(増補版)496E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年10月)

題:(増補版)496E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年10月15日、条約改正に関する御前会議、賛否対立し
 て結論出ず。
1889年10月18日、外務大臣:大隈重信襲撃事件
  この日、大隈重信は、御前での閣議で条約改正の審議
 を受けるが、山縣有朋内務大臣が、条約改正案に反対し、
 閣議は散会した。
  大隈外相は、午後4時過ぎ、馬車で霞ケ関の官邸に戻
 ろうとしたところ・・、途中、馬車が、外務省の門前に
 さしかかる頃、フロックコートに身を包んだ30歳前後の
 男が近づく・・、
  玄洋社の来島恒喜が、爆弾を馬車へ投げつけた。
  大隈重信は、右脚に重傷を負いながらも・・、
  ・・憤然と、兇徒を見て「馬鹿者めが」と大喝一声。
 膝の上に燃える断片を払う。
  兇行におよんだ男は、爆弾の破裂を見届けると即座に
 短刀で咽喉をかき切り、その場に倒れる。
  来島は自殺。
  暗殺未遂となる・・条約改正は中止。
  その後、大隈は、佐藤勇やドイツ人医師のエルヴィン・
 フォン・ベルツの手により右足切断手術を受けた。
  犯人は、日本の右翼活動家、テロリスト。
  筑前共愛公衆会で、国家主義組織・玄洋社の一員、来
 島恒喜(31歳)
  黒田内閣は総辞職し、三條実美暫定内閣へ・・、
  大隈は、その後、来島について・・
  「爆裂弾を放りつけた者を憎い奴とは少しも思ってい
 ない。
  いやしくも、外務大臣である我が輩に、爆裂弾を食わ
 せて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であ
 ろうと感心する。
  若い者は、こせこせせず、天下を丸のみにするほどの
 元気がなければだめだ」と語っている。
  来島本人は、酒を受け付けず、大隈重信暗殺に出向く
 際、別れの盃は水であったという。
  来島が学んだ興志塾(通称:人参畑塾)の塾長・高場
 乱(たかばおさむ)は、来島自決の報を聞き・・、
  「ながらえて 明治の年の秋なから 心にあらぬ 月
 を見るかな」という嘆きの歌を詠んでいる。
  博多の侠客「勇敢仁平」の異名をとる大野仁平と乱闘
 となり、燭台で大野仁平の頭をたたき割っている。
  当初、大隈襲撃は、月成功太郎(首相・広田弘毅の岳
 父)と一緒の計画であったが、家族持ちの月成の事情を
 考え、欺いて単独襲撃となった。
1889年10月19日、首相・黒田清隆が、条約改正交渉の中止
 を決定した。
1889年10月21日、黒田首相が辞表を提出した。
  黒田の総理辞任後、2ヵ月間にわたって存在した内大臣
 の三條實美を首班とする三條暫定内閣(さんじょうざん
 ていないかく)となった。
  三條暫定内閣は、1889年10月25日~1889年12月24日。
  黒田内閣の役目は、憲法制定と議会開設によって再燃
 が予想された自由民権運動に対する取締り強化と、
  欧米列強との間に交わされたままとなっていた不平等
 条約の改正を実現することにあった。
  大日本帝国憲法、衆議院議員選挙法が公布された翌日
 (1889年2月12日)、黒田は、鹿鳴館で開催された午餐会
 の席上において、「超然主義演説」を行って、政党との
 徹底対決の姿勢を示した。
  しかし、その一方で、立憲改進党前総裁(実質は党首)
 で外務大臣の大隈重信を留任させて、条約改正の任にあ
 たらせた。
  また、文部大臣の森有礼の暗殺後、
  榎本武揚が、文部大臣に移動し・・、
  空席となった逓信大臣には、大同団結運動の主唱者で
 あった後藤象二郎を充てた。
  そのことによって、大同団結運動を骨抜きとなった。
  自由民権諸派の団結は阻止された。
  また、条約改正の分野でも、メキシコとの間に平等条
 約である日墨修好通商条約を締結することに成功した。
  そして、列強との条約改正交渉も順調に行くかに見え
 た。
  しかし、外務省が用意した改正草案に、妥協案として
 「外国人裁判官の任用」の条項が含まれていたことが明
 らかになると、大騒動となった。
  一旦解体したはずの大同団結運動が、今度は、板垣退
 助を擁して再燃した。
  政府内からも、山縣有朋や後藤象二郎、伊藤博文、井
