(増補版)482E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年3月~1889年3月)

題:(増補版)482E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年3月~1889年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1889年3月14日、電信電話線私設条規(明治22年逓信省令
 第004号)が公布された。
  信書の秘密保護を訓諭(逓信省)
1889年3月14日、国税徴収法(こくぜいちょうしゅうほう、
 法律第 9 号国税徴収法)が公布された。
  旧国税徴収法(1897公布)は、1889年に制定された国税
 徴収法と国税滞納処分法とを統合したもの。
  この1889年(明治22年)の新たな国税徴収法・国税滞
 納処分法が制定されたが、
  これは、この年の明治憲法成立、同じく、この年の市
 制・町村制成立とも関連する。
  明治22税徴は、国税徴収に関する市町村の役割を明ら
 かにして、また、国税と一般債権との関係について、納
 税人が一般債権の負債により身代限りの処分を受けた時
 は、徴税令書を発している場合には納期に至らなくとも
 「他の債主に先立ち』税金を徴収すること(第14条)
  及び、その場合に、税金の納期限よりも1箇年前に「質
 入書入」をなしたものがあるときは、物件の売却代金を
 質入書入付き債権に充当してから税金を徴収すること(
 第15条)を既定した。
  さらに、租税の時効についても定めた。
  (獨協大学、小柳春一郎教授の論文などを参考にした)
1889年3月15日、大日本紡績同業連合会が、対罷工規約を制
 定した。
  大阪紡績を始めとする紡績会社の創業が進められるな
 かで、旧来の紡績聯合会も、1888年6月に改組されて、
 「大日本紡績同業聯合会」と改称した。
  その新しい規約第7条には・・、
  「罷工ヲナス等ノ場合」は、「速ニ其職工ノ姓名ヲ同
 盟中ニ通知」し、雇傭停止措置をとることとした。
  大阪天満紡績のストライキに先立つこと6ヵ月であるが、
 この規約は、当時、大阪紡績のストライキ対策に効果が
 あったという。
  (参考)ストライキとは、労働者による争議行為の一
 種で、労働法の争議権の行使として雇用側(使用者)の
 行動などに反対して被雇用側(労働者、あるいは労働組
 合)が労働を行わないで抗議することで、
  日本語では「同盟罷業」(どうめいひぎょう)、ある
 いは、「同盟罷工」と呼ばれ、一般には「スト」と略さ
 れる。
1889年3月16日、薬品営業・薬品取扱規則が公布された。
  薬品営業並薬品取扱規則(やくひんえいぎょうならび
 やくひんとりあつかいきそく、明治22年3月16日法律第10
 号)は、薬品の取り締まりや医薬品販売業に関する日本
 最初の法律で、
  1889年(明治22年)3月16日に公布、1890年3月1日から
 施行された。
  一般には「薬律」と呼ばれていた。
  人間の生活と医薬品は、極めて密接な関係があるので、
 医薬に関する法制(普通これを薬制と言う)も、相当、
 昔からあった。
  現在の薬事法の淵源は、この薬律、更に、それ以前の
 1874年(明治7年)の「医制」にまでさかのぼることが
 できる。
1889年3月22日、後藤象二郎が、逓信大臣に就任し、大同団
 結運動に亀裂が生じる。
  板垣退助らとともに愛国公党を組織し、民撰議院設立
 建白書の提出に参画し、のち、1887年(明治20年)反政
 府の大同団結運動を提唱し、巻き起こしていた。
  そして、機関誌「政論」を刊行するなどしたが
  1889年(明治22年)のこの年、黒田清隆首相に誘われ、
 政府に協力して、逓信相、農商務相などに就任して行く。
  若い時は、土佐藩士で馬廻(うままわり)格。
  義叔父の吉田東洋の推挙で登用されたが、東洋暗殺後
 は逆境にあり、
  藩論一変後の1864年(元治1年)に大監察となり、
  藩主・山内豊信(とよしげ)(容堂)の信任をえて、土
 佐勤王党を断罪、
  1866年(慶応2年)には、参政として開成館事業を運営し、
 長崎、上海に赴くなどして藩の「富国強兵」につとめた。
