(増補版)489E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年6月~1889年6月)

題:(増補版)489E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年6月~1889年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1889年6月8日、市制実施後、最初の東京市会を開いた。
  市には市会を置き、土地所有と納税額による選挙権制
 限と高額納税者の重みを大きくした三等級選挙制によっ
 て市会議員を選出した。
  市は、条例制定などの権限を持つ。
  市長は、市会が候補者3名を推薦し、内務大臣が天皇陛
 下に上奏裁可を求めて決めた。
  市会は、別に助役と名誉職参事会員を選出した。
  市長、助役、名誉職参事会員で構成される市参事会が
 市の行政を統括した。
  東京市会は、1889年(明治22年)5月1日に、市制・町
 村制の施行に基づいて東京15区を市域とする東京市が設
 置された。
  東京市は、市制特例によって京都市・大阪市と共にい
 わゆる「三都」として一般の市よりも上位に位置付けら
 れ、
  東京府知事が、東京市長を兼務すると共に、従来の区
 も東京市長の指揮下でそれぞれ単独の区長(官選制)・
 区会を持つ変則的な自治体制が敷かれた。・・が、
  東京・大阪両市有志同盟が、特例撤廃を働き掛けた結
 果、1898年(明治31年)10月1日に、東京市は、一般市と
 なり、東京市長(官選制)と府知事の役職分離・東京市
 役所(庁舎は麹町区有楽町の東京府庁と共用)の設置が
 実現した。
1889年6月10日、第1回貴族院多額納税議員選挙
  議院や議員の権限などについては、議院法、貴族院令
 (明治22年勅令第11号)、その他の法令に定められた。
  議員の任期は原則として7年で、皇族議員、華族議員の
 うち公爵・侯爵議員、勅任議員のうち、勅選議員につい
 ては終身議員とされた。
  華族議員のうち、伯爵・子爵・男爵議員は、それぞれ
 同爵の者による互選により選出された。
  (参考)勅任議員:ちょくにんぎいん、勅任されて議
    員となった者、すなわち勅選議員・帝国学士院会
    員議員・多額納税者議員の総称。
1889年6月11日、ドイツと新通商航海条約に調印した。
  しかし、発効せず。
  グートシュミット独公使は、この条約が失敗した理由
 について・・、
  関税問題を除いて、ドイツとしては段階的に日本を解
 放する事を意図していたと後になって発言した。
1889年6月16日、横須賀線鉄道が開通した。
  横須賀線の大船駅~横須賀駅間が開通した。
  横須賀は、海軍の軍港を抱える軍港都市で、
  横須賀線は、軍事上、重要な路線だった。
  また、横須賀は、歴史のあるところで、幕府の俊英・
 小栗上野介(おぐりこうづけのすけ)とフランス人技師
 ウェルニーの胸像が立っているが、江戸幕府の造船所が
 あった。
  そして、横須賀鎮守府(ちんじゅふ:海軍の首都防衛
 拠点)と海軍工廠(こうしょう:軍用艦船の造船・修理
 所)・・、
  それまでの人員や物資の輸送は、横浜からの船便だっ
 た。
  軍は、鉄道が結ばれる事を要求し、1886年(明治19年)
 軍は請議書を提出した。
  そこで、1887年、測量が開始され、
  1888年初頭に起工し、そして、
  1889年6月、大船から鎌倉、逗子を経て、横須賀へ開通
 させた。
  横須賀線という名が決定したのは、1909年(明治42年)
  軍は、観音崎までを計画していたが、費用と用地確保
 で実現しなかった。
  一時は、貨物取扱量も増え、また、造船所もあり、ド
 ックもあり・・で、広大な操車場もあったが、今は、公
 共施設や高層住宅となっている。
  また、米軍と自衛隊の基地で、原子力潜水艦などの基
 地にもなっている。
  (因みに、アメリカ軍は、終戦後、この地を基地とす
 るため、ほとんど空襲を行なわずに温存した・・その様
 な軍港としての最適地)
1889年6月20日、富山県伏木に米騒動が起きる。
  1889年は凶作で、
  1890年に入ると、米価が暴騰し、
  1890年1月18日、富山市で、貧民が救助を要求して騒動
 を起こしたのを最初として、
  1890年4月~8月にかけて、鳥取市、新潟県下、下関市、
 高岡市などで貧民の暴動が相次いだ。
  また、この1889年の日本国内の凶作のため、翌年の1890
 年に、米の輸出量が激減した。
  そして、米騒動の最終目的は、小売米価の値下げの他
 に、救助基金の支出獲得にあった。
  そもそも、町当局があずかる救助基金(そのものの創
 設は1889年の米騒動(翌・1890年の全国的米騒動の引金
 となった)に由来し、
  ふたたび、2000人余もの大集団が参加するような大騒
 動をなからしめんがために、
  あるいは、また、騒動が起きたときの備えのために、
 町の有志たちが仲仕の労銀の中から輸出米一石につき、
 2銭~3銭の金を取り立て、
  それを積み、救助基金として管理したことからはじま
 り、それが後に町に移管された。
1889年6月、陸海軍造兵廠や石川島造船所の機関部職工ら、
 同盟進工組を結成した。
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  (今日の言葉)
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  題:アメリカ大統領になった・・ルーズベルトという男は・・??
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  第二次世界大戦の日本との戦いが開始されると・・
  『戦争を作った』・・と、この男(フラクリン・ルー
 ズベルト)は言った。
  この男・ルーズベルトの思惑通りに事が進んだ・・
  そこで・・この様な言葉が飛び出したのだろう。
  (読売新聞、2017・1・30)に・・、
  本:『アメリカが隠しておきたい日本の歴史』の広告
 があった。
  その広告には・・以下の記述があった。
  著者は、マックス・フォン・シュラー氏で・・
 アメリカの精鋭部隊である海兵隊に所属した人だった。
  著者は言った、「本当のことを知らせることは・・、
  これから生きていく方々の為にもなる」・・と、
  また、広告の文には・・、
  「アメリカ人は、プロパガンダ(嘘宣伝)が巧みだ」
 ・・と、
  「アメリカ人は、大東亜戦争(第二次世界大戦)につ
 いて・・『日本人は腐敗した指導者たちに騙されていた』
 と言うが・・、
  アメリカが、日本を戦争に追い込んだという『事実』
 については絶対に認めません」・・と、
  (アイデンティティーが一気に崩れ去るので依怙地
 を張っている)
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  この様な状況の中の要(かなめ)に居た・・戦争を始
 めたアメリカ大統領のルーズベルト・・は・・??
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1905年3月17日、フランクリン・ルーズベルト(第32代アメ
 リカ大統領、そして、第二次世界大戦を作った男)は結
 婚した。
  セオドア・ルーズベルト(第26代アメリカ大統領)の
 姪(弟の子)のアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚し
 た。
  フランクリン・ルーズベルト23歳、エレノア19歳だっ
 た。
  しかし、悲しいかな・・この夫婦はうまく行かなかっ
 た。
  ルーズベルトに責任があった。
  ルーズベルトが裏切ったのだった・・不誠実な男・夫
 ・・だった。
  「私はジャグラー(曲芸師、ペテン師)だ」と自ら言
 っていたルーズベルト。
  また、嘘をついても良いという自分勝手なルールを持
 っていたルーズベルトは、妻・エレノアまでも裏切った。
  夫・ルーズベルトに、愛人のルーシーが居るという事
 を知った妻・エレノアは、「世界が崩れ去ったようだっ
 た」と語った。
  「誠実」とか「信頼」とかの言葉から「遠かった男」
 だった。
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1913年、フランクリン・ルーズベルトは、海軍省海軍次官
 補の要職に就いた。
  この時、アメリカ海軍内に伝統的に強かった太平洋で
 の日本脅威論を身をもって体験した。
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1913年、ラザフォード・ルーシーが、この年、フランクリ
 ン・ルーズベルトの妻・エレノアの秘書となった。
  そして、フランクリン・ルーズベルトとも知り合いと
 なり、
  そして、愛人関係と・・なった・・
  その事を、1918年に、妻エレノアは、ルーシーの恋文
 を発見して知った・・、
  エレノアは、ルーズベルトに「愛人と別れるか、離婚
 するか」を・・ルーズベルトへ迫った。
  ルーズベルトは、「二度とルーシーには会わない」と
 誓った。
  そして、ルーシーも、かなり年の差があるラザフォー
 ドという人と結婚した・・、が・・1941年に死別。
  そして、よりが戻る・・ルーズベルトとの間が元に戻
 った。
  1944年以降は、堂々とホワイトハウスでも密会する様
 になった。
  密会も多くなった・・、
  ルーズベルトが死ぬとき、傍にいたのは・・ルーシー
 だった。
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1915年、アメリカの連邦最高裁判所が、日系移民には市民
 権の資格がない・・とした。
  また、帰化申請も認めない・・とした。
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1917年、アメリカは、アジア地域の移民禁止地域を設けて、
 アジアからの移民を制限した・・さらに、有色人種蔑視
 へと向かった。
 (全てのアジア系移民は・・アメリカ入国禁止となった)
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1918年、アメリカの大統領となるフランクリン・ルーズベ
 ルトの妻・エレノアは、この年に、夫ルーズベルトの不
 倫を知った。
  そして、家庭の妻という立場を棄てる決意をした。
  社会奉仕や公民権運動に貢献するが・・、
  その間、元アメリカ共産党員だったジョセフ・ラッシ
 ュとの深い関係が暴露された。
  FBIの卑劣な監視を受けるなどのスキャンダルに見
 舞われた。
  エレノアは、裕福な家庭に生まれたが・・、
  父(セオドア・ルーズベルト大統領の実弟)は、勝手
 気ままな性格で、また、アルコール依存症であり、
  エレノアは祖母に預けられ、ここで育った。
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1922年、アメリカは、ケーブル法で・・、
  日本を含むアジア系移民と結婚したアメリカ女性の市
 民権を剥奪した。
  (因みに、キリスト教聖書には、「異教徒に嫁に行か
 せるな」の遅れた教義がある・・隠されて、知らされて
 いないが・・)
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1923年、アメリカは、インド人もターゲットにして、排斥
 した。
  キリスト教の有色人種蔑視教義による『虐げ社会が吹
 き荒れた』。
  (今・現代でも、黒人の方々やマイノリティーの方々
 は虐げられている)
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1925年10月、「主権国家」・・ロカルノ条約
  この時、スイスのロカルノで協議が行われ、
  1925年12月1日に、ロンドンで正式に調印され・・、
  この条約締結によって、ドイツは、ベルサイユ講和会
 議で制限された国防に関する条項が再確認された。
  ドイツは・・、
  「一人前の安全保障能力を持つ主権国家とされない」
 という地位に置かれた。
  自らが、主権国家として、自らを守ることが出来ない、
  『そうすることをを・・阻止される国家』だと・・、
  ドイツは、1919年のベルサイユ講和会議で、
  ドイツは、徴兵制や飛行機・戦車の保有を禁じられ、
 軍人の数も十万人以下と制限された。
  このベルサイユ条約の159条から213条は、軍備条項と
 されていて、ドイツの軍備に対し厳しい制限が加えられ
 た。
  さらに、武装解除についても規定された。
  その条項の1例は・・、
  ☆ドイツの陸軍兵力は、1920年3月31日までに歩兵・騎
   兵・将校を含めて10万人以下とする。
  ☆ドイツの海軍兵力は、本条約締結から2か月以内に1
   万5000人に縮小する。
  ☆参謀本部は持ってはならない。
  ・・等が決められ、
  ドイツ国民の方々は、大砲などを破壊した。
  また・・、
  「兵器などについても色々と制限された」
  「兵器、航空機を含む製造は連合国の許可を受けるこ
 と」
  「潜水艦・戦車・装甲車などの輸入・製造禁止」
  「海軍は、戦艦6隻、軽巡洋艦6隻・・で、潜水艦はだ
 め」
  「今、ドイツの港湾にある艦艇の所有権を放棄せよ」
  「航空機とその部品の製造・輸入禁止」・・など、
  日本も、日本の国防に関して『自由度を失っている』。
  自分の国を自由に守ることについて考えることが出来
 なくされている。
  『憲法があるからではない』。
  「主権国家」として、自国を守る自由が拘束されてい
 る。
  特に、キッシンジャーは、親中(反日)派で、
  中国寄りの考え方から、日本の国防についての軍備に
 ついて、厳しい考え方を持っていた。
  日本は、『国際的不正義のもとに置かれている』。
  国家の防衛主権というものがあるのだ。
  長期的観点で、アメリカの退潮を考えるとき、
  中国が、今度、内政干渉して来るだろう。
  1922年に、ワシントン会議で、日英同盟が廃棄された
 が、
  これは、今まで言われていた「アメリカの策略」では
 なく、中国の孫文などが先頭に立って計画し仕掛けた工
 作によっての結果だった。
  中国の歴史が、総べて、この「同盟関係を潰す戦略」
 の中で展開したが・・その姿であった。
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1926年、イタリアのムッソリーニが、独裁的な権力を握る。
  以後、ドゥーチェ(指導者)の地位を維持した。
  イタリアは、このムッソリーニの、国家の主動の下に、
 産業を再編し、
  公共事業や軍需生産の拡大で「景気の浮揚」を図った。
  このイタリアの国家管理経済に、アメリカのルーズベ
 ルトも『理解を示した』。
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1927年、リンドバーグが、「スピリッド・オブ・セントル
 イス号」で世界初の単独大西洋横断に成功し、アメリカ
 国民の英雄となった。
  因みに、リンドバーグは、1932年3月、長男が誘拐され、
 殺害されたのを機に・・欧州在住となった。
  『ルーズベルトの好戦的な所』を批判した。
  ルーズベルトからは、「親ドイツ派」と誤解を招く、
 プロパガンダの非難がされた。
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1928年、この頃から深刻になりつつあった大恐慌で・・
  アメリカは、さらに、社会不安が社会に深まって行っ
 た。
  ルーズベルトは、この様な状況の中、大統領選に出馬
 した。
  そして、結果的に、ルーズベルトは、アメリカ史上最
 長の在任期間を誇る大統領となった。
  在任中に、戦争に突入する事により、アメリカは大恐
 慌の危機から脱した。
  ニューディール政策だからではない・・、
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1929年、アメリカの ホワイトハウスが火災となった。
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1929年10月24日、ウォール街の株価が大暴落に至った(世
 界大恐慌勃発)
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1930年代初頭、粛正(しゅくせい)のソ連
  この頃、独裁権を確立し、独裁者となったスターリン
 (レーニンの後継者)は・・、
  数百万人におよぶ人々を殺戮(数千万人の説もある)
 するという徹底した粛正を行なった。
  この様な暴力によって、独裁国家を確立し、権力を掌
 握して確立し、5ヵ年計画によって、「一国社会主義建設
 路線」を進めた。
  1930年代後半に、国際情勢が緊迫の度を加えると・・、
  スターリンは、ドイツの攻撃を恐れて、また、同時に
 第一次世界大戦で失った「旧ロシア帝国領土」を回復し
 たいという目的で、
  1939年8月に、「独ソ不可侵条約」を締結した。
  条約の秘密議定書には、ポーランドの分割、東ヨーロ
 ッパにおける独ソ両国の勢力範囲が記されていた。
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1931年9月24日、上海の英語誌が「田中メモリアル」を掲載
 した。
  これが、陰謀の日本を貶(おとし)める策略だった・・、
  これが、日本にとって痛かった。
  日本にとって・・「根も葉もないこと」を言われた。
  日本が、「侵略国家体質だ」と言われた。
  世界を手中に収めたいという『大それた陰謀を持った
 国だ』と言われた・・、
  その流言飛語が・・世界中に・・根も葉もない印象を
 付けられてしまう日本だった・・、
  今・現代においても、節操なく・・「慰安婦とか」「
 南京事件とか」・・作り話が、日本をターゲットにして
 行われているが・・放っておいてはいけないのである。
  この様な行為を・・『軽く見ないこと』。
  この様な根拠のない流言を放っておかないで、「しっ
 かりした根拠を持って反論を行なえ」
  必ず・・反論をせよ・・、
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1932年1月7日、スティムソン・ドクトリン
  アメリカの国務長官のスティムソンが、日本を『九カ国
 条約違反』というドクトリン(原則)を発表した。
  この男が・・曲者(くせもの)だった。
  この時点から、日本に対するアメリカの態度が、さら
 に、硬化して行った。
  また、世界の態度も・・アメリカに引きずられて行っ
 た。
  スティムソンは、何故か? 日本に対して批判的に見
 る、また、日本を貶める政治家だった。
  日本は、日露戦争までは、アメリカと良い関係にあっ
 た・・うまく言っていた。
  しかし、日露戦争の日本の勝利によって、ロシアから
 満州を移譲され、
  そして、日本は、満州へ、日本から資本を持って行っ
 て、また、人材を投入して「満州づくり」を始めた。
  「満蒙開拓団」という言葉もあり、自らも汗を流した。
  日本人が、額に汗して、誠実に満州を豊かな地にしよ
 うと立ち上がっていた。
  満州鉄道の敷設も始めた。
  この時点が、そして、この満州鉄道が、アメリカと火
 花を散らす一点でもあった。
  アメリカも、満州での利権が欲しかった。
  アメリカは、すでに、植民地としているフィリピンを
 拠点として、盛んに中国大陸へ進出していた。
  そして、満州においても、日本の満州鉄道敷設と同じ
 行為をし始めた。
  日本の鉄道敷設と並行して鉄道敷設を始めるという、
 日本の行動を邪魔する行為を始めた。
  日本は、中国政府との交渉の上で、満州鉄道敷設をし
 ており、
  また、この話し合いにおいて、並行する路線は敷設し
 ないと決めていた。
  これによって、当然に、アメリカの満州鉄道敷設は、
 実施できないことになった。
  この様にして、アメリカと日本は、満州で火花を散ら
 した。
  この様な経過の中で、日本は、南満州鉄道を敷設して
 行った。
  しかし、アメリカは、世界のどの国も理解していた日
 本の満州鉄道沿線の開拓行動を、「侵略だ」と、言い掛
 かりをつけた。
  この論理のポイントになったのが、このスティムソン
 の「九ヵ国条約の違反のドクトリン」だった。
  言い掛かりのドクトリン発表だった。
  この接点から「日本は、侵略国のレッテル」が張られ
 た。
  日本は、日露戦争の戦勝によってロシアから満州を移
 譲され、中国政府も認めていた。
  侵略行為ではない。
  中国政府との話し合いの上での行動という筋が通った
 行動だった。
  逆に、アメリカなどが、筋の通った話ではなかった。
  また、アメリカは、自分の都合の悪い本は、『焚書』
 として日本国民が読めなくした。
  卑劣な事である。
  (参考)九ヵ国条約(きゅうかこくじょうやく)は、
 1922年(大正11年)のワシントン会議に出席した9か国、
 すなわち、アメリカ合衆国・イギリス・オランダ・イタ
 リア・フランス・ベルギー・ポルトガル・日本・中華民
 国間で締結された条約。
  中国の関税自主権を拡大した。
  しかし、中国の領土や主権の尊重は、アメリカをはじ
 め、イギリスなど尊重する気配などはまったく無かった。
  大混乱の中国のおいしい権益を得ようと、うまく、立
 ちまわっているだけだった。
  (参考)焚書:(ふんしょ)学問・思想を権力によっ
 て弾圧するための手段として、書物を焼き捨てる事。
  第二次世界大戦後においても、GHQ(連合国軍総司
 令部)によって、7000冊以上の書物が焚書とされ、世の
 中から消された。
  正しい言論の道が閉ざされ、日本は自虐史観にプロパ
 ガンダ(嘘宣伝)されて行く。
  この焚書のすべてではないが、戦後70年を経て、少し
 ずつ世に出て来ている。
  真実の歴史に書き改められて来ている。
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1934年3月、「日本、陰謀論」、日本の黒い噂を世界に流す、
 日本追い落としの論。
  この月の「アジア」というアメリカの雑誌に、この論
 が掲載された。
  この論文は、10年前に掲載されていて、今回は再掲載
 だった。
  その再掲載の狙いは、ルーズベルト政権の10年前の状
 況と大きく違って、
  ルーズベルト政権の厳しい対日姿勢を伝える狙いがあ
 った。
  10年前は、日本が、ワシントン会議で、日本は不利な
 状況を課せられたが受け入れて、
  海軍軍縮を誠実に実施していると、
  また、中国市場は、日本にとって重要であることに理
 解を示さなければならないという・・日本を少し思いや
 る様な記述もあった。
  そして、「旧思考を捨て去るべきだ」という事まで書
 かれていた。
  そして、編集長のコメントとして、「(ルーズベルト)
 海軍次官補として日本との戦争を常に念頭に置いてきた
 ルーズベルト氏の見解を今、紹介するのは非常に有益」
 と書いていた。
  「日米共存だ」という記述であった。
  この様なアメリカの状況から、何が変えさせたのか?
  また、何が変わったのか?
  ルーズベルトは、1913年から1920年まで、海軍次官補
 として勤めていた時は、この様な考え方だった。
  しかし、この時・1934年、日本についての黒い噂が世
 界に流された。
.
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1934年6月、アメリカ、この頃から、ニューディールの批判
 が高まって行く。
  アメリカ国民の方々の不満の中で、ニューディール政
 策は行われた。
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1937年8月13日、第二次上海事変が起きた。
  この事変も、新史料が公開されて、史実が明らかにな
 る・・曲者(くせもの)が横行する事変だった。
  この事変の新事実が明らかになった。
  この日、中国国民党軍が、上海の日本海軍陸戦隊に
 大攻撃をした。
  和平への可能性が、最終的に・・「完全に吹き飛んだ」。
  そして、中国国民党軍との全面戦争へと突入した。
  新たに明らかになった事は、中国国民党のトップの蒋
 介石は、『日本と和平をしようとの方針』だった。
  日本と合った和平への方向性だった。
  これが、ルーズベルトには都合が悪かった・・、
  また、この蒋介石の命令を無視して、当時、国民党の
 上海方面の総司令官の張治中(将軍)は・・、
  実は、中国共産党の秘密党員で、スパイ工作員であっ
 た。
  蒋介石の和平方針命令を無視して、日本軍に対しての
 攻撃を指揮し、戦いが起こした。
  中国共産党とコミンテルンの指令を受けて始まった攻
 撃だった。
  ソ連コミンテルンも大きく関(かか)わっていた。
  中国共産党とソ連のスターリンは、中国国民党軍と日
 本の戦いによって、その両者の消耗を尽くさせようと仕
 組んでいた。
  そして、自国軍の温存を計っていた。
  スパイの根は深かった。
  かつて、孫文の妻・宋慶齢は、中国共産党のスパイだ
 った、それで、ソ連のスターリンの命令を忠実に果たし
 ていた。
  背後には、「国際共産主義としての結束と目標」があ
 った。
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1937年、盧溝橋事件、(スターリンの工作だと分かった)
  日本は、事件を収めたい、収束したいと努力していた。
  この事件の後、不拡大方針をとって、現地解決を進め
 る日本を・・その様にさせまいと・・、
  何としても日本を引きずり込んで・・日中全面戦争へ
 引きずり込みたいと・・、スターリンと中国共産党によ
 る工作が行われていた・・
  そして、上海で・・日本軍に対しての総攻撃が行われ
 た。
  これが・・全面戦争の始まるきっかけだった。
  この様なことが、戦後60年を経て、明らかになり・・
 証明されるようになった。
  (ユン・チアン他著「マオ≪上≫」第19章、2005年刊)
  また、アメリカも・・酷いことをしていた・・
  中華民国の蒋介石政権に対して行われていたアメリカ
 や、イギリスなどによる軍事援助は・・、
  いわゆる『援蒋ルート』を通じて行われていた。
  アメリカは、火に油を注ぐように・・武器を供給した。
  戦いが収まるわけはなかった。
  特に、フランス領インドシナを経由するルート(仏印
 ルート)は4つの『援蒋ルート』の中で最大のものであっ
 た。
  このアメリカの『援蒋ルート』が・・問題の根本原因
 だった。
  そして、この中国への武器・弾薬の支援が、第二次世
 界大戦が開始される・・『根本的な原因』だった。
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1940年12月29日、ルーズベルトが、兵器庫になると発言。
  アメリカは、世界に武器をばらまくと宣言した。
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1940年、アメリカに『正論』が現れた・・アメリカのリチ
 ャードソン海軍大将が、
  「日本との戦争なんか利益が無い」と、ルーズベルト
 大統領へ言った。
  ルーズベルト大統領は、リチャードソン海軍大将を、
 即解任し、そして、降格した。
.
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1940年、フランクリン・ルーズベルト大統領は、断固とし
 て日本と戦争をしたかった。
  この年に、リチャードソン海軍大将は、日本との戦争
 はするべきではないという考えから・・、
  『日本との戦争の検討計画は止めるべきだ』との意見
 を、さらに、主張した。
  ルーズヘルトは、直ちに、アメリカ海軍艦隊司令長官
 で、且つ、太平洋艦隊司令長官であったこのリチャード
 ソン海軍大将を解任した。
  また、卑劣にも、少将に降格した。
  この様な人事は、異例中の異例だった。
  しかも、リチャードソン海軍大将は、超エリートだっ
 た。
.
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1940年~1942年、ルーズベルト大統領は、CIAの前身の
 OSSに、「対日占領プランを作るように」にと命令し
 た。
  また、ルーズベルトは、「人種差別主義者」だった。
  さらに、ルーズベルトは、スミソニアン研究所の文化
 人類学者アールス・ヒルデリカを、ホワイトハウスに招
 き・・、
  「日本人全員を、温和な南太平洋の原住民と強制的に
 交配させて、やる気がない、無害な民族につくり替える
 計画をたてたい」と・・研究する事を命令した。
.
.
1945年8月6日、この日に、広島に原爆が投下されたが・・、
  フーバー第31代アメリカ大統領は・・、
  「原爆を投下する理由はなかった」と言った。
  また・・、
  「原爆を投下しないでも、日本は降伏させることは
   出来た」・・と言った。
  さらに・・また・・、
  「原爆投下の罪は、アメリカ国民の上に重くのしかか
 っている」
   ・・と言った。
.
.
1946年5月3日、東京裁判(極東国際再軍事裁判)が始まった。
  しかし、フーバー・第31代アメリカ大統領は、
  「東京裁判史観は、全面的に否定する」・・と、言っ
 た。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2017-02-04 18:20 | 皆様とともに 幸せになりたい


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