 上馨らが、妥協案に反対する意志を示した。
  黒田は、大隈を擁護したが、条約改正交渉は、中断に
 追い込まれた。
  その様な状況の中、10月18日に、大隈が重傷を負うと
 いう事態となった。
  進退窮まった黒田は、一週間後の25日、全閣僚の辞表
 を提出するに至った。
1889年10月23日、電信の架設
  この日、横浜裁判所構内に電信機役所が設置され、
  東京~横浜間に電柱と電線を張る電信架設工事が着工
 された。  
  電話創業は1890年。
  因みに、日本で初めて電信の実験を試みられたのは、
 1854年(嘉永7年)2月24日だった。
  アメリカの提督ペリーが、二度目の来日の時、幕府へ
 贈った33種の土産物の内、蒸気機関車の模型と、電信機
 が、当時の人たちの興味をそそった。
  蒸気機関車の試運転は、同年1854年2月23日に行われ、
  引き続き、翌日の1854年2月24日に、横浜の弁天境内で、
 アメリカ人技師が、電信実験をやって見せた。
  約40メートルおきに、杉の柱を立て、その頭部にギヤ
 マンの壺を置き、これに針金を通し、一里離れた吉右衛
 門の屋敷まで電線を引いた。
  (別史料:この電信機のセットで、約1マイル(1.6km)
 の電線を用いて送信され、この時の電文は「YEDO、
 YOKOHAMA」(江戸、横浜)だったという)、
  そこで、双方から実験を行なった。
  前日の蒸気機関車の試運転で、驚きの状態だった幕府
 の役人達も、
  この日の電信の実験については、どうしても訳が分か
 らなかった。
  実験を行なう前に、一応の説明があったが、正しく伝
 えるべき通訳の役人が理解できなかった。
  電気について曖昧模糊たる中で実験は行われた。
  当時の機械は、エンボッシング・モールス電信機。
  1837年、サミュエル・モールスが電信機を発明してい
 て、それから、18年目だった。
  この時、発信・受信共に実験は成功した。
  そして、受信を、文字に書き代えて見せた。
  通訳が、「針金を引く距離は、もっと遠くても同様の
 実験ができるか?」と聞いた。
  答えは・・「十里が百里となっても完全に通信が出来
 る」・・だった。
  「ここでは、電線が引くのが大変だし、急場の間に合
 わぬので、こんなに近距離でやってみたが・・」・・と。
  当時の見聞記録にも、電信の事を「千里鏡」と呼び、
  或は・・「天連関理府」(テレガラフ)と漢字を当て、
 但書に、「電雷気にて事を告げる機械なり」・・と。
  実験後、この電信機械2台は、江戸城に収められた。
  当時、幕府は、風雲急を告げ、物情騒然たる折柄だっ
 たが、折角の文明の利器も殆んど顧みるものがなかった。
  それから15年目の1869年(明治2年)の夏、初めて横浜
 に電信線が架設された。
  そして、同年の1869年12月25日に、東京~横浜間に電
 信が開通した
  (別史料:1869年、イギリスの通信技師を招き、横浜
 燈台役所~横浜裁判所の間に、電信回線が敷設され、
  ブレゲ指字電信機(モールス信号ではなく針で文字を
 指す方式)による通信が行われた。
  また、1869年には、東京~横浜間で電信による電報の
 取り扱いが始まった。
  明治政府は、電信網の整備に力を入れた。
  東京~横浜間の電報の取り扱いが開始されてから、数
 年で電信網は全国に張り巡らされた。
  この電信網は、1877年(明治10年)の西南戦争におい
 ても大いに活用され、政府軍の勝利に貢献した。
  1871年には、デンマークの大北電信会社によりロシア
 のウラジオストクから長崎へ海底ケーブルが敷設され、
  シベリア経由でヨーロッパ、
  さらには、大西洋横断電信ケーブルを経て、アメリカ
 とも通信が可能となった。
  1871年11月に、欧州へと出発した岩倉使節団は、不平
 等条約の改正交渉の経過報告を、この出来たばかりの回
 線を使い行った。
  1873年には、東京と長崎間に回線がひかれ、東京から
 海外との通信が可能になった。
  1872年~1916年まで、ウィリアム・ヘンリー・ストー
 ンという勅任待遇のお雇い外国人が、対外通信に貢献し
 た。
  その後、電信網は全国に広がり、
  1880年頃には、大都市間に、
  1890年頃には、全国の県庁所在地が継った。
  因みに、1879年に、官報、事務報、私報を合わせ165万