  坂本竜馬と相知り、幕府の第2次征長失敗後、
  竜馬の大政奉還策を将軍徳川慶喜によって現実化する
 ことにつとめた。
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  (今日の言葉)
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  題:引っ掛け話・・日本が引っ掛かってしまう話・・
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1915年1月18日、二十一カ条の要求
  日本は、第一次世界大戦に連合国側として参戦し、
  そして、ドイツと戦い、
  日本は、この戦争の勃発の翌年の1915年1月18日に、
  第一次世界大戦で戦う相手国・ドイツの「中国におけ
 るドイツの権益」を中国へ還付(かんぷ、返すこと)し、
  そして、日本への継承を中国(中華民国)に要求した。
  また、これは、満蒙の権益問題や、そこにいる日本人
 の保護についても話し合われ、決着した。
  日本の大隈重信内閣は、中国の袁世凱政府に二十一カ
 条の要求を示した(五項と二十一条からなる)
  なお、この要求は、第一次世界大戦の終結後の1919年
 6月28日に開かれたベルサイユ条約において、連合国(ア
 メリカ、イギリス、フランス、イタリア、ベルギー・・
 など)に認められた(ここが大事)。
  第一項:「山東省に関する件」日本のドイツ権益を継
 承を認めることと、
  芝罘(煙台)と膠済鉄道(青島~済南)をつなぐ新鉄
 道の敷設権を要求。(全4条)
  第二項:「南満州および東部内蒙古(内モンゴル)に
 関するする件」(全七ヵ条)
  その主なものは・・、
  (1)旅順・大連の租借期限を99ヶ年延長すること
  (2)日本人の土地租借権と土地所有権を認めること
  (3)日本人の居住と営業の自由
  (4)鉱山採掘権の承認
  (5)政治、財政、軍事についての顧問を求める場合は
 まず日本政府と協議すること
  (参考)この頃の状況を伝える史料・・、
  1)孫文は、「二十一カ条の要求は、袁世凱(えんせい
 がい)自身によって起草され、要求された策略であり、
 皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払
 った代償である」と述べている。
  因みに、孫文は、辛亥革命のとき、日本に資金援助と
 武器の援助を要求しており、
  そのかわり「満州をやる」と提案している。
  2)この頃、支那は、辛亥革命(1911年)によって、
 共和国が誕生していたが、非常に不安定な政権で、混乱
 が続いていて、大総統の袁世凱は「皇帝」になりたかっ
 た。
  3)アメリカ公使ポール・ラインシュの国務省への報告
 書には、「支那側は、譲歩すると約束したよりも要求が
 はるかに少なかったので、最後通牒の寛大さに驚いた」
 とある。
  4)中国は、策謀が錯綜(さくそう)する国で、
  また、権謀術数(けんぼうじゅっすう、人を欺くため
 のはかりごと。種々の計略)の国で、
  日本が、要求をのませたと言われているが・・、
  実際は、この逆であることが明らかになっている。
  日本が要求したとなっているが・・、
  当時の袁世凱・中華民国大総統が、「国民に理解させ
 るために、この様な形で出してもらいたい」と言ってい
 た。
  日本側が、積極的に出したものではなかった。
  袁世凱から、日本側へ頼んでいるのだった。
  しかし、策謀の国・中国の裏の目的は、「中国の引っ
 掛け外交」だった。
  これは、当時の外務大臣の加藤高明の自伝に記述され
 ている。
  また、東郷茂徳外相が、巣鴨プリズンで書いた回顧録
 にも記されている。
  そこには、「日本の武力行使だと見せかけたい」とい
 う中国があった。
  また、日本が、不当な要求を、武力で脅して押して来
 たと、世界に見せたかった、公表したかった。
  事実、国際社会での日本の立場は、中国の思惑通りに、
 急に悪くなった。
  日本は悪者にされた。
  そして、このことから、中国は、次に、成立した条約
 も無効だと言い掛かりを付けた。
  正当に話し合って、国と国が結んだ条約であっても、
 簡単に反故(ほご、無駄に捨てる)にできるの戦略だっ
 た。
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  そして・・、
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  (関連)「田中上奏文」:
  日本が、引っ掛かった事件。
  2005年、日本が引っ掛けられていたという事件の無実
 が明らかになった。
  2005年の春、モスクワのロシアのテレビやラジオ放送
 が、「田中上奏文は、ソ連KGBの前身のОGPUが偽
 造したものだ」と放送した。
  80年ぶりに日本の「濡れ衣」が、剥がされた。
  卑怯な事に、東京裁判のアメリカなどは、その事を知
 っていた。
  それで、「田中上奏文は、証拠にも取り上げなかった」。
  日本への有利な「この偽造証拠」は隠された。
  この当時の日本の痛手は甚大だった。
  この事も世界へプロパガンダ(嘘宣伝)されて、世界
 が日本への敵意を強くした。
  ルーズベルトも「日本への敵意を強くした」と言って
 いる。
  日本は、今・現代でも、この様な卑劣なプロパガンダ
 (嘘宣伝)する中国や韓国に対し、必要な資金をしっか
 り使って反駁すべきだ。
  正しい事を、正義を、しっかり世界へ伝え、主張して
 行かねばならない。
  また、今でも、このはっきりした捏造された嘘話を、
 中国は、教科書や辞典などに「事実だ」と記載している。
  嘘教育をしている。
  盧溝橋事件も、中国共産党軍が起こした謀略だったこ
 とが明らかになっている。
  こんな事ばかりだ。
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  そして・・、
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1929年~1930年、中国と満州で、日本人叩(たた)きが、
 最高潮に達した。
  中国をアメリカは支援し、「金と武器を、無尽蔵に流
 入させていた」。
  だから、中国は強気だった。
  そして、何故か?この頃、アメリカでも、日本を排除
 する風潮が盛んだった。
  ここに共通するアメリカは、世界も繰っていた。
  中国の日本人たちのそれまでの努力は、無に帰されて
 いた。
  露骨な「日本の追い落とし行為」が行われていた。
  長く続く、アメリカと同じ様な「排日行為」だった。
  日本人たちは、日本総領事館へ訴えるが、まったく無
 駄だった。
  アメリカに繰られた中国は、その様な行動を変えるつ
 もりは無かった。
  満州には、20万人の日本人と、80万人の朝鮮の方々が
 居た。
  この時は、朝鮮は、日本との併合関係にあって、一体
 で満州を開拓しようと努力していた。
  その朝鮮の方々へも危害を加えて来た。
  1931年6月~7月には、中国を正式なピザを持って旅行
 中の日本軍人が、中国軍に捕まり、秘密裏に殺害された。
  これを知って、日本国内で世論は沸き立った。
  アメリカの仕掛けに、中国も、日本も、はまって行っ
 た。
  中国は、日本からの調査依頼を無視した。
  逆に、「日本のデッチアゲだ」と反駁した。
  何か?この後の時代にも、この様な中国の対応があっ
 た。
  中国は、いつもこんな風だ。
  1931年7月には、朝鮮の農民の方々(200名)が、中国
 人に虐殺され、迫害された(万宝山事件)。
  日本の本国政府は、それなりに努力しているが、中国
 の誠意は見られなかった。
  また、日本政府も国際協調・日中(支那)友好を大切
 として、実行の上がらない、空転が続いていた。
  現地の満州は、切羽詰まっていた。
  実効ある対応が、切実に必要な状態にあった。
  陰にアメリカが居る中国は、強気で、止(とど)まる
 ことを知らなかった。
  事が大きくなることを狙った行動が続いていた。
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  そして・・、
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1930年代、アメリカは、ソ連のスパイ網が、アメリカの政
 府中枢に張り巡らされて居るという情報を掴んだ。
  それで、アメリカは、アメリカ国内のソ連高官とモス
 クワとの秘密電信を解読する作戦を始めた。
  第二次世界大戦前の日本も、アメリカに傍受されてい
 て、完全に暗号は解読されていて、
  日本が困っていることなど・・すべての状況を手の内
 にして、日本の戦争へ至る道を繰っていた。
  また、ハワイへ向かう日本の連合艦隊の通信なども完
 全に傍受し、
  ハワイへ迫る艦隊の位置情報も知っていた。
  『奇襲攻撃』なんて、アメリカ・ルーズベルトの作り
 ごと。
  アメリカは、国内のソ連高官とモスクワとの秘密電信
 を解読する作戦を始めたが、
  この作戦は、アメリカ陸海軍情報部の通信傍受部隊に
 よってひそかに進められた。
  1943年、また、この年の後半は、特に、盛んとなって
 行った。
  この長い期間に、アメリカ政府内に、何と200人近いソ
 連側への情報提供者が居た。
  そして、政府中枢部のスパイが浮かび上がった。
  (今・現在も、アメリカは、盛んに日本を含む世界中
 に、傍受作業を行なっている、当然に・・、)
  ソ連は、信じられない様なスパイ網をアメリカに作り
 上げていた。
  第二次世界大戦の終了間際は、その頂点に達していた。
  (今・現在も、中国は行なっていて、アメリカの次期
 大統領のトランプは、中国を含むロビーイスト達などを
 含む情報員を、排除する考えを明らかにしている。
  また、日本にも、中国の組織員が多く潜入している事
 が知られている)。
  アメリカは、ソ連のスパイであったアメリカ政府高官
 の名前もつかんだ。
  (日本の今・現在の官僚にも、多く中国と連絡をとり、
 情報提供する官僚が多くいる)。
  大統領補佐官の「ロークリン・カリー」、財務省次官
 の「ホワイト」までがスパイだった。
  (日本も、今・現在、『国防の話』が安心して開けな
 い状態となっている)。
  この組織は、戦後、5年を経て崩壊した・・と言われて
 いる?
  スパイ網の解明に重要な役割を果たしたのが『KGB
 電信』だった。
  (参考)KGB:ソ連国家保安委員会(それんこっか
     ほあんいいんかい、略称:КГБ(カーゲーベ
    ー)は、1954年からソ連崩壊(1991年)まで存在
    したソビエト社会主義共和国連邦の情報機関・秘
    密警察。
     軍の監視や国境警備も担当していた。
     東西冷戦時代にはアメリカの中央情報局(CIA)
    と一、二を争う組織と言われていたが、ソ連崩壊
    と同時にロシア連邦保安庁(FSB)に権限を移行し
    た。
     日本での略称は КГБ を翻字した KGBが使わ
    れる。
  このホワイトからの政府高官のスパイへ、アメリカ政
 府内の200人近い者たちが、アメリカの情報を提供する
 『情報提供者』となっていた。
  アメリカの情報が、秘密情報が、大量に流れ出ていた。
  しかし、これでも、アメリカが、秘密流出のスパイ行
 為の裏付けとして解読に成功したのは2900通で、交信全
 体の数パーセントに過ぎず、
  判明した部分は、ほんの僅かとなっている。
  ソ連スパイだったアメリカ政府内にいた不明な高官
 「X」は、1943年5月、ワシントンでの、ルーズベルトと
 チャーチルの米英首脳会議にも加わっていて、
  この両首脳と意見を交換するほどの高官だった。
  アメリカ政府高官のハリー・ホワイトのスパイ発覚が
 明らかになって、急速に、すべての状況が明らかになっ
 て行った。
  アメリカでは、この衝撃が、アメリカを1850年代、極
 端な反共運動(マッカーシズム)へと突き動かした。
  そして、ルーズベルトの半世紀の後までも、まだ、ソ
 連スパイ網が出来ていた。
  (今・現在も、日本において、中国工作員が多くいる
 と判断されるリトマス試験紙が、
  今・現在、こんなに、中国経済がシッチャカメッチャ
 カで、中国崩壊の可能性が大きい時に、同じ言葉で、口
 裏を合わせて、同じ様な論理で、「平気だ、平気だ」と
 同じ様に言う者たち・・)
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  そして・・、
.
1930年、アメリカ合衆国に「黒シャツ隊」が結成された。
  世界大恐慌の真っ最中のアメリカ社会で、仕事のない
 社会だった。
  この「黒シャツ隊」は、「白人が仕事を得るまでは、
 すべての黒人の職を奪うのだ」という行動目標が掲げら
 れていた。
  また、この頃、黒人の方々は、白人たちから「リンチ」
 を受けていた。
  死者が出るという激しいものだった。
  ルーズベルトは、この様な時、1933年に、アメリカ大
 統領に就任した。
  黒人の方々は、黒人の方々の人権を守るために、「全
 米黒人地位向上協会(NAABC)」を結成した。
  そして、1938年、リンチを取り締まる「連邦法」の成
 立を求めて行動した。
  しかし、ルーズベルトは無視した。
  ルーズベルト政権の支援も得られず、廃案とされた。
  リンカーンが「奴隷解放した」と言うが、リンカーン
 には奴隷解放の意思はなく、
  社会の流れが、長い黒人の方々の虐げの終わりを、さ
 すが、続けていられないという反省・反動の中で、終わ
 る流れの中にあっただけで・・、
  その自由になった黒人の方々を、アメリカは、どうし
 ようと・・そして・・、
  そして、「リベリア」というアフリカの土地を取得し、
  そのアフリカの地を独立させ、自由黒人の方々を棄民
 しようとした。
  そして実行した。
  リンカーンも賛成していた、この政策を推し進めた。
  この様な社会のアメリカのその後も、この1863年のリ
 ンカーンの奴隷解放宣言の後も、黒人の方々は虐げ続け
 ていた。
  何ら立場は改善されずに居た。
  最下層の仕事にしかつけず、与えられずにいた。
  ルーズベルト大統領の世界不況の時は、さらに、黒人
 の方々は虐げられた。
  この頃の黒人の方々の失業率は、5割以上、5割を超え
 た。
  白人優先だった。
  黒人の方々への差別は激化していた。
  そして、アメリカ社会は、黒人の方々の「職を奪う」
 風潮が荒れ狂った。
.
  そして・・、
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  題:グローバル・スタンダードに合わせるという事で
   戦争への坂を下りて行った・・、
    国際協調一点張りでは無理・・、
.
1931年9月18日、満鉄線爆破事件が起きた。
  この事件が・・満州事変の引き金を引いたとされるが・・、
  国際法で、国家間の懸案を解決をするため「保障占領」
 が認められていて合法だった。
  この事件が起きる直前に、「中国側が、今後も、日本
 側の抗議に応じないなら、奉天の町を軍事占領(保障占
 領)する」と検討されていた。
  それが、日本の総領事館で検討されるほど、中国の行
 動は過激だった。
  また、この事件に至る悲劇だったのは、また、この事
 件の遠因となったのは、日本の経済的不安定を生み出し
 たウォール街を発信源とする世界恐慌だった。
  そして、日本の経済的不安定を生みだした「このウォ
 ール街を原因とする恐慌」に対する索=「金解禁」の政
 策だった。
  浜口雄幸を首相とする浜口内閣の大蔵大臣の井上準之
 助は、「グローバル・スタンダード」に合わせるという
 考え方だった。
  (今・現在も「グローバリズムが良いのだ」というア
 メリカを発信源とする花が咲いているが?)、
  そこで、この井上準之助・大蔵大臣は、前記の様に、
 世界がウォール街を震源とする「株の大暴落の大嵐の中」、
  また、金本位制が、世界で崩れつつあるという中、
  井上大蔵大臣は、グローバルだと、それが良いのだと
 の理想を掲げて、その理想のなせる罪=金解禁を行なっ
 た。
  その結果、日本経済は「めちゃめちゃ」になった。
  奈落のどん底へ突き落とされた。
  やってはいけない、下劣なるグローバル協調路線を突
 き進んでしまっていた。
  日本は、必死に国際協調しよう、しなければとしてい
 たが、日本を潰(つぶ)したいというアメリカの思惑は
 変わらなかった。
  そして、この後、悲劇の「リットン報告書」が出て来
 る。
  グローバル主義には、「日本の伝統の否定」があり、
  また、「日本の文化の否定」があり、
  「日本の天皇制の否定」があった。
  また、この事について、コミンテルンも同調していた。
  そして、国内に同調する大学の教授陣が居り、
  また、取り込まれた官僚と、その上の高級官僚、
  そして、外務省官僚が居て(今・現在と非常に似てい
 た)、
  戦争への坂を、アメリカの頑(かたく)なな方針と共
 に降りて行った。
  「抵抗するものは排除」としながら戦争への坂を降り
 て行った。
  さも、「異教徒は殺せの排除思想」の行動だった。
  (参考)保障占領:ほしょうせんりょう、条約上の一
    定条件の履行を、相手国に間接に強制するために、
    相手国領域の一部 (ときには全部) を占領するこ
    と。
     講和条約が発効し、交戦国間に平時関係が成立
    したのちも、条約上の義務、たとえば、賠償支払
    義務、その他の条約実施を確保するために行われ
    る。
.
  そして・・、
.
1931年9月、フーバー大統領の政権に居た国務長官のスティ
 ムソンは、フーバー大統領へ二つの案を提示した。
  「経済制裁を行なって、日本を圧迫する」という案と、
 「国際世論を喚起して、警告する案」・・だった。
  スティムソンは、フーバー大統領へ、前者の「強行策
 の経済制裁」を勧めるのだった。
  しかし、フーバー大統領は、冷静に、次のように言っ
 た。
  「いかなる国も経済を破壊され、国が飢える様な制裁
 に、素直に応じるとは思えない」、
  「制裁は、銃撃を伴わない戦争行為である」・・と、
  また、フーバー大統領は言った・・、
  「イギリスやフランスも中国に利権を持っていて、日
 本と同じことをしている」、
  「日本に仲間意識も持っている」・・と。
  日本だけを経済制裁をするという『論理の公正さが無
 い』と指摘した。
  フーバー大統領の偉い所は、『自分たちも同じことを
 やっている』と考えた所だった。
  アメリカは、「フィリピンで、甘い汁を吸っていた」。
  そして、フーバー大統領は確かめた。
  「経済制裁の延長線上にある戦争の可能性について、
 真剣に考慮した。
  そして、実際、極秘で、対日参戦の意志を確認した。
  アメリカは、ルーズベルトの前の「フーバー大統領の
 時」でさえ、「日本との一戦の考え方が存在して居た」、
 「日本と戦う」の考えが存在していた。
  このフーバー大統領の後のルーズベルト大統領が、「
 日本に、真珠湾攻撃の奇襲攻撃をされたから、第二次世
 界大戦が起きた」と、急に、戦争に至った様に言うのは、
 『下手な茶番劇』だ。
  下手な演技はするな・・と言いたい。
  フーバー大統領は、この時、「イギリスに、戦争開始
 の意志を確かめた」、そして、否定されている。
  また、フーバー大統領は、「陸海軍長官に、日本に勝
 利することが出来るか?」と、その可能性を確認してい
 た。
  そして、フーバー大統領は、「日本と開戦すれば、ア
 メリカの植民地のフィリピンが占領されるだろう」と予
 測していた。
  また、「イギリスの参戦が望めないと・・参戦否定さ
 れているので、イギリスの参戦が望めないなら、戦争は
 長引き、5年間が戦争期間になるだろう」と予測し、
  「その為の戦争準備が必要である」としている。
  そして、急な開戦は無理として・・、
  「戦争をするのは、問題外」としている。
  スティムソンは、フーバー大統領の考え方に「完全に
 一致した訳ではなかった」・・が、「戦争は、回避しよ
 う」という考えに至った。
  スティムソンの考えは、「経済制裁で戦争に至ること
 はない」「経済制裁で日本の行動を止められる(自分た
 ちだけは、甘い汁は、吸い続ける・・だった)」。
  日本は、「日本から自分たちの資本を持って行って」、
 その資本を投下して、そして、共に豊かになろうという
 方針だった。
.
  そして・・、
.
  題:実質、戦争だという策を、アメリカは採用した。
.
1931年10月、アメリカの国務長官が、二つの提案をした。
  そして、これに始まって・・、
  1941年7月25日、フーバー大統領が、「戦争になるよ」
 と言った経済制裁の、最も強い制裁である制裁が、ルー
 ズベルト大統領によって、日本に加えられた。
  それは、アメリカにある「日本の資産が凍結された」
 のだった。
   第37代大統領であるフランクリン・ルーズベルト大
 統領の前の大統領であるハーバート・フーバー大統領は、
 回顧録に書く・・、
  フーバー大統領の時の国務長官であるスティムソンは、
 1931年10月の段階で、日本の行動を止めるための提案を
 二つした。
  一つが、国際社会による経済制裁であり、
  もう一つが、外交と国際世論による説得だった。
  そして、フーバーは言う・・「私は、もちろん後者を
 望んだ。
  だが、国務長官(スティムソン)は、外交官と言うよ
 りも戦士の様であり、
  『制裁で解決できると信じていた』。
  国務長官(スティムソン)は、制裁が、戦争につなが
 ると考えなかったようだが・・、第一次大戦の経験に照
 らせば・・大国に対する経済制裁は、「実質的な戦争を
 意味していた」。
  スティムソンは、強硬策を主張した。
  そして、このスティムソンの考え方は、ルーズベルト
 に継承された。そして、
  1940年6月、ルーズベルト政権の陸軍長官に、このステ
 ィムソンが迎えられた。
  ルーズベルト大統領の政策が、より一層、日本への強
 い経済制裁へとエスカレートして行った・・そして・・、
  1941年7月25日、アメリカ国内の「日本の資産が凍結さ
 れる」という最強の制裁をアメリカは日本へした。
  アメリカは、常に、強硬策を日本へ加えるという『強
 者の立場』と『強者の論理』の中に居た。
  フーバー大統領ではないが、ルーズベルト大統領は、
 戦争を仕掛け行為をするのに夢中な中にいた。
.
  そして・・、
.
1932年7月2日、ルーズベルトは、民主党の大統領候補の指
 名を受け、シカゴで『ニューディール』の呼びかけを行
 っていた頃、アメリカの首都ワシントンのアメリカ議会
 周辺では、2万人以上の退役軍人らが、居座りテントで埋
 まっていた。
  この人たちは、第一次世界大戦後、帰還しても仕事が
 無く、極貧の生活を送らざるを得ない方々だった。
  不況の最大の犠牲者の方々だった。
  政府が約束した「退役年金のボーナス」を即座に支払
 うようにと求めていた。
  通りや空き地、そして、道路に面したビルなどを占拠
 していた。
  1932年7月28日、朝、群衆の投石で始まった小競り合い
 は、警察側の発砲で退役軍人の2人が即死した。
  これがきっかけで、群衆の5000人以上が、レンガやこ
 ん棒を手に暴れ回って、手が付けられない状態になった。
  午後になって、警察は、フーバー大統領に、軍の出動
 を要請した。
  アメリカ陸軍参謀総長のダグラス・マッカーサー(後
 のGHQ最高司令官)は、直ちに、軍を出動させ、鎮圧
 を命じた。
  6両の戦車も出動して、銃剣を付けた歩兵大隊、そして、
 サーベルを抜刀した6縦列の騎兵隊が出動するという物々
 しい市街戦もどきとなった。
  テントなども焼き払われた。
  内乱の様相だった。
  アメリカ国民の方々は、一層、不安と恐怖に陥(おち
 い)った。
  群衆には革命を起こしたいという意図があったと言わ
 れた。
  作戦に参加したアイゼンハワーやパットンは、英雄と
 祭り上げられて行く。
.
  そして・・、
.
1933年、アメリカの失業者数が、最悪の1400万人に膨れ上
 がった。
  因みに、1929年の4年前は155万人・・で、
  1930年は、434万人だった。
.
  そして・・、
.
1933年2月15日、ルーズベルトが狙撃された。
  アメリカ大統領に就任する約2週間前、ルーズベルトは
 狙撃された。
  アメリカは、この様な社会不安の中にあった。
  破壊的な不況が社会をむしばんでいて、アメリカ国民
 の方々は、恐怖に捉(とら)われていた。
  「社会改革。さもなくば革命を」という事を、初期の
 ルーズベルト政権を支えたアドルフ・バーレは警告した。
  この狙撃された日、ルーズベルトは、友人のヨットで
 カリブ海を周遊していた。
  そして、国民や支持者に顔を見せ、挨拶したいと、マ
 イアミ公園に立ち寄ることになった。
  会場は、新大統領を、一目、見たいと群衆が溢(あふ)
 れた。
  そこに警護官に警護されたルーズベルトのオープンカ
 ーが現れた。
  後部座席のルーズベルトは、群衆の歓声に手を挙げ応
 えた。
  ルーズベルトは、簡単な挨拶ぐらいで立ち去ろうと思
 っていた。
  近くには知人のシカゴ市長のアントン・サーマック氏
 が居た。
  サーマック氏が、ちょうど、ルーズベルトへ話し掛け
 た時、鋭い銃声がした。
  銃弾は、サーマック氏の胸を貫いた。
  ルーズベルトからわずか10数センチの所だった。
  サーマック氏は、これで死亡した。
  群衆の数人も、流れ弾で重傷を負った。
  青年の単独犯行ということで、大きな政治事件になら
 なかった。
  この様な血なまぐさい事件が、この頃、アメリカでは
 頻発していた。
.
  そして・・、
.
1933年3月4日、フランクリン・ルーズベルトが、第37代ア
 メリカ大統領就任式に臨んだ。
  ルーズベルト大統領は、大統領就任の時点で、すでに、
 不埒(ふらち、道理が外れていて、けしからぬこと)に
 も、戦争を利用した景気浮揚策が、彼の頭の中にあった。
  アメリカ国民の方々の8割以上が「戦争はしない」とし
 ていて、また、ルーズベルト本人も、大統領選挙期間中
 に、何度も何度も「戦争はしない」と宣言していた。
  しかし、その様に宣言していたのに、ルーズベルトの
 頭の中には、世界恐慌から脱却するためには戦争需要を
 利用しようという考えがあった。
  ルーズベルトの前任の大統領のフーバーは、ルーズベ
 ルトへ、「国際経済を重視すべき」と訴え続けた。
  しかし、ルーズベルトは、フーバーを避け続けた。
  世界経済とともにアメリカ経済も転落の一途をたどり
 続けていた。
  取付け騒ぎが連鎖的に起きていて、銀行は、次々と閉
 鎖状態に追い込まれていた。
  アメリカ経済は、急速な悪化の中にいた。
  フーバーは、1933年2月、退任まであと10日しかない時
 点で、ルーズベルトへ手紙を書いた・・、
  「不況の問題は、人々の心の中に潜んでいる。
  将来への不安な増大し、今や危険点に達している。
  新大統領である貴方(ルーズベルト)の確約こそ人々
 に自信をよみがえらせ、購買欲を引き起こし、景気を回
 復させることが出来るのです」・・と。
  ニューヨークで、風刺劇を観劇中に、この親展の手紙
 を手渡されたルーズベルトは、それを無視しただけでな
 く、2週間も返事さえ書かなかった。
  1933年3月4日、ルーズベルトは、大統領就任式に臨ん
 だ。
  ルーズベルトは演説で言った・・、
  「偉大な国は必ずや復活し、栄える。
  恐るべきは恐慌です。
  必要なのは行動であり、重視すべきなのは失業者を仕
 事に就かせることなのです。
  この危機に直面し、私は、戦争をも想定したような幅
 広い権限を議会に求めるでしょう。
  実際、外国の侵略を受けた時に与えられるであろうほ
 どの強大な権限をです」。
  民衆へ言った。
  当時、急速に普及したラジオで、多くのアメリカ国民
 の方々がこれを聞いた。
  これを聞いたルーズベルトの妻のエレノアは、ルーズ
 ベルトが演説で『戦争を想定した』と言ったとたん、聴
 衆が思わず歓声を上げ、拍手喝采(かっさい)した事に
 「恐ろしい印象を受けました」と語っている。
  まったく、ドイツのヒトラーの民衆を煽(あお)る『
 アジ演説』と同じ、ルーズベルトの演説だった。
  取付け騒ぎ(とりつけさわぎ)とは、特定の金融機関
 や金融制度に対する信用不安などから、預金者が預金・
 貯金・掛け金等を取り戻そうとして(=取り付け)、急
 激に金融機関の店頭に殺到し、混乱をきたす現象のこと。
  アジ演説は、民衆を扇動する演説。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2017-01-15 05:23 | 皆様とともに 幸せになりたい


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