
  第二次世界大戦の起きた責任・・、
  ケナン、モーゲンソー、リップマン、キッシンジャー、
 ウォルツ、ポール・ケネディ等は、著作や論文で・・、
  『第一次世界大戦の後、アメリカがあの様な無責任な
 外交をしていなければ、第二次世界大戦は起きていなか
 っただろうと」と、そろって指摘している。
  アメリカの傲慢で独善的な外交を糾弾している。
  アメリカは戦争に勝つと相手の国をディモナイズ(悪
 魔化)する。
  ディモナイズされた国の、悪魔化された国の婦女子で
 あるから、非武装の婦女子であろうと、何百万人も無差
 別虐殺しているのに、『まったくの責任を感じないで、
 ケロッと』している。
  ディモナイズ(悪魔化)して、ディヒューマナイズ(
 非人間化)している。
  日本だけでなく・・ベトナムの方々もどれだけ卑劣に
 殺戮されたか? 虐殺されたか? その他の国々の方々
 までも・・??
  アメリカの戦いには、「神の召命による戦い」という
 観念がある。
  考える以前の状態で、『正しい戦いだ』と決めている。
  キリスト教によるマインド・コントロールの戦いであ
 る。
  神の召命の戦いは、「卑劣で悲惨な戦いの形」となる。
  戦いの正義は、思考以前から決していて、自分たちだ
 けの正義の元で行なう戦いで・・そこには、何をしても
 良いという思考へ導かれていた。
  市民への殺戮も「抵抗感なく行われた」。
  また、キリスト教の神による戦いなので『徹底的に相
 手を殺戮し、徹底的に叩き潰した』。
  キリスト教の洗脳は、罪作りな考え方・教義であった。
  アメリカは、今・現在でも、この思考の元にある。
  故に、相手に、後々まで、「恨みが残るような、卑劣
 な殺戮の戦い」が現出する。
  そこには、キリスト教が言う「シャロームの完全破壊」
 があった。
  常に、いつも、そこに・・アメリカは、「自分たちだ
 けが、正義の戦争をしている」と叫びたてる異常さがあ
 った。
  アメリカは、自分たちだけに「(キリスト教の)神の
 義がある」とした。
  だから、虫けらの様に・・「相手を誅しても良い・・、
 敵を誅しても良い」というキリスト教の考え方・教義に、
 マインド・コントロールされた。
  そして、正しいから勝ったと、相手をすべて否定した。
  傲慢な考え方・行為をして行く。
  「戦争に敗けたから不道徳だ」なんて言える訳はない。
  しかし、臆面もなくアメリカは、その論法を取った。
  そして、相手を不正義のどん底に突き落とした。
.
1945年8月9日、アメリカが、長崎市へ原子爆弾を投下した。
  午前11時02分、
.
1945年8月10日、午前0時03分、ポツダム宣言の受諾の可否
 について御前会議が開催された。
.
1945年8月10日、未明、御前会議で「国体の護持」を条件に
 日本のポツダム宣言の受諾が決定され、連合国側へ打電
 した。
.
1945年8月11日、ソ連軍が日ソ国境を越えて南樺太へ侵攻。
  樺太の戦い。
.
1945年8月12日、満州国鶏寧県麻生区(現中華人民共和国黒
 龍江省鶏西市麻山区)において、日本の哈達河開拓団が
 避難中にソ連軍と満州国軍反乱兵によって攻撃され、集
 団自決に追い込まれた・・麻山事件が発生。
.
1945年8月14日、日本、ポツダム宣言を受諾(御前会議)
.
1945年8月14日、午後9時、ラジオで「15日正午より重大発
 表あり」という旨の放送。
.
1945年8月14日、午後11時、ポツダム宣言受諾を連合国側に
 通知。
.
1945年8月14日、午後11時20分、天皇陛下が玉音放送を録音。
.
1945年8月14日、葛根廟事件。
.
1945年8月14日、マッカーサー米太平洋陸軍司令官が連合国
 軍最高司令官(Supreme Commander for the Allied
 Powers、SCAP)に就任。
  日本のポツダム宣言受諾の通告を受け、連合国軍の最
 高司令官が任命され就任した(終戦の成立の一つの事実)
  ソ連の終戦していないという論理は、『屁理屈』とな
 っている。
  完全に、ソ連は、日本領土収奪の強盗行為を日本に対
 して行っていた。
  北方領土などに対して行っていた。
.
1945年8月14日、大本営が攻勢作戦の停止を発令(危険行為
 などに対する自衛反撃は継続)
.
1945年8月15日、陸軍一部がクーデター未遂(宮城事件)
.
1945年8月15日、日本標準時正午に、昭和天皇陛下の肉声で
 読み上げられた終戦詔書が、ラジオで放送される(玉音
 放送)
  日本国民にとって敗戦の日となる(終戦の日)
.
1945年8月16日、スターリンが、ソ連軍の北海道占領を米・
 トルーマン大統領に要求。
  トルーマンは18日に拒否回答。
.
1945年8月17日、インドネシアのスカルノとハッタが、イン
 ドネシア共和国のオランダからの独立を宣言した。
  (インドネシア独立宣言)
.
1945年8月18日、ソ連軍が千島列島で攻撃開始(強盗行為)
.
1945年8月19日、昭和天皇陛下が、東久邇宮首相に燈火管制
 解除等を指示された。
.
1945年8月23日、日本陸海軍の復員開始。
.
1945年8月23日、ソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリン
 が日本軍捕虜のソ連国内への移送を指令(不法なシベリ
 ア抑留)
.
1945年8月26日、終戦連絡事務局設置。
.
1945年8月27日、敦化事件。
  占領軍の暴行に抗議して婦女子集団自決。
.
1945年8月28日、連合国軍先遣部隊が沖縄本島より厚木飛行
 場に到着。
  26日の計画であったが暴風雨のため2日遅れ。
.
1945年8月30日、マッカーサーが沖縄本島より厚木飛行場に
 到着。
  アメリカ太平洋軍総指令部 (GHQ/USAPA) を横浜税関に
 設置。
.
1945年8月30日、ソ連は北海道占領への樺太での軍事行動を
 停止。
.
1945年8月31日、アメリカ軍主力が横浜・館山に上陸。
.
1945年9月2日、降伏文書調印
  連合国が東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で、重光葵・梅
 津美治郎らが降伏文書調印(対日戦勝記念日)
.
1945年9月2日、GHQが、陸海軍解体・軍需工業停止など
 を命令。
.
1945年9月2日、アメリカのダグラス・マッカーサー元帥が
 北緯38度線を境とした米ソによる南北朝鮮の分割統治を
 発表(連合軍軍政期 (朝鮮史)
.
1945年9月3日、ソ連軍が日本の北方領土を不法占領。
.
1945年9月3日、英人記者バーチェットが広島の惨状を取材
 し「No More Hiroshima(二度と原爆は落すな・・広島の
 悲劇はもうたくさんだ)」と打電。
.
1945年9月8日、ソ連が朝鮮北部を、アメリカが南部を占領
 し分割統治が開始される。
.
1945年9月8日、GHQ、マッカーサー元帥が東京に進駐。
.
1945年9月11日、東條英機ら戦犯容疑者39人に逮捕令(東條
 は自殺未遂)
.
1945年9月15日、GHQ、総司令部を東京・日比谷の第一生
 命館に移転。
.
1945年9月17日、瑞穂村開拓団集団自決。
.
1945年9月25日、外国人記者2名が昭和天皇陛下に拝謁し、
 インタビューを行う。
.
1945年9月27日、昭和天皇陛下が、マッカーサー元帥を訪問
.
1945年9月28日、フランスが、サイゴンを占領した。
.
1945年9月29日、新聞各紙が昭和天皇陛下のマッカーサー元
 帥訪問時の写真、および、天皇陛下のインタビュー記事
 を掲載したため、情報局が新聞紙法により頒布禁止とす
 るが、GHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」を
 発令し、頒布禁止を無効化。
.
1945年10月2日、連合国軍最高司令官総司令部を設置。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2017-03-09 05:08 | 皆様とともに 幸せになりたい


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