 通の電報が打たれていて、日本の普及は早かった。
1889年10月24日、黒田清隆以下、大隈重信を除く各大臣が
 辞表を提出した。
1889年10月24日、防穀令事件
  朝鮮政府が、不作のため咸鏡道に大豆輸出を禁ずる防
 穀令を布いた。
  1889年、朝鮮咸鏡道で、凶作を理由に出された穀類輸
 出禁止令に対し、
  日本の貿易商が、大打撃を受けたとして、日本政府が
 賠償などを朝鮮に要求した。
  1880年の元山の開港以来、元山は、日本商人による大
 豆や米の輸出が盛んであった。
  しかし、咸鏡道観察使趙秉式(ちようへいしき)は、
 1889年10月、凶作による食糧難を理由に、穀物の道外へ
 の搬出を禁止した。
  防穀令は伝統的な救荒政策の一つで、条約上も認めら
 れていたが、日本側が強硬に抗議したため紛糾した。
  朝鮮政府は、同令を解除させたうえ趙を懲戒,更迭し
 て解決を図った。
  しかし、1891年12月になって、日本政府は、14万円の
 損害賠償を請求した。
  この事によって、両国間の外交問題に発展した。
  交渉は当初から難航した。
  日本は、1893年5月、国交断絶の圧力をかけた。
  朝鮮政府が、総額11万余円の支払いに応じることで決
 着をみたて、1893年、朝鮮政府は賠償金を支払った。
  朝鮮政府の主張は、1883年の日韓通商章程第37款に基
 づく輸出禁止令だった。
  輸出禁止令発布が正しいのか? 
  自由な交易の阻害行為が悪く、それによる損害賠償の
 請求が正しいのか? ・・の問題だった。
1889年10月24日、黒田清隆内閣が総辞職した。
1889年10月25日、黒田清隆の辞表を受理し、三条実美が首
 相を兼任した(内閣総理大臣を兼職)
  他の閣僚の辞表は却下して、三条暫定内閣が成立した。
  内大臣・三條實美 臨時内閣 発足・・、
1889年10月25日、宮武外骨の控訴を棄却し刑が確定、石川
 島監獄に収監された。
  宮武外骨(みやたけ がいこつ、1867年2月22日~1955
 年7月28日)ジャーナリスト(新聞記者、編集者)、著作
 家、新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家。
  役所や図書館の窓口などで「号ではなく本名をお願い
 します」などとたびたび言われるのが癪だと言って、
 「是本名也」と彫った印鑑を用いたことも少なくなかっ
 たという。
  晩年に「外骨」の読みを「とぼね」に改めた。
  大日本帝国憲法発布をパロディ化して、不敬罪に問わ
 れ、禁錮3年の実刑判決となった。
  モットーは・・、
  「威武に屈せず富貴に淫せず、ユスリもやらずハッタ
 リもせず、天下独特の肝癪(かんしゃく)を経(たてい
 と)とし色気を緯(よこいと)とす。過激にして愛嬌あ
 り」・・と。
  外骨の出版した刊行物の中でも最も有名な『滑稽新聞』
 があった。
  現代の週刊誌に相当する内容で・・、最盛期の部数は
 8万部。
  この時代の雑誌としては、トップクラスの売れ行きだ
 った。
  類似誌も多数登場した。
  外骨は、「猿雑誌」と類似誌を評しつつ、『滑稽新聞』
 の影響力を自慢した。
  明治41年(1908年)10月、当局は、『滑稽新聞』に対
 して発行禁止命令を出した。
  外骨は、発行禁止に先んじて、173号を以て「自殺号」
 として廃刊した。
  しかし、翌月に、『大阪滑稽新聞』を創刊し、事実上
 の後継誌とした。
  この頃、安重根に伊藤博文が暗殺されるなどの事件が
 あり、安易な批評などが批判された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:浅薄な現世利益に呑(の)まれたような(アメリカの)
   合理化や利便性を追及する風潮を嘆く。
.
1850年頃、ソローは、世界を大きく俯瞰(ふかん)し、
 「浅薄な現世利益に呑(の)まれたような(アメリカの)
 合理化や利便性を追及する風潮」を嘆いた。
  2017年1月24日の日付の読売新聞で・・、
  立正大学の斉藤昇学長が深い話をされていた。
  今年は、「ソロー」生誕200年ということで・・、
  このソローと、今の世相の「利便性の向上と、効率を
 優先させる情報・技術改革」を対比され・・、
  本当の豊かさを考える記述だった。
  今、真に豊かなのか?
  少なからず、まず、大切な人の心が、どこかに置き去
 りにされている様な現代ではないか?・・と言われる。
  そして、不安感に苛(さいな)まれている現代ではな
 いか?・・と言われる。
  このソロー・・
  (アメリカ・ロマン派文壇の異才と言われ、ヘンリー・
 デビット・ソロー、1817年~1862年)は、
  「利便と効率の対極」を意識して、「質素の美徳」と
 「世の中の安寧」の重要性を説いた。
  当時、彼は、過度に物質至上主義に大きく傾斜してい
 くアメリカ先進資本主義の『行き先の不透明感』を危惧
 した。
  ソローは、それを危惧し、自身の魂の葛藤と悲痛の呻
 (うめ)きを発した。
  彼の作品の「ウォールデン、森の生活」や「市民的不
 服従」・・、
  前者は、森の中での自給自足の生活を綴る・・、
  後者は、非暴力主義を掲げた作品・・、
  ソローは、世界を大きく俯瞰(ふかん)し、「浅薄な
 現世利益に呑(の)まれたような(アメリカの)合理化
 や利便性を追及する風潮」を嘆いている。
  そして、世界の隅々までが安寧であることを、凛(り
 ん)として望んだ。
  「華やかに物に溢れた物質文明」の陰から、忍び寄る
 地球環境と人類社会の広汎(こうはん)な危機。
  それを憂うがゆえに、ソローは、その卓越した眼力で、
 鋭く時代を穿(うが)った。
  彼の作品群には、透き通る『慈愛』がある・・、
  そして、至極(しごく)『人間的な眼差し』がある。
  (斉藤学長の記述を参考に、記述した)
.
1942年3月21日、アメリカ議会、日系人強制収容命令承認
  この時の大統領は、フランクリン・ルーズベルトだっ
 た。
.
1942年4月~1945年9月、アメリカのラッシュ・ジョセフは、
 アメリカ陸軍航空部隊所属となり、天気予測班として国
 内勤務の間に、ルーズベルト大統領の妻エレノアと、シ
 カゴのホテルで密会しているところを、アメリカ軍防諜
 部隊に盗聴された。
  そして、それがもとで、盗聴をした防諜部隊隊員らと
 共に太平洋の最前線配属となった。
  もともと、盗聴せよと指示をしていたのはルーズベル
 トだった。
.
1942年6月、アメリカ、戦時情報局(OWI)発足
  アメリカ戦時情報局(OWI)ができた。
  日本の戦後をどの様にするかのアメリカの方針に、大
 きな影響を与えたオーウェン・ラティモアは・・、
  1943年~1944年1月の間、ここに勤務した(サンフラン
 シスコにあるこの部局=極東部主任の要職にあった)。
  ここは、海外向け戦時宣伝を目的にしていた。
  ラティモアは、日本の天皇制を崩したいと考えていた。
  また、「我々にとって、日本人ほど憎むべき敵はいな
 い」というラティモアの言葉があるように、この様な考
 えを持った人物だった。
  日本の自動車、航空機のエンジン製造を禁じなければ
 ならないと考えていた。
  また、軍工場、軍艦の造船所を取り壊すべきと考え、
 将来の日本は、第一級の工業国にしてはならないとした。
  そして、「日本を共和国に変える」と考え、天皇陛下
 とその後継者の皇族男子は、中国に監禁すべきだとして
 いた。
.
1943年12月1日以降、アメリカのルーズベルトが戦略の手の
 ひらを返した・・、アメリカは簡単に乗り換えた・・、
  この年のカイロ会談・テヘラン会談(1943年11月28日
 ~1943年12月1日)の後・・、
  ルーズベルト・アメリカ大統領が、中国・蒋介石を重
 要視しなくなった時は、それは、1943年のカイロ会談・
 テヘラン会談の後だった。
  テヘラン会談が、ルーズベルトが、チャーチルの練っ
 た通りに、あまりにも、その通りに行ったからだった。
  中国・蒋介石政府は、ある意味「用済み」となった。
  ここで、アメリカは、戦略の手のひらを返した。
  転換点だった。
  この時、マッカーサー(アメリカ南西太平洋方面司令
 官)は、海軍長官・フォレスタルへ言っている・・
  「中国軍を当てにした戦争は、もう意味がなくなった」、
  「我々は、満州に展開する日本軍をくぎ付けにするソ
 連軍の登場を待たなくてはならない」、
  「ソ連軍の侵攻後、ゆっくり日本本土に上陸すれは良
 い」・・と。
  アメリカは、完全に乗り換えた。
  日本参戦へのスターリンへの追加のエサ(大連と旅順
 の不凍港がソ連のものになる)で参戦が確実になった手
 ごたえを得たからだった。
  アメリカのルーズベルトは、あとは、中国が、日本に
 付くようにならないように注意するだけだと言った。
  「中国(蒋介石)は、日本との戦争を止める事がない
 ようにするのに必要なものだ」・・と、必要なら新たな
 戦争を作るというルーズベルトだった(ビルマ戦争)
.
1944年8月5日、オーストラリアのカウラ市内にあった捕虜
 収容所から、日本人が脱走を企てたとき、
  オーストラリア兵は、無差別に砲火を浴びせ、実に234
 人の日本兵捕虜を射殺した。
  そして、108人に重軽傷を負わせた。
  これに対し、この逆の話がある・・
  日本の長崎市に、戦時中、捕虜収容所があり、オース
 トラリア兵が収容されていた。
  アメリカが投下した原爆で、収容所が破壊されると、
 捕虜たちは脱出し、市民の中に交った。
  しかし、家族や友人を原爆で失い、連合国に原爆投下
 された極限状況下でさえも、日本人は、何ら彼らに危害
 を加えなかった。
  また、オーストラリアは、日本兵捕虜を飛行機から突
 き落として殺した。
  これも、リンドバーグが公表した。
  オーストラリアは、「日本軍は玉砕した」と嘘の報告
 をした。
  この行為は、1人、2人の行為ではなく、オーストラリ
 アは集団で行なった。
  リンドバーグは、この様な行為が、欧州戦線で行われ
 たであろうか?と、日本人が、「有色人種だから行われ
 ていた」との筆致で記述し、公表した。
  また、この頃のアメリカも、日本兵を「黄色い猿」と
 蔑視の表現して、キリスト教に洗脳された「人の肌の色
 で見分けし、有色人種を蔑(さげす)む」ことにマイン
 ドコントロールされた表現をした、そして、有色人種・
 日本兵の命を軽視した。
.
1945年3月9日、東京大空襲(~10日)無差別爆撃・・国際
 法違反・・一般市民の殺戮
.
1946年1月4日、GHQが、超国家主義団体の解体を指令し
 た。
.
1946年1月28日、GHQが、映画の検閲を指令した。
.
1946年2月3日、マッカーサー元帥が憲法3原則をGHQ民政
 局へ指示した。
.
1946年2月3日、通化事件が起き、中国在留日本人が多数殺
 害された。
.
1946年2月13日、GHQが、憲法改正松本試案を拒否し、G
 HQ案を日本側へ渡した(2月8日に正式に提出していた)
.
1946年2月23日、山下奉文元陸軍大将の絞首刑が執行された。
  違法なる執行。
.
1946年4月2日、マッカーサー元帥が、アメリカ将兵に、日
 本女性との醜行自粛を訓示した。
  あまりにもアメリカ兵の行動が乱れていた。
.
1946年5月、中華民国政府が南京に遷都した。
.
1950年、ダグラス・マッカーサーが、朝鮮戦争で、アメリ
 カ軍主力の国連軍司令官となった(~1951年)。
  1951年にトルーマン大統領によって解任させられた。
.
1951年5月3日、マッカーサー元帥が、アメリカ上院軍事外
 交委員会において、「日本の真珠湾攻撃は正当な『自衛
 権』の行使」と証言した。
.
1995年9月、沖縄のアメリカ軍兵士による少女暴行事件が起
 きた。
.
2004年、中国の平和的台頭はあり得ない・・と、アメリカ
 のミアシャイマーは言った。
  「目の前にある問題は単純にして深い。
  中国の平和的台頭は可能だろうか。
  私の答えは『ノー』だ。・・ジョン・ミアシャイマー
 は言った。
  何故、中国の平和的台頭はあり得ないのか?
.
2017年2月12日、この日の読売新聞に、安倍首相とトランプ
 大統領の首脳会談で・・、
  アメリカの核による日本防衛や沖縄県の尖閣諸島がア
 メリカの対日防衛義務を定めた日米安全保障条約5条の
 適用対象であることなどを共同声明に明記とした。
  日米首脳会談と共同声明のポイント。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2017-02-19 03:15 | 皆様とともに 幸せになりたい


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