(増補版)488E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年6月)

題:(増補版)488E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1889年5月31日、華族女学校が完成した。
  沿革・・、
  1885年(明治18年)四谷区尾張町に華族女学校を創設
   した。
    この年、皇族・華族子女のための官立の教育機関
   として華族女学校の名で四谷に創立された。
  1889年(明治22年)麹町区永田町に移転。
    永田町に移転し、平民子女の入学も許可された。
  1906年(明治39年)華族女学校と学習院を併合し、華
   族女学校を学習院女学部と改称した。
  1918年(大正7年)女学部は青山に移転し、女子学習院
   となった。
  アリス・ベーコンは、日本の家族の令嬢たちがおとな
 しくて、アメリカとは全然違うことに驚いている。
  確かに、彼女たちは、まだ小さいころから、歩き方や
 座り方、襖の開け方や箸の使い方まで、細かく注意され
 て育っていた。
  とくに、かつて大名だった華族の令嬢たちは、姫君に
 ふさわしい気品を身につけるために、「小笠原流」の礼
 式を厳しく教えこまれていた。
  たとえば、食事の時に箸の先が「一寸や一寸五分」も
 汚れる食べ方は行儀が悪いとされ、
  ご飯やおかずに触れていいのはわずか「六分」だった。
  一寸は、約3.03センチメートルで、
  一分は、その十分の一である。
  つまり、六分は約1.8センチにすぎないわけで、箸
 をそれしか汚さずに食事するのは至難の業だ。
  さらに、華族の令嬢たちは、歩き方から寝ているとき
 の姿まで、すべて品良く、美しく見えなければならない、
 とうるさく教えこまれた。
  そうしたしつけの成果が見事に発揮されて、アメリカ
 人のアリスには、十代の彼女たちが「完璧な淑女」に見
 えたのだろう。
  因みに:アリス・ベーコンは、アメリカの女性教育者
 で、
  育った家庭は貧しかったようだ。
  大学進学は、経済的理由であきらめた。
  しかし、1881年、ハーバード大学の学士検定試験に合
 格し、学士号を取得した。
  1883年、ハンプトン師範学校正教師となる。
  1884年、大山捨松や津田梅子の招聘により華族女学校
 (後の学習院女学校)英語教師として来日した。
  来日中の1年間の手紙をまとめたものを、1894年『日本
 の内側』(日本語訳題『華族女学校教師が見た明治日本
 の内側』)として出版し反響を呼んだ。
  帰国後は、ハンプトン師範学校校長となっていたが、
  1900年4月、大山捨松と津田梅子の再度の招聘により、
 東京女子師範学校(現:お茶の水女子大学)と、津田梅
 子が建てた女子英学塾(現:津田塾大学)の英語教師と
 して赴任して来た。
  1902年4月に、任期満了で帰国するまで貢献した。
  特に、女子英学塾ではボランティアで教師を務め、梅
 子にかわって塾の家賃を代わりに支払うなど貢献は大で
 あった。
1889年5月、北海道で鶴猟が禁止された。
  明治維新をきっかけとして、江戸時代の禁鳥制度が廃
 止され、野生鳥獣の乱獲が進んだ。
  1872年、そこで、明治政府は、この年に『鉄砲取締規
 則』を、
  1873年、『鳥獣猟規則』を、
  1892年、『狩猟規則』を公布し、
  捕獲を禁止する鳥類として12種を保護鳥として指定し
 た。
  また、保護鳥は、別に捕獲禁止期間指定種を設け、
 保護鳥、および、期間指定鳥に対しての売買も禁じた。
  1895年、『狩猟規則』が『狩猟法』へ改正され、
  小雀(こがら、シジュウカラ科の鳥)や郭公(かっこ
 う、カッコウ目カッコウ科の鳥)など4種が保護鳥に追加
 された。
  1910年、再び改正が行われ、60種を超える鳥類が保護
 対象となった。
  1918年、本法律に関する抜本的な見直しが図られた。
1889年5月、法学士会が、法典編纂に関する意見書を提出し、
 民法施行延期を主張し、民法典論争が起こった。
  民法典論争(みんぽうてんろんそう)は、民法典を、
 「このまま施行して良いのか」の是非をめぐって行われ
 た論争で、
  条約改正促進のために、近代的法典の整備を迫られて
 いた明治政府は、
  1890年、フランス人 のG.ボアソナードを中心に完成し
 た民法典 (旧民法 ) を、1890年に公布して、そして・・、
  1893年から施行することを定めていた、しかし・・、
  この年・1889年、東京大学法学士会の、「民法は天賦
 人権論に基づき社会の人倫を破壊するもの」との反対意
 見発表から実施延期・断行の論争が起こった。
  国論は、「延期派と断行派に二分され」、はげしい論
 争が起こった。
  この法典論争は、「商法典論争」、あるいは、「民法
 典論争」とも呼ばれた。
  この基本には、「日本の民俗慣習に合わない」、それ
 故、施行を延期すべきだ・・という議論が出て来たのだ
 った。
  明治政府は「施行を断行しようとした」、
  これに対し、穂積八束などが「国情にそぐわない」な
 どとして、施行の延期を主張した。
  1892年になって、旧民法の施行延期を求める法案が議
 会で可決された。
  旧民法は流産し、結局、施行はされなかった。
1889年6月1日、青年絵画共進会が、上野公園で展覧会を開
 催した。
  小堀鞆音は、この時・1889年、東京美術協会・青年絵
 画共進会に出品し、一等褒状を受け、この頃から雅号を
 「鞆音」と改めた。
  因みに、日本絵画協会は・・日本の美術家の団体でま
 ぎらわしいが・・、、
  1891年(明治24年)9月に、画塾間の交流を図り、日本
 画家の川端玉章が川辺御楯らに働きかけて、後進の育成
 を目的として日本青年絵画協会を設立した。
  そして、1891年10月に、岡倉覚三(天心)が会頭に就
 任した。
  また、岡倉天心を盟主とする日本青年絵画協会の創立
 により、同協会共進会の委員、審査員として活動し自ら
 も幾多の力作を発表した。
  1892年(明治25年)、第1回日本青年絵画協会主催、青
 年絵画共進会展開催。
  1893年(明治26年)第2回展、
  1894年(明治27年)第3回展、
  1895年(明治28年)第4回展と回数を重ねるに従って、
 岡倉秋水、本多天城、高屋肖哲、岡不崩といった狩野芳
 崖の門下生が影をひそめ、川端玉章による東京美術学校
 の自然主義的、写生派的な傾向が台頭してきた。
  1896年(明治29年)に、日本青年絵画協会は、日本絵
 画協会と改称した。
1889年6月1日、伊藤博文が著した「憲法義解(けんぽうぎげ)」
 が刊行した(明治憲法・皇室典範の逐条解説書)
  この年に発布された大日本帝国憲法、および、皇室典
 範の逐条解説書で、
  「大日本帝国憲法義解」と「皇室典範義解」の2部から
 成っている。
  両者を合わせたものが公刊以来「憲法義解」と呼ばれ
 ている。
  両法案が、枢密院に諮詢(しじゅん、参考として他の
 機関などに意見を問い求めること)された際、
  各条項ごとに、説明を付した原案理由書ともいうべき
 文書が配布された。
  井上毅が執筆し、伊藤が加除修正してできたものであ
 った。
  両法が制定されるや、この文書に対し伊藤が中心とな
 って、井上ほかの草案起草関係者に専門学者を加えた審
 査委員会がつくられ、綿密な共同審査を行って完成した
 のが本書だった。
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  (今日の言葉)
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  題:朝鮮・韓国・・そして、中国・・は・・
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1603年、江戸時代(徳川幕府)、朝鮮とは濃密に付き合っ
 ていた。
  朝鮮通信使は、徳川幕府のもとにやって来ていた。
  この時、必ず、この朝鮮通信使が持ち出す話が、「豊
 臣秀吉の朝鮮出兵」の話だった。
  そして、「謝罪せよ」と繰り返し幕府へせまった。
  いつの時代も・・そして、今・現在の韓国・朝鮮と同
 じである。
  その時、幕府の取った対応が・・「完全なる無視」だ
 った。
  とっくの昔に講和は終わっているのに、この様に話を
 持ち出すのが、この国の昔からのやり方だった。
  友好を結びたいから朝鮮通信使は送って来る、しかし、
 過去のことを蒸し返して・・『言ってみたい』だった。
  そして、なお、朝鮮通信使が謝罪を求めた場合は・・、
  徳川幕府は、朝鮮使節を、京都の東山の高台寺へ案内
 した。
  高台寺は、秀吉ゆかりの寺で、ここに秀吉の朝鮮出兵
 の時に戦いで、倒した朝鮮の兵士たちの耳を埋めた「耳
 塚」があった。
  これは日本だけの事ではなく、当時の世界的な慣行で
 あった。
  自分たちの戦いの戦果を示す方法だった。
  そのため、討ち取った兵士の耳をそいで持ち帰り、戦
 いの働きの証明にして(御褒美を戴き)、そして、塚に
 して・・供養していた。
  その耳塚を、朝鮮使節に見せて・・、
  「これ以上、問題を持ち出すな、また、新しい耳塚が
 出来る事になりますよ」・・
 ・・と・・暗に示して・・脅した。
  しかし、その後、延々と170年余りに渡って『謝罪』を
 求め続けたのだった・・。
  徳川幕府は、無視し続けた。
  しかし、だからと言って日朝間に戦争は一度も起こら
 なかった。
  今・現在、『最終決着ですよ』・・と、
  『無い事まで有ったようにして』・・一筆書かされ、
  10億円出した・・日本。
  金額の問題ではない。
  また、一筆という形、完全に前と同じパターンである。
  前も・・これで終りにしますからと言って・・やられ
 ていた。
  終りにするという朝鮮側の一筆は取りそこなった。
  そして、蒸し返された。
  こんなパターンを、繰り返す国なのだ。
  子供に、これで終わり、これで終わりと、ねだられて、
 与え続けるようなものなのだ。
  また、のど元過ぎた頃、話は蒸し返されるだろう。
  優しい国・・日本だから。
  いつも、なんだかんだと助けてきた・・日本だった。
  しかし、最近は、いやらしい手を使う。
  日朝問題に第三国へ言いふらす手を使う。
  あたかも・・「○○ちゃんが、△△したよ」と、クラ
 ス中に言いふらす様にだ。
  これは、逆に・・日本は、それを知ったら、一つ一つ
 丁寧に、話して・・事実を伝えに行くにかぎる。
  黙っていてはいけない、どこまでも、どこまでも、手
 抜きをせずに、事実を伝えて行かねばならない。
  黙っていては・・終りは来ない。
  逆に、日本への・・信頼は増すのだ。
  これが・・大事な仕事なのだ。
  これしかない。
  これをきっかけに、その第三国と、より緊密な関係が
 結ばれるのだ。
  もう謝罪して治まる国ではないという事は、歴史の上
 で、何度も何度も・・何度も何度も繰り返して来た、
  もうこの具の骨頂は繰り返さないにしよう・・、
  仮の謝罪だ何て絶対に思わないこと。
  日本が失うもの、日本国民が失うものが、絶大に大き
 すぎるのだ。
  「たかが10億円」などと思うな。
  毅然と自国の主張すべき所は主張し続けよ!
  このような基本は、絶対に崩さないこと!
  極端に言えば、この国の立場を崩せば国が無くなるく
 らいに思うこと!
  この事は、特に、特に・・安きに流れないこと!
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1905年、竹島は、この年以降、日本領となっている。
  1951年8月10日の「ラスク書簡」には以下の様に記され
 ている。
  アメリカ政府より、「竹島は韓国の領土として扱われ
 たことは無く、1905年以降、日本領である」とし拒絶さ
 れる(ラスク書簡)。
  以上の様に、「ラスク書簡」には、「竹島は韓国の領
 土として扱われたことはない」と明記されている。
  そして、「1905年以降、日本領である」と拒絶された。
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1906年6月、日本の領土である竹島で、日本の漁民が、漁協
 組合の設置申請をした。
  今・現在、竹島は、不本意ながら韓国に不法占拠され
 ている。
  この事を示す新資料が、また出て、裏付けられた。
  (産経新聞、2017年1月21日、08:48)が伝えている。
  「竹島」領有権に新資料 明治時代に隠岐の住民が漁
 業組合設置を計画 島根
  これを受け、県は、漁業組合設置に関する文書の存在
 を調査した。
  県公文書センターに「竹島貸下(かしさげ)海驢(あ
 しか)漁業」と題した竹島関連文書のつづりがあり、そ
 の中に、中井らが明治39年6月、県に提出した「竹島
 漁業組合設置認可申請」などの書類を確認した。
  当時、県は、この申請について国と協議し、国は、不
 許可とする意見を伝達した。
  県は、これを基に「住所を有しない竹島への出稼ぎ目
 的の出漁であり、漁業組合を設置すべきものではない」
 と漁業法に基づいて判断、不許可とした・・などの経緯
 が、残された文書で判明した。
  隠岐の島町は、町内の「久見竹島歴史館」で、これら
 の資料の展示を検討している。
  県竹島資料室は、「漁業組合設置の動きは、これまで
 ほとんど知られておらず、貴重な資料といえる。
  結果的に申請は却下されたとはいえ、県が竹島をめぐ
 って行政権を行使した証拠となっている。
  こうした事実を積み上げていきたい」としている。
  資料:中井養三郎氏らが島根県に提出した「竹島漁業
 組合設置認可申請」の書類。
  「竹島貸下海驢漁業」の綴りの中にあった(島根県提
 供)
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1919年、毛沢東が、この年の五・四運動前後にマルクス主
 義に触れた。
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1920年~1930年、この頃、金日成は、毛沢東の中国側に居
 たが、毛沢東の物質的な支援が、たいしてできないとい
 う理由で、
  1930年代の末ごろ、金日成は、ソ連が極東に設立した
 朝鮮人部隊に、ソ連軍の軍人として所属し、くら替えし
 た。
  ソ連は、1945年に、朝鮮半島における38度線の北側を
 占領した際、金日成を連れて行き、
  その後、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)となる政
 権の指導者として擁立した。
  金日成とスターリンのソ連は、直ちに、ソ連を模範と
 して北朝鮮社会を軍国化し始めた。
  この抑圧に、朝鮮戦争の始まるまでに、すでに100万人
 近い北朝鮮国民が、背負えるものだけ持って、やっとの
 思いで南へ逃げた。
  金日成は、最初は、分捕った日本軍の残していった武
 器で北朝鮮人民軍を武装した。
  そして、入手できる限りのソ連の武器で補強した。
  1950年の春には、ソ連が、北朝鮮に大量の武器を配給
 した。
  また、1949年末に、朝鮮半島から引き上げたソ連軍(
 12万人のイワン・チスチャコフ大将の軍)の武器のすべ
 てが、機材とともに、北朝鮮人民軍に引き渡された。
  そして、金日成は、南へ奇襲攻撃を始める。
  1950年6月25日までに、ソ連のスターリンは、T34戦車
 を150台~200台、長距離砲、戦闘機を北朝鮮人民軍へ与
 え、武装し終えていた。
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  題:中国の・・『 国際世論操作 』・・、
    本当に、深いところまで、中国の要員が存在している
.
1930年代、中国は、巧妙だった。
  中国は、アメリカの国民の方々を味方に付けなければ
 駄目だと、アメリカの国民の方々の世論を、中国の味方
 になる様な作戦をとった。
  それも、アメリカの文化人や、芸術家や、知識人を味
 方にするのが合理的だという作戦をとった。
  金を使った。
  そして、その作戦は、自国内でも行われた。
  味方に引き込む作戦が行われた。
  この理解者を獲得して行く作戦を「統一人民戦線」と
 言った。
  中国は、柔軟路線をとり、中国は柔軟だと印象付けた。
  中国も民主主義国家だと印象付けた。
  実態はどうであろうと・・。
  アメリカ世論を中国に引き入れ、中国・蒋介石政権と
 の戦いに勝利をおさめたいとして、結果、勝利をおさめ
 た。
  この様な中国の歴史は、連綿と今・現在も続いている。
  また、中国には「モグラ」という作戦がある(中国名
 は、「沈底魚」と呼ばれている)。
  それは、日本の頭の良いエリートを、日本の大切な部
 署・権力の中枢に送り込み、
  一定の期間、何の活動もさせず、工作もさせずに出世
 させる。
  やがて時が来ると、重大な秘密を流させる。
  日本の例ではないが、蒋介石の部下の胡宗南将軍は、
 22年間、「中国共産党特務」で、毛沢東へ情報を流し続
 けた。
  また、しばしば、中国・国民党軍が不利になる作戦の
 指揮をとり、中国・国民党軍を敗北へと導いた。
  1972年の田中首相の訪中以降、日本と中国共産政権と
 の「人材交流」という名目で、中国との人的交流が、大
 々的に行なわれているが、大いに危険という日本の知識
 人は指摘している。
  NHKが、ロシアの冬季オリンピック(2014年、ソチ
 オリンピック)の時、安倍首相が参列しているのに、ま
 ったく放映しなかった。
  (ちらっと、物の陰の首相が写ったという話はあるが、
 それにしても異常だった・・?)、
  その時のNHKの放送では、中国の首脳は、長時間、
 それも、あらゆる角度から写し、放映し、また、中国選
 手団が、その中国首脳へ手を振り、そして騒ぐ姿まで、
 丁寧に、長い時間、放映した。
  まったく、どこの国の放送局かと思えるほどだった。
  日本を蔑視するNHK、日本を蔑(さげす)むNHK
 だった。
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1934年10月15日、中国共産党、長征開始
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1935年1月13日、毛沢東の指導権確立
  延安への長征途上、指導権を確立した
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1937年7月29日、通州事件(つうしゅうじけん)が起きた。
  通州事件とは、1937年(昭和12年)7月29日に、中国陥
 落区の通州(現:北京市通州区)において、
  冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、日本軍の
 通州守備隊・通州特務機関、及び、日本人居留民を襲撃
 した事件で・・、
  通州守備隊は、包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅
 した、そして、
  猟奇的な殺害、処刑が行われた。
  通州虐殺事件とも言われている。
  通州は、北平(現:北京市)の東約30kmにあった通県
 (現:北京市通州区北部)の中心都市で、
  殷汝耕が、南京政府から離脱して設立した冀東防共自
 治政府が置かれていた。
  (別史料)
  1937年(昭和12年)7月29日に、中国の通州において、
 冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、日本軍部隊・
 特務機関、及び、日本人居留民を襲撃し、大量虐殺した
 事件。
  日本軍は壊滅し、日本人居留民の385名のうち223名が
 虐殺され、女性はほとんど強姦されて殺害され、殺害方
 法も猟奇的なものがおおかった。また、朝鮮人慰安婦も
 殺害されている(日本人が連れて来たのではない。この頃、
 朝鮮人が自国の娘を連れて来て、商売をするという行為が
 あちこちで行なわれていた)。
 韓国! 銅像を建ててあげなさい。
.
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1949年10月1日、中国・共産党政権樹立。
  中国大陸において国民党軍を破った中国共産党軍によ
 り、北京市にて中華人民共和国が建国された。
  人口は13億5千万人。
  台湾の領有も主張している。
.
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1949年~1950年初め、国際共産主義の頂点
  この頃に、国際共産主義の一枚岩体制が頂点に達した。
  主要な、共産主義指導者たちは、共産主義による世界
 制覇という野望に、唯一の目標を見い出していた。
  そして、サミットが開催され、
  今ある東アジアの枠組みが作り出された。
  そして、一連の決定がなされた。それは・・、
  1、金日成に、韓国侵略のゴーサインが出た。
  2、毛沢東に、チベット制服のゴーサインが出た。
  3、毛沢東に、台湾侵略のゴーサインが出た。
  4、ホー・チ・ミン体制の承認と、彼へのインドシナ征
   服のゴーサインが出た。
  5、駐留米軍に武力抵抗しない日本共産党への非難がな
   された。
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1950年1月、アメリカの国務長官のアチソンは、この日、声
 明した、「我々・アメリカは、朝鮮半島や台湾問題には
 干渉しない」・・と・・この言葉が、朝鮮戦争を起こさ
 せた・・この5ヶ月後に・・、
  朝鮮戦争が始まる1950年6月25日の約5ヶ月前だった。
  1972年に、アメリカのニクソン大統領が、中国訪問を
 した。
  ニクソンは、毛沢東と周恩来と話し合った時に、ニク
 ソンは質問をした、
  「朝鮮半島で我々がぶつかった理由は何だと思います
 か?」・・と。
  周恩来が答えた、「それは台湾です」・・と。
  そして、その理由を、周恩来は、「あの時、アメリカ
 は第七艦隊を派遣して、台湾を我々から切り離した」
  「我々は、それへの対抗策をとらなければならなかっ
 た」・・と。
  1950年6月25日、北朝鮮の金日成は、この日、38度線の
 休戦ラインを越えて韓国に侵攻したが、
  毛沢東の中国共産党政権は、この時、台湾へ武力侵攻
 する機会をうかがっていた。
  侵攻しようと思っていた時、アメリカが、突然、台湾
 海峡へ第七艦隊を送り込んだ。
  中国が、朝鮮での動乱を利用して渡ろうとしていたこ
 とが挫折した。
  そこで、中国共産党政権は、朝鮮半島へ介入した。
  戦争なんて、この様に・・簡単に、トップの思惑で始
 められてしまうもの。
.
.
1950年6月25日、日本との平和条約に、韓国は参加できない
 と、再度、決定された。
  この日に、朝鮮戦争が勃発し、アメリカ・イギリスも、
 この戦争に参戦する中・・、
  1951年(昭和26年)5月のアメリカ・イギリスの協議等
 において・・、
  第二次世界大戦において、韓国が日本側で、戦争をし
 ていなかったことを理由に、
  イギリスが、韓国の条約署名に反対した。
  イギリスの方針表明を受けて、アメリカも、大戦中に
 韓国臨時政府を承認したことがない(その様な政府が存
 在したのか?の状態)ことから・・方針はイギリスと同
 一とした。
  (これは、1949年(昭和24年)12月29日の条約草案で
 は、韓国が締結国のリストに一旦加えられたが、その締
 結国リストに入れないとされた)。
  この様なしつこい韓国の「嫌になるくらいの粘り強さ」
 は、学ばなければならない。
.
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  題:中国の諜報
.
1970年代、フランスのパリの中華レストランの5分の1は、
 中国大使館の情報ネットワークになっていた。
  イギリスの治安機関の見方も、中国系レストランの15
 %~20%は、中国政府とかかわりがあるとみている。
  早く言えば、中国政府のスパイの出先機関の役目を負
 っていた。
.
.
1970年、この年代初頭の話・・、
  中国共産党軍が、朝鮮戦争に参戦して、朝鮮戦争は、
 悲惨な戦争になった。
  数百万人が死んだ。
  しかし、この責任を、中国共産党に問うこと無く、国
 連(国際連合)は、中国共産党の北京政権に、常任理事
 国の座を与えた。
  この様な不合理が、何故、起きたのか?
  これもまた、アメリカの都合であった。
  1970年代初め、アメリカは、ソ連との冷戦を戦うにあ
 たって・・
  何としても、共産中国を、対ソ冷戦の同盟国として引
 き入れたいとしていた。
  そこで、共産中国の戦争責任を問わなかった。
  だから、この理屈の様に、この理屈通りの逆の場合の
 第二次世界大戦の場合は、日本の戦争責任を取らす事が、
 アメリカに都合がよかったのである。
  そうしたのは、過去のその時の場合に都合が良いだけ
 で・・
  だから、今・現在、その都合はなくなっているので、
 日本は、昔のその都合の論理を言われる「いわれ」はな
 いのである。
  だから、当然に、日本は、過去のアメリカの御都合の
 歴史観に捉(とら)われている必要はない。
  西洋の国際秩序観に付き合う必要はない。
  日本は、立派に戦争責任を果たした。
  そこで、今、何ら、戦争責任を追及されてないアメリ
 カがいて、アメリカは戦争責任を果たしてない逆の面が
 ある。
.
.
1970年代、この時になって中国は、急に、尖閣諸島に関す
 る領有権を主張し始めた。
  国連が、この地域に石油が埋蔵されていると発表した
 からだった。
.
.
1971年、中国・北京政権が、国連の常任理事国になった。
  中国・国民党(蒋介石)政権は、常任理事国の席から
 降ろされた。
  中国・北京政権は、朝鮮戦争で、国連軍と戦い、この
 国連軍と韓国人を数百万人も殺戮した。
  アメリカは、この様な中国・北京政権を、ソ連との冷
 戦を戦うにあたって、自分側に引き入れたいと、朝鮮戦
 争の戦争責任を、何ら問う事もしないで、最良のポスト
 (地位)を与えた。
  何でもアメリカの『さじ加減』で進んで行く世界だっ
 た。
.
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1974年、韓国と北朝鮮との間にある非武装地帯。
  ここで、韓国軍が、4本のトンネルを発見した。
  地下を通って韓国へ侵入するためのトンネルである。
  最初の発見が1974年。
  最後が1989年。
  少なくとも北朝鮮軍は、20本のトンネルを掘っている
 と推測されている。
.
.
1983年6月6日、中国の鄧小平が、初代国家中央軍事委員会
 主席になった(この時、国家主席は李先念)(~1990年
 3月19日)
  鄧小平が残した16文字というのがある。
  それは、「冷静観察、沈着対応、韜光養晦、決不当頭」
 である。
  以下の解説が見られる。
  「頭を低くし、こちらの能力を見せつけてはならない。
  外国との摩擦は極力避け、経済発展がある段階を越え
 るまでは隠忍自重せよ。
  矛盾は矛盾のまま放置し、将来の解決に備えるにとど
 めよ。
  自らの力を付けることに、何よりの関心を集中せよ」。
  この意味するのは「中国は表と裏、二つの顔を持て」
 ということ。
  これは、中国の伝統論理で、最も優れた指導者の資質
 とされてきた。
  「中国は、いずれ、がらりと態度を変える」・・とあ
 る。それが・・今。
.
.
1998年、金大中・韓国大統領が訪日した。
  金大中氏は、「もう歴史問題は持ち出しません」と約
 束した。
  しかし、いつもの韓国の道徳レベルの低さを露呈した。
  その後、韓国の国のトップが、この様に約束したって、
 どこ吹く風として、言いたい放題だった。
  国家の成熟度が問われる大切なポイントなのに、その
 様なものは必要ありません、いりませんの態度だった。
  約束なんてどうでもいいの国家だった。
  繰り返すのである。
.
.
  題:中国の岐路であって、中国方針決定となった事件・・
   そして、時を得て・・今、中国へなびく国が連なる・・
   中国と北朝鮮は蜜月だ・・、
.
2001年4月、中国の海南島付近で、アメリカの偵察機が、中
 国の戦闘機と衝突した。
  今日(こんにち)、分かっている事であるが、この時、
 アメリカと中国は、「一触即発の状態」にあった。
  そして、その後、中国は、アメリカと対抗できる力を
 付けるまで、少しでも時間を稼ぐ戦略となった。
  中国と北朝鮮、この二つの共産主義国同士の繋(つな)
 がりは強い。
  ロシアの北朝鮮の影響力は・・ない。
  1990年に、ソ連が、韓国と国交正常化をして以来、こ
 の時の北朝鮮の金日成は、ソ連との関係を「切断」する
 ほどの強い否定的態度をとった。
  その態度は、変わらず続いて、北朝鮮は、完全に中国
 に取り込まれてしまった。
  今、2016年10月にも、フィリピンが、中国の投資・
 金を呼び込むために、中国に取り入れられてしまった。
  しかし、『人民元下落』が長期的視野の中にある現在、
 この問題と共に・・中国は、経済から破綻して行くと言
 われている。
  ここの革命がなければ、『救われない社会』と言われ
 てる。
  そこが、できるか? 否か? が・・大きな岐路とな
 っている。
  プーチン時代になって、改善を図ろうとの動きの中で、
 北朝鮮の金正日が、モスクワへ行く・・その時・・、
  必ず、金正日は列車を使った。
  金日成には、父親譲りの「暗殺への恐怖」があるから
 で、表面的には「飛行機嫌い」とされている。
  金正日が、延々と、シベリア横断鉄道に乗って、そし
 て、列車を乗り継いで、モスクワ参りをした。
  これは、中国に対し、「中国べったりではないよ」と、
 中国をけん制したい気持ちからの行動だった。
  また一方、これは、「列車にする」という不信感が、
 ロシアに対してあることを示している、暗殺されたくな
 いという。
  また、この様な行動で、中国を引き付けるという『中
 国への重要度の高さ』を示している。
  しかし、今・2016年、北朝鮮からの高級幹部のエリー
 ト層の脱北が続いている。
  (読売新聞、2016・10・13)には、「北朝鮮・秘密警
 察幹部が、韓国亡命」とある。
  北朝鮮の秘密警察・国家安全保衛部の局長級幹部が、
 韓国に亡命していたことが分かったと報じている。
  脱北や反体制的活動を監視し、強い権力を持つ国家安
 全保衛部の幹部の亡命は、「異例中の異例」と報じてい
 る。
  今、恐怖政治を進める金正恩(きんじょんうん)・・、
  ロシアの建設現場で働いていた北朝鮮労働者10人が逃
 げ出し、サンクトペテルブルク(ロシア西部のレニング
 ラード州の州都)の韓国総領事館に逃げ込んだ。
  中国レストランの従業員が集団脱北した話もある。
  在イギリス大使館のナンバー2が亡命もあった(8月)。
  中国・北京の北朝鮮代表部の保険省幹部の亡命(10月)。
  今、北朝鮮は、恐怖と粛正で荒れている。
.
.
2002年5月、中国にある日本の瀋陽(しんよう)領事館事件。
  日本の領事館の中は、日本の国内と同じで、中国は、
 侵す事が出来ない、侵犯できない、尊重しなければなら
 ない。
  しかし、しかし、まったく恥ずかしい事件が起きた。
  まったく、日本が馬鹿にされた事件が起きた。
  中国の国家権力の侵犯があった。
  日本の領土侵犯と同じ行為が起きたのだった。
  しかも、この対応が最悪だった。
  当然、この時点で、日本政府は、中国政府へ『厳重抗
 議をするべき』だった。
  しかし、この領事館の敷地内に無断で侵入してきた武
 装警察官に対して、日本の外交官は、何ら抗議も何もし
 なかった。
  逆に、この武装警察官が落した帽子を拾い、「ご苦労
 様でした」と言わんばかりにして、渡してやったのだっ
 た。
  お粗末な外交官である。
  この日本の外交官は、恥ずかしい事に、この領事館の
 副領事だったという・・トップだったからさらに情けな
 い。
  筋を通すことのできない、また、日本を貶(おとし)
 める外交官だった。
  これは、日本の外交姿勢を表わす典型的事例であり、
 これは例外ではない。
  日本の外交は、こんな形で行われている。
  こんな姿勢で行なわれている。
  中国から完全に馬鹿にされている。
  結局、この時、この日本の総領事館に助けを求め、駆
 け込んだ北朝鮮からのこの家族(脱北家族)は、中国政
 府に捕らわれ、連れ去られてしまった。
  安全地帯の日本の総領事館内に逃げ込むことに成功し
 ていたのにである。
  何が原因で、この様な哀れな日本の状態になっている
 のか?
  とことん国と国の状態を突き詰めて行ったとき、中国
 は、何ら、日本を恐れるに足る国ではないと見ているか
 らである。
  「仁」や「徳」を説いた国ではないのである。
  それは、すでに消え去っている国なのである。
  「パワー・オブ・バランス」である。
  これが崩れているのである。
  明確な国際条約(領事関係に関するウィーン条約)違
 反であるが、中国は謝罪しようともしない。
  こんな日中関係なのである。
  互いに尊重するなどという状態にない。
  こんな様な状態なので、可哀想に・・、日本の外交官
 の自殺事件(上海)が起きるのである。
  国際法に則(のっと)り謝罪を求めなくてはならない
 時は、毅然と謝罪を求めなくてはならない。
  謝罪を求めたのか、求めもしなかったのか?・・とい
 うみじめな判然としない、判別できないような『謝罪の
 求め方』では、馬鹿にされはすれ、何の益も無い、
  惨(みじ)めになるだけである。
  この様な日本の姿を「他の国も見ている」のである。
  この様な時に毅然とした日本の態度がなされることに、
 「日本外交の基底」があり、醸成されるのだ。
  大切な所なのだ・・おろそかにできないのだ。
  ここが「貧ずれば、鈍し」、豊かな日本外交が築ける
 はずがない。
  最重要なポイントなのだ。
  この最重要ポイントが、日本は『ないがしろにされて
 いる』。
.
.
  題:日本国内に1000人の活動家がいると・・中国外交官が・・、
.
2005年、中国の外交官が亡命した。
  これが、ただの亡命なら何も問題なかったが、
  この中国の外交官は、「日本の国内には、1000人をは
 るかに超える中国のスパイがいて、盛んに活動している」
 と言った。
  2005年、この中国外交官は、オーストラリアのシドニ
 ー総領事館にいた一等書記官で、オーストラリアに亡命
 した。
  また、彼は、中国国内で、中国の民主化の活動をした
 活動家が、身の安全が危うくなり、海外へ逃れても、中
 国は、その活動家を拉致して、中国・本国へ連れ帰る事
 もしていると暴露した。
  約100年前、ロンドンにいた孫文が、当時の中国清朝政
 府に拉致され。
  北京に連れ戻されそうになったが、その血が、今だに
 中国共産党政権にも流れている。
.
.
  題:丸腰で・・一人立つ・・、
.
2005年5月11日、北朝鮮が、寧辺(ニョンビョン)の実験用
 黒鉛減速炉から、『使用済み核燃料棒8000本を取り出し
 た』と宣言し、
  この事によって、東アジア情勢が一気に緊迫の度を増
 した。
  そして、不安視していた道へ進んで行く、
  これが始まりだった。
  六か国協議(2003年8月が第1回~、だが、2007年3月の
 第6回以降開かれず)をやったが、何ら事は解決しなかっ
 た。
  この「北朝鮮の核保持への道」は、北朝鮮を代理とし
 て、中国が進めて来た事だった。
  これは、時を経て、最終的に核を手に入れ・・、
  ロケット技術も手に入れて・・行く。
  その向かう先は「アメリカと日本」だった。
  この技術は、北朝鮮だけでは出来なかった。
  寧辺の原子炉は旧ソ連が造った。
  そして、中国が引き継いだ。
  1970年代末の中国の鄧小平時代以降、旧ソ連に変わっ
 て北朝鮮の核開発を積極的に支援した。
  1990年代以降も、中国は核開発を促してきた。
  アメリカのペンタゴン(米国国防省)の情報部門出身
 で連邦議会上院外交委員会の首席顧問も務め、中国の軍
 事・情報問題分析に定評のあるウィリアム・トリプレッ
 ト氏の本「悪の連鎖、北朝鮮と中国の無法」に示されて
 いる。
  中国は、北朝鮮の動きを完全に掌握している。
  それを、水面下のものとして・・隠した。
  中国は、北朝鮮に大きな影響力を保持している。
  そして、ミサイル開発にも多かれ少なかれ関与して来
 た。
  中国は、秘かに、北朝鮮に手を貸してきた。
  「北は、中国が、アメリカと日本に突き付けた刃(や
 いば)」だと・・トリプレット氏は言った。
  そして、やはり一番は、核のない北朝鮮の国としての
 存続に対する懸念があった。
  核のない北朝鮮に、非常な危うさを感じたのである。
  そこから、国の興廃(こうはい、盛んになるか、衰え
 るか)に大きく関係する核の保持を求め、持たざるを得
 ないという考え・意識に至ったのだった。
  日本も立場は同じ・・、
  丸腰で、周りが銃を持っている者ばかりの中に立って
 いる様なもの・・。
.
.
2014年2月7日、ソチ・オリンピック
  ロシアのソチで、第22回冬季オリンピックが開幕した
 (~2014年2月23日)
  日本のマスコミは、何故か?中国の諜報活動や情報活
 動に触れる事に遠慮している。
  NHKなどは、NHKの局内に、中国のための部屋を
 与えていると言う、特別待遇をしている。
  ソチオリンピックでは、安倍首相が出席されて居るの
 に、「放送したのか?」と疑われるくらいの軽い軽い扱
 いなのに、
  中国首脳の場合は、超アップで、大変な長時間、また、
 中国選手が『エールを送る姿』まで、しっかり日本の放
 送局NHKは放送した。
  まったく逆転している放送局=NHKである。
  まだまだおかしいNHKである??
  そして、何と、この様な事をしろと、日本の外務省の
 動きがあるという?
  日本の官僚からして腐っている。
  自分の仕事を楽にするため「日本を売っている」。
  日本の外務省は、この他でも日本を売っている、曲者
 (くせもの)である。
  是非、日本のために働く、苦労する、安易な日本を売
 る様な事をしない外務省になってもらいたい。
  競う、そして戦う、外務省になってもらいたい。
.
.
2015年4月2日、日本のマスコミが、この頃に、「日本は孤
 立している」というプロパガンダを執拗にした。
  日本のマスコミは、非常に中国寄りになっている。
  特に、朝日新聞が、この頃に、中国のアジアインフラ
 投資銀行(AIIB)に日本を参加させようと、この論
 調のプロパガンダを盛んにした。
  そして、特に、朝日新聞は、「日本はアジアで孤立し
 てはいけない」と歴史問題などで中国や韓国への迎合や
 譲歩を説いた。
  この様な論理展開する朝日新聞の思考レベルの低さを
 感じる。
  例えば、「日本はアジアで孤立してはいけない、だか
 ら、朝日新聞の論調は、日本のアジアでの孤立を助長す
 るから、今後、朝日新聞の論調のすべてを、今までの論
 調の反対を主張すべきだ」・・という言い方も、成立す
 るのだ。
  朝日新聞というのは、その朝日の言い方は、前段の論
 理を、誰でも分かる、正しい事を言う、しかし、その後
 の後段で、自分の言いたい論調を無理にくっつけるとい
 う言い方なのである。
  うっかりしていると朝日新聞の言い方に引っ掛かって
 しまう。
  極端な言い方にすれば、「砂糖は甘い、だから、塩も
 甘いのである」的な言い方なのである。
  こんな言い方は何でも、いくらでもできる。
  「自動車事故は怖い、だから、安倍政権は怖いのであ
 る」など。
  この様にはっきりしていれば、「おかしい」と、すぐ
 に分かるが、微妙な事項と組み合わせて、この様な言い
 方の記事を書かれると引っ掛かるのである。
  この様な記事を書く朝日新聞なのである。
  「アジアで孤立する」ような状況は、誰もが良くない
 と容易に判断できる。
  しかし、日本の立場を説明もしないで、迎合や譲歩を
 良しとする、その様な論理を説く朝日新聞は間違いであ
 る。
  「正しい意見を、考え方を、丁寧に分かりやすく説き
 なさい」というべきなのだ。
  朝日新聞こそ、いつも、偏頗(へんぱ、かたよってい
 て不公平なこと)なものの言い方・論調は止めて、他の
 正論に耳を傾け、迎合・譲歩をしなさい。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2017-02-02 07:11 | 皆様とともに 幸せになりたい